「辣味求真」


 まるで、後頭部にガーンと一発食らって目から火花が散ったときのようなショック。口の中ではジリジリと火が燃え、息を吐けば炎でも噴き出してきそうな焼焦感。しびれる舌を揺るがせ、息をあえがせ、涙を流して七転八倒するそんなインドネシア新参者を前にして、『自分はもうあの域を卒業したな。』とひとりで悦に入っているあなた。あなたの激辛初体験の場はいったいどこだったのでしょうか?
 タイで?マレーシアで?それともここ数十年来エスニック料理が普及してきた日本で?「いやいや、日本には昔から韓国焼肉レストランがあった。とうがらしのピリ辛は先刻おなじみのものだ。なにしろ、こちとらキムチ大好き人間なんだから・・・。」と豪語しているあなたでも、ピリ辛では済まない南方系の激辛に最初はとまどったのではありませんか?

 ほとんどどの料理にもたっぷりととうがらしを使うパダン料理は、インドネシア料理は辛いという話をするとまず必ず登場する人気者です。マナド料理などはそれよりはるかに辛いというのがわたしの印象ですが、知名度から行けばパダン料理の方がその層の厚さで圧倒的に有名です。とはいえ、インドネシアでそれら以外のどの地方へ行こうと、食卓にとうがらし気のないところはない、と言っても過言ではないでしょう。地元系のレストランに入り、何を食べても辛そうだから『ナシゴレンだったら大丈夫だろう』とたかをくくって注文したところ、なんと青とうがらしの細切れがご飯の中に混ぜられていたために目を白黒させた経験をお持ちの方は、きっとどこかにいらっしゃるのではないでしょうか。
 激辛だとは夢にも思わず、辛い料理をつい口に入れてしまった人に対してインドネシアの人たちから、
「冷たい水を飲め!」
「砂糖をなめろ!」
「氷をもらって口の中にほおばれ!」
などと同情に満ちたアドバイスが飛びます。
えっ、「おまえは冗談を言っているのだろう」ですって?辛いものを口に入れたから甘いものを使って中和してやろうとか、口の中が焼けるように熱いから氷を使って冷やしてやろう、なとというのはどうも冗談ぽくて眉唾だ、とおっしゃるのですか?いえいえ、それらの激辛中和療法はインドネシアのひとびとが経験から見つけ出したもので、アドバイスしている人は本気でそう言っているのです。効き目はどうかといえば、氷がもっとも速効性があり、砂糖は効果が出るまでに時間がかかるようですが・・・・。

 とうがらし自身の激辛を抑制する方法に、酢に漬けるというものがあります。シンガポールやマレーシアなど南方系の中華レストランに入ると、そのとうがらしの酢漬けがテーブルの上に登場します。これはあまり人の口内にショックを与えないので、入門者向きであるし、また慣れるとこれなしでは済まないテーブルの友となってしまいます。
 タバコも激辛中和療法のひとつです。あまりにも辛い料理で食事し終えたインドネシアの人が、ひそかに口をハーハーやりながら、タバコに火をつけていかにもうまそうに一服やっている姿を目にすることがあります。口の中の火事をタバコのやにで鎮火させながら、それらの刺激が混じりあった独特の風味を楽しむのは、ほかでは得られない快楽のひとつだという話ですが、とはいえ、ほかの人がまだ食事の最中に、自分はもう食べ終わったからとタバコをくゆらすのは是非ご遠慮いただきたいものです。

 わたしたちには激辛で、口の中はしびれ、額にはあぶらあせを浮かべて七転八倒するこのとうがらしをインドネシアのひとびとは涼しい顔をして舌に乗せますが、かれらの身体が特別製だということでは決してありません。刺激というものはいつも接していると慢性化して感じられなくなり、より強い刺激を求めてエスカレートしていくのはみなさんご存知の通りです。子供のころからの慣れがその違いを生み出しているわけで、人間の肉体が持っている適応能力のたまものだということができるでしょう。

 その刺激があまりにも強いことを知っているインドネシアのひとたちは、さすがに幼児や赤ん坊にとうがらしを与えることはしません。たいていの家庭では、子供が成長するのに応じて自分からとうがらしを口にするようになるのを見守るのが一般的なようです。まだ小さいのにたくさんのとうがらしを口に入れようとすると、ブレーキをかけて指導することもあるようですが、本人の主体性にまかせるというインドネシアの基本精神がここにも登場します。およそ十歳前後というのが、インドネシアのひとびとがとうがらしを始める年齢のようです。
 親がが仕向けないのに、刺激の強いとうがらしに十歳前後の子供が自主的に向かうということについて、自分の肉体の強さを実感しておとなの世界に近づいたという誇りを感じたり、あるいは同年代の仲間とその強さを競って誇りを感じることが誘因となっているのではないかとの質問をインドネシアの友人たちに向けて見ました。すると、同意する人、否定する人とさまざまでしたが、否定論者のひとりが言うには、「タバコこそがその役割を果たしているのであり、とうがらしにそこまでのステータスはない。」との意見を聞かせてくれました。タバコを吸っている小学生くらいのインドネシアの子供たちを見てみると、確かに自信に満ち、大人びた態度をしているのがわかります。
 ともあれ、刺激の量に対する耐久力には個人差があり、その人にとっての適量を超えればやはりダウンしてしまいます。インドネシア人でもとうがらしを食べ過ぎればわたしたちと同様に腹痛を起こしますし、あまりにも激辛であれば人によって口をハーハーさせながら「辛くて食べられない」と言い、大多数の人がそう言う中で涼しい顔をして同じものを口に入れる人には「強いねえ」と賞賛の言葉が向けられるのは、日本人にとっての酒と似たようなものなのでしょう。お酒も日本では女性のほうが強いとよく言われますが、インドネシアでもとうがらしに対しては女性のほうが強いと言われており、その類似性には驚きます。


 さて、辛いことで有名なパダン料理。ジャカルタでも、人の集まるところには必ずと言っていいほどレストラン・パダンがあり、中には有名な大手チェーン店もあります。はじめてレストラン・パダンに入った方は、ありとあらゆる料理を乗せた皿があっという間にテーブル狭しと並べられるのにまずびっくり。「こんなに食べられないよ」などと心配はご無用。食べた分だけ計算して請求してくれます。『ぼったくられた』という話はまず聞きませんので、安心してよいのではないでしょうか。ひとりで食べに入っても拒まれることはありませんが、皿を並べ立てられるのも気後れしますから、数人連れ立って行くのが楽しいでしょう。
 rantauというインドネシア語をご存知の方には言わずもがな、パダン人はよその土地へ出稼ぎに行くランタウで有名です。そして、その出稼ぎの核になるのがこのレストラン・パダン。「一番手っ取り早く商売が始められ、大もうけはしないかわりに地道にやっていれば成功する」と言われるのが食べ物商売で、ユダヤ人も華僑もたいてい食べ物商売からスタートしているようですが、パダン人にもその原則は有効なようです。誰かが出稼ぎ先のどこかでレストランを開きますと、親戚や同郷の人たちがそこを頼ってやってきます。そして、とりあえずは店に寝泊りしてレストランの手伝いをしながらほかの働き口を探し、それが見つかるとそこから出て後進に場を譲るといった出稼ぎ前進基地の役割を果たしているのです。スマトラ島内は言うに及ばず、インドネシア国内のたいていの町からマレーシアやシンガポールに至るまでレストラン・パダンの看板を目にしますから、パダン人のランタウ精神には脱帽です。

