「独立宣言前夜」


PPOPKI(Panitia Penjelidik Oesaha-oesaha Persiapan Kemerdekaan Indonesia = 独立準備調査会)の設立が1945年4月29日の軍政監布告第23号で正式に定められたが、第一回会議の開催はひと月後の5月29日に始められ、6月2日に終わった。
PPOPKI常任メンバーは議長と副議長の3人を除いて60人で、そのうちの54人はジャワ・スマトラ・スラウェシ・マルクを代表するプリブミ、4人が華人系、1人がアラブ系、1人がヨーロッパ系の土着民で構成され、非常任メンバーとして7人の日本人が指名されていた。非常任メンバーは投票権を持たない。

第二回会議は1945年7月11〜17日に開かれ、議事は熱を帯び、すべての議題が投票で採決されたという。独立後の国家形態についての議事では、55人が共和国、6人が王国、2人がそれらと異なる形態を主張した。王国派はヨグヤカルタのスルタン、ハムンク・ブウォノ9世を国王とする国家成立を画策し、マグランに集まって戦略を練ったが、議場では大敗を喫する結末となった。
国家にとっての基本要素である領土については、以前からあまり真剣な討議がなされていなかったが、いずれにしても避けて通れない問題であるのは間違いがない。議場では、三つの案に収束した。1)旧オランダ領東インドの全域、2)旧オランダ領東インドの全域にマラヤ半島を加えるが、パプアは除く、3)旧オランダ領東インドの全域にマラヤ・北部ボルネオ・ポルトガル領ティモール・パプアとその近隣の島々を加える。その第3案は大インドネシア構想とも呼びうるものであり、この大インドネシア構想支持者のひとりであるムハンマッ・ヤミン氏はマラヤ半島の愛国活動家三人をオブザーバーに招くという周到さを見せた。オブザーバーのひとりイブラヒム・ヤクブ氏はPETAのマラヤ版であるマレー義勇軍の指揮官を務める人物だった。
投票では、第1案19人、第2案6人、第3案39人で、ガジャマダ時代に拡大した版図がいかにインドネシア人の内面に誇りとして刻み込まれているかをそれが物語っているように思われる。この成り行きは軍政監部を少々慌てさせたようだ。日本側の腹積もりは、まずジャワ島だけを独立させ、旧オランダ領東インドの他の地域は状況を見ながら、おいおい参加させて行こうというものだったのだから。それがいきなり、ポルトガル領ティモールやパプア、そして旧イギリス領だったマラヤ半島から北部ボルネオ一帯まで巻き込もうという話を言い出されたら、収拾に苦慮するにちがいない。

PPOPKIの非常任メンバーに指名されたのは軍政監部の役職者たちで、議事の進行を円滑化させるとともに、逸脱した方向に走らないようにお目付役となるはずだったが、上のようなできごとが起こったのは議長の手腕に負うところが大きかったようだ。どうやら実態は、新独立国の領土に関する議場での議事進行があれよあれよという間に進められ、日本人非常任メンバーが口を差し挟めるタイミングは飛ぶような速さで通り過ぎてしまったらしい。
準備調査会議長はK.R.T.ラジマン・ウェディオディニンラ医師が務めた。また、後に連合軍の行った戦犯裁判でPPOPKI非常任メンバー7人の長になった一番ケ瀬氏は自分たちがPPOPKIの会議の中で行ったことに関して、「われわれ日本人はインドネシアという子供を産む母親の役割を担ったのでなく、インドネシア人が自分たちの国を作り上げることに手を貸す産婆の役を果たしただけだった。議場でわれわれ日本人は何ら重要な発言を行わず、サブ委員会の中でほんの短い発言をしただけだった。」と語ったそうだ。
PPOPKIで憲法に関する討議がなされたとき、国民の定義付けについてプリブミだけが自動的にインドネシア共和国の国民になることが採決された。ならば異民族系の子孫たちは法的に帰化プロセスを経なければならないことになる。すると、この決議に反対する華人系常任メンバーのひとりがメンバーを辞任すると申し出た。そのままで国民として認められない人間に国家成立の討議に参加する資格があるとは思えない、というのがかれの見解だった。その申し出が承認されたかどうかについては、記録が残っていない。


1945年6月22日、PPOPKIは憲法前文草案を確定させ。そして7月16日には憲法案が完成した。8月7日、PPOPKIは解散され、PPKI(Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia = 独立準備委員会)が作られた。
PPKIは、独立インドネシアの政体を早急に建設するための最後の準備に関連する諸事項を促進することがその使命であった。
PPKIは議長副議長を含めて21人で構成され、ジャワ代表者12人、スマトラ代表者3人、スラウェシ代表者2人、カリマンタン代表者1人、小スンダ代表者1人、マルク1人、華人系代表者1人から成り、スカルノが議長、ハッタが副議長になって委員会を統率した。19人の委員会メンバーは、K.R.T.ラジマン・ウェディオディニンラ医師を筆頭に、キ・バグス・ハディクスモ、オットー・イスカンダル・ディナタ、B.P.H.プルボヨ、G.P.H.スルヨハミジョヨ、スタルジョ・カルトハディクスモ、Prof.Dr.Mr.スポモ、R.H.アブドゥル・カディル、Drs.ヤップ・チュアン・ビン、Dr.ムハンマッ・アミル、Mr.アブドゥル・アバス、Dr.ラトゥラギ、アンディ・パグラン、Mr.ラトゥハルハリ、Mr.イ・グスティ・クトゥッ・プジャ、A.H.ハミダン、ラデン・パンジ・スロソ、K.H.A.ワヒッ・ハシム、Mr.ムハンマッ・ハサンの諸氏だった。日本人はひとりもこの委員会に含まれていない。

< 1945年8月9・10日 >
南方軍総司令官寺内寿一大将はいよいよ独立への動きを担うことになったPPKIのリーダーに訓示を与えるため、ダラトに招いた。それに応じて、スカルノ、ハッタ、ラジマン・ウェディオディニンラおよびスカルノの家族医であるスハルト医師が飛行機でダラトに向った。東南アジアといえども、制空権はすでに連合軍の手中に落ちている。それは言うなれば、生命を賭けた決死行でもあったのだ。かれらを乗せた日本軍の双発輸送機は8月9日にジャカルタのクマヨラン飛行場を飛び立った。そのときの模様をスハルト医師は次のように書き残している。

その前日、スカルノは突然スハルト医師に言い渡した。「ハルト君、明日われわれはハッタ君と一緒に外国へ行く。」
「どこへ?」
「機密だ。要するに外国へ行くんだよ。」
確かに、これほど機密を要することがらはほかになかったにちがいない。
ラジマン・ウェディオディニンラ医師も、自分の妻にさえ行き先を打ち明けなかった。かれは妻に、数日間の道中に着るジャワ貴族の装束を用意するよう命じただけだった。

出発当日、ハッタ、ラジマン、スハルトは夜明け前にプガンサアンティムル通り56番地のスカルノ宅に集まった。スハルトはやってきたラジマンがスラカルタ風のジャワ装束の盛装に身を包んでいるのを見て驚いた。かれはカンジェン・ラデン・トゥメングンの称号を持つジャワ貴族だったのだ。四人はそろってクマヨラン飛行場に夜明け前に移動した。
クマヨランに着いてから、スカルノはスハルト医師に高齢のラジマン医師の世話を心がけるよう依頼し、そしてみんなは寺内大将に会うため、これからインドシナのダラトに向かうのだとスハルト医師に語った。スハルト医師の鼓動が高まった。


輸送機はジャカルタからシンガポールに向った。ジャカルタから来た日本人の多くはシンガポールで下り、サイゴンから迎えに来た南方軍総司令部の日本人と交代した。機がふたたび出発したのはその日の正午過ぎで、現地時間の19時ごろ、サイゴン到着はもうすぐだろうとみんなが思ったが、窓の下には黒雲と霧が敷き詰められており、滑走路がどこにあるのかがはっきりしない。サイゴン飛行場周辺は平坦な草地が広がっていて、目標物になるものも得難く、日が暮れて夜闇が濃さを増しているいま、着陸はきわめて困難と言うほかない。
飛行機はそのあたりを何度か旋回したあと、着陸態勢に入った。草地に脚を下ろしたとき、凄まじい衝撃音がして機内は大揺れに揺れ、乗客は座席から放り出されて床の上をのたうった。機内に置かれていたあらゆる物が散乱し、ひとびとは体のあちこちを打ってうめいた。機は着陸してから、あわや水牛と衝突しそうになったらしい。

停止した機体に向って、数人の兵士が駆け寄って来た。スカルノが大声で兵士に聞いた。「ここはどこだ?」
「サイゴンからおよそ百キロの地点です。」
兵士の一人が無線電話をサイゴンにかける。「ジャカルタからの客人が着陸しました。」
スカルノがまた怒鳴った。「客人じゃない。スカルノが来たと上官に報告しろ!」

スカルノ一行は最寄りの村へ案内された。村の中は真っ暗で、灯り一つともっていない。灯火管制中なのだ。
しばらくすると自動車が数台やってきて、スカルノ一行と同乗の日本人たちを護送した。車は漆黒の闇の中を、丘陵地帯を抜けてサイゴンへ向かい、豪壮な元フランス総督の宮殿に到着した。

戦時下だというのに、その豪壮な宮殿の一室に美しい芸者の一団が住んでいるのを目にして驚いた、とスハルト医師は述懐している。しかしそんな驚きよりも何よりも、かれは疲れた身体を休めるためにベッドに倒れ込んだ。時計は午前2時を指していた。
柔らかなベッドでの安眠もつかの間、一行は早々に起こされて午前10時にはサイゴン飛行場からダラトに向けてまた空の旅に就いた。


ダラトはサイゴンから350キロ北東に離れた保養地で、標高1千5百メートルの高地にある。ダラトに作られたフランス総督の別荘で、スカルノ、ハッタ、ラジマンの3人は寺内大将と会見した。
大将は3人を前にしてスピーチした。「東京の大日本帝国政府はインドネシアの人民に独立を与えることを決定した。みなさん、おめでとう。」
東京へ行く道はすべてふさがれており、首相から祝辞をもらうことは不可能だ。だから東南アジアにおける日本の最高責任者が首相に成り代わってそれを行うことになった。大日本帝国政府は独立のプロセスをすべてインドネシアの人民にゆだねた。それをどのように行っていくかは、すべてあなたがたの手の中にある。

寺内大将はそのように語ったが、スカルノもハッタも、その言葉をどう受け取ってよいのかわからなかった。ふたりはただ、「ありがとうございます」を繰り返すばかりだった。
「だから今は、あなたがたがどのような独立プロセスを考えているのか、それが問題なのだ。」大将のその言葉に、スカルノもハッタも沈黙した。ふたりはただ、お互いの顔を見かわすばかりだった、とスハルト医師は記している。
寺内大将は贅肉のない上背のある体躯をしており、まるでヨーロッパ人のようだったというのがスハルト医師の印象だった。
会見を終えて懇親の食事会に移ったとき、スカルノは大将に尋ねた。「独立準備委員会が8月24日ごろに職務を満了するということでよろしいのでしょうか?」大将の返事は簡単だった。「それはあなたがた次第だ。」

< 1945年8月13日 >
スカルノ一行はサイゴンを発して帰国の途についた。ふたたびシンガポールを経由する。今度の飛行機は座席などない双発爆撃機だった。キャビンの壁には砲弾による穴があいている。付き添いの日本人はひとりも同乗せず、ふたりの操縦士とナビゲータひとりの合計三人が日本人のすべてだった。操縦席の後ろに長椅子が置かれ、キャビンとは名ばかりの狭いスペースに四人が入った。

しばらく飛行を続けていたとき、機体が突然急降下して地上を目指し、マレー半島のジャングルの脇に設けられた滑走路に着陸した。シンガポールはまだ先だと思っていた一行は、一体何が起こったのかといぶかしんだ。操縦士の話では、連合軍戦闘機に追尾されたので、それを逃れるために取った行動だったそうだ。
全員は数時間をそこで費やした。敵機があきらめて去って行かなければ、撃墜されるだけだからだ。こうして夕陽が落ちたあとになって、機はシンガポールにやっと到着した。一行は第7方面軍司令官板垣大将に慰労され、シービューホテルで一泊し、8月14日にシンガポールを発ってジャカルタへ戻った。

< 1945年8月14日 >
スカルノ一行はクマヨラン飛行場で、軍政監、総務部長、その他諸高官をはじめ、インドネシアの要人や多数の民衆に迎えられた。その場でスカルノにスピーチの機会が与えられ、かれはクディリ王国のジョヨボヨ王の予言に触れて、これまではトウモロコシの実が成るときに独立すると言っていたが、いまやトウモロコシの花が咲く前にわれわれは独立する、と述べて民衆の大喝采を浴びた。

軍政監部が用意したスカルノ歓迎昼食会のあと、ハッタは14時に自宅に帰った。するとスタン・シャフリルがかれの帰宅を待っていた。シャフリルは思いがけないことをハッタに告げた。日本は連合国に停戦を要請した、と言う。「こんな状況になった以上、独立宣言はPPKIが行うべきでない。そんなことをすれば、インドネシアの独立は日本の傀儡でしかないと世界中が言うだろう。一番良いのは、民族指導者であるブンカルノが民衆の名前で独立宣言をラジオのマイクに向かって表明することだ。」

インドネシア民族活動家のすべてが感じているように、ハッタも大日本帝国の戦争継続能力が既に限界に達していることを理解しており、早晩終戦が訪れることは予想していたが、こんなに早くやってくるとは思っていなかった。ハッタはスタン・シャフリルの意見に賛成すると同時に、独立宣言を急がなければならない、と自分に言い聞かせた。しかしハッタには疑問があった。PPKI議長であるスカルノが個人として民衆の名前で独立宣言を行うことがどのような影響をもたらすのかという懸念だ。PPKIが行うことになっていた行為が議長個人のスタンドプレーにすり替えられてしまうのは、世間常識から見ても悪行である。あのスカルノが易々とそのような悪行を冒すはずがない。
ハッタはスタン・シャフリルと相談して、まずはスカルノの意見を確かめることで合意した。ふたりはすぐにプガンサアンティムル通り56番地に向った。


モハンマッ・ハッタは1902年にブキッティンギに生れ、スタン・シャフリルは1909年にパダンパンジャンで生まれた。ふたりは同じミナンカバウ人だったわけだ。かれらはそれぞれがオランダに留学し、専攻も違っていたが、オランダでインドネシア会に参加し、役員になることで互いに親密になった。

シャフリルは1931年、学業半ばにしてインドネシアに戻り、PNI設立に加わった。ハッタは翌年、学業を終えて帰国し、戻るとすぐにPNIの指導的立場に立った。ふたりが協力し合ってPNIの活動を進めているとき、オランダ植民地政庁は反政府分子としてふたりを逮捕し、1934年にパプア島のボーヴェンディグルに流刑した。更に1936年に、ふたりは南マルクのバンダネイラに移された。ところが、日本軍の南方進出を前にして、米軍水上機がふたりを迎えに来て、ジャワ島に運んだ。ほどなく、日本軍の進攻がはじまった。
日本軍政下にどのような方法で民族運動を継続していくかという点で、ふたりの考え方は異なっていた。ハッタはスカルノと共に表に出て、日本の統治下での民族独立のかじ取りを行う意向を持ち、シャフリルはかれ自身の性格をも考慮して、地下での民族運動を推進する決意を固めた。シャフリルのその方針はもちろん、スカルノもハッタも承知の上だ。


1945年8月14日、ハッタとシャフリルを自宅に迎えたスカルノはふたりと小さい円卓を囲み、来意を尋ねた。ハッタはシャフリルに話すよう促した。シャフリルの話を聞き終えてしばらく自分の考えをまとめていたスカルノは、これほどの速さで状況が転変しつつあることに半信半疑だった。かれは既に軍政監部要人から、ソ連軍が満州国に攻め込んだ情報を耳打ちされていた。大東亜戦争の命運は先が見えたことをスカルノは確信したが、まさかこれほど即座に日本が降伏の動きを始めるとは、予想だにしなかったことだ。

