「チャロン・アラン」


1.ギラ村で
 ダハの王国は毎年豊かな収穫を得て民衆は満ち足りた暮らしを営み、衣食住が十分満たされていたので犯罪もあまり起こらず、栄養が行き渡っていたので疫病の広がることもほとんどなく、このようにして王国は平和と安寧の中に栄えておりました。この国を治めていたのが、聡明で慈愛と徳にひいでたエルランガ王です。王の宮殿はインドラ神の天上の宮殿にたとえられ、王は属国のすみずみにいたるまで巡幸して民のようすを自らたずね、善政があまねく行き渡ったので民衆はこぞってこの王を敬愛しました。また、宇宙の中心たる王の平安とそれによってもたらせられる国家国民の繁栄を祈願する役割を担う僧たちも、山中のジャングルを切り開いて修行堂や僧房を建て、すぐれた術を身につけた高僧になろうとして修行に励むのでした。
 王都から馬でおよそ二日二晩の距離のところにギラという名の村があります。このギラ村はGirahと書きます。決してGilaではありませんので、お間違えのないようにお願い致します。そのギラ村のはずれにある、ドゥルガ女神をまつる神殿を司っていたのは、中年の寡婦の女僧でした。この女僧にはとても美しい一人の娘があり、母の自慢のたねとなっていましたが、この娘ラッナ・マンガリは小さいころからいつもひとりぼっちで成長してきたのです。ひとなみすぐれて美しい容姿とひとなみとはいえ善良な心を持つこの娘が村の誰かに声をかけても、その相手はただ黙ってうつむき、首をふるばかりで一言も口を聞いてはくれません。これにはいったいどのようなわけがあったのでしょうか?

 実は、村の人々は娘の母チャロン・アランをたいそう怖れていたのです。チャロン・アランは数多くの呪文をわがものとし、さまざまな超自然の術を使いこなすことができました。ところがこの女僧は高慢で性悪な性格をしていたので、他人のものを奪ったり他人を虐待して痛めつけることに何の呵責も感じず、それどころか自分が不愉快に思う者には呪いをかけてその生命を奪うといったことを頻繁に行い、その呪いがうまくかかって相手が死ぬと自分の力に酔いしれてその成功に喜びはしゃぐのでした。だから、へたなことを言ったりしたりして母親の勘気にふれると生命が危ういのです。いったい誰がそんな母親の娘と仲良くなろうなどと思うでしょうか。
 恐怖の魔女と村人たちから怖れられたチャロン・アランにも、十数人の弟子や信奉者がありました。かれらを結び付けていたのは邪悪な力への憧れだったにちがいありません。他者を踏みつけて究極的には生殺与奪の力をふるう、他の人間に対する支配という力に対する憧れだったのでしょう。呪文や超自然の術を師匠ほど巧みに使えるものはいなかったにせよ、他人から略奪し他人を痛めつけることを好む小チャロン・アランはその一党の中に何人もいたのです。村人はそんな弟子たちをも恐れていましたが、それはむしろ野獣に対する恐れそのものでした。弟子たちは実に残虐にひとを殺すのですが、自分が痛めつけた人間が血を流すのをたいそう好み、しかも人間の血を自分の髪に塗りたくるのを喜ぶのです。チャロン・アラン一党が何かの祝宴を行うとき、弟子たちはまるで野獣そっくりに振る舞い、誰かがその場に行き当たったりその祝宴をのぞいたりして捕まるとそのまま座の中央に引きずり出され、よってたかって生命を奪われるのですが、その犠牲者の血をみんなが競って自分の髪に塗りたくります。かれらはそうやっていつも自分の髪をべとべとさせており、そのおかげでかれらの髪は太いのです。


 かつてギラ村の広場では、夕方になると子供たちが集まって遊びに興じ、月夜になればこうこうと輝く月光を浴びて夜遅くまで楽しく過ごしておりました。あるとき、チャロン・アランの弟子のひとりが広場を横切ろうとしましたが、子供たちが夢中で遊んでいたために邪魔で仕方がなく、たちまち不愉快さがつのります。おりもおり、遊びに夢中になっていた村長の息子がその弟子にどしんとぶつかったからたまりません。弟子は怒ったらしく、何やらわけのわからない呪文を怒鳴り散らしながら通り過ぎていきました。ところが、弟子が広場から去った直後にその悲劇は起こったのです。村長の息子は突然その場にしゃがみこむと大声で泣き出しました。遊び仲間たちはあわててかれを家へ送り返しましたが、村長夫婦は息子の変わり果てた姿にただ茫然とするばかりでした。その子の目は光を失い、足は麻痺して動かず、髪の毛はぽろぽろと抜け落ちて丸坊主になってしまったのです。
 村長は事情を知るとすぐにチャロン・アランの家へ出かけて丁重に謝罪し、「どうか弟子の呪いを解いて、子供を元の姿に戻してください。」と頼みました。
「ようし、あとでおまえの家へ行ってあげよう。」
チャロン・アランにそう言われてひと安心した村長が家へ戻って待っていると、チャロン・アランと弟子たちがやってきましたが、子供を治してくれるようなそぶりは見えません。
「気持ち好いだろう。ねえぼくちゃん、気持ち好いだろう。」とチャロン・アランがひやかしますと、「そりゃもう、気持ち好いに決まってますよ、カンジュン・ニャイ。」と弟子たち。カンジュンとはジャワで身分の高い人につける尊称、ニャイはここでは奥様の意味です。村長夫婦がこの非情なしうちに涙を流しますと、「あらあら、泣いてるよ、この男が。」とチャロン・アラン。すると弟子たちも、「女のほうも泣いてますよ」。
 チャロン・アランへの恐怖でそれまで金縛りにあっていた村長も、ついに堪忍袋の緒を切らしてわれを忘れ、奥へ駆け込んで先祖伝来の伏魔の槍を持ち出してきました。そうしてチャロン・アランにぴたりと狙いをつけて構えると叫びます。
「さあ、われらをはずかしめろ、チャロン・アラン。もっと馬鹿にしてみろ。」
チャロン・アランはひるむどころか、けたけたと笑い、口を大きく開けると村長に向かって叫びます。
「バア!」
チャロン・アランの吐きかけた息を全身に浴びた村長は身体をこわばらせ、ひくひくけいれんしながら地面にくずおれたのです。村長夫人はすぐに夫に駆け寄ると倒れた夫の身体をかき抱きましたが、村長はすでにこときれていました。チャロン・アランと弟子たちの歓喜の笑いがはじけます。
「チャロン・アランが何様かやっとわかったかい。これはチャロン・アランのしわざだ、と村中にふれまわりな!」村長夫人は夫の死骸を抱いたまま、うつむいてじっとこの悲憤と恥辱に耐えています。一党はそれをしりめに凱旋して行くのでした。

