「南往き街道」


< メステルコルネリス >
城壁に囲まれたバタヴィア城市から南におよそ12キロ離れたところにジャティヌガラ(Jatinegara)がある。現在は東ジャカルタ市ジャティヌガラ郡だ。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)が1619年5月30日にジャヤカルタを征服する以前から、いやカラパがイスラム勢力に奪取される前から、そこはパクアンパジャジャラン王国の要衝とされており、住民居留区が形成されていた。カラパに陸揚げされ、あるいはカラパから積み出される交易物資はチリウン川を通ってボゴールとの間を上り下りしていたようで、ジャティヌガラは船人が立ち寄る土地になっていたのかもしれない。
イスラム勢力がカラパを奪取したあと、カラパはジャヤカルタと名を変えてバンテン王国領地となり、ジャティヌガラはバンテン王国の王族貴族たちが支配するところとなった。ジャヤカルタがVOCに征服されたとき、ジャヤカルタの宮廷人や市民らがジャティヌガラに落ち延びて行ったのは、そういうつながりがあったからに違いない。
ちなみにジャティヌガラという名称はjatiとnegaraが組み合わされた言葉で、jatiはチーク樹、negaraは国(元来は町)を意味している。jatiにはもうひとつ「本物・真実・核」などの意味もあり、その地名のジャティの語義はどちらにもとることができる。
ただしインドネシア語で通常の、後ろから前に修飾する法則から見ると、この順番は反対になっている。ジャティもヌガラも元々はサンスクリット語源の単語であり、これはサンスクリット語の前から後ろに修飾する法則に従ったものであるにちがいない。多分bumiputeraと同じ用法ではないかと思われる。
わたしの住んでいた南ジャカルタ市パサルミングにもJatipadangという地名があり、これも修飾関係が逆になっているのでサンスクリット語方式の可能性があるのだが、ジャティパダンという地名の由緒はよくわからない。

イスラムマタラム王国のスルタン・アグンによる出兵でクーンが建設したバタヴィアの町が二度戦火にさらされたあと、バタヴィアの街作りが進展の度合いを強めていた1656年に、マルク諸島のバンダ島出身者でキリスト教の牧師で宗教教育者でもあるコルネリス・ファン・スネン(Cornelis van Senen)がジャティヌガラ地区のチリウン川沿いの土地およそ5平方キロを購入して地主となり、その土地の住民たちの首長となった。
私有地のオーナーはあたかもその土地の領主のような立場に置かれ、領地内ではその土地が属す王国やより高位の行政が持っている一般法の埒外とされるのが普通であり、その慣習は長期にわたって続けられた。VOCがジャワ島全域を支配下に置いたあとでも西ジャワには多数の私有地が設けられ、VOCの法が末端住民まで届かないケースは数え切れないほど起こっている。

当時、バタヴィア城市内外の建設にかかりきりのVOCにとって、まだ手の着けられないジャティヌガラを同じキリスト教徒の首長が治めるのは願ってもないことだったにちがいない。そのせいだろうか、コルネリス・ファン・スネン氏はオランダ人からメステル(Meester)の称号を賜った。メステルは英語のマスターに該当する。
一説によれば、コルネリス・ファン・スネン氏はポルトガル人がアジア経営のためにアジア女性との間に大量にもうけたメスティーソの子孫であり、かれはVOCがバンダ島から奴隷をバタヴィアに連れて来るさいに同行してきたそうだ。かれはバタヴィアで牧師と宗教教育の仕事に就きたいと希望していたにもかかわらず、バタヴィアのオランダ人社会は純血白人でない牧師を拒否したことから、かれはジャティヌガラのプリブミ社会で自分が抱いている生き甲斐を実現させるしか道が残されていなかったという話もある。

バタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路がVOCによって1678年に建設された。これはバタヴィア城市の城壁の外に建てられたジャカトラ要塞からメステルコルネリスに至る南北の直線道路であり、道路は更にまっすぐ北上してアンチョル海岸部まで伸びている。バタヴィア城市からジャカトラ要塞へは現在のジャヤカルタ通り(Jl Jayakarta)が通じており、城市内住民はそこを通って海岸部へも、メステルコルネリスへも容易に行けるようになった。その道路のおかげで、メステルコルネリス地区も目覚ましい繁栄を謳歌するようになる。

ともあれ、かれは私有地住民からもメステル・コルネリスと呼ばれるようになり、1661年に没したあともかれが首長として治めていた土地がその名で呼ばれるようになった。その後、オランダ統治時代を通して、その地名はメステルコルネリスという名称が維持され、1942年に日本軍政が開始されてから敵性語を廃止させるために地名がジャティヌガラに変更された。
しかしごく最近までも、地元の年寄りたちはジャティヌガラよりもメステルという名称を好んで用いていたし、今でもアンコッに乗るとメステルという停留所名を耳にすることができる。

バタヴィアが城壁の外へ拡大して都市域を広げても、メステルコルネリスは自治都市(へメンテgemeente)としての扱いが継続され、19世紀にはブカシ・チカラン・マトラマン・クバヨランを含むジャティヌガラ郡の郡庁所在地となり、1936年にやっとバタヴィア市行政の中に編入された。
その郡役場だった東ブカシラヤ通り76番地にある壮大な建物は最初、領主たるメステル・コルネリス氏の壮麗な住居があった場所だ。ところがラフルズ(Thomas Stamford Raffles)のジャワ島進攻作戦に備えて、ラフルズを迎え撃つべく赴任してきたダンデルス総督がそこをモダンなヨーロッパ風建物に建替えさせた。
1811年のジャティヌガラ会戦のさいにフランス〜オランダ連合軍の司令部がそこに置かれたのを皮切りにして、その後は郡長の官舎兼役場として使われ、反オランダ独立闘争期には共和国派ゲリラが本部にしていたそうだ。独立後は陸軍第0505軍管区司令部が置かれていたが、司令部が移転してからは残骸を?さらすだけになっていた。

メステルは18世紀に軍事都市とされ、1734年にはチリウン川脇にメステルコルネリス要塞が建設された。今のJl. Bukit Duri Utara通りの橋北詰の場所がそれ。兵学校や教練施設も作られれ、ダンデルスはそこを防衛線と定めて英軍進攻に対する作戦を練った。軍関係者はここに娯楽施設を用意したため、バタヴィアからナイトライフを楽しみに来る者が増えた。

1811年の会戦で英軍がフランス〜オランダ連合軍を敗ったことで、ジャワ島はイギリスの統治下に置かれた。そのときの状況は「ニャイダシマ」
http://indojoho.ciao.jp/archives/library010.html
がご参照いただけるにちがいない。

1820年に統治権がイギリスからオランダに戻されたとき、メステルコルネリス要塞は刑務所に替えられた。その刑務所も1990年に廃止されている。

メステルコルネリスにも中華街がある。1740年の華人大虐殺事件のあと、グロドッに住んでいた華人たちがバタヴィアとは異なる行政区域に期待したのか、このジャティヌガラ地区に移り住んできた。
ジャティヌガラのパサルラマ(Pasar Lama)周辺には、2百年を超えて生き残っている華人住宅や中国寺院福?正神(klenteng Hok Tek Ceng Sin)などの歴史遺産を見ることもできるのである。

< マトラマン >
1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路に沿って、東ジャカルタ市ジャティヌガラ郡の北に位置しているのが東ジャカルタ市マトラマン郡だ。
幹線道路はマトラマンラヤ通り(Jl Matraman Raya)という名称でマトラマン郡を縦断しており、道路の東側はパルムリアム(Pal Meriam)町、西側はクボンマンギス(Kebon Manggis)町になっている。

インドネシアにパルという言葉のつく地名がよく登場するのだが、パルというのはオランダ語のパアル(paal)に由来しており、パアルというのは境界を示す杭を意味していた。また日本の一里塚のような距離標として街道沿いに設けられたこともある。この道標としてのパアルは「プンチャッ越えの道」http://indojoho.ciao.jp/archives/library021.html
の大郵便道路に関する記述の中に説明が出てくるので、ご参照いただければ幸いです。
ジャカルタ一円にも、パルメラ、パルプティ、パルムリアムなどという地名が存在し、そのパルムリアムが町名となったのがマトラマン郡パルムリアム町だ。ムリアムというのは大砲のことで、その言葉はポルトガル人砲手が火薬に点火する際に頻繁に口にした聖母マリアの名に由来しているという説がある。
ヌサンタラの住民はポルトガル人砲手が口にする「マリア」という言葉がその火を吐く道具のことだと思ったらしい。マリアがムリアムになったのは、マリアの次に発音される単語の頭が「m」で始まっていたためだろうか、それともポルトガル語のマリアをアラブ語のマリアムに翻訳したのだろうか?/a/が弱母音の/e/に変化するのはムラユ語の一般的な現象だから、異とするには当たらない。
パルムリアム町の名称に関しては、まずジャティヌガラが軍事都市であったこと、ジャワに進攻したイギリス軍とフランス〜オランダ連合軍との会戦がマトラマンからメステルコルネリスにかけての地域で起こったこと、などの事実に照らして、どうやらマトラマンラヤ通り沿いに置かれた大砲がパアルの役割に使われていたことが推測され、ジャカルタ郷土史家のザエヌディン氏もその説を主張している。

ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)VOC総督が1619年に行ったジャヤカルタ征服の十年ほど後、イスラムマタラム王国のスルタン・アグンによる出兵が行われるまで、マトラマン地区は未開のジャングルだった。
1629年のマタラム軍第二次遠征で、マタラム軍がその地に本陣を築いたことからジャングルが開かれて、人間が住み生活を営むことのできる場所となった。そのために「マタラマン(Mataraman)」と名付けられた地名がマトラマン(Matraman)」に転訛したというのが定説になっている。
このマトラマン郡はメステルコルネリスが繁華な街になったあとも、相変わらずメステルにとっての郊外のようなポジションを占めていた。1870年代になってもマトラマン通りの両側はヤシやバナナの木に占領され、ちらほらと竹づくりの民家があった程度で、しかし道路脇には灯油ランプの街灯がしっかりと設けられて、バイテンゾルフやチアンジュル一円とバタヴィアを往復するひとびとに便宜を与えていた。

1811年にヘルマン・ウィレム・ダンデルス(Herman Willem Daendels)総督がヨーロッパに呼び戻されてほどなく、インドのイギリス東インド会社がジャワ島進攻作戦を開始した。総兵力1万2千人近い大軍団は1千9百隻という大軍船団に分乗してマラッカを経由したあと、風向きの関係でカリマンタンを迂回し、東方からバタヴィアに接近した。2カ月間の船旅だったそうだ。イギリス軍は北ジャカルタ市チリンチン(Cilincing)に上陸し、8月8日に既に城壁が撤去されているバタヴィア城市に入った。
オランダ人はもっと以前からタナアバン〜ガンビル〜クマヨラン〜スネンなど、バタヴィア城市の南方に開かれた地域へ生活領域を移しはじめており、ウエルテフレーデン(Weltevreden)とかれらが呼んだその地域が政治経済センターとしての形を整えつつあった。
だからフランス〜オランダ連合軍の対イギリス軍迎撃作戦は、モナス地区を前線としてウエルテフレーデンに防衛線を敷き、そこが破られた場合に備えてメステルコルネリスに主力軍を配置するという形が採られたようだ。
おかげでイギリス軍はもぬけの殻のバタヴィア城市で手足を伸ばし、総司令官のミントー卿と軍最高指揮官ラフルズはバタヴィア市庁舎(今の歴史博物館)に司令部を置いて宿舎とした。
8月10日にイギリス軍は戦闘行動を開始し、ガレスピー大佐率いる騎兵1千名とセポイ歩兵45名がまず先遣部隊としてウエルテフレーデンに攻め込んだ。後を追って現在のガジャマダ(Gajah Mada)通りハヤムルッ(Hayam Wuruk)通りをイギリスの大軍勢がモナス一帯に向かって押し寄せる。
攻防戦は2時間ほどで結果が出た。メステルコルネリスに向かって撤退するフランス〜オランダ連合軍を追撃するイギリス軍部隊は、幹線道路沿いに設けられたオランダ側前哨基地に阻まれて追撃の足が停滞する。
一方、バンテン広場〜モナス広場〜スネン地区の残兵を掃討したイギリス側は、司令部をウエルテフレーデンに移して、まだ新しい施設を利用し始めた。ダンデルスが総督庁を置くつもりで建てさせていた未完成のホワイトハウス(バンテン広場の現大蔵省建物)がイギリス側の総司令部となった。

現在のパルムリアム町トゥガラン(Tegalan)通りに設けられたフランス〜オランダ連合軍陣地を陥落させたイギリス軍は、更にパルムリアムにある次の陣地をも奪取したが、メステルコルネリス要塞は守りが固く、容易なことでは破れそうにない。
総攻撃が繰り返され、要塞の防御態勢が少しずつ衰えを見せるようになった。そして運命の日が8月26日にやってきた。深夜1時に開始された総攻撃で、フランス〜オランダ連合軍はついに力尽き、フランス軍砲兵少佐が火薬庫で自爆したことが要塞守備隊全軍の抗戦意欲を喪失させてしまったにちがいない。メステルコルネリスに拠っていたフランス〜オランダ連合軍は中部東部ジャワへ落ち延びて行った。

< ラワバンケ >
今のジャティヌガラの町(ジャティヌガラ郡バリメステル(Balimester)町)の東側はラワブガ(Rawa Bunga)町になっているが、元々そこの地名はラワバンケ(Rawa Bangkai)と呼ばれていた。ラワは湿地や沼の意味だ。バンケ(死骸の意味)という言葉が町名に付けられては、住民は平常心でいられない。だから町名をつける際に別の言葉に置き換えられたという由来を、この町は持っている。
ではいったいどうして「死骸」などという不気味な言葉がそこの地名になったのかと言うと、実はメステルコルネリスを占領した後、イギリス側はフランス〜オランダ連合軍の反撃を予想して、街道に防衛陣地を設けた。アンチョルから街道を南下してメステルに進攻してくると想定したのだ。ところがイギリス軍と同じようにチリンチンに上陸したフランス〜オランダ連合軍はチリンチンからそのまま南下し、ジャングルの中を苦難の進軍をしたあげくメステルの東側から攻撃をかけてきた。
不意打ちをくらってイギリス側は散々な目に遭ったものの、勢いを盛り返してフランス〜オランダ連合軍を撃退した。その激戦で両軍に多数の死者が出て、ラワバンケの湿地帯には死体がごろごろ転がっていたらしい。そのため誰言うとなく、ラワバンケという言葉がそこの地名になった。

ところが1740年10月にバタヴィアで起こった華人大虐殺事件のときに、そこが大殺戮の舞台となって華人の死骸がごろごろしていたのがその地名の由来だと説明する者がいる。メステルコルネリスにたくさん華人が移り住んだのがその華人大虐殺事件の結果だと言われていることを思えば、大虐殺事件発生の前に広い湿地帯を死骸で埋めるほど多数の華人が本当にそのエリアに住んでいたのかどうか、甚だ疑問視せざるを得ない。
その華人大虐殺事件を一部のひとは紅渓(福建読みでang khe「アンケ」)事件と呼んでいる。それはアンケ川(Kali Angke)の水が虐殺された華人の死骸で真っ赤に染まったことに由来しているのだという説が唱えられ、インドネシア人の中にもアンケという地名がその福建語に由来していると信じているひとが多数見受けられるのだが、その華人大虐殺事件に関連付けてさまざまな説話があちこちに作られ、その事件を宣伝に使おうとする何らかの謀略がからんでいるような雰囲気が感じられてしかたない。事実のニュートラルな把握にそぐわないストーリーが流布していれば、なぜそんな物語が作られるのかということに誰しも思いを致すのではなかろうか?

< サレンバ >
1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路に沿って、東ジャカルタ市マトラマン郡の北に位置しているのが中央ジャカルタ市スネン郡だ。
幹線道路はサレンバラヤ通り(Jl Salemba Raya)と名前を変えるが、行政区画名称ではパスバン(Paseban)町とクナリ(Kenari)町がその東西をはさんでいて、サレンバという道路名称やその言葉を含む地区名称はあっても、サレンバという行政区画名称は存在しない。ところが、みんながその地区をサレンバと呼んでいるのはいったいどうしたことだろうか。
このサレンバラヤ通りとマトラマンラヤ通りの境界が中央ジャカルタ市と東ジャカルタ市を分ける境界なのであり、つまりは昔のバタヴィアとメステルコルネリスの両市を隔てる境界でもあった。このサレンバラヤ通り界隈に目立つのは、まず病院が多いことが挙げられる。
全長わずか1.5kmのサレンバラヤ通り沿いには、シン・カロルス(St.Carolus)病院、モッ・リドワン・ムラクサ(Moh Ridwan Meuraksa)病院があり、あちこちで通りに流れ込んでくる脇道に入れば、チプト・マグンクスモ(Cipto Mangunkusumo)病院、MHタムリン(Thamrin)病院、チキニ(Cikini)病院などの大型病院を見出すことができる。

道路の西側にあるクナリ町側の道路沿いには、注目すべき場所がいくつか存在する。南側から見て行くなら、国立図書館、インドネシア大学医学部キャンパス、パサルクナリ、そしてチキニ(Cikini)地区を走るチキニ通りとサレンバラヤ通りを結ぶラデン・サレ通りにあるチキニ病院などだ。
サレンバラヤ通り28番地Aにある国立図書館ビルは、スハルト大統領の時代に大統領夫人がそこに9階建てのビルを建てて国立図書館運営機関に寄贈したもので、公式オープンは1989年3月11日となっている。運営機関はそれまで西ムルデカ通りの国立博物館、南ムルデカ通りのSPS図書館、イマムボンジョル通りの独立宣言起草博物館の三カ所のそれぞれに関連する図書館を別々に運営していたのが、これによって本部としての場所を得ることになり、図書館活動の効率が向上した。
ところで、2017年9月に南ムルデカ通りの図書館が24階建てビルに生まれ変わり、図書館としては世界最高の高さに加えて最新鋭の諸設備が完備され、国立図書館側はこちらのビルをも国立図書館という名前で大々的に宣伝しているから、サレンバの国立図書館と情報が錯綜する可能性が懸念される。

大統領夫人が寄贈した図書館ビルは、もともとそこにあった陸軍病院局の事務所兼宿舎に大改装が加えられたものだ。その場所では最初、オランダ領東インド植民地ではじめてのHBS(上級市民学校)が1860年9月15日にオープンした。校名はバタヴィアウィレム3世王学校(Koning Willem III School te Batavia)で、KW IIIと省略されてカウェドリ(Kawedri)と発音された。このはじめてのHBS学校がバタヴィアの辺地でメステルコルネリスに近い場所に置かれたのは、メステル居住者への便宜が配慮されたように想像される。
1942年の日本軍進攻の際に、そこはオランダ人民兵組織が本部を置いたが、降伏したあとは日本軍が軍用に使い、その後連合軍が進駐してくるとやはり軍用に供された。
1949年にオランダがインドネシアの主権と独立を承認したあと、インドネシア共和国陸軍第312(別名黒サソリ)歩兵大隊が司令部をそこに置き、そのあと陸軍病院局が使うという歴史が刻まれている場所だ。

少し北に上ってディポヌゴロ通りが左から流れ込んでくる交差点の北側に、インドネシア大学サレンバキャンパスがある。インドネシア大学の歴史を語る時に、オランダ植民地政庁が行った原住民医師養成政策を忘れることはできない。
折に触れて各地で発生する天然痘、チフス、コレラなどの大流行で原住民がバタバタと死んでいくのに手を焼いた植民地政庁は、原住民医師を養成することをその軽減対策のひとつに置いて1849年から活動を開始した。この学校は1819年に植民地政庁が三カ所に設けた軍病院のひとつウエルテフレーデン軍大病院の付属施設として1851年1月にジャワ医師学校(Dokter-Djawa School)という名称で公式開校した。
その後ジャワ医師学校は1898年に規模が拡大されて、東インド医師養成学校(School tot Opleiding van Indische Artsen 略称STOVIA)としてウエルテフレーデン軍大病院のすぐ南側の建物でインドネシア人医師を養成し始めた。その建物が現在の国民決起博物館(Museum Kebangkitan Nasional)であり、ウエルテフレーデン軍大病院が現在のガトッスブロト陸軍中央病院だ。
植民地政庁は高等教育の拡大方針をスタートさせ、1920年バンドンに工科上級学校(Technische Hoogeschool te Bandoeng)、バタヴィアには1924年に法科上級学校(Recht Hoogeschool)と1940年に文科人文学部(Faculteit der Letteren en Wijsbegeerte)、1941年にボゴールに農学部(Faculteit van Landbouwweteschap)を開設し、一方医師養成は中等レベルから開始する形に制度改革が行われて医学教育体系が別途構築され、STOVIAは1927年に廃止された。そのときサレンバに開かれた医科上級学校が現在のインドネシア大学医学部の前身だ。

インドネシア共和国独立宣言後、既に数カ所に開かれてあった高等教育施設をひとつの大学体系にまとめて1946年に緊急大学(Nood-universiteit)が設けられ、1947年にインドネシア大学(Universiteit van Indonesie)と改称された。
東インド植民地に復帰してきたNICA(蘭領東インド文民政府)に首都圏が占領されたため、ジャカルタの共和国政府はヨグヤカルタに移り、インドネシア大学もヨグヤで活動を継続した。1949年の独立と主権の承認で共和国政府がジャカルタに復帰してから、インドネシア大学は医科・法科・文科・哲学科がジャカルタ、工科がバンドン、農科がボゴール、歯科医学がスラバヤ、経済学がマカッサルという壮大なスケールで稼働し始めたものの、1954〜1963年の間に各地の学部は独自に大学を形成してインドネシア大学から離れて行き、ジャカルタのインドネシア大学はサレンバでひとつの大学となった。
その後キャンパスがサレンバとプガンサアンティムール(Pegangsaan Timur)、ラワマグン(Rawamangun)の三カ所に増えたあと、1987年にデポッ市に320Haもの広大な地所を得て新キャンパスが作られ、当初はすべてがそこへ移転するような計画になっていたが、医学部と歯科医学部がサレンバに残る形で今日に至っている。

< ラデン・サレ >
インドネシア大学キャンパスを通り越え、パサルクナリを過ぎて、さらにどんどんサレンバラヤ通りを北上すると、左からラデンサレ通りが合流してくる。ラデンサレ通りに曲がって6百メートルほど進むとチキニ病院がある。このチキニ病院の建物はかつて蘭領東インドの偉大なる画家としてヨーロッパで英名を馳せたラデン・サレの豪邸だった。
ラデン・サレ・シャリフ・ブスタマン(Raden Saleh Sjarif Boestaman)はラデンの称号が示す通り、ジャワ貴族の家系に生まれた。父はアラブ系ジャワ人、母はジャワ人で、中部ジャワのスマランで生まれて10歳までそこで過ごしたあと、伯父のスマラン県令が植民地政庁上位者のオランダ人にその甥の育成をゆだねた。かれの生年は諸説があって判然としないが、今は1807年と1811年の二説が有力になっている。

かれはバタヴィアでオランダ人社会に入って暮らすようになる。オランダ人学校でかれは既に絵画の天分を示すようになった。青年になったラデン・サレの才能に、当時植民地政庁農業芸術科学局長の職にあったプロイセン出身のカスパー・ギオーグ・カール・レインワルツ(Caspar Georg Karl Reinwardt)教授が目を止めて、かれを自分の部署で働かせるようにした。そのレインワルツ教授こそが、ボゴール植物園の開設者なのである。そしてラデン・サレも教授の下で自然科学の薫陶を受け、その時代に東インドの人間としては稀な科学知識を持つようになる。
たまたまオランダ本国政府が植民地省に飾るための絵画を描かせるために、ベルギー系オランダ人画家AAJパイェン(Payen)をバタヴィアに派遣してきた。パイェンは農業芸術科学局の預かりとなり、ラデン・サレと知り合うことになる。
ラデン・サレの画才にほれ込んだパイェンは当時ヨーロッパの最先端にあった絵画技術をラデン・サレに教え込んだ。そしてジャワ島の風景画を描くために地方を巡回するときラデン・サレを助手として連れて行き、各地方の種族のスケッチをラデン・サレに描かせている。
パイェンはラデン・サレを画家に育てようと考えて、植民地政庁トップにその提案を示した。時に第38代総督だったファン・デル・カペレン(G.A.G.Ph. van der Capellen)はラデン・サレの作品を示されて、その案にうなずいたそうだ。
1829年、ラデン・サレはパサルイカンのバタヴィア港からオランダに向かう船に乗った。かれの旅費はカペレン総督が負担した。総督はラデン・サレに、その同じ船で帰国するオランダ政府の会計監査官に対してジャワの生活習慣やジャワ語とムラユ語を教授するよう、仕事を与えた。まだニ十歳前後の青年だったかれの能力がいかに高く評価されていたかを示すエピソードではあるまいか。

それから5年間、かれは当時オランダ国内で人気の高い画家コルネリス・クルーゼマンとアンドレアス・シェルフホウツに師事した。クルーゼマンはオランダ王国宮廷画家でもあった。ラデン・サレの作品を集めた展覧会がハーグとアムステルダムで開かれ、東インド植民地の人間の中に世界最先端の絵画手法を身に着けて素晴らしい作品を描ける者がいるという事実が、ヨーロッパにセンセーションを巻き起こした。
オランダ本国政府が費用を負担していた留学期間が終わると、ラデン・サレは科学・測量学・工学をもっと深めたいとして期限延長を願い出た。植民地省・オランダ国王ウィレム一世・その他の関係者が協議した結果、オランダ滞在期間の延長は承認されたが、政府が支給する留学費用は打ち切られた。
国王ウィレム二世のとき、ラデン・サレはドイツ留学を勧められ、ドイツ王国の賓客となって5年間滞在し、1844年にオランダに戻ってからはオランダ王国の宮廷画家として働いた。フランスのマエストロ、フェルディナン・ヴィクトル・ウジェーヌ・ドラクロワと親交を持ったのもその時代だ。そのころからドラクロワの影響を受けつつ、かれの情熱は動物の躍動性をキャンバスにとらえることに向かい始めていたらしい。当然、そのダイナミズムを支えるドラマチックな背景が画像の中に封じ込められることになる。
フランスで社交界の一員となり、ボードレールやアレクサンドル・デュマら気鋭の文学者と交わり、リストやワグナーのコンサートを聴き、ヴィクトリア女王の客となってバッキンガム宮殿を訪れたこともあるらしい。
ラデン・サレの作品に砂漠を背景にした人間と野獣の構想がよく登場していることから、かれはアルジェリアを何度も訪問したパリの友人画家オラス・ヴェルネに同行してアルジェリアに行ったことがあるのではないかという説がこれまで語られてきたが、どうやらそれは推測でしかなく、アルジェリアへは行ったことがないという説が今は有力になっている。ラデン・サレは砂漠のイメージをオラス・ヴェルネの作品から吸収したようだ。
ラデン・サレはオーストリアとイタリアをも訪れて各地の画壇と交わり、宮廷を含む上流層社交界で評判を集めた。

20年間滞在したヨーロッパを去るときがついにやってきた。1851年にオランダから帰国の途に就いたラデン・サレは、1852年にバタヴィアに戻った。
バタヴィアでかれは絵画補修管理者として東インド植民地政庁に奉職する傍ら、風景画やジャワ宮廷のひとびとの肖像画を描いた。かれはジャワ島生活に落胆していたようだ。「ここでは誰もが砂糖とコーヒーの話しかしない。」という文章をかれが書いた手紙の中に見出すことができる。ヨーロッパの社交界が開くサロンの教養あふれるセンスをバタヴィアで求めるのは不可能事だったにちがいない。
ラデン・サレは1865年に中部ジャワのスントロで化石発掘調査を行っている。同じようなことはいくつかの場所で行ったようだ。またブカシのカバンテナン村住民から銅板に彫られた碑文を買い上げて、国立博物館に寄贈している。このバンテン碑文(prasasti Banten)と呼ばれる遺物は、ラデン・サレが牛小屋で見つけて無知な農民から歴史遺産を救ったという話になって流布しているのだが、どんなドラマのシーンをわれわれは想像すればよいのだろうか?

かれは帰国してすぐ、バタヴィアのメンテン地区東端のチキニに5.7Haの土地を買い、そこにドイツのカレンベルク城を模した豪邸の建設を開始した。かれ自らが設計し、そして建設を監督したようだ。
できあがった豪邸の中のスタジオで絵画制作に励む一方、バタヴィアの貴顕淑女やバタヴィアに旅してきた欧米人を招いての晩餐会や舞踏会をかれはその豪邸で頻繁に開いた。
旧知でなくとも、バタヴィアを訪れた欧米人がチキニのラデン・サレ邸を訪れると歓迎された。かれの名声を慕って訪れた米国人アルバート・ブリックモア教授はその旅行記に、「東インド全土の原住民支配者がどれほどいようが、ラデン・サレの宮殿をしのぐ宮殿を持っている者はひとりもいない。」と記している。
豪邸の周辺にもラデン・サレの審美能力は闊達に生かされていたらしく、豪邸の玄関目指して近付いてくる来客たちの目を整えられた植栽が十分に愉しませ、また印象付けていたらしい。今のジャカルタからは想像もできないようなグリーンあふれる広大な自然の中で鹿などの野生動物が放し飼いにされていた。

しかしかれの土地はまだまだ広い。現代ジャカルタの地図を見ればわかるように、チキニ病院の位置にあるラデン・サレ邸から北西の場所にTIM(Taman Ismail Marzuki)がある。ラデン・サレはそこに植物園を作って1862年に世間に公開し、更にそれに隣接させて1864年には動物園をも開いた。
TIMがその植物園の跡地に設けられたのは1960年、そして動物園も1960年、南ジャカルタのラグナンに移転するまで、ジャカルタ市民の人気を一身に集めていた。
ジャカルタで日本料理店の草分けとも言える菊川の店がある地区には昔、Jl Kebun Binatang という狭い道がいくつかあったが、チキニ動物園の名残を残すその名称も今や時代の流れの中に埋没してしまったようだ。

ラデン・サレの豪邸はかれの死後、無差別救済のための病院活動を呼びかけたオランダ宣教師の妻がウィレム三世妃エンマから寄付を仰いで1897年に買い取り、チキニエンマ王妃病院として1898年に開業した。運営主体者は教会団だ。その病院は1913年にチキニ病院と改称され、日本軍政下には海軍病院とされた。戦後は再びインドネシア教会団の管理下に戻され、チキニインドネシア教会団病院として今日に至っている。

ラデン・サレの生涯に話を戻そう。
ヨーロッパからバタヴィアに戻ってほどなく、ラデン・サレはオランダ系の寡婦ウィンクルハーヘン夫人を妻に迎えた。当時のかれの生き方に従えば、それはほかに余地のない選択だったにちがいない。しかしウィンクルハーヘン夫人がその豪邸に住んだのは十年間だった。
1867年、かれはヨグヤカルタ王家の血筋を引くラデン・アユ・ダヌディルジャを妻にしてバタヴィアを去り、バイテンゾルフ(今のボゴール)に移った。サラッ山の見晴らしがとてもよい一軒の家をボゴール植物園の近くに借りて住んだ。かれのヨーロッパ風社交生活をかれはチキニの豪邸と一緒に打ち捨てたにちがいない。
それからのかれは妻を連れてオランダ〜フランス〜ドイツ〜イタリアと巡るヨーロッパ周遊旅行を行った。ところが、パリに滞在中妻が病気になり、急遽バイテンゾルフへ戻らざるを得なくなってしまった。

1880年4月23日、ラデン・サレは急病に陥った。それについてかれは、盗みをはたらいた雇人のひとりを叱責したため、その者に毒を盛られた、と自分の口から語ったそうだ。しかし医師の検査によれば、心臓の近くに血栓ができて、それが命取りになったという診断になっている。
4月25日にかれはボゴールのエンパン村で埋葬された。かれの葬儀には、オランダ人官吏、近隣一円の地主、一般庶民から学校生徒らが大勢集まって、たいへんな賑わいだったそうだ。新聞はそのできごとを、2千人が集まってかれの死を悼んだと報じている。そしてかれの妻はその年の7月31日に、夫の後を追って世を去った。夫妻は同じ墓所に葬られた。

既述したバンテン碑文がパジャジャラン王国の歴史を解明するのに有益なものだったことから、かれがジャワ王族の娘を妻に迎えてバタヴィアを去り、バイテンゾルフに移り住んだことに因縁付けようとする傾向が生じているように感じられる。
ラデン・サレにとってバイテンゾルフは、レインワルツ教授が植物園の建設と初期運営に当たっていた時代に親しんだ土地であり、まったく未知の場所でなかったことから、かれが明晰な意志を持ってバイテンゾルフに引っ越したことは間違いあるまい。
しかし死期が迫ったころ、自分の墓をボンドガン(Bondongan)に設けるよう遺言したことが、きっと歴史家たちの心の琴線に触れたにちがいない。ボンドガンはパジャジャラン王宮の地所の一角に当たっているのである。
ラデン・サレの墓所は、1953年に当時のスカルノ大統領が墓参に訪れ、立派なものに改装するよう指示した。イスティクラルモスクを設計した当代一級の建築家Fシラバンが改装をデザインし、新装なった墓所は誰でも墓参に訪れられるよう、一般公開されている。墓所はボゴール市南ボゴール郡エンパン町ラデンサレ路地にある。

< ストライスウエイク >
19世紀から20世紀初めごろまでに作られたバタヴィアの地図を見ると、サレンバ地区はストライスウエイク(Struyswijk)と記されている。ストライス(Struys)は人名、ウエイク(wijk)は英語のdistictに該当するオランダ語で、歴史記録をたどるとVOCの高官アブラハム・ストライス(Abraham Struys)なる人物がそこを自分の私有地にしたようだ。1676年3月13日の日付があるVOCの記録にかれの名前が登場している。
かれがその土地を手に入れたのは、もちろんメステルコルネリスという地の利と、1678年に建設されたバタヴィア城市〜メステル間を結ぶ幹線道路という好条件が大いに関与していたにちがいない。
元々湿地帯だった自分の私有地を、かれは開墾して畑地や牧場にしたようだ。かれが没すると、ストライスウエイクは1664年に生まれた娘のアナ・ストライス(Anna Struys)が相続した。アナはVOC高官ジョーン・ピーテルス・ファン・ホールン(Joan Pietersz van Hoorn)と結婚したが、子供ができず、26歳の若さで1691年にストライスウエイクで没した。
ジョーン・ファン・ホールンは1704〜1709年にVOCの第17代総督を勤めた人物で、かれはアナ・ストライスを最初の妻にしたことで大きい経済力を手に入れ、総督への道を邁進することができたようだ。
1699年10月22日に法廷が下した判決があり、そこにはジョーン・ファン・ホールンがストライスウエイクの土地の一部と330頭の牛、および種々の家財道具をドミネ・キーセンガ(Domine Kiezenga)に5千リンギッで売却することを承認した内容が記されている。

最初の妻を失ったジョーン・ファン・ホールンは1692年7月にスザナ・アフネータ・ファン・アウトホールン(Susanna Agneta van Outhoorn)と結婚した。1672年生まれのこの二人目の妻は時のVOC総督ウィレム・ファン・アウトホールン(Willem van Outhoorn)の一人娘だ。ウィレム・ファン・アウトホールンは第16代VOC総督で、1691年から1704年までその職に就いた。
だからジョーン・ファン・ホールンは前任者の娘を妻にして第17代の総督職に就いたことになる。ただしスザナ・アフネータもバタヴィアで1703年に短い生涯を終えた。
ジョーン・ファン・ホールンは総督の任期の真っただ中で、三人目の妻を持った。結婚式は1706年11月16日、かれの53歳の誕生日だった。かれの三人目の妻になったのは1679年生まれのヨハナ・マリア・ファン・リーベーク(Johanna Maria van Riebeeck) で、かの女はジョーン・ファン・ホールンを後継して次の第18代総督となるアブラハム・ファン・リーベーク(Abraham van Riebeeck)のふたり娘の長女だった。
VOCの高官のファミリーとなることが立身出世にきわめて大きな効果をもたらすという当時の慣習をあますところなく物語っているようなストーリーだ。

