「不倫はお好き?」


南ジャカルタ市ポンドッキンダ(Pondok Indah)の豪邸のとある日曜日。朝4時半だというのにイルワンはもうベッドから起き出した。スブの礼拝、朝食、そして水浴を済ませると、愛用の黒色ベンツS500を駆ってゴルフ場へと向かう。平日は運転手が走らせているそのベンツも、休日にはイルワンがハンドルを握る。家からポンドッキンダゴルフ場はそれほど遠くない。10分もすればかれはもうグリーンに降りてスティックを振っているはず、と思いきや、車は違うところを走っている。かれのベンツはビンタロ(Bintaro)に向けて走っているのである。ビンタロにはかれがひとりの女に買い与えた家がある。いま21歳、自分の娘ほどの年令の女をかれはそこに囲っているのだ。かの女はフィオナ、実家はスマランで、ジャカルタに出てきてトリサクティ大学経済学部に在学中だと本人は言っている。
 フィオナとの関係は4年前から始まった。ふたりはゴルフ場で知り合い、必ず一緒にゴルフをするようになり、朝のゴルフが終わるとイルワンはフィオナをクバヨランにある自分のアパートに誘い、そうして一緒に時間を過ごした後昼食してから自分はオフィスに、フィオナはキャンパスに行くという関係になった。しばらくそんな関係が続いたあと、イルワンはフィオナに家を買い与え、ホンダCRVを買い与え、そして大学の学費まですべて面倒を見るようになった。「必ずしもすべてがセックスのためというものでもない。」とイルワンは言う。フィオナはとてもスマートだから気に入っている。フィオナとは互いに心の底を割って何でも話し合える。そんな相手がいることをイルワンはとても大事に思っている。40歳を超えて二度目の思春期に入り、フィオナと出会った。フィオナとの情事は口では言えないくらいの特別なセンセーションとエネルギーをイルワンに与えてくれる。フィオナとの関係がもたらしてくれる人生への活力はほかでは決して得られないものだ、とイルワンは語る。
 イルワンの妻は夫が何をしているか知らないわけではない。しかし子供たちも大きくなり、実業家の夫が作り上げたこの家庭を壊す気がないのは夫も妻も同じだ。だから妻は目をつぶっている。ジャワの女は結婚生活が長くなると、夫が外に女を作っているのがわかっても、自分の心身の欲求と経済面での需要が満たされている限り、最終的に夫が元のさやに戻ってくるならそれでよしとしてあまり問題にしないものだそうだ。イルワンの妻は子供がかなり大きくなってからホームインダストリービジネスを始め、今ではそのビジネスのからみであちこち飛び回っているから、イルワンの世話を焼いたり愚痴を聞いたりする時間があまりない。
 イルワンは話し相手が欲しくてフィオナとの関係をはじめたようだが、それがかれの単調な人生に大きな彩りを添えるものになってしまった。幸福この上ないイルワンに不倫の暗い影はみじんもない。

 アリは都内スディルマン通りにある保険会社のマネージャーをしている。アリは恋人とのランデブー場所をたいていホテルメリディアンのレストランに取る。かれの恋人はサンティ、都内のある大学の最終学期在学中。恋人とデート中にもアリの携帯電話は頻繁に着信音を出す。妻のニナがアリの様子を尋ねるために電話を入れてくるのだ。それは結婚以来ニナがはじめた習慣で、いまさらそれを止めさせることも不可能だ。嘘をついて妻をごまかすのに最初はたいへんだった、とアリは言う。二股かけていなければ、その電話は妻の夫に対する関心の表れと一般の夫たちは考えるものだが、サンティと一緒にいるときにその電話がかかってくれば、夫の行動を束縛し監視するためのものではないかという思いがアリの心を占拠する。
 アリがサンティと知り合ったのは学生のかの女が職業実習でアリのオフィスにやってきたときだ。魅力的な顔、プロポーションの良いボディ、フェミニンな話しかた。アリのオトコがそれにダウンした。「サンティと一緒に食事しているとき、自分の中にすごくフレッシュなものが湧き出てきて、まるでまた青春に戻ったように気持ちになる。」アリはそう告白する。社内のいまのポジションは頻繁に外出する必然性があるため、サンティとの逢瀬に障害はない。サンティとの関係が単なる遊びでないアリにとって、ふたりの関係をこの先どのように続けていけばよいのか、名案は浮かんでこない。「自分の宗教では複数の妻を持つことが可能だが、ニナとの間にもう子供がいる。子供の気持ちを考えるとそれに踏み切れなくなる。」アリはそう述べている。

 アンディはある自動車会社のマネージャーをしていた。結婚して一年たち、妻とのロマンチックな関係がすこしずつ冷めはじめ、そして形骸化へと向かいはじめたとき、かれは自分が結婚生活に期待していたものがこのまま消滅してしまうのではないかと危惧した。かれは妻の大学時代からの友人でまた同じ会社の社員でもあるミアに苦衷を打ち明けるようになり、ふたりの精神的な結びつきは一層緊密になって、そうしてあるとき一線を超えてしまった。まだ独身のミアが妊娠していることが社内中に知れ渡り、そうして胎児の父親がアンディであることが明らかになると、ふたりはその会社での職を失った。最終的にアンディは最初の妻と別れてミアと世帯を持った。「男が自分の人生でこれを失ってはならないと感じたなら、職業を棒に振ってでもそれを守るべきじゃないかなあ。」アンディはそう語る。
 
