「マックス・ハフェラール」


 一八三〇年、ファン・デン・ボスが「強制栽培制度」を施行することによって、本国オランダはジャワ戦争の失費や、ベルギーの独立騒ぎなどによる費用をなんとかしまつし、埋めあわせることができた。当然、そのいっぽうではこの制度のせいで膏血をしぼられ、インドネシア農民の生活は窮迫した。
この制度は、簡単にいうと、農民の耕地はその五分の一に、かならず政府の指定し、あるいはヨーロッパ市場の需要に応じうる産物、つまり、サトウ、コーヒー、茶、藍玉などを栽培させるということであった。農民でない者は、毎年五分の一期間、六六日間を政府のために労務に服せしめることにした。そして、政庁はさらに住民への貸付金制を採用して、この制度をなるべく受けさせるように促進するという巧妙な手段も講じていた。
この制度は、当時すでにいろいろと論議され、賛成者あり、また反対者もあったが、オランダにとって利益のあったことはまちがいはない。東インド政庁は、年々巨額の剰余金をえて、オランダ本国の財政窮乏を救った。推定だが、この制度による本国収入は、総計八億三二〇〇万グルデンに達したという。
これによってジャワの土地は日々開墾され、人口は増加し、一八五〇年以後の農業生産の途方もない拡張となった。その反面、農業を商業に従属させたため、村々を極度に疲弊させた。村落(デッサ)の自由な自給自足の状態はなくなり、強制労働のため農民はみずからの飯米のための米作をきりつめなければならなかった。そのため、いくつかの村では飢饉をまねいたほどである。
つまり、こういうわけである。需要が急であるため、収穫のおそいものは栽培せず、茶、サトウ、藍玉などに集中した。しかるに茶は利益が少なかったので、また藍玉に集中するようになる。ところが、藍玉は地力を枯渇しやすいので、常にそのため別に新地をもとめなければならない。その影響は稲田にもおよぶことになった。
 そんなわけで人口の増加にもかかわらず、コメは不足となり飢饉が生じた。一八四八年から五〇年のあいだ、デマク・チェリボンというところに大飢饉が発生し、死亡するもの数十万といわれた。これに義憤を感じ出版されたのが、ムルタトゥリ著『マックス・ハーフェラール』(一八六〇)である。
 ムルタトゥリとはラテン語で「われ苦しめり」の意であるが、本名E・D・デッカーの筆名であった。かれはアムステルダムの生まれで、東インドにわたって役人となり、一八五五年にはルバックの副理事官として、当時実施された強制栽培制度の弊害をつぶさにみて、筆をとったのである。 ―――河部利夫著「世界の歴史18:東南アジア」河出書房新社1994年

 1830年に東インド総督となったファン・デン・ボッシュは、この地で強制栽培制度をはじめた。農民は、その耕地の五分の一にたいしてヨーロッパ向けの甘蔗・コーヒー・藍・木綿・煙草の栽培を強制され、非農民は一年の五分の一である66日を強制労働に服さねばならないことになった。
 この強制栽培面積は次第に拡大され、三分の一から、三分の二まで、地域によってはもっと広い耕地にまでひろげられた。このようなしかたで当時ほぼ一千万の人口といわれたジャワ島住民の血と汗から総計9億フローリンという巨大な利益がオランダにすいあげられた。この利益は、ジャワ戦争と、そして1830年からのベルギーの独立闘争からうけたオランダの失費をうずめ、さらにオランダ資本を大きく成長させるテコとなった。
オランダ産業資本の成長とはうらはらに、48年から50年にかけてのジャワ各地は大飢饉にみまわれ、住民は地獄の苦しみにつきおとされた。オランダ植民地主義のこの非人間的収奪にたいするジャワ農民の惨状は、オランダ植民地下級官吏ドゥエス・デッケルがムルタトゥリという筆名で1860年に書いた『マックス・ハーヘラール』(邦訳『コーヒー商人』)の中に生き生きとえがきだされている。
 ジャワ民衆の悲惨を暴露したこの本は、オランダ国内で大きな反響をひきおこし、1870年にいたり、さすがのオランダもこの非道な強制栽培制度を、コーヒーをのぞいて、廃止せざるをえなかった。 ―――増田与著「インドネシア」岩波新書1966年

