「ジャカルタ・ドライバー考」


 テールランプは赤じゃなくて黄色や緑色。ヘッドライトの下向き位置をわざわざ高く調節しなおして対向車に目潰しをくらわせる。アグレッシブな追い越しや追い抜き、危機一髪のハンドル操作も手馴れたもの。ところが他車に進路を邪魔されても、あっけらかん。急な上り坂で停車するときには半クラッチのままで車を停止させ、エンジンを止める直前には空ぶかし。雨の日には電気系統が水濡れでショートし、走っている最中にエンストを起こす。エンストが起これば、その付近にたむろしている若い衆に車を後ろから押させて押し掛けするから、オートマ車なんかまず使わない。古い車のトラブル対応はいつも応急処置で、手当たり次第の材料を使って、だましだまし走らせるのが腕の見せ所。

 扉は開けっ放しで乗降ステップにまであふれる満員の乗客を乗せ、黒煙を吹き上げながら左にかしいで走る大型乗合バス。いたるところで停止して客を乗降させる大型小型の乗合バスはまわりの交通状況などおかまいなし。おまけにタイムと称して、客がある程度乗ってくるまでいつまでたっても発車しないから、場所によっては道路の半分がかれらに占拠される。公共乗合バスが交通渋滞の元凶のひとつであることはまず疑いない。

 道路を逆走するのは当たり前。赤信号でも交差点の真ん中にまで進入し、左からの交通の流れが途切れたら猛然ダッシュして赤信号を渡ってしまうオートバイ。片側二車線道路を三四台が並んで走り、右側車線を往く二輪車は後ろにいる四輪車に道を譲るような姿勢を露ほども見せず、後ろに四輪車がくっついていることすら知らぬ顔で、そんなのろのろ走る二輪車に付いて仕方なくのろのろ走る四輪車。狭い対向二車線道路の中央は二輪車専用車線と化し、対向車が来なくなれば右側に膨れ、対向車が来ると左の隙間にもぐりこもうとするが、どっこい左側は長蛇の渋滞で、さあ困ったと頭を掻くと思いきや、「オレをよけて通んな。」と平然とした顔を対向車に向ける二輪ドライバー。子供が赤ん坊幼児なら、一家四人が単車一台でお出かけするのは、ありふれた図。かの女とデートの二人乗りでは、タイトスカートのかの女は荷台に横座り。ヘルメット着用はかなり習慣化したものの、頭にかぶらず小脇に抱えて荷台に座る同乗者も中にちらほら。エンジンがついていることを知らないわけではないはずなのに、どうしたことかインドネシアの二輪ドライバーは、自転車とオートバイの区別ができないようだ。

 夜になると、完全無灯火で走る二輪車や近くに来るまで闇の中に溶け込んでいるバジャイの蛍火。中には片目ヘッドライトでぶっ飛ばす四輪車もいて、うっかりオートバイだと思い込むと命があぶない。
 広い道路幅が突然狭くなるボトルネックはいたるところに用意されており、先を争うドライバーたちの技術を磨く道場になっている。譲り合いなどはなく、勝つか負けるかの一本勝負だ。混乱。無秩序。それがジャカルタの交通事情。


 ほかの国であまり例のない運転技術をためされる機会は、ジャカルタの街中を一日運転してみれば何度か体験することができる。自分が運転する車とそれを取り巻く周囲の物体との間にほんの狭いスペースしかないところで、車を操って隙間に入り込んでいくテクニックをそのひとつに上げてよいだろう。狭いガレージに車を収めるような機会はどこの国でももちろんあるだろうが、ジャカルタは何が違うかといえば、その周囲にある物体も周囲の状況にあわせて隙間に入り込んで行こうとして動いているのだ。すべての車が右往左往しているのである。
 混み合う赤信号や都内の随所にあるボトルネックで渋滞が起これば、三車線に四五台の車が横並びになり、そして左側の低速車線からは大型バスが斜めに巨躯を突っ込ませているような混乱の中で、わずかに開いている隙間に車の鼻先をねじり込ませて行くシーンを、きっとあなたはご覧になったことがあるのではないだろうか。
 車の左右そして前方が30〜40センチほどのスペースしか開いていない中を、自分と同じように動いている他の車と接触しないように操車してその混乱の渦の中をスピーディに抜け出せるなら、あなたはきっとジャカルタ・ドライバーの称号を授けられるにふさわしい運転者であるにちがいない。


 日系企業の多くはジャカルタ駐在員に自動車の運転を禁じていると聞く。1970年代、ジャカルタの四輪車登録台数が250万台などというのが夢のまた夢という時代、街中を走る車の半分がセコハン車で、都内で交通渋滞が発生する場所を数えるのに両手の指で十分に事足りたころ、自動車の運転を駐在員に禁じる会社はあまりなかったように記憶している。たとえあったとしても、はたしてジャカルタの交通事情がその理由にされたのか、それとも別の理由によるものだったのか、そのあたりの消息はいまでは判然としないが、それはそれとして、事故を起こした際の心得は広く人口に膾炙していたものだ。人をはねたらまず逃げて、それから警察に出頭しろ、と言うのである。車を停めて被害者を助けようなどと断じてしてはならない、というのだ。
 あれからもう30年以上経つというのに、同じセオリーは今でも生き長らえているらしい。外国人が自分で運転していて通行人をはねたらまず事故現場を離脱して、そのあとで信頼できるインドネシア人に収拾を依頼するべきだとアドバイスする人は多い。自分で現場の収拾にあたろうなどとしようものなら、周辺に居合わせた被害者とは縁もゆかりもない群衆のリンチのターゲットにならないともかぎらないし、そうならなかったとしても、親族との示談交渉を直接受ければ、『親族』と名乗る人間が続々と入れ替わり立ち代り現れるかもしれず、そして賠償金額の桁も地元相場からはずれたガイジン価格になるのは大いにありうることではないかと思われる。

