「ニャイロロキドゥル」


 「ムラピ山の志士、ンバ・マリジャン」(2006年7月10日)の中で少し触れたニャイ・ロロ・キドゥルについてご紹介しておこうと思う。ニャイ・ロロ・キドゥルあるいは二・ロロ・キドゥルと呼ばれてジャワ島の南の海底に住むと信じられているこの南海の女王は、ジャワ語でNyai あるいはNyi 、Loro あるいはRoro、そしてKidul と綴られる。ジャワ語のそれぞれの単語の意味は、Nyai/Nyi は成熟した婦人への敬称、Loro あるいはRoro は数字の2と思ったら大間違いでこれは高貴な娘を意味するジャワ語 lara/rara の発音を写し取ったもの、そしてKidul は南ということで、インドネシア語にすればDewi Gadis Selatan となるのだとジャワ人の友人は説明してくれる。ジャワ語では綴りに a が使われていても特定の状況下において[o]と発音されるので、わたしのような素人には解りにくい言葉だ。素人は語尾が[o]であれば何でもジャワ語だと思ってしまうからアブナイ。ところでジャワ語の東西南北は、南がkidul なら東はwetan、北はlor で西はkulon となる。地名の中に頻繁に登場するので意味を理解しておくときっと役に立つだろう。たとえばジャワ島の最西端にあるUjung Kulon は文字通り西の端を意味しているのがお解りいただけることと思う。それらの言葉はジャワ語もスンダ語も同じなので、眉に唾をつける必要はない。

 ところで、ヒンドゥ文化には東西南北のそれぞれに神が鎮座してその場所を支配しているという観念がある。東には天上の神インドラ、西には海の神ヴァルナ、北には豊饒の神クヴェラ、南には死の神ヤマが支配者として君臨している。そのヤマ神は仏教と共に中国に伝えられて「閻魔」の文字を与えられた。地獄の支配者閻魔大王のルーツがそのヤマ神であり、南の方角はヤマ神の支配する黄泉の世界だという意味で「南冥」という言葉まで作られた。一千年以上もの長期に渡ってインド文化に浸されてきたジャワのひとびとの南の海に対して抱く感情にも、インド文化がもたらしたそれらの観念が影を落とさなかったはずはない。しかし中国大陸であの閻魔大王というおどろおどろしい姿をまとうことになったヤマ神をジャワの人々はうら若き美女の姿になぞらえたというこの違いは、やはり南方の島々に住むこの民族の本源的なものに根差しているのではないだろうか。
 まるで竜宮城の乙姫伝説を彷彿とさせる雰囲気をかもし出してくれる南海の女王にまつわる話がイ_アにもあることにわたしたちは驚くのだが、ニャイ・ロロ・キドゥルには地上の権力争奪にからむ血なまぐさい香りがつきまとっている感がある。権力争奪というものがいまだに血なまぐさいありかたで繰り返されているイ_アであればこそ、そこに関わる者はだれもがそんな香りから逃れる術を持たないにちがいない。ともあれ、乙姫とははるかに異なるリアリズムをそんなニャイ・ロロ・キドゥルに感じるのは果たしてわたしだけだろうか?

 ニャイ・ロロ・キドゥルの伝説はたいていのひとが知っているにちがいない。今は昔、パジャジャランの王女デウィ・カディトはそのたぐいまれな美しさのために太陽の姫君とたとえられるが、不幸なできごとのせいで王宮を去ることになる。その間の経緯にはさまざまなバリエーションがあり、どのバージョンが定説とも言えないようだ。ともかく王女は放浪の果てに南海の海岸にたどりつき、絶望と疲労から大海原を前にして座り込むとトランス状態に陥ってしまう。月光の散りさんざめく波の轟きの合間から自分を呼ぶ声がデウィ・カディトの耳の奥に聞こえてきた。 「ここへおいで、海の底へ。ここでおまえは理想の夫を見つけることができる。おまえは女王になって、雲と虹と大洋の深い緑の宮殿の主として永遠に生きることができる。」
 王女デウィ・カディトはその声に誘われるように立ち上がると海に向かって歩きはじめた。そして少しのためらいも見せることなく海の深みへと歩を進め、ついには波に呑まれてその姿を消した。その絶世の美女が永遠の生命を得て異界に住み、南海の女王となってジャワ島を支配し守護している。これが今でもジャワ島南岸部の住民たちに信じられているニャイ・ロロ・キドゥル譚である。

 ジャワ島南岸はインド洋の波が洗っている。Pantura と略して呼ばれるジャワ島北岸に打ち寄せるジャワ海の穏やかさにくらべて、こちらはなんという荒々しく豪快な海だろう。穏やかな海には数多くの良港が生まれて海上交通の網の目が張り巡らされ、交易が盛んに行われて経済発展が進んだが、猛々しい海はほんのわずかな港しか成育することを許さなかったようだ。ふだんでさえ壮大な波が、時化のときには山のように盛り上がって大自然を揺るがしながら砕け散り、荒れ狂うサイクロンが沿岸部を襲えば、住民たちはなんらなす術を持たなかった。まるで路傍の石ころのように運命をもてあそばれる船や家屋、そしてかけがえのない人命。ひとはただじっと大自然の猛威に耐え、荒ぶる超自然の支配者の怒りが一刻も早く鎮まるようにと願い、また自分たちの安全と無事を祈るほかにいったい何が行えただろうか。
 自然が猛威をふるう場所にはたいてい荒ぶる超自然の支配者の存在が影を落とす。ジャワ島南岸地域に住んでいた古代ジャワ人は、暴風や高波を起こして荒れ狂い、ひとを波間に呑み込んで連れ去ってしまう支配者の怒りを鎮める為に、その支配者を畏敬して貢物を捧げなければならないと考えた。ジャワ島の東西を問わず南岸地域の住民は今でも定期的にスラマタンを行い、南海とジャワの地の安寧を守護するその支配者を慰撫することを怠らない。

 ジャワ島南岸部では、ひとが波にさらわれたりあるいは住民が行方不明になったりすることが多い。姿を消した親族の遺体がいつまでも見つからないと、遺族はドゥクンや超能力者に相談を持ちかけていつどこで遺体と再会できるのかを調べてもらう。その回答の中には「遺体とは二度と会えない。だが故人は南海の王宮の住人となって穏やかに暮らしている。」という言葉を聞かされることがある。故人の遺体は必ず埋葬するのが宗教上の務めであるために義務が果たせないことを遺族は悔やむが、しかし亡霊になって迷っているのでなくニャイ・ロロ・キドゥルにお仕えする身になれたことをよしとして義務を諦めることになる。南海の王宮に迎えられた者は現世にない高貴な生命を得て新たな暮らしを始めるのだとひとびとは信じているのだ。
 南海の王宮に連れ去られる地上の人間は多い。南海の女王が従者を増やすためとか、女王の息子グスティ・ラトゥ・アキンが毎年嫁を必要とするために生きている人間の魂を奪うからとか、さまざまな理由が語られている。パランクスモではひとがよく波にさらわれる。だが話によれば、南海の王宮の表門である大門が位置しているその場所でかれらはトランス状態におちいり、眼前には大海原が横たわっているというのにかれらの眼はあでやかで美しい魅力的な世界を見るだけで海水を見ず、目前に広がる風景のかなたにある素晴らしいものに惹かれて海に向かってどんどんと歩いて行くのだそうだ。こうして南海の王宮に呼び込まれて高貴な生命を得る者がまたひとり増えることになるが、そのような死をジャワのひとびとはmati kalap と呼び、哀しみと祝福をないまぜにした感情を抱いて故人の死を諦める。一説では、マティカラップの犠牲者は圧倒的に男が多く、それは南海の王宮の住人がほとんど女ばかりであるためと言われている。
 ジャワ島南岸部へ行くと、緑色の服を着て海に近寄ると水難事故が起こるので緑色はタブーであるという話をよく聞かされる。その理由には数説あり、ニャイ・ロロ・キドゥルは緑色が嫌いなのだというもの、緑色は自分の色であるため他人が着ていると怒るからというものなど超自然の支配者の怒りを招くからという説明も世間に流布しているが、そうではなくて緑色は南海の王宮に住む者たちが着る色なのだと地元識者は言う。緑色の服を着て海岸にいると、南冥の警備兵が王宮の住人だと思って早く王宮へ戻れと命じるのだそうだ。ニャイ・ロロ・キドゥルに仕える者が何らかの用事を言いつかって陸上に上がったのだろうが、その用事が終わったなら海岸でぶらぶらせずに早く王宮に戻ってふたたび精勤しなければならない。警備兵に注意されてすぐ海中に入って行けば良し、その命令に従おうとしない緑色の服を着た者に対しては実力行使が振るわれることになっているらしく、力ずくで海底の王宮へ連れ去られる。このようにして、緑色の服を着て海岸にいる人間にもマティカラップが起こるのだとその地元識者は語ってくれる。

 ジャワ暦元旦にあたるスラ月朔日の儀式、ジョクジャのスルタンの誕生日の翌日に行われるラブハン儀式、ジャワ暦スラサクリウォンとジュマアックリウォンにパランクスモ海岸で行われる奉納の儀式。あるいは踊り娘やガムラン奏者たちが怒りに触れるのを恐れて今はもう催されなくなってしまった、女神に捧げられるジョクジャ王宮不出のブダヤの舞い。それらのすべては、南海の支配者に対する畏敬と慰撫を表明すると同時にこの世の者でないその支配者とそれに仕える者たちに向かって友好の絆を打ちたてようとする努力のあらわれだと言うことができる。ジョクジャ王家の行うラブハン儀式はパラントリティスに近いパランクスモ海岸で行われるものが突出して有名になったが、ラブハンというのはもともと決まった場所で霊的存在に供え物を捧げて友好関係を確かめ合い、現世の王国と異界の王国の相互鎮守をはかって民衆の暮らしの安寧を維持することを目的としていた。だからラブハンの日になれば、パランクスモだけでなく、ムラピ山、ラウ山そしてンドレピの四ヶ所で内容は異なれ、奉納が行われている。
 ムラピ山にはスカル・クダトンとキヤイ・サプジャガッ、ラウ山にはブラウィジャヤ王の霊が変じて守護神となったスナン・ラウ、マタラム王国の開祖パヌンバハン・スノパティに由来するンドレピにはサンヒヤン・プラモニが鎮座して、霊界の中心である南海の王宮と結びついている。さらにムラピ山にはもうひとつの霊界王宮があり、ジョクジャのスルタン王宮とそれら霊界の二王宮の間では霊的存在が頻繁に往来していると言われている。ムラピ山に山守が置かれ、ジョクジャ王宮と特別な関係をいまだに維持しているのはそんな事情があるためだ。三十五日ごとに夕方になるとムラピ山と南海の王宮の間にある川の水音がなにもないのにざわめき立つのは、それらの王宮の間で行われる婚姻をはじめとするさまざまな行事のために大勢の霊が馬や馬車に乗って一方から一方へと移動するためだ、とジョクジャの住民たちは信じている。

 ブダヤの舞についてはこんなエピソードがある。8人の乙女によって舞われるこの舞踊はいつの間にかもうひとり増えて9人が舞っているように見える、という説明書きで有名なこのジョクジャ王宮秘伝のブダヤの舞にはいくつかの種類があり、その中で南海の女王に捧げられるものはブダヤランバンサリとブダヤスマンのふたつだそうだ。この舞を奉納できるのは心身ともに清らかな乙女だけで、舞が始まる前には花や香など18種類のお供えをし、王宮の限られたひとたちだけが参列する中で舞がはじまり、参列者は瞑想の中に沈む。すると8人で始められた舞の中にいつの間にか南海の女王が加わり、9人の乙女たちがサンプールを翻して舞っているのを目にすることになる。
 この南海の女王に奉納されるブダヤの舞は王宮の厳粛な宗教行事であるために非公開が守られてきたが、ハムンクブウォノ七世のときに思いがけない事故が起こってその伝統行事は中断してしまう。心身ともに清純であることを条件に選抜された乙女たち8人のうちのひとりが舞を舞っている最中に突然記憶を失ったのである。その事故に関連してその後不吉な噂が王宮の周辺に立ち込めた。清純でない状態の娘が舞を奉納したために、南海の女王の怒りに触れて罰を受けたという噂が流れたのだ。この噂のおかげで王宮にいる乙女たちのだれひとり、ガムラン奏者のだれひとりとしてその舞の奉納に参加しようという者がいなくなってしまった。

 ジョクジャの王宮で催事があると、南海の女王はよくその姿をあらわすそうだ。女王を目にしたことのあるジョクジャ王宮の役人や用人たちは、「月が昇ると南海の女王は美しい娘の姿に見え、月が下るにつれてろうたけた美しさを持つ婦人に見えてくる。」と語っている。スリスルタン・ハムンクブウォノ九世即位の式典では、緑色のクバヤを着てスルタンの傍らに付き添う目の覚めるように美しい南海の女王を多くの列席者が見たと述べている。マタラム王家即位の式典では、新王の傍らに王妃が付き添うことは許されていない。マタラム王朝の開祖パヌンバハン・スノパティがニャイ・ロロ・キドゥルとよしみを通じ、その後ろ盾を得てジャワの支配者となったとき、かれの子孫である歴代のジャワの王は南海の女王を后とし、南海の王国は夫たるジャワの王が支配する地上の王国を陰から支援することが約束された。そのために新王即位の式典で王の傍らの席に就くのは南海の女王であり、王宮の王妃ではないとされている。
 西ジャワ州スカブミの町から山を越えたプラブハンラトゥ海岸にあるサムドラビーチホテルのニャイ・ロロ・キドゥルご用達の部屋で瞑想するとお目にかかることができると言われているこの南海の女王の生い立ちについて、マタラム王国が編纂したジャワ年代記Babad Tanah Jawi にはニャイ・ロロ・キドゥルにまつわる驚くべきストーリーが物語られている。


 スンダの地を支配するパジャジャラン王国がプラブ・ムンディンサリ王によって治められていた時代、その王女ラッナ・スウィディは世俗の暮らしを嫌い、霊的世界に強い憧れを抱いていました。年頃になった王女を妻にと各地の王や王子が申し込みに来ましたが、王女は爪の先ほどの興味も示さず、すべてを冷淡に拒絶します。父王は娘の将来を思って意見し、その聞き分けのなさを怒り悲しみますが王女は態度を変えません。ついにある日、父王は堪忍袋の緒を切って怒りを爆発させ、王女を王宮から追放します。王女はただひとりで王宮を去り、東へ向かって山を越え、ジャングルを抜けて放浪の旅を続けました。放浪の末に王女は山頂に一本の年経た松の木が生えているコンバン山にたどり着きます。「おお、これこそわが理想の修道場所。」と王女はすぐにそこが気に入り、庵を結んで修業三昧の暮らしに入りました。
 ラッナ・スウィディは厳しい修業の末に高い術を身に付け、男の姿に変身できるようになってハジャル・チュマラ・トゥンガルと名乗り、優れた神通力と千里眼を持つ修験者としてその名はあまねく世に鳴り響きます。ある日ラッナ・スウィディのもとに神が姿を顕し、「おまえはいつまでそのように修行を続けるつもりなのか?」と尋ねたので、ラッナは「わたしはいつまでも死ぬことのない、永遠の生命を得たい。」と願います。すると神は答えて、「おまえが人間でいる限り、どんなに修行を積もうともそれは無理な話だが、人間であることを捨てて霊的存在に変わるならおまえの願いは叶うだろう。」と教えました。こうしてラッナはその教えに従い、霊的存在となって全ジャワの地に住むあらゆる霊を支配し、その上に君臨する霊界の王となったのです。
 コンバン山ではハジャル・チュマラ・トゥンガルの修行の毎日が続きます。とある日、パジャジャランの王子ラデン・ススルが世に名高い修験者の助けを得ようと、供回りを従えてコンバン山に姿を現しました。王子は宮廷内の権力闘争に敗れ、パジャジャラン王の仕打ちに対する深い怨念を胸に刻んで落ち延びてきたのです。ハジャルは馬から下りた王子を庵に迎えて休息させた後、王子の話を聞くまでもなく『お告げ』を与えます。千里眼の術で何もかもお見通しであることは言うまでもありません。
「王子様、あなたはこのまままっすぐ東へ向かいなさい。すると、苦い実のたくさんなっているクマジャの木が一本だけ生えている場所に行き当たるでしょう。そこがあなたにとってジャワの地を制覇する根拠地となるのです。その地に拠ってあなたはジャワの諸王を従え、パジャジャラン王に対する恨みも併せて晴らすことができるのです。」
それを聞いたラデン・ススルは小躍りして喜びます。ハジャルの言葉は続きます。

 「このわたしの父親はあなたと同じムンディンサリ王。実はわたしはあなたの妹なのですよ。」と言いながら突然その姿を美しいラッナ・スウィディ王女に戻し、自分の放浪の旅を物語って聞かせました。ラデン・ススルはその美しさに魅せられて恋に落ち、ラッナの話を聞きながらこの美女に近付くと手を取ってその想いを口にしました。その瞬間美女は姿を消し、少し離れたところにハジャルが憐れみをたたえた目で王子を見ながら立っていました。自分の行為を恥じたラデン・ススルはハジャルの足元に膝まづいて許しを請います。ハジャルは王子を慰めるように言うのでした。
「あなたが全ジャワの地を支配する王国を築いたとき、わたしたちは再会しましょう。」
 マジャパヒト王国がジャワの全土を統一したとき、ハジャルはコンパン山から南海の海底へ移りました。そして、それ以来男の姿で現れることはなくなり、常に美女の姿で南海の王宮に暮らしています。南海の女王がラデン・ススルに与えた最後の約束は、「あなたの子孫が困難に直面したなら、いつでもわたしを呼びなさい。わたしは部下である霊界の兵士を引き連れてすぐに救援に駆けつけましょう。そしてまた、あなたの子孫は南海の女王を妻にできるでしょう。」というものでした。

 それがジャワ年代記に記された南海の女王の生い立ちです。マジャパヒト王国建国にまつわる話はやはりジャワの古文書であるパララトンの書でも見ることができますが、定説としては、建国者ラデン・ウィジャヤはディヤ・ルンブ・タルの息子でマヒサ・チュンパカ別名ナラシンガムルティの孫であり、つまりはケン・アロッとケン・デデスの直系子孫で中部ジャワに連綿と続く王家の血をひく人物である、となっています。かれはシンガサリ王国最後の王クルタナガラの甥にあたり、王の娘二人(異説では四人)を妻にして皇太子となっていたということで、ジャワ年代記の話とどう結びついてくるのやらわたしには不可解千万、よくわかりません。

 さて西暦1293年に始まったマジャパヒト王国は、1350年のハヤム・ウルッ王即位を栄華のクライマックスとして、1364年の宰相ガジャ・マダの逝去、1389年のハヤム・ウルッ王逝去という没落の節目をたどりながら王統血族者間の権力抗争の渦中へと突き進んで行きました。1400年代の後半を過ぎると王都マジャパヒトの王宮に拠って国家を統治するという支配形態にかげりが強まり、港湾を抱えてイスラム化によるイスラム勢力との連携と通商で力を強めるようになった地方領主が王都の支配に対立する傾向を示すようになります。世の情勢は群雄割拠へと変わって行き、系図をたどればいずれもどこかでつながる各地の支配者が束の間の支配権を争いながら、支配と闘争、闘争と服従を繰り返す戦国時代へとのめりこんで行ったのです。
 15世紀の終わりごろからラデン・パタ率いるドゥマッが勢力を強め、他の諸領を攻略して割拠する諸王に号令するようになりますが、これがジャワ島におけるイスラム王国のはじまりです。そのドゥマッのパティ・ウヌスが、1511年にマラッカ王国を占領して西洋勢力の楔を東南アジアに打ち込み香料貿易支配に王手をかけてきたポルトガルを駆逐しようと、1513年に百隻を超える手持ちの船隊を派遣して総攻撃をかけたのは有名な事件でした。16世紀中盤にはドゥマッが没落してパジャンへと支配権が移り、1575年にコタグデの領主となったパヌンバハン・スノパティは、このパジャンから支配権を奪おうと日夜その方策に腐心するのですが、このあたりでふたたびジャワ年代記に戻ってみましょう。

 スノパティは南の海岸まで達すると、「われに力を与えたまえ。全ジャワの支配者となるわれを助けたまえ。」と念じ、瞑想して神に祈りました。そのとき空は真っ黒な雲に覆われ、稲妻と雷鳴が天地も裂かんばかりにとどろき、激しい風雨が荒れ狂います。たくさんの木々は風にもみしだかれて倒れ、海の波は山をも呑まんばかりに逆立って恐ろしい響きを立て、海水はたぎりたち、さんご礁に打ちつけられた魚は渚に運ばれてその死骸をさらしました。そのありさまにニャイ・ロロ・キドゥルは目を丸くして驚いたのです。
「これはいったい何が起こったのかしら。地球の破滅?それとも世の終り?」
女王は海上に上がると陸地を眺めます。世界は明るい陽射しの下でふだんの姿をさらしているばかり。特に異変は見られません。ただ、神通力を持った男がひとり波打ち際で瞑想しているのを除いては。
 ニャイ・ロロ・キドゥルはその男パヌンバハン・スノパティを自分の王宮へと誘います。スノパティは女王の美しさのとりこになって恋に落ちますが、この美女は人間ではないのだという意識から、はじめは自分の欲望を抑えようとしました。ところが、その心を見通している女王はあえてスノパティに誘いかけてくるのです。意を決したスノパティは女王に言いました。
「わたしはあなたの寝所を見たい。いったいどんな様子なのだろう。」
「どうぞ、みこころのままに。さまたげは何もありません。わたしはただ殿下のお言い付けを待つばかり。すべては殿下のお望みのままですわ。」
スノパティは手を引かれてロロ・キドゥルの寝室に入り、夢見心地で座り込みます。
「これはなんとすばらしい。話に聞く極楽とはきっとこのようなところにちがいない。美しい装飾、巧みな配置。持ち主に負けない美しさだ。もうマタラムに戻りたくない。ここにいつまでも居たいものだ。しかしここにはひとつだけ足りないものがある。ここは女ばかりで男がいない。見栄えの良い男もここにいればどれほど完璧になることか。」
「いいえ、わたしはひとりが良い。女王として自由にふるまうのが一番ですわ。」
「ロロ・キドゥル、恋煩いの薬をもらえないだろうか。」
「そんなものはありません。わたしはドゥクンではないのですもの。殿下には、わたしなどには及びもつかない女たちをきっとたくさんお持ちなのでしょうね。」
ロロ・キドゥルの媚態にスノパティは目くるめき、興奮して女王をかき抱きます。というところで残念ながら古文書の描写は終りを迎えました。この続きは想像を逞しくするしかありませんが、それにしてもバサバシ(basa-basi)に長けたジャワ人の恋の口説きのテクニックには恐れ入る方も多いのではないでしょうか。

 スノパティは三日三晩南海の王宮に留まってロロ・キドゥルと夫婦の暮らしを営みます。その間に女王はスノパティが大王となった日に備えて、民衆やあらゆる霊的存在を治めるために修得しておくべき術を授けます。こうしてマタラム王家と南海の王宮の間につながりが築かれ、女王はマタラムが危難に直面したなら部下を率いてただちに守護に駆けつけること、さらに自分はいつまでもマタラムの支配者の妻であり続けることを約束しました。スラカルタの王宮には歴代ススフナンが妻ニャイ・ロロ・キドゥルを迎えて一夜を過ごす特別の場所が用意されています。

 それからおよそ二百年後、VOCがギヤンティ協定に従ってマタラム王国を分割したとき、ジョクジャに分家したスルタン・ハムンクブウォノ一世はニャイ・ロロ・キドゥルを妻にすることを含めた神事に関連する諸権利の相続をスラカルタに要求しました。しかし南海の女王の貞操はさすがに固かったようで、同時にふたりの夫を持つことを拒否し、ジョクジャを訪れることはしないと表明したと言われています。ただしハムンクブウォノ家にも同じように守護を与え、献上物は喜んで受け取ると述べたそうで、決してジョクジャを無視する気はないとの意思表示がなされたようですが、家勢が完全にソロからジョクジャへと移ってしまった今日、ジョクジャの方が南海の女王とより強い絆を結ぶことに成功しているのだと言われれば、そうかもしれないとうなずける要素は十分です。