[ ダンドゥッと地方音楽 ]


§♪§ 『パサルバルの音楽、その名はダンドゥッ』

ダンドゥッはどこで生まれたのだろうか?ジャカルタのパサルバル地区の、つまったドブが粥のような水をたたえている狭い小路を入り、パサルバルにある商店の女子店員たちがあふれんばかりにたむろしている食べ物ワルンを抜けると、インド映画とインド音楽ファンになじみの建物がある。そこでは古今のインド音楽が手に入る。そのインド音楽の一部が、後にインドネシアの音楽に変身した。その名も『ダンドゥッ』。

たとえば最近のカバーバージョンでイイス・ダーリアが歌っているトップヒット曲Bulan Purnamaは、以前Syahduと題するロマ・イラマのカセットのA面4曲目に、Rhoma I/Ravi作として納められていたが、この歌は明らかにHamraazというタイトルのインド映画の中の曲Neele Gagan Ke Taleのインドネシアバージョンだ。
インド・オーディオビデオ専門店でVCDを選んでいた愛くるしい少女が、「ちょっとかけてみて。」と店員に頼む。映画Mannの一シーンの中でTinak Tin Tanaが歌われると、少女の口から言葉が洩れる。「Yang Sedang Sedang Sajaだわ。」
その通り。マレーシアのトップダンドゥッ歌手イワンのその曲は、Tinak Tin Tanaのムラユバージョンなのだ。

パサルバルエリアはインド映画とインド音楽の老舗市場と言うことができる。仔細に見ていけば、まるごと乗っ取りプロセスによってこの地区でダンドゥッ音楽が誕生したことがわかる。その歴史は遠い昔にさかのぼる。昔から映画輸入事業を行ってきたインド音楽愛好家A・ラヒム・ラティフに、インド音楽の流入から今やインドネシアのローカル・ジニアスと呼ばれるまでになったダンドゥッ音楽成長の道案内をお願いすることにしよう。


パサルバル裏の小路にあるその家は、インド音楽がここでどのように広められ、更にその広まりの中でコピーされたいくつかの曲がインドネシア独自のダンドゥッ音楽と主張されるようになった経緯を見守り続けてきた。パサルバルの小路の横丁を歩きつつ、そこに多いインド人商店を出たり入ったりしながら、「最初はAidaだった。」とラヒムは物語った。1950年代、シンガポールでAayega Aanewalaというヒット曲の入った映画Mahalが爆発的な大当たりをしたという。当時まだマラヤだったシンガポールで、その曲はインドバージョンとムラユバージョンの二種類がリリースされて流行した。
当時ジャカルタでは、A・ハリッ率いるブキッ・シグンタンという名のオルケス・ムラユが人気を博しており、ムラユ・デリー音楽を主レパートリーとするこの楽団はしばしばAidaを演奏した。それがマラヤから伝わったものであったために、かれらはムラユのオリジナル曲だと思ったに違いない。今でもパサルバルで映画Mahalのビジュアルレコードを手に入れることができるが、50年代にインドネシアでも大ヒットしたAidaがその映画に由来する事実は、その映画を見ればすぐわかる。

Aidaに負けずとも劣らぬモニュメンタルヒットBoneka Dari Indiaは、1950年代後半以来不朽のヒット曲になっているが、この曲を流行らせた歌手エリヤ・カダム(それ以前はエリヤ・アグスあるいはエリヤ・M・ハリスという名の時期もあった)とたいていセットで登場する。この曲が、当時インドのトップ歌手だったラタ・マンゲシュカルの歌ったSama Hai Bahar Kaのインドネシアバージョンだったとわかれば多くの音楽評論家は大騒ぎをするだろうし、ダンドゥッ界もきっと知らぬ顔を決め込むだろう。思い込みはそれほど激しく、中には「Boneka Dari Indiaはインドネシア音楽史の記念碑的な一里塚であり、ムラユ音楽にインド音楽風パーカッションがはじめて取り入れられた重要な曲がり角なのだ。」という意見すら持つ人もいる。ところが実際に、Boneka Dari Indiaは言うまでもなくインド音楽、つまりSama Hai Bahar Kaそのものなのだ。


そのような誤解は無知に由来するのでなく、おそらくは歴史の剽窃だ。その時代の芸能界のコンテクストは、現代のそれとは確かに違っていた。当時インド映画は社会で幅広く好まれた映画であり、映画館での封切を控えてその映画の曲の入ったレコードが常にまず世間に流された。このパターンは、録音媒体がカセットやCDに代わった今でも、同じように続けられている。
映画ビジネスのコンテクストでは、映画の封切前にその映画の音楽が世間に親しまれるのは有意義なことに違いない。歌手のエリヤも、時代に合致した社会に好まれる娯楽芸能の果実として、そこに場を得ていた。
インドネシアで配給されるインド映画やその他の娯楽ニュースを扱ったスラバヤ発行の雑誌Indian Filmは、エリヤをインドネシアのミス・ラタ・マンゲシュカルと称えている。エリヤに捧げられた同誌の賞賛はこうだ。
「Djaadugar sainyaan, tjhodo mori bainyaan, hogai adhi raat 〜 」という映画Naginの歌声、「Kisdjagaa djaaen, kisko dikhlaae, zakhme dil apnaa 〜 」という映画Light Houseからの歌声をかの女は上手に流暢に真似、おまけにその声もラタ・マンゲシュカルにそっくり〜〜〜。
当時世間は、曲も歌もすべてインドの模倣と捉えていた。すべては娯楽なのであり、「オリジナルかどうか?」などと頭を悩ますようなものではなかったのだ。エリヤは持ち歌のBoneka Dari Indiaや、映画Champakali内の歌Termenungで人気を博した。世間がエリヤを受け入れたのは、当時インドネシアのナット・キング・コールやインドネシアのパティ・ペイジと呼ばれたボブ・トゥトゥポリやビアンカ・パティラネと一緒にスラバヤでショーの舞台にかの女が(ムニフやジュハナ・サッタルらと共に)上がったのが認められたということのようだ。


その後起こったのは、文化面のそんな注意書きに関心が払われなくなったこと。それらの歌が広まるにつれて世の中は適切な注釈なしにそれを受け入れ、古い注意書きは見落とされ、忘れ去られて行った。ダンドゥッが「インドネシア音楽」だ、というさまざまな主張が通るようになり、ダンドゥッの血統書は曖昧さを増して行った。昔からインド系の人々が住む居住地域だったパサルバルの小路から生まれたものだ、という以外になんらややこしいことはないのだが。
それに関する多くの証言の中で、ジャラン・カルティニに住むアトン56歳の話しは傾聴にあたいする。インド系住民社会でかれの名を知る者は多い。60年代、パサルバルのガン・スントゥルにあったかれの家を大勢のインド系の人々が訪れた。かれらはインド音楽のレコード盤からリールテープにダビングしてもらうためにやってきたのだ。当時カセットはまだなかった。かれはその遊び半分の仕事を、本業である電気製品修理屋稼業の合間に行った。
「小さいころからここに住んでて、友達はインド系が多い。みんなからは、レコードからテープに歌を移してくれ、と頼まれ、そのあとでレコード盤はわたしにくれたよ。」アトンはそう懐古する。遊び半分で始めた仕事がそのうちに忙しくなった。
70年代にカセットが登場すると、インド映画の中の歌をカセットテープに録音してもらおうとして、ますます多くのインド音楽愛好者がかれを訪れるようになった。多くのレコードが、言うまでもなく、かれのところにあった。アトンの名は口コミで広まる。インド系の人たちばかりか、後に有名人となる歌手やミュージシャンたちまでがかれの家へやってきた。かれの記憶の中にはエリヤも混じっている。かれらが依頼するインド音楽をアトンは録音した。「インド音楽のどの曲がダンドゥッ曲のもとになっているか、わかるようになった。」アトンはそう語る。

70年代はじめ、かれのダビングビジネスがやみ商売だとして摘発されたことがある。その後1973年になって、アトンは正式に許可を取り、録音ビジネスを開始した。その中で、今ダンドゥッと呼ばれている音楽に関する知識と経験がかれのものになった。かれはもうそのビジネスから足を抜き、ダンドゥッ音楽草創期に関するたくさんの記憶を持っているとはいえ、ジャラン・カルティニ界隈で電気製品修理業だけをやっている。A・ラフィッ作とされているPandangan Pertamaは間違いなくインド映画音楽だ、とかれは語っている。


パサルバルエリアの小路で、ダンドゥッ曲の多くが元唄から分かれ出た。いくつかのカセットの中でマスハビ作とされている、A・ラフィッが歌うポピュラーなダンドゥッ曲Renungkanlahは映画Chamfez Khanからのもの。映画の中のその歌のタイトルはMohabbat zinda rehti hae, mohabbat man nahin sakti、つまりおおよその意味は「愛は永遠のもの、愛は不死身」。Renungkanlahにもそのテーマは盛り込まれているようだ。
エルフィ・スカエシが歌い、ラノ・カルノやリア・イラワンも歌ったルストン・ナワウィ作と言われるSorga Duniaは映画Naginの中にある。新進歌手アデ・イルマが歌うMelatiは映画Jai Kishimの曲Yeh alam, yeh anggaraiが元唄。
これは音楽評論家がまだ触れていない領域についての、文化放浪者が記した一片のメモ。ダンドゥッがインドネシア音楽である、との主張が公認される前に、ダンドゥッ界のハードワーク、正直さ、真剣さがもっと必要とされている。
ソース : 2000年7月9日付けコンパス
ライター: Bre Redana


§♪§
『ダンドゥッ、民族のアイデンティティ』

イラマ・ムラユ(訳注:irama はリズムの意味だが、特徴的な形態のムラユ音楽に対する固有名詞としてここでは原語のまま使うことにする)の進展にはドラマチックな時期がある。1960年代に歌手Sエフェンディは、イラマ・ムラユの優位性をマレーシアからインドネシアに取り戻した。ヒット曲Bahtera Lajuでかれはインドネシアのナンバーワン・ムラユシンガーの座についたのだ。マレーシアのムラユシンガーで映画スターでもあったPラムリの人気を色あせさせたばかりか、エフェンディはそのファンまで奪ってしまった。「アチェの血を引く」と自称するラムリは何年も前から既にEngkau Laksana BulanやAzizahなどの曲で黄金時代を築いていた。イラマ・ムラユは数年の間マレーシアで隆盛となり、ラムリはおまけに銀幕のスターをも演じたためにいやがうえにも人気は上昇し、ラムリのにおいがするものはすべてがファッションと化した。

エフェンディは最初、オルケス・ガンブス「アルワルダ」をバックにガンブスを歌っていた。なにしろかれは、東部ジャワ州ボンドウォソ出身でアラブ系の出だったのだから。ジャカルタ国営ラジオ局RRIからかれの声がしばしば流れるようになり、シャイフル・バフリ指揮のジャカルタ・スタジオ・オーケストラをバックに唄うBahtera Laju、Timang-timang、Fatwa Pujanggaなどの自作曲を通してかれの名声は高まっていった。シャイフル・バフリ作のSemalam di Malaya、イスマイル・マルズキ作のDiambang Soreなどを唄うかれの人気はさらに高まり、その後しばらくして自分の楽団オルケス・ムラユ「イラマ・アグン」を編成してからは、フセイン・バワフィ作Serojaの大ヒットがかれの地位を不動のものとした。甲高いかれの歌声はインドネシアとマレーシアという同株二国の空を覆い尽くした。エフェンディは1983年4月25日、ジャカルタで老衰のために世を去った。

「エフェンディの成功は、インドネシアのムラユシンガーたちが行ってきた苦闘のクライマックスだった。」と66歳のザカリアは語る。かれはイラマ・ムラユの発展に大きな関心を抱くオルケス・ムラユ「パンチャラン・ムダ」のリーダーだ。歌手Aハリスがそれ以前に、自ら率いるオルケス・ムラユ「ブキッ・シグンタン」と共に、Kudaku Lari、Doa Ibu、 Lamunanku、 Alam Nirmala、 Jaya Bahagia、などの自作自演曲を引っさげてその袋小路を突破していた、とザカリアは言う。加えて当時のトップ女優ティティン・スマルニと共演したPerkasa Alam、また後に結婚するに至ったマレーシア女優ズナイダと共演したCurigaの映画二本がリリースされるにおよんでは。それから15年後、ロマ・イラマの映画Penasaranを監督したのがそのAハリスなのだ。

曲Serojaの成功で、ナウィ・イスマイル監督はエフェンディを主役にした同名タイトル映画の製作に興味を引かれた。さらにアスルル・サニ監督も、エフェンディを起用してTitian Serambut Dibelah Tujuhという題名の映画を作った。それらの活動がエフェンディの人気をインドネシアとマレーシアで一層確固たるものにしたのは明らかだ。ラムリがインドネシアでスターだった頃と同じように、エフェンディもマレーシアで大勢のファンを獲得した。
インドネシアで開かれた「スターそっくりさん」大会で、エフェンディによく似た声を持つ歌手としてリドワン・アミンが選び出された。さらにマレーシアでエフェンディに似た声の歌手を探す機会が訪れ、アフマッ・ザイスが登場した。しかしエフェンディがマレーシアを訪れたとき、Jumpa Mesraをデュエットする機会がザイスに与えられたことから、リドワン・アミンよりザイスの方がラッキーだったと言うことができる。エフェンディの銀幕履歴の最期を飾ったのはミスバッ・ユサ・ビランの作品Pesta Musik Lobanaだったが、その中に当時人気の高かったいくつかの若者バンドが登場したのは、イラマ・ムラユからポピュラー音楽へという時代の変遷の反映だった。その後エフェンディの名も話題の中心からはずれるようになっていった。ザカリアはその映画の中で、エフェンディ率いるオルケス・ムラユ「イラマ・アグン」と一緒にマラカスを振っている。


[ アワラフン ]
過去へ遡って見るなら、1950年代以降インドネシアで名を馳せたムラユシンガーは決して少なくない。エンマ・ガンガ、ハスナ・タハル、ジュハナ・サタル、スハエミ、Aハリッ、Mシャウギ、Aハリス。Aハリスはインド音楽曲Awarahumを唄ってイラマ・ムラユ愛好家の心を奪い、ムニフ・バハスアンもO Petajiを唄った。その二曲は、当時インドのトップスターだったラジ・カプル主演の映画に納められてインドネシアへやってきたものだ。
1960年代に輝いた名前は、エリヤ・アグス、イダ・ライラ、Aラフィッ、Mマスハビ、ムニフ・バハスアン、エルフィ・スカエシ、アフマッ・バサヒル、ムフシン・アラタス、ロマ・イラマ、マンシュルS。そして1970年代にロマ・イラマ、エルフィ・スカエシ、マンシュルSがダンドゥッの王、女王、王子として生まれ変わった。
1950年代から1960年代にかけて名前の売れたオルケス・ムラユとそのリーダーとしては、オルケス・ガンブス「アルワルダ」が融合したウマル・ファウジ・アセラン率いるオルケス・ムラユ(訳注:以降OMと表記)「シナル・メダン」、オルケス・ガンブス「アルワトン」が合併したフセイン・アイディッ率いるOM「クナガン」、AハリッがリーダーのOM「ブキッ・シグンタン」、Sエフェンディ率いるOM「イラマ・アグン」などだが、その時代にドロッ・マルティンバン、リアナ、テルナ・リア、エカ・ジャヤ・コンボ、クス・ブルサウダラ、ロス・スイタ・ラマなど流行歌路線のグループバンドも登場した。
続く10年間ではAカディル率いるOM「シナル・クマラ」、アディ・ムニフがリーダーのOM「クラナ・リア」、フセイン・バワフィのOM「チャンドラレラ」、ザカリアがリーダーのOM「パンチャラン・ムダ」、アフマッ・バサヒル率いるOM「リア・ブルンタス」。そして1970年代中盤にはアワブ・アブドゥラ率いるOM「プルナマ」、ロマ・イラマ率いるOM「ソネタ」の名前が光芒を放った。

OM「ブキッ・シグンタン」はAハリッのBurung NuriやスハエミのDuniaといった多くのヒット曲を生み、ムニフ・バハスアンも自作のBunga Nirwanaを唄って人気をさらった。
1960年代のロック音楽の登場は、オルケス・ムラユを辺境へと追いやった。ポップ路線は当時最新の楽器フェンダーを使う若者バンドで賑わった。ザエナル・アリフィンがリーダーの「テルナ・リア」、ルディ・ルサディ率いる「エカ・ジャヤ・コンボ」、ビン・スラメッの「エカ・サプタ」、トニー・クスウォヨがリーダーの「クス・ブルサウダラ」などだ。かれらの成功を測る尺度はスナヤン屋内競技場での公演であり、一方ムラユ音楽は依然として場末にあり、かれらの演奏活動はせいぜい結婚パーティどまりだった。オルケスは座った姿勢で演奏し、歌手だけ立って唄った。「そのころわたしはガン・アリンビにあるビン・スラメッの家に移って、ポップ・ムラユ音楽の作曲を学んだ。」とザカリアは往時を回想する。ポップ・ムラユをテーマにした最初の作品がLucianaだ。この曲はイドリス・サルディの伴奏でリリ・スリヤニが唄った。ルチアナとは普段ウチと呼ばれているビン・スラメッの子供の名前だ。
それ以来、イラマ・ポップ・ムラユがもてはやされた。アマン・ドリス作Sado Angkasaやザカリア作のJangan Duduk di Depan Pintuを唄ったイダ・ロヤニをはじめ、何人ものポップ歌手がその分野で名をあげた。Jangan Duduk di Depan Pintuに次いでモダン・ガンバンをテーマにした曲をベンヤミンとデュエットして大いに当てたイダ・ロヤニは、さらにその名を確固たるものにした。ムス・ムリヤディも負けじと、Rアスミ作のHitam Manisやザカリア作Seminggu di Malaysiaを唄った。ポップ音楽系と見られていたバンドもほとんどがこの分野に足を踏み入れてきた。クス・プルス、ビンボ、デ・ロイドらもポップ・ムラユ曲をレコーディングした。それ以来レマコは、自社でレコーディングするすべてのグループに対し、アルバムの中にポップ・ムラユを必ず一曲は入れさせた。その仕事はザカリアに委ねられた。この時期、kasih Diambil Orangを唄ったテティ・カディ、イネケ・クスマワティとのデュエットでAnaknya Limaを唄ったロマ・イラマ、Boleh-boleh JanganやPura-pura Benciのティティ・サンドラといった有名な名前が世に出てきた。かれらの唄った曲はすべてザカリアの作品だ。
頂点はエリア・アグスが自作曲Kau Pergi Tanpa Pesanを、ムニフ・バハスアンがやはり自作曲Bunga Nirwanaを、ビン・スラメッが育てたサプタ・トゥンガル率いる当時のトップバンド「エカ・サプタ」を従えてスナヤン屋内競技場で唄ったときだ。この催しは首都の大衆に大きな関心を抱かせた。というのは、時のトップ歌手テティ・カディ、エルニ・ジョハン、リリ・スリヤニ、パティ・ブルサウダラ、トム&ディック、そして死のバイオリンをひっさげたイドリス・サルディらが競演したためだ。
ムラユシンガーの伴奏をバンドが勤めたことで、インドネシア音楽ショービジネス界におけるイラマ・ムラユの復興と受け取られたこと、そしてはじめて世にプレイバック方式が紹介されたことのためにこの催しは記念碑となった。そのおり、ザカリアはレマコ・スタジオの職員としてプレイバックテープを回した。Kau Pergi Tanpa Pesanはその後、フセイン・バワフィ率いるOM「チャンドラレラ」の伴奏でレマコでレコーディングされ、当時国内でブームとなったアマチュアラジオ局のお気に入りとなって流行した。

1968年もイラマ・ムラユにとっては特別の価値を持つ年だ。ザカリア率いるOM「パンチャラン・ムダ」がザエナル・アリフィン率いるザエナル・コンボと一緒に国営ラジオ局RRI創設記念の催しで、スナヤン屋内競技場のステージに立ったのだ。Bulan Purnamaで人気絶好調のリリ・スリヤニは、ジュハナ・サタル、Rスナルシ、エルフィ・スカエシそしてザカリア自身らとともに「パンチャラン・ムダ」の期待の星だったし、一方テティ・カディ、アルフィアン、エルニ・ジョハン、パティ・ブルサウダラはザエナル・コンボがバックを勤めた。ザカリアはその夜、アレンジャ―の役をも受け持った。
「オルケス・ムラユがモダン楽器であるフェンダーを使い、また立った姿勢で演奏したはじまりだ。」ザカリアは語る。

