インドネシア歴史情報


「スカルノの財宝」(2005年7月19日)
昔から財宝がどこかに埋まっているという話に事欠かないのがインドネシア。日本軍軍用金の噂もあるが、一番人気を集めてきたのがスカルノ資金と呼ばれるもの。最後にスカルノ資金の話題でマスメディアを賑わしたのは、オルバ体制末期。彗星のごとく登場したのはジャワ貴族の称号を持つ1956年9月16日ジョクジャ生まれのラデンアユ・リリッ・スダルティ。前期マタラム王国の血筋を引くと自称するリリッが明らかにしたのは、1927年にバリで開かれた統一インドネシア国建設会議に集まった127の王国が拠出した2千5百億ドルの資金が世界中に散らばって眠っているという話。現金だけでなく黄金やプラチナの延べ棒もあって、それらは世界の21トップ銀行に管理されているという。そしてその証拠としてリリッが示したのは、スイスユニオン銀行発行の1956年12月17日付預金証書のフォトコピー。預金者はスカルノ・インドネシア、もろもろの管理番号やコードが書かれ、メタルデポジット5万キログラムとなっている。
かの女は1993年以来スカルノの財宝に関する調査をはじめ、既にスイス、ドイツ、オランダ、フランス、イタリー、香港、台湾、日本、ベルギー、イギリス、マレーシア、シンガポール、タイ、カナダ、アメリカをその目的で訪問しているとの由。2年かけて行った調査結果を引っさげてスハルト大統領と会ったかの女は、1998年4月にスカルノ資金調査の専権をスハルトから与えられるのに成功した。大統領令第B-297/Pres/4/1998号はリリッに、スカルノの財産調査を命じている。しかしその直後の1998年5月21日、スハルトは大統領の座から退位したので、かの女は交代者のハビビや国家官房のアクバル・タンジュン、中銀総裁、ハムザ・ハズBKPM長官らに後押しの継続を求めてアプローチしたが、冷たくあしらわれ、次のアブドゥラフマン・ワヒッ時代にふたたびサポートを得たが、いまだにその結果は何もない。
スカルノ資金として有名なのは、独立闘争資金として手に入れた5億ドルがスイスの銀行に預けられており、それ以外に70トンの黄金もどこかに隠されているというもの。


「トゥガルで発見された化石を狙う買取屋」(2005年8月16日)
中部ジャワ州トゥガル県にあるティレムの森、ゲゲルペレムの森、スメドの森をカバーする4キロ四方の地域で洪積世中期のものと見られる動物の骨の化石が見つかっているが、そのエリア内の水田からも化石が出ている。トゥガル県庁はその一帯を永久保存地区とする計画を立てており、将来的に研究所や見学施設を建設する意向を持っているが、住民からの報告によると、地区周辺の住民に対して化石を持って来ればキロ当たり1万5千から2万5千ルピアで買い取りたいと声をかけている者が出現しているとのこと。そのため県側では早急に、計り知れない価値を持つ古代化石が略奪されたり盗まれたりしないよう、体勢を整えることにしている。
先週スメドの森で発見された数百片の古代動物の化石は50万年前からのもので、中にはかなり大型のサイの頭骨や腰骨、象や鹿の頭骨なども混じっている。


「古い沈没船の財宝が漏出している」(2006年10月13日)
バンカブリトゥン島海域に沈んでいる何百年も前の貨物船からこぼれた積荷を近隣の漁民が自由に引き上げて売却している。Ship Wrecks and Sunken Treasure South East Asia と題する書物によれば、ガスパル海峡、バンカ海峡、カリマタ海峡には45隻の軍船や商船が1555年から1878年までの間に海賊、気象、戦争などのために沈没しているが、その大半は沈没地点がはっきりしていない。漁民たちはそれらの船から陶器や金属製の物品を拾い上げており、陶器の中には中国産の皿・壺・椀などがたくさん含まれている。漁師たちは漁で海中に降りたときにそれらの品物を見つけ、拾い上げたものは地元のコレクターに安く売り渡している。
バンカブリトゥン州海洋漁業局長はその状況に関し、漁民は海底で発見した品物を州政府に届け出なければならず、政府はそれをもとに民間サルベージ会社と史的遺物の引き上げを行い、その際届出者には報酬が与えられることになる、と述べている。同州政府がいま把握している財宝を積んだ沈没船の場所は5ヶ所のみで、それらはいまサルベージ会社3社が探査しており、高い経済価値を持つ積荷の引き上げ作業がそのあとで行われる予定。1隻の経済価値は数十億以上で、中でも最も年代の古い船は5千億ルピアにのぼると見積もられている。規定ではその価値を大蔵省がコントロールして政府とサルベージ会社に50対50の比率で分配することになっているが、地元政府の取り分や発見者への報酬などが明確でないため、その法規はさらに改定される必要がある。


「スリウィジャヤの遺物が発見される」(2006年11月7日)
スリウィジャヤ王朝期のチャンディ(石造建築物)の屋根になっていたと見られるストゥーパがパレンバンのサボキンキン(Sabo Kingking)墳墓遺跡で発見された。そのストゥーパは安山岩で作られており、高さ26センチ長さ78センチの大きさ。この遺物は同墳墓遺跡の改修を行っていた際に墳墓の床の下の土中から思いがけず出てきたもので、墳墓の柱を立てるために床を2メートルほど掘っていたところ大きく固い石に当たり、掘り起こしたところストゥーパであったことが明らかになった。スリウィジャヤ王国が紀元7〜9世紀にパレンバンを中心に栄えていたことはほぼ確実視されているが、発見された遺跡遺物があまりなく、見つかっても完璧な姿をとどめているものがほとんどないことから、今回見つかった14世紀のものと見られるストゥーパは稀な出来事。
サボキンキン墳墓遺跡はパレンバン王家歴代の王たちの墓所で、スリウィジャヤ王朝の繁栄をうたった7世紀の遺物であるトゥラガバトゥ(Telaga Batu)碑文をはじめ仏像や碑文などの考古学的に重要な遺物が周辺地域で発見されている。


「10世紀の沈没船の財宝が競売に」(2006年11月28日)
西暦907年から960年までの間にチレボン沖のジャワ海に沈没した商船から引き上げられた遺物の競売が行われる。宝石、青銅の像、陶器、中東の古代遺物など25万点から成るそれらの積荷を引き揚げたサルベージ会社の取締役は、それらの遺物を国内競売機関に委ねると価格が暴落するので、それらの荷の原産国に直接オファーをかけていると語っている。中国、ドバイ、シンガポールが関心を示しているとのこと。総額で四千万ドルと見積もられているそれらの遺物が売却されれば、サルベージ会社とインドネシア政府との間で売上金が折半される。このサルベージ会社は、引き揚げ費用は全額自社が負担してよいと述べている。
一方、観光文化省沈没遺産局長は、「引き揚げられた遺物の中で希少価値のあるもの、ユニークなもの、高い歴史的価値を有するもの、は選別して国内に保管する。まず遺物の調査を行わなければならない。競売手続きはその間に進めてもらっても大丈夫だ。」とコメントしている。


「自動車はクレタセタン」(2008年4月7日)
ほとんどの道路が自動車で埋め尽くされているジャカルタ。このジャカルタを最初に走った四輪車はいったい何だったのだろうか?
ジャワ島にはじめて登場した自動車。牛や馬に引っ張られないで自分で動く車。それを目の当たりにしたジャワ島原住民たちはその姿を唖然として見送った。そして誰言うともなく「クレタセタン」という言葉が口伝えに広まって行った。kereta setan=魔物車。
1903年にタンジュンプリウッ(Tajung Priok)港に到着した船から一台の四輪車が陸揚げされた。それがバタビア(Batavia)を走った最初の自動車だ。その後バタビアに送られてくる自動車はどんどん数を増し、1925年にバタビアの街を走る車は5千台に達した。最初は言うまでもなく高官・金持ちの自家用車として走っていた車もそのうちにビジネス用に使われるものが増えてきた。つまりタクシーの急増である。タクシーの客待ち場所は市庁舎前広場、西カリブサール(Kali Besar Barat)、グロドッ広場(Lapangan Glodok)、ハルモニ(Harmoni)、ピントゥアイル(Pintu Air)、グドゥンクスニアン(Gedung Kesenian)、バンテン広場(Lapangan Banteng)、ガンビル駅(Stasiun Gambir)、デカパーク(Deca Park)、ゴンダンディアラマ(Gondangdia Lama)、ラデンサレ(Raden Saleh)、クレコッ(Krekot)、パサルバル(Pasar Baru)、スネン(Senen)などで、それらが1920〜30年代のバタビア中心街だったことがこのデータからよくわかる。料金は午前6時から23時までの昼間時間帯と23時から翌6時までの深夜時間帯に分けられており、深夜料金は昼間の5割増だったらしい。また料金はキロ当たりで定められており、そして待たせておく場合は一分当たりで料金が計算された。タンジュンプリウッ港とバタビア市内の行き来には25%増しの追加料金が取られたらしい。バタビア市庁はこのタクシー運行に関してあまり規制らしい規制をかけなかったようだが、ひとつだけ禁令事項が定められた。「タクシー運転手は客を乗せて走行中の喫煙を禁ず。」


「バタビア〜スラバヤ、スピードレース」(2008年4月8日)
古い写真を見ると、バタビアの街を闊歩している自動車の中にフォードモデルAの姿がたくさん見られる。このフォードモデルAがバタビア〜スラバヤ間846キロを11時間26分で走破するという当時としての最速記録を作った。運転したのはKEシュットで、かれは1929年2月6日夜から7日朝にかけてジャワ島を一気に走った。平均時速の73キロという数値は驚嘆ものだ。かれは実のところ、1927年9月4日にGM社製作のラサールを使ってそのルートをトライしているが、そのときは11時間58分が所要時間だった。ラサールはV8エンジン搭載で最高時速125キロと公称されており、フォードモデルAのV4最高時速100キロよりパワフルだったのだが、スピードレースは乗物の性能だけで結果が決まるわけでないことをそれが証明しているようだ。シュットの記録は1932年5月28日にゴールがオースティン−7を使って塗り替えてしまった。新記録は10時間53分。
ジャカルタ〜スラバヤスピードレースは1911年に始まった。24時間かけてそのルートを走破したのはフランス製のシャロン2台とデローネイ・ベルビュー1台。シャロンを運転したのはジョクジャでシャロンの輸入商をしているフランス人デノーとファン・デル・フーフェン。デローネイはファン・ティーネンとフェルハーゲンが乗り込んだ。平均時速は44キロだったから、これは現代と似たようなものかもしれない。このスピードレースは地元民の寝静まった夜中に走る。それでも事故が起こった。カンプン近くを通り過ぎる際には、犬や猫がよく輪禍の対象になってしまったのだ。
レースのルートは1800年代初期にイギリス軍の侵攻に備えるため、時のダンデルス総督が建設させたジャワ島横断郵便道路。なにしろ自動車をぶっ飛ばせるまともな街道はこれしかなかったということだ。バタビアを出発した車は一路ブイテンゾルグ(今のボゴール)へと南下する。ブイテンゾルグから丘陵地帯を下ってチバダッ(Cibadak)経由スカブミ(Sukabumi)、そしてチアンジュル(Cianjur)を抜けてバンドン(Bandung)へ。バンドンからはスムダン(Sumedang)〜チレボン(Cirebon)〜トゥガル(Tegal)〜プカロガン(Pekalongan)〜スマラン(Semarang)〜クドゥス(Kudus)〜パティ(Pati)〜レンバン(Rembang)〜トゥバン(Tuban)と海岸沿いを走ってスラバヤに至る。
同じことは二輪車でも行われた。最初の挑戦者ゲリ・デラアトはリーディングスタンダード製オートバイで20時間45分の記録を出した。その後かれは何度も自分の記録を更新して行ったし、また1917年にはハーレーダビッドソンに乗ったゴディ・ヤングが14時間11分という記録を作り、最終的にゲリがラッジに乗って1932年8月18日に10時間1分という記録を残した。その後1934年にバンドンを通らずパマヌカン(Pamanukan)に抜ける新ルートが使われるようになり、距離が45キロほど短縮されてレース記録の新ページに移って行った。


「ワルン」(2008年4月9・10日)
warung。ファン・オパイゼン式綴りではwaroeng。辞書を見ると、飲食品や雑貨などを売る場所、と説明されている。しかし同じように飲食品を売っていてもワルンはrestoranやkafeなどと明確に区別されており、また同じように雑貨品を売っていても店舗(toko)と明確に区別されている。どうやら構造上の違いがその区別を生んでいるように見えるのだが、同時に社会階層的な違いも関連しているようだ。
ディポヌゴロ大学歴史民俗学専門家によれば、ワルンという言葉はマジャパヒッ王国末期になってから古文書によく登場するようになったそうだ。ナガラクルタガマやジャワ年代記などにその言葉が出てくるし、1814年に編纂されたスラッチュンティニには、ワルンとは食べ物を買って食べる場所という説明が記されている。元々ワルンは柱と屋根だけで壁のない建物だった。内陸部の住民が穀物を持ってきて海岸部の住民と物々交換する場所だったらしい。またそれとは別に、昔の人々が遠距離を旅する場合は交通機関として馬が使われたが、そのような旅のしかただとある距離をあけて休息場所を設ける必要が生じる。休息場所は街道と街道が交わる交差点に設けられ、ワルンが建てられて飲食物が売られるようになった。そのような場所が発展して賑やかになると、そこに市場が形成された。今でもジャワの地方部へ行くと、街道が交差する場所に市場ができている例は少なくない。
インド人や中国人がやってきて、それぞれの文化が持っているものをインドネシアに紹介した。1603年バンテンに滞在したエドムンド・スコットは、中国人は内陸部でコショウだけでなくコメも栽培している、と書き残している。1611年のオランダ人の記録を読むと、中国人居留区ではコメの売買が行われていてかれらは経済的に安定した力を持っている、と記されている。それは中国人がコメを売る店を持っていたことを意味しており、多分通りに面した壁を持つ建物の表や壁沿いにコメを山盛りにして購入者の気を引くようなトコが作られていたに違いない。トコは夜になると昼間開いていた面を木の板を並べて完全に閉鎖してしまい、店主がその中で寝るような場所だった。
スタンフォード・ラフルズが著したHistory of Javaの中にもワルンが登場する。ラフルズの説明によれば、ジャワ人には朝食をとってから仕事に出るという習慣がなく、朝は飲食物を持って野良仕事に出かけて田んぼの中で食べるのが普通であり、家から持って出ないときはワルンで買って田んぼに向かった、とある。ラフルズのジャワ島統治は19世紀はじめで、上のスラッチュンティニと同じ時期に当たる。元々は穀物の物々交換の場所だったワルンが旅人の休息のためのサービスビジネスを取り込み、数百年を経て飲食物を売る場所に変わっていった歴史がどうやらこれらしい。現代にもその慣習はまだ残っており、warung makan(食べ物ワルン)、warung tegal通称warteg(一膳飯屋)、warung nasi(飯屋ワルン)、warung kopi(コーヒーワルン)など飲食物を供するワルンが街中の随所に存在している。しかしその一方でwarung telepon通称wartel(電話ワルン)やwarung internet通称warnet(インターネットワルン)など新たなバリエーションも出現している。
飲食品やさまざまな品物を売る店舗を指す言葉は、さまざまな文化の流入に伴って語彙が増えていった。中国人はトコ(土庫)、英語からデポ(depot)、インド人はタミール語のクダイ(kedai)、オランダ語からはキオス(kiosk)などがインドネシア語に取り込まれて今でも日常的に使われている。ワルンというのはどうやらジャワ語源の言葉らしく、ジャワで家屋の一部を指すwawangやwuwungから変化したものではないかと考えられている。上であげたさまざまな外来語の中でワルンと頻繁に混用されているのはトコやクダイだ。ワルンコピーがあり、クダイコピーがある。ワルンクロントン(雑貨ワルン)があり、トコクロントンがある。どこがどう違っているからどちらがどれである、ということを説明できるひとはいないだろう。現代インドネシア語における用法を見る限り、ワルンは伝統的な売店でありトコはよりモダンな商店という印象が強い。トコはたいてい陳列ケースを備えているが、ワルンのほとんどはそれを持っていない。建造物の構造や規模、客の階層やステータスなども違いをもたらす要素と見ることができる。しかしそれは傾向に過ぎないのであって、ある部分では完全に混用されていることも確かだ。
モダンマーケットが在来型商店やパサル(市場)を駆逐しつつある昨今、伝統型ワルンがわれわれの周囲から姿を消して行く可能性は小さくない。とはいえ、そのためにワルンという言葉が死語になるかどうか、それは時間が答えを出すにちがいない。


