インドネシア町案内情報2004〜13年


「スリーインワンがビジネス界を苦しめている」(2004年5月1日)
午後4時から7時までのスリーインワンが本格実施されるようになって3か月が過ぎた。このスリーインワンの実施時間拡大、実施エリア拡大で従来のビジネスに大影響をこうむっているのはグロドッ地区の商店。グロドップラザ、ハルコグロドッ、グロドッシティ、ハヤムウルッ・インダ、リンドテベスなどのショッピングビルに入っている商店は売上が半分に落ちている。
商店主たちは、スリーインワンが消費者の行動を大きく変えてしまった、と慨嘆する。「お客は朝10時以降に買い物に出て来て、あちこちの店を回って購入品の選定をするが、夕方になってくるともうそわそわしはじめ、時計を見てさっさと駐車場の方に行ってしまう。そんなときは値段の交渉をしていても、はいさようなら、だ。なんとかしてもらわないと、この一帯の商店は軒並み倒産だ。」と語る商店主もいる。たしかにグロドッ地区へ買い物に出る場合、消費者は時間の計算なしには済まない。安全な駐車場所探しから、狭い小路を通って品物を見て回り、価格を調べて交渉し、その後夕方4時までにスリーインワン地区を抜けられるかどうかで、買い物にいたるかどうかが決まる。
かれら商店主たちはスティヨソ都知事に面会を求め、窮状を訴えた。朝は7時から9時まで、夜は5時から7時までにしてもらえないだろうか?Aprindo(小売業者協会)ハンダカ・サントソ会長も都知事に対して、政策の見直しを書面で要請している。
それに対してスティヨソ都知事は、政策リビューを行うのは6ヵ月後だとしながらも、このような情報のインプットはおおいに歓迎すると語った。「宅配便業界もデリバリーバンに三人乗せるわけにも行かず、なんとかしてくれと言ってきている。ビジネス界以外でも、問題をどんどん提言してもらいたい。都庁は実施後半年たてば、大学の研究室を巻き込んで詳細な分析検討を加える予定にしており、都民の声ができるだけたくさん反映されるように期待している。」との都知事の談。


「ボゴール市は明日満522歳」(2004年6月2日)
6月22日のジャカルタ創設記念日より早く、ボゴール市は6月3日に創設記念日を祝う。この祝典はボゴール全市をあげて行われる予定で、住民、中でも青年層が活発に各種の催しに参加することになっている。そのプログラムには、地元芸能の上演、郷土の歴史展示、無料医療奉仕、敬神賛歌と祈祷大集会、青年男女コンテストであるモジャン(mojang)・ジュジャカ(jejaka)・コンテストやバンドフェスティバルなどが目白押し。この日ボゴール植物園は無料開放され、園内でも催し物が繰り広げられる。また祝典実行委員会は例年のようにボゴール宮殿の開放も希望したが、今年は大統領選挙があることから宮殿開放は取り止めになった。
祝典のピークを飾るヘララン(helaran)は6月6日に実施される。このヘララン催事では、ボゴール市のスディルマン通りに舞台が設置され、参加者が3分から5分の芸能上演を行い、そのあとプムダ通りを経てパジャジャラン・スポーツセンターまでの道のりを歌い踊りながらパレードする。またボゴール県、スカブミ、チアンジュル、チレボン、スバン、スムダン、カラワン、ジャカルタなどからも協賛があり、友好使節が派遣されることになっている。


「住宅地区指定をビジネス地区に変更してはどうか」(2004年6月10日)
地方行政府が地域整備計画の中で定めた住宅地区では、住居を事業所に転用することが禁じられている。しかしポンドッインダ地区の目抜き通りであるメトロポンドッインダ通りを通ると、美容サロン、医療クリニック、ボディケアサロン、プレイグループ、カフェ、不動産屋などが道路の両側に目白押し。その一方で、「ポンドッインダ住宅地区で住居の事業所転用は禁止されている」という看板も目に入る。法執行が思い出したときだけ行われるインドネシアの弱点のサンプルをそこに見るのだが、同じような状況は都内のほかの住宅地区でも目にすることができる。
禁止してそれらの転用住居を封印するのは簡単だが、かれらも人の子であり、この経済危機下に糧を求めて努力しているとの配慮から、南ジャカルタ市長が都庁に対して、住宅地区に指定されているいくつかのエリアをビジネス商業地区に変更してほしいと検討要請を行った。南ジャカルタ市長の要請はクバヨランバル地区内の27ヶ所についてのもので、ダルマワンサ通り、ウィジャヤ通り、パンリマポリム通り、モギンシディ通りなどがあげられている。
ポンドッインダ地区はその中に含まれていないが、ポンドッインダ住宅地区内で住居転用事業を行っている20を超える事業者で編成されているPI事業者会は9日、都知事に面会を求めて状況を訴え理解を求めた。同会のアニサ・ミルザ会長は「都知事閣下は賢明な方で、わたしどもの訴えを真剣に聞いてくださいました。」と語っている。


「タングラン市のナイトスポットに限定地区システム導入」(2004年6月30日)
タングラン市はナイトスポットが営業できる地区を限定する制度を導入した。2004年6月10日に出されたタングラン市長令第5号では、ピナンシア商店街、リッポカラワチ、チボダス郡西パヌンガガン町がナイトスポット限定地区に指定され、カラオケ、パブ、サウナなど夜の慰安を提供する店舗がそこに集中することになる。ワヒディン・ハリム、タングラン市長によれば、限定地区外にあるカラオケやライブダンドゥッなどの店は、今後三年以内に限定地区に移転しなければならない。ホテル内の施設だけは例外で、そうでないところは三年の猶予期間が過ぎれば厳しい対応措置が取られる、と同市長は語っている。一方、指定限定地区内にある多くのナイトスポットは公式営業許可を得ていない、との声が強い。市当局はそれらの不法営業店舗に許可を出したことがないが、それらの店は不良高官をバックに着けて堂々と不法営業を行っており、市当局はそれに対してなす術がない状況だ、と情報筋は語っている。


「北ジャカルタ市が市内の緑化を計画」(2004年7月22日)
グナワン・ウィドヨコ北ジャカルタ市公園副局長は、北ジャカルタ市内にもタムリン=スディルマン通りのような一級スポットを設けるために、ヨススダルソ通りとグヌンサハリ通りを緑化する計画である、と表明した。
今後2年ほどの期間をかけて行われる全長15キロの緑化計画は、まだ予算次第の面がある、とのこと。総面積140.67平方キロの北ジャカルタ市には、理論的に196ヘクタールのオープン緑地スペースが必要とされているが、実際には105.5ヘクタールしかない。その不足を回復するために市側は、土地デベロッパーに社会公共ファシリティの規定実施を追及する一方、貧困住宅密集地区に公園スペースを設けるプロジェクトを推進する予定にしている。しかし困難がないわけではない、と副局長は説明する。
「貧困住宅密集地区での土地買上げに、住民側が要求する価格はたいへん高い。そのほか、市内全域にわたって既存の公園が放置され、転用されているものを、本来の機能に戻す。それに関連して、市はビンタロ、ジャティマス、マホニーの苗を市民に無料提供するので、それを育ててもらいたい。市民はそれを植える場所を届け出るだけでよい。しかし一般的に北ジャカルタ市の緑地は、地盤沈下のために土盛りされた道路や家屋より低くなってしまっており、雨季に冠水することが多いため、低い緑地をまず底上げしなければならない。それから公園のフェンスなどもよく盗まれるので、フェンスは土中深く埋めて互いにつなぎ合わせ、盗まれにくくしなければならない。市民に対しては、公園や緑地の維持に協力するようお願いしたい。フェンスを盗まないのは言うまでもないが、放された山羊が公園を壊すので、山羊を緑地に放さないように。」と副局長は語っている。


「スパイダーマンがジャカルタに登場」(2004年7月26日)
首都のタムリン通り北詰のロータリーを前に聳え立つ27階建てインドサットビル。その110メートルのビルがフランス人アラン・スパイダーマン・ロベルト42歳の今回のターゲットとなった。
エッフェル塔、エンパイアステートビル、ペトロナスツインタワー、シドニーオペラハウス、サンフランシスコゴールデンゲートビル、シカゴシアーズタワーなど世界の高層建築を踏破しているアーバンクライマーのかれは、ジャカルタ市創設記念の閉幕と時を同じくしてスペクタキュラー芸を披露したが、かれの登頂はそれとは無関係で、インドサット社がスターワン発売プロモーションの一環として行ったもの。
25日午前9時45分に大勢の観客が見守る中、命綱をつけずに前もってビルに打ち込まれた特性ハーケンをつかんでよじ登ったかれは、午前10時10分にはビルの屋上に到達した。このスパイダーマンは、およそ一ヶ月前にジャカルタを訪れて下調べをしたあと、三週間ほどある場所でトレーニングをしていた、と語る。そして実際の登頂を行うために、三日前にジャカルタにまたやってきた、とのこと。特性ハーケンは二週間前に設置されたようだ。次はモナスに登ってはどうか、との記者の問いに、「モナスはあまりにもフラットでつかみどころがない。モナスへの挑戦にはもっと時間をかけた準備が必要だ。」と語っていた。


「消防対策の不十分な都内のナイトスポットに閉鎖措置の方針」(2004年8月4日)
首都の火災防止対策に関する1992年度都条例第3号で規定されている消防対策を実施している娯楽施設は30%しかない。
都内に612軒あるカラオケ、ディスコ、映画館など一般市民に慰安サービスを提供する事業所のうちの428軒は消防対策が不十分である、とジョニー・パガリブアン都庁消防局長が語った。同局長はこれに関連して、都条例違反事業者にはまだ猶予を与えるが、当局の指導を無視する事業者は三度警告書を受けた後は事業所の封印もしくは事業許可の取り消し措置に至ることになる、との方針を明らかにしている。都条例の規定では、事業者は携帯式消火器設置、天井にスプリンクラーの設置、換気システムの整備、消火栓設置、非常扉の設置、避難照明とはしごの設置、火災報知器設置などが義務付けられている。これらの消防対策はナイトスポットだけが対象ではなくオフィスビルやモールなどの建物も同じで、条例違反に対してはその責任者に最高6ヶ月の入獄あるいは5百万ルピアの罰金が科されることになっている。消防局は都内およそ9百の高層建築物の38%が条例に違反していると述べている。
条例違反のナイトスポットはどれかとの問いに同局長は、個別の名前は言えないが、グロドッ、スネン、クバヨランラマなどにある店の中には、客の出入りが1台のリフトで行われるようになっているところがあるが非常口もなく、最低でももう1台のリフトを備えなければならない、と説明している。都庁消防局のデータによれば、中央ジャカルタ市にあるナイトスポットの中で規定に合格している店は7軒、32軒は火災時に危険な店、92軒はきわめて危険な店となっている。


「スマンギエクスポで巨大魚の焼き魚」(2004年8月13日)
全国のケータリング業者が結成している協会Asosiasi Perusahaan Jasaboga Indonesiaは、8月13日から15日まで都内スマンギトライアングル地区にあるスマンギエクスポで、文化観光担当国務省や海洋漁業省そして全国海産品協会Asosiasi Produk Perikanan Indonesiaとの協力下にケータリングフェスティバルを開催する。
このフェスティバルの目玉として実行委員会が用意しているのが、巨大かじきの丸焼き。このフェスティバルのテーマは『海はわが食糧の源、インドネシア民族料理はわが魅力』であり、海産品協会が提供する東ジャワ海域で獲れた体長286センチ体重260キロと体長250センチ体重200キロの二匹の巨大かじきを丸焼きにして来場者にふるまおうという企画がそれ。このために実行委員会は特注品の超巨大カンビングリン丸焼き器具を既に用意しており、初日の夜にはその焼き魚がスラウェシ独特のサンバル・ダブダブとブブル・マナドを添えて来場客に無料提供される。二日目には世界の料理コンテストが予定されており、50カ国の料理が登場する予定とのこと。
ところでケータリング協会のニン・スジト会長は、今年になってケータリング業界が雇用している人数は2百万人増加し、昨年から20%増えた、と語った。協会に加入しているケータリング事業者は1万2千社あるが、業界としては全国で2万社に達していると見られており、事業者ごとに雇用者数は50人から450人というレンジでばらついているが平均は一社百人とのこと。雇用者の学歴は半分が学校中退者で、20%が職業高校卒、残りが学士や修士となっている。雇用者の4分の1は結婚式のような不定期オーダーを受けている事業者に雇われており、残りは工場、研修所、事務所、教育機関などに毎日納品している事業者に雇われている。


「繊維博物館でシロアリ防除処理」(2004年9月7日)
西ジャカルタ市KSトゥブン通りにある繊維博物館で、建物維持保存活動の一環としてシロアリ防除処理が行われた。この処理が行われたのは9月4日と5日の二日間で、薬剤はプロストキシンが建物の隅々まで散布され、その二日間、博物館は閉館してすべての行事と活動が停止した。1976年6月28日にオープンしたこの博物館は、建物保存のために5年ごとに全館消毒が行われ、また数年前から壁の中にレントレックスを注入することも始められている。
オープン当初は、バティッ、織物、ジュンプタン、ラジュタンなどの布や織機など516点の蒐集品で始まったが、ここ二年間でおよそ二百点が新規に蒐集され、今では1,546点の蒐集品を誇っている。三ヶ月ごとに展示品は入れ替えられ、展示陳列されるアイテムはその前にまずバキュームクリーナーで清掃され、そのあとフリーザー処理がなされ、さらにほころびが繕われてから陳列台に置かれている。三ヶ月で入れ替えるのは、それ以上置くと広げられた布が緩むからとのこと。
当初は寄贈を希望する家まで博物館職員が受け取りに出向いていたが、そのようにして集められた蒐集品はラボでクリーニングされ、再生や消毒が行われてから中性紙にはさまれて保存される。古い布の保存はたいへん神経と手間を使うもので、人間の体は塩分を含んでおり、塩分は布を傷めやすいために、博物館側は陳列品には手で触らないように呼びかけている。


「スディルマン将軍像の次はディポヌゴロ像」(2004年09月14日)
2003年5月末、都内スディルマン通りにスディルマン将軍の像が建てられたあと、次の順番はディポヌゴロ通りに回ってきた。スディルマン将軍像はバンドンの制作者スナルヨが作った高さ11メートル重さ4トンのもので、これにかかった費用は民間の寄付でまかない、その見返りとして都庁は寄付者に広告設置許可を与えている。
今度のディポヌゴロはディポヌゴロ通りにある開発企画庁前の緑地帯に設置されることが予定されており、その像は現在まだ制作者のムニルがジョクジャで作っている最中。このディポヌゴロ像の制作と据付は百億ルピアの予算でなされることになっており、不動産実業家チプトラ所有のチプトラグループが寄贈する。


「ITCチュンパカマスが封鎖される」(2004年10月14日)
首都のスプラプト中将通りに面したITCチュンパカマスの出入り口が、13日午前8時からおよそ150人の群衆によって封鎖された。このトレードセンターは25ヘクタールの土地に建てられた卸商センターで、5千7百のテナントが入っており、また600店の店舗住宅と888ユニットのアパートも設けられている。
封鎖した群衆は、ブタウィ地元民の福祉向上を目的に編成されたフォルム・ブタウィ・ルンプッ(FBR)のメンバーだと名乗っている。この封鎖のためにITCに入ろうとしてやってきた商店主や従業員などの関係者や購買客、あるいは敷地から外に出ようとしたアパート居住者たちも身動きができず、周辺道路は自動車であふれて大渋滞が発生した。
ITCは封鎖した群衆の代表者を招いて要求を聞いたが、それによればFBRは近隣住民の就職をITC側に何度も手紙で要請したが、何の進展も見られないために今回の挙に出たとのこと。駐車番や清掃人で良いから職を欲しいとの要請に対してITC側は、いま求人需要はなく、またテナントに対して雇用強制はできないとしながらも、一応要求はうけたまわって何ができるのかを検討すると返事し、また採用にあたっては手続き規準があって能力をテストしなければならず、そのようなことを無視して仕事を与えることはできない、と答えている。
FBR側は交渉が終わったあと封鎖を解いて解散したが、代表者は「閉鎖はもうしない。今後はITC側との話し合いを続けていく。」と語っている。
封鎖が解かれたのは午前11時ごろで、その後渋滞は徐々に解消したが、その半日間の営業妨害についてITC側は、どのくらいの損失になるのかまだ計算していないのでわからない、と述べている。渋滞の整理のために現場に警官が来たものの、FBRメンバーの逮捕者はひとりもなかった。


「下宿屋はホテルと同じ、と都条例」(2004年10月14日)
2003年度都条例第7号で宿泊施設・短期滞在施設に対する課税制度が改定され、コテージ、モーテル、観光宿舎、ホステル、ロスメン、寮、サービスドアパートメント、ユースホステルそして10室以上を備えた下宿屋など短期滞在施設もホテル税課税の対象となった。その都条例第3条(a)項に、ホテル税課税対象は支払いを得てホテルが提供するサービスであり、宿泊施設・短期滞在施設を含む、と定義されている。この条例は2003年8月6日に制定されており、1年間の社会化告知期間を経た上で施行されることになっている。課税率は支払われた金額の10%だ。その実施が開始されたことから、都内の下宿屋、というより下宿民に波紋が広がっている。
中央ジャカルタ市南パルメラ地区に下宿住まいをするサフィトリ・ウランダリ27歳は、6ヶ月前にひと月の部屋代が27万から30万に上がったばかりなのに、大家さんはまた値上げを言ってきて、今度は35万ルピアになった、と苦悩を語る。部屋代に含まれているのは電気代、マットレス、飲料水ディスペンサーだけなのに。浴室もこの10部屋の下宿屋の中に、階下に二ヶ所しかない。6ヶ月前に民間会社に職を得て勤め始めたばかりのサフィトリにとってその家賃は支払能力を超えるものだが、引っ越すにしても今のような居住環境レベルからもっと低いところしかないなら、自分はそれに適応できるのだろうか?
クラマッラヤ通りに下宿する民間会社員パトリア・エンディウスも、一年間なかった下宿代値上げが突然やってきた、と頭を抱えている。これまで月17万ルピアだったのに、大家さんは来月から25万ルピアにすると言ってきたそうだ。どちらの大家も値上げの理由は一言も説明せず、来月からいくらいくら払ってくださいね、で終わっていたという。
コスコサンと呼ばれる下宿屋を営む市民は中央ジャカルタ市に数百人いる。ペトラ・ルンブン中央ジャカルタ市長は、天然資源を持たない首都の収入増にとって下宿屋は重要な潜在資源である、と述べている。都庁の2004年度予算の中でホテル税収入は3,065億ルピアが計上されており、その中には下宿屋からの徴税分も当然織り込まれている。中央ジャカルタ市収入局はガンビル、サワブサール、クマヨラン、チュンパカプティの四郡に3百軒の下宿屋があることを調査済みで、まずそれらを対象に徴税活動を進めているが、目標の617億に対して実現しているのはやっと51%。残る四郡では現在下宿屋調査が進められている。
中流から中の下階層にいる下宿屋の大家さんたちは、言うまでもなくこの課税に反対している。清掃、部屋の修繕、水、電気などの経費で収入はほぼ消えてしまう。薄利でやっているので、この課税は下宿事業の首を締めることに変わらない、というのだ。ハルモニ地区で10部屋の下宿を経営しているさる大家は、一部屋20万ルピアの下宿代で2百万ルピアの収入があるが、さまざまな経費でほとんど食われてしまい、ほんのわずか残った収入も、生活費の一部として消えるだけだそうだ。しかし市収入局に言わせれば、9月の下宿代に対する納税は10月で一月半の余裕がある、とのこと。大家はその税金を下宿人に引き受けさせるだけのことではないか、との市側の見解に対し、金に余裕のある下宿人などほとんどいない現実で、そう簡単に付け直しができると考えている大家はほとんどいない。
ファウジ・ボウォ副都知事は、下宿屋経営者からの強い抵抗に対し、既に決められた都条例は必ず実行されなければならないが、条例編成を強く推した都議会議員は都民の代表者としてこの実施が円滑に進められるよう都民への説得に力を貸す義務があるはずだ、とコメントしている。


「ジャカルタの有料トイレビジネスは大繁盛」(2004年10月26日)
「出物腫れ物ところ嫌わず」のことわざ通り、人間の生理現象は教育レベルも懐具合も区別なし。インドネシアのトイレは溜め込み式セプティックタンクがほとんどで、トイレに入って出してくることを、貯蓄する(menabung)という人が多い。そのせいだかどうだか、首都の有料トイレビジネスはどうやら大いに儲かっているみたいだ。
都内のモールやショッピングセンターで、外国人や金持ち層がたくさんやってくるようなハイクラスなところは別にして、プリブミをメインの客層にしているところのトイレは有料が多いように思えるが、どうだろう?もしそうなら、それは自然なことなのだろうか、それともパラドックスなのだろうか?
徴収される料金は、下は3百ルピアから上は1千ルピアまでさまざま。ボゴール植物園内も、都内のバスターミナルも公衆トイレは有料になっている。ルバッブルス・バスターミナルには9ヶ所、カンプンランブタン・バスターミナルには10ヶ所、ブロッM・バスターミナルは4ヶ所。それらのトイレは経営者がおり、ルバッブルスのトイレ番が言うには、オーナーは都庁運輸局の定年退職者だそうだ。夜になるとバスターミナルは人気がなくなるので、トイレ番は夕方には店じまい。9ヶ所のトイレは一日平均1ヶ所百人が利用するとのこと。トイレ番たちは毎日オーナーに、一ヶ所当たり7万5千から10万ルピアを納金する。手元に残った金がトイレ番のその日の収入。オーナーの定年退職者は毎日90万ルピア程度の納金を手にしているようだ。ひと月で2千7百万、一年で3億を超える。トイレ番はトイレを清掃し、石鹸やトイレ消毒剤などを自分の金から1万ルピア出して一週間分購入し、その上で手元に残った一日2万から3万ルピアの現金が手取り収入となる。毎朝6時から夕方5時ごろまで、トイレの世話をし、金を受け取り、よく何時間も座っていられるもの、とたいていのひとが首をかしげるトイレ番人生で得られる金はそんなもの。
権力を含む資本・資産持ちがますます肥え太り、かれらに使われる庶民は日々の暮らしに追われる自転車操業というインドネシアの縮図がここにも見える。


「ジャカルタは卸売りセンターの街」(2004年11月18日)
WTCやITC、そして各所の地名を冠したトレードセンターが首都のあちらこちらに姿を見せている。本来は卸売りセンターとして意図されたものだが、われわれ最終消費者が小売を求めて訪れても、拒まれたり、まとめ買いを要求されることもない。
PTドゥタ・プルティウィが建設管理運営を行っているのが都内のあちこちで賑わっているITC(インターナショナルトレードセンター)。ITCチュンパカマスは短期間にその地位を確立したが、そこからほど近いクラパガディン住宅地区エリアにオープンしたクラパガディントレードセンターは、高名なデパートが入っているにもかかわらず、いつまでたってもパッとしない。プラザスナヤン隣にオープンしたスナヤントレードセンターも似たような道を歩んでいる。
いまや押しも押されもしないファッション衣料品センターとなったマンガドゥア地区には、1万5千人の商人がパサルパギ・マンガドゥア、ITCマンガドゥア、マンガドゥア・モール、ドゥシッ・モール、ハルコ・マンガドゥアに散らばってビジネスにいそしんでいるが、2003年にはWTCマンガドゥアがその一端に加わった。ところが、5千のテナントを用意し、アメリカ資本スーパーであるクラブストアを建物内に抱えたこのWTCは、残念ながら集客が思わしくなく、テナントオーナーたちは自分で店を出すこともテナントを賃貸することもあまり熱心に行っていないようだ。このWTCはスディルマン通りにあるワールドトレードセンターとは関係がなく、業容多様化で建設セクターに進出した大手タバコ会社ジャルムがITCの向こうを張って設けたホールセラートレードセンター。そこにきて2005年には、それとほぼ同じ規模でマンガドゥアスクエアがオープンする予定。ここにはカルフルが入る計画だが、既に過剰供給の色濃い首都のショッピングセンター界に、マンガドゥアスクエアはどのようなパフォーマンスを演じてくれるのだろうか。
一方、火事で焼けた東南アジア最大の繊維市場タナアバンの再建計画が進行しているが、それとは別に、そこからおよそ1キロ離れた場所に都庁がジャカルタプサッグロシル(卸センタージャカルタ)を建設しようとしている。この卸売りセンターは、完成すれば首都最大規模のものになる予定。こうして2000年から2005年までにマンガドゥアに1万、タナアバンに2万、ヨスダルソ・クラパガディンエリアに1万、首都郊外に2万のテナントが追加され、首都圏には10万を超える売り場が数十の卸売りビルにある2百万平米の床を埋め尽くすことになる。
膨大な売り場を商人が埋め、消費者の購買力が向上し、商品の供給が増加することで、卸売り業界の活性化が実現する。従来はタナアバンとの地理的関係から優位にあったクバヨランラマ、パルメラ、カレックニガンのバティッ産業は今では地方産品の後塵を拝しているが、マンガドゥア地区とのつながりにおいては、北ジャカルタ市カプッ地区の工場やジュンバタンリマやパドゥマガンからの供給が今後は増加することだろう。
既に数十ものビルが用意された都内卸売りセンターは、繊維製品からバティッまでをカバーする東南アジア最大の市場としてのタナアバン、衣料品とファッションセンターとしてのマンガドゥア、革靴ならジャティヌガラ市場といったような、他との差別化・個性化をはかることで、安定的な発展を可能にすることができる。そして小規模産業や家内工業にとっては、それらセンターが流通窓口としての機能を果たすことが大きく期待されているのである。


「旧イ_ア銀行ビルを博物館に」(2004年12月10日)
ジャカルタ旧市再活性化計画のひとつとして、コタ鉄道駅にほど近いピントゥブサール通りの旧イ_ア銀行ビルを博物館にするという構想をバタビアアドバンスメントコミティと都庁が明らかにした。今月12日にその詳細な改装計画が公表される。
ピントゥブサール通りの旧イ_ア銀行ビルは1万4千平米の広さを持ち、博物館として使われるのはその1万平米分。改装は構造の補強、建物修理、そして電気と水系統のアップグレードを行って館内の照明と冷房を向上させるという三段階だが、外見はできるかぎり1935年当時のこの建物の姿を再現させることが求められている。この建物はもともとバタビア城市内に設けられたビンネンホスピタルだったが、日本軍政期に改装されてこの建物内で紙幣が印刷されたのがその後インドネシア中央銀行として使われるようになった由来とのこと。


「パルンの観賞魚市」(2004年12月27日)
まだ午前4時。ボゴール県パルン市場は日の出前から人出でにぎわっている。各所の市場の例に洩れず、濡れた地面から泥が粘土のように靴底にへばりつき、駐車場から30メートル歩いただけで背が数センチ高くなった。みんなあちらこちらのコンクリートに靴底をすりつけて粘土を落としている。建物の軒下の狭い路地で、商人たちは魚を揃えて客を待つ。ここは毎週月水金曜日にだけ開かれる観賞魚市。
ここは卸売市だから買いに来るのは主に小売商だが、資格など誰も問わない。10匹から250匹程度のまとめ買いをしなければならないが、単価は安い。そしてほとんどの魚が見る見る売れていく。売り手と買い手の間でタワルムナワルが行われるのがインドネシアの習慣だ。買い手は自分が用意した資金の25%や50%でまず値を付ける。顔なじみになっていれば、「友達価格だ。」と言って相場レンジの低い方で売ってくれるが、ソンボンやソッタウだと見られたら、相場を上回る値段をふっかけられる。商品は魚種とサイズに応じて、酸素を封入したビニール袋に十匹程度が小分けして入れられている。買い手は魚の姿を比べながら気に入った袋を選ぶ。高価な魚種は、高いという印象を避けるために2匹から5匹程度しか袋に入っていないから、愛好者の中には小売商へ行かないで、パルン市場へやってくる者もいる。
エンゼルフィッシュが100匹で3万ルピア、体長2インチのブラックゴッシュは5匹で12,500ルピア、金魚は獅子がしらもトッサも1匹1,200ルピア前後、パールやオランダは10匹で2万ルピア、体長15センチのブラジルアロワナは1匹5万ルピア、ベタは50匹で2万5千ルピア、ネオンは百匹4万ルピア。昨今の相場はそんなものだが、売り手に気に入られればもっと安く買うのも不可能ではない。パルンから程近いチセエンで観賞魚を養殖している売り手のひとりは、買い手が自分でも魚を養殖しているような人だと値付けに気後れする、と言う。輸出業者もここへ買い付けに来るそうだ。魚はシンガポール、中東、オランダなどへと輸出される。国内市場へは、バタム、バリ、そしてほとんどすべてのジャワ島内の町に流れていく。
朝日が暑さを増し始めるころ、市は閉まる。商人たちは売れ残りがあっても帰り支度を始める。買い手も三々五々市を後にする。午前8時をすぎれば、そこに残っているのは祭りのあとのわびしさだけ。


「首都警察にも高層ビル」(2005年1月5日)
ガトッスブロト通りとスディルマン通りが交差するスマンギ立体交差の東南角にある首都警察本部が変身を続けている。メインゲートとフェンスの改築、本館の改築と駐車場整備、構内庭園の整備とお色直しは着々と進んだ。そして次に控えているのが23階建て総床面積35,150平米の高層ビル建設だ。反テロ88特別支隊ビル(Gedung Densus 88 AT)という名のこのビル建設は、マンディリプラザ、アルタグラハ、SCBDタワー、ジャカルタ証取ビルなど周辺の高層ビルの中に埋もれてしまった感のある首都警察本部が存在感を示そうと立ち上がったように見える。建設工事は昨年9月から開始されており、工期は18ヶ月の予定。フィルマン・ガニ首都警察長官は、この建設工事は都民へのサービスに不可欠なものだ、と言う。それ以外にも首都警察は、ブカシに機動旅団ユニットD支隊統合本部ビル、パムランでは機動旅団ユニットC支隊統合本部ビルとオーディトリアム改築、そしてプタンブラン、ブカシ、パムラン、チュンカレンの警察官舎改築も行う予定にしている。
実は、警察のこの一大建設ブームの資金はいったいどこから出ているのか、という疑問を各界が表明している。首都警長官はそれに関して、政府予算と市民からの援助金だと説明しているが詳細については口を閉ざしている。民間団体「公務員監視独立社会連合(AMIPKA)」のダビッド・リドワン・ベッツ専務理事は「民間資金で官庁を建てることはあってはならない。官庁は政府のものであり、そこに個人がシェアを持ち、所有権がだれにあるなどということが起こっては絶対にならないのだ。」と力説し、だからこそ首都警察は資金の出所を明らかにしなければならない、と批判する。同専務理事は、首都警察が寄付金を入れるための特別口座を開設して、民間から寄付を募っているという情報を得ているのだ。首都警長官によれば、総建設予算は6千6百億ルピアで、そのうちの3千3百億ルピアはデンスス88ビル用であり、残りがその他の場所での工事用とのこと。そして中央政府からは750億ルピアの資金を既に受領してあるそうだ。中央政府からは更に何回かに分けて資金が与えられることになっており、この資金使用は既に国会も承認している。
ダイ・バフティアル国家警察長官は首都警察の特別口座開設に関して、その話ははじめて聞いた、と前置きし、「民間資金の寄付を受ける際には、すべてが明確にされ責任が持てるもので、またそれによる拘束は一切受けないという条件が厳守されなければならない。」とコメントしている。


