「スラバヤの戦闘」


1.序
2.ジャカルタ動乱
3.バンドン火の海
4.スマラン事件
5.アンバラワの激戦
6.スラバヤの戦闘


1.序
1945年7月の後半に開かれたポツダム会談の機会に、対日戦に全力を注いでいるアメリカは素通りした蘭領東インドの中心部を成すジャワ・スマトラの終戦処理をイギリスに譲った。元々の戦域分担は、アジア大陸側をイギリスが屋台骨を担う連合軍東南アジア地域司令場が受け持ち、インドネシア・フィリピンなどの島嶼部と海洋を含む広範な地域はアメリカが主体をなしている連合軍南西大平洋地域司令部が受け持っていたため、蘭領東インドの終戦処理はアメリカが引き受けるはずのことがらだった。

ところが、ニューギニア戦を持ちこたえた南西大平洋地域司令部は一転して日本への反攻に移り、マッカーサー司令官の誓ったフィリピンへのリターンの実現を早めるためにジャワ・スマトラをはじめとする蘭領東インド解放戦を行うことを避けた。この大戦争の早期終結を目指す妥当な方針がそれであったことは疑う余地があるまい。


ニューギニア島北岸沿いに日本軍を沈黙させたあと、連合軍は北マルクの北端にあるモロタイ島をいきなり1944年9月に攻略してフィリピン奪還に王手をかけた。もちろんニューギニアの東側に連なっているソロモン諸島からカロリナ諸島・マリアナ諸島を奪取してそのまま日本列島へ北上していくルートの確保もそれに呼応して進められ、日本を最終標的とする戦線の北上という大きな流れが築かれて行ったのである。

結局インドネシアを占領した日本軍はひっきりなしの空襲にさらされただけで、連合軍との地上戦は、マルク地域とボルネオ島の数か所で起こったものを除けば、なかったも同然だったようだ。ボルネオ島では1945年5〜6月に、東カリマンタン州北部のタラカン島と南部のバリッパパンに連合軍南西大平洋地域司令部の軍隊が上陸して激戦の末に占領したが、その作戦の中心を担ったのはオーストラリア軍であり、米軍が日本への進撃にいかにかかりきりになっていたかを、その一事が物語っているかのようだ。

戦争の流れがそのような形を取ったことで、終戦処理の分担に変化が起こった。元々アメリカの植民地だったフィリピンは米軍が当然のように手を下したが、ジャワ・スマトラを除く蘭領東インド地域はオーストラリアが管掌し、ジャワ・スマトラは東南アジア地域司令部つまりイギリスが受け持つよう、アメリカはイギリスに求めた。オーストラリアに担当させるよりは、イギリスのほうが信頼感が高かったということなのだろうか?

この分け方は占領していた日本軍の地域分掌に則したものでもあった。ジャワ・スマトラはベトナム〜シンガポールというヒエラルキーの下で日本陸軍が統治し、ジャワ・スマトラを除く蘭領東インド、現在東部インドネシアと呼ばれている地域は日本海軍が軍政を行っていたのだから。

つまりジャワ・スマトラをアジア大陸側にくっつけて終戦処理を行うように、マッカーサーは最終的に考えたということらしい。オランダ人にしてみれば、蘭領東インドをひとつの行政単位として終戦処理が行われ、日本軍進攻前の統治体制に引き継がれるのが一番シンプルで手数もはぶけるわけだが、そんなことが言える立場ではなかったということなのだろう。


アメリカが独善的に行ったその方針に、連合軍東南アジア地域司令部を率いるマウントバッテン卿は眉をしかめた。かれの担うべき責任は、面積100万平方マイルに住む現地人4千8百万人に秩序ある安全な生活と経済活動を取り戻させ、日本軍進攻前に行われていたその地域の行政に元々の統治者を復帰させ、それまでの間現地の治安と秩序の維持に当たり、日本軍に捕らえられている戦争抑留者の解放と駐留していた日本の軍兵を武装解除して本国に送還させることにあったのだが、突然アメリカがジャワ・スマトラを振って来たために面積150万平方マイルに住む1億3千万人の現地人を背負わされるはめになった。かれが解放するべき抑留者は12万人に達し、送還しなければならない日本人兵員数は75万人に上った。ましてや、もともとイギリス植民地だったビルマやマラヤの旧態への復活は急務であり、手持ち資源の優れた部分はそこに注ぎ込みたいというお家の事情も抱えてのことだ。

マウントバッテン卿の手持ち戦力はイギリス軍一個師団だけであり、それをマラヤとビルマの旧態回復のために使うのだから、非イギリス植民地の終戦処理に送り込む軍隊はイギリス領インド軍(英印軍)を使うしかない。その結果、イギリス人が指揮するインド人兵士とグルカ兵が終戦処理のために蘭領東インドに進駐して来た。ところが太平洋戦争が終わったあと、インドの民衆が独立の気運をあらわにしはじめたため、蘭領東インドに進駐したインド人兵士たちの間にもインドネシアの独立に対する親しみと同情が濃さを増し、その独立を白紙に戻させてオランダ植民地政府に一旦統治権を確立させ、独立案件はインドネシア人とオランダ植民地政府に協議させるという連合国側の方針を遂行させることに適切さを欠く心理的利害関係が生じるようになる。インド人兵士を蘭領東インドに長居させておくと、ろくなことにつながらないおそれがある、という感触をマウントバッテン卿は抱いたにちがいない。


連合国から日本への戦争降伏要求は1945年7月26日に発せられたが、日本が8月14日にその要求を受諾したことで、終戦処理遂行の堰が切って落とされた。だがマッカーサーは日本軍のヒエラルキーに従って順繰りに終戦処理に着手する方針を立てたことから、まずベトナムが嚆矢となり、シンガポールがそれに続き、シンガポールの指揮下に置かれていたジャカルタとブキッティンギは更にそのあとにされた。

とはいえ、たった一回の降伏要求でひと月も経たないうちに日本が降伏を表明したことは、たとえ駄目押しの原爆投下があったとはいえ、連合軍首脳部にとっては予想外のことだったようだ。スカルノやハッタが意外に早かったと感じたように、連合軍首脳も予想外のスピードで戦争が終結したという印象を抱いたらしい。


インドシナでの終戦処理の具体的な腹積もりは東南アジア地域司令部の中でフランス人とイギリス人の間で前々から話し合われていたようだが、蘭領東インドについてはオランダ人関係者との協議がほとんど行われておらず、マウントバッテン卿がオーストラリアからやってきた蘭領東インド統治代表者のファン・モークと話合いを持ったのは日本降伏のあとであり、8月24日にやっと合意文書が調印された。ジャワとスマトラでの抑留者解放と日本軍を武装解除して拘留する目的のために、連合軍東南アジア地域司令部が蘭領東インドの行政統治機構と諸施設に対する指揮権を持つことに同意するというのがその合意の内容だ。

だが、8月17日にインドネシアから発信された独立の表明を東南アジア司令部はスリランカのカンディで傍受しており、マウントバッテン卿はインドネシアの終戦処理にきな臭いにおいを既にかぎつけていた。

かつての蘭領東インド統治者たちがもたらすインドネシアの最新情勢についての情報が、その後おいおいイギリス人が報告して来るインドネシアの現地情報との間にずれを伴っていることに気付いたマウントバッテン卿は、最低限の責務を果たして行政統治をオランダ人に握らせたら、イギリス人は早々にインドネシアから姿を消そうという考えを心中に包み込んだにちがいない。

マウントバッテン卿はきな臭い蘭領東インドの終戦処理遂行のため、イギリス領インド軍で第15軍司令官を務め、ビルマ戦線で戦功をあげたフィリップ・クリスティソン中将に因果を含めてその責任者に起用し、AFNEI(蘭領東インド連合国軍)による蘭領東インド進駐を行わせた。
「この蘭領東インド処理はきわめてトリッキーに思える。わたしは直接その責任をかぶりたくない。わたしの代わりを君が務めてくれないか?君ならうまくやれるのがわかっているし、わたしはできるかぎり君のバックアップをする。これまで成し遂げて来た成果が最後のジャンプで粉々になってしまうことを、わたしは望まない。」


1945年9月8日、アラン・グリーンハルグ少佐率いるジャカルタ視察将校チームがクマヨラン飛行場に落下傘降下した。連合国軍がジャカルタの土を踏んだ皮切りだ。一行は軍政監部山口少将と会見し、ジャカルタのあちこちに点在する抑留者キャンプを訪れ、スタン・シャフリルと会見し、シャフリル派の青年層たちと接触した。一行はハルモニ―に近い昭和ホテルに宿泊し、ジャカルタの状況をつぶさに視察したあと、ジャカルタは十分に平穏である、との報告を司令部にあげた。

かれらがスカルノとハッタの率いる新生インドネシア政府を無視してスタン・シャフリルに会ったのは、偶然がもたらしたものだ。クマヨランに降り立った一行は、クマヨラン飛行場で周辺にいたインドネシア人青年たちと言葉を交わしたが、たまたまそのとき、青年たちの中にスタン・シャフリルの配下メンバーがいたのだ。連合軍がインドネシア民衆の代表者として相手にするべき人物は、デモクラシーと反日の信念で民族独立の旗を振って来たスタン・シャフリルを置いて他にない、というリコメンデーションに従って、一行はスタン・シャフリルに面会してその意見を聴取した。

オランダ側が東南アジア地域司令部に示し続けたインドネシア情勢に関する見解によれば、「スカルノとハッタは対日協力者であり、独立宣言は日本の傀儡を生き遺すための謀略に過ぎず、蘭領東インド民衆の意志を反映するものではない。NICA(蘭領東インド文民政府)が統治の座に復帰すれば、民衆は匪賊のようなスカルノとハッタを見捨てて、オランダ人の支配の下に戻って来るのが明白である」というもので、その予備知識がかれらにスタン・シャフリルを受け入れる下地を用意したのかもしれない。スカルノとハッタは日本軍政下に表に出て対日協力の姿勢を示しつつインドネシアの独立を模索し、シャフリルは地下運動の道を通ってインドネシアの独立に心血を注いだ経緯が、連合国側の目にそのような評価をもたらしたことは間違いないだろう。


