[ 腐敗のベース ]


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『汚職〜年末の一観照』

2003年に盛んに議論され、デモ攻勢まで浴びた問題のひとつに汚職がある。イスラム民衆を母体とする二つの権威ある大規模全国組織、ナフダトウルウラマとムハマディアが汚職と闘うことに合意した。10月17日のコンパス紙は「反汚職国民運動は敗れてはならない」と題する社説を掲げてそれを歓迎した。
国家開発企画庁長官クイッ・キアンギ大臣は、「汚職撲滅」と題する小冊子を自ら著し、それを配っている。一方世銀は「インドネシアでの汚職闘争〜開発責任の強化」というタイトルで配布されている研究を行った。とどめは、ペシミズムを招いている汚職撲滅コミッションの5人の指導者の選出だ。

言うまでもなく汚職撲滅プログラムは緊急事項であり、こんどは失敗が許されない。もっと正確に言うなら、この国の設立当初からインドネシア民族は汚職撲滅に努めてきたし、汚職に対する抵抗をも示してきたので、再失敗などないのだ。
○ 1950年代初期、輸入許可と繊維製品の流通でKKNを行った東部インドネシア国首相ナジャムディンを裁判所は懲役刑に処している。
○ 1950年代後半の反汚職デモ隆盛は、モフタル・ルビス率いる新聞インドネシアラヤがその先駆けとなった。同紙は後に発行停止処分を受けている。
○ 汚職撲滅能力なしと非難されたジュアンダ内閣に対してゴトンロヨン国会は不信任動議を準備した。ジュアンダ首相は、汚職をしているのはゴトンロヨン国会メンバーの政党員だと表明して自己弁護した。
○ ブンカルノの「指導された民主主義」治世期に、汚職撲滅の任務はKOTI(最高作戦コマンド〜大統領の直属機関)から国防大臣兼国軍総司令官ナスティオン将軍に移管された。赤ナンバープレート(政府公用車)と黒ナンバープレート(自家用車)はその時代の遺産。また、汚職抑止と抑圧的撲滅の手段に恥の文化を利用しようとして、国営テレビTVRIと国営ラジオRRIで毎夜10時に汚職者の名前を放送することが決められた。
○ オルバ期にスハルト大統領は汚職撲滅に関連して、ブンハッタを委員長、IJカシモをメンバーの一人とした4人のシニア著名国民からなる四人コミッションを編成した。そのコミッションは、国家指導者や大臣たちの周辺で行われている汚職問題を、声を大にして述べ立てたというニュースが残されている。


「過去にそれほど多くの手立てが取られたというのに、どうして汚職はいまだに生き延び、それどころかますます拡大し、ますます激化しているのか?」という疑問が生じる。その原因に挙げられるのは次のようなものだ。
まず、上で述べたような諸措置はシステマチックで且つ集中的に行われなかった。
二つ、引き起こされた反対や抵抗運動は特定政治事件に対するその場限りの反応であり、モラル再構築に向かわなかった。
三つ、定義が不明確で、また問題の根に触れていなかった。単に汚職現象とその行為の結果、つまり国家経済や国庫の損失という面ばかりがクローズアップされた。
四つ、パンチ力に欠ける法執行、人間・担当官の軟弱さ、制度や機関の軟弱さ、弱いコーディネーション、法規さえもが軟弱。
五つ、行政機構と政府高官のメンタリティやビヘイビヤを支配している封建文化。

汚職撲滅をサポートするためには、二つのセクター、つまり許認可行政セクターと法執行セクターを対象にして集中的に行うのがよい。しかしそのためには、汚職の明確な定義が必要だ。汚職に関する法令でも、クイッの書いたものでも、描かれているのは国庫に損失を与えて自分を豊かにしようとする拝金主義者の顔だ。これは汚職問題の根を指し示しておらず、単に結果を言っているにすぎない。
世銀がその研究の中で提起した、汚職とは権力を自分の利益のために利用すること、というのにわたしは賛成する。もっとはっきり言うなら、汚職とは自分の利益のための公的権限の悪用である。汚職は権限・権力と機会、そしてその権限・権力を自分の利益のために利用する文化に密接に関連している。

許認可の手続きやプロセスの中でそれは起こる。なぜなら、許認可を与える者の利益と許認可を必要としている者の利益の間に利益の依存関係が生じるためだ。(世銀の研究の中に述べられているようなパトロン・クライエント関係ではない。)依存が存在するために、許認可交付者はそれを高く売りつけようとする。許認可申請者はそれに対して、その取引の損得やコストのそろばんをはじく。
インドネシアで許認可は、国家国民の一人としてまた社会人としてのわれわれの暮らしの一部となっている。この共和国では呼吸するのにさえ許認可が要る、とかつてわたしは述べたことがある。各省庁は個々に独自の許認可ネットワークを持っており、ひとつひとつのステップにおける許認可プロセスを早めるためには、財布の紐をゆるめる必要がある。
われわれの許認可システムが汚職を育成し、あわせてわれわれの経済をハイコスト経済に押しやっている。行政は毎日、通商統制の形か、許認可手続きやプロセスの改善と呼ばれるものか、法規の形式か、タリフ値上げなどのかっこうで新たな権力・権限の源を創造するので、同時に新たな汚職の源泉も作り出される。法令の規定に定められた通りの厳格な措置も交渉次第。地方自治に関連しては、地方政府が中央政府発行の許認可を認めず、自分の定めた法規にもとづいて新たに許認可取得を強制するといったことも起こっている。それによって法の不確定が生じ、汚職の機会が開かれるために、投資誘致には反誘導的だ。汚職撲滅を図る中国は最近、中央と地方の4千種の許認可を3百に減らした。なんと7.5%だけが残されたかっこうだ。


汚職抑止と撲滅の手段の中での次なる焦点は、法執行の厳格化。法知識に関するものから卑小で無教養な良心に関するものまで、高官たちの弱点はつとに語られている。良心は、法という面でひとが決定を下す際の最終的で決定的なよりどころだ。おまけにわれらの法執行分野の高官たちもすでに腐敗著しい。
法執行に携わっている機関・職業は6つある。警察、検察、判事、人権法務省、最高裁、そして弁護士。それぞれが個々の認識とプロセスを持っている。コーディネーションはとても弱い。ひとつの機関が反対すれば、直面している法執行の全プロセスが行き詰まる。政府が掌握しているのはその6機関のうち三つ、つまり警察、検察、人権法務省だけで、残る判事、最高裁、弁護士は政府の管掌の外にいる。だから法執行問題で政府・大統領をストレートに非難するわけには行かない。
汚職撲滅法に「〜現行法規に従って〜」とある。現行法規はコーディネートされた法執行の存在を推進しないものしかなく、またその緊急度に見合った特別な汚職撲滅の場も存在しない。汚職は、だれかが鶏を盗んだといったふつうの刑事事件として処理されがちだ。たとえば立証ということがらに関連して、その扱いはふつうの刑事事件と変わらない。告訴した者が告訴内容を立証しなければならないために、公訴人や判事の手元に十分な証拠がないというだけで、告訴された者が腐敗していないとか罪を犯していないといったことには関係なく、汚職者は放免されてしまう。そんな状況が国民や社会の正義感をたいへん損なっている。
告訴の内容が正しくないことを告訴された者が証明しなければならない、という法システムがある。それを採用すれば、汚職は効果的に撲滅することが可能だ。ここで提案されている立証方法は反対立証と呼ばれるもので、アングロサクソンの法システムで実施されている。願わくば、汚職撲滅コミッションがこの法原理を導入されんことを。

汚職者は銃殺刑に処せ、というラディカルな提案もあるが、「一死によって千育つ」ということもありうる。公務員・官吏の収入・給与を引き上げよ、なぜならその給与のせいでかれらが汚職に走るのだから、という世銀の研究にも見られるような提案もある。クイッ・キアンギの冊子の中で焦点が当てられている「にんじん」というのがそれだ。そうなのだろうか?
かつてアリ・ワルダナが大臣の座に就いていたとき、大蔵省でそれを行ったことがある。国税総局と税関総局が給与を9倍増にした。しかし汚職は減らなかった。なぜなら、汚職を行っているのは生計に不足のある者なのではなく、生計は太鼓判付きだというのに自分の社会ステータス上の必要性、すなわちステータスシンボル(封建文化の典型だ)を満たすためにはまだ足りないと感じている高官や上級階層たちなのだから。強欲さが問題なのであり、生計費不足の問題なのではない。
ましてクイッ・キアンギが主張するように、この種の「にんじん」は金がかかる。許認可プロセス(手続き)を簡素化するほうがよっぽど安くつくし、それは人員整理を意味しているために、残った者の給与をアップさせることも可能だ。

汚職と権力はダイレクトに結びついているため、そのような方向に権力を行使することに影響を与える文化は関係があるどころか、決定的なものなのだ。権力行使における文化の型は三つで、マキアベリ型、封建型、デモクラシー型とある。現在にいたるも、インドネシアでは封建型が隆盛だ。われわれはいま、専制主義から民主主義への移行期にあるが、封建主義から民主主義への移行はまだだ。そのために、デモクラシーとレフォルマシのすべての規定は単なる形式でしかない。封建文化の中で汚職は犯罪あるいはモラル違反と見られておらず、高位高官や大物にとっては当然で合法的なものと考えられている。

言うまでもなくデモクラシーが、欧米で見られるように、汚職の消滅を保証するものではないにせよ、そこでは腐敗していると見なされた者が即座に法廷に引き出される。わが国では、ちょっと待て。まずそれが誰なのかを見極めるのが先決。封建文化なのだ。だから汚職を抑止し撲滅することを望むなら、クイッ・キアンギが指摘しているように、高官や官吏たちのマインドセットに影響を与えている封建メンタリティをもあわせて撲滅しなければならない。つまりマインドセットはいまだに封建的なわれわれの文化の問題であり、単なる『金銭』の問題なのではない。わが民族のビヘイビヤにいまだに密着している封建文化が原因のひとつであるために、汚職は滅びず、生き延び、そしていっそう広範に拡大している。

2004年、明けましておめでとう。インシャアラー、新年の夜明けはまた、汚職撲滅成就の希望をもたらしてくれる。
ソース : 2003年12月31日付けコンパス
ライター: Drs. Frans Seda 元大蔵大臣


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『汚職』

もはや汚職は、大統領府から町役場まで、朝起きてから夜就寝するまで、生まれてから死ぬまで、そして宗教勤行の場からトイレに至るまで蔓延して、われわれをがんじがらめにしている。これは10月19日にバンダルランプンで催された全国ムハマディア青年団第一回垂訓会開会式で同中央役員会総会長がスピーチした言葉だ。
本来ならそれは過激な表明なのだが、類似の表明があちらこちらから頻繁に出されているために、過激さはもはや少しも感じられない。ショック療法としての響きも働きも、力がなくなってしまっている。

しばらく前ジャカルタのラジオ68Hが、国民は大統領が汚職撲滅の意志を少しも持っていないと考えているとして、大統領批判を展開していた。その批判が投げかけられたのは、中国のシステムはインドネシアのシステムと異なっていると大統領が述べてあとでのこと。
中国ではあらゆることが単一命令系統下にあるが、インドネシアはそうなっていない。単一命令系統下にあるために、中国の汚職撲滅はたいへん容易に遂行されている。必要なら、誰からの抗議を招くこともなく汚職者を死刑に処すことも可能だ。一切が単一命令系統に服しているから。
ところがインドネシアは単一命令系統を採用していない。だからインドネシアの指導者が本気で汚職撲滅の意志を持てば、必ず基本的人権侵害の非難を浴びることになる。基本的人権侵害の非難を受けるのであれば、じっとしている方がまし。汚職がどんなに猛威をふるっていても、ただじっとしているだけ。概略そのような話しだった。

するとラジオ68Hはひとつの問題提起を行った。最大多数国民の利益のためになんらかの措置を実施する意志を持つ場合、その意志を持つ者は必ず基本的人権侵害の非難を受けるのだろうか?そんなことはない、とラジオ68Hは言う。その例としてラジオ68Hは、バリ爆弾テロ犯人に対する死刑判決を取り上げた。死刑廃止を訴えている国は多いのに、多くの人命を犠牲にしたバリ爆弾テロ犯人への死刑判決はどうして基本的人権侵害と見なされないのだろうか?ポイントは、最大多数の人々の利益のため、という点にある。


触媒
1998年にレフォルマシ誕生を推し進めた要素のひとつはほかでもない、当時たいそう猛威をふるっていた汚職を撲滅したいという意欲の存在だった。ところが、汚職に対するセラピーとしてのレフォルマシのはずが、汚職のいっそうの横行というイロニ−を生んだ。そこで出てきた憶測は、レフォルマシとは従来汚職の分け前にあずかれなかった人々がその仲間入りをするために作り出したものではあるまいか、というものだ。
だがそうでないかもしれない。飽和感、つまりさまざまなことがらに対する行き詰まりのゆえに、レフォルマシは自ら転換したのかもしれない。特定勢力による長期政権が交代する際の例を見ればよい。たとえばかつてトニー・ブレアが勝利したのは、かれが当時の英国が抱えるすべての欠陥に万能薬を降り注ぐミラクルボーイだと国民が単に考えたからではないのだ。かれが勝ったのは、保守党政権があまりにも長く続いたことで国民が行き詰まりを感じていたのが重大な要素だった。
レフォルマシが誕生したのはあまりにも長く続いたスハルト政権に対する行き詰まり感のゆえである、という点が重要であることを忘れてはならない。ファミリーやクロニ−のために創出された汚職文化をはじめとするスハルトのさまざまな弱点は、単なる触媒、つまり飽和感への触媒にほかならない。短期間で大きな変革を要求するすべてのプロセスにおいて、触媒は本体自身よりもずっと重要な役割を演じるにちがいない。
さまざまな大変革、たとえば第一次世界大戦、アメリカとその同盟国によるアフガニスタン侵攻、そしてまたイラク侵攻などの勃発に際して触媒の例が見出される。第一次世界大戦勃発ではサラエボの貴族殺害が触媒となった。アフガニスタン侵攻勃発の触媒は9月11日ニューヨークWTC事件であり、イラク侵攻もその延長線上に大量殺戮兵器という枝葉が付けられて触媒となった。破裂のモメンタムを待っている潜在的な真の動機が触媒の裏側に隠されている。

オルデラマ以前の時代における幾多の内閣の盛衰は権力争奪の触媒にほかならない。権力の裏側にはきわめて重要な事柄が隠されている。つまり国家と国民の富に対する汚職である。だから歴代内閣が汚職なしであったためしがないのだ。はじめは多分腐敗とは無縁の、単なる権力争奪のためのみだったかもしれないが、じっさいには不純なものへと変化していった。


ヒーロー不在のレフォルマシ
革命や改革を含むあらゆる事件は、文化研究によればすくなくとも『語り』にほかならない。どんな事件でも、話題にされ、報道され、あるいは記録されるといったように『語られ』なければその存在は感じられない。1998年レフォルマシも今日まで頻繁に口の端にのぼっている『語り』である。
ところがレフォルマシのような大事件が単なる『語り』では意味をなさないことを忘れてはならない。『語り』の中にヒーローが登場してはじめて、『語り』は意味を持つ。インドネシアの独立が実現したのは、スカルノやその他のヒーローがいたからだ。日本のモダン化が実現したのは明治天皇の存在があったからだ。ところが1998年レフォルマシにはヒーローがいない。多くの人物像が登場したが、かれらは自分自身や自分の所属集団の世話にあけくれている。ヒーローというのは、すべての階層や勢力の上に立って統合する能力を持つものだ。1998年レフォルマシがヒーロー不在であるために、状況はいっそう悪化して汚職がますます猛威をふるっているのを怪しむにはあたらない。ヒーローとは、大きな変革の中において充たされるべき自然法則上の必然であることを忘れてはならない。

革命や改革といった大事件を創出する人々によってでなく、新たな価値を創造した人々によって世界は回転する。そして新たな価値の創造はひそかに進められる。哲学者ニーチェはそう語っている。大事件を創出するのは大衆、たとえばデモのように直接現場に降りて行くひとびとだが、真の意味でのヒーローたちは、大衆の後方で思想家として行動する方が多い。ヒーローたちは新たな価値を創造し、そのプロセスはひそかに進行するのである。


ヒーローとアナーキー
相互に関わりあう二つの大きな思想が19世紀に生まれた。ひとつはトーマス・カーライル著「ヒーローとヒロイズム」の中に盛られているヒーロー問題であり、もうひとつはマシュー・アーノルド著「文化とアナーキー」に述べられているヒーロー問題だ。「ヒーローとヒロイズム」の中で表明されているのは、真の意味のヒーローとは時代を創り出した人であり、時代の流れに引きずられた人ではない、というもの。「文化とアナーキー」に見られるテーゼは、ヒーローなしに大衆にゆだねられた文化はアナーキーを生むことを強調している。
それら二つのテーゼは古いように見えても、1998年レフォルマシにはまだまだ妥当性を持っている。新聞によく登場するマネーポリティクスと称されている上層下層政治エリートたちの行為は、アナーキーにほかならない。そんな状況の中では、汚職は勢い激しさを増す。
インドネシアの政権交代は常にアナーキーが象徴してきた。スカルノ、スハルト、ハビビ、アブドゥラフマン・ワヒッらはみな、過去の歴史の中で不名誉な失脚を演じた。どうしてか?それはヒーローの全員と、ヒーローと呼ばれるには不適切だがいずれにせよ有力者であり、それゆえにリーダーとなったひとびとが、セルフコントロールの能力に欠けていたからにほかならない。この種のリーダーにとっては、「リスはどれほどうまく跳躍しようが、最期には失敗する」ということわざが、望むと望まざるとに関わらず必ず当てはまるのだ。

インドネシアの上層リーダーたちは、自主的にリーダーシップを手放すのを嫌うように見える。かれらが批判されたとき、自分のほうが強いと思えば鉄の腕でシステムを実施するが、自分のほうが弱いと思えばかれらは流れに身をまかせる。好むと好まざるとに関わらず、飽和感の法則は国民に充満し、リーダーは不名誉な方法で失脚することになる。
マハティ−ルはその飽和感の法則を熟知し、『語り』が輝かしい頂点にあるときに身をひいた。ほかのケースは、日本でよく起こっているような、誤りを犯したあとで身をひくというやり方だ。権力の享受は長すぎないこと、モラル上の瑕疵で身をひくことという意識は、インドネシアに見当たらない。


生まれること、作られること
ヒーローは作られるよりも生まれることのほうが多く、あたかもヒーローは神の手中にあって人間はただそれを受け取るだけということを歴史が示している。そしてヒーローの多くは動乱、すなわち大規模変革における混乱状態の中で生まれる。かれらがついには、リスのように失敗を犯してしまうのだ。
大事件と関係のないヒーローは、密かに進行する新たな価値の創造に関わる。創造されるべきはそれなのだ。そんなヒーローはもちろん、作られることも可能だ。なぜなら、直面しているのは大事件でなく、はるかに穏やかではるかに安定の保証されている状況なのだから。

作られる?そう、生まれるのではない。文化ストラテジー基礎原理を忘れてはならない。「もし時代の状況を回転するままにゆだねるならば、人間は時代に支配される。」だから文化は、それ自身が回転するのにまかせるべきものでなく、高貴な目的と高貴な結果のために工作されるべきものであり、汚職とその撲滅についても同じことが言える。


システム
ヒーローが生まれるか、作られるか、といったことは、リーダーが決めるのか、システムによって決められるのか、ということに深く関わっている。行政の中で言い古された決り文句、「実現できないものは何もない」は、善を目指す工作などではなく、システムに対する権力者の優位を示すものなのである。
だから法令や規則が自分や自分のグループの利益のためにまげられ、また法令や規則が、最最大多数の有用性のためでなく、自分や自分のグループのために定められることになる。それゆえに「この法令は誰の利益のために作られたのだろうか?」というシニカルな疑問を耳にしたとしても、なんら訝るべきことでもないのである。

作られたリーダーの存在を可能にする穏やかで平和な状況を生み出そうとひとりの国民が決意するとき、かれは本質的に最大多数のひとびとの有用性を目指すシステムを創造しつつあるのであり、そのシステムはすべての権力者を拘束するものでもある。正しいモラルと精神的姿勢があれば、その実現は可能だ。


手遅れ
汚職があまりにも深く根を張ったために、汚職撲滅の特効薬はありえなくなった。汚職撲滅には長い時間がかかるだろう。なぜなら重要なポイントは汚職撲滅の活動それ自体ではなく、汚職に関わらないための姿勢と責任感なのだから。
たとえ時間がかかろうとも、ポリティカルウイルと正しい模範をもって汚職撲滅は開始できる。鍵は民衆ではなくリーダーにある。ヒーローはもういないのだから、このリーダーは生まれるのでなく、作られるリーダーなのだ。何を通して?長期にわたる教育で。
ソース : 2003年10月25日付けコンパス
ライター: Budi Darma 著作家


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『メガ=アクバル汚職マフィア』

PERC(政治経済リスクコンサルタンシー)は最近、インドネシアが9.92のスコアを取るアジアの最腐敗国であると発表した。そのスコアは、PERCが1995年にこの種のサーベイを開始して以来、インドネシアにとって最悪の数字だった。それどころか、レフォルマシ時代に入ったというのにインドネシアの数字が悪化しているため、PERC自身が驚きを表明している。
その意味するところは何だろう?それはインドネシアのレフォルマシに対して打ち鳴らされている警鐘だ。エドガルゴ・ブスカリアとマリア・ダコリアスの共作「An Analysis of the Causes of Corruption in the Judiciary(1999年)」には、汚職は多くの国で行政運営から切り離しようのない一部分となっており、汚職が存在する限りその国の改善は不可能だ、と述べられている。そのように、汚職との闘いはある国の改善プロセスの中で最初に解決しなければならない問題なのだ。それゆえに、汚職との闘いにおける敗北は改革を妨げ、経済社会コストの肥大化を招く。

汚職との闘いにおける敗北はそのように、レフォルマシへの弔鐘であることは疑いもないだろう。どうしてそうなのだろうか?現実にレフォルマシを守護し方向付けるパワーを持っているのは国政有力者たちであり、かれら自身が同時に汚職遂行者であったり、もしくはそうなるであろう潜在性を抱えているためなのだ。移行期のインドネシアという文脈の中における汚職遂行者とは、ブラックビジネスマンとつるむ元オルバ高官や現職の高官たちなのである。
とりわけ、今日までインドネシアでは、汚職はあからさまな犯罪だった。それはあらゆる権力階層でほとんどの役職者があからさまに行う素裸の欲望だった。行政高官にはじまって、司法のバリバリのやり手、さらに今では国会議員層の間でフィノメナ化している新スタイルの汚職にいたるまで、そのあらゆる階層における汚職は、各界有力者の持つ権力に深く関わっている。たとえば議会における汚職は、立法府での権力増大にともなってますます盛んになっているのである。

汚職行為には三つの大きな種類がある。まず最初は、最終的に癒着と名付けられた権力者と事業家との不倫から生まれた庶子。二つ目は縁故主義と名付けられた父と子の闇関係から生まれた庶子。癒着と縁故主義という庶子たちがその後、汚職マフィアという名の大家族を興す。汚職マフィア大ファミリーがレフォルマシ時代にどうして依然「産めよ殖やせよ」の大発展を続けられるのか?それに答えるのはもちろん容易でないものの、その主因のひとつに挙げられるのは、汚職マフィアが法廷マフィアと密通したためにメガ=アクバル汚職マフィアが誕生したせいだ。単純に言えば、汚職者が汚職に懲りようとしない原因のひとつに、法廷という名の汚職撲滅最期の砦も破られてしまい、法廷マフィアという最も危険な汚職病が広がったからである。
その法廷マフィアネットワークこそ、汚職者たちに懲りるよう罰を与えるために最初に制圧しなければならないものだ。残念にもそのマフィア網は、裁判官、弁護士、警察官、検察官から書記のような司法職員まで、ほとんどすべての法曹関係者にからみついている。

