「アンチョル橋の美女」


 暗さを増してきた空。夕陽はもう視界から姿を消し、空に浮かぶ白雲を染めていた茜色が濁ったオレンジ色に変わって行きます。右手の森は黒い塊に変身し、左の沼地のはるかかなたにぽつんと灯っている家の明かりが人恋しさをかきたてる、そんな黄昏時にタンジュンプリウッ方面からトラックが一台やって来ました。舗装もなく、ところどころに開いている穴をよけてハンドルをさばく運転手の全身からけだるく滲み出るような疲労のかげ。コタのトラックプールへ車を戻せば今日の仕事は終わりです。隣で居眠りをしている助手を横目に、運転手は「あともう少しだ。」と自分を励ましながら小橋のたもとにさしかかります。
 すると、今までだれもいないと思っていた道の真中をひとりの女が背を向けて歩いているではありませんか。「危ないっ!」とっさに運転手は急ブレーキを踏み、ハンドルを切って女を避けようとします。トラックの方に振り向いた、まだうら若い女の顔。愛くるしい顔がにっこりと微笑んでフロントガラスに大写しに迫ってきます。トラックは道路からはずれて川に向かって滑り降り、並木に激突して大破しました。運転手は病院に担ぎ込まれたあとで息を引き取りましたが、軽い怪我ですんだ助手が一部始終を語ってくれたのです。
 事故の調書をまとめ終えたプリウッ警察の係官がつぶやいた一言は、「また出たか」。つい数ヶ月前にも、雨のそぼ降る夜にアンチョル橋のたもとを通りかかった一台の乗用車が、いったいどうしたことか、道路から飛び出して横転するという事故があったのです。「居眠り運転でもしていたのか?」と事情聴取する警察の係官に、重傷を負った運転手は病院のベッドの上で「とんでもない。」という答えを返しました。車のヘッドライトが雨の中で橋のたもとにたたずむひとりの娘の姿を浮かび上がらせたとき、そのあまりにも魅惑的な笑顔に一瞬茫然として我を忘れ、ふと気が付くと車はまさに道路ぎわから外へ飛び出ようとする直前でした。とっさにブレーキを踏むと同時にハンドルを回して車の向きを変えようとしましたが、ハンドルはまるで糊付けでもされたかのように動きません。ブレーキもまったく効き目をあらわさず、なにかとても強い力で引きずられるように、その乗用車はそのまま横転して行ったと言うのです。

 北ジャカルタ市のタンジュンプリウッ港方面から、右に高い塀に囲まれた港湾施設と工業団地、左に鉄道線路や住宅地を見ながらマルタディナタ通りを西に向かってしばらく進むと、右側にアンチョル川が出現し左も住宅地が途切れて空き地に変わり、そうしてその少し先に左から高架自動車専用道路が迫ってきます。高架道路はマルタディナタ通りの上を超えて川をまたぎ、川の向こう側をマルタディナタ通りと平行して走ります。高架道路がマルタディナタ通りとクロスするあたりに、アンチョル川の対岸に渡るための小さい橋がかかっています。まだうら若い女の愛くるしい顔がにっこり微笑んだのは、その橋のたもとだったのです。ならば、その美女はいったい誰だったのでしょうか?

 Si Manis Jembatan Ancol という言葉をどこかで耳にされたことのある方がきっといらっしゃると思います。70年代のアンチョルをご存知の方はひょっとするとビナリア(Binaria)海岸に集う美女たちを想像なさったかもしれませんが、実はそうではありません。
「おいおい、どうしてSi Cantik じゃなくてSi Manis なんだ?」という疑問を抱かれたインドネシア語の大家にはお詫びをしておかなければなりません。というのも、Manis の意を汲んで「アンチョル橋のかわいこちゃん」などとやると、やはりビナリアの方に迷い込んでしまいそうですから。