マウントバッテン卿は最初AFNEIの基本戦略について、ジャワとスマトラのいくつかの要衝を掌握するだけにし、蘭領東インドの全土を抑える必要はないとクリスティソン中将に指示した。中将はそれに従ってAFNEIはジャカルタ・スラバヤ・メダン・パダンのみに軍隊を進駐させて抑留者解放と日本軍の武装解除措置および治安の維持を行うだけであり、蘭領東インドの国内問題には一切干渉しないと表明していた。

その表明はオランダ人に失望を与えた。抑留者キャンプはAFNEI軍が進駐する町々から遠く離れた地方部にいっぱいある。AFNEI軍がその解放に出動しないのであれば、解放は日本軍とインドネシア人に行ってもらわなければならない。かれらによって虐待され、悲惨な目にあわされていた抑留者たちの解放を、その加害者たちがどれほど真剣に行うだろうか?そんな感情が抑留者キャンプの中にも、そしてNICA上層部にも広がった。NICAのトップにしてみれば、イギリス人のその方針はインドネシア人を対等の交渉相手と認めていることを意味するわけで、それは叛徒たちが勝手に打ち上げた独立インドネシアの事実上の承認になる。

NICAのトップは日本軍進攻前に第70代東インド総督の座についていたチャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタショウェルだが、日本軍はかれを中国の占領地区に送って強制労働に就かせていたため、その不在の間は副総督のユベルトゥス・ヤン・ファン・モークが統率していた。ファン・モークはオランダ人の父とジャワ人の母の間にスマランで生まれ、青年期に入ってオランダに留学するまで、インドネシアの中で育った。頭脳の優秀さがかれを植民地副総督の位にまで押し上げたわけだが、性質は頑なであり、力による他者の征服がその信条だったようだ。蘭領東インドのことは自分が世界一よく知っている。原住民は力で制圧することによって、オランダ人征服者になびいてくるのであり、原住民を対等の交渉相手にするような愚行はありえない、という見解がかれの頭脳の中にへばりついていたようだ。「インドネシアの中にいたが、最後までその一部になれなかった男だ」とハッタは後にかれを評した。

NICAのトップは蘭領東インドの回復を強硬手段で行う意向だったから、独立宣言をしたインドネシア人を対等な交渉相手と認めて火中の栗を拾う愚を避け、抑留者キャンプ解放にかれらの力を使おうとするマウントバッテン卿の方針には、ファン・モークも、またスタルケンボルフ・スタショウェルも強い不満を抱いた。

AFNEI軍が蘭領東インド内で必要とあれば軍事力を行使し、独立を掲げてオランダ植民地への逆戻りに抵抗する反オランダ派ならず者反乱者に鉄槌を下すことをファン・モークは望み、かれ自身はNICAが再び統治の手綱を握ったあとで親オランダ派インドネシア人を起用して蘭領東インドをオランダ傀儡の連合国家に徐々に変えて行こうという方針の実現に邁進した。このあたりは、イギリス人もオランダ人も、自分のお家の事情を優先しようとする姿勢でインドネシアに臨んでいたことを如実に示すシーンのひとつだろう。

スカルノはクリスティソン表明を聞いて、「進駐して来る連合国軍はインドネシアの内政に干渉することなく平和裏に抑留者と日本兵の処理を行う意向であり、ジャカルタの民衆はかれらの来向を妨害したり抵抗してはならない。」との指令を出している。


ジャカルタは平穏であるとの報告に基づいて、シーフォードハイランダーズ第29連隊が連合軍先遣部隊として9月15日にタンジュンプリオッ港に上陸した。重巡カンバーランドが護衛の任に就いた。
19世紀初めにトーマス・スタンフォード・ラッフルズがジャワ島の統治を行ったとき、かれの警護の任に当たったのがシーフォードハイランダーズであり、これはマウントバッテン卿のイギリス人らしい洒落だったようだ。

続いてAFNEI本隊が9月22日にタンジュンプリオッにやってきた。ホーソン少将指揮下のイギリス領インド軍第3師団に伴われて、クリスティソン司令官もジャカルタに入った。スラバヤのタンジュンぺラッ港にはマンサーグ少将を指揮官とするイギリスインド軍第5師団、メダンのブラワン港にはチェンバース少将率いる第26師団が上陸する。それ以降は折に触れて、連合軍の兵員・武器・資材がどんどんとやってきて増強された。その中には、オーストラリアに逃れていたNICAの上級下級職員から、蘭領東インド植民地軍残存部隊までが混じっていた。


そのありさまをインドネシア人の多くが誤解した。連合国軍の名前でイギリスインド軍が抑留者解放と日本軍武装解除のために進駐して来るが、インドネシアの内政には関わらないと言いながらも、かれらはこそこそとNICAの要人や軍隊がジャカルタへ戻って来る手助けをしている、という解釈がインドネシア人の間に広まったのだ。それは明らかにインドネシアの独立崩しを画策してのものではないか。内政干渉はしないというクリスティソン中将の表明とは裏腹なことが行われている。

その見解は日本軍進攻前の体制にすべてを戻すという連合国の戦争方針からズレている。しかし、せっかく手に入れた民族と国家の独立を維持したいインドネシア人にとってはきわめて自然なものの見方だったにちがいない。

一日も早くNICAが復活して蘭領東インド内の行政を掌握し、自分たちは進駐軍の任務を済ませてここから早々に撤退したいと望んでいたイギリス人こそ、貧乏くじを引いたと言えるにちがいない。そして不幸な事件が重なることでAFNEI軍はNICA軍に引きずられてインドネシア民衆との戦争に深入りすることになってしまう。


2.ジャカルタ動乱
ジャカルタに進駐して来たイギリスインド軍第3師団は、当初の計画に従ってジャカルタの中に防衛体制を築いて兵員を配置し、治安統制を行った。ただし当初の構想通り、ジャカルタの外にまではその体制を広げていない。進駐先4都市はすべてAFNEI軍の統治下に置かれた。

ところが日本軍の制圧から逃れてオーストラリアに去った蘭領東インド植民地軍残存部隊(NICA軍)がアメリカの支給した装備をまとってジャカルタに戻って来ると、イギリスインド軍の制服を着て街中の警備に就き、インドネシア人への挑発をはじめた。当時の民衆の中には、インドネシア独立の気概を表現するために紅白旗を描いたブリキ製の徽章を身に着ける者が多かったが、NICA軍兵士はそういうインドネシア人を街中で見つけると暴力をふるい、発砲さえした。

ジャカルタのパサルバルでは、店で買い物していたインドネシア人を路上に引きずり出し、その者が身に着けていた徽章を呑み込ませるという事件が起こっている。似たような抑圧行為はAFNEI軍が進駐した諸都市で同じように頻発した。

掲げられている紅白旗を引きずりおろし、周辺にいる一般市民を銃撃し、過激派の捜索と称して集落を焼き、オランダの赤十字機はAFNEI進駐都市の外にある抑留者キャンプに武器弾薬を投下して武装を促した。軍用ジープでパトロールしている兵士がインドネシア民間人に発砲する事件は数えきれなく起こった。

そんな事態をインドネシアの民衆がいつまでもこらえているわけがない。AFNEI軍は蘭領東インドの政治に関与しないというクリスティソン司令官の言葉を文字通り信じるインドネシア人がいなくなるのも当然だ。

NICA軍が始めたインドネシア人への挑発テロ行為に反抗してインドネシア人が進駐してきた兵員への報復を行うと、AFNEI軍兵士にも被害が出る。そうなればAFNEI軍も黙ってはいない。国内問題をインドネシアとNICAの二者間問題にする腹積もりだったイギリス人も、結局巻き込まれてしまうことになった。


10月2日には、青年たちをメインにする武器を手にしたインドネシア人市民が随所で戦闘を開始した。クラマッ、スネン、タナティンギ、カリバル、ブグル、クプなどで衝突が起こり、犠牲者が出た。ペタジャカルタ大団の武器は日本軍に没収されていたため、市民が手にしたのは鉈・竹槍・旧式銃そして売春宿で盗んで来たAFNEI軍の銃器などだった。それ以来、進駐軍の軍用車や兵員輸送トラックがジャカルタの町中を通ると、物陰から銃弾が飛んで来るようになった。

進駐軍は安全なエリアを設けることに努め、NICA軍も支配地域の拡張に努めた結果、かれらはクバヨランやカリバタに基地を作り、インドネシア人民保安軍第10大隊営舎、ブレンラン、ポロニア、グヌンサハリ、ジャガモニェッなどを武力占領した。独立派市民はその報復行動を各所で行い、タナティンギ、スネン、クラマッ、スンティオン小路、ジャティヌガラ、ラワバンケ、チリンチン、クレンデル、カリバル、メンテン、ジャガモニェッ、クバヨラン、カリバタ、チリリタン、ポンドッグデなどでは毎日、銃撃戦が絶えなかった。

その結果、8千人を超える何の罪もないジャカルタ市民が、1945年9月から12月までの間に、生命を失った。1945年半ばのジャカルタ住民人口は駐留日本軍を含めて3百万人だったそうだから、8千人という量的な重みはかなりのものだったと言えるだろう。


ジャカルタがそんな内戦状態の最中に陥っている10月15日に、ユリウス・タヒヤ大尉が蘭領東インド植民地軍の一部隊を率いてタンジュンプリオッに到着した。かれはアンボン人を両親として1916年にスラバヤで生まれ、スラバヤで成長した。回想録にかれは、家の中の日常生活ではムラユ語が使われたが、地元の遊び仲間たちとはジャワ語で会話し、学校ではオランダ語を使っていた、と書いている。

成長してからは蘭領東インド植民地軍に入り、アチェ戦争に従軍した。日本軍の進攻で蘭領東インドが降伏したとき、かれは自分の部隊と共にオーストラリアに逃れた。戦争中は自分の部隊を率いてダーウィンから出撃すると、日本軍占領下にあった南マルクのサウムラキに潜入してゲリラ戦を行い、赫赫たる戦果をあげた。そのおかげで叙勲され、大尉に昇進したのだ。

かれの部隊はジャカルタに戻って来ると、即座にNICA軍に配備されて作戦行動に従事することになる。その合間にかれは、日本軍の進攻によって蘭領東インド政府が降伏したときの混乱で音信不通になってしまった叔父を探した。自分ひとりで軍用ジープを運転して叔父が住んでいた住所を探していたとき、かれの耳元を銃弾がかすめた。自分が狙われたことは明白だ。かれはすぐに思い当った。ジャカルタに来て以来、かれはほとんど地元インドネシア人と交流していなかったために、ジャカルタが深刻な内戦状態になっていることを実感していなかったのだ。

