「インドネシア人と日本人」


 インドネシア人と日本人と比べて一番違うところはどこだろうか。それはイ_ア人の行動原理が家族を含めた利己主義を中心としているのに対し、日本人がグループの利益もしくは、公益を優先させていることではないかと思う。
 イ_ア人は基本的に政府とか政治に対して不信感が強い。きびしい浮世にあって頼りになるのは、血のつながりのある家族だけである。次が味方になってくれる友人である。新しい人間関係をつくることを大切なことと思っている。
 イ_ア人には国という考え方がない。あったとしても、それは自分らの国ではない。仮に自分らの国であっても、自分らの利益を守ってくれる国ではない。だから法律が自分らに不都合であれば、法律をおかしても罪にならないようにすればよいと思うし、税金もうまく避けられるようなら、なるべく支払わないですませようとする。なぜならば「法律」や「税法」は、その国の権力者に都合のよいようにできており、「それを守らないでも罰せられないですむものなら、守らなくともいいじゃないか」と考えられているからである。国とは家をその傘下におさめたものではなくて、一般の家と競争して大きくなったものが国の大きさまでふくれあがって、他を圧しているにすぎない。

 法律と道徳律は自分らなりにはっきり区別している。法律は時の権力者が自分らに都合のよいようにつくったものだから、それを破ったとしても良心の呵責はあまりない。その代わり、捕まって没収されても仕方がない。権力者の仕掛けたわなに引っかかったようなものだから、運が悪いと思ってあきらめるよりほかない。
 社会の実情を無視して法律ができており、時代が変わっても法律の改正が行われないから、それが手枷足枷になる。しかも監督官庁が相互に矛盾した規制をするから、法律を遵守する人よりもヤクザな考え方をした人が気をもまないですんでいる。
 税務署は税金さえ払えば、正式のライセンスがあるかどうかにこだわらない。
 イ_ア人は法律や規制は公益のためにあるとはあまり思っておらず、役人が商売人に言いがかりをつけてお金をゆするためにあると思っている。だから、法の網目を巧みに脱けることに知恵をしぼる。役人とつきあうのは、そうした抜け道を教えてもらうためであり、そのためにお金がかかるとしても、なるべく安上がりにすませたいと思っている。法律とか規定は商売人の邪魔をするためにあるものであり、それを楯にお金をゆする道具くらいにイ_ア人は誰でも心得ている。
 イ_アでは渡世人だけでなく、小心翼々として善良な人民でも、口に出してこそ言わないが、「法律は人を守るためよりは困らせるためにある」と思っている。だから法を尊重する気持ちがうすい。なぜそういうことになるかと言うと、国民が基本的に自国の政府を信用していないからであり、そうなった原因は、政府がつぶれてそれにかわる政府が新しくできても、「スープが入れかわっても、具は同じ」ということをくりかえしてきたからである。腐敗した役人たちが追い払われて新しい役人にかわったとしても、人民のために奉仕するのはほんの短い期間だけで、またすぐ元の腐った役人に逆戻りしてしまう。腐敗は役人に起こるものというよりは、椅子そのものにつきまとっているものであり、誰が坐っても重症か軽傷かの違いがあるだけで、みな同じとイ_ア人は考えているのである。
 権力の集中を防ぐためにつくられた責任の分散は非能率を絵に描いたような結果をもたらしている。
 役人は許可を与える係というよりは、邪魔をする係といったほうが真相に近い。
 ある役人があまりにもワイロを取りすぎるので、公共便所の門番に左遷された。「いくら何でも公共便所の門番ではお前もお金がとれまい」と友人が笑うと、本人がむきになって言った。「心配するな。方法はいくらでもある。便所に入りたい奴を入れないようにし、便所に入りたくない奴を中に押し込めば、どちらからもお金はとれるのさ」。
 手続きを簡素化すると汚職のもとになることをおそれて、どこの国でも間違いの起こらないように、監督官庁をふやす。するとお金をくばって歩く部署がそれだけふえてますますお金と時間がかかるようになる。給料の安い役人にとっては耳寄りな話かもしれないが、その結果は、すべての許可事項が、「原則ノー、例外イエス」になってしまうのである。
 イ_アの組織は役所にしても会社にしても、バラバラの個人によって成り立っているせいで、上と下の連帯感がない。したがって上の者が下の犯した間違いを自分の責任として受けとめることがない。引責辞職どころか、部下が間違いを起こすと、上司は身にふりかかる火の粉を必死になって払いおとそうとする。イ_ア人は明らかに過失がある場合でも、決して自分の非を認めようとしないのが普通である。

 明らかに自分の過失であっても決して謝ろうとしないし、いつもいいわけばかりしている。それでいて自分が一番えらいと思い込んでいるし、明らかに自分の過失であっても、平気で責任を転嫁して自分自身に対してはこれっぽっちの反省もない。
 イ_ア人は約束を守らない人が多い。なかでも最も多いのはお金のために平気で契約を反古にすること。相手のお金をまきあげるのも、お金儲けの方法の一つと考えているから、詐欺、横領、使いこみなどはイ_ア人社会では日常茶飯事に属する。
 お金が儲かれば、あとはどうでもよい。

