[ 暴力劇場 ]


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『インドネシアにおける暴力」認識論』

レフォルマシ以後のインドネシアにおける社会政治状況は、政治行為におけるたいへん顕著な二つの現象、つまり一方では自由、もう一方では暴力というものに象徴されている。そのふたつが従前からのふたつの社会政治現象に対する直接的な反作用であったことは、ほんのわずかな想像力ですぐ理解することができる。

文民による好き放題を指向する現在の自由は、多分オルバ期の国家的抑圧に対する復讐としての反作用だろうが、さまざまな社会集団間でのホリゾンタルな暴力は、国家が社会に向けたバーティカルな暴力への反作用にちがいない。スハルト政権期に広範な人権違反を伴う異常な政治抑圧を経験した三つの軍事作戦地区は、分離主義の要求を伴う反作用をもたらした。東ティモールは既に分離に成功し、一方アチェとパプア(イリアンジャヤ)もそれを要求している。統一のための暴力は、分離のための暴力で即座に報復されるのだ。
政治の作用反作用は物理学のそれとは当然異なる。とはいえ、オルバ期以来今日にいたる暴力拡大は、一種の暴力メカニズム法則にコントロールされたある種の暴力メカニクスがわれらの社会に存在していることを個々の観察者に確信させるものだ。社会学的に言うなら、この暴力は現代インドネシアの社会生活と文化の諸分野に隠された深層構造を有しており、そしてさまざまに異なる表現の中に出現するが、基本的にはほぼ同じ深層構造をそこに隠しているのである。


政治という分野でわれわれは、われらが政治家たちの仕事振りを目にしている。どうやらここでもう一度述べておく必要があるようだが、「働く」ということはいつも、仕事を始めるまでは見えなかったディテールと取り組み、ディテールの錯綜に直面することを意味している。人が働くことに対する熱意のものさしは、ディテールに関心を持つこと、およびそのディテールを組み立てることについてどこまで自分をそこに関わらせているかということだ。われらが政治家たちの表明を見れば、かれらの言葉は調査フォローアップやディテールへの言及のない一般的な叙述どまりでしかないことがよく分かる。たとえば、われらが政府はKKNだらけだと常に評されるが、われらが国会はこの2000年に起こった大型汚職事件がどれだけあったかを公表したこともないし、法廷に持ち込まれたのがどれだけで、判決が下ったのがどれだけで、その汚職の結果国庫にどれだけの損失があったのかさえ公表していない。地方自治もそれと同じで、インドネシア各地に空前の恍惚感を発生させたが、地方自治が実施された場合、数ヵ月後に直面するであろうリスクに関する調査や討論はほとんどない。その一方で、国会の地方自治への関心はゼロに近づいている。
われわれの政治思考方式は、認識論で一般化と呼ばれている独特のものだ。一般化は、それがカバーする諸ディテールの性質をできるだけ多く取り込んだとき、はじめて正当なものになる。さもなければ、それは全く性質の異なる諸事実に対して自己の希望を強制するがゆえに、そのような一般化は自己が述べたい事実に対して単に暴力をふるうだけとなる。今、分裂の危機がきわめてシリアスだ、と言う場合、その言葉は既存の社会学的事実と関連しているのだろうか?個人のエゴイズムやグループのエゴセントリズムのために合理的和解や暫定的コンセンサスに達したことのない政治エリート層のコンフリクトから、あたかも下層庶民層でも同じような分裂が起こっているのだという状況の一般化が行われてはならない。本当はそのようなことは起こっておらず、少なくとも国家の一体性を損なうレベルに達してはいない。もしアンボンが「見えない手」の干渉なしに、抗争に対する自力対応を任されていたなら、解決はずっと以前に成し遂げられていたのではないだろうか。
一般的原理として、人はその関心を一般化に向ければ向けるほど仕事をしなくなる。反対に、ディテールとの接触が深まるほど人はよく働く。ある出版社に就職した従業員は、編集とは発行されようとする原稿を整えることだ、というきわめて一般的な知識だけで編集者としての仕事をすることはできない。そのような一般化は、かれの職務や機能の遂行実現を決して可能にしない。オペレーションは常にディテールと関連している。だから、われらがその従業員はすぐに専門編集者と呼ばれる者がおり、ランゲージ編集者やコピー編集者という名の者もいることを学ぶだろう。専門編集者は本の内容や形式を企画し、ランゲージ編集者は原稿の言葉が標準インドネシア語の条件を満たしているか、本の構想を最大限に伝えているか、狙っている読者層に理解されるだろうか、といったことに注意を払う。またコピー編集者は、綴り、文字の種類、ミスタイプ、形式その他の技術的なことなど、印刷後の本の外見を決めることがらを扱う。
その分野で働いていない人は、直面すべきディテールの範囲と複雑さ、そして望む結果をもたらすようディテールを組み立てることがどれほどたいへんであるかを知らないがために、その仕事は実際より易しいと考えがちだ。歴史の全期間を通じてイタリー最高の芸術家の一人であり、ヨーロッパルネッサンス初期の先駆者だったミケランジェロは「仕事の中でちいさいディテールを決しておろそかにしてはならない。なぜなら、完成は常にちいさいことがらによって達成されるからだが、その完成は決してちいさいことがらではないのだ。」と語っている。われわれも、同じようにこう言おう。「ディテールをおろそかにするのは仕事に対して暴力をふるうことであり、完成に対して加えられる破壊なのだ。」


働くということはまた、自己があるプロセスに関わることであり、まず第一にターゲットを達成するということではない。ターゲットとは目標ポイントとして設定された標的だが、その目標はプロセスを経て到達されねばならない。仕事の目標とは計画されたプロセスの結果でしかなく、あらゆる手段を尽くして達成されなければならない目的ではない、と論理技術的に言うことができる。前者の思考法はエフィシェントロジックと呼ばれるものにコントロールされており、一方後者の考え方はファイナルロジックと名付けられている。エフィシェントロジックは、ある結果に最小限の費用で到達するにはどうするか、ということに関心を持っているのに対し、ファイナルロジックは、どんなに大きな費用をかけようとおかまいなしにただ目的を追いかけるロジックだ。そのような、コストへの意識を持たない成功への圧力は、プロセスに対してふるわれる暴力だ。なぜなら、プロセスは目標到達能力を超えて働くことを強制され、その結果目標に到達できたとしても内容は支離滅裂になるからだ。
インドネシアの政治経済思考の環境はファイナルロジックにコントロールされている。なぜなら、国家経済の営みは目標とされた成長率の達成に向けられているからだ。目標達成に注ぎ込まれるコストの大きさなどおかまいなしに、そんな観点からターゲット追求のためにあらゆる事業を動員している。経済成長の数字算出に、森林破壊、水質大気汚染あるいは天然資源枯渇といった形式の環境価値低減レベルという変数が織り込まれることはまずない。同様に、インドネシア民衆と国家が外国から借りた資金インプットの大きさも成長率には織り込まれない。
こうして、すべてのオリエンテーションは成長率の高低という形でのアウトプットに向けられるのみで、さまざまなインプットと価値低減率が一緒に計算されることはない。だから、成長率は目をひくものかも知れないが、そこに国の経済パワーがどれだけ反映されているのか、その数字が成長目標を擁護するための政治暴力で強制される諸社会制度の脆弱さと生活環境破壊のゆえに失われる国家資産をどれだけ覆い隠しているのかをわれわれは知らない。
経済におけるシステムとは市場メカニズムだ。経済活動で成功を望む者は市場での競争ができなければならないし、市場プロセスに関わらねばならない。ところが、プロセスを尊重しない人々は、権力やビューロクラシーの手を借りて市場に暴力をふるい、権力の干渉や行政による規制で市場の意思を屈服させる。KKN汚職・癒着・縁故主義は、それによってすべての経済機関が妨げを受けようとも、ある特定利益の擁護のために市場の歪曲を実現させようとすることの対価としてのコストなのだ。言葉についての有名なジョージ・オーウェルの表現を市場に対して置き換えてみるなら、「市場を汚す者は市場によって汚される。」となる。その表現の真実をわれわれはいま文字通り体験している。外貨特に米ドルに対するルピア交換レートの動きを通して活動している市場によってあらゆる政策は暴力を受け、その政策の履行は失敗させられているではないか。


教育と文化の分野における画一性は差異に対する暴力であり、人間のポテンシャリティと能力への冒涜だ。人間の能力にはいつも差異があり、似てはいても同じになることはない。文化は創造力のゆえに成長し、創造力はオーセンティックさと独創性に到達する可能性を持つがゆえに成長する。さらにオーセンティックさと独創性は差異が許されるどころか、それが評価され尊ばれる場合にのみ発展することができる。画一性が生み出す創造力などない。
それと歩を一にして、教育は権威、つまり国自身、に対する服従の強制を通してイニシアティブと創造性に向かって暴力をふるう。文化におけるオーセンティックさは教育における自治に対応し、文化における創造性は教育における個性に相当する。教育制度の暴力が強制する最高の価値が権威への忠節であるために、その両者には育つ機会がない。責任とは上位者に対する姿勢であって、自分自身や仲間に対するものとは見られていない。人は権力に対して倫理を抱くのみで、同じ社会の成員に対しては無関心どころか野蛮になる。警察は大統領が市中を通るとき全力をあげるが、退社時の渋滞道路からは去り、運転者が違反を犯しそうな場所で待ち構えて捕まえる。従業員を同僚としての連帯意識やフレンドリーさでまとめるのは難しく、ボスの恐い顔が出てきてやっと動き出す。いたるところで人は責任の重要性を叫んでいるが、その責任がまず最初に作り出される教育の場では、人の子が責任を持つ能力と意志を有するためのふたつの条件である個性と自治の芽をつぶそうとする暴力が、ブルドーザーほどの粉砕力で用意されている。
もちろんプロセスはいつも無視され、打ち捨てられるがままになっている。われらの教育と授業の論理は優秀規準のファイナルロジックだ。行われているのは子供たちが何事かを知ることであり、知識に至る道をかれらに開いてやることではない。二者択一方式の試験制度は思考力に対する丸裸の暴力であり、人間を多くのデータを保存しているが考えることのできないコンピュータか、いままで一度も理解することのなかったことがらを復唱できるだけのロボットにすることができるだけだ。目標としての知識は、科学を単に分配消費するのではなく、その生産システムを決めようとしているがために、もっとはるかに重要なそれ自体を知るというプロセスを冒涜している。


市民社会の暮らしとは、その社会が生成発展するプロセスとしての法を受け入れることであるが、法自体は再統一を経て法の正義という名のもとに政治的に奪取可能な、また法の確定の名のもとに技術的に分解組み立て可能な一個の物質にされている。正義を求め確定を打ち立てるためのプロセスとしての法は、引っこ抜かれて正義と確定そのものになっている。正義はいまや路上の政治デモが争奪し、法の確定は法典の条項だけでサポートされているのをあなたは不思議がるだろうか?プロセス、道、生き方としての法が、どこかにあると見られている何らかの正義の形や法典の条項にあると思われている法の確定の形態における物質や商品に姿を変えられているがゆえに、一方は他方と何の関連性も持っていない。われわれはあたかも法の正義を持たない法治国家、あるいはそのレファレンスとしての法令にはおかまいなしに政治的に強制し得ると見なされている法の正義という二者からの選択に直面させられているようだ。


われらが社会は最終的にプロセスに盲目でディテールに不感症的な社会となるであろうことを、あなたはまだ不思議がるだろうか?人間性は重要な原理だと思われているが、ジャカルタでは人間が生きたまま焼かれている。その心理は、ついには目的が手段を肯定する姿勢に人を導く。なぜなら、われわれは長期にわたって、劣悪で粗野な目的論の中で教育されてきたからだ。
そのような状況下では、達成されるべき目標を何人かの人々に教え、そうしてその目標に達するためにあらゆる暴力は許されるとかれらに確信させれば十分なのだ。プロセスはあまりにも時間を食うのでナンセンスだ。重要なのは短い時間に成果を得ることだ。そんな考え方の危険さは既に証明されており、われわれは悲惨の中でそれを負担しなければならない。プロセスに支えられない成果は砂上の楼閣だ。国家経済の殿堂の壮麗さは、危機の波が押し寄せてきたとき、天をつく成長の頂上が地中深くおろしたプロセスの根を持っていなかったがために果かなくも粉微塵になってしまった。プロセスは平常時には目に見えないものだが、その重要性は災いの中ではじめてわかる。そのプロセスを単なるひとつの物質にすることは、情報プロセスとしての新聞紙を揚げピーナツの包装物や台所のゴミくず用の袋にするのと変わらない。
ソース : 2000年12月20日付けコンパス
ライター: Ignas Kleden 社会学者、The Go-East Institute理事


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『女性への暴力の根を探る』

(暴力 : kekerasanは暴力のほかに、強要、圧迫、強制など物理現象に至る前の心的圧力をも意味している。 ― 訳注)

ニョニャ・シンタ・ヌリヤが司るプアン・アマル・ハヤティ女性活性化のためのプサントレン協会が先週ジャカルタで開いた「女性への暴力廃絶における宗教の役割」というテーマの全国セミナーで、参加者から面白い質問が出た。その男性参加者の質問は「このセミナーは女性に対する(男性の)暴力について議論しているが、反対の事だって起こるのではないのか?」という内容だった。

カルヤナミトラが一年以上前に開いた家庭内での女性に対する暴力をテーマにした公開討論会の参加者の中にも、それと似て非なる質問を発した者がいる。その質問者もたまたま男性だったが、「女性がほかの人間、たとえばほかの女性、子供、あるいは男性に暴力をふるう場合はどうなのか?」と尋ねたのだ。そのたぐいの質問は今後も毎回発せられるにちがいない。なぜなら世の中の価値のあり方が、女性を本当に男性と同等とは見ていないからだ。女性はいまだに他の者、the otherと考えられている。

多数の人々を代表する上のような質問や表明は、統計データを見れば容易にその答えが得られる。国連人口基金インドネシア支部のネシム・トゥムカヤ代表は、「世界の女性の三人に一人以上が自分の知っている人間、つまり夫や家族の中の男になぐられ、性交を強制され、あるいはそのほかの暴力行為を受けている。女性の四人に一人は妊娠中に暴力を受けている。暴力行為の三分の一から二分の一は性暴力だ。」とセミナーの中で述べた。トゥムカヤ代表が述べたように、女性は単に自分が女性であるがためにより頻繁に暴力の対象になっているのだ。その中に宗教をも包含する文化上の価値観が、女性を男性と同等でない地位に置いているのである。

インドネシアはそのようなグローバルな構図に比べて決してベターだとは言えない。コフィファ・インダル・パラワンサ女性活性化担当国務相はそのセミナーの中で、2億1千7百万インドネシア国民のうち11.4%にあたる2千4百万の女性が、とりわけ農村部の女性が暴力を経験したと認めている、と語った。その暴力のほとんどは虐待、陵辱、侮蔑、夫の不倫など家庭内暴力に属すものだ。
同相によれば、インドネシアでの女性への暴力は静かなる蔓延の進行中で、その数は増加の一途をたどっているが水面上に浮かび上がることはないとのこと。男性に対する暴力も起こりうるが、女性は暴力の特殊な対象だ。女性に対する暴力は、物理的心理的性的次元を持つ現実性の高い問題であり、それらはしばしば一時に積み重なって発生する。「ジェンダー問題意識のないひとには理解困難でしょう。」と大臣はコメントする。

プアン・アマル・ハヤティは二年間に渡る煮詰めの末に、去る7月3日に発足した。この人道機関の設立は、ジャカルタの1998年5月暴動の被害者やその他の暴動の被害者ができるかぎりの保護を与えられていない事実からスタートした。被害者や避難者を大量に長期にわたって収容できる機関がまだないのだ。一方、世の中には被害者が最初に保護を求める場所として実証された宗教機関が存在する。「暴力被害者を扱い、問題を解決するセンターとしてどうしてプサントレンを役立てようとしないのか?との考えに立ち至った。」とセミナー開会の祝辞の中でニョニャ・シンタ・ヌリヤは述べている。かの女は、自分は女性活動家ならびに人道奉仕者としての個人の資格でこの機関に関わった、と強調しており、プサントレンを選んだのは、それが実際の建物を有し、潜在的な人材を持ち、そしてどこにでもあるから、とその理由を語っている。


女性への暴力は人間の歴史を通して発生しており、各方面からは公正さと民主主義を打ち立てる障害だと見られている。その後この問題は世界的関心を呼び、女性への暴力廃絶は国連のアジェンダになった。特に女性への暴力をはじめ女性に対するあらゆる形態の差別撤廃を目的として、国連はCEDAW委員会を設置している。女性問題国家委員会のサパリナ・サドリ委員長によれば、1993年ウイーンにおける第2回人権に関する世界会議で、女性への暴力は人権違反と認定された、とのこと。インドネシアにおける女性への暴力には、幾種類かの形態、パターン、原因が見られる。武力抗争地区の女性は兵隊、民兵、地元高官などから、あるいは避難所で自分の家族の一員から暴力を受ける。軍事作戦地区では、女性への強姦をはじめとする性的暴力が非戦闘員住民へのテロの道具として使われている。抗争地区では、女性は国家機関のみならず、両抗争勢力からの暴力の犠牲となる。

家族の中での陵辱といった女性への暴力を恥と考える世間の姿勢は、そのような事件が明るみに出るのを妨げる。さらに被害者の証言に対する保護がないため、1998年5月の華僑系女性に対する強姦の被害者は届け出ようとしない。その結果、あの事件はなかったものとされているのだ。海外で働く女性労働者たちもまた違った形の暴力を受けている。
この片手落ちの現実は、世の中の男性女性間の公正さの歪みを反映する縮図だ。不公正は日々の暮らしの中で容易に目にすることができる。女が強姦されたのはミニスカートをはいていたからだ、という論調があまりにも頻繁に登場するし、夫になぐられた妻は同情されるよりも悪者にされる方が多い。

カトリックの女性問題理論家で女性連帯同盟全国指導部の委員長でもあるヌヌ・プラスティオ・ムルニアティは具体例を語る。
夫にいつもなぐられる奥さんが教区牧師に訴えた。牧師は夫に対する神の赦しと妻が強い心を持てるよう祈ろうと誘った。そんなことが何度も続き、あるときその奥さんが顔中血だらけにして現れた。驚きか恐怖のせいか、その牧師はこう言った。「あなたの夫がそんなことをしたのは、あなたがなんらかの過ちを犯して夫を怒らせたからにちがいない。もしそうなら、あなた自身が悪いのだ。」
そんな運命をたどる女性は多い。尼僧シスター・プリスカ・ムルワティは暴力被害者への救援経験から、被害者女性はその家族が被害者を悪者にする傾向があるために二重の被害を受けることを指摘している。婚外妊娠した女性に対する母と子のケアが閉鎖的に行われているのは、社会がそれを受け入れる準備がまだできていないからだ、とシスターは語る。世間は婚外妊娠を女性側の過ちであり、家族に恥を塗るものと見なしている。それら暴力の被害者女性は同性からも劣等者と見下げられ、不品行な女という烙印が押される。しかし、シスターが取り扱ったケースでは、恋人に欺かれて妊娠した女性、借金が返せずそのかたに身を売った女性、親が金持ちの婿を望んで娘に強制したもの、姉の夫に妊娠させられた妹などというものだった。