 コーヒー、サトウキビ、藍が強制栽培制度の三大作物と呼ばれた。これらの作物はそれぞれ栽培や加工の際に種々の困難があり、経験の浅い農民たちに重い負担を強いた。その結果、彼ら自身の水田耕作にまで手が回らなくなり、とくに一八四三年から四八年に及ぶ中部ジャワ一帯の飢饉はこれが原因だとする説が多い。しかしオランダにとってこの制度は莫大な利益をもたらし、植民地のみならず本国の財政までこれによって立ち直った。この制度の実施された一八三一年から七七年までの四六年間にオランダが得た利潤は、八億ニ三〇〇万ギルダーと言われる。しかし、明るい側面もまったくなかったわけではない。農民はともかく新しい農作物の栽培法を覚えたし、稲作も必要に迫られて今までより能率のよい方法に変わって行ったと言われる。そして飢饉があったにもかかわらず、ジャワの人口はこの期間に六〇〇万から九五〇万に増加したとするのが定説である。またこの制度の実施にはかなりの地域差があり、東部ジャワでは農民の生活をあまり圧迫することなく、むしろ繁栄をもたらしたとする学者もある。この制度については不明の点が多く、今後の研究にまたねばならない。
 一八六〇年に出版されたムルタトゥーリの小説『マックス・ハーフェラール』などによって、植民地の惨状は次第にオランダ本国にも知られ、一八七〇年にコーヒー以外の品目の強制栽培制度は廃止された。これ以後一九世紀末に至る三〇年間は「自由主義時代」と呼ばれるが、今まで政府がみずから営んでいた農業がヨーロッパ人の経営する私企業に移管されて、いわゆるプランテーション農業がさかんになっただけで、ジャワ農民の生活は一向楽にならなかった。―――永積昭筆「もっと知りたいインドネシア:歴史的背景」弘文堂1986年

 強制栽培制度の終末は、オランダ議会が、植民政策に対していくらかの支配力をにぎるのに成功した後で、やって来た。一八一四年に修正されたオランダ憲法によれば、国家の大臣たちは、植民地問題に関して、ひとり王に対してのみ責任を負うのであり、この点については、一八四八年にいたるまでは大きな変化はなかった。この年には、憲法が、自由主義的原理にもとづいて改正され、議会は、東インド諸島の行政に関する年次報告を受ける権利を獲得した。何年かの間は、これらの報告書類は、全般的に、よく情報を伝えていないか、いいのがれだけで埋められ、植民地問題は、オランダの政治の背後におしやられたままであった。自由主義的原理は、次第に、ジャワでも、政策のあまり重要でない問題には、適用されていったが、植民地政策の総体的な問題が、前面にもち出され、ジャワにおける強制栽培制度の運用に注意が集まっていったのは、「ムルタトゥリ」(D・デッカー)の『マックス・ハーフェラール』が出版された一八六〇年以後のことであった。そのとき以来、強制栽培制度は、次第に自由農業に代えて廃止された。しかしながらコーヒーと砂糖に関しては、強制栽培制度はなかなか消えなかったし、いずれにしても労働諸条件は改善されなかった。国営によるコーヒー栽培は、一九二〇年の少し前まで終わりにならなかった。―――ブライアン・ハリソン著「東南アジア史」みすず叢書1979年


 インドネシアの歴史、中でも悲惨なオランダ植民地時代の歴史を学ぶときに必ず登場するのが、この「マックス・ハフェラアル」です。この書物は世界各国の歴史の中で、歴史の流れが方向を転じようとするときにその動因として強い関わりを示した文芸作品のひとつであり、だからこそそれが果たした歴史的意味合いはたいへん大きなものだったと言うことができるでしょう。インドネシアの歴史を説く書物の中では例外なく強制栽培制度が語られ、そしてまるでその説明の一部でもあるかのようにこの書物の題名が登場してきます。しかしその時代の複雑な状況を細かく見てみるなら、もうすこし深みのある色調がそこに見出されるような気がしてなりません。
 さてこの強制栽培制度ですが、オランダ語による公式名称ではただの「栽培制度」となっています。「強制」jという言葉がそこに付されたのは、それに対応するインドネシア語名称に影響されたのではないかと思われます。東インド植民地政庁が打ち出した「栽培制度」の規定を読む限り、決して原住民を搾取するような内容ではありませんでした。ヨーロッパ市場で需要の高い商品作物を大がかりに増産しようというのがこの「栽培制度」の目的だったのです。ただその現場となった農村部でいったいどのような実態が展開されていたかについて、政庁上層部の目が届くわけでなかったことは想像にかたくありません。それと同じようなことは、日本軍政期に起こったさまざまな不祥事やオルバ期に発生した数々の人権蹂躙事件などのように、千年一日のごとくインドネシアで繰り返し発生しているものであるようにわたしには思えるのです。独立以来何人もの大統領下に数々の内閣が生まれては消えていきましたが、その片鱗の存在をいまだに節々に感じているのははたしてわたしだけなのでしょうか。
 ともあれ、1830年から1840年までの十年間は政庁の期待にこたえてこの制度の成果が上がった時期でした。ところがそれに続く十年は、行政機構が総力をあげてそれまで築き上げた過去の成長を維持しようと奮闘した時期であり、言い換えればさまざまな逸脱行為が現場でなりふりかまわず繰り広げられることを容認する空気が行政上部構造を覆っていたにちがいありません。この制度の悪い面がはっきり形をとってあらわれたのがその時期です。1843年のチレボン、1848年のドゥマッ、1849〜1850年のグロボガンなどを頂点に各地で発生した凶作と飢饉は大量の住民餓死や村からの逃散を生み、大幅な人口減と住民福祉の後退へとつながって行きました。

