「バタヴィア港」


1.バタヴィア港

バタヴィアの港。
オランダ東インド会社(VOC)が建設したバタヴィアの町の表玄関がそのバタヴィア港だ。今ではジャカルタとその名を変えているバタヴィアの港はかつて、ジャカルタ北岸の中央部、旧バタヴィア市街の北端にある、今スンダクラパ(Sunda Kelapa)と呼ばれている場所にあった。
ジャワの他地方やスマトラ、スラウェシ、あるいはカリマンタンから資材を運んできたフィニシ帆船が集まっている、あのアンティークな雰囲気に満ちた埠頭がかつてのバタヴィア港だったのである。しかしスンダクラパ港は今でも生き続けている港だ。

古来からの帆船が積荷を輸送している姿は歴史の生き証人としての相貌を垣間見せてくれるものだが、スンダクラパ港の機能はそれだけにとどまっていない。毎日およそ三百隻のフィニシ帆船が集まってくるその埠頭とは別に、ずっとその奥に入っていくとジャカルタ湾にそのまま面した埠頭があって、もっと大きな動力船が接岸して荷役しているありさまを目にすることができる。スンダクラパ港は文化遺産であることにとどまらず、現代のインドネシア経済にも依然として関与しているのである。


もちろん、かつてのバタヴィア港にジャカルタ湾に面する埠頭はなかった。バタヴィア港というのは、そのフィニシ帆船が集まっている埠頭を指している。かつてインド洋から東アジアまでの海と海岸をわがもの顔に疾駆したVOC商船隊の本拠地であるバタヴィアの港があんなものでしかなかったのか、という意外な念に襲われたひとは、きっとわたしだけではあるまい。

フィニシ船の集まっている埠頭と対岸が形成している細長い水路は、両岸が埋め立てられた結果、北へ北へと伸びていったものだ。古い歴史の当初には、スンダクラパ港もなければパサルイカン(Pasar Ikan)の出っ張りもなく、更にはプンジャリガン(Penjaringan)地区の大きな半島部すらなかった。そこにあったのは、砂浜と海、そしてボゴール丘陵からジャカルタ湾に流れ込んでくるチリウン川(Sungai Ciliwung)の河口だけだったのである。

ジャワ島の川はほとんどが土砂を運んでくる。放置すれば川は浅くなって船舶の航行に障害をもたらす。浚渫作業はひっきりなしに行われた。今でさえ雨期が近づいてくれば、ジャカルタの水害常習地区を流れる川という川では、川の底ざらえが行われている。チリウン川が住民にもたらす宿命がきっとそれだったにちがいない。
チリウン河口を浚渫すれば、すくった泥や土砂は両岸に積み上げられたことだろう。年々同じことが行われたなら、そこに水路が出現するのは容易に想像できるはずだ。こうしてバタヴィア港はオランダ人がハーフェンカナール(Haven Kanaal)と呼んだその水路とともに、沖へ沖へと伸びて行った。

そもそも、パジャジャラン王国時代の有力港のひとつだったカラパ(Kalapa)、1527年にファタヒラ(Fatahillah)別名ファレテハン(Faleteahan)による征服でバンテン王国の属領として生まれ変わったジャヤカルタ(Jayakarta)、また1619年にヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)に征服されてVOCのアジアにおける根拠地としての運命をたどるようになったこのバタヴィアの町。
そのいずれの時代においても、帆船による通商の時代にもっとも重要な位置を占めたのが港であり、町は港を支えるための存在だった。その意味で、町と港の一体性は疑いようのない絶対条件であったと言える。バタヴィアの町が今で言う旧バタヴィア市街であったころのスンダクラパ港は、バタヴィアの町が南部へ広がっていくに連れて規模のバランスが崩れてしまい、ついには1886年にずっと東のタンジュンプリオッ(Tanjung Priok)に大型海港の新設を強いる結果となった。町と港の一体性はそんな事実にも反映されているようだ。


2.チリウン河口

パンラゴ山(Gunung Pangrango)に源を発するチリウン川がボゴール丘陵地帯を下って北上し、猖獗の熱帯湿地原を形作りながらジャワ海に、いやジャワ海の一部分をなしているジャカルタ湾に流れ込む、その河口にできた天然の要港がカラパの、そしてジャヤカルタの港だった。そこがバタヴィア港となっても本質的な違いは生じなかったとはいえ、オランダ人は湿地や川を埋め立て、運河を掘り、また川を改修するなどして、かれらが熱帯の地で営む暮らしを改善することに努めた。そのためにバタヴィア時代に入ってからは、この地域一帯の状況は変化を続け、その変化の伝統はオランダ人が去ってからもインドネシア共和国の中で営々と続けられている。

チリウン川が上流から運んでくる泥土は、長い年月の間に平地に堆積して川底を浅くし、洲を作った。雨季乾季の水量の差、定常的な川の氾濫。平地は一大湿地原となり、高まった小丘や固い土地がところどころに島のように浮かぶ。ジャカルタの地名の中に、rawa, pulo, tanjungなどのような水に関連する地名がたくさん見つかることが、その事実を証明しているかのようだ。そのようにして形成されたジャカルタの地質は、豊富な地下水と水はけの悪さという、同じ根から出た便不便をかこつ宿命をこの地の住人に負わせているのではないだろうか。

港もその泥土の襲来から免れることはできない。チリウン川の河口や周辺の岸辺では、沖に向かって遠浅の環境がおのずと作られていく。河口に近いチリウン川一帯では、バタヴィア時代の初期まで水量次第で外洋船が乗り入れていたものの、日ごとに川底をせりあげてくる自然の猛威には勝てず、造船技術の進歩による船舶の大型化も相まって、陸地への接岸なしにボートやはしけによる沖合での乗降や荷役へと様式が変化していった。大海原を乗り越えてきた船は座礁しない程度に陸地に接近して投錨すると、乗客や貨物を上陸させるために小型船がその間を往復したのである。しかしそんな方式では、陸揚げされる貨物の大きさや重さに限界が生じる。外洋航行する大型船が直接陸地に接岸し、クレーンを使って巨大な重量物を陸揚げできる港が必要となるのは時間の問題でしかなかった。こうして1886年にタンジュンプリオッ港が誕生し、バタヴィア港は海の玄関口としての使命を終えることになった。


1631年ごろ、VOCはバタヴィアの町の中央を貫通するチリウン川を改修してまっすぐな流れに変え、今日われわれが目にするあのカリブサール(Kali Besar)の姿になった。そのころ船はまだ市街の中まで進入し、川岸で荷役を行っていたようだ。河口近くの西岸には造船所が1632年に作られ、小型からせいぜい中型の船までを建造や修理してはカリブサールに浮かべていた。大型船の場合は、1618年以来VOCがプラウスリブのひとつオンルスト島(Pulau onrust)に設けた造船所が使われていた。

ともあれ、VOCがアジアに築き上げた通商網の軸に位置付けられたバタヴィアには、東は長崎の出島から西は南アフリカのケープタウン、そしてテルナーテやバンダからペルシャ湾に至る各地の港からさまざまな物資が集まって頑丈に造られた大きな倉庫に蓄えられ、ヨーロッパで高い市場価値を持つアジアの産品が年に一〜二度、強力な軍船に守られた大商船団の船倉に詰め込まれてアムステルダム指して出帆して行った。

一方では、VOCの商船は季節風に乗ってアジアの通商網を駆け巡り、ある港で買い付けた交易品を別の港に持ち込んで巨利をあげるという通商輸送活動を手広く行った。その当時バタヴィアは、アジアの富が集まるところ、アジアでもっとも繁栄する港のひとつと謳われた。そのオランダ人たちがやってくるようになった16世紀末のジャヤカルタの港はどのような様子をしていたのだろうか?


今のスンダクラパ港の西側の対岸はパサルイカンと呼ばれる地区であり、パサルイカンの南縁をパキン通り(Jl.Pakin)が東西に走り、通りに沿って南側をカリパキン(Kali Pakin)という名の運河が流れている。パキン通りの東詰めは、スンダクラパ港のゲートからまっすぐ南へ下ってくるクラプ通り(Jl.Kerapu)と更に南へ一路タマンファタヒラ(Taman Fatahillah)を目指して下るトンコル通り(Jl.Tongkol)の三本の道路が形成する三叉路であり、三叉路の少し西が橋になっている。
この橋の下こそが、ジャヤカルタの町に沿って海に流れ込むチリウン川の、その当時の河口だった。つまり、そこに立ってハーフェンカナールに向かい、左手をパキン通りに添わせながら両手を開いたその線が、当時の海岸線だったということだ。その海岸線は時の経過と共に北へ北へと伸びて行って現在に至るというわけだが、それにしてもパキン通りとカリパキンの位置の不自然さに違和感を覚えるひとは、きっとわたしだけではないだろう。

クラプ通りとトンコル通りは二百年近い歳月を経てきた道路で、地形に即した自然さが感じられるのに比べて、パキン通りはいかにもとってつけたような雰囲気がにおい立ってくる。パキン通りが作られたのは1930年代終わりごろであり、それ以前にあの場所を東西に横切る大通りは存在していなかったのだ。おまけにカリパキンの運河が掘られたのは1981年のこと。運河が掘られたことの必然性はそれなりに存在しているし、同様にパキン通りが建設された必然性も個々にあったということだが、それらがひとつの整合性のもとに造られたのでないという事情が、不自然な違和感を醸成している原因であるにちがいない。


3.カスティル バタヴィア

1598年以来バンテンに買付人を置いて交易活動を行っていたオランダ人は、1611年にパゲラン・ジャヤカルタ(Pangeran Jayakarta = ジャヤカルタ王子)ウィジャヤ・クラマから許可を得てチリウン川東岸の湿地帯に貧相な建物を作り、ジャヤカルタでの交易活動を開始した。VOCの十七人会はバンテンに駐在していたヤン・ピーテルスゾーン・クーンを1618年に新総督に任命したので、かれは1619年に前任者から引き継ぎを受けて新総督の座に就いた。この新総督はビジネス競争が激しく且つ為政者による商業統制の厳しいバンテンでの交易活動をジャヤカルタに移そうと考え、計画の実施に着手する。
VOCがジャヤカルタにはじめて建てたチリウン川東岸の貧相な建物ナッソーハイス(Nassau Huis)を強固な石造りの商館に改修し、更にマウリティウスハイス(Mauritius Huis)を増築してその周囲を頑丈な石の城壁で囲み、湿地帯の中に浮かぶ強力な要塞を建設した。これが第一期カスティル(kastil = オランダ語kasteel)である。

そこへ、後追いのイギリス人がオランダ人を追い落とそうとしてジャヤカルタへやってきて、パゲラン・ジャヤカルタと手を組んでオランダ要塞への攻撃姿勢を強め、チリウン川をはさんでVOCのカスティルと対峙する場所に頑丈な木造の商館を建設しはじめた。商館建物の完成が近づくと大砲を設置し、砲口をカスティルに向けたからオランダ人は怒り心頭に発した。そんな至近距離から砲弾を撃ち込まれてはたまらない。

その年12月、カスティル勢は川をおし渡って完成間近いイギリス商館を急襲し、建物を灰にしてしまった。そのイギリス商館が建てられた場所というのは、後のバタヴィア時代にVOC造船所が設けられた地点に当たる。


1628年と1629年にマタラム王国のスルタン・アグン(Sultan Agung)がオランダ人に奪われたバタヴィアに向けて二回の軍事遠征を行ったものの、ロジスティクスの失敗や疫病のために兵士たちがバタバタと病に倒れるといった事情が災いして、強固な城壁に囲まれたバタヴィアの征服は実現しなかった。
そんなジャワからの大軍を迎え撃たなければならなくなったVOCは1627年にバタヴィアの防衛能力を格段に高める対策を余儀なくされた。クーン総督は第一期カスティルを、そのほとんど同じ場所で規模を何倍にも拡張した要塞に建て直したのである。それが第二期カスティルだ。

その第二期カスティルが建てられていた跡は、地図の上からなぞるほうがわかりやすい。ジャカルタ北部の地図を見ると、まずカリブサールの東側にカリチリウン(Kali Ciliwung)がほぼそれと並行して流れていることに気が付くにちがいない。カリチリウンは北上してロダンラヤ通り(Jl.Lodan Raya)に近付いてから西側に傾きを深めて2百数十メートル直進し、再び傾きを元に戻して北に2百メートルほど流れた後、直角に流れを変えて上で指摘したクラプ〜パキン〜トンコル通り三叉路の橋に向かって流れていく。オランダ人がやってきてカスティルを建設したころの海岸線がどこにあったのか、これはその説を支える傍証のひとつでもあるにちがいない。

さて、そのカリブサールとカリチリウンが形成している四辺形が、われわれの想像の目の中に見えてきた。南縁がどこにあるのかははっきりしないものの、正四辺形をそこに描くのはむつかしくない。そう、その四辺形いっぱいにクーン総督が改修させた第二期カスティルが建っていたのである。


ヨーロッパの要塞、つまり城は周囲を堀つまり濠で囲まれているスタイルが伝統パターンのひとつでもある。水の豊富なバタヴィアにその水城(waterkasteel)は十分すぎるほどフィットするものだったにちがいない。バタヴィアのカスティルも当然のようにそのパターンが踏襲された。つまりカスティルの南側にも濠が造られていたのである。カリルアルベンテン(Kali Luar Benteng)という名の濠がその正四辺形のカスティルの南縁をなし、カリブサールとカリチリウンおよび海岸線で四周を囲まれた第二期カスティルの全貌が、こうして浮かび上がって来た。
カリルアルベンテンは1936年に埋め立てられてしまい、現在のような地形に変化した。実に奇妙に感じられる事実としては、もともとチリウン川の本流だったものが改修されてカリブサールとその名を変え、カスティルの濠とするためにチリウン川の支流が作られてオランダ時代にはスターツバイテンフラフツ(Stadsbuitengracht)と呼ばれていた水路が、今ではカリチリウンとしてチリウン川の名を冠しているということがあげられるにちがいない。

その第二期カスティルも、今では跡形もない。イギリス軍のジャワ島進攻に備えて種々の作戦計画を立てた第三十六代総督のダンデルス(Dandaels)が「イギリス人に奪われてかれらの防衛力を高めるよりは・・・」という判断を下して、バタヴィア防衛上の要衝であるカスティルとバタヴィアの市街を取り巻く城壁を1808年に取り壊してしまったためだ。

取り壊されたあとのカスティルはしばらくそのまま放置されていたが、1835年になって残骸は取り片づけられ、きれいに整地されてカスティル広場(Kasteelplein)に姿を変えた。だがすでに南に向かって発展していったバタヴィアの街はウエルテフレーデン(Weltevreden)を中心とすら新たなアップタウンが確立されていて、カスティル広場の有用度は高まらなかったにちがいない。
結局のところカスティル跡地は経済活動の中に組み込まれて行くという結末をたどることになった。そこには倉庫や工場が建てられるようになり、カスティル広場の中を抜けてバタヴィア港へ通じる道路が作られて、この一帯は変哲のない産業地区になってしまう。その道路はオランダ時代にカスティルプレインウェフ(Kasteelpleinweg)と呼ばれていたが、独立インドネシアではトンコル通りと名前が変化している。


4.VOC造船所

カスティル広場の対岸には、1632年にVOC造船所(Timmerwerf der Compagnie)が建設された。クラプ通り〜パキン通り〜トンコル通り三叉路の橋から西に向かってパキン通りを進むと、カリパキンを隔てた向こう側にVOCと大書された田舎の学校の校舎のような建物が見えてくる。そこへ渡るためにカリパキンをまたいでいる橋がそのうちに左手に現れる。そこは南へ下る一方通行の道路、カカップ通り(Jl.Kakap)だ。そしてカカップ通りの左側にある校舎のような建物が造船所の跡。

このカカップ通りとカリブサールにはさまれたおよそ5千平米の土地に乗っている南北120メートル東西40メートルのこの建物は、VOC初期に造られた建築物に共通する、豪勢な素材をたっぷり使ってきわめて頑丈に作られた古い木造建築物のサンプルであり、VOCの権勢をしのばせてくれるものだ。この造船所は1809年に閉鎖されて民間に売却され、しばらくは木工ワークショップとして使われていたが、何度も転売を重ねて最終的に倉庫として使われていた。

1999年12月、オリジナル素材を大部分そのまま残しながら、この二階建ての建物は改装を終えた。チークの太い柱や分厚い天井板をふんだんに目にすることのできるこの建物の中に身を置けば、あたかもVOCが権勢をふるった時代にタイムスリップして行くように感じられてくる。改装なったこの建物はガラガンカパルVOC(Galangan Kapal VOC = VOC造船所)として、レストラン・カフェ・土産物ギャラリーなどのコマーシャルサービスを提供する観光スポットになっている。
ガラガンカパルVOCの中庭は、かつて木工職人やクーリーたちが造船修理を行っていた場所であり、完成した船がそこから川面に向かって押し出されていた。今は、背の高い壁がカリブサールとこの中庭の間を阻んでいる。静かで情趣豊かなこの中庭にたたずむと、すぐ近くにある喧噪のパキン通りがまるで別世界のように思われてくる。数百年の時間を一気に超えて、繁栄を謳歌するバタヴィアの時代にタイムスリップしてみてはいかがだろうか?ちなみに、ガラガンカパルVOCと表示されているそのVOCは、Very Old Cafeのアクロニムである由。

カリブサールの水面を見てもカリパキンを見ても、まるで墨のような水の色にはうんざりさせられるひとも数多いにちがいない。世界最長のゴミ箱とジャカルタ都民が自嘲するチリウン川はありとあらゆる汚物を流し去る水路として昔から住民に利用されてきた。住民人口の増加とそれに伴って発生する経済活動が生み出す廃棄物が幾何級数的に増大していくことは目に見えている。つまり独立インドネシアが地方部諸種族のジャカルタに向かうアーバナイゼーションを促した歴史こそが、ジャカルタの河川汚染の歴史につながっていると言えるにちがいない。


5.ジャヤカルタ

四百年前にはじめてこの地を訪れたオランダ人が目にしたチリウン川は、今われわれが目にするものとはまるで大違いのきれいに澄んだ水だった。16世紀末にジャヤカルタを訪れたオランダ人の書き残した記録を読み返してみることにしよう。


この町の中央を流れる川の水は澄んでいてきれいだ。水夫たちはこの川の水を汲んで、船に蓄えている。ジャヤカルタは低湿地だが、景観は美しい。チリウン川の支流に囲まれた、河口に近い東西5百メートル南北およそ1千メートルの狭い四辺形の土地に築かれたこの町は、民家ばかりか王宮までもが木と竹とそして竹で編んだ壁で作られており、ジャワの他の町と同じように稚拙でみすぼらしい。

陸地はいくつかの島に護られた入江になっており、川には数百トン程度までの商船なら十隻は入ることができる。そんな船はたいていマラヤ・中国・日本などからやってきたものだ。5百トンを超えるヨーロッパ船は海岸で投錨しなければならない。

住民たちはたくさんの鮮魚や干し魚を持って船まで売りに来た。町の周辺にある水田や豊かなヤシの木、あるいはサトウキビなどは住民にありあまる食糧を供給しており、水夫たちもかれらから食糧を買うことができた。

王宮は四辺形の土地の東側に、川岸に沿って造られ、主要な門と門の間は竹矢来でつながれている。いくつもの大きな建造物からなる宮殿も竹と竹編み壁で造られており、屋根は棕櫚葺きだ。王宮の北側にはジャワでアルナルン(alun-alun)と呼ばれている広場があり、広場の周囲に設けられた市場には、朝夕物売りが商品を並べている。

王宮や市場に面した川の対岸(つまりチリウン川東岸)はプチナン(Pecinan)と呼ばれる中国人居留区で、中国人は原住民のものより頑丈な家を建てている。中国人はレンガや瓦、漆喰などの使われた住居に住んでいるが、その一方でおよそ2千世帯すなわち1万人ほどいる原住民の住居は竹と竹編み壁で造られており、沼地の上はもとより地面の上であっても、高潮や雨季の浸水に備えて立てられた竹の柱の上に構築されている。

町の外側は沼地とジャングルであるため住民の住居は川岸に集中しており、内陸部にはほとんどだれも住んでいない。なぜなら内陸部のジャングルはワニ・サイ・象・トラ・野牛・大蛇・コブラ・ムカデ・ヒルなどの危険な生き物で満ち溢れており、原住民でさえよぼどのことがないかぎり、好きこのんで足を踏み入れるような場所ではないからだ。

原住民の成人男子はほとんど全員が短剣や竹槍で武装しており、王は領民から即座に4千人を徴集できる。王宮に沿った川には王の持ち船が4〜5隻停泊している。それらの船はジャワでよく目にするものと類似の構造をしており、下は漕ぎ手、上は兵士が乗るようになっているものと思われるが、停泊中の船は上部を覆って見えないようにしてある。

この町では良質のコショウがたくさん手に入る。ほかにも安息香・メース・樟脳・宝石などが交換されている。ポルトガル人はここまでやってこないので、取引はやりやすい。今の王はコショウを年間三百袋しか売ってくれないが、将来はきっと、もっとたくさん増えるにちがいない。


ジャヤカルタの町は現在のカリブサールとカリジュラケン(Kali Jelakeng)に挟まれた土地にあり、パゲラン・ジャヤカルタが住む王宮は今のコピ通り(Jl.Kopi)と西カリブサール通り(Jl.Kali Besar Barat)の交差点周辺だったように思われる。その北側の鉄道線路辺りが市場になっていたようだ。

ジャヤカルタでももちろん交易は行われていた。安息香・ダイヤ・琥珀・エメラルド・翡翠・陶器・沈香・絹布・真珠・大巻貝・極楽鳥の羽などアジアの珍品とともに、ヨーロッパで需要の大きいコショウもあった。ただ、いかんせん、ジャヤカルタはバンテン王国の属領なのであり、いわば分家にあたるジャヤカルタが本家のバンテンを差し置いて繁栄するようなことを、バンテン王国が許すはずがなかった。
交易市場の規模は格段の差があり、そしてその事実がウィジャヤ・クラマの敵対心を煽っていたのも、まちがいのないところだろう。


6.カラパ

1511年にマラッカを征服したポルトガル人は、そこを根拠地としてアジア海域の通商支配に向かう。言うまでもなくスパイス貿易がその中での目玉になってはいたが、決してスパイスを本国に運び込むことだけを目的にしていたわけではない。ヨーロッパで高く売れるアジアの珍品を本国に運ぶことも、そしてアジアのある国で仕入れた物品がアジアの別の国の港で高く売れるのであれば当然、その取引に精力を注いだ。眼前に横たわっている富をわざわざ見逃す手はないということだ。

スンダと呼ばれるジャワ島西部地方には、昔からスンダ族が作った王国が存在していた。だがスマトラ島のスリウィジャヤ(Sriwijaya)王国の勢力が伸びてくればその支配に降り、東ジャワのマジャパヒッ(Majapahit)王国が攻勢に出てくればそれを宗主に仰ぐといった、覇権にあまり縁のない穏やかな王国として長い歴史を生き延びてきたようだ。

ところが15世紀末になって新たに勃興してきたイスラム王国がヒンドゥ=ブッダ王国のマジャパヒッを滅ぼしてジャワ島のイスラム化を推進しはじめたことから、ジャワ島西部に確固たる地盤を維持してきたヒンドゥ=ブッダ勢力であるスンダ王国はイスラム勢に直接対峙しなければならなくなる。
王国の東端にあってイスラム勢と境を接するチマヌッ(Cimanuk 今のインドラマユ)の町には、16世紀に入るとイスラム教徒が目立って増加してきたし、スンダの諸港を訪れるジャワの商船に乗っているのはムスリムがメインを占め、そのような人的接触によって領民への影響が広まっていくのを完全にシャットアウトできるものでもなかった。

このスンダ王国は北岸部にバンテン、カラパあるいはスンダクラパ、ポンタン(Pontang)、チグデ(Cigede)、タムガラ(Tamgara)、チマヌッなどの港を持ち、ポルトガルに征服される前のマラッカ繁栄期にはマラッカ海峡を通過する幹線交易路の分流を受け入れ、またマラッカで消費されるコメ・肉・魚・野菜・果実などの食糧ならびに国際交易品であるコショウや奴隷の輸出も行っていた。それらスンダ諸港の筆頭はバンテンだったようで、バンテンは輸出基地であるとともに海運業センターとして栄えていた。


