インドネシア町案内情報2014〜16年


「都内の高リスク地区はここ」(2014年4月7日)
住民生活が貧困・環境と衛生・インフラ・社会資本・経済・治安と秩序などの諸相で潜在的リスクを抱えている行政区域のリスク度合いを示す潜在社会リスクインデックス(IPKS)の2013年版を中央統計庁首都支部が都庁に提出した。
それによれば、都内267町の中で、リスクの高い町トップ10は中央ジャカルタ市・北ジャカルタ市・東ジャカルタ市・南ジャカルタ市に集中している。
中央ジャカルタ市: カンプンラワ(Kampung Rawa)、ガルール(Galur)、タナティンギ(Tanah Tinggi)、カルティニ(Kartini)
北ジャカルタ市: カリバル(Kali Baru)、プンジャリガン(Penjaringan)、アンチョル(Ancol)、ラゴア(Lagoa)
東ジャカルタ市: カンプンムラユ(Kampung Melayu)
南ジャカルタ市: マンガライ(Manggarai)
貧困という要素は貧困データから見ることになるが、環境と衛生は水道網・ゴミ捨て・河川敷・デング熱発生という4項目のデータから見ることになる。インフラは水害・火災・スラム・人口密度、社会資本は宗教施設・勤労奉仕・アリサン・社会育成などのデータ、経済は銀行・質店・IKKR・中規模産業とサービスのデータ、治安と秩序は犯罪事件発生・タウラン発生・警備ユニットなどのデータが変数となる。
インデックス数値が高いほど社会リスクが高いことを意味しており、その地区は潜在的に危険な場所だということになる。貧困の度合いが激しい、水害や火災あるいは犯罪の発生、ゴミ捨て、スラム地区の多さ、環境衛生が劣悪といった内容がそこに含まれている。
たとえば、カンプンラワのIPKSは44.78、カリバル44.34、プンジャリガン43.21、ガルール43.11、カンプンムラユ41.87、アンチョル40.00、タナティンギ39.73、カルティニ38.47、マンガライ37.66、ラゴア37.45といった数値からトップ10の順位がわかる。
都庁はそれら高リスクトップ10町内に対して特別対応を採るためのチームを形成する計画。特にその中のカンプンラワ、ガルール、タナティンギの三町は中央ジャカルタ市ジョハルバル郡に含まれており、ジャカルタでもっともスラム地区が集中し、且つ人口密度の高いジョハルバル郡への包括的な対策が検討されている。


「メトロポリタンはどこへ行く?」(2014年4月23・24日)
都市部と村落部の較差は拡大の一途にあり、経済的文化的な差は村落部住民を都市部にまるで磁石のように引き寄せるためにアーバナイゼーションが避けようもなく起こっている。経済活動の盛んな都市に引き寄せられた村落部住民は都市郊外部あるいは周辺部に居住して都市に働きに出るようになり、アーバナイゼーションによる都市のホリゾンタルな拡大が引き起こされた。都市周辺部にある農地は住宅地に転換され、都市周辺部にあった農村は都市の中に吸収されて行く。こうして作られたメトロポリタンは都市地域内や周辺部にスラム地区を形成し、昨今の都市の拡大はスラム地区の拡大によって引き起こされているとの説も出されている。
現在インドネシア人口の半分は都市住民になっており、2035年には西ジャワ州住民の90%、バンテン州住民の85%、ヨグヤ特別州住民の84%、東ジャワ州民の67%、中部ジャワ州民の61%が都市居住者で占められると予測され、将来のある時点でジャワ島内は現在のような都市と都市の間に見られる水田が完全に消滅してしまい、どこまで行っても延々と街が連なっている光景に変ってしまうだろうと予言する研究者もいる。ジャワ島の全島都市化説がそれだ。
都市部の人口増加スピードは速い。都市部の出生率が鈍化せず、移住者の増加と周辺村落部の併呑、そして医療技術の向上や福祉政策の徹底による死亡率低下が手を携えて起これば、都市人口は急激な上昇を示すようになる。保健思想の普及や保健施設のクオリティも村落部に比べて都市部のほうが高くなるのは明白だろう。
インドネシアの法規では、メトロポリタンシティの条件のひとつに人口が100万人を超えていることがあげられている。ジャワ島外でその条件を満たしている町はメダン・パレンバン・マカッサル・バリッパパン・デンパサルなどがあるが、ジャワ島内の都市化スピードに比べればまだ発展速度は緩やかだ。
インドネシアのメトロポリタン地区とされているのは現在6地域あり、カバーする県市名を読み込んだ独自の名称が付けられている。その筆頭はジャボデタベッ地区だ。今ではさらにボゴールの先まで加えた広域に拡大している。( )内は包括地域名。
JABODETABEKJUR (ジャカルタ首都特別区、市:ボゴール、デポッ、タングラン、南タングラン、ブカシ、県:ボゴール、タングラン、ブカシ、チアンジュル)1961年総人口688万人⇒2010年3,013万人
BANDUNG RAYA (市:バンドン、チマヒ、県:バンドン、西バンドン、スムダン)1961年総人口309万人⇒2010年872万人
KEDUNGSEPUR (市:スマラン、サラティガ、県:スマラン、クンダル、ドゥマッ、ウガラン、プルウォダディ)1961年総人口282万人⇒2010年592万人
GERBANG KERTOSUSILA (市:スラバヤ、モジョクルト、県:グルシッ、バンカラン、モジョクルト、シドアルジョ、ラモガン)1961年総人口411万人⇒2010年912万人
MEBIDANGRO (市:メダン、ビンジャイ、県:デリスルダン、カロ)1961年総人口164万人⇒2010年449万人
MAMMINASATA (マカッサル、マロス、スングミナサ、タカラル)1961年総人口97万人⇒2010年258万人
各メトロポリタン地区の核都市は、地域が拡大すればするほど重い負担を抱え込まざるをえなくなる、とインドネシア大学デモグラフィ研究所長は語る。「経済活動のメインが行なわれる核都市に周辺ベッドタウンからコミューターが毎日流れ込んでくる。核都市で支払われる金は周辺地域に分散されて流出する。核都市のインフラ建設を支える税収は減少し、妥当なインフラを建設し維持することが核都市にはますます困難になっていく。食糧や上水の確保も、生活環境の荒廃によって困難が増大する。人間の社会生活の乱れが引き起こすストレスや病気も増加し、浮浪者や物乞いが増え、犯罪までもが増加する。中央政府はこのような住民生活の劣化に対する政策をまだ何も打ち出していない。地方政府は所轄行政区域内の対策しか考えておらず、広域的な対策は他人事になっている。住民の移動・移住は静的な目でしか見られておらず、町が村に変わってしまう可能性への意識はあまりにも薄い。いちばん重要なことは、国民がどこに住んでもたいしてクオリティの差異がない生活が営めることであり、また国からの国民福祉が享受できることだ。」
それに関連してバンドン工科大学教授は、メトロポリタンの都市クオリティが劣化していくことに対してだれもが無関心になっていくことがもっとも危険だ、と論評した。メトロポリタンの発展は水平方向への拡大がもっぱらになっており、計画性の伴われない盲目的な拡張のために都市の持続的な発展という視点が置き去りにされている。その結果都市環境の劣化によって住民の生産性に悪影響がもたらされることが強く懸念されている。メトロポリタンが横への広がりを起こしても、都市としての原理を統合的に深めることは不可能でない。分散的集中原理に従って、核都市を取巻く周辺都市も新たな経済センターとして成長していくという構想がそれだ。いつまでも核都市にとってのベッドタウンのままでいてはならない。理想的には、核都市と周辺地区はグリーンベルトで分離される必要がある。ジャボデタベッ地区はその機会を既に失ってしまっているが、このコンセプトは統合的多機能地区と居住地区を上下方向に効率よく建設することを要求するものであり、それによって用地転換が抑制され、核都市と周辺ベッドタウン間の交通負担が軽減されて交通渋滞・環境破壊・住民の社会生活に緩和がもたらされる。「ジャカルタはもう手遅れだが、バンドンやスラバヤはまだ可能だ。それがなされるためには、行政地域割りの枠を取り外さなければならない。都市が必要としているすべてのものがその行政地域内で全部手に入るわけではないのだから。上水供給、ゴミや下水処理などの問題がそれを明白に物語っているではないか。」
スラバヤ11月10日工大都市地域計画ラボ院長は、これからの都市は住民に妥当な居住と活動を保証し、安全感と快適さを与えるものでなければならない、と説く。実際に国内のメガポリタン諸都市で起こっているのは、その反対のクオリティ低下だ。交通渋滞は一層悪化し、生活費はどんどん上昇し、社会生活状況は劣悪さを増す。大気汚染も激しくなる。もっとも懸念されるのは、住民が自分の住んでいる都市のクオリティに関心を払わなくなることだ。都市住民の意識の中に環境維持の観念が構築されず、自分が都市の一部であることを忘れてしまうのが都市の持続的発展にとってもっとも危険な状況である。地方自治体行政官僚がそのようになっていけば、都市に残されるものはただ崩壊だけになる。院長はそう語って、都市の発展は人間の精神が作り出すものだという見解を主張している。


「スパイス探しはクラマッジャティ市場で」(2014年5月29日)
東ジャカルタ市クラマッジャティ(Kramat Jati)中央市場。ここは野菜と果実の卸売市場だが、さすがにスパイスの国インドネシアだけあって、スパイスも豊富に売られている。都内の他の市場で探しても見つからないスパイスでも、そこできっと見つけることができる。クラマッジャティ中央市場は都民にとってのスパイス天国なのである。各売場は、専門に扱っている野菜や果実が山のように積まれており、スパイスも例外ではない。おまけに売られている商品はたいていがきれいに洗浄されており、畑から抜いてきたばかりの土まみれ、という姿はほとんど見かけない。
たとえばショウガ。4x6メートルの売場にいくつかの種類のショウガや他のスパイスが山をなしている。この市場は卸売市場だが、その山をくずすくらい大量に買わなければならないわけでは決してない。消費者が個人で行っても、小売のように少量の品を売ってもらえる。ただし、ワルンでやっている一個だけ買うというのはよしたほうが良い。
ムリヤントさん36歳が店主をしている売場には、ショウガ、トゥムラワッ(temulawak)、 ブルージンジャー(laos/lengkuas)などいくつかのスパイスが山積みになっている。それらは国内の各地から集められたものだ。ショウガは二種類あり、jahe gajahと呼ばれる大型のショウガは料理用。もうひとつのjahe empritと呼ばれる辛くて小型のショウガはジャムゥ用だ。ガンに効く薬と言われている紫ウコン(kunir putih)もそこで販売されているが、この品は注文制だ。
乾燥スパイスが欲しければ、別の売場へ。エリさん50歳が持っている売場には、カルダモン、丁子、キャラウエイなど乾燥させたさまざまなスパイスがある。既に粉末状になっているものも。なんとこの売場には、国内で採れたものばかりか、インドや中国など外国産のものまで売られている。都内の他の市場ではまず見つけることのできないパプアシナモン(kayu masohi)やにくずく花(bunga pala)などもそこにある。パプアから取り寄せられたkayu masohiはグライ料理やカレー料理の味にコクを付けるために使われるもので、その香りを嗅げばグライの香りがしてくる。マルクから届いたにくずく花はナツメッグの代用品だが、ナツメッグを使うと料理が濁って見えるのに、にくずく花を使うとその欠点が解消される。
スーパーマーケットへ行くと、さまざまなインドネシア料理用に素材がパックされて販売されている。エリさんの売場でも、スパイスだけだがグライ用やルンダン用あるいはソト、オポル、スムル、カレーなどのために調合された粉末スパイスが用意されている。もちろん、トウガラシ・ニンニク・コショウなどの単品スパイス粉末も取り揃えられている。料理用調合粉末スパイスは一回用の小袋入りでひとつ6千ルピア。
乾燥粉末でなく、生スパイスをすりつぶした状態のものを販売している売場もある。ニンニクや赤トウガラシなどはキロ当たり4千から1万ルピア。すりつぶす加工はクラマッジャティ市場周辺の民家が家内工業として行なっているもので、普段はケータリング業者や食べ物調理販売屋台事業者がお客さんだ。ハリラヤ前になると、大量の料理を作る家庭が買いに来て、ひとであふれることになる。スパイスに興味のある方は、クラマッジャティ中央市場探訪をぜひどうぞ。


「プカロガンのバティック産業が後退」(2014年6月27日)
国会・地方議会総選挙そして大統領選挙という経済の活発化するこの時期だというのに、中部ジャワ州プカロガン(Pekalongan)では不況の風が吹いている。全国一のバティック生産量を誇るプカロガンに不況の風が吹き、バティック事業者が従業員を一部自宅待機させるほどの苦境に追い込まれているのは、特産品のバティック布やバティック衣料品の販売が半減しているためだ。
「バティック製造業界は難渋しているが、サルン(sarung)生産など他の産業は相変わらずの状況で、この選挙シーズンに特に販売の悪化は起こっていない。バティックはこのシーズンを逃したとしても、次に来るプアサ〜ルバラン期には市況が戻るように期待している。」アピンド、プカロガン県支部長はそう述べている。
プカロガンのバティック事業者たちに話を聞くと、二年前からビジネスは下降しはじめ、この一年間はますます先行き不透明になっている由。中部ジャワ州の35県市にバティック生産センターがあり、そこで1,137のバティック事業者が妍を競っている。従来はそれらの生産センターが製品をプカロガンに出して委託販売する形が普通だったが、昨今はプカロガンに頼らない自力販売を目指す生産センターが増加したことが、プカロガンに不況をもたらしている最大の要因らしい。他の生産センターで作られているものはプカロガン産のものと大差がなく、おまけに価格競争力も強い。プカロガンではそれに対抗するために、従来の価格を引き下げざるを得なくなった。
プカロガンのあるバティック事業者は、「競争が激しくなっていることは承知していたが、ここ一年はもう商売が顕著に後退しており、昔は20コディ(1コディは20着)を市場に流していたというのに、今では売れ残りが増加している」と語っている。
プカロガンという全国一の生産センターでさえ、地元市場の景況は商売を左右する。別のバティック事業者はバティック布製造と縫製の作業者を半分の25人に削減した。「近郷での米の収穫がよければもっと売れるのだが、今年前半は水害の被害があったから。」
選挙の年はキャンペーンのために政党からのTシャツ作成注文が大きく膨れ上がる。残念ながら、バティックを使ってくれる政党はないし、ひとびとは選挙運動に神経を集中し、バティックを着ようという気持ちを忘れてしまう。そこに米の不作が重なれば、バティック生産者たちは窓が閉ざされた思いをしなければならない。加えて競合者が増えれば、大打撃を蒙るのは必至だ。バティック事業者のひとりは、かつて一週間の売上が1千万ルピアだったものが、今では5百万ルピアしかない、と窮状を訴えている。