ジェンダー不公正の原因に関してさまざまな意見が出されているが、その大勢としては、原因が文化と宗教に包まれて世代から世代へと受け継がれてきた伝統にあると考えられている。「宗教に包摂されたものは議論の余地のない伝統の一部であるため、人々は宗教の教えは常に正しいと信じるものなのだ。」ムルニアティは宗教が女性への暴力廃絶に重要なテーマであると言う。
宗教面での女性への暴力の根を探る努力は、世界宗教のそれぞれの思索家たちが行ってきた。ニョニャ・シンタ・ヌリヤも、プサントレンの学生たちがイスラムを学ぶ際に手本とするキタブ・クニンの見直しメンバーに入っている。カトリックの女性問題理論家ヌヌ・プラスティオ・ムルニアティ、東南スラウェシ州のプロテスタント教会牧師でジェンダー訓練チームのメンバーでもあるセプテミ・ユーカリスティア・ラカワ、チレボンのキヤイ・ハジ・フセイン・ムハンマドたちは新しい眼鏡で宗教上の文章の理解を解きほぐそうとしている宗教界の思索者や有力者の一部だ。かれらはプアン・アマル・ハヤティのセミナーでその経験や思索を語っている。

「神は無上に公正だ、との信念が聖書専門家として女性に味方する文章を探させた。」と語るムルニアティ。一方セプテミは、女性への暴力の根を探る努力で重要なことが二つある、と言う。つまり理論の出発点となる女性の体験とフェミニズム的アプローチで聖書の文章を再解釈することだ。セプテミによれば、抑圧されて暴力の被害者となった女性の体験は、日々の現実における神との出会いの体験を分別するための基盤なのだ。この出発点は聖書を読み、聖書と対話し、文と文脈の間に日常的自由を位置付けるとき、パースペクティブをより自由に用いることを可能にする。女を低め、男に従属的な位置に置くために一部の人が正当性の根拠と考えてきた宗教上の文章の理解を解体させる努力が必要なのだ。
フセイン・ムハンマドは、アルクルアンやハディスにある人間の高貴さや対等性のビジョンに対立する印象を与えるために、ジェンダー不公正的な理解を受け入れることはできない、とする。かれは、宗教議論の中で差別的従属的パースペクティブがどうして生まれたのか、その可能性はいくつかある、と語る。まず文章の理解の誤りがありうる。第二に、解釈の方法が取捨選択的もしくは部分的だったから。第三に偽りの虚弱なハディスに基づいた可能性。
女性差別と女性への暴力は、きわどく変化する状況での文章分析の停滞と宗教的文章に対する解釈方法論に行き着く。ジャヒリヤ期の女性に対する嫌悪と差別に満ちたアラブ文化を鋭く批判したアルクルアンは、誰からの暴力も威嚇もなく人生の選択を行う人間の自由と平等および公正な社会というアルクルアンの理想実現に向かうステップの基本的方法論となるべきである。
「女性問題におけるイスラム式見解の公式化のための新しいアプローチが必要とされている。この新しいアプローチは宗教の基本メッセージに背く社会の実態に直面したとき、相関的意義の中に規準となる宗教的文章を位置付け、宗教上の思索を発展させて行われるのだ。この方法で女性への暴力問題は完全な決着を迎えることができる。」とフセイン・ムハンマドは述べている。
ソース : 2000年9月28日付けコンパス


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『暴力劇場の舞台はまわる』

インドネシアの暴力劇場は、観客のハートを揺さぶる死の出し物を演じるのに果てしがないようだ。出し物のシナリオは年々戦慄の度合いを増しており、ここ三年ほどのインドネシア暴力劇場の名声は国際番付の中で無敵上昇中。


質的にはまだアマチュアだが、インドネシア暴力劇場の出し物は古い劇場になんら劣らない。世界のコンフリクト調査を行っているある国際機関は、世界18箇所の暴力劇場のひとつがインドネシアだとの表明を出している。そのリストには、昔から内戦が続けられているスリランカ、コンゴ、アフガニスタンなどの国々と肩を並べてインドネシアが記されている。しばらく前、エンサイクロペディア・ブリタニカのサイトも、国内抗争が波及して域内安定の脅威となりうる国のひとつにインドネシアをあげていた。
インドネシアにおける暴力劇場の初演は1998年5月第一週に北スマトラ州のいくつかの町で起こった暴動と略奪だ。いったいどこから出現したのか突然大勢の群衆が町のど真ん中で暴れ出し、いつもは情容赦なく厳しい措置を取る治安要員は、このときばかりはその行動を放置した。北スマトラ州のその事件はほぼ一週間続き、群衆は各地にあふれてそれを歓迎した。この事件は国際フォーラムにおける新たな検討トピックとなり、もっと重要なこととしては、この暴動の戦慄がチュンダナにまで達し、オルバ支配者の取り巻きを恐怖で包んだ。
その後一週間もしないうちにその舞台はジャカルタに移され、おそるべき規模の犠牲者を生んだ。ほとんどあらゆる卸センターやショッピングセンターが略奪され、群衆はそこに火を放った。数千の人々の職は失われた。その翌日、怒れる群衆は、この共和国のもっともリッチな者のひとりでスハルト大統領の親しい友人でもあるスドノ・サリムの家を焼き尽くした。奇妙なのは、この暴動が首都で1998年5月13日から15日までの三日間ノンストップで繰り広げられたことだ。首都には何万人もの国軍兵士と国家警察要員が常駐しているというのに。
暴動は結局、伝染病のように町から町へと蔓延し、犠牲者を滅ぼしていった。それまでは穏やかで、そんな社会疾病には縁のなかったフローレス島までもが、暴動と略奪の渦に呑み込まれて行った。暴力はその鉄の法則に従って動いた。始まったが最期、それはまるで雪だるまが転がるようなものなのだ。
インドネシアの大型都市のほとんどすべてを全滅させたあと、まるで恨みつらみが爆発したようなその嵐はそのまま過ぎ去って行った。5月13〜15日事件の死者は1千5百人近くに上ったことが明らかにされたときでも、世間の反応は平静のままだったのがそれを証明している。今日に至るもまだひとりの演出者すら法廷に引き出されていないという事実を問題にする人は誰一人いない。国家人権委員会事実調査チームの調査結果についても同様で、そのフォロー措置については何も聞こえてこない。暴動を操った者の捜査や原因究明はどうやら単なるセレモニーでしかなかったようだ。その点について言うなら、ジャカルタはホラーの町にほかならない。
権力の「真空」状態のさなかに、GAM自由アチェ運動の旗が各所に翻った。アチェでは軍と警察の拠点に対する攻撃が活発化し、一方パプアでは独立機運が津々浦々に満ちたあげくパプア人民議会とパプア国政最高幹部会が編成された。


暴動略奪の嵐がそうやって過ぎ去ると、今度はもっとドキドキさせるシナリオが待ち構えていた。宗教、種族、村落共同体間の戦争をテーマにした死のアクロバットだ。まったく一方的な行為だった暴動略奪とは異なり、共同体間戦争ではふたつの勢力間の物理的衝突が直に演じられる。
ジャワ島北岸地方で村戦争は、しばしば夜市の喧嘩にすぎない若い衆のいざこざの延長線上で行われ、喧嘩衝突の果てに数十あるいは百を超える家屋に火がかけられた。北岸街道の頻繁な交通はその喧嘩出入りが終わるまで通行不能となった。マルクでは、旅人の心を魅惑する美しい自然が、銃弾と爆弾の雨に変わってしまった。1998年末、回教徒とキリスト教徒の間で抗争が勃発し、漂っていたクローブの香りは消えて火薬と生臭い血のにおいに取って代わられた。住民およそ50万人が故郷を捨て、難民となって苦労している。サンバス県では、ムラユ族のアムックに襲われた地域にいたマドラ族のファミリーが、死から逃れようとして避難した。その双方が篤信の回教徒だという背景とは無関係に、十数か所のモスク、ムソラ、おまけにプサントレンまでが焼き討ちされ、数百人が無慚に殺された。今でも2万人を超える難民が、ポンティアナックの収容地区に暮らしている。中部スラウェシ州のポソ県でも宗教戦争が起こり、数百人の生命が失われ、5千戸を超える家屋が灰になった。現在、ポソの状況は籾殻の中の火のようなものであり、いつなんどき地獄に変わるかわからない。中部カリマンタンのサンピット県では、ほんの少し前にマドラ族とダヤック族のあいだで種族間戦争が起こった。数百人が命を落とし、一部の人の頭はその身体から離された。数万人のマドラ族は州外へ逃避することを余儀なくされた。
似たような緊張や衝突はいくつかの地方にも広がったが、そのような事件が頻発したためにSARAと呼ばれる種族、宗教、人種、階層間対立の臭いのすることがらに人々は容易につりこまれなくなり、舞台が面白くなくなったと見た演出家たちは新しいシナリオを探した。次のテーマは爆弾だった。
最初は張子の虎でしかなかった。ビジネスセンター地区のいくつかのビルに爆弾云々の電話がなされたが、そんなテロはそのうちあきられ、人々はあまり踊らされなくなった。民衆や政府の反応が冷めたのを見た演出家にはまだ十分なアイデアがあった。ふたたびメダンが試行の場に選ばれた。数軒の教会で爆発が起こったが地元キリスト教徒の怒りを引き出すには至らず、その嫌悪感からかあるいは別の理由によるものか、フィリピンのパラワン島での爆発と時を合わせて、ジャカルタのフィリピン大使公邸前で思いもよらず爆弾がドカン。
この事件は国際社会を震撼させ、世界各国でメディアが競って報道した。更にジャカルタで、死者十数人、炎上破壊された自動車数十台という被害を出した証券取引所ビル地下駐車場での爆発がそれに追い討ちをかけた。フィリピン南部におけるアブサヤフ・グループの人質行為の展開に不安を抱いていた西洋諸国、中でもアメリカは、そのふたつの事件には関連性がある、と見た。つまり、国際的テロリズムがインドネシアに潜入していることをそれは意味しているのだ。しかしほんとうにそうなのだろうか?


去る8月17日以前まで、人々は、それは行き過ぎた考えだ、と思っていた。おまけに首都警察が証券取引所ビル爆破の犯人としてアチェ人や国軍軍人からなるグループの逮捕に成功してはなおのことだった。国軍軍人の関与は、プロボカトル{煽動者}の仕業だという世間の確信を強化した。政府官僚のお歴々がほぼ全員活力を失っている紛糾した状況下に、プロボカトルという言葉の登場はきわめて有益なものだった。問題を単純化し、またその問題を宙ぶらりんにさせ、そして相互間に疑惑を生み出したのだ。プロボカトルは、具体的な姿を持たない影のような存在だ。イメージ謀略からもプロボカトルが作り出された。
昨年末のクリスマスイブにいくつかの町を賑わした爆弾パーティが起こったとき、当局は再びそれをプロボカトルの仕業だと発表した。プロボカトルの姿が明らかでなく、一度も捕まえられたことがないために、一晩で数十人の死者や怪我人が出たが、その事件も吹き行く風のようにそのままになった。将軍、チュンダナファミリー、政治エリート、過激派グループから新スタイル共産主義者までさまざまな名前に関連付けられて、プロボカトルの意味はますます乱れ、結局状況と条件次第で誰でもがプロボカトルになった。
爆薬の種類、政治的傾向、動機や犯人のバックグラウンドなどに関する国家警察の支離滅裂な発表も、社会の困惑を一緒になって煽った。去る7月にジャカルタのテンデアン通りやスリピ立体交差道路で起こった爆弾事件がその好例だ。首都警察長官は、その爆発は低性能爆薬によると語ったが、翌日、別の高官は高性能爆薬だったと言い、挙句の果てに爆発したのは手榴弾だったと語られた。犯人についても似たようなもので、トラック運転手からGAMまでが名を連ねた。7月22日に東ジャカルタ市カリマラン地区にあるサンタアナ教会とHKBP教会の前で爆発事件が起こったときも、人を戸惑わせる情報が再登場した。その数日後、アトリウム・スネンでまた爆発が起こった。
今度は首都警察長官は「アトリウム・スネンとカリマランの二教会の爆破に使われた爆薬は同じものだ。」と述べて世間に衝撃を与えた。更に、これまでジャカルタで続いた爆破事件の裏にトミー・スハルトがおり、「トミーはGAMと共謀している。」というせりふが語られた。ひげもじゃのイブラヒム(すなわちトミー)の写真が新聞を飾った。その写真と多数の武器を、警察がトミーの隠れ家で発見したのだ。シャフィウディン上級裁判官殺害容疑で逮捕されたふたりの容疑者の陳述を引用して、首都警察長官は、「その殺人はイブラヒム、つまりトミーの指示だった。」と発表した。爆弾事件はこのようにして既に決着を見た、ということなのだろうか?


暴力事件は終わらせなければならない、と誰もが希望している。しかし賢明な人々の見方は違う。マレーシア大使館手榴弾騒動とジャカルタ証券取引所ビル爆破事件に関与したとして、ジャカルタやバンドンで国軍軍人やアチェ人のグループを警察が逮捕したが、かれらは爆弾事件がこれでなくなるとは信じなかった。
「アトリウム・スネン爆破事件に関与した者の中に自国民がいる。」とマレーシア外相が認めたとき、はじめてわたしたちを驚愕が襲った。その青年はそれ以前にマルクにおけるジハード戦争に参加していたのだ。「自爆の結果警察病院で治療を受けているその容疑者は、アフガン戦争の志願兵であり、パキスタンとマレーシアの刑務所に収容されていたことがある。」と述べて、マレーシア外相は更に明らかな情報を提示した。その容疑者は、マレーシア治安当局が以前から8人の仲間とともに監視していた男だったのだ。
昨年のクリスマスイブにバンドンのバイク修理屋で運び人の生命を奪った爆発は、西ジャワ州パガンダランにおける実行犯逮捕に警察を導いた。アフガン戦争志願兵だったその男は、あるマレーシア人から依頼されてその犯行を行ったことを自白した。数日前、マレーシア警察のパトロールは、十数人のインドネシア人を交えたマレーシア人乗客を載せた小舟をサバ=フィリピン海域で拿捕し、そこからM−16攻撃銃2丁と拳銃数丁を押収した。それらの武器はマルクへ持ち込まれるためのものであることを、乗客たちは認めた。
フィリピン政府自身も、最近の国内におけるさまざまな爆弾事件に関連して捕まった者の中にインドネシア人がひとり混じったいたことを公表した。後日、もしフィリピン、マレーシア、インドネシアで捕まった者たちが実は元アフガン戦争同窓会の関係者であることが証明されるなら、その地域で沸騰しているものが本当は何なのかが一層明らかになるだろう。
アメリカ政府が大物国際テロリストと呼んでいるオサマ・ビン・ラデンとのアプリオリな結び付けをしなくとも、アフガン戦争に関係した者のすべてが常にサウジ出身のそのミリオネアに言及している。かれはアフガンに軍事キャンプを作り、世界中のあらゆる場所でアメリカ異教徒サタンと聖なる戦いを繰り広げるために、各地から集まったムジャヒッドに訓練をほどこしているのである。
それに関連して、過去三年間にインドネシアで起こったあらゆる暴力の裏側に誰がいた、と告発するのも適切ではない。社会コンフリクト専門家は、暴力が独自の法と論理を持っていることを正確に知っている。行うのは簡単だがやめさせるのは不可能に近い。暴力は新たな形の暴力を生むのだ。オルバはその設立のはじめから、暴力を政治の主要ツールとした。誘拐、ミステリアス・シューティング、したい放題の逮捕と拷問は、32年間のオルバ体制の日常茶飯事だった。そんな暴力は豊かに繁殖して、もはや統制の枠からはみだした。
アチェにおける暴力もそれと同じだ。大統領や国軍首脳が何度となく民間人に対する武力使用を避けるよう部下に命じているが、住民の家屋が燃やされ、罪のない人々への殺戮はやむことがない。スハルト、ハビビ、アブドゥラフマン・ワヒド、そしてメガワティに至る時代の変遷に何らの変化をも見出さなかったアチェの人々はきっと怨念を深く抱え、ほぼ似たような方法で復讐を行うべきときを待っていたにちがいない。
過去三年間、暴力に満ちたインドネシアの揺れ動く状況の中では、変化の法則を理解し、先にイニシアティブを握ろうとした者が、暴力という名の危険な蛇のしっぽをつかむことができる。だからこそ、暴力はある勢力の独占物ではなく、ある勢力から別の勢力へと受け渡されて行くものなのだ。
テロリズムは暴力の果実である。一方、世界に知られた社会コンフリクト専門家テッド・カー教授の調査結果が明らかにしているように、暴力は独裁制から民主主義への移行期に必ず現れるものなのだ。しかし夢に見る民主主義の一方の端は薄暗がりの中にある。The Coming Anarchyでロバート・カプランが述べているように、第三世界諸国にとって民主主義はコンフリクトや戦争を生み出すのを好む新しい悪人を生む。かれらはそのような方法を用いて政治的野望を達成しようとするのである。
ソース : 2001年8月31日付けコンパス
ライター: Maruli Tobing


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『無力さと安逸な忘却がひとびとを襲うとき』

いまだに残っている鉄骨が東ジャカルタ市クレンデルにあるヨグヤプラザ再建設の象徴だ。舞い立つ埃と熱風はひとを呼吸困難にさせるが、機械のうなりや大工道具が発する喧騒が、一年前まではさびれて異様な印象をかもし出していたその地域周辺の雰囲気を活気付けている。1998年5月暴動で燃えたそのショッピングコンプレックスから聞こえてくる奇妙な声を、当時一部のひとびとはしばしば耳にしたものだ。


「いまでも時折り泣き声や叫び声が聞こえてくる。」ショッピングコンプレックス裏の集落に住む住民のひとりは語る。暴動後数日して、そのコンプレックスの周囲はトタン板で囲われた。住民が耳にするという声はただの幻聴かもしれない。だがそれを幻聴と呼ぼうが、他のどんな名前で呼ぼうが、あの忘れることのできない出来事があったからこそ、それが起こっているのだ。ヨグヤプラザにとって、その出来事とは1998年5月の悲劇、わが民族の暗黒の歴史として偲ばれるもののひとつなのだ。

あの事件では、ここで少なくとも4百人以上が焼け死んだ。コンプレックス裏にもう十年以上住んでいる飯売り商人は囁き声でそう言う。
「わたしの弟がひとり、やはりあの出来事で死んだ。」基本的人権分野で活動するNGOのひとつ、ヌサバンサ連帯のスタッフ、ブディ25歳が続けて言う。ブディはあのとき焼死した小学校6年生のグナワン通称イグンの兄だ。

タングランのチルドゥッでは、チルドゥッ市場の建物群も建て直された。1998年5月14〜15日暴動で、その場所で火に囲まれて焼死した人が何人いたのかはっきりしないが、焼けたり酸欠で死亡した人は数百人に上るだろうと言われている。
しばらく前まで半分が残骸と鉄骨だった建物は、まるで幽霊屋敷のようだった。「あの出来事のあと、一ヶ月くらいはとてもそこを通れなかった。」チルドゥッ周辺を巡回している小型乗合自動車運転手のウジャンは語る。運転手の間に広まった話しは、「自分の車に子供や若者が乗り、その建物の前で降ろしてくれ、と言う。焦げ臭いにおいのするかれらを乗せてチルドウッ市場前までくると、かれらはそのまま消えてしまう。」というもので、ある運転手がやはり運転手をしている自分の友人の体験談だとして話してくれたが、その話しが本当かどうかは、さあいったい・・・・?しかし、そのたぐいの話しはあの暴動事件の後、何ヶ月もの間広い地域でささやき続けられた。