 女性の例もひとつ取り上げておこう。旅行会社のマネージャーをしているイカは、結婚して6年たつがまだ子供ができない。そうして夫のイカに対する愛情にも熱っぽさが失せてきたように感じられたため、かの女は大学時代の友人エリックに自分の境遇や気持ちを打ち明けるようになった。エリックとの交際が深まり、男と女が一対一で胸の底を開いて打ち明け話をするような関係になれば、感情のもつれない関係のままでお互いを制御できる人間がいったいどれだけいるだろうか?時間の流れとともにイカとエリックの間には肉体関係が生じた。イカの夫が妻の不倫を知っているかどうかはわからないが、イカは夫との夫婦生活が一層形だけのものとなり、その分だけエリックに傾いている自分を感じている。


 28歳のシンタは独身男性を恋人に求めようとしなかったわけではないが、結局会社の上司のひとりと恋愛関係になった。42歳のその上司は妻子持ちだが包容力があり、シンタの気持ちを大切に扱ってくれる。「わたし、何度あのひとと別れようと努力したかわからない。でも結局あのひとのところに戻ってしまう。独身の男たちは付き合いはじめるとすぐにセックスを求めるから、自分が賤しめられているように感じるの。あのひとはそんな風にセックスを求めたりしない。わたしたちはセックスよりもおしゃべりにたくさん時間を使ってる。人生経験豊かでいろんな知識を持っているから、お話するのがとても楽しいわ。わたしはあのひとの家庭を壊したくないから、もしあのひとが離婚を考えるようになったらわたしは自分から身を引こうと思ってるの。わたしはあのひととの関係で、他人をあるがままに受け入れ、自分のエゴを抑えることをたっぷり学んだわ。あのひとが奥さんや子供を第一に考えていることに嫉妬したり心を傷付けられたりしてはならないの。わたしは自分がなにであるのかをわきまえているから。わたしとあのひとは親友で、そしてたまたま恋人になったっていう感じかしら。」

 リアンは病弱で持病を持っていたから、かかりつけの医者に頻繁に通って親しい関係になっていた。その女医の息子が外国の大学に入ったとき、女医は愛息を手放した寂しさから動揺に襲われた。リアンがかの女を慰め、女医はリアンに息子の代償を求めた。ふたりの関係は深まり、男と女の関係に進んだ。女医がリアンの母親に近い年令だったにもかかわらず。リアンもその女医の家庭生活の中に入り込む気持ちはまったくない。年令など関係なく、リアンはひとりの女を幸福にしてやれる自分のいまの生き方に手ごたえを感じている。

 ある日の昼、夫の会社の同僚だと名乗るひとから電話がかかってきた。夫が不倫をしている、と言うのだ。結婚間もないディアン36歳は最初本気にしなかった。会社で夫に嫉妬しているか、夫の足を引っ張りたい競争相手のたわごとだろうとディアンは思ったのだ。ところが結婚して1年たち、実は幼稚園に通っている子供がいるのだと夫に告白されて、ディアンは唖然とした。しかしそれは自分と結婚する前のことだ。「いまはもうわたしだけなのよね。わたしと結婚したのだから。」「うん」と答える夫の様子に、ディアンは不審を抱いた。あのときの夫の同僚からの電話はどうなのかしら?
 ディアンは夫に何も言わず、ひそかに調査を開始した。機会を見て夫の携帯電話のメモリーを調べる。そして夫の不倫相手が判明した。問い詰めるディアンに夫は言を左右にして逃れようとする。ディアンは追及の手を緩めない。そしてとうとう夫は告白した。その相手はいま妊娠しているのだと言う。結婚して1年もたたないのに夫は別の女に手を出した。結婚前の出来事からなにひとつ学んでいない。何日か考えた末にディアンは決心した。「あなた、もうこの家にいなくていいわよ。自分の実家に帰ったら?」
 夫はディアンがすべてを取り仕切りたがるから家でリラックスできないのだと言ったが、「じゃあ、他の女に手を出す前になぜそれをわたしに言わないの?」の一言ですべてが終わった。ふたりは離婚した。