汚職者と司法マフィア間の密通は、裁判プロセスの中で起こるだけでなく、それよりはるか前段階から始まっている。汚職マフィアがそんな前段階からどのように物事を進めていくかを証明するために、ここで解説できる汚職者たちの戦略がいくつかある。
たとえばアクバル汚職者は最初から、ローヤー(法律家)でなくライヤー(嘘吐き)を雇って犯罪を準備する。金をくれる者の弁護のために「恐れず前進」精神を持つ法律コンサルタントや弁護士たちを雇う戦略がそれだ。この種のライヤーが舌先三寸で汚職者を守るための法律酔いの技を見せてくれる。かれは巨額な報酬のために、汚職者に正義のあるなしなどお構いもなく「恐れず前進」を続ける。この「ローヤーでないライヤー」第一戦略は、第二戦略「アブナワス」をサポートするために行われる。
ライヤーのサービスは成文法施行の仮面を打ち立てるために使われるもので、法執行者が汚職者の犯罪を嗅ぎつけたときに焼かれて灰になるのは名前を騙られた使用人たちであり、一方主犯汚職者はその観客になって安穏に座っている。この第二戦略はアリババ・ストラテジーと呼ぶこともできる。つまり、危険が迫るとアリが身代わりとなり、ババはバイバイとアリに手を振るだけなのだ。
正義の執行者がさらに主犯汚職者を追及しても、第三戦略が用意されていて、「賄賂に平然」戦略が開始される。この段階になるとふつう、汚職者と警察官、検察官、裁判官、書記、弁護士たちとの間で正義の売買が行われる。収賄悪徳分子らにとって、自分が受取る金が汚職の収穫だったのかどうかなど関係ない。だからその賄賂を受取るとき、法執行者たちは法の殺戮者となり、汚職マフィアネットワークそのものに姿を変える。
それでもまだ主犯汚職者が追及される場合、ピックアンドシックという最終必殺兵器が使われる。つまり汚職で収穫した金を手に(ピック)、病気治療(シック)を名目にして海外へ高飛びする戦略がこれなのだ。
それらすべての戦略実施にローヤーでないライヤーのサービスが利用され、逃亡先の選択に当たってもインドネシアと犯罪者引渡し条約を結んでいないシンガポールのような国をライヤーが奨めるのである。この逃亡段階において汚職マフィアは国際ネットワークの開拓を始める。なぜならナンバーワンのクリーン政府と思われているシンガポールが本当は、インドネシアからの逃亡汚職者や汚い金をたくさん匿っているのだから。

今日まで、ローヤーでないライヤー、アブナワス、賄賂に平然、ピックアンドシックなどの諸戦略の組み合わせが成功を見せており、数百兆ルピアという民衆の金を盗んだメガ=アクバル汚職者を野放しで放置するのに効果を示している。それらの汚い戦略によって汚職者たちは大金持ちとなり、インドネシアの一般民衆は自分たちが享受したこともない借金に拘束されて卑賤な立場に追いやられている。
汚職はなんと邪悪なものだろうか。しかしメガ=アクバル汚職を生む汚職マフィアファミリーと法廷マフィアの共謀を断ち、汚職を撲滅する闘いを展開するのはとても困難だ。権力者にその闘いを丸ごと委ねてはいけない。なぜならかれら権力者がビジネスマンたちとの汚職の扉を開くのだから。権力者にだけ汚職撲滅努力を委ねるのは、煙の重さを量るようなものであり、またメガ=アクバル汚職マフィアの悪魔のサイクルに汚職撲滅の希望をかけることなのだ。
それゆえに、汚職者に対抗し続けるための民衆の圧力と監視は継続されなければならない。アリ・ビン・アリタリブの友が述べたように「組織的な悪事は無統制の善を打ち負かす」なのである。だからインドネシアン・コラプションウオッチのような反汚職民間団体は、インドネシアン・コートモニタリングのような反法廷マフィア民間団体と協働しなければならないのだ。そのような市民ネットワークは法廷マフィアの行動を牽制するために汚職事件のモニターを続けなければならない。

メガワティ政府はたとえば、アクバル・タンジュン事件におけるメガ=アクバル汚職マフィアの謀略の手中に落ちないよう、警護されなければならない。現場での具体的行動を伴った汚職撲滅の真剣で継続的な努力なしに、インドネシアの地上から汚職が姿を消すことはありえないだろう。その結果は、来年も、またその先も、われわれはPERCから毎年腐敗の王者という表彰状を受取り続けることになる。アジアどころか、世界の王者にのし上がるかもしれない。そうして来年も、またその先も、メガ=アクバル汚職マフィアがわが祖国で猛威をふるう間、われわれは問い、かつ探し続けるのだ。レフォルマシはどこなのか、と。
ソース : 2002年4月15日付けコンパス
ライター: Denny Indrayana ガジャマダ大学法学部教官、インドネシア・コートモニタリング諮問会、メルボルン大学法学部博士課程学生

(訳注: メガ(mega)、アクバル(akbar)はいずれも英語のbig、greatの意味をもっており、この論説ではその意味で使われていますが、ひょっとしたらそれらの名前を持つ個人に引っ掛けているのでは・・・?)


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『インドネシア汚職史の三段階』

昨今、世の中にもっとも広まっている誤解は、法治が確立され、よりよい経済運営がなされ、節度ある文化に相応の政治が行われれば、この民族が直面しているあらゆる問題は終わりを迎えるという偽りの信念である。そんな誤解が生じるのは、われらの社会があまりにも敬虔で篤信だから。つまり、われわれの運命を助けようとする力がいつもわれわれの外部に存在しているという確信がとても強いということだ。外部の力は、究極的には公的宗教の中に宿っているものであるが、もっと明白なものとしては外国機関(政府にとってのIMFやNGOにとっての資金供与を行う外国機関)からの提言、あるいは政治における代表システムやすべてが特定の手続き基準を持つ裁判官の公平感に頼っている司法制度などにも存在する。
トミーが警察について嘯き、配給事業庁特別調査委員会失敗のあとでメガワティが7月27日事件容疑者を取り込み、破産裁判で商業法廷が筋の立たない判決を降すなど、ますます世の中に問題が蔓延しているとき、人はみな怒りに燃えて叫ぶ。レフォルマシは死んだ、と。まるで、まだ案じるべきことがらがあるかのように。

レフォルマシがこれまでに達成したような歴史段階にわれわれがいるのであれば、われわれは立ち往生だ。しかしわれわれは、過去にわれわれが到達したものに戻るのだという世界の期待を担っている。歴史は決して止まらないが、やり直しのきくものでもない。それゆえ、一切は進行する時の流れであって、神であろうが市場であろうが、あるいは唯物論弁証法であろうが、見えない手に導かれて天国を目指す動きなどではないのだ、と理解するべきだ。その動きは止まることがなく、そして一定の構造を有している。
その構造を理解し、長引く怒りや誤解を変化させるのだ。端的には、汚職と呼ばれる共通問題の構造を注視することがわれわれには可能なのだ。

第一段階:合法性と政治
プラムディヤの小説「コルプシ」に描かれたような公職に関わる法律違反問題は、共和国のはじまりからその萌芽を有していた。いやそれどころか、さらに遠くは1799年末に瓦解したVOCをそこに導いた原因は、地震や暴風のせいなどでなく、経営の失敗つまり汚職のせいだった。その結果、共和国にその遺産を受け継がせたこの植民地国家は、まったく同じ病を常に抱えることになり、最終的に民衆は卑賤、貧困、愚昧の穴に落ち、二十世紀はじめの倫理政策で救済されなければならなくなった。
政権保持者が定めた規定に背く権力濫用問題の意味合いは、現代国家制度の中で受け止められるべきことがらだ。『栽培されている野菜を垣根が食う』問題は今の流行であるというだけにとどまらず、ある者の手から一機関、グループあるいは官僚と呼ばれる徒党などへと絶対権力が移管される現代国家の容貌にしみこんでいる。もし権力が一人の人間の手中にある場合、汚職はオランダ語で言うヘルンディンスト(賦役)、つまり貢納となる。権力を握る官僚が貴族であるとき、汚職問題は世の中の公平感をそれほど刺激しないために、騒がれることはあまりなかった。共和国の初期に起こったような汚職は、一緒に権力の側で行動しているのに、どうして収入が異なるようなことになるのか、という意味における政治エリートたち自身の問題であったに過ぎない。つまり汚職は、法の問題であり、法と政治倫理に対する違反だったのである。

第二段階:オルデバル
現代化を思い起すなら、反汚職コミッションや法令・訓話を含むさまざまな小道具にはじまったオルデバルの汚職問題は、取り扱いミスという関連の中にはめ込まれている。要するに貢納やヘルンディンスト問題がまた騒がれ、当時の権力者グループがおよそ2百の華人コングロマリットとの裏取引を好んだために、汚職はプンリと名前が変わった。プンリという発音はまるで中国語のようだが、何を隠そう「pungutan liar」(訳注:不法徴収金)のアクロニムに他ならない。法律用語的に言うなら、国家元首をはじめとしてかれらが職務宣誓の中で唱えるように、「不自然な方法で経済的利益を得るために権力を濫用すること」と説明される。
法は汚職撲滅にあまり効果がなく、それどころか国家会計部署など、よく肥えた場所で安全平穏に汚職が行われるのを可能にしているため、高官たちに対しては、官職の商品化をしないようにと警告されていた。プンリはそのもの自身であり、官職商品化はそのプロセスにあたる。

今日でも、オルバ期を通してでも、政治上の訓告に見られるように、汚職は天然のリズムの中で成育した。縮小することもなく、わが国のすばらしい成長率と同じレベルで繁栄した。訓告はそれの存在を裏書するものであるがゆえに、その主体は合法性と政治の問題であるというだけでなく、行政内部における官職売買の問題でもあった。官職の意味合いは希少なソースに近いことであり、その主体は財源だ。だから官職商品化は、その官職を今売れている一連の商品化プロセスの中に置くことにほかならない。当時のもっとも特徴的な形態は、高官たちがうちそろってコングロマリット企業の監査役に顔を連ねるというものだった。
オルラからオルバへの移行はそこにある。かつて汚職は、階級序列における収入の差異問題、つまり『ぬすっと』たちの間の公平という問題だったが、オルバ期になって、公平、法、政治の問題はなくなったものの、自然なことがらがひとつ生じた。発生した市場拡大の中で公職は円滑な事業のための重要な連鎖の一環となったのだ。称して『ビジネスの中の安全保障』。

第三段階:政治の商品化
レフォルマシ時代が到来してレジームが変転すると、汚職はいっそう万華鏡の趣を強めた。天才BJハビビは先端テクノロジーに没頭し、会計はいまや法廷に顔を見せているラハルディ・ラムランやアクバル・タンジュンたち部下におまかせとなった。やはり汚職という口実で大統領の座を失ったアブドゥラフマン・ワヒッも、自分のキャッシュフローにあまり関心を払わなかったというだけのために、同じような結果を招いた。
ハビビ時代もワヒッ時代も、公的権限を悪用して金にするという歴史の移行期だった。メガワティが大統領に就任し、時を同じくして一族の者にKKNを行わないよう申し渡したとき、新時代が始まった。そのシンボリックな行為はあたかも現実行動のように、大勢の人を瞠目させた。
しかし大統領になってほどなく、汚職文化はすぐに文化的に到達可能な形態を見出した。今はもはや、公認されない収入をポケットに入れる(オルラ)でなく、単なる官職の商品化(オルバ)でもなく、もっともっとビューティフルなことが起こっている。汚職と呼ばれる事柄の詳細はKKNの中にはめこまれ、しかし現実の中で公務員の全階層、役職者、高官たちはその地位の経済的価値をますます理解するようになっている。官職はもはや成長中のコマーシャルシステム内連鎖のひとつでなく、ほかの商品は売るのに適さず、生産システムは動かず、通貨会計の殿堂は揺れ続けているために、それはひとつの戦略的商品となっている。すべてが不確定な状況の中で唯一売れる商品は、国民の代表であれ、政府部内であれ、軍、検察、裁判官であれ、政治の中の官職なのだ。

オルバ開発期に集められた金はとても潤沢で、あらゆるシステムが停滞する中で政治だけが金をもたらすことができる。なぜなら、政治だけが国家没落プロセスから最大限の収入を得ることを可能にする唯一の源泉だからだ。鉄則は受け入れられなければならない。政治が商品として確固となればなるほど、国の崩壊はいっそう確実となる。その鉄則を穏やかに見せようとして人はインドネシア国内における自由市場を語りたがるが、それはつまりマネーポリティクスなのだ。
言い換えれば、国際会議のベースを通してネオリベラリズムが叫ばれるとき、大多数庶民は自由市場と政治官職売買からダブルで呪いをかけられることになる。わが国と民族は言うまでもなくそんな呪いの段階に入りつつあるのであり、出口を求めるための一条の光すらもう消えてしまっているのは当たり前なのだ。そしてそんな闇を受け入れることは、幻想や誤解からわれわれ自身を解放して事実を受け入れることにほかならない。この国と民族が失敗国家リストの中に漂着するように、とわれわれは衷心から願いたい。

そしてメガさん、こんばんは。国母の子供たちはいま、黒雲とバッタの群れの大襲撃に直面している。汚職文化成育の三段階(貢納、プンリ、マネーポリティクス)において、われわれは既にその最高段階に達したのだ。政治は売るのに適した唯一の商品なのである。
ソース : 2002年7月8日付けコンパス
ライター: Emmanuel Subangun 社会文化オブザーバー


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『汚職神学』

インドネシアで最も大きい二つのイスラム組織、ムハマディアとナフダトウルウラマが行った汚職撲滅のコンセンサスは、汚職がアラーの決して赦さない背教行為であるという宣詔が伴われるならきわめて効果的だ。そのような神学的基盤を持たないなら、汚職の罪はなんらかの施しや宗教上の勤めを行うことで帳消しにされてしまう。ましてや、せっぱつまった状況下に仕方なく行われた場合などは。
それどころか、異教徒が指導的地位に就いている機関で働いている場合、コラプタ−が行ったそんな行為は、イスラムを擁護するものという見方に取って代わられる。宗教上のいかなる善行をもってしても汚職は帳消しにされない背教行為である、という新しい解釈は、行政機構内のあらゆるレベルや生活内のすべての要素の中に汚職、暴力、マネーポリティクス、私的制裁などがますます蔓延しているいま、その重要度をいっそう増している。

従来汚職は赦されうる小さい罪だと見なされてきた。まして汚職の収入の一部を宗教上の勤めや、貧困者や孤児への施しにあてるなら、その見方はさらに強まる。来世で、汚職収入から分け与えた施しの功績と汚職行為の罪が天秤にかけられるとき、天秤は功績の方が重いことを示すというのだ。だったら汚職者や政治奸賊はみんな赦しを得て天国に入ることになる。
一方、イスラム法を励行していないとしばしば非難される貧困庶民たちは、まずまちがいなく汚職やマネーポリティクスを行ったことがなく、その小さい罪とラマダン月に行う施しとの間のバランスをとるチャンスさえ持っていない。居所からの強制立ち退き執行の不安にいつもおびえ、だれからの助けも得られないためにかれらは往々にして「神の公正はどこにあるのか?神はなぜわれわれに味方しないのか?」と問い、天秤にかけられる罪の重さを増していく。
天国神学は本当に、貧困庶民よりもエリート支配層の味方をしているのだろうか?


これまで、大罪と小罪、神の赦し、帰依の扉、神に赦されない背教の罪などについての教えや解釈が、倫理行動や法律の遵守などといったことと宗教行為との間の断絶を示してきた。毎年行われているラマダン月の勤めのような信仰の輝きはわが国民大部分の信仰心と徳行の高さを示すものであるが、強欲を抑制し、プアサ期間中には穢れた言葉や怒りを禁じ、聖なる月の終わりあるいはイドゥルフィトリ開始にあたってシラトゥラフミ(訳注:愛を結び合うこと)やフィトラ(訳注:人類創造時の本源に回帰すること)を行うといった教えに見られるように、その信仰の輝きは他人の苦難に心を寄せたり礼節を示したりすることで示されるべきものなのだ。
皮肉にも、プアサやイドゥルフィトリの必要を満たしたいという望みが往々にして、その正反対の犯罪、すりや引ったくり、交通事故、破戒行為者への暴力などを煽っている。破戒行為者たちの中にも、プアサを行い、ハリラヤに友人、親族、知人たちとシラトゥラフミを行うためにルバラン帰省する者は少なくない。祭事の実践が社会道徳と常に一致しているとは限らないのだ。信仰は個人(個人的信仰心)と、超越的で遠くにあり、そしてたいへん抽象的で社会条件(社会的敬虔さ)の欠如した神自身との間の関係にとどまっている。
信仰が日々の暮らしや日常世界になじんでいない、と人が言うのもうなずける。そのもっとも優れたしもべの困苦や生活の場の破壊に煩わされることのない主体が神である、と理解されているのだ。暴虐や苦難をこうむった者が祈りを発するとき天は震える、という教えは名もない庶民をなだめるための神話にすぎない。卑しく、腐敗し、暴虐で専制的な、神を祭る支配層にとって、踏みにじられる者たちの動乱や抗議を鎮める手段がその教えだったのではあるまいか。そんな傾向から、説教、布教、読経やその他の祭祀と汚職行為や社会の政治的経済的暴力との関係を批判的に分析するために、すべてのひとびとの正直でオープンな姿勢が必要とされている。

ラマダンの輝きと一連のスナ(訳注:宗教上の義務でないが、行えば神から褒賞が与えられる行為)祭祀は国中のいたるところに見られる。礼拝場の数は増え、教育課程における宗教教育は、町村の随所で行われているクルアン読経塾と同じように光彩を放っている。キャンパスでプサントレンは稲妻のごとく生育し、エリート層のタラウィ(夜間のスナ礼拝)はスター級ホテルで行われ、町内や地区で行われる低階層庶民に負けないくらいだ。だがしかし、そんな信仰の輝きは残念なことに、官僚、議員、ビジネス界、さらには法執行者たちが国中で行っている汚職拡大という現実と歩を同じにしている。
疑問が生じる。教えられ、布教され、説教されてきた宗教ドクトリンは、倫理に外れた腐敗行為を防ぐのに有効なのだろうか?モスクで真剣に礼拝し、月曜と木曜にはプアサを励行し、貧困者や孤児に施しを与えている多くの人が実は、自分自身や所属集団のために汚職、賄賂、マネーポリティクスを激しく行っている。そのような汚職、賄賂、マネーポリティクスが罪であることを知ってはいても、それらはアラーの赦しの扉の存在しない背教の罪にはあたらないのだとかれらは確信しているのである。

かつて犯した罪を溶解させようとして頻繁にプアサしたり宗教上の善行を行ったりする者は、ラマダンのあとに得られるような初めて地上に生まれ出たフィトラの状態と同様の、罪から免れた清い状態に自分はあるのだと感じる。
「信仰や悟り、あるいは計算にもとづいてプアサを行うものはだれでも、過去の罪が赦される」と述べている預言者の教えからそれを検証することができる。クルアンが降されたライラトゥルカダルと呼ばれる状況のときに宗教上の善行を行うならば、その善行を一千ヶ月(およそ80年)以上行ったのと同じだけ神の褒賞が得られるともかれらは信じている。ほかにも、神は罪に対する罰を倍増しない(罪の価値が1千万ならそれに対する報復も1千万)が、善行に対する褒賞は1千の7倍にしてくれる、とも信じられている。もし善行の価値が1千万なら、褒賞は1千万x7x1千で、つまり7百億になる。7という数字はときに、数列のような1千倍の累乗と理解されることもある。ある人が1千万ルピアの罪を犯し、百ルピアを適切な対象に対する善行として篤実な心で差し出すなら、犯した罪はあがなわれ、まだなにがしかの褒賞を残して消滅する。そんな計算さえ人は行う。
神をたぶらかすような印象を与えるプラグマティックなその観念は、とりわけ次のように表明しているハディスに由来するものでもある。「破戒行為(罪や悪行)はかならず、火が木を燃やすように破戒行為の罰を消す善行につき従われるように」。そのような教えは、勤めを果たせば帳消しにされるがために、世人に対して破戒や罪を行わないようにさせるものではない。それゆえに、宗教知識は宗教教義の励行を保証するものでなく、それどころか、神の性質や人間の行為に褒賞を与える神のやり方についての知識は人をしてますます、神に帰依する扉やその入り方を知っていることを理由に、あやまちを犯す度胸を強めさせるばかりだ。

背教(アラー以外の力に対する信仰に基づく行為)を除くすべての破戒行為には神の赦しの扉が開かれている、というのがイスラムの教えだと従来は信じられてきた。汚職は背教と見られておらず、ましてシステムや上司からの圧力の結果仕方なく行われたものという理由がつけられるなら、その罪は汚職金額以上のものにはならない、と考えられてきた。コラプタ−たちは、かれの行為がせっぱつまった状況の中で行われた、あるいは、もしかれがそれをしなければ、非ムスリム高官がそれを行ってイスラムを損なう行為の資金に使っただろう、などと表明することができる。
かれらが汚職を行うのは、まずそれが背教行為でないから、そしてシステムと緊急状況のため、さらにイスラムの敵の脅威からイスラムを擁護するためであり、ほかにも、モスクを建てたり、孤児を援助したり、イスラム闘争を支援するといった篤実な心での善行を通して罪が帳消しにされるから、ではあるまいか。
そうであるなら汚職者たちは、罪に比べて褒賞の方がはるかに大きいため、来世で破戒と敬神の両行為が天秤にかけられたとき、褒賞の方がまだ重いために自分は天国に入れると確信しているはずだ。ここにこそ、連鎖的で極度な破壊をもたらすだけでなく、アラー以外の未来を決める力を信仰するのと同等のものであるがゆえに、汚職は神の赦しの扉が存在しない背教にあたるものだ、という宣詔の重要さが存在する。
これまで背教の在来的解釈は、プラグマティックな利益のために褒賞を追い求めるだけのマジック的信仰モデルという傾向が強く、汚職、マネーポリティクス、あるいはその他テクノロジーを使った犯罪行為にまだ無知な農業文化意識の中に組み込まれたものだった。今日のような最先端情報技術を従えたグローバル時代には、宗教祭祀の形式限界を超えた公共利益に対する機能的で批判的な解釈が必要となる。新たな背教の解釈が必要なのだ。神の二分は、公共と環境の破壊レベルならびに汚職などの行為が引き起こすであろう人間の苦難というポイントから見られる必要がある。
さらにラマダン月での、悪魔の拘束、地獄の扉の閉鎖、天国の扉の開放、などの教えは、単に神の規範に対する違背としてのみならず、反システム反公正のあらゆる行為も含めて、悪魔行為の余地を狭めるための社会政治システム編成を目指すものだ、という賢明な理解が必要なのだ。

神の赦しや個々の宗教上の善行に対して与えられるボーナス褒賞についての教えは、暮らしの中で刻一刻と更新される希望の付与や決して終わりの訪れない歴史弁証法といった面からの批判的な解釈が必要とされている。社会や環境の破壊を引き起こす汚職が背教行為であるという汚職神学と共にその新解釈は、神と宗教の名において、あるいは文明と民主主義の名において暴力が激化しているグローバルライフの中で、一貫的恒久的に公正で節度を持った生活秩序を築く際に宗教が果たす役割の魂なのである。神は必ずや、神の最愛の生物たる人間と世界の利益のために神の預言を解釈しようとする人間の意図を理解してくれるものである。
ソース : 2003年11月11日付けコンパス
ライター: Abdul Munir Mulkhan スナンカリジャガ国立回教学院教授


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『宗教と汚職撲滅』

どの宗教も、ましてやイスラムは、どのような形態にしろ汚職行為を呪っているとわたしは確信している。「アラーの呪いは賄賂を出す者、受け取る者に向けられる」とハディスに述べられているが、賄賂を指すリシュワ(risywah)は現代アラブ語辞典を見ると腐敗や不正直の意味も持っている。そればかりか現代ウラマ層は、リシュワが昔からの汚職を意味するだけでなく、しばしば盗んだり奪ったりといった形態で行われる汚職をもカバーしていることに合意している。


イスラム教義のより広い文脈におけるコラプションは、公正、責任、義務などの原理にそむく行為である。国家と社会における暮らしに多くのネガティブな影響を与えてさまざまな歪みを生じさせる汚職は、地上に破壊をもたらす、アラーに呪われた破滅行為(fasad)に属すものだ。
もしイスラムが汚職を憎むのなら、ムスリム住民がマジョリティを占めるインドネシア社会にどうして汚職行為が蔓延しているのだろうか?グローバルコラプションインデックスやトランスペアレンシーインターナショナルインデックスなど外国機関が行う諸サーベイにしろ国内のものにしろ、ここ数年間の汚職番付はインドネシアが上位にいることを示している。おまけに汚職犯罪はもはやジャカルタ集中でなく全国津々浦々にまで拡散し、地方自治や地方分権プロセスの中での密航者になっている。汚職がますますひどくなっているために、ジョハン・エフェンディ(2003年9月1日付け)、Tガユス・ルンブン(2003年9月2日付け)、ブディ・ダルマ(2003年9月3日付け)たちは汚職撲滅の困難さへの深いペシミズムを表明している。
インターナショナルカントリーリスクガイドインデックスを見ると、1992年から2000年までインドネシアの汚職インデックスは、7ポイント前後から9ポイントへと上昇を続けている。住民のマジョリティがキリスト教徒であるロシアでも同じ傾向が起こっており、2000年のインデックスは9ポイントに近い。住民マジョリティがムスリムであるパキスタン、バングラデシュ、ナイジェリアなども汚職インデックスは7ポイントを超えている。一方アルゼンチン、メキシコ、フィリピン、コロンビアなどキリスト教徒がマジョリティの国々も汚職インデックスは7ポイントより上。マジョリティが仏教徒であるタイも汚職インデックスはほぼ8ポイントだ。
ところがマジョリティがイスラム教を信仰するイラン、サウジアラビア、シリア、マレーシアなどはインドネシアやパキスタンに比べて汚職インデックスははるかに低く、またキリスト教徒がマジョリティであるアメリカ、カナダ、イギリスなどは汚職インデックスが2ポイント以下である。