「歴史は正される」(2010年3月27日)
一次資料を再検討してみると、現在通説になっている歴史の中で故意に落とされたと思われる情報が発見される。つまり事実にそぐわないものが公認されているという誤りが起こっているわけだ。そのようなことは政治上の必要性から行なわれたと思われるが、われわれはそのような誤りを修正していかなければならない。2010年3月9日に北スマトラ州メダンのメダン国立大学で開かれた「ジャワ〜スマトラ史の重要人物アディティヤワルマン(Adityawarman)の神話を崩す」と題する特別講義でハワイ大学歴史学者ウリ・コゾック教授は、一度作られたオーセンティックな衣の中に安住することなく、真理を求めてたゆまない歴史の修正に努めなければならないことを強調した。教授がパララトン(Pararaton)やヌガラクルタガマ(Negarakertagama)あるいはアモガパサ(Amoghapasa)像の碑文などをメインにさまざまな一次資料を検討したところ、アディティヤワルマンに関する情報に齟齬が見つかった。「マジャパヒッ(Majapahit)王国史編纂に使われているパラメーターは国家史がまずあり、それに応じた形でローカル史が組まれているが、これは反対だ。ローカル史の上に国家史が構築されなければならない。客観的なインドネシア史のためにそれは不可欠なことだ。」
教授の分析によれば、アディティヤワルマンはミナン(Minang)で生まれミナンで育った人物で、成人してからマジャパヒッ王国に出向いて首相となった。かれの首相就任はマジャパヒッの対ムラユ(Melayu)友好政策にもとづいている。しかし現在通説になっているマジャパヒッ王国史によれば、アディティヤワルマンはジャワの生まれでジャヤヌガラ(Jayanegara)王のいとこということになっている。さらに王の信任を得て中国への使節となったことになっているものの、事実は首相として国政に努めただけだったらしい。かれはスマトラ島北部を平定するためにマジャパヒッの軍勢を率いて進攻し、スマトラ島はマジャパヒッに降ってその属国になったという通説も誤っており、スマトラ北部のいくつかの地方に向けられた進軍にアディティヤワルマンは加わっておらず、またスマトラがマジャパヒッに服属したというのも間違いで、ムラユとマジャパヒッは独立したふたつの王国が同盟を結んでいたというのが事実だった。次の時代にアディティヤワルマンはダルマスラヤ(Dharmasraya)のムラユ王国とパガルユン(Pagaruyung)の王国の後継者となった。それはダルマスラヤで発見されたバイラワ(bhairawa)像の碑文やパガルユンで見つかっている種々の碑文から明らかになっている。それらの碑文には、王としてのアディティヤワルマンの名前が刻まれている。


「ボロブドゥル船が琉球へ」(2010年7月5日)
ボロブドゥル遺跡の壁画をもとに再現された古代船が2010年7月14〜15日に沖縄を訪れる。船体長20メートル幅4メートルのこの帆船はヒンドゥマジャパヒッ王国時代に大海原を渡ったものと推測され、2003年8月には類似の活動としてアフリカへの遠洋航海が行われている。今回はマドゥラ島のスロペン海岸からスラバヤを経由してジャワ海を北上し、ブルネイ〜フィリピンを経て沖縄に至る航海となる。
今回の航海のために建造された船はSpirit Majapahitと命名され、26.65立米のチーク材を使って作られた。アウトリガーにはもっとも太い竹bambu petungが用いられている。船体は卵型で船首と船尾が尖っており、帆柱は左右の舷側に接して二等辺三角形をしている。船の作り方もユニークで、まず卵型の船体を先に作ってから骨組みを取り付けていったとのことで、これは通常の造船手法の反対になっている。
この船の建造はインドネシア政府と日本マジャパヒト協会の合作で、総工費10億ルピアが投じられている。この船の航海には、インドネシア海軍からひとり、日本から3人、マドゥラ島スムヌップの船乗り5人、そして報道陣が乗船することになっている。


「進取の気性に富むプカロガン人」(2010年10月9日)
プカロガンは昔からジャワ島の支配者にとって重要なポジションを占めてきた。1628年から1629年にかけて、オランダVOCの支配が確立されたバタビアに対してマタラム王国のスルタンアグンが大軍を送って攻勢をかけたとき、兵糧米供給の基地となったのがプカロガンだった。スマランは既にVOC軍事力の傘の下に陥っていたため、プカロガンがスマランの代替を勤めたのだ。マタラム王国のバタビア攻略は失敗して両者の間の軍事バランスは逆転をはじめ、マタラム王国のたずなを握ったVOCはプカロガンを通商基地に使い、砂糖生産とその積み出しでこの港市は発展した。オランダ・中国・アラブ・インドそしてムラユの商船が来航し、日本軍政の時代を経てから共和国独立期に達したとき、中部ジャワのトゥガル(Tegal)とプルプス(Brebes)と共同でソロとジョクジャのマタラム王家の支配から脱却しようとする動きをプカロガンが起こしたことは前に触れた。
その後この町でプカロガン商人の持つ合理性・実用性が繊維産業バティック産業の興隆を促し、ついには国内最大のバティック生産地にのしあがった。ピッ・ジェンキ・ジュパンがこの町にやってきたのは1980年代はじめごろだ。バティック商人たちがジャカルタへ商売に出かけ、タンジュンプリウッ(Tanjung Priok)港で船員が日本から持ってきた中古自転車を買って帰郷した。かれらは自分や自分の家族が使うためにそれを持ち帰ったのだが、知合いや隣人がそれを欲しがった。「金を渡すから、今度はわしのために一台持ち帰ってもらえないだろうか?」
こうしてバティック商人たちがジャカルタへ行くたびに何台もの日本製中古自転車がプカロガンに流入してきた。多いときはひとりで5台も持ち帰ってきたという。乗り心地が快適で車体は頑丈長持ちという日本製中古自転車の評判はプカロガン市民の間に広がり、バティック商人の中に自転車ビジネスに鞍替えする者が出現した。


「プラナカン」(2010年12月30日)
シンガポールのオーチャードロードにプラナカンプレイス(Peranakan Place)という場所がある。センターポイントの西隣で、MRTサマセット駅からすぐの位置。プラナカンミュージアムというのもあって、場所はフォートカニングに近いアーメニアンストリート。このミュージアムは2008年に改装オープンしている。
プラナカンというのはper-anak-anで、外国人と自国人の間に生まれた子供を意味するムラユ語だ。他には胎児の入る胎袋も意味するが、ここでは採り上げない。シンガポールの場合は土着民がムラユ系でありシンガポールに住み着いた最大多数の外国人が中華系だったので一般にその混血子孫を指すケースが多いが、それに限られるわけではない。単にプラナカンとだけ言えば混血子孫を意味し、peranakn Indiaやperanakan Jepangなどという表現をして外国人の系統を強調する。シンガポールでperanakan IndiaはChittyと呼ばれ、またpeanakan Jawiやperanakan Boyanというのもある。Boyanは東部ジャワのBawean島が訛ったものらしい。
もともとスマトラ島・マレー半島・シンガポール島はムラユ系王国の支配領域であったため、現代国家としては分かれているものの住民の間には感覚的な親近感が存在している。マレーシアの各地のスルタン王家はスマトラの王家と姻戚関係を持っている。マラッカ王国がポルトガル人に攻め滅ぼされたあと、王家の残党がジョホールに逃げ、更にスマトラのリアウへと逃れたのは、それらがムラユ系の支配領域であったためだ。シンガポールは1819年にラフルズがジョホール王国に割譲させてから発展をはじめた島で、それまではムラユ系住民の住む寒村だった。だからマレーシアにしろシンガポールにしろ、自国民とはムラユ系住民を指し、やってきた外国人との間に生まれた混血児がプラナカンと呼ばれたわけだ。
シンガポールのプラナカンは圧倒的に華人とムラユ人の混血が多い。かれらは両親の文化を融合させてババ=ノニャ(baba-nonya)文化を築き上げた。かれらの使う言語も混成の最たるもので、ムラユ語福建語英語がごちゃ混ぜのガドガド言語になった。プラナカンは第二次大戦後メインストリームから外され、シンガポール共和国成立の流れを川岸に上がって見守る傍観者の位置に置かれた。しかし昨今、そんな差別も薄められて同じ共和国国民としての権利は同等に認められている。リー・シェンロン首相もプラナカンミュージアムオープン式典で、自分もプラナカンだ、と語ったそうだ。
シンガポール共和国が成立したとき、マラッカやペナンから華人系プラナカンがシンガポールに移住した。ただし、かれらの母・祖母・曾祖母たちがスマトラ・ジャワ・バリ・スラウェシの諸種族という華人混血子孫もたくさん混じっていた。そしてかれらのほとんどが、インドネシアの文化に強く心惹かれていた。スタンブル(stanbul)を見物し、クロンチョンを唄い、女はジャワ産のクバヤンチム(kebaya encim)にサロンはプシシランのバティックを着る。
2009年にテレビの連続ドラマ「リトルノニャ」が放映されると、プラナカン文化は一躍脚光を浴びた。自分たちのルーツを改めて見直す意識が高まり、シンガポールプラナカンが使っていたインドネシア産品の人気が上昇した。男たちまでがジャワのバティックを着るようになったのだから。シンガポールでプラナカンたちは今、自分たちがプラナカンであることに誇りを抱いている。


「意欲ばかりが先走る?!」(2011年6月16日)
歴史的な遺物が国外に流出するのは植民地の悲劇のひとつだ。しかし国家主権が自国民の手に戻った以上、そんなことはもはや過去の夢のまた夢になるはずである。ところがインドネシアではいまだに古文書を含めた遺物が国外に流出している。もちろん遺物の中には最近ジャワで作られたニセモノ石像やニセモノ陶器なども混じっていて、ニューヨークでクリスティが競売に付したボロブドゥルのアクソビヤ像がニセモノだったことが判明して笑い話になったこともある。
古文書はニセモノが作りにくいことから上のような笑い話はあまりないのだが、その性格上、昔王国が栄えた地域の住民の家の奥深くに眠っていることが多く、金を持ってそんな地方をまわれば、容易に古文書を集めることができる。一昔前、マレーシア政府がリアウの各地で古文書を買いあさったためインドネシア政府の強硬な非難を招いたのは、インドネシア各地の伝統文化をマレーシアのものとしてプロモートするようになった昨今の動きの前哨戦だったようだ。
ところがインドネシアの側にも弱みがある。古文書や遺物が博物館などに保管されるのはよいが、風化していく歴史遺産の保存活動に十分な予算がさけないという悩みをほとんどの博物館が抱えていることだ。自国の文化遺産なのだから自国の博物館で維持保存されるのが当たり前だという民族主義がわからないではないものの、人類の遺産ととらえて外国の博物館で維持保存してもらうほうが長持ちするだろうと考えるのはわたしだけだろうか?
コンパス紙R&Dが2011年5月4〜6日に全国711人の回答者に質問した結果は、あいかわらずナショナリズムの強いインドネシア人の思想が如実に反映されていた。
質問)国外に流出した古文書をどうするべきか?
回答)1.インドネシアの文化遺産なのだから国内で維持保存するべし 67.9%
   2.調査研究のための資料として国内で維持保存するべし 13.5%
   3.維持保存が確実になされるだろうから、国外に置いておけばよい 8.3%
   4.わからない 10.3%


「国連世界記憶遺産に三作品を」(2011年12月9日)
政府は民族文化の結晶である三つの文化遺産を国連の世界記憶遺産に申請する予定。その三つの作品とは、Babad Dipanagara、Nagarakertagama、Mak Yong。
ババッ・ディパナガラはオランダ植民地政庁の圧政に叛旗をひるがえしたマタラム王国の王子ディポヌゴロの生涯を書き残した自叙伝で、この作品は近世以降のジャワ文学シーンで自叙伝の嚆矢となるものであるとされている。ジョクジャのスルタン家の嫡子であるディポヌゴロ王子は1785年から1855年まで生きたひとで、1825年から5年間オランダ政庁は後にジャワ戦争と名付けられたかれの反乱に手を焼いた。結局王子は1830年オランダ側に捕えられてマカッサルに流刑され、1855年に生涯を閉じた。ババッ・ディパナガラはかれが流刑先で書き残した自叙伝。しかしこの作品は原書が崩壊してしまっており、ユネスコの世界記憶遺産認定を得るためにはあまり条件がよくない。
ナガラクルタガマは1365年にマジャパヒッ(Majapahit)王国の宮廷文学者ンプ・プラパンチャが著したもので、ジャワの古い作品は後代に書かれているのが普通だが、この作品だけは出来事の発生に間を置かずに書かれているという稀な特徴を持っている。この作品の原書は1894年にロンボッ(Lombok)で発見され、14世紀に栄えたジャワ王朝のありさまを伝える貴重な資料として世界中の研究者に活用されてきている。
マッキョンはムラユ芝居の古典外題で、ムラユの故地であるスマトラ島リアウ地区の伝統文化として伝えられている。このマッキョンは元々タイの物語で、それがマレー半島からスマトラ島ムラユ地区一帯にまで広まったもの。インドネシア政府はマッキョンのユネスコ世界記憶遺産提案をタイ・マレーシアと共同で行うことにしている。