 ある民間会社でマネージャーをしているフダンは32歳の働き盛り。その会社で働いてもう7年になる。あるときかれの職場に新人女性社員がスーパーバイザーとして配置された。外国生活が長かったというその女性アリサは一目見たとき28歳くらいに見えた。会社の中はすぐにアリサの噂で持ちきりになった。美人で颯爽としているアリサに憧れを抱いた社員は多い。そうこうしているうちにかの女の身元データが人事から流れてくる。それによればアリサは40歳で既婚者だった。
 フダンは妻と子供たちのためによく和合した家庭生活を築いてきた。会社の女子社員から頻繁に誘いがかかるが、かれはその誘惑に落ちたことがない。ところがアリサに対する想いは違っていた。同じ部署でしかも上司に当たるアリサとはほとんど毎日会話があり、業務の話や世間話でも大学の修士号を持っているフダンにアリサはぴったり同レベルで話を合わせてくる。子供のことや隣近所の噂話しかしない妻、あるいはくだらない話をして喜んでいる職場の女子社員などと違って、そんな話ができる女性を身近に持ったことの無いフダンにはアリサへの憧れがいやがうえにも増したのであった。フダンはこれまで会社への通勤を家が近い同僚たちと回り持ちで一台の車を使って行っていたが、アリサの家も近くにあったためにかの女もそのグループに加わった。フダンには会社へ行く楽しみがまた増えた。そんな状況が5年ほど続き、そうしてフダンの部署にリーダーシップトレーニングプログラムの参加が命じられた。ボゴールの山中に出かけて夜中まで大自然の中を動き回る。そうしてフダンがアリサとふたりきりになったとき、フダンが想いの丈を打ち明けた。アリサが「実はわたしもそうだったの。」と告白したとき、フダンの心は天にまで昇った。こうして大自然の夜の闇の下で、ふたりは恋情の波に押し流された。
 ふたりは職場で何食わない顔を見せ、昼休みにはホテルで落ち合うという関係が続いた。かれらの関係を知る者は社内にすらいなかった。しかしある日、思わないところで秘密が洩れた。フダンの妻がアリサの送ったSMSをフダンの携帯電話の中で見つけたのだ。X月X日X時にXホテルで、という逢瀬のSMSに従って、フダンの妻はそのホテルに出向いた。現場を押さえられたふたりに言い訳は無用だった。わたしを選ぶかその女を選ぶかと詰め寄る妻。夫と別れてあなたの妻になる、と言うアリサ。しかしフダンはふたりの子供たちと別れることができない。そしてアリサを第二妻にすることをフダンの妻は許さない。自分は今の会社を辞めてアリサの前から姿を消すしかないのだろうか、とフダンは身を切られる思いで名案を求めている。

 「結婚する前はほっそりしてユーモア好きでとても愛くるしかった妻が、結婚してからぶくぶく肥り、でぶになってしまいました。ユーモア好きは変わりませんが、今の姿ではあまり意欲が湧きません。もっと素敵な女と不倫したいという思いが込み上げてきますが、それは罪なのでそんな気持ちは捨て去るようにしています。
 その代わりきれいな女性に出会うチャンスはいくらもあるので、思う存分かの女たちを眺めて満足していますがそのうちにこの習慣が限度を超えるのが心配です。妻子がかわいそうですから。このような不倫に憧れる気持ちはいったいどうしたらいいのでしょうか?わたしは異常なのでしょうか?わたしは結婚生活をどのように改善すればいいのでしょうか?」
 新聞の身の上相談に寄せられる投書にこのような不倫への憧れを示すものがあります。インドネシア人の不倫問題を調べている中で気が付いたことのひとつに、上の投書でもそうですが、結婚して夫婦になった男女が互いに相手に対して自分の立場からの責任をまっとうしようという姿勢があまり感じられないということがあります。責任をまっとうしているひとは不倫をしないということなのでしょうけれども、上の投書のように不倫をしたいが宗教上で罪を犯すことになるから不倫をしないという規制が働いているだけで、結婚という絆を結んだ相手に対して責任があるから不倫をしないというメカニズムになっていないようにわたしには思えます。

 イ_アのマジョリティを占める回教徒の結婚観は「子孫を残すという神への務めを行う」というものであるようで、だからセックスは子孫を作るための行為であるがゆえに快楽のためのセックスは罪悪視されています。同性愛者のセックスでも同じこと。だって子孫は生まれませんので。一組の男女が神への務めを行うために一緒に家庭を持ちセックスを行うというものですから、そこでは惚れたハれたや好き嫌いなどといった要素はたいして重要なものにはならないにちがいありません。結婚して家庭を持つのは恋愛関係からのゴールインだという見方を現代人の多くがしていますが、結婚して家庭を持つのは終りでなく始まりなのだという観念はロマンチストの偏見を正すリアリズムではないでしょうか。ともあれ、人間同士の精神的絆が結ばれてから結婚に「ゴールイン」することで相手に対する責任感は必然的な帰結となりうるように思いますが、結婚の絆が先行して人間の絆がそれから作られていく関係となると神に対する責任はあっても相手に対する責任は生じないかもしれません。


