「火事と暴力はどこの華?」



     都庁消防災害対策局データによれば、2009年は9月30日までで635件の火災が発生し、そのうちの396件が電気のショートによるものと判定されている。また住宅エリアで発生した火災は271件あり、電気設備の安全性を含めて住民の電気器具取扱いが火災発生の大きい要因になっているようだ。その期間の火災による損失額は2,217億ルピアで、2008年年間の2,129.9億を追い越してしまった。


     貧しいひとびとは貧しいが故の非合理な行動を取り勝ちで、貧しさから脱却しようとするかれら自身の足をそれが引っ張るという『貧困のパラドックス』はどの発展途上国にもあるにちがいない。安全性への投資を避けようとするビヘイビヤもそのひとつであり、家を建てれば屋内配線に規格外の安物を使い、そうでなくとも電気工事職人は目に見えない場所の電線や接続器具には差額を懐に入れようとして規格外の安物を使いたがる。安物電気設備は劣化老化が規格品より激しく、あるいはネズミにかじられたり排泄物を浴びて被覆から露出し、しかもそんなことの起こりやすい屋根裏に裸電線のままひかれていたりするから、漏電火災は容易に起こる。「建物が建築後10年経過すれば屋内配線のチェックを行なって老化劣化した電気設備を交換せよ」「15年経過すれば屋内配線は新品に総入れ替えせよ」とインドネシア政府は国民を指導しているものの、それに従っているという市民をついぞ見かけたことがない。こうして漏電が火災を生み、貧しいと言いながらそれなりの蓄財を自宅に持ったひとがすべてを失う破目に陥る。

     貧困のパラドックスにはいくつかのパターンが見られ、貧困であるがゆえに豊かな暮らしに憧れるひとびとの中には物を粗末に扱うことが豊かさ・贅沢さのシンボルであるという理解を持つ者が出る。かれらの目には「物惜しみ・金惜しみ」こそが貧困の象徴であると映るようだ。かれらの日常生活におけるビヘイビヤはたいてい粗野で、たとえばガラスや陶器で作られた物は乱暴に扱えば欠けたり割れたりするということを頭では理解しながらも、身体はそれにそぐわない振舞いをする。壊さないように優しく丁寧に扱えば何年も長持ちする日用品を一年もしないうちに壊して買い換える。火の車を回しながら、その一方で豊かな暮らしを実感しようとして稼いだ金をイージーに支出するから、本質的に暮らしを豊かにすることのできる品物を自分の暮らしの中に持つことがむつかしい。これは数十年前に日本で流行ったフローとストック議論に比肩できるものだとわたしは思う。


     住宅がゴミゴミと建てこむ低所得層住宅地区には借家借室がたくさんあり、居住者の中には出入りがたいへん不定期なひとも少なくない。一区画に多数の借家借室の集まったところでは、たったひとつのコンセントからタコ足で二三十世帯が小さい電力を分け合っているところもある。そのような環境では盗電も発生しやすい。盗電の場合にはブレーカーやヒューズとまったく無縁だから、過電流が流れて火災の危険が起こってもそれを防ぐ仕組みがない。電力会社は自社の収益問題としてのみ盗電を見るのでなく社会保全からのアプローチも不可欠なはずだが、そのような低所得層エリアへの給電は盗電も含めてたいへん順調に行なわれている、と皮肉る声もある。

     そんなところで電気湯沸し器や扇風機を点けたまま借家借室を24時間以上あける住人が中にいる。かれらが使う湯沸かし器や扇風機はたいていプラスチックが多用された低価格の商品であり、湯沸かし器の発熱体や扇風機のモーターが過熱すればプラスチックが溶けてきわめて危険な状態になる。メッカ巡礼者が宿泊したサウジのホテルで火災が発生したときも、インドネシアからの巡礼者がアイロンや湯沸かし器を点けたまま部屋を出て礼拝をしていたのが原因だとされている。

