「スラバヤ・スー」


ジャカルタで独立宣言がなされたというニュースが1945年8月17日に全国に広がり、インドネシア人は至る所で希望に満ちた前途に目を輝かせたが、そのときスラバヤの病院でクトゥッ・タントリはまだ生死の境をさまよっていた。
必要な治療が行われてから、スラバヤの南方にある山岳地帯の別荘に移されて、タントリは療養の毎日を送ることになった。インドネシア人医師と看護婦がほとんど付きっきりで世話し、栄養価の高い食材で作った食事が供され、かの女は少しずつ体力を回復していった。
その間、かの女の意識はもうろうとしており、ぼんやりした頭で考えることは懐かしいバリでの思い出がほとんどを占めていたようだ。そして二週間余が知らぬ間に経過し、カレンダーはもう9月に変っていた。

身体はまだやせ細った状態であるとはいえ、体力がついてくると同時に意識も鮮明さを取り戻していった。医師が頻繁にやってきてベッドの縁に腰かけ、タントリにさまざまな話をするようになる。
独立宣言の話をタントリはその医師から聞いたし、医師が新聞を持ってきてタントリに記事を読んでくれることも再三だった。更にはラジオを持ってきてタントリの枕元に置いてくれた。戦争が終わったあと世の中がどうなっているのかについて、かの女は徐々に知識を増やしていった。

クトゥッ・タントリの人物像については、{これがインドネシア>バリ特集>バリ島のミュリエル}をご参照ください。これは「バリ島のミュリエル」の続編です。

タントリはその医師とそれまで面識がなかったため、自分がどうしてそれほどまで大切に扱われ、自分の治療と療養に努めてくれるのか、不思議でしかたなかった。ある日、かの女は思い切ってその疑問を口に出した。すると医師は、あなたのことを見知らぬ他人とは思っていないと言う。
「わたしはあなたについての話をたくさん知っているし、あなたの人間像もわたしの頭の中にはっきりと姿を形作っている。あと数日後に、それについて話してあげよう。あなたの健康を回復させることは、わたしにとって、とても意味のあることなんだ。」

ラジオはNICAがバリ島に入ったニュースを告げている。バリのひとびとはオランダ人による再支配を拒否して、ゲリラ戦を開始した。アナアグン・ヌラはきっとその戦いの渦中にいるにちがいない。タントリの胸の底から懐かしがこみあげてきた。


ある朝、医師がにこにこした顔でタントリの部屋に入って来ると、「ちょっと化粧したらどうかな?来客だよ。」と言う。
「わたしがここにいることは誰も知らないんでしょう?客って、だれかしら。」
「ここでは情報はすぐに広まる。あなたの友人たちはあなたがここにいることをもうみんな知っているし、健康状態が回復に向かっていることさえ知っている。」

しばらくしてドアがノックされ、医師はドアに向かって声をかけた。「どうぞ、入り給え。」
医師の声に導かれて、四人のインドネシア人青年が入って来た。

カーキの半ズボンとシャツを着た四人の青年たちをうつろな目で見ていたタントリは中のひとりがピトであることに突然気付いた。ピトは中尉の階級章を付けている。ピトは大尉・中尉・少尉の同僚三人をタントリに紹介した。
新生インドネシア共和国人民保安軍の将校たちがこんなに若い青年であることを知って、タントリの相好が崩れた。二十代の大佐がいれば、三十代の将軍もいるのだ。青年たちの振る舞いはまるで大人のようであり、きびきびした動きは信頼を誘った。

ブントモ指揮下の戦闘部隊に所属して、諜報の任務についている、とピトは自分の状況をタントリに語った。かれらはマラン郊外の山中に設けた司令部にブントモと暮らしている、と言う。かれらがタントリに会いに来たのは、医師がブントモにタントリのことを話したからだそうだ。
「ドクトル、あなたはどうしてゲリラ部隊の本部を知っているのですか?」
タントリの質問に答えたのはピトだった。「ドクトルはブントモの友人なんだから、知っていて当然なんですよ。それどころか、ドクトルは独立運動活動家として有名なひとなんだから。」

こうして、その医師がどうしてタントリを親身になって介護していたのかが明らかになった。アナアグン・ヌラも、フリスコ・フリップも、中国人教授も、みんなこの医師とつながりを持っていたということだったのだ。
昔話や最近の情勢についての話しに花が咲いているとき、ピトが突然まじめな顔で姿勢をあらため、タントリに本題を切り出した。

それはタントリに選択を求める内容だった。もしタントリがアメリカに帰ることを望んでいるのなら、かれらはタントリの身柄をジャカルタのアメリカ領事館に送り届けるが、もしインドネシアにとどまりたいのなら、インドネシアの独立を維持するために一緒に働いてもらえないだろうか、というのがその選択肢だ。
ジャカルタは既に大部分がNICAの手中に落ちており、ピトたちがジャカルタに潜入するのは命がけのことになる。そこまで自分の事を考えてくれるインドネシアの青年たちに、タントリの心は疼いた。医療レベルの高いアメリカに帰って養生したいという誘惑が浮かび上がってきたものの、タントリはその誘惑をきっぱりと断ち切った。かれらがわたしを助けるのでなく、わたしにしかできないことでかれらを助けるのが、きっとわたしに与えられた運命であるにちがいない。

タントリは青年たちにそのことを明瞭に伝えた。NICAが支配の復活を目指し、イギリス軍がAFNEI軍としてインドネシアに乗り込んでくる。NICAとイギリス軍が共同戦線を張るのは目に見えており、独立インドネシアは危急存亡の時に直面している。その結果、自分がどんな苦難や悲惨を蒙ろうとも、インドネシアを見守り続けることが自分の生きる道なのだ。わたしはインドネシアから去ることがどうしてもできない。
タントリの決意に青年たちは感激し、ピトは涙を流した。青年たちの様子を見守りながら、医師は椅子に座って悠然とパイプをくゆらせているばかり。


数日後にタントリが医師に尋ねた。「もしあのときわたしがアメリカに帰りたいと言い出したら、こんなに親身にわたしを介護してくれたドクトルの気持ちはどうなっていたかしら?」
「あなたがそんなことを言う可能性など、わたしは針の先ほども考えていなかった。あなたを知っているインドネシアの友人は全員がそう思っていただろう。インドネシアがあなたの力を必要としているとき、あなたは決してわれわれを置いて去ったりしないだろうということを。あなたはそんなことができない人なのだ。わたしはあなたについての完璧な情報を持っている。あなたがインドネシアにはじめてやってきてから今日に至るまでの記録を。」


< ムルデカ アタウ マティ >
独立を維持するための活動に参加することになったタントリに医師は、まず紅白の腕章を用意させよう、と言った。Merdeka atau Matiの文言が入ったものだ。「この闘争に参加している活動家はみんなそれを着けている。あなたもそれを常に着用しなければならない。身分証明書のようなものだ。東ジャワであちこちに移動できる白人は、もうすぐあなただけになるだろう。あなたの生命をこの腕章がきっと守ってくれる。」
タントリは相変わらず、芝居じみたことを笑い飛ばす性向の人間だった。「そんなフレーズなしでも、紅白の腕章だけで十分じゃないかしら?」

しかしタントリの身柄を確実に保護するために、その文言はなければならない、と医師は主張した。
「われわれが行う革命の合言葉がそれなのだ。それがあれば地元民は親しみを感じる。あなたがオランダ女性だと思われたら、不慮の事態が起こらないとも限らない。ほとんどのオランダ女性はジャカルタに移っており、本国に戻る機会を待っている。混血者も両方の血を対等に見るのでなく、インドネシアの血は忘れ去って、オランダの血が自分であるという姿勢に戻っている。だから共和国の支配下にある地域にいるオランダ人やオランダ混血者は、捕らえられて虜囚にされる計画が進行中だ。その目的はかれらの身柄を保護することにある。一般民衆がオランダ人を襲撃する可能性は高いし、更にNICAとイギリス軍がやってきて武力を使うようなことになれば、白人の安全はもう保証できなくなってしまう。白人を見て、それがオランダ人かオランダ人でないのかという区別ができる者は民衆の中にほとんどいないのだから。
そんなことになれば、東ジャワにいる白人の身の安全はもはや保証しえないものになる。」
「白人に生れてしまったわたしはどうなるのですか?」
「力の及ぶ限り、われわれはあなたを保護する。しかしあなた自身も用心の上に用心を重ねなければならない。あなたが東ジャワの民衆にその存在を知られるようになるまで、決してリスクを犯してはならない。同じように、決してオランダ人やその手先のインドネシア人の手中に落ちてもいけない。まだあまり深く知り合っていないインドネシア人を信頼するようなことも、避けるべきだ。対オランダ協力者になっているインドネシア人は至る所にいるのだから。」


ホテルオラニエに一週間宿泊して情報を集める任務を医師はタントリに依頼した。大勢のオランダ人が日本軍の抑留所から解放されて、スラバヤの街中に戻ってきている。ホテルオラニエはそんなオランダ人でいっぱいになっており、その中にはNICAの職員や軍人がたくさん混じっている。かれらの間で流れている情報を収集するのはきわめて重要であり、それはもちろんインドネシア人には不可能なことであるにちがいない。
「その中にアメリカの新聞記者が何人かいるのではないかとわれわれは推測している。インドネシア独立に対するアメリカ人の反応にわれわれはたいへん興味がある。またジャワ島内の他地方がどうなっているのかもわれわれの知りたいことだ。あなたにはオランダ人以外の宿泊客と世間話をしながら情報を集めてもらいたい。オランダ人にそういうことがらに関連する質問は絶対しないように。またあなたの身分も隠し通さなければならない。抑留所から解放されたばかりの人間として振舞うのだ。われわれはあなたにスパイの仕事を頼んでいるのではない。あなたが最新情勢を吸収して来ることが第一なのだから。そして、もしあなたがわれわれに会うべき緊急の用事ができたなら、あなたは何も面倒なことをしなくともよい。あなたは急に病気になり、ホテルに医者を呼んでもらうのだ。あなたを診察に行く医者がわたしなのだから。」


ホテルオラニエに移る前日、ピトが山の別荘に会いに来た。最新状況を調べるためにピトはバリ島に潜入すると言う。
はじめてピトがバリ島の岸辺に立った時、「ここにはレアッがいっぱいいる。ぼくはここで殺されてしまう・・・。」と泣き叫んだ思い出がまるで夢のようだ。あのとき子供だったピトは、今では立派な青年に成長している。

ふたりは懐かしい思い出を語り合い、夜が更けるのを忘れた。ふたりは、翌朝別々の方角に旅立った。タントリはスラバヤへ向かい、ピトはバニュワギを目指す。別れる前に、ピトはお守りのことを尋ねた。ピトからもらったお守りは、タントリが憲兵に捕らえられて獄舎に入れられたとき、囚人服に着替える際に取り上げられてしまった。ヌラからプレゼントされた黄金のチェーンに古代の銅貨が付けられたものそのとき取り上げられ、それ以来行方知れずになっている。
するとピトは「あなたのためにこれを持って来ました。」と言って、一枚の小さい布切れにジャワ文字と絵が描かれたものをタントリに渡した。これは他のものよりはるかに強い霊力を持っていて、それをいつも肌身に着けておけば、どんな災厄に襲われてもきっと最終的にそれを潜り抜けることができるのだ、とピトは説明した。タントリはそれをありがたくもらい受けた。


< ホテルオラニエで諜報活動 >
ホテルオラニエはオランダ時代から日本軍政期はじめごろまで見せていたあの華麗な雰囲気が影を潜め、薄汚れて暗い建物に変身していた。緑と花に彩られたロビーに置かれていた快適な椅子とテーブルは姿を消し、食堂の客に音楽を供する楽団が居並んでいたステージもみじめそうな素裸のまま。豪華なテーブルクロスや高価な食器類は安手の布と日本製陶器に変っていた。ホテルで働くインドネシア人はつぎはぎだらけのサルンを履き、客への愛想笑いさえ惜しむかのように、全員が渋面を見せていた。

タントリはロビーに座ってホテル客の様子をうかがうことにした。オランダ人はたいてい、時間もわきまえずに飲み続けている。NICAの行政が再開されたなら、「あんなことをする」「こんなことをする」といった大口の叩き合いだ。日本軍に無条件降伏し、逃げ遅れて何年も抑留所生活を余儀なくされたというのに、もう植民地支配者の心理に逆戻りしている。

ホテル生活三日目に、オランダ人の若い士官がタントリに声をかけてきた。「一緒に飲もう」と誘い、身の上話を語り合う。タントリがアメリカ国籍のイギリス人だと自己紹介すると、その青年は旧友にでも会ったかのように喜んだ。
「プリブミが独立を宣言したことをあなたはどう思いますか?向こう見ずにもほどがある。」と怒気を交えて言う。
「わたし、ジャワのことはあまり知らないの。それよりも、戦争なんかもううんざりなのよ。見たくもないわ。」
「もう数日たてば、あなたの気苦労は終わりますよ。あなたのお仲間のイギリス人がもうすぐスラバヤに上陸してきます。」
「イギリス軍はまだ港にいるんでしょう?」
「そう、かれらはオランダ軍が到着するのを待ってるんです。三日後にはプリブミたちもきっと腰を抜かすでしょうよ。あなたもそのありさまを目にすることになります。」
「そりゃ、すごいわ。でも、プリブミたちがびっくりするようなこととなると、きっとものすごいことなんでしょう?」
「ええ、この作戦計画は大層なものですよ。イギリス軍は隊列を組んで港からスラバヤの街中に進軍します。ジュンバタンメラまで入って来ると東と西に二手に分かれ、プリブミ軍が最前線を敷いているところまで前進していくんです。
プリブミたちは前進も後退もならずに、降伏するほかないというわけです。」
その青年は紙に図を描きながら作戦計画を説明した。タントリはその紙を見つめながら、「素晴らしく巧みな作戦ですこと。」と褒める。頭の中にその図を焼き付けているのだ。
「うまくいけばいいですわね。」
「そりゃ絶対に。」
タントリはその青年が酔っぱらって紙を置き去りにすることを願ったが、まだそこまで酔ってはいなかったようだ。青年はタントリの顔をのぞきこんでから、その紙をまたポケットにしまった。
「イギリス軍のそんな計画がどうしてあなたにわかるんですか?」
青年はいきなり胸を張り、顎を上げて、語気を強めた。
「われわれの間にその役を果たす人間がいる。それどころか、スラバヤにいる全オランダ士官はイギリス軍が行動を開始すれば、それに呼号する手筈が調えられている。何が起こるか、われわれにはもう判っているのだ。」


その夜、タントリは病気になった。ルームボーイに医者を呼んでくれと頼むと、ドクトルSが医者の黒カバンを持ってタントリの部屋を訪れた。
オランダ士官から聞いた話を、紙に図を描きながら医師に報告する。報告を聞いた医師は「わたしが戻って来るまで、あなたは病気のままでいなさい。」と言ってホテルを去った。その情報を組織に伝えるのだ。

翌朝、医師はホテルに戻って来ると、早くホテルを出て民家に移るようタントリに命じた。医師が紹介した知り合いの民家はジュンバタンメラのすぐ近くだ。その夜、共和国側はホテルオラニエをスウィ―ピングし、すべてのオランダ人を捕らえる計画を立てた。タントリはその前にホテルを出ていなければならない。オランダ人は武器を持っており、事態がどのような展開を見せるかわからない。ホテル周辺で戦闘が起こることも予想される。

タントリが宿を借りた民家の主は、その夜ホテルオラニエのファサードからロビーにかけての一帯で激しい銃撃戦が行われたことをタントリに告げた。最終的に共和国側が現場を制圧したが、宿泊客はほとんどがホテルから逃げ出して知り合いの民家などにかくまわれたため、オランダ人を捕らえるという目的は失敗した。オランダ人と思われた白人がひとり捕まったが、アメリカ人であることを証明する書類が偽造でないことが判明したため、解放された。銃撃戦がはじまると、路上にいたインドネシア人は争って家の中に入り、路上には人っ子一人いなくなった。ホテルオラニエの表は銃弾で激しく破壊され、以前の様子は見る影もなくなっている。
そんな話を聴いたタントリは、三日間その家で医師から連絡が来るのを待っていたが、何の音沙汰もない。電話は不通になっている。そして砲撃音が街中に響くようになってきたため、ついに待ちきれなくなって、かの女は街中へ忍び出た。
その民家の主は止めた。「今外へ出るのはたいへん危険だ。インドネシア人スナイパーがあちこちに隠れていて、白人を狙撃している。もう少し待てば、必ずドクトルから連絡が来るから。」
ホテルオラニエに行けば、何か情報が得られるかもしれない。そう考えて、タントリは人気のない裏通りをホテルに向かって歩き出した。紅白の腕章を着けることを忘れずに。

路上に人影はなかったが、民家の表のベランダにはその家の住人と思われるひとびとが三々五々座って外の様子を眺めている。かれらの多くはタントリが通るのを見て見ぬふりしていたが、中にはタントリの腕章に目を留めて不思議そうな表情になり、タントリに微笑みを投げかける者もいた。
タントリはベランダにいるひとびとに声をかけた。
「ムルデカ!」
ひとびとは応じて叫んだ。
「トゥタップ ムルデカ!」
ホテルオラニエに近付いたとき、タントリは腕章を外した。もしも白人がいたら、自分の身分は隠しておかなければならないからだ。


ホテルオラニエに着いたとき、表の変わり果てた姿にタントリは身震いした。そこは残骸と呼ぶにふさわしいありさまで、人影はなく、普段徘徊している人間に慣れた犬たちの姿もない。タントリはゆっくりと歩を進めてロビーに入った。そして次の瞬間、タントリは紅白の腕章を着けた青年たちに取り囲まれていた。
リーダー格はどうやらホテルの料理人のようだ。コック帽をかぶり、手には大型包丁を持っている。タントリは椅子に押し座らされ、頭を後ろに押し付けられた。頭がのけぞると喉が曝される。コック帽の男はその喉に大型包丁の刃先をあてた。
「オランダのマダム、何しにここへやってきたのかね?」
タントリは恐怖にすくんでものが言えない。急いでポケットから紅白の腕章を取り出した。こんどはかれらが驚く番だ。
一瞬、口を開いたまま驚いたかれらは、すぐに怒気をあらわにして尋問する。
「それをどこで手に入れた?言え!どこで盗んだのか?」
恐怖を克服したタントリはかれらに言う。「これはドクトルSからもらったもの。」
青年たちはますます混乱する。だが包丁の刃先はまだタントリの喉にあてられたままだ。
「ドクトルS?ドクトルSの何をおまえは知っているのか?」
「わたしはオランダ人じゃなくて、アメリカ人よ。さあ、早くドクトルSに電話してみれば?」
「アメリカ?ありえない。スラバヤにアメリカ人女性などひとりもいないはずだ。」
だが、タントリの喉は包丁の刃先から解放された。

青年たちのひとりがドクトルSに電話し、それからホテルを出て行った。残った青年たちはタントリを取り囲んで、珍しい生き物でも見るように見つめまわす。
しばらく時間が経過してから出て行った青年が戻って来た。医師を連れて。
「なんという愚か者たちだ!君たちの振舞いでこのひとが死んだら、いったいどうするつもりなのか?」
「このひとがオランダ人なのかアメリカ人なのか、われわれには見分けようもありませんよ。」
「何人であろうと関係ない。たとえオランダ人だったとしても、捕らえた人間に刃物を突き付けて威嚇するようなことをしてはならないのだ。君たちの任務は、怪しいと思われる人間を捕らえて当局者に引き渡すことだけなのだ。私的制裁は絶対に認められない。
今回のできごとから、君たちは教訓を汲み取らなければならない。白人はみんなわれわれの敵だという見方を捨てるのだ。オランダ人の中にさえ、われわれに心情を寄せている者がいる。だが表だってそんな態度を示すわけにはいかない。そんなことをすれば、同じオランダ人仲間から裏切り者の烙印が捺されることになる。オランダ人というラベルで一括りにし、ひとりひとりの心の中を覗いてみることを忘れると、敵を増やすだけになってしまうぞ。
オランダ人以外の白人にとって、われわれが今直面しているものは戦争ではないのだ。かれらは良心や考え方に従って、好きなように姿勢を決めることができる。そんな立場にある諸国の国民に危害を加えたなら、それもまた敵を増やしていくことになる。インドネシアの独立を維持するということは、そういう大きな仕組みの中でのわれわれの正当な行動を世界中に示して見せることに関係しているのだ。」

怒りの冷めてきた医師は態度をやわらげて青年たちに言った。
「君たちに紹介しておこう。このひとはバリ出身のクトゥッ・タントリ。いまのところはわれわれの唯一の白人の同志だ。姿勢を明確に示している唯一の白人という意味だ。これからはみんなでかの女の安全を守ってくれ。仲間や住民にクトゥッ・タントリという白人の同志がいることを伝えるのだ。」
青年たちは恥ずかしそうな微笑みを浮かべると、ひとりひとりがタントリに手を差し伸べて握手した。ほとんど聞き取れないくらいの「ミンタマアフ」という言葉と共に。


< 叛乱ラジオ局 >
タントリは医師に連れられてホテルを去り、スラバヤの医師の自宅に向かった。その間、医師はタントリの無謀な行為を叱り、たっぷりと油を絞った。その夜、タントリは医師の自宅に泊まり、医師の計画を聴いた。スラバヤ市内にあるブントモのラジオスタジオに泊まり込み、英語で放送を行うというアイデアだ。ブントモは叛乱ラジオ局と名付けた自分のラジオ放送で毎夜スピーチを2度行い、スラバヤ市民に対する戦意高揚に努めている。
タントリは英語を理解する世界中のひとびとに対してインドネシアが置かれている状況やその活動を説明して、オランダ人の一方的な報道に対抗する情報を流すのが任務だ。タントリも毎夜2度ラジオ放送のマイクに向かうことになる。

