「エンガン」


 犀鳥。

この種はアフリカ、インド、そして東南アジアの熱帯地方に広く分布している。スマトラからインドシナ半島一帯にかけて、低地から標高一千二百メートルの間に棲息する大犀鳥はこの種の中で最大で、体長1.5メートルに達するものもある。羽毛はしっとり落ち着いた緑黒色に、尾は幅広の縞模様で飾られ、黄銅色の大きなくちばしの中ほどから頭頂部にかけて鶏のとさかのように大きなつのがあり、その名前の由来を物語っている。翼を広げて高空を飛翔する雄大な姿は悠々とした力強い羽ばたきとともに、見る者に王者の風格と威厳を感じさせてくれる。

主食はいちじくやパーム類などの果実だが、虫・ネズミ・トカゲ・小鳥・こうもり、あるいは小型の哺乳類をも食す。三羽から五羽の群れで高木に棲むのを好み、交尾期にはつがいを組む。雌は木の洞で産卵すると、穴ごもりして卵の孵化にあたる。雌は洞の内側から自分の排泄物を用い、雄は外側から泥や粘土を運んできて、わずかな隙間を残して洞をふさいでしまう。産卵は一度に多くても二個までで、四週間後に卵は孵化するが、母鳥と幼鳥は4〜5ヶ月の間、その閉ざされた洞の中で暮らし、雄がその間、餌を運んできて母子を養う。幼鳥が十分に成長すると母鳥は洞から出るが、子供が飛べるようになるまで親が餌を与え続ける。インドネシアでこの鳥は、エンガンあるいはランコンと呼ばれている。



西スマトラ州シンガラン山。曙光が夜の闇を少しずつ溶かし始めると、山の偉容がおぼろげに浮かび上がってくる。山の斜面を埋め尽くす広大なジャングルが墨絵から緑色に変わり、中空にひとつだけ残っていた暁の明星が黄金の光を透明なブルーの中に没するころ、抜けるように青い天蓋に「エンガン、エンガン」という声がこだまする。

一羽の巨鳥が、青みが濃さを増す天空を背に、大きな翼を広げて緑のじゅうたんの上を滑空すると、ジャングルの一角からそれに唱和する「エンガン、エンガン」という声が響く。その声に導かれて寄ってきた巨鳥めがけて、唱和する鳴き声をたてたもう一羽の巨鳥が、ジャングルを後にして大空へと舞い上がった。二羽は空中で寄り添い、翼を並べると、朝の陽光にきらめくマニンジャウ湖を左に見ながら、北を指して飛び去って行った。

スマトラの人々は、大犀鳥をその鳴き声にならってエンガンと呼ぶ。雄はエンガンガディン、雌はエンガンパパンと呼ばれる。エンガンの夫婦は、夜は山中で離れ離れになって眠り、夜明け前に起き出すとまず互いに呼び交わして相手を探し、夫婦が寄り添うと二羽ははじめて朝食を求めて、連れ立って出かけるのだ、と言われている。

はるか目の下に、さざなみが陽光をきらきらと反射している湖が見える。ごつごつした岩山にはスリヤンの巨木が何本も天を衝き、山の麓には一面の水田がたわわに実った稲で黄金に染められ、村人たちが総出で収穫に精出している。男も女も、大人も子供も、生活の営みを謳歌し、生きていることを最上の喜びにしているのだ。何百年も、いや数千年にもわたって、ひとびとが世代を繰り返しながら連綿と受け継いできた生の営みがそこにある。



今はもう数百年昔のこと、シンガラン山の西麓一円を支配する領主に、溌剌としてほがらかで、眉目秀麗の王子がありました。王子は狩をたいそう好み、よく馬に乗って山麓に向かいます。同年代の供を従えたエンガン王子の楽しそうな笑い声が何度も何度も山野にこだますると、領民たちは言うのです。

「ほら、聞いてごらん。陽気な王子様が今日も狩にお出ましだ。」

王子は狩の名人でした。巧みに馬を駆って狙った獲物に弓矢を射る腕は、人並み以上のものがありました。王子の射た矢が狙いたがわず獲物に当たると、喜びあふれる王子の笑い声が山野にはじけます。しかし日によっては、調子の冴えないときもあるものです。自分は失敗するのに、供の者が続けざまに獲物に命中させると、王子の表情はくもりはじめ、悲しそうにふさぎ込んでそれ以上狩を続けようとせず、熱情に突き動かされて館に駆け戻るのでした。自分が他人より劣っているということを認めるのは、王子に耐えられないことのひとつでした。他人が自分を負かしたという事実に我慢がならないのです。館に戻った王子はひとりぼっちで部屋の中にふさぎこみ、館の使用人たちはそれを気遣ってひっそりと振る舞うために、明るい笑い声は領内から消え失せてしまいます。領民たちもそんな空気をひしひしと感じ取り、領内を不吉な空気が覆うのをどうしようもなくただ見守るばかり。そんなとき、王子は夜のとばりが降りるまで、自分の部屋から一歩も姿を現しません。