西ジャカルタ地区のスリピプラザはもう何ヶ月も前から営業している。1998年5月暴動を経験したその建物は、十数人の子供と大人の死場所となったが、レイアウトは暴動以前とまったく同じように復元された。テナントも建物が燃やされる前と同じ場所に戻った。例えば、ダンキンドーナツはプラザの右隅で営業している。来店客はまるで何も起こったことがないかのように店内にあふれ、突然起こった火災と狼藉の影はきらめくライトの光の向こう側に隠れて、姿を見せようとしない。
それらの再建設は、少なくとも1,217人の生命を奪った(1998年、人道ボランタリーチーム資料)5月の悲劇が、ほとんどの人にとって朝刊の悪いニュースのひとつ以上のなにものでもなかったことを示しているようだ。あの人道へのホラーに対する一部世間の姿勢は、犠牲者遺族のそれとは実に異なっている。5月の災厄は容易に乗り切ることのできないトラウマの痕を長期にわたって引きずるよう、犠牲者たちに強いているようだ。

1998年5月の悲劇の中で、人間文明の想像をはずれた方法で家族のメンバーを失ったことに起因する苦しみは、押された烙印のためにますます深さを増す。まして犠牲者の大半が下層階級だったことから、犯罪者という烙印の一般化が行われているのだ。5月暴動犠牲者の問題が人の記憶からさっさと消えていったのも、そこに原因があったのかもしれない。
しばらく前に会ったイマス夫人45歳は「あの出来事のあと、うちの子は帰ってこず、遺体すら見つかっていない。」と述懐する。かの女はヨグヤプラザ・ショッピングコンプレックスで焼死したと見られている行方不明の高校生ホリッ・ユスマナ17歳の母だ。
「『あんたの息子は死んでけっこう。だれが略奪しろって言ったんだよ。』ってご近所に言われるととても悲しくて、おまけに腹が立つんです。」とイマス夫人は語る。
「うちは貧乏だけど、他人の物に手をかけることなんか子供に教えたことは一度もありません。あの出来事があった日の夜、隣組長が『昼、ヨグヤプラザから持っていった品物を取り返しに人が来るから。』って言うんです。品物ってなに?家にあるのはそのテレビだけよ。」かの女が指し示す14インチのカラーテレビは落雷で焼けたことがあり、またローンもまだ残っているそうだ。かの女は傷ついた心でローンを証明する書類を用意した。
イマス夫人はホリッくらいの年齢の若者を見ると、いまでも悲しみに襲われる、と告白する。「あのひとはわたしをいつもホリッて呼ぶんです。」とクレンデル地区の犠牲者コミュニティのために働いている人道ボランタリーチームのメンバーのひとりであるリントはそう話す。
焼死体が見つかった夜、イグンの家でもほぼ同じことがあった。
「あの子のシャツでわかりました。全部燃えてなかったから。イグンは黙って家を出たんです。あの子がうちにいないことを知って、わたしはきちがいのように跡を追いました。」ルミナ夫人は記憶を物語る。
ヨグヤプラザの前で、この四人の子の母は短髪でがっしりした体躯の男たちが大勢たむろしているのを目にした。男たちは「なんでも持っていっていいから。」と言って、やってくる人たちを既に人でいっぱいの店内に押し込んでいた。ルミナ夫人も中に入るようにと押されたが、「わたしは何もいらない。イグンに他の人の真似をしないで帰ってきてもらいたいだけ。」と自分を取り囲む男たちを前にして途方にくれながらそう言った、と述懐する。
感情を千々に乱す状況はそこで終わったのではない。「その夜、隣組長が言ってきました。兵隊がうちへ来るって言うんです。品物を返してやるように言われました。」ルミナ夫人の声はトーンを高める。「でも、品物ってなに?この家に略奪品はありません。わたしは子供を無くしたの。略奪品なんかに用はないわ!」

犯罪者という烙印が、スリピとチルドウッ地区のほとんどの親に、チルドウッ市場とスリピプラザで焼死した子供たちについて話すことをいっとき拒ませていた。犠牲者家族へのアプローチの初期には、尋ねられるとみんな口を閉ざした、と人道ボランタリーチームのメンバーは言う。だいぶたってからやっと口がほぐれるようになったが、それでさえ長い時間と忍耐力を必要とした。「いまは4家族を集中的にケアしている。」西ジャカルタのスリピとクマンギサン地区で、5月暴動犠牲者遺族のために働く人道フォ―ラムのメンバー、リンダとインドラは語る。
「あの子は親の苦労を一番よく知っていた。いつも親を助けてくれ、困らせるようなことは一度もしなかった。」スリピプラザで死んだときまだ中学3年生だったヌルハヤティの母ハルティ36歳は話す。この四人の子の母は、毎朝ロントン・サユルを売って一家の暮らしを支えている。
ヌルがあのときどうして他人と同じようにスリピプラザに入っていったのか、ハルティはその理由をよく知っている。あのときは、大勢があそこへ入るように言われた。金を払わないで何でも持っていって良い、という話しだった。実は、ヌルは軽い癲癇にかかっており、4日前からチプトマグンクスモ病院で一連の治療を受けていたのだ。「あのとき、早く治るようミルクを飲みたかったので、あの子はミルクを取りに行ったんですよ。」
ヌルハヤティは翌日スリピプラザの地下で見つかった。やけどのあとなど全くなく、身体中が水で膨らんでいた。ヌルはどうやら地下で出口がわからずに迷ってしまったにちがいない。そうしているうちに水栓が開き、地下のスペースは水没してしまったのだ。

ヤディ12歳とアンドリ15歳はそれぞれの家族の記憶の中にまだ生きている。「どうやって忘れることなどできようか。ヤディは友だちに誘われてスリピプラザに行き、なきがらになって帰ってきた。」と父親のフセインは語る。弟のアントの目からは、ヤディはまだ生きている。「兄ちゃんはいつもボクと遊んでくれるよ。自転車に乗ったり、勉強を教えてくれたり、遊んだり・・・・・。」
アンドリの方は暴動の翌日にスリピプラザの4階で遺体が発見された。そして7人の子を持つスタルノ50歳は友人を助けようとして火に呑まれた。
かれらは略奪者なのか?ヒューマニズム活動家たちが述べている言葉が犠牲者たちの立場をきわめて的確に描き出している。かれらは「人身御供」なのだ。


暴動ターゲットとなったさまざまな建物や、政治利益のために人命の犠牲を呑み込んだ事件が起こった建物の建て直しは、1998年5月の悲劇をはじめとするいろいろな人間の悲劇の痕跡を消していく。モニュメントとしての意識がその再建設から欠けていれば尚のことだ。だから、この国で起こったほかの政治悲劇と同様に、それらはますます容易に人の記憶から消されていく。政治に関連する悲劇的出来事が記憶から消失することへの心配は、言いがかりをつけるためでは決してない。
インドネシアでは政治災厄の多くがX−ファイルにされ、われわれ自身も「真実はあそこにある。」と確信して心を落ち着かせている、と報道開発研究院は観察している。だから真実を手にすることなど起こりえないのだ。その後続々と発生した、ドラマチックさでは勝るとも劣らない暴動に次ぐ暴動は、多分スティグマだけを残しながら5月の悲劇を徹底的に糾明されつくすことのないX−ファイルの一部とするにちがいない。
バニュワンギのニンジャ・テロ、ジャカルタのクタパン暴動、アチェの悲劇、カラワン暴動、アンボンの水平コンフリクト、西カリマンタン州サンバスの住民間対立、イリアンジャヤ問題、一般市民10人を超える死者を出したジャカルタ証券取引所ビル爆破を最新のものとするジャカルタ各所での爆弾事件。いたるところで積み重ね合わされている暴力の状況は、人権運動家の集中力を分裂させている。
一方、市民自身はミラン・クンデラが小説The Book of Laughter and Forgetting (1994)で描いたように、一連の出来事が稲妻の速さで動く時代に直面したとき、人は無力化して容易に忘却を受け入れるようだ。そんな状況は、特定政治利益を求める勢力にとって、事実を操作し、その操作した事実を真実とすることにきわめて有利にはたらく。ここに、どんなに苦い思いをしようとも、記憶を維持することの重要性がある。それのみが、類似の悲劇が再発することの可能性をミニマイズしてくれるのだ。
少なくとも犠牲者の遺族はそうだ。災厄の苦難を記憶にこびりつかせなければならない。恨みのためでなく、どんなに時間を要しようとも正義を手にいれるために。あの暴動で子供の生命が奪われた建物を通るのに、たいていの犠牲者の遺族は、いまでもためらいを見せる。「あそこの前を通るくらいなら回り道する方を選ぶよ。」ヤディの父、フセインはそう語っている。
ソース : 2000年9月28日付けコンパス


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『ジャカルタのある街での暴力の肖像』

さる11月の2週目、南ジャカルタ市ブロックM地区で、スラバヤとマランを出身地とするふたつのやくざ集団の間で衝突があった。捜査の結果、ブロックM交番の警官一名と東部ジャワ州出身の国軍軍人一名の関与がその衝突を煽ったのではないかとの疑惑が生じている。
既に以前から、特に1998年暴動以降、ブロックM地区はマランのやくざに続いてスラバヤ出身やくざの支配を受けるようになった。この地区のやくざ勢力の伸張は、ここジャカルタの南部地域経済活動の中心地におけるカキリマ商人の増加と深いつながりを持っている。

ブロックM地区のとある商店に勤めるワリゴさんによれば、グラメディア書店前やパサラヤ裏の、昔は駐車のために使われていたオープンスペースが、1997年以降カキリマ商人によってふさがれてしまったそうだ。「うちの店の前の駐車スペースはスラバヤ出身の駐車番マルケソが仕切っていたんですが・・・・」
先日のあのやくざ出入り以後ほとんど自宅から外へ出なくなったスラバヤ出身の元やくざマルケソは、ワリゴさんの話しを肯定した。かれが仕切っていた駐車スペースはカキリマ商人に売った、とかれは言う。
東部ジャワ出身やくざ界で聞いた情報では、かれらは縄張りとしていた駐車スペースを一区画150〜200万ルピアでカキリマ商人に売ったとのことだ。「そりゃあ前金みたいなもんでな、年間貸し料20万ルピアと駐車場利用費一日一千ルピアがこのあと定期的に入ってくる。」との説明だった。ジャラン・ムラワイVとWで商いをしているミ・アヤム、ソト・アヤム、ソト・ミ、果物売りたちはその話しを裏書きした。

今のブロックM界隈で、駐車用スペースの多くがカキリマ商人に襲われて消え去ってしまったのはそのせいだったのだ。ごみごみし、騒々しく、不愉快な雰囲気に取って代わられ、気持ちよさなど探すべくもない。デパートや商店の買い物客は、店の玄関を囲んでびっしり並んだカキリマ商人の売り場に行く手を阻まれて、買い物の気がくじけそうになる。
やくざたちがひとりの警察官と軍人に上納金を納めているという疑惑の存在が、不安を一層高いものにしている。もしそれが本当だとすれば、治安機構がやくざ者を序列化し、ブロックMにおけるかれらの存在を合法化していることになるのではないか。そのような状況下にあっては、治安職員はブロックMの治安統制をスピーディに行うことができるものの、ブロックMにおける暴動を策謀したり煽ったりするのも容易だし、それが別の地区へ波及する可能性すら開かれている。これがブロックMシンドロームと呼ばれるものなのだ。


同じような話しは南ジャカルタ市クバヨラン・ラマ市場にもある。クバヨラン・ラマ市場のスプロボ庶務課長は、1997〜1998年の経済危機から暴動へと登りつめて行った時期にカキリマ商人がいたるところに溢れかえり、その後に続いて、結局はやくざの手中に落ちる保安料徴収が大流行となったことを認めている。
レフォルマシ時代になる前、カキリマ商人は市場の外何箇所かで見られただけなのに、今や市場の外をクバヨラン・ラマ通り、チルドゥッ・ラヤ通り、クラマッ・サトゥ通り、高架道路橋下にそってびっしりと包囲している。そして、そのカキリマ商人たちは、マドゥラ、チレボン、パダン、バンテン、東部ジャワなどのエスニック・グループに分かれて集団を作っている。かれらは商売を行う自分の占有地を守ってもらうために、自分たちでやくざ者を選び「保安料」を納めている。
そこでは、やくざ者たちと警察および行政警察との間で衝突が起こる。レフォルマシ以後、その衝突が激しさの度を増したのは、Muspikaと呼ばれる郡長、郡レベル軍指揮官、郡警察署長をメンバーとする郡指導協議機関の弱体化と、法の空白の真っ只中にカキリマ商人の洪水が起こったというふたつの理由のためだ。
「レフォルマシ前、この機関はたいへん強力だったので、秩序統制オペレーションは迅速スムーズにおこなえた。しかしレフォルマシ以後は弱体化しており、警察は行政警察が秩序統制を行うとき、バックアップのためにやってくるだけだ、」ダルウィス・M・アジ副郡長はそう述べている。
実は、市レベルでも同じようなことが起こっている。市長、市レベル軍司令官、市検察所長、市警察署長、市裁判所長で構成されているMuspikoと呼ばれる市指導協議機関は秩序統制を行う牙を失ってしまい、州庁内での部門間コーディネーションに任せているきらいがある。

Muspikaが弱体化しているさなかに、軍や警察の退役・現役の人間が、まずやくざと郡役所職員の利害の橋渡しをしようとして登場してきた。ところが、結局どうなったかといえば、かれらはやくざ者を配下におさめたのだ。やくざはかれらの手先となり、ブロックMシンドロームが繰り返されている。暴力はやくざと軍人の間で転移し、消し止めるのがほとんど不可能となる。なぜならやくざ側は根源的な感情に支配されて破れかぶれとなり、一方軍警察側はチームメンバーの仲間との個人的な関係に依拠していくからだ。
この暴力の転移・拡大は、郡役所職員がカキリマ商人に対して秩序統制を行う際に直面する暴力負担を減少させない。カキリマ商人と軍の下部階層との結びつきは徐々に、カキリマ商人と軍中堅階層との結合へと浸透していく。

郡役所のある情報源は、1999年初期に郡秩序安寧職員がひとり生命を落としたと物語る。その職員がカキリマ商人の屋台を押収して郡役所に集めた後、国家警察本部の悪徳将校にバックアップされたパダン人カキリマ商人グループが役所に現れ、その職員は暴行されたあと、将校の命令で警察分署に留置されたのだ。

タナアバン市場では、はるかに大規模な利益争奪が行われている。1997年にヘルクレスとイウスというふたつのやくざグループの間で衝突が起こった。ヘルクレスはクブンカチャンに住む東ティモール系の男が支配し、一方イウスは東ヌサトゥンガラ州フローレスの系統だ。
タナアバン地区では、ほかにもその年1月27日という断食のさなか、KHマス・マンシュル通りにある郡役所にカキリマ商人3千人が火をかけたという事件も起こっている。
ソース : 2000年12月20日付けコンパス
ライター: Windoro Adi


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『無益な自己破滅』

2002年10月12日のクタの悲劇は、インドネシア民族がいま体験の真っ只中にある自滅プロセスに警戒するよう、インドネシアのエリート、政府、国民の合理精神に瞬間的とはいえ、強くはたらきかけたに違いない。

自己破滅とは自分が自分に対して、その生を破壊することだ。自己の国土の上でインドネシア民族が同胞に対して行う、荒っぽくあからさまな暴力現象の中にその自滅プロセスは広がっている。もう何年にもわたって見せつけられて来たさまざまな爆弾破裂事件、ビル・家屋・公共施設破壊事件、人間の精神を崩壊させあるいは物質的破壊を伴うさまざまな暴動事件などの中にその現象は広がっているのだ。
しかし本当は、現実や真実を見つけ出してそれに生命を吹き込む澄んだ合理精神を追い払う効果を持ち、エネルギーを浪費させるだけの、無益なしかし終わりのない諍いにインドネシア民族とエリートたちを閉じ込めるだけの、たとえば真実や現実を見分けて捕捉するための澄んだ合理精神を追い払う継続的な情報操作と過剰な相互批難や過剰な相互批判といった柔和で秘めやかな性質の非物理的暴力症状の中にさえ自己破滅は広がっている。

きわめて皮肉なことに、本来あるべき姿にその機能を戻させようとする合理精神を目覚めさせたクタの悲劇に続いたのは、決して癒されることのない自滅シンドロームばかりだった。クタの悲劇後、諸方面からの支援を得たイ・マデ・マンク・パスティカ総警視指揮下の警察は、180人以上もの生命を奪った爆破犯の捜査に全力をあげた。しかし捜査はその出発点から、柔和で秘めやかな暴力症状の基本三パターンである情報操作、過剰な相互批難、過剰な相互批判の間で空転するさまざまなコメントで体裁付けられるばかりだった。
こうして自己破滅は継続し、想像にあまりあるとおり、後日の新たな自滅を駆るための沃土となる自己破滅シンドロームがどんなにインドネシアに充満しているかということを喜びながら、インドネシアの滅亡を望む諸勢力はこぞって歓呼に手を打ち鳴らした。インドネシア警察の職務遂行には継続的な監視と批判が加えられるのがふさわしい。もし過去に繰り返し犯した非プロフェッショナル的な兆しが見え始めたなら、それは今でも再発する可能性があるからだ。しかしそのすべては必ず正直さ、意識的合理的知恵、およびクリーンな心で行われるべきであり、情報操作謀略や過剰な批難あるいは過剰な批判でなされるべきものではない。


自己破滅を共に進行させる柔和で秘めやかな暴力の果実は目の前にある。現実に生きたものとするための合理精神を追い払う情報操作の喧騒と過剰な批難や過剰な批判が産む第一の果実は、クタの悲劇がそのもっとも根本的なレベルにおいて、インドネシアの全宗教が反対している人間の滅亡つまり人間の生をむりやり滅ぼすものであったということだ。
インドネシアを滅亡させようとする柔和で秘めやかな暴力の継続的な喧騒の只中で、大衆はそのもっとも根本的なことを早く忘れるよう誘導されたために、むりやり生を滅ぼそうとすることへの反対姿勢、つまり人間愛や生命愛という意識が膨らませるはずの基本的ヒューマニズムの姿勢、の成育する時間がなかった。大衆はこうして、自己快楽原理のみをベースにした非現実的で非合理的な批難応酬の引っ掻きあい衝動にすぐ回帰するよう条件付けられた。その果てにあるのは、われらの愛するこの国土における文明の崩壊だ。
情報操作の喧騒や過剰な相互批難や批判の第二の果実は、クタの悲劇の直後に現れた洞察、つまりインサイトを放逐したことだ。このインサイトというのは、たとえば慢性の組織疾患にかかった人間が、自分の実態を認識し、医者に治療を求める一方で合理的に自分を治癒させて行こうとする意識をかきたてる能力というようなものだと言える。
インサイトは、治癒あるいは病の進行を軽減させることに自分を向かわせる、患者の新しい行動、生活態度、ライフスタイルなどを生み出すのに重要である。柔和で秘めやかな暴力が出現させる喧騒がインサイトを放逐したために、正直、公正、建設的協力などを通してインドネシア民族のすべての成員が自ら解決しなければならない問題がどれだけ自分たちの中に巣食っているかということを、大衆はもはや十分に意識できないでいる。
他者を過誤の張本人と批難する一方で、インドネシア民族の体内に巣食っている基本政治社会心理問題のひとつが法の確立と正義の実現におけるはなはだしい脆弱さであるということを少しも理解していないようなエリート間の騒動が、そのインサイトの放逐を物語っている。

情報操作や過剰な相互批難と相互批判の中に広がる柔和で秘めやかな暴力でインドネシアが、知らぬ間に少しずつ、しかし確実に総体的偏狭さの中に閉じ込められつつあるのは実に懸念すべきことだ。その総体的偏狭さの中でインドネシア人は、悪事を普通で当り前のことと感じ、悪事は行ってはならない異常なものなのだという感覚を失ってしまう。その総体的偏狭さの中でインドネシア人は、物の破壊や人間を滅ぼし、その生をむりやり失わせてしまうことを異常で、行うべきでなくまた阻止しなければならないものと感じなくなってしまう。その反対にインドネシア人は、それを日々の暮らしの中で起こってしかるべき普通のことと感じている。総体的偏狭さの中でインドネシア人は、その身の毛のよだつプロセスが実際は進行しているというのに、民族を蝕む自己破滅プロセスをもはや感じ取ることができない。だからインドネシアが粉々になって崩壊するまで、そのプロセスは進行し続けるのだ。