     さて2009年は平均して毎日2.3件の火災が発生している首都ジャカルタの消防体制はどうなっているのだろうか?都庁には消防災害対策局があって都下5市の消防災害対策次局を従えている。消防災害対策次局はそれぞれが消防隊を擁し、担当地区の消防責任を負っている。

     都民から火災の通報があると、消防隊員は通報者の名前、電話番号、通報時間、火災現場住所、火事は住居か事務所か店舗住宅か、火災規模はどのくらいかといった内容をメモしてから一旦電話を切り、通報者の電話番号にコールバックする。イセンの人騒がせ通報も少なくないため、それに踊らされない工夫が必要なのだ。

     通報がまともなものであることが確認されたら、隊員は電力会社・救急車・赤十字・警察に連絡を取って協力を要請する。通報を受けてから火災現場に消防車が出動するまでに48分の時間が必要とされている。通報の迅速化を図るため都庁は3,017ヶ所にスマートアラームを設置した。ボタンが押されたら火災発生地区がどこなのかがわかるようになっている。


     消防隊は言うまでもなく消防車で現場にやってくる。都庁所有の消防車は145台で、それが5市に配備されている。その数では都下44郡中の21郡しか手が回らず、広域火災が発生すればまったくの手不足になると隊員は言う。だから消防隊は、タテ割りの縄張り意識が普通のインドネシアでまったく特異な行政組織になっている。基本は配備されている市が持ち場であるものの、他市から出動要請があれば東西南北どこへでも出かけて行く。そんな体制だから、地元でさえ出動に48分かかり、交通ラッシュの道路を押し渡って現場に到着し、もっと消防車が必要だという判断がそのあとでなされて他市消防隊への出動要請となるわけで、必要な数の消防車がそろうまでにはいったいどのくらいの時間が経過するのだろうか?

     消防隊の消防活動にとって障害はそれだけにとどまらない。火災現場が住宅密集地区の奥深くだったりすると狭い路地を通って現場に接近するのが不可能なことも再三で、ホースの火災現場接近を阻んでいるのは人間という状況が出現する。中流住宅地区なら車が通過できる道路が貫通しているところが多いものの、夜間は住民が自宅前の路上に車を駐車するために消防車が道路を通れない状況が発生するし、エリート住宅地にはポルタルが設置されているのが普通で、それが消防車の地区内進入を邪魔することも多い。中流住宅地の奥で火災が発生し、やってきた消防車が路上駐車の車に邪魔されて前進できず、義務感あふれる警備員がその進路にある車の持主の家を一軒一軒回って車の移動に協力してくれたものの、消防車がその道路を通過したのは到着してから一時間後だった。

     そんな艱難辛苦を乗り越えて火災現場に接近し、いざ放水を開始しようとするとこんどは住民が消防活動を邪魔する。大勢の住民が消火活動に、火に閉じ込められた人間の救出に、あるいは家財道具を持ち出して避難しよう、とそれぞれ右往左往している文字通り火事場騒ぎの現場で、出火した家の住人はまだしもその隣人は火が自分の家に燃え移らないかと気が気でないのが実情だ。待てど暮らせどやってこない消防隊がやっと到着したときに火は既にその隣人の家に燃え移っているということは頻繁に起こっている。そんなときその隣人の怒りは数十倍に膨張して消防隊員に向けられることになる。ある火災のとき、放水にもかかわらず火勢が強まったため「テメーら、灯油をばら撒きやがって!」と怒り狂った住民が隊員に殴りかかったこともある。

     燃え広がる火が自分の家を狙っているという状況に襲われるひとの数も少なくない。消防隊が到着すると、そんなひとびとが先を争って、わが家に先に水をかけて焼かれないようにしろと隊員を強要する。猛々しく強要するだけならまだしも、ナタや鎌の刃を隊員に向けてくる。住民のそんな仕打ちにはもう慣れっこになっている、と隊員のひとりは言う。「消防隊員は消火作業の原則を習得し、消火技術を身に付けている。ところが十分な訓練を受けていることを住民たちは理解していない。火元の消火が不可能だと判断されたら、延焼を食い止めるために周辺の家屋に放水する。それ以前に放水を分散しては十分な効果が得られない」