「ボロブドゥルの謎」(2012年5月30日〜6月2日)
candi (チャンディ)というインドネシア語は石造りの古代建造物を指している。神仏を祀る寺院の場合もあるし、王や高僧の遺灰を納める所として建てられたものもある。そして古代インドネシアを席巻した宗教であるヒンドゥ教も仏教も同じようなチャンディを造っている。あのボロブドゥルもチャンディのひとつだ。
サイレンドラ王家の王位継承者であるラカイ パナンカラン ディア サンカラ スリ サングラマダナンジャヤは父王の病を癒すことができなかったヒンドゥの高僧を憎んで大乗仏教に改宗し、紀元7百7〜8十年代に王家の創始者を崇め奉るためにチャンディボロブドゥルの建設に着手した。ボロブドゥルという名称はサンスクリット語のvihara に由来するbara とbudur の組み合わさった語であり、上位の僧院という意味だそうだ。つまりサングラマダナンジャヤはそこを大乗仏教の本山にしようとしたにちがいない。つまりボロブドゥルというのは元来、そのチャンディの名称であって地名ではなかったということのようだ。
チャンディボロブドゥルから東に向かって1,750メートルの距離にやはり仏教遺跡のチャンディパウォン(Pawon)がある。1903年に修復されたこのチャンディはパウォンの名が示すように、遺灰を納めた場所だそうだ。しかしチャンディ内にあったはずの石像や石碑が一切無くなっているため、このチャンディの由来は杳としてわからない。
そこからさらに東に向かって1,150メートルの距離に仏教遺跡であるチャンディムンドゥッ(Mendut)がある。824年の年号を持つカラントゥガ(Karangtengah)石碑によると、サイレンドラ王朝のインドラ王がこのチャンディを完成させたことが記されており、そのインドラ王とはサングラマダナンジャヤと同一人物だったらしい。つまりどうやら、それらの仏教チャンディ三つは同じ王が建立したのではないかと思われるふしがあるのである。
正体不明のチャンディパウォンまで、どうしてそんなことが言えるのか?それはまず、それら三つのチャンディが一直線上に並んでいること、そしてそれらが同じように仏教遺跡であることのためだ。
三つのチャンディは一直線に並んでいるものの、その直線はまっすぐ東西を指してはおらず、わずかに北向きに傾いている。そしてわれわれは、同じように傾いた直線上に並ぶ三つの星を漆黒の夜空の中に見出すのである。そう、オリオン星座でオリオンの帯として知られているミンタカ、アルニラム、アルニタクの三星だ。
古代のひとびとがチャンディを建立する際に、適当な場所に「ここだ」と決めて造るようなことはしなかった、とガジャマダ大学考古学教官は語る。目的がはっきりと意識されていること、そして基本コンセプトが建設の土台をなしていることがその基盤にある。瞑想や超自然的な活動を伴って建立する候補地が選出される。そこから実際の工事開始に至るまでに、当時の知識レベルではあるものの土木工学や地学に関する学術的な検証が行われる。地質が安定しているかどうかを測定するために、地面を掘って水がどのように地中に浸透していくかを見たり、土地の豊饒さを測るために特定の穀物を植えてみるようなことまでした。「複数のチャンディを関連付けるために直線で結びつけることはありうるし、古代のひとびとは東西と南北の線を重要なものと理解していた。東西の線から歪んでいるボロブドゥル〜パウォン〜ムンドゥッの線はそのような観念に反するものであり、その理由がはっきりわからない。」
古代ジャワ人はオリオンというギリシャ神話の登場人物を知らなかったが、頭上を通り過ぎていく同じ星々には親密な感情を抱いていた。かれらには天体と人間の営みを結びつける知恵があった。
いまオリオン座と呼ばれている星座が日没後に東の空に現われるようになると、ひとびとは田植えを行う時期が来たことを覚った。日没後にそれが西の空に出現する季節になると、ひとびとは乾季がやってくることを知った。
稲作民族であった古代ジャワ人はその星座をオリオンとは見ず、自分たちの農耕生活に欠かせない鋤の形をそこに思い浮かべたのである。オリオンの帯を成しているアルニタクはサイフと結ばれ、アルニラムはリゲルを通ってエリダヌス座のラムダと結ばれ、ミンタカはオリオン座のベテルギウスとつながれてジャワで使われている鋤の像がそこに出現したのである。だから往時のジャワ人はそのオリオン星座をルク(luku)あるいはワルク(waluku)と呼んだ。ルクもワルクも鋤を意味している。
ジャカルタプラネタリウム所属の研究員は、ボロブドゥル〜パウォン〜ムンドゥッがルク星座を地上にかたどったものである可能性は高い、と語る。天上の鋤の中心部が地上に写し取られた可能性はもちろん高い。だがボロブドゥルが他のふたつのチャンディとともに形作っているその姿の本当の意味を明らかにしている古代石碑や古文書はひとつもない。ボロブドゥルの謎はまだ闇の中に沈んだままだ。


「ジャワ料理とフィリピン民族」(2012年8月24・25日)
19世紀末に、今フィリピンと呼ばれている国で民族運動が燃え上がった。その立役者のひとりがホセ・リサールだ。マニラでの学業を終えると、更なる学問を身に着けるためにかれはスペインに渡った。異文化の中にどっぷり浸ったかれは、われとわが民族文化のアイデンティティに強い関心を抱くようになる。
かれの二度目の訪欧は1888年のことで、マニラから船で香港に向かい、そこから日本〜アメリカ〜イギリスと地球を半周した。かれがフィリピンの植民地史を学んだのは、ロンドンの大英博物館図書館で働らく機会を得たときのこと。スペイン人がやってきてフィリピンを植民地にした当時の歴史的背景についてかれは克明なノートを作った。
白人がやってくる前にあったフィリピン土着の伝統文化についてもそうだ。食べ物は土着文化を色濃く示すものである。たとえばカチュンバ。それはサンスクリット語のカスンバに由来しており、ムラユ語でもカスンバだ。カウスバという名称ではない。
1889年3月、かれはイギリスからフランスのパリに渡った。ちょうどパリでは、その年の5月5日から始まる万国博覧会の準備に大わらわだった。この博覧会の目玉のひとつになったのが、世界のさまざまな伝統文化を持ち寄って構成する植民地コーナー。ホセが特に関心を寄せたのは、オランダ政府が企画したジャワ村だ。ガムラン音楽はクロード・ドビュッシーを魅了したし、アンクルン合奏や植物を編んで作り出す工芸品の制作実演も来場者に強く印象を残した。
かれが親族宛に送った手紙には、ジャワ村は竹作りでやしの葉で葺いた屋根の家で構成され、そこのレストランで供せられる料理はわれわれのものとよく似ている、といったことが書かれている。ジャワ料理とフィリピン料理に同じものがあるということではないが、同じ東南アジアの風土環境がもたらす類似性をかれが見出したということだ。最近の学説によれば、東南アジアの諸種族はオーストロネシア族に分類され、そのルーツは台湾に由来しており、古代にその先祖は南方へ移動してフィリピンやインドネシア、さらにはマダガスカルやニュージーランドに渡った、とされている。
ホセ・リサールは19世紀末にパリのジャワ村でいったい何を食べたのだろうか?オランダ政府がパリのジャワ村のために送り込んだ人々はソロとジョクジャの王宮の踊り子や楽隊のほかにさまざまな地方の人間もいた。そして料理人もおり、料理人はレストランで庶民の家庭料理を供したそうだ。料理人はジャワ村の家屋の表にしゃがみこんで調理し、それを博覧会来場者が取り囲んで見物したという話が残されている。調理に使われたコンロはインドネシアのローカル風のもので、燃料は樹木から採った樹脂(やに)が使われたらしい。
ホセはフィリピンからあまり遠くない場所にあるジャワ文化に、はるか離れたパリで邂逅した。かれのタガログ語とジャワ村にいる人々のムラユ語で意思疎通ができたことをホセは故国に書き送っている。フィリピン人もジャワ人も米を炊いて食べ、またピナンやシリを噛む習慣を持っていた。米を発酵させて作ったアルコール飲料をフィリピン人はタプイと呼び、ジャワ人は同じようなものをタペと呼んでいる。
ホセ・リサールが民族のアイデンティティをジャワ文化に接触する中で消化し、スペイン人が持ち込んだ文化は自分たちにとって本来的なものでなかったということが実感されるに従ってフィリピンの民族主義が高揚していった歴史の流れがフィリピン近代史の底流に横たわっているにちがいない。


「アンチョルに浮かぶ軍事博物館」(2012年9月29日)
太平洋戦争における連合国軍側のフィリピン進攻の足場を築いたモロタイ島上陸作戦に参加した戦車揚陸艦(LST)が北ジャカルタ市アンチョルドリームランドに係留されて水上博物館となる予定。
連合国軍のモロタイ島上陸作戦は1944年9月15日に実施され、圧倒的な兵力差で全島を制圧した連合国軍はこの島を航空基地化した。そのときの作戦に参加した戦車揚陸艦2隻は1960年にアメリカ政府からインドネシア政府に移管されてインドネシア海軍に編入され、イリアン解放作戦などその後インドネシアが行った軍事作戦に使われてきた。他にもアメリカから移管されたLSTは2隻あった、合計4隻がインドネシア海軍の持つ歴戦のLSTだったが、建造後60年以上という老齢化した船にこのたび退役の機会が訪れたわけだ。
博物館になるのは1隻だけで、全長100メートル幅15.5メートルという広いスペースには戦車20両と兵員2百人が搭載でき、40ミリと37ミリの対空砲および12.7ミリの機関砲が装備されている。その艦内にインドネシア国軍の戦車・銃砲・ミサイルなどを展示して、アンチョルに軍事博物館を浮かべるというのがこの趣向である由。


「中部スラウェシに滅んだ巨石文化」(2012年10月23〜25日)
スラウェシ島はインドネシアの島々の心臓部であり、古代人が周辺の島々へ散開していく歴史の最初の節をなしていた。しかしスラウェシという生命バラエティ豊かな土地はかつて栄えた古代の生命が枯れて行った暗い歴史をも秘めているのだ。
中部スラウェシ州中部ロレ(Lore Tengah)郡ブソア(Besoa)盆地に立っている168センチの石像は、まるでその地を守るかのように外界に向かって直立している。楕円形の顔に刻まれた切れ長の目はロレリンドゥ(Lore Lindu)国立公園内の山並みを背に北の方角を見つめているのだ。この干からびたようなサバンナ草原は標高1千2百メートルという太陽に近い位置にあり、タドゥラコ(Tadulako)の像と呼ばれている石像は酷暑の下で雄々しく立っている。
中部スラウェシのパル(Palu)、ナプ(Napu)、ブソア(Besoa)、バダ(Bada)の四つの盆地には数百の巨石文化遺跡が散在している。著名な地元考古学者タンウィル・ラ・マミンは、巨石文化に関わる遺物の数を数えたら3百個に上った、と述べている。遺跡は石像だけでなく、石棺、石臼、石杵、石盤、柱土台石、さらには陶器までもが見つかっている。この地域で発見された種々の遺跡はそこがインドネシア最古の巨石文化が栄えた場所であったという共通理解を考古学界にもたらしており、発見された遺物の放射性炭素年代測定では遺物の作られた時期が今から2,890年〜2,460年〜2,170年前と推定されている。
ならば、かれらはいったいどこからスラウェシ島中部にやってきたのだろうか?ピーター・ベルウッドが1995年に発表したオーストロネシア語族の台湾出自説に賛同する学者たちば、台湾から中国本土南部地域にいたオーストロネシア人がフィリピンを経由してスラウェシ島にやってきたと考えている。
かれらはスラウェシ島中央部でこの世の極楽を見出したのではないか、とタンウィルは推測を語る。というのは、その一帯のきわめて広大な土地に巨石文化遺跡が散在している事実と、エリアごとに異なる生活パターンが営まれていたことを想像させる遺跡の状況から、複数の種族がそこにたどりついて個々に繁栄を謳歌していたのではないかとかれは考えたのだ。各エリアには祭祀の場・水浴場・墓などがあり、さらには遊戯具や農耕具も発見され、そして祖先のシンボルである石像がたくさん佇立しているのである。その石像が向いている方角が各エリア内では同じなのに、別のエリアでは異なっているという事実から、各エリアには祖先信仰の内容を別にする種族が住んでいたのではないかということが想像されるのである。
この一帯で発見された石臼の数が多いという事実から、そこに住んだ古代人たちはすでに稲の栽培を行っていたことが推測され、家畜を飼っていた可能性も高いことを考古学者たちは主張している。
つまりこの地域にやってきたオーストロネシア人のいくつかの種族は当時森林だった場所を切り開いて農地に変え、そこで豊かな集団生活を営んだことが想像されるわけで、それほど大勢の人間が遠い距離を集団移動したということらしい。ドイツのゲッティンゲン大学が行った調査の報告書には、その一帯の森林が開かれたのは今から3千5百年前の時代で、農業のために焼畑が定期的に行われていたことの証拠も発見されている、と謳われている。
そのようにして栄えていたこの地の暮らしは、その後いったいどうなったのだろうか?繁栄していたひとつの文化が滅亡していった歴史もそこにあるのだ。この地域からほど近いところをパル〜コロ活断層が走っており、それはスマトラ島を縦断する活断層に次いで活発なものとされている。2012年8月に発生したリンドゥ湖を震源とする最近の地震では、住民5人が死亡している。
しかしタンウィルは、その広大な地域で繁栄していた巨石文化を地震が滅ぼしたとは考えにくい、と語る。この地域には日本住血吸虫が棲息しており、今でも住民に被害者が出ている。そしてこのロレリンドゥ国立公園地域に台湾や中国南部から持ち込まれたと見られる他の危険な病気も発見されている。タンウィルが推測した日本住血吸虫かどうかは別にして、何らかの病気がそこで繁栄していた巨石文化を滅ぼした可能性は大いに考えられるところだ。