ロマはきわめて適切な時期に登場し、またそのチャンスを上手に利用する能力を持っていた。楽器編成や歌詞などの面に、かれは大きな革新をほどこしたのだ。中央ジャカルタ市ラデンサレ通りで経歴のスタートを切ったダンドゥッ歌手マンシュルSは、「ロマはムラユ楽器をアコースティックからエレキに変えた。」と言う。
イラマ・ムラユがダンドゥッの大海に流れ込むための河口が、こうして作られていった。ダンドゥッという言葉は、じっとしていられずに身体をくねらせるよう聞く人を誘う特徴的なリズムを生み出すグンダンの響きから取られた。ロマはそのことを曲Terajanaに書き込んでいる。 lagunya lagu melayu / sulingnya suling bambu / dangdut suara gendang / rasa ingin bergoyang
新人にそんな仕事は無論できない。ロマ・イラマはイラマ・ムラユと流行歌を5年近く手がけてきた。1960年以来、かれはさまざまなムラユ音楽グループで活動してきたのだ。はじめてかれにめぐってきたレコーディングのチャンスは、1960年、ウマル・アラタス率いるOM「チャンドラレカ」と一緒のときのものだが、その録音がかれの名を世に広める結果にいたらなかったことから、かれはアワブ・アブドゥラ率いるOM「プルナマ」に移った。それでもまだ満足できなかったかれは、ザカリア率いるOM「パンチャラン・ムダ」に移り、ザカリア作Di Dalam Bemoをティティン・ヤニとデュエットで録音した。しかし1970年代初期まで、ロマは世間でまだ無名の歌手だった。「かれはずっとムフシン・アラタスの陰に隠れていた。」ザカリアはそう懐古する。
ザカリア作Anaknya Limaをザエナル・アリフィンのザエナル・コンボと録音したとき、ポピュラー系との接触が起こった。ロマはそのとき、イネケ・クスマワティとデュエットした。さらにロック系のヨピRイテム率いるギャラクシーとの共演も行われた。
必要なものを身につけたと感じたロマは1973年初、ただちにOM「ソネタ」を編成した。じっさいそれは適切な第一歩だったのだ。ダンドゥッとロックの融合も世の中に提示された。それはかれの作品の中に取り入れられ、中でも名曲Viva Dangdutが大いにもてはやされた。
ラデン・ブルダ・アンガウィルヤの二人目の子供は、自分のグループをサウンド・オブ・ムスリムにまで昇華させた。かれの選んだ領域がここで明らかになった。PerdamaianやPerdamaian IIで世間の注目を浴びたムドゥリカ・ザイン率いる「ナシダ・リア」、ロフィコ・ダルト・ワハブ率いる「カシダ・モデルン」など、当時続々とたちあらわれたカシダ・グループほど宗教色は濃くなかったものの、宗教的息吹を示す数々の歌詞が発表された。

この王にも苦さはあったが、のし上がっていく作品の激流を押し留めることもなく、非主流音楽は国民の誇りへと引き上げられていった。かれは単にロック音楽の激しさへと向かったのではない。かれが警鐘を鳴らすサウンド・オブ・ムスリムがそうなることを防いだ。こうして歌詞は依然として現世的であっても、解決、忠言、布教がそこにあった。
十年という歳月をかけてダンドゥッ音楽はインドネシア民族の生活の節々に入り込んでいった。ロマ自身にも、民族のアイデンティティを具現する称号が与えられた。1980年代にダンドゥッ音楽は、世の中にある普遍的価値を代表し得るものとなったのである。
かれの意味する普遍的価値とは、他の音楽ジャンルで触れられたことのない、一般社会生活上の諸イディオムの取り込みだ。下のダンドゥッ曲のタイトルを見てみればよい。
Colak-colek(カメリア・マリク)、Senggol-senggolan(クス・プルス)、Ayah Kawin Lagi(ムフシン)、Tangisan Malam Pengantin(イイス・ダーリア)、Mandul(ロマ・イラマ)、Pelaminan Kelabu(マンシュルS)、Takut Sengsara(メギーZ)、Qur’an dan Koran(ロマ・イラマ)、Gadis atau Janda(マンシュルS)、Jandaku(イマムSアリフィン)。
それよりはるか以前に、ダンドゥッは既にマスハビ作Ratapan anak Tiriで継子問題を取り扱っている。


[ 同一視 ]
「ダンドゥッは実際的で適応性のある音楽だ。世の中の現実生活の価値を取り上げる力がある。世の中に存在している姿が取り上げられるのだ。」とロマは言う。田舎者の音楽が邸宅階層の高い壁を打ち破った。「いまやダンドゥッはインドネシア民族と同一視されるレベルに達している。」去る三月、ロマは南ジャカルタ市ポンドッ・ジャヤ地区の自宅で語った。その尺度は泥だらけの路地から5スター級ホテルにまで、ダンドゥッが知れ渡っていること。街外れのスラム居住区から都心の5スター級豪華ホテルに至るまで、ダンドゥッが愛好されていることをかれは示した。国内ではそうだが、海外での尺度はまた違う。クロンチョンやダンドゥッを納めたカセットにはいつもThis is Indonesia.というラベルが添えられている。
「ダンドゥッのないパーティはない。」そうかれは断言する。かれが言うパーティとは、結婚、披露宴、討論会、同窓会、セラブリティの集いなどありとあらゆる種類の催しのこと。
大晦日の夜にタマンミニで行われたショーが、翌朝には海賊版カセットとなってリリースされていた経験を、ロマは物語る。そのライブをとった録音テープにロマたちはまだ手も触れていなかった、というのに。そんな違法行為でロマは大損害を蒙るが、どうすることもできない。だがその一方で、ダンドゥッ音楽が世間にそれだけ人気が高い、という事実も実感されることになる。その海賊版カセットは市場で飛ぶような売れ行きだ。そんな海賊行為がいまだにガンとなっており、社会におけるダンドゥッ音楽のランクが明らかにされるのを不可能なものにしている。「市場にあるダンドゥッ音楽録音製品の8割は海賊版であり、合法的なのは2割しかない。」とかれは言う。

時の車輪は回りつづけ、ロマも歴史を刻み続ける。だが年齢という要素を忘れることはできない。「今後のダンドゥッの将来を、わたしはダンドゥッ界の人々に委ねる。かれらはこの歩みを続けることができるのだろうか?ダンドゥッ音楽を世界に広めることができるのだろうか?もしそれができないとしても、既に達成した地位を少なくとも維持してもらいたいものだが・・・。」ロマ・イラマはそう語る。
ソース : 2002年7月28日付けコンパス
ライター: Bill Aribowo  音楽評論家


§♪§
『ちょっとおさえられて ああ・・・』

いろんな表明が出されているが、根拠はあいまい。いちばんインドネシアらしい音楽と言われ、現在わが国で一種のローカルジニアスとされているダンドゥッ音楽に起こっているのがそれだろう。ヌサンタラの東のはしから西のはてまでこだまするこの歌と音楽は、質・量ともに、両手を振り上げて「ダンドゥッばんざい」と叫ぶにふさわしいものという印象を強めている。

まず量的には、すくなくとも経済危機前、ダンドゥッは言うまでもなくほかの音楽、たとえばポップスなどと比べて最大の音楽産業ジャンルだった。ポップスのカセット販売数が5万〜7万コピーとするなら、そのころダンドゥッカセットは1タイトル10万コピーは楽に売れた。新リリースカセットは言わずもがな、新曲から発表済み曲の再収録までおりまぜて、当時ほとんど毎日新しいダンドゥッカセットが市場に登場していた、と言って過言でない。
経済危機に襲われると、その反対にダンドゥッが、ポップス、R&B、ロックなどの音楽ジャンルに比べて、まず大打撃を受けた。理由は想像にあまりある。ダンドゥッ市場は中から下の経済階層をメインにしていたのだ。ダンドゥッ産業も後退し、いまでは新カセットのリリースは週平均2〜3本というありさまだ。1タイトルの販売数も、ダンドゥッ業界に近い筋によれば、2万〜3万コピーとのこと。


この産業のダイナミズムは別にして、われわれはダンドゥッ曲自体のようすを見ることにしよう。7月7日夜にジャカルタ・ヒルトンコンベンションセンターで結果が公表されたインドネシア教育テレビTPI主催の2000年度第二回アヌグラ・ダンドゥッの93エントリー曲を取り上げてみよう。それらのうち、テーマ、メロディ、ハーモニゼーション、アレンジメント、歌詞などの音楽面から、なみはずれて優秀と言えるものを探すのは実際のところ難しい。ロマ・イラマのBegadangやLari PagiあるいはAdu Domba、レイノル・パンガベアンとかれのタラントゥラが生んだColak Colek、Goyang Senggol、Wakuncar、Gengsi Dongなどのヒット曲をはじめとするダンドゥッの殿堂に飾られている作品に匹敵するものは見当たらない。ロマ・イラマはダンドゥッにロックの要素を「流暢で」「不自然さなく」持ち込み、偉大な貢献を残した。一方レイノルは音の豊かさを人々の記憶に印象付けた。そのころレイノルの妻だったカメリア・マリクの名は、それらの曲を歌って世にもてはやされた。
数少ない重要なナンバーを別にして、その後に作られたのはロマとかれのソネタ(昔はマラカルマ、今はモネタがある)の亜流か、あるいはダンドゥッの歴史に残されている、実際にはインド映画音楽のコピーにすぎない。

インド音楽のコピーはその後ダンドゥッとなり、ついにはたいした反論もなされずに「いちばんインドネシアらしい音楽」と主張されるようになっている。完璧に下層音楽とされているダンドゥッは、エステティックな批評にさらされることがほとんどない。マスメディアはたいてい、他の分野でもそうしているように、ゴシップを扱うのに多忙だ。だれとだれがくっつき、だれがわかれ、だれそれのブラサイズはいくつだ、・・・・と。
創作品としてのダンドゥッは結局、根拠よりも主張ばかりが多い。


ダンドゥッ音楽がどれほど貧しいか、歌詞の面からもそれがわかる。その第二回アヌグラ・ダンドゥッの審査で、審査員のひとりである詩の専門家サパルディ・ジョコ・ダモノ教授は、最優秀歌詞選出にあたってなかばお手上げになってしまった。最優秀歌詞というカテゴリー自体も、その前に議論を呼んでいた。というのは、歌唱から分離させて歌詞だけ評価するのは無理がある、ということなのだ。しかし主催者のTPIは最優秀歌詞カテゴリーを置くことを主張した。「礼を保った歌詞」の出現を推進するためなのだ。良家の子女であるTPIのエラ広報員は「ダンドゥッの歌詞はたいていゾッとするものなのよ。」とコメントした。
チュチュ・チャハヤティの唄うDitekan Sedikitのような曲の歌詞を見てみればわかる。
「ちょっとおさえられて ああ ああ / ちょっとこらえにこらえるの / ますます夢中 もっと夢中になるように / ちょっとこらえるように気をつけて ・・・・」
チュチュ・チャハヤティが身体をくねらせながら歌うと、このような詞はとても受入れられやすい。「ちょっとおさえられる」のが気持ちであるのは、歌詞の続きの中でわかるのだが。
「ちょっとおさえられて ああ ああ / 気持ちをこらえるのよ ・・・・」
この種の歌詞を探すのは簡単だ。フェティ・フェラが唄うDiraba-rabaの詞は次のようなもの。
「まずまさぐって ああ ああ ああ / あなたが求めたいときはこの心をまさぐって ・・・・」
かれらが与えようとしている印象と形態がどんなにそっくりか、見ればわかる。曲、歌詞、テーマが類似のダンドゥッ曲はいっぱいだ。Diraba-rabaの歌詞の続きは「あらわにしないで ああ ああ / あなたの心の扉を ・・・・」となっている。

そんないい加減な詩作は、そのほとんどが手抜きで作られているように見えるビデオクリップ制作と軌を一にしている。文句なく最優秀ビデオクリップ賞を獲得するにふさわしいカメリア・マリクのBulan Berkacaのように、真剣に制作されたものはほんの1〜2しか見当たらない。


ダンドゥッがインドネシアでもっとも盛んな音楽だ、との主張を証明するためにダンドゥッ音楽界が抱える課題は多い。良い曲を作るために自分の創造性に磨きをかけている人々の名をいくつかあげることができる。たとえばエフィ・タマラだ。かの女は最新曲Cinta Terlarang/Kandasのような世間に好まれる歌の自作に努めている。かの女の名が売れたのは以前の曲Selamat Malamだが、ビデオクリップにも真剣に取り組んでおり、Cinta Terlarangは東部ジャワのブロモでロケを行っている。
カメリア・マリクもその真剣さには負けていない。Bulan BerkacaとNikmatnya Cintaのビデオクリップ制作ではジャカルタ・コタ地区のカフェ・バタビアがロケーション場所に選ばれている。
問題は、ダンドゥッ音楽界自身がそれらの曲について、音楽やアレンジの面から「ポップすぎてダンドゥッじゃない」と評していることだ。真のダンドゥッとはいったい何なのか?再定義は紛糾の度を深めるばかりだ。
ソース : 2000年7月9日付けコンパス


§♪§ 『いたるところでインドくねくね』

Tum paas aaye, yun mushkuraye / Tum paas aaye, yun mushkuraye
Tumne na jane kya, sapne dikhaye / Tumne na jane kya, sapne dikhaye

南ジャカルタ市チルドゥッ地区の小型乗合アンコッ運転手からクマンのカフェでトップ40に分類される曲をふだん演奏している若者ミュージックグループにいたるまで、誰もがその歌詞を唄うことができる。たとえばカフェ・パシル・プティでは西洋曲に混じって突然、最近では標準スタイルとなっているタンクトップにベルボトム姿の若い女性シンガーが男の歌手と二人で今現在ヒット街道をばく進中のKuch Kuch Hota Haiを唄い出す。ふたりはそのインド映画のシーンのようにふざけあい、あちこち走り回り、時に衝突しそうになり、あるいはまた柱を抱きかかえる。
二人は唄いつづける。
Ab to mera dil jage na so ta hai
Kya karoon hay kuch kuch hota hai ・・・・・


Kuch Kuch Hota Hai にぴったりの翻訳はない。しいて説明するなら、「とてもありふれたものが突然、愕然とするものになる」というおおよその意味。多分、映画のストーリーを解説すれば、クチ・クチ・ホタ・ヘイのイメージはもっとわかりやすいだろう。(市場で流通しているインドポップ音楽のほとんどは映画音楽なのだ。)
カラン・ジョハル監督の第一回ミュージカル映画作品であるクチ・クチは、インドのとあるカレッジ、ザビエルズ・カレッジにおける生活を描いたものだ。そこのキャンパスプレイボーイ、ラフル(シャールッ・カン)はトムボーイ娘アンジャリ(今インドで大人気のアーティスト、カジョル)と親しい。そこにアンジャリの友人でもある新しい女学生ティナ(ラニー・ムケルジ)が出現したとき、アンジャリは自分の心がラフルに、単なる友人以上の気持ちで、結びついていることを悟る。ラフルとティナの交際は結婚へと至る。ところが、幸福はいつまでも続かなかった。出産のとき、ティナは世を去り、その後ラフルは子供を独力で育て、学齢に達したその子をとある教育機関へ連れて来る。かれはそこで、思いもよらずサリを着たアンジャリに出会う。かの女はその教育機関の経営者になっていたのだ。
歓喜、ロマンチシズム、哀愁、それがこの映画のメインメニュー。ミュージカルとしての形式を見れば、およそ二十年程前にジョン・トラボルタとオリビア・ニュートン・ジョンの名前を不動のものにした映画グリースを思い出させる。

1998年大晦日のミッドナイトショーとしてジャカルタのプラネット・ハリウッドで封切り上映されたこの映画は、ジャカルタの映画館におけるインド映画の再興を象徴するものだったと言える。昨今のインド映画配給に関するもうひとつのポイントは、中流以下の映画館でだけインド映画が上映されているのではない、ということだ。たとえばクチ・クチがプラネット・ハリウッドで封切られたあと上流階層が徘徊するプラザ・スナヤンへと回されたように、いまやインド映画は高級映画館へも進出している。
映画にせよ音楽にせよ、クチ・クチは上流と下層の間の壁を打ち抜いた。上流階層がリラックスするクマンのカフェからジャカルタの隅々にあるカンプンに至るまで、その歌声は鳴り響いているのだ。南ジャカルタの会社で働くジュネッは「わたしとワイフはもう5回もその映画を見たよ。」と語る。


音楽界の大物ディストリビュータがインドソングビジネスに参入した嚆矢を象徴するのも、そのクチ・クチ・ホタ・ヘイだ。ニューヨークのソニー・ミュージック・エンターテイメントInc. の子会社であるインド・ソニー・ミュージックは、1998年8月にクチ・クチの映画サウンドトラックを発売してインド音楽ビジネスを公式にスタートさせた。「弊社は全世界のマーケティングとセールスのパワーを用いて、できるだけ広範にサウンドトラック(インドソング)を普及させる計画です。」と語るのはインド・ソニー・ミュージックのヴィジャイ・シン社長。
インドネシアのソニー・ミュージックがインドソングの普及を活発に行い始めたのも当然の成り行きだ。インドのネットワークを通してインドネシア・ソニー・ミュージックは1999年5月、映画封切りからおよそ5ヵ月後にクチ・クチを発売した。
「最初は迷いました。驚くような結果になるとは思いもしなかったので。」インドネシア・ソニーのマーケティング・ダイレクターであるララ・ハミッの言葉だ。プロモーションなしに発売したクチ・クチのカセットは、じつに鮮やかな売れ行きを示した。「パレンバンではお客の行列ができました。」とララは物語る。マーケティングでは中流以下を指すC/D/Eというクラス呼称があるが、クチ・クチはなんと上流層であるA/Bも興味を示した。そのため、ソニーは迷わずコンパクトディスクのサントラアルバム制作に入った。
今現在、販売されたカセット数は70万本を超える。平均一日二千本というペースでその販売はいまだに毎日続いている。経済危機と海賊版大流行がもたらした昨今のような音楽ビジネス停滞状況の中で、70万という数字は並大抵のものでないことを付け加えておこう。50万本を超える販売数は、シェイラ・オン・セブン、パディ、デワ、そして聞くところではザムルッなど一握りのミュージシャンだけが達成できるものなのだ。

クチ・クチについて言えば、インドネシアで多くの成功を享受した後しばらく前に強制送還されたインド系のマレーシア人歌手アシュラフがイイス・ダーリアとデュエットしたその曲に対するライセンス販売がまた別にある。クチ・クチのヒットは類似の曲を開発するようにとプロデューサーたちを誘い、その結果Dil Gai Hindustani、Dil Kya Kare、Pyaar Mein Kabhi Kabhi等々のいろいろなサウンドトラックが出現した。
ソニーがインドソングビジネスにおける音楽産業界唯一のビッグブランドということではない。ワーナー・ミュージック・インドネシアやEMIなどのメージャーレーベルも参入している。ワーナーはMann、Taal、Badal、Hum Dil De Chukeなどのアルバムを発売している。映画MannにはTinak Tin Tanaというヒットナンバーがあり、マレーシアの歌手イワンはYang Sedang Sedang Sajaというタイトルの付けられたその曲をムラユ語で唄って有名になった。