狩とおなじくらい、王子は闘鶏を好みました。領主の父王が、領内で一番強く、一番見栄えの良い鶏を王子に与えたのです。領内のどこかで闘鶏が催されると、王子は自慢の鶏を連れて行ってそれに参加しました。王子の鶏が勝つと、王子はとても高揚した気分になり、負けた鶏の持ち主に代償としてさまざまな贈り物を振る舞ったので、領民たちも王子の鶏に負けることを嫌がりません。実際、王子の愛鶏はよく勝ちました。ところがあるとき、その鶏が負けてしまったのです。苦いしかめ面が王子の表情を覆いました。王子は供の者に言いつけます。「いそいで館に戻り、別の鶏を持って来い。全部持って来るんだぞ。」命じられた供の者はあたふたと館に戻り、その間に王子は勝った鶏の持ち主にもう一度闘わせてくれ、と頼むのです。領主の一族の頼みを拒める領民はいません。こうして王子は、自分の鶏が勝つまで闘わせ続け、相手が負けるとやっと陽気な王子に戻って相手に贈り物を与えるのでした。王子の鶏に勝った鶏を持つ領民は、だからひとりもいないのです。

エンガン王子は嫉妬深い性格でした。自分も優れた人間になるよう努力するのですが、それでも自分を凌駕する人間に対して向けられる妬み。他人を信頼しきれない猜疑心。ただしそれらは支配者が自分の地位を維持するために必要とされている条件だったのかもしれません。領民はこの陽気なエンガン王子を愛していましたが、支配者に対する怖れも持っていました。父王が没すると、王子が領主の地位を引き継ぎました。領内の暮らしはその支配権移譲からほとんど影響されることもなく、それまでの暮らしが飽くことなく坦々と続けられていくのです。

ところが、王子がそれまで持っていた狩や闘鶏への情熱は、まるで夢から覚めたかのように、王子の心から失せていきました。決して他の者に負けることを恐れたからではありません。王子の心を淋しさが襲ったからです。王子の人生に連れ添ってくれる伴侶を、王子は必要としていたのです。

自分がもっとも気に入る伴侶を自分の目で見つけよう。そのためにスマトラ中を旅するのだ。そう決心した王子は、廷臣たちに出立の準備を命じました。期待に膨らむ王子の心はかれをうきうきさせ、今よりもっと若かったときの陽気さをかれに取り戻させました。旅の用意が整うと、出立です。大勢の従者を引き連れた華やかな行列が領内をあとにすると、隣国の都へと向かいます。一行はあちこちの領主の御殿や王宮に立ち寄って大歓迎を受け、その地の支配者と親睦を深めました。支配者の親族縁者の中にいる姫君たちと親しく話を交わすのですが、どうもこれぞという姫君には出会いません。こうして各地を転々とし、数週間後にはミナンカバウの王宮に到りました。

静謐で緑滴るパガルユンの地に入った一行は、丘の上に聳え立つ宮殿をかなたに臨みながら、知らせを聞いて出迎えにきた廷臣たちの歓迎を受け、そのまま宮殿へと向かいます。エンガン王子はたいへん大きな期待に胸弾ませていました。この宮殿には各地で噂に聞いたロンカン王女が住んでいるのです。ミナンの王に宮殿の中でその親族たちを紹介されたとき、王子の目はロンカン王女に釘付けになりました。これまで回ってきた各地でまだ見たこともない、美しく愛らしい王女がその人だったのです。自分が求めていた伴侶はここにいたのだ。王子は心の内に何度もその言葉をつぶやきました。王女も、ハンサムで陽気なエンガン王子に心惹かれたようでした。ふたりはそんな感情をつつましやかに押し隠しました。王子はミナン王が手配したもてなしを心行くまで楽しみます。一方、王子の陽気な人柄に魅せられた王宮のひとびとは、王子にいつまでも逗留するように勧めたので、王子はついつい長いときを過ごしてしまいました。意中の人を見出した王子にとって、それは願ったり叶ったりだったにちがいありません。



ミナンカバウ王宮のあるパガルユンは山の中。高床式の巨大な宮殿を見上げる山の斜面には、ロンカンの父王の家臣たちが農耕にいそしみながら暮らしています。ロンカン王女は家臣たちの暮らしに強い興味を持ち、しばしば外出してはかれらの家に立ち寄って話し込むのです。そして貧しい者や病気にたおれた者たちを、親身になって助けてやろうとするのです。優しい王女の細やかな心遣いにミナンカバウの民は心から王女を敬愛しました。父王も王女の慈悲の心とその善行を称賛し、王女を力づけました。
「もしいつの日か、おまえが女王になったなら、領民を気遣い、愛してやるのだ。そうすれば民からの敬愛が得られ、領主と民との和合が実現し、国に平和と繁栄がもたらされる。」