 妖艶な魅力を放ち、甘美な毒に満ちた陶酔へと誘う悪の歓喜。それが不倫。
不倫というのはもともと道徳に外れることを指す言葉であり、道徳全般という広い範囲を対象に用いられていたものが、いつのまにやらその中のひとつにすぎない男女間の道に外れた関係を指すようになってしまいました。ちなみにわたしの持っている1988年発行の現代国語辞典には、男女間の道に外れた関係という後者の説明が記されていますが、1965年発行の国語辞典には前者の説明しかなく、男女間の関係についてのスペシフィックな言及はまったくありません。昔の不道徳な男女関係を指す言葉は、密通、姦通、浮気などといったものだったそうで、それらが不倫という言葉に置き換えられていった過程には興味を覚えます。
 これはもしかすると道徳全般の影が薄くなって、社会の意識がもっぱら不道徳な男女関係へと集中するようになったためかもしれません。かつて存在したさまざまな道徳が、価値観とライフスタイルの変化によって全般的に社会規範としての色が褪せ、その一方で結婚制度はたいした変化を経験することなく維持されてきたということなのでしょうか。結婚制度がフリーセックス化されない以上、不倫は存在します。男と女がどのような形で結びつくのか、そのバリエーションは星の数ほどあるのでしょうが、社会共同体がある特定の形を承認し、他の形を排除して制度を作るかぎり、不倫というものはなくならないでしょう。ともあれ、反制度的であるものを社会内の価値規範である道徳にからめて不倫と位置付け、そしてそう名付けた日本語のこのありさまは、日本がまるでインドネシアほど宗教的な社会ででもあったかのような印象を与えてくれます。これは近年稀な現象として特筆に価するようにわたしには思えますが、はたして他の要因もあるのでしょうか?

 ところで、もともと広義の不倫という言葉が男女関係に収束してきた日本語の状況ときわめてよく似た現象が、じつはインドネシア語にも起こっています。男女間の不道徳な関係を表すインドネシア語には、selingkuh、serong、seleweng、zinaあるいはjina、などがあります。前者三つは1965年版国語辞典の不倫と同じで、正しい道から外れること、まっすぐでなく歪んでいること、不正直なこと、自分が得するように隠し事や嘘をつくこと、を意味しており、男女関係だけをスペシフィックに指すものではありません。アラブ語源のzina (インドネシア語化綴りでjina )だけが、@結婚していない男女の性交、A結婚している男女が夫または妻以外の異性と行う性交、を指しており、現代日本語の不倫とフィットします。厳密に言うなら@は婚前交渉やフリーセックスですのでいまわたしたちが使っている不倫という言葉の範疇外ですが、イスラムでは@もAも同じウエートを持った不倫とされていることを理解する必要があるでしょう。このzina はイスラム法では罪であり、個人の自由などという話しのレベルにはなりませんので、セックス自由主義者はイスラム諸国で重々ご注意のほどを。
 さて現代インドネシア語では、不道徳を意味するselingkuh がzina の代わりに使われています。これこそ日本語の不倫の変遷そのものであり、なんと良く似たことが起こるものか、としばし唖然とするありさまです。

 インドネシアでは不倫が盛んだという話しです。外国人もここへ来るとその波に呑まれると言われるそうですが、それは単なるエクスキューズ。
1990年代前半にマトラ誌が行ったアンケート調査によれば、ジャカルタの男性の三人に二人は不倫体験をお持ちとのこと。だがその男が持った情事の数だけ相手になった女がいるので、単に男の側だけの話しというわけにもまいりますまい。同じころのカルティニ誌のアンケートでは、女性エグゼキュティブ10人中3人に夫以外の男性との情事体験があるそうで、これがセクレタリスやカルヤワティともなれば、同じ比率ですむかどうか。
 インドネシアでは家族計画国家プログラムが行われています。KB(カーベー)と呼ばれるその国家プログラムでは夫への避妊処置、妻への避妊処置が選択できるわけですが、実際にはほとんどが妻への避妊処置のようですね。2001年に行われたアンケートでも妻の37%が夫の避妊処置に反対しています。夫にパイプカット手術を受けさせるのがかわいそうだから?いえいえ、理由はそんなものではありません。女を孕ませられないようになった男は不倫抑止のたががはずれたも同然なのです。そんな夫が外で何をしてくるか、そして不安なく遊びたいほかの女がそんな夫にどう働きかけてくるのか、妻たちには手に取るようにわかるのにちがいありません。
 ところで不倫の形の中には、男が女を囲うというものがあります。妻以外の、たいていは遥かに若い女をどこかに住まわせ、男がその経済生活の面倒を見てやる代わりに女がその男の愛人になるという関係であり、囲われ女はインドネシアでwanita simpananと呼ばれています。ポリガミ制度で有名な回教徒であるインドネシア人がどうして妻に内緒で女を囲うのかといえば、それは実に単純なことに、妻が許可を与えないから。第二夫人を持つには第一夫人の、第三夫人を持つには第一夫人と第二夫人の許可がいる、というようになっており、妻たちの許可が得られなければ内緒で囲う以外に解決方法はありません。
 このワニタ・シンパナンたちは、テンポ誌のアンケート調査を見ると、貞操堅固で愛情豊か、そしてキャリアーへの熱意も高いという結果が出ています。つまりかの女たちのほぼ全員が自分を囲ってくれる恋人を愛しており、70%は恋人以外の男と遊んだことがなく、76.7%は職業を持ち、エグゼキュティブも少なくないのであります。