「シャフリル君が外国のラジオ放送からその情報を聞いたにせよ、今はほとんどのラジオ放送は連合国の息がかかっている。だからわたしはまず軍政監部に最新状況を確認したい。明日、わたしはハッタ君と一緒に軍政監部へ行こう。」
スカルノがインドネシア民衆の指導者として、また民衆を代表して、早急に独立宣言を行うべきだ、というシャフリルの意見にスカルノは同意しなかった。ハッタが予想した通りの言葉をスカルノは述べた。

「わたし個人にそのようなことをする権限はない。それを行うのは、わたしがリーダーを務めているPPKIなのだ。いざ独立を宣言する機会がやってきたからといって、PPKIをさしおいて、わたしが個人としてそのようなことを行えば、世間の目にはそれが納得できるものとは映らないだろう。わたしにそのようなことをする気はまったくない。」
スカルノの態度にシャフリルは強く失望したようだ。しかしスカルノとしても、日本側の実情がどうなっているのかを確認しなければ、次の手が打てないのも確かなことだ。スカルノはすぐに情報収集を開始した。ところが個人的に知遇を得ている軍政監部要人たちはスカルノに会おうとしない。

その日15時ごろ、スカルノとハッタはアフマッ・スバルジョと共にジャカルタの海軍武官府を訪れて前田精海軍少将に状況を尋ねた。スバルジョは通訳としてふたりに付き添った。少将の返事は明快だった。
「大日本が降伏したという話をわたしはまだ聞いていない。だから、その情報が正しいのか、あるいは虚報なのかとあなたが尋ねても、わたしには答えようがない。その真偽がどうあろうと、わたし個人としてはまったく信じられないことだ。今やこういう状況に陥った以上、世間にはさまざまなデマゴギ―が飛び交っている。そういう情報を自分の行動の手がかりにはできない。」


ラデン・アフマッ・スバルジョ・ジョヨアディスルヨは1897年に西ジャワのクラワンに生れ、1933年にレイデン大学で法学士のタイトルを得た。当時の独立志士青年たちと同じように、かれも左翼思想の洗礼を受けており、モスクワに滞在したこともある。
インドネシアに帰国後、かれはレイデン大学で親交を重ねたイワ・クスマ・スマントリが発行している新聞「マタハリ」の日本通信員となって東京に滞在し、その後帰国して植民地政庁の経済局で働いた。
日本軍政が開始されると、かれは海軍武官府調査部長の座に就いた。そしてKPPIメンバーを務め、独立宣言文起草に際しても、スカルノとハッタに付き添ってふたりを補佐した。1945年8月18日に編成されたインドネシア共和国内閣で、かれは初代外務大臣の重責を与えられている。

16時ごろ、スバディオがスタン・シャフリルの家を訪れた。シャフリルはスカルノ宅から戻ったばかりであり、日本が連合国に降伏する兆しはまだなさそうだ、という結論をかれはスカルノの反応から引き出していた。かれはスカルノとの会見で強い失望を感じ、不満と興奮で感情的になっていた。こんなシャフリルをこれまで見たことがないとスバディオは思った。

外国からのラジオ放送のいくつかは、日本が停戦を求めたと述べているが、スカルノはそれが本当であると信じるそぶりも見せない。ならば日本人高官か、必要なら憲兵隊にでも最新状況を尋ねたらどうかとシャフリルが提案しても、スカルノは強い声で「そんなことを日本人高官に尋ねるなど、まったく無駄なことだ」と反論した。シャフリルは、スカルノが自分の言うことを聞いてくれないということ以上に、自分が命がけで地下活動を行っており、そうして得た情報をもっと尊重してくれるだろうと思っていたが、スカルノの態度が自分の期待外れであったことにかれは強く傷ついていたのだ。


憲兵隊がスビアントを探しているという情報を教育省に勤める親族のひとりから聞かされ、マルゴノ・ジョヨハディクスモは驚いた。息子のスビアントがあちこちで、日本が降伏したという噂をまき散らしているのが原因だそうだ。
8月15日夕方になって、家に戻ってきた息子のスビアントが「日本が降伏した」という言葉を告げた。やはりあの話は本当だったのだとマルゴノは思った。「誰から聞いた?」とマルゴノが尋ねると、「それは父上にも明かせない。そのひとの生命は自分などよりはるかに価値が高いのだから。」とスビアントは答えた。

一家がソロからジャカルタに移って以来、スビアントはあまり家に戻らなくなり、何をしているのかよくわからなかったが、それが徐々に明らかになって来た。スビアントはスタン・シャフリルの地下活動の配下になっていたのだ。


日本軍政期にスビアントはジャカルタの医科大学生になった。オランダ植民地時代の医科大学を日本軍政は1943年3月に日本語のままIka Daigakuと称して再開した。しかし大学生は頭を丸刈りにせよと軍政が定めたことに、学生たちは抵抗した。「大学生の自主性を無視し、インドネシア社会の持つ精神を尊重していない。頭というのは人体の中でもっとも神聖な部分なのであり、他人があれこれ指図する対象ではない。」というのが学生たちの見解だったのだ。
スビアントは反対運動の先頭に立った。かれは規則発効の前日、英語の詩を書いたビラを校内各所に回した。
We are not alone
There are thousand depending on us
People whom we will never seen
But what we do
Decide what they will be

日本人がかなりの数の散髪職人を校内に連れて来た。学生全員を丸刈りにするためだ。スビアントはそれを拒否し、かれの意気に従った学生8人もそれを拒否した。ダアン・ヤヒヤ、プティ・ムハルト、サニョト・サストロミハルジョ、ウタルヨ、スダルポ・サストロサトモ、スロト・クント、スジャッモコ、アブ・バカル・ルビスたちが、スビアントと共に捕らえられて西ガンビル通りの憲兵隊本部留置場に押し込まれた。
かれらは毎夜、拷問室から聞こえてくる悲鳴に悩まされた、とサニョトは回想している。口から流水を大量に腹の中に流し込まれ、そのあと腹を踏みつけにされる。かれらは全員が鉄格子の一室に詰め込まれ、横たわることができないため、みんなが壁にもたれて座って眠った。かれらはそこで、ヨハネス・レイマナ医師と知り合った。レイマナ医師はプルワカルタのオランダ宣教団の医者だったひとで、オランダ支持者の嫌疑で憲兵隊に囚われていたのだ。
スビアントはレイマナ医師を知ったことで医者になる情熱が掻き立てられたものの、その情熱は結局不完全燃焼に終わった。かれら9人はおよそひと月間、憲兵隊留置場でシンコンと水だけの毎日を送ってから裁判もなしに釈放された。散髪事件はそれで一応の決着を見た。

しかし日本側は決して丸刈り拒否学生を認めようとせず、ある日憲兵隊が大学に入って密かに教室の出入り口を固め、講義が終わって出てくる学生の中にいる髪を伸ばした者を捕らえて無理やり散髪させたという事件も起こっている。ところが、1943年12月に、また別の事件が新たに起こった。

軍事教練で医科大学生が隊列行進を行っているとき、強い雨が降って来た。学生たちはてんでに雨宿りの場所を求めて散り散りになる。それを見て日本人指導官が激怒した。そのときに起こったいくつかのシーンが語られている。ひとつは日本人が数人の学生を殴ったというものだが、別の話は殴ろうとした日本人の手をかわして学生の方が日本人を殴り、他の学生がそれに加勢したというもの。

ともあれこのころには、日本人が他人を殴る民族であるということはインドネシア人の間の常識になっており、おまけに理由も言わずに殴るということがインドネシア人には驚きだったようだ。オランダ人は相手が悪い点をくどくどと説明した上で殴るが、日本人はものも言わずにすぐ手をあげる、という比較論がインドネシア人の間に流通した。「自分のどこが悪かったのかを、自分で考えろ。反省しろ。」というのが日本文化の中の下位者に対する教導方法で、特に軍隊の中でそれが激しかったようだが、客観的に自分を見ることが文化の中にまだ成育していない民族にそんなロジックは通じなかったし、おまけに暴力が反省の契機に使われるのは西欧的文明観に反することでもある。
何も言わずに殴る、とインドネシア人は言ったが、少なくとも「バッキャロー」という怒声は伴われたにちがいない。おかげで「bakero」という単語がインドネシア語になった。もっと感情を込めて「bagero」と書く人もいる。

インドネシアの青年たちは、ふたたび卑賎扱いされたという感情を抱いた。日本軍政に対する反抗意識は、丸刈り拒否学生たちに特に強かった。だが、かれらが何らかの行動を起こす前に、憲兵隊がその事件に関わった学生たちを翌週ばらばらとまた留置場に放り込んだ。というのも、連合国側のラジオ放送がその事件を宣伝に使ったからだ。
「ジャカルタの学生たちが占領軍の支配に抵抗して立ち上がった。」というラジオニュースを傍受した日本軍は、連合軍諜報員が大学生を使って反日抵抗運動を展開しようとしている、と推測した。

憲兵隊留置場に放り込まれたのは、タジュルディン、エリ・スデウォ、カリムディン、スワンディ、プティ・ムハルト、スダルポ、スロト・クント、ダアン・ヤヒヤ、サニョト、スジャッモコ、ウタルヨ、スビアント、アブ・バカル・ルビスらの学生と、ウタマおよびスバンドリオというふたりの教官だった。
その決定的な事件のおかげで、医科大学は9人の問題学生を放校処分にした。かれらが医者になる道は閉ざされてしまったのである。スダルポ、スジャッモコ、サニョト、ダアン・ヤヒヤ、スロト・クント、プティ・ムハルト、ウタルヨ、スビアント、プルウォコの追放学生9人はそれぞれ新たな道を探るべく動きはじめた。

スダルポとスジャッモコは自力で医者になろうと考え、先輩たちに教えを請うた。ダアン・ヤヒヤとウタルヨは郷土防衛義勇軍PETAに入ろうとした。しかしPETAを指導する日本人がかれらの履歴を調べ、問題児の受け入れを拒否した。結局かれらはスカルノの助力を求め、スカルノが保証したことでPETAに入ることができた。

医科大学放校学生の9人はしばしばマルゴノ・ジョヨハディクスモの自宅のガレージで、同志として会合を持った。そこで話されたことは、やはり国家独立と民族の将来に関することがらが多かった。そしてかれらは国家独立構想の中に、大衆動員が必要であることに思い至った。民衆の中に国家独立の機運を盛り上げ、推進の一翼を担わせることはきわめて重要であるとの結論を出すまでに、長い議論は不要だった。
ついては民衆の中に核となる人間を育てていく必要がある。ところで民衆の大半はムスリムだ。国家独立の諸コンセプトを民衆レベルにおろしていくとき、イスラムのコンセプトと衝突するものがあっては問題のタネになる。その間の融合と調和をはかり、民衆の中に運動を広めていくために、自分たち自身がもっとイスラムを深めなければならない。こうして、スビアントとスロト・クントがイスラム大学に入ってラシディとモハンマッ・ナツィルという著名なイスラム宗教師から学ぶことになった。

1945年7月10日、イスラム大学学生役員会が誕生し、スビアントが会長になった。スロト・クントとバグジャ・ニティディウィルヤが副会長、シティ・ラフマ・ジャヤディニンラが書記役に就いた。
かれらはイスラム大学学生たちに、インドネシアが置かれている情勢、各戦線で起こっている戦争の進展状況、更には民族主義やヒロイズムを鼓吹するといった諸活動を行って同志を育成した。中でもスビアントの人格と見識は群を抜いていたようだ。かれは少年のころから、父親のマルゴノ・ジョヨハディクスモに連れられてヨーロッパの諸都市での暮らしを体験して来た。リーダーとしての素質に満ちていたということだろう。

スビアントと同志たちはクラマッラヤ通りの借家に住み、そこをムスリミン館と名付けた。医科大学学生寮はプラパタン通り10番地にあり、医科大学を追放された者たちと、追放されなかった同志たちが密接な連絡を取るようになる。
医科大学とは無関係に出来上がっていたAPI(インドネシア青年団)が、かれらの輪に接近して来るようになった。APIの理想も民族独立ではあるが、大衆動員という場で果たされるべき機能は、ムスリミン館のイスラムと民族主義を調和させたイデオロギーが最適であることを理解したため、種々の行動に関連してムスリミン館に頻繁に参加要請が届くようになった。
ムスリミン館では独立後にGPII(インドネシアイスラム青年運動)が1945年10月2日を期して発足し、国家建設に意欲を燃やすイスラム基盤の民族主義が高まって行く。

< 1945年8月15日 >
1945年8月15日午後、ハッタの自宅をふたりの青年が訪れた。ひとりはハッタの親友マルゴノ・ジョヨハディクスモの息子スビアント、もうひとりはスバディオだ。ふたりは熱を帯びた口調で「ニッポンが降伏した」と語り、PPKIによる独立宣言は絶対にやめてほしい、と懇請した。PPKIが日本軍政の制作物であることを知らない者はいない。しかし、なぜ?

ふたりの青年は言う。「スカルノが民族指導者として、民族を代表する立場で独立を宣言しなければならない。日本が作ったPPKIでなく、スカルノという人間がそれを行わなければならないのだ。ラジオのマイクに向かって、全世界にそれを明確に示すのだ。」
ハッタが言う。「寺内大将を通して日本はインドネシアの独立を認めた。その実行は明日午前10時にプジャンボンの中央参議院で開かれるPPKI会議の中で討議されることになっている。」
ふたりの青年は色めき立った。「それは阻止しなきゃいけない!」スビアントが声を荒げた。

ハッタは感情を抑制した沈着な姿勢を崩さずに続ける。「PPKIが権利を持っている行動を、その統率者が個人の業績にすり替えるようなことを、スカルノがするはずがない。かれ自身の口からそのことは聞かされているし、それにスカルノが民衆を代表して宣言しようが、PPKIを代表して宣言しようが、何も違いはない。最初からスカルノは対日協力者として活動を始めたのであって、オランダがスカルノを犯罪者と決めつけることに変わりはないのだ。」

双方はおよそ半時間、激論を戦わせた。二青年は革命的な姿勢でこの問題に臨み、ハッタは持前の合理主義から言葉を尽くして無駄な動きを抑制するよう青年に説いた。結局、その会見は喧嘩別れに終わった。スビアントは帰り際に叫んだ。「今や革命の時至ったというのに、われわれはハッタさんと肩を組むことができない。ブンハッタは革命家ではなかったのだ。」
ハッタは口元に笑みを浮かべてそれに応じた。「わたしが革命を望んでいないなどと誰が言えよう。ただし革命のためには組織をまず整備するのが先決だ。君たちがしていることは革命なんかでなく、ただのプッチ(一揆)に過ぎない。1932年にミュンヘンでヒトラーがそれをやって失敗している。」
スバディオとスビアントはますます怒りを燃え上がらせ、「ブンハッタに革命の指揮を期待したのは、われわれのメガネ違いだったのだ。」と言い残して去った。


その日、大日本帝国が連合国に降伏したことは、ジャカルタにいる日本人のすべてが口を閉ざしていたにもかかわらず、ジャカルタの全住民の間で囁き交わされていた。
その日の情景を記した当時の記事は、次のように物語っている。

2605年8月15日、ジャカルタ全市は午前10時から午後4時ごろまで、まったくの停電になった。電車・ラジオ・病院の医療機器に至るまで、電気で動くものはすべて停止した。
すべての住民が、得られない答えを求めて質問を胸に秘め、互いに顔を見かわし、その表情をのぞき込むばかりだった。

まるで1942年3月5日のできごとを思い出させるかのように、最初は囁き声でニュースが口伝され、徐々に声は大きくなり、また伝達範囲も拡大して行った。最終的に、ジャカルタ全域ですべての者が知った。あるいはジャワ島で、更には全インドネシアでもそうなったのではあるまいか?