このラフな描写は、汚職が盛んかどうかということは宗教とあまり関係がなく、汚職者に対する厳しい法的措置を伴った明確な法制度の存在とより密接な関係にあることを示している。汚職犯罪を行った者に対して宗教も威嚇を与えるものの、その制裁はふつう将来のあの世でしか有効でなく、それはモラル上の警告でしかないことを認めなければならない。
もちろんイスラムにもシャリヤジナヤ(syari’ah jinayah)法があり、国家成文法と対応させて、公的な富を盗んだ者(コラプタ−)の腕を切り落とすといった重罰や、盗みを行う能力や機会を失わせるためにできるだけ重い入獄の罰などに法廷の権限で変えることができる。しかしイスラム国家でないインドネシアのような複合国家では、シャリヤジナヤ法を採用すればさまざまな問題が生じるに違いない。
結局、宗教的価値観と教義が汚職を消滅させうるという希望は、過剰な期待なのかもしれない。おまけに現実の中でのよりモラルアピール的な宗教教義の実践は、往々にしてさまざまな種類のファクターや社会生活の実相に強く影響される。それどころか宗教的生活の実相にイロニーが存在することも認めなければならない。

一面、過去二十年間にインドネシアで宗教意識が向上したように見えるものの、その一方でさまざまな形態の汚職や社会的病弊もいっそう亢進した。法執行の弱さ、享楽的ライフスタイルの広まり、汚職撲滅のための公職高官からの手本もなく、政治意志も不在している。そのようなことが、汚職がますます猛威をふるう状況をあおっている。それゆえに、現代のさまざまな要因が大隆盛をもたらしている汚職やその他の逸脱行為に対して、素朴に宗教をスケープゴート化するのは公平を欠くというものである。
とはいえ、宗教自体の持つ生活と実践のパースペクティブに関しては、改善されるべき事柄がある。インドネシア社会に存在している宗教的生活と実践が実質よりも宗教的形式主義や象徴主義的方向性を強く持っているという批判は頻繁に語られている。実質への強調がなされる場合でもそれは、個人の人格的敬虔さという内面指向的傾向が強い。しかし同時に、広範な社会生活に具現される社会的敬虔さに向かう外面指向をもそれは持っている。その一部分としてザカート、インファク、スドゥカ、その他の宗教的施しやチャリティ行為はインドネシアで上昇を続けているが、そんな社会的敬虔さは、オフィス、路上、パサルなどの場における社会規律と敬虔さの中に現れなければならない。
だから、宗教心や個人的敬虔さが一面で向上しているように見えていても、われわれの国も社会も、明確な法的線引きを持たず、ましてや汚職撲滅の一貫的な法執行もなく、あらゆることが贈収賄、マネーポリティクス、KUHPなどを通して調整でき、決着をつけることができる軟弱なものなのだ。(訳注:KUHP=Kitab Undang-undang Hukum Pidana「刑法典」をKasi Uang Habis Perkara「金をやれば一件落着」ともじったもの)
ここに個人的敬虔さと社会的敬虔さ間の鋭角的不均衡が起こり、さらにもっとひどいことには、モスクや礼拝所における信仰姿勢とオフィス、路上などにおけるビヘイビヤとの間に分裂が起こる。人はどこにいようと信心深くあらねばならないというのに。
それゆえに、分裂し二分された信仰姿勢は修正されなければならない。宗教祭祀を行う暮らしと日々の生活行動を統合する包括的信仰ビヘイビヤが必要とされている。それこそが実は、礼拝所の中だけにとどまらない生きた信仰なのである。

汚職撲滅運動の中で宗教により大きい役割を演じさせようとするなら、モスクや教会の管理者、ナフダトウルウラマやムハマディアのような宗教的社会組織といった宗教機関の役割を向上させることで可能になる。「ガバナンス改革のためのパートナーシップ」が行った研究によれば、それらの機関の方が汚職や逸脱に関する限り、ほかの機関に比べて高い信用を得ているのだ。
残念なのはそれらの宗教機関が、汚職撲滅やグッドガバナンス創造、あるいはナフダトウルウラマやムハマディアの場合では団体組織の抱える日常問題といった社会的な勤めよりも、原理的な宗教上の勤めや祭祀の問題により強い興味を持っているということだ。それらの機関は、汚職撲滅やグッドガバナンス創造に関してベーシックなアジェンダを持つシビルソサエティ組織として、あるいは圧力団体としての役割を演じる能力をまだ持っていないが、かれら宗教的社会組織や機関が汚職に対してより一貫性のある、方向付けされた闘争を表明するときがいま来ている。必要とあればそれらの機関は、汚職に立ち向かうジハードを実行する義務に関する宣詔(fatwa)を発することができる。それこそが現在と将来のインドネシアのためという文脈にふさわしい、正しいジハードなのだ。
ソース : 2003年9月5日付けコンパス
ライター: Azyumardi Azra ジャカルタ国立回教大学学長、イスラム社会知識史教授


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『宗教と汚職』

インドネシア人は信仰心篤い民族であり、同時にアジア一の汚職民族である。宗教はイエス、汚職もイエス。アルベルト・ハシブアンが言及しているように、「汚職はもはやアートであり、インドネシア文化の一部になっている。」とブンハッタは語っている。
ところがサミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』の中で、ローレンスEハリソンが『カルチャーマターズ』の中で述べるように、汚職文化は一社会の後退と後進性を引き起こすものだ。「モラルが崩壊すれば、民族は崩壊する。」アラブの詩人シャウキ・ベイはそう断言している。その事実を認識しつつ、われわれは問う。信仰深さがどうして腐敗していないことを意味しないのか?汚職を防ぐのに効果的な信仰とはどのようなものなのか?

語源学的にコラプションとは、腐敗、悪、倫理崩壊、虚偽、賄賂、横領、強欲、不道徳、そして神聖さからのあらゆる逸脱といった意味を包含している。政治という文脈においてコラプションは、開発予算の悪用をはじめとするあらゆる不正行為と職権濫用を意味している。コラプションの影響は、ハイコスト経済や国庫の損失という政治経済的な性質だけでなく、インドネシア民族が多重次元クライシスから脱出するのを妨げているモラルや文化的な性質をも有している。


宗教は常に倫理的・精神的な次元について語るので、モラルや価値観に関する限り、宗教はコラプションと関わりがある。篤信で敬虔と思われている多くの人が汚職を行っており、勤勉に礼拝にいそしむことと汚職に汚れていないことの間に明確な関連性がない。どうしてそうなのか?これは宗教が信徒の行為を律するのに失敗しているということか、それとも信徒が宗教の役割を自分自身に対して適切に意味付けていないということなのだろうか?
われわれは宗教の役割を過大評価しているのかもしれない。宗教はしばしば、万能薬のように、あらゆる問題に答えるよう強いられるが、しかし宗教も社会固有の文化と分離できるものではない。宗教はあらゆるものを包むという主張はしばしば、狭隘な宗教的解釈や問題自体の解決にとって無意味な解釈の強制をもたらす。信仰心の篤さは往々にして解決されるべき問題の一部分に溶け込んでしまう。
しかしわれわれは、あたかも宗教が反汚職を推進できないというように過小評価する必要もない。宗教が失敗したのでなく、宗教指導者や信徒が適切な意味付けを行っていないということなのだ。

宗教それ自身は、信仰心とは異なる。個々人の敬虔さが社会的専門的な敬虔さをもたらすとは限らない。宗教というものは、堕落や虚偽やあらゆる形態の社会的不道徳を否定する。宗教というものは、高貴な倫理、恥の文化、善行への信念、質素な暮らし、高い勤労エトス、進歩と名声への方向付け、などを教える。宗教というものは、人間の倫理向上を目的にする。
残念ながらそのような実質的信仰心は、信徒たちの行動や話題の中にはまだまだお目にかかれない。


汚職の原因のひとつは、清い暮らしに導かない文化的宗教的価値観の影響を受けた、誤った一部世間の世界観だ。多くの人にとって宗教や信仰は、解放よりむしろ束縛の場合の方が多い。宗教は天上に昇り、地に根付かず、無産で不活性でバイタリティがなく、汚職を含む悪行から積極的に自己を解放しようと信徒を動かすことは少ない。
神がすべてを定め、人間はあるがままを受け入れるだけという、天命教理のような硬直的で原文通り文字通りの宗教解釈は、非解放的で受動的な信仰をもたらす。倫理腐敗が進行中であるときでさえ、宗教は形式的以上の何ものにもならない。

汚職文化撲滅努力に対して明確な役割を果たすよう宗教を客体化するにはどうするのか?行政や司法のアプローチが汚職撲滅にむしろ抑圧的(予防的な性質もあるにせよ)であるとき、宗教はより予防的なレベルで働く。反汚職法は自動的に汚職の克服を保証する、という見解がうまれているが、司法は予防的なレベルには触れない。法の番人が誰かの行動を刻一刻と見張ることなど、いったい誰が保証できるだろう。
そのような文脈の中で宗教は、超越的(神的)指導と統制に自己を位置付ける。全知のエレメントによって統制されているということを信徒はいつでもどこでも感じなければならない。そのほか、宗教はふつう死後の生を教える。この世で行った汚職行為が人間の監視から免れたとしても、将来の裁きから逃れることはできないのだ。このような実質的信仰が、信徒を汚職行為から遠ざけることができる。
宗教の制裁はモラル的性質が強い。殺人者は真に帰依する(善に回帰する)とき、神の赦しを得るという教理がある。しかし人間からの罰はモラル上にせよ法的なものにせよ、必ず与えられなければならない。罰の強調が汚職対策失敗の一因だったとしても、モラル上の制裁は反汚職運動の中でまだ効果を持っている。たとえば職場で、モラル制裁を習慣化する必要がある。贈収賄を行った者はだれでも、集団から疎外されなければならないのだ。

汚職は神から呪われる悪魔の行いだ、というモラル上の禁則を常識にしなければならない。反汚職のパンフレットを職場や公共の場で配布しなければならない。反汚職スローガンは、人が汚職を行うチャンスに遭遇したり汚職を思いついたとき、かれらに再考させるために必要だ。布教活動はその中に、汚職問題や汚職を避けるための宗教的アイデアを収めなければならない。汚職を非難し、役所レベルあるいは国家レベルの汚職事件を国民に訴えるのは、汚職をしようとする人を思いとどまらせる手段として、また汚職実行者にとってのモラル制裁としてたいへん有効だろう。


宗教の別の役割は、汚職原因のひとつである貧困文化の撲滅だ。たとえば、低給与は汚職行為をあおりやすい。そのため先進国より第三世界の方が汚職が激しいことは不思議でない。国が豊かであっても汚職が起こり得るし、汚職の内容も高度なものだ。
インドネシアの汚職事件の多くは、金持ちや社会的名士がからんでいる。金持ちが汚職を行うのは充足感が訪れないためで、かれは本当は貧困文化を病んでいるのだ。そのため宗教は、物質的でない、心理的・精神的充足文化を教えている。高貴な倫理的形を伴った精神的豊かさは、モラル上の高貴さなしに手に入り、またそれを享受できる物質的豊かさよりも価値が高い。
いまや汚職は、世俗的機関だけでなく、宗教機関にまで蔓延して猛威を振るっている。非宗教的政党ばかりか宗教を奉じる政党も、宗教団体も、みんなが汚職文化の一部と化している。同様に、ハジ・ワカフ・ザカートなど宗教祭事や教育、社会活動の世話をする組織も汚職から無縁でない。
法専門家アルベルト・ハシブアンが提言したような、汚職撲滅におけるメガワティ大統領の政治意志はたいへん重要だが、十分ではない。汚職犯罪撲滅コミッションやインドネシアンコラプションウオッチ、ガバメントウオッチ、パーラメントウオッチなどのNGOが、ナフダトウルウラマやムハマディアなどのような宗教組織を含む広範な社会支持を得なければならない。
汚職対策失敗の原因のひとつは社会的支持があまりないことだ。宗教機関や宗教指導者は、反汚職運動の一翼を担おうとは考えていない。宗教説法者たちはせいぜい、汚職を行ったと非難される政敵を攻撃するという文脈の中で汚職問題に触れるだけであり、汚職の根を探り、どのように汚職を削り落とすかを追求しているわけではない。


汚職撲滅失敗原因のひとつは、無関心ゆえの社会成員間相互監視機能の欠如だ。教会やウラマなど宗教機関ヒエラルキーの存在で、上位の宗教指導者は下位の宗教者を監視するということが段階的になされる。そのすべての段階において、個々の宗教指導者は自分の信徒を監視する。同様に信徒も宗教者を監視し、また信徒同士も互いに監視する。公開と責任は政府だけが示さなければならないことではない。シビルソサエティもまた同じである。
同じようにまた、異宗教間機関も共通問題として汚職のテーマに触れなければならない。ファリド・エサックは南アフリカで解放のための宗教間連帯の口火を切っている。
われわれが複合種族であることも、汚職撲滅の連帯と協力を意味している。いまやわれわれは、きわめて重要な社会資本としての実質的解放的な信仰を通して、汚職撲滅の誓いを強化するときなのだ。
ソース : 2002年7月12日付けコンパス
ライター: Muhamad Ali ジャカルタ、シャリフ・ヒダトゥラ国立イスラム大学ウシュルディン学部教官


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『汚職と文化と権力政治』

もっとも腐敗のひどい省庁は宗教省、国民教育省、保健省だ、と会計監査庁の報告は述べている。すでに緊急段階に陥った社会の実態を指摘している悲しむべき報告だ。インドネシア民族は本当に重病を患っている。国民の健全なあり方を世話するすべての官公庁が、さまざまな相にわたって腐敗しているためだ。宗教省は国民の霊的精神的健康を指導し、国民教育省は国民の知的健康を推進させ、保健省は国民の身体的健康を保護するものであるのに、それらすべてはみずから腐敗し、そして腐敗をばらまいている。腐敗がますます拡大しているいま、インドネシア民族がその重病から治ることはありうるのだろうか?
宗教省がどうしてもっとも汚職が激しいのかと人に問えば、宗教省にいる人たちは罪を清める方法を知っていると自認しているのでかれらは汚職を行うことを恐れないのだ、という答えが冗談まじりに帰ってきた。ウムロの勤め(訳注:ハジ巡礼の一部を省いたイスラム聖地巡礼で、ハジ期間とは別の時期に行われることが多い)は犯した罪を清める方法のひとつだという考えが世間で広まっており、そのため最近のアーティスト、高官、政治家たちが行うウムロの賑わいは、かれらの犯した罪を清める免罪方策のひとつと見ることができる。それに関連して言えば、篤信的社会生活のホリゾンタルな次元は社会的倫理の弱まりとともに剥離されていくものの貧困は深まる一方であり、汚職の罪というものはどちらかと言えばバーティカルな方向では消すことのできない、むしろホリゾンタルな方向性を持った罪なのだ。

文化的パースペクティブ
われわれの社会生活における特徴のひとつは(学校でインドネシア社会学序文の中で学んだように)パグユバン(訳注:家族主義的共同体)であり、それは拡大ファミリー的性格の家族システムへと発展していく。村落部での社会生活現象はいまだに拡大ファミリーシステムを強く反映しており、家を建てる際にもゴトンロヨンがまだ行われている。
結果的に、ファミリー内でキャリア面の成功を収めた者はみずからファミリーを成功に導く負担をになうか、あるいは少なくともかれが手に入れた成功を享受する機会を、経済的援助を与えることでファミリー成員にもたらす義務を負う。それを行わなければかれは、エゴイスト、けち、連帯意識を知らない、自分のことだけが大事、などという非難を甘受しなければならない。成功を得たのは自分ひとりの働きや努力だけでなく、ファミリーの助けもあったのだから。
だからわれわれの社会生活に存在する拡大ファミリーシステムは、今この社会が巨大な失業社会に陥っているとはいえ失業者が就職のチャンスを求めて時を待つことを可能にしており、失業の破壊的症状を緩和する受け皿となり得ているのだ。
しかし他面では、高官・政治家・専門家として成功者になったと見られた者が背負う負担はたいへん大きく、公的な比較的小さい給与でまかなうのはほとんど不可能に近い。拡大ファミリーシステムは社会の中で役職や権力に高い経済負担を背負わせるもので、その負担を早く容易に克服する近道が汚職であり、役職や権力が個人の手にゆだねられるためにそれは実現しやすい。そのために社会は汚職に対してきわめて寛容となる。ましてや汚職者が慈善家だったり、モスクや礼拝所を建て、道路を造り、村の青年スポーツ振興や公共的な活動を推進するなどといった諸相において地元社会の暮らしを援助するなら、なおさらだ。
そのために、慈善家汚職者が社会の指導者だと見なされることは不可能でない。それゆえにマネーポリティクスが繁茂するのは自然であり、社会はそれを人に権力や役職をもたらすための政治ビジネスにおける交渉事の一部分だと見る。

早く簡単に富を得るための近道や便法としての汚職は基本的に、ファミリー主義と権力コンセプトに由来しており、国民生活の中に育まれたソフトカルチャーとしてきわめて軟弱で知られるわれわれの文化内の一般現象である。だからインドネシアでの汚職撲滅は、複雑な文化的次元を無視しては行えない。インドネシアでの汚職撲滅運動の不成功は既存文化との衝突の激しさが原因であり、そのベクトルはおのずと軟弱化する。こうして汚職撲滅運動は、共同利益を守るためのものでなく、嫌われている権力者を没落させるための単なる政治工作として世間から見られがちになる。皮肉でしかも心痛ませる現象だ。

権力政治
従来インドネシアで発展してきた政治文化は、ジャワやイスラムの権力政治から影響を受けたものだ。ジャワもイスラムも昔から現代にいたるまで、民族の政治面での生活に大きい影響をふるってきた。そのいずれにおいても権力は、形而上的、神秘的、神的な偉大なパワーから生まれる神聖なものだとする傾向にあり、その結果、権力センターのKKN行為に対して高い自由度を与えるネガティブインパクトと共に、中央集権的、専制的、絶対的度合いを深めていく強い傾向を持っている。
立法・司法さらには報道界といった権力機構への分散と共に、地方自治の拡大につれて汚職が僻地に至る国内の隅々にまで広がる現象を見せているいま、その汚職の拡散と拡大は実のところ、権力自体の拡散拡大に起因しているのだ。オルバ期に汚職が政治権力の中心部周辺で発展したとすれば、レフォルマシ期には権力エリアの拡張トレンドにつれて汚職も拡散した。
かつてオルバ期に汚職の蜜を味わえなかった人々にとって、いま自分の番がやってきたのである。こうしてハネムーン時代が到来し、汚職が蔓延した。今の政府や政党が汚職撲滅にひるんだり、動きが遅い印象を与えているならそれは、レフォルマシ期の権力拡散であまりにも大勢が新たな汚職行為に絡めとられ、それどころか現職政府高官、権力者、政治家が汚職順番引継ぎプロセスの重要な一部となっている可能性が高い、という事実を示しているからだ。
それゆえに汚職撲滅は、はじっこからゆっくり吹き冷ましながら熱い粥をすするようなやり方ではだめであり、公的権力センターとその周辺から、厳しく、徹底的に、多次元的に、公明正大なやり方で着手され、プロフェッショナルに行われるパブリックサービス哲学をベースにした新しい権力システムを構築し、公僕は妥当で名誉ある暮らしができ、汚職を避けまた汚職の寄ってこない個人的な強さが与えられるといったやり方で進められなければならない。
今必要とされているのは、裂けた布を縫うようなつぎはぎやその場限りのものではないシステマティックで持続的な汚職撲滅運動だ。政治イシューでなく政治行動だ。コミットメントでなく政治アクションだ。知識でなく行為なのだ。
ソース : 2003年11月13日付けコンパス
ライター: Musa Asy’arie ジョクジャカルタ、スナン・カリジャガ国立回教学院教授、博士課程理事


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『ビューロクラシー強盗』

その外国企業をJohn & Johnと呼んでおこう。危機前、その会社は衛生関連用品を生産する工場を持っていた。国内需要を満たすばかりか、南米やアセアンにも輸出していた。1997年の経済危機に襲われたときは大きく動揺したが、会社の業績に大打撃を与える危機をその会社は数ヶ月で乗り越えてしまった。販売はかつてのような盛況に戻った。ところが危機の手から逃れたものの、それで問題が終了したことにはならなかった。大勢の民衆が祝福したオルバ政権崩壊と民主的に選ばれた新政権への交替が、実はもっとおそろしい化け物だったのだ。民主政権が健全な事業環境の形成を進めてくれるとの期待は挫折した。

レギュレーション。その言葉がJohn & Johnを不安の底に突き落とした。地方自治に関連するものも含めて新たに多くのレギュレーションが施行され、新しいビューロクラシーを生んだ。そして既に文化の一部になっている通り、各ビューロクラシーには幽霊金を徴収するための手を備えたデスクが用意されていた。「もう汚職なんてものじゃない。強盗だよ、あれは。ビューロクラシー強盗だ。」その会社のあるマネージャー氏はそう言った。なぜ?なぜなら、手続きを完了させるために支出しなければならない金があまりにも大きかったからだ。中央政府から地方政府にいたるまで、そしてときに金額は製造コストを上回った。「かれらは昔より、危機前より貪欲だ。」

災難だったのは、そこが多国籍企業だったことだ。領収書のない費用を会計帳簿に載せられない。めぐりめぐって本社や外部の監査がなされるたびに、インドネシアのマネージメントに雷が落ちた。歴代の中には、金がどこへ流れたのかを明白な証拠で説明できなかったために椅子から追われた人もいる。結局その巨大企業は、製造コストに幽霊費用を乗せたものが販売価格に見合わないことから、インドネシアの工場を閉めるという結論を選択した。こうして数百人の職員、労働者が職を失うことになった。かれらの家族を含む数千人が「生きるのは面倒、死ぬのは嫌」という状態になった。

搾取を厚顔に行う官僚たちのなんと邪悪なことか。54カ国に190の工場を持つ多国籍企業のことを気にしているのではなく、職員・労働者が気の毒なのだ。わが国の腐敗した官僚のせいで、かれらはまた失業者になってしまった。あの会社はどこへ工場を移転したのか?マレーシアだ。不思議だ。マレーシアで、かれらはインドネシアよりもっと高い労賃を支払わなければならないというのに。しかしかれらは実際それをあまり問題にしていない。支出経費が明らかで透明だから。そして総経費を比べて見れば、マレーシアの方がインドネシアより小さいのだから。マレーシアの工場で作られた製品はインドネシアに輸入される。国内で生産されていたときより安い値段で買えるのを不思議に思ってはいけない。だからJohn & Johnの製品は、かつては外貨を稼いでいたというのに、今では同じ物のために外貨を流出させることになってしまった。

噂では、製薬会社二社が同じようなステップを踏もうとしているという。かれらは日々誅求の度を増す幽霊費用の負担にもう耐えられないのだ。外国に工場を建て、その製品を輸入して国内で売るほうが経済的だ、とかれらは見ている。実に実態はその通りなのだ。官僚の貪欲さのために、民衆の肩に悲惨が上乗せされていく。かれらの策謀のせいで数百、いや数千のひとびとが失業者となっている。海外に流失して行く外貨はそれの外だ。その官僚たちは企業を強奪しているだけでなく、民衆の権利、そして国が外貨を得る権利さえ強奪しているのだ。イワン・ファルスが、かれのヒット曲の中で金を掠め取る者をこう呼んでいるのは実にぴったりしている。「オフィスの中のネズミたち〜♪♪」
ソース : 2002年5月29日付けレプブリカ
ライター: Anif Punto Utomo


