「プンチャッ越えの道」



1970年代前半南ジャカルタ市クバヨランバルのパサルマイェスティッ(Pasar Mayestik)に程近い住宅地に住んでいたわたしがプンチャッ(Puncak)に登るさいに通るルートはふたつあった。プンチャッを越えてバンドンまで出張するときも、もちろん通るルートは同じだ。そのような遠出はたいてい会社の運転手が車を運転したから、運転手の選ぶルートがふたつあったという言い方のほうが正確だろう。
そのひとつはボゴール街道(Jl Raya Bogor)をまっしぐらに南下してボゴール市内をかすめてからプンチャッ街道の入り口にあたるガドッ(Gadog)を目指すもの、もうひとつは記憶があいまいなのだが、当時首都圏にまだ稀だったゴルフ場のひとつがあるサワガン(Sawangan)に向かうルートを取り、そちらのほうからボゴール市に向かったような気がする。後者のルートはスンダ地方の農村部の真っ只中を抜けて走る道で、町なみの中を走っている雰囲気の強いボゴール街道よりもはるかに風情があり、インドネシアをわたしに満喫させてくれるものだった。こちらのほうがボゴール街道よりも交通量が少なかったために車を走らせやすかったのだろう、運転手もこのルートを取るほうが多く、緑滴る田園風景や道路脇に飾らない日常の姿をさらしている地元民の生活を垣間見てわたしの好奇心は大いに満たされたものだ。
1978年にインドネシア最初の自動車専用道路であるジャゴラウィ自動車道が開通してからは、ガドッに至るルートに選択の余地がなくなった。道路の両脇はやはり開放的な田園風景なのだが、昔味わったあのスンダの農村部を抜けて走る風情がほとんど感じられなくなったのは、いったいどうしたことだろう。ではあっても、ジャカルタからプンチャッへの所要時間が大幅に短縮されたのは無上の福音だったにはちがいない。ジャゴラウィという言葉はこの道路がつなぐ三端にある地名を集めたものだ。JAkarta〜boGOR〜ciAWIの大文字部分を合わせるとJAGORAWIとなる。Ciawiの発音はチアウィであり、他の読み方はない。

ガドッから東に向かって坂道を登り始めると、プンチャッ街道(Jl Raya Puncak)がはじまる。街道は起伏を繰り返しながら高度を上げてチボゴ(Cibogo)〜チパユン(Cipayung)〜チナンカ(Cinangka)〜チサルア(Cisarua)〜サンパイ(Sampay)〜トゥグ(Tugu)といくつかの村々を通り抜けたあと、いきなり一面の茶畑の中をつづら折りに上昇していく山道に変わる。トゥグまでのプンチャッ街道が民家や商店あるいはホテルやビラにはさまれた見晴らしの悪い道程だっただけに、その開放感はドラマチックであるとすら言える。一面の茶畑に囲まれてからは峠までおよそ8キロの道のりなのだが、つづら折りの急斜面が続くから時間はかかる。この道を登って行くと大きなモスクがあり、その前を過ぎて更に上がると道路の向こう側に大きなレストランが建っている。それがレストラン『リンドゥアラム』(Rindu Alam)だ。このレストランはオルバ期のはじめ頃にはもうあったという話だから、たいへん長い歴史を刻んできたわけだ。このレストランは元シリワギ(Siliwangi)師団司令官で退役後イギリスとスイスのインドネシア大使を歴任した人物が建てたものだそうだが、例によって国政上層部のひとびとは超法規の世界に住んでいるインドネシアだから、ボゴールからチアンジュルまでの街道は両脇2百メートルの中に建物があってはならないというスカルノ大統領の決定書をはじめ建物建築許可など庶民に課されているさまざまな義務付けは無視されてしまったらしい。その結果、司令官没後は何度も強制撤去の話が地元行政府から出ては消え、出ては消えしている。
わたしが1970年代にプンチャッに向かったときもドライブの目的地はたいていこのレストランだった。レストランはちょうどこの峠のいちばん高い場所に建っており、建物の縁は展望台テラスになっていて、ついさっき登ってきた道を包む茶畑を一望のもとに見下ろしながら吹き渡る涼風を受けて味わうスンダ料理やサテはまた格別のご馳走だった。しかし昼間の涼風は夜中に寒風となるので、体調に用心する必要がある。なにしろそこは海抜1千5百メートルの尾根の上なのだから。


プンチャッ(Puncak)。インドネシア語の普通名詞puncakは英語のpeakに対応している。日本語で言えば頂点あるいは峰ということだろう。もちろん抽象的な意味でも使われ、快楽の頂点と言う場合にもその言葉が使われる。固有名詞でプンチャッと呼ばれているエリアは、実際には尾根をまたぎ越える峠であって峰の頂点ではないように思えるのだが、それが地名になっているのが実態だ。奇妙なことに、日本語の峠に対応するインドネシア語が見当たらない。英語はpass、オランダ語はpasが日本語の峠に対応しており、インドネシアではその意味を指す場合にオランダ語と抱き合わせてpuncak-pasと称している。だとすると後出するプンチャッパスホテル(Hotel Puncak Pass)はエリア固有の地名にちなんだ命名なのだろうか、それとも地形名称にちなんでいるのだろうか?
それはともかくとして、峠という概念を持たなかったインドネシア人は昔から、高地を乗り越える道を作らず高い山があれば迂回するという対応を取るのを文化の中に確立させてきたということなのだろうか?山越えをするのに尾根の低いところや谷あいの地峡を通るのはひとの常とも言えるような気がするのだが、日本語の持っているこの峠という言葉とそれはいったいどう関係しているのだろう?そんな余談はさておき、ジャカルタ住民にとって最大の高原保養地がこのプンチャッ地区であり、それは半世紀を過ぎた昔から変わったことがない。