ところが、将来自分は父王の後を継いでミナンカバウの女王になるものと思っていたロンカン王女も、その考えに確信が持てなくなってしまいました。長逗留のエンガン王子に、かの女は深く恋してしまったのです。じっさい、ひとびとの目も、そのふたりが似合いの夫婦になれる、と見ていました。ミナンカバウ王でさえそうだったのです。こうしてエンガン王子とロンカン王女の心がひとつに結ばれると、王女は父王に自分の希望を伝えます。父王はしばらく考えたあとで言いました。
「わたしはおまえが婿を取ってこの国の女王となり、この国を治めることを願っていた。わたしはおまえに王位を譲るつもりだった。しかしエンガン王子をこの国の婿にすることはできない。かれには自分の領国がある。おまえにとって、エンガン王子の妻になることが一番の幸せなら、そうする方が良いだろう。本来、女は夫を裏で支え、助けるのが最良のあり方にちがいないのだから。」

ロンカン王女から父王の意見を聞いたエンガン王子は躍り上がって喜び、翌日、頃合を見てミナンカバウ王に王女との結婚を申し込みました。この話はまたたくうちに王領内に広がり、似合いのふたりの結婚話に地元の空気は花模様に染まります。

しかし、ミナンカバウ王の后はその結婚に難色を示しました。ロンカン王女は将来、女王となってこの国を治める人間であり、その夫はこの王宮に婿入りしなければならない、と主張します。エンガン王子が婿入りしてくれれば、それでよし。もしエンガン王子ができないというのなら、ロンカンの夫はエンガン王子でなくとも良いではないか、と言うのです。ロンカンにとってそれは聞けない話でした。王女は父王の支持を求め、父王は妻を説得しました。后はそれ以上反対できなくなって、不承不承、娘を手放すことに同意します。こうして王国のすべての人間が祝福する中で、エンガン王子とロンカン王女の華燭の宴があでやかに催されるのでした。愛し合うふたりの連れ添う姿は、輝くばかりの幸福をあたりに振りまき、見る人のすべてにその幸せを分け与えます。

三日三晩続いた結婚披露の宴が終わると、ついにエンガン王子が領国に戻る日がやってきました。しかし王子はもはや、パガルユンにやってきたときの王子ではありません。愛する人を伴って戻るのです。一行は希望に満ちた新しい暮らしが待っている王子の領国へと向かいました。行列は来た時の二倍に膨れ上がっています。ロンカン王女に付き従って新しい土地で暮らす侍女たちと、道中の安全を守るためにミナンカバウ王がつけた警護の兵士たちが新たにそこに加わったのです。

ミナンカバウのひとびとは総出でその一行を見送りました。敬愛する王女が素敵な伴侶を得たことをわがことのように喜び、また同時に、領内を回って自分たちの暮らしに親身に接してくれた王女がもういなくなるという悲しみをかみしめながら、領民たちはシンガランを指して視界から消えて行く一行にいつまでもいつまでも手を振っていました。



エンガン王子が花嫁を伴って故郷に帰ってくるという知らせは、ミナンでふたりの華燭の宴たけなわのころ、王子の領国に伝わりました。領主ご夫妻が戻ってくるのを、領民たちは心待ちにしていたのです。そして領内を通る行列の中でひときわ輝いている美しいロンカン王女が領民たちに気さくな笑顔を向けるのを、ひとびとは驚きとともにたいへんな喜びで迎えました。ロンカン王女の人気は瞬く間に領内に満ち溢れます。

領主の館に戻ったエンガン王子は、ふたたび結婚披露の祝宴を張りました。客人たちは新婦の美しさに目を見張り、見栄えの良いこのカップルに祝福を贈ります。王女がミナンの宮殿で享受していた暮らしにひけを取ってはならない。そう考えた王子は、王女に可能な限り安逸で贅沢な暮らしを与えることに努めました。遠来の国から集めた美麗な衣裳。金糸銀糸で織られた高価な布。アラビア渡来の香水。ジャワやバリから取り寄せた装飾品。すべての部屋には豪華なタペストリー。

エンガンはロンカンを心から愛していましたが、生来の嫉妬深さは変わりません。美しく、優しく、そして気さくにだれとでも打ち解けるロンカンが館の中で人気者になっていくのを、エンガンが素直に喜んだでしょうか?王子は妻に、支配者たるものは威厳が必要であり、もっと気位高く尊大に振舞うことも必要だと教えますが、ロンカンの考え方は違っていました。優しく誠実に他人に接するロンカンの人気はいやが上にも高まります。陽気なエンガンも領民からの人気は決して小さいものではありませんでしたが、心の片隅に怖れを秘めた敬愛とでは、比べようもなかったにちがいありません。領内で常に自分が第一人者であろうと努める王子のこの世で一番愛する妻が自分の脅威になっているということにかれが気付くのに、長い月日は必要ありませんでした。エンガンの感受性も人並み以上のものがあったのです。