「ポンドッキンダモール?建設工事は順調」(2005年1月14日)
ポンドッキンダモールと道路を隔てて今建設が進められているポンドッキンダモール?は既に屋根を置き、電気系統敷設工事を行う段階に達している。新店舗のテナント募集も既にピークを超え、9割方テナントが確定した。同モールのオーナー会社PT Metropolitan Kencanaのアンドレアス・カルタウィナタ社長は、モール?はアッパーミドルクラスを顧客対象にしており、モール?より高級感のあるショッピングサイトになる、と語る。モール?に入るテナントは一般的に上級輸入品を扱う店が大半で、商品価格は比較的高めになるそうだ。南ジャカルタ地区ではアッパーミドル層をターゲットにしたショッピングサイトが空白になっており、同社長はそこに照準を合わせている。「今年6月のソフトオープンを是非とも実現させたい。」同社長はそう述べている。


「プラザインドネシア拡張計画」(2005年4月28日)
プラザインドネシアは20万平米の床面積を持つ新ショッピングセンターの建設を計画している。現行施設の拡張として計画されているこの建設工事は今年下半期に着工し、三年後の落成が予定されているもので、そのショッピングセンターにはクラトンと命名される48階建てアパートメントと47階建てオフィスビルのツインタワーがセットになっている。
この新ショッピングセンターの青写真は経済危機前にすでに描かれていたが、危機到来で実施が延期されていた。総予算2.25億ドルの資金は外部から1.5億ドルを借上げ、残りは自己資金でまかなう予定。借入れについては7〜8%の金利率を目標に外国系銀行との交渉に入っている。


「公設市場にホテルやアパートが建つ」(2005年6月17日)
都内で151の公設市場を管理運営しているPD Pasar Jayaが15日、その一部およそ20%をモダンマーケット、ホテル、アパートなどに改築する構想を打ち出し、民間の資本参加を呼びかけた。パサルジャヤの企画はブンドゥガンヒリル市場、ブロッケム市場、パサルスネン市場、パサルンプッ市場、タナアバン市場、ラワブニン市場、ジュンバタンメラ市場など地の利の良い場所が対象になっている。
投資規模については、パサルスネンが4〜5兆ルピア、タナアバン7千億など。ベンヒルという異名を持つブンドゥガンヒリル市場の改築構想は、パサルを地下に置いてその上に52階建てのホテルもしくはアパートを建てるというもの。パサルジャヤは年内に19ヶ所の改築を行うため自己資金4千億ルピアを予算計上しているが、工費が1千億を超えるものについては民間とシェアしようというアイデアを出した。それに応えて16日には、さっそく20社のデベロッパーが参加の意思を表明している。
都内では、ハイパーマーケットの急激な販売の伸びによってスーパーマーケットが圧迫され、またトラディショナル市場はそれ以上に大きい打撃を蒙っている。全国レベルで見ればトラディショナル市場の売上は全小売ビジネスの75%を2002年は占めていたが、2004年にはそれが70%にまでダウンした。一方ハイパーマーケットは2002年に3%しかなかったものが2004年には7%に達しており、ハイパーマーケットは所在がジャカルタをはじめ大都市に限られているため、大都市における公設市場の衰退がそれだけ激しいものになっていると言えよう。


「クラパガディン、来年の開発計画」(2005年6月27日)
北ジャカルタ市クラパガディンの地域開発を行ってきたPTスンマレコンアグンが2006年の開発計画を公表した。モールクラパガディン、ガディンフードシティ、ガディンバタビアプロムナード、クラパガディンクラブ、自動車市、ブルバルラヤ通りやブルバルティムールとバラッ通りの両脇に並ぶ店舗住宅やオフィス住宅の建設は住宅地とビジネスエリアを統合させたモダン地域開発を目指すスンマレコンの業績であり、最近ではロフトスタイルの24階建てアパート「ザサミット」や地域中央ロータリーに接するラピアザのオープンなどがこの地域の活力推進のひとつの原動力となっている。
スンマレコンアグン社のヨハネス・マジュキ取締役は、1万2千平米の土地にモールクラパガディン3を建設し、駐車ビルを拡張し、また4スター級ホテルを建設するのが2006年の計画である、と表明している。


「世界ハイ生活コスト番付でジャカルタがダウン」(2005年7月12日)
マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングが毎年行っている世界の生活コストサーベイで、ジャカルタは78.9ポイントで世界144都市中の71位となり、昨年の45位から大きくダウンした。これはジャカルタが経済的に暮らしやすい街になったということではなく、為替レートのマジック。ジャカルタはダウンしたとはいえ、クアラルンプル、バンコック、マニラよりは依然として上位にいる。東南アジアで一番生活コスト高はシンガポールで世界第34位88.0ポイント。マニラは143位で、49.8ポイント。世界ナンバーワンの東京が134.7ポイントだから、マニラはその三分の一の生活費でやっていける。
インドネシア国内の諸都市を見ると、国内のナンバーワンはジャヤプラで、二位がバタム、続いてバリッパパンという順番。ジャカルタは第四位だ。5位はメダン、6位はスラバヤ、そしてバンドン、デンパサルと続く。調査対象都市の中でもっとも生活費が低い街はジョクジャカルタだった。


「日本政府寄贈カルティ二像が移される?!」(2005年8月11日)
中央ジャカルタ市タマンスラパティ前の緑地に建っているカルティ二の像を撤去して、道路名と同じディポヌゴロの像に取り替える。そのカルティ二像は、今のメンテンサッカー場を取り壊して建設されるタマンスリカンディ公園内に移される。その理由は、カルティ二像があの場所では小さすぎること、そして道路名に応じたものでないこと、のふたつ。都庁が行っている都内整備事業のひとつであるディポヌゴロ通りでの工事に関連して、都側はそのように説明している。しかし、都が行おうとしているのは歴史への暴力であり、歴史への侮蔑である、として首都改築委員会チームが都庁の計画に反対を表明している。
「メンテンの国家開発企画庁前に置かれたカルティ二像は、日本政府が1962年4月21日に戦後賠償の中で両国友好親善のシンボルとして送ったもので、場所は厳選された上で建てられている。あの場所に建てられる必然性の結果である。それはたとえば、ソ連政府が寄贈した農夫の像が今ある場所に置かれているのと同じことであり、歴史との強い関わりを持っている。道路名と合わせるためにその由緒を消し去ってしまう必然性はどこにもない。」委員会チームメンバーでイ_ア大のシニア考古学者でもあるムンダルジト博士は、そう語っている。


「マンガライは中古品市場」(2005年9月7日)
スディルマン、タムリン、クニガン一帯にオフィスを構える名の知れた会社の中には、椅子や机、応接セット、会議室セットなどを模様替えするところがある。新しいものは代理店にカタログ発注して取り寄せるが、古いものはどこへ行くのだろう?古いものは中古品市場におろされるのだ。それが総務部門の役得になっている会社もあるにちがいない。あるいは代理店へのカタログ発注をするかわりに、総務部門に安くて良い物を探して来い、と指令が飛ぶこともある。そして総務課社員が相場よりかなり安いものを探してきて褒められたりするが、それが実は中古品市場で見つけた再生品で、値段もその社員が会社に報告した価格の半分だったりする。
ジャカルタ最大の事務所用品中古市場はマンガライ。事務机や椅子、ファイル棚やキャビネット、重たい金庫まで、マンガライで見つけることができる。そこは昔、家を建て替えるときに出る廃棄建築資材をリサイクルさせる市場だった。流し台や蛇口、タイルや便器などが再生され磨き直されて新品同様に変わる。他にも自転車、子供用自転車、幼児用三輪車、ローラースケート、タイプライターなど、ありとあらゆる道具の中古品がここに集まっていた。その後オフィスが増え、事務用家具などが定期的に買い換えられるようになって、マンガライは間口を広げた。一番回転が良いのはオフィス椅子だそうだ。販売は最低でも20脚のパッケージとなる。だから払い下げ品を受け入れる店もまとめて引き取る。そしてすべてが修繕され再生される。引き取り価格は1脚10万ルピア。販売価格はその数倍になる。有名ブランド品だと新品より少し安いが、ジャミ品だと新品の半額以下。新品価格が1千万ルピアを超える重役椅子でも、マンガライへ来れば二三百万ルピアは安くなる。
事務用家具を商っている商店は、ひと月1千万から2千万の純利益があがるという。リサイクル時代の昨今、マンガライの活気は一層盛り上がっている。


「グランド・インドネシアのオープンは来年中旬」(2005年10月28日)
首都の中心地、タムリン通りの旧ホテルインドネシア跡地に建設中のグランド・インドネシアは2006年中旬に完成予定。ホテル、ショッピングモール、オフィスビル等を集合させたこのグランド・インドネシアは、ホテルインドネシア側とトゥルッブトゥン通りをはさんでその西側にある旧ホテルウィサタとを結ぶ大規模な商業コンプレックスで、モールAが8万平米、モールBは7万平米という地所を占める。このモールのひとつに、タイ最大のデパートであるCentral Department Store がアンカーテナントとして入居し、4万1千平米の床面積を占有する予定になっていることを、国内の小売業界者が明らかにした。北隣にあるプラザインドネシア、そして更に西側に今年オープンしたパサルタナアバンの分店ともいえる卸商ビル、ジャカルタシティセンターとあわせて、都心の商業エリアはまた大きな拡充を見せることになる。
来年はさらに、シンガポールで着々と業績をあげている日系デパートのひとつがジャカルタ進出を計画しているとの情報も流れており、インドネシアの小売戦線はまた活発化しそう。


「ポンドッキンダスクエアに撤去命令」(2005年12月5日)
メトロポンドッキンダ通りとジャカルタアウターリングロードが交わる南ジャカルタ市ルバッブルス交差点の南角地に今年オープンしたPOINSは、Pondok Indah Squareのアクロニム。ここにはイギリス系ハイパーマーケットのジャイアントが入居し、道路の向かいにあるフランス系のカルフルと対峙している。メトロポンドッキンダ通りから交差点を超えてルバッブルス通りに入れば、ポインスの更に東側には道路に沿ってルバッブルススタジアム、そしてバスターミナルが続いている。そのポインスに対して都知事が強制撤去命令を出した。2005年11月24日付けで都知事が南ジャカルタ市長宛に出した命令書は、PTムナラプランバナン社の義務遂行についての措置実施に関する強制撤去命令書第2990/-1.711.531号で、2ヶ月以内に建物を撤去させるよう求めている。オーナーが自主撤去しない場合は、官憲による強制撤去が実施されることになる。
この措置の理由について都庁は、ポインスは都市計画土地利用計画内に定められている利用用途に違反しているとしている。ポインスが使用している土地の中で7,351平米が公式用途に違反しており、公園緑地として2,236平米、道路および路標として5,115平米が正しく使用されていない。都議会第D委員会サヨゴ・ヘンドルスブロト議長は、その違反で都側の損失は290億ルピアと見積もられる、と述べている。この問題は数ヶ月前から都議会で議論され、10月20日には南ジャカルタ市長を召喚して解決を求めたが、市長は都知事からの命令書がないために措置を講じることはまだできない、とそのとき答えている。都議会はオーナーが自主撤去するだろうと見ているが、もし反抗する場合は特別委員会を設けて対応を取っていく考えであることを明らかにしている。



「ディポヌゴロ像建立」(2005年12月6日)
中央ジャカルタ市のディポヌゴロ通りにディポヌゴロの像が建った。場所は、かつて日本政府が寄贈したカルティニ像が置かれていた、国家開発企画庁の前。カルティニ像はいま、モナスに引っ越している。
像はチプトラグループが都庁に寄贈したもので、評価額百億ルピアとも言われている。制作者はジョクジャのムニル・パムンチャッ。馬上のディポヌゴロを描いたヘンドラ・グナワンの絵画からデザインを取ったこの像は高さおよそ4メートルで、5メートル高の台座に乗り、周囲は泉水で囲まれ、噴水が放出されればまるで雲の上を飛んでいる趣。台座にはレンドラの詩文が刻み込まれている。
この像のお披露目は2005年12月6日が予定されており、たまたまこの日はスティヨソ都知事の誕生日。都知事が唱導している「道路名に応じた像を」という計画はこれで二つができあがった。最初のものはスディルマン通りにあるスディルマン将軍像。


「マハカム通りの夜はふけて」(2006年2月2日)
南ジャカルタ市マハカム通り。ブロッケムに近いこの通りは、ショッピングに訪れる人も少なくなく、繁華な往来で終日賑わう。首都のありふれたにぎやかな通りのひとつであるマハカム通りの姿は、夜がふけるにつれてそこに別の舞台がしつらえられる。他のにぎやかな通りは夜がふけると寝静まるというのに、この通りは翌日の明け方までにぎわいが続く。
舞台に登場するのはカキリマ商人、プガメン、得体の知れない男たち、そして身体の線をくっきり見せるセクシーな衣裳に身を包んだまだ十代と思われるたくさんの娘たち。そう、マハカム通りは街娼の溜まり場なのだ。
「ねえ、どっか行く?名前を教えて?」徐行する車に近寄ってきた娘のひとりが話し掛ける。するとゲイが近くへ寄ってきて、その娘の売り込みにかかる。
「この娘はチチ。その辺の娘とはぜんぜん大違いよ。普段はXX商店街のお店番で、ときどきここへ遊びに来るの。お相手するのはショートで40万、オーラルだと20万でいいって。」オカマ言葉の売り込みには熱がこもる。連れ込む場所も決まっている。スナヤンの有名なプラザから近い場所。しかし取るかやめるかは客の権利。強制はされない。きっとチチの手を引く男が現れるだろう。まだ夜は長いのだ。
少し離れた場所にバイク野郎たちが数人、艶やかな娘たちに付き添って客を待っている。マハカム通りの端、ブルガンユースセンター寄りの道端に立っていた夜の花のガード野郎は問わず語りに話して聞かせる。「ウイークデーは淋しいね。一人か二人客が取れれば上出来だ。収穫時は週末だよ。一晩で三人から五人の客がつく。でも運が悪きゃ、客が取れないうちに警察や秩安職員の手入れに引っ掛かる。昨日は悪徳秩安にサンティが引っ掛かってよ、相手したのに金を払わない。文句がありゃ、しょっぴくって言うんだ。その前は国家警察の者だと名乗って「金を出せ」だ。いやなら拘置所だ、とよ。・・・・・」
娘たちのビジネスが展開されている一方で、グライ、サテ、アヤムバカル、ロティバカルなどの食べ物屋も路上で商売にいそしんでいる。毎晩数千人の若者たちが、夜の娯楽を求めてマハカム通りを通過する。軽い夜食を腹に送り込むにも、マハカム通りは格好の場所。プガメンたちも稼ぎ場所を求めてやってくる。ブルガンユースセンター内にあるワルンアプレシアシでは、深夜の娯楽を求める若者に経済的な慰安のひとときが与えられる。そしてスブのアザンがかなたから流れてくるころ、マハカム通りもやっとにぎやかさから解放される。だがそれはほんのひとときの静寂の時間。一時間もすれば、人々の一日の暮らしがまた始まる。昼間の暮らしに取って代わられるのだ。マハカム雀の「おやすみなさい」は夜明け前。


「スナヤンシティは4月末のオープン」(2006年2月16日)
都内スナヤンにあるブンカルノスポーツコンプレックスに建設中のスナヤンシティは既に最終仕上げ段階に入っており、デベロッパーであるアグンポドモログループの子会社で、スナヤンシティの運営管理を統括するPT Manggala Gelora Perkasa は、4月末のオープンを予定していると公表した。1.25兆ルピアをかけて7.6Haの土地に建設されたスナヤンシティは、ショッピングセンター、オフィス、ホテル、アパートメントをインテグレートした最先端を行くファシリティであり、ジャカルタで一番モダンなライフスタイルを具現する新しいスポットとして中上流階層を引き寄せることができるものと期待されている。このプロジェクトはもともと別のデベロッパーが着手していたが、計画が途中で挫折したためにアグンポドモログループがあとを引き継いでこの完成にこぎつけた。ショッピングセンターには三つの大型テナントがアンカーとして入居することになっている。イギリス系百貨店のデベンハムズ、日系家電品販売のベスト電器、フィットネスセンターのフィットネスファーストプラスがそれ。総スペースの90%は既に売却済みで、都内にまた新たな大型ショッピングセンターがオープンすることになる。


「コリアタウンは半年後にオープン」(2006年3月2日)
北ジャカルタ市クラパガディン地区とプリンティスクムルデカアン通りをはさんで南側に隣接している東ジャカルタ市プロマス地区。その広大なエリアの24Haを使って、大規模な建設工事が進められている。PTコリアワールドトレードセンターインドネシア(KWTCI)が都庁合弁デベロッパーPTプンバグナンプロマスジャヤと共同で建設中のコリアタウンがそれ。このコリアタウンでは、自動車センター、モール、娯楽施設、スポーツ施設、そして韓国の伝統家屋までが最後の仕上げに入っている。今年8月にはソフトオープンし、全面完成は11月の予定。およそ3百ユニットのオフィススペースは、韓国からのテナント申込みが相次いでいるという。コリアタウン運営者のKWTCIは、韓国とインドネシアの中小企業に入居してもらうのが理想だと語る。サムスン、LG、ダイウ、ヒュンダイなどの大手企業、そして韓国大手小売業のロッテマートが、このコリアタウンに既にスペースを手配しているそうだ。韓国外ではピザハットとスターバクスが入居を予定している。
韓国とインドネシアのビジネスマンが同じエリアの中で事業活動を行うというこのコンセプトのユニークさは、必ずやインドネシアのビジネス界にとって魅力的なものとなるに違いない、とKWTCIは確信している。韓国のIT、繊維・衣料、自動車、その他製造産業界はこのコリアタウンへの進出に熱意を示しており、インドネシアの実業界は是非このチャンスを捕まえてほしい、とKWTCI代表取締役は呼びかけている。韓国とインドネシアのビジネスを結びつける場としてのコリアタウンには、展示会場と会議場施設も備えられる。オープン後の二年間で、韓国からコリアタウンへの投資は1億ドルに達し、また2006年末までにコリアタウンでは2千人の新規雇用が発生する、と見込まれている。


「バタビア時代の歴史建造物保存」(2006年4月5日)
かつてオランダVOC時代にバタビアの中心地区の一角を占めていた西ジャカルタ市グロドッ町とタンボラ町には、2百年を超える建物はもう40ほどしか残されていない。そしてそれらの建物は取り壊されて新しいモダンなものに建て替えられ、ビジネスのために別の機能を持たされる道をたどる怖れが高い、と都庁文化博物館局分析開発次局長が語った。「残っているそれらの建物は寺院、住居、商店なのだが、寺院以外は消え去る道をたどる怖れが高い。なぜなら、その建物の前後左右はすべてもう、新しい建物に建て替えられているのだから。」もともと中華人街だったそのエリアの建物は、中国建築の影響が混じりあった独特の様式で造られている。1970年代に当時のアリ・サディキン都知事はそのエリア一帯を文化保存地区に指定しているのだが、実際には多くの建物が取り壊されてきた。
同局はピナンシア通り、ジュンバタンバトゥ通り、パテコアン地区、プルニアガアン通りなどで現場サーベイを行い、古い建物は10%程度しか残っていないことを確認している。数百年を経た大きな華人の邸宅が、既に三年間だれも手を触れようとしないまま放置されており、時の流れの中で朽ち果てていくのをみんながただ見守っているだけという状況も現実に起こっている。もしそれが復元されれば、ジャカルタオールドタウンの観光スポットのひとつとして活用できるのは間違いない。しかし歴史建造物オーナーをはじめとして地元住民たちは歴史建造物保存活動をまだよく理解しておらず、なくなってよいものと保存しなければならないものの区別、そして保存はどのように行わなければならないのかといったことの指導がなされなければ、今の状況は決して改善されないだろう。
現場サーベイで確認された二百年以上経っている古い建物には次のようなものがある。いまは幼稚園として使われているピナンシア通りにある元寺院。コタ駅近くのジュンバタンバトゥ通りには、スティアダルママルガ小学校裏に遺灰安置所がある。トコティガ裏のパテコアン地区にあるのは、アルヤマルガ寺院、プルニアガアン通り67番地のブディダルマ寺院、そしてライアントン医薬品店など。都庁はそれらの建物所有者に対して歴史建造物保存努力を称える表彰状を贈っている。


「海洋博物館が水没する」(2006年5月18日)
北ジャカルタ市パサルイカン地区。パサルイカンとは魚市場を意味するインドネシア語だが、パサルイカンには魚市場がない。もともとバタビアの港だった今のスンダクラパ港の近くに1846年、魚市場が建設された。パサルイカン通りをずっと奥まで入って行けばかつての魚市場跡地に行き当たるが、今あるのは小さい民家が建て込んでいる姿だけ。
パサルイカン通りの入口左側にVOC時代の倉庫を改造した海洋博物館がある。1652年に香辛料倉庫として建てられたその建物群はオランダ時代に西岸倉庫群と呼ばれていたもので、大量のナツメッグ、胡椒、コーヒー、茶、布などの保管に使われ、それらの商品は季節になるとそこから商船団の船倉へ移し替えられてはアムステルダムに向けて送り出されていた。建物はVOC時代の建築物に共通した頑丈な構造をしており、分厚いチークの角材がふんだんに使われていてかつての黄金時代の雰囲気をかもし出してくれる。この倉庫群は西に向かって何棟も並んで建てられていたが、もっとも海寄りの棟が1977年に海洋博物館としてオープンした。西側に並んでいた棟は長い歴史の中で解体され、今は跡形もない。
パサルイカン地区はもともと島で、パサルイカン通りはチリウン川の水を海に導く水路のひとつだった。ところが独立後その一帯に人間の居住が増えるとその水路はゴミで満たされてしまい、結局埋め立てられる運命をたどる。一方スンダクラパ港に流れ込むチリウン川がもたらす泥土を調節するために水門が設けられたため、このエリア一帯の排水が極度に悪化し、地下水が上昇して絶えざる悪臭を放つとともに湿気も高まって建築物に悪影響を及ぼすようになった。パキン通りの南を流れる水路はその対策として1981年に掘られたものだ。だが問題が解決されたわけではなかった。
海洋博物館の裏側はルアルバタン地区で、そこは入り江になっている。潮の干満で陸地側の地下水位が上下するのは当然だが、最近は満潮で入り込んできた水が、干潮になっても引かないという現象が起こっている。おかげで海洋博物館C棟の床は恒常的浸水状態が続いている。350年を超えた歴史的建造物を保存するために博物館に衣装換えしたのだが、いくら頑丈に造られた建物でも水中に浸されれば長持ちできないだろう。海洋博物館長は国際ネットワークに対策を広く問い合わせる一方、今年度予算から修繕費の追加を要請する予定にしているが、海洋博物館は一度浸水対策のためにリフトアップされた実績があり、それにもかかわらず発生している今回の状況に関係者は頭を痛めている。


「メガグロドッ」(2006年6月20日)
衣料品はタナアバン(Tanah Abang)、家電や産業機器はグロドッ(Glodok)という時代がかつてあった。いや、今でもそうだ、と反論するひとも少なくないにちがいない。それらの場所は広いジャカルタの、そしてインドネシア全土の総本山として取扱い商品と密接に結び付けられ、流通業者や職業上で専門的なものを必要とするプロたちが品物を求めてそこへ集まってきた。国内流通機構の元締め的位置付けを得たそれらの卸センターは、都内からだけでなくほかの都市からも仕入れのために流通業者が買い付けにやってくるマーケットだった。当時の首都ジャカルタにおける一般庶民のモビリティは町内からほとんど外に出ないような低いレベルにあり、町外でもせいぜいベチャに乗って近場のパサルや親族の家を訪問する程度であって、仕事や買い物のために十数キロも街中を往来するようなことは日常のアクティビティになっていなかった時代だ。だから国内観光旅行も定着しておらず、今のように他州からインドネシア人観光客がバリやジョクジャに押しかけるようなことは比較的近い過去に始まった現象である。言うまでもなくひとびとの心理の中にも、旅は訪問先の家に至る危険な道程であって、賊や病や敵意・搾取などの間を無事に潜り抜けて行かねばならない茨の道であるという観念の方が強かったようだ。ジャカルタの中流市民がバリに遊びに行こうと考えるのはまだまだ常識はずれの感覚だった。今からほんの三十数年前、ジャカルタはそんな状況の真っ只中にあった。
そんな時代であればこそ、タナアバンやグロドッが黄金時代を謳歌できたのだろう。今では都内各所に卸しセンターや専門店が林立しており、消費者を一手に引き寄せることができなくなってしまったのだから。ではあっても長期に渡って確立された名前と実力はまだまだ客寄せの力を持っている。コタ(Kota)と呼ばれるジャカルタ中華街のメイン商業センターとしてコタの代名詞にもなっているグロドッでは、中規模から大手の店は一日1億から5億ルピアを売り上げるし、1千5百店もある小規模店舗でも一日平均2千万ルピアの売上がある。合計すれば一日3百億ルピアの金が動いているグロドッはいまだにインドネシア経済の心臓部をなしていると言っても過言ではあるまい。1998年5月暴動にからんで、グロドッがインドネシア産業にどれほどの意味を持っているのかを示した逸話がある。大暴動で多くの建物が焼かれ、破壊され、商品が掠奪された。印華系商店主の多くが国外に脱出し、グロドッは三週間ゴーストタウンと化した。そのとき、今はバンテン(Banten)州となった当時西ジャワ州チレゴン(Cilegon)のとある工場で高圧パイプにひび割れができ、パイプ交換をしなければならなくなったがスペアがない。知っている限りの店を当たったがどこも在庫を持っていない。グロドッだったらいくらでもあるとどの店も異口同音に言うが、グロドッは閉まったままだ。そうこうしているうちに二週間が過ぎ、その工場は機械が稼動できないためにその間半休眠状態を余儀なくされた。八方手を尽くしてグロドッのある商店主まで連絡をつけ、必要なわずか1.5メートルのパイプ一本を買う段取りまで漕ぎつけたが、グロドッ地区の店まで取りに行くのをだれもが怖がって行こうとしない。業を煮やした工場経営者は軍に依頼して完全武装の護衛を付け、グロドッまで乗り込んだという話がそれだ。暴動が吹き荒れたジャカルタから何百キロも離れているその工場も、暴動のあおりを受けて二週間操業できなくなったのである。それがグロドッの持つ意味合いなのだ。
1990年代以降のグロドッ地区はすでに飽和状態となっており、新たな発展性は期待できなくなってしまった。周辺道路は渋滞が継続し、駐車スペースを探すのさえ苦労しなければならない。土地の価格は平米当たり1〜1.2億ルピアで、賃貸するなら1億以上は確実だ。独立以後のグロドッの発展を支えた世代は時の流れと共に否が応でも現役を退き、世代交代が進んで行く。考え方の異なる二代目たちは、すでに国内総本山でなくなったグロドッの変貌をひしひしと感じてその対策を練っていた。都内各所に卸センターが続々と建設され、大規模家電専門店が開店し、おまけにスリーインワン道路交通規制地域がコタ駅まで拡大されたことで、危機感はいやが上にも高まっていった。
こうしてグロドッ界隈の二代目若旦那たちが集まって2005年8月、クマヨラン(Kemayoran)にオープンしたのがメガグロドッ(Mega Glodok)。二代目たちはたいていが外国で大学教育を受けた新進気鋭のヤングビジネスマンであり、最先端のアイデアを実現しようとの意欲に燃えてグロドッの引越し先を作った。メガグロドックマヨラン(Mega Glodok Kemayoran)は電子技術機器、産業機器、家電品、通信機器などを商う一大スーパーブロックなのだ。そこにはモール、住居店舗、オフィス、アパートなどが集まり、グロドッより明るくて快適な空間の中でグロドッ式ビジネスが行われている。
クマヨラン地区の6Haの土地に建設されたメガグロドックマヨランは11階建てインテリジェントビルで、6フロアは小中規模の販売店が入居している。店舗スペースは基本的に買取りだが、外資系販売店には賃貸も行う。このビルにハイパーマーケットを呼んで人の動員を図ることも可能だったが、顧客セグメントが違っているため無意味なことはやめた、と二代目たちが設立したPT Jakarta Kemayoran Properti のサスミタ・ウィナタ社長は言う。限定された商品セクターを求めてやってくる消費者がその関連で興味を持つ商品は自動車やホームファーニッシングだろう。だからメガグロドッにはインテリアアクセサリー関連のスーパーマーケットHome Cientro が入っている、と同社長は説明する。中古車ディーラーにも60店のショールームが用意されており、そのレンタル料はひと月1千8百万ルピアとのこと。また将来的にはそれら中古車ディーラーの扱い商品を集めてウエッブサイトに載せるアイデアもある。購買者はまずネットで写真、スペック、価格などをチェックし、現物を見にやってくればよい。気に入ればその場で売買成立だ。
メガグロドックマヨランは売場の70%が既に売れてその半分ほどが入居済み。近いうちに3百のコンピュータ販売店も入居する予定になっている。クマヨラン地区の開発に12投資家が名乗りをあげているが、建設を実現させた商業施設はメガグロドックマヨランが一番手。計画として出来上がっているものは558メートルの世界最高建築物となる予定のムナラジャカルタ(Menara Jakarta)、ジャカルタオートセンターなど。クマヨラン地区に建っているのはアパートメントの方が多く、ブロッサム(Blossom)、メディテラニア(Mediterania)、プラッソ(Plasso)などが先に稼動している。


「6月22日はジャカルタ創設の日」(2006年6月22日)
ジャカルタ創設479周年は2006年6月22日に祝われる。都庁が開催する祝賀式典は朝、都庁職員をモナス南側に集めての朝礼集会で始まる。来場者は女性がクバヤンチム(kebaya encim)、男性がバジュサダリア(baju sadariah)というブタウィトラディショナル衣装を着用することになっている。そのあと10時から都議会で祝典総会が催され、内務大臣と都知事・都議会議長と議員の経験者が招待されての儀式が行われ、夜はモナス西側で祝賀パーティが開催される。夜はモナスの塔での光のページェントが予定されており、レーザー光線が都民の目を楽しませてくれる。モナス西側の踊る噴水も今回新しい趣向が加えられ、都民の楽しみも倍加する。ジャカルタ創設479周年記念催事はこのあとも下のように多彩な催しが企画されている。
6月23日: 北ジャカルタ市庁舎で市民体操集会とポチョポチョ踊り大会、バザーなど
  23〜25日: SCBD地区スマンギエクスポ(Semanggi Expo)でバイクウイーク
  23日18時半〜21時半: ジャカルタコンベンションセンターで2006年アバン&ノネ(Abang & None)ジャカルタ本選会
  24日20時から: アンチョルドリームランドで深夜まで若者ナイトと花火大会
  24〜25日午前9時から: クバヨランバル地区マハカム(Mahakam)・ラマンダウ(Lamandau)・バリト(Barito)通りでバリト花の日
7月2日午前6時半から: エンジョイジャカルタ国際10Kランがモナスを出発 


