「帝国軍用機で始まったインドネシア空軍」


日本が降伏を決めたとき、太平洋戦争が終わった。そのとき、長期に渡ってこの地域を支配統治してきた異民族のパワーが短期間ではあったがインドネシアの地上から消滅した。インドネシアから追い払われたオランダが戻ってくるのはまだ先だ。インドネシアを統治してきた日本は混乱の極にある。インドネシアをインドネシア人のものにするためのチャンスが扉を開いたのだ。
日本軍政監部の言質に心理的に縛られていた民族指導者を独立の意欲に燃える青年幹部層が追い込み、ジャカルタの日本海軍武官府が非公式に民族指導者をバックアップしたことで、独立宣言が発せられた。インドネシアの独立宣言にオーソライズを与えるはずだった日本軍政機構トップは、戦争開始以前の状態に復帰させるためインドネシアの現状凍結と治安維持を連合国から命じられ、インドネシアの独立を阻まなければならない立場に立たされていたのである。
日本の支援も庇護もなしに独立を宣言したインドネシア共和国は、これからかれらが直面しなければならないオランダの復帰と再植民地化を阻むために、早急に軍隊を調えなければならなかった。その主力を担ったのが、日本軍が編成し育成したペタ(Tentara Sukarela Pembela Tanah Air=ky?do b?ei giy?gun)と呼ばれるインドネシア人だけの軍隊組織だ。
それとは別に、インドネシアの各地に設けられた飛行場に日本の軍用機がたくさん残されていたことが、インドネシア共和国空軍の発足を促した。インドネシア人はさっそくその施設と航空機を接収したのである。日本軍航空部隊の基地で補助役を務めていたインドネシア人たちと、ヨーロッパ式の飛行機操縦経験を持つインドネシア人たちがインドネシア共和国空軍設立の礎石となった。空軍上層部には、ハリム・プルダナクスマ少将のような、大戦中に連合国軍の一員として、対独対日航空戦に従事した者も混じっていた。
接収は1945年9月にさっそく行なわれ、マランのブギス飛行場とタシッマラヤのチブルム飛行場は、きわめて良好に接収作業が進展した。ヨグヤカルタのマグウォ飛行場、ソロのパナサン飛行場、マディウンのマオスパティ飛行場などがそれに続き、それぞれの飛行場にあった日本軍用機を使えるようにすることが、次の目標になった。
インドネシア共和国空軍史の記録では、1945年から1946年にかけて、発足したばかりのインドネシア空軍はおよそ70機の旧帝国軍用機をインドネシア空軍機として保有していたようだ。チューレン(Cureng)、チューキュー(Cukiu)、グンテイ(Guntei)、ニシコレン(Nishikoren)、ハヤブサ(Hayabusha)、キー48(Ki-48 Army type 99)、ドンリュー(Ki-49 Donryu Army Type 100)、A6Mゼロ(A6M Zero)、キー61(Ki-61)などがそこに含まれていた。輸送機だったL2D3の名前も見られる。国軍スディルマン大将が1946年初にマランのブギス飛行場を視察したときの写真が残されており、大将の姿の背景に大型爆撃機の巨体が写っていて、それがキー49百式重爆「呑龍」であったことは疑いもない。
キー48とは川崎 キ48 九九式双発軽爆撃機のことであり、インドネシア空軍は発足当初から軽爆と重爆を保有していたことになる。マディウンのマオスパティ飛行場の滑走路が長かったことから、日本軍はそこを爆撃機の基地にしていたようだ。その伝統を引き継いだために、インドネシア空軍最初の軽爆と重爆は一度も戦果をあげることができずに灰燼に帰した。ヨグヤカルタのマグウォ飛行場に置かれていたなら、その運命はまた違ったものになっていたにちがいない。
蘭領東インドを日本軍進攻前の状態に戻すためにインドのイギリス軍を主体にする連合国軍が1945年9月末から続々とインドネシアに進駐してきた。蘭領東インド統治政体だったNICA(Nederlandsch Indi? Civil Administratie)も10月後半にはジャカルタに復帰して、植民地統治体制を復活させる動きを開始した。既に日本軍政のバックアップなしに独立を宣言していたインドネシア共和国国民がその動きを諾々と認めるはずがない。蘭領東インド植民地軍KNIL(het Koninklijke Nederlands(ch)-Indische Leger)のインドネシア国民に対するテロ行為が多発して、戦火を交えることが増加し、更にスラバヤに上陸したイギリス軍が市民に武器提出を命じたことからスラバヤで戦闘が開始され、インドネシア対オランダ・イギリスという異常な関係に発展して行った。蘭領東インド進駐軍の主体だったイギリス軍は、オランダに組してインドネシアと対立することの愚を考慮して、早急に任務をオランダ側に引き継いでインドに帰還して行った。完全撤退は1946年11月28日で、イギリス軍はその間に5百人を超える戦死者行方不明者を出している。