この仕事が安全なものだとは言い切れない。敵の宣伝放送をやめさせようとして、爆撃や地上部隊による捜索が厳しく行われるのは確実だ。もっとも危険なのは、スタジオが急襲されてタントリを含めた関係者が全員逮捕されることだろう。しかし、もしもその場所が突き止められて破壊されたとしても、関係者が生き残っているかぎり、スラバヤの外のあちこちに置かれた司令部に移動してラジオ放送を続けることは可能だ。
「世界中のひとたちにわれわれの闘いを知らせなければならない。われわれが行っているのは社会革命などでなく、またインドネシア共和国政府も日本の傀儡などでないことを世界に知らせるのだ。
インドネシアの歴史を、そして過去40年間われわれが続けて来た闘いを、あなたは物語るのだ。イギリス人やアメリカ人に、かれらの歴史の中で起こったことを、かれらが理想としたことを、大西洋憲章や国連憲章の文章を引用しながら思い出させるのだ。インドネシアで毎日何が起こっているのかを語って聞かせなさい。あなたがインドネシアで体験したことを織り交ぜて。」

そのころ共和国側は、共和国掌握地域で起こっている最新ニュースを知らせることを目的にして英語のラジオ放送やニュース誌を出し、インドネシア語のわからない報道関係者や諸外国人に実情を知らせる活動を開始していた。医師はタントリに、その宣伝活動にも寄稿したりさまざまなアドヴァイスを与えて、クオリティを高めることに協力してほしい、とも依頼した。

医師は更に語る。
「あなたの放送を聞いたオランダ人たちは、嘘偽りの話をでっちあげてあなたに苛烈な非難を投げかけてくるだろう。あなたを侮蔑し、こき下ろし、まるで汚辱にまみれた人間であるかのようにあなたを指さすにちがいない。清流を濁らせてそこからおのれの利を汲み上げようと画策する冒険主義者のようなイメージをあなたにかぶせてくるかもしれない。
強い意志を持つのです。かれらのそんな宣伝に応じようとしてはなりません。かれらが何を言おうと、聞き捨てにするのです。あなたはインドネシアにある事実だけを語ればよい。真実が最後に勝利するのです。」


翌日タントリはブントモのラジオスタジオを訪れた。小柄で二十代半ばのこの青年は、純朴で自分を飾ろうとしない人柄がその素顔に滲み出ており、立ち居振る舞いも魅力的だった。ハンサムなかれが表情豊かに語るスピーチは、スカルノのそれと甲乙つけがたいものだった。ブントモの若さに対して、年令と人生経験の差だけスカルノに分があるように、タントリには思われた。
その時期、インドネシア共和国国民の人気をブンカルノとブントモが二分していたと言って過言ではあるまい。国民、中でもスラバヤの民衆はブントモに心服してかれを信奉した。ひとびとはかれの言葉に素直に服従した。
オランダの宣伝ラジオは嘘偽の話をさまざまにでっちあげて、ブントモはいかさま師で酷薄な悪逆非道の犯罪者だというニュースを流した。しかし数年間ブントモと親交を続けたタントリは、かれが他人に対して礼儀を失するふるまいをしたのを見たことも聞いたこともない、と述べている。相手がだれであれ、かれが他人に接する姿勢は常に親しみと魅力に満ちたものだったそうで、オランダの宣伝ラジオの中で物語られるブントモの姿とは似ても似つかないものだった。

ラジオから流れるブントモのスピーチに導かれるようにスラバヤ市民の抵抗戦が進退し、オランダ側の憎悪がブントモに集中した。NICAは結局ブントモの身柄に賞金をかけたが、NICAの手先がブントモに近付くことは不可能だった。ゲリラは民衆の庇護を得てはじめて、ゲリラ活動ができるのである。
タントリがブントモのラジオ放送に参加するようになると、オランダ側の憎悪がタントリにも向けられるようになった。そしてブントモと同様に、タントリも嘘偽りだらけの宣伝を浴びせかけられた上、かの女の首にも賞金がかけられたのだった。


タントリが叛乱ラジオ局に参加して間もないころ、信じられないような情報が飛び込んで来た。スラバヤに上陸したイギリス軍はグルカ兵を主体にしていると言われていたが、イギリス軍はかれらの中に紛れ込んでいるオランダ人兵士をインドネシア人にわからないようにして優先的に上陸させているという話がそれだ。
グルカ兵の中に白人が混じっていれば、肌の色が異なるためにすぐわかる。それを偽装するために、オランダ人兵士は顔や腕を黒く塗っているというのだ。どうしてインドネシア人がそのことを知ったのか?

共和国側が肌の黒いイギリス軍兵士を三人捕虜にしたとき、その中に汗で塗料が落ちて顔が白黒のまだら模様になった者がいた。その者を調べたところ、その者はグルカ兵に偽装したオランダ人だったことが明らかになったのである。
タントリはその三人が収容されている監獄を訪れる許可を求めて許された。グルカ兵は英語ができなかったが、オランダ人兵士は流暢に英語を話した。かれはタントリの質問にきわめて協力的に応じたが、それはかれの釈放をタントリが斡旋してくれることを期待してのものだったようだ。スラバヤ港で輸送船から食糧や資材を上陸させる際に、オランダ人兵士が袋の中に入り、あたかも資材であるかのような態を装って船から陸地に運び上げられた。そのような手段を弄して、大勢のオランダ人がスラバヤに上陸していたのである。

タントリはさっそくスラバヤのイギリス軍司令部を非難する放送を行った。叛乱ラジオ局のインド人職員の協力のもとに、ふたりのグルカ兵もマイクの前で証言した。
俄然、共和国側はスラバヤ港周辺での監視を強め、衝突が頻発するようになり、動乱は市内へと南下して行った。市街戦が激化し、妥当な火器を持たない市民までが多数参加したことから、多くのスラバヤ住民が犠牲になった。そのあと、共和国人民保安軍が戦闘の主体を担うようになり、軍事衝突の形へと移行して行く。


< スラバヤの軍事衝突 >
共和国側が市内南部地域に整然と後退して防衛線を敷いたことに、進駐軍は驚いたようだ。そして軍事兵器を使った本格的な戦闘が開始された。進駐軍は降伏した日本軍を再武装させて共和国側を攻撃させる違反行為を行ったが、叛乱ラジオ局がその事実を報道したことで世界各国からの非難が湧き起こり、その種の試みは短期間で幕を閉じた。
状況がそのように推移してくれば、イギリス軍がオランダ人兵士の上陸を偽装するような必要性は霧消する。イギリス軍兵の増員と兵器の強化とともに、NICA軍も堂々と上陸するようになっていった。
ところが増員されてきたイギリスインド軍兵士の中に、上陸したあと戦闘拒否を言い出す者が出始めた。共和国側にコンタクトして来たかれらの代表者は次のように表明した。
「オランダの復帰を阻止するために叛乱を起こした、ごく一部のインドネシア人過激派や日本の傀儡グループを粛清するという任務を与えられてここまでやってきたが、その目的が虚偽のものであることがここに来てはじめてわかった。われわれが戦う相手は独立を維持しようとして生命を賭しているインドネシアの全民衆だったのだ。ひとつの民族が求めている自由を踏みにじるための戦いに加わる気は、われわれにない。」
別の指揮官も語る。
「イギリスとインドネシアの間で宣戦布告は存在していない。イギリス軍がここで戦闘を行うのは道理に外れている。わたしは部下に戦闘を命じることができない。」
こうして軍命を拒否するイギリスインド軍のいくつかの連隊は本国に送り返されて行った。

しかしスラバヤでの軍事衝突という大きな流れはとどめようもなく流れている。空爆と艦砲射撃によって、多くの家屋や建物は破壊され灰燼に帰した。RRIラジオ局も例外ではない。しかし住宅街の民家に潜む叛乱ラジオ局はまだ生き延びていた。毎夜、タントリの声が電波に乗って空中を飛ぶ。
放送時間外にタントリは絵を描き、進駐軍にものごとの道理を込めて厭戦を誘うポスターや垂れ幕を作った。正義とは何であるのかという道理を人間の心に呼び起こす内容の宣伝物は、スラバヤだけでなく東ジャワの町や村にも配布されてあちこちに掲げられた。
スラバヤでの軍事衝突でイギリス軍はあくまでも優位に立っており、インドネシア人にとって市内に安全な場所がないのは明白な事実になっていた。市内の叛乱ラジオ局が敵の手中に落ちたとき次のステップが講じられるよう、ブントモはマランに移ってその準備に取り掛かっている。

叛乱ラジオ局のある街区の上空をイギリス軍用機が旋回し、電波探知機を載せた車両が通りを徘徊することも頻度を増した。そしてイギリス軍スラバヤ司令部は武力反抗を続ける共和国側に対して最後通牒を宣告した。
「スラバヤにいる全住民はすべての武器を引き渡せ。定められた場所で定められた時間に武器を地面に置き、両手を挙げたままイギリス軍部隊の陣地を訪れて投降せよ。今日の日没までにそれがなされないなら、明朝からスラバヤ全市を爆弾の雨が見舞うことになる。」
抵抗戦のリーダーたちは、それを子供じみたこけおどしだと受け取った。スラバヤ市内に軍事施設はまったく存在しない。スラバヤは非戦都市なのであり、市内は一般市民の生活の場でしかないのだ。そこに爆弾の雨を降らせるのは、大量の一般市民を虐殺するのと変らない。まさか、イギリス人が国際法を忘れたわけではあるまい。


日没が来て、夜になる。共和国側が最後通牒を無視したことが事実になったとき、イギリス軍用機と軍艦に翌朝の砲爆撃命令が出された。もちろん、地上部隊の出撃がそれに呼応する。
その夜、タントリはマイクに向かって激しい非難の言葉を連射した。
「インドネシアの民衆はあなたがたの要求に応じません。なぜなら、その要求はこの国のリーダーたちにとって侮蔑でしかなく、そしてインドネシア人の知性に対する侮辱であるからです。
そんなことを理由にしてあなたがたが非戦都市スラバヤに軍事攻撃をしかけ、無数の一般市民や婦女子を殺戮するようなことを行えば、栄光ある大英帝国が抱える暗黒の歴史にさらなる一ページを加えることになるでしょう。
やめなさい。ヒューマニズムにもとるそのようなことをしてはならないのです。」


11月10日午前6時、艦砲射撃と軍用機による銃爆撃がスラバヤの空を覆いはじめた。砲爆撃は三日三晩続けられ、何百人もの死体が路上や側溝あるいは運河に満ちた。
叛乱ラジオ局のある地区にも、爆弾と砲弾が落ちて来た。そしてついに、ラジオ局にも被害が出たのだ。

そのときラジオ局内にはタントリの他にインド人アナウンサーとアラブ人職員のふたりしかいなかった。インドネシア人アナウンサーはラジオ局の移転のために、前日からスラバヤ南方の山岳地帯に入っていた。
爆弾や砲弾の炸裂する音がどんどん近付いてきた。そして叛乱ラジオ局のあるブロックに爆発音が轟き、周辺一帯は騒然となった。迫撃砲弾が一発、スタジオのある家屋の奥に落下したのである。タントリが入っていた放送スタジオは無傷だったが、裏のトイレにいたインド人アナウンサーが犠牲になった。ほとんど即死に近かった。
建物が破壊されて瓦礫の山となり、人間の生命が失われたという大きな混乱の中で、ブラニと名付けられたタントリの大型犬がテーブルの下にしゃがみ込み、好物の骨を口にくわえながら尻尾で床を打つ音が、不調和なリズムをその場に添えていた。


三日三晩続いた砲爆撃で多くの市民が死傷したが、即死した者のほうが幸いだったのかもしれない。医療従事者はまったく不足しており、おまけに医薬品もが欠乏状態にあった。スラバヤに国内他地域から入って来る医薬品はほとんどない。重傷者は死の谷底へ転げ落ちて行く以外に、たどるべき道が何もなかったのだ。
タントリは被害者たちに何かをしてあげたいと思ったが、医薬品のない医療従事者の手伝いではたいしたことができそうにないと考え、貧困庶民の住宅地区へ励ましの慰問を行おうと思い立ち、単身で貧困地区へ出向いた。

ごみごみと建て込んだ家並みの中の一軒で、家の表に中年男性がひとり呆けたように座り込んでいた。近寄って来るタントリに向けて顔を上げようともしない。
タントリは挨拶してから、どうしたのかと尋ねた。その男性は虚ろな目でしばらくタントリを見つめた後、家の中へとタントリを誘った。
薄暗い家の中には、三つの遺体が横たわっており、それを取り巻いて女たちが涙を流していた。かれは言う。「息子たちは、独立のために生命を捧げた。残っているのは女ばかりだ。」
三つの遺体は14歳くらいから17歳くらいまでの少年で、腕に紅白の腕章を巻いていた。かれらは住宅地区からあまり遠くない防衛線に着いていたが、砲爆撃が防衛線を粉砕したのだ。
慰めの言葉以外にタントリがその一家にしてあげられることは何もなかった。意気消沈してタントリが叛乱ラジオ局に戻って来ると、マランから戻って来たドクトルSがタントリを待っていた。

「あなたは早急にスラバヤを去らなければならない。スラバヤの南方60キロほど離れたバギルという小さい町にあるラジオ局にあなたを移す準備を整えてある。あなたは今夜、兵隊の護衛でバギルへ移動する。バギルは今のところ、まだ安全だ。ただし、いつまでかということは誰にもわからないが・・・」
「わたしはスラバヤを離れたくないわ。わたしの身の安全なんて、くそくらえよ。わたしと同じ民族が何という非道なことをしているのか・・・。大勢のインドネシア人が苦しんでいるというのに、わたしが安全を求めるなんて、恥ずかしくて会わせる顔もありません。」
「そのことをあまり気に掛け過ぎないように。誠実なイギリス人は何千人もいるし、他の国々にもあなたと同じ気持ちを抱いている賢明なひとがたくさんいる。非難の洪水が世界中から流れ込んで来ている。わたしの言葉は残酷に聞こえるかもしれないが、長い目で見るならスラバヤへの砲爆撃はインドネシア民族にとって重要な教訓を与えるものとなるだろう。これまで世界の目はこの地域にほとんど向けられることもなく、この地域に存在する問題にも関心が向けられることがなかった。ところが今、インドネシアは国際社会の関心の的になっているのだ。」
スラバヤを去る日をもう一日先にしてほしい、とタントリは医師に懇請した。最終的に、医師のほうが折れた。


翌日はタントリにとって忙しい日になった。スラバヤにある国際社会に働きかけて、スラバヤで何が現実に起こっているのかを世界に示すのだ。そのために、デンマーク・スイス・ソ連・スエーデンの外交官やその他世界各国の通商代表を説得して、イギリス軍が行っている軍事行動を非難する言葉を叛乱ラジオ局の夜の放送の中で語ってもらおうというのがタントリの考えだった。
その企画は世界中に大きな反響を巻き起こした。タントリの放送を傍受した国のラジオ局がそのときの放送内容を自国内の聴衆に向けて放送し、その放送内容が更に新聞雑誌に掲載されるという副次効果をもたらした。
叛乱ラジオ局のスタジオを訪れた各国代表者はタントリのインタビューに答えてスラバヤで起こっている事実を物語った。そしてそれを行っているのはだれか、ということがらに話が及ぶと、さまざまなイギリス非難の言葉がかれらの口をついた。もっとも鋭い非難の言葉は、白系ロシア人の口から出された。


< スラバヤからバギルへ >
医師との約束通り、その翌日スラバヤ市内のブントモの家に設けられた叛乱ラジオ局は閉鎖され、ラジオ機材は寂れた地区にある一軒の家に隠し、タントリと同僚たちはジープでバギルに向かった。三人の兵士が護衛した。そして、叛乱ラジオ局は場所を移して再開された。
ブントモはマランの秘密スタジオからスラバヤ民衆の心の火に油を注ぐスピーチを流し続けたが、週に二回ほどバギルのスタジオにやってきて、そこから放送を行った。

この時期、ジャカルタとバンドンは全域がAFNEI軍に掌握されてしまっており、ジャカルタとバンドンの私設ラジオ局はNICAのプロパガンダを熱心に全国に流していた。
一方共和国が掌握している地域では、ヨグヤカルタとソロにインドネシア共和国の国営ラジオ局RRIがあって放送活動を行っているが、スラバヤのRRIは爆撃で破壊されてしまい、当面使い物にならないありさまだ。
叛乱ラジオ局は私設ラジオであり、東ジャワのあちこちに分室を設けて放送活動を行っている。RRIのような公共性に縛られる必要がなく、スラバヤの戦闘を支援するという、もっと直接的な機能を果たしていた。
バギルの叛乱ラジオ局スタジオでは毎晩、英語やインドネシア語の放送電波が空中を飛んだが、放送が終わるとみんなはジャカルタやバンドンの私設ラジオ局が流す放送に耳を傾けた。宣伝合戦に虚偽情報はつきものであり、敵の虚偽情報にはそれを否定する対抗情報を流さなければ、民衆の中に欺かれて間違った行動に走る者が出ないともかぎらない。タントリは特にその点に深い配慮を欠かさなかった。

ある夜、みんなが敵のラジオ放送を聞いているとき、タントリは自分の耳を疑った。同僚たちはクスクス笑いをしている。
「クトゥッ・タントリの身柄を、スラバヤでも他の町でもかまわないが、NICA司令部に引き渡したインドネシア人には、5万フルデンの報奨金が与えられます。」
普段はつまらない中傷など無視しているタントリだが、これは絶好のチャンスだと思った。タントリはラジオ発信機をオンにするよう同僚に頼み、自分はマイクの前に座った。
「わたしはクトゥッ・タントリ。わたしに懸賞金がかかったことを告知したアナウンサーさん。よおく聴きなさい。インドネシア共和国エリア内で、フルデン紙幣はただの紙切れでしかないことが分かっているの?インドネシア共和国ではルピアという通貨が使われています。それを知っていながらインドネシア人を騙そうというのかしら?
もしオランダ人がインドネシア独立のための闘争資金に50万ルピアを寄付してくださるのなら、わたしは自分であなたがたの司令部に足を運びますよ。」
叛乱ラジオ局のその放送を傍受した全国各地の私設ラジオが、空中で行われたその舌戦を話題にして地元民に流した。民衆は手を叩いて喜んだそうだ。
オランダ側からのタントリの懸賞金に関する告知は、二度とオンエアーされなかった。


実は当時のオランダ通貨フルデンは、オランダ本国が連合軍に解放されたときに1米ドル2.652フルデンという交換レートが設定されていたから、タントリの懸賞金5万フルデンの価値はおよそ1.9万米ドルくらいのものだった。
一方、タントリが要求した50万ルピアの価値を米ドルで計ったらどうなるだろうか?インドネシア共和国が国際的に認知される1949年まで、ルピアも国際的には認められていなかったから、正規の交換レートは存在しなかった。
とは言っても、共和国の支配地域では流通しているのだから、オランダ人に50万ルピアを持って来いと言っても、何らおかしいものではない。ただ、フルデンとの公式交換レートが存在しないのだから、オランダ人も調達には困るだろう。

1949年11月にルピア通貨が国際的に認知され、外国通貨との交換が可能になった。そのときの対米ドルレートは、1米ドルが3ルピア80セン(3.80ルピア)だったから、そのレートを使うなら50万ルピアは13万米ドルくらいになる。
その後、スカルノ政権末期にルピアはすさまじい暴落を示して1米ドル5千ルピア近くまで下がった。スハルト政権は固定レートに変えて変動を抑制したが、非力のルピアは切下げを免れることができず、何度も切下げを重ねたあげく、1966年に定めた1米ドル250ルピアという固定レートは1985年に1千ルピアを超え、1998年の通貨危機でついに万の大台に乗ってしまった。


< タントリが誘拐される >
ある日、紅白の腕章を着けた三人の青年がジープに乗ってバギルの叛乱ラジオ局を訪れた。「あなたをマランにお連れするよう、ブントモに命じられました。」という言葉を、タントリも同僚たちも誰ひとり疑わなかった。
スラバヤに近いバギルの町のラジオ局は、イギリス軍が探しにくれば容易に見つかってしまう。スラバヤ市内の戦況は共和国側に不利に展開しており、共和国側が市内から押し出されてしまえば、タントリたちはたちまち危険に見舞われるだろう。だから早めにバギルからマランもしくは山岳地帯のどこかにラジオ局を移そうという相談がタントリたちとブントモの間で既に始まっていたのだ。

タントリはあまり多くない私物をトランクに入れて、ジープに乗った。ジープは街道を南へと下って行く。ところがかなり南方に下ってから、ジープは街道を外れた。不審を抱いたタントリが言う。「マランへ行く道はこれじゃないわよ。どこへ行くつもり?」
三人の中のリーダー格の青年が平然と言う。「われわれはあなたを誘拐した。われわれはトレテスに向かう。」
その青年の話によれば、トレテスにはとある少佐を指揮官とする共和国独立支持部隊があり、そこにはラジオ局がある。英語ができるアナウンサーがいなかったのでタントリにそこへ来てもらい、トレテスのラジオ局からこれまでと同じような放送をしてもらいたい。誘拐の目的はそれだけだ。自分たちも共和国独立を支持する同志なのだから、怖がる必要はない、と青年は語った。

