「ブアヤダラッ、ブシェッ〜」
- 男はみんなワニなのよ -


月明かり
明るい川岸
浮かび上がったワニは
まるで死んでるみたい
男の口を信じちゃいけない
「命かけて」と誓ってみせるが
死ぬ度胸なんかありゃしない

これはインドネシア古謡Terang Bulan のムラユ正調歌詞を筆者風に翻訳したもの。でも皆さん似たような翻訳をなさっていらっしゃいます。ムラユ正調歌詞は当然ながらパントゥン形式で、各句の終りではkali 〜mati 〜lelaki 〜mati と韻を踏んでいます。この歌詞には二番があるのですが、内容はありきたりで一番ほど人生の深遠なる教訓を教えてくれないことから、どうもあまり人気がないようですね。
しばらく前に女性デュオグループ「ラトゥ」が大ヒットさせたBuaya Darat というインドネシアンポップスがあります。歌詞ではlelaki buaya darat と語られているので「男は陸のワニ」なんだそうですが、陸のワニとはいったいどういう故事来歴があるのかと調べていったところ、古謡Terang Bulan にたどりつきました。上の歌詞をじっくりと再読吟味してみてください。

 煌々たる月明かりの下、川面にはワニが浮かび上がって身じろぎもしません。なんという幻想的で詩的な情景でしょうか。川面に浮かんだワニはぴくりとも動かず、まるで死骸のようです。でも騙されてはいけません。水面のワニは死んだふりを装いながら、獲物が近付くのを待っているのです。ワニというやつは、臆病で用心深くてずるいと言われています。油断した獲物が近付くのを死んだふりをしてじっと待ったり、そおっとひそかに後から近付いて襲い掛かり水中に引きずり込んで溺れさせるといった襲撃手法を取るのだそうです。一方、陸にいる男たちはどうでしょうか?これも口から巧みに言葉を吐いて、それに騙されて引っ掛かる獲物を狙っているのです。か弱い女性の皆さん、川面にいるのもワニならば、陸にいるのもワニなのです。ブシェッ〜。

 1990年代に入って、バリに立派な道路が作られた。デンパサル市南縁からヌサドゥアまでおよそ30キロをつなぐこのジャランバイパスグラライの道路沿いには木製工芸品ショップが多い。店内に陳列されている商品の中に、ワニをモチーフにしたものが混じっている。巨大なワニの背中がベンチになっているもの、多少デフォルメされた観のあるワニの置物などさまざま。木製工芸品に興味のあるひとなら、それらがティモールの伝統工芸であることを知っている。そう思ってよく見ると、バイパス沿線のアートショップにはTimor Classic, Istana Primitive, Lakaan Primitive, Erliando Primitive などティモールを匂わせる店名が少なくない。店内に入ると、店番をしていたのはティモール人の若者だった。かれはバリに来て6ヶ月ほどたつと言う。陳列品にはワニの姿が多い。置物だけでなく、彫刻の施されたドア板にもワニの姿が刻まれている。その店はオーナーがティモール人で、バリ人と組んでティモールアートショップを店開きしているのだ。この店は近くにワークショップを持ち、ティモールから呼び寄せた職人たちが毎日彫刻に励んでいる。ティモールの彫刻や織物に使われるモチーフはワニ、そして鶏がメインを占める。ティモール人にとってワニはどうやら特別な生き物だったようだ。
 「ティモール人にとっては、ワニを傷つけたりいじめたり、ましてやワニを狩るようなことをするのはタブーになっています。ワニが水面に姿をあらわしたりすれば、ティモール人は天変地異が迫っていることを確信するのです。」ティモール人の店員はワニについてそんな話をしてくれた。2000年5月にティモール島ベル県南部で土石流の災害が起こり、129人の生命が失われた。そのとき大勢の地元民が、災害発生のしばらく前に巨大な白いワニがベナナイン川の河口に姿を現したのを見たと語っている。
 クパンのアルタワチャナキリスト教大学教官は、ティモール人が彫刻や織物にワニのモチーフを好んで使うのはワニが特別な生き物だからだ、と語る。ティモール原住種族にとってワニは強大な宇宙の主ですべてのものに生命を与える存在のシンボルとされているのである。