 夫がひとりの妻だけで満足できずに別の女を求めるというのは、その別の女を妻とするかぎりポリガミ制度の中で容認されるようになっています。しかし女がひとりの夫だけで満足できずに複数の夫を持つというポリアンドリ制度は、ヒマラヤの奥地は別にして地球上からはいまほとんど姿を隠しています。でも男にその欲望があるなら、女にもあって当然、ということで女も不倫を行うわけですが、インドネシアにおいては、モノガミ妻が不倫を行うパーセンテージはポリガミ妻が不倫を行うパーセンテージよりも高いという結果が出ています。しかもポリガミ妻の第一夫人のほうが、第二夫人よりもパーセンテージが高いとのことで、これは上で見たワニタ・シンパナンたちの貞操観を思い出させるような内容ですが、わたしはそれよりもむしろかの女たちが置かれている環境がその決定要因になっているのではないかと思うのであります。つまりその現象はそれぞれが置かれた立場に付随する行動監視面での束縛の強さのせいであり、モノガミ妻は夫の目を盗めば成功の確率が高まりますが、ポリガミ第一妻は第二妻の目をも意識しなくてはなりません。それでも第一妻は第二妻より権力を持っているために、そこで差がつくのではないかという気がするのですが、本当のところはどうなのでしょうか。

 ひとはなぜ、不倫をするのでしょう?ガキっぽい質問をするな、と言われそうですね。日本人にとっての理由は読者が胸に手をあてて考えればすむ話し。インドネシアではどうなのかと言えば、男女で不倫の理由がまったく異なっているのです。ワニタ・シンパナンを持っていない男性に、どうしてそれをしないのかと尋ねたところ、@自分はもう年寄りだ Aナニの方の能力にもうひとりを持つだけの余裕がない B経済的な余裕がない C風邪引きからエイズまで、いま病気なのよん、といった答えが戻されています。奥方がどうだから、などというものはなにひとつありません。ところが不倫している女性たちにその理由を尋ねると、ほとんどすべての答えは夫のクオリティに関わるものなのだそうです。
 1993年にインドネシア大学の心理学教授がティアラ誌と共同で行ったサーベイ結果では、女性が夫以外の男性に心を寄せるのはたいてい結婚生活の中で寂寥に襲われたときで、その心を癒してくれる男が現れればその導き方ひとつでどこまでも行ってしまうとのこと。その男は夫よりハンサムでなく、頭がよいわけでもなく、また金持ちでなくともまったく構わず、何かひとつ女が憧れるものを持っていればそれで十分なのだそうです。セックスは女が不倫をする理由の9番目に置かれており、女が夫以外の男とセックスするのは、その男が自分の心を癒してくれることに対するお返しなのであるとそのサーベイの回答結果は述べています。
 一方、男の不倫は妻とのコミュニケーションがうまく取れなくなったために起こるのだそうで、そうなる原因は教育レベルの違い、社会的経済的事情、あるいは妻が強すぎる、主導権を握りたがる、いやこれはベッドの上の話でなく家庭の日常生活の話ですが、などからくるもののようです。話の合わない妻の代償として男はリラックスして胸襟を開ける女をその相手に選ぶことになり、顔かたちや頭のよさなどには関係なく話をうまく合わせて聞いてくれる女が一番良いということになります。中には、妻がきれいに着飾り美しく化粧した姿を家の中で見ることがなくなるために、夫が家の外でそんな女をもの欲しそうに眺めるようになり、ついにはちょっかいを出して・・・・という方向に進むケースもあるようで、これは実はきわめて単純な対策でなんとかなるのではないかと思われます。つまり実際のところは、夫を会社に送り出したあと妻はきれいに化粧し、それなりの衣装を着て昼日中夫以外のひとにその姿を見せているわけですから、タイミング次第で解決策はあるような気がします。しかしこれは実に皮肉なすれちがいとしか言いようがありません。
 ともあれ男と女で不倫の動機が異なるので、そのせいなのか、男は自分の不倫については固く口を閉ざして語りませんが、夫のクオリティに不満を抱く女のほうは夫に対して自分の不倫行為に関する信号をそれとなく送るといいます。女というものはそういうものなのだ、と女性心理学の専門家は述べています。だがそんな信号に気付きもしないのんきなトーサンが多いのも事実みたいですね。しかし不倫を隠すのは女のほうが上手だ、という声もあります。さるジャカルタのセクソロジーで高名な医師のもとには不倫をした妻たちが、自分の性器が変化したのを自覚して、それを元のようにしてほしいとよく訪れるのだそうです。これはそこまで芸細かく不倫を隠すという話のようですが、やってくるのは大半が三十代から下の妻たちだそうで、同じ理由を抱いてやってくる男性はいないそうです。しかしその道に疎いわたしなど、これはいったい何の話なのかよく分かりませんが、読者のあなたはお分かりで?

 セックスドクター、ウインピー・パンカヒラ医師宛てにある日こんな相談の手紙が舞い込みました。
「わたしは40歳の男性です。妻は35歳で子供がふたりあります。わたしは6ヶ月前から別の町に転勤となり、単身生活を送っています。毎月わたしは必ず家に戻り、妻とセックスしています。ところが2ヶ月ほど前から、それまでとは違って妻のヴァギナがゆるく感じられるようになりました。わたしがそのことを口にすると、妻は黙りました。次の夜、妻はよく広告で見るジャムゥをこっそり飲んでいましたが、それは何のジャムゥかとわたしが尋ねると、妻はまた黙りました。
 わたしが知りたいのは、それまでと違って妻のヴァギナがゆるく感じられるようになったのはどうしてか、ということです。妻がわたしより大きなペニスを持っている男と不倫している可能性はあるのでしょうか?わたしは今の状況にとても困惑しています。」
 どうやらインドネシアではこの手の巨根神話がまことしやかにささやかれ続けているらしく、さる文学者の評した男の観念の投影物たる女がそれを真に受け、そうして医者もそこにからまってビジネスのネタに使うという構図が作り上げられているのではないでしょうか。