「ジャカルタの自転車部品専門店はここ」(2014年7月8・9日)
西ジャカルタ市タンボラのモッマンシュル(KH Moch Mansyur)通り。ごみごみした町中の道路脇を何台ものトラックが占拠して荷役を行なっている。パサルジュンバタンリマ(Pasar Jembatan Lima)にほど近いその一角に自転車の部品販売をしている店がある。オーナーのスパルリ別名アセン氏71歳は雑然と商品が置かれた店の表にランニングシャツで陣取った。ともかく暑い日だ。かれは1958年にスワローブランド自転車の部品販売を開始して以来、ひたすらこの道一本に精を出してきた。今では、このトコウイングスほどありとあらゆる自転車用部品がそろっている店をジャカルタで他に探せるかどうかわからない。
インドネシアに自転車が初登場したのは1890年で、オランダ人フロイテル氏がバタヴィアのガンビル地区に店を開いた。価格は一台5百フルデンほどで、もちろん金持ち層が購買対象だった。フロイテル氏は販売促進のために今のモナス広場の一部を仕切って自転車フィールドを作り、そこで顧客が自転車を乗り回したり、曲乗りをして遊ぶことができるようにした。そこを利用していたのはオランダ人や中国人の若者たちだった由。1937年には、バタヴィア市庁に登録されている自転車が7万台を数え、当時のバタヴィア住民人口の8人に一台という普及率を示した。
昔スタイルのがっしりした自転車で上パイプが横に真っ直ぐ伸びているタイプはインドネシアでスペダオンテル(sepeda onthel)と呼ばれる。コタの自転車オジェッが使っているのはこのタイプ。一方、上パイプが斜め下に下がっているタイプのものはスペダジェンキ(sepeda jengki)と呼ばれている。婦人用自転車がその代表格だろう。それらの自転車が故障したら、交換部品が必要になる。アセン氏の店にあるのはたいてい中国製か台湾製あるいはインドネシア製のもので、オリジナル部品が欲しければ取り寄せになる。
この店にやってくる客はほとんどが一般庶民であり、見るからに金持ちの道楽という雰囲気の客は滅多にいない。それはつまり、商品の価格が高くないものであることを意味している。
都庁がベチャ廃止の最終仕上げに取り掛かったとき、ベチャ引きの中に自転車オジェッに転身する者が続出した。かれらはこの店に自転車を買いにやってきて、それ以来部品の必要が出るたびに戻ってくる。1970年ごろから、アセン氏は子供用自転車の貸し出しを行なうようになった。店の繁栄は90年ごろまで続く。そのあと、ジャカルタの自転車ビジネスは斜陽になり、今やオートバイが全盛の勢いだ。こうなる前の時代には、モッマンシュル通りやクブンジュルッ?通りは自転車ビジネスセンターの観を呈していたのだが、栄枯盛衰の結果は町の景観を変えた。今、モッマンシュル通りはプラスチック製品卸しセンターになっている。
南ジャカルタ市クバヨランラマにも自転車ビジネスセンターがあった。高架道路下でトコアテッとトコロダジャヤという自転車部品店が営業している。営業歴は40年を数えるという。この一帯も1980年代まで自転車ビジネスセンターだったが、今残っているのはその二軒だそうだ。自転車部品客というのはほとんどが一般庶民であり、自転車オジェッや自転車に商売道具を乗せて巡回するトゥカン、あるいは屋台を引いて巡回する物売りなどが常連客だ。
フレームは50万から90万ルピア、車輪のリムは最高で9万ルピア。この店で一番多い仕事は車輪のリム調整で、毎日自転車用が4〜5台分、カキリマ屋台用が15台分くらいあるとのこと。しかし販売商品の中では、チェーン、チューブ、タイヤというのが売れ筋のトップスリー。
最近の自転車ブームに伴って、新品や中古の自転車はいたるところで販売されている。自転車本体も部品販売もミドルクラスから上を対象にしており、価格も高めなので一般庶民が集まってくるような雰囲気ではない。一般庶民がやってくるのは、厳しい時代を生き抜いてきたトコウイング、トコアテッ、トコロダジャヤのような店なのである。


「マラン地区経済が躍進中」(2014年7月18日)
東ジャワ州でスラバヤに次ぐ第二の経済圏にのし上がりつつあるマラン地区一帯は、2014年ラマダン〜イドゥルフィトリ期の現金需要も大幅に上昇している。インドネシア銀行マラン支店は2014年7月の現金需要にそなえて2.7兆ルピアを用意したが、7月の最初の十日間で6千億ルピアが既に引き出された。2013年ラマダン月では、最初の十日間の市中流通通貨量は3,770億ルピアだったから、今年の現金需要の凄まじい伸びが見えてくる。
インドネシアでイドゥルフィトリの日には、目上の者から目下の者に愛情のしるしとして現金を与える習慣になっており、そのために新札需要が激増する。インドネシア銀行マラン支店が用意した2.7兆ルピアはすべて新札であり、同支店は7月10日から25日まで一般消費者に対して新札との交換サービスを実施している。
マラン地区が経済センターとして発展してきていることは、他地区からこの地区に入ってくる金とこの地区から他地区へ出て行く金のバランスを見ればよくわかる。インドネシア銀行マラン支店によれば、2014年上半期に流出した金額は2.7兆ルピアで、反対に流入してきた金額は8.2兆ルピアであるとのこと。


「バニュワギのカンプンアラブ」(2014年8月8日)
ジャワ島がイスラム化する中で、一番最後まで残されたヒンドゥ=ブッダ王国がブランバガン(Blambangan)。ブランバガン地方は現在のバニュワギ(Banyuwangi)県にあたる。ブランバガン王国がイスラム勢力との戦争を繰り返している中で、バリのムンウィ(Mengwi)王国からのテコ入れを受けた時代もある。今でもバニュワギ県にはイスラムになりきらずに昔から伝統的に持っていた慣習に従って暮らしているウシン(Using)あるいはオシン(Osing)と呼ばれるひとびとがいる。かれらの生活習慣はイスラムとヒンドゥ=ブッダ風のものが混じりあっており、外国人がバリ文化と認識しているものをオシン文化の中に見出すことができるため、その意外さに驚かされることもある。
18世紀にヒンドゥ=ブッダ王国が滅ぼされてイスラム・マタラム王国に征服され、さらにオランダ植民地政庁にジャワ島全土が牛耳られるようになったあと、この地に渡ってきて住み着いたアラブ商人たちに居住地が与えられた。インドネシアに渡ってきたアラブ商人たちは南イエーメンのハドラマウッ(Hadramaut)出身者が多く、アラブ人居住区では中国人居住区のように自治が許され、自治体制の最高責任者にはカピテンの称号が与えられて、カピテンアラブと呼ばれた。インドネシアではそのような種族ごとの居住区もカンプンと呼ばれる。バニュワギのカンプンアラブはバニュワギ郡ラテン(Lateng)町にあり、アラブ文化がそこはかとなく感じられるものの今やアラブ人居住区という面影はなく、ウシン族やマドゥラ人そしてジャワ人がたくさんそのエリアに入って居住しており、普通にあるジャワのカンプンにしか見えない。
ブランバガン王国領にアラブ商人がやってくるようになったのは17世紀のことで、当時王国の体制はヒンドゥ=ブッダだからそのような交流はないはずと思うのは、宗教の違いを対立思想で見ているひとたちに特有のものだ。東南アジアにおける通商と文化の交流および融合は、そのようないびつな人間観を吹き飛ばしてくれる。商人たちはパンパン湾、今のムンチャル地区での通商を目的にしてこのヒンドゥ=ブッダ王国にやってきたのだ。
カンプンアラブはバニュワギの町の中心部に近い貿易活動のセンター地区とあまり離れていない。ボーム(Boom)と呼ばれる海岸地区がその中心エリアだった。アラブ商人たちはブランバガンに住みつつ、あちらこちらへと渡って通商を行っていたが、時代の流れにともなってブランバガンに定住する者が増えて行った。かれらの中にはオーストラリアへのバナナ輸出を手がける者がおり、オランダ植民地行政はアラブ人の通商活動の舵取りをしながらも貿易活動の振興を支援することも忘れていない。
そのカンプンアラブで1911年にアラブ人学校が作られ、オランダ植民地政庁は非プリブミのための学校にプリブミが入学することを禁じたため、バニュワギの各地に住むアラブ人とその混血子弟のための学校として運営された。そこで教えられたのはアラブ語とイスラム教だ。その学校はもはや存在せず、学校のあった跡地には今のブランバガン市場が設けられている。学校事務所だけがそこに残されており、当時撮影された学校建物や生徒たちの姿が貴重な歴史遺産として保存されている。
長い年月の中に残されたアラブ文化の面影をカンプンアラブで見出すこともできる。ヤギのだし汁を使った料理は特徴的なアラブ料理だし、インドネシアでロティマリヤムと呼ばれるロティチャナイもカンプンアラブで容易に見出すことができるもののひとつだ。


「バリッパパンが居住快適度第一位」(2014年8月26日)
インドネシア都市計画専門家同盟(IAP)が17都市住民1千人を対象に2014年第2四半期に行ったサーベイで、バリッパパンがもっとも居住の快適な都市との評価を得た。バリッパパンのインデックスは71.12、続いてソロ69.38、マラン69.30、ヨグヤカルタ67.39、マカッサル64.79、パレンバン65.48、バンドン64.40と並び、平均値の63.62をオーバーしている。スマラン63.37、ジャカルタ62.14、スラバヤ61.70など国内屈指の大都市は平均値を下回った。首都ジャカルタに隣接するグリーンシティとしての歴史を歩んできたボゴールも、60.50という低い数値に甘んじている。また最下位はメダンの58.55、次にジャヤプラの58.96だった。
このサーベイは2009年から二年おきに行われているもので、これまでは毎回ヨグヤカルタがトップになっていたが、都市としての快適さは低下しているようだ。この意識調査では、次の30のポイントについての回答が集められた。
1.都市計画のクオリティ
2.開放緑地の状況
3.クリーン環境のクオリティ
4.ゴミ処理のクオリティ
5.環境汚染レベル
6.公共運送機関の状況
7.公共運送機関のクオリティ
8.道路状況
9.歩行者用ファシリティのクオリティ
10.交通の円滑な流れのレベル
11.保健施設の状況
12.保健施設のクオリティ
13.教育施設の状況
14.教育施設のクオリティ
15.電力エネルギーの状況
16.上水道の状況
17.上水のクオリティ
18.通信網のクオリティ
19.就職状況
20.生活コストのレベル
21.犯罪のレベル
22.社会交際のクオリティ
23.社会活動施設の状況
24.社会活動施設のクオリティ
25.身障者用ファシリティの状況
26.レクレーション施設の状況
27.レクレーション施設のクオリティ
28.公共サービス情報へのアクセス
29.史的建造物の保護
30.地元文化の保存
今回トップの評価を得たバリッパパンは、都市計画と環境経営が他を抜きん出て優れていた。ソロとマランは空間と環境の経営が優れているとの評価だった。ジャカルタはさまざまな点で快適な都市生活を営むには程遠い状況になっている。都市レイアウト計画の中で効率の良い地域関連性が計画されたにもかかわらず、各ゾーンの機能がいとも簡単に破られて実際には異なる機能が持たされ、それに伴って生活環境から移動のための交通といった関係する部分で機能不全が発生している。そのような形が何十年にもわたって続けられてきたため、大都市ほど計画倒れで実態は大混乱と言う姿が一般的になっているようだ。


「スマラン旧市街の再開発」(2014年10月10日)
中部ジャワ州スマラン市の旧市街はほぼ三分の一が国鉄タワン(Tawang)駅の用地で占められている。オランダ時代の建築物がいまだにノスタルジーをかきたてる旧市街は格好の観光資源だが、残念なことに洪水や海水浸水による水害のために利用できる余地が大幅に減少している。タワン駅があるために現在も人間の活動をそこに見ることができるのであり、タワン駅がなかったならスマラン旧市街はもうゴーストタウンに成り果てているにちがいない。だからタワン駅を中心にして旧市街の再開発を実施するために、まずバグル(Banger)川とそこに注いでいる水路の治水工事を開始しなければならない。スマラン市地方開発企画庁地域開発インフラ計画担当長官がそう表明した。
その計画に合わせて国鉄はタワン駅前の道路をスマラン市に返還し、駅アクセス路は南側のムラッ(Merak)通りが使われるようになる。国鉄歴史遺産遺物保存センター長はスマラン市の旧市街再開発計画に協力する姿勢を明らかにしている。40Haの広さを持つスマラン旧市街の三分の一は国鉄が利用しているが、市の計画を踏まえながらオランダ政府の協力を得てタワンを中部ジャワ州の中央駅にふさわしいものにするよう、デザインを検討している由。「タワン駅は国鉄の客車と貨物のすべての交通が集まる中央駅として再編される。これまで水害の問題で、何も手がつけられない状態だったが、いつまでもそれが放置されてよいものではない。そのためには、まず水害の克服から始めなければならない。」
タワン駅を含む旧市街の再開発のために、地域全体はまずフェンスで囲まれることになる。また国鉄所有地に家を建てて住んでいる市民は、土地を明け渡さなければならなくなる。スマラン市民が集まって楽しめる行楽センターにその地区を変身させることが最終目標であるとのこと。


「都市生活混乱の元は不動産?」(2014年10月16・17日)
9階建て以上の高層ビルがジャカルタには8百以上ある。それが激増したのは2013年で、その大半がオフィスビルとアパートメントだ。2014〜2015年は新規建設がかなり頭打ちの状況を呈している。国内政治経済状況が不安定あるいは不明瞭だと見なす結果、2013年ほど不動産業界が意欲的になれないのがその原因だろう。
インドネシアプロパティウオッチ専務理事は、首都圏の不動産市場が飽和状態に入ったと表明した。原因は供給過剰にある由。供給はどんどん行なわれているにもかかわらず、需要が期待されているほど伸びておらず、結果的に需給関係のアンバランスが顕著になり始めたということのようだ。戸建て住宅需要は高級レベルから一軒5〜10億ルピアという中級レベルにシフトしており、積層住宅市場でもユニット価格が3〜5億ルピアというミドル層に移っている。戸建て高級住宅は土地価格の暴騰のために販売価格が天井に打ち当たっており、供給もおのずとスローダウンしている。「不動産建設はいまだに物まね志向に彩られている。アパートメント建設は、ポテンシャリティが高いという理由でスルポンやブカシに集中しているが、市場の反応が期待通りになるとは限らないことを忘れてはならない。」専務理事はそう語っている。
都市レイアウト計画で住宅地となっているエリアが高層住宅建設で社会生活に大きい変化を起こしている地区がいくつかある。西ジャカルタ市ラワベロン(Rawa Belong)地区や南ジャカルタ市チルドゥッラヤ(Ciledug Raya)通りがその典型であり、ラワベロンでは幹線道路が12メートルしかないのに高層アパートメント群が建ち、キャンパスまで作られている。学生が増えたことで、その地区には飲食店・娯楽施設・クリーニング店その他のサービス業者が激増し、交通渋滞のメッカと化した。南ジャカルタ市パンチョランのカリバタ地区も似たようなものだ。カリバタシティが稼動を開始するや、国家英雄墓地を擁するこの地域は、朝から夜まで交通渋滞が慢性化した。都市計画専門家同盟全国本部会長はそれについて、不動産建設の許可を得たコンセプトがいつの間にか変更され、環境インフラがサポートしていないにもかかわらず別ランクのビジネスに変更することが行なわれるなら、地域の社会生活は予期しなかった混乱に見舞われる、と次のようにコメントした。
「高層ビル建設に際して絶対に考慮されなければならないことは、駐車スペース問題だ。高層住宅が中下流層向けのものであるなら、駐車スペースは四輪車で占められる上流層向けのものほど広くなくてよい。ところが、そういうデザイン認可で建設したというのに、できあがったら四輪車を持つ階層が居住者の大半を占めるようなことになったら、駐車スペースが不足することは目に見えている。」
2011年から稼動を開始したカリバタシティには、低所得層向け売却用積層住宅、それを少し高級化した売却用積層住宅、中流層向けアパートメントが18棟集まっており、各棟にはおよそ8百の住居がある。カリバタシティ居住者の持つ四輪車が敷地内に収容できないため、住民は周辺道路脇に駐車し、駐車の車列がびっしりとじゅずつなぎになる。道路が狭められるために交通渋滞に拍車がかかり、この地区は一日中道路が通行車両で埋められる結果を引き起こした。都庁が路上駐車粛清作戦を開始したとき、カリバタシティ周辺道路は作戦ターゲットのトップのひとつにランクされていた。
南ジャカルタ市チルドゥッラヤ通りも、道路インフラがサポートしない高層住宅建設地区のひとつになっている。南ジャカルタ市とタングラン市の境界線から5キロまでの間に、高層住宅が三つ建設中だ。この道路にはチプリル市場とクバヨランラマ市場があり、私立学校が数軒と病院がふたつある。そういった人が集まる施設の間を飲食店・家具店・自動車修理店などが埋めている。幅14メートルのこの道路は対向二車線で、週日の朝は午前6時から出勤車両で渋滞し、二輪車までが動きを封じられて渋滞の中にいる。
高層住宅建設がもたらす影響は、交通渋滞の問題だけでない。地盤沈下が起こり、出水のたびに容易に水没するようになる。それは、積層住宅の上水供給のために地下水がくみ上げられているためだ。公共事業省が使っている住民一人当たりの上水需要量は一日150リッターとされているから、アパートメント一棟に2千2百室があるなら、そこには最低4千4百人の人間が居住し、一日に66万リッターの上水を消費する。一年間だと2億4千万リッターの地下水が吸い取られていく計算だ。地中の層を埋めていた水がなくなれば地中に間隙が生じ、それを埋めるべく地表が低下する。ましてや、高層ビルが重さの負担を地表に与えているのであり、地表の沈降は早められる。それに対し都庁は、ビル建設に際しては必要とされている要素をすべて計算した上で建築許可を出している、と答えている。