「ブントモはあなたを独占し続けて来た。そういう身勝手はよくない。これからはわしの番だ。あなたは有名なアナウンサーになった。あなたの放送を聞くためにラジオを点けるひとが大勢いる。あなたの放送がどのラジオ局から発信されようが、違いは何もないではないか。われわれはみんな共通の目的のために働いているのだから。バギルよりもここははるかに安全だ。あなたの身柄はここで完璧に保護される。」
ジープがトレテスの町の奥にある司令部に着き、タントリが降りるのを出迎えた指揮官少佐はそう語った。


トレテスを根拠地にしているこの部隊についての噂は、以前からタントリの耳に入っていた。まともな知識人が多い共和国戦闘部隊指揮官とはあまり似つかない、盗賊団の首領と呼ばれるにふさわしい人物像がその指揮官に関する噂だった。
部下の全員に黒シャツを着させ、財力豊かな華僑系の商人を襲って金品を巻き上げ、自分たちは贅沢な暮らしをしつつ、自元の貧困民にも分け前を与えるという、ロビンフッド気取りの行為を行っていた。
もっとも、この時期にインドネシアの全土で同じようなことをする集団が続出していたのも事実だ。旧植民地体制の上にあぐらをかいて権力と財貨をほしいままにしてきた封建制度支配者層を崩壊させるという革命が全国的に進められたことは事実であり、インドネシアの独立闘争に独立革命という名称が与えられたことがそれを物語っている。

指揮官少佐はタントリにとても慇懃に優しく上品に振舞ったが、その素顔は酷薄だったようだ。部下たちはだれもが指揮官を怖れており、戦々恐々としていた。怪しいと疑われたよそ者が捕まると、裁判も取調べもなく処刑された。
タントリは怒りを抑えて、かれらに協力する姿勢を示した。タントリの放送がマランでない場所から発信されているのがわかれば、バギルの同僚たちは何が起こったかを知るにちがいない。そして救出の対策を講じてくれるだろう。

一週間が経過したが、変化は何も起こらなかった。その夜、放送を終えたタントリは外へ出て風に当たりながら夜空を眺めていた。すると突然藪の中からふたりの青年が現れた。「こわがらないで。われわれはバギルから来たあなたの仲間です。山からかなり下の場所にトラックを隠してあります。今すぐに山を下りれば、あなたがいなくなったことにかれらが気付くころには、われわれとの間にかなりの距離が開いているでしょう。」
タントリはその青年の顔を思い出した。ふたりはタントリを連れ戻すために、かれらにとってたいへん危険なこの場所に潜入して来たのだ。三人がいる場所は司令部の建物から見えない位置にある。
三人は道なき山の傾斜をどんどんと下って行った。かなり下りた場所にトラックが一台隠されていた。トラックはすぐにバギルに向かって走り出した。

翌日はタントリの声がバギルから発信された。数日後、タントリ宛てに手紙が来た。トレテスの指揮官少佐からのその手紙には、「あなたの気付かないうちに、あなたは再びトレテスのこの司令部に戻ってきていることでしょう。」と書かれている。タントリは自分の警戒心を強める以外に方法はなさそうだと思った。
ところが、そのトレテス黒シャツ盗賊団がタントリに対して行動を起こす前に、共和国国防大臣がかれらを一網打尽にした。そして少佐は狂人であると宣告され、施設内に幽閉されてしまった。


< 看護婦作戦 >
タントリがバギルに戻ってから数週間が経過したころ、オランダ軍用機がバギルの上空を旋回するようになった。叛乱ラジオ局のスタジオを見つけ出そうとしているにちがいない。
ブントモから届いた指令は、早急にバギルの放送局を閉鎖してモジョクルト奥の山地に移転せよとなっていた。発信機を分解してトラックに載せなければならない。作業は夜間に行われ、闇の中をトラックはモジョクルトに向かった。

翌朝、かれらはモジョクルトからもっと長い道のりを山地に向かわなければならない。起伏が激しく岩だらけの坂道をトラックで走るのは、あまりにも無謀だ。一行は機材を馬に乗せて山地を目指した。
やっと到着した場所は、山奥の寒村。自然環境は黒シャツ盗賊団の本拠地と大差ない。みんなはそれぞれの住居をまず確保して居心地の良いものにし、一段落してから放送局作りを開始した。ところが発信機を組み立てていた技術者が思いがけないことを言い出した。部品が壊れているというのだ。どうやら山道を上り下りしているとき、何かにぶつけたらしい。電波が発信できなければ、ラジオ局は何もできない。
その山奥の寒村はモジョクルトからおよそ20キロ離れており、スラバヤとマランを結ぶ街道からもそれている。静かで平穏な山奥の暮らしは神経を休めてくれるが、食糧は足りない。叛乱ラジオ局のメンバーはそこで暮らすのに一日二食になり、食事はたいてい飯とサンバル、そして塩漬け卵がふたりに一個というメニューだった。しかしコーヒーだけは潤沢にあった。


この時期、ラジオ発信機の部品など、東ジャワのどこを探してもおいそれと転がっているわけがない。マランでもモジョクルトでも、ラジオ関係者はまったく余裕のない中でみんな無理をしている。
「スラバヤへ戻れたらなあ。」技術者のひとりがため息交じりに言った。スラバヤからバギルに移るとき、たくさんの機材や部品をさびれた一軒の空き家に隠してきた。その中にスペアの部品があることをかれは言っているのだ。
共和国側の兵力はスラバヤ市内から完全に一掃されたが、AFNEI進駐軍は一般市民まで追い出したわけではない。抵抗戦をやめたスラバヤ市民は平常の生活を許されており、生活必需物資は市外から運び込まれてくる。
一方、共和国側はスラバヤ市外に最前線を敷いて、市内の守備に当たっているAFNEI進駐軍への攻撃を続けている。だから進駐軍にとって、インドネシア人ゲリラ部隊の市内侵入と破壊活動のリスクは常に存在しており、その対策として進駐軍は市内に入って来る主要道路に検問ポストを設け、市民の生活物資だけは通すが、戦闘員の侵入は許さないという形での保安活動を行っている。
つまり、検問ポストでのチェックをかいくぐることができれば、市内に隠したラジオ機材をこの山中に持ってくることができるというわけだが、いったいどうやって?検問ポストを通過する荷物はすべて、その中身を調べられるのだ。ラジオ発信機の大きな部品など、調べられたらすぐに見つかってしまうだろうし、そんな物を運んでいるのが見つかれば、無事では済まないのが明らかだ。
翌日、バギルから連絡員が来た。バギルの放送局はタントリたちが夜中に出発した次の日に爆弾を落とされて壊滅したそうだ。みんなは、自分たちの運命が紙一重だったことに、あらためて感動した。

朝食の後、この放送局チームのまとめ役をしている青年がタントリに近付いてきた。「夜中にあなたが眠っているとき、われわれは対策を相談した。スラバヤ市内に潜入して部品を取って来る方法がある。この作戦を実行すれば、われわれの発信機は生き返る。」
タントリの顔がほころびた。「どんな方法なの?」
かれが話す計画の詳細を聞いているうちに、タントリの顔がこわばってきた。後に看護婦作戦という名称で共和国側の血気盛んな青年たちの人口に膾炙するようになるその作戦計画は、十二分に冒険主義的なものだったと言えるだろう。そしてその主役になれる人間はタントリしかいなかったのだから。

まずタントリが国際赤十字に所属する看護婦になる。そのために白衣と帽子を用意し、赤十字のシンボルマークがついた腕章を腕に巻く。次いで、偽造の身分証明書や関連書類を作製する。タントリの顔写真にモリー・マクタヴィッシュという名前の入った英国のパスポートや、英国赤十字がモリ―にあてた任務指示書など、その状況を裏付けるための書類が偽造される。
モジョクルトにある私立病院から救急車が借出され、ボディは塗り替えられて国際赤十字という文字とシンボルマークが大きく描かれた。戦闘部隊の指揮をしている青年が運転手になり、車内にはタントリの他にもうふたりの青年が乗り組む。
ひとりは全身に血だらけの包帯を巻かれて患者になり、もうひとりは医師に扮して白衣と医療カバンで身支度をする。
イギリス軍の検問ポストを通過するときに、タントリは一世一代の芝居を打たなければならない。通過できれば、そのままラジオ機材を隠してある空き家に急行し、必要な機材を座席の下に隠して、運転手とタントリだけがふたたび検問を通ってスラバヤの外へ逃げ出すというシナリオだ。患者と医師役のふたりは市内の病院で下りたような形にするが、ふたりは街道を避けて水田地帯の中を市内からモジョクルトへ徒歩で戻って来る。
タントリはその作戦計画がなかなかのものであることを認めた。しかしその当時、東ジャワに国際赤十字など影も形も存在していなかった。その事実を知っている者が検問ポストにいれば、疑惑を抱くのは疑いもない。しかしこのチームリーダーの青年は気楽に言った。「検問ポストで歩哨に立っているイギリス兵に、そんなことに関心を持つ人間がいるはずもない。かれらは赤十字という文字とマークを頭から信用し、かれらと同じ言葉を流暢に話す白人女性がいることで、疑念も警戒心も失ってしまうだろう。あなたなら絶対に大丈夫だ。」


数日後、国際赤十字所属看護婦モリー・マクタヴィッシュに扮するための準備が完了した。このミッションインポシブルチームはモジョクルトに移動して待機する。そしていよいよ作戦決行の日がやってきた。
国際赤十字の文字とシンボルマークを大書した救急車がやってきた。イギリス軍の軍服を着たチームリーダーが運転席に乗り込む。タントリは助手席に。車の後部には白衣の医師と全身包帯づくめの患者が乗り込んだ。患者の包帯にはあちこち鮮血がにじみ出ている。それを見てタントリが息を呑むと、患者は元気な声で言った。「これは鶏の血だから、怖がらなくてもいいよ。」
救急車が出発しようとしたとき、戦闘部隊員のひとりが「卵だ。」と言ってタントリに丸いものを渡した。その感触はとても鶏卵と思えない。「これは何?」
手りゅう弾だと言われてタントリは飛び上がった。
「これは話が違うわ。わたしは戦闘作戦に参加する気はありません。武器弾薬など一切積まれていないことがはっきりしないかぎり、わたしは絶対に行きません。」
強情を張るタントリに他の者たちが折れた。車両内に隠されていたトミーガンとピストル数丁をかれらが取り出したとき、タントリは開いた口がふさがらなかった。とはいえ、かれらも最悪の事態を予想してのことだったにちがいない。

救急車は出発した。モジョクルト街道をスラバヤに向けてまっしぐら。スラバヤ市内に入ったあたりて、バリケードが道路中央を塞いでいた。救急車はサイレンを鳴らしてバリケードの脇を突っ切ろうとしたが、武装兵に停められた。イギリス人兵士ひとりとグルカ兵ふたりが歩哨に立っている。救急車に近付いてきたのはイギリス人兵士で、かれは車内に白人女性がいるのに気付いて目を見張った。
「わあ、こんなところで白人女性に出会おうとは、夢にも思わなかったよ。名前を聞いていいかな?」
「わたしはモリー・マクタヴィッシュ。あなたの名前は?」精一杯スコットランド訛りを込めて、タントリは言う。
兵士は自己紹介してから、「こんな場所はもういやだ。早くロンドンへ帰りたい。」とロンドンの下町訛りで愚痴った。そして非番の日にデートしないか、とタントリを誘う。
「もちろん、わたしも嫌じゃないけど、今はのんびりしていられないのよ。その患者に早く輸血しなければいけないの。モジョクルトの病院には輸血の設備がないから、スラバヤへ緊急輸送しているところ。」
兵士は車内をのぞき込んだ。「おお、こりゃ大変だ。」
「わたしはあと一時間くらいしたらまたここを通ってモジョクルトへ戻るから、そのときにもっとお話しができるかも。」
「ああ、あんたが戻って来るまで、ずっとここで待ってるよ、モリ―。」
車内の捜索も書類のチェックも一切なく、救急車は検問ポストを通過して市内に入った。市内の路上に人の姿はなく、やせ細った犬だけが徘徊しているばかりだ。

空き家へ着くと、医師と患者はすぐに扮装を解いてサルン姿になり、地元民に変身した。そして必要な電波発信機材を取り出して車内に隠し、出発の用意をした。今度は運転手とタントリのふたりだけで検問ポストを通過しなければならない。ラジオ発信機の部品を積んだままで。

救急車が検問ポストまで来ると、イギリス人兵士はまだそこにいた。かれはタントリに笑顔を向けて車に近付いてきた。そしてよもやま話をしてから、今度の日曜日に市内のホテルオラニエで会うことを約束した。
「でももしわたしが来なかったら、わたしに緊急業務が発生したためだと思ってね。そうなったら、わたしはあなたに手紙を書くわ。」
かれはまた、イギリス兵の軍服を着ている運転手とも会話しようとした。ところが運転手はブロークンな英語で「ノーイングリッシュ」を連発したから、かれは呆れ顔をしてタントリのところに戻って来た。救急車の運転手になっているチームリーダーは、実はオランダで法学を学んだインテリであり、ロンドン生まれのそのイギリス人兵士よりはるかに格調高いオランダ語と英語を話す能力を持っていることを知っているタントリは、笑いを押し殺すのに苦労した。
「モリ―、あんたは素晴らしい女性だ。あんな黒ん坊たちの中にたったひとりきりで暮らし、黒ん坊の病気を治してやろうと献身している。日曜日には是非、あんたの話をたくさん聴きたい。」
「もちろんよ。じゃあ、日曜日にまた会いましょう。」
こうして救急車は車内の捜索をまぬがれ、大切な機材を積んで街道をモジョクルトに向かって矢のように走った。手に入った機材は再び山奥の村まで運び上げられて、叛乱ラジオ局は復活した。スラバヤ市内から徒歩で脱出した患者と医師役のふたりは二日後、たいそう腹を空かした状態ながら、無事にかれらの本部にたどり着いた。
モリー・マクタヴィッシュとかの女を気に入ったロンドンっ子のイギリス人兵士は二度と会うことがなかった。モリ―は姿をかき消してしまったのだから。


< セレクタで国際舞台に >
ジャカルタ・バンドン・スマラン・アンバラワ・スラバヤと至る所で戦火が燃え上がり、あるいはその名残がくすぶっている状態にあるとはいえ、国際法的に見るならインドネシア共和国はどこの国との間にも宣戦布告など交わしていない。
日本が無条件降伏して太平洋戦争が終わったとき、連合国はインドネシア共和国をオランダ領東インドという一植民地の中に発生した原住民叛乱であると位置付けた。その定義に依拠するなら、叛乱を鎮圧しようとするNICAと原住民間の武力衝突という国内問題が蘭領東インドの中で発生しているだけでしかなく、宣戦布告など起こりようがない。

一方のインドネシア共和国は、日本軍の進攻で植民地支配者のオランダ人が全領土から姿を消し、日本軍政の統治下に数年を経過したあと、大日本帝国が敗戦降伏したことで日本の統治も終了したため、原住民が民族自決の旗を振って独立したわけで、残るは国際社会からの国家承認だけという、ここ数年前から世界を騒がせているダエシュと同じような立場に立っている。
だから共和国政府上層部は共和国の敵をオランダ植民地主義とその具現であるNICAだけであると定義し、それ以外の諸国に対しては共和国の国家承認を獲得するための支柱であると位置づけて全方位外交を展開した。それはインドネシアのいくつかの都市を制圧した進駐軍の中核をなしているイギリスに対しても同じだ。
だからこそAFNEI軍が太平洋戦争の終戦処理のためにインドネシアのいくつかの都市部を制圧したときも、共和国政府はその任務遂行をバックアップさえしたのである。

事態がおかしくなったのは、AFNEI軍が蘭領東インドの旧体制復帰のためにNICAがインドネシアに戻るのを手助けしたことであり、インドネシアの国内問題に干渉しないという言葉に対する理解がインドネシア側とAFNEI側で異なっていたことが、事態を紛糾させてしまった原因だったと言えよう。
インドネシアの民衆は、NICAの復帰を手伝うAFNEI軍を敵とみなして戦闘行動を開始した。上述の諸都市で戦火が燃え上がったのは、それが最大の原因をなしている。共和国政府上層部のロジックと草の根民衆の考え方が一致しなかったために、事態の紛糾は最大限に膨れ上がった。誰を敵と見なして攻撃するのか、というポイントに激しい不協和音が鳴り響き続けたということだ。
具体的には、非オランダ人であるなら、どの国の白人が中部ジャワや東ジャワの田舎町に顔を出そうが、民衆はその白人を攻撃してはならないのが共和国の方針であったにも関わらず、民衆、中でも武装市民や民兵は、あらゆる白人に攻撃の銃口と刃を向けたのである。
共和国政府の方針が民衆に徹底しなかったのは、両者の置かれている立場がまったく異なっていたためであり、どちらが悪いとか間違っていたというたぐいの問題ではない。国家が発足したばかりの時点で、政府と国民の関係というものは往々にしてそのようなものにならざるを得ないだろうし、インドネシアの場合は独立後70年を経過してさえ、いまだに似たような関係を引きずり続けている。

当初NICA復帰を目論むオランダ人がインドネシア独立をなきものにしようとして連合軍東南アジア地域司令部に吹き込んだインドネシアの状況に関する「実話」の化けの皮がはがれていくのに伴い、インドネシアの現状に関する実態をジャカルタで取材している世界各国のマスメディアには、AFNEI軍支配地域の外側にあるインドネシア共和国の真の姿に対する関心が高まって行った。
スカルノ政府が共和国掌握地域の行政統治を信頼するに足る内容で行っている事実を世界の報道関係者の目に触れさせることは、オランダの反インドネシア宣伝を孤立させるのに大きい効果を持つにちがいない。スカルノ政府、そしてインドネシア共和国はオランダ人が言っているようなものではない、という論調が国際社会に湧き上がれば、インドネシア共和国はたいへん有益なバックアップを手に入れることができる。


機を見るに敏なスカルノ大統領は、ジャカルタに集まっている世界各国の報道関係者を引き連れてインドネシア共和国の実情を視察する企画を打ち上げ、大勢の記者を東ジャワ周遊の旅に招いた。AFNEI進駐軍が掌握しているジャカルタやスラバヤなどいくつかの都市に居るかぎり、その外がどのようになっているのかを自分の目で見るのは不可能だ。自力で外へ出るようなことをすれば、自己の生命は保証されないのだから。しかし共和国大統領の招待であるなら、大舟に乘ることになる。
こうして、スカルノ大統領が大勢の外国人記者を東ジャワのセレクタに案内して来た。オランダ植民地時代、セレクタは東ジャワ地方随一の高級山岳避暑地として発展した場所だ。ジャワ島で最高級ホテルのひとつに位置付けられていたホテルセレクタは、今や往年の栄光を伺わせるよすがもないが、東ジャワ視察団はそこに投宿した。
言うまでもなく、タントリの存在はインドネシア国内に知れ渡っている。かの女をホテルセレクタに招いてひとりの白人の口からインドネシアの真実の姿を語らせることはきわめて有効な宣伝になるはずだと考えない者はいないだろう。共和国首脳がその機会を見逃すはずがない。
ましてや、流暢にキングズイングリッシュを操るインドネシア名の謎の女性アナウンサーに対面でき、その素顔を知ることのできる絶好のチャンスは、外国人記者たちの報道意欲を掻き立てずにはおかないにちがいない。
こうしてモジョクルトの山中の叛乱ラジオ局分室に、東ジャワ人民保安軍司令官のひとりから手紙が届いた。「直ちにホテルセレクタを訪れて、スカルノ大統領に面会してほしい。大統領と諸外国の記者たちが、インドネシア独立に関する話をあなたから聴くために待っている。」

タントリがホテルセレクタの大ホールに足を踏み入れたとき、ホール内は人間であふれかえっていた。中でも人民保安軍上層部から東ジャワの民兵組織指揮官に至るまで、軍服姿の人間が大多数を占め、その中には公的な場に素顔をさらすことを嫌うブントモまでが混じっている。
ブントモがあまり外へ出たがらないのは、スパイと呼ばれているオランダ側に通じる人間がインドネシア人社会に多数混じっており、だれが本当の味方なのかわからなくなっている状況のせいだった。ブントモはその対策として自分に姿かたちの似ている者を影武者として何人も用意したと言われている。NICAがブントモを捕らえたという噂がときどき流れたものの、その都度、捕らえられた「ブントモ」は数日後に釈放された。人違いだったことが判明したためだ。

諸外国の報道機関はBBC、NBC、AP、ロイター、そしてライフ、タイム、ニューズウィークなどの雑誌をはじめ各国の著名なメディアの名前が見られた。イギリス人、アメリカ人、オーストラリア人、フランス人などの他にインド人や中国人、そしてインドネシア人記者も混じっていたが、オランダ人はひとりもいなかった。
サルンクバヤ姿で現れた白人女性はすぐに一座の注目を集めた。たちまち記者会見の場が作られ、タントリが十数人いる記者たちの質問に応答する場面へと移っていく。
タントリはこれまで、自分の放送はせいぜいジャカルタからシンガポールくらいまでしか届いていないだろうと考え、自分のことはその程度の狭い範囲でしか知られていないだろうと想像していたが、世界中に知られているという記者たちからの声を聞いて、あっけにとられた。イギリスでかの女についての報道はミス・ダヴェントリーという名前でなされていることを知り、かの女はクトゥッ・タントリというバリの人名についての講釈をするはめになる。