 スカルノ大統領の発案で始まったアンチョル開発プロジェクトは、首都ジャカルタ北岸の自然と地の利を活かして、その広大な敷地にアミューズメントパーク、工業団地、住宅地区などを開発しようというものでした。建設当時ジャヤアンチョルドリームパークと名付けられた広大なアミューズメントパークはいまやアンチョル・ジャカルタベイシティと名を変えて盛りだくさんの施設を備え、優れた完成度を持つジャカルタナンバーワンの娯楽施設として休日には多くの市民でごったがえしますが、1970年にアリ・サディキンDKI知事が首都行政府とチプトラ氏との間に合弁会社を作らせてチプトラ氏にアミューズメントパーク事業を推進させたのがその礎となっています。眠りを知らないコパカバーナカジノであくびすら忘れてルーレット盤を見つめ、ハイライでは世界一ボールのスピードが速いとうたわれる球技ハイアライの腕前をはるばるジャカルタまでやってきたスペインのバスク人たちがダイナミックに披露してくれるのを見物しながら時おり出る大穴に熱くなり、騒々しいジャックポットで隣がじゃらじゃらとコインを出すのを妬みの目で盗み見、飽きればナイトクラブで、と心ゆくまでナイトライフをエンジョイできる古き良きジャカルタの一時代がありました。ドライブインシアターでは満天の星の下、夜風に身をなぶらせつつアンチョル川のどぶから飛び立ってくる蚊と闘い、上映途中で雨が降り出せばしかたなく窓を締め切ってうだる車内からワイパー越しに巨大スクリーンを眺める・・・・・いや、チャンス到来とばかり全然別のことをしていた観客も中にはいたに違いありませんが。
 いえいえ、昔のアミューズメントが夜のお楽しみばかりだったということでは決してありません。早朝はお父さん方がゴルフ場で汗をかき、昼には海辺の海水浴場やプールで坊ちゃん嬢ちゃんたちが汗をかき、レーシングサーキットではゴーカートで遊び、ときに国際オートレースが催されるとサーキットは黒山の人だかりとなりました。

 今でこそ、ジャカルタ北岸の海岸線は、東はタンジュンプリウッ(Tanjung Priok)港から火力発電所、工業団地、アンチョル住宅コンプレックス、アミューズメントパーク、そして更に西に向かって住宅地区、工業団地や倉庫街、スンダクラパ(Sunda Kelapa)港、公設魚市場のあるプンジャリガン(Penjaringan)のムアラカラン(Muara Karang)漁港、プルイッ(Pluit)大高級住宅区、だれでも買いに行けるムアラアンケ(Muara Angke)漁港、オルバ時代の末期に紛糾を巻き起こしたカポック(Kapuk)地域へと連なって既に開発し尽くされた感がありますが、アンチョル開発プロジェクトが着手される前のプリウッ港とスンダクラパ港にはさまれた8キロにわたる海岸地区はうっそうたるジャングルや湿地に覆われた地域でした。アンチョル川と海岸線で切り取られたその地域は住む人とてほとんどなく、昼間はせいぜい貝や蟹を取りに海岸へやってくる人があるくらいの、人の姿を見るのも珍しい場所で、川にはわにが住み、海岸にはオットセイがやってきてひなたぼっこをしていたそうです。そのジャングルにはコンドルと呼ばれる大きい犬か小やぎくらいの背丈のリーダー猿に率いられた猿の群れがいて、昼間には何匹も何匹もアンチョル川沿いの道に下りてきては通りかかる車から餌をもらっていたそうで、アンチョルの猿は都民にそれほどなじみが深く、昔はひとを猿呼ばわりするとき、たいてい『アンチョルの猿』が決まり文句になっていたと地元の古老は話してくれました。意地の悪い年寄りの中には、アミューズメントパークに集まるABGたちをアンチョルの猿呼ばわりしているひともあるとやら。