 ところで先ほどから、パダン、パダン、とどたばた言っておりますが、パダンは西スマトラ州の州都である海岸の町。ところが西スマトラ州に住む種族の名は、古来からの王国の名をとったミナンカバウ人です。西スマトラ州一帯を治めたのはミナンカバウ王国で、ミナンカバウすなわちMenang Kerbauの名が示す通り、水牛の角をシンボライズして家屋の屋根の両端を高くせり上げた特徴的なシルエットは、ミナン文化を代表する建築様式として広く知られています。そんなデザイン面での特徴と同時に、屋根に葺かれたijuk、つまりアレン椰子から取られた繊維の水はけをよくして素材を長持ちさせるという実用的な役割も果たしており、伝統の中ではぐくまれた生活の知恵には驚嘆するばかりです。
 Ranah Minangと地元の人々が呼ぶミナンの地にあった王国は、そのおりおりにこの南海島嶼部を支配した強大な勢力に服属して本領を安堵されていたために、王統の変遷は見られません。ところが、すべてのムスリムは生活の隅々に至るまでイスラムの本義に従って生活するべしと主張する一部宗教指導層が、その主張を実践する中でイスラム渡来以前から伝統的に続けられてきたアダットを守る勢力と対立するようになり、王宮を頂点とするアダット派とパドリと呼ばれたイスラム主義派の武力闘争がついには叛乱と見なされる事態に発展したことから、オランダ植民地政庁の介入を誘う結果となってしまいました。1820年からなんと17年間に渡って続けられたこのパドリ戦争は、反オランダ武力闘争という性格へと変質していったために、多くの闘士が民族独立英雄としてその名を国民史にとどめるようになりました。そんな過去の歴史がミナン人の性格を形作っているようで、イスラム的価値観への志向は強いものがあります。スマトラのパリと異名をとる高原の町ブキッティンギに築かれた、いまは公園となっているフォルト・デ・コック要塞を散策したとき、吹き抜ける風の中に合戦のときの声と押し寄せる軍馬の足音を聞いたのは、どうやらわたしだけだったようですね。夜のとばりが降りてくる中で、空が光を失うにつれて輝きだす星の多さにはわれを忘れてしまいました。東から西へと漆黒の夜空に変わってきたのに、この盆地を囲む山々の西の稜線のすこし上の空だけが既に闇に没した山々の上に光の帯をいつまでも残している光景は、それが完全に闇の中に沈むまでわたしにそこから立ち去ることを許しませんでした。

 ミナンカバウ王国の首都は内陸の高原部にあるパガルユンで、この地方の緑したたる静謐なたたずまいには心が洗われる思いです。かつて王宮だった巨大なルマバゴンジョン別名ルマガダンは焼け落ちましたがまた建て直され、少し離れた場所に移転されて博物館になっています。純粋なミナンカバウ族はそのパガルユンを中心とした一帯を本領としており、海岸部のパダンはかれらとって実はランタウの地だったのです。
 ミナン人に言わせると、レストラン・パダンとレストラン・ミナンは同じではないのだそうです。そのどちらもが同じ料理を出しますし、大皿に入れて店の入り口近くの棚に積み上げた料理を小皿に取って食卓に並べるやり方にも違いがあるわけではありませんが、レストラン・ミナンはレストランの中にムソラ(礼拝所)が用意されており、お客は食事の前でも後でもお好みに応じてアラーへの礼拝を行うことができるのだとかれらは言います。レストラン・ミナンのオーナーは必ず篤信のムスリムであり、レストラン・パダンにはそのような条件がなく、そしてオーナーはたいていスンダ人や印華人(Indonesian Chinese)なのだそうです。
 そのミナンの地を訪れたとき、どれほどの田舎町へ行こうともレストランはありました。しかしせっかくレストラン・パダンの本場へ来たというのに、レストラン・パダンあるいはレストラン・ミナンの看板を掲げている店はひとつもありません。どの店も『レストラン▲○X』という表示しかしていないのです。「西スマトラ州でレストラン・パダンの看板を探しても見つからないよ。」という笑い話ができそうですが、あちらこちらの田舎町でわたしが目にしたすべてのレストランは例外なくあのスタイルであり、味付けも言わずもがな、飛び上がるほど辛いあのおなじみの料理を食べさせてくれました。地方文化がそのままの姿で別の地方に流れ込み、流れ込んだ先の土地で受け入れられているというミナンの食文化はひとつの驚きであり、そのユニバーサル的性格をミナン人が自負し、誇りに思っているのもうなずける気がします。


 とうがらしにもいくつかの種類があります。インドネシアで一般に市場で流通しているものはパサルやスーパーマーケットで目にすることができますが、ジャカルタでは、大型のもの、小型のもの、細長くうねっているもの、赤色のもの、緑色のもの、が売られています。とうがらしのインドネシア語はチャバイと言い、cabaiと書いていましたが、例によっての音韻変化で発音がチャベに変わり、綴りが音に合わせてcabeと変化したようです。cabe merah besarは大型赤とうがらし、緑色はhijauですからcabe hijau besarと言います。時に大型赤とうがらしをcabe merah TWと表示していることがありますが、TWとは台湾を意味しています。細長くうねっているのはcabe merah keriting。そう、奥様やお嬢様方が美容院でパーマをかけられるときに使う、あの言葉と同じです。
 小型のものにkecilという言葉は使われません。ジャワで「小さい」を意味するrawitという語が用いられますが、cabe rawitはとうがらしの種類の名称ですので、cabe rawit hijauという語順になり、cabe hijau rawitとは決して言いません。どうぞお間違えのないように。ジャワでこの種のチャベはlombok rawitと呼ばれていたようですが、最終的にチャベの語が優勢となり、ロンボッはマイノリティの世界に押しやられてしまったようです。チャベラウィッは小さいくせに超激辛。「小さいけれども力持ち」「山椒は小粒でピリリと辛い」といった日本でもおなじみのあの評価を一身に背負っています。「見かけにつられて、なめんなよ!」という雰囲気で使われるインドネシア語慣用句がKecil-kecil cabe rawit.『小さいやつが思いがけなく強かった』というときに、その小さいやつをひいきするメンタリティは、このチャベラウィッやインドネシアの寓話に登場するシカンチルに対する人々の評価の中に見ることができます。どこか日本人の持っている精神的価値観に共通するものをお感じになりませんか?