 チャロン・アラン一党を捕らえて罰することのできる者はその地方にひとりもいません。村役のだれひとり、村自警団のだれひとりとしてかれらに手出しできる者はいないのです。かれらは不死身であり、かれらの生命を奪うことのできる武器はありません。だから村人はただただ恐怖の毎日を送るばかりでした。子供は戸外で遊ぶのを禁じられ、大人もよほどの用がなければ外へ出たがらず、暴君チャロン・アランの魔手から逃れて神のご守護が得られますようにと家の中でひっそり祈る毎日でした。
 こうして歳月は流れ、チャロン・アランの家の周辺に住んでいた隣人たちもみんな引越して行き、ついにはかなり離れた場所まで一軒の家もないようになってしまいました。ギラ村はどんどん寂れていきます。田は耕されず、畑も草ぼうぼうの荒地に変わります。栄華を楽しむ王国の一隅にこんな不幸な村があるとは、他の地方の人々にとって想いもよらぬ驚きだったにちがいありません。極悪非道の恐怖の魔女、チャロン・アランの悪名はギラ村の噂とともに王国のあちらこちらにまで広がっていきます。どこへ行っても人々はチャロン・アランを避け、そして娘のラッナ・マンガリももう25歳になるというのに、妻にと望む者はひとりとして現れません。この母娘の悪い噂ばかりが王国の端々にまで飛び交い、弟子たちはそれを逐一師匠に注進します。こうしてチャロン・アランの怒りは天を衝くまでにたぎりたちました。
「おのれ、能無しの愚かな虫けらどもが。多くの呪文を極め、すぐれた術を自在にあやつることのできるこのわれを嫌い、足下にひざまづくどころか隠れて陰口をたたくとはなんたる無礼。ひとり残らず皆殺しにして思い知らせてくれよう。」

 チャロン・アランは高弟たちを引き連れてドゥルガ女神をまつる神殿へ赴きます。香炉の護摩は煙を吐きあげ、香料やパンダンの香りが堂内に満ちる中で呪文のうなりは低くただよい、弟子たちは狂ったように踊り始めました。しかし、てんでんばらばらのその踊りはとてもぶざまで見苦しいものです。くるくるとコマのように回る者。蛇のように舌を出したり入れたりする者。目をかっと見開いて威嚇する者。しゃがんで身体を傾け、短足の姿勢で飛び跳ねる者。
 そのうちに護摩の煙の中からドゥルガ女神がおぼろげにその輪郭を浮かばせはじめ、時間とともにやがてくっきりとその姿を信奉する者たちの前にあらわしました。その姿の美しいことはまさに天上の美そのものです。一点の瑕疵も見当たりません。一同はいっせいに身体を屈めると、頭を床に擦りつけて伏し拝みます。炉で護摩の火の燃える音だけが堂内の静寂を破って響きます。女神の玉を転がすように麗しい声がこだましました。
「チャロン・アラン、わが娘よ。わたしを呼んだのは何を願うためか?」
チャロン・アランは頭を床に擦りつけたあと、顔を上げて口を開きます。
「女神様、どうかわたしの願いを叶えてくださいませ。」
「どんな願いか申してみよ。」
「はい、女神様。できるかぎり多くの人間を滅ぼすために、疫病をこの国に広めることをこのわたくしめにお許しくださいませ。」
「それが願いか、わが娘よ。」
「さようでございます。」
「心配はいらぬぞ。疫病を広めることをおまえに許そう。さぞかし多くの人間が死ぬであろうな。」
その言葉を聞いたチャロン・アランと弟子たちの喜びはいかばかりだったでしょう。弟子たちは有頂天になってまた踊り始めました。
「しかし、わが娘よ。」女神の声にみんなは一瞬動きを止めます。
「疫病を王都へ広めてはならぬ。王都の外でのみ多くの人間を滅ぼすのだ。」
「ははっ。ありがとうございます、女神様。」
一同はまたいっせいに額づきます。そうして頭を上げると、きょろきょろとあたりを見回しました。なぜなら女神の姿はもうそこになく、ただ護摩の煙だけが香炉から湧き出ているばかりだったからです。
 ともあれ、チャロン・アラン一党の邪悪な計画は軌道に乗ったのです。大喜びで踊りはしゃぐ弟子たち。ドゥルガ神殿から村へ戻ってくる怪しい行列を目にした村人たちは、外で遊んでいた子供たちの手を引いて家の中に連れ込みます。野良仕事の場所へ誰かが駆けつけてそのことを知らせると、道具も水牛もほっぽり出してみんな家へ逃げ帰ります。そして家を堅く閉ざすと、神のご守護を願おうと一心不乱に祈るのです。村人たちのだれひとりとして知らない者はありませんでした。チャロン・アラン一党がドゥルガ神殿から嬉々として戻ってくると、どこかで必ず不幸が起こるということを。


2.呪い
 そんなことがあってから、まだあまり間もないある夜のことです。常にはない漆黒の闇がギラ村を覆いました。月も星もぶあつい雲の裏に隠れ、天空から漏れる光はありません。冷たい風がときおりがさがさと木々を揺さぶり、雑草をざざざざとうねらせては村を通り抜けていきます。こんな夜、村人は早々と寝床に入って眠りをむさぼり、夜回り番も番小屋の中でじっとしています。こんな闇夜に見回りに出かけてだれかをとがめ、もしもその者がチャロン・アラン一党であったなら翌日の日の出はおがめないかもしれないのです。明るい月夜ならとがめる前にその者がチャロン・アラン一党かどうかわかるので、そうと知りつつ声をかける夜回りなどいませんが、闇夜だとそうはいきません。そのため、不測の事態を避けるには番小屋から出ないのが一番なのです。村長にあんなことが起こってからというもの、村の人々はただただチャロン・アラン一党を恐れるばかりになっていました。
 夜もしんしんとふけるころ、チャロン・アランの家から何人もの人影が闇の中に滑り出てきました。一番の高弟が先頭に立ち、香炉を捧げて行く先を照らしながら踊り狂います。他の弟子たちもその後ろに続き、行列の真ん中で書物を捧げながら呪文を唱えているチャロン・アランを取り巻いて、それぞれがばらばらにぶざまな踊りを繰り広げます。みんなは自分の身体をべちゃべちゃ叩いて調子を取りながら踊り狂って進むのです。この鬼気迫るおどろおどろしい行進を知った村人はひとりとしてありませんでしたが、こんな行列に行き当たったりしたがさいご、その場でやつざきにされたことでしょう。さて、一党は村の四つ辻にやってくると、その四つ辻を取り囲みます。チャロン・アランはひとり四つ辻の中央に進み出ると一心に呪文を唱えました。このようにして四つ辻に埋め込まれた呪いはそこを中心に東西南北すべての方角に向かって広がっていくのです。チャロン・アランのおぞましいたくらみは、ついに実行に移されました。さあ、弟子たちは大喜び。舞い踊りながらチャロン・アランの家へ戻ると食えや飲めやの大祝宴のはじまりです。