非現実的で不合理な自己破滅は、従来の自己の値打ちに対する不足と暴力体験に根を張る無意識な衝動的圧迫によって起こったものにちがいない。だから自己破滅は基本的に、良識の役割を最大限に復活させるために英知を見つめ、あるがままの現実をそのまま受け止めてそれと和合理解し、その中に巣食う問題を認識し、そうして正直さや本当の善と正義を望む中でビジョンを持ったあらゆる問題解決活動を行うことによって克服し、通過し、超越することができる。
だが複合的文化、人種、宗教そして広範な多くの島々で構成される国土を持つインドネシア民族のパースペクティブでその超越を実現するには、インドネシアに抱かれたそれら島々が構成する国土にいる全住民とその文化、人種、宗教をカバーする民族の全構成員がスクラムを組み、調和的でダイナミックな協働の中に統合されることなしには不可能だ。
それゆえに、民族の超越運動について、インドネシアが真実、生物心理社会精神の発展生育するための正直さや本当の善と正義を望みつつビジョンを持った現実的合理的なあらゆる問題解決活動を行う中で、スクラムを組み、調和的でダイナミックな協働と団結を目指して、すべての文化、人種、宗教信徒そして広範な多くの島々で構成される国土にいる全住民に対して向けられる勧告は、意識中の良識が慢性的自己破滅の恐怖の飛沫をとらえはじめるとき、一層踏みつけにされるばかりとなる。


個人の利益、政党の利益、種族・文化・宗教・地域感情にもとづく集団の利益等々は、インドネシアとインドネシア民族の中に取り込まれる共通的生物心理社会精神の生育のために、捨て去ればよい。
それともインドネシアの国土に住むエリートや国民は、インドネシアの名を担って進み出るにはあまりにも矮小なのだろうか?あるいはインドネシアの国土に住むエリートや国民はあまりにも矮小なので、かれらはあるひとつの文化、ある特定種族、あるひとつの地域感情だけの名前を担いで進み出るのがせいぜいなのだろうか?さもなければもっとどうしようもないことに、インドネシアの名を担って進み出るのにインドネシアの国土に住むエリートや国民があまりにも矮小なのは、かれらのレベルが自分個人の名前だけを担って進み出るだけのものでしかないからなのだろうか?
ソース : 2002年11月30日付けコンパス
ライター: Limas Sutanto  精神病医、マラン在住


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『1998年5月14日の悲劇』

2003年2月9日の報道の日に関連して、忌まわしきジャカルタ5月暴動と歴史上で呼ばれている1998年5月14日の記者たちの体験記をお伝えしよう。

5年前の1998年5月14日木曜日、記者の一団は特急列車アルゴ・ラウ号に乗って急遽ソロからジャカルタへ戻ろうとしていた。記者たちは一日だけ報道セミナーに出席し、トリブアナ・サイドが公式化した報道宣言を発表した直後だった。その宣言は、基本的人権にもとづく報道の自由が確立されなければならない、ということを表明したものだ。

記者たちが5月12日にスカルノハッタ空港を発ってソロに向かうとき、6千人を超える大学生がスハルト大統領辞任を要求してデモを行っていた。記者たちというのは、ジャファル・アセガフ、RHシレガル、サムエル・パルデデ、シナンサリ・エチッ、タルマン・アザム、アウグスト・パレンクアン、そしてわたし。ムルデカ・ティムル通り17番地にあるカフェ「クラブ45」経営者のラニDストリスノもグループに加わっている。
アルゴ・ラウ号はひた走り、記者たちの脳裏には5月12日のトリサクティ大学学生によるデモが甦っていた。17時45分、四人の大学生が治安部隊員の実弾で死んだ。ヘンドリアワン・セイ20歳、エラン・ムリヤ19歳、ハフィディン・ロヤン21歳、ヘリ・ハルタント21歳の四人の大学生はレフォルマシ・ヒーローと名付けられた。5月13日の埋葬のおり、アミン・ライス、エミル・サリム、ブユン・ナスティオンら学生の行動を支持する著名人がキャンパスを訪れて弔意を表わした。
5月12日夜、カイロで行われたスハルト大統領と在住インドネシア国民の会合も記者たちの脳裏をよぎる。「もしわたしが国民の信頼を失ってしまったのなら、かまわない、もういいのだ。わたしは銃の力でいつまでも権力を振るうことはしない。そうでなく、わたしは宗教者となって神のそばに近付くことにする。」スハルトはそう語った。コンパス紙は『スハルト、辞任の用意あり』と報じた。

列車はひた走る。チレボンはもう過ぎた。携帯電話を持っている記者はジャカルタの情勢をモニターする。シレガルとわたしは携帯電話を持っておらず、それで他の人から情報を仕入れた。知らせは「ジャカルタで午前9時から火災発生」
黒煙はまずグロゴルに上がった。コタ地区にある中国人商店は焼かれ、店内は略奪された。カプテン・テンデアン通りやワルン・ブンチッ通りは略奪者で埋まる。ゴールデン・トゥルーリー・スーパーマーケットが標的にされ、首都ジャカルタを暴動が広がっていった。
ブカシに入るとアルゴ・ラウ号は速度を落とした。鉄道線路に近いヨグヤ・スーパーマーケットは黒煙を噴いている。略奪に走る人々は冷蔵庫、テレビ、家具などを担いで運ぶ。治安部隊員の姿は見えない。国家警察も国軍もいない。国軍首都行政管理区司令官シャフリ・シャムスディン少将は任務遂行を怠っているのだろうか?
アルゴ・ラウ号の窓に石つぶてが当たる。厚板ガラスのおかげでひびが入るにとどまる。クレンデル・セントラル・プラザが燃えている。緊迫感がひしひしと感じられる。
アルゴ・ラウ号にいる記者たちは携帯電話を通して情報収集に忙しい。安全に降車できる駅はどこだ?ジャティヌガラか、ガンビルか?ジャティヌガラに到着前、列車がまだ動いているとき、ジャファル・アセガフは下へ飛び降りた。家族がかれを迎えている。タルマン・アザムも同じようにジャティヌガラで飛び降りた。シレガル、シナンサリ、アウグスト・パレンクアンとわたしはそのままガンビルまで乗り続ける。

シレガルとシナンサリは一緒にバスで帰った。アウグストとわたしはトランクをカフェ「クラブ45」に預けて、歩いて帰った。カフェ経営者のラニDストリスノも徒歩でクマンを目指した。
わたしの孫ディラと友人のアメはメンテンの農夫の像の近くでわたしを待っていたそうだが、わたしは別の道をたどったので出会わなかった。ディラは群集がヘロ―・スーパーマーケットを略奪し、品物をトローリーに乗せて運んでいるのを目撃しながら、おじいちゃんがいつまでたっても現れないので不安に襲われていた。ところがわたしとアウグストは、ガンビル〜チキニ間の線路をのんびりと歩いていたのだ。
わたしたちは暴動を目撃した青年男女とすれ違う。かれらはわたしを知っており、しばらく立ち止まって見聞を話してくれた。そんなことが何回もあった。大勢の人がわたしに声をかけるので、アウグストは不思議がった。わたしたちはスラバヤ通り13番地に無事たどり着く。わたしに忠実に付き添ってくれたアウグストにありがとうを言うと、かれはバイク・オジェッに乗ってコンパス編集部を目指した。

続く日々、わたしは状況の推移を見守った。内部情報を持っている友人たちに電話し、国内外の印刷や電子メディアのニュースをチェックした。わたしはもう新聞を持っていない。日刊紙プドマンは1974年にスハルトが発行禁止にしたのだ。それでもわたしの記者本能が消えたわけではない。だからわたしはニュースの最先端にいるよう努めた。わたしはインドネシア民族が歴史的な曲がり角に直面していると感じていた。次に何が起こるのだろう?ちょっとしたメモを次に添えておこう。


5月15日金曜日朝、カイロのG-15会議からスハルト大統領は帰国した。ハリム・プルダナクスマ空港からは数十台の自動車コンポイが大統領をガードする。その途上、5月14日の暴動で破壊された建物の瓦礫をかれは目にする。中国系女性に向けられたレイプ事件に関する状況をかれはまだ知らない。チュンダナに着くとすぐにウィラント将軍と話し、続いて四人の調整大臣と会談した。そしてデモの波を鎮めるために石油燃料価格をすぐに下げるよう指示した。
スハルトはその日、辞任の用意があると聞いたナフダトウル・ウラマ指導者たちが大統領を称賛する記者発表を行ったことを知る。同じ日スハルトは、コスゴロ、KNPI、退役軍人グループというゴルカルの三グループが自分への支持を止めたことを知る。

5月16日土曜日、スハルトは全国の大学学長代表団を大統領宮殿に迎えた。インドネシア大学のアスマン・ブディサントソ学長に率いられたデレゲーションは、大統領の辞任の申し出が大学生に好評で迎えられた、と知らせる。
スハルトは次の客、アブドゥル・ガフル、シャルワン・ハミッ、イスマイル・ハサン・メタレウム、ファティマ・アフマッの副議長四人に付き添われたハルモコ国民協議会・国会議長を迎える。ハルモコはスハルトに辞任を要請した。スハルトはハルモコの態度に驚く。かれがハルモコを育てたのに、ハルモコはいま寝返ったのだ。
ハルモコは実際、パトリサイドを行った。ギリシャ古典劇の中では、権力を手に入れようとする者はまず父を殺す。それがパトリサイドつまり父殺しだ。ハルモコは1973年のトレテス会議でそのスタートを切った。情報大臣、ゴルカル党首、国民協議会・国会議長というキャリアの道程のはじまりとして、インドネシア記者協会の指導者の座にそのときついたのである。

新しい役者が舞台に上がった。イスラム知識人ヌルホリス・マジッ教授だ。5月14日、かれは国軍地域行政管理機構参謀長のスシロ・バンバン・ユドヨノに、情勢を討議するために招かれた。その会合の結果を携え、ヌルホリスは5月16日に記者会見を行い、新たに国民協議会と国会を編成するための総選挙実施をスハルトに提案する。
国軍総司令部担当記者たちは、ソースの不明なプレスリリースを入手した。国軍はナフダトウル・ウラマの見解を支持するというのがその内容だ。陸軍戦略コマンド司令官プラボウォ中将は、そのプレスリリースは国軍が大統領辞任を求めていることを意味している、という自分の意見をスハルトに伝えた。
スハルトは「それは本当か?」とスバギオ陸軍参謀総長に尋ねる。スバギオは否定し、ウィラントも似たような態度を示した。どうやら国軍は、どっちの側についているのかということを、まだオープンに表明したくなかったようだ。

5月17日日曜日、大学生グループが国民協議会・国会議事堂にハルモコを訪れてスハルトの退任を要求した。ハルモコはそのあとで副議長たちと共に記者会見を行い、賢明な振舞いと正しいこと、つまり辞任、を行うようスハルトに呼びかけた。

5月18日月曜日、ハルモコの表明は国の機関が出したものでなく個人的な意見であり、法的根拠のないものだ、と述べるウィラント将軍の姿がテレビに流れる。その日、ヌルホリス・マジッはチュンダナに招かれた。総選挙を行え、というかれの提案にスハルトは賛成したが、急転する情勢がそのアイデアを追い越していった。

5月19日火曜日夜9時、イスラム界の指導者9人がチュンダナに招かれ、レフォルマシ委員会とレフォルマシ内閣編成案を語るスハルトと会見した。だがイスラム指導者たちはそれへの参加を望まない。
この日の朝、ギナンジャル・カルタサスミタと経済分野の大臣たちは国家開発企画庁で会合を持った。アクバル・タンジュンをその中に含む十四人の大臣たちは、内閣から退くことを表明する覚書を作った。ギナンジャル派はBJハビビ副大統領の側についたことがはっきりした。


5月20日水曜日のモナス広場における百万人デモ計画をアミン・ライスが中止させた。モナス広場は既に国軍の厳しい警戒下に置かれていたのだ。ハルモコは夕方、スハルトが辞任しないなら、大統領罷免を行い得る国民協議会特別総会を召集する、という三度目の最後通告を発した。
マデレーヌ・オルブライト米外相がバージニアで行った演説の中で、スハルト大統領の辞任を勧告している、というニュースがアメリカから届く。サアディラ国家官房長官の保管していたギナンジャルグループの覚書が大統領に示され、スハルトは驚愕に包まれる。
夜9時、サアディラと国家官房に勤める大統領のスピーチライター、ユスリル・イーザ・マヘンドラは、レフォルマシ委員会に参加を要請した45人の中でそれを受諾した者はたった三人しかいなかった、と大統領に報告する。
「そうか、もういい。だったらわたしは辞任しよう。」スハルトはそう語った。
夜11時、スハルトは、大統領職を辞任してその職権をハビビに譲るとの決定を伝えるために、サアディラ、マヘンドラ、ウィラントを呼んだ。

5月21日木曜日、朝6時ごろにわたしの電話が鳴った。「スハルトは降りたよ、おじさん。」というラニ・ストリスノからの知らせ。そして友人スダルポ・サストロサトモからの「すべてが終わった。」という電話が続く。
わたしはテレビを見る。放映されているシーンは、サルワタ最高裁長官の立会いのもと、国家宮殿でのスハルト大統領からBJハビビ副大統領への大統領職の委譲。ハビビが宣誓を終える。そのあとウィラントがマイクの前に進み出て「国軍は前大統領の安全と名誉を保証する。スハルトとその家族を含めて。」と約束する。スハルトと娘のトゥトゥッが宮殿を去る姿がテレビに写る。

三十二年間にわたってジャワ風封建制と絶対独裁制でインドネシアを統治した男の履歴が幕を閉じた。腐敗と偽善と傲慢さにまみれた支配者に愛想をつかした学生と民衆の反抗によって、1998年5月14日暴動の一週間後、スハルトはその玉座から降りたのだった。
ソース : 2003年2月8日付けコンパス
ライター: Rosihan Anwar  シニア記者、ジャカルタ在住


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『1974年マラリ事件と歴史の中の闇』

インドネシアにおける暴力は味わうことだけが可能であり、解明されるためのものではない。新聞報道は眼で見ることのできた事実を明らかにするだけだ。「マラリ事件」と呼ぶほうが通りの良い1974年1月15日事件では、11人を超える死者、三百人の怪我人、そして775人という逮捕者が記録されている。自動車807台とオートバイ187台が破壊放火され、建物144軒が損壊した。黄金160キログラムが数多くの宝飾店から消失した。

その事件が起こったのは、1974年1月14日から17日までの、日本国首相カクエイ・タナカがジャカルタを訪問中のことだった。学生はかれの訪問を、ハリムプルダナクスマ空軍基地におけるデモで迎えようと計画したが、厳しい警戒にあって学生集団は空軍基地への侵入に成功しなかった。
1974年1月17日午前8時、日本国首相は国家宮殿から自動車で出発するのでなく、スハルト大統領に付き添われてビナグラハからヘリコプターで空軍基地へ向かった。首都の状況が依然緊迫していたことをそれは示している。

マラリ事件はさまざまなパースペクティブから見ることができる。外国、中でも日本資本に反対する学生のデモという見方がある。中には、あまりにも大きい権力を握ったスハルト大統領個人補佐官(アリ・ムルトポ、スジョノ・フマルダニたち)に向けられたインテリ層の憎悪の発現という見方もある。
軍エリート(特にスミトロ将軍とアリ・ムルトポの間のライバル関係)の摩擦が招いたものという分析もある。98年5月暴動にもウィラント対プラボウォというよく似た傾向をわれわれは見ることができる。そのどちらの事件についても、チャルマース・ジョンソンの表現を借りるなら、「さそり将軍」のゲームだと言うことができよう。
暴動、放火、掠奪を伴うデモが起こった後、ジャカルタは黒煙に包まれた。スハルトはスミトロを治安秩序回復作戦司令官から解任すると、ただちにその座に就いた。大統領個人補佐官は解散。ストポ・ユウォノ国家諜報調整庁長官は大使となって転出し、ヨガ・スガマがあとを継いだ。

日本国首相という国賓の鼻先で起こった1974年1月15日暴動はスハルトの顔に泥を塗り、その耐えられない恥辱のためにかれはそれ以来、あらゆる個人や集団に対して極度に用心深くなるとともに、政府に口出しのできる勢力に対して容赦ない弾圧を行った。
かれはそれ以後、大統領副官経験者というクリテリアをメインにして、きわめて選択的に側近を選ぶようになった。権力の維持とその恒久化を目的に、物理的心理的なあらゆる事柄が行われた。その意味で1974年1月15日事件はオルデバル暴力史のひとつの道標だと言うことができる。弾圧はそれ以降、更にシステマチックに行われるようになった。


言説の中のマラリ
「スハルト自伝」(1989年出版)の中で1974年マラリ事件は、どうという論もなく通り過ぎられている。反面、ペトルス(ミステリアス・シューティング)についてスハルトはかなり開けっぴろげだ。
「ヨガ将軍の回想」(1990年)の中では、1973年以来の学生運動のクライマックスとしてマラリ事件が描かれている。1974年1月15日暴動のとき、ヨガ・スガマはニューヨークにいた。事件勃発の5日後、かれはジャカルタに呼び戻され、ストポ・ユウォノに代わって国家諜報調整庁長官となったのだ。
多くのキャンパスにおける講習とデモが情勢の熟成をもたらし、政府の経済政策に反対する動きへと向かった、とヨガは記す。はじめは1983年8月13日から16日にかけてインドネシア大学で行われた、スバディオ・サストロサトノ、シャフルディン・プラウィラヌガラ、アリ・サストロアミジョヨ、TBシマトゥパンらを話者とする討論会。次いで「10月24日請願」を生んだ青年の誓い記念日。IGGI議長JPプロンクの来訪は反外資抗議行動のモメンタムとされ、そしてそのクライマックスが1974年1月の日本国首相訪問に手向けられたデモと暴動となって現れたのである。
ラマダンKH(1994年)やヘル・チャヒヨノ(1998年)の著作の中では、政界上層でのライバルだったアリ・ムルトポをスミトロが断罪する傾向が見られる。アリ・ムルトポとスジョノ・フマルダニは元ダルル・イスラム=インドネシアイスラム軍メンバーをGUPPIの中に取り込んで育成した、とスミトロは述べている。イスラム急進分子を利用するパターンはオルバ時代に何度も繰り返されている。

マラリ事件においては、その組織を通してバンテンのキアイ・ヌルとラマディによる群衆動員が行われた。ごろつきに支払うため、バンバン・トリスロは三千万ルピアの資金を使った、との噂が流れた。ロイ・シマンジュンタッはスネン地区周辺のベチャ引きをかり集めた。日本車の破壊をはじめ、トヨタ・アストラやコカコーラに対する会社襲撃などといった活動を行って学生のイメージを傷つけ、スミトロ〜ストポ・ユウォノのコンビに打撃を与えるのが目的だった。
一方でラマディ文書は「Sというイニシャルの将軍が1974年4月から6月までの時期に大統領を顛覆させて権力を奪おうとしている。社会革命は必ず起こり、パ・ハルトは倒れるだろう。」とスミトロのキャンパス勢力支持計画を表現した。当時ラマディはスジョノ・フマルダニやアリ・ムルトポに近い存在として知られていた。その文書が指している人物は言うまでもなくスミトロ将軍である。