 インドネシア家庭の台所に一日たりとも欠かせないとうがらしは、この国の生活必需品です。かつてとうがらしの不作のために市場価格が高騰し、台所の必需品がパサルで希少価値を持つ事態となって、庶民の不満の声が高まりました。そのとき政府はなんと、各家庭でとうがらしを一本栽培して困苦を克服せよ、と国民を指導したのです。それに従って庭の空地にせよ鉢植えにせよ、かなりの家庭がとうがらしの木を自宅に持つようになりました。今は枯らしてしまったところも多いようですが・・・・・・・。
 供給の安定確保と緊急時の諸政策で物価の安定をはかるのが行政の本筋ではないかという気がしますが、それにしても主食の米以外のものに政府がそこまで気を配るという事実は、インドネシア民衆の暮らしの中でのとうがらしの位置付けを明白に示しているものではないかと思います。


 熱帯アジア地方の食生活に欠かせないこのとうがらし、実は大昔から使われていたというものではありません。読者の皆さんの中にも、もううなずいている方がいらっしゃるようですが、とうがらしの原産地は南米です。つまり新大陸が発見されるまで、ヨーロッパやアジアなど旧世界の人々はとうがらしの存在すら知らなかったということなのです。ニューヨーク在住のインド人ジャーナリスト、アマール・ナージさんは「とうがらしはポルトガル人がブラジルのペルナンブコ(今のレシフェ)で出会い、かれらが行く先々に伝えたもの。アフリカ南端の喜望峰を回って東海岸を北上し、インド洋を東航してインドへ到達するというヨーロッパからの直行航路を開いたポルトガル人こそが、インド料理にとうがらしを持ち込んだ恩人だ。」と述べています。一方、コロンブスもカリブ海でとうがらしに出会っており、大航海時代の初期に世界に幹線を開通させた両国がその幹線沿いの至る所にとうがらしを紹介してまわったというのがかれの説ですが、ヨーロッパ人のペルナンブコ到達はコロンブスのカリブ探検航海から何年もあとのことなのです。ポルトガル人がアジアにもたらしたとうがらしは、果たして原産地直送だったのでしょうか?

 ところで15世紀より前の時代、とうがらしをまだ知らなかった旧世界の人々に知られていた強い刺激性を持つ辛いスパイスとは胡椒。インドが原産と言われているこの胡椒は交易商品としてインド周辺の地域に広まり、利用されまた栽培されるようになりました。そしてインド商人からアラブ商人へ、アラブ商人からイタリア商人へと受け渡されてヨーロッパにまで流入して行ったのです。もちろん中国へも伝わりましたが、その名が意味しているように、胡すなわち中国の西方に住む蛮族から伝わってきた椒なのです。椒というのは、実や種が刺激性の植物を表しています。
 一説では、胡椒は唐の時代に南方から伝来したと言われていますが、陸路のシルクロードと南洋の海路とどちらが先だったのでしょうか。この品物は日本をはじめ中国の各地方へもその同じ文字のまま伝わりました。北京読みではフーチャオ、広東読みではウーチュウ、福建読みでホーチオ、日本読みだとコショウとなりますね。

 そしてその後伝来したとうがらしには辣椒という名が付けられましたが、北京読みでラーチャオ、広東読みでラーチュウと発音するこの名称は、結局日本に伝えられることはありませんでした。日本では、もう最初からくどいほど出ている「とうがらし」という名前で呼ばれており、その意味するところは唐のからしということなのですが、伝来物に元の場所の地名をつけるのは万国共通のようで、ジャガいもやら薩摩いも、さらには「とうもろこし」などという正体不明のものまで、日本では枚挙にいとまがありません。インドネシアのひとびとも、ドリアン・バンコックやらマルタバッ・ムシール、サンダル・ジュパンなどと同じことが大好きなようです。
 「唐がらし」と日本で命名されたのは、中国を経由して日本に入ってきたためだったのでしょうか?とうがらしは別名南蛮からしとも呼ばれます。略して「南蛮」とだけ呼ぶ方もいらっしゃいますが、その名が示すように南蛮人、つまり東南アジア一帯にまで進出してきたヨーロッパ人が持ち込んだことに由来するようにも思えます。唐にしろ南蛮にしろ、異国から来たからしだという意味に違いはありません。ではそもそも「からし」とはいったいなにだったのでしょう?それはマスタードの仲間であるからし菜の種から作られた辛いものなのですが、そのからし菜自身も元々は中国から日本に渡来したものなのです。そう見てくると、唐がらしという命名には奇異な印象を感じてしまいます。

 「からし」とはからいものという意味です。ところで、わたしたちの日常生活の中で使われる「からい」という言葉からとうがらしの辛さをイメージされる方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。「からい」はもともと舌を刺す、刺激性の味覚に対して用いられた言葉なのですが、塩気の多い味覚に対しても「からい」を用いた「塩からい」という言葉が使われます。わたしたちがふだん、味付けが「からい」と言う場合、たいてい塩味のことをさしているように思えます。つまり日本人の食文化が刺激性の味覚から遠いところにあることを、それは意味しているのではないかという気がわたしにはするのです。
 日本的食文化における香辛料として読者のみなさんは何を取り上げるでしょうか?山椒でしょうか、わさびでしょうか?山椒はうどんの友にされ、わさびは生魚の相棒にされてしまった感があり、静岡名産『わさび漬け』などといった変種・珍味のたぐいはありますが、食卓にそれらの香辛料が常備され、食事にその味覚の彩りをいつでも加えていらっしゃるご家庭はあるのでしょうか。
 あれほど口の中を焦がすとうがらしに強いインドネシアのひとびとにこのわさびを食べさせると、ほとんど全員が「からい、からい。」と言って涙をこぼします。刺激が口の中から後頭部に向かって打撃を与えるとうがらしには慣れていても、鼻から目そして前頭部を直撃するわさびの刺激にはお手上げのようですよ。