「これもインドネシアのパラドックス」(2014年10月28日)
インドネシア共和国の中に王国があるという奇妙な考えを述べるひとがおり、そしてそれを信じるひとがいる。ヨグヤカルタ特別州の実態から受けたイメージに触発されてそのような考えを抱くのだろうが、ヨグヤカルタ特別州も共和国の憲法に服従し、国民総選挙で選出される大統領と大統領が行なう国家統治行政に従う一地方自治体でしかない。
ヨグヤカルタ特別州は旧マタラム王国の直轄領地であり、この王家がインドネシア共和国独立プロセスの中で大きな貢献を果たしたため、共和国政府が共和国の枠内で特別に大きい自治の権利を与えたというのが実際のところであり、州民はあくまでも国家に所属し、地方首長となっている王家とは文化面でのつながりしか持っておらず、王家の支配に服従しているわけではない。王家は王家で地方首長の役割に徹し、王家の専制などという言葉が庶民の中に流れることをきわめて警戒しているフシがあるようで、おかげで共和国内の地方自治体行政クオリティ番付では常に上位に位置している。共和国内に存在する、王国の面影を色濃く宿す地方自治体が現代住民行政においてハイクオリティと評価され、民主主義を基本原理に据える共和国内の他の地方自治体行政のほうがクオリティが低いというのも、インドネシアが抱えるパラドックスのひとつだろう。
インドネシアガバナンスインデックス2014年版によれば、ハイクオリティガバナンス番付の第一位にヨグヤカルタ市が就いた。番付の二十位までは次のようになっている。数字は評価ポイント。
1.ヨグヤカルタ市、ヨグヤ特別州 6.85
2.スマラン市、中部ジャワ州 6.30
3.グヌンキドゥル県、ヨグヤ特別州 6.09
4.バンダアチェ市、アチェ特別州 6.08
5.シアッ県、リアウ州 5.92
6.オガンコメリンウル県、南スマトラ州 5.59
7.タナダタル県、西スマトラ州 5.25
8.ビトゥン市、北スラウェシ州 5.24
9.バリッパパン市、東カリマンタン州 5.04
10.カランガスム県、バリ州 5.01
11.北ロンボッ県、西ヌサトゥンガラ州 4.99
12.アンボン市、マルク州 4.93
13.テルナーテ市、北マルク州 4.90
14.タンジュンジャブンティムル市、ジャンビ 4.89
15.タラカン市、北カリマンタン州 4.87
16.マムジュ県、西スラウェシ州 4.84
17.ティモールトゥガウタラ県、東ヌサトゥンガラ州 4.75
18.ポンティアナッ市、西カリマンタン州 4.74
19.バンカスラタン県、バンカブリトゥン州 4.71
20.エンレカン県、南スラウェシ州 4.66
インドネシアガバナンスインデックスの解説では、地方自治体の多くで首長が王朝建設に努めていることが地方自治行政の民主化を阻んでいる大きな原因になっていると指摘されている。王朝建設というのは、州知事であれ市長や県令であれ、まず地方議会の有力ポジションに親族やクロニーを据えること、地方行政の節々にも親族やクロニーを据えて、内容が何であれ上意下達の円滑な道を作り上げること、そういう行政の詳細が住民から批判されないようにするために秘密主義が採られること、などの現象となって現れている。そういう反民主主義要素で彩られた政治が地方自治体の中で展開されているため、民主主義モダン行政が進展せず、住民福祉が二の次になっているというのが解説のポイントだ。
昔からの王家が民主行政に突き進み、新進や旧来の豪族が王家をなそうと画策している姿は、インドネシアのパラドックスのひとつに間違いないだろう。


「オフィスビル街のお昼どき」(2014年11月21日)
首都ジャカルタの中心部、豪壮なオフィスビルが立ち並ぶ地区には、毎朝セビロやブレザー姿の会社員が大勢集まってくる。そこだけ見るなら、世界中にある大都市との違いは何もないように思える。ちがいがはっきりと現れるのは、昼の食事時だ。エアコンの効いた豪壮なオフィスビル内には、さまざまなレストランやカフェが入って、オフィス勤めのひとびとが来るのを待っている。そういう場所で食事するひとが決して少なくはないのだが、もっと大勢のひとびとがビルの外へと出て行くのだ。だが、オフィスビル街の外にモールがあったり、繁華な商店街があるというところはむしろ少ない。かれらの多くは、ビルの裏側や脇道に沿って並ぶ食べ物作り売り屋台を目指すのである。ネクタイ姿の男性やスーツ姿の女性たちが貧相な屋台で廉価に空腹を癒す姿。それがジャカルタの特徴なのだ。
エリック30歳はモールグランドインドネシアビル内に事務所を構える民間会社の従業員だ。かれもエアコンの効いたビルを出て、道路向かいの食べ物屋台に向かう。長袖シャツにネクタイ、そして上着まで着込んでいるかれを、日射がカッと照らす。暑い。道路向かいの行きつけのカキリマ屋台に着いたかれは、ナシラムスとイカの煮物、そしてエステマニスをオーダーする。かれの注文が用意されている間に、かれは上着を脱ぎ、長袖シャツを腕まくりした。かれの背中からあまり遠くないところを四輪車二輪車がひっきりなしに通り過ぎる。排気ガスが臭い。日射と排気ガスがその場をますます暑いものにしているが、そんなものは歯牙にもかけず、かれは出された食事を平らげにかかった。「ビルの中で食べれば涼しいけど、高い。道端だと廉くて賑やか。それが一番だよ。」
エリックはリアウ州プカンバルに妻子を置いている。かれは単身で上京し、収入の一部を故郷に仕送りしなければならないのだ。かれの月収は340万ルピア。4x4メートルの部屋を借りて住んでおり、家賃はひと月60万。妻子への仕送りが最低でも100万。かれの一日の昼食費のめどは1万5千ルピア。そんな金額で食べることができるものをビル内のレストランやカフェで探すのは至難の業。かれの一日の生活費は4〜5万ルピアだ。「ジャカルタは高い。『いい服来たオフィスの勤め人がこんなところで食ってるよ』と揶揄するやつもいるけど、勝手に言ってな、だよ。節約しなきゃ、仕送りなんかできゃしない。」かれは力なくそう語る。
スディルマン地区のオフィスに勤めているアディアンシャ30歳も同じようなことを言う。「オレは毎日12時間、事務所で働いている。昼休みくらいは外に出ないと。昼食までビルの中だと、うんざりするよ。経済性と気晴らし。外の屋台で食べるメリットは小さくない」。
屋台のオーナー、ワヒユディン37歳は、オフィス街のカキリマ屋台は大きな需要を持っている、と語る。毎日、オフィス勤めの従業員からボス、秘書から警備員そしてオフィスボーイまで、さまざまな階層の人たちが押寄せてくるそうだ。
オフィス街の空間を埋め尽くしている食べ物屋台の経済的機能は首都の、そしてインドネシアの経済に大きい効果を及ぼしている。上京してきた勤労者たちの生活をその収入で成り立たせている効用はたいへん大きなものがある、とインドネシア大学社会学者は指摘している。


「レギング生産センターはプルンパン」(2014年12月19日)
北ジャカルタ市タンジュンプリウッ港に近いプルンパン地区。ここ5年ほどの間に、そのメイン通り沿いにレギングを販売する店が急増した。種々のモデル・モチーフ・色・素材のバリエーションさまざまに、ぴったりと脚線を浮き出させるレギングを履いたマネキンが勢ぞろいしている。ここが全国諸都市で販売されているレギングの生産センターなのである。
伸縮自由な素材、さまざまなモデルに似合った形とモチーフ、そして求めやすい価格。それがインドネシアでレギングを大衆衣料品の座に押し上げた。どこの街中に行こうが、レギングを履いているひとを見つけるのが困難な場所は滅多にない。
エルファ・マヤルニさん33歳がはじめてジャカルタを訪れた2000年、先にジャカルタに上京していた西スマトラ出身の友人や親族は、レギングの生産を既に行っていた。かの女が住むようになった北ジャカルタ市コジャ郡ラワバダッ町の隣人のほとんどもその生産に携わっていたのである。「どの家にもミシンがあるんですよ。ところが供給過剰にならないの。客はひっきりなし。わたしもこれでやってみようと思いました。」
プルンパンラヤ通りにプロダクションハウスと製品販売店をオープンしているFHPコレクションのオーナーがかの女だ。最初は別のプロダクションハウスに勤めて要領をつかみ、数年後に時節到来を確信したかの女は夫の助力を得て新事業を立ち上げ、そして今やレギングをひと月5百着生産するようになった。イドゥルフィトリが近付くと、受注が激増してひと月一千着の生産量になる。
この地区で成功者が続出し、その友人や親族や知合いたちが次々にこの世界に誘い込まれる。新参事業者たちは細々とスタートを切るが、オーダーは引きもきらず、そのうちに自信をつけた者が大通りに店を持ち、大規模卸店と商売するようになる。レギングは比較的モデルの変化が少ない衣料品だ。7年間も同じモデルが売れ続けているというものもある。一方、新モデルがテレビを通して広まっていくことも起こる。生産者はそういうはやりすたりを注意深く見つめている。
プルンパンのレギングビジネスは「栄枯盛衰、世のならい」ということわざから遠いところにあるようだ。プルンパンラヤ通りはレギング販売店で埋め尽くされている。コジャ郡トゥグスラタン町で写真スタジオを稼業にしていたデディさん40歳は、稼業をレギングに切り替えた。バガスレギングスタイルという看板を出しているかれの店は5人の縫い子を抱えて一日10コディを超える生産量を誇っている。布製品20枚が1コディと数えられる。小売商がかれの店に買い付けに来るほか、かれは地方都市にも製品を送っている。メインはスラバヤ・バンドン・メダン・マカッサル。更に、ネット販売の仕入ためにかれの店を訪れる者もいる。「客はたいてい直接ここへやってきて生産工程を見学し、品物を自分で選んで買っていく。そのあとは、電話やSMSでのリピートオーダーになる。」
かれの製品は数年前からマレーシアにも流れるようになった。スラバヤの卸商に送る製品は、インドネシア東部地方の諸都市に広範に配送されている。
レギングの卸売価格は一着1万から3万5千ルピアという価格帯だから、小売店での消費者価格も十分に手の届くレベルだ。商店では1コディ当たり60から75万ルピアという値付けが一般的。
プルンパン地区では縫製家内産業が隆盛になっており、数百軒の家でそれが行なわれている。プルンパンのその生産活動は長い経済連鎖を形成している。チパドゥ、チプリル、タナアバンなどの布市場で素材が仕入れられ、製品となるまでに長いプロセスを経る。そのプロセスには縫製・荷担ぎ人夫・貨物発送事業など1千種を超える労働需要が存在している。
中部ジャワ州プマラン出身のルディさん38歳は、一年前からプルンパンに住むようになった。裁縫技能を身に着けているかれは、隣近所と語らって、請負方式の仕事を行なっている。「隣人の中には、以前工場で働いていたひとが多いが、今はレギングをみんな作っている。精出して働けば、そのほうがずっと大きい収入になるからだ。品物しだいで一着当たり8百から2千ルピアの報酬になる。午前8時から12時間労働して、ひとりだいたい100〜150着作るよ。」
ファッションの流行は予断を許さない。そしていつ、どう変化するのか、だれにもわからない。しかし変化への対応のコツを熟知している衣料品生産者たちは、日々の生産に精出している。


「北スラウェシのメリークリスマス」(2014年12月25日)
ジャワ島を中心とするインドネシア。スラウェシ島のすべてがインドネシア領であるとしても、その北端にあるミナハサ、そしてマナド市、は地理的に辺境と位置付けられる。マナドからジャカルタまでの距離とマナドからマニラまでの距離を比較して見るとよい。だからスペイン人がフィリピンを征服した後、かれらはミナハサの地までやってきて、そこをも占領し、スペイン人総督を置いてフィリピン風の行政統治を行なった。多くのスペイン語が地元の語彙を増やしたことは「チンタは紐」(2012年12月06日)の中に詳述されている通りだ。
スペイン人はフィリピンでと同様に、ミナハサにもカソリックを持ち込んだ。ミナハサにカソリックが定着し、その北方にあるフィリピン領土内のミンダナオ島はイスラム化されているという奇妙な逆転現象をわれわれは目にすることになる。
ミナハサのクリスマスは、サンタが昼日中に住民の家々を巡る。オーストラリアでは、サーフィンしたりアロハ姿や上半身裸のサンタが出現するが、熱帯のサンタは忠実にあの赤い厚着をしている。そのサンタが助手のスワルトピート(黒人ピートについては「サンタクロースとマンデラ」(2013年12月19日)をご参照ください。)を連れて地元民の家を昼日中訪れるのは、12月の最初の二週間だ。数十年前から始まったこの習慣に従ってミナハサにあるたいていのコミュニティが巡回サンタクロースを企画する。百を超えるコミュニティのそれぞれが、プレゼントを持ってやってくるサンタクロースを迎えてクリスマスが来たことを喜びと共に実感するのである。だからこの時期、ミナハサではあちこちを赤服白髭のサンタがうろついているということが起こる。
白人サンタは良い子たちにプレゼントを与える一方、スワルトピートは悪い子にお仕置きを与えるのだ。毎年12月のその時期、子供たちは両親や大人たちから「良い子にならなきゃ、怖いことになるぞ」と盛んにしつけ教育を与えられるから、家の表で遊んでいた三歳の幼女が、やってきたスワルトピートを目にしたとたん恐怖でパニックになり、泣きながら家の中に駆け込む姿も珍しいものでない。
ちょっと遅れてやってきた赤服白髭サンタは練乳・チョコウエファス・お菓子類・マグカップなどが詰めあわされたプレゼントを持って家の庭に入り、家族と一緒にいる子供をあやし、プレゼントを渡す。サンタは子供に「いつも良い子で、成長するように」と訓戒を垂れ、同行してきた写真師が記念写真を撮ると、一行は次の家に向かう。
スワルトピートはただ家の周りに姿を見せるだけでよい。両親からさんざん脅かされた聞き分けのない子供は、スワルトピートの姿を見ただけで、「ママ、ぼく良い子になるから。」と顔をゆがめて母親に抱きついていくから、それだけで十分に教育効果があるのだそうだ。
この巡回サンタクロースはクリスマスの季節ビジネスなのだ。サンタクロースとスワルトピート、そして写真師やアシスタントらが二三台の車に分乗して民家を巡る。焦点になるのは派手な飾り付けを施し、クリスマス音楽をガンガン鳴らしながら走るピックアップトラックで、サンタは必ずそこに乗っている。サンタに来てもらいたい家庭は、子供ひとり当たり5万から7万ルピアを支払って申し込む。地区別で相場が違うということで、同一地区内は同じ料金だ。サンタやピートもたいてい他の仕事をしているから、一行が回るのは15時から21時といった時間帯になる。一家の主である父親のいない時間帯に行くわけにもいかないから、需給双方の条件は合っているということになる。ほぼ二週間をかけて百数十軒を回るようだから、このサンタチームもけっこうつらい仕事であるようだ。住民の多くは、この習慣のおかげでわが家でクリスマスの喜びを実感できるとたいそうご満悦のようだ。