マラッカを奪い取ったポルトガル人は、マラッカに集まってきていた通商航路を維持させることに努め、イスラム勢の矢面に立たされたスンダ王国とは特に軍事協定を結んで共通の敵に対決する姿勢を示した。マラッカ現地司令官(Capitao-mor)のジョルジ・ダルブケルケ(Jorge de Albuquerque)はエンリケ・レメ(Henrique Leme)を代表者とする使節団をカラパへ派遣して1522年8月21日に協定の調印を行なわせ、またチリウン川河口東 岸に協定内容を記した石碑を建てさせた。バンテンでなくカラパが協定調印の場に選ばれたのは、カラパのほうがスンダの王都に近い距離にあったことと、そして時のスンダ王であるプラブ・スラウィセサ(Prabu Surawisesa)が王位に就く前に今のジャティヌガラからチリウン川河口一帯の領主であったという事情が関わっていたようだ。トメ・ピレス(Tome Pires)の旅行記には、スンダの王都はカラパの港から二日の行程だったと記されている。

スンダ王国にとって、バンテンはもっとも繁栄する商港であり、政治的にはカラパが重要な港という立場に置かれていたと理解することができそうだ。


7.ファタヒラ

ところが、スンダ王国がポルトガル人と結んだ協定が、イスラム勢力のトップにいたドゥマッ王国(Kesultanan Demak)を強く刺激した。王国第三代目のスルタン・トランゴノ(Tranggono アルファベット綴りではTrenggono, Trangganaなどさまざま)は妹婿のファタヒラ(Fatahillah)に命じて、スンダ王国とポルトガル人の合作を分断する作戦に出た。
マラッカからやってくるポルトガル人と西ジャワ内陸部のスンダ王国の接触を阻むために海岸部を占領すること、つまりバンテンとカラパというスンダ王国の二大港を奪取することである。

このファタヒラなる人物は、別名をファディラ・カーン(Fadhillah Khan)あるいはファラテハン(Falatehan)と称し、スマトラ島北部にあった港市パサイ(Samudera Pasai)の王スルタン・フダ(Sultan Huda)の息子だったという説が有力だ。ポルトガルが1521年にパサイを陥落させたとき、かれは落ち延びてドゥマッへ逃れ、ドゥマッ王家の庇護を得てスルタン・トランゴノの妹ラトゥ・プンバユン(Ratu Pembayun)を妻にし、ドゥマッ軍を率いる将軍となった。ラトゥ・プンバユンは最初、チレボン(Cirebon)のスルタンであるスナン・グヌン・ジャティ・シャリフ・ヒダヤトゥラ(Sunan Gunung Jati Syarif Hidayatullah)の息子パゲラン・ジャヤクラナ(Pangeran Jayakelana)に嫁いでいたが、ジャヤクラナが若くして没したため、未亡人になっていた。1524年にかれはさらに、シャリフ・ヒダヤトゥラの娘、ラトゥ・ウルン・アユ(Ratu Wulung Ayu)を娶っている。

最終的にバンテン攻略軍はチレボンとドゥマッの連合軍となり、総大将がチレボンのスルタンの息子シェッ・マウラナ・ハサヌディン(Syekh Maulana Hasanuddin)で、ファタヒラの指揮するドゥマッ軍はそれを補佐する立場に就いた。バンテン攻略戦は1526年に行われ、イスラム軍が港と周辺領土を占領してそこをチレボン王国の領地とした。バンテン王国が設立されてハサヌディンが初代スルタンの位に座すのは、しばらく後になる。


ファタヒラはその翌年、カラパ進攻を行い、カラパを征服してそこをジャヤカルタと改称し、バンテンの属領と位置付け、自らその地の領主として経営に当たった。ポルトガルが小国であり、人的資源が不足していたことが、ファタヒラに幸いしたようだ。ポルトガルはバンテンよりもカラパに城砦を築く方針を立てていたものの、人手が足りなかったために大した軍勢を駐留させることも、城砦を築くことも延び延びにしていた間にイスラム軍がカラパを奪取してしまったのである。1527年おそくにポルトガル船が城砦建設のためにカラパにやってきたとき、かれらを迎えたのは友好的なスンダ人でなく、攻撃態勢のイスラム兵だった。こうしてポルトガルがマラッカに近いジャワ島西部に基地を持つ機会は永遠に失われてしまう。

カラパがジャヤカルタになった日が1527年6月22日であるとの歴史家の説によって、首都ジャカルタの創設記念日がそのように定められている。ジャヤカルタの版図は西のチサダネ川(Sungai Cisadane)と東のチタルム川(Sungai Citarum)にはさまれた領域で、南はボゴール丘陵に接し、北は海岸線にとどまらず、プラウスリブまでがその領地に含まれていた。


ファタヒラは1564年までジャヤカルタを統治したあと、バンテン王国のスルタン・ハサヌディンの女婿トゥバグス・アンケ(Tubagus Angke)に位を譲った。アンケは1596年まで領主を務めてから、息子のウィジャヤ・クラマを後継者にした。

スンダ王国がどうなったかと言えば、バンテンとジャヤカルタからひっきりなしに押し出してくるイスラム軍の攻勢にさらされてじわじわと領土を奪われ、遷都しながら抵抗を続けてきたものの、スンダ王国最後のマハラジャとなったヌシヤ・ムリヤ(Prabu Nusiya Mulya)のときについに力尽き、1579年に全領土を失ってこのヒンドゥ王朝は崩壊し、西ジャワのイスラム化が完成するのである。


8.オランダ人がバンテンに

バンテン王国がイスラム化した西ジャワの支配者となった。この歴史の流れを見る限り、同じ西ジャワにあるとはいえ、バンテンと他のスンダ地方とは種族的文化的な違いが存在することがわかるだろう。インドネシア共和国独立以来西ジャワ州の中にあったバンテンが2000年に新州として分離したのは、そのような背景があったからにちがいあるまい。


バンテン湾からポンタン海岸にかけてのエリアは高温少雨であり、チバンテン川(Sungai Cibanten)も落差が小さいために水流は緩く、水はよどんでいる。水の入手に困難を抱えていたバンテン王国は、そのための大規模な対策を講じてきた。その結果、水田も増加し、また広大なコショウ畑が開かれて国際交易品のコショウが大量に供給されるようになり、バンテン港は一大開港場として繁栄を謳歌するようになる。コショウ供給を増加させるためにバンテン王国はスンダ海峡を越えてランプン(Lampung)地方まで攻め込み、ランプンを支配下に置いてコショウをバンテン市場に集めることまでした。

バンテンの発展はマラッカの盛衰に多くを負っている。マラッカがポルトガルに奪われてからというもの、イスラム勢力がマラッカ海峡の通過を避けるようになったため、この南洋地域での交易路はマラッカ海峡からスンダ海峡にとって替わられることになった。ジャワ海からスンダ海峡を抜けてインド洋東岸部を通る航路が幹線と化すようになる。スンダ海峡の東口に位置するバンテンにとって、それは願ってもない幸運だった。バンテンのコショウ取引はうなぎのぼりに上昇して行った。


オランダ人がこの南洋にはじめてやってきたのは、ウィジャヤ・クラマがジャヤカルタの領主となった1596年のことだ。

そもそもオランダ人がはるか南洋のジャワ島西部北岸地域にまで航海してきたのは、当時オランダが置かれていた情勢に押し流されてのことだった。そのころオランダ人は支配者であるスペインからの独立をはかって闘争を続けており、スペインはオランダの経済力を弱めようとしてオランダ海運のリスボン入港を禁止した。ポルトガル船が南洋から持ち帰ってくるコショウその他のスパイス類をリスボンからヨーロッパ北部に運搬していたオランダ海運が、その流通ルートの根元をわが手に握ろうと考えるのは当然の成り行きだろう。そうすることによって反対にスペインの経済力が打撃を受ければ、オランダの国家規模でのメリットが増大するのである。

オランダ商業資本が企画した南洋航海で、コルネリス・デ・ハウトマン(Cornelis de Houtman)率いる4隻の船隊がテセル(Texel)港を1595年4月に出帆した。喜望峰を超えてから、一行はポルトガル船を避けるためにマダガスカル島北部からまっすぐスンダ海峡を目指す、大胆でリスクの高い航路を採った。6千キロのインド洋横断行だ。そして砲20門を装備した230トンの新鋭船ホランディア(Hollandia)号とアムステルダム号、 マウリティウス号、ダイフケン(Duyfken)号のオランダ船4隻は1596年6月23日、念願のバンテンに到着したのである。

ハウトマン遠征隊はバンテンで当初穏やかに交易しようとしたが、取引はあまりうまく進まず、荷はそれほど集まらなかった。あせった一行は略奪などの手荒な手段を取り始め、挙句の果てに暴力事件を起こしてバンテン当局に捕らえられ、身代金を支払って釈放されるという事件まで引き起こしている。ところが一説によれば、その暴力沙汰は商品をめぐってのものでなく、バンテン王宮が最新鋭の船を手に入れたいがために一行を毒殺しようとして狡猾な罠をしかけたために、かれらが怒って暴れたのだという話もある。ことの真偽とは無関係に、バンテンではオランダ人ハウトマンの悪評だけが残った。

6カ月近いバンテンでの滞在を切り上げると、ハウトマン船隊は12月13日に東に向かい、ジャヤカルタに入港した。するとシャバンダル(shahbandar 港務長官)がホランディア号を訪れ、ヨーロッパ人とのコミュニケーション言語となった卑俗化したポルトガル語で告げた。
「バンテンから連絡があり、遺憾ながら、貴殿らの到着を見た住民は家財道具を持って避難した。上陸しても何もない。」

二人の水夫が町の様子を見るために上陸するのを許された。確かに町中はがらんとして人影がない。

ハウトマン一行はバンテンでの行跡を繰り返すまいと自戒していたから、一行の穏やかな様子を見た住民の中に「オランダ人はバンテンが言うほど悪辣ではなくたいした危険もない」と考える者たちが三々五々家に戻り、食糧をオランダ船に売りに行きはじめた。一行は5日間滞在してから出帆することにした。すると出港する前に領主と重臣たちが町に戻ってきて、オランダ船を見学したい、と船に乗り込んできた。オランダ人一行を怖がっていた住民も、オランダ人が去るというニュースを聞いて安心し、町に戻って来たから、ハウトマンたちはやっとジャヤカルタの普段の様子を目にすることができた。ジャヤカルタでは、ハウトマン一行の評判は決して悪いものでなかった。

ハウトマン船隊はさらに東ジャワの港を訪れて交易を求めたものの、やはりニュートラルな姿勢での取引はうまく進展せず、結局また略奪が繰り返されている。最後の寄港地となったバリ島では、一行は悪事をはたらかなかったようだ。

このようにして史上初の壮挙となったオランダ船隊の南洋周航は成し遂げられたが、かれらの持ち帰った積荷は決して満足できる量でなかった。コショウ245袋、ナツメッグ45トン、メース30バアルというかれらの収穫のほとんどは略奪で手に入れたものだった。この航海は29万ギルダーの投資で行われ、スパイス・宝石・珍品などの商品を手に入れるために10万ギルダーが費やされ、結果として8万7千ギルダーの利益を生んだ。

船隊は1597年の夏にテセルに帰還したが、戻った船隊はアムステルダム号を欠いた3隻になっており、また故国に帰れた乗組員の数も89人しかいなかった。このオランダ初の南洋航海は、それでも大成功と評価され、オランダに一大投機ブームが巻き起こった。


9.VOCの誕生

ハウトマンに続く成功者となったのは、1598年初頭に出発して1599年に帰国したヤコブ・ファン・ネック(Jacob van Neck)の遠征隊で、この遠征隊は400%の利益をあげることができた。ヤコブ・ファン・ネックは三隻の快速船で南洋に先行し、ハウトマンと同じルートを経て6カ月後にバンテンに到着した。そのバックアップとしてウィブランド・ファン・ワールウェイク(Wybrand van Warwyck)率いる5隻の船隊が後続した。この8隻による大遠征を企画したのは旧会社(Oude Compagnie)と呼ばれる商業資本の会社で、1594年に9人のオランダ商人が設立した遠国会社(Compagnie van Verre)と1597年末に設立された新航海会社(Compagnie van de Vaerte)が合併したものだ。

先行した快速船三隻はポルトガルと交戦していたバンテン王国に支援の手を差し伸べたため、バンテン王国側はそれを謝してヤコブ・ファン・ネックに大量のコショウを買うことを許した。この遠征隊が巨大な利益をあげることができたのは、そのような偶然が関わっている。後続の5隻の船隊が到着すると、8隻は二分されて大量のコショウをオランダに運ぶ隊と、マルク地方に向かう隊に別れた。マルクに向かった船隊はテルナーテ(Ternate)に商館を建ててから帰国した。1600年までに8隻のすべてが一隻も欠けることなく帰還できたそうだ。

旧会社は1600年までに南洋に向けて遠征隊を、ヤコブ・ファン・ネックのものを含めて四回送り出している。旧会社はイサアク・ル・メール(Isaac Le Maire)が興したブラバント会社(Brabantsche Compagnie)と1600年に合併してアムステルダム東インド会社と名を変え、アムステルダム市当局から東インド貿易の独占権を与えられた。類似の状況はオランダの各港にも波及して、東インド貿易独占権を持つ会社が林立するようになり、各港から続々と遠征隊が南洋に向かって出帆し、スパイス類を持ち帰ってくるようになる。

そのような状況が市場価格を混乱させることになるのは言うまでもあるまい。最終的に行政が介入してそれらの諸会社をひとつにまとめた国策会社「連合東インド会社」(Vereenigde Oostindische Compagnie)が1602年3月に設立された。これがVOCと略称されているオランダ東インド会社である。
つまり、ハウトマンによるオランダ人の南洋初航海が行われたとき、VOCはまだ存在していなかったのであり、1602年より前にバンテンやテルナーテで手に入れたオランダ商館建設許可も、オランダ東インド会社に与えられたものではなかったということなのである。だから、イギリス、オランダ、フランスなどの東インド会社設立年だけを比較して、どの国が出遅れたなどという評価を下すのは皮相のかぎりだということが言えそうだ。


ちなみにこのVOCはそれ以前にあった6つの会社が合併したものであり、各会社はVOCの支部として存続し続けた。カーメル(kamer インドネシア語化してkamarとなった)と呼ばれたその支部はアムステルダム、エンクハイゼン、ホールン、ロッテルダム、デルフト、ミッデルブルフ別名ゼーラントにあった。取締役会も最初は各カーメル会社の取締役が全員参加したため73人で構成され、定員の60人になるまで自然減耗にまかせられた。

取締役会の上に重役会である十七人会(Heeren XVII)が置かれ、各カーメル会社の出資比率に応じてアムステルダム8人、ゼーラント4人、他のカーメルからひとりずつ、そしてアムステルダム以外のカーメルから輪番でひとり、というメンバー構成になっていた。会議は年三回開かれ、開催地は持ち回りと決められたものの、圧倒的に有力なアムステルダムがVOCを牛耳るような形ですべてが回転していたようだ。

東インドには現地での活動と管理のトップオフィスとして総督館が置かれ、VOCの十七人会が総督を指名して派遣した。初代総督は1599年以来ブラバント会社で遠征隊指揮官を務めていたピーテル・ボット(Pieter Both)で、かれは1610年から1614年まで総督の座に就き、マルク経営、ティモール(Timor)征服、ティドーレ(Tidore)からのスペイン勢力排除といった業績をあげた。この初代から三代目までの間、オランダ東インド 会社総督館はマルク地方に置かれていた。

VOCは1605年にアンボンとテルナーテからポルトガル勢力を駆逐し、アンボンとテルナーテのポルトガル要塞をビクトリア要塞とオラニエ要塞に変えてオランダの戦力にした。この段階でマルク地方はVOCにとってジャワ島西部北岸地域よりはるかに安定した状況になっており、三人の総督がすべてそこを拠点にしてスパイス生産地の完全支配に向けて手を打っていくことを優先したのも当然の成り行きであったにちがいない。だが十七人会は決してそれだけで満足していたわけでなかった。

十七人会は初代総督に対して、バンテンで得た商権を育てるための安定した基地獲得を任務のひとつに与えていたのだ。マルク地方にその機能を求めるのは、距離的に無理がある。立地条件はジャワ島もしくはスマトラ島だろう。しかしジャワ島内は強力な原住民王国の支配下にあり、疲弊覚悟で大きな戦争をしなければ、基地を設ける土地の獲得は難しいにちがいない。結局この案件は第四代総督のときまで、宿題として持ち越されることになった。

続く第二代総督のヘラール・レインスト(Gerard Reynst)はピーテル・ボットから引き継ぎを受けて総督職に就いたものの、一年ほどで病に倒れ、現地で死去した。十七人会は急遽、優れた現地の社員ラウレンス・レアル(Laurens Reael)を第三代総督に指名して、指揮系統に穴をあけないように努めた。かれは1616年から1619年まで総督職を務め、十七人会が指名した第四代総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)にその椅子を引き継いだ。


バンテンでの商権確立とビジネス確保は徐々に進められたが、さまざまな難題がそこにまとわりついて現地のVOC社員を苦しめた。1602年、ファン・ワールウェイクは再びバンテンに来航して通商許可を得ようとしたが、徒労に終わった。バンテン王宮がかれに与えたのは、商館建設と商館員一名の駐在許可だけだった。1603年にバンテンのオランダ商館が完成し、初代商館長にはフランソワ・ウィテール(Francois Wittert)が就任した。

イギリス東インド会社がはじめて南洋に送り出した遠征隊はジェームズ・ランカスターが指揮するもので、1601年にイギリスを出帆し、翌年になってからアチェとバンテンを訪れた。イギリス王国の公式使節として女王陛下の親書と献納品を携えてきた一行はバンテン王宮に歓迎され、商館建設の許可が与えられた。

こうしてバンテンの町中にオランダ人とイギリス人が併存し、バンテン王宮のからんだ商品取引が展開されるようになる。最初はオランダ人もイギリス人も紳士的なビジネスを行っていたものの、そのうちに両者の間で商品獲得の競争が激しくなり、両者は互いに相手を蹴落とそうとして抗争があからさまに行われはじめた。両者間の直接的な実力行使だけでなく、バンテンの行政官や支配者層を自分の味方につけて相手と反目させようとしたために状況は悪化の一途をたどり、更には1608年に王家の一族の間で内紛が発生して両派がそれぞれ西洋人を後ろ盾につけようと動いたことから、バンテン王国の国内情勢も険悪化した。


10.バンテン王国成立

1526年10月8日にスンダ王国のバンテン地域がイスラム軍の手に落ちてから、そこはチレボン王国の領地とされ、王家の一族が領主として置かれるカディパテン(Kadipaten)の一つとなった。領主の座に就いたのはマウラナ・ハサヌディンだ。

バンテンがスルタン国として自立するのは1552年のことであり、領主のマウラナ・ハサヌディンが初代スルタンに横滑りした。この初代スルタンは1570年に没したため、息子のマウラナ・ユスフ(Maulana Yusuf)がそのあとを継いだ。マウラナ・ユスフは1585年に没し、まだ幼い王子のマウラナ・ムハンマッ(Maulana Muhammad)が後見人に護られて王位に就く。成人したマウラナ・ムハンマッは既にバンテンに服属しているランプンを越えてパレンバンを伐り従えようと軍を率いて進攻し、その戦の中で1596年に没した。

急遽ふたたび、その王子が王位を継ぐことになる。バンテン王国第4代スルタンとなったのは、まだ生後5カ月のアブドゥル・ムファキルだった。この幼いスルタン・アブドゥル・ムファキル・マフムッ・アブドゥルカディル(Sultan Abdul Mafakhir Mahmud Abdulqadir)は後にスルタンアグン(Sultan Agung)と呼ばれた人物だが、よく似た名前のスルタン・アグン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)とは別人であり、祖父と孫の関係になる。

アブドゥル・ムファキルを後見したのは、行政府の最高責任者であるマンクブミ(Mangkubumi)のジャヤヌガラ(Jayanegara)だった。ところが1602年にジャヤヌガラが死去したため、その弟がマンクブミの職を継いだ。ところが弟は兄ほど高潔でなく、ほどなく不祥事が起こって弟はマンクブミの座から追われる。
アブドゥル・ムファキルの母、ニマス・ラトゥ・アユ・ワナギリ(Nyimas Ratu Ayu Wanagiri)が政権に関わりたい一派に担がれて、スルタンの後見者となった。この構図はあらゆる国で頻繁に起こった政権争奪争いの典型パターンだろう。結局1608年からほぼ一年間、バンテン王家の血で血を洗う内紛によって王国内は大いに乱れたのである。

内紛はパゲラン・ジャヤカルタ・ウィジャヤ・クラマの調停で鎮静化し、マウラナ・ユスフの王子のひとり、アリヤ・ラナマンガラ(Arya Ranamanggala)がマンクブミの位に就いてスルタン・アブドゥル・ムファキルを後見することになった。後に先鋭化していくウィジャヤ・クラマとアリヤ・ラナマンガラの確執が、ここに端を発する。このふたりはいとこ同士なのだ。


VOCがバンテンに建てた商館は、バンテン王国初代スルタンが設けたスロソワン(Surosowan)宮殿へ向かう大通りに沿った町の中心部だった。イギリス東インド会社が派遣したジェームズ・ランカスターの遠征隊もバンテンに駐在員を置き、そのあとを追ってフランスやデンマークなど他のヨーロッパ諸国からも商人がバンテンを訪れるようになって、バンテンのヨーロッパ人コミュニティは百人を超える人口に膨れ上がっていった。その人口のマジョリティを占めたのは、メスティーソと呼ばれるポルトガル人とアジア人の混血者だ。
ポルトガル人がアジアで占領した諸港諸都市を維持するためには、人口の不足がネックになった。だから現地で子供を産ませてキリスト教文化の中で育て上げ、自らをポルトガル人(キリスト教徒としての、もっと広い意味でのヨーロッパ人)と意識する混血者がポルトガルのアジア経営に重要な役割を果たしてきたのである。あるポルトガル軍船の乗組員はすべてメスティーソで、キャプテンだけが純血ポルトガル人というケースはざらにあったし、もっとあとにはポルトガル要塞の守備隊長以下全員がメスティーソという例も出現している。だからアジアでは、ポルトガルの世紀にヨーロッパ人とのコミュニケーション言語としてメスティーソが使う卑俗化したポルトガル語が普及したのだった。

ポルトガルの世紀が幕を閉じたのは、後を追ってアジアに進出してきたオランダ人、そしてイギリス人によるものだ。オランダ人は最初、ポルトガルの勢力を避けながら南洋に進出し、態勢を整えてからポルトガル人の追い落としにかかった。そしてポルトガル人と同じようにアジアの諸港諸都市をネットワークで結んだが、ポルトガル人のように人手不足に苦しめられることがあまりなかった。なぜなら、ポルトガル人から奪った諸港諸都市は既にメスティーソによって動いていたのであり、オランダ人はその体制の上に乗っかる形で支配者の交代をしたから、ポルトガルの旗がオランダの旗に替わっただけで、メスティーソたちは従来の暮らしにたいした混乱や転変を被らず、安全で平穏な生活を続けることができたということらしい。ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが興したバタヴィアの街は最初、住民人口があまりにも乏しかったために、アジアの各地からメスティーソを連れてきて街の人口充実を図った。ところがそのうちにメスティーソよりはるかに勤労意欲の高い人種が存在することに気付いた。中国人だ。それ以来、バタヴィアの都市建設方針が一変するのである。

だからヨーロッパ各国の商人がバンテンでの物産取引の手伝いをさせるために雇ったメスティーソがバンテンのヨーロッパ人コミュニティでメインを占めることになったわけだ。それ以外にも、バンテンのヨーロッパ人コミュニティに属す非原住民の中には、イギリス人に雇われたロシア人、アフリカから連れてこられた黒人奴隷、平戸で集められた日本人傭兵などが混じっており、またヨーロッパ人コミュニティに属さない非原住民として、はるか以前から住み着いていた中国人やアラブ人などもいた。その中に、ポルトガル人商人すら混じっていたのは、個人として活動する人間が国籍を問わずに受け入れられていたことを示す実例だろう。

バンテンの市街に隣接する東側のエリアは数百軒もの家屋が無秩序に建てられたスラムになっていて、ヨーロッパ人来航以前からこの地に流れ込んできた中国人を主体とする非原住民居留地区になっていた。中国人がメインを占めたためにプチナン(Pecinan)と呼ばれて中国人居留区と認識されていたが、非中国人も混じっている。ヨーロッパ人や他の非原住民はプチナンに住むよう命じられ、そこに家を借りたり、建てたりして住んだが、スラムの名が示す通り住環境としては劣悪で、ヨーロッパ人はその環境を「悪臭を放つシチュー」とあだ名した。