 読者のみなさんもきっと五味はご存知でしょう。いえいえ、五味さんという苗字の方のことではありません。甘苦鹹辣酸の五つの味覚のことを言っているのです。中国語では鹹(塩からさ)と辣(胡椒やとうがらしのからさ)がはっきりと別の言葉で区別されています。辣は餃子の友である辣油でみなさんもおなじみかと思います。餃子といえば、ジャカルタでもグロドッパンチョラン、パサルバル裏のクレコッ、スネンなどにおいしい餃子を食べさせてくれる印華人の店があるのは、みなさん先刻ご承知の通りです。餃子には焼き餃子と水餃子の二種類があるのは言うまでもありません。わたしがここでお話しているのは焼き餃子で、中国語では鍋貼と書き、ジャカルタでもそのままkuotieと発音されますが、店によってはwutieと言うところもあります。一方水餃子は水餃と書き、suikiauと発音されています。
 そのおいしいクオティエを食べに行くと、うまさや焼き加減は本物なのですが、つけるものが少々違っているのです。醤油・酢・辣油の三位一体というあのスタイルではなく、テーブルに置かれているのは醤油より黒い黒酢、中国醤油、胡麻油、おろしにんにく、そしてインドネシアに欠かせないチャベ(サンバル状、アチャルにしたみじん切り、チリソースなどさまざま)。それらをお好みに応じて混ぜるのですが、いずこも醤油の味がいまひとつ。もしお出かけの際には、お宅にあるご愛顧の醤油ご持参をお奨めします。クオティエのお値段は日本円に直すと一個10〜20円といったところでしょうか。
 さてその五味ですが、インドネシア語でもmanis, pahit, asin, pedas, asamと分かれており、食生活の中における味覚の彩りが必然的に言葉に影響を与えているのではないかという気がわたしにはします。ちなみに英語を見てみますと、sweet, bitter, salty, hot, sourとなっているようで、hotは口中の味覚というよりは全身的な感覚という印象の方が強いですから、イングリッシュメンの食卓における辣味の一般性は低いのではないかというのがわたしの意見です。中国人と東西で食文化の最高峰を競っているフランス人でも、辣味はfort(強い)とかpiquant(とげのように刺す)という言葉で表現しますので、この点では英国と大差ないように思えます。
 味覚を表現するボキャブラリーのひとつとして、英語の中に「うまみ」という日本語が取り入れられたらしく、日本料理とは関係のない文章の中にumamiという言葉が説明もなく出現しているのを見つけて驚きました。数年前にインドネシアで一大事件に発展した某調味料は料理にそのうまみを加えるということで世界中に普及していますが、インドネシア語にもその「こく」のあるうまみを表現するgurihという言葉があります。インドネシアのひとびともそのgurihな味付けを求めて、その種の調味料をよく使います。屋台を引いて住宅地区を回るトゥカンミーを呼び止めてミークアを作ってもらうと、どんぶりの中にその種の調味料がまず投げ込まれます。
 「こく」は「濃く」の意味で、つまりは味が濃いことなのだそうですが、味を濃くすればうまみが出るといった単純なものでは決してありません。そこにこそ料理人の腕をふるう場が用意されているということではないでしょうか。


 古い昔から中国とインドと中東の間に交易ルートが作られていました。文明の発展したところは人を引き寄せます。人は物を持って動き、各地から集まってきた人たちの間で交易が起こるのです。そこは周辺のさまざまな地方のハブとなり、ハブとハブの間も交易のパイプでつながれます。こうしてインド原産の胡椒は中東を抜けて地中海東方の海を超え、ヨーロッパの各地へと流れ込んで行きました。インドネシアのマルク地方を原産とするクローブやナツメッグなど希少価値の高いスパイスも交易ハブへと流れ、胡椒と同じように最後にはヨーロッパへと流れ込んで行きました。
 ムスリム商人がベニス商人に売るそれら非常に高価なスパイスをアジアの産地から直接持ってくれば大もうけだ、とのアイデアも、ポルトガル人やスペイン人が前人未到の大海原に舟を乗り出すのを決意させた動機のひとつだったことは言うまでもありません。
 1498年5月20日、70年以上にもわたってポルトガル人が続けてきたアジアへの航路開設がヴァスコ・ダ・ガマ率いる船隊によってなしとげられました。カリカットに着いた4隻の船隊は、そこでの交易を牛耳っていたムスリム商人の排斥を受けたために大きな成果はなかったものの、宝石や香辛料の見本を祖国に持ち帰ったのです。それに勢い付いたポルトガル王宮は1500年3月、十三隻一千二百人の乗組員からなるインド第二次遠征隊を発進させました。カブラル提督に率いられたこの船隊は、同年8月末にはゴアに近いアンジェディヴァに到達し、カリカットで交易しようと移動しましたが、そこで武力を伴う反抗が行われたためにポルトガル船隊はその町を砲撃で瓦礫の山に変え、その後コチンへ移動しました。そして胡椒の原産地として知られるマラバール海岸一帯で大量の胡椒を満載し、祖国へ帰還したのです。1501年6月からばらばらとリスボンへ戻ってきたカブラル船隊がおろした積荷の胡椒はその年の暮れを待たずにアントワープへと流れ込み、こうしてヨーロッパの経済と政治の体制は大きな激動を迎えることになるのです。


 ところで、胡椒を意味するインドネシア語は何でしょうか?辞書を開くとムリチャあるいはラダと記されています。ムリチャの語源はサンスクリット語のパリチャで、古ジャワ語でミリチャと変化した後、最終的にムリチャという名で現代に生き残りました。一方、ラダという語はムリチャならびにチャベと同義語だと説明されています。
「えっ?チャベはとうがらしのはずだが、これはいったいどういうこと?」
と読者のみなさんは疑問を抱かれたに違いありません。
 実はとうがらしの名前に関する謎があるということを、みなさんはご存知だったでしょうか?チャベあるいはチャバイの語源を探ると、古ジャワ語のチャウィあるいはチャウィヤという、やはりサンスクリット語に由来する言葉に行き当たります。それらの語がもともと指していたのも胡椒なのです。16世紀にとうがらしが伝えられる前から使われていた言葉ですので、とうがらしを指す言葉であったはずがありません。だから、チャベ、ムリチャ、ラダはすべて同義語なのだという説明は理解できるのです。
 「では、とうがらしが渡来したとき、そのものに名前は付けられなかったのか?」という疑問が湧いてきますが、日本の『唐がらし』しかり、どうやら世界的規模でみんなが手抜きをしたのではないかと思えるのです。インドネシア語辞典でとうがらしを調べると、チャベのほかにlombok, lada merah, lada cinaそしてcabe rawitの別名としてlada apiなどといった言葉が見つかります。ロンボッ以外はラダが使われているのにお気付きでしょう。ロンボッは上でも触れましたが、とうがらしがジャワに伝わったルートをなんとなく想像させますね。
 お隣りマレーシアではどうなっているかというと、胡椒にはlada hitam, lada putih, lada sulahなどとラダに形容詞が添えられており、一方とうがらしの方はcabe, lada, ciliなどという名前になっています。チリは旧宗主国の言葉から取られたものにちがいありません。ちなみにミナンの地へ行きますと、胡椒はlada、とうがらしはladoと使い分けられています。またタイでとうがらしをphrik kheefa、胡椒をphrik Thaiと呼ぶのは、新しい物産であるとうがらしが伝来したときに、「古くからある胡椒はタイのものだ。」という意味を込めたのではないかと思いますが、どうでしょうか?