< クラマッ >
1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路は、サレンバラヤ通りからクラマッラヤ通り(Jl Kramat Raya)と名を変えてスネン市場(Pasar Senen)に向かう。
道路の東側は道路名と同じクラマッ町、西側は最初クナリ町が続くが、クラマッラヤ通りに西側から流れ込むクラマッ4通りでクウィタン(Kwitang)町に変わる。
この通りで歴史スポットを探すなら、まず筆頭にあがるのが青年の誓い博物館(Museum Sumpah Pemuda)だろう。クラマッラヤ通り106番地にあるこの建物は道路の西側にある。東側は奇数番地、西側に偶数番地が並んでおり、探しやすい。
1928年10月27〜28日、この建物で第二回青年会議が開催され、青年の誓いと呼ばれる「祖国・民族・言語」をインドネシアという名の単一のものにする決議が宣言された。元々一体性を持っていなかった広範な東インド諸島の被支配者たちをオランダ植民地主義が反オランダという一点で団結させる結果をもたらし、分割統治を失敗に導く原点となったのである。この歴史の教訓は栄枯不滅のものであるにちがいない。

後にインドネシア共和国国歌に制定されたインドネシアラヤ(Indonesia Raya)という歌が作詞作曲者ワゲ・ルドルフ・スプラッマン(Wage Rudolf Supratman)自らのバイオリン演奏と合唱団によってコングレス会場に響き渡ったことも、そのときにこの建物は黙して見降ろしていたのだ。
インドネシアラヤの歴史ストーリーは次の記事をご参照ください。
「国歌インドネシアラヤの歴史」(2017年06月12〜16日)
http://indojoho.ciao.jp/2017/0612_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2017/0613_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2017/0614_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2017/0615_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2017/0616_1.htm

この建物の所有者はシー・コンリオン(Sie Kong Liong)という華人だった。1925年にかれはそこを学生向けのコスにした。インドネシア語のコス(kos)というのはオランダ語のin de kost(他人を寄宿させる)という慣用句に由来する言葉で、kost そのものは生計費や賄いという意味だ。つまりインドネシア語のコスは下宿屋あるいは寄宿舎という意味で使われている。
ウエルテフレーデンの東側にある現在の国民決起博物館(Museum Kebangkitan Nasional)で営まれている東インド医師養成学校(School tot Opleiding van Indische Artsen 略称STOVIA)、1924年以来、現在の西ムルデカ通りの西にある国防省の建物で実施されていた法科上級学校(Recht Hoogeschool)などに東インドの各地から入学してきた学生たちが、寮生活の拘束を嫌って民間の寄宿舎を借りる需要が増加した。シー・コンリオンはそれを商機と見たにちがいない。

STOVIAの学生だったサティマン・ウィルヨサンジョヨ(Satiman Wirjosandjojo)が1915年に興した民族運動活動団体トリコロダルモ(Tri Koro Dharmo)は発展して1918年にヨンヤファ(Jong Java)と改称した。そのヨンヤファが組織活動の本拠地として面積460平米の、クラマッラヤ通り106番地にある建物を借り上げた。それまで本部にされていたクウィタンの借家は狭いためにさまざまな不都合をきたしていたのだ。そして各地から集まって来た学生たちがそこに住み込んだ。学生たちはその建物をラゲンシスウォ(Langen Siswo = kesenangan siswa)と呼んだ。
1926年9月、この建物に集う学生たちが第一回青年会議のあとインドネシア学生会(Perhimpunan Pelajar-pelajar Indonesia)を発足させ、スカルノや他の有力活動家たちをそこに招いて頻繁に討議を行うようになる。
一方で、学生たちは芸術活動やスポーツ活動を盛んにし、決して政治活動偏重にはなっていなかった。概してみんな、本分である学業も真面目に行っていたようで、学生運動あるいは政治運動に関わる者は学業を投げ出してしまうようなイメージは、どうやらかれらのものでなかったようだ。

学生会は雑誌インドネシアラヤの発行を開始し、そのうちに学生活動家たちはそこをインドネシスクリュブハイス(Indonesische Clubhuis)と呼ぶようになり、建物の表にその名の看板を掲げることまでした。
元々植民地政庁は学生たちの民族活動を危険思想として介入し続けてきており、植民地下にあった諸種族を一致団結させるためのインドネシア民族という観念、更には外来語でしかないインドネシアという言葉が社会化することを極度に嫌って弾圧し続けていた。青年会議開催にも当然のように官憲が参加者に混じって目を光らせていたことは言うまでもない。
建物オーナーのシー・コンリオンは民族活動学生たちに理解を示し、青年会議でも会場設営に協力した上、コングレスにも出席したようだ。

1934年に学生たちはその建物の賃貸をやめてクラマッラヤ通り156番地に移った。そこには現在BNI銀行クラマッラヤ支店が建っている。
クラマッラヤ通り106番地の建物は1937〜1951年に別の華人が借家にし、そのあとそこをまた別の華人が花屋とホテルにした。そして最終的に1973年5月20日、都庁がそこを青年の誓い博物館に変えたというのが、その建物の歴史だ。

< クラマッブンドゥル >
クラマッ町の北端はクラマッブンドゥル通り(Jl Kramat Bunder)で、その北側にスネン市場がある。スネン市場の西南角には、東からクラマッブンドゥル通り、南からクラマッラヤ通り、西からクウィタン通りとプラパタン通り(Jl Prapatan)、北からはスネンラヤ通りとパサルスネン通りが集まってくる巨大な交差点がある。
クラマッブンドゥルと呼ばれたのはそこのエリアで、昔はそこがクラマッブンドゥル交差点(Persimpangan Kramat Bunder)と呼ばれていたが、今はパサルスネン交差点(Persimpangan Pasar Senen)という呼び名が優勢になっており、クラマッブンドゥルという言葉を耳にする機会は大幅に減少した。
ブンドゥルという言葉はムラユ語源のbundarの最終母音がムラユ語の慣習に従って弱母音化したものと考えられ、弱母音化した響きを書きとめるために最終母音の/a/が弱母音/e/に置き換えられてbunderと綴られている。
この種の音韻変化を標準インドネシア語と認めないインドネシア国語学界は、同じ慣行で作られたsenang→senengやasam→asemなどの変化形を国語大辞典(KBBI)に掲載しない方針を執っているため、外国人インドネシア語学習者の難関は増加の一途だ。

クラマッラヤ通りとパサルスネン通りの直線コースが1678年に作られた大通りであり、交差点から左に傾斜してバンテン広場(Lapangan Banteng)〜グドゥンクスニアン(Gedung Kesenian)〜パサルバル(Pasar Baru)方面に向かうスネンラヤ通りは、オランダ人がバタヴィア城市を捨ててウエルテフレーデンに新しいバタヴィアを移した時期のものであるのは、疑いあるまい。プラパタン通りとクウィタン通りは更にメンテン地区に建設された新高級住宅地と結び付けて考えることができる。

ちなみに、プラパタン通りは1735年に作られ、最初パラパタン通り(Jl Parapatan)と書かれたそうだ。ところが日本軍政期にプラパタン通り(Jl Perapatan)と変えられ、1956年ごろに現在の綴りJl Prapatanになった。
1920年代ごろまでクラマッブンドゥルには川が流れており、クラマッラヤ通りとパサルスネン通りの直線コースはそこにかけられた橋を通過していた。クラマッ橋(Jembatan Kramat)と呼ばれたその橋が川と一緒に姿を消したのは、1920〜1930年代に行われたスネン市場の大拡張工事のせいだった。川は多分プラパタン通りとクウィタン通りに沿って西から東に流れ、更に東のブグル(Bungur)町にあるカリバル(Kalibaru)と呼ばれた運河につながっていたのではあるまいか。クウィタン通りにあるグヌンアグン書店の表の、緑地帯と呼ぶほうが適切に思われる公園(Taman Gunung Agung)が、クラマッ橋の下を流れていた川だったようだ。要は、川の両岸にあった道路がプラパタン通りとクウィタン通りであり、真ん中の川が緑地帯に変わったことから、現在のあの広壮な通りと化したということなのだろう。

クウィタン町と言えば、わたしには1975年ごろに既述のブグル町のカリバル地区、ポンチョル(Poncol)、パサルスネン、そしてクウィタン通りの奥に連なる狭い数本のクラマックウィタン通りを頻繁に訪れた記憶がある。
いずこにも、プリブミに華人、そしてアラブ系やインド系の一家が混じって住み、クバヨランバルのような裕福さは感じられないものの、ひとびとは貧しいなりに静かで落ち着いた暮らしを楽しんでいるように見えた。
クウィタンという言葉の語源はもちろん中国語だ。その説明は下をご参照ください。
「白昼堂々の道端闇ドル商人」(2015年09月7〜9日)
indojoho.ciao.jp/150907_1.htm
indojoho.ciao.jp/150908_1.htm
indojoho.ciao.jp/150909_1.htm

またクラマッ通りとクウィタン通りの角地一帯はグヌンアグン書店のおかげでジャカルタ随一の古本街になっている。百年を越える骨とう品のような古書籍もここへ集まってくるから、オランダ語・英語・中国語などの稀覯本や地図などを趣味にする方は、そこで尋ねてみるのも一興だろう。参照記事は下をご覧ください。
「クイタンは古本街」(2015年1月12〜14日)
http://indojoho.ciao.jp/koreg/hscap14.html

このクウィタン町にはもうひとつの特徴がある。それはジャカルタ全域をカバーするイスラム教世界で高い地位を持っていることだ。昔頻繁にその地区を訪れていたころ、たまたま金曜日の昼前に通りかかると、大勢のムスリムがサジャダを路上に敷いて座り、狭い道路を占拠しているのに出くわした。車をそこへ乗り入れるのは不可能だ。いつも通っている道を通り抜けることができないのである。
実は、そこで金曜日の礼拝と説教が行われていたのだ。きっと高名なウラマの説教があったのだろう。近隣から大勢のムスリムが集まったために礼拝所に入りきらず、野外での催しとなったにちがいない。クウィタンだからこそ、そのようなことが起こるのだということを、後になった知った。
クウィタンには、1870年クウィタン生まれのアラブ系貴人アリ・ビン・アブドゥラッマン・アルハブシ(Habib Ali bin Abdurrahman Alhabsyi)が1911年に興したマジュリスタッリムクウィタン(Majelis taklim Kwitang)があり、インドネシアで最初のイスラム教育機関として古くから名声を保ってきた。
その結果イスラム教の頭脳とも呼びうる優れた人材がクウィタンに出現しては各地へ散って行くという、宗教振興の震源地のひとつとなっていたのである。

< ジャカルタ動乱 >
1945年10月に始まったAFNEI進駐軍とインドネシア人との間の戦闘で、クラマッラヤ通りからクウィタン町にかけての一帯が全ジャカルタでもっとも激しい戦場となった。そこでの戦闘は何度も繰り返されている。
当時の状況は「スラバヤの戦闘」http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html
内の「2.ジャカルタ動乱」をご参照ください。

その一帯がもっともすさまじい戦場になったのは、そこが双方の最前線に当たっていたからだ。オランダ人がバタヴィア城市からウエルテフレーデンに町を移したとき、新しい町の北部西部に政治と経済のセンターを置き、軍事関係は南東部に配置された。
バンテン広場の南側、今のホテルボロブドゥルのある場所には、1825〜1830年に起こったディポヌゴロの叛乱のために、オランダ王国東インド植民地軍(Koninklijke Nederlands Indisch Leger (KNIL) )が第10大隊(Batalion X)の司令部を置いた。その南には1819年に設けられたウエルテフレーデン軍大病院があり、その病院が現在のガトッスブロト陸軍中央病院になっている。
オランダ東インド植民地軍(KNIL)というのは陸軍のみであり、そして兵員はオランダ人以外のヨーロッパ人傭兵とインドネシア人プリブミから成っていた。プリブミのメインを占めたのは、アンボン・ティモール・ミナハサなど宗教を同じくする種族だったようだ。
こうして第10大隊の兵員たちはプラパタン通りの北側に住むようになる。クイニ通り(Jl Kwini)のあるその地区の中でアンボン人が集まって住んでいるエリアはカンプンアンボンと呼ばれていた。わたしもそこの中を何度も車を運転して通っている。
ジャカルタにはカンプンという言葉のつく地名が少なくない。カンプンアンボンをはじめとして、カンプンブギス、カンプンバリ、カンプンバンダン、カンプンマカッサル、カンプンムラユなどがそうだ。カンプンというのは元々部落・集落を意味し、ある地方からやってきた種族がまとまって居住したことから、そんな名称が与えられた。
たとえば地名として公認されているカンプンアンボンはジャカルタに二カ所ある。ひとつは東ジャカルタ市プロマス地区で、もうひとつは西ジャカルタ市チュンカレン郡カプッ地区だ。
しかし元来の「一種族の部落」という意味で行政区画名称とは無関係に、地元民がそういう名称で呼んでいる場所がいくらでも存在している。中央ジャカルタ市スネン郡スネン町のクイニ通り地区の一角もその例のひとつであり、不都合なことは何もない。

1945年9月にインドネシアに戻って来たNICA(東インド植民地文民政府)とKNILはAFNEI軍を巧みに操作して、独立を宣言したプリブミへの再支配の動きを開始する。
KNILのジャカルタにおける中心地区が軍事行動の本拠地にされるのは当然の帰結であり、プラパタン通り北側がその位置を占めることになった。その矢面に立たされたのがクウィタン町であり、次いでマトラマン町だったということなのである。こうして歴史の悲劇がかれらを襲うことになったのだ。

< スネン >
クラマッブンドゥルの北側にスネン市場(Pasar Senen)がある。スネン市場の西側をまっすぐ北に向かって伸びているパサルスネン通り(Jl Pasar Senen)が、1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路だ。

通りの西側にはまた別の商業センター地区があり、南端のプラザアトリウム(Plaza Atrium)から北に向けて三角形をなすこの地区がスネン三角地帯(segi tiga Senen)と呼ばれるエリアである。
三角地帯の西側にはもうひとつの大通りがあって、ホテルボロブドゥル〜バンテン広場〜郵便局〜グドゥンクスニアン〜パサルバルへとつながって行く。この大通りがスネンラヤ通り(Jl Senen Raya)だ。
ジャティヌガラから北に向かってマトラマンラヤ通り、サレンバラヤ通り、クラマッラヤ通りと名付けられていたバタヴィア最古の幹線道路は突然パサルスネン通りとなり、後代に作られた枝分かれ道路がスネンラヤ通りとなっている。これは少々トリッキーな話であるにちがいない。
そのスネンラヤ通りは1770年の地図にまだ現れておらず、後で触れるガンクナガ(Gang Kenanga)が1678年に建設されたバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路と、今のガトッスブロト陸軍中央病院のある場所を結ぶメイン道路になっていた。そのガトッスブロト陸軍中央病院のある場所に建てられていた大邸宅の壮大な表門のすぐ前を横切るかのように、スネンラヤ通りが後になって作られたにちがいない。

パサルスネン通りは中央ジャカルタ市スネン郡スネン町を貫通する8百メートルほどの短い道路だ。スネン市場の横を通り過ぎれば、幹線道路はグヌンサハリラヤ通り(Jl Gunung Sahari Raya)へと再び名を変える。そこがスネン郡スネン町の北端にあたり、その北側は道路の東側が中央ジャカルタ市クマヨラン(Kemayoran)郡南グヌンサハリ(Gunung Sahari)町、西側は中央ジャカルタ市サワブサール(Sawah Besar)郡パサルバル(Pasar Baru)町になる。

このスネン市場はバタヴィア最古の市場のひとつであり、市場が設けられたとき、月曜日が市日とされたことからパサルスネンの名が付けられた。スネン市場の建設が開始されたとき、タナアバン(Tanah Abang)にもそれと前後して市場が建設されたので、スネン市場とタナアバン市場がバタヴィア最古という称号の双璧をなしているということになる。ちなみにタナアバン市場は土曜日が市日だった。
VOCは最初、市場が設けられると市日を週一回としてそれぞれに曜日を割り当てた。コジャ(Koja)市場は火曜日、パサルボ(Pasar Rebo)にある今のクラマッジャティ(Kramatjati)市場が地名通りの水曜日、メステルにあるジャティヌガラ市場が木曜日、金曜日はクレンデル(Klender)やチマンギス(Cimanggis)あるいはルバッブルス(Lebakbulus)、そして日曜日は動物園のあるラグナンからほど近いパサルミング(Pasar Minggu)だ。
市日が地名になってしまったものもあれば、そうならなかったものもある。地名になったものを一週間分探し出して横並びさせても、時代の差は見えてこないかもしれない。VOCは市日を制限する方針で民間経済界に当たったためにそのような現象が生まれたのだが、破産したVOCの後を受けて東インドの経営に着手したオランダ政府は、市日を全廃してすべての市場に常設を許可した。

スネン市場が設けられた土地は最初、コルネリス・シャステレイン(Cornelis Chastelein)が地主だったようだ。
コルネリス・シャステレインは1657年8月にアムステルダムに生まれ、叔母の夫がVOC高官としてバタヴィアに赴任するとき、17歳の若さで同行してきた。バタヴィアでの奉職の第一歩はVOCの帳簿係だった。その後赫赫たる成績を示して、1691年には上級商務員になっている。
しかし1691年から1704年までVOC第16代バタヴィア総督の座に就いたウイレム・ファン・アウトホールン(Willem Van Outhroon)とまったくそりが合わなかったことから、かれは1692年にVOCを退職し、バタヴィア周辺のあちこちに土地を購入して商品作物生産に力を注ぐようになった。
かれが歳月をかけて購入したのは、1693年に今のガンビル(Gambir)からスネン(Senen)にかけての、後にウエルテフレーデンと名付けられた地区の一角、1696年にはデポッ(Depok)、そしてチリウン川西部のスレンセン、マンパン、カランアニェルなど、更に1712年にはチリウン川東部の土地も華人地主から買い取っている。
かれは奴隷を百数十人購入し、奴隷の身分から解放した上、自由人として自分の所有地に作った農園で働かせた。その一環として、バリ島に船を送って奴隷購入を何回か行わせている。最終的にかれはデポッを本拠地に定めてその地の経営に力を注いだが、1714年にデポッの自邸で生涯を閉じた。
ジャカルタの南に隣接しているデポッ市がコルネリス・シャステレインの開いた土地であるということは定説になっている。デポッのケースのように、西洋人がコロニーを作って原住民と共同生活を送る場合、子孫が何代も経過するうちに混血者が大部分を占めるようになるのはよくある現象だ。オランダ人の遺伝子が混じったかれらの間に、西洋人の姿かたちを明白に示す者が出るのも、当然の現象である。そのような者に対してオランダ語を知らない「Belanda Depok」という蔑辞が与えられることは避けようもなく起こった。特にオランダ人に対する憎しみがかきたてられた独立闘争期には、姿かたちなど関係なくデポッ住民ということだけで「ブランダデポッ」と蔑まれ、更には危害が加えられることも頻発した。

スネン市場を作ったのは、ウエルテフレーデンにあるシャステレインの土地を買ったユスティヌス・フィンク(Justinus Vinck)で、市場は1735年8月30日にオープンした。オランダ人はその市場をフィンクパッサー(Vinckpasser)と呼んだ。
フィンクがその土地を買ったのは1733年だという記事があり、そうであるならかれはシャステレインから直接買ったのでなく、遺産相続人から買ったということになりそうだ。
ともあれ、VOC高官であったフィンクがその市場事業を行ったのは、バタヴィア城市内からウエルテフレーデンへの政治経済センター移転が進展し始めていた時期であり、新都市に市場が不可欠であるという背景が存在していたためにバタヴィア市政トップから許可が下りるのは間違いなかったことに加えて、トップは金銭経済を推進させるために、スネン市場での物々交換取引を禁止する意向だったことをかれが明確につかんだ上での取り組みだったように思われる。
つまり市場での売上に対する課金が明白に扱える状況がかれに確信を持たせたということだったのではあるまいか。

作られた当初、スネン市場は広い土地に掘立小屋が並んでいるだけのありさまだった。1815年ごろでも、建物は竹編み壁のものと木造のものが入り混じっており、レンガ作りの建物はまだなかった。記録によれば、1826年7月9日に大火災が発生して市場にある建物の大半が灰になったと記されている。それを機に、レンガ作りの建物が増加していったにちがいない。
スネン市場は大勢の華人が利用して大繁盛したことから、1766年に市日が増やされた。そのころ市場の東側には華人の住居が連なり、西のチリウン川からクウィタン町北側を経てクラマッブンドゥル交差点に至る水路が、そこから更に東にあるブグル(Bungur)町に掘られたカリバル(Kali Baru)につながっていた。スネン市場はその水路を南縁にしていたのである。その水利工事は第27代のバロン・ファン・イムホフ総督(Gustaaf Willem baron van Imhoff)の時代になされたものだ。今ブグル町のカリバルは国鉄パサルスネン駅の南踏切あたりで行方不明になっており、西のチリウン川から水を引いていた水路はすべて埋め立てられている。

しかしフィンクパッサーは設立当初から運営がうまく行かず、フィンクが死去する前の1749年にスネン市場をヤコブ・モッスル(Jacob Mosse)lに売却し、そのヤコブ・モッスルが1750年から1761年まで第28代総督に就任したことで市場が大いに発展したという記録になっている。
モッスル総督はチリウン川からスネン三角地帯の北端を横切ってパサルスネン通り西側にぶつかるカリリオ(Kali Lio)を掘らせ、そこから通り沿いに北上させて、グヌンサハリラヤ通りの西側を延々とジャカルタ湾まで達する一直線の運河に結びつけ、スネン市場への水上交通の便を向上させた。
そこにはもうひとつ、モッスル総督所有の豪邸フィラウエルテフレーデン(Villa Weltevreden)にとっての水上交通の便という私的なメリットも存在した。なにしろそのフィラウエルテフレーデンというのは、現在のガトッスブロト陸軍中央病院の場所にあったのだから。

フィンクの人物像はいまひとつよくわからない。1735年ごろのVOCの記録に地区首長としてその名前が登場しているのは、かれが地主として自分の領地の統治権を行使していたことの表われであるにちがいない。
実は、タナアバン市場もフィンクが地主になっていた。かれはスネン市場とタナアバン市場を結ぶ道路を建設して、両市場間の物流促進を図ろうとしたのである。こうして作られたのがプラパタン(Prapatan)通り、クブンシリ(Kebun Sirih)通り、かつてカンプンリマ(Kampoeng Lima)と呼ばれたサバン(Sabang)通り(今ではアグスサリム(Agus Salim通り)、そして旧タマリンデラアン(Oude Tamarindelaan, 今のワヒッハシム(Wahid Hasyim)通り)という横断直線道路だ。

オランダ植民地時代末期の民族運動が活発化した1930年代、パサルスネン地区はSTOVIA学生を主体にハイルル・サレやアダム・マリッらをリーダーに仰ぐ青年知識層や地下活動家の徘徊する舞台となっていた。スカルノやハッタもしばしばここを訪れて、青年層へのアプローチを行っている。
1942年に日本軍政が開始されてから、パサルスネン地区は貧しい芸術家が集まるアートセンターの趣を呈するようになる。スネン地区に巣食う芸術家たちはスニマンスネンSeniman Senenの異名を取った。アイップ・ロシディ(Ajip Rosidi)、スカルノ・ノール(Sukarno M. Noor)、 ウィム・ウンボ(Wim Umboh)、HBヤシン(Yasin)らがその代表格だ。
オルバレジームが基盤に据えた開発ポリシーによる経済発展の波を受けて、1970年代に入る前後からスネン市場は着々とその機能を充実させて行った。映画産業が台頭してくれば、スネン地区に大型映画館レックス(Rex)やグランド(Grand)がクラマッブンドゥル通りの向かい側に作られて、庶民に時代の息吹を分け与えている。
不世出の名都知事と謳われているアリ・サディキン都知事がスネン開発プロジェクト(通称プロイェッスネンProyek Senen)を打ち上げると、都民のスネン市場に対する期待は更に盛り上がった。その目玉のひとつは旋回式に上り下りする駐車ビルで、ジャカルタはもとより全国で初めての駐車ビルを庶民はドキドキしながら上り下りしたものだ。

< ガンクナガ >
スネン三角地帯の北端をなしているスネンラヤ3通りは昔、ガンクナガ(Gang Kenanga)という名称で知られていた。このガンクナガは現在のガトッスブロト陸軍中央病院の表門に突き当たる位置をなしている。
コルネリス・シャステレインがガンビルからスネンに至る土地を買った後、かれはガトッスブロト陸軍中央病院がある場所に豪邸を建てた。そしてまた、バタヴィアで最初のプロテスタント教会をガンクナガ通りの中ほどに建てた。その教会があった場所はスネン三角地帯北部の商店街の中であり、教会の姿はもはやない。
そのような配置を見る限り、シャステレインはガンクナガを自邸のプロトコル道路にし、そこに教会を置いて自分の領地の中心地区にすることを考えたように思われる。

一方、プラザアトリウムからスネンラヤ通り沿いに北に向かって150メートルほど歩くと、オランダ風の古い建物を容易に見出すことができる。この小さい建物の表にはピザハットの看板がかかっているので、営業時間内ならだれでもそこに入ることができる。
この建物は19世紀にスネン地区華人を統率するレッナンチナ(Letnan Cina)のタン・ワンセン(Tan Wang Seng)が住居として建てたものだ。レッナンチナは統領のカピテンチナを補佐して、各地区の華人社会を統率する役職である。
時代が下ってからは東インド植民地軍(KNIL)の慰安センターとして使われていた。ピザハットがその建物を使う前は、ジャヤガスが事務所にしていたそうだ。
店内に入ると、建設された当時の壁や階段がそのまま残されているそうで、ピザを食べながら百数十年もの時の流れにひたる気分も悪くあるまい。

シャステレインがフィンクに売却したあと、フィンクはモッスルに売り渡し、モッスルは1761年にシャステレインの豪邸を自分好みの大邸宅に建替えた。こうしてフィラウエルテフレーデンができあがる。
モッスルは後任者の第29代総督ペトルス・オルベルトス・ファン・デル・パッラ(Petrus Albertus van der Parra)に土地と大邸宅を売り渡した。パッラが買ったのは1767年と記されているから、総督交代からすぐに売買が行われたのではなかったようだ。
バロック様式の二階建て大邸宅は、広大な庭園に抱かれ、豪壮な表門は今のスネンラヤ通りに直接面し、裏には水泳プールや養魚池が設けられ、邸宅の周りはチリウン川と濠で囲まれていた。
この大邸宅を最後に使った総督は第37代のヘルマン・ウイレム・ダンデルス(Herman Willem Daendels)だったが、かれは居所をウエルテフレーデンからバイテンゾルフに移すにあたって、その大邸宅を取り壊すよう命じた。
その跡地に1819年、ウエルテフレーデン軍大病院が建てられ、それ以来そこから南のプラパタン通りまでの地区は医学生があふれ、更に植民地軍兵士があふれるというインドネシアの激動の時代へと流れ込んで行ったのである。

< グヌンサハリ >
1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路はいよいよ最北端に向かって歩を速める。パサルスネン通りを越えたら、グヌンサハリラヤ通り(Jl Gunung Sahari Raya)だ。
道路の東側は中央ジャカルタ市クマヨラン(Kemayoran)郡南グヌンサハリ町で、道路の西側はやはり中央ジャカルタ市のサワブサール(Sawah Besar)郡パサルバル町になる。サワブサール郡は更にその北側のカルティニ町、そして北に続く南マンガドゥア町、および道路の東側で南グヌンサハリ町の北側に接している北グヌンサハリ町までをカバーしている。
そこからもっと北側は北ジャカルタ市パドマガン(Pademangan)郡に変わり、西パドマガン町とアンチョル(Ancol)町がグヌンサハリラヤ通りの北端までこの通りを包んでいる。
グヌンサハリラヤ通り北端は、アンチョル地区と南側を隔てるアンチョル川の南岸を走るマルタディナタ(R.E. Martadinata)通りに直角で突き当たって終わる。そこから橋を渡ってアンチョル川を越えれば、アンチョルドリームパーク(Taman Impian Jaya Ancol)の入場ゲートは目と鼻の先だ。1678年にその道路が作られたとき、果たして北端はどこだったのだろうか?

いまグヌンサハリラヤ通りから西側へ直角に折れ曲がる道路は、南から見て行くとまず、ドクトルストモ(Dr. Sutomo)通りがある。これはパサルバル商店街地区からイスティクラルモスクの北をかすめてジュアンダ通りを西進し、ハルモニ交差点でバタヴィア城市からまっすぐ南下してくるハヤムルッ(Hayam Wuruk)とガジャマダ(Gajah Mada)のふたつの通りとクロスする。
その北はサマンフディ(KH Samanhudi)通りで、これはパサルバル商店街地区の北縁を区切り、サワブサール地区の中を西進してハヤムルッとガジャマダのニ路と交差する。
そのもうひとつ北はマンガブサール(Mangga Besar)通りであり、これもまっすぐ西進してハヤムルッとガジャマダのニ路に突き当たる。
その北にあるのがパゲランジャヤカルタ(Pangeran Jayakarta)通り(グヌンサハリラヤ通り近くではドクトルスラッモ(Dr Suratmo)通りと名が変わる)で、この通りだけは国鉄ジャカルタコタ駅の東側から東南に斜め掛けしていて、他の道路と趣を一風異ならせている。
最後が国鉄ジャカルタコタ駅南側をまっすぐ東行してグヌンサハリラヤ通りにぶつかるマンガドゥア(Mangga Dua)通りだ。
グヌンサハリラヤ通り北端とマルタディナタ通りの関係は既述した。

城壁に囲まれたバタヴィア城市から南に向けて発展をはじめたバタヴィアの町は、ウエルテフレーデンに政治経済センターを移転させ、更にその南部のメンテン地区に新住宅街を生み出すころまで、グヌンサハリラヤ通りとバタヴィア城市からまっすぐ南下するハヤムルッとガジャマダのニ路にはさまれたエリアに開拓の焦点が集まっていた。
方形に切り取られたそのエリアを更に細分する上述の道路は、そこでの住民の活動にとって重要な交通路をなしていたであろう。その時期、グヌンサハリラヤ通りはバタヴィア住民にとって重要な道路のひとつだったにちがいない。

大正十年5月にバタヴィアを訪れた徳川義親侯爵の手記「じゃがたら紀行」を読むと、昔の様子がおぼろに浮かんでくる。一部を引用させていただくと;
今、バタヴィアというのはタンジュン・プリオ、バタヴィア、ウエルトフレデン、メーステル・コルネリスの四つの独立した市の総称です。旧バタヴィアは、朝晩厭になるほど食わされた馬鈴薯の故郷、いや馬鈴薯の名の故郷という方が適当かもしれない、旧名ジャカトラです。・・・・・・・
タンジュン・プリオからウエルトフレデンまで六哩、濁った水が澱んでいる掘割に沿うて自動車は矢のように走ります。路の傍に山羊がうろうろと遊んでいたり、真白なスワンが溜り水のようななかに浮かんだりしています。車はやがてウエルトフレデンの町に入りました。市街は広くはありませんけれども、さすがに住宅の設計に独特の技兩を有する阿蘭陀人の計画だけあって、翠光の滴るような緑蔭の市街です。その間に小ぢんまりした白亜の、周囲の緑によく調和するように彩られた家が点々と建っています。堀は町の中まで貫いています。この濁った泥水の中で、爪哇の男女がマンデーをしたり更紗の洗濯をしたりしています。この汚い水の中に入って、ものを洗って清くするという気がしれません。

当時タンジュンプリウッ港とバタヴィアの町を結ぶ道路は、今のマルタディナタ通りしかなかった。港からまっすぐチャワン(Cawang)目指して南下してくる道路はスカルノ大統領時代に作られたものだ。
だから侯爵を乗せた自動車はマルタディナタ通りを走ってからグヌンサハリ通り北端で左折し、運河を右に見ながら南下して行ったにちがいない。そしてパサルバル商店街地区南縁のストモ通りに右折してイスティクラルモスクに変えられる前のウィルヘルミナパーク(Wilhelmina Park)を通り過ぎ、車はレイスウエイク(Rijswijk、今のヴェテランveteran通り)をハルモニー交差点へ向かったように思われる。
もし宿舎がバタヴィア当代随一のホテルデザンド(Hotel Des Indes)であったなら、そのルートはきっと間違いないところだっただろう。侯爵の乗った車はタンジュンプリウッ港を出てから堀が道路の右に常に見える道路を走り続けたことになる。

ハヤムルッとガジャマダのニ路にはさまれた運河は1648年にカピテンチナのポア・ビンアム(Phoa Bing Am)が森林原野や湿地の中に掘ったものだった。バタヴィア城市外南縁の濠に入ってくるチリウン川の屈曲部からまっすぐ南に向けて掘り進み、今のハルモニ交差点から更に南のマジャパヒッ(Majapahit)通り〜アブドゥルムイス(Abdul Muis)通りを経てクルクッ(Krukut)川までつなげたとのことだ。
工事の最大の目的は、運河周辺の森林から木を伐り出してバタヴィア城市内の木の需要を満たすことだったようだ。建物の建設から薪の需要まで、木材は広く必要とされていたに違いない。
この運河をオランダ人は最初、ビンアム運河(Bingamvaart)と呼んだが、そのうちにその水流を利用してグロドッ地区にサトウキビ搾りやアラッ酒製造、火薬製造などのための水車が次々に設けられたことから、1661年にモーレンフリート(Molenvliet)と改名された。
運河の東側の川岸道はモーレンフリートオースト(Molenvliet Oost)、西の道はモーレンフリートウエスト(Molenvliet West)と呼ばれ、それが今ではそれぞれハヤムルッとガジャマダという道路名に変わっている。
その後の時期になって、モーレンフリートの水流を強くするために、今のイスティクラルモスクがある地点を流れているチリウン川からまっすぐ西に水を引き、現在のハルモニ交差点で合流させた。その西に引いた水路が現在ジュアンダ通りとヴェテラン通りの間を流れる運河である。

イスティクラルモスクの北でチリウン川を分流させたとき、運河はさらに東へも伸ばされたようだ。西向きとほぼ同じ距離だけ東に引かれてから北上し、パゲランジャヤカルタ通りの端に設けられたジャカトラ要塞に向かう途中で北東に向きを変え、農業用地に流れ込むようにして終わっている。
その東向きに引かれた運河が、現在のパサルバル商店街地区の南縁を流れる運河の位置に酷似している。
いまグヌンサハリラヤ通りの西を流れている運河は、そのパサルバルの南縁の運河と直角に合流して北上し、通りの端を更に超えてアンチョル地区を縦断し、河口をジャカルタ湾につなげている。現在のその運河は長年にわたって何度も改修工事が行われたそうだ。もともとあったチリウン川が埋め立てられた時期があり、そして再び運河が掘られたという話になっている。1681年にはNiewerslootという名称がグヌンサハリ運河の名称だったそうだから、メステルコルネリスに向かう道路が作られてからほとんど間もなく今のような運河ができあがったということなのだろうか?それだと長年かけて現在のようになったという表現に矛盾する気がわたしにはするのだが・・・。

このグヌンサハリという名称の由来について調べてみたものの、よくわからない。いくつかの説があるのだが、いずれも帯に短くたすきに長すぎる印象だ。
まずはかつてタナニョニャ(Tanah Nyonya)にあった有名な企業N.V. Goenoeng Saharieの名前に由来しているというもの。
次は昔この通りからグデ・パンラゴ(Gede Pangrango)の峰が一日中よく見えたので seharian → sahari となったというもの。
もうひとつは、1740年10月9日から三日間に渡ってバタヴィアで吹き荒れたVOCによる華人大虐殺の嵐がここにもまた登場するのだが、一日で華人の死骸が山になったのでgunung sehari → gunung sahari と変化したという説。
もっとおとぼけは、昔そこに本当にサハリ山という山があったのだが、欲深い人間どもが山を掘り崩して平地に変えたというものもある。するとまたサハリに引っ掛けて、一日で掘り崩したのだろう、と茶々を入れる者も出現する始末だ。
1745年ごろのオランダ語の記事の中に Goenong Sahari が登場していて、この名称が決して新しい時代のものでないことをうかがわせてくれる。華人大虐殺をもじってプリブミが作り出した言葉をオランダ人が採り上げるとは考えにくい。サハリという言葉はアラブ語で木立の生えている場所や林を意味しているのだから、その辺りに名前の由来が関わっているのかもしれない。あるいはスンダ語での意味を追ってみるのも一案かもしれない。要は、オランダ人がその土地に関わり始めたころ、プリブミがその土地を呼んでいた名称にオランダ人が従ったと見るのが妥当なところではあるまいか。