「海に沈んだ町」(2012年10月29日〜11月1日)
ナングロアチェダルッサラム(Nanggroe Aceh Darussalam)州の南西の果てに、シンキル(Singkil)を県庁所在地とするアチェシンキル県がある。北スマトラ州との州境をなしているところで、昔から北スマトラ州のメダン(Medan)やシボルガ(Sibolga)とアチェの都バンダアチェ(Banda Aceh)を結ぶ交通の要衝になっていた。
交通の要衝とは言っても、シンキルの町を貫いて走る街道ができたのは1999年5月にシンキルが県に分離昇格したあとのことで、それ以前のシンキルというところは、周辺の地方とは山や密林そして沼などで隔絶された辺鄙な地であり、陸伝いにシンキルを訪れるには川を利用するのが順当な交通手段であり、またインド洋沿いではずっと南のバルス(Barus)やシボルガとの間を船で往来するのが常用手段で、そのためシンキルはスマトラ島西岸インド洋沿いにある繁華な小中継港のひとつという姿を呈していた。
アチェ王国が最盛期を迎えたスルタン・イスカンダル・ムダの時代(1607〜1638)、インド洋沿いの海岸線はブンクル(Bengkulu)まで、東岸はリアウに至る広範なエリアがアチェ王国の支配下に落ちた。アチェの領国支配の苛斂誅求に反抗して地元種族の独立と政権を回復させようとする闘争は、アチェ王国の覇権が傾いて行くまでの間、その一帯で折に触れて叛乱や騒乱が発生する原因にもなっていた。そのころスマトラ島インド洋側の有力なアチェの商港だったのはティク(Tiku)、パリアマン(Pariaman)、バルスなどで、スルタンから通商許可を得たイギリスやオランダの商船がそれらの港に入って通商活動を行っている。
シンキルは昔から地元領主がいてアチェの王宮に服属していたようだ。そんな地方領主の屋敷あと、武器、装飾品や農具あるいは食器といった生活用具などの遺物が発見されており、遺物や伝承からその社会では支配階層と中間層そして被支配階層が層状の社会構造を形成していたことが確信されている。
アチェの支配下に落ちたスマトラ島西岸の諸国は、宗主国アチェの王都バンダアチェとの往復を海路を経由して行った。シンキルはそんな船旅の中継点に位置していた。インド洋側諸港間の通商も活発に行われたことは言うまでもない。そのためにシンキルは賑やかな港町になった。内陸部のひとびとはレウセル(Leuser)山系に源を発するシンキル川やシンパンカナン(Simpang Kanan)川を下って農産物をシンキルの市場に持ち込んだ。木材・籐・コプラ・天然樹脂・樟脳などだ。それらの物産はおよそ百キロほど南に下った国際商港であるバルスに海路運ばれ、そこから中国・インド・アラブの商人が持つ大型商船に積み込まれてそれぞれの本国に運ばれて行った。そのようにして栄えていたシンキルの町が海中に没したと言えば、ギリシャの哲人プラトンが書き残したアトランティスの故事が否応なく連想されるにちがいない。
シンキルの町がいつ海底に沈んだのか、はっきりした記録はない。1865年に自伝を書き残したパリアマンの商人ムハンマッ・サレ・ダトッ・オランカヤブサールはシンキルの町の悲惨な末路について、こう記している。
1861年初頭のころ、かれは商品を携えてシンキルの町に赴き、数日間シンキルの市場で商売を営み、そしてパリアマンに帰ってきた。そのわずか数日後、シンキルの市場が地震とともに襲ってきたガロロのために海の底に沈んだという噂話がパリアマン一円に広まった。椰子の木でいっぱいだったジャウィジャウィ島は跡形もなく消え去り、シンキル市場ばかりか墓地や人家などありとあらゆるものが陸地に押し寄せてきた海水によって押し流された。ひとびとはその身ひとつを抱えてシンキルの南方に向かって命からがらに遁走したそうだ。
ガロロというのはインドネシア語のgeloraに対応する言葉のようで、つまりは津波のことを意味しているらしい。かつて栄えたシンキルの町はこうして19世紀中葉に滅び、ひとびとはシンキル川の河口を避けて、そこからモーターボートでおよそ45分くらい遡った場所に新たな町を作った。現在のシンキルの町がそれであり、昔の町と区別する必要がある場合はシンキルバル、シンキルラマと呼んで混乱を避けている。
シンキルラマを訪れると、人間の生活臭を感じさせるものは見当たらず、海岸の砂浜には枯れ木が林立し、根を海面下に張ったまま倒れる日を待っているようなものも数多い。この辺りは昔、海岸線から離れた密林だったそうだが、波打ち寄せる砂浜に枯れ木の立ち並ぶ光景はこの世にあるまじき異界を感じさせるものがある。
ところがシンキルバルもシンキルラマの運命をたどる様相を呈し始めたのだ。2004年12月26日のマグニチュード9.1というスマトラ島沖地震でスマトラ島北西沖にあるニアス島からインド領のアンダマン諸島北端までの広範囲で隆起・沈降・水平移動といった地面のずれが観測され、シンキルもその影響から無縁ではなかった。そして2005年3月28日に起こったマグニチュード8.6の地震という二度の大打撃によって、シンキルラマはもとよりシンキルバルまでもが海に向かって沈没していったのである。
スマトラ島が載っているユーラシアプレートの下にインド洋側のインドオーストラリアプレートが潜り込んでおり、そこに蓄積されたエネルギーがはじけたときにインドオーストラリアプレート側の陸地は隆起し、ユーラシアプレート側の陸地は沈降する。インドネシア科学院地震学者ダニー・ヒルマンは、2005年3月の地震でニアス島西岸は3メートル、シムルエ島は1.5メートル隆起したことを報告している。一方シンキルは0.5から1.5メートル沈降した。沈んだ陸地に海水が浸入し、3千軒を超える住宅が浸水した。住民の一部は自宅を放棄して移転したが、床をかさ上げした家も少なくない。
「ここは以前、魚市場で、とても賑わっていたんだ。わしの家はもう三度も床を高くした。どんどん天井に近付いてるよ。」引っ越す気はまだない、とがんばっている住民のひとりは、海に沈んでいく故郷シンキルの未来に暗い表情を向けている。


「国語としてのインドネシア語を日本が与えた」(2012年11月24日)
アリフ・ダニヤ・ムンシという人の書いた「インドネシア語の九割は外来語」という書物の中の日本語の章には、あまり意外なものは出てこない。大多数のインドネシア人が生活に密接に関連する場で日本人を知った最初は日本軍の来寇からであり、それ以前の時代ではVOC初期の日本人傭兵や琉球船乗り、あるいは明治以降の娼館やトコジュパンから鉱山や農園事業などに関連して一部の地元民が接触するだけの存在でしかなかったにちがいない。特に太平洋戦争勃発前からスラバヤのクンバンジュプンで一世を風靡した日本娼館が、たとえ限られた範囲にせよ日本文化を示すものとして一部のひとびとの関心を引いた。その関連で人口に膾炙した日本語は、サケを飲み、客がくればタイコを打ち、宴席ではキモノを着た女がシャミセンを弾き、お床入りではキモノを脱いだ女が添い寝してヨナキするというようなもので、クンバンジュプンを題材にとったインドネシア語の小説には必ずそれらの言葉が登場する。
さて北東からやってきた黄色い小鶏が青眼の白い水牛を追い払って古いジャワの予言を実現させたのだが、蘭領東インドに住む全領民が日本人の統治に直面したとき、オランダ植民地行政の圧制払拭というユーフォリアは短期間のうちに崩壊したようだ。まあ、大日本帝国が周辺世界を相手に全方面で孤軍奮闘している時代に、占領地で民生と経済優先の統治が行われうるはずがないことは、ちょっと考えればすぐにわかることではある。戦場に送るためにコメをはじめさまざまなものが徴発され供出を命じられ、着るものがなくなってゴムのシートを領民たちは身にまとっていたというような話は枚挙にいとまがない。ソロでは「ありがとうございます」をもじってKari katok goceki, Mas. という文句が人口に膾炙したとアリフ氏は書いている。「残ったパンツだけはしっかりつかんどけよ、マ〜ス」という意味のジャワ語で、どんなに貧窮にあえいでも「性器を他人に見せるのは文明人としての面目丸つぶれ」というかれらの価値観がそこに示されているように思える。そして物資だけでなく人間までが徴用されて戦場に送られ、ヘイホとジュウグンイアンフという言葉は悪夢のようなあの時代のシンボルとしてインドネシア語の中にいまだに根を張っている。
中でも日本の軍政監部が全領民に強制した皇居に向かってのサイケイレイは、かれらがこれまで信奉してきた宗教と正面衝突した。おかげで宗教を尊重する形でイスラムを放任してきたオランダ人の株が上がることになった。現人神はかれらが受け入れられないコンセプトだったわけである。文明というレベルでは確かに差があるのだが、この一事に関してはその上下が逆転してしまったということだ。
鬼畜米英のスローガンに従って、インドネシア語でも類似のものが作られた。Inggris kita linggis, Amerika kita setrika!そうやってひとつの価値観がわけのわからない世代の精神に刷り込まれていくことで、独立宣言以後の独立ゲリラ闘争を支えるエネルギーのひとつになったのではないかとわたしは思う。一般に言われている「日本がインドネシア人に独立宣言を行わせ、インドネシア人に独立を与えた」という表現はその後の独立ゲリラ闘争がまったく視野に入っていない歴史知らずの言い草でしかあるまい。独立ゲリラ闘争と外交で一度宣言した独立を守り通したインドネシア人が、宣言したことと実力で守り通したことの軽重をどうはかるかは、おのずと明らかだろう。
日本軍政時代に学校では日本語が教えられ、当時小中学生時代を過ごしたインドネシア人の中には、まだ教えられた日本語を覚えているひともいる。しかし単語と簡単な構文が言えるだけで、日本語での意思疎通は不可能なケースが普通だ。そうしてそれらの言語に関する記憶は名実ともにインドネシア共和国が誕生したあと、すべてが時の流れのかなたに消え去ってしまった。しかし今でもインドネシア語大辞典の中に出ている日本語もある。キモノはその代表格だ。コドモはインドネシア語にならなかったが、マナド語に取り込まれている。
インドネシア人にとっては、どちらかと言えば苦い印象の濃い日本軍政時代だが、かれらが絶対的に賞賛するいくつかのできごとのひとつにインドネシア語が公用語にされたことがある。その日から、インドネシア語はこの広大な国家を統一するための国語として、第一歩を踏み出したのである。


「インドネシア最長の古文書」(2013年1月19日)
全長5.75メートル幅21.5センチというインドネシアで最長の巻物と推定される古文書が西スマトラ州パダンパリアマン県で発見された。ナガリパカンダガンにある礼拝所、マトアイエという名のスラウで発見されたその巻物は19世紀のものと推定されている。シェッ・マトアイエという人物は19世紀の人であり、また使われている紙は18世紀かもしくは19世紀初頭に作られたものだそうだ。
書かれている文字はアラビア文字で、ムスリム一般への教え・預言者についての賛辞・イドゥルアドハとイドゥルフィトリの意義・宗教知識に関する論争への意見などといった、ムスリムが授けられるべきさまざまな教えがアラブ語で記載されている。本文は黒と赤のインクで書かれ、本文の周囲は植物のモチーフを使った彩飾が施されている。
これまで最長の巻物とされていたのは、やはり西スマトラ州プシシルスラタン県で見つかったインドロプロのスルタン家の系図を内容とするもので、全長5.45メートル幅71センチというサイズ。この系図もマトアイエの書と同じ時代に作られており、その当時この地方で作られていた古文書の体裁に同じ傾向があったことをうかがわせている。
マトアイエの書が発見されたのは、アンダラス大学文化学部韻文研究グループが行なっているミナンカバウ古文書リスト作り・カタログ作成・デジタル記録活動のたまもの。


「栄光と絶滅の狭間に残ったキナ農園」(2013年8月10日)
マラリアの特効薬キニーネという言葉は今でも語り伝えられているようだ。第二次大戦ごろまでは「唯一の」という形容詞がついていたが、合成医薬品が登場してからはキニーネの市場価値も低下したにちがいない。
合成品が登場するまで、世界のキニーネ需要の9割はインドネシア産(当時は蘭領東インド)で占められていたそうである。しかも当時プリアガン(Priangan)と呼ばれていたバンドン周辺の高原地帯がその生産のメインを占めた。もともと南米のアンデス山脈に自生していたキナの樹木がインドネシアに植えられたのはオランダ植民地政庁の政策だったようだが、その実現に貢献したのがドイツ人フランツ・ヴィルヘルム・ユンフンだ。
ペルーからひそかに持ち出された苗木が気候の似ているプリアガンの山々に切り開かれた農園に植えられた。海抜1千4百メートルで気温が22〜23℃という気候はキナの樹木の生育に適合していた。既にインドネシアの気候と地形を調べていたユンフンは1855年にキナの樹木を植え付け、キナの大農園群を設けることに成功する。バンドンを都とするプリアガン地方の周辺部は、茶の大生産地でもある。このプリアガン地方に都を建設することをダンデルス総督が1810年に決定した。ヨーロッパ人にとって風光明媚で住みやすい都を建設するために、当時の欧風都市計画の粋を集めて作られたのがこのバンドンの街であり、オランダ人は胸を張ってその街をジャワのパリと呼んだ。
ユンフンは晩年、自分の半生を過ごした愛するプリアガンの地に住み、1864年にレンバンで没した。死の床にあったユンフンは医師に寝室の窓を開くよう求め、間近にそびえるタンクバンプラフ火山に別れの言葉を告げたそうだ。
それからおよそ百年間、蘭領東インドはキニーネの大供給国として一世を風靡する。しかしその後の半世紀にインドネシア共和国が歩んだ歴史は、キニーネに関する限り没落の軌跡だったようだ。独立後、オランダ資産の接収を行なった共和国政府は、各地に国有会社を設立して農園の管理運営を行なわせた。時代の流れの中で各地の国有農園会社は合併や事業の転換などを経験して今日に至っている。その中の第8ヌサンタラ農園会社が持っているバンドン県チレンクラン郡チパンジュル村のブキットゥングル農園だけが、今インドネシアに残されている唯一のキナ農園だ。こうなるまでは、第8ヌサンタラ農園会社の13農園3千Haでキナが栽培されていた。それが今ではわずか一ヶ所7百Haにまで減少してしまっている。
ブキットゥングル農園マネージャーは、キナの樹皮をはぐ工程が間違っていたため、キナ生産の没落が早まったと物語る。かつてはキナの樹木を切り倒して樹皮をはいでいた。大量生産が行われていれば、順繰りに伐採〜植樹というサイクルを繰り返すことで間断なく生産量が確保されるが、植樹から収穫まで3年を必要とするため栽培面積が狭くなるとジリ貧になってしまう。今では、次の収穫までのサイクルを短くするために樹木全体を切り倒すことはしなくなっているのだが、その手法をもっと早く導入しておくべきだった、とマネージャー氏は述懐している。 国内に唯一残ったこのキナ農園はキニーネの原料生産を行なっているだけで、それをキニーネに加工するのはPT Sinkona Indonesia Lestariの領分だ。同社の持っている生産能力を商業ベースに載せるには、ブキットゥングル農園から納入される乾燥キナ樹皮の粉末ではまったく足りない。そのためにシンコナ社はケニヤから加工原料を輸入しているのだ。ブキットゥングル農園からの原料は同社の需要のわずか3%でしかない。
第8ヌサンタラ農園会社では、優良輸出商品である茶・ゴム・パーム椰子に陽が当たっている。キナ農園には毎月50Ha分の予算しか降りてこない。それでもキナ農園が続けられているのは、インドネシアの多様な植生資産のひとつを絶滅させてはならないという義務感のなせるわざであるにちがいない。