 男には不倫願望に火がつく危険な年代があるとのこと。四十代は危険な年代だというせりふがありますが、そのあたりを超えると個人差で年齢はバラつくにせよ、一度は妻以外の女に強く心的傾斜を抱くようなことが起こるのだそうです。男性読者のあなたははて、頷きますか?結婚直後からそうだよ、とおっしゃる方には、申し上げる言葉もありません。
 クーリッジ効果というものをご存知の方も多いかと思います。これは何かというとたとえば、種付け牛が一度雌と性交したあと、その雌牛ともう一度やらせようとすると、しばらく時間を与えてやらなければ性交の態勢に入れません。ところが別の雌を連れてくると、すぐに再攻勢の態勢に入れるのです。これは動物一般に共通の現象で、当然ながらやはりドーブツであるヒト科のオスも同じ本能を持っていないはずがありません。糟糠の妻に対するクーリッジ効果が起こるのはオスの生理現象であり、これを古い妻に愛情を失うフレッシュ好みの夫のエゴなどと誤解されないよう男一般は期待するわけでありますが、メスにとってこれを理解するのは至難のわざかもしれません。またそこには結婚制度からくる財産分与がからむだけに、優しい理解を示す妻が出現しにくい構図になっているのも疑問の余地はないでしょう。
 クーリッジ効果は男が何歳であろうが関係ないことであると言えるものの、上で言う危険な年代にさしかかってくると、それまで純潔マンだった者の心の奥底に突然きしみを生じさせるようになるのです。インドネシアで高名なセックスドクター、ウィンピー・パンカヒラ医師の、そのあたりの機微に関するコメントはどうでしょうか。
 中年になるとセックスに問題が起こる。男も女も肉体的に前と変わってきたと感じる。男はセックス能力を失うことを強く恐れるためにもっと若い別の女にその能力をためす。その女とのセックスが期待した満足を与えると、妻にはなにか不足しているものがあるのだと考え、その別の女との性的関係を継続する。この関係が深い精神的な絆にまで達すると、二度目の結婚が行われる。一方、一部の女性は中年になると、夫に単に満足を与えるというレベルを超えて、自らの必要と欲望に応じたセックスを行えるようになる。この場合は女性のほうがより多くセックスのイニシアティブを取るようになる。

 インドネシアでは、若い相手とのセックスは自分を若返らせる、という考えを大勢が信じています。インドネシアの中年男が中年の妻をさしおいて若い女を求めるのはそんな理由付けが裏にあるからですが、「そりゃ迷信だよ」と一笑に付す中年の日本人も若い女を追いかけます。そこではどんな理由付けがなされるのでしょうかね?
 中年になって出てくるもうひとつの不倫の動機は、自分の性生活が今現在あるがままのそのような形で終焉に向かっていくことに対するやりきれなさではないでしょうか。「もう一度燃え上がりたい。この人生をこのまま終わらせたくない。あの素晴らしい恋の日々をもう一度.....。」いやこれもクーリッジ効果のベースを支えているヒト科のオスの本能であり、それまで被ってきた善き社会人としての価値の衣に懐疑の念をぶつけ、真実の自分に戻って自分の人生を問い直す行為なのであります。妻から見れば、夫個人の人生に対するエゴイスティックな愛着としか映らないでしょうが、そこにはオトコの生き方に向けられた真摯な姿勢があるのです。