 ジャカルタで登録された自動車のナンバープレートに記されるコードはB。地方部へ行ってみればよくわかるが、Bナンバーをつけたジャカルタ・ドライバーの走りは傍若無人。きわめてアグレッシブな動きを展開するので、比較的おとなしく行儀の良い地元ドライバーたちは怖がってそばへ寄らないくらいだ。さすが、生き馬の目を抜く土地で鍛え上げられただけのことはある。


 ジャカルタ・ドライバーにとって、交通法規が最優先に守られるべきものでないのは、インドネシア社会の中での法令規則の位置付けと瓜ふたつ。車線をまたいで走り、停まってはいけない場所で停まり、乗降すべきでない場所などお構いなしで平然とそれを行い、渋滞すればあっという間に三車線に四五台が横並び。路肩を使っての追い抜きなどましな方で、対向車がなければ反対車線を堂々の逆走。交差点の赤信号でも左右からの往来が途絶えれば涼しい顔で押し渡るため、少し間を置いて来た車は目前の信号が緑であっても停止や徐行を余儀なくされる。それどころか、横断歩道の赤信号など、横断者がいるかいないかが停車するかどうかの鍵となる。左折可の標識などあろうがなかろうが、大通りでなければ赤信号にもかかわらず、左折車はどんどん右から来る交通の流れに合流して行く。Uターン路を逆走して反対車線の右端に鼻先を突っ込み、そこの最中央寄り車線を平然とブロックする車もある。駐車禁止標識がある場所にも駐車番がいて、平気で車を停めさせてくれる。追い越しは右からも左からも行われる。左から突然轟音をあげて斜め前をかすめるオートバイや、左右の隙間をすり抜けて車の前に回りこむと右側車線を走り続けるオートバイ。速度制限も定められているが、ドライバーはみんな自分の快適スピードを優先し、おまけに他車の前に出たがるから、法定スピードを守ろうとする者などいない。
 2004年1月から7月までの間に首都警察交通局が切った交通違反切符は29万5千枚だが、その中にスピード違反は一枚も混じっていない。かつて有料自動車道路でスピードカメラをとりつけたところ、ほぼすべての車がスピードオーバーで走るためにカメラがオーバーロードし、カメラ使用はテストのみでやめてしまったという話もある。インドネシアではスピード違反と酒気帯び運転の取締りなど行われたことがない。街中でも高速で走れる状況になれば、みんな一斉に突っ走る。要所要所に立っている警官の中に、それに目くじらを立てる者はいない。そしてインドネシアの酔っ払い運転は、酒によらず麻薬によるものというのが常識らしい・・・・・・・・・



 交通法規が共通規範として機能していないのなら、さぞかし交通事故は日常茶飯事だろう、と誰しも想像するところだが、インドネシア人運転手の運転する車に乗ってヒヤリ・ハットを何度か経験し、それでも事故に遭わずまたあまり事故現場を目撃することもないために、「意外に事故は少ないじゃないか。」と感心したようにおっしゃる方がいる。確かに、いたるところ衝突や接触事故の続出という市街戦のような光景に出くわすことはないのだが、それでも交通事故が少ないと言うインドネシア人はいない。1995年から1999年までの統計を見ると、全国で一日平均交通事故死亡者数は30人、重傷者24人だったが、2003年一年間の統計は一日平均交通事故死亡者数が71人となり、その54%がオートバイ運転者となっている。もっと新しい2004年の統計を見ると、全国の総交通事故件数は17,732件で、そのうち14,223件がオートバイがらみとなっているから、もし自分で運転する場合には、オートバイと関わり合いにならない方が無難だ。とはいっても、去年は4百万台近くも売れたオートバイが大集団となって路上を右往左往しているのだから、有料自動車専用道路以外には走れるところがなくなるかもしれないが。
 わたしたちが目する現実は確かに交通法規が機能していない交通環境であり、それを否定する気はわたしに毛頭ないのだが、無法地帯だから秩序が存在しないということにはならないとわたしは思う。法による統制を文明社会としての秩序という意味合いでおっしゃっているのであれば確かにそれは見当たらない。しかしどれほどの無法地帯であっても、あるいはジャングルであっても、秩序を生み出す原理は常に存在するのであり、インドネシアの交通環境に棲みついている交通法規を超越した原理はおいおいお話しするとして、行政が定める法規が社会を統制できていないというこの事実は、交通環境のみならずインドネシアにおける生活全般にわたっての真理ではないかとわたしには思えるのだが、読者の皆さんのご意見はいかがだろうか?


 そんなジャカルタにお住まいの皆さんはふだんからインドネシア人運転手のお世話になっているに違いないが、毎日あなたを乗せて目的の場所まで運んでくれる運転手は、果たしてジャカルタ・ドライバーなのだろうか。
 交通法規や交通道徳を守り、安全運転を行なう運転手をお求めのトアンやニョニャには、決してジャカルタ・ドライバーとは折り合いがつかないに違いない。ジャカルタの地理を知らない、走りがトロトロしていてすぐ他車を割り込ませる、いつも同じルートばかり走りたがって渋滞を避けようともしない、ドライビングテクニックがどうもお粗末であれなら自分の方がマシだ、などと運転手のご不満話しを耳にする機会も多々あるのだが、そのようなネガティブポイントを消去していったあとに浮かび上がってくるドライバー像はジャカルタ・ドライバーの可能性が高いから、きっとそれは贅沢な不満なのだろう。

 うちの運転手はどうやらガソリン代をくすねているみたいだ、と疑心暗鬼をかきたてられているトアンやニョニャもいらっしゃるようだが、車ごと持ち逃げされないだけまだマシかもしれない。ジャカルタの地理をしっかり勉強し、トアンやニョニャに喜ばれるポイントを身につけた運転手を仕立て上げ、雇い主にうまく採用されるや数日後には車ごとトンズラする自動車窃盗団もいるし、盗まれた自動車の後処理にえらい金がかかるという話もあるので、ものごとはすべて程度問題と考えた方が良いかもしれない。そのあたりのニュースはインドネシア情報ラインというサイト内に記事があるので、興味をお持ちの方はそちらをどうぞ。
< http://indojoho.ciao.jp/newsmenu0502.htm >
     「お抱え運転手採用にはご用心」(2005年2月12日)
     「自動車盗難処理は安くない」(2005年2月9日)