スミトロとアリ・ムルトポの証言はそれぞれ異なっている、というよりむしろ相反してさえいる。かれらのいったいどちらの言うことが本当なのだろうか?
われわれは、暴徒が現場で官憲に捕らえられるのを眼にしているが、首謀者が解明されたことは一度もない。ラマディは逮捕されて、拘留中に不可思議な死を迎えた。オルバの歴史の中には、1974年マラリ事件をはじめとしてまだ多くの闇が存在している。
ソース : 2003年1月16日付けコンパス
ライター: Dr Asvi Warman Adam インドネシア科学院歴史家


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『銃器の所有は誰にも簡単』

銃器を所有したい?簡単さ。銃器販売会社のひとつから買えばよい。合法かって?もちろん。購入者は国家警察本部発行の公的な銃器所有許可証[IKSA]つきで銃を手に入れることになる。許可証は一年有効で、また一年延長することができる。
正式に銃器をひとつ所有するためには3千万から2億5千万ルピアの金がかかるそうだ。もちろん銃器の種類次第であり、マガジン式かレボルバー型か、ブランドはどこか、使用弾丸はゴムか鉛か、それとも催涙ガス銃かあるいは空気式か、そして許可は何年間得られるのかといったことで金額が決まる。
銃器所有許可手続きビジネスを手がけている国家警察のとある不良将校は、先週銃器許可手続きのために友人に付き添って行ったわたしに、心理テストに落ちるのを心配する必要はない、と語った。銃器所有希望者にとって心理テストは重要な条件のひとつだ。そればかりか、鉛弾にしろゴム弾にしろ、銃器を正式に所有するためには、事務的なものから健康テスト、心理テスト、射撃テストなどのテクニカルな分野にいたるまで、決められた何段階かのステップをパスしなければならない。おまけに国軍地域行政管理指令部、州警察、Baisなどといった諸政府機関でのインタビューテストがある。しかしご心配無用。時にはうるさい規則など経る必要もない。値段さえおりあえば、一ヶ月で銃器と許可証が手に入る。

公式なものはそれだ。非公式に手に入れたいって?留置場に入るのを恐れないならそれも可能。要は金とネットワークを持っていること。どうしてネットワークが?なぜならヤミ銃器を手に入れる場合、それはふつう密輸入品なのだから。だからどれだけ金を持っていようとも、ネットワークとつながりがなければ銃器の入手はむつかしい。お粗末なものから完璧な品質のものまで幅広いバリエーションの手製銃器を手に入れるだけでも、ネットワークは必要だ。
ハンティング・スポーツ愛好者のひとり、パレンバン出身のヘリ36歳は、スミス&ウエッソン32口径エアライトにそっくりの手製レボルバーを買わないかと持ちかけられたことがかつてあった、と話してくれた。値段は三百万ルピアにもならない。実に安い。同じ種類の銃なら手続き等を含めて1〜2億ルピアかかるというのに。

鉛弾、ゴム弾、それとも催涙ガス弾あるいは空気式のどれであれ、所有許可手続きの費用が高いことが、海港、空港、外交、公海など不法銃器輸入ルートの監視不足とは別に密輸入を生み出す原因のひとつをなしている。
さまざまな理由で人が銃器保有を望む傾向があることも、マーケットを求める無責任なひとびとに利用されている。その結果は量的にも質的にも、銃器を使った犯罪の拡大へとつながって行く。
それゆえに、法律の新編成に加えてもっと厳重な監視が必要とされているのだ。これまで法律不在のために、ある地域で公式にどれだけの銃器が存在しているのかという把握すらできていなかったとも言えるのである。
ソース : 2003年7月3日付けコンパス
ライター: F Sidikah R  インドネシア大学警察学研究室学生


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『バイオレンス文化 〜 ボロブドゥルからオルデバルまで』

偉大なる文明の成果ボロブドゥル寺院の壮大さの影に、ヌサンタラ支配者たちのバイオレンス、陰謀、野望、裏切りの物語りが隠されている。深く根付いたバイオレンス文化はスルタン国時代、植民地時代と続き、そしてオルデバル支配の時代に激しく荒れ狂い、いまや舞台裏の影の支配者となっている。

インドネシア大学考古学者アグス・アリス・ムナンダル、インドネシア大学文化科学学部歴史科主任ムハンマッ・イスカンダル、インドネシア科学院政治オブザーバーのモフタル・パボッティギは、ヌサンタラ史のはじめからオルデバル期まで、さまざまな形態で出現したバイオレンス政治の一連の歴史とパースペクティブを解説する。

バイオレンスと挑発は民族の歴史のはじまりから記録されていた。紀元5世紀ごろ西ジャワに栄えたタルマナガラ王国のいろいろな碑文遺跡に、少なくともそれを見ることができる。アグス・アリス・ムナンダルの説明によれば、戦争神であるインドラ神の乗り物と信じられているアイラワタ象にプルナワルマン王は乗る、とチアルトゥン碑文に記されており、それは支配権が武力によって確立されたことを表しているそうだ。タルマナガラ碑文にはたいてい、ヘゲモニーと征服を象徴する王の足型も一緒に刻まれている。
タルマナガラが7世紀に滅亡したのは、スリウィジャヤ王国との戦争を招いた抗争の結果だった、とアグスは語る。王国間の滅ぼしあいは、シャイレンドラ王家から追放された中部ジャワにある王国の元支配者にしてスリウィジャヤ王国の大王となったバラプトラデワを巻き込むものだった。シャイレンドラ王家は、ヌサンタラにおける王朝間覇権争奪を描く巨大建造物、ボロブドゥル寺院を建てた支配者の一族だ。そのころ、ヒンドゥ教を信奉するサンジャヤ王家と大乗仏教を捧持するシャイレンドラ王家の間で、権力の争奪が展開されていた。
権力拡大に努める両王家は、数十もの寺院を建立した。ヒンドゥ寺院はディエン高地に壮麗に姿を並べ、一方ボロブドゥル寺院は20年もの歳月をかけた四段階の工事が進められた。そのうちに支配権を争う両王家の間につながりが生まれるようになる。そうしてシャイレンドラのプラモダワルダニ姫とサンジャヤの王位継承権者ラカイ・ピカタンの間で華燭の宴が開かれることになった。実際にラカイ・ピカタンは両王国を支配して、旧シャイレンドラ王国領に住む政敵を排除した。スリウィジャヤに逃れたバラプトラデワとの間に反目が生まれ、バラプトラデワは復讐のためにジャワへの侵攻に努めた。

相互に打ちかかり、薙ぎ払って、相手を根こそぎ殲滅しようとする行動は、ヌサンタラにスルタン国が出現するまで続いた。社会階層、グループ分けされた社会、宗教問題などが当時の政治抗争を彩っていた。


バイオレンスの伝統は連綿と続いて行く。グループや階層のエゴは結局、植民地主義に道を開いた。インドネシアが植民地化されたのは、地元政治権力者の積極的な姿勢のためだ。「自分や自分の属す集団の支配権のために、かれらは支援を求めてオランダ人に接近した。抗争しあう権力者たちは、支援の報酬として自分の領土の主権を少しずつオランダに譲り渡して行った。」ムハンマッ・イスカンダルはそう語る。
主権をすこしずつ売り渡すことで自己の支配権力の永続をはかった地元支配者のアグレッシブな姿勢のために、ヌサンタラは植民地勢力のいけにえとなったのだ。スルタン国同士ですら、支配権と商業上の利害のために互いに打撃を与え合った。マラッカ海峡周辺では、アチェとジョホールの両スルタン国の間で王国間抗争における暴力サイクルが出現した。アチェ・スルタン国はポルトガルと同盟し、一方ジョホールはVOCと手を組んだ。その結果はアチェが勝ってジョホールは倒された。互いに倒しあい、蹂躙しあうことは、入れ替わり立ち代り行われた。

ヌサンタラにおけるムラユ民族の友愛は、実効力を持たなかった。いちばん重要だったのは、アチェとジョホール間に見られるように、支配者の覇権と経済的利益だ。似たようなことは、カリマンタン、スラウェシ、そしてヌサンタラのすべての島々で繰り返された。
ジャワ年代記に記されているような一連のバイオレンスも続いた。ウイレム・レンメリンク著「華人戦争とジャワ王国の滅亡」には、コンセンサスを生み出すことのできるメカニズムがジャワには存在しない、と述べられている。ジャワの歴史においては、打ち負かすことのできない物理的パワーとテロを通して強制されるコンセンサスばかりが見出される。
忘れてならないのは、オランダは全ヌサンタラを3世紀半にわたって支配したわけではないということだ。ヌサンタラの島々におけるオランダの支配はファン・ヒューツがアチェ戦争に勝利を収めてから6年後の1910年にやっと達成され、1942年3月8日にKNIL(蘭印軍)司令官ヘインツ・テル・ポールテンが日本に降伏したときに終わった。オランダの3世紀半にわたる植民地支配は、自分の支配権を維持するために主権と尊厳を質入れした地元権力者たちの行為のおかげで実現することができた。先祖伝来のインドネシアは、支配層権力者たちの行動によって内部から崩壊し、粉砕されてしまった。

他者中心的植民地政庁の偏向政治のせいで、ヌサンタラにおけるバイオレンスは顕著な生育を遂げた。政庁のその観念によってヌサンタラにおける政策は政治エンタティとしての蘭印の利益を指向し、施策は母国としてのオランダの利益を図るものとなった、とモフタル・パボッティギは見解を語る。
その政策のために、止むことのない叛乱がもたらされた。ましてや実施された政治システムが、強制栽培制度のようなバイオレンスを伴うものだったのだから。ブンカルノはインドネシアの政治バイオレンスが、支配を伴う経済独占にもとづく植民地主義と帝国主義に由来していると結論付けた。そのためにインドネシアは議会制政治を作り上げたのだ、とモフタルは語る。
当時バイオレンスや汚職はもちろん存在していたが、オルデバルから今日まで行われているようなシステマチックなものではなかった。1950年代のバイオレンスは、中央と地方の不均衡やイデオロギー闘争に起因するものだ。この問題が馬鹿げた形で克服されると、大勢が国の哲学を問題にしはじめた。
「オランダ植民地主義の他者中心パターンは、無中心型に変形されてオルデバルに引き継がれた。そのような政治実施パターンは、特定の勢力に依存せず、チュンダナファミリーとそのクロニーにもっとも利益をもたらし得る勢力へと常に移動した。かれらはいつでもアメリカから国際通貨機関へ、さらにはブラックコングロマリットにさえも依存先を変更することができた。」とモフタルは言う。軍にとってたいへん有利な国軍二重機能のように、この無中心型政治はシステマチックに行われ、パンチャシラの第三原理を強めたものの、インドネシア統一国家の名のもとにほかの原理を弱めることでパンチャシラに背いた。
インドネシア統一の原理は、ヌサンタラを搾取し、チュンダナファミリーとオルデバル・クロニーたちの財布を膨らませるために最大限利用された。民衆の土地が略奪されて支配者やクロニーの手に移された。二方向のバイオレンスを駆るシステマチックな不正義が作り出された。抑圧された民衆はバイオレンスで反抗し、抑圧する側の政治悪人は反対に、それが搾取プロセスの邪魔になると見て反抗を押し潰した。

1965年以来今現在まで発生しているバイオレンスはオルデバル治世の成果だ。スハルトは政治舞台から身を引いたが権力は手放していないので、いまやその責任は大きなものになっている。オルデバルのバイオレンスがもたらしたものは、インドネシアの経済、政治、法律、リーダーシップにおける事実上の破産だ。インドネシアは平和な政権交代のメカニズムを持っておらず、汚職者は必ず罪を免れ、公式非公式のいずれの面にも選りすぐった指導性を持つ者はいない。
バイオレンスの歴史を断つために、インドネシア民衆は治世の交代を必要としている。今居る政治エリートの大多数がオルデバル文化の生徒であり後継者であるがために、過去5年間にレフォルマシが実践されたとは言いがたい。現在のわが国の状態は、インドネシアマイナススハルトでしかない。大物がひとり姿を消したが、それに代わって大勢のミニ大物たちがインドネシアに現れた。スハルト時代の汚職は一般的に行政府のリーダーが行っていたが、最近の5年間は立法府も司法府もこの犯罪に積極的に関与しているので、状況はいっそう悪くなっている。
チュンダナファミリーの策謀の果てにあるインドネシアの最新状況は、古い国に新しいソサエティ。植民地時代の支配権力はオランダの利益の側についた。いまの権力は、その汚職犯罪やバイオレンスに対して法の手がまったく触れられないスハルトとその一族そしてクロニーたちの側についている。
皮肉なことに、とモフタルは続ける。権力はいま反レフォルマシ勢力の手に握られている。だからインドネシアにおけるレフォルマシが死んだ、と言うのは正しくない。スハルトの代理エゴとしてハビビが政権を握って以来オルデバルが復活していたので、その反対に1999年総選挙開催がオルバの『死』だったのだ。そのときゴルカルは再び勢力を盛り返し、PDI‐Pは赤ゴルカルとなり、ほかのグループの政治プレーヤーもそれと同類項だった。


インドネシアのバイオレンス文化を終わらせるための解決策は、民衆の手に主権を回復させることである。社会へのサービスと社会の均等化は、国と行政遂行者が行わなければならない。憲法制定、改正、そして立法のプロセスは、グループ、宗教そして宗教内(イスラム内部の間ならびにイスラム外部との)間のムシャワラを伴うデモクラシーパッケージとして協議されなければならない。
モフタル・パボッティギは、国民としての生活を発展させる必要があると強調する。三権分立政治や政治制度を理解するだけでなく、国民、憲法、国家間のチェックとバランスも含められなければならない。社会学的集合体としての民族と、政治的集合体としての国民の間のコミュニケーションが確立される必要がある。その上でわれわれははじめて、民主主義に固有の『法治の確立』を行うことができるのだ。

それがうまく適用されれば、安い衣食住物価をもたらすスハルト時代の復活にあこがれる人はもはやいないだろう。なぜなら過去5年間に起こったことのすべては、インドネシア民衆の主権を望まないオルデバルのしわざなのだから。
ソース : 2003年11月8日付けコンパス
ライター: Iwan Santosa


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『社会でのバイオレンス行動』

2004年3月からインドネシア民族はレフォルマシ時代のあらたな段階に入る。つまり正副大統領直接選挙だ。政治オブザーバーやメディアが、キャンペーン、総選挙、そしてとりわけ正副大統領選挙の帰結分析をはじめている。
この国のナンバーワンとツーになる人物の選出に結び付けられている希望は、権力者や国家からの干渉のない、民衆による選挙であるとはいえ、繰り返される懸念のあるイシューのひとつは、議員候補者、政党、あるいは正副大統領候補者のファナティックな支持者間で繰り広げられるバイオレンス、つまり暴力衝突である。

バイオレンスの原因
分析者の予測は、バイオレンス問題の周辺に存在するのは政党、議員候補者、正副大統領などの支持者だ。キャンペーン期に起こるバイオレンスは群衆集団間の喧嘩、パブリックファシリティや自動車の破壊、流血などといった形態が想定される。
社会にバイオレンスの発生を駆り立てる要因は何なのか、という疑問が生じる。単純に言えば、二つ以上の勢力の間で起こるバイオレンスは、受け入れてもらえない利害関係者のゆえというより、共通利害に由来する。バイオレンスは実行者、実行者と制度(治安部隊)、ならびに実行者と治安部隊のコンビネーションが発生させうるもので、個々の政治行動の中でバイオレンスが発生する場での治安部隊の役割にも注目する必要がある。(アーネスト・ゲルナー「国民とナショナリズム」1983年)

損させられた、ましてやずるい手を使われたと感じる側が欲求を満たすために(政)敵に対して物理的な暴力を使うのは最期の手段だが、スペシフィックには、インドネシアにおける総選挙のたびごとにバイオレンスや衝突が起こるのはほとんど避けようのないものになっている。そのパターンはインドネシアの民主主義祭典に当たり前の付随的行動となっているのだ。
期待レベルと体験される現実の間にギャップがあることが、バイオレンスをはぐくんでいる。社会におけるフラストレーションや損失の存在、そしてその公的なはけ口が見つからないために衝突が発生する。経済や政治上の権利の格差が、宗教にせよ政治にせよ自分のイデオロギーは正しいと主張する群衆を駆ってアナーキー行動へと向かわせる。
カプランやラスウエルなど現代思想理論家はバイオレンス発生の主要因として、民衆の期待、価値認識レベル、政治の不安定の間に相関関係が存在することを認めている。バイオレンスは構造的および個人的というふたつの形態をとる。構造的バイオレンスは静的で目立たず、安定的な印象を与える性質のもので、個人的バイオレンスは反対に、ダイナミックで変化を生み出す変動を起こす性質のものだ。静的社会では、個人的バイオレンスは公衆の関心となるが、構造的バイオレンスは当たり前のものと見なされる。反対に動的社会では、構造的バイオレンスは見つかりやすく、個人的バイオレンスは危険視される。

バイオレンス行為が起こるたびに批難の的になるのは実行者で、インドネシアの政治システムの弱点あるいは社会メイン経済や人材活性化の能力不足の一部分であり政府の責任だ、と政府が認めることはまずない。キャンペーン期でのものも含めて個々のバイオレンスにおける考慮されるべき要素のひとつは、社会の繁栄と技術のレベルを分析することだ。
生活クオリティと教育レベルの低さは、公民生活つまりデモクラシー建設プロセスに関する民衆の解釈に影響を与える。まして現在のような移行期においては。自分を支持する選挙民の経済セクターにおける活性化や、民衆がその中にインボルブされるデモクラシー制度の強化に対する政治エリートの責任がそこにある。キャンペーンがはじまるはるか以前からプログラムされ推進されてしかるべき義務がそれなのだ。

チャレンジ
総選挙キャンペーン準備の中での主要アジェンダは依然として、選挙民への政治教育の強化よりも資金・党支持者・議員候補者集めに焦点が置かれているように見える。ポーランド、チェコ、エストニアなどのようにほとんどバイオレンスなしに共産主義から民主主義へと政治システムが移行した国は、ジャック・スナイダーが「投票からバイオレンスへ 〜 民主化とナショナルコンフリクト、2000年」の中で言うように、ある社会のミドルクラスの役割は妥当な収入レベルに従うということが実にはっきりしている。
社会的結合が脆弱で、同時に経済開発が遅れているなら、特定グループが経済政治テリトリーをわがものにする一方、ほかの大多数が没落の中に暮らしているとき、SARA問題が繁茂する。SARA問題の勃興はデモクラシー機関の機能不全に関わっており、そこでは政治エリートたちが自分のポジションに危惧を抱くのだ。

KKN文化が横溢し、失業が増大し、腐敗政治家が立候補し、議員候補者たちが偽造の学歴を用い、政治家への信頼がどん底に達するとき、政治行動の成熟とキャンペーン活動に対する反応の間のつながりは破壊的となる。この要素は、支持者民衆が公約と金で買えるため、発展途上国では些事と見られている。生活におけるチョイスを持たない支持者民衆を政治家は必要としているため、似たようなバーゲニング様式は簡単に売買される。マネーポリティクス行為は、過去の政治システムの弱さ、国家の脆弱さを証明する政治行動への理解の低さを示しており、その結果民衆は地元イシューにすら煽られて容易にアナーキー行為にはしる。

インドネシアの政治キャンペーンは、アナーキーな姿勢を示す場でなく、民族としての連帯感情を再編するモメンタムと見られるべき時に至っている。なぜなら、問題の最大の根は、KKN、失業、民族のモラル腐敗をどのように撲滅するかなのであり、他面、衝突やコンフリクトは、エリートや社会階層にとって自己批判を行うためのツールとして受け止めればよい。いかなる理由にせよ、バイオレンス行為は止めなければならない。なぜならバイオレンスは常に自己と他者を損なうからだ。キャンペーンと総選挙に参加する民衆は、ただ政治エリートを見習うばかりなのである。民衆が行うことは往々にして、主観的で不合理で感情的でしかないエリートの行動を反映しているのだ。
ソース : 2004年2月7日付けコンパス
ライター: John Haba インドネシア科学院文化社会研究センター研究員