 ほどなくして、王国のあちらこちらで疫病が発生するようになりました。最初は隔たった場所でぽつりぽつりと起こった疫病がまたたく間に蔓延し、多くの地方で猛威をふるいはじめたのです。激しい悪寒と高熱の続くこの伝染病を治すために多くの人があれこれ試してみたのですが、効き目のある薬はどうしても見つかりません。既に何千ものひとがこの病気にかかり、一度かかるとなおる希望がないのです。王都でだけは死に至るものが出ませんでしたが、王都から一歩外に出ると毎日何百人という民衆が死んでいきます。死者が墓に埋められると次にその世話をした者に病が移って生命を落とし、その者の世話をした者がまた病に襲われて・・・、と果てしない連鎖が続きます。地方に駐屯して国防の任にあたっていたエルランガの勇猛な兵士たちも、戦闘で死ぬのではなく疫病に倒されるのです。
『あちらの地方では何千人が死んだ』『こちらの地方では何十か村が廃墟になった』などという噂に混じって、『この疫病はチャロン・アランの呪いのせいだ』という噂も聞こえてくるようになりました。これが呪いのせいであるのならということで、各地で有徳の高僧がお祓いを行いましたが、病人を治すことも疫病の勢いを弱めることもできません。チャロン・アランの能力が人並みはずれてすぐれたものだったために、なみたいていの力ではその術に対抗することができなかったのです。
 チャロン・アランの名は怨嗟を込めて国中で人の口の端にのぼるようになりました。誰もがこの魔性の女を討ち滅ぼしてやりたいと願いますが、そんな力がないためにどうしようもありません。それどころか、反対に自分がいつこの病を得て生命を失うかもしれないのです。人々は毎日を不安と恐怖の中で送り、そして愛する親族を失って悲嘆に暮れるばかりでした。王国の人口はみるみる減少していきます。こんな時期にどこかの国が攻め込んでくれば、王国はいったいどうなるでしょうか。


3.戦いはじまる
 民衆の惨状と王国の危機に直面してエルランガ王は涙を流し、毎日長い時間グル神に祈って解決策を求めますが神はお告げをくれません。そんなとき、国王はチャロン・アランの呪いの報告を受けました。王は高官、将軍、高僧たちを宮廷に集めて対策を探ります。宰相が事態と経緯を報告しますと、王はひとり娘の嫁のもらい手がないというだけで人という人を憎んで呪いをかけたギラ村の女僧の人間性を心から怒り、「人間をひとり殺しても罰を受けなければならない。ましてや数百数千の人命を虫けらのように滅ぼしたその女は決して赦されるものではない。兵をギラ村に遣わしてその女をひっ捕らえよ。手向かいするなら弟子もろとも皆殺しにしてもかまわぬ。」と命令しました。

 ただちに百人を超すチャロン・アラン捕縛隊が編成され、捕縛隊は歓呼の声に送られてその日のうちに王都を出発しました。通り過ぎる村々では大歓迎を受け、任務の成功への祈りと期待がいや増します。そして数日後、捕縛隊はついにギラ村に到達しました。日はもう暮れています。
「なんという陰気な村だ。おい、だれか番小屋でチャロン・アランの家を尋ねろ。」
軍隊が何のためにギラ村を訪れたのかそのわけを知った番小屋の夜回りたちは、すぐに村役を呼びに走りました。村の中に小さな希望の火が点じられたのです。それでも村人は怖がって、だれひとり案内に立とうとはしませんでしたが、その家の場所だけはていねいに教えてくれました。捕縛隊はそのままチャロン・アランの家に向かって前進します。周囲に家がないために、チャロン・アランの家はすぐにわかりました。隊長と側近の部下二名が馬を下りて相談します。
「隊長、このまま一気に捕まえてしまいましょう。」
「そうだな。敵はまったく油断しているようだ。見張りさえいない。弟子どもが集まってくると面倒だ。すぐに縄をかけよう。」
チャロン・アランの家を兵隊たちに遠巻きにさせて逃げ道をふさぐと、三人は家の中に入りました。ぐっすりと眠り込んでいる中年の女がひとりすぐに見つかりました。念のために家の中を捜索してから三人はふたたび中年女のまわりに集合します。
「こやつがチャロン・アランか?」
「そうらしいな。もっと醜いばあさんかと思っていたが、そうでもないな。」
「醜くはないが美しくもないぞ。あっちで寝ている娘のほうがはるかに美人だ。」
「さあ、仕事を終わらせようぞ。」
二人の部下は剣をさらりと抜くとチャロン・アランの胸に突きつけ、隊長はチャロン・アランの髪をつかむと三人ともに呼吸を合わせて女を起こしにかかります。
「いざ。」
「おう。」
ところが、三人の手は突然痙攣を起こして言うことを聞かなくなりました。チャロン・アランの護身の魔術に触れてしまったのです。あわてる三人の兵士たち。
異変に気づいて目を覚ましたチャロン・アランの眼に、身体が言うことを聞かなくなって取り乱している三人の兵士の姿が映りました。怒りが腹の底から頭のてっぺんまで吹き上がってきます。目は真紅に染まり、目鼻口からは炎がほとばしり、そして全身からどっと噴き出た火炎が三人の兵士を包みました。三人は猛火に悶え苦しみながら、黒焦げとなって死んでしまいました。

 ことの成り行きを外で見守っていた兵隊たちは、百戦錬磨の隊長たち三人がいとも簡単に倒されてしまったのに驚き恐れ、算を乱してその場から逃げ出してしまいました。指揮官を失った捕縛隊はしかたなく隊列をまとめると王都へ引き返します。通り過ぎる村々でも王都の城門をくぐる時でも、最初民衆は捕縛隊の帰りを迎えて大喜びするのですが、様子がおかしいことはすぐにわかります。捕らわれたはずの罪人の姿はどこにも見当たらず、兵隊たちの沈痛な様子からは任務が期待はずれに終わったことがすぐに悟られ、事態の改善が少しも進んでいないことを民衆は知るのです。深い失望が王都を包みます。