 法規を守るということとは別に社会には公衆道徳というものがあり、社会秩序をより人道的なレベルに高め、そしてそれを維持向上させるための規範として機能している。困っている者や弱者には手を差し伸べ、保護を与えることが善でありそして美徳と位置付けられているのだが、しかしジャカルタ・ドライバーたちのふるまいは、そのような美徳を反映するものなのだろうか。インドネシア文化の中にも弱者保護原理は存在しており、日常生活の中でそんな美徳の実行者に対して向けられる賞賛の声は、わたしたちが意外と思えるほど強い。

 ところがいざ路上に下りてみれば、車の列に隙間があればそこへの割り込みは当たり前で、そんな場所での車線変更や脇道からの合流などがどのように行われているかは、みなさん先刻ご承知の通りだろう。「間に入れてくれ。」と隙間なくびっしり並んだ車の列に近寄っていけば、「わたしの前にどうぞ入りなさい。」と譲ってくれる人は稀で、大多数は「わたしの後ろへどうぞ。」という態度。その態度を後続車もまた続けてくれる。前の車との車間距離をほんの数十センチまで詰めて一緒に動くから、いつまでたっても入れない。
 かといって、渋滞の中で立ち往生すれば、自分の後ろにいる車からブーブーとクラクションを浴びせられる。そのうち交通整理の警官が近寄ってくると何が起こるかわからないから、いきおいその場を離脱せざるを得ない。こうして曲がりたい場所で曲がることができずに大迂回を余儀なくされることも起こる。だからこそ割り込みの度胸とテクニックが養われることになるわけで、時間と燃費節減という経済合理性を求めようとするジャカルタ・ドライバーなら、悪徳への傾斜は避けて通れない関門だ。道路総延長8千キロに満たないジャカルタの限られた道路面積を五百万台を超える四輪二輪自動車が使おうとしているために、路上のスペース争奪は激化の一途をたどっている。


 上で見た路上に譲り合いのない交通事情をもとに、ジャカルタ・ドライバーは思いやりのない利己主義者と単純に決め付けることはお奨めできない。「間に入れてくれ。」と近寄ってきた車の後ろにも、たいていびっしりと車が数珠繋ぎになっているものだ。そしてその先頭車両に道を譲ってやったとたん、その後続車が前の車との車間距離をほんの数十センチまで詰めて一緒に動くから、今度は自分がいつまでたっても進めなくなる。車線内を直進するのに比べれば、道路の左側車線から一番中央寄りの右端車線まで車線を移っていくことははるかに神経をすり減らす作業であり、だからこそずらりと並んだ車列の隙間に入り込めるチャンスを逃したくないと思うのは人情だろう。他人への善意を示せばそれにつけこむ人間にたいへんな目に合わされるという文化であるなら、どのような振る舞いが自分にとって最適なのかという問いの答えが別の文化とは異なっていて当然だ。リスク管理はそんな文化だからこそより厳しく実施される必要があるのだ。
 ジャカルタポスト紙に掲載された西洋人の投書を何年か前に読んだことがあるが、かれは都内目抜き通りの大混雑の中で合流車に道を譲ってやったために上で述べた状況を実体験した。ジャカルタで善人になるにはたいへんな犠牲を覚悟しなければならない、という結びのコメントには真理がこもっている。だがよその文化における善行がインドネシアでかならずしも善行にならないことは、皆さんも先刻ご承知ではなかっただろうか。
 インドネシア人ドライバーの運転マナーの悪さを批判する声は大きいが、白人にせよ東洋人にせよ、そのように批判を語る外国人が自分でハンドルを握る姿をじっくり観察してみると、倣岸尊大な態度では決してひけを取らないようだ。荒っぽいマナーが標準であれば、その標準にあわせなければ誰であってもそこに参加することが困難になるにちがいない。



 街中でもそうだが、郊外に向かう有料自動車専用道路でも、運転者ひとりひとりの快適速度が異なるために追い越しが必ず起こる。速度制限に従おうという運転者はいない。ドライバーはそれぞれ、自分固有の快適運転速度で走り続けたいものだ。ところが自分の前方を走っている遅い車の尻に追いつき、それを追い越すことが困難な道路状況に遭遇すると、かれはフラストレーションにとらわれる。自分の前にいる遅い車は、左側車線をそれよりもっと遅い車が走っているために、自分が快適スピードで走れる追い越し車線を走っているのだ。その結果最終的に、路肩が追い越し車線として使われ、あとからあとからみんなが猛スピードで路肩を大行進。低速車線にいるバスやトラックを右に見てのごぼう抜きだ。このようにひとりひとりが自分の快適スピードを追求するがために、車の前に空間が空いていれば右からも左からも他の車両が進入してくる。大型バスであれ、ダンプトラックであれ、コンクリートミキサー車であれ、大型車だから遠慮するということはない。みんな平等、何を運転しているかなどお構いなしだ。

 街中の一般道でもそれは変わらない。走っている自分の車の前に車間距離が空いていれば、まず間違いなく右から左から他の車が進入してくる。混雑する都内を快適運転速度で走れるチャンスは稀であり、スピードが出ているわけではないのに、自分の前に進入してきた車のおかげでブレーキを踏むことを強いられる。走りの快適レベルがこうして低下の一途をたどることになるため、他車の割り込みを避けようという姿勢がジャカルタ・ドライバーたちに生じることになる。前の車との車間距離は最低限に切り詰め、左右からの進入の気配を感じたらスピードをあげ、前の車に近寄りすぎればブレーキを踏むという、急アクセル急ブレーキの繰り返しを行って自分の前にある路上のスペースを確保しようとするのである。