「優れた地方行政は皆無」(2014年12月25日)
全国505の二級(県市レベル)地方自治体が中央政府に提出した2013年度業績報告書が審査され、Bレベル(良=スコア65〜75ポイント)を獲得したものは11自治体しかなかった。ビンタン県、カリムン県、タンジュンピナン市、ムアラエニム県、スカブミ市、バントゥル県、クロンプロゴ県、ヨグヤカルタ市、スレマン県、マナド市、バドン県がその11。内務省と官僚効用改善行政改革省に開発会計監査庁と各州の観察総局が加わって行なわれた審査では、CCレベル(可=スコア50〜65ポイント)の評価を得たのは170県市、Cレベル(劣=スコア30〜50ポイント)241県市、Dレベル(低=スコア0〜30ポイント)38県市という結果が出された。高評価であるAA(優秀=スコア85〜100ポイント)とA(優良=スコア75〜85ポイント)を得たところはない。前年に比べてBレベルとCCレベルの評価を得たところが増えているので、進歩のあとは見られるから、もっと切磋琢磨して高評価を得るところが出るように期待している、と官僚効用改善行政改革大臣はコメントした。前年の評価では、Bレベルは4県市、CCレベルは149県市だった。
地方自治体の業績評価は5つのポイントからアプローチされる。開発計画・予算効率・プロジェクト成果・プロジェクト成果の対住民効果・公共サービスがその5ポイントだ。その中で、プロジェクト成果の対住民効果と公共サービスに関しては、どの自治体も良好な評点を取るのにたいへんな困難があるようだ。


「クイタンは古本街」(2015年1月12〜14日)
中央ジャカルタ市クイタン。ジャカルタ住民の多くにとってその名は本屋街を思い出させるものだ。クイタンラヤ通り南西端のチリウン川にかかる橋の脇にはグヌンアグン書店があり、この通りの北東端にあるパサルスネン5叉路交差点は古本街になっている。古本街とは言え、古本・新刊書・希こう本・古書籍など、あらゆる書籍が集まっているジャカルタで唯一の場所だ。その歴史は1963年までさかのぼることができるそうで、わたしがジャカルタに住みはじめた1970年代には既に古本のメッカになっていた。
詳しくその場所を言うなら、クイタンラヤ通りとクラマッラヤ通りが形成する角地がそれで、公共運送機関でそこへ行く場合、鉄道ならジャカルタ〜ボゴール線のパサルスネン駅で下車し、南西方向にパサルスネン5叉路を目指して10分ほど歩く。トランスジャカルタバスなら第2ルートあるいは第5ルートに乗って、最寄の停留所で降りてから徒歩でクイタン地区に向かう。都バスなら、マヤサリバクテイのルートP9Aブカシ〜スネン、ビアンララバスのチルドウッ〜スネン間ルート44、もしくはカンプンムラユ〜スネン間ミクロレッM01を利用する。
2008年まで、そこが古本街であることは、乗物に乗ってその通りを通るだけですぐに明白になった。そこでは、カキリマ商人までが古本を扱い、建物内に売場を持っている商人が店の前の歩道にまで商品を並べて、あたかも古本のジャングルか古本市がそこに出現したような印象を与えていたからだ。そのころ、その地区で古本販売を行っている商人は数百人もいた。
今はジャングルの様相が整頓され、クイタンラヤ通りとスネンラヤ通りに面して並ぶ店舗住宅の一階が古本店の並びになっている。店の中は古本が山積みされ、中にはそんな山が歩道の上にまでこぼれだしている店もあるが、歩道が占拠されて人間は車道を歩かなければならない状態は今や昔語りだ。昔から今日まで相変わらずなのは、商人たちが持っている商品ストックの層の厚さだ。「あたしがこの商売を始めたときは、商品数は数百タイトルしかなかったですが、今では1001タイトルまで増えましたよ。本のタイトルと、それがどこにあるか、については全部頭の中に入ってます。」売場の主のひとり、サルマさんはそう語る。古本を探す客がやってきたら、客は本のタイトルを言うだけで「あっ」と言う間にその本が目の前に出現するという寸法だ。それが売れたら、そのタイトルの本はあと何冊残っているのか、ということもサルマさんの頭の中に記録される。
自分の商品の中に客が求めるタイトルの本がなければ、サルマさんは隣近所の同業者に尋ねてまわる。だから客は長い時間をかけないで、自分が欲しい本が手に入るのである。
同業者のパイさん63歳も、この商売を続けて長い。長い職歴の中で、その地区の整備を何度も体験した。最初は店の表でカキリマ商人をやっていたが、道路交通の邪魔になるということでエリアの端っこに移るよう命じられた。2008年には地区の整備が行なわれて、かれは用意されたパサルスネンの4階に移った。そこは古着衣料品カキリマと一緒のフロアで、古本を探す客がそこまで来ることもあまりなく、また換気設備がほとんど機能しておらず、息苦しさに耐えて商売する忍耐力に限界があった。かれは古本市エリアに戻る機会を待ち、商売仲間たちの助力だやっと今の売場を手に入れることができた、と物語る。
商売の場所を転々としながらも、パイさんが商売替えをしなかったのは、その商売が自分に向いていたということのほかに、十分生計が立つ上に子供の教育資金もそれでまかなうことができたからだ。かれは4人の子供をすべて大学まであげさせた。末子は大学教官になっている。かれが子供たちの学資を必要としていた時期、古本商売は一日に2百万ルピアの売上を可能にしていた。オルバ期には、さまざまな書籍が反体制的であるとして発禁処分を受けていた。そういう本が商品として入荷したなら、それは飛ぶように売れたし、それも含めて古本需要はたいへん大きいものがあった。消費者は高架な新刊書籍を新刊書店で購入せず、この古本街にやってきて廉い値段で購入する習慣を持っていたのだ。ところが、今や時代が変わってしまった。インターネットの普及に伴って、書籍の需要自体が激減したのだ。昨今では、売場の家賃ひと月100万ルピア、一日当たり3万5千ルピアの利益がやっとのことで得られるだけということのほうが多くなり、繁盛した日でもせいぜい15万ルピアの利益にしかならないという状況になっている。7〜8月という新学年開始時期だけは書籍需要が高まるが、残りの一年はかつかつの商売というのが、現代古本商人の商売の姿になっている。そんな中で、戦前に発行されたような超古書籍は、たとえ表紙など一部が欠けていても、大きな利益をもたらしてくれる商品だ。もちろんそういう超古書籍はオランダ語や英語のものがほとんどで、時おり出現する超古書籍ハンターのおかげで予想外の潤いがもたらされる日があることも、その商売をしている者の愉しみのひとつに違いない。
クイタン古本街の常連も少なくない。ほんのしばらく前までグラメディアやグヌンアグンなどの新刊書店に並んでいたのに、もう姿を消してしまった。店員に尋ねてもいつ入荷するかという情報を得ることはまずできない。そんな場合に役に立つのがクイタンなのだ。
まじめな大学生が学業のための書籍を探すとき、お目当てのタイトルを新刊書店に探しに行っても手に入らないことのほうが多い。東ジャカルタ市に住む22歳の大学生は、学業に必要な書籍はほとんどクイタンで手に入れている、と言う。「ここに来ると、たいていの本はまず手に入るし、おまけに値段が廉いというのも大きい魅力です。新刊書店の定価よりも2万ルピアくらい廉いですから。」
中央ジャカルタ市の私立高校生徒16歳も、文芸書を探しによくクイタンに来る。文芸書は再版されることが少なく、新作が発表されればそのスペースのために古い作品は書店から姿を消していくため、時期が外れた場合にどこの書店へ行っても見つけることが難しくなる。クイタンには過去に出版されたものはほとんどそろっている、とその高校生は賞賛する。かれは同じ高校生仲間たちと連れ立ってクイタンにやってくると、一軒の売場で店番をしている者に欲しい書物のリストを渡す。するとその店番がリストを見ながら自分の店内から該当する書物を引き出してきてまとめ、自分の店に在庫のないものを近隣の同業者の店に探しに行ってくれる。だからクイタンに本を探しに行くという言葉の意味は、店の人間に探してもらうということを意味しているのだ。もちろん、お目当てなどなしに自分で見て回るのもまったく自由。何時間もかけてたくさんの店を見て回れば、掘り出し物もひとつやふたつは確実に見つかるわけだが、冷房などまったくない喧騒と排気ガスに満ちたそんな場所に何時間も居続ける根性が果たしてあるかどうか?
古本街の店番たちの商品知識はたいへんなものだ。かれらは生き字引であり、歩く出版物カタログなのである。お目当ての本を探し出してくれた店番は、その作家はこっちのタイトルも人気が高いよ、と推薦紹介までしてくれるのである。
さて、買いたい書籍が見つかると支払いとなるのだが、ここにはタワルムナワルが行き続けている。店番が「値段はこれこれ・・・」と数字を言うが、インドネシア人は値切るのが商売作法と心得ている。どれだけ値切ろうとも、売り手はにこやかに応じてくれる。「Tidak dapat . . . .」割引範囲の中に入れば、あとは双方が歩み寄るだけ。
ジャカルタ住民ですら、クイタンの古本街をだれもが知っているというわけでもない。ましてや地方部住民がたまたま上京したとき、クイタンで古本を探そうということを考えるひとがどれほどいるか。しかし、スネン地区からクラマッラヤ通りにかけて、中級ホテルがいくつかある。そんなホテルに投宿した上京者がパサルスネン5叉路で目ざとく見つけるのがこのクイタン古本街なのである。
実は地方都市にも、植民地時代以来の歴史を持つ町にはたいてい古本街がある。街という言葉を使っているが、中には古本を扱う店が二三軒並んでいるだけというようなものもあって、クイタンの規模にはまるで及ばないのだが、百年くらい昔に発行されたオランダ語や英語の書籍を求めるひとには、そういう店が穴場なのだ。骨董品的な超古書籍に興味のあるひとは、インドネシアの地方都市を訪れた際、時間があるなら地元民にそういう店のことを尋ねてみるのも一案だろう。
ゴロンタロ住民のヘニーさん53歳も、パサルスネン5叉路を通っているとき偶然クイタン古本街を発見した。いっぱい本屋が並んでいるのを目にしたヘニーさんは、ゴロンタロで助産婦資格を取得するため勉強している娘さんの注文を思い出したのだ。「勉強の役に立つ本をジャカルタからのお土産にしてね・・・」
分厚い本を4冊手に入れたヘニーさんが支払ったのは15万ルピア。新刊書店では、せいぜい1冊しか買えないような程度の金額だ。「娘のために役に立つ本がもっともっとたくさんあって買いたかったんだけど、重くて持って帰れないのよ。」
ヘニーさんは後ろ髪を引かれる思いでクイタン古本街を後にした。


「パサルプラムカは医療器具のメッカ」(2015年2月4日)
ダンデルスが作ったパサルスネンの脇を通る南往き大通りを下って行ってマトラマン通りが始まる交差点を左に曲がると、そこはプラムカ通り。交差点から数百メートル進んだ道路の南側にパサルプラムカ(Pasar Pramuka)がある。ここは鳥類の市場として有名だが、鳥商人は市場建物の裏側におり、建物内は医療関連商品が主流を占めている。もともとここは、医薬品や医療器具の専門マーケットだった場所だ。
建物内に入ろうとすると、表玄関周辺から既に医薬品や医療器具の売店が軒を連ねている。車椅子から歩行用杖、あるいは医学教室用人体模型まで、あらゆる関連商品をここで探すことができる。この市場で最近売れ足の速い医療器具は、血糖値測定器・コレステロール測定器・血圧測定器などだそうだ。価格はひとつ25万から100万ルピア程度。売店オーナーの話では、毎日そのどれかが一個以上必ず売れるそうだ。手首にはめる血圧測定器でひとつ37万5千ルピア。オンラインショップを含めて、他の場所での販売価格よりもここのほうが廉い。
昔に比べて、車椅子の需要も高まっている。スリーインワンと呼ばれる排泄対応と寝台機能を備えた車椅子が今や人気商品で、それは一台170万ルピア。トラベリングと呼ばれるタイプはアルミ骨組みで簡素な軽量タイプ。外出時の持ち運びがたいへん便利なこのタイプだと一台120万ルピア。病院等に置かれている普通のタイプは一台72万5千ルピアで手に入る。
喘息者用のネビュライザーはひとつ60万ルピア未満で買える。背中や腰の痛みをやわらげる赤外線照射灯も売行きの良い商品のひとつだそうだ。オフィスワーカーの職業病になっているみたいだ、と市場の商人たちは言う。
この市場にやってくるのは、首都圏住民ばかりではない。ジャワ島内ならまだしも、島外からもたくさんやってくる。学年末休みのシーズンになると、ジャカルタ住民よりジャワ島外からやってくる買物客のほうが圧倒的に多くなる、と市場の商人たちは物語っている。ある売場の店番は、毎月商品をマカッサルやパプアに発送している、と語る。毎月、いろいろな種類の医療器具を送ってもらっているということは、地方部でそれが再販されていることを意味している。つまり、地方部で商人がこの市場を卸し元にしているということだ。地方部で同じ商品の市場価格が高くなるのは当たり前であり、ジャカルタに出てくる機会を持てるなら、パサルプラムカで廉い買物をしようと考える地方住民が出てきて当然だろう。
プラムカ市場の商人たちは、客が買った商品を指定場所まで送るサービスをしている。車椅子一台だけでも、自宅まで送ってもらうことができる。もちろんそれは有料になる。だからマカッサルでもパプアでも、商品を指定場所まで送るという原則は同じなのであり、送料に違いが出るというだけの話だ。ジャカルタ都内であれば、費用は1.5〜2.5万ルピア、タングランやブカシだと2.5〜10万ルピア。かさばらない品物であれば、タングランやブカシにでも二輪車で配送する。二輪車ならどんなに遠くても2.5万ルピアだ。電話での注文と配達を受け付けますよ、と市場の商人たちはアグレッシブに来店客に名刺を渡している。
インドネシアはどこで何を買うにせよ、ニセモノのリスクがつきまとう。パサルプラムカでさえ例外ではない。だからまともな商人たちは来店客に、保証書を確認しなさいよ、と忠告している。
輸入品の中には、インドネシア国内にサービスセンターがまだないブランドも少なくない。そんな場合でも販売店に相談すれば、販売店から国内ディストリビュータにクレームしてもらえることがある。そういう客に親身な商人を見つけ出して常連客になるのは、消費者にとってたいへんメリットのあることがらになる。インドネシアがヒューマンリレーション文化の社会であることが、そういう現象を生んでいるのかもしれない。
インドネシア国内にサービスセンターを構えている医療器具メーカーはオムロンとバウアーで、オムロンはガトッスブロト通りのムナラビダカラ(Menara Bidakara)に、バウアーは北ジャカルタ市スンテル(Sunter)地区にセンターがある。
医療器具の買物はまず保証書があるかどうかを確認してから行なうこと。そしてその店で購入したことを示す領収書を保管しておくこと。うちの店であれば、それらを示してくれたら必ず面倒見ますよ、とその売場のオーナーは太鼓判を捺した。