 捕縛隊の報告が王に奏上され、王はそれを聞いて愕然としました。兵隊の武力にさえ対抗しうるチャロン・アランの術の高さは認めざるを得ません。疫病の蔓延をくいとめるために、地方の一女僧にすぎないチャロン・アランの呪いを打ち破ろうとして結局うまく行かなかった王宮の高僧たちも、「面目ないが・・・」と前置きしながらその事実を裏付けるのです。
「どうすればよいのだ。このままでは王国は滅亡してしまう。」
エルランガ王は謁見の間をあとにすると祈祷の間に入り、香を炊いてグル神像の前で一心に呪文を誦じますが、神は姿を現しません。一夜祈りつづけた王の背に白々と明けそめた朝の光が降りかかるのでした。

 チャロン・アランの家に残された兵士の屍体は弟子たちが川まで運んで投げ捨てました。しかしチャロン・アランの胸のうちには憎しみの大きなうねりがやむことなくのたうっていたのです。口をついて出てくるのはエルランガ王に向けられた憤怒と呪詛の言葉ばかり。これには弟子たちも当惑してしまいます。王は神の化身であり、普通の人間とはちがったものなのです。ただの民衆はどれほど高い地位にまで昇っても、決して王になることはできません。王の家系に混じることで、王統の血を受け継ぐその子孫にはじめて王位に就く資格が得られるのです。そして、そのような王でなければ宇宙の中心軸としてこの世を支え、回転させ、現世を栄えさせていくことができないのです。そのような神の化身に反逆の心を向ける師は明らかに道理を外れています。そんなことをすれば神の怒りを受けて雷に打たれ、一瞬にしてこの世から消滅するかもしれません。弟子たちの脳裏を不吉な影がよぎりましたが、チャロン・アランを怒らせると何が起こるのかを知っている弟子たちは、だれひとりとして師を諌めようとはせずただ黙っているばかりです。
 チャロン・アランはつと思い立って奥へ入ると書物を手に出かけようとします。
「お母さまはどちらへ?」と声をかけるラッナ・マンガリに向かって怒声が飛びました。
「黙れ、赤ん坊。つべこべ尋ねるでない。」
娘はその剣幕に恐れをなして黙ってうつむきます。チャロン・アランはベランダに出ると、弟子たちについてこいと命じました。
     チャロン・アランの家からドゥルガ神殿へ行く道の途中に荒れ寂れた墓地があります。長い間手入れもされずに放置された古い墓地で、ブリギンの巨木が天を覆い、からまったつるがうっそうと茂ってその場を外界から隔離させ、昼なお暗いこんな場所にやってくる者などひとりとしてありません。ところが、いや、だからこそ、ここはチャロン・アラン一党のお気に入りの寄合場となっているのです。弟子たちの胸のうちには不安が渦巻いています。
『王はわれらの所業を知り、討手を差し向けてきた。われらは捕らえられて裁かれ、そして皆殺しにされるに違いない。この難を逃れるにはどうすれば・・・・』
でも、口を開く者はいません。するとチャロン・アランの口から長い吐息がもれました。そしてもう一度。それを潮時と見た高弟がまず口を開きます。
「カンジュン・ニャイ、何をお考えなので・・・・?」
「だれかよい考えはないか?」
「で、カンジュン・ニャイのお考えは?」
「それを求めているのではないか。」
不機嫌なチャロン・アランの声に、弟子たちは口々に胸中の不安を開陳します。
「王はわれらのしわざを罰するために兵をつかわしたのです。」
「王の軍勢は強大で、エルランガ王自身がそれを率いて多くの国々を征伐しています。」
「民衆は王を敬慕しています。」
「わしはかつて王が命じられたブランタス河の堤防造営を自らお調べに出られたとき、お姿を目にしたことがある。堤防が完成してからというもの洪水はかげをひそめ、田はいつも黄金に稔り、国は富み民の暮らしも豊かになった。」
「それで・・・・?」
「ブランタス河の堤防工事のおかげで支那やその他の国々から来た帆船が奥地まで入るようになり、交易も盛んになった。」
「まさに、エルランガ王はたぐいまれな賢王ではありませんか。」
弟子たちの話を聞いていたチャロン・アランの怒りがはじけます。
「黙れ、黙れ、黙れ。この臆病者めらが・・・・・」
もともと他の人間が自分よりよい評判を取ると嫉妬して憎しみを抱くチャロン・アランでしたから、師よりも師の敵をほめそやす弟子たちに腹を立てないはずがありません。腹立ちをぶつけようとするチャロン・アランの気配をすばやくとらえた別の弟子が、師の気に入られようとして口を開きます。
「王や王の兵隊など何を恐れることがありましょう。これまでわれらの呪いは王都をわざとはずしていただけ。今度は王都にも呪いをかけるのです。王都に住む者どもを皆殺しにすれば、もはやわれらに刃向かう者はいないのですぞ、カンジュン・ニャイ。」
『そうそう、それこそがよい考え』と思いつつ、チャロン・アランは何食わぬ顔で他の弟子たちに尋ねます。突然なおったチャロン・アランの機嫌をまた損じてはたいへんとばかり、弟子たちは口々に「賛成」「賛成」と叫ぶのです。全会一致にチャロン・アランも顔をほころばせて大喜び。
「さあ、みんな、舞うのじゃ。」と弟子たちを踊らせて、おかしなところを直させます。次の呪いをかけるときにすべてが上手に行われれば、呪いの効果は格段に強くなるのですから。
弟子たちの踊りをひとわたり直してやると、チャロン・アランは何人かの弟子に用事を言いつけました。言いつけられた弟子たちは四方へ散っていき、そして残った弟子たちとチャロン・アランはその墓地でかれらの帰りを待つのです。