「古傷をかき回し続けるのはだれ?」(2014年2月12日)
ある国が他国を軍事攻撃あるいは侵略した歴史上の事件に関連して、何十年も前にその攻撃あるいは侵略に関する決着はついているというのに、その時代にまだ生まれていなかった加害国のひとびとが今ごろになってその攻撃や侵略を正当化しようとする姿勢が強さを増しているように感じられる。一方、その攻撃や侵略を受けた国でも、その時代に被害者になったひとびとはそのような事件の終了後、一応の決着をつけたはずなのだが、かれらの次の世代のひとびとがそのことをあらためて問題にする姿勢も強まっているように感じられる。これは一体何を意味しているのだろうか?
東アジアでくすぶり続けているそのような問題とはまた別に、インドネシアとシンガポール間にもその種の古傷がある。1963年8月に英国がマラヤとシンガポールそしてサバとサラワクを合併させてマレーシア連邦の形成をはかったとき、当時のスカルノ、インドネシア大統領がそれを新植民地主義政策であるとして激しい対決姿勢を採り、軍事行動を起こした。カリマンタンではサバとサラワクに向かう軍民の進攻がイギリス軍とオーストラリア軍に阻まれ、およそ2千人が死亡したとされている。またマラヤ半島南部に落下傘部隊が数回にわたって降下し、ゲリラ戦を展開しようとしたが、鎮圧された。そんな軍事行動のひとつに、英国の牙城シンガポールのオーチャードロードにそびえる英国支配のシンボル、マクドナルドハウス爆破作戦があった。
インドネシア海軍海兵隊員ハルン・サイッとウスマン・ハジ・モハマッ・アリの二人は密命を帯びてシンガポールに潜入し、時限爆弾を使って各所を爆破する撹乱作戦を実行した。最も大きい爆発は1965年3月10日午後3時7分にマクドナルドハウスで起こったもので、10階のリフト近くに置かれた強力爆弾が爆発して三人が死亡し、33人が負傷した。
シンガポール警察はその四日後にふたりを逮捕し、裁判で死刑が宣告されてふたりは刑場の露と消えた。しかしインドネシア国内でそのふたりは1968年の大統領決定書によって国家英雄に祭り上げられ、今は南ジャカルタのカリバタ英雄墓地に葬られている。そしてインドネシア海軍はイギリスに発注した三隻の最新鋭軽フリゲート艦のひとつにウスマン・ハルンという艦名をつけたのである。
それに関連してシンガポール政府はインドネシア政府にクレームをつけたが、インドネシア政府は名称変更の意志がないことを表明した。すると2014年2月11〜16日に開催されるシンガポールエアーショーへのインドネシア政府国防相と国軍総司令官の招待をシンガポール政府が取消してきた。取消し連絡に明白な理由は添えられていなかったが、インドネシアとシンガポール両国のだれが見ても、その理由は言わずもがなであるかのようだ。


「北スラウェシ州は元スペイン領」(2014年9月25・26日)
北スラウェシ州はミナハサ族の地。そこから真北に向かって点々と並ぶサギヘ=タラウド(Sangihe Talaud)の島々に住むひとびとはまた別種族だが、そこを飛び石伝いに北上すれば、ミンダナオ島に達する。ミンダナオ島を中心とするフィリピン南部地方とスラウェシ島北部地方はもともとスペインがフィリピンを領有した時代にひとつの領域として見られていた。つまりフィリピンを統治していたスペイン人たちは、北スラウェシ地方を自分たちの穀倉にしてスペイン領とし、フィリピンの延長線上で行政統治を行っていたのである。必然的に、マナドにはスペイン人総督が着任して支配権をふるい、スペイン系のひとびとの入植が行われた。だからマナド語にはスペイン語由来の単語がたくさん含まれている。
後になってスペイン人がスラウェシ島北部地方から撤退し、代ってオランダ人が領有地域の境界を確定させるためにマナドに行政府を置いてミンダナオとこの地域の結びつきを形式上分断したが、文化的に結合していた原住民たちはその間のつながりを持続させた。サギヘ=タラウド島民がフィリピンと北スラウェシ州の間を自由に往来して両国間の物資を交易し、インドネシアルピアとフィリピンペソが両建てで通用していた事実は、オルバ期が終わった後ですら世間周知の事実になっていた。
在ダヴァオ市インドネシア総領事館のデータによれば、フィリピンで生活しているサギヘ=タラウド住民はおよそ2万人いる。かれらは主にヘネラルサントス(General Santos)、バラド(Balad)、サランガニ(Sarangani)など南部地方に集中しており、定住して何十年も経過しているひとが多く、ほとんど地元民と化していると言って過言でない。ところがフィリピン政府はかれらをあくまでも外国人居住者として扱い、外国人登録証を持つよう義務付けている。外国人登録証は有効期限が一年間で、居住し続けるために毎年更新しなければならない。費用は146フィリピンペソ、およそ4万4千ルピア相当だ。
ベルナルド・プルさん48歳はダヴァオ市で働いている。故郷のサギヘ=タラウド島での生活に戻る気はなく、15年前にダヴァオの女性と結婚してフィリピンへの帰化を申請したが、いつまでたっても帰化の承認がおりない。三人の子供が生まれ、出生地の国籍が子供たちに与えられているが、父親のかれは依然として外国人のままだ。
同じ境遇のハユン・ムスタキンさん63歳は1968年にダヴァオに住み着いた。フィリピンで生活しているサギへ=タラウド出身者の大半は貧困漁民や農民だ、とかれは語る。「みんな、ここでの生活に満足しており、善良に暮らしている。外国人登録証の手続きを知らないひとも一部におり、かれらは自分のステータスがはっきりしていないことを理解していない。」
そんな漁民が故郷のサギへ=タラウド諸島まで領海線を越えて漁獲にやってきたとき、フィリピン漁船が密漁を行っているとしてインドネシアの警備艇に捕らえられることは十分にありうることだ。ところが拿捕されたらかれらは、自分はインドネシア国民だと言い張るために、末端現場の官憲は対応に苦慮することになる。北スラウェシ州から国家行政に向けられたこの問題の処理要請にジャカルタの中央政府が動き出す気配はいまだにない。
そういう現場での曖昧な状況がミンダナオ島の捕獲漁業の一助をなしているという見方は僻目だろうか?ミンダナオの水産業は有力産品としてツナ加工品を抱えているが、その原材料であるツナの多くは北スラウェシ州領海内で捕獲されたものだ、と州水産業界者は語っている。もちろん、ビトゥンの漁船が捕獲したものが合法的にミンダナオの水産加工業界に輸出されているのが大部分を占めているに違いないが、非合法のものが皆無であるという保証がどこにもないのも確かな話だ。
それはともかくとして、ビトゥンと中国を結ぶ貨物航路が動き始めたことが、ミンダナオの水産業界に新たな進展をもたらすことになった。この貨物航路は北スラウェシ〜ミンダナオ〜広州〜台湾を結んで南北を往復するため、ミンダナオにとっては商品発掘のための奥座敷ができたようなものになる。先に多数の商社やメーカーがダヴァオ市から北スラウェシ州に一次産品買付けの訪問団を送り込んできたが、次いでフィリピンのRDコーポレーションがビトゥンに1兆ルピアをかけて水産加工工場を建設する計画を持ち込んできた。工場は2014年内に完成させて、2015年から稼動が開始されることになっている。スラウェシ海域はフィリピン海域よりもツナの漁獲量が豊かであり、RDコーポレーションはツナ加工品をインドネシアで生産しインドネシアから輸出するという事業方針を立て、インドネシアより数歩前を行く水産加工技術をビトゥンに持ち込んでビジネスを拡大させようとしている。
ツナは数千キロを回遊し、成魚となってスラウェシ海域に達するため、この海域はツナの捕獲漁業の宝庫になっている。北スラウェシ州水産局長は、地元海域は世界最大のツナの漁場であり、だからこそ世界中の水産業界がこの海域を目指してやってくるのだ、と断言している。これまでビトゥンのツナ産業は、日本向けに刺身用としてツナ鮮魚を日製1〜2トン輸出し、また欧米向けにも輸出が行われていたが、フィリピン資本の参入によって規模の大幅な拡大がもたらされることが期待されている。


「ボロブドゥル発見2百周年」(2014年11月26〜28日)
ジャワ島中部のボロブドゥル村で樹木と藪の中に石造りの丘のような古代遺跡が発見されたとの報告がサー・トーマス・スタンフォード・ラッフルズ総督のもとに届いたのは1814年のこと。つまり今年はチャンディボロブドゥル発見二百年目に当たる。総督はHCコルネリウスにその調査を命じた。総督は1817年に著した書物「ジャワの歴史」の中でその遺跡に言及しており、国際社会にそれが紹介されたはじまりだとされている。そして1873年になってやっと、チャンディボロブドゥルのモノグラフが世間に発表された。
オランダ東インド植民地政庁は1900年にチャンディボロブドゥルの復元と保存を決定する。遺跡の復元作業は1907年に開始され、遺跡の周囲を埋め尽くしていた土が取り除かれて崩れて散らばっていた石や石像が集められ、テオドール・ファン・エルプがリーダーを務めた復元チームは1911年にその任務を終えた。1926年に再修復が開始されたが、1940年の世界不況で頓挫した。
1950年代になって、チャンディボロブドゥルに崩壊の危機が訪れたため、インドネシア政府は国連に援助を要請し、1956年に国連派遣の専門家による調査が開始された。修復方法に関する提言に従って、インドネシア政府は1963年に修復作業実施を決めたものの、1965年の政変でそれは白紙に戻されてしまった。
1968年、スクモノ教授がフランスで開催された第15回会議で「ボロブドゥルを救おう」と呼びかけ、ユネスコがその支援を決定。ユネスコの指導で1972年にボロブドゥル修復のための国際委員会が結成され、インドネシア政府と国際委員会が費用を分担して修復作業が1973年8月10日に開始された。チャンディは一旦完全に解体され、基礎工事と排水工事を行なった上で再びすべての石と石像が組み上げなおされた。
修復工事が完了したあとの1983年2月23日、チャンディボロブドゥルの一般公開が開始された。1985年1月21日、テロリストによるチャンディ爆破事件が発生し、ストゥパ9個と仏像2体に被害が出た。1991年、ユネスコはチャンディボロブドゥルを世界文化遺産に認定。2010年11月、北東およそ28キロの距離にあるムラピ火山の噴火で火山灰が2.5cmの厚さに降り積もる。清掃とメンテナンスのために閉鎖されたが、短期間のうちに再開されている。
チャンディボロブドゥルはサイレンドラ王朝のサマラトゥンガ王の時代に建立されたもので、760〜825年ごろ仏教徒の詣でる大マンダラとして使われていたようだが、その後放置されて使われなくなり、土の中に埋もれてしまった。その原因が何であったのかは、いまだに諸説紛々としている。しかし、ジャワ人の間で完全に忘れ去られてしまったのかというとそうでもなく、14世紀に書かれたナガラクルタガマにはブドゥルという名称で登場しているし、18世紀にはジャワ年代記やマタラム年代記の中でルディボロブドゥルという名で登場している。ルディとは山を意味するジャワ語であり、恐怖を抱かせるニュアンスを伴って書かれている。
ボロブドゥル発見2百年を記念して、国有郵便会社ポスインドネシアが11月15日に記念切手を発行した。8種類のデザインから成るこのシリーズはすべて1814年に発見されたチャンディボロブドゥルとそれを世界に知ろ示したラッフルズ総督の功績を描いたもので、2万枚が発行されて世界195カ国に送られる。初日カバーには観光大臣、教育文化大臣、中部ジャワ州知事、在インドネシア英国大使館代表者がサインしている。
世界最大の仏教建築物遺跡と言われているチャンディボロブドゥルの保存は、それがオープンスペースにあり、一般公開され、そして遠くない場所に火山がたくさんあるといった諸条件によって困難がいや増しになっている。何世紀もの時代を経てきた石が腐食分解してチャンディが崩壊すれば、遺跡の保存は不可能になる。大勢の観光客は埃や汚れを建造物にもたらし、また石段を踏みしめるために磨耗が起こる。磨耗は場所によって異なっており、2ミリから2センチが削り取られていくそうだ。チャンディ管理者はその対策として、木製の踏み板を石の階段に敷くことを検討しており、まずトライアルとして南側と西側の三層の階段の一部に5センチ厚のチーク材で作られた踏み板を敷いた。管理者はそれに関するチャンディボロブドゥル訪問者からの意見を質問状とインタビューで集めており、その反応を取りまとめた上で12月に開かれる専門家を集めた検討会にかける予定にしている。
チャンディボロブドゥルの三層の階段に敷かれる5センチ厚のチーク材の踏み板は、耐久性から言えばウリン(ulin =鉄木)の方が適切と思われるものの、トライアルはチークが使われている。インドネシア大学考古学者の意見では、石段の磨耗対策は敷き板だけでなく、石の磨耗を最小限にできる素材で作られたサンダルを履くことをチャンディに入る訪問者に義務付ける方法も考えられるし、またチャンディ全体の負荷を軽減させるために入場者の人数制限を行なうことも併用されてよい、とのこと。2012年のチャンディボロブドゥル入場者は3百万人、2013年は350万人であり、観光客誘致方針はいやがうえにもその数を増加させることになる。
2010年ムラピ火山噴火のあと、チャンディ保存の見地から、第8層から10層までは入場者数制限が行なわれて現在に至っている。しかし来訪者数は増加の一途をたどっているわけで、チャンディの上層階で入場者制限が行なわれたなら、下層では反対に滞留する人数が増加する結果になるのは疑いもない。第2層第3層での混雑振りや、チャンディ周辺の村々にも来訪者が大勢集まり、より広範なエリアで地面に与えられている負担の増加がどのようになっているかということも、対策のメスがふるわれる必要項目であると想像される。
チャンディボロブドゥル建造物の保存に対する大敵は、他にもいくつかある。塩分が石の組織を破壊する問題がそのひとつ。雨が降ったあと、石に染みこんだ雨水が急激に蒸発して塩分を残留させる。残留塩分は硬化して石の組織に悪影響をもたらす。おまけに水分の蒸発が急激に起こるため、石の表面で一種の爆発現象が起こって組織に穴をあける。また、全国的に活発化している火山活動の一環で、ほど近いムラピ火山の噴火が頻度を増しており、上空に吹き上げられた火山灰はチャンディに降り積もって硫黄分が組織を腐食する。それらの対策を注意深く入念に行なわなければならない。現在、ユネスコが派遣したドイツ人専門家が助手二人を伴って滞在しており、ヨグヤカルタの文化遺産保存館専門家たちと共同でチャンディボロブドゥルのメンテナンスに取り組んでいる。
2000年ごろまでは、保存技術の中で化学薬品を使うことが世界的に行なわれていたが、自然環境保護思想が高まってきたことで保存技術の淘汰が進んだ。ボロブドゥルでもそれは同じだ。定期的に化学薬品を使うようなことはもう行なっていない、と文化遺産保存館長は語る。「石の表面についたコケや汚れを化学的に殺すようなことはやめ、統御だけ行なうような方向性に変わっている。定期的な石の清掃はブラシがけのドライ方式と水で洗い流すウエット方式が主体だ。石面レリーフはドライ方式だけが使われ、ウエット方式は床面を対象にして埃や観光客の履物についてきた土を洗い流すのに使われている。火山灰の清掃だけは、化学薬品の助けがいる。硫黄分を蒸発させるためにベーキングパウダーを使うのだ。硫黄分は石の組織の腐食を促すため、この処理を避けることはできない。」
そのような日常的遺跡保存活動に従事する者に、専門的な知識と技術が求められていることは言うに及ばない。ところが、1973年から1983年にかけての修復工事の際に多くの外国人専門家の指導を受けた保存活動従事者たちがいま続々と現役を引退する時期にさしかかってきており、その交代要員をリクルートしているのだが、レベルを維持するのがむつかしい、と文化遺産保存館長は語る。引退者の学歴はほとんどが高卒でしかなく、新規採用は大卒者にしているというのに、若い連中の技術的な能力は先輩たちと比較して顕著な差が見られるとのこと。文化遺産保存館はかれらの育成にもっと力を注がなければならず、また優秀な人間を増やしてパフォーマンスを高めることが課題のひとつにあがっているのだが、政府の公務員雇用方針に従わなければならないために思うに任せないようだ。
館長はまた別に、地元の伝統技能に則した石造建築物の保存技術がマグランとムンティランの石工たちに継承されていることに触れ、チャンディボロブドゥルの保存にそれが活用できる可能性を秘めていることから、その分野の研究を深めることを提唱している。これまでまだ現代科学の光が当てられたことのない分野であるため、その研究に予算がつけられることは有益かもしれない。
このチャンディボロブドゥルをただの観光スポットにするための保存では物足りないという声も、インドネシアの哲学界にある。ジャワ島の古代仏教文明が残したその遺跡に独自の人間観や宇宙観がまとわりついているのは言うまでもないことであり、それが建造物とともに世の中に復元されることの重要性をドリヤルカラ哲学大学教官は指摘している。