記者たちはタントリの素顔を、銃火器を持って戦闘に参加している男勝りの冒険主義者というイメージで描いていたが、本人はとてもそんな危険な女には見えず、ラジオ放送での音調に沿った、まるで中学校の英語教師のような人物に見える、とコメントした。それを捉えてタントリは、「自分は銃などには触れたこともなく、暴力には絶対反対です。」と自分の信念を主張し、その延長線上でオランダやイギリスがインドネシア人に対して行っている行動を激しく批判した。それにうなずく記者もいれば、反対に攻撃的な逆質問をぶつけてくる記者もいた。
記者会見が終わってから、タントリはスカルノ大統領や政府首脳たちに紹介された。政府首脳たちはタントリの働きに満足していたようだ。


< 共和国中枢に迎えられる >
タントリがその務めを果たしてモジョクルトの奥の山中にもどっておよそ一週間経ってから、かの女宛てにインドネシア共和国政府の公式書状が届いた。情報大臣が面会を望んでいるので、ヨグヤカルタまでお越しいただきたい、という内容だ。ジャカルタがAFNEI進駐軍の統制下に置かれたために、1946年1月4日、共和国政府はヨグヤカルタに首都を移した。だから政府要人はすべてヨグヤカルタにいる。
アリ・サストロアミジョヨ情報大臣はタントリに中央政府で働いてほしいと望んでおり、ヨグヤカルタに移ることを考慮してほしいという説明も書状の中に書き添えられていた。

東ジャワの一民間ラジオ局で狭いエリアを対象に活動するのでなく、中央政府が全世界向けに行っている活動に是非力を貸してほしい。独立インドネシアを盛り立てて行くことが、スラバヤという一地域に向ける対策よりもはるかに大きい効果を持っているのは疑いがない。ヨグヤカルタからはThe Voice of Free Indonesiaというラジオ放送が全世界向けに発信されている。
これまで培ってきたブントモや叛乱ラジオ局の同僚たち、更にさまざまな活動で知り合った人民保安軍や民間戦闘部隊の戦闘員たちといった人間関係の中で、気安さの中の日常生活を続けたいという念願をタントリが持たなかったわけではない。しかし、独立インドネシアへの貢献を誓ったタントリにとって、ヨグヤ行きは避けることのできない運命の道だったのである。決心するまでにそれほどの時間はかからなかった。


タントリはモジョクルトを去ってヨグヤカルタに向かった。情報省を訪れると、市内のホテルムルデカを宿舎にするよう手配してくれた。情報大臣に面会すると、大臣は最初の仕事としてスカルノ大統領の英語スピーチの原稿作成を命じた。
世界向けに放送される大統領初のラジオスピーチだ。タントリは精魂込めて原稿を作ったが、ほどなく大統領は流暢に英語を話すことがわかった。どうやら大統領は初スピーチを格調高いものにしたかったようだ。
そのスピーチは大きい成功をおさめ、世界的な反響を引き起こした。するとタントリは大統領官邸に呼び出された。スカルノ大統領が会いたいそうだ。

タントリはサルンとクバヤを着て、ホテルをひとりで出た。徒歩で行ける距離だ。しばらく歩くと、ヨグヤの民衆が物珍し気に集まって来て、タントリの後ろについて歩きはじめた。民衆の列はどんどん長くなり、「これじゃまるでハメルンの笛吹だわ。」とタントリは微笑んだ。民衆はタントリが大統領官邸に入るまでついてきた。
官邸でタントリは豪華な応接室に案内され、しばらく待たされた。やっと現れたスカルノ大統領はサルン姿に短いジャケットを着てコピアを被り、リラックスした雰囲気でタントリに相対した。
「お待たせして申し訳ない。さっきわたしは盛装していたのだが、あなたがインドネシアの伝統衣装でお見えになったので、急遽これに着替えた。せっかくあなたがその姿でいらっしゃったのだから、わたしもそれに合わせるのがふさわしいと思ったからです。」
面会時間はあっという間に過ぎて、スカルノに接したほとんどの女性と同様に、タントリもかれの人物像に魅せられてしまった。インドネシアの伝統衣装があなたにはとてもよく似合うし、あなたは着付けがとても上手だ、と小柄な体躯のタントリを褒めることを忘れないスカルノに、かれがどうしてあれほど女性の人気を集めているのか、タントリはその秘密をうかがい知った思いをした。
ホテルに戻ろうとするタントリに大統領は、徒歩で帰ることを許さなかった。それほど遠い距離でもないというのに、大統領公用車でホテルまで送り届けるよう大統領は副官に命じた。


< アンダーソン少尉 >
ある日、タントリはアミール・シャリフディン国防大臣に呼ばれた。初対面のふたりはさまざまな話を交わした。日本軍政時代に大臣は憲兵隊に捕らえられ、処刑される寸前に至った。そのときスカルノが民衆に愛されているアミールを殺せば民衆の怨恨を買って叛乱が起こるかもしれないという理由で助命に努めたため、処罰が終身刑に変更されたということがあった。

憲兵隊に捕らえられていたという体験はふたりの共通項であり、その点で話が合ったのはもちろんだ。
だが、ふたりの息が合ったのは、それだけのためではない。ブンアミールはブントモと同じように小柄だったが、性格はブントモを陽とすればブンアミールは陰の傾向が強く、他人の後ろで目立たないようにバックアップするのを好んだ。人一倍誠実さにあふれているかれの性格をタントリは稀有のものと感じ、自分と同質の人間に対する仲間意識を踏まえた友情が育まれたようだ。

さまざまな会話のあと、ブンアミールはタントリに尋ねた。
「あなたはオランダ人とオーストラリア人を見分けることができますか?」
「誰でもできますよ。オーストラリア人の英語はたいへん特徴がありますから。どうしてそんなことを尋ねるのですか?」
「こういうことなのです。」
ブンアミールの話はこんなものだった。

スラバヤの市街区域から少し離れた水田の中で、イギリス軍の軍服を着ている将校がひとり、共和国軍に捕まった。本人はイギリス軍将校だが、オーストラリア人だと名乗っている。モジョクルトの人民保安軍司令官は、その男がNICAのスパイではないかと疑っている。
その男はモジョクルトの病院に収容されているが、かれが本当にオーストラリア人なのか、あるいはオランダ人なのか、それを早急に判定して適切な対応を取らなければ、攻撃的な民兵組織が何をするかわからない。もし本当にオーストラリア人であれば、共和国はかれを保護しなければならないので、望ましくない事態が起こるのをできるかぎり防がなければならない。
タントリはその見極めをつけ、もしオーストラリア人であれば安全をはかるためにヨグヤカルタに移送してほしい。
モジョクルトのその病院には、白人がもうひとり収容されている。モジョクルト上空で撃墜されたイギリス軍用機の操縦士だ。この男にも会って、身元をはっきりさせてほしい。
それが国防大臣からタントリへの任務要請だった。タントリはその任務をふたつ返事で引き受けた。

数日後、準備を整えたタントリはモジョクルトに向けて出発した。人民保安軍のひとりの大佐がこの任務の相棒であり、同時にかの女のガードマンだ。ヨグヤカルタからモジョクルトに向かう街道はひどい道路状況で、おまけに地域地域をおさえている武装民兵組織が通行者をチェックする。共和国国防大臣の出した任務命令書に加えて、ふたりの身分証明書がチェックされた。人民保安軍大佐だとはいえ、階級章ひとつで通してはくれない。ともかく、たいへん時間がかかったが、トラブルは起こらずにモジョクルトに到着した。
タントリはモジョクルトの病院で車から下り、大佐はモジョクルトの人民保安軍司令部に向かった。

タントリは院長に用件を話して、収容されている白人患者の面会許可を得た。オーストラリア人を自称している患者の部屋を訪ねると、部屋には患者のほかに人民保安軍のインドネシア人将校がひとりいて、談笑していた。ベッドに座っていた患者は、入って来たタントリを目にして跳びあがった。
「おお、こんなところに国際赤十字の白人看護婦がいるのか!?」
タントリはかれが興奮してベッドから降りないように、手で制する。

「あなたはオランダ人?」
かれの問いに対してタントリは、自分が何者であり、看護婦ではないということを説明した。腕に巻いた紅白の腕章は、赤十字のマークでないことも。
「これはインドネシア共和国独立闘争のシンボルなのです。」とタントリは言う。自分はインドネシア共和国のために働いている人間であり、あなたの状態を調べるよう命じられてやってきたのだ、と。

その白人はオーストラリアのカルグ―リーが故郷で、オーストラリアからAFNEI軍に派遣されたブルース・アンダーソンという名の少尉だった。スラバヤ市境界地帯での哨戒パトロールに一個分隊を率いて出動したが、道に迷ってしまい、気が付いたときは市区域からかなり外の水田地帯にいた。そして竹槍と鉈を持った共和国側の住民グループに襲撃され、分隊は全滅した。少尉は負傷したが、かろうじて深い水路の中に身を隠して死を免れた。ところが、その闘いのあとにやってきた共和国人民保安軍に発見されて捕らえられ、モジョクルトの病院に収容された。

オーストラリア訛りの強い英語から、タントリはアンダーソン少尉が生粋のオーストラリア人であり、オランダのスパイでないことをすぐに判断した。「白人に対する嫌悪感が強まっている地方部にいつまでもいては身柄の安全が保証できないので、共和国上層部はあなたをヨグヤカルタで治療し、体調が良くなったらAFNEI軍に送り返すことを計画している。」とタントリはかれに伝えた。
すると、かれ自身はモジョクルトの病院暮らしを快適に感じており、医師や看護婦が親切にしてくれるし、親しくなった人民保安軍将校も頻繁にタバコを持ってやってきては話し相手になってくれるので不満は何もない、と前置きした上で、捕虜収容所に入れられても文句の言えない立場にある自分に、共和国上層部がそのような配慮をしてくれるのは、たいへんありがたいことだ、とその申し出を快諾した。

続いて、もうひとりのイギリス軍用機パイロットの部屋をタントリは訪れた。W.ダニエルズと名乗るパイロットはせいぜい23歳くらいの若者だった。かれは重態で、生きようとする意志に導かれてただベッドに身体を横たえているだけであるようにタントリには見えた。治療に来るジャワの美人看護婦たちに気持ちを向ける余裕などさらさらないにちがいない。
ともあれ、短い会話とかれの話す内容から、かれも正真正銘のイギリス人であることはタントリにもすぐに判った。
見極めをつけたタントリは、相棒の大佐が病院に戻って来るのを待ち、その足で再びヨグヤカルタ目指してモジョクルトを去った。


翌朝、国防大臣に結果を報告すると、大臣はアンダーソン少尉をまず護送せよと次の指令を出した。タントリの相棒を務めた大佐の家に収容して養生させ、ジャカルタのAFNEI軍司令部に引き渡す準備をその間に行うというのが大臣の考えだ。
タントリは毎日モジョクルトの病院に電話し、院長にアンダーソン少尉の移送の可否を尋ねた。そうしているうちに、AFNEI軍と共和国側の間にまたまた大規模な軍事衝突が発生し、白人嫌悪の民情が一層高まって来る。

院長がついに移送の許可を出したので、タントリは再び大佐と共にモジョクルトへ向かった。今度はトミーガンを手にした兵士二名が同行する。
ヨグヤからモジョクルトへの街道を通る際に、通過する町や村では必ず武装した地元民に停止を命じられ、書類がチェックされた。今回は前回よりも緊迫した雰囲気が感じられ、サルンクバヤ姿に紅白の腕章を巻いていても、クトゥッ・タントリを知らない地元民の間からは白人であるタントリに向けられる疑惑や敵意が強まっていることをかの女は感じた。
人民保安軍の検問は総じて、比較的容易に通過できたが、武装地元民や民間ゲリラの検問には苦労した。検問に立っている若者たちは気が立っていて、すぐに銃口を向けて撃とうとする。ともかくも、一行は地元民を説得して無事通過する努力を重ね、ついにモジョクルトの町に入った。


病院を訪れてアンダーソン少尉を退院させようとしたところ、タントリが退院の許可をその耳で確かに聞いたはずなのに、院長の態度は一変していた。
イギリス軍が共和国側に激しい軍事攻撃を向けてきたことが、東ジャワの人民保安軍司令官の堪忍袋の緒を切らせたのだ。怒りに燃えた司令官は、モジョクルトの病院に収容されているアンダーソンとダニエルズを絶対に解放してはならない、と院長に命じたのである。
大佐は院長に国防大臣の指令書を突き付けた。指令書にはアンダーソン少尉をヨグヤカルタに移送せよとの命令が記されている。しかし院長は、国防大臣の指令に従おうとせず、東ジャワ司令部の意向を優先させようとしている。大佐は人民保安軍の命令系統を講釈したが、どうあっても道理に従おうとしない院長に腹を立てて拳銃を抜いた。「わからずやに説明する言葉はもうない。こうなれば力ずくでアンダーソンを連れて行くだけだ。」ふたりの兵士もそれに倣ってトミーガンを院長に向ける。

タントリは大佐をなだめた。「ここは病院です。暴力はよくないわ。先に大臣に事態を報告しましょう。」
院長を睨みつけていた大佐はしばらくそのままの姿勢でいたが、銃を下すと電話を借りて国防省に電話した。大臣は大佐に、まず司令官に会って説得せよとの指示を与えた。一行は病院を出た。


日没が迫っている空の下を、一行は司令部を探して田舎道を走る。スラバヤの街に近付くと、人民保安軍が敷いている防衛線に行き当たった。車を使うのはもう無理だ。道路は通れないため、水田のあぜ道を通らなければならないし、自動車のヘッドライトは敵に射撃目標を与えることになる。タントリと大佐は車を降りて、徒歩であぜ道に踏み込んだ。だんだんと闇が深まってくる。
ふたりが闇の中を進んで行くと、「誰か?」という声がかかった。目を凝らすと、検問ポストがあった。「司令官に会いに来た。」と言うと、歩哨に立っていた兵士が司令部まで案内してくれた。
谷を下って行った下に地下壕があった。大佐が先導して中に入り、タントリは後ろに従う。中では将校たちが作戦会議中だったようだ。机の上に大型の東ジャワの地図が置いてあり、座っている者や立っている者が机の脇にいる議長の方を向いている。かれらは一斉に大佐とタントリに視線を向けた。ふたりのうちのどちらかを全員が知っていたようだ。もちろん、両人を知っている者も少なくない。サルンクバヤ姿のタントリにほとんどの者が微笑みを向けた。タントリはその中に司令官の顔を見出した。過去にブントモを介して面識があったのだ。

ふたりは、用件をすぐに切り出した。司令官は黙ってふたりの話を聞いていたが、ふたりの話が終わると怒りの混じった声音で不平を鳴らした。
「たったひとりのイギリス軍少尉になんでこんなに大騒ぎをしなきゃいかんのだ?イギリス軍が何をしているのかをよく見ろ。インドネシア人が何百人も殺されているのだぞ。・・・・しかしその少尉が共和国に同情的だというのは一考に値するなあ。」
国防大臣の指令に面と向かって反抗することもできず、司令官はポジティブ思考に切り替えた。「モジョクルトからマディウンまでは民兵や武装市民の支配下にあり、軍はその地域を完全に掌握できていない。そこを無事に通過できるかどうかは大きな賭けになる。白人兵士がかれらに捕まれば、命はないのだぞ。」
司令官はいきなりスタッフに向かって話しかけ、数回の応答を経て結論を語った。
「わしはあんたたちと一緒にモジョクルトの病院へ行こう。アンダーソン少尉がそういう扱いをされるにふさわしい人間かどうかをこの目で確かめたい。ヨグヤにかれを連れて行くかどうかは、その上でのことだ。誠実な男であるなら、大臣の意向に従おう。」


病院長は夜中に大佐とタントリが司令官を連れて戻って来たのを見て、あっけにとられた。命令厳守で畏怖されている司令官が、イギリス軍少尉に会うためにわざわざ病院にやってくるなんて。
みんなはすぐにアンダーソン少尉の病室に入った。司令官はかれに、インドネシアに来てからの戦歴をすべて話してくれ、と依頼した。アンダーソンは自分の体験を物語り始めた。話の途中で司令官は何度か質問をはさんだ。そしてアンダーソンが話終えたとき、司令官は眉を開いた。
「ヤングマン、出発の用意をしたまえ。あんたは大佐とクトゥッ・タントリと一緒にヨグヤカルタへ移るのだ。」
そのあと、みんなは院長室に移ってコーヒーを振舞われた。
「アンダーソンは良い男だが、将校としてはナイーブすぎるな。」と司令官は印象を語った。そして、ヨグヤまでかれを無事に送り届けるために、マディウンまでわしも同行しよう、と言い出した。マディウンを過ぎれば、もう安全は保証されたも同然だそうだ。

ヨグヤカルタまでの道程に変事は何も起こらず、無事に到着してからアンダーソンは大佐の家に客人として迎えられ、大佐の妹の介護を受けることになった。


< ダニエルズ操縦士 >
それから10日後、今度はダニエルズを迎えに行く任務がタントリに与えられた。タントリの相棒になったのは人民保安軍諜報部門の少佐で、ふたりは順調にモジョクルトに到着し、具合が回復して来たダニエルズを連れてヨグヤへの帰途をたどった。
ところがソロの手前の町で検問に当たっていた人民保安軍部隊指揮官はクトゥッ・タントリの名前を聞いたこともなく、相棒の諜報部門少佐にも面識がなく、一行を部隊本部に連行した。部隊本部にはふたりのどちらかを知っている者がたくさんいて、手続はあっという間に終了し、一行は再びヨグヤへの道を進むことになったが、そこで時間を取られたことと相まって、移動中にダニエルズの容態が悪化してしまった。ダニエルズは砲弾の破片が心臓の近くに入ったままになっており、複雑な手術が必要なためにモジョクルトの病院はできるだけの処置を行っただけで、治療が完璧になされたわけではなかったのだ。このダニエルズこそ、早急に本国に送り返さなければならない状態にあったのである。

一行はヨグヤに着くとすぐに大佐の家にダニエルズを届け、ブンアミールに結果を報告した。大臣はその成果にたいそう満足した。
ふたりの白人を客にした大佐の一家は献身的な奉仕でふたりの介護と養生の世話を行い、容態が悪化したダニエルズも再び快方に向かう。しばらくして元気になったふたりに面会するためブンアミールがタントリを伴って大佐の家を訪れた。

ふたりと四方山話を交わしてから、ブンアミールはふたりに言った。
「できるだけ早くあなたがたふたりをジャカルタのイギリス軍司令部に送り届けるよう、交渉を開始する。司令部はきっとあなたがたを早急に本国に送り返すだろう。」

ところがふたりは思いがけないことを言い出したのだ。ダニエルズは語る。
「大臣閣下、われわれを司令部に送り届けてくださるとのご配慮には、たいへん感謝しております。しかしわれわれは相談の上で結論を出しました。われわれはインドネシアを去りたくないのです。われわれは必ずや、インドネシア共和国のお役に立てるだろうと確信しています。少なくとも、アンダーソンは青年たちに軍事訓練を施すことができるし、わたしは航空機の操縦を教えることができます。われわれの気持ちはタントリさんのものと変わりません。われわれは、自分たちの国がインドネシアの民衆に軍事攻撃を仕掛けていることが恥ずかしくてたまりません。われわれをここに置いていただけませんでしょうか?」

ブンアミールは微笑みながら首を振った。
「わたしにそれができるなら、どんなにうれしいことか。おっしゃる通り、共和国には人材が不足しています。あなたがたが手助けしてくれたなら、共和国は大いに力づけられるにちがいありません。しかしあなたがたは法的に、戦争の捕虜なのです。あなたがたはイギリス軍の軍人なのであり、軍務の最中に敵国を幇助するようなことをすれば、脱走兵になるばかりか、裏切り者として断罪されるのは間違いないでしょう。そうなれば、二度と本国に戻ることができなくなります。インドネシア共和国が完璧な独立を達成し、われわれの国がお互いに現在のような敵対関係を終わらせた後であれば、共和国はあなたがたを両手を開いて受け入れることができます。しかし今は、まだその時ではありません。」

アンダーソンが話を次ぐ。
「軍の法廷に裁かれることなど、くそくらえですよ。わたしはオーストラリア人なのであり、オーストラリアとインドネシア共和国は交戦状態に入っていないはずです。だから、わたしは自分の生き方を自由に選べるはずですよ。」
「いや、そうはいかない。あなたはあくまでもイギリス軍の一連隊のひとりとして軍務に服しているのです。その立場が解消されないかぎり、あなたがどれほどそれを望もうとも、あなたが敵軍を援けることは許されないのです。特にダニエルズさんは早急に本国に戻って身体の中に残っている破片を摘出する手術を受けなければなりません。インドネシアにはまだその技術がないのですから。」
ふたりは沈鬱な表情で黙り込んだ。しかし暫くしてアンダーソンの表情が変わった。
「わかりました。われわれはどうしてもインドネシアを去らなければならない。であるなら、われわれを利用すればどうでしょうか。イギリス軍は2百人ほどのインドネシア人捕虜を抱えているという話です。われわれふたりを捕虜交換に使うことは難しくないでしょう。そうすることで、われわれは少しでもあなた方のお役に立てるはずだ。」
ダニエルズもうなずいている。ブンアミールは笑い出した。
「なるほど、それはグッドアイデアだ、少尉。さっそくその方法を探ってみよう。」


ブンアミールもタントリも、そんな算数が成り立つとは思っていなかった。ブンアミールはそれをタワルムナワルの最初の値付けとして交渉を開始するよう指示した。ところがヒョウタンからコマが出た。
イギリス軍は2百人のインドネシア人捕虜をヨグヤカルタに送り届け、ブンアミールは自らアンダーソンとダニエルズのふたりを伴って飛行機に乗り込み、ジャカルタに飛んだ。