ジャカルタ〜ボゴールとチアンジュル〜バンドンの間に高い山が立ちはだかっている。海抜3,019メートルのパンラゴ山(Gunung Pangrango)、海抜2,958メートルのグデ山(Gunung Gede)を主峰とするグデ・パンラゴ山系がそれであり、プンチャッ峠はグデ・パンラゴ山系北部にあるスンブル山(Gunung Sumbul)の頂上に続く尾根を越える。スンブル山は海抜1,557メートルで、この近くには海抜1,538メートルのグヌンマス(Gunung Mas=マス山)もある。ただしそれらの数字データは資料ごとに微妙に異なったものになっているので、何が正確な数字なのかはよくわからない。
プンチャッ峠のジャカルタ側がボゴール県(Kabupaten Bogor)チサルア郡(Kecamatan Cisarua)、バンドン側はチアンジュル県(Kabupaten Cianjur)パチェッ郡(Kecamatan Pacet)で、尾根が県境をなしている。峠を越えた向こう側の道はもはやプンチャッ街道でなくチパナス街道(Jl Raya Cipanas)と名を変える。その道をほんの少し下ると1928年に開業したプンチャッパスホテル(Hotel Puncak Pass)があり、ビラには熱帯に珍しい薪をくべる暖炉が備えられている。そのまま山を下って行けばチパナスの町に至る。そのエリアにはチボダス植物園(Kebun Raya Cibodas)やフラワーパーク(Taman Bunga)などの行楽地があり、植物愛好者にとってこのエリアは見逃せない目的地だ。チボダス植物園では2006年からサクラガーデン(Taman Sakura)の整備が進められ、小さな滝のある面積3千2百平米の谷あいの一角に丈のまだ低い375本の桜の木が植えられており、艶やかな満開の桜は周辺の緑に映えて美しい。熱帯で桜は年二回開花するが、前植物園長は2〜3月と8〜9月が開花期と思われるものの毎年時期の振れが大きく、更に観察と研究を深めなければはっきりしたことは言えない、と語っている。ともあれ首都圏ではチボダスの桜が開花するとニュースが流れるので、その機をとらえて年二回の花見を楽しむことができる。

プンチャッ街道側にも行楽地は少なくない。ガドッから上がってチパユンで北に折れると風光明媚なメガムンドゥン(Megamendung)があり、松林の中で自然に触れるピクニックの楽しみを提供してくれる。キャンプ場や宿泊施設も完備されており、幼稚園や小学校の団体旅行あるいは会社や町内の慰安会などで訪れる手ごろな行楽先として定評がある。ここではもっと山側に入っていくと、7段に連なる滝を見物しがてら山登りするハイキングコースもある。
街道に沿って更に上がっていくと、ガドッから6キロの場所にマタハリ観光園(Taman Wisata Matahari)がある。マタハリ観光園に向かって脇道に入っていく場所はふたつあるのだが、どちらも少々わかりづらい。ポイントは『Taman Wisata Matahari』と書かれた看板を見つけ出すこと、進入路に若い衆が何人かいて交通整理をしていること、下の進入路は食堂Jago Rasaの隣にある脇道だからひょっとすればこれが一番わかりやすいかもしれない。上の分岐路はチルンブルの滝(Curug Cilember)行楽ルートと同じ道だ。それら目印のどれかに引っかかれば、そこから更に2キロほど先のマタハリ観光園にたどり着ける。
マタハリの名前は国内ナンバーワン小売企業マタハリデパートグループが経営しているところに由来している。入園料は平日ひとり2千ルピア、週末3千ルピアだから、マタハリ観光園は間違いなくミドルクラス向けエコノミー行楽施設を狙ったものに違いない。もっと上流にあるトゥラガワルナ(Telaga Warna)を水源とするチリウン(Ciliung)川を施設の目玉に据えてその流域30Haを開発したこの観光園には水泳プール、子供遊園地、水上自転車、スワンボート、パドルボート、ミニボート、バンパーボート、魚釣り、ジョギングトラック、キャンプ場、フライングフォックス、アウトバウンドフィールド、バスケットボールコート、ATVオフロードなど多彩な娯楽設備が設けられて利用料金は1千ルピアから2万ルピアという経済的な枠内にある。松林・水田・菜園・連なる丘の並び・川の流れ・人造湖・・・・・高原の涼風を全身に受けながら風景を愛でて命の洗濯をするもよし、それとも大自然の中を歩いて汗を流すもよし。高原ハイクがお望みなら、チリウン川を下り松林を歩く4〜5時間あるいは10時間のパッケージも用意されている。山の斜面を下るチリウン川の流れは急で、ジャカルタの街中をゆったり流れているチリウン川の躍動的な一面をわれわれはそこで見出すことができる。
10時間もトレッキングを行なえば、これはもうほとんどお泊りコースだろう。観光園にはビラや宿舎など宿泊施設が整えられている。一泊10万〜30万ルピアで高原の竹造り宿舎での一夜を楽しむのも思い出に残る体験になることだろう。日本の山家やマナドの山家も建っていて、一家で終日楽しめる行楽スポットのひとつだ。
街道に沿って1キロほど進むとチモリ(Cimory)がある。Cisarua Mountain Dairyを縮めたチモリは街道沿いの左側にあり、牛のシンボルマークがその存在をアピールしている。しかし牛を見落としても、比較的広い駐車場を持つこのスポットが常に賑わっており、食事時ともなれば道路脇まで車があふれるので、うっかり通り過ぎてしまうということはないだろう。ここは牧場なのだが、ミルクやヨーグルト、牛肉やソーセージなどの加工品を生産販売しており、チモリブランド製品はプンチャッまで行かなくとも都内のハイパーやスーパーマーケットで見つけることができる。マスプロ製品の上を行く品質ということで多くのチモリファンを獲得しているようだ。
チモリは20人以上の団体で見学を申し込むと、牧場見学と乳絞りおよびミルクとヨーグルト工場の加工工程見学をさせてくれる。もちろん見学などしない訪問客はチモリレストランへ直行して緑滴る渓谷を眺めながらのお食事となる。ソーセージ・ステーキ・バーガー・オックステールスープにデザートはミルクやヨーグルトを使ったものがお奨めメニューだが、他にもメニューは沢山あって楽しめる。
チサルアを更に上ってその先の三叉路を南に入ればインドネシアで最初に作られたサファリパーク(Taman Safari Indonesia)に至る。標高9百〜1千8百メートルに渡る山の斜面にあった老化した茶畑138.5Haの土地に1980年から建設が開始されたサファリパークは1986年に一般向けの営業を開始した。放し飼いの動物を間近に見たり、パーク内随所で演じられるショーを見物したり、おまけに遊園地から水泳プールまであって終日飽きずに楽しめる場所だ。営業時間は9.00〜17.00。テントキャンプ場やキャラバン車スタイルの宿泊施設もあり、そこに宿泊して動物の遠吠えを聞きながらサファリの夢を結ぶこともできる。