 そんな状況が東インドで繰り広げられている一方で、ヨーロッパでは自由主義思想が勢いを伸ばしていました。自由主義者が主張したのはあらゆる経済活動が政府の手を離れて民間実業界に委ねられることであり、政府は経済面で積極活動を行わず、ただ社会一般の秩序の育成と民間事業の正しい発展を支えるための法と行政の執行に自らを限定することだったのです。この思想に手を引かれて力を蓄えはじめていたオランダ民間実業界は、自由主義理念の実現をめざす政治勢力と手を携えて大きく翼を広げる態勢を整えつつありました。
 おりもおり、海のかなたの植民地とはいえ、ジャワ島における惨状が細々とではあるが伝えられて国民の人道主義精神に訴えかけはじめ、議会でも植民地政策に関するさまざまな論議が紛糾を呼ぶ中、1860年に出版された植民地事情をあからさまに伝える「マックス・ハフェラアル」がオランダ本国の世論を大きくかきたてる一方で、自由主義経済を標榜する民間実業界に格好の切り札を提供する役割を果たすことになりました。こうして東インド政庁は門戸を民間資本に開放せざるをえない立場に追い込まれて行くのですが、商品作物栽培が政庁の強制栽培制度から民間資本による農園事業へとその立役者を変えてはみたものの、民衆の悲惨な暮らしにさしたる変化は訪れず、その通奏低音はクーリー哀歌に形を変えただけで次の時代へと引き継がれていったのです。


 ムルタトゥリとは『われ苦しめり』という意味のラテン語だそうですが、筆者であるドゥエス・デッケルの苦しみはどれほどのものだったのでしょうか。1820年アムステルダムに生まれたデッケルは船長だった父に従って18歳のとき東インドに赴き、バタビアで会計監督所に職を得て、政庁の役人になりました。その後その地で知り合った女性と恋に落ち、結婚を望んだが女性の親の反対で実現せず、心の傷を癒すために西スマトラへの転勤を願い出てナタルの監視官に任じられ、1842年に赴任します。デッケルにとってはその地が圧制と暴虐にしいたげられる原住民の姿を目の当たりにするはじまりとなったようです。
 スマトラ勤務時代にデッケルはナタル北部のトゥルッバライにあるコショウ園の調査を行わなければならなくなり、かれ自身はコショウの知識があまりなかったのでダトゥッのひとりに同行を命じました。ダトゥッというのはムラユの貴族や有力者で、世の中で一般庶民より高いステータスを持っています。デッケルはトゥルッバライに向かう船に乗り込むとき、そのダトゥッが同行者を連れてきているのを知ります。それはかれの13歳になる娘でした。船は海岸沿いに北に向かって航行し、そのうちデッケルは退屈してしまいます。船の中には愉しみなど何もなく、まだ20代のはじめというデッケル自身も自分の個人的な悩みのために鬱々としていたのです。かれはそのときの体験をこう書き残しています。