 最近の実話を少し披露しておきましょう。敬虔なムスリムであるインドネシア人がそっと語った話しです。
「迫ってくるのは向こうなんだよ。」満更でもない面持ちでかれはそう言う。
かれが事業主である会社と取引関係にある会社にパートタイムで雇用されている女性との仕事上での関係が、いつしかプライベートなものへと進みつつある。そんな打ち明け話をかれがする。
 問題はかれが50代の半ばという年齢で、当然ながら家庭を持っており、妻と三人の子供がいて、子供のひとりは結婚して子供がいる。つまり孫のいるおじいちゃんというわけだが、そんな年代でやっと孫を持つというのはインドネシア人男性としては遅い方だろう。
 「かの女は29歳で子供がふたりいる。なんと家はうちからあまり遠くないところで、しかもかの女の夫とは顔見知りだったことが後で判った。かの女はバンドンの大学を出てて、インテリなんだ。『専業主婦じゃ発展性がない。社会に出なければ進歩がない。』そう言われて夫はふたつ返事。理解のある夫なんだろうが、妻の本当の姿がわかってない。夫はかの女を満足させていないんだろうか?」
 上背があり、筋肉質の身体で押し出しも良く、その年代のこの地の男たち一般のようにでっぷりしていない。経済力もあり、見かけもすてきなおじ様に、父親のように甘えたいと望む女性にとって、かれは確かにアイドルの素質十分かもしれない。しかし当人の告白によれば、かれはその年齢まで純潔マンだったそうで、そんな年齢になってそんな体験をする自分に戸惑っている。
 「わたしは、不倫はムスリムにとって罪だ、とかの女をいさめるのだが、かの女は自分に嘘をつくことはできない、と言うんだ。ふたりだけの特別な関係になってもっと一緒に楽しもう、と言うんだよ。お互いに家庭を壊す気がないことも理解している。ためらいもなく性的な関係に突き進んで人生を楽しもうというこの最近の女性たちはわたしの理解を超えてるよ。昔はこんなんじゃなかった。」
 言葉は否定的だが、自分を正当化でき次第その関係にのめりこんで行くだろうということは明白に見て取れる。しかし家庭がそのせいで壊れるかもしれない、という可能性に対し、かれは病的と思えるほどの不安を抱いている。確かに善きイスラム者でいるためには、そのような罪を犯してはならないのだ。だが自分に嘘をつくことについてはどうなのだろうか?
 「かの女が言うには、職場にいるほかの女性たちもみんな同じだそうだ。相手はもちろん選ぶ。誰でも良いってわけじゃない。そして気に入った男が見つかれば行くところまで行ってしまう。金のためでもない。『紹介してほしい人がいたら、いつでも紹介するわよ。』とかの女も言ってる。これまであまりこんなことに興味を持っていなかったが、自分にこんなことが起こるとほかのひとはどうやってるのか知りたくなって、そこでビジネス仲間に聞いてみたらみんな若い女と遊んでるじゃないか。もう60代の男もトリサクティ大学の女学生を囲ってると言うし、ほかの同じ年代の連中も女を囲い、おまけに別の女と遊んでる。いまはどうもそれが普通のようだよ。」

 その話しが今後実現に向かって展開して行くかどうかは時間を待たねばならないとしても、かれが体験している現象の裏側にある女性心理について、スマランのディポヌゴロ大学心理学教授ダルマント・ジャットマンが「インドネシア・ミドルクラスのビヘイビヤ」という1990年代初期に出した本の中で示している分析にそのヒントが転がっているような気がします。


 フェイフェィには夫がある。ロマンチスト、理想主義、道徳的。そんな型にはめて行くと、ひとつの帰結がもたらされるに違いない。家族の慰安行事。夫にとっては十分現実的でも、フェイフェイにとってはあまりにも現実離れしている。「プンチャッだって何も悪くない。同じようにエンジョイできるのに、なんでバリに余分にお金を使わなきゃいけないの?」挙句の果ては、フェイフェイの口から嘆息が洩れる。「夫をふたり持てたらどんなに良いかしら。ひとりはロマンチストで理想主義的で道徳的。もうひとりは実際的、プラグマチストで現実的。」無作法で衝動的なその言葉は、夫との関係に満足していないフェイフェイの深層意識から出たものだ。それどころかその言葉はかの女の意識の中で、自分の生活環境内でそんな方向に自分を向かわせる引き金として作用した。
 何人かが浮かび上がってきたが、かの女の意識の中で頻繁に登場したのは家電品ビジネスを自営している切れ者タンノ。鼻筋が通り、濃い睫毛が反っていて……。タンノの魅力が細かに思い出されると、フェイフェイは恥ずかしさで熱くなった。かの女は感受性が強く、しかし聡明で、そしてもっと重要なことに、エレガントで名誉を重んじ、道徳心も強かった。乙女のころは、男を盗み見ただけで罪悪感を感じた。そのなごりはいまだにかの女の心理に貼り付いている。ただそれはそれとして、かの女とタンノが仕事で接触する機会はますます増えて行った。オフィスで、セミナーで、出張で。ふたりはポップ映画や小説みたいにデートをするようになる。ふたりだけになる機会、いっしょに行う仕事、失敗や成功を共に味わい、それらはふたりを1928年に誓いを立てた蘭印青年たちのようにした。ひとつの国家、ひとつの民族、ひとつの言葉、ひとつの歴史・・・・・・・。
 フェイフェイの行為を説明付ける理論は数多い。精神分析ではたとえば、性的快楽あるいはその潜在的形態である『恋』に対する熱情を抑制しきれなくなったらどうしよう、という不安を生じさせるコンフリクトがフェイフェイの意識には充満しているという解説を出すことができる。かの女は自分自身にとって一番の快楽を選べないことを恐れているが、一番の快楽がベストであるとは限らない。だからかの女は完璧なクオリティを持つ者を得たいと願う。ロマンチックで現実的で、理想主義者でプラグマチストで、道徳的で実際的で。もしそれらがひとりの人間の中に具わっていないのなら、そう『ふたりを一度に持てばいいじゃない!』
 フェイフェイのような名誉心のある女性がどうしてもうひとりの男を持つようなことができるのか、ということを説明するのに、われわれは行動主義理論を用いることもできる。チャンスがまず必ず第一の解説変数となる。刺激があり、「誘導的」な状態があり、心地よい「報酬」つまりコンフリクトや緊張の中にいるときにフェイフェイが感じるセンセーションがある。『バックトゥベーシックス』をお望みなら、まあそれは単なる『刺激対反応』関係でしかないのだが。心地よさを与えてくれるもの、それが継続される。フェイフェイはともかく、男の数を増やそうとしているわけではないのだ。
 フェイフェイがタンノを愛人に選択したその心理を説明する理論がもっと必要だろうか?フェイフェイは暗示的他者、ひょっとすれば夫本人かもしれない、を通して、空白の時間を埋めてくれる友を持つのが妥当かどうかを尋ねている。かの女はとても役に立つ仕事仲間を持つのが妥当かどうかを自分の良心にも聞いている。どちらの答えに対しても首は縦に振られたのだ。だからなぜそうしない?アスティナ大王の妻デウィ・バノワティもアルジュナと不倫した。ラフワナにかどわかされていたので、仕方なくとはいえ関係を持ったことから、デウィ・シンタもオリジナルストーリーではラマに去られている。つまりオーケーと感じられるように自分の行為を正当化するのにフェイフェイが利用できる価値観は少なくないのだ。
 日本の不倫女性たちはそんな分析を「その通り」と肯定するのでしょうか、それとも「理由なんかいらないのよ」と突っぱねるのでしょうか。