さて、トゥグ村を越えて一面の茶畑に踏み込んでからつづら折りの道路をしばらく走ると、道路の右側にある大きな分かれ道に出会う。それが何らかの施設の入り口であるのはそのたたずまいから容易に想像がつく。ここがアグロ観光施設グヌンマス(Gunung Mas)の入り口なのだ。
グヌンマスでの茶農園事業は1910年に始められた。フランス系資本の入ったGoenoeng Mas Francoise Nederlandingse de Culture et de Commerceという会社がマス山一帯で茶畑を経営し、茶の栽培と加工を行なった。しかし1954年になってその事業はバンドン在のオランダ系企業NV Tiedeman K Van Kerchemに買収された。南チコポでも1912年から農園経営が始まり、ドイツ系資本のNV Culture My Tjikopo Zuidが経営していたが、第二次大戦がドイツの敗戦で終わったためにその会社の資産は1949年オランダに接収された。こうしてそれらの農園会社がオランダ資本に変わってから1957年にインドネシア政府のオランダ企業接収方針が開始され、グヌンマスと南チコポの茶農園は1958年に西ジャワ統一新国有農園会社がその経営を掌握し、その後の変転を経たあと国有会社第8ヌサンタラ農園会社(PT Perkebunan Nusantara VIII)として今日に至っている。ヌサンタラ農園会社は全国にあり、通常PTPNと略称されて番号で区別されている。総面積2,556Haを占めるPTPN8の茶農園では良質ブラックティーのワリニ(Walini)茶が生産されて国際市場に輸出されている。
PTPN8の社員協同組合が経営するグヌンマスアグロ観光は標高8百から1千2百メートルの高地に設けられた観光スポットとしてジャカルタ住民の人気を集めている。平均気温12〜22℃という過ごしやすい気候の下で茶畑を数時間渡渉するティーウオークは人気プログラムのひとつで、英語のtea walkが変じてtiwokという新インドネシア語を生んだ。他にもテニス場あり、キャンプ場あり、子供用水泳プールあり、茶葉の加工工場見学もでき、そして作られたお茶を味わうことのできるティーコーナーやティーカフェもある。宿泊施設としてバンガローや宿泊所もあり、また会社の合宿や会議などのための設備も整っている。

グヌンマスを後にしてさらに急勾配の山道を登っていくと、周囲の茶畑の中に浮き上がる壮麗なモスクがもう目と鼻の先だ。ここには昔PTPN12が所有する小さい礼拝所があったそうだが、PTPN12はPTPN8に吸収合併されてしまった。ともあれ、すばらしい眺望を楽しみながら礼拝を行なうのは至福感を倍加させるものにちがいないとムスリムが考えたのも無理はない。壮麗なアタアウン(Atta'awun)モスクが着工されたのは1997年で、1999年3月25日に公式オープン式典が催された。モスクの中からは周囲の茶畑が一望のもとにあり、設計者の考えは十分に実現されている。このアタアウンモスクコンプレックスには飲食品や土産物の売店がたくさんあり、また団体客の集合や休憩場所として建物を借りることもできる。
モスクを通り過ぎてさらに山道を上昇し続けると、道路の左側に開け放たれた大邸宅の表門があるのに気付く。一見して長者の私邸という雰囲気なのだが、実はだれが入っていっても歓迎してくれる場所なのだ。その名もメルリンバガーデン(Melrimba Garden)と称し、ここでも行楽を楽しむことができる。
敷地内に車で入っていくと、突き当たりには山の斜面を背にして二階建てのレストランが建っており、さまざまな料理や飲物を供してくれる。レストランの対面には売店があり、昔は店内がすべて花や観葉植物の売場だったが、いまは一番手前の売場が撤去され、奥の植物売場だけになってしまい、その裏の植物養殖場はイチゴ狩りフィールドになっている。それでも珍しい植物が少なくないから、愛好者にはうれしい場所にちがいない。この売店の入り口からレストラン側を見ると、その建物を懐に抱いた山の斜面では、季節と時間帯にもよるのだが、尾根から斜面一帯を包む白い霧が濃く淡く下がってきたりまた上に昇ったりして千変万化の情景を見せてくれ、興趣は尽きない。この辺りまで上ってくれば、時に乳白色の霧に周囲が包まれて視界がさえぎられたり、あるいは口から吐く息も白濁して日本の冬を思い出させてくれる。
メルリンバガーデンの売店の向こう側にはおよそ3Haある広大な庭園への入り口がある。この庭園ではあちこちに咲き乱れる高原の花々や樹木の合間をのんびりと散策する愉しみを提供してくれる。この広大な庭園は入場が有料なので、ひとで混雑するということはほとんどなく、のんびりと自然に浸るには格好の場所と言えるだろう。また庭園内には魚釣り池も茶畑もあって何かをして楽しみたいひとにも娯楽を提供してくれる。

メルリンバガーデンのレストランを抱く丘の裏側はどうやらトゥラガワルナに続いているようだが、探検しようにも道がわからない。だからわれわれはそこを出て街道をさらに上に登り、伝説を湛えたトゥラガワルナへの入り口を道路の左側に見出すのである。そこに建っている店舗住宅の並びの前を奥のほうへと上がっていく狭い坂道があり、その坂道を徒歩でどんどん上がっていくと、右へ回りこんだあたりで眼前に茶畑が広がっている。そこをおよそ百五十メートルほど歩き、管理事務所で入園料を払って森の中へ入ると、正面の切り立った山の斜面を背にひっそりと横たわる、静謐な沼の姿に対面する。広さ五ヘクタールのトゥラガワルナを周遊しながら、水面に映る周囲の景観を楽しむのがここの醍醐味であるにちがいない。あるいは気に入った場所を見つけて心をからっぽにさせ、悠然たる大自然に浸りきるのも楽しき哉。山と森、青空と白雲、それらのすべてを織り交ぜながら、水藻をたくわえた水面が見せてくれる色の変化には見飽きることがなく、風が水面を波立たせればまた別の色合いが水面に生まれてくる。レストラン『リンドゥアラム』からトゥラガワルナへの往復はハイキングコースと言っても通るくらいだ。

小高い丘を小走りに進んで崖の手前で踏み切ると、そこはもう空中だ。ふたりのアシスタントに支えられていた10メートルを超えるパラシュートが持ち上がり、身体がふわりと浮く。冷たい新鮮な空気がぴりぴりと身体を包み、寒風が骨の髄に沁み込んできた。起伏の果てない山地が視界いっぱいに広がる。茶畑・立ち木・森・家の屋根・道路そしてはるか下方に銀色に光る蛇が緑の中をうねる。そう、あれがチリウン川だ。
海抜およそ1千2百メートルの高空をパラグライディングするのは、灼熱のビーチで海上を飛ぶパラセーリングよりも変化に満ちた眺望を楽しめるだけお得だと言えるかもしれない。プンチャッにもパラグライディングを楽しめる場所がある。チサルア郡アグロ観光地区にあるParalayang Bukit Gantoleがそれで、グヌンマスの尾根に連なる丘のひとつがその根拠地になっている。そこに行くにはアタアウンモスクを過ぎた先にある小さい分かれ道を右に折れ、プンチャッ街道から分かれて茶畑の中をしばらく走ることになる。
空中の散歩を楽しみたいけれどまったくの素人だというひとでも、パラグライディングの醍醐味は十分に楽しめる。というのも、百戦錬磨の専門家が同じパラシュートに付き添ってくれるからだ。そのパイロット役はタンデムマスターと呼ばれ、250時間以上の滞空時間が必須条件とされる。ここには7人のタンデムマスターがいて、中には20年の経験を誇るひともいるので心強い。料金は15〜20分間の空中散歩でひとり30万ルピアだから、決して高い娯楽ではないと思う。