 夕陽が西の空にかかる白雲を茜色に染めるころ、弟子たちは帰ってきました。全員がそろったのを見て、チャロン・アランは立ち上がります。
「さあ、出発するのじゃ。」
一党はそこから近いドゥルガ神殿に向かって出発しました。でも、弟子たちの中になにか大きなものを背負っている者がいます。うすくらがりの中をよくよく注意して見ると、それはなんと人間の死骸。この死骸はまだ良好な状態であり、破損もなく腐敗もまだ起こっていません。そして、とりわけ重要なことには、この死人は土曜日に亡くなっているのです。これこそがドゥルガ女神への供物としてとても適したものなのです。
 神殿に着くと死骸は表の木に立てかけられ、そしてその木に縛りつけられました。チャロン・アランが呪文を唱えて息を吹きかけ、弟子がふたりで死人の目を押し開かせると、死人は息を吸い込んで胸をふくらませました。こうして呼吸がはじまり、死人はよみがえったのです。死人の目に周囲の光景が映じて周りにいる人々の姿が像を結んだとき、死人は口を開きました。
「はれえ、ご主人様、なにとぞおゆるしくださりませ。賤しいこのわたしめを生き返らせてくださり、お礼のしようもございません。ここにいるみなみなさまから大恩をいただいたこのわたしめ、どうやってお返しすればよいかわかりませぬ。」
ついと死人の前に出てきた高弟が叱声を投げつけました。
「長生きはやさしいこと。しかし、おまえをよみがえらせたのはそのためではない。わかっているのか?おまえは首をはねられるのだ。」
言うが早いか、刀を抜いて一閃すると死人の頭が飛んで落ち、首からは鮮血がほとばしり出ます。高弟は転がった頭の髪をむんずとつかんでそれをぶら下げると、自分の頭を噴流する血のほうに差し出して自分の髪の毛をべとべとに濡らし、しばらくうっとりした表情でそれを楽しみます。あとに残った死骸が女神への捧げものとなるのです。
 神殿の中ではドゥルガ女神像の前を護摩の煙が漂い、チャロン・アランは呪文を唱えながらひざまづき、頭を垂れて女神を呼びます。煙の中からぼんやりと女神が姿を現しました。
「わが娘、チャロン・アランよ。供物を用意してくれたようだが、望みは何か?」
「おお、女神様。疫病がもっと広がるように、広がって王都へそして王宮の中までも入っていくようお許しください。女神様もご存知のように、このわたくしめの呪いがエルランガ王の知るところとなり、王は兵を差し向けてまいりました。このままではわたくしめの生命が危ういのです。だから、この願いはお聞き届けくだされても良いのではありますまいか。」
「よくわかった。おまえの願いを聞き届けよう、わが娘よ。しかしチャロン・アラン、それをなすにあたってはくれぐれも用心するのだぞ。」
言い終わるや女神の影はうすれていきました。

 疫病は威力を増しました。毎日数百人が生命を失って親類縁者を埋葬する手さえ足りなくなり、死骸は路傍、屋内、田畑を問わず散乱してそのまま放置されるありさま。王宮の周辺ですら死骸が何日も置き去りにされることさえ起こるようになりました。わずか十数人の悪人たちのしわざで、これほどまでに民衆が苦難をなめなければならないというのに、諸国を平定した武勇の誉れ高いエルランガ王の軍勢も魔術には対抗する術もないのです。沈痛な思いに国王は歯ぎしりするばかりでした。
 まだ健康な民は毎日列をなして神殿に詣で、神に祈ります。病魔に襲われた村から民衆はまだ安全な地方へと村を捨てて避難しましたが、その道中でも多くの人が病に倒れるのでした。田畑は打ち捨てられて荒れ野に返り、大小の蝿がうんかのように立ち昇っては飛び交い、疫病の広まりに手を貸しました。かつて人間が切り開き支配した荒地や密林が、瞬く間に勢力を盛り返して人間の生活領域を取り囲み、押し戻しました。野獣も急激に増加して人間の勢力を押し返そうとします。人々は天空から、木のこずえから、荒れ野から、いたるところからさまざまな魔物の声が聞こえてきたと噂をし合いました。チャロン・アランの弟子たちが各地に行脚して家人の許しも請わずに住居に上がりこみ、床から寝床に跳び上がって暖かい血と生肉の供物を要求して舞い狂い、略奪や殺人をほしいままにしているという話しも王国の各地から伝わってきました。
 役人たちもチャロン・アランに呪いをかけられるのを恐れて一党の増上慢のふるまいを止めようともせず、疫病はますます猛威をふるい、事態は悪化の一途をたどります。ダハ王国はいまや破滅の危機に直面しているのです。


4.ンプ・バラダ登場
 エルランガ王は臣下に命じました。
「この災厄は呪いの呪文に発したもの。ならば呪いを解く呪文でそれを破るのが道理ではあるまいか。全国の高僧を集め、力を合わせてその方途を探らせよ。」
さまざまな呪文に長じ、また邪悪な呪いを知り尽くしている人々がさっそく王宮に集められます。
「この疫病を退治する効験あらたかな秘薬を得るにはどうすればよいか。神にその指図を仰ぐため、いますぐ大神殿にて祈祷をはじめよ。」
高僧賢者たちの祈祷を一目見よう、安寧と繁栄の祈願の一端にでも触れたい、と民衆もぞくぞくと大神殿につめかけてたいへんな賑わいです。堂内では香炉で護摩がたかれて壮大な煙が天空に立ち昇り、僧たちは一心に祈願して念じ上げます。祈りはついに天空に届きました。グル神が姿を現して人々に告げたのです。
「幸いなるかな、おまえたちよ。この疫病はもはや滅ぼされるべき時至った。チャロン・アランの呪いに対抗できる者はただひとり、ルマ・トゥリスの僧房に住む高徳の僧、ンプ・バラダである。修行を積みあらゆる術を身に付けたこの僧こそ、邪悪な呪いを破り、反逆と騒乱を鎮めて王国を守護する者なるぞ。」
その言葉がエルランガ王に報告されると、王は重臣のひとりを使者としてルマ・トゥリス村に派遣しました。

 ルマ・トゥリス村に住む旺盛な信仰心と深い学識を持つ修道者はだれに対しても親しくやさしく接し、困っている人には助けを惜しみませんでしたので、だれからも敬愛されていました。その性は善にして人間愛に富み、ヴェーダのすべてを読破して身に付け、終わりのない修行を日々続けているこの修道者はまた多くの人々に人間の踏み行うべき道を教えましたので、その地方の人々はかれを師と仰いでンプ・バラダと呼び、知らぬ人とてありませんでした。
     エルランガ王の使者がルマ・トゥリス村に着くと、ンプ・バラダは家にいたのですぐに使者を迎えます。事情を聞いてからしばらく熟考した末に使者に告げました。引き受けてくれるかどうか気が気でなかった王の重臣の緊張した表情がやっとほころびます。
「ご使者殿、このお話しはバラダがたしかにお引受け申し上げましょう。都に戻って国王にお伝えください。ギラ村の女僧チャロン・アランの呪いはこのバラダが滅ぼしてごらんにいれますと。病魔は退散し、民衆は安寧の中での暮らしを取り戻すことができましょう。ただ、・・・・・・。」
「ただ、・・・・・・?」
エルランガ王の重臣の顔が曇ります


5.ラッナ・マンガリの結婚
 「ご使者殿、ようくお聞きください。そのラッナ・マンガリなる娘をまず娶わせなければなりません。わたくしの弟子にンプ・バフラという者がおり、この者にその娘を娶わせていただきたい。マス・カウィンと婚礼の費用は国王にお願いしなければなりません。それが終わればわたくしは仕事に取りかかりましょう。『駄目』ではことが進みません。また婚礼があまり貧相でも困りますぞ。」