「ニ ッ ポ ン   降 伏」

まるで、一瞬歴史が停止したかのようだった。市内の道路は閑散としている。ひとの見解や思考が一斉にひっくり返った。ニッポンの敗北は既に予期され、確信されていたにもかかわらず、それが実現したとき、その事態にしっくりなじめず、信じられない思いを抱くひとも少なくなかった。

こうなった今、独立インドネシアの案件はどうなるのか?インドネシアという国はどんな運命をたどることになるのか?われわれはまるで品物のように、この世界の帝国からわれらの国に権利を持つ別の王国に譲渡されるようになるのだろうか?われわれは支配権者の交代と共に、ある者の手から別の者の手に、まるで何もなかったかのように移されるだけなのだろうか?
そうならないためには、自己をわきまえた一国家一民族として、自分の運命を自らの手で決め、自己を守る勇気と能力がわれわれになければならないが、われわれにそれがあるだろうか?JPクーンからチャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタショウェルまでの350年間歩んで来た歴史の中にわれわれはまた戻って行くのだろうか?1942年3月9日(全インドネシアが東インド植民地政庁から決別したのがその日)に一度閉ざされた歴史を再開させようというのだろうか?・・・


その日夕方、断食月のブカプアサを終えた青年たちがプガンサアンティムル通り17番地の細菌学研究所の裏にあるヒマ畑で会合を持った。ハエルル・サレ、ダルウィス、ジョハル・ヌル、スバディオ、スビアント、マルゴノ、アフマッ・アイディル、スニョト、アブ・バカル・ルビス、エリ・スデウォ、ワヒディン、カルムディン、スロト・クント、パルジョヨたちだ。ウィカナとアルマンシャが遅れて来た。
議長役のハエルル・サレはこの事態の変化に対処する道を探っていた。日本の降伏という噂が飛び交っているいま、自分たちは何をなすべきなのか、ということだ。そして自分たちがたてる計画にスカルノとハッタを巻き込むにはどうすればよいのだろううか?

一同は議論の末に結論を出した。インドネシアの独立はインドネシア人民の問題であり且つ権利であるため、外国や現在の支配機構がそこに関与してはならない。実力・本質・歴史のいずれから見てもインドネシア民族は既に独立の能力を持っており、そして今やそのときが来たのである。だからインドネシア民族は他民族とまったく無関係に独立宣言を行わなければならない。

こうしてかれらは、スカルノとハッタに対する姿勢を定めた。「スカルノとハッタは日本とまったく無関係に独立を宣言しなければならない。日本との間に結んだあらゆる約束事はすべてご破算にし、インドネシア人民の代表者としてかれらに独立宣言を早急に行わせること。そのためにわれわれは、かれらふたりと最終交渉を行う。われわれのこの決議をかれらふたりに伝えるため、ウィカナとダルウィスがふたりに面会する。」
ウィカナとダルウィスがスカルノ宅に向かう前、一同はふたりに再確認した。「日本が連合国に降伏した以上、われわれはスカルノがインドネシアの独立を宣言することを強く望んでいる。」
ふたりが出発すると、ハエルル・サレもメンテンラヤ通り31番地に徒歩で向かった。そこにはスカルニやPETA将校たちがいる。かれは同志たちに状況を伝えてから、ウィカナとダルウィスが吉報を持ち帰るのを待つためにチキニラヤ通り71番地の大学生寮に向った。かれらはそこで落合うことにしてあったのだ。


ハエルル・サレは1916年にサワルントで、父親が医者の家庭で生まれた。メダンとブキッティンギで学校を終え、1934年にバタヴィアへ上京して法科大学で学んだ。1937年にPPI(インドネシア学生同盟)の設立に加わり、大東亜戦争勃発前に当時もっともラディカルな組織と評されたPPIのリーダーを務めた。日本軍政下にかれは宣伝部に職を得、同時にインドネシア青年協議団を統率した。


プガンサアンティムル56番地に向かうウィカナとダルウィスに何人もの青年が付き添った。スカルノは表のテラスに出て、訪れた青年たちを応接した。ウィカナがハエルル・サレのメッセージを伝えると、スカルノは暫時沈黙してから緩やかに語り始めた。
「統率者というのは千の目と千の耳を持っているのだ。君たちが一連の秘密討議を行ってきたことは知っている。君たちがひとつの合図で諸方に迅速に伝わる連絡網を作っていることも知っている。君たちはみんなミステリアスな姿をし、名前を三つも四つも持ち、われわれの祖国に関する高次元の決定を、動物園の裏の畑や医学研究所の狭い通路の中や自転車の上で合議してきたことも、わたしの目に映っている。しかし、君たちには結束がない。君たちの間には大同団結がないのだ。左翼グループがおり、シャフリルのグループがいて、インテリグループはまた別にいる。みんなが、他のグループとは無関係に自分だけの決定を携えている。憲兵隊を怖れて、君たちは毎晩寝場所を変えている。連絡員は一生懸命自転車を漕いで、緊急指令を届けるために街中を回遊している。しかし、それはいったい誰の指令なのか?
もちろんわたしは青年層の支援を必要としている。青年層はわたしが独立の鐘を鳴らすときの重要なパワーとなるのだから。だがわたしは、早まった動きを起こさないよう、かれらを抑えなければならない。わたしにとっての問題は、君たちが良識に即した答えを生み出すための時間を持とうとしないことだ。」

スカルノが言う通り、青年たちはグループごとに別れて互いに競争し合い、ひとつにまとまって大きな力を示そうとはせず、反対に互いを相殺し合うような動きを繰り広げていた。小成に安んじてそれぞれがお山の大将になりたがる性癖はなかなか変化しないようだ。


当時、青年グループは大別して四つに割れていた。ひとつはスカルニグループだ。オランダ時代は青年インドネシアの本部役員のひとりで、かれはアダム・マリッ、アブドゥル・ムルッ、クスナエニ、アルムナント、パンドゥ・カルタウィグナ、マルト、シャムスディン・チャンたちと共に働いた。日本軍政下では宣伝部で働いたが、方針に反対したために45年7月に解雇されている。

次のグループはシャフリルグループだ。既に触れたように、オランダ植民地時代に政治犯として流刑されていたかれは、地下民族運動に進む。反ファシズム・反軍国主義のかれは他のグループから連合国寄りと見られた。このグループには、スダルソノ、ハムダニ、スバディオ・サストロサトモ、スビアント・ジョヨハディクスモ、カルタムハリ、デス・アルウィたちが属している。

三つめは学生生徒グループだが、これは固定的な組織でなく、時に応じて集まりまた散るというフレキシブルな集団だ。かれらを組織化しようとすれば、かえって反発を受けただろう。この怒れる若者たちは、独立闘争で膠着状態に陥ったとき、壁を蹴破るためにしばしば利用された。ハエルル・サレ、ジョハル・ヌル、ダルウィス、クスナンダル、エリ・スデウォ、シャリフ・タイェブ、スヨノ・マルトスウォヨ、ソフワン、ラトゥラギらがこのカテゴリーに入る。かれらはプラパタン10番地とチキニ71番地の学生寮を根拠地にした。

四つめが海軍グループと呼ばれる者たちだ。インドネシア独立に関する姿勢が日本の陸軍と海軍で違っていた。インドネシア人は海軍の方がはるかに同情的だったと見ている。スラバヤ駐留第二南遣艦隊司令長官柴田中将がジャカルタ海軍武官府前田少将と話し合ったあと、両者はインドネシアの独立が必然であるという結論に達し、両者はいずれもがインドネシア独立のために働くインドネシア人に支援を惜しまなかった。ひとりは独立宣言文起草の場で、もうひとりはスラバヤにある海軍兵器庫の中身をスラバヤ市民に与えるという行為を通じて。後にイギリス進駐軍がスラバヤに上陸してから起こったスラバヤの戦闘で、インドネシア兵士と民兵が完全装備のイギリス軍の攻撃を受けて立てたのは、ひとえに旧日本海軍の武器兵器のおかげと言うしかあるまい。
この海軍グループに属す青年たちは、アフマッ・スバルジョ、スディロ、ウィカナ、ハイルディン、ジョヨプラノトたちだ。


スカルノ宅では、青年たちとスカルノの間で激論が戦わされている。だが青年たちの性急さは、時間が思考を熟成させるということに意を払わない。かれらは自分たちの意見が正しいと信じ、それをスカルノとハッタに理解させ、ふたりが自分たちの言うように動いてくれることを一途に願っているのだ。
日本人たちは今、状況の変化に困惑しており、かれらが次の対処法を決めるまでの間に権力を奪取しなければならない。日本人がわれわれを制圧しにかかるか、それとも野放しにして勢いをつけさせるか、それが決まったあとでは、われわれはもう自由に動けない。重要なのは日本が敗戦したということであり、かれらの意表を衝いてわれわれが行動を起こせば、事態はわれわれに有利に展開する。このチャンスは長続きしない、と青年たちは熱弁を振るう。

「よし。」とスカルノは言った。
「君たちは青年のパワーがあるといつも言う。だったら、今それを証明してごらん。君たちのパワーなど、わたしは信用したことがない。」
青年たちは口々に叫ぶ。「祖国のために身命をなげうつ覚悟はできている。」
スカルノは苦い顔で続ける。
「そんなことは知っている。だがこんな人数で大勢の日本兵とどうやって渡り合うのか?さあ、君たちはわたしに何を見せてくれる?君たちが言うパワーの証拠をわたしに示してくれ。女子供をどのように保護するのか、その計画はどうなっている?独立宣言をしたあと、国家防衛の方策はどうなっている?日本や連合国に助けてもらうことなどできないのだぞ。われわれは自分たちの戦力で国を維持しなければならないのだ。
よしんば、ジャカルタで君たちが言う革命の火を燃え上がらせたとしよう。ジャカルタ以外の場所、ジャカルタから遠い僻地はどうなるのか?君たちは答えを持っていない。そうじゃないのか?それどころか、君たちの誰一人として、そこまで考えた者はいないのじゃないか?わたしの想像ははずれたかな?
わたしの話を聞いてもらおう。わたしはあらゆるフェーズで起こるすべての可能性を検討した。そうやって方針を決めれば、想定外の劣悪な結果は避けられる。細かい点まで検討を加えず、機も熟していないときに性急に起こした叛乱がもたらす結末が往々にして最悪のものになることを歴史が示している。オランダ植民地主義に対する反抗はクーデターではないのだ。国家元首を宮殿から追い出せばすむことではない。そんなことよりはるかに重く困難な仕事なのだ。インドネシアというのは、総督宮殿地区やジャカルタ全域など比べものにならないくらい広大だ。そのことが分かっているのか?
君たちは、こんな事態になったとき、われわれが何をどう行っていくかという計画をわたしが何も用意していなかったと思っているのか?ともあれ、わたしの策は君たちとはちがう。全国各地がそれぞれ同時に、一斉に独立宣言を行うこと。全民衆に向けて決起を呼びかける演説を行うこと。革命はそのあとだ。
君たちが大衆動員のためのシンボルを必要としていることをわたしは知っている。それには、大衆動員の体制を作り上げ、そしてかれらを立ち上がるように方向付けるプロセスが要る。そうすれば、草の根レベルで独立の機運が燎原の火のごとく燃え上がる。全国でその体制が整ったときこそ、最初の銃声が鳴り響くときだ。そうすることで革命の声が草の根に満ちる。しかし今現在、その構想を知っている者は全土にひとりもおらず、ひとりもその用意ができておらず、わたしの命令を聞いた者もひとりとしていない。
日本はインドネシアを独立させることを決めた。明日PPKIはそれに関する議事を行い、独立宣言実施の詳細を決め、そのあと、既に内容が定まっている憲法を発布し、各地方首長の選出などが話し合われることになる。」

だが青年たちはスカルノの考えを受け入れようとしない。日本が設けたインドネシアの独立など論外であり、インドネシア民族がインドネシアの独立を勝ち取るという形を国内外に示すことが、かれらにとっての最重要課題になっていた。そのためには、今夜、今直ぐにでも、スカルノが全国民を代表する民族指導者として独立宣言を行うことが、絶対条件になっている。

そんな激論が戦わされているとき、ハッタがスカルノ宅に飛び込んで来た。ハッタを連れて来たのはアフマッ・スバルジョだ。
その夜、ハッタが自宅で翌日開かれるPPKI会議の準備をしているとき、21時半ごろ、アフマッ・スバルジョが緊張した面持ちでハッタ宅にやってきた。スカルノの家に青年たちが押し掛け、スカルノに今直ぐ独立宣言をせよと迫っている、とスバルジョが告げる。顔色を変えたハッタは急いで外出の支度をし、スバルジョの車に乗った。スカルノ宅に着いたのは22時ごろだった。

雰囲気が険悪化しているのを見て取ったハッタとスバルジョはスカルノを家の中に誘い、その場の収拾策を話し合った。青年たちが折れようとせず、あくまでもかれらの主張を続けるのであれば、かれらが別の人間を押し立て、その者に独立宣言をさせれば良い。われわれはわれわれの方針を貫くだけだ。それを結論として、スカルノは再びテラスに出て青年たちに相対した。

スカルノが独立宣言を行うという一念でやってきた青年たちは、突然全身に水を浴びせかけられたように感じた。もはや、話合いの余地もなく、打つ手もない。青年たちは仕方なくスカルノ宅から引き上げた。ハッタもスバルジョの車で帰宅した。


スバルジョは思いがけなく、スカルノ宅にいる青年たちの中にウィカナの姿を見出して驚いた。ただしスバルジョは、かれをラデン・スノトという名前だと思っている。

ウィカナはドゥマッの貴族の家に生れ、その後一家はスムダンに移り住んだ。ウィカナはスカルノ本人がバンドン時代に指導育成した少年たちのひとりだったのである。グリンド青年組織が作られたとき、ウィカナがそのリーダーに推挙された。オランダ植民地支配下でウィカナは左翼活動家として名を知られ、かれを追いかけまわしていたオランダ秘密警察の尾行をかわす巧者でもあった。

海軍武官府でスバルジョが部下として使っているラデン・スノトに「ここで何をしているのか?」と問うと、「わたしは青年層を代表して来ました。」という言葉が返って来た。スバルジョは、オランダ秘密警察にマークされていた左翼活動家のウィカナがかれの前歴だったことは知らなかった。日本軍憲兵隊はオランダ秘密警察のターゲット者名簿を手に入れているはずだから、かれが日本軍政下にその名前で表通りを歩けるわけがない。そんなウィカナがどうやって海軍武官府に就職できたのか、スバルジョには謎ばかりだった。

海軍武官府の前田精少将がインドネシアの青年を教育するために設けた独立養成塾の管理責任者としてスバルジョはスノトを指名した。前田少将はスバルジョに独立養成塾の教科内容を作成するよう命じ、塾生の選抜や教官の選定などを自由に行わせた。インドネシア人がAsrama Indonesia Merdekaと呼んだこの海軍独立養成塾は陸軍が作ったPETAと対をなすものと見られているが、海軍独立養成塾には軍隊色があまり強くなく、そこでは大業をなすために人間が持たなければならない諸ファクターを身に着けさせることが主眼に置かれていたようだ。それは大東亜共栄圏を強固にする礎石となりうるし、インドネシアの独立を確固たるものにする礎石ともなりうる。この塾で育った者は後の対オランダ独立闘争で、ゲリラ戦の雄として活躍した者が多かったという。

独立後、ウィカナは共和国政府の青年スポーツ大臣を務めたことがあり、1965年に第一回PON(国民スポーツ祭典)をソロで開催した。G30Sが勃発したとき、かれは数人のPKI(インドネシア共産党)指導者と共に中国の国家祭典に招かれて北京にいたが、帰国を嫌がるPKI指導者たちを残して、かれは式典が終わるとジャカルタに戻り、しばらくしてから首都第5軍管区司令部で取調べを受けた。取調べは一日で終わり、翌日マトラマンの自宅に戻った。ところがその数日後に正体不明の者たちに拉致され、それ以来まったく消息を断った。かれの身に何が起こったのか、遺体がどこに埋められたのか、手がかりはいまだに何もない。

< 1945年8月16日 >
ウィカナとダルウィスがチキニラヤ通り71番地の学生寮に来た。スカルノとの話し合いの結果を報告するためだ。既に時計の針は0時を超えていた。もう8月16日になっている。寮の裏手にある部屋には、ハエルル・サレ、スカルニ、バリサンプロポル隊長のDr.ムワルディ、ジョハル・ヌル、ユスフ・クント、シンギPETA小団長、スビアント、スバディオたちが待ち構えていた。
ウィカナとダルウィスはスカルノ宅で行われたことを詳細に報告した。スカルノもハッタも、どう威し透かしても、われわれの意見を尊重しようとはしない。話は決裂し、最後は冷たく追い返されてしまった。
善後策をどうするのか?議論は熱を帯びた。さまざまな意見が飛び交い、なかなか結論が定まらない。そのときジョハル・ヌルがつぶやいた。「ふたりを運び出してしまおう。」