「ラスナエピセントラム」(2006年6月23日)
南ジャカルタ市クニガン(Kuningan)地区ラスナサイッ(Rasuna Said)通りにバクリグループがメガスーパーブロックを建設する。建設工事は今年7月に着工され、10年の歳月をかけて完成させる予定の遠大なものだ。世界にある多くのスーパーブロックは5〜15ヘクタールという規模だが、このメガスーパーブロックは50ヘクタールという規模のもので、メガスーパーブロックと呼ばれるのにふさわしい。そこにはオフィス、ホテル、アパートメント、ギャラリー、リテールウォーク、TVスタジオ、コンサートホールなど多種多様なプロパティが勢ぞろいする。ラスナエピセントラム(Rasuna Epicentrum)と名付けられたこのブロックは、特徴的なふたつのビルをアイコンとして持つ予定。ひとつはユニークな曲線でデザインされた48階建てバクリタワーで、その曲線はインドネシアに古来から伝わる短剣クリスからイメージを得たものだ。もうひとつはANTVスタジオビル。それらのビルは都内中心部に造られたアパート団地となっているタマンラスナ(Taman Rasuna)のど真ん中を流れている川の岸辺に建てられる予定であり、またその川も将来水上観光スポットに変身させる企画が立てられている。
このスーパーブロックの中心はエピセントラムウオークで、そこは250メートルのセミアウトドア遊歩道になっており、道にはショップ、カフェ、レストランが並ぶ。この道はコンサートホールとANTVスタジオを両ターミナルとして結ぶものだ。リバーサイドを利用して造られるこの遊歩道コンセプトはジャカルタで最初のものであり、川を再活性化してアーバンライフに新たな趣をもたらすものとして都民を喜ばせるだろうことは疑いない。このブロックの中には大型造形美術も潤いを与えることになる。
歩行者に優しくないジャカルタで、このスーパーブロックは建物の間に10メートル幅の歩行者専用スペースを取る。噴水、トロピカル植物や立ち木、アート、キオスクなどがおよそ5百メートルのそんなスペースを彩る。さらにブロック内の足として公共用路面電車が訪問客を随所に運ぶ。この路面電車はラスナサイッ通りを通るモノレールの駅に接して訪問客の足の便を確保することになっている。それとは別にカサブランカ(Casablanca)通りからこのスーパーブロックへ入ると、地上二階レベルがブロックの端から端までつながっているため、天候のいかんに関係なくブロック内を移動することができる。建物同士もスカイウオークで結ばれ、また地下駐車場も地下三階で各駐車場が結び合わされるため、ブロック外の道路が渋滞していれば、地下三階を移動して空いている道路に近い駐車場から外へ出ることもできる。


「プラザインドネシア拡張プロジェクトは今月着工予定」(2006年7月13日)
ジャカルタの中心部に位置するプラザインドネシアが国内最初の高級モダンショッピングセンターとして誕生したのは1990年。そしてその翌年にグランドハイヤットホテルがオープンした。そのプラザインドネシアが更にオフィスとレジデンシャル施設を加えようとしていた矢先に、インドネシアは通貨危機に見舞われた。当時都内いたるところで計画中あるいは建設中だったプロジェクトのすべてが、工事の進行を一斉に頓挫させた。あれから8年が過ぎ、プラザインドネシアはかつて描いた計画の実現に取り掛かった。プラザインドネシア拡張プロジェクトはオフィススペース41フロア、アパートメント47フロア、小売スペース6フロア総面積220,998平米という巨大なランドマーク建設工事だ。工費1.3億ドルのこの建設工事をサンヨン建設が落札した。今月から始まる建設工事は、小売施設が22ヶ月、オフィスと高級アパートメントの両タワーが33ヶ月の工期を予定しており、2009年にはすべてが稼動を開始することになっている。


「ジャバベカにコンドミニアム」(2006年9月20日)
西ジャワ州チカランのジャバベカCBDでコンドミニアムが建設されている。デベロッパーはPT Grahabuana Cikarang で、Metropark Condominium と名付けられたこのコンドは6階建て288ユニットという規模のもの。商業センターとオフィス街および住宅地が集まるジャバベカCBDメインプルバードに建てられるこのコンドはジャバベカ工業団地や周辺の工業団地にある大企業に勤めるエグゼキュティブをターゲットにしており、ジャバベカ工業団地だけでも1,235社に5千人のエグゼキュティブがいることから顧客対象は膨大な数にのぼる。
チカンペッ有料自動車道を通ってそれらの工業団地に通勤しているエグゼキュティブたちにとって、朝夕の渋滞から解放され、より多くの時間を公私の活動に費やせるメリットは小さくない。ジャカルタに住んで西ジャワに通勤しているエグゼキュティブは月に少なくとも2百万ルピアの通勤費を使っており、また酷使される自動車の維持費や償却は別に発生する。
ジャバベカ側はかれらエグゼキュティブの住居の便を考慮して、一般住宅地のほかに豪奢な下宿パビリオンやコンドミニアムを用意する計画を立てており、コンドミニアム建設がいま先に進められている状況だ。このメトロパークコンドミニアムは投資対象としても有利なもので、月150〜200万ルピアの家賃でキャピタルゲインとは別に年間の投資イールドは12〜16%もある。このコンドミニアムは144ユニットが先に発売されることになっている。


「パンチョランの次はアセムカ」(2006年9月27日)
バタビア旧市街整備の一環でグロドッパンチョラン(Glodok Pancoran)通りの工事が8月末から開始されているが、西ジャカルタ市はその工事に引き続いてアセムカ通り(Jl Asemka)の整備を行う計画であることを公表した。およそ3百メートルを経てカリブサールバラッ通り(Jl Kali Besar Barat)につながるこの通りの整備は、現在およそ90人のカキリマ商人が道路脇を占拠しているため、かれらに優遇条件を与えて立ち退かせる仕事から始まる。この道路は3メートル幅の歩道が確保され、その地区の状況は1997年以前の状態に戻される。かつてそのエリアは整然としていたが、経済危機と98年5月暴動以来、混乱と猥雑に取って代わられていた。この道路の整備工事は2007年に行われる。


「ブカシの乞食村」(2006年11月6日)
夜8時半、この村はまるで今目覚めたかのように賑わいはじめた。子供たちは路地で走り回り、大人の男たちが数人、ワルンの脇でカランボルを遊び始める。そこから近い別のワルンでは大人の女4人男2人が商売道具の準備をしている。男は太鼓、女はテレコを納めた箱を持っている。ここブカシ市メダンサトリア郡カリバル町のプロニャマンとカンプンバルのニ部落からかれらおもらい乞食とプガメンたちが都内のパサルにこれから出かけようというのだ。
75歳のスキルマンはワルンの隣につながっている貸し部屋に戻ってきた。目の悪いかれはバッグの中から手探りで部屋の鍵を取り出してゆっくりとドアを開く。頭も顔を覆っているひげも真白のかれは4年前から左目に白内障を患い、右目も良く見えなくなっている。1.5x2メートルのその部屋は木のベッドで半分が埋まっており、部屋の隅には安物の棚が置かれている。はいていたズボンを脱いでサロンにはきかえてから、かれは今日の稼ぎを数えはじめる。夕方から夜までの稼ぎで得た金は3万3千5百ルピア。「今日わしゃマグリブから出かけてさっき帰ってきたんじゃが、今年のプアサはみんなよく喜捨をしてくれるようになった。ほれ、小銭と札がこんなに。おまけにミカンを四つも。」自宅をスマランに持つスキルマンは4年前に目を患ってから毎年ラマダン月のおもらい乞食で稼ぐために上京するようになり、2年前からここに定住するようになった。家賃は電気代込みで月7万5千ルピア。ついこの前までは5万ルピアだったとスキルマンは言う。目を患う前かれは子供相手の手品で稼いでいた。しかし最近の子供は手品よりもブラスチック玩具の方を好むようになったそうだ。目を悪くしたかれは稼業を乞食に変えた。ブカシから東ジャカルタのチャクンまで何キロも歩くのがかれの日課となった。パサルなど人の集まる場所でおもらいをするためだ。
プロニャマンとカンプンバルの二部落は乞食村として知られている。ブカシグランドモールショッピングセンターの裏で、クランジ鉄道駅からも近い位置にあるそのニ部落は、面積1ヘクタール未満だがそれぞれ65世帯と100世帯が住んでいる。勤め人や商売人がいないわけでは決してないのだが、住民の大半は乞食、プガメン、廃品回収業などを稼業としており、ブカシ一帯では乞食村という名前の方がよく通っている。
しかしそんな稼業ではあっても、かれらは道端に寝るような浮浪者暮らしとは無縁で、スキルマンのような貸し部屋や小さいながらも借家を借りて住んでいる。1.5x2メートルの部屋に三人が住んでいるというところもあるにはあるが。スキルマンのようにその村に住み着いた者もあれば、ルバラン期の季節労働者としてニ三週間だけ部屋を借りる者もいる。かれらはたいていインドラマユ、トゥガル、スマランなど中部ジャワや西ジャワの出身者だ。乞食村と呼ばれていることを決してよしとしているわけではないが、村は秩序整然としており治安も悪くないことに村役たちは誇りを抱いている。


「首都圏にまたモールがオープン」(2006年11月8日)
ジャボタベッ(Jabotabek)地区に新規オープンした三つのモールが首都圏ショッピングセンタースペースを19.5%増加させた。ボゴールのベラノバカントリーモール(Bellanova Country Mal)、東ジャカルタ市のタマンミニに隣接するタミニスクエア(Tamini Square)、タングランのスルポンタウンスクエア(Serpong Town Square)がそのモールで、そのためにショッピングセンター売却スペースの総供給量が増加している。一方首都圏のショッピングセンタースペース需要は今年第三四半期に前期から0.6%アップしてスペース占有率が96.7%となったが、これはモールタマンアングレッ(Mal Taman Anggrek)とクラマッジャティインダ(Kramat Jati Indah)で小規模小売業者のテナントが増加したため。
今年第三四半期の対前年比を見ると、スペース占有率は上記の96.7%で1.8%増加したほか、スペースストックは7.5%アップし、また賃貸料も3.6%上がっている。月別に見れば賃貸料は安定しており、平米当たり30.5万ルピアというレベルにある。
売却スペースのほうは今年7月に0.4%増加して94.2%となった。これはジャカルタシティセンター(Jakarta City Center)とチリリタン卸センター(Pusat Grosir Cililitan)での小売スペース売却によるもの。その月には併せて平米当たりの売却価格も上昇しており、47,351,804ルピアから47,940,389ルピアとなっている。この価格上昇はメガグロドックマヨラン(Mega Glodok Kemayoran)の小売スペース価格調整に大きく影響されている。


「チアテルに花の大農園を建設」(2006年12月13日)
韓国フロリスト協会がインドネシアの企業と共同で西ジャワ州に広大な花の農園を建設する。2千8百ヘクタールの農園が作られるのは温泉施設があるので有名な西ジャワ州スバン県チアテル。このプロジェクトに参加するインドネシア側企業はPT Indosky Media で8千億ルピアを投じて2007年に花農園を建設する予定。世界最大規模となるこの農園には種苗開発センターや競り市場が設けられ、世界中から買い付け業者が集まって厳選された製品を購入し、そこから世界に向けてどんどん輸出されていく、というシナリオが描かれている。韓国フロリスト協会は、インドネシアで生産すれば国際市場で価格競争力を持てる花や観葉植物が2百種ほどあり、その商業生産、研究開発、生産技術、包装テクニックなど最先端の技術を応用して輸出志向産業に育てることができると述べている。事業を開始して一年後には、この農園を会場として国際的な花のフェスティバルを開催する企画が早くも立てられている。そのフェスティバルはインドネシア民族決起百周年を記念してのものとなる。


「シマトゥパン通りが新興オフィス地区に」(2006年12月15日)
南ジャカルタ市南部を東西に貫く自動車専用道路がジャカルタアウターリングロード。その自動車専用道路を中に包み込んで走っている一般道路でファッマワティ通りとジャゴラウィ自動車専用道路タマンミニインターチェンジの少し手前あたりで切り取られる区間がTBシマトゥパン通り。いまシマトゥパン通りがオフィスハンターたちの間で脚光を浴びている。
道路の両側に続々とオフィスビルが立ち並びつつあるこのエリアは、スディルマン・タムリン界隈の中心ビジネス地区に匹敵するビジネスセンターに育ちつつあると不動産オブザーバー、パナギアン・シマヌンカリッは語る。近年激しさを増している都内の交通渋滞のせいで、たいていの勤め人は職住近接への要望を深めており、シマトゥパン通りはジャカルタ南部でエクスパットが住むクマン地区やポンドッキンダ地区から近い位置にあるし、さらにはもっと南部の新興ベッドタウン、ブミスルポンダマイと自動車専用道路で結ばれ、あるいはチブブルをはじめとするジャゴラウィ自動車専用道路沿線の住宅地からの足の便もよいため、従業員の通勤も楽になる。賃貸料金はまだそれほど高くなっておらず、都心部でその料金レベルはもう望むべくもないとパナギアンは指摘している。
シマトゥパン地区にはオフィスビルが11軒建てられ、そのうち3軒はスペースがフル稼働状態だ。ビル管理会社は高い需要が続いているとコメントしている。


「シマトゥパン地区で職住近接を」(2007年1月18日)
ジャカルタアウターリングロードを中にはさんで走っている南ジャカルタのTBシマトゥパン(Simatupang)通りが、新興オフィス&住宅エリアとしていま注目を集めている。西はグラハエルヌサ(Graha Elnusa)から東は鉄道線路を越えたアンタムビル(Gedung Antam)までを両端とするその区間にはさまざまなオフィスビルとアパートが続々と立ち並んでいる。南ジャカルタ市南部を東西に横断しているアウターリングロードがシマトゥパン通り地区に大きいメリットを提供している。この地区へのアクセスは都心部から近い距離にあること、南西部のブミスルポンダマイ(Bumi Serpong Damai)住宅地区との自動車専用道路でのダイレクト連絡、タマンミニ(Taman Mini)ジャンクションを経由してのジャゴラウィ(Jagorawi)自動車専用道路とのダイレクトの連絡、そしてチクニル(Cikunir)ジャンクションが開通すればブカシ(Bekasi)方面ともダイレクトの連絡が開かれるようになる。アウターリングロードは全線開通すれば都内からスカルノハッタ空港に向かうスディヤッモ(Sediyatmo)自動車専用道路ともプンジャリガン(Penjaringan)で接続するため、空港に到着したビジネスゲストをシマトゥパン地区に迎えるのもたいへん楽になる。ましてやデポッ(Depok)地区から都内へのバイパスとして新しい自動車専用道路がシマトゥパン通りと接続する予定もあり、ジャボデタベッ(Jabodetabek)での交通の便のよさは都内屈指の地の利を誇ると言える。都市開発オブザーバーは、2009年にはシマトゥパン地区が都内新興ビジネス&オフィス地区としてトップクラスに位置付けられるのは疑いないと予測している。
これまで都心部のスディルマン(Sudirman)〜タムリン(Thamrin)〜クニガン(Kuningan)のCBDビジネス&オフィス地区が都内ナンバーワンの座に着いていたが、幹線道路でのスリーインワン交通規制、激しい交通渋滞、一等地という要因による高額な家賃、建物の平均年数が築後17年と老朽化していることなどによって魅力が減退しており、もっと条件の良い新興エリアが出現すればそちらへ移る会社が出ることは避けられない。業界者の中には都心CBDと新興エリアが共存すると見ている者もあれば、都心CBDから入居者が新興エリアへ脱出する動きが始まっていると語る者もある。多くの顧客を相手にするビジネスであれば都心部のCBDが持つ意味合いはまだ強いものがあるが、石油開発のように限られた顧客を相手にしている会社は心置きなくシマトゥパン地区の便宜を享受しているようだ。シェル石油はグラハエルヌサとラトゥプラブ(Ratu Prabu)1に、コノコフィリップはラトゥプラブ2に、ブリティッシュペトロリアムはアルカディア(Arkadia)ビルに、それぞれ広大なスペースの事務所を開いている。
シマトゥパン地区が持っているもうひとつのメリットはアッパーミドル層向け住宅が豊かなバラエティで勢ぞろいしていることで、エクスパットに人気のあるポンドッキンダ(Pondok Indah)やクマン(Kemang)といった住宅地区に近いことのほか、アウターリングロード沿線にもビバリータワー(Beverly Tower)、ウィスマラハルジャ(Wisma Raharja)、ムナラビドゥリ(Menara Biduri)、チランダッ(Cilandak)アパートメント、エメラルド(Emerald)、パラマ(Parama)、ヴィキラ(Vykira)などの高層住宅が立ち並んで入居者を待っている。


「全国一の人口稠密地区」(2007年3月1日)
中央ジャカルタ市ジョハルバル(Johar Baru)郡。チュンパカプティとクラマッ地区にはさまれたガルル、タナティンギ、カンプンラワ、ジョハルバルの四町から成るこのエリアには40RW(Rukun Warga 日本軍政期の字に該当する)があり、そのうちの33は貧困層居住地区だ。このジョハルバル郡が十数年前から全国一の人口稠密地区となっている。面積238Haに公的には107,701人の住民が住んでいることになっているものの、無届居住者を加えると総数は13万人を超える。1平方キロ当たりの人口密度を計算するとオフィシャルには45,252人だが、実態は5万4〜5千人になる。小さな仮設住居が密集しているこの地区では3x2メートルの小屋に一家で住んでいるのなど当たり前。そんな家のひとつに住んでいる住人は、そこでもう15年暮らしてきた、と語る。奥さんはコーヒーワルンを開き、揚げ物を売っている。ご主人は屑拾い。三人の子供を育て、長男はそこから百メートルほど離れた場所に家を構えて独立した。この家の床はコンクリートを流してあるが、天井はベニヤとビニールシートが使われ、壁は一部がレンガで他はベニヤ板を貼りあわせたもの。屋内にはベッドがふたつ置かれてむさくるしいカーテンとベニヤ板で仕切られている。表戸は木製で、それをおろすとワルンの机に早変わりする。あとはベンチを置いて飲食品を並べればカフェのできあがりだ。料理のための灯油コンロは家のまん前に鎮座している。中には大所帯の家族が狭い住居に暮らしているため、全員が一度に同時に屋内で寝られない。そのために順繰りに家の中で眠るというシフト制を取っている家庭もあるという。
ジョハルバル郡長は、このような生活環境の改善はアパート建設に求めなければならない、と言う。しかし住民の多くは住宅証書を持っており、そのために居所を明渡すのに平米あたり2百万ルピアの補償金を要求している。郡役所にとってその金額は高すぎるものだ。細かい仮設住居がびっしりと並んでいるこの地区は、中に入るとまるで迷路のようになっている。どこまでが住居でどこが通路なのかがまるで判然としない。側溝があるためにもともとは狭い通路だったと思われる場所も、側溝は板でふさがれてその上に小屋が建てられ、そして雨をしのぐために広くビニールシートが頭上に張られてアーケードをなし、薄暗いそんな通路を進んでいくといくつもに枝分かれした通路のどこかに迷い込んでしまい、どっちへ行けば戻れるのかわからなくなる。そのような環境では犯罪が身近な友となりやすい。麻薬売買の巣窟がその中に潜んでいる可能性は高いようだ。もうひとつの問題は病気の巣窟でもある。いまジョハルバル郡の四町はすべてデング熱赤信号点灯地区になっている。


「首都のオフィススペースは431万平米」(2007年3月7日)
2006年第4四半期に完成した5つのオフィスビルがジャカルタのオフィススペース総供給量を4,314,627平米に引き上げた、とインドネシア銀行不動産サーベイが報告している。その5つのビルとはIndofood Tower, Beltway Office Park A, Ratu Prabu, Plaza Marein, Menara Kuningan で、インドフードタワーだけがCBDに立地し、他のビルは非CBDエリアに建てられている。2006年第4四半期のスペース入居率は86.1%から85.1%に低下しており、その5ビルにとっては厳しい時期のオープンと言えるだろう。第4四半期の入居率低下は、賃貸ビルからストラタタイトル販売ビルにいくつかの会社が移転したことで起こっているようだ。首都のオフィススペース需要は依然としてIT、銀行、保険、鉱業、石油ガスなどの業種がメインを占めており、市場全体では平米あたりの月額賃貸料が109,086ルピアで前四半期の109,084ルピアと変わらず、一方買取スペースは平米あたり12,176,772ルピアでこれも前四半期の12,176,772ルピアと横並び。賃貸料を地区別に見ると、CBD地区は平均121,950ルピア(13.52米ドル)でAグレードが163,987ルピア(15.19米ドル)Bグレード110,400ルピア(12.24米ドル)Cグレード100,490ルピア(11.14米ドル)、非CBD地区は平均83,000ルピア(9.20米ドル)となっている。
バンドン地区での同サーベイ報告はスペース入居率が96%から97%にアップしたと報告している。スペース総供給量は17,156平米から17,410平米に増加し、一方賃貸料は平米あたり月額92,500ルピアの線が維持されている。ところがバンドン地区の商業ビルは平米あたり月額賃貸料が201,000ルピアから204,000ルピアにアップしたこともあってテナント入居率が61%から57%にドロップした。商業スペース供給量は104,536平米とのこと。


「首都にオフィスビルが続々完成」(2007年3月14日)
首都のオフィススペースは売却より賃貸スペースが圧倒的に増加する傾向を見せている。コリエールズインターナショナルインドネシア取締役は、2007年から2008年にかけて市場に供給されるオフィススペースでは賃貸スペースが大半を占めているため、これからは賃貸方式が圧倒的に優勢になるだろう、と述べている。オフィススペース市場は決して好調と言える状況でないものの、今後の1〜2年間に予定されているスペース供給量はたいへん大きなものがある。コリエールズ社の市場四半期報告によると、2006年の第4四半期は4軒のビルが88,282平米を新規供給したことでCBDの総供給量は335万平米に達し、非CBDエリアも2軒のビルが42,534平米を追加したことで146万平米となった。賃貸料金については、第4四半期の平米当たり賃貸料は78,831ルピアで第3四半期の78,683ルピアと変わらない。プレミアムクラスは83,894ルピアに下がり、Bクラスは70,139ルピアにアップしている。続々とオープンが予定されている都内オフィスビルの詳細は下の通り。(ビル名・場所・スペース用途・完成時期)
[CBDエリア]
Menara Karya Rauna Said 賃貸と売却   2007年第1四半期
Satrio Tower Satrio 賃貸       −
BCA Tower Thamrin 賃貸       2007年第3四半期
Menara Palma Rasuna Said 賃貸       −
Sentral Senayan 2 Senayan 賃貸       −
Menara Prima Mega Kuningan 賃貸と売却   2007年第4四半期
The East Mega Kuningan 売却       2007年
Senayan City Forum Senayan 賃貸       2007年
Pacific Place Senayan 賃貸       2007年
Graha Energi Sudirman 賃貸と売却   2008年第2四半期
Menara DEA 2 Mega Kuningan 賃貸       2008年
[非CBDエリア]
CBD Pluit Pluit         売却   2007年
GP Tower (The Bellezza) Permata Hijau   売却   2007年
Mega Glodok Kemayoran Kemayoran     売却   2007年
Graha Meruya Kebun Jeruk    賃貸   2007年
One Wolter Monginsidi Kebayoran Baru  賃貸   2007年
Wisma 76 Slipi         賃貸と売却  2007年
Recapital Kebayoran Baru  賃貸   2007年
Wisma Pondok Indah Pondok Indah   賃貸   2007年
Talavera TB Simatupang   賃貸   2007年
Treva Kebayoran Baru  賃貸   2007年
Menteng Office Park Menteng       賃貸と売却  2007年
The Boulevard Tanah Abang    売却   2008年第4四半期
Menara 165 TB Simatupang   賃貸  2008年
Pluit Junction Boutique Office Pluit       賃貸   2008年
Office at Simatupang TB Simatupang   賃貸   2008年
Cyber 2 Tendean       賃貸と売却  2009年


「都内CBD地区は値上がり傾向」(2007年3月22日)
都内のCBDは不動産価格が年々うなぎのぼりになっており、中でもこの先数年間はラスナサイッ通り沿線が年率20%で上昇するだろう、とインドネシア不動産研究センター上級アドバイザーが語った。過去四年間のCBDにおける不動産価格上昇は年平均15〜18%もあり、スディルマン通りは13%、ガトッスブロト通りは16%、ラスナサイッ通りは15%といったレベルだが、この先2010年ごろまではラスナサイッ通りでのスーパーブロック建設の影響でそのエリアの値上がりは年率20%に達するだろうと同アドバイザーは述べている。ラスナサイッ通りのスーパーブロック建設はPT バクリランドデベロップメント社が開発するラスナエピセントラムと名付けられたビジネスとライフスタイルを統合させる新たな機能を持たせた都市開発構想によるもので、この大型開発によって周辺エリアの地価も上昇するだろうと見られている。もうひとつは、ここ数年間アグレッシブな開発が展開されたメガクニガン、タムリン通り、スディルマン通り、スナヤン地区などと異なり、ラスナサイッ通りエリアは過去数年間他のCBDエリアに比べて開発が低調だったことが不動産価値をよそ以上に押し上げる要因になるものと予測されている。
バクリランドが2006年から着工をはじめたラスナサイッ通りエリアの開発は、やはり同社が1983年に開始したタマンラスナアパートメント建設の再来を思わせるものだ。コリエールズインターナショナルインドネシアもCBD地区にある売却用アパートメントの価格が上昇するだろうと予測しているのは、こちらも同じ市場傾向を把握してのものと思われる。2006年のCBD地区ストラタタイトルアパートメントの売却価格は平米当たり1千4百万ルピアに下がり、一時期は1千2百万ルピアという底値を記録した。しかしいま建設中のアパートメントの多くは平米当たり1千6百万ルピアで売り出されようとしている。オフィススペースも同様で、新築ビルの事務所スペースは若干高めの値付けが行われそうだ、とコリエールズは報告している。


「マンガドゥアスクエア」(2007年3月28日)
グヌンサハリ通り北端三叉路を南に下ってくると道路の右手にある運河の向こうに大きなショッピングセンターが建っている。それはWTCマンガドゥアで今回の目的地ではない。WTCをたいていのひとはWorld Trade Center と勘違いするようだがこのWTCはWholesalers Trade Center の意味で、ニューヨークを本拠とするワールドトレードセンターのネットワークとは縁もゆかりもないそうだ。何年か前に爆弾テロ予告のターゲットにされて大騒ぎになったときこのビルの管理者がそう説明していたので間違いないにちがいない。
さらに進むと交差点があって右側の広い道路とクロスする。その道路がマンガドゥア大通りで、そちらに曲がれば道路北側にはITCマンガドゥアやパサルパギ、南側にはハルコマンガドゥアやドゥシタニホテルに隣接するモールマンガドゥアなど、この地区を一大ショッピングエリアに仕立て上げた大型商業施設が並んでいる。さらに西進して行けばコタ駅の南側に出てピナンシアからハヤムウルッ通りへとつながって行く。
さてその交差点を超えるとふたたび大きなショッピングセンタービルが出現する。それが今回の目的地、マンガドゥアスクエア愛称M2S。10Haの土地に立てられたこのトレードモールは16階建てビルの8フロア−に3千のテナントを擁してワンストップショッピングポリシーを競い、商品レンジの完璧さは都内有数のものであると豪語している。地階にはアンカーテナントとしてカルフルが入り、3階にはスルヤシネマがさまざまな映画を上映している。ファッションとアクセサリー、ベビー子供用品、メガネ、家電品、携帯電話、インテリアやカーテン類、貴金属宝飾品、漢方医薬品やクリニック、マッサージ、ゲーム玩具などさまざまなカテゴリーの商品を販売する店舗や売店が各階を満たしている。モールに使われていないフロアには四つ星級ホテルのノボテルマンガドゥアスクエア、5〜7階にはサンドインターナショナルクラブがカラオケ・食事・スパのサービスを提供し、最上階には5,250平米のJakarta International Exhibition Center (JITEC)と1,008平米のプリファンクションルームがあって展示会やショーあるいは大規模パーティなどの開催に利用することができる。最近の呼び物として話題を撒いているのは1,550平米という広大なフロアに設けられた1st Computer Square 。コンピュータ本体から周辺機器、そしてありとあらゆるアクセサリー類およそ9百ブランドを一堂に会し、ユニークなディスプレーで消費者に展示販売するこのスーパーストアを訪れれば、IT関連のお買い物はそこで事足りるにちがいない。これまでコンピュータ関連アイテムのメッカだったモールマンガドゥアとの間でしのぎを削る商戦が展開されれば、消費者にとってはうれしい日がやってくることだろう。
施設管理者はまだいくつか空いているスペースを近々埋める計画を立てている。南入口ゲートには中国風デザインの大門を設置してThe New Indonesian Chinatown コンセプトのイメージ作りを進める考え。そして商業施設に欠かせないのが食の要素で、有名食品ブランドやレストランはモールの中に既に店開きしている。KFC, A&W, Bread Talk, J-Co, Es Teller 77, Sari Nusantara, Bakso Lapangan Tembak, Te He Vegetarian ・・・。炭火庵やガンガンスライも三階に店を出している。そこにきて今度はモールの裏側に香港風フードセンターを設ける構想が進められている。これはM2Sのトータル飲食サービス企画に変化をもたらすものであり、この香港風フードセンターの完成と同時にビル内三階にあるフードコートも改装が施されて新装開店となる予定。それとは別に道路レベルに設けられたオリエンタル風夜食センターではインドネシア地元食品22店とオリエンタル食品16店の合計38店が夕食夜食おやつを求めるお客のためにいつでも調理をしてくれる。パゴダフードシティと命名されたこのコーナーは毎夜17時から24時まで営業し、週末は深夜2時まで開店している。M2S管理者はそのほか24時間営業のゲームセンターやフィットネスセンターをモール内に設ける計画を立てている。


「シマトゥパン地区のオフィススペースは倍増する」(2007年4月24日)
新興オフィス地区として脚光を浴びている南ジャカルタ市シマトゥパン通りはこの先3年間で344,787平米のオフィススペースが追加されるとコールドウエルバンカーコマーシャルインドネシア取締役が語った。今シマトゥパン通りでは15のオフィスビルが稼動して368、783平米のスペースを供給している。そこに加えて8のオフィスビルが建設されることから、この先3年間でスペース供給はほぼ倍増することになる。
今このエリアのオフィススペース賃貸料金は平米あたり月額9〜13米ドルで、都内のCBDに比べるとまだまだ競争力は高く、おまけにスリーインワンのような交通面の障害もない。土地価格もファッマワティ通りとの交差点周辺を中心にしてポンドッキンダ方面に向かえば平米あたり6〜8百万ルピア、また反対にパサルミング方面に向かえば平米あたり6〜4百万ルピアという相場になっている。首都圏の不動産市場では、賃貸料金は2009年ごろまで大きい変動はないだろうと業界筋は見ている。オフィススペースに関して言えば、ストラタタイトルでの売却物件は大幅な減少傾向を示し、新規開発オフィスビルのほとんどは賃貸物件をオファーするようになっている。これはこの先2年ほどの間に実業界のビジネス拡張や新規会社のビジネス開始が増加するだろうことを睨んで不動産業界が選択している戦略と無縁でない。コリエールズはオフィススペース供給側の競争激化が賃貸料金の変動を抑制して安定させるだろうと分析している。2006年第四四半期の都内平均賃貸料金は平米当たり月額78,683ルピアで、第三四半期からほとんど変動していない。プレミアム物件は平均83,894ルピアで二級物件は70,139ルピアというデータが2006年第四四半期のものだ。