イギリス軍司令部でふたりの身柄を引き渡したあと、ブンアミールはふたりから別れの挨拶を受けた。そのときダニエルズは列席しているイギリス軍上層部を前にして、たいへんなことを口にした。
「たいへんお世話になりました。わたしの生命を救って下さった皆さんによろしくお伝えください。そして大臣閣下には、インドネシア共和国が早急に完全独立を達成されるよう、わたしの祈りをお伝えします。ムルデカ、トゥタップムルデカ!」
ダニエルズが急遽イギリスに送り返されたのが、病状を懸念してのことだったのか、それとも捕虜引き渡しの場で口走った言葉のゆえだったのか、真相を語った者はひとりもいなかった。


< スカルノ大統領巡行 >
およそ一年強の終戦処理を終えたAFNEI進駐軍はインドネシアを去った。その中核をなしたイギリス軍からすべてを移管されたオランダ領東インド文民政府(NICA)は、いよいよかれらが反乱分子と規定しているインドネシア共和国と対峙することになる。
NICAはオランダ側の支配地域を拡大させるための軍事行動とともに、インドネシア共和国支配地域に対する経済封鎖を開始した。その封鎖をかいくぐって物資輸送をこころみた多数のインドネシア人が海の藻屑と消えた。

物資の欠乏がまたまたインドネシア人を襲う。そして市場価格暴騰をはかって米の売り惜しみが始まった。ジャワで米流通機構の仲買から末端の小売網に携わっているのは華人だ。かれらが米を隠してしまった。街中にある食糧店が軒並み店を閉めてしまう。果物さえ販売されなくなった。ヨグヤカルタでは1キロの米を買うことすらできない。
ホテルムルデカも食材が手に入らず、レストランは閉店。街中でも食べ物を買える場所がなくなってしまった。タントリはもう三日間、水だけで暮らしている。会う人ごとに、みんなが空腹を訴えた。そんなとき、国防省諜報機関員のひとりが、大統領官邸に食事に来るようタントリを誘った。諜報機関は華人が隠匿している米の倉庫を一斉手入れして差押え、食糧店を開いて小売販売を命じ、小売価格は政府が統制する、という方針をタントリにささやき、それまでは大統領官邸に食べに来なさい、と奨めた。
自分だけが特権を得ることを嫌うタントリはそれをありがたく断り、自分で何とかする、と諜報機関員に告げた。

ヨグヤの街中は、火が消えたようになっている。民衆は空腹を抱えて日々の経済活動を営む力を失い、家の中にこもっておとなしくしている。ありとあらゆる商店も店を閉めている。
タントリは街の様子を観察しながら通りを歩いた。そして一軒のアートショップの前に出た。コヒノールという看板を掲げたその店も閉まっている。店主は知り合いのインド人だ。タントリはその店の表を叩いた。
タントリが空腹を訴えると、店主は「少ししかないが、分かち合いましょう」と優しく応対した。量的にたいへん限られた食事ではあったが、タントリは暖かい友情のこもったその食事にとても満足した。

そしてその夜、ヨグヤカルタの隠匿米に官憲の手が回った。華人の商店や倉庫が強制的に開かれて、隠されていた物資がすべて没収された。華人たちはあてにしていた暴利どころか、その元手すら失ったことになる。それ以来、ジャワで投機目的の物資隠匿はなくなった、とタントリは書いているが、かの女がインドネシアから去ったあとも物資隠匿が消え失せたということはなかなか言いにくいにちがいない。


しばらくしてスカルノ大統領は、民情視察と住民への鼓舞を兼ねて東ジャワの共和国領内を巡行する旅を企画した。この旅には共和国政府要職者のほとんどが同行し、その随行者や関係者をもまじえた大集団となった。タントリもその旅への随行を命じられた。
一行がバニュワギを訪れたとき、地元行政官の役所前に住民を集めて大統領のスピーチが行われた。タントリはスカルノの演説術の一部を次のように紹介している。

「わたしは百パーセントの独立しか決して受け入れない。1パーセントでも欠けていれば、斟酌の対象にすらならない。90パーセントの独立を、わたしは受け入れなければならないのだろうか?」
聴衆は叫ぶ。「ティダッ!」
「99パーセントの独立なら、わたしは受け入れなければならないのか?」
「ティダッ!」ひとつになった聴衆の声がこだます。
「だったら、99.5パーセントならどうだろうか?」
「ティダッ!ティダッ!ティダッ!」
「だったら、わたしが受け入れなければならないのはどれなんだ?」
「百パーセントの独立!」

そのような形でブンカルノは民衆と触れ合い、民衆が自分を愛していることを実感する。いや、愛どころか、それは信奉なのかもしれない。
マランでは、スカルノの演説を聴くために、遠方からも民衆が前夜にやってきて地面で眠り、スピーチが始まるのを待った。スピーチが始まったとき、聴衆の数は千を超えていた。

そのときタントリは多数の随行員たちと共に舞台の後ろに居並んでいたが、スピーチを終えたスカルノはタントリに目を向けたあと、また語り出した。
「わたしがここを離れる前に、もうひとつ皆さんに申し上げたいことがあります。今この舞台の後ろに白人女性がひとりいることに、皆さんはきっともうお気付きのことでしょう。皆さんのほとんどは、不審を抱いているにちがいありません。インドネシアの独立をやめさせようとして戦争している民族の人間を、インドネシアの大統領がどうして連れ歩いているのかと。
紹介しましょう。かの女はバリ島出身のクトゥッ・タントリさんです。クトゥッというのはバリの家庭で四番目に生れた子供を意味します。タントリという名は、われわれの民話の中にも登場しているので、皆さんはきっともうお解りでしょう。このクトゥッさんはイギリス生まれのアメリカ人ですが、イギリス人やアメリカ人である以上に、もっとはるかにインドネシア人なのです。かの女は公然とわれわれに味方している唯一の白人です。かの女はわれわれが闘っている独立を助けて、全力を尽くしてくれています。
わたしはここに集まっているすべての老若男女にお願いしたい。クトゥッ・タントリの顔をよく見て、覚えてください。わたしはかの女がインドネシアの民衆にひどい目に遭わされることを望みません。
われわれの独立闘争が続けられる間、かの女は何度もマランに足を運ぶでしょう。皆さんは、かの女に出会ったなら、かの女を保護しなければなりません。兄弟姉妹という言葉の意味をじっくりと思い返すのです。わたしの母親もバリ女性です。わたしはクトゥッ・タントリさんの保護をあなた方みんなにゆだねます。必要ならば、わが身を犠牲にしてでも、かの女を守ってください。」
聴衆から、耳を裂かんばかりの盛大な拍手があがった。タントリの胸は感激で満たされ、涙が頬を伝った。

別の町では、アメリカ独立戦争に活躍した志士のエピソードを語って聞かせたあとブンカルノは聴衆に対し、英語のプロパガンダを教えた。
次は外国の報道関係者を連れてくることにしており、かれらが来たときに皆さんはこう言ってほしい、と語って教えた言葉は「All is running well!」
「外国の新聞記者や国際ラジオ放送の記者が来たとき、インドネシアではすべてがうまく行っている、ということをかれらの言葉で話してあげてください。それはこう言うのです。"All is running well!" いいですか、忘れないように、もう一度復唱しましょう。"All is running well!"
外国の通信員が来たら、皆さんはどう言いますか?」
聴衆は声を張り上げて叫ぶ。「All is running well in Indonesia!」

後にスカルノ大統領が外国人報道関係者を集めて共和国領内視察旅行を繰り返したとき、記者たちは何千人もの群衆が「All is running well in Indonesia!」と叫ぶ大合唱を前にして大きな感銘を受けていたありさまを、タントリは記憶している。


< ヌラの死 >
ある夜明け前、ホテルムルデカのタントリの部屋をホテル従業員がノックした。時計はまだ午前4時半を指している。ひとりの将校があなたに面会を求めている、と従業員が言う。タントリはその将校をベランダに通して、コーヒーを出すよう従業員に依頼し、自分は手早く着替えてベランダに出た。

後ろ向きに座っている若い将校にタントリが声をかけると、振り向いた将校はピトだった。バリ島に潜入して現地状況を探っていたピトが戻って来たのだ。ところがピトの表情は悲しみに包まれていた。悪い予感がタントリを包んだ。
ピトは言葉を失っている。タントリは心を固めた。「ピト、話して。アナアグン・ヌラのことでしょう?」
ほとんど聞き取れないような声でピトは言葉を吐き出した。「かれは亡くなりました。不穏分子に撃たれたんです。」
「オランダ人?」
「いや、オランダ人でなく、インドネシア人に。」
「ありえないわ。」
「これに関する話はいろいろ錯綜していて、一筋縄ではいきません。かれらがオランダ人の手先だったという話をするひともいましたが、わたしには、そうは思えません。」
ピトは出来事の一部始終を話し始めた。

オランダ人がバリ島に戻ってきてから、NICA兵士が共和国派のバリ島民にさまざまな暴行を加え始めた。独立派の戦士が捕虜になったとき、捕虜は頭を坊主刈りにされた上、頭皮の半分をむかれた。インドネシアの紅白旗に見立てたわけだ。
そして荷車の上に乗せられて、デンパサルの街中を引き回された。オランダ人に逆らうとこうなるぞという見せしめだ。他の独立派戦士たちの怒りは沸騰した。島内にいるすべてのオランダ人を皆殺しにしようと衆議は一致したが、ヌラはみんなの感情を鎮めようと努めた。復讐に復讐をぶつけ、血で血を洗う殺し合いは決して正しいことではない、というのがかれの持論だ。殺人は間違ったことであり、殺人を殺人で正すことはできない。
インドネシアの完全独立はあと少しのところまで近付いているのであり、その日が来ればすべてのオランダ人はこの地から去って行く。それまで、間違ったことをしないように努めなければならない。

しかし理性の勝っている戦士ばかりではない。暴力で勝つことを求めて時代の潮流に乗った者たちが憎悪の感情をたぎらせるとき、その誤りを指摘されれば相手は即座に敵となる。かれらがアナアグン・ヌラを、軟弱どころかオランダ人に通じていると言い出すことは大いにありうることだ。獅子身中の虫は処刑されなければならない。
ある夜、独立派戦士と見られている数人の男たちがヌラの隠れ住んでいる山岳地帯の家にやってくると、既に施錠されている家の表を叩いて、「ヌラへの緊急連絡を持ってきた」と呼ばわった。ヌラは何の不審も抱かずに扉を開いた。次の瞬間、数発の銃声が響き、ヌラは床に転がった。ヌラが動かなくなったことを確かめた銃撃者たちは、静かにそこを立ち去った。
一味は徒歩で街道まで下りると、待っていた車に乗って去った。後日、その車がヌガラに向かうジュンブラナの村近くに乗り捨てられてあったのが見つかっている。
それらが目撃者などから集められた情報だった。ヌラの遺体は王家のひとびとによって埋葬された。

ピトはヌラがタントリに宛てて書いた手紙を持ってきた。ヌラは自分の運命を予知していたのかもしれない。ヌラはタントリに妻になってほしいと望んだが、かの女はまだその時期でないと考えて同意しなかった。ただ心の奥底に、自分の夫はヌラしかいないという気持ちがあったのは、疑いないところだったろう。
ピトが疲れ切っているのを見て、タントリはかれに室内で休息するよう奨め、自分はベランダで物思いに沈んだ。

疲れを癒したピトと一緒に、タントリは部屋のベランダで昼食を摂った。ピトはバリの様子をいろいろ物語った。
年老いたヌラの父王は、ヌラの死を耳にして、病気になってしまった。タントリがクタ海岸に設けたホテル「スワラスガラ」を盛り立ててくれたワヤン、マデ、ニョマンたちはそれぞれの村に戻って、無事でいる。スワラスガラが日本軍に接収されたとき、かれらの財産も同時に取り上げられた。そのためにかれらは極貧の暮らしに落ちている。
かれらはタントリが日本軍に殺されたと思っていたが、まだ生きていることを知って大いに喜んだ。タントリにまたバリに戻ってもらい、一緒にホテルを再興しようと考えている。

しかしピトが物語るバリ島の状況は、かの女がバリに戻ることを不可能と思わせた。NICAは山岳地帯を除くバリ島の全域を支配下に収め、反オランダゲリラ戦士が徘徊する山地だけがかれらの目の敵になっている。しかしゲリラ戦士たちも武器弾薬が欠乏しており、ジャワ島から密輸しなければジリ貧になって大したこともできない。ところが海岸部はNICAの監視が厳しく、密輸も思うにまかせない。

NICAはバリ島の民情を懐柔しようとして、バリ島に傀儡政府を作る計画をした。その傀儡政権の主になることに手を挙げたのは、なんとタントリの友人でもあったスカワティ王家のチョコルダ・グデ・ラカだった。タントリは信じられない思いを抱いた。
タントリが諸王家のひとびとと親しくなったとき、西洋に留学して種々の言葉をマスターしたかれにタントリは強い親しみを抱いた。バリ語やバリ文字の習得に大いなる助力を得たし、バリの知識層が持っている文学や芸術の手ほどきも、タントリはかれから与えられている。
そんな聡明なかれがインドネシア共和国の先行きを読めないはずがあるまい。そんなことをすれば、かれの将来は閉ざされてしまう。かれの兄弟や子供たちはどんな姿勢を取っているのだろうか?
ピトは答える。子供たちは父親の行動に反対し、息子は父親と縁を切ったし、兄弟たちもそれを恥じて世間から姿を隠すようになった。
いったいなぜそんなことが起こったのか?タントリは考え込み、そして思い当った。かれはフランス人を妻の一人に持っているのだ。そのルートから圧力がかかったにちがいない。
その間の事情はどうあれ、後年その結果は明白な形を取った。NICAが作った東インドネシア連合国が瓦解したとき、かれはインドネシア共和国統一国家から完全に干されてしまったのである。

懐かしいひとびとの消息を聞いたタントリは、かれらと再会したいと切望した。だが、バリ島に潜入するすべはない。警戒を強めているNICAに捕まれば、かの女の身柄がどうなるかは保証のかぎりでないのだ。タントリはインドネシア共和国のためにヨグヤカルタやソロから「インドネシア自由の声」のアナウンサーとしてラジオ放送を世界中に流す仕事を続けなければならない。
ピトは病気になった父親を見舞いにバンドンへ行き、そのあとスラバヤへ戻ってブントモやドクトルSたちにバリ島でのゲリラ活動への武器弾薬支援をどのように行うか、その相談を持ち掛けるつもりだ。
タントリはしばらくヨグヤで休養してから旅立つよう勧めたが、ピトはそれを辞退してバンドンに向けて去った。


< 決死のシンガポール潜入 >
AFNEI軍が終戦処理を終えて解散し、イギリス軍がインドネシアから去ったあと、復帰したNICA(蘭領東インド文民政府)は反乱分子と断定しているインドネシア共和国に対する制圧行動を強化する。
インドネシア共和国を支援してオランダに対する批判の先頭に立ったのは、オーストラリアとインドだった。ネール首相は国連で厳しいオランダ弾劾演説を行ったし、オーストラリアの港湾労組は軍用貨物を積んだオランダ船舶に対してスト行動を起こした。

イギリス政府の仲介でインドネシア共和国とオランダ政府がリンガルジャティ協定を結んだあと、しばらくしてオランダは協定を破棄して警察行動を起こす。
NICA軍がヨグヤカルタまで進攻してくれば、タントリはきわめて危険な立場に立たされる。捕らわれれば、裁判もなく射殺される可能性も考えられる。マカッサルでウェステルリンクが何をしたかを知らないインドネシア人はいない。
そんな状況を慮ったのだろう、親しい諜報部門の少佐が話を持ってきた。タントリは飛行機でオーストラリアに飛び、オーストラリア人にインドネシアの置かれている状況を宣伝して理解を求め、シンパを増やそうというアイデアだ。
タントリはアメリカのパスポートを日本軍憲兵隊に取り上げられてなくしてしまっていることを説明した。すると少佐は、すぐにインドネシアのパスポートを作ってあげるから大丈夫だと請け合う。

かれの説明によれば、タントリおよびこのプロジェクト参加者は日本軍が残した軍用機に補助燃料タンクを付けてインド洋を越えるのだそうだ。そのアイデアには不安があったが、身の安全をはかるには国を出る必要がある。最終的にタントリはそのプロジェクトに乘ることにした。諜報部少佐はさっそくその手配にかかった。

ところがそのプロジェクトは結局ご破算になった。日本軍用機が整備されてテスト飛行を行っていた時、海に墜落したのだ。そのとき諜報部少佐は乗っていなかったので事故の被害者になることは免れたが、テスト飛行に乗っていた全員が帰還しなかった。
だがタントリを取り巻くひとびとは、それで諦めるわけがなかった。次に組まれた計画は、マラヤ半島経由でシンガポールへ入り、シンガポールからオーストラリアへ飛ぶというものだ。そしてオーストラリアでの仕事が終われば、更にアメリカへ行って国連へのロビー活動をせよ、と。

北部オーストラリアの飛行場を使ってオランダはNICA軍のために武器兵器の輸送を計画している。その事実をたくさんのオーストラリア国民が知らない。インドネシアに同情的なオーストラリア国民にそれを知らせることは、オランダの計画に障害を与えることになるだろう。また、インドネシア共和国の医薬品欠乏状態は既に深刻な状況になっていることをオーストラリ赤十字に知らせることで、オーストラリア赤十字は医薬品の空輸を行ってくれるにちがいない。
タントリはインドネシア共和国を代表してそのような宣伝活動を行ってほしい。それがかの女に与えられた任務だ。

だがジャワ島からマラヤ半島のどこかに潜入するのは、オランダが海上封鎖を行っているだけにたいへん難しい。封鎖線を突破して武器弾薬や食糧をインドネシアに運び込もうとして、たくさんの船と人が海のもくずになっている。果たしてタントリはそれをうまくやりおおせるだろうか?

諜報部門はできるかぎりの手を尽くしてくれた。タントリが乗るのは、日本軍が残した中型木造船で、イギリスの船に偽装するために年寄りのイギリス人を船長に雇い、イギリス国旗を船内に隠し置く。ただしその船長はダミーであり、実際には船員のふりをして乗り組むアンボン人が船長だ。ダミーの飲んだくれ船長が航海の指揮を執るわけではない。海上封鎖を行っているオランダの軍艦に臨検されたときがかれの出番となる。その船は中部ジャワのトゥガル港に用意された。トゥガル港はオランダの巡洋艦が一隻港外にいて、港の活動を監視している。


タントリは手荷物などほとんどない姿でヨグヤカルタを発った。身に着けた衣服と着替えとしてのもう一そろいのサルンクバヤが荷物のほとんどだ。
かの女は自動車で諜報部門大佐と一緒にトゥガルに向かった。ところが道中半ばにしてタイヤがひとつパンクした。当時自動車のタイヤは希少品のひとつであり、スペアタイヤを持つ余裕などありはしない。
ふたりは車を捨てて歩き出した。何時間歩いただろうか、トゥガル方面から軍用ジープが一台やってきた。大佐が停止を命じる。ジープは軍司令部に報告書を届けるためにヨグヤに向かっていると言う。大佐は上官命令を下した。「先にトゥガルまで、われわれを運べ。」

ふたりはトゥガルの軍司令官の家に泊まった。船の出港準備は完了しており、沖にいてトゥガル港を出入りする船を監視している巡洋艦の隙を突く機会を待ち受けているのだ。夜になれば巡洋艦のサーチライトが一定のパターン周期で海面を照らす。


翌日、アンボン人船長と4人の乗組員が挨拶に来た。4人のうちの3人はモジョクルト時代に面識があった共和国派戦闘員たちだった。だが、船長役のイギリス人に会ったのは、その日の午後遅くだった。船を見に行ったタントリは、こんな船で海を乗り切れるのだろうか、と不安を感じた。船は地元漁船を装って甲板に漁網を積んでいる。魚臭さが鼻を衝いた。
酔っ払いの千鳥足で船にやってきた老人はタントリを見ても、ただ一瞥しただけで親しみを示さなかった。タントリが自分もイギリス人だと自己紹介すると老人は、「おお、そうか。オランダの阿呆どもに、イギリス人の凄さを目に物見せてやろうじゃないか。」と言ったが、それは酔いに任せての大言壮語だったのかどうか・・・?