ジャカルタ〜ボゴールとバンドン〜チアンジュルというふたつのエリアを隔てる屏風の役割を果たしてきたグデ・パンラゴ山系を乗り越える峠道が自然に作られたわけではない。元々ジャカルタ〜ボゴール〜チアンジュル〜バンドンというルートはグデ・パンラゴ山系の南側を迂回してスカブミを経由する道を行くのが普通だったようだ。ジャカルタ〜ボゴール〜スカブミ〜チアンジュル〜バンドンというルートには峠と呼べるような場所が見当たらず、プンチャッ越えの峻険な山道よりはるかに平坦で楽な道程だ。つまり距離としては遠く時間がかかるにせよ、それは大量の貨物を運ぶ場合に優れた能率をもたらしてくれるルートだったにちがいない。記録によれば、ボイテンゾルフ(いまのボゴール)からスカブミに至る街道が作られたのは1813年のことで、それはトーマス・スタンフォード・ラフルズ統治下の時代だった。一方、プンチャッ越えの道を切り開いたのはイギリス軍侵攻に備えてバタビアを主体にジャワ島一帯の防衛力を高めるべく大ナタを振るった第36代東インド総督ヘルマン・ウイレム・ダンデルスで、残念ながらかれはイギリス軍が侵攻してくる直前にナポレオンに本国へ呼び戻され、後任総督ヤンセンスがイギリス軍を迎え撃ったがラフルズの敵ではなかった。
ダンデルスはジャワ島全体の防衛力強化を図って島を東西に横断する大郵便道路(Groot Post Weg)を建設し、それによって行政通達や諸通信あるいは軍隊移動の迅速化を図ろうとした。郵便という語が使われているが、現代生活における郵便とは意味合いが異なっていることを理解する必要があるだろう。1808年から9年にかけて1年間で建設されたアニエルからパスルアンの先、ジャワ島東の果てまでの1千2百キロにわたる道路は地元の村人たちが使っていた小道を石で固めた7メートル幅の道路に拡張するのが大半だったとはいえ、可能なかぎり最短路を取ることを第一優先としたためにジャングルや湿地帯を切り開く必要のある場所も少なからず出現した。
ダンデルスが命じた大郵便道路建設では、いくつかのエリアでまったく新しい道路が作られたが、険しい山岳を越える峠道は西ジャワのプンチャッ越えだけだったようだ。ボイテンゾルフからチレボンまでの道路建設は1千1百人の地元民を徴用し、ひとり当たり銀貨10リンギッという賃金で働かせる予定だった。その中でプンチャッ越えの道路工事は4百人という最大の人数を投入したのだが、それでも足りずに5百人が追加された。一説ではその工事で死者が5百人出たらしく、その減耗を補填するためだったということかもしれない。ダンデルスのこの大郵便道路建設では徴用された原住民が大勢死んでいったためにインドネシアの歴史教育では暴虐非道の植民地支配者というレッテルがダンデルスに与えられているが、この民族の悲憤と痛恨に満ちた大郵便道路こそが今ジャワ島北岸街道と呼ばれているジャワの経済大動脈なのである。

ヨーロッパで画業を修めた写実派ジャワ人画家、ラデン・サレの作品の中に、ダンデルスがプンチャッ越えの道建設工事を視察しているものがある。山の上に立っている盛装したダンデルスの肖像の遠景に高い峰とそれを目指す一本の道、そしてそこで働いている蟻のように小さい工事人夫たちが描かれているもので、ダンデルスは右手で望遠鏡を握り左手の人差し指はメガムンドゥン越えの道と書かれた地図の一点に置かれている。どうやら往時のメガムンドゥンはガドッに近い現在のメガムンドゥンとは別だったらしい。1904年にオランダ人が作った地図にもチサルアとチマチャン(Cimacan)を隔ててそびえている1880メートルの高峰としてメガムンドゥン(Megamendoeng)が登場している。その地図に従えば、ススパン(Seuseupan)〜ガドッ(Gadok)〜パシラギン(Pasirangin)〜チコポ(Tjikopo)〜チサルア(Tjisaroea)〜チマチャン(Tjimatjan)〜シンダンラヤ(Sindanglaja)〜チパナス(Tjipanas)〜パチェッ(Patjet)〜チヘラン(Tjiherang)〜ババカン(Babakan)〜チアンジュル(Tjiandjoel)というルートは当時メガムンドゥンの道と呼ばれていたらしく、そのルートのもっとも高い地点にメガムンドゥンという名がつけられていたように思われる。それがいつの間にか峠を意味するプンチャッパスに取って代わられたということのようだ。

1853年にウオルター・キンロックが著した「ジャワ・海峡植民地漫遊記」にはメガムンドゥンの道を踏破した状況が次のように語られている。
『ボゴールからおよそ6マイル離れた最初の中継所に27分で到着し、馬を取り替えた。そこから海抜4千3百フィートのメガムンドゥン峠まで馬車で4時間を費やした。チサルアを超えると道はとても険しくなり、馬車を引く馬は水牛の助けを必要とした。峠を超えると一途の下り道で、およそ1千フィート降ってチパナスに着いた。』

大郵便道路建設はジャワ島に交通のスピードアップをもたらした。この道路のおかげでバタビア〜ボイテンゾルフは5〜6時間の距離となり、ボイテンゾルフ〜メガムンドゥンは4時間半で踏破できるようになったわけだ。この道路が作られる前、18世紀にオランダ人が残した記録によれば、バタビアからチパナスまで8日かかったというから、大郵便道路がもたらした恩恵はすばらしいものだったと言える。バタビアからボイテンゾルフまでは5〜6時間、ボイテンゾルフからメガムンドゥンは4時間半で、あとは多少の起伏があるとはいえ下り道だからバタビアからチパナスまで1日以上かける必要はない。
南洋のジャワの地にやってきた西洋人たちはさまざまな旅行記や見聞録を書き残したし、ジャワに住んでいた華人たちもたくさんの書物を著した。そんな作品の中から19世紀末から20世紀はじめにかけてのメガムンドゥンの道の様子が浮かび上がってくる。バタビアからボイテンゾルフへ向かう際に、地元民の集落が散在しているとはいえ、むしろ密林が道の両側を覆っているほうが多かった。ブカシ方面に向かっては濃密なジャングルが連なっていたという。だから大郵便道路が造られたとはいえ、街から離れれば人気のない寂しい場所が続き、いつ危害をもたらすか知れない野獣や盗賊の跳梁する場所だったのである。中でもメガムンドゥンの峠周辺はサイや豹などの野獣や盗賊の群れ、あるいはバタビアで人を殺して逃亡した者などが隠れ住むのに格好の場所だったらしい。