集まった者たちの間でその意見が審議された。今やかれらには、PPKIによる独立宣言の動きを阻止することが目標となっており、そのための戦術として8月16日のPPKI会議に議長副議長が出席できないようにすることは考慮するにたるアイデアと思われた。

同時に、かれらはジャカルタでの蜂起を計画していた。支配者から権力を奪取すること。その手始めに、日本軍を武装解除して武器兵器を手に入れる。日本軍が敗戦で呆然自失になっている今がそのチャンスであり、オランダ人が日本人に現状凍結を命じ、日本軍がインドネシア人の新しい動きを封じるためにインドネシア人に向って制圧の動きを始めれば、困難な事態に陥っていくにちがいない。民衆蜂起のために大衆動員をかけるとき、スカルノとハッタは敵に拉致されて取引の道具に使われるか、あるいはその身体生命に危険が及ぶ可能性が高い。そのためにも「ふたりを運び出してしまう」ことは良策だと思われた。

かれらは結論を出した。インドネシア独立の動きを緩めてはならない。インドネシア国家の独立は、インドネシア民族の力で達成されなければならない。日本からのプレゼントにしてはならないのだ。PPKIの動きを封じるために、スカルノとハッタをジャカルタの外へ連れ出し、PPKIとの関係を絶った形で独立宣言の内容を検討する。ふたりを連れ出す先はPETAが掌握しているジャカルタに近い土地であり、PETAが警護の任に就き、不測の事態が起これば防衛の任に当たる。
そうすることで、スカルノとハッタは独立を求めるインドネシア民衆のパワーを実感し、独立宣言が急を要することに同意し、急転直下の動きを開始するにちがいない。


1943年10月3日、地元民族だけによる軍事組織編制を命じる治政令第44号が布告され、ジャワ島にPETA(Tentara Sukarela Pembela Tanah Air = 郷土防衛義勇軍)が発足した。PETAは地域を踏まえた軍隊構成を成し、大団から中団・小団・分団という階層構造で構成された。一大団は5百名程度の規模で、1943年末には35大団ができ、44年8月には20大団、さらに同年11月には11大団が追加されて、大東亜戦争終結時には、66大団、兵員総数約3万6千人のインドネシア民族軍が生れていた。

PPOPKIが発足したとき、ジャカルタ防衛義勇軍指導部参謀将校のラデン・ハジ・アブドゥル・カディルがPETAの代表としてメンバーのひとりになった。バニュマス生れのかれの父親はオランダ植民地政庁官立病院の医師としてメダンで勤務していたため、ジャワ人のアブドゥル・カディルはメダンに近いビンジャイで1906年に生まれた。かれは植民地官吏養成学校OSVIAを1927年に優秀な成績で卒業し、チプタッの副ウェダナとして植民地官僚の道を歩み始める。1937年にはアラビア半島のジェッダにあるオランダ王国領事館の書記として赴任し、一年後にオランダ本国のレイデン大学へイスラム教とアラビア語を深めるために留学を命じられた。学業を終えたかれはメッカに向い、在メッカオランダ王国領事館で副領事として勤務した。1941年にかれはバタヴィアに戻る。それからほどなく日本軍がジャワ島へ進攻し、上司がオランダ人から日本人に代わった。かれは行政管理畑を歩み続け、バタヴィアがジャカルタと名を変えてからも、ジャカルタ特別市長府で日本人の政務を補佐した。
その後PETAが誕生し、かれはボゴールのジャワ防衛義勇軍幹部練成隊に参加する。厳しい訓練を終えたあとPETA上層部の人選をパスしたかれは、ジャワ島各地に設けられる大団のひとつゴンボンの大団長に指名された。二年間の大団長任務を終えた後、かれはジャカルタのPETA中央本部に移されて防衛義勇軍指導部参謀を務めているときにPPOPKIメンバーに推挙されたのである。
独立後もかれは軍籍を続け、少将の位階で西ジャワ州東部第2師団司令官を務めている。


さて、1945年8月16日0時半ごろのチキニラヤ通り71番地では、ハエルル・サレがまとめた結論をシンギPETA小団長が快諾した。PETAの将兵が軍事作戦としてスカルノとハッタをジャカルタの近郊に送り出して保護する。この作戦実施中はスカルニ君がわれわれに随行し、諸君との連絡係を務めてもらいたい。行き先は次のようなファクターを持つクラワンのレンガスデンクロックにしたい。

1.北はジャワ海に面しており、陸地側から攻撃を受けた場合は海に逃げることができる。
2.東はプルワカルタ大団、南はクドゥングデ部隊、西はブカシ部隊がいるので、レンガスデンクロックに向かう敵に対する防衛線をすぐに張ることができる。
3.レンガスデンクロックにはわたしの親友であるウマル・バッサン小団長がおり、かれは生粋の地元民だ。

レンガスデンクロックはおよそ80kmの距離にあり、ジャカルタからあまり離れておらず、またサプマスと名付けられた日本ファシズムに抵抗する運動の根拠地でもあった。つまり、ウマル・バッサンPETA小団長は秘密裡に抗日運動サプマスのリーダーでもあったということだ。

シンギ小団長はすぐに連絡員をジャガモニェッのPETAジャカルタ大団本部に派遣した。ハムダニ兵器小団長が週番士官として夜勤に就いている。シンギ小団長は連絡員に対して、ハムダニ小団長に緊急行動を起こすよう要請させた。レンガスデンクロックに向かうスカルノとハッタを護衛するために、種々の手配が必要になる。
衛生中団長のスチプト医師が医薬品等の準備を始める。ハムダニ小団長は車両と武器の手配を行い、スカルノとハッタの護送手配はストリスノ小団長が受け持った。

午前2時、パワーワゴン2台が兵営を滑り出た。護送部隊はヴィッカース拳銃2個、弾丸60個、日本刀2本、歩兵銃5本、銃剣5本、緑色のPETA制服5着、手りゅう弾6個を用意している。2台の車両はまず指定されたジャティヌガラ地区のチピナン刑務所沿いの街道へ向かう。

PETA内部では、スカルノの連れ出しは誘拐でなく作戦行動であるとされた。作戦目標はPPKI会議を阻止することであり、これはそのための戦略行動だというロジックだ。一方、革命を画策している青年たちの中に、これはスカルノとハッタの誘拐作戦だと認識している者がいなかったわけではない。その本質が何だったのかは、後世の歴史家が決めることかもしれない。


シンギ小団長はチピナン刑務所沿いの道路脇に来ている2台の車両と打ち合わせを済ませると、またチキニラヤ通り71番地に戻ってきて、スカルノとハッタを迎えに行く時間を待った。

ハエルル・サレとウィカナたちはジャカルタ蜂起の手筈を整える使命を負って、青年層を糾合すべくジャカルタの街中へ消えた。そのとき、ハエルル・サレは友人のウィノト・ダヌアスモロの家を訪れて乗用車を借りると、チキニラヤ通り71番地に戻った。

午前3時半ごろ、チキニラヤ通り71番地の表に停めてあった二台の乗用車が動き出した。一台はハエルル・サレとムワルディが乗ってスカルノ宅に向かい、もう一台はスカルニとシンギ小団長が乗ってミヤコ通りにあるハッタ宅を目指した。


バリサンプロポル隊長のDr.ムワルディはそのタイトル通りの医師免許を持っている。1907年に中部ジャワのパティで生まれたムワルディは1936年にSTOVIAを卒業して医師免許を得た。かれは早くから民族主義に目覚め、18歳ですでにヨンヤファのバタヴィア支部長に就いていた。19歳のときには、KBI(インドネシア民族スカウト)のリーダーに選ばれた。成人してからはパリンドラでスポーツ分野の活動を率いた。というのも、かれはプンチャッシラッの達人であったからだ。スカルノとハッタを警護するプリブミ組織バリサンプロポルの隊長に推されたのも、それが大きい理由になっていた。


スカルノは自宅で、眠れない夜を過ごしていた。ひとが寝静まった邸内で、かれはひとり、食堂のテーブルに座っていた。そのとき、武装してPETAの制服に身を包んだ一群の若者が闖入して来た。ハエルル・サレがスカルノに説明する。
「オランダ人と日本人がインドネシア人の新しい動きを抑え込むために制圧行動を始めようとしている。この緊急事態に対処するために、ブンカルノとブンハッタはジャカルタを離れてほしい。それ以外に事態を克服する手段はわれわれにない。どうか今直ぐ、われわれと一緒に出発してほしい。」

スカルノは納得したようだった。かれは妻のファッマワティを起こし、まだ生後9ヵ月のグントゥルを連れて三人で郊外へ行く準備をするよう命じた。ファッマワティは一言も質問を発せずに手早く出かける用意を始めた。

最初はこれ見よがしに武器をふりまわす青年たちにムッとし、持前の反発心から抗議とも説諭ともつかないスピーチをしていたスカルノだったが、既に蜂起の計画が動き出していることを知って、議論をやめた。かれが青年たちにおとなしく従ったのは、青年たちが振り回す武器を怖れてのものではない。
「青年たちはみんな、わたしの知っている人間であり、中にはわたしの友人の息子もいる。かれらにわたしを殺したり、傷つけたりする気がまったくないことはわかっていた。だからわたしは誘拐されたのでなく、かれらに同行しただけだったのだ。」とスカルノは後に語っている。
「夜中に民間人が車に乗っていると日本人は発砲してくるから、PETAの制服を着てください。」
「妻も着るのか?」
「心配いりません。PETA所属者は家族を連れて移動することがありますから。」


ハッタ宅では、断食月の夜中の食事サウルが食されているとき、スカルニと仲間の青年たちが屋内に入った。サウルを終えてハッタがかれらに対面すると、スカルニは説明した。「スカルノは依然として青年層の組んだ計画に加わろうとしない。しかし緊急事態はもう目の前に来ている。8月16日正午を期して、1万5千人の群衆がジャカルタを襲う。学生たちやPETAもそれに加わって、日本軍を武装解除するのだ。われわれはブンハッタをブンカルノと一緒にレンガスデンクロックに護送し、その地でインドネシア共和国の形成をはじめるようにしたい。」

ハッタは「またか?」という顔で青年たちを諫めた。ジャカルタで事を起こして、たとえそれが成功したとしても、そんな勝利は一時的なものでしかない。ジャワ島内の日本軍は健在なのである。君たちの計画は空想の楼閣でしかなく、短時日のうちに厳しい現実に直面することになる。君たちの計画は革命でなくて一揆なのであり、結局は君たちが望む革命をその一揆が崩壊させていくことになる。
しかしスカルニは議論を避けた。「われわれはわれわれの計画を推進していく。ブンハッタは要するに、われわれと一緒にレンガスデンクロックに行くのだ。」

この跳ね上がり青年層はわれわれが計画して来た国家独立と政権移譲のプロセスをぶち壊そうとしている、という無念さがハッタの腹を熱くした。だが既に大衆による蜂起が動き始めた以上、それを押しとどめる手段はもうない、ともかれは感じた。こうなってしまったからには、青年たちの計画に乘るしかない。ハッタはジャカルタを離れる用意を始めた。


ハッタがスカルニらとスカルノ宅に着いたとき、スカルノは妻子と共に出発する準備を終えて待っていた。スカルノは妻のファッマワティとまだ9ヵ月の長男グントゥルを連れて一台の車に乗り、ハッタはスカルニとユスフ・クントおよびシンギ小団長と一緒にもう一台の車に乗った。PETAの兵士が一行を護衛し、コンボイはスピードを上げて夜闇の下に静まるジャカルタと西ジャワの境界線を越えた。

ハエルル・サレは一行を見送ってからチキニラヤ通り71番地に戻り、ブンカルノとブンハッタをレンガスデンクロックに向けて送り出したことを同志たちに報告した。集まっていた面々はすぐに解散し、捜索の手が伸びるのを怖れて、それぞれが独自に用意してあった隠れ場所に向って散った。ハエルル・サレは再び蜂起の準備を強化するため、夜明け前のジャカルタの街に消えた。


スカルノとハッタを運ぶコンボイはジャカルタを離れてかなり進んでから、日本人の目の届かない寂れた場所でPETAジャカルタ大団のパワーワゴンと落ち合い、一行はそのトラックに乗り移った。ファッマワティはグントゥルを抱いて運転席の隣に座り、スカルノとハッタは荷台にしゃがんだ。PETA兵士がおよそ20人、荷台に乗っている。
スカルニが話しかけた。「乗用車で走ればひとの注意を引くが、このトラックで走れば軍隊の移動だとみんな思う。たとえ日本兵が不審を抱いてストップをかけても、警備地点への移動だと説明すればそれ以上問うことはないだろう。」

「だったら、最初からこの車を使えばよかったのではないか?」スカルノが言うとスカルニは答えた。「軍の車両をメンテン地区に持ち込めば、たくさんの不審の目がきらめく。ましてやブンカルノの家の表に止まったら、だれが何を考えるか知れやしない。われわれの行動は日本人の目からまったく隠しておかなければならないのであり、そのためにわれわれはきわめて慎重に事を運んでいる。日本軍が間もなく民族指導者を拘留するために動き出すという情報が既に得られているのだから。」

トラックの荷台に乗っているPETA兵士たちは完全武装し、その中には腕よりの狙撃兵が数名選抜されて加わっていた。衛生中団長のスチプト医師もそこに混じっていた。万が一、戦闘が起これば、衛生兵がいるといないでは大違いになる。
スカルニの同行をシンギ小団長が求めたのは、道中および地元の過激青年層との仲介能力を期待したという要因もあったにちがいない。軍人ばかりでは、思わぬ誤解から衝突が起こらないとも限らない。医科大学出身の活動家たちよりはスカルニのほうが草の根の人情の機微に明るいとシンギ小団長が考えたのも一理ある。


スカルニ・カルトディウィルヨは1916年に東ジャワのブリタルで生まれた。ワロッポノロゴの子孫だったそうだ。スカルニは時々海軍武官府にウィカナを訪れたので、アフマッ・スバルジョとも面識を持った。30歳くらいで、がっしりした体躯をし、イケメンで長髪だった、とスバルジョは回想している。警戒心が強そうだがネガティブな性格ではなく、そして弱者を守ろうとする正義感が見受けられたとスバルジョはスカルニの印象を書き遺している。
スカルニも意志の強い活動家で、オランダ時代に青年インドネシアの活動に関連して秘密警察のターゲットになっていたが、かれも尾行をまく名人だったそうだ。オランダ時代には測量局で働いたこともあるが、反オランダ活動に連座して捕らえられ、解雇された。日本軍政が始まると、かれは抗日地下運動に入った。


午前7時半、パワーワゴンはレンガスデンクロックに到着した。シンギ小団長がウマル・バッサン小団長を探したところ、バッサン小団長は訓令を受けるためにプルワカルタ大団に出張していることが明らかになった。留守役のアファン小団長にシンギ小団長は告げた。「ジャカルタは動き出したぞ。」

そのころジャカルタでは、スカルノとハッタが姿を消したことが発覚していた。それが誘拐なのか逃亡なのか、更にふたりの失踪にPETAがからんでいたことすら、ジャカルタにいる人間は日本人ばかりかインドネシア人もだれひとり知らなかった。


レンガスデンクロックでは、スカルノ一行は中団本部に案内されてウマル・バッサン小団長の帰還を待ち、バッサン小団長が戻ったところで挨拶を済ませると、一行は本部内の宿舎に案内されて休息した。

休息のあとスカルノとハッタは中団本部講堂に案内され、待ち構えているバッサン小団長、シンギ小団長、スカルニ、ユスフ・クント、スチプト医師、その他PETA将校たちと対面した。
スカルニはこれまでの経緯をその場で全員に報告し、スカルノが独立宣言を行ってくれないため、ここまで連れて来たと語った。そこには、全員からの無言の圧力がふたりに向けられていることをスカルノもハッタも敏感に感じ取っていたが、ふたりともこのような状況下でかれらの要求に従う気はない。スカルノもハッタも沈黙を続けた。

スカルニは再び事態が袋小路に陥ったことを感じ、ユスフ・クントをジャカルタへ戻らせて同志たちから指示を仰ぐことにした。ところがユスフ・クントがジャカルタへ戻って見ると、同志たちは全員が姿を隠しており、ひとりも見付けることができない。かれは結局、海軍武官府へ行って、アフマッ・スバルジョに会った。


