「怨念漂う魔の踏切」


ジャカルタに住んでいるひとで、年がら年中自宅内に閉じこもりあるいは自宅の周りにしか出たことがないというひとを除けば、都内の信号機のある交差点で交通警官がそこに居合わせないとき、二輪四輪の運転者がどのような振舞いをしているかはきっと目にされたことがあるにちがいない。特に二輪車は停止線の手前で止まらずに交差点内に入って行き(これは警官がいてもそうする)、左右からの車の流れが途絶えたと見るや猛然とダッシュして赤信号を突っ切り、走行を続けるのである。そんなとき、信号違反をする二輪車の洪水のような流れが生まれると、そこに紛れて赤信号を押し渡る四輪車も出てくる。左右から来た車がそんな状況に鉢合わせすると災難だ。正面には緑のライトが灯っているというのに自分の目の前を横断している車列に突入することは不可能なため、結局緑なのに交差点を横切れないということになる。
そういう行動が電車の踏切で行なわれたらどうなるだろうか?既にそういう振舞いが習慣化しているひとびとにとって、踏切には遮断機があってたいていは番人が付いているという違いはあろうとも、左右から電車が来ていなければ必ず押し渡ろうとするはずだ。なにしろ番人は警官でないのだから、怖れるに足りない相手なのである。こうしてインドネシアでは踏切事故が多発する。
それは公的に設けられた踏切の話だ。インドネシアには住民が私的に設ける踏切も存在している。法規はそのようなことを住民が行なうのを禁止しているのだが、現実にはそういう非合法の踏切があちこちにできている。もちろん遮断機もなければ警報機もなく、番人もいない。言うまでもなく国鉄を含む当局側がそれらの非合法踏切を一度は閉鎖するのだが、しばらくするとまたいつの間にか住民が閉鎖を解いて使っているといういたちごっこが繰り返されてきた。住民が法規を破る姿勢は堂に入ったもので、たとえば都内の交通繁華な場所の踏切が「開かずの踏切」になりはじめた時代、政府はそれを立体交差にさせるべく道路を高架にしたりトンネルにした。そしてこれまでの踏切は使用しないことに決めてフェンスで仕切りを設け、徒歩の者は高架橋やトンネルに設けた歩道を通るように指導したが、その指導に従う者はわずかしかおらず、大多数がフェンスをこじ開けあるいは乗り越えて既に踏切の機能を撤廃してある場所を押し通ることを続けている。結局のところ、安全というものを最優先しようとするなら、このような社会では鉄道を一般住民の環境から完全に隔離しなければならない。つまりは全線高架化を行い自動車や歩行者との百%立体交差を実現させるしかないのだろう。社会資本の充実が遅れている国ほどそういう傾向が高いというのは、なんという皮肉な事実であることか。
住民の法規無視によって引き起こされる安全喪失問題を報道陣がとやかく言うと行政側はたいてい「だったら違反者住民を撃ち殺すのか?」というせりふで受け、こうして議論は終わりを告げるのが通例だ。法治国家というのは、その国にあるすべての要素が法の支配に服従している国の姿を指しているとわたしは理解している。為政者であれ、国民であれ、法執行者であれ、法への服従を拒み、自分の好きなときに自分が得をするために法を使うような国を法治国家と呼ぶのは、言葉の使い方が間違っているような気がしてならないのである

国鉄ジャボデタベッ事業区のデータによれば、踏切は506ヶ所あるとのこと。ところが公的に設けられているものは309ヶ所で番人が付いているところはそのうちの186ヶ所、無人踏切は123ヶ所とのこと。残る197ヶ所が公的な管理の手から外れている非合法踏切なのである。そういう非合法踏切は、鉄道線路域内への一般人の侵入が容易で、且つそのエリアを通行する者にとってそこを横断できればたいへん便利な位置にあることがその誘引になっているのは言うまでもない。こういうシチュエーションでインドネシア人は、法を第一優先するのでなく、個人の便宜を最優先しているわけだ。そういう踏切を横断する人間がみんな注意力抜群で敏捷性も高く、列車が近付いてきたら早々に踏切から外に出るという人間ばかりでは決してない。どうしたわけか、鈍重なくせにそういう危険の中の便宜を追い求める人間もここには少なくないのである。だから、近隣住民の中に、そんな非合法踏切の番人を買って出る者が出る。線路の双方向を見張り、電車が接近してくれば通行者に知らせて線路内に入らないようにさせる仕事だ。かれらの報酬は、通過する通行人がくれる5百・1千・せいぜい2千ルピアのチップだけ。一日で溜まる金で軽い飯とコーヒーそしてタバコまで買えるから、失業者が満ち溢れているインドネシアでそれはひとつの職業としての意義を持っていると言える。そんな非合法踏切の番人が列車にはねられた。
西ジャワ州ボゴール県パルンパンジャンにある非合法踏切で2013年11月30日午前8時ごろ、普段からその踏切のボランティア番人をしていた近隣住民のひとり、イスカンダルさん75歳が、電車にはねられて死亡した。
かれはそのとき、電車が接近しつつあることに気付いて通行人に合図を送った。ところがそれを無視して踏切を押し渡ろうとする二輪ライダーがいる。目の前でそういう人間がひとり押し渡ると、一旦おとなしく止まっていたほかの二輪ライダーがわれもわれもと押し渡るようになる。イスカンダルさんはそれを押し留めようとして踏切内に入り、踏切のど真ん中に立ちはだかった。ところが不運なことに、もう一本の線路に逆方向から接近してきている電車があるのにかれは気が付かなかったのだ。二対の線路のど真ん中に立っていたかれの背中すれすれを列車が高速で通過した。風圧がかれを押し、よろめいたときにかれが待っていた列車がそこを通ったのである。二本の列車が通り過ぎたあと、線路上に死体がひとつ横たわっていた。かれの死はいったいだれの責任なのだろうか?この非合法踏切を、まるで何事もなかったかのように、今日も大勢の人間が通っている。

2013年半ばごろのある日、中央ジャカルタ市パサルスネン駅すぐ脇を通るクラマッブンデル通りに設けられた踏切の番人であるヘルさん22歳は、人間の鉄道事故死を間近に見た。サイレンが鳴り、遮断機が下ろされる。距離のあるこの踏切の中は既にクリヤーされていると思っていたかれの目は、その中を悠然と歩いてくるひとりの老婆に釘付けになった。かれの脳裏に「もう駄目だ」という言葉が浮かぶ一瞬の間に、突進してきた列車が老婆の身体を跳ね飛ばした。かれは全身が悪寒に襲われて小刻みに震え、脚が力を失って立っているのがやっとという状態がしばらく続いた。「二年前にはじめて死亡事故を見たときと同じだ。何度見ても慣れることはできないね。」
そこからおよそ1キロほど離れた位置にある踏切の番人アフリザルさん36歳も、最近は熟睡できなくなった、と物語る。このひと月の間にもう6人もの人間が踏切を無理に押し渡ろうとして列車にはねられ、死亡している。「事故は全部、列車が近付いていて遮断機と警報がそれを知らせているというのに、無理にそこを渡ろうとして起こっている。わたしは毎日業務に就く前、ただ無理やりそこを渡りたいがために自分の命を軽んじて死んでいく人間が今日一日は出ないようにと祈っているんですよ。」
2013年12月9日(月)午前11時半ごろ、ジャボデタベッコミューター電車スルポン〜タナアバン線のビンタロ地区にある踏切で、踏切内にいたプルタミナの石油タンク車と列車が衝突してタンク車が炎上し、列車前部も横転して火に包まれる事故が発生した。この事故で、運転席にいた運転士を含む三人と乗客四人が死亡し、また数十人の乗客が重軽傷を負い、タンク車の運転手と助手は重傷を負ったが生命は取り留めた。
ジャボデタベッコミューター電車は今、客車の最前部と最後尾が女性専用車両になっており、死亡した乗客四人は全員が女性だった。国鉄側は女性専用車両の位置の見直しを進めている。事故の直後、乗客たちは車外に出ようとしてハンマーを探したが、ハンマーが備えられておらず乗客のパニックが大きくなったことが報道された。インドネシアの公共運送機関でのこういう状況への対処標準は窓ガラスを備え付けのハンマーで割って車外に出るということになっているのだが、この事故に遭遇したコミューター電車1131便は日本製の車両を使っており、インドネシアの標準と日本の標準の違いが乗客に告知されていなかったことも改善の必要な事項として認識されている。事故発生時に運転席にいた運行クルーのひとりは即座に客車の扉を開く動作に移ったものの、襲ってきた火にやられて果てたという話が伝えられている。
石油タンク車がどうして列車接近中の踏切内に入ったのかというポイントはいまだに確定証言が得られていないようだが、目撃者らの話では、遮断機が降りかかっているところに運転手が無理やり車を突っ込ませたというものや、誰かが早く踏切を渡るようにタンク車運転手に指示したために入ったという話など、諸説紛々になっている。タンク車が踏切内に止まっていたのは、エンストが起こったのが原因らしい。
ともあれインドネシアの鉄道法は、列車の通路が鉄道車両専用のものであり、何者もその走行を邪魔してはならないことになっているため、自動車や一般市民と鉄道の間の事故は問答無用で鉄道側でない者に非があることになる。その原理にもとづいて国鉄はプルタミナに損害賠償を求めることにしている。

インドネシアにおいてこのような鉄道踏切での事故は、どう見ても起こって当たり前という印象をだれもが受けるにちがいない。上述のパサルスネン駅から1キロ離れた踏切の番人アフリザルさんが語るように、インドネシアの路上には命知らずがあふれているのだから、鉄道との接点でだけかれらが「命大切」方針に切り替わるはずがないだろう。
ところが外国人の目から見て「起こって当たり前」という今回の事故について、インドネシア人の中にも「起こって当たり前」という意見を持つひとがたくさんいた。そう聞いて、やっと自分たちの短所に気付いてくれたか、と思って外国人が喜ぶのはちょっと早いのである。というのは、かれらが起こって当たり前と考えるのがまったく異なるものを根拠にしているためだ。すなわち、かれらの愛する超常不可思議界の論理がそれなのだ。
インドネシアにはさまざまなセタンがおり、そしてまたさまざまな妖怪や化け物もいる。セタンとは悪魔や悪霊あるいは怨霊などを指している。インドネシアの霊界知識によれば、ある狭いエリアを離れないセタンもいれば、かれらにとって居心地のよい気味悪い場所へ引き寄せられるようにして集まってくるセタンもいる。地元のひとびとは、踏切事故が起こるのはセタンブドゥッのせいだと言う。セタンブドゥッは踏切を通る人間の耳の働きを殺してしまうため、その人間は近付いてくる電車の音も踏切の警報音もまったく聞こえず、自分では気が付かないまま電車にはねられてしまうのだそうだ。そうなると命知らずにとって死ぬかどうかは単に悪霊に取り付かれるという運不運の問題に転嫁され、自分の行為が原因だという考えには行き着かなくなってしまう。
2013年12月9日に起こった電車とタンク車の衝突事故は、その踏切が歴史的に持っている悪霊の場所という要因のせいで発生したものだ、と多くのインドネシア人は考えている。なぜならその踏切のある場所は、1987年10月19日に起こったインドネシア鉄道事故史上で最悪のひとつと言われる大事故が発生した場所からほんの2百メートルしか離れていないのであり、また長い年月の間に大勢の人間の命を召し上げた場所でもあって、今回の事故もその踏切に漂っている怨念が新たな人身御供を望んだせいであり、だからこういう事故が定期的に起こるのは当たり前なのであるというのが、超常神秘嗜好者の言う事故必然論なのだ。

1987年10月19日朝、ランカスビトゥン発ジャカルタ行きジーゼル電車第225便とタナアバン発ムラッ行き急行列車第220便がそれぞれ目的地に向かって運行を続けていた。午前6時45分に225便がスディマラ駅をジャカルタに向かって発車した。その5分後、スディマラ駅のジャムハリ駅員はクバヨランラマの駅員から220便が発車したとの連絡を受けたので、かれは225便の運転士に三番線から一番線に移るよう指示を出した。
ビンタロ地区に差し掛かった225便の運転士は警笛を鳴らして列車通過の合図を周辺住民に知らせる。ところがそのとき、自分が走っている線路を向こうからも列車が走ってきているのにかれは気付いた。どんなに強くブレーキをかけようが、正面衝突するのは時間の問題だった。いずれも7両編成の列車は、車輪が喚き散らす悲鳴の中を死に向かって突進して行った。ちょうど朝の通勤時間帯にあった双方の列車は乗客を満載しており、インドネシアの常で屋根の上にまで鈴なりに人間が溢れていたため、被害は大きなものに膨れ上がった。死者156人怪我人300人というのは、1968年9月20日にデポッのラトゥジャヤで起こった鉄道事故に匹敵する、史上最悪のものだと言われている。
警察の取調べで、この事故の責任は国鉄スルポン駅の列車運行管制部門にあったことが明らかにされた。管制担当官はタナアバン行き列車が既にスディマラ駅を発車している情報を見落とし、220便がクバヨランラマ駅を発車したあとで225便に発車の指示を出したとのことだ。二本の列車をすれ違わせるための操作が、ほんのわずかな認識のずれで大事故につながった一例がきっとこれであるにちがいない。
現場では、へしゃげた鉄塊に切断されあるいはちぎれ、またはさまれて血を流しながら息絶えようとしている人間の身体に満ち溢れていた。流れ出す血が大地を浸し、一帯の空気を生臭く染めた。国民的シンガーソングライターのイワン・ファルスがこの悲劇を歌った。「10月19日、ジャカルタの土は紅に染まる、答えのない疑問だけが残された、列車の残骸が怒りを投げつける、涙・・・、涙・・・」

周辺住民は夜の帳が下りると、人間の身体の一部がその一帯を転げまわる姿をよく目にすると物語る。人間の頭がスイカのように転がっているのを見たという者もいる。加えて、今回事故が起こった踏切でも、数え切れないほどの死亡事故が発生しており、夜はその一帯の通行を避けるという住民も少なくない。踏切のあたりにいると、時おり悲鳴や泣き声が聞こえてくるそうだ。
1996年以来、鉄道線路保全担当の仕事をしているイマム氏は、黒い布に身を包んだ人間の姿をしている何者かが線路の上に横たわり、何度も列車の車輪に引かれたというのに変化を見せず、まるで列車を蔑みあざけるかのようにいつまでも線路の上から離れようとしないありさまを目にしたそうだ。かれはまた別の折にそのエリアで、オランダ植民地時代の服装をした女性やクンティルアナッが線路を横切る姿をも見ている。
周辺住民がこのエリアを不気味な地区だと感じはじめたのは1970年代以来のことで、そのころから人命の失われる事故が増加するようになった。それが1987年10月の大事故で一挙にジャカルタ都内でも有数な怨霊の中心地と化す。セタンはときおりその姿を現して人間を驚愕させ怖がらせるだけでなく、歩行者や運転者にとりついて事故に導き、生命を奪う。そういうセタンが徘徊するのは日没から深夜にかけてであり、また事故発生後の暦の上で運勢の良くない日の夜などは特に動きが盛んになる。
周辺住民が頻?に接している現象は、身体中傷だらけで血まみれになり、衣服は裂けてボロボロになった幽霊が大勢どこからかやってきて、「痛い、痛い」と苦痛を訴えあるいは低い悲鳴をあげながら目の前を通り、大列車事故のあった場所へ向かって進んで行くというもので、そうやって通り過ぎたあとは姿を消して見えなくなるそうだ。
このような、セタンが頻?に人間の前に姿を見せるような場所、あるいはそこへ行くと鳥肌が立ったり、気持ち悪くなるような不気味な場所をインドネシア語ではアンクル(angker)な場所と言う。都内にもそういう場所はいくつかあり、超常不可思議界の論理を愛好するひとたちには既におなじみになっている。
今回の事故があったその踏切一帯は都内のアンクル地区のひとつに数えられており、住民の中にはそこがセタンの通過路にあたっている、と言うひともいる。その一帯における人命事故は鉄道と歩行者や車両との間の事故だけでなく、列車の乗客も車外に転落して死亡する事件が少なくないため、アンクル度に関するひとびとの信用を一層高めているようだ。

今回の事故で死亡した四人の女性のひとり、ナタリア・ナイバホさん22歳の葬儀を取材した記事が報道されている。その記事によれば、2013年12月11日午後、ナタリアさんの埋葬がタングラン市パムランのポンドッブンダ公共墓地で挙行された。埋葬には国鉄ジャボデタベッコミューター社商業担当取締役が制服に黒いリボンの喪章を付けて参列した。
カスマン・ナイバホさん58歳とダルマワン・パサリブさん59歳のご夫婦の第四子であるナタリアさんの葬儀はバタック式で営まれ、友人知人や親族一堂の涙を誘った。妹の早世を悲痛な思いで迎えた一家の長男デプリ・ナイバホさんはインタビューに応えて物語る。「ときどきナタリアに身体を踏んでマッサージするように頼むんだけど、たいていは嫌がって拒否するんだよね。ところがあの日、妹がキャンパスへ出かける前にそれを頼んだら素直にやってくれたんだ。そして、それが妹を見た最期になった。妹があの事故で死んだという知らせを最初に受け取ったのは僕だった。妹の遺体がファッマワティ病院に置かれていることをだれかがSMSで父の携帯電話に連絡してきたんだ。そのとき、父の携帯電話は僕が預かっていたんで・・・・。」
ナタリアさんの母、ダルマワンさんも娘の不幸について気落ちした声で物語った。「あの日の前の晩、わたしは自分の歯が抜けた夢を見たんですよ。12月27日はナタリアの誕生日でね、兄や姉たちがあの子にネックレスを買ってやろうって相談していた矢先だったのに・・・」
国鉄は今回の事故が利用者の心理に与える悪影響を強く懸念し、被害者には極力丁重な待遇を示すとともに、事故の原因究明および事故責任が確定しているタンク車運転手とそれの管理責任を負うプルタミナに対する追及姿勢を明らかにしている。
国鉄ジャボデタベッコミューター社商業担当取締役はその記事の中でも、全国民は交通法規を順守してこのような事故が二度と起こらないないようにという要請を繰り返した。だが、自分の利益やわがままを最優先する国民性に加えて、現世と異界の二股を現実としている人間が多数を占める社会のあり方が下支えしている自律の欠如したかれらの社会行動が強まりこそすれ衰えを感じさせてくれない昨今の状況を見るにつけ、人間の生命の価値が風のように軽いインドネシア社会に人命事故はこれからも容易に起こり続けるように思えて仕方ない。

(2013年12月16日から24日まで、ジェイピープル< http://www.j-people.net >に連載)