そのプチナンの中で、種々の民族が自己の儲けを追求し、邪魔になる他者を押しのけようとして争った。特にオランダ人とイギリス人の対立抗争は激しいものがあり、ただでさえ険悪な空気の中で暴力行為や悪事が頻発した。バンテン当局に敵を誹謗中傷する訴えを起こして打撃を与えようとするのは日常茶飯事で、さらに原住民や中国人をそそのかして悪事を働かせ、敵に損害を与えようとすることも行われた。

オランダ人はあるとき、イギリス人が商品を蓄えている倉庫の隣に住んでいる中国人をそそのかし、地下道を掘らせて倉庫を爆破し、商品を略奪させようとしたが、その企ては未遂に終わった。一方、イギリス人はエリザベス女王即位記念日に総出で路上に出て酔っ払い、通りかかったオランダ人にしつこくからんで怒らせ、相手が手を出したら大勢でリンチするということを行った。原住民の子供にオランダ語の悪口を教え、「オランダ人に出会ったらこう言え」とけしかけるようなこともした。そんなあれやこれやが積み重なって、オランダ人とイギリス人が路上で出会えばまず確実に一波乱あるという状況に至ったのである。


バンテン王宮はスロソワン宮殿の城壁を強化し、警備兵の武力を高めて、治安と防衛力の維持をはかった。ヨーロッパ人が通商を行うのはバンテンにとって有益なことだが、居留者の中に勢力を強める者が出るのは王国にとって有害である。ヨーロッパ人はさまざまな理由をつけて石造りの建物や倉庫の建設許可を願い出たが、王宮は堅固な建造物が作られるのを常に禁止し、木造平屋建てのものしか許さなかった。ヨーロッパ人はそんな条件下に、建造物をできるかぎり頑丈なものにするよう努めた。

ヨーロッパ人同士の抗争は領内の治安に問題ではあるが、ヨーロッパ人の存在は通商面で王国に大きな利益をもたらしている。そのアンビヴァレンツは当局者をして、抗争への介入を熱心に行わない方向へと向かわせた。かれらが団結してバンテン王国に弓を弾くよりも、互いにつぶしあいをさせておくほうが、王国にとってははるかに安全なのである。
ヨーロッパ人の酔っ払いや盗み、役人への横柄な態度、モラルに欠けるふるまいなどに対して、王国当局者は容赦しなかった。ヨーロッパ人への風当たりは他人種よりも特別きつかったらしい。だからヨーロッパ人商人や駐在員にとって、バンテンでの暮らしは居心地の悪いものだったし、おまけにさまざまな熱帯病が簡単にかれらを墓穴の中に引きずり込んだ。


11.バンテンからジャヤカルタへ

オランダ人にしてみれば、好きこのんでそんな状況下に置かれているわけではない。バンテンにいる限り、イギリス人とのすさんだ抗争の毎日であり、駐在する商館員たちはバンテン当局に睨まれて委縮した日常生活を送らざるを得ず、おまけに王宮からはさまざまな取引上の制約が課される。もっと自由で落ち着いた暮らしのできる場所、自由に動けてフェアな取引のできる場所に移りたいとかれらが思うようになるのも、自然の成り行きだった。そこにジャヤカルタの存在がクローズアップされてくるのである。

バンテン王国の内紛に関わろうとしたオランダ人とイギリス人に、アリヤ・ラナマンガラは強い危惧と反感を抱いた。とはいえ、コショウの有力バイヤーの一端であるかれらはバンテンにとってのメリットも抱えている。ラナマンガラはかれらを冷遇しようと努めた。

オランダ人もイギリス人もスルタンの後見人ラナマンガラの歓心を買おうと努めたが、オランダ人はその一方でひそかにパゲラン・ジャヤカルタへのアプローチを強めて行った。ラナマンガラの姿勢が変わらなければ、ジャヤカルタに買付場所を移すだけのことだ。相互に敵対心を持ち、疑心暗鬼に陥っているバンテンとジャヤカルタを手玉に取ろうという作戦をオランダ人は開始した。


バンテンのVOC商館はパゲラン・ジャヤカルタとの折衝を根気よく続けた末に、1610年11月ついにジャヤカルタに住居と商館あるいは取引所を建設する許可を得た。バンテンの商館長ジャック・レルミト(Jacques L'Hermite)はチリウン川河口東岸に縦横それぞれ50尋の土地を当時の相場の50倍の価格でウィジャヤ・クラマから買い取り、そこに商館を建てた。ジャヤカルタの町にもスラム状のプチナンが川を越えた東側にある。商館建設用地はそのプチナンの北側だった。ウィジャヤ・クラマが与えた商館建設許可の内容がそうなっていたことは言うまでもあるまい。オランダ人に選択の余地は与えられなかった。

建設用地は常に水をかぶっている湿地帯であり、沼地での基礎工事はたいへん手間取った。カプテン・ワッティング(Kapten Watting)が初代ジャヤカルタ駐在員を命じられ、かれはそこから近い場所に家を借りて住み、工事の進捗をはかったものの、資金・資材・人手・そして建築知識と専門能力のすべてが不足しており、建設プロジェクトは遅々としてはかどらなかったが、それでも少しずつ建造物は形を取り始めた。石と漆喰も使われたが不足分は木や竹あるいはわらで補われたみすぼらしいものになった。その一方で、川に沿って50歩ほど一直線に伸びた堅固な石造りの城壁が、建物とはまるでそぐわない姿を示していた。それは50尋の土地を十八歩オーバーして、プチナン側に食い込んでいる。

1611年に完成したナッソーハイスはオランダ人の宿舎兼取引所として稼働を始めた。VOCはナッソーハイスで行われる取引がジャヤカルタの徴税を免れるものだと主張した。
自己所有の土地内で行う売買に市域を統括する行政の徴税権は及ばないとVOC駐在員は言い張った。だが原住民側の慣習では、領地内のすべての土地は領主の所有に帰することになっており、土地使用の権利はその用途と納税をもってはじめて認められるのである。

役人はまた、城壁が用地の外まで伸びていることを問題にしたが、それはパゲラン・ジャヤカルタの同意を得ていることだ、と駐在員は空とぼけた。ヨーロッパ人たちがプリンスジャカトラ(Prins van Jacatra)と呼んでいるパゲラン・ジャヤカルタは役人の報告を聞いて腹を立てた。かれは役人に事実を語ってオランダ人の横暴を取り締まるよう命じたものの、オランダ人の態度を見る限り一戦交えなければ事は終わらない、と語る役人にそれ以上命令することができなくなった。通商を盛んにして経済を勃興させ、バンテンと肩を並べる港市に育て上げるために呼び込んだヨーロッパ人を、取引の実績もあがらないうちにまた追い出すのでは、何をしていることやら解らなくなる。ウィジャヤ・クラマはリスクを抱えることを決意し、王宮の警護を増強し、またチリウン河口西岸に大きな税関倉庫を作らせた。倉庫が作られた場所はPaep Janの土地と呼ばれ、後に税関を意味するインドネシア語Pabeanの語源になったという話だ。

そのジャカトラという言葉は日本人の耳に「ジャガタラ」と聞こえたようだ。そのため、南洋に関する知識が増加し始めた当時の日本人は、ルソンのずっと向こうにある大きな島のことをジャガタラと呼ぶようになった。ジャガタラからやってくる紅毛人は南蛮人であり、かれらが主食にしている芋はジャガタラ芋、略してジャガイモと呼ばれるようになったそうだ。だがそのジャガイモが南米の原産であり、スペイン人がヨーロッパに広めたものをオランダ人が南洋に持ち込んできたという歴史にまでは知識が及ばなかったようだ。

オランダ人はまた、プリンスジャカトラにはまったく無断で、ジャヤカルタの海岸から4キロほど沖に浮かぶオンルスト(Onrust)とカイパー(Kuyper)の島々に基地を設けた。それは小規模な海軍基地であり、船舶修理所・兵舎・倉庫・教会・病院などの施設がそこに立ち並んだ。


12.プリンスジャカトラ

パゲラン・ジャヤカルタ・ウィジャヤ・クラマがバンテンに対抗してオランダ人の商館建設を認めたことが、ラナマンガラに怒りの火を燃えたたせたことは疑いがない。本家であるバンテンに一言の相談もなく僭越なふるまいをするとは、何たる思い上がりだろうか!
ジャヤカルタをウィジャヤ・クラマの手にゆだねておけば、とんでもないことになりかねない。パゲラン・ジャヤカルタを廃してあの属領をバンテン行政機構の直属に移行させることをラナマンガラは考えるようになった。

しかしウィジャヤ・クラマも決して愚者ではない。オランダ商館は吹けば倒れるように貧相なものにしておかなければならないのだ。頑丈な建物を造らせ、そこに大砲などを置かれたら、商館は要塞に一変する。絶対にそうさせてはならない。そんな方針でオランダ人に向かおうとしたにも関わらず、かれとオランダ人との力関係は結局逆転してしまう。プリンスの善性がオランダ人の狡猾さに呑み込まれてしまったのかもしれない。


1615年になってイギリス人の南洋政策が積極化し、イギリス東インド会社はクリストファー・プリン(Christopher Pring)に5隻の軍船を指揮させて南洋に向かわせた。1618年にバンテンに到着したプリン船隊は、オランダ人を威嚇するべく示威行動を行う。
VOCはそのとき、それに対抗する戦力をジャワ島西部北岸地域に持っていなかった。このままイギリス人と抗争を続けていては、自滅してしまうのが明白だ。
バンテンでの取引が停滞を続けているのに反して、ジャヤカルタのVOC商館は徐々に取引量が増加していたから、オランダ人はバンテンをイギリス人に明け渡す方針を選んだ。

バンテンのオランダ商館にある人員と貨物の主力は海路ジャヤカルタのナッソーハイスに移され、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンもジャヤカルタに移ってVOCの本拠地となる基地の建設に取り掛かる。ナッソーハイスは全面石造りの堅固な建物に改造され、さらに川岸に沿ってもうひとつの建物マウリティウスハイスが建てられて、ふたつの石造りの建物がL字形をなすように配置された。頑丈な石の城壁がふたつの建物をつなぎ、城壁の上には数門の大砲が川に向けて並べられ、警備兵も25人から50人に増やされて新式銃を持たされた。オランダ商館は要塞に姿を変えたのである。これが第一期カスティルだ。

加えて、要塞に接近しすぎている住民家屋は襲撃してくる敵に利用されるため、要塞の周囲をある程度の距離までクリヤーにすることも強行された。つまり武装オランダ兵が住民家屋を強引に取り壊して空き地に変えたのである。通商をしにやってきたはずのオランダ人が一転して完全武装集団に変化したことにウィジャヤ・クラマは仰天したにちがいない。恐れていた事態が現実になりつつある。だが続いて、かれの不安をやわらげる方向へと事態は変化して行った。


イギリス人がオランダ人を追ってジャヤカルタまでやってきたのである。1618年9月、プリンはウィジャヤ・クラマを訪問して協定を結ぶことに成功した。毎年7百リアルを支払うことで取引の免税特権をもらい、またイギリス商館を建てるためにパベアンと王宮の間にある土地を1千5百リアルで手に入れた。そこはクーンが改造したカスティルと川をはさんで対峙する場所だった。商館建設のためにイギリス人駐在員がやってきて、工事の指揮を執る。その駐在員は王宮の軍事顧問も兼ね、ジャヤカルタ軍の武装は目覚ましく向上した。

ウィジャヤ・クラマがオランダ人を追い落とそうとしているイギリス人に深く傾倒したのは、オランダ人が突然武威をむき出して脅威をまき散らすようになったことや狡猾なオランダ人への憎しみもあったのだろうが、それ以上にかれの眼前で展開された武力の差異に駆られた面が強かったにちがいない。VOCの戦力は総督館のあるマルク地方を根拠地にしていたため、西ジャワ北岸部には手薄な戦力しかなかなかった。それに対する圧倒的なイギリス人の戦力を目の当たりにしたウィジャヤ・クラマは、オランダ人は撃滅される運命にある、と考えた。今ここで両者が正面衝突すれば、オランダ側に勝ち目のないのは明らかだ。

それに加えて1618年11月、イギリス東インド会社が南洋に派遣したトーマス・デイル(Thomas Dale)率いる6隻の船隊がバンテンの沖合に姿を現したのである。先に来ていたプリンの船隊と合流したデイル船隊は、南洋の商圏を手中に納めようとしてアグレッシブさを増し始めたVOCの目論見をここで粉砕しようとする挙に出た。オランダ人がバンテンを去っても、ジャヤカルタを征服してそこに強固な基地を作るのであればイギリスの権益への障害になるのは明白である。ジャヤカルタをオランダ人に奪わせてはならないのだ。だからこそプリンは執拗にオランダ人を追い続けていたのだ。


イギリスの海上部隊はバンテンとジャヤカルタの沖に散開して、オランダ船の入出港を封鎖する構えに出た。折しも、日本・中国・シャムからの総額8万リンギットに値する貨物を積んでパタニからバンテンへ戻って来たオランダ商船デスワルテレウォ(de zwarte leeuw)号が、そのような状況の変化をつゆ知らず、待ち受けていたイギリス軍船に拿捕されてしまった。乗組員は全員捕らえられて船内に拘留され、船はイギリス人による監視下 に置かれたが、突然猛火が船体を包んで捕虜も積荷も灰になってしまった。

伝書使が慌ただしくジャヤカルタとバンテンを往復し、事件に関する報告がクーンのもとに次々と届けられた。事実は、酔ったイギリス人水夫が船倉から酒を持ち出そうとして、誤って持っていた灯りを落としてしまい、こぼれていた酒に引火して大火災となり、オランダ人ばかりか監視に当たっていたイギリス人にも犠牲者が出たのだが、その内容が判明したのはずっと後のことであり、クーンはその事件を別の角度から解釈した。オランダの海軍力は総力を傾けてイギリスにぶつかっていかなければならない。劣勢に押されて縮こまっていては、ジリ貧が待ち構えているだけだ。VOCの未来に輝きは消え去ってしまう。

クーンは敵味方の戦力を比較した。イギリス人は15隻の船と2千5百人の兵力でオランダ人を叩き潰そうと意気込んでいる。言うまでもなく、それは第一線に投入された臨戦態勢の大部隊なのだ。一方、クーン側の手持ちはオンルストで修理中もしくは修理待ちの7隻の小型船がすべてであり、兵員は150名しかいなかった。負傷兵・商人・日本人傭兵・ポルトガル人協力者そして中国人や原住民の使用人までかり集めて銃を持たせても、戦闘力は250名ほどにしかならない。残るカスティルの住民は、奴隷と解放奴隷ならびに中国人とメスティーソの婦女子4百人だった。
銃と大砲は豊富にあるが、火薬は40樽、砲弾は3百発しかなかった。食糧は入手が制限されていたため、ストックはあまりない。飲料水は川からの流れを引き込んでいたが、川の水流を妨害されたらそれまでだ。皮肉なことに、商品や貴金属・宝石・珍品は倉庫にあふれんばかりだった。

クーンは十七人会への報告書を作り、この緊急事態に対処するための軍備と物資の補給を強く要請する文章を書き込んでアムステルダムに向けて送らせたが、報告書が無事にアムステルダムに届いたとして十七人会がそれを読むのは6カ月先になる。そんなことをあてにするクーンではなかった。

バンテンのマンクブミ、アリア・ラナマンガラはジャヤカルタでの状況を注意深く見守っていた。状況把握をより深めるために、かれは現地の状況を実地に見聞させようと考えて、弟のひとりパゲラン・ガバン(Pangeran Gabang)をジャヤカルタに出向かせた。ガバンは3百人の従者や子供らを伴って海路ジャヤカルタを訪れ、町の外で狩りを楽しんだ。あたかもそれがジャヤカルタへ来た主目的であるかのように。
そしてそのあと、オランダ人がファーダー・スミッツ(Vader Smit)と呼んでいる少し離れた島にクーンを呼び出した。そのときの会見の内容はまったく記録に残されていない。このファーダー・スミッツ島はタンジュンプリオッの海岸から近いところにあった砂島で、日本軍政期に砂が取りつくされたために海中に沈んでしまったそうだ。

数日後、パゲラン・ガバンは1隻の船に百人ばかりの武装兵を乗せて、チリウン川に乗り入れた。対峙するイギリスとオランダの基地の間を抜けてウィジャヤ・クラマの王宮へ着くと、ウィジャヤ・クラマに会うために下船した。ウィジャヤ・クラマはこのいとこの来訪の真意をはかりかねたが、歓迎を示した。王宮でしばらく過ごしてから、パゲラン・ガバンは次にオランダの要塞カスティルを訪れた。クーンもかれを歓迎し、カスティル内を案内して要塞の構造や配置されている兵力をざっくばらんに説明した。


バンテンからの客人一行がジャヤカルタを去ると、張り詰めていた緊張がすこしやわらいだ。ウィジャヤ・クラマはクーンにカスティルを移転させるよう提案したが、クーンにそんな気は微塵もなかった。高さ19フィート、幅7フィート、長さ120フィートの堅固な城壁が完成しつつあったからだ。カスティルを攻撃から守るために大量の石を使ったその城壁が完成すると、城壁の上には大型砲40門と無数の小型砲が設置された。

ウィジャヤ・クラマは領民に対して、オランダ人に建築資材や労働力を提供することを禁じていたが、オランダ人は予想外の速さでその仕事を成し遂げてしまった。ウィジャヤ・クラマは無許可でオランダ人が作ったその城壁を非難し、撤去を命じる文書をクーンに送った。クーンの返書には、マタラム王国がジャヤカルタに進攻してきたときに、この城壁がジャヤカルタを護り切るであろうという言葉が記されていた。城壁問題はそこで終わってしまったようだ。


ジャヤカルタで小康状態が続いているとき、ジュパラのVOC倉庫をマタラム軍が攻撃し、2千リンギットの商品が奪われ、ヨーロッパ人が3人死亡し、3人が負傷し、17人が捕らえられて身代金が要求された。クーンは即座に兵員150名をジュパラに送って報復した。オランダ人の破壊と略奪の嵐がジュパラの町を荒れ狂い、またその途中の町々でも同じことが繰り返された。その示威的軍事行動が、マタラム王国だけでなく広くジャワ島内にも威嚇効果をもたらすだろうことを、クーンは計算済みだった。

それは、戦力的に窮地に置かれているクーンにとって、危険この上ない賭けだった。たとえ短期間であっても、カスティルの戦力を割くのは大きな冒険であり、たとえその作戦が奇襲であったとしても、150名のすべてが無傷で帰還するのは、よほどの幸運でなければ考えにくいことだ。
その間、カスティルには正規兵がひとりもいなくなる。そのときに重装備の大軍が攻め込んでくれば、オランダ人が築いてきた足場は消滅するかもしれない。しかしクーンはその大きい賭けに手持ちのすべてを張った。

幸いにも、攻撃部隊は短期間で帰還してきた。カスティルの兵力は維持された。おまけに、ウィジャヤ・クラマもイギリス人も、その奇襲部隊の出撃にまったく気付いていなかったのだ。こうして最悪の事態は回避されたとはいえ、オランダ側の軍事力が弱体であることは変わりなかった。


13.三つ巴の抗争

ウィジャヤ・クラマはついに数千人の領民に武装を命じた。戦時警戒態勢に入ったのだ。
王宮と町の警備は厳重さを増し、チリウン川の王宮へのアクセスルートにはオランダ人がボーム(boom)と呼ぶ障害物が置かれた。オランダ語のボームとは木を意味する言葉で、その名の通り巨大な丸太が川の流れと直角になるように置かれ、木をどかせないかぎり船は前に進めなくなる。船から入港税や通行税を徴収する場所でこのボームは不可欠な設備だった。インドネシアでは水に関連する場所でBoomという単語を持つ地名があちこちに見つかる。

ウィジャヤ・クラマの軍事顧問となったイギリス人は熱心にその仕事を手伝った。その一方で、イギリス人自身もカスティル対岸に設けたイギリス商館兼倉庫の完成を急いでいた。そこには真鍮製の大砲を備えた陣地が同時に構築されつつあったのである。


属領のジャヤカルタで進展している波乱を未然に防ぐのはバンテンが当然行うべきことがらであるという常識に反して、アリア・ラナマンガラはいかにその状況を利用して自分の計画を実現させるかということを考えていた。ジャヤカルタ領主であるいとこのふるまいにはもううんざりしていたし、ウィジャヤ・クラマの地位を保ってやる気もなくなっていた。かれの気がかりは、畏怖すべき悪鬼の具現としか思えないクーンの去就であり、そしてマタラム王国の拡張主義だった。東部・中部ジャワに覇権を確立したスルタン国マタラムは西ジャワ地方を支配下に置いてジャワ島の統一をはかるべく、スンダ地方を虎視眈々と狙っているのだ。


カスティルにいるクーンは参事会の同意を得た上で次の行動に移った。1618年12月23日朝、オランダ側は川を隔てたイギリス陣地に使者を派遣して、陣地の構築と臨戦態勢の即時中断を要求した。するとイギリス人は、「これはプリンスジャカトラに命じられて行っていることであり、われわれの独断でやめることはできない。」と返事した。

その日夕方、オランダ兵の部隊はカスティルから出てくると川を渡り、イギリス側の陣地を攻撃した。さらに商館と倉庫に矛先を向け、破壊と略奪を行い、建物に火をかけて灰にした。イギリス人はその攻撃を持ちこたえることができず、ウィジャヤ・クラマの王宮へ逃げ込んだ。

一夜明けた24日、王宮の大砲がうなりはじめた。砲手がイギリス人だろうことは、機敏な発砲と正確な弾着から容易に想像できた。オランダ人もそれにこたえて、カスティルの大砲が王宮に向かって砲弾を吐き出した。夜になっても砲撃の応酬が続き、オランダ側はたいした戦果も上がらないまま火薬備蓄量の4分の1を消費してしまった。その日の砲撃戦でカスティル側はオランダ兵3名その他12名が死亡し、10人の重傷者が出た。

翌25日、ひとりの中尉と兵士7名がカスティルの外へ出撃した。かれらは中国人やジャヤカルタ領民の居住区へ攻め込んだが、敵に取り囲まれて倒され、首をはねられてしまった。乏しいカスティルの兵力がさらに減ってしまったのである。

クーンは緊急参事会を招集した。情勢は絶望的だった。この戦いに現状の兵力で勝利することは考えられなかった。救いは、ウィジャヤ・クラマがまだ水路を完全封鎖しておらず、またイギリス船隊がジャヤカルタに集結していなかったことだ。カスティルを捨てて、とりあえず安全圏に避難するのなら、今がチャンスだ。速やかに人員・兵器・商品を船に積み込んで逃走しようというのが大半の意見だったが、クーンはその案に同意しなかった。持てる戦力をカスティルに集中させるため、クーンは周辺海域にいるオランダ船をすべてカスティルへ呼び集めさせた。

参事会は、ジャヤカルタ・イギリス・バンテンのどれか一者と同盟を結んで他の二者と対峙しようということを、まじめに討議しはじめた。相手にするなら、やはりアジア人よりもイギリス人だろう。しかしオランダ人の利益をアジア人から守るためにイギリス人がオランダ人に味方するなどという期待は、救いがたい現状認識の誤りだ。なぜなら、オランダ人がこれまで自力で獲得してきた権益をかすめ取ろうとしてイギリス人が世界中で動いている事実が忘れ去られているではないか。ジャヤカルタでオランダ人が窮地に追い込まれたのも、イギリス人のその方針が原因をなしているのだ。だから現状打破のためにそんなイギリス人に助けを求めるのが祖国と同胞への裏切りとなるのは明白ではないか。
カスティルを無傷で明け渡すのを代償にして降伏の条件を検討したが、結局何の結論も議決されなかった。


12月30日、11隻のイギリス船隊がついにチリウン河口に集結した。総砲数3百門、兵員1千5百名という戦力は、カスティルに対して2倍の火力、10倍の兵力だった。総司令官トーマス・デイルはラッパ手と口上人が乗った小舟をチリウン川に入れさせ、オランダ人に対して降伏勧告、ジャヤカルタ市民には協力を呼び掛けた。