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『2004年総選挙は平和裏に行われるだろうか?』

2004年総選挙の全プログラムは、民主主義的で平和裏に行われるのだろうか?暴動を生む大政党支持者間の反目が収まらないで一層の不安を掻き立てているありさまを思えば、国民がそんな期待を抱くのも無理はない。ただし、総選挙の実施はまださきのことで、候補者も未定であり、キャンペーン日程だってまだ決まっていない。

最新の政治バイオレンス事件はバリのブレレンで起こった。ゴルカル党役員ふたりが死亡し、一般市民で何の罪もない被害者側家族60人が、再襲撃を恐れて自宅からの避難を余儀なくされている。この事件は実は、1999年総選挙よりずっと以前から繰り返されてきたPDIPとゴルカル両政党支持者間の果てない抗争のひとつなのである。
もしも誘導的環境を作り、民に繁栄をもたらす民族統一と連帯の溶着剤として関係諸方面や政党の能力が機能するなら、国民のその希望は実現するにちがいない。国民の希望を受け止める政治プロセスとして、2004年総選挙は国民政治活性化のツールとならなければならない。それは、倫理とモラルに満ちた政治ゲームをどのように行うかという政党関係者に対する教育をも含んでいる。先月末にバリで起こった流血事件のように、政敵を失脚させるために互いに罵り合うことではないのだ。同時に、政治上の権利や法的義務にアクセスするさい、異なる意見が出されるのは当然なのだと民衆を教育することもその目的のひとつなのである。

民主主義先進国で政治教育は、対等という価値観を確立するための重要な手段としての意義を常に持っている。それが立脚する場は、言うまでもなく、自由・平等(対等)・友愛を高く捧持するデモクラシーなのだが、インドネシアの政治教育はそれらの価値観からほど遠い。そのために草の根民衆レベルでは、政治上の違いがあれば常に「敵」と意味付けられ、往々にして政治バイオレンスに至る。
インドネシア科学院研究者シャムスディン・ハリスは、インドネシアの政治におけるバイオレンスの原因はいくつかある、と分析している。そのひとつは、プログラムに関する論争のようなディベートの習慣を持っていないことであり、特に草の根レベルに出現するのは筋肉を使う衝突なのだ。歴史的にインドネシア社会には、支配者との間で意見の相違を持てる空間がほとんどなかったことを理解するべきだ。それは失望、先入観、憎しみなどを抱懐させる性質を生む。
一般民衆は支配者の方針に何でも黙って賛同しているように見えるが、その裏にはいつでも炎を燃え上がらせる熾き火が隠されている。かれらの沈黙の姿勢は、時至れば暴力という形態で水面上に姿を表す憎悪の種のつみかさねとして引き継がれていく。
インドネシアの支配者たちの行動はまったく民衆寄りではなかった。全国レベルでも地方レベルでも、指導者たちの絶対主義傾向は封建時代から植民地時代、そしてデモクラシー期に至ってもまだ続いている

社会の意欲に即した方針に合致しない政治エリートの行動は民衆の恨みつらみを頂点まで上らせても、民衆は政治エリートの行動に直接報復できないために、草の根民衆同士のオープンコンフリクトとなって顕現する。政治エリートや支配者には、民衆のそんな失望行動の手が届かない。そうではなくて、地方レベルの政党活動家といった集団を基盤にしてエリートを代表する者が、ブレレンで起こったPDIPとゴルカルの支持者間衝突に見られたように、民衆の怒りの標的となる。
黄色グループは赤陣営をメガワティ・スカルノプトリの代理人と見、赤陣営も黄色グループをアクバル・タンジュン一味とその悪行を代表する者と見なしたのだ。


このバイオレンス文化は既に血肉と化しているため、変えるのは困難だ。だとしても、インドネシアにおける平和な移行フォーマット探求の努力はなされなければならない。インドネシアでは今日に至るまで、平和な政治権力移管が体験されておらず、一握りのひとびとの権力のために庶民の血が毎回流されてきた。
強い意志なくして、政治バイオレンスの鎖を断つのはむつかしい。なぜなら、支配政党ですら政治教育に関心を持たず、あるいは自分を支持する選挙民の意識や知識の向上をはかろうともしないのだから。政党が政治教育に関心を払わない傾向にあるのはどうしてか?

権力エリートたちは、プリミティブな政治のやりかた、つまり社会集団、伝統あるいは宗教といったシンボルの影に隠れる方法で権力を永続させることができるのを知っている。民衆からの支持を維持するためには、支持者がプリミティブであり、思考パターンは後進的で、マージナルな経済状況下にあるようにしておくことがメリットを持っているのだ。「政治エリートが実際に起こった草の根衝突に対していとも簡単に手を拭うところに、そんな政治実践ポリシーの証拠を見ることができる。」シャムスディンはそう結論付ける。

インドネシアの政治エリートは支配のためのもっとも効果的な方法が、エリート自身の利益に即して容易に動員できるよう、一般民衆を後進的な状況の中に置いておくことであるのを熟知している。そのため真剣に変化を与えようとは決してしない。なぜなら達成したい主要事項は、個人やグループの権力が民の背にまたがって立つことなのだから。
そんな政治現象は、法と正義の手は自分に届かないという自信のもとに、権力エリートが自由で何のおそれもなしにKKNを行う事実に見ることができる。権力争奪のためにバイオレンスを策謀し、それを永続させるという政治文化からの出口は、シビルソサエティ集団の信念に回帰する。勝つことだけでなく政治競争の中で負けることを受け入れるという健全なデモクラシーのある暮らしや、平和な権力移管がなされるための努力への支持をはじめなければならない。バイオレンスから教化された公民生活という方向へ政治文化を変化させる中で、グループ間の信頼の樹立を集中的に発展させなければならない。
その効果的な方法のひとつは、総選挙制度を選挙区制に変えることだ。選挙区制では、議員候補者が市民に直接選ばれるので、政治家はクオリティが評価されることになる。今のように、自分を担いでくれる政党の大看板に隠れることはもうできない。選挙区制では、市民は自分が選ぶ個人の質を直接問うのである。


バンドンのパジャジャラン大学政治専門家サムギヨ・イブヌレジョ博士は、ブレレンにおける政党集団間の衝突はいくつかの現象からなっていると見る。
まず政党エリートと底辺層の間の断絶だ。もうひとつは政治的未熟現象。三つ、政党は正しく機能を果たす能力に欠けている。四つ、政党間の関係についての歴史的フェーズ。五つ目は、糧の分配が妥当でない。
エリートと底辺層の間の断絶は、党幹部に対するイデオロギーの周知や党基盤の認知に関する失敗を生む。断絶が起こるのは、政党エリートになると突然かなり裕福になるからで、物質面からくるそんな状況がかれらを群集から遠ざけるのである。その結果、政党エリートは行き着く先で金を生む政治ネゴを行っているのに、底辺層にはなんの分け前もないことが党内部に問題を引き起こすのだ。
「あの事件がイデオロギーの衝突だなどと、だれが信じられようか?なぜならゴルカルとPDIPとの間で本当にかれらを縛っている価値観など何もないからだ。あれは歴史に関わることがらであり、ありきたりの集団間抗争にすぎない。」と博士は語る。
それら両政党が行っている政治教育も、まともなものではない。かれらは上層部で頻繁に衝突を繰り広げ、エリートコンフリクトは熟成されて、政党集団はそこから『政治とは衝突するもの』という理解を引き出す。底辺層の誤った理解は、衝突を煽りがちなエリートから下部層に伝えられる会話で更に悪化する。エリートが底辺層を煽る形態には、過去の出来事を言い立てて復讐の欲求に火をつけるものもある。他の政党が勝ったのは、ずるい手を使ったり、政府の庇護を受けたから、などと言うのだ。

博士は、衝突が発生しやすい三つのモメンタムを警戒すべきだ、と言う。それは選挙人登録期間、キャンペーン期間、票集計期間の三つだ。選挙人登録期間に政党は、うちの者はまだ選挙人に登録されていないのに、あっちの党の連中はもうみんな登録されている、などと疑心暗鬼になる。キャンペーン期間では、浮動層は有名人を見物することに興味を持つだけで、候補者のスピーチに関心はなく、おまけに政党の指示に従う党員でないために衝突が起こりやすい。
政党集団同士の衝突は避けることができるのだろうか?
博士は、きわめて難しい、と答える。「われわれができるのは、ミニマイズするだけ。どんなやり方で?政党エリート層自身が少なくとも地方レベルの政党エリート対話フォーラムに参加するべきだ。まずそれが最重要事項だ。地方総選挙コミッションはみな、その対話フォーラムを推進しなければならない。」とコメントする。
すぐ変えなければならない別の問題は、総選挙をお祭りだと捉えているわれわれの理解だ。総選挙はお祭りではない。これは致命的な誤りである。民族にとって総選挙とは、未来を見据えたとてもシリアスなものであり、どんちゃん騒ぎや祭りどころか、国民が民族の将来を熟考し、計画するための場なのである。ましてや民主主義の祭典などと言われるが、いったい誰の祭典なのだろうか?

憂うべきことがらは、総選挙ではすべての政党があたかも決まりを破るのを公認されてでもいるかのような実態だ。交通信号、道路標識、数多くの規則が破られるが、警察は怖がって措置を取らない。「そんな実態を政治的に成熟するプロセスだなどと言えるのだろうか?ノーだ。かれら自身が法を尊重しないなら、われわれは政治上の成熟プロセスが起こることなど期待のしようもない。」博士はそう言明する。

地方総選挙コミッションは衝突をミニマイズさせるための戦略を持て、と博士は提案する。そのひとつは、政党エリートを集めて親睦を深めさせ、総選挙の意義は勝つことでなく民族を将来に向けて前進させることだという理解を共有させること。「総選挙の意義が勝つことという方向に傾くとき、そこにはバイオレンス発生の可能性が高まる。」と語る博士。
コマルディン・ヒダヤッ総選挙監視委員長は、総選挙キャンペーン前の時期に、衝突に至る民衆の古傷が水面上に姿をあらわすだろう、と言う。今現在、マドゥラ=サンピッ、アチェ、マルクにおけるような種族やSARAコンフリクトはまだ解決に至っておらず、加えてイデオロギーコンフリクトや外から持ち込まれてきたテロリズム、経済問題などのコンフリクトまでもが潜在している。

総選挙は民族分裂という状況の中にある。そんな状況下で大政党は統一をはかる勢力となるべきだ。なのに、起こっているのは皮肉な現実なのである。
大衆動員と同義語である総選挙キャンペーンは、今回の総選挙では一層の危険をはらんでいる。潜在的な社会コンフリクトとは別に、昔のものにくらべて今回の総選挙は多くの新政党が関与する新システムで行われることが危険の増大を生んでいる。その一方で、政治教育がより成熟しているわけでもない。
それゆえに今の政党は、民族の状況を読む能力を持たなければならない。そして政党には、民族への貢献という役割が要求される。政党はそれぞれ、党外部にたいして説得を行う前にまず党員やメンバーに対する教化の能力を持ち、付託を示さなければならないのだ。
ソース : 2003年11月8日付けコンパス


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『わたしに花を贈らないで』

わたしは今日、花をもらった
今日は特別の日でもないし、わたしの誕生日でもない
昨夜わたしたちははじめて喧嘩し、かれはわたしを傷つける言葉を投げつけた
かれはそれを悔やんでいるのがわたしにはわかる
だって今日、花を贈ってきたんだもの

わたしは今日、花をもらった
今日は結婚記念日でもないし、わたしたちの特別の日でもない
昨夜かれはわたしを壁にふっ飛ばし、わたしの首を絞めはじめた
青あざと全身の痛みの中でわたしは目覚めた
かれは自分の行為を悔やんでいるのがわたしにはわかる
だって今日、花を贈ってきたんだもの

わたしは今日、花をもらった
今日は母の日でもないし、ほかの特別の日でもない
昨夜かれはわたしをまた殴った、これまでよりもっと激しく
わたしはかれが怖い、でもかれから去るのも怖い
わたしにはお金がない、だったらどうやって子供たちに食べさせてやれるだろう
でもかれは昨夜の自分の行為を悔やんでいるのがわたしにはわかる
だって今日、かれはまた花を贈ってきたんだもの

今日はわたしのための花がある
今日は特別な日、わたしの埋葬の日だ
昨夜かれはわたしを死ぬまで暴行した
もしわたしに、かれから去るのに十分な勇気と力があったなら
今日、わたしが花をもらうことはなかったでしょう ・・・・・・

さまざまなメディアに流されたその長い文は、ある活動家が送ったものだ。「家庭内暴力は今日中にストップ。それに耐えようとしてはいけない。」メッセージは大文字で書かれている。そのメッセージは、いまだに共通問題として取り上げられていないさまざまな家庭内暴力事件に対する強い反応なのだ。「大勢が、家庭内暴力は家庭内の問題だ、と考えています。」ジョクジャにあるリフカ・アニサ女性クライシスセンター(WCC)理事のエリ・ハスビアントはそう語る。
「おまけに女性は夫の優しい態度に簡単に欺かれるのです。夜に殴られても、翌日夫がプレゼントや花を贈るということはよく行われています。女性はそれで簡単に夫を赦すのです。」ミラ・ディアルシ反「女性への暴力」コミッション副長官はそう続ける。

特にジャワで優勢な、家庭内の秘密を厳しく守ろうとする『ジャガ・プラジャ』コンセプトのために状況は更に悪化する。「家族の恥を語るのは自分自身の恥をさらすのに等しい。夫が殴るということは、妻に必ず落度があるからだ。」親の多くは子や孫にそんな教えを伝える。
インドネシア大学法学部刑法科主任ハルクリストゥティ・ハルクリスノウォ博士があらゆる機会をとらえて述べているように、そのような背景はその種の行為を当局に訴えないようにさせることから、女性への暴力行為に関するダークナンバーを大きなものにしている。
皮肉なことに、女性の多くが伴侶の性格を変えることができると考えているが、しかし暴力はやまず、時間がたつほど暴力のレベルが高まっていくというバイオレンスサイクルについても女性たちは知らない。「多くのケースでは、自覚の有無にかかわらず、女性は自分が体験しているバイオレンス状況に自分を適応させようとしています。」ミラはそう言う。
ところが、ぴったりと閉じた表門の内側に隠された出来事のせいで、往々にして致命的な破局が起こっている。民間団体カルヤナミトラは、1997年に新聞に載った42人のバイオレンス被害者のうち6人が家庭内暴力で死んでおり、1998年では22件中9人が死んでいることを調べている。
ジャカルタのチプトマグンクスモ病院統合クライシスセンターのブディ・サンプルナ法学士は、表に現れた事件は氷山の一角にすぎない、と言う。量的に見ればカルヤナミトラが集めた数字はなんら壮大なものではない。しかし数字は人間の味わった悲惨を語ってくれない。ましてやその悲惨が、自分の愛する人間、自分を守ってくれるはずの人間によって行われるものであるのなら。


家庭内暴力は犯罪だ、とブディ・サンプルナは強調する。やはりジャカルタで家庭内暴力被害者のためのクライシスセンターを運営する民間団体ミトラ・プルンプアン理事エリ・ハスビアントとリタ・セリナ・コリボンソもそれに同意する。ムラディ博士が法務大臣在職中に強調したように、女性への暴力問題はもはや個人の問題でなく国の問題として、いやむしろ国際問題として捉えられなければならない。だからそれはグローバル問題になるのである。なんとなればこの問題の中には、人間が生まれて以来生得的に固着している権利としての基本的人権に関連するグローバルイシューがあるためだ。基本的人権自体は、統合的包括的に検討されなければならない政治、経済、社会、文化問題なのだ。

女性への暴力問題の対応や防止方法は、特に1993年に女性への暴力解消国連決議が採択されてから7年以上もの間、ローカル、国、地域、世界のあらゆるレベルで頻繁に会議が持たれ、検討や討議がなされてきた。社会に発生している女性と子供に対する家庭内暴力の実態に対しては、民間団体がすばやく反応してきたことを認めなければならない。1994年8月26日からジョクジャで活動を開始したリフカ・アニサWCCは、この問題におけるパイオニア的存在だと言える。
当時リフカにとって、家庭内における女性への暴力反対キャンペーンを行うのは容易なことではなかった。あちこちのセミナーでリフカたちは家父長制主義者から侮蔑的扱いを受けた。相談してきた女性たちの夫からはさまざまな脅迫を受けた。

リフカ・アニサWCCは今年から、ありとあらゆるルートに働きかけて、女性への暴力行為の中に含まれている問題についての社会啓蒙をはじめた。昨年は地区警察の特別取調室と協力して、暴力被害者をどのように取り扱うかということに関するさまざまなジェンダー・パースペクティブ・トレーニングを行っている。
1994年の取扱い件数は18件だったが、1999年には349件になった。いまやフルタイムスタッフ17人とボランティア5人を擁するリフカ・アニサWCCは、1994年から2000年5月までの期間で1,098件の女性への暴力事件を取扱い、その解決に向けて努力している。
「1999年には取扱い事件の23%を法的ルートに乗せて離婚請求を行っています。」とリフカ・アニサWCC研究員でコミュニティベースド・クライシスセンター・コーディネータのトリニンティヤス文学修士は語る。緩慢ではあっても、相談に来る被害者たちの意識は高まりつつある。その年、自分の受けた暴力事件を訴訟に持ち込んだ女性がひとり出た。

昨年7月、リフカ・アニサWCCはジョクジャのパンティ・ラピ病院と協力して、同病院に女性サービスユニットを開設した。24時間サービスのこのユニットは隠れた場所に置かれているわけではないが、一般のひとがすぐに認知してくれるものでもない。「証人保護法がまだない間はリスクが高いため、われわれは用心しなければならない。」同病院のマテウス・スジャルウォはそう語る。
今やリフカ・アニサWCCはプルウォクルトからジョンバンまで活動テリトリーを広げている。「プサントレン界の友人たちがわれわれを支援してくれています。」と説明するエリ。この問題についてリフカ・アニサWCCはもっとも経験豊富だと言える。かの女たちは、警察、病院、国家法廷、宗教法廷、検察、マスメディア、諸民間団体やNGOなどと定期的に情報交換のためのネットワーク・ミーティングを開催している。


1997年前後にはさまざまな政治事件が起こり、1998年5月暴動時の事実と確信されている大量レープ事件は、女性への物理的、精神的、性的暴力問題に対する諸方面の関心をいっそうオープンなものにした。
ドゥラップ・ワラプサリ会長のイラワティ・ハルソノは、サパリナ・サドリ教授が女性への暴力事件、中でもレープ事件がより感情面での配慮を伴ってより人道的に、そしてそれゆえにより公平に取扱われることを目的に、警察署内での婦人警官デスクの設置を推進した、と語る。
婦警デスクコンセプトは、アジアやラテンアメリカの発展途上国の多くで婦警デスクや婦警専門警察署が成功裏に運営されていることを記したアンナ・チョーンコヴァ著「女性へのバイオレンスと警察の役割」(1997年)の中に示されている。
「バイオレンス被害者女性が勇気を持って警察に届け出る道を婦警デスクが開くだろうがために、インドネシアのシニア婦警はこの問題に関心を寄せています。」と語るイラワティ会長。ドゥラップはシニア婦警たちが編成した機関であり、暴力被害者女性と子供への取扱い向上を目的にして国家警察に特別サービス室を設置させたのがこの機関だ。
「女性と子供への暴力事件処理のためにもっと役割を与えられ、もっと活用されたい、との希望から国家警察本部の関心を引く努力も、警察総人員中のわずか5%しか占めていない婦人警官の数が常に厚い壁となって立ちはだかるのです。シニア婦警はみな海外へ出て、先進国の警察がその問題をどのように扱っているかを見ています。」とかの女は語る。
1999年4月16日、首都警察は6ヶ月のトライアルとして9ヶ所に特別サービス室を設けた。同時に特別サービス室職員に対しても、民間団体からのジェンダー・パースペクティブの色濃い被害者取扱いトレーニングが行われている。そのトライアルの結果、クライシスセンターとして機能する特別サービス室は、家が遠かったり、その家こそがちょうどバイオレンスの巣窟となっているために帰宅できない被害者のために、安全な仮寓のための家を必要としていることが明らかになった。