インド曲が好まれるのは、それほど新しいことではない。インドネシアでインド映画とインド曲は昔から特別なマーケットとファンを持っていた。ましてや音楽のカラーを見るなら、インドネシア音楽と主張されているダンドゥッ音楽は実にインドソングからたいへん大きい影響を受けている。
以前ムラユ音楽と呼ばれていたダンドゥッ音楽発展の初期からそれをトレースすることは可能だ。1950年代の大ヒット曲で「インドネシア音楽史における一大記念碑」と言われたエリヤ・カダムのBoneka dari Indiaは、ほんとうのところインドソングSama Hai Bahar Kaの丸写しコピーだった。その時代のもっと前、インドネシアで人気を博した曲Aidaも映画Mahal中のインドソングAayega Aanewalaから取られたものだ。
インドソングの丸写しは暗黙のうちに続けられ、マスメディアの議論に載せられたことがない。音楽記事ライターは一般的に、曲の由来や創作プロセスよりもダンドゥッミュージシャンの個人生活周辺のゴシップに興味を惹かれている。こうして長い期間、『ダンドゥッは一種のローカルジニアスとしてのインドネシア音楽である』との主張が安穏に世の中に受入れられてきた。勿論、丸ごとコピーという習慣的行為の陰に、ロマ・イラマのBegadangやそれ以後の教訓的アルバムのような業績があることを無視することはできないが。
とはいえ、ロマ自身ですらBulan Purnamaを唄ったことがあり、(その後イイス・ダーリアもそれを唄っているが)その曲は映画HamraazからのNeele Gagan Ke Taleのインドネシアバージョンなのだ。そのような曲が収められたカセットのカバーに曲の由来が記されているのはほとんどなく、それどころかまるでそれらの曲がインドネシアのミュージシャンによって作られたような印象すら与えている。
ダンドゥッになったインドソングの例は事細かにリストアップすることができるが、スペースの関係上、最近のものだけで十分かもしれない。たとえばイッケ・ヌルジャナとアルディが唄ったMemandangmuだが、あたかもその夫婦の作品であるかのようなこの曲は、映画Heera Pannaからの曲Panna Ki Tamannaとそっくりだ。マンシュルSのGelas Retakも映画Satyam Shivam Sundaram中の曲Yashomati Maiya Se Bola Nandlalaとたいした違いがない。ダンドゥッ曲を唄うのが好きな人は、エルフィ・スカエシやAラフィッが唄ったこんな歌詞を唄うだろう。
Lagi-lagi kamu yang datang ke padaku / Boleh saja, boleh sja ……….
それは映画Sanggamの曲Bol Radha Bolであることをお忘れなく。


昔、インドソングはパサルバルの隅々で容易に見つかる海賊版カセット(マレーシアやインドのカセットからコピーされたもののようだ)に収められてもっとたくさん流通していたが、状況はもうそんなものではなくなった。インド曲は合法性をクリヤーした上で大規模産業の販売網に流されている。つまり法的トラブルを望まないなら、かつてのように野放図にコピーを行うことはできない、ということなのだ。
クチ・クチ・ホタ・ヘイ時代のインド曲流入は、法的側面のみならず創造性という点においても、インドネシア音楽ビジネス産業に新たな構図を開いた。創造性という観点から、カラー、オリジナリティ、アイデンティティ、キャラクターを見出すことを要求されているのがダンドゥッ音楽なのだ。それはもはや、陽気に身体をくねらせているだけでは済まないことなのである。
ソース : 2000年11月5日付けコンパス
ライター: Bre Redana


§♪§
『いたるところでインドフィーバー』

昨今、ジャカルタのプラザ・スナヤンへ行くと、車から降りる人、入口を通る人はインド風衣装を着たドアマンに迎えられる。赤いサテンの衣装に、男は頭にターバン姿でできあがり。
エンターテイメントの世界でも、ウラン・グリッノやジハン・ファヒラなど女性アーティストが、インドの典型的衣装であるサリを身にまとい、眉間にはビンディをつけ、派手な黄金装飾品やら鼻にはピアスまでつけている。へえ、完璧にインドなの?どうやらやはり、インド・フィーバーが今起こっているようだ。

ここ数ヶ月ジャカルタでは、新しいインドレストランが続々開店するのが観測された。そのいくつかは南ジャカルタ市クマンに場所を選び、インド風の建築で地区一帯をますますファンシーなものにしている。中央ジャカルタ市パサルバルにも新しい店がオープンした。その名もBollywood Spice’s。ほぼ四ヶ月前のオープニングにそのレストランは、最初の三ヶ月間毎日ライブショーを演じさせるためにインドからミュージックグループを呼び寄せた。

その日、昼食時間ま近のボリウッド・スパイシズに、まだ客の姿はなかった。そこへ観光客がひとり入ってきたが、残念ながらレストランの客ではなかった。Eメールを送るための場所を探して、間違って入ってきたのだった。それはともかく、同レストランのマネージャー、マフタニ・クマルによれば、インドレストランビジネスの開業に当って最近の情勢は大いなる期待を抱かせてくれるそうだ。パサルバルを開業場所に選んだのは、その地区に昔からインド系の人々が何代にもわたって住んでいたから。ボリウッド・スパイシズからおよそ50メートルのところにガンディ・メモリアル・スクールもある。
「このあたりには上流家庭向けの、良いインドレストランがまだなかった。」ボリウッド・スパイシズのマネージャーになってまだ1ヶ月に満たないクマラの言葉だ。かれの経歴は、ジャカルタのホテル・サヒッ・ジャヤにあるインドレストラン「シャー・ジャハン」のマネージャーを8年間。
このレストランは、前からあったプラザ・スナヤンのアクバル、グランド・ウィジャヤ・センターのアクバル・パレス、グラハ・チュンパカ・マスのダワッ・レストラン、ワヒッ・ハシム通りのハザラ、ホテル・アンバラのジュエル・オブ・インディア、プラザ・プルマタのクイーンズ・タンドール、Hサマンフディ通りのタジ・マハル、クニガンのグラハ・イラマにあるハヴェリなど都内各所に散らばる様々なインドレストランを補完するものだ。

シャー・ジャハンは1994年の開店だが、レストラン側に言わせれば、かれらが「インドメニューに対する嗜好の爆発」と呼ぶところのものへの回答だったそうだ。ホテル・サヒッ・ジャヤのデフィ・パンガベアン広報課長補佐は「あたかもインドにいるような印象をお客が持てるようにデザインした。」と述べている。
シャー・ジャハンの副シェフで、百%ソロ人であるトゥリ・アグスは、すべてのメニューにわたって料理の味を可能な限りインドオリジナルのものに近づけるよう努力している、と言う。「インドネシア人やヨーロッパ人の舌に合うように味をモディファイするようなことはしていない。このレストランの味はそっくりそのままインドの味だ。」
そんなインドメニューを用意するために、トゥリはオリジナルの味を身につけようと、一年以上の間インド人シェフの見習いをした、と告白する。

「最近やってくるインドネシア人客は昔より増えている。かれらはレシピをよく尋ねるよ。」と語るハヴェリ・レストランのオーナー、マドゥはプンジャビ地方の出身だ。来店客の多くがインド料理の作り方に興味を持つので、ハヴェリ・レストランとしてプラザ・スナヤンとプラザ・インドネシアで料理の実演をしばしば行っている。マドゥによれば、インドカレーのいろんな味は、実際にパダン料理とたいして違わないそうだ。「ただ、インドの味はもっと強烈で、もっと香りがある。」ちょっと味見をして確かめてごらん、とマドゥは奨めながらそう語る。

ボリウッド・スパイシズのマフタニ・クマルも、インドの香辛料を百%使ったインド料理のおいしさを物語る。「ただし、慣れていない人はお腹の方が負けてしまうかもしれない。」インドネシア在住三十年を数えるボンベイ生まれのこの男性は、「ジャカルタのインドレストランの中には客に辛さ度合いのお好みを尋ねるところがあるが、それはあまりの辛さで客を口パクパクにさせないようにするためだ。」と説明する。
インド料理と言っても実際には、北や南、西はグジャラートから東のベンガルまで様々で、南北でも味には大きな違いがある。北は香辛料をたっぷり使うが、南はココナツミルクを使うのがメインだ。


インドとインドネシアの情緒的な親近感は長い歴史の中に横たわっている。政治の面でも、ネルーとスカルノの関係のように古いつながりを持っている。そして最新のところでは、インド大使館とインドネシア政府文化観光省その他が協賛してのインドフェスティバル。10月14日から11月15日までジャカルタ、バンドン、ジョクジャ、バリでの開催が予定されている。
「インドとインドネシアは今日まで文化面経済面で長い関係を保っている。さっき踊った子たちを見てごらん。みんなインドネシアの子だ。」シヤム・サラン駐インドネシア、インド大使は先週プラザ・スナヤンでのインドフェスティバル催しのリハーサルの合間にそう語った。
特にエンターテイメントとレジャー産業におけるトレンディな性格のすべてのものに対するグローバリゼーションの影響は、政治協力で成し遂げられるものをはるかにしのいでいる。その夕刻、ジャカルタのライフスタイルのトレンドをなしているショッピングセンターで、一群の若者がオムカルを踊った。かれらは、ジャカルタにあるインド文化センター、ジャワハラル・ネルー・インド文化センターの生徒たちだ。舞踊指導者ナンディニ・シンハから、かれらはそこで踊りの手ほどきを受けている。
踊り手のひとり、グナダルマ大学情報技術科学生ファティマ22歳は、インドネシアで爆発的なヒットを記録した映画Kuch Kuch Hota Haiの主役を演じた男優シャールッ・カンのファンだ。インド舞踊を習っているのは決して偶然でなく、かの女は既にムラユ、バリから始まってジャイポンまで習った挙句のことだ、と話す。
インド歌曲の学習を選んだ、中央ジャカルタ市タムリン通りの事務所で働く証券会社職員へニー33歳の動機はまた違う。小学校時代にはじめて見たアミタブ・ハッチャンとヘマ・マリニ主演のインド映画Desh Prim以来、インドの香りのするものに惹かれ続けてきたことをかの女は認める。それ以来、インド映画気狂いになったそうだが、かの女が習っているのはインドポップ音楽でなくインド古典歌曲。「ダンドゥッじゃないのよ。」としつこく言う。踊りと唄以外にも、インド文化センターではタブラ演奏を教えており、タブラ講師であるコウシッ・ドゥッタは次のように語る。「いまタブラを習っている生徒は50人近い。ホビーだけという人もいれば、ミュージシャンも何人かいますよ。」


テレビで盛んに上映されるインド映画やよく流されるインド音楽に象徴されるインド・フィーバーで、新聞社ラヤッ・ムルデカ・グループにタブロイド誌「ボリウッド」発行のアイデアが生まれた。マレーシアにはインド関連の娯楽タブロイドが四誌も発行されている、というデータを得たことが、この企画誕生につながった。2002年2月に発行が開始された週刊タブロイドBollywoodのウスマン・リザル編集長によれば、総発行部数は9万部でそのうち7万部はジャカルタと周辺地区で販売され、残る2万部はスラバヤ地区に流されるとのこと。
ジャカルタのインド系人口は2百万人ほど、とのデータを持っているウスマンは「ボリウッドの読者のマジョリティはインド系ではない。」と言う。同誌のサーベイによれば、読者の65%は女性で男性が35%。年齢階層別には20〜24歳が48%、15〜19歳が21%。所得階層別では、月収100〜150万ルピアが29%で150〜200万が25%だそうだ。「当初は中級所得層以下が購読者になると思っていたが、発売以降中級以上の階層にも購読者が大勢いることがわかってきた。」と語るウスマン。
購読者は必然的にインド映画ファンであり、ウスマンによれば自動的に、映画の中に納められている音楽の愛好者でもある、とのこと。かれらの目に今もっともきらめいているスターはシャールッ・カンやカジョル。インド・アーティストに関する実話情報を得るために、ボリウッド誌はボンベイに寄稿者を持っている。読者間の結び付きを高めるために、このタブロイド誌は会員一千七百人を擁するファンクラブを編成しており、活動の中にはインドダンスの勉強などが取り上げられている。「次にインド語コースの設立をいま計画中だ。」このタブロイド誌の成功でTPIテレビはBollyblitzと題するインフォテイメント番組の放映を始めたが、その番組制作プロデュ−サーをも手がけているウスマンの談。
ボリウッド・ファンクラブ会員お好みのダンスは、ジャカルタにある他のモダンダンスと一緒で、モダン・インドダンス。「踊るときはみんなインド風の化粧をする。眉間にはビンディを付け、頭はティカで飾っているよ。」

TV番組ボリブリッツはTPIで2002年7月から放映が開始されたが、単なる娯楽情報パッケージの枠を超えるものでないにせよ、盛り込まれているのはインド映画スターやインドの香りのするものに関連させてのインドネシアセラブリティの話題。
ジャカルタのラジオ局Bens RadioもMualin (Musik Lagu India)という名を冠したインド音楽番組を持っている。1994年にオンエア−が開始されたこの番組は、いまや毎週金曜と日曜の夜9時から11時まで週二回放送されている。ベンス・ラディオ制作部のアディティアによれば、その番組聴取者の間でリクエストの一番多いのは、映画Mohabbateinの中でウディッ・ナラヤンが唄うKhabi Kuch Khabi Ghamだ。
故ベンヤミンSが設立したこのラジオ局は、二年前に全ジャボタベッ・インド舞踊コンテストを開催したことがある。今年もルバラン後に類似の催しが予定されている。「インドダンスとインド音楽のファンは熱狂的だから、きっと大勢コンテストにやって来るはずだ。」とアディティアは語る。
さあ、乞うご期待。わたしたちはみんな、ますますアチャアチャ、そしてネヒネヒ。
ソース : 2002年10月13日付けコンパス


§♪§
『夜は更にふけて、ゴヤンはますますホット…』

回教暦大晦日の夜、つまりジャワ社会で言うところのスラ月一日前夜。それは聖なる夜と考えられており、民衆、中でも村落部のひとたちはその夜を、荘厳な気持ちで身を引き締め、徹夜して祝う。だがそれは昔のこと。昨今のスラ月一日前夜は、ホットにゴヤンするダンドゥッ歌手を従えたオルゲン・トゥンガル(訳注:solo organ)と呼ばれるはやりのショーで祝われる。

「ゴヤンはもう“穿孔”どころか“攪拌”だよ。」中部ジャワの小都市アンバラワで、村々でのダンドゥッ・ショーの司会や歌、ダンドゥッ・アーティストとの連絡、楽器レンタルの世話にいたるまでこまめに活躍するダンドゥッ界の著名人タトゥッ48歳の言葉。実際、だいたいそんなところのようだ。
回教暦1424年の新年を迎える3月4日の夕方、中部ジャワの町々に雨が降り注いだ。ムラピ=ムルバブ山境の山腹地帯にあるチュポゴやボヨラリも同じ。夕方からの雨は降り止まず、山の空気はますます冷たい。だがそのようなことで、都会の人間がアシメトリスと呼ぶ肩の一部が開いたロングドレスをまとった30歳のヌルワティの心は動じない。サラティガのトゥンタン出身で、地元で一番ホットな歌手と異名を取る34歳のリリス・サンジャニは、身体に貼り付くような赤いシャツにジーンズをはいている。16歳でチュポゴ出身のノフィだけが、あまり挑発的でないスタイルをしている。茶色の長いワンピースを着ているのだ。国立チュポゴ第一高校生であるこの歌手にとっては、寡婦で歌を生計手段としているその二人と違い、きっと「歌うのはまだ勉強中」であるにちがいない。

チュポゴでのショーは、銅製品制作者の村であるトゥマン村の隣組長の肝いりで行われた。スラ月一日を迎える行事はスランと呼ばれるが、いつものスランと同じようにその夜も祈りではじまった。そうしておよそ9時ごろにはオルゲン・トゥンガルと三人の歌手のショーが始まったのである。この催しのスポンサーでもある隣組長のスタントが司会をする。「地元のお年寄りの皆さんのために。」と述べて、かれはオープニングにヌルワティを呼んだ。穏やかな雰囲気を持つヌルワティは、「この曲はおじいちゃんたちのためよ。」とふざけながらクールなクロンチョンを歌う。ヌルワティが歌い終えると、スタントはリリス・アンジャニを舞台に呼んだ。防寒用の厚手のジャケットをリリスが脱ぐと、観客の中から即座に口笛が飛んだ。この小さな社会の人々しか見ていないというのに、リリスは惜しげもなくお尻をゴヤンする。雰囲気も生き生きしてくる。歌の合間には、笑いと掛け合いを誘う歌手のおしゃべりで観客との間に会話がはさまれる。

リリスがステージを降りる。隣組長のスタントがまたマイクを握る。パリッとしたMCスタイルでかれは、リリスの出演をこんな言葉でコメントした。「先ほどのが、新たな話題を開いたリリス・アンジャニ。」ええっ、新たな話題ってどういう意味なんだろう?かれが言いたかったのは、最初がクールなクロンチョンで、続いてホットなダンドゥッに変わったということらしい。


われらが村落部は活力に満ちており、クロンチョン、ポップ、チャンプルサリ、ダンドゥッなどどんな音楽でもしなやかに演奏してくれるオルゲン・トゥンガルをはじめとする大衆文化の攻勢を熱烈に歓迎する。一番人気は言うまでもなくダンドゥッ。ダンドゥッがお手のものなら、ひまを持て余す歌手はいない。たとえばリリス・アンジャニ。かの女はひと月のうち平均して15回はステージに立つ。「ススッみたいなものなんか着けてないわよ。要はやぶれかぶれなの……」どうしてそんなに売れっ子なのかについて、リリスはそう説明する。かの女が言う「やぶれかぶれ」がゴヤンのことでなくてなんだろう。そして自分のお尻をゴヤンして見せる。ポキポキの動き、前進後退、右左、ターン。時にはブリッジのかっこうで。

その前夜、スマランのガヤムサリ集落のとある家が催した割礼の祝いに出演したアンバラワ出身の歌手、ユニもそんな場面を見せてくれた。ユニはステージを降りて、その大半が「アーオー(anggur obat)」と呼ばれるアルコール濃度の高い飲み物を飲みながらダンドゥッをエンジョイしている若者たちの中へと入っていく。三人の若者たちに囲まれてセックスのときの所作を行いながら、テントの柱の下でかの女は歌う。
そんなダンドゥッは、ふだん村から村へと渡り歩いている者にとって決して異様な光景ではない。今中部ジャワでヒット急上昇中の歌は、ダンドゥッ歌手たちのゴヤンに淫らさでひけをとらないものだ。そのような催し物を見に来ればすぐにわかる。観客たちはきっとチュチャッ・ラワというタイトルの曲を歌うよう、何度も何度もリクエストするはずだ。ここ二年ほど大流行しているこの曲の歌詞に興味がおありなら、その断片のひとつをご紹介しよう。
Wong tuwa ngrabi prawan Prawan nangis wae
Amarga wedi karo manuke Manuke, manuke cucak rawa
Cucak rawa dawa buntute Buntute sing akeh wulune
Yen digoyang ser, Ser, aduh enake
( 大人が処女と交わる、処女は泣いてばかり、その鳥が怖いから、鳥はチュチャッ・ラワ、チュチャッ・ラワの尻尾は長い、尻尾には毛がたくさん、それがゴヤンするとゾクゾク、ゾクゾクああ、いい気持ち)

しばしばこのような歌は、歌手と観客を親密にさせる楽しい掛け合いでもっと盛り上がる。ヌルワティがチュポゴで歌ったときのことだ。一人の若者がチュチャッ・ラワを歌ってくれ、とリクエストすると、「あんた、男なのに鳥が好きなのねえ。」とヌルワティが冷やかす。すると他のだれかが「そいつはバヤン(訳注:村役のひとり)だよ。」と横槍を入れる。
「おー、バヤン。」と一旦引き取ったヌルワティは、「バヤンってのはアヤン(癲癇)の人より動きが激しいっていう意味なのよ。」と会場を沸かせる。その後はヌルワティのゴヤンでゾクゾクとなり、写真を撮るハリアディをドキドキさせる。


ダンドゥッ歌手を輩出しているアンバラワ〜サラティガ地方が、大胆なゴヤンの供給を請け負っている唯一のセンターというわけではない。他の地方の歌手たちもそれぞれ大胆なゴヤンを際立たせている。「イヌルの穿孔ゴヤンは、西スマトラへ来りゃあ、どうってことないものだよ。」とミナンカバウ地方のミュージシャンたちは言う。地元の著名歌手兼作曲家で、チョトッ・プロダクションの経営者でもあるエディ・チョトッは更に付け加える。
「信じないんだったら、西スマトラのあちらこちらで開かれる祭りの催しの中に出てくるオルゲン・トゥンガルのショーを見てごらん。夜の11時から午前2時まで激しいゴヤンをやってるから。」
ほかのミュージシャンたちも同じようなせりふ。「イヌルは衣装がまだ行儀良いよ。西スマトラのあちらこちらでやってるオルゲン・トゥンガルは、衣装が超セクシー。かならず身体にぴっちぴちだし、背中やへそや胸、中には腿まで見せる。トリッピング・ゴヤンやらガタンゴトン・ゴヤンなんてのもある。」ミュージシャンのピント・ジャニルもアルウィ・カルメナの話しを裏書する。
西スマトラにおけるダンドゥッ・ステージのプリマドンナ、33歳のユマ・スカエシは、一ヵ月後にもっと激しい踊りをはやらせる、と約束した。その名も「電気ビリビリ・ゴヤン」。このゴヤンはチョトッ・プロダクション制作のVCD「ゴヤン・トリッピン・アゲッ」の中に登場する予定だ。