     それを知らない住民たちは、自分の家を火から救おうと考えて消防ホースを奪い合う。そんな住民に殴られたり刃物を向けられたことのない隊員はまだ新米だ。ホースを奪おうとして隊員に拒否された住民たちは怒りに駆られて消防車を破壊しようとする。燃え盛る火に照らされて狂気が支配する異常な世界がそこに出現し、そんな住民たちの袋叩きにあって重傷を負った隊員もいる。


     あるときマンガライ地区で火災が発生し、現場に向かって出動した消防車は現場の手前の町で一群の男たちにストップされた。ここから先へは行かせない、と男たちは言う。手に手に刃物を持った一群の男たちを突っ切って進むにはためらいが生じる。話を聞くと、これは町と町の間で起こったタウラン(集団喧嘩)による火災であり、敵の町の火事を消しに行くやつはオレたちの敵だという論理がその場を支配していた。

     昔、火事は消防隊の稼ぎ場だという話が流布していた。火災現場に消防車がやってきて放水するが、まだ火が消えないのに水が止まる。隊員は家の主に「水がなくなった」と言う。ところが隊員に金を渡したとたん、すぐまた放水が再開されたという話。あるいは火が燃え広がっているところに消防車がやってくるとせりがはじまるという話。大きい金額を払った者の家から順番に水をかけていくというのだ。それらが実話かホラ話かよくわからないものの、オルバ期という環境下でのそんな話は妙に現実感があった。

     今でも数軒に燃え広がった火事を消してくれた消防隊には、隣組長が30万ルピアほどの謝礼金を渡す。そんな金は消防隊員たちの活動を支える原動力のひとつであると言うことができる。都の消防隊員には正規公務員と契約資格の者が混じっている。正規公務員はそのグレードに従った基本給に諸手当が加わる。2Dグレードの公務員は基本給が250万ルピアで、諸手当が加わって手取り月額は500万ルピアになる。ところが契約ステータスの者は月給わずか92万5千ルピアであり、手当は消火出動があるたびに1回3時間までなら1万ルピア、3時間を超えればそれが24時間になろうとも2万5千ルピアという金額をもらえるだけ。消防車の運転手を務めれば更に月額23万5千ルピアの手当が付加される。

     都庁消防災害対策局はいま3,320名の職員を擁しているが、そのうちの1,650名は契約職員だ。年齢構成を見ると、45歳以上が500名おり、現場の消防活動には不向きの職員が増加している。火と全身全霊で格闘する消防隊員には体力・知力・精神力の涵養が不可欠であり、隊員は毎週三回2キロを走って体力を養っている。更に消火作業に関する技術研修も盛んで、フィリピン・オーストラリア・日本・ヨーロッパ・アメリカなどへの海外研修もできるだけ多くの隊員が参加できるよう配慮されている。


     いまや毎日2.3件の火災発生が記録されているジャカルタは往時の江戸を彷彿とさせてくれるのだが、ジャカルタの火事の歴史はどうなっているのだろうか?

     オランダVOCがバタビア市街を建設する以前にこの地域で起こった火災を記録している資料はひとつもない。「だから火事などひとつも起こらなかったのだ」という意見を吐かれても、それを信じるひとはひとりもいないだろう。VOCはアジアに築いた最大の貿易拠点であるバタビア港の日々のできごとを日誌の中に綿密に記録した。それは港湾管理日誌であり、航海日誌できたえた筆の冴えを十二分に反映させたものでもある。どこからどういう船が何を積んで入港したとか、VOCの船が何を積んで入港したあるいは出港したといった記録がその中を埋めている。そこには琉球の船の入港記録もあり、当時の沖縄人の海洋雄飛を物語ってくれている。