軍服を着たNICA軍将校を地元民スナイパーが狙撃して来る。独立を宣言したインドネシア人は、戻って来るオランダ人を排斥しようとして生命を賭けているのだ。かれはそのときはじめて、インドネシアがどうなっているのかを実感したと回想録に記している。それ以来タヒヤ大尉は、自分がこれまで勤めて来た蘭領東インド植民地軍の軍人として生きていくのか、それとも新生インドネシア共和国のために自分の人生を捧げるべきかの選択に悩むことになる。


タヒヤ大尉はほどなく、東部インドネシア地域の終戦処理に当たっているオーストラリア軍の処理遂行を監督する任務を与えられてジャカルタを去った。オーストラリア軍の司令官は、日本軍の武装解除を進めている部下たちに今年のクリスマスを各自の自宅で祝わせてやりたいと考えており、タヒヤ大尉の意見を求めた。

武装解除して没収した日本軍の武器兵器弾薬の管理と、身柄を拘留した日本人軍兵の監視という任務が残る限り、オーストラリア軍兵員の一部はどうしても自宅に戻ることができない。「じゃあ、それらが残らないようにすればいいじゃないか?」

司令官は新しい方針を出して部下に実行させた。没収した日本軍の武器兵器弾薬はすべて海中投棄すること。身柄を拘留した日本人は早急にオランダ軍に引き渡すこと。こうして東部インドネシア地域に進駐したオーストラリア軍は、クリスマスの前に帰国して行った。1946年4月、蘭領東インド植民地軍司令官の副官を務めていたタヒヤ大尉は、ついに結論を出した。
かれはそれまでの軍歴軍功と現在の誰しもが憧れる地位を一切投げ捨てて、ひとりのインドネシア人として生きていくことを決意し、植民地軍から身を引いたのである。


ジャカルタの中にあった抑留者キャンプはNICA軍が解放し、そして抑留者を武装させた。元々軍人や警官だったかどうかなどの斟酌は何もない。ジャカルタのインドネシア人市民とオランダ人は戦闘状態に入っているのであり、銃器とは無縁のオランダ人も丸腰では自分の身が危ない。独立派インドネシア人はオランダ人と生命のやりとりをしているのだから、オランダがこの地で生き残るためにはかれらに対する攻撃を惜しまないことだ。

スカルノはそんな情勢について、次のように語った。
「日本軍の抑留キャンプから解放されたオランダ人はすぐにジャカルタの中に混乱をまき散らした。かれらが怪しいと感じたインドネシア人に銃口を向けて撃ちまくった。事態の正常化はもう不可能かと思われた。わたしはジャカルタに住むインドネシア共和国国民に対し、夜8時以降は大通りに出ないよう指令した。民衆はすぐそれに従ったが、オランダ軍パトロールはわが物顔で住宅地の家屋の扉をたたき、略奪したり、家族のひとりを家から引きずり出すことを続けた。ひとりどころか、一家全員が引きずり出された例も多い。その住宅地のだれかが反抗姿勢を示すと、住宅地に火がかけられた。

状況は日に日に悪化していった。オランダ人とジャカルタ市民の衝突は頻繁さを増し、夜中に家の外に出ている人間は女子供でも銃撃された。NICA軍が墓地に向かう葬列に機関銃弾を浴びせかけたこともある。正当な理由など何もなかった。自分たちの恐ろしさを目に物見せてやるためにしたことだった。オランダに刃向かうとどうなるかを思い知らせてやろうという魂胆だ。
汽車に乗っていた老人に銃口を突き付けて持ち物を略奪したり、住居に火をかけてその消火に慌てふためいている住民にトミーガンの銃弾をまき散らした。

オランダ人が組織的に行っているテロ行為のすべてを眼前にしているにもかかわらず、ジャカルタの法と秩序の確立が自分たちの責任だと口先で言っているだけのイギリス人を、わたしは認めることができない。連合軍司令部はインドネシアの安全を、日本軍の本国送還と抑留所にいるオランダ人の解放に当たっているイギリス軍にゆだねた。しかし抑留所は一地域に集中しているのでなく、ジャワ島内陸部の辺地に散らばっているのであり、イギリス軍が行った安全の保証など一度もその実例に触れたことがない。
イギリスがオランダ軍の上陸を保護し、オランダ軍のテロ行動を放置したというのに、インドネシアとの戦闘を停止させるための仲介さえ行わなかった。かれらはインドネシアからできるかぎり早急に引き上げたいと思っており、オランダ軍のインドネシア人に対する大量殺戮などは意にも留めず、まったく関知しない風を装った。

結果的に、われわれは三つの敵に対峙しなければならなかった。NICA軍、日本軍、そしてオーストラリア・パキスタン・インド・グルカに補強されたイギリス軍だ。ジャワ・スマトラ・バリの大きな町で、激しい戦闘が燃え上がった。防衛し、反攻するために、インドネシアの民衆は総力をあげて戦わなければならないことが明らかになったのだ。」


1945年9月9日朝、ヨハネス・ディルク・デ・フレーテスは目を覚ました。そしてその朝が前代未聞の驚愕の夜明であることを知った。ジャカルタの四方八方いたるところで、塀や壁や立木にビラが貼られていることを知ったのだ。ビラに記されているのは、「MAKLUMAT PERANG kepada Indo-Belanda, Ambon, Menado」という文章だった。オランダとの混血者・アンボン人・マナド人はインドネシア独立を粉砕するために戻って来るオランダ人に協力する、いわば対オランダ協力者であり、かれらの存在をインドネシア共和国から排除しなければならない。いま、かれらに対する宣戦布告の時が来たのだ、というのがビラの呼びかけだ。

共和国の敵を殺せ。その家を鉄条網で囲え。井戸や飲用水パイプには毒を投げ込め。商人たちはかれらに絶対何の品物も売ってはならない。・・・

共和国政府の方針なら、そんな形で国民に指令を出す必要がない。つまりそれは公的なものでなく、一部勢力が私的な見解を市民に示して扇動を行っていることを意味している。パンチャシラの理念と裏腹な、プライモーディアルな精神による分裂敵対の意欲が永遠とも言える執拗さでこの地にまとわりついている。


ヨハネス・ディルク・デ・フレーテスは1912年にアンボンに生れ、ジャカルタの法科大学を卒業し、マルク州知事秘書官として行政畑を歩み始めた英才だ。マルクにおけるAPI(インドネシア青年隊)発足に関わり、マルクのAPIはその後GPIM(マルクインドネシア青年運動)と名を変えた。パティムラ大隊の誕生にもかれは関与した。その後外務省に入り、大使を務めたこともある。

その宣戦布告の扇動によってアンボン人はジャカルタ市民に敵視され、襲撃事件や衝突事件が何度も起こった。そんな抗争状況を更に煽るために、「タラカンを占領したオランダ軍の一部をなすマルク人部隊がジャカルタに進軍して来る」というニュースが人口に膾炙して、ジャカルタ市民の敵意は一層燃え上がった。オランダの新聞までもが、その分裂抗争を政治的に利用しようとして虚報を流し、混乱は極に達した。オランダ語新聞の第一面に「スカルノはオランダ混血者・マルク人・マナド人に宣戦を布告した」というタイトルが躍った。


マルクは地域名称であり、アンボンはその首都の名称だ。種族名称としてはマルク人と呼ぶほうが適切なのだが、同一の意味でアンボン人と呼ぶ習慣が昔から続いてきたため、ひとはそのふたつの呼称のいずれかを同じ意味で使っている。ここでふたつの用語が交錯していることをご容赦願いたい。

APIは襲撃対象とされたマルク人の保護に努めた。アンボン人であるAPI役員の自宅にも武器を持った市民がスウィ―ピングをかけ、スネン地区にあるその家が襲撃されて妻とふたりの子供およびふたりの妹が縛りあげられた。まさに処刑が行われようとしていたとき、アンボン人青年たちがその家に駆けつけて、5人の生命は救われた。

あるとき、クラワンとブカシからAPIマルク本部に数百人が襲撃をかけようとして向かっているとの情報が入ったため、デ・フレーテスは衝突を避けて話合いで処理しようと主張し、ブカシからパサルスネンに入って来る鉄道線路沿いに襲撃隊を迎えに行った。

大人と青年およそ2百人が鉈や剣を手にし、4人の指揮者は拳銃を持っている。デ・フレーテスはかれらに話合いを求め、アンボン人側の実情を語り聞かせた。実情を知らないまま扇動に踊らされていたことを悟った襲撃隊は、そのまま来た道を引き返して行った。


宣戦布告ビラはあたかもバリサンプロポルが行った印象を与えているものの、NICA諜報部門が行ったものというのが最終結論になっている。植民地体制の中で植民地政府に協力的だったオランダ混血者・マルク人・マナド人がインドネシア共和国にすり寄って行くのを妨げようとして分裂抗争を煽るための作戦だったとのことだ。この謀略戦は一応の成果をあげたように見える。ジャカルタでマルク人が襲撃対象になっていることがマルクに伝わると、同郷の仲間を守り、救援するために、部隊を編成してジャカルタへ送り込むよう地元政府に求める若者が大勢名乗りをあげたのである。

マルクは元々、ヨーロッパ人が求めたスパイスの原産地だ。最初にアジアに向かったヨーロッパ人であるポルトガル人がマルクに到着してスパイスの独占を始め、その後を追ってやってきたオランダ人がポルトガル人を追い出してマルク一円の領有を行った。産物の国際通商独占のためにオランダ人は激しい搾取と厳しい統治を行い、地元マルク人の叛乱を誘った。叛乱が繰り返されるに及んで、「マルク地方には男がいないほうがよい」という現地統括者の提案が実行されることになる。若い男たちは奴隷としてジャワ島に送られ、女ばかりが残された。

そんな時代を乗り越えたあと、オランダ人はマルクで植民地支配を強化するための教育を行い、成人すれば船乗りや兵士あるいは植民地体制の下支えをさせる仕事に就かせた。そのようにしてマルク人はオランダ人の植民地体制の中に下級カースト者の立場で包み込まれてしまい、ある種の仲間感覚が意識の中に浸透してしまったのである。マルク人が親オランダであるというのはそういう何世紀にもわたる政治的文化的方針によって培われたものであり、好き嫌いといった情緒的なものを使ってかれらが選択した結果なのではない。