しかし港外の巡洋艦は昼も夜も監視を続けており、隙を見せない。同じ状況が何日も続いた。大佐と司令官は港の活動をできるかぎり沈静化させて、監視のオランダ人を退屈させるように努めた。
その効果があったのかどうか、8日目になって巡洋艦は錨を上げ、西に向かって移動し始めた。バタヴィアへ向かったのか、それともぐるっと一回りしてくるだけなのか、それはわからない。だがタントリ一行はその機会を逃さなかった。夜のとばりが降りると、大佐と司令官が前途の無事を祈る中、船は出港した。


< オランダの海上封鎖を突破 >
二日間、船は穏やかな状況の下をジャワ島北岸に沿って西航した。三日目になって、水平線に船影が出現した。アンボン人船長はほど近い入り江に逃れることを決め、全速を指示する。この辺りの海は浅瀬が多く、喫水の深い船は海岸に近付くことができない。この木造船は地元の漁船のふりをして入り江に入り、オランダの軍艦が通り過ぎるのを待つだけだと船長は言う。
オランダの軍艦は入り江の沖で数回旋回した。そしてこの周辺に多い漁村の船だろうと最終的に判断したらしく、その場を後にした。夜になるのを待ってから、船はふたたび海上に出て海岸沿いに進んだ。

翌日の昼、また同じことが起こった。そのとき船は延々と続く断崖に沿って進んでおり、陸地に逃げる道が閉ざされている。オランダの巡洋艦は高速接近してきた。船長は船を断崖の陰に隠したが、巡洋艦がボートをおろして臨検を行えば、逃れるのは不可能だ。そうなればイギリス人船長を立たせて対決するしかないが、ニセ船長のイギリス人は部屋で酔っぱらって眠っている。
巡洋艦はしばらく沖合いを行ったり来たりしてから、結局東に向けて去って行った。最悪の事態は避けられた。
数時間待って様子を見た後、ふたたび船は日没の近付いている海に乘り出した。船はスマトラ島の陸地を左に見ながら、北西に進路を取る。

何度か危機を免れた一行は、海流の難所で知られるバンカ海峡にさしかかった。アンボン人船長は自信に満ちた操船技術を見せて、難所を乗り越えた。かれはこの冒険行をたっぷりと楽しんているようだ。オランダの海上封鎖を突破しようとして海の藻屑と消えた数多くの仲間たちと同じ運命をいつたどることになるのかわからないというのに。

バンカ海峡を通過してマラッカ海峡を北上しているとき、また遠くに船影が出現した。「オランダの駆逐艦が全速でこちらに向かっている。あの船が途中で方向を変えないかぎり、われわれの運命はここで終わることになるだろう。逃げ込める避難場所はここから一番近いもので15海里も離れているのだから。」と船長は言う。
「われわれができるのは、この辺りに多い暗礁を縫って逃げるしかない。あの駆逐艦が浅瀬に乗り上げたら、われわれはまだ運に見放されていないわけだが、反対にわれわれが暗礁に乗り上げたなら、やつらのいいなぶりものにされてしまう。」
船長はタントリに命じた。「ニセ船長を起こしてここへ来させてくれ。ただし絶対に甲板に出ないように。」そして乗組員たちにイギリス国旗を掲揚するよう指示した。その手段は過去に数多くの密輸船が使っている手口であるため、オランダ人は決してそれを信用しないだろう。しかし、すると危険が増すというものでもない。


タントリはニセ船長を起こした。「キャプテン、オランダ人が接近中ですよ。」目を覚ましたニセ船長はタントリの顔を不思議そうに眺めてから、しばらくしてポツリと言った。「また、オランダか?」
ところが、かれは起きるどころか、横たわったまま毛布をかぶって背を向けた。
タントリは途方に暮れて操舵室に戻り、床にしゃがみこんだ。既に夕方6時ごろで日没が近づいている。空は黒雲が半ばを覆っているものの、雨の降る気配はない。その日は一日中そんな天気だった。
アンボン人船長は船を陸地に向けて全速進行を命じた。エンジンの振動が船体を揺さぶる。オランダの駆逐艦はその姿をどんどん大きくしてくると砲火をその木造船に浴びせかけた。
砲弾はそれたものの、船は突然大きな衝撃を受けて進行を止めてしまった。暗礁に乗り上げたのだ。船体は右に大きく傾いている。エンジンが悲鳴をあげるが、ごりごりと船底が鳴るばかりで船は進まない。
最悪の場合は海に飛び込んで、陸地目指して泳ぐしかないと考えたタントリは、サメの恐怖を思い出してその考えを捨てた。

駆逐艦はできるかぎり接近してから投錨し、砲火をまた浴びせかけて来た。砲弾は舳先の向こうに落ちた。威嚇しているのだ。ひょっとすれば本当にイギリスの船かもしれないため、それが確定できるまで砲弾を当てるのは控えているのかもしれない。
船長と乗組員はトミーガンを手にして戦闘態勢に就いた。タントリは武器を手にすることを拒絶した。そのとき、ニセ船長がふらつく足取りで操舵室にやってきたのだ。
「何が起こったのかね?その武器は何だ?」
アンボン人船長はオランダ駆逐艦を指差した。
「阿呆どもが・・・」

ニセ船長は目を床に落として、ひとりごちる。
「わしはまだ酔っているのかね?船がひっくり返りそうに思えるが。」
アンボン人船長が状況を説明すると、ニセ船長は「わしにも銃をくれ。」と言ってトミーガンを手にした。
「ユニオンジャックが翻っているかぎり、この船上はイギリスだ。オランダ人が勝手に上ることは許さん。」
そしてタントリの方を向くと、言った。
「怖れることはない。わしとあんたが生きているかぎり、この船上はイギリスなのだ。オランダ人などに決して蹂躙させない。ジョンブル魂を見せてやろうじゃないか。」
ただの酔っ払いだと思っていたニセ船長のふるまいに、一同の意気が高揚した。いきなり全員の顔が明るくなり、これから始まるだろう修羅場を思い煩う気分が消滅してしまった。


もう日はとっぷりと暮れて、天は厚い黒雲に覆われているため、対峙する二隻の船以外に灯りはない。オランダ駆逐艦の出方を待っているとき、突然変化が始まった。すさまじい落雷とともに、豪雨が始まったのだ。激しい雨の向こう側にいる駆逐艦の姿がおぼろになり、そして隠れてしまった。
陸地に向かう波が強くなってきた。潮が戻って来たのだ。乗組員がふたり、スコップと金梃子を持って海中に飛び込んだ。船底を暗礁から外そうとしている。操舵室ではニセ船長が舵輪を握り、機関士に指示を出している。水位が高まり、船の傾きが戻り始めてから、船は数回前後に動き、そして海上を走り始めた。
駆逐艦がいると思われる場所を避けて沖に出ると、シンガポールに向けて進路を取った。豪雨は依然続いている。豪雨の向こうに隠れた駆逐艦が停止したままなのか、あるいは移動したのかまったく判然としないものの、敵の反応は皆無だった。

船はその後も何度か座礁したが、その都度暗礁から抜け出してその海域を越え、二日間を費やしてマラヤ半島の岸に近付いた。その二日間は実に穏やかな航海だった。次に控えているのは、シンガポールへの潜入だ。


< シンガポールに上陸 >
シンガポールに直接入ろうとするなら、シンガポール港に上陸するしかない。警備の厳重なこの島のどこかの岸辺に闇夜に紛れて上陸しようなどと言うのは、捕まりに行くのと五十歩百歩だろう。
シンガポール港から上陸するとしても、そこで入国チェックが行われるのは言うまでもない。まだ国際社会に承認されていないインドネシア共和国のパスポートしか持たないタントリを通してくれる見込みはないし、イギリス軍がかの女の身柄をNICAに引き渡す可能性すらある。
アンボン人船長と乗組員数人はオランダ植民地のパスポート、ニセ船長はイギリスのパスポートを持っているが、もっていない乗組員も何人かいる。おまけにニセ船長はシンガポールのイギリス統治行政にとってお尋ね者だったようで、入港すればとんでもないことになる。そんなことは百も承知のアンボン人船長は、船を海岸からおよそ3海里離れた沖に停めたまま、じっと何かが起こるのを待っている。

何時間か経過してから、モーターボートが一隻やってきて、接舷した。インドネシア人ふたりと華人ひとりが船に上がり、操舵室で打ち合わせを行ったあと、アンボン人船長はタントリを上陸させる準備をしてくる、と言い残してそのモーターボートで三人といっしょに去った。

アンボン人船長は夕方6時ごろ、華人青年ひとりを伴って戻って来た。そのハンサムな青年はシンガポールでもっとも富裕な華商一家の甥だそうだ。かれは民間商船のオフィサーの制服を着こなしているが、もちろんそんな職業ではない。
アンボン人船長はタントリが港の入国管理や税関をすり抜けてシンガポールに入る作戦をかの女に語った。タントリは娼婦に扮して酔っぱらった商船オフィサーに抱かれながら、大勢の担当官が見ている中を何の手続きもなしに素通りしていく、というのだ。港に停泊中の商船のひとつに連れ込まれた娼婦が一夜を過ごし、ふたりとも酔っぱらった状態で陸上に戻って来る、というのがそのシナリオだ。
タントリの髪や肌は人目を引くので、ショールで頭と顔を覆い、マントを着て手足を隠す。そんな恰好で華人青年に抱かれながら、港を通り過ぎる。タントリにはまったく気に入らないシナリオだったが、選択の余地はない。かの女は運を天にまかせた。


手配されてあったサンパンがやってきた。小型のサンパンは華人青年とタントリ、そして漕ぎ手が乗ればもう一杯だ。
上陸すると華人青年はふらふら歩きになり大声で歌い出した。そしてしばらく進んでから、タントリに荒っぽくキスしようとした。そんな打ち合わせなど何もなかったからタントリは本気で怒り、青年を蹴飛ばした。青年は大声で喚き、タントリをもっと強く抱きしめてまたキスしにきたから、タントリは身もだえしてその手から逃れようとし、手をふりほどいてゲートに走った。
港の構内で業務に就いていた入国管理や税関の担当官たちは、その光景を眺めて笑っていた。ふたりを止めて調べようとする者はひとりもいなかった。タントリはこうしてシンガポールの市内に入ることができた。

港を出たふたりはしばらく歩き、港から見えない場所で待っていた車に乗り込んだ。車は整然としたシンガポールの街並みを抜け、緑の多い郊外に向かい、大通りを離れて無舗装の道路を走り、手入れの行き届いた邸宅に滑り込んだ。そこは華人青年の一族の住居で、タントリはその家にしばらく逗留することになる。
その夜は安心してぐっすりと眠り、目覚めると太陽はもう中天高い。昨夜、総出で歓迎してくれたその家のひとびとは、みんなで市内へ買物に出かけたとその家の使用人が食事を用意しながらタントリに話してくれた。サルンクバヤしか持っていないタントリがその姿で街中に出ればたいへん人目を引くから、洋服を買ってきてくれるそうだ。
所在なく、その邸宅の庭を散歩していたタントリは、一台の自動車がやってきたのを見て、慌てて屋敷内の自分の部屋に隠れた。自分の存在はまだ秘密にしておかなければならないにちがいない。

しばらくすると、「クトゥッ・タントリ!」とかの女の名前を呼ぶ声がする。何となく聞き覚えのあるその声に不審を抱きながらも、タントリは部屋を出た。客間に立ってタントリを呼んでいたのはなんと、インドネシア共和国国防省の大佐とその連れの少佐のふたりだったではないか。
ふたりは二週間以上前からシンガポールに来て、ビラを一軒借りて滞在している。ふたりは共和国の公務で武器や船を買付けに来ているのだ。もちろんオランダ植民地のパスポートで合法的に入国している。この家からかれらが住んでいるビラに移ってもらうために、かの女に会いに来たのだそうだ。
「どうしてわたしがここまで来たことを知っているの?」
「マラヤの岸辺に着いてから、アンボン人船長はシンガポールのわたしのビラにやってきて報告した。あなたを上陸させるための手配をしたのは、このわたしなんだよ。」
タントリはもうしばらくこの家に逗留することにして、ふたりの客人は帰って行った。しかし、インドネシア人の間で秘密を持つのは不可能に近い。既にたくさんのシンガポール在留インドネシア人がタントリのことを知っており、あなたに会いにインドネシア人がちらほらとこの家を訪れるかもしれない、と大佐が帰り際に言ったのにタントリは当惑した。密入国者が有名人になってどうしようというのだろうか?

タントリはその一家が買ってきてくれた最新ファッションの洋服が少しも自分の身体になじまない思いを抱いて、内心鬱屈を感じた。サルンクバヤ姿で暮らせたらどんなに気分が晴れるだろうか。だが、今のかの女の立場では、シンガポールでそれは望めないことなのだ。
その邸宅での一週間は、タントリにとって退屈な毎日だった。一家のみんながタントリの無聊を慰めてくれ、その家の主人は夕方になると気晴らしにかの女をドライブに誘ってシンガポールの島の中をあちこち回ってくれた。だが、タントリが街中に姿をさらすのは危険だと言う。
10日ほどが経過してから、家の主人がタントリに「もう街中に出ても安全だ。」と言ってくれた。


< スラバヤ・スーって、だれ? >
翌日早朝、タントリはシンガポールの様子を見るために、ラッフルズスクエアに車で送ってもらった。二時間後に迎えに来るよう運転手に頼んでから、タントリはシティの散策を始める。長年インドネシア人の中で暮らしてきたタントリは、白人だらけの街中に大きな違和感を抱いた。自分がしっくり納まる場所は、ここではないというあの感覚だ。
キャピトルシアターの表で、新聞の号外ニュースが数枚掲示されているのに気付いた。「スラバヤ・スーがシンガポールに」と書かれたヘッドラインが目に飛び込んできた。周囲を見ると、同じ号外が建物の壁や売店の壁に貼られたり、立てかけられている。
バリ島の次になじんだスラバヤの町には深い愛着がある。スラバヤのことならたいてい知っている自分だが、スラバヤ・スーっていったい誰なの?どうしてそのひとのことがこんな特ダネ記事になるのかしら?タントリの好奇心が足を売店に向かわせた。
買った新聞のそのヘッドラインの下の記事を読んでいくタントリの顔色が変わって来た。「これって、わたしのことだわ。わたしがそのスラバヤ・スー?」


スラバヤ・スーは突然ジャワから姿を消した。信頼できる筋からの情報によれば、かの女はいまシンガポールに潜入している。スラバヤ・スーの行っているインドネシア支援のラジオ放送に対して、オランダ・イギリス・アメリカの各国政府は良い感情を抱いていない。オランダ海軍が行っている東インド植民地の海上封鎖をかいくぐって、スラバヤ・スーはシンガポールにやってきた。かの女はいったいどのような方法でそれを行ったのだろうか?記事の内容はおおよそそのようなものだった。
タントリは確かにスラバヤで叛乱ラジオ局のアナウンサーになった。スラバヤの戦闘が終わってからも、スラバヤ近辺の山岳部から放送を続け、その後ヨグヤカルタに移って国営事業である「自由インドネシアの声」ラジオ放送のアナウンサーを続けていた。だからスラバヤという地名が貼りつけられたのだろう。だが、スラバヤ・スーとはなんたることだろうか?まるでシャンハイ・リルやトーキョー・ローズと同類にされている。自分は戦争プロパガンダを読み上げているのではないというのに・・・・
その新聞を買い占めて全部を灰にしてしまいたい。そんな衝動と無念さを抑えて、タントリは迎えに来た運転手を探して車に乗り、帰途についた。

早くあの家の主と相談しなければならない。シンガポール行政府当局がタントリをそのまま放置しておくことはできないに決まっている。捜査が開始されたなら、遅かれ早かれ官憲の手があの邸宅に伸びてくるのは確実だ。自分はそれ以前にあの邸宅から姿を消しておかなければ、あの一家に迷惑がかかる。とりあえず逃げ込む先は大佐のビラしかないが、大佐たちは数日間出張しており、あのビラにはいま誰もいない。

ところが帰宅すると、一家は全員が知人の結婚式に出かけたあとだった。夜まで帰らないという使用人の話だ。タントリが不安にさいなまれながら時間を過ごしているとき、邸内にジープが一台やってきて、白人男性がふたり降りた。捜査員が早くも嗅ぎつけてきたのだろうか?
「ハロー。あなたがスラバヤ・スー?」
「いいえ。そんな名前の人は知りません。」
「そう・・・じゃあ、あなたはクトゥッ・タントリさん?インドネシアのラジオアナウンサーの。この家にクトゥッ・タントリさんがいるという情報を得ているんだけど。あなたがクトゥッ・タントリさんなら、スラバヤ・スーはあなたのことだ。」
「あなたがたは誰?何の権利があってこの家に入って来たの?」

ふたりは自己紹介した。かれらはシンガポールの日刊紙ストレーツタイムズの記者だった。スラバヤ・スーにインタビューして、海上封鎖の突破からシンガポールへの潜入という実話をものしようと、かれらはここまでやってきたのだ。
「当局はまだあなたがここにいることを探知していないようだから、この記事は明朝の特ダネになって、全シンガポールを興奮のるつぼに投げ込むことになる。

そんなことをされれば、わが身の破滅だ。タントリはふたりを口説いた。そして最終的に、明日のこの時間にインタビューを受けることを約束した。24時間の猶予をもらって、その間に自分は当局に自首して出る。その後なら、あらゆる質問に答えてあげる。
ふたりは半信半疑だったが、タントリの誠意を感じ取ったにちがいない。結局その取引に応じた。ふたりがどうして自分の居場所を知ったのかをタントリが尋ねると、あるインドネシア人が自慢たっぷりにふたりにタントリのことを話したのだそうだ。そのインドネシア人はかれらふたりをインドネシア共和国に同情的だと思い込んだにちがいないのだが、職務への忠実さというもうひとつの面に思いが及ばなかったようだ。民族的な弱点がそこにあるのかもしれない。


ふたりが帰ると、タントリはタクシーを呼んでシンガポール警察犯罪捜査局に向かった。局本部ビルに入って、署長との面会を依頼する。応接室に案内されたタントリがしばらく待っていると、署長が入ってきた。挨拶を交わして署長が用件を尋ねたとき、タントリにはもうその署長がスコットランド人であることがわかっていた。タントリの運はまだまだ強い。
タントリはトゥガル港を出てから華人の邸宅に逗留するまでの一部始終をざっくばらんに打ち明けた。ただひとつだけ、民間商船のオフィサーに扮してシンガポール港を通り抜けるのに手を貸してくれた華人青年のことだけは触れないで。アンボン人船長もイギリス人ニセ船長も、数日前にシンガポールを離れているから、かれらに迷惑がかかることもない。

署長は本部ビル内にいる捜査員たちやイミグレ担当官たちを集めて、タントリにもう一度その話をするよう依頼した。タントリの話を聞き終えた捜査員たちの間にかなりぎこちない空気が流れた。中のひとりが口を開いた。
「すごい話だな。オランダが鉄壁だと誇っている海上封鎖をイギリス女性と数人のゲリラたちがすり抜けて来た。何と言う恥さらしのオランダ人たちだろう。」
「おいおい、イギリス女性じゃなくて、スコッチ女性だぞ。」署長が茶化した。
「恥さらしはオランダ人に限らんぞ。アジアで鉄壁を誇っているシンガポールの海岸線は誰が見張っているのかね?その難事をやりおおして成功させるなんて、スコットランド人でなくて誰ができようか。」堅い雰囲気が全員の笑い声で溶けた。
タントリの捨て身作戦は成功し、お尋ね者になるどころか、身分証明書・上陸許可書・滞在許可書をもらって解放された。その手続きをしている間、担当官はみんなタントリを親切に扱い、インドネシア共和国への同情心を示した。終戦処理にからめてイギリスを無益な戦闘に引きずり込んだ張本人としてオランダ人はたいていのイギリス人から嫌われていることが、かれらの態度の節々から感じられた。もちろん、スラバヤ戦のときにタントリが発した辛辣なイギリス批判に対する皮肉は免れようがなかったのだが・・・。

夕方、タントリが逗留先の華人邸に戻ったとき、家中が大騒ぎになっていた。みんなもスラバヤ・スーの新聞記事を読み、長居をせずに結婚式を引き上げてきたのだが、帰宅すると使用人がその日のできごとを語ったため、全員が不安に心をさいなまれていたのだ。
帰って来たタントリの顔を見て、全員の憂い顔が晴れた。タントリは全く安全な身になったので、早急に大佐のビラに移ることを話し、その一家に感謝を告げた。


< 共和国の運命より自分の金 >
そのころ、インドネシア共和国はシンガポールに近いインドネシアの島に数千トンの砂糖を送り込み、それを闇販売して外貨を入手するよう、ひとりのインドネシア人に委託していた。そのインドネシア人はシンガポールに住んで政財界にコネを持ち、顔が利く立場にある。シンガポール行政当局も島内への砂糖供給を安定させる必要があることから、インドネシアからの闇砂糖流通にはあまり神経質になっていなかった。

共和国政府はタントリがその砂糖の販売代金を使ってオーストラリア〜アメリカへの旅費に充てるよう考え、そのインドネシア人に売上代金全額をタントリに渡すよう命じる手紙をタントリに持たせてあった。
タントリはそのインドネシア人を訪れて、政府からの命令書を渡した。するとそのインドネシア人は「金がない」と言う。かれの話によれば、砂糖の販売をひとりの華商にすべてまかせ、その華商は15万ドルを約束して砂糖を運び去った。ところが、その華商はそのまま行方をくらましたのだそうだ。闇物資販売だから、シンガポールの当局に訴えることもできず、そのままにしている、とそのインドネシア人は物語った。
タントリはかれに、シンガポール警察犯罪捜査局に届け出るよう勧めた。闇物資だとはいえ、犯罪捜査局はインドネシアに同情的であり、とりあえずはその詐欺師華商を見つけ出してくれるだろう、とタントリは熱心に勧めた。かれは届出を嫌がっていたが、タントリの熱心な勧めを拒めなくなり、最終的に犯罪捜査局幹部を自宅に呼んでこの話をすることに同意した。この事件を公けにしたくないというのがかれの理由だ。

やってきた犯罪捜査局捜査官にかれは一部始終を話した。砂糖は依然として貴重品になっており、たいへんな高値で売買されている。ともあれ、詐欺師が砂糖をどのように売ったかは、捜査すればすぐに判る。詐欺師を捕まえるのにたいした時間はかからない。捜査官はそう語って辞去した。


数日後、捜査官からタントリに連絡が来た。「詐欺の被害者はあのインドネシア人でなく、あなたの方だ。」と捜査官は言う。
詳細精密な捜査を行った結果、華商はあのインドネシア人に支払い済みであることが立証された。あのインドネシア人はその金を外国銀行に設けた第三者個人名義の口座に入れた。インドネシア共和国の名義でもなく、またあのインドネシア人の名前でもない。
タントリはブンアミール宛てにこの事件の報告書を作り、伝書使に託してヨグヤに送った。伝書使はジャカルタに入国してから、厳重な境界警備を通過して共和国側領地に潜入し、ヨグヤカルタに向かわなければならない。報告書がブンアミールに届くかどうかは、まったくわからない。

ともあれ、オーストラリアに渡る資金がない以上、タントリはシンガポールに居続ける以外にどこへも行くことができない。たとえ資金があったとしても、国家承認されていないインドネシア共和国のパスポートでは、オーストラリアへの入国は保証されない。とりあえず、その問題の解決を図ろうとして、タントリは在シンガポールのアメリカ領事館にパスポートを申請した。ところが何週間待っても、本国からの回答が来ない。
待ちあぐねたタントリはオーストラリアの高等弁務官にパスポートなしの入国を認めてほしいとの申請を出した。高等弁務官はキャンベラにその申請を転送して指示を仰いだので、この問題も待ち状態になった。どちらが先に結果をもたらしてくれるだろうか?