     今のスンダクラパ港に近い場所に建てられたカスティルと呼ばれるバタビア要塞から出てバタビア城市を壁の中に築いたVOCは、その周辺エリアへの支配を確立して行く過程で生活圏を城壁の外へと拡大して行った。最初、壁の外はトラやサイあるいはワニなど危険な野獣の徘徊するジャングルだったが、ジャングルは徐々に開拓されてサトウキビやトウモロコシの農園に姿を変えた。そんな中で森林火災が発生したという記録が少なからず残されている。城市内の火災の記録は見当たらないのだが、だから火災は起こらなかったという弁を信じるひともいないだろう。城市内の建物で火災が発生したら、消防隊など存在しない時代の消火活動はいったいどのようになされたのだろうか?

     ひとびとが協力して消火活動を行ったにちがいないのだが、果たして城市内を流れるチリウン川やそこから引いた運河の水を木製バケツに汲んで火に浴びせかけたのだろうか?そうに決まっているとお考えの読者はきっとこの話をご存知ないだろう。

     当時、家屋内にトイレのなかったヨーロッパ人のライフスタイルがバタビア城市でも繰り広げられていた。それは今や博物館となったガジャマダ通り111番地の国立古文書館(Gedung Arsip Nasional)やファタヒラ公園にあるジャカルタ歴史博物館(Museum Fatahillah)の建物が証明してくれる。その時代にバタビアに居住したヨーロッパ人たちは、排泄物は桶に入れて終日保管し夜の定められた時間が来ると一斉に自宅近くの川や運河に投げ捨てていた。だから夜遅くに発生した火事の際に本当にそんな水を汲んで火に浴びせかけていたのだろうか、という疑問がわたしの頭を占領しているのである。

     行政がバタビアではじめて消防対策を取り上げたのは1873年、ジェームズ・ロードン総督の時代だった。バタビア市庁はバタビアと周辺エリアにおける消防に関する規則をはじめて定めた。それからのおよそ半世紀、消防隊はありあわせの装備と知識で火災に対処していたらしい。1917年オランダ東印度政庁ははじめて消防隊のモダン化を行い、蒸気式放水機と消防車が導入された。そしてウエルトフレーデン鉄道駅(今のガンビル駅)の近くに常駐し、火災発生とともに現場に急行したが、耐圧ホースが短くまた隊員の消火知識も低かったため、往々にして燃えるにまかせる消火活動だったようだ。


     1918年に中央ジャカルタ市クウィタン(Kwitang)地区で発生した大火にバタビア市消防隊はまるで歯が立たず、甚大な損害を生んでしまった。その失敗を契機としてバタビア市庁は退役中佐RBMデウェイスを起用し、本格的な消防機関の育成を手がけさせることにした。1919年、これまでの姿を一新したバタビア市消防隊ブランウィル(オランダ語brandweerは消防隊を意味し、発音はブランウェルだがインドネシア語化した音で表記する)がデウェイスの指揮下に発足した。これが現在の都庁消防隊の前身とされている。

     バタビア市消防隊は最新鋭の消火装備を有し十分な隊員数を擁してバタビア市とその周辺地区で発生する火災に大活躍した。今でも年寄りは消防車をブランウィルと呼んで信頼感に満ちたまなざしを投げかける。しかしオランダ時代のバタビアで消火活動がうまく行った裏には秘密が隠されていた。住宅地区の表通りに沿った家屋の並びの裏手には必ず小さい路地が設けられていた。この路地はブランガンと呼ばれ、火災が発生した際に消防隊員だけが通行できる通路として確保されていたのである。

     独立後のジャカルタでそのような習慣は完全に反故にされてしまった。大勢の上京者を受け入れるために土地利用はぎりぎりにまで高められ、バタビア時代〜日本軍政時代を通して街中を流れていた多くの運河が埋め立てられていった。それらはすべて家屋を建て並べるためになされたことだ。何かを優先するために他の何かをすべて犠牲にしてしまったひとびとは、いまや水害や火災など人為的な災害に苦しんでいる。