自分の住んでいる生活環境の外は危険に満ち満ちたジャングルだという意識は現代インドネシア人に根強く残っているようだが、現代の危険は昔とは形も異なり、そしてはるかに複雑な性質を帯びている。そのような外の世界・ジャングルの世界に出て行く習慣が広まったのはここ数十年のことと言ってよいかもしれない。1970年代前半のジャカルタですら、住民の移動領域は狭いエリアに限られていた。中でも家庭の主婦を筆頭とする女性たちは、自宅から近い学校・繁華街・パサルを日常生活の行動領域にしており、東ジャカルタ市住民が南ジャカルタや中央ジャカルタに毎日出かけて行くというような習慣はあまり一般的でなかったし、ましてや国内旅行すら稀なことで、ジャカルタ住民でバリやメダンに観光旅行を行なうような階層はほんのひとにぎりしかいなかった。その百年ほど前の時代であれば、何をか言わんやということだろう。
そんな状況だったから、当時大郵便道路を遠出する中流層以上のひとびとはほとんど乗り物を使った。とは言ってもまだ自動車のない時代だから、乗り物は人間を含む動物の背に直乗りするか、あるいは人間の担ぐものに乗るか、それとも動物が引く車両に乗るかという選択しかなかったわけだ。ジャワ島にはじめて四輪自動車が上陸したのは1903年で、この話題は「自動車はクレタセタン」(2008年04月07日)が参照いただけると思う。また1911年に始まったジャカルタ〜スラバヤスピードレースの記事は「バタビア〜スラバヤ、スピードレース」(2008年04月08日)でご覧いただけるが、このレースはメガムンドゥンの道を通らずボイテンゾルフからスカブミを通るルートが取られた。峻険な山道を避けた理由はいったい何だったのだろうか?

さて、魔物車が出現する以前にジャワ島で使われていた乗り物にはいったい何があったのだろう?牛や馬の背に乗り、あるいは人間におぶさるのは取り立てて言うほどのものでないので、ここでは割愛することにしよう。
昔使われたプリミティブな乗り物の筆頭にあがるのは輿だろう。日本でもそうだったように、インドネシアでも王様や貴人はこしに乗って使用人に担がれた。インドネシア語で輿はタンドゥ(tandu)と呼ばれる。病院の担架もタンドゥと呼ばれており物としては相当な開きがあるとはいえ、役割は同じだ。tanduは別名joliともusunganとも言う。輿は普通、棒の上に板を置き、そこに乗ったひとを数人が棒を担いで運ぶというスタイルだが、反対に棒の下に座を吊り下げ、そこに乗ったひとをやはり棒を担いで運ぶという形態のものもある。日本では駕籠がその異種に当たるわけだが、人間を運ぶのでなく土木工事で使われるモッコというものがあり、インドネシアではモッコが人間のために使われた。棒の下にブランコの座り台のようなものを吊り下げてそれを数人が担ぐ形であり、これをもインドネシア語ではタンドゥと称しているから、どうやら人間を乗せたものを人間が担ぐ道具はすべてタンドゥなのだろう。このタイプのタンドゥはしばしば地面を擦るので評判は最悪だったそうだ。
輿型タンドゥはサイズによって一人乗りと二人乗りがあり、2人か4人で担ぐ。バタビア〜ボイテンゾルフの片道は1.25フローリン、ボイテンゾルフ〜チアンジュルは2フローリンが担ぎ人ひとりひとりの報酬だが、輿型タンドゥひとつを往復で借り切れば25〜30フローリン一括払いというのが相場だった。
昔は、女性が家の外へ出て姿をさらすのははしたないこととされ、特に上流家庭の子女は深窓で暮らすのが普通だった。だから家から外に出るときは街中にいる男たちの好奇で淫らな目を避けなければならず、ましてやどんな不埒な振舞いを蒙るかも知れないために父親や男の家族あるいは夫が必ず付き添った。だから深窓の女性たちがバタビアやボイテンゾルフから行楽や用事で遠出する際には輿型タンドゥに日よけと壁を巡らして乗っている者の姿が見えないようにし、友人や家族が乗ったタンドゥも同じようにして一斉に屋敷から繰り出した。徒歩でお供する使用人や警護の用心棒も付き従い、大集団の出立となる。そんなことは日常茶飯に起こることではないため、集落や町内では住民が集まってきてお祭り騒ぎとなった。タンドゥ担ぎ人は何キロもの道のりを歩くことになり、元気付けに大声を出したり歌ったりしたらしい。しかしそれは物寂しい大郵便道路で野獣や盗賊の襲撃を避けるためにするのが真意だったようだ。