 カリマンタンでもワニは神聖な生き物とされている。ダヤッ人の崇める主神マハタラの息子ジャタは頭がワニで、すべてのワニの父だとされている。そのためダヤッ人はワニと争うことを嫌う。ワニを攻撃したり殺したりは決してしない。ただし例外がひとつだけあり、親族がワニに食われたときだけ遺族はそのワニに復讐する。だったら、どのワニが親族を食ったのかをどうやって見分けるのか。人食いワニがいるような場所にはワニがたくさんいるのが普通だ。この復讐戦では多くの無実のジャタの息子たちが犠牲になるが、ダヤッ人はそんなことをあまり気にしていない。かれらはワニを片っ端から殺して腹を裂き、そこに被害者のものが見つかるまでワニ狩りを続ける。クアラカプアスで少女がワニにさらわれたとき、遺族たちは50匹ほどのワニを血祭りにあげた。だがその少女を食ったワニにはまだ出くわさない。そうして6週間後に仕留めた大きなワニの腹から一塊の人間の髪の毛と少女が身につけていた銅製の腕輪が出てきたとき、その復讐劇はやっと終りをむかえた。19世紀中盤ごろ、クアラカプアス要塞の守備隊司令官を務めたオランダ人の書き残した文章はそう物語っている。

 その影響はブタウィ文化にも見ることができる、とジャカルタ郷土史家リドワン・サイディは語る。ブタウィ文化では婚姻儀式のひとつに、新郎側から新婦側にロティブアヤをプレゼントする習慣がある。roti buaya はその名の通り、ワニの形をしたパンで、雄ワニ雌ワニ一対のパンが婚姻の場に姿を現すのは、その夫婦ワニが新郎新婦を守ってくれる超自然の力を持っているからと信じられている。ブタウィ人は白いワニを神聖なる川の守護者と見なしている。その白ワニは現実に川にいるワニとは違って超自然的存在のもので、ブタウィ人はその白ワニを尊崇しているのであって実際の川にいるワニを神聖視しているわけではない、とリドワンは言う。ブタウィの神話の世界にワニが入ってきたのは、10世紀ごろからスンダカラパに移住してきた西カリマンタンのムラユ人やダヤッ人がかれらの信仰をブタウィにもたらしたことに起因しているらしい。こうしてみると、どうやらムラユ系の文化ではワニが神に通じるものであるいうコンセプトになっているようだ。ブタウィでは20世紀に入る頃まで、グヌンサハリ通りに沿った運河にはカケグリンティル、ネネグリンティルという名の夫婦ワニがいて時おり水面に姿を現し、かれらが姿を現すとその周辺にいた住民たちのだれかがワニの魔力にかけられ、水に落ちてワニの犠牲になると広く一般に信じられていた。アンチョル手前のアンチョル川にも1960年代ごろまでワニが姿を見せていた。