結局、独立インドネシア共和国に対するマルク人の姿勢はふたつに割れた。親共和国派と親オランダ派のふたつだ。マルク人イコール親オランダというレッテル思考しかできないジャワの独立擁護派は、すべてのマルク人を敵視した。デ・フレーテスはかれらの目からレッテルをはぎ取り、ありのままの姿をその目で見ることをかれらに教えたということだ。レッテル思考者あるいはラベル思考者はひとりひとりの人間が持っている個性や考え方の差の存在を無視し、全体主義者的にあらゆることがらを単純なディコトミーで覆ってしまう。


ジャワ・スマトラの四都市に進駐したAFNEI軍は、インドネシア民衆の反抗によっていずこもが内戦状態と化し、日本軍が内陸部に設けた抑留所の解放にインドネシア人の協力をあおぐなどという計画は及びもつかない状況に陥ってしまう。日本が敗戦したとき、ジャワ島にある抑留所にはオランダ人10万5千人、イギリス人2千5百人、デンマーク人・アメリカ人・ドイツ人などが1千5百人いた。ジャカルタを除けば、大きい抑留所はバンドン、アンバラワ、マランなどにあり、AFNEI軍は自力でそられの抑留所を解放するためにジャカルタからバンドンへ、スラバヤからマランへ、スマランからアンバラワへ、という個別の進出作戦を立てることになった。

最初、抑留者解放の任務を軽く片付けようと考えていたマウントバッテン卿も、事態の推移がこのようになってしまった以上、AFNEI軍が内陸部に進出することに同意せざるをえなくなった。かれが嗅いだきな臭いにおいは現実のものと化したのである。


3.バンドン火の海
ジャカルタ進駐AFNEI軍はまずジャカルタ内部を混乱させている反NICA反進駐軍市民の一掃から着手し、各地のカンプンで包囲作戦を展開してかれらが過激派と呼ぶ武装一般市民743人を逮捕した。

ジャカルタの治安を回復したAFNEI軍は、いよいよジャカルタ〜ボゴール〜バンドンの交通線確保を開始し、バンドンを手中に収める動きをはじめた。この作戦の目的は、AFNEI掌握地域の拡大と、西ジャワ山地のあちこちに設けられた抑留所を解放することのふたつだ。言うまでもなくNICA軍がAFNEIの中に混じっており、AFNEIが共和国勢力を駆逐したあとNICAが行政統治を復活させ、NICA軍がAFNEIの防衛と治安の任務を分担する。


バンドンでは9月27日朝、ジュアンダ技師が率いる鉄道局職員によって鉄道総館が奪取され、独立派青年層は郵便電信局本部を占拠した。10月9日には、キアラチョンドンにある兵器廠が共和国派武装集団に奪われた。オランダ王国植民地軍の本営がバンドンに置かれていたことから、バンドンにその兵器廠が作られて植民地軍の需要を満たしていたのだ。日本軍がそれに成り代わってその兵器廠を使っていたのは言うまでもない。共和国側が兵器廠を手に入れたニュースは、ジャカルタの進駐軍から落ち着きを奪ったようだ。

バンドンにおける共和国派青年層の戦闘行動は10月10日に始まった。この日青年たちは個々のグループがレンコンブサール通りにあるインドネシア青年隊本部に集まって会議を開いていた。そのとき若者がひとり、単身で日本軍憲兵隊本部を襲撃した。それが引き金となり、日本軍は装甲車を先頭に市内へ出動し、青年たちが奪取した要所の奪還を開始した。武器を持って街中にいる市民たちから武器を没収する。反発した青年層との戦闘がダゴ通り一面に広がった。青年層はトゥガルガ地区にある日本軍施設への報復行動に移っていく。

10月12日、マクドナルド准将指揮下のイギリスインド軍第23旅団が鉄道でバンドンに到着した。しかしここでもイギリス人は治安と秩序の確立を実現させていない。抑留所解放が優先され、NICA軍は解放された抑留者を武装させてバンドン市内に放った。一方マクドナルド准将は兵員不足を理由にバンドン市内の治安と秩序の回復にあまり深入りせず、日本軍にその任務を請負わせたから、街中の危険と混乱は一層深まった。

マクドナルド准将は武装一般市民に武器の提出を命じ、武器を持つのは警察と共和国があらたに編成した人民保安軍だけにするよう要求したが、不公平な姿勢に反発する市民に対してあまり効果はなかったようだ。

11月23日にはインド人ムスリム兵士19人が隊から脱走し、トラック2台を土産に共和国人民保安軍に加わった。第23旅団司令部は脱走兵をすぐに本隊に戻らせるよう人民保安軍に要求して最後通牒を突き付けたが、人民保安軍はその返答として翌24日夜、夜襲を決行した。

夜中、バンドン全市が停電になった。インドネシア人のサボタージュだ。続いて兵力を集中させた人民保安軍が北バンドンに設けられた敵の防衛基地と臨時司令部に使われているホテルプリアンゲルおよびサヴォイホマンに砲火を放った。たまたまこの日洪水が発生したためイギリス軍装甲車が動きを封じられ、共和国人民保安軍は勝利の美酒に酔うことができた。

その事件から数日後、マクドナルド准将は西ジャワ州知事に対し、警察と軍人を含むすべてのインドネシア人を退去させて北バンドン地区を明け渡すよう要求した。

インドネシア人の間で、その要求に対する態度をどう決めるのかという議論が続けられた。
市中で総力戦を行えば、共和国側の勝ち目はない。共和国側にとっては広い原野密林を背景にしたゲリラ戦にすがるしかないことを、戦力の中心になっている人民保安軍指揮官らは判りすぎるほど判っている。


最終的にすべてのインドネシア人市民はバンドンを放棄してそれぞれが他の町へ避難して行った。それが行われたのは1946年3月23日のことであり、バンドンの町を焦土にして去るという悲愴な決意がその日実行に移されたのである。およそ百万人のバンドン市民が荷物を持ってバンドンの町から徒歩で出ていく。そのアリのような行列が延々と何キロも続いた。

市民の退去を指揮した人民保安軍は、バンドンの町をNICA軍が利用できないようにするため、これまで住んでいた家屋を灰にせよと指示した。こうしてバンドンの町の至る所に火炎が噴き上げ、黒煙が天に昇った。進駐軍はそれを目にして慌てた。出動してその放火行為をやめさせようとし、人民保安軍との間で激戦が展開された。

南バンドン地区のダユコロッ村に設けられたNICA軍本部にも人民保安軍が襲撃の矛先を向け、激戦が展開されている最中にムハンマッ・トハとラムダンのふたりの武装市民が弾薬庫にダイナマイトを持って潜入し、弾薬庫をわが身と共に大爆発させた事件が語り伝えられている。

そのとき、ガルッのパムンプッ山頂にいた新聞記者が燃えているバンドンの光景をはるかに遠望し、タシッマラヤに戻って記事にした。かれの記事は1946年3月26日のスワラムルデカ紙に掲載されたが、記事のタイトル「Bandoeng Djadi Laoetan Api」は編集の都合で「Bandoeng Laoetan Api」と短縮され、その文句がこの事件の公称として定着した。歌曲「ハロハロバンドン」はこのバンドン火の海事件を歌ったものだ。


4.スマラン事件
スマランでは10月13日にスマラン事件が起こった。日本軍に武器を要求したインドネシア人市民が日本人に対する武力テロ行動を起こしたことから、それに関わった市民に対する日本軍の粛清行動が行われ、インドネシア人と日本人の双方に多数の死者を出した。

最初10月4日にマグランのジャワ島中部防衛軍司令部を、日本軍の武器を要求する人民保安部隊や好戦的市民団体に担ぎあげられたインドネシア共和国中部ジャワ州知事が交渉のために訪れた。司令官はスマラン防衛部隊を指揮する城戸少佐と相談して銃5百丁を提供することに同意し、引き渡しはスマランで行われることになった。

13日の昼、引き渡しが行われたとき、AMRI(インドネシア共和国青年隊)代表者たちが、「5百丁では足りない。武器庫にあるものを全部渡せ。」と要求をエスカレートさせた。城戸少佐は「菊のご紋章が入っている武器は天皇陛下からの預かりものでしかなく、それは大日本帝国軍兵の誉れを守るために使われるものであり、自分が好き勝手に他人に渡せるものではない。どうしても奪いたければ、われわれを殺すしかない。」という意味の言葉を返答した。

その場はそれで収まったが、夕方になってマグランから報告が来た。中部防衛軍司令部は司令官以下全員が武装解除されたという。更に諜報員から、AMRI指導者がスマランの日本人全員に対するスウィ―ピングを行うことを命じたという情報が入り、22時半に届いたスマラン港地区に集まっていた日本兵が武装市民と交戦したという知らせのあと、夜半を過ぎてから、スマラン郊外のチュピリン製糖工場の日本人従業員百人以上がブル監獄に拉致された上で殺されたというニュースが届いた。


午前3時半、城戸少佐は部下を呼集し、大日本帝国の栄光を示すために出撃すると檄を飛ばした。

連合国戦犯抑留者救援の任務を負ってスマランにいたイギリス空軍中佐ウイリアム・タルはその朝の状況を書き残している。
ジャティガレの営舎で朝礼のあと、城戸少佐の部下たちは整然とスマラン市内に入って散開した。市民を闇雲に捕らえるようなことはせず、武器を持っていたり、直近に武器を使ったと見られる者はその場で処刑した。大勢のインドネシア人を載せたトラックが何台も町を出て行った。そのインドネシア人たちはひとりも戻って来なかった。


中部ジャワ州知事は自宅を襲われて逮捕され、そのままブル監獄に連行された。数時間前に行われた大量の日本人処刑で流された血がまだ床を覆っている中で、知事は自分の一生がこれで終わったと思った。ところが、緊急報告が城戸少佐に届いたため、知事は生きながらえることができた。アンバラワに3百人ほどの日本人が捕らえられているという情報だ。知事の身柄は捕虜交換に使われることになった。