「メンテン商店街が変貌する」(2007年4月24日)
中央ジャカルタ市メンテンの旧サッカースタジアムを改装したメンテン公園(Taman Menteng)の完成でHOSチョクロアミノト通りは路上駐車禁止となり、タマンメンテンに建てられた2百台収容の駐車場ビルがチョクロアミノト通りのメンテン商店街を訪れる車の駐車場所となる。駐車場ビルの料金は従来の路上駐車と同じで最初の2時間が2千ルピア、3時間目以降が1時間1千ルピアとなる。チョクロアミノト通りの駐車禁止はタマンメンテンのオープニングから1週間前の2007年4月22日から実施される。
2006年半ばから建設工事が始まったタマンメンテンは2007年4月28日に公式オープニングを迎える。このオープニングと路上駐車の排除で開放されたチョクロアミノト通りの歩道では、夕方から夜にかけてカキリマ屋台によるオープンエアーのカフェが出現するようになる。屋台は横丁など表通りから見えにくい場所に配置させ、歩道にはテーブルといすが並べられて庶民が夕べのひと時を楽しむことができる場所にする計画。これはサバン通りで行われているものの再現となる。


「バリト通りは鳥や熱帯魚のメッカ」(2007年05月03日)
南ジャカルタ市クバヨランバルのバリト通り(Jl Barito)はジャカルタ南部の鳥市場として有名だ。この通り沿いには鳥・花・観賞魚を販売する小さい売店が2百軒ほど並び、それらを趣味とする都民が集まってくるメッカとなっている。ブルネイ国王もここを訪れたし各国外交官もやってくるという由緒正しい場所で、ここの商人たちはもう30年も前からそこでの営業を続けており、このエリアにおける年商は480億ルピアにのぼる。外資系企業や外国公館が催し物を企画すると、会場を飾る花の仕入れはこのバリト通りにやってくることが多いそうだ。そんなときには一回のオーダーが2〜3百万ルピアに達する。商人のひとりは、カナダ大使館が花を買うときはいつもうちに注文してくれる、と語っている。そんなバリト通りで生計を立てている人口は5千人に達する。
都庁公園局はバリト通り沿いにあるそれらカキリマ売店を撤去するという計画を決めた。かれらカキリマ商人たちは高レベルの収入を得ており、もっとハイクラスの場所に移って事業を行うべきであって、いつまでもカキリマビジネス形態を続けているのはふさわしくない、と公園局長は語る。この計画は十分に練り上げられたものであり、既に商人たちとの対話も始められている。しかし商人たちはそこでの営業が環境汚染や公害を引き起こしたり、あるいは都市の美観を損ねているようなことはない、と反論している。クバヨランバルの風物詩だったバリト通りの鳥市場の運命もいまや風前の灯火となっている。


「南ジャカルタでスーパーブロック開発が盛ん」(2007年6月8日)
南ジャカルタ市でスーパーブロック開発が進められている。PT リッポカラワチ社がパゲランアンタサリ通り(Jl Pangeran Antasari)に隣接したクマン地区で広さ12ヘクタールの土地に建設を予定している混成用途プロジェクトはクマンビレッジ(Kemang Village)と名付けられ、第一フェーズでは40階の高級アパートメント3棟と総床面積7万5千平米のモールが作られる計画になっている。続くフェーズではプリタハラパン(Pelita Harapan)グループが運営するナショナルプラス級学校、29階建て325室にコンベンションセンターまでも擁するアルヤドゥタリージェンシー(Aryaduta Regency)ホテル、ベッド数250にウエルネスセンターをも併設するシロアム(Siloam)病院などが建設される。投資総額6兆ルピアというこのエリア開発とは別に、同社は西ジャカルタ市クンバガン(Kembangan)でもパラゴンシティ(Paragon City)と命名したスーパーブロックの建設計画を進めている。この二件のエリア開発は2006年末に工事開始が計画されていたが2007年央に変更されて確定した。
クマンビレッジに近いクバヨランラマ(Kebayoran Lama)のガンダリア(Gandaria)地区でもスーパーブロック建設計画が進展しており、こちらはガンダリアメインストリート(Gandaria Main Street)と称するパクウォングループのプロジェクトになっている。


「グロドッ地区の店舗ビルは閑散」(2007年6月8日)
かつて電気製品・電気部品・工作機器等の販売のメッカだった西ジャカルタ市ハヤムウルッ通り北詰に並ぶ店舗ビルは98年5月暴動の犠牲となった後建て直されたが、どうやら黄金時代はもはや過去のものになったようだ。リンドテベス(Lindeteves)トレードセンター、パサルグロドッ(Pasar Glodok)、パサルリンドテベスなど商業エリアとして活気溢れる地区にも表扉を開けない店舗が増えた。3階建てのリンドテベストレードセンターは1千軒を超える売店が閉まったままになっており、エリアによってはあたかもゴーストタウンのような趣を呈している。パサルグロドッでも200ヶ所が店を閉めたまま。
リンドテベストレードセンターのマーケティングマネージャーは、総店舗数2,501のうちで1,350ヶ所が売れているが、多くが営業を開始しようとしない、と語る。なるべく多くの店を開かせようとして最初の二年間低賃貸料金をオファーしているものの成果は思わしくない。相手によっては初年度賃貸料ひと月5百万ルピアでメンテナンスフィー免除という好条件を出しているにもかかわらず、小規模零細商人にはまだ負担が重いようだ。買取の場合は一店舗が2億から10億ルピアで、中小規模の商人にとってはやはり手の届きにくいレベルにある。
パサルグロドッでは4階5階が閑散としており、3階も閉まっている店が目に付く。商人の中には売場の賃貸料免除でメンテナンスフィーだけ払うという条件で入居している者もいる。「高いのは1階2階の売場だけだが、上の階は安くてもたいていの商人は入居を嫌がる。」と商人のひとりは語っている。ビルの外をカキリマ商人がびっしりと埋め尽くしているというのに店舗ビルの中はゴーストタウンというグロドッ地区の皮肉な状況を不動産関係者は嘆いている。需給関係が不健全になっている首都圏の商業地区はここだけでなく、マンガドゥア(Mangga Dua)、クラパガディン(Kelapa Gading)、デポッ(Depok)、スルポン(Serpong)なども似たような状況であるとのこと。


「ジャランスラバヤ」(2007年7月11日)
中央ジャカルタ市メンテン地区のジャランスラバヤを訪れた中年インドネシア人の多くは子供のころ家の中にごろごろしていた昔風の品物を見てノスタルジーをかきたてられる。かつて自分の実家で親しんだそれらの品物はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。ブタウィ風吊りランプ、炭を入れるアイロン、ダコン盤、ワヤン人形から初期のコダックカメラまで、実にさまざまな古物をひとはジャランスラバヤで目にすることができる。価格も1万数千ルピアから数百万ルピアまでバリエーションに富んでいる。
ダコン盤(papan dakon)というのはふたりのプレーヤーが対面して遊ぶゲームの盤で、長細い板にいくつかの穴がうがたれており貝や木の実などのコマをその穴に入れていって相手のコマをたくさん自分の倉に取るという遊びだ。このゲームはアラブが発祥の地らしく、アラブ商人がアフリカやアジアに向けて進出していった際に広まったものでエジプトやシリアではマンチャラ(mancala)と呼ばれており、原語は「移す」という意味だそうだ。当然インドネシアだけでなくインドやスリランカ、モルディブ、マレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンからマリアナ諸島にまで普及しており、世界中で2百の異なる名前で呼ばれているゲームだと言われている。ジャカルタでは通常チョンクラッ(congklak)と呼ばれており、それはコマに使われている子安貝の名称に由来したものだがcongkakという言葉がほかの意味を持っているためにチョンクラッに変化したようだ。閑話休題。
ジャランスラバヤの南端はディポヌゴロ通りにつながる。そのあたりには新品やセコハンのトランクやバッグを売る店が集まっているが今は懐かしのLPやEPレコード盤も売られており、もちろんレコードプレーヤーもそこで手に入る。骨董品を探すならジャランスラバヤの中ほどから北端にかけての売店だ。売られている骨董品は木製・陶器・金属の三種類がある。木製品の多くは地方の伝統工芸彫刻品、陶器は中国産の焼き物、金属は真鍮や黒鉄を使ったランプが大半。しかしそれ以外にもさまざまな物が売られており、クリスタルランプや高さ1.5メートルの石作りの仏像などもある。仏像は国立博物館や古代チャンディなどで見られるものにそっくりだがしかし店主は「これはコピアン(kopian)だ」と断言した。コピアンつまり模造品。本物の古代遺物は売買が禁止されており、そんなものを店頭に並べられるわけがない。市場で自由に売買してかまわない骨董品も今では数が大幅に減少しており、店頭に置かれてある誰でも買える値段のものは模造品である可能性が高い。「ホンモノ骨董品はもう数が少なく入手難で、おまけに価格は天より高い。だからめったに売れやしない。」骨董品陶器類を専門に扱っている店主はそう洩らす。
1971年からそこで商売を営んでいる雑貨品店主は、昔自分が扱っていたのは全部ホンモノだったと言う。コンパス・操舵輪・望遠鏡など船舶用具は間違いなくすべてがホンモノだった。しかし今ではホンモノ骨董品が入手難で値段も高いため、新しく作られた模造骨董品が増えてきた。真鍮製のアンティークランプは中部ジャワのジュワナで作られている。自分の店にあるものの50%は新造模造品だ、とかれはささやく。
ジャランスラバヤは首都の骨董品市場として往時一世を風靡した。海外からたくさんの骨董品ハンターたちがジャランスラバヤを訪れてその真贋を鑑定し、大枚を払って国へ持ち帰った。もちろん往時から今日にいたるまでホンモノ骨董品保証など求めるべくもなく、自称目利きの骨董品ファンが買った手ごろな価格の掘り出し物はしばしば専門家の苦笑いを誘う結果をもたらしたが、それが骨董品世界の勉強というものだったようだ。骨董品愛好者にとっては自分の目と知識しか頼るものがないという真剣勝負の舞台がジャランスラバヤに用意されていたのである。
1990年代半ばごろまでは旅行ガイドブックのお墨付きを得てこの一帯に外国人観光客の絶える日がなかった。華やかりし時代には貸切観光バスが一日に三台はやってきた、と古くからいる店主は物語る。ところが1997年5月暴動の結果、外国人観光客の姿はふっつりと途絶えてしまったのだ。おまけに爆弾テロがジャカルタへの観光客を激減させた。いまでは外国人観光客の姿を見かけない日のほうが多いと店主たちは言う。暴動のあとで全国を覆った経済危機がジャランスラバヤの賑わいを消し去ってしまった。昔は地元インテリアデザイナーがオールドファッションの吊りランプを頻繁に買いに来た。経済危機に陥ったあともかれらはジャランスラバヤへやってきたが、今度は昔買った吊りランプを店に売りに来たそうだ。
いまや骨董品ハンターたちは地方都市へ、さらに農村部へと深く静かに潜入している。時の流れとともに往時の名声はかすみ、ジャランスラバヤの栄華は昔語りとなる道を歩んでいるようだ。


「クマンビレッジ」(2007年7月24日)
クマンビレッジ(Kemang Village)建設プロジェクトの着工がいよいよ始まる。南ジャカルタ市クマン地区にリッポグループが8.8億ドルをかけて開発するスーパーブロックはクマンビレッジと名付けられ、広さ12Haの土地に高級居住区や社会生活のための諸施設が設けられることになる。「これは、ジャカルタの国際コミュニティとエリート市民向けにデザインされた、豪奢な公共ファシリティを備えた、南ジャカルタにかつて存在したものの中で最大の統合的ニュータウンの建設プロジェクトです。」リッポグループエグゼキュティブのひとりはそう形容している。
グローバルシティというコンセプトを与えられたクマンビレッジは、その12Haという土地を65万平米の建物が埋める。5年をかけて完成させる計画のこのエリートビレッジには1万人の居住空間が設けられる。アパートメントは三つのタワーが計画されており、最高級クラスのThe Ritz、アッパーミドル向けThe Cosmopolitan、中級階層向けThe Empireという三タワーの予約販売は2007年7月27日から開始される。初回販売金額はユニットあたり8億から25億ルピアのレンジにわたる。
クマンビレッジは100%リッポグループがオーナーとなるがBII、テマセックホールディングスやシンガポールの企業数社からサポートを得ている。


「四辻には富が落ちる」(2007年7月26日)
古来から、四辻には魔が集まるという言い伝えが世界中の至るところにある。ギリシャ〜ローマ〜ヨーロッパという歴史の流れに乗って四辻に棲む精霊への信仰は各地へ広く流れ込んで行ったし、四辻で悪魔に魂を売り渡すというアフリカの伝説はアメリカにまで伝えられた。四辻に呪いを埋め込めばそれが四方に走って世間に災いをもたらすという伝承がヒンズー時代のインドネシアにあった。バリでは悪霊を鎮めるために村の四辻に供物を捧げることを忘れない。デンパサルの街の中央にある交差点にはチャトゥルムカと呼ばれる石像が建っており、ブラフマ神の四つの顔が四つの方角を向いている。日本には辻占というものがあって、夕刻に四辻を通るひとの言葉の中に異界の者が発する信号を感じ取ろうとするようなことが行われていたらしい。もちろん異界・魔界の者は人間がまだ知らない未来を知っているのだ。ところが現代ジャカルタの四辻は、社会の底辺をうごめく貧しい大人や子供の稼ぎの場と化している。スディルマンやタムリンといった都内目抜き通りの交差点でかれらの姿を見ることはないが、そこから一級下の道路へ移動してみれば交差点ごとに何人もの人間が「働いて」いる姿を目にすることができる。
中央ジャカルタ市カレッビヴァッ(Karet Bivak)交差点。タナアバンから南に下ってきたところにあるこの広い交差点は墓地を角地に抱えているため、まるで宿舎付きの職場といったおもむきだ。交差点を横切ろうとして信号で数珠繋ぎになる四輪二輪の自動車に子供たちが手を出して「ちょうだい」をする。幼い子供たちは二輪ドライバーの腰あたりまでしか背がない。信号が緑に変わって車列が動き始めると、4〜5人いた路上の子供たちに向かってその辺りにいた中年女性が道路脇に戻るよう命じた。いくばくかのコインをもらった子供たちはそれをその女性に差出して、次の赤信号までしばしの休憩だ。
スネンバスターミナルの交差点でも、クブンシリや農夫の像の交差点でも、同じ光景が展開されている。クイタン方面からグヌンアグン書店を超えてやってきた車が停止する赤信号近くの歩道に座り込んでいる足の悪い乞食は、「他人の縄張りさえ侵さなきゃ、だれでも自由に稼いでいいんだ。」と語る。かれの一日の収入は1万から5万ルピア。
色のくすんだよれよれの服でメンテン公園に現れる女乞食は深夜まで精を出す。赤信号で停まった車の一台一台に近寄って手のひらを差し出すと、100ルピアコイン、運がよければ1000ルピア札がそこに乗る。しかし手で振り払う運転者も少なくない。かの女は既に金曜日が過ぎ去って土曜日に入った真夜中まで、そこを立ち去ろうとしない。
四辻に集まってくる乞食やプガメンたちは小グループもあればひとりだけという者もいる。みんなこの広いジャカルタの数限りない十字路のひとつに自分の縄張りを決め、そこを通るひとびとから収入を得ようとして「働いて」いるのだ。2007年7月も半ばを過ぎたいま、十字路で働く者たちの混雑ぶりは数ヶ月前の状態とは異なっているように見える。数ヶ月前のカレッビヴァッ交差点は子供プガメンや子供乞食が踏み切り周辺と高架道路下にだけいたのだが、今ではカレッビヴァッ公共墓地入り口に本拠を据えた新しいグループが加わったようだ。子供プガメンは西ジャカルタ市ポスプグンベンPos Pengumben)や中央ジャカルタ市ドゥクアタス(Dukuh Atas)にも現れるようになった。かれら路上で「働く」者たちの公式統計を都庁はまだ公表していない。2007年首都経済統計によればジャカルタ総人口7百万人の14%が失業者で且つ貧困者となっている。加えて、ジャカルタで「働く」ために上京してきた者も数多い。上京者の中には子供も大勢混じっている。かれらは路上で野天暮らしの日々を送っている。


「高架道路下のカンプン」(2007年8月20日)
インドネシアには何でもある。首都の高架道路の下には数千人が住む集落があり、そこには人が生活するために必要な水・電気・電話などのインフラまで備わっている。地元住民を対象にして食堂・ワルテル・美容サロン・ゴミ処理・雑貨売店・礼拝所・ビリヤード場からコスコサンまで多種多様なビジネスが営まれているのは、普通の住宅地区と変わらない。違っているのはそこがスラムだということだ。場所によっては駐車場やプラスチックゴミ倉庫・古紙倉庫などの事業すら営まれている。本当に首都の高架道路の下には「何でもある」。
「電気は配線されていて毎月電気代を払ってる。15万ルピアくらいだ。電力は1200ワットもあって普通の家より大きい。水は自分のポンプで5メートルくらい下から汲み上げてる。ここは海から近いから深く掘ると塩水が出るんだ。」先日ジュンパタンティガ地区で高架下を焼き尽くした火事の被害を免れた住人のひとりファフロジはそう語る。一般家庭の標準供給電力量は450ワットだから電力メーターなどない高架下の電力事情は豪華だと言える。かれは高架下の50平米ほどの区画で家族と一緒に2年前から定住をはじめた。そこには携帯電話バウチャー売店と廃品集積場そして住居が建てられている。高架下の住居は2階建ても少なくない。土地占有者の経済力次第なのだ。高架道路下集落では住民組織が作られていない。住民はほとんどが地方出身者で、かれらはそれぞれその土地が所属しているRT(隣組)やRW(字)に届け出て居住しているだけ。
北ジャカルタ市プンジャリガンのラワベベッスラタン通りに近い高架下には2x3メーターの仮小屋が並び、一ヶ所に3人が暮らしている。中部ジャワ州スラカルタから上京してきた数十人はそこに暮らして野菜の巡回販売業を営んでいる。家賃はひとり30万ルピアで、手押し車はRTから許可をもらって道端に置いている。駐車代はひと月1万5千ルピア。高架下で騒ぎが起こることはめったにないが保安にはいろいろと気を使っている、と2000年以来の住人のひとりはそう語る。最近も仲間のひとりが「家」の前に停めておいたオートバイを盗まれたそうだ。
しかし早晩、この高架道路下のカンプンは姿を消す運命にある。火事を出して都内環状自動車道に数十億ルピアという損失を引き起こした事件のために、公共事業相はすべての高架道路下カンプンを撤去せよと命じたのだ。当分、首都の高架道路下には何もなくなることになるだろう。


「高架下の事業所」(2007年8月22日)
公共事業相が撤去を命じた高架道路下のカンプンに関連して北ジャカルタ市長がカンプン住民に退去を呼びかけた。タンジュンプリウッ(Tanjung Priok)からプンジャリガン(Penjaringan)にかけての高架道路下には数千人の住む集落があり、かつまたさまざまな事業活動が営まれていて一日何十億ルピアという金がそのエリアを回っている。8月18日土曜日、パドゥマガン(Pademangan)のカンプンワラン住民は警察・軍・行政警察合同チームの来訪に驚かされた。かれらは北ジャカルタ市長の通告を引っさげてやってきたのだ。カンプンワランの高架下幅15メートル長さ250メートルの空間は百以上の事業所に区切られている。そこにあるのは生活基幹物資売店、雑貨品売店、携帯電話カード売店、木材置場、ダンボール置場、土地賃貸業、砂や建材置場など。その場所で木製パレット製造や木箱梱包サービスを営むジョハンは、立ち退きを命じる北ジャカルタ市長の通告におどろいた、と語る。そこで4年前から木材置場ビジネスを営んでいるスセノ35歳は、年間1百万ルピア以上の地代を払ってそのビジネスを行ってきたのに、と憤懣やるかたない口調だ。スセノから地代を受け取っているのはこの高架下エリアの長老格であるマスウッ45歳で、かれは9年前からそのエリアの土地を差配してきた。しかし高架道路下という公共スペースがマスウッの所有であることは決してありえない。公共資産はたいていの国で決してどの個人にも属さない、いわゆる誰のものでもないものとなるのだが、インドネシアで公共資産はだれでも希望する個人がその使用権を持っており、そこに先取権がからむとこのマスウッのような例が出現する。
スセノの事業所では3x5メートルのスペースに直径5〜6センチ長さ3〜6メートルの丸棒2千本が置かれ、一本2〜2.5千ルピアで一日平均1千本が販売されている。つまりスセノは毎日200〜250万ルピアの売上をあげている材木商なのだ。カンプンワラン高架下住民Aグループ代表のマスウッは、住民はふたつのグループに分けられそれぞれ200世帯から成っており、そして事業所としては百ヶ所以上が使われていると説明する。事業者はだいたい5〜30人の労働力を使っているため、全体では1千人の雇用が創出されている。
自分の一家がこの高架下エリアの土地を9年前から差配して5人に賃貸しているとマスウッ夫人は言う。木材置場、パダンレストラン、雑誌新聞売店、携帯電話カード売店に利用され、年間の地代は100〜350万ルピアだそうだ。
プンジャリガン郡プジャガラン(Pejagalan)のカリジョド(Kalijodoh)地区では、高架下は事業所として使っているだけでだれも居住していないため市長の通告は的外れであり、自分たちはそれに従わない、と事業主たちは抵抗している。エフェンディ・アナス北ジャカルタ市長は、タンジュンプリウッからプルイッ(Pluit)やアンケ(Angke)までのすべての高架下住居と事業所は撤去して明け渡されなければならない、と繰り返している。プルイッ立体交差下とジュンパタンティガで起こったふたつの火災は高架道路の構造を危険にさらしている。だから高架下のスペースは公園や何もない公共スペースに戻されなければならない。それが中央政府と都庁の決定である。住民は積層住宅に収容され、また外来者は出身地に送り返される。市長はそう宣言している。


「ブロッケムプラザ」(2007年8月29日)
創業1991年というブロッケムプラザ(Plaza Blok M)は南ジャカルタ市クバヨランバルの中央にそびえる8階建ての大ショッピングセンター。吹き抜けのプラザ内には商店・レストラン・カフェなど350のテナントが営業し、駐車場は四輪車7百台二輪車3百台を収容できる広さを持っている。ブルガン(Bulungan)通りとシシガマガラジャ(Sisingamangaraja)通りにまたがるこのブロッケムプラザがひときわモダンな変身を遂げようとしている。
200億ルピアをかけて行われるこの改装はヤングにアピールするフレッシュな感覚をこの商業ビルに付与しようとするためのもので、フードコートエリアをエデュセンターに改装するのが今回の目玉。3千平米という広い床面積を持つこのエデュセンターには学習のための設備、講座、ステージなどが設けられ、若者から大人まで知識や教養を高めることを望むひとたちによって利用されることになる。建物外部の工事は今年10月13〜14日のルバランを控えた買い物ピークシーズンが終わってから着手される予定。ブロッケムプラザ運営会社PT Pakuwon Sentosa Anggraeniはこの改装を年内に完了させる予定にしている。


「プラザインドネシアは9月に新装オープン」(2007年9月11日)
総売り場面積4万2千平米のうちの1万7千平米を占めていたそごうデパートが去ったあとのブティックショッピングセンターコンセプトの最適化を目指して今改装を進めているジャカルタのプラザインドネシアは、新装開店を予定通り2007年9月に行うと公表した。プラザインドネシアショッピングセンター運営会社PT Plaza Indonesia Realtyの大株主のひとつPT Global Mediacomが所有する6億4,929万株が今年8月22日から24日の間にすべて売却されて話題をまいたが、プラザインドネシアの事業計画はその影響をまったく受けていないことを運営会社は強調している。1990年代にオープンしたプラザインドネシアの改装工事は今回で三度目で、インドネシアでトップクラスのショッピングセンターというポジションを維持するために不可欠な対策であるとのこと。この改装が完了したあかつきには国際ブランドのファッションブティックがビル内を埋めることになるがそれとは別に運営会社は売場面積拡張工事を行っており、そのプラザインドネシアエクステンション工事は2008年8月の完成が予定されている。


「路上で施しをするのは違反行為」(2007年9月19日)
2007年9月10日、都議会は都庁が提出した公共秩序条例案を承認した。この条例は貧困者が路上で行う金稼ぎのほとんどすべてを禁止するもので、かれらに金品を与える行為も禁止される。禁止される行為は下の通り。
1.乞食
2.プガメン
3.路上物売り
4.自動車窓ガラス・ボディ拭き
5.スリーインワンジョッキー
6.無認可交通整理
7.セックスワーカー
8.セックスワーカー手配者やそのサービス利用者
9.2サイクルエンジン使用第4種公共輸送機関(バジャイやベモ)
10.一般市民に不安を与える病気罹患者が公共エリアに入ること
11.無許可で道路に遮断機を設置したり閉鎖したりすること
12.公園・橋や高架道路下、鉄道線路脇やその他の場所に住居を建てること
13.無届の場所で駐車場ビジネスを営むこと
14.街中の公園や水のある場所でマンディすること
15.無届で爆竹を鳴らしたり販売すること
16.他人に上であげたような行為をさせること
貧困層が路上でそのような行為を行うことをやめさせるためにはそれを行っても何の収入も得られないようにするのがもっとも効果があると考えられることからこの条例案では同時にかれらに金品を与える行為も禁止され、それに違反した都民は10万から2千万ルピアの罰金もしくは2ヶ月の禁固刑が科されるという案になっている。この条例の遂行と監視の責任は都庁行政警察と文民公務員捜査官が担う。都議会第E委員会議長は、この条例の執行条件として都庁が貧困者活性化プログラムを実施することを義務付けている。
民間団体アーバンプアコンソーシアムのコミュニティオーガナイザーのひとりは、首都のこの条例案は政府に都市秩序コントロール能力がないことを証明するものである、と批判している。「貧困者にあらゆる種類の路上活動を禁止し、同時にかれらに金品を与えないよう罰則を設けて都民を嚇かしている。貧困層の基本問題は貧困であり、貧困を撲滅する以外にそれらの行為をやめさせることは不可能だ。都庁の役人が都内すべての路上を継続的に監視するのは事実上できないことであり、反対に役人が都民の貧困者に対する施しを犯罪化し搾取することにつながるだろう」とこの条例案を糾弾している。


「ラトゥプラザでリフトに閉じ込められる」(2007年9月25日)
2007年6月22日付けコンパス紙への投書"Trauma Terjebak di Dalam Lift"から
拝啓、編集部殿。わたしは南ジャカルタ市スディルマン通りのラトゥプラザオフィスタワーにある会社に勤めており、毎日自分の車をラトゥプラザの地下駐車場に停めています。2007年5月8日17時45分から18時までのおよそ15分間、わたしは真っ暗なリフトの中に閉じ込められてしまったのです。そのときわたしはオフィスタワーのロビーにあるリフトに乗って、わたしが車を停めた地下一階の駐車場へ降りている最中でした。突然リフトが止まり、照明が消えてしまったのです。
わたしはエマージェンシーコールのボタンを押してみましたが返事はなく、それが機能していないことを知りました。おまけに携帯電話の電波も得られません。リフトの中にいるのはわたしひとりだけで、恐怖と息苦しさでパニックに陥りました。わたしはかなり長い間「助けて!助けて!」と叫び続けました。運良くそこを通りかかった人がわたしの声を聞きつけて警備員に連絡を取ってくれたのです。ところが救出措置がまだ何もはじまらないうちに突然リフトは再び動き始めました。結局わたしは無事に外へ出ることができましたが、とてもひどいトラウマにかかってしまいました。わたしがそんな事故を体験した時間帯はふつう、階段を通って地下に降りるひとはめったにありませんが電気はいつも点いています。つまりはリフトに問題があったにちがいありません。今回の問題をわたしは5月9日にPT Ratu Sayang Internationalのセキュリティ部門に届出、その報告はセーフティ・メンテナンスマネージャーに報告されました。
その日15時ごろ、オフィスにいたわたしにセーフティ・メンテナンスマネージャーから電話がかかり、エマージェンシーコールの機能は問題がなく、わたしが押したのはエマージェンシーストップボタンだったのだと言うのです。わたしは馬鹿でもなければ文字が読めないわけでもなく、押すボタンを間違えるようなことはしていない、と反論しました。するとそのマネージャー氏は、電話が5分間に制限されているのでまたすぐに掛けなおす、と言って切りました。わたしは17時30分まで電話を待ちましたがなしのつぶてで、わたしの方からPT RSIに電話したところそのマネージャー氏はランドマークの事務所に戻ったと言われ、ランドマークの電話番号をくれました。わたしが先方に電話すると、相手はそこにいませんでした。PT RSI経営者の苦情に対処するやりかたはこんなものなのですか?問題に頬かむりするだけ、という印象です。[ タングラン在住、シャネ・ドゥマラン ]
2007年7月7日付けコンパス紙に掲載されたPT Ratu Sayang Internationalからの回答
拝啓、編集部。シャネ・ドゥマランさんからの6月22日のコンパス紙に掲載された投書に関して説明申し上げます。ラトゥプラザのビル運営者はシャネ・ドゥマランさんにお会いしてかの女が体験された出来事について謝罪いたしました。そして2007年5月8日にしばらくの間リフトが動かなくなったことの理由を説明いたしました。そのリフトの修理はリフトメンテナンスサービス契約者のPT Jaya Kencanaが既に実施して良好な状態になっています。シャネ・ドゥマランさんは当方の説明を理解し、了承してくださいました。[ PT RSIマネージャー、ママン・スライマン ]


「南ジャカルタの有力ビジネス地区」(2007年10月5日)
ポンドッキンダ(Pondok Indah)〜ビンタロ(Bintaro)地区がエリート住宅地区であることを知らないひとはいないだろう。そのエリアは同時に年間30兆ルピア(推測)のターンオーバーを生み出す人気の高いビジネスエリアでもある。ポンドッキンダ地区には5千を超える中上流所得層世帯があり、ビンタロ地区はビンタロジャヤを中心に1万5千世帯という同じレベルの潜在マーケットが存在している。その両地区はポンドッキンダ〜ビンタロビジネス地区にとってさらに3千5百世帯を超える購買層を提供するルバッブルス(Lebak Bulus)・チランダッ(Cilandak)・ルンポア(Rempoa)などの中流地区に接している。
かれら「分厚い財布」をポケットにしのばせている所得層はゴルフポンドッキンダ(Golf Pondok Indah)1と2・ブキッゴルフ(Bukit Golf)・ヌアンサヒジャウ(Nuansa Hijau)・パノラマゴルフ(Panorama Golf)・クリスタル(Kristal)・ビバリータワー(Beverly Tower)・プリスラタン(Puri Selatan)・パラマ(Parama)・ボナビスタ(Bona Vista)・ダーリア(Dahlia)・ハンプトンパーク(Hampton Park)などの高級マンションやタウンハウスに居住している。そうしてこの地区の商業ビジネスをポンドッキンダモール1と2・チランダッタウンスクエア・ポインス・ITCファッマワティ・ビンタロプラザなどのショッピングセンターに加わって3千軒を超える店舗住居(Ruko)が支えている。タマンミニ〜ポンドッキンダ〜ビンタロ〜スルポンをつないでいる自動車専用道路や地区の南北東西を結ぶ一般道路といった道路インフラが首都の他地域より比較的良好に作られ維持されていることもこのビジネス地区の繁栄を下支えしている要因のひとつに数えることができる。長年待ち望まれてきたサブウエーがこの地区に入ってくるのも必然的なことなのかもしれない。
ポンドッキンダ〜ビンタロ地区住民の支出用途は、サーベイ結果によれば次のようになっている。
生活必需品 25%
電気電話水道等 16%
教育 14%
交通 10%
衣料品 7%
カフェ・レストラン 7%
レクレーション 7%
電気製品 3%
ボディケア 1%
環境 1%