 古代インドネシアはインド文化の傘の下にあった。インド大陸から東に向かって海岸沖合いを航行すれば、ベンガル湾を越えてビルマに達したあと今度は南に向きを変えてマレー半島西岸からスマトラに至る。まず通商があり、支配と服従が起こり、場合によっては移民が発生する。文明が高いところから低いところへと流れて行くのは、小アジアからギリシャローマへ、中国から朝鮮半島さらに日本へ、インドからインドシナ〜ヌサンタラへといった歴史の流れが証明している。わたしは古代インドネシアに勃興した王国の支配階層はインドからやってきたひとびとではないかという仮設を語るのだが、それにうなずいてくれるインドネシア人はまずいない。三百年間ヨーロッパ人の支配下にあったかれらがそれ以前に存在していたと信じる自由と独立を回復するために膨大な血を流したというのに、ヨーロッパ人が来る前から異民族の支配下にあったというような話を信じることはできないにちがいない。インド文化がヌサンタラの地に流入してきたころの様子を言い伝えてくれる伝説がある。
 ジャワに古代から語り伝えられているアジサカ伝説は、最初からアジサカをインドからやってきた王族だと紹介している。伝説の中でアジサカは、文武百般に通じ摩訶不思議の術まで使うスーパーヒーローとして描かれている。ジャワのいろは歌であるハナチャラカもかれが作ったものだそうだ。
 古代ジャワにムダンクムラン王国を支配するデワタチュンカルという名の王があった。あるとき王宮の料理人がいつもと同じように作ったグライがたいそう美味だったのでデワタチュンカル王は料理人を呼び、「今日のグライには何を入れたのか?」と尋ねた。最初言い淀んでいた料理人も王が上機嫌なのに促されて真相を明かした。実は料理人のひとりが誤って切り落とした指がそのグライの鍋に入っていたのだ。王は思った。指一本であんなに美味になるのなら、いっそのことすべて人肉にしてはどうだろうか。こうしてムダンクムラン王国では王の食卓に饗せられるために領民が屠られるようになった。アジサカは人道にはずれたその王国を捨て置くことができなかった。
 ある日、異国の若者がデワタチュンカル王の宮廷に表敬のために現れた。貢物を差し出した若者に王は「何を褒美に望むか、申してみよ」と鷹揚に尋ねる。すると若者は頭のターバンをはずして「これで囲えるだけの土地をたまわりたくさふらふ」と答えたので、王はこいつはいかれポンチだと思い、なぶってやろうとして「ならばわしが測ってとらそう」と自ら王座から下りてターバンの端をつかんだ。その若者、アジサカがもう一方の端をつかむ。王は自分がつかんだ端をしっかりと手にして歩き出した。せいぜい王宮の庭園の手前で進めなくなるだろうと思ったのに、行けども行けどもターバンがピンと張られて進めなくなる時が来ない。ターバンが途中で切れた雰囲気はなく、それがもう一方の端とつながっている手ごたえは確かにあるのだ。王は意地になった。庭園を抜けてどんどん進み、もう何キロも歩いたあと王領の南の海岸にたどり着いた。そこは海に臨んだ断崖絶壁だ。王は尚も前進し、絶壁の端で止まった。とそのとき、王宮にいてターバンの端をつかんでいたアジサカがそこからは見えないターバンのもう一方の端に向かって空気を押した。デワタチュンカル王は強い力に押されて悲鳴をあげながら断崖絶壁を落ちていった。
 絶壁の下を見ると、そこにデワタチュンカル王の死体は見当たらず、真っ白い巨大なワニが押し寄せる波に向かって進んでいる姿があった。アジサカは自ら、その王国の主となった。


 ワニという言葉がついている有名な町がジャワにある。それはスラバヤ。スラバヤのバヤはブアヤのことらしい。ではスラは何かというとikan sura でつまり鮫を意味しており、そのためにスラバヤのシンボルマークは鮫とワニになっているとのこと。スラバヤ市当局によれば、鮫とワニの由来は歴史がからんだストーリーになっている。スラバヤは13世紀後半にクルタヌガラ王がクムルハンの乱を鎮圧したさいに造営した町だという説がある。さらに当時ウジュンガルと呼ばれたこの町に来航したモンゴルのジャワ討伐軍をラデン・ウィジャヤが詭計を用いて撃退したという歴史的事実がある。マジャパヒッ王国を興したラデン・ウィジャヤはウジュンガルの守護をジャイェングロノに委ねたがそのうちワニの術を身につけて勢力を強めたジャイェングロノに不安を感じたマジャパヒッ王国はサウンガリンにジャイェングロノを討伐するよう命じた。サウンガリンは鮫の術をマスターしており、このふたりの秘術を尽くした対決がカリマス川岸で7日7晩続けられ、ふたりとも力尽きて生命を落した。それが鮫とワニの由来であるそうだ。
 ウジュンガルという名前がいつスラバヤに変えられたのはよくわかっていない。少なくとも西暦1358年の年号を持つトロウラン碑文の中にスラバヤという言葉が登場するので、それ以前であることは間違いないようだ。