ロンカンの身の回りの世話をし、心を慰める役割を果たしてきた、ロンカンの子供のころからの侍女たちも、新しい暮らしに慣れ始めると館に仕える者たちと親しくなります。王女の幼いころの逸話があちこちで語られ、夫が知らなかった妻の話しをエンガンが他の場所で耳にするということがたび重なり、エンガンの感情はついに破裂して、妻に付き従ってパガルユンからやってきた者たちを、一人残らず国許に帰してしまいました。妻はもうこの地に慣れた。この地の后として、今後はこの土地の者同様に暮らさなければならない。いつまでもミナンカバウのことを思い出していては、真にこの土地の者になったと言えないではないか。 エンガンの説明はどうあれ、その行動にロンカンの心は大きく傷つきました。子供のころから付き従い、慣れ親しんできた侍女たちは、心を許しあえるまるで家族同然の者たちだったのです。心のひだを打ち明け、互いに理解し会える人間、さまざまな思い出を共有し、故郷のことをおしゃべりし、自分が伝えたい思いを的外れなく受け止めてくれる人間。長い時の流れの中で築き上げられてきた人間関係を、そう簡単に別の人間がとって代わることはできません。子供であったなら、そんな深い絆を持つ人間関係を将来に向かって作り上げていくことができたのでしょうが、支配者の后という立場では、裸の心でロンカンに接しようとする人間を期待するのも困難だったにちがいありません。

膨れ上がったのは妬心だけでなく、猜疑心も同時に王子の心を掻き乱しました。人気絶頂の領主の后が夫の知らないところで家臣たちと気さくに接するのは、謀反人に乗じる隙を与えかねない。后が家臣と密通して支配者を亡き者にするという事件は、古今東西数え切れないほどの実例がある。エンガンは后が廷臣たちと交わることができないようにするため、ロンカンに近付くことを家臣たちに禁じ、そしてその禁令が正しく実行されるように腹心の部下に見張らせたのです。突然孤独の中に突き落とされ、大きい抑鬱の中に閉じ込められた王女は、村娘の自由を渇望し、わが身の不幸を呪いました。囚われの身に富や栄華が何ほどのものと言えるでしょうか?

ロンカンの聡明な顔から明るい表情が消え去って沈鬱な色に塗り替えられ、食事も進まなくなり、やつれていくありさまを目の当たりにして、エンガンは心配と不安に襲われました。愛する妻がそのようにやつれていくのは、何か悩み事があるにちがいない。しかし自分が后の身の回りに施したいくつかのことがらがその原因だとは夢想だにしませんでした。「おまえは何を悩んでいるのかね?どうかわたしに何が欲しいのか言っておくれ。何でも叶えてあげようではないか。さあ、正直に打ち明けてごらん。」
するとロンカンは目に涙をたたえてエンガンに訴えました。 「ああ、旦那様。夫に批判めいたことを口にするのは、妻のしてはならないことなのです。でもわたしを愛してくださるあなただから、正直にお話しします。あなたはとてもつらいことをわたしになさいました。わたしに付き従うミナンの者たちをみんな国に送り返してしまわれた。幼いころから喜びや悲しみをわたしと分かち合ってきた連れをわたしは失ってしまったのです。わたしの心を安らげてくれる者がここにはもういないのです。」
「しかし、おまえを誰よりも愛しているわたしがいるではないか。おまえはこの領地の第一人者であるわたしの伴侶としてこの地を支配している。豪奢で華麗な衣裳、美味を極めた食事、アラビア・ジャワ・バリから取り寄せた調度品。すべておまえの心のまま。ほかに何か欲しいものがあれば、わたしに言うだけでよい。それを必ずおまえのものにして見せよう。過去のことは水に流し、今のこと、そして未来のことを考え、この一生を心行くまで愉しむことだ。そのためにも、わたしたちはもっともっと深く愛し合おう。おまえの暗い顔を目にすると、おまえがわたしを愛さなくなる日がくるような気がしてならない。」
「旦那様、わたしはあなたを心から愛しています。そしてとても高価な物をわたしのために次々と取り寄せてくださるお気持ちも、たいへんありがたく思っています。それでもわたしの孤独は癒されません。わたしの心を慰めてくれる親しい人はもうあなたしかおらず、あなたと一緒にいる時間だけしかわたしに安らぎを感じる機会はないのです。」
「この館にも侍女はたくさんいるのだが、あの者たちでは不満か?おまえの気に入らない者は暇を取らせよう。」
「いいえ、みんなわたしによく仕えてくれます。ただわたしの心が愉しまないだけなのです。ミナンの者ならわたしの心を愉しませてくれるでしょうに。」

ロンカンの目から涙がこぼれ、エンガンは自分がそれほどまでにひどいことをしたのかと慙愧の念に打たれます。愛しい妻をもっと幸せにしてやるために、ロンカンにもっと自由を与えてやらなければ。

しかしエンガンのそんな感情は長続きしません。領主としての日々の暮らしに戻れば、愛する后が館から好き勝手に外へ出歩くような自由を与えることができるはずもありません。こうして時が流れ、あるとき館を数日間離れて旅をしなければならなくなったとき、エンガンは強い不安に襲われました。ホームシックのロンカンが館を逃げ出すのをだれか他の者が助けるかもしれない。そのため、エンガンはロンカンを部屋に閉じ込め、誰も后と話をしてはならない、とすべての召使に禁令を出し、ロンカンの世話係としておしの老女ひとりをつけました。