10月20日付けムルデカ紙は、「日本軍の粛清行動は10月19日夕刻まで続けられ、およそ2千人のスマラン市民がそのために生命を奪われた。その闘争の中で5百人前後の日本人も同じ運命をたどった。」と報じた。AFNEI諜報部の出した報告によれば、日本軍降伏後の半年間にインドネシアで死亡した日本軍兵員は627人で、そのうちの187人がスマラン事件におけるもの、そしてスマラン事件の余波で86人の海軍兵員が被害者になっている。その86人は既に武装解除を終え、スマランからジャカルタの抑留所に鉄道で向かっていたひとびとで、そこで日本へ送還されるために復員船の順番を待つことになっていた。
列車がチカンペッに近いプガデンバルに着いたとき、どこのだれとも知れない多数の群衆が86人全員を列車からひきずりおろし、暴行虐待を加えたあげく、一人残らず殺害した。城戸部隊の粛清行動に対する報復行為だったとされている。


その新聞がジャカルタに届くと、イギリスインド軍第49旅団司令官べセル准将が一軍を伴ってスマランに急行し、破壊され静寂に包まれた街に入った。

准将は中部ジャワ州知事に会い、インドネシア共和国はイギリス軍の必要物資を供給し、イギリス軍は治安の維持に努める、という合意を交わした。そこにイギリス軍はインドネシア共和国の主権を尊重するという約束を付け加えて。

すぐにグルカ兵が街中の警備に就いている城戸部隊兵員を捕らえて、ジャティガレの日本軍営舎に送り込んだ。

スマラン市内の警備体制を固めてから、イギリス軍は内陸部のアンバラワとマグランに向けて進軍を開始した。婦女子をメインにおよそ1万人が収容されているそれらの抑留所は10月26日に解放された。


スマラン事件は日本軍指揮官の持っていたひとつの精神性をあからさまに描き出したが、それとはまったく正反対の姿勢をバニュマス守備隊指揮官は示している。その指揮官はペタバニュマス大団のスディルマン大団長の要請を容れて、兵器庫をインドネシア人ペタ兵士に開放したのだ。

AFNEI軍が進駐して来るまでの日本軍対インドネシア人という構図が、AFNEI軍の進駐に伴ってジャカルタをはじめ各地で起こった混乱の地獄図によって大きな変化を起こした結果、大日本帝国軍人の中に心情を揺さぶられたひとびとが少なくなかったことを示す一例がそれだったのかもしれない。


5.アンバラワの激戦
スカルノは1945年10月5日に共和国公式軍の編成を命じた。名称は人民保安軍であり、人民の保安を責務とする軍隊というのがスカルノの意図だった。その人民保安軍にさまざまな前歴を持つひとびとが集まって来た。あまりにも日本の色合いを濃くにじませたペタは共和国内部からの反感にまとわりつかれるがために解散させざるをえない。だから新たな共和国軍を作ってペタをその中に吸収していく解決案がスカルノとハッタのこの問題に対する政治的配慮だったにちがいない。

その時期、正規の軍隊教育を受けた者は日本軍が作ったペタと蘭領東インド植民地軍の軍人になっていたインドネシア人がメインを占めた。人数の上からは圧倒的にペタ経験者が多く、人民保安軍上層部が集まって総司令官の選抜を投票で行った結果、ペタバニュマス大団のスディルマン大団長が選ばれた。昔、すべての金種の紙幣に顔を出していたスディルマン将軍がかれだ。

パラガンアンバラワ(Palagan Ambarawa)とインドネシア人が呼ぶアンバラワ戦でかれは、べセル准将がAFNEI統治下に置こうとしたマグランとアンバラワからイギリスインド軍第49旅団部隊を潰走させ、インドネシア共和国軍の意気を天下に知ろ示した。その勝利の裏に、日本軍バニュマス守備隊指揮官から得た武器弾薬の支えがあったことは疑う余地がないだろう。


AFNEI軍が動きを起こす場合、常にNICA軍がそこに付随していたようだ。それは言うまでもなくかれらに相互利益をもたらすものなのであり、また連合国軍という名前通りの中身になっていたわけで、何らおかしなことではない。しかしインドネシア人の目には、オランダ人の反独立行動を支援するイギリス人という形があからさまになっており、狡猾で欺瞞に満ちたイギリス人に対する憎しみは日を追って強まっていった。

アンバラワとマグランの抑留所解放に進出して来たAFNEI軍は、解放した抑留者を武装させて暴れるように仕向けた。さらに日本軍の武装解除のついでに共和国人民保安軍の武装まで解除し始めたから、共和国人民保安軍上層部はたちまち態度を硬化させた。こうして共和国人民保安軍とAFNEI軍との間での小規模な発砲や交戦が頻度を増すようになる。


アンバラワからヨグヤカルタまでは百キロも離れておらず、ましてやマグランからだとわずか40キロの距離だ。NICA軍がアンバラワ要塞を固め、あるいはマグランを占拠するようなことにでもなれば、人民保安軍総司令部が置かれているヨグヤカルタにとって大きな脅威となるのは目に見えており、共和国側はそのことで神経質になっていた。

11月23日には大規模な戦闘が発生し、そのあとも小競り合いが続いた。AFNEI軍は拘留した日本軍をまた武装させて人民保安軍に敵対させ、戦車をつけて人民保安軍の陣地を攻撃させるようなことまでしたらしい。

29歳のスディルマン大佐はバニュマスから指揮をとっていたが、自分の片腕だった優秀な部下を失ったことから、自ら戦場に出馬して来た。12月11日にはこのアンバラワ戦に参加している全指揮官を集めて作戦会議を行い、12日午前4時半に総攻撃が開始された。そのときのスディルマンの作戦は「えびのはさみ」と名付けられたもので、敵軍を両側面から激しくはさみこんでいく攻撃方法がとられた。両側面の最先端部は敵を包み込むように後方を遮断して、戦場にいる敵軍部隊が完全に包囲されたような形を示すが、実は針の孔ほどの逃げ道を残しておき、失望した敵がやっと見つけた逃げ道から我さきに逃げるように仕向けるという人間心理の奥義を極めたような戦術が使われた。絶望させて死に者ぐるいの反撃を受ければ自軍の損害が増える。アンバラワ戦は敵を殲滅させるのが目的でなく、AFNEI軍をスマランに遁走させるのが目的だったのであり、スディルマン大佐はその戦略を巧みに実行したのである。


6.スラバヤの戦闘
独立宣言から5日経った1945年8月22日、スラバヤの街中に5万本の紅白旗が翻った。現状凍結を命じられた日本軍の目の前でのことだ。だがその日以降、独立インドネシア共和国成立のユーフォリアの中でスラバヤの市内は比較的平穏に時間が流れていったようだ。

もうすぐ25歳になろうとしていたスラバヤ生まれのストモは、ジャカルタでアンタラ通信社の記者をしていた。AFNEI進駐軍がジャカルタに上陸し、イギリス人が表明していることとは裏腹の動きをNICA軍が示していてもそれは放置され、インドネシア人がそれに武力で抵抗しようとすると、共和国トップのスカルノとハッタが外交優先を唱えて国民に自重を呼びかけるというありさまに、かれは嫌気がさしていた。

共和国指導者たちはあまりにも軟弱ではないか?ジャカルタのあちこちに翻っていた紅白旗は引きずりおろされてオランダ国旗に変えられていても、指導者たちは青年層に武力衝突を避けるように言うばかりだ。せっかく独立共和国が誕生したというのに、国民は旧宗主国の横暴なふるまいに身を竦めて沈黙しているしかないのか?


ところがスラバヤで胸のすくような事件が起こった。AFNEI軍進駐の情報が流れるとともに、オランダ人抑留者たちが日本軍に解放を要求した。日本軍進攻前のあの良き時代にまた戻ることができるとの期待に胸弾ませて、かれらは街に戻った。小奇麗でゆとりのある家に住み、原住民サーバントにかしずかれて贅沢三昧の日々を愉しみ、低賃金で雇えるありあまる労働力で農園を経営し、オフィスビルで事業を営む・・・・。

ところが街に戻ると、自分の住んでいた家は別の人間が住み着き、街中は独立インドネシアの国旗が波打っている。
「なあに、こんなものはオランダ行政府が復活して昔ながらの統治に戻せば、すぐにしぼんでしまうに決まっている。一時のはしかのようなものだ。」
解放された抑留者の一部は、スラバヤ市内中心部トゥンジュガン地区にあるヤマトホテル(旧名ホテルオラニエ、現在のホテルマジャパヒッ)に投宿して最上階のポールに9月18日夜21時、オランダ国旗を掲揚し、オランダの存在を誇示した。

翌19日朝、ここは独立インドネシア共和国領土だと市民や青年層が考えているスラバヤの真っただ中に翻るオランダ国旗を目にした民衆が続々とヤマトホテルに集り、怒りの叫び声をあげた。事件を知ったスラバヤレシデン区のスディルマン副長官が側近ふたりを従えてヤマトホテルに乗り込み、オランダ人グループのリーダーであるプルフマンを相手に談判におよんだ。スディルマン副長官は大日本ジャワ軍政監部スラバヤ州の日本人長官を補佐していた人物で、インドネシア共和国が発足したときも、そのままスラバヤレシデン区の責任者としての職務を継続するよう命じられている。人民保安軍総司令官スディルマン将軍とは別の人物だ。

スディルマン副長官はプルフマンにオランダ国旗を即座におろすよう要求したが、プルフマンはそれを拒否し、インドネシア共和国の存在すら否定した。議論は白熱化する。そしてプルフマンが拳銃を抜いたために副長官の側近との格闘となり、プルフマンは喉を締め上げられて死亡した。そのときの格闘で拳銃が発射されたために、ホテルの警備に当たっていたNICA軍兵士が駆けつけ、プルフマンを殺害した側近を射殺した。

副長官ともうひとりの側近はホテルの外へ逃れる。副長官が群衆に事態を説明すると、青年たちがホテルの壁伝いに建物最上階まで上がってポールに翻っている赤白青のオランダ国旗を下ろし、一番下の青色の布を引き裂いて赤白だけを残してから、それを再び掲揚ポールの最上部まで引き上げたのである。

それが1945年9月19日に起こったヤマトホテル国旗事件だ。オランダ国旗を引き裂いてでも独立共和国を維持するというスラバヤ市民の意志を共和国の内外に明瞭に示したその事件は、共和国支持派国民を一体化させる「Merdeka atau mati!」の呼号へと結晶していった。


その日を境にして、スラバヤに不穏な空気が立ち込めはじめる。ジャカルタと同じような事態に突入するまでに、それほどの時間はかからなかった。AFNEI軍が9月22日にジャカルタに上陸してから10月のはじめにはっきりした内戦の形へと移行した事実をスラバヤ市民が知らないはずがないのだから。