 オランダ植民地政庁がタンジュンプリウッに最新港湾施設を建設して首都バタビアの表玄関をスンダクラパから移したのは1887年でしたが、バタビアのコタ駅とプリウッの間にはそれ以前の1875年に鉄道線路が敷設されて蒸気機関車がアンチョル川沿いを走っていました。1914年にはその列車が水牛と衝突して脱線し、アンチョル川の南に広がるスンテル大湿原地帯の北端を流れるカリマティに突っ込むという世にも珍しい鉄道事故が起こりました。幸い死者は出ず、乗客のへーレンやダーメスは泥水をかきわけて陸上に上がってきましたが、全身純白の衣服が泥に染まり、さぞかしバブたちの洗濯の手をわずらわせたことでしょう。
 その鉄道線路と平行して走っているマルタディナタ(Martadinata)通りは、昔は昨今の大混雑大渋滞が信じられないほど寂れた道だったそうです。オランダ政庁時代にバタビアを訪れた人たちは、当時からの都心部であるウエルトフレデン(Weltevreden)と呼ばれた今のモナス(Monas)地区へ車で向かう際には必ずそこを通り、グヌンサハリ(Gunung Sahari)通りの北端とぶつかる三叉路を左折して、建設された当時『南往き大通り』De Groot Zuiderweg と名付けられたこの運河沿いの道を南下しました。1921年にバタビアを訪れたトラ狩りの殿様、徳川義親侯爵のじゃがたら紀行にも『タンジュン・プリオからウエルトフレデンまで六哩。濁った水が澱んでいる掘割に沿うて自動車は矢のように走る。路の傍に山羊がうろうろと遊んでいたり真白なスワンが溜り水の中に浮かんだり・・・・・』とその印象が記されています。きっと周辺に自然ばかりで鉄道線路以外なにも目にすることのないマルタディナタ通りより、首都のはずれに入ってきたという印象を与えるグヌンサハリ通りの方が強く侯爵の意識に染み込んだのでしょう。
 プリウッ港からグヌンサハリ通り北端三叉路に至る、今マルタディナタ通りと呼ばれているその道は、北のアンチョル川とジャングル、南に広がる沼、湿原そして水田という無人の地にはさまれた、めったに人影さえ見ない寂しい場所でした。プリウッ港寄りのあたりにアンチョル川を渡って北へ向かう小橋があります。そこを曲がってジャングルの奥へ入ると昔はそこに集落があり、かつてはビンタンマス(Bintang Mas)と呼ばれていました。海岸近くまで進むとその一帯にはオランダ人墓地やトアペコン(大伯公)を祀る廟があります。15世紀に行われた鄭和の大航海のおり、スンダクラパに立ち寄った艦隊の高級将校のひとりがその地にとどまってスンダ貴族の娘を妻にしました。その夫婦は没後その場所に埋葬され、後世になって1650年ごろそこに建てられたのがその廟で、当時の姿をそのまま残す貴重な文化財となっています。
 さて、そのアンチョル橋まで戻りましょう。川をまたぐその橋を渡って行く車はまずありませんが、三叉路になっている橋のたもとを突っ切るとき、ほとんどの車はクラクションを短く一声鳴らしたり、曲がりもしないのにウインカーを点灯して通り過ぎて行くのです。これはいったい何のまねなのでしょうか? 「そりゃ、あんた、『今から通りますよ。失礼しますよ。』とシマニスに注意を呼びかけているんだわな。ちゃんと挨拶して通らなきゃ、気に障って祟られでもしたらたいへんだからなあ。」という運転手のおじさんの話でしたが、はたしてアンチョル橋の美女に祟られた車がクラクションを鳴らさなかったからかどうかについては正確なデータがありません。