クーンと参事会はVOC現地駐在高位者12名のカスティル脱出を決定した。VOC商務員のピーテル・ファン・デン・ブルッケ(Pieter van den Broecke)がカスティル守備隊長に任命され、日本とペルシャで有能さを示した経験豊富な兵士が副隊長としてかれを補佐した。

もしも最悪の事態に立ち至ったなら、イギリス側に投降してオランダ人の生命保護を優先すること、ただしカスティルと兵器や商品などすべての資産には火を放って、決して誰の手にも渡してはならない。留守を預けた責任者にクーンはそう厳命した。このピーテル・ファン・デン・ブルッケは後にクーンからアンボンのバンダ諸島の経営を託され、現地でのスパイス独占にまい進することになる人物だ。

クーンら上層部はその夜、オンルストから呼んであった小型船に乗り込むと、夜陰に乗じて海上へ脱出した。そして数日間、沖に停泊したまま、カスティルとジャヤカルタの情勢を見守った。


1619年1月3日、大型オランダ商船が一隻、ジャヤカルタに接近してきた。クーンはスマトラから荷を積んで戻って来たその船に合流するよう命じた。ところがそのうち、水平線上にイギリス船隊が出現すると、砲撃しながら接近してきたではないか。こうなればオランダ船隊は逃げるしかない。4時間の追撃戦は日没とともに終わった。クーンはそのままマルクへ向かうことを決めた。

かれは小型船一隻をカスティルに置くことにし、ブルッケへの厳命を再確認する手紙を持たせてジャヤカルタへ向かわせた。またフリゲート船一隻をスンダ海峡に向かわせ、海峡を遊弋して見つけたオランダ船にはジャヤカルタを避けるよう連絡する任務を与えた。別のフリゲート船一隻には、早急にアムステルダムへ直航して、事の次第を十七人会に報告するよう命じた。

こうしてオランダ船隊は別方向へ散る数隻を残して、一路東方に向けて進路を取った。クーンはカスティルとそこに依拠する3百人の住人を運命の手に引き渡してしまったのだ。
いやそれはクーンの目から見ての話しであって、カスティル守備隊のみんながそんな風に状況を見ていたわけでもあるまい。クーンがいかに有能な統率者であったかということに異論をさしはさむ者はいないだろうが、自分がいなくなると部下はなすすべもなく自滅していくだろうとクーンが部下を見ていたかどうかの問題なのである。これは自立と依存という文化問題であり、人間の社会的ビヘイビアにおいてそのどちらを善とする価値観で社会が営まれているのかがポイントになっているはずだ。

ともあれ、クーンが去ったあとのカスティルに残されたのはオランダ人兵士85人、VOC職員65人、スンダ人10人、日本人傭兵25人、中国人16人、婦人20〜30人、子供70〜80人で婦女子はほとんどがメスティーソだった。


14.カスティルが窮地に

カスティルはジャヤカルタ兵と上陸したイギリス軍に完全に包囲され、攻撃が行われるたびにカスティル守備隊は絶望的になり、どちらに降伏するかを決めるために交渉が行われた。攻撃側が共同で総攻撃をかければカスティルは問答無用で陥落したはずなのに、両者の思惑が完璧に一致しなかったために、カスティルは生き延びることができたのである。
両者は個々にカスティルの降伏申し出を拒絶せず、交渉の座に就いたことから、申し出がなされなかった側はそのときに攻撃を中止しなければならなくなった。

ウィジャヤ・クラマもデイルも自分がババを引く気はなかったから、損害が大きくなるであろうカスティルへの正面攻撃を相手にさせようと互いに考えていた。「どうせオランダ人は最終的に自分のほうから降伏してくるにちがいないのだから、できるだけ損害を小さくして機が熟すのを待っていればよいのだ。力ずくでオランダ人を下そうと言うのなら、かれがそれをすればよい。」

イギリス人は、同じヨーロッパ人である自分の側にカスティルは降伏してくるだろう、と高をくくっていた。ウィジャヤ・クラマもその可能性が高いことを予見していたが、たとえそうなったとしても、お人よしのイギリス人はオランダ人よりはるかにあしらいやすいと考えていた。おまけにここはわたしの領地なのだ。

カスティルのオランダ人は、最初から絶望的な状況に身を置いたため、むしろ少しでも希望の灯が見えるたびに勇気を奮い起こした。絶望に駆られて命を無駄に捨てるようなことはしなかった。利用できるものは何でも利用したし、それで思わぬ効果をあげたものもある。敵の攻撃を受けているさなかに「クーンが戻ってきてお前たちに復讐するぞ。」と叫ぶと、攻撃の矛先が鈍ったこともあった。


1月14日、ジャヤカルタ兵の激しい攻撃にオランダ人は、降伏するから攻撃は中止してくれ、と申し出た。ウィジャヤ・クラマはあっさりと攻撃中止を命じた。オランダ人がカスティルを破壊して退去すると申し出たところ、クーンが戻るまでカスティルにいてよい、とウィジャヤ・クラマは譲歩した。しかしその代償として、賠償金6千リンギットと1千リンギット相当の財宝を差し出すよう要求した。ブルッケはその要求を呑み、賠償金等をそろえて降伏文書にサインするため、後日王宮を訪れることを約束し、その日の交渉は終わった。


1月23日、ブルッケはカスティルの外科医J デ ハアン(J. de Haan)と兵士5名、およびスンダ人使用人ひとりを従えて、要求されたものをウィジャヤ・クラマの王宮に持参した。ところが王宮の衛兵は一行を捕らえて鎖でしばり、広間へ引き立てた。広間の玉座にはウィジャヤ・クラマとデイルが隣り合って座っており、辱めを受けている一行に宣言した。「お前たちは人質だ。」

ほどなくカスティルにその知らせが届いた。オランダ人はその卑怯なしうちを口を極めて罵ったが、どうすることもできない。仕方なく、身代金として2千リンギットを支払うから人質を返してくれと申し出た。ウィジャヤ・クラマはその申し出を蹴った。デイルがウィジャヤ・クラマに、「2千リンギットをやるから、オランダ人の言うことは聞くな。」と唆したらしい。

守備隊長ブルッケが捕らわれてしまったため、ピーテル・ファン・ライ(Pieter van Raeij)が隊長代理を務めることになった。数日後、ブルッケはさらに酷い辱めを受けることになる。

数日後、川を隔ててカスティルの向かいにあるイギリス陣地跡の防壁の上で、ひとりのオランダ人が手足を鎖で縛られ、首に絞首刑のロープを巻かれた姿で、イギリス兵に引っ立てられながら行ったり来たりしているのが、カスティルからはっきり見えた。カスティルの中が騒がしくなった。
「あれはブルッケ隊長だ。」
「まるで、これから死刑にされるみたいじゃないか。」
カスティルから非難の叫び声があがった。

しかし、それは単にオランダ人を威嚇するためのデモンストレーションでしかなく、ブルッケ処刑の場の一幕は演じられなかった。ともあれそんな形で戦闘が停止されている間に、オランダ人は先の攻撃で破損した城壁の修理を一生懸命行っていた。


イギリス人はデイルの手紙を密書にしてカスティルに送って来た。中を開くと、イギリス側に投降せよ、という勧告だ。イギリスに降伏するなら、イギリス船で希望する場所まで送り届けよう。持参する個人資産はひとりあたり6千2百リンギットまで認める。もしイギリス船で働きたいなら、仕事と高額の給料を保証する。その条件に賛同するなら、オランダ人は非武装でカスティルから退去し、カスティルをイギリス人に明け渡せ。カスティル内にある兵器と弾薬はすべてイギリス側に引き渡し、財貨と商品はプリンスジャカトラをうまく抑えるために使わせてもらう。現地人使用人の裏切りを警戒せよ、といったことが書かれてあった。それからは、矢文による対話が双方の間で続けられた。

2月1日、イギリス、ジャヤカルタ、オランダの三者間で降伏文書の調印が正式に行われた。ところがその翌自、事態は急転したのである。


15.急転直下の四つ巴

2月2日、2千人のバンテン兵がジャヤカルタへ進軍してきたのだ。バンテン軍はジャヤカルタの市中を制圧し、パゲラン・ジャヤカルタの王宮をも占拠して、ジャヤカルタを戒厳令下においた。三者間の降伏合意に関わった勢力の中で、その事態の転変に驚かなかった者はいない。

アリア・ラナマンガラは三者間で行われたオランダ降伏の合意を認めなかった。かれはバンテン王国第4代スルタンを通してジャヤカルタ制圧軍指揮官に、オランダ降伏によって発生するジャヤカルタでのさまざまな処理が行われないようにすること、パゲラン・ジャヤカルタを王宮から放逐すること、イギリス人にはバンテン王宮の許可なしに勝手なふるまいをさせないこと、などを実行するよう命じていた。
ジャヤカルタに進駐したバンテン軍は王宮を占拠して、ウィジャヤ・クラマとその側近たちを町の外のジャングルに追放した。そして町を制圧し、川にボームを置き、イギリス人に自粛を命じた。ジャヤカルタの宗主であるバンテン王国は、属領の領主が承諾なしに勝手に結んだ協定が無効であることをかれら三者に見せつけたのである。


パゲラン・ジャヤカルタの墓所がプロガドン(Pulogadung)工業団地に近いジャティヌガラカウム(Jatinegara Kaum)にある。ただし一説によれば、バンテン軍の進攻でジャヤカルタが制圧されたとき、ウィジャヤ・クラマはバンテンに連れ戻され、しばらくしてからその息子アフマッ・ジャクトラ(Achmad Jaketra)がジャヤカルタ王宮の主となったと語られている。このアフマッ・ジャクトラもパゲラン・ジャヤカルタの名前を称したため、いささかわかりにくい話になったようだ。

マルクから戻って来たクーンがジャヤカルタを征服したとき、ジャヤカルタを落ち延びたのはアフマッ・ジャクトラであり、かれはヒンドゥブッダ王朝のスンダ王国時代から既に開けていたジャティヌガラに移ってジャヤカルタの後背地を支配し、そして没後ジャティヌガラカウムに墓所が作られた。

もちろん、ウィジャヤ・クラマがラナマンガラによって追放され、家臣たちとともにジャティヌガラへ移って一帯を支配した可能性も十分にある。そして息子の墓所が現代まで残されたなら、上のような現象になることも考えられるにちがいない。この話は余談としておこう。

ジャヤカルタをバンテンの直轄領にしてから、ラナマンガラはオランダ人とバンテン間の交渉を開始させた。ラナマンガラはオランダ人を領地から追放することにしていた。だからカスティルを取り壊し、兵器と資産の半分を引き渡し、今後二度と南洋海域にやってこないことを約束せよ、とバンテン側はカスティル守備隊に要求した。

オランダ人が撤退するにあたってバンテン側は4隻のジャンク船を用意するので、バンテンに立ち寄って、沈没したデスワルテレウォ号の生き残り60名、ウィジャヤ・クラマの人質にされたブルッケ以下の7人とバンテン商館員の身柄を受け取ってから本国へ帰れという、オランダ側にとっては悪くない条件が付けられている。しかしオランダ人は即答を避けた。

この事態の急変に対してイギリス人はどのような方針を取ろうとしているのか、それをオランダ人は知りたかったから、「降伏合意の内容をどのように実施するのか、その予定を知らせてくれ。」と問い合わせをかけた。イギリス側からの返事はこうだった。
「状況の新展開にともない、その実施は不可能になった。当方は全員が船に戻るので、いま陸上に散開しているイギリス軍が岸から乗船するさいに、もしバンテン軍がそれを阻むようなら、カスティルへ受け入れてもらいたい。」と反対にオランダ人を頼って来た。オランダ人は予想外の展開に驚いたが、アジア人を相手にする同じヨーロッパ人という一体感を踏まえて、イギリス側の依頼に承諾を与え、そしてバンテン王国に対しては要求を呑むことを表明した。


2月6日、陸上のイギリス軍は平穏無事に船に引き上げた。


2月9日、オランダ人は撤収にあたっての実施細目の打ち合わせをバンテン側とはじめた。打ち合わせを進めている中で、バンテンの示した条件がさらに交渉可能であることをオランダ人は見出した。

どうやらバンテン側もデイルやウィジャヤ・クラマと同様に、正面切っての戦争を避けようとしている気配が濃厚であるように、オランダ人は感じたのだ。優位に立っていることを悟ったオランダ人は、バンテン側が提示してくる条件を少しでもオランダ側に有利になるように、執拗に反論を続けて交渉を長引かせた。

合意内容は変化して行った。クーンが戻ってくるまで、オランダ人はカスティルに居住してよい。バンテンに引き渡すのは兵器50%、財貨25%。今後もバンテン王国との通商を継続する。バンテンに囚われているオランダ人を全員釈放せよ。オランダ人の生命と財産を原住民やイギリス人から保護せよ。それらを間違いなく遵守するというバンテンスルタンのアルクルアンに誓った誓約書を差し出せ。攻守逆転するというのはこのことだろう。

業を煮やしたバンテン側は、ウィジャヤ・クラマの手からバンテンへと移されて依然として囚人の境遇に落ちているブルッケを使ってカスティルのオランダ人を服従させようと考えた。カスティルに送られてきたブルッケの手紙には、「早くカスティルを退去しないと、バンテンはカスティルの住人をはじめバンテンに捕らえられている囚人たち、そしていまだに近海をわけもなくうろついているイギリス船隊にまで、重税を取り立てる意向だ。」といったことが書かれていた。ともあれ、このような交渉が続けられている間は、オランダ人はカスティルに居続けることができるのである。ブルッケからの手紙が届くたびに、バンテンが自分たちの思うつぼにはまっていることをオランダ人は喜んだ。

3月に入ると、スマトラから戻って来たデルフト(Delft)とティクレ(Tigre)の二隻の小型船が、商品・黄金・火薬・食糧と十数人の兵員をカスティルにもたらした。そのころには地元民もカスティルの周辺に市を開くようになり、コショウや他のスパイスの取引も行われるようになった。

そんなころにひとりのポルトガル人がジャヤカルタに現れ、自分はチレボンのスルタンを介してマタラム王の特使に任じられた者だと名乗り、マタラム王はオランダ人の勇気を讃え、ジャヤカルタとバンテンを非難し、カスティル解放のために1千隻の水軍と数千人の軍団を派遣する、とのメッセージを伝えた。
そのポルトガル人はそれからジャヤカルタを去ってバンテンに向かい、バンテンのスルタンにそのメッセージを伝えた。バンテン側が驚きをにじませたコメントを返すと、その返答をマタラム王に伝えるため、ポルトガル人は去って行った。

マタラム王からのメッセージは誰もが半信半疑だったが、それはともあれ、自分たちが置かれている状況を全員に再認識させるのに十分な効果を持っていた。マタラムの脅威に対抗するためには、バンテンとジャヤカルタでバンテンとオランダが互いに敵対していてはならないのだ。両者は同盟してマタラムに対する共同戦線を張るのが、最善の方策なのである。事態は新たな局面を迎えつつあった。オランダ人はカスティルの防衛力強化に努めたし、バンテン側もジャヤカルタ進駐軍の兵員を4千人超に増やした。追放されたウィジャヤ・クラマも、このまま引き下がってはいないだろう。

ジャヤカルタに立ち寄るオランダ船や諸国の船がクーンからの知らせをカスティルにもたらすようになった。クーンはジャヤカルタへ戻ってくる準備をマルクで整えている。総督が戻ってくるのはもうすぐだ。カスティルの中に新たな希望が渦巻いた。カスティルの住民のすべてが久方ぶりに抱いた安堵感だった。ひとびとはカスティルを守り抜く決意をふたたび固めた。


月が変わったある日、バンテン兵の一部隊がカスティルの防備に関する提案を携えてやってきた。そしてカスティルに入るや、そのままカスティルをその指揮下に置こうとした。オランダ人が黙っているわけがない。激しい抵抗に会ったバンテン兵は命からがら、カスティルから逃げ出した。


4月9日夜半、カスティル守備隊の指揮を執っていたピーテル・ファン・ライとカスティルの総兵力とも言える30人の兵士はひそかにカスティルを抜け出し、バンテン軍の主要陣地2カ所を続けざまに襲撃した。その奇襲は成功したものの、三度も続くわけがない。3カ所目では、既に待ち受けていたバンテン軍との間に激しい戦闘が行われ、オランダ兵士20人が刃物傷を負ったが、すべて軽傷だった。バンテン側は4人の死者を出した。


4月10日、ライはバンテン軍指揮官に会いに王宮を訪れた。昨夜の襲撃はやむを得ず行われたものであり、閣下への知らせが遅くなってしまったことをお詫びする、とライは切り出した。ジャヤカルタ兵とバンテン兵の中にマタラムに内通している裏切り者がジャヤカルタを敵の手に渡そうとして暗躍しており、マタラムはジャヤカルタ進攻の準備を進めているとの情報が得られたため、裏切り者の心胆を寒からしめて動きにくくさせるのを目的に、急遽夜襲の挙に出てしまった、と説明した。指揮官はこの事件についてバンテンのスルタンに対し、つまらぬ誤解によって衝突事件が発生したとだけ報告している。

この日、カスティルにオランダのフリゲート船2隻がマルクから到着した。カスティル内が湧きたつような知らせをもたらしたのだ。クーンが船隊を率いてマルクを出発し、ジャヤカルタへ向けて進軍中であるというのがそのニュースだった。カスティル内に歓声があがった。

クーンが大兵力を率いてジャヤカルタに向かっているという情報は、すぐにジャヤカルタの町中に広まった。そして信仰に似た恐怖心がジャヤカルタ兵とバンテン兵の間にひたひたとしみ込んでいったようだ。
オランダ人が行った夜襲攻撃でバンテン側に損害が出たのだから、誤解云々は別にして、バンテン側に損害賠償を要求する権利が生じている。でなければ襲撃の責任者を処罰することも可能だ。だが、クーンという名前を耳にしたとたん、そのような些事は雲散霧消してしまった。バンテン軍のカスティルに対する軍事攻撃の意欲も萎えてしまったらしい。


16.ジャヤカルタ征服

5月28日、17隻のオランダ船隊がジャヤカルタ沖に出現した。そして、ジャヤカルタの海岸を埋め尽くすように包囲した。
クーンは旗艦プチホランド(Petit Holland)号からカスティルを望んでいた。カスティルはクーンが去ってから5カ月間、まるで何事もなかったかのように、チリウン川河口右岸にその威容を誇示していた。へんぽんと翻るオランダ国旗を見つめるクーンの胸中は、いかばかりだっただろうか。

マルクで捲土重来の準備を進めていた5カ月間、クーンは気が気でなかった。だがかれのもとに集まってくる情報は、ジャヤカルタのカスティルがまだだれにも奪われていないことを物語っていた。あの諸情報は確かに間違っていなかったのだ。クーンはすぐにカスティルと連絡を取り始めた。


5月30日、クーン船隊が運んできた1千1百名の兵員のうち、1千名に出撃命令が出された。オランダ兵は矢継ぎ早に上陸すると、ジャヤカルタの町に攻め込んだ。ジャヤカルタの町の防備に当たっていたジャヤカルタ兵とバンテン兵はそれぞれ4千人あまりいたはずだが、オランダ兵の攻撃に最初から浮足立っていたようだ。組織的な抵抗はほとんど見られず、オランダ人部隊の銃撃に会うと、死者を残してどんどん後退していった。
そのありさまに、非戦闘員である住民たちも、われがちに町の外のジャングルの中に姿を消して行った。こうなれば戦闘員と非戦闘員が一丸となって逃げ出すばかりだ。バンテン軍指揮官もきっと嘆いたことだろう。

ジャヤカルタ征服はその一日で終了し、がらんどうの家屋や諸施設が残された。クーンは続いてオランダ兵に命じた。「町のすべてを破壊せよ。」 ヨーロッパ人が住むための街をここに建設するという考えが、そのときのクーンの頭の中にはきっと充満していたにちがいない。


カスティルに戻ったクーンは、カスティルを守ったひとびとへの賞罰を行った。カスティルがVOCのために守り抜かれたのだから、「全員よくやった。」ということにしないのが、規律厳守の統率者であるクーンという人物の本領だろう。結果として、規律違反者に対する罰のほうが多くなったらしい。違反の内容によって罰の軽重が異なったわけだが、VOC入社時の階級に降格された者があり、あるいは会社資産への損害責任を問われた者は今後の給与から天引きすると宣告された者もあった。クーンはそれらの処分を規則に従って淡々と決定し、その通りに実行させた。

クーンはまた、バンテンのスルタンに対して、ブルッケ以下バンテンに囚われているオランダ人と関係者の引き渡しを要求した。スルタンが要求を蹴ったためにクーンは一部兵力を率いてバンテンへ示威に赴き、6月6日にバンテンはクーンに降参して虜囚の引き渡しに応じた。

イギリス人はバンテンの商館を維持して商活動を行っていたが、クーンがバンテンのスルタンを恫喝するありさまを見て、クーンの報復を受ける前にバンテンから去った。プリンの船隊もデイルの船隊も、一時的に難を逃れようとしてインドへ去って行った。


続いてクーンが行ったのは、バンテン王国の海上封鎖だ。バンテン目指してやってくる船を遮断してはジャヤカルタへ回航させたから、バンテン王国の経済力は急速に衰退して行った。封鎖は長期に渡って継続され、さびれて行くバンテンを横目に見ながらオランダ人の基地となったジャヤカルタの経済力はどんどん栄えて行った。もちろん、ジャヤカルタという名称は間もなく返上されてしまうのだが。

クーンの出生地はオランダのホールンであり、かれは征服したジャヤカルタの町をヨーロッパ人が住むための町に作り替えたとき、自分の生地にちなんでニューホールン(Nieuw Hoorn)と名付けた。それはクーンが独断で使い始めた名称であり、十七人会の承認は得ていない。
アムステルダムのカーメルに牛耳られているVOC本社つまり十七人会が、アジアに作られたオランダ人の自治区に一地方都市の名前をつけることを許すはずがないだろう。その町こそが、これからVOCが行う喜望峰から日本までの広範なエリアを経営するための根拠地となるのだから。


1621年1月18日に十七人会はその街の名称をバタヴィアとすることを定める命名式典を開催した。その日から、オランダ人がアジアに設けた完璧なる自治領としてのバタヴィアの歴史が始まる。だが、VOCはこのバタヴィアを植民地として設けたのでは決してない。それはVOCの通商と業務管理のためのセンターとして設けられたものであり、この街と土地はVOCという会社が所有する資産と位置付けられた。

そのためにバタヴィアへやってきて住んだヨーロッパ人は基本的にVOC社員や嘱託員ばかりであり、全員が会社の規定に基づいて総督館の監督下に置かれていた。つまり駐在員であるために、その私生活までもが会社の監督下に置かれたのである。
たとえVOC社員としてバタヴィアにやってきた者でも、VOCとの契約が満了すれば、社員という立場から解放される。しかしバタヴィアに住み続けたい者は会社の土地に住まわせてもらわなければならない。だから私人として自由にふるまうには困難な状況が長期に渡って続いた。


17.ジャカトラ王国

バタヴィアの命名に関して、別の説がある。クーンはジャヤカルタを征服してから、その町をジャカトラ王国(Koning van Jacatra)と命名し、それを公文書に使い始めた。一方、カスティルの名称をクーンはニューホールンとしたが、十七人会が1621年1月18日にバタヴィア城(het kasteel van Batavia)という名称に決めたというものだ。

ジャカトラ王国の国王は当然、クーンが務めることになる。それはクーンがVOCという会社から逸脱しようとしたのでは決してなく、その当時ジャワ島内に存在しているさまざまな支配権がすべて王国であったことから、ジャヤカルタをバンテン王国の属領から一王国にランクアップさせ、バンテンの属領でなくなったことを主張し、同時に周辺の強大な諸勢力と肩を並べる立場に立ったのだと表明することが目的だったとされている。
言うまでもなく実態は王制でも何でもなくて、VOCが政体を統括する非アジア人の自治都市だったわけだが、少なくとも、その後の百年間は公的な場面でたいていジャカトラ王国の名称が使われたそうだ。ところがカスティルの名称としてのバタヴィアがその土地の地名と混同されるようになり、町の拡大発展にともなって周辺地域をも含めた地名として定着した、というのがその説の内容だ。


十七人会をクーンは「けちで、臆病で、愚かなヒーレン17」と呼んだそうだが、クーンは「適切な勇気が勝ち得たこの成果を見よ。」という表現を添えて十七人会にジャカトラ王国建国についての報告書を提出しているらしい。もしもジャカトラ王国説が真相であったなら、バタヴィアという名称を持った町が誕生した時期は特定できなくなる。