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『贈賄のないビジネスは可能か?』

全国商工会議所が行った賄賂反対全国運動の呼びかけに世間が冷ややかな反応を見せたのは、それがもう聞き飽きた話だったからにちがいない。おまけに、「ああ、せいぜい鶏糞が温かい間のことだよ。」と言った公職高官までいたという。
反贈賄協定において45人の実業家が警鐘を鳴らしたことを信じようとするかどうかはさておき、興味引かれるものがある。ひとつは、贈賄行為の主役であるビジネス界が賄賂反対運動のリーダーシップを取ったこと。もうひとつは、ほとんどすべての事業者が逆の姿勢を示しているこの時期にそんな運動が行われるということ。
そんな現実のせいで、この賄賂反対運動に世間がきわめて冷たい反応を見せているのではあるまいか。パンチャシラ尊厳の日に時を合わせて署名された実業界の反贈賄協定は、ふたつの活動から成っている。ひとつは2003年から2004年までの賄賂反対全国キャンペーン、もうひとつは2005年から2015年までの賄賂反対全国運動。友人のひとりはその宣言に関して、「住民証明書手続でさえ賄賂が必要なのに、ましてや何億もの金が動くビジネスではなおさらのことだ。」とコメントしている。ビジネスに賄賂はつき物なので、贈賄のないビジネスを期待するのはユートピアだ、と言うのである。

問題の根幹が贈賄行為にあるのなら、それをしないように呼びかけることで解決できるかもしれない。しかし問題の心臓部がそこにある、というのは本当なのだろうか?思うに、コラプションはもはや単なるパーソナルな行為を超越して、インドネシアのビジネス社会における慣習(構造)と化している。だから、その解決を単なるモラル運動的性格のものに求めるのでは、モラル運動が役に立たないというわけでないにしても、だめなのだ。モラルの呼びかけは美しい口先だけのレトリックとなるばかりで、慣習は平常通りに進行するということをわれわれは覚悟しなければならない。

腐敗した制度
ビジネスを行う者にとって、贈賄はありきたりのことだ。それどころか、ある実業家が打明けるところでは、賄賂は製品価格を決める際に計算される原価の一要素になっている。ビジネス者は経済負担を必ず他人、つまり製品の最終利用者あるいは消費者、に移し替えるのが基本なので、製造プロセスの効率はその製品価格に反映される。
賄賂は効率に関わっており、効率は競争力に関与する。こうして賄賂の負担はわれわれみんなが背負うことになる。コラプションと産業競争力のネガティブな関係を次のデータに見ることができる。
東南アジア地域諸国と比べた場合、2002年の産業競争力指標番付でインドネシアは最下位(調査実施80ヵ国中67位)にいる。それと同じ時期のトランスペアレンシーインターナショナル評価は、インドネシアを世界の大腐敗国(102ヶ国中96位)に位置付けている。コラプションと産業競争力の問題は端的に、構造的性格の制度問題である、と言うことができる。
世銀が発行した2002年の世界開発レポートは、マーケットシステムを支える要因としての制度問題に焦点を当てており、この視点は注目に値する。マーケットは適切な下部構造制度に支えられなければ、正しく働かない。ニューヨーク証券市場の理事長がクビになったのは、アメリカという市場規模に対して常識はずれの高給を受け取っていたと見られたためで、ならばインドネシアのサイズから見れば超ビッグな高給取りである銀行界再建庁長官はどうしてそのポジションを維持できるのだろうか。その答えは、「インドネシアはアメリカではない」。インドネシアにある下部構造制度はアメリカにあるものと同じではないのだ。その結果、メカニズム、決済、市場システムなどは異なる方法で行われる。
ビジネス者の行為を同じ見方で見ることもできる。もしあなたがアメリカでビジネスを行う場合、賄賂資金を用意する必要はない。しかしインドネシアでは、賄賂でしかあなたのビジネスは進展しない。それはマーケット制度が異なっているためだ。

企業の方向から
ビジネス者たちのコラプション行為は、わが国ではもはや公然の秘密となっている。インドネシアビジネスウオッチがまとめた導入研究から、インドネシアビジネス者のコラプション行為に関する一連のデータが登場する。たとえば林業セクター。インドネシア木材生産の88%が不法伐採に由来している。この不法行為は、納税がなされていないために、一分ごとに1千3百ドルの損失を国に負わせている。
別の欺瞞はパーム椰子農園セクターで起こっている。東カリマンタンの土地二百十万ヘクタールを支配する許可がこのセクターの137民間大型企業に与えられている。ところがかれらはパーム椰子を植えたことなどないという事実が明らかにされている。荒っぽく森林を切り開いて丸太をたっぷり手に入れたかれらは、開墾されて椰子を植えるばかりになっている土地をそのまま放棄したふしが見られるのだ。
オポチュニスト的行動とは別に、ビジネス者があまりにも贈賄行為に親しんでいることの証拠の一部がそれだ。わが国の最も価値ある財産が、資本家とビジネス者によって異常なまでに略奪された。ところがかれらの中のだれひとりとして制裁を受けた者はいない。このように国がコラプションを行うよう刺激を与えているのである。だから国が贈収賄や汚職を解決できるなどと期待することはできないのだ。おまけに民主化が国民の代表たちに一層賄賂や汚職きちがいになるよう煽っている事実を前にして、われわれはフラストレーションに襲われる。
実業界からのモラルの呼びかけ現象は、別の解決をもたらしうることから、興味深いものとなる。行政側に期待が持てないのに対して、いまビジネス者自身の側から希望の灯がともされたのだ。
われわれの心配は、かれら実業家が単にマネジェリアルレベルに関わることがらだけを問題にするのではないかということだ。そこに含まれているのは税務調査員への贈賄や許認可手続における贈賄などといったことがらであるのだが、コラプションは上級政治レベルにおいてはるかに激しいために、ことはそんな中級レベルで発生しているマネジェリアルなものよりずっと複雑なのである。

そうであるため、実業家が賄賂反対運動を唱える一方時を同じくして、資金援助でもって特定政党への政治支援を行うのは理解しがたいものとなる。政党に対する実業家の政治支援は上級レベルでのコラプションを生むことにつながり、それはきわめて不合理な結果となりうるのだ。
とはいえ、フラストレーションに襲われないために、賄賂反対運動を始めた実業家たちの正義への意思は、期待をかけるのにふさわしい。少なくともわれわれは、今進展している議論が現実に近付くものか、あるいはその反対なのかを将来目撃することができる。
われわれは多分、展開されている議論とはまるで正反対に、どのように実態が進行するのかを目にすることだろう。ビジネス者たちはそのとき、ほかのさまざまな用向きのために賄賂や闇報酬その他のコラプション行為に余念がないにちがいない。頻繁に起こっている、企業の社会責任が人工的なパブリックリレーション努力に堕す、というのがそれだ。社会的印象やイメージが利益追求ビジネス者の最大関心事なのである。そしてこの賄賂反対運動が、そんな人工的なイメージ形成の一部分にすぎない、ということでないように期待したいものである。
ソース : 2003年11月6日付けコンパス
ライター: A Prasetyantoko 経済政策研究センターリサーチアナリスト、ビジネスウオッチインドネシア上級調査員


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『金一封と国民代表者の権力』

In God We Trust
たわたことを。ベンジャミン・フランクリンの大写しの顔が描かれたアメリカ紙幣の機能と神との間にどのような関係が存在するというのだろうか?とはいえ、一部の人々にとってそれはきっと意味を持っているに違いない。神の次に権力を有するのは金なのだから。

インディラ・ダマヤンティとメイロノ・スウォンドの二国会議員が国会第9委員会買収事件を明るみに出したのは、そんな金の力を世間に暴いて見せたかったということなのだろう。ニアガ銀行国有株売却プロセスをスムースに進行させるのを目的に1千ドルの贈賄が行なわれた、とそのふたりは証言した。それは三ヶ月前に行われたことなのだが、先週国家警察刑事局がインディラを供述のために出頭させたことで、問題が再燃した。
インディラの話によれば、その贈賄が行なわれたのは2002年6月5日夜、都内のホテルパークレーンで銀行界再建庁長官と国会第9委員会PDIP会派議員との間で持たれた会合の中だった。インディラはかの女の携帯電話に入ったSMSを見てそこへ行った。第9委員会PDIP会派議員17人中11人がその会合に出席した。銀行界再建庁側はシャフルディン・トゥメンゴン長官と銀行再建デピュティのイ・ニョマン・センデルおよび中小事業担当専門スタッフのマルヨスシロが出た。

「議題は顔合わせと銀行界再建庁業務プログラム紹介。同じ内容の業務会議は銀行界再建庁との間で既に行なわれていたので、『なんのためにまた同じことを・・・』とわたしは思いました。後になって知りましたが、銀行界再建庁は別の会派とも同じような会合を持っていたんです。」ケータリングビジネスのオーナーで、都内ブロッケムでもカフェーを一軒持っている国会議員のインディラはそう語る。
およそ一時間にわたる会合の中で、議事の方向性が曖昧模糊としているように思われた。というのは、先に行なわれた業務会議の内容の一部が繰り返されただけだったから。おまけに会合がお開きになると、PDIP会派の仲間であるドゥディ・マッムン・ムロッ議員が封筒を配り始めたからますます訳がわからなくなった、とメイロノは言う。「シャフルディンが退出するとドゥディも後を追って会場から出、そしてほどなくたくさんの封筒を持って戻ってくると、出席者ひとりひとりの帰り際に出口でその封筒を渡しました。わたしも含めて出席者はみんなその封筒を手渡されましたが、わたしはすぐにその封筒を机に叩きつけてそのまま帰宅しました。」メイロノはそう述べている。
インディラが1千ドル入りのその封筒を返したのは、その翌日の第9委員会と銀行界再建庁との会議の合間。「わたしはスルヨスシロさんを通して返却しました。最初の顔合わせでもうこれでしょ。もし本当に問題がある場合はいったいどうなるのかしら?」そうコメントするインディラ議員。
インディラとメイロノの告白は、やはりPDIP会派議員でその会合に出席し、かの女たちと同じようにその金の受取を拒んだダニエル・ブディ・スティアワンとエンゲリナ・パティアシナのふたりが裏付けした。「わたしはあのとき即座にスルヨスシロ氏に返したよ。」というダニエルの言。


否定と疑惑
PDIP会派議員四人が証言した。捜査を始めた警察にとって、この事件は明白なもののはずだ。しかし、上で述べたとおりのあれだ。金が関わるがゆえに権力が関与する。明白だったものも灰色に変わる。政治の確定性というものが往々にして憂慮と失望をもたらしてくれる、国会における政治ドラマなのだから。
パークレーンでの会合に出席したほかの議員たちの話を聞くと、事実は錯綜する。銀行界再建庁長官はインディラの告発した金一封贈与を否定した。スマントリ・スラメッ同庁副長官は、買収行為などなかった、と否定する。「銀行界再建庁からの金一封などない。ことの白黒を着けるために、国警本部による取調べも辞さない。」副長官はそう断言する。PDIP会派議員で第9委員会の議長を務めるマックス・ムインは1千ドル入り封筒の受取を否定しただけでなく、パークレーンにおける会合そのものまで否定した。ところがインディラによれば、マックス自身もその会合に出席していたそうだ。
「贈賄がなされたなどという話は信じられない。メイロノは一度も会議に出席したことがないんだよ。ましてや3ヶ月も前の話じゃないか。ニアガ銀行を誰が売りたがっているか、などという話はまだ誰も知らない。だから何のために贈賄する必要があるのか?ましてや銀行界再建庁売却小チームは、ニアガ銀行購入希望者の付けた価格を拒否してるじゃないか。」マックス・ムインはそう説明する。マックスだけでなく、第9委員会PDIP会派議員マテオス・ポルメスも、インディラとメイロノが嘘をついていると批難する。「わたしは第9委員会で長いが、贈賄がなされたことなど一度もない。」というマテオス議員の言。

パークレーンの会合に出席したPDIP会派のほかの議員に事実を尋ねても、明確な姿は像を結ばない。1千ドル入り封筒を全出席者に分配したと言われているドゥディ・マッムン・ムロッはオフィスにも現れず、携帯電話にも答えない。別のPDIP会派議員ウイリエム・トゥトゥアリマは本紙に対し、インディラとメイロノの談話を掲載するのは止めた方が良い、と忠告した。また別のPDIP会派議員スラタルHWは、電話インタビューを申し込んでコンパス記者だと名乗った途端に電話を切った。
PDIP中央指導部副事務局長プラモノ・アヌンは、インディラとメイロノ、そして国会の全委員会で昔から贈収賄行為が盛んに行なわれていると発言したクイッ・キアンギ指導部議長を召喚してこの事件の黒白をつける、と述べている。


金一封の因果律を見る
プラモノの意見では、たとえインディラとメイロノが銀行界再建庁から1千ドル入り封筒を渡されたとしても、それがニアガ銀行売却プロセスと関係があるのかないのかは不明確だ。国会議員のほとんどが金一封を受け取っているのは本当だ、とかれは認める。
「金一封文化は第9委員会だけじゃなく、どの委員会にもある。だが金一封文化を贈賄と同一視して間違いないのだろうか?もっと検討が必要なのではないか?」国会議員の仕事相手が昔からくれていた金一封は、なんらかの政策を通すことに関連していない場合、それは買収にあたらない、とかれは確信している。
ならば金一封と贈賄との間には距離があることになる。国会第二委員会副議長フェリー・ムルシダン・バルダンは、国会での金一封文化は伝統的なものだと言う。「金一封文化は昔から存在していた。だが立証するのは難しい。しかしそれでさえも、贈賄に該当するとは限らない。」ゴルカル会派のかれはそのように語る。

国会レフォルマシ会派議長アフニ・アフマッも、もし銀行界再建庁からの1千ドル入り封筒が実在していたとしても、それが総額何兆ルピアものニアガ銀行売却プロセスを円滑に遂行させるために渡された金とは信じがたい、と言う。「つりあいが取れていない。ニアガ銀行売却に関する第9委員会の決定を覆すためのものとは到底理解できない。買収金額が10億ルピアだというならまた別だが。1千ドルというその金は、ただ単なる『ゴロニャーゴ行為』というだけのものではないだろうか。」そう冗談めかして語るアフニ議長は、反対にメイロノがこの事件を公にした動機に疑念を覚える。「メイロノの本意は何なんだろう。センセーションを求めているのか?国会に賄賂があるということをわたしは否定しない。徹底的に糾明してもらいたい。しかし賄賂を糾明したいのなら、もっと巨額でもっと効果の高い事件を問題にするべきだろう。未決着のニアガ銀行売却問題から目をそらさせるための騒動でないように願いたいものだ。」アフニはそうコメントする。
第4委員会PDIP会派議員エルウィン・パルデデも同様の批判を語る。「銀行界再建庁の金一封事件を暴き立てたかれらの動機は何なのか?PDIPを一撃し、国会を窮地に追い込むためのアジェンダに過ぎないことをわたしは懸念している。国会の秩序回復はもちろん必要だが、国会をオルバ期のような張子の虎にしてはならない。」エルウィンはそう言う。

他の多くの事件と同じように、ストーリーはともすると発展する。そのせいで政治もドラマと呼ばれるのだ。ドラマの中には、ヒーローになる者、被害者になる者、そして卑怯者や裏切り者も登場する。
インディラとメイロノを支持する者も一部にあるが、それ以外の者はそのシナリオの裏にある政治的動機を疑っている。裏切り者がいる。卑怯者もいて、密かに賛成してはいるものの、政治の場では正義と無縁のことがあふれていることも認識している。ましてや、これには金と権力がからんでいるのだ。
警察は既に事件に着手した。国家警察刑事局はこの事件を、2001年度第20号法令「反汚職法」の違反に当たると断定している。インディラは証人と位置付けられ、メイロノもそれに続くだろう。まだいないのは容疑者本人だ。
「インディラは党の仲間からつまはじきにされ、脅かされている。皮肉なことだ。PDIPは党の新イメージを築き上げるためにインディラの告白を利用するのが当然なはずなのに。」インディラの法律顧問であるバンバン・ウィジョヤントはそう述べている。

この事件はどこへ向かうのだろうか?今はまだはっきりしない。法曹界の手が入ることを、捜査官から裁判所(いったい法廷に上がるかどうかも『神のみぞ知る』なのだが)までの座に居並ぶ役人をそこに加えて金一封贈与の道を長くしているだけにしかならないのではないか、と危惧する向きもある。そしてこの国の法執行の実態は、人も知るとおり、タワルムナワルが当たり前なのだ。法執行当事者でさえもが、和解の功徳を目にするように望むのではなかったろうか。
であるなら、この国が汚職ナンバーワンの烙印を押されることを、ひとは何のために一生懸命否定しているのだろう。
ソース : 2002年10月6日付けコンパス


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『明々白々だが、いかんせん』

金はあらゆるものを買うことができる、と人は言う。金はだれにとっても必要なものだから、みんなはきっと誇張しているにちがいない。PDIP会派国会議員、インディラ・ダマヤンティとメイロノ・スウォンドが示そうとしたのも、きっとそのことだ。銀行界再建庁が行った贈賄に関する思いがけない証言は、ひと騒動引き起こさずにはおかなかった。ふたりは買収されることを好まなかったのだ。
去る6月に国会第9委員会PDIP会派議員と銀行界再建庁が行った会合で配られた1千ドル入り封筒を、実業家でもあるそのふたりの議員は受け取らなかった。同庁が行っているプログラムのブリーフィングと顔合わせを兼ねて銀行界再建庁が催したとされているその会合の中で、買収が行われたとインディラとメイロノは思ったのだ。言うまでもなく、銀行界再建庁はその買収疑惑を否定した。

賄賂くさい話は、国会で決して目新しいものではない。昨年はクリーニングサービス係りが額面1千万ルピアのトラベラーズチェックを見つけて、賄賂騒動が持ち上がった。大蔵省アンサリ・リトガ予算総局長のものであることが明らかになったそのチェックは、PDIP会派のアベルソン・マルレ・シハロホ議員に渡されることになっていた、という話だが、インディラとメイロノのケース同様、アンサリも徹頭徹尾賄賂疑惑を否定し、落としたチェックは自分が国会に提出しようとしていた書類の中に紛れ込んだものだと語った。贈収賄くさい事件がやっかいなのはそこだ。自供が得られない限り、贈収賄の有無を立証するのは難しい。ましてや、3ヶ月前にホテルパークレーンで起こったインディラとメイロノのケースでは、銀行界再建庁とPDIP会派議員との間に何の交渉事も行われていないのだから。
国会での賄賂話や告発には、オルバ期と同質の強い不信が反映されている。オルバ期とレフォルマシ時代とで違いがあるとすれば、分配が均等化され、より広大なチャンスが生じ、そして行為もよりあからさまになったこと。国会の権限がオルバ期に比べて格段に大きくなったということだから、それはそうかもしれない。いまや国会は強力なバーゲニングポジションを手に入れ、議員たちはいっそう猛々しく口うるさい。そしてその利権は行政や立法の関連事項ばかりか、さまざまな公共利益にまで拡大している。たとえば国有事業体の民営移管問題や銀行界再建庁管理下企業の株式売却実施に際して、国会があたかも行政機関であるかのごとく一緒になって売却価格を決めている姿を目にするのも稀ではない。
経済オブザーバー、ファイサル・バスリは、民間5銀行を合併させてプルマタ銀行を誕生させようとしているチームリーダーの申請手続きに大いなる疑念を抱いている。先週火曜日にその合併が承認されたあと、今度は国会の承認が得られる経営者として誰をバックアップするかという問題があがっており、それが次の金儲けネタになっている。政府に小麦粉反ダンピング課税の引き下げを国会が迫った裏には、2億ルピアの贈賄がある、ともファイサルは話す。それは完璧なビジネス問題なのだ。さらに国会がリアウ島嶼部新州成立法案を提出した際にも賄賂の噂が吹きすさんだ。それはまた馬鹿げた話なのだが、リアウ島嶼州政府予算の一部と実業界からの寄付金総額650億ルピアが国会に渡ったというものだった。
もちろん、インディラとメイロノのように、自ら進んで賄賂を認めたものはかつてない。そのふたりは、もう何十年も国会で行われてきた調和を突然乱したのだ。1千ドル入り封筒など渡したこともないと銀行界再建庁が否定しても、不快なにおいは国会の中に広がっていった。ポケットマネーと公称される金一封が国会の中を徘徊するのは、はるか昔から行われていた伝統である。ましてや、金の関わらない国会の会議などひとつもない。一部公的なものもたしかにあるが、非公的なもの、つまり金が渡されることの根拠たる規定が存在しないもののほうがはるかに多い。そしてその非公的なものが相互に賄賂を与え合う習慣に発展するのは、当たり前すぎるほど当たり前なことだったようだ。


レフォルマシが動き始めたとき、オルバ期が遺した破壊レベルはとてもひどいものだと多くの人が認識した。レフォルマシアジェンダが重要なのはそのためであり、レフォルマシから輝かしい新生が期待できるから、というものでは決してない。しかし、われわれ自身もシビルソサエティという名の巨大な実験期に突入しているのだ、ということをだれもが悟っている。
今の国会議員の大半にとって、政党における政治キャリヤーの中に明白な選別や序列は存在しない。はっきりした政治倫理を持つ賢明な新人エリートを形成しうる健全な政治ライフの伝統を生むことを、レフォルマシはまだできないでいる。だから目に映るのはそれ。パーミッシブな姿勢が国会の隅々にまで広がる一方で、単に党の恥をオープンにしたという見解のみでもってインディラとメイロノをこきおろし、ふたりに疑惑を向けた政治家、中でもPDIP党内者、は少なくない。マスメディアがこの事件を問題にし続けた結果、国家警察刑事局がそれを取り上げてインディラを取り調べ、証言を求めた。それとは別にPDIP党中央指導部も、インディラ、メイロノそしてやはり銀行界再建庁に金一封を返した別の二人に対する取り調べを行う、と表明した。
ユニークなのは、国会の他の会派がこの事件にほとんど反応を示さなかったことだ。銀行界再建庁は他の会派とも同じような会合を持った、とインディラは述べている。インディラとメイロノの買収発言については、わずか1千ドルという金額に関連してこの問題を云々するべきではない。国会で飛び交っている賄賂金額は、インディラとメイロノによれば、とても幅広いものらしい。会議や業務訪問における一回百万ルピアというものもあれば、ひとりあたま1千万ルピアというものもある。それらは公的な賄賂であり、ポケットマネーとも呼ばれていて、その金を与える側にとってはコンサルタント料という名目で帳簿に記されるものなのだ。
国会の全委員会が三ヶ月ごとに全大臣と業務会議を行うとしてみよう。さらにそれと同じ時期に、国会が政府の局長レベルや国有事業体あるいは公的機関から事業者協会に至るさまざまな仕事相手と公聴会を開くとしよう。そのほとんどすべての会合に、国会の仕事相手たちが金一封すなわちポケットマネーを用意するのである。

毎年三回ある会期休みの時期に国民の代表者たちが業務訪問を行うと、国会議員のためのポケットマネーは怒涛のごとく流れ込む。「オルバ以来の伝統的政党出身者が訪問をコーディネートすると、ポケットマネーの金額は膨れ上がるのがふつう。それが古いコーディネータたちの地元スポンサー網刈り取り経験の豊富さを立証しているんですよ。」と賄賂をもう三回も突き返しているインディラは語る。
さる国会議員がとあるコングロマリットに電話して「マスメディアにもっと批判を叫ばせてやる。」と脅かしたので、話のよくわかったコングロマリットはその議員の個人口座に銀行送金して議員の攻撃をやわらげた、と当のコングロマリットが物語るのを耳にしたことがある。つまり国会の贈収賄やポケットマネーの話は常識なのだ。問題はどうしてそれがいつまでも続いているのか、ということだ。