「首都圏コミュータは243万人」(2015年2月23・24日)
ジャカルタ首都特別区を取巻くボデタベッ地区はジャカルタのベッドタウンであるだけでなく、産業地区にもなっている。ベッドタウン地区内での産業振興は伸びているものの、居住地域内で就業できる人間はまだまだ少数派だ。
自分が居住している市とは異なる市へ毎日仕事や学校あるいは教習等の活動のために往復しているひとびとはコミュータと呼ばれる。人口1千20万人のジャカルタにボデタベッからやってくるコミュータは138万人にのぼる。中央統計庁によれば、ブカシ市からのコミュータが最大シェアの359,531人、次いでデポッ市284,093人、南タングラン市210,875人となっており、その三市で6割を超えている。
一方ジャカルタ首都特別区は5市から成っており、こちらにも居住する市内で就業できないひとが少なくない。ジャカルタの他市や周辺を取巻いているボデタベッ地区に就業や学校などの諸活動をするために通っている都内5市住民コミュータ人口は105万人いて、それらの総数を合算するとジャボデタベッのコミュータ人口は243万人に達する。その厖大な数のコミュータが向かう地域は、南ジャカルタ市がトップで29%、二位中央ジャカルタ市27%、三位は大きい落差で東ジャカルタ市の17%といったところ。
かれらコミュータの移動手段は71%が自家用車を使って出かけ、帰りは69%が自家用車で戻る。自家用車の56%は二輪車で、44%が四輪車であるとのこと。
こうしてジャカルタ都内のほとんどの道路は自動車で埋め尽くされるようになる。都庁が交通行政にあの手この手を打っているにもかかわらず、道路渋滞はひどくなる一方だと大勢の都民が感じている。
エンジン潤滑油メーカーのカストロール社がアジア・オーストラリア・ヨーロッパ・南北アメリカの世界主要78都市で行なったサーベイ結果から、ジャカルタの交通渋滞が最悪であるという結論が導かれた。題してカストロールマグナテック「ストップ=スタートインデックス」というこの統計では、トムトムGPSの測定と特別のアルゴリズムを用いて算出された一台の自動車が年間に何回ストップ=スタートを行なったかという頻度が比較されている。ジャカルタは33,240回でナンバーワンとなり、二位イスタンブールの32,520回、三位メキシコシティ30,840回、四位スラバヤ29,880回、五位セントペテルスブルグ29,040回、というのが世界の五傑だった。
しかし自動車の発進〜停止頻度が交通渋滞状況をどれだけ反映しているかということになると、「?」を感じるのはわたしだけではないだろう。路上で自動車を運転する際の倫理エチケットや文化内にある社会習慣もそこに影響しているため、それを指標にするには無理があるとわたしには思える。
たとえば、インドネシアには路上交通原則の中に鼻先の法則というものがあり、他車に自分の車の鼻先を抑えられたら停止しなければならない。
無理やり他車に割り込まれても、ぶつけた方が悪いという社会通念になっているため、損害の弁償が嫌なら自分がブレーキを踏まなければならない。この原理は同じように他車との競り合いの場でも機能し、他車にブレーキを踏ませることの是非が日本の場合とはまるで違っているという現象になって現われている。自分にとっての走りやすさ、あるいは快適な運転のために他車の走行を妨害し、他車がブレーキを踏まなければならないようにすることにインドネシアの運転者はやましさを感じないという風土が出来上がっているのである。更には、他車の前に出て自分の走りやすさを確保しようとする精神構造が一般的なため、前の車と車間距離をあければ右から左から別の車が割り込んでくる。すると、ブレーキを踏まないと割込み車に追突するから自ずとペダル操作が頻発することになる。それが嫌なら、前の車との距離をあまり開けないようにして走らなければならない。その結果、先行車が止まるたびに、自分も必ず止まるということが起きる。先行車が止まる理由はもちろん、渋滞一辺倒ではない。
カストロールマグナテック統計調査によれば、自動車が路上で停止しているアイドリングタイムの長さでジャカルタは一位の座を得られなかった。全路上走行時間の36.1%が停止時間だったバンコック、31.6%のモスクワ、28.62%のニューヨーク、28.58%のロンドンに次いで、ジャカルタは27.2%でしかなかった。
ともあれ、現実にジャカルタもスラバヤも、路上の渋滞がますます激しくなっているのは疑いようのない事実である。その対策としてジャカルタ都知事は、MRT鉄道建設やトランスジャカルタバスの高架化といった案を打ち出している。ところが、その建設工事のために道路スペースが減らされ、交通渋滞は悪化せざるを得ない。それでも、完成して大量公共輸送機関が稼動するまでの我慢であり、それらが利用されはじめればきっと路上の交通渋滞は軽減されるにちがいないという期待が一般的ではあるものの、インドネシア文化の中にある原理的な価値観を軽く見てはいけないと批判する声もある。
つまり、四輪車を持つことはインドネシア人にとってステータスシンボルであるということだ。所得が増えてミドルクラスにランクアップした家庭がまず購入したいもののリスト中に四輪車がある。購入した四輪車はもちろん路上で使うことが期待されている。決してガレージに置いて隣近所に見せびらかすためではない。四輪車がステータスシンボルであるのは、ルバラン帰省時にジャカルタにあるレンタカーショップのほとんどが在庫切れを起こすことがそれを証明しているではないか。
アーバナイゼーションの一員となった者が四輪車に乗り、成功者として故郷に帰ってくるという図式がそこで演じられているのである。四輪車の社会的な意味合いがそこからも浮かび上がってくるにちがいない。
大量公共輸送機関が稼動を開始したとき、四輪車をガレージの肥やしにして悔いないインドネシア人がどれほど出現するかがジャカルタの路上交通渋滞への変化の鍵となるにちがいない。二輪車は都内の主要エリアから排除されることが決まっているため、大量公共輸送機関の乗客は確保できるだろうが、四輪車の動向はまだ予断を許さないものがあるようだ。


「絶版音楽媒体発掘はここで」(2015年2月26・27日)
カセットテープやレコード盤をいまだに探しているコレクターがいる。海賊版でないなら、一枚のレコード盤に百万ルピア以上つぎこんでも悔いないのがかれらだ。コレクションが増える愉しみ、そして発掘する愉しみ、そんな愉しみをを求めて首都圏のコレクターはブロッケムスクエア(Blok M Squarepa)のグランドフロアを訪れる。
ブロッケム商業コンプレックスにはいくつかの商業ビルがあり、南から行けばムラワイプラザ(Melawai Plaza)、東側のパサラヤグランデ(Pasaraya Grande)、そしてシシガマガラジャ(Sisingamangaraja)通りをはさんで西向かいにブロッケムプラザ(Blok M Plaza)がある。ブロッケムスクエアはそういう商業センター群のど真ん中に位置している。そこはもともと周辺住民にとって生活必需品をまかなう市場だった場所で、かつてはパサルムラワイがそこにあった。
パサルムラワイが全焼してその跡地にブロッケムスクエアが建てられてから、そのグランドフロアは雑誌や書籍の古本市として知られていた。商人の中に古物の音楽媒体を混ぜて商売拡張を図る者や、別の場所にある公園で開かれていた古物市が強制移転させられ、そんな場所から移ってきた商人がやはり古物音楽媒体を扱ったことなどの経緯があって、グランドフロアに新たな古物音楽媒体市場が形成されていった。それが始まったのは2009年で、その情報は口コミでコレクターの間に広まり、いまではジャカルタのひとつのメッカになっている。そこをよく訪れるコレクターのひとりは、スラバヤ通りや他の廃品古物市ではエアコンの効いた快適な環境の中で品物の発掘などできないから、自ずと長時間じっくりかかって行くことができない、と環境の歴然たる差を強調する。
そこにある一軒のミュージックショップで、アディ氏32歳はカセットテープの棚を前にして没頭中。クスプルス、パンベルス、ドゥオクリボ、ニッキーアストリア、イワンファルス、ニクアルディラ、デワ19、ジクスティッ・・・
その日、かれはカヒッナのカセットを探しにきたのだ。コレクションの中で欠けているものがある。それが気になって仕方ない。かれのコレクションは、カセットテープが既に1千本、CDが5百枚。海賊版はひとつもない、とかれは胸を張る。
昔は古物を探すのに、南ジャカルタのタマンプリン公園にできた古物市をよく訪れたが、2012年に公園から強制移転させられ、一部がブロッケムスクエアに流れてきた。それを追ってかれはここの常連になったわけだが、おかげでコレクション探しはとても楽になった、と言う。ブロッケムという商業コンプレックスの中だから、駐車スペースは十分にあり、バスターミナルが隣接しているし、公共運送機関もこのエリアに集まってくるから、交通の便は申し分ない。そしてエアコンの効いた商業ビルの中でミュージックショップに入ってゆったりと欲しいものを探す。「実に快適だよ。狭い古物市で、人ごみの中を押し合い、暑さにうだるようなことはもうしなくてよくなった。」
レコード棚に取り付いていたアンバリ氏45歳は、ひと月に2〜3回ブロッケムスクエアを訪れる、と言う。ビートルズ、レッドツェッペリン、メタリカ・・・往年のヒット盤が並ぶ。「店主は実に知識豊富だ。知らなかった情報がどんどん吸収できる。ここに来て店主としゃべっているだけでも楽しくてしかたない。商品を探して、見つからなかったからすぐに帰ろうという気にはならないよ。」
店主のリドワン氏は、レコード盤はアメリカから仕入れているものもある、と言う。店内には、ジャズ・ロック・クラシック・ポップスなどさまざまなジャンルのカセットとレコードが置かれている。1950年代から90年代にかけてのオリジナル版が揃っている。CDはインディ系の国内ミュージックグループのものを厳選して置いてある。価格はひとつ5万から100万ルピア台までさまざま。
「CDが普及してから、昔からの音楽ファンはレコード盤を捨てた。時代がもう変わったと思ったんだろう。20年前にはレコード盤コレクションが続々と古物屋に売られた。一枚2百ルピアだったよ。そんな品物の中から、今や一枚数百万ルピアで売れるものが出てきた。」
デジタル録音されたCDよりもレコード盤のほうが音質がよいという声が愛好家の中から出現している。別の売店オーナーはレコード盤の品揃えを増やし、レコード盤愛好家向けの店に特化している。「CDやインターネットからのダウンロードでは、ファイルが圧縮されるせいか、音質がカセットやレコードより劣る。」
実際にアルバムを昔ながらのレコード盤で発売し、CDは出さないというミュージシャンも現われ始めているそうだ。かれの売場にはターンテーブルが置かれ、客の試聴に応じる態勢が整えられているし、客の求めに応じてターンテーブルの販売もする。。陳列されているおよそ百枚のレコード盤は、アメリカから取り寄せたものが混じっている。
ブロッケムスクエアの音楽ショップはみんな固定客がついているとかれは話す。価格は店が独自に評価して値付けするから、まったく同じものが別の店に並べられても、価格は異なるのが普通だ。であれば、A店で20万ルピアの値付けがなされているものを、B店で15万ルピアで買うこともできる。しかし、固定客はそんなことをしないそうだ。ひいきの店で欲しい品物が見つかれば、他の店に値段を調べに行くようなことはせず、いくらであろうとその店で買う。
ブロッケムスクエアのグランドフロアには、書店・衣料品店・絵画店に混じって15の音楽ショップがある。骨董品レコードを見つけたいひとには、お誂え向きのスポットだろう。


「ソロ市は子供に優しい町」(2015年3月6日)
世界には5,260万人の家事労働者がいて、そのうちの1,120万人は18歳未満と報告されている。家事労働を命じられた子供は教育の機会を奪われ、発育と健康が不十分になり、遊ぶ時間・休息の時間・余暇などの権利が失われる。家事労働者そのものが、長い労働時間・低賃金・定期休日なし・休息時間欠如などの不利な条件下にあるケースが多く、その当事者が子供ということになれば悪条件はさらにひどいものになり勝ちだ。
インドネシアでは、2009年にILOと中央統計庁が行なったサーベイおよび2012年の中央統計庁サーベイデータから、5〜14歳の子供家事労働者は23.7万人いて、15〜17歳は11万人いると推測されている。家事労働者の増加の大きい部分を子供が占めているのだ。
ILOインドネシア事務所法務担当者は、子供の家事労働全廃を目標に掲げて啓蒙告知活動を行なっていることを表明した。「特にアジア地域では家事労働者が他の労働者のような法的保護を十分に受けていない、中でも子供の家事労働者をその環境から脱け出させるための活動に、われわれは力を注いでいる。」
インドネシアの児童保護について、インドネシアは25年前に児童保護条約を批准してから法規の整備は顕著に進んだが、社会の実態はいまだに理想から遠いところにある、と国連ジャカルタ事務所駐在専門家が指摘した。
世の中では、特に親や教師が、子供に規律を教え込むためには体罰が有効な手段のひとつだという思考パターンをいまだに持ち続けている。インドネシアの子供の7割は、いじめ・言葉の暴力・心理的暴力などを実生活あるいはバーチャル世界の中で目にしている。ところが子供たちはそれをどこに、あるいはだれに伝えたらよいのかわからない。更にユニセフは、インドネシアの子供で暴力を振るわれている者は、女子が三人にひとり、男子は四人にひとりの割合であると報告している。
日常生活の中で子供により人間的な環境を与えるために政府は「子供に優しい町」作りプログラムを進めている。現在全国で196の県市がそのプログラムに取り組んでいるところだ。スラカルタの町はそのプログラムを先行して行なっていた。15年前から開始されたそのプログラムで、スラカルタは既に先輩格の座を占めている。街づくりのさまざまな点に子供に優しいという視点を取り入れているスラカルタは、全国諸都市の数歩先を歩んでいるようだ。


「国軍の自己顕示は不要」(2015年3月12日)
2014年11月25日付けコンパス紙への投書"Belajar kepada AS dan Eropa untuk Atasi Konflik TNI-Polri"から
拝啓、編集部殿。リアウ島嶼州で起こった国軍要員と国警要員の個人的な衝突は、呼びかけや、ましてや免職のようなことだけで解決されうるものではありません。その両機関の間には、ポジションが異なることに由来する熾き火が燃え続けているのです。
かつて国軍は重視され、さまざまなファシリティを与えられました。このレフォルマシ期は反対に、警察が市民社会で重要な役割を演じなければならないことから、警察により大きいファシリティが与えられているでしょう。
あのようなコンフリクトに解決をもたらすために、欧米諸国のような先進民主主義国家のやり方をわれわれは取り入れなければなりません。ワシントンやロンドンの市中のどこへ行こうが、制服姿の軍人を目にすることはめったにありません。ましてや軍隊が市中で行動したり隊列を組むようなことも。
軍隊はいつでも国防のために立ち上がるべく戦闘能力を磨くための訓練を行なう広い場所を必要としており、インドネシアのいくつかの都市では広い土地と司令部が市内に置かれています。多分昔は、その場所が市外あるいは町との境界線上にあったのでしょうが、町がどんどん広がっている現在、国軍は市内のど真ん中に鎮座している姿になっています。ジャカルタやバンドンを見れば、市中に陸軍・陸軍戦略コマンド・海軍・空軍などの施設が周囲を睥睨していることがわかるはずです。[ 西ジャカルタ市在住、ウセップ・ファトゥディン ]


「人気高いパサル周辺は常に大混雑」(2015年3月25日)
2014年11月3日付けコンパス紙への投書"Kemacetan Lalu Lintas akibat Pasar Batu Mulia"から
拝啓、編集部殿。東ジャカルタ市ジャティヌガラ地区で最大の貴石マーケットGEM Mesterを訪れる貴石ハンターが最近顕著に増加しています。その結果、同地区のラワブニン通りは端から端まで大交通渋滞に見舞われています。二輪にせよ四輪にせよ、自動車でそこへやってきたひとびとのほとんどが層をなして路肩に駐車するのです。そして都バスが好き勝手にそのエリアで乗客を乗り降りさせているため、渋滞はますますひどいものになっています。
路肩駐車には罰則が与えられる規則があるにもかかわらず、当局者がそこの秩序を監視し、整理している雰囲気はありません。他の場所では、違反車両のタイヤの空気を抜き、レッカー車で運び去られた上に罰金100万ルピアが科されているというのに、このエリアはどうしてそういう措置から免れているのでしょうか?
ジャティヌガラ地区ラワブニン通りの路肩に層をなして行なわれている駐車が公的なものであり、その料金収入が都庁の収入になっているのかどうか、よくわかりません。明白なのは、そこにいる駐車番がブルーの制服を着用し、駐車係の徽章をつけていることです。[ 東ジャカルタ市在住、ニック・フェルナンドス ]