 走行中の他車の前に空いているスペースに割って入るその行為は道路を快適に走行するという市民に与えられた権利を邪魔するものであり、つまりは他者の権利を奪い、盗んでいる、というようにわたしには思える。インドネシア語でその行為はスロボッと呼ばれ、日本語になおせばつまり『割り込み』なのだが、待ち行列の順番を侵すことも、他人の土地に入り込んでそこを占拠することも同じ言葉で表現される。路上は公共のものであるのに、公共物を平等に利用するという市民に与えられた権利が強い者によって奪われ盗まれているという実態は、自分が住む共同体の外はジャングルなのだというインドネシア社会の本質を裏書してくれているような気がわたしにはする。
 ジャングルを統治しているのは弱肉強食原理であり、いきおい歩行者よりも自動車優先となり、そして乗用車よりも大型車両が優先となる。ところがそれとクロスするかのように、弱者保護原理がその脇をかすめる。

 歩行者にとっても交通法規はないも同然。キングオブザロードたる自動車が守らないのだから、歩行者に守れるわけがない。そもそもドライバーに比べて歩行者のほとんどが交通法規を理解していないのは、ドライバーなら運転免許証取得試験がらみで多少の交通法規と接点を持つものの、歩行者にそんな機会はどこを探してもないのだから、これは理の当然。しかし最近のニュース(「交通安全遵法作戦(その二)」(2005年12月1日)http://indojoho.ciao.jp/newsmenu0512.htm)によれば、場所だけはチブブルに用意されたということらしい。ともあれ、だからかれらの路上通行は単純に人間的な原理に従って行われている。道路の横断が必要な場合、ゼブラクロスの有無など関係なく、ビュンビュン走ってくる車の間隙を縫って押し渡る。ジャカルタへ来て間もない方は、横断しようとする歩行者が走っている自分の車の進路に近寄ってくるのを目のあたりにして、度肝を抜かれたことがあるにちがいない。おまけに、自分ならきっとブレーキを踏んで車を停止させるのに、と思うあなたを尻目に、スピードをゆるめもしないで平然と突っ込んでいく運転手にまたまた驚かされたのではあるまいか。
 ひとりで渡れないような道路幅と交通量のある場所では、歩行者たちが徒党を組んで道路を押し渡る。こうなれば反対に、そこには横断歩道も、ましてや信号機もないというのに、走ってくる車は停止せざるを得ない。
 交差点でもそうだ。目の前の信号がグリーンであるにもかかわらず、自分の目の前を歩行者が横切るので、先頭の車が発進できないということはよく起こる。車が流れ始めても、また別の歩行者が横切ろうとして車を止めるから、そのうちに信号が赤に変わってその交差点を通り抜けるのにたいそう時間がかかったりする。自動車側の信号が赤からグリーンに変わっているのに歩行者がそこを横切ろうとし、そんな場所に限って車は歩行者を優先させるという、よその国では考えられないような現象が起こるのも、交通法規とは無縁のところに存在している原理がインドネシアで路上の秩序を形成しているからだろう。

 歩行者が自動車の流れに何の意も用いていないことは、さまざまな実例が示している。バス停でない場所でバスに乗降するのは普通のこと。特にひどいのは、交差点の中や交差点を越えた場所でバスに乗る人々だろう。信号がグリーンに変わって車が流れ始めたと思ったら、そのあとすぐにまた止まってしまう。バスが客を乗せるために止まるので、後続車両は止まらざるを得ない。そうこうしているうちに信号は赤に替わる。そんなありさまだから、バスやアンコッがいれば、信号がGOに替わっても、その交差点を越えられる車は数台しかない、ということが起こることも頻繁だ。
 タクシー利用者も、道路状況など関知せずに車をひろうために、混雑する片側二車線道路にはすぐに交通のボトルネックができる。そして場所がショッピングセンターへの進入路入り口であっても、乗客はそこをふさぐ位置にタクシーを停めさせて降りようとする。のんびりとタクシーの乗客が金を払っている間、ショッピングセンターに入ろうとする自家用車が大通りを団子になって占拠し、こうしてその周辺の交通は止まってしまうのである。ふだんの暮らしの中であれほど気配りに長けたひとびとが世間の中で見せるこの落差には、誰でもわが目を疑ってしまうにちがいない。



 弱者保護原理にもっともあぐらをかいているのがオートバイであるようだ。走っている四輪車を右から左から追い抜いて車の前に出る者。後ろから四輪車が迫ってきているのに、威風堂々、周囲の状況などには何の関心も払わないで右側車線のど真ん中を走り続ける者。そんなツラション二輪車に「道を空けろ」と意思表示する四輪ドライバーは意外に少ない。いざるようにノロノロ進む渋滞路の左端を、歩道に乗ったり車道に降りたりしながら続々と一列縦隊でやってくるオートバイたち。四輪車は左に折れて脇道に入りたいため、ウインカーを出して脇道近くににじり寄っているというのに、その一列縦隊は一台として停まろうとしない。大きい交差点では、赤信号なのに右からの流れが途絶えれば交差点の真ん中まで進入し、左からの車が途切れると猛然ダッシュして押し渡る。インドネシアのオートバイは無法ドライバーだ、と多くの人が語っているが、四輪車とオートバイの事故が起きれば、道路状況や交通法規に照らしての正誤の斟酌などなしに必ず四輪車が責任を追及されるそうで、これも交通法規より上位に置かれているきわめて人道的な弱者保護原理に由来しているのではないかとわたしは推測する。
 おかげでオートバイ乗りは自分を弱者だと認識し、人道主義に基づいてみんなは弱者であるわたしを保護し、優先しなければならないのだ、という強い甘えの中に身を浸すにちがいない。だから何をしても許されるはずだという一方的な理解がかれらを無法者の世界に導くのだろう。しかし二輪車に乗ったゴリラと四輪車に乗っているヒヒは、近代以降培われてきたヒューマニズム原理に基づけば原則的には対等であるはずであり、おまけにその両者を車から降ろせばゴリラの方が強者になるのだ。ところが二輪車に乗っているというテンタティブな状況の中で自分を弱者に位置付けるゴリラは、どうして弱者としての行動を路上で示そうとしないのだろうか。