 似たような状況はヨーロッパ諸国にも見られます。ポルトガル人は胡椒もとうがらしもピメンタと呼び、スペイン人はピミエンタとピミエントスという使い分けをしました。オランダ人は胡椒をペプルと呼びましたが、とうがらしはスパンス・ペプル、つまりスペインのペッパーと名付けたのです。胡椒のフランス語はポワブルで、フランス人はとうがらしをポワブル・ロン、つまり長い胡椒と呼びました。英語で胡椒はみなさんご存知の通りペッパーですが、とうがらしはレッドペッパー、チリペッパー、ケイエンペッパーなどと呼ばれました。チリやケイエンは南米の地名です。黒胡椒、白胡椒があるから、同じように辛くて赤いものはレッドペッパーとなったのかもしれませんが、とうがらしと胡椒は見た目からしてまったく違っています。形も植物分類学上もまったく違うものが、単に辣味という共通項だけでどうしてこのようなことになってしまったのでしょうか?ほとんどの国で命名に手抜きをしたように見えるこの実態は、『事実は小説よりも奇なり』の典型例を示してくれているように思えてしかたありません。
 そこにひとつの推論を登場させる余地が出現します。胡椒がインドから周辺諸国へと伝わって各地で栽培されるようになり、大量の胡椒が産出されるようになると、各産地の料理にも豊かな胡椒がたっぷりと使われていったのではないでしょうか。つまり、とうがらしが伝来するずっと昔から、熱帯アジアの大部分の郷土料理は辛いものだったのではないかと想像されるのです。胡椒は食品ではなく、味を付けるためのスパイスです。そこへやってきたとうがらしが、胡椒の対抗馬、言い換えれば代用品、として辛い料理を作るのに使われだしたとき、辣味の源泉である胡椒と大きく区別をする必然性が果たしてあったのかどうなのか、それが上で述べた手抜き現象の鍵ではないだろうかとわたしは想像しているのですが、博識なる読者の皆さんの薀蓄をぜひお聞かせ願いたいと思います。

 ポルトガル人がインドへ、そしてマラッカ、マルク、マカオへと持ち込んだとうがらしは、そられの周辺地域へと浸透して行ってアジアにとうがらし文化圏を形成しました。この文化圏はみなさんご存知のように熱帯地域が中心となっているのですが、朝鮮半島だけは少々はずれたところにできた鬼っ子のように見えます。朝鮮半島へのとうがらし伝来の歴史はどのようなものだったのでしょうか。黄海をはさんだ華南地方との交易、あるいは琉球との交易。琉球の商船は東南アジア地域との交易を積極的に進めていましたから、ヨーロッパ人が新世界からアジアにもたらした品々がどうやら琉球をハブにして日本や朝鮮半島に伝わったのではないかという説も立てられています。
 ヨーロッパ人が新大陸から旧世界にもたらした食用植物はとうがらし以外にも実に多種多様で、「あれっ、そんなものまで?」と意外に思われるものさえ、中に混じっています。新大陸の発見はその後の人類の歴史にいろいろな面で影響を与えましたが、人間の食生活の豊かさに与えた貢献は特筆すべきものがあるのではないでしょうか。
 インドネシアでpaprikaと呼ばれているピーマンはひと目でとうがらしの親戚だとわかりますが、これも新世界が原産です。ほかにも、トマト、とうもろこし、かぼちゃ、ジャガいも、さつまいも、ピーナツ、カカオ、バニラ、パイナップル、アボガド、パパイヤ、グアヴァ、インドネシアでマルキサという名を持つパッションフルーツ、シルサッと呼ばれているサワソップ、サウォと称するサポディラなど、目白押しに並んでいます。いまや世界の嫌われもののトップ争いに加わってきたタバコ、麻薬界の大物となったコカインなど、ちょっと変わった仲間の顔も見えますね。

 トマトはアメリカ原住民の言葉トマトゥルをスペイン人がトマテという名称でヨーロッパに持ち帰り、その後各地で少しずつ名前を変えながら定着していったようで、ポルトガルではtomateあるいはtomateiro、イギリスはtomato、オランダはtomaatといったありさまになっています。インドネシアではtomatという名称になっており、言葉の最後に母音がつけられなかったのは、きっとオランダ語に由来したためでしょう。インドネシアではバリなす(terung bali)という別名でも呼ばれますが、形がなすに似ているとでも言うのでしょうか。その感覚は他の国でも同じだったようで、日本でも赤なす、西洋なすび、などという別名をもらっていますし、中国でも番茄(西方の蛮族のなす)という名前で呼ばれています。
 とうもろこしを先に正体不明とののしってしまいましたが、その名称を弁護する方はいらっしゃるでしょうか?「とう」は唐、「もろこし」は中国大陸地域を指しており、文字通りに現代風に言い直せば「中国中国」となってわけが分かりません。日本では、とうきび、南蛮きび、玉きび、などの異名を持っており、唐や南蛮の語が冠せられているのはとうがらしと同じですね。玉きびは北京語の玉蜀黍に関連しているように思えます。北京語ではその他、玉米、老玉米、苞米などと米になぞらえて名前がつけられていますが、台湾へ行くと番麦(西方の蛮族の麦)となっているのはいったいどうしたことでしょう。きびはイネ科の植物で、米に似た房に黄色い実をつけますので、そこからきた連想なのでしょうが、米や麦になぞらえたのは穀物としての共通性が意識されたように思えます。

 『かぼちゃの名称はカンボジアに由来する』と、ものの本に記されています。北京語では南の瓜と称して南瓜、台湾では色から命名されたようで金瓜、マレー語圏でもサンスクリット語源で瓜を意味するlabuが使われ、ジャカルタ近辺ではlabu parangの名前が一般的です。ところがフィリピンではスペイン語のcalabazaに由来するkalabassaという名前でタガログ語の中に定着しました。ひょっとすると、かぼちゃの名前はそのカラバサがなまったものではないかという気がわたしにはするのですが、真相はどうでしょう? ところで「フィリピンにだけどうしてスペイン語が入ったの?」と疑問を抱かれた読者はいらっしゃるでしょうか?1898年の米西戦争の結果アメリカがスペインから2千万ドルで買い取るまで、フィリピンが三世紀にわたってスペインの領土であったことをご存知の読者はきっと多いにちがいありません。スペインがフィリピンを領有するに至る経緯の中に、スペイン・ポルトガル間で展開されたマルク香料諸島争奪の歴史が顔をのぞかせるのは、意外な事実かもしれません。