インドネシア共和国を原住民武装叛乱と定義したNICAは、力による武装叛乱鎮圧に動き出した。1947年7月21日に始まった第一次オランダ軍事攻勢がそれだ。NICAはそれを「警察行動」と公称して、あくまでも国家間の戦争であることを認めない姿勢を示した。KNILの攻撃は、インドネシア空軍が各地の飛行場に築き上げていた帝国軍用機による戦力を壊滅させることで開始された。P−40キティホークとP−51ムスタングが、タシッマラヤ・ヨグヤカルタ・マラン・マディウンの飛行場施設とそこに駐機されているインドネシア空軍機を破壊するためにジャワ島上空を飛びまわり、爆弾と機銃弾の雨を降らしたのである。そのとき、霧に包まれていたヨグヤのマグウォ飛行場だけが壊滅の危機を免れ、他のすべての基地と機体は破壊しつくされた。これで航空機攻撃はありえないと確信したKNIL軍は、地上部隊の進攻を開始したのである。
KNILがオランダ王国植民地である蘭領東インドの叛乱民を鎮圧したという宣伝に対抗して、インドネシア独立軍が壊滅していないことを世界にアピールすることは重要な政治戦略となる。ハリム・プルダナクスマ少将に報復攻撃作戦立案が命じられた。マグウォ飛行場にある飛行可能な航空機と爆弾を使ってKNIL軍に一矢を報いるため、スマラン飛行場とアンバラワおよびサラティガに爆弾攻撃を加えるという作戦を少将は立案した。せっかく動けるようにしたあった爆撃機はマディウンで使い物にならなくなっている。マグウォ飛行場にある航空機を使うしか方法はないのだ。一機だけ残っている戦闘機をその援護につけよう。こうして、スマラン飛行場攻撃はハヤブサに援護されたグンテイ一機が40キロ爆弾数個と機銃弾を積んで出撃し、アンバラワとサラティガはチューレン二機が50キロ爆弾を抱えて出動することになり、1947年7月29日未明の午前5時を待ったのである。ところが、期待に反してトラブルが起こった。
グンテイの援護に就くはずのハヤブサが使いものにならないのだ。回転するプロペラの間から機銃弾を発射させるためのシンクロナイザーが機能しないのである。整備員が夜っぴてその修理に取り組んだが、成功しなかった。グンテイを援護して敵に機銃弾を浴びせなければならない戦闘機が、自分のプロペラを打ち抜いて墜落するのでは話にならない。
ハリム少将はハヤブサの出撃取り止めを命じた。戦闘機の援護なしに爆撃機が単機で敵陣の真っ只中に乗り込んでいくのが狂気の沙汰であることは、少将も熟知している。インドネシア空軍初の出撃行は岐路に立たされた。するとグンテイのムリヨノ飛行士とドゥラフマン射撃手が、単機で出撃すると言い出したのである。
こうして戦闘機ハヤブサ1機の出動に変更があっただけで、グンテイ1機とチューレン2機の出撃は予定通り行なわれた。機体の胴にあった日の丸の下半分を白色で塗りつぶしたインドネシア国軍機が降って湧いたかのように出現したことはKNIL軍をおおいに驚かせ、スマラン飛行場襲撃は成功裏に終わった。P−40が一機、グンテイを撃墜せんものと滑走路を走り出したが、飛び立つ前に地上でクラッシュしてしまい、グンテイは悠々とマグウォ飛行場に凱旋してきたのである。アンバラワとサラティガの爆撃任務も計画通り果たされ、共和国空軍の被害はゼロという、圧倒的な戦果が報告された。
スマラン飛行場攻撃で、撃墜される危険をもかえりみずに単機で爆撃行をはたしたグンテイとは、三菱キ51九九式軍偵のことだ。三菱99軍偵は急降下爆撃機としての基本スペックを持つ襲撃機で、偵察用途のものも作られたことから軍偵という名称が一般呼称になった。日本軍が去ったあとのマランのブギス飛行場には7機の軍偵が残されていた。それを整備して飛行可能な状態にしたのは、インドネシア人整備士だ。整備されてからはいろいろな用途に使われた末に、1947年7月29日の爆撃作戦にその一機が参加したのである。
そのとき、飛ぶに飛べなかった戦闘機ハヤブサとは中島 キ43 一式戦闘機 「隼」のことで、インドネシアではNakajima Ki-43-II Hayabusha と表記されている。A6Mゼロ(A6M Zero)とは、三菱 A6M 零式艦上戦闘機。キー61とは川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」。L2D3とは零式輸送機二二型のこと。それらの他にチューレン、チューキュー、ニシコレン、などという、そんな名前のものが帝国軍用機の中に本当にあったのかと思わせるようなものが列挙されている。その中のチューレンはきっとわかりやすいにちがいない。
チューレンとは漢字で中連と書き、九三式中間練習機を略した名称で、飛行機操縦訓練用のものであり、日本では訓練生の間で「赤とんぼ」と綽名されていた。「ん」が最後の音節に置かれるときの日本人の発音は[-ng]であり、日本人が発音するチューレンという音をインドネシア人はcurengと表記した。当時使われていたオランダ式綴りではtjurengとなる。