 そのようにして、あたかも唯我独尊のごとく路上を我物顔に走り、歩道や陸橋すら乗ったままで押し渡るオートバイライダーたちの現実は、実は悲惨なものなのだ。2003年に発生した交通事故13,399件中オートバイがからんだものは9,386件もあったし、2004年には総事故件数17,732件中オートバイが関与したものは14,223件にのぼった。2003年に全国で登録されている車両累計は2千6百万台あったが、二輪車はそのうちの1千9百万台を占める。底辺にあった公共運送機関のサービスの悪さや犯罪のリスク、それに加えて家計内での交通費の重圧という動機が消費者金融拡大で一気に国民を二輪車購入に走らせたのが近年の二輪車販売台数激増の要因であり、石油燃料値上げに引きずられての交通費の更なる上昇が二輪車購入意欲をさらに煽り立てるベクトルを持つのは言うまでもない。自転車替わりにオートバイに乗るライダーたちの無法度を鎮めなければ、交通事故件数はますます増加し、交通戦争で討ち死にする弱者は更に増えるに違いないのだから。

 そして場所によっては、とても不思議な現象を体験することもある。都内でベチャが廃止されて以来、その代替として盛んになったのがオジェッと呼ばれる二輪タクシーで、ジャカルタのコタ地区の一部で使われている自転車を除けば、二輪タクシーはオートバイというのが通り相場になっている。二輪タクシー運転手とは、つまりオートバイ乗りなのだ。
 都内の公共輸送は、ビスコタと呼ばれる中型大型バスとミクロレッあるいはアンコッと呼ばれる小型乗合が庶民の足として機能しているが、それらは大通りをメインに、定められたルートを通ってターミナル間を往復するだけであり、その路線から離れた場所の人々は、その路線まで行くのに二輪タクシーのオジェッ、三輪タクシーのバジャイ、四輪のいわゆるタクシーなどを使わないとすれば徒歩しかない。一番安いのが二輪タクシーだから、オジェッの需要が一番大きいという事実もうなずける。
 かれらオジェッ運転手は、ストラテジックな場所に集まってオジェッ溜りを形成し、オートバイを道路脇に道路方向に直角になるように整然と並べる。おかげで道路の左寄り車線がオートバイの長さだけ占拠される。一車線道路でも気にしない、というケースが多い。場所によって歩行者の往来が激しいところは、歩行者の通り道を確保するためにオートバイを更に車道側に押し出して並べている。その結果、その道路は四輪車一台が通れるぎりぎりの幅しか残されないことになる。そこを平気な顔で通り抜けるのが、ジャカルタ・ドライバーの実力というものだろう。
 中には「ぶつけてみやがれ」とでも言いたいようなぎりぎりの位置にオートバイを止めている運転手もいて、本気で四輪運転者に喧嘩を売っているのか、引っ掛けさせて損害賠償をたかり取ろうとしているのか、それとも頭の中が本当にホワイトブランクなのか、それを推し量るのに戸惑ってしまう実に不思議なシチュエーションに直面することもある。

 一方、四輪車の世界で弱者保護原理を目にすることはあまりない。大型バスやトラックは弱肉強食原理を謳歌しているようだから、なぜオートバイに弱者保護原理がまとわりついているのか、実に奇妙な現象としか思えない。
 交差点で信号待ちをしている四輪車の間を縫って後から来たオートバイが前へ前へといざり寄っていく姿は、皆さんにももうおなじみになっているにちがいない。歌の文句ではないが「もうどうにもとまらない」といった風情のその姿は、本能に従って集団移動の大行進を行うと言われるレミングの姿を彷彿とさせるものがある。インドネシア人二輪ドライバーの告白を聞くと、本能的に「どうにもとまらない」になるそうで、赤信号であれ何であれ、自分の進路に横たわるものは突っ切って行きたくなるらしい。交差点で二輪ドライバーがいざり進むのは、四輪車の後ろで排気ガスを吸わされるのが嫌だから、という説明に接したことがあるが、わたしにはそれがメインの理由とはどうしても思えず、やはりレミング本能説の方を信奉してしまいそうだ。交差点の停止線を越えて四輪車の前に数列の横隊を作り、左右からの交通の流れが途絶えると何台もがダッシュして赤信号を突っ切る事実は「どうにもとまらない」説を裏書しているように思えてしかたがない。
 「信号待ちの四輪車の後ろについたら、信号が変わってもさっさとその交差点を越えられない場合がある。だから車の隙間を縫って一番前に出る。信号が変わったらすぐにエンジンをふかしてGo!だ。」という二輪ドライバーの声は、レミング本能説を裏書するもうひとつの証明ではないかと思えて、あのヘルメットをかぶった大集団のヘルの下にあるネズミ男・ネズミ女の頭部を不謹慎にも想像し、ハンドルの後ろでクスクス笑いをこらえるわたしに、かれらの不可解な視線が浴びせかけられたりする。


 S禁止標識が突っ立っている場所で堂々と駐車する。P禁止標識が立っている場所がビスコタ駐車プールにされている。皮肉なことに、ボトルネックがそこにできると、交通警官がやってきて交通整理をしてくれるが、問題の根にメスを入れようとはしない。右折左折禁止やらUターン禁止の標識が出ている場所でも、ショバを自分のものにして稼ぎを行うパッオガに2百から5百ルピアを渡してやれば、違反公認者がいるため大手をふってそれができる。
 有料自動車専用道路では右車線は追越し用、トラック・バスは左車線通行と定められているのに、右車線をとろとろ走るセダンやバンがおり、一方トラックやバスは猛然と高速度で左右の車線を突っ走る。走行禁止とあちこちに表示されているにもかかわらず、路肩は追越し車線として使われ、やはりオープンデッキに人を乗せるのは禁止と表示されているのに、トラックの荷台に山積みにされた荷物の陰で人が寝ていたりする。