ロンカンの忍耐もこれまででした。鍵のかかった窓や扉をこじ開けようとしましたが、女ひとりの力でそれは無理です。おしの老女も、ロンカンの食事などの世話をするために部屋にやってきて、終わればまた出て行きますが、いつもしっかりと鍵をかけるのです。しかしおしの老女の世話は何の役にも立ちませんでした。部屋の中では、暗い顔をしたロンカンがうつろな目で中空をぼんやり見ているだけであり、食事には手を触れようともしないのですから。

エンガンは、旅から戻るとロンカンの部屋に駆けつけました。しかしエンガンが部屋の中で見たのは、心が枯れ果て、身体のやつれ果てたロンカンの姿でした。エンガンは自分の過ちを強く恥じ、すぐにロンカンを馬に乗せて散歩に誘いました。ほんのわずかな供を連れ、一頭の馬に相乗りした仲の良い領主夫妻があちらこちらの集落を通り過ぎると、領民たちはその姿に親しみを寄せました。「ごらん、領民はわたしたちに大きな畏敬の念を持っている。」しかしロンカンはもはや、その地の民に何の関心も持っておらず、光を放たなくなった目はただ虚空を映すばかりです。ロンカン王女が花嫁としてやってきたときの明るく溌剌とした姿からいま目にしている空虚なお后様の姿への激しい変わりようは領民たちにわが目を疑わせ、そしてひとびとに深い同情を湧きあがらせました。もしエンガンが後ろを振り返ったなら、悲しそうに頭を振る領民たちの姿を目にすることができたでしょう。

エンガンの館の中で、ロンカンは生気を失った人形でしかありません。しかしエンガンにとってロンカンは大切な人なのです。ロンカンを失うことに耐えられるはずがありません。自分がいないときにロンカンを守るにはどうすればよいだろうか?エンガンはあることを思いつきました。

館の奥庭に年経た一本の巨木がありました。エンガンは職人に命じてその木をくりぬかせ、人ひとりが十分生活できる部屋をその幹に作らせたのです。高価なベッドを置き、タペストリーをかけ、カーペットを敷き、美しく内装を整えたあと、切り取った木から扉を作って、外からまったく判らないようにしました。内部の光を洩らすわずかな隙間さえありません。それは、自分が旅に出て館にいないとき、ロンカンに去られるのをもっとも強力に守ってくれる要塞だったのです。



何ヶ月かしてから、エンガンはふたたび旅に出なければならなくなりました。夜の闇にまぎれ、だれの目もないことを見定めた上で、エンガンはロンカンを木の洞に導き入れました。自分がまだとても愛していることをロンカンにわかってもらったと思ったエンガンは、ロンカンを中に残して外から施錠し、朝陽が上る前に出立しました。木の洞の部屋を作った職人たちは全員供に加えたので、館の中で木の洞の秘密を知っているのはロンカンの世話係であるおしの老女ただひとりだけ。
夫がいなくなると、ロンカンは脱出を企てました。しかし扉は一寸たりとも動きません。中からどんどん扉や壁を叩いても、「助けて、助けて!」と悲鳴をあげても、館の中にいるだれの耳にもそれは伝わりません。ロンカンは数日そんな努力を続けましたが、実を結ぶことはありませんでした。食事の時間になると、おしの老女が隠された差し入れ口から食事を中に入れるためにそこへやってきます。それがその木に近付く唯一の人間でした。エンガンが出発して四日目、廷臣たちの多くが不在になった館の厩では、普段ほど仕事がないために、馬係の少年がひとり仕事場から抜け出してその木までやってきました。その木に登って昼寝をしようというのです。たとえ親方が見回りに来たところで、木の上にいればまず見つからないだろう。少年は馬係の親方が嫌いでした。ただ威張り散らすばかりの親方は、ぺこぺこする部下ばかりを可愛がり、意見を口にする者を嫌っていじめるのです。利発なこの少年は、自分が正しいと信じることを口に出す勇気を持っていました。

少年が木の上の居心地の良い場所に身体を横たえてうつらうつらし始めたころ、下からガサガサという衣擦れの音が聞こえてきたので、親方に見つかったかと思って身体を硬くしました。そおっと下を見ると、老女がごちそうを盆に載せて運んできます。そして周囲を見回して誰もいないことを確認すると、木の傍までやってきて盆ごと木の隙間に差し入れ、また回りを見渡してから元来た方へ引き返して行きました。老女がいなくなったことを確かめてから、少年は木から下りてさっき老女がいた場所に近寄りました。ところがどうでしょう。さっき老女がこの木の隙間にごちそうが載った盆を丸ごと差し入れたと思ったのに、そんな木の隙間などどこにも見当たらないのです。この木の中にはきっと化生の者が住んでいて、さっきの老女はお供え物を持ってきたにちがいない。それが証拠に、お供え物は木の幹を通り抜けて中まで入ってしまったじゃないか。少年はそう考えました。

