[ 超自然の日常性 ]


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『幽霊話しの後ろに 』

ジャカルタでは、特に1998年5月暴動以後、幽霊が集団で現れる話しが多くなった。例えば、クレンデルのイ・グスティ・グラ・ライ通りにあるヨクヤ・デパートメント・ストア近辺では、そこで客待ちしていたメトロミニに大勢の人が乗り込んだ話しが広まっている。車内が人で埋まったので、運転手はバスを発車させた。しばらく走ってからふと後ろを見ると、車内には人っ子ひとりいない。急停車したバスから運転手と助手はあわてて飛び降り、「客がみんな消えた、みんな消えた!」と叫びながら走り回った、という。

そのデパートの売り子になった、クレンデル地区の下宿に住むフィトリ・ヌルヤニ21歳は、一日だけそこで勤めたとき、勤め始めの初日に「今すぐここから出てって、二度とそこで働くのはよそう。」と思った恐怖の体験を物語る。
「日中の休憩時間に、従業員休憩室に入って白粉をはたいたの。ちょっとしかつけてないし、色も黄色いのに、わたしの顔が真っ白になっていくのよ。ぞーっとしてあわてて外へ出たわ。夕方にも似たようなことが起こったわ。午後の礼拝の後、また休憩室で化粧を直してたの。こんどはわたしの白い顔は鏡に映らなかったけど、血まみれの顔で泣いている女の顔が映ってたのよ。」
フィトリはもうそこで働くのはやめようと決心した。次の日にほかから仕事の誘いがあったのは、ほんとうにラッキーだった、とフィトリは言う。


幽霊話しを収集するために情報主を探すのはむつかしくない。ラタックス・タクシーの運転手スゲン・サントサ35歳は4ヶ月ほど前にブキッ・パムラン・インダで妖怪に出会ったときの体験談を意気込んで話してくれた。そのときスゲンはパムランのラタックス・タクシープールに車を回送していたのだ。
「あれが起こったのは夜中の2時ごろだった。そいつは道路の真中に突っ立っていて、車を止めようとした。一瞥で長い髪と白い服が目に入り、背中と首筋がぞっとしたので車を止めなかった。するとその女は突然空を飛んで消えたよ。」と語る東部ジャワ州ジュンベル出身のスゲン。自分が見たのはクンティルアナッに違いない、とかれは確信している。タマンミニで兵士博物館建設に加わったときも、同じような姿を目撃したことがあるからだ。多分かれはクンティルアナッのお得意さんなんだろう。

もうひとり、別のタクシー運転手の話しがある。ティファニー・タクシー運転手バイハキ51歳のストーリーはやはりタマンミニ近辺で、老人の地鎮霊に出会ったというものだ。「あごひげは腰まで届き、黒い格子縞の白い服を着て腕組みしていた。老人はじっとこっちを見ている。突然車の屋根のライトが消え、エンジンも止まってしまった。何回キーをまわしてもエンジンはかからない。まずタバコに火をつけると、お祈りの文句を唱えながら車を七回まわった。すると、老人はやっと姿を消し、そのときすぐ近くに墓地があることがわかった。あの老人はそこを守護している地鎮霊だったように思えるよ。『ミンタマアフ』と言うと屋根のライトがついた。そしてエンジンもかかった。」

ラジオ・ムスタング100.55FMのアナウンサー、デシ・ノフィアンティは、仕事のさなかに幽霊がつきあってくれた体験を聞かせてくれる。
それはおよそ三週間前のこと。そのとき、デシはウィスマ・ヌサンタラの25階にある放送スタジオにひとりでいた。その夜のプログラムは7時から10時までがデシのオンエア―。夜8時ごろ、放送室の向こう側にある制作室に幽霊が出た、とデシは言う。部屋の仕切りガラスの向こう側に、はじめは一塊の煙が見え、それは徐々にひとの形をとりだした。「もう、すぐにみんなにSMSを送ったわ。『食事をすぐに済ませて。わたし怖いのよ。』って。」
デシが幽霊を見たのはそれが二回目だそうだ。一回目は、『ヤングの惑星』というTV番組のプレゼンターをしていたころに、中央ジャカルタのあるホテルで体験した、とかの女は告白する。そのときはホテルの18階で撮影が行われた。シューティングが終わり、デシは下のロビーに降りようとしてリフトに乗った。リフトの中はデシひとりだけ。リフトが4階まで来たとき、かの女はリフトの鏡にクリーム色のワンピースを着た女の姿を認めた。
「後ろを振り返って見たけど何もない。前を見たら鏡に人が映ってる。リフトが下に着いたとき、わたしはもう歩けなかった。こわばっちゃって・・・・・。」

多分、静かで寂しい土地があまりなくなってきたためだろう。ジャカルタの幽霊はよくオフィスに出没する。
南ジャカルタ市ファトマワティ通り地区にあるPR会社の社員レナとリアンは、そのとき仕上げなければならない仕事があったために、かなり遅くまで会社にいた。リアンはタイプに没頭しているさなかに、ふと電気のソケットが外れているのを目に留めたが、一瞥しただけでそれ以上は何も気に留めることはなかった。仕事が終わり、ふたりが帰り支度をしているときにそれは起こったのだ。
リアンが先に外へ出て、階段でレナが来るのを待っているあいだ、レナはコンピュータやプリンターの電気を全部消して回った。レナがオフィスの電気を消そうとしたとき、プリンターの電源がひとりでに入り、『ジュグレッ、ジュグレッ』と作動をはじめた。そのときレナは、白い服を着た長い髪の娘がプリンターのそばに立っているのに気がついた。その娘はレナを睨み付けている。「リアン、待って!見たのよ!見たのよ!」パニック状態で叫ぶレナ。
パクブオノ通りの自宅に帰ったレナは、そのままお父さんの膝に泣き崩れた。レナのお父さんは、その夜、夢を見た。レナがあの夜、テープを大きな音で鳴らしたために、オフィスの地鎮霊が迷惑に感じたとからだとお父さんは話してくれたそうだ。


病院も、みんながホラー話しを噂し合う『倉庫』のひとつだ。西ジャカルタにある病院の看護婦が、注射をしなければならない患者との間に起こった出来事を話してくれた。
「その患者は、別の看護婦がもう注射をしてくれたって言うんですよ。同室のほかの患者さんたちも、先に注射をして行った看護婦の特徴まであげて肯定するから、結局わたしは降参。」
その患者が受けるべき注射は排尿誘引剤だったが、謎の看護婦が行った注射は指示に正しく従ったものであることが判明した。「担当のわたしは注射しなかったのに、しばらく後でその患者は本当に排尿したんです。患者さんたちが見たその謎の看護婦は、実は先週夜勤あけに交通事故で亡くなった人なんですよ。患者の人たちには言いませんけどね。」