 エルランガ王は使者の報告を聞いて久方ぶりに相好を崩しました。王宮によみがえった希望の灯はその日のうちに王宮をこぼれ出て王都の空気を一変させました。数日後にンプ・バフラが王宮に参上すると婚礼準備のはじまりです。めでたい婚礼のあでやかな空気が王都にともった希望の灯をさらに明るいものに変えていきました。
 王は贅をつくしたマス・カウィンと婚礼支度をンプ・バフラに与えます。マス・カウィンとは結婚の申し入れをするとき男の側から女の側へ渡される物品で、これが納められてはじめて婚約成立となるものであり、女の側はこれを受け取ることで相手に縛られるわけです。ンプ・バフラは見送る国王はじめ宮中の貴顕に挨拶してから白馬にまたがり、警護する近衛兵の一隊に付き添われてギラ村へと向かいました。チャロン・アランの家に着くとンプ・バフラはまっすぐ客間に入ってその家の主人が来るのを待ちます。供の者たちは村の寄合所に馬をつないで事態の進展はどうかと見守ります。チャロン・アランが客間に顔を出して礼儀正しく尋ねました。
「ようこそおいでになりました。さてあなたさまはどなたでどちらから?」
「幸いなるかな、ご主人様。わたくしはルマ・トゥリス村のンプ・バフラと申す修道者。ご主人様のご厚情を願おうとまかりこしました。」
「まあどうぞおかけを。」
うれしそうなチャロン・アラン。客人はこの魔女と対面します。
「ご主人様におかれましては、わたくしの願いにお腹立ちのないように。」
「あなたさまのお願いとやらをまずうけたまわりましょう。」
「実は、お嬢様をこのわたくしの妻に頂戴いたしたい。」
チャロン・アランの顔に喜びが満ちあふれ、笑みがこぼれ落ちます。もう娘が売れ残りだなどと、あてこすりや陰口をたたかれることはありません。娘の美しい花嫁姿がまぶたの奥に浮かびます。
「おお、どうして腹を立てたりいたしましょうか。ただラッナ・マンガリは田舎娘。都のならわしを知りません。」
「わたくしの願いは申し上げました。もしご主人様、そしてお嬢様のお許しがいただけるのなら。」
「これはとてもうれしいお話し。でもラッナ・マンガリはいまも申し上げたように、都のならいも知らぬ田舎者。仕事は不器用でにぶい娘。わたくしめの娘はこれひとり。」
「ご主人様はわたくしの願いをどう思われましょうか。」
「これは祝福すべきこと。どうぞ、わたくしめの娘をさしあげましょう。」
「マス・カウィンには何が必要でしょうか。」
「おお、おお、そんなものはかまいません。何をお持ちくださっても喜んで納めさせていただきましょう。」

 こうしてギラ村にいまだかつてなかったほど盛大な婚礼の祝宴が数日間にわたって催されました。新郎新婦を祝福にやってきた客の数は数千人にのぼり、チャロン・アランの自尊心は十二分に満たされました。このときほど大きな満足感を味わったことはきっとその生涯で一度もなかったにちがいありません。婚礼はつつがなく終わり、バフラはジャワの風習にしたがって妻の実家に留まります。何日か経ったころ、チャロン・アランはンプ・バフラに言いました。
「婿殿、わたくしめはちょっと出かけてまいりますので、あなたは家にいてください。」と書物を手にひとりで外出していきます。そんな行動が繰り返されるようになったため、不審の思いがンプ・バフラを強くとらえます。
「母上は夕方になるとひとりでお出かけになり、帰りはいつも深夜になる。母上はいったいどこへおいでになるのか、マンガリ、知っているならわたくしに教えてくれ。わたくしは母上が野獣に襲われたりしてもしものことがあっては、と心配でしかたがない。」
マンガリは黙って夫の顔を見つめています。
「おまえには母上の身に何かが起こったら、という不安はないのか。」
「いいえ、旦那様。」
「どうして?」
「母が夕方出かけて深夜に戻るのはいつものことなのですもの。」
「それはいったいどういうことなのか。マンガリ、わけをわたしに話してくれないか?」
マンガリはしばらく迷っていましたが、ついに意を決して口を開きます。
「ではお話し申し上げましょう。でも、旦那様、これはほかのだれにも聞かれてはなりません。秘密。厳重な秘密なのです。もしわたくしがこの秘密を他人に明かしたと母が知れば、わたくしは必ず災いにあいます。このことを決して他人に明かさないでしょうね、旦那様?」
「もちろん、わたしの胸のうちに留めておくよ、マンガリ。母上の秘密を他人にもらすなどどうしてできようか。わたしはこの家の者。この家をともに守っていかねばならない人間ではないか。」
こうして、国中の人間が死ぬように母が呪いをかけたという打ち明け話をマンガリがンプ・バフラに語って聞かせる中で、チャロン・アランが常々大切にしている書物のことがバフラの注意を引きました。その書物はきわめて霊験あらたかなもので、あらゆる呪文が記されており、チャロン・アランはどこへいくにもその書物を手放さないというのです。
『それこそがチャロン・アランの秘密なのだ。』ンプ・バフラの気ははやります。
「わが妻、ラッナ・マンガリ。わたしはその強い魔力を持つという母上の書物を見てみたい。修行する者のひとりとして、どうしてもそれを見てみたいのだよ。わたしを助けてくれないか?」
「でも、どうやって、旦那様?」
「母上が眠ったときにその書物を持ってきてくれ。やってくれるだろうね?」
「わたくし、もちろん旦那様のお役にたちたいわ。あとで母が忘れたときに持ってきてさしあげましょう。」
マンガリの返事にはもはやすこしの躊躇も見られません。

 ある日チャロン・アランがぐっすりと深い眠りに落ちているとき、そっとその寝所に近づく影がありました。チャロン・アランが日ごろ大事にしている書物を手に取ると、その人影は部屋の外へすべり出て離れた部屋で待っているンプ・バフラにそれを渡します。
『これがチャロン・アランの秘密のすべてなのだ。』ンプ・バフラは躍り上がりたいほどの歓喜を抑えて妻に言いました。
「わたしはちょっと出かけたい。」
「どちらへ、旦那様?」
「わたしはここへ住んでもう永いが、婚礼以来家から外へ出たことがない。ちょっとあちこち歩いてみたい。」
「はい、よろしゅうございます。」
外へ出たンプ・バフラは馬に飛び乗るとひとむちくれます。めざすはルマ・トゥリス村。師のンプ・バラダにこの書物を見せるのです。山を越え、川を渡り、長い距離を一気に駆け抜けました。