 交通法規は整えられ、十分に体系付けられているのだが、それが日々の社会生活の中で守られているようにはあまり見えない。これはいったいどうなっているのだろうか?音楽学者で文化人のスカ・ハルジャナ氏はエッセイの中でそれに関して次のように物語っている。

 ゆるゆると中年の男性が、首都のとある繁華なモールの地下駐車場に車を運転しながら下りて行った。下の駐車場では、ひとりの妙齢の女性が車を運転しながら、その通路から上へあがろうとしていた。そしてふたりは薄暗い通路の中で突然出合った。あわや正面衝突という情況は、ふたりが同時にブレーキを踏んだので避けることができたが、しかし二人ともそこから動こうとしない。ハイソスのブランドものスタイルに身を包み、あたかもエグゼキュティブという印象を与えているご婦人の方が、先にキレた。堪忍ぶくろの緒を切らしたかの女の車からはクラクションの連射。男性の方は苦笑いをしながらハンドルの後ろにふんぞり返る。『おれのどこが悪いんだ?』
 美人のハイソス婦人は、フロントガラスの中で手、頭、目、表情とあらゆるものを動員して相手に非難を浴びせ掛ける。口は呪詛の言葉を吐き散らしているのだろうが、相手の耳には届かない。出会った場所が場所であれば、このお二人はきっと優雅に微笑みながら社交のかぎりをつくすに違いないが、これはまたなんたる出来事!表情からはもったいないことに、美女の面影は消え失せてしまい、やっているのは右手の人差し指を伸ばして斜めに自分の額に近づけ、それを斜めに上げたり下げたり。このジェスチャーはご存知の通り、『おまえの脳みそは傾いている。』を意味するもの。要するに、おまえはイカレポンチ!

 それがジャカルタの日々のシーン(それともインドネシア全国の?)。秩序を守らず、他人に譲ろうとせずに力ずく、なにがなんでも相手に勝とうとし、自分が悪いと決して認めない人間たちのいる所。世界中のビルに作られる地下駐車場への入口出口は、どこへ行っても同じパターン。狭く、薄暗く、一方通行で、入口から出ようとすれば入ってくる車との正面衝突は避けられない。その場合、必ずどちらかが百%間違っている。上の例は美人の上流夫人が出口を間違えたのが実態なのだが。
「ええっ?それでもあんなに相手に突っかかって?」
「そう、それがインドネシア人、いやジャカルタ人。上で言ったように、力ずくで、人に譲りたがらず、自分が勝つのが大好きで、自分が間違ったなどと決して認めず、そして公共秩序など念頭にない。」

 別の例。車が一台正しい車線を走って来た。左折しようとするが、自分の左前方にいるオートバイのために曲がれない。オートバイは前が詰まっているから、そこに停まっているのだ。左折したい車は自分の左側の家の門の前に、意図しないで停車している。そのときその家からご婦人が門を開けて車で出ようとしたが、目の前に別の車が停まっているので、出るに出られない。このご婦人はまるで辛抱心がなかったようだ。情況を一瞥するやすぐに車から降りて、罵りながら門の前の車を平手でバシバシバシ。『いったいおれが何をしたの!?』とその車の運転者は目をシロクロ。

 スカ・ハルジャナさんのお話はそれくらいにして、それでは、交通法規よりも高いポジションでインドネシアの道路交通秩序を統御している原理を分析してみよう。外国人はこれに関していくつかの法則を導き出している。インドネシア人はその見解について、外国人の目から見たものだ、としながらも、否定も反論も加えない。きっとそれに同意共感しているにちがいないが、あえて口に出さないということなのだろう。「流れの法則」「鼻先の法則」「図体の法則」「視認の法則」と名付けられたそれら四つの法則を、これからひとつひとつ解説していこうと思う。



 インドネシアの路上を支配している、交通法規より高い位置に置かれている決まりとして四つの法則があげられている。「流れの法則」「鼻先の法則」「図体の法則」「視認の法則」と名付けられたそれらの原理はいったいどのようなものなのだろうか?

 第一の「流れの法則」とは、路上に形成される流れを妨げてはならないという論理のもと、道路標識や信号がどうあろうと、交通の流れに乗っているかぎりはそれらの決まりに従わなくとも何も悪くないという原理がこれである。だから交差点で赤信号を押し渡る流れが形成されると、それとクロスするグリーン信号の側で停止や徐行が起こる。対向四車線道路が時と場合によって三対一、ひどいときには全車線一方通行に豹変することもある。誰かが対向車線を逆走すると、われもわれもとそれに追随する者が出てきて、こうして交通の流れが形成される。センターラインを越えて対向車線を逆走すれば交通違反だが、交通警官がその流れを違反者として一網打尽にする場面を見たことがない。そもそもそのような逆走が起こるのは、進行方向の車線が詰まって動かず、しびれを切らした横着者が空いている対向車線に飛び出すという状況がほとんどで、交通警官は何をするかというと、自然発生した三対一あるいは全車線一方通行化のさなかに対向車がやってきたとき、その対向車を通してやるための交通整理を行うのである。
 三車線に四五台が並ぶ赤信号でも、それぞれの後ろに後続車がつながり、四五本の車の列が流れを形成する。交差点を過ぎれば三車線の流れに戻るにせよ、交差点の手前にできた四本から五本の車列は言うまでもなく車線をまたいでいるわけだが、交通警官に違反切符を切られる車はない。
 ジャカルタの街中を走っていると、パトカーや救急車あるいは消防車などが混雑する道路をかきわけて前進する状況にしばしば遭遇する。そんなとき、それらの緊急車や白バイが先導するご一行様に後続して突き進むドライバーも多い。見ていて気恥ずかしくなるようなジャカルタ・ドライバーのそんなふるまいは、この法則が下支えをしているのではあるまいか。