しかしスラバヤの共和国側にはジャカルタと異なる強力な戦備が用意されていた。ペタスラバヤ大団を中心とするスラバヤの民衆は生命を賭して日本軍の武器を奪うようなことをする必要などなかったのだ。スラバヤ駐留第二南遣艦隊司令長官柴田中将は「インドネシア人が自らの国を興していくのがあるべき姿だ」という歴史観に沿って、海軍兵器庫の中身をスラバヤのひとびとに開放したのである。中将は10月3日、スラバヤ港を確保するために来航したオランダ海軍に降伏したが、それ以前にスラバヤの共和国側には戦車や各種大砲、機関銃などの兵器が大量の歩兵銃やピストルとともに引き渡されていた。第二次大戦終結後に経験した最大の戦いだったとイギリス軍に言わしめたほどの大規模な戦闘が、1945年10月末から11月後半まで、スラバヤで繰り広げられたのである。


ヤマトホテル国旗事件がストモに生まれ故郷に戻る気持ちを煽ったことは想像に難くない。かれはスラバヤ最大の青年民間組織「インドネシア人民青年隊」に所属していたが、この組織の姿勢が軟弱であるという理由で退団し、新たに「インドネシア人民叛乱隊」を作った。ストモの反抗姿勢を敵視した人民青年隊が、ストモは青年層、ひいてはインドネシア民衆の分裂を煽っているとしてかれの生命を始末しようと画策した話が残されている。

ストモは10月12日にジャカルタを去ってスラバヤへ戻り、そして自宅にラジオスタジオを設けると、10月16日から放送を開始した。かれはその放送を「叛乱ラジオ局」と名付けた。初期の放送にあたっては、国営ラジオ局RRIスラバヤ支局の発信機器を借用している。RRIはその際に当然ながら、「叛乱ラジオ局」の許認可を尋ねた。ストモはアミール・シャリフディン情報大臣に許可を得ていると語ったが、後にアミールは「ストモにそんな許可を与えてはいない」と否定したそうだ。

叛乱ラジオが放送するのはストモの愛国スピーチであり、インドネシア共和国の独立を護持するために、独立を崩壊させようと画策しているNICAとそれに協力するイギリスに対して臆することなく闘おう、とスラバヤの市民に呼び掛けた。かれは天性のデマゴ−グだったらしく、心地よい言い回しと心を揺さぶる抑揚表現に、聴衆の人気は高まった。そしてかれの愛称としてブントモという名前が定着した。

ジャカルタの共和国政府は叛乱ラジオ局の活動が好戦的扇動的であるために否定的姿勢を採っていた。かれが共和国政府上層部からならず者視されていたのは疑いあるまい。だがジャカルタの中央政府にブントモの活動を制限する手だてはひとつもなかった。


ブントモの演説は常に、アラーフアクバルで始まり、アラーフアクバルで終わる形式を採ったが、それはインドネシア共和国独立に対して明確な姿勢を決めていないサントリ層に意識付けを進めるための作戦だったらしい。

そして10月22日、ナフダトゥルウラマ最高指導者ハシム・アシアリ師が、「独立インドネシア共和国とイスラム教に危険をもたらすオランダとその手先に対する戦いはジハードである」とのファトワを出した。ジハードを行うとき、もし生命を落としても天国の扉は保証されている。その信念が共和国独立擁護の戦闘に参加するムスリム国民に大きなエネルギーを与えたことは間違いないだろう。

ハシム・アシアリ師のファトワは、スカルノ大統領がイスラム宗教界に出した「祖国を守ることについて、イスラム法はどう定めているのか?」という問いに対する回答だった。


AFNEI進駐軍がスラバヤに到着する前日の10月24日、ブントモは次のような内容のスピーチを放送している。
「われわれ過激派と民衆はもう甘い言葉を信じない。独立共和国をかれらが認めないかぎり、われわれはかれらの動きを何一つ信用しない。われわれは発砲する。われらの進む道を邪魔する者は誰であれ、血を流させずにはおかない。われわれに完全独立を与えないのなら、われわれは帝国主義者のビルや工場を手りゅう弾やダイナマイトで爆破するのだ・・・
植民地支配者に卑しめられてきた、裸で飢えた数千の民衆がこの革命を遂行するのだ。かつて植民地支配者に蹂躙されたわれわれ過激派、革命精神に満ちて叛乱するわれわれはインドネシアの民衆と共にある。植民地支配下に戻されるよりは、この国土を血の洪水が埋め、大海の底に沈むのを見るほうがはるかにマシだ。神はわれわれを守ってくれる。ムルデカ!アラーフアクバル!アラーフアクバル!アラーフアクバル!」


10月25日、マラビー准将指揮下のイギリスインド軍第23師団所属第49歩兵旅団6千人が抑留者解放と日本軍武装解除および市内の治安秩序維持を目的に、軽装備でスラバヤに到着した。

10月26日、スルヨ共和国東ジャワ知事と会談したマラビー准将は、共和国人民保安軍や武装市民の武装解除はしない、と約束した。その約束はマウントバッテン卿のもっとも初期の構想に則したものであったが、その後の変転で方針を変えたジャカルタのAFNEI軍司令官クリスティソン中将の意向に沿うものでなかったようだ。

10月27から29日までの三日間、秩序と治安を維持するために軽装備で市内の警備にあたっていた進駐軍に対してスラバヤの武装市民と共和国人民保安軍が攻撃をしかけ、随所で市街戦が発生し、進駐軍側に大きな被害が出た。市内は武装インドネシア人が跳梁する戦場と化し、進駐軍側は各所で釘付けにされた。

その発端はまず、ジャカルタから飛来したイギリス空軍機がスラバヤ市内にビラをまき散らしたあとで起こった。
「すべてのインドネシア人は武器を48時間以内に進駐軍に提出せよ。スラバヤの秩序と治安の維持を行うのは進駐軍であり、進駐軍以外の者の武装は容認されない。進駐軍は武器を持つ者に対して発砲する。」

その内容に、スラバヤの民衆は激怒した。NICAのインドネシア復帰を擁護するイギリス人の謀略と感じたスラバヤ市民は、27日夕刻から進駐軍に対して武力行動を開始する。進駐軍は鉄道局・電信電話局・病院などを掌握してその警備に就き、また共和国人民保安軍が捕らえていたNICA諜報員を解放した上、武装しているインドネシア人を軍人市民の別なく武装解除しはじめたため、武力衝突は避けようもなく起こった。散発的な交戦はついに共和国側の進駐軍に対する計画的武力攻撃へと発展した。日本軍から得た戦車12両や大砲を使用し、また進駐軍側施設への電気と水道の供給を止めたため、共和国側の圧倒的優位の中で戦闘が継続した。そのため合計で2百人の進駐軍兵士が死亡している。


10月30日、進駐軍と共和国人民保安軍および武装市民間の戦闘が随所で起こっている市内に、マラビー准将が市内各所に駐屯している部隊指揮官への重要連絡事項伝達に出た。これは非作戦行動であるため、一行は武装しておらず、手りゅう弾だけを持っていた。

巡回中に、市内ジュンバタンメラ地区のインテルナシオ銀行にインドネシア人武装集団が向かっているとの情報を得たので、一行もそちらへと向かう。
ところが現場に近づいたとき、銀行の警備に就いていたNICA軍兵と武装集団との銃撃戦が既に始まっており、乗用車に乗った一行は武装集団に包囲された。

その混乱した事態の中で、准将が包囲者のひとりと短い会話をしたあと、まだ十代と思われるその者がいきなり准将に発砲した、と同乗していたスミス大尉は証言している。大尉はその銃撃者めがけて手りゅう弾を投げた。そのときに乗用車の後部座席で爆発が起こった。准将はその場で死亡し、数日後に黒焦げの遺体が回収された。准将に随行していた数人のイギリス人将校はカリマス川に飛び込んで難を逃れた。准将の死因は銃撃でなく爆発で死亡したという説もあり、最終的に死因が確定されないまま、今日に至っている。


スラバヤで武力衝突が始まり、軽装備の進駐軍に続々と被害が出たばかりか、司令官までが死亡したことから、AFNEI軍はスカルノに事態収拾の支援を要請した。スカルノは回想録にこう記している。

早朝午前2時、わたしの執務室の前の椅子で寝ていた運転手トゥキミンは電話の音で跳ね起きた。電話はスラバヤからのものだった。かれはドアを静かにノックした。
「ヤー、何だ?」わたしはまだ眠りのさめやらない状態で怒鳴った。
「パッ、イギリス司令官の副官からの電話です。緊急事態だと言ってます。わたしはバパが就寝中だと言ったのですが、司令官が起こせとしつこく言っているそうです。」

電話に出ると、話しは30分間も続いた。スラバヤで武力衝突が発生していることがわたしの脳裏を満たした。わたしはトゥキミンにも妻のファッマワティにもそのことは一言も言わず、夜明け後にイギリス軍用機でスラバヤへ飛ぶことをみんなに告げた。わたしは早急にスラバヤへ飛んで、まだ救えるものを救うことに全力を注がなければならない。

イギリス軍は戦略的要衝の建物をすべて抑え、市内全域に部隊を配置していた。スラバヤの街中は戦場と化していた。至る所に死体が転がっている。身体を穴だらけにされた死体と、頭のない死体がごちゃ混ぜになり、積み重なって転がっている。街中には死が充満していた。

インドネシアの民衆は銃撃し、刃物で切り裂き、残虐な殺し方をしていた。戦闘に加わった者が手にした武器は、あらゆるものが入り混じっていた。若者は竹槍を持ち、親たちが祈りと共にかれらを戦闘に送り出していた。

わたしはハッタと一緒に、2時間以上イギリス軍上層部と会見した。かれらはわれわれに適切な姿勢で応対したが、余分な愛想はなかった。かれらがわれわれにスラバヤ行きを求めたのは、戦闘を止めることに万策尽きたからだ。かれらは結局、スカルノならできるかもしれない、と考えたのだろう。イギリス軍は停戦を提案した。

わたしはイギリス軍が用意したジープで一昼夜かけてスラバヤ市内を巡回し、「戦闘をやめろ!イギリス軍は停戦した。全員はその場で動かず、発砲を停止せよ。わたしがそれを命じる。ただちに戦闘を停止せよ!」と疲労を忘れて叫び続けた。