ちょうどその時です、一匹の大きなスズメバチが少年の目の横をかすめたのは。少年は驚いて、どしんと木に倒れこみました。そして「ああ、危なかったなあ。あいつに刺されたら命がないや。」と独り言をつぶやいたのです。ところがその直後、もっと驚くことが起こりました。自分がもたれている木の内側から、トントントントンと衝撃が伝わってくるではありませんか。そしてどこからとも知れず、女の声も聞こえてきました。少年は真っ青になり、震え上がりました。「ああっ、お化けに捕まって木の中にひきずりこまれてしまう。・・・・

ところが、その女の声が言葉の形を少年の耳に残した時、少年の心に疑問が湧きました。『助けて、助けて!』なんて、お化けにしてはちょっと変だ。少年は勇気を奮い起こすと、その木に向かって言いました。「おまえは誰だ?そこでいったい何をしている?」
木の内側から微かな言葉が聞こえてきました。「わたしはロンカンです。あなたは誰?」少年はいきなり笑い出しました。
「お后がこんなところにいるなんて、ぼくが信じると思うかい?お后は館の中にいるんだ。いくらお化けでも、もっと上等の嘘をつくもんだよ。」
「わたしは本当にロンカンなのよ。エンガンがわたしをこの中に閉じ込めたの。あなたの名前を教えて。そしてわたしを助けてくれるかどうか教えて。」
「ぼくの名前はシディン、お館の厩で働いている。」シディンはいまだに半信半疑。この相手が本当はお化けで、こっちに油断させておいて木の中に引きずり込もうとしてるんだったら・・・・
「シディン、どうかわたしを助けて。この恐ろしい場所から救い出して。こんな場所にこれ以上いると死んでしまうわ。わたしはミナンに帰りたい。」
しゃくりあげて泣くその声にシディンは心を決めました。この館にやってきたときとは見た目も変わり果てたロンカン王女に、シディンは同情していたのです。ぼくはこの人を助けなければいけない。
「あっ、神様!親方がやってくる。もう行かなきゃ。お后様、ぼくは夕方にきっと戻ってきますから。そして夜になったらここを抜け出すんです。」

シディンがすばやく姿を隠してしばらくすると、馬係りの親方がやってきてそのあたりを見回し、ため息をついてからシディンが去った方に歩いて行きました。シディンは親方に見つからないように厩に駆け戻ると、すぐに馬の手入れを始めます。
「いったいどこに行ってたんだ、この野郎。もう三十分もおまえを探し回ってたんだぞ。」親方が厩に入ってくるなりシディンに噛み付きました。「ぼくはずっとこうやって働いていましたよ。」シディンは口を尖らせ、さも無実の罪を着せられて心外だという風を装ってそっぽを向きます。親方はぶつぶつ言いながら、厩のはしまで歩いて行きました。


夕陽がシンガラン山を朱色に染めるころ、水浴から戻って夕食前の一休みをする仲間たちから離れて、シディンはふたたび館の奥庭に忍び込みました。ロンカンを閉じ込めている洞のある巨木に、誰にも見つからないようにして近付いたのです。
「まだいますか?」
「シディンなの?」
「はい、そうです、お后様。扉が開けられるかどうか、やってみます。」
「ちょっと待って。そろそろ夕食が届けられる時間だから、あなたはそれまで隠れていなさい。」

シディンはするすると木の上に登ります。しばらくするとまたおしの老女がご馳走を盆に載せてやってきました。夕闇の中で周囲を見回し、誰も見ていないのを確かめてから食事を木の洞に差し入れ、それが終わるとまたひっそりとそこから立ち去りました。

木から下りてきたシディンは、短剣を手に持つと、木に向かいます。
「お后様、扉を開けますよ。」
「シディン?食事の差し入れ口の近くに割れ目があるでしょう。その割れ目を広げなさい。でもあまり音を立てないようにね。」
ほんの小さな、そして浅い割れ目を、シディンは短剣でこじりはじめます。最初はまるで効果が見られなかったのに、時間をかけてこじり続けるうちに割れ目が広く深くなっていき、ついに中の洞にまで達しました。ロンカンの明るい声とともに、中の明かりが洩れ出してきました。
「さあ、扉を開けましょう。中から押すから、あなたは外から引っ張るのよ。」

扉にねじりが加えられ、シディンが短剣でそれを広げます。数時間たったあと、とうとうロンカンの身体が通れるだけの隙間が作られました。ロンカンは洞の中の明かりを急いで消すと、そこから這い出して来ました。幸いなことに、月はまだ出ていません。
「さあ、隙間をまた埋めておきましょう。それからふたりで厩の方へ行きますから。」
シディンはそう言って手早く仕事を終わらせると、ふたりは厩に向かいました。厩の近くでシディンはロンカンに言います。
「しばらくここに隠れていてください。馬を二頭連れてきますから。ぼくもお供しますので。」
「もしわたしが逃げ出すのをおまえが手助けしたことがわかったら、どんなにひどい目にあうことか・・・」
「お后様、それはよくわかっています。だからぼくはあなたと一緒に行くのです。それに道案内する者がいないと、あなたは道に迷ってしまいますよ。」