死体安置室はどうだろう。チプト・マグンクスモ病院の死体安置室の夜勤を受け持ってもう二十五年になるスブヒは、髪を結い上げ、クバヤをきちっと着こなした女性の姿を目にしたことがある、と話す。
「昔、TVRIのシリーズドラマLosmenに出てきたブ・ブロトみたいだった。」と、1980年代に体験した思い出をかれは振り返る。かれの記憶によれば、それは夜中の2時半ごろに起こった。スブヒはサレンバ通りの方からやってきた女性が死体安置室に入っていくのを見た。「あんな美女がこんな夜中にうろつくなんて、変だな。」
死体安置室事務所の待合所には、客を待っているベチャ引きがひとりいた。聞くと、さっきの美女を乗せてきたらしく、戻るのを待っていると言う。スブヒは中をしらみつぶしに捜してみたが、どこへ消えたのか足取りすらつかめなかった。
「その後、今日まであの『ブ・ブロト』は一度も姿を見せない。いったいどこへ行ったんだろう。」と語るスブヒ。かれはきっともう一度会いたいんだ。

チプト・マグンクスモ病院の霊柩車運転手ソディキンの体験はまた違う。バンドン出身のこの若者は、「遺体を遠方に運ぶときはよく怪異現象を体験する。」と言う。二年前、中部ジャワ州ドゥマッに遺体を運んだときの出来事はこうだ。
当時、ソディキンはまだ霊柩車の助手だった。夜9時半ごろ、クンダルのとある村で、遺体とその家族を運んでいた車のタイヤがふたつパンクした。遺体の家族は近くのガソリンスタンドで待つことにして車から離れ、ソディキンもパンクしたタイヤふたつを持ってパンク修理屋に向かった。
ソディキンが直したタイヤ二個を持って車に戻ったとき、車にはもうタイヤが取り付けられていた。運転手は「ええっ?さっきタイヤをはめていたのはお前じゃなかったのか・・・・?!」と絶句。じゃあ、それをしたのはいったいだれなんだろうか?ふたりはただ顔を見合わせるばかりだったという。

上にあげたのは、一部のひとの話しに過ぎない。「幽霊が出没するなんて、全然信じないよ。」という人たちもいる。チルドゥッ・プラザに1998年5月暴動の犠牲者たちの亡霊が出る、という噂が広まっているが、警備員のルスタムは「恐怖体験などなにひとつ感じたことすらない。」と言う。クレンデルのヨクヤ・デパートメント・ストアをはじめ、ほかのショッピングセンターでも、警備員や職員の中に同じように言うひとも多い。
一部の人にとって幽霊話しは飴玉のようなものだ。しゃぶっていれば、どんどんおいしさが増してくる。幽霊話しの本当のところをチェックするのはむつかしい。もし、当の幽霊たちに確認を取らねばならないのであれば、本紙記者も戸惑うことだろう。
ソース : 2002年1月13日付けコンパス


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『肉体の魅力にどこまでの効き目が?』

強烈な魔力の成果、ジェン・アシの心霊加工製品、遠方でも可......黄金ダイヤの秘宝、絶対の媚薬、ケンデデスの白粉、運命の縁除けミニキャベツ、マドゥ除け鋼鉄お守り、富財の骨お守り.......
あるいは、
ラトゥ・リンガ心霊院、指導はアニサ・デウィ.....遠方でも可、.....霊魂征服者回転ローラーお守り、紫金リンガ粉、リンガ極楽愉悦の調薬、縁一千・究極のお守り、幼児地蜜の調薬、売れっ娘お守り......
更に、
祖国著名の霊能者スハルティ二(ンバ・ハル)の超強烈、壮大な発見秘物.......男のススッ(エジプト石)、クレオパトラ石、ブラジャンコロ・ススッ、カリニャマッ・ダイヤ・ススッ、白大理石ダイヤ石、カマストラ媚薬油、時の釘、ジャラルの実............
(ススッ : susukとは、他人から美しく、魅力的に見られるのを目的に、魔術を吹き込んだ黄金やダイヤを身体の中に埋め込むこと。また埋め込まれる黄金やダイヤをも指す。 ― 訳注)


他にもセックスセラピー、ススッ埋込み、お守りの売り込みなど、明らかに法人形態の会社が行っている広告があり、スマランで発行されているタブロイド紙に並ぶそれらの広告は効能まで含めてすべてがあからさまだ。
そんなオープンさになじみの薄い人にとって、裸の言葉で書かれたそれらの文章は目を覆いたいほどの慎みのなさだろう。たとえば、油媚薬は「簡単。両の眉に塗るだけで、あなたは誰でもあなたにくびったけにできる。なぜなら、超強力なこの油は異性を服従させる超常的な力を持っているから.....」。
若さを保つお守りは、「神秘の力は既に証明済み。使用者は永久に若さを保つことができる。この存在は神話となり、美容専門家の首をひねらせた。多くのアーティストがその効果を証明している。XXX(発見した霊能者)はこれを使用し、42歳の今でもまるでローティーン。」

[ 収入は数百万 ]
面白いのは、ある霊能者の製品と別の霊能者のものとの間で名称や効能が似通っていることだが、「お迎え料」は競争下にある。それはまるで企業間の製品競争そのものだ。それどころか、霊能者たちが「インドネシア・ススッの女王」などと自分の凄さを示す謳い文句で自己の宣伝を行うとき、その競争のすさまじさが実感される。大都市の大勢の専門家でさえ真似できないお勧め品を発見した威信の宣伝にしてもそうだ。