ちなみに華人の記録を探してみたところ、1760年の年号のあるものの中に、グヌンサリを牛郎沙里と表記しているものが見つかった。牛郎は牧童つまりカウボーイの意味で、福建式発音はクロンもしくはクヌンだ。沙里は砂の意味で発音はサリとなっている。そしてアルファベットでGolong Sariという綴りが添えられていた。これもやはりグヌンサリという音を漢字に写し取ったものと見て間違いあるまい。現代中国語でグヌンサハリは古農沙哈利と表記されている。

< 完劫寺 >
1760年に牛郎沙里が何の文書に出現したかというと、完劫寺に関わるストーリーの中だった。完劫寺は中国名 Wan Jie Si、インドネシア名 Vihara Buddhayana とされているが、寺の梁に掲げられた木板には WANG KIAP SIE と銘されている。Wan Jie si がマンダリン式発音で、WANG KIAP SIE は福建式発音に由来しているにちがいない。

グヌンサハリラヤ通りからサマンフディ通りに曲がって橋を越えると、運河の西岸に沿ってカルティニラヤ通り(Jl Kartini Raya)がある。その道をおよそ3百メートル足らず北上すると、西に向かうラウツェ通り(Jl Lautze)に行き当たる。ラウツェとは老子のことだ。
ラウツェ通りを2百メートルほど進むと真正面に巨大な邸宅があり、道路はそれを避けて左側に回り込む。回り込み始めてからほんの目と鼻の先に、朱塗りの門があってVihara Buddhayanaと大書されている。中をのぞくと、まったく中国寺院らしからぬ、オランダ風の大邸宅が目に映る。ここはもともと仏教寺院として建てられたものではなかったのである。

1736年、VOC高官だったフレデリック・ユリアス・コイエット(Frederik Julius Coyett)がバタヴィア城市から離れた郊外に豪華な別荘を建てた。グヌンサハリ通りの西側、その完劫寺が建っている場所だ。
かれは1647年から1653年までの間に二度長崎出島のオランダ商館長を務め、台湾でVOCが占領した地区の最後の行政長官(1662年に敗戦)となったフレデリック・コイエットの孫であり、アンボンの行政長官に就いたこともある父のバルタザール・コイエットにならって、三代に渡ってVOCに奉職した。
F.J.コイエットが1733年、VOC使節団を率いてカルタスラのマタラム王を訪問したあと、使節団の一員を務めたロン(C.A. Lons)がその際に訪れたプランバナン(Prambahan)とカラサン(Kalasan)のチャンディで手に入れた石仏を上司のF.J.コイエットに進呈したという話がある。F.J.コイエットはまたスリランカで石仏やヒンドゥ教の神像などを手に入れてバタヴィアに持ち帰ったという話もあり、どうやらかれは石仏の本格的なコレクターだったらしい。そんなかれが、新築した別荘に自分のコレクションを並べまくるのは当然の話だ。
F.J.コイエットが妻にしたのはウエストパーム(M. Westpalm)の寡婦だったヘルトライダ・マルハレータ・ホーセンス(Geertruyda Margaretha Goossens)だ。われわれはそのウエストパームの墓碑を碑文博物館(Taman Prasasti)で目にすることができる。
1736年にF.J.コイエットが没すると、再び寡婦となった妻は1737年にヨハネス・テーデンス(Johannes Thedens) と再婚した。ヨハネス・テーデンスは1740年から43年まで第26代VOC総督の座に就いた。

FJ コイエットには子供がなかったため全財産は妻が相続した。かの女はヨハネス・テーデンスと再婚してから1758年に死去するまでの間に、遺産の一つであるその別荘を売った。そして何人かの手を経たあげく、1761年にヤコブ・モッスル(Jacob Mossel)の手に渡った。1750年から1761年まで第28代VOC総督となったあのモッスルだ。
シモン・ジョゼフ(Simon Josephe)がヤコブ・モッスルからそのグヌンサハリの邸宅を買ったのは、完璧な投機目的だったらしい。というのも、1760年にカピテンチナの林吉哥(Lim Tjipko)が墓所のための土地を確保するためにどうするかについて部下であるレッナンチナたちを集めて合議しているからだ。
いったい誰が言い出したのかわからないが、仏像がたくさん置かれているグヌンサハリの総督別荘が仏教寺院にふさわしいのではないか、という意見が出されて、衆議はその方向に傾いて行ったらしい。
カピテンリムは決を採り、華人社会から浄財を募って総督別荘を買い取ることにした。シモン・ジョゼフが6千フローリンという高い金額で物件を売り渡し、しぶしぶとこの取引を仕組んだ者に口銭を渡しているシーンは想像に余りあるにちがいない。華人社会は牛郎沙里の「?督的花園」購入に大いに喜んだ、と記されている。1888年になって、完劫寺は公式に華人公館の資産となった。

< パサールバル >
グヌンサハリラヤ通り西側の、スネン市場からあまり離れていない場所に、運河で南と東を区切られたパサルバル商店街地区がある。グヌンサハリラヤ通りとドクトルストモ通りの交差点までは1.5キロもない距離だ。
パサルバル商店街地区の中央部に商店街があり、商店街の西側は商業施設や補助施設が多いが、東側は住宅地で占められている。この商店街が設けられたのは1820年代で、ウエルテフレーデン一帯に住むオランダ人にとってのモダンショッピングセンターというのがその位置付けだった。パサルバルが誕生する前はバタヴィア城市のすぐ南側にあるグロドッ(Glodok)地区がバタヴィア随一のショッピングセンターだったから、ウエルテフレーデン一帯に住むオランダ人にとって日用品のためのスネン市場とライフスタイルの欲求を満たすパサルバルがこれで勢ぞろいしたことになる。
パサルバルはあたかも東京の銀座のような地位を得て、パサルバルを覗いてこなければバタヴィアを訪れたことにならない、と言われるほどの名声を誇る繁華街となった。その地位はインドネシア独立後も持続し、オルバ期に入ってジャカルタのあちこちに商業センターが発展するころまで、名声を保ち続けた。
パサルバルをオランダ人はnieuwe marktと呼んだが、インドネシア語のパサルバルという呼称も使った。ただしpasarがオランダ語化されたパッサー(passer)とバル(baroe)の文字で表記されており、読み方もパッサーバルとなっている。
現在、運河を渡って商店街に入っていく入り口に建てられた中華風の大門にはPASSER BAROE 1820と書かれていて、古き良き時代へのノスタルジーがこめられていることを感じさせてくれる。
先に登場したラウツェ通りからピントゥブシ通り一帯、パサルバル商店街地区、更にドクトルストモ通り地区にかけての広範な地域が、1800年代後半には次々と住宅地区に変貌して行った。
ドクトルストモ通りがオランダ時代にスホールウエフ(Schoolweg)と呼ばれたのはそこにELS(ヨーロッパ人小学校)があったからだ。元々ヨーロッパ人のための学校を意図して設けられたものだが、レシデン(州長官)の許可を得れば原住民でも入学できた。入学したのは裕福な華人の子弟が多かったようだ。

< アンチョル >
1660年ごろの状況を描いたと思われる地図を見ると、海に臨んで建てられているカスティルからそのまま東に向けて海岸線が続いていることがわかる。それを見ると、当時の海岸線はそのまま西アンチョルの住宅地区を横切り、アンチョルドリームパークをドゥファン(Dufan)の南側から切り取っていく形になる。
もし1681年の海岸線の位置がそれほど変化していなかったと仮定するなら、グヌンサハリ運河の河口は今より5〜6百メートル手前にあったということになりそうだ。
ちなみに1656年に建てられたアンチョル要塞(Fort Ansjol)の位置を探って見ると、アンチョルドリームパーク東ゲートからまっすぐアンチョル川に近寄った自動車専用道出入口の辺りになっている。そこはカスティルから4キロほど東に当たり、1740年ごろには要塞守備隊の士官や兵士たちの住居や軍用倉庫などが周辺に建てられ、一円はほとんどが湿地帯で運河や道路がある程度だったらしい。つまりアンチョルドリームパーク東ゲートはその当時、まだ海の中だったのではないかと推測される。
地図には、バタヴィア城市の東城壁の外側に設けられた住宅地区の中央近辺からアンチョル要塞に向かって運河が描かれており、それが現在のアンチョル川になっているのではないかと推測される。もっと南側の、今のマンガドゥア通りあたりにも運河が作られたようだが、今ではもう跡形もない。バタヴィア城市の東城壁の外側に設けられた住宅地区は、現在のカンプンバンダン(Kampung Bandan)地区の位置にある。VOCがバンダ島を征服したのは1621年であり、それ以来、バンダ島からの奴隷がバタヴィアに連れて来られてバタヴィア市街建設や諸雑用の労働力として使われた。メステルコルネリスを興したコルネリス・スネン氏もマルク地方から奴隷たちと一緒にやってきた聖職者だった。
カンプンバンダンはバンダ島から連れて来られた奴隷たちの集落だった。ジャカルタのあちこちにあるカンプンバリやカンプンアンボンと同じだ。もちろんその事始めがこのカンプンバンダンである。

一方、城壁の南側はピナンシア(Pinangsia)からピントゥブサール(Pintu Besar)〜ピントゥクチル(Pintu Kecil)そしてプルニアガアン(Perniagaan)通り南の全部、西側はプコジャン(Pekojan)からグドゥンパンジャン(Gedong Panjang)の一円が住宅地区になっているので、南は華人集落いわゆるプチナン(Pecinan)、西はプコジャンの名が示すようにアラブ人やインド人の集落だったように思われる。少なくとも城壁南側のグロドッ(Glodok)の手前までの地区は、バタヴィア開闢以来の由緒あるプチナンだったと言えそうだ。
そしてその南側の、グロドッからハルモニに至る地域、モーレンフリートとグヌンサハリラヤ通りにはさまれた地区、は耕作地帯として食用作物が栽培されていた。Kebun Jeruk、Kebun Kelapa、Sawah Besarなどといった今にまだ残されている地名が、そのころの状況を彷彿とさせてくれている。

そもそも、1678年に作られた幹線道路はバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶことが主目的だったのであり、メステルコルネリスとアンチョル、ひいては海岸をつなぐことではなかったはずだ。バタヴィア城市から上述のジャカトラ要塞まではジャカトラ通り(Jacatraweg 今のパゲランジャヤカルタ通り)が既に存在しているので、幹線道路はそこが端になれば用は足せたにちがいない。
その北端を更に現在のグヌンサハリラヤ通り北端まで伸ばしてアンチョル海岸へ行楽に出かける城市住民の需要を満たそうとしたのは、その需要がいかに高いものであったかを示すバロメータと見ることもできる。
バタヴィア城市住民にとって城市の北海岸部は、海に面しているとはいえ軍事地区であるため、海遊びなどもってのほかだった。海浜の行楽を愉しむためには城市外の東にあるアンチョル海岸へ行って海風に吹かれたり、砂浜でふざけ合ったり遊んだりして城壁内の暮らしの憂さ晴らしをするしかない。言うまでもなく、アンチョル海岸の行楽需要はきわめて高いものがあったように思われる。

1772年にVOC軍将校だったヨハネス・ラッハの描いたスケッチ画がある。当時スリンガランド(Slingerland)と呼ばれた地区のビーチに繰り出したひとびとが、奴隷の掲げる傘の下で海風に吹かれながら保養している姿があり、海には遊覧の客船が客待ちで帆をおろし、もっと小さい櫂漕ぎボートが何隻も遊弋している。海に向かって突き出した木製の短い桟橋の手前で、ひとびとは望遠鏡を覗いたりしながらおしゃべりに余念がないように見える。当時の海遊び浜遊びというのは、そのようなものだったのだろう。
西に回り込んで行く砂浜の海岸のはるか遠景にはバタヴィア政庁舎(Het Stadhuis Van Batavia = 現在のジャカルタ歴史博物館)の屋根やバタヴィア港一帯のありさまが望まれ、港へ入るために海上で停泊中の多数の船がすべて帆をおろして列をなしている。
ブタウィ史家のアルウィ・シャハブ氏は、ヨハネス・ラッハの描いた場所がアンチョルのビナリア海岸(Pantai Binaria)だったと説明している。ビナリアであるなら、グヌンサハリラヤ通り北端から東へ1キロを超える距離にあり、反対にアンチョル要塞からは西へ5百メートルほどの距離だ。
オランダ人ご愛顧のアンチョルの行楽地がそこだったとすれば、少なくとも、奴隷居住区からは離れていたかったにちがいないから、カンプンバンダンからある程度の距離を取ったことは十分に考えられるのだが・・・・

オランダ人は最初、アンチョル地区をzouteland(塩地)と呼んだ。1656年に建てられたアンチョル要塞も、最初はFort Zoutelande と記されている。
アンチョルという言葉はスンダ語に由来しているらしい。スンダ語でアンチョルとは海に突き出した土地の意味だそうだ。カラパ(スンダクラパ)の東側がどうやら、海に向かって湾曲していたのだろう。一方、ブタウィ史家のリドワン・サイディ氏はアンチョルの語源を、サンスクリット語で水がたくさんあるという意味だと説明している。
この地区で、イスラム勢力が送り込んでくる軍勢とスンダ王国の軍勢が戦争したことがチャリタパラヒヤガン(Carita Parahyangan)に記されている。激しい戦闘が、カラパ、今のバンテン(Banten)であるタンジュンワハンテン、(Tanjung Wahanten)、そしてアンチョルで展開されたそうだ。
アンチョル要塞が設けられたころ、カンプンバンダンから東へ向けてアンチョル要塞までの間は、耕作に適さなかったために家畜の放牧と牧草地として使われたようだが、アンチョル川とマンガドゥア通りあたりに掘られた運河を一定間隔で距離を置いた南北方向の水路でつなぎ、土地の整備だけはなされていたようだ。

ところがバタヴィア城市内での生活が不健康さを強め、コレラ、チフス、ジフテリア、痘瘡などの流行病が何度も住民を襲い、おまけにマラリア汚染が住民の生命をきわめて儚いものにしたため、オランダ人はもっと南の明るく健康な土地への移住を開始する。
VOCの記録によれば、1733年から1738年にかけて、バタヴィア住民の病死者数が激増した。ところが、全住民が分け隔てなく死の腕に抱きとめられたわけでなく、いくつかの特徴が見出されたことが記されている。
ヨーロッパからバタヴィアへやってきた新参者たちは、最初の半年間に死を迎える者が5割を超えた。生き延びた者たちも、その後の数年間は病弱で、健康から見放されているように見える者が多数を占めた。
ところが、その試練を乗り越えた者たちは、病死の確率が大きく低下した。それはつまり、長い間バタヴィアで暮らしてきた者たちにとっても、1733年ごろから始まった死をもたらす病に対して十分な抵抗力を持っていたことを推測させるものである。

一年というサイクルを見てみると、病死者が激増したのは8月の乾季のピークと1〜2月の雨季のピークに当たっており、また北海岸部に近付くほど、病死発生の確率が高まった。1733年より前の時代には、そのような現象は見られなかったのだ。
もうひとつ面白い話が、当時のバタヴィア住民の書き残した記録や手紙の中に散見されている。細菌学やウイルスの知識に無縁だった当時のひとびとは、自分たちが見聞した現象から、何らかの因果関係を見出そうとした。その中に、病魔は深夜に人間を襲うというものがあった。
1733年より前の時代には、バタヴィアのオランダ人たちは暑くて寝苦しい夜にしばしば屋外で睡眠した。ところが、その習慣が続けられなくなってしまったのだ。上級商務員だったJ.A.パラヴィチニ(Paravicini)は報告書の中に、「昔からよく行われていて何ともなかった屋外での夜の睡眠を一晩でも行うと、自分の身に何が起こったのかを誰かに告げることなどもうできなくなってしまう。」と記している。
ひとびとは通風のために隙間が設けられていた住居の窓をすべて、ガラスを貼って隙間がないようにし、夜中でも閉め切って睡眠するようになる。バタヴィアの南には明るくて健康で、爽やかな風が吹き渡る土地が広がっているというのに、そんな暮らしをいつまでも続けていたいと思うわけがない。さっさとこんな暮らしは打ち捨てて、引っ越しをしよう。

モーレンフリート沿いの地区に北から南へと住宅建設の波が押し寄せ始め、同じようにしてジャカトラ通りの邸宅の並びからも、ひとびとはグヌンサハリラヤ通りに移り住みはじめた。この南下の動きが18世紀を通して進展し、ダンデルスによるバタヴィアの政治軍事センター移転に結実して行ったのである。
海岸部がマラリアの巣窟であるという当時の常識がバタヴィア城市から南へのシフトの原因のひとつだったのだから、アンチョル地区の行楽地がその地位を維持できるはずがない。住民人口のウエイトが南へ移るにつれて、アンチョルは置き去りにされていった。ちなみに、アンチョル要塞は1809年から1810年にかけて、ダンデルス総督の命令で解体されている。

バタヴィアの中心地区がウエルテフレーデンに移った後、アンチョルに替わる海浜行楽地がタンジュンプリオッの東側に開かれた。アンチョルから5キロほど東に離れたビーチで、後に作られたタンジュンプリオッ鉄道駅からは1キロ半ほどの距離になる。オランダ人はそこに故国の有名なリゾートZandvoortの名前を着けたが、インドネシア人はそれをSampurという発音と綴りに現地語化した。
このサンプールは1800年代初期から既に人気の海浜行楽地となり、周辺には大型の別荘が立ち並んで、ヨットクラブまで設けられた。インドネシアの独立承認後はサンプールもインドネシア庶民のものとなったが、インドネシア庶民にとってはもっと東のチリンチン(Cilincing)海岸が先に海浜行楽地としての地歩を築いており、サンプールで遊ぶ若者もいれば、チリンチンへ行く家族連れもあるという形になったようだ。

< アンチョルドリームパーク >
1965年にスカルノ大統領の発案でアンチョルドリームパークの建設が開始され、1970年代に入ってアンチョル海岸が再び海浜行楽地としてジャカルタ庶民の人気スポットの地位にのし上がるころには、サンプール海岸の人気は峠を越えていた。そして1998年に建設されたタンジュンプリオッ港コジャコンテナターミナルの中にその姿を没してしまったのである。
一方のチリンチン海岸は、1944年にイスマイル・マルズキがその情景をRayuan Pulau Kelapa という歌曲に結晶させた時代の面影も時の流れとともに色褪せて、1980年代になるとジャカルタ庶民の行く先はアンチョルへの一極集中となってしまった。

そのおよそ2百年もの間、アンチョル地区は再び昔の森林と湿地帯という天然の姿に逆戻りしていた。ジャングルに変わってしまえば、そこに入って暮らそうとする人間などいない。すると野生動物が棲みつく。特にアンチョルの森林は、数え切れないサルの大群の住処と化した。もちろん、オオトカゲやワニや大蛇などさまざまな野獣が入ってくるのも例外ではない。
人間の集落はなく、場所によってポツリポツリと住居がある程度の、暗く寂しいエリアになってしまった。犯罪者にとっては、逃げ込むのに最適な場所だったにちがいない。
ジャングルの中にあるのはせいぜい養魚場で、事業主は植民地政庁から借地してバンデン魚(ikan bandeng)(日本名サバヒー、英語名milk fish)の養殖事業を行った。ジャワ島の華人社会には陰暦(Imlek)正月にバンデン魚を食べる習慣がある。中国南部には正月に魚を縁起物として食べる習慣があるのだが、ジャワ島華人はそれがバンデン魚でなければならないらしい。おかげで年に一度の最大の需要期には、何トンものバンデン魚が養魚場から出荷された。
もちろん、養魚場がほったらかしにされていれば、いつの間にか魚の姿は消え失せてしまうわけで、だから見張り番が近くに住まなければならない。事業主はたいていがインドネシア人で、投資家から資金を得て事業を行う者が多かったようだ。だからかれら自身がそこに住み、見張り番を雇うようなことは少なかったにちがいない。

1960年代ごろ以前のアンチョルの状況を肌で体験した年寄りたちは、サルと言えばたいていアンチョルを引き合いに出してmonyet Ancolという慣用句にして用いていた。アンチョルのサルはカニクイザルの種で、しっぽが長く、海で泳ぐこともできたようだ。
アンチョルの森の付近を車で通る時には、みんなきわめて用心深く通行したそうだ。なにしろ、車が通りかかると樹上からバラバラとサルが降りてくるのだから。サルたちの中にコンドルと呼ばれた身体の大きいボス猿がいて、人間はみんなこのボスを怒らせないように気を遣っていた。
アンチョルの森を抜けて海岸へ魚釣りやカニ獲りに行くひとびとは、サルの好物の豆を持って行ったらしい。ジャングルの中を歩いていると、突然コンドルが行方をさえぎるのだそうだ。するとひとびとは用意してきた豆をコンドルに与える。コンドルはそれをもらって引き下がり、ひとびとは海辺へ進めるというシナリオだった。

1960年代後半になってアンチョルドリームパーク建設工事が開始されると、あれほどたくさんいたサルの姿が忽然とジャングルから消えてしまった。このきわめてミステリアスな現象の真相は、実はミステリーでも何でもなかった。
アンチョル地区の警備に当たっていた警察の一員の話によれば、アンチョル海岸から膨大な数のサルが一番近いプラウスリブの島に向かって、泳いで海を渡っていたそうだ。通りかかった漁船がサルの群れを突っ切るわけにもいかず、立ち往生していたという話だった。そのときサルの大群が移動した先の島はサル島(Pulau Monyet)と呼ばれるようになったらしい。
動物学の専門家は、そのときの移住で全員が泳ぎ切れたわけでもなかっただろうと推測している。途中で力尽きて沈んだ者もたくさん出たにちがいない。強い者が生き残り、弱い者は滅びて行くのが自然の原則だ、とその専門家は述べている。

アンチョルドリームパーク建設の話が出る前に、スカルノタワー建設という眉唾もののプロジェクト構想が打ち上げられた。アンチョルにタワーを作って、クマヨラン空港にやってくる飛行機をコントロールするというのがその主旨だった。そんな時代の民衆に航空力学の話など分かるわけがない。
ブンカルノが作ると言っているのだ、という話で、養魚場事業主は安い金額で借地権を売るようせっつかれ、そしてたくさんあった養魚場は埋め立てられた。ジャングルは切り開かれ、そしてサルの大群は姿を消した。
ところがタワーの姿などいつまで経っても爪の先ほども出現せず、一方ではドリームパークの工事が進められていた。スカルノタワーは大陰謀だった、と言い切る歴史家も少なくない。

< 三宝厨師 >
実はこのアンチョル地区の中に、ジャカルタ最古の仏教寺院がある。1650年に建設されたと言われている大伯公(北京語読みDa Bo Gong、福建語読みTua Pe Kong)廟がその名で、インドネシア名はVihara Bahtera Bhaktiという。入り口大門には惟徳馨(Wei De Xin)と書かれた名板が掲げられている。
場所は東アンチョル住宅地区の真っただ中で、近くにはオランダ軍人墓地もあるが、相互に特別な関係があるわけではない。軍人墓地は1946年に設けられたものであり、年代的にもかけ離れている。
面白いことに、この寺には仏教・儒教・道教・回教の宗徒がやってきて、礼拝し、参詣している。かれらの信仰対象が祭られているのだ。寺が建てられて以来、多くの人々がここへ参拝するようになり、今でもそれが続けられている。

インドネシアのあちこちに鄭和の航海に関連付けられた寺院が存在しており、この大伯公廟のそのひとつなのである。船団はあちこちの土地を訪れると、使節だけでなく大勢の部下たちが上陸してさまざまな任務を行った。
1405年から1433年までの間に7回鄭和が行った大船団による航海のいずれなのか、はっきりしたことはわからないが、船団はカラパ、別名スンダクラパ、を訪れて、パクアンパジャジャラン王国を表敬訪問したにちがいない。
あるとき、カラバが洪水に見舞われていてそこに上陸できないことが判明したため、鄭和はアンチョルに上陸するよう命じた。そのとき、鄭和の料理人のひとりも、厨房に必要なものを調達するために小舟を駆って上陸した。そしてかれは、自分の生涯を賭けて悔いない大切なものを爪哇島のこの地に見出したのだ、という話が語り継がれている。

インドネシアで鄭和を指す代名詞となっている三宝公(Sam po kong)または三宝大人(Sam po toalang)の料理人は三宝厨師(Sampo soei soe)と呼ばれた。三宝厨師は仲間たちと小舟をアンチョル海岸の河口に乗り入れると、舟を一本の木につないで任務を果たすために陸上を進んで行った。
かれが上陸した場所はビンタンマス(Bintang Mas)川の河口で、その辺りには漁民の部落があり、アンチョル地区で数少ない人間の居住地域だったようだ。
原住民の集落で市を見つけると、厨房に必要なものをかれは調達しはじめた。するとそのとき、少し離れた場所で音楽に合わせて舞っている若い娘をかれは目にしたのだ。かれの目は釘付けになった。
舞い終えて帰る娘がこちらへやってくるのを幸いに、かれは娘に声をかけた。
「わたしは三宝厨師のミンです。お近づき願ってよいですか?」
この娘を妻に得たいと思ったかれは、船団から離れてその地に残ることを決意し、仲間たちにそれを伝えて、自分は娘と一緒に娘の自宅へ向かった。
娘は名前をシティワティと言い、父親はサイッ・アレリ・ダト・クンバンというイスラム宣教者で、母親のエネンと共に娘を三宝厨師と娶せることに同意した。しかし、こうしてその一家は幸福に暮らしましたという話にはならなかった。

三宝厨師とシティワティ、そしてシティワティの妹のモネが次々と伝染病に倒れて世を去った。三人の遺体はミンがアンチョルに上陸した時に舟をつないだ木の辺りに埋葬された。
あるとき、再び鄭和の大船団がやってきた。居残ったミンのことを覚えている仲間たちが再会を期して上陸してきたが、ミンが婿入りした一家が既に全滅していることを聞かされたため、かれらはミンの墓に小さい廟を建てた。すると華人ばかりか、ムスリム原住民までもが、そこへお参りするようになったのである。
こうして2百年もが経過したあと、バタヴィア建設が一段落ついた時期に華人たちがそこに立派な廟を建てたというのが、そのジャカルタ最古の寺院の縁起だそうだ。

< ビンタンマス >
ビンタンマスと昔から呼ばれてきた地区は1856年に、希代の冷血プレイボーイ「ウイ・タンバッシア(Oey Tambahsia)」の事件で突然脚光を浴びることになった。かれはバタヴィア法廷で殺人罪の有罪宣告を受け、1856年10月7日にバタヴィア政庁舎(Het Stadhuis Van Batavia = 現在のジャカルタ歴史博物館)表広場で絞首刑に処せられたのである。
そしてかれが美女を幽閉してはその肉体に溺れる日々を送ったビンタンマス荘(Villa Bintang Mas)が、かれの所業を憎む庶民の手で略奪され、破壊しつくされた。ビンタンマス荘はかれがその目的のためにビンタンマス地区に建てた豪華な別荘だった。

タバコ長者として巨大な富を築いたプカロガン(Pekalongan)出身のウイ・タイロー(Oey Thay Lo)の四人目の子供として1827年にバタヴィアで生まれたタンバッシアは、15歳のときに父親を失った。莫大な遺産を受け継いだ少年の人間性がどのようなものになりかねないのかは、想像に余りあるにちがいない。
かれの姓名はウイ・タンバ(Oey Tamba)であり、シアというのは華人コミュニティ統率者とその代々の子孫に与えられる称号だったそうだ。舎という文字が当てられ、名誉な家系ということで子孫に役職が与えられることも少なくなかったらしい。
ただし近代化が進んだころ、西洋化の教育を受けた上流華人層の子弟の間で、舎の称号はアナクロニズムだという思想が広まり、その習慣は先細りになっていった。親や先祖のおかげで舎の称号を得た、スポイルされた子孫たちが、他人の困窮や苦難に意を払わない姿を往々にして示すことから転じて、インドネシア語のsia-siaの語源となったという説もある。真偽のほどはわからない。
現代インドネシアでウイ・タンバッシアはOey Tambahsiaと綴られているが、正確にはOey Tamba Siaだということのようだ。

このウイ・タンバッシアとアンチョル橋の美女(Si Manis Jembatan Ancol)に関するストーリーは拙作「アンチョル橋の美女」
 http://indojoho.ciao.jp/archives/library02.html
でお読みいただけます。

< スルタン・アグン・ティルタヤサ >
1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路は、バタヴィア城市南側のプチナンから南東におよそ2キロ離れた場所に設けられたジャカトラ要塞(Fort Jacarta Buiten Batavia)とメステル・コルネリスを結ぶ形で作られた。ただし北端はアンチョル海岸まで伸ばされている。
1660年ごろのバタヴィア城市とその周辺地域の地図を見ると、要塞(fort)の区分に属する大型防衛陣地で城市の外に出城として設けられたものには、次のようなものが見られる。

東方 アンチョル要塞 (Fort Ansjol) 1656年完成
バタヴィア城市東側城壁から東へ3.4キロ
現在のブンヤミンスエブ通り(Jl Benyamin Sueb)がアンチョル川を越えてロダンラヤ通り(Jl Lodan Raya)に合流する地点

南東 ジャカトラ要塞 (Fort Iacatara Buiten Batavia)
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で2キロ
現在のパゲランジャヤカルタ通り(Jl Pangeran Jayakarta)とグヌンサハリラヤ通り(Jl Gunung Sahari Raya)の合流点

南方東側 ノルドウエイク要塞 (Fort Nortwyck) 1658年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で4キロ
現在の国鉄ジュアンダ駅の東側にある、ヴェテラン通り(Jl Veteran)に面した建物の位置

南方 レイスウエイク要塞 (Fort Ryswyck) 1656年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で3.5キロ
現在のハルモニ交差点西側にあるイスタナハルモニ(Istana Harmoni)アパートメントのすぐ北側

西方 フェイフック要塞 (Fort Vijfhoek) 1657年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で2キロ
位置は現在のトゥバグスアンケ通り(Jl Pangeran Tubagus Angke)の北にある運河(旧名Bacherachtsgracht)とクルクッ川(Kali Krukut)の合流地点と説明されているのだが、地図を見ると現在のクルクッ川よりずっと西にあって合流する水路などない場所になっている。川の位置が変わった可能性を考慮して、地図の方を参照した。

更に西方 アンケ要塞 (Fort Ancke) 1657年完成
バタヴィア城市南城壁(現在の国鉄コタ駅)から直線距離で4.4キロ
アンケ川(Kali Angke)とアンケ水路(Saluran Angke)の分岐地点

それらの要塞はすべてバタヴィア城市と道路や運河で繋がっていて、要塞への増援や要塞からの撤退の便が確保されている。加えて砦(bastion)に区分される小規模防衛拠点があちこちに無数に配置されていた。初期のバタヴィア城市の防衛ライン構想はそのようなものだったらしい。

1628年1629年のマタラム王国軍バタヴィア進攻の際に攻撃の矢面に立たされたホランディア要塞はそのバスティオンに区分されている。ホランディア砦が作られたのは1627年だ。
1628年1629年のマタラム王国軍バタヴィア進攻の状況については、拙作「バタヴィア港」< http://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html >の中で述べた。バタヴィア城市設立以来はじめての存亡の危機を迎えたそのとき、上に述べた要塞はまだ存在していなかった。設けられたのはそれから二十数年経過した時期であり、つまりはそのころ再び防衛態勢を強化する状況にバタヴィアは直面していたということにちがいない。それは一体何だったのだろうか?