 わたしはたいていムラユ人首長のほうが好きで、かれらとの交際のほうがうまくできた。かれらのほうがジャワの高官たちよりもわたしを好きにさせる性質を持っていたということだ。うん、わかってるよ、フェルブリュへ。あなたはわたしにきっと賛同しない。この問題でわたしに同意見のひとはあまりいないんだ。もし別の機会にこの旅をしていれば、わたしはそのダトゥッとすぐに打ち解け、かれの娘もその会話に誘い込んでいただろう。子供たちは、当時のわたしも子供みたいなものだったが、天真爛漫に自然な何かを感じさせてくれるので、わたしの心は慰められたにちがいない。今ならわたしは、13歳の少女たちの中に純白でまだあまり書き込みのない、あるいはほんの少しだけ作り上げられた作品を見出すことができる。
 その少女はビーズを紐に通す仕事に全神経を集中させている。赤が三つで黒がひとつ、そしてまた赤が三つで黒がひとつ・・・・・、実にすばらしい。少女の名前はウピケテ。スマトラでそのおおよその意味は「小さいお嬢さん」。そう、フェルブリュへ、あなたはきっと知っているよね。でもデュクラリはジャワでばかり勤務してきたから分からないだろう。名前はウピケテちゃんだけど、わたしは心の中で「お馬鹿ちゃん」と呼んでいた。この少女は自分よりずっと劣っていると思ったから。
 陽が傾き、夜が迫り、そして少女はビーズを片付けた。陸地はすこしずつ横に流れてオフィル山は背後でますます小さくなって行く。左側、つまり西の方角はその背にアフリカ大陸を従えたマダガスカルまでさえぎるもののない大洋に太陽は沈みかけ、ますます低くなる光の矢を波の上に散らしながら海中でその熱を冷やそうとしている。
夜になるとわたしはずっとずっと善人になる。その証拠にわたしは小さいお嬢さんに話しかけた。
「もう少しすると涼しくなるよ。」
「はい、トアン。」
そう、トアンブサールのわたしは更に身体を折り曲げて「お馬鹿ちゃん」と話を続ける。少女はあまり返事をしてくれないので、わたしの奉仕はますます増大する。わたしの言うことはすべて肯定され、高揚していたわたしの気持ちも退屈をはじめる。
「また今度もトゥルッバライについてきたいかい?」
「トアンがそうしろと命じるのなら。」
「そうじゃない。こんな旅をするのが好きかっておまえに尋ねているんだよ。」
「もし父が望むのなら。」少女はそう答えた。
これでひとの気が狂わないだろうか?いや、わたしはキチガイにならなかったのだが・・・・・。

 自分の意思も主体性も持っていないとしか思えない少女の反応を通して、自然な人間としての能力が欠如しているひとりの知恵遅れの子供の姿がデッケルの目に映ったにちがいありません。アジアの封建制度の中で、最高権力者の地位に立てる人間は別にして、自分の頭の上に何十人もの上位者を抱えている普通の人間は自分を無にして上位者の意向に従うのがサバイバルのための処世術だったのでしょう。自分の内面を空っぽにし、自分を支配する人間の恣意専横をすべてご無理ごもっともで受け流すことがかれらにとっての生存技術であり、ひいては一家一族の繁栄につながる道だったことはアジアだけに限らず古い時代の世界中で見ることのできたひとつの真実だったのではないかとわたしは考えています。そしてこのインドネシアでは、デッケルがおよそ160年ほど前に体験したそのような人間の姿勢が今でもひとつの善として社会の中に維持されているのをわれわれは目にすることができるのです。

 ところが1年後にデッケルは問題を起こしてナタルの監視官の職を解任され、1844年9月にバタビアへ戻されました。
それ以来、カラワン、バグレン、マナドなどで植民地行政官吏の職を務め、その間1846年にはついに伴侶を得て順風満帆の人生を歩みます。そして1851年にはアンボンの副レシデンに任じられますが、昇進の喜びもつかのまに病を得、その翌年には妻子を連れてオランダに帰国しました。
 1855年デッケルは再度バタビアに戻り、翌56年1月、レシデンシ・バンテンのカブパテン・ルバッに副レシデンとして赴任します。ルバッのブパティであるラデン・アディパティ・カルタナタナガラを年上であるが弟に見立て、かれの面目に配慮しつつ原住民統治を委ねて、自分はカブパテンの最高行政官としての仕事を進めるのですが、カルタナタナガラの配下の一人、パランクジャンのドゥマンであるラデン・ウィラクスマがブパティの婿の立場をかさにきて原住民を収奪している事実を知ります。さらにチアンジュールのブパティ職にあるカルタナタナガラの甥がルバッを訪問する話しがもちあがり、豊かなチアンジュールのブパティがその行列で示す財力にひけを取りたくないカルタナタナガラは貧しいルバッの住民からさらに搾り取るしか術がないため、まず自分の館の周辺の草むしりのために住民を賦役に駆り集めますが、その人数は規則を超えるものでした。パランクジャンの婿も、舅であるブパティのたすけにしようと考えて、水牛をはじめとして住民の資産の掠奪に励むのでした。そんな圧政についてデッケルは主人公マックス・ハフェラアルの口を借りて、「娘が母親の家から連れ去られ、水牛が牛舎から盗まれ、土地は乗っ取られ、果樹の持ち主は実った果実を取り上げられる。そして貧困者の身体を覆うべきものを圧政者は略奪して身に着け、また貧困者が食べるべきものを奪い取って食べるのだ。」と語らせています。