そんな霊能者たちは、女性の複合心理を解剖したキャロル・ハイヤットの著The Woman's Selling Game ― How To Sell Yourself And Something Else(1987年)に上げられた特徴を持つ女性たちであり、職業上の能力売り込みを正面切って行うのは難しい。
たとえば、ジュン・アシは「とどめの恋のススッ」というお勧め品があり、ンバ・ハルは「白大理石の結晶」、アニサ・デウィは「スカルタジのジャスミンのススッ」や「雄々しいアルジュナのススッ」というお勧め秘物を持っている。
ジュン・アシが「ケンデデスの白粉」のお迎え料に30万ルピアとつければ、アニサ・デウィは「紫金のリンガ白粉」に25万ルピアのお迎え料を付ける。全ジャワ霊能者会は「白大理石の結晶」に360万ルピアのお迎え料を付けており、ンバ・ハルも同じ製品を同じお迎え料で出しているが、ンバ・ハルの広告には「贋物にご注意」とのメッセージが記されている。不感症除け、未通女がえりなど、ヴァギナや女性生殖器官に関連する問題は、各霊能者が競合的お迎え料で独自のお勧め商品を出している。
多様化が霊能者の商品レンジを一途に拡大させているが、その大半は肉体の魅力増進にますますよく効くということがらからついぞ離れない。それどころか中には、多重障害を持って生まれた子供を治癒できる製品だと主張する霊能者もいる。

霊能者たちは、25万から5百万というバラエティに富むお迎え料の他には、報酬は特に受け取らないと言うものの、患者数が一日40人に達するンバ・ハルはひと月平均3千万ルピアの収入を得、広告費や原材料費を差し引いた後ではおよそ1千〜1千5百万ルピアが残るとのこと。ジュン・アシはひと月の収入がいくらかはっきり言わない。しかし、土日にはジャカルタのホテルで開業し、居所のパティにも一日25〜30人の患者を持っている。

[ 誤った社会通念 ]
お守り、ススッあるいは他のどのような名称のものであれ、その多くが女の側の肉体的あるいは性的な魅力を高めることに向けられている事実について、ディポヌゴロ大学の心理学者フリダNRHは「女は生まれてから他人、特に異性に対して魅力的であらねばならない、という社会通念の結果だ。」と語る。
「女の子は生れ落ちてから、化粧し、優しい態度を取り、魅力的な容姿を見せるように仕向けられる。そのために、女は外見的肉体だけが魅力的になるための唯一の規準であるかのように感じている。その結果として、女性にとっては肉体の示す姿が神秘を見せる。セクシーでなく、優しくなく、魅力的でもなければ、女性はあたかも自分が女でないように思う。だから、肉体的魅力が自分の外部にある規準を満たすよう、女性はあらゆる方法でいつも努力しているのです。」

レナード・ヘイフリックがその著「How And Why We Age」の中で書いていることをフリダも明言する。たとえば、多くの女性が恐怖の的にしているしわについて、人間は自然現象として年老いて行き、皮膚の柔軟性が低下するのを止められないのだから、本当は問題などではないのだ。女性がしわを防ぐために何でもする(そのためにエステティック産業にビジネスの場が提供されているのだが)のは、女性が年齢や老化に関して社会から劣悪評価を受けるからであり、問題はそこにあるのだ。その一般的な誤った規準のために、女性は官能的な格好をしているときだけ自分は魅力的だと思うのだ。最新の医療設備を使って、身体や顔を欠点のないものにしようとさまざまな手術を行うかの女たちの努力に、それはよくあらわれている。

「多くの女性が自分の内面からではない、外的な規準に合致した魅力を得るために霊能者を訪れるのも不思議はない。」と語るフリダ。そんな状況が女の身体と顔を、容姿と魅力ビジネスのターゲットにしている。
ジェンダー・パースペクティブにある誤った社会通念はなくさねばならない。「肉体的容姿に関する通念はなくさねばならない。女性にとっての美は、外面的なものばかりでなく、内面的なものも必要です。性的要素よりはるかに魅力的な、誠実さ、聡明さ、忍耐強さなどのインナー・ビューティも大切なのです。」

この問題を掘り起こすのは容易なことではない。フリダが言うように、まず家庭からはじまり、ジェンダー・パースペクティブ教材を用いて学校で、といった、広い意味での教育がなされなければならない。
「お母さんは台所で料理をし、お父さんは会社で働きます。」といった内容の読本は使われるべきではない。それは教材として全く不適切だ。

ところで、フィジカル・ビューティに対比させてよく言われるインナー・ビューティは単なる理想としか見られていない。物質的なものばかりを崇めるイデオロギーが、既に何十年にも渡って大多数のひとびとの考え方を強化してきた。その結果、肉体的魅力は多くの女性の暮らしの中で、もっとも重要なもののひとつであり続けている。これ以上何を求めようというのだろうか?
ソース : 1999年6月3日付けスワラ


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『お笑いクトプラッ「バトゥトゥリス遺跡」の巻』

クトプラッ: ジャワの伝統演芸で、ガムランを伴奏に唄や踊りをまじえ、主に昔話を題材に取った芝居。(訳注)

パジャジャラン王国の残したバトゥトゥリス遺跡に秘宝が眠っているなどとよく言えたものだ。その言葉のおかげでサイド・アギル・フシン・アルムナワル宗教相は、その秘宝を探すために遺跡をベニヤ板で囲って発掘せよ、と命じた。インドネシア共和国に一大騒動を巻き起こし、ゴシップと嘲けりと笑いもののタネとなった張本人がかれなのだ。

宗教大臣にそんな話しを告げたのはだれなのか?部外者のだれひとりとして、それを知る者はいない。大臣の話しを引用してあるマスメディアが、あるウスタズがそう言ったのだ、と書いている。ムナウィル・サザリが宗教大臣だったころからその男は代々の宗教相に意見を述べにやってきた、と物語る人がいる。男は毎回、スンダ王国の秘宝だった頭部が黄金でダイヤの散りばめられているスンダ伝来の武器クジャンの話しを語って聞かせたが、これまでの歴代の宗教相は、そのウスタズが早く立ち去るように、と金をやっただけで、その与太話しに構うことはしなかった。ところが、サイド・アギル・フシン・アルムナワル宗教大臣は、どうやらそのウスタズのさえずりを信じたらしい。しかしこの種の話しは確認がむつかしく、ましてそのウスタズを詐欺容疑で裁き、処罰するようなことは期待のしようもない。