「アトリウムスネンに自動車部品デパート」(2015年5月21・22日)
インドネシアでは、自動車のスペアパーツを一般市民が手にする機会が多い。ベンケル(bengkel mobil)と呼ばれる巷の修理工房は一般に技術と労力を売るのが普通になっており、パーツ交換が必要になればかれらがパーツ販売店に走って必要なパーツを買ってくるわけで、そんなことを無料で行なってくれるわけがなく、自動車オーナーが自分で販売店から買う場合よりも部品代が高くなるのは明らかだ。つまり、すべてを修理屋まかせにするのと、素材を自分で購入してそれを作業させるのとでは、トータルコストが大きく違ってくるという特徴が、インドネシアでは多種多様な場面で出現する。
家屋の修理ひとつとっても、同じことが言える。家屋を自分で建てる場合でも、多くの庶民は建築職人を雇って一日いくらで働かせ、素材は自分で建材屋へ注文するというパターンが多い。電気配線から水まわりまで、ありとあらゆることがそういうスタイルで行なわれるから、インドネシアで生活するためには、そういうコツを呑み込まなければならない。たとえばインドネシアで、建物の電気工事に関する技術資格は設けられていないため、素人が電気配線工事を行なっても問題にはならない。法的に規制されているのは、電気工事の結果を国が資格認定した者が検査しテストしなければならないということだけであり、一般の民家でそのようなことはほとんどなされていないのが実態だ。
自動車は定期的にメンテナンスを必要としている。メンテナンスのために自動車をベンケルに持ち込むと、昔は何をしてほしいのか尋ねられるのが普通だった。つまり開業医を訪れた体調不良の病人よろしく、自分の車の悪いところを説明し、全快させてくれと頼むわけだ。オイル交換やエンジンチューンナップなどは目安があるから依頼するのは楽だが、他の問題ともなると構造の知識などない素人にはたいしたことが言えなくなる。そしてメカニックが車を調べ、何々の部品を買って来い、と言われて、近在の部品販売店に走ることになる。
そういうやり方をせず、車を持ち込んだら「夕方取に来るから、あとはよろしく」と依頼しておけば、ベンケルが一切合財をやってくれて、夕方には交換された部品代金がマークアップされて請求書の中に記載されているという仕組みだ。
しかし昨今では、自動車メーカーの指導よろしきを得て、メーカーの公認するベンケルともなれば自動車オーナーはただ車を持ち込むだけでメーカーが標準とするメンテナンス作業を行なってくれるところが増加した。スペアパーツはベンケル自身が在庫を持ち、適切な価格で客に請求している。とはいえ、巷にはそうでないベンケルのほうが多分より多いにちがいない。だからサービス性を期待する客はメーカー公認ベンケルで高いサービス料金を払い、コストを廉く抑えたい客は非メーカー系ベンケルを利用するという、二種類のオプションがインドネシアでは可能なのである。
後者の場合、必然的に自分で部品販売店を訪れなければならないのだが、小数の純正部品と大量のもどき商品を売っている部品販売店はたいてい巷のショッピングコンプレックスにあり、暑く、排気ガス臭く、騒音かまびすしい。一般庶民はそういう艱難辛苦を乗り越えて、汗をかきながらルピアの価値を実感しているわけだ。
ところが、都内中央ジャカルタ市スネン地区には、冷房完備で静かな自動車部品販売センターがある。パサルスネンと道路を隔てた三角地区にあるプラザアトリウムスネンの5階が、快適な自動車部品ショッピングセンターとして人気を集めている。その昔、パサルスネンの一部が自動車部品ショッピングセンターになっていたが、1996年11月23日の大火災で売場を失ったおよそ百人の店主たちがプラザアトリウムに引っ越した。そこでは、インドネシアで需要がある、ありとあらゆる自動車メーカーの車種の部品の9割が手に入る、と店主たちは言う。売場に大きく掲示されている車種名のおかげで、客は自分の車に必要な部品をすぐに探すことができる。店の中には、客が購入した部品を自動車に取り付けてくれるサービスもしている。「たとえば、ハンドル交換などは、車をここまで持ってきているなら、うちの者がすぐに行ないますよ。」アネカジャヤモトルの店主はそう語っている。
このアトリウムビル屋上はアトリウムサービスポイントという自動車改装ベンケルになっており、5階で買った部品を取り付けて改装することもできる。探照灯・ウインチ・回転灯・サイレンなど、よりどりみどりの品々も自由自在。中国製ウインチを販売している店は、自社で直接輸入しているそうだ。同じ品物はそこで買うのが全国一に廉い。なぜなら、他の店はそこから卸しを受けているのだから。自動車部品やアクセサリー、その他自動車に関わるありとあらゆる品物をそこで見つけ出すこともできる。ボディに貼るステッカー、キーホルダー、首枕、ハンドルカバー、シートカバー、ダッシュボードの装飾品、GPS、盗難防止アラーム・・・・
部品価格も、メーカー直営ベンケルとは大違いだ。品物によっては半額で入手することができる。たまたま居合わせた客のひとりは、雨よけサイドバイザーを買ったそうだ。「ディーラーで買うと140万ルピアもするけど、さっきここで55万ルピアで買ったよ。」
別の来店客によれば「巷の部品屋でも同じ物が売られているが、ここで買うことのメリットははるかに多くの選択肢があることだ」とのこと。選択肢は品質から価格にまで及ぶ。まったく同じ商品が店によって違う価格になっており、また同じ部品でもメーカー別のバリエーションがある。純正品もあれば、コンパティブル商品もある。そういったものが同じフロアーに大量に存在しているのだから、比較するのも容易だ。おまけに、昔からのタワルムナワルの習慣までもが維持継続されている。営業時間は月曜〜土曜が10時〜18時で、日曜日に開店する売場は数少ない。
自動車部品のデパートを抱えているとはいえ、プラザアトリウムスネンは通常のショッピングモールだ。他のフロアでは自動車とは無関係のさまざまな商品が販売され、レストランやカフェがあり、子供がゲームを楽しむ場所さえある。自動車部品を購入したいひとでも、ついでにショッピングを愉しめる。
公共交通機関でプラザアトリウムスネンに行く場合、トランスジャカルタバスもしくはジャボデタベッコミューター電車が利用できる。トランスジャカルタなら第2ルート(プロガドン〜ハルモニー)あるいは第5ルート(カンプンムラユ〜アンチョル)に乗り、セントラルスネン、スネン、あるいはアトリウム停留所で下車。電車を利用する場合は、ボゴール・デポッ〜ジャティヌガラ線に乗り、パサルスネン駅で下車。ただし、パサルスネン鉄道駅からプラザアトリウムまでは距離が遠い。


「世界最愛の都市バリッパパン」(2015年6月3日)
ワールドワイルドファンドグローバルが行なったWe Love Cities と題するインターネット人気投票で、東カリマンタン州バリッパパン(Balikpapan)市が世界ナンバー1の地位を獲得した。世界の花形都市フランスのパリは7千票ほどで第二位、バリッパパンは1万1千票を集めて断トツのトップ賞を得た。
バリッパパン市は2014年にも第三回アセアン環境持続都市賞を獲得している。そのときノミネートされたマラッカ、ユエ、プノンペン、ヤンゴン、サンカルロス、バンダルスリブガワンなど15都市をおさえての優勝だった。
韓国のソウルで2015年4月9日に開催された「ローカル環境イニシアティブ国際カウンシル」の大会で世界最愛都市2015年版の表彰式が行なわれ、出席したバリッパパン市長に賞賛の焦点があてられたが、帰国した市長は12日に「この表彰はバリッパパン市が世界最高に完成された都市であるということを意味しているのではない」と市民と市職員に対して慢心を戒めるスピーチを行なった。
「今現在バリッパパン市は安全快適で楽しい場所だが、商工業の発展を追及する時代の流れの中で自然環境をどう維持していくかという難題に直面している。道路交通渋滞も日常生活の中に侵入しはじめている。バリッパパン市が得た栄誉は、われわれが既に最高で完璧な状態に達したということを意味しているのではない。とはいえ、それは少なくとも、われわれは正しいレールの上を歩んでいるということを示すものではある。」
今回の受賞で、世界的に知名度の低かったバリッパパンという都市がインドネシアという国の一側面を世界に認識してもらう媒体となることができたのを喜んでいると市長は表明している。
一部市民や自然環境オブザーバーの中にはバリッパパン市について、環境クオリティは低下を続けており、今回の受賞は過去の遺産としての安全快適さのおかげではないか、と厳しい見解を述べる者もある。上水や電力需要も今後の市民生活に負担をもたらすものになりかねない。市民のひとりは、産業化が自然破壊をもたらしている、と言う。「自動車専用道建設がマンガル川保護林を切り拓いて設けられ、海岸を7.5キロに渡って埋立てる新道路建設プロジェクトも進められている。工場によるバリッパパン湾の水質汚染が発生し、マングローブ林が消滅しかかっている。」
中には、インターネット人気投票が示す結果は虚像でしかなく、実態を反映していないのが普通だ、とコメントする観察者もいた。「投票者の多くは、バリッパパンの日常生活がどのようなもので、生活の中でどんなことが起こっているのかを知悉していないのが普通だろうと思う。昨年アセアン諸都市を対象にして行なわれたものとは内容が違うことを、われわれは認識するべきだ。」
言うまでもなく、We Love Cities キャンペーンは特定の都市を「好きか嫌いか?」という見地からネティズンの声を集めただけのものであり、その受賞と他の専門家による審査を経た都市の優劣番付とはまるで内容の異なるものであることは理解されなければならないにちがいない。


「世界一のモール都市ジャカルタ」(2015年7月1〜3日)
インドネシアの大都市、特にジャカルタのモールについてよく語られるのは、ファミリーモールのスタイルを持たせて幼児から老人までが楽しめるスペースをそこに作り出し、ファミリー全員が個々に持っている種々の需要を満たせる施設を取り揃えてあるという特徴だ。これは往年の日本の百貨店コンセプトに通じるものであるようにわたしには思える。つまり家族連れでの外出が社会全般の常識になっていることに対応しているのだろう。さらに、家族メンバーそれぞれの外出先が世の中に限られているという要素がもうひとつ加わり、おのずと家族連れでモールへという流れが作り出される傾向を育んだ。
かつてある時期、ジャカルタには子供が屋外で集まって安全に遊べる場所が消滅し、さらに事故のリスクや誘拐あるいは性暴行のリスクが高まったことからミドル層以上の家庭は子供を屋外に出したがらなくなり、必然的に子供の息抜きやストレス発散のために遊び場を与えるという目的をモールに求める方向性が生じたことも、いまジャカルタにある多数のモールに形態的な基本コンセプトを培養する要素となった。現在のようにモールが雨後のたけのこのように林立する前、ジャカルタではトレードセンター(TC:卸売りセンター)が黄金時代を迎えていた。住民の在来パサル在来商店離れがそこに生じ、TCは集客のためにファミリーコンセプトを取り入れようとするところも出現したが徹底せず、そのうちに増加してきたモールがファミリーコンセプトへの適応に傾き、子供遊び場問題が社会化する中で消費者の流れがTCからモールに向きを変えたというのがジャカルタの商業センターの歴史であるようにわたしには思える。
そしてインドネシア人の国民性であるショッパホリックファクターが「モールを建てれば人が集まる」という現象をもたらし、不動産業界と商業界がジャカルタをモール都市にしてしまった。2014年時点でジャカルタには173のモールがあり、期せずしてインドネシア人の大好きな世界一が実現している。
整然として明るく、警備員が随所にいて安全感もたっぷりあり、現代文明に即した最新鋭ライフスタイルにビル全体が包まれているモールを訪れるのは、それとかけ離れた生活環境に生活している人間にとって実に楽しいことであるにちがいない。たとえブティックで高級ブランド品の買物など一切しなくても、ウインドウショッピングで世に名高い○○ブランドの商品を現実に目にすることでハイソサエティの生き方をなぞってみるのは、人生の幅を広げることにつながっていく。モールの広いホールで行なわれている催し物を見物し、フードコートに入って手ごろな価格で飲食するだけで、一家全員にとって充実した一日を存分に楽しめるのである。ジャカルタ都民の大部分にとって、モールの存在価値は大きいものがあると言えよう。
モールを楽しんでいる都民は87%おり、モールに足を踏み入れたことのないひとは13%だ、ということをコンパス紙R&Dが報告した。2015年5月18〜19日に17歳以上の都民484人から集めた統計では、都民の87%がひと月に一度はモールを訪れており、二週間に一回以上モールへ行っているひとは53.3%に達した。その中には、毎週末家族連れでモールに向かう家庭も少なくないにちがいない。
モールを楽しむ都民がその選択の根拠に挙げたのはやはり、モールに行けばありとあらゆるものが揃っており、一ヶ所ですべての用が足せるという上記の特徴で、39.9%のひとがジャカルタ式モールの基本コンセプトを支持している。他の理由としては、「きれいで秩序整然・涼しくて快適」というのが22.9%、「モールに行けば退屈しない」というのが22.3%あった。
インドネシアの一般庶民が持つ楽しみの中にパサルマラム(pasar malam =夜市)というものがある。ジャワ島内であちこちの田舎町を夜訪れると、たいていの町ではほとんど毎夜、町中の広場に市が立ち、夜の7時〜8時ごろからたくさんの住民が集まってきて活況を呈している。さまざまな商品が販売され、子供相手の遊戯もあり、オジサンたちが若い娘の姿を眺める場を、そして何より、若い男女が出会う場を作り出している。インドネシア人は都市生活者であろうと村落部住民であろうと、パサルマラムが大好きだ。人間が大勢集まっている場に生じるエネルギーがどうやらかれらを魅了するのにちがいない。だから日本の祭りや世界各地のカーニヴァルにかれらを連れていくと、間違いなく大喜びしてくれる。モールを楽しむ都民の中に、そのパサルマラムをモールの中に見出しているひとたちがいる。モールへ買物に行くのでなく、ジャランジャランするのが目的で、いろんな商品を見たり、大勢の来店客の姿を眺めたり、そして手軽に飲食し、退屈しない時間を大いに愉しんでから帰宅する。ジャカルタには慰安や行楽を提供する場所があまりにも少なく、その代替機能をモールが担っているのだ、という分析を多くの都民が語っている。
しかしモール自体はショッピングセンターなのである。いくら飲食店や映画館あるいはゲームセンターなどが揃っていても、マスで測ればブティックや商店が圧倒的に多い。いくらウインドウショッピング派やジャランジャラン派の来店客が多いとはいえ、商品販売も十分に成り立っているにちがいない。ほとんどすべてのモールにはハイパーマーケットがアンカーテナントとして入っており、客はたいていそのハイパーマーケットに入る。ブティックで固めたモールというのは、ハイエンド消費者層を狙ったところだけだ。コンパス紙が調査した都民の商品別買物場所は次のようになっている。
<1.衣料品・靴・バッグ・腕時計やアクセサリー>
モール/ハイパーマーケット 63.8%
専門店 11.2%
在来パサル 17.1%
インターネット 4.8%
その他 3.1%
<2.コンピュータ・タブレット・携帯電話機>
モール/ハイパーマーケット 52.1%
専門店 36.4%
在来パサル 2.7%
インターネット 2.7%
その他 6.1%
<3.家電品>
モール/ハイパーマーケット 41.7%
専門店 44.4%
在来パサル 5.4%
インターネット 1.7%
その他 6.8%
<4.家具>
モール/ハイパーマーケット 16.1%
専門店 71.1%
在来パサル 4.8%
インターネット 0.8%
その他 7.2%
モールでのショッピング派はその日、どのくらいお金を持って行くのだろうか?上記1.のファッション商品の買物の場合、マジョリティは一回の訪問で50〜100万ルピアを消費している。もちろん、毎回訪問するたびにファッション商品を買うというようなひとは稀であり、「今回ファッション商品は買わない」というひとの出費がゼロであるのは言うまでもない。ガワイ(gawai)というインドネシア語で定着した上記2.のガジェット商品の場合、100〜500万ルピアがご予算のようだ。
しかし都民の多くは、食材等の生活基幹物資や日常生活用品の多くを在来パサルや居住地近辺にあるミニマーケットや在来商店で購入しており、商品面で在来パサルとの住み分けがなされているように見える。更に都内には、タナアバンやマンガドゥア、あるいはグロドッなどといった古くからある有名な商業エリアが今でも活発な集客力を誇示しており、都民は実に潤沢な買物場所の中で適宜選択を行なっていることが浮き彫りにされている。消費経済が国家経済を動かしている国の実態が、そんなミクロの姿の中に見えてくる。しかし生産面が弱く、未加工資源を切り売りして得た金で消費に狂奔しているインドネシア経済の本質部分を批判する声も強い。国民生活の末端で消費経済を煽り続ける構造は、是正されなければならないというのが、モール界の興隆に向けられている批判の主旨だ。
モールに対する都民の見解は「いいことずくめ」ではないのである。モールなどのショッピングセンターを訪れる客が乗ってくる自動車がモール周辺に渋滞を生み出してジャカルタの交通状況を悪化させていることを5人中ふたりの都民が指摘している。そしてモールは国民の消費意欲を煽るための戦術戦略に精を出し、更に商業界における競争の中で大資本のモールが圧倒的に多数の国民が関わっている在来パサルや在来商店のビジネスを狭めている事態も無視できない問題になっている。
「ジャカルタにこれ以上モールを作る必要はない」という都民の9割を占める声が、都庁のモール建設モラトリアム方針を支えている。