 最高行政官たる自分の目の前でそんな逸脱行為が行われ、民衆が虐げられるのを見かねたデッケルは、直属上司であるバンテンのレシデンに書状で訴えますが、レシデンはセランから飛んでくるとブパティの館へ直行して事情を尋ね、それからデッケルの懐柔にかかります。それを撥ねつけたデッケルはレシデンがこの問題をバタビアの中央政庁へ通すよう主張し、しばらくしてから総督に宛てて直訴の書状を送りました。ところが一月ほどしてかれの元に届いた政庁からの手紙は、期待に反してかれに転任を命ずるものでした。原住民統治行政に原住民首長の手を借りなければならなかったオランダ東インド政庁は、原住民首長の肩を持つことが当時の植民地体制を維持する上で不可欠であることを熟知していたのです。そうであるからこそ、オランダ人行政官がブパティを自分の弟のように遇することはかれらにとって当然の心得だったのでした。それまで一個の人間として心に抱いてきた人道主義に大きな穴をあけられてしまったデッケルは、政庁への奉職を辞し、妻子をバタビアに残したままヨーロッパへ戻って各地を放浪します。そして1859年の秋、零落の果てにベルギーの屋根裏部屋でわずか一月で書き上げたのがこの『マックス・ハフェラアル』でした。

 いろいろとなじみのないオランダ語が登場していますので、すこし言葉の説明をしておきましょう。1619年、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン総督がバタビアの街を建設して以来、オランダ東インド会社はインドネシアの各地に支配の手を広げていきます。このバタビアのことをインドネシアのひとびとはブタウィと呼びます。ブタウィの語源についてインドネシア人歴史家のひとりは、バタビアがアラブ文字で書かれたときそのバーターウィーヤという表記の発音を復元するさいに最後の文字「ヤ」が子音の「イ」に変化させられたためではないかと推測しています。つまり判りやすくアルファベット書きすれば「BTWY」の発音を復元するさいに「BaTaWY」と読まれてバタウィになったのだろうということです。第一音節のBa(バ)が弱母音のBe(ブ)に変化するのはムラユ語が持っているごく普通の音韻転訛傾向です。


 インドネシアの各地にあった勢力の強い王国に対して、オランダはその王宮の中に総督の代理人を置いて王国の政治を牛耳ろうとしました。この総督代理の職名がレシデンです。そのうち王国の一部地域が条約でオランダに譲られるようなことも起こり、そこではオランダ人が最高統治者として君臨することになるのですが、そんな最高統治者もレシデンと呼ばれました。このようなレシデン統治区はレシデンシと呼ばれていくつかのカブパテンに分けられ、カブパテンには副レシデンが置かれる一方、その相方としてブパティと呼ばれるプリブミ(原住民)首長が任命されて原住民を直接治めました。そのブパティに任命されたのはたいていの場合、かつてその地区の領主だった王族貴族の子孫でした。またドゥマンはカブパテンの下の行政単位であるウェダナの首長です。19世紀、ジャワ島西部のバンテンはレシデンシであり、セランが人口50万を擁する首府となっていました。そして、マックス・ハフェラアルの舞台となったカブパテン・ルバッはバンテン・キドゥルとも呼ばれ、ランカスビトゥンを首府とする貧しく寂れた地方だったのです。
 さてドゥエス・デッケルが1859年の秋、零落の果てにベルギーの屋根裏部屋でわずか一月で書き上げたこの『マックス・ハフェラアル』という物語りは、アムステルダムに住むコーヒー仲買人ドローフステッペル氏が、自分がショールマンと名付けた男の書き溜めた作品を読んでいくという手法で海の向こうの植民地、東インドでの出来事を述べる形を取っています。そのショールマンが書いたマックス・ハフェラアルの話しこそ著者ドゥエス・デッケルの体験記であり、そしてショールマンが零落した著者の分身だったことは言うまでもありません。
 この書物の中にたいへんすばらしいエピソードが収められています。読者の心を感動させてやまないサイジャとアディンダの純愛物語りは高い文学の薫りに満ち満ちており、この書物が単なる告発書を超越してひとつの文学作品としての金字塔を打ち立てることができたのもこの優れたエピソードのおかげではないだろうか、とわたしは考えています。