レンガスデンクロックはサプマスの根拠地であり、ウマル・バッサン小団長がそれを統率していた。日本軍政はこの町の内情を知らず、警戒対象から完全に除外していた。シンギ小団長や青年層がスカルノとハッタの移送先をその町と定めたのは、そういう背景があったためにちがいない。
日本軍政に対する権力奪取がジャカルタで開始されたという知らせに、バッサン小団長の心は躍った。スカルノ一行が休息のために去ったあと、かれは部下に命じた。「ニッポンの旗を焼け。日の丸だ。」
PETA中団本部に翻っていた旗が降ろされ、全員が集まったところでバッサン小団長がスピーチし、焼却が行われたあと日章旗のあった場所に紅白旗が掲揚された。全員が紅白旗に向ってインドネシアラヤを斉唱した。
続いてかれはハディプラノト村長をレンガスデンクロック郡長に昇格させ、日本軍政の統治下から独立した最初のインドネシア共和国領土である、と言明した。それまでの郡長は親日であるという理由で拘留された。

地方行政区分について日本軍政は、オランダ植民地政庁が行っていたものを名称を日本語に変えてそのまま引き継いだ。その対照表を下記しておく。
Karesidenan = 州
Kotapraja = 市
Kabupaten = 県
Kawedanan = 郡
Kecamatan = 村
Desa = 区

たまたまその日、プルワカルタの州長官が県令を従えてレンガスデンクロックを訪れた。すべてインドネシア人だ。かれらは稲の生育ぐあいを見にきただけだったのだが、思わぬ災禍に遭った。バッサン小団長が一行の逮捕を命じたのだ。
「わしがどんな悪いことをしたというのか?」スタルジョ州長官は憤懣に満ちた顔で叫んだ。
「日本は既に降伏した。レンガスデンクロック全域はPETAの掌握下にある。」バッサン小団長はそう答えた。
そのあとプルワカルタから来た日本人訓練将校の一行も、問答無用で武装解除され、拘留された。更に、クラワンとタンジュンプラからレンガスデンクロックに入って来る道路に警備兵が配置され、通過する日本人を逮捕せよとの命令が発せられた。


スカルノの家族医であるスハルト医師は、毎朝午前6時前にスカルノ宅を訪れて、一家の健康状態を調べる。8月16日も、その日課は欠かさなかった。ところが、主の一家がいなくなっている。女中が涙ながらに「トアンとニョニャと赤ちゃんをPETAの兵隊が数時間前に連れて行きました。行先はわかりません。」と言う。
医師は即座にハッタ宅に向った。そしてハッタも同じような目にあったことを知った。『スカルノとハッタをPETAが連れ去った。いったい何が起こったのだろうか?』

自宅へ戻る途中で、医師は軍政監部の日本人に出くわした。その日本人はいきなり医師に尋ねた。「スカルノとハッタはどこにいる?今、警察が捜索中だが、まだ手がかりをつかめていないようだ。ふたりはどこかに隠れたに違いない。あるいはだれかがふたりを隠したのか。かれらが誘拐されるとは思えないからね。」
「自分も今朝それを知って驚いているところです。」と医師は語り、その日本人と別れた。

帰宅すると、自宅での診療活動を開始する。病人が入れ替わり立ち替わりやって来る。診察室で患者を調べているとき、ひとりのPETA兵士がずかずかと診察室に入って来た。そして、赤ちゃん用の粉ミルクをください、と医師に言う。
医師は気付いた。これはグントゥルのためではないか?医師は粉ミルクの缶をつかんでその兵士に渡しながら「みんなは元気なんだろうね?」と声をかけた。兵士は微笑んで一言だけ「ヤー」と答え、そのまま出て行った。
スハルト医師はやっと安心した。スカルノとハッタを連れ去ったPETAが日本軍の何者かの指令で動いたとすれば、かれらは日本人に囚われていることになる。反対にPETAがスカルノとハッタを保護しようとして動いたのなら、みんなは安全な場所に隠されたのだ。そしてグントゥルのミルクをわざわざ自分のところまで取りに来たことは、後者の推測が正しいことを示している。


8月16日午前8時、アフマッ・スバルジョの家に部下のスディロがやってきた。どぎまぎしながら小声で言う。「かれらはふたりを誘拐したんです。青年たちは事務所に入って協議しています。ウィカナも混じってます。」
「ふたりとは誰のことだ?どこへ連れて行ったって?」
「スカルノとハッタです。行き先はわかりません。」

外部者が海軍武官府事務所の中を勝手に使うなんて、とんでもない話だ。早くおさえないと厄介なことになるだろう。一方では、10時からPPKIの会議が開かれる。議長副議長がどちらも欠席すればどうなる?そんな状態で議事を進めることができるのだろうか?ともかく、スカルノとハッタを早く探し出さなければならない。
そうだ。ウィカナが事務所にいるんだ。あいつはふたりの行き先を知っているはずだ。まず最高責任者の前田少将に事態を報告しなきゃならない。スカルノとハッタの誘拐に陸軍がからんでいると、厄介なことになるだろう。

スバルジョは急いでミヤコ通りの前田少将邸を訪れた。前田少将は憂鬱な顔で座っていた。スバルジョの報告を聞いて、表情は憂鬱さを深めた。少将はスバルジョに言った。「わたし個人もふたりを探そう。そして必要とされる援助を惜しみなく与えよう。」

スバルジョは続いてプラパタン通りの海軍武官府へ急行した。そこでウィカナを見つけると、別室に入って説得を始めた。PPKIの会議が順当に行われるよう、スカルノとハッタを会議場に連れて行かなければならない。ふたりがどこに隠されたのかを教えてくれ。
しかしウィカナは自分も知らない、と白を切った。ふたりを連れて行ったのはPETAであり、PETAは行先を秘している、と。
スバルジョはため息をついた。


8月16日午前10時にプジャンボンで、議長副議長が理由も告げずに欠席したPPKIは会議の延期を決めた。そのころ、チキニ動物園のビリヤード場でハエルル・サレは、行動委員会委員長として会議を進めていた。集まっているのは青年層、青年団、PETAの代表者たちだ。いくつかの決議事項が合意された。PETAは兵補を誘ってジャカルタの日本軍営舎を襲撃する。青年層と民衆は予備軍としてそれを補佐する。襲撃は1945年8月17日(金)午前1時を期す。

正午前、レンガスデンクロックからジャカルタに戻って来たユスフ・クントは、ハエルル・サレや他の仲間たちを探しあぐね、アフマッ・スバルジョに会った。「われわれがジャカルタを襲撃するとき、陸軍がスカルノとハッタを人質にするかもしれないので、ふたりを保護した。」ユスフ・クントのその説明を聞いてスバルジョは言う。
「それが理由であるのなら、心配は無用だ。そんなことが起これば海軍が調停に乗り出してくれる。前田提督がそれを言明した。二言のないお方だ。教えてくれ。ふたりはどこに保護されているのか?」
ユスフ・クントは答えを渋った。スバルジョが根気よくユスフ・クントの説得に努める。そして結局ユスフ・クントは明かした。ふたりがレンガスデンクロックにいることを。

スバルジョが行動を起こす。必要な連絡を諸方面に放ち、部下のスディロを誘い、ユスフ・クントを連れて自分の車でレンガスデンクロックに向かった。ユスフ・クントは助手席に座って運転手の道案内をする。ジャカルタを出たのは16時で、日没前にレンガスデンクロックに着いた。スカルニたちがかれらを迎えた。


ジャカルタ大団本部のラティフ・ヘンドラニンラ中団長はジャカルタ蜂起の中核となるPETA側の鍵を握っている。ハエルル・サレは襲撃の中でPETAが兵補と共同戦線を張るよう提言した。戦力は大きければ大きいほど効果が高い。
夕方、ラティフ中団長はシンギ小団長に兵補部隊との連絡を命じた。17日午前1時が迫っている。出かけて行った小団長はすぐに戻って来た。兵補部隊は前線に出動したあとだった、と報告する。

PETAだけで行動を起こそうと腹を括ったラティフ中団長を、バリサンプロポル隊長Dr.ムワルディが訪ねて来た。ムワルディは数時間後の蜂起計画について確認しに来たのだ。ムワルディは言う。
「その計画は無謀拙速であり、熟慮が加えられていない。ジャカルタの日本軍部隊とジャカルタのPETAの戦力比較をしてみればいい。人数の上からも、戦闘経験からも、そして兵器も、格段に違っている。PETAは軽装備であり、日本軍ははるかに重装備だ。そんなことをすれば、あたら有為な青年たちを無駄死にさせることになる。もしラティフ君がどうしてもそうしたいのなら、わたしは止めない。どうぞ行ってくれ。しかしバリサンプロポルはそれに参加しない。」

ラティフ中団長は予想していなかった言葉を聞かされて愕然とし、黙ってムワルディの言葉を反すうした。兵補が参加せず、バリサンプロポルまでもが背を向けた。PETAだけが行動を起こすことになれば、確かにムワルディの言う通りかもしれない。かれは決心した。PETAは日本軍兵営に対する襲撃作戦を中止する。
かれはメンテンラヤ通り31番地に司令部を据えたハエルル・サレに手紙を書き、部下に届けさせた。その手紙を読んだハエルル・サレは飛び上がった。

『ブンカルノからの指令がまだないため、PETAは協働できない。』
ハエルル・サレはその文面をにらみつけて怒り狂った。
「これはただの言い逃れじゃないか。PETAがスカルノとハッタをレンガスデンクロックに連れて行ったのをラティフ中団長は忘れたのか?PETAがブンカルノの指令をまっているなんて、よく言えたものだ!」
ハエルル・サレはすぐにアンパシエル通りに向った。「カスマン、ラティフ、お前たちはどこにいる。殺してやるぞ!」と怒鳴りながら。


カスマン大団長はラティフ中団長に大団本部指揮官代行を命じて16日朝6時にバンドンに向って出発していたから、本部にはいない。ラティフ中団長も、ハエルル・サレに手紙を送ったあと、姿を消した。残されたPETAの士官と兵たちは当惑した。深夜の出動が計画され、その準備は万端ととのえたというのに、指揮官の姿が見当たらない。出動時間になっても指揮官が戻らなければ、出動はお流れにせざるを得ない。

怒り狂ってやってきたハエルル・サレは、当惑しているPETAの士官や兵たちを目の当たりにして、腰砕けになった。深夜ジャカルタで蜂起を開始し、時をあわせて独立宣言をラジオのマイクで全国に流すという計画が、音を立てて崩れていく。独立宣言文を用意し、ラジオの手配までしてあったというのに、すべてが水に流れてしまった。
そこへウィカナがやってきて、スロト・クントとスバルジョがスカルノとハッタを迎えにレンガスデンクロックに16時ごろ向かったという情報を伝えた。


ラデン・マス・アブドゥル・ラティフ・ヘンドラニンラ中団長は1911年にジャカルタのジャティヌガラで生まれた。父親は貴族でジャカルタの郡長をしており、オランダ語を操る家庭で育ったため、かれはオランダ語が使われる学校を出たが、バンドン時代に民族運動に傾倒する叔父の家に寄宿しているときにその叔父から薫陶された。ヨンヤファそして青年インドネシアなどを遍歴し、ジャカルタへ戻ってからはパリンドラの下部組織プムダスルヤウィラワンで活動した。かれは巧みな英語を生かして、ジャカルタ日本領事館でパートタイムで働いたことがあり、大東亜戦争が始まると植民地警察がかれを逮捕して西ジャワ州ガルッに流刑した。
軍政監部はその履歴を知ってかれを重要視し、PETAが作られると即座にジャカルタ大団の中団長に任命した。


PETAジャカルタ大団のカスマン・シゴディメジョ大団長がバンドンへ向かったのは、陸軍最高指揮官馬淵少将に招かれたためだ。最高指揮官はジャワマドゥラ地区のPETA大団長全員を集めて、日本降伏と今後の方針を伝えた。連合国はインドネシアの日本軍に対し、インドネシアを日本軍占領以前の状態に戻すためにインドネシア人の軍事組織を解散させて武器兵器をすべて取り上げ、日本軍のものといっしょにして進駐して来た連合軍に渡すよう命じ、またそれまでの間、インドネシアの治安を維持する任務を与えた。つまり、日本軍はインドネシア人の独立運動を阻止しなければならない立場に立たされたことになる。

この方針説明会はバンドンの陸軍本部で行われ、それが終わると大団長たちは宿舎の興亜ホテルに入った。その日の夕方、カスマン大団長は他地域の大団長20人ほどをホテルのベランダに集めて、意見を語った。「馬淵少将閣下はあのようにおっしゃっているが、PETAの所有兵器目録に書かれてある武器兵器はわれわれが持っておいたほうがよい。必ず独立闘争で役に立つときがくる。」

そこでは集まった者たちがカスマンの意見に同調し、そのようにしようと合意した。ところが、その情報が瞬く間に日本人の耳に入った。私的会合を開き不穏な相談を行った容疑で、カスマン大団長は馬淵少将の前に呼び出された。ところが、問われたのはそれだけでなかったのだ。
もうひとつの尋問は、カスマン大団長の部下であるシンギ小団長がスカルノとハッタを誘拐したのはどうしてなのか、というものだった。ジャカルタ大団はいったい何をしているのか?

カスマン大団長は「最高指揮官殿に申し上げます。」と言って語り始めた。
「大日本はインドネシアの人民に独立を約束してくださいました。ところがその年少の兄弟に与えた約束を果たす前に連合国に降伏なさいました。降伏なさった以上、独立はインドネシアの人民が背負うしかなくなったのです。今やわたしどもの闘いに年長の兄弟からの助力は望めなくなってしまいました。しかしインドネシア人民の独立の決意は変わりません。わたしが他の大団長たちと意見を交わしたのは、そのためでした。そしてまた、ジャカルタでスカルノとハッタを保護したのも、そのためです。インドネシア独立のためには、スカルノとハッタが不可欠なのです。」
馬淵少将はうつむいて沈黙した。そしてカスマン大団長をそのまま放免した。馬淵少将の目に涙が滲んでいたように見えた、とカスマン大団長はそのときのことを回想している。


インドネシア共和国最初の解放区となったレンガスデンクロックでは、スカルノ一行がPETA兵営から民家に移された。華人ジョウ・キーシオンの自宅をスカルノ一行のために空けてもらったのだ。ジョウ・キーシオンはどうぞわが家を使って下さいとPETAに快諾したそうだ。

8月16日の正午を過ぎたころ、スカルノはスカルニを呼んだ。スカルニは威嚇的な声で言う。「ブン、何ですか?」
「君たちが今日12時から始めると言っていた革命は、動き出したのかね?学生やPETAと一緒にジャカルタを襲撃する1万5千人の民衆はもうジャカルタに入ったかね?」
「連絡はまだ何も来ていない。」
「じゃあ、今直ぐジャカルタに電話してみたらどうかね?」
スカルニは出て行った。そして一時間ほどして戻って来た。
「だれにも連絡がつかない。ジャカルタからも、何一つニュースが来ない。」
「だったら、君たちの革命は失敗したのだ。ならばわれわれは何のためにここにいるのか?ジャカルタで何も事が起こっていないのなら、われわれがこの村に隠れている意味はもうないじゃないか。」
スカルニは黙ったまま、肩を落として出て行った。


太陽が沈もうとするころ、アフマッ・スバルジョの車がPETAレンガスデンクロック中団本部に着いた。ユスフ・クントとスディロを従えて中に入ったスバルジョにスカルニやスベノ小団長らが対面した。
「スバルジョ君はここへ何をしに来たのかね?」スベノ小団長が苦い声で言う。
「ブンカルノとブンハッタを迎えに来たのだ。」
「海軍としてここへ来たのか?」
「違う。わたしが来たのはウィカナ君の同意による。ジャカルタの同志たちはブンカルノとブンハッタがジャカルタへ戻ることに同意した。ふたりの安全が確保され、独立宣言が間違いなく実行されることを条件にして。」
「スバルジョ君は今夜にも独立宣言が行われることを保証できるのか?」
「それは無理だ。今はもう18時を過ぎた。われわれは早急にジャカルタに戻り、PPKIの緊急会議を招集しなければならない。それから独立宣言の準備にかかる。今夜は徹夜になるだろう。」
「ならば、明朝6時に独立宣言だ。」
「そのように時間を切るのはむつかしいが、遅くとも昼前にはできるだろう。
われわれは急いでいる。今すぐにも出発したい。スカルノとハッタに間違いなく独立宣言を行わせるために。」
「もしできなかったら・・・?」
「ブン、君はわたしを撃てばいい。」