「ジャカルタ住人の誇り」(2015年7月23日)
ムディッによって首都ジャカルタの人口が大幅に減少する季節。帰省逆流の波が本格的にジャカルタに押寄せてくるまでの束の間の日々を、ジャカルタ居残り組みはどのように楽しんでいるのだろうか?
コンパス紙R&Dがジャカルタの最新電話帳からランダム抽出した17歳以上の回答者に対して2015年5月18〜19日に行なった調査の結果、484人の回答者から次のような統計数値を得た。いま回答者がそのとき答えた通りのことをしているかどうかはわからないが・・・・。すべての回答項目で「不明・無回答」は省略されています。
質問(1)あなたは都内がガラ空きの状況と、普段の大混雑の状況のどちらを好みますか?
回答(1)ガラ空きを好む 69%、普段のジャカルタのほうが好き 28%
質問(2)ルバラン休暇時のガラ空きのジャカルタで、何が一番楽しい(うれしい)ですか?
回答(2)交通渋滞から免れる 61.6%、スピーディに移動できる 33.3%、行楽地やショッピングセンターが混雑していない 2.7%、公共交通機関がガラ空き 0.6%
質問(3)ルバラン帰省しない場合、あなたはルバラン休暇をどのように過ごしますか?
回答(3)親戚・ファミリーを訪問する 43.0%、行楽地へ出かける 25.0%、自宅で過ごす 15.5%、ショッピングセンター・モールへ行く 15.0%
実はこの調査のとき、別の質問も同じ484人に投げかけられて、回答が集められた。ジャカルタに住んで首都の住人になっている自分を、あなたは誇りに思っているか、というのがこちらの調査のテーマだ。
質問(1)都民であることに誇りを抱いていますか?
回答(1)はい 89.3%、いいえ 9.1%
質問(2)ジャカルタの何が好きですか?
回答(2)
生活面でさまざまなものごとが容易に手に入る 41.1%
慰安娯楽施設が豊富 22.1%
交通機関が便利 11.8%
職探し・金稼ぎが容易 11.8%
あらゆる食べ物が揃っている 4.3%
就学が容易 2.3%
その他 4.5%
質問(3)ジャカルタの何が嫌いですか?
回答(3)
交通渋滞 74.2%
治安が悪い・犯罪多発 6.4%
人口稠密 5.6%
水害 4.1%
その他 9.3%
どの民族でも、首都の住人というのは経済面と文化面の権威を身にまとうものであり、そこに誇りが出現する一方、地方部の住人の精神にはその反動として憧れが出現する。ジャカルタでは、十人中9人が最先端文明の光を浴びて生きているという誇りを抱いているようだ。あらゆるものが容易に手に入るのは、単なる経済問題のみならず、文化文明に拠りどころを持つライフスタイルに関わっている。物質主義的な視点から見るなら、あらゆるものということの間口がジャカルタは欧米先進国の大都会と肩を並べるほどの広さを持っているようにわたしには見える。ひょっとしたら、それ以上であるかもしれない。喧伝されているように、消費志向の民族性が究極ポイントにまで進んで行けば、物資に対する需要のバリエーションも大きく膨れ上がることになる。このポイントを捉えるかぎりジャカルタというのは、金さえあれば、たいへん住みやすい場所だろう。しかし、犯罪やサービス(行政・民間)の悪さといった人間に関わる負の要素がそれを引きずりおろそうとして、そこに均衡をもたらすことになる。畢竟、この地球上にあるのはすべてゼロサムだということかもしれない。


「ジャカルタが最も民主的」(2015年8月20日)
中央統計庁が2009年から行っている全国各州のデモクラシー度比較で、2014年のナンバーワンはジャカルタ首都特別区が獲得した。ジャカルタのデモクラシー度評価は2011年以来低下の一途をたどっていたが、今回の評価で大きい反転上昇が実現したようだ。
このインドネシアデモクラシーインデックス(IDI)評価は毎年大きい揺れが起こるのが普通で、2013年にナンバーワンの地位を得た東ヌサトゥンガラ州は2014年に25位に落ちている。
デモクラシー度評価は、マスメディア報道・自治体法規・グループディスカッション・情報ソースへのインタビューを集めて行なわれるもので、市民自由度・政治上の権利・デモクラシー機関の三カテゴリーで構成され、全部で28のインディケータを評価して100ポイントスケールの中に位置付ける方式で行なわれている。評点が60未満はデモクラシー度が劣悪、60〜80ポイントは中庸、80ポイントを超えていれば優秀と認識される。
2014年のIDI評価得点は、まず全国レベルで73.04ポイントとなり、2013年の63.72から顕著に上昇した。これは2009年以来の最高得点。ジャカルタの評点は過去5年間71〜78の間を動いていたが、今年は84.70ポイントを得て首位に就いた。ちなみにジャカルタの2013年は全国第5位だった。
今回のジャカルタのデモクラシー度評価は、まず住民の暴力行為が減少したことが大きく貢献している。更に、ジェンダー差別を示す政府の方針や表明が減少し、このインデックスは昨年の75ポイントから100ポイントへと満点を獲得した。評価パネラーによれば、2014年の都行政内からジェンダー差別要素が消え失せているとのこと。社会サービスへの住民参加も増加し、住民の権利要求も権利意識が育っていることを示している。
しかしもちろん、よいことずくめではない。総選挙立候補者の政党幹部化や都議会の都条例制定活動におけるイニシアティブ欠如や都行政への提言不足といったデモクラシー機関カテゴリーでのポイントダウンも起こっている。そして、デモが最終的に暴力化するという十年一日のパターンにもいまだ変化が起こっておらず、ジャカルタのデモクラシー度向上の足を引っ張っている。


「白昼堂々の道端闇ドル商人」(2015年9月7〜9日)
中央ジャカルタ市クウィタン通り(Jl. Kwitang)は、パサルスネンの五叉路から南西に下ってチリウン川の橋に至るまでの道路だ。そこを更に進むと、モナス広場を東南に下った農夫の像の三角地帯に出る。クウィタン通りと平行して逆方向に進む通りはプラパタン通り(Jl. Prapatan)で、名称が異なる。その両通りの間は幅広い緑地帯になっており、Taman Gunung Agung という名が付けられている。この緑地はどうやら都庁のものでなく、グヌンアグン書店のものらしい。グヌンアグン書店はチリウン川の橋の東南角にそびえている。この場所にはかつてのニャイダシマ殺害事件の犯人バン・ポアサが住んでいた家があったそうだ。
グヌンアグン書店は1953年にチオ・ウィータイ氏が設立したインドネシア共和国最初の書籍文房具店網で、クウィタン通りに本社を置き、現在までそれは維持されている。チオ・ウィータイ氏は最初、この事業の屋号をどうしようかと考えた。そして最終的にひらめいたのが、自分の名前をインドネシア語に変えて使うというアイデアだ。かれの名前はインドネシア語にするとgunung besar となる。だからそこをひとひねりしてもっと詩的なイメージを加え、gunung agung とした。 島のグヌンアグンとは関係がない。
チオ・ウィータイ氏は1963年にマスアグン(Masagung)と改名し、スカルノの出版物を一手に扱って事業と地位を拡大させて行った。その波に乗って東京に支店を設けているが、いつ撤退したのだろうか?
マスアグン氏は書籍文具店ビジネスだけでなく、関連分野への多角化も鋭意行なった。サリナデパートとの提携、免税店、外貨両替、ホテル、輸入会社、観光産業、さらに万年筆・タバコ・雑誌・コンピュータ機器などの欧米ブランド代理店等々。グヌンアグン書店のおかげで、クウィタン通り北詰めからパサルスネン一帯にかけて古本屋街が誕生し、書店へ行けば高額な書籍を廉価に求めたい読書愛好家のメッカになっている。この古本屋街では、どの店に入ろうとも店番に買いたい書籍のタイトルを言えば、店番は自店他店おかまいなしにその書籍を探し出して持ってきてくれるという便利な特色を持っている。
もうひとつこのクウィタン通りに見られる特徴がある。それもグヌンアグン書店のおかげと言えるにちがいない。マスアグン氏は外貨両替ビジネスを興して、PT Ayu Masagung の看板をクウィタン通りに掲げた。公認外貨両替商がまだ数少なかった時代、ジャカルタで外貨両替センターはこのクウィタン通りとパサルバルであり、その後マネーチェンジャーがちらほらと各地に店開きするようになってはじめて、利用者が最寄の場所へ分散するようになっていった。それまでは、首都圏で外貨に用のある人間はすべからく、クウィタン通りとパサルバルに集まってきていた。そういうイメージがいまだに残っているため、クウィタン通りの道端に「外貨両替致します」の立て看が並んでいる。
「JUAL BELI DOLLAR $ LAMA-BARU ROBEK KOIN」と看板に書かれているが、米ドルしか扱わないわけでは決してない。シンガポールドルやマレーシアリンギッなどインドネシアで需要の高い通貨も取扱っている。
インドネシアでたいていの銀行は、発行された時期の古い百米ドル紙幣を取扱ってくれない。それは通し番号頭のアルファベットで見分ける。「今はアルファベットの○○から後のものはOKです。」というような会話が、百米ドル紙幣売買の場で交わされているのだ。だから古い紙幣を持ってインドネシアに(戻って)来たひとびとにとって、それはルピアにならないただの紙切れでしかなく、それを買い取ってくれるというクウィタン道端両替商人は神様仏様ということになる。
しかし百米ドル紙幣に関して、茨の道はもっとある。折り目・汚れ・破損・書き込みなどがまったくない、新札そのものという状態ではじめて満額のレートが適用される。問題のある紙幣の場合、まったく扱ってもらえないか、あるいは扱ってもらえたとしてもレートが割引される。そしてコインも銀行やマネーチェンジャーでは扱ってもらえない。クウィタン道端両替商人は、そういった茨の道をすべて無視しましょうと言っているのである。もちろんレートは別問題。
昨今の急坂を滑り落ちるようなルピアレートの低下をとどめようとして、政府中銀はいくつかの対策を打ち出してはいるものの、国家社会国民社会という想像の中のコミュニティよりも、顔見知りやファミリーという現実のコミュニティをはるかに重視している社会感覚のために、多くのひとびとは自分の利益をはかって米ドルを買いあさり、米ドルがもっともっと高くなって為替差益を自分にもたらすことを期待している。赤の他人を救ってやることよりも、自分が得をすることのほうが先決だという感覚は庶民の間で根強い。銀行やマネーチェンジャーを訪れてみても、かなり大量の米ドル紙幣を買っていくひとの多くが投機目的ではないかと思われる雰囲気を発散している。
クウィタン通りの道端に視点を戻そう。「米ドル売買します」の立て看の脇にいる男が、駐車スペースを探してゆっくりと接近してきた車に呼びかける。「さあ、ドルはこっちだよ。いくらでも買うよ」。右手は招き猫をし、左手は立て看を指差す。残念ながら、外貨の用ではなかったようだ。運転者は車から降りると、男を無視してどこかへ行ってしまった。しばらくして、また徐行車が近付いてきた。運転者は車から降りると、男に近寄ってくる。「米ドルかね?見せてくれ」運転者が持ってきた米ドル紙幣は折れ目がある使い古しの色褪せたものだ。運転者は1万4千ルピアのレートで買えと言うが、道端の闇ドル商人は首を縦に振らない。「こんな札は両替店でただの紙切れだよ。うちじゃあ半値で引き取ってあげる。」しばらく交渉が続き、そして物別れ。運転者は紙幣を手にして去って行った。
近くで様子を見ていた記者がインタビューを試みる。ジャファルと名乗った道端闇ドル商人は、クウィタン通りでアユマスアグン店近くの道路沿いにいる十数人のひとり。
「ドルを売ろうというひとはまだあまり来ないね。まだまだ「売り」より「買い」の気が強い。一日のオレの収入は5万から15万ルピアってところだな。オレたちゃボスの手足でしかないんだから。もっと稼がなきゃいけないから、友達を誘って交替で店番してる。店番しない時間はここから離れてオートバイオジェッをしてるよ。」
2000年以来その店番を働いているそうだが、両替商だというのに、ルピアであれ外貨であれ、ジャファル氏の身の回りに札束っ気はまったくない。なぜなら、交渉が成立すればかれはボスのところへ赴くだけなのだから。ボスはくすんで汚い米ドル札であっても、それを自分のものにしてルピアを払う。「ボスがそれをどうするのか知らないね。ボスはよく外国へ行くから、多分向こうできれいなものと交換してるんじゃないかな。向こうでは、新品だろうが古かろうが値打ちは同じだ。ボスは米ドルだけじゃなくて、ユーロも中国元もリアルも扱ってる。えっ、そのボスは何者かだって?そんなことをぺらぺらしゃべるわけがないだろう?こりゃあ、ブラックマーケットなんだから・・・」
ボスは絶対に直接客に会わない。ボスは家の中にいて、店番が商売の成果を持ってくるのを静かに待っている。道端にいる店番と客の間で商談が成立すれば、合意した金額を店番が取りに行って戻ってくるまでのおよそ15分間、客は看板のそばで待たされる。その間に客が気を変えてどこかに行かないよう、店番は保証金として10万ルピアを預かる。
1998年のルピア大暴落で1米ドル1万7千ルピア台まで落ちたとき、激しい米ドル紙幣売却の嵐がクウィタン通りにも吹き荒れた。クウィタン通りからパサルスネンまで、数十人の道端闇商人がその嵐に身を張った。今、1万4千ルピア台に乗ったというのに、ドル売りの嵐はそよとも感じられない。別の店番も言う。「米ドルがもっと上がることをみんな期待してるんだよ。1万7千まで行くんじゃないかって。あのときは店番でさえ儲かったね。あのときボスをやってりゃ大儲けだった。だから自分で資金を集めてボスをやってみたけど、タイミングが悪かった。結局店番に戻ったよ。」
政府がルピアレートの暴落を必死になって食い止めようとあれこれ政策を展開しているというのに、それとは趣の異なる雰囲気がクウィタン通りには濃厚に漂っている。
ところで、このクウィタンという名称は、読者もご想像の通り中国語だ。余談になるが、その語源を探ったところ、17世紀にバタヴィアに移り住んだ中国人クウィー・タンキアム(Kwee Tang Kiam)、別説ではクイッ・タンキアム (Kwik Tang Kiam)なる人物に行き当たった。もうひとつ別の説があり、広東(北京語読みはGuangdong だが、福建読みではGuidang =クイタン)に由来しているという説明もある。
クウィー・タンキアムは拳道(クンタオ)の使い手で、負けることを知らなかったという。同時に薬師としての知識と技もなみ優れており、その両道で商売繁盛して一大成功者になった。かれは自分が住んだ地域の大地主となり、その土地に住む民衆に拳道を教えたから、クイタン地区に住む者たちはたいていが優れた術の使い手だという常識がバタヴィア域内に広まった。ニャイダシマ殺害者バン・ポアサをその流れから見ることもできる。タンキアムの拳道は肉体的強靭さに技とスピードを混ぜ合わせたもので、当時ブタウィで成育していたプンチャッシラッ(pencak silat)よりも身体運動としての合理性が高いものだったようだ。クウィタンのひとびとはシラッブタウィにその合理性を加味していったことで新たな一派が生まれ、プンチャッシラッの雄がその後輩出することになる。もちろんタンキアムは功成り名遂げたあと、プリブミの使い手と勝負して負けたことが記録に残されているが、その後も弟子たちはこの師匠の下に集まってきたそうだ。
しかし、時代の流れとともにクイタン地区に別の色合いが付加されていった。一大成功者が築いた身代を息子が食いつぶしていくというバタヴィアにありふれた一族盛衰物語がタンキアムの家にも起こった。息子が賭博に狂い、父親が残した土地を一片また一片とアラブ系住民に売り払っていったのだ。こうしてアラブ系コミュニティがクウィタン地区で勢力を増し、イスラムの宗教色濃い側面を見せるようになる。今度は「クウィタンのひとびとはイスラム信仰心が強い」という別の常識がバタヴィア内に流れるようになった。
独立後建てられたクウィタンモスクは周辺地域から見上げられる宗教性の高いモスクとされ、優れたイスラム者が今度は輩出されるようになった。今でもクウィタンの住宅地内を歩けば、華人の子孫やアラブ系子孫の姿を目にすることがある。