 実はもっともっと昔、ジャカルタがまだバタビアと呼ばれていた頃からその場所では何度か似たような事故が起こっていました。ヤファ・ボドなど当時の新聞に掲載された記事ではただ淡々と事故の内容が述べられていますが、事故が起こった場所を調べるとやはりアンチョル橋に行き当たるのです。プリウッ警察の係官だけではなく、ジャカルタに住むほとんどの人はアンチョル橋で犠牲者を待っている美女の存在を昔から知っていました。そして、たいていのひとたちはそれを、その近辺に巣くうジンが人間を惑わすためにしていることだと考えています。
 テレビのシネトロンファンの方ならきっと、ジンという言葉を耳にされたことがあるでしょう。『ジンとジュン』や『アラディン』などでターバンを巻いたり坊主頭に上半身裸で、あるいはインドかペルシャ風の装束で登場する戯画化されたジンを毎週ご覧になっていたことと思います。えっ、「シネトロンはあまり好きじゃない」ですって?では有名なアラジンと魔法のランプのお話しなら、きっと知らない人はいないでしょう。魔法のランプをこすると出てくるあの魔神が実はこのジンなのです。千夜一夜物語にもさまざまなものに変身し、大きくなったり小さくなったり、姿を消したり、天空を飛んだり、水中にもぐったり、岩山を打ち砕いてみたり、と人間の夢と願望を一身に担ったジンたちがいっぱい登場します。そんな超自然の能力を持つジンの中の邪悪な者が、人間を不幸な目に合わせるためにわるさをしているのだというのです。
ところが、アンチョル橋の美女の話の陰にはひとりの美少女の悲劇がまつわっているのだと主張する一部の人たちがいます。この人たちの間で語り継がれてきたのが1870年ごろバタビアで実際に起こった美少女アリアの失踪事件なのです。

 話は1870年ごろにさかのぼります。当時のバタビアでは、富裕な家はパビリウンと呼ばれる離れ屋か、あるいは母屋の一部を仕切った別住居を用意し、夫のいない貧しい母子家庭をそこに無料で住まわせてやる習慣がありました。それをエンペランと呼びます。今のプルチェタカンヌガラ通りに近いクラマッサワ地区の分限者の家のエンペランとして寡婦と娘二人という女ばかりの一家が住んでいました。近所の家の下働きをしてなんとか暮らしを立てている母をふたりの娘たちも助けます。下の娘アリアはまだ幼いために、野草を摘んだり野鶏の卵を探してくるようなことしかできません。朝から家を出ると北へ向かい、スンテル、タナムラユ、グドンルプッ、クブランチナからアンチョル川南までを行動範囲として、湿地や藪の中まで食べられるものを探して歩きました。グヌンサハリ通りの方へ行かなかったのは、通りの西を流れる運河に棲むカケグリンティル、ネネグリンティルと呼ばれているワニ夫婦の魔力を恐れていたためでした。ワニがいけにえを求めて水面に姿をあらわすと、その近くにいるだれかが運河に落ちて犠牲になると言われているのです。そのため、アリアの行動範囲は運河とアンチョル川の二辺で切り取られた地域の中に限られていました。

 その家で数年暮らすうちに子供だったアリアも娘に成長してきます。16歳の美しい娘は人の目を引き付けずにはおきませんが、アリアはそんなことにはおかまいなしに食料探しの日課を続けていました。姉に縁談がまとまり、あと何週間かで挙式というある日、アリアはいつもと同じよう朝、家を出ます。ところが、陽が少し傾いたころには必ず帰ってくるアリアがその日に限って戻って来ません。夕陽が沈み、夜になってもまだ帰りません。母と姉の心を不安が満たし、心配で一睡もできなかったふたりは翌朝のスブの礼拝が終わるとすぐに家主に相談します。
「なに、それはたいへんだ。すぐに人を集めて手分けして捜そう。あのかわいいアリアにもしものことがあったらどうしよう。」
大勢の人を繰り出してアリアの行方をしらみつぶしに捜しましたが、どこにも見つかりません。もしや事故でも、と沼地の水の深いあたりをさぐってもみましたが、まるで神隠しにあったように、行方はようとして知れません。こうしてまた一日が暮れ、三日たち十日たちますが、母の不安な心はいつまでも疼いて晴れないのです。姉の結婚を延ばすわけにもいかず、その準備の忙しさにまぎれているうちはまだよいのですが、手が空いて心がふっとさまよいはじめると、涙を滴らせながら茫然と虚空を見つめてただじっとしているというようなことがよく起こるようになりました。
「かわいそうに。むごいようだが、死体でもあがってくれればまだ少しはすっきりするものを・・・」母の知り合いや友人たちはささやきあいます。
そんなある夜、ついにアリアが母の枕辺に立ちました。
「母さん、あたしはもう連れ合いができてとても穏やかに暮らしているの。だから、あたしのことはもう心配しないでいいのよ。姉さんの結婚式がうまく行くようにあたしも助けるから、姉さんのことを考えてあげて。あたしのことを思い出して泣いたりしないでね。ねっ、母さん。」