< 初の国家承認がアラブ連盟から >
そんなある夜、タントリが住んでいるビラに客人が来た。アブドゥル・モネムと名乗るエジプト人だ。インドでエジプト総領事を務めていたと語る。ファルーク国王にインドネシアへの使節を命じられたと語り、種々の証明書や親書を示した。アラブ連盟がインドネシア共和国を国家承認して外交関係を結ぶことを声明すると言うのだ。

モネム氏はシンガポールのオランダ領事館にジャワ島に入るためのビザを申請したが、まったく無視された。インドネシア共和国領土への海上・陸上ルートをすべて封鎖してある中を抜けてヨグヤカルタへ行くという外交官をジャワ島に上陸させるわけにはいかないにちがいない。
英国シンガポール行政府に助力を要請したものの、イギリス人も迷惑顔をした上、おまけにジャワ島への渡航を目的にする出国許可は出さない、と言われた。マラヤを植民地に抱えているイギリス人にとって、アラブ連盟のその動きは間違いなくマラヤを刺激するにちがいないと考えるのも当然のことだ。

こうなれば、シンガポールから密出国してオランダの海上封鎖を突破し、ジャワ島の共和国領土に上陸するしかない。そこでその逆ルートをたどった経験を持つタントリに相談しに来たのだ、とモネム氏は打ち明けた。タントリはかれに説明した。
「インドネシアの海岸からインドネシアの船とクルーで海に乗り出すのと同じことをシンガポールですることはできません。シンガポールではあらゆることがらが厳しく監視されていて、法規に従わない出港をするのは無理です。おまけにオランダの海上封鎖をその船のために一部開放してくれなどと、イギリス人がオランダに要請する可能性はほとんどゼロでしょう。反対に、出港を禁止されるのがオチです。
あなたは中国人の船が海上封鎖をかいくぐってインドネシアと密輸を行っているとおっしゃいますが、そのような船はシンガポールから出ているわけではありません。マラヤやタイあるいはベトナムの小さい港から出ているのです。おまけに海上封鎖に引っかかって沈められる船が増えているため、中国人も密輸の意欲が減退しているのが最近の状況ですよ。」

モネム氏の表情が暗さを増すのを見て、タントリはかれを元気付けたいと思った。少なくとも、モネム氏をヨグヤカルタに無事送り届けることは、インドネシア共和国の前途に大きい光明を灯すことになるのだから。
「しばらくわたしに時間をください。わたしの知り合いたちに相談して、可能性を探ってみます。もし可能性が見つかれば、すぐにあなたのホテルに連絡します。それまでは、落ち着いて待っていてください。そして、わたしたちが話したことがらは絶対に誰にも知られないよう、秘密を厳守してください。」


タントリは考えあぐねた。たとえモネム氏がジャワ島に上陸できたとしても、そこはヨグヤカルタへの公共運送機関が利用できない場所になる可能性が高いし、他の交通手段さえ手に入らない可能性が高い。おまけに、不審な外国人と見られて過激派地元民に捕まれば、スパイ扱いされて取調べなしに処刑されるかもしれない。
そういうリスクを避けようとすれば、ジャカルタやスラバヤなどNICAの支配下にある町に上陸せざるを得ないが、上陸目的がヨグヤカルタのインドネシア共和国を訪問する使節であるということになれば、即座に逮捕されるだろう。
ともかく、翌朝からタントリは中国人やインドネシア人と接触して可能性を打診しはじめた。しかし誰からも好感触は得られない。マラヤ人漁村まで訪れて、調べて見た。スマトラへ渡るのなら、と応じる者もあったが、ジャワと聞くと誰もが退いた。

ほとんど絶望状態でタントリが調べているとき、インドネシア共和国政府がダコタ機をチャーターしてシンガポールからヨグヤカルタに飛ばす計画があることを耳にした。日本軍が送り込んだインドネシア人労務者の一団が終戦時にシンガポールに滞在していたのだ。かれらを帰国させるようシンガポール行政府はインドネシア共和国側に働きかけた。当然ながら、オランダ側の了承もイギリスが取りつけた。論理的にはNICAがかれらを引き取るのが筋であるというのに、オランダ側は叛乱勢力と決めつけているインドネシア共和国がかれらを引き取ることに同意したのである。
これは絶好のチャンスだとタントリは見た。ところが、その帰還プロジェクトの世話役になっているのが、砂糖売上代金のことでタントリを欺いたインドネシア人だったのだ。誠意を尽くしてその男を説得するしかないとタントリは考えて、その男を訪れた。
インドネシア共和国の将来にとってたいへん大きい意味合いを持っているモネム氏を労務者の中に混ぜてほしい。かれは色が黒いし、他の労務者と同じようなボロボロの衣服を着せたなら、絶対に不審を抱かれることはない。
かれは強硬に反対した。「われわれがそんなことをしたらイギリス人が喜ぶはずがない。それが明らかになったら、インドネシアは二度とシンガポールからの飛行機チャーターを認めてくれなくなるだろう。おまけに、飛行中にオランダ側がそれを知ったら、飛行機はNICAの飛行場に強制着陸させられるに決まっている。そうなれば、ヨグヤまで労務者を送り届けることさえできなくなる。飛行中に撃墜されることだって、起こりうるんだぞ。」

タントリはモネム氏の持ってきた国家承認の政治的意味合いを繰り返した。アラブ世界でインドネシア人同胞が力を尽くした成果が今ここにある。この成果が世界中で認知されるために、モネム氏はヨグヤカルタを訪れてスカルノ大統領に親書を奉呈しなければならない。困難な道程を乗り越えてモネム氏をヨグヤに送り届けることにあなたが尽力するなら、インドネシア共和国へのあなたの大きい貢献になる。この秘密をわたしたちが守っているかぎり、イギリス人がそれを知ることはありえない。
かれはしばらく沈思してから、最終的にタントリの要請に応じた。
「よろしい。モネム氏は労務者の姿で飛行機に乘ってもらいましょう。飛行機は2日後の午前6時にカラン飛行場から出発するので、午前5時にあなたのビラに迎えの自動車を送るから、用意しておいてください。。」
タントリはこの朗報を持ってモネム氏のホテルを訪れた。モネム氏はたいそう喜んだ。ファルーク国王の使節がクーリーの服装で目的国を訪れるなんて、まるで小説のようだ。ふたりは声を発てて笑った。


当日午前4時、モネム氏はボロボロの服装でタントリのビラを訪れた。ビラの使用人はタントリが浮浪者のような男を客に迎えて茶を供するよう命じたので、たいそう驚いた。
インドネシアに到着してからのかれの行動について、タントリはモネム氏にいろいろな注意を与えていたが、5時になっても約束された迎えの自動車はやってこない。更に数時間経過したが、何の連絡もない。不安に駆られたタントリが世話役の男の家に電話してみたが、誰も電話を取らない。タントリはタクシーを呼んでモネム氏と一緒にカラン飛行場に急行した。モネム氏はコートを着てクーリーの服装を隠した。
モネム氏をタクシーに置いたまま、タントリはそこはかとなく情報を探った。そして、労務者を乗せたダコタ機は午前6時に予定通りに出発し、世話役のインドネシア人もそれに同乗してヨグヤカルタに向かったことが明らかになった。またしてもタントリは欺かれたのだ。
タントリは口惜しさと恥ずかしさを抑えて、モネム氏にありのままを話した。モネム氏は失望をかけらも見せずに、反対にタントリを慰めた。
タントリはモネム氏の任務を成功させ、インドネシア共和国の国際社会への登場を実現させる努力に邁進しようと決意した。


< たいへんな独立魂だ >
ふたたび中国人やインドネシア人の間を回って可能性を探るが、以前に行ったときと同じように成果は得られない。そんな中で、インドネシア共和国に同情的なイギリス人実業家を訪れてはどうかとアドバイスされたので、タントリはその実業家を訪問した。
タントリはモネム氏のことを伏せて、自分がある任務のためにインドネシアに戻りたいのだとかれに話した。するとその実業家は「フィリピンから飛行機をチャーターしてあげよう。パイロットとナビゲータはアメリカ人だ。ただし金額は相当高いものになるだろう。」と言う。
「払える金には限度がある」とタントリが言うとかれは、「とりあえず、その線を当たってみよう。ひとつの可能性ということだ。」と言い、世界的に名前の通ったイギリスの大企業の役員を紹介してくれた。

その役員の話によれば、その会社がマニラからシンガポールに飛行機を呼び寄せ、その飛行機がヨグヤカルタまでタントリを運んでくれた上、ヨグヤカルタで三日間待ってから、タントリをシンガポールまで運んでくれるという提案だ。その費用はすべて込みで1万米ドルになる。
タントリはそれを罠ではないかと警戒したが、情報を集めたところ、その企業はその飛行機の運用で大儲けをしていることが明らかになり、かの女は警戒を解いた。


タントリは費用の問題をモネム氏に諮った。もっと大きな金を自分は動かせるので金額の問題はないが、その支払いのために本国政府に連絡しなければならない。しかし盗聴される危険があるため、電話は使えず、手紙でのやりとりになるから、しばらく時間がかかる。多分数週間かかるだろう。モネム氏はそう語った。
それではその計画の先行きが怪しくなる。タントリは自分が金策に走ることにした。

ところが、オランダの海上封鎖の強化によってインドネシアからのゴムの密輸が入ってこなくなり、シンガポールにあるインドネシアの資金が細ってしまっていることがわかった。他の可能性も当たってみたが、良い反応はない。
タントリはイギリス企業の役員を訪れ、支払いについて、シンガポールから戻ってニ〜三日後にしたいから、その猶予をもらえないかと相談した。
誰が保証人になるのか、と役員が尋ねる。タントリは、インドネシア共和国国防省が支払いを行う、と請負った。役員は保証書を作れと言うので、タントリは保証書にサインした。実際に、国防省の誰ひとりとしてそれを承知していないというのに。
話が決まったので、役員はタントリの出発をアレンジした。飛行機は夜明の時刻に空港滑走路の端でエンジンをつけたまま待機しているから、タントリは遅れることなくその位置まで出て飛行機に乘りこむように、というのだ。一行は何人かと尋ねられたから、自分と従者のふたりだけだ、と答えた。


当日未明に、タントリとモネム氏はあまり多くない荷物を持って空港へ行った。旅客ターミナルはがらがらで、空港職員がちらほらと業務に就いている。タントリとモネム氏に不審を抱く者はひとりもおらず、だれもが自分の職務に没頭している。
タントリとモネム氏は一番遠いドアから外に出て、滑走路の端へと急いだ。
夜明が近づいたころ、飛行機が一機やってきてふたりの前で停止した。プロペラを回したまま、機内からふたりの白人が飛び降りる。そのうちのひとりがテキサス訛りで話しかけてきた。
「あなたの名前は?」
「クトゥッ・タントリ。そしてこれはわたしの従者のアブドゥル。」
「じゃあ、すぐに飛行機に乘って。今すぐ出発しなきゃいけないから。」
飛行機はエンジンの回転を速めて滑走路を走り出した。ターミナルビルの前を高速で通り過ぎたら、ビルから数人の人影が走り出て来て、飛行機の後を追うのが機内から見えた。それからすぐに飛行機は浮上して空中にあがり、間もなく陸地がなくなって海に変った。

モネム氏はキャビンの後部に下がって着替えをし、外交官としての盛装姿で戻って来た。しばらくして、パイロットがコックピットから出てきたが、モネム氏を見て目を皿にした。「乗客はふたりと聞いていたが、あなたはどうやってここに入ったのですか?」
タントリが答えた。「さっき、わたしと一緒に乗った従者がかれです。実は・・・」と、タントリは自己紹介からこのヨグヤカルタ行きの目的など一切を、洗いざらい説明した。

「おお、これはたいへんな独立魂だ。」
パイロットはその話を仲間に聞かせようとして、足早にコックピットに戻って行った。ところがおよそ半時間ほどが過ぎたあと、パイロットが沈鬱な顔でまたキャビンにやってきた。
「われわれはオランダの戦闘機に追尾されています。スラバヤ・スーとエジプト外交官が今朝払暁にジョグジャカルタに向けて出発したニュースをラジオシンガポールが放送しているから、オランダ側もここに誰がいるかをもう予測しているでしょう。あなたがたは窓から離れて、ベルトをしっかり締めて後部に下がっていてください。
かれらはわれわれをジャカルタに着陸するよう命じていますが、われわれはジョグジャに着陸するのです。アメリカの飛行機がオランダ人の言いなりになってたまるものですか。大平洋で日本軍と戦ってきた腕は伊達ではありません。この腕を連中にちょっと拝ませてやりましょう。」
パイロットはそう語ると、また足早にコックピットに戻って行った。

それから始まった曲芸飛行はタントリに生きた心地を忘れさせた。いきなり急上昇してから、海面に向けて急降下していき、旋回してまた上昇するという凄まじい動きにタントリは冷や汗を流し、知らぬ間にモネム氏にしがみついていた。モネム氏は動じる気配も見せずに、タントリの背を軽くたたきながら慰めていた。
どのくらい経ったか、恐怖の時間が過ぎ去って機体が水平飛行に移ってから、無線係がやってきた。「追尾を振り切ったので、もう安全です。今はボルネオの上空です。」


< 最期のインドネシア行き >
それからは平穏な飛行が続き、ヨグヤカルタの飛行場に無事着陸した。帰りはもっと安全なルートを通りましょう、とパイロットはタントリに約束した。
ふたりはヨグヤカルタの市内に移動し、ホテルムルデカに入る。タントリが戻って来たという知らせに、旧知の人々が大勢タントリに会いに来た。みんなは、オランダ封鎖線の向こう側がどうなっているのかを知りたがった。

タントリはモネム氏に、今回のヨグヤカルタ行きの手配をだれがどのようにしたのかということをすべて秘密にしてほしい、と依頼した。スラバヤ・スーが報道界にとてつもないニュースバリューをもたらしている状況を実感しているタントリは、インドネシアとアラブ諸国との国交開設ニュースがスラバヤ・スーの名前の陰に隠れてしまうこと、さらにスラバヤ・スーのシンガポール不法出国にからんでイギリス企業の名前が世間にさらされることを怖れたからだ。インドネシア側でも、その事実は国防省上層部と最高裁の一部にしか知らされず、一般のひとびとのまるで知らないことがらとして秘匿された。

翌朝、スカルノ大統領はモネム氏を接見し、親書を受けてアラブ連盟との国交を開くことに同意し、返書を用意した。式典を終えて任務を果たしたモネム氏はインドネシア共和国側が用意した歓迎懇親会を楽しんだ。
一方、タントリはマディウン近くの山地で療養中のブンアミールに会うため、ヨグヤを離れた。ブンアミールはタントリの報告を聞き、無断で行った1万米ドルの保証を咎めることもなく、シンガポールに滞在中の大佐に命令書を書いてくれた。1万米ドルおよびタントリがオーストラリア〜アメリカへ渡航するための費用をタントリに渡すように、という内容だ。
タントリはこのままヨグヤにとどまりたい、とブンアミールに頼んだが、ブンアミールは禁止した。「NICAは強力な軍事力で共和国領土を侵略しており、それをとどめる力は共和国側にない。ヨグヤカルタがNICAの手に落ちれば、共和国要人は逮捕され流刑の目に遭うだろうし、そんな中であなたの生命はだれにも保証できないものになる。NICA軍がここまでやってきたとき、あなたがここから遠くにいればいるほど、われわれは気が楽だ。
あなたにはオーストラリアやアメリカでまだまだインドネシアのために働いてもらいたい。それ以上に大切な仕事は、もうここにはないだろう。」
タントリはブンアミールと別れてヨグヤに戻った。それがブンアミールとの最期の別れになった。


翌日、タントリとモネム氏、そしてインドネシア共和国要人とその付き人たちが同乗して、飛行機はヨグヤカルタを飛び立った。要人たちの中には、インドまで渡ってネール首相との会談を計画しているハジ・アグス・サリム氏も混じっていた。パイロットは約束通り安全なルートをたどったようで、シンガポールまで平穏な飛行が続き、オランダ軍用機はまったく見かけなかった。
シンガポールに到着して乗客は全員が入国手続きを行ったが、パスポートのないタントリは留め置かれてシンガポール行政当局に油を絞られることになった。さんざんに嫌味を聞かされたが、結局最後には赦された。

大佐のビラに戻ったタントリはさっそくパスポートの成り行きをアメリカ領事館に問い合わせ、さらにオーストラリア高等弁務官にパスポートなし入国許可の結果を尋ねに回った。アメリカ領事館ではワシントンからの回答がまだないままだったが、オーストラリア政府はタントリのパスポートなし入国を許可する回答を送ってきていた。
これでオーストラリアへ行って仕事ができる。喜んだタントリは渡航費を大佐からもらうためにビラに戻った。飛行機チャーター代金1万米ドル支払いと残りの資金をタントリの渡航費にあてるように、というブンアミールから大佐への命令書は戻って早々、大佐に渡してある。
ところが大佐は意外な返事をした。「飛行機代の1万米ドルは確かに支払った。しかし資金はあまり潤沢でなかったから、残ったわずかな金はシンガポールで活動している仲間たちの間で分配した。次に資金ができるのは、オランダの海上封鎖を無事に抜けたゴムと砂糖が倉庫に入る時だ。現物が倉庫に入れば金はすぐにできるが、現物が果たしていつ到着するのか、誰にもわからない。ひょっとしたらいつまでたっても到着しないかもしれない。われわれはみんな、そういう不透明な状況下に仕事をしているのだ。」
大佐はルピアをたくさん持っているが、インドネシア共和国領土外ではただの紙切れにすぎない。


< ついにオーストラリアへ >
タントリはまた金策に走ることにした。金と理解を持っている華人が対象だ。だが、そう簡単に資金は出てこない。シンガポールで無為に暮らすよりは、またジャワ島に戻ったほうがよいのかもしれない。シンガポールにインドネシア共和国資金がまたできたとき、再度出直してくるのが良いのではないだろうか?
タントリがシンガポールで得た友人たちの中に、弁護士でレストランのオーナーである裕福な華人がいる。かれはマラヤを独立させる大望を抱いて運動しており、タントリからインドネシア独立に関する話を聞くのを好んだ。かといって、タントリに何かを相談するわけではない。「あなたは長年インドネシアに暮らし、民衆の考え方から政治的なことがらまで熟知しているから、インドネシアのことを語るのはふさわしい。しかしマラヤとインドネシアは同じではない。インドネシアの知識と経験だけで、このマラヤで何かができるとは思わない方がよい。」
タントリも、実にその通りだと思った。

タントリは今回かれを訪れて、オーストラリアへ渡る資金ができるまでジャワ島にもどろうかと迷っている、と打ち明けた時、かれは強く反対した。
「だめだ、だめだ。絶対に行っちゃいけない。オランダは総力をあげて大攻勢をかける計画を立てている。共和国側にそれをとどめる力はない。あなたは殺されるかもしれないし、軽くても牢獄につながれて二度と日の目を見ることはできないだろう。
あなたがオーストラリアへ行くことは、ますます重要になってきている。オーストラリアの港でオランダ船のボイコットを続けさせ、武器弾薬がジャワに運ばれるのを妨害することや、オーストラリア北部の過疎地の飛行場をオランダ軍が利用して必要な物資を空輸しているのをオーストラリア国民に知らせてやめさせることはあなたにしかできないのだ。
そればかりか、オーストラリア国民が必要としている茶・コーヒー・砂糖その他の農産品はインドネシアの倉庫に満ち溢れているというのに、オーストラリアはそれを手に入れることができない。金を山積みにしても、オーストラリア船がジャワの港にたどり着くことはできないのだ。
クトゥッ、あなたはジャワでなく、オーストラリアへ絶対に行かなければならないのだ。あなたはイギリス人なのだから、オーストラリアの民衆はあなたの言葉を受け入れるだろう。よし、往復の旅費はわたしが払ってあげよう。エコノミークラスのケチな旅はしないで、一等キャビンでゆっくり心身を休めて、オーストラリアでの活動の英気を養うように。」
「どうしてあなたはインドネシアの独立をそんなに気にかけてくださるの?」
「マラヤとインドネシアは、言ってみればいとこ同士だ。文化や言語や宗教や、いろんな面でつながりがある。マラヤ半島とシンガポールを支配しているのはイギリス人であり、石頭のオランダ人ではない。イギリス人はこの地の独立について地元民と話し合うことを拒否しない。もしインドネシアが真の独立を勝ち取った暁には、マラヤとシンガポールの独立は時間の問題になる。」
タントリはその申し出を受けることにした。もちろん、費用は借金の形にすることをタントリは言い張り、華人はタントリの面子を立てるためそれに従った。