穿孔ゴヤン、攪拌ゴヤン、トリッピン・ゴヤン、ガタンゴトン・ゴヤン、あるいはその他のどのような名前にしろ、従来マスメディアが取り上げてきたダンドゥッ社会の歴史の中に登場するものばかりを見慣れてきた人々はそれを見て驚き、強く刺激されるだろうことは疑いもない。それはダンドゥッが上流音楽となることを夢見続けてきた一部ダンドゥッエリート層の期待と潜在意識に応じて「箱入り」にされてしまった、というひとつの物語りなのである。「ダンドゥッは今やカフェに進出し、上流層に受け入れられている。」などといった主張を語るダンドゥッ音楽界のレトリックを耳にするのは稀ではない。
そのような夢は、ロマ・イラマが飾って見せた、ゴヤンに快適な歌声という枠を越え、ダンドゥッはひとつのミッションを担うことで尊い役割を果たしているという幻想と化す。ロマ・イラマの歌は言うまでもなくダンドゥッ界の重要なレパートリーとなっているが、大衆がゴヤンするのはロマのレトリックのゆえではなく、村々で演じられているようなダンドゥッの世界においてなのだ。

マスメディアの中心に近いところに位置するレコード産業や、エンターテインメントステージの主流に置かれているソフィステイケーティッド・ダンドゥッは、ダンドゥッに対するメンバー選びと共に進行する。政治軍事の支配者たちは、大衆のシンパシーと支援を引き出すために、かれらの道具としてダンドゥッを利用するのが盛んだ。それらのすべてにおいてダンドゥッは、ある一定期間わがままの許されない花嫁修業のようにいっそう箱入りの世界へと入っていく。
ただ、村々や山間部の隅々にまで入り込むコンシューマリズムの強い流れの中で生まれる民衆の動きをだれが阻むことができるだろう。ジゴロ、セクシー・ウイドー、夜の欲望などというタイトルの、ポスターが気を引く古い映画を上映しているひなびた映画館。エロチックなダンドゥッ歌手となじみやすい歌の詞。アンバラワ、ボヨラリ、サラティガの村々を渡るわれわれは、現代の完璧な村世界にいるにちがいない。

箱入りダンドゥッは今や、イヌル型穿孔ゴヤンのために動揺のさなかにいる。動揺しているのは、これまで「箱入り」の世界に生きてきた、政治的なメンバー選びが跡を引いている都市のプリヤイたちなのだ。
一方村落部の民衆は自由のままであり、芸術は高等でなければならない、野暮であってはいけない、といった「ねばならない」の重石を担いでいない。野暮も正当視されるべき文化表現ではないのだろうか?
チュポゴのスタントはさきほど「新たな話題を開いた」とコメントしたリリスを、再びステージに上がるように呼んだ。夜は更にふけて、リリスのゴヤンはますますホット・・・・。
ソース : 2003年3月9日付けコンパス


§♪§
『ゴヤンは時代と共に』

くねるイヌルのゴヤンはここのところ毎日、みんなの観賞物となっている。1960年代初期、エリヤ・カダムの時代にそのようなゴヤンはまだなかった。エリヤ・カダム世代はまだ直立の銅像スタイルで歌っていた。その後ダンドゥッ・ゴヤンは進化し、大胆さの度合いは日を追って増すばかり。

オルケス・ムラユ(OM)「クラナ・リア」伴奏のBoneka Indiaの曲にふりをつけるとき、エリヤ・カダムは曲の内容の表現として身体を動かしただけだった。「せいぜいにっこりしながら背中を揺らし、頭を振っただけ。あのインド映画みたいな身体の動きを少し行っただけよ。」Boneka Indiaの唄を書いたときもそうだが、インド映画スターのスタイルからインスピレーションをたくさん得た、と認めるエリヤ・カダムはそう語る。
もしエリヤ・カダムを大胆な歌手だと位置付けるなら、Keagungan Tuhanで名をあげたイダ・ライラやジョハナ・サタルなど、かの女と同世代の他の歌手がどのようなスタイルで歌ったか想像がつこうというものだ。エリヤはその二人の仲間を、お行儀悪いかっこうなどできない、礼儀正しく恥ずかしがりやの歌手だった、と論評する。
エリヤ・カダムの時代、オルケス・ムラユは今ほど大衆商品になっていなかった。テレビのような映像メディアはまだこの国に存在せず、音声技術も、歌手が腹から好きなだけ発声するのをサポートしなかった。マイクから口を遠ざけることができないのに、歌いながらくねくねと身体を回すことがどうやってできただろう。1960年代はじめに既にステージに立っていた歌手Aラフィッは、ステージ上の機材の限界を巧妙に操らなければならなかった。
「直立マイクで歌わねばならず、おまけに歌手にあてがわれるマイクは一本だけ。だから歌手が歌うときはたいてい銅像スタイル、でなければせいぜいセミ・ジョゲッだ。最高にすごいのでも手だけの振り。足は使えない。歌詞の意味を上手に表現できることが重要だった。」Aカディル率いるOM「シナル・クマラ」に1960年代に加わったラフィッはそう述懐する。

その二人のベテランムラユ歌手によれば、当時の観客もまだ肉体的なセンセーションを求めていなかったそうだ。歌手が歌うのを目の当たりにすれば、観客はそれで満足したとエリヤは言う。そしてオルケス・ムラユのステージも、結婚式や割礼祝いに限られていた。
ボーカルの質が良いことを含めて、オルケスメンバーの第一の関心事は聞かせるという要素だ。OM「クラナ・リア」で活躍したムニフ・バハスアンは、「1950年代末までライブ演奏の際にミュージシャンは座って演奏した。ゴヤンは当時まだポピュラーじゃなかった。ゴヤンのはじまりはインド映画を見てからだ。」Bunga Nirwanaの作者として名を売ったムニフは懐古する。


1970年代に入ると、時代に変化が生まれた。インドネシアのレコード音楽産業が回転をはじめたのだ。クス・プルスが牽引車となり、何十ものグループがそれに続いた。それにあわせて、ライブステージも各都市で盛んになった。言うまでもなく大半は、センセーショナルなビジュアル・アトラクションを盛り込んだポップやロック音楽のコンサートだったが、同時にオルケス・ムラユのステージも各都市で独自の観客をつかんでいった。オマ・イラマ(ロマ・イラマに改名する前の時期だ)のようなトップムラユ歌手も当時の社会で名前が口にされた。更にはウィウィッ・アビディン、そしてムフシン・アラタスに至るまで。
ダンドゥッという名称がオルケス・ムラユにとって代わる前の1970年代はじめでもエンターテインメントステージは、ダン=ダン=ドゥッと擬声的に響くインドの打楽器タブラを模したクンダンの音で賑わった。歌手と観客は、動きの中心を腰の周辺に置いたゴヤンを一緒になって行った。そのころ人々はそれを「ソウル」と呼んだが、それは最終的にゴヤン、ジョゲッ、アジョジンなどの名でポピュラーになる前の過渡的名称だった。「ソウル」という呼称は、1970年代はじめにI Got You (I Feel Good)でソウル・ミュージック熱をもたらしたジェームズ・ブラウンやジョー・テックスから受け継いだ遺産だ。

1975年前後にオマ・イラマとOM「ソネタ」が曲Begadangをはやらせたとき、衝撃が走った。ステージ上の「ソネタ」のスタイルは激しさでロックに劣らないものだった。ポップやロックのバンドではありきたりのスタイルを「ソネタ」のメンバーが採用したのだ。ショーの観客もそのアリーナで、ダンドゥッ音楽にゴヤンで応じた。
ダンドゥッ・プラス・ゴヤンはその後、オマ・イラマが曲Terajanaで定義付けた。音楽としてのダンドゥッをオマはその歌詞の中で「スリンは竹のスリン、グンダンは牛の皮」と述べている。更にオマは、タマンリアで演奏されたその曲をインドのものだと語った。歌手はきれいな声、そして「スタイルは美しく調和する」。その歌詞の中には「美しいスタイル」がどのようなものか語られていないが、しかし明らかなのは、その「美しい」歌手と音楽スタイルの結果として人々は身体を動かして反応したということだ。
「夢中になったために知らぬ間に、腰はゴヤンゴヤン、歌いたい気持ち」それがゴヤンなしで済まない音楽として無言の合意がなされたダンドゥッの信条なのかもしれない。「ゴヤンはそれからダンドゥッと同一視されるようになり、自然の習わしとなった。」とムニフ・バハスアンは言う。

1965年に銅像のように歌っていたラフィッは、十年後にはスタイル満点に変わった。テレビは家庭内での観賞用器具となり、Aラフィッはゴヤン付きで人気のあるダンドゥッスターの一角を占めていた。エルフィ・スカエシが「ダンドゥッの女王」に即位し、ダンドゥッステージでエバーグリーンとなったMawar Merahで金字塔をうちたてた。親しみをこめてウミと呼ばれるエルフィは、インドスタイルを模したゴヤンの合間に、観客に向かって流し目を投げるので有名だ。
リス・サオダもいれば、言わずもがなのダンドゥッ王、今を盛りのオマ・イラマもいる。1970年代半ば、テレビ(つまり国営TVRI)はレコーディング作品を売るための強力なメディアになったということを特記しておこう。TVRIの番組のいくつかは、歌手たちに声とスタイルを売る機会を提供した。たとえば1977年頃TVRIで放送されたPengalaman PertamaやPandangan Pertamaの曲でAラフィッは、インドスタイルとエルビス・プレスリーを折衷したゴヤンをはじめた。
エルビスファンのAラフィッは、Elvis The Pelvisと仇名されるエルビスのスタイルを彷彿させる骨盤の動きを使用した。ラフィッが両手で顔を覆い、指を動かしながらゆっくりとその手を外していく所作は歌詞のイメージを演出したものだ。
「恥ずかしいという感情を表現するフィルム・シンボライズと呼ばれるものがそれだ。時には拳法映画の動きを真似ることもあるよ。」とラフィッは語る。

その後ダンドゥッ・ゴヤンは大衆の必需品となり、ショーの一部となった。1970年代終わりから80年代初期にかけて、人目を引く見ものを提供するレイノル・パンガベアン率いるOM「タラントゥラ」と共にカメリア・マリクが登場した。Colak-ColekやGoyang Senggolに見られるパーカッション豊かな「タラントゥラ」の音楽は、ジャイポンの動きの要素をジョゲッに採りいれて振り付けするチャンスをミアと愛称で呼ばれるカメリアに与えた。ジャイポガン踊りも、イチェ・トリスナワティのステージアクションに取り入れられている。ミアは自分の振り付けがゴヤンと呼ばれることを好まない。
「わたしのしているのはコレオグラフィのついた踊りで、学ばなければいけないの。わたしは伝統舞踊、ジャイポガン、モダンダンス、バレーを学んでいます。ゴヤンだったらだれにでもできるじゃない。」最新アルバムRekayasa Cintaを発表したミアはそう語る。


全国クラスの音楽ビジネスルートの外で、ダンドゥッは地方部でもひっそりと回転している。1980年代初めダンドゥッは、たとえばジョクジャのスカテナンといった村の祝祭や夜市というレベルで演奏されていた。ジャカルタの商人たちには知られていない地元歌手が、自分のスタイルで地元マーケットを活気付けていたのだ。
エルフィ・スカエシやカメリア・マリク級の歌手に比べてローカル歌手のゴヤンはたいそう大胆だと言える。半しゃがみ状態から立ち上がるまでの間、あるいはその反対にしゃがみながら、かの女たちはお尻を回転させる。身体を覆う衣装は最低限のもの。ショートパンツや、あるいは少なくとも身にぴったりはりついた衣装で登場する。マイクも特徴的な柄の握り方をし、扱い方も特殊だ。
スカテナン・ダンドゥッの観賞美は、民衆の需要から出現した本物の大衆娯楽となっている。連続する二つのショーでダンドゥッゴヤンを見るために、観客は二枚組みチケットさえ買わなければならない。それはグデッ、つまり竹編み壁で仕切られたコンサート会場に入るのに、誰もが長い列に並ばなければならないせいだ。観客の大半は男であり、年令は壮年から学生までバラエティに富む。ステージの上から歌手がよく、歌詞ノートを会場に置き忘れた、と発表するのもよくあること。

そのスカテナン型ダンドゥッでは、肉体を顕示するビジュアルアトラクションの方が音楽や歌手の声よりも重視される。その視覚的要素が「ホット」だと見なされたために、スカテナン・ダンドゥッは州政府に禁止されたことがあるが、この見世物は年年歳歳消えることがない。
1990年代後半、スカテナン型の大胆なダンドゥッは、中部、西部、東部ジャワから北スマトラ州にまで広がった。ゴヤンのパターンは歯止めがなくなり、ほとんどが骨盤周辺の開発に挑んだ。そしてイヌルのようなスターたちが誕生した。2000年代に入ってVCDの制作流通が容易になると、テレビのダンドゥッ番組からイヌル型ゴヤンまでが家庭内で観賞されるものとなった。

カメリア・マリクによれば、イヌルのゴヤンはエネルギッシュなダンドゥッだそうだ。「優美なダンドゥッの動きに比べると、イヌルはゴヤンがエクストリームだからビートは普通の三倍よ。純朴な表情を見る限り、イヌルの動きはエロチックなものを意図していない。これまで表面に現れてきたダンドゥッ歌手の動きとイヌルのゴヤンがあまりにもかけ離れていたので、単に大衆が驚いただけよ。」とのミアの言。
「ゴヤンは蛇が進むようで、身体にはバネがあるみたい。バグ―ス!きらいな人はいったい誰なの?時代がそれを求めているのよ、ほかにどうしろって言うのかしら。」イヌルに関するエリヤ・カダムのコメント。
イヌルのようなくねくねゴヤンは、ダンドゥッ歌手がしなけりゃいけないことではない、とムニフ・バハスアン。イイス・ダーリア、イッケ・ヌルジャナ、チチ・パラミダあるいはエフィ・タマラなどという有名歌手もゴヤンはできないとフランクに認めるが、それでも曲はヒットしている。
踊るのは下手だし、ジョゲッを自分に無理強いすることはしない、とイイス・ダーリアは正直に語る。「わたしにとってジョゲッは悪いものじゃないけど、重要なのはハーモニー。エフィ・タマラみたいなゴヤンなしでもやれたし、それなりの場と独自のファンが存在してる。わたしが過去18年間行い、自分の目で見てきたことから言えるのは、わたしは歌うだけだけどみんなはそれを見るのが好きだってこと。だからゴヤンを規準にはできないわ。」とイイス・ダーリアは述べている。
2003年2月9日付けコンパス


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『ポップ文化の中のイヌル』

先週はいたるところでイヌル・ダラティスタが話題になった。テレビ、ラジオ、印刷メディアは東部ジャワ州パスルアン出身のこのダンドゥッ歌手に関するニュースであふれ、そのニュースの時間を合算すると、アチェ、価格暴騰の砂糖、国民教育制度法案に関するニュースよりも長かった。

後になってロマ・イラマ自身が否定したとはいえ、PAMMI全国ムラユ音楽アーティスト協会会長であるこのダンドゥッ歌手がイヌルに対し、かの女のトレードマークとなった「穿孔」ゴヤンスタイルでダンドゥッを歌うのを禁じたことはその前から盛んに報道されていた。そしてまた、ロマ・イラマがイヌルに対し、PAMMI会員の作った曲を歌うのも禁じた、というニュースがマスメディアを賑わせた。
われわれがテレビで見、ラジオで聞き、印刷メディアで読んだロマの表明は、諸方面からの強い反対を招いた。まず最初に反対したのは、ひとりの個人が別の同じ国民の表現する権利を規制するのは適正なことではないと感じたアーティスト層だった。アブドゥラフマン・ワヒッ前大統領までが、他人の表現する権利を禁じることのできる個人はいない、と断言する声明を発するしまつだ。
5月2日夕方には、ホテルインドネシア前ロータリーで三分間の穿孔ゴヤン大会を大勢で行って、社会の諸階層もイヌルへの支援を示した。参加者のひとり、モニカは「誤解しないでください。わたしたちが支援しているのは表現の自由の権利であって、イヌルのゴヤンではありませんから。」と述べている。

反「女性への暴力」国家委員会議長サパリナ・サドリ教授は金曜日に行われた記者会見で、イヌルは物理的精神的暴力の犠牲者となった、と語った。物理的暴力とは、既に自分のトレードマークとなったスタイルでの出演を禁じられたこと。精神的暴力とは、ステージ上でのかの女のスタイルが民族のモラルを破壊するとともに強姦をあおる、という批難がイヌルの心にトラウマを引き起こしたこと。イヌルがトラウマを蒙っているのは、当面テレビで歌いたくない、というかの女の言葉からわかる。ロマ・イラマがイヌルを訪問したさいにかの女がどれほどの精神的抑圧を受けたかは、テレビの画面に見ることができる。


反「女性への暴力」国家委員会副議長ミラ・ディアルシは、「イヌル事件は多くの教訓をもたらした。つまり、自分の受けた暴力を表明する女性の勇気が育ち始めている、ということが示す社会的変化だ。とはいえ、支配権を犯されるのを望まない父権主義レジームの存在も否定できない。」と述べている。
イヌルのゴヤンが強姦事件を増やす、という批難はミラも否定する。「レープというのは計画的に行われるもので、それを行うのはたいてい犠牲者の周囲にいる者であることをさまざまな場所でのさまざまな調査が示している。」とのミラの言。ミラによれば、自然発生的に起こるレープはないそうで、自然発生と言えそうなものでも、その裏には必ず計画がひそんでいる。はっきりしているのは、レープする者とされる者との間に不均衡な関係が存在するためにレープが起こるということだ。「ここではイヌルが罪を着せられようとしているが、レープの発生に刺激は必要ない。」とミラは付け加える。
たとえばテレビに刺激されてレープが起こるという社会通念が出現するのはなぜかと言えば、レープ者がマスメディアや警察の取調べに対し、レープをしたのは何かを見て刺激されたから、と往々にしてそう語るからにほかならない。あたかも悪いのはだれか他の者であり、だから自分は赦されるように、と。「レープを行いたい欲求を発生させたのは犠牲者の側だ、と語ることで犯行の責任を他人に、犠牲者本人になすりつけるなど、とんでもないことだ。レープの計画はレープ犯行者の頭の中にあったのだから。」と語るミラ。

イヌル事件においてはマスメディア、中でもハンドカメラで身体の特定部分をアップして視聴者の脳裏に特定のイメージを植え付けるテレビをミラは批判する。過去二年間、村から村を渡って歌っていたころ、イヌルを問題視して騒いだ者はいない。
イヌル事件のもうひとつの側面は、ミラによれば、ポピュラー文化つまりポップ世界の中で大衆が人気者を決めるという法則が働いているということがらだ。大衆が望まなくなれば、その人気者はただちに他の者にとって代わられる。
反「女性への暴力」国家委員会の先週金曜の記者会見でリイク・ディア・ピタロカが読み上げたアーティスト界の姿勢表明のひとつに、広範な社会からの支持と評価があったためにイヌルがエンターテインメント業界のスターとして登場した、とある。「それは市場メカニズムのありきたりのプロセスです。」とリイクは語っている。


文化論の中でポップ文化は、ハイレベルな高級文化とは考えられていない。ポップ文化はやはり、消費主義をあおるものとして批難されている。
ポップ文化の中の女性論はフェミニストや女性分析に関心を持つ人々の注意を引きつけてきた。ポップ文化は女性を脇へ押しやっている、というような考えがなぜ生まれるのかについて、ジェンダー問題が答えを出すと見られている。