18.バタヴィア建設

ジャヤカルタの町を破壊しつくしてから、カスティルを守り抜いたひとびととマルクからやってきたオランダ人およびVOC関係者が手を携えて、新しい街の建設を開始した。とりあえずその地名をバタヴィアとしておこう。

バタヴィアの町建設を担ったのは、VOC職員、VOC兵員、ポルトガル人協力者、日本人傭兵、アンボン人、奴隷、解放奴隷、中国人の職人たち、メスティーソ、そしてオランダ人に協力するスンダ地方地元民たちから成っていた。
オランダ人石工の指揮の下に、奴隷を使って近くの山から石を切り出し、大量の石がチリウン河口の湿地帯に運ばれた。また海からも巨岩やサンゴ礁が陸上に運び上げられた。町の外側はチリウン川の流れを利用しながら濠を掘って囲んだ上、街全体を頑丈な石の壁で包むようにした。町の中にも水路を堀り、縦横に道路を走らせて橋をかけた。アムステルダムの街に似せて設計されたヨーロッパ人のための町が、熱帯の地に少しずつ姿を現していった。


カスティルは川に沿って全長150メートルの規模に拡大され、ほぼ同じ長さで内陸部に延ばされて四辺形をなし、高さ6〜7.5メートルの堅固な城壁に囲まれ、城壁の四隅には塔が外側へ張り出すように作られて川、海、陸地の全方位に睨みをきかせていた。それぞれの塔は最初オランダの諸州の名前で呼ばれていたが、将来の繁栄を予言するかのように南西の塔がダイアモンド(Diamant)、北東はサファイア(Saphier)、南東にルビー (Robijn)、北西がパール(Parel)という、南海の宝庫を象徴する名前に置き換えられた。

この第二期カスティルは第一期カスティルの9倍の広さを持ち、北は直接海に臨み、西はチリウン川、そして東と南に濠が掘られて四周を保護され、四辺のそれぞれにゲートが作られた。waterpoortと呼ばれた北側大門とlandpoortと呼ばれた南側大門の間は290歩の距離で、また東西方向の幅は274歩だったと記録されている。ランドポートはアムステルダム門とも呼ばれ、そこには濠をまたぐ吊り橋がかけられて、対岸の広場を横切って町に至る道路が作られた。
古い絵図やスケッチ画を見ると、カスティル西側城壁は第一期カスティルの外壁に付けて設けられたことがわかる。そしてパール塔の端にフェイファ門(Vijverpoort)、ルビー塔の端にはデルフト門(Delftschepoort) があり、パール塔とダイアモンド塔の間には総督用のプレイハウスが見られる。
カスティルの中には事務所や倉庫、VOC職員宿舎や兵営、総石作り二階建ての総督館、参事会役員の官邸、裁判所、教会、兵器庫、診療所、工房などが設けられた。川岸には埠頭が作られてVOCの船や現地人の船が荷役を行い、荷役人夫がカスティルの前庭や倉庫を忙しく往復した。


カスティルの南側には、東西1キロ南北1.5キロの壁に囲まれた都市がカスティルを中に包んでできあがった。その北端はいまのパサルイカンの線、南端はいまのマンディリ銀行博物館の少し南側と国鉄コタ駅を結ぶ線、西側境界はジュラケン川(Kali Jelakeng)東岸、東側は現在のチリウン川西岸になる。

このバタヴィア城市の中は直線街路が格子状に交差し、同じように水路が直線で交差していくつかのブロックを形成し、広い道路の中央を水路が流れて彫刻の施された石造りのアーチ橋が通りを飾った。各ブロックにはオランダ風あるいは中華折衷様式の建物が、大きな礎石の上にレンガを積み、屋根瓦を葺いたデザインで、石畳の道路に沿って整然と並んだ。
この街をユトレヒトと広東の合体したような町だと評した者もある。町を護る防壁はカスティルの城壁と同じ厚さを持ち、防壁には22カ所の砲塔が設けられ、カスティルや防壁以外の要衝にも大口径砲が置かれて、大型砲百門がバタヴィアの町を防衛した。弾薬の備蓄は潤沢だった。

このバタヴィア城市から外へ出る城門が南側の防壁に設けられて、警護兵が守りを固めた。その城門の跡は大門通り(Jl. Pintu Besar)という名前で現代にまで残されている。バタヴィア城市の防壁の外側は、いつ原住民や野獣に襲撃されるかわからない、危険に満ちた世界だったが、クーンは城市の防壁を防衛最前線とせず、もっと外側のアンケやアンチョルなどいくつかの場所に砦を築いて防衛線を構築した。その防衛戦略は10年後にマタラム王国の大軍を迎え撃ったとき、バタヴィアを守り抜くのに多大な貢献をしている。

だがクーンですら、この低湿地帯での水将軍の襲来には手を焼いた。雨季の豪雨や高潮のために街中での浸水が頻繁に起こっている。その悪弊は現代まで持ち越され、ジャカルタがなかなか洪水から縁を切れないでいる状況を裏付けているようだ。


バタヴィア城市の中央を流れるチリウン川、今のカリブサールによって町は東西に分断され、東側と西側はただ一カ所の橋で結ばれた。その橋の位置は現在のインドネシア銀行博物館の北側にあるJl. Bankの橋のようだ。
バタヴィア城市の西半分は中国人やポルトガル人など下層階級の居住地区で、肉・果実・魚などの市場もあった。川の西岸には倉庫が並び、コメ・砂糖・紅茶などをはじめ、入港するVOC船舶のための補給物資も貯蔵されていた。

一方、東半分は富裕な支配者層の居住地区で、テイヘルスフラフツ(Tijgersgracht = 今のチュンケ通りJl Cengkeh辺りに掘られていた濠)を中心にして高級住宅地区になっていた。そして、この町最大の目抜き通りもテイヘルスフラフツに沿ったプリンセンストラート(Prinsenstraat)であり、この通りはカスティルから下って来て市街に入り、バタヴィア政庁舎(Het Stadhuis Van Batavia = 現在のジャカルタ歴史博物館)の前庭広場に突き 当たる大通りになっていた。ゴシック様式のバタヴィア政庁舎は1626年に建設が開始されて1627年に完成した。政庁舎の左側に教会が建てられたが、1629年のマタラム軍の攻撃で灰塵に帰した。


19.理想を追う男、クーン

クーンの適切な勇気は、かれが任期を終えて帰国するまで消えることがなかった。クーンは自己の信ずるVOCの理想目指して闘い続ける戦士だった。会社の経営陣と現場の統率者の間に理想に関してずれが起こることがあるのは、現代でも変わらない。

健康の、ましてや生命の保証すらない南海での勤務にやってきたヨーロッパ人にとっては、手に入る報酬がすべてだったにちがいない。汚れていようがいまいが、金の誘惑はいたるところにあったし、往々にして汚れている金のほうが大きく、そして早く動いた。そんな腐敗と汚職に満ちた組織の中で、クーンは職務に忠実であり、忠実であるがゆえに過誤を犯した部下を規律に照らして厳格に処分した。かれは情実に心が動かされる人間でなく、冷めた理性と鋭い見通しがかれの鉄の意志を支えていた。
十七人会の中でも、クーンに対する評価は相半ばした。不屈の闘志と残酷さ、完璧な計画性と集中力に対する薄情な人間味のなさ、部下に能力最大限の成果を出させる統率力の一方で人情の機微に対する感受性の欠如、インスピレーションに満ちた天才かそれとも悪の天才か、果てしない勇気かあるいは暴力と復讐の塊か、ふんぷんたる血の臭い、残酷な野蛮人・・・・

クーンの上司だったピーテル・ボットはかれに好意的な上層部の一人だった。ピーテル・ボットはクーンの人となりについて、信仰心に篤く、人柄は素朴で、勤勉で有能であり、飲みすぎることもなく、会議での決断も早く、性格は陽気で、ビジネス感覚は明晰であり、優れた会計士で、尊敬しうる青年である、と評した。

クーンは決して軍人ではない。会計学を学び、会計士としてVOC職員に採用された青年だ。だがかれの真骨頂が会計のデスクワークでなく、優れた戦略とものごとの先を読む洞察力に満ちた先見性とともに判断力と決断力に支えられた行動力にあることがバンテン駐在中に会社上層部の目にとまることになる。

VOCは通商で利益を得ることを使命とする会社であり、加えてその使命を実現させるための軍隊を持つことを本国議会が承認していた。だからVOCの現地総督は利潤を追求する支店長であると同時に、そのためにどのように軍事力を行使するかという戦略の立案と遂行の責任を担う軍司令官でもあった。だが本質は支店長なのであり、軍司令官はあくまでも二義的なものだ。


クーンが着手したVOCの喜望峰から日本に至る一大商圏における、力による独占ビジネス構想を十七人会が一丸となって賛同し支持したわけでもなかった。着実なスパイス通商を行って利益をたくわえ、出資者への配当を確保していくのが会社の責務であると考える重役にとって、クーンの構想はまるで賭博であり、巨大な経費支出を強いる危険極まりない企画としか思われなかった。事実、1605年から10年までの会社の業績は210%の配当を可能にしたし、1616年でも75%の配当は確保されたというのに、その後のアジア支配構想推進のために1620年までに支出された経費は膨大な数字に達し、累積8千フローリンの赤字が計上されていた。だがクーンの企画のセンターとなるバタヴィアは既に動き出しているのである。

1623年2月1日、クーンは総督職をピーテル・デ・カルペンティール(Pieter de Carpentier)に引き継いで帰国し、ホールンのVOCカーメル室長の座に就いた。カルペンティールは中国貿易を活発化させ、またバタヴィア市街の建設にも貢献した。1627年に完成したバタヴィア政庁舎はかれの業績だ。しかし現在まで残っている政庁舎建物は1707年1月25日に第17代総督ヨーン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)が再建 を開始させ、かれを後継した第18代総督アブラハム・ファン・リーベーク(Abraham van Riebeeck)のとき、1710年7月10日に完成した。
カルペンティールについては、オーストラリア北部のカーペンタリア湾にかれの名前が残されている。


クーンがカルペンティールへの引継ぎを終えて帰国し、アムステルダムの本社に帰国報告に訪れた時、カルペンティールの後任者が早々と内定したのではあるまいか。十七人会はクーンに説得されて、次の5年間かれを総督に再任する気になってしまったように思われる。

実際にクーンの評価は相対立したが、クーンを支持する声が優勢になったようだ。月給は前回の6百フローリンから1千8百フローリンに跳ね上がり、同額の特別手当が与えられた。バタヴィア建設の褒賞として7千フローリン、バンダ獲得の褒賞が3千フローリン、加えて黄金のチェーンと4百フローリン相当のダマスカスの刀がかれにプレゼントされた。
ところがクーンは十七人会があまりにもケチだと言って、この重役会の眼前で苦情を述べたのである。十七人会は結局、褒賞を倍額にした。


1627年3月5日、クーンはバタヴィアに向けてテセルを出港した。その船にクーンが乗っていることは極秘にされた。それが判れば、その船が無事にバタヴィアに到着できる保証はなくなったにちがいない。かれは2年前に世間評判の良い家庭の娘、エヴァ・メント(Eva Ment)と結婚しており、その船には妻と赤児そして妻の弟妹が同乗していた。

ふたりが結婚したとき、夫は38歳で妻は19歳だった。クーンが妻子を連れてバタヴィアに赴いたのは、バタヴィアのVOC職員や兵員がオランダ人の妻を持ち、キリスト教をはじめとするオランダ文化をバタヴィアに根付かせるための手本にするのが目的だった。クーンのその方針によってその後、オランダからバタヴィアへ花嫁船が出されるようになるが、長続きしなかった。

その辺りの事情は拙作「ニャイ」〜植民地の性支配
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libnyai.html
をご参照ください。

その年9月に船はバタヴィアに到着し、クーン一行はカスティルに入った。エヴァ・メントとその妹が正式にバタヴィアへ移住した最初のヨーロッパ女性だった。もちろんそれ以前に、船内に隠されて男について行ったふしだらな女たちがいなかったわけではないが、そんな女性たちは正式な移住者という勘定の外だった。


クーンは1629年のマタラム王国軍による攻撃の際に死亡する。寡婦となったエヴァはバタヴィアでの定住を拒んで帰国し、1632年にVOC上級商務員と結婚した。その夫の死後1646年にまた再婚したが、46歳でオランダで没した。クーンが自分の死後、妻のどんな行動を期待していたのかは判然としないものの、自分がうち建てたバタヴィアがオランダ女性に抱かれてオランダの一都市となることを望んでいたのは確かであり、その面からエヴァの行動を見るなら、クーンの希望は裏切られたと言えるかもしれない。

そうは言っても現実問題としては、クーンの理想に押された会社がオランダ女性を熱帯のコロニーに送り込んで見たものの、かの女たちは現地で贅沢三昧な暮らしを営み、そのための資金稼ぎを夫の双肩に載せ、夫はついつい汚れた金を手にするようになり、寡婦になった後は蓄えた財産を持ってオランダに帰国するというのが一般的なパターンになっていったから、エヴァひとりをなじるのも酷であるにちがいない。所詮は「男の理想が女にとっては何なのか」という古今不滅の定理に向かうだろうから、物言わぬに越したことはあるまい。

結局会社は、多大な経費を費やしながらたいした効果の上がらないクーンの理想を見捨てた。現地の駐在職員や兵員にオランダ女性の妻を持たせる方針は取りやめられ、現地の女性を家庭生活の相手にするよう会社はかれらを仕向けて行った。それがもっとも経費を小さくする方法であったことは、VOC経営陣が十分に承知している。インドネシアのニャイが疑似制度にまで発展していったことの根源がそこにあった。


20.サラ・スぺクス

クーン自身がピーテル・ボットの評したような性格の人間であったことで、その時代のキリスト教世界を支配していた倫理に背いた少年と少女が断頭と鞭打ちの刑を受ける事件が起こった。少女はVOC高官の父と日本人の母を持つ混血児だった。

クーンがバタヴィアをオランダ文化の都市にしようと望み、オランダ人がアジア人との間に子供を設けることに特殊な感情を抱いていたことは、基本的にプリブミやアジア人をバタヴィア市内に居住させない方針が取られたことや、そのオランダとアジアの混血少女を、父親が同じ会社の高官だというのに、妻の雑用に奉仕する小間使いとして働かせたことなどに表れている気がする。その少女は名をサラ・スぺクス(Sara Specx)という。

サラ、愛称サルチェの父親は平戸で初代のオランダ商館長を務めたジャック・スぺクス(Jacques Specx)だった。母親はジャック・スぺクスが囲った地元の日本女性だったが、父親は娘をオランダ文化の中で育てた。

ネット上の発音サイトや人名情報を調べてみたが、Jacquesの綴りはフランス語のものであり、それに相当するオランダ語はJackあるいはSjaakなどとなっており、Jacquesという綴りが本当にヤックと発音されたのかどうかには疑問がある。ここでは、その自主調査結果を使わせていただく。

ジャック・スぺクスは1609年から1621年まで初代と第三代の平戸商館長を務めた。
1622年にはバタヴィアの参事会頭兼参事会議員となり、1624年には教会諮問会の政治コミッショナーに選ばれた。1627年に十七人会は平戸での経営に関する審問を行うため、かれをアムステルダムに召喚した。

オランダでの滞在を終えたかれは1629年1月、バタヴィアに戻るべくオランダを去ったが、途中の悪天候で船が破損したためバタヴィアへの帰着が遅くなった。1929年9月21日に総督クーンが死去すると、マタラム軍の第二次遠征のさなかという緊急事態に対処するため、かれはクーンの指揮権を自ら引き継いで困難な状況の処理に乗り出し、バタヴィアを守り抜くことに成功した。ただしかれの自主的な総督職の継承を十七人会は喜ばなかったらしい。1929年から1932年まで、かれはバタヴィアで臨時総督を務め、第八代総督ヘンドリック・ブラウワー(Hendrik Brouwer)に交代した。
バタヴィアの町の中央を流れるチリウン川を改修させて現在のあのカリブサールの姿にしたのは、ジャック・スぺクスが総督在任中のときだった。


サルチェが生まれたのは1617年で、日本を去る父親に連れられてバタヴィアに移った。
1627年に父親がアムステルダムに召喚されたとき、アジア人との混血児をオランダに入国させるのがたいへん困難だったことから、父親はサルチェをクーンとエヴァの夫婦に預けた。エヴァはこの10歳の少女の養育を面倒見ようと思ったらしいが、お客様扱いはされなかったようだ。少女はバタヴィアのファーストレディにあれこれ言いつけられてその身の回りの世話を手伝う仕事を与えられたようだ。もちろん奥様を取り巻いて世話していた原住民奴隷並みの扱いがなされたとは思えないのだが、お客様扱いされてまるでプリンセスのような待遇を受けたように解説している話に遭遇すると、わたしは首をかしげざるを得ない。クーンがそのようなことを果たして妻に許しただろうか?

もし当時のオランダ人社会で一般に行われていた少女の躾方がそれであるなら、クーンの特殊な感情をそこに結び付ける必要はないわけだが、社会慣習がそうなっていなかったのであれば、そのありさまをわれわれはどう受け取ればよいのだろうか?


そのころ、カスティル守備隊の下級兵士の中に、ピーテル・J・コルテンフフ(Pieter J Kortenhoef)という名の15歳の少年がいた。かれはその美貌と男っぽい愛らしさで大勢の女たちを魅力のとりこにしていたようだ。独身であろうが人妻であろうが、この少年との甘い蜜の時を持った女性は少なくなかったらしい。つまりバタヴィアで、このピーテルは美貌のプレイボーイだったということのようだ。

守備隊兵士は言うまでもなく、最重要防衛ポイントのひとつである総督館の内部まで入って警備を行う。総督館でクーン夫妻と一緒に暮らしているサルチェがピーテルと知り合う機会は潤沢にあったにちがいない。12歳のサルチェが送っていた孤独な毎日がピーテルの姿でバラ色に染まるようになる。だが憧れのピーテルに声をかける勇気はなかなか湧いてこない。

ついしばらく前まではただの子供だと思っていたサルチェが、いつの間にか女に変わってきているのに驚いたピーテルは、その魅力を堪能しようとしてかの女を見つめたとき、サルチェの顔がぽっとバラ色に染まったのを目にして、この娘は落とせると思ったにちがいない。
ピーテルのほうがサルチェに接近して行った。ゆっくりと時間をかけて、この少女の最初の男になるのだ。軽いコンタクトが繰り返されて親しさが増し、サルチェの日常の意識の中にピーテルが常住するようになったとき、ふたりの恋の炎が燃え上がり、そして破局に向かって転がり落ちて行った。

夜中にピーテルがサルチェの個室に忍び込んでくることが何回か起こった。だが総督館は夜中でも千の目を持っている。おまけに場所が場所であり、そしてその主がクーンだったのだ。その面を軽く見たのも、ピーテルの未熟さだったに違いない。総督諜報隊の幹部からサルチェの品行に関する報告を聞いた時、クーンは最初それを与太話だと思った。

総督として処理すべき問題が山積されているというのに、ゴシップ話は聞きたくもない。
だがある夜、深夜まで執務していたクーンが寝室に向かっているとき、サルチェの部屋の扉がわずかに開いて男がひとり部屋の中から滑り出てきたのである。クーンは壁際の灯りを手にしてその男に向け、大声で衛兵を呼んだ。男は捕縛された。クーンがサルチェの室内に入ったとき、不安で蒼白な表情になっている、寝乱れたサルチェの姿がそこにあった。
「何ということだ。このわしの居館を神をも恐れぬ不倫行為で汚すとは・・・。」

カルヴィニズムの忠実な信徒であるクーンにとって、性行為は婚姻という枠の中でのみ認められるものだった。夫婦になっていない男女がそれを行うのは、神への冒涜である。全バタヴィア住民に範を垂れなければならないクーンは衛兵に命じた。
「このふたりの姦夫姦婦を絞首刑にする用意をせよ。」

総督館が騒がしくなった時、噂はたちまちカスティルの中に広がった。クーンがふたりを処刑しようとしていることを知った司法評議会員がそれを阻むためにやってきて説得した。いかなる罪人であっても、法の裁きを受ける権利があるのだ。クーンはふたりの処遇を法に委ねた。1629年6月17日深夜のできごとだった。


6月18日、司法評議会での審議が開始され、結婚していない若者と少女が総督館の中で行った性行為は明らかに宗教が禁じている行いであり、ふたりは神への冒涜と不倫の罪を犯したことで有罪判決が出された。罪を犯した者は罰せられなければならない。ピーテル・コルテンフフには断頭による死刑が決められた。VOC高官であるジャック・スぺクスの娘サラには、死罪は与えられず、公衆の面前における鞭打ち刑が宣告されたのである。

クーンはその裁判の進行にまったく介入せず、判決への反論すら行わなかった。総督は絶大な権限を持っているのであり、判決内容を変えさせたり、あるいは判決審議の場で影響力を振るい、被告への刑罰を軽くも重くもできるのは周知のことだったにもかかわらず。
サラへの罰を、期限を付けての入牢とするような、もっと穏やかなものにすることは楽々とできたはずだが、クーンは何もしなかった。妻のエヴァは監督不行き届きとして夫から強く叱責されたにちがいない。


6月19日、政庁舎表の広場で処刑が行われ、数百人のバタヴィア住民がそれを見物するために集まって来た。処刑人に引き立てられてきたサルチェは政庁舎入り口の表で着ていた衣服をはぎ取られ、その健康で白い若肌に唸る鞭が何度も振るわれた。一方、表の広場中央ではピーテル・コルテンフフの断頭の刑が行われた。それ以後も処刑刀は長年にわたって受刑者の血を吸い続けた。刀は同じでも、処刑人は代々入れ替わる。一刀両断の巧みな処刑人もいたし、数回首を叩いてやっと切り離した拙劣な処刑人もいたらしい。色が既に黒変した刃渡りおよそ1メートルほどのその処刑刀はジャカルタ歴史博物館の二階に展示されていたが、今もまだ見ることができるのだろうか?

刑の執行が開始されようとしたとき、処刑人チームのひとりが墨をピーテルの整った顔に塗りたくった。大勢の女を夢中にさせたその美貌を台無しにして、恥辱を与えようとしたのだろう。美貌の女たらしへの憎しみと侮蔑と、そしてひょっとしたら混じっていたかもしれない嫉妬がそんな形を取らせたにちがいない。処刑人の一刀でピーテルの首と胴が切り離され、血にまみれた頭が広場の石畳の上に転がったとき、その顔は白と黒のまだら模様になっていた。特にまだら模様の鼻にひとびとは印象付けられたようだ。

インドネシアでは、女漁りの好きな色事師にhidung belangという代名詞を使う。まだら模様の鼻という意味だ。KBBIでは「女遊びの好きな男」という語義になっているが、昨今のメディア報道での用法を見ると性犯罪者の代名詞にされている感がある。ピーテル・コルテンフフはインドネシアにひとつの熟語表現を遺したと言えるだろう。

余談だが、hidung belangとよく似た熟語にmata keranjangというものがある。mataは目、keranjangは籠という意味だ。この「籠の目」という熟語も色事師を意味している。インドネシアに多い竹や籐の籠の編目を想像するひともきっと多いにちがいない。それと色事師がどう結びつくのか、知恵を振り絞ってさまざまな由来を考え出した日本人先輩諸氏もいらっしゃるようだが、実はこの熟語「mata keranjang」でなくて「mata ke ranjang」が正確な表記だったということを、レミ・シラド氏が書いている。それがわかれば、こじつけた説明はもう無用だろう。


サルチェの父親ジャック・スぺクスがバタヴィアに戻ったのは1629年9月23日で、クーンはその二日前の9月21日に死亡しており、折しもマタラム軍の第二次遠征による戦争のさなかという状況にバタヴィアの諸方面からの賛同を得たかれがクーンの後継者として総督の椅子に座ったのは9月25日だった。

娘が不倫の罪で刑罰を受けたことを父親はバタヴィアに戻ってからはじめて知った。かれがクーンに対してどのような感情を抱いたのかを明らかにする記録は残っていないが、日曜日に教会へ礼拝に行くことをかれはボイコットするようになったらしい。
バタヴィアの街中で恥と不名誉をさらしたサルチェを、父親はバタヴィアから去らせようと考えたようだ。1932年5月20日にVOCの嘱託としてバタヴィアに勤めている35歳のドイツ人プロテスタント牧師にサルチェを嫁がせ、翌年に台湾のVOC基地に転勤する夫とともにサルチェを送り出した。サルチェは二度とバタヴィアに戻らず、1636年に19歳の若さで台湾の土となった。


21.ジャワ島の覇者、マタラム王国

ところで、1619年のVOCによるジャヤカルタ征服に先立って、中部ジャワに都を置くマタラム王国が西ジャワの覇権を握ろうという意欲に燃えている状況にVOCもバンテン王国も神経をとがらせていたことは既述した。当時の中部東部ジャワの状況はどうなっていたのだろうか?