インドネシア人がヨグヤカルタのマグウォ飛行場を接収したとき、中連が50機も残されていた。その時、機体整備のできるインドネシア人はバンドンにしかおらず、バンドンから呼び寄せたふたりの整備技術者が全機を調べた結果、軽い損傷ながら飛行可能なものが三機だけ発見され、他はすべてスクラップ同然であると判定された。
1945年10月26日、その内の一機が飛行可能な状態に整備され、機体にあった日の丸マークは下半分が白で塗りつぶされ、インドネシア共和国軍用機のマークに変えられた。インドネシア国軍が保有する最初の軍用機が誕生した記念するべき瞬間だ。翌10月27日午前10時、同機のテストフライトが実施され、アグスティヌス・アディスチプトがルジトとふたりでおよそ30分間上空を飛んだ。
その後も、スクラップ同然だった中連の機体修理が進められて、1946年1月には25機が飛行可能な状態に修復され、インドネシア人パイロット養成が着々と進められていった。日ごとの訓練の途中に事故が起こって貴重なパイロットと機体が失われることも体験した。そうして1947年7月29日の空軍最初の爆撃作戦の日に至ったのである。
スカルノ大統領時代にデウィ夫人は現在の都内ガトッスブロト通り西側にある邸宅を自邸とした。ヤソー宮殿と呼ばれたその邸宅は現在軍事博物館になっており、敷地内格納庫の屋根の下に複葉単発の小型機が置かれている。それがインドネシア空軍最初の登録航空機であり、且つまた最初の戦闘に参加した記念すべきチューレンなのである。
ジャカルタの軍事博物館に展示されている日本の軍用機がもう一機ある。インドネシアではNishikorenと呼ばれている中島キ27二式高等練習機だ。このニシコレンはそのうちにインドネシア人の間で野牛を意味するバンテンと呼ばれるようになった。日本軍が去ったあと、ニシコレンはタシッマラヤのチブルム飛行場とマランのブギス飛行場で使用不能な状態のものが各一機発見された。マランのブギス飛行場にあったニシコレンとチューキューおよびチューレンが各一機、ソロのパナサン飛行場に鉄道で送られて修理が開始され、1945年9月には飛行可能な状態に修復された。ほぼ同じタイミングでタシッマラヤのニシコレンも改修された。このようしてインドネシア空軍が保有する航空機はどんどん増えて行ったのである。
もうひとつ、インドネシア空軍草創期の軍容に欠かせない帝国軍用機に、インドネシアでチューキュー(Cukiu)と呼ばれているものがある。正式呼称はKi-55, Cukiuとなっているので、立川キ55 九九式高等練習機がそれだと思われる。チューキューという名称がどこから出てきたのか謎だが、想像をたくましくするなら、その原型機として使われた九八式直接協同偵察機(キ36)の俗称である直協(チョッキョー)にひょっとしたら関わっているのかもしれない。
ブギス飛行場にはチューキューが25機あったことが記録されているが、チブルムについては記録がない。マランでは、25機のうちの4機がインドネシア人整備士によって生き返らされ、さっそくテスト飛行が行なわれた。そのテスト飛行のためにスラバヤから呼び寄せられたパイロットと機体整備士はアリ、アッモ、アマッというインドネシア名に改名した元日本兵だったそうだ。最初、アリとアッモは連合軍が軍務に就くのを禁止しているという理由でテスト飛行を拒んだ。しかし「もうあなたがたは日本兵でなく、われわれと同じインドネシア人なのだ。」と説得されて、最終的に4機のチューキューを飛ばしたという話だ。それどころか、調子に乗ってマラン市の上空をアクロバット飛行し、市民たちの喝采を受けたという話が人口に膾炙している。その三人に関するその後の消息ははっきりしたものがなく、本隊を脱走して、そのインドネシア名でインドネシアの土になったのか、あるいはそれを一時の便法としてまた本隊に復帰し、日本への復員船に乗ったのかどうかはよくわからない。
1946年2月、マランのブギス飛行場所属のチューキュー4機のうちの1機がヨグヤカルタのマグウォ飛行場に移管され、ヨグヤでパイロット養成に使用されることになった。次いで3月には、もう1機が今度はソロのパナサン飛行場に移管された。チブルム飛行場でも、チューキューが1機修復されて使用されている。チューキューはその後何機も修復されて使用されていたが、事故で数機が失われた。
日本が残したインドネシア空軍草創期の航空機は、空軍パイロット養成、国軍上層部の移動の足、国民へのビラまきや戦意高揚のためのパレードあるいは各地部隊への訪問や情報交換など、直接的な戦闘行動に使われるのでなく、補助的な機能を果たすための使用が多かったようだ。そしてその後の空軍の戦闘行動に使われることもなかったように思われる。
1949年12月27日のデンハーグにおける円卓会議でオランダがインドネシアの独立を承認したとき、インドネシア国内にあるオランダ権益のすべてがインドネシアの手に渡された。そのとき、オランダ軍が持っていたさまざまな軍用機もインドネシア空軍の手に渡り、それ以来、インドネシア空軍はもはや帝国軍用機に頼る必要がなくなったのである。

(2015年6月)