独立宣言がスカルノとハッタをジャカルタへ連れ帰る条件になった。独立宣言が8月17日に行われることが、そこで確定したとも言える。
スバルジョはいそいそとPETA中団本部からジョウ・キーシオン宅に回る。そしてスカルノ一行に対面すると語り始めた。
「ジャカルタでは何も起こっていない。普段通りの平穏さです。ジャカルタではなされるべきことが山積しており、わたしはおふたりをジャカルタへ連れ戻すためにここへ来ました。」
「今朝のPPKI会議はどうなったのかね?」
「議長副議長が会議を招集しておきながら、議場に姿を現さない。議員だけで何かができるわけじゃありませんよ。」


PETAレンガスデンクロック中団本部の前に3台の自動車が並んだ。ジャカルタへ向かう一行の中にPETA将兵やスカルニたちに加えてスタルジョ州長官の顔が見えたのにハッタは驚いた。州長官は今朝の出来事をハッタに物語った。

19時に3台の車はレンガスデンクロックを後にした。スバルジョは道中、日本人陸軍兵に見とがめられないことを祈り続けたと回想している。PETAの護衛で3台の車はジャカルタへの道を邁進した。

プガンサアンティムル通りのスカルノ宅に着いたのは20時過ぎ、スカルノ一家が降りると、次はミヤコ通り57番地のハッタ宅。
ハッタは車から降りると、スバルジョを誘って邸内に入る。これからPPKI会議を招集しなければならない。ハッタはスバルジョに、ホテルデスインデスに電話して会議場を用意させるように言った。ところがホテル側は、22時以降は一切の活動を軍政監部から禁止されている、と言って応じてくれない。

スバルジョは前田少将に頼るしかないと思った。前田少将邸に電話すると、少将は「喜んでこの場所を提供する。」と語った。PPKI会議の招集が諸方面に飛んだ。
と、そのとき、軍政監部三好大佐から電話が入り、軍政監部総務部長がスカルノとハッタに話をしたいと望んでおられるので、来ていただけないだろうか、という要請だった。ハッタは必ず行くと約束した。


1945年8月16日23時ごろ、スカルノ、ハッタ、スバルジョたちはミヤコ通りの前田少将邸に入った。オランダ時代に英国総領事公邸だったところだ。海軍武官府嘱託の西嶋重忠氏もそこにいた。スカルノたちは2台の車でやってきた。まず民間人の服装をした青年たち数名が降りる。かれらは右手をポケットの中に入れており、拳銃が握られていることを想像させた。スカルニはPETAの制服を着て出て来た。軍刀と拳銃を吊っている。最後にスカルノ、ハッタ、スバルジョが車から出て来た。
全員は表の広間に入り、スカルノとハッタが着席すると、青年たちはその後ろに立って並んだ。少し離れたテラスにいた西嶋氏にスバルジョが経緯を報告していると、二階から前田少将が降りて来た。スカルノとハッタは椅子から立ち上がって少将にお辞儀し、PPKIのために場所を提供してくれたことに謝意を表した。
こうして談話が続けられているとき、三好大佐がスカルノとハッタを迎えに来た。軍政監部総務部長西村少将邸にお連れする、と言う。スカルノとハッタはこの軍政監部要人との議論の機会を通して、インドネシア民族独立の念願を達成させるための説得に全力をあげたが、成功しなかった。


そのときの会見の速記録がオランダ語に翻訳されてオランダ国立戦時資料研究所に保管されている。そのインドネシア語訳を再度日本語に戻すとこうなる。
スカルノ:戦争がもたらした突然の危機的状況において、インドネシア人民、特に志願兵や青年たちは度量を失っている。今かれらは形式上の手続きや決まりを無視して、即時独立を要求している。状況はますます危険な方向へと変化している。だから、かれらの要求が満たされないとき、われわれの双方が望んでいない事件が発生する懸念が強い。それゆえ、PPKI会議を今夜のうちに開催したい。
西村:それはありえないし、納得できない。PPKIの日程を一方的に変えることはできない。あなたがたはまず東京から了承をとり付けなければならない。
スカルノ:もしそうなっているのであれば、明朝8月17日に独立を宣言することをわたしは提案する。そのあとPPKIがテクニカルな必要事項をわれわれが合意した日程にしたがって完結させていく。わたしは、現場で起こっている変化に対応していかなければならないと考えている。形式や手続きにいつも縛られていてはならない。わたしの考えにトアンは賛成してくれますか?
西村:できない。PPKIが決定を東京に連絡し、向こうから公式決定が降りて来たあとではじめて、本当の独立が達成されるのだから。あなたがたが先に独立を宣言し、そのあとで報告を出すようなことは、納得できるものではない。
スカルノ:形式や手続きを優先することは、もちろん間違っているとは言わないが、そうなればいきり立っている人民、特に青年層を鎮める手段がなくなる。既に約束を与えたというのに、今になって日程を持ち出してくる。トアンの日程は短縮されなければならない。そうすることでしか、かれらの欲求を統御することはできない。
西村:それがトアンの責務ではないのか?気持ちを燃え立たせている青年たちや、多分怒りに駆られている大衆が、理の通った説明を受け入れるようにかれらを悟らせ、育成し、指導するという責務が指導者にはあるのだ。わたしは何が起こるかを予想するようなことをしない。大日本軍人であるわたしの責務は常に明らかだ。わたしが行うことはすべて、秩序の維持のためだ。わたしには、もう選択の余地はない。仕方ないことながら、武器を使わなければならないのであるならそれなりに、あらゆる謀反行動をわたしは潰していくことになる。
ハッタ:トアンは本当にそうするのか?われわれが今解決しなければならない重要問題は理屈ではないのだ。人間の意欲・感情・大衆心理をわれわれは処理しなければならない。青年層はいま、植民地主義から祖国を解放するという気概に燃えて生命を賭す心境になっている。それが尊敬されるべき大業であるのは明白だ。このような実態が理屈だけで処置できるわけがない。そんな青年たちが行動に移ったら、だれが責任を負えるのですか?

スカルノとハッタは西村少将に、陸軍がインドネシアの人民を支援しないのであればそれで構わないが、インドネシアの独立を阻止するようなことはせず、中立的な姿勢でいてほしいと求めたが、連合国から下った現状凍結の命令に背くことはできない、と少将は言明した。

現状凍結命令は16日13時から発効した。軍政監部はそれ以後、インドネシアで新たな変化が起こるのを止めなければならない立場に立たされている。16日午前中に予定されていたPPKI会議を夜中に延期して行うことが既に軍政監部の義務に対する挑戦となる。
西村少将邸での会見はおよそ2時間にわたり、ふたつの平行線が交わることはなかった。スカルノとハッタはそこを辞去して前田少将邸に戻った。

< 1945年8月17日 >
前田少将邸には招集されたPPKIメンバーだけでなく、中央参議院メンバーもやってきた。青年層も続々とやってきた。青年たちは指導的な立場の者だけが邸内に入り、他の者は邸外で警備に就いた。深夜に刃物や竹槍を持って緊張した面持ちの若者たちに包囲された前田邸のありさまは異様ではあったが、表門は開け放たれていて邸内にも50人を超えるひとびとがなごやいだ雰囲気で集まっていたのだから、不穏な事態という誤解を招くようなものでもなかったようだ。
前田少将は陸軍をまったく閉めだした場にすることを潔しとせず、軍政監部の三好大佐を招いた。

ハエルル・サレたち過激派青年層が計画した午前1時の蜂起は、PETAが行動を中止したためお流れになっているものの、中止を知らない末端の青年たちが早まったことを始める可能性が消えたわけでもなかったため、青年活動家たちが夜のジャカルタを走り回って、情勢の変化を連絡して回った。おかげで、革命の夜は闇の中に沈めることができた。

この夜の大集会が正念場になることを確信していたアフマッ・スバルジョは、独立運動活動家たちをできるだけ集めようと考え、スカルニ、スディロ、イワ・クスマ・スマントリたちとスタン・シャフリルを探した。しかし見つけることができない。スバルジョは最新状況をシャフリルの配下たちに伝えた。どうして日本海軍武官の家でそんな民族の重要課題を処理するのか、と不審を唱える者が多かった。そこだけが、この集会の安全が確保できる場所なのだ、とスバルジョはかれらに説明した。

地下活動グループの首魁と見られているスタン・シャフリルが見つからないため、ハエルル・サレをそのグループ代表者と位置付け、スバルジョたちはハエルル・サレを伴って前田邸に戻った。


前田邸の大集会は、もはやPPKIの会議でなくなっていた。人民代表者たちが集う会議になっていたのだ。一同は8月17日に行う独立宣言文の起草にかかった。

文章の起草はスカルノ、ハッタ、スバルジョが考え、前田少将、三好大佐、西嶋、吉住の諸氏が傍聴した。最初はPPOPKIが6月22日に作った、後にジャカルタ憲章と呼ばれるようになる宣言文を参考にしようと考えたが、その草案を参会者の誰も持って来ていない。
ハッタの文才が優れているため、スカルノはハッタに文章を起草するよう求め、ハッタはそれに応じてスカルノに文章を書きとめるように求めた。紙はインドネシアでblok noteと呼ばれるメモ用紙に、鉛筆で草案が記された。

最初の文章は憲法前文を参考にした。第二文は種々の考察と検討が加えられた。過激派青年層は革命の雰囲気をそこに盛り込ませようとして、激越な単語を使うように主張したが、起草のテーブルではそれらが斥けられた。表現は第三者的で穏便であり、技術論文的な調子で整えられている。

その草案が参会者たちに諮られた。革命を謳いあげたい過激派青年たちを除いて、大勢はそれに賛成した。次に署名をどうするかということが議題になった。スカルノとハッタはアメリカ合衆国の独立宣言書にならって、参会者の全員が署名するよう提案したが、そうすると日本人が混じることになる。過激派青年たちには絶対に承服できないことであった。
スカルニが即座に反対した。PPKIの名前で行われることすら、かれは反対しているのだ。ハエルル・サレが言った。「われわれの名前が日本人の名前と並べられることはお断りする。独立宣言書はスカルノとハッタが民衆の名において署名すればよい。」その提案を残して、ハエルル・サレは前田邸を去った。残った青年リーダーたちはハエルル・サレと同じことを主張し、大勢はその意見に傾いた。


手書きの草案が出来上がると、スカルノはサユティ・ムリッにそれをタイプするよう命じた。ところが、前田邸には英文タイプライターがなかった。前田少将は、ドイツ領事のカンデラー氏から借りるように勧めた。カンデラー氏の家はスネン地区にある。サユティ・ムリッは前田少将の部下に案内されて、ドイツ領事の家からタイプライターを借りて来た。

いざタイプする段になって、スカルノの手書草案におかしい部分があるのに気付いたサユティは、二度も作り直すはめになった。
手書草案は次のように書かれている。

Proklamasi
Kami bangsa Indonesia dengan ini menjatakan kemerdekaan Indonesia.
Hal2 jang mengenai pemindahan kekoeasaan d.l.l., diselenggarakan
dengan tjara saksama dan dalam tempoh jang sesingkat-singkatnja.
Djakarta, 17 - 8 - '05
Wakil2 bangsa Indonesia.

サユティは最後の行をAtas nama bangsa Indonesia.に代え、更に署名できるようにSoekarno/Hatta.を付け加えた。ところがtempohという綴りがおかしい。Hal2も書き換えだ。そしてDjakarta, 17 - 8 - '05や表題も、もっと格調高くする。

こうして、つぎのような清書ができあがった。

P R O K L A M A S I
Kami bangsa Indonesia dengan ini menjatakan kemerdekaan Indonesia.
Hal-hal jang mengenai pemindahan kekoeasaan d.l.l., diselenggarakan
dengan tjara saksama dan dalam tempo jang sesingkat-singkatnja.
Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05
Atas nama bangsa Indonesia.
Soekarno/Hatta.

清書が出来上がると、サユティは急いでスカルノに渡しに行った。

それに署名がなされているとき、スカルノの手書草案が放り出されているのを新聞記者で民族運動活動家でもあるブルハヌディン・モハマッ・ディア、通称BMディアが見た。かれはそれを自分のポケットの中にねじこんだ。かれは後になって1995年にスハルト大統領にそのスカルノの手書オリジナルの草案を提出している。

スカルノの手書草案はklad(オランダ語で下書きの意味)と呼ばれ、清書されて署名がなされたものはotentik(オランダ語のauthentiekで意味は真正)と呼ばれている。
その清書にスカルノとハッタの署名がなされて、独立宣言文ができあがった。時に、1945年8月17日午前4時のことだった。


ちなみに、年号の05年というのは日本の皇紀2605年のことだ。インドネシアで日本軍政が開始されてから、インドネシア全土に皇暦(すめらこよみ)を用い、また時間帯を東京時間に合わせる命令が出されて1942年4月29日から開始された。1942年は「すめらこよみ」で2602年に当たる。インドネシアではその方針をNipponisasi(日本化)と称した。

独立宣言文が起草されているとき、前田少将邸に居合わせたひとびとのすべてが習慣的に皇暦に従っていたため、スカルノがそう書き、また参会者のだれひとりとして皇暦を使うことに意義を唱えた者がいなかったのも、意識の焦点がそこに向けられていなかったのが原因だったように思われる。特に、日本とのかかわりを徹底的に排除しようとしていた過激派青年たちがそのポイントを見落とした事実が、それを示しているようにわたしには見える。

それから数時間後にスカルノ宅の表で行われた独立宣言式典で、スカルノは独立についてのスピーチを行い、スピーチの中に独立宣言が織り込まれた。つまり、独立宣言文書それだけをそのまま読んだのではなかったということだ。スカルノが読み上げたスピーチ原稿の中に記された独立宣言文は、次のようになっている。

P R O K L A M A S I
KAMI BANGSA INDONESIA DENGAN INI MENJATAKAN KEMERDEKAAN INDONESIA.
HAL-HAL JANG MENGENAI PEMINDAHAN KEKOEASAAN DAN LAIN-LAIN DISELENGGARAKAN
DENGAN TJARA SAKSAMA DAN DALAM TEMPO JANG SESINGKAT-SINGKATNJA.
DJAKARTA, 17 AGUSTUS 1945
ATAS NAMA BANGSA INDONESIA.
SOEKARNO-HATTA.