 中央アメリカに高度な文明を持つ原住民の帝国があることを知ったスペイン人はその征服に向かいます。アステカ族はテスクコ湖の浮き洲の上にテノチティトランとかれらが名付けた一大都市を建設し、人口5百万人と推定される大帝国をその首都から支配していたのです。今はメキシコシティとなっているこのテノチティトランは、帝国最後の皇帝モンテスマの治世下に戸数6万戸を数える優れた大都市でした。この帝国はメキシコ湾と太平洋のふたつの海岸で囲まれた広大な地域を強力な中央集権体制で統治し、また厳格な統制による民衆支配を行っていました。
 キューバ総督ディエゴ・ベラスケスは、自分の秘書官エルナンド・コルテスを指揮官に任命してアステカ第三次遠征隊を指揮させます。ところが、人選の誤りを自覚した総督がコルテスを解任しようと動き始めたところ、それを察したコルテスは先手を打って出帆し、メキシコへと向かいました。1519年4月、テノチティトランにもっとも近い港に上陸したコルテスは、その地を接収するとベラクルスと命名してそこにスペインの町を建設します。同年8月、いよいよコルテスは4百人の兵士を率いてアステカ征服に着手し、道中、他の種族の攻撃を排除しながら三ヶ月かけてテノチティトランに到達します。最初は友好親善を装って接近しておきながら、その数日後には卑劣な手段でモンテスマの身柄を抑えてしまいました。
 こうして膨大な量の金銀財宝を手に入れたコルテスに、悪いニュースが届きました。キューバ総督が派遣したコルテス討伐軍が接近しているというのです。少数の守備隊をテノチティトランに残して討伐軍を迎え撃ったコルテスが首都へ戻ったとき、首都では思いもよらない反スペイン暴動が吹き荒れていました。コルテスは事態を収拾しようとしてモンテスマを民衆の前に立たせ、かれの口からスペイン人との友好を語らせたのですが、怒り狂った暴徒の投げた石がかれの頭に当たり、傷心のためにモンテスマはいっさいの治療を拒んで世を去ります。事態は最悪の方向へと向かいます。数十万人の全市民を敵に回した数百人の侵略者という図式と化したコルテス部隊には逃げるしか救いの道はありません。夜を徹して行われた1520年6月30日のこの撤退行動があまりにも血なまぐさいものになったことから、この事件はノーチェトリステと呼ばれて後世に名を残しました。1521年春、体勢を立て直したスペイン軍は、テノチティトランに侵攻してアステカ帝国を征服するのに成功しました。そして今のメキシコ一帯をヌエバ・エスパーニャと改称し、スペイン領を宣したのです。
 1522年、世界一周を果たしたマジェラン船隊がスペインへ帰還し、太平洋を西へ向かえばアジアへ、しかもマルクの香料諸島へ到達できることを証明すると、東向きのアジア航路をたどれないスペインは、マルクを目指す太平洋横断航路に挑み始めました。そして1525年には、マジェラン船隊が立ち寄って歓迎を受けたマルクのティドーレ島にスペイン旗を押し立て、ポルトガル人の独占下にあるマルク諸島をスペイン領に変えるのだとして、7隻からなる船隊がスペインを出帆しました。かれらはおびただしい犠牲者を出しながらもなんとかティドーレ島に到達し、スペインの足場を構築したのです。
 ところで、マルクでは昔から、このティドーレとテルナーテの間で戦争が繰り返されていましたが、1512年にポルトガル人の来航を迎えたテルナーテは、それ以来ティドーレに対して優位に立つようになりました。劣勢挽回をはかるティドーレのスルタンにとって、スペイン人は天から降ってきたような味方でした。ところが、マラッカから頻繁に増援されるテルナーテ側のポルトガル兵力に対し、スペインの援軍はいつまでたってもやってきません。要塞にたてこもってポルトガルの襲撃をなんとか食い止めているスペイン軍も孤立無援の絶望的な状況に耐えているのです。同朋のそんな事態を知ったヌエバ・エスパーニャのコルテス総督は1527年に三隻の援軍を発進させますが、ティドーレにたどり着いたのはわずか一隻。
 ポルトガル領を奪うどころか防戦一方のスペイン・ティドーレ連合軍にあっさりと見切りをつけたのか、財政赤字で金に困っていたスペイン王カール五世はティドーレの権益をポルトガルに売り渡してしまいます。スペイン要塞はポルトガル軍に明渡され、味方を失ったティドーレのスルタンは1530年にポルトガル王へのクローブ貢納に同意し、こうしてポルトガルのマルク経営は着々と進展して行きました。そんな昔から続けられていたティドーレとテルナーテ間の抗争は、いまだに終わってはいません。いつまでたっても終わりを迎えないマルクの住民間抗争の原因がそこに根ざしてしたなんて、驚いてしまいますね。

 マルクから駆逐されてしまったスペインは、アジアの拠点を求めてフィリピンへ向かいます。しかし、16世紀初頭から太平洋の西向き横断航海に成功した多くの船乗りたちも、南北両回帰線の間を絶え間なく東から吹いてくる貿易風に阻まれて、逆戻りに成功した人はひとりとしてありませんでした。戻りルートが発見されなければ、スペインの植民地建設はティドーレの轍を踏むことになりかねません。
 1565年、スペインはついにアジア進出の転回点を迎えます。先人たちの失敗を乗り越え、アンドレス・デ・ウルダネータがずっと高緯度のルートをたどって東向き太平洋横断航海に成功しました。おまけにロペス・デ・レガスピ率いる船隊がセブ島に上陸して、東洋ではじめてのスペイン人居留地を建設したのです。こうしてメキシコとフィリピン間の往復航路が開設され、1571年にスペイン人がマニラを征服してセブから総督府を移すと、マニラはスペインがアジアで保有する交易ハブとしてその発展の歴史をつむぎはじめます。毎年マニラとメキシコ西岸の要港アカプルコを結んで、三層あるいは四層甲板のガレオン船が太平洋を往復するようになり、それまでマラッカ〜マカオ〜平戸や長崎を結んで繁栄を謳歌していたポルトガルの独占通商ルートにかげりがさしはじめ、ヨーロッパへ至るもうひとつの道の誕生で南洋から東アジア一帯にかけて産出される交易品が二分されるようになっていったのです。
 このマニラガレオンに乗ってアジアへもたらされた新大陸の物産もきっといろいろあったのではないでしょうか。スペイン人が交易のために持ってきたメキシコ銀貨もそのひとつです。銀本位だったアジアの交易市場にメキシコ銀貨はとうとうと流れ込んで、ついには基準交換通貨の地位を獲得しました。その後オランダの覇権が確立して東南アジア最大の商港となったバタビアでさえその例にもれません。ところで、ジャカルタの人たちが貨幣単位をルピアと言わずにperakと呼ぶのには、皆さんもきっとお気付きのことでしょう。東南アジアの交易通貨が銀だった事実をその言葉が証明しているというのですが、果たして"Believe it or not ?!"


 新世界原産食用植物の中で続いて登場するジャガいもは、みなさんご承知の通りジャガタラいもの名称が詰まったものです。スペイン人はもうひとつの「さつまいも」といっしょくたにしてアメリカ原住民の土語batataをスペイン語に持ち込んだらしく、ジャガいもをpatata、さつまいもをbatataと命名しました。ところがポルトガル人はジャガいもをbatata、さつまいもをbatata doce(甘いバタタ)と称しており、これは英語のポテト、スイートポテトの区別の仕方と同じです。日本でさつまいもは甘藷とも呼ばれ、中国でも甘薯、インドネシアでもubi manisという名が付けられており、どの国の人々にとってもその甘さはよほど印象的だったにちがいありません。ただし、ジャカルタ近辺で使われている名称はubi manisよりもubi jalarという名前の方が一般的なようです。
 ところで、読者のみなさんはもうubi maduなるさつまいもをご賞味されたでしょうか?ここ数年来、甘味の際立って強い西ジャワ産のウビが限られた場所で売られるようになりました。中には例によって贋物も混じっていますので、「噂ほど甘くないわ。」とお感じの方は、本物にめぐり合うまでご努力の余地があるやもしれません。
 ジャガいもは馬鈴薯とも呼ばれますが、これはれっきとした中国語です。その形がきっと馬につける鈴を連想させたのでしょう。インドネシアではubi kentang 略してクンタンと呼ばれるのが一般的で、その別名として伝来物の例にもれず、ubi belanda, ubi benggala などと渡来元の名を冠した名前が付けられています。皆さんご存知の通り、ブランダはオランダ、ベンガラはインドのベンガル地方のことです。
 ジャガタラいもは1598年にジャガタラから日本に伝えられたと故事来歴が明らかにされていますが、その年号とジャガタラの名がどうもしっくり結びつきません。ジャガタラとは言わずと知れたジャカルタの旧名で、キリスト教禁令で祖国をおわれた少女、ジャガタラお春のエピソードでも有名です。オランダ人がバタビアを築く前、今のジャカルタの地はジャヤカルタという名前でした。そのジャヤカルタという名前をどう聞き間違えたのか、ヨーロッパ人はそれをジャカトラと発音しました。このジャカトラが当時の日本人の耳にジャガタラと聞き取られたのは疑いのないところですが、1598年ごろのジャカトラはいったいどのような状況だったのでしょうか。