スルタン国「バンテン」の生い立ちは、拙作「バタヴィア港」で触れた。VOCがバンテンの属領であるジャヤカルタを奪ってジャワ島における足場固めを行い、同時にそこを基地にして東は日本から西は喜望峰までの地域を自己の商圏として通商活動に邁進している間、バンテン王国はVOCの威勢に押されながらもコショウを中心とするスパイス取引の市場としての機能を維持していた。
当時の経済競争が力ずくであったことは、数ある歴史の書物の中にあからさまに描かれている。バタヴィア側はバンテンの通商を、海上封鎖する方法で妨害した。バンテンから商品購入をする者はバタヴィアに来い、という態度だ。
バンテン側がそのような妨害や圧力を跳ね返すには、力で対抗せざるを得ない。国力の充実による軍備拡張と有能な国家指導者の出現なくしては、そのような力は雲の上の月でしかなく、得られなければ行き着くところは枯渇と崩壊であり、外敵の跳梁と蹂躙が結末となる。

1651年に期待されていた指導者がバンテンに出現した。第6代目のスルタン位に就いたスルタン・アグン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)の時代を歴史家は、バンテン王国の黄金時代だったと評価している。
スルタン・アグン・ティルタヤサは軍制改革を行ってヨーロッパ級の軍船団を持ち、多数のヨーロッパ人を雇い入れて軍隊を強化した。ランプンの王国はバンテンがイスラム化した初期の時代から服属させていたが、スルタン・アグン・ティルタヤサは強化した軍事力で西カリマンタンのタンジュンプラ(Tanjungpura)王国を攻めて1661年に征服している。バタヴィアがその脅威に手をこまねいていたはずがない。防衛力強化に急遽着手したのは当然だろう。

軍事力が強化されたバンテンが宿敵バタヴィアに対して攻勢に出たことも理の当然だったにちがいない。その時代に宣戦布告などは無用のことがらであり、力がすべてを決めていたのだから、劣勢を覆そうとしてバンテンの武装兵やゲリラグループがバタヴィア側を襲撃することは頻繁に起こっていたようだ。
VOCがジャヤカルタを奪ったころ、ジャヤカルタの周辺沿岸部から内陸部にかけての地域はバンテン王国の領地になっていたのである。それがバンテンの直轄領かジャヤカルタ領かの違いがあったとしてもだ。ジャヤカルタの王族貴族がジャティヌガラに逃れたのは、そこがジャヤカルタにもっとも近い拠点のひとつだったことに加えて、バンテン側の王族でそこに関りを持つ階層も存在していたからだ。
ジャティヌガラがメステルコルネリスの名前でバタヴィア領としての位置付けを深めるようになれば、優先度の高い攻撃対象に置かれることは間違いがあるまい。メステルコルネリス要塞が完成したのは1734年だが、要塞になる前はそこにメステル守備軍の住居や施設が置かれていたらしく、その土地の地名がBukit Duriになっているのは、バンテン王国からのゲリラ部隊の襲撃に対する防御として、地区一帯を鉄条網で囲ったことに由来しているとの話だった。

スルタン・アグン・ティルタヤサは1683年まで王位にあったが、1680年を過ぎたころから長男のパゲラン・ダマル(Pangeran Damar)を筆頭に29人の王子王女を持ったかれを悲運が襲い、この英傑の晩年を暗いものにしてしまった。父子の意見の相違からパゲラン・ダマルが父スルタンを王位から追放しようとしてVOCと手を結んだのである。
VOCがバンテンを骨抜きにしようとして、その王宮に見えない糸を深くからみこませていたのは言うまでもあるまい。VOCはランプンの支配権を代償にして、パゲラン・ダマルに軍事支援を与えた。後にスルタン・ハジ(Sultan Haji)の呼び名で定着しているため、ここからパゲラン・ダマルをスルタン・ハジと呼ぶことにする。

スルタン・アグン・ティルタヤサとその味方に着いた王子たちに対して、スルタン・ハジとVOCの連合軍が軍事行動を開始する。王宮から逃れたスルタン・アグン・ティルタヤサの側は新たな宮殿を設けてそこをティルタヤサと名付けた。一方、従来のスロソワン王宮でスルタン・ハジが即位する。
両者の間で戦争状態は継続し、1682年12月28日にティルタヤサ王宮はスルタン・ハジとVOC連合軍によって陥落した。スルタン・アグン・ティルタヤサと王子たちは西ジャワ内陸部に逃れて徹底抗戦を図ったものの、スルタン・アグン・ティルタヤサは1683年3月14日にチアンペア(Ciampea)で捕らえられてバタヴィアに送られ、幽閉された。

父スルタンを支援して戦ってきたパゲラン・プルバヤ(Pangeran Purbaya)とシェッ・ユスフ(Syekh Yusuf)の軍勢を掃討して叛乱首謀者を捕らえるために、スルタン・ハジとVOCはその任務をバリ人のウントゥン・スロパティ(Untung Suropati)中尉麾下のバリ人部隊およびヨハネス・モーリッツ・ファン・ハッペル(Johannes Maurits van Happel)中尉率いるヨーロッパ人部隊に与えた。
この部隊は1683年12月14日にシェッ・ユスフの支配下にある地区を制圧してシェッ・ユスフを捕らえた。状況がますます不利になって来たパゲラン・プルバヤはついに降伏を決意する。パゲラン・プルバヤは条件を出した。グデ(Gede)山に潜んでいる自分を迎えに来てバタヴィアへ護送するのは、プリブミ将校に率いられたプリブミ部隊でなければならない。
ウントゥン・スロパティの部隊にヨハン・ライシュ(Johan Ruisj)大尉から、パゲラン・プルバヤを捕らえてバタヴィアに護送する任務が命じられた。ところがバタヴィアへ向かう途上で、バリ人部隊はウィレム・クフラー(Willem Kuffeler)麾下の部隊に行く手を阻まれたのである。
捕虜の引き渡しを要求されたウントゥンは、相手がヨーロッパ人だったために仕方なく従ったところ、パゲラン・プルバヤの取り扱いがあまりにも非人道的であるのを目にしたウントゥンがクフラーに怒りを燃え上がらせた。ウントゥンの部隊はパゲラン・プルバヤを保護しようとしてクフラー部隊に挑みかかる。そして1684年1月28日にチカロン(Cikalong)川でクフラー部隊を壊滅させた。こうしてウントゥン部隊は、反乱軍としてVOC軍のお尋ね者になってしまうのである。
このウントゥン・スロパティの物語はこれから佳境に入るのだが、この先は別の機会に譲ることにしよう。
パゲラン・プルバヤはしばらくカスティルで幽閉されてから、1685年にチリンチンに流刑された。かれに付き従う者たちが村を作って定住した場所が、今はクバンテナン(Kebantenan)という地名になっている。かれらはその後ジャティヌガラ、チョンデッ(Condet)、チトゥルップ(Citeureup)、チルウェル(Ciluwer)、チカロンなどで分居することが許された。チケアスとスンテル川にはさまれた地区にもパゲラン・プルバヤが住んだ家があり、その家から古スンダ語で刻まれた碑文が5つ見つかっている。

スルタン・ハジを掌中に握ったVOCがバンテン王国を属国の位置に落とし込むのに、もはや苦労はなかった。1684年にバンテンの通商権をVOCが一手に代行する条約が結ばれている。加えて、スルタン即位の承認もVOCが与えることが慣習化したのである。
オランダ人に鼻先を引きずり回されてもおとなしくしていたそんなバンテン王国にも1808年に最期が訪れた。ナポレオン・ボナパルトに服属したオランダ本国から、ダンデルス(Herman Willem Daendels)が第37代総督としてジャワ島に赴任してきたのである。
ナポレオンが最大の敵と認めていたイギリスのジャワ島占領を阻止することがダンデルスに与えられた究極の使命だった。ダンデルスはジャワ島の軍事体制を大改造するために大車輪の動きを始めた。
そのひとつがジャワ島西端にあってスンダ海峡に面したアニェル(Anyer)からジャワ島東端バニュワギに近いジャワ海沿岸にあるシトゥボンドのパナルカン(Panarukan)に至る1千キロ超の軍用道路建設である。わずか一年間で完成させたその突貫工事で、駆りだされた原住民の間に多数の死者が出たことから、インドネシアの国史に悪逆非道の烙印がダンデルスの名に冠させる結果を招くことになった。ところが、その大郵便道路(De Groote Postweg)と名付けられた幹線道路はいまだにジャワ島の経済大動脈として機能しており、われわれはそこに歴史の皮肉を感じ取ることになるのである。

大郵便道路はアニェルからバンテンの王都を通過してバタヴィアへ向かう。ダンデルスはそれを機会と見て、バンテン王国の首都をアニェルに移し、ウジュンクロン(Ujung Kulon)に港を建設するようバンテンのスルタンに命じた。バンテンの都を明け渡させることがかれの本意だったようだ。
スルタンは王都の移転を拒んだ。そうなれば、あとは力ずくで本意を実現させるだけだ。ダンデルス総督は、バンテンの王都を攻略してスロソワン宮殿(Istana Surosowan)を破壊せよと軍に命じた。
その通りのことが実行され、スルタン一族は捕らえられてバンテンに建てられているスピルウエイク(Speelwijk)要塞に幽閉され、後になってバタヴィアへ流罪にされて監視下の一生を送ることになった。1808年11月22日、ダンデルスはバンテン王国領がオランダ東インド政府の直轄領となったことを発表した。
そのスピルウエイク要塞はスルタン・ハジを掌中に握ったVOCが、軍事上の要としてバンテンの王都の外に建設したものだ。工事は1682年に着手されて1686年に完成している。
但し、バンテンのスルタン側がダンデルスの仕打ちを諾々と受け入れたわけでもない。ただ一時的に暴力に屈しているだけであって、スルタンの廃位を承服したわけではないからだ。最終的にそれを承服させたのは、ジャワ島がイギリスに占領統治されていた時期に統治権をふるったラフルズだった。バンテン王国は1813年にその歴史を閉じた。

< ジャカトラ通り >
ジャカトラ要塞が建てられたとき、バタヴィア城市の壁の外側を囲んでいる濠の岸にできた道の東南角からジャカトラ要塞までの道路が整備されて、ジャカトラ通り(Jacatraweg)と名付けられた。今のジャヤカルタ王子通り(Jl Pangeran Jayakarta)だ。
最初はプチナンの住民たちが東南方向へ向かうための踏み分け道だったのだろうが、チリウン川の流れに沿ったその道の便の良さが幸いしたにちがいない。もともとこの道路と濠岸の道の延長線が交差する地点の東南角に掘立小屋がひとつあった。スンダクラパ時代にこの地を訪れたポルトガル人が設けたもので、立ち寄るポルトガル船の船員たちがカソリックの教会として使っていた。

初期のバタヴィアでは、街の建設や種々の仕事に必要な労働力をポルトガル人がアジア各地に作ったメスティーソで満たそうと考えて、かれらをバタヴィアに連れてきた。ところが、華人の勤勉さと仕事の質の高さに気付いたバタヴィア上層部は、その方針をころりと変えて華人を重用するように変わってしまったのである。
華人がオランダ人のお気に入りになったことは、華人社会を統率するカピテンチナの初代を務めたソウ・ベンコン(Souw Beng Kong)がバタヴィア上層部から優遇されていたことや、ハヤムルッ(Jl Hayam Wuruk)とガジャマダ(Jl Gajah Mada)のニ路にはさまれたモーレンフリート(Molenvliet)運河の建設を第二代カピテンチナのポア・ビンアム(Phoa Bing Am)に請け負わせたことなどの点に見ることができる。モーレンフリートは1648年に完成した。

だが、自分はヨーロッパ人だと思っているポルトガル系メスティーソは大勢が既にバタヴィア住民になっており、かれらの宗教生活がいつまでも掘立小屋をベースにしているのではみっともない、という感情がオランダ人の胸にも湧いたにちがいない。
ピーテル・ファン・ホールン(Pieter van Hoorn)の肝いりで1693年に掘立小屋の建て直しが開始されて、1695年に完成した。このピーテル・ファン・ホールンは明との交易を望んだVOCが交易使節として明の宮廷に派遣した人物であり、初期のバタヴィアでかれは要人のひとりだったということだ。
かれは第二代総督ヘラール・レインスト(Gerard Reynst)の孫娘を妻にし、息子のひとりヨーン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)は第17代総督になっている。
オランダ人は建て直された教会をPortugeesche Buitenkerk(城外ポルトガル教会)と呼んだが、現在はGereja Portugisという名称よりも、むしろGereja Sionという名前で通っている。このグレジャシオンは今日でもまだ教会として使われており、三百年を超える長年月の間、同じ目的のために使われ続けてきたジャカルタで数少ない建物のひとつになっている。 

全長2.4キロほどのこのジャヤカルタ通りのちょうど中間地点あたりにバタヴィア初の華人墓地が作られた。南からマンガブサール13通りが突き当たってくるエリアで、道路の北側だ。この墓地にプチナンを統括する統領として指名された初代カピテンチナのソウ・ベンコン(Souw Beng Kong)も葬られた。と言うよりも、ソウ・ベンコンを葬るために墓地が作られたという方が当たっているようだ。
ソウ・ベンコンが没したのは1644年であり、かれはバタヴィア城市南城壁外のプチナンの秩序と治安の確立に大きく貢献したことから、VOCからジャヤカルタ通り中ほどに広大な邸宅を与えられており、その家で没したかれを葬るために急遽広大な庭の一部に墓を設けたという説がある。その後1650年ごろから、ソウ・ベンコンの墓所周辺に華人社会の有力者たちの墓が作られて華人墓地になっていったそうだ。
ところがもうひとつの説によれば、ソウ・ベンコンの邸宅はバタヴィア城市内のテイヘルスフラフツ(Tijgersgracht 今のJl Pos Kota)にあり、かれはそこで没したとのことで、遺族はかれの個人所有になるヤシ農園(広さ2万平米)にかれの墓を設けたという話になっている。その墓の周囲においおい華人社会有力者の墓が増えて行ったストーリーは同じだ。
ソウ・ベンコンの墓は今現在もジャヤカルタ通りの中間地点北側に存在しており、1644年にそこに豪壮な邸宅が存在したのか、それとも広大なヤシ農園だったのかははっきりしない。

ただ上の二説の蓋然性を検討してみるなら、VOC上層部との密接なコンタクトを必要とするカピテンチナであれば城市内に居住するほうが自然であるようにわたしには思われる。だとするなら、1640年代のジャヤカルタ通りは人家のまばらな、広大なヤシ農園のある、まだまだ市街地化からはほど遠い状況だったように思われる。
この通りの周辺に豪壮な邸宅が並び、ヒーレンウエフ(heerenweg 貴顕通り)と呼ばれるようになるのはもっと後の時代だったのではないだろうか。その年代がいつごろだったかはさておいて、1733年から始まるバタヴィア城市内の病死禍が華麗な住宅地となったジャヤカルタ通りをも襲ったことは想像に余りある。豪壮な館の主たちは一族郎党を引き連れてもっと南東のグヌンサハリ通りや南西のモーレンフリート沿いに移って行った。
ジャヤカルタ通りが現在われわれの目に映っている「半ばスラム化した街区」と化していくのは、はたしてそれが発端だったのだろうか?

< ピーテル・エルベルフェルト >
ジャヤカルタ通り北端からグレジャシオンに沿って下ると、すぐ南側に自動車のショールームがあって、道路は東南向きに角度を変える。ヒーレンウエフと呼ばれた時代には、そのショールームのある付近にも、ヒーレンの名前にふさわしい豪壮な邸宅が建っていた。
グレジャシオンから一軒おいた、通り北端から三番目の邸宅に、当時権勢を誇ったバタヴィアの名士で巨大な財産を誇る一家が大勢の奴隷や使用人にかしずかれて住んでいた。父親はドイツ人で、その名をピーテル・エルベルフェルト(Pieter Elberfelt)と言い、かれは自分の姓をよくエルフェルト(Ervelt)と縮めて書いた。
その家には欧亜混血の息子がおり、子供の母親はシャム人で、その子はセイロンで生まれた。生まれたのは多分1660年代半ばごろだったようだ。
その時代、VOC駐在員にとって結婚はたいへん困難であり、アジア人女性をニャイにする習慣は既に行われていたが、ニャイを連れて旅したり転勤することなどもってのほかであったことから、その欧亜混血の息子の生母がバタヴィアの邸宅で一緒に暮らしたかどうかは可能性が薄いように思われる。
たとえそうであっても、幼い子供を世話する女性が必要とされたのは間違いがなく、バタヴィアではジャワ人女性が母親代わりを務めた可能性が高い。母はジャワ人だったというインドネシア人歴史家の説があるのだが、公的機関が出している情報はシャム人女性で統一されているので、それに従っておくことにする。

もともとピーテル・エルフェルトはドイツで皮加工職人をしており、VOCに雇用されてアジアに派遣された。いつからバタヴィアに住むようになったのかについては詳しい資料が見つからないが、VOCの職務から離れたかれはバタヴィアで最高参事会(Collage van Heemraad en Schepenen)副議長を務めたことがあるようだ。有能で裕福な人物がジャカトラ通り北部に邸宅を構えたのは、そのあたりの格式に則したものだったにちがいない。
息子の欧亜混血者は父親と同じ名前を与えられた。そのピーテル・エルベルフェルト(Pieter Erbelveld)ジュニアが没した父に替わってその家の主になったのがいつのことなのか、それもよくわからない。ともかくかれは、ヨーロッパ人であることを証明するエルベルフェルトの姓と、父が築いた財産そして社会的名声を相続した。かれは良家の娘を妻にしている。良家の娘という表現はヨーロッパ系の家庭を意味するのが普通だ。
そうやって歩み始めた平穏な暮らしから、かれは突然奈落の底へ突き落されることになる。父から受け継いだポンドッバンブ(Pondok Bambu)の数百ヘクタールの土地を1708年にバタヴィア政庁に没収されたのである。公証人による土地譲渡証書が作られていないため公認されたものでないと判断される、というのがその理由だったが、第17代総督ヨーン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)がその土地を手に入れたいために起こしたことだと言われている。それに追い打ちをかけて、無許可の土地を勝手に使用していたのだから、稲束3千3百本を罰金として納めよとの命令が加えられた。
その仕打ちに強い抗議を表明したピーテルに対してバタヴィア上層部側は、その不遜さに嫌悪の情を抱いた。世の中は鏡である。自分が相手に対して抱く感情は、相手の心理に潜入して相手の感情を同じものに変えて行くのだ。
オランダ人に対する深い憎しみがピーテルの内面に沈潜した。プリブミ社会はピーテルに同情した。プリブミ社会で人気が高まるピーテルにオランダ人社会の嫌悪感が強まっていく。

エルベルフェルトの綴りは数種あって、ウィキペディアではErberveld、インドネシアの諸文献ではErbelveld、あるいは古い文献の中にEberfeldも見られ、また碑文博物館に設置されている布告の銘板にはElberveldと書かれており、何を真とすればよいのかわからない。
真は本人が主張する綴りのはずであり、バタヴィア上層部が作らせた碑文博物館の銘板がそれと一致させて書かれたかどうかは、かれらがピーテルをどのように扱ったかを見る限り、最低限のリスペクトすら与えた印象が持てないことから、確信を抱くことができないのである。
かれはヨーロッパ人社会との交流を嫌うようになり、プリブミ社会とのつながりを深めて行った。ジャワ島のプリブミ社会がイスラムという文化面の絆を核の一つにしていることから、本当にプリブミ社会に没入するのであればそれを避けて通ることはできない。
もともとアジア人である生母と養母から植え付けられたアジア式行動習慣や感覚に従って、かれはプリブミたちと親しい関係を築いてきた。かれが父親から受け継いだヨーロッパ人としての自分の一部は、バタヴィアのオランダ人が示した汚さ・残酷さが醜い物に変えてしまった。醜悪な部分を振り捨てるならば、できた空白にアジア的なものが滔々と流れ込んで行くはずだ。アジアにいるかぎり、その現象は容易に起こりうるのである。プリブミ社会に全身を浸すことを選んだピーテルの「わたしはムスリムだ。」という宣言は、かれの周囲にいたプリブミたちに喝采で迎えられた。

VOCのオランダ人上層部は最初からプリブミを劣等視し、純血オランダ人(あるいはヨーロッパ系白人)がプリブミ女性に産ませた子供をも劣等視した。その観念は何百年にもわたって維持され、プリブミの母から生まれたオランダ人高官の息子は、可能な限り出生の事情を濁した上、オランダ本国で高等教育を受けて、あたかも純血オランダ人のように東インドにやってきて統治体制内の高官職に就くのを常識としたのだった。
ヨーロッパ人社会から離れているピーテルをバタヴィア市政上層部がどのような目で見ていたのかは想像に余りあるだろう。わたしには、ピーテル・エルベルフェルト事件の本質がそこにあるような気がしてならない。

プリブミ社会にのめり込んで行くピーテルに、世の中の注目が集まる。そしてピーテルの攻撃的な性格が、プリブミ不平分子をマグネットのように吸い寄せる結果になった。
バンテンにしろマタラムにしろ、王族貴族の中に不平分子は事欠かない。折々のメインストリームから排除されたひとびとが、今の支配者に取って代わることを念願するのは自然なことだ。だがジャワ島内の王宮はいずこも、バタヴィアのVOCが後ろ盾になっている。今の支配者を倒すためには、もう一段上に上がってバタヴィアVOCを同時に潰滅させなければ、目論見は成功しない。もう一段上の立場で全方面の闘争を統括する人間が必要になってくる。それぞれが自己中心的に行動するプリブミをまとめるにふさわしいその人間がピーテルだとかれらは見たのである。
ジャワ島にいるすべてのヨーロッパ人を皆殺しにしてバタヴィアVOCを壊滅させ、その傀儡としてバックアップされているプリブミ王朝も全廃させる。ピーテルを首魁とするプリブミの王道楽土を作ることが、かれらの目標に置かれた。

ピーテルをビンハミッビンアブドゥルシェイクアルイスラム(Bin Hamid bin Abdul Syeikh al Islam)なる称号のジャワ島の統領として担ぎ、バンテン・マタラム・チレボンなどの諸王国のスルタンに反主流派のリーダーがとって替わるというこの構想の肉付けを行ったラデン・アテン・カルタドリヤ(Raden Ateng Kartadriya)がピーテルの懐刀として一斉蜂起の準備を進めた。
一説ではスナン・カリジャガの血を引く中部ジャワ出身のカルタドリヤだが、別の説によればバンテンスルタン国の王族だとなっている。ともあれかれは各地の不平分子と連絡を取るとともに、バタヴィアVOC軍の一部をなしているプリブミ部隊をも一斉蜂起に巻き込むべく動いた。かれが集めた戦力と同志のマジャ・プラガ、ライジャガ、アンサ・ティストラ、ハジ・アバス、ワンサ・スタたちの軍勢を合計すると1万7千人になる。ピーテルは自分の金を1万7千人に軍資金として分配させたが、それで金蔵が寂しくなるようなかれの財力ではなかった。

蜂起計画は既に出来上がっていた。大晦日の夜が過ぎて元旦の夜明けを期に、バタヴィア城市に討ち入って、オランダ人や他のヨーロッパ人を皆殺しにするのである。大晦日の夜には、オランダ人たちはパーティで底抜けに愉しみ、酒を飲んで酔っ払い、明け方になって床に就く。そこが付け目だ。城市の大門とカスティルの門も明け方には内側から開かれる手はずが整えられている。
ところがこの緻密に練り上げられた蜂起が失敗してしまった。事前に情報が洩れて、蜂起の直前に首謀者たちが全員逮捕されてしまうのである。情報がどのようにして洩れたのかについては、いくつかの説がある。

何十年か昔には、このようなストーリーが語られていた。
ピーテルにはミーダ(Meede)というヨーロッパ人の妻との間にできた娘がいて、この娘はバタヴィア防衛軍の士官と恋仲になっていたが、ピーテルはヨーロッパ人を嫌うあまりその仲を祝福しようとしない。
ミーダが自分の将来を思い煩って眠れない夜を過ごしているとき、庭の暗がりの中で何人もの人影が家の裏手へ向かっているのに気付いた。ミーダは父親に知らせようと急いで父親の寝室へ行ったが、ベッドはもぬけの殻。
父親を捜して邸内を周っているとき、裏庭に面した奥の部屋で押し殺したような人の声がした。ミーダは足音をしのばせてその方へ向かう。その部屋では父親が十数人のプリブミたちと歓談していた。中へ入るに入れず、部屋の外で中の会話を聞いていたミーダの顔色が変わった。「オランダ人を皆殺しにする」などという言葉が聞こえたからだ。
父親とプリブミの友人たちが何を計画しているのかを知ったミーダは、翌朝が待ちきれなかった。いつものように朝食を済ませてから、何事もなかったかのようにミーダは友人宅へ遊びに行くふりをして馬車を用意させ、家を出てから恋人のもとへ急いだ。
ミーダから叛乱蜂起計画を聞いた恋人は、急いでバタヴィア防衛軍司令官に面会を申し込む。軍司令官は急遽、総督にその情報を報告した。そして1722年1月1日未明の逮捕劇がジャカトラウエフの豪邸で繰り広げられることになる。

ところが今そのストーリーをインターネットで探しても、見つけ出すのは一苦労になっている。現在有力なのは、密告者がピーテルの邸宅で使われていた奴隷男だったということで、これは華人ムラユ文学者ティオ・イェ・スイ(Tio Ie Soei)氏が1924年に発表した「ピーテル・エルベルフェルト〜ブタウィの一実話」と題する小説に描かれた内容と一致している。
ティオ・イェ・スイ氏の著作は昔から語り継がれてきた数バージョンのひとつを自己の見解から小説にまとめあげたものであり、事実を踏まえながら創作されたものであるのは明らかだ。
ティオ・イェ・スイ作のストーリーでは、ピーテルが奴隷女に産ませた娘サリナが父親の叛乱計画を知って苦悩する。サリナは母親と同様に奴隷の身分だが、ピーテルはサリナを愛して小さいころから大切に育ててきたありさまが小説に描かれている。サリナは自分の出生の秘密を知っており、いささか酷薄なピーテルに対しても父親への愛情を豊かに持っている。ただし、両親もサリナも他人にその秘密を隠そうと努めてきた。サリナという名前からして創作の匂いが芬々としてくるではないか。

ところが、このストーリーにはピーテルの妻もその妻が産んだであろう子供も出てこない。ピーテルがヨーロッパ人社会を憎んでムスリムとしてプリブミ社会に深入りすれば、ヨーロッパ人の妻と子供は居場所を失ってしまうにちがいない。そんな状況の中でかれらがピーテルの家で一緒に暮らすはずがないのは明らかだ。
ピーテルが蜂起計画を二年間かけて練り上げてきたという話に従うなら、二年あるいはもっと以前にヨーロッパ人の妻と妻の産んだ子供はピーテルに絶望してその家から去って行ったにちがいないと思われる。
オランダ人が奴隷女に産ませた子供でも、トアンが認知してヨーロッパ人としての一生を歩ませた例は無数に存在しているにもかかわらず、サリナをわが子として愛しんだピーテルがどうして娘を認知して奴隷身分から引き上げてやらなかったのかという疑問の答えを探すなら、やはりその辺りに答えが潜んでいるようにわたしには思えるのである。

さて物語は、1722年1月1日の夜明けを期して蜂起が実行に移されるという、その三日前の情景からスタートする。ラデン・カルタドリヤが手下を伴ってピーテルの家を訪れたとき、かれらの間で話されている内容をサリナがふと耳にして驚く。そのときサリナは、同じ奴隷の若者アリも隠れてその話に聞き耳を立てていることを知る。
アリはサリナを恋しており、かつてピーテルにサリナと結婚したいと願い出た時こっぴどく叱りつけられ、トアンに憎しみを抱いていた。ピーテルはサリナを奴隷男の妻にする気がなかったからだ。
だがアリはピーテルとサリナが親子の関係であることを知らず、他の奴隷には酷薄なトアンがサリナだけには異常に優しいことを疑い、嫉妬を抱いていた。
サリナはアリを憎からず思ってはいたが、アリがサリナを駆落ちに誘ったときに拒否し、自分がトアンを説得するまで辛抱してくれと頼んだ。それをアリは誤解し、恋敵のトアンに復讐するべく奴隷身分のまま主人の下から出奔する。
アリはバタヴィア防衛軍にトアンの叛乱蜂起計画を売り、バタヴィア防衛軍は1月1日未明に蜂起のためにピーテルの家に集まって来ていた反乱部隊指揮者たち18人をピーテルと共に一網打尽にするのである

VOCの記録を読む限り、そのようなストーリーが浮かび上がってくるのだが、本当にそこまで煮詰められた蜂起計画があったのかどうかについて、疑う声がある。

文明からほど遠いアジア人との混血男で、しかも自らをプリブミとして生活していながら、父親が築いた財力で世の中に大きな顔を見せ、VOCに反抗している人間に対して、虫酸の走るオランダ人高官がいたことを誰も否定はできないだろう。そしてさらに大金持ちの混血プリブミ男からあれこれ簒奪しようとする陰謀が沸き起こってバタヴィア市政上層部を巻き込んでいけば、結末がどうなるかということは想像がつくに違いない。
このピーテル・エルベルフェルト事件を分析したオランダ人歴史家の中に何人も、文献の中に不一致がたくさん見つかっていてこの事件は不審な点が多いと表明しているひとたちがいる。

2008年のジャカルタ国際文学フェスティバルで第二位を受賞したデニー・プラボウォ(Deny Prabowo)氏の作品"Pieter Akan Mati Hari Ini" (今日ピーテルが死ぬ)では、この事件が仕組まれた冤罪だったのではないだろうかという視点からストーリーが語られている。

また1981年にジャカルタの全国ネットテレビがティオ氏の小説を元にテレビドラマを制作したあと、人類学者クンチョロニンラ(Koentjaraningrat)博士が当時の最高参事会副議長だったレイカート・ヒーレ(Reijkert Heere)の報告書をもとに内容が史実に異なる点を批判したことについてプラムディア・アナンタ・トゥル氏は、ティオ氏の作品に創造された人物が登場したかもしれないにせよ、数百年も昔の出来事について、ひとびとの記憶が途絶えていた時期もあり、この事件の内容が本当は何であったのかということは歴史的に確定したことがない、とコメントしている。
デニー・プラボウォ氏はそのレイカート・ヒーレこそが1718年から1725年まで第20代VOC総督を務めたヘンドリック・スワルデクロン (Hendrick Zwaardecroon)を後ろ盾に使ってピーテルを破滅させた首謀者ではないかという見方を示している。

1722年4月8日、最高参事会がピーテルとその一味の罪状と処刑を定めた。裁判所に委ねられなかったのはなぜなのだろうか?
判決。市民ピーテル・エルベルフェルト、バタヴィア生まれ、父白人、母黒人、年齢58あるいは59歳。カルタドリヤ別名ラディン、カルタスラ出身ジャワ人。・・・・・・・・
われわれ裁判官一同は汝らを死刑執行人に引き渡し、次の方法で処刑される。各々は十字架に縛り付けて右腕を斬り落とし、腕・脚・胸は焼けた金テコではさんで肉をバラバラにする。胴体は下から上に切り裂き、心臓を顔に投げつける。その後、首をはね、柱の上でさらし者にする。バラバラにされた身体は城市外に放置して野鳥の餌食とする。

死刑判決を受けた者は19人で、そのうちの3人は女性だったそうだ。ティオ・イェ・スイ氏の小説では、サリナの母がそのひとりで、かの女は絞首刑になったと記されている。サリナは逮捕されなかったが、一月後に貧民地区の小屋で世を去った。判決文にある残虐な処刑法が19人全員に適用されたのか、それともピーテルとカルタドリヤに対して行えば十分だったのか、その辺りの情報は手に入らない。
さまざまな記事を読むと、その処刑方法の中に、死刑囚の身体を4頭の馬に括り付け、馬を四方向に突っ走らせて身体を四つに引きちぎることが行われたと書かれているものに出くわすのだが、それが判決文の方法に追加されて行われたのか、判決文の方法を採らない者に適用されたのか、詳しい話は見つからない。
右腕がなくなっているのだから四頭の馬につなぐのは難しいだろうし、胴体が既に切り裂かれていれば、それを更に四分割することを処刑人が喜んで行ったとも思えない。その時代、処刑人はショーの花形だったのだから、奇妙な式次第を渡されて事務的に事を行ったとは考えにくいのである。

処刑が行われたのは1722年4月22日で、犯罪者の処刑は普通バタヴィア政庁舎前広場(今のジャカルタ歴史博物館前広場)で行われるにも関わらず、ピーテルとその一党の処刑はその後プチャクリッ(Pecah Kulit)と呼ばれるようになったジャカトラ通り南側の空き地で行われた。
プチャクリッという地名は、国鉄ジャヤカルタ駅の西側でチリウン川に至るまでの地区を指し、そこはピーテルの家から東におよそ4百メートル離れた場所だ。プチャクリッは日本語で「皮革を割る」意味であり、ピーテル一党の処刑方法がその名前の由来になったのか、それともピーテルの父親がその辺りで行っていたと思われる皮革加工事業に引っ掛けて名付けられたのか、はっきりしたことはわからない。
1970年代半ばごろ、わたしが初めてその言葉を耳にしたとき、たいへん異様な印象を受けたことを覚えている。後になってピーテル・エルベルフェルト事件に関わっていたことを知り、それを地名にしたひとびとの精神構造に首を傾げたものだ。

判決の後、ピーテルの邸宅は素早く処理が行われて、縁者がその資産を利用することができないように手が打たれた。邸宅庭園は取り壊されて塀に囲まれた空き地に変えられ、高さ2メートルのレンガ塀がその表門をぴっちりと塞いだ。
レンガ塀の正面には、「罰せられし反逆者ピーテル・エルベルフェルトの汚らわしき記憶のゆえに、この場所で建築し、作業し、レンガを積み、植樹することを今後永遠に禁止する。1722年4月14日バタヴィア」というバタヴィア政庁の布告をオランダ語とジャワ語で刻んだ銘板がはめこまれていた。

人間の頭蓋骨を串刺しにしてレンガ塀の上に埋め込まれた槍の穂先は、いつからあったのだろうか?4月14日からそれが既にあったのなら、その頭蓋骨はピーテルのものでない。処刑が終わってから置かれたものなら、最初は本物のさらし首だったにちがいない。皮や肉がこそぎ落ちて頭蓋骨だけになるまで、どのくらいの年月が経過したのだろうか?もちろんわたしは、最初から模造品の頭蓋骨を付けて恥の壁が作られた可能性を否定するものではないが、その時代の人間の残虐さを思うなら、模造品などという面倒くさいことを考える人間がどれほどいたかというポイントから悲観的にならざるを得ないのである。
今ある串刺しにされた人間の頭蓋骨はギプスで作られたものだから、怖れるには及ばないが、最初からそうだったのかどうかについては何とも言えない。
その恥の壁は日本軍が占領するまで、ピーテルの屋敷の表を塞いでいた。そして日本軍はその奇妙な記念碑を問答無用で破壊した。曰く因縁が何であれ、オランダ人が残したものはすべてぶち壊すのが方針だったのかもしれない。
1985年にその壁のレプリカは串刺しの頭蓋骨付きで碑文博物館に再現されたので、いつでも見に行くことができる。

今のジャヤカルタ通りR.W.06にラデン・アテン・カルタドリヤの墓所が設けられている。縁起譚によれば、ばらばらにされた遺体はプリブミたちが集めてどこかの一角に埋めたそうだ。
ピーテルの遺体だけは判決通りに野鳥に啄ませようとして、役人の目が厳しく光っていたのかもしれない。だからピーテルには、カルタドリヤのようなことが起こらなかったらしい。
ピーテル邸の表を塞いだ恥の壁をピーテルの墓と称している記事があれこれ見つかるのだが、頭蓋骨(あるいは本人のさらし首)を上に飾った碑を墓と呼ぶ感覚はわれわれにピンと来ないものだ。
カルタドリヤの墓所には、土の付着した大きな石が数個、白い布に包まれて置かれているだけだ。ここへ参詣に来るひとたちも決して少なくないという話だった。

< パクアンパジャジャラン >
ボゴールの町の歴史は古い。4〜8世紀にかけてタルマナガラ(Tarumanagara)王国が栄えた時代に作られた石碑が、現在のボゴール県のあちこちで発見されている。ところがタルマナガラ王国の名前を今に伝えるチタルム(Citarum)川は、ボゴール地方を通っていない。
バンドン市を囲む山岳地帯のひとつワヤン山(Gunung Wayang)に端を発するチタルム川はそのまま北に向かって流れ、カラワン県からブカシ県北部を通過してジャワ海に注いでいる。
タルマナガラは王都をブカシに置いてスンダプラ(Sundapura)と称したようだが、ボゴール県で石碑が多数見つかっていることから、ボゴール一帯も重要なエリアであった印象が濃い。

7世紀には王国内部での紛争によってガル(Galuh)王国が生まれ、タルマナガラはそれに対抗してスンダ王国へと変身して分裂状態に陥った。タルマナガラの衣鉢を継ぐスンダ王国とガル王国、そしてジュパラのカリンガ王国や中部ジャワの古マタラム王国などが並立する時代に入り、スマトラのスリウィジャヤ王国が支配を拡張してきた時期もあれば、古マタラム王国が勢力伸長を行った時期もあって、混然一体とした時代が続く。
スリウィジャヤは衰退を始め、古マタラムは東方へ遷都するなどの変化の果てに、スンダ王国が外部の支配権から離れてかつての支配権を取り戻したことが、ボゴール県クブンコピー(Kebun Kopi)で発見された932年(西暦)の年号を持つクブンコピー第2碑文に記されている。

1030年代にスンダ王国を治めた大王はパクアン(Pakuan)を都としたようで、その時期は現在のボゴールが西ジャワの王都になっていた。しかしその後もガル王が統一スンダ王国の王位に就いたときはガルのカワリ(Kawali)が王都になり、またサウンガラ(Saunggalah)など別の地方が王都になった時期もあって、ボゴールが定常的に王都だったわけでもない。
ガルとスンダの連合王国の態をなしていたスンダ王国も、1482年にジャヤデワタ(Jayadewata)王が即位したことで名実ともの統一王国に復帰した。ガルの王位継承者だったジャヤデワタ王はスンダ王国の王女を妻にした。ガル王がジャヤデワタに王位を譲り、スンダ王がジャヤデワタ王の妃に王位を譲ったことで、ジャヤデワタ王の下に二王国は合体することになる。
このジャヤデワタ王がスンダ地方で伝説の英傑シリワギ(Siliwangi)大王であるとされている。ジャヤデワタ王はパクアンパジャジャラン(Pakuan Pajajaran)を王都に定め、それ以降の諸王はパクアンで治政を行ったことから、ボゴール市はジャヤデワタ王即位の日である1482年6月3日を市の創設記念日と定めて毎年その日を祝っている。

スンダ王国は首都の名前をとってパジャジャラン王国とも呼ばれる。パジャジャラン王国の威勢が陰り始めたのは、ドゥマッ(Demak)やチルボン(Cirebon)に興ったイスラム国家がイスラム化との二人三脚で周辺のヒンドゥブッダ社会に対する変革と支配に向かい始めたのが発端だった。その勢力伸長に脅威を覚えたパジャジャラン宮廷は、マラッカを攻略した反イスラムの急先鋒であるポルトガル人と手を結ぼうとする。
ポルトガル人にとってはジャワ島西部に寄港地を持つことが急務であり、更に将来のジャワ島における足場を固めるためのくさびを打ち込んでおく必要性からも、パジャジャラン王国の置かれている立場を奇貨として、同盟への働きかけを熱心に行った。パジャジャラン王宮上層部がマラッカのポルトガル要塞に招かれたこともあったようだ。
一方のイスラム勢力側は、パジャジャラン王国のその動きを早急に制止するべきものととらえた。ポルトガルの軍事力が後ろ盾につけば、西ジャワのイスラム化は目途が立たなくなる。
ポルトガルがマラッカ王国を滅ぼし、その地を奪ってほどなく、ドゥマッ第二代スルタンのパティ・ウヌス(Pati Unus)がジュパラとパレンバンの王国を誘って1513年に百隻もの大軍船団に5千の兵力を乗せてマラッカ進攻を行ったが、半分以上の船が沈められ、多数の兵員が海のもくずとなり、ポルトガル軍事力の圧倒的強さを見せつけられたことは記憶に生々しい。その後60年もの長期に渡って、中部ジャワ北岸地域の諸王国がパティ・ウヌスの遺志を継いでマラッカ進攻を企てたものの、マラッカのポルトガル人はことごとくそれらを撃退している。

ドゥマッ王国第三代スルタンのトランゴノがチルボン王国と共同でパジャジャラン王国とポルトガル人の提携を粉砕する動きに出た。パジャジャラン王国最大の海港バンテンと、王都パクアンにもっとも近いカラパの港を占領するのがその戦略だ。
総大将をチルボンのスルタンの息子シェッ・マウラナ・ハサヌディン(Syekh Maulana Hasanuddin)、ドゥマッのスルタンの妹を妻にして義理の弟になったファタヒラを戦闘指揮官とするチルボンとドゥマッの連合軍は1526年に海路からバンテンに攻め込み、激戦の末にバンテンを奪取して、その地をチルボン王国の属領に変えた。続いて1527年、ファタヒラの率いるバンテン軍はカラパを奪い、その地をバンテンの属領にした。
時のパジャジャラン国王はスラウィセサで、かれの1521年から1535年までの治世の間に15回戦争が行われている。バンテンに足場を築いたチルボン王国が、チルボンとバンテンのふたつの軍事拠点から絶え間なく内陸部のパジャジャラン王国に向けて軍事行動を行っていたことが、そこから見えてくるにちがいない。