L.ガマンとM.マーシュメントの共著「The Female Gaze : Women as Viewer of Popular Culture (1998)」から引用してドミニック・ストリナティはポップ文化を、「社会に形成され流通する権力闘争の意義の多くが議論され決定される闘争の場」と定義付けている。資本主義と父権主義の補完システムに奉仕するだけのポップ文化と卑しめて、虚偽の意識が社会に麻酔をかけることを放置するのは十分でない。ポップ文化とは、もろもろの意義が競いあわれ、優勢なイデオロギーすら干渉を受ける場であると見ることもできる。市場と諸イデオロギー、出資者とプロデューサー、監督と役者、出版社と作家、資本家と労働者、女と男、ヘテロセクシャルとホモセクシャル、黒人と白人、年寄りと若者、あらゆるものの意義とその意味が支配に向けての絶えざる闘争を形作る。
登場するものに対する意義が競われ続け、その意義に対する支配が絶えず争奪される場となるがゆえに、上で述べられたポップ文化の定義は興味を引く。ましてやそこでは、優勢なイデオロギーすら干渉を受けるとも言うのだから。

イヌル事件を上の定義に当てはめてみれば、中央(ジャカルタ)のエリート・ダンドゥッ歌手たちが打ち立てたメインストリームとは異なるステージスタイルを持つ辺縁部(パスルアン)の歌手が、何が適切で何が不適切と見なされ、ステージ上にあって良いのは何で、そこに登場してならないのは何か、といったことに関する中央の意義付けに干渉したと言うことができる。意義に対する支配の争奪がそこに起こっているのは明白だ。
ジェンダーの側面からも、男と女の間の支配闘争が起こっていると見ることができる。女も父権主義者になれることから、必ずしも男と同一視されない父権主義を男性が代表する。そのイデオロギー闘争は、民族のモラルを守るために独特のゴヤンをしないようにとイヌルに対して要請された時点で明白なものになっている。

ほかにもイヌル事件においては、マスメディア、特にイヌルの姿を全国舞台にかつぎあげたテレビの影響に注意しなければならない。英国ライセスター大学社会学教授は「ポップ文化の中で情報や画像を定期的に、24時間連続でとも言えるのだが、放送する性格を持つテレビは、表面的なシミュレーションやコラージュ技術で一連の番組を作ることが可能だ。」と語っている。
テレビは既に、実態を忠実に表現していないとの批判を蒙っている。実際に、放映しようとするイメージを通して画像を、身体のどの部分を映すかということを選択していることから、それは決してオーバーな表現ではない。
イヌル事件においては、ミラ・ディアルシが批判したようなイメージフォーカスとして、テレビはコラージュ・テクニックで頻繁にイヌルの後ろ向き下半身を選択したために、視聴者の意識は画面に映し出されるものに、好むと好まざるとに関わらず、集中することになった。画面に映し出された身体の部位の選択は、テレビや印刷メディアのプロデューサーの脳裏にいったいどのような考えがあったのかという疑問を呼ぶ。


ポップ文化のような大衆文化は、文化論の中では「浅薄な」文化と見られているが、ポップ文化論は経済や資本主義の利益にのみ影響されるものではない。大衆文化評論家のひとりモドレスキーは、1980年代半ばの比較的新しいアプローチのひとつ、フェミニズム分析のメスを用いて大衆文化論をより深く考察する。
モドレスキーによれば、われわれが大衆文化に関して考えたり感じたりする方法は女性的な性質とされている観念に複雑に縛られているそうだ。女性が大衆文化の責任者であり、大衆文化のネガティブな効果の責任が女性にあると見なされ、その一方で高尚な文化の責任者は男性であると見られていることに、かれは大きな関心を抱く。
19世紀の女性作家の作品が男性作家の作品に比べて質が劣るというばかりか、大衆文化の発生の責任は女性にあると考えるような見解についてもそうだ。大衆文化という言葉の使用や高等芸術に比べて低劣だというその位置付けは、フェミニンとマスキュリンという性質に関わる実存的性格を持つ社会構造と無縁でない。
高等な文化(芸術)は、マスキュリン、生産、労働、知性、能動的、著述などの性質と同一視される。一方大衆文化は、フェミニン、消費、余暇、情緒、受動的、読書などといった性質と同一視される。モドレスキーのそんな見解でイヌルに起こったことが説明できる。

辺縁部からやってきた女であるイヌルは、男の創った高い評価を受ける芸術と考えられている文化に干渉するものと見なされたのである。何年にもわたって高尚な文化の決定者にして支配者だと位置付けられてきた側からの激しい批難をイヌルが浴びたのも不思議はない。
イヌルが体験したことは、アーティスト界で働く女性たちが何度も体験した出来事だ。先週金曜の反「女性への暴力」国家委員会記者会見で、女性が制作するアートに特化しているNGO、ウング・インスティテュートのイエニー・ロサ・ダマヤンティは、インドネシア女性作家の誕生さえもがチャレンジなしでは起こらなかった、と述べている。
たとえばアユ・ウタミが小説サマンを発表したとき、女性の性について多くを表現したために批難を浴びた。しかし女性も自分のやり方で表現したい自分の体験を持っているのだ。
イエニー・ロサが訴えたものが有効であるなら、ポップ文化はそのジェンダーコンセプトが形成するジェンダー構造から無縁ではありえない、という別の証明となる。インドネシアのように父権主義文化がきわめて強い社会では、女は男に比べて劣等の位置にあるので、女が作り出したものは往々にして無き物とされたり、卑小視されたり、もっと悪い場合は権力を持つと主張する者、すなわち男によって支配の対象とされる。

上で述べたように、ポップ文化は常にイデオロギーに対する競い合いをし、そのポップ文化の中に出現するものに対する支配権を奪い合う。ポップ文化発展史において、もっとも明白なイデオロギー闘争が起こったのは歌手マドンナ現象に際してだった。
ポップ文化の中で、女性は単に消費者であるというだけでなく演者でもあるということを、いくつかの調査が示している。しかしポップ文化産業における女性による支配は往々にしてマージナル、つまり何がステージに登場するべきかを決めることのできる女性はきわめて少ない、と考えられてきた。
スーザン・マクラーリーにとってマドンナは例外だった。なぜなら、音楽やビデオクリップは脚本家、監督、作曲家など大勢の人間が関わった制作物であるとはいえ、かの女はほとんどすべての次元で自分のイメージがマスメディアにどう表れるか、自分のキャリアがどのようなものになるのか、ということに対して完璧な支配を保持したからだ。男性が書いたマテリアルガールやライクアバージンは論争を呼んだが、かの女は歌詞や曲も書いた。西洋音楽産業において作曲を行う女性は男性に比べて少ない。
あるインタビューでマドンナは、自分自身がその悲劇的な死を迎えたブロンド女優、マリリン・モンローとの間につながりを感じていたとはいえ、かの女と比較されることを拒んだ。モンローは自覚なしにハリウッドの奴隷マシーンのわなにはまり、そこから抜け出すことができなかった。しかし自分はハリウッドのマシーンのわなにはまらない。「マリリンは犠牲者だった。でもわたしは違う。だからまったく比較にはなりません。」マドンナはそう語った。

マクラーリーはマドンナの観察結果の中で書いている。もしマドンナが本当にLive to tellの歌詞のようなら(生命力を持った文化パワーとして生き延びる、という意味)、それは父権主義に挑戦する行動が生まれたことを意味している。
もしイヌルが、現在受けている物理的精神的暴力の攻撃に負けることなく、その純情さと従順さで生き延びるのに成功したなら、かの女も父権主義文化の優勢な世界で女性がどのように生き延びたかというモデル像になることだろう。
ソース : 2003年5月5日付けコンパス
ライター: Ninuk M Pambudy


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『イヌルのお尻はわれらみんなの顔』

ダンドゥッ王国領では、イヌルはダンドゥッ王の民だ。あるいはロマ・イラマの子供と呼べばもっと親しみが増すだろう。イヌルは父の保護育成下にある。子供が誤っていなければ、父は子を支持する。子供が間違っていれば、父は意見する。子供が成功すれば、父は喜ぶ。子供が落ち込めば、父は助ける。

子供が間違いを犯したと父が考えたとき、その子は親不孝者だからもう子供と認めないことにする、と近所のみなさんを呼んで公表するために、父と家族の全員が突然隣組長を訪れたりはしない。ましてや他の子供たちもイヌルと同じことを現実にしているのだから。イヌルが有名になって以来、テレビに登場するほかのダンドゥッ歌手や、いわんやテレビに登場しない歌手たちは、イヌルに対抗できる官能度の劣らないジョゲッ・パターンを必死で探求している。
イヌルの登場でダンドゥッ界は大揺れに揺れた。ダンドゥッ・ステージにおける星座はイヌルの登場で一新した。イヌルがスターになり、他の者は端役になった。イヌルが牽引する「穿孔」文化現象が主流を占めた結果、ダンドゥッの音楽美は二の次となり、「穿孔」は「攪拌」やら「ズドン」やら・・・・何であれ、さまざまな対抗馬の出現を誘った。


「穿孔」はダンドゥッ文化のアバンギャルド
イヌルが行ったのは、本当はこれまでのダンドゥッ文化と音楽のダイナミズムが順次達成していくべき123・・・678の9という数字だった。イヌルの穿孔ジョゲッは、ダンドゥッ・ジョゲッ文化の長い発展におけるアバンギャルドだったのだ。かの女は私生児でなく、正常で、適切で、更にダンドゥッ・ジョゲッ文化のこころざしに対して忠実であり、クリエーティブだ。もしあなたがダンドゥッ・ステージの風土に注意を払う聡明で勇気ある人なら、イヌルのような人物が遅かれ早かれ必ず出現すると断言できたはずだ。
ダンドゥッ文化の中に発展したジョゲッ文化はそのような文化に対する包容性の高いものなので、イヌルにおかしなところなどあるべくもない。またハジ殿は、言って申し訳ないが、ダンドゥッ勃興の発端から、その現象に関して先見性がなかったのだ。ハジ殿は無意識にそれに手を貸していたのであって、イヌルの登場でダンドゥッ・ステージでのセクシーゴヤンをあたかもはじめて知ったような態度を示すのは奇妙としか言えない。ハジ殿はその種のゴヤンの風土に以前から関わっており、それを苦々しく感じていたようには見えないのだから。

1980年代初期わたしは、クルアンの章句や預言者のハディスの語りで始まり、音楽が鳴り、歌手が前向きや後ろ向きでセクシー・ゴヤンを行うダンドゥッ・ステージについて書いたことがある。イヌルは単に後ろ向きセクシー・ゴヤンを工夫しただけであり、たいてい歌手の恥部のちょうどまん前にマイクを差し出して構成する前向きゴヤンほどには、男たちを卒倒させるものでない。
何十年も前から世間は、宣教的ダンドゥッ歌詞とダンドゥッ・ジョゲッ文化行動のパラドックスに首を傾げてきた。ハジ殿はまるで今日はじめてその現象に出くわしたみたいであり、またイヌル以外のダンドゥッ・ジョゲッ女性たちはあたかも、イヌル式ジョゲッ文化よりも神聖であるかのようだ。


ダンドゥッ文化の価値の要約
わたしはこう想像する。ダンドゥッの王様、つまり父はアバンギャルドの娘を呼び、他の子供たちも全員呼んだ。多分意見をしたか、それとも相談や議論に誘い、共に話し合う過程を経て、もしもだれもが「ダンドゥッ界の風土は変わるべきだ」と見なすのならば、全ファミリーの総意をあらわす共同決定へと向かう。みんなはダンドゥッ文化の価値をまとめることが必要だ、という意見を持ったとしておこう。
ところがもしその娘が利己的で、とりなしや説得がまったく効かないなら、父や他の家族にとってその娘と絶縁する以外に可能性はない。

イヌル=ロマ事件が勃発したとき、わたしはインドネシアにいなかったし、これを書いている今もそうだ。だから事件経過がどうだったのかをわたしははっきり知らない。イヌルとダンドゥッ界の対話プロセスが先にあったのかどうか、それとも世間は突然ハジ殿とダンドゥッ界がイヌルに向けた姿勢を聞かされることになったのか、わたしは知らない。突然ロマとダンドゥッ界が一方の側に立ち、イヌルが別の側に立ったということなのかどうか。
もしそれが起こったのなら、ハジ殿の短慮と蒙昧の在り処はそこだろう。ダンドゥッ王国領内で、イヌルは相談する権利、協調する権利、意見を維持する権利、育成される権利を与えられていないのだ。


抗議の焦点はイヌルでない
ハジ殿のもうひとつの蒙昧は、イヌルをジハードの焦点にしたことだ。「本当のところ、われは短慮の傾向を持たせて人間を創った。」とアラーはのたまわった。そしてハジ殿は本当に短慮だった。

毒あたりする食べ物があれば、ハジ殿、その食べ物だけを睨みつけるのではないのだ。店や、その毒あたりする食べ物を誰が作って届けたのか、などといったことことがらを周辺にいる関係者との関わりの中で、われわれは調べるのだ。更に、店のオーナーの考え方、食べ物を作った者のイデオロギーや何を持っていて何を持っていないのか、資本、製造器具、市場規模、政治オーソリティ、おまけにその毒あたりする食べ物を地面に叩きつけたときに動揺するであろうすべてのものに対して、われわれは注意を払うのだ。
ましてハジ殿、毒あたりする飯一皿があったとして、その飯を皿ごと捨てなければならないのだろうか?それとも飯と皿を毒からきれいにする方法を探し、われわれが敵対して捨てるのは毒だけにするのか?
もう一度言おう。毒あたりする食べ物があったとして、毒に対する意識が食べ物に対する意識に対して大きすぎてはいけないのだ。ダンドゥッ界の王と民が議論しなければならないのは、イヌルではなくてジョゲッ現象なのである。人間像ではなくてアートなのだ。人ではなくて価値基準なのだ。

イヌルは10歳からゴヤンしていた。10歳から、1980年代半ばから、東部ジャワのジャパナン地方でイヌルはショーを始め、お尻に焦点を当てたボディ・ゴヤンの特徴は多くの人に知られていた。東部ジャワ各地の下層社会の人々にとって、イヌルのゴヤンはもうおなじみになっていたのだ。
かの女のどの活動も、たいした障害には会わなかった。なぜなら、われらの社会の思考風土のインフラと文化的背景は基本的に、どのような現象に対する姿勢においても、真剣さつまり実質的一貫性を持ったためしがなかったからだ。背教行為、盗み、汚職、賭博、売春、あるいは何であれ理論的にかれらが信奉する宗教に反するものであっても。
不真剣さという意味はこうだ。アラーを崇めるが否認もする。神を愛するが神の心を傷つけもする。礼拝を行うが闇賭博買いも行う。ラマダンのプアサをするがアラッ酒を飲むのも勤勉。ハジ巡礼に上るものの、メッカでの勤行の頂点で盗みや詐欺を行うことを確実にとどめる保証などない。他人をいじめ、姦通を行い、小人を賤しめ、森林盗伐をコーディネートし、高官職の地位を奪い合う競争相手に呪いをかけ、圧制や暴虐を行い、アラーの心を傷つけるさまざまな行為を行うのである。


汚職はするな、わたしに関わりがある場合を除いて
われわれは、自分に関わりがある場合以外、だれにも汚職を禁じる人間だ。われわれがその中に関与しないなら、KKNは赦せない。それを行うのがわれら自身の家族、われらの父、われらの政党の名士、われらの手本であるウラマであるなら、汚職はハラムでない。女中を共寝させるのは暴虐で大罪であるが、それをしたのがわれらが名士自身であればわれわれはそれを隠さねばならず、必要とあればその不義の子の収容と世話に努める。
われわれにとって名士とは、それが成功したあかつきにはわれわれみんながかれに対するアクセスを手に入れ、プロジェクトをもらい、高官に対する口利きができ、あるいはいっそのことわれら自身があれやこれやの高官職に据えられるために、われわれがかれを国の指導者になるように推薦し、闘争し、擁護する人のことだ。大統領候補者とは、もしかれが大統領になったらわれわれに利益を与えてくれる、とわれわれが期待する人のことだ。少なくともわれわれの階層に、われわれの組織や政党に、われわれのグループに、利益を与えてくれる。やむを得ず最大限の利益にならなかったとしても、われわれ個人と家族にさえ利益が与えられるなら。

われわれを利する限り、大統領候補者はコメディアンでも、天使でも、愚者でも、悪魔でも、だれでもかまわない。利益を受けるわれわれというのも、われらがインドネシア民族である必要はなく、われわれの属す階層でなくともよい。重要なのはこのわれわれ自身なのであり、自分ひとりだけでもかまわないのだ。そして利益と称しているものは、単純に「できるだけ多くの金」のことだ。
そのような価値風土において、イヌル現象は反歴史的でも特別なものでもない。


強奪者とおもらい者
汚職レジームがあれば、われわれは下の三つの可能性のどれかひとつを闘い取るだろう。第一、かれらに代わって汚職ができるよう、そのレジームを倒す。第二、かれらがあまりにも利己的に国の富と民の財を盗まないよう、できる限りのレベルにそのレジームを押さえ込む。かれらは汚職をわれわれとのコーディネーションのもとに行い、癒着をわれわれのネットワークの中で行って、われわれとシェアしなければならないのだ。
第三の可能性は、もしわれわれに交渉に使うためのバーゲニングパワーが何一つない場合、われわれはおもらい乞食の方法に努める。できるかぎりおもらいをしていないように見せるのは当然で、ナショナリズムあふれる美しいテーマ、レトリックやジャーゴンで包み、飾る。
インドネシアの住民はふたつ。強盗と乞食だ。必要に応じてKTP(住民証明書)を取り替える。権力を持っている間は強奪する。権力がなくなったならば、乞食になり、政党を移り、同盟を変え、デモクラシー・ダイナミズムの名のもとにテーマとコミットメントを替える。

イヌルはその意味での強奪とおもらいのできる住民に属していない。かの女はお尻のゴヤンの才能を持っているだけであり、自分がゴヤンすればXXXルピアの謝礼がもらえるというロジック以外にお尻ゴヤンと哲学・モラル・道徳・信仰等々といった価値体系との関係を理解しない。
そんな価値風土で、イヌル現象は奇妙なものでも不可解なものでもない。


闇賭博と信仰堅固
アア・ギムがイヌルに尋ねた。
「ンバ・イヌル、あなたがしていることはわれわれの民族の若年世代のモラルを破壊することになる、ということを考えたことはありませんか?」
イヌルはあふれんばかりの正直さを込めて答えた。
「アルハンドゥリラー、いいえ。」
その返事のニュアンスは、「79」という占いのお告げをもらい、そのあと自分の秘法でこねまわして「97」にしたうえで、自転車を売り払って「97」という数字札を買い集めた籤賭博客に似ている。ところが籤賭博で実際に出たのは、占い通りの「79」。かれは自転車を売り払って既に手遅れ・・・・・女房は怒り狂う。友人のひとりが意見した。「だから生きている人間は信仰堅固でなきゃいけない。気迷いしてはだめだ。79だったら79。ひっくり返したりしないんだ。信心は堅くなきゃ・・・・・」

世の中のモラルを犯すことに関連する何ものも行っていない、とイヌルは思っている。だからもしモラル法廷があったなら、イヌルの順番はずっと後ろの方だ。順位の高いのは、モラルを認識していながらそれを裏切った者、法を理解していながらそれに違反した者、民の代表者になる、つまり民の利益代表になると認識していながら自分や自分の階層の利益追求に忙しい者たちである。
雑魚クラスの人食いであるスマントと同じだ。かれは屍体を、しかも婆さんを食う度胸しかない。それも屍体が墓に入ってから盗む。スマントには、国の世話人たちの大勢が行っているような、民の肉を食らう度胸がない。イヌルのお尻も、スマントの行為も、本質的にはわれわれみんなの顔なのだ。


尻を向けられるために金を払う
自分が政治的にはセキュラリズム(世俗主義)、経済的にはインダストリアリズムで、文化はそのふたつのパワーの支配下にある国に生きていることをご自分の意識の中に確立させる必要があると、失礼ながらハジ・ロマ殿に申し上げておこう。
その事実に承服しかねる人は、次の三つの可能性からひとつを選ぶことができる。第一、反乱を起こして政権を奪う。第二、国の憲法と衝突しないようにして、自己の原理が持つ価値がその領域で適用されるような自分の国を作る。第三、音楽史的戦略と説得の原理にもとづいて、いくつかの限定的な融和を行う。