 いよいよ明日は姉の結婚式という日、アリアの姉はアザンの声と同時にエンペランの表戸を開けました。すると表戸のすぐ前に何か大きなものが置かれているではありませんか。まだ暗い早朝の闇の中に目を凝らしてそれを見定めた姉の驚愕の声が響きます。
「母さん、母さん。ちょっと、これを見て。早く来て!」
いったいどうしたのかと表に出てきた母も、あまりの驚きに口を半開きにしたまま声もなく娘と並んで立ち尽くします。そこに置かれていたのは竹編みの大きなかごがふたつ。一方にはまだ新鮮な魚が、そしてもうひとつの方にもさまざまな種類の野菜が山のように盛られていたのです。
 この不思議なできごとがバタビア雀の噂にのぼらないはずはありません。おりにふれて民衆の暮らしの中に発生する神隠し現象を当時の人はジンのしわざだと考えました。アリアの失踪は、美少女アリアに恋したジンがアリアをかどわかしてジンの世界へ連れ去ったものだというのです。ところが、幸か不幸かアリアの夫となったジンは善良な性格だったのでアリアも穏やかな暮らしに入ることができ、また母と姉思いのアリアの頼みを聞き入れたジンが姉の結婚の前日、だれに見咎められることもなく大きなかごをふたつ送り届けたのだと人々は解釈しました。

 でも、ジンとはいえ夫を得て穏やかな暮らしに入ったアリアがいったいどうしてアンチョル橋に現われて自動車運転者に祟り、事故を起こさせるようなことをするのでしょう。そんな疑問を覚えたのはわたしだけではありませんでした。
 著名なジャカルタ郷土史家で作家でもあるリドワン・サイディ氏は、アリアの失踪はもっとどろどろした人間界の悲劇だったのではないか、と見ています。リドワン氏の推理をひもといて見ようではありませんか。
 アリア母娘にエンペランを世話したクラマッサワの家主は、きっとはじめは何の下心もなかったにちがいありません。アリアとも片親の孤児としてそれなりの触れ合いをしていただけだったのではないでしょうか。ところが数年たち、娘盛りの成熟を見せるようになったアリアに、家主の心はきっと揺れ動くようになったのでしょう。正妻のほかにもマドゥと呼ばれる何人かの妻を持っていた分限者の家主がアリアに恋情を抱き、自分の世話を受けないかと口説いたことは想像に難くありません。
 でも、アリアにとって恋慕の情をかきたてるにはあまりにも年齢の離れた男。そして姉は結婚を間近に控えているというのに、一家はその家主に大きな恩を受けているのです。自分が家主の何人目かのマドゥになれば、母に楽をさせてやることができる。しかし姉の結婚を前にして自分の玉の輿の話を出せば、姉はどれほど傷つくだろう。そんなことにはおかまいなしに、一刻も早くアリアをわがものにしようと迫る家主。まだうら若い娘にとってそれは大きな苦悩を背負い込むことにほかなりませんでした。母にも相談できずに悩みぬいたにちがいありません。そしてついに、自分がこの家から出て行くことが最善の解決だという結論に達したのではないでしょうか。