市内の至る所でパニックが起こったが、わたしの姿を見、わたしの声を聴いた民衆は即座にわたしの命令に従った。実弾を込めた銃やイギリス兵に突き立てようとして握りしめていたクリスを手にしたまま、自分のいる場所で立ち上がり、動きを止めた。11月3日に一切の戦闘がやっと停止した。

スラバヤでの戦闘を止めるためにジャカルタからスラバヤへ飛んだのは、スカルノとハッタ、そしてアミール・シャリフディンの三人だった。三人が戦闘停止を呼びかけながら市内を巡回しているとき、武装市民グループのひとつを率いているスマルソノが道路の中央に立ち、やってくるスカルノの一行を止めた。スマルソノが問いかける。
「ブン、われわれはもうすぐイギリス軍を打ち負かす。どうしてこの戦いを停めようとするのか?」

スカルノは一行の中にいるアミール・シャリフディンを呼んでスマルソノの扱いをまかせた。スマルソノはアミール・シャリフディンが統率しているインドネシア民衆運動(グリンド)の幹部のひとりだ。思いがけなく登場した自分が心服する指導者に諭されて、スマルソノは停戦に応じた。
「これはジャカルタのみんなが同意していることだ。われわれは戦争に勝たねばならない。戦闘に勝つことが目的ではないのだ。」アミール・シャリフディンはそうスマルソノを諭した。スマルソノは一行をラジオ局RRIに案内してスカルノの停戦スピーチを放送するのに協力した。


だが、その後の展開からスカルノは、自分が利用されただけだったことを覚る。かれは後に「あの狡猾なイギリス人をいったいどうやって好きになれと言うのか?」と語っている。

マラビー准将の死はAFNEI軍司令部の態度を硬化させた。司令部は急遽イギリスインド軍第5師団所属の第9および第123旅団兵員2万3千人を完全装備でスラバヤへ送り込み、シャーマン戦車24台、軍用機24機、巡洋艦2隻、駆逐艦3隻を投入して、マンサーグ少将に指揮をゆだねた。

戦闘態勢を完備させた上で、イギリス軍はスラバヤの武装インドネシア人に最後通牒を発した。1945年11月9日18時までに投降し、すべての武器を提出せよ。またマラビー准将殺害者も引き渡せ。この要求に従わなければ、当方は11月10日6時をもって総攻撃を開始する。


スカルノの回想は続く。
マラビー准将は部下から嫌われていた。だから、かれの死の原因を作ったのがどちらの側だったのか、結局は解明されていない。だがイギリス人はスラバヤを完全制圧するために、その事件を利用した。スラバヤの民衆に対して無条件降伏を要求したのだ。
停戦の呼びかけに従順に従ったわが民衆に対して、その場で武器を置き、百メートル離れた場所に集合し、それから両手を頭に置いて投降せよと命じた。なんという侮辱だろうか。それによって、かつてインドネシアで起こったもっとも凄まじい戦闘が誘発されたのである。

イギリス空軍機の爆弾と艦砲射撃がスラバヤ住民の頭上に降り注ぎ、イギリス軍兵は後から後からスラバヤ港に上陸して来た。

だが強硬派に鼓吹されたスラバヤ市民は重装備のイギリス軍に跪こうとしなかった。完全装備の3万人に達する軍隊に、あらゆるものが不足しているインドネシア共和国人民保安軍2万人と武装市民10万人が抵抗戦を挑んだのである。


ブントモは11月9日の放送で、スラバヤ市民を燃え立たせた。
「われわれが心底から独立を望んでいる人間であることを、かれらの目に示すのだ。そして、みなさん、われわれ自身にとっても、独立をやめるよりは粉砕して果てるほうがよいのは判り切っている。われわれの旗印は変わらない。Merdeka atau mati!われわれは確信している。最後の勝利は必ずわれわれの手中にあることを。なぜならアッラーは常に正しい者の側にあるのだから。信じるのだ、兄弟たちよ。神はわれわれ全員を守ってくれる。アラーフアクバル!アラーフアクバル!アラーフアクバル!」

11月10日朝6時、艦砲射撃と軍用機の爆撃に支援されたAFNEI軍という名のイギリスインド軍歩兵部隊がスラバヤ市内の制圧を開始した。ひとつひとつの建物を一部屋残さずクリヤーした上、制圧エリアを固めていく。人民保安軍と武装市民は激しい抵抗を随所で繰り広げたものの、正規軍の攻撃をいつまでも持ちこたえる力はない。こうして三日後にはスラバヤ市内の半分がイギリス軍に制圧された。

攻撃部隊の真っただ中にいたイギリス軍連隊指揮官ドールトン中佐は「スラバヤのインドネシア人は死をまったく顧みなかった」と回想録に記した。
「ひとりが倒れると、次の者が進み出て来た。こっちのブレン機銃がうなり続け、バリケードに死体が山をなしても、あとからあとからインドネシア人は進み出て来た。」

1948年にロンドンで出版されたデイビッド・ウエール著「インドネシアの誕生」にも、当時の状況を彷彿とさせてくれる文章が見つかる。
「スラバヤ市街中心部では激しい戦闘が繰り広げられた。道路は一筋一筋を制圧し、カンプンでは各家の扉ごとに戦闘が起こった。いたるところで人間、馬、犬の死体が地表を埋め、側溝を塞いだ。遮蔽物に使われた家具や破片があちこちに散らばっている。雨あられとまき散らされる銃撃の音が、崩壊し焼け落ちて残骸になったオフィスビルの中にこだました。
スラバヤ民衆の抵抗は二段階で行われた。まず、クリスや竹槍で武装しただけの狂信者たちが、燃え上がる戦意に煽られてシャーマン戦車に立ち向かい、犠牲になった。次いで、日本軍の戦術指南書を参考にしたと思われる組織的な攻撃が起こり、効果をあげた。」


共和国側はスラバヤ市南部地区に押し出され、陣地を構築し、新鋭兵器を構えて抵抗戦に移行する。ジャカルタの共和国政府もその状況を指をくわえて見ていたわけでは決してない。
スカルノはロンドンに向けて英語のスピーチを流し、国連に抗議文を提出し、アメリカのトルーマン大統領に向かってイギリス軍の非戦闘員に対する無差別攻撃を非難する電報を送った。イギリス軍はアメリカの作った軍事兵器と機材を使用しているのだと言って。だが、インドネシア共和国を救うための手はどこからも差し伸べられなかった。

しかし、第二次大戦が終了したにもかかわらず、東南アジアで旧植民地民衆との戦闘が激化し、オランダが統御するべき蘭領東インドでイギリス人の血が流されている不合理をイギリス本国の国民がよしとするはずがなかった。イギリス政府はきわめて苦しい立場に立たされることになる。

第二次大戦の戦勝国になったとはいえ、国家資産の四分の一が消滅したイギリスは、国民の福祉的生活を回復させるためにアメリカの経済援助に頼らざるを得なくなっていた。フランスもオランダも情勢は似たようなものだ。それぞれの国家指導者たちが描く復興計画の中に、東南アジアに持っている植民地が重要なひとこまとして置かれてあったのは当然すぎるほどのことだったろう。

ナチスドイツに占領されて手足をもがれていたフランスとオランダに協力して、東南アジアに燃え上がりつつある独立の機運を抑え込むことは、西ヨーロッパのジオポリティクス主導者の立場にあるイギリスにとって、避けることのできない役割だったにちがいない。

そんな背景を抱える本国政府が東南アジアを日本軍進攻前の状態に戻すことを必須事項としている一方で、現場の息吹を身近に感じているマウントバッテン卿は、東南アジア、中でもインドネシアの民衆を覆ってしまった民族独立への意欲はもう押しとどめることの不可能なレベルに達してしまっていると感じていた。

中でも、かれにとっての最大の困難は、インドネシアの民衆の動きを抑え込むための兵力の大半が、同じアジア人で植民地体制下にあるインド人から成っていることだった。最初はインド人とグルカ兵が動員され、それは追々パキスタン人へと移って行った。

ジャワ島に投入された戦闘部隊30大隊のうち26大隊はインド人だ。自分たちに武器を向けて襲って来るとはいえ、インドネシア人が生命を賭して植民地体制の復活を拒否している姿は、イギリスインド軍兵士の間に徐々に同情心を培うようになっていった。


そのうちにスラバヤの叛乱ラジオ局の放送に女性の声で流暢な英語のアナウンスが混じるようになる。スラバヤで何が起こっているのか、独立を宣言したインドネシア人が旧植民地支配者とその協力者のために今、どのような苦難の中に投げ込まれているのか。そのような状況下に、スラバヤの民衆は独立を維持するための闘いを続けている。英語を理解する世界中のひとにその現状を知ってもらうための放送が、毎晩、夜中に二度オンエアーされた。
イギリス軍の中にも、その女性アナウンサーのファンができ、毎晩かの女の声を心待ちするようになる。ファンたちの間でそのアナウンサーに「スラバヤ・スー」という愛称が捧げられた。

インドの本国でも、独立の機運が湧き起ってくる。イギリスインド総督からマウントバッテン卿への信書には、AFNEI軍がイギリスインド軍をジャワ島へ動員すればするほど、インド国内の政情にリスクが高まって行く、と記されていた。そして11月には著名な民族指導者のひとり、ジャワハルラル・ネールがシンガポールを訪れて、連合軍東南アジア地域司令部に要求を突き付けた。
「すべてのインド人兵士をジャワ島から早急に帰還させよ。」

一方、オランダのインドネシア植民地支配を維持させることが西ヨーロッパの復興に打撃を与えないための最善の方策であると信じるイギリス政府は、マウントバッテン卿に対し、オランダの同意なくインドネシア共和国についての承認を決してだれにも与えてはならないと命じていた。

歴史の流れの先を読み取ることができても、それを自分の合理的な行動に反映させることのできた指導者は数少ない。ありとあらゆる利害が錯綜して自分の置かれている立場に影響を及ぼしてくる人間世界で、先が読める人間ほど苦しみの中のあがきを強いられるようになっていくにちがいない。マウントバッテン卿もそんな悲劇のひとりだったのかもしれない。


共和国側はスラバヤ市南部地区に兵力を集めてタンジュンペラッ港を背にしたイギリス軍と対峙し、数層もの防衛線を築いた。最初は三流以下のパルチザン部隊でしかないと侮ってかかってきたマンサーグ少将指揮下のイギリスインド軍第5師団も、はじめは兵器の扱いが素人同然だった共和国側が短期間のうちに力をつけてきたのに手を焼くことになる。