いま「裁判を」「処罰を」と追い掛け回され、訴えられているのは、その嘘つきウスタズでなく宗教大臣のほうだ。と言っても「追い掛け回す」のはレトリック上のことであり、警察は遺跡発掘作業者、遺跡の番人、ならびにこの事件に関わった庶民を取り調べたし、ダイ・バフティアル国家警察長官が大臣に対する処罰の検討を行っている印象を与えてはいるものの、現実にそうなる、といったものでもない。つまり、全然違う結果になるだろう、ということだ。
その一方で、宗教相がどれほど徹底的に弁護されているか、ということも目に明らかだ。はじめは超能力者や超常現象に関する信仰に対する姿勢という形で現れ、次いで閣僚仲間からの弁護が「遺跡発掘は所轄官庁が引き継ぐ」というステートメントとなって世に出されたが、結局「発掘は継続されない」という表明が出てそれは打ち消された。おまけに、アンタラ通信によると、2002年8月10日付けで参詣観光のためのバトゥトゥリス遺跡リノベーションの許可を申請した宗教省の文書までが飛び出してきた。とどめの一撃は、宗教相本人がオープンに謝罪したことを理由に「一件落着」を宣したハムザ・ハズ副大統領の声明だ。

なんら不思議なことではない。これは公務員層、公職高官団の連帯意識のあらわれであり、きわめてふつうのことなのだ。ある官庁で発生した汚職事件に対してそんな現象が起こるのは当り前。一般庶民階層なら、汚職のような破廉恥行為の発生は十分ありうることであるが、サファリを着た高官団の汚職などはありうべからざることであり、だからこそ事実にしてはならないものなのだ。
秘宝探しを目的としたバトゥトゥリス遺跡発掘問題はここ数日いまだに騒がれているが、それはスンダ人という国民のごく一部だけがマスメディアで騒いでいるのであり、この決着はもう予測がついている。インドネシア式解決方法、つまり先進国の人々の目から見れば、「軟弱」民族がお手のものとする「軟弱」型解決なのである。
更なる紛糾を呼ぶこともなく、誰に恥をかかせるでもない、ひとに優しいこの解決スタイルは、しかし古代ギリシャのことわざ「ゼウスがして良いことを牛がしてよいとは限らない」に則っている。この国の高位高官が行うことは、牛にたとえられた一般庶民がして良いとは限らないのだ。普通の泥棒がバトゥトゥリス遺跡を掘って秘宝を探し、見つかって警察に捕まった場合を較べて見ればよい。泥棒が裁かれず、そして牢獄に入れられないはずは決してないだろうから。


解決が軟弱か厳格かという話しは別にして、独立インドネシアの歴史は言うまでもなく隠し財宝の話しに満ち満ちている。ひとが主張するそんな話しは、世人の良識を狂わせ、欲望を掻き立てるものだ。そしてまたインドネシアの歴史には、テレビに出てくるティンブルと仲間たちスタイルのお笑いクトプラッ笑劇も満ち溢れている。コメディとなり、嘲りや笑いもののネタになるのは、優秀で国家を統率する力を持つと見なされている公職高官たちが、かれらの愚かさを衝いて目明きの目を徹底的にくらます「普通」の詐欺師に騙されるのを、全国民が折りにふれて目にしているからだ。
オルラ政府時代にあったイドルス「王」とマルコナ「王妃」事件を覚えているだろうか?クブ人の王と王妃はインドネシア共和国の政府高官たちにもてはやされ、大統領宮に入ってスカルノ大統領本人に迎えられた。後になってその夫婦は詐欺師であることが判明し、いつもサングラスをかけていたマルコナは実はトゥガル出身者で、三ヶ月の懲役後プカロガンで再び売春容疑で逮捕された。
オルバ政府時代にあった、一年以上胎内にいてあらゆる言語を理解し、歌い、クルアン詠唱ができ、意志を持ち、またなんでもかんでもできる「奇跡の赤児」と言われたチュッ・サハラ・フォナ事件を覚えているだろうか?アダム・マリク副大統領までがその赤児を歓待し、逗留までさせてやった。後になってその赤児の奇跡は、チュッ・サハラ・フォナの衣服の裏に隠されたテープレコーダーのせいだ、と判明した。
スハルト大統領時代の故マルトノ、トランスミグラシ大臣を覚えているだろうか?当時インドネシアを旱魃が襲い、農民が水田の水不足に悩まされているさなか、水を探し出すことができると言われた不思議の杖事件でかれは一大騒動を巻き起こしている。

それらの事件は、テレビのティンブルと仲間たちによるお笑いクトプラッ劇にすることができる。秘宝探しのためのバトゥトゥリス遺跡発掘事件も、笑いを誘うお笑いクトプラッ劇と見ることができるが、同時に自己の能力と利口さでインドネシア民族を統率することができると考えている高官たちのクオリティという視点から見るなら、悲しむべき見世物でもある。


グローバリゼーション時代だから、このバトゥトゥリス遺跡秘宝発掘事件騒動はきっと世界中に知れ渡ったに違いない。最大の汚職国の名を冠したインドネシアでは普通のことだとして外国のマスメディアは報道しなかったかも知れないが、少なくとも外交官同士のカクテルパーティにおける話題、ゴシップ、嘲けり、そして笑いのタネにはなっただろう。
ジャカルタの各国公館は、この事件を通例のシリアスな報告の合間に挿入されるインターメッツォ、つまり楽しく軽いエピソードとして本国に報告したに違いない。バンコック、マニラ、ハノイ、ヤンゴン、ビエンチャン、プノンペン、クアラルンプル、シンガポール、バンダル・スリ・ブガワンでは、こみ上げるおかしさのゴシップがその場を沸かせたことだろう。

経済危機がもたらす逼迫の中で、良識を失うインドネシア人。近道ばかりを求め、対外債務返済のために秘宝の棚ボタを夢見る、合理性を持たないインドネシア人。それも、自分の懐へしまい込むのでなく、対外債務返済云々が本当だったとしての話しだ。インドネシア人についてのそんなゴシップで賑わうかれらを、しかし、もっとも不思議がらせるものはきっと、未来を形成する基盤のひとつである祖先の遺産をインドネシア人はなんと尊重しないことか、という話しではあるまいか。
世界の過去の遺産と未来を目指すその発掘と保守に対する人間の関心についての記者の質問に答えた著名なイギリス人哲学者バートランド・ラッセル卿の言葉を、隣国の高官たちは思い出したかも知れない。
「過去の遺産に関心を払わないのは猿だけだ。」ラッセル卿はそう軽く答えている。人間の祖先は猿、というダーウィンの進化論に触れた記者に対して、ラッセル卿はまたまた軽く「猿の脳の進化から出来上がった人間の脳は、考えたり関心を持ったりすることにまだ達していない。」と答えた。