「映画ルックオブサイレンス一般公開禁止」(2015年1月15日)
2014年12月半ばにマラン市地区やヨグヤカルタ市で起こったジョシュア・オッペンハイマー監督の映画作品「ルックオブサイレンス」の上映妨害事件の後を追って、今度は国家機関である映画検閲機関がその映画に対して公共の場における上映を禁止する決定を下したことが再び論争を引き起こしている。
映画検閲機関が12月に出した禁止状第04/DCP.NAS/TLK/LSF.XII/2014号には、映画「ルックオブサイレンス」は映画館での、もしくは不特定対象に対する上映を禁止するという内容が記されている。禁止状にサインした映画検閲機関長官はその上映禁止について、一般大衆に対する上映を禁止しただけであって、特定コミュニティ内で上映されることは禁止していない、と次のように語った。「あらゆる客観性がその映画の中で示されているものに集束しなければならないとは言えない。あの事件に対してインドネシア国民社会の諸コミュニティが持っている見解はまだ異なっているが、自然な形での和解に向かうような努力も払われてきた。そこに何らかの意図的な操作を加える必要はないのではないか。既に行なわれている努力がそのまま進展していくように見守ればよい。その映画は、映画作品の原則・目的・機能から逸脱しているように思われる。そして殺戮事件を物語っている内容がコンフリクトの芽を生み、社会的政治的な緊張を招き、国家保安態勢を弱体化させ、公衆倫理規範から逸脱し、憎悪ビヘイビアと姿勢を植え付けると同時に憎悪を世の中に撒き散らす源泉になるものと評価される。」
しかしその発想パターンはオルバ時代の抑圧的なスタイルと変わるところがなく、オルバ期を崩壊させてレフォルマシ時代に突入したインドネシアの国民民族の基本原理に対する裏切りである、という批判が有識者から続出した。
「映画検閲機関は国民の頭の中を支配して自分の思い通りに操ろうとしている。1965年事件に対してオルバ政権が行なってきたことと同じ教条化と歴史操作がそこに繰り返されている。わが国の中にオルバ時代の遺産が依然として健在であることを示すものだ。」と歴史家JJリザル氏は述べている。
ヨグヤカルタのサナタダルマ大学歴史学者バスカラ・ワルダヤ氏も類似の論調で映画検閲機関を批判した。「この映画の一般公開禁止には社会的・経済的・政治的な利益がからんでいる。それらの利益に深く関わっていない若者、特に大学生が続々とその映画の鑑賞に集まってきているではないか。1965年トラジェディが作った民族の傷を癒すためには、全員がその傷の存在をまず認めることから始まる。それを認めた上で共に対話し、そして共にそれを癒すことが求められている。ジョコ・ウィドド大統領はその傷を癒すことを切望しているように見える。ところがオルバ期の遺産がその実現を困難にしている。」
政府は多様性を護持し、多様性教育と国民間の対話機会を作り出すことを強化し、社会回復を強める、とジョコウィ政権の9基本アジェンダの第9項目に記されていることが、過去に起こった重度人権違反事件に関わる現政権の姿勢を表明している。
国家人権コミッション長官も映画検閲機関の決定を批判し、政府部内でその決定を問題にする意向であることを表明した。長官によれば、その決定は政府の9基本アジェンダに対する違反行為であり、その決定を取消す必要があることに加えて、この民主化時代に映画検閲機関をいつまでも存続させておく必要があるのかどうかについても検討を促す所存であるとのこと。「映画検閲機関はオルバレジームのやり方で国民の頭の中をスパイしている。この民主化の時代に映画はもっと人権尊重を国民に教育するような方向性を持たせるべく映画検閲機関は動かなければならないはずなのに、まるで反対のことが行なわれている。」
強権抑圧政治体勢の中で大きな役割を担っていた機関の原理原則を変えることなくしては、新政治体勢の中でピントのあった働きを期待するほうが無理なのかもしれない。


「重要文化財が焼失」(2015年3月4日)
金徳院。インドネシア表記はKlenteng Jin De Yuan、あるいはインドネシア語化されてWihara Dharma Bhakti と称される。ジャカルタ最古の中国式仏教寺院のひとつだ。創設は1650年ごろとされており、金徳院という名称は当時のバタヴィア華人社会の総元締めたるカピタンチナが1755年に名付けた。折りしも、1740年9月にバタヴィアで発生したVOCによる華人大虐殺とそれに続くジャワ島内での華人戦争のあとのことであり、そこに込められた想いは尋常な深さではなかったにちがいない。
18世紀には18人を超える仏僧が院内に起居し、当時の華人層の誇りを一身に集める寺院だったそうだ。仏教寺院はあらゆる異教の信徒にも開放され、そこへ詣でて祈る者には祝福を与えるのが慣習となっており、そのためにどんな信仰を抱いていようが華人社会の人間にとっては金徳院が華人文化を代表する実体であるとして広く受け入れられていた。それがこの寺院を華人社会のマスコットにしていたことは間違いはないだろう。
西ジャカルタ市グロドッ地区ペタッスンビランという華人街の真っ只中にあるこの寺院には観音像をはじめ幾体かの仏像や武神像が祭られ、華人たちの祭事には境内が埋め尽くされるほどの盛況を示すのが常だった。1846年と1890年に大改装されたあと、この寺院は今日まで命脈を保ってきたが、2015年2月19日から始まった孔子暦2566年中国暦新年の祝祭を祝うろうそくの火が連日絶えることなく灯っていた3月2日未明に、焼失した。
その朝、午前4時ごろ目を覚まして水浴しようとしていた金徳院管理人アレックス氏は、寺院の表が騒がしいので水浴の前に様子を見ようとした。寺院本堂が燃えているのに驚いたかれは、すぐに仏像を救出するために堂内に駆け込み、観音像と他の仏像二体を運び出したが、あとは炎が残った像をなめつくすのを黙って見ている以外になす術がなかった。
失火の原因は、高さ1.5メートルのろうそくが午前3時半ごろに倒れて周囲に火が燃え移ったものと見られている。出火は近隣住民が先に発見し、急いで寺院に駆けつけてきたが、夜は寺院の出入り口を施錠することになっており、管理人が寝入っていたためにひとびとは表で騒ぐことしかできなかった。
アレックス氏によれば、雨季のジャカルタの出水対策として寺院の床を高くする工事が行なわれたために床と天井の距離が昔より近くなっていたことも火の回りが早まるのを促したにちがいない、と残念な表情で物語っている。


「植民地時代の観光地パムンプッ」(2015年4月10日)
西ジャワ州ガルッ(Garut)県のパムンプッ(Pameungpeuk)郡は、オランダ人に人気のある保養地だった。当時のオランダ人夫妻と友人や家族たちがパムンプッの山や海を背景に従えて写っている1920年代ごろの写真が数多く存在することがその事実を物語っている。アムステルダムのトロッペン博物館を訪れたら、それが証明されるにちがいない。そんな写真の中に、ティリー・ヴァイスンボーン(Thilly Weissenborn)の作品もある。1889年に東ジャワのクディリ(Kediri)で生まれ、1964年にオランダで没したドイツ系女性写真家がティリーだ。20年間に渡ってガルッに暮らしたティリーは、パムンプッの風景や地元民あるいはオランダ人やヨーロッパ人を被写体にして、多くの写真を残した。
ティリーが残した写真に見られる風景は今や老人たちの記憶の中にしか残されておらず、多くは様変わりしている。チラウトゥルン(Cilauteureun)海岸でオランダ人と地元民が談笑している写真には、内陸部の農園から茶葉やゴムを海岸まで運ぶためのロリー線路と鉄橋が写っているのだが、今やサントロ(Santolo)ビーチという名称のほうが一般的になっているその砂浜で周囲を見渡しても、線路も鉄橋も、そして終点の船着場も、何ひとつ残っていない、バンドンの大学教官バクティアルさん56歳は、その写真に小学生のころの記憶を重ね合わせて懐かしむ。
チラウトゥルン海岸には珍しい自然現象があったことを、バクティアルさんは覚えている。かれの高校時代まで、それはいつでも目にすることができた。チラウトゥルンというスンダ語はair laut halangi というインドネシア語に翻訳できる。海に注ぐべく流れてきた川の水が1メートルほど高い海に阻まれてストップするように見える現象を言葉にしたものだった。つまりそれは海水が滝になって河口に流れ込んでいる状態であもるわけだ。そのきわめて珍しい自然現象は、漁民が船を川の奥まで乗り入れさせたいという希望を満たすために削り取られて消滅してしまった。ところが漁民たちは、せっかく均された水面で仕事がやりやすくなったかというと、どうやらそうでもなかったらしい。何という愚かなことをしたのだろうか、とバクティアルさんは当時行なわれた行政の失策を今でも残念がっている。
行政の失策はそればかりではない。サヤンフラン海岸(Pantai Sayang Heulang)には長さ3キロにわたって砂丘があったのだが、海岸での行楽の邪魔になるという理由で1980年代に砂丘は削り取られてしまった。今では東のはずれの場所になごりをとどめているにすぎない。おかげでジャワ島で砂丘を見たければ、ヨグヤカルタ特別州パラントリティス海岸へ行く以外にもう砂丘のある場所はない。
オランダ植民地軍はこのパムンプッに軍事基地を設けた。オランダ軍を追い出して軍政を敷いた日本軍も、この基地を継続使用した。おかげで、その一帯では地下壕があちこちに見つかっている。独立インドネシア共和国の時代に入って、そのエリアはしばらく一般市民の立入り禁止区域にされていたが、今は国家航空宇宙院の所轄となり、ロケット打ち上げ実験場として使われている。
パムンプッは海だけではない。北側にあるナガラ山は神秘の色濃い霊場であり、伝説のシリワギ大王が虎の姿でそこを徘徊している、と地元民たちは信じている。
ガルッの町からチカジャンを経由してパムンプッに至る84キロの道路はオランダ時代に作られたものだ。茶・ゴム・キニーネなどの農園作物を海岸まで運ぶためのインフラをオランダ人は重視した。今、それらの農園は昔日の面影を失い、ところどころで小規模なものがかろうじて命脈を保っているにすぎない。しかしパムンプッの景観の美は、昔のままだ。
1920年代ごろのありさまを今に伝えているティリー・ヴァイスンボーンの写真は、パムンプッを含むガルッの町の観光地としての知名度を一躍高めるのに大いに貢献した。トロッペン博物館のティリーの履歴を見ると、かの女は東ジャワのクディリで農園経営をしていたドイツ人夫妻の子供として産まれた。一家は1892年にオランダのハーグに引っ越す。かの女の兄がハーグに写真館を開き、かの女はその兄からフォトグラファーになるための手ほどきを受け、プロの写真家としての道を歩んだ。蘭印に戻るとスラバヤの写真スタジオ「オー・クルクジアン&Co」で三十人もの写真家のひとりとしてキャリヤーを積み、独立してからガルッの町で写真スタジオFoto Luxの経営に参加し、最終的にそれを自分のものにした。1930年には自分の会社としてNV Lux Fotograaf Atelier の看板を掲げて多くの作品を残した。
日本軍の軍政下にティリーは1943年バンドンの抑留キャンプに収容され、終戦までガルッの自分の会社がどうなっているのかわからないままだった。解放されてガルッに戻ったとき、かの女が自分の会社のあった場所に見出したのは建物が消滅したただの空地だった。しかし作品の一部はなんとか回収され、アムステルダムに運ばれた。ティリーの写真集は151ページの「Indische Fotos (1917-1943) von Thilly Weisenborn」というタイトルで出版されている。


「チャンディを愉しむ」(2015年10月5日)
グーグルアースのストリートビュー機能がインドネシアでも充実してきている。ビジネスエリアだけでなく、ついに住宅地区へも入り込みはじめた。ジャカルタやバリ島南部はかなり広範囲にカバーされているようなので、お愉しみいただけるのではないだろうか。
このストリートビューはその名の通り、ストリートとその地点周辺の景色を360度見せてくれるものであり、だからストリートビューというのはストリートだけが対象になっているということだ。しかしそれだけではもったいない。チャンディボロブドゥルのような歴史遺産にして著名な観光スポットのパノラマビューをオンラインで見ることができればどんなに素晴らしいことだろう。
ということで、グーグルインドネシアは自らのイニシアティブでそんな企画を進めている。ジャワ島内にある11ヶ所のチャンディに15枚のレンズを備えたストリートビュートレッカーと命名された大型カメラを持ち込み、人間がそれを背負って撮影しながら周回する方法でビューを取得する。
対象になった11のチャンディは次の通り。
Candi Borobudur
Candi Barong
Candi Ijo
Candi Kalasan
Candi Mendut
Candi Pawon
Candi Prambanan
Candi Ratu Boko
Candi Sambisari
Candi Sari
Candi Sewu
ただし、現物を愉しむこともお忘れなく。