 こんな駄文に触発されて、南国の燃えるような女たちとの熱情に満ちた不倫体験をご希望される向きには、はなむけを一言差し上げておきましょう。これはバタビアのスネン地区で1912年に実際に起こった事件を素材にしてリチャード・マンが書いた小説「バタビアの殺人」の一部です。著者の個人体験が言わせたものかどうかは別にして、この言葉は世紀を超えて語り継がれているものであることを裏書きしておきましょう。

 ヨーロッパ人のほとんどは、土着の女は醜いと考えているが、ファン・エスはその反対にかの女たちの異質の美に飽きることがなかった。ジャングルの獣のように野生的で飼いならされるのを拒む動物的感覚がアクセントを添えている美。ベッドの中でかの女たちの奔放な暖かさを味わったひとは、簡単にそれを捨てることはしない。オリーブ色の肌。黒い瞳。土着の娘たちの卑屈なまでの忠実さ。男に尽くそうとする熱意。愛欲的な性質。まぶしい笑顔。そのどれをとっても白人の女には太刀打ちできないものだ。
 土着の女と遊ぶときは、よほどの注意が必要だ。男が一度その針にかかると、それを振り払うのはたいへんなこと。土着の女が捨てられるときは苦くて危険な状態となる。オランダ人の男が乗った船がアムステルダムに着く前に、かれが黒魔術で殺されるというのはよく聞く話なのだ。


 不倫というのは基本的に夫や妻の目を盗んで別の相手と行う不純異性交友であり、とどのつまりは自分がすでに構築した家庭とのコンフリクトを常に抱えているわけです。最近のインドネシアではselingkuh をselingan indah, keluarga utuh (美しきインターメッツォ、家庭は完璧)ともじっているようですが、その言葉が維持できるのは限界があり最終的にはselingkuh indah, keluarga runtuh (美しきインターメッツォ、家庭は崩壊)に成り下がるのが宿命なのだと世の中の長老たちは若い夫婦を諭しています。しかしながら人間はやはりオプチミスト。自分にかぎってそんなへまはしないと考えて美しきインターメッツォに惹かれて行く者の数知れず、という有様のようです。いま「男は陸のワニ、ブシェッ〜」で人気絶頂のボーカルドゥオ「ラトゥ」が歌って一世を風靡したTTMもそんな世相の反映に違いありません。

 「夫と妻のためのクリニック」を運営しているボイク・ディアン・ヌグラハ医師が患者2百人から集めたデータでは、男性ビジネスマン5人のうち4人は不倫を行っているとのこと。そして男女比を見ると不倫男5人に対して不倫女2人という割合になっているそうです。しかし医師は、これは医者に対して口を開いた件数なので本当はそれより多いはずだ、と語っています。不倫の行き着く先は最終的に家庭崩壊だとおっしゃる長老たちの話の裏を取ろうとしてデータをひろって見ました。
 宗教省宗教法廷育成総局のデータによれば、全国の離婚件数と離婚理由に関する統計は次のようになっています。
年 / 総件数 / 理由(性格の不一致)/(責任放棄)/(経済問題)/ (不倫)
2000 / 145,609 / 48,464 / 47,095 / 23,399 / 11,259
2001 / 144,912 / 48,486 / 47,132 / 24,395 / 11,599
2002 / 143,890 / 48,596 / 45,393 / 22,807 / 11,894
2003 / 133,306 / 46,195 / 42,912 / 21,420 / 11,008
2004 / 141,240 / 50,141 / 44,442 / 23,063 / 12,154
2005 / 150,395 / 54,138 / 46,723 / 24,251 / 13,779
 2005年の離婚理由の中では上のもの以外に第三者の干渉9,071件、嫉妬4,708件、虐待916件、ポリガミ879件などといったところでした。上の統計に見られるように不倫のせいで離婚したカップルは総離婚件数の1割未満という結果であり、それでも2時間ごとに3組の夫婦が不倫で離婚しているということになります。不倫が離婚理由の第四位とはいえ総件数の1割未満しかないという事実は家庭を崩壊させない不倫夫婦が多いということなのでしょうけれども、相手に隠しおおせているのかどうかはきっと別問題でしょう。