「ジャカルタの貧困層が減少」(2016年3月3・4日)
首都ジャカルタの貧困層は次のように変遷してきた。
2011年9月 35.5万人 人口比3.6%
2012年9月 36.6万人 人口比3.7%
2013年9月 37.2万人 人口比3.7%
2014年9月 41.3万人 人口比4.1%
2015年9月 36.9万人 人口比3.6%
またジニ係数も次のように推移している。
2011年0.44 (全国0.41)
2012年0.42 (全国0.41)
2013年0.43 (全国0.41)
2014年0.45 (全国0.43)
2015年0.43 (全国0.41)
貧困層は貧困ライン下の人口であり、2015年9月の貧困ラインは一人当たり月間収入が503,038ルピアだった。2014年9月の459,560ルピアから9.5%上昇している。
貧困ライン金額の詳細を2015年3月のデータから見ると、食糧カテゴリー中で最大のアイテムは米で23.7%を占め、非食糧カテゴリーでの最大は住居費で42.2%を占めた。
貧困者人口は減少傾向を見せてはいるが、都内の貧困地区はむしろ増加しているように見える。南ジャカルタ市は上流層居住地区とよく言われているにもかかわらず、チリウン川やプサングラハン川の川床や岸を見渡せば、スラム地区が目に入る。ベニアやトタン板で作られた住居が密集し、生活環境は劣悪で、特にマンディ・洗濯・排泄のための衛生はほぼ皆無に近い。
川沿いのスラムは、西ジャカルタ市でも見られる。グロゴルプタンブラン郡トマン町RW013は同市で最貧スラムに区分されている地区だ。西バンジルカナルの川床に作られたこの地区は、運河の堤防の下にある。住居として作られた建築物が密集し、通路は1メートルほどの狭い路地。建築物のほとんどが二階建てで、上層階は非恒久的な素材が用いられている。
北ジャカルタ市では、チリンチン地区西スンプルのカンプンカンダンが典型的な最貧地区だ。その住民で50歳代の夫婦は、そこに住んでもう19年になる。屋内の床は土間で、3x7メートルのその住居に夫婦と三人の子供が暮らしている。夫は、そこから近いヌサンタラ保税工業団地の工場廃品を集める屑拾いをしており、妻は家で縫い物の注文を受けている。一日の収入は3〜5万ルピアで、5万ルピアが手に入るのは身を粉にしてくたくたに疲れたときしかないそうだ。その収入は一日の食事と子供の小遣い、そして家賃支払いのための貯金に消えてしまう。
カンプンカンダンの隣組長のひとりは、地区の青少年で学校を卒業した者はほとんどいない、と語る。義務教育とは言いながらさまざまな徴収金が学校ごとに徴収されているインドネシアでは、その支払い能力がなければ学校側が生徒に厳しい措置を採るのが一般的だ。国立小学校でもそれは変わらない。義務教育の義務とは国民が学校へ通う義務であり、義務の果たせない国民は落ちこぼれになって当然というのがインドネシアの義務教育の定義なのかもしれない。
親の経済力がそれを満たせなければ、学校をやめるのが親孝行だと考える子供も出るだろう。侮蔑やイジメの標的にされるのを避けたい子供も出るだろう。そして、子供に一人前の体力がつくようになれば、肉体労働させて金を稼がせることのほうが、能力も興味も関心もない学問をさせることよりも、ましてやそんなことのためになけなしの金をつぎ込むよりも、はるかに現実的で重要なことだと考える親のほうが圧倒的に多い。
「貧困だとは言っても、ここの住民は毎日食えている。ただし、4割くらいは貯金に収入を回す余裕などないようで、稼いだ金は食費と家賃で全部なくなる。昨今は工場が人減らししたり閉めたりしているから、職のない者が増える一方だけどね。」そうRT氏は語っている。 カンプンカンダンに住む70歳と65歳の夫婦は、ゴレガン(揚げ物)の作り売りをして一日2万5千ルピア前後の収入を得ている。夫婦は5x3メートルの住居に住み、家で食事を作ることもほとんどない。
このカンプンカンダンはブカシ市のビジネス商業地区から5百メートルほどしか離れていない。高層オフィスビルが手の届きそうな近くに立ち並び、繁華なモールの賑わいが都会のざわめきに乗って伝わってくる。
貧困地区は、ジャカルタに集まっているわけではない。ボデタベッの各地に散在している。2014年の統計では、ブカシ市の貧困層人口は14万人で、住民の5.3%を占めた。ボゴール市では、西ボゴール地区にムリヤハルジャやパシルジャヤといった貧困地区がある。パシルジャヤの貧困層は9百世帯。デポッ市でも全住民の2.3%にのぼる4万7千人が貧困層を形成している。


「永遠の秘境」(2016年4月22日)
物資輸送の複雑さとインフラ建設の不均一性が、へき地での物価に奇妙な現象をもたらしている。パプア、マルク、スラウェシ、東西ヌサトゥンガラなどの諸地方でガソリンを買おうとすると、目の玉の飛び出しそうな金額を言われるのが普通だ。パプア州ビンタン山系のオクシビルでプレミウムガソリンを買おうとしたとき、リッター7万ルピアが相場であることを知って吃驚した、とある記者は書いている。2013年のことで、そのときジャワ島内ではプレミウムがリッター4千5百ルピアで販売されていた。
その地方で、西部インドネシア地方で見かけるガソリンスタンドを道路脇に見出そうとしても不可能だ。ガソリン販売者は道路脇に置いたドラム缶から給油する。ガソリンの入ったドラム缶はジャヤプラからこの山岳地帯に空輸されてくる。ジャヤプラからオクシビルに到達できる道路など存在しない。空の道が唯一の交通路だ。プルタミナのタンク車が行き交っている西部インドネシア地方の姿はそこにない。国内先進地域からもたらされる商品のすべてが、異常な価格で販売されるのも無理はないのだ。こういう場所で文明生活を営もうとすると厖大な金が必要になる。辺地なのに州別最低賃金がむやみに高いのは、その地方の生産性がもたらしているのでなく、生活コストの異常さがもたらしているのである。
2013年オクシビルの物価について、記者はもう少し情報を与えてくれる。セメント1袋120万ルピア、1.5リッター入りプラボトル詰め飲用水1瓶5万ルピア、揚げ物用パーム油ばら売りがリッターあたり3万ルピア、粉砂糖キログラム当たり4万5千ルピア。
これでは、その地域に昔から住んでいる地元民が文明化できる手がかりなど皆無にひとしい。地元産業が先進地域の経済と結びつくことによって、通貨経済が進展するが、いまのところ地元民は物々交換市で生活必需品を手に入れ、栽培と採集活動で日々の生活を営んでいる。このままでは、永遠の秘境は文字通り「永遠」であり続けるにちがいない。


「ジャカルタの人気博物館」(2016年7月28日)
あまたあるジャカルタの博物館のうちで、もっとも人気の高いのはどこだろうか?きっと、訪問者数が一番多いところが、トップ人気だと言えるにちがいない。
都庁が公表した2015年博物館入場者数番付で第一位に輝いたのは、やはりあのモナスだった。モナス公園の中央にある独立記念塔内には「国民の歴史博物館」があり、壮大な記念塔と広壮な大公園、そして塔内最上階から首都ジャカルタの景観を見渡せるといった数種の楽しみを満たしてくれる場所であり、その強みに匹敵できる場所はほかにないようだ。
2015年博物館別入場者数比較は次のようになっている。数字は人数。
このデータはインドネシア国民の入場者数。外国人の興味はまた異なっており、外国人入場者数番付は末部に記載した。
1.モナス 1,519,400
2.ジャカルタ歴史博物館 526,841
3.ワヤン博物館 439,818
4.国立博物館 234,505
5.造形陶器博物館 166,739
6.繊維博物館 58,340
7.オンルスト島考古学パーク 31,784
8.海洋博物館 22,799
いくつかの例外を除いて、それらの博物館へトランスジャカルタバスで行く方法が:
これがインドネシア>行楽・旅行>ジャカルタバスウエーで行く博物館
に紹介されていますので、ご参照ください。
さて、2015年にジャカルタを訪れた外国人旅行者がもっともたくさん訪れた博物館はどこだっただろうか?インドネシア文化を象徴する芸術のひとつ、ワヤンの博物館がトップ人気だった。
1.ワヤン博物館 40,017
2.国立博物館 31,859
3.モナス 19,795
4.ジャカルタ歴史博物館 8,305
5.海洋博物館 6,162
6.造形陶器博物館 4,091


「ロンボッ島の新商品」(2016年10月21日)
観光セクターが顕著な発展を示している西ヌサトゥンガラ州ロンボッ島でも、昔ながらの農村経済は苦しい状況が続いている。そんな中で、東ロンボッ県テララ村ムニェル集落から新商品が打ち出されてきた。ユニークな食品に全国からいま、関心が集まっている。
ロンボック島では、観光地の繁栄をよそに、農村部は貧窮が常態になっている。収穫期が過ぎ去れば仕事はほとんどなくなり、ひとびとは収入を得るために出稼ぎを余儀なくされる。西ヌサトゥンガラ州都であるマタラム市から東におよそ30km離れたテララ村は住民3千5百世帯人口8,974人で、年間百人近い住民がサウジアラビア・シンガポール・マレーシア・台湾などへ海外出稼ぎに出ている。
そんな暮らしに陥る者を減らそうとして、ムニェル集落ではアヒルを飼育して塩漬け卵を生産することを始めた。発起人は地元マドラサの非常任教員で、2009年に125羽のアヒルを購入してトライアルを開始した。アヒルを選んだのは、育てやすいことと餌が地元の環境内で容易に得られるのが理由だ。いま、この事業組合には1千羽のアヒルが飼育され、毎日塩漬け卵が生産されている。
telur asinと呼ばれるアヒルの塩漬け卵は、全国どこででも作られており、何ら珍しいものではない。ではいったい何がユニークなのか?この集落が商品化したのは、できあがった塩漬け卵を焼いたものなのだ。つまり焼き塩漬け卵telur asin bakarなのである。
焼き塩漬け卵は集落民女性10人男性5人が手ずから作り上げている。産み落とされたアヒルの卵は粘土と砥ぎ灰をこねあわせたもので包み、10〜15日間発酵させる。それから土を落として茹で、干して乾燥させたものを炉の中に入れて4時間焼く。燃料はヤシの実の殻だ。
こうしてサウォの実のような褐色の殻を持つ焼き塩漬け卵が出来上がる。塩気が強く、卵の黄身は赤さが増し、咬んでも水分がない。焼くことで、水気とともにコレステロールも低下することが明らかになっている。ひと月間も日持ちがし、ご飯のおかずに最適で、またおやつにもなる。
一日の生産量は3百個だが、最大1千5百個まで増やすことも可能だそうだ。東ロンボッ県と中部ロンボッ県にあるミニマーケット25店で、この焼き塩漬け卵は一個4千ルピアで販売されている。また、デンパサル、スラバヤ、リアウ、バリッパパンにはこの商品の愛好者がいて、ソーシャルメディアを通して一回40〜80個の注文を送って来るそうだ。
この事業が当たっていることから、焼き塩漬け卵の材料としてアヒルの未加工卵を供給する村も増加中で、現在東ロンボッ県で5カ村、中部ロンボッ県で2カ村がアヒル卵生産事業を進めている。


「ロンボッ島マタラムで市バス運行」(2016年12月08日)
中央政府は2016年から2018年までの3年間に、地方都市の公共運送充実と道路混雑改善を目的にして、1,050台のバスを地方政府に寄贈する計画を立てている。今回そのうちの25台を西ヌサトゥンガラ州政府とロンボッ島のマタラム市に割当てた。
州庁とマタラム市は市内および市郊外の公共運送機関が通っていない地区を重点的に結ぶ四つのルートを設けて2016年11月21日から運行を開始した。ルートは市内中心部と市の辺縁部にあたる北バイパス・南バイパスをカバーした上、スンギギ地区まで乗り入れる計画になっている。
しかしこのバスラピッドトランジット事業はマタラム市民の交通の便と公共運送機関利用を高めることを目的にするものであり、住民の通勤通学のための利用を主眼に置くものであって、観光客に便宜をはかるためのものではない。その方針に従って、政府や民間のオフィス地区、産業地区、商業地区、学校、住宅地区などを通過することがルート設定のメインに置かれ、運行時間も午前6時〜8時、と13時〜15時という通学時間帯や通勤時間帯に重点が置かれている。
バスは乗客収容人数70人で、身障者や妊婦用の座席も用意され、完全空調でたいへん乗り心地が良いため、自家用車族はどしどしバス通勤通学に替わるよう期待しているとマタラム市交通局長は希望を述べている。
料金は乗車時に均一4千ルピアを支払うようになっており、距離制は採られていない。市庁はひとりあたりの運送コストを12,500ルピアと想定しており、差額は補助金で埋める計画になっている。学校生徒は無料にしたい意向だが、この問題は運行実績を積みながら実態を把握した上で決定されることになりそう。
ただし、市内の運行は小型乗合バス(アンコッ)とバッティングする部分があり、新たな問題の火種になることも懸念されている。