人力を使わず獣力を使う乗り物の筆頭はプダティ(pedati)だろう。これは牛や水牛に二輪の荷車を引かせるもので、大型だったから搭載量は大きく、ひとを何人も乗せることができた。ただし必然的に重くなるのは防ぎようもなく、そのせいでプダティは大郵便道路の路面を破壊するためそこを通ることが許されず、その脇を通るよう命じられた。街道脇の側道がjalan pedatiと呼ばれていたのはそのせいだ。道路でないところを通るのだから、雨季はぬかるみ、乾季は砂埃の舞い立つ悪路がそのハビタットとなり、雨季に急な上り坂を通ろうとすると車軸まで泥濘に埋まり、馬を借りて車を押したり引いたりしなければならない事態が再三起こった。大郵便道路で初期に見られた一般市民の乗り物はタンドゥやプダティで、いっぽう行政高官や高級軍人あるいは農園主や大金持ちはもちろんそのようなものに乗るはずもなく、かれらが使ったのは安定して乗り心地の良い四輪車を二頭の馬に引かせるパランケン(palankijn)や政庁高官が式典に使う四輪馬車のカロス(carosse)などだった。パランケンは本来オランダ語で駕籠を意味する言葉だが、南洋植民地で奇妙な変形が起こったようだ。
その後登場したカハル(kahar)は4人乗りの車両を馬1〜2頭で引くもので、車重も軽く料金も安かった。バタビア〜ボイテンゾルフ間片道12.5フローリン、ボイテンゾルフ〜チアンジュル間片道15フローリンで、行程の途中で馬を替える方式が取られたため料金とスピードの面で一般市民にとっては遠出の革命がもたらされたようなものだ。しかし険しい道では牛や水牛の助けを必要とした。このカハルはさまざまな異名を持ち、kahar dong-dang, kahar-per, kahar balon, kahar perahu, keretekなどとも呼ばれた。
政庁下級官吏や聖職者あるいは西洋人一般が使ったのはレイスワゲン(reiswagen)で、これは4〜6頭の馬で引く四輪大型馬車でありスピードは出たが車軸がよく折れた。下級官吏はレイスワゲンを使うよう命じられていたが、チャンスさえあればカハルを使おうと努めたらしい。この馬車は時速10パアルで走ったそうだ。オランダ語のパアル(paal)はもともと杭を意味しており、ここでは一種の一里塚として街道に置かれたものを指している。その杭と杭の間の距離が1パアルで、それは1.5キロメートルに当たる。
またクレタポス(kereta pos=郵便馬車)もこれぞわが道とばかり大郵便道路を通った。これは政府の文書や物資の運搬に使われたが、ひとを乗せることもあった。この郵便馬車やレイスワゲンなど公用で走る馬車の引き馬を交換するために一定の距離で中継所が設けられていた。平地では6パアルおき、山地では5パアルおきが標準とされた。中継所は壁のない長くて背の高い建物で、屋根は道路に張り出して街道の一部を覆っていた。建物の左右は床にレンガを敷いて漆喰で固めた厩舎になっており、道路より高くなっている。やってきた公用馬車が中継所の前で止まると厩舎にいた馬と数分で入替えがなされる。乗客はインドネシア人中継所長に頼めばお湯・牛乳・ゆで卵などを妥当な値段で用意してもらえる。また6〜7パアルおきにヨーロッパ人官吏の管理する宿舎が用意されており、公用馬車は夜の宿泊にそこが利用できた。一般市民も中継所で飲食物を妥当な値段で用意してもらえるが、宿舎は副レシデンの許可証がなければ泊めてもらえない。そのような市民はたいまつかろうそくを灯して夜を徹して走るか、さもなければ地元民の集落で民宿するしかない。道路脇には食堂も商店もほとんどなく、あっても夜は店を閉めてしまう。市日が来ると遠くの市場までたくさんの荷を積んだプダティや荷を担いだ大勢の村人が大郵便道路を通り過ぎていく。
カハルはバタビア〜ボイテンゾルフ間39パアルを8時間ほどで、またボイテンゾルフ〜チアンジュル間35パアルを12時間で走破する。公用馬車中継所は利用できないが、地元集落でカハルの馬やプダティの牛・水牛交換ビジネスが行なわれているため、民間馬車でも金さえ持っていれば困ることはない。

大郵便道路を建設したダンデルスはイギリス軍の侵攻に備えて、城壁で囲まれたバタビアを開放して新しい市街をもっと南のウエルトフレーデンに移した。旧バタビア市街は今のジャカルタコタであり、ウエルトフレーデンはガンビルからモナス広場にかけての一帯だ。
タングランから東進してきた大郵便道路はウエルトフレーデンの手前でスンダクラパから下ってきた道とクロスし、さらにウエルトフレーデンの北を通って南往き大通りにぶつかる。この南往き大通りがジャティヌガラ〜デポッを経由してボイテンゾルフに至る大郵便道路なのだ。バタビア市内から8パアルほど離れたジャティヌガラ(Jatinegara)は当時、メステル・コルネリス(Meester Cornelis)と呼ばれた。オランダ人はコルネリスと呼んだが、プリブミはメステルと呼んだ。ジャティヌガラという名前に変わったのは日本軍政時代のことだ。メステル・コルネリスというのはバンダ(Banda)出身のプリブミ聖職者の名前で、実名はコルネリス・スネン(Cornelis Senen)であり、メステルは英語Masterに該当するオランダ語である。VOCがバンダ島を征服してスパイス独占に王手をかけたとき、コルネリスは捕虜としてバタビアに連行された。しかしポルトガル語スペイン語オランダ語英語を解する聖職者だったコルネリスはVOCにとって役に立つ人間だったようだ。コルネリスは1661年にジャティヌガラ一円の土地をVOCから私有地として与えらた。
メステルを超えると、水田・菜園・畑などの間を一路南下する。時おり地元民の小さい集落を垣間見るがひとの姿はあまり目にしない。前方を見ると海抜2,211メートルのサラッ山(Gunung Salak)や2,958メートルのグデ山(Gunung Gede)がかすみがかったブルーから緑色に次第に鮮明さを増してくる。15パアルほど南下して行くと、パサルミング(Pasar Minggu)〜レンテンアグン(Lenteng Agung)〜ポンドッチナ(Pondok Cina)そしてデポッ(Depok)に至る。この辺りの土地は広大な面積がヨーロッパ人や華人の私有地にされていた。
デポッ(Depok)はVOC評議会有力メンバーだったシャストリンが私有地にするべく購入したもので、その後何世代にもわたってオランダ人とプリブミの混血が進められたところだ。シャストリンは1714年に遺言状を残し、奴隷たちを解放して土地を分配するがこの共同体社会は固く維持し続けるように、と後生に命じた。オランダ時代はその遺言が守られていたが、日本軍政期から独立戦争そしてインドネシア共和国という変遷と激動の中でその遺言を守るのは不可能になってしまったにちがいない。ともあれ、独立後しばらくするまで、デポッ・オランダ人という存在は首都圏で知らぬ者とてないひとびとだったが、その子孫はいまやプリブミの中に混じって暮らしている。
デポッを超えて27パアル辺りまで来ると総督宮殿の屋根が遠望され、37パアルに近付くと西側の道路と大郵便道路が交差するあたりにボイテンゾルフのヨーロッパ人邸宅が何軒か建っているのが見えてくる。道路の中央には高さ60フィートのオベリスクがそびえており、細長くとがっているのでオランダ人はそれをNaald(針)と呼んだが、地元民はPaal Putihと呼んだ。石灰で白く塗られていたためだ。そこから真っ白なパレスをおよそ1パアルほどかなたの正面に望むことができる。
オランダVOCがジャワの地に築いた橋頭堡バタビアは不健康な土地だったためにたくさんのヨーロッパ人がバタバタと死んでいったことから、かれらはそこを白人の墓場と呼んだ。だからそんな墓場へ派遣されてくるヨーロッパ人がもっと南の高原に移ることを夢見たのは当然のことだったにちがいない。状況が許すようになるとかれらはバタビア城市の城壁の外へ出て暮らすようになり、グロドッ地区〜モーレンフリート両岸〜プトジョ〜メンテン〜クラマッ〜メステルコルネリスへと生活領域を広げていき、1667年にはコルネリスに住む西洋人も見られるようになった。