 二つ目の「鼻先の法則」は、大勢の皆さんが先刻ご承知であるにちがいない。この法則を「先行車優先」と呼ぶ人がいるが、もっと細かに見てみると、自分の車の鼻先をおさえられた方がおさえた方を先に行かせてやらなければならない法則であることがわかる。これはつまり、自分の車のどの部分であれ、相手の車の鼻先にそれを置いて相手の進路を邪魔した方が勝ちであることを意味している。勝ち負けと言っているのは、どちらが停まらなければならず、どちらが先に動いてよいのか、という意味で、この法則のおかげでジャカルタ・ドライバーたちはたいてい他車の鼻先をおさえることに血道をあげる。この法則が割り込み行為を盛んにしていることも疑いない。
 この原理は、自分の車を他車にぶつけることは悪である、という価値観に則っているようだ。事情がどうあれ、運転者が他車に自分の車をぶつけるのは悪いことなのである。その論理を進めて行けば、衝突や接触事故が起こった際の正誤判定基準としてこの法則が機能することがわかる。前の車が急停車したため追突事故となった場合、道路状況や事故の真の原因がどうあれ、追突した側が責任を取らされる。だから鼻先をおさえられた車は、おさえた車を先に行かせようとする。Uターン路を逆走してきてわたしの車の前に止まった車であっても、その車にわたしがぶつけたら、非はわたしにあることになってしまう。だからいかなる状況であれ、鼻先をおさえられた車は静かに止まって、自分の前にいる車が去るのを待つのである。


 その次の「図体の法則」は上記「流れの法則」と「鼻先の法則」の下部原理として働く。つまり第一法則第二法則には優先せず、副次的なものとして機能するのである。この法則はつまり、図体の大きい車が小さい車に勝つということだ。疾走する大型バス、砂利トラック、ゴミトラックなどのキングオブザロードと衝突すれば、セダン車に乗っているあなたが生命を失うのは十中八九確実ではないだろうか。だからあえてかれらと争うことはしないのが得策であり、かれらが正面から疾駆してくれば理非は問わずに道を譲ってやれと教えているのがこの原理だ。
 地方部の街道を走ると、大型バスや大型トラックの往来が激しい。トラックはたいてい許容量を超える荷を積んで走るので、スピードはあまり出ない。追い越しのチャンスを見出せないままセダンやアンコッが十台足らずのろのろトラックにくっついて隊列を組んで走っていると、後ろから来た大型バスがごぼう抜きにかかる。そんな街道はたいてい対向二車線だから、バスは反対車線を逆走しているわけだ。そこに来合わせた対向車はたまらない。そこに「図体の法則」が適用されるのである。インドネシアで交通法規の上位に置かれている「図体の法則」をバスの運転手は信じているから、正面からやってきたセダン車が自分に道を譲ることをかれは確信している。その法則の中にいるインドネシア人運転者は、バスがすごすごと引き下がらないことを知っているから、路肩に下りて徐行したり停車したりする。バスとトラックが正面から並んで疾走してくる二車線道路で、インドネシアのこの法則を知らなかったために、バスはスピードを落として本来の車線にいる車列の最後尾につき、自分に道を譲るだろうと考え、正面のバスに突っ込んで行って玉砕した外国人は数多い。

 もうひとつ、この図体の法則が生み出す別の種類の大事故が地方部でよく起こる。見通しの悪いゆるいカーブを大型トラックや大型バスが高速で走り抜けようとするとき、必然的にセンターラインを大きく越えてふくらむために、対向車が引っ掛けられることになる。
 インドネシアの交通習慣の中で運転者が行っているウインカーの奇妙な使い方にお気付きではないだろうか?わたしがそれにはじめて気付いたのも、そんな田舎の街道でカーブをふくらんで走る大型トラックの右ウインカーの点滅を目にしたときだった。よく気をつけて見ていると、ジャカルタの街中でも、片側二車線道路を走るバスがセンターラインを少し越えて車を追い越すときとか、あるいはその反対で自分はその車線を徐行しているようなとき、前方から来る対向車の走りがセンターラインを越えている場合に右ウインカーを点滅させることもある。
 右左折でもなく、また車線変更でもないのにウインカーを点滅させるそれらの事実からわたしは、インドネシアでウインカーは警告サインとして使用されているのだという結論をそこに見出す。しかし考えてみれば、右左折や車線変更でウインカーを出すのは自分が何をしようとしているのかということについての意思表示であり、他車への警告であるのは疑いもない。警告という要素を敷衍していけば、センターラインを越えてふくらむから危ないぞと警告し、前方からセンターラインを越えてくる車にバスがお前の行動は危ないぞと警告するのも、同じ根につながっていくような気がするのだが、皆さんはどうお感じになるだろうか?
 さて「図体の法則」に話をもどして、大型車がカーブを回るのにセンターラインを越えて猛スピードで突進してくるのがこの法則の典型例のひとつだとわたしは思うが、だから対向車であるわたしたちはできるだけセンターラインから離れてコーナリングを行うように心がけなければならない。つまりコーナリングのベスト効率は右カーブの場合、曲がる前にアウトに出てからカーブの内側をまっすぐ抜けて車線の左よりに達し、そこで直進態勢に戻すという理論になっている。しかしこれではふくらんだ大型車と正面衝突してしまう。ふくらんだ大型車がすぐそこまで来ているかどうかわからないケースでは、効率の良いコーナリングなどは忘れて、右カーブの左端をスピードを殺して回るべきだ。
 この法則に限っては、ぶつけた方が悪いなどという話をするのは遺族であって、ぶつけられた当の運転者は鬼籍に入ったあと、というケースが多いから、交通法規を武器にしてその闘いに勝とうとするようなことは避けるのがインドネシアで生活する際の最良の知恵ではあるまいか。なにはともあれ、バス・トラックなどの大型車両は敬遠するのが一番だ。