アセアン諸国の高官たちが今度メガワティ大統領、ハムザ・ハズ副大統領をはじめその他のインドネシア政府高官と会ったとき、明らかにインドネシアの内政問題であるバトゥトゥリス遺跡事件を口にすることはないだろうし、ましてや祖先の遺産に関心を払わない猿について言及することもないだろう。
だが、わが民族にとっては、今回の事件があったから言うわけではないが、国家エリートのお笑いクトプラッを折りに触れて見物するのが運命になってしまったかのようだ。いつまでも笑いと嘲りを、そして同時に不安と悲しみと不思議さに頭を振り、胸を押さえて無念がる運命に。
ソース : 2002年8月25日付けコンパス
ライター: Salomo Simanungkalit, Indrawan Sasongko


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『そうだそうだ、隠し財宝だそうだ』

黄金の入っている巾着を持たされた大勢の住民が、オランダ兵の向ける銃口に追われて歩を運ぶ。日本軍に圧迫されたオランダ軍は密林へと逃れながら、ブンクル州ルジャン・レボンで地元民が行っている伝統式黄金採鉱の産物を収奪し、それを運びつつジャンビを目指した。その逃亡行で多くの巾着は土中に隠され、あるいは住民に持ち去られて消えた。(1993年7月8日付けコンパス)

チュルプ〜ルブッリンガウ〜ムアラルピッ〜スルラグン〜サロラグン〜ジャンビ。1942年に実際に存在したと言われる黄金逃亡ルートは、いまだに地元民の間で喧喧諤諤の話題となっている。今、この瞬間でさえそうだ。だから、黄金逃亡ルートにあるチャンディをはじめとする歴史的建造物の多くが、「黄金入り巾着」財宝探しのために覆されたりかき混ぜられたりしているのを不思議がるには及ばない。結果は誰しもが予想する通り、特大のゼロ!黄金はない。あるのは崩壊した石の堆積と、掘り起こした後の大穴ばかり。ルブッリンガウ北部のルスンバトゥ村にあるブキッ・チャンディの遺跡群でそんな状況を目にすることができる。

論理的に考えればすぐに解ることだ。チャンディ・ルスンバトゥは13〜14世紀に作られたものであり、一方の「黄金逃亡」は1942年の出来事だ。時代が大きくかけ離れているのもさることながら、黄金の巾着をそんな分かりやすい建造物の下に隠すのは、ちょっとありえない話しではないだろうか。
「取りに行って持って来るだけ」の隠し財宝話しの中に、66年組みで名を知られた闘争思想家青年スー・ホッギーの名前が持ち込まれたことがある。研究のために日本とカナダを訪れたさい、かれは「ワタナベ文書」を手に入れた、という。その「ワタナベ文書」を解読した後、かれは日本軍の残した秘匿財宝を探すためにスメル山の頂上を目指した。不運にも、スー・ホッギーとイドゥハン・ルビスは1969年12月16日、スメルで不帰の客となった。
「そうだ」話しはまだまだ続く。かれらの救出に向かった遭難救助隊員が偶然にもその「ワタナベ文書」を手に入れ、それは更に別の人物の手へと渡された。その「ワタナベ文書」と日本軍ロームシャ生き残りや元オランダ政庁役人たちからの証言をもとに、スラバヤのCV AP社は日本軍秘匿財宝の発掘を行うため、2000年8月21日、「地方自治の時代を迎え、日本遺物発掘と利用を通して自然の潜在性を求める」と題したプロポーザルをうち上げた。(2000年10月7日付けコンパス)

文化観光開発庁遺跡博物局から得たサーベイ調査と発掘の許可を手に、同社は計算の上では82.6兆ルピアにものぼる日本軍が隠した財宝の発掘に取り掛かった。ところがその成果はまたまた「無!」。スー・ホッギーに近い友人たちの話しでは、かれは日本やカナダへ研究に赴いたことはないそうだ。おまけに三十数年前にスーとスメル山に登った仲間たちは、「ワタナベ文書」を手に入れたはずの遭難救助隊員などには誰ひとりとして出会わなかった、と述べている。
スラバヤのCV AP社の失敗は別にはじめてのものでもない。1998年から2001年までの間、文化観光開発庁遺跡博物局はサーベイと発掘の許可を少なくとも7件発行しているが、財宝発見のニュースはいまだひとつとしてない。


インディアナ・ジョーンズやエジプトのピラミッド映画にインスピレーションを刺激された一部の人々は、あふれんばかりの財宝が、チャンディ、碑文、巨石遺構などの古代遺跡の下に埋まっている、と信じている。だがそれらは、宗教祭祀の場所、あるいは当時の人々にとって重要な出来事を記念するためのモニュメントだったのであり、財宝を置いておく場所ではありえない。
宝物を見た「そうだ」という物語りや昔話しや噂などは大げさに作ってあるものであり、また夢のお告げや神秘のお告げにもとづく探索もたいてい失敗している。地底レーダー、地下電流感知器、地下磁力探査器などといった先端機器を使っても、財宝発見が保証されるものでもない。
隠し財宝とは「所有者不明の有資産価値物品」にほかならない。文化遺産資源に関する1992年度インドネシア共和国第5号法令第10条を読むと、「所有者不明の有資産価値物品を発見し、あるいは発見されたことを知った者はだれでも、発見後14日以内に政府に届け出る義務を負う。」と規定されており、また第12条は政府の許可を得ていない財宝探しを禁じている。違反者は5年の懲役もしくは5千万ルピアの罰金だ。この法令はまた第15条で遺跡と遺跡周辺環境の破壊も禁じており、違反者は10年の懲役もしくは1億ルピアの罰金に処されることになっている。

四百年以上前にオランダ人がインドネシアに来て以来、古代遺跡の発見、調査、発掘、保存が行われてきたが、財宝発見の報告はただの一度もなく、ましてや国家の対外債務が返済できるほどの財宝が見つかるなどという途方も無い話しは前代未聞のことだ。更に日本軍政期においても、あふれんばかりの財宝が目に触れたこともない。発見されたのは、先史時代から現代にいたる歴史上の遺跡ばかりなのだ。上手に正しく経営されるなら、それらの史的遺産は観光産業のために永遠に存在し得る財宝たりうるものなのである。
ソース : 2002年8月25日付けコンパス
ライター: Eadhiey Laksito  観光文化開発庁Gatot GhautamaとNoegraha SAの論文にもとづく