第12代総督マーツォイケルは1677年にボゴールの高原に居所を移そうと考えたが実現せず、第27代のファン・イムホフ総督が1744年にやっとそれを実現したが、かれは本当はチアンジュルのチパナスにパレスを築いて住みたいと考えていたのだ。第31代総督デ・クレルクは1777年、バタビア城壁外のモーレンフリート左岸に邸宅を建てて住んだ。現在の国立古文書館がそれだ。第41代のファン・デル・カペレン総督は1820年レイスウエイクに、第58代のファン・ランスベルヘ総督は1878年ウエルトフレーデン北側に総督官舎を建てた。
ダンデルスは1809年にボイテンゾルフのパレスを改築したが、かれはまたウエルトフレーデンに豪壮なパレスを建造するよう命じ、バタビア城壁がその建設資材の用に供されるために撤去された。このパレスは完成前にイギリス軍がジャワを占領したため、皮肉なことに最初にそこを使ったのはイギリス人となった。このパレスはデュ・ビュスが使ったが、その後の歴代総督はだれもそこを使わなかった。これが今バンテン広場で威容を誇っている大蔵省本省建物である。
ボイテンゾルフのパレスは1815年にファン・デル・カペレンが改築を行っている。さてそのオベリスクだが、これはジャワ統治がイギリスからオランダに戻されたことを記念して第45代総督デ・エーレンスが作らせたものだ。その交差点から大郵便道路はまっすぐパレスの庭園内に入っていくように見えるが実はそうでなく、庭園左側の鹿園の前から歩兵中隊営舎の前を右折してバンタンメル通りに入っていく。この通りは両側にエレミ(インドネシア名クナリ=kenari)の巨木が植えられて、平穏に満ちたたたずまいを作り出している。この通りの左側は鹿園からパレスの庭園そして植物園とつながって一体感を示し、家屋はひとつもない。とはいえこの通りの中ほどにカソリックとプロテスタントの協会が軒を接して建っている。建物が建ち並んでいるのは通りの右側で、レシデン官邸、社交館、総督官房庁、画家ラデン・サレの邸宅などが続き、一番端にはホテルベルビューが建っている。この一帯がボイテンゾルフのそしてヨーロッパ人居住地区の中でもっとも清潔で見映えのよい高級地区であり、かれらの誇りになっている。
教会の向かい側には建物の間を抜ける小路があり、この道はプレダントゥガに向かう道でそこにはプリブミの集落がある。集落にレンガ壁の家は10軒ほどしかなく、ほかは竹編壁の陋屋と呼べるような地元民の住居と畑が並んでいる。
大郵便道路沿いのホテルベルビューを過ぎると植物園南縁のゲートがあり、パアル39を右に曲がると支道はまっすぐ1パアルほど南下する。ここが華人街だ。1866年までボイテンゾルフは独立した副レシデン行政区で、華人はおよそ2千人住んでおり、かれらは華人街地区に住むことを強制された。ボイテンゾルフのヨーロッパ人が「パサルへ行く」と言う場合、そのパサルは華人街全体を意味していたが、実際のパサルは華人街の北端で大郵便道路との接点からおよそ百メートル離れた場所にあった。
1823年までそこには騎兵部隊営舎があってチーク並木の間に厩舎が設けられており、パサルとしての売場やテントも並んでいた。1831年には大規模なパサルに模様替えし、その後1857年に建て替えられた。1848年までその地区には監獄があり、表門前の広場で公開絞首刑が行なわれていた。
そこからほど近い農園で働いていたンデッという名の労働者がトラに襲われた事件がある。1857年4月17日、ンデッはトゥン・シアンティアウ所有の農園で働いているとき、トラの襲撃を受けた。その日の数日前からトラのうなり声を時おり耳にしていたが、トラはいったいどこに隠れていたのかンデッにはまったく見当がつかなった。襲われたンデッは身体にかなり傷を負ったが、必死に抵抗してかろうじて逃げることができた。トラの襲撃に気付いた大勢の人が救助に集まり、銃を持ったヨーロッパ人も何人か来て、そのトラを包囲して射殺した。そのトラは体長8フィートのキングタイガーだったそうだ。

ボイテンゾルフのヨーロッパ人地区や華人地区を通過してからスカサリ(Sukasari)〜タジュル(Tajur)〜ガドッ(Gadok)へと進めば、ガドッには有名なススパン硫黄温泉があり、遠方からも大勢が湯治にやってくる。標高1千5百フィートのガドッ地区から道は上昇していく。見晴らしの良い場所もたくさんあり、振り返ればボイテンゾルフの街もはるかかなただ。巨大な緑のボウルの中におもちゃのような家が集まり、白壁に赤屋根が周辺の緑の中で映えている。サラッ(Salak)山の麓に位置するボイテンゾルフからその隣にある連山の高い峰に向かって進む道はチサルアへ向かう道だ。大郵便道路建設が行われたとき、チサルアはリームスデイクの私有地だった。チサルアを出ると道は険しい上り坂になる。
メガムンドゥンの峠は指呼の間に見えるものの、歩みは遅い。周辺は険しい渓谷と道の両側に生えている巨大なソテツが印象的だ。1815年に英国人士官が書き残した記録には、メガムンドゥンの峠に立って南を見るとはるかかなたにインド洋が望見され、振り返って北を見るとジャワ海が遠望されたと記されているが、そんな時代は夢のまた夢になってしまったようだ。標高5千フィートの峠の冷気は風に吹かれて骨の髄まで染み透る。
峠から少し下がったガリグル(Ngalingur)と呼ばれる場所で疲れを癒す旅人の姿がある。道路脇の浅い泉のほとりでひとびとは束の間の休憩を取る。ここはプリブミにとって畏怖すべき聖所であるようで、香がたかれ、花が置かれ、小銭が散らばっている。ここを通りかかるひとびとは、そうやって平穏無事を祈願したにちがいない。
峠を越えるとくねくねと曲がった下り坂になる。標高3千3百フィートのチパナスは43℃の温泉が湧いている。1744年、ファン・イムホフ総督がこの涼しい高原に総督宮殿を建てようと計画したが実現しないまま歳月が過ぎた。その後1812年になって陸軍病院が建てられた。今の宮殿はもっと後に建てられたものだ。チパナスからチアンジュルまではあと13パアルほどしかない。標高3千5百フィートのシンダンラヤに上がり、また3千3百フィートのパチェッに下る。そして右に向かって旧道の急な坂を下りて行けば古い街の入り口に達する。標高1千6百メートルのチアンジュルにわたしたちはいま到着したのだ。