1619年にマタラム王国を率いていたのは後にスルタン・アグン(Sultan Agung)と通称されたラデン・マス・ランサン(Raden Mas Rangsang)で、かれはパヌンバハン・ハニョクロクスモ(Panembahan Hanyakrakusuma)を称号とした。そして1624年にマドゥラ島を支配下に置いてから、スルタン・アグン・スノパティ・イガラガ・アブドゥラフマン(Sultan Agung Senapati-ing-Ngalaga Abdurrahman)に称号を変えた。分かりやすいよう に、最初からスルタン・アグンで通しておく。

1613年に20歳でマタラム王国三代目の王位に就いたスルタン・アグンは、建国以来の念願になっているジャワ島平定の壮挙に着手する。当時の中部東部ジャワ一帯は、マジャパヒッ王国の遺制である諸領地を支配するアディパティ(Adipati)たちの間で、覇権争奪の場になっていた。
順繰りにバトンタッチされた王権をつかんだマタラム王国と、東ジャワのアディパティたちの盟主となったスラバヤが天下を二分し、両連合軍が東と西に分かれて戦争を繰り返していた。

マタラム王国が最初からオランダ人を敵視したわけではない。宗教上のミッションを背負って頭ごなしにイスラムを滅ぼそうとする態度を最初からありありと示すポルトガル人とは異なり、そんなポルトガル人を倒そうと攻めかかっているオランダ人は宗教よりも通商を優先している。商業上の利益があればムスリムとの同盟も辞さないオランダ人をわが味方につけたなら、域内での軍事的優位は己の手中に落ちるだろう。
時代の原理が弱肉強食だったとしても、互いのメリットを利用しあえる関係が作られる例は限りなくある。マタラム王国にとっては、スラバヤを倒すためにオランダの兵器や軍事力を利用できないだろうかと考えるのが自然なあり方だった。そしてスラバヤが同じ思惑を抱くのも、当然だったのである。


マタラム王国二代目の王、スリ・ススフナン・アディ・プラブ・ハニョクロワティ・スナパティ・イガラガ・マタラム(Sri Susuhunan Adi Prabu Hanyakrawati Senapati-ing-Ngalaga Mataram)の称号を持つマス・ジョラン(Mas Jolang)のときに繰り返し行われたスラバヤ出兵の中で、1613年にマタラム軍はスラバヤ周辺の水田に稔った稲の収穫を阻むために稲を破壊しつくし、またスラバヤの西隣にあるグルシッ(Gresik)の町を襲って 略奪した。VOCはスラバヤから承認されてグルシッとジョルタン(Jortan)に交易所を設けていたから、マタラム軍の略奪に巻き込まれてしまった。VOC側はマタラム王国に苦情を申し入れ、交渉の結果、マタラム側はジュパラ(Jepara)に交易所を開設することをVOCに許可した。そこにマス・ジョランの思惑がからんでいたのは、言をまたない。マス・ジョランは更にオランダ人と友好関係を築こうとして、当時マルクに置かれていたVOC総督館との間で交渉を続けた。マタラムとスラバヤの戦争が激化の一途をたどったため、VOCは1602年に開いたグルシッの交易所を1615年に閉鎖している。


スルタン・アグンは1621年スラバヤ攻略にVOCを誘う交渉を行ったが、VOCはマタラムにもスラバヤにも味方しようとしなかった。1625年、ついに宿敵スラバヤを自力で降したスルタン・アグンは次のターゲットをジャワ島西部の支配者バンテン王国に絞る。だが、バンテン王国の手前にあるバタヴィアがどのような態度を取るのかを明確にしておかなければ、バンテン出兵はできない。

1628年4月、スルタン・アグンはトゥガル(Tegal)の領主キヤイ・ランガ(Kyai Rangga)をバタヴィアへの使者に任じた。使者はスルタン殿下の口上を伝える。
「マタラム王国が行うバンテン征服戦争に兵器と兵員を参加させなければ、バタヴィアは滅亡するであろう。」

クーンは珍しく迷った。全ジャワを制覇するであろうマタラム王国に恩を売っておくことは、今後の通商や食料調達に大きいメリットをもたらすにちがいない。だが、強大な王国ができあがるよりも、弱小王国が分裂して互いに争いあう形にしておくほうが、かれらを支配下に置いて君臨するのに都合がよい。クーンは分割統治原理を選択した。交渉は決裂し、使者はマタラムへ帰った。その報告を聞いたスルタン・アグンはバタヴィア攻撃を決意した。


22.第一次バタヴィア出兵

1628年8月22日、カスティルに近い海上にジャワの船59隻が出現した。ジャワ人武装兵や商人が5百人ほど乗っている。カスティルの中は緊張に包まれた。小舟が一艘、城壁に近付くと、シャバンダルに告げた。「マタラムのスルタンがバタヴィアの生活用物資の取引を命じたので、カスティルの中庭で市を開きたい。われわれは牛150頭、砂糖5千9百袋、ヤシの実2万6千6百個、米1万2千袋を持参している。中に入るためにボームを通過する許可をもらいたい。」

シャバンダルはクーンの判断を求めてから、翌日一隻ずつ順繰りにまず牛だけをおろさせるようジャワ人に告げた。


翌23日、20隻の船が順繰りに接岸して牛をおろした。他の船は沖で待つよう命じられたため、陸地に接岸したのはその20隻だけだった。カスティル守備隊の兵士百人が現場に出て警戒にあたった。この特別市はたいへんな賑わいになり、バタヴィア住民は喜んだ。


24日には別の20隻がヤシ・砂糖・鶏・アヒルなどを運び込んだ。市は前日にも増しての賑わいだ。ジャワ人たちは愛想よくふるまっている。

すると7隻の船が新たにやってきて、マラッカへ行く用があるので通行許可証を出してほしい、と求めた。
ポルトガル人のアジア支配ネットワークの要の一つであるマラッカへ行くためにスンダ海峡からジャワ海の一部で制海権を手に入れたバタヴィアに航海の許可を求めるというその理由をクーンは疑った。

不穏な空気をかぎ取ったクーンはすぐにバタヴィア城市の外に設けた砦に緊急命令を発し、迎撃態勢を敷かせた。案の定、夕方になると、マタラム船20隻がバタヴィア城市から離れた陸地に押し寄せてきて、大勢の兵士を上陸させた。マタラム兵の上陸は二波に渡って行われ、攻撃態勢を取ってカスティルに接近してきたのである。

それに呼応して、カスティル内で市を開いていたジャワ人が突然、警戒にあたっていた守備隊に襲い掛かり、カスティル内を制圧しようとしたために戦闘が始まった。明け方近くになって、バタヴィア側は闖入者の襲撃を抑え込むのに成功した。双方に多数の死傷者が出た。バタヴィアの町の住民も巻き添えをくい、特に中国人の被害が多かった。
カスティル内で起こった襲撃が成功していれば、上陸していたマタラム兵がバタヴィア城市に突入してきて、バタヴィアは陥落していたかもしれない。いやもっと凄まじい大軍がバタヴィア城市になだれ込んでいたかもしれないのだ。


続く25日、マタラム兵を運んできた船27隻が姿を現したが陸地には接近して来ず、大砲の射程外の沖合に投錨して陸地を静観している。一方バタヴィア城市の南方およそ1.5キロあまり離れた地区に、大兵力のマタラム軍が到着して野営した。大量の戦旗がたなびき、喧騒が渦巻いているのが、城市の中でひしひしと感じられた。クンダル(Kendal)領主トゥムングン・バウレクサ(Tumenggung Bahureksa)率いるマタラム第一軍がそれだ。町の住民の大半がカスティルの中に避難した。

この大軍は3カ月かけて陸上を踏破してきた。マタラムの王都クルタ(Kerta)を発した軍勢は北上してジャワ島北岸に至ると西に向かい、プカロガン(Pekalongan)〜トゥガル(Tegal)〜チレボン(Cirebon)を経由してから西ジャワの内陸部に入り、スムダン(Sumedang)〜チアンジュル(Cianjur)〜パクアン(Pakuan = 今のボゴール)を通ってチリウン川沿いにバタヴィアに近付いてきたのである。

バタヴィアは一日で陥落させると豪語していたトゥムングン・バウレクサは、計略を用いた奇襲が失敗したことを知って残念がった。次の攻勢に出るための作戦計画を立てるにあたって、マタラム軍は敵の出方を見るべく、随所で小規模な攻撃を繰り返してオランダ側の出撃を誘った。特にバタヴィア城市南東一帯での交戦を頻繁に起こした。マタラム兵は上半身裸で、はだしだったという。

バタヴィア城市の東側に作られた城壁は今のチリウン川の西岸にあった。その城壁にはヘルダランド(Gelderland)、ホランド(Holland)、ゼーランド(Zeeland)、フリスランド(Friesland)、フローニゲン(Groningen)と名付けられた5つの堡塁が設けられ、さらに城壁の外側を川に沿っておよそ4百メートル南南東に下った場所にホランディア(Hollandia)要塞が置かれた。そこは今の東ピナンシア(Pinangsia Timur)通りとパゲランジャヤカル タ(Pangenran Jayakarta)通りにはさまれたエリアで、プラザグロドッ(Plaza Glodok)にほど近い。

バタヴィアの急を聞いてバンテンとオンルスト島から救援部隊が駆け付け、兵員2百人が増強されたので、バタヴィアの兵力は530人になった。バタヴィア側はマタラム軍の糧食補給線を見つけ出して徹底的に破壊しつくしたため、マタラムの大軍勢は食糧難に陥ってしまう。


9月10日、マタラム軍はバタヴィア城市の近くまで進出してきて、障害物を立て、砦を築き、布陣した。いよいよ総攻撃の構えに入ったようだ。

9月12日、バタヴィア側が先制攻撃をかけた。150人のマスケット銃隊が城壁の上から援護する中、65人の精兵と多数の解放奴隷や中国人がマタラム側の陣地を攻撃した。マタラム兵40人が倒され、他の3百人ほどのマタラム兵は逃げ去った。解放奴隷は勇敢に戦い、中国人は手際よく略奪した、と書き残されている。

9月21日、攻城戦に必要な城壁を乗り越えるためのはしごや縄、壁を崩すための諸道具類、門を打ち破るための巨木などの用意を整えたマタラム軍はホランディア要塞目指して大規模な攻撃をかけてきた。壁をよじ登って突入する部隊を下から長銃隊が壁の上目がけて撃ち続けて援護する。だが、わずか24人の要塞守備隊は決死の防戦を続けて敵の侵入を防いだ。波状攻撃は一晩中繰り返されたが、要塞の壁を超えることはできなかった。そのとき起こったのが、弾薬を使い果たした守備隊が糞尿を武器にしたというエピソードだ。


ホランディア要塞守備隊のハンス・マデレン(Hans Madelijn)軍曹は弾薬が尽きかけたとき狂気じみたことを考え付いた、と後世にヨーロッパで出版されたこのバタヴィア攻防戦を描いた書物は物語る。ドイツ生まれでそのときまだ23歳のマデレン軍曹は、部下に肥壺を持ってくるように言いつけた。

昔のヨーロッパ人の暮らしには、かれらが生活している場所に必ず肥壺が存在する。言い換えるなら、かれらが生活している建物の中にトイレが存在しないのだ。その事実は昔バタヴィア政庁舎だった今のジャカルタ歴史博物館を訪れてみればわかるだろう。建物内にトイレはないのである。同じことは、もっと南のガジャマダ通りにある国立公文書館(Gedung Arsip Nasional)にも言えるし、わたしがオーストラリアで数百年を経た歴史遺 産の大邸宅を訪れたときも、同じ事実を発見した。

つまり毎日出てくるものは肥壺に溜め、いっぱいになったら捨てる、というのがかれらの日常生活だったのだ。バタヴィアの町が縦横に走る運河を作ったのは洪水対策が第一義だったのだが、それの捨て場にも使われるようになってしまった。路上に捨てられるよりはまだ文明的かもしれない。

しかしその川や運河は、生活用水を得るための水源でもあるのだ。そのために疫病が蔓延し、バタヴィアはオランダ人の墓場という異名まで取る始末なのだから。総督は肥壺の中身を捨てる時間を制限した。22時まで捨ててはならず、午前4時以後も捨ててはいけない。こうして夜回りが22時の時を打つと、各家庭は一斉に肥壺の中身を運河に流し入れるようになった。その瞬間バタヴィアの町に立ち込めた臭気を想像してみていただきたい。それがバタヴィア生活だったのである。ホランディア要塞のマデレン軍曹にカメラを戻そう。

「弾薬が尽きても、これでまだまだ戦えるぞ。」
そう言うなり軍曹は、その中身を城壁によじ登ってきているマタラム兵の頭上に振りかけたのだ。マタラム兵は一瞬身体を硬直させたかと思うと、あわてて城壁を下り始めたではないか。逃げ散っていくマタラム兵の間から“O, seytang orang Hollanda de bakkalay samma tay!”という叫び声が聞こえた、とその書物は述べている。それが、インドネシアのローカル言語がはじめてヨーロッパの書物に活字となって取り上げられた事始めではないかという歴史家の発言を付記しておこう。

ちなみにseytangは現代インドネシア語ではsetanと表記され、bakkalayはberkelahiがそのような音に聞こえたのではないかと思われるが、deについては想像がつかない。現代インドネシア語に翻訳するなら、"Oh, setan. Orang Belanda berkelahi sama tahi"となるだろう。Hollandaは言うまでもなくオランダのことで、ポルトガル人の呼んだNederlandの外名に由来している。インドネシアではholanda, olanda, wolanda, bolanda, belanda と変化したようだ。その過渡期に日本語の中に定着したものとまったく同じものが見られるのは面白い。

要塞外壁一面が糞尿の海となり、壁にとりついていて糞尿の爆弾を浴びたマタラム兵は言うまでもなく、支援のために壁の近くにいた者たちもしぶきを浴び、離れた場所にいた指揮官たちの中にもしぶきを受けた者がいて、マタラム軍は結局その状態に耐えられなくなり、兵たちは自主的に野営地に戻りはじめた。野営地に戻ると、近くの川に飛び込んで身を清めていたそうだ。ホランディア要塞へのマタラム軍の攻撃を撃退したのがマデレン軍曹の糞尿作戦だったという正式な戦果判定がなされたのかどうかはよくわからないが、戦後マデレン軍曹は少尉に昇進した。


23.勝敗つかず

9月22日、敵の戦意が低下したのを見たバタヴィア側が反撃に移る。兵員3百人と解放奴隷および中国人百人が加わって、マタラム軍が敷いた陣構えの中に突入して行った。随所で凄まじい戦闘が展開され、1千3百人近いマタラム兵が死に、3千人近い者が捕虜になった。捕虜の話を総合すると、まだ4千人近い兵力があって、かれらはジャングルの中で食べ物を探しているそうだ。その日の戦闘でマタラム軍司令官トゥムングン・バウレクサは戦死し、マタラム軍は四分五裂となった。

ところが10月に入ると、パゲラン・マンドゥラレジャ(Pangeran Mandurareja)の兄弟とウパ・サンタ(Upa Santa)およびトゥムングン・スラ・アグラグル(Tumenggung Sura Agul-agul)率いる第二軍が到着した。マタラム第一軍との戦争で武器弾薬が激減したバタヴィア側は震え上がった。やってきた1万人の大軍勢は第一軍の残兵を集めて1万4千人に膨れ上がったのだ。

第二軍が攻勢に出てくると、バタヴィア側は押され始めた。マタラム軍はバタヴィア城市を包囲して、攻撃を継続する。多数のバタヴィア側兵士が死傷して抵抗力が大きく低下してしまい、陥落寸前の状況がやってきた。ところが、マルクから大救援部隊が到着したのである。ジャック・ルフェーブル(Jacques Lefebre)指揮下の大軍船団が2,866名の兵員と大量の武器弾薬をバタヴィアにもたらしたのだ。VOC兵員420人、VOC職員350人、一般市民200人、アンボン人を主体とする多数の使用人、という兵力になっていたバタヴィアの戦闘力は、大幅に改善された。

マルクからの救援部隊はその夜、海上に掃討船隊を出撃させ、河口周辺にいたマタラム軍帆船250隻のうち200隻を破壊した。

翌日、ジャック・ルフェーブル指揮下の戦隊は、フリゲート船2隻、スコッチ7隻、150人の兵士を乗せた輸送船などが川に乗り入れ、陸戦部隊を岸に下ろし、船からの砲撃を交えてマタラム軍に攻勢をかけた。この水陸両面作戦はうまく行ったように見えたものの、大混戦の果てに陸上での戦闘はVOC側が押され始めて、最終的にバタヴィア側が敗退した。マタラム側は2百人の死者を出し、一方バタヴィア側は数十人が戦死したが、敗走したとき百丁を超えるマスケット銃がマタラム側の手に渡った。しかしそれがマタラム軍の勝利に貢献することはなかった。

ジャック・ルフェーブルがマルクから連れてきた戦闘軍団の中に、日本人傭兵隊もいた。かれらはある日、押し寄せてくるマタラム軍の襲撃に立ちふさがり、多数の敵を斬り払いなぎ倒して敵部隊を潰走させるという目覚ましい戦果をあげた。

平戸のVOC商館は物産の交易のほかに、日本人傭兵のリクルートも行っていたのである。今で言う戦闘員の募集だろう。折しも当時の日本は全国を東西に二分する大戦争が持続的に行われていた時期であり、劣勢に陥った側に属していた藩の中下級武士たちの中で南海に新天地を求めようと考える者が出現する環境が醸成されていたように思われる。この時代はまだキリシタン追放が開始される前であり、傭兵たちは自主的にオランダ人やイギリス人に自己の戦闘能力を売って雇用される道を選択し、海を渡って行った。

1611年にVOCの船は平戸からバタヴィアに68人の日本人を連れてきた。その中には職人もいたが、戦闘員も大勢いた。1613年には3百人が運ばれてきた。クーン総督は平戸のVOC商館長に宛てて、もっとたくさん日本人戦士を送って来い、と指示している。だが1621年のバタヴィア住民明細の中に日本人は30人しか記載されていない。それは前年に71人がマルクに移されているからだ。日本人傭兵はバタヴィアでなく、むしろはるかに大勢がマルクで働いていたように思われる。
1632年のバタヴィア住民明細には男48人、女24人、子供11人、奴隷25人の日本人がいたことが記録されている。それから5〜6年後には多数の日系混血者と肉親が故国から追放されて、バタヴィアの日系者人口は膨れ上がることになる。


マタラム第二軍はバタヴィアへの攻撃を手控えるようになり、東・南・西に陣地を固めて包囲する作戦に出た。そして乾季のため水量が減っているチリウン川の流れを一部バタヴィアに入れないようにしてバタヴィアが得られる水量をもっと減らし、更にバタヴィアに流れ込む水には動物の死骸や汚物を大量に投げ込んで、バタヴィア城市内に伝染病が蔓延する戦略をマタラム側は採ったのである。しかしバタヴィア側がマタラム軍の糧食補給線を破壊したため、その工事は緩慢にしか進捗しなかったようだ。

それでもその作戦は完遂され、バタヴィア城市内に疫病が蔓延した。だがそれは諸刃の剣だったらしく、その作戦遂行を命じられた3千人のマタラム兵士の間にも疫病が流行して何百人もの死者を出してしまう。

バタヴィア側は苦境に陥っているだろうと予想して、11月27日に4百人のマタラム兵士がホランディア要塞に攻撃を仕掛けたが撃退され、更に人数を増やして再攻撃したものの、多数の戦死者を出し、一部の兵士は逃げて行方をくらましてしまった。マタラム側には逃亡兵が増加し始めていた。もう雨季が始まっていたのだ。

農民がほとんどを占めているマタラム兵士は、雨季の到来によって水田の世話を開始する時期が来たことを思い出した。米の収穫がなければ、かれの一家は飢餓に直面することになるのである。
一方、軍司令官にとっては、この土地に雨季が到来することは戦争継続を不可能にする最大要因となる。チリウン川河口の低湿地帯はそこに直接降る雨ばかりか、遠く離れたボゴール丘陵に振る雨までもが流れ込んでくる受け皿になっていて、冠水で足場が不安定になるだけでなく、軍事行動中に鉄砲水が襲ってくれば戦争どころでなくなるからだ。こうなってしまえば、マタラム第二軍はむなしく引き上げるしかなくなってくる。

12月1日、士気は落ち込み、攻撃の意欲も失われてしまったマタラム第二軍の司令官や上級幹部たちを集めてトゥムングン・スラ・アグラグルが痛烈な批判を投げつけた。「お前たちが死ぬ気でここへ出陣してきたようには思えない。このままおめおめとマタラムに戻っても、スルタン殿下のお怒りを蒙るのは間違いがない。マタラムで不名誉な死を賜るよりは、ここで戦士としての責任を全うするのが、名誉を重んじるマタラム戦士の姿 であろうぞ。」
その言葉に反論する者はいなかった。トゥムングンが処刑の段取りをつけて実施したあと、マタラム軍は最前線に構築した砦や防御壁を取り壊してから、東に向けて去って行った。

12月3日、静まり返ったマタラム側陣地を調べるために偵察隊がバタヴィア城市の外へ出た。そしてマタラム軍が野営地を築いていた場所に接近して行ったが、敵兵はひとりも見当たらない。
かなり開けた場所に着いて、そこが敵の野営地であることを偵察隊は知った。その場所は今のマンガブサール(Mangga Besar)通りがグヌンサハリ(Gunung Sahari)通りにぶつかる少し手前のフサダ病院(RS Husada)のあるエリアだ。そして偵察隊はそこで744の死体が散らばっているのを発見した。首をはねられた者、銃殺された者、刀槍で生命を奪われた者などが混在していたそうだ。


24.第二次バタヴィア出兵

スルタン・アグンは翌年のバタヴィア再進攻を計画した。第一回進攻が圧倒的な火力差によって不本意な結果に終わったことを十分反省したスルタンは、可能な限り多くの銃砲を集めて投入する方針を立てた。兵力の差によらず、兵器の威力の差で戦争の形勢が決まるという、まったく新たな時代の到来をスルタン・アグンは実感したにちがいない。スルタンが調達させた真鍮製の新型砲は射程距離も長く、弾着も正確だった。
また前回の失敗に懲りたマタラム軍は糧食や弾薬の補給も前回より効果的なものにするべく、検討を重ねた結果、トゥガル(Tegal)とチレボン(Cirebon)に米や火薬・砲弾を集めて補給中継基地にし、また穀倉地帯であるカラワン(Karawang)にも食糧補給基地を置いた。各地で収穫を終えた米や買い入れた火薬・砲弾がジャワ島北岸沿いに船でその二カ所に集められた。

クーンはスルタン・アグンの心中を知る由もなかったものの、再進攻の可能性は十分にあると考えていた。当然、バタヴィアの防衛力はそれに備えて強化された。しかしマタラム軍が進撃してくる時期が8月から12月の間だろうといことは、クーンに読めていた。米の栽培と収穫および雨季の到来という要素がそれを決めていることをクーンは理解していたのだ。

1629年6月20日、ワルガと名乗るマタラム王国の使者が何人もの部下を率いてバタヴィアを訪れた。ワルガの口上によれば、「スルタン・アグンは昨年の進攻を謝罪し、バタヴィアのために米を今トゥガルに集めているところであり、それを脱穀してからバタヴィアに運んでくるので、また市を開くことを許可してほしい。バタヴィアとマタラムはこのように友好関係を維持できるのだから、相互の繁栄のために手を結び、今計画しているバンテン征服作戦にバタヴィアも参加し、バンテンを支配下に置こうではないか。」という話だった。クーンは色よい返事をしなかった。
ワルガと部下たちは何日もカスティル内に泊まり込み、引き上げる気配を示さない。クーンが共同軍事行動を拒否したというのに、ワルガはクーンを説得しようとして、連日のようにしつこくクーンに接近した。そのうちに、ワルガの部下たちがカスティル内の構造や兵力を探っている気配が感じられるようになった。