だから、インドネシア共和国誕生の瞬間にインドネシアの地上では、皇暦が既に捨てられて西暦に戻されていた、という結論を引くことができるにちがいない。宣言の中で表明された日付は西暦であり、すべての国民にとって最初に接した国家行事がそういう形で催されたのだから。おまけに、新生インドネシア共和国政府は作成したすべての公文書の日付に西暦の年号を最初から使っている。後代のインドネシア国民は遺物あるいは記念物としての宣言文書を目にして、はじめて年号の05に疑問を抱いたようだ。


さて、8月17日未明の前田少将邸にもどろう。
独立宣言文書が出来上がったあと、独立宣言式典をどこで行うのかということが次の問題として浮上した。過激派青年グループは、ジャカルタ特別市庁府の向かいにあるガンビル広場で行うことを計画し、スウィルヨ副市長に独立宣言の情報を知らせ、式典をガンビル広場で行いたいので協力してほしい、と要請してあった。市長は日本人であり、副市長がインドネシア人職員のトップになっている。副市長はそれを了解し、その計画を部下に知らせた。

青年たちが式典場所をガンビル広場に用意してあると提案したとき、スカルノは反対した。ガンビル広場は公共エリアであり、そこを使う場合は軍政監部の許可を取らなければならない。だが現状凍結を志向する陸軍が、独立のための集会を許可するはずがない。それを無視して行えば、悪くすると日本軍と民衆の衝突に至るかもしれない。

「式典はプガンサアンティムル通り56番地のわたしの家の前で行う。わたしの家の表は十分広く、たくさんの民衆がやってきても問題ない。式典は午前10時に行うことにしよう。できるだけ多くの民衆がこの式典に集まるよう、皆さんはそのことをかれらに伝えてください。」

大集会はお開きになった。ひとびとは三々五々帰途に着く。集まったひとびとの中にいた報道関係者を集めてハッタは注文を出した。「他のひとびとは仕事を終えて家路につくが、君たちにはもう一仕事残っている。独立宣言文書のコピーをたくさん作って、できるだけ多くの民衆の手に渡すのだ。君たちの中の同盟通信記者は今直ぐ世界中にインドネシア独立のニュースを流してほしい。」

10時の式典を待つことなく、今直ぐに世界に向けて報道せよ、とハッタは言う。結局、同盟通信はその日の式典開始の1時間ほど前に、世界各国に向けてインドネシアの独立を報じる電報を流した。こうしておけば、日本軍政が独立宣言式典の開催を実力阻止したところで、世界中が既にその情報を手に入れたわけだから、インドネシア独立を既成事実として眺める立場をとる者が必ず出てくる。その国際政治面での深謀遠慮とは別に、国内の過激派青年層に対する慰撫という面もそれは含んでいた。そのようにして世界中に独立を通知した以上、スカルノとハッタは面子を賭けて必ず独立宣言を行うとかれらに確信させることも思惑の中に入っていた。


前田邸の中が閑散としはじめたころ、スバルジョは帰宅するためにスカルノとハッタに挨拶した。16日の午後から始まって、この長い夜を多忙に過ごしたスバルジョは疲れ切っていたが、かれはスカルノとハッタの爽やかで精気に満ちた様子を目の当たりにして意外の念に打たれた、とそのときの印象を語っている。

夜明が近づいている。三人はその長い夜の活動が成果をもたらしたことを互いに祝福し合い、そしてその家の主人に謝辞を述べてから家路をたどった。


1945年8月17日の夜明ごろ、ラティフ第1中団長率いる戦闘装備の部隊がジャガモニェッのPETAジャカルタ大団本部を出発した。ストリスノ小団長率いる一個小隊はプガンサアンティムル通りのスカルノ宅の裏手を通る鉄道線路防備のために先発している。ラティフ中団長はスカルノ宅の表の広場で二個小隊を警備配置に着かせた。残る将兵は式典の進行に付き従う。

ラティフ中団長の懸念は、現状凍結を命じる日本陸軍がインドネシアの独立を阻止しようとしてその式典に実力行使をかけることだった。
カスマン大団長の留守を預かるラティフ中団長は、これまで訓練ばかりで実戦経験のないPETAの操戦をどうするかと知恵を絞った。プガンサアンティムル通り56番地のスカルノ宅に通じる道路をすべて監視下に置き、そのエリアに入って来る障害をすべて排除する。そのために映画館前の三叉路(今のメガリア)とマトラマンダラムの橋に部隊を配置し、西側にある鉄道線路も固めるという配備を行った。更にカンプンメンテンダラムに一個小隊を隠して予備軍とし、独立式典をやめさせるために日本軍がやってきたときは、後方から奇襲させようと考えた。

PETAの兵員数も装備も頼りない。その上、日本軍はPETAの将兵を自分たちの教え子と思って、呑んでかかってくるだろう。その心理面の強弱をバランスさせるために、かれはバリサンプロポルとの協働が不可欠だと思っていた。刃物と竹槍で情け容赦なしに襲って来る若者たちが持つ、日本兵を萎縮させる心理効果をかれは期待した。


独立式典会場の警備を担うPETAとバリサンプロポルは、まったく同一の心理状態にあったようだ。バリサンプロポルのムワルディ隊長も、会場が準備されているとき、落ち着きなく屋内と外を往復していた。会場の設営が完了したと見て取ったムワルディはスカルノに今直ぐ独立宣言を行うよう求めた。日本人がここへやってくれば、計画はすべて水の泡になるだろう。かれは気が気でなかった。
「ブン、今直ぐ独立を宣言してくれ。一刻でも早いほうがよい。宣言を行って既成事実を作らなければ、事態はどうなるかわからない。」
「ハッタ君は来ているか?」
「まだいないようだ。」
スカルノはジャワ人で、ハッタはスマトラの出身だ。インドネシアという大きな坩堝のマジョリティをその両人が代表する形がそこにできる。スカルノは、ハッタが来るまで独立宣言はしない、と断乎として拒否した。

「だがブンハッタは独立宣言文書にサインしているのだから、かれがここにいなくても、問題はない。」
食い下がるムワルディにスカルノは声を荒げた。
「わたしはハッタ君なしに独立宣言はしない。そんなに独立宣言を慌てて行いたいのなら、君が自分でそれをすればいい。」
ムワルディは意気消沈して外へ出て行った。そして部下にブンハッタを早く連れてくるよう指示した。部下はラティフ中団長に相談し、中団長が自分の車でハッタを自宅へ迎えに行った。


独立宣言式典の知らせを聞いたジャカルタの民衆が朝早くから続々とスカルノ宅の表に集まって来た。いつものようにスカルノ宅にやってきたスハルト医師がその様子を見て驚いた。表にたくさんの民衆がいて、さらに家の中庭には竹槍を持った青年たちが警備している。

スハルト医師が屋内に入ると、バリサンプロポルのムワルディ隊長がいた。庭にいる竹槍青年らはかれの隊員だった。ムワルディはスハルトに、「みんなまだ寝ている」とスカルノ一家の様子を説明した。スカルノは夜明ごろに前田少将邸から帰宅すると、すぐに寝たそうだ。


プガンサアンティムル通りは当時、ジャカルタの一等住宅地区だった。スカルノ宅の向かいは45番地で、その家は警察特務工作隊の寮に使われていた。その隣がスカブミ警察のラデン・サイッ・スカント署長の自宅だ。この人物がインドネシア共和国国家警察の初代長官になった。

スカント署長がマギル・マルトウィジョヨ二級刑事を呼んだ。サウルのあと、また寝ていたマギルは急いでスカント署長の前に立った。
「マギル君、きみに任務を与える。スカルノ宅の警備に当たれ。」
「制服ですか、私服ですか?」
「私服だ。これは隠密任務だ。武器を忘れるな。よく警戒せよ。日本人には知られないように。」

サルンを履いたマギルはピストルを隠して道路を渡り、スカルノ宅の表広場の群衆に紛れた。かれはそれが独立宣言式典であることを知らなかった。式典が終わって群衆が散って行ったあとで、スカルノがマギルを差し招いた。
「君の出身はどこだ?」
「ウォノギリです。今は向かいの寮に住んでいます。」
スカルノは翌日スカント署長に頼んだ。「マギル君をわたしの護衛官に任命してくれ。」

かれは1966年半ばまで、スカルノ大統領護衛官を務めた。チャクラビラワ連隊大統領護衛支隊長がかれの最終職務で、位階は警察中佐だった。


中央参議院官房マルト・ニティミハルジョは法科大学の仲間だったスウィルヨ副市長に会うため、ジャカルタ特別市長府に自転車で向かった。サユティ・ムリッからもらった独立宣言文のステンシル印刷を持ち、また昨夜青年層が計画したガンビル広場での独立宣言式典がスカルノ宅に変更されたことを伝えるためだ。

かれは午前7時ごろ、市長府の表に着いた。広場には演台が置かれてマイクが用意され、椅子が整然と並べられている。マイクに入った声がラジオの電波に乗せられる用意までなされている。そのときは人っ子一人いなかったが、しばらくすると日本陸軍一個大隊がやってきて市長府の警備を始めた。指揮官は大佐の階級章を付けている。スウィルヨ副市長には、その出動目的がわからなかった。
ともあれ、マルトとスウィルヨは独立宣言式典に赴くため、自転車で市長府を脱け出した。マルトはスタン・シャフリルを誘うため、スウィルヨと別れた。

プガンサアンティムル通り56番地に着いたスウィルヨは、式典の準備状況を尋ね、マイクと拡声器の手配がなされていないことを知って、部下のウィロポにその手配を命じた。その方面にまったく暗いウィロポは友人のニョノプラウォトを頼り、ふたりはサトリアラジオ店のオーナーの自宅に向った。オーナーのグナワンはその依頼を快諾し、技術者と機材を会場に送った。技術者のスナルトは会場で手早くマイクと拡声器の準備を行い、式典が始まるのを待った。


16日に独立宣言式典がガンビル広場で行われるとムワルディから聞いていたスディロは、早めに家を出た。ところがガンビル広場では日本軍が場所を占拠しており、インドネシア人の姿はひとりもない。かれは急いでムワルディ宅に走り、家の者から式典場所がスカルノ宅であることを教えてもらった。

スカルノ宅に着いたかれは、国旗掲揚の準備を手伝おうと考えた。紅白旗はファッマワティ夫人が一晩かけて縫い上げたと聞き、ファッマワティ夫人に旗を用意するよう頼んでから、掲揚ポールを調べた。家の表には、日章旗と紅白旗を掲揚するための鉄製ポールが二本並んでいる。スディロが掲揚索の様子を調べていると、青年たちが「それは使うな」とスディロに叫んだ。「自分たちで作ったポールに旗を掲揚するのだ。」と言われて、かれは急遽長い竹棒を探すはめになり、スカルノ宅の裏の竹やぶから適当な竹を切り出してきた。竹を切り、掲揚索を取付て、それをスカルノ宅の表に立ててから、かれは一度自宅に帰り、10時前にまたやってきた。後日スカルノは、その歴史的役割を担った俄か作りの旗竿が、少々寸詰まりだった、と語っている。


スカルノ宅の表では、9時ごろ既に5百人くらいの群衆が集まっていたが、式典が始まるころには1千人くらいにまで膨れ上がり、大勢のひとびとが式典会場に近寄れないため、地区一帯の路上にまで広がった。

発熱したため寝室で休息していたスカルノは、9時半ごろに起きて準備を始めた。ハッタが来ている様子がない。10時5分前にハッタが広場に姿を現した。歓呼の声で広場がざわめく。ハッタはそのまま屋内に入り、スカルノと会った。

時計の針が10時を指すと、スカルノとハッタは屋内から表のテラスに出て来た。式次第はまずスカルノの演説だが、式次第を公表する間もなかったため、式典運営に携わる者しか知らない。おまけに式典進行係もなしに式典が展開された。
屋内からハッタと一緒にテラスに出て来たあと、スカルノはいきなりマイクにひとりで歩み寄った。同時に表に集まっている群衆の間からインドネシアラヤの歌声が湧き、徐々に大合唱になっていった。


スカルノはマイクの前でスピーチを始めた。独立宣言文はその演説の中で読み上げられた。演説内容は次の通り。

すべての皆さん、

わたしが皆さんにここへお集まり願ったのは、われわれの歴史の中で最も重要なできごとをご覧いただくためです。

われわれインドネシア民族は、祖国の独立のために何十年も闘ってきました。いや、何十年どころか、何百年間も。

独立達成のための行動の波は、上昇したこともあれば下降したこともありますが、われわれの心は常に理想に向って邁進していたのです。
日本占領期においても、国の独立を達成させるための努力は止むことがありませんでした。

現在の日本占領期において、外見的にはわれわれがかれらに対して依存しているように見えましたが、本質の部分では、われわれが自分たちの力を整え、自らの力を確信することが続けられていたのです。
今やわれわれが民族と祖国の運命を本当に自らの手に掌握するときが来たのです。自らの運命をその手に握る勇気を持つ民族だけが、力強く立つことができるのです。

こうしてわれわれは昨夜、インドネシア全国からのインドネシア民衆を代表する有志諸君とムシャワラを行いました。ムシャワラでは、今こそがわれわれの独立を表明するときである、という意見の一致に至りました。

皆さん、ここにわれわれはその断乎たる決意を表明します。
この宣言をお聞きください。

宣言

われわれインドネシア民族はここに、インドネシアの独立を表明する。
権力の移譲とその他に関する事項は正確な方法で最短時日のうちに遂行される。

ジャカルタ、1945年8月17日
インドネシア民族の名において
スカルノ − ハッタ

以上です、皆さん。
われわれは今や独立したのです。
もはや、わが祖国とわが民族を拘束する束縛は何ひとつありません。
今からわれわれは、わが国を作り上げていくのです。独立国家、インドネシア共和国を。確固として永遠なる独立を。

インシャラー、われわれの独立に神の祝福が得られますように。


式次第は続いて国旗掲揚に移る。トリムルティ夫人が紅白旗をポールの上まで引き上げる役を仰せつかったが、夫人は嫌がり、これは軍人が担うべき役割だと提案した。

式典運営のひとびとの近くにいる軍人となると、PETAの制服を着て軍刀と拳銃を下げているラティフ中団長がまず目を引いた。ひとびとの視線を浴びたラティフ中団長はすぐに俄か作りの竹の旗竿の傍へ歩み出た。
するとバリサンプロポル幹部のスフッがファッマワティ夫人手製の紅白旗を盆に載せて中団長の前に進み出たのでおどろいた、と中団長は後に語っている。かれはスカルノの手から自分に渡されることを予想していたのだ。しかし式典の中でやり直しはきかない。
中団長はその旗を掲揚索に結わえてから、ポールの頂きまで引き上げた。へんぽんと翻る紅白旗に向って、ふたたび群衆の間からインドネシアラヤの合唱が湧き起った。

そのあとジャカルタ副市長スウィルヨとバリサンプロポル隊長ムワルディの祝辞が続いてから、式典は完了した。10時に始められた式典は30分もかからずに終わった。この10時はジャワ現地時間であり、ニッポニサシによる東京時間では11時半に相当する。


群衆が解散し、来賓たちがスカルノとハッタ以下、祝典運営に携わったひとびとに挨拶してから帰途に着き、ハッタや運営者たちも帰宅して、後片付けもほぼ終わったころ、三人の日本人高官がスカルノに会いに来た。
スディロが休息中のスカルノに知らせると、スカルノは表のテラスに出て応対した。テラスは式典のために椅子やソファが運び出されて空っぽにされており、まだ元に戻されていなかったから、スカルノと客人は立ったままで話した。

三人はジャカルタ警察署長とふたりの幹部高官で、怒りと不快さを抑えていることがその表情からありありとわかる。
「トアンは何をしでかしたのですか、スカルノさん?」
「インドネシアの独立を宣言しました。」
「そんなことをしてはならない!現状凍結したまま、連合軍がやってくるまで治安を維持し、そしてかれらに行政権を引き渡すよう連合国はわれわれに義務付けているのです。軍政監からもインドネシアの独立は許可できないと聞いているではありませんか?」
スカルノは開き直った。

「独立はもう宣言されました。わたしはついさっき、それを表明したのです。」
三人の指がポケットの上から拳銃をなぞり、スカルノに近寄ろうとした。そして辺りを見回して表情を変えた。鉈・斧・剣などの刃物や竹槍を持った青年数十人が、厳しい顔でテラスを取り巻いているのだ。三人の日本人はすぐに身をひるがえすと、黙って来た道を引き返した。

スカルノはすぐに家の周囲にいるひとびとを集めた。
バリサンプロポルを中心に、一般地元民までもが、老いも若きも、男も女も、赤ちゃんを抱いた母親までもが集まって来た。スカルノはかれらに要請した。「紅白旗を守るために、今直ぐ志願者で決死隊を編成してくれ。」
独立とスカルノを守ろうと、ふたたび群衆が集まって来た。今度は手に手に武器を持って。スカルノ宅を取り巻くひとびと数百人のために、ファッマワティ夫人は台所を開放して女たちに食べ物を作らせた。

スディロは帰宅する前にスカルノに尋ねた。「われわれのこれからの行動は?」
「わたしの指令を待て。いいか?絶対に勝手な行動を起こしてはならない。権力の移譲は正確な方法で行われなければならない。正確な方法とは秩序立った方法という意味を含んでいるのだぞ。」
「流血なしに?」
「そう、流血なしに、だ。」


独立式典が前田少将邸での徹夜の夜からあまり時間を置かなかったことと、更に開催場所に関する情報が錯綜したために、午前10時にプガンサアンティムル通り56番地の表に来ることができなかったひとも少なくなかった。

K.R.T.ラジマン・ウェディオディニンラ医師をはじめPPKIメンバーが何人も式典終了後にやってきたし、バリサンプロポルのプンジャリガン大隊も百人近い人数で遅れてやってきた。式典が終わったことを知ったブラタ大隊長が残念そうな声で、「もう一度独立宣言文を読んでほしい」と表から声をかけると、屋内で休んでいたスカルノはわざわざベランダに出て、マイクに向かって語り掛けた。