王都パクアンパジャジャランはイスラム勢による軍事攻勢に耐え切れず、ニラクンドラ(Nilakendra)王(在位1551−1567)の時代に放棄されて王家は都を移した。そして王国最期の大王ラガ・ムリヤ(Raga Mulya)のとき、根拠地としていたパンデグラン(Pandeglang)が制圧され、パジャジャランスンダ王国は1579年ついに滅亡するのである。
海港バンテンの攻防戦から半世紀を超える長期に渡って、パジャジャラン王国がイスラム勢力からの軍事攻勢に圧されながらも耐え続けてきたことは、パジャジャランのひとびとの精神的強靭さが並大抵のものでなかったことを示しているように思われる。
パジャジャランスンダ王国のパクアン放棄は、初代スルタンハサヌディンの息子で第二代スルタンとなったマウラナ・ユスフ(Maulana Yusuf)の戦功だ。パクアンが陥落すると、バンテン側はその王都を街として維持することに興味を示さず、破壊しつくして荒野に変えたらしい。港湾都市を根拠地として通商交易を経済ベースに置いているバンテンにとって、内陸部のボゴールを要衝として維持することに何のメリットも感じなかったということなのだろう。

< バイテンゾルフ >
バンテンスルタン国を懐柔したバタヴィアは、バンテンの支配下にあったボゴール高原部への探査活動を開始する。もちろん、そのころボゴールという地名はまだ存在しない。
1687年にピーテル・スキピオ・ファン・オーステンデ(Pieter Scipio Van Oostende)率いる探検隊がボゴール高原の寂れた村に大きな街の遺跡を発見した。その寂れた村はカンプンバル(Kampoeng Baroe)と呼ばれ、位置は現在のボゴール植物園内にあってサボテンの立ち並ぶメキシコ園(Taman Mexico)の一帯であり、パジャジャラン王国時代にサラッ山に登る出発点に当たっていたらしい。
探検隊はまた、あちこちに散在していたパジャジャラン時代の碑文を発見している。碑文は後に解読されて、そこにパクアンという王都があったことが判明する。この探検隊はインド洋岸のプラブハンラトゥまで踏査してからバタヴィアに戻った。
その後も何回か探査や調査が西ジャワの奥地に向けて行われ、コーヒー栽培の可能性やVOCが取り扱える商品の発掘などが行われている。特にアブラハム・ファン・リーベーク(Abraham van Riebeeck)は1703年から1712年まで何度も西ジャワの奥地に足を運んでいる。
しかしオランダ人のボゴール進出はずっと後になる。第27代VOCバタヴィア総督ファン・イムホフ(Gustaaf Willem baron van Imhoff)が1744年に自己使用のためのヴィラの建設を命じたことで、ボゴールをオランダ人の保養地区とする方向での開発がスタートした。当然ながら、周辺地区での農業活動も視野に入れてのものだ。
1750年に完成したファン・イムホフ総督の別荘は、その後代々の総督が使用するようになり、折に触れて改装が加えられた結果ヴィラの雰囲気ははるかに公的な宮殿の形に変化して今日に至っている。現在の大統領専用ボゴール宮殿がそれだ。オランダ人によって開発が進められたこの町を、オランダ人はバイテンゾルフ(Buitenzorg)あるいはサンスシ(Sans Souci)と呼んだ。

ファン・イムホフ総督は一年後、チサルア(Cisarua)・ポンドッグデ(Pondok Gede)・チアウィ(Ciawi)・チオマス(Ciomas)・チジュルッ(Cijeruk)・シンダンバラン(Sindang Barang)・バルブル(Balubur)・ダルマガ(Darmaga)・カンプンバル(Kampoeng Baroe)の9ディストリクトをひとつの行政単位にまとめてRegentschap Kampoeng Baroe Buitenzorgというレヘント行政区にした。その結果、グデ・パンラゴ山系からサラッ山一帯の山岳地帯を含めてバイテンゾルフという地名が定着することになる。
バイテンゾルフが市になったのは1905年官報第206号でのStadsgemeente Buitenzorg編成の決定による。そのときのバイテンゾルフ市域は2ディストリクト7村から成っており、面積22平方キロ、住民人口は3万人だった。初代市長のバッハイス(Bachuis)がその座に就いたのは1920年で7年間奉職したとの説明があり、長期間かけて体制作りが行われた印象を受ける。かなりあちこちで類似の現象が見られることから、オランダ植民地時代の市長就任あるいは役職者の就任が市制その他の行政活動開始という見方を採ると把握を誤るかもしれない。
日本軍政期はバイテンゾルフレシデン区(Karesidenan Buitenzorg)がボゴール州、バイテンゾルフ市がボゴール市となり、バイテンゾルフという公式名称が廃止された。現在のボゴール市は面積21.5平方キロ、人口は100万人を超えている。

< ボゴール植物園 >
ボゴール市を代表するアイコンのひとつに、ボゴール植物園がある。ボゴール植物園は最初、ファン・イムホフ総督の別荘の庭園として作られたものだ。ジャワ島がイギリスに占領されていた時代、英国東インド会社ジャワ副総督となったトーマス・スタンフォード・ラフルズ(Thomas Stamford Raffles)が庭園を植物園にするよう命じ、植物学専門家のケント(William Kent)がロンドンのキューガーデンに似せて整備した。
実はパジャジャラン王国のジャヤデワタ王の時代に、サミダ(samida)と呼ばれる広大な森林が造園されていたことがバトゥトゥリス碑文に記されており、サミダは現在のボゴール植物園の土地をその中に包含していたようだ。そういう地縁はあったとしても、ボゴール植物園はあくまでもヨーロッパ文化の賜物と言うことができるだろう。

ボゴール植物園には妻のオリヴィア・マリアンヌOlivia Mariamneの死を悼んでラフルズが設けた追悼碑がある。ガゼボの中央に立てられた碑文には愛する妻を偲ぶ英語の詩が記されている。
オリヴィアの死は1814年11月26日で、バタヴィアでマラリアに罹患した妻をラフルズはバイテンゾルフに移して療養させたが、その甲斐なく没した。ボゴールの追悼碑はオリヴィアの墓でなく、また植物園内にもオランダ人墓地があるものの、オリヴィアが葬られたのはバタヴィアのオランダ人墓地のひとつだった。現在の碑文博物館がそれで、かの女の墓は今もそこにある。

植物園内にあるオランダ人墓地は小さな規模で、あまり目立たない場所にある。わたしは頻繁にボゴール植物園をピクニックに訪れてその中を歩き回るのを好んだ時期があり、あるとき行方定めずにあまりひとのいない方向へ進んで行くと、竹やぶのはずれに墓地を見出した。来園者もほとんどその存在を知らず、地元民は墓地を畏怖の対象に見なしていることから近寄るひとも少なかったためだろう、ひとの姿を見かけないその場所は実に落ち着いて平穏な雰囲気が漂っていたことを記憶している。
墓碑の中でもっとも古い年号のものは1784年で、オランダ人薬種商コルネリス・ポットマンス(Cornelis Potmans)のものだそうだ。反対に一番新しいのは1994年のオランダ人AJGHコスタマンス博士(Dr. Andre Josef Guillaume Henry Kostermans)のもので、かれは植物学研究のためにインドネシアに帰化してボゴール植物園を生涯研究の場にしたらしい。
他にもジャネット・アントワネット・ピーターマーツ(Jeannette Antoinette Pietermaat)、エリザベート・シャルロット・ヴァンソン(Elisabeth Charlotte Vincent)、ハインリッヒ・クール(Heinrich Kuhl)、ファン・ハッセルト(J.C. Van Hasselt)、ファン・デン・ボッシュ(E.B Van Den Bosch)、アリ・プリンス(Ary Prins)、ド・イーレンス(D.J. de Eerens)などの名前を種々の墓碑に見出すことができる。
ド・イーレンスは第46代VOCバタヴィア総督を1836年から40年まで務めた人物で、1840年にバイテンゾルフで没した。総督在任中にバイテンゾルフで没したのはかれが唯一だったそうだ。アリ・プリンスも第53代と55代の二度総督を務めた人物だ。但し、二度とも臨時総督だったのだが。
別の折にわたしは植物園内のその墓地を探してみたが、見つけることができなかった。今インターネットで情報を探ると、植物園第2ゲートの近くであることがわかる。

第2ゲートは植物園外周の西側のジュアンダ通り中央付近にあり、郵便局の脇が入り口になっている。ジャボデタベッコミュータ電車でやって来ればそのゲートが一番の最寄になる位置にある。
その郵便局は元々エクメーネ教会として建てられたものだ。1845年4月13日にヤン・ヤコブ・ロフセン(Jan Jacob Rochussen)第50代総督出席のもとにオープニング式典が行われ、それ以来クリスチャンとカソリックが交互にミサを行う共用教会として使われた。
しかしまずカソリック側が1896年にバンタマーウエフ(Bantammer Weg、今のJalan Kapten Muslihat )にカテドラル教会(Gereja Katedral) を建ててそこから去り、残ったクリスチャン側も1920年にゼバオツ(Gereja Zebaoth)教会を建ててそこから移った。エクメーネ教会からカテドラル教会はほんの150メートル、ゼバオツ教会にいたっては100メートルしか離れていない。
ゼバオツ教会の縁起は、最初ファン・リンバーフ・スティルム(J.P. Graaf Van Limburg Stirum)第66代総督がボゴール宮殿表門に荘厳な教会を建てることを呼びかけたことに始まる。完成した教会は最初ウィルヘルミナ女王教会と名付けられ、ミサは植民地政庁高官や西洋人の貴顕淑女だけを対象にして、オランダ語でのみ行われた。建物の上に風見鶏が設けられたため、ゼバオツの発音に苦しんだプリブミたちはニワトリ教会(Gereja Ayam)と呼ぶようになり、今日に至っている。
使われなくなったエクメーネ教会はバイテンゾルフ市庁が郵便局として使うことを決め、今現在もインドネシア共和国が郵便局として使用している。
ジュアンダ通りが南に下りきると植物園の南縁に沿って東に向きを変える。そしてスルヤクンチャナ(Surya Kencana)通りが南から突き当たってくる三叉路でジュアンダ通りは終わり、その先はオティスタ(Otista)通りと名を変えてバタヴィアとバイテンゾルフを結ぶ街道に向かって直進して行くのである。
ボゴール植物園のメインゲートは、そのスルヤクンチャナ通りが突き当たってくるところだ。そしてメインゲートを入ってすぐ左側の一帯が、研究施設の集まっている場所になっている。

ジュアンダ通りが東に向きを変えてからわずかな距離の場所に、われわれは小さな博物館を植物園敷地側に見出すことになる。これがボゴール動物学博物館(Museum Zoologi Bogor)だ。植物園敷地内南西角のエリアは研究施設が集まっている場所であり、この博物館は最初からボゴール植物園の付属研究施設として設けられたものだった。1894年に農業動物学研究所(Landbouw Zoologisch Laboratorium)がオランダ人植物学者コニングスバーハー(J. C. Koningsberger)の提唱で設けられ、1906年に動物学博物館兼作業場と名を変えた。1910年になって動物学博物館兼研究所に昇格している。
植物園の周囲には、自然科学系の博物館が他にもある。ジュアンダ通り22−24番地のインドネシア自然歴史博物館(Museum Nasional Sejarah Alam Indonesia)がそのひとつ。元々そこにあったのは民族植物学博物館(Museum Etnobotani)、別名ボゴール植物標本館(Herbarium Bogoriense)で、2016年8月31日に自然歴史博物館に衣替えした。民族植物学博物館がオープンしたのは1982年5月18日だったが、1962年からLIPI(インドネシア科学院)長官がその構想を打ち出していたから、たいへんな時間がかけられたものだ。
もうひとつ、ジュアンダ通り98番地にあるのが土壌博物館(Museum Tanah)。場所は動物学博物館の対面にある。この博物館は1905年にオランダ植民地政庁が土壌研究所(Laboratorium Voor Agrogeologie en Grond Onderzoek)として建てたもので、インドネシア独立後は共和国政府が接収していたが、1974年に農業調査研究庁管下の土壌研究院となり、1988年9月29日に農業省が土壌博物館にした。全国の土がここに集められているそうだ。

ボゴール宮殿の庭園からボゴール植物園に移行する発端は、イギリス占領期を終えて東インドがオランダに返還された後、最初のオランダ植民地政庁総督に任命されたファン・デル・カペレン(G.A.G.Ph. van der Capellen)の時代に戻る。東インド総督はVOC時代から通算で数える習慣になっているため、それに従うならファン・デル・カペレンは第42代総督に当たる。
生物学者アブナー(Abner)が有用植物農園・研究者育成・他の植物園に分配するための植物コレクションと開発のためのセンターとしての場所を設けるアイデアをファン・デル・カペレン総督に提案した。
プロイセン出身でオランダに移住したカスパー・ギオーグ・カール・レインワルツ(Caspar Georg Karl Reinwardt)教授が蘭領東インド植民地政庁の農業芸術科学局長の職にあり、そのアイデアに沿ってバイテンゾルフ宮殿の庭園をその目的に使うようになる。
そして1817年5月18日、ファン・デル・カペレン総督はその庭園を公式に’s Lands Plantentuin te Buitenzorgとして開所した。バイテンゾルフ・ナショナルボタニカルガーデンだ。
レインワルツ教授は植物園としての整備を、最初ラフルズに命じられてそれを手掛けたイギリス人ウイリアム・ケントと、ロンドンのキューガーデンのキュレータだったジェームズ・フーパーの助力を得て、実行した。
レインワルツ教授は1822年までバイテンゾルフ植物園の所長を務め、その間にハーバリウムコレクションの収集を行っている。
そして所長が何代も交代したあとの1868年5月30日にやっと、この植物園がバイテンゾルフ宮殿の監督下からひとつの研究機関として独立した。

< バイテンゾルフ建設 >
さて、1750年に別荘が完成してファン・イムホフ総督がそこを使い始めると、侍従や執事から下働きの者たち、そして警備や連絡担当の者たちに至るまでが一団となって付き従ったことは疑いがない。
別荘内の片隅に同居できるだけの資格や機能を持たないひとびとが、別荘の周辺に集落を作ったことは想像に余りある。ましてやその後、歴代総督がその別荘を利用し、ついにはバタヴィアを去ってバイテンゾルフで執務する総督が出現するに及んでは、バタヴィアの諸官庁がバイテンゾルフに出先を置かなければどうしようもなくなる状況に立ち至るわけだ。総督の職務や立場に関わる諸機能がバイテンゾルフ宮殿の北側に集まったのは、当然のことだったにちがいない。南側は広大な植物園なのだから。

こうして自然発生的に総督宮殿の北側が政府機関やヨーロッパ人エリートの居住区になっていく。一方、華人は中心部からあまり遠くない場所に集まって商業地区を形成し、プリブミはそれらの間隙を埋めながら、更に農業地区に拡散するといったありさまがオランダ人が開発したボゴールの町に展開されて行った。
オランダ人を主体にするヨーロッパ人地区は、現在のジュアンダ通り〜スディルマン将軍(Jend. Sudirman)通り〜Aヤニ(Yani)通りやもっと北側のチワリギン(Ciwaringin)地区から東方のタマンクンチャナ(Taman Kencana)に至るエリア、また植物園の周囲を包むエリアなどで、教会・病院・学校などの社会施設も充実していた。
もちろんヨーロッパ人の間でも官職や経済力の格差が居住エリアに反映され、上級者は大通りに面した豪邸、中下級者はもっと狭い通りを奥に入った中小規模の家屋というような生活様式が顔を覗かせていた。
華人は植物園の南方から植物園メインゲートに突き当たってくる今のスルヤクンチャナ通り界隈を活動場所としてきたが、これはバイテンゾルフ市庁が行った方針によるものでもある。1845年7月6日に出されたバイテンゾルフ市長決定書には、ハンデルストラート(Handelstraat)を華人の居住区とするという確定方針が記されていた。そのハンデルストラートが共和国独立後プルニアガアン(Perniagaan)通りに改名され、もっと後になって現在のスルヤクンチャナ通りに名を変えている。
多分1845年7月の決定書が出るはるか以前から、華人はそこで商業活動を行っていたにちがいない。そこをバタヴィアのようなチャイナタウンにしようとして、オランダ人はバタヴィアやバンテン、更には遠くジャワの華人社会に働きかけた。バイテンゾルフのあちこちに出現した華人商業スポット(職住一体地区)を一カ所にまとめることもその方針に含められていたにちがいない。
華人の成功者たちは市の中心部からより離れたスルヤクンチャナ通り南部地区にヨーロッパ風の邸宅を建てて住んだ。

1834年10月10日に起こったバイテンゾルフの南西15キロに位置するサラッ(Salak)山の噴火による大地震で、バイテンゾルフ宮殿は大きな被害を被った。宮殿の改修工事が行われている間、不自由になった施設を補完するために宮殿の左向かいに建物が作られた。この建物が1856年、ビンネンホフホテル(Binnenhof Hotel)として公式に営業を開始する。現在のホテルサラッ・ザヘリテージ(Hotel Salak The Heritage)がそれだ。
ところが1913年、資金難に陥ったビンネンホフホテルは身売りしてアメリカンホテルと名を変えた。だがアメリカンホテルの大株主だったディベッツ(E.A . Dibbets)は1922年に会社を倒産させてホテルの経営を一手に握る。屋号をディベッツホテルと変えての再出発だ。
だがそれも長続きしない。ホテル名は1932年にベルビューディベッツ(Bellevue-Dibbets)ホテルと改名された。実は19世紀にベルビューホテルというのがバイテンゾルフの別の場所にあったのである。

どうやらその老舗のベルビューホテルがバイテンゾルフの西洋人向け高級ホテルとして最初のものだったらしい。少なくともビンネンホフより古くからあり、イギリス人生物学地理学者アルフレッド・ラッセル・ウオーレス(Alfred Russel Walles)が1830年にバイテンゾルフ植物園を訪れたとき、ベルビューホテルに投宿したことが書き残されてある。
そのベルビューホテルがあったのは、現在ボゴール植物園南西角の向かいに建っているボゴールトレードモール(Bogor Trade Mall)の場所だ。ベルビューホテルは1900年代に入って店を閉めたため、ディベッツは誰に断りもなしにその名前を使うことができたようだ。

19世紀後半にバイテンゾルフには西洋人向け高級ホテルがもう一軒あった。デュシュマンドフェール(Du Chemin De Fer)ホテルがそれだ。フランス語の鉄道という屋号が示す通り、このホテルはバイテンゾルフ鉄道駅のすぐ近くを立地にした。鉄道駅のそばに設けられたウィルヘルミナパーク(Wilhelmina Park)の道路をはさんで向かい側だ。
そのウィルヘルミナパークはインドネシア共和国独立後タマントピ(Taman Topi)と名を変えたあと、現在はアデ・イルマ・スリヤニ公園と名する遊園地になっている。そしてデュシュマンドフェールホテルも、古い建物のまま現在はボゴール市警本部として使われている。この旧高級ホテルに限っては、いくら無料だと言われてもお泊りを避けるほうが無難だろう。
ベルビューディベッツホテルは1942年の日本軍による占領で接収され、日本帝国軍憲兵隊がバイテンゾルフ地区本部として使った。1945年暮れに復帰してきた東インド植民地文民政府が再び自国資産として握ったものの、インドネシア共和国主権承認に伴ってインドネシア政府に移管され、インドネシア側は1950年にそこをホテルサラッとして営業を再開させた。その後何度か大改装が行われ、最新の大改装は2000年で、ホテルサラッ・ザヘリテージとして現在に至っている。

ホテルサラッの裏のエリアはグドンサワ(Gedong Sawah)という地名になっている。これは昔水田地区だったところにオランダ人がお屋敷(巨大な建物)を建てたことに由来しているようだ。
ホテルサラッの南隣は現在ボゴール市庁舎として?使われているが、その建物は1868年にクラブハウス(De Societeit)として建てられた。1926年ごろには、当時の?植民地ライフスタイルのヨーロッパ化がもたらした影響だろうか、お仕着せの社交場は人気が落ちたらしく、既にオランダ人がバイテンゾルフ市庁舎として使い始めている。
1949年にこの建物を移管されたインドネシア共和国は、ボゴール・チアンジュル・スカブミを管区とする第061軍管区スルヤクンチャナ旅団司令部としてそこを使い、1971年にボゴール市庁舎となって今日に至っている。

一方、ホテルサラッの北側道路の向こう側にあるのが、1856年から1858年にかけて完成したと見られている古い建物だ。平屋の多い当時の建物の中で二階建ての豪壮な威容を誇っているこの建物は最初、バイテンゾルフ副レシデン公邸として建てられた。一階が執務場、二階が寝室になっている。寝室が多数設けられたのは、それほど多くの客人を宿泊させる必要性があったということなのだろう。二階の寝室のベランダからはバイテンゾルフ宮殿の表庭が眺められ、宿泊者は滴るような緑を目にしながら茶やコーヒーを味わっていたにちがいない。
総督がバタヴィアのレイスウエイクにある官邸を離れてバイテンゾルフ宮殿に執務場所を移すようになった時、離れていては仕事にならない総督官房(Algemene Secretarie)もバイテンゾルフについてきた。一時期、総督官房がこの建物を使ったこともあるそうだ。現在ここは西ジャワ州庁の役所のひとつとして使われている。

その更に東側は現在、カソリック系私立教育機関レジナパチス(Regina Pacis)が運営する総合学院になっている。この学院は幼稚園から小学校・中学校・高校までの全レベルを擁して、宗教を基盤に置いた一貫教育を実施している。
学院のオープンは1948年で、最初は幼稚園と小中学校でスタートし、高校は1955年に開設された。中高は女子生徒だけを入学させていたが、中学は1957年、高校は1962年から男女共学にしたそうだ。
バタヴィアからバイテンゾルフに向かってやってくる道路がバイテンゾルフ宮殿の真正面に達すると、道路は左右に流れて宮殿と植物園を包む環状道路になる。宮殿に入って行く者は広大な庭園の中の道を更に5百メートル近く進んでやっと宮殿主館の玄関にたどり着くという仕儀になっている。
そのバタヴィアとバイテンゾルフを結ぶ街道の南端西側にあるレジナパチス学院敷地内には百年を越える歴史を持つ礼拝堂(kapel)がある。ジュアンダ通り沿いで北から西にかけての行政地区の一部分として、そこが19世紀後半に豪壮な建物が立ち並んだ中の一コマであったことは容易に想像がつく。
学院が建設される前の日本軍政期にはその場所が俘虜収容所に使われていたそうだから、建物があり、また地区一帯が明瞭に外部と仕切られる形になっていたことは間違いないだろう。

< ヴィッテパアル >
そのバイテンゾルフ宮殿の真正面に北から下ってくる道路はフローテウエフ(Groote weg)と名付けられ、宮殿の西半分を迂回して植物園の裏手中央地点まで伸ばされた。現在のスディルマン将軍通り(Jl Jend. Sudirman)からジュアンダ通りの全域をカバーしている。
そのスディルマン将軍通りの側は全長1.5キロの完璧な直線道路で、現在インドネシア語でピラルプティ(Pilar Putih)と呼ばれているヴィッテパアル(Wittepaal)の設けられた場所で枝分かれし、直進する方はプムダ通り(Jl Pemuda)となったあとさまざまに名を変えて、一路30キロ、シャステレインが18世紀初期に開発したデポッに向かって北上する。
分岐して東に向きを変えた方の道路は現在のAヤニ通りで、2キロほど北東に伸びた後、メステルコルネリスからまっすぐ南下してくる道路に合流する。このAヤニ通りは最初、バタヴィア通り(Bataviasche Weg)と名付けられ、共和国独立後ジャカルタ通り(Jl Jakarta)に改名されたあと、現在のAヤニ通りに変わっている。

ヴィッテパアルというのは白く塗られた巨大なオベリスクを指している。バイテンゾルフ市域の境界線上に位置し、バイテンゾルフ宮殿のテラスから眺めた風景の中に目を止めるためのポイントとしてド・イーレンス総督が1839年に建てさせたという話になっている。
プムダ通りとAヤニ通りの両脇には街路樹として植えられたクナリの巨木が列をなしている。高さ20メートルにも達するほどのそれらの街路樹は1830年ごろに当時のバイテンゾルフ・ナショナルボタニカルガーデン所長だったテイスマン(Johannes Elias Teijsmann)がアンボンから取り寄せた木を植えさせたものだ。
バタヴィア通りの両脇はゴム園が作られ、バタヴィア〜バイテンゾルフ間の往来が盛んになるにつれて、厩舎や馬具職人の作業所なども増えて行き、馬の放牧場や馬場も設けられた。
オランダ人が邸宅を構えるようになって道路沿いの一部が住宅エリアになったものの、ゴム園の多くは共和国独立後まで維持され、クナリの街路樹はゴム園と道路の境界を見分けるための指標になった。1935年にグッドイヤー社がタイヤ工場をプムダ通り側に開設したことで、この一帯で採集されるゴム原液は一手にそこへ流れて行くようになる。
しかし共和国独立後、ランドリフォームの名の下にゴム園は接収されて宅地化が進められ、この通りは雑然とした住宅地区へと変貌して行った。コロニアル様式の家屋が維持されているところもあるが、中には建替えるために壊されたものや、建物は維持して飲食やその他のサービス業の営業場所に変わったものなどさまざまだ。少なくとも、この通りを訪れたひとは古い歴史の香りを嗅ぐことができるにちがいない。

< ボゴールのパリ >
ボゴールにパリがある。ボゴール鉄道駅から西のチバロッ(Cibalok)川を越え、次のチドゥピッ(Cidepit)川の手前を北向きに並行するプリンティスクムルデカアン(Perintis Kemerdekaan)通りを北上していくと、クボンコピ(Kebon Kopi)地区の向こう側にそのパリがある。
この地区は中をスンボジャ(Semboja)通りとクナガ(Kenanga)通り、およびチュンパカ(Cempaka)通りがT字型に分割している住宅地区で、1918年にバイテンゾルフ市庁がヨーロッパ人職員のための住宅地として建設したものだ。そこには余裕に満ちた空間に包まれているインディ様式の邸宅が、単棟と併棟を合計して46軒建っていた。

地区の中には住民用の長さ50メートル幅10メートル深さ2メートルの水泳プールも作られ、共和国になって以降にこのプールで育った水泳選手が出たこともあるらしい。プールの水源は近くの湧水が使われた。今現在、このプールは既に廃墟の態をなしている。
最初、この住宅地はすべてヨーロッパ人が住んでいたが、日本軍ジャワ島進攻が始まると住民は逃げ出し、替わってバイテンゾルフ防衛部隊に加わったグルカ兵がわずかな期間、使用したらしい。日本軍がバイテンゾルフを占領すると、このパリ地区は婦女子用俘虜収容所にされた。

パリ地区(De Staate van Parijs)と命名されたそのボゴールのパリは、高名な建築家で都市計画家でもあるトーマス・カーステン(Thomas Karsten)の設計になる。オランダ生まれのかれは第一次大戦の混乱を避けて東インド植民地に移り、スマラン・バイテンゾルフ・マディウン・マラン・バタヴィア・マグラン・バンドン・チルボン・ヨグヤカルタ・スラカルタ・プルウォクルト・パダン・メダン・バンジャルマシンで建物と街のデザインに腕をふるった。
かれは従来東インドで行われていた「ヨーロッパを植民地に植え付ける」というコンセプトを批判し、生活環境と人間工学の面から人間が採るべき姿を演じる舞台としての街設計をその視点に持ち込んだ。かれはジャワ人女性と結婚して家庭を持ち、ジャワを自分の生涯の地とすることを定めていたようだ。1942年の日本軍進攻で純血オランダ人のかれはチマヒの俘虜収容所に強制収容され、1945年にそこで没した。

バイテンゾルフ市がヨーロッパ人行政官吏のために住宅地を設けたように、植物園が研究者のために、あるいは大型農園が幹部従業員のために住宅地を設けることは行われていた。タマンクンチャナも住宅地区のひとつだ。
独立後スカルノ大統領はボゴールに住んで、ボゴール市の開発計画を練った時期がある。バラナンシアン地区に外交官住宅地区を設けるアイデアは既に作られていた。しかしかれが失脚すると、開発計画は闇の中に消えた。1980年代にジャゴラウィ自動車道が開通してジャカルタ〜ボゴール間の交通の便が高まると、ジャカルタ住民の郊外拡散がボゴールに向けられた。それを受けてバラナンシアンに高級住宅地区フィラドゥタ(Vila Duta)の開発が進められ、大いに売れた。購入者は都民が多かったようだ。

< ボゴール駅 >
1872年に東インド植民地の国有鉄道会社(Staatsspoorwagen)がバタヴィアからバイテンゾルフまで鉄道線路を延長させて73年から運行を開始した。鉄道が動くようになってターミナルでのひとの往来が活発になると、バイテンゾルフの中心を成している宮殿と植物園から鉄道駅を越えて西や北西に向かう開発が進展するようになる。
1881年に駅舎が完成すると、鉄道線路は更に南へと伸びて行った。スカブミ〜チアンジュルを経てバンドンに向かう建設工事がスタートする。
1927年にはバタヴィア内の鉄道網電化が完了し、続いてバイテンゾルフに向けての電化工事が続けられ、バイテンゾルフに電車がやってきたのは1930年だった。

バイテンゾルフ駅舎はジュアンダ通りからまっすぐ西に4百メートルの位置にあり、駅舎の表にはバンタマーウエフに沿ってウィルヘルミナパークが作られた。この二階建ての駅舎はたいへん頑丈な作りになっていて、建設当初の状態がほとんどそのまま維持されている。
ただし二階は従業員が怖がるため、使われていない。駅長の話によれば、従業員は二階が不気味で怖いために執務するのを嫌がる者が多かったことから、二階は使われなくなってしまったそうだ。駅長はかつて、二階で執務中に部下に憑依が起こったことを何度か体験しているという話だった。

ボゴールのパリは鉄道開通から45年後に作られた。1キロも離れていない場所がそれほど長期にわたって自然のまま残されていたという時代だ。今にして思えば、それが古き良き時代のありさまだったということなのだろう。そこからはサラッ山の威容が存分に目を楽しませてくれ、また昔は幅広く豊かな水量を誇っていたチドゥピッ川の水音が終日、通奏低音のように住民の耳の奥で鳴っていたそうだ。
既に何世代にもわたって代替わりしてきたパリ地区で、住民が改装や建替えを行ったところも少なくないものの、インディ様式建築の面影が依然として濃いエリアもある。幾分のエキゾチシズムを汲むことはまだまだできるに違いない。

< 英雄墓地 >
ボゴールにも英雄墓地がある。植物園から南におよそ1キロ半の距離で、公式名称をTaman Makam Pahlawan Dredetと言い、ドレデッは地名である。墓地の北側の通りがドレデッ通り(Jl Dreded)だ。
インドネシア共和国の国体を護持するために生命を投げうった英雄たちがここに眠っている。マジョリティは1945〜1949年の対オランダ闘争期の時代に没したひとびとだが、その後起こったDI/TII反乱で殉職したひとびともいる。

きわめて特徴的なのはさまざまな種族・人種が混在していることで、インドネシア共和国の生成が名実ともにビンネカトゥンガルイカであったことを象徴するかのようだ。そしてその多様なひとびとがインドネシア共和国の維持のために身命を賭したのである。
地元のスンダ人は言うに及ばず、バンテン人、ジャワ人、スマトラ人、東部インドネシア地方出身者、華人、インド(Indo)と呼ばれる欧亜混血者、そして日本人までもが混じっている。
1948年8月11日にボゴールで没したモハマッド・コシム・タナカ曹長、1967年に没したイブラヒム・マルヤマ中佐、ボゴールで1983年に没したトコヨダ大尉はその前スマトラで軍務に就いていたらしい。対オランダ闘争に身を投じてここに葬られている日本人はその三人だそうだ。華人はふたりで、イギリス系欧亜混血者はひとり。
イギリス系欧亜混血者ユヌス・アッマッ・マッター(Yunus Ahmad Mutter)は珍しい例のひとつだろう。かれは1928年にヨグヤカルタで生まれ、1971年に英国のニューカッスルで没した。そして愛するインドネシアに骨を埋めることを望んだのである。
かれは独立闘争期にヨグヤカルタでインドネシア共和国軍諜報部門士官として活躍した。その墓碑には、憲兵大尉・情報収集局副局長と記されている。
ふたりの華人はリー・チンイエーとニオ・ハンスイで、ふたりともDI/TII反乱の鎮圧軍一員として没している。リーはシリワギ師団軍人で1952年7月にチアンジュルで戦死。ニオは1953年11月に警察高官としてチビノンで死亡した。そのときのチビノンでの戦闘では、警察機動旅団の指揮官級のひとびとが多数戦死しており、かれらの墓碑もそこに並んでいる。
ボゴールの通り名にその名を残した英雄もここにいる。1945年12月25日に没したトゥバグス・ムスリハッ(Tubagus Muslihat)大尉、そして1947年にスカブミで戦没したトレ・イスカンダル(Tole Iskandar)少尉。

< フローテザイダーウエフ >
1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路は、高原の町バイテンゾルフの開発のために南へと伸ばされて行った。オランダ人はその街道をドフローテザイダーウエフ(De Groote Zuiderweg)、つまり南往き街道と呼んだ。
この街道はメステルのすぐ南側にあるカンプンムラユ(Kampung Melayu)から更に南のチャワン(Cawang)、そしてチリリタン(Cililitan)を抜けてクラマッジャティ(Kramat Jati)に入り、グドン(Gedong)〜パサルボ(Pasar Rebo)〜チブブル(Cibubur)〜チマンギス(Cimanggis)〜チュルッ(Curug)〜チビノン(Cibinong)〜クドゥンハラン(Kedunghalang)を経てボゴール市へと、まっすぐに南下している。
今の道路名で言うなら、ジャティヌガラの南縁がカンプンムラユ(Kampung Melayu)地区で、そこから道路はオティスタ(Otista)通りとなってチャワンに達し、チャワンからチリリタンまではデウィサルティカ(Dewi Sartika)通りで、チリリタンを出てからボゴール街道(Jl Raya Bogor)という名でボゴールに至るのである。

現在のボゴール市の中心部にボゴール宮殿とボゴール植物園があり、そのボゴール街道が市の中心部を貫通して更に南へと通り抜けている事実は、ボゴールという町がどのようにして作られてきたのかという由来と、この街道がいかにそのプロセスに重要な役割を果たしてきたかということについて、赤裸々に物語る歴史の生き証人であるように思われてしかたがない。
ボゴール市中心部をなすボゴール宮殿と植物園にジャカルタから下ってくるその街道は植物園の東縁を通る。一方、ボゴール宮殿の正面に北から下ってくる通りは別にあり、その街道を北上して行くとデポッの町に達する。デポッからパサルミングを経て更にスポモ通り〜サハルジョ通りを越え、マンガライからメンテン地区東南角につながっていくのだが、この街道のクオリティは区間ごとにバラバラで、メステルから伸びて来るボゴール街道に比べて低クオリティの区間もたくさんあり、VOCが第一級の街道として一貫的に造成した道路には見えない。

ファン・イムホフ総督のバイテンゾルフ別荘を目指してメステルから下ってくる街道が最初、別荘正面玄関まで伸びて来るものであった可能性は否定できない。後の時代になって、更に南に向けて街道を伸ばして行くに際し、バイテンゾルフ宮殿の邪魔になるのを避けて、途中で枝分かれさせたという可能性がその帰結だ。枝分かれさせた地点はバタヴィア通りの端だろう。
逆の可能性はもちろんあるのだが、そうなると最初からチアウィ村を目指して立派な街道を作り、植物園の南側から迂回してバイテンゾルフ別荘に向かうようなルートにするのは考えにくいし、同じようにバタヴィア通りを街道から分岐させて総督別荘の正面まで引いて行くのも本末転倒の感がある。