「プレマン(前)」(2016年5月16・17日)
ライター: 語義論研究者、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2015年7月25日付けコンパス紙 "Preman"

プレマン(preman)がオランダ語フレイマン(vrijman)つまり英語のフリーマン(freeman)に由来していることはみんな知っている。フリーは自由、マンは人で、自由人だ。プレマンをpre-manに由来すると言うひともいる。つまり人間以前ということだ。表情やふるまいが人間になる前の類人猿的であり、粗暴さはサル並みだから、というのが理由だ。しかしこの説はあまりにもこじつけっぽく、文書化された根拠が提示されないかぎり、考慮に入れる必要はないと思う。
フリーマンという語はヨーロッパで長い歴史を持っている。生れてから死ぬまでひとりひとりの社会階層を永久に定めてしまう中世王国の硬直的な社会で、その厳格なヒエラルキーに分類しきれない集団がいた。自分の土地を持つ地方部の農民集団がおり、土地を持つがゆえにかれらの運命は支配者貴族層の欲するところに百パーセント依存することがなかった。都市部では商人や専門的な工人がいて、かれらの生活も上位階層に百パーセント依存していなかった。要するに、フリーマンというのは支配者貴族層でなく、またサーバント階層でもなく、同様に支配者貴族層の土地を耕す小作農でもないひとびとに与えられた用語であり、かれらの一部は比較的自由な暮らしをし、独立した国民であると認められたがゆえに特定の政治上の権利を与えられていたのである。
かつてはサーバント階層から半歩上を行っているだけと見られていたその自由人集団はついに、経済的な力を持つ階層となるのに成功した。時代が下ってヨーロッパにミドルクラスが出現したとき、その母体になったのがかれらであり、ミドルクラスが最終的に(断頭処刑の有無は別にして)貴族層を打倒し、今や世界諸民族の基本原理あるいは国家リーダーがそれを望んでいない国では国民の希望の星になっているデモクラシー社会システムを生み出した。もちろん、かれら自由人を嫌う人々もいた。都市部では興味深い展開が繰り広げられた。都市あるいは要塞都市はborough, burgh, burg,等々の名称で呼ばれた。サッカー狂ならもちろんMiddlesbroughやHamburgという言葉におなじみだろう。都市に住んで成功した自由人はbourgeoisと呼ばれた。生産財所有者であるかれらに対するカール・マルクスの見解をわれわれは知っている。今日までもブルジョアという単語は、自分より豊かで繁栄している人間を罵る際の特別な罵倒語になっているのだ。
ヌサンタラには昔から、貴族や支配階層でなく、また王やスルタンに絶対服従する一般大衆でもないひとびとがいた。かれらは闘士であり、大衆が惧れ畏敬する強者だった。往々にしてかれらは、余所のカンプンを襲って略奪する一方、余所の闘士が自分のカンプンを襲いにくれば自らを盾にして襲撃に対抗し、自分のカンプンを保護した。盗賊であると同時に英雄でもあったのだ。
かれらは、住民に保安税の支払いを強制して他の犯罪から住民を保護するという警備システムを制度化した組織的犯罪集団であり、大衆の安寧より国家の安寧を、また大衆の自由や正義より支配の永続性を重視する国家?支配者にとって、役に立つ存在だった。かれら闘士(決して一般大衆ではない)の自由度とヨーロッパのフリーマンの自由度が同列であることは容易に見て取れる。こうしてかれらにプレマンの語が呈された。とはいえ、職業と専門性の違いによって、プレマンという語には犯罪のにおいが密着している。フリーマンは社会に貢献する生産的活動と専門性を持っている一方、プレマンは腕力と刃物で他人の生産物を略奪する。つまり社会の寄生虫なのだ。
一部のプレマン組織は、市場・オフィス街・商店街・ターミナル・その他の公共スペースにおける治安と秩序統制の実現に当たって警察や軍隊と公式に協力している。そこでは、国民の税金でまかなわれている国家の公式治安機構が職務の一部を外部者、つまり地元民が(仕方なく)資金をまかなっているプレマン組織、に移管しているのである。ユスフ・カラ副大統領はかつてプムダパンチャシラの大集会において、インドネシア社会におけるプレマン組織の機能を称賛した。自分のカンプンを他のカンプンからの脅威から保護するという本来的な性格のゆえに、多くのプレマン組織は種族的内部結束が強い。
所変われば言葉の意義が変わるという一例がこれだ。フレイマンからプレマンに、ヨーロッパからインドネシアに、自由市民から強盗のいとこであるアーバンファイター・強者・ごろつきにして組織的犯罪集団に、デモクラシーの闘士・人間の対等と平等の信奉者・ユニバーサルな自由の守護者から民衆に忌避される雇われ治安秩序統制者・国家治安機構に放置され仲間にされ・副大統領に称賛され・超デモクラシー諸計画を実践したい政党が評価し必要性を認めるものに。


「動き始めたPKIの亡霊」(2016年5月23〜25日)
首都警察は2016年5月8日、南ジャカルタ市ブロッケム(Blok M)にあるブロッケムスクエアとモールブロッケム内のTシャツショップを捜索し、法律に抵触するデザインを施したTシャツ1ダースを押収するとともに、店番ひとりとショップオーナーを連行して取調べを行った。
法律に抵触するデザインの描かれたTシャツというのは、ドイツのメタルバンド「クリーター」のロゴと画像の入ったもので、色は目立たないものの、中央に鎌と槌が描かれている。鎌と槌というのは、言うまでもなく共産主義のシンボルマークであり、1966年以降非合法化された共産主義を宣伝するものという解釈は可能だ。
店番はそのTシャツが3ヵ月くらい前から販売されていると取調べに供述したが、ショップオーナーの供述によれば、そのデザインはインターネットからダウンロードしたもので、一年ほど前から販売しはじめたが、消費者にはあまり人気がない、とのこと。
警察は問題の商品を押収し、かれら重要参考人の調書を作った上で、店番とショップオーナーをその日のうちに釈放した。国家安全保障に関わるような内容ではないと首都警察が判断したためではあるまいか。
共産主義非合法化は1965年に起こった9.30事件の結果定められたものだ。10月1日未明に起こった将軍たちの拉致と殺害がPKI(インドネシア共産党)の糸引くクーデター行動であると定義付けられ、反クーデター軍事行動の成功に続いて赤狩りが全国展開されて、軍とその手先になった反共国民による共産主義者の粛清(大量殺戮)という民族的災厄へと発展して行った。社会生活・経済生活において怨恨を買ったり邪魔者とされていた一般市民が、共産主義者でもないのにアカのレッテルを貼られて虐殺された例は枚挙にいとまがないようだ。実際にはそのような性質の事件であったものも、赤狩りの血の海の中の一滴として一般国民には認識されている。1965年のその民族的災厄の正確で客観的な解析はいまだに行われておらず、オルバ政府が定義付けたところの「凶悪」思想である共産主義がその原因だったという理解が大多数国民の間に流布している。宗教をアヘンとして排斥した共産主義/マルクス=レーニン主義に対するムスリム中流層の反発は根強いものがあり、インドネシア史の中で散発的に発生した共産主義者の暴力革命が反発を憎悪と敵対意識に高めたことが、民族的災厄という結果を招いた重要な要素だったのは明らかだろう。
そんな経緯が、宗教的な人間のあり方が善であり正義であるという民族的常識を築き上げるのに一役買ったようだ。政府が公式に認めた宗教の信徒が善き国民なのであり、無宗教無神論の人間は共産主義者を含めて人間的に劣悪な国民の屑でしかない、という観念がパンチャシラに支えられて国民の頭の中を支配した。この種のインドネシア型国民感情や常識は、オルバ期初期の国民管理行政の中でたいへん強く固められていったわけで、そのようにして注入された価値観はいまだに根強く生き続けている。
1966年国民協議会決定第25号は、インドネシア国内における共産主義思想の禁止、インドネシア共産党の解散、共産主義/マルクス=レーニン主義思想を広め、あるいは発展させるためのあらゆる活動の禁止、を定めており、今日現在もその規定は生き続けている。また現行の刑法典第107条でも、国家保安に対する侵害行為の中に、共産主義/マルクス=レーニン主義思想を広め、あるいは発展させるためのあらゆる活動が含まれている。その禁止思想を広め、あるいはパンチャシラ理念を損なう者は、最高20年の入獄刑に処せられる。
9.30事件の延長線上に起こった大量殺戮に関連する種々の映画が国外で制作され、そこから派生して共産主義関連のシンボルがあちこちの媒体で目に付くようになっている。そして、その現象がヒューマニズムの外衣に包まれてインドネシア国民の前に供されつつある。その状況が一方にあり、そして別の一方には、国民の総意という旗印のもとに作られた1966年国民協議会決定第25号がいまだに改訂も廃止もされないまま生き続けている。
共産主義を想起させるシンボルマークの使用はTシャツであれ、他のメディアであれ、法確立の観点から法的措置を採る必要があり、それは映画に関しても同じように適用されなければならない、とジョコウィ大統領はバドロディン・ハイティ国家警察長官に指示した。現代世界ではアナクロニズムとしか見えないその動きは、法律条文を文字通り執行するという法確立原理の実践以外のなにものでもなく、やはり全世界から轟轟たる非難を受けている見せしめ死刑執行にも通じているものだろうと思われる。
大統領の指示に関連して国警長官は、国民生活の中で発生する共産主義思想の匂いのする諸活動の現場における監督は、国軍の支援のもとに警察治安要員が法的アプローチで実施する、と語っている。しかし歴史学者や大学研究者の多くがジョコウィ大統領の法執行姿勢に懸念を抱いているのも事実だ。
インドネシア文化の中にある法治感覚の緩さは、これまでの歴代大統領が見せてきたものとたいした落差がない。つまり、国家生活国民生活の秩序と法律条文の文字通りの執行という両天秤の針が前者に傾いているのが従来の政治原理であるとするなら、合理主義者であるジョコウィ大統領の天秤の針は傾きが反対になっている。その一事は死刑執行問題で明瞭に示されたが、今回は共産主義思想問題で同じものが出現しているわけだ。
9.30事件が産み落とした民族的災厄は、殺した側と殺された側の間でいまだに和解ができておらず、共産主義云々より前に民族両派間の和解を成立させることが先決問題だという意見が知識層を中心にして強まっている。そのために国外で制作されたいくつかの映画を通して国民全般が起こった事件の詳細を知り、特に殺した側と殺された側の遺族や子孫が起こった事件を適切に位置付けて、共通理解を基盤にしてそれぞれの生き方を構築していくことが重要なのであり、その中に和解の可能性が転がっている、という見解だ。
しかし現在までのところ、9.30事件をテーマにした映画は映画検閲機関が国内上映禁止を命じ、さらにまた、人権保護民間団体が私的上映と討論会を計画するたびに警察から映写会の取りやめが命じられている。警察の取りやめ命令の理由は共産主義云々でなく、反共民間団体による暴力襲撃を未然に防ぐためとなっており、現実に反共民間団体が上映委員会の事務所に乗り込んで威嚇する事件も繰り返されている。
上のような展開に関連してユスフ・カラ副大統領はグローバル世界の状況を指摘しながら、共産主義思想が成育し発展するような国はもうないのではないか、と語った。
「多くの共産主義国で共産主義は失敗しているのであり、まだそれが残っているのは北朝鮮の一国だけだ。たくさんの国が共産主義国だったが、みんな変わってしまった。共産党の一党独裁を続けている国もあるが、性質ははるかに民主的になっている。最近インドネシア共産党を想起させるシンボルが目に付くようになってきたが、それは大衆の注意を引きつけるための手段だろう。共産主義は失敗であったことが証明されており、共産主義で運営されていた諸国はみんなその様式をやめている。」
国警長官は共産主義に関連する物品の対応として、市場での取締り方式よりも捜査取調べ活動に重点を置く意向を明らかにした。書籍や映画などについても捜査を重点とし、その結果違法要因が明らかになった場合に法的措置を取る、とのこと。「書店・キャンパス・印刷所などで書籍・印刷物を没収しないよう、全職制に指示した。大衆組織やグループが勝手にそのようなことをするのも許さない。共産主義思想関連書籍が世の中で流通していれば、警察はその一部を入手して最高検察庁に提出し、その内容を調査し判断してもらう。映画については、警察は専門家に助力を仰ぎ、共産主義思想宣伝の要素の有無を判断してもらう。」
ナフダトゥルウラマ中央執行部会長イマム・アジズ師は共産主義思想宣伝について、インドネシアの民衆は精神的に成熟しており、容易に扇動されることはない、と述べた。「共産主義のシンボルに対する法曹現場職員の過剰な統制は、9.30事件の完璧な決着に対して反生産的なものになる。民衆の中に知的で批判的なひとびとがたくさん育っている。かれらが共産主義の亡霊に影響されることはない。われわれは今、あの民族的災厄の解決策を探し求めているのであり、法曹現場職員が反生産的な行動を行って状況をかき混ぜることのないようにしてほしい。ナフダトゥルウラマは既に9.30事件の実態掘り起こしと関係者の和解を進めることに賛成と支援を表明しているのだ。」
人権国家コミッションや民間団体が進めている9.30事件の真実の姿と国民和解の努力の波間に、共産主義思想非合法化の根拠が正当だったのかどうかという問題が見え隠れしている。その努力が進められることは、見え隠れしているものを白日の下にさらけ出すことになる。「凶悪」思想として50年間、国家国民の嫌悪の的とされ、その思想のせいで犯罪者にされたインドネシア国民がいないわけでもない。それを支えてきた価値観が覆されることが起こるなら、50年間の過ちに対する清算が付随することになるだろう。そんなことを望まない勢力が今現在、この国の中に存在しているのも確かなことだ。
オルラ期からインドネシア共産党との勢力争いを続けてきた軍部にとって、問題は決して容易なものでない。リャミサル・リャフドゥ防衛大臣は、見え隠れしているものを白日下に引き出すようなことをするべきではない、と述べている。
「その問題が全貌を見せれば、諸方面の間で騒動が起こり、国家の安全を脅かしかねない。インドネシア共産党などもはや存在しない、という発言をしている者を国民はそのまま信用しないように。なぜなら、インドネシア共産党再生の動きが観測されているからだ。国を護るのは、国民ひとりひとりがそのポジションに応じて行うべき権利であり、同時に義務でもあるのだ。」
軍は共産主義/マルクス=レーニン主義思想の書物や宣伝物を一片残さず総没収するのが普通だ。軍はどの法規を根拠にしてそれを行ってきたのかという報道関係者の質問に対して防衛大臣は、法律でなく憲法に従って行っている、と答えている。更に思想宣伝物品への対策を軍が行っているのはどうしてか、という問いについても、それが警察のドメインであるのは明らかだが、軍は警察のバックアップをしており、警察がすべてやりおおせないために協力しているという回答を示した。


「PKI再興だって?」(2016年5月26・27日)
ライター: シャリフヒダヤトゥラ国立イスラム教大学教授、インドネシア科学アカデミー文化委員会メンバー、アジュマルディ・アズラ
ソース: 2016年5月17日付けコンパス紙 "PKI Bangkit Kembali?"