 その朝、アリアはいつものように家を出ました。そして北へ向かって進み、ついにアンチョル川の岸辺にたどり着きます。これまでそこを越えたことはありませんでしたが、今日はもう家へは戻らないのです。アリアは迷わず橋を渡ると人のいない方へ、いない方へと人の気配を避けて進み、ジャングルへ入ると無人の境をさまよいます。樹上の鳥や猿、幹にへばりついた蛇やトカゲが突然の侵入者を見守ります。波の音が近付き、木々の間から砂浜が見えてきました。すると、思いがけない人声がして、アリアは身を硬くして木陰に隠れます。貝や蟹を採りにきた漁師のようですが、アリアの警戒心は『隠れろ』と告げているのです。
 太陽は頭上を越えて西へ西へと傾き始めます。空腹と疲労と、そして恐怖がアリアの道連れでした。どこをどう歩いたのか、ふと気が付くと西の空が血のように赤く染まっています。アリアはそれを正視できずに背を向けます。残照が西の空を濃青色に彩っているとき、夜の帳が静かにアリアの周囲を包みました。足は棒になり、空腹と不安で泣きたくなるのをこらえながら力ない足取りを進めていると、闇の中にぽつんと灯った明かりがひとつ目に映りました。アリアの足はまるで誘われるかのようにその光を目指して進みます。いつのまにかジャングルから一本の道に出ていたことにアリアは気が付きませんでした。そこからは、その光が一軒の豪壮な邸宅の門燈であることがはっきりわかります。そしてアリアの立っているその道は、その門に向かって進んでいるのです。力ない足を一歩一歩踏みしめながら、まるで導かれるように邸宅を目指すアリア。
 すると、突然後ろの闇の中から馬の足音が近付いてきました。豪奢な服装の裕福そうな眉目秀麗な青年を乗せた馬が一騎、アリアの傍まで来て止まります。青年は馬の上からアリアに声をかけます。
「お嬢さん、どこへ行くの?」
黙ってぼんやりと顔を上げたアリアの目は焦点が合っていません。汚れてところどころ裂けているクバヤ。サロンも乱れています。それを見て取った青年はにやりと口もとをゆがめると馬から飛び降りてアリアを抱き上げ、再び馬に乗るとひとむちくれて邸宅を指して走り去りました。その青年が希代の蕩児ウイ・タンバッシアであったことも、その邸宅がビンタンマス荘であったことも、アリアにはきっと知る機会がなかったのではないでしょうか。  ウイ姓は黄の福建読みです。昔のインドネシア語、いわゆるファン・オパイゼン式綴字法ではOei と綴られましたが、決してオエイとは発音しません。それはオパイゼン式がオランダ式綴字法を基礎としていたためで、クプクプがkoepoe-koepoe 、スカルノがSoekarno と表記されていたのは皆さんご承知のことと思います。そのころkupu-kupu と書けばキュピュキュピュと発音されたにちがいありません。インドネシア語にはオランダ語のu の発音に当たる言葉が限られていたのでu の文字がほとんど見られず、oe という奇妙な綴りがやたら出てくるという現象が起こっていましたが、それが植民地風ということだったのかも知れません。