「首都圏のオフィス需要は旺盛」(2008年2月11日)
新オフィスビル建設が完了し、大量のオフィススペース供給が生まれて大手企業の多くが新ビルへの移転を行なう結果、首都圏の全般的な入居率は低下するとはいえ、2008年のオフィス需要は2007年の延長線上で活発な様相を呈するだろう。一方小売等の商業スペースはこちらも供給が増加するものの停滞気味のスペース需要のためにビル運営者間の激しい競争が展開される見込みだ。オフィススペースは501,700平米の建設が2008年末までに完了して市場に供給され、さらに2009年には278,700平米がその後を追って市場にオファーされる見込みである。
総合不動産サービスを提供しているPTプロコンインダは2009年までに160万平米のオフィススペースが稼動するに違いないと見ている。都内スディルマン〜タムリン界隈の新ビルは年内にほとんどが竣工し、スペース需要は2007年のトレンドが今年も継続してきわめてポジティブな市場状況が続きそうだ。新供給に対する需要を表わすネットテイクアップは首都CBDの2007年第4四半期が87,600平米で第3四半期の74,100平米から伸び上がっている。新供給に対する購入コミットメントは強いことからネットテイクアップはさらに増加するものと見られるものの、新規供給スペースへの入居者は他のビルからのリロケがもっぱらであるため、市場全体の入居率は低下することになる。南ジャカルタ市TBシマトゥパン通り界隈でも類似の現象が起こっている。CBD外の新規供給は85%が南ジャカルタで占められており、エリア内オフィススペースの95%は他から移ってきた入居者に使われている。
一方の小売スペースは2007年から需要停滞がはっきりとあらわれ、この状態はこの先2年間継続するだろうと不動産業界では見ている。石油燃料大幅値上げで暴落した国民購買力はその後もさまざまな値上げが続き、最近の食材食品値上がりでまた大きなパンチを受けている。スペース供給は止めようもなく継続しているが、商業ビル・ショッピングセンターはビル運営者の集客能力によって営業状況に大きな差がつきはじめている。小売市場はむつかしさが増し、パイの縮小に伴って競争が激化しているために売上も利益も低下している。そのために賃貸料支払に支障をきたすテナントがあちこちに出現しはじめている。スペースオーナーの中には賃貸料値上げを行なうどころではなく、スペース使用者にビジネスを続けてもらうために賃貸料無料待遇を与えるところも出ているようだ。


「ジャカルタガーデンシティ建設開始」(2008年2月29日)
シンガポールのケッペルランドとインドネシアのモデルンランドが51対49のシェア比率で設立したPT Mitra Sindo Suksesが東ジャカルタ市チャクン地区に巨大な人造湖を擁する総面積270Haの統合住宅地区建設を開始する。Jakarta Garden Cityと命名されたこの住宅地区建設プロジェクトはいくつかのフェーズに分けられており、10年をかけて完成させるスケジュールになっている。この地区内にはオフィス・ホテル・アパートメント・モール・戸建住宅が有機的に統合され、15Haの人造湖を中心にした余裕あるクラスターレイアウトが展開される。東ジャカルタ市に建設されるこの種の統合住宅地区はこれが最初。
第一期工事は28Haに944軒の戸建住宅を擁する第一居住クラスターから着手される。土地造成とインフラ建設そして住宅建設を含む第一期工事には1.5兆ルピアが投じられる。944軒の住宅は2008年末完成予定で、分譲価格は7〜10億ルピアが予定されている。ジャカルタガーデンシティの住宅販売は一般的なプリセールス方式ではなく建売方式を採るため、購入者にとっては確定性のより高いものになる。


「プジャテンモールは今年8月オープン予定」(2008年3月18日)
ワルンブンチッ(Warung Buncit)通り沿いの南ジャカルタ市プジャテン(Pejaten)地区角地にいま建設が進められているプジャテンビレッジは2008年7月竣工の日程で、オープンは2008年8月が予定されている。このエリア唯一のモールとして誕生するプジャテンビレッジは、レプブリカ紙本社ビル向かいの1Haの土地にPTリッポカラワチが5千万ドルプロジェクトとして建設するもので、この6階建て総床面積5万8千平米のアッパーミドル層対象モールには165軒のテナントが入居することになる。建物デザインはシンガポールのDPアーキテクトを起用しており、テナントの63%から既にプレコミットメントが得られているとのこと。入居が間違いない大手業者の中にはハイパーマート・パリジャンデパート・シネマ21・ゴールドジムなどといったそうそうたる顔ぶれが散見される。このモールは賃貸方式を基本にしており、料金は平米当たり30〜40万ルピアとのことで、フロアによって多少の違いがある。


「マスマンシュル通りに都市開発の波が」(2008年3月31日)
都内タムリン〜スディルマン通りという第一級道路の西側をほぼ並行して走るキヤイハジマスマンシュル(K.H.Mas Mansyur)通り。今この通りに開発のスポットライトが当たっている。北端にタナアバン市場、南端にメリディアンホテルやサヒッジャヤ(Sahid Jaya)スーパーブロック、そしてその中ほどを横切るバンジルカナルの南に広がる広大なカレッビバッ(Karet Bivak)墓地を抱えるこの通りは、東側がビル群で埋め尽くされつつある一方、西側は少ないビルが点在しているだけで、開発の波をかぶる時期をいまや遅しと待ち構えている感が強い。
クブンムラティ(Kebon Melati)に建設された卸売りセンターであるジャカルタシティセンター、アパルトメンパビリオンの北側に建てられたスディルマンパーク、そして最近オープンしたシティロフトなどは通りの東側に立ち並ぶ高層ビルだ。元々高級シティホテルでスタートしたサヒッジャヤは職住と商業施設をインテグレートするスーパーブロック構想の実現を進めており、その進展につれてこの地区の容貌も変化を続けている。このスーパーブロックの北側で旧ケンピンスキー(今はInterContinental MidPlaza Jakarta)の西側に接しているシティロフトはSOHOコンセプトの職住一体化を売り物にしており、販売価格は平米当たり8百万ルピアから1千7百万ルピアという広い幅が設けられている。価格が高い所ほどビジネス上のメリットが大きいロケーションにあるとのこと。ロフトという名が示すように各ユニットは二階建て設計になっており、一階はオフィスや会議などビジネス用として使用し、二階はオーナーが生活するプライベートエリアとして使えるような構造になっている。このシティロフトの一部として設けられているシティウオークと命名された中型モールはこのエリアで数少ないハングアウトプレースとしてオフィス街に働くひとびとを吸い寄せている。スディルマン通りに面するミッドプラザやウィスマヌグラサンタナ(Wisma Nugra Santana)からでも歩いて行ける場所というのは、きわめて大きいメリットであるに違いない。
マスマンシュル通りはスディルマン通りをまたぐフライオーバーを超えてドクトルサトリオ(Prof. Dr. Satrio)通りそしてその先のカサブランカ通りへと続く。メガクニガン(Mega Kuningan)地区、ラスナサイッ(Rasuna Said)地区という都内有数の大型商業地区の延長線上にあるマスマンシュル通りが都市開発の波に洗われるのも時間の問題と言うことができそうだ。スディルマン〜タムリンのスリーインワンあるいはERP化という交通規制の枠外にあるこの地区にはそんな面のメリットもある。マスマンシュル通りは十分に広い道路が用意されているのだが、残念なことにサトリオ通りは片側二車線でそしてスディルマン通りをまたぐフライオーバーも同様に狭く、その両道路間の連結にボトルネックができている。それが広域エリアの有機的統合を阻むネックとなる可能性は無視できないだろう。


「高層ビルの30%は消火設備が不備」(2008年4月1日)
ジャカルタに7百ある高層ビルの内30%は火災対策ができていない、と都庁消防局長が表明した。消防局はそれら問題のあるビル管理者に対して、消火栓・消火器・煙探知機・スプリンクラー・ファイヤーリフトなどの消火設備を3ヶ月から12ヶ月の間に完備するよう命ずる警告書を既に送っているが、それら問題あるビルの管理者はまだ何の反応も示していないとのこと。3ヶ月から12ヶ月という幅のある期限は設置しなければならない設備内容に応じての差異である由。もし与えられた期限までに対応が取られない場合、都庁はそれらビル管理者に対して法的措置を取ると消防局長は述べている。
消防局長が高層ビルに厳しく火災対策を求めているのは、消防局が持っているはしご車が8階の高さまでしか達することができないためであり、高層ビルは十分な消火設備を調えておかなければもし火災が発生したならたいへんなリスクに直面するからだ。都庁消防局は消火活動に際して自力で行える部分に限界があり、諸方面からの支援がなければ十分な効果をあげることはむつかしい、と局長は言う。たとえば都内に設置されている消火栓は1,326ヶ所あるものの理想的には2千ヶ所が妥当な数で、その消火栓設置や維持も消防局の管轄外にある。既存消火栓の10%は故障していて使えず、また火災があって最寄の消火栓から取水しようとしたところ水がまったく出なかったということも時おり起こっている。「消火栓は公共設備であるため当方が管掌することはできない。当方はただそれを利用するだけという立場だ。おまけにそこに水を送るのは上水道会社テームズPAMジャヤとパリジャの仕事だが、かれらの都合次第という面も避けられない。」局長はそう語っている。
消防車の現有台数は145台で、消防局は5年先を見込んで60台ほどの台数追加をオーダーしているもののそれで消火パワーが潤沢になるとは言いがたい。職員数も5千人は必要とされているが今はまだ3,420人しかいない。「火事と喧嘩は江戸のはな」と謳われた往時の日本によく似て、しばらく前までは火事とタウランがジャカルタの「ハナ」になっていた。タウランは減少しているようだが火事の発生は相変わらず。2007年の火災発生は844件で死者15人、損害額は1,610億ルピア。2008年は2ヶ月間で火災発生56回、損害額は56億ルピアとなっている。


「コタは唐人街」(2008年4月4日)
西ジャカルタ市タマンサリ(Taman Sari)郡やタンボラ(Tambora)郡一帯はコタ(Kota)と呼ばれている。ピナンシア(Pinangsia)・マンガブサール(Mangga Besar)・ロアマラカ(Roa Malaka)・グロドッ(Glodok)・タンボラ(Tambora)・プコジャン(Pekojan)・ジュンバタンリマ(Jembatan Lima)などの町区が包含されている、びっしりと商業施設や家屋などの建物が並び、大勢の人や車が往来する地区がそれだ。
コタという語は「町」「都会」「都市」といった意味であり、どうしてそのエリアがジャカルタという都会の中でコタと呼ばれているのかは歴史を見てみる必要がある。インドネシア語でJakarta Kotaと言えばそのエリアを指し、kota Jakartaと言えば首都ジャカルタの全域を指すという説明から何となくその違いを感じられるのではないかという気がする。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは1619年にバンテン王国の属領だったジャヤカルタの町を征服してVOCオランダ東インド会社のアジア経営根拠地を作り、その町は数年後にバタビアと命名された。ヨーロッパや中国に見られる中世都市と同様、バタビアも城壁に囲まれたいわゆる城市だった。バタビアの街を包む城壁の南側はいまのコタ駅の辺りを東西に伸ばした線にあり、ガジャマダ(Gajah Mada)通りから北上してコタ駅の西側を通り抜ける道路がピントゥブサール(Pintu Besar)通り、その西を平行して北上する道路がピントゥクチール(Pintu Kecil)通りと名付けられている理由はきっと想像にあまりあるに違いない。グロドッやタンボラ地区は城壁の外になる。1740年にファルケニール総督がバタビアで行った中華人大虐殺のあと、壁の中に住むことを許されなくなった華人たちはその一帯に居住することを強制されたが、かれらの旺盛な商業活動によってこのエリアはバタビアのひとつの経済センターとして成長し、長期にわたって繁栄を謳歌するようになる。
中華人大虐殺は城市の中に居住していた中華人が起こした叛乱に対するVOCの鎮圧行動であり、1万人あまりの中華人が殺されて城市を縦横に分断する運河がすべて朱色に染まり、投げ込まれた死体が水面より高く盛りあがったという話だ。バタビアから逃走した中華人はジャワ島各地に散り、その一隊はソロの王宮を包囲して占領した。こうしてマタラム王国がからんでVOCとの間に数年間にわたる戦争が繰り広げられることになったが、インドネシア史ではこれをPerang Cina「華人戦争」と呼んでいる。その叛乱対策として行われたのが中華人のバタビア城市からの閉め出しであり、いつでも壁の上から砲撃できる城壁に近い場所に居住させたのがそのエリアの事始めとなった。中国人が言うタンレンチエつまり唐人街がこれだ。その縁起はともかくとして、華人が住み着いた世界の都市にはたいていこの種の唐人街つまりチャイナタウンがある。


「エキゾチシズムがコタの魅力」(2008年4月7日)
ジャカルタコタは商業施設に満ちている。かつてあったのはそれぞれに異なる種類の商品が集まってくる市場だったが、今は幾分その傾向を残しながらもたくさんの卸売りセンターや小売商店街となって生き延びている。ジャカルタコタの中の商業地区は東に建築資材や住宅機器、インテリア商品などの店舗が集まったピナンシア通りからはじまって、プルニアガアン(Perniagaan)・パサルパギ(Pasar Pagi)・アセムカ(Asemka)・バンデガン(Bandengan)と西に伸びていく。ピナンシアは旧名Financierenで英語に直せばfinancing、多分融資センターとしての機能がそこにあったのだろう。
コタの繁華街の中心とされているのはグロドッ地区で、ハヤムウルッ通りとガジャマダ通りをはさんでその東西地区一帯は華人の街と言っても過言ではあるまい。パンチョラン(Pancoran)通りには漢方薬店が数多く、それらの店には漢方医がいて客の容態を見たうえで薬を調合してくれるところもある。先祖代々連綿と伝えられた店も数多く、現店主は四代目以上というところもざらだ。昔は店の前でクンフーの見世物が行われ、集まった見物人に膏薬を売っていた、という「がまの油」式販売を子供のころに体験している店主もいる。
グロリア横丁(Gang Gloria)やチャンドラビル(Pertokoan Chandra)には、ウナギ・蛇・亀あるいは薬草入鶏スープなどを食べさせてくれる店もある。インドネシア独立前からあるレストランSiaw A TjiapやWong Fu Kieなどもいまだに健在だ。Tay Loo Tienのハム入りナシゴレンはオランダ時代以来の名物メニューだそうだ。1980年代には、ジャカルタに来た香港アーティストたちがショーの前後にパンチョランを溜まり場にしていたらしい。インドネシア独立戦争期に南スラウェシでの冷血な独立抑圧行動で名を上げたオランダ植民地軍特殊部隊長ウエステルリンクもお気に入りのグロドッ・パンチョラン地区を徘徊していたらしい。
ピントゥクチール通りには中華書籍販売商が十数軒あり、古書も多数扱っているので近隣諸国からコレクターが集まってくる。ペタッスンビラン(Petak Sembilan)では香水が安く売られており、南ジャカルタのモールなどで一瓶40万から75万ルピアという価格で売られているものは、ここへ来ると10万から15万ルピア安く手に入るとのこと。輸入された香水が最初に卸されるのがここらしい。
ピントゥブサールスラタン通りでは家具屋が目に付く。この地区は広東省出身の木工職人が家具の製造販売を行っていた場所だ。広東出身の職人は木工のほかに石工や鉄工などがいた。ハヤムウルッ通り東側、いまのハルコ(Harco)ビル付近には植民地時代にグロドッ監獄があった。ハルコビルは1998年5月暴動まで、インドネシア全国にとって電気器具や部品のメッカだったところだ。昔はちょっとでも専門的な電気・電子器具や部品を必要とした場合、必ずハルコに向かったものだが、今ではあちこちに類似の店が増えたためにハルコが最高峰をなしていた時代はもう終わったようだ。それはグロドッがかつてAVをはじめ家電品のメッカだったことと軌を一にしている。しかし中華人の暮らしに根ざすものがコタから姿を消すことはないにしても、伝統的なかれらのライフスタイルが醸し出していたコタのエキゾチシズムがこの先いつまで維持されるかは予断を許さないと言えそうだ。


「都内オフィス賃貸の一番人気は黄金三角地区」(2008年4月11日)
2011年までに都内で新規供給される賃貸事務所は871,921平米に達する、とインドネシア銀行サーベイが報告した。この新建設される事務所ビルの75%は都内一等地にあり、特にスディルマン通り、ガトッスブロト通り、ラスナサイッ通りで囲まれたゴールデントライアングル地区がその中心となる。オフィスビル建設ロケーションがこのエリアに集中しているのは、そのエリアが特に人気が高いためであるとのこと。都内一等地区での賃貸事務所需要が大きいのは、2007年第4四半期の入居面積が357,280平米に達して占有率が第3四半期の81%から85%に上昇していることからもわかる。スペース稼動の上昇は賃貸料金にも影響を及ぼしており、2007年第3四半期の平米当たり月額127,000ルピアは第4四半期に135,400ルピアと7%近いアップを示している。都内一等地における賃貸オフィス需要の好況に着目しているデベロッパーも新ビル建設を盛んに行っており、2007年第4四半期にはMenara Prima, Pacific Place Office, Sentral Senayan 2が新たにオープンしている。その3ビルの稼動に伴って、都内賃貸オフィススペース供給は139,703平米が追加された。
インドネシア銀行サーベイ報告は、国民経済状況の改善が進んでいることに煽られてオフィスロケーション選択はスディルマン通り、ガトッスブロト通り、ラスナサイッ通りが今最高の人気を博している、と述べている。一方、売却オフィススペース市場の方も第4四半期には57,600平米の新規供給がなされた。これは第3四半期から12.4%の増加、前年同期からは20.3%の増加だ。販売状況も第4四半期は90.1%で第3四半期の88.2%から増加している。オフィススペース購入は前の場所から移転した企業あるいはスペース拡張を行った企業、さらにジャカルタにオフィスを開く外国企業がメインに行っている。このようにオフィススペース購入需要も旺盛であることから、建築資材価格の上昇で上がった物件コストを販売者はかなり自由に価格に転嫁しているために2007年第4四半期の平米当たり平均価格は1,372万ルピアになっているとのこと。


「ダビンチタワー」(2008年4月16日)
首都の第一級道路スディルマン通りに面するダビンチタワー。ジャカルタで最高級最高額のペントハウスを持つこのビルは、シンガポールのハイクラス商品グループであるダビンチグループがジャカルタに設けたショーケースでもある。
高級な建築素材をふんだんに使った頑丈な36階建てビルは、その優雅なクラシック様式に包まれて見る人のため息を誘う。それまでミッドプラザの南側にあった銀行ビルが取り壊され、そびえる摩天楼として再生したのは2003年のこと。このダビンチタワーを設計したのは当時まだ20代のインドネシア青年たちだった。インドネシアで生まれ、インドネシア国内の大学で建築デザインを学んだ4人の青年がこのダビンチタワーの設計チームだったのである。かれらはこのタワーを本物に仕上げるためにイタリー・ギリシャ・フランスを訪れて建物を見学し、そしてタワーに使う資材として陶器・花崗岩・大理石などをスペイン・イタリー・中国から輸入した。屋上にドームを持つダビンチタワーはスディルマン通りのランドマークのひとつとしてそのシルエットを際立たせている。アラバスターに彫られた動物や人型の彫像は中国で作らせたものだ。
大きく頑丈なメインゲートをくぐるひとは、そこから大きな安心感を受ける。建物内のロビーに足を踏み入れると、その正面には大型のモナリザの絵がかけられていてダビンチの名を思い出させてくれる。暗く柔らかな色調で統一された屋内は巧みな照明がしっとりした落ち着きを演出しており、ロビーにある二基のエレベータでダビンチコレクションを陳列してある1階から13階までを望むがままに行き来できる。6階はヨーロッパクラシック家具、9階はアメリカンクラシック家具など各階はそれぞれのテーマに従って調えられており、陳列された家具はまるでそこに誰かが住んでいるかのような印象を与えている。各ショールームに置かれた家具は二週間ごとに取り替えられるそうだ。ここは単なる家具ショップにとどまらず、インテリアデザイナーが常駐していて顧客の要望に応じてデザインまで制作してくれる。


「ジャランスラバヤはどこへ行く?」(2008年4月17・18日)
中央ジャカルタ市タナアバンのパサルジョンコッ(Pasar Jongkok)、南ジャカルタ市クバヨランバルのバリト通り(Jalan Barito)にあった切花と熱帯魚のパサル、中央ジャカルタ市チュンパカプティのジャカルタバイパス沿いにあったラワサリ(Rawasari)陶磁器パサル。それらは安い価格で広い品揃えの中から気に入ったものを探し出すことのできる市(パサル)として数十年間にわたって都民諸階層に親しまれてきた場所だ。しかし都庁はそれらの市を情け容赦もなく強制撤去した。ファウジ・ボウォ都知事としては、いくら何十年にもわたって都民に親しまれるパサルがそこに築き上げられたとはいえ緑地帯が不法占拠されている実態は法治国家にあるまじきことであり本来あるべき姿に戻して法確立を図らなければならない、という遵法姿勢を首都に植えつけようとしてこのプロジェクトを進めているようだ。歴代都知事が貧困庶民救済の美名の陰で法規を枉げてきた状況からの脱皮が行えそうな社会環境に変質しつつあるということなのかもしれない。
緑地帯回復という現都庁方針は地元自治体が定めている土地利用計画に実態を合わせるのが目的であり、不法占拠パサルで営業してきた商人たちを路頭に迷わせる意図は少しもなく、都庁はかれら商人たちを移転させるための場所をこれまでも用意してきたが、土地利用計画に則した小売商業用地の中の一等地がいまだに空地であるようなところなどひとつもあるわけがなく、不法占拠してきたビジネス一等地から合法的なビジネス二等地や三等地に移転させられることに商人たちの多くは不満を感じている。
さて、不法占拠されている緑地帯の回復という矛先を次に都庁が向けたのは中央ジャカルタ市メンテン地区のジャランスラバヤ。世界中のたいていの旅行ガイドブックを見れば、ジャカルタの章にはまず例外なく骨董品市のジャランスラバヤが掲載されている。ここが非合法市場なのだと言われたなら、インドネシアは本当に他の国でありえないあらゆるものが存在しうる土地なのだということを誰しも理解するにちがいない。都庁の次のターゲットがジャランスラバヤとされたとき、諸方面からかなり強い反対の声が出た。その急先鋒は都議会だ。第B委員会議員のひとりは、「ジャランスラバヤは首都文化遺産地区のひとつとして保護されてしかるべきものであるというのに、都庁はそのパサルを強制撤去しようとしている。そんなことをすれば都民の暮らしに彩りを添えてきたパサルがまたひとつ消滅する。都庁はこの計画を見直すべきだ。」と発言している。また都議会副議長は、都庁があくまでジャランスラバヤの骨董品市を強制撤去しようと言うなら、わが党の中堅幹部を現場に送って商人たちの味方をさせる、とまで述べている。「ジャランスラバヤの骨董商人たちは、これまで居住環境を乱したこともなければその一帯に交通渋滞を発生させたこともない。この市は首都の観光産業にとって重要な資産であり、強制撤去が行われなければならない理由など何もない。都庁が好き勝手にそんなことをしようなどとはもってのほかである。」
しかし都庁のジャランスラバヤ骨董品市場強制撤去プロジェクトはそんな声もものかわと進められている。取り壊し強制執行の前には立ち退き先が用意され、商人たちが自発的に移転してから行うのが理想的であるため、都庁側はまず立ち退き先をどこにするか検討している。既に出されているいくつかの案では、ジャランスラバヤから近いパサルチキニ(Cikini)への移転、あるいはあまり遠くない場所に新しいパサルを開設する、キャラクターの似ている既存の骨董品市にジャランスラバヤの商人たちをジョインさせる、といったものだが、プリヤント副都知事が新しいアイデアを提案した。ジャカルタオールドシティつまりコタ地区を含む旧バタビア街区に常設骨董品市を設けてかれらをそこへ移転させてはどうか、というもの。「オールドシティに骨董品市。実にぴったりな組み合わせではないだろうか。」副都知事はそう述べている。オールドシティの中に骨董品パサルが作られれば、観光客誘致の目玉も増える。都庁の観光コンセプトでは、メンテン地区は都民の行楽先という位置付けになっており、外国人観光客にとってジャカルタのアイコンのひとつだったジャランスラバヤの骨董品市を移転させれば首都の観光に悪影響を及ぼすとの意見に副都知事は賛同しない。
しかしジャランスラバヤ骨董品市の商人は、オールドシティに移れば売上がダウンするのは間違いないだろうと考えており、その案を歓迎する者はあまりいない。「オールドシティは遠いし、暑いし、交通の便も悪い。骨董品を探しにあっちまで来るひとは激減するだろう。昨今、この骨董品市のお客はほとんどがインドネシア人で、外国人はめったに来ない。オールドシティはインドネシア人を惹きつける魅力をあまり持っていないので、売上がダウンするのは目に見えている。」商人のひとりはそう語っている。
ジャランスラバヤ骨董品商人組合コーディネータは、2.5メートルx4メートルで仕切られた184の売店は都庁の援助で設けられているものであり、今はやはり都庁予算を使って改装工事が進められている、と語る。「改装工事は6割方終わっており、年末には完了する予定になっている。おまけに商人たちは今年3月に一年間の商業ライセンス更新を終えたばかりだ。都庁からの公式な移転の話はまだ何も耳にしていない。」コーディネータはそう現場の状況を物語っており、都庁自身が行っている混乱した方針に戸惑いを隠せない様子。


「サリナスクエアはいつできる?」(2008年5月8日)
中央ジャカルタ市タムリン通りの史的建造物サリナデパートビルが傾いているという話題がマスメディアをにぎわせているが、国有事業体PTサリナのマネージメントはその歴史的価値を持つ建物を取り壊す意思はないと表明している。このビルの南側にあるATMセンターの床は2007年以来2〜3センチも駐車場に向かって沈下しており、床の傾きを修正する工事が2008年4月17日から開始された。
ところで1964年に土地面積17,465?、建物床面積45,343?という規模でタムリン通りにオープンしたサリナデパートは、いまや更に広大な商業複合施設の中に自らをよみがえらせようという企画のさ中にある。オフィスビル、商店街やデパート、エンターテイメント施設やレストラン、アパートメントなどの諸施設が完備された広さ2.5haの地区再開発がそれで、このプロジェクトにはサリナスクエアという名が与えられた。PTサリナは既存のサリナビル周辺の土地をサリナスクエア用地とするために買収しており、KHワヒッハシム(Wahid Hasyim)通りにある国土管理庁ビルの土地7千?をサリナがその目的のために引受けることを決定した。サリナスクエア建設にはプロジェクトパートナーとしてPT Sentul Cityと2008年2月に協力合意覚書を締結しており、建設工事開始が近付きつつあることを予感させている。


「CBDのオフィススペース稼動は絶好調」(2008年5月8日)
首都のセントラルビジネス地区(CBD)における2008年第1四半期のオフィススペース稼動は135,500?に達し、前四半期の87,600?から54%という歴史的な上昇率を示した。この好況は新規オープンしたオフィスビルに対する旺盛な需要に加えて、Bursa Efek Indonesia, Sampoerna Strategic Square, Wisma Nusantara, Gedung Mayapadaなど既存のオフィスビルへの根強い需要がもたらしたものだ、と不動産コンサルタントのプロコンインダが指摘した。首都のオフィススペース第1四半期稼動状況は平均で87.7%に達している。プロコンインダの調査によれば、CBDでの供給はBクラス49%、Aクラス35%、Cクラス16%という分布で、地理的にはスディルマン〜タムリン沿線が58%、クニガン〜ガトッスブロト18%といったポジションになっている。
一方都内の小売スペースについては、2008年第1四半期供給は286万?あり、そこへ2009年まで更に47.1万?が追加される予定。スペース稼動は226万?で、そのうち賃貸スペース入居率は85.9%ストラタタイトル入居率は68.4%となっている。ところが新しいモールをはじめとする新規の供給追加によってスペース稼動率に大幅な低下の発生が懸念されている。この膨大な供給量の稼動を高めるには、国内既存ブランドに頼っていてはきわめて荷が重く、海外の有力新ブランドを意欲的に誘い込まなければ小売スペース稼動は進展しないだろう、とプロコンインダ社は業界者に提案している。


「ジャバスペイシャル」(2008年5月9日)
政府は新たに作成した都市空間レイアウトモデルのトライアルをジャワとバリの諸都市で早急に実施する意向。公共事業省がオランダのコンサルタントと2007年8月から検討を進めてきたジャバスペイシャル(Jave Spatial)と銘するこの新モデルはジャワ島の諸都市にフィットする都市構造を実現させることを目的にしたもので、このジャバスペイシャルモデルを実践することで各都市における公共緑地面積は2025年に現在の2倍の広さに回復すると謳われている。
居住用途地区、保護エリア、その他の機能を持つエリアなどを明確に区分し、機能と土地空間利用の整合性を都市構造の中に確立させようというのがこのジャバスペイシャルのコンセプトであり、公共事業省はジャワの諸都市におけるトライアルを早急に進めたいと望んでいる。公共事業省土地利用総局長はそれに関連して、ジャワ島の河川上流地域は必ずしも都市化させる必要がなく、上流地域に雨水浸透エリアを確保して下流地域の洪水を防ぐことのほうがはるかに重要である、とコメントした。中でもジャワ島横断自動車道の通過する地域では自動車道周辺地域が都市化する懸念が強く、それらニュータウンの開発に適切なコンセプトを導入して方向付けをはからなければ最適な自動車道機能が失われる結果になりかねない、とも指摘している。
しかし、地形や地質に応じた都市エリア内の合理的土地利用と経済活動の観点から見た都市構造は相互に異なる図を描くものであり、既に青写真の描かれたジャバスペイシャルモデルはまだ第一フェーズ段階とでも言うべきものであって、経済面との連動まで計算しつくされたものになっていない。インドネシアの諸都市における成育・増殖は従来から経済的ポイントに強くひきずられて今日に至っているものであり、合理的な土地利用をそこにかみこませるという政治意思はきわめて弱いものでしかなかった。そのような都市の成育状況が軌道修正できなければ、今回のジャバスペイシャルもこれまでと同じように、「容器は用意されているものの、中には違うものが入っている」という昔からの二の舞は避けられないだろう。