[ 地方別隠し財宝探索史 ]
アチェ
1995年12月:北アチェ県ニサム郡のチョッ・グルンパン墓地にある、さるウラマの墓をあばいていた四人の男が警察に捕まった。四人のうちのひとりが夢のお告げを受け、仲間を誘って財宝探しの発掘を行ったもの。

西スマトラ
1982年3月:パダン・パリアマン県グヌン・ティゴ丘陵で、国軍退役軍人を主とする11人が日本軍秘匿財宝を求めて発掘を行った。隠し財宝話しの出所は陸軍退役軍人Hシャムスディン・ラティフで、かつてかれは日本軍の警備下に黄金の延べ棒の入ったいくつもの櫃を運ぶ作戦に狩り出されたそうだ。運搬が終わると日本軍は秘密が漏れないよう全員を射殺したが、かれはからくも命拾いをし、その後長い間財宝の探索を続けてきたがいまだに成果はなく、仲間のふたりが崖崩れで生命を失ったことで探索を中止していた。

リアウ
1991年2月:スリプト、リアウ州知事は、マンダウ郡カムディス村の墓地と日本軍陣地跡に埋まっていると思われる日本軍隠し財宝を発掘するために、沈没船貨物資産物品国家委員会委員長を兼ねるスドモ政治治安調整相に許可を申請した。この発掘はジャワとスマトラの超能力者の指示にもとづくもので、そのさいにタイの超能力者も招かれている。しかし財宝は発見されなかった。

ジャンビ
1993年7月:ジャンビの遺跡発掘に隠し財宝の噂がからみ、遺跡の保全が窮地に立たされた。不法発掘者が遺跡に深さ1.5メートルの穴を掘り、チャンディの建物の一部が失われたもの。噂された財宝はブンクル州ラジャ・レボン地方の黄金収奪に関わったオランダ兵の残したものと言われており、およそ25キロの金塊であると信じられている。

南カリマンタン
1983年2月:ガラムの森におよそ二千人の財宝ハンターが現れた。ひとりの木こりが黄金の指輪と黄金の小片をその森で見つけたのがことのはじまりで、クラウの長老の話しでは、その森が1945年から1949年までの間、オランダ勢力をカリマンタンから追い落とすための闘争基地となっていた、とのこと。その有資産価値物品は、当時の持ち主がわざと隠したものらしい。財宝ハンターたちはかなりの数の古代風な黄金やアラブ文字の記された黄金片を発見している。

北スラウェシ
1999年3月:いくつかの地方に渡って黄金の鉱脈と隠し財宝の噂が流れ、州政府と住民たちが財宝ハントを行い、そのためボラアン・モゴンドウ県の多くの民衆農園が不法発掘者に掘り返されて壊滅状態となった。北スマトラ州政府も採鉱会社から、その地方には未発掘の隠し財宝ポイントが27箇所ある、との情報を得ている。

マルク
1990年5月:東南マルク県アル諸島のワワル島とトゥラガン島に日本軍が隠したとされている財宝探しが実を結ばなかったため、PTアルタ・アヌグラ・プルティウィ社がスポンサーになっていた財宝探索チームが活動を打ち切った。東南マルク県の高官によれば、その財宝は数千億ルピア相当の黄金やダイヤモンドだと推測されているそうだ。

ロンボッ
1976年11月:東ロンボッ県シクルのクタラジャ村民が、日本軍が残したものと思われる鉄兜およそ30個を掘り出した。数日後、村民たちは鉄兜の近くに財宝が埋められているかも知れないと考え、財宝のあり場所を示してくれるドゥクンを求めた。そしてついにドゥクンの指図を得て村民は鉄兜が見つかった場所を掘り返した。だが一週間の発掘作業にもかかわらず、財宝はかけらも見つからなかった。
1977年12月:マンシュルに率いられたロンボッ住民が、日本軍が残した宝飾品等からなる隠し財宝が埋まっていると推測されるスンバワのルニュッ郡アイクタパン村で発掘を行った。ルニュッ地区はかつて日本軍防衛陣地があったところで、マンシュルはクバティナンを行って財宝の存在を知ったと説明した。つまりマンシュルは、2.5x1.5メートルの宝飾品の入った箱と選挙の投票箱くらいの小箱25個を夢の中で目にしたらしい。騒乱が起こるのを警戒して、地元の治安部隊とスンバワの役所がその発掘に立ち会ったが、結果がどうだったのかは明らかにされていない。

中部ジャワ州クラテン
1990年10月:ジョゴナラン郡ウォノボヨ村の農夫5人が、9世紀のものと見られるかめを三つ発見した。その中には金銀宝飾品およそ16キログラムが納められており、発見者は中部ジャワ州歴史遺産保護事務所へ届け出た。
2000年4月:フィリピン南部のスルのサルタンであるマウラナ・ジャマルル・キラム三世がスカルノ財宝を手に入れようとして一騒動起こした。スイス・ユニオン銀行にスカルノ大統領所有の10,769トンの黄金の延べ棒が秘蔵されていることを示す山吹色の預託証をサルタンはクラテン住民タンボ・パルマンなる者から手に入れ、それを信じたサルタンは2000年3月にスイス・ユニオン銀行に払い戻しを請求した。そして結局詐欺だったことを知ったサルタンは、タンボ・パルマンをクラテン警察に告訴した。

中部ジャワ州クドゥス
1988年7月:ウンダアン郡ウンダアン・ロルの村民数名が、カリウランの川底からVOCという文字の浮き出たコイン、蛇頭の三叉鉾、瑪瑙の腕輪、陶器、壊れた時計などを発見して警察に届け出た。それらを見つけた場所はお化け魚がたくさんいるトンネルだった、と中のひとりは述べている。ところが村民たちは結局警察にそれらを元の場所に戻したい、と訴えた。どうやら、龍に追い掛け回される夢に毎晩うなされ、安眠ができなくなったから、というのがその理由らしい。

西部ジャワ州カラワン
1979年11月:ぺセス郡チブアヤ村民三名が大人のこぶし大の石甕を見つけた。その中には総重量45グラムの黄金の亀、かんざし、指輪、螺旋状の装飾品などが入っており、かれらはグラム当り8千ルピアでそれを売却した。