国会でのものも含めて、贈収賄事件に法の裁きを加えるための法的ツールは本当はたっぷりある。贈収賄事件を摘発するだけなら、蘭印政庁の遺産である刑法を使うこともできるが、より明確なものをお望みなら、反汚職法にも贈収賄が取り上げられており、懲罰も重い。たとえばインディラのケースでは、警察はすぐに国会第9委員会メンバーのPDIP会派議員を出頭させ、銀行界再建庁長官や関連スタッフを取り調べ、銀行界再建庁と会合を持った他の会派から供述を取り、さらにホテルパークレーン側にも出頭命令を出すことができる。何をするべきかは、国警本部が一番よく知っているはずだ。
しかしこの国では、政治利害の横溢した法プロセスは緩慢に進行する。なぜなら政治の場において、話し合わねばならないこと、駆け引きを必要とすること、などは永久になくならないのであり、政治には結末が存在しないのだから。国民協議会副議長でもある第6委員会メンバーのホリル・ビスリ議員は、そんな現実を十分理解している。「それはアラーのスンナだ。満ちれば溢れる。賄賂も盛んになれば人の耳に入る。国会で現金が飛び交っているという話は前からわたしも耳にしている。政治と法による解決を待とうじゃないか。」かれはそう語る。国会議員の贈収賄行為をすべて暴き、白日の下にさらしてモラルを守護するという役割を果たし続けるよう、かれは国民・NGO・報道界に誘いかける。なぜなら、フェリー・ムルシダン・バルダンが言うように、すでに公然の秘密とはいえ、国会における贈収賄の実証がもっとも困難なのだ。ましてや、もし全委員会が収賄に関わっているのが本当なら。
国会第二委員会メンバーで、国家法律コミッション議長でもあるJEサヘタピ教授は、贈収賄に関与した議員に厳しい法的措置をとることを警察に迫っている。何人の議員が関わっていようがおかまいなしに措置を取れ、と同教授は言う。「将来的に、政党が党員をリクルートするさいの教訓になる。選抜のさいに、モラルと倫理も評価対象に加えなければならない。」
一方、クアディラン党員でレフォルマシ会派のマスハディ議員は別の意見を唱える。明々白々の話になってはいても、国会での贈収賄に対する法執行プロセスの貫徹はむつかしい。贈賄者と収賄者の共同謀議を暴くのは、容易なことではないのである。「相互依存関係が存在している。立法側も行政側も、関係者は一緒になって賄賂の動きを隠蔽する。国会議員がひとりで闘争アジェンダを遂行するのは不可能だ。」かれはそう語る。国会の贈収賄事件の結末を決めるのはPDIPとゴルカルの二大政党の姿勢であり、それは国会名誉審査会編成計画に対しても同様だそうだ。「もし二大政党が拒否すれば、そんなアイデアは永久消滅だ。」先週国会予算委員会を辞任したマスハディ議員の弁。
口先だけで法の優位を唱えているこの国で、近い将来完遂を期待できることなど何一つない。しかし長すぎる現状凍結を演じているだけのエリートたちに、告発の声を浴びせ掛け続けるのは必要なことなのだ。
ソース : 2002年10月6日付けコンパス


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『時間コルプシ』

行政手続きを行う必要があったので、ひとりの市民が午前8時に役所の窓口にやってきた。そこでかれが目にしたのは、事務所内に並んでいるがら空きの机と椅子。行政サービスなど名ばかり、公僕のだれひとり、その職場にはいない。8時半ごろまで待ったがだれも来ないのに業を煮やして、かれは役所敷地内にあるコーヒーワルンに行った。そこでは、4〜5人の公務員がタバコを吸いながら、数十億ルピアの汚職話に花を咲かせていた。
コルプシ(汚職)の話になると、われわれの頭の中には何億ルピアという金額が浮かんでくるのがいまや常識だ。一方、時間コルプシというのは、数限りない件数にのぼる。朝8時に仕事を始めなければならないことになっているが、一時間くらい遅れてもどうってことはない。地位が高くなれば、二時間の遅刻など当たり前のこと。しかしそれは行政サービスを必要としている人に対して、その時間分のサービスを与えていないことを意味している。帰り時間にもそれが行われる。本来なら午後5時に職場を出ることになっているが、その一時間前には職員送迎バスに乗り込んで新聞を読んでいたりする。自分がフルに働けば何人の市民がサービスを受けられるのかということについて、かれらは関心を持っていない。


ちょっと計算してみよう。インドネシアの350万人という公務員が毎日1時間、時間をくすねるとどういうことになるだろうか。インドネシア国民は受けられるべき行政サービスを350万時間横領されている、ということをそれは意味しているのではあるまいか。公務員が年間50週、週5日、一日7時間働いてその報酬たる給与を年間840万ルピア得ているものとして計算すれば、その公務員の時間給は4,800ルピアと計算される。するとインドネシアの全公務員が一日一時間だけ行った時間コルプシで、国民の金160億ルピアが横領されているのだ。朝の一時間だけでそれだ。夕方また一時間それをされたら金額は二倍になるし、そして月給70万ルピアより高い公務員がそれをすれば、コルプシ金額はまた膨らむ。
月1億5千万ルピアというプルタミナ社長の給与を想像してみるが良い。朝10時に出勤してきた場合、コルプシはいくらなのか。講義をするときだけキャンパスにやってくる大学教官の場合はどうだろうか?

不思議なのは、国民が損をしていると思っていないこと。国民は自分の金が蝕まれていることを認識していない。この国が「繁栄沃土」だから一日160億ルピアが失われても笑っていられるのだろうか?一日数十億ドル分の木材が森林から消え失せてもせせら笑っていられるものなのか。借金も山のようにある。われわれが辛抱強い民族に運命付けられてきたのは、実に皮肉なことだ。
大統領選挙第二ラウンドで正副大統領候補者に、それらのことについて尋ねるのは可能だろうか?かれらは何と答えるだろう?紋切り型の答えなら、そりゃ簡単だ。公務員と行政機構に規律を確立させる、というのがきっとその回答だろう。問題は、どのような方法でそれを行うのか、だ。厳格な監視が必要なのだろうか?公務員ひとりひとりにジョブディスクリプションを与えなければならないのか?人員合理化をかれらは受け入れることができるのか?まだ何も起こらないうちから、高位官職者と低級職員との間の給与差比率がはるかに小さい中国と比較して、低給与にその原因を求めるのではあるまいか?われわれが本当に知りたいのは、プラクティカルなことがらだ。一切を巧みに、そして正しくやりおおすにはどうするのか?


さまざまな弱点を前にして本当に必要とされているのは、どのようにトリガーを用意するかということではないのだろうか?小さいステップだがその影響はとても大きい。銃の引き金を引くと、弾丸が標的目指して飛んでいくのはみんな知っている。それがトリガーの働きなのだ。
モー・ヌル東ジャワ州知事が行ったような例もある。かれは村民に、家や庭の周りを囲っている垣根の整理整頓を命じた。それは小さな行動だったが、大きい影響を生んだ。村は秩序立ち、活性化し、村民の勤労意欲が高まった。村の主婦たちは積極的に、自分の庭に付加価値を付けることに努めた。トリガーが必ずしも行動である必要はない。ある文章がトリガーになることもありうる。公務員の時間コルプシによる国民の損失を計算する文章がみんなの意識を覚醒させ、トリガーとなりうることをだれが否定できるだろう。
規律の確立努力においてもトリガーが必要だ。朝礼集会や国家公務員団の誓いといった儀式的なものは、効果がうすいとわたしは思う。それらが意欲を生み出すことはなく、集会が終わり、誓いを唱和したあとは、元の木阿弥だ。将来改革をもたらしてくれると言われているわれわれのリーダーは、「あれっ、いつのまにか規律が高まっている。」と国民が思うような状況にするためのトリガーを創出する能力がなければならない。13ヶ月目の給与がなくとも全公務員が時間コルプシを自ずからやめてしまうようなトリガーを。それが行えるなら、われわれのリーダーはきっととてつもない人物にちがいない。5年後にはまたそのひとを選ぼうではないか。
この国が本当に、整然、安全、平穏、繁栄に満ちた国になりますように。
ソース : 2004年7月17日付けコンパス
ライター: Sjamsoe'oed Sadjad ボゴール農大名誉教授


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『クレプトクラシー』

コルプシ(汚職)に対する戦鼓はもう何回も打ち鳴らされているけれど、コルプシが沈静化したり絶滅したりするどころか、もはや制御しようもないくらい燃え盛っているのがそのなれの果てだ。燃え上がっている領域は現世的エリアのみに限定されず、メッカ巡礼といった来世の範疇にまで拡大している。
コルプシとの闘争に使われた時間や費やされたエネルギーは膨大なものになるというのに、満足できる成果はもたらされていない。「いったい何が間違っているのだろうか?」とわれわれは自問する。戦略か、個人か、それとも政治構造内にある文化なのだろうか?これまでわれわれの努力は、戦略と個人に向けられてきたのだ。
文化に関連付けたとしても、ムフタル・ルビスが1977年に説いたように、それは個人の行為に結び付けられていた。しかし、コルプシ現象とこれまで取られてきたその対策ステップを振り返ってみるなら、われわれの政治構造に張りついている文化がその誤りをもたらしてきたのではないかと思われる。つまり、汚れた壁は上から下へきれいにするのだというたとえが分かりやすいと思うが、中国やベトナムで行われたようなエリート層(まず最初に政治エリート)からターゲットにしていくのである。そして教育プロジェクトを通して全民族の頭を洗脳するのだ。しかし政治構造内にある文化がいつまでもコルプシにチャンスを開いているのであれば、コルプシ行為撲滅運動が成功することはありえない。
われわれの誤りは、われわれが抱えている文化がビューロクラシー(官僚制)でなくクレプトクラシー(泥棒制)を再生し続けている点にあった。具体的に言えば、われわれが意識しないまま、この国はビューロクラートでなくクレプトクラートによって運営されていたということだ。BNI銀行事件やBRI銀行事件など最近インドネシアで起こっている出来事は、銀行破り犯人たちが獲物へのアクセスを持っていたことを示している。官僚機構にアクセスを持たない一般人が、官僚機構自身が統制している経済ソース(金)を蝕んだというニュースを聞いたことがない。


クレプトクラシーという語は、スタニスラフ・アンドレスキーがラテンアメリカでの観測に基づいてその語を考案し、1966年にはじめて紹介した。クレプトクラシーは、罪悪感なしに他人の権利を冒し盗む人間の病的精神に付けられたクレプトマニアという言葉を語幹にしており、アンドレスキーはクレプトクラシーの定義として、その者の役職がそれを行う権利を与えているとの理由で、合法的でないやり方でものを手に入れる権力者のふるまい、と記している。
インドネシアをはじめ多くの発展途上国では、指導者が先進国のミリオネアに匹敵する財産を持っているが、かれらの間の大きな違いは、先進国のミリオネアは三〜四世代かけてそうなったのに対し、発展途上国の指導者は数回の任期、いやそれどころかわずか一回の任期でそうなっている点にある。コルプシはクレプトクラシー権力の心臓部だ。拡大するコルプシは権力自身のネットワークを創造したり、合法性を創出することができ、その合法性を通して政治を秩序付ける。だから、支配体制が国民の服従を買うのに妥当な経済ソースを持つかぎりクレプトクラシーが作った政治秩序は維持され、国民は生活の必要を満たすのが困難なポジションに据え置かれる。経済ソースの利用はクレプトクラシーのバックボーンであり、クレプトクラートが国民に与えるほうびはかれらが盗んだ国民の権利の一千分の一にも満たないことを覚ってはいても、それを拒むのに十分な豊かさを国民が持っていないことが悲劇を生むのである。

どうしてクレプトクラシーがインドネシアに出現したのだろうか?官僚層の文化がそれを可能にしたのだ。神の啓示に関わっていること、分与不能であること(1972年、アンダーソン)、縦割りに構築された官僚構造をメインの基盤にしている生活、などのせいで、権力は個人の私物だということを確信している文化がそれだ。上司が権限を委任するまで、部下は一切、何の権限も持っていない、と考える。
難しいのは、権力私物化を認知している政治文化における神秘性ゆえに、『委任』という言葉がなじまないことなのだ。権限は無償で与えられたりしない。それは賃借されるべきものなのだが、往々にして、その賃借者がだれであるかというモラル的斟酌は度外視される。たとえばシニア歴史家のオン・ホッカムは、マタラムのスルタンが19世紀末にマディウン県令のポストをプラウィラディニンラ2世に1万レアルで売った事実を例にあげている。その人物は叛乱者の子供だったというのに。その人物がその地位にある間、できる限り多くの金を集めようとするだろうことは、容易に想像がつく。少なくとも、そのポストに就くために支出した資金を回収するまでは。
役職売買の別の形は、高官職者がその地位にいる間に行われる、高官の私物競売に見ることができる。その高官より下位にいる官職者たちが、必要でもない、くだらない品物を競って高い値段で買うのである。高官の調子っぱずれの歌声さえ、下位者たちは競って高い金を払う。わずか百ルピアの金しかもらえない路上のプガメンでさえ、もっとマシな歌声を聞かせてくれることと比較して見ればよい。。それらの慣習は、コルプシシステム化のための実に効果的な土壌を形成している。
皮肉なことに、このレフォルマシ時代の中で、わが国はこのクレプトクラシー構造を維持したがっているように見える。もっと皮肉なのは、その構造支持の主流派が自らをレフォルマシ派と称していることだ。数千万ルピアにのぼる国会議員候補者登録フォームの値段がそれを証明している。2004年総選挙で議員候補者になるためのチャロ行為が盛り上がったことは、その総選挙がクレプトクラート階層を誕生させる可能性が高いということの警告でもある。
それは単純なロジックだ。1999年総選挙のとき、チャロ行為は起こらなかったと言える。1999年総選挙で選ばれたひとびとのマジョリティは、高官職者や国民代表者になることについてのわずかな知識を持ち、たいした犠牲は払わず、精神面での準備もそこそこに、あるがままの姿で選ばれたひとたちだ。そして5年を待たずに、かれらの経済状況は激変したことが明らかになった。最初は低階層に属していたかれらが、突然スーパーエリート階級にのしあがったのだ。

今、2004年総選挙を前にして、かれらは小さくない犠牲を強いられている。党寄付金や寄贈などといったどんな名前で飾られようとも、本質は変わらない。人は望む役職を金で贖わなければならないし、委任される権限はただではない。だからわれわれがコルプシ撲滅の必要性を声をからして叫び、腐敗していない、あるいは汚職に関わっていないリーダー(特に正副大統領)を選ぶよう民衆に呼びかけても、われわれはふたたび同じ穴に落ち込んでしまう懸念が強い。
もちろん例外はある。金の唯一の敵はイデオロギーだということが政治史の中で証明されている。山なす札束もイデオロギー者の抱く観念を揺さぶることはない。残念なことに、イデオロギー者の数はここのところ減少の一途で、インドネシアの社会構造や権力構造に対してかれらはたいした役割を演じていない。そのほかにも、政党活動を支えるための確固たる経済ベースを打ち立てることの困難さは、政治ラインの中でよりプラグマチックな姿勢を政党が持つように仕向けている。
政党は反コルプシイデオロギーを足場に据えて立つことができず、国民はますます締め付けの厳しくなった貧窮の中にどっぷり浸っていて、プラグマチックな姿勢にだれもが傾斜しているいま、インドネシアでクレプトクラシー行動を止めさせることができる可能性をわれわれはどれほど持っているのだろうか?われわれの意識を呼び覚ますために熟考するにふさわしいポイントのひとつは、はびこるコルプシのせいでインドネシアの国は滅亡するかもしれないということだ。それはかつてVOCがたどった軌跡そのままなのである。鷲は孤高を飛ぶ。
ソース : 2003年12月12日付けコンパス
ライター: Riswandha Imawan ガジャマダ大学政治社会学教官


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『コルプシ神話』

インドネシアが世界最大腐敗国のひとつとして常連になっているのは、もはや知らぬ人とてないこと。昨年は世界大腐敗国ナンバーファイブという順位がインドネシアに授けられたことをトランスペアレンシーインターナショナルが公表したが、それは前年調査結果の第6位からワンランクアップの躍進だ。そんなレポートに接したわたしたちはきっと、SBY−JK政権百日『ショックセラビー』プログラムの失敗を耳にしたのと同じように、平然としていられるに違いない。
その種のニュースリリースは基本的に、新しいことを何も含んでいない。だれであろうと、どの機関であろうと、必ずやインドネシアにほぼ同じ腐敗インデックスやランキングの評価を与えることだろう。他の機関が行ったリサーチ結果を見れば、それがよくわかる。政治経済リスクコンサルタンシー(PERC)や、国際カントリーリスクガイドインデックス(ICRGI)、あるいは国際コラプションウオッチ(ICW)のような国際機関がきっと同じような結論を表明するに決まっている。インドネシアはこの地球上で最も腐敗した国(のひとつ)である、と。
そのような事実を目にする限り、この国におけるコルプシ撲滅努力は現実のものでなく神話でしかない、と考えてもおかしくないように思える。法曹ツールや反コルプシ機関がますます増えていくにつれて、コルプシ撲滅努力は一層明確な展開点を見出すことになるはずだが、実態はコルプシ病禍が荒れ狂っている。かつては政治エリートだけのものだったコルプシは、いまやほとんどすべてのインドネシア人がありとあらゆる経済ソースに対して、ありとあらゆる形態でコルプシを行っている。インドネシア国民がコルプシを避けるのはあまりにも難しい。この国でコルプシ撲滅が困難なのはどうしてか?

暗黙の了解
コルプシ撲滅が困難なことの要因のひとつは、この民族の集団意識のほぼ全体を動かし、骨格を形作っている、エドワード・シルズが暗黙の了解と呼んだものにコルプシがなってしまったからだ。それが暗黙の了解と呼ばれる理由は、ひとびとがコルプシの存在を言い立てようとせず、それを当然のものとして受け入れているからだが、そこには多義性つまり曖昧さがある。コルプシは悪であると認識している一方で、ひとびとはそれなしで生きることができない。更に、それを行わない人間は異常だと見られる。コルプシは悪の中の正義なのだ。
だからその種の共同認識システムの形成は、通常の科学的メカニズムでは進行せず、神話化の助けを得るという異常な方法で進行する。もちろんコルプシは、神話・伝説・民話などから生まれるものでないが、神話としての働きによって巨大化する。認識プロセスのひとつであるコルプシ意識形成プロセスは、ある時点で民族自我の存在意識に触れて混乱するところの、長期的段階的に行われる文化再生メカニズムの中で進行する。あたかも、コルプシを通してでなければインドネシア国民になる方法はない、という前提が有効なように。
コルプシの存在はもはや単なる薬味でなく、民族生活の重要な柱と化している。腐敗インデックスの低い国ではコルプシ行為が逸脱と見なされるが、この国でコルプシは既にルールになってしまっていると見られている。皮肉であり、かつまたなんと悲しいことだろうか。護身術にたとえれば、コルプシは神通力を持つレベルに達する前提条件なのだ。術が高まれば高まるほど、コルプシのレベルもますます高度なものとなるにちがいない。

神話
その存在が暗黙のうちに真理として信仰され、且つ祝福されることを可能にした四つの神話によって、コルプシはこの国で生まれ、そして成長してきた。その神話とはどのようなものだろうか?
一)正直に生きる者は誰でも、必ず滅亡する。聞く者をぞっとさせる表現であることは言うまでもない。選択せよと言われたら、自分の人生が滅亡するのを望む者はいないに決まっているだろう。ただしそれは、正直さをもてあそぶことのリスクがその代償なのである。滅亡はいやだが、正直でいたいだって?もしそうなら、インドネシアの地から出て行くことだ。ほとんどの人間はこう考えている。国会議員候補者になりたければ、数億ルピア納めなければならない。裁判で勝ちたければ、大金を持っていなければならない。国家公務員になりたければ、贈賄しなければならない。どうやれば正直でいられる、と言うのか?
盗人の国では、正直さは奇妙で、同時に珍しいものだ。正直に生きている者は手に火種を握っているのにほかならない。結果はふたつ。火傷するか、それともそれを投げ捨てて無事でいるか。正直さを維持しようとする者は、腐敗システムに踏み潰されてしまう。だから正直さを保って生きられるなら、それはとてつもない名声となるが、そのような人間が腐敗システムを変えることができる、などと期待してはならない。システムを変えるどころか、腐敗システムに流されないだけたいしたものなのだから。
二)コルプシはアートである。この表現はブンハッタがかつて述べた「コルプシは既にアートとなり、民族文化の一部となった。」という言葉と同じものだ。コルプシがアートだと見なされるとき、正直さの値打ちは芸術的でなく、美しくなく、モノトーンで退屈なものとなる。コルプシとしてのアートは特殊な才能を必要とする。この「ビューティフルにプレーする」技能は特に、ロビイングや司法オーソリティへのアプローチ、中でも秘密を守ることに関わる手法の中に必要とされている。だからインドネシアでコルプシはしばしば、閉鎖的秘密シンジケートを巻き込んで、共同で行われる。なぜなら、シンジケートメンバーのひとりがコルプシの分け前に不満を持てば、かれはゼロサムゲーム(別名tijitibeh ジャワ語のmati siji mati kabeh:ひとりの死は全員の死)戦法を展開することができるためだ。もしそれが起これば、暫く前に西スマトラ州ソロッ県で実際にあったような、シンジケートメンバー全員が法の網にかかるという結果になる。
三)コルプシは頭脳優秀のシンボルである。これは例えば次のようなことだ。行政機構内のある局長の優秀さは次のようなポイントで計られるのが普通だ。(1)国庫からできるだけ多くの金を水漏れさせるために、どこまでその頭のよさを利用する能力を持っているか、(2)年度末に予算の残りを使い果たす能力、(3)架空の予算支払いやプロジェクトのマークアップ、(4)コルプシを円滑に行うための権力リンクの効果的活用。原則的にコルプシは法の盲点が読めなければならず、だから高度な頭のよさを必要とする。大型汚職者のほとんどが、法の裁きの手の届かないところにいる悧巧者たちである、というのは本当だ。予算の残りを消化せず、プロジェクトのマークアップや架空予算作成のできない者は馬鹿だと見なされる。
四)「せっかく」神話。この神話は、高官職者をはじめとして現職の地位にある誰にでも適用することができる。この神話は、手中の権力が失われることに対する過剰な不安によってドライブがかかる。だから、公職者は永遠にその地位に居座ることができないため、役職は自分を豊かにするために最善の活用を求められるひとつのチャンスだと見なされる。今は狂気の時代であり、いっしょになって狂わなければ分け前にありつけない、というジャワのことわざ通りなのだ。

非神話化
完璧なコルプシ撲滅運動とは、上から下まですべてを包括した行動を確実に行うことである。下部レベルでは、選り好みせずに汚職者を捕らえ、相応な法執行を進めるのがコルプシ撲滅の重要なステップだ。しかしこのステップでさえ、上部で同じステップが踏まれないなら、コルプシ文化を殺ぎ落とすことにならないだろう。このレベルでわたしたちはコルプシの非神話化を実現する必要がある。つまり上で述べた四神話に対する反証明を通して、社会に根を張り枝葉を伸ばした暗黙の了解を変化させること。それは、その四神話の残骸の上に正直さの諸価値を優位に置き、清く透明な生活文化を植付かせ、コルプシは不潔、汚辱、醜悪そして宗教で呪われたものであると弁別させる新たな神話を打ち立てることを意味している。
文化運動のひとつであるがために、コルプシ非神話化は短期的なものでは成功しない。このステップは、公的私的教育ルートを通して子供の時期から大人になるまで、国民子弟ひとりひとりに対してできるだけ早期に、継続的連続的に行う以外にありえない。非神話化を通してわたしたちはまた、次のことを考察するべきである。この民族はいつまでコルプシの神通力と効能で生きていくのか、ということを。果たして、クレプトクラシー民族になるまでなのだろうか?
ソース : 2005年3月15日付けコンパス
ライター: Masdar Hilmy  スナンアンペル国立イスラム教学院教官


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『コルプシのために維持される予算外資金』

ニューヨークのWTCツインタワーが崩れ落ち、ワシントンDCにあるペンタゴン、米国国防省建物の一部が破壊されたとき、「ざまあみろ!」と叫んだ一部のインドネシア人がいる。かれらは世界一の超大国アメリカが叩きのめされ、怒り狂い、パニックに陥り、無力感に襲われたのを見て笑ったのだ。インドネシアがここ数年、世界最大腐敗国のひとつに毎年ノミネートされているために世界から笑われているということに、かれら自身が気付いていないにちがいない。「KKNは泥棒行為である」と言明したメガワティ大統領の言葉を、世界はマスメディアを通じて知っている。だからインドネシアには、鶏泥棒から洗濯物マリン、そして果ては兆レベルの盗人まで、膨大な人数の泥棒がいると結論付けられても、気を悪くしてはいけない。
インドネシアがIMFの援助を求めたにもかかわらず、いまだに経済危機から抜け出せないでいるのを見て世界は笑っている。インドネシア民族は自分自身を傷つけ破壊しようとする倒錯した行動を取ろうとするために、経済回復は実現せず、ますます没落の影がインドネシア経済にまとわりついてくるありさまを目にして、かれらは笑う。あたかも合理的な議論と高邁な動機に包まれているように見えながら、愚かな行為を繰り返している民族がこれだ、とインドネシア民族を指差して世界は笑う。