「パサルスネン再開発が始まる」(2008年5月12日)
これまで何度となく開発の波をかぶってきた中央ジャカルタ市パサルスネンを都庁は再びお色直しにかける。今回行われる予定のスネン再開発は6.5haの国際レベル商業地区に大通りと鉄道というふたつのアクセスモードをインテグレートした新機軸で、その商業地区はSenen Jaya Cityという名前が与えられている。スネンジャヤシティの青写真は既にできあがっており、PDパサルジャヤ・PTプンバグナンジャヤ・PTジャカルタリアルプロパティの三社が共同でその実現に取り掛かる態勢に入っている。計画では、5年をかけて第一フェーズを完成させ、その次の第二フェーズでスネン鉄道駅がインテグレートされることになっている。このスネンジャヤシティが完成すれば、ショッピングセンター・オフィス・アパートメント・ホテルやその他首都のライフスタイルをリードするスーパーブロックがその地区一帯を埋めることになる。このスネンジャヤシティに建設されるビル群はレストランや商店を備えたスカイウオークやブリッジで連結される予定で、スネンラヤ通りを超えたスネントライアングルに建っている既存のプラザアトリウムも空中で結ばれる。
スネンジャヤシティ建設はプンバグナンジャヤがブロック?と?、ジャカルタリアルプロパティがブロック?と?、パサルジャヤがブロック?と?を分担するが、建設後のエリアトータル運営はその三社が合弁で設立するPT Jaya City Developmentが掌握する。スネンジャヤシティへの公共交通アクセスは都バスとバスウエイならびに鉄道が使われることになる。ジャカルタリアルプロパティは既にブロック?の工事を開始しており、続いて2008年のルバラン明けからパサルジャヤがブロック?の工事をスタートさせる。ブロック?で現在営業している商店2,367店と3百人のカキリマ商人は新施設が完成したあかつきには優先的に入居権が与えられる。商人たちは建設工事中に売り場販売価格の2割を納めることで営業を認められ、完成後は残る8割を銀行保証を与えられて分割払いすることができる。


「ジャカルタ版オーチャードロード」(2008年5月17日)
道路沿いにショッピングセンターやホテルが立ち並び、その前をゆったりとして緑陰豊かな遊歩道が広がって大勢の通行人が往来し、あるいはベンチに座ってひとやすみする。そんなシンガポールのオーチャードロードに負けじとばかり、都庁はジャカルタにも広い遊歩道を持つ商業地区を設ける企画を立てた。選ばれたのはサトリオ通り(Jl Prof. Dr. Satrio)。このサトリオ通りは、東はラスナサイッ(Rasuna Said)通りと地下道で交差してカサブランカ(Casablanca)通りにつながり、西はスディルマン通りを高架でまたいでマスマンシュル(KH Mas Mansyur)通りにつながる比較的道路幅の狭い通りだ。道路の南側はメガクニガン(Mega Kuningan)として開発がかなり進んできているが、北側はモールアンバサドル(Mal Ambasador)、ITCクニガン、カルフル、アパルトメンアンバサドルなどが稼動しているとはいえ地域開発はまだまだこれからという段階にある。この地区にチプトラグループがCiputra World Jakartaを、アグンポドモログループがKuningan Cityを開発するという企画が出されていることに鑑みて都庁はサトリオ通りをジャカルタのオーチャードロードにすることを発案した。遊歩道は8〜10メートルの幅を持たせることにしている。
都庁はそのため、それらデベロッパーが提出している企画書にそのような条件を適用し、また都の事業として道路整備を行う計画を立てている。サトリオ通り自体は道路幅の拡張にあまり余裕がないことから、交通の流れる方向を変えるかもしくは高架道路を作って二段式にするといったアイデアが検討のまな板に乗っているところ。
都庁が打ち出したこのオーチャードロード構想に対して都議会第D委員会議長は、環境インパクト問題と緑地雨水浸透井の学術検討をまず行え、と都庁に警告している。またトリサクティ大学都市開発研究者は、首都交通に与える包括的な影響をまず明らかにしなければならない、と発言した。「ジャカルタの都市環境の一角に広い遊歩道が作られるのは都民にも観光客にも待ち望まれているものだ。都庁はそこにカキリマなど零細小売事業者の場を設けてやる必要があり、美観を損なうことなくかれらをどのように配置していくか、これも重要なテーマのひとつだ。」と語っている。


「パサルフェスティバル」(2008年7月23・24日)
南ジャカルタ市クニガン(Kuningan)地区ラスナサイッ通り東側の高層アパート群タマンラスナ(Taman Rasuna)の南にパサルフェスティバル(Pasar Festival)がある。ラスナサイッ通りは1970年代に開通した道路で、この道路に沿って地域開発が行われ、広大な地所が激しい投機で急激に値上がりした。「土地を買いたい知合いはいないか?おまえが買ってもいいぞ。」と日本人に売りたいスペクラトルから声をかけられたことも何度か体験している。1970年代にクニガン地区開発のゴールドラッシュが吹き荒れるまで、通りの東側は数ヘクタールに及ぶ広大な墓地だったそうだ。墓地を撤去して街づくりを進めるのはどうやらそのころから築き上げられたジャカルタの伝統だったようだ。
モールという冠詞をかぶったショッピングセンターのパサルフェスティバルは、最初アリ・サディキン都知事が大学生センター(Gelanggang Mahasiswa)として設けた一角に建てられた。スポーツ・文化・芸術などさまざまな学生活動を支援するための大学生センターはスポーツスタジアムをはじめいくつかのスポーツ施設にその名残をとどめている。しかし大通りに沿った一等地が商業施設に変身するのは時間の問題でしかなかった。いまこのパサルフェスティバルは、さまざまな商品を廉価に購入できる比較的快適なショッピングセンターとして都民が足を向ける場所のひとつに位置付けられている。
ラスナサイッ通りから見ると建物左ウイングの一角に書店がある。Gudang Bukuという看板を掲げたこの店は古本屋だ。店の表は雑誌とコミックで埋まっているが、店内に入ると壁一面が古本やカセットテープでぎゅうぎゅう詰め。インドネシア語の書籍がメインであるのは言うまでもないとして、英語やドイツ語など欧州系言語の本もあり、中には日本語や中国語のものもちらほらと混じっている。ハングル文字のコミックも目に入る。本の虫だからbukuと仲間内から綽名されているダウド氏がこの店を開いたのは2002年のこと。それまで建築業を生業にしていたダウド・ブク氏が古本屋に変身したのは、仲間が古い書籍を捜し求めて苦労しているのを手伝ったことがその転機になった。
古雑誌はオフィス・ホテル・アパート住人など定期的にたまった雑誌を処分したい人たちから手に入る。外国語の書籍は本帰国するさいに持ち帰る気のない外国人駐在員から手に入る。中にはただでくれる人もいるそうだ。時にページが崩れそうな百年以上昔の古書が手に入ることもある。そんな稀書が手に入ればかれはチプタッ(Ciputat)にある別の店で取り扱う。最近かれは南カリマンタンから出た古ムラユ語の文書を5千万ルピア以上の値で売った。かれはまた、とある古本売場のゴミの山から1946年製の書物を見つけた。その本にはなんと、スカルノ、ハッタ、スディルマン、キ・ハジャル・デワンタラ、アリミンなど建国の父たち60人の署名が施されている。ダウド氏がその本について尋ねると売場の主人は「ただでやるから持って行け」と言ったそうだ。ダウド氏は、その本は一生だれにも売らない、と語っている。
グダンブクのパサルフェスティバル店は1冊5千や1万ルピアの雑誌とか数万ルピアの一般書籍の取扱いに特化しているが、古本ビジネスは儲かるとダウド・ブク氏は言う。家賃や事業経費が年間2億ルピアかかるものの、一日の売上は3〜7百万ルピアある。その半分近くが雑誌の売上。売上高平均値を掛け算してみれば、年間売上高は経費の10倍程度になる。かれはまた、心の痛む話をした。インドネシアブックフェアに出店したとき、ひとりの老婦人がやってきた。図書館を開いていた友人が逝去したが相続者がいない。たくさんの書物が残されたがそれをどうすればよいかわからない。そんな相談だった。ダウド氏が自分の店で売ることを提案すると、その老婦人はほっとした表情を浮かべた。ダウド氏が図書館の蔵書を調べたところ、全部で2億ルピアほどの仕入れ値になるとして老婦人に支払方法を尋ねると、その老婦人は支払を固辞したと言う。
階段を昇って建物内に入ると、建物中央部にフードコートがあり、テーブルが並んでいる中央にステージがあってライブミュージックが演じられている。たくさんの店舗が並び、そして通路にも売場がびっしり。そんな店舗のひとつにNews Standという店があり、ここも古雑誌を大割引で販売している。グダンブクよりも輸入雑誌がはるかに多いから、古雑誌愛好者には垂涎ものだろう。この店のユニークなところは、店の半分で古着を売っていること。日本からの古着がほとんどで、防寒服やスキーウエアまであるから、冬の北半球へ行くインドネシア人には重宝な店にちがいない。
その店の並びをもっと奥へ行けば、書店グラメディア(Gramedia)のディスカウントショップに出くわす。高級モールにあるグラメディア書店で売られているものと同じ書籍でしかも新刊書だというのに価格は10〜15%割引してくれる。グラメディア書店のディスカントショップは都内のあちこちにあるようで、わたしは北ジャカルタのモールアルタガディンでもそれに出くわしているが、恒久店舗の雰囲気がないため、そこで長期の常設営業が行われているのかどうかは保証の限りでない。
ともあれ、庶民的なショッピングセンターであるパサルフェスティバルは本の虫にとっても愉しみのある場所であるにちがいない。


「リンドテベス」(2008年8月6・7日)
グロドッ(Glodok)は昔からコタ地区の商業センターとして繁栄を謳歌してきた。昔はモーレンフリートと呼ばれていたグロドッ地区を貫通する運河の東側がハヤムルッ(Hayam Wuruk)通りで、ピナンシア(Pinangsia)に近いあたりにリンドテベス(Lindeteves)トレードセンターがある。
リンドテベスは元々スマランに本拠を置くオランダ系鉄工建材会社で、正式名称はNV Lindeteves Stokvis & Fa. と称し、植民地時代末期までインドネシアの各地に支店を置いて手広く事業を行っていたが、日本軍のインドネシア占領に際して接収された。1911年から建築工事が始まったリンドテベスのスラバヤ支店は個性的なデザインで建てられており、その時計台は地区一帯のランドマークとされていた。
バタビアのリンドテベス社屋はその後、機械や機器あるいはその部品などを扱うインドネシアナンバーワンのパサルとなった。リンドテベス北側に1970年代に建てられたハルコ(Harco)ビルは電気製品のメッカとなり、この一帯で電気製品や関連部品あるいは専門機材を探して見つからなければシンガポールに出るしかないというほどの地位を与えられていたものだ。そんな国内最高峰という栄名は最近まで続いた。ハルコは一般消費者に直接結びつく商品が廉価で豊富な品揃えの中から選べるとあってその名は広く人口に膾炙したものの、リンドテベスは扱われている商品の性質上一般消費者にはあまりなじみのない場所としての地位に甘んじてきた。ましてや外国人駐在員が買物に集まってくる場所でもなく、おまけにインドネシア人の中にその名をリンドティプスと発音するひともいるので、外国人にとってますます訳がわからなくなる場所であろうことは想像にかたくない。
1998年5月に吹き荒れた暴動はハルコやリンドテベスにも容赦なく襲い掛かった。荒廃したグロドッ地区が復興されたとき、かつてのくすんだリンドテベスビルは明るいモダンなトレードセンターに生まれ変わった。グロドッ地区のパサルとしての魅力は、品揃えの豊富さと価格の安さにある。都内の他の場所で同じものを買うよりも2割から3割、うまくすると50%も安く買うことができる。とは言っても、広大な売り場に品揃えの豊富な商品が陳列されていて、そこに表示されている値札は他の場所よりも圧倒的に安い、という夢のようなことを想像すると大きな間違いを冒すことになる。安楽に大きい得をさせてくれるような場所などこの地上にあるはずがないではないか。
数多くのバリエーションの中から気に入った商品を選び出しそれを安く購入するためには、比較的狭い売り場がびっしりと立ち並ぶ通路を歩きながら数え切れないほどの店を覗いて物色し、目をつけたものと同じ商品を置いてある数軒の店で値段を尋ね、既に身につけた豊かなタワルムナワル技術を駆使して値切りの駆け引きを行うというプロセスを経なければ、グロドッの魅力を存分に享受することはできないのである。グロドッは安いという言葉に惹かれて買物に行き、店員の言いなりの値段で買って帰るようなことをすれば、都内のほかの場所よりも高い買物になるかも知れないのだ。上で触れたような時間と苦労という対価を払ってはじめてグロドッの魅力をわがものにできるわけで、楽して手に入るような甘いものがそこへ行けばあるという想像は身を滅ぼすもとになる。そんな時間と苦労を昔は暑く薄暗い環境の中で強いられていたのに比べ、いまでは冷房と照明のあふれるような場所で行うことができるように変化しただけでも、最近のひとたちは得をしていると言うことができるだろう。
5月暴動のあと、コタは最危険地区という烙印が捺されて駐在員立入り禁止エリアに指定されていたようだが、そのような禁令はまだ続いているのだろうか?ともあれコタ地区への便利な交通ルートを紹介しておこう。バスウエイがコタ鉄道駅まで延長されてスリーインワン制限地区が拡大し、グロドッ地区の大通りもそれが適用されるようになった。おまけにコタ駅からピントゥブサール(Pintu Besar)通りにかけては年中の交通渋滞であるため、三人乗っていない自家用車族はスリーインワン時間帯が近付くと早々に路上から姿を消している。そんな背景を踏まえた上で公共交通機関を使えばスリーインワンとは無縁でいられるのだが、怖いコタでアブナイ公共交通機関をはたしてあなたは利用するだろうか?
1.ジャカルタ近郊からコタを目指す場合は近郊電車を利用すると楽だ。べオス(Beos)・コタ終点で下りてから、駅前を通るミクロレッのM12スネン行きあるいはM08タナアバン行きに乗ればハルコ(Harco)グロドックに向かうことができる。
2.ブロッケム(Blok M)からコタ行きのトランスジャカルタバス第1ルートに乗る。終点のマンディリ銀行博物館前停留所もしくはその前のHWI前停留所で下りる。アセムカや旧パサルパギへは徒歩でも行けるし、オートバイや自転車のオジェッを使うこともできる。
3.タナアバンからミクロレッッM08で、あるいはパサルスネンからミクロレッッM12でグロドッへ向かう。これは1.と逆向きのルートだ。


「バリッパパンはジャカルタより高い」(2008年9月8日)
国内26都市で生活費の高いのはどこかという調査が2008年6月半ばから2週間かけて全国で一斉に行われた。マーサーインドネシアが行ったその調査では、食品・生活必需品・交通・ユーティリティ・住居・教育・医療・スポーツ・娯楽など全10項目に関してジャカルタを基準値100と置き、それ以外の25都市が各項目でどうなるのかを測定して総合指数を出している。その調査結果によれば、この番付の首位に立ったのはジャカルタでなくなんとバリッパパンで総合指数107。ジャカルタは二位で100。第三位にはブカシが総合指数94で、2006年サーベイ時の10位から大躍進を遂げた。番付の主なところは下の通り。
1.Balikpapan 107
2.Jakarta 100
3.Bekasi 94
3.Samarinda 94
5.Bogor 92
6.Jayapura 91
7.Pekanbaru 80
8.Bandung 89
8.Batam 89
8.Medan 89
11.Padang 88
11.Manado 88
13.Semarang 86
14.Palemang 85
14.Banjarmasin 85
16.Tangerang 84
16.Cilegon 84
16.Surabaya 84
16.Yogyakarta 84
24.Denpasar
25.Mataram 75
25.Bandar Lampung 75
2006年実績と比較すると、デンパサルは8位から24位へと大きく変化しているし、バンジャルマシンも4位から14位に下がった。一方ブカシが大躍進し、またメダンは15位から8位に上がっている。マーサーインドネシアはこのサーベイについて、どの都市の生活費が高いとか廉いとかを決めるためには生活のクオリティという要素も折りこまなければならないが、このサーベイの目的はそれではない、とコメントしている。このサーベイは企業が社員を出張させたり転勤させたりする場合の経費目安として利用されるべきものであるとのこと。


「パサルマイェスティッ建て替え」(2008年10月27日)
1970年代から80年代にかけてセラブリティたちの御用達市場になっていた南ジャカルタ市クバヨランバルにあるパサルマイェスティッ(Pasar Mayestik)の市場ビルが建て替えされる。工事はまず老朽化したビルを壊して基礎工事を行い、その上に4階建てのビルを新たに建設するというもので、その建て替え工事はこのパサルコンプレックスをモダンなオフィス商業センターに模様替えさせる企画の柱とされている。工事は2008年12月までに開始される予定で、工事期間は2年間。パサルビルに入居していたおよそ1千3百人のテナント商人たちはビル建て替え工事の間パサルコンプレックスから近いタマンテバ(Taman Tebah)で商売を継続する。地元民からパサルミスティッとも呼ばれているこのパサルは布地や衣料品、縫製手芸材料など繊維関連商品で人気が高い。


「バンドンが生活クオリティナンバーワン」(2009年2月4日)
ジャカルタより高い生活クオリティを享受できる都市が6つあることをマーサーインドネシアのサーベイ結果が物語っている。2008年7月8月に行なわれた国内26都市に関する生活クオリティ調査はジャカルタを基準都市として100ポイントを与えた上で他の25都市それぞれの評価ポイントをまとめたもので、最高は106ポイントを獲得したバンドンだった。スラバヤとジョクジャは同点104ポイントで2位、そしてデンパサル・マカッサル・パレンバンも100ポイントを超えた。つまりそれら7都市はジャカルタより生活クオリティ評価が高かったということだ。首都圏は7位のジャカルタに次いで8位がボゴール、タングランは15位、ブカシは17位に位置している。一方、生活クオリティの劣悪な都市はジャヤプラとチレゴンが同点83ポイントで最下位、バンジャルマシンは86ポイントで24位、プカンバルは88ポイントで23位だった。
首都ジャカルタの第7位という順位は、劣悪な交通システム・交通渋滞・大気汚染そして盛んな路上犯罪や頻発する主要道路の水没などがその生活環境を低いものにしている結果だとマーサーインドネシア情報製品対策ビジネスリーダーが説明している。2008年初にマーサーコンサルティングが公表した、ニューヨークを100ポイントの基準都市として世界諸都市を評価したグローバル調査結果を見ると、ジャカルタの生活クオリティは63.7ポイントで世界の146位に置かれており、これは2004年調査時の139位から悪化している。アセアン諸国の中でジャカルタはシンガポール・クアラルンプル・バンコック・マニラより下にあり、ホーチミン市やハノイよりは上にいる。


「都市計画をホームページで告知」(2009年5月14日)
都庁都市整備局のホームページtatakota.jakarta.go.idが首都ジャカルタの鳥瞰画像を使った電子地図を無料で用意している。都民が首都の都市計画の詳細を知るためにこの地図は重要な役割を果たす、と都市整備局長は語る。「3千8百枚の地図がまとめられてひとつの地図になっている。地図はまず郡単位で区分されており、かなり細かいレベルまでクローズアップすることができる。道路や目印となる建物などの名称も織り込まれており、目標ロケーションを探したり特定ブロックの現在計画がどうなっているのかということも知ることが出来るので、土地を買ってそこに建物を建てようという場合、都民はまずこの地図で都市計画についての情報を得るようお奨めする。このホームページでは、建築許可に関する情報にアクセスすることもできる。このサイトはいま情報技術サービス事務所に間借りをしている状態なのでパフォーマンスが悪くなるときがあり、将来的に独立したサイトを設けてその解決をはかることにしている。インターネットにアクセスできない都民でも郡役場へ行けばプリントされた地図を見ることができるし、また郡役場に端末を置いて都民がその地図にアクセスできるようにしていく計画も立てている。この地図はさらに発展させて三次元画像に向上させる所存であり、建物はひとつひとつ写真を撮ってこの地図の中にインテグレートしていく。都民に都市整備計画をオープンにわかりやすく告知するのが当方の方針である。」局長はそう語っている。


「ポンドッキンダの用途違反住居に封印措置」(2009年6月19日)
非商業地区である南ジャカルタ市クバヨランラマ郡ポンドッキンダ(Pondok Indah)地区で、本来住居として建築されたにもかかわらずビジネス場所として使われている建物が多数存在していることから、都行政側は何年にもわたってその用途違反を住民側に指摘し、違反行為をやめるよう広報を続けていた。そして2009年6月8日、その長期にわたる猶予期間を経ていまだに違反を続けている建物に対する強制執行措置を南ジャカルタ市が行なった。
この日市庁が封印した建物は9軒で、封印を表示した80センチX60センチのプラカードが表門に張られて建物内の出入りが禁止された。そのひとつは英語教室が営業されているドゥタスコラV通り35番地の2階建て建物で、都庁職員が封印作業に訪れたときは何も活動が行われておらず、建物内はひっそりしていた。他にもグドウンヒジャウラヤ74番地のランドリー店、36番地の絵画スタジオ、メトロポンドッキンダ通りのベビーショップやテディベア託児所、モンテソリー幼稚園など、またヒジャウラヤ通りのフィットネス等でも同じ強制執行が行なわれた。南ジャカルタ市庁によれば、ポンドッキンダ地区にある用途違反建物は70あり、市庁はそのうちの50軒に既に警告書を送付しているとのこと。その中には元国政高官や音楽家の持ち家などが含まれている。
南ジャカルタ市建築物監視統制課長はこの執行措置に関連して、この違反に対する罰則は2年8ヶ月の入獄だと述べている。しかし家屋の封印については、建物オーナーが用途を本来のものに戻せばすぐにでも封印は解除するとも語っている。今回ポンドッキンダで行なわれた強制執行措置と同じものがスティアブディ地区とクバヨランバル地区でも行なわれている。


「首都の賃貸オフィスはスナヤン地区が人気」(2009年8月3日)
PTカッシュマン&ウェイクフィールドインドネシアが2009年第2四半期の都内賃貸オフィススペース料金を報告した。それによればAグレード中央ビジネス地区(CBD)は月額平均平米あたり191,500ルピア、Bグレード135,850ルピア、Cグレード116,800ルピアとなっている。第2四半期の賃貸料金は前四半期から4%〜9%の幅で低下しており、料金低下は新規需要がぱったり途絶えていることが原因だ、と報告者は分析している。オフィスビル運営者はテナント維持のために料金割引や支払条件緩和などの対策を講じている。AグレードCBDのエリア別賃貸料金平均は次のような状況であり、いま都内の人気エリアはスナヤン周辺に移っているようだ。
Senayan 224,600-
Thamrin 214,000-
Sudirman 200,000-
Gatot Subroto 199,100-
Dr Satrio 188,900-
Kuningan 181,000-


「ジャカルタの花市場」(2009年9月7・8日)
プンチャッ(Puncak)〜チアンジュル(Cianjur)一帯のエリアは花の産地だ。大規模園芸農園がたくさんあって、毎日切花を出荷している。熱帯の豊かな自然の恵みである色形とりどりの多種多様な花は、熱帯に住むひとびとにとっては自分の日常生活に彩を添えるものでしかなく、その経済価値を追求しようという考えがあまり起こらなかったらしい。だから切花農園の歴史は比較的浅い。
1989年に設立された西ジャワ州チアンジュル県スカレスミ(Sukaresmi)郡カウンルウッ(Kawungluwuk)村にあるAlam Indah Bunga Nusantara農園はヌサンタラフラワーパーク(Taman Bunga Nusantara)と境を接している。この農園ではインドネシア名seruni別名krisan、つまり菊の商業栽培を事業の中心に据えている。年間生産量は4百万本ほどで、そのうち28〜30%が日本・中東・パキスタンに輸出される。菊はインドネシア国内だけで年間2千6百万本が商いされている600億ルピアの大市場だ。だから菊の商業生産は盛んに行なわれている。ボゴール市に近いチアウィ郡ガドッ(Gadog)にあるSaung Mirwanでも菊が事業の中心になっている。この農園では生産された菊のおよそ半分が日本に輸出されている。本数にすれば年間で3千5百万から4千5百万本といったところ。1992年創業のサウンミルワンはガドッに10Ha、レンバンとチパナスに4Haの農園を経営し、2百人を雇用して週当たり菊の切花3千〜3千5百本、鉢植え1〜2千本を国内市場に出荷している。
アラムインダブガヌサンタラもサウンミルワンも菊のほかにポインセチア(インドネシア名kastuba)、トルコキキョウ(インドネシア名lisiantus)、ゼラニウム、バラなどを栽培して国内市場に出荷しているとはいえ、圧倒的な菊のボリュームの比ではない。サウンミルワン農園の切花の売上は年間100億ルピア、野菜の売上をあわせれば年間200億ルピアに達する。
アラムインダブガヌサンタラでは農園用地15Haのうち6Haに8.5x60メートルのトンネルグリーンハウス34棟を並べて菊の栽培を行なっている。菊は一日の日照時間が14時間より短くなると開花するため、光の制御も園芸作業の一部になっている。アラムインダもサウンミルワンも菊の親木をオランダから輸入しており、アラムインダは30種、サウンミルワンは40種の変種を育てている。
バンドン県プガレガン(Pengalengan)郡スカマナ(Sukamanah)村にもCD Farmsという切花農園があり、ここの主役はカーネーション(インドネシア名anyelir)とユリ。CDファームスがまだ輸出に乗り出していないのは国内外の価格差のためだ。「ヨーロッパでユリは一本7千ルピアだが、国内に出せば2万ルピアで売れる。」CDファームスのジェネラルマネージャーはそう語る。CDファームスでもユリの球根を2年毎にオランダから大量に輸入している。
インドネシアでプレゼントに一般的に使われている切花は、バラ・ユリ・カーネーション・菊の四つ。これはそれらの花が特に人気が高いということではなく、大量にマーケットで流通しているからだそうだ。その四種に次いで使われるのは蘭とチューベローズ(インドネシア名sedap malam)で、こちらの供給量は上の四種に劣る。
それらの生産者が国内市場に流す場合、直接フロリストやインテリア装飾家あるいはスーパーマーケットに出るものもあるが、首都ジャカルタにも花の中央市場がある。西ジャカルタ市ラワベロン(Rawa Belong)は毎朝暗いうちから花が集まり、そして都内各所に散って行く。花の流通利益は仕入れ価格の100パーセントだそうだ。大量に切花が必要な場合は市中の花屋さんよりもラワベロンへ行くのが経済的だろう。インドネシアの庶民はたいていそのようにしている。


「スラムによって拡大する都市」(2009年11月28日)
年々都市化の進む全国の町では、平均して60%が住宅用地になっている。都市化の進展で都市部の面積は増大しているものの、その増大の中味はほとんどがスラム街だと公共事業省生活インフラ総局長が警鐘を鳴らした。
全国350都市のスラム地区は総面積で57,800Haを占め、年率1.4%で増加している。一方、都市と農村の居住者人口比較では5年前の40:60が今では50:50に変化しており、農村部から都市部への人口移動は今後も持続するだろうと見られている。
国連のスラム地区縮小の呼びかけに応じてインドネシア政府もスラム地区面積縮小に取り組んでおり、貧困層住民に積層住宅を用意したり経済的な援助を与えて自力で住居を建てることを奨励するといった努力を行なっている。政府は200都市をスラム地区解消指定都市に選び、2015年にはスラム地区を限りなくゼロに近付けるよう目標を与えた。そんな指定都市を持つ市長や県令の中ではソロとパレンバンが抜きんでた成果を出しており、ソロは河川敷周辺住民の居所移転に成功したし、パレンバンは都市レイアウト整備を行なってスラム地区解消に効果をあげている。
そんなスラム地区の解消は生活環境対策としてのゴミ処理問題にもポジティブな影響をもたらすものだ。スラム地区が増えこそすれ、まったく解消に向かわない首都ジャカルタではゴミ問題が今後一層深刻になっていくことが予想されている。流入する人口増とビルの増加に伴って2010年にジャカルタでは一日6,894トンのゴミが作り出されるだろうと試算されている。都庁清掃局長によれば、都内各所に集められたゴミはトラックで最終投棄場に運ばれる仕組みになっているが、保有ゴミトラック台数は730台しかない上にその40%は運送適性に問題がある。結果的に運び残されるゴミが毎日1千5百から1千6百トンあり、空地・溝・川などに捨てられて環境汚染を導いている。特にスラム地区ではゴミ処理システムが存在しないかあるいは存在しても機能しておらず、ゴミ問題はスラム問題と相互にからみあって根の深い社会問題を形成している。


「ジョクジャがベスト居住都市」(2010年3月1日)
都市計画専門家同盟が行なったサーベイで、妥当な電気水道通信などのユーティリティインフラが整っているのはジョクジャ・マカッサル・バンドンの三都市であり、またそれら三都市は快適な居住ができる場所であることが明らかにされた。10大都市の快適度調査では、インフラ・交通機関・娯楽施設・道路状況・緑地・その他ファシリティなどのカテゴリーが審査され、ジョクジャが最高の83%、続いてマカッサル76%、バンドン70%という評点が与えられた。一方、ポンティアナッは37%、メダン53%、ジャヤプラ56%で劣悪都市三傑に位置付けられている。


「身体を使うよりは金で解決」(2010年3月2日)
2009年5月22日付けコンパス紙への投書"Portal Ditertibkan, Siskamling Ditingkatkan"から
拝啓、編集部殿。1998年5月暴動以来、公道にポルタルを設置するのが大流行しました。中産階級以上のほとんどすべての国民が身辺と財産に対する安全に不安と恐れを抱いて居住地周辺の道路にポルタルを設置しました。建築許可書(IMB)もなしに。警備員がガードするものから鉄あるいはコンクリートのフェンスで恒久的に閉鎖してしまうものまでさまざまです。
地元行政府からの文書による許可なしに公道を閉鎖するのは法律違反です。しかし当時の状況つまり国中に広がった不安感情のために警察はポルタルが設置されることを容認しました。ところが保安を目的にして設けられたポルタルは効果を持っていないことが証明されています。盗難事件はやむことがなく、ましてや四輪二輪自動車までもが盗まれているのですから。
昔1960年代には各自の居住エリアの保安向上に住民が積極的に参加する制度が定められ、たいへんポジティブな成果をもたらしました。住民同士が頻繁に顔をあわせて親密な関係を結び、住民同士の間にすべて知合いという関係が生まれたことで保安は向上しました。大勢の人たち、特に翌日仕事のあるひとにとって徹夜で居住地区を見回るのはたいへんな負担に感じられますが、週一回の割当にするとか、19時から23時まで本人が行い、それ以降は警備員や民兵にバトンタッチするといった方法でその問題を克服することができます。夜間警備のための警備員や民兵を雇えない地区は時間を細分して2シフト3シフトにすることも可能です。昼間の警備も同じようにして行なうことができるのです。このシスカムリン(SISKAMLING = Sistem Keamanan Linkungan)制度が実施されていたころは、会社重役やマネージャーあるいはアーチストたちが労働者やベチャ引きと一緒に夜中の警備に参加し、社会階層間の壁は自動的に消滅していました。
住民の間にハーモニーに満ちた関係を築き、たいへん優れたものであることが証明済みだったこのシスカムリン制度は残念ながら1970年代に色あせはじめ、ついに姿を消してしまいました。国民は再び個人主義者者やエゴイストに戻り、同じ隣組(RT)住民同士でありながら互いに相手を知りません。
1998年5月暴動が起こったとき住民は再び各自の居住地区で警備を行ないましたが、ポルタル設置のアイデアが実施されるようになり、簡素なものから数千万ルピアという大層なものまで随所に造られたのです。このポルタル設置はいまや全国の都市に拡大しています。[ デポッ在住、ハンディヤント ]