厩から二頭の馬を盗み出してきたシディンは、ロンカンと供に馬上の人となり、足音をしのばせて館の裏の馬場に出たあと、藪を飛び越えて館の敷地の外に出ました。東に連なる山々の峰から月が昇り始めています。
「ミナンカバウへ夜のうちに着くのは無理です。そうなると、昼間はどこかに隠れていなければ・・・」
「いいえ、メラピ山へ行くわ。この季節にはお母様が山の別荘に来ているはずなの。」
「じゃあ、メラピ山へ。」

ふたりは乗っている馬に一鞭当てると、早駆けで走り始めました。深夜の月明かりの下を疾駆する二頭の馬を、通り過ぎる集落の夜番が不思議そうに見送ります。前を走るシディンはメラピへの最短の道を取りました。夜明け前には領内を出ていなければならないのですから。馬を駆るには決して楽でないその道を進むシディンは、ロンカンがついてきているかどうかを心配し、頻繁に後ろを振り返りますが、ロンカンはぴったりとシディンの後ろについて巧みに馬を駆ります。並みの男なら音を上げそうなシディンの早駆けに涼しい顔でぴったりとついてくる若いお后に、シディンは目を丸くしました。エンガンとふたりで狩に出れば、きっとこのご夫婦は甲乙つけがたい好敵手になっただろうに。シディンのロンカンに対する畏敬の念がいや増しに高まります。

夜が明けるころ、ふたりはロンカンの母后の別荘近くまでたどり着きました。警護に当たっていた衛兵が、不審な二騎が近付くのを押しとどめました。シディンに槍と剣を向けた衛兵たちも、後ろの一騎がロンカン王女であることを知って驚愕し、まだ眠りの中にある別荘に注進するために走ります。ほかの兵士たちに守られて別荘に着いたふたりは、待ち受けていた母后や従者たちに迎えられました。やつれはてたロンカンの姿を目の当たりにし、ロンカンの涙ながらの話を耳にして、母后の憤りは天を衝きました。すぐに父王に知らせてエンガンを攻め滅ぼそうといきりたちますが、ロンカンはそんな母親の怒りを一生懸命なだめようとするのです。戦争になるかどうかは別にして、ともかくも事情をパガルユンに知らせなければということで、急使が別荘を発しました。ロンカンとシディンは一晩中走り続けた疲れでそのまま眠り込み、夕方までこんこんと眠り続けました。母后はエンガンがその別荘を襲うかもしれないと考え、衛兵隊長に命じて厳重な警戒態勢を取らせます。別荘の周辺で慌しい人の動きが起こり、緊張が一円の空気を支配しました。だが、警備隊の人数は限られています。エンガンが軍を率いてやってくれば、そんな少人数ではひとたまりもありません。エンガンが軍勢を整えて攻めてくる前に、パガルユンから援軍がやってくるのを祈るばかりなのです。



エンガン一行が館に戻ってきたのは、ちょうどそのころでした。旅装を解く間ももどかしく、エンガンが奥庭の巨木へ向かおうとしていると、おしの老女が早く早くとエンガンをせきたてます。その様子に不審を抱いたエンガンが奥庭に駆けつけると、木の洞を塞いでいた扉は隙間が開いており、ロンカンはもうその中にいないことがすぐにわかりました。愛する妻に見捨てられたことに強い怒りと深い恨みを抱いたエンガンは、殿中の異変を調べて馬係の少年が馬を二頭盗んだことを知り、すぐにロンカンの後を追うことにしました。しかし后に逃げられた領主という自分の立場のゆえに、エンガンはこの事態を表沙汰にしたくありません。そんなことが明らかになれば、領主としての権威は地に落ち、その地を支配することも難しくなるだろうということをエンガンは確信しているのです。おかげでロンカンの母后が心配した、エンガンが軍勢を率いてロンカンを奪い返しに来るという事態に到ることは避けられました。ただ、それはどうあれ、大きな悲劇がかれらの前途に待ち受けていたのは事実だったのです。

エンガンは領内で一番早い馬を引き出すと、ただ一騎でメラピ山を目指しました。ロンカンの母后が山の別荘に来ていることをかれは知っているのです。ロンカンはそちらへ向かったにちがいない。パガルユンを目指したら道中なにが起こるかも知れないし、そのために夜だけ移動するとなると、何日もかけなければならないのだから。エンガンの予想は的中しました。メラピへ向かう途中の集落で領民に尋ねると、たしかに前夜、二騎が連れ立ってメラピ山に向かって疾駆して行ったことが判明したのです。

夕日の中で真っ赤に燃えていたメラピ山麓に入った頃には、もうとっぷりと夜の闇が天地を覆いました。ロンカンの母后の別荘に近付くと、エンガンは乗ってきた馬を木につなぎ、徒歩で別荘に向かいます。降るような星空の下で、天を衝いてそびえる巨木の合間を、エンガンはひっそりと進みます。昇ってきた月が下界を照らしはじめると、完全武装した衛兵が別荘の周囲を固めているのが遠望されました。力ずくでロンカンを連れ帰るのは、いまのエンガンには無理なのです。しかし自分を裏切った者たちをこのまま赦しておくことはできません。おまえたちは裁きを受けなければならないのだ。

