「グサン、それはいのち」



     グサン(gesang)。ジャワ語で「いのち」を意味するその語を名前に付けた男がいる。かれは世界の名曲『ブンガワンソロ』の作者である。92年前の10月1日にソロで生まれたグサンは最初父親からスタディという名を与えられた。父親はボヨラリ出身のバティック職人マルトディハルジョ、母親はクラテン生まれのスミダ。

     スタディが「いのち」を意味するグサンという名前に変えられたのは、生死の境をさまよったあと生き残ることができたからだ。高熱の病に冒された赤児は、生命を失わずに病に打ち克ったものの、左の耳に生涯の不具を抱えることになった。


     グサンの芸術活動は絵画にはじまる。少年のころからグサンは絵を描くことを好んだ。若い時代の作品のひとつが今でもかれの自宅の応接に掲げられている。年とともにグサンの絵は優れたものとなり、ついには5ルピアで売れるようになった。しかし当時絵の具のチューブ1本は25センだったから、それほどコスト効率のよいビジネスとは言えなかったにちがいない。

     そんなころにクロンチョン音楽に魅せられたグサンは急速に音楽の世界にのめりこんで行った。自分の描いた絵が売りものになるというレベルに達していたグサン青年がクロンチョンにのめりこむのを見かねた両親が絵描きを続けるようかれを説得したが、グサンのクロンチョンへの情熱は親の意見を打ち負かすほど強く燃え上がったようだ。「あのころ、わたしはクロンチョン歌手になることを夢見ていた。」かれは当時をそう回顧する。

     クロンチョンを求めるグサンはその音楽のある場所を巡った。ソロのラヂオ局ラディオソロに入り浸ったグサンは、ラヂオ音楽ファンの常連「顔」となる。ついには番組制作監督から声をかけられるが、すぐに歌手として桧舞台に上がったわけではない。グサンは自作のクロンチョン曲を制作関係者に見てもらうが、出来がいまひとつだとしてなかなか取り上げてはもらえなかった。

     一方クロンチョン楽団は雨後のたけのこのように続々と誕生していたから、グサンが歌手として加わるチャンスは山のようにあった。こうしてグサンという名のクロンチョン歌手がデビューし、その音楽体験を通してグサンの音楽能力が開花したのである。国営ラヂオ局RRIがグサンのクロンチョン楽団をプログラムのひとつに使った。おかげでグサンの楽団は出演ギャラが2.5ルピアから6ルピアに跳ね上がった。

     クロンチョン歌手として出世したかったグサンはソロからジャカルタへの道を目指した。当時地方の歌手にとっての登竜門はRRIが主催するラヂオスター(Bintang Radio)コンテストで、グサンはクロンチョン部門に何度も挑戦したが最高の出来で5位だった。ジャカルタの本選会に出場できるのは各地方の第一位に限られている。

     そのころグサンが世に送り出した処女作はSi Piatuという曲で、これは自分の半生に題材を採ったもの。Roda Duniaという曲は第二次世界大戦からインスピレーションを得て作られた。かれの終生の大作品となるブンガワンソロは1940年ごろグサンが乾季のソロ河畔にたたずんで曲想を練っているときに生まれたものだ。グサンの絵は自然派の写実的なものであり、曲の歌詞も自分の身近な体験を独特な感受性でとらえたものばかりだ。それが聞く人の心情に深々と食いこんでくる。グサンは決して多作ではない。かれが自分の一生で作品として産み落としたと認めているのは25曲だけ。ブンガワンソロも仕上げるのに6ヶ月を要している。「自分の作品の中でどの曲がいちばん好きかと聞かれることがある。わたしにとっては全部同じだ。自分の生んだ子供の中でどの子が好きかと聞かれているようなもので、自分の子は全部が愛しい。」


     芸術家グサンにも愛国者の血が流れていたというエピソードがある。インドネシア独立闘争時代、オランダの第一回軍事攻勢のときグサンは銃を手にして民族独立のために立ち上がりたいとインドネシア軍に志願したが、あんたは兵隊の顔をしていない、と言われて拒否された。グサンはその半生でさまざまな成功と失敗を味わっているが、それらは人生の中のあるがままのものとしてかれは受け入れてきた。ジャワ人特有の穏やかな人生観が今年92歳のグサンを導いてきたのだ。既に老いぼれのひとりになってしまったグサンは、それでもその半生の中で培ってきた情熱を若者のように語ることができる。かれのいのちはその情熱と一緒にまだ煌々と燃えている。