そんなある日、総督諜報隊が放っている諜報員からの報告がクーンに届いた。マタラムはトゥガルとプカロガンやチレボンに米や軍需物資を集積中であり、それは今年バタヴィアに進撃してくるマタラム軍勢のためのものである、というのが報告内容だ。その裏付けを取るためにワルガの一党を捕らえて締め上げるよう、クーンは部下に命じた。すぐにカスティル守備隊が全員を捕縛し、尋問が開始される。そしてワルガの部下のひとりが、その報告が正しいことを自白したのだ。

クーンはすぐに海上部隊に出撃命令を出した。陸戦部隊を乗せてトゥガルを攻撃せよ。突然襲来したVOC船隊によってトゥガルの港に集まっていたジャワの船2百隻は片端から沈められ、陸戦部隊は上陸してトゥガルの家々4百軒および米蔵や倉庫などをすべて焼き払った。部隊はバタヴィアへの帰還途上で、チレボンに立ち寄って同じことをした。そうしてから、バタヴィアの軍勢はマタラム軍の進攻を手ぐすね引いて待ち構えたのである。


ウクル(Ukur = 今のバンドン)とスムダン(Sumedang)の軍勢を率いるウクルのアディパティを第一軍、ジュミナ(Juminah = 今のKaliwungu, Kendal)のアディパティを総大将、プルバヤ(Purbaya = 今のTegal)のアディパティをその補佐とする第二軍という総兵力1万4千人の大軍が1629年5月と6月に分かれてマタラムの王都クルタ(Kerta)を進発した。
色とりどりの軍装と旌旗に飾られた騎馬隊の長い列が先頭を行き、続いて刀槍や斧をきらめかせた兵士の波が絶えることなく続々と進む。さらに数え切れないほどの大砲や重い弾薬類あるいは軍用物資を積んだ荷車が何台も何台も象に引かれてそのあとに続いた。太鼓や銅鑼が響き、吹き鳴らされるラッパや笛の音が威勢を盛り立てた。

大軍団は今のヨグヤカルタにあるクルタを出ると北上してプカロガンに達し、ジャワ島北岸沿いにトゥガル〜チレボンと進んだあと左に折れて内陸部に入り、スムダン〜チアンジュル〜パクアン(Pakuan = 今のボゴール)を経てチリウン川沿いに北上した。90日間の道程を踏破した軍勢は1629年8月31日カスティルからおよそ10キロ南東に離れた場所に到着して本陣を構えた。そこはチリウン川の本流沿いにある樹木と原野の無人の地であり、スンダ王国時代から既に開けていたジャティヌガラに近い場所だ。ジャティヌガラにはクーンに追い払われたパゲラン・ジャヤカルタの一党が住み着いている。マタラム軍が本陣を敷いたその土地が今マトラマン(Matraman)という地名で呼ばれているのは、この1629年の故事に由来しているためだと言われている。

9月に入るとマタラム軍は、またバタヴィア城市の東・南・西に陣地を構築して包囲した。土を盛り、木や竹で柵や遮蔽物を作り、塹壕を掘った。更に大量の大砲を並べて砲列を敷き、バタヴィアに砲弾を降り注いだ。バタヴィア住民はまたカスティルに避難したが、砲声と空中で唸る弾丸の音に生きた心地もなかったようだ。城市の中を砲弾が荒れ狂い、多くの建物が破壊されたり燃えたりして大きい損害を出した。
ホランディア要塞に向けて塹壕を掘り進んできたマタラム軍は、9月8日に要塞に対して集中攻撃をかけた。砲弾の集中攻撃を浴びて、ホランディア要塞は陥落した。マタラム軍は続いて攻撃の矛先をボンメル(Bommel)要塞に向ける。マタラム兵が中に侵入して要塞の大門を開こうとしたが、要塞守備隊の一斉射撃を受けて全滅した。ボンメル要塞の守備は堅く、なかなかホランディア要塞のようには行かない。

後に1636年から1645年まで、それまでの総督在任期間の最長記録を作った第9代総督アントニオ・ファン・ディーメンは当時36歳で、かれは一隊を指揮してマタラム軍に対抗し、押し寄せてくる敵兵を押し返す戦果を挙げた。その後、それに倣ってマタラム軍への攻撃が盛んに行われるようになったものの、戦果をあげた出撃ばかりでもなく、中には損害の方が大きい戦闘も少なくなかった。戦況はバタヴィア側が押され気味だったようだが、その防戦にバタヴィア側はよく耐えた。

9月20日になって、マタラム軍は突然ウエスプ(Weesp)要塞に総攻撃をかけてきた。大乱戦となり、最初は押されていたバタヴィア側も時間の経過とともに盛り返しはじめ、最終的にはマタラム軍を敗走させるのに成功した。大勢のマタラム兵が力尽きて捕虜になった。食糧不足の深刻さがその日の戦闘の結果を左右したようだ。バタヴィア側にも食糧が潤沢にあったわけではないのだが、はるかに大人数のマタラム側がトゥガルとチレボンの米蔵を焼き払われているのである。
ところが降参して武器を捨てたマタラム兵は1千人を超えていた。バタヴィア側上層部から現場の部隊指揮官に指令が飛んだ。「マタラム兵は捕虜にせず、解放せよ。」捕虜の監視と食糧支給がたいへんなことになるのは目に見えているのだ。捕虜になったら食べ物にありつけると思っていたマタラム兵はきっとがっかりしたにちがいない。

9月22日、マタラム軍は169個の砲弾をバタヴィア城市内に雨あられと降り注いだ。しかし突入部隊による攻撃はまったく行われなかった。敵の様子を見ていたバタヴィア側は、応射するのをやめた。どうやら敵は残った弾薬を使い果たそうとしているようだ。案の定、バタヴィア城市を包囲する形で設けられていたマタラム軍の前線砦はどんどん取り壊され、それが終わるとかれらはマトラマン方面に撤退して行った。バタヴィア側はその奇妙な事態を幸運だと思ったもかもしれないが、実はそれどころでなくなっていたのだ。


25.クーン総督死去

ヤン・ピーテルスゾーン・クーン総督が9月21日の夜に急死したのである。死因はコレラとも赤痢とも言われ、あるいは急性胃腸炎と述べているものもあれば、乱戦の中でマタラム兵に首をはねられたというものがあり、さらにはマタラム側の隠密作戦で連れ去られ、最後に首を取られたという説まで、百花繚乱になっている。インドネシア語情報の中に、クーンは9月20日に死んだと述べられているものが多いのは、その日行われた総攻撃による乱戦がマタラム兵にクーンを倒す機会を与えたようなイメージを誘っているからではないかという気がわたしにはする。そしてその説の結末は、クーンの首がイモギリにあるマタラム王家の墳墓の入り口階段の下に埋められ、王家の墓参に来るすべての者がクーンの首を足で踏みつけているのだ、という話に行き着くのである。
一方VOCの記録では、クーンは21日夜に病気のため死亡し、翌22日に盛大な葬儀が催されたことになっている。マタラム軍が撃ち出す砲弾が降ってくる中で、十七人会がその支出額に顔をしかめたほど盛大な葬儀が行われて、以後バタヴィアで行われる総督葬儀が華美で贅を尽くしたものになる前例が作られた。

当時の慣習では、高位高官・社会的有力者の墓は教会の庭に設けられることになっており、たいていの教会は裏庭が墓地だったそうだ。またその墓は一家一族の墓であるため、その本人だけがそこに埋められたわけでもない。
1629年9月22日の葬儀はバタヴィア政庁舎で営まれ、クーンの遺体は政庁舎の庭に埋葬された。というのも、政庁舎左側に建てられていた教会はマタラム軍のバタヴィア進攻で焼け落ちていたからだ。

1631年にチリウン川をまっすぐにする改修工事が行われてその名前がカリブサールと改称されてから、区画の広がったその場所にバタヴィアの中央教会とでも呼ばれるべき位置を占めるオランダ教会(Hollandse Kerk)が建てられた。しかしオランダから新しいパイプオルガンがもたらされ、その収納の必要性を機会にさまざまな不都合が取り沙汰されたあげく大改装が決議され、1732年にオランダ教会は歴史の幕を閉じた。1736年にデザインが一新された教会が誕生し、改装後のものは新オランダ教会(Nieuwe Hollandse Kerk)あるいは大オランダ教会(Grote Hollandse Kerk)、昔のものは旧オランダ教会(Oude Hollandse Kerk)という名称で区別されるようになる。
ところが1780年に起こった大地震でバタヴィアの街は大きな被害を蒙り、新オランダ教会もひび割れが入って構造上危険な状態に陥ってしまう。バタヴィアの街は、オランダの記録によれば1699年、1780年、1883年に大型地震の被害を受けている。1699年の地震はボゴール山系のサラッ(Salak)山噴火、1883年はスンダ海峡のクラカタウ(Krakatau)山噴火と言われているが、1780年の震源が何なのかは定説がないようだ。
ともあれ、ナポレオンの支配下に落ちたオランダがジャワ島をイギリスに奪われないようにと繰り出してきたエースである第33代のウイレム・ヘルマン・ダンデルス総督が行った対英戦のための軍事インフラ改善の中で、その新オランダ教会も取り壊しの対象にされてしまったのである。
ダンデルスが行ったインフラ改善の代表的なものは、ジャワ島西端のアニエル(Anyer)から東端にほど近いパナルカン(Panarukan)までを結ぶ大郵便道路(De Grote Postweg = Jalan Raya Pos)の建設だろうが、それに次いでバタヴィアの街を外敵の侵略から防いできたカスティルと街外郭の城壁撤去をあげることができるだろう。英軍の侵攻に対する防衛線たるべきそれらの城壁を破壊するという発想が分かりにくいかもしれないが、ダンデルスが考えたのは城壁や石垣が敵の侵略を防ぐのではないという原理ではなかったろうか。
敵の侵略を防ぐのはあくまでも人間と人間が使う兵器であり、バタヴィアにある時代遅れの兵器では英軍の新鋭兵器と太刀打ちできるものでなく、バタヴィアはやすやすと英軍に奪われてしまうにちがいない。英軍が新鋭兵器をカスティルや城壁の中に持ち込めば、フランス=オランダ側にとってその奪回はたいへん困難になるだろう。だから英軍に奪われないようにするには、それらを無くすにしかず、というのがその発想だったように思われるのである。
ところで余談かもしれないが、アニエル〜パナルカン1千キロの大郵便道路の東端がジャワ島東端のバニュワギでなく、シトゥボンドの町の西側に接する小さな港町であったことに不審を抱くひとは多いかもしれない。それは当時、ジャワ島とバリ島を結ぶ交通路が今のようなバリ海峡越えでなく、パナルカンとバリ島のシガラジャ(Singaraja)を結ぶジャワ海〜バリ海を経由する航路を幹線にしていたためだ。つまり当時はシガラジャがバリ島の表玄関になっていたということだ。オランダ教会に話を戻そう。

1808年ごろに新オランダ教会が取り壊されてから、そこにはもう教会が建てられなくなった。バタヴィアの街の中心が既にウエルテフレーデンに移ってしまい、そんな場所にある教会に人がやってくることがもはや期待できなくなっていたにちがいない。
その後1857年にジオウエリー(Geo Wehry & Co.)社が土地の使用許可を得て事務所と倉庫を建てて使っていた。今その地所にある建物はワヤン博物館になっているのだが、その建物は1912年に建てられたもののようだ。
1938年になって、バタヴィア芸術科学ソサエティ(Bataviaasch Genootschap van Kunsten en Wetenschappen)がその建物を買い取ってしばらく使用したあと、博物館を管理する財団に寄贈されて1939年12月22日に古バタヴィア博物館(De Oude Bataviasche Museum)としてオープンした。そして最終的にインドネシア共和国に引き継がれて、1975年8月13日にワヤン博物館としてオープンしている。それがこのオランダ教会の歴史だ。


26.クーンの墓

バタヴィア政庁舎の庭に埋葬されたクーンはその後、オランダ教会が出来上がるとその庭に移された。ところが、新オランダ教会が取り壊されたとき、教会の墓地がどうなったのかを公式に説明している記録が存在しないのである。
ある情報では、墓の多くは他の場所に移されたと述べられているというのに、現在のワヤン博物館にはクーンの墓なるものが存在している。

その一方で、まったく別の場所で見つかったものがクーンの骨だと主張する声もある。
1828年1月24日にオープンしたジャワ銀行(De Javasche Bank)が建設されたとき、1641年以来その地所に昔からあった病院(Binnen hospital) が取り壊されて整地された。そのとき、土中に埋まっていた人骨とボタンが発見され、それは新オランダ教会から移されたクーンの骨だと主張するひとびとがいた。その地所はバタヴィア城市の内側で南縁の城壁に接し、カリブサールとの角地になっているところで、そこは現在、マンディリ銀行博物館になっている。

クーンの遺体がどこに埋められたのかという問題は、いまだに歴史家の間で議論の的になっているミステリーだ。一方、クーンの銅像がバタヴィアのワーテルロープレーンに1876年建立されたが、その巨大な銅像は日本軍によって鋳溶かされてしまった。1943年3月7日、銅像を台座から引き下ろす作業が行われ、インドネシア人作業者らが銅像にかけたロープを引っ張って台座からゆっくりと下ろしているところを映した映像をユーチューブで見ることができる。
クーンの故郷であるホールンでも1893年に故郷の偉人として市庁舎前広場に銅像が建てられていた。ところが時代が変化してしまったのだろう、マルクのバンダ島でかれが命じた大虐殺の歴史を知ったホールン市民たちが「偉人としてふさわしくない」「オランダ人として恥ずかしい」といった批判を加えて賛否両論が盛り上がっていたとき、2011年8月16日にけん引トラックがクーンの銅像に強く衝突したため像は台座から転落して大破した。それが意図的なものだったのかどうかについて触れている報道は見当たらない。
1629年9月22日のバタヴィアから大きく離れてしまったから、急いで戻ろう。


27.マタラム対バタヴィア戦の結末

1628年1629年のバタヴィア進攻は、二度とも勝敗がつかないままマタラム軍が引き上げて行ったというように見える。1628年は雨将軍の到来にマタラムが敗れたということなのだろうが、1629年は一体どうしてマタラム軍が戦争をやめて帰還して行ったのだろうか?凄まじい火力を擁したマタラム軍がわずか半月ほどの戦争でバタヴィアの街を瓦礫だらけにし、オランダ人を圧迫していたというのに、クーンが死去すると突然撤退して行ったことの裏側に、どういう理由があったのだろうか?
インドネシアの歴史家の論調はすべからく、マタラムが敗れたと評している。しかしその第二次侵攻を敗戦と呼ぶのは、正当なのだろうか?言い換えるなら、ジュミナのアディパティ以下の遠征軍司令部が「自分たちは敗れた」という意識でマタラムへ帰還して行ったのかどうかというポイントにわたしは注目している。
加えて、戦後の動きを見ても、言われている論評とどうも一致していないような風情が感じられるのである。1630年には、マタラムとバタヴィアの間で戦後談判が行われた。

ジャック・スぺクス総督はスルタン・アグンに対してあくまでも強い姿勢を取った。いわゆる高飛車に出るというやつだ。スルタン・アグンは怒りをたぎらせ、もう一回遠征軍を派遣して今度はバタヴィアを軍事占領し、オランダ人を踏みにじってやる、と決意したそうだ。そして第三次侵攻の準備に取り掛かった。
マタラム側の準備がジャワ島北岸地帯で開始されたという諜報隊からの情報を得たスぺクス総督は強力なVOC船隊を出撃させ、バタヴィアの東側にあるジャワの海岸線を総なめにするよう命じた。船隊はジャワの船を見つけると片端から撃ち沈め、町という町を襲撃して焼き払った。その結果ジャワの民衆にオランダ人とオランダ人に協力するプリブミに対する深い憎しみが植え付けられ、バタヴィア城市の壁から外へ出たオランダ人や農園作業を命じられたプリブミたちが城市から離れた場所で襲われて殺されるという事件が頻発するようになる。
一方スルタン・アグンの方も、遠征軍派遣を支えるための経済力が落ち込んでしまい、第三次侵攻が実質的に不可能になったばかりか、支配下にあった諸領地のアディパティに対する統制力も低下していった。かれにとっては苦難の時代が幕を開いたということだろう。
バタヴィア城市の外を覆っていた不穏な空気は、その後VOCがマタラム王国を政治的に支配するようになってから徐々に鎮静化していき、南へ向かってのバタヴィアの発展が本格化していくのである。

第二次侵攻がクーンの死で終わりを告げたのは、当時の常識として、戦争している敵国の王あるいは支配者の死が敗戦を意味していたのではないかという推測を招くものだ。この時代は普通、王が絶対君主なのであり、軍隊は王が戦争を命じるから戦争しているという趣が強い。そうであるなら、王の死は軍隊が行っている戦争の根拠を消滅させることになる。
もうひとつのポイントは王位継承問題であり、たとえ皇太子/王位継承者が前から決まっていてさえ、頻繁に内紛へと発展していく傾向を見るなら、王が死んだ敵国の後継者問題に戦争に勝った側が介入して敗れた側の宮廷内人事権を握ってしまうということも起こりえたにちがいない。そういったいくつかの要素が戦後談判の内容を決めていたのではあるまいか。だから戦争中に敵の王が死ねば、更に敵の軍隊を壊滅させるまで撃ち進んで行く必要はなくなり、その先は戦後談判という外交にまかせて軍隊は帰還すればよいということになっていてもおかしくはない。

もちろんこれは当時のジャワ島という、すべてが絶対君主である王国間の覇権争奪の場であったからこそ、軍事上の常識になっていたと推測できることだ。バタヴィアのVOCがジャカトラ王国を名乗っていたのが事実であるとするなら、ジュミナのアディパティ以下第二次遠征軍司令部は疑いもなくその常識を適用し、半月間の戦闘の成果を土産にマタラムに帰還したのかもしれない。だが、ジャカトラ王国は看板に偽りがあったのである。バタヴィアに作られた体制は、絶対君主である王という最高支配者がひとりですべてを決定する組織でなく、オランダにあるVOC本社の命令を実現させるための会社組織だった。
王国と会社が構造やビヘイビアに大違いであることは、現代人であればわかるだろう。しかしスルタン・アグンの時代に会社というものの知識と理解を持っている人間がジャワ島にどれだけいただろうか?ましてや会社を名乗らず、王国という看板を掲げていたのであれば、マタラム王国第二次遠征軍司令部がどのような判断を下していくかは想像に余りあることだったにちがいない。


28.美しきバタヴィアの街

オランダVOCが1619年からバタヴィアの街を築きはじめた時、最初はチリウン川東岸部の建設から着手され、元々ジャヤカルタの町だった西岸部は更地にされたまま、後回しにされた。というのも、東岸部にカスティルが建てられたのだから、そちらから手を着けて行くのが順当なはずだ。
カスティルは濠で囲まれてヨーロッパ風の水城(waterkasteel)になり、北は直接海に接する海門(Waterpoort)、南は陸地側に開かれた陸門(Landpoort)が作られて、陸門と対岸の陸地までは長い橋で結ばれた。カスティルの濠に接する陸地側は街区と濠で隔てられた空き地で、空き地と街区を隔てていたその濠はオウデマークフラフツ(Oudemarkgracht)と名付けられたが、今は既に埋め立てられて東ヌラヤン通り(Jl. Nelayan Timur)になっている。
カスティルの陸門から空き地を越えて街区に入ると一路南に進むプリンセンストラート(Prinsenstraat)につながり、その先端はバタヴィア政庁舎(Stadhuis van Batavia)前の広場入り口に突き当たる。このプリンセンストラートがバタヴィアの儀典道路だったわけだ。今ではプリンセンストラートがチュンケ通り(Jl. Cengkeh)に名を変え、チュンケ通りがジャカルタ歴史博物館前のファタヒラ公園(Taman Fatahillah)に突き当たる形のまま 残されており、地形的な変化は何も起こっていない。
言うまでもなく、この一帯がバタヴィアの治政を率いるひとびとの居住地区であり、今で言うエリート住宅街に相当していた。後にバタヴィアの一般庶民が住むようになるのはチリウン川西の旧ジャヤカルタの町で、北から南に下っていくほどランクが下がった。旧ジャヤカルタの町の南西どん詰まりの地区はオランダ時代末期までKampung Miskinと呼ばれていたそうだ。

街区の建設はそうだったが、バタヴィアはジャヤカルタの港をそのまま引き継いだようだ。先に述べたように、スンダクラパ港のゲートからまっすぐ南へ下ってくるクラプ通りと更に南へ一路タマンファタヒラを目指して下るトンコル通り、そして西から運河沿いに東進してくるパキン通りの三本の道路が形成する三叉路の少し西にある橋の下が当時のチリウン川河口だったのである。
河口の西側は少し海に突き出しており、ジャヤカルタはそこに税関や港務事務所を置いて通商港湾管理を行っていた。その関門の通過を許された船がチリウン川本流に乗り入れて、パゲラン・ジャヤカルタの宮殿やパサルに進むことができた。税関を意味するパベアン(pabean)をオランダ人はパエプヤン(Paep Jan)と呼び、ジャヤカルタの通商港湾管理地区をパエプヤンの地と称した。

オランダ人も同じようにしてパエプヤンの地で通商港湾管理を行ったが、防衛機能は強化した。河口突端には砲台を設け、接近してくる敵船をカスティルと連携して挟撃できるようにした。そこから更に西側の、海に向かって陸地の最北端に当たる場所にも小型要塞を構築し、それはバタヴィア城市を取り巻く外壁と一体化させられた。その最北端の小型要塞はゼーブルフ(Zeeburg)要塞と名付けられた。
河口すぐそばの砲台は後に1645年になって第9代総督アントニオ・ファン・ディーメンが更に強力な要塞に改修させたため、かれの出生地にちなんでキュレンボルフ(Culemborg)要塞と命名された。このキュレンボルフ要塞が現在ムナラシャバンダル(Menara Syahbandar)という名称で観光スポットになっている建物がある場所で、海洋博物館とは目と鼻の先だ。

1636年に総督に就任したアントニオ・ファン・ディーメンはポルトガルのアジア経営の柱のひとつだったマラッカを1641年に奪取してポルトガルの南海における勢力を骨抜きにするなど、バタヴィアを拠点とするVOCのアジアにおける勢力を圧倒的なものに押し上げて黄金時代を築いた人物だ。かれはヤン・ピーテルスゾーン・クーンに見出された有為の青年であり、その薫陶を大いに受けたにちがいない。かれがクーンの再来と謳われたのは、単にかれがクーン型の考え方や行動を示したということだけでなく、かれがクーンの抱いた理想の実現にまい進したことまで含めてのものであるにちがいない。
ディーメンはタスマンに命じて南方海域探査を行わせ、タスマンはタスマニア島・オーストラリア・ニュージーランドの大部分の海岸線を記録して帰った。オーストラリア大陸のかなり正確な地図がヨーロッパに登場した時、その大陸はファン・ディーメンランドと記されていたそうだ。


ムナラシャバンダルと呼ばれている建物は高さ12メートルほどの3階建ての四角い塔で、周辺には350年前の大砲まで置かれて自己主張しているのだから、周りを歩いてみればたしかに要塞だったことがわかる。キュレンボルフ要塞が解体撤去されたのは、ダンデルスが行ったカスティルや街外郭の城壁撤去の一環としてのものだ。というのも、1800年ごろになると陸地は既に8百メートルほど沖合まで伸び、その先の突堤まで含めてハーフェンカナールが1キロ以上の長さになっていたのだから、カスティルもキュレンボルフ要塞も元々持たされていた軍事機能が失われてしまい、アナクロニズムのシンボルと判断されておかしくない立場に追いやられていたのも確かだろう。
キュレンボルフ要塞が消滅した後、1839年になってその場所に見張り塔(Uitkijk)が建設された。それが今のムナラシャバンダルだ。パエプヤンの地における通商港湾管理は続けられており、1キロ以上離れた泊地で入港を待っている船への指示の旗を立て、また泊地の状況を観察するのに、新たな見張り塔が必要になったにちがいない。港務業務の一部もこの見張り塔で行われた。
しかし1885年末にタンジュンプリオッ港が完成したことで、バタヴィアのメインポートは移転することになる。それに伴って、見張り塔もお役御免になってしまった。その後暫定的に天体観測に使われたこともあったが、長続きしなかった。

ムナラシャバンダルから50メートルほどの距離に、全長160メートルほどの長い建物がある。これが海洋博物館(Museum Bahari)だ。この建物は1652年から百年以上もの間、何度も建築や改修の行われた倉庫群で、オランダ時代は西岸倉庫群(Westzijdsche Pakhuizen)と呼ばれていた。この建物は既述のVOC造船所と同じように、分厚いチークの板や丸太がふんだんに使われている頑丈で贅沢な建築物であり、その雰囲気に浸るだけで往時のVOCの栄華を肌に感じることができる。
バタヴィア時代の初期から、この倉庫に蓄えられたスパイス・茶・コーヒー・銅・錫・布類などがキュレンボルフ要塞近くまで寄せてきた商船の船倉に積み込まれ、軍船の護衛が付けられた商船隊がアムステルダムへ出帆して行った。きわめて接近した位置に建てられているのは、その便宜のためにちがいない。日本軍政期には、この倉庫に軍需物資が保管されていたらしい。独立後もしばらくは国有事業体が倉庫として使っていたが、歴史的文化遺産に指定されてからは海洋博物館となって1977年7月7日にオープンした。

1619年にバタヴィアの街の建設が開始されたとき、チリウン川西岸部の町作りは後回しにされたが、いくつかの重要な施設はすぐに川沿いに作られた。たとえばVOC造船所(Timmerwerf der compagnie)は1632年に設けられている。
この施設も1809年に閉鎖された。またチリウン川西岸沿いのバタヴィア城市の中央辺りで、荷役作業を行う場所が用意されていたようだ。それらの海事のための施設だけは、早い時期に建設されていた。

パエプヤンの地には、船からバタヴィアへ上陸するための上陸場所(Landingplaats)が設置され、上陸したひとびとが休憩や宿泊するための施設がゼーブルフ要塞の脇に作られた。その建物は正方形をしていたためにフィルカンツ(Vierkant)と呼ばれたが、迎賓館(Huis van Generalen ontvang)とも呼ばれた。そこは元々ジャヤカルタ時代に税関業務が行われていた場所であるため、フィルカンツを税関と呼んでいる記述もある。たしかにバタヴィアの税関吏もそこに住んだようだ。
VOCやオランダ植民地政庁の高官たちがバタヴィアに到着すると、時間によるが迎賓館で一泊し、翌朝仕立てられた馬車でバタヴィア市内に向かった。しかし下っ端職員や兵隊たちには、はなはだ評判の悪い場所だったらしい。
長い船旅のあと、やっと上陸したというのに、フィルカンツの休憩室や外の付近一帯で長い時間待たされ、暑い室内にいたたまれずに外に出てみれば湿地帯のよどんだ水が腐敗臭を漂わせてくる。そしてやっとバタヴィアの街中に入れる許可が出れば、そこから徒歩でワーテルロープレーンまで歩かされる始末だ。海洋博物館前からバンテン広場まで歩いてみれば、かれらの苦情が実体験できるにちがいない。フィルカンツはVOCが滅びるころに姿を消したらしい。

キュレンボルフ要塞から南にカリブサール西岸をたどると、1632年に稼働を始めたVOC造船所がある。造船所の北側、今のカリパキンが流れている場所には造船所の倉庫があったが、1981年ごろにそのカリパキン運河を建設するために取り壊された。造船所の南側につながっている建物は港務事務所で、パエプヤンの地から業務場所がこちらへ移された。
造船所の更に南側の大きい建物は税関事務所で、1834年にオープンした。多分、港務事務所の移転と同じタイミングではないかと推測される。この税関はオランダ語でフローテボーム(de Groote Boom)と呼ばれ、貨物船で運ばれる貨物の通関と関税徴収の業務を行った。入国者が手荷物として持ってくるものの通関と関税徴収はクレイネボーム(de Kleine Boom)と呼ばれる役所の業務であり、税関業務でも取り扱う役所が分かれていた。

そこから更に百メートルほど下ると、跳ね橋がある。バタヴィア時代に作られた跳ね橋で現存している唯一のものだ。コタインタン橋(Jembatan Kota Intan)という美しい名前で呼ばれているこの橋も、1628年に作られて以来、バタヴィア時代に何度も改修が行われてきた。コタインタンという名前はカスティルの南西に設けられた塔につけられたダイアモンドの名称に由来している。東ヌラヤン通り一帯の地区名称が今でもコタインタンと呼ばれており、それに因んだもののようだ。
この橋はかつてさまざまな名称で呼ばれてきたらしい。最初はイギリス橋(Engelse Brug)と呼ばれた。ジャヤカルタ時代のできごとを思い出していただきたい。近辺の故事来歴にちなんでの命名なのだろう。マタラム軍侵攻で破壊された後の1630年に改修されてからはニワトリ市場橋(Hoenderpasarburg)と呼ばれた。近くにニワトリ市場があったという説明になっているのだが、異説では売春婦のたまり場だったという話もある。
1655年に木の橋から石の橋に変えられて、中央橋(Het Middelpunt Burg)と変わり、更には女王陛下に敬意を示して名前が変わったりした。Wilhelmina BrugやOphaalsbrug Julianaといったように。


29.パサルイカン

さて、昔のチリウン河口からハーフェンカナールが1.3キロ沖合まで伸びて行ったいま、ハーフェンカナールの根元部分にある船溜まりにはキュレンボルフ要塞の北側に突き出た半島ができている。パサルイカン(Pasar Ikan)と呼ばれている地区だ。キュレンボルフ要塞を含むパエプヤンの地はもともと海に面しており、パサルイカンはその対岸にできた島だった。
そのはじまりはどうやら、バタヴィアの街が設計されたとき、パエプヤンの地の向こう側に作られた細長い尺地の先端部分だったのではないかと思われる。つまり雨季の洪水対策としてバタヴィアの街の外側にいくつか濠を掘り、チリウン川の水流を一部そちらへ導いて海に流れ込ませるための出口をたくさん作ったのだろう。その濠の出口のひとつがチリウン川河口に近い場所に置かれた。だからパエプヤンの地は東側をチリウン川本流が流れ、西側からもその濠を通って水が海に流れ込んでくる水量の多い場所にするべく企図されていたのではないかという気がする。その濠の向こう側は細長い尺地であり、尺地の突端部分がチリウン川が運んでくる泥土によって肥大化し、そのうちにつながっていた土地から切り離されて島になったという推理は外れているだろうか?

19世紀のバタヴィアの地図を見ると、そこはハーフェンカナールの根元にできた島になっている。バタヴィア城市はもともと城市全体を包むようにしてスターツバイテンフラフツが作られた。その東側はいまチリウン川、西側はカリクルクッ(Kali Krukut)に名前が変わっている。南側は埋め立てられてしまった。西側のスターツバイテンフラフツは最初チリウン河口まで導かれていたのだが、後にそれをまっすぐ海まで導くためにカリバル (Kali Baru)という名の運河が作られた。そのカリバルの河口がムアラバル(Muara Baru)だ。
島の南側水路はパエプヤンの地の北側を西進してカリバルに合流するようになり、島の西側も狭い水路がハーフェンカナールの根元に位置するバタヴィア港につながっていた。それを現代地図と比較するなら、島の南側水路は埋め立てられて島とパエプヤンの地がひとつになり、パサルイカンは半島に変化した。更にカリバルにつながっていた水路はルアルバタン(Luar Batang)地区の中ほどまで入ったところで潟になり、島の西側でハーフェンカナールの根元につながっている。そしていまそれに代わってカリブサール河口とカリバルを結んでいる水路が1981年に作られたカリパキンなのである。

この島は1830年ごろになって東岸とつなげられ、チリウン河口、つまりカリブサールの河口の目の前が遮蔽されてしまう。もちろん水門が設けられて緊急時には増水した川水をハーフェンカナールに流せるようにはしてあるのだが、普段は川水を濠のほうに流してバタヴィア港にチリウン川から流入してくる泥土をそこで遮断するのが目的だったようだ。つまりバタヴィア建設当初の周辺地勢が大幅に変化してしまった結果、パサルイカンの島の南側水路はチリウン川の水流の一部を迂回させてそこまで導く濠だった最初の機能が失われてしまい、カリブサールや東側スターツバイテンフラフツの水を遠くまで伸びた海岸線まで運び出すためのカリバルに導く役割を背負うようになっていったということだろう。

こうなれば、パエプヤンの地にあったバタヴィア港の人と貨物の上陸や荷揚げ施設は移転せざるを得ない。更に通商港湾管理機能もパエプヤンの地に置かれる必然性が急低下する。この時期よりもっと前から、外洋を渡って来た大型船はハーフェンカナールを通ってバタヴィア港まで入ってくることがなくなり、人や貨物は海上ではしけに乗り移らされてバタヴィア港に向かうようになった。バタヴィアのはしけビジネスが黄金時代を謳歌したのも当然の帰結だったにちがいない。
ランディングプラーツやクレイネボームはパサルイカンの島に移されたが、フローテボームや港務事務所をそこに置くには土地が狭すぎたのかもしれない。既述したように、フローテボームも港務事務所も1834年にカリブサール西岸に移っている。だがきっと、場所が離れすぎてはいないだろうか、とだれしも思うにちがいない。

1846年、その島のキュレンボルフ寄りの位置に魚市場が作られた。ハーフェンカナールに向いてコの字型に開かれた巨大な建物が魚市場であり、それ以来この島はパサルイカンと呼ばれるようになる。そしてこの島とパエプヤンの地をつなぐための橋がパサルイカンの建物のすぐ南側に作られ、既に消滅しているフィルカンツの名前がその橋に与えられた。この橋にも、濠を通過する船のために一部分に跳ね橋が設けられていた。
フィルカンツブルフ(Vierkantsbrug)と呼ばれたその橋も、19世紀終わりごろに取り壊されている。もちろん、パサルイカンの建物も時代の流れの中に姿を消した。
パサルイカンがその島に設けられたことで、ランディングプラーツとクレイネボームは1848年2月1日にハーフェンカナール東岸に移転した。そこが現在の観光スポット「スンダクラパ港」の埠頭がある場所である。更に1852年6月1日には、港から離れていたフローテボームもその場所に移転し、税関倉庫も建てられて、輸出入貨物の通関と徴税がそこで行われるようになった。いまスンダクラパ港と呼ばれているあの場所は、このようにして歴史の幕を開いたのだ。


海からバタヴィアへやってくる人の動きがハーフェンカナール東岸で盛んになると、カフェやホテルのビジネスチャンスが高まり、そして東岸からバタヴィア市内に向かう交通が整備される。クレイネボームのすぐ傍に1849年、スターツヘルベルフ(Stads Herberg)がオープンした。英語に訳せばシティインだ。やって来たひと、去っていくひと、出迎えの人、見送りの人、それぞれがそこで飲食したり宿泊した。
オーナーはオランダ人で、1820年ごろからそこで小さい宿屋を開いていたが、クレイネボームが移転してきたためにビジネス拡張をはかり、それが大当たりとなった。オーナーは1852年にそれを売却してバタヴィア市内中心部のレイスウェイク(Rijswijk)にあるネーデルランドホテル(Hotel der Nederlanden)を買い取り、そのホテルは19世紀後半にバタヴィアを代表するエリートホテルの地位にのし上がった。しかし20世紀に入ると、オテルデザンド(Hotel des Indes)にその地位を取って代わられることになる。ネーデルランドホテルは1940年代ごろまで存在していたようだが、インドネシア共和国独立後はレイスウェイク地区全体が政府機関に変えられて行ったため、姿を消した。1860年代のスターツヘルベルフ黄金時代、ハーフェンカナール東岸に商業施設が建て込んでいた雰囲気はあまりなく、このスターツヘルベルフはどうやら独占あるいは寡占事 業を謳歌していたように見える。宿の表には客待ちの馬車が多数たむろし、クレイネボームから直接市内に向かう客や宿から市内に向かう客を拾っていた。
しかし1885年にタンジュンプリオッ港がオープンすると、ハーフェンカナール東岸にあった港湾施設のすべてが新港に移転してしまう。黄金時代は過ぎ去ってしまい、このエリアが人通り繁華な消費地区であったことは昔語りとなった。代替わりしたオーナーはその建物を華人系ビジネスマンに売却し、新しいオーナーはその建物を倉庫として使った。そして最終的にその一帯の古い建物は1949年に撤去されてしまったのである。

ハーフェンカナール東岸にある港の諸施設やスターツヘルブルフの前を通っている道路はカナールウエフ(Kanaalweg)で、南端にある橋を渡ってカスティルプレインウェフに入り、アムステルダム門(Amsterdamse Poort)をくぐってバタヴィア市内に向かった。いまカナールウエフは観光スポット「スンダクラパ港」入口ゲートから橋までがクラプ通り、ゲートから埠頭に沿って北上していく道がマリティムラヤ通り(Jl Maritim Raya)となっている。カスティルプレインウエフは今のトンコル通りだ。

アムステルダム門はアムステルダムスフラフツ(Amsterdamse gracht)とカスティルプレインウエフおよびプリンセンストラートの十字路に設けられたため、アムステルダムの名前が冠せられた。アムステルダムフラフツは今の東ヌラヤン通りで、ある時期にオウデマークフラフツから名前が変更されたらしい。
アムステルダム門の由来は第二期カスティルの時代にさかのぼる。ダンデルスがカスティルを撤去させたものの、この門は生き延びて、その後何回か作り直されている。門自体はヨーロッパ風の凱旋門を小さくしたようなデザインで、両脇にウイングが作られ、さらにフェンスが伸びていた。正面の左右には軍神マルスと女神ミネルヴァの像が飾られていたが、日本軍政期に鋳溶かされたようだ。
1869年にバタヴィアを馬車トラムが走るようになり、ルートはカナールウエフの港近くが終点で、そこからプリンセンストラートを下ってスターツハイスプレイン(Stadhuisplein)を抜け、ニューポーツストラート(Nieuwpoort straat = 今のJl Pintu Besar)を経てモーレンフリート(Molenvliet)脇の道(今のJl Hayam WurukとJl Gajah Mada)を通った。必然的にアムステルダム門を通過しなければならなくなり、門の両側ウイングとフェンスが除去された。
最終的にモータリゼーションがジャカルタを訪れると、この由緒ある門は邪魔者になってしまい、インドネシア共和国が1950年に取り壊して平らにした。今では跡形もない。

カナールウエフからカスティルプレインウエフへは濠をまたぐ橋を通る。その橋は現在クラプ通りとトンコル通りをつなぐ橋のあるちょうどその場所に位置していた。規模はもっと小さいが馬車が通るには十分な広さだ。その橋もオランダ式の跳ね橋で、濠を通る船の通行を可能にしていた。
この橋には公式な名称が他にあったのだが、オランダ語でスヘイツブルフ(schijtbrug)、インドネシア語訳はジュンバタンベラッ(Jembatan Berak)、日本語になおすと「くそ橋」と一般に呼ばれていた。なぜ「くそ」なのか?

先に述べたように、昔のヨーロッパ人の日常生活は排泄物の臭いの中にあったようだ。宮殿や豪邸の中にトイレが作られず、出たものは大自然の中にそのままお返ししていたようだから、必然的に臭いは四方八方に漂うことになる。トイレが作られて排泄物処理に関する文明化が起こるのは19世紀になってからであり、もっと昔からヨーロッパで香水産業が発展したのがその臭い対策だったという事実は、われわれをうなずかせずにおかないだろう。
マタラム軍進攻の際のホランディア要塞におけるハンス・マデレン軍曹の行動とそれに対するマタラム兵の反応を見比べてみるなら、排泄物に対する両民族の感覚の差がなんとなく見えてくるような気になるのは、わたしだけではあるまい。「くそ橋」は単なる言葉の上の誤解が招いたものだったらしいのだが、排泄物処理の文明化が進み始めたヨーロッパ人が「くそ」という言葉で呼んだということにわれわれは興味を惹かれるのである。
この橋を越えれば港。千里の波涛を越えて愛するひとが旅立つところ。バタヴィアのロマンチストはその橋を「旅立ち橋」オランダ語でアフスヘイツブルフ(afscheidbrug)と呼び始めたそうだ。その愛称が人口に膾炙するようになり、中には省略して呼ぶ人間が現れる。スヘイツブルフという発音を聞いたオランダ人の中にはschijtというスペルの単語を思い出してその意味を解釈した、というのが「くそ橋」の由来だそうだ。


30.タンジュンプリオッ港建設

しかし、せっかくハーフェンカナール東岸に港としての陸上施設がまとまったのもつかの間、1885年末に完成したタンジュンプリオッ新港の稼働開始にあわせて、すべての施設は9キロほど東に離れた新港に移転してしまう。
チリウン河口に設けられたバタヴィア港は、ジャヤカルタ港をそのまま引き継いだとはいえ、1619年バタヴィア誕生の当初から救いがたい難題を抱えていた。チリウン川が運んでくる泥土問題である。港で船を接岸させるために絶えざる浚渫作業が余儀なくされた。掘り揚げた泥土を周囲に積み上げて行くのは埋め立て作業と同じだ。船の通路だけ残して周囲の海を埋め立てていくことでハーフェンカナールが形成された。

しかし帆船から蒸気船への移行が船の大型化をもたらし、スエズ運河が開通したことで船会社は航海日数短縮による稼働回転率向上をビジネス運営の基本に置くようになる。ハーフェンカナールが伸びて行けば行くほど、船会社には不満が鬱積することになった。沖に停泊した本船と港の倉庫間をはしけがこまめに往復するが、その間の距離が遠ければ遠いほど時間がかかり、費用も増大する。雨季には貨物の水濡れ問題がそれに拍車をかける。1869年のスエズ運河開通がバタヴィア当局者に抜本改善の決断を迫ったと言えるにちがいない。ましてや新興のイギリス領シンガポールが交通と通商の王座を奪おうとして追い上げてきている状況になっているのだ。バタヴィア当局は1867年に移転先の新港をどこにするかについてサーベイを開始した。タンジュンプリオッが十分な水深のある大型港建設にふさわしいというサーベイ結果に、バタヴィア港で活動していたほとんどの業者が反対した。タンジュンプリオッに新たな港町ができれば、港湾活動に関わっているあらゆる分野に新しい競争相手が出現するにちがいない。カリブサールから港一円にある既存の倉庫に、荷が入ってこなくなるかもしれない。客はこの一帯のオフィスにやって来なくなり、直接タンジュンプリオッ周辺の新たなオフィス街に行ってしまう可能性が高い。ところが、かれらが一様に胸をなでおろすというハッピーエンドの結果となってそのコンフリクトは終わりを告げた。
「タンジュンプリオッにニュータウンなどできるわけがない。あそこはマラリアの巣窟であり、きわめて不健康な土地だ。あんなところに住んで終日仕事をしていたら、命がいくつあっても足りない。」という風聞がバタヴィアの街を覆ったのである。当局もそれに合わせて動いた。タンジュンプリオッとバタヴィアの街を鉄道でつなぎ、また街道を整備して、新港はトランジットポイントにする方針を取ったのである。その結果、港湾活動に関わるあらゆる業種がビジネス活動をカリブサール一帯で継続し、倉庫業も旧バタヴィア港近辺にあったものがいつまでも継続して使われた。そればかりか、タンジュンプリオッ港から南へ下ってくる街道さえ、長期にわたって作られなかった。
ジャカルタバイパスと通称されているタンジュンプリオッからチャワンまでの地表道路は米国の援助金で作られたもので、1963年10月21日に開通式が行われた。それまでタンジュンプリオッ港はアンチョル辺りと東西方向でつながっているだけだったということなのである。

またまた余談でご容赦願いたいが、スカルノ時代に米国がインドネシアに援助金を与えたことを不思議に感じるひとがいるかもしれない。これはアレン・ポープ事件という名前で有名なストーリーが発端になっている。
1958年5月18日、PRRIプルメスタ叛乱軍を支援して、米国CIAの一員であるアレン・ポープがB26でアンボンを空爆し、インドネシア国軍に撃墜された。負傷したアレンは捕らえられ、尋問されて事情を明らかにしたことから、スカルノ大統領が米国に談判をねじ込み、援助金をむしり取って来た、というのがその背景にある。スカルノはケネディ大統領と交渉し、ハーキュリーズ10機とベル47一機、そしてタンジュンプリオッ〜チャワン間のバイパス27キロの建設資金を援助させたという話だ。スマンギ立体交差もその金で建設したという話もある。一方、アレン・ポープは刑務所からひそかに空港に連れ出され、「二度と世間に顔を出したり、おかしな話をしゃべったりしないで、姿を消してしまえ。そうすれば、われわれもあんたのことを忘れる。」とスカルノに言われて、ジャカルタを秘密裏に去ったと記されている。

バタヴィア港が長い歴史の幕を閉じて、港湾機能がすべてタンジュンプリオッに移ったあと、ハーフェンカナール東岸はまた寂れた地区になった。とは言っても、カナールウエフ沿いを往来していた旅行者たちの活気がタンジュンプリオッに移っただけということであって、それ以前からも通り沿いの建物からもっと東に入れば人家もない林と空き地と沼潟ばかりで、その辺りからもっと東の、今のアンチョルドリームランドの方まではワニや蛇やサルの住む世界だったから、それほど大きな変化でもなかったようだ。

一方、西側のパサルイカンの島では、魚市場の隣にヘクサゴン(Hexagon)と呼ばれた建物が1920年に建設された。四つの建物が集まって六角形をなしていたためにそう呼ばれたらしい。その建物は海洋研究所として使われ、建物内には種々の生きた魚の標本が水槽に収められ、水族館として一般公開されたため、バタヴィア市民の人気のある行楽先のひとつになった。水族館はインドネシア語でアクアリウム(akuarium)と言うが、ヘクサゴンの建っていた地区は今でもアクアリウムという地名で呼ばれている。
水族館は1940年ごろ一度閉鎖され、1947年にまた再開された。1960年ごろにまた閉鎖されて、その当時まだ子供だったひとびとの思い出の中に生き残っている。


いまスンダクラパ港と呼ばれて観光スポットになっているあの場所は、歴史的見地に立つなら、バタヴィア港という名のほうが正確だろう。上で述べたように、あの場所が名実ともに港になったのは19世紀後半だったのだから。ジャカルタがスンダクラパであった時代、あの場所には陸地が存在していなかった。歴史家アルウィ・シャハブ氏によれば、スンダクラパ時代の港は今のスンダクラパ港から7百メートルほど南だったそうだから、今オムニバタヴィアホテルの建っている辺りのように思われる。そのオムニバタヴィアホテルは2015年に売却されてデリヴィエル(de Rivier)ホテルと改名していることを付記しておこう。
スンダ王国の王都パクアン(Pakuan = 今のボゴール)にもっとも近いカラパに港が開かれたのは8世紀で、この港と王都はチリウン川を経由して船が上り下りした。片道一泊二日の旅だったという。王都の生活需要を満たすために近隣の36諸王国の船がカラパに交易にやってきていたそうだ。

同じように、ジャヤカルタ港という名称も史実を正確に反映することにはならないだろう。というのも、ジャヤカルタの町がチリウン河口西岸にパベアンやシャバンダルを置いて港務を行っていたとはいえ、その当時もハーフェンカナールはまだ存在せず、あの場所は依然として海の上だったのだから。ただ、当時のチリウン河口はその後も、陸地が、そして海岸線がどんどん沖へ伸びて行き、ハーフェンカナールが長さを増しても、港であることをやめなかった。スンダクラパがジャヤカルタになって以来およそ3百5十年間、その港はチリウン河口に存在し続けていたのである。
接岸荷役や上陸場所あるいは港務施設がキュレンボルフ要塞周辺のパエプヤンの地からパサルイカンの島に移り、最後にハーフェンカナール東岸へ移ったにしても、ハーフェンカナールの根元に設けられた水域は、タンジュンプリオッ港が稼働し始めるまで、港の海としての機能を維持し続けた。

いま歴史遺産となっているスンダクラパ港にその名が冠せられたのは1970年代で、スンダクラパという歴史的な名称はそれまでジャカルタのどこにも使われていなかったとのことだ。一方、ジャヤカルタという名称はかなり潤沢に使われていた。だからスンダクラパ時代から港であった(と見なされてきた)当時のチリウン河口にある港にその名が使われたというのがそのネーミングの背景のようだ。史実とは別の角度から眺めた配慮が加えられていたのは言うまでもない。
だからわれわれが心しなければならないのは、いまあのフィニシ船が集まっているスンダクラパ港埠頭が6百年昔のスンダクラパあるいはカラパの時代から生き残って来たものだという、ネーミングから誘発される短絡思考であるにちがいない。



(2017年07月21日〜10月20日)