「バドゥイ族も経済活性化」(2010年3月4日)
これまで閉鎖社会の中に閉じこもっていたバドゥイ族の自己開放が進んでいる。バドゥイ族は外界との交流を完全に断っている内バドゥイと、内バドゥイ居住地区の外縁を守るかのように外界との接触を受入れつつ内バドゥイにとってのバッファーとして機能している外バドゥイに分かれている。昨今、かれらの経済活動が活発化している。
バドゥイたちが作る布や装身具は現代社会にとってユニークなものが多く、それらは首都圏で静かなブームを起こしている。何世紀にもわたって伝えられてきた伝統的製法で天然素材を加工するかれらの手工品は他に例のないぬくもりを感じさせるものだ。
2009年クリスマスから2010年新年のホリデーシ−ズンにはバンテン州ルバッ県ルウィダマル郡のバドゥイ部落を大勢の観光客が訪れて地元民芸品を土産に買って帰った。来訪者の多くはボゴール・ジャカルタ・ブカシ・バンドンなどから来た学生や会社員。バドゥイ土産物品店のオーナーは、売上が普段のものから一気に80%増しになったと好況に相好を崩している。店で売られているものは、サルンの小型のものが一枚6.5万ルピアで長いものになると30万ルピア、バティックシャツ7万ルピア、スレンダンの長いものは一枚25万ルピアだが小さいサイズだと4.5万ルピアからある。コジャ袋2.5万ルピア、コピアは1.5万ルピア、そしてさまざまな装身具は一個1万から2.5万ルピア。
またしょうがと砂糖やしで作った飲料品は一瓶3万ルピアで売られている。
バドゥイの衆は一年ほど前から手工品や収穫物を外界のひとびとに積極的に販売するようになっており、門戸開放が進みつつあるようだ。


「マルンダビーチが消滅する」(2010年3月10日)
北ジャカルタ市チリンチンのマルンダ海岸が姿を消す。マルンダ公共ビーチは都民が無料で遊べる唯一の海岸だが、そのおよそ1.5キロの海岸線は都庁が計画している港湾建設青写真の中に呑みこまれる。
現在マルンダ公共ビーチにはおよそ3百世帯がエリア内に居住し、また海岸部は漁師の漁場に使われている。都庁はヌサンタラ保税地区(KBN)を経済特別区(KEK)に指定して経済開発を行なう計画にしており、KBNがKEKに変身する時点でマルンダ海岸はKEK港の一部となり、公共ビーチは姿を消す。
「港は長い海岸線を必要とする。たとえば日本の港は長い海岸線を使っている。その中には埠頭と船と倉庫しかないのだが。ジャカルタも経済開発のために長く広い海岸線が必要だ。KEK建設は周辺住民の福祉を向上させるものであり、漁民は港湾労働者として職を得ることができる。収入が一定しない漁夫生活よりも毎月定期収入が得られるほうが生活ははるかによい。KEKに関する法令は現在審議中でまだ公布されていないから、KEKの実現はまだ先になるが・・・・」プリヤント副都知事は北ジャカルタ市庁での記者発表でそう語った。
バンバン・スギヨノ北ジャカルタ市庁もそれに付け加えて、マルンダ海岸を含むKEKのレイアウトデザインはバンドン工科大学とインドネシア大学の専門家が現在草案を練っている、と説明している。
しかしマルンダ伝統漁業者会会長はマルンダ海岸がKEKに呑み込まれたらマルンダの漁業は死滅すると語る。「マルンダには210世帯以上の漁師が世襲で漁業を営んでいる。養殖漁業や捕獲漁業などさまざまだ。海岸線が港に変わればかれらは生活の糧を失うことになり、関連する零細事業者も糧を失うことになるだろう。」会長はそう述べている。


「ユニークなビルがジャカルタに」(2010年6月19日)
公共事業省傘下の国有事業体PTフタマカルヤが南ジャカルタ市クニガン(Kuningan)地区にユニークなビルを建設中。53,700平米の土地に建てられている30階建てビルはThe H Towerという名前で、着工してから既に10ヶ月が経過しており、2011年7月の完成が見込まれている。モダンミニマリストデザインのこのビルでは周囲に高層ビルがないため全方向でオープンな景観が楽しめる。ザHタワーの1〜2階はロビー、7〜9階はVVIPルームとプレジデンシャルワードスペシャリティセンター、10〜14階はメディカルフロアでさまざまな医療機関が誘致され、15〜19階はオフィスゾーン、22〜30階が高級アパートメントという設計になっている。メディカルフロアとオフィスフロア用のロビーはアパートメント用ロビーと別のフロアに設けられ、それらが混じりあうことはない。このビルにはまたフィットネスセンターやレストランが誘致されることになっている。
アパートメントは家具付きで153ユニットが用意され、販売価格は平米当たり2,200万から2,450万ルピアが予定されている。部屋のタイプは1寝室型が55〜72平米、1寝室プラス型が108平米、2寝室型は112〜138平米といったところ。またオフィスとメディカルクリニックの家賃は平米当たり2,000〜2,100万ルピアとなる予定。


「あぶないタムリン通りの歩道」(2010年7月7日)
2010年5月14日付けコンパス紙への投書"Trotoar Maut di Jalan Protokol"から
拝啓、編集部殿。2010年4月24日18時半ごろ、中央ジャカルタ市タムリン通りにあるニッコーホテルで開催された全国大会が終わってからわたしはプラザインドネシアに向かってぶらぶらと歩道橋を渡りました。橋の階段を降りて数メートル進んだときわたしは転んでしまい、左足をしばらく動かすことができませんでした。
異常な痛みをがまんして、わたしは歩道の小木につかまって立ち上がりました。なんとか自分を取り戻してから、どうして自分が転んで足をねじったのか、その原因をわたしは探しました。そしてわたしは、歩道の一部が幅5センチ長さ1メートルにわたって落ち込んでいる場所があるのを見出したのです。全部が同じクリーム色の色調だったためただでさえ目に入りにくく、ましてや夕方の薄闇の中だったのでまったく気がつきませんでした。
痛みがあまりにもひどかったので、わたしはびっこをひきながらニッコーホテルに戻りました。ホテルに戻って靴を脱ぐと、わたしの足は腫れていました。翌朝、同僚のガジャマダ大学工学部教官も同じ目にあったことを物語りましたが、しかしかれはわたしのように怪我をしなかっただけマシでした。
その日曜日の朝わたしは部屋の窓から、何千人もの市民がタムリン通りとホテルインドネシア前ロータリー一帯にあふれて運動やさまざまな活動を行っているのを目にしました。そのときわたしは、あの一部分が落ち込んでいる歩道のくぼみでわたしのように怪我をするひとが出ないことを祈ったのです。
関係当局はわたしのような怪我人が出ないよう、早急にあのくぼみを修理してください。[ ジョクジャ在住、スダルヨノ ]


「胡椒から錫へ」(2010年7月29日)
錫の採鉱が盛んになるまでコショウの一大産地だったバンカブリトゥン州バンカ島は、オランダ政庁の錫採鉱事業が活発化して以来錫とコショウがその地の特産品として双璧をなしていた。ところが最近はコショウの価格低迷で農家の採算が悪化しており、農業をやめて採鉱業に鞍替えする農民が増加している。
そのひとり、バンカ県スゲリアッ郡シナルバル町に住むコショウ農家のサミウンは、「コショウ栽培は2百本のコショウの木を育てるのに肥料を含めて年間5百万ルピアの費用をかけ、4年かかってやっと収穫できるが出来たコショウの値は低い。肥料の入手だけでも時にはたいへんな困難にあうことがある。それに比べたら錫採鉱は自分の体一つで元手要らず、働けば働くほど金になる。一日45万から60万ルピアもの収入が得られてコショウ栽培よりはるかに良い。」と語っている。


「全プカロガン市民の産物」(2010年9月4日)
1970年代、プカロガンのバティック職人は農民たちだった。だからその当時、バティック生産は農業の繁忙期を外して行なわれたものだ。農民たちは田植えや収穫の時期になるとチャンティンを置いて水田に出て、終日野良仕事を行なった。往時のバティック事業者とバティック職人はきわめて家族的な雰囲気の中でつながっていた。ところが政府が労働法を施行し、労働者保護の政策を打ち出したことで、事業者と職人の関係がよそよそしいものに変化していった、と事業者のひとりは物語る。もちろん搾取的な事業者は昔からいたし、現在でもなくなったわけではない。
しかし時代の変化とともに農業従事者が町中から減少して行き、替わって町中の一般家庭の若者たちが収入欲しさに家の中でバティックを作るようになった。その流れがプカロガンのバティック生産の層をたいへん厚いものにして行ったのである。
プカロガンのバティック生産量は全国でナンバーワンとなり、ジャワ島北岸街道を通る旅行者たちはプカロガンまで来るとバティックショップに立ち寄って、ジャカルタやスラバヤで買うよりも何割も廉いバティック衣料品を買い漁るようになった。
こうして2000年7月、ストノに最初のバティック卸売り市場がオープンした。この市場はプカロガンからバタン(Batang)に向かう街道に沿ってある。そして4年間でバティック市場は4ヶ所に増えた。Pasar Batik Setono, Pasar Batik Gamer, Pasar Batik Pantura, Pasar Batik MMがそれだ。


「生活快適度が悪化している12都市」(2010年10月16日)
国内12都市の生活快適度が低下している。都市計画専門家の集まりであるインドネシア都市計画専門家連盟によれば、2009年の12都市生活快適度インデックス平均値は54.2%だったが、2010年は51.5%にダウンしている、とのこと。
インドネシアの都市生活をサポートするための電気・上水その他社会ファシリティが住民の活動に便宜を十分に提供していないことをそれは意味している。加えて不明確な都市スペースの整備と用途に即していない開発が住民生活から快適さを奪っており、不健全な環境が状況を悪化させている。
生活快適度の調査は都市計画・環境・交通・施設・インフラ・ユーティリティ・経済・犯罪や住民交際などの社会的要素など26のインディケータを総合してインデックスが採点される。12都市の中でインデックスが上位にあるのはジョクジャカルタが最高の65.3%、続いてマナド59.9%、マカッサル56.5%、バンドン56.4%、一方レベルが低く、住民生活のクオリティが劣っている都市はポンティアナッの43.7%、ジャカルタ51.9%、パランカラヤ52.0%といったところ。


「ジャカルタ遷都」(2010年11月19日)
最新センサスで首都ジャカルタの人口は950万人を数え、朝から夜までジャカルタで活動しているコミューターを加えるとその数は大幅に膨れ上がる。首都ジャカルタの街中に日々の暮らしを楽しむ余裕は既に消え失せ、この街はチャリウアン(cari uang=金稼ぎ)のための戦場と化している。
世界中の大都市は経済レベルが高いために地方からチャリウアンを目的にひとが集まるのが通例で、上京してきたひとびとは既に安定した暮らしを営んでいる市民と同レベルの暮らしができないためにスラムを作って住む。そこではあらゆるものが廉価で手に入るが、生活クオリティも廉価なものになるのは理の当然と言える。たいていの大都市はスラム化が進行しており、ジャカルタも例外ではない。というよりジャカルタはスラム化した一部が拡張していると見るよりも、ジャカルタ全体がスラムに向かって落ち込みつつあるという印象を強く受けるのは、はたしてわたしだけだろうか?
しばらく前にジャカルタ遷都の話題がマスメディアを賑わした。首都機能をカリマンタンのどこかに移転させろという声はオルバ時代から上がっている。現代の遷都は国政機能を抜き出して他の場所に移すパターンが一般的なようだが、政治が経済を支配し搾取している国でそのような政経分離が果たして可能なのだろうか?
例によってコンパス紙R&Dが2010年10月21・22日に国内主要都市住民737人に電話インタビュー調査して集めたデータによれば、首都をジャカルタから移転させる案に賛成するひとは過半数を占めた。
質問)首都をジャカルタから他の場所に移す話にあなたは賛成しますか?
回答) 賛成 57.3%、 反対 38.8%、 不明・無回答 3.9%
昔からジャカルタに住むひとびとのほとんどは地方からの上京者で、かれらは地方にいたときの土地があり植物が家の庭にあるという生活が人間の自然な暮らしだと考えているため、土地付き住宅に住むのが当たり前と見なしていた。いまのようにジャカルタが超過密状態になる前は、一家をあげてアパートに住もうというひとはほとんどいなかった。しかしその認識は変わりつつあるようだ。
質問)ジャカルタ都民がますます増加していくなら、アパートなどの積層住宅に居住することに賛成しますか?
回答) 賛成56.9%、 反対 39.5%、不明・無回答 3.6%
ジャカルタの過密は道路交通が象徴している。金曜日の11時過ぎごろを除けば、都内の道路を自分の走りたいスピードで車を走らせることのできるチャンスが出現したとしても、百メートルも走れたらもうけものだろう。
質問)路上の超過密状態を克服するために、まず何をすればいいと思いますか?
回答) 自動車台数制限 55.8%、 道路拡張・インフラ対策 20.6%、 ERPなど道路通行有料化・駐車料金アップ・自動車税アップなど 9.3%、 交通法規の徹底執行 3.9%、 居住者数制限・首都移転 3.4%、 早く廉く安全快適な公共運送機関を設ける 1.4%、 その他 0.9%、 不明・無回答 4.7%


「オジェッスペダ運転手の日々」(2011年1月6・7日)
コタの一日が終わる。カリブサールバラッ(Kali Besar Barat)通りは閑散としてきた。オジェッスペダ(ojek sepeda=自転車タクシー)運転手たちがトコメラ近くのビルの表に集まってくる。壁の近くにダンボールを敷き、骨太の自転車をその脇に並べて夜が更けるのを待つ。そう、そこがかれらの常宿、つまり野宿をしているのだ。並んだ数十台の自転車の間にはひもが渡され、手ぬぐいと濡れた衣服がかかっている。その日着ていた衣服をかれらは自分で洗濯する。自転車には傘とビニール袋や防水性のバッグがかけられ、その中には着替え・洗面用具・ペンチやドライバーなどの道具が納められている。もう若くない男たちはダンボールのベッドの上で、中にはサロンを毛布にし、あるいはランニングシャツに短パンという姿で眠りに就く。明日の仕事に備えて。
道路の向かい側、川岸のほうは公園になっており、数人の男たちがベンチに座っていた。ボンサン50歳、アミン46歳、ジョハリ50歳、ナシム52歳、みんな毎日オジェッ稼業で暮らしている男たちだ。ナシゴレン屋台を引いてウディン45歳がそこにやってきた。
ウディンの話では、その野宿場所は最大で60人くらいが泊まれるが、普段は40人程度だし、日曜日には大勢が自宅に帰るので20人くらいに減ってしまうそうだ。ウディンはオジェッ運転手たちを相手にもう十数年ナシゴレン商売を続けてきた。オジェッ運転手たちはたいていバンテン州や西ジャワ州に自宅があり、日曜日に帰宅するだけでウイークデーはそこで野宿している。ボンサン、アミン、ナシムはタングラン、ジョハリはカラワンに自宅がある。ジョハリはカラワンからカリブサールまで自転車で3時間かかる、と言う。「わしの男性、いや失礼、が感覚をなくしたら、休憩時だ。ちょっと休んで血の巡りをよくしないとね。」
かれらは一日の稼ぎから3千ルピアは残るようにしようと毎日の出費を切り詰める。ところがそうたやすくは、とんやがおろさない。一日の稼ぎはせいぜい2万ルピアで、一日三度のメシとコーヒーにタバコだけで1万5千ルピアが飛んで行く。マンディに洗濯そして大の用事で3千ルピアが消えて行く。有料トイレはジュンバタンリマ(Jembatan Lima)にある、とアミンは語る。「だからさ、一日にメシは一回だけという日もあらあね。コーヒーとタバコだけは切らせられんがね。それでも厄日はやってくる。タイヤの空気が抜けりゃあ4千ルピア吹っ飛ぶぜ。それが家に帰る道中だったり、家からコタに向かってるときだと、もうすべてが水の泡。夜が明けるまで動けやしない。家族のために貯めた金も半殺しだわな。」
ジョハリが話を継いだ。「最近のタイヤチューブはからっきしだわ。昔は塞いだ穴が7つあっても、まだ使えた。ひとつ買えば一年以上もったよ。ところが今のは三ヶ月使えば穴が三つあく。三つもあいたらもう使い物にならねえ。今のタイヤチューブは1万1千ルピアで、三ヶ月しか使えねえ。どうしようもねえよな。」かれらが家族に渡せる稼ぎはひと月せいぜい5万ルピア。
コタのオジェッスペダの歴史は古い。運転手の多くはタングラン出身者だ。1973年ごろのスカルノハッタ空港建設のための土地買収で、農地を売って立ち退いた者の中にコタに出てきて自転車タクシー稼業を始めるひとびとがいた。オルバ期の建設プロジェクトで行なわれた強権的用地収用の犠牲になった民衆は少なくない。政府が用意した補償金はそこにからんできた役人やごろつきチャロや地元名士の間で抜き尽くされ、最後はテロで立ち退かされるというのが一般的な結末だったから、下層民衆の中に成金はほとんど出現しなかった。ブカシ東部からカラワンに至るチカンペッ自動車道沿線でも、工業団地・住宅地・商業センターなどのプロジェクトで同じようなことが行なわれた。水利が利権を生み、水の分配がKKNで穢されるようになれば、水田を廉く手放す農民も出てくる。
1980年代はオートバイオジェッもまだなかった。当時自転車オジェッは一日の利用客が20人はあったそうだ。いまは多くて5人。自転車オジェッの需給関係は逆転している。いまオジェッスペダを利用するのはロワーミドルの主婦や娘さん、学校生徒や商売人など。カリブサール(Kali Besar)エリアにたむろしているオジェッスペダで利用者はマンガドゥア(Mangga Dua)・トゥルッゴン(Teluk Gong)・ジュンバタンメラ(Jembatan Merah)・ラジャワリ(Rajawali)・ガジャマダ(Gajah Mada)・グロドッ(Glodok)はてはタンジュンプリウッ(Tg Priok)まで行く。オルバ期からレフォルマシ時代への移行で、コタトゥアに変化が起こった、とかれらは物語る。たくさんの国有事業体が廃業し、カリブサール周辺のオフィスは空き家になった。そこに勤めていたサラリーマンたちをターゲットにして大勢のカキリマ商人が道路脇を埋めていたが、オフィスにひとがいなくなるにつれてカキリマ商人も姿を消していった。「おかげでオジェッ運転手の夜の宿が確保された。夜にはオジェッ稼業の連中がたくさんここに集まってくる。」
インドネシア大学文化人類学専門家のひとりは、かれらの暮らしぶりには脱帽するしかない、とコメントする。「あらゆることがらが不十分であるにもかかわらず、家族に渡せるひと月の稼ぎが、どう逆立ちしてもせいぜい10万ルピアという成果でしかないにもかかわらず、乞食のように他人のお恵みをあてにすることなしにまっとうな仕事をして稼ごうと身を粉にして働いているひとたちがこのジャカルタに、消費的欲望とヘドニズムの渦巻く社会的にすさみきったこのジャカルタにまだいるということに、わたしは驚嘆を禁じ得ない。同時に、かれらが自宅に置いている家族が隣人や部落の保護を得て生活できているというそのゴトンロヨン(相互扶助)の強さにも驚嘆を覚える。草の根国民の生活向上を邁進させようとせず、コタから貧しいオジェッ運転手を排除してひとの目につかないところに貧困の姿を隠してしまおうとする政治精神はきわめて歪んだものだ。」とかれは「見かけよければすべてよし」の原理に傾き勝ちなビューロクラシー根性に批判の声をあげている。


「都民の生活評価」(2011年1月21日)
都民生活の中でジャカルタが抱えているさまざまな問題を950万都民はどう考えているのだろうかというサーベイをコンパス紙R&Dが実施した。2010年12月27〜28日に17歳以上の都民786人と面談して集めた都民の声は次のようになっている。
2010年の都庁業績として「良い」と答えた回答者のパーセンテージと「2011年には必ずもっと良くなる」と答えた回答者のパーセンテージが問題点ごとに示されている。
洪水・水溜り : 良い/22.5%、 良くなる/46.1%
交通渋滞改善 : 良い/6.6%、 良くなる/33.6% 
公共交通拡充 : 良い/48.2%、 良くなる/52.3%
上水供給 : 良い/56.9%、 良くなる/67.8%
ゴミ対策 : 良い/44.4%、 良くなる/66.9%
安全感の確立 : 良い/41.5%、 良くなる/61.7%
生活基幹物資価格安定 : 良い/14.8%、 良くなる/42.0%
インフラ・道路改善 : 良い/45.3%、 良くなる/65.3%
就労機会創出 : 良い/16.9%、 良くなる/42.2%
大気汚染対策 : 良い/20.9%、 良くなる/41.6%
駐車対策 : 良い/22.9%、 良くなる/50.6%
保健医療サービス充実 : 良い/61.6%、 良くなる67.0%
緑地オープンスペース拡大 : 良い/49.4%、 良くなる/64.5%
これを見ると、都民が日常生活の中で何を苦にしているのかがよくわかる。上のリストは日常生活における問題点だが、都市計画という都民の生活の入れ物についてはどうだろうか?都庁は果たして都民に生活インフラとなる都市整備をやれる力を持っているのだろうか?
統合的整備コンセプトを持っている : ヤー/45.7%、ティダ/49.4%、不明・無回答4.9%
適切な官僚機構経営が行なわれている : ヤー/41.7%、ティダ/49.6%、不明・無回答/8.7%
クオリティある官僚の人材が備わっている : ヤー/49.6%、ティダ/46.4%、不明・無回答/4.0%
十分な資金がある : ヤー/63.2%、ティダ25.6%、不明・無回答/11.2%
強力な指導力がある : ヤー/43.3%、ティダ47.3%、不明・無回答/9.4%
ところで、都民は自分の生活クオリティをどのように見ているのだろうか?2010年5月21〜23日にコンパス紙が17歳以上の都民499人に対して実施したサーベイによれば、生活クオリティ指数は平均5.39ポイントで平均期待値の6.43ポイントにはまだ遠かった。項目別のサーベイ結果は次の通り。
社会交流 : 6.3
保健 : 6.07
文化レクレーション : 5.55
住居 : 5.49
行政 : 5.48
教育 : 5.14
交通 : 4.78
経済 : 4.29


「地下鉄が競技場を追い出す」(2011年2月22日)
ジャカルタの都内MRT建設計画では、南ジャカルタのルバッブルス(Lebak Bulus)競技場が立ち退かされて、そこにMRT中央駅と車庫が設けられることになっている。都庁はこれまでMRT建設第一フェーズルバッブルス〜ホテルインドネシア前ロータリー区間の用地買収は進めていても競技場立退きの話は公に出していなかったため、この突然の話題にスポーツ関係者は騒然となっている。
都庁は競技場移転先探しを行なって既に候補地を見つけているが、都知事は地価を吊り上げる動きを防ぐためにまだ公表できない、とその詳細を明らかにすることを拒んだ。激しやすい青年スポーツ相もこの話に気色ばみ、それは国民スポーツ制度法への違反である、と発言している。しかし都知事は、大臣の許可が条件であるため、大臣の許可を得るために説得を行なう、とその発言に応じている由。
競技場移転は2012年に移転先用地買収が行なわれ、2013年に新競技場建設が開始される。新競技場は今のものよりもっとすぐれたものになるだろう、と都知事は説明した。ジャカルタの地元サッカークラブであるペルシジャはむしろこの移転を歓迎する姿勢を示している。オランダ時代から由緒あるメンテン競技場が公園にされて競技場はバンテンとラワサリに移転した先例もあるし、ルバッブルス競技場は既に時代遅れで施設も余裕がなく、収容観客数1万2千5百というのは公式ゲームを催すには手狭だというのがペルシジャ側の意見。
競技場周辺の居住者も寝耳に水のこの話題にみな驚いている。


「一般開放されているインドネシア大学キャンパス」(2011年6月14日)
インドネシア大学デポッ(Depok)キャンパス内で水死事故が起こった。インドネシア大デポッキャンパスは広大な敷地に自然が豊かに残されており、しかも一般開放されているため休日などに市民は公園にピクニックに行く雰囲気でそこに集まってくる。キャンパス内には大きい池があり、池で水泳する者や釣りをする者の姿がよく見受けられる。
2011年5月21日(土)、南ジャカルタ市トゥブッ(Tebet)に住む15歳の高校生6人が連れ立ってキャンパスに遊びに来た。かれらが池で泳いでいるとき、堤防に上がった三人が足を滑らせて水中に落ち溺れるという事故が発生した。そのうちのふたりは池の周りにいた釣り人に救助されたが、もうひとりは行方がわからなくなった。その状況を大学側に届け出たのはキャンパス内でゴムの木からゴム汁を採取していた者で、届出に応じて大学側と警察機動旅団捜索救助班が出動し、15時から捜索を開始した。結果が得られなかったので休憩の後、第二回捜索が20時に開始され、ほどなく行方不明の少年の死体が発見された。
大学構内警備班はこの事件について、「池での遊泳は禁止されておらず、危険な場所だけ表示してそこに入らないよう警告してあったが、かれらはそれに注意を払わなかったようだ。池やプールに入って遊ぼうとする者は、自分の安全に責任を持たなければならない。」とコメントしている。


「悲しみのジャカルタ」(2011年7月4日)
インドネシア共和国の首都ジャカルタ。国民がジャカルタをどのように見ているのかということについて、コンパス紙R&Dが全国の都市部に住む630人を対象に2011年6月8〜10日に調査を行った。
圧倒的なイメージは公道における四輪二輪自動車の大洪水で、かつてジャカルタ名物だった雨季のバンジルも顔負けという態。二輪車860万台と四輪自家用車400万台に公共運送機関が入り混じって道路をひしめきあう姿が、いまやジャカルタの顔だと言える。
問い1)ジャカルタが見せている悪い面の顔は何ですか?
回答1):
交通渋滞 46.3%
政治の中心地 14.9%
騒擾・デモ 10.3%
バンジル(洪水) 8.6%
金稼ぎの場所 7.9%
慰安とショッピングの場所 4.1%
スラム・秩序不在 2.4%
その他 3.6%
不明・無回答 1.9%
問い2)ジャカルタはまだ居住する場所としてふさわしいですか?
回答2):
ふさわしい 29.8%
ふさわしくない 68.7%
不明・無回答 1.9%


「マリオボロ通りに地下街建設」(2011年8月12日)
ジョクジャカルタの中心街マリオボロ(Malioboro)通りが2012年に歩行者地区になる。トゥグ(Tugu)駅からマリオボロ通りを南下してスルタンの王宮北側のアルナルン(Alun-alun)に至るおよそ1.5キロがその対象で、この域内では自動車の乗り入れが禁止され、ベチャとアンドン(二輪馬車)のみが通行を許可される。マリオボロ通りは店舗が集中して過密状態になっているため地下街を設ける案がほぼ本決まりになっており、ジョクジャの地下水位が低いことからこの構想は実現の可能性が高いと見られている。地上のシティウォークと地下街という二段構想の新たなショッピングセンターというのは時代を先取りするものであり、拡大された空間は今のスラムがかった過密状態の解消を可能にするにちがいない。
トゥグ駅周辺も同時に改装される計画になっており、周辺地区からの鉄道を使ったジョクジャ日帰りの行楽は地域住民に新たなセンセーションを巻き起こすことになりそう。
しかしマリオボロ一帯を歩行者地区にした場合、3万平米という広大な駐車スペースが必要になる。その対策案にあがっているのがジョクジャ市民の水泳とサッカーのスポーツセンターになっているクリドソノ(Kridosono)スタジアムで、このスタジアムをクナリ通り地区に移して諸スポーツ施設と一体化させ、スタジアム跡地は公共スペースとして活用してはどうかというアイデアが出されている。
この一連の構想を提案しているのはジョクジャインベスターフォーラムで、その説明を受けたジョクジャカルタ特別州知事であるスルタンハムンクブウォノ10世はそれに賛意を示している。


「ポンドッキンダに新プロジェクト」(2011年10月27日)
南ジャカルタ市ポンドッキンダ(Pondok Indah)でポンドッキンダグループがアパートメント・オフィス・ホテルを合わせた新規プロジェクトを3年間で完成させる計画を組んでいる。このプロジェクトでは、ポンドッキンダにまだ残されている30Haの土地にオフィスタワーふたつ、賃貸アパートメント4棟、星級ホテル1軒が建設される予定で、プリインダタウンセンタープロジェクトと同じタイミングで着工されることになりそう。
同グループは今23階建てのウィスマポンドッキンダ?の建設を進めており、2012年5月に竣工の予定。この賃貸オフィスビルプロジェクトはグリーンビルディングコンセプトを持つ総床面積3万6千?の大型ビルで、たとえばファサードに張られるガラスは屋内気温を3℃下げる能力を持っており、屋内冷房の負担を軽減させてくれる。既にオフィス賃貸を予約している企業の大半は外資系で、スマートビルとグリーンビルに関する要望が強く、それを満たすものにするために運営者は努力を重ねている、と同グループは述べている。


「ジャカルタの出生率が二人を切る」(2012年1月9日)
首都ジャカルタの出生率が低下している。住民1千人当たりの年間出生数は2.1人から1.9人に低下して二人を割った。全国平均が2.6人だから、ジャカルタは全国的に低出生率が実現していることになる。
ファウジ・ボウォ都知事によれば、2010年都知事規則第162号でジャカルタの家族計画(KB)プログラムが開始されたことが効果をあげているとのこと。この規則では、隣組(RT)から病院までをカバーする家族計画プログラムがシステマチックに構築されており、すべての保健所と公立病院および一部の私立病院でKB措置が無料化され、都民がその措置を受けると施術機関は都庁にそれを請求するというシステムが回転している。ジャカルタには120万の妊娠適齢期カップルがおり、KB参加率は93%とのこと。
首都住民人口は960万人で、人口密度は平方キロ当たり1万4千人だが、一部人口密集地区は4万人という過密状況だ。そしてそんなエリアを訪れると、大勢の子供たちが路上で遊んでいる。統計が出しているマクロのイメージと一部特殊エリアでのミクロの姿の落差は大きく、その是正がわれわれの課題だと都知事は述べている。