1921年のボゴールはどんな様子だったのだろうか?日本から船を乗り継いで南方のジャワ島を訪れた日本の知識人が書き残した手記がある。当時、ジャワ島に来てボゴールを行き先のひとつに選んだ外国人のほとんどは、世界に冠たるボゴール植物園を訪れることが目的だった。
手記を残したのは狩猟を愛好して「トラ狩りの殿様」という異名を取った徳川義親侯爵で、その年三月に南方目指して船出した侯爵はシンガポール〜マレーシア〜蘭領東印度を旅して回ったが、その際の手記の中を走り読みしてみることにしよう。(仮名遣いや文体と一部文章は変えてあります)
その年5月にシンガポールからオランダKPM会社の客船でバタビアに向かった侯爵は二日後にバタビアの外港タンジュンプリウッ(Tanjung Priok)に到着した。シンガポールはまるで人種の展覧会のようであったが、タンジュンプリウッにいたのは派手なジャワ更紗のサロンをまとうて何となく物憂げに見えるジャワ人と、真白い服装をしたオランダ人の男女ばかりだったそうだ。侯爵ご一行はタンジュンプリウッからウエルトフレーデン(Weltevreden)へ自動車で向かう。
「ウエルトフレーデンまで六哩。濁った水がよどんでいる堀割に沿うて自動車は矢のようにはしる。路の傍にヤギがうろうろと遊んでいたり、真白なスワンが溜まり水のようななかに浮かんだりしている。車はやがてウエルトフレーデンの町に入る。市街は広くはないが、さすがに住宅の設計に独特の技量を有するオランダ人の計画だけあって、翠光のしたたるような緑陰の市街だ。その間にこじんまりした白亜の、周囲の緑によく調和するように彩られた家が点々と建っている。堀は町の中まで貫いており、この濁った泥水の中で、ジャワの男女がマンデーをしたり更紗の洗濯をしたりしている。この汚い水の中に入ってものを洗って清くするというかれらの気がしれない。」
バタビアからご一行はボイテンゾルフ(Buitenzorg=ボゴールの旧名)に車で向かう。当時バタビアというのは、タンジュンプリウッ、バタビア、ウエルトフレデン、メーステルコルネリス(Meester Cornelis)の四つの独立した市の総称だと侯爵は書いている。
「ボイテンゾルフまで三十哩、自動車を駆ってウエルトフレデンを南に、メーステルコルネリスを抜けて一直線に走る。車は坦々として砥のような路を矢のように走る。耕地は甘藷畑か稲田。こうして走っている路の風趣は、日本の田舎とよく似ている。しかし一方では派手な更紗をまとうた娘が田植えをしているのに、他方ではもう稲が十分に実って穂を重そうに垂れていたり、あるいは刈り入れていたりする。水田に水牛の群れがいて、走る自動車をじろじろと眺めている。村に入ると植物の種類こそわが国のそれとは著しく異なっているが、生垣をめぐらした田舎家の有様、自動車に恐れて立ち騒ぐ鶏、珍しそうにわれわれを眺めている子供など、異郷にあるとは思われない。
三十哩の道を一時間で走り、昼にはすでにボイテンゾルフの市街に到着。やはり緑陰の町だ。瀟洒な、白く塗られて、花園で囲まれた小さなオランダ人の住家が樹陰に点在しており、清々しい閑寂な南国の町の趣がある。」
ご一行はホテルベルビューに宿を取り、すぐに植物園へと向かった。植物園の情景は省略し、お疲れで戻ってきたご一行はホテルに入る。
「ホテルベルビューは、苔のためにもう黒ずんでいるとはいうものの、赤い瓦に白塗りの壁。いかにも簡素な、熱帯の田舎にはふさわしい感じのするホテルだ。ベランダに出ると正面に富士に似てさらになだらかなサラッ(Salak)山がそびえている。真下にはグヌンサラッに源を発したサダネ(Sadane)川が、繁りに繁った椰子の林を巡り、村を貫いて流れている。椰子の葉で屋根を葺き、竹を編んで壁にした土人の家がいくつか、椰子の葉陰から隠見している。村人が幾人か、濁ったかなり流れの早い川の中に入ってサロンの洗濯や水浴をとっているのが見える。
昼と夜の境が明らかな熱帯では、日が沈むとすぐに夜の領となって、夕暮れの涼しい風が昼の暑さを持ち去ってしまう。
ジャワのホテルに泊まって一番面食らうのは、ジョンゴスがジャワ人であることは当然として、更紗の帽子にサロン、はだしで、マレー語でないと通じないことだ。
熱帯に来て、どこのホテルでも電気扇の設備がないのはちょっと奇跡のような感じがする。うちわや扇子は見たくともない。あれは田舎漢か、それでなければもっと寒いところで使うものだそうだ。常夏の国では全然不要で、暑いとき人工的に少しくらい空気を流動させてみたところで何のたしにもならず、涼しい感じも起こらないから、玉なす汗も出っぱなしで拭きもしない。日が沈んで夜となれば、爽快な夜の涼しい風が吹いてきて暑さを忘れさせるから、もちろん電気扇のようなやかましいものは要らず、いたって世話のないところだ。
ホテルには温浴がない。浴室には大きな水槽があって、河馬かオットセイのようにざぶざぶと水浴ばかり。昼間は問題ないが、夕方からは寒くって恐縮してしまう。
夕方外出して帰って来たら、ひとりのジャワ人が廊下の隅にだんびら(大刀)を腰にして居座していたのでぎょっとした。英雄在閑日月というような顔をして、悠々然とひかえている。よく見ればあんまり怖い顔もしていないし、荒れ出しそうもないから、少し怖かったけれども前を通って室に帰った。後できいたらジャガ(夜警)だということだった。太刀を持って夜警しなければならないほど物騒なホテルかと思ったら、今度は気味が悪くなった。


2004年1月15日に当時のスティヨソジャカルタ都知事がトランスジャカルタバス第一ルートの運行を開始させたとき、インドネシアの都市交通システムに大きな変革が起こった。バスウエイと愛称されたこのバス高速輸送システムは8つのルートまで輸送網を拡大したところでその後のルート拡張が停滞しているが、中央政府はこのバス高速輸送システム網をジャカルタに限定させず、更に周辺部にまで拡張させる構想を立てた。
それによれば、JAkarta-BOgor-DEpok-TAngerang-BEKasi-PUNcak-cianJUR略してJABODETABEKPUNJURにバスウエイの網の目をかけようというもので、ジャカルタのバスウエイ網をボゴール・デポッ・タングランに延長し、ボゴール県とチアンジュル県はプンチャッ峠を越えて行き来させるという広域乗客輸送システム構想になっている。各地元行政府はバスウエイ公共サービス機関を設置して隣県と接続するメインルートならびに地元内の支線・分線を設定してバスウエイ網を作り、その運行を行なうよう要請されているが、その態勢が整っているのはタングランとボゴールで、他の自治体はこの案件をどの程度の優先度で対応しようとしているのかはまだ明らかでない。
とはいえ、もしこの構想が実現すればプンチャッ越えの道を乗り合いバスが通ることになり、いま週末が来るたびに起こっているプンチャッ街道の大渋滞は大幅に緩和されることが期待できる。その日が一日も早くやってくることを願いながら、われわれはひたすら待つのである。