1808年にダンデルス総督が作らせた大郵便道路 (De Grote Postweg) もメステルからバイテンゾルフを経由してチアウィに向かうが、郵便物受け渡しの関係からだろう、途中のルートは異なっている。言うまでもなく、郵便という言葉が付けられてあるものの、公的文書や郵便物運送とは別に軍隊移動の迅速化が建設目的の中に含められていたのは疑いようがない。
大郵便道路に関して言うなら、チビノンからバイテンゾルフを通ってチアウィに至るルートはバイテンゾルフ別荘に向けて作られた昔の街道にダブっている印象がある。つまりダンデルスはチアウィからチアンジュルに向けてグデパンラゴ山系の峰を突っ切るルートを作らせたとき、バタヴィア通りの端で街道を分岐させ、植物園東縁をかすめてチアウィに向かう道路を作ったのではないかというのがこの推測だ。

メステルから伸びて来た街道は植物園の東側で植物園とボゴール農大バラナンシアン(Baranangsiang)キャンパスにはさまれたパジャジャラン通りとして市内を通過した後、ラヤタジュル(Raya Tajur)通りに名を変えてチアウィ(Ciawi)の町に向かう。チアウィの町からはスカブミ街道(Jl Raya Sukabumi)として、グデパンラゴ山系を迂回しながらスカブミの町を目指すのである。
記録によれば、バイテンゾルフからスカブミに至る街道が作られたのは1813年のことで、それはつまりトーマス・スタンフォード・ラフルズ統治下の時代だった。チアウィからグデ・パンラゴ(Gede Pangrango)山系の西を南下してチャリギン(Caringin)〜チゴンボン(Cigombong)を越え、山麓を下りきると東に向きを変えて山系南麓にあるスカブミ(Sukabumi)の町を目指すのである。そして街道は更に山系の東側にあるチアンジュル(Cianjur)へと伸びて行った。
チアウィ〜チアンジュル間は山系を迂回すれば1百キロに上るが、プンチャッを突っ切れば50キロ強で着く。ダンデルスによる大郵便道路建設はジャワ島に画期的な交通のスピードアップをもたらした。この時期バタヴィア〜バイテンゾルフは5〜6時間の距離となり、バイテンゾルフ〜プンチャッは4時間半で踏破できるようになる。
街道には中継所が置かれて、馬車や騎馬で通過するひとびとに便宜を提供した。距離の指標としてパアル(paal)と呼ばれる杭が打たれ、杭と杭の間が1パアルで、平地では6パアル、山地では5パアルおきが中継所の標準距離とされた。1パアルは1.5キロだ。
街道沿いは最初、人気のない寂しい場所が多かったようだが、徐々に住民が増えるようになり、バタヴィアのVOC高官たちがランドハイス(英語でcountry house)を建てて休日に家族連れで保養に行くようになっていく。持てる者たちのそのような活動が、サービスを提供して金を得ようとする下層民を招き寄せるのは明白で、こうして街道脇に集落が作られるようになっていった。
昔の南往き街道の様子は拙作「プンチャッ越えの道」
http://indojoho.ciao.jp/archives/library021.html
にも登場するので、併せてご参照いただけるにちがいない。

< カンプンバリ >
現在メステルという地名は東ジャカルタ市ジャティヌガラ郡の町名のひとつであるバリメステル(Bali Mester)という名前に残されている。バリという言葉が付くのは、メステルにカンプンバリがあったためだ。カンプンというのは同一種族同一文化のひとびとが集落を作って住んだ場所を意味している。それは自然発生的と言うより、VOCが方針として行ったものだった。
カンプンバリはバタヴィアに移り住んだバリ人の集落だ。バリ人は奴隷としてVOCに売られたケースが大半だったらしい。1681年の人口調査でバタヴィア住民30,740人中の奴隷は15,785人おり、また1683年の調査でバリ人はバタヴィアに14,259人いたが、自由人は981人しかおらず、他はすべて奴隷だった。
1682〜83年にかけてのバンテン王国スルタン・アグン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)を破滅させるための戦争に関連してVOC軍の中で目覚ましい活躍を見せたウントゥン・スロパティ(Untung Suropati)中尉率いるバリ人部隊は、隊長以下全員が奴隷身分だった。この部隊の反抗と脱走は二重の意味でVOCの体面をずたずたにし、かれらを滅ぼさなければ現行制度の維持に示しがつかなくなってしまう状況に陥るのである。

当時のバリはたくさんの王国に分裂して戦争し合っていた。兵士が捕虜になれば、奴隷にされた。領民の生活も決して楽なものでなく、借金が返済できなければ奴隷にされて売り飛ばされた。「身体で払ってもらおう。」が常識だった時代だ。おまけに王も自国の領民の生殺与奪の権を握り、簡単に領民を奴隷にして売り飛ばした。金が必要になったブレレン王は1708年に750人の奴隷を船に乗せてバタヴィアのVOCに売りに来た。労働力や兵士を必要としていたVOCはそれを二つ返事で受け入れていた。
そのため、バリ人は2世紀に渡ってバタヴィア住民の中の最多数種族となっていたが、バタヴィアで諸種族と混交した結果、ブタウィ人ブタウィ文化の一要素となって溶け込んで行ったようだ。ブタウィ文化とバリ文化の関連性は意外に大きい。バリ人がよく使う動詞接尾辞の-inがブタウィ語に取り込まれたのもその一例だろう。今や-inはバハサガウルとなってヌサンタラで全国展開されている。

ラフルズ総督の時代、バリ人の若い女奴隷はひとり50〜100米ドル相当の値が付いていた。男奴隷が10〜30米ドル相当だったのとは大きな違いだ。最初からバリ人女奴隷はオランダ人や華人に人気が高かった。女としての見かけが良いことに加えて、家政の運営能力が高かったのが原因だ。かの女たちの中に、VOCバタヴィア政庁の高官職に就いた欧亜混血児の母親になった者も少なくなかった。つまり、オランダ人高官のニャイにされたわけだ。だが子供は父親に取り上げられ、オランダ人としての教育としつけが与えられた。その子にとって生母がいったい何だったのかは想像に余りあるに違いない。
ファン・デル・パッラ(Petrus Albertus Van der Parra)第29代総督の時代(1761〜1775)バタヴィアには年間4千人ほどの奴隷が流れ込んできた。奴隷人口増加率が史上最大になったのがその時期だ。言うまでもなく奴隷需要が膨れ上がったのがその原因であり、奴隷をたくさん抱えることがステータスシンボルとなるという価値観がバタヴィアのすみずみまで包み込んだ時代がそれだったのである。もちろん奴隷買付人がやってきて購入品を持ち帰ることも頻繁に行われていたから、全員がバタヴィアに住み着いたわけでもないのだが。
VOCバタヴィア政庁参事会メンバーの娘で高官の妻になったコルネリア・ヨハナ・ド・ベヴェレ(Cornelia Johana de Bevere)はオランダの親類に書き送った手紙の中に、自分は59人の奴隷にかしづかれていると書いている。ご主人様が外出するときの傘持ちや扇であおぐ役、料理係、庭師役、夜の灯り役、裁縫役、靴作り役など、ひとりひとりが別々の役目を担当した。
別の記録では、1775年に第30代総督になったファン・リームスデイク(Jeremias Van Riemsdijk)は自邸に奴隷を2百人擁していた。男奴隷に女奴隷、そして奴隷たちが産んだ子供も当然奴隷であり、その人数が2百人だったということをそれは意味している。
バタヴィアの高官と家族は大勢の奴隷に囲まれて生活した。奴隷は自分の所有物であり、現代人なら自分で行うことを、可能な限り奴隷にやらせた。奴隷をたくさん持てば、自分では何もせず、自分の身の回りのことを奴隷にさせることが可能だ。自分で何もしない人間ほど偉いという価値観がここにも顔を出す。

特にご主人様が男性の場合、女奴隷はセックスの相手という役目も与えられた。華人や軍人にその傾向が高かったようだ。セックス相手が気に入らなくなれば、また奴隷市に売りに出される。自分がその女奴隷に産ませた子供までが一緒に市に立たされることも稀でなかった。カリブサール東岸の建物のひとつで、奴隷市が開かれたらしい。奴隷市では競売が行われる。高く落札されれば旧ご主人様が儲かるという寸法だ。美人で若い女奴隷に1千米ドル相当の値がついたこともあったらしい。
ご主人様の中には、女奴隷に売春させる者もあった。売春で稼いだ金はご主人様が全部取り上げた。奴隷に暴力を振るおうが、その結果死亡しようが、はたまたレープしようが、ご主人様が自分の所有物を壊したりもてあそぶだけのことだから、罪を問われることはない。それはバタヴィア政庁が公認していることでもあった。
そんな境遇に我慢できなくなった奴隷たちが脱走してブカシやカラワンに隠れ住むことも頻発した。逃亡奴隷はまともな仕事に就くことができないため、犯罪行為で生きて行く道しか残されていない。
脱走ならまだしも、始末に負えないのは奴隷の反抗だった。反抗的な奴隷への仕置きには暴力が使われた。暴力を振るいたくないご主人様は法執行人(balyaw)を雇って行わせた。それでも効き目がない場合、ご主人様は裁判所に許可を求めて、反抗者に鉄鎖を結び付けたり、独房に閉じ込めたりした。反抗者が恭順するまで、何年間もそれが続けられたようなことも起こっている。

最初クーンがジャヤカルタの町を奪ってVOCの根拠地にしたとき、運河が縦横に走るオランダ風の街作りが始まった。その実行には巨大な労働力が必要だった。マルクのバンダ島占有はスパイス獲得に大きく貢献し、加えてオランダ人に反抗するバンダの男たちを奴隷にしてバタヴィアに移し、街の建設に貢献させた。
ヌサンタラのあちこちでVOCが経済利権の奪取のために地元支配者と戦争し、敗れた地元側の捕虜は奴隷としてバタヴィアに送り込まれた。
いや、ヌサンタラの外でさえも、1641年にポルトガルがアジア経営の根拠地にしていたマラッカを陥落させて、ポルトガル系メスティーソを奴隷にし、バタヴィアに連れて来た。インドのマラバールやコロマンデルなどのポルトガル基地や、スリランカなどでも同じことが起こった。
ポルトガル系メスティーソのカンプンは北ジャカルタ市チリンチンのトゥグ(Tugu)村だ。そんなかれらが伝え残してきた音楽芸能クロンチョントゥグ(Keroncong Tugu)は南国風の軽やかなリズムの陰に、そこはかとない憂愁を漂わせている。
連れて来られた当初は奴隷身分だったメスティーソに、1661年、カソリックからプロテスタントに改宗するなら奴隷身分から解放されるという政策が施された。解放奴隷はマーダイカー(mardijker)と呼ばれ、インドネシア語ムルデカ(merdeka)の語源になったとされている。奴隷制度廃止の法律化が確定した1814年、バタヴィア住民人口47,217人中に14,239人の奴隷が含まれていた。実質的な意味でヌサンタラの全土から奴隷が姿を消すのは、それから数十年経過して19世紀後半に入ったあたりのことになった。

バタヴィアで一番古いカンプンバリはメステルのもので、1667年がその縁起になっている。次に古いのがアンケ(Angke)のカンプンバリで、1709年にイ・グスティ・クトゥッ・バドゥル(I Gusti Ketut Badulu)を頭領とする集団が住み着いた。そのために別名カンプングスティという名前で人口に膾炙している。アンケにはカンプンブギスもあって、それらは隣り合わせだった。このカンプンをひとびとはカンプンバリと呼ばず、カンプングスティを通称としたらしい。
もうひとつのカンプンバリは中央ジャカルタ市ガジャマダ通り西側のクルクッ(Krukut)地区で、こちらは始まりが1777年である由。クルクッ地区のカンプンバリはライニール・ド・クレーク(Reinier de Klerk)第31代総督がモーレンフリートウエストの自分の私有地に1760年に設けた別荘の南側に隣接していた。その別荘は今、国立公文書館(Gedung Arsip Narsional)と呼ばれており、展示会場や結婚式の貸し出しなどに使われている。現在のインドネシア共和国公文書館は南ジャカルタ市アンペララヤ(Ampera Raya)通りに最新設備を完備したビルになって建てられている。
どうやら、国立公文書館と同じようなヴィラ形態の歴史的由緒を持つ豪壮な建物がそこから南側にあまり見られない理由が、そのあたりの事情から推測されてくる。

< カンプンムラユ >
さて、メステルコルネリスにあるカンプンバリの南側には、ムラユ人のカンプンが作られた。今のカンプンムラユがそれだ。ここでムラユと言っているのは当時のマラッカ半島、現在のマレー半島で主流を占めたひとびとで、同一文化圏としてスマトラ島北部・マレー半島北部(タイ領の一部)シンガポールなどの島々からひとびとはカンプンムラユにやって来た。
かれらは17世紀後半にバタヴィアに移住して1656年にそこを開いたようだ。VOCバタヴィア政庁は華人やインド人あるいはアラブ人、そしてバリ・マカッサル・ブギス・ムラユ・ジャワなどの諸種族が種族と文化に従って作るコミュニティに自治権を与え、統率者を指名してその者に全責任を負わせるカピタン(Kapitan)制度を設けた。コミュニティの規模が拡大するとカピタンの下にマヨール(Mayor)更にレッナン(Letnan)という下級統率者が置かれるようになっていった。
この制度が最後まで明瞭に残されたのが華人をはじめとする外来人社会であり、プリブミの諸種族はたいていが地元民と交じり合って地元社会に溶け込んで行く状況を呈した。

カンプンムラユの初代カピタンはワン・アブドゥル・バグス(Wan Abdul Bagus)だ。かれはンチェ・バグスの息子で、タイ南部のパタニで生まれた。頭脳明晰で実生活でも機敏で果敢な行動を示す優秀さが人口に膾炙し、大勢の追従者がおのずとかれの下に集まって来た。その時代、すべての男は戦闘要員であり、男の実生活というのは戦闘や闘争が主要な人生舞台だったことは世界中ほとんど違わないだろう。かれが自分の軍団を引き連れてVOCの戦闘部隊となるためにバタヴィアへやってきたことはおおいに推察しうるものだ。
かれは最初、バタヴィア政庁で事務職となり、優秀さが認められて通訳や対外折衝、さらには公式使節となって派遣されるほどの地位を得る。バンテンのスルタン・アグン・ティルタヤサとの戦争、トルノジョヨの叛乱鎮圧戦、カピタンヨンケル(Kapitan Jonker)叛乱鎮圧戦などにかれはムラユ人軍団を従えて参加した。
老齢になったかれをVOCは西スマトラ鎮撫のための公式使節に任命している。
1661年にはカンプンムラユの地がかれの私有地と認められ、1696年には更に広がったムラユ族の土地が再度かれの私有地として認められたようだ。

< チャワン >
カンプンムラユから1.5キロほど南にチャワン(Cawang)がある。チャワンという言葉の響きから「茶碗」の文字を想像するひとがいるかもしれない。その茶碗も中国語に由来するインドネシア語として認められているのだが、綴りはcawanであり、語尾の響きの違いを聞き取れるひとはあまり多くないようだ。
ちなみにインドネシア語cawanの語義は1.持ち手(把手)のないコップ、2.飯などを食べる器、3.コップの下に敷くもの、という語義になっている。日本でも元々は茶を飲むための器として中国から渡来したために茶碗という名称で定着したものの、その後さまざまな用途に使われるようになって、飯を食べるときの器は飯茶碗という奇妙な呼び方が使われたり、飯碗というロジカルな名称も出現し、大混乱の果てに茶碗で飯を食べるという表現に絞られて現代につながっている。
その一方で、湯呑という名称の器があり、この湯を飲むという言葉がついている容器で茶を飲むという奇妙奇天烈なことをしているのが日本人だということになりそうだ。湯呑は湯茶を飲むためのものであるとか、湯呑茶碗の略語だから云々を言うひともあるが、本当の湯を飲む人は少なく、ほとんどが茶をそれで飲んでいるのだから、茶飲み茶碗のほうがはるかに自然であるように感じられる。
慣習の力というのはまるで強権独裁者のようなものだ。いや、強権独裁者にもそこまでの力はあるまい。そればかりか、「前例はすべて正しいのか?」という素朴な疑問がここにも湧いてくるのである。それを人間の弱点と見るか、それとも生来的な地だとするかによって、そのひとの宇宙観・歴史観が決まってくるように思える。
もう少し戯言を続けると、インドネシア語の/w/の文字は、時に/b/の異音として使われた。次のような言葉にその例を見ることができる。
wulu ⇒ bulu, wesi ⇒ besi, watu ⇒ batu, uwi ⇒ ubi
もしこれがCawangに応用できるものであるなら、現代インドネシア語のcabangという言葉が浮かび上がってくる。確かにこのチャワン地区で道路は分岐し、近辺の川も枝分かれしているようだから、語源をそこにたどることもできそうなのだが、歴史家は違うと言う。
カンプンムラユはこのチャワン地区まで伸びていて、そこに作られたムラユ人コミュニティを統率したレッナンムラユのンチ・アワン(Enci Awang)がチャワンの語源なのだそうだ。ンチアワンがチャワンとなったという説は確かに説得力がある。

メステルからカンプンムラユを通ってチャワンに至る道路は現在オティスタ通り(Jl OTto ISkandar dinaTA = Jl OTISTA)となっているが、この道路沿いの地域はジャカルタの街中で都市化が早く進行したエリアだった。歴史家の談によれば、1960年代でさえ、ジャカルタの中で都市化したエリアは限られていて、他は地方の農村をそのまま移してきたようなカンプンあるいは無人の原野ばかりだったらしい。
カンプンの住民は自分が都市の一部であるという意識をほとんど持っていない。ジャカルタでかれらは田舎の生活習慣と社会行動をそのまま継続していた。だからジャカルタが巨大カンプン(kampung raksasa)であるという表現は比較的最近まで続いていた。
カンプン(kampung)の語源はポルトガル語のcampoであるというのがほぼ定説になっている。昔はカンポン(kampong)と綴られてそう読まれることもあった。今でも?時折、カンポンという発音を耳にすることもある。
その定説が当たっているなら、ひとつのカリカチュアが浮かび上がってくる。石造りの巨大堅固な要塞に住んでいるポルトガル人が要塞の外を取り巻いている原野をカンポと呼び、原野の中に点在する陋屋の集まった集落を指さしてカンポの民と呼んだことはあっただろう。それを耳にした原住民が、ポルトガル人は集落のことをカンポンと呼んでいると理解して、その言葉を広めたであろうことが想像されるのである。

1960年代に都市化の進んでいたジャカルタ市内エリアは、カリブサール両岸の旧バタヴィア地区、グロドッ地区、ガンビル地区、ジャティヌガラ地区からオティスタ通り沿いの一帯、メンテン地区、クバヨランバル地区がそのすべてだったそうだ。わたしも70年代前半にオティスタ通りをよく通過し、そこに住んでいたひとを訪ねたこともあったが、当時わたしがジャカルタの中心部と思い込んでいたガンビル〜メンテンにかけてのエリアから離れたこんな場所が意外に充実した地区であることを知って、驚いた経験がある。

< チリリタン >
チャワンの南はチリリタン(Cililitan)だ。都内環状道路を超えたところからデウィサルティカ通りはチリリタンのPGC(チリリタン卸売市場)三叉路まで来てボゴール街道にバトンタッチする。
チリリタン村は元々東のチピナン川と西のチリウン川にはさまれたエリアで、チピナン川の支流にチリリタンという名の川があった。川沿いにリリタンクトゥ(lilitan kutu)と呼ばれるイラクサ科の木質植物で、学名をPipturus velutinus Wedd.と称するものが大量に生えていたことが川の名前の由来であり、それが地域名称となった。
18世紀半ばごろには、チリリタン一帯はピーテル・ファン・デ・フェルデ(Pieter van de Velde)が私有地にした広大な土地の一部をなしていた。1740年10月8〜10日に起こった華人暴動とVOC側の華人大殺戮事件の責任を問われてカピテンチナのニー・フーコン(Ni Hoe Kong)がアンボイナに流刑されたとき、ニー・フーコンの持っていたメステルの南側に散らばる土地をファン・デ・フェルデが手に入れた。そのあとかれは1750年ごろ、自分の所有地をひとつにまとめようとして、周辺の土地を買い集めて広大な広さを持つ私有地を作り上げたのである。
バタヴィアVOCはチリリタンからバイテンゾルフの手前までの土地を私有地にすることを早くから行って来た。イギリスのジャワ島統治が終わった後、オランダ植民地政庁は最初の通達の中で、イギリス人が出て行った後の旧私有地を昔の形に復活させる旨表明している。

タンジュンオースト(Tandjoeng Oost)と呼ばれたファン・デ・フェルデの私有地は、西はタンジュンバラッ(Tanjung Barat)からクラマッジャティに至る広範な土地をカバーしていた。タンジュンオーストという名称は現在タンジュンティムール(Tanjung Timur)というインドネシア語の形で、古い地名として使われているだけのようだ。タンジュンバラッが町名として存在し、道路名称にも使われているのと対照的な扱いになっている。
ピーテル・ファン・デ・フェルデはその土地をアドリアン・ジュベル(Adrian Jubels)に売却し、この二代目地主の没後、1763年にヤコブス・ヨハネス・クラアン(Jacobus Johannes Craan)がそれを買った。クラアンが亡くなるとその土地は娘婿のウィレム・フィンセンツ・エルヴェシウス・ファン・リームスデイク(Willem Vincent Helvetius van Riemsdjik)に引き継がれた。この婿はジェレミアス・ファン・リームスデイク第30代総督の息子であり、17歳でオンルスト島の行政官に就任するほどの処世に長けた人物で、その裏に父親の威光が輝いていたことは言うまでもないのだが、諸方面から金がうなりながら集まってくるというオンルスト島をはじめ、あれこれの関連から集めた膨大な資金力で、かれはタナアバン、チビノン、チマンギス、チアンペア(Ciampea)、チブンブラン (Cibungbulan)、サデン (Sadeng)などに土地を持つ大地主となった。タンジュンオーストが著しい経済発展を示したのは当然の帰結だ。その後、この一族は更に南方のバイテンゾルフに近い私有地に移り、最終的に第二次大戦の日本軍進攻を迎えることになる。
一方、タンジュンオースト私有地はダニエル・コルネリス・エルベシウス・ファン・リームスデイク(Daniel Cornelis Helvetius van Riemsdijk)の代になって、1821年にシェリボンセサイカー(Cheribonsche suiker = チルボン砂糖) という屋号でチルボンをベースに製糖業で成功していたアメント家の当主ハルメン・ティーデン・アメント(Harmen Tieden Ament)に15万ルピアで売却された。
ハルメン・ティーデン・アメントは息子のチャリン・アメント(Tjalling Ament)にタンジュンオーストの経営を委ねた。1801年生まれのチャリン・アメントは先に華人女性チョア・ジューニオと結婚して一女をもうけていたが、1826年にリームスデイク家の娘ディナ・コルネリア(Dina Cornelia van Riemsdijk)と再婚した。そのときジューニオが亡くなっていたのか離縁されたのかは判然としない。ディナはそのとき19歳だった。
チャリン・アメントは牧畜業に力を入れてその地を6千頭の乳牛を養う大牧場に育て上げた。タンジュンオースト私有地をオランダ人はフルンフェルド(Groeneveld)と呼んでいたことから、19世紀後半の時代にバタヴィア住民の間でフルンフェルド牛乳の名を知らない者はいなかったらしい。
チャリンとディナの間に1827年、長男のダニエル・コルネリス・アメント(Daniel Cornelis Ament) が生まれた。かれが成人するとタンジュンオーストのカントリーハウスでは世代交代が行われて、ダニエル・コルネリスが父親の後を継いだ。

< チリリタンの家 >
1775年にヘンドリック・ラウレンス・ファン・デル・クラップ(Hendrik Laurens van der Crap)がチリリタンに建てたカントリーハウスがある。250年近い歳月を乗り越えて現代にまで残されているその大邸宅は、クラマッジャティの警察病院の裏手にあり、老朽化して目を覆いたくなるほどの惨状だ。
9百平米の長方形の床を持つ建物は二階建てで、一階と二階にそれぞれ多数の部屋を持ち、壁には15の扉と12の窓を見ることができる。二階に上る階段の壁には「Hendrik L Van der Crap 1775」の文字がくっきりと残されている。
チリリタンの家(Rumah Cililitan)と呼ばれているその邸宅に関するインドネシア語情報を読むと、タンジュンオースト私有地は何人もの地主が交替したあげく、当時バタヴィアの実業家で大富豪のひとりだった、ヘンドリック・ラウレンス・ファン・デル・クラップ(Hendrik Laurens van der Crap)が手に入れた、と書かれている。
かれはカンプンマカッサルで農園を開き、1775年にカントリーハウスを建てて、毎週末家族を連れて保養に来るという使い方をしていたようだ。当時のバタヴィアは城壁に囲まれたカリブサールの両岸一帯であり、かれらはそこの自邸から2〜4頭だての馬車でジャヤカルタ通りを抜けてグヌンサハリ通りを下り、メステルをも超えてはるかに草深いチリリタンまでやってきていたということらしい。
18世紀から19世紀半ばごろの時代、チリリタン〜クラマッジャティ〜タンジュンバラッ〜チジャントゥン一帯にかけては、オランダ人があちこちにカントリーハウスを建てて保養に来ていた。現代の首都圏住民がプンチャッへ保養に行くようなことが、数百年前は旧バタヴィアの城壁の中からチリリタン一帯へ遊びに出かけていく形で行われていたということなのだろう。
最後のオーナーは1925年にその大邸宅をバタヴィア政庁に売った。日本軍政期には日本軍が接収してそこを兵器庫に使っていたそうだ。別の説によれば、カンプンマカッサルに作られた捕虜収容キャンプ司令官タナカ大尉がそこを宿舎にしていたという説明もある。いまは国家警察の資産となっていて、その建物は国家警察職員家族寮として使われており、18家族が家賃を払って住んでいる。だが建物内の大広間に住む者はおらず、近隣に住む古老によれば、そこは異界との接点になっているため異界の者がよく出没しており、その不気味さに耐えてそこに住もうと思う警察職員家族はいない、との話だ。古老はまた、かつてヴィラノヴァ(Villa Nova)と呼ばれていたこのカントリーハウスを建てたファン・デル・クラップはVOCの軍人であり、海賊活動で巨大な富を築いたとも物語っている。

< チリリタン飛行場 >
1920年代初めごろに、チリリタンにバタヴィア最初の飛行場が設けられた。オランダ領東インドで最初の飛行場は1914年にオープンしたスバン(Subang)のカリジャティ(Kalijati)飛行場であり、チリリタンではない。
チリリタン飛行場の使用がいつから開始されたのかは記録がないためによくわからないが、フォッカー機によるアムステルダムからバタヴィアへの初飛行が1924年11月に行われているので、1920年代初めごろではないかと目されている。そのときの飛行は途中で墜落事故が起こったことから、55日かけてやっとバタヴィアのチリリタンに到着した。
第二回トライアルは2017年10月で、このときは10日間でバタヴィアまで飛来した。もう一度トライアルが行われた上でKLMはオランダ〜バタヴィア〜オーストラリアという旅客輸送ルートを作って活動を開始する。
1940年にウエルテフレーデンからほど近いクマヨランに国際空港が設けられるまで、チリリタン飛行場はオランダ植民地政府の空軍基地および民間商業フライトの空港として機能した。共和国独立後はハリムプルダナクスマ空港と名が変わり、インドネシア空軍の基地としての地位を保っているが、民間商業フライトの空港としての働きも兼ねていて、オランダ時代と似たようなことが続けられている。
チリリタン飛行場については、拙作「ジャカルタ国際空港史」にも記載があるので、併せてご参照いただければ幸甚です。
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libdrajkt.html

< クラマッジャティ市場 >
警察病院から3キロほどボゴール街道を南下すると、クラマッジャティ中央市場(Pasar Induk Kramat Jati)がある。生鮮野菜と生鮮果実のための中央市場の建設が開始されたのは1972年のことだ。総面積14.7Haの巨大な市場が完成して1974年2月3日に活動が開始された。
東南アジア最大の市場のひとつと言われているクラマッジャティ中央市場には、全国からありとあらゆる野菜と果実が集まってくる。スパイスももちろんその一部であり、希少種や消費量がとても採算に合わないようなものすら、この市場内を探せば必ず見つかる、と言われている。
ここは首都圏の中央卸売市場の機能を持ち、全国各地から集まってくる野菜や果実がいったん集積され、それが首都圏各所にある在来市場に散っていく流れのハブの位置を占めている。流通機能上は卸売りとされていても、個人消費者が買いにくるのを拒む姿勢はゼロだ。インドネシアではいくら卸売りという看板を掲げていようとも行われているのは数量割引システムに他ならない。要するに、大量に買えば単価が廉くなり、少量しか買わないなら単価は高くなる、という原理がそれである。購入者に資格的な制限を設けて差別するようなスタイルを執らないところがインドネシアらしさと言えるかもしれない。

2016年8月8日付けコンパス紙によれば、クラマッジャティ中央市場が歩んできた沿革が次のように説明されている。
1972年12月 市場建設工事開始
1974年2月3日 市場の稼働開始
1977年 市場内商活動に対して関連諸方面がかけてくる徴集金に市場内テナント商人の苦情が高まる
1979年4月 全国から野菜果実を運んでくるトラックの到着台数が顕著に低下していることを、テナント商人らが都知事に陳情
1981年11月 オランダ政府の援助で、野菜30トンを保存できる冷蔵室が稼働を始める
1980〜86年 たくさんの売場が空き家になり、浮浪者が集まって来てねぐらにするようになる。犯罪が多発し、殺人事件さえ起こり、商業センター機能は風前の灯火となって、傷んだ建物は修理されず、周辺道路もぬかるみとなるという暗黒の時代。
1987年12月 市場の大改装が開始された。市場建物は三階建てとなり、映画館や子供遊園地も併設される。
1989年12月 大改装工事が完了。
1990〜94年 市場運営が混乱。排水管が詰まったまま放置され、市場ゴミの回収もおざなりにされ、道路の補修もなされず、無許可売場が構内に林立。
1994年6月25日 野菜スパイスコーナーであるブロックCで火災。テナント商人らに6億ルピア超の損害が発生。
2002年2月24日 バンテンとマドゥラの両商人グループ間で、商勢を奪い合うための暴力衝突が活発化。世の中で怖れられているマドゥラ人が金をたかりに来るのをバンテン人が嫌悪したのがその発端。地域リーダー協議会の調停で双方が和解。
2003年1月 市場補修改装工事。
2005年7月2日 売場1Gと合同売場で電線ショートによる火災。
2005年11月 市場表の道路脇を埋め尽くすカキリマ商人への統制活動。
2015年8月 商業省の消費物品物価安定プロジェクト対象パサルのひとつとして、物価乱高下防止の観点から監視と対処のシステムが設営される。
2015年末 市場建物補修工事が一年がかりの計画でスタート。

市場内では、取扱商品がそれぞれ一括りにされて独自のゾーンを形成している。どのようなゾーン建てになっているのかを知れば、市場内のありさまを想像でなりとも知ることができそうだ。ゾーン建ては次の通り。
とうがらし cabai
バワン bawang
その他野菜 sayuran
芋類 umbi
バナナ pisang
パイナップル nanas
アボガド avokad
すいか semangka
その他果実 buah
スパイス bumbu
言うまでもなく、市場建物内に入荷した商品を選別したり小分けするためのゾーンも設けられている。

総面積14.7Ha、売場4,508カ所、24時間稼働のクラマッジャティ中央市場の場所にはかつて、はるかに小さい在来市場がそこに存在していた。もっと北にあるパサルアタス(Pasar Atas)と呼ばれた在来市場に対比させてパサルバワ(Pasar Bawah)と呼ばれていたことから、今の中央市場をパサルバワと呼ぶ人もいまだにいる。
そこに生鮮野菜や果実の中央市場が設けられたのは、それまでその機能を果たしていたマンガライ市場がもはや手一杯になり、生鮮野菜果実の売場が道路上まであふれて地区一帯を大混雑の渦に巻き込むようになったためで、そのありさまは1969年5月のコンパス紙に報道されている。

とうがらしゾーンに売場を持っているヤディさん51歳は、高校生のころから父親を手伝ってここで商売していたと語る。
「80年代に父はここで商売してました。わたしは最初ここで販売するための唐辛子を自分で仕入れに行くため、トラックの運転手をしました。市場に巣食うプレマンに一目置かせるために、若いころは毎日気張ってましたよ。仕入れだってそうです。他人を安易に信用したら、とんでもない目に遭わされる。産地の販売者が送ってくれるという約束なんか、当てになりません。自分で取りに行くのが一番確実だったんです。昔、父親の時代は鉄道便で送られてくる二袋で商売してました。今じゃトラックで毎日4.5トンが届きます。」
東ジャカルタ市チピナン(Cipinang)のコメ中央市場には、床にこぼれたコメを拾い集め、それを売れる形にし直して再販する人間がいる。貧困層の人間で、収入の道をあれこれ求める者の中に、そういう作業をなりわいの種にする者が出現するのだ。そしてクラマッジャティ中央市場とて、その例外ではないのである。
運搬途中で床に落ちた品物、腐ったり、あるいは汚れで売物にできないと店主が判断したためにゴミ捨て場に捨てられた品物でも、腐敗部分や汚れ・変色をていねいに取り去れば、半分くらいは使用に耐える品物がけっこうある。かれらはその作業を行うのである。アトゥンさん47歳は中部ジャワ州ドゥマッ(Demak)から17歳のときジャカルタに出て来て、それ以来30年間そのビジネスを続けている。
かの女は再販できそうなあらゆる物を拾い集める。そしてきれいにしてから、それを種類別に小袋に詰める。たとえばほぼ1キロ近い玉ねぎを一袋2万ルピアで販売する。正規商人の売場では相場キロ当たり2万8千ルピア。
かの女のこの商売による収入はひと月350万ルピア。最低賃金よりも高い。住居費とひと月の生活費はそれで賄えて、おまけに二週間に一度帰省するための長距離列車代金もそこから出せる。夫が故郷で百姓しているから、二週間に一度は帰省するのだそうだ。
一方、赤バワンの皮むきを仕事にしているスカルティさん50歳は、毎日12時間、コンクリートの床に座って作業する。百キロ分の作業をして賃金7万ルピアが手に入る。百キロを片付けるために12時間かかるというわけだ。それを毎日繰り返して手に入る月収はやっと210万ルピア。
クラマッジャティ中央市場は単なる経済活動の場というものではない。そして物資流通の仕組みを支えている機能だけが運動しているというものでもない。そこには、それらとは直接的な関りを持たず、またマクロな機能とは無縁の多数のひとびとがその場に頼って生きている、そういうありさまを映し出しているスクリーンでもあるのだ。
先進国には見当たらないアトゥンさんのような商売がどうして成り立ちうるのか、はたまた先進国と発展途上国を区分する境界線がそこにあるのだという見方が当を得ているものなのかどうか、更にそのような商売がなくなることが先進国の指標であるかのような評価が正しいのかどうか。先進国とは経済面における評価指標であるというものの見方を人間開発面におけるものに入れ替えた時、先進国という言葉はきっと思想革命を引き起こすものになりかねないのではあるまいか。

< チョンデッ >
東ジャカルタ市クラマッジャティ郡の中にチョンデッ(Condet)地区がある。チョンデッ地区はチョンデッラヤ通りが通っているエリアで、バレカンバン(Bale Kambang)町・バトゥアンパル(Batu Ampar)町・グドン(Gedong)町の三町から成っている。チョンデッが行政区画名称になっていないとはいえ、先史時代から人類が居住していたエリアであり、その古さのゆえに知名度の高い名称になっている。
この地区からは、紀元前1千〜1千5百年ごろと見られる石器の斧やのみ、ドリルなどが発見され、別の調査では銅器も見つかっている。更に町名になっているバレカンバンとは王の保養所、バトゥアンパルは生贄を捧げるための平で大きな石を意味しており、この土地がただの原野でなかったことをそれらが示しているようだ。