 さて、そのウイ・タンバッシアとはいったい何者だったのでしょう。父親のウイ・トアは中部ジャワのプカロガン生まれで、バタビアで事業を大きく成功させました。1830年代にコタのグロドッ地区にあるトコティガ通りの住居に構えた店で行ったタバコの商売はバタビア随一と言われ、かれは中国人社会で一目置かれる大人となり、中国人社会を統率する華人マヨールを補佐するカリブサール地区華人レッナンに任命されました。ウイ・トアは50歳で没しましたがタングランのチュルッ地区にあるパサルバルに広大な地所を持ち、その地代は年間9万5千グルデンという収入をもたらしていました。当時は10グルデンあれば質素な暮らしを1年間営むことが可能でしたから、その財の巨大さには凄まじいものがあったようです。ウイ・トアが残した子供は四人あり、その中のひとり、タンバッシアはたいへんなハンサムで取巻き連中にちやほやされ、住んでいたトコティガの家では毎朝近くの小川で用便するとその後を紙幣で拭いて投げ捨てるという奇矯な行動を示しました。その紙幣を貧民たちが奪い合うありさまを見て楽しむという、そんな性格をかれはまだ若いうちから見に付けていたようです。父親の没後、まだ25歳だったタンバッシアはチュルッのパサルバルやバタビアのトコティガ商店街などの広大な地所をはじめ、贅を尽くした何台もの馬車や黄金など数え切れないほどの遺産を相続しました。大金持ちの子供がスポイルされる例にもれず、父親の存命中でさえ不肖の息子だったタンバッシアの手に使いきれないほどの財産が渡り、その振る舞いに意見できる唯一の父親がいなくなってしまったのです。その結果がどのようなものになるのかは想像に難くありません。遊び呆けるのと女漁りが日課となり、今のプチェノガン地区にあったパサルアサムで闘鶏ばくちに凝り、いい女を見つけ出そうとバタビアの街中をぶらりと馬に乗って歩き回ります。更に困ったことにはタンバッシアの体内に濃い悪党の血が流れていたのです。何をしでかそうと金で片付かないことはない、という信条がきっとかれの人生観・処世観に深く根を張っていたことでしょう。

 パサルスネン地区にある邸宅の扉からふと現われた美しい娘はタンバッシアの目に追われてすぐに扉の裏に隠れてしまいました。当時は日本の昔と同様で、良家の女がひとりで家の外に出るのはありえないことであり、ましてや未婚の娘は深窓に隠されるのが当然でしたので、そのシム家の娘のためにタンバッシアがスネンに日参しても成果はありませんでした。しかしタンバッシアが門前に日参してくるのをシム家も無視するわけには行きません。こうして婚儀の話が進められ、タンバッシアはいきなり1千グルデンのお小遣いをかの女に与えます。それでシム家が有頂天にならないはずがありません。婚姻の宴は数日間ぶっ通しで続けられ、トコティガ通りはそのために通行できなくなってしまい、華人マヨールをはじめ中国人社会は顰蹙どころか怒りと憎しみをタンバッシアに向けました。なにしろ一言の挨拶もなしに勝手に道路を塞いでしまったのですから。しかしそれほどの大騒ぎをして持った妻にわずか数週間でタンバッシアは見向きもしなくなったのです。ふたたび女漁りが始まります。
 タンバッシアが目を付けた女は、娘であれ、未亡人であれ、はては他人の女房であれ、ピウンとスラというふたりの手先を使って、金、暴力、誘拐などありとあらゆる手段を用いて必ず手に入れました。バタビアの街をときに馬を駆って走りぬけ、そんなときふと目を引いた美しい女をそのまま力づくでかどわかして馬に乗せ、自分の別邸に連れ去ることもありました。バタビアの街に響く「タンバッシアが来たぞ」という声は、女を家の中に隠せという意味を持っていたのです。
 『金の力で自分にできないことは何もない。自分にはすべてが許されている。』と悪の帝王になってしまったタンバッシアにとって、自分に逆らったり自分をないがしろにする人間は強い憎しみの対象でした。『邪魔者は消せ』をモットーにしたタンバッシアは手先を使って、自分のビジネスの競争相手となった華人マヨールの婿の生命を奪い、あるいは雑貨商の美人妻を金と男前で誘惑してビンタンマス荘に連れ込み、帰宅しない妻を捜しにビンタンマス荘に乗り込んだその夫の生命を奪いました。華人マヨールの妾を見初めたタンバッシアはその妾が催すワヤン上演の夜に顔を出しては1リンギット銀貨を紙幣に包んで舞台に投げて人の注意を集め、その妾もついにタンバッシアの誘惑に陥落してビンタンマス荘を訪れます。タンバッシアと不倫の時間を持ったオランダ人高官の妻もひとりやふたりではありませんでした
 タンバッシアがビンタンマス川の西に建てさせた豪壮な邸宅はビンタンマス荘と名付けられました。その邸宅に連れ込まれ、あるいは誘惑されていったい何人の女がかれの毒牙にかけられたことでしょう。しかし妻の場合と同様、かれは誘惑した女の肉体に飽きれば、あっさりと女を去らせました。二ヶ月間タンバッシアの囲い者になった女はその間に2千グルデンとダイヤや黄金の装身具を手に入れたそうで、男女関係に関する社会秩序をこれほど遠慮会釈もなく破壊した人間がいつまでも無事な身でいられるはずもなかったにちがいありません。