 四番目にある「視認の法則」というのは、実はもっともベーシックな原理ではないかとわたしは思っている。事故を起こした者に対して「おまえはどこを見て走っていたんだ?」とか「何を見ていたんだ?」などというせりふが口をつくのは、ごく自然な人間の心理であるようだ。そんな発言者の心理の根底に横たわっているものがこの法則の真髄なのではあるまいか。路上の運転者たる者は、ちゃんと四周に注意をはらい、何があり、どう動いているのかをよく観察し、すべてをきちんと見ながら自分の車を運転しなければならない、という原則がそこに働いているようだ。この原理は実は、既述の三つの法則のすべてを支えるものであると言っても過言ではないだろう。
 この原理にある重要事項は、まず自分が周囲をよく見ること、そして他車に自分を見させること、ではないかと思われる。そのために、スピーディーな動きは他車に自分を視認させることが不十分になることから、路上ではとかく緩慢な動きになりがちだ。車線変更をする車がすぐに隣の車線に移りきらないで、いつまでも二つの車線をまたいで走ることの原因のひとつがそこにある。急停車、急発進、急ハンドル・・・・、急のつく動作を誰もが避けている社会で急のつくことが起こるのは異常事態であり、それに柔軟に対処できる人は少ない。だからスムースに流れている交通に合流したい場合、じわじわじわじわとその流れの中に入っていくスタイルがインドネシアに生まれる。止まって道を空けてくれるドライバーはいないし、急ハンドルをきって無理に入れば十中八九ぶつけられるだろうから、合流車は川の瀬踏みでもするようにじわじわとそこに入っていく。流れを継続できないほどじわじわが進入してくると、流れの中にいてそこに来合わせた車はあきらめてブレーキを踏む。そしてじわじわ車はその流れの中に取り込まれるのである。
 この「視認の法則」のおかげで、ぶつかったときに運転者は「知らなかった」「見えなかった」を強く主張するようになる。つまりよく見なかった側は相手がその存在を自分に認知させることを怠ったと非難しているのだ。この主張で相手が折れれば、タワルムナワルは成功だ。しかし誰しも争いには負けたくないもので、だからたいていは「流れの法則」や「鼻先の法則」を盾にして口論し、優位にある法則へと収斂していくから、よく見ないでぶつけた側に責任が求められるのは変わらない。


 それらインドネシアの交通環境を統制している四つの法則からは、インドネシアの交通秩序を成り立たせているものが、交通法規が存在する以前の、人間の社会行動に根ざしたものであることが見えてくる。「流れの法則」はきわめて合目的的に、流れることを目的に形成された交通の流れは流してやれ、ということなのではあるまいか。更に、道路交通者は事故を起こすために路上に出てきているのではない、という基本思想にもとづいて、個々のシチュエーションでどうすれば事故を避け、交通をスムースに流すことができるか、ということの標準化がなされた結果生まれた原則が「鼻先の法則」であり、「視認の法則」だろうとわたしは思う。そしてもうひとつの「図体の法則」は、生命の惜しい人にとって注釈の必要などさらさらない栄枯不滅の鉄則だ。

 インドネシアに交通秩序がない、という見解は交通法規をベースに交通事情を見ているために生じるものであり、その規準をすべて取り払ってみれば、人間として誰もが理解できるきわめて単純な原理が実はインドネシアの交通秩序を成り立たせているのだということが見えてくる。この状況は先にも書いたが、行政法規がインドネシアの社会秩序を成り立たせているものではなく、別の目的とロジックを持つ社会生活規範が主力をなしている状況とうりふたつなのである。住民管理をはじめとする政府の行政管理が国民の管理統制を行えておらず、国民は建前としての行政法規、本音としての社会規範のはざまで、ダブルスタンダードの中に生きている。
 ハンドルを握ると人が変わる、という言葉は日本でもよく耳にする。そして興味深いことに、あれほど人をもてなすことに意を用いるインドネシア人も路上でハンドルを握ると別人に変身する、という印象をわたしたちに与えてくれる。路上は人をもてなす場ではないのだ、と説明するインドネシア人もいるが、他人と接する場であれほどの礼節、もてなし、優しさ、思いやりを示すインドネシア人が、ハンドルを握ると一変して野獣に変わるという声は大きい。
 この現象はインドネシアにだけあるのではなく、どこの国にもハンドルを握って車を走らせると人格が一変する人はいるものだ。インドネシア人が極端に思えるのは、そうでないときとの落差が激しいせいだろう。仕事の関係で知り合った人や隣人の家を訪問すると、始終にこにこと笑顔を見せ、痒いところにまで手を届かせてもてなしを示してくれるかれらと、路上にあふれるジャカルタ・ドライバーたちのふるまいとの間に共通項を見出すのは、わたしには不可能としか思えない。
 その要因のひとつとして、人間と人間が接する場で発現する人としてのあるべき姿勢が、自動車に対したときに発現しないということが考えられる。自分は自動車の中にいて外を見ているのだが、四周にいる自動車は機械なのである。その機械も人間が意思を持って操作しているのだということは頭の中で理解できても、それは人間の姿をしていないのだ。だから周りにいる自動車は機械が意思を持って動いているという印象をそれぞれの運転者に与えたとしてもなんら不思議なことではない。そうであるがために、人間に対しては優しさや思いやりを示す習慣を身に付けてはいても、機械に対してそれを行うということが自発的には出てこないのではないだろうか。社会がそのような価値観を持つことによって社会構成員がそのような習慣を教育されるのであって、だからそれは、インドネシアの世の中にまだそのような価値観が成育していないということを意味しているに過ぎないのではないだろうか。


 そんなジャカルタの交通事情の中で、ジャカルタ・ドライバーたちに伍して巧みな運転技術を身に付けようと切磋琢磨されているあなた。あなたがひとかどのジャカルタ・ドライバーとして都内で堂々の走りを展開し、路上を闊歩できるようになったとき、ほかの国へ行ってまだハンドルを握るにふさわしい運転者であり続けることができるのかどうか、わたしにそれはわからない。
 わたしのこれまでの見聞を思い起こせば、いずこの国のひとにとっても異文化への適応は、勧められ、推奨され、賞賛されることがらとされているのだが、そのような価値観がいつでもどこでも真理であるという見方に対してわたしは疑いを抱き始めている。

(ジェイピープル< http://www.j-people.net >に掲載)