西部ジャワ州スカブミ
1972年5月:「財宝発掘探査財団」と名乗る団体が、日本軍が黄金やダイヤモンドなどを埋めたとの推測のもとに、南スカブミはスラデのウジュン・グンテンで発掘を行った。スラデ地区軍行政管理指令官は「そこには東南アジア最大の財宝が隠されている。」とコメントしている。この民間財団は、「もし財宝が見つかれば六割は国庫に差し出し、四割は当方でもらいうける。」と表明したが、結果がどうなったのかは明らかにされていない。
1973年10月:ジャカルタを所在地とする「インドネシア民衆遺産発掘財団」と称する団体が、ジャンパン・クロンのチパク部落で財宝の発掘を行った。これは、植民地支配者が黄金とダイヤモンドの莫大な財宝をチパク部落に隠した、と語ったバンテンのシャイフル・アンワルの予言が発端だが、軍隊まで動員し、百人の地元民を起用して行った発掘の成果はゼロ。

西部ジャワ州ボゴール
1946年7月28日:チジュルッ郡チブルイ村民が黄金装飾品7キログラムとダイヤモンド4キログラム(57億ルピア相当)をチガンバンのポンドッグデ農園で発見した。その財宝は政府に委ねられ、BNI銀行に保管された。その後1971年5月、その財宝は1948年の独立闘争時にオランダ政庁軍兵士に略奪されたので消失したとの表明が出されたために、村民が裁判に訴えた。しかし1979年5月、最高裁での判決差し戻しのために、財宝発見者の訴えは座礁してしまった。
2002年8月15日:バトゥトゥリス碑文遺跡がサイド・アギル・フシン・アルムナウィル宗教相のイニシアティブにもとづいて掘り起こされた。その遺跡には国家対外債務が返済できるほどの財宝が隠されている、とのある人物の話しがこの騒動のもと。

ジャカルタ周辺
1968年4月:国家官房長官アラムシャ少将は、国家宮殿敷地内にあるバイトゥラヒム・モスクで1トンにのぼる純銀を発見した、と公表した。この隠し財宝はオルラ期の悪徳役人が隠匿したものと推測された。発見された2トンの純銀は溶かされて銀片になった、とシンガポールのストレーツ・タイムズは報道したが、その後どのような運命をたどったのかは不明。
1995年7月:外国に隠されている独立革命資金に関する噂が世の中を騒がせた。ゴルカルの長老スハルディマンは、4.5億米ドルと70トンの黄金の延べ棒が革命資金としてヨーロッパとアジアに隠されている、と語り、その何兆ルピアもの資金はスバンドリオが第一副首相兼外相のときにかれの手中にあったものだ、と説明した。政府はそれ以前の1988年にこの問題を調査し、革命資金なるものは存在しない、との結論を出している。
1996年6月1日:クリスティアン・スミト・チョンドロニンラが二人の友人ヌルル・フダとテディ・アマル退役空軍大尉と共に、ダサ・クバクティアン・ナショナル財団を設立した。この財団は84人の手に分配されているスカルノ資産をリストアップするのを目的としており、そのスカルノ資産とは、インドネシアの全王国が350年間にわたって蓄えてきた財宝をインドネシア建設のためにスカルノに捧げたものと説明されている。その存在の証拠として、スミトは50兆ルピア相当の有価証券や証書ならびにスイス銀行の定期預金や債券、またスイスバンク・コーポレーションに預けられている黄金4トン、更にブロムズウエル・インベストメント社からの1,230億ギルダーの証書などを示した。
1998年12月:外国に隠されていた2,500億USドル相当の国家資金が現金化手続きに入っている、とのニュースが流れた。そのニュースは、全国127王国を代表するジョクジャ、スラカルタ、パジャジャラン、クタイ、ゴア五王国の長老たちから遺志を託されたと自認するリリッ・スダルティ夫人の表明に発したもので、全国の王たちは、インドネシア国の主権を認める姿勢を示すため、独立の暁にはすべての財宝をスカルノの手を通して国に捧げることで合意していた、とのこと。
1998年:ブンカルノが外国に隠した8百兆ルピアの現金と210万トンの黄金の延べ棒がある、とのニュースをアマリラ財団が流した。インドネシアの民衆を救うためにその資産が現金化されるが、そのためにはひとりひとりが1万5千〜2万ルピアの事務手続き費用を財団に払い込まなければならない、と財団は発表した。財団は、ランプン、ポンティアナッ、グルシッなど全国各地に支部を作って受付け業務を進めたが、2002年になってから各地で民衆から詐欺の告発を受けはじめている。
1999年11月:タングランのプルマタ・パムラン住宅地にあるプルマタ・ラヤ通りの下にある洞穴で、大勢の住民が財宝ハントを行った。この発端はヒスイ、甕、茶碗、絨毯、仏像、骨製人形、1831年という文字が読めるラベルのついたアルコール飲料瓶三本などが発見されたこと。その洞穴はオランダ植民地時代に盗賊の巣だったのではないか、と推測されている。
ソース : 2002年8月25日付けコンパス


●〃● 『すべて「だそうだ」ばかり』

ここ二週間、タングラン県トゥルッナガ郡カンプン・ムラユ・ティムール村ガルーダ住宅地区はいつもより静かだ。マルタバッ、ナシゴレン、バソ、ソト、ミアヤムなど、夜中まで、中には明け方まで商いをする食べ物売りの姿はなく、夜半まで通りの入り口に溜まっているベチャ引きさえ見当たらない。

たいてい路地の隅にしゃがんでギターを鳴らし、唄を歌っている若者たちも、夜がふけるに連れて櫛の歯を引くように姿を消す。夜間シフト勤務の夫に残された奥さんたちは、隣人や近くの親戚の家に疎開する。折りたたみマットレスを抱えて子供たちといっしょに安心できる場所を探すのだ。

「最近はポチョンがたくさんこの辺りをうろついているんですよ。」その住宅地区住人ナニ夫人40歳の言葉だ。(ポチョンとはイスラム式土葬のさいの、全身を白布で包みひもで縛った遺体のこと=訳注)ポチョン亡霊の噂は、心臓病のために亡くなったその住宅地区のとある住民に関連して出てきたものだ。いったい誰が言い始めたのか、既に埋葬されたその住民がポチョン亡霊になった、という噂が広まった。このポチョンは住宅地区の中の公園に現れたり、夜間シフト勤務から帰ってきたほかの住民に挨拶をして見せたりした。
一部の住民はその噂に呑まれてしまい、怖がり屋さんは隣近所にお邪魔して寝させてもらうありさまとなった。おまけにふだん深夜12時頃まで商売しているキオスや食べ物売りも、夜10時頃には店じまいしてしまう。こうして地区一帯がポチョンの噂に呑まれ、恐怖に鷲づかみされてしまった。ところが本紙が調査した限りでは、その亡霊の姿を見た、という住民はひとりもいない。すべてが口こみや電話での内緒話で広まった「〜だそうだ」ばかりなのだ。
「あの噂は、この住宅地区の不動産価格を暴落させるのを目的に誰かがわざと煽っているもの、とわたしらは見ている。あの亡くなった人の家を含めて何軒かが売りに出ているから。」地区の有力者ヤントさん45歳はそう語る。
その噂を広めているのは泥棒の可能性もある。ご近所や近い親戚の家に泊まりに行く人が増えれば、泥棒が仕事しやすい夜だけの空家も増えるという算段だ。


最近都民の関心をもっとも集めている幽霊屋敷の噂は、言うまでもないだろう。南ジャカルタ市メトロ・ポンドッ・インダ通りにある一軒の家だ。二階建ての、壊れて人の住んでいないその家は、ここ一週間都民の見世物となっている。日中ばかりか、朝昼晩、それどころか深夜の三時までも。その家の前は一日中、幽霊屋敷見物の群衆でごったがえしている。
幽霊屋敷見物の群衆があまりにも多いため、時ならぬ交通渋滞が巻き起こっている。自動車やバイクが好き勝手に道路の右端、左端に停められ、おかげで自動車の往来はほとんど動かない。だからポンドッ・インダ・モールからロータリーまで行くのに普通は5〜10分しかかからないところ、一時間以上もかかってしまう。

メトロ・ポンドッ・インダ通りの幽霊屋敷の話しは、9月21日土曜日夜にナシゴレン売りが消えた、という噂に端を発する。噂では、ナシゴレン売りがその空家の前を通りかかると、中から女性が呼び止めてナシゴレンニ皿を注文した、という。調理が終わったナシゴレンを届けに中へ入ったナシゴレン売りは幽霊にさらわれ、二度と戻ってこなかった。家の前には、灯りのついたままのペトロマック・ランプと手押し屋台だけが残されていた。
「そんな噂は嘘だ。消えたナシゴレン売りなどいない。証人になろうという人がいれば届け出てもらいたい。そのナシゴレン売りの名前はだれで、家はどこにあるのか?」ヤヤ・アフムディアルト、クバヨラン・ラマ警察署長は否定する。だがそんな声明は無視されてしまう。世間は出所の判らない言葉をますます信じる。まして、消えたナシゴレン売りの話しとメトロ・ポンドッ・インダ通りへ見物にやってくる群衆の様子がマスメディアで大々的に報道されるに至っては。
「その家は幽霊屋敷でなく、マンディリ銀行の管理下にある係争中の家屋なんだ。」ヤヤ署長の話しは、マンディリ銀行スス・ウィディヨノ通信室長が裏付けてくれた。その二階建ての家はBDN銀行(マンディリ銀行が編成されたときの合併銀行のひとつ)の子会社PT Salindo Perdana Financialから移管を受けたマンディリ銀行の資産なのだが、だれかが第三者に売ったらしく、現在裁判で争われている。その法廷審判は既に国家法廷から高等裁判所へ上げられ、上告段階で結審を待っているところだそうだ。その家屋のNJOP(課税評価価額)は、その建物と約5百平米の土地でおよそ43億ルピア。だから、このエリート住宅地区で不動産を手に入れたいだれかが値段を下げようとして、その家が幽霊屋敷だとの噂を広めているのではないか、とススは推測する。「しかし投げ売りなどは決して起こらない。その家を売る場合は、入札を含めた標準手続きが必ず取られるはずだから。」とかれは語る。

幸運にも、世人には問題の真の位置付けがその説明から明らかになった。魅力的な設計で大理石の床もまだ美しい、優れた建築のその家屋の表には、いま大きな垂れ幕が張られている。そこにいくつかの文章が読める。「真実でないニュースを信じるな、幽霊屋敷の噂は真っ赤な嘘だ。」「裁判手続き中の土地」


西ジャカルタ市クブン・ジュルッにあるタマン・チャクラ一帯でも、ある民放テレビ局がミステリー話しとして放送した通りの幽霊屋敷の噂が広まっている。おまけにその放送の中で超能力者を登場させ、その家には本当に幽霊がいる、とまで証言させている。恐怖をかきたてる音楽に狼の遠吠えや風のうなり、そして家の中から聞こえる悲鳴などを織り交ぜた番組制作で、その放送はいやが上にもおどろおどろしさを盛り上げていた。
およそ1ヘクタールの土地に建てられた約5百平米の二階建ての建物は、もちろん恐ろしげな印象を投げかけている。表には背の高いパーム椰子と松の木が並び、敷地周辺にはさまざまな植物が乱雑に生い茂り、庭の池は藻がびっしりとそこを緑色に染めている。この空家は長期にわたって放置されたままになっていた。室内の壁には大きいサイズの女性の肖像画が掲げられ、玄関の瞑想している女性の坐像が身の毛のよだつ印象を与えている。ひしゃげた鼻で、それは新たに修理されたみたいだ。その像に幽霊が取りついている、と人々は言う。

ところがタマン・チャクラの番人をしているオチョ・バラタは、1970年代に建てられたその家屋に幽霊が住みついているという話しを否定する。身の毛のよだつような印象は故意に維持されているそうだ。なぜなら、そこが映画撮影によく使われるからだ。空家にしてあるのは、撮影クルーが屋内セッティングをしやすくするためなのだ。
「この家はプリマ・フィルムが撮影の為に一年間の使用契約をしたばかりだ。映画の撮影中に何も起こったことはないよ。」オチョ・バラタは確信を持ってそう語った。


非合理なことを信じようとする衝動は、いくつかの事柄に対してはマスメディアからのニュースや最近インフォテインメントと呼ばれている娯楽番組などからその答えを手に入れている。現代文化のデザイナーたちの術語には、現実と非現実の境界があいまいになっていることへの理論付けが数多く見られる。大衆文化の産物も、大衆の中に場を得ようとして独自の役割を演じている。そんなさまざまな大衆文化の産物の裏に潜むビジネス上の野心の圧力に、現代文化オブザーバーのひとりはこう語っている。
「……かれらはさまざまな手段で大衆に影響を振るおうとする。聡明さだけを除いた手段で。」
ソース : 2002年9月29日付コンパス