 しかしさしもの悪党タンバッシアも、1872年、ついに年貢の納めどきを迎えます。重ねられた罪業についに終止符が打たれるときが来たのです。プカロガンで開かれた一族の集まりに出たタンバッシアは、その催しに雇われたプシンデンと呼ばれる民俗芸能歌手のろうたけた美しさに目を引かれてバタビアに連れ帰り、ビンタンマス荘に幽閉しました。その歌手の兄が妹を訪ねて上京してきたとき、かの女は兄をそこに住まわせるようタンバッシアに頼み、自分が作ったバティック布を兄に与えます。自分をないがしろにする女に対するタンバッシアの憎しみが燃え上がり、タンバッシアは手先に命じてその兄を始末させました。そのプシンデンの家族の訴えに社会からの非難が加わって、タンバッシアを裁けという圧力が官憲にのしかかりました。それまで金と暴力で被害者を黙らせ、やはり金の力で官憲を飼い馴らしてきたタンバッシアも今度ばかりは勝手が違いました。

 警官の一隊がビンタンマス荘を急襲しますがタンバッシアはそこにいません。その日かれは早朝からパサルアサムで闘鶏ばくちを遊んでいたのです。闘鶏場に警官隊が駆けつけたとき、その場は大混乱に陥りました。賭博場に警官隊が乱入すれば、だれしも賭博の手入れと思うにちがいありません。しかし警官隊はウイ・タンバッシアを捕らえただけで引き上げて行きました。バタビア最大のプレイボーイと謳われたウイ・タンバッシアはこうして官憲に囚われ、裁きの場に引き出されたのです。金だけを味方にして世間を見下し、社会の人倫を踏みつけにしてきたタンバッシアを助けようとする者はもはやありません。法を金で買われてなるものか、とデュイメル・ファン・トゥイスト総督の厳しい監視が入り、裁判所はついに正義の槌を振り下ろします。こうしてタンバッシアは絞首台の露と消えたのでした。死刑を執行されたのは今の歴史博物館、別名ファタヒラ博物館の前庭で、当時の慣習通り大勢の市民がその観客となりました。そのときタンバッシアは31歳。高価な一張羅に身を飾り、希代のダンディとしてその生涯を終えたのです。
 タンバッシアが死刑になっても民衆の怒りはおさまりません。悪徳と犯罪の巣窟ビンタンマス荘では、押しかけた民衆による掠奪破壊の嵐が吹き荒れました。その後ビンタンマスのその地には集落ができましたが、近代化の波の中に溶け込んで行ったということです。

 知らなかったとはいえ、そのタンバッシアの邸宅に自ら近付いて行ったアリアの運命がどうなったかは想像に余りあるとリドワン氏は語ります。「ただ、この悲劇はあまりにも陰惨であるため、この推理が本当にあったこととは思いたくない。わたしたちはアリアがジンの夫と幸福な暮らしに入ったのだと考えたいですね。」という優しさあふれるコメントで締めくくられていました。
 ところで早朝アリアの姉が見つけた贈り物の謎は、自分のせいで姿を消してしまったアリアに対する償いの気持ちから、家主がせめてもの罪滅ぼしにとそこに置いたものではないだろうか、とリドワン氏は解いています。