「女性の心身がきわめて危険にさらされているケースでは、本人にとって自分自身の安全と経済的援助が必要とされます。」リタ・セレナ・コリボンソは続ける。
民間団体ミトラ・プルンプアン理事のかの女は、1997年から2000年6月までに222件のカウンセリングを行ったと語る。「わたしは被害者たちがどのように徐々にサバイバーに変身して行くかを見ています。女性たちはより気丈で自立するようになります。最初は闇の中だった状況もひび割れて光が射し込んでくるのです。」
ジャカルタでの活動ネットワークを充実させるため、2000年6月6日にチプトマグンクスモ病院2階の緊急処置施設にワンストップ・クライシスセンターがオープンした。「医者がもっとセンシティブになり、単に医学的処置を取るだけでなく、患者の不審な点にも注意を払うようトレーニングを行っている。」ブディ・サンプルナとハルトノはそう語る。2000年6月から9月の間で、チプトマグンクスモ病院ワンストップ・クライシスセンターは110件のレープ、暴行、子供への暴力事件を扱った。「家庭内暴力はあらゆる社会階層で起こっている。」とブディは言う。

2000年9月、シンタ・ヌリヤ大統領夫人は、女性と子供への暴力問題に対応するためにプサントレンを基盤とするプアンアマルハヤティ・クライシスセンターをオープンさせた。この総括的な人道機関は最初のステップとして、七つのプサントレンに設置された。「安全な家を必要とする被害者がいたとき、プアンが手を差し伸べてくれた。」とブディは言う。
これは終わりのない仕事のように見える。女性へのバイオレンス行為をなくすために、さまざまな不足や弱点を補いながらすべてのネットワークがひとつに編成されようとしている。リフカ・アニサWCCがグヌンキドゥル県プライェン地区ではじめている、民衆ベースのクライシスセンター形成に行き着いたように。

しかし女性への暴力問題対応としてのクライシスセンター式アプローチに批判がないわけではない。「被害者が隔離され、加害者は自由に歩き回るのを放置されています。」ミラ・ディアルシ副長官はそう言う。それを受けて「刑罰だけでは加害者への問題解決にならない。加害者は世の中に復帰できるよう、テラピーを受けなければならない。」とブディが言う。
だがそれらクライシスセンターのおかげで、少なくとも暴力被害者女性たちにアクセスの道が開かれたのだ。「ある晩、民放ラジオで放送されているリフカ・アニサの講話を偶然聞きました。」3歳の子供を抱えるスナルティ夫人26歳は語る。1995年に結婚して以来、かの女自身と子供はギャンブル狂の夫から暴行を受け続けてきた。「殴打、ビンタ、蹴り。それどころかわたしと子供の身体を踏みにじるんです。」
離婚手続きが終わるのを待ちながら、リフカ・アニサWCCメンバーのミク・スワルド夫人の手で暫定的にある家に収容されているスナルティ夫人は、既に夫から去る決心をつけた。かの女は花を贈られたくないのだ。
ソース : 2000年10月18日付けコンパス


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『重暴行は依然として多発 〜 示談が可能だから』

強盗やひったくりとは別に、都民の日々の暮らしを彩っている犯罪事件は、重暴行事件。個人が個人に、あるいは集団が個人や集団に対して行うこのバイオレンスは、世間一般の注目を集めていないようだ。

一月の最初の二週間だけで、29件もの事件が記録されている。一日あたり二件の暴行事件が起こっている計算だ。地元警察からの簡略な報告を読むと、暴行事件はたいてい、誤解や(一般人の常識からすると)些細なことにうながされて発生している。
ところがその些細なことが深刻な結果を生んでいる。病院に担ぎ込まれたり、生命を失う被害者が出るのだ。暴行は単に撲ったり蹴ったりして行われるだけでなく、暴行者が包丁、ナイフ、鎌刀、鉈などの刃物を使うことも稀でないからだ。おまけにその暴行が大勢で、つまりリンチの形で行われることも頻繁に起こっている。

1月3日にジュランバルのヤディ・スプリアディ43歳に起こった事件を見てみよう。その夜ヤディはルディ20歳に、他人の女房にちょっかいを出すな、と注意した。そのとき泥酔していたルディはヤディの態度に承服できず、ヤディに斬りつけたのだ。
同じように1月9日、北ジャカルタ市チリンチンのスカプラで、やはり酔っているときに注意されたタミン・ビマ21歳はアフマッ・シャリフディン17歳に斬りつけたし、1月14日に東ジャカルタ市ジャティヌガラのチピナン・ラティハン通りで注意を与えたメセイ24歳には、酔っていたアリフが斬りつけている。


道路交通を背景にした、もっとズバリ言うなら、路上を通行しているときの暴行もよく起こっている。1月4日、タングランのカラワチ通りで、オジェッ引きのスゲン25歳がトラック運転手アグス・ユアンダ35歳と喧嘩したあげく死亡した。原因はスゲンがヘルメットを落とし、アグスの運転するトラックがそれをひいたためで、スゲンは怒って口論がはじまり、ついには暴力沙汰となったもの。別の事件は1月10日夜、北ジャカルタ市プジャガランにあるバー「カソギ」の駐車場で、駐車しようとしたルスリ48歳が駐車番の指示に従わなかったため、ルディ40歳とアプリ23歳に殴られたというもの。
公共交通機関運転手や周旋屋の間で乗客を取り合っての暴行事件はよく起こっている。金を払わせようとした車掌に乗客たちが怒って撲るという事件もあった。

それらは単に些細なことに駆られて起こったバイオレンス事件のサンプルにすぎない。原因がはっきりしない事件はもっと多い。たとえば道を歩いていて、あるいはワルンで買い物しているときに暴行されたりリンチを受けたりといった被害にあっている人もたくさんいる。
インドネシア大学社会学者パウルス・ウィルトモは、特に中下層階級のひとびとが一層怒りっぽくなりすぐに暴力をふるうことの明確な原因に関する専門的研究がまだなされていない、と表明する。大雑把な推論をするなら、ジャカルタの社会そしてインドネシア一般には「アムッ」やフラストレーションが存在しており、日常的にバイオレンスを目撃しやすい性質がある。コントロールを超える怒りである「アムッ」は、怒りを抱え込むことが好きなインドネシア人の文化に由来している。
怒りの感情が積重ねられると、抑圧の限界を超えたときに爆発する。生活苦からも不公正を目にしたときも、怒りが積重ねられる。日々の暮らしの困苦はフラストレーションをもたらす。その困苦は決して自分が悪いせいでなく、外部(政府)から与えられる不公正のひとつだ、とかれらは感じる。加えて、頻発するバイオレンス行動に関する日々の体験や知識が頭の中に蓄えられる。こうして結局かれらは、暴力はノーマルなことだと見なすようになる。
そこにきて、廉価なアルコール飲料や薬物類など、さまざまな刺激剤が世の中で簡単に手に入る。こうして事態は悪化する。「インドネシアの民衆が簡単に気持ちを傷つけられ、ちょっとしたことでバイオレンスをふるい出すのは、すこしもおかしくない。」パウルスはそう語る。
さらに厄介なことに、そのフォローアップとなると、暴行事件は往々にして容易に記憶から消されていく。世間はまるでそれをごくありきたりのこととして受け取っているように思える。


暴行事件が容易に忘れ去られることは、警察の捜査から糾明に至った届出件数が証明してくれる。2003年1月から11月までの重暴行事件届出件数1,142のうち422件(37%)が捜査を完了している。捜査完了という意味は、通常P−21と呼ばれる検察公訴人が警察の取り調べ調書を受け取ったか、もしくは刑事事件要素に欠けるために警察が捜査を打ち切ったものを指している。
最終的に重暴行事件がどれだけ法廷で裁かれたかについては、データがまだ入手できていない。ましてやどれだけの事件が法廷で判決を降されたのかについては、尋ねられるにしのびない。


そんな現実に鑑みてインドネシア大学犯罪学者トゥバグス・ロニー・ニティバスカラは、重暴行事件糾明のレベルが低いのは、世の中で起こる暴力事件を警察がうまく区分できていないからだと言う。ロニーによれば、バイオレンスの種類は三つで、まずプリミティブな個人/集団バイオレンス、種族性バイオレンス、モダン集団バイオレンスに分かれるそうだ。「警察は、どれが純粋犯罪で、どれがそうでないのかを区別するのに苦労している。それが多くのバイオレンス事件をダークナンバーにしている。おまけに法律は、犯行者が誰かを明らかにせよ、と要求している。」とのコメント。

群衆がいっしょになって行った暴行に警察は、入獄最高5年半という刑罰が与えられる刑法典第170条を適用しがちだが、捜査員は犯行にさいして『共同謀議』があったことを立証しなければならないために、それには弱点がある。なぜなら路上での集団暴行はしばしば、突発的に発生するものだから。
刑法典には暴行犯罪に関する特別条項がある。つまり刑罰が最高2年8ヶ月の入獄あるいは3百ルピアの罰金という軽暴行カテゴリーを規定している第351条、352条と、入獄4年の353条、入獄8年の354条、被害者を死に至らしめた場合は入獄15年という355条など重暴行カテゴリーを規定する条項だ。
それらの条項違反としては、個人もしくは集団に対して群衆でなく個人が行った暴行事件が対象にされ、大勢が逮捕されている。残念なことに、事件解決のパーセンテージが低いのを見ると、加害者と被害者の間で事件が示談で解決されている可能性が高いように思える。被害者の治療費全額を負担するというような損害賠償を加害者が行えば、被害者はふつう事件を取り下げてしまう、と捜査員の多くが語っている。

共同謀議の立証が困難なために集団暴行がダークナンバーとなり、個人の路上での暴行事件が示談で済まされるなら、暴行事件が減ることはないだろう。まして昨今の社会状況は、経済的圧迫からくるフラストレーションから解放されず、日々の暮らしのあちらこちらでバイオレンスを目にすることにわれわれは慣れきっているのだから。
結局社会のメンバーは、自分が行った犯罪が法プロセスの外で解決されうるものであり、したがって刑罰を受けない可能性があることを考え、バイオレンスを行使し、あるいはそれを試みることをおそれなくなるのだ。
ソース : 2004年1月29日付けコンパス
ライター: Ratih P Sudarsono


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『ジャカルタ下層階級のSARAの種火』

SARAとはSuku, Agama, Ras, Antar-golonganの頭字語で、集団間コンフリクトを形成する種族・宗教・人種・社会階層という四つの主カテゴリーを指している。=訳注


今年2月の最終週から3月最初の週にかけて、種族間暴力衝突が三つの場所で起こったことに都民は驚いた。これまで種族間のコンフリクトは、ジャカルタから遠く離れた地方で起こる、テレビの画面や新聞で報道されるだけのものだったのに、突然わが家の近所で勃発したことに都民は驚いたのだ。


特にジャカルタの中上流階層にとって、その驚きは強烈だったようだ。ポンドッキンダ、ポンドッグデその他の中流ポンドッは、これまで高官たちの複数公職兼務、コングロマリットの負債返済の延期、第二次ブログスキャンダルなどといったマクロ政治経済問題の中に溶け込んでいた。
一方、鉄道線路沿いや川の堤防沿いの貧窮ポンドッに住む下層都民は、地方各地からの上京移住者がジャカルタに流れ込むようになった50年代初期以来、種族間抗争の火花とはもう長い間のなじみとなっていたから、そんな暴力衝突が起こってもあまり驚かなかった。この種の火花はたいていそのまま消え去るのがふつうであり、赦す事はないにせよ、市民も治安職員も忘れ去り、決して気にかけるようなものではなかったのだ。SARAの火花が発展して大規模な衝突となるのは、一年の中で平均5件に満たない。ジャカルタでの最近の三つの事件はそのカテゴリーにはいるものだ。
ジャカルタ下層階級のSARAの火花は、SARA感情だけが爆薬を提供しているのではない。実態として、SARA感情は導火線として機能しているだけであり、だからそれが種族間暴力衝突のメインの発生原因になったことはない。窮乏に打ちのめされ、慢性的な貧しさと低い教育レベル、そして秩序安寧局職員から受ける差別的扱いが、中流上流階層のそれに比べてSARAの導火線を短いものにしていくのである。


外来者の町
「ジャカルタは外来者が作った町だ。」とメイリン・ウイ教授は言明している。ジャカルタの土着民と考えられているブタウィ族も、ブギス族、バリ族およびインド東部出身のマルデイカたちとの混血子孫だったそうだ。
ジャカルタへの移住の流れは、連鎖的移住パターンが優勢だった。この移住パターンでは、まず家長がジャカルタへ出発する。それからしばらくして、ふつうは住むところと仕事が見つかってから、妻子がはじめて後を追う。多くの場合、甥姪や同じ村の遠い親戚も、頼んだり誘われたりして一緒に上京する。概略的に言って、ジャカルタへの上京者は二つの波に分けることができる。最初の波は。1950年代からオルラ期の終わりにかけて上京してきたひとびとだ。この移住第一波はふたつのサブグループからなっており、ひとつをジャワ島外出身者、もうひとつをジャワ・バリ出身者と分けることができる。
ジャワ島外からジャカルタへ上京してきた移住者のメインは、ミナン、バタッ、ムラユ、バリ、アンボン、ブギスの各種族で、一般的にかれらは中流以上の階層の出であり、下層階級出身者はきわめて少ない。そのため、この中上流移住者は中上級の教育と技能を有し、また教育の継続や求職を行うために十分な経済能力を持っていた。かれらの社会的特徴は、粘り強く、個人主義的で、ファミリーの集団的保護にあまり頼っていない。
ジャワ・バリからの移住者は、更にふたつのカテゴリーに分けられる。ひとつは中部・東部ジャワとバリ出身者であり、もうひとつは西部ジャワからの上京者だ。ジャカルタから遠く離れれば離れるほど中流層出身者の比率が増し、近づけば近づくほど下層階級の比率が増加する。西部ジャワからの移住者のマジョリティは下層階級の女性だが、ともあれ全体的に見るなら、中流階層出身者がメインを占める各種族のジャカルタ移住第一波は、ジャカルタの中上流階級の草分けとなったと結論付けることができる。

移住第一波とは異なり、オルバ初期からオルバ末期までの間にジャカルタへ上京してきた第二波は、ジャワ島内外いずれの出身にせよ、下層民が優勢だった。その特徴は80年代から90年代というオルバ期後半に特に顕著に見られる。一方、1970年代というオルバ期前半のジャカルタへの移住は、中流階層優勢というそれまでの傾向をまだ残していた。
ジャカルタへの移住者を年齢グループで見てみると、第一波にせよ第二波にせよ、15歳から30歳という青年層が他の年齢層をしのいでいる。西部ジャワと中部西部ジャワ州境地帯からの上京者では、15歳未満の子供の数がかなり多い。特に下層階級が優勢な第二波では、ジャワ島内外いずれの出身であっても、15歳から30歳の比率は一層顕著だ。


種族別居住マップ
1950年代、上述諸種族の第一波中流上京者は、まだ特定の地域に固まって住む傾向にあった。こうしてジャカルタにはカンプンムラユ、カンプンアンボン、カンプンバリ、カンプンマカッサルといった種族別の居住地域ができた。この時期は、種族別グループの方が社会階層別グルーピングより優勢であり、種族的なまとまりの方が経済能力に応じた階層のまとまりよりずっと強かった。
種族別にまとまる居住パターンは、中上流住宅コンプレックス建設がオルバ期を通して立て続けに行われたため、緩慢にしかし確実に溶解していった。この時期は、社会階層のまとまりの方が種族別のまとまりよりはるかに優勢だった。
中国人は、人種的境界線が経済的階層の区画と同じだったために例外となった。購買力に基づいて、上流階級はポンドッインダのような居住区域に種族を超えて集まり住む傾向を見せ、中流階級の多くはポンドッグデのような居住区域に諸種族が混じり合って住んだ。オルバの経済活力は古い居住区域における濃い種族色を薄め、同時に新らしい住宅地区で種族を超えた混交を確立するのに成功した。それと時を同じくして、同じ経済活力はジャカルタの下層階級に種族別の集合的団結と連帯の感情を一層濃いものにした。かれらに対する自分の居住場所からの強制立ち退きは増加していったのだ。
立ち退かされたかれらが直面する選択肢は三つあった。まず不法居住が常である堤防や鉄道線路沿いといったもっとスラムな地域へ移り、そこの人口稠密に拍車をかける。次に、鉄道ルートが通り、ジャカルタに比べて生活費の安いブカシやタングランに移る。そしてもうひとつは、首都の中心部にある廉価アパートに移るというものだ。最初の選択肢は下層庶民のエスニックグループ化を強める傾向があり、二つ目、三つ目は反対に種族色を希薄なものにしていく。ブカシやタングラン、あるいはアパートに住むと、かれらは他の種族と混じって生活するようになるからだ。

下層民が主流を占める第二波上京者は、ちょうどジャカルタの街が人口稠密の度を深めたころにやってきたため、選択肢は二つしか残されていなかった。まず、たとえばカリジョド地区のような都内の鉄道線路や川の堤防沿いの地域をもっと混雑させること、もうひとつはチジャントゥン、パサルボ、パサルジュマッ、チプタッ、チプリル、クバヨランラマ、チャクンなど都内中心部からはずれた周辺新スラム地区のパイオニアとなることだ。
故郷から持参した教育、技能、金は最低限のものであるため、かれらは当然故郷で確固たるものだった親族ネットワークを頼らざるをえない。出身地や種族による集合居住は暫定的に守られた場所を提供するばかりか、インフォーマルセクターでの仕事の場への訓練の扉を開くものでもあった。かれらは一般に、求職によりごのみをしない若者や学校ドロップアウト者から成っている。ソロ出身の下層階級集団が、主にバソ屋を職業としてチジャントゥンに集まっているのを容易に目にすることができる。バンテン、マカッサル、テルナーテ、ティドーレ、マドゥラやジャワ島北岸地域出身者は、船員、漁民、港湾労働者あるいはその他の肉体労働者としてタンジュン・プリオク周辺地区に住んでいる。マドゥラ族はくず鉄売買や信頼できるサテ売りという専門職を持っている。アンボン、フローレス、東ティモール、パプア族の多くは娯楽施設周辺での駐車番やガードマンを営んでいる。プレマン(やくざ者=訳注)をはじめインフォーマルセクターにおける闇の世界の活動と呼ばれるものはジャワ島外出身の特定種族が行っている、ということを特筆すべきだ。


種族間暴力衝突
ジャカルタで発生した種族間暴力衝突はたいてい強硬で過熱しやすい種族同士、あるいはブタウィ族と上京者集団間でのものだ。ブタウィ族を巻き込む対立のほとんどは土地売買や借家の決まりに違反したり、特定種族の粗野で攻撃的な姿勢に起因しており、仕事の縄張り争奪に起因することはめったにない。一方、下層移住種族間の衝突はほとんどが仕事の縄張りの争奪に由来している。それぞれの移住種族が独自の仕事の縄張りを独占する場合、種族間暴力衝突はふつう起こらないが、同じ仕事の縄張りを二つ以上の種族が争奪するとき状況は変わる。そこに上述のジャワ島外出身の強硬で過熱しやすい種族が関与するとき、種族間コンフリクトは急速に発展して、残酷で熾烈な暴力レベルに達する。