チョンデッという言葉の由来はチリウン川支流のチオンデッ(Ci Ondet)川から来ているそうで、オンデッそのものの意味は五月茶という木の名称だ。
チョンデッの地名が最初に記された古文書は、第18代総督に就任する直前の1709年9月24日にアブラハム・ファン・リーベーク(Abraham van Riebeeck)が書き残した記録で、「パルンコンバレ・バトゥジャヤ・デポッ・スリンシンなどのわが所有地を通過して、チオンデッ川の上流に向かう。」という記載が見られる。
更にスルタン・アグン・ティルタヤサの王子パゲラン・プルバヤが最終流刑地のインドのナガパッナムに出発する際に残した遺言状には、「チョンデッにあるわが所有の家と水牛を、残して行く妻と子供に贈与する。」と書かれており、1716年4月25日付けでオランダ人公証人がその遺言状に公正証明を与えている。
1753年6月8日付けのバタヴィア総督決定書には、タンジュンオースト私有地の一部をなすチョンデッの土地816モルヘン(およそ5万2千ヘクタール)を8百リンギッでディーデリック・ウィレム・フレイヤー(Diederik Willem Freijer)に売却する、という文章が見られる。

< タンジュンティムールの家 >
チョンデッラヤ通り南詰のTBシマトゥパン通り(Jl TB Simatupang)三叉路から5百メートルほど北上したチョンデッラヤ通り55番地にある首都軍管区基幹連隊演習司令部(Markas Latihan Rindam Kodam Jaya)の向かいに、昔はさぞ権勢を誇ったであろうと思われる屋敷がある。
1756年にバタヴィア参事会メンバーのフィンセンツ・リームスデイクが農園を設け、カントリーハウスを建てて保養に使った。そのカントリーハウスがこのタンジュンティムールの家(Rumah Tanjung Timur)と呼ばれている屋敷だ。タンジュンティムールの家という表現はかつてオランダ人が呼んだタンジュンオーストハイス(Tandjong-Oost Huis)に由来しており、別名フルンフェルドハイスとも言う。

チョンデッの南にあるグドン(Gedong)という地名はグドゥン(Gedung=建物)の古い発音で、石やセメントで作られた豪壮な恒久的建物を指す言葉だった。現代ならビルを指して使われている言葉だが、高層ビルなど影も形もなかった時代には、吹けば飛ぶような陋屋の合間に出現した平屋やせいぜい三階建ての大邸宅がグドンの名で呼ばれた。「お屋敷」という言葉がその訳語にふさわしい時代の話だ。今でもそのグドゥンという標準形をグドンと発音するひともいる。
この種の音韻変化は口承文化で容易に起こる。外国語を文字で学ぶことが習慣化している日本人は、単語の文字が一字異なっていれば別のものという理解が普通になっているため、インドネシア語のような口承文化を基盤に置く言語の学習者にとって難しい要素となっているが、要は自分の常識を変えればよいだけの話であるとも言える。
benarがbenerと書かれているのに直面すると、辞書にない言葉だとして理解を諦めてしまうひとが見受けられるのだが、インドネシア人の間で生活してみると、かれらがブナールと発音するべき時にブヌールという発音をしているケースに頻繁に出会う。そのブヌールという音が文字化されたときに、benerという表記になって出現するのである。
特に/a/の音は弱母音化して/e/に変化する傾向が顕著で、これはムラユ語が持っている特徴だろうと思われるのだが、この意味からも、インドネシア語の学習というのはインドネシア語による生活体験によって完成していく傾向の強い言語だと言えそうだ。その点を取り上げるなら、日本語も実は同じような特徴を持っているとわたしは見ている。
日本人も音韻変化を好んで行う民族であり、日本語を学びたい外国人の多くが文字から日本語を学んでいるのだが、それだけではなかなか完成度が高まらないだろうなというのがわたしの直観だ。ところが日本人が日本人自らのために確立させた(あるいは慣習化させたと言うべきか)外国語学習方法は固有の体質と異なる性格のものになっているのである。インドネシア語をそのメソッドに載せた場合、あまり効率的でない面がポロポロとこぼれ落ちてくるだろう、ということをわたしは主張している。

さて、グドン地区の語源となったその「お屋敷」がヴィラノヴァと呼ばれた地主の大邸宅だったという説明がある。
リームスデイクのカントリーハウスが当時はそのグドン地区における唯一の「お屋敷」であったことから、フルンフェルドにあるプリブミ集落はカンプングドンと呼ばれ、それが現在グドン町という公式行政区名称として残っているのだそうだ。カンプングドンという名の集落もいまだに存在している。

バイテンゾルフとバタヴィアを往復する総督や高官たちが、往来途上でヴィラノヴァに立ち寄っていたことを示す記録がたくさん残っている。ただ、ファン・デル・クラップのカントリーハウスの話でちょっと触れたように、ヴィラノヴァが「チリリタンの家」だったのか、それとも「フルンフェルドの家」のどちらのカントリーハウスだったのかということに関して、インドネシア語情報の中に少々混乱が見受けられるように思われる。
ある記事では、レディ・ロリンソンというイギリス貴族が地主として住んでいるチリリタンの家がヴィラノヴァだと述べている一方、別の記事ではチョンデッ住民に苛斂誅求を課した地主が住んでいるタンジュンオーストの家がヴィラノヴァだったと書かれている。
この後で物語る予定のントン・グンドゥッ(Entong Gendut)の叛乱を読めば、ある程度の筋道は立つような気がするのだが、それですら、それらの情報からだけではヴィラノヴァがどちらのカントリーハウスだったのかを断定する確証は手に入らない。

総督や高官たちが両方に立ち寄っていた可能性ももちろんあってしかるべきだが、両方がヴィラノヴァと呼ばれていたはずがないし、1733年から1750年までバンテンスルタン国の王位に就いたスルタン・ムハンマッ・シファ・ザイヌラリフィン(Sultan Muhammad Syifa Zainularifin)の王妃で、その後継者指名の争いに影響力を振るったシャリファ・ファティマ(Syarifah Fatimah)がVOCのバックアップを得ようとして1749年に時の総督ファン・イムホフとの秘密会見をヴィラノヴァで行ったという話も、その混乱に拍車をかけるような内容になっている。その両カントリーハウスが作られたと言われている年と比べてみるなら、更に別の候補者が躍り出て来そうな気配が立ち昇るではないか。
そのスルタン位継承の争いは1750年にキヤイ・タパの起こした争乱となって結実している。才色兼備を謳われたシャリファ・ファティマ自身もその争乱の責を問われてスリブ群島のエダム島に流刑され、流刑先で没した。

< ジャゴアン >
昔から、バタヴィアのブタウィ人カンプンにはたいていひとりから数人のウラマ(ulama)とジャゴアン(jagoan)がいた。ウラマは住民の暮らしに宗教の教えをもたらして部落内での生活規範や徳目を指導する役割を担い、ジャゴアンは戦闘能力の高い人間が就いて武による部落内の秩序維持と外敵から部落を防衛する機能を担った。
ジャゴアンというのは雄鶏を意味するジャゴ(jago)の派生語で、喧嘩に優れた猛者、プンチャッシラッの使い手、三牲(福建語でsamseng、gangster, mafia, yakuza などの類語としてムラユ語に入っている)などの語義になっている。日本文化ではニワトリそのものに男の美徳をほとんど見出していないようだが、闘鶏や軍鶏、凄烈に時(鬨)を告げる鳴き声などに関連してコックを雄鶏と人間男性を結びつけるものとして扱っている文化もある。インドネシアのこの観念は果たしてヨーロッパからもたらされたものだったのかどうか?
もうひとつ、インドネシア語の接尾辞-anには名詞に付いてそれによく似たもどきのものという意味をもたらす機能があることから、ひとによっては男の中の男という意味でジャゴを使い、それに劣る見てくれだけの男をジャゴアンと呼ぶケースもあるのだが、わたしはジャゴはあくまでも雄鶏であって雄鶏のような男だからジャゴアンと呼ばれるというロジックに従おうと思うので、ジャゴアンの語を統一的に使いたい。
そうなると英雄も卑怯者もみんなジャゴアンになってしまうが、これは仕方ない。プンチャッシラッの使い手なら一様にジャゴアンと呼ぶことにする。

もちろんジャゴアンも部落民のひとりなのだから、ウラマの教えに服するのは当然のことである。文武に長けたジャゴアンは信仰心も篤く、徳をもって敵を制する英傑としてブタウィ全域にその名を知られた人物も多数出現した。もちろん中には喧嘩が強いだけで人格は?という人間も少なくなかった。
バン・サミウンに頼まれてニャイ・ダシマを殺害したバン・ポアサはカンプンクウィタンのジャゴアンだった。かれのダシマ殺害論理は異教徒に身を売った倫理に背くムスリマを粛清するのがイスラムの善であるというものの見方であり、その粛清を自分が実行することで徳が上積みされるということだったようだ。その情念は一般ムスリム界に受け入れられやすかったと見えて、インドネシア民衆の民族意識高揚期にかれは民族主義英雄のひとりに祭り上げられている。
カンプンにおけるそのような体制は1950年代ごろまで続けられた。60年代以降、都市建設のためのカンプン移転が始まるようになって、土着の伝統的な体制が徐々に変化していくようになる。
ニャイダシマの物語はこちらをご参照ください。
http://indojoho.ciao.jp/archives/library010.html

ジャゴアンというのは男一匹であり、たいていがプンチャッシラッ(pencak silat)の使い手で、刃物を使う格闘技もお手のものだった。歴史家アルウィ・シャハブ氏はジャゴアンに関して、次のように説明している。
卑怯なふるまいは男の恥であり、言行一致が本領で、他人から挑戦されたら必ず受けて立つのが真のジャゴアンだった。その心意気を示す警句が「lu jual, gue beli」(売るのはおめえで、買うのはオレだ)であり、自分は売る側に回らないが、売られたなら背を向けることはせず、勝つか負けるかを競い合う。並大抵のことで刃物(普通はgolokと呼ばれる鉈)は鞘から抜かないものの、一度抜いたらそれが血塗られずにはおかない。
そのためかれらの愛用する鉈をかれらは神聖視するようになり、日本の武士にとっての日本刀のような精神性が発現したことは興味深い。鉈を持ちまわるのは体面なのであり、それを鞘から抜かないのが上策だという思想だ。氏の説明に戻る。
「罵詈雑言など相手にしない。よく吠える犬のたとえで、吠えるばかりで噛みつこうとしないのだから、そんなものは自分の相手でない。しかし、もしも手が出たなら、ちょっと待てはないのだ。即座に叩きのめすだけだ。」
他人から搾り取るのはジャゴアンのすることでない。貧しくとも正業に就き、弱者を扶け、真理を守る。他人の気持ちを傷つけ、罵詈雑言を浴びせ、殴り、傷を負わせ、殺すようなことは、不徳の行いである。
真のジャゴアンは人生哲学を持っている。己の一生一死は自分がいかに徳行を積んだかということ次第なのだ。生きている間に善を施して行けば、自分の死はアッラーの思し召しの通りになる。そういう人生観を持てるジャゴアンたちは、日常生活の中で自分のカンプンのウラマと協力的にものごとを遂行した。かれらは六信五行を実践し、大勢がハジになっている。
カンプン間の諍いが起こると、結局各カンプンのジャゴアンが出馬して談合し、問題を収める。収まらない問題はまずなかったらしい。カンプンの中で住民の誰かが強盗や窃盗の被害を受けると、ジャゴアンはそれを恥じて徹底的に犯人を探し出した。ジャゴアンが自分の立場や地位にからめてカンプン内の治安を自己の問題として取組んだことから、カンプン住民の尊敬心や依頼心は大いにジャゴアンに傾いた。雇用や任命とは異なる精神的なものが底流にあったということのようだ。
「オラがカンプンのジャゴアン」というのは、住民が共同体の中でその者を持ち上げ、頼り、親愛を向ける、という行動の中に形成されたもので、任命されるものではない。ただしジャゴアンというのも一般名称であることから、暴力好きで他人を虐げることの好きなプンチャッシラッの使い手も同じようにジャゴアンと呼ばれる。住民を搾取するばかりで保護しようとしないジャゴアンに、住民は背を向けることしかできない。
悪徳保安官が町民をいじめ、町民は正義感あふれる流れ者の拳銃使いがやってきて悪徳保安官を町から叩き出してくれる日を待ち望むようなことがブタウィのカンプンにもあったにちがいない。
悪徳ジャゴアンは金持ちに雇われて用心棒になったり、暴力を使う汚れ仕事を行う取り巻きのひとりになったりもした。そのような仕事はcentengやtukang pukul あるいはtukang maen pukulan と呼ばれた。centengは福建語の親丁に由来しているが、原意から離れた殴り屋としてムラユ語に取り込まれている。tukang pukul はそのものズバリの殴り屋だ。
タングラン・チオマス・ブカシ・チリリタンなどに広大な私有地を持つ地主たちは、そのような殴り屋を大勢抱えて領民を搾取する手先に使った。言うまでもなく、地主の指示を現場で実行班に実現させるための体制が作られ、要になる者は親方の地位に就いてマンドル(mandor)と呼ばれた。こうなってくれば、やくざ組織と見まがうばかりである。
バタヴィアやその周辺の西ジャワ地方では、私有地制度が活発に営まれた。私有地の地主はあたかも封建領主のように、住民を私有の人間として奴隷のように扱い、税を取り立て、労役を課した。バタヴィア政庁は私有地を治外法権扱いし、私有地の中で地主が行う非人道的な行為に公権力を及ぼすことをしなかった。
私有地がどのようにして設けられ、誰がその地主に納まったかという歴史を見るなら、その現象は十分な確信をもってわれわれに迫ってくるだろう。VOCとその中でうごめいたオランダ人が、どれほど富と支配権力をこの南洋の地に求めたのか、会社は会社で、社員は社員で、考え付くだけのあらゆる手練手管でその理想へのアプローチを推進していったか、ということを如実に示す具体例のひとつがそれであったに違いない。
地主がまるで封建領主のように振舞っていたことは、別の作品「ロー・フェンクイ」からもうかがい知ることができる。「ロー・フェンクイ」は下をご参照ください。
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libkoei.html

< ントン・グンドゥッ >
1912年ごろ、ヴィラノヴァに住む女主人レディ・ロリンソン(Lady Rollinson)は住民に対する苛斂誅求に手心を加えなかった、という記事がネット上にたくさん出現する。この女性地主がイギリス人貴族であるというものやフルネームがLady Rollinson Van Der Passeとなっている情報、更にはレディ・ロリンソンがヴィラノヴァと呼ばれたチリリタンのカントリーハウスに住む地主で、そこでのパーティに招かれたフルンフェルドの家の地主の車に投石が行われた、といったものすら登場するため、その辺りの状況は錯綜をきわめている。
地主が誰であったにせよ、領民に対する過酷な苛斂誅求に反抗して立ち上がったントン・グンドゥッ(Entong Gendut)はチョンデッのジャゴアンとされており、チリリタンの住民でないことがわかる。チョンデッ地区の地主の館はフルンフェルドの家であり、だからこそチリリタンの家を訪れたフルンフェルドの家に住む地主の車を襲うことはありえても、チリリタンの家を襲撃する必然性はないようにわたしには思われるのである。
ただしその辺りの状況も諸説紛々としており、本当はどこでどのような状況が展開されたのかということに関して、わたしの焦点がなかなか定まらないのである。書き残すという習慣を持たないひとびとは口承の民であり、その性質上、このようになることは避けられないに違いない。とりあえずは、広い視野の中でこの事件を捉えていると思われる解説に従って、ストーリーを組み立ててみることにする。

地主はチョンデッ住民に対し、毎週25センの税を取り立てた。そのころはコメ1キロが4センだったそうで、これは重税と言っておかしくないだろう。そのすべてが植民地政庁に納められるものでないのは明白であり、国税がその中のどれほどのシェアだったのかはよく分からない。地主は政庁に対して地代と収穫の納税および労役に労働力を差し出す義務を負っていたが、地主自身も領民から同じような名分のものを徴収していたから領民にとってはダブルパンチであり、おまけに地主の徴収には何の規制もかけられなかったようだから、まるで中世ヨーロッパの暗黒時代のようなありさまが20世紀前半まで続いていた。
取り立てに回るのは地主に雇われているチェンテンやマンドルたちで、暴力の威嚇が使われるのが常であり、どうしても払えない家に対しては地主の持つ田畑を一週間耕作させる課役が与えられたり、あるいは収穫を禁止されたこともあったらしいが、そのうち裁判にかけるスタイルが一般化した。
私有地に関する新たな法令が1912年に施行され、地主は税を納めない農民への裁判権を与えられたことから、地代や住民税の未払いあるいは労役代償の金納などに関連して、1913年に2千件、14年5百件、15年3百件の裁判が行われた。判決は滞納金に罰金が加えられた上、裁判費用が敗訴者(つまりは滞納者)の負担にされ、期日までに納めなければ私財没収や売却、あるいは焼却が命じられた。金がないために滞納したのだから、そんな判決に対して無い袖を振ることなでできはしない。農民は破産し、どこかの誰かを頼って無一物で故郷を離れるしかなかった。
陋屋の中には一物もない、という家などは火をかけて燃やされるのが普通だったようだ。ただ、領主は奴隷扱いできる領民がいてこそ繁栄を期待できるのだという原理にそぐわないように思われるその状況がわたしには今一つ釈然としない。
チョンデッでは、タバという名の老農夫がメステルの地方裁判所で行われた裁判で7.20フローリンと諸費用の納付を命じられた。期日中に納めない場合は資産が売却されて納付に充当される。
1916年3月7日、地主のチェンテンたちを従えた強制執行の役人たちがタバの家にやってきた。多数の地元民が北隣の家に集まって来て、罵りや呪いの叫び声をあげたが、何をすることもできない。法的処理はつつがなく進められた。
チョンデッのジャゴアンであるントン・グンドゥッも現場を遠巻きにして見守るひとびとの中にいた。そのとき、かれの内面でひとつの爆発が起こったにちがいない。「もう許せない。」という決意が弾けたのだ。
タバの資産は3月15日にマンドルのひとりが4.50フローリンで買い取った。行政官と地主、そしてかれらに使われているチェンテンやマンドルたちが法律を盾にして行うゲームの被害者は、団結を余儀なくされた。自分たちの身を守るためにントン・グンドゥッが組織する自警団に参加する住民が増えた。この自警団には近隣カンプンのジャゴアンたちも横のつながりを示した。

ントンというのはブタウィ語で男児を意味する言葉だ。グンドゥッは「デブ」の意味で、これらは明らかにあだ名なのだが、本名や生年月日、出生地などの情報が見つからない。この人物については個人情報がなく、あだ名だけでヒーローになっている。
ントン・グンドゥッはその人望を見込まれて地主がチョンデッの公認副王(要するに地元の大親分)にしてやろうという話をもちかけたとき、けんもほろろに断ったという談や、子供のころの異才を物語る話として、力の強いガキ大将たち数人に力いっぱい自分の腹を殴らせたあともケロッとした涼しい表情でそこに立っていたなどという地元の古老たちの回想談もあり、またかれ自身の子供二男一女の孫がまだ地元にいて、祖父の称揚譚をいろんな人から聞いて育ってきているものの、先祖に誰がおり、誰がどこで名の知られた誰それとどういう関係を持ち、家系がどうであるというような情報がまったく記事にされていないのも、インドネシアでは珍しいケースではないかという気がわたしにはする。
1916年4月5日、レディ・ロリンソンの住むチリリタンのカントリーハウスで祭が行われ、夜っぴてトペン舞踊が演じられ、チェンテンたちは博打に興じた。その日、ントン・グンドゥッ率いるチョンデッ自警団はカントリーハウスを取り囲んだが、何事も起こらずに夜は更けて行った。
この日夕刻、フルンフェルドの家に住む地主アメント家当主の自動車が北西にある橋を渡っていたとき、投石を受けた。
夜半23時ごろになって、ントン・グンドゥッは邸内にいるトペン舞踊者と楽団に外から終了を呼びかけた。邸内にいた地元民らは物売りたちも含めて、ジャゴアンの命に従って家に帰って行った。当時は一般に、踊り子というものは売春婦を兼ねていた。
邸内のひとびとは祭を妨害されて腹を立てたが、チェンテンたちが外へ出て騒動を起こすのはまずいと考えて自粛させ、翌日官憲に訴えて妨害者を逮捕させることにした。自警団もチリリタンの家に対する襲撃は行わず、その夜は何事もなしに解散した。
レディ・ロリンソンからの訴えを受けた郡長はパサルボ(Pasar Rebo)の副郡長に指令を発した。「ントン・グンドゥッを即座にメステルに出頭させよ。」
副郡長と警察署長が警官隊を連れてバトゥアンパルのントン・グンドゥッの家を訪れた。かれをメステルに連行しなければならないのだ。祭を妨害した理由を問いただすとかれは、「宗教の教えだ。」と答えただけだったが、かれの意図はハラムである賭博と売春をやめさせることにあったようだ。いやそれよりも、かれは地主やオランダ人支配階層に嫌がらせを行って、闘争気分をウオームアップさせていたように見える。
副郡長と警察署長がントン・グンドゥッや自警団の首脳らと口論していると、ントン・グンドゥッは突然クリスを抜き放って足を踏み鳴らし、「われは大地を踏み、大地は海となる。副郡長と警察署長はわれの信奉者であり、われは汝らを保護するであろう。」と述べた。それを合図にして、物陰から自警団メンバーが手に手に武器を持って飛び出してきた。副郡長と警察署長は拘禁された。
拘禁されたふたりはプリブミだったように思われる。ントン・グンドゥッはふたりに対し、民衆が警察を嫌うのは警察が異教徒の手伝いをして民衆の家を差し押さえたり、焼いたりしているからだ、と述べた。更には、異教徒を主人に仰ぐ者は殺されなければならないと語り、そのロジックが既述の「信奉者になるなら保護される」という言葉につながっていく。
そのロジックは最近のジャカルタ都知事選でも繰り返された。アホッ氏の華人という要素よりも、かれがキリスト教徒であるという要素のほうが反アホッキャンペーンに効果的に使われたのである。華人嫌悪という精神性よりも、異教徒を主人(都知事に選ぼうとすること)に持つムスリムは背教の徒であるという論理のほうがはるかに選挙民自身のアイデンティティに突き刺さってくることがらになるのは言うまでもあるまい。
自警団の中はジハードの気分に満ちていた。指導者ントン・グンドゥッは自ら王を名乗り、「われはジャワの救世主として待ち望まれている神の使いであり、この後ジャワを征服にやって来る日本人と戦って、かれらを海の中に投げ飛ばす。」と宣言して、民衆の喝采を浴びている。
貧困であれ、圧制であれ、イデオロギーであれ、ゼノフォビアであれ、インドネシアにかつて起こった民衆蜂起のたいていはイスラムのジハード観念やイスラム風に変形された救世主思想が結びつけられている。普段はただの卑屈な農民が武器を手にして殺すか殺されるかという場に自ら進んで臨む意欲を持つとき、聖戦意識と死後の極楽の約束は大きな駆動力となった。それとまったく同じ根は中世の日本統一事業の中に出現しているとわたしは理解している。
以後の日本の為政者はその要素の再出現を徹底的に抑制し、宗教を枠組みに持つ民衆の生活共同体が作られないように努めた。現代日本人の宗教観はそういう歴史の上に培養されたものであり、その観点からウンマーというイスラム社会を眺めた場合、イスラムという宗教のあり方を支えている本質は日本人の目にまず形をとって映ることがないだろうとわたしは見ている。
宗教を枠組みに持つ生活共同体が日本に出現したとき、それに対する嫌悪感情や排斥意識が社会の大意として起き上がるのは、そういうもののない社会が長期に渡って築き上げられ、そのあり方が自然なものという共通認識の形で伝統的に伝えられてきたことによっている。その意味で為政者の国内統治における宗教の扱いは成功したと言えるのだろうが、反対に宗教というものをそういうパースペクティブでしか見られなくなった日本人は、国外に存在して勢力を張っている宗教というものへの理解がまったく偏ったものになってしまうという宿命の中にいることを忘れてはなるまい。

ントン・グンドゥッに対する法執行がうまく行っていないことに業を煮やした副レシデンは4月10日、治安部隊を率いてントン・グンドゥッの家を包囲し、叛乱首謀者を逮捕しようとした。
副レシデンが「ントン・グンドゥッは出て来い。外に出ておとなしくお縄につけ。」と呼ばわると、家の中から「われは王であり、法律であろうがオランダであろうが、誰に従う必要もない。」というントン・グンドゥッの声が聞こえた。
ほどなくしてントン・グンドゥッは40人の戦闘員を従えて外に出てきた。別の話では人数は百人になっている。かれが手にしていたのは槍と鉈、そして星と三日月を白く染め残した赤旗だった。
「アッラーフアクバル!」の声が太陽の下にこだまし、叛乱者たちは完全武装の治安部隊に打ちかかって行った。そして銃弾による大殺戮がチョンデッの路上を血に染めたのである。ントン・グンドゥッは一旦逃げて再起を期そうと考え、チリウン川まで走ったが、川を渡る前に銃弾が命中して動けなくなり、病院へ運ばれる途中でその生涯を閉じた。
インドネシアの英雄に関する民間伝承の中でかれらはすべからく魔術を使う不死身の英雄となって出現するのが通例で、ントン・グンドゥッの場合も例外でない。かれがクリスを抜き放って足を踏み鳴らし、「われは大地を踏み、大地は海となる。」と叫んだ時、外を包囲していた警官隊は全員が武器を投げ出し、幻影の海の上を一生懸命泳いでいたが、部外者の目には路上で腹ばいになり、泳ぐかのように手足を動かしている姿が見えただけだったというものがあり、またかれの不死身の術についてはこんな話になっている。
ントン・グンドゥッに従って蜂起した民衆が治安部隊の銃弾に次々と倒れて行く中で、どの弾丸もントン・グンドゥッの肉体を貫通できないままにかれはチリウン川へ向かった。かれの不死身の術には弱点があり、身体が水に濡れると効果は大幅に減退するのである。治安部隊はその情報を手に入れ、黄金の弾丸を用意してかれが水に濡れるように陥穽を設けた。
ントン・グンドゥッは再起を期して、そこから数百メートルしか離れていないチリウン川に向かった。行く手を妨げず、むしろ容易に水辺まで達するようにしたというのだ。ただしその行く手には、狙撃の才を謳われた治安部隊員が待ち伏せしていた。
ントン・グンドゥッは浅瀬伝いに川を渡ろうとして水中に入る。しばらくして川の中ほどにある浅瀬にかれの巨体が立ち上がったとき、一発の銃声がこだましてかれはどうと倒れ、動かなくなった。
この事件のあと、政庁はチョンデッ住民に強い疑いを抱いて厳しい取調べを続けた。何人もの住民が連行されたあと戻ってこなかったことが明らかになると、大勢の男たちが故郷のチョンデッから姿を消した。バタヴィアの街中でも、チョンデッ出身であることを名乗る者がいなくなったという。
このントン・グンドゥッの蜂起事件というのは、長い前置きでその意味合いがくどくどと述べられているわりに、事件そのものはきわめて単純な展開であり、実にあっさりと幕を閉じた印象が強い。
軍事力とは全く無縁の私有地領民で且つ農民層の民衆がジャゴアンの指揮下に蜂起したという内容が、植民地政庁上層部に恐怖感を呼び起こしたのかもしれない。その恐怖感がエコーとなって事件後のチョンデッ住民に対する激しい弾圧に姿を変えたと見るのは、うがちすぎだろうか?

< ヴィラノヴァ >
さて、チリリタンの家とフルンフェルドの家の双方がヴィラノヴァという名称で呼ばれていることに端を発する混乱を整理してみたい。
グドン・チョンデッ・パサルボ一帯の大地主はフルンフェルドの家に住むアメント家の当主であり、チョンデッ住民に苛斂誅求を課したために住民蜂起を誘った地主というのはかれだったように思われる。
つまりレディ・ロリンソンはチリリタンのもっと狭い地域の地主ではあっても、チョンデッまでカバーするほどの地主でなかったということであり、チョンデッ住民が直接的に憎悪を向ける対象でなかったように思われるのである。それはタンジュンオーストの地主が住むフルンフェルドの家が先に建てられ、チリリタンの家がもっと後で建てられていることからもうかがい知ることができそうだ。
その意味から、格式はフルンフェルドの家の方が上であって、総督や高官が立ち寄る可能性はそちらの方が高かっただろう。だからと言って、それとヴィラノヴァを結びつける根拠にはできない。むしろ言葉の原意から、後で建てられたチリリタンの家がそう呼ばれた可能性だって否定できないのだから。

< チジャントゥン >
グドンの南はチジャントゥン(Cijantung)だ。この地名もチリウン川の支流から取られたもので、スンダ語のジャントゥンはバナナの花を意味しているそうだが、チジャントゥン川とバナナの花が関わっているのかいないのかはわからない。
マタラムのスルタン・アグンによるバタヴィア進攻からかなりの歳月が流れた1657年11月4日、バタヴィアのカスティルから内陸部に向かう探検隊が出発した。フレデリック・ミュラー(Frederick H. Muller)大尉を隊長とする探検隊は、白人兵士14名と15人のマーダイカー(解放奴隷)で編成され、10人のプリブミが道案内に就いた。
この内陸部に向かったバタヴィア最初の探検隊は、内陸部にマタラム人の集団が住み着いていることや、またバンテン人がプリアガン地方への往来に使っている道がチリウン川沿いにあるといった情報を確認するために現場を実地検分することを目的にしていた。
一行はジャングルの道なき道を押し渡り、苦労の末に三日かかってチジャントゥンにたどり着いた。一行はそこでプラジャワンサ(Prajawngsa)と名乗る部落長が統治する12戸から成る集落を発見した。
メステルコルネリスからチジャントゥンへは12キロほどの距離であり、バタヴィアのカスティルからでも25キロほどしかないが、その行程に三日も要したというのは、いくらカンプンムラユが開拓されはじめたとはいえ、その更に南側はいかに人間の進入を寄せ付けないジャングルであったかということを推測させてくれる。

< チブブル >
チジャントゥンを更に下れば、プカヨン(Pekayon、植民地時代の綴りはFekajong)そしてチブブル(Cibubur、植民地時代の綴りはTjiboeboer)と続く。
チブブルという地区名称はチブブル村に由来している。広大な土地をオランダ人地主が自領にしたとき、そこにあった村の名称を領域名にしたようだ。ムンジュル(Munjul、植民地時代の綴りはMoendjoel)村という別称で呼ばれることもあったらしい。行政管轄はメステル・コルネリスに含まれ、バタヴィアとバイテンゾルフの中間地帯に入っていた。
1847年10月2日、オランダ政庁はチブブルの土地を没収した。広大な水田・水牛・馬そして言うまでもなく地主のカントリーハウスも含まれる。家具類一切から他の資産まですべてが没収された。その被害者になったのが誰だったのかはよくわからない。
政府が資産を没収すると、しばらくしてから競売に付される。コンセッションと呼ばれる土地の使用権の貸与である。チブブルの土地の公開競売がいつ行われたのかはわからないが、そのころタンジュンオーストの地主だったアメント家が最高値を付けたにちがいない。結局チブブル地区はアメント家の手に落ちた。

1852年に結婚したダニエル・コルネリス・アメントは1870年に四男三女を連れてヨーロッパのブリュッセルに引っ越した。子供の教育が主要な目的であったようだ。そのとき長男のチャリン・ディーデリック(Tjalling Diederik Sjoerd Auke Ament)は16歳、次男のECCアメント(Eduard Corneille Collett Ament)は14歳、末っ子のヨハンナはまだ1歳だった。
1870年4月8日付けヤファボーデ(Java Bode)紙に掲載された広告には、タンジュンオーストとチブブルの土地のコンセッション希望者はプカヨンの管理人HMアメント(Hendrikus Michiel Ament)に申し出るように、と書かれている。
ヘンドリクス・ミヒエルはダニエル・コルネリスの弟であり、かれらの父親が息子たちをあちこちの土地の地主にしていたことが分かる。

時が流れて、一家は再びオランダ領東インドに帰郷した。一家は本拠地のチルボンに戻ったが、次男のECCアメントはバイテンゾルフ北郊のチルアル(Ciluar)でビジネスキャリアを開始する。かれは1873年にアントワープのビジネス学校を卒業し、更にロンドンでもう一年ビジネスを学んでから、現場に放されたわけだ。
そのうちに父親のダニエル・コルネリスがバタヴィアに移り住み、1878年にECCアメントをチブブルの管理人に、兄のチャリン・ディーデリックをタンジュンオーストの管理人に任じて、各地区を管理させた。
チャリン・アメントはタンジュンオーストで製糖事業を試みたがうまく行かず、チルボンへ戻ってしまったため、ECCアメントが1883年からタンジュンオーストとチブブルの二地区を管理するようになる。かれはタンジュンオーストに灌漑設備を設ける工事を行った。
1888年10月16日のバタヴィア商業ジャーナル紙に、タンジュンオーストとチブブルでの狩猟を禁止するという通達が掲載されている。通達者は管理人アメントと記されていた。

当時71歳のECCアメントがチブブルにおける50年間の歴史を祝う祝賀会を1928年4月1日に開催したとき、近隣の諸地主から政財界上層部に至る3百人もの貴顕紳士が集まった。その機会に、オランダ本国政府が東インド政庁を通じてかれにオレンジナッソー勲章を授与したことが明らかにされた。
近隣の有力地主の中にケイズメイヤー(Kijdsmeir )家がある。この一家はバイテンゾルフ中心部から北西のチアンペア(Ciampea)地区を本拠にして、チロドン(Tjilodong)、チビノンウェスト(Tjibinong West)、タポス(Tapos)、クランガン(Kranggan)の諸地区を領していた。ECCアメントの姉妹のひとりはケイズメイヤー家の息子のひとりに嫁いでいる。
地主たちの行為を見ていると、かつて歴史の中に出現した封建領主たちの行動を連想させるものが少なくない。ジャワ島西部では20世紀に入ってまで、そのような状況が連綿と続けられていたようだ。ひとびとの精神の中に刷り込まれてきたそのような社会のあり方が干からびて行くのに、21世紀まで時間がかかっても不思議でないようにわたしには思われる。

ECCアメントは1935年に没して、チブブルにある家族廟に葬られた。
妻のマリア・スエルモント(Maria Suermondt)と三男一女の四人の子供が残された。祖父の名前を与えられた長男のダニエル・コルネリス・アメントが1928年以来既に父の後を継いでおり、チブブルの経営に当たっていた。そして日本軍進攻がこの一族に最悪の事態をもたらしたのである。

< チマンギス >
チブブルの西側に隣接しているのがチマンギス(Cimanggis)で、ここはデポッ市に含まれるのだが、同じデポック市とは言ってもシャステレインが開いて領有した土地はデポック市中心部であり、このチマンギス郡はイェマンス(Yemans)一族が地主として領した土地であったことから、イェマンスランド(Yemans Land)と呼ばれた。しかしイェマンス一族についてのトピックは何も残っていないようだ。
このランド(Land)という言葉の用法は、広大な私有地あるいは特定個人が地主になって単一行政区の趣をなしている領地を指してオランダ人が使った。既出のチブブルにせよ、タンジュンオーストにせよ、オランダ語の文書にはチブブルランドやタンジュンオーストランドという呼称で登場している。
必然的に地主の大邸宅はランドハイス(landhuis)という名称になった。このストーリーの中でわたしが使っているカントリーハウスという英語はオランダ語ランドハイスの訳語として一般に使われているものだが、保養のための別荘という意味合いにとどまらず、領主館(少なくとも地主館)というニュアンスがからみついていることを書き添えておきたい。
1770年代にヨハネス・ラッハが描いたスケッチ画のひとつに、馬車や牛車が集まっている姿を写したイェマンスランドのカントリーハウスの様子を見ることができる。ボゴール街道はチマンギス郡の中央を南北に貫通しており、イェマンスのカントリーハウスがそのころ、南往き街道を往復する交通機関のための宿駅サービスを商売にしていたことは疑いあるまい。
1808年にダンデルス総督が作らせた大郵便道路 (De Grote Postweg)にも、郵便物送受のための中継ポストが設けられた。イェマンスのカントリーハウスは当然その伝統をもってポストのひとつに組み込まれたのだが、1842年に出されたバタヴィア〜バイテンゾルフ間中継ポストのリストにはイェマンスの名前が見られず、チマンギスという名に替わっている。
第1ポスト ビダラチナ (Bidara Tjina) 
第2ポスト タンジュン (Tandjoeng) バタヴィアから15パアル
第3ポスト チマンギス (Tjimanggis) 
第4ポスト チビノン (Tjibinong) バタヴィアから28パアル
第5ポスト チルアル (Tjiloear) バタヴィアから34パアル
第6ポスト バイテンゾルフ (Buitenzorg) バタヴィアから39パアル
というのがそのリストだ。