市内の半分は数日間後に制圧されたものの、南に向けての進軍はあまりはかどらない。11月18日にスコリロとランケで共和国側はイギリス軍を襲撃した後、兵器を南方のウォノクロモ〜グダガンの線まで引き上げて陣地を固めた。

22日にはイギリス軍の砲撃が強化された。タンバッサリで鉄道線路沿いを守備していた共和国側にイギリス歩兵部隊が攻撃をかけ、持ちこたえられなくなった共和国側はグブンへ、更にウォノクロモからグヌンサリへと後退していく。

25日夜半から26日未明にかけて、共和国側はシンパン地区まで進んで来たイギリス軍に夜襲をかけたが、イギリス軍は打撃をカバーして持ちこたえ、反対に26日にはカリマス西のドゥククパンからダルモに至る地区を掃討して守りを固めた。その日、ディポヌゴロ通りと鉄道線路が交差する地区に進出してきたイギリス戦車一両を共和国側は擱座させたものの、共和国側の高射砲も破壊されてしまった。

クンバンクニン地区に敷いた共和国側防衛陣地は十分に強固なものだったが、パサルクンバン方面から進入して来たイギリス軍戦車隊の熾烈な砲撃にもちこたえることができず、ダルモの司令部は放棄せざるを得なくなった。
カリマス東でも、イギリス軍は戦車を先頭にして歩兵部隊が進出してきた。ウォノクロモ動物園南側に布陣していた人民保安軍が応戦し、銃撃戦はウォノクロモ全域に拡大する。

カリマスの両岸で優位に立ったイギリス軍の戦車隊は、反転してクプトランの共和国軍に襲い掛かった。混乱するクプトラン地区の共和国側は一旦潰走するがスパンジャン地区に集結して態勢を整えなおす。

一方、後退しはじめた共和国側を追ってイギリス軍はワル方面とグヌンサリ方面に歩を進める。共和国側はウォノクロモ橋を爆破して敵の進路を遮断しようと計画していたにもかかわらず、爆薬設置者が橋の破壊方法を知らず、橋の中央に穴をあけてダイナマイトを置いただけで、イギリス軍が接近して来たためにそのダイナマイトを爆発させた。案の定、ウォノクロモ橋はびくともしなかった。

26日のウォノクロモ〜ダルモ地区での戦闘では、イギリス軍がエリアの制圧を果たしたとはいえ、翌27日の掃討戦を経てその地区はやっと完全にイギリス軍の手中に落ちた。

28日に入ると、イギリス軍はウォノクロモ地区から南方と西方に向けて進撃を開始する。
ウォノクロモが陥落したあと、共和国側に残された唯一の戦闘司令部はグヌンサリだけになった。日本軍占領期には、スラバヤにおける最大の日本軍駐屯基地が置かれていたところであり、スラバヤ市内各地から後退して来た共和国側諸部隊がそこに集結していた。

その日10時にグヌンサリ丘陵からイギリス軍戦車隊が接近して来た。機関銃と迫撃砲での応戦も敵の進撃を食い止めることができず、共和国側兵員はカランピランとクルドゥス方面へ遁走する。
グヌンサリでの抵抗がほとんどなくなると、イギリス軍戦車隊はスパンジャンに向かう。
スパンジャンに集結していた共和国側は大砲の砲門を開いて応戦し、イギリス軍戦車隊をウォノクロモへ後退させた。そのお返しに、イギリス軍は夕方から夜にかけて、迫撃砲弾をスパンジャンに散開している共和国側に雨あられと降らしてきた。


グヌンサリの共和国側戦闘司令部が壊滅したことで、イギリス軍と共和国側との戦闘はほぼ終了した。29日以降も散発的な戦闘はあちこちで起こったものの、もはや軍事力を用いた対決と呼べるようなものではなくなっていた。この戦闘で敗れた共和国側はこれ以上戦いを続ける能力を失ってしまい、スラバヤ市内から撤退してモジョクルトのムラテンに司令部を移した。

イギリス軍はスラバヤの外にまで制圧地区を広げたり占領しようという姿勢をまったく示さず、共和国側の戦闘行動が鎮まったのが明瞭になった時点で軍兵は制圧地区から引き上げて行った。

このスラバヤで起こった共和国側とAFNEI進駐軍との長期に渡る戦闘で死亡したインドネシア人はおよそ1万人で、イギリス軍側は5百人超だったとクリスティソン中将は上官に充てた私信の中に記している。しかしインドネシア側の見解では、イギリス軍死者はおよそ5百人とそれに同意しているものの、共和国側の死者は1万5千人だったとしている。またスラバヤ市民20万人が戦闘を避けて疎開したと言われている。

スラバヤの戦闘は、東ジャワの民衆が独自に行ったことだったとはいえ、インドネシア人がはじめて一国家の国民として、軍人と市民が総力をあげて行った戦争だったと言えるだろう。日本軍から手に入れた現代戦を闘うための新鋭兵器を、その取扱い訓練すら受けていないひとびとが、ましてや軍事訓練すら不十分な新米軍隊が、たとえ植民地軍とはいえ連戦練磨のイギリス正規軍を相手にして一応の対戦を行ったのである。かれらが三流以下のパルチザンでなかったことは十二分に立証された。


10月末に起こった武力衝突ではスラバヤの武装市民と人民保安軍が立役者になったが、11月10日から始まったイギリス軍の総攻撃に立ち向かった戦闘員は、スラバヤのひとびとだけでなく、スラバヤに集まって来た各地の人民保安軍や民兵の合同部隊だった。だからそれは、もはやスラバヤ市民の戦闘ではなくなっていたと言えるにちがいない。共和国側として戦闘に加わったスラバヤ外の人民保安軍はモジョクルト、ジョンバン、シドアルジョ、マランなどで、また別に海上人民保安軍、ヨグヤカルタ軍事指導者アカデミー、特別警察隊なども戦闘に参加し、さらには青年市民層を主体とする民間組織もスラバヤだけでなく東ジャワの諸都市をはじめスラカルタ、マドゥラ、バリ、スラウェシ、マルク、カリマンタンなど全国各地から有志が集まってきた。

インドネシアの各地で行われた独立保持のための戦闘では、中等教育の生徒たちまでが武器を手にして戦列に加わっている。中等教育というのは、今で言えば高校以下の年令の若者たちだ。かれら若者たちの戦闘組織を作るために、生徒軍(Tentara Pelajar)というものが国内各地に設けられた。言うまでもなく、それは人民保安軍に所属する青少年部隊になるわけで、人民保安軍がその指導と訓練を行っている。この生徒軍は男子だけに限定されていなかったらしく、生徒軍に加わった少女たちも少なくなかったようだ。

スラバヤに設けられた生徒軍は戦闘部隊としてスラバヤ戦に従軍し、多くの犠牲者を出した。スラバヤ戦に参加した他地域の人民保安軍は生徒軍をもスラバヤに連れて行ったらしく、この若年層戦闘要員も諸地域からの混成部隊になっていた。生徒軍は1945年から1949年まで軍事作戦に使われた。政府がこの若年戦闘部隊制度を廃止したのは1951年はじめのこと。


加えてイスラム界も、各地の宗教団体に所属する青年たちが武器を手にしてジハード戦を展開した。かれらの中から、ダイナマイトを抱えてイギリス軍戦車に自爆攻撃をかける者が何人も出た。アルジュナ通りでの戦車への体当たりが行われてから、続いてサワハンでもグルシッのヒズブラに所属するふたりの青年がダイナマイトを持ってシャーマン戦車を襲っている。

少年兵や自爆攻撃などといった戦闘の様相や、「ジハード」「アラーフアクバル」といった戦意鼓吹のスローガンに着目するなら、インドネシアの独立闘争の中に従来あまり語られていなかったイスラムの色彩が滲みだしてくるように感じるのは、わたしだけではあるまい。

たまたま、1945年11月はイスラム教徒にとってメッカ巡礼の月だった。メッカに集まって来る世界中のイスラム教徒に、独立インドネシアへの支援を求める絶好のチャンスだ。

インドネシアからメッカに赴いたインドネシア独立運動の志士たちが、中東在住のインドネシア人組織を集めて会議を行ない、それぞれが居留国政府や有力な民間団体に独立インドネシア共和国の承認と独立維持の支援を求めて働きかけようという合意がすぐに作られた。同時に、メッカに集まってきている世界のイスラム教徒にも支援を要請する動きが始められた。

カイロで印刷したパンフレットには、独立を宣言したインドネシア共和国は日本製の不純なものでなく、スカルノとハッタも日本の傀儡でない、という内容の説明が記されている。同胞ムスリムが興した国を植民地支配者とその手先が再びその支配下に置こうとしているのだ。同胞のその危難を黙って見ているのは、同じムスリムにあるまじき行為ではないか?インドネシアに支援を与えると同時に、インドネシアを再び搾取のまな板に載せようとしているオランダに対して利を与えるようなことは、絶対に避けなければならない。


かれらは中東でそんな呼びかけを活発化させた。しかしムスリムの中にも、疑問を呈する者がいる。
「モハンマッという名前から、モハンマッ・ハッタがムスリムであることはすぐに判る。だがスカルノはどうなんだ?かれは本当にムスリムなのか?」

当時エジプトのカイロ大学に留学していたゼイン・ハッサンは、新聞記者のその質問を前にして一芝居打った。かれは意外な質問をされて驚いた風を装った。
「なんでそんな疑問を抱くんですか?かれの名前を見ればすぐわかるでしょう?アフマッ・スカルノという名前を・・・」

エジプトの新聞に登場するインドネシアの大統領はそれ以来、アフマッ・スカルノと書かれるようになったそうだ。こうして、中東諸国からの新生インドネシア共和国に対する親しみが培養され、国家承認という大きな流れに結実して行った。


駐ロンドン、エジプト大使はイギリス軍のジャワ島進駐のニュースに接し、「イギリス人は自国内では正直者だが、他国に対しては狡猾な行いばかりだ。」とコメントして、インドネシアが蒙るであろう被害を予言したそうだ。それはイギリス人が中東でこねまわした狡猾さの被害を骨身に滲みて感じていたエジプト人にして言い切ることができた言葉だったにちがいない。

イギリス軍の最後の一兵がインドネシアから撤退したのは、スラバヤの戦闘から一年後の1946年11月だった。


(2016年11月10日〜12月16日)