 その書物に目を通したンプ・バラダは驚きを隠しません。
「これはたいへんな書物だ。この内容が正しく使われたなら世はもっとすばらしい繁栄を示したにちがいないが、チャロン・アランは使い方を誤ってしまった。」
すべてを読み終えたあとで、師はンプ・バフラに言いました。
「よくやってくれた。でかしたぞ、バフラ。おまえの妻にこの書物を大切に保管させておきなさい。さあ、おまえはギラ村に戻ってよいぞ。」

 チャロン・アランの魔術の秘密を手に入れたンプ・バラダは、さっそく三人の弟子を連れて疫病が猛威をふるっている地方へ旅立ちました。道中いたるところで道端に放置され、腐臭を放っている死骸を目にした一行はチャロン・アランの呪いのすさまじさに驚きますが、そんなことにはくじけずに、苦しむ病人を見つけては霊験あらたかな呪文で呪いを解き、病気を治してやるのです。死者でさえ、まだ腐敗していなければ聖水をふりかけて呪文を唱えたり、あるいは手でふれたり、息を吹きかけたりしてよみがえらせてやることすらありました。
 ンプ・バラダがとある村を通りかかると、ひとりの女がすすり泣きながら薪を積み上げています。すこし離れた場所には布に包まれた死骸がひとつ。女は亡くなったばかりの夫を火葬にするところだったのです。ンプ・バラダと弟子たちは死骸に近づくと布を裂いて中をあらためます。驚いた女は死骸のそばに駆け寄ると、「何をするの。手を出さないで。」と叱りつけます。ンプ・バラダが「落ち着きなさい。わが娘よ、落ち着くのです。」
と女をなだめます。弟子たちが死骸を包んでいた布を取り去り、ンプ・バラダの手が死骸に触れると心臓がゆっくりと脈打ちはじめ、顔に血の気がさしてきました。女は不思議そうな顔で死骸とバラダを見比べます。バラダが死骸の胸をなでると心臓の鼓動は強さを増し、女の夫はついに目を開きました。夫がよみがえると女は歓喜をあらわにして夫をかき抱き、いそいでンプ・バラダの前にひざまづきます。ほほえんでふたりにうなずいたバラダは弟子たちをルマ・トゥリス村に返し、自分ひとりで旅を続けます。このようにしてンプ・バラダが各地を行脚し、疫病を退治しはじめるとその知らせは国中に急速に広まり、高僧の到来を待ちかねていた民衆は高僧を出迎えてはその足もとにひざまづいて徳をたたえるのでした。

 ンプ・バラダがそんな行脚を続けながら廃墟になった村を通りすぎて村はずれの墓地に行き当たり、そこに投げ捨てられている死骸をよみがえらせていると、ふたりの見知らぬ男がいきなりその足もとに身を投げ出してとりすがりました。
「これ、邪魔するでないぞ。」ンプ・バラダがとがめます。
「どうかわれらの罪をお赦しください。」
「何者なのか、おまえたちは?」
「われらふたりはこの世に名高いニャイ・チャロン・アランの弟子でございます。これまでの数々の悪行を悔い、真人間に生まれ変わりたいと願ってまかり出ました。どうか高僧のお力でわれらを赦し、人間の正しい道に戻れるようお導きください。」
「よろしい。まずはお立ちなさい。ただし、今はまだおまえたちを赦しも導きもできるものではない。わたしはチャロン・アランを先に探さねばならないのだ。どうだ、おまえたち。わたしをチャロン・アランに引き合わせるように骨折ってもらえないだろうか?」
ふたりは『来るものが来た』といった顔つきで顔を見合わせるとうなづきあい、ンプ・バラダに向かって忠誠を誓うのでした。


6.対決
 ある日、バガワティ像の前でチャロン・アランがひとりで女神をまつっていると、香炉の護摩の煙の中に女神が姿を現して語りかけました。
「また来たね、チャロン・アラン。おまえはもう気を付けなければならないのだよ。おまえには危険が迫っているのだから。」
そう言うが早いか、チャロン・アランが願いを届けるひまもあらばこそ、女神は姿を隠してしまいました。あまりの意外さにチャロン・アランは不愉快になりました。今日こそエルランガ王に呪いをかけることを女神に願おうとしていたのです。これまで自分を可愛がってくれた女神が突然自分を突き放したようなこのできごとのせいで、心細さがチャロン・アランをつつみます。
「これはいったいどうしたことだろう。このわたしに『危険が迫っている』だって?どんな危険が?女神はなぜそれをわたしに説明してくれなかったんだろう。いや、それよりもなぜその危険を逃れる方法を教えてくれなかったのだろう。」
自分とは無縁だった不安が心を満たします。でも弟子たちが来れば良い考えを出してくれるかもしれません。チャロン・アランは力ない足取りでドゥルガ神殿を出ると、一党の寄合場である荒れ寂れた墓地へやって来ましたが、だれの姿も見えません。ブリギンの木の下に座り込んであごにひじをつき、木株にもたれてぼんやりと考え事をしながらチャロン・アランは弟子たちの来るのを待っています。
 どのくらい時間がたったでしょうか。考え事をしていたチャロン・アランはブリギンの木に近寄って来る三人の男の影にまったく気付きませんでした。
「ニャイ」
突然の呼びかけに驚いて、チャロン・アランは立ち上がります。見ると弟子がふたり、ひとりの見知らぬ僧を連れているではありませんか。弟子が来てくれたことでうれしくなり、また安心もしたので、客人に礼をつくします。
「ようこそ、おいでになりました。」
チャロン・アランの挨拶に見知らぬ僧は会釈を返します。弟子のひとりが言いました。
「ニャイ、このお方はルマ・トゥリスの高僧バラダ様ですぞ。このお方こそ人の罪を赦し、正しい道に導いてくださる力をお持ちです。」
チャロン・アランは不安にさいなまれ、弱気になっていたために、すぐにひざまづくとンプ・バラダを拝します。
「おお、高僧様。あなたさまにお目にかかれてこんなに幸いなことはございません。どうか、この罪業者をお救いください。積もり積もった罪障を消滅させ、心身ともに清い人間にお導きください。」
何度も何度も伏し拝んで頼みますが、高僧はチャロン・アランに色よい返事を返してはくれません。ンプ・バラダは言います。
「ギラ村の魔女、チャロン・アランよ。心身を清めるにはおまえの罪はあまりにも深い。おまえのしわざによって何万人もの罪のない人々が生命を失い、その何倍もの人々が悲惨な境遇に落とされた。赦そうにもおまえの罪はあまりにも大きく、そんなおまえに赦しを与えることのできる僧などどこにもいないのだ。」