「独立宣言を何度も繰り返すことはできない。独立の宣言は一度行われるだけであり、それが未来永劫続くものなのだ。だから、われわれはこの独立宣言を守り続けていかなければならないのだ。」とかれらを諭した。

アフマッ・スバルジョは熱が出たため、式典に行けなかった。独立宣言文起草の長い夜に前田少将邸に来た青年地下活動家たちの多くも、午前10時のプガンサアンティムル通り56番地を外した。


中央参議院官房マルト・ニティミハルジョはスウィルヨ副市長と一緒に会場に向かう途中でスタン・シャフリルを誘うために別れた。シャフリルの隠れ家に着いたとき、シャフリルはまだ寝ていた。そこに集まっていたアブ・バカル・ルビス、ヨ・パラミタ・アブドゥラフマン、パンドゥ・カルタウィグナたちと話していると、シャフリルが起きて来た。マルトが前田少将邸での長い夜を物語り、独立宣言式典の予定を告げるとシャフリルは、日本人の家で起草された独立宣言文の有効性に疑問を呈した。連合国はそれを認めるはずがない、とかれは考えていたのだ。だからシャフリルは式典に参加する意志を持っておらず、マルトも結局行きそびれた形になった。その歴史的な瞬間に立ち会えなかったことについてマルトは、自分が選択したことだから後悔はしていないと後に述べている。宣言文起草の長い夜に立ち会ったことがかれにとっては得難い体験だったのであり、それを公表する式典の内容は十二分に想像できたから、憲兵隊を怖れて長い夜も隠れていた同志たちよりは独立宣言が自分の一部になっているという気持ちが強かったようだ。

アブ・バカル・ルビスは、インドネシアの独立がフランス革命のような華々しさで行われることを夢見ていた過激派のひとりだ。独立宣言文起草が日本人高官の家で行われ、文章は激越な言葉が片鱗もない平坦でおとなしいものにされ、支配権力者の目の届かないところで宣言が発せられることに、やりきれないアンチクライマックスを感じていた。しかしその歴史の大きな流れをかれらがどうこうできるものでもなかった。

8月17日早朝にハエルル・サレは宣言文署名者についての意見を述べてから、前田邸を立ち去ってプラパタン通り10番地に向った。そこにいた同志たちに宣言文の内容を報告し、午前10時の宣言式典計画を知らせた。しかし軍政監部は連合国からの指令によって現状凍結の義務を負わされており、インドネシア人の独立宣言をやめさせる動きに出ることは想像に余りある。
青年たちはその点を考慮し、かれらは式典会場に行かず、この学生寮で並行式典を行うことを決めた。
宣言文が読み上げられるときに学生寮に電話を入れるためにママヒッが式典会場に向った。この医科大学学生寮でもスカルノが行うタイミングに合わせて独立宣言文が読み上げられ、紅白旗が掲揚され、そしてみんなはインドネシアラヤを歌った。


アダム・マリッとBMディアも式典に立ち会わなかった。宣言文起草のあとハッタが報道関係者に依頼したインドネシア独立宣言の広報告知を、他の報道放送界の仲間たちと一緒に行っていたのだ。
アダム・マリッは同盟通信社への工作を行い、BMディアはジャカルタの民衆に対する広報告知を受け持った。BMディアはプチェノガンの印刷所を訪れて独立宣言文書を印刷させ、仲間たちと手分けしてその紙をジャカルタの街中に貼る動きを始めた。

アダム・マリッは8月17日午前8時ごろ、同盟通信社に現れた。電信担当のスギリン・ハディプロジョにかれは耳打ちする。「ブン・ギリン、このあとすぐにビッグニュースを流してくれ。内容はこれだ。それを国内津々浦々から世界中に至るまで、知らせるのだ。今やわれわれは同盟の発信機ただひとつに頼っている。ジャカルタ放送局は朝から憲兵隊がスタジオを固めてしまった。」そう語ってから、アダム・マリッはすぐに姿を消した。
こうして、プガンサアンティムル通り56番地で式典が行われる1時間以上も前に、インドネシア独立のニュースが同盟通信社から地球上のあちらこちらにばら撒かれた。

しかしスギリン・ハディプロジョも無事では済まなかった。ニュースを発信してからおよそ3時間後に、憲兵隊がやってきた。スギリンはすぐに逮捕され、そこから近い憲兵隊本部に連行され、拘置所に入れられて取調べと拷問の日々を送ることになる。

既に同盟通信社が流した独立宣言のニュースを打ち消す内容のものを同じ発信先宛てに流すよう、日本軍は担当者たちに命じた。しかし、口では「ヤー」と言うものの、だれひとりとしてそれを実行に移す者がいなかった。面従腹背のサボタージュがそこで行われただけのことだった。時間の経過とともに、対抗情報が意味を持つモメンタムは失われ、かれらにそれを強いる日本人はいなくなった。


西ガンビル通りのジャカルタ放送局でも、青年たちが独立のニュースをラジオ放送するべく、局内に潜入した。計画では、プガンサアンティムル通り56番地でスカルノが行うスピーチの声をラジオの電波に乗せることになっていた。10時を期してかれらは放送室に侵入し、放送をスピーチの音声に切り替えるつもりだった。ところが10時になる前に日本人将校が放送室に姿を現したのだ。青年たちの間で「失敗した。日本人に知れてしまった。」という声があがり、青年たちは一斉に敷地の脇からタナアバンの部落へ逃げて行った。表へ逃げなかったのは、日本軍装甲車2台と何人もの兵士が既に放送局の表を固めていたからだ。

しかし青年たちは諦めなかった。17日夜のニュースを担当するアナウンサーのユスフ・ロノディプロは16時ごろ出勤した。夕方近くになって、同盟記者がひとり、二枚の紙をかれに渡しに来た。一枚はアダム・マリッからの手紙で、もう一つの紙に書かれたニュースをラジオ放送の中に混ぜてくれという依頼。もう一枚の紙はスカルノとハッタのサインが見える独立宣言の全文だ。「どのように放送するかは君にまかせる。アダム・マリッ君がよろしく言っていた。」そう告げて同盟記者は去った。

ユスフは知恵を絞った。放送局には、外国向け放送用のラジオ発信機が、今では埃をかぶって置かれたままになっている。かれは技術担当の青年たちに計画を話して、それを整備してもらった。19時の国内向け放送が始まると、バフティアル・ルビスがニュースを読み上げている間に、かれは外国向けラジオ発信機からインドネシア独立宣言のニュースを流した。
放送室のスピーカーからはバフティアル・ルビスの声だけが流れており、日本人放送検閲官はうなずきながら内容を監督していたが、検閲されている放送内容は局内でしか流されておらず、局外に向けた電波に乗っていたのがユスフ・ロノディプロの声であるとは夢にも思わなかった。

ところがここへも1時間後に憲兵隊が謀反人をとらえるためにやってきた。アナウンサーたちはひとりずつ呼ばれて鉄拳の洗礼を受けるはめになる。だれも、まとまな顔を残していない。バフティアル・ルビスは上歯がすべて脱落するほどだった。かれらを取調べた憲兵はついに軍刀を抜き放つ。すると日本人放送局長がその場に割って入った。「日本は既に降伏している。今私的な処刑を行えば犯罪に問われる。かれらの罪状を糾明した上で裁判にかけなければならない。」
あのとき、自分の一生はこれで終わったと思った、とユスフ・ロノディプロはそのときのことを回想している。

放送局の外にいた日本人はみんな、その夜の放送を聞いており、放送内容を監督すべき検閲官だけがそれを知らなかったということになる。憲兵隊の精神棒注入のお鉢は検閲官にも回された。

この放送は国内の隅々にまで届いたばかりか、国外でもあちこちで受信された。連合軍東南アジア司令部ももちろんそれを傍受している。総司令官のマウントバッテン卿はその情報を知らされ、「ジャカルタの民衆は日本の支配下から離れて自分の国を作ったようだ。」とコメントした。


インドネシア国内では、独立宣言の噂がすくに広まった。1945年8月17日(金)12時ごろ、スラバヤでは新聞スワララヤッが独立宣言の全文を載せた特別版を発行した。

スマランではカンプンカウマンの大モスクがスピーカーでインドネシア独立のニュースを住民たちに知らせた。日本人はそれを金曜日の大礼拝の案内だと思ってまったく気付かなかったそうだ。住民たちにとっては、アザーンでなく民族独立の知らせが聞こえて来たのだから、うれしい驚きだったにちがいない。

ヨグヤカルタでは、地元ラジオ局が沈黙していた。日本人の放送検閲官が早くからラジオ発信機の部品を外して放送できないようにしていたのだ。

ソロのラジオ局では18日朝に局長が日本の降伏のニュースを入手した。ところが翌日になって、ジャカルタの放送管理局から、すべての放送を停止するよう指示が来た。

このラジオ放送停止の指示はインドネシア全土に出されたもので、その指示の根源は連合軍東南アジア司令部から出たものだった。日本進攻前の状態に復帰させるのが連合国の方針だったから、インドネシアを占領している日本軍はともかくインドネシア人に新たなことを起こさせずに現状凍結せよということを徹底させるのが目的だったのは言うまでもない。
この構図について見るなら、終戦後インドネシアを日本軍から解放して旧宗主国のオランダに渡すためにやってくる連合軍との対決を想定して、スカルノとハッタは日本軍との衝突を極力避ける方針を採り、反対にスタン・シャフリルや過激派青年たちは日本軍との衝突も辞さずに日本の傀儡でないインドネシア国家を作って連合国に承認してもらおうと考えていたように見える。もちろんそこまでの単純化には無理があるとしても、過激派青年たちを抑え続けたスカルノとハッタの物事の深奥を見透す目を思うとき、このふたりの建国の父の偉大さはわれわれを感動させずにはおかないだろう。

ブキッティンギでも、郵便局職員がジャカルタからの電報を読み、密かにそのニュースを住民に知らせてまわった。更に、真夜中には有志らと一緒に街中の要所要所にビラを貼っている。ニュースは口伝で街から離れた村々にまで広がって行った。


1945年8月17日午後、ジャカルタのあちこちで様々な出来事が発生したが、大規模な騒擾はなく、平穏な一日が暮れた。翌18日も、独立インドネシア共和国大統領に推戴されたスカルノや国政を担う要職者たちは、憲法の発布準備などに忙しい。
フランス革命のような華々しい民族独立の戦闘を夢見て来た過激派青年層にとって、そのありさまはアンチクライマックスもいいところだった。


オランダ植民地政庁のシンボルであるコニングスプレインの東インド総督宮殿はいま日本軍政監の公邸として使われているが、既にインドネシア共和国が発足した以上、共和国元首があそこに入らなければならない。そうすることによって、インドネシアは名実ともに独立国家としての体面を保つことができる。しかしながらスカルノからは、総督宮殿を奪取せよという指令がいつまでたっても出てこない。

スディロはムルワディとラティフPETA中団長と三人で、われわれはこれからどうするべきかと相談し、革命行動を起こすことで合意した。だがスディロはスカルノから「流血なし」の国家建設を行うと釘を刺されている。スカルノに提案しても禁じられるに決まっている。まずはブンハッタに相談してみよう。
三人がハッタ宅を訪れると、ハッタはスバルジョ宅にいることが分かったので、スバルジョ宅に向かう。ハッタとスバルジョを並べて三人は総督宮殿奪取計画を説明した。ラティフ中団長は地図を出して作戦計画を説明する。ところが、ハッタがその計画を拒否した。「そんな計画が実行できると思っているのか?君たちは気が狂ったのか?」

3人はがっかりして、すごすごと退散した。スディロは心の中で反省した。「革命はなされなければならない。お年寄りたちに許可をもらおうとしたわれわれが愚かだった。その時がくれば、もう許可を取りつけるようなことは絶対にしないぞ。」


ジャカルタで蜂起の火が燃え上がるのを夢見た青年たちは、確かに少なくなかった。パンドゥ・カルタウィグナもそのひとりだ。かれは護身のために先祖代々のクリスを身に着けて離さない。
パンドゥはマルトと連れ立って、パサルスネンの裏にあるカンプンクレプに行った。クスナエニやジョハル・ヌルなど数人の同志が集まっている。そこでハエルル・サレとスカルニの姿が見えないことが話題になった。情報を集めると、日本人に捕まったようだという結論になった。かれらはすぐに救出に向かった。

救出隊はジョハル・ヌル、シャリフ・タイェブ、アリザル・タイブ、クスナンダル、スロト・クント、リントン・シトルス。ジョハル・ヌルは盗んだピストルをポケットにしのばせている。かれらが情報を探ると、ハエルル・サレとスカルニはクブンシリ通りの憲兵隊支所に捕らえられていることが明らかになった。救出隊は堂々と建物内に乗り込んで行った。

日本人との交渉が始まる。かれらは威嚇した。ふたりを解放せよ。さもなくば、われわれインドネシア共和国の青年はジャカルタにいるすべての日本人を処刑する。
スカルニが鉄格子の中から叫んだ。「インドネシアは独立したのだから、われわれはもう生命を惜しまない。インドネシアの国土は日本人の血で豊饒さを増すのだ!」
ハエルル・サレとスカルニは放免された。


全員は再びプラパタン通り10番地の寮に集まった。不完全燃焼のむなしさが全員の頭上に重くのしかかっている。前田少将邸での独立宣言文起草のとき、かれらの希望は十分に反映されなかった。インドネシアの青年層の姿を世の中に誇示するために、われわれは何をなすべきか?そのためには革命行動を起こすのだ。独立は宣言したというのに、インドネシアの人民がいまだにこの国土の主人になっておらず、異民族の支配下に置かれている。その姿を正さなければ実質的な独立は達成されない。そのためにこそ、青年層は闘争に向かうのだ。

われわれはスカルノとハッタを日本人からの権力奪取の指揮官に据え、名実共に独立を実現させるのだ。この青年層の熱意を説くために、ふたりをここへ呼ぼう。
同時に、われわれは8月19日(日)に大衆をガンビル広場に集めて大パレードを行おう。独立宣言という言葉だけでなく、独立の中味を作り上げていくことは絶対に欠かせないことである。

< 1945年8月19日 >
青年層が企図した大衆革命行動は結局8月19日のIKADA広場大会議と呼ばれる催しの形で実現し、ジャカルタを火の海にする一大流血革命には至らなかった。

青年層が提案したIKADA広場大会議はインドネシア共和国政府の催しとして行われた。当然、軍政監部への集会許可申請が出されたが、軍政監部は許可しなかった。
禁止令に反してその集会が行われると見た日本陸軍は、朝から大砲・戦車・軍用車を並べ、日本軍兵士が剣付銃を構えて広場の警戒を始めた。ところがそれを怖れる様子も見せず、ジャカルタとその周辺地域から、インドネシアの民衆が続々とやってきて、広場を人間の海にした。

これまで民族独立を希求してきたさまざまな組織が、旗手を先頭に隊列を組んで行進し、整列する。スカルノは数千人に達した群衆を前にして、スピーチした。

民衆は共和国政府を信じなさい。
もし皆さんが、たとえそのためにこの胸が千々に引き裂かれてもなお独立宣言を維持しようとする共和国政府を信じているのであれば、われわれの命令に服従し、また規律に従うことで、その信頼をわれわれに寄せてください。

その短い演説を聞いた群衆は、スカルノが演台を降りるとともに解散し、スカルノを慕ってスカルノの後ろに集り、スカルノについて歩いた。日本軍兵士と群衆の間に険悪な空気が流れることもなく、平穏な雰囲気のままIKADA広場大会議は幕を閉じた。このできごとは独立宣言がもたらした具体的な姿を共和国政府に実感させる強い効果を持っていた。国民が自分たちに本物の信頼を寄せていることを新政府に確信させたのである。そして同時に過激派青年層に対して、スカルノという巨大なカリスマにかれらが束になって対抗しても、勝ち目を見出すことが困難である事実を再び悟らせることになったようだ。


過激派青年層の熱望する日本軍政からの戦闘的な権力奪取はごく一部の限られた場所で不幸にして発生しただけであり、インドネシア全土で民衆が日本人を血祭にあげるような事態に至る『大革命』は免れることができた。
過激派青年層が求めてやまなかった革命の宴は、戻って来たオランダ人の植民地再開を打ち破るときまで延期されたのである。

(2016年8〜10月)