 インドネシア人には前科者という意識がほとんどない。罪を犯しても牢屋に入ってくれば、罪を償ったつもりになっているし、世間も白い眼で見たりしない。日本人のように前科者の烙印を押され、世渡りもままならぬ環境に追い込まれるのとはわけが違うのである。国そのものが時の権力者の都合で運営され、法に触れて罰せられたりする人は、運が悪かったのだと思う風潮が世間一般に強いからであろう。法を犯して裁判中の者でも、刑が定まらない間はまだ犯人ではないから、と平気で選挙に立候補する。お金をふんだんにばらまいて運よく議員にでも当選すれば、その地位を利用して法廷で戦うことも容易になるし、裁判官もたじろぐだろうとタカをくくっている。イ_アには立派な憲法があって三権分立も確立されているはずだが、現実に起こっていることはもっと遥かに前時代的なところにとどまっている。立派な憲法はあっても人権は必ずしも法の定めるとおりに尊重されていない。
 三権分立といっても、時の権力者の発言権が強いから、その意向は無視できないし、裁判官がお金で動く傾向も強い。こうなると政府もあてにならないし、警察も頼りにならない。法律はもっと役に立たない。結局、あてにできるのはお金だけで、あとは家族と、家族の延長線上にある人間関係だけということになる。どこから見てもイ_ア人の最後の堡は、家族である。ヨーロッパのような個人主義はイ_ア人の間には見られない。家長の独裁ではあっても、家長の個人主義ではないから、家族の結束は堅い。
 ただ世渡りをするのに家族は小さなユニットにすぎないから、それだけで浮世の荒波は乗り切れない。自分らを災害から守るためには各方面にネットワークを築いておく必要がある。子供たちの結婚を通じて姻戚関係をつくるのもその一つだし、官界で派閥に加盟するのもその一つである。「袖振り合うも他生の縁」と言うけれど、イ_ア人が一番大切にするのはそうした人の縁である。
 インドネシア人ほどおべんちゃらのうまい国民をほかに知らない。はじめてあった人にも、一生懸命お世辞を言って、少しでも賞められそうなことがあると、賞め言葉を並べ立てる。そうやって相手をいい気分にさせることが交際術と思っているのである。お世辞のうまい人は本当のことを言わない。また言いたがらない。同じように本当のことも聞きたがらない。聞いても本気にしない。
 たとえばうちの家内がイ_ア人の友達と会ったとする。どちらかが新しい服を着ていたりすると、「あら、素敵ね。とてもよく似合うわ。」とお世辞の一つも言うところまでは日本人もイ_ア人も同じだが、イ_ア人だと次の瞬間にはもう相手の服を手でさわったり、「いくらで買ったの?どこで買ったの?」ときいたりしている。どこの店で定価はいくらしていたけれども、いくらに値切って買ったかを正直に相手に告げる。心の中で「どうです。うちは買物上手でしょう?」と自慢したくなる気持ちと、「羨ましいでしょう。こんな高い買物でも平気でできるんですよ。」という虚栄心が同居しているのである。高い物を買える身分であることと、高い物を安く買えることはイ_ア人にとって同じくらい自慢に値することなのである。

 もともとインドネシアには主人としもべといった二つの階級しかなく、使われる人は使われることに馴れてきた。
 自然に放置すれば、頭のいい連中やすばしこい連中が天下の富を独り占めにして、社会的な貧富の差がどうしようもないくらい大きくひらいてしまう。地方では地主が肥り、小作農や零細民がその分やせ衰え、都会地では資本家が富を集め、労働者は搾取の対象になって、ろくにメシも食えなくなった。とにかく地主と資本家を民の敵として狙いを定めて攻撃すれば、食えない大衆を味方につけることができた。
 外国企業は資本主義を代表する悪役であり、労働者の膏血を絞ってつくったお金をいくらでも持っていると思われていた。そういう奴らから取れるだけ取ってやれというのがイ_ア側の基本姿勢であった。
 イ_ア人がサービスを知らないのではない。サービスをしても自分のトクにならないし、サービスをしなくともクビになる心配がなければ、手足が頭の命令どおりに動いてくれないのである。


 四回にわたってインドネシア人の性格や社会観などを取り上げてきましたが、ご賛同いただけましたでしょうか?「そうだ、そうだ」とうなずいていただけていたのであれば、これほどうれしいことはありません。ところで、今回のシリーズについてタイトルと中味に違和感を抱かれた読者も少なくないのではないかと思います。なにしろインドネシア人と日本人との比較対照などほとんど出てきませんので。
 実はこのシリーズ、タネを明かしますと筆者のいたずらパロディでございます。1993年に発行された邱永漢氏の著作「中国人と日本人」は中国人の性格や社会観などを日本人のものと対照して解説した作品ですが、それを読んでいるうちに何度となく「えっ、そりゃイ_アのことじゃあ・・・」という思いに襲われました。で勝手ながらその思いに襲われた文章を「中国人」を「インドネシア人」に置き換えただけでそのまま引用し、脈絡を無視して集めたものがこのシリーズです。
 それにしても、イ_ア人と中国人がそこまで似ているというのはいったいどういうことなのでしょうか?これは更に研究を要するテーマだと思われますが、見方を変えればそれだけ多くの類似点を持っている中国人とインドネシア人に対して日本人はかなり違った文化の子であるということが立証されているようにも思えます。素朴なヒューマニズムから同じ人間だというような括り方をするとうまく付き合えないような危惧を感じるのは、果たして筆者だけでしょうか?