PKI(インドネシア共産党)とあらゆる形態のマルキシズム・レニニズム・コミュニズムの禁止を命ずる1966年暫定国民協議会決定第25号の布告を後にもたらしたG30S/PKI事件から半世紀以上が経過している。その長い年月の間、PKIに関する論争はインドネシア社会で絶えたことがない。
ジョコ・ウィドド政権が発足してから、PKI再興に関するイシューが公共スペースを満たすようになった。特にソーシャルメディアで、PKI復活の動きを示すと思われるトピック・噂話・ゴシップ・写真あるいは画像がたくさん散見されている。だがソーシャルメディアに流れているトピック・噂話・ゴシップ・写真などは往々にして、常識では考えられないものが含まれている。たとえば、どぎつく真っ赤に塗られた鎌と槌で飾られたバス停の写真のように。公共スペースにだれがそのようなバス停を作り得るだろうか?
人権問題主導層が全国的あるいは国際的なレベルで行う大会・セミナー・シンポジウムの増加もその疑惑を煽っている。例をあげるなら、2015年4月半ばにデンハーグで「1965年大虐殺:真実のとばりを開き、正義を求める」と題するセミナーが開催されたこと。
大きな話題を呼んだ別の例は、去る4月18日にジャカルタで開かれた1965年国民シンポジウムだ。PKI関係者と疑われたひとびとの虐殺に国が関与したので、国は謝罪と和解を通してその事件の決着をはからなければならないとの結論がそのシンポジウムで出された。そのシンポジウムは強い反発を招いた。それに反対する元国軍高官だった退役軍人層はリャミサル・リャフドゥ国防大臣のバックアップのもとに、4月の1965年国民シンポジウムは容認できないものであると反論し、16年6月初めに別のシンポジウムを開催すると表明している。
そんな不穏を増す状況に対して国政上層部は異なる姿勢を見せている。PKIの党員やシンパの死体を大量に埋めた穴の発掘が提案され、ジョコウィ大統領はそれを承認したが、国防大臣はその提案を拒否した。噂やゴシップとは違って、大統領はPKIに対する謝罪は(まだ)考えていないと表明し、PKIと共産主義が国禁事項である点をリマインドしている。
一方、警察は書籍や鎌と槌と描いたTシャツなどをますます精力的に没収し、関係者と見られる者を拘留している。ジョコウィ大統領は警察に対し、共産主義宣伝の動きを抑止するように指示したと言うのだ。しかし最近になって大統領は治安要員の抑圧対応をやめるように命じ、共産主義宣伝防止対策の中においても思想の自由は優先されなければならないと言明している。
PKIや他の共産主義形態が復活しうるのだろうか、という問いは投げかけられずには済まないだろう。現在のような自由化時代にPKIは復興するにちがいないと思っているインドネシア国民は数多い。反対にユスフ・カラ副大統領は、インドネシアでPKIや共産主義が復活するとは思えない、と述べた。
共産主義イデオロギーは多くの国で失敗したことが実証済であり、ロシアのような大国から東欧の諸国に至るまで、共産主義思想を用いている国はもうないし、中国の共産主義も、あるレベルまでのデモクラシーシステムが取り入れられて変容している。「いまだに残っている唯一の共産主義国は北朝鮮だけだ。」
カラ副大統領の議論は問題をクリヤーするに至らない。その問題に関する学術的研究は、多かれ少なかれ似たような結論を出している。オックスフォード大学政治学教授のアーチー・ブラウン氏は2011年のベストセラー著作「共産主義の勃興と没落」の中で、共産主義は破算して幻想的な中身のないイデオロギーと化した、と結論付けた。どこかの国で共産主義が再興する機会はもう存在せず、ましてや国際的なレベルにおいておや、ということだ。
もちろん、資本主義の失敗や破算に関する広範な反対論議もある。そしてそれが共産主義の復活に誘導的な環境をもたらしていると言うのだ。しかし現場の実態は、拡大し続けるグローバリゼーションのために、中国のような公式に共産主義思想を立国基盤に置いている国ですら資本主義の強まりを示しており、自由主義経済の方向性に背を向けることはできなくなっている。
成長を続けるインドネシア経済は、多少鈍化しているとはいえ、大量のミドルクラス階層を出現させた。種々の推定によれば、少なくとも2億5千万国民のほぼ半分がミドルクラスだとされている。かれらは比較的満ち足りた暮らしを愉しみ、安全を望み、危険を避ける傾向が強いため、革命的な共産主義イデオロギーに誘惑される傾向は小さいだろう。
そのポイントから実態を見るかぎり、共産主義がチャンスを持ちうるのは、経済格差・貧困・失業が激化した場合だけだろう。インドネシア共和国がPKI再興の機会を小さいものにしようと望むなら、今後の宿題と責務は国民の間の経済格差の是正・貧困撲滅・失業廃絶の実現なのである。


「PKI非合法化の位置付け」(2016年5月30・31日)
ライター: 1998〜1999年在任インドネシア共和国法務大臣、ムラディ
ソース: 2016年5月25日付けコンパス紙 "Kontroversi Tap XXV/MPRS/66"

現在の共産主義/マルクスレーニン主義思想の宣伝と開発の禁止に関する議論は、各論者の背景にある利害に密着している。この議論が起こる理由の中に、50年前に発生したG30S/PKIのすさまじさを体験した世代と、その体験を持たない世代の理解の差が存在している。自己や家族あるいは所属集団がPKIあるいはアンチPKIの犠牲になったという要素も関わっている。共産主義/マルクスレーニン主義思想が国際的に失敗して滅んだので、法執行が基本的人権と衝突すると考える一派があるかもしれない。
一方、イデオロギーは決して死滅せず、1926・1948・1965年の経験に鑑みて、インドネシアにおける共産主義/マルクスレーニン主義運動はパンチャシラ思想に対する不変の脅威を形成しており、それはインドネシア独特の政治トラウマになっていて、ロシアや東欧など他の諸国と同一視することはできないと考えている一派もある。ましてや、中国や北朝鮮ではそのイデオロギーがいまだに奉じられているのだから。
< 民族統合のツール >
暫定国民協議会決定第25/MPRS/1966号は当時最高位の法的決定であり、国民の統一と団結を粉砕したG30S/PKI後の民族の動揺を克服するための効果的な統合およびコンフリクト決着のメカニズムとして機能した。
その暫定国民協議会決定によってPKI(インドネシア共産党)は解散させられ、インドネシア共和国の全領土において非合法組織とされ、また共産主義/マルクスレーニン主義思想の宣伝と開発のためのあらゆる活動も禁止された。
当時の現場における法執行のために、強力だが民主的でないオルデラマの遺産である法律が用意されていた。すなわち、最初は1963年大統領決定書第11号だったものが昇格した「国家転覆活動の撲滅」に関する法律第11/PNPS/1963号であり、1969年法律第5号のベースになったものだ。
この法律は執行が容易であり、しばしばsapu jagadあるいはpukat harimauとあだ名されている。そのわけは、立証が容易な挙動犯という内容になっていることに加えて、禁止行為の定義がたいへん伸縮自在で多義的であり、広範な領域をカバーでき、活用度が高く、曖昧性のゆえに犯罪化が可能だったからだ。(総括的/多目的法律)
この法律の中には法確定原理にそぐわない、厳密・確実でない用語がたくさん使われている。たとえば、次のようなことを誘導する行為を含めて、パンチャシラ主義を転覆させ、破壊し、逸脱すること、というような表現だ。G30S/PKIに関連する事件やその他の政治犯罪事件の多くは、この法律に依拠して判決が下されている。
それどころか最高検察庁長官には、法的プロセスなしに容疑者を一年間拘留する権限が与えられた。刑罰は死刑・終身刑・20年以下の入獄が用意されている。
< 実定法 >
その暫定国民協議会決定第25/MPRS/1966号は、今後は公正さ、法尊重・デモクラシー原理・基本的人権を踏まえて行われることという注意書きを伴う暫定国民協議会決定第5/MPRS/1973号と国民協議会決定第1/MPR/1973号を根拠にして施行が続けられている。レフォルマシ期に入って、BJハビビ政府のとき、法律第11/PNPS/1963号を廃止する1999年法律第26号が制定され、更に1999年法律第27号が制定された。
1999年法律第27号では、共産主義/マルクスレーニン主義思想の宣伝と開発の犯罪化(禁止)は維持されたが、それは国家安全保障に対する犯罪の一部として、刑法典第107a条から107f条として付加される形で定義の改善と位置付けの変更がなされた。その禁令が守られなければならない暫定国民協議会決定第25/MPRS/1966号に基づく実定法による刑事犯罪であり続けていることを、その対応は示しているのである。
特定の経験的アスペクトを考慮して、その犯罪化は依然として継続しているように見える。その中には、国家保安と国家理念の守護、国民生活への潜在的脅威の存在、国民からの支持の存在、妥当性と適切さの存在、システム性、他のファシリティが妥当でない(最後の法的手段)、バランスが取れている、といった要素が含まれている。
現在、刑法典改定案が国会で審議されており、そこでは明らかな学術活動を意図と目的にする共産主義/マルクスレーニン主義思想の研究者は刑罰適用外とすることを明文化する検討が行われている。刑法典改定の中で、共産主義/マルクスレーニン主義思想の宣伝と開発の刑事犯罪行為は、国防保安に対する犯罪の一部分をなす国家理念に対する犯罪という位置付けが検討されている。
< 法執行の標識 >
民主化という環境下で、共産主義/マルクスレーニン主義思想の宣伝と開発の禁止に対する実定法執行は、次の三項目に留意しながら持続的に遂行されなければならない。
第一、インドネシア的で特定的な性質の犯罪化は、ユニバーサルであれ1945年憲法に沿ったものであれ、基本的人権に即したものでなければならない。インドネシア政府がインドネシア共和国1945年憲法第28条すなわち第28条Jに基づいて2005年法律第12号として批准した1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約第19条によれば、結社・集会・口頭文書での意見表明の自由等は、他者の権利と自由を保証し承認し、公正さの要求を満たすという目的のみのために、民主的社会のモラル・宗教・保安・公共秩序を考慮した上で法律によって制限することができる。
第二、1999年法律第28号に基づく国家運営の基本原理は、法確定原理・国家運営秩序統制原理・公共利益原理・公開原理・均衡原理・専門性原理・責任原理をカバーしている。
第三、非合法政党であるPKIとあらゆる形態の共産主義/マルクスレーニン主義思想の宣伝と開発という行為の意味に関する帰結といった、刑法違反行為要素を解釈する専門家の証言。だから、鎌と槌のロゴやPKIの文字が描かれたTシャツ販売・グンジュルグンジュルの唄を歌う・映画「ブル島、わが故郷」の上映・共産主義/マルクスレーニン主義思想が臭う書籍の流通や制作などが、明白に違法行為に該当するのかどうか?
第四、学術活動を意図するあらゆる行為は正当化されなければならないという見解の強まり。
それらの項目に関連して、国家警察長官から全現場担当者への指示は明白なものでなければならず、また前もって国民一般への広範な説得的予防的社会告知が伴われなければならない。そうすることで、効果的な法執行が実現するだろう。
それとは別に、憲法裁判所への暫定国民協議会決定第25/MPRS/1966号と1999年法律第27号に関する司法審査請求の扉が常に開かれていることも忘れてはならないものだ。


「5月暴動は暴動にあらず」(2016年8月4日)
集団コンフリクトの中で、女性は往々にして性的・社会的・経済的・政治的暴力の犠牲者になる。女性の肉体が敵集団のシンボルとされるがために、敵集団女性の肉体を穢すことが、敵集団を粉砕し打ち負かすことと同一視されるのだ。それはテロ集団ボコハラムの脅威にさらされているナイジェリアの例のみならず、インドネシアでも起こっているものだ。1998年5月のトラジェディのように。
「5月暴動では、性暴行が華人系女性や顔つきが華人風に見えるインドネシア女性に対して行われた。当時の政府はそれを放置した。」反女性への暴力国家コミッションの女性コミッショナーは16年5月14日に行われた被害者鎮魂式でそう発言した。
5月暴動では、東ジャカルタ市クレンデルのモールヨグヤが略奪され、略奪を扇動された者たちがモール内にひしめいているときにモールに火が放たれたため、大勢が焼死した。類似のことは離れたエリアにあるモールでも行われた。鎮魂式には性暴行を受けた本人やその遺族、またモール内で焼け死んだ若者たちの遺族などが参加した。ジャカルタ副都知事も出席し、5月暴動は人道犯罪である、と断言した。
華人系や華人風の女性が性暴行の対象にされたのは、経済クライシスと国民の経済格差を押し広げた元凶と目された華人社会および印華人に対する威嚇と報復を示すものだと女性コミッショナーは語った。5月暴動事実調査チームは、性暴行被害者女性を85人発見した。そのうちの52人は複数の男にレイプされている。コミッションに対して被害を届け出た女性の大半は、法曹機関に対して届けを出そうとしない。
5月暴動は貧困化をも招いた。息子がモール内で焼死したことで、父親は絶望し、トラウマを抱えてその後の人生を送るようになった一家がある。仕事はもう手に着かない。一家の生活を支えてきた人間が、異常な事件のために精神的に廃人になってしまったのだ。
父親はその事件が起こるまで、東ジャカルタ市ジャティヌガラにある屠殺場で働いていた。そして中学を卒業してまだ四日目の息子はモールヨグヤの4階で焼死した。「息子は仲間と一緒に騒ぎを見物しにモールに行った。そのとき野次馬を中に入るように誘っている男がいた。みんなは中に入り、誘った男はどこかへ姿を消した。みんなが4階まで登ったとき、1階が突然火の海になった。上の階にいた者たちは逃げ道を失い、焼け死んだ。」母親はそう物語った。
父親は大きなショックを受けて絶望し、腑抜けのようになって、仕事を続けられなくなった。母親が残った6人の子供たちと父親の生計を支えるしか道はなかった。それ以来、母親は家庭プンバントゥ・洗濯女・マッサージ女の三つの仕事をかけもって働き続けている。昔は父親ひとりの稼ぎで、ひと月に一度は肉を食べることができた。しかし今は、豆腐とテンペと即席麺の毎日だそうだ。加えて、死んだ息子の墓の維持費が出費を増やしている。
5月暴動の犠牲者とその遺族の生活を、政府は保障しなければならない、と被害者ネットワークを構築してその救済に力を貸している民間団体役員は語る。5月暴動は単なる暴動やタウランでなく、社会犯罪であることを政府はまず認め、その上で被害者への救済措置を講じていかなければならない、と役員は述べている。