 いくらへりくだっても、どうしても自分の言うことを聞いてくれないンプ・バラダに対してチャロン・アランはついに怒りを爆発させました。猛々しく目をかっと見開き、全身をわななかせ、唇は青ざめて両手はぶるぶるとふるえます。血走る目。額には筋が立ち、左右の眉は合わさって一本の線に変わります。荒い息づかいに、胸はまるでポンプのように上下します。怒りが頂点に達したとき、口や耳、目や鼻から炎がほとばしり出ました。
 チャロン・アランの様子を見ていたふたりの弟子は、何が起こるのかを悟ると早々とそこから離れて遠目に事態を見守ります。いよいよチャロン・アランとンプ・バラダの秘術をつくした一騎打ちが始まるのです。
「おまえは何をしているのかね?」
ンプ・バラダは微笑みながらチャロン・アランに尋ねます。チャロン・アランは高僧に詰め寄って行きますが、バラダにはひるむようすが少しも見えません。
「やい、バラダ。おまえはわれの頼みを拒む。真人間に戻してくれと頼んでいるのに、聞こうとはしない。おまえはわれの罪業を清めたくないのだ。このわれをどうして正しい道に導きたくないのか?」
ンプ・バラダはただ首を横に振るばかりです。
「呪いを浴びる前に言う通りにするのじゃ。この世に並ぶ者とてないチャロン・アランをおまえは知らないのか?このわれこそがチャロン・アランなるぞ。われの命令に従え。さもなくばおまえを卑しい見世物に変えてやる。」
猛々しいチャロン・アランの怒声が響きます。
「チャロン・アランと術を競える者などこの世にいない。ましてやおまえなんぞ。やい、このやせ坊主め。われのひと吹きを浴びたなら、おまえははじめてこのわれが何者であるかを知ることになろう。あとで悔やんでも手遅れじゃ。おまえは燃えてただの灰になる。その証拠をいま見せてやる。そのブリギンをようく見ておけ。われのひと吹きで灰になってしまうのじゃ。」
そう言うと、チャロン・アランは近くのブリギンの木に息を吹きかけました。チャロン・アランの口から放射された火炎はごうっと唸りをあげながら巨木に向かって空中を飛び、火炎にまとわりつかれた巨木には火が移ります。火勢は何度か巨木をゆさゆさと揺すったかと思うと根こそぎ空中に吹き上げてしまいました。ブリギンの巨木は大きな火の玉と化してぐんぐん大空へ舞い上がります。そして矢のように天空を駆けながら見る見る小さくなっていき、白雲をまぶした青空の中へと吸い込まれて行きました。巨木が視界から消えていくのを見送っていたふたりはふたたび向かい合います。
「やい、バラダ。おまえはチャロン・アランが何者かやっとわかっただろう。」
バラダは涼しい声で応じます。
「おまえの術はそれだけか?もっと術を見せてみろ。」
バラダの挑発に、チャロン・アランの怒りはさらに激しく燃え上がります。バラダに目を据えるとその口から火炎を吹きつけました。離れた場所から見守っていたふたりの弟子も『あわや』と目を覆います。目を開けたふたりが見たのは、火炎を受けながらも穏やかに立っているンプ・バラダの姿でした。火炎はどうしてもンプ・バラダを包み込むことができず、火は燃え移りません。
とても長い時間、炎はバラダに向かって放たれました。チャロン・アランは獅子のように吼えながら炎を吹きつけ続けます。炎は大きく強く、ますます勢いを増しますが、ンプ・バラダは焼かれません。あいも変わらず穏やかな表情でじっとチャロン・アランの様子を見ているのです。術がかからないことで怒り狂ったチャロン・アランは歯をがちがちと噛み鳴らしながら身体を小さく折り曲げると、まるで闘鶏のにわとりのように首筋の毛を逆立ててンプ・バラダに向かって跳びかかって行きました。
「おまえのすべての術を見せてみよ。」
ンプ・バラダの凛とした声が通ります。チャロン・アランはいまやその全身から炎を噴出させ、呼吸に合わせて炎は大きくなったり小さくなったりしています。それはまるで家事で燃え盛る家屋のように恐ろしげな音を出しているのです。
「さあ、チャロン・アラン。おまえは死ぬのだ。」
高僧の確信に満ちた言葉で引導を渡されたチャロン・アランは次の瞬間息絶えました。全身から立ちのぼっていた炎も消えています。


この世でもっとも強い魔力を持ち、もっともすぐれた魔術を使うと弟子たちが信じていたチャロン・アランはいともあっさりと高僧との一騎打ちに敗れ、地面にその死骸をさらすことになったのです。ンプ・バラダは立ったままチャロン・アランの死骸を見下ろしていましたが、その心をふとある思いが横切りました。『おや、これはまずいぞ。この魔女の心を清めてから死なさなければ死の意味がない。』そう考えたバラダはチャロン・アランを生き返らせることにします。死骸にゆっくりと息を吹きかけるとチャロン・アランは起き上がりました。
「やい、ルマ・トゥリスの坊主め。どうしてこのわれをまた生き返らせたりなどするのか?われは死んだほうが良いのではないのか?」
「死は容易なことだ、チャロン・アラン。だが死が神聖さをもたらさないなら、その死には意味がない。いまからおまえの心を清めてやろう。」
たいへんなチャロン・アランの喜びようです。何万という人々に暴虐をふるいその生命を奪った罪はとても大きく、そしてその心はたいへん汚れています。聖なる人のみがそんな心の汚れを清めることができるのです。
 ンプ・バラダは人間として踏み行うべき道をチャロン・アランとふたりの弟子に教え、三人は徳の何たるかを悟って善き人間に生まれ変わりました。そうしておいてから、ンプ・バラダはもう一度チャロン・アランに引導を渡しました。チャロン・アランの死顔には悟りを開いた者が見せる穏やかな表情が浮かびました。弟子のふたりはンプ・バラダに師事することになります。すべてが終わるとンプ・バラダは墓地をあとにしてギラ村へ赴き、ンプ・バフラを訪れて一部始終を話して聞かせると、直ちに王都へ駆け上ってエルランガ王にそれを報告せよと命じました。
 ンプ・バフラは都に上ると王に謁して一件を奏上します。王はそれを聞いて大いに喜び、その快挙を賀してギラ村にて盛大なる祝典を催せと宰相に命じます。その翌日、宮廷の官女貴顕が錦を掲げて樂の音も華やかに国王の車を取り巻き、兵士も威風堂々旌旗をひるがえし、隊伍を組んで一路ギラ村をめざして出発しました。

 チャロン・アランの引き起こした災禍はこのようにして終わりを迎えました。王国はふたたび繁栄に向けて歩み出します。エルランガ王はンプ・バラダに教えを請い、高僧は多くの徳を国王に授けました。その教えを統治に用いたエルランガ王は民衆の敬愛をますます集め、ダハ王国はいっそうの繁栄を楽しみ、その黄金時代を築いて行くことになるのです。