「スマイル」



微笑みの国、インドネシア。そう、インドネシアへ来ればだれもがニコニコとほほえみを向けてくれる。その人間的な温かみやひとなつっこさにハートをギュッとにぎられてインドネシア好きになる外国人は数知れない。つっけんどんな表情や態度で外国人に接してくるインドネシア人はほんのひとにぎりの、例外と言ってよいくらいのものだ。なにしろオルバ期には国家元首さえもがスマイリングジェネラルという愛称をつけられたくらいで、インドネシア人というのはいつもニコニコしている。


われわれがニコニコするのは、うれしいとき、楽しいとき、ハッピーなときであり、つまり感情が顔の表情をゆるませるという、人間の持つユニバーサルな反応のひとつなのだが、このりくつから行けばインドネシア人は常にハッピーに生きている幸福な民族だということになる。確かにそれはインドネシア人の生活モットーであるヘピヘピ主義に合致していることがらにはちがいない。とはいえ、どの国でも同じだが、人間が毎日の生活の中で常にハッピーでいられるのかという疑問はわれわれの日常生活をかえりみれば当然湧いてくるものだ。厄介なものごとに対処するためにはヘラヘラ笑ってはいられず、真剣にそれを克服しようと努め、それがうまく解決されたあかつきにやっとスマイルが顔に戻ってくるのがわれわれの習慣だが、インドネシア人を見ているとどうも同じようにはしていないようだ。そこにあるのは厄介なものごとを解決しようとすることとハッピーな状態にある自分を継続させることの二者択一であり、どうもインドネシア人の優先するものはわれわれと異なっているのではないかという気がしてくるのである。

対人関係においても同様で、われわれは自分が好きな相手に会うとニコニコする。好きという感情を抱くべき相手でなければ通常はシリアスな表情でその相手に接している。たとえば社内で、業務上でさえ直接の接触がないオエライさんにニコニコとスマイルを向けることは、わたしの時代にはなかったように思う。これも社内風土に影響されることがらだから、ひとりひとりの個人体験には差がつきものだろうが、日本の文化ではものごとに取り組むときに真剣な態度がよしとされていた。スマイルは日本文化の中で真剣な態度というカテゴリーに入らないものだ。


インドネシアに駐在し、自分の部下や社内のみんなが終日自分にスマイルを向けてきたり、あるいは夜の紅灯街でみんながとてもナイーブな愛想良さで振舞うのを体験し、「自分はそんなにモテる男ではなかったはずだが・・・・・」という思いが脳裏の片隅にしゃがみこんでいるにもかかわらず、日々の時の流れがそれを風化させておかしな誤解の中に埋没して行く外国人もこれまた数知れないと聞いている。

日曜日に外出したときに街中のバス停でひとりバスが来るのを待っている、社内でいつもニコニコと快活に振舞っている部下の女性の姿を目にし、その取り付くしまのないブスッとした表情に気付いて社内での姿との落差に愕然とした経験がわたしにはある。日系企業だから社内の業務風土は業績と効率を追い求めるのに忙しく、従業員のプライドや面目は二の次にされることが多々あってもインドネシア人従業員たちは常にニコニコと快活に業務に励んでいたからかれらがそんな顔も持っているのだということに気がつかなかったわけだが、これはつまり会社にやってきたかれらは会社という場にふさわしい(とかれらの文化が定める)態度を社内で取っていたにすぎないのだという理解にわたしは到達した。


インドネシア人にとってスマイルは社会生活上のエチケットになっている。相手が見知らぬ他人であってもほほえみかけるのが礼儀なのだ。たとえ心の底でその相手をどう評価し、自分がどのような感情をその相手に抱いたかということとはまったく無関係に、社交辞令のひとつとして微笑む自分の表情を形作るのである。わたしの部下のジャワ人女性から、相手がだれであろうとスマイルを絶やさないのが礼儀であり、自分はそうしつけられてきた、という話を聞いたことがある。わたしはジャワ人の持つその社会習慣にモフタル・ルビスがインドネシア人の性向の筆頭に掲げた偽善性の存在を嗅ぎ取るのだが、インドネシア人自身にとっては自分が本源的に自由な主体性を持つ一個の人間として振舞うよりも世間の中で示す自分の姿が自分の文化の中にある諸価値に合致しているという人生のありかたに強い安心感を抱くのだろう。封建文化が築き上げたそのような人間のビヘイビアを世界の諸民族は歴史の一時代に打ち壊し、人間性の解放と称して自分自身を一個の本源的な人間に変化させるという方向転換を行なってきたわけで、いつの日にかインドネシア民族がそのような方向転換を果たしたあかつきには、スマイルの国インドネシアというキャッチフレーズは昔語りになってしまうかもしれない。


西スラウェシ州マムジュ県で、県令が県内の病院を視察した。そして県令の出した改善提案のトップに上がったのは、看護婦たちが業務の中でまったくスマイルを見せないことだった。

看護婦が患者にほほえみかければ病気や怪我に苦しんでいる患者の気持ちがやわらげられ、苦痛も多少は楽になるだろう、という理由を県令は考えたようだ。しかしインドネシア文化のおとしごである県令にとってみれば、スマイルの欠如している人間集団の活動空間にかれはいたたまれないほどの居心地の悪さを感じたにちがいない。

そこで県令は、県内の看護士養成機関に命令を出した。学生・生徒に正しいスマイルの実践方法を教えることをカリキュラムの中に加え、スマイル訓練科目の時間を設けるように、と。

この種の職業上のスマイルは世界中のビジネススクールでも、そして接客業務に就く従業員の研修でも、いたるところで行なわれている。ところがそれが職業上職務上のスマイルであるがために、こわばった微笑みの仮面をわれわれは係員の顔に見出すことになる。だから、そのような国々がインドネシアのように『微笑みの国』と呼ばれることはない。ならばどうしてインドネシアが微笑みの国と呼ばれるのだろうか?


たしかにインドネシア人はいつもニコニコしている。幸福に生きることを人生最大の目標に据えてヘピヘピ主義を実践しているかれら、行儀作法としてのスマイルを幼いころから躾けあげられてきたかれら、そんなスマイルの達人たちと職務としてのスマイルを訓練されただけで自分に正直に生きるほうを優先したがっている他の国のひとびととの圧倒的な違いにわれわれは瞠目せざるをえないようだ。