エンガンは夜の闇に紛れて、さらに別荘へと近付きます。かれの目は、別荘の中に灯された明かりの中に映し出されているロンカンと母后の姿を認めました。別荘のひとびとの様子からは、かれらがその夜、別荘を後にする気配が少しも感じられません。裁きを下すのは今夜なのだ。

別荘の裏は切り立った崖になっています。エンガンは単身、崖の下に回りこむとそこをよじ登りました。警護している衛兵たちに気付かれないで別荘の建物の床下まで達することができたエンガンは、短剣を抜くと建物を支えている太い杭を一本一本削り始めたのです。それは気の遠くなるような仕事でしたが、復讐の一念がかれに力を与え、それをやりおおすのに成功したのです。

一般的にスマトラの建物は高床式と呼ばれる建築様式で、何本もの杭の上に建てられています。エンガンはその杭に切れ目を入れ、薄皮一枚を残して削り取りました。上にある建物が揺れるとすべての杭がその切れ目のところで折れ、人間の背より高い杭の上に乗っていた建物は崩れ落ちることになるはずです。汗びっしょりになってエンガンがその仕事を終えた時、夜明けは間近に迫っていました。別荘の中はいまだ眠りの中に沈んだままで、静まりかえっています。エンガンはすばやく別荘の床下から抜け出すと、そこから少し離れた窪地に身を隠しました。周りは密集した藪に囲まれており、衛兵たちに見つかる心配はありません。かれはそこから事の成り行きを見守ろうというのです。



空が徐々に白みはじめ、今まで天地を覆っていた闇が少しずつ増していく明るさに追われ、鳥が随所で羽ばたきをはじめ、鶏の声があちこちで聞こえました。新しい一日が始まろうとしています。別荘の中でも、ひとびとが新しい一日の営みを始めます。そしてそのとき、耳をつんざく轟音と共に、巨大な建物が崩れ落ちたのです。恐怖の悲鳴と悲痛な嘆息があたりを震わせ、そして徐々に静まっていきました。崩れ落ちた巨大な建造物は、割れた板や折れた太い柱が乱雑に積み重なった山なす廃墟と化し、その下で押し潰された人間の生命はもはや風前の灯火でした。

自分の仕事の成果を目の当たりにしたエンガンは、得意絶頂の笑い声をあげて隠れ場所から飛び出し、破壊された廃墟に駆け寄ると、まるで悪魔が乗り移ったかのように、短剣を頭の上に捧げて激しく叫びながら踊り狂います。別荘に近い場所で警備に就いていた衛兵が数人、崩れた別荘に駆け寄ってきました。かれらの目の前では、正体のよくわからないひとりの男が朝陽を一身に浴びて踊り狂っています。もしもその光景がなかったなら、衛兵たちはすぐに救出作業にかかったことでしょう。ところが、この世のものとも思えない光景を前にして、衛兵たちは茫然とただそれを見守るだけでした。そしてかれらは、自分の目の前で起こった奇蹟の生き証人となったのです。

破壊されて粉々になった建物の近くで、短剣を頭の上に捧げて踊り狂っている男の姿が、少しずつ変形していきます。腕は大きなくちばしに変わり、短剣がくちばしの上に突き出た角になりました。頭の下は大きな鳥の身体になり、すべてが羽毛で覆われ、その背には翼が生えています。そして男はついに、巨大な鳥の姿に変身しました。巨鳥は翼を広げると、バサッバサッと力強く羽ばたいて空中に飛び上がり、「エンガン、エンガン」と鳴きながら崩れ落ちた別荘の周囲を旋回しました。

するとどうでしょう、崩れ落ちた建物の廃墟の一ヶ所で、梁と板がからまった辺りが動いたのです。その下から、大きな鳥のくちばしが姿をあらわしました。そのくちばしが周りの板をはねのけると、もう一羽の巨鳥がそこに出現したのです。そしてこの鳥も「エンガン、エンガン」と鳴いたあと、大きな翼を羽ばたかせて空中に飛び立ち、上空を旋回しながら待っていた巨鳥のあとを追いました。衛兵たちの目は、その不思議な出来事にじっと注がれたままでした。

それ以来、二羽の鳥はいつも一緒にスマトラの森をさまよっているのです。繁殖期になると、雌は木の洞で卵を抱き、雄は小さい割れ目を残して洞をふさぎ、餌をその割れ目から雌に差し入れます。卵が孵化すると、雌は壁を強いくちばしで破って逃げ出します。そしてこの巨鳥の夫婦はいつも寄り添って密林の上を彷徨しながら、単調な叫び声を下界に響かせるのです。
「エンガン、エンガン!」と。

 
(ジェイピープル< http://www.j-people.net >に掲載)