 はるか昔のジャカルタが、スンダの地を支配したパジャジャラン王国の有する6大港のひとつカラパ(今はたいていスンダクラパと呼ばれます。)だったことはみなさんご存知の通りです。15世紀ごろから中部や東部ジャワ北岸にイスラム勢力が勃興し、ヒンドゥ文化を基盤とする旧勢力と対抗するようになりました。中部・東部ジャワでは統制の緩んだマジャパヒト王国の地方領主、特に北岸の要港を抱える王族出身の地方領主がイスラム化を指示して勢力拡大をはかり、15世紀末頃にはドゥマッが新興イスラム港湾都市国家の旗頭として他のイスラム諸港の盟主の地位にのしあがります。マジャパヒト王国は15世紀後半には滅亡し、諸領主が自ら天下に号令しようとする群雄割拠の時代にはいりますが、西ジャワを支配するパジャジャラン王国の勢力はいまだに強く、スンダの各地はこのヒンドゥ王国の統制に服していました。
 1511年、ポルトガルがマラッカを征服すると、それまで中東やインドから交易に来ていたムスリム商人たちは、「イスラム殲滅、カトリック広宣」を標榜するポルトガル人の商港を避けて別の交易場所を求めたので、アチェの諸港や西ジャワのバンテンへとハブがシフトするようになります。マラッカでの交易の衰退に耐えられないポルトガル人は、既にイスラム化しているアチェの諸港へは大砲で、非イスラムの西ジャワ商港へは友好通商協定で、と手段を別にして接近を開始しました。
 中部ジャワとの国境周辺で、ヒンドゥ支配の旧体制を倒して支配権を奪おうとしている新興イスラム勢力の攻勢に直面し始めたパジャジャランにとって、ムスリムを敵視するポルトガルはいたって同盟しやすい相手です。こうして1522年、マラッカからの調印使節を向かえたパジャジャラン王国はポルトガルと通商協定を結び、要塞と商館の建設をかれらに許可しました。ポルトガル人が西ジャワに地盤を固めれば、イスラム勢力の交易に、そして版図の拡大をはじめた中部・東部ジャワの新興イスラム国家にとって大きな障害となるのは言うまでもありません。ドゥマッにとって、捨ててはおけない事態が生じてきたのです。

 ドゥマッのスルタン・トレンゴノは盟友チレボンのスルタンであるスナン・グヌン・ジャティ・アリフ・ヒダヤトゥラと連合して一大攻略部隊を西ジャワに送り込みました。1526年、スナン・グヌン・ジャティの息子ハサヌディン王子を総大将、アチェのパサイ出身で、スルタン・トレンゴノの妹を妻に娶りドゥマッの将軍職に就いていたファタヒラ(別名ファレテハン)を副将にすえて、イスラム軍はバンテンへと攻め込んだのです。小国ポルトガルに人的、そして船舶をはじめとする運輸・軍事面での余裕が欠如していたことがイスラム勢に幸いしました。ポルトガルがまだたいした足場を築きえない間に、バンテンはイスラム勢力の手に落ちてしまったのです。イスラム・バンテン王国の初代スルタンとなったハサヌディンは翌年、将軍ファタヒラをスンダクラパ攻略に差し向けました。
 1527年6月22日、スンダクラパはイスラム領となり、ファタヒラは町の名前をジャヤカルタとあらため、バンテンの属領として自らその地を治めました。毎年その日がジャカルタの創設記念日として祝われているのは、皆さんご存知の通りです。ファタヒラは1564年まで統治したあと、ハサヌディンの女婿トゥバグス・アンケに位を譲ります。アンケの統治は1596年まで続き、ハサヌディンの孫娘を妻にしたウィジャヤクラマがそのあとを継ぎました。この第三代領主パンゲラン・ジャヤカルタ・ウィジャヤクラマの手の中でジャカルタの運命は大きな変転を迎えることになるのですが、それが非情な歴史の宿命だったのかも知れません。

 ウィジャヤクラマが領主となったその同じ年に、コルネリス・ド・ハウトマン率いる4隻の船隊がオランダ人初のアジア航海を果たしてバンテンに入港しました。期待しただけの交易成果が得られなかったハウトマン一行は、最後には力づくで、と暴れたためにそれ以上滞在できなくなって結局逃げ出すことになりますが、ともかくの成功にアムステルダムでは一大投機ブームがまき起こり、たて続けに四つの船隊がバンテン目指して北海をあとにしました。かれらの努力で1598年にはオランダ商館がバンテンに開設され、オランダの宿敵イギリスも1602年には商館設立の許可を得てバンテンに居住を開始し、通商にからむヨーロッパ人間の抗争は激化の道をたどります。

 宗主国バンテンの厳しい統制下にあったジャヤカルタは、通商の中心をバンテン港に据えるというスルタンの政策のために、交易は栄えず経済発展も進みません。バンテン王国は、スンダの丘陵地帯からランプンに至る自国領で生産される胡椒を交易のかなめに位置付けて、この新しいハブに外国商人の来航を誘いました。マルクの香辛料をはじめ、インドネシアの各地で産出されるさまざまな交易産品の中継貿易も大量に行われたことは言うまでもありません。そんな体制の中でジャヤカルタが担った役割は、内陸部のボゴール丘陵地帯で産する胡椒を集めてバンテンに送り込む積出港でしかなかったのです。バンテンであぶれた一部の商人たちがやってくることはあっても、バンテンのように堂々と大きな市を開くことは許されていませんでした。  若さに任せて野望を抱くウィジャヤクラマはバンテンに反発し、おりあらばと機会をうかがいます。バンテンで厳しい競合の中にいたオランダ人は、競争の少ない、商売のしやすい環境を求めてバンテンからジャヤカルタへの進出を画策し、1610年にはついにウィジャヤクラマから商館建設の許可を得るまでに漕ぎ付けました。1611年、オランダ人はチリウン川東側の湿地帯に貧相な建物を造ってナッソー・ホイスと名付け、駐在員を置いて取引を開始しましたが、それはバンテン商館の出先機関にすぎませんでした。それから7年後の1618年、事態は一大転換を迎えます。