イェマンスランドからチマンギスランドに替わったときの経緯はよく分からない。地主が替わり、先代の地主の名前でその土地を呼ぶことをよしとしないひとびとが呼称を変えたのかもしれない。少なくとも19世紀に入るころ、イェマンス一族は姿を消していた可能性が高いように思われる。

< チマンギスの家 >
ところで、2018年に入ってから、チマンギスの家(Rumah Cimanggis)と呼ばれているカントリーハウスに一躍脚光が当たった。チマンギス郡スッマジャヤ(Sukmajaya)にある国営ラジオ局RRIの送信施設用地の中に含まれているかつてカントリーハウスだった廃屋をインドネシア国際イスラム教大学建設のために取り壊す計画が世に流れて、歴史保存を叫ぶひとびとが反対の声を挙げたのがその発端だ。
資料によれば、そのカントリーハウスは1771年から1775年にかけて建設されたとなっているが、1778年に完成したという記事もある。このカントリーハウスは新しく建てられたのだから、イェマンスランド時代のものではない。
施主はファン・デル・パッラ(Petrus Albertus Van der Parra)元第29代総督であり、二番目の妻アドリアナ・ヨハナ・バーケ(Adrianna Johanna Bake) を住まわせるために建てたそうだ。ヨハナはそのカントリーハウスからおよそ1キロ離れた場所に市場を設けた。今その市場はパサルパル(Pasar Pal)と呼ばれている。

アドリアナ・ヨハナ・バーケはダヴィッド・ヨハン・バーケ(David Johan Bake)の長女として、1724年にアンボンで生まれた。ダヴィッドは1718年にVOCの下級商務員として東インドでの履歴を開始し、1733年にはアンボイナ長官に登り詰めている。
アドリアナ・ヨハナは若い年齢でアンボイナ軍船隊司令官と結婚し、1738年にダヴィッドが没すると夫と共にバタヴィアに移った。1743年に夫がバタヴィアで死去すると、やもめになっていたファン・デル・パッラと4カ月後に再婚した。ファン・デル・パッラは先妻との間に二男一女をもうけていた。
ところがアドリアナ・ヨハナとの間には長い間子供ができず、かの女は親族や身近なひとびとの子供を養育することをしきりに行なうようになった。そして1760年に待望の男児がふたりの間に生まれたものの、この息子は1783年に夭逝する。
アドリアナ・ヨハナは、1787年に没するまでその家で暮らしたようだ。しかしチマンギスのカントリーハウスを相続するべき、自分の血を分けた子供がいなくなったことから、自分が養育した子供たちのひとり、デヴィッド・スミスがその邸宅を受け継いだ。
このデヴィッド・スミスがチマンギスの家を設計したという話もあれば、かれは美術品をこよなく愛して邸内を養母のために美しく飾ったという話もある。それらを見る限り、少なくともアドリアナ・ヨハナの没後もその家が他人の手に渡ったわけではなさそうだ。しかしデヴィッド・スミスは何らかの事業に失敗して破産し、その家を去った。その後、そのカントリーハウスは南往き街道を上り下りする旅人にとっての宿駅として使われるようになった。

その後チマンギスの地主として登場するのは、メステルコルネリスのカピテンチナから差配を受けるブカシの初代レッナンチナになったラウ・テッロッ(Lauw Tek Lok)だ。かれのレッナンチナ就任は1854年のできごとである。
19世紀初期にバタヴィアの5大アヘン公認販売者のひとりだったラウ・ホウ(Lauw Houw)の家に生まれたテッロッの名前は新聞の常連になっていたが、1869年3月の新聞に「バイテンゾルフのバトゥトゥリスに豪邸を持っている」という記事が登場し、更に1873年8月にはバタヴィアのタナアバンとパサルバルに邸宅を持っていると書かれた。1880年にはグロドッに家があるとの記事もある。かれの生年は1818年と推定されているから、若い時期の話ではない。
東インド植民地政庁がチマンギスの土地の一部を軍用地に買い上げる交渉をテッロッと行っているという記事が1876年8月11日のヤファボーデ紙に掲載されている。チマンギスに軍守備隊駐屯地を設けるのは、1860年代にラトゥジャヤ(今のポンドッテロンPondok Terong)で発生した反乱に鑑みて、メステルとバイテンゾルフの中間地域の鎮圧能力を高めることが目的だった。ラトゥジャヤの反乱は先に起こったブカシの反乱の延長線上にあり、ブカシ反乱のリーダーの一部がラトゥジャヤに逃げた後、態勢を立て直して行ったものだった。
軍用地買い上げの前にも、バタヴィア〜バイテンゾルフ間の列車線路建設用地買収が行われており、バタヴィア高等裁判所がポンドッチナ・デポッ・ラトゥジャヤの私有地の一部を政府が補償金を払って強制収用する判決が出されている。チマンギスには線路が通らなかった。
1881年7月20日のバタヴィア商業新聞が、ラウ・テッロッがバイテンゾルフのカピテンチナにチマンギスの土地を27万フローリンで売り払ったことをすっぱ抜いた。タパヌリのバタントル川に建設中の東インドで一番長い百メートルの橋の工事費用総額が14万フローリンでしかないのに比べて、27万フローリンが異様な高値であることに世人は首をかしげた。バタントル橋は1879年に着工され、1883年に完成した。もちろん、そのふたつの間には何の関係もない。
ラウ・テッロッは従来からチマンギスの経営にあまり意欲的でなかった印象が強く、地主の交代がチマンギスの今後の発展を促すよう期待されているとの声が新聞に記載されていた。それから一年も経たない1882年5月、ラウ・テッロッはメステルコルネリスで世を去った。
チマンギスの西側に接しているポンドッチナの地主がラウ・チェンシアン(Lauw Tjeng Siang)であることを1898年6月のバタヴィア新聞が明らかにしている。ラウ・チェンシアンがラウ・ホウ一族の一員であったかどうかは確認できないものの、かれらもやはり封建領主もどきの行為を行っていた可能性は否定できない。
ラウ・テッロッの業績は植民地政庁を十分に満足させるものであったが、かれが1848年生まれのボヘミア系欧亜混血娘フランシスカ・ルイザ・ゼシャ(Francisca Louisa Zecha)を妻にしたことは植民地支配階層の不興を買った。
夫の没後1884年にフランシスカは夫の秘書シム・ケンクン(Sim Keng Koen)と再婚し、バタヴィア上流層の間で一大スキャンダルとして騒がれた。フランシスカの子孫がインドネシアのホテル業界で著名なアドリアン・ウィレム・ラウ・ゼシャで、かれはアマンリゾートのオーナーである。

1946〜47年には復帰してきたオランダ文民政府と植民地政府軍がジャカルタ一帯を制圧し、それに続く第一次警察行動のとき、ジャカルタ南部方面の軍事行動の際にアドリアナ・ヨハナのカントリーハウスは司令部として使われた。
1953年にはサムエル・デ・メイヤー(Samuel de Meyer)という人物への不動産名義変更が行われている。1964年にその地域の広大な地所に国営ラジオ局RRIが大型送信アンテナ3基を設けた。そのときそこのラジオ施設用地がRRIの資産にされたようだ。必然的にアドリアナ・ヨハナのカントリーハウスもRRIの資産となる。
1978年にRRIはそのカントリーハウスを社員家族寮として使い、13家族用に建物内を改装した。しかし老朽化のために2002年ごろから使われなくなって、完全に空き家となり、風雨に痛めつけられて廃屋化した。
しかし地元歴史愛好家の話によれば、空き家となってからは完全に見捨てられ、何の補修もなされなかったものの、2009年まで建物は完璧な姿で立っており、屋根も崩れていなかったそうだ。崩れ始めたのは2011年に入ってからで、2013年には四分の一が崩れ、2016年にはもはや残骸に変わってしまったとのことだ。

< チロドン >
チマンギス郡からボゴール街道を更に南に下ると、チロドン(Cilodong)郡に入る。元はスッマジャヤ郡の町だったが、2007年に郡に昇格した。チロドンには陸軍第328戦略予備軍司令部が置かれており、チロドンという地名を聞くとKostrad という言葉が脳裏に浮かんでくるインドネシア人の方が多いようだ。

チロドンランドの名前は1820年3月11日のバタヴィア新聞にあるのがもっとも古いものらしい。バイテンゾルフ市庁が43,319フローリンの地租税で競売に付し、スキピオ・イセブランドゥス・エルヴェシウス・ファン・リームスデイク(Scipio Isebrandus Helvetius van Riemsdijk)が手に入れた。チアンペアの地主、ウィレム・フィンセンツ・エルヴェシウス・ファン・リームスデイク(Willem Vincent Helvetius van Riemsdjik)の十番目の子供だ。
スキピオは1785年にバタヴィアで生まれ、1805年から11年まで、ダンデルス時代に作られた東インド政庁の要職に起用された。1820年にかれはチロドンの地主になったが、1827年1月に世を去っている。

スキピオはバリ人のマニスを妻にし、子供を7人もうけた。最初の子は娘で、政庁の高官の妻になった。二番目が長男のウィレム・マルティヌス・ケイズメイヤー(Willem Martinus Kijdsmeir)で、タンジュンオーストの地主の末娘と結婚し、農園事業で成功した。三番目と七番目の子は1837年に世を去った。五番目の娘はクドゥのレシデンの妻になった。六番目はカタリナ・ヨハンナ・ケイズメイヤー(Catharina Johanna Kijdsmeir)という名の娘で、植民地政庁保健局長Dr. Geerlof Wassinkと結婚し、夫は定年退職後タポス(Tapos)ランドを買い取って地主になった。タポスはチロドンに隣接している。
スキピオの後を継いでチロドンの地主になったのは5番目の子供アブラハム・ピーテル・ケイズメイヤー(Abraham Pieter Kijdsmeir)だった。アブラハム・ピーテルは他の兄弟姉妹と異なっていたようで、バリ人の母の血が濃かったのだろうか、自分をプリブミと考える傾向が強かった。そのせいか、サイバという名のプリブミ女性と結婚している。
別の資料では、スキピオは連れ子を7人持つバリ人女性を妻にし、その子供たちを全員洗礼させて養子にしたと述べられている。更に子供たちに姓を与えて伴侶を持たせ、チロドンの土地を代々受け継がせたという説明だ。
デポッ(Depok)ランドのオーナーで1714年に没したコルネリス・シャステレインが、自分の没後に家族や奴隷たちがその土地での生活を確立できるようにいろいろ取り計らった故事を思い出させるような話になっている。

< チビノン >
更にボゴール街道を一路南にボゴール市を目指して進むと、ついにチビノンにたどり着く。ここは今、ボゴール県チビノン郡になっている。チビノン(Cibinong)という地名のビノンというのは樹種の名前で、板根を作る巨木のテトラメレスを指している。
現在ボゴール市(Kota Bogor)を取り巻いているボゴール県(Kabupaten Bogor)の県庁は1982年までボゴール市内のパナラガン(Panaragan)に置かれていたが、1982年政令第6号で移転が定められて1990年にチビノンに移ったため、ボゴール県の県庁所在地はこのチビノンになっている。

VOC時代のチビノン私有地の地主が代々誰だったのかについての記録は見つかっていないものの、ダンデルス時代に政庁の要職に就いていたスキピオ・イセブランドゥス・エルヴェシウス・ファン・リームスデイクが、ジャワ島のイギリス統治時代が幕を閉じてオランダ植民地政庁が私有地制度を復活させたときにそこを手に入れた可能性は大きい。
1820年3月にバイテンゾルフ市庁の行った43,319フローリンの地租税での競売に勝ってチロドンランドをスキピオが手に入れたあと、かれはチビノンランドを売却してチロドンに引きこもろうとしていたらしい。しかしどうやら、その計画はうまく進まなかったようだ。チビノンランドの地主はかれの子孫が継承している。
チビノンと隣接するチロドンのふたつの私有地を、かれは巧みに経営していた。1821年6月9日付けのバタヴィア新聞に、S. Is. H. リームスデイクの署名でチロドンランドの邸宅を売りに出す広告が掲載されている。
1827年1月11日にかれは生涯を閉じたが、遺族はかれの遺志を継いで1827年4月14日にバタヴィア新聞に広告を載せた。売りに出されたのはチビノンランドの南部にあるナンゲウェル(Nanggewer)地区とチビノンオースト(Tjibinong Oost)地区で、ナンゲウェルはバタヴィアから十時間の距離にある農園エリアであり、チビノンオーストは乾燥地と草地から成っている土地で、石造りの邸宅のほかに石造りの建物や木造倉庫あるいは車庫などもあり、更に中国人が働いている倉庫も5軒あって、パサルへのアクセス路も設けられていると説明されている。
どうやらチビノンランドはチビノンオーストとチビノンウエストに分割されたらしく、当初はその両方でスキピオの子孫が地主になっていたが、最終的にチビノンオーストは売却され、チビノンウエストがスキピオの子孫によって代々継承されたようだ。

< チアウィ >
チビノンの町からボゴール街道を更に南下し、ナンゲウェルを越えてクドゥンハラン郡に入ると、そこはもうボゴール市だ。ボゴール市街に差し掛かるエリアにまで来れば、このボゴール街道の西側にあるデポッ市から下って来る街道、デポッ市のもっと西側にあるボゴール県パルン(Parung)の町から下って来る街道が集まって来る。ボゴール市がどれほど深くその周辺地域のセンターになってきたかということが、そこから想像できるにちがいない。
ボゴール街道がボゴール市内に入ってパジャジャラン通りに名を変え、しばらく南下を続けると右方向に向けてAヤニ通りが分岐する。Aヤニ通りはヴィッテパアルを経てボゴール宮殿の正面に向かう道だ。
一方、パジャジャラン通りはボゴール植物園の東縁をかすめながら更に南下してタジュル街道(Jl Raya Tajur)となり、チアウィ(Ciawi)に向かう。チアウィは農業地帯であり、バイテンゾルフからスカブミへ南下する街道と、東に向かってグデパンラゴ山系を山越えしてチアアンジュルに向かうプンチャッ街道の三路が交差する交通の中継地として発展した町だ。
昔、バンテンが威勢を誇っていた時代に、王宮が領民に命じた藍・綿糸・コーヒーの供出を嫌がったひとびとが逃亡してこの地区に住み着いたという故事もある。
地名の由来としてこんな話が語られている。昔、バンテンとチルボンによるイスラム化が進み始めたころ、この地区の地場支配者は仏教に固執してイスラムを拒否した。チルボン王宮は優れた女性サントリを選んでその支配者をイスラム化するよう密命を与える。
かの女はイスラムが優れていることを説いて説得しようとしたが、支配者の気持ちは変わらない。正攻法ではダメだとわかったため、かの女は策略を設けた。川の近くに竹で囲まれた水浴場を作り、木や花を植え、愉しくくつろげる様子に仕立て上げ、そこを通りかかる者はついついそこでひと時を過ごしたくなるようなものにした。
そんな場所があることを噂で聞いた支配者は、ある日そこを訪れて気持ちよくなり、ゆっくりと水浴した。魔力を持つクリスを衣服と一緒に置いて、かれはのんびりと水浴を済ませてから上に上がったところ、なんと女性サントリが自分の魔力を持つクリスを手にして、「さあ、イスラムに入信せよ」と迫って来たではないか。
かれにとって女性サントリを打ちひしぐのは赤子の手をねじるようなものだが、魔力を持つクリスの方が怖い。結局支配者は、女の知恵に敗れたという無様な評価を避けるためにその地方から逃亡し、この地域はイスラム勢力の前に明け渡されてしまった。
こうしてスンダ語で水を意味するチ(ci)と竹を意味するアウィ(awi)を合わせたチアウィがこの地名として定着したというストーリーだ。
ファン・イムホフ総督は1751年、チサルア・ポンドッグデ・チアウィ・チオマス・チジュルッ・シンダンバラン・バルブル・ダルマガ・カンプンバルの9ディストリクトをひとつの行政単位にまとめてバイテンゾルフレヘント行政区にした。それ以来チアウィは農産物の貢納と更に西へ向かう交通の中継地としてVOCの監督下に入ることになった。
1847年以降の歴代チアウィ村長の名前は残されているようだが、それ以前の状況はよくわからない。結局チアウィが歴史の中で歩んだ評価はその程度のものでしかなかったということなのかもしれない。

< リド >
チアウィから街道を13キロほど南下すると、チゴンボン(Cigombong)村に達する。街道からそれて東の山腹に向かうと、3キロほどのところにリド湖(Danau Lido)がある。
植民地政庁が1898年にバイテンゾルフ〜スカブミの道路工事を行ったとき、オランダ人の工事監督官が快適に過ごせる宿泊場所を工事関係者らが探した。そして山に少し入ったところの山峡が避暑保養にも適している場所であるのを見出して、監督官にそこを勧めた。
総面積1.7Haのリド湖は、周辺の湧水や山峡を流れ落ちる水をせき止めて作られた人造湖だそうだ。せき止めるために分厚いガラス板が使用されたそうで、そのガラス板は今やタンバカン(Tambakan)部落の下に埋もれているらしい。
このリド湖にヴィラやコテージを建てて観光開発を行ったのはオランダ人アントニウス・ヨハネス・スウェイスン(Antonius Johanes Ludoficus Maria Zwijsen)だ。1898年にオランダで生まれたかれは、1919年に警察高官としてバタヴィアに駐在を命じられた。その勤務に関連して1935年に、かれはスカブミの警察エージェントであるカタリナ・アンナ・ベームスター(Chatharina Anna Beemster)と知り合い、恋に落ちる。カタリナは女性ながら、警察高官の父親の影響を受けて警察エージェントとして植民地政庁に奉職していたようだ。ふたりは1937年に結婚する。
スウェイスンはバタヴィア駐在勤務を終えるとメンテンのゴンダンディア地区にあるホテルネーデルランドに就職して働き、目途を付けたところでハルモニーにあるホテルを買い取り、その一方でリド湖にヴィラやコテージを建てた。
リド湖のヴィラやコテージはスウェイスンとカタリナが週末を過ごしたり、親戚や友人知人を招いてパーティを開いたり、更にはスウェイスン所有ホテルの客に利用させるといった個人用途とビジネス用途を混在させる使われ方がなされたようだ。
1940年にウィルヘルミナ女王が宿泊するためにオラニェリド(Oranje Lido)レストランが作られて、盛大な晩餐会が催された。その出来事を期に、リド湖リゾートは一般公開されて、客が自由に訪れることのできる場所になった。
日本軍の進攻でスウェイスンとカタリナの一家はオランダに移った。日本軍はこのリド湖リゾートを一部破壊したが、破壊しつくされることは防がれたようだ。戦後戻って来たオーナー一家は昔のビジネスを再開させたものの、1953年再びオランダに引き上げざるを得なくなった。
現在このリド湖リゾートはLido Lakes Resort & Conferenceという名前で営業しているが、2018年中旬ごろまで改装のために利用できない状態にある。再開が待ち遠しいところだ。

< プラブハンラトゥ >
チゴンボン村から24キロ更に南に下るとチバダッ(Cibadak)村に着く。街道はここで東に向きを変え、20キロ弱でスカブミの町に至る。一方、ここからは更に南に向かう道路があり、50キロほど走ればプラブハンラトゥに行くことができる。プラブハンラトゥへはチバダッ村に入る手前で西に折れる道路があり、このルートを取れば距離はもっと近いが、山中のあまりにぎやかでない道を通ることになる。
1687年にピーテル・スキピオ・ファン・オーステンデ(Pieter Scipio Van Oostende)率いる探検隊がボゴール高原の寂れた村に大きな街の遺跡を発見したあと、更に南方のプラブハンラトゥ(Pelabuhan Ratu)まで歩を進めて、インド洋岸にたどり着いている。
1690年にはアドルフ・ウィンクラー(Adolf Winkler)の探検隊が探査を行い、そのあとアブラハム・ファン・リーベークの探検隊が1703年・1704年・1709年にプリアガン地方奥深くまで探査した。1709年にはグデパンラゴ山系を越えてスカブミ地方に達し、コーヒー栽培の可能性を調べている。
1709年に第8代総督となったリーベークは1712年にプリアガン地方で試験栽培させようとしてコーヒーの苗を携え、当時オランダ人がヴァインコープスバアイ(Wijnkoopsbaai)と呼んでいたプラブハンラトゥに海路達してそこで上陸した。プラブハンラトゥに海からやってきた最初の西洋人がかれだったわけだ。リーベークはそのときの旅で、パパンダヤン火山とタンクバンプラフ火山に登って火口で硫黄の調査も行った。火薬の原料は必需品なのだ。
リーベークは1713年11月にバタヴィアで総督在任中に死去したが、タンクバンプラフでの硫黄調査で健康を害し、それが命取りになったと言われている。享年60歳だった。

< シトゥグヌン >
スカブミの町の中心部まで行かないあたりに、街道から左に折れて山に向かう道がある。チバダッ村からおよそ13キロほど進んだチサアッ(Cisaat)の警察署の手前に左に折れる道がある。そのカドゥダンピッ(Kadudampit)通りを山に向かって16キロあまり走ると行楽地シトゥグヌン(Situ Gunung)に行き当たる。
海抜950メートルに位置するシトゥグヌンは気温が28℃以下で、夜は16℃まで冷え込む。シトゥはスンダ語で池や沼を意味する言葉だ。総面積6Haのシトゥグヌンは文字通り山の池なのである。この行楽地は森林公社プルフタニのスカブミ支社が運営するもので、会議場のある宿泊施設やテントを貸し出してくれるキャンプ場、アウトバウンド設備やジョギングあるいは森林ウオークもあって、山と森を満喫できる場所になっている。おまけに周辺にはいくつも大きな滝があって、山の愉しみを更に盛り上げてくれる。
この山の池は人造のものであり、天然の池ではないという話になっている。池は年に一回、祭事が催されたあとで水の総ざらえが行われる。堰を切ると、水面は予想外の速さで下降して行き、底が現れる。確かに削られたあとが見られることから、人造の池であることは確認されている。ところが、その水底に転がっている魚が一尾もいないのだ、と土地の人は語る。水がある時には池に確かに魚が泳いているのが見えるし、釣りをすれば10キロを超える大物がかかることもあるにもかかわらずだ。そして再び水を満たし始めれば、水源は周囲にある数カ所の湧水だけだというのに、また意外な速さで水面が上昇して行くのだそうだ。
この池の由緒来歴については、こんなストーリーが語られている。
昔マタラム王国とオランダ人の戦争が激しくなり、王都が脅かされるようになったとき、王族や領民があちこちへ逃亡した。ランガ・ジャガッ・シャハダナ(Rangga Jagad Syahadana)もそのひとりだった。かれは最初から反オランダの旗幟を鮮明にしていたため、オランダ側はかれを捕らえて処刑しようと考えていた。
マタラムの王都を脱出したシャハダナはバンテンに保護を求め、バンテンを最終目的地にしてマタラム王国領の西ジャワに入った。クニガン(Kuningan)に滞在しているとき、かれはクニガンの女を妻にした。そこから、妻を連れての旅が始まった。プリアガン地方に入り、ウクルの地を経てチアンジュルに至る。しかしチアンジュル〜スカブミのルートもバイテンゾルフにつながるプンチャッ街道をも通るわけに行かない。オランダ人の勢力下にあるそれらのルートを通れば、いつどこでオランダの官憲に誰何されるかわからないのだ。
シャハダナ一行はグデ山の山腹に分け入った。難渋しながら道なき道をたどってかなりの山中に入ったころ、身重になっていた妻が旅を続けられなくなったため、庵を構えた。
月満ちて妻は男児を産んだ。シャハダナの歓びはいかばかりだったろうか。かれはその歓びを表すために巨大な池を作ろうと考えた。今で言うならダム建設だろう。ありあわせの道具で、シャハダナとかれに従うひとびとが地面を削り、堤を作り、周辺の湧水を集める水路を設けた。7日後に出来上がったのがこのシトゥグヌンだったそうだ。
周囲の風景によく調和したこの池がひとびとの噂になり、言うまでもなくオランダ人の耳にも入る。その池にお尋ね者が関わっているようだという情報を得た地元行政当局は捜査を開始し、1840年ついにシャハダナを逮捕する。
裁判で絞首刑の判決が下り、処刑はチサアッのアルナルンで行われることになった。ところがかれは脱獄に成功して行方をくらまし、かれの名を耳にすることは二度となくなった。遺族によれば、かれが没したのは1841年で、墓は遺族だけが知っている秘密の場所に置かれているそうだ。

< スカブミ >
グデ・パンラゴ山系南麓に位置するスカブミは,高原の台地を利用した茶やコーヒーの栽培、また豊富な水を使った水田などの農業地帯とし発展してきた。涼しい気候と緑あふれる美しい自然の風景を好んだオランダ人が農園事業主となってこの地方に住んだのも不思議はない。
スカブミの語源はスンダ語のsuka bumenだという説がある。インドネシア語に直せば、suka menetapだそうだ。一方、サンスクリット語由来だとする説はsuka bhumiから来たと主張している。こちらの方も意味は「楽しむ土地」ということで、それほどの違いはない。

最初、スカブミはカディパテンプリアガンに属するグヌンパラン(Gunung Parang)という名の小さな村でしかなかった。後になって発展したチコレ(Cikole)がその村を呑み込んでしまう。
1709年に第18代総督アブラハム・ファン・リーベークはチバラグン(Cibalagung)、チアンジュル、ジョグジョガン(Jogjogan)、ポンドッコポ(Pondok Kopo)、グヌングル(Gunung Guruh)の視察を行って、コーヒー農園事業の可能性を実地検分している。チバラグンは今のボゴール市内西部にあり、またグヌングルはスカブミの町から4キロほど南東の地区だ。
ファン・リーベーク第18代総督やヘンドリック・スワルデクロン (Hendrick Zwaardecroon)第20代総督はコーヒー栽培の拡張を目論んで、ボゴール〜スカブミ〜チアンジュル一円をその対象地区にすることに努めた。
時の経過とともに、グヌングル(Gunung Guruh)地区に設けられたコーヒー農園は小規模な居住区を内包しながら発展した。そのひとつが チコレ村だ。1776年にチアンジュルのブパティ、ウィラタヌ四世がチコレにクパティハン(Kepatihan)を置いた。クパティハンチコレ はグヌンパラン、チマヒ(Cimahi)、チフラン(Ciheurang)、チチュルッ(Cicurug)、ジャンパンクロン(Jampang Kulon)、ジャンパントゥガ(Jampang Tengah)の6ディストリク(Distrik)から成っていた。
オランダ人がやってきて周辺地域の土地を買い、自分の地所に農園を開くことが盛んに行われるようになって、チコレもオランダ人の町の態をなすようになる。
VOCが振興させた西ジャワ地方の茶やコーヒーの栽培はまずスカブミ地区が中心地をなし、それがおいおいバンドンやもっと東の方へ広げられて行ったというのがその歴史であるようだ。
バイテンゾルフが作られると、バタヴィア〜バイテンゾルフ〜チアウィ〜スカブミ〜チアンジュルというルートはVOCバタヴィアにとって重要な経済動脈路の意味合いを持つようになっていく。
ダンデルス総督の有能なアシスタントを務めたアンドリース・デ・ウィルド(Andries de Wilde)はバイテンゾルフの副レシデンの職務を後にして1808年にコーヒー栽培監督者としてバンドンに移った。そして1813年、かれはラフルズ、トーマス・マッコイド、ニコラス・エンゲルハードと一緒にスカブミの広大な土地を購入した。北はグデ・パンラゴ山系の南麓から南はチマンディリ川まで、西はバンテンとバイテンゾルフのレシデン区境界線、東はチクパ川までというのがその区画だ。
そしてかれはその地名であるチコレをやめてスカブミという名前に変更するよう総督に要請し、1815年1月13日に総督は公式にその地名をスカブミとする決定書を発布した。スカブミ市はその日を創設記念日としている。
オランダ人住民が増えて東インド政庁に住民行政サービスを求めるようになった結果、1914年4月1日、政庁はスカブミをヘメンテ(市制)に格上げした。
1926年に初代市長ジョルジュ・フランソワ・ランボネ(George Fran?ois Rambonnet)が就任し、スカブミの町は見違えるように変身する。
バイテンゾルフから鉄道が伸びてきて駅が作られ、クリスチャンとカソリックの教会や大モスクが建てられ、ウブルッ(Ubrug)に発電所が設けられ、警察学校が開校した。この警察学校は軍隊の士官学校に相当し、警察組織の幹部を養成する役割を果たした。この学校は現在もインドネシア共和国国家警察幹部養成学校として機能している。
その過ごしやすい気候のおかげでオランダ人はスカブミにさまざまな学校や教育施設を設けたことから、学園地区の趣を呈した時代もある。バンドンをはじめとする西ジャワ地方のあちこちの土地に先駆けて、スカブミはバイテンゾルフに続く第二の文化と産業の中心地として発展した時代があったということだ。
特に茶の生産は一時期、東インド最大と言われたこともあり、国内は言うに及ばず、国外にまでスカブミ茶の名前は人口に膾炙した。今でもスカブミ市内からチマング(Cimanggu)経由でプラブハンラトゥ(Pelabuhan Ratu)に向かうプラブハン通り沿いには、往時林立した茶葉の加工工場の名残りを見ることができる。

< スラビンタナ >
スカブミの町から街道を北へ折れてシリワギ通りをまっすぐ北上していくと、1.5キロほど走ったところでスルヤクンチャナ通りが左から合流してくる。そこからは道路名がスラビンタナ(Selabintana)通りと変わり、この道を5キロ半ほど走って行くと、突き当たりにスラビンタナホテルがある。
周囲は緑蔭に包まれ、ホテルの前は広いグランドになっていて、高原の涼しい空気の下で自然を満喫することができる。ここにリゾートを作ったのはオランダ人レンネ(AAE Lenne)で、1900年にホテルが開業した。スカブミ地区在住ヨーロッパ人はもとより、バタヴィアやバイテンゾルフからの行楽客が十分期待できるだけの位置付けを当時のスカブミは持っていたにちがいない。
1924年にホテルの経営は息子のGEレンネの手に渡され、有能なオランダ人マネージャーに恵まれてスラビンタナレゾートは大いに発展したようだ。
日本軍政期には日本軍が接収し、そこでのホテル業は継続されて、日本人が経営した。インドネシアの主権承認に伴ってホテルはインドネシア政府に渡されたものの、使われないまま数年が経過してから1953年に空軍中将がホテルを改装し、1967年に一般公開された。

< プリアガン >
パジャジャランスンダ王国が滅亡したあと、プラブ・グサン・ウルン(Prabu Geusan Ulun)王が1580年にスムダンララン(Sumedang Larang)王国を興してパジャジャラン王国の後継者を名乗った。王都はクタマヤ(Kutamaya)で、現在のスムダン市の西方に位置した。バンテンに服従したくない旧パジャジャラン王領の民がグサン・ウルン王に服属したのも当然だったろう。
グサン・ウルンの妻のひとりはマタラム王家の娘だった。その息子ラデン・アリア・スリアディワンサ(Raden Aria Suriadiwangsa)が王位にあるとき、スムダンラランはマタラム・チルボン・バンテン・バタヴィアの四勢力のはざまで窮地に陥り、王は母の意見に従ってマタラムに降った。時のマタラム王はバタヴィアへの軍事進攻を行ったあのスルタン・アグンだ。こうして1620年以降、西ジャワの中ほどから以東はマタラム領となる。

スムダンラランをカディパテンのひとつに加えたスルタン・アグンは、バンテンとバタヴィアに対する防衛線をプリアガン(Priangan)に敷く戦略を取った。プリアガン地方とは現在のスカブミ・チアンジュル・バンドン・西バンドン・マジャレンカ・スムダン・ガルッ・タシッマラヤ・パガンダラン・チアミスの諸県から成るスンダ文化の中心地帯だ。
ただその時代にマタラム王国が設けたカディパテンプリアガンという行政区域がカバーしたのはスムダン、スカプラ、バンドン、リンバガンの各全域とチアンジュル・カラワン・パマヌカン・チアスムの一部地域で、アリア・スリアディワンサはスムダンラランからプリアガンへ移封された。かれはランガ・グンポル(Rangga Gempol)一世としてプリアガンのアディパティとなる。
ランガ・グンポル一世がスルタン・アグンから命じられてマドゥラ島のサンパン攻略戦に従事しているとき、プリアガンがバンテンの攻撃で大敗を喫したために父王の代理の任に就いていた王子がスルタン・アグンの怒りを買ってマタラムに虜囚されたことがある。そのとき、プリアガンの領主に格上げされたのが南バンドンのクラピヤッ(Krapyak)を根拠地にバンドン地区を治めていたディパティウクル(Dipati Ukur)で、かれは1629年のマタラム王国第二次バタヴィア軍事遠征にかり出されている。
マタラム王スルタン・アグンが没すると、後にアマンクラッ(Amangkurat)を号する王子が跡を継いだ。このアマンクラッ一世の統治は1646〜1677年で、マドゥラの領主トルノジョヨ(Trunojoyo)の叛乱で王宮を脱出し、バタヴィアに保護を求めての逃避行のさ中に、バニュマスで毒を盛られて非業の最期を遂げた。
父のスルタン・アグンが示した対決姿勢をよそにアマンクラッ一世は1646年に、マタラムの支配地域にVOCが交易ポストを設けること、マタラムはVOCが支配する島々との交易を行うこと、また捕虜を互いに解放するといった交換条件に関する条約をバタヴィアと結んだ。
しかしかれは自分の息子で皇太子であるマス・ラッマッ(Mas Rahmat)と不仲になり、政策の不一致や私生活の争いが元で互いに相手を破滅させようとする関係に陥る。それを通奏低音にしてアマンクラッ一世はさまざまな要因から大勢の人間の生命を奪う殺人鬼と化し、それがかれの敵を更に増やすという悪循環が始まった。
マス・ラッマッはマドゥラ領主トルノジョヨと知り合い、親族に支援させて反乱を起こさせるのに成功した。トルノジョヨの叛乱軍にマカッサルやスラバヤからの応援軍が加わり、アマンクラッ一世はバタヴィアに軍事支援を求めて叛乱軍と対決するが、敗北したあげく1677年には自分の王宮が陥落してしまう。
父に替わってアマンクラッ二世となったマス・ラッマッはコルネリス・スピルマン(Cornelis Speelman)第14代総督が立てた総力を結集する叛乱軍撲滅作戦に加わり、スラバヤでの会戦で叛乱軍を敗った。そのあとは掃討戦となり、1679年にクルッ(Kelud)山でトルノジョヨが捕らえられて叛乱は終結する。
言うまでもなくVOCは功績の代償をアマンクラッ二世に要求した。こうして1678年にプリアガンとチルボンの支配権がバタヴィアに移譲されるのである。それ以来マタラム王国は徐々に徐々に、牙を抜かれた猛獣の立場に追いやられて行く。
1808年にオランダ植民地政庁はカディパテンプリアガンの地域行政権に手を入れた。ダンデルス総督が大郵便道路を建設した年だ。大郵便道路はバイテンゾルフからチアウィを経た後、グデ・パンラゴ山系の東尾根を突っ切るルートを取って、山系南東に位置するチアンジュルに向かった。スカブミを通る迂回路をダンデルスは避けたということだ。
カディパテンプリアガンはプリアガンレシデン区となり、最初チアンジュルに首府が置かれたが、グデ山が噴火したために1864年にバンドンへ首府が移された。

< チアンジュル >
歴史に登場するチアンジュル最初の領主はラデン・アリア・ウィラ・タヌ(Raden Aria Wira Tanu)で、パダルマン(Padaleman)チアンジュルを地名に称し、チクンドゥル(Cikundul)に領主館を置いた。かれは1677年から1691年まで支配権を振るった。かれはタラガ(Talaga)王家の後裔と言われている。
14世紀にガル王国の王族が現在のマジャレンカ(Majalengka)県の一地区の領主となり、スナン・タラガ・マングン(Sunan Talaga Manggung)を号した。17世紀になってタラガ王家のひとりアリア・ワンサ・ゴパラナ(Aria wangsa Goparana)がイスラムに入信したが、タラガ王国のスナンたちはヒンドゥを頑なに守り続けてムスリムを疎外したことからゴパラナはムスリム領民を連れ、故郷を捨てて西に向かった。そしてグデ山東山麓の無人の原野を開いて村を興し、そこをサガラヘラン(Sagara Herang)と名付けた。
その土地がマタラム王国領であるにも関わらず、アマンクラッ一世の目を盗んