damiyanaikeさんのバハサノート


◆「インドネシア語接頭辞・接尾辞 総ざらえ」(2017年1月3日)◆

インドネシア語の主要な特徴のひとつに、単語に接頭辞・接尾辞が付いて意味や機能が変化するというものがあります。それぞれの単語を「語幹」という名称で表現するなら、接頭辞+語幹、接頭辞+語幹+接尾辞、語幹+接尾辞という三つのパターンにまとめられます。

インドネシア語はみなさん「やさしい」とおっしゃいますが、学習がこの接頭辞・接尾辞の段階に入って来ると、「むつかしい」という言葉が聞かれるようになります。そのややこしい接頭辞・接尾辞について見やすくまとめてみました。

辞典に見つからない単語を基語(単語の原形)に戻すための手引きとしてもお使いいただけると思います。インドネシア語学習者のみなさんの参照資料としてご利用いただければ幸いです。


1)種類
接頭辞: ber-, ter-, me-, per-, pe-, ke-, se-, di-, ku-,
接尾辞: -kan, -i, -an, -nya, -ku, -mu, -lah, -kah, -pun, -tah


2)語形変化
接頭辞の中に、語幹の最初の音節によって語幹の頭を変化させたり、あるいは接頭辞自身が変形するものがあります。

a. ber-
 語幹の最初の文字が「r」の場合、ber-がbe-になります。
 語幹の最初の音節に「er」の音が含まれている場合、ber-がbe-になります。
 語幹の最初の文字が「l」の場合、ber-がbe-になったりber-のまま使われたりします。同一の語幹にその両方が起こりますが、間違いではありません。稀なケースとして、ber-がbel-に変化するものがあります。

b. ter-
 語幹の最初の文字が「r」の場合、ter-がte-になります。
 語幹の最初の音節に「er」の音が含まれている場合、ter-がte-になります。
 稀なケースとして、ter-がtel-に変化するものがあります。

c. me-
 語幹の最初の文字に従ってme-が変形します。更に、それぞれのme-の変形パターンに対して、語幹の最初の文字が脱落するものがあります。

 語幹の最初の文字が l,m,n,ng,ny,r,w,y の場合、me-は変形せず、語幹頭の脱落も起こりません。
 語幹の最初の文字が b,f,p,v の場合、me-はmem-に変形し、更に語幹頭のpが脱落します。 
 語幹の最初の文字が d,j,sy,c,t,z の場合、me-がmen-に変形し、更に語幹頭のtが脱落します。
 語幹の最初の文字が g,h,k,kh,a,e,i,o,u の場合、me-がmeng-に変形し、更にkが脱落します。
 語幹の最初の文字が s の場合、me-がmeny-に変形し、更にsが脱落します。

 複合接頭辞me-+per-の場合は常にmemper-となってpは脱落しません。
 語幹頭がsの、母音がひとつだけの音節から成っている単語の場合、sが脱落せずにmen-sとなるケースがあります。
 また母音がひとつだけの音節から成っている単語は安定感が希薄なために話者は二音節にしようとする傾向を持っており、語幹頭の文字が何であれ、弱母音の「e」を付加しようとします。そうなると、meng-e-語幹という形に変って行きます。
 語幹が外来語である場合、人によっては上記にある語幹頭の文字を脱落させる法則を適用しないケースがあります。しかし外来語というのは、外国由来の単語とはいえ自国語となったものですので、大勢としては自国語文法の原則に従うひとのほうが多数を占めることになります。この問題は、自国文化内で頻用される外国語が自国語になったかどうかという認識に関わるものなので、個人差は避けられません。

d. per-
 a. ber-と同じ

e. pe-
 c. me-と同じ


3)機能と意味
a. ber-
 ber+名詞:「〜のある」「〜を持つ」を意味する形容詞になります。
 ber+名詞・形容詞: 自動詞になります。
 ber+数詞:「いっしょに」「いっしょになる」の意味が現れます。
 ber+動詞: その状態にあることを意味する形容詞になります。

b. ter-
 ter+自動詞: 無意識・無意志あるいは突発性の意味が現れます。
 ter+他動詞: 意図の介在しない受動態あるいは「〜された人」の意味になります。
 ter+形容詞: 程度がもっとも大きいという最上級の意味になります。

c. me-
 me+形容詞: その状態になるという自動詞になります。
 me+名詞・動詞: その状態を表す形容詞になります。
 me+名詞: その状態になるという自動詞になります。名詞が道具や材料を意味する語彙の場合は、「そのものを使って〜する」という意味が現れます。
 me+自動詞・名詞: その状態にするという他動詞になります。
 me+他動詞: 語幹のままの基語他動詞と意味は同じですが動詞部分への意識のウエイトが弱まります。
 (me-が付く語幹は、原形の単語(基語)もあれば、既に他の接頭辞が付いたものもあります。)

d. per-
 per+形容詞:「よりいっそう〜する」という意味の他動詞になります。
 per+名詞:「〜とみなす」「〜として扱う」という意味の他動詞になります。

e. pe-
 pe+動詞・形容詞・名詞:「〜する人」「〜するための道具や方法」を意味する名詞になります。

f. ke-
 ke+数詞: 順番を表す序数になります。更に、「全部」「いずれも」の意味が現れることもあります。
 ke+動詞: 被害をこうむる意味が現れます。

g. se-
 se+名詞:「同じ」「ひとつの」あるいは「全体」の意味が現れます。
 se+形容詞:「〜と同じ」「〜と同じ程度の」を意味する形容詞になります。
 se+動詞・名詞・形容詞:「〜のかぎり」の意味を表します。
 se+動詞: その動作をするとき/したときを意味します。

h. di-
 di+他動詞: 受動態を作ります。

i. ku-
 ku+動詞: 動作の実行者が自分(一人称)であることを表します。

j. -kan
 形容詞+kan:「〜にする」を意味する他動詞になります。
 名詞+kan:「〜にする」「〜として使う」を意味する他動詞になります。
 自動詞+kan: 他動詞になります。
 他動詞+kan:「〜させる」を意味する他動詞、あるいは「〜してあげる」「〜してもらう」の意味が現れることもあります。
 (-kanが付く語幹は、原形の単語(基語)もあれば、既に他の接頭辞が付いたものもあります。)

k. -i
 自動詞+i: 目標としての場所に対する動きを示す他動詞になります。
 自動詞・形容詞+i: 目標としての対象に向かう動きを示す他動詞になります。
 感情の形容詞+i: 対象に向かう感情を示す他動詞になります。
 名詞+i: 「対象に〜を与える」「対象に〜を使う」「〜の役割をする」という意味を持つ他動詞になります。
 他動詞+i: 「何回も、念入りに、一生懸命に」のニュアンスを持つ他動詞になります。
 (-iが付く語幹は、原形の単語(基語)もあれば、既に他の接頭辞が付いたものもあります。)

l. -an
 動詞+an:「〜すること」「〜するもの・〜されるもの」「〜され方・し方」「〜のためのもの・〜のための場所」を意味する名詞になります。
 形容詞・名詞+an:「その状態にあるもの」や「その状態の場所」(規模がより大きい意味を持つことがある)の意味が現れます。
 名詞・動詞+an:「〜ぽい」「〜的な」という意味の形容詞になります。
 名詞・数詞+an: 単位を示す名詞や形容詞になります。
 副詞+an: 原意を強調する用法で口語的です。
 (-anが付く語幹は、原形の単語(基語)もあれば、既に他の接頭辞が付いたものもあります。)

m. -nya
 名詞+nya: この-nyaによって、三人称単数所有格が加わる場合と、既知のものを示す指示代名詞(英語のtheに該当)が加わる場合があります。
 形容詞・動詞+nya: 名詞になります。
 動詞・名詞・形容詞・副詞など+nya: 強調の意味を持ち、時に感嘆文になることもあります。
 (-nyaが付く語幹は、原形の単語(基語)もあれば、既に他の接頭辞が付いたものもあります。) ??

n. -ku
 名詞+ku: 一人称単数所有格が加わります。
 動詞+ku: その動作が自分(一人称)を対象にしてなされる意味になります。

o. -mu
 名詞+mu: 二人称単数所有格が加わります。
 動詞+mu: その動作が相手(二人称)を対象にしてなされる意味になります。

p. -lah
 動詞+lah: 命令形になります。
 動詞・名詞・形容詞・副詞など+lah: 強調や詠嘆を表します。

q. -kah
 動詞・名詞・形容詞・副詞など+kah: 疑問文になります。

r. -pun
 譲歩の接続詞+pun: 強調を表します。

s. -tah
 疑問詞+tah: 詠嘆の意味が強い疑問文をつくります。

t. ber-an
 i)「〜のある」を意味するber-形容詞に状態を示す-anが付いたもの
 ii) -anを付けて作られた名詞にber-が付いたもの
 の二種類があり、ber+語幹+anの語幹がまったく同一単語であっても、意味は微妙に異なって来るので、文脈や話者・筆者の意図を汲み取りながら解釈しなければなりません。
 「互いに〜しあう」「しきりに〜する」「たくさんが〜する」という意味が現れることもあります。
 (語幹は、原形の単語(基語)もあれば、既に他の接頭辞が付いたものもあります。)

u. ber-kan
 「〜のある」を意味するber-形容詞に「〜にする」を意味する-kan他動詞が組み合わさったもので、「〜があるようにする」という意味を表します。
 ber+語幹+kan形式の単語にc. me-が用いられることがあります。その場合はmember+語幹+kanという形式になります。

v. per-kan
 per+形容詞・名詞+kan: -kanの付かないものと同じ他動詞になります。
 per+動詞+kan: per-の付かないものと同じ他動詞になります。
 ber+語幹で作られた単語を他動詞にするために、ber-をper-に変えて-kanを付ける方法もよく使われます。
 per+語幹+kan形式の単語にc. me-が用いられることがあります。その場合はmemper+語幹+kanという形式になります。

w. per-i
 v. per-kanと同じです。その両者の違いは、目的語を求める-kanと場所や対象物などの目標を求める-iという点にあります。

x. per-an
 基語動詞を名詞にする場合、per+語幹+anの形式が用いられます。
 per-他動詞を名詞に変化させるために、上のl. -anの用法が使われます。
 ber-動詞を名詞に変化させる場合、ber-をper-に変えて-anを付けます。
 per+名詞+an:その種類のものがたくさん集まった集合名詞の意味が現れます。

y. pe-an
 me+動詞を名詞に変化させる場合、me-をpe-に変えて-anを付けます。動詞が語幹+kan/iの形式になっていれば、-kan/iを外して-anに変えます。

z. ke-an
 ke+形容詞・動詞・名詞+an: 性質を表す名詞になります。
 ke+形容詞+an: 状態(時に過剰な状態)を表す形容詞になります。中には、副詞として使われるものもあります。
 ke+動詞・感情の形容詞+an:「〜している」「〜である」を意味する形容詞、「〜の状態になる」を表す動詞、「〜される人や物」を表す名詞などになります。
 ke+動詞+an:「〜ができる」という能力を意味する動詞になります。
 ke+官職の名詞+an: その仕事をする場所・建物・行政区画などを表します。
 ke+自動詞・名詞+an:「〜という不利益な状態になる」を意味する動詞になります。

** なお、特に注意書きが添えられていない場合、語幹として示されている各品詞は、接頭辞・接尾辞の付かない原形のものです。



◆「英語の「ション」がインドネシア語の「シ」? 〜 外来語とは何か?」(2016年7月25日)◆

英語の語尾が「ション」という発音の単語はインドネシア語で「シ」になるので、このロジックを適用すれば英語の単語をインドネシア語にして使えるという説や、英語の-tionはインドネシア語で-siに切り上げられているので、英単語の-tionを-siに変えればインドネシア語として意味が通じます、という話がネット上で語られています。

その説の発想が、インドネシア人は英単語をデフォルメさせた上で意図的にインドネシア語体系の中に取り込んでいるというものであるなら、それは正しくありません。

今現在インドネシア語に見られる現象は、長い歴史を経てインドネシア語体系の中に定着したものであり、特にこのテーマに関するかぎり、独立してからインドネシア人が始めたものではないのです。インドネシアの歴史を再確認すればお分かりのように、インドネシア語を操るインドネシア人にもっとも強い影響を及ぼしたのは英語でなくてオランダ語だったということ、英語がグローバル共通語として世界を制覇するほどの位置付けを獲得しはじめてから、まだ数十年しか経過していないということ、そして外国語の単語が自国語化する外来語化プロセスというものを経た上で外国の単語がインドネシア人にとっての自国語単語になったということなどを考慮するなら、上の発想には欠けているものがあるように思えます。

つまり、インドネシア語化される外国語の優先順位は英語よりもオランダ語が上位にあったという歴史的事実と、そして外来語化というのがどういうものなのか、というふたつの視点が欠けている?ように思えます。

まず現状の実態を見てみましょう。英語の「ション」は-tion, -sion, -shion という三つの綴りが考えられますね。

1.-tion のサンプルは次の通り。
英語 ⇒ オランダ語 ⇒ インドネシア語
accomodation ⇒ accomodatie ⇒ akomodasi
action ⇒ actie ⇒ aksi
condition ⇒ conditie ⇒ kondisi
corruption ⇒ corruptie ⇒ korupsi
demonstration ⇒ demonstratie ⇒ demonstrasi
distribution ⇒ distributie ⇒ distribusi
emotion ⇒ emotie ⇒ emosi
education ⇒ educatie ⇒ edukasi
generation ⇒ generatie ⇒ generasi
identification ⇒ identificatie ⇒ identifikasi
information ⇒ informatie ⇒ nformasi
industrialization ⇒ industrialisatie ⇒ industrialisasi
meditation ⇒ meditatie ⇒ meditasi
negotiation ⇒ negotiatie ⇒ negosiasi
operation ⇒ operatie ⇒ operasi
organisation ⇒ organisatie ⇒ organisasi
portion ⇒ portie ⇒ porsi
production ⇒ productie ⇒ produksi
recommendation ⇒ recomendatie ⇒ rekomendasi
recreation ⇒ recreatie ⇒ rekreasi
sanction ⇒ sanctie ⇒ sangsi/sanksi
selection ⇒ selectie ⇒ seleksi
tradition ⇒ traditie ⇒ tradisi
ventilation ⇒ ventilatie ⇒ ventilasi

オランダ語語尾の「-tie」の発音は「シ/si/」ですので、対応しているインドネシア語はオランダ語の発音をそのまま受け入れたものであることがわかります。外国語の単語が音で外来語(借用語とも言われます)として取り込まれるときの典型的なパターンがこれです。

余談ですが、マレーシア語に外来語として取り込まれた英語に次のようなものがあります。単語の形態はそのままで、発音が自国言語の体系に変化して取り込まれているのがわかります。
英語 ⇒ マレーシア語
counter ⇒ kaunter
fashion ⇒ fesyen
garage ⇒ garaj
message ⇒ messej
museum ⇒ muzium
television ⇒ televisyen
話を戻します。

しかし、次のものは違います。
suggestion ⇒ suggestie ⇒ sugesti
オランダ語suggestieの-tieは発音が「ティ/ti/」なので、インドネシア語も「シ/si/」になっていません。
station ⇒ station ⇒ stasiun
英語とオランダ語が同形であり、オランダ語の発音がそのままインドネシア語になっています。
lotion ⇒ lotion ⇒ losion
英語とオランダ語が同形で、しかも発音まで同じであり、インドネシア人はそれを自国語の音韻体系に合わせて外来語として取り込みました。なので、英語の「ション」がインドネシア語の「シ」になっていない例のひとつです。
nation ⇒ natie ⇒ nasion
インドネシア語化された場合はnasiという単語になると想定されますが、ほとんどのインドネシア人にとって重大な意味を持つ固有語が既に存在しているため、それに紛らわしい外国語をインドネシア語の中に受け入れる必要性がなく、取捨選択が行われた結果、オランダ語の発音を取り込むのは難があるものの、その観念は使いたいということで、nasion(ナシオン)という形に変形されています。プラムディア・アナンタ・トウル氏の作品にも、このnasionは顔を出しています。

2.-sion のケース
英語 ⇒ オランダ語 ⇒ インドネシア語
aggression ⇒ agressie ⇒ agresi
commission ⇒ commissie ⇒ komisi
depression ⇒ depressie ⇒ depresi
discussion ⇒ discussie ⇒ diskusi
mission ⇒ missie ⇒ misi

オランダ語語尾の「-sie」の発音は「シ/si/」であり、対応しているインドネシア語はオランダ語の発音をそのまま受け入れたものになっています。

しかし、次のものは違います。
pension ⇒ pensioen ⇒ pensiun
オランダ語pensioenの-ioenの発音は「イウン」ですので、インドネシア語もその発音に倣っています。
mansion ⇒ herenhuis ⇒ rumah mewah, rumah besar
対応するオランダ語が別形態の単語であり、この流れに対応するインドネシア語もインドネシアの固有語で表現されます。ただしインドネシアの不動産業界は既にmansionという語を高級アパートメントの意味で使用しており、mansionという単語の使われたデラックスアパートメントはたくさん存在しています。

3.-shion のケース
fashion ⇒ mode ⇒ mode
英語とオランダ語が別形態の単語になっており、インドネシア語はオランダ語をそのまま取り入れています。


ということで、英語とインドネシア語が似ているのでなく、英語とオランダ語が近い関係にあって、インドネシア語はオランダ語の方を取り込んでいたのだということが明らかでしょう。

ちなみに、次のようなインドネシア語も、英語でなくてオランダ語に由来しているのです。
英語 ⇒ オランダ語 ⇒ インドネシア語
insurance ⇒ assurantie ⇒ asuransi
police ⇒ politie ⇒ polisi
(insurance) policy ⇒ polis ⇒ polis

さて、外来語化現象というのは、単に形式上のことがらに注意を払うだけでは説明し尽せません。外来語というのは自国語化された外国由来の語彙であり、わざわざ外国の単語を自国語化するのは、それなりの必然性があってのことであるはずです。ある一部の人が自国語体系の中で外国単語を使っても、大多数国民が見向きもしなければ自国語の語彙としては認められず、一部の人が単に外国語の単語を使っているだけという認識で終わるでしょう。つまり、外国人がありとあらゆる英語の-tion付き単語を-siに変えても、インドネシア語として使えるわけではないということなのです。インドネシア語の語彙として認めるかどうかは、インドネシア民族が決めることなのですから。

だからと言って、インドネシア人との会話の中で、「そのようなことをしてはいけない」とわたしが申しあげているわけではありません。コミュニケーションの究極目標は情報伝達や意志疎通であり、的確にその用が足せる限り、「そのようなこと」をしていけないわけがありません。


実は、世代交代のあげく、インドネシア人自身が「そのようなこと」をする傾向を強めている事実があるのです。最近の若者世代にとってヨーロッパ系の外国語が英語で代表されているのは、世界中ほとんど変わりがないでしょう。インドネシアも同じで、インドネシア語化したオランダ語に対する認識は極端に薄まっており、英語の「-tion」はインドネシア語の「-si」だという短絡的な認識のインドネシア人が増えているありさまです。
類似のことは、たとえば行為者を示す英語の「-er」はインドネシア語で「-ir」になり、英語の形容詞「-ive」はインドネシア語で「-if」になり、「-ary」は「-er」になる。英語の名詞化語尾「-ty」はインドネシア語で「-tas」になり、職業の英語「-ist」はインドネシアの「-is」で、「-cian」は「-kus」や「-si」になる、といったオランダ語を介在させない思考法が強まっているように見えます。

この現象が全国民に徹底してしまえば、この論説のテーマである「英語のションはインドネシア語のシ」が公理として定まるわけです。その可能性はきわめて高いと私見していますが、未来のことですのでわたしが断定するわけには行きません。

ともあれ、われわれも KONGRATULASI ?DAN ?SELEBRASI! と行きますかねえ?



◆「インドネシアという国名の由来」(2014年2月21日)◆

現在のインドネシアという国名が、どのような歴史的経緯を経て付けられたのかについて、説明します。

現在のインドネシア共和国という領域が単一国家になったのは20世紀に入ってオランダが植民地制度下にその領域のほぼすべてをオランダ領東インドとしてまとめたのがことの始まりでしたが、実態は文化や言語の異なるさまざまな種族が作っている王国がそれぞれ植民地支配者と上下方向でつながっているという並立形態になっており、1945年8月17日の独立宣言によってはじめて単一国家として国民間の横のつながりが生み出されたのです。もちろんその前の日本軍政下における独立準備期、いやもっと遡れば20世紀に入ってからの民族主義運動の高揚期以来、文化や種族の枠を超えた横のつながりは動きはじめていましたが、歴史の始まりから19世紀に至るまでこの地域はさまざまな王国が分裂して割拠しているエリアにすぎませんでした。

だから、原住民がその広い領域にひとつの名称をつけて呼ぶということはなされたことがありません。つまり、インドネシア共和国の領土は歴史的に固有の名称を持っていなかったということなのです。

インドネシア共和国には180を超える種族が居住していると言われており、その各種族は過去の歴史の中で個々に王やスルタンを支配者とする王国の形態をなしていました。それらの諸王国の中で優勢な力をつけた王国が近隣の諸国を伐り従えて広い地域の支配者となることは、繰り返し起こっていました。

もっとも広いエリアを征服して東南アジアの大勢力となったのは、1293年に元軍の進攻を撃退して東部ジャワに都を定めたラデン・ウィジャヤ王を開祖とするマジャパヒト王国で、第四代目のハヤム・ウルック王のときに宰相ガジャ・マダが長期にわたる大遠征をを行い、マジャパヒト王国の版図を最大限に拡張したのです。マレー半島はパタニ地方を北端としてジョホールに至るその南側の地域すべて(当時のシンガポールは漁民が海岸部に住んでいるだけの密林の島でした)、スマトラ島全域、ジャワ島全域、バリ島からティモール島に至る小スンダ列島、カリマンタン島はブルネイからサンバス、ポンティアナック、バンジャルマシンとぐるっと回ってクタイまで北上する海岸部一帯、スラウェシ島はルウックから南部全域および現在の北スラウェシ州からゴロンタロの町まで、そしてアラフラ海の島々を除く現在のマルク州および北マルク州全域、イリアン島は現在の西パプア州の鳥の頭の部分という、現在のインドネシア共和国領土に匹敵するほどの大国ができました。

ただし、インドネシアの歴史で版図を拡大するという言葉の意味は、他の諸王国の宗主国になるというのが一般的な形態であり、現地の王国を滅ぼし、征服国の王族がその領主となって地元に住んでいる異種族を支配するという形は稀でした。つまりマジャパヒト王国に服従する被征服国は従来どおりの王様が支配し、その王様がマジャパヒト王に服属して貢納を行なうというパターンなのです。もちろんそのときに、マジャパヒト王家の血の入っている王女や王子を被征服国の王子や王女と結婚させてマジャパヒト王家の血を混入させるという政策は採られましたが。

マジャパヒト王家にしてみれば、そうやって王国の版図が拡大したわけですから、その版図に固有名称をつけてまだ服属していない地域と区別する必要が生じます。そのために使われるようになったのがサンスクリット語に由来するヌサ(nusa)とアンタラ(antara)という言葉を組み合わせたヌサンタラで、「支配下の島々」「領地の島々」を意味していました。現代インドネシアでは、自国の領土を呼ぶときにそのヌサンタラという語がよく使われています。

しかし1389年にハヤム・ウルック王が逝去して次の王が即位すると王族内部の権力争いが激しくなり、マジャパヒト王国の威光は色褪せて自国領の外まで支配の手がまわらなくなったために属国は続々とマジャパヒトの支配下から脱していく結果となりました。

ここまでの説明から、どうしてヌサンタラという語を国名にしなかったのかという疑問が出るかもしれません。まず言えるのは、それが地理的な固有名称でなかったということ、そしてインドネシアのひとびとはその語の原意を知っているわけですから、国名として使うのはふさわしくないという感触を持っていたのではないかと思われます。

それからずっと時代が下がった1509年、ポルトガル船隊がマラッカにやってきます。そして1511年にマラッカを奪取すると、東南アジアにおける通商支配の根拠地をそこに定めて香料貿易の武力による独占に取り掛かります。

ヨーロッパ人が東南アジアで動き回るために、そして次から次へとどんどん発見されていく未知の土地をかれらの世界に知ろしめすために、かれらは地図をいろいろと作成しました。インドという地名は古代ギリシャの昔から知名度の高いものだったために、インドという名称とその位置が地図作成者のキーポイントになったのは疑いないでしょう。そしてインドからもっと東方にあるマレー半島からインドネシアの島々、さらにはフィリピンへと続く多島海をかれらは「東インド海」と名付けました。16世紀に作られた地図にはラテン語でOCEANVS ORIENTALIS INDICVSと記されており、東インドという語がその地域の固有名称として定着していたと思われます。

その証拠に、ヨーロッパの各国がその地域の戦略策定あるいは支配機構を設ける中で、軒並み東インドという語を使っています。オランダ人がインドネシアで産出される香料をポルトガル人から奪取するために発足させたオランダ東インド会社(オランダ語でVereenighde Oost Indische Compagnie 略してVOC)も東インドという名称を冠しているではありませんか。
VOCはインドネシアの交易の要所要所を武力と政治交渉で獲得し、要塞と商館および倉庫を設けて通商支配を進めて行きました。しかし商業団体としてのこの会社の内容は18世紀末に破滅の段階に至り、1799年12月31日をもってVOCという会社は解散しました。VOCがインドネシアに持っていた諸権益はそっくりオランダ政府に移管され、こうしてオランダ政府によるインドネシアの植民地支配というのは1800年から開始されたのです。一般に言われている三百年間のオランダによる植民地支配という表現は正確さを欠いているのがそこから判ります。ましてや、バリ島がオランダの支配下に落ちたのは1849年、スマトラ島北部では、北スマトラが1907年そしてアチェに至っては1910年にオランダがやっとそれぞれの王国との戦争を終結させることができたわけで、厳密にインドネシア全土の植民地支配の期間というものについて言うなら、わずか32年間しかないということになってしまいます。

ともあれ、三百年であろうと百四十年であろうと、はたまた32年であろうと、インドネシア人がオランダ人による植民地支配から脱して独立しようという意志を持ったことには変りありません。

オランダがこのインドネシアという地域を支配下に置こうとしたために、ばらばらに分裂割拠していたこのエリアの諸種族を一致団結させてしまい、インドネシアという民族意識を植え付けてかれらを独立に向かわせることになったわけですから、「分割統治」という金言にもとづいた統治システムがそれを行なう中で覆えって行くという、これほど皮肉な話はきっと世にも稀なものではないでしょうか。

ヨーロッパ人の来航が始まってから、現インドネシア共和国の横たわっている領域は東インドという広範囲な地名の一部ということになりました。オランダ人自身は自分たちの占領している地域を指す名称としてオランダ領東インド(Nederlands-Oost-Indi?)という言葉を使い、それには英語でDutch East Indies、日本語では蘭領東インド(略して蘭印)という訳語が当てられました。原住民であるインドネシア人はHindia Belanda(オランダ領インド)という訳語にしています。

その一方で、1850年にイギリスの民族学者ジョージ・ウインザー・アールが東インド諸島に住むひとびとを指す言葉として、Indunesiansという言葉をはじめて使いました。Induというのはインドを指すギリシャ語⇒ラテン語であり、nesiaはギリシャ語で島を意味するnesosの複数形、つまり島嶼あるいは諸島のことです。そしてアールの生徒であるジェームズ・リチャードソン・ローガンが後になって自己の論文の中でIndonesiaという語をオランダ領東インドの地域に対して使用したのです。

この学術的な分野から起こってきたインドネシアという語をオランダの知識人たちも使用するようになります。インドネシアという語は、オランダ領という植民地支配の響きのまったく混じらない自由で解放的な息吹を感じさせる言葉として受け止められ、20世紀最初の二十数年間オランダに湧き起こった倫理政策という人道的な植民地支配のあり方を指向する精神的な姿勢に即したものとして一部のひとたちから愛用されました。

そんな時期にオランダ領東インドでも民族意識が高揚し、オランダにいた留学生たちがまずインドネシアという語を自分たちのアイデンティティとして位置付けるようになります。それが自分たちの本国に持ち帰られ、植民地体制下の雑多な種族がその言葉の下に大同団結するきっかけをもたらしたのです。1928年10月27〜28日、全国の各種族を代表する若者たちがバタヴィアに集って青年会議を開催し、三項目の青年の誓いを決議しました。
一、 我々インドネシア青年男女は、インドネシアという一つの祖国をもつことを確認する。
二、 我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族という一つの民族であることを確認する。
三、 我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用する。
(日本語ウィキペディアから)

このようして、それぞれが異なる文化を持ち、遠い歴史の過去から分裂割拠していた個々の種族が大同団結してひとつの国家を作るという一大事業が開始されました。オランダ植民地政庁は原住民に対してインドネシアという語の使用を厳禁しましたが、日本軍政下にその禁令は取消されて公的呼称となり、1945年8月17日の独立宣言の中で上記の青年の誓いが実現したのです。

以上が、インドネシアという国名・民族名・文化名の由来です。だから、インドとインドネシアという国名に類似の要素があることに印象づけられて、何か民族学的なあるいは政治的な関わりが歴史の中にあったのではないかという疑問を抱くかたが時にいらっしゃいますが、そのような直接的な関係は何ひとつありません。歴史の中でインド文化の流入やインド人の移民も確かに行なわれていますが、インドネシアという語のインドの部分はヨーロッパからもたらされたものなのです。

上で述べられているように、インドネシアというのはマクロレベルでの名称であり、その中身は依然として個々の種族が歴史的に抱えてきた文化・言語・慣習・価値観の並立状態になっています。その融合はもちろん大いに勧められているところであり、異文化・異種族間の結婚による混血と文化混淆の増加、種族言語を超えた共通語としてのインドネシア語の普及など顕著な例は確かに見られるものの、たとえばインドネシア料理というものの中身は本当は各種族の伝統料理であるといったことや、インドネシア人はXX(たとえばこうもり)を食材にすると言われていても実は特定種族にしか当てはまらないといったことなど、インドネシアというものの中身の理解が持てていないひとにとっては???の連続ということになるやもしれません。



◆「ジョグジャカルタは俗称」(2013年11月10日)◆

インドネシアのジャワ島中央部南部海岸寄りに位置するジョグジャカルタはソロにあったマタラム王家の相続争いによって1755年に分家立国したスルタン国です。その相続争いに乗じてソロの王家を分割させることをオランダ東インド会社が進めた面がありますが、それはここで触れません。

ジョグジャカルタに誕生したスルタン国は最初、国名をカスルタナン・ガヨグヤカルタ・ハディニンラ(Kasultanan Ngayogyakarta Hadiningrat)と称しました。このジャワ語を日本語に訳すと「世界随一の繁栄する絶好なスルタン王国」となります。

インドネシア共和国の成立に際して、インドネシアの島々(インドネシア語ではヌサンタラと称します)のあちこちにあった王国に対して共和国指導者層は、共和国の中に組み込まれるかそれとも王国として共和国の外に位置するかの二者択一を迫り、すべてが共和国への参加を選択しました。ジョグジャカルタ王家もそれを選択したのです。

共和国の中に王国が存在するということはありえません。だから共和国独立プロセスの中でカスルタナン・ヨグヤカルタ・ハディニンラは消滅し、このスルタン王国は特別州として大きい自治権限を持つ行政区域に変わりました。これは政治体制の変革でしかないため、王家の統治支配から共和国中央政府の行政支配へと仕組みが変化しただけであり、スルタン王家を滅ぼさなければならない必然性はまったくないわけで、だから王家は今日まで存続し続けているのですが、この王家は王国を持っていないということになるのです。

さて、スルタン王国の名称にはガヨグヤカルタという言葉が出ていますが、ジョグジャカルタという発音はどこにもありませんね。そう、独立以来現在まで、この王国に由来する固有名称としてインドネシア共和国が公式名称に使っているのはヨグヤカルタ(Yogyakarta)であり、ジョグジャカルタ(Jogjakarta)という言葉はどこにも存在しません。中央政府や州政府の公文書あるいは公的会議や公式のスピーチの中でも、われわれの耳目に触れるのはヨグヤカルタだけであり、ジョグジャカルタという名称は影も形もありません。つまり、日本や欧米では標準名称とされているジョグジャカルタという言葉は俗称に過ぎず、正式にはヨグヤカルタと表現するのが外交儀礼にかなった扱いであるということになります。

その証拠に、ジャワ語にはヨグヤ(yogya)という単語はありますが、ジョクジャ(jokja)あるいはジョグジャ(jogja)という発音・スペルの単語は存在しませんし、日本語ウィキのジョグジャカルタのページからインドネシア語のページに飛ぶと、インドネシア語ではYogyakartaという表記が出てくることもひとつの証明と見ることができます。そして王国発足時の名称にはヨグヤカルタという言葉が使われているわけですから、ジョグジャカルタというのは間違った名称だということが明白ではありませんか。ヨグヤカルタというようにも聞こえるのでなく、現地のひとたちははっきりとヨグヤカルタと言っているのです。もちろんインドネシア人あるいはヨグヤ人の中に、みずからのアイデンティティ呼称をジョグジャカルタと言っているひとたちもいますが、それは慣用としてジョグジャカルタという俗称が並立してしまっているからです。

なぜ、そんなことになったのでしょうか?

思うに、その鍵は「j」という文字の発音がオランダ語と英語で違っていたことに由来しているようです。オランダ人は当然ながら、ヨグヤカルタという発音をJogjakartaという綴りで表記しました。オランダ語のjoやjaは英語のyoやyaの音を表します。ヌサンタラのひとびと、特にヨグヤカルタに関わっているひとびとはヨーロッパ人との意思疎通に際して、オランダ人の習慣を継承してアルファベットではJogjakartaと表記したであろうことは容易に推察されます。

1811年、イギリス軍がジャワ島を征服し、イギリス人によるジャワ島支配が始まります。やってきたイギリス人は言うまでもなくヨグヤカルタ王家をその統治下に置くための動きを進めます。当然ながら相手の名称を呼ばなければなりません。もちろんイギリス人にしても、ヨグヤカルタ王家の存在やその背景などは前もって情報を集めていたでしょうが、いざジャワ島を征服してからあちこちで目にしたアルファベット表記のJogjakartaという綴りを、イギリス人たちが律儀にオランダ式の読み方にならって発音したかどうかです。

一方、ヨグヤカルタのひとびとは、それまでの支配者だったオランダ人が駆逐されてイギリス人がその後釜におさまったとき、新たな支配者が自分たちのアイデンティティをジョグジャカルタと呼んだところで、それを必死になって正しい発音に矯正しようとしたかどうか。長いものに巻かれるのを生活の知恵とし、相手と争わないことが優れた生き方であるという価値観を持つジャワのひとびとがそういう状況でどう振舞ったかは、想像に余りあると思われます。

どうやらそのようにして、本来の正式呼称であるヨグヤカルタと勘違いの所産であるジョグジャカルタがジャワ島内で同居するようになり、英米系のひとびとは矯正の指摘を受けなかったために思い込みの発音を標準としてしまったように見えます。そして中東から更に身近なアジアのことですら、英米を先生にしてしまった日本人は英米文化のフィルターをかけて世界の情報を身に着ける習慣を育ててしまったため、英米の標準に追随しているのがこの俗称の標準化という現象であるように思われます。

今ある標準を覆せと叫ぶ気はありませんが、現地の人たちにとってオーセンティックなものは何なのか、かれらにとって本当は正しくないものは何なのか、そういうことをわれわれは正確に弁別するべきだろうと思います。少なくとも、親日国と言われているインドネシアのひとびとに対しての、それが礼儀ではないでしょうか。



◆「ジャバそれともジャワ?」(2012年6月1日)◆

インドネシアのジャワ島の名称に日本人はジャワ・ジャヴァ・ジャバという三種類の呼び方を使っています。どうしてそんなことになったのか、それに関する考察を下記します。

もっとも古いジャワの呼称は、インドのラマヤナ叙事詩に登場するヤワドゥイパ(Yawadwipa)でしょう。ヤワの島というのがその意味で、インド人はジャワを指してヤワと呼びました。一方、ギリシャの地理学者プトレマイオスはその著「地理学概要」の中で、イァバディオウ(Iabadiou)という名称でジャワを呼んでいます。こちらはヤバですね。

中国での認識を見てみると、後漢書に葉調(ye diao)、法顕行傳に耶婆提(ye po ti)という名称が登場します。それらはいずれもインド人がジャワを呼んだヤワドゥイパの漢字表記と見られており、ジャワに関する認識を中国人は最初インドの知識から取り入れたことがわかります。つまりジャワ人が自分の土地を呼んでいるジャワという名称は知らなかったということなのです。

中国でジャワという地名が認識されるようになるのはジャワからの朝貢が始まって以後の宋や唐の時代で、太平御覧に登場する諸簿(zhu bu)や唐書に見られる闍婆(she po)がジャワを表していますが、使われている漢字はまちまちで、ジャワという言葉にどの漢字をあてるかはまだ標準化されていません。


元代に書かれた島夷志略には爪哇(zhua wa)という表記が登場し、そこではじめてジャワという名称の漢字表記が標準化されました。1349年のことです。以後の表記はすべて爪哇と書かれ、チャワという発音が定着しました。日本にも、その漢字表記と地誌に関する知識が中国から書物を通して入ってきましたが、いつの時代に始まったのかははっきりしません。

一方、昔のアラブ人はジャワのことをジャバイ(Zabaj)と呼びましたが、アラブ語ではwとb、jとzが異音になるため、jawaiがzabaiと同じ言葉として使われていた可能性は高いようです。類似のことはヒンディ語にもあり、ワ[wa]およびヴァ[va]は同じ文字についての異音であるため、古代のヤワという名称がジャワという言葉に置き換えられたとき、ジャワ(Jawa)とジャヴァ(Java)のふたつが用いられるようになった可能性は小さくありません。

ところで西欧諸国のジャワに対する名称がどうなっているかについて調べてみると、次のようになっていました。
ポルトガル語 Java 発音はジャヴァ
スペイン語 Java 発音はハヴァ
フランス語 Java 発音はジャヴァ
オランダ語 Java 発音はヤファ
英語    Java 発音はジャヴァ
イタリア語 Giava 発音はジャヴァ

このパターンはJapan という国名に関するケースと非常によく似ており、
「Japan(ジャパン)の語源はジパングではない」
で考察されたプロセスと同じように、「Java」という文字表記が西欧諸国に流れ込み、それぞれの国でその国語の発音に従って読まれるようになったことを意味していると推察されます。

西欧域内にその文字表記を持ち込んだのはジャパンと同様にポルトガル人で、かれらはたぶんインドでその知識を仕入れたのではないかと想像されますが、これはわたしの仮説であることをお断りしておきます。


では日本はどうだったのか?
元代以降に確立された爪哇という文字表記がそれほど時代を隔絶することなく日本にもたらされていたことは上述しましたが、中世以後南洋島嶼部で日本人の関心はまず呂宋(ルソン)やインドシナ半島に向かい、ジャワへの認識が深まったのは明治以後の南進論の隆盛に刺激された結果でした。明治以後太平洋戦争の前後あたりまで爪哇という文字を日本の新聞や書籍の中に頻繁に見出すことができるのは、はたして何百年ものあいだ雲居の知識として為政者の書庫に置かれていたものが市井にまで降りてきたものなのか、それとも明治以降の時代の推進者を自負する新進知識人たちが漢語まみれの時代を作り出す中で発見したものなのか、どちらだったのでしょうか?

それはさておき、日本にはジャワという呼称の長い歴史がある一方、西洋人の表記法であるJava も入ってきました。中世以来、ポルトガル人・スペイン人・オランダ人・イギリス人などが日本へやってくる中で、西洋型呼称であるジャヴァという言葉を日本人が取り入れたのは文明開化以後であるように思われます。それはもちろん、雲居の知識に対して「日本人が取り入れた」という表現がしづらいことも関係しています。「日本人が取り入れた」と言う以上は、市井の一般庶民にも「聞いた覚えがある言葉」でなければなりませんから。


ここで、日本人が作った世界地図にジャワ島がどのように表記されていたかを見ることにしましょう。世界地図が市井の一般庶民の間に普及するのは、やはり文明開化がその震源であり、国民教育の中での世界知識の高揚を目指して利用が進められていったものです。鎖国の時代に世界地図など目にしようものなら、無事な一生を終えることができなかったのは、まず疑う余地はありません。

日本人が作った世界地図では、インド洋東端にあるあの島の名称が日本語で次のように書かれています。
1915年世界地図 ジャバ島
大正9年世界地図 ジャバ島
大正14年世界地図 ジャヴァ
1928年世界地図 ジャヴァ島
昭和10年世界地図 ジャバ島

ヴァとバの混在は、ヴァが標準的日本語表記でないことを考慮して日本語音韻構成の中でいちばん近いバに置き換えた地図監修者の意図がそこから読み取れる気がします。

興味惹かれるのは、印刷メディアで普通になっている「ジャワ」がまったく使われていないことで、明治以後に日本で始められた世界地図の作成が最初は西洋のものの丸写しであったことをそれが示しているように思えます。つまり西洋世界地図の上でアルファベットで記されている地形名称を日本の文字に置き換えるという作業が世界地図作成の過程で発生したわけで、Java が「ジャヴァ」に翻訳される必然性はそこに由来していたという気がわたしにはします。


ちなみに、一時騒がれた日本海という名称にしても、日本人がその名称を作ったのはそのときの単純な翻訳作業の結果でしかないとわたしは考えています。ましてや支那という名称にしてもそうではありませんか?西洋諸国がChina やChine と記載したものを日本人が支那という当て字を使って翻訳したら「シナ」という呼称は侮蔑であってまかりならぬというのであるなら、現代日本人は「チナ」というカタカナ表記にそれを変えてやれば済むことだったのではないかとわたしは考えています。元になっている西洋語への非難などなく、それを翻訳したら苦情がくるというのは正気の沙汰とは思えないですね。

日本語では、ワという文字とバあるいはヴァという文字はすべて存在しているため、[wa] と[ba]や[va]という音は異音ではありません。しかしバとヴァだけを取り上げてみると、表記法も発音も異なっているというのに、日本人はその異なる二音(ふたつの表記法)を同じものと見なしています。バイオリンやバリエーションあるいはサーベイなどの単語からそれがわかるし、バとヴァだけを違えた異なる意味の単語が見当たらないことがそれを証明していると言えるでしょう。

異音というのは、たとえば日本語の「ん」のようにそれが表す音は同じひとつのものとその言語体系では認識されている一方、異なる言語体系では[n][m][?]といった異なる音がその中に見出されるような現象を指してわたしは使っています。だから、ふつうその言語体系での表音文字表記はひとつなのに、そこに異音を見出している別の言語体系ではその異音がそれぞれの文字を持ち、まったく別の音として認識され使われているということなのです。

上の定義からいけば日本語のバとヴァは形式的に異音ではないことになりますが、ヴァはもともとの日本語表記になかったものであり、加えて日本語を母語とするひとはそれらを同じものと見なしているという本質を考慮して、わたしはバとヴァが異音であると見なします。

「ジャワ」と「ジャバ/ジャヴァ」という完璧にふたつの系統の言葉が並存していることについて、その原因がどこにあるのかということのわたしなりの考察が以上です。



◆「Japan(ジャパン)の語源はジパングではない」(2012年1月1日)◆

ジャパン・ハポン・ジャポン・ヤパンなどさまざまな名称で呼ばれている日本のヨーロッパ諸国における外名の語源がジパングであるという通説に、わたしは異論を呈します。

それらヨーロッパ諸国の言葉を英語のジャパンで代表させておきます。
まず、ジパングという語からジャパンが生まれたのだという説については、その二語の間の関連性があまり感じられず、結びつきかたが不自然であり、そのために納得性が低いとわたしは感じています。外国の言葉が自国にそのまま取り入れられるとき、耳から伝わる場合と文字で伝わる場合のふたつが考えられますが、耳から伝わった場合は元の言葉がデフォルメされる可能性が高まるものの、文字を介して伝わった場合は元の言葉が形態的にデフォルメされることはあまりなく、読み方・発音が変化するのが一般的です。


マルコ・ポーロが故国に持ち帰ったジパングについての情報はかれの口述を筆記した東方見聞録という書物を通して当時のヨーロッパ社会に伝達されているため、zipanguという語がjapanという形にデフォルメされた可能性は低いように思われます。もしzipanがjapanにデフォルメされたと言うのなら、どうしてjapanguとならなかったのか、というのが素朴な疑問です。

もうひとつのポイントは、ジパングストーリーはヨーロッパのひとびとにとって、数多い黄金境・桃源郷譚のひとつだったはずで、つまりだれもが本気で信じていたかどうかわかりません。それはともかくとして、ジパングの名称を知っているヨーロッパ人がもしどこかで日本船や日本人と接触を持ったとき、はたしてかれらの脳裏でジパングということばが目の前にいる日本人に結びつけられ得たかどうか、という疑問が生じます。言いかえれば、現実に接触した日本人をヨーロッパ人がジパング人だと認識することは不可能だったのではないかと思われるわけです。

というのは、15世紀ごろから日本人も旺盛に南洋に進出しており、南洋各地での日本や日本人の認識は十分に作られていたはずですから、最初にアジアにやってきたヨーロッパ人がどこかの港で日本船や日本人を目にした可能性はあると思われます。よしんば、そうでなくとも、日本に関する知識を地元のアジア人から聞く機会がなかったはずがありません。

その場合、ヨーロッパで日本がジパングと呼ばれていることを日本人はもとより、他のアジア諸国人だって知らなかったはずですから、最初に日本人を見つけたヨーロッパ人が本人に「おまえはジパング人か?」と通訳を介して尋ねても答えはノーでしょうし、ほかのアジア人に「そいつはジパング人か?」と尋ねても、やはり答えはノーだったでしょう。

つまりヨーロッパ人がアジアに来て、日本というものを実感を伴って認識するようになったとき、ジパングという言葉が出る幕はなかったのではないかということです。


となれば、日本というものの認識は、別の名称でなされなければなりません。そこにジャパンという言葉の登場する舞台が用意されていたと言えるでしょう。

最初に海路アジアに進出してきたのはポルトガル人で、インドに基地を設けたあと、かれらの船隊は1509年にマラッカに到着し、交易を行いました。

当時マラッカは東西交易の重要な中継港であり、東西南北から、各地の交易船が集まってきていたため、ポルトガル人がもっと東やもっと南の地誌に関する情報をマラッカで収集したことは十二分にありうることです。

マラッカ港でマレー人がポルトガル人に東方にはタイやベトナム、中国、琉球、日本などがあるという話はしていたはずです。日本はマレー半島でジュプン(Jepun)と呼ばれていましたから、その語を聞いたポルトガル人がJapan(ジャポン)と自国語で綴って記録したのが、ヨーロッパ人がはじめて日本という国に具体的な認識を持った上で日本のことを記録したはじめではないでしょうか。その情報がポルトガルからローマ法王庁をはじめとするヨーロッパ諸国に流れ込み、ヨーロッパ域内にその名称が定着したのではないかというのがわたしの推論です。


さて、マレー語のジュプンの語源は「日本」の華南地方の発音ジプンあるいはジップンに由来しています。結局は「日本」という漢字の中国読みから来ているということが言えるわけです。

日本は古来から華南地方との交流が盛んで、華北との直接交流は影が薄かった印象です。中国と言っても広大なエリアですから、日本に関する情報は華南から華北へと伝わった可能性が大です。で多分、華南で呼ばれている「ジップンコ=日本国」の文字が入ってきて華北では「日本国=ジーベンクオ」と発音されていた可能性が高いと思われます。

だからマルコ・ポーロがジパングの情報を仕入れた元時代の華北では、日本の呼称はジーベンクオで、マルコ・ポーロはその音をジパングと聞き取ったように推測されます。

つまりジパングとジャパンは前者が後者を生み出した親子関係にあるのでなく、親を同じくする兄弟関係だったのではないかというのがこの異論の内容です。ジパングとジャパンの関係は、だから語源でなくて、同じ語源から派生した言葉だということになるのです。