その華人に見送られて、タントリは船上の人となった。快適な航海のあと、船はパースに寄港した。船のタラップが地上に降ろされるやいなや、大勢の地元報道陣やカメラマンが船上にやってきてスラバヤ・スーを探した。港湾労働者たちもその後に続き、競ってタントリと握手した。カメラマンがその様子を見てポーズの注文をつけ、何枚も写真を撮った。記者が「白豪主義をどう思いますか?」とコメントを求めて来たのは、アジア人の中で暮らしてきたクトゥッに対する牽制だったのかもしれない。

翌朝、地元新聞のすべてが第一面にスラバヤ・スーの記事を載せた。記事の中味はスラバヤ・スー個人に関する話題がほとんどを占め、インドネシア独立とそれを瓦解させようと努めているオランダという構図の政治問題にはほとんど触れられていなかった。タントリはがっかりした。
続いて船はメルボルンに寄港し、そこでもパースの二の舞が演じられた。そしてタントリの目的地であるシドニーに到着。
タントリは興味本位の新聞報道にうんざりしていたため、報道陣を避けることに努めた。シドニーでも報道陣の襲撃を受けたが、タントリは客船オフィサーに救われて、オフィサーの部屋に隠れていた。
上陸したタントリはパスポートなしの入国という世にも稀な手続きを経て、シドニーの地を踏んだ。しかしオーストラリアでの滞在が素晴らしいものだったかというと、決してそうでもない。


< オーストラリアで悲喜こもごも >
タントリが宿泊しているホテル名が新聞に書かれたため、報道陣だけでなく一般市民もたくさん、スラバヤ・スーを見物にやってきたし、サインを求められた。その程度は良しとしても、深夜電話がかかってくるようになる。ぐっすり眠っているときの起こされ、悪意のある言葉を聞かされるのではたまらない。ジャワ島から追われてオーストラリアに逃れたオランダ人が頻繁に電話してきて、悪口雑言を並びたてた。

シドニーで知り合ったスコットランド女性がキングスクロスの小さいアパートに移るよう世話してくれたので、しばらくは煩わしさから解放されたものの、ある新聞のコラムニストが姿を隠したスラバヤ・スーの行方をついに突き止めてすべてを新聞に書いたから、タントリは再び煩わしさにまとわりつかれてしまった。
また深夜に電話のベルが鳴る。そして悪意に満ちた怒鳴り声を聞かされる。「黒ん坊が好きなんだろう?」「インドネシアの手先」「お前の身に良くないことが起こる前に、さっさとこの町を出て行きな。」
タントリはそれをシドニーに住むオランダ人の仕業だと思っていた。

我慢の限界に達したので、ある日タントリはシドニー警察を訪れて、協力を求めた。警察は電話を盗聴して発信番号を割り出した。そして明らかになったのは、電話のほとんどがその新聞のコラムニストの事務所からかかってきていたことだ。タントリはそのアパートユニットの電話番号を変えてもらった。しばらくは静かになったが、また同じことが繰り返されるようになった。異常な執念深さだ。
ほとんどの新聞がスラバヤ・スーの姿を侮蔑嘲笑的に描いている。中には戦前にバリ島で売春宿を開いていたというガセネタまで書いた新聞があった。タントリはその新聞社を名誉棄損で告訴した。

しかし、そんな報道論調が一役買ったのだろうか、タントリを招いて話を聴こうという誘いも頻繁に届けられた。あまりにも多かったために、断らざるを得ないものも少なくなかった。労働組合が催した講演会にはほとんど出た。独立のためにインドネシア人がどれだけ苦労しているのかを淡々と物語り、オランダの海上封鎖が日々の暮らしをどれだけ悲惨なものにしているのかを訴えた。その海上封鎖のせいでインドネシアの豊かな物産をオーストラリア人はまったく手に入れることができないではないか、とも語った。
シドニーの財界と宗教界が発起人になって「インドネシア医療支援アピール」という財団法人が作られ、インドネシア独立支援の寄付金がそこに集められた。
ラジオにも出演し、またオーストラリア民主党議員の奥方たちの集まりでも講演した。女性団体からの招きには極力応じるようにした。


シドニー大学でも、学生であふれんばかりの講堂で話をした。学生たちの質問はたいへん知的なもので、みんなが本当の話を聞きたがった。つまり、隣国のインドネシアに関する情報がオーストラリアにはあまりにも少なく、そしてその多くが歪められた話だったことをそれは示しているにちがいない。そのような情報操作を行うのは、オランダ人以外にありえない。
学生の間から、インドネシア独立にわれわれも手を貸したい、という声があがった。われわれが何をすればよいのかを教えてください、と別の学生が言う。タントリは学生たちに提案した。「この町のオランダ領事館に対して、インドネシアでの軍事攻勢に抗議するデモを行えばどうでしょうか。またオーストラリア首相に電報を打ち、国連でインドネシア問題を審議にかけるよう求めることも。」

学生たちはさっそくデモ実行委員会を編成し、タントリのアパートで計画を練り上げた。タントリはスローガンを大書した紙をたくさん作り、デモ隊はそれを掲げて整然と行進するように教えた。騒動を起こせばデモの効果はなくなる。
学生たちはオランダ領事宛てに抗議文を書いて封筒に入れ、領事に会見を求めてそれを渡すか、もしまったく無視されたなら、領事館の中に投げ込むよう、作戦を立てた。タントリにデモの指揮を要請する声もあったが、タントリは百パーセント学生が自ら行うことにこのデモの意義があるのだとかれらを説得した。
ところが新聞記者がデモの計画を嗅ぎつけて、デモ行進の段取りやタイムスケジュールを聞き出し、それを新聞で公表した。オランダ領事館は市内中心部のビルの上階にあり、デモ隊が来る直前に扉をロックして学生たちを無視する方針を決めた。

領事館の入っているビル周辺は領事館からの要請に応じて警官隊が警備に就き、たくさんの一般市民も見物に集まって、時ならぬお祭り騒ぎだ。タントリはある新聞社の編集長と一緒に状況視察にやってきていた。
整然と行進する数百人のデモ隊がビルの近くまで来たとき、警官隊がデモ隊の先頭に立ちはだかってデモ隊を押し返そうとした。一方、デモ隊の最後尾は行進を続ける。間に挟まれたデモ参加者は、潰されてはたまらないから逃れようとする。たちまち整然たる隊列は乱れに乱れた。
警官隊がデモ隊リーダーを捕らえようとして、こん棒をふるい始める。学生たちは抗議と非難の叫び声をあげ、路上の石やゴミが宙を飛び始めた。見物人の間から大人たちが学生の側に付いて警官隊に向かっていく。路上で大乱闘が噴き上がった。領事館職員のオランダ人が窓からバケツで水をデモ隊にかけようとしたが、水は警官隊を濡らすほうが多かった。

オランダ領事宛ての抗議書は、ひとりの女子学生が持っていた。かの女は警官隊の人垣をかいくぐってビル内に入ろうと努めている。しかし何度かはじき返されて路面に転がった。衣服は破れ、髪はバサバサ。それでもかの女は努力をやめない。ふらつきながら起き上がると、また人垣を破ろうと試みる。そうしてついにかの女は成功した。人垣を抜けると、ビル内に駆け込んだのだ。警官数人がその後を追う。目を瞠るような速さで会談を駆け上り、領事館のあるフロアまで上がると、ロックされている扉に突進した。そして抗議書の入った封筒を扉の下の隙間に差し込んだのである。追ってきた警官がかの女を捕らえるのと、ほんのわずかな時間差しかなかった。
路上では、あちこちで警官のホイッスルが鳴り響き、警察車両がサイレンを鳴らして集まって来る。捕まった大学生たちは警察車の中に押し込まれていた。ところが、抗議書が領事館内に投げ込まれた情報がデモ隊に伝わると、学生たちは一斉に現場から逃げ出した。路上の大乱闘はあっという間に終焉し、捕まったかなりの数の学生を残してデモ隊はひとりもいなくなってしまった。


シドニーの新聞は警官隊の横暴に非難の大合唱を発した。警官隊の後ろで糸を引いた領事館のオランダ人に対する非難を言外に込めて。学生たちの親も怒りを表明した。その中には政界の要人も混じっている。こうして政界の中に、政府はインドネシア問題を国連で審議にかけるよう求めるべきだ、という声が強まっていった。
オーストラリア政府がその方向に動きを開始する。インドでもネール首相が国連でオランダのインドネシアでの武力攻勢を非難した。こうしてオランダはインドネシア共和国に対する抑圧行動を容易に行えないようになっていったのである。
その反響の大きさに、デモに参加したシドニー大学生たちのほうが驚いたようだ。タントリは各所で講演を続けつつ、警察に逮捕された学生たちのために法支援拠金を求めた。裁判所は最終的に学生たちを無罪放免した。


ある日、オランダ人から電話がかかってきた。「たいへん重要な用件であなたに会いたい。」と電話の主は言う。タントリは「どうぞ、うちへお越しください。」とかれを招いた。改心したオランダ人がインドネシアのために何か貢献をしたいとでも・・・?『それは夢物語だわ。』とタントリの心の奥で声がした。

アパート建物の中でその客人の足音がしたとき、タントリは典型的なオランダ人植民地主義者の姿を思い浮かべていた。傲慢で、他人を見下そうと努める、粗野な神経をした男たちを。
相手を呼びつけて当然の自分が、相手の家まで出向いている。そんな自分を赦せないという気分に満ちていることが、冷たい姿勢から読み取れた。かれは前置きなどなしに、すぐに本題に入った。
「わしはかつてジャワに住んでいた事業主の集りを代表して来た。あんたに10万フルデンを用意している。あんたがオーストラリアから早急にアメリカなりイギリスなりに去って、インドネシアのことにあれこれ口をはさまないのが条件だ。あんたはインドネシアにまったく無用の人間だ。あんたは外国人なんだから。」

タントリは無言で相手を見据えている。
「10万フルデンあれば、あんたの今後の人生は安逸だ。死ぬまで楽に暮らせる。あるいは、どこかほかの国でホテルをまた開くこともできる。
あんたはあのインドネシア人たちに体よく利用されているだけだということに気付かないのか?かれらが独立してしまえば、あんたのことなど忘れ去られてしまう。せっかくこれまで努力してきたというのに、そうなったらあんたはどうするんだ?そうは言っても、かれらが叫んでいる独立など、絶対に実現はしない。もう少しすれば、われわれオランダ人はまたあそこの支配者になる。そうなったら、あんたは二度とインドネシアの土を踏むことはできないぞ。」

タントリは口を開いた。腹の中は煮えくり返っている。
「こんな作戦を立ててくるなんて、インドネシアから搾り取れる利益はまるで無尽蔵みたいね。インドネシアは人口7千万人。そのひとりひとりにあなた方が百万フルデンを寄付してくれたところで、わたしに第二の祖国を裏切らせることはできません。インドネシアが本当に独立を得たあとで、かれらがわたしのことを忘れてしまうですって?それのどこが悪いの?独立魂の大洪水の中で、わたしは単なるひとつの波でしかないわ。わたしは何年もの間、オランダ植民地支配の下で生きてきました。あの時期にわたしが体験した美徳はほんのわずかしかなく、悪徳だけは山のようだった。
オランダ本国をナチスの軍隊が蹂躙してあらゆるものを奪ったときにオランダ人が怒りをまき散らしたのはどうしてだったのでしょう?ところが、連合軍がオランダを解放したとたん、今度はインドネシアに同じことをしようっていうわけ?インドネシアの富は3百年間もオランダに奪われ続けて来ました。そのお返しを、たとえほんの一部分でもいいから、それをする時が今やってきているのです。」

蔑みのこもった視線をタントリに向けて、その男は言う。
「白人女性であるあんたが、絶対にあんたと同じ地位に就けない民族のために闘おうなんて、わしにはまったく理解できない。褐色や黒い肌の連中のほうが好きだなんて、白人のどこがお気に召さないのかね?」
タントリは男が玄関に置いた帽子を手にしてかれに突き付け、扉を開いた。
「オランダ人のあなたは、当然キリスト教徒なのでしょうね。あなたの創造主の肌の色は何色だったの?人間はみんな同じだというセリフを聞いたことがないのかしら?わたしは昔から、ずっと色盲だったのよ!」
タントリは溜まった怒りを吐き出すかのように、扉を叩きつけた。目から涙があふれて、止まらなかった。


< 寂しい船出 >
オーストラリアの全土からタントリ宛てに手紙が毎日届いた。その多くは返事を求めていた。中にはタントリを辱めにやってきたオランダ人のように、タントリに攻撃的な手紙もあったが、多くはタントリの気持ちを明るくしてくれるものだった。
シドニーにインドネシア情報センターを開いて、インドネシアに関するさまざまな活動の拠点にしてはどうか、という提案。ビジネスマンの中には、インドネシアの物産の輸入をしたいから、相談に乗ってもらえないだろうか、という要請。タントリがパスポートを持っていないことを気の毒に思い、わたしと結婚してオーストラリア国籍を取得すれば、その問題は解決する、と提案して来る男性もあった。

そんな中に、シドニーのアメリカ領事館からの手紙があった。タントリが待ちわびていた知らせがそこに書かれていた。ワシントンの米国外務省は領事に対してミュリエル・スチュアート・ウォーカーにパスポートを交付するよう指示したという知らせだ。タントリは小躍りした。
ところが、アメリカ領事館で領事が語った話はタントリの期待に沿わないものだった。そのパスポートはオーストラリアからアメリカに帰国するためにのみ使えるものだったのである。
「シドニーからサンフランシスコ行きの船に乗ればよい。」と領事は言った。
「そんなわけに行きません。わたしはシンガポールに戻ることにしており、戻りの船便のチケットを持っているのです。資金も残り少なくなっているから、アメリカ行きのチケットをここで買うには足りません。いずれにせよ、シンガポールに戻ってからアメリカへ帰ります。」
「バリにホテルを持ち、スラバヤに家を持っているし、おまけにオーストラリアでもインドネシア医療支援アピール財団でたくさんの寄付金を集めているというあなたに金がないなんて、理解に苦しみます。」
バリのホテルは日本軍に破壊しつくされ、スラバヤの家はスラバヤの戦闘で破壊され、インドネシア医療支援アピール財団に集まった金はすべて医療支援に使われており、自分個人は1セントも使っていないことを、タントリはまた説明しなければならなかった。
自分が築いてきた財産はすべてあの戦争とインドネシア独立革命が灰にしてしまった。その弁償をアメリカが、日本が、インドネシアがしてくれるわけがあるまい。自分がしてきたことはすべて奉仕だったのだ。財を築き上げることよりもっと素晴らしいものを自分の人生の軌跡は描いてきたのだ。タントリはそう言いたかったにちがいない。

最終的に領事はタントリがシンガポールに戻ることに同意し、ワシントンから指示されているパスポート交付はシンガポールのアメリカ領事館が行うように手配してくれることになった。
実は、シンガポールに戻るとは言うものの、またパスポートなしの入国ということになる。シンガポールのイギリス行政官がそう何度も甘い顔を見せてくれるかどうか、それはわからない。タントリはシドニーのアメリカ領事に一筆添え状を書いてもらえないだろうかと頼んだが、領事は拒否した。
タントリはシドニーからパースへ飛行機で飛び、パースからシンガポール行きの船に乗った。シンガポールで入国させてもらい、領事館でパスポートを交付してもらえるだろうか?それは行ってみなければわからないことだ。タントリは思い煩うことをやめた。


シンガポール港での入国手続きで、もう顔なじみになった担当官たちがどよめいた。「おお、またスラバヤ・スーが来たぞ。今度こそパスポートを持って来ただろうな。またパスポートなしで許してもらおうなんて甘いことを考えちゃいけないよ。」
タントリはざっくばらんに手の内を明かすしかない。すると「オランダから苦情が来ている。」と担当官が言う。イギリス生まれだというだけの理由で、オランダの敵を正規の手続きなしに入国させているのは国際法違反だ、とかれらは言っているそうだ。
しばらく押し問答が続き、「パスポートのないスコッチ女性を庇ってくれる騎士の国はシンガポールしかないでしょう。もしイギリスの新聞に『日本軍の拷問に苦しんだスコッチ女性にパスポートがないというだけでシンガポール当局が過酷な扱いをした』という記事が載ったら、スコットランド独立運動がまた騒がしくなるんじゃないかしら。」というとどめのセリフで三回目の入国を果たした。


オーストラリアで仕事していた数ヵ月間に、インドネシアの状況は厳しさを増していた。警察行動という言葉でカモフラージュしたオランダの軍事攻勢は既に中部ジャワの主要都市や村を席巻し、インドネシア共和国首都ヨグヤカルタを陥れんばかりに近づいていた。
大佐や同僚たちは帰国しており、ビラは空き家になっていた。タントリはそこに戻ると、アメリカ領事館を訪れた。

領事はパスポートを渡すためにアメリカ行きのチケットを示すよう求めたので、タントリは650ドルを工面してボストン行き貨物船のチケットを購入し、それを持って領事館へ行った。こうしてタントリはやっと自分の国籍を証明する書類を入手できたのである。
自分がスラバヤ・スーでなくなる日が近づきつつあった。その呼び名はかの女にとって厭わしいものであったにせよ、そんな名前で呼ばれている期間にかの女が果たしてきたことは、かの女にとって大切で、また愛おしいものでもあったのだ。

船のチケットを買ったあと、金はもうほとんどなかった。港へのタクシー代、船内でのチップ、それらを差し引けば、ほとんどゼロに近い。
シンガポールでタントリが別離の挨拶をするべきひとはもうほとんどいなかった。弁護士でレストランオーナーの華人は北部マラヤへ出かけていて留守だ。船に乗り込む前、タントリはシンガポールで親しくなったストレーツタイムズの女性レポーターとその夫の三人で食事し、そのあとタクシーで港へ行った。寂しい出立だった。
自分の人生の軌跡の大部分を占めることになった東南アジアを去るタントリは感無量だっただろう。15年間の歳月に刻まれたあらゆる思い出をかの女はそこに残していくのだから。


< スラバヤ・スーは永遠に >
船は西に向かい、大西洋を越えるときは連日の嵐だったため、12月中旬だったボストン到着予定はクリスマスイブの日になった。おまけに船が埠頭に着いたのは夕方で、入国手続きを終えたときは夜になっていた。
そこに集まっていたひとびとはすべて去り、タントリはひとりぼっちになった。ポーターもタクシーも見当たらない。公衆電話を探して、タクシーを呼んだ。ボストン鉄道駅まで3ドル。手持ちの金は2ドルしか残らない。

駅の待合室に座って、どうしようか考える。ボストンに知り合いはいない。いやアメリカ全土にだって、いま助けを求めることのできるひとはいないかもしれない。永かった空白はアメリカにあったかの女の足場を消滅させていた。
インドネシア共和国がニューヨークに設けたレップオフィスに行けば、多分仕事がもらえるだろう。ボストンからニューヨークへの旅費も相談できるかもしれない。だが今はもう夜で、明日はクリスマスの休日だ。オフィスに電話しても、誰もいないに決まっている。
駅の切符売場窓口の向こうに座っている係員の姿を視野に入れながら、タントリは1ドル紙幣2枚をもてあそんでいた。突然、誰かの手がタントリの肩をそっと叩いた。

「失礼ですが、あなたはスラバヤ・スーじゃありませんか?」
タントリが慌てて声のほうを振り向くと、身なりの良い華人青年がひとり立っていた。
「あなたと同じ船で来たんです。あなたの話をいろいろ読みました。ニューヨークへ行くんですか?」
タントリの胸の奥にうれしさがこみあげて来た。自分に関心を持ってくれるひとがまだいたのだ。タントリは切符を買う金が今ないことを話した。クリスマス休暇が明けてから金策をしてニューヨークへ行くつもりだ、と。
「じゃあ、ぼくに払わせてください。アメリカははじめてで知り合いもいないし、ひとりぼっちだったから、連れがある方がありがたいんです。」
「そうね。アジア人は団結しなきゃ。」


ふたりの乗った列車はグランドセントラル駅にすべりこんだ。時間は夜半を過ぎている。ふたりは駅近くのホテルに向かった。ところが満室だと言われた。別のホテルでも、部屋はない、と言う。タントリは怪しんだ。華人青年が尋ねたからではないだろうか?タントリが尋ねると、すぐに二部屋用意してくれた。
翌日、ふたりはニューヨーク見物に回った。5番街、ブロードウエー、ビレッジ、エンパイアステートビル、国連本部ビル。青年は大いに楽しんだ。かれひとりだと、それほど効率よくは回れないだろう。

クリスマスの二日目、金の工面ができたタントリはボストンからニューヨークまでの鉄道切符代を青年に返し、さらに大学で使うように手ごろなサイズのバッグを買って、青年へのクリスマスプレゼントにした。その夜、青年は留学先のインディアナへ行くので、タントリはかれを駅まで送った。
明日から、ニューヨークでの暮らしが始まる。永年熱帯で暮らした身体にこの寒さはきついが、ここでまた新たな人生の転換に励まなければならない。明日からスラバヤ・スーは、そしてクトゥッ・タントリは、かの女が時おり胸に着ける名札になるだけだ。ここでの新たな人生は、それらの名前ではもう描けないものになるのだから。その新たな人生への希望を抱いてタントリは、いやミュリエルは眠りに落ちた。


(2016年12月19日〜2017年3月16日)