宗教的な見解を持つ者としてハジ殿は、スジュッ礼拝によってイヌルを評価することができるはずだ。神はムスリムに、ひざまづいて頭を地面につけるスジュッを命じている。そのしぐさにおいて尻は一番高い位置に着き、顔はもっとも低いレベルに来る。顔はわれわれの実存のしるしであり、個性のアイコンであり、アイデンティティの表れだ。住民証明書を作るときは、尻のクロ−ズアップ写真でなく顔が使われる。
スジュッ礼拝は、ふるまいに注意しないと人間は尊厳が顔から尻に落ちてしまうことを絶えず意識させるための鏡というひとつの手段になっている。スジュッの際に礼拝者が口ずさむのは「絶対至高のアラーの絶対なる神聖」だ。だからスジュッには尊厳の実質、あるいは生きとし生ける人間のレベルというものが込められている。
今や人は個人の尊厳の低下を懼れないだけでない、ということをハジ殿は懸念している。人はイヌルの尻にまで憧れ、尻を向けられることに金を払っているのだ。


官能性のないダンドゥッ「マーケット」
しかしそれは宗教の話しだ。宗教者たちの問題だ。セキュラリズムとインダストリアリズムは尊厳、レベル、道徳、信仰などとは無関係であり、セキュラリズムとインダストリアリズムに、そのようなことがらに関連するアジェンダはない。
ハジ殿、ここは世俗の国なのだ。イヌルのジョゲッどころか、姦通すら何でもないのである。不信仰者になってよいか悪いかについての法規もない。偽善的姿勢も許される。この国は、われわれが神を裏切ることに異存を持たない。神がメインサブジェクトではないのである。神がなくともこの国に異存はない。だがハジ殿には嘆く必要はない。上であげた三つの可能性のひとつを選ぶだけなのだ。

インダストリーは善悪や善なる道徳などといったことを考えない。インダストリーは神、天国、地獄などと関係を持たない。インダストリアリズムは、売れるか売れないか、マーケッタブルかそうでないか、評価が高いか低いか、という図式で働く。悪いニュースは良いニュースなのだ。鼻水が売れるなら鼻水を売る。マーケットで騒がれているのがイヌルならイヌルを売る。ハジ殿だってこれまでは、きわめてインダストリー・マーケッタブルな人物像だったではないか。今やハジ殿は、自分の音楽がジョゲッと官能性なしでも依然としてマーケッタブルである、という超越性を示さなければならないのだ。

ハジ殿、気楽なのはわたしみたいに売れない人間である、ということが明らかになる瞬間があるものだ。

おお、アラーよ。レフォルマシはまだ成就せず、農民はいっそう悲惨にあえぎ、労働者は困窮し、国の危機に終わりは訪れず、繰り返される総選挙でも民族の安寧は欠けたままで、多くの難問をわれわれはまだ克服できないでいる。そして今日、わたしはお尻について書かねばならない。おお、アラーよ。
ソース : 2003年5月4日付けコンパス
ライター: Emha Ainun Nadjib  文化人


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『まだ帰っちゃだめだ、もうちょっとでスゴくなるから・・・・』

ステージ上には女性歌手が五人。衣装はさまざまだが、ある特徴だけはみんな共通、つまりみんなエロチック。ミニスカート、超ホットパンツ、上半身はスパンコールのピチピチタンクトップ。それぞれがボディランゲッジ体操で鍛えた技術の粋をつくしてお尻をゴヤンする。歌うのはPoco-poco、Bukan Basa Basi、Gadis Atau Jandaなどの曲。これぞ話題の大衆音楽、プルバウガン [Perbaungan]ミュージックだ。

「これは女性への侮蔑よ。わたしはすごく腹が立ちます。シーズンになると、一晩にふしだらなキボルが5グループもプルバウガンに出てくるのよ。」プルバウガンに本部を置く解放女性同盟連合レリ・ザイラニ議長の言。この女性活動家は、その「ふしだらキボル」現象に強い抗議を向けている。かの女はいろんな手段を使う。その中には、地元でその種のショーが行われたら反対するように、と主婦階層に対してロビイングすることまで含まれている。
かの女がカッカして「ふしだらキボル」と言っているのは、エロチックなスタイルの女性歌手一二名を従えた一台のキーボードによる音楽演奏のこと。北スマトラではkeyboardをkiborと発音する。このたぐいのエンターテイメントはいま、北スマトラで大流行。その響きは、鉄道駅や北ジャカルタ市コピ通りを根城にしているトラック運転手をはじめとする庶民層の隅々にまで轟いている。なぜって、プルバウガンあたりで演奏された音楽はまずVCDに収録され、一台かせいぜい2〜3台のカメラで撮ったその映像は、ステージの前で口あんぐりの子供やら観衆までが写っているライブ・ダンドゥッ・ショーをわれわれに見せてくれるのだから。

もちろんそれは、マスメディア報道がほとんど触れない底流のストーリー。「プルバウガン風ダンドゥッ」を目にすれば、「プリヤイたち」はただただ肝をつぶすばかりだろう。コマのようなお尻のゴヤン、ミニミニ衣装、バックグラウンドに流れるのは昨今ハウスミュージックと呼ばれるあの香りたっぷりの、人を陶酔に誘う音楽だ。ヘルベルト・マルクーゼ型フランクフルト学派思想で言われるところの、抑圧された民衆の産物とはだいたいこんなもの。


「いまメダン市とその近郊でキボル・グループは150くらいあると思う。」メダンで知られた音楽専門家で音楽オブザーバーのベン・パサリブの言葉。一二人のダンサーを伴うキーボードプレーヤーひとりのこの音楽サービス業には、アコーディオン、タンブラ、バイオリンなどほかの楽器を加えたバリエーションもある。それらのグループはたいていメダン市外の、プルバウガンからセイランパに広がる農園地帯のあちらこちらに点在している。メダンの南およそ40キロのプルバウガンの町だけで、そのエロチック・ショーができ、そしてまたふだんそれを行っているグループが少なくとも10はある。
ベンによればそれは実のところ、エレクトーンと呼ばれる楽器が販売されるようになった1970年代以来起こっていた現象が進化した姿なのだそうだ。エレクトーンというのは、ドラムやトランペットやそのほかの音が出せる、電気を使ったオルガンのこと。「あのころのヤマハブランドのエレクトーンが、いま盛んなキボルの発端だ。」とベンは言う。

最初はそのワンマンショーが世間を驚かせたものだ。祝祭の催しからバンドは追いやられ、エレクトーンがそれに取って代わった。エレクトーンを雇うことで、ひとは自分がテクノロジーから取り残されていないと感じるのだ。「ましてやエレクトーン奏者を雇うほうが、ひとりに金を払うんだから安い。バンドやオルケスを雇うのは大勢を雇うことを意味している。その他の効用として、土地の狭い村の人にもエレクトーンは雇いやすい。というのはバンドやオルケスだと広い場所が必要だから。」とのベンの談。
実用的、やりくりが簡単、料金が比較的安い、などといった要素が昨今のキボル・ショー乱立の理由に違いない。14時から24時までの出演で、ニ三人の歌手を連れたキボル・グループは、その知名度に応じて1〜3百万ルピアの報酬を取る。五百万ルピアも取るバンドを雇うのと較べて見ればよい。それもトップクラスではない並みのバンドなのだ。

キボルが盛んなのは、ある面でおもしろい現象だ、とベンは見ている。音楽の普及が進展していることは、メダンの若者たちのますます多くがキボルで音楽をやるのを見ればわかる。メダンから6百キロ南に下ったパダンシデンプアン地方で名の売れたシデンプアン・パワーバンドで唯一のメンバー(キボル・バンドだからあたりまえ)であるキボル奏者のザイナル・アビディン・ダウライは、マンダイリン・ソングの名声を高めることができたのはキボルのおかげだ、と語る。マンダイリン曲を収めた録音は飛ぶように売れ、不法コピーまで行われているのだ。
ただ音楽の単純化がキボルの弱点だ、とベン・パサリブは指摘する。キボル演奏は簡単なため、人の音楽能力を向上させることにつながらない。おまけに伝統音楽の境界さえキボルによってグシャグシャにされる。
「バタッの伝統催事で観衆がGondang Mangaliatやそのほかのジョゲッ曲をリクエストしたのに、バタッ曲じゃないものが演奏されても、だれももう気にしない。ポチョポチョでも他の曲でも、要は音が鳴っててゴヤンできればそれでいいんだ。」とのベンの談。


演奏される音楽がどんな種類であれ、人にこのキボル・アトラクションを待ち受けさせるよう仕向けるものがあるのは明らかだ。
「兄貴、もうちょっとしたらスゴくなるから、まだ帰っちゃだめだ。」先週、プルバウガンで催されたキボル音楽ショーで、ひとりの若者がそう話し掛けてきた。夕方のまだ「お行儀の良い」と言えるプログラムのあと、夜になるとスゴく淫らなショーが展開されるのだということを、かれは知らせたかったのだ。自分はショーが「ふしだら」なものにスイッチされる深夜を待っている、とかれは正直に認めた。
ショーが「ふしだらキボル」に変わると何が起こるのだろう?西ジャカルタ市グロドッ、中央ジャカルタ市パルメラ駅、南ジャカルタ市ビンタロ・ジャヤ近くのポンドッランジなどあちこちで、プルバウガンで見られるようなショーが収録されたVCDを容易に見つけることができる。さまざまな地方のさまざまな場所で、いろんな祝祭のおりに撮影されたライブショーの録画もそうだ。
それらのVCDはさまざまなタイトルが付けられて売られている。「プルバウガン・モナリザ・キーボードと共に一時間」「パルバウガンの双子姫」「ジョゲッ・キンメダン2002」「シンチャン悩殺ゴヤン」。それらのカバージャケットには、「ステージショー」「セクシーショー」「シンチャン」「ニニ・ペレッ」「セック・・・・シーダンス」「セフィア」など意味不明の言葉が添えられている。それらVCD録画にあるそれらしいゴヤンの異様な世界に加えて、蛇になったおかまとダンサーが地面を這いずり回る蛇踊りまである。

特にメダンとその近郊地区では、衣装は一様、つまり超ミニスカートや超ピチピチで上半身の一部を覆うだけのタンクトップ。ゴヤンはお尻を回転させるほか、一番頻繁なのは倒れそうになるまで背中を後ろに倒す動き。ステージ上ではまた、たとえば「村娘悩殺ゴヤン2002」のレコーディングに見られるように、ここに引用するのがはばかられるような「オソロシー」せりふを司会者が吐く。そこに登場する歌手たちの名前はワティ、ユニ、ウラン、それどころかシェリーナも(バレーの上手な少女歌手のあのシェリーナとは別人)。

キボル・ショー自体の元手はといえば、プルバウガンから10キロ離れたパンタイ・チュルミンでふだんチチッと呼ばれているキボル奏者ナスリ・エスファスが明かしているように、自分が使うキボルのモデル次第で異なっているそうだ。「上等なのが欲しけりゃ、8千万ルピアくらい必要。オルガンはテクニクスKN6000で値段は2千5百万。サウンドシステムはピービイの2千ワットで値段は5千万くらい。」とチチは言う。2千ワットの電力はたいてい、ショーをやる村々で電柱から直接電気を引いてまかなう。
メダンのキボル奏者の中には、いまや価格が1千万ルピアを切ったヤマハのPSRを使う者も見受けられる。中級層と呼べる人たちの間では、テクニクスの別のモデル、KN2000やKN1000もよく使われている。
Melayu Bergemaというバンド名で歌手のヨノといつも一緒にやっているチチッは、自分のキボル・ショーのための機材のオーナーでもあるが、オーダーがなければチチッはその機材を一晩50万ルピアでレンタルする。
「機材を貸し出した日に突然オーダーが入ったことがある。結局ほかの者から機材をレンタルしてもらったよ。」と笑いながら話すチチッ。
キボル・ショーの一部となっているエロチックさについて、チチッはこう語っている。
「わたしらキボル奏者だけを悪者にしないで欲しい。ふしだら歌手を登場させるのは、発注者がオーダーしたからなんだ。そんな発注者ばかりなんだよ。」
ふしだら歌手のオンステージの最中に主婦たちから石を投げられたことがある、とチチッは告白する。「だから最近は、ムラユ音楽だけを行儀良く演奏するほうがうれしい。」というチチッのコメントに合わせて友人のヨノが「ムラユ音楽を好まない北スマトラ人がどこにいるもんかい。」と合いの手を打った。
時に避けられない場合があるとしても、エロチックさは言うまでもなくリスクをはらんでいるものなのだ。
ソース : 2002年2月17日付けコンパス


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『ゴヤンしてほしい・・・?』

スラバヤ郊外で催されたそのダンドゥッ・ショーの司会者は、迫力をつけようとして声を太くした。言い方もふつうの話し方とは変えている。次に登場する歌手の名を一語一語ぶつ切りにして発音した。「これが、ディー、アー、ロー、シー、ター」

同時に名前を呼ばれた歌手が舞台の上に姿を現す。ディア・ロシタだ。ディアはエルフィ・スカエシの持ち歌、Bunga-bunga Cintaをエルフィの声に似せて歌う。青色のビニールシートを屋根にし、木で床を張ったステージの前に立つ観衆は、クティプンとクンダンのビートに合わせ、というよりはまず歌手のゴヤンに合わせてすぐに身体をくねらせはじめる。
モジョクルト、シドアルジョ、グルシッ、ラモガンなどGerbangkertasusilaと通称されるスラバヤ周縁部地方での、毎日の生活苦のさなかに尽き果てるとも見えない生活力を持つ民衆の慰安催事であるダンドゥッ・ショーの陶酔がそれだ。

混み合う群衆の中で、一部のひとはタバコを手にしたまま、みんなが揺れている。時には足を踏まれる者が出る。時には誤解やつまらないいざこざで喧嘩が起こる。
でもいまは、足を踏まれる心配もなく、喧嘩が起こって迷いパンチが飛んでくるのを恐れる必要もなく、うっとりとはとてもならない汗のにおいを一緒に嗅ぐ必要もない。なぜなら、さまざまな祝祭の催しをはじめとして周縁部地方で開かれるダンドゥッ・ショーはいまやVCDに記録され、そんなVCDはいたるところへと流通しているからだ。トゥンジュガン・センター地区、パハラワン通りのスラバヤシアター映画館前、トゥリ市場などといったスラバヤの市中ばかりか、グロドッやパルメラなどジャカルタの街中でも売られている。
Orkes Melayu Monata、Palapa Super Top Dangdut、Orkes Melayu Avitaなどタイトルもさまざま。それらのVCDには、Joget Kim Medan2002、Goyang Maut Sinchanなどのタイトルが付けられたVCDに登場する北スマトラ州のダンドゥッ歌手たちよりもはるかに慎みのないレコーディングが収録されている。それらダンドゥッ・グループに所属する歌手たちは大人の女性ばかりか子供もいる。トリオ・チャベ・ラウィッという名前を付けた子供歌手グループのVCDさえ出回っている。十歳前後の少女たちは大人の歌手と同じような衣装を着け、下半身を大人そっくりに回転させる。
そんなダンドゥッ・ショーでは、しばしば舞台の上から声が飛ぶ。「ゴヤンしてほしい・・・?」そしてゾクゾクッと、少女たちはゴヤンを見せてくれる。


「田舎」のダンドゥッ・ショーは、いまやほとんどがVCDに収録されている。たとえば「Semarak Dangdut OM Avita」というタイトルのVCDは、2001年10月にシドアルジョ県タングルアギンのクルダンでかれらがショーを行ったときに撮影されたものだ。画面には、ステージの隅のタンバリン奏者の方を指差している司会者が見える。コメディアンのドヨッみたいにやせて長髪の男が精力的にジョゲッしている。
「コンタッ・ダンドゥッのファンのみなさんはきっとかれをご存知のはず。」と司会者は語りを入れる。「コンタッ・ダンドゥッ」はTVRIスラバヤ支局制作のダンドゥッ番組。「コンタッ・ダンドゥッを飾る、華麗なアクションでシドアルジョの名をあげる・・・・カルコノ・サンジャ〜ヤ〜!」堂にいった司会者の叫び声。続いて他の歌手たちが続々と登場して来る。

スラバヤ周縁部地方はもちろん、ダンドゥッの中心地と言うことができる。ダンドゥッ歌手たちは、出演報酬や観客からもらうチップで生計を立てている。シドアルジョ県ワルの釘製造工場裏に事務所を構えるOMアヴィタといつも一緒にステージに立つダンドゥッ歌手、19歳のディナ・ノヴィタサリのように。
「もうチップで5千ルピアなんてのはないの。最低でも1万よ。」スラバヤのルンクッにある私立大学生でもあるディナの弁。一回のショーでこのグループが得るチップは百万ルピアになるそうだ。十数人の音楽クルー、6〜7人の歌手らで分配すると、ひとり一晩で三万ルピアくらいになる。出演料はまた別だ。
ディナは大学生だから、多少インテリ気味ダンドゥッ歌手のひとつのプロフィール。ダンドゥッ・センターはたいてい町の郊外で、クリアン郡と境を接するドリヨレジョ地区のような工業地区。ダンドゥッの生活環境は、そのような工場地区での労働者たちの生活環境に親しい。

中部ジャワ州スラウィ出身の歌手、29歳のチトラ・ウタミは、ドリヨレジョの「コラミル・チャンキルの西50メートル」と名刺に刷り込んである部屋貸しアパートに住んでいる。毎日の仕事は自動車用ワイパー部品の組み立て。
「わたしの一家は歌手の家系。母は歌手でジャイポンの踊り手。四人の姉はスラウィのダンドゥッ歌手。ステージでのわたしの元手はジャイポガンなの。」本名がエニRウタミであるチトラ・ウタミはそう語る。
一緒に働いている労働者仲間たちとは違い、かの女の部屋はずっと豪華に見える。テレビが置かれ、自分の携帯電話も持っている。「これで歌のオーダーを受けるのよ。」とその携帯電話をかの女は指差す。

辺縁部地方のあちらこちらの舞台で、そしてVCDでお目にかかることのできるダンドゥッ歌手がかの女たちだ。「悩殺決定版」と異名をとるゴヤンで知られたウウッ・プルマタサリやディアン・カリニなどをはじめとして、かれらがダンドゥッ歌手の広い裾野を埋めている。


ダンドゥッ歌手とかれらを収録したVCDとはいったいどのような関係になっているのだろうか?どうやら海賊行為と呼べるものがそこで起こっているようだ。録画VCDのいくつかでは、オルケス・ムラユ何々、リーダーだれそれ、録画制作どこそこ、といった表示の見えるものがあるが、制作者自身がこの種のテクノロジー産品の帰結に対する認識に欠けているにちがいない。
たとえばファリッMSという名前がOMパラパのVCDのヘッダーに登場するが、その人物は制作者ではなく、ビデオ撮影請負ビジネスのオーナーだ。「わたしは制作したこともないし、配給したこともない。」とパラパ・ライブ・ショーと題するVCDに関して、グルシッ・ドリヨレジョ保健所の公務員である47歳のファリッは語る。
「わたしはビデオシューティングサービスとしてやっているだけ。VHSで録画した画像は、スラバヤのなじみの業者に送ってVCDフォーマットに変えている。」かれはそう説明する。そのあと祝祭主催者の注文に応じて十数枚のマスターコピーを作る。出演した歌手たちもしばしばその録画を欲しがるので、かれはまとめて一緒に作る。催しがあるたびに、かれはたいてい10〜12枚程度のマスターを作るそうだ。自分がしているのはそれだけだ、とかれは言う。「そのあとで、わたしの撮影したものが市場に商品として流れることについては、わたしは何も知らない。」との話し。

だとすれば、それらのケースはしばらく前に世間を騒がせた、バンドンの大学生カップルによるベッドシーンVCDの事件と同じようなものだ。つまりVHS録画がトランスファーサービスによってVCDに変換されると、その後になってあちこちにコピーが出回るようになるのである。


あちらこちらに出回っているダンドゥッ・グループのショーの録画はそのように、多くがかれらと無関係だ。それらのVCD商品はトゥリ市場で売られているが、きっと別の場所で大量に卸価格での売買が行われているのだろう。
「わたしは作曲者と歌手の著作権という面で心を痛めている。ジャカルタの関係当局はこの問題にメスを入れようと動き始めているように聞いている。」OMアヴィタのスカルジョはそう述べている。
だが商品や著作権問題に対してかれらの多くは、テクノロジーの進展が投げかけてくる現状に臆病さを示す。「それは海賊行為なのよ、おじさん。わたしのボスもわたし自身もどうしようもないの。」とダンドゥッ歌手、リア・ムスティカはコメントした。「でも、いいのよ。かれらだってそうやって稼ぎをしているんだから・・・・」とかの女は続けた。
ソース : 2002年2月17日付けコンパス


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『ゴヤンをお望みなら、アンバラワへ電話しな』

歌手になりたい?テレビに出たい?簡単さ。結婚式でいつも記録ビデオを撮っているビデオ・シューティング・サービス屋へ行けばいい。歌手みたいにやってるところを撮ってもらえば、少なくとも家族と一緒に楽しめる。テクノロジーは娯楽の世界に、いやわれわれの社会構造に幅広く革命をもたらしたのだ。

ボゴールでイマジン・デジタル・スタジオという名のビデオ・シューティング・ビジネスを営んでいるデニー・アフリアントは、歌手シーンをオーディオビジュアル・レコード撮影してもらいにやって来た一家のことを話してくれた。お父さんとお母さんはテレビに出てくるプライベート・ビデオクリップみたいに撮ってほしい、とリクエストした。子供たちはモデルとして登場する。
「テレビで見られるものは実際、大勢の人にも手が届く。」と語るデニーは、テレビみたいな作品を作るのは難しい、という固定観念を打ち破りたがっている。「ビデオクリップを作るのは金がかかるとみんな思っているが、1千万ルピアもかからない。1〜3百万ルピアでも作ることはできる。それどころか、かつてあるダンドゥッ歌手が個人的なドキュメンタリーを作りに来たが、うちは50万ルピアで請負ったよ。金がかかるかかからないかを決めるのは、撮影ロケーション(1ヶ所で撮るか、数ヶ所移動するか)やコスチューム(衣装替えをするかどうか)などの要因だ。」との談。
最近、ダンドゥッ歌手が大勢イマジンへ来るようになった。「歌手たちはステージ上の自分の姿を撮影してもらうために、2〜3百万ルピア払ってビデオ屋を呼ぶ。歌手やバンドは友人たちに配るために、そのあとたくさんダビングするんだ。」とデニーは語る。
そんな体験をもとに、いまやイマジンは活発にダンドゥッ界にアプローチをかけている。祝祭の催し物などで歌手に出会えば、「自分だけで出演したくない?」とオファーする。何曲撮りたいのか、料金はそれに応じて変わる。

デニーとかれのイマジンは、わが国のいたるところで盛んなビジネス業界のアクターのひとりにすぎない。これは実用的な事業だ。自分ひとりでも、あるいは一二人の人を使う程度でやっていける。スマラン市クムダスモロ通りにあるプラサスティ・デジタルのオーナー、57歳のMクスニンがやっているのを見るがよい。かれが働いているのは、仕事場を兼ねたベッド二つが置いてある寝室だ。コードやCD用カバーの紙などが床に散乱している。
「悪いね、散らかってて。この仕事場は寝室を兼ねてるもんだから。」とクスニン。かれはパナソニックM8000、JVC JYX VHS、ソニーのハンディカムなどカメラを数台持っている。もう一台はいまシューティングに出ているそうだ。かれの息子のひとり、スマランのコンピュータ大学を出たウィドドがその事業を手伝っている。事業のスタートは1988年。5人の子を持つ公務員であるクスニンは、子供たちを大学までやれたのはこのビデオビジネスのおかげだ、と述懐する。「わたしゃよく中国人の結婚式を録画する。結婚式のは一日で出来あがるし、収入も250から300万ルピアで悪くない。ジャワの結婚式はややこしいし、だらだらしている。」とクスニンは言う。

これもスマラン。トゥロゴサリで、49歳のユスフ・マフルスはカミラという屋号の店をやっている。フローレス出身のアブ・ムスリムという25歳の青年をかれは使っている。「ミキサーでの編集ならまだ自分でやれるが、今はコンピュータを使うようになり、わしの頭じゃテクノロジーの進歩にもうついて行けない。もういいさ。わしゃアブのようなコンピュータのわかる若者に手伝ってもらうから。」ユスフがこのビジネスに入ったのは1985年。かれは祝祭ばかりか、大衆組織が催す大集会も撮影する。1990年代にはウォノソボとパラカンで行われたロマ・イラマのショーを撮ったこともある。「ロマのショーの映像は市場販売用でなく、ロマと契約したスマラン在住のパ・プラプトのドキュメンタリーとして撮影した。」とユスフの言。


チャンプルサリ、ダンドゥッ、クロンチョンから果てはさまざまな映画の海賊盤コピーが上はジャカルタのグロドッ、下は全国津々浦々の村にいたるまで流通しているありさまを、そんな実用性の高いビデオ収録ビジネスが説明している。たとえばパスルアン県グンポル出身の歌手イヌルが芸能界で幅広く名を挙げ、大勢のひとに嫉妬やら妻にしたいと夢を持たせるようなスターに仕立て上げられたように、テクノロジーは村落部の民衆の手によって新しい社会的活力を生み出している。
非合法なそれらVCDの生産流通とは異なり、西スマトラでチョトッ・プロダクションを営んでいる歌手で作曲家のエディ・チョトッのように合法的事業として発展させているひともいる。チョトッ・プロダクションは既に26タイトルを超えるミナン曲のアルバムを出しており、VCDのそれらアルバムは一枚1万5千ルピアの価格で、5千枚から7千枚が出荷されている。かれのビジネスが不法コピーの手から免れ得ないのは言うまでもないが、「海賊盤はいっぱい流れているけど、パダンでじゃあない。」とエディは語る。かれの制作したVCDはマレーシアからオーストラリアまで流通しており、ランタウしたミナン人が買っているそうだ。

テクノロジーはインドネシアの隅々にまで浸透し、多くの事柄にさまざまな変化をもたらしている。1980年代に各地のステージで自分のダンドゥッ・グループ「サギタ」とアンバラワやサラティガのセクシーな歌手たちを率いて引っ張りだこだった中部ジャワ州サラティガの古顔、いまやよわい50歳前後のストリモは、オルゲン・トゥンガル・ショーで稼いでいる。さまざまな音が出せるようになって性能のますます向上したキーボードだから、大勢のメンバーを擁するダンドゥッ・グループがローランドE−96にとって替わられる時代なのである。
「ほとんどあらゆる楽器がここに入ってる。西洋楽器ばかりか、チュクレレ、クロンチョンやチャンプルサリで使われるチュッチャッの音、クンダン、スリン、ガムランの音板など全部あるよ。」と自分のキーボードを示しながらストリモは言う。サンプリング・テクニックつまりその楽器を先にプログラムしてディスケットにセーブしておけば、音楽のできない者でもオルゲン・トゥンガルはやれる。
「いるんだぜ、そんなやつが。そいつはプログラムに20曲持ってるだけで、もうオルゲン・トゥンガル・プレーヤーとして注文を受けてる。プログラムの中に入ってない曲のリクエストがきて、マニュアルで弾かなきゃならなくなったら……、冷汗もんだよ。」ストリモの話しだ。
いまあちこちで盛んなのはこのオルゲン・トゥンガル・ショー。北スマトラ、中部・東部ジャワなどのあちこちの村落で、オルゲン・トゥンガルにはその衣装やゴヤンで観客をゾクゾクさせる女性歌手がたいてい付く。


テクノロジー革命とそれに付き随うコンシューマリズムの流れの中では、土に足をおろしたことのない社会学者たちが村という名前はあたかも『静謐、平穏、繁栄』と同義語であるかのように描き出している、そんなものがわれらの村だなどと信じてはいけない。村落部の人々は、自分自身の定義付けのチャンスもアクセスも与えられたことがない。かれらはより大きい権力を持つ側によって観察され、そして定義付けられてきた。ちょうどダンドゥッ歌手イヌルが、あとになって従来からより権力を持っていた別の階級によって定義付けられ、価値判定をされ、弁護されあるいは非難されたように。
ポストコロニアリズム研究者たちが、いままで人は旧植民地を西洋オリエンタリストの定義を用いて眺め、定義付けていた、と訴えるのと同じように、「インテリ・プリヤイ」たちは物の見方を再構築しなければならないということを、ポストモダニズム思想家たちはかれらに覚らせようと努めている。生活の実態、われわれの村の実態は、アカデミック層が夢見ているようなものではないのだ。
村落民もいまでは携帯電話を使う。大都市で携帯電話は、ブルジョアがモールやコーヒーショップでデートするための用途をはじめとして、誰もがそれを使っている。しかしアンバラワやサラティガの村々では、歌手を必要とするオルゲン・トゥンガル・ショーに駆けつけてくるダンドゥッ歌手とコンタクトを取るためのものだ。電話するか、あるいはSMSを送信すれば、歌手たちはやってくる。そしていつでもゴヤンしてくれる。
ソース : 2003年3月9日付けコンパス


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『かれらはコアーズさえ待たせた』

ステージの上では中年の男性歌手がひとり、ミナンの曲を歌っている。パントゥンの付いた歌詞の合間にティゴ・ティゴ(3・3)、アンペッ・リモ(4・5)などと数字がはさまれる。聴衆はミナン曲に聞き惚れながら歌手が言う数字をつき合わせている。西から東まで、北スマトラからバリに至るまで、民衆のポップ音楽はさまざまな形態、スタイル、わるさ、そして言うまでもなく生活のための闘いとともに流転する。

ミナンのそのステージは、一般にキム[ kim ]と呼ばれている賭博の一種であるスピードゲームのバックグラウンドなのだ。番号をかき混ぜてから当たり数字を歌の中で発表し、それをつき合わせるというゲームの楽しみとは別に、もうひとつ陶酔的なのは、ステージ上で踊る女性たちの姿をも楽しめること。かの女たちは言ってみればテレビのバックダンサーのようなものだが、そのうちの幾人かはとてもセクシーな衣装や踊りを見せてくれる。このキム・ゲームに付随するダンサーの官能度で有名な地方が北スマトラ州。なかでもメダンとその近郊一帯は本場であり、そのためにエロチックと同義語になるキンメダン[ Kim Medan ]という言葉を含んだタイトルの音楽VCDがいろいろと発売されている。

それに対抗するかのように、西スマトラ州でもキンミナン [ Kim Minang ]と書かれた音楽VCDが売られている。メッタ・チャクラ・レコード&PNZレコードが制作したVCDのタイトルは「ライブショー・キンミナン」で、そこにはあちらこちらに数字をさしはさみながらパントゥンを歌う歌手とともに、身体をくねらせるダンサーが登場する。パダンのキム愛好者のひとりは、その歌いながら行われるキム賭博の隆盛をもたらしたのは西スマトラのアーチスト、ラジョ・ビンタンだ、と自慢する。「かれが各地にそれをはやらせたんだ。かれはマニンジャウの男だよ。パントゥンはお手のもので、しかも賭けの紙が千枚あったとしても、かれが数字を言えばその中で当たるのはひとつしかない。」その愛好者はそう語る。


地方部において、音楽エンターテインメントのような躍進例は他に見られない。西スマトラ州パダンでは、街中のパサルで地元レコード製品をあきなうカキリマ商人のVCD販売が繁盛しているのを目にすることができるだろう。商品陳列台にはブリットニー・スピアーズのVCD、ベルティ・ティラルソの体操ビデオと肩を並べて、今を盛りのエディ・チョトッやネディ・ガンポらのポップ・ミナン・レコードが勢ぞろいだ。
VCDを売っているアルディという名の二十歳のカキリマ商人は「エディ・チョトッのは一日に10から15枚売れる。」と物語る。俺の名はイッケ・ヌルジャナの旦那みたいだろう、と自慢気に話すかれは、自分の恋人もイッケ・ヌルジャナみたいな美人だけど、恋人はその娘ひとりじゃないよ、と語る。かれの一日のVCD販売が25枚程度だそうだから、10〜15枚という数字が大きな比率を占めていることはよくわかる。地元曲VCDの値段はブリットニー・スピアーズやウエストライフなど西洋歌手のものより高い。なぜなら西洋歌手のVCDは一枚5千ルピア前後の海賊盤である一方、地元曲のVCDは地元アーチストの録音したオリジナルだからだそうだ。地元で制作されたVCDの価格はたいてい一枚が1万5千ルピアする。
「全国レベルじゃあ、レコードプロデューサーは海賊盤の横行に嫌気がさして2000年以来みんな制作をやめているというのに、西スマトラのVCD制作は二年前からキチガイじみてきてる。ポップ・ミナンも海賊されるとはいえ、オリジナルと不法コピーの両方がマーケットで飛ぶように売れてる。」レコーディングビジネス業界者、FHエンターテイメントを経営しているヘルマン・マッムルはそう述べる。
西スマトラには制作会社が10以上あり、月にして一社当たり平均二枚のアルバムが制作されている。一アルバム5千コピー作られるとして大雑把に計算すれば、マーケットにはVCD新アルバムが毎月10万枚発売されていることになる。全国的な配給網を持っていないために、それらのVCDアルバムは西スマトラ州内だけで売られている。「ポップ・ミナンのオリジナルVCDやカセットがほしけりゃ、西スマトラ州まで買いに来なきゃならん。でもプロモーションなんかせずともひとりでに売れていくよ。」地元レコード産業の概略図を描きながら、ヘルマンはそう話す。製作者の総コストはプロモーション経費を入れないで一アルバムおよそ3千万ルピアであり、4千枚売れたら損益分岐点をクリアーするとのことだ。
エディ・チョトッ・プロダクションをやっている地元トップシンガーのエディ・チョトッの話しも同じ。ネディ・ガンポもまたしかり。そのふたりの歌手もまた、作曲家であると同時に自身でアルバムを制作する。


いまや手が届きやすくなったテクノロジーは、メダン周辺で見られるオルゲン・トゥンガル・ショーを可能にしたほか、ミュージシャンがプロデューサーになることも可能にする。中部ジャワでチャンプルサリと呼ばれている音楽ジャンルは、大勢の人間がそれで生計をたてられるほどに目覚しい規模のビジネスを生んだ。
カセットVCD産業はいま、不法コピーのために退潮ではあるが、レコーディング産業後退の外側で、ショーステージの幕が上がらない日はない。中部ジャワにある音楽グループのいくつかはインダストリーに姿を変え、そこではひとつのグループがいくつかの従属グループを持っている。たとえばサラティガのOMケンアロッやソロのエルファナなどに見られる形態がその例だ。メインの旗印がオルケス・ムラユであっても、かれらがダンドゥッばかり演奏しているわけではない。ポップやロックやその他の音楽が演奏できるように、グループを分解して別のバンドを編成している。それらの諸グループは、主催者が催す商業的なオープンステージやスタジアムあるいは屋内ステージでのショーに出演するほか、タバコ会社が多いが製品プロモーションのためにも出演する。
「録音ビジネスが低迷しているから、まだ比較的盛んな様々な祝祭でのステージ仕事に頼ってるよ。もうちょっとしたらタバコ会社のジャルム・クドゥスと一緒に中部ジャワ二十の町々を一ヵ月半かけて回る『ジャルム・ツアー』で演奏する予定だ。各町でのステージ仕事は2億ルピアになる。仕事はうまく創っていかなきゃ。」サラティガのサティヤ・ワチャナ基督教大学を出たOMケンアロッのボス、フランスSPの談。
2002年はじめから、かれはチャンプルサリとチョンドゥッ(クロンチョン・ダンドゥッの略称)のレコーディングプロデューサーを手がけている、と告白する。「これまでにダンドゥッ曲を二十作った。最新のはSuminten Edanというタイトルのチャンプルサリ・スタイルの曲。でもレコーディングビジネスはいま、へたってるから、俺の作品の発売は時期を待たなきゃ。」と言うフランス。
レコーディング産業の疲弊が海賊盤のためであることは、諸方面が認めている。かつてYen Ing Tawangの曲で輝く大スターにのし上がったクロンチョン〜ランガム作曲家、66歳のアンジャル・アニは、最後のレコーディングは2001年の12月ごろだった、と語る。そのときかれは、ポノロゴ県令マルクム・シゴディムジョから、レオグ音楽の要素とチャンプルサリを融合させた音楽のレコーディング制作をオーダーされたそうだ。そして先週は、マルディヤント中部ジャワ州知事の録音のために、チャンプルサリの新曲7曲と古い曲数曲を提供したそうだ。知事閣下は以前にもランガムやチャンプルサリをCD用に録音している、とかれは語る。


業界の抱える問題の外側で、地方部の音楽自体はもちろん芸術としての発展を示している。中部ジャワをはじめいくつかの地方で評判の音楽ジャンルを形成したチャンプルサリは、ジョクジャのインドネシア芸術大学民族音楽学者ラハユ・スパンガ博士によれば長続きしないとのこと。「チャンプルサリ音楽現象は表面的なものであり、本質に達しておらず、高いプロフェッショナリズムを持つミュージシャンたちにマネージされていない。演奏可能で融合し得る音楽は何でもがブレンドされ、そのまま演奏されているが、その成育は唐突であり、強い基盤を持っていない。」ラハユ博士の批判はそのようなものだ。
メダン在住のミュージシャンで音楽オブザーバーでもあるベン・パサリブは、チャンプルサリが演じているものはバタッに昔からあったものだ、と見ている。「ゴルドン・トビンとその仲間たちを覚えているかな?1960年代終わりごろ以降バタッ曲は、インドネシアの音楽聴取者の耳に親しいものになっていた。以前からもバタッ曲はキーボードやモダンな楽器を使うバンドの伴奏で歌われていた。」とベンは語る。
カロ地方で地元曲は、今はやりの音楽と必ず融合される。カロ曲を唄う歌手はその曲を徐々にポチョポチョに変えて行く。カロ庶民の祝祭にポチョポチョがなければ完璧さに欠けるようだ。
バリではまた異なり、新進スター、ウィディ・ウィディアナは地元ポップ曲をたいていマンダリン・スタイルで唄う。かつてバリ・ポップ歌手ヨン・サギタの時代はバリ色がまだ強かったが、今ではマンダリン色がはっきりと見られる。バリで有名なレコード会社アネカ・レコードのオーナー、オカ・スウェタナヤは「ウィディはマンダリン・スタイルで唄う。そしてKasmaranという曲がすぐにヒットした。」と語る。


地方部の音楽の中で芸術的見地から特記されるに値するものは、西ジャワ州バンドンのサンバ・スンダが示した成果だろう。バンドン芸術大学の卒業生たちが1991年に編成したこのグループは、いまやバンドンの青年層に人気を博している。かれらの音楽では、ボナン、クチャピ・スンダ、ジュンベ、サロン・バンブ、サロン・ドゥグン、クンダンなどといった伝統楽器が鳴り響く。リーダーのイスメッ・ルヒマッが言うように、サンバ・スンダはガムラン・バンブとガムラン・ドゥグンを基本材料として、クビヤル、ガンバン・クロモン、ジャイポン、そしてサンバなどの音楽スタイルを取り入れたものだ。「われわれのコンセプトは世界音楽を指向しています。アルバム『サルサ&サルセ』では、スンダの伝統音楽とラテン音楽をかけ合わせて見ました。世界のそれぞれの地域には、発展の可能性を秘めたそこ独自の音楽パワーがありますから。」とイスメッは説明する。
サンバ・スンダという名称自体は、ブラジルのサンバと無関係だそうだ。「サンバというのはトペン・チレボンに出てくるキャラクターの名前。その姿を描くとすると、思春期に達したばかりの若者かな。またサルセとはスンダ語でリラックスの意味です。」と笑いながらイスメッは話す。
サンバ・スンダの演奏を見れば、もちろんそのようなものだ。かれらはリラックスして登場するし、従来行われてきたモダン音楽と伝統音楽を融合させる試みに比べて、かれらが演奏する曲やアレンジはずっとレベルが高い。演奏もとてもきれいで、技術レベルは優れており、正確さは驚くべきものがある。おかげでかれらの名はバンドンで売れているばかりか、諸外国にも広まっている。ニュージーランドの国際ガムランフェスティバル、ドイツのルドルスタッド音楽フェスティバル、オランダの大夜市などで舞台を踏み、デンマークのロスキルデ・フェスティバルにも出演した。そこではボブ・ディラン、ガンズンローゼズ、コアーズたちと同じステージにのぼったという。