 1615年、イギリスとオランダの間で続けられてきた交渉が決裂し、イギリスはオランダと正面切って競争することに腹をくくったのです。イギリス東インド会社はクリストファ・プリン率いる5隻の船隊を南洋に派遣し、かれらは1618年にバンテンに入港しました。ちょうどその年オランダVOCも、初代東インド総督ピーテル・ボートに代えて、弱冠31歳のヤン・ピーテルスゾーン・クーンを赴任させます。クーンはバンテンでイギリス側と交渉しますが、ジャワにおけるオランダの本拠地はジャヤカルタへ移すほうが得策だと最終的に判断して、バンテンからすべてを移してしまいました。

 ジャヤカルタでは、ナッソー・ホイスが強固な石造りに改修され、それとL字型に交わるようにモーリティウス・ホイスが建てられ、周囲を囲む頑丈な石の城壁が作られて名実ともにオランダの本拠地たるべき商館兼要塞が築き上げられました。この要塞はその後さらに改装を加えられてカスティルと呼ばれるようになりますが、ともあれ、クーンはウィジャヤクラマに断りもなしにそれらを行い、挙句の果てに、軍事上邪魔になりそうな周辺の民家をとりこわし、あるいは焼き払ったのです。
 そんなオランダ人の専横な振る舞いに頭にきていたのでしょう、オランダ人を追ってジャヤカルタへやってきたイギリス側とウィジャヤクラマは協定を結び、オランダが建てた要塞と川をはさんで対峙する場所に商館を建てる許可をイギリス人に与えました。

 その年の暮れ、イギリス側はバージニア植民地経営で名をあげたトーマス・デイルを総大将とする大部隊をジャワでの対オランダ対決のために送り込みました。先に来ていたプリン船隊と合流したこの大軍団は船舶15隻、兵員2千5百人という、これまでヨーロッパ人がこの南海地域へ送り込んだ史上最大規模のものだったのです。この軍団が待ち受けていることを露知らなかったオランダ船ド・スワルト・リーウ号は、日本〜中国〜シャムをまわってバンテンに帰還したところを拿捕され、オランダ側関係者の全員が船内に拘束されてしまいます。ところが、酔ったイギリス人水夫が夜中に船倉で酒を捜していて、うっかり灯りを落としてしまい、船は全焼して沈んでしまいました。オランダ側はそれを宣戦布告と理解し、要塞の対岸に建築中のイギリス商館を攻撃して報復します。
 こうして戦争状態に突入したものの、大部隊のイギリス軍と地元ウィジャヤクラマ軍が連合した大勢力に対するオランダ側の兵力はあまりにも劣勢なのです。なにしろ、オンルスト島で修理中あるいは修理待ちの7隻の小型船とわずか百五十名の兵員が手持ちのすべてなのですから。あとは負傷兵、商人、日本人傭兵、ポルトガル人協力者、中国人や原住民の使用人など男手のすべてをかき集めてもせいぜい二百五十人なのです。「このまま座して消耗を待つよりは・・・」と総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは夜陰に紛れて要塞を脱出し、一路マルクへと向かいました。

 1619年5月30日、マルクから17隻の強力な船隊を率いてジャヤカルタに戻ってきたクーン総督は、総攻撃を命令してジャヤカルタを制圧します。町は建物ひとつ残さず平らにされ、すべての住民はひとり残らずジャングルの中に逃げ去りました。その場所にクーンはオランダ人が住む新しい町を建設させるのですが、こうしてアムステルダムに似せて作られた都市国家を、クーンはそれまでヨーロッパ人が呼んでいたジャカトラの名を冠したジャカトラ王国として建国宣言します。同時にクーンはまた、自分の故郷に関わる古来からの種族の名バタビアを要塞の名前として命名しました。ところが、時代が進むにつれてその要塞の名前が町の名前として定着して行ったのです。
 そんな歴史の中で、建国以来ヨーロッパ人からジャカトラと呼ばれていたジャヤカルタの1598年ごろの状況では、日本へジャガいもを伝える基地にはなりにくいような気がするのですが、読者のみなさんはどうお感じでしょうか?ともあれ、ジャガいもはジャワに関わっていた印象が強く、一方、からいも、りゅうきゅういもなどの別名を持つさつまいもは、ジャガいもとはだいぶ異なるルートをたどって日本へやってきたように思えます。唐、琉球、そして薩摩。なんとなくひとつの流れができていくような気がします。


 どうやら辣味から離れてしまったようなので、またとうがらしの話に戻って締めくくることにいたしましょう。原産地の南米で、とうがらしは武器としても使われていたそうです。とうがらしの粉を敵の目に投げつければ、これほど強力な目つぶしは他にありません。警官が暴れる無法者に使ったり、襲ってくる攻撃者から弱者が身を守るための護身用に使われるペッパースプレーの薬剤ベースはとうがらしです。捕らえた敵への拷問や、あるいはかつて南米では不倫を犯した女性を罰するのにもとうがらしが使われたという話ですが、どのように使われのかはご想像におまかせですね。
 ひとの粘膜を襲うとうがらしの成分にはカプサイシンという名が付けられています。このカプサイシンは、ひとの身体のいたるところに散らばっている痛覚受容器官と結びついてスイッチのように受容器官をオフにするので、脳はそれを痛みと判断するのだとブリストル大学のバイオ科学者レン・フィッシャーさんはそのメカニズムを説明しています。このカプサイシンは料理されても能力が低下することはなく、腸の消化吸収作用でもほとんど破壊されません。
 フィッシャーさんによれば、ひとの舌は甘酸鹹苦とうまみを感じ取るのだのこと。五味の中の辣味は舌で感じ取られるものではなく、つまりは味覚とは言えないということのようで、ヨーロッパ系の言語に辣味を味覚としてとらえる言葉が存在しないことの首尾一貫性がここに現れてきたようですね。辣味のしくみについては、口の中に入ったカプサイシンが口腔内にたくさん散らばっている痛覚受容器官に作用して、脳に燃えるような痛みを感知させるということで、目、鼻腔、性器など人間のあらゆる粘膜でも同じことが起こるのです。とうがらしを触ったあとでトイレへ行くとき、先に手をよく洗わねばならないのはそのせいです。しかし、痛覚受容器官が繰り返しカプサイシンにさらされると、痛覚は鈍化していきます。それがとうがらし熟練者と未熟者の差を生み出す秘密なのです。

 とうがらしは本当は健康食品です。柑橘系フルーツやドライフルーツに比べてビタミンCは二倍、ビタミンAも豊富に含まれています。そして痛覚受容器官を刺激することから、痛み止めホルモンの分泌が促されます。快楽ホルモンのエンドーフィンが放出され、人体に快楽を感じさせてバランスをとるように働くのです。おまけに発汗をも促しますので、暑い地方では汗が身体を冷やして食欲を増進させます。
 不幸にしてとうがらし未熟者が七転八倒の事態におちいったとき、もっとも有効な対策は乾燥ココナツを口に入れることだ、とフィッシャーさんは勧めます。油がカプサイシンを包んで粘膜から引き離し、そしてココナツの広い表面積が多量のカプサイシンを貼り付けてくれるからだそうで、これをお試しになった方はその効果に関する体験談をわたしにどうぞお寄せください。

(ジェイピープル< http://www.j-people.net >に掲載)