ジャカルタの種族間暴力衝突の原因解剖構造は四つの要因群から成っている。第一にサポート要因群、第二に主発生要因群、第三に導火線要因群、第四に引き金要因群だ。サポート要因群は次のような要素を持つ因果関係から成っている。自種族以外を排除する傾向にある下層階級の居住パターン。沈下の度が深まるため一方で雇用が減少し、一方で下層階級失業者を増大させているマクロ経済状況とそれが引き起こす家計負担の増大。各種族は既に握ったインフォーマルセクターの仕事の縄張りをグループとして維持するために、第一線をより強固にしようとする。最後の、そして決定的でもっとも重要な要素は、特定種族のメンバーに失望感を蓄積させることを予防し、種族間暴力衝突が起これば仲裁能力のある中立的第三者としての措置をとれる社会機構システムや公的行政機関の麻痺だ。
一般市民に対する暴力団方式登場の主要要因のひとつは不法徴収金という形での汚職であり、それが郡や町レベルの公務員あるいは町レベルの治安職員の職務遂行を麻痺させている。

種族間暴力衝突の基本要因となっている第二の要因群は、強硬で過熱しやすい種族を巻き込んだ仕事の縄張り争奪だ。そんな争奪は、この経済危機時代に学校を辞めて無為の徒と化した少年や青年の間で一層熾烈に行われる。比較的少額なルピアの争奪でさえ、かれらにとっては些細なものと看過できない死活問題となる。
流動的な都市貧困大衆の一部となったかれらは、首都にあるさまざまな政治経済的利益によっていとも簡単に踊らされ、利用される。そんな少年や未成年層の比率はこのさき5〜10年の間膨張を続けると考えられ、いまは年平均5回発生している種族間大規模暴力衝突が将来的には2〜3倍増加するのではないかと推測されている。

第三要因群つまり導火線要因は、種族・宗教・人種・出身地方などに向けられる感情自体だ。下層階級の短い導火線は、SARAの四つの感情がある瞬間同時に重なり合うとすぐに発火する。その濁り水に政治経済的利益の釣り糸が垂らされれば、短い導火線は一層敏感に燃える。
最後の要因群である引き金要因は、SARA感情にしっとり塗れた短い導火線が強く燃えるという最適な機会に働くならそれは大きい役割を果たすことになるが、それが四つの要因群の中で持つ意義は、実態としてはもっとも低いものだ。引き金要因、つまりポピュラーに知られている名前で言えばプロボカトル、は警察が容易に処置しうるはずの、ありきたりの犯罪事件である。このジャカルタの下層階級種族間暴力衝突の原因解剖構造が明らかになれば、その予防と対策もはっきりしたものになっていくだろう。


解決提案
種族間暴力衝突が荒れ狂ったなら、その解決ステップはプロボカトルを捕らえて裁くということからはじまる。警察がそれをやりおおし、続いて暴動発生地域の治安統御に成功すれば、続くステップは種族感情を鎮めることだ。この段階は抗争する勢力のリーダーたちによって行われるようにするのがよい。まず形式的に、そして実質を備えた具体的なステップで。
抗争する勢力が共に信仰する宗教の要素といった、種族を超越した勢力間の関係強化やその関係を爽やかなものにしていく努力、あるいは抗争勢力メンバーがより頻繁に、より大勢で接触できる公共スペースの創造などといったものが、上述の具体的なステップの中に含まれるだろう。祈祷の場、学校、保健所、市場などのパブリックサービスの場でそんな接触が行われ、また種族間対話フォーラムなども推進されるとよい。

いま現に燃え盛っている抗争を鎮めるためのみならず、将来のコンフリクトの芽が生い茂るのを防ぐための更なるステップがある。暴力団方式を繁茂させている郡や町レベルの公務員の汚職を撲滅し、種族間暴力衝突に関与する犯罪事件を収拾できるよう警察職員を整備するのが第三のステップだ。かれら国の役人に寄生してその職務遂行を麻痺させている汚職は文字通り根こそぎにしなければならない。
第四と第五のステップは、どちらかと言えば、マクロ政治経済のレベルにある中長期的なものだ。この両ステップの中には、低所得者用廉価住宅やアパートを例とする種族混交を促進する住宅居住政策、増加の一途をたどる少年青年労働力を主ターゲットとして職場を作り出すことのできる庶民経済の強化などが含まれている。

子供・少年・青年問題を扱う戦略的ステップは、将来ジャカルタが略奪者や暴動者の膨張から免れるための鍵となるもののひとつなのだ。
ソース : 2002年3月11日付けコンパス
ライター: Tamrin Amal Tamagola  インドネシア大学社会学者


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『危険な世紀に突入する』

冷戦が幕を閉じたというのに、実に世界の流血は終わりが見えてこない。核戦争勃発の影につきまとわれていたイデオロギー対立は、もっと残虐で身の毛のよだつ種類の戦争に間を置かないでとって代わられるのだ。そのコンフリクトは人種、集団、宗教、地域などのつながりをベースにしたグループアイデンティティ闘争が引き起こす暴力の形をとるだろう。

ビバリー・クロフォードは自著The Myth of Ethnic Conflictの中で、「種族対立は一般市民を殺戮ターゲットとすることが生み出す極度な残虐さのゆえに、シリアスな関心が払われるようになる。」と述べている。文明とヒューマニズムに対してきわめて危険なこの種の対立はここ数十年の間で増加傾向を見せている。
たとえば1945年から1960年までの期間に、あらゆる軍事用機材を使って行われたコンフリクトの半分は種族対立の色彩を帯びていた。1960年から1990年の期間では、その比率は四分の三に拡大している。死者の数を見てみるなら、第一次大戦における非軍人死者は14%だったが、第二次大戦ではそれが67%に激増した。ところが、そのほとんどがエスノポリティックコンフリクトである1990年代の戦争では、全死亡者の中で非軍人の数は9割に達している。1995年の旧ユーゴスラビアにおける種族間戦争は20万人を超える死者を生んだ。ボスニア人口の半数は難民となり、セルビア系市民はすべてクロアチアから追放された。カシミール、スリランカ、アフガニスタンでは、十年以上続いている長い戦争で数十万の生命が失われている。

旧ソ連帝国に所属していた諸国でも、その危険さは勝るとも劣らない。タジキスタンの内戦では8万を超える死体が随所に散らばり、チェチュニャではムスリム地区の主要都市をモスクワが休む暇なく爆撃したおかげで十万の住民が死んだと見られている。ミサイルの雨、重砲撃、空襲はチェチュニャをぼろぼろにした。ウズベキスタン、ゲオルギア、チゴルノ・カラバクやその隣国における政府と民衆間の戦争も抑止することはできなかった。

アフリカでは、ここ十年間に起こった種族間戦争で少なくとも4百万人が死に、1千6百万人が住居を失い、2千4百万人が難民となっている。西アフリカのリベリアでは、1990年以来荒れ狂っている内戦で20万人以上が死に、それとは別に数十万人の負傷者がおり、全住民250万人中150万人が難民キャンプで暮らしている。もう5年も続いている種族集団間戦争は住宅、職場、学校、橋、病院、宗教施設、経済センターなどをめちゃめちゃにしてしまったのだ。
ソマリアでは、殺人のための効率の良いあらゆる機器を用いて同じムスリム集団が闘っており、かれらはカビラと呼ばれる種族集団に分かれている。コンゴで勝利を得た叛乱軍指導者ローレント・カビラが大統領となったが、部下の銃弾に倒れて命を落とした。その事件は1962年から続いている内戦の終結への希望をかき消してしまった。

種族集団間の戦争ほど激しい戦争はない。公的に表明されることはないが、個々の勢力は、大量殺人から敵対集団の皆殺しまで程度の差こそあれ、殲滅をターゲットに据える。コンフリクトの引き金が引かれたなら、すべてのセクターが自動的に動き出す。その動きは、あたかも巨大な嵐のように、立ちはだかる一切のものをたたみ込み、吹き飛ばす。女も赤ん坊も年寄りも区別されることなく、すべてが殲滅されるのだ。

戦争のやり方を全世界が認めたジュネーブ協定も、種族集団同士が互いに闘うとき、粉々に引き裂かれる。近代戦争における戦略の父クラウゼヴィッツは、このような身の毛のよだつ類の戦争が存在することを果たして想像しただろうか。災難は、21世紀が始まろうとする時期にその残虐さが文明の中心であるヨーロッパで起こったことだ。20年前には思いもよらなかった激しいバルカン戦争。ソ連が息絶え、鉄のカーテン帝国から分離した15カ国のほとんどで同じように内戦が起こったのだ。
今起こっているものは、本当は何なのか?このグローバリゼーションの世紀は、国家のアイデンティティと国境が重要さを持たなくなる時代だ、と言われていたのではなかったろうか?


民主主義の万能さをロバート・カプランが疑い始めたのはそのせいだ。西洋の思想家が進歩の推進力と呼んだ民主主義の効用、特に第三世界にとってのそれをかれは告発した。1997年12月American Academy of Arts and Scienceが開いたセミナーにおけるThe New Evils of the 21st Centuryと題する講演で、経済的に未分化の複合エスニック国家において民主主義は政治犯罪となりうる、との結論が表明された。新聞記者でいくつもの著作を持つカプランは、過去70年間、つまりソ連帝国への併合がなされて以来、大統領選出がはじめて民主的に行われたが、長い間夢見てきた民主主義はこの国をカオスの中に投げ込んだ、と1993年のアゼルバイジャンを例に引いた。
政府は結局、首都に戒厳令を敷いたが治安は悪化の一途をたどり、軍はその年にクーデターを敢行して、国民はやっと平穏な日々を楽しめるようになった。経済も急成長を始め、「この国はたいへん平和で安定した国になった。」とカプランは不思議さを隠さずに語っている。

さまざまなエスニックグループに分かれている中国も同様で、1989年の天安門事件で民主主義勢力が勝利していれば、より良い状態へと進んで行ったか、それともカオスの中に落ち込んで行ったかは予断を許さない。
バルカンでも1991年にユーゴスラビア政府が崩壊したとき、各州で民主的選挙が行われたが、政治エリートたちの謀略が1991年〜1992年に戦争を招き、1997年の総選挙では最大得票で勝利した人物が後にデン・ハーグの国際法廷で裁かれることになった。

カプランはアンチ民主主義者ではない。この世界には、民主主義に基づいて形成された国はひとつもないことを、かれは示したかっただけなのだ。国とは、住民の居住、移動、戦争などといった長い闘争の果てのものであり、民主主義は中産階級がほどよく成育した社会においてのみ、その意義を持つものである。安定した納税者として、中産階級は権力を握る大統領や政党の交代に依存しないシステムの誕生を促す。加えて、地域、宗教、その他の根源的ラインに基づく社会の分解をも尖鋭化する。ところが、皮肉なことに、民主主義の基盤を与えることを期待されている中産階級は、ほかならぬ独裁政権下に誕生したものなのだ。かれらが自己の階級を認識したあとで、民主主義が発展していったのである。


インドネシアにおける状況も、多分あまり違っていない。産業・商業・金融セクターが非現地人実業家の手に集中していることは、民主主義を指向する転換プロセスにおいて明らかに危険な要素だ。一方、現地人は伝統的セクターで未開発な暮らしを営んでいる。この状況は経済の二重性を反映しているのみならず、潜在的矛盾をはらんでいる。カプランの思想を借りれば、ここでの民主主義は現地人と非現地人の衝突を起こさせるだけなのだ。民主化をひとつのアジェンダとしたレフォルマシは、国内でのさまざまな暴動の中で通商とサービスの二セクターにおける非現地人ビジネスの半ば以上を崩壊させている。

昨年のハーバード国際法ジャーナルに掲載されたエイミー・チュアの記事 The Paradox of Free-Market Democracy : Indonesia and the Problems Facing Neoliberal Reformの分析は明快なものだ。「市場とデモクラシーは特定の人あるいは階級だけを利する傾向にあるだけでなく、特定のエスニックグループに対しても当てはまる。」自由市場民主主義と呼ばれるものがそれだ。そのプロセスの中で政治エリートはスケープゴートを探し、マイノリティ優勢に対する溢れる憎しみの中から利益を求める強いパワーを持っている。エスニック経済への憎しみはナショナリズム運動に転換する傾向を有しており、そうなればかれらは自由市場民主主義パラドックスのエスニック化を阻む方向に動く。このようにして国民の資産とアイデンティティは「本来のオーナー」の手へと戻される。
チュアは蘭領ヒンディアでの華人の存在に関して、アヘン売買、徴税請負、塩専売、市の開催権、金貸しや村におけるクレジット免許などを得るに至る歴史を説いた。後年、華僑ビジネス発展の終局段階では、民間セクター資産の7割を支配してオルバ初期におけるクライマックスに至る。ところが、非現地人はインドネシア総人口の3%しかいない。不公正から生まれた憎しみは1998年5月13〜15日暴動で最高潮に達したのだ。

もしも市場と経済の支配が民主主義プロセスにおけるコンフリクト発生に火をつける主要変数だと見るなら、インドネシアにおけるそのようなコンフリクトは実際、非現地人エスニックグループだけの体験にとどまらない。インドネシア東部地域では、運輸と流通セクターで優勢な南スラウェシのブギス族が地元種族の集団アモックによって繰り返し何度も損害を蒙っている。ブギス族を相手にした暴動はイリアンジャヤ、東ティモール、東ヌサトゥンガラ、マルクなどで起こった。
カリマンタンでは従来から専門家が心配していた通りの形で種族間衝突が発生した。仕事に対する粘り強さのゆえに黒支那人と呼ばれている西カリマンタンのマドゥラ族は、いまや危機的ポジションにいる。サンバスではマドゥラ族とムラユ族の間で衝突が起こり、8万人の難民を生んだ。4万人のマドゥラ族が今でもポンティアナッ市の難民キャンプに収容されている。温和さで知られたさすがのムラユ人社会も、サンバス県にマドゥラ族がひとりすら戻ることを望んでいない。サンバスの暴動では、ほとんどすべてのマドゥラ族の家が焼かれた。家財にしても同じだ。いや、それだけではない。アモックに冒されたムラユ族はマドゥラ族の残した農園をなぎ払い、数千頭の牧牛を屠殺した。それほど深刻な憎しみを宗教の説諭や国政方針の解説で阻むことは不可能だった。ひとびとはマドゥラの臭いのするものを手当たり次第打ち壊した。恨みと憎しみはアモックに発展し、地元政府はその事件で三百人ほどが死んだと発表したが、地元社会の有力者は一千人以上だったと述べている。それより前にも、マドゥラとダヤッの種族間衝突が西カリマンタンのいくつかの地方を揺るがしている。
去る2月18日、中部カリマンタンに暴動の順番がきた。またまた、マドゥラ=ダヤッ間の暴動だ。この暴動は二県だけが現場となった西カリマンタン州サンバスの事件よりもはるかに広域に広がった。中部カリマンタンのダヤッ族社会は、自分の居住地域がマドゥラ人の穢れからまったく免れていることを望んだのだ。公式発表による死者は六百人だったが、1千人以上という言葉があちこちから聞こえてきた。

かつてカリマンタンへ移住したマドゥラ族は、勇気、労働意欲、真剣さ、倹約のみを元手にして、短期間のうちにその貧民姿を村、郡、更には州都のエリート層に転換させることに成功した。人間が住むような小屋でなかったものが恒久建築住宅に変身した。しばらく前までは農産物の収穫をかついでとぼとぼ歩いていたかれらは、数年のうちにバイクやキジャンを乗り回すようになった。
それまで地方部の権力中枢から遠いところにいたかれらは、文民、軍人、警察の高官たちと親密な交際をするようになり、マドゥラ有力者は地方政府、政党あるいは治安機構とのロピイングを通して政治ネットワークを樹立した。かれらは政治経済勢力のひとつとなったが、ゆったりした自然の生活リズムになれた地元民はますますそんな状況から取り残されてしまった。
1997年以来の国家経済危機が回復を見せず、地元民の暮らしは悪化の度を増し、そんな状況は「塩の島」からやってきた移住者に対する古い恨みと憎しみを繁茂させた。しばしば野蛮に振舞い、法に背き、保護林の不法伐採に関与してきたマドゥラ族の行為への思いがそれを増幅し、これまで積み重なってきた憎しみを表立たせる機会と誘引が出現したとき、地元民の怒りはもはやとどまるところを知らなかった。
そのようなバランスの変動がマルクやポソにおけるコンフリクトの源でもある。外部からの移住者の流れがあふれて、宗教ベースで構成されていた地元民の力関係を変えてしまったのだ。キリスト教徒とイスラム教徒の間に結ばれていた地元行政機構内の特定職務に関する社会コンセンサスが、国の政治動乱のあおりを受けて実行できなくなると、失望はすぐに憎しみに変わり、ジャカルタの政治エリートがそれを利用した。

実際は、エスニックコンフリクトはそれほど単純なものではない。さまざまなファクター間の相互作用、価値観の衝突、エリートと群集の関係、各集団のものの見方、互いに錯綜するさまざまな利害などが一緒になってコンフリクトに火をかける。避難した住民が置き去りにした家財のビジネスに関与しているゆえに、コンフリクトが拡大し危険度を増すように事態を放置している、と噂されている治安機構メンバーの存在という要因も別にある。
今現在まだ続いている中部カリマンタンのコンフリクトを例にとれば、パニックに陥ったマドゥラ族は、たった25万から50万ルピアという金で不承不承バイクを手放さざるを得ない。キジャンに付く値は2〜4百万ルピアだ。それらを持っていくことは不可能であり、また死から逃れる唯一の方法はサンピッの港へ向かう、治安部隊員に警護された救援トラックに身を委ねることだが、インドネシアで当たり前になっているように、それらはすべて無料ではない。その輸送に際して、ある農民は一家で百万ルピアを支払った、と告白している。生命にくらべれば、そんな金は何の意味もないものなのだから。
エスニックコンフリクトの傷を癒すのは困難だ。悲しみ、トラウマ、深い社会的傷痕、苦悩などが単なる侘びの言葉と握手で癒されようはずもない。残虐な方法で殺された夫、子、妻の死は意識にこびりつく。それどころか、次世代へと語り伝えられていくのだ。

そのような事件で誰が勝利者になろうとも、われわれの全員が損をするのだ、ということを学ばなければならない。問題は、われらが政治エリートたちが根源的シンボルを利用した行動をひかえるかどうかにある。もうひとつは、治安機構トップが民衆の血と涙から利益を掠め取ろうとした部下たちを罰し、暴動を起こそうと画策した者に厳格な措置を取る気があるのかということだ。
既に悪魔の循環に落ち込んでいるこの問いに対する答えが返ってくるのは、きっと夢物語りにちがいない。そして既に第二フェーズに入ろうとしているコンフリクトを終わらせるのも、集団利益が国家利益に優先させられている限りはきっと夢物語りなのだろう。下層民衆の中のナフダトウルウラマとムハマディアの対立は、ふつふつと煮え繰り返る地底の溶岩に似ている。ほんのちいさな火打ち石の一撃で、ジャワ島は血の海と化すだろう。われわれは原点に戻ることはできないのだ。
だから、もしも21世紀の最初の四半世紀に文明戦争の太鼓が轟き始める、とハンチントンが予想しているのなら、たぶんインドネシアではそれよりずっと早いだろう。それどころか、月、週、日の単位で数えることさえできるかもしれない。われわれは危険な世紀に突入しつつあるのだ。
ソース : 2001年3月23日付けコンパス