最近では、予算外資金と呼ばれる事件がインドネシア国内を騒がしているのを見て、世界はまたインドネシアを嘲笑している。国内第二の政党党首でもある現国会議長がハビビ大統領政権期の国家官房相に就いていたときに行った、配給事業庁という大金を持つ政府機関、つまり国民生活をよりよくするために政府が作った機関からの4百億ルピアという資金に関わる疑惑事件がそれだ。
インドネシアのコルプシ疑惑に関連する騒ぎを見て、世界は理解を深める。どこの国でも犯罪者は欺瞞を駆使して法の裁きや刑罰を免れようとし、その先は欺瞞の上に別の欺瞞を積み重ねなければならないのだということについて。なぜなら、それが犯罪者の普遍的な反応なのだから。ところが、この予算外資金、つまり政府の金なのに政府が予算の中で管理していない資金、の問題におけるインドネシア政府と国民の軟弱なありさまを見て、世界はまた笑う。予算外資金の存在自体が良い悪いということでなく、その資金の使途に対する責任が問題なのである。アメリカ政府も予算外資金を認めているが、たとえば社会保障のための資金追加というように、1セントにいたるまで責任が問われ、その使途はガラス張りになっている。
インドネシアでは、予算外資金の使途と責任は不明瞭。テンポ誌が先週号に掲載した、配給事業庁が予算外資金を使って振り出した小切手を例に取ってみよう。振り出された小切手は、国もしくは政府のため、としか説明されない。アクバル・タンジュン国会議長はその金が、国民大衆向け社会保全網に流されるのを目的にして、ある財団法人に委ねられたものだと説明したが、その金が貧困大衆に分配されるスンバコ(九品目基幹物資)購入に本当に使われ、さらに購入された物資が社会保全網に本当に流されるかどうかは明確にされない。だれもその責任を負わず、政府も、配給事業庁も、アクバル・タンジュン国家官房相(当時)も全員が、そのことにほとんど関心を持っていないようにしか見えない。資金が本当に社会保全網のために使われるとしてですらそれだ。もしそこに、そうではないという疑惑が持ち込まれるなら、その金はゴルカル政党のために使われるのではないか、という嫌疑が生まれてもおかしくない。それがために各界は、その責任が明確になり、使途が透明になるように、配給事業庁・森林省その他政府機関が持つ予算外資金をすべて政府予算内に組み込むよう迫っている。ところがその要求に対する政治エリート、行政機構、権力の近くにいる国会議員たちからの抵抗はきわめて強い。
緊急事態になっても資金がすぐ流れるよう、予算外資金は維持されなければならない、というのがかれらの理由だが、そのことがらにまつわるきわめて重要な問題は、予算外資金の管理責任をまかせられているのがインドネシア人であり、インドネシア人は腐敗しているために管理上の必要条件を満たしていないということなのである。こうして本来、国民大衆への援助を目的に作られた予算外資金は、ターゲット資金の温存を目的に、汚職者たちが必死になってその維持をはかるものにされている、という印象を拭うことができない。インドネシアが世界最大腐敗国のひとつであることを思えば、その印象はきっとそれほど外れてはいないように思われる。

配給事業庁だけでない
配給事業庁予算外資金は、行政官僚エリート、権力周辺にいる政治エリート、議員になった政治エリートたちのためのストランや搾取の源泉のひとつにすぎない。それはつまりコルプシの源泉であり、メガワティ大統領の言葉に従えば、マリンが狙う源泉だ。石油会社プルタミナや航空会社ガルーダなどの国有事業体も、同じような疑惑が濃厚に感じられる。それらすべては、昔から今まで伝統的に存在している『搾乳牛』と呼ばれるものなのである。
それを示すものとして、プルタミナ高官たちの苦笑いがあげられる。国会議員がKKN撲滅を口実にあれこれ要求するのに対して、かれらは言う。「まるでわれわれは背景を知らないみたいだが、こっちにはかれらが何を本当は要求しているのかということに関するメモや手紙がある。行き着く先は金だよ。」
KKN問題で搾乳牛にされているのは、その二つの会社だけでなく、他の国有事業体も同じだ。だから国有事業体取締役の椅子は高い値がつく。とある多国籍企業の子会社である民間会社を率いているプロの経営者のひとりは、金回りのよい国有事業体の代表取締役の座を、大臣や権力中枢に近い数人の政治エリートからオファーされたと物語る。条件は前金で340億ルピアを納めること。かれの返事は短かった。「申し訳ないが、できません。わたしはプロフェッショナルです。わたしは職業倫理を持っています。しかし340億の金は持っていない。」
その国有事業体代表取締役の椅子には他の人間が就き、そのプロフェッショナルはあるコングロマリットのグループ会社のひとつに移った。その出来事は、オルバ政権が倒れ、ハビビ大統領も交代したあとのこと。1997年経済危機発生後、もっともうかるストラン・搾取・コルプシの源泉が実は存在していた。それはつまり、所有する銀行が中央銀行流動資金援助ローンを返済できない、事業グループのオーナーたちだ。銀行界再建庁が資産を没収したコングロマリットたちは法的制裁の影につきまとわれ、法執行者や治安執行者の捜査におびえた。刑罰を避けるためにかれらがどれだけの金を費やしたか、想像がつこうというものだ。ちょっと追いかけてみるだけでも、バリ銀行事件、BCA銀行株供出に際してのサリム一族拒否、BUN銀行のカハルディン・オンコとレオナルド・タヌブラタ取調べなど、その観点からの疑惑を示すものに事欠かない。
シャフリル博士率いる新生インドネシアの会は、KKNが撲滅されない限り、インドネシアの経済回復はない、と結論付けている。経済回復が第一優先で、KKN撲滅が第二優先などということでなく、KKN撲滅が経済回復の鍵を握っているということなのだ。新生インドネシアの会はそのために、議員・警察組織・検察組織にコルプシ鉱脈争奪をさせないよう明記した決議案をKKN撲滅の傘として国民評議会に提案しており、大型政党会派のいくつかはそれに賛成している、との情報がもたらされている。

空樽
インドネシア民族がこれまで行ってきたコルプシ対策は、よく鳴り響くけれども中味は空っぽの樽を叩いているようなものだ、と言って世界は笑っているようだが、それは当然だ。騒いでいるだけで、結果は何もないのだから。皆無と言って言い過ぎなら、成果は異常なほど小さいと言っておこう。
KKN容疑を受けているスハルト大統領は裁判を受けさせることができないため、有罪にも無罪にもならない。その一族も同じだ。ハビビ大統領も、配給事業庁予算外資金汚職に関わっているとの疑惑を受けているというのに、法廷に引き出すことができない。KKN容疑を受けている、現国会議長で元国家官房相アクバル・タンジュンをはじめとするかつての大臣たちも同じだ。立法や司法の分野にいるエリートたちも同様だ。インドネシアのコルプシ拡大を見るにつけ、KKNを行っていると推測されて嫌疑をかぶっている、行政エリート、議員になっている政治エリート、保安機構エリートたちが、裁かれて有罪となり監獄に入れられるか、それとも無罪となって名誉を回復する、といったことは不可能に思われる。
こうしてKKN容疑や疑惑を受けているひとびとは一生涯、その烙印がインドネシア国民の脳裏に焼き付けられる。そんなひとびとは膨大な人数に達することだろう。それがインドネシア文化における罰ということなのかどうか、はっきりとはわからない。2004年総選挙の中にその徴候が出現するかもしれないが、それも確実とは言えない。インドネシア国民の一部は貧困の中にいて、買収することができるのだから。世界はそんなコルプシを抱えるインドネシアに注目している。世界各国はまた、腐敗したインドネシアの状況を利用して利益を得ることができる。世界市場はインドネシア民族の振る舞いに即した反応を示すことだろう。それがインドネシアの経済や実業界に利益をもたらすとは思えない。
インドネシア民族は、自分が世界最大腐敗国のひとつと世界に見られていることを恥ずかしいと思っているのだろうか?はっきりしたことはわからないが、2001年の今でもインドネシアは世界四大腐敗国のひとつである、というのがそれに対する答えであるにちがいない。インドネシア学専門家で政治オブザーバーでもあるベン・アンダーソンは、「恥よ、永遠なれ!」と述べている。インドネシアには罪悪感が存在せず、あるのは恥の感覚だけだ、ということをかれは物語っているのだ。
ソース : 2001年11月4日付けコンパス
ライター: Salomo Simanungkalit, Indrawan Sasongko


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『昇給とコルプシ』

何十年もかかって政府はやっと、文民・軍人国家公務員給与を妥当なものに修正しようとする勇気を持った。暫く前にSBY大統領が関連経済閣僚にそれを指示したのだ。これまで政府は国家公務員の給与を調整する政治意志を持たず、後進的な状態を維持し続けてきた。実際には巨額の国費が意味のはっきりしないことに浪費されたりコルプシの対象とされてきているわけで、昇給の原資がないわけではないにもかかわらず、政府には金が十分になくそしてより緊急な他の必要性があるという古典的な理由で公務員給与は低レベルに抑えられてきた。政府に金がないという話はイロニーに過ぎないのだ。
比較的小幅の国家公務員給与引き上げですら市井の生活必需品価格の膨張をもたらしてきたため、国家公務員の福祉向上という目的がほとんど達成されたことがないという事実をわれわれは経験している。そういうことだから、単にルピアの数値を追い求めるのでなく、どのように実質収入つまり世の中の購買力を高めるか、というのが重要なのである。国家公務員給与引き上げがもたらすであろう物価高騰を防ぐために政府は、できるかぎり多くの生活必需品在庫を持ち、タイトマネーポリシーを実施し、最初の数ヶ月間ルピア為替レートを強化し、高額所得者の脱税をなくし、大きい所得格差を縮めるために高額所得者の給与を凍結するといった追加措置を取る必要がある。給与レベルがあまりにも遅れてしまっていることを考慮して、昇給はドラスティックにではなく段階的に行われるべきだ。

コルプシはモラル問題であり、恥知らずの汚職者は十分な給与を得ていながら半端じゃない金額のコルプシをやめようとしないから、国家公務員給与の引き上げとコルプシとは関連性がないという意見がある。その反対に、国家公務員給与を適正レベルに引き上げるのはコルプシ撲滅にきわめて重要なことだという意見もある。適正という意味は、学歴・職歴・職位に応じて民間セクターと同列の所得レベルを与えることだ。だったら、どちらを先にしなければならないのだろうか。卵だろうか、鶏だろうか?
先に行われるべきは、国家公務員の昇給だ。糸を直立させるためには、まずロウを塗らなければならない。先進国に例を取るなら、国家公務員給与レベルは民間セクターと同等になっているので、何を食べるか、子供の病気治療や学費をどうまかなおうか、などといったことに煩わされることなく公務員は業務に集中し落ち着いて各人の職務を果たすことができる。反対に低給与の国家公務員が自分に与えられた情況の中で正直に善良に公僕としての勤めを果たすよう期待するのには無理がある。
しかしこれはやっと必要条件を満たすだけのものであり、十分条件はまだ満たされていない。十分条件もそろえてやらなければコルプシ撲滅プログラムは決して成功しないだろう。満たさなければならない十分条件とは法執行であり、このプログラムはその場限りでなく一貫的継続的に行われなければならない。法執行者の給与が妥当なレベルからかけ離れて低いなら、どうして法が正しく執行されうるだろうか?コルプシはもはやあらゆる階層に蔓延している。もしコルプシが自分に不利益をもたらすなら、公務員といえども決してそれを行わないにちがいない。汚職者は決して許さない。過去のあらゆるケースに対しても。コルプシで得た金が国に没収されるなら、コルプシ行為で得られるものは何もない。本人は監獄に入れられ、職場からはクビになるので失業し、そしてもっと重い罰は自分と家族が世間の恥さらしになることだ。

新政府も衝撃を巻き起こしたが、そのひとつがコルプシ撲滅で、政府は大型汚職事件を法廷に持ち込んでショック療法を行った。これははじめての試みだ。コルプシ撲滅には多くの方法があり、どれが絶対というものでもないがもっとも必要とされているのが強力な政治意志であり、それはトップの人間から出てこなければならない。前提条件が満たされていない努力は行き詰まるだろうが、現政権はその前提条件を満たしているように思える。もうひとつの十分条件は、正直で抗コルプシ能力を持つ役職者をあらゆるラインのリーダーの座にすえ、清潔であることをその職に就くための条件にすることだ。清廉な公務員だけがリーダーの座に就けることを人は認識するので、この手段は絶大な武器になる。
誰もが知っている腐敗役職者を清廉な者と交代させることに問題がないわけでもない。清廉な者に指導力があるとは限らないからだ。清廉な者の中から適格者を探し出すのはむつかしい。たとえそうであっても、個々の役職に就いたりプロモートされたりする際には明確な基準が必要とされる。公務員たちはこうして自分を適応させていく。役職者は清廉な人間でなければならないという環境が確立されれば、公務員はみんな高い地位にプロモートされることを願ってクリーンに仕事しようと努力するようになるだろう。

今インドネシア民族が直面しているすべての問題は、低給与と法執行の不在に行き着く。われわれの周囲に起こっているものを見ればよい。KTP手続、土地立ち退き、不法輸出入、森林盗伐、密漁、教員の教科書販売、海外出稼ぎ者に対する出発時のたかりと帰国時の強奪。正義でさえ値付けされて売買される。法規も同じように違背され、それに値段が付けられる。公務員の職務要綱にうたわれている「民族進歩と社会繁栄のため」に働く公務員は少ししかいない。一方でそれぞれが、自分はどうすれば金持ちになれるか、そしてもっと金持ちになれるか、ということばかり考えている。役職を買うことができたなら、その投資のリターンを求めてかれはより多くの金を手に入れようとする。法執行者の収入が十分とは決して言えないものであるなら、大型汚職者をどうやって捕らえることができるだろう?
コルプシ撲滅は、新しいアンチコルプシ機関を作るだけでは不十分だ。必要なのは既存機関の業績を高めることであり、できるだけ関係機関の数は縮小するべきである。それらの機関の職員給与が適正でないなら、コルプシ監視職務をかれらが最善に行なえるはずがない。自分の権利になっていない贈与や褒賞を一切受け取らないと表明する役職宣誓は忠実に実行され、それどころか誇りにされなければならない。公務員給与が適正であるからそれが実施できるのだ。
段階的な昇給がスピードアップされることを見返りとして政府は公務員ひとりひとりとの間にコルプシを減らし最終的には絶滅させるという内容の社会契約を結ばなければならない。腐敗役人は排除し、法に訴える。より高い給与の代償に、国家公務員はもっと長時間、もっと一生懸命働くことを義務付けられる。たとえば週42時間以上働き、土曜日も勤務するというように。
ソース : 2005年5月16日付けコンパス
ライター: Lepi T Tarmidi インドネシア大学経済学部教授


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『汚職はいっそう激しく』

入れ替わり立ちかわり襲い掛かるさまざまな問題に押し潰されかかっているインドネシア民族を神はたいそう憐れんだ、と言う。経済問題から政治問題にエスカレートし、更には社会問題にまで至り、そしてその三者はたがいにもつれあい、手を取り合って、まるで終わりがない。皮肉なことに、政治エリートたちは権力をどのように分け合うかを考えるのに没頭し、危機から脱け出すためのセラピーや方法を競って探すことはしない。

そして神は、インドネシア民族が何を欲しているのかを尋ねるために天使を遣わした。「さあ、願いなさい。神はみなさんをたいそう憐れんでいらっしゃるので、きっとお聞き届け下さるにちがいありません。」インドネシア民族の代表者たちに天使はそう言った。
若者のひとりは、「神がわれわれに安全感を与えたまうように。」と述べた。「バッチリですよ。」と天使は言う。「インドネシアの経済政治危機が消滅するよう、神にお願いします。」とひとりの老婦人。「神はそれもお聞き届けになるでしょう。」と天使が答える。「わたしはただ、麻薬の流通や使用をなくしてくれるよう全能の神にお願いします。」とひとりの婦人。「問題ありません。神はきっとこたえてくれます。」天使の確信に満ちた言葉。
リサーチの仕事が終わった天使はその場を立ち去りかかった。すると思いがけず、ウスタズのひとりが大声で叫んだ。「天使よ、神にお伝え願いたい。わたしは先ほどから出されているお願いに関心はない。わたしの願いはたったひとつだけ。この国の汚職犯罪行為を神が消滅させてくださることだ。わが民族が抱える問題の端から端までがそれに関わっているのだから。」ウスタズのその弁に天使はしばし沈黙した。目には涙が浮かび、悲哀が全身を包んでいる。「実に、実にわたしは、みなさんの民族を可哀想に思います。その最後の願いを神は決して叶えてくださらないでしょう。汚職という要素はみなさんの民族にとって基本の一部をなすものなので、それほど重要な民族のアイデンティティを取り去ることを神は決してお望みになりません。」


事実とシンボル
実に心の痛むジョークだが、われわれにそれを否定することはできない。それは事実なのであり、同時にわが民族の倫理道徳イメージがいかに暗いものであるかを象徴するシンボルでもある。問題はKKN行為が日々ますます激しさを増しているということなのだ。トランスペアレンシー・インターナショナルはわが民族を、地上で四番目に腐敗した民族に位置付けている。恥ずかしさにうつむいてしか道を歩けないような民族のアイデンティティではないか。

政治という文脈の中では、ここ三年間の政治ジャングル騒動はKKN問題に煽られ通しだった。スハルトはKKNのゆえに悲劇的失墜に見舞われた。ハビビがそのあとを継いだが、やはりKKN問題のために権力を手放さざるをえなかった。KKN撲滅に関する国民協議会決議第XI号を真剣に遂行しなかったと評価した国民協議会は、ハビビの業績責任演説を否認した。ハビビに代わって舞台に上がったグスドゥルは、どよめく政治紛争を収拾できるだろうと期待されたが、かれにとって不運なことに、グスドゥルも不名誉な形で政権の座から下ろされた。グスドゥルの辞任も汚職イシューで突き崩されたものだ。グスドゥルは議会の釈明要請状と第一次第二次国会メモランダムを生んだブロッゲート、ブルネイゲートで揺さぶられ、国民協議会特別総会で大統領の職をおわれた。

インドネシア民族にとってKKN行為は実に、昔から行われていたと言うことができる。たとえばスカルノ政権期、ブンハッタは「汚職は民族文化である」との叫びを上げた。まして1950年代には、政府が汚職問題を取扱う特別チームを編成している。屍衣用カファン布スキャンダルで、スカルノ期の宗教省が腐敗官庁のひとつだったことは周知のものとなった。当時死者の身体を包むカファン布は輸入しなければならなかったため、その輸入に当たって宗教省が大きい権限をふるったのだ。
スカルノ期の汚職行為はもちろん、その後継者の時代ほどひどくはなかった。というのは、汚職の対象となる資源が限られていたことに加えて、検察官、警察官、裁判官などが構成するわが国の法執行機能がまだまだ高潔な機関として存在していたためだ。かれらはプロフェッショナルな公僕だったため、汚職者たちは容易に法廷に引きずり出されることができた。ルスラン・アブドゥルガニ外相すら、法令で定められた上限を超えて現金を国外に持ち出したというだけで処罰された。
当時の警察官、検察官、裁判官、弁護士は自分の職業上のアイデンティティに誇りを持っており、かれらの職業倫理は厳しく守られていた。たとえば弁護士が検察官や裁判官と親しくするのになんら問題はなかったが、法廷外でかれらが訴訟の話をするのは恥ずべきこととされた。ほかにも、当時の大衆には、民族のキャラクター作りというテーマが生活上のオリエンテーションとして優勢だった。民族キャラクターと倫理問題の文化的社会的キャンペーンに国家指導者や政治エリートが欠席したことはない。だから大衆も、民族のキャラクターや倫理といった価値観を卑しめるすべての行為に対する警戒心を持って生きていた。その結果、汚職を行えば、人は大きな恥辱や恥ずかしさの感情から逃れることができなかった。

スカルノに代わってスハルトが登場した。スハルトのお得意芸である物理的な開発は、あらゆるものが数量ではかられる形のオリエンテーションをもたらした。生活上のパラダイムにもたちまち根本的な変化がもたらされた。享楽的な生活パターンがあたかも義務のようにされた。暮らしの中で量的に大きいと言える一連の所有物があってはじめて、ひとは国民として認められたと感じた。ひとの自己尊重心は、何を持っているかということで測られがちとなり、個人の社会ステータスはあからさまに、何を持っているかで決められた。たとえばビルをいくつ建てた、道路を何キロ建設したというように、成功の規準が数量で測ることをもっぱらにする開発オリエンテーションにおける論理的帰結がそれだ。そこから得られる結果はあたかも、個々人が何かを所有するためには競争しなければならないというものであり、物質的所有が不足すれば、ひとは疎外を感じた。だから社会的合法性を手に入れ、それを維持するためにあらゆる手段が使われた。スハルト治世はスハルトが厳格にコントロールする権力パターンによって呼吸する独裁政権スタイルであったことから、状況はいっそう激化した。報道はかせをはめられ、国会は去勢され、NGOは沈黙させられ、知識人と芸術家は操られる、というのがスハルト政権の特徴となった結果、汚職行為はそれを妨げることのできる勢力が存在しないために、やむこともなく、ますます拡大した。
汚職行為に対して焦点が当たると、それは開発への威嚇であり、つまり国家転覆を意味するものだとスハルトがたいていレッテルを貼った。スハルト支配下に続けられた汚職行為は、ロベルト・クリッゴールがM+D−A=Cという公式で表したものそのままだ。Mは独占、Dは権限、Aは責任を指している。つまりC(汚職)とは、独占に強大な権限が加えられ、そこから透明さと責任が失われたことの結果だというのだ。

だからスハルト時代を通して汚職行為消滅努力が常に不可能事であったことは、なんら不思議なものではない。それに関して言えば、スハルトは汚職を取扱う特別チームを5回も編成しているが、そのどれひとつとして、汚職行為をストップさせうると思われるなんらかの成果を出したものはない。問題はただひとつ、汚職を撲滅しようというスハルトの決意が一度もなかったからだ。自分の権力行為に対するパブリックの注目やプレッシャーが先鋭化すると、スハルトはその種のチームを編成した。したがって反汚職チームは、単なる商売物キャンデー以外のなにものでもなかったのだ。

わたしが引退現役の検察官や警察官に対して行った調査は、旺盛な汚職行為の発生がビューロクラシーからの障害のせいであることを物語っている。憲法に従って取調や捜査を行わなければならない法執行者はいつも、分厚いビューロクラシーの壁に直面した。スハルト政権構造の中では、軍事機関は単に上位にあるというだけでなく、アンタッチャブルな機関だった。軍人に対する捜査は、あらゆる方面でかならず暗礁に乗り上げた。そして皮肉なことに、中央から郡部にいたる当時の行政高官のほとんどが軍出身者だった。
二つ目、汚職者を引きずり出そうとして、法執行官は常に銀行の守秘という障害に直面した。容疑者の悪事を解明するために迅速な行動が不可欠な法執行官にとって、銀行の守秘の壁は情報アクセスが閉ざされていることと同義だった。
三つ目、法違反者、特にホワイトカラー犯罪者が使う通信と交通面での最先端テクノロジーは、法執行官の使うテクノロジーとたいへんな格差があった。犯罪者は通信スーパーテクノロジーを使うが、国は在来テクノロジーに依存するばかり。
最後に、わが民族の法執行官のメンタリティは単に高潔さや正直さといった問題ではなく、精神的に腐っている。だが、わが民族の役人たちのメンタリティは植民地被支配者根性なのだ。位階の低い捜査官は、自分の位階より上位にある高官を取調べるとき、精神的な窮屈さから逃れられないのだ。

いまやわれわれは、もはや抑圧しようのない報道の自由を持つ民主主義を手に入れた。われわれには、行政府の統御ができる立法府がある。しかし汚職行為は依然として拡大の一途だ。このように、報道の自由や立法府の活性化が汚職行為の消滅を保証するものではないのである。それどころか、汚職行為はいまや行政から立法へと蔓延している。立法機関の権限、特に地方部のそれは、その機関に対して権力を悪用する権限を与えている。
いまわれわれが直面している別の汚職パターンは、スハルト政権時代には見られなかった州知事選挙や県令選挙のたびに行われるマネーポリティクス・ゲームである。メガワティ・スカルノプトリ政権にとってそれは厳しいチャレンジとなる。疑問は、その問題に対する壮麗な解決をメガワティが行えるのだろうか、ということだ。そのためにメガワティ政府は「汚職は恥ずかしいことだ」というキャンペーンを真剣に行わなければならない。そしてまた、メガワティ政府は汚職に対して、法執行を最優先しなければならない。いまこの民族を圧迫している全問題の端から端までが汚職行為に関連しているのだ。汚職が不確定性を生み、不確定性が信用喪失を招いている。

メガワティ政権百日プログラムのために、大統領は中銀流動資金援助ローンと金融界再建庁の事件解決に照準を合わせるべきであるように思う。そこから始めなければ、メガワティ政権は汚職問題で辞任した四つ目のインドネシア政府となり得るのだ。さもなければ独立50年を超えたインドネシアでわが民族は、恥ずかしさにうつむいて道を歩かなければならない。
そんなことになれば、威厳とキャラクターを有する民族作りというブンカルノの夢と闘争は裏切られた、と解釈されうるだろう。皮肉なのは、裏切った人間が自分自身の娘ンバ・メガだということだ。ウスタズたちは、「親不孝は神に許されない罪だ。」と言う。ンバ・メガ、あなた次第なのだ。
ソース : 2001年8月16日付けコンパス
ライター: Hamid Awaludin 法曹オブザーバー、総選挙委員会メンバー


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『デモクラシー対汚職拡散』

いまこのデモクラシーを目指す移行期に、インドネシア・コラプション・ウオッチのテテン・マスドゥキは、政治汚職パターンに顕著な変化が起こっていると指摘する。地方自治の推進につれて中央集権パラダイムが地方分権へと移行している現在、汚職パターンもまるでそれに並行して進行しているそうだ。言い換えるなら、汚職の分権化が起こっている。かつて政治汚職が大統領宮殿や国家宮殿周辺に集中していたのに対し、いま権力センターの拡散につれてKKNパターンも拡散しつつある。
これは多分、現在進行中のデモクラシー化プロセスにとっての暫定的帰結なのだろう。移行期に出現するさまざまなファクターとは別に、チェック&バランス機能はまだ十分働かず、KKN行為が活発化するにまかせている。それがきわめて皮肉なことであるのは言うまでもなく、将来にもっと悪化するであろう可能性を警戒し、またそれに備えるために、注目されてしかるべきことなのだ。

そうではあっても、社会大衆がデモクラシーの将来を悲観視しないよう、その現象は注意深く分析されなければならない。中央でのKKN行為がいまだに数多く見られるのに加えて地方でも同じようになってきているいま、悲観論者は自分の正しさをいっそう強く感じている。デモクラシー悲観論者はたいてい、リー・クアンユーが述べた「不効率」がもたらされる可能性の高いことに言及する。
デモクラシーは、経済発展や政府運営向上を約束するものではない。なぜならデモクラシーは、実に共通善を目指す意志と真剣さに依存しているためである。だからデモクラシーへの歩みは、より善で、統御され、公共利益を優先させる状況に向かうよう常にガードされなければならない。
悲観論者は、汚職拡散現象を内包するデモクラシープロセスを、デモクラシーそれ自体としてでなく、デモクラシー推進者の準備不足問題のひとつと見ている。問題はデモクラシープロセスを最適化しなければならないことであり、それは、デモクラシー最適化が期待される共通善に向けて状況を逆転させることができるためだ。現実相におけるデモクラシー最適化はKKNを目立ってレベルダウンさせ得ると信じられている。それはチェック&バランスとパブリックコントロールが最適に機能するとき起こり得る。

マネーポリティクス
中央でも地方でも一番目立つ政治汚職のひとつは、マネーポリティクス行為に関わるものだ。移行期においてマネーポリティクスはとても魅力的な誘惑である。地方自治の時代であるこの移行期に、特に地方でマネーポリティクスが盛んなのはどうしてか?二つの現象がその問題の理解を助けてくれる。

ひとつはしっかりと身に着いたオルデバル文化の遺産である過去の政治文化の存在であり、過去の政治文化をわれわれの政治エリートたちは完全に捨て去ることなく口をつぐんでいる。現在にいたるまで政治エリートや社会大衆が持っている政治文化について、「ひとは代われど文化は変わらず」だ、という意見はよく理解できる。むかしのメンタリティとパターンは依然として支配的であり、この文脈におけるマネーポリティクスは、過去の政治スタイルつまり政治テロ、パトロン政治、政治封建主義などといった過去の政治文化ストック中の「ワンノブゼム」にすぎない。
昔から首長選挙が行われるたびに、村レベルでさえマネーポリティクスが盛んだったのは公然の秘密であり、ましてや郡、県、州レベルにおいてはなおさらのことだった。
かつては第一党が国家権力に支えられて自由に行動し、マネーポリティクス行為は簡単に隠蔽された。しかしいま、政治舞台上のプレーヤーははるかに雑多になっており、さまざまな利害が出現している。政治謀略を行う側にいる国の役割自体もいっそう縮小し、新しい政治エリートは昔に比べてずっと大きいポーションが与えられている。だが残念なことに、健全なデモクラシー路線上の歩みが最適化されていないために、その「ずっと大きいポーション」はマネーポリティクスビールスに容易に蝕まれている。

もうひとつは従来の閉鎖的(集権的)なものから開放的(多元的)になった政治風土の変化に対して、政治行動における成熟度のバランスがとれていないことだ。デモクラシーに向かう政治移行プロセス進行初期の問題がそれなのだ。デモクラシーの意義とイメージをおとしめるマネーポリティクスのような誘惑がどんなにたくさんあることか。政治エリートたちがマネーポリティクスの泥沼に落ち込んだなら、選挙民大衆の熱望をかれらが闘い取ってくれるなどと期待してはならない。なぜか?なぜなら政治エリートたちは、かれらに金を与えてくれる者の利益と契約してしまっているのだから。特定政治意図のための贈収賄当事者は双方とも同じ評価、つまり腐敗政治行動ならびにデモクラシーを病ませることに共同で貢献したということを理解するべきだ。地方におけるマネーポリティクスという文脈においてはきわめて懸念される状況にあるため、地方自治がそのような副作用を生まないよう、予見的ステップが踏まれる必要がある。
そんなステップに導く主要な鍵のひとつは、デモクラシーに対する正しい姿勢と理解であり、そのために、カリスマや人気者を推し立てようとする傾向を持つ政治ファナティズムでなく、合理的客観的ポリシーや姿勢を前面に据えるような政治教育プロセスがメインに行われなければならない。

地方自治 = デモクラシー
地方自治時代はすぐにはじまる。人々、特に地元政治エリートは、地方における社会政治ダイナミズムにとってとても顕著な役割を演じることになる。地方自治は多くの益をもたらし、あらゆるクライシスからの復興を助けると信じられているチョイスであり、だから社会大衆と政治エリート層は建設的にそのロジックをサポートしなければならない。

地元の社会大衆と政治エリートは、1999年第22号法令と第25号法令の遂行である地方自治の実施につれて、各地方におけるデモクラシー化の中で健全に政治プロセスを推進できるようになる。言い換えるなら、地方の社会大衆と政治エリートは、健全で民主的な社会政治変革を発生させる主導権をにぎるようになる。レフォルマシの進展につれて各地方で発展するデモクラシーは、ポジティブな見解において、地方自治プロジェクトが正しく実施されるとき、いっそう高いクオリティを持つようになる。

デモクラシーのスタイルバリエーションは各地に出現するだろう。地元大衆がどれだけ賢明に、成熟したありかたで、デモクラシーを理解し、姿勢を示しているか、ということをそれは現実に見せてくれる。もっと広い範囲においては、各地方の体験は開発とデモクラシーのクオリティに対して教訓を与え得るものだ。各地方の政治ダイナミズム上の体験は、デモクラシーパイオニア問題、支配的政治疾病の出現、社会大衆の政治行動成熟度、出現する政治文化変革プロセスの詳細などについての記録となりうるものだ。
デモクラシーパイオニアは、社会(文民社会)のあらゆる階層や政治エリート層から出現してくることが可能だ。このパイオニアたちは、規範的フェーズ(政治倫理)に密接に関連するものにせよ、ポジティブフェーズ(チャック&バランスメカニズム)のものにせよ、デモクラシー原理をたえず強調する。
地方レベルのさまざまなデモクラシープロセス体験からも、出現し発展する支配的政治疾病を記録することができる。「マネーポリティクス」が多分その筆頭インディケーターだろうし、それはいまでも大量発生している。マネーポリティクス以外で比較的目にしやすい疾病は政治倫理に関わるものだ。政治エリートには、政治とモラルの統合を示すことがいっそう要求されるようになるのは明白だ。

健全な変革
地方におけるデモクラシーパイオニアの成育が、政治疾病の完全消滅と自動的に対応しているわけではない。問題は、デモクラシーを阻害しうることがらがいかにしてミニマイズされうるか、ということだ。政治文化の変革プロセスと呼んでいるものがそれにあたる。その変革とは、デモクラシー文脈の中での政治行動における理想善に向かう継続的プロセスを意味している。
そのプロセスは全社会政治構成者に指示される必要があり、同時にリスクは長期にわたって継続され得る。しかし実際にその政治文化変革プロセスは、全関係者が進行中のデモクラシー化プロセスに対して建設的な支持を与え、成熟した姿勢を持つことができるとき、スピードアップが可能となる。

地方デモクラシー化という文脈における健全な政治変革問題の中で注意されるべき三つのポイントがある。
まず地元にある政治資源のクオリティを整備すること。地元政治家のクオリティはまず第一に教育能力がチェックされる。良い教育能力に欠ける政治は、成育中のデモクラシー化プロセスにとってブーメランとなりうるのだ。アイデアやコンセプトのクオリティに深く関わっている教育とは別に、インフラ面での能力に関係する技術的クオリティも向上させる必要がある。
二つ目は、合理的客観的政治パラダイムを目指すため、政治教育をサポートするプロセスも必要とされる。政治エリート層は実際、政治教育の努め(およびもっと重要な責任)を果たすための機会をより多く持っている。かれらには、カリスマ的ファナティズムパラダイムよりも合理的客観的パラダイムをいかに建設的に打ち出すかについての手本を示す能力がある。一方草の根層も、エリートレベルにいるひとびとにそれを迫るためのチャンスを同じように持っている。
三つ目として、最適に機能するパブリック統制力を試された政治エリートたちが持たねばならない正直さに関わる問題がある。政治エリートの正直さは、エリートが示し得る業績と能力に合わせてパブリックが常に統御する。大衆は、政治行動の中で個人やグループの利益をわたくしした政治エリートの倫理面を監視し、統御し、評価する。大衆が沈黙するとき、統御機能は死滅し、政治エリートたちの不正直さを修正させ得る者はいなくなる。それゆえに、大衆は常にもの言わなければならないのである。

それら三つのポイントは、策謀的で腐敗した政治運営からクリーンで民主的なものへという政治文化変革を推進するための効果的な原動力となり得ることが期待されている。それゆえに、地方自治時代におけるデモクラシー操作の不安はミニマイズされ得るのである。そして全関係者が真摯に共通善を目指すとき、デモクラシーの将来に不安を抱く必要はなくなるのだ。
ソース : 2001年10月25日付けコンパス
ライター: M Alfan Alfian M インドネシア大学政治学修士課程学生、KATALIS財団およびACGコンサルティンググループ研究員


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『メガワティ時代における汚職の行方』

ブログ・ブルネイ汚職事件関与への批難に始まる反合憲という評価のゆえにアブドゥラフマン・ワヒッに対するインピーチメントで生まれたメガワティ・スカルノプトリ政府は、政治倫理上、汚職撲滅を尊重する清潔な政府を顕示しなければならない。


しかし、状況はグスドゥルのときよりもっと保守的になるだろうと多くの人が怪しみ、推測している。故最高検察庁長官バハルデイン・ロパの正義の剣におそれをなして萎縮していたいくつかの名前が、「災難はもう終わりだ。」との思いを秘めて笑みを振りまきはじめたとの話しだが、そんな異常な予言はでんぐり返ってもらいたいものだ。
最初からわれわれは悟っている。グスドゥルのときも、BJハビビのときもそうであったように、メガワティ政府も過去の巨大汚職事件のすべてを法廷に突き出してくれるというような過度の期待を持つのは無理だということを。メガワティも、汚職撲滅を将来に伸ばすことで、政治経済の実態を掌握し権力の座を揺さぶる力を持っている旧勢力と衝突するリスクを避ける方向の、政治的に安全な道を選ぶだろう。グスドゥルの苦い経験を手本として、レフォルマシ大衆の要求に従うよりは、自分を大統領の玉座に担ぎ上げてくれた政治連合の調和を維持することに努めるだろう。


民主的汚職
ましてや、政治上の借りを清算するというなれあいの結果形成された内閣なら、プロフェッショナリズム、インテグリティ、大衆へのアクセシビリティなどといった前提条件は忘れ去られるかもしれない。汚職、人権侵害、政治犯罪などの問題に染まった過去の人物が内閣を彩るなら、メガワティの正直な法の確立努力に対して明確な政治的障害となるだろう。ゴルカルや軍の出身者が最高検察庁長官の職を得るなら、もうそれは言うまでもないことだ。政治連合のおかげということを忘れる必要はないが、メガワティは組閣に際して高いインテグリティを設定する政治権力をみずから持っているはずだ。
これまでしばしば表明されている不安は、PDIPの要人の多くが、今や汚職裁判の渦中にいるオルバ期に育ったコングロマリットとビジネス上のつながりをもっているというところから来ている。この不安は縁故主義的資本主義を肯定するという意味で根拠がないとは言えないのだ。つまり、ビジネスでの政治パトロン関係は政界上層部の汚職を形成し、撲滅は極めて困難になるからだ。しかし、大統領宮周辺が汚職の巣になるということは、それ以外の政治経済権力の中心でも同じ事が起こりうる。なぜなら、スハルト独裁政権が倒れて以来、大統領宮周辺の寡占権力者に集中していた汚職が、実際の政治構造ヒエラルキーに従って分配された政治経済権力の支流を握るすべての者へと拡散され、独裁的汚職が民主的汚職へと変質したように思えるからだ。
要するに、政党の主要資金源が党員からではなく、実業家、クロニー、政治官僚あるいは国営企業から流された金などからである限り、我が祖国に政治汚職は繁栄し続けるだろう。だから、競合するすべての政治勢力は望むと望まざるとに関わらず、オルバ期に育った旧勢力とパトロン関係を樹立し、政府が変るたびに、総選挙で負けたとしても野党にはなりたがらず、閣僚ポストを求めて交渉し競い合うのである。
PDIP内部にも下部機構に問題がある。地方首長選挙でマネーポリティクスに巻き込まれたケースが起っているが、党指導部からの明確な措置はまだ見られない。地方の建設プロジェクトに貢献したと考える政党人のブローカー行為も、類似の政治犯罪が繰り返されないとは保証しえない。南アフリカでの解決に学ぶなら、和解の方法は国民コンセンサスの醸成の他に、まず法治を確立させて今後新たな政治問題が起らないようにしなければならない。そして選択は二つ用意されるべきで、監獄へ入るかそれとも罪を認めて収奪した民衆の金を返すかというものだ。警察が、検察が、そして裁判官が金で買える限り、だれが敢えて恥をさらそうとするものか。


政治コミットメント
汚職撲滅には上からの強い政治コミットメントと模範が必要だ。フィリピンのアロヨ大統領が行なったようにゼロコラプションを宣言し、行政に携わるすべてのポジションの者に、自分にもその家族にも、政党の仲間にも、特別な恩典やビジネス上の便宜を受けないことを全国民に向かって公約することだ。このような反汚職宣言は、リー・クアンユーが政権に就いた1970年代に行い、成功している。システム化した汚職の撲滅が短期間に行なえないのは判っている。あらゆる分野にわたって国民に確信を持たせ、国民行動計画を作成して、長期的プログラムを推進しなければならない。グスドゥル期にいくつかの戦略的ステップが踏まれた。計画はハビビ期に始まっていたが、国政要職者資産調査委員会、オンブズマン委員会、汚職撲滅合同チーム、反対証明原理の訂正、汚職撲滅委員会法案、マネーロンダリング禁止法案などがグスドゥル政権下に具体化した。
汚職犯や人権侵害者との政治和解理論がメガワティの(あるいは大統領が誰であっても)2004年までの権力維持の最善の方策だとは、わたしは信じていない。最初和解的だったグスドゥルでさえ結局大統領の座から落とされたことがそれを証明している。かれは自分の戦略の誤りに気付いて、その最後が近付いた頃には正義の剣を振るいはじめたのだが。もしメガワティが汚職者に厳しい政策を取ったなら、連合体に緊張を生み、汚れたオルバ勢力から合法的に圧力を受ける可能性は高い。しかし、政府がKKNを排除し、合憲的であろうとするなら、インピーチメントの前例が繰り返されることはないとわたしは確信する。
皮肉なことに、今のようなデモクラシー機関の社会責任の低さとエリート偏重の政治ビヘイビヤの中で、大衆の持つ政治パワーは計算に入れられていない。言うなれば、支配者が怖れているのは、この国で主権を持っている一般大衆ではなく、議会とマスコミというデモクラシー機関を押さえている政治エリートの方なのだ。だが、忘れてはならない。イデオロギー戦争時代が終わって、権力を誇っていた世界の支配者の多くが崩壊したのは、行政内の大黒柱が汚職のために腐ってしまったためだということを。
ソース : 2001年8月8日付けコンパス
ライター: Teten Masduki   Indonesia Corruption Watch コーデイネータ


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『汚職と文化』

ある民法ラジオ局が最近、とある地方の首長選挙におけるマネーポリティクス問題を取り上げた。関係者と思われるひとりは気楽に物語った。「駐車番でさえ報酬をもらっている。ほかの人間を首長や副首長の座にあげてやる人間に、まさか何の報酬もないなんて。」そしてかれは、前渡金がいくらで、そのふたりがパブリック審査に通ったらいくらもらえるのかを、ためらいもなく語った。実に悠然たるスタイルで。
役職に関連するマネーポリティクス問題に首をかしげるには及ばない。われらが先人は、一見ふざけているようで、実は深刻な詩を作っている。

カナリア鳥がふんぞり返る     畑の真中でふんぞり返る
略奪する度胸がないのなら     フルバランになるには不適格
(訳注:hulubalangとはもともと地方の守備隊長として中央から派遣され、土着化して武力を背景に統治権まで掌握した者のことで、この論説では専制的支配者を意味している。)

つまりフルバランになろうとする者には、奪う度胸が必要とされている。略奪するのがフルバランの地位に就くためであるのは言うまでもない。そして容易に推測できるように、その地位を維持するためにかれは永遠に略奪し続けなければならない。略奪されるのは誰か?最初は民衆であり、そしてその地位に就いたらそのあとは、国家の富国民の富が略奪の対象になることも容易に推測できる。
ジャワ島北東海岸部知事ニコラス・エンゲルハルトが書いた1805年4月15日の回想録を読んで、不審に思うには及ばない。「スラバヤの昔」の著者ドゥクッ・イマム・ウィドドが物語るように、エンゲルハルトが大金持ちになったのは役職を欲しがるプリブミが差し出した賄賂のおかげだ。役職を欲しがるプリブミは、自分が望む役職のレベルに相応する金銭、品物、奉仕などさまざまな形態のみつぎ物をエンゲルハルトに届けたのだ。ひとつの役職を数人が希望した場合、かれは全員からみつぎ物を受け取った。その役職に就くのに一番ふさわしい者を決めるにあたっては、みつぎ物の一番大きかった者を選ぶだけ。
ストーリーは同じ。贈賄するのにそのプリブミは、まず民衆の金を取り上げなければならなかった。そしてその役職を手に入れれば、こんどは国の金、国民の金を取り上げる。役職はこうして、大多数者の有用性のための付託でもなく、また献身を誇るためのものでもなくなる。役職は金銭と同義語であり、それゆえに金銭で買わなければならないのだ。

やはり、とある正副地方首長選挙の際のおもしろい出来事だ。そのとき、カリスマ的な著名人で、また人々がかれの言葉をしばしば指針として取り上げている名士が登場した。かれは精力的に、ビルンがその地方の首長にならなければならない、と表明してまわった。大衆もビルンが必ず選ばれるだろう、と予想した。だって、きわめてカリスマ的な著名人がかれを支持しているではないか。こうして選挙は行われ、ビルンは落選した。ビルンは金をたくさん注ぎ込んだのに、という噂が聞こえてきた。ところが、ビルンがどんなに金を注ぎ込もうが、対抗馬はもっと巨額の資金源を持っていたので勝ちようがなかった、という話が聞こえてきた。カリスマ名士のカリスマも、金の前には顔色がなかったわけだ。

名士たち
高官、指導者、あるいは地位のあるどのような名前のものであれ、それになろうとする者は名士なのである。いや少なくとも、自分は名士だと思っている。1980年代以降何が起こったかを見るがよい。実に多くの伝記が出版された。伝記が出版されるのにふさわしい人というのは、もちろん名士なのだ。ところがよくよく見てみると、伝記を出版した人たちの中にはそれほど有名でない人も混じっている。名が知られているとはいっても、伝記を本にして書店で販売しようというには、あまり目立たない狭いサークルの中でだけ。
おのずから疑問が湧いてくる。ひとつ、伝記作成のために他人を雇うような人たちはきっと名士であり、その人物像は広い世間の手本とされるにふさわしい、というものなのか?ふたつ、その人々は自分が名士だと思っているだけではないのか?名士としての度合いは、自分や本質的にだれを代表しているというものでもない自分の周囲の狭いサークルの好みで測られる。こうして似非名士が生まれる。

集団深層意識
興味をひくに違いない1998年5月の出来事がある。誰かに動かされたわけでもないのに、スラバヤのとある大学キャンパス大広場に、短時間に、計画もされず、数百人の学生が自発的に集まった。そしてMenanam Jagungを唄いながら一斉にキャンパスを徒歩で巡り始めた。その歌詞も知らず知らずのうちに、当時のオルデバル政権に反対する内容のものに変えられていった。
そのような自然発生的運動がどうして起こったのか?ほかでもない、それこそが集団深層意識と呼ばれるものだ。広い社会の一部を構成する学生たちは、本当はオルデバル政府を好んでいないということをもう何年もの間意識しなかった。その深層意識が培養の頂点に達したとき、怒りのトーンを帯びた自然発生的運動が爆発したのだ。レフォルマシ時代に起こったのがそれであり、共通の深層意識が社会を一体化させるように動かしたのである。
レフォルマシプロセスの中で発生したものの中に、大勢の小粒名士の誕生がある。小粒名士たちの登場は突然起こったのでなく、名士や似非名士が人を雇って伝記を書かせた1980年代初期にその萌芽が始まっている。

だからその後多くの影の薄い政党が出現してきたのを不審に思うには及ばない。それらの政党は言うまでもなく、自分を名士だと思っている人が率いている。かれらの行動の理由はさまざまで、たとえば、「国の崩壊に心を痛めているので」「やむにやまれぬ奉仕への衝動」「党を通じて民族再建を」などの理想主義。もちろん本当にそうなのかもしれない。だがもしも、かれら名士や似非名士が自分を名士と思われたくてしているのではない、と言うのなら、インドネシア再建のための道はほかにもたくさんある。

笑うカナリヤ鳥文化
たくさんの大統領候補者出現ということの萌芽は、実は1980年代初期以来の自分を名士だと思う人だらけというインドネシアの環境の中にあった。たくさんの大統領候補者出現は、多くの政党出現の延長線上のことだ。すべてが関連し、たがいに関係を持っている。
さまざまな理想主義的理由で多くの政党が出現したように、大勢の大統領候補者の登場も理想主義的理由をベースにしている。しかし別の現象もあるだろう。自分が望んで出馬したのでなく、ほかの人々から懇請されたために自分は大統領選に出たのだ、と本人はそう思っている。他人が懇請したのは、もちろんわたしにその能力があると見たからだ。自分にその能力が備わっているという確信から、大勢の大統領候補者が登場してきたのだ。

われらの最初の文学者で、シンガポールやマレーシア、はてはブルネイでさえかれを最初の文学者だと主張しているアブドゥラ・ビンアブドゥルカディル・ムンシの風刺はどうだろうか。自分の仕事は民衆を搾取すること、という当時の王にかれは批判を投げつけている。さまざまなコラプション、中でも激しい苛斂誅求を王たちは気楽に行っていた。
アブドゥラ・ビンアブドゥルカディル・ムンシの表明は文化問題にほかならない。権力は民の繁栄のためでなく、その権力自体、そして自分の富のためだった。ニコラス・エンゲルハルトが記したような役職を得るためのみつぎ物は文化問題にほかならず、そして笑うカナリヤ鳥も同じようにそれなのである。

果てしない道
小説「果てしない道」の中でモフタル・ルビスは、インドネシア独立戦争初期のジャカルタのようすを物語っている。当時のひとびとはみな、新たな環境風土を創造する力もなく、そのときの状況に流されていた。いまのわれわれも流れにさらわれている。だからコラプションはますます果てしないのだ、とひとは言う。役職とは、もっともコラプションを行いやすい温床だ、ともひとは言う。

アーネスト・ヘミングウエイの小説「陽はまた昇る」を見るがよい。第一次世界大戦は西洋世界を、モラルと精神の破滅の淵へと追い込んだ。当時の状況がそれほど暗澹たるものだったために、翌朝太陽はもう昇ってこないように思われた。しかし結局、壊滅的混乱状態の中にもオプティミズムは出現した。陽はまた昇る。どうあろうと、太陽はまた昇ってくるのだ。同じように、「果てしない道」のあらゆる腐敗に対しても。
道の果てをわれわれが見出すのはいつなのだろうか?そしてまた、フレッシュな太陽がふたたび昇ってくるのはいつなのだろうか?
ソース : 2003年9月3日付けコンパス
ライター: Budi Darma  文学者


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『コラプターになった夢を見た』

最近は、マスメディア、セミナー、討論会、記者会見、トークショー、井戸端会議やらワルンの四方山話で、KKNの話題が喧喧諤諤。国会による汚職撲滅コミッションメンバー選出もにぎやかに報道されている。コラプションの手口が多様化しているいま、そんなコミッションは効果的なのだろうか、とわたしは思う。ましてや崩壊したモラルやメンタリティに関することがらが汚職撲滅コミッションの基本職務と機能の中に含められていないとくれば。つまり木にたとえて言うなら、根が腐っているせいであっても傷んだ葉だけを汚職撲滅コミッションは取り扱うということなのだ。根を処置してやらなければ傷んだ葉はあとからあとから出てくる。根を治療してやり、もしも治しようがないというならその木を処分してしまうといったことは、同コミッションの領域外のことなのである。

激しいKKNトピックスとの対決の中で、わたしは夢を見た。夢の中でわたしはコラプタ−になった。もっとも汚いのから最先端に至るまで、あらゆる手口のコラプションを縦横に操るコラプタ−に。そしてわたしは大金持ちになった。そうやって手に入れた富がどれほど巨額なものか、だれにも想像がつかないだろう。あらゆるものが金で買える。法でさえも。だからあるパーティーで酔っ払ったとき、わたしはつぶやいていた。『ご主人様はわたしだ。わたしが法だ。インドネシア最高のリッチマンはこのわたしだ。』


夢はいつも乱れる。コラプションを行うときのわたしは時に応じて、権力者、ビジネスマン、下級公務員、コングロマリット、駐車番など、権力を持つあらゆるものになる。権力はコラプションの元手なのだ。ビジネスマンのわたしはあらゆる間隙を悪用する。いちばん単純で簡単なのは、政府調達の際の納入業者になることだ。政府は物品やサービスを必要としており、毎年巨額の予算が購入にあてられる。だから自分が率いる省庁の物品サービス調達権限を持っている高官と共謀するのだ。価格を数層倍に引き上げておき、上乗せ分をその高官と山分けする。成果は悪くないが、それを行っている者はとても多いので競争がきつい。
コンセプトはとても簡単だが、わたしはもう自分ではやらない。いまではわたしは、大卒があたりまえの高官たちの相手をするのに恥ずかしくない幹部をたくさん抱えている。かれらが高官たちに徹底的なサービスをする。高官の妻子にサービスし、ショッピングに連れ出して金は全部払ってやる。それどころか幹部たちは、高官の家庭に入り込んで使用人の役割まで果たす。
そんなビジネススタイルの元手は破廉恥、奴隷根性、そしてしげしげと道化を演じながら何日も腰掛仕事に耐えること。わたしの使用人たちが行うこのビジネスは果てしなく続く。わたし自身はもっと先端的なコンセプト変革と創造の中で自分を向上させる。

どの時代にも、わたしはさまざまな形態のKKNチャンスを見出した。1960年代以降わたしはいろいろなやり方を行った。そのすべては夢の中で行ったのだが、そのときわたしの見た夢は自分がコングロマリットになった夢だった。「わたしはコングロマリットになった夢を見た」と題する小冊子に集めたさまざまな論説の中に、いろいろな手口が示されている。(訳注:第171回「復活の夢を見た」をご参照下さい)


夢の中のわたしはいまや、ぶらぶらしているだけで大もうけ。政府は輸出を増やしたい。輸出活動にさえ使われればよいという条件で、政府は年利12%という安いクレジットを用意した。そのときの定期預金金利は年率22%。わたしは説得力ある輸出プランを添えて輸出クレジットを申請した。フィーシビリティスタディは外国コンサルタントに英語で書かせた。われらが高官たちは、外国から来たもので英語で書かれていれば、何であろうと、より正しくより優れていると考える。会計報告書も同じで、わたしは世界のビッグファイブに入る会計士事務所に監査させ、英語で作らせた。
クレジットの金はすぐに下りた。必要なだけの賄賂を使ったのは言うまでもない。輸出も行った。ただ、わたしが輸出したのは、ぼろぎれ、雑巾、衣料品の製造で出たはぎれなど。輸出先はわたしが所有するシンガポールの会社。届いたらそんなものはすぐに捨てさせた。だから実際の輸出の中で、輸出クレジットは一銭も使われていない。それでも輸出書類には何の不備もない。
金利12%のクレジットをわたしは金利22%の定期預金に入れた。わたしが得たクレジットの総額は5千億ルピア。一年後にわたしの手に入ったネット収入は935億ルピア。つまり5千億の22%から15%の税金を差し引いた残りがそれだ。一方国営銀行に支払わなければならない12%のクレジット金利は6百億ルピアになる。こうしてわたしは、何もしないのに335億をもうけることができた。
ものすごかったのは、その事実が明るみに出て、マスメディアで報道されたとき。中央銀行は、誰も損していない、と表明した。なぜならわたしは、クレジットを期限通り返済したから。かれらが決めた年間12%のクレジット金利も期限通りに支払った。ヒッヒッ、かれらは輸出ドライブの目的が達成されたかどうかなど、気にもかけていない。かれらが自分自身を愚弄し、収賄を行ってテボトル(teh botol = tebotol = teknokrat bodoh dan tolol)と化しているのは明白だ。そんなことを続けながら、わたしは事業家たちの協会で仲間たちと賄賂反対キャンペーンを行った。マスメディアは批評もしないでそれを大々的に報道した。なぜなら、パブリックリレーションという名のソフィスティケートされたわたしの買収術はそうとうに高度なものなのだから。


陸運分野でインドネシアはとても遅れている。実際にハイウエーやフリーウエーは存在しない。ジャワ島横断街道を造ったのがダンデルスであったことを思い出してみよう。独立して58年、われわれはもっとも人口稠密な島にハイウエーを通す力もない。国家会計はいまや破産状態だ。会計予算という意味において政府は金を持っていないが、しかし国営銀行には金がうなっている。

わたしは自己所有の民間有料道路建設許可を与えてくれるよう希望した。必要資金が巨額であることは言うまでもない。必要性に応じた贈賄で、わたしはその道路建設に必要な資金を百パーセント手に入れた。8千億ルピアだ。借入れ資金8千億ルピアで道路ができた。開通すると、道路利用者は使用料を現金で払う。その収入の40%はわたしに、60%は借入れ元利返済にと分けられた。つまり何の元手もなかったのに、道路建設が終わったとたん、現金がわたしのふところに流れ込むようになったのだ。
借入れ元本とその金利も、現金の道路使用料収入から即返済が始められた。わたしは借入れ返済計画を15年と組んだ。そして15年後にはその道路を政府に寄贈すると発表した。わたしはなんと天才的ではないか!?いや、違う。官僚上層部のみんなが、わたしの言うようなテボトルではなかった。そんなことはすべて政府が自分で行えることをかれらは知っていたのだ。しかしわたしは買収に加えて、有料道路が必要なこと、政府に金がないこと、そして中でも重要な、有料道路のようなものであっても物の所有に政府が加わるべきでないというイデオロギーに関わるようなものまで、ありとあらゆる議論をふっかけた。すべてを市場メカニズムにゆだねるというモダン思想派の構想がこれだ、と吹聴した。かれらや大衆はその理論に食いついてきた。
それがさして新しい理論でもなかったため、わたしは腹を抱えて笑った。市場メカニズムの機能や、それを統制するインビジブルハンドの存在を発見したのはアダム・スミスだ。しかしそれは大昔に時代遅れになっている。かれがそれを著したのは1776年。真髄はいまでもあてはまるとはいえ、公共物ではなく競合させられるべき非基幹的な雑貨類に対してだ。有料道路は自然的独占という面を持っている。特定場所での有料道路スペースはひとつしかないのだから。なぜわたしに許可が与えられたのか?なぜならわたしが買収したからだ。しかし正当化のための諸議論は実に熱狂的に呑み込んでくれた。なぜなら当時権力の座にいたのがテボトルだったのだから。


その有料道路に関するアイデアと平行して、わたしはあちこちの摩天楼を買った。国営銀行のビルを百パーセントその銀行の金でわたしは買った。その国営銀行からわたしはまず融資を受けた。そしてそのビルを買った。ビルのオーナーがわたしになったので、国営銀行はわたしに家賃を払わなければならなくなった。その家賃をわたしは、借入れ元本と年賦金の形の金利返済に充てた。年賦金の金額はわたしが受け取る家賃と同額にした。こうして数年後、その巨大なビルは完全にわたしのものになった。以後わたしは、借入れを完済しているので家賃収入の全額を享受することができた。
わたしがそのようなことをしたのは、ひとつのビルだけではない。だからわたしの収入がどれほど膨大であるか想像できるだろうか?銀行経営者がまさかそれほど愚かだろうか、だって?たしかにそうだ。だが、愚かになったのだ。わたしの頭脳明晰なことに加えて、わたしと共謀することで巨額の金を手に入れたために。


インドネシアは発展し、生命保険会社を含む多くの保険会社が誕生した。被保険者が死亡すると、相続者が巨額の保険金を入手する。わたしは実在しない人間を創出した。つまり遠隔地に住む虚構の被保険者を創作したのだ。保険料を何回か納めてから、わたしはその実在しない被保険者の死亡に関するアスパル書類を捏造した。(訳注:アスパルとはasli tapi palsuの意味で、オリジナルの紙や印章が使われているが、作成台帳に登録されていないもの。費用は作成者が着服する。)保険金受取人はみんなわたしの手の者だ。
保険会社破りの方法はほかにもある。調査が行われないようにするために、会社内部の人間をこの陰謀の中に加えなければならない。それでたいてい、保険会社の純資産はマイナスになっている。
贋札に関する話題がかまびすしくなったとき、新聞に名前が出たようなある一グループだけがそれを行っているのではなかった。わたしもそれをやった。わたしの贋札は、流通させなかったから、だれにも見つかっていない。それは資金繰り保全用のミニマムストックとして金庫に寝ているだけなのである。その目的でわたしは贋札を作ったのだ。
その金をわたしは常用資金と交換したが、現実には銀行もミニマムストックが必要なため、市場には流されていない。公認会計士が監査を行い、紙幣番号を記録してその特定番号の札がずっと寝たままになっているかどうかを監視でもしないかぎり、絶対わかることはないだろうし、また会計士がそんな考えをもつこともない。

わたしは夢の中でもっといろいろなことをしでかしている。こんどは次の夢の中でそれをお話ししよう。
ソース : 2004年1月28日付けコンパス
ライター: Kwik Kian Gie 国家開発企画担当国務大臣兼国家開発企画庁長官


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『贈与と贈賄の違い 〜 ギフト文化からエクスチェンジ文化へ』

町役場で金を渡すのはありきたりの行為。交通警官に金を渡すのは?それも同じこと。いまやそのようなことは日常茶飯事なのだと誰もが見なしている。賄賂は当たり前のことで、容認できることであり、そしてまたそれは文化の一部なのだ、とインドネシア人は考えているのだろうか?インドネシアに与えられている世界最腐敗国のひとつという位置付けは、そのせいなのだろうか?

大多数のインドネシア人は、賄賂や汚職が容認し得ないものである、と見なしている。コラプションに対する見解に関してパートナーシップフォーガバナンスリフォームがポストスハルト時代に始めて行ったサーベイの結果がそれだった。そのサーベイは2001年はじめに14州で2千3百人の回答者を対象に行われたものであり、公職者、事業家、家庭人の7割がコラプションは撲滅されるべき病患であるという意見を表明したそのサーベイ結果を見る限り、清潔な社会を望む国民の胸をなでおろさせてくれる内容であることは疑いもない。コラプションは自然なものであり、日常生活の一部分をなしており、非難されるにはあたらないものだ、という考えを持っているひとは、公職者の2.3%、事業家の4%、家庭人の3.2%しかいなかった。

しかし喜ぶのはまだ早い。そんなコラプションについての見解とは裏腹に、自分の確信に相応しい行動を取らない人がたくさんいることも、そのサーベイ結果は示しているのだ。コラプションが発生する状況如何で、常に原則に従って行動するわけではない回答者の姿が見えてくる。たとえば町役場での賄賂という状況に対して、61.9%のひとがそれをノーマルだと見なし、37.4%がノーマルなことではないと考えるが、それを行っているひとは75.1%もおり、行わないひとは24.2%しかいない。
「わたしにはたいへん奇妙なこととしか思えない。そのサーベイでは75%ものひとが汚職や賄賂は撲滅されるべき病だと表明しているのに、51%以上のひとが汚職にどう対処したらよいのか、また賄賂をどのように拒否すればよいのかわからず、そしてもっとひどいことには、それが正しいことではないと認識していながら一部のひとは賄賂を受け取ろうとする。つまり原則と行動が食い違っているということだ。そのサーベイ結果が示しているのは、賄賂は文化的に受け入れられない現象であることをみんな知っているというのに、ひとびとは依然としてそれを行っているということなのだ。」7月中旬にバリのデンパサルで開かれたシンポジウムで経済専門家ペーテル・フェルヘーゼンはそうスピーチした。


『賄賂とギフト、エクスチェンジ文化に向かって』と題する講演内容をマーリー・コウとTSリムの協力を得て準備したフェルヘーゼンは、その不一致を文化的視点から分析した。かれはギフトと賄賂を比較したのである。
文化人類学者ブロニスラウ・マリノフスキーはトロブリアン社会のギフト文化を調査したひとりだが、ギフト文化への考察はフランスの人類学者マルセル・モースが半世紀以上も前に行っている。
モースにせよ他の専門家にせよ、ギフト贈与には社交の要素が存在していると述べている。モースは更に、ギフト贈与には授与〜受領〜返礼の三連構造が存在しているとも言う。互恵要因はギフト行為から分離できない一部分をなしており、人類学者メアリー・ダグラスが結論付けたように、結び付きを高めないギフト贈与は矛盾なのである。
互恵あるいは返礼義務を伴う社交上の表現形態をなしているということに加えて、ギフトメカニズムは金額換算を欲しない、曖昧な価値を有している、とフェルヘーゼンは言う。あるギフト贈与が金銭的な評価を持つやいなや、それは本来的な社交価値を失い、勘定可能な金額による市場エクスチェンジと化す、というのだ。
あからさまな金銭的価値のニュアンスを帯びていないとはいえ、ギフトは返礼義務を包含している。ギフトが社交上の結び付きという要素を持たないなら、それは単なる物々交換となる。それが契約上の合意に変身すれば、ギフト自体が消滅する。
「社交上の結び付きが利益の結び付きに変化する中で、ギフトは隠蔽されたギフトとして登場し得る。だから、贈賄は社交上のつながりのためのギフトというよりむしろ、契約に基づく市場エクスチェンジとなる。あなたが町役場や警官に贈賄するとき、それは社交上のつながりを形成するためのものではないはずだ。」フェルヘーゼンはそう語る。

贈賄は実際のところ、しばしばギフト贈与儀式を使って行われる。それは言うまでもなく、社交と言う性質を利用して非合法性を覆い隠すための文化要素にされているのだ。贈賄とはある見返りのための支払い、もしくは支払いの約束であり、これは市場エクスチェンジなのである。普通その支払いは権力を持つ人間(往々にして高官職者)に対して、公的な職務あるいは責任に違背することを見返りに求めて行われる。
ギフトと贈賄には共通点がある、とフェルヘーゼンは言う。そのいずれもが、信頼・評判・返礼義務をベースにしており、それどころかコラプション自体が信頼に基づいて行われている、とかれは言うのだ。「あなたが贈賄しようとしている相手があなたの望むものを与えてくれるかどうか信じられないなら、あなたはその者にはたして贈賄するだろうか?」そうフェルヘーゼンは語る。
ギフトと贈賄の違いは明白だ。ギフトは社交関係を形成するために贈与されるが、贈賄は支払いの一種であるために、そこに存在するのはビジネス関係しかない。インドネシアに住んで5年になる、ベルギーのリューベン大学に所属するフェルヘーゼンは、インドネシア人、中でも用心深いジャワ人の贈与儀式とかれらの文化的特徴がコラプタ−によって利用され、賄賂を拒むことが困難な状況を作り出している、という見解を抱いている。


ヌーナンが行った研究によれば、賄賂はユニバーサルな排斥対象であり、すべての文化がそれを共同体にとって危険なものだと見なしている。インドネシア人の四分の三は、賄賂と汚職が撲滅されなければならない病だという意見を持っているので、インドネシア文化は決してそれから逸脱したものではない。しかしどうして、確信している原則と行動の間に不一致が起こるのだろうか?
用心深いインドネシア人(特にジャワ人)の文化的特徴が役割を担っているのではないか、とフェルヘーゼンは考える。「感情表出が許されていないかれらは、用心深いために、賄賂をもらっても黙っているだけ。腐敗したコラプターたちはそんな性格を利用している。」
インドネシア、中でも伝統的ジャワは、ギフト文化パラダイムからビジネス志向の隠れたエクスチェンジ文化パラダイムへの移行期にある、とフェルヘーゼンは見ている。社会慣習の個人主義化、昔からの効率的制度不在などの要因が、ギフトを市場エクスチェンジに移行させている。

公的機関における汚職の低さに関わっている要因を序列すると、規則遵守がやっと三番目に出てくる。クオリティの高い経営実施はきわめて意味のあることだ。透明さは賄賂に対する有効なツールなのである。
回答者たちは効率とコラプションの間に関係があると見ている、とサーベイ結果を示しながらフェルヘーゼンは言う。警察・裁判所・検察は不能率で腐敗しているカテゴリーに入れられている。一方、モスク・教会・寺院は正直さと世評に優れたカテゴリーに区分されている。この評価は回答者がどのように認識しているかを集計したものだが、郵便局やテルコムのような正直さと能率に関して声望ある機関が存在しているという事実は、われわれをほっとさせてくれることがらでもある。それはつまり、すべてのインドネシア人が人格分裂を起こしているわけではない、という希望を与えてくれるものだからだ。原則と行動が一致しているインドネシア人が存在しているのだ。願わくば、インドネシア人のマジョリティが一貫した人格を保持し、人格分裂を起していない者であってくれれば言うことはないのだが・・・
ソース : 2002年7月31日付けコンパス


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『最適コルプシ状態』

いかなる見地から見ようがコルプシは悪だ。しかしコルプシ撲滅は遅々として捗らない。政治コミットメントの不足や法執行と監視の弱さから文化的要因までさまざまな理由があげられているが、あまり語られていない別の理由がある。われらのコルプシが既に最適レベルに達しているというのがそれだ。
経済理論に従えば、ある変数が最適レベルに達したとき、それより上になっても下になってもロスが生じるという結果がもたらされる。生産理論において、最適生産レベルとは最大の利益をあげるものだ。生産がそのレベルから下がれば利益は低下するし、反対に増えても利益は下がる。最適コルプシとはつまり、コルプシがそれより増加すれば経済遂行者にとってはすべてが悪化するのだが、コルプシが減少しても経済は障害を蒙るということなのである。銘すべきは、経済面で最適であってもそれが社会的政治的に最適であるとは限らないことである。それどころか、経済面においてさえ最適状態が望ましい状態であるとも限らない。コルプシを最適レベルにする原因として三つの可能性がある。

第一の議論としては、ビジネス活動を経済の車輪に喩えるなら、コルプシは単なる障害というだけではなく車輪にとっての潤滑油ともなりうるというものだ。発展途上国や先進国の多くは許認可行政手続に長い日数を必要とする。特に既存のインセンティブ構造が公務員に手続を早めるための効果的ハードワークを行う十分なモチベーションを用意していない場合はそうだ。事業家は公務員に贈賄して許認可交付プロセスを早めることができる。法とモラルの面からそれが間違った行為であることは言うまでもない。しかし別のパースペクティブからは、贈賄は基本的に公務員の動きを早めて行政の緩慢さを克服するエキストラインセンティブとして機能する。別の例は政府が独占する物品や公共サービスを手に入れるための公定料金だ。われわれは往々にして公定料金より高く支払うことを強いられる。しかしもし公務員が闇市場にその物品を横流しした場合、われわれはその物品やサービスを公定料金より安く入手することができることもある。その不良公務員は全売上を自分の懐に入れるにちがいない。国は収入を失い、国民は公定料金より安く支出するため最終的に国から国民への利益移転が起こる。そうではあっても、経済の車輪が回転するのでトータル的には純利益が発生する。
二つ目の議論は、コルプシが効率的事業家選別メカニズムになりうることを物語る。たとえば公務員が事業家から不法徴収金を取ったとしよう。その「税金」を納めた事業家は恩典や特別待遇といった報酬を手に入れる。ここに事業家がふたりいたとする。ひとりは効率的で儲けの多い者、もうひとりは非効率的で儲けの少ない者。いったいそのどちらが不法徴収金を納めようとするだろうか?われわれは、非効率的事業家のほうが利益が増えるための恩典をもらえることを期待して不法徴収金を渡すだろうと考える。問題は、非効率的事業家のほうにその不法徴収金を納める経済能力があるかどうかだ。それが常にあるかどうかは保証の限りでない。一方効率的事業家は儲けが大きいためにたいてい十分な経済能力を持っている。かれらはコンペティターより有利になることを考慮して不法徴収金を納める。この場合、コルプシは効率的事業家をそうでない事業家から分離する選別メカニズムとなる。言い換えればコルプシは、非効率的事業家を市場から蹴飛ばす見えざる足なのだ。
三つ目の議論では、コルプシは経済を損なうものであるがコルプシ撲滅費用がその撲滅で得られる利益より大きくなるという内容が語られる。長期的には競争がコルプシを消滅させる。ノーベル経済賞を獲得したゲーリー・ベッカーによれば、経済パフォーマー間の市場競争や利益グループ間の政治競争がレントシーカーのコストを引き上げる結果、支持を得るためには公共利益にもっとも即した政策が最善の戦略となる。この意見は経験的にサポートされ得るものだ。ふたつの例がある。1950年代以降にタイで起こったレントシーカー間の競争は競争力ある産業構造を作り出した。発展する産業界にコンペティターが参入するのを政治パトロンもクライエントも個人としてそれを阻むことができなかった。2002年にインドネシア政府は未回収中銀流動資金援助ローン債務者に対する返済時期延期を取りやめた。既に完済した債務者がその延期計画に抗議したためだ。

最適とはいえ、コルプシは善であり放置しておけばよいというものではない。コルプシ撲滅を成功させるためにはコルプシが最適化しないようインセンティブ構造や制度を変更する必要があることを上の最適コルプシ仮説は物語っている。潤滑油議論は、第一の病がコルプシでないであろうことを示唆している。コルプシは非能率で鈍重な行政疾患の症状にすぎない。われわれはコルプシを撲滅したいが、非能率問題が解決されないならコルプシに対する需要も無くなることはあるまい。選抜メカニズム議論は、市場や政府がそれを行うのに失敗したときコルプシは効率的事業家を選別するためのインフォーマルメカニズムとなることを示している。コルプシの消滅はパレート式後退となる。政策的パースペクティブにおいて効率的な者をそうでない者から分離するための別のメカニズムを求めることがコルプシ撲滅に続いて行われなければならない。最後に政治競争理論はコルプシを行うためのインセンティブとコルプシが起こるのを放置する政治インセンティブを低下させることの重要性を強調している。給与、重い刑罰、厳重な監視などをわれわれは挙げることができるが、すべてはポリティカルウイル次第なのだ。寡頭政治や小さい政治競争レベルの中では、コルプシは長寿を保つだろう。政治的観念における市場が競合的になれば、全政治家が個人や所属集団の利益を志向したとしても他者がより大きいレントを得ないようにひとりひとりが相互監視を行うだろう。もしそれらのことが行われるなら、コルプシ最適ポイントは現状からゼロポイントに移行するか、あるいは少なくとももっと容認できるレベルに低下するにちがいない。
ソース : 2006年10月19日付けコンパス紙
ライター: Ari A Perdana インドネシア大学経済学部教官、CSIS分析員