2001年のデンマークにおけるその催しでの体験をサンバ・スンダのメンバーのひとりジネルに語ってもらおう。
「われわれは二日目に演奏したんだ。観客は5万人入ったらしい。もう、思いもよらず反応は異例のもので、レパートリーを使い果たしてしまった。」そうしてかれらの持ち時間がオーバーしてしまった。
「次に演奏するのはコアーズだった。かれらは仕方なくわれわれが降りるのを待ってたよ。」
この広いインドネシアで文化プロセスはたゆまずに動き続けており、いまよりずっと深い観察が求められている。時代の動きはそれほど速い。ツールドフランスのような自転車競走の観客がわれわれだ。一群の自転車レーサーたちがわれわれの目の前を通り過ぎるのを数秒間見るだけだが、その速い動きの裏側には、大衆の創造性という長いプロセスが存在しているのだ。
ソース : 2002年4月7日付けコンパス


§♪§
『かれらは褒美をもらうにふさわしい』

去る二月、デンパサルで開かれた第二回ギタ・デンポス大賞(バリ・ポップ歌手のための表彰プログラム)の舞台裏で、大勢の若者がひとりの歌手に殺到していた。サインをもらう者、抱きつく者、キスする者まで。その歌手は、シェイラオンセブンでも、パディでも、ヌギーでもなく、あるいはシネトロンスターでもなく、バリ・ポップ歌手ウィディ・ウィディアナだった。地方地方には言うまでもなく、地元のスターがいるのだ。

Kasmaranのヒットで知られたウィディばかりか、歌手パンジ・クニンもその夜もみくちゃにされた。かれらの信奉者は若い娘たち。写真にサインをもらったり、一緒に写真を写したり。
バリ・ポップ音楽産業はしばらくの空白期間のあとで1990年代半ば頃から、かつての大スター、ヨン・サギタに取って代わるこのウィディ・ウィディアナという新進スターとともに盛り返しをはじめた。70年代から80年代にかけてバリのポップ音楽界で名を売ったのはヨンやAAマデ・チャクラ。かれらの時代が終わったあとで、やっとウィディが登場した。レコード会社「アネカレコード」のオーナー、オカ・スウェタナヤは「ウィディのスタイルは別物だ。ヨンやチャクラとは違っている。ウィディはマンダリンスタイルで歌うんだ。」とコメントする。


地方部でスターポップ歌手になるのは、テレビのアイドルスターになるのとは違う。ましてやウィディは、よくはだしでステージに立つ。
一ステージの報酬は1千万ルピア前後だが、もちろんネゴは可能だ、とウィディは言う。「そんなデカい報酬なら、おれはバックダンサーや伴奏バンドのメンバーにも分けてやる。残りがおれの取り分だよ。」今バリで独壇場を歩んでいる観のあるウィディの弁。パンジ・クニンなど他の歌手の報酬はウィディよりずっと小さい。いくつかの情報ソースから得たデータによれば、150万ルピア前後だ。アルバムを1本録音して歌手が得る報酬も、ロイヤルティでなく買い取りシステムで150万ルピアくらい。

地方部でのポップ歌手たちの状況は、地元の鼓動と歩を一つにしている。「練習も滅多にしない。固定的な伴奏バンドが持てないんで、定期練習なんかできないんだ。それは自覚してるよ。けれどもショーの前の何週間かはリハをやって、ベストのショーを見せられるよう努力してる。間にクイズなどをはさんで15曲ノンストップでソロを歌ったことがあるけど、体調がすごく低下したのがはっきりと分かったよ。」とウィディは語る。

一方西スマトラ州では、エリ・カシム、ヌスカン・シャリフ、ヤン・ジュネイドたちの世代の後を継いで、エディ・チョトッ、ネディ・ガンポ、ザルモン、アン・ロイス、ユマ・スカエシ(エルフィ・スカエシのようなほくろのある美人で、エディ・チョトッの奥さん)、リスナ・アリアニ、デウィ・アスリ、イファン・バタビアたち新世代が登場している。ザルモンはカセットの爆発的売れ行きのおかげで、カセットレコード会社が与えるHDX賞を受けたことがある。
それらミナン・ポップ歌手の中で、エディ・チョトッとネディ・ガンポの名前が売れている。1979年に歌手生活をはじめて以来、エディ・チョトッは18本のアルバムを世に出した。いま西スマトラで一番高い歌手がかれだと言える。「郊外や田舎でのショーは全部マネージャーがアレンジしてる。田舎での出演は月平均8回。パダンでの出演と合わせれば月20回になる。報酬はショー1回あたり百万から1千2百万ルピアだ。」とエディ。
エディ・チョトッはどんなプログラムにも妻のユマ・スカエシを連れて行く。かの女は歌の外にもゴヤンでモテモテ。他の歌手に真似できないエディ・チョトッの特徴は、9色の声。それを元手にかれは愉快でユーモアに満ちた歌唱を聞かせてくれる。
友人のネディ・ガンポもユーモア感覚を示してくれる。ミナンの諧謔歌手ネディ・ガンポが既に出したアルバムは8枚。かれが作った曲はアン・ロイス、ザルモン、イエニ・プスピタなど他の歌手も唄っている。パダンパンジャンで今やインドネシア芸術大学となっているかつてのアカデミー・スコラ・カラウィタン・インドネシアを卒業したかれは、もう百曲以上の作品をものしている。自分が唄ったり他の歌手に唄われてヒットした曲の中にはJawinar、Uwie-uwie、Minta Jatah、Aki Soakなどがある。
代用治療士でもあるネディ・ガンポは、最近自ら発見した精神的アプローチによって、格調高い曲がたくさん作れるようになった、と告白している。


名前が全国津々浦々で通っている地方部の歌手は、中部ジャワ州ソロのディディ・クンポッ。といっても要はジャワ人がいる所での話し。長髪のこの歌手はかっこうも話し方もそれほどではないのに、かれの作る曲は不品行。
かれの作品はいつもラブストーリー、もちろん下層階級のラブストーリーだ。ディディ・クンポッは三年ほど前にStasiun Balapanというタイトルの曲でのし上ってきたが、その歌詞は恋人が大都市に上京して結局戻ってこなかったために、ソロ・バラパン鉄道駅で嘆く傷心男の物語り。いくつかの事柄に関して、そのテーマは地元社会のダイナミズムを描き出している。事実、大勢の女性たちが大都市や外国にすら、女中になるために出かけているのだから。
ソロ・バラパンで売れっ子になる前、ディディ・クンポッはスリナムやオランダにあるジャワ人社会で広く知られていた。「あっちの衆もおれの曲が好きだったよ。」1984年から1989年までの間、ソロとジャカルタで路上弾き語り歌手としてのキャリアを積んだディディはそう言う。
ソロ・バラパンが爆発的に売れると、ソロのティルトナディ・バスターミナルの運転手や車掌たちがやきもちを焼いた。なんでソロ・バラパン駅だけが歌になるのか?こうしてTerminal Tirtonadiの曲が誕生したそうだ。ディディ・クンポッの作品のいくつかはヌサンタラ各地のアイデンティティに関わっている。Kopi Lampung、Tanjung Emas、Teluk Penyu等等。「うわっ、このおれは各地方のプロモーションをたくさんしたから、観光庁から表彰状をもらわにゃならんね。」ソロ市に建てたかなり豪奢な家でディディは冗談を言う。
どの階層にも受け入れられるシンプルな歌詞での作曲をかれは心がけている。クロンチョン・ダンドゥット(チョンドゥッ)という音楽形式を選ぶことで、かれは特にジャワのバックグラウンドを持つ人々の心をつかむのに成功した。
「ところがおかしなことに、ランプン、ルブッ・リンガウ、バリッパパンなどジャワ社会の外でのステージも好評なんだ。非ジャワ人が苦労しながらおれの歌を唄ってる。SCTV番組「ラリス・マニス」に出演したとき、メダンから電話してきた視聴者がsuwe-suwe(lama-lamaの意味)って発音するところでsuwek-suwek(robek-robekの意味)と言ってたのもそのひとつだ。」笑いながらディディは言う。
かれ自身の経験でも、かれが作る地元曲は既に相応の評価を得ている。10曲入りアルバムにプロデュ−サーは一億ルピアの値をつける。アーティストには10万ルピアにしかならないジャワのトラディショナル曲に比べれば破格の値だ。歌手キャリアの最初、かれの曲は4万ルピアにしかならなかった、とかれは回顧する。
自分の曲のレコーディング以外にも、かれはいまや他のアーティストのためにプロデユースさえ行う。その歌手の録音マスターまで作って他のプロデュ−サーに売り、ディストリビューションさせる。
かれはもちろん作品の買い取り(フラットペイ)方式に慣れているが、アルバムが発売されてヒットするとプロデュ−サーたちはたいていご褒美としてロイヤルティみたいに祝儀をくれる。アリ・ウィボウォのHanya Sekejapが元歌であるディディの作品Sewu Kuthoのように。
「Sewu Kuthoのおかげで車が一台手に入ったよ。」ディディはざっくばらんにそう語った。
ソース : 2002年4月7日付けコンパス


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『地方部の生活力 〜 チャンプルサリから鳥の声まで』

マスメディアに登場しないからといって、観客や愛好者がどのくらいいるのかは別にして、地方部には芸能産業がないなどと速断してはいけない。マスメディアが世の中に流れているあらゆるものをとらえる能力を持っているわけではないのだ。一方、地方部各地の地元音楽産業は、七転八起の努力を続けているのである。

たとえば西スマトラ州を見てみよう。カセットの時代からいまや地元歌手たちをVCDに収めるレコーディングビジネスが出現し、VCDは幅広く愛好されている。ミナン・ソングVCD制作を行うレコードビジネスマンの多くは、マーケットは州内だけだが商売は「気持ちよく売れている」と認める。
「われわれはミナン・ソングを地元の主としたい。そしてまた同時に、消費者には海賊盤を買わないようにしていただきたい。ミナン・ソングVCDを買うなら、故郷で買うように。それは必ずオリジナルだから。」FHエンターテイメントのヘルマン・マッムルはそう語る。
ミナンの音楽家で作曲もするムスラ・ダフリザルは、ミナン音楽の売れ行きが良いので、あるとき州外のマーケットに昼12時にVCDを流したことがある。すると三時間後には同じVCDの不法コピーがもう出回りはじめた。
「VCDを一本制作して5千枚用意するには6千万ルピアの金が必要だ。ところが海賊盤の場合は1千万ルピアで済んでしまう。」とムスラは語る。海賊行為は犯罪であるばかりか、作曲者や歌手に対して報酬面でアンフェアな扱いをすることなのだ。ミナン・ソングVCDは市場でRp.17,500からRp.20,000の値段だが、海賊盤VCDだと一枚たったのRp.7,500。
海賊盤に冒されないようにするため、プロデューサーは西スマトラ州内に独自の販売網を作っている。ミナンからのランタウの衆は、ミナン音楽や歌を楽しみたい場合、パダンや西スマトラ州のほかの町でVCDを買わなければならない。


地方部の音楽レコーディングへの活力は、西スマトラ州ばかりか北スマトラ州にもある。1979年以来活動しているカロ地方での老舗と言われるレコード制作会社グシッ・レコードは今も旺盛に地元音楽のレコードを出している。
伝統音楽におけるキーボードの役割は隅々にまで浸透しており、カロ音楽も例外ではない。そこには「グンダン・キーボード」なるものが登場する。西洋楽器にグンダン、サルナイ、クチャピなどをまじえたアンサンブルは地方曲の販売を伸ばし、地元音楽産業のサバイバルを可能にした。たとえばいまヒット中のBiring Manggisは30万部の販売を達成したが、地方部のマーケット規模からいけば、それはよくよく異例のことだ。いまのインドネシアポップ音楽界で10万部はければ上々だ、と言われることと比べてみればよい。
「それどころか、マレーシア人もここまで探しに来たよ。」メダンのグシッ・レコード責任者デワン・タリガンは物語る。カロ音楽産業界にネティフェラ・ボル・バグン、ハルト・タリガン、スリ・マルム・ボル・バグンといった、いま大人気の歌手が存在していることを、それは意味している。実用満点のキーボードの伴奏で唄うのがいまの流行であり、録音スタジオでさえそうだ。バンドを従えて歌手が登場することはもうほとんどない。

1975年以来アルバムを世に出してきたシニア歌手、ロビー・ギンティンに言わせれば、音楽の質の低下の元凶がそれだそうだ。「わたしに言わせりゃ、あれは阿呆音楽だ。おまけにキーボード奏者は指一本で弾いてるし。」と断固として語る。かれはバンドでしか唄いたくない、と言う。「わたしはベストのことをしたい。売れなくてもかまわないよ。食うためにはほかのことをすればいい。」かれとのインタビューは、かれが家を建築している最中に行われた。笑いながらかれは言った。「雑魚コントラクターのひとりさ。」
ロビーはもう数十枚のアルバムをものした。いや二十枚以上かもしれない。本人すら覚えていない。「アルバムをいくつ出したのか、数え切れない。コレクションしていないもんで。多分20くらいあるんじゃないかな?」
1975年、ロビー&ヒズギャングが演奏したアルバムCincin Perpadananはカセットで2万コピー売れた。続くアルバムSirang Lau Rosも同じように売れた。かれの出したアルバムの中での最大ヒットはPerpecah Kudin Tanah。


ここ最近の5年間、バリでは雨後のたけのこのようにレコード会社が設立されている。昔はバリ・レコード、アネカ・レコード、マハラニの御三家しかなかったというのに。最近のしてきた会社はチャンティン・チャンプルン、インタン・デワタ、カプルッ・ダディなどで、中でもカプルッ・ダディはバリポップスに特化している。
バリの特徴は、レコード会社がビジネスを島外にまで広げようとする意欲を持たなくて済むようにしていること。「そのような考えはないし、言葉がわからないから売れるとも思えない。ロンボッのマタラムでさえ、うちの商品はトコ・ドゥルにしか卸していない。」バリ・レコードのワヤン・ウィジャナはそう語る。バリポップスはカセットで一種類たいてい5千から1万コピー売れる。ポップグループ「ロンタン・ラントゥン」の初リリースアルバムは例外的に3万コピー売れたそうだ。この人気急上昇中のグループはいま、第二弾発売準備に入っている、とのワヤンの談。
実際には、バリポップスと呼ばれているものはジャワポップミュージックとほとんど違わない。違っているのは、バリ語の歌詞、そしてバリ・グンディンのアクセントを伴った音調だ。最近のバリポップ音楽産業は、子供歌手の登場で賑わっている。最初に登場したのは少女三人組のバリ・ジョゲッだったが、このグループはもう存在しない。そして昨年10月にドゥダリ・バリが現れた。初回のリリースアルバムにはGelang Kangin、Bibi Rangda、Tok Dilu、Pul Sinogeなど、バリのトラディショナル曲が多く収められており、その合間にDedariやMelajah Megendingなどの新曲が挿入されている。


伝統音楽はモダン音楽に押しまくられているばかりだとしか見ず、伝統音楽の実際の奮闘を理解していない多くの人々の考えとは違い、モダン音楽は実に伝統音楽発展の駆動力となっている面がいくつかある。いちばん手頃な例が中部ジャワのチャンプルサリだろう。ガムラン伝統音楽をベースにモダン音楽を掛け合わせたチャンプルサリ音楽は、いまやチョンドウッと呼ばれるジャンルにおいて、楽器の用法をふくめていっそうモダン音楽の方向に進化している。チャンプルサリとチョンドウッの違いは一見よくわからないものだが、それはレコード音楽業界の術語でしかないからだ。ともあれ、明らかなのは発展を続ける地方部の音楽界の活力なのだ。
「わたしの予測だとチョンドウッ音楽も長続きしない。次に出てくるのはクンダン・コプロ [kendang koplo]、つまりカラウィタンのクンダン奏法とダンドゥッのクンダン奏法を混ぜ合わせたものだ。」ソロで著名な作曲家兼ミュージシャンのアンジャル・アニはそう語る。かれは、東部ジャワでも伝統音楽の進化が進んでいる、と指摘する。いま東部ジャワの、特にトレンガレッ県で盛んになっているジャラナン [jaranan]と呼ばれる地元伝統音楽の色濃いものが伸びてきているそうだ。それはVCDに収録され、一枚4万5千ルピアで売られている。実際に人が買うのは一枚5千ルピアの海賊盤のほうだが。
伝統の世界に希望の光は絶えないようだ。ソロのOMエルファナ87のリーダーで52歳のカスミアディに、2000年になってレコーディング産業への参入を決意させたものがそれだ。かれはグマ・ムシカを興し、自宅に近いロジョサリ村に、見かけは質素だがけっこう先端的な機材を備えた録音スタジオを造った。録音スタジオを設立する前、カスミアディはロカナンタと共同制作で1996年にはJowal Jawil、1998年にはkau Tegaの二つのダンドゥッ・アルバムを録音した。2000年にかれはPelem Katesというチョンドウッ・アルバムをリリースし、その中でイカ・ガンディスとデュエットで唄った。かれは地方部におけるレコーディング産業の未来を楽観視している。今大人気のディディ・クンポッ以外にも、ムス・ムリヤディやジャカルタのソニー・スマルソノ、おまけにさる4月中旬にはマルディヤント中部ジャワ州知事さえ、かれのスタジオでノスタルジー曲のレコーディングを行っている。


チャンプルサリやチョンドゥッといった地方部の地元音楽レコーディング産業興隆の中で、レコーディングの対象となるためのとてもハードな競争も行われている。まだ無名の新人音楽家にとって、レコーディング産業に相手にしてもらうのは並たいていのことでない。レコーディングの対象にされるのは特定の歌手や音楽家ばかりだ、とかれらは言う。

ミュージシャン兼作曲家兼アレンジャーとして既にその名が知られているジュジュッ・エクサもそんな時期を体験したひとりだ。「むかしは、おれの音楽はいつもあそこが足りないここが足りないと言われて、ケチばかりつけられた。それどころかおれが提示するアレンジをプロデューサーは、そんなものはバケツ一杯あるよ、と言って見下したものだ。でもおれは解ってた。プロデューサーはそう言ってまずおれたちをガックリさせようとするってこと。そんな言葉で意気消沈してたら、いつまでたったってレコーディングに到達できない。」自分の体験を振り返りながら、かれはそう語る。
ジュジュッによれば、中部ジャワにはダサ・レコード、プサカ・レコード、プスピタ・レコード、マジャパヒッ・レコード、GNSレコードなど、有名な大手レコード制作会社がいくつかあり、またクラテンにはクスマ・レコード、ジョクジャにはシンデン歌手スニャフニ所有のソニア・レコードもある。それら一連のレコード業界で名の通った歌手や音楽家といえば、ディディ・クンポッ、マントウス、ボイ・スロ、ヌルハナ、スントッ・スリノ、ソレ・アクバル、ハディ・イルファナ、チチ・サヒタ、そして上述のスニャフニたちだ。
スマラン出身のニューカマー、45歳のトトッ・サハッは、そんなレコード業界に取り上げてもらうことの難しさを語る。「わたしがレコード業界の対象になれたのは、たまたま自分がプロデューサーだったからで、そうでなかったらレコーディングするのなど不可能だ。」素直にそう語るトトッはもちろん、作品を自分で編成し、制作する。
プロデューサーが支配しているそのありさまは、決定的な鍵を握っているのが資本であることを物語っている。そしてその原理は、地方部さらには村落部にまで至るレコード産業の末端レベルでさえそのまま機能しているのだ。芸能面の活力を見通す産業界の眼はますますその重要性を高めている。

地方部の音楽産業がすべてチャンプルサリのような隆盛を示しているわけでないのは言うまでもない。バンドンでは、プロレコーディング・スタジオのダイレクター、デニー・スサントが、スンダ音楽ビジネス沈滞の現状を物語る。スンダ・ポップが沈滞しているために、デニーは鳥の鳴き声のレコーディングを始めた。歌手から鳥へ、といったところだ。
「わたしゃたまたま、鳥のさえずりの愛好家だったから。」全国鳥類愛好会会長を務めるデニーは鳥の声を録音し、レコードに「The Best of Branjangan」「The Best of Anis Kembang」などというタイトルをつけて販売している。アーティストはそれらの鳥だ。レコードは売れ行き好調で、マレーシアへも輸出されており、そして今度は香港のマーケットにも進出しようとしている。
それが地方部の活力であり、そしてかれらの生活力を示す実例なのである。
ソース : 2001年5月27日付けコンパス