「空中ダイニング」(2012年2月27日)
高いビルの上でお食事を。かすみのかかったはるかな遠景と眼下にうごめく路上の人と車の群れを眺めつつ、お気に入りの料理に舌づつみを打つ。同行した親しいひとびとや、大勢の仲間に囲まれて至福の時を過ごすのはサイコー。そんな場所がジャカルタにもある。
プラザスマンギ(Plaza Semanggi)の10階屋上にあるレストラン「Sky Dining」はそんな至福の時を求めるひとたちに大好評だ。テレビ局メトロTVの女性記者は、そこがたいそう気に入っている、と語る。「あちこちのカフェに仲間とよく行くけど、結局飽きちゃうのよ。どこも似たような雰囲気だから。でもここも同じようにコージーだけど、雰囲気は大違い。3時間以上座っていても、飽きが来ないのよ。高い場所で眺望がいいし、おまけにオープンだから。わたしの知ってるかぎりじゃあ、こういうコンセプトの場所って、ジャカルタにはここしかないでしょう。わたしは開放的な場所が好きだから、バンドンのパリスファンヤヴァもお好みのひとつ。でも地上と屋上の違いはすごく大きいと思うわ。」
2008年2月14日にオープンしたスカイダイニングには毎日2千から3千5百人の客が訪問する。メニューはインドネシア料理・アジアン料理・ウエスタン料理とバリエーションに富み、メニューの選択で客の不満を招くことはない。プラザスマンギのPRスーパーバイザーは、ジャカルタのギャザリングプレースに新たなコンセプトを提供したところ、消費者からの熱烈な歓迎を受けた、とそのヒットを喜んでいる。
ジャカルタの夜景を楽しみたいひとにとって、このスカイダイニングは絶好の場所と言えるのだが、時に夜風が身にしみて風を避けるテーブルを求めるひとも出る。そんなときはオープンでないほうがありがたい。だったら是非当方にお越しください、と招くのは、ラスナサイッ(Rasuna Said)通り北詰のムナラインペリウム(Menara Imperium)ビル35階にあるPure Dine & Drinks。このレストランはフロアーが2時間かけて360度回転するから、のんびりとジャカルタの夜景を楽しむにはうってつけ。ライブ音楽とダンスフロア―そして豪華な食事とドリンクでジャカルタの夜は更けて行く。


「憧れの都会生活」(2012年2月28日)
アーバナイゼーションというものが田舎から都会にひとを引き寄せている。因循姑息な伝統的価値観の中でがんじがらめの生活を強いられている田舎のひとびとにとって、都会は自由で文明の香に満ち、巨額の金が回っているため稼ぐにも楽な憧れの地らしい。ひからびた田舎で生きて行くよりは都会に移って一攫千金を、と田舎の若者はそれがもたらす強い誘惑にかられるようだ。
都会に住んでいるひとびとの多くは、ここ一ニ世代の間に田舎から上京したひとびとで占められている。ジャカルタで生まれ育ったジャカルタッ子だと自認するひとでも、祖父祖母あたりの世代で地方から上京してきたひとが多い。伝統的にジャカルタ住民だったブタウィ族はいまや祖先伝来の土地を売り払ってみんな郊外に引っ越してしまい、首都のど真ん中に住んでいるブタウィ族はめったにいない、という状況になっている。
ともあれ、一ニ世代にわたって大都市に住んでいるひとびとは、今後も都市生活を続けたいと思っているのだろうか、という疑問の答えをさぐるためにコンパス紙R&Dが全国12都市住民786人に電話インタビューして集めた調査結果が公表された。調査が行われたのは2011年12月7〜9日。
質問1)大都市に居住することを選んだ理由は?
回答1)
総体的に安全な環境 51.4%
交通の便の良さ 27.6%
住宅価格 8.4%
治安 5.9%
選んだわけでなく、こうなった 2.8%
ファミリーの近くに住む 2.4%
その他 1.5%
質問2)今後もずっと今のような大都市に住むつもりですか?
回答2)
はい、今後ずっと 66.2%
いいえ 25.8%
まだ何とも言えない 8.0%


「ジャカルタのイメージ」(2012年2月29日)
これもコンパス紙R&Dの調査結果だ。2011年12月14〜16日、全国12都市住民711人にジャカルタのイメージについてインタビュー調査した結果が公表されている。良いイメージも悪いイメージもさまざまにある全国一の大都会ジャカルタの顔は、こんな表情だった。
1.交通渋滞 46.2%
2.大都会 16.5%
3.失業者 10.4%
4.犯罪・集団喧嘩 9.3%
5.職探しが容易 5.6%
6.過密で整然さがない 3.7%
7.モール・ショッピングセンターがいっぱい 3.2%
8.何でも金になる 2.3%
9.その他 2.8%
ジャカルタに住んで職を得ようとするなら、過密住宅地や交通渋滞など、田舎では想像もつかない息苦しさを克服しなければならない。路上には1千2百万台の車が走っており、9百万人と言われる公式人口よりも多いのだから。


「都庁行政に満足するひとは三人にひとり」(2012年3月1日)
ジャカルタの生活クオリティについて、都民がどのように評価しているのかをコンパス紙R&Dが調査した。2011年11月28〜29日に行われた17歳以上の都民761人に対する電話インタビューで、都庁行政は2010年より向上しているという調査結果が得られている。
ファウジ・ボウォ都知事指導下の都庁行政が行った都市整備と運用に対する住民の満足度については、満足できると答えたひとは35.9%にのぼり、2010年の23.9%から上昇した。満足度を項目別に見ると、つぎのようになる。
項目; 2010年(%)⇒2011年(%)
出水・浸水: 22.5⇒32.9
上水道: 56.9⇒46.8
大気汚染: 20.9⇒28.3
ゴミ処理: 44.4⇒39.8
緑地帯確保: 49.4⇒50.9
用地利用取締:  ⇒39.4
中下層向け住宅供給:  ⇒27.2
交通渋滞緩和; 6.6⇒12.2
妥当な公共運送機関設営: 48.2⇒49.7
破損道路の改修: 45.3⇒46.6
駐車制度運営: 22.9⇒44.3
教育施設建設と維持:  ⇒61.9
優れた保健サービスの運営; 61.6⇒56.0
生活基幹物資の価格維持: 14.8⇒29.7
求人を増やす: 16.9⇒20.9
治安の確保: 41.5⇒33.5


「ポンドッキンダモール3は2014年に」(2012年3月30日)
南ジャカルタ市ポンドッキンダ(Pondok Indah)に5星級ホテルが建つ。ロケーションはPIM2(ポンドッキンダモール?)に隣接する場所で、施主のPTメトロポリタンクンチャナは、着工は2013年でホテル運営者はグローバルネットワークを持つオペレータを起用する、と語っている。
同社は現在オフィスビルのウィスマポンドッキンダを建設中で、このビルは2012年7月の竣工予定となっている。
道路を挟んで向かい合っているPIM1とPIM2についても、同社はPIM1エクステンションの年内完成に努めており、この施設は3階建てストリートギャラリーで40〜50のテナントが入居し、ポンドッキンダと周辺地区住民へのサービスを深夜まで提供するものとなる。いまPIM1とPIM2には月間50万台の自動車が駐車場を埋めており、またテナント入居率も100%に近いレベルにある。その盛況をさらに発展させるには、店舗拡張というのが言うまでもないロジックであり、PTメトロポリタンクンチャナはPIM3の建設構想を練り上げているところだ。
都庁は新規モール建設許可を凍結しているため、その方針が解けるまでPIM3構想もお預けとなるが、同社は2013年に凍結が解除されれば2014年に着工を開始するという予定を立てている。場所はPIM1とPIM2に近い位置で7万平米の用地を占める計画になっており、PIM3の裏には8百室のアパートメントを設ける企画もある。


「ジャカルタの近くで森林浴を」(2012年4月14日)
インドネシア大学デポッ(Depok)キャンパスは巨大な森林の中にある。南ジャカルタ市とデポッ市の境界に位置するこの森林はインドネシア大学に所属するものだが、大学はそれを一般開放しており、だれでもキャンパスに入って自然の息吹を楽しむことができる。工学部の北側はもう森林で、大勢の市民がやってきては思い思いの活動を楽しんでいる。サイクリング・ジョギング・散歩あるいは池で魚釣り。池には遊泳禁止の立札が立てられているものの、禁を犯して水中に入る者がおり、既に二回も溺死事件が起こっている。
プルタミナ職員ヌル・ハリムさんは、気が向くと仕事を終えた帰途、制服のままここへやってきて自転車をこぐ。サイクリングを楽しんでいる大勢の同好の士に混じって、木洩れ日の下を吹き抜ける緑の風を全身に浴びる。かれは2006年に仲間たちと一緒に3百メートルのミニダウンヒルサイクリング路を作った。そこはトレックマンクッ(Trek Mangkuk)と命名されている。夕方にそこで遊ぶサイクラーの姿を見かけない日はない。「こんな場所をよそで探しても、まず見つからないよ。」ハリムさんはそう語る。
インドネシア大学の森はジャカルタから近いし、入場無料だし、そしてリフレッシュできる。森の中には3.2キロのトレッキングコースもある。それはトレックニャムッ(Trek Nyamuk)と呼ばれている。森の中をはてしなくぐるぐる回り、池のそばに出た後、ふたたび森の中をぐるぐる回るコースで、際限もなくぐるぐる回るからニャムッ(蚊)みたいなのだそうな。慣れないひとはいつまでも森の中をぐるぐる回っているそうだ。
大学の森に来るひとがみんな運動を目的にしているわけでは決してない。孫を連れたおじいちゃんが、インドネシア大学スタジアム近くの斜面にござを引いて座り込む。草は刈り込まれているから、面倒がない。60歳のヨピじいさんは小学生ふたりと3歳の孫を連れて、パサルミングから電車に乗ってやってくる。孫たちははしゃいで走り回り、じいさんは木陰のござに座って孫たちの様子を見守っている。
この森は面積90Haで130種の樹木が生えている。大学側はそれを8百種に増やす計画でいる。もっと南に下れば、ボゴール市とボゴール県の境に森林省保存リハビリR&Dセンターが管理するドラマガ(Dramaga)研究林がある。ジャカルタからは60キロ、ボゴール市からだと30分以内に着ける場所だ。広さ60Haのこの森林は入場無料であり、市民は自由に森林の中を散策することができる。


「カフェ・ゾエ」(2012年4月21日)
西ジャワ州デポッ(Depok)市マルゴンダ通りにカフェZoeがある。ZoeとはZone of Entertainmentを略したもので、ここは会員制の図書館とカフェの合体スペース。2006年6月30日にオープンしたゾエはジャボデタベッ一円から6千人の会員を集めている。5万ルピア払って会員になると、利用料金が半額になり、書籍貸し出しが許可され、カフェの飲食品が10%割引、そして書籍購入も10%割引になる。ゾエで催し物があれば招待状が送られてくるし、誕生日には無料でmembaca sepuasnya というサービスも受けられる。
ゾエの書籍コレクションは34,415タイトルで、その7割が漫画だ。インドネシアのオリジナル漫画から欧米そして韓国や日本の作家のもの、また新作ばかりか往年の名作、ヘンキ作品の「パンジテンコラッ」や青山剛昌作の「「名探偵コナン」までたいていの作品はそろっている。650平米という広い敷地面積は、そこの実態がカフェでなく図書館であるということを示している。屋内の図書館部分は四つに分けられており、漫画が二部屋、小説一部屋、そして書籍販売がもう一部屋。本を読むのはそれら屋内でもよいし、あるいは庭に面した場所、ステージエリア、そして二階には静かで落ち着ける場所もある。漫画を積み上げて一心不乱にページをめくっている客のテーブルには飲みかけの飲物が。そう、ここはカフェなのだから。
ゾエの経営者は、出版社と密接なコンタクトを維持している。新作が出ればかならず連絡が入る。毎月2百冊を超える書籍を購入しているとショップマネージャーは語る。
ゾエは書籍愛好者が共同で事業を興したものだ。最初は1999年にバンドンでコミックコーナーを立ち上げた。そして会員増加に伴い、2003年にゾエに変身したというわけだ。デポッのこの2号店へは、南ジャカルタ市パサルミングからラヤパサルミング通りをまっすぐ南下してデポッ市に入るとそこはもうマルゴンダ通り。道路の左側27番地にあるのが、このゾエなのである。


「不動産投資対象にならないポンドッキンダ」(2012年5月19日)
今から40年ほど前、南ジャカルタ市ポンドッピナン(Pondok Pinang)にある460Haの広大なゴム農園が住宅地に転用された。開発工事が始まり、メディアを使っての大々的な宣伝が展開されたが、道路アクセスが不十分だったために「あんな辺鄙なところは駄目だ」という消費者の声が高調子になり、当初の売れ行きは緩慢だった。ところが、最終的にそのエリアはジャカルタで一二を競うエリート住宅地の地位に登りつめ、今や辺鄙な場所ははるか南に移動している。それが今のポンドッキンダ(Pondok Indah)だ。敷地1千平米を超える豪壮な邸宅の連なりは植民地時代のメンテン地区に匹敵する高級感を漂わせ、今では北ジャカルタ市のクラパガディンと並び立つエリート住宅地となっている。
居住人口3万5千人というこのニュータウンには高級モールが似合うということで、デベロッパーはPIMと呼ばれるポンドッキンダモールを建設した。その商業地区にはポンドッキンダモールが1と2、水泳や水遊びのできるウオーターパーク、更にはゴルフ場まで用意されており、更にはオフィスビルやホテルまで建設されることになっている。ポンドッキンダモール3ができるのは2014年の予定。
このような高級住宅地の不動産は投資の対象として有力だ。購入しておいて賃貸し、地価が十分に上昇したところで売却する。数年間で元が取れるどころか倍増するという勢いだったが、あまりにも高くなりすぎたためについに頭打ちになってしまった。エリアとしての不動産価格上昇率はここ数年5〜6%の伸びしかなく、クラパガディン地区の年率20%上昇とは雲泥の差になっている。ポンドッキンダは依然としてジャカルタ最高のエリート住宅地であり、不動産価格も最高の地位を維持するだろうが、価格は頭打ちになっており且つ飽和状態であるため、この先5年間は今の状況で推移するだろう、と不動産業界者は語っている。


「セラブリティに会えるかも」(2012年6月1・2日)
芸能人のお店はインドネシアでも盛ん。中でもここ数年インドネシアで大きく盛り上がっているキュリネリーブームに沿って、呑みどころ食いどころがメインを占めている。
6年前にティカ・パンガベアンは南ジャカルタ市タロゴン地区にインドネシアレストラン「ラジャクチール」(Radja Ketjil)をオープンした。それが今では5ヶ所に支店を出している。アニヤ・ドゥイノフとオルガ・リディヤは2000年に「カフェエルボゥルーム」(Kafe Elbow Room)をクマンラヤ通りにオープンしたし、「ヴィンアルカディヤ」(Vin Arcadia)という名のワインハウスを二軒持っている。オルガ自身は他にラウンジラフォルカ」(Lounge La Forca)と「ポケスシ」(Poke Sushi)のオーナーでもあり、歌唱教室もやっている。
2011年9月にはプレゼンターのエルウィン・パレンクアンが中央ジャカルタ市タムリン通りの東側で並行するハジアグスサリム通りにケーキショップ「ザベークドグッズ」(The Baked Goods)を出し、2012年2月末にはタマラ・ブレジンスキーがスナヤン地区のFXビルに「プライヴクラブーメザナイン」(Prive Club-Mezza 9)を開店した。かの女は週一回店に出て、自らキッチンに立ち、来店客に挨拶する。
北ジャカルタ市のMKG?(モールクラパガディン3)にある日本レストラン「テルミナーレタキガワ」(Terminale Takigawa)はレヴァリナ・テマアッとドンナ・アグネシアの共同所有で、タキガワにミートバーとワインラウンジを付け加えたものになっている。
トーマス・ナウィリス、ドゥデ・ヘルリノ、クリスティアン・スギオノ、アディ・ヌグロホ、シレーン・スンカル、ティティ・カマル、イレネ・リブラワティ、テウク・ウィスヌという、なんとサッカーチームでもできそうなグループが南ジャカルタ市トゥブッラヤ通りに「スシミヤビ」(Sushi Miya8i)をオープンした。ここはカキリマコンセプトになっていて、一品2万ルピアを超えるメニューはない。
ジャズシンガーのエルミ・クリッは南タングラン市チプタッマナド料理の店「ワルンマナド」(Warung Manado)を持っている。そこではカツオ料理がさまざまに愉しめる。俳優のフェリー・サリムは2010年、西ジャカルタ市セントラルパークにしゃぶしゃぶレストラン「しゃぶスリム」(Shabu Slim)を開いた。しゃぶしゃぶとは言っても、味覚の多様化したインドネシア人に日本風味一本では物足りない。ダシは鶏・韓国風・タイのトムヤム風とトムヤムミルクの中から選べる。タレも激辛・中辛・魚醤・日本風醤油味まで取り揃えてあり、ベルトコンベアで流れてくる素材を煮立った卓上の鍋に放り込むだけ。食べ放題料金はお一人様11.2万ルピア+++が大人、ところが子供料金というのはない。身長120センチ未満であればいい年をしていてもひとり7.8万ルピアで済む。しゃぶしゃぶの他にもすしやミーゴレン・クエティアオゴレン・ビーフンゴレン・パンシッゴレンなどフライドフードも愉しめる。
「しゃぶスリム」は2号店がモールクラバガディンに既にオープンしており、3号店は2012年7月に南ジャカルタ市クニガン地区のモールコタカサブランカにオープン予定となっている。


「交通渋滞最悪都市はバンドン」(2012年9月29日)
都市部における交通渋滞の悪化はジャカルタに限ったことではない。全国的に四輪二輪車両の数が増加し、交通渋滞は各都市で程度の差こそあれ、増加している。
交通が渋滞すると、路上交通の流れが鈍化する。運輸省は各都市の主要道路で流れの速さを測定し、その遅速で交通渋滞のひどさを比較した。そして2011年に流れのもっとも緩慢な都市となったのが西ジャワ州バンドンだった。2011年バンドン市内の交通の流れはなんと時速14.3キロ。次いでひどかったのがボゴール市の15.3キロ。
一方、流れのもっともスムースだったのは南スマトラ州パレンバンの28.5キロ、二位は中部ジャワ州スマランの27キロといった順位。ちなみに主要都市のデータは次のようになっている。
パレンバン 28.5キロ
スマラン 27キロ
マカッサル 24.1キロ
メダン 23.4キロ
スラバヤ 21キロ


「都内の道路新規建設が進展」(2012年10月1日)
都内の交通渋滞緩和をはかるための高架道路建設は進められており、南ジャカルタ市のアンタサリ通りを北上してブロッケム(Blok M)に向かう高架一般道はいよいよこの年末に開通のめどが立った。一方、カンプンムラユ〜タナアバン高架一般道はデザインの変更が起こったためにこちらは年内完成は無理となり、2013年開通が見込まれている。
それらの一般道に加えて都内に自動車専用道を建設する計画はいよいよ本決まりとなった。公共事業大臣は既に次の6ルートについて道路建設プロジェクト実施の書類にサインしたことを明らかにしている。
Semanan - Sunter 17.88キロ フェーズ1
Sunter - Pulo Gebang 11キロ フェーズ1
Kampung Melaya - Duri Pulo 11.38キロ フェーズ2
Kemayoran - Kampung Melayu 9.65キロ フェーズ2
Ulujami - Tanah Abang 8.27キロ フェーズ3
Pasar Minggu - Casablanca 9.56キロ フェーズ3
この6本の道路は都庁不動産会社と公共事業省所轄の国有事業体4社および民間の2社が組んだコンソーシアムが建設し、運営することになっている。


「モールだらけになるジャカルタ」(2012年10月26日)
ジャカルタとその周辺地区には、この先まだまだモールが増加する勢いだ。コリエールズインターナショナルの報告によれば、2012年から2014年までの間に完成が予定されているモールは次のようになっている。(名称 ロケーション 完成予定)
ジャカルタ: 
Lotte Shopping Avenue 南ジャカルタ 2012年
Pondok Indah Mall Street Gallery 南ジャカルタ 2012年
Cipinang Indah Mall 東ジャカルタ 2013年
Pulomas X'Venture 東ジャカルタ 2013年
The Baywalk Mall 北ジャカルタ 2013年
St. Moritz 西ジャカルタ 2013年
Sentra Timur Walk 東ジャカルタ 2014年
PIK Mall 北ジャカルタ 2014年
ジャカルタ周辺部:
Shopping Mall at Alam Sutra タングラン 2012年
Grand Galaxy City Mall ブカシ 2013年
Bekasi Junction ブカシ 2013年
Grand Metropolitan Mall ブカシ 2013年
Cibinong City Mall ボゴール 2013年
Mall Ciputra Citra Gran ブカシ 2013年
Plaza Cibubur Extension デポッ 2013年
Bintaro Xchange タングラン 2014年
Lippo Cikarang Citywalk phase II ブカシ 2014年
Summarecon Bekasi Phaze I ブカシ 2014年
Cinere Bellevue Suite デポッ 2014年
The Breeze Sinar Mas Land タングラン 2014年
ジャカルタには数多くの企業・外国公館・多国籍企業・ローカル企業で働くひとびとがおり、インドネシア最大の巨大な消費市場を形成している。そのためにこうして続々と誕生する小売スペースも十分に受け入れられる余地を持っており、供給過剰という状態にはまだ至らない、とコリエールズは述べている。


「ジャカルタにオーチャードロードを」(2012年11月6日)
ジョコウィ新ジャカルタ都知事が都内の三ヶ所にオーチャードロードのような歩行者優先地区を設けたいとの意向を表明した。都知事の構想の中にあるその三ヶ所とはブロッケム(Blok M)、タムリン通り、バタヴィア旧市街。タムリン通りを視察した都知事は「ここの状況は十分に良いものになっており、あとはシティウオークを設け、ベンチを置き、ハンディクラフト売りのキオスがあり、ギターを弾く者がおり・・・・。カキリマ商人は周辺地区のどこかに集めてカキリマ地区を作る。」と語った。オーチャードロードのような場所を都内に作り上げるイメージが都知事の脳裏に具体化しつつあるようだ。場所としては、タムリンシティからプラザエンターテイメントX'nterまでの間が想定されている。
都知事が先に行った南ジャカルタ市庁視察の際に、市長はブロッケム地区での歩道整備構想を都知事に報告している。そのひとつはアヨディヤ(Ayodia)公園からムラワイ(Melawai)通りまでの1.5キロで、そのあとはアヨディヤからマイェスティッ(Mayestik)地区まで1.2キロ間の延長工事へとつながっていく。都知事はそれを歩行者優先地区の構想の中に置いたようだ。


「都内の優良公園は15ヶ所」(2012年11月26日)
都庁公園墓地局長は都内に960ヶ所以上の公園があり、その半分以上は都民に快適な生活空間を提供している、と2012年都市レイアウト整備の日のスピーチで語ったが、造園設計家の見地からは、緑地として妥当な機能を果たしているところは350程度しかなく、更に優良な公園と評価できるものは15ヶ所しかないと設計家のひとりが表明した。
その15ヶ所とはTaman Suropati, Situ Lembang, Menteng, Lapangan Banteng, Monas, Ayodia, KSI Sepeda Melawai, Christina Marthatiahahu, Langsat, Leuser, Puring, Tumbuh Kembang, Srengseng Sawah, Kebon Pisang, Tebetで、すべてが中央ジャカルタ市と南ジャカルタ市に集中している。


「ジャカルタのアートホールに課金」(2013年2月2日)
ジャカルタでパフォーミングアーツを上演するホールとして人気の高いのはGedung Kesenian Jakarta(GKJ)とTaman Ismail MarzukiにあるGraha Bhakti Budaya(GBB)およびTeater Kecil(小劇場)だ。GBBは観客席が810シート、小劇場は244シートで、GKJはおよそ475席となっている。
それらアートホールのレンタル料金は決して廉くない。GKJは週日だと一日1,600万ルピアで、週末は1,750万ルピアに上がる。GBBだと週日3,250万ルピアで週末は3,850万ルピア、小劇場は2,500万ルピアだ。
GKJはダンデルス総督の発案になるものだったが、皮肉なことにイギリス占領期の1814年にラッフルズ副総督が完成させた歴史の古い建物で、完成当初はイギリス人兵士たちが芝居をして楽しんだそうだ。この建物の中に入ればバタヴィアの歴史が匂ってくる。GBBと小劇場は昔あったものが建て直されてモダンなものになっており、GKJとは対照的。
そんな高額なアートホールの利用に都庁は2013年1月から課金をかけた。公演当日の課金は1千万ルピア。しかも前日に準備のためにホールを使う場合の課金は5百万ルピア。商業ベースのショーならばともかく、実験的なパフォーミングアーツはますます舞台に乗る機会が減少していくにちがいない、と芸術関係者らは嘆いている。


「マランの骨董品ビジネスは復活基調」(2013年3月9日)
オランダ植民地時代にスマトラのパリ(Parijs van Sumatera)はメダンとブキッティンギがその芳名を争っていた。一方、ジャワのパリ(Parijs van Java)はバンドンで、今ではパスツールからほど近い場所にそんな名前のモールまで出現している。東ジャワにも負けじと東ジャワのパリがある。マラン(Malang)市がそうだ。植民地東インドのあちこちにアムステルダムでなくパリの面影を捜し求めたオランダ人たちの心理は、わたしにはいまひとつピンと来ないところがある。
古代からの長い歴史を持ち、1767年にVOCの支配に下ったマランはオランダ時代〜日本軍政時代に東ジャワ南部地域の中心的地位を与えられた。古い歴史を持つ町には骨董品が数多く、骨董品ハンターたちが集まってくる。2011年ごろから国内外観光客が増加したことで、骨董品店も繁盛するようになった。それまで骨董品ビジネスはまるで休眠状態だったのに、2011年が転機になったと語るのはマラン県シゴサリ(Singosari)郡の骨董品店主。今ではホリデーシーズンになると、一日の売上が5億から6億ルピアにのぼるそうだ。マラン市に隣接しているバトゥ(Batu)の町は高原リゾートとして成り立っているところで、おのずと観光客も多い。バトゥを訪れた観光客が骨董品家具や古い家屋の構造物を買う。外国人もインドネシア人も同じように高い品物を買って行くから、特にどちらがたくさん買っているという印象はないとのこと。
「バリ爆弾テロが二回もあったために、骨董品がぱたりと売れなくなった。最初のテロでビジネスが落ち込んだ。だから何とか盛り返そうと業界者は全力をあげた。するとまたテロが起こって努力は水の泡。吹っ飛ばされてしまったよ。あれ以来この商売はあがったりで、なかなか回復できなかった。バリは骨董品ビジネスチェーンの道筋のひとつになっているから。」店主はそう語っている。


「公共スペースからカキリマ商人を排除」(2013年6月8日)
首都の交通渋滞緩和のために、道路を狭めている要素を排除し同時に流れの円滑さを向上させるための工学的対応を都知事が指示した。道路を狭めている要素は複数あり、まずカキリマ商人をはじめとする物売りたちによる路上の占拠、あるいは違法駐車、さらにバスやアンコッなどの公共輸送機関による客待ち停車、客待ちオジェッ基地などがメインを占める。
道路を狭めている要素を排除するためのオペレーションは2013年6月3日から開始され、まずパサルミング市場とタナアバン市場の周辺で大規模な取締りと、交通の流れをより向上させるための交通パターンの変更が行なわれた。次いでジャティヌガラ・クラマッジャティ・チプトマグンクスモ病院など四つの地区での対応が予定されている。
道路脇から路上の左端を占拠するカキリマ商人たちへの措置は歴代都知事が苦慮してきた問題であり、かれらのための売場を市場の中に用意してかれらを強制的に移すということは何度も行なわれてきたものの、しばらくすれば元の木阿弥に戻るということが繰り返されてきた。今回のオペレーションに関連して、2013年中盤にはカキリマ商人を集めた販売スポットが都内に23ヶ所存在するようになる。
正規に市場の中で売場を入手している商人たちにとって、市場前の道路で買物客を先に手に入れるカキリマ商人たちは目の仇であり、道路という公共施設を勝手に使って売場の権利に金も払わず商売している無法者たちではあるのだが、現実にカキリマ商人たちは地回りのゴロツキや不良役人に金を搾られており、経済的な負担があるということは変わらない。カキリマ商人たちの排除はかれらから金を搾っている勢力にとって収入の減少を意味しており、当然ながらかれらはカキリマ商人を排除から保護しようとする。都知事はカキリマ商人排除に関わる都庁職員に対し、ゴロツキを怖れることはない、と発破をかけている。


「鉄鋼城下町、チレゴン」(2013年6月12日)
近代国家建設が鉄鋼生産と切り離せないのは世界の常識だった。インドネシアで最大の鉄鋼生産工場、クラカタウスティールはジャワ島西端のチレゴンにある。その昔、チレゴンは極端に寂れた地方であり、県庁のあるセラン市へ行くにも乗り合い自動車はほとんど通らず、街道に出て乗り合いがやってくるのを何時間も待つというのがチレゴン住民の普通の暮らしぶりだったそうだ。そんな様子が1980年代に入ってから大きく変化していったのは、国有事業体PTクラカタウスティールの事業が活発化したおかげだ。
インドネシアの鉄鋼生産の歴史をひもとくと、オランダ植民地時代の1861年、製糖工場・ゴム生産工場・農業用工具生産者などが必要としている鉄鋼をインドネシアで生産するために、鉄鉱石を処理する溶鉱炉がランプンに作られた。その後、大規模生産のための製鉄工場に整備する案件が進められる前に、第二次大戦〜インドネシア独立闘争という激動の中でその計画は頓挫してしまった。
共和国となったインドネシアの建国努力の中に、鉄鋼生産工場設立のアイデアはもちろん登場した。1956年、ハエルル・サレ工業大臣とジュアンダ国家計画院長官が担ぎ出したこの工場建設案は、それから程なくトリコラ鉄鋼計画として動き出す。外国コンサルタントにソ連のチャスプロメックスが起用され、1960年に建設契約が結ばれた。工事開始は1962年。そのころ、旧宗主国のオランダと絶交し、他の諸国との間で巧みな外交交渉下に自国に有利な条件を得て国家建設をはかろうとしていた膨大な資源を埋蔵するインドネシアを自分の陣営に引き込みたい国は少なくなかった。当時の世界を二分した米国とソ連も例外ではない。トリコラ鉄鋼計画をソ連が手に入れたのも、ソ連外交の勝利という賛辞で彩られている。
鉄鋼工場建設場所として出された候補地は最終的にジャワ島西端のチレゴンとジャワ島東端のプロボリンゴに絞られ、チレゴンのほうが水田になっていない原野が多いこと、水資源が豊富であること、開けた海港があって国内諸島との連絡が容易であること、などの理由で最終的にチレゴンに白羽の矢が立った。ところが1965年、大きな政変が全国を覆った。クーデター未遂とそれに反抗する赤狩りの渦が国内の隅々を怒涛さながらに浸した。こうして建設工事は中途で投げ出されてしまった。
新秩序期が安定したとの判断のもとに、1970年、建設工事が再開された。大型鉄鋼生産工場の操業開始式典はスハルト大統領列席のもとに1977年に行なわれ、種々の鉄鋼製品製造ラインやクラカタウスティール社専用港であるチガディン港の稼動がはじまった。こうしてチレゴンは大型鉄鋼製品供給地と化し、チレゴンの町の都市化が進んだのである。
PTクラカタウスティールの2011年生産量は140万トンで、国内生産量の大幅増をはかるために韓国のポスコ社と合弁で興した年間生産量300万トンの能力を持つPTクラカタウポスコ社が2014年に操業を開始すれば、国内供給は大幅に膨れ上がる。クラカタウポスコは1万8千人の雇用を予定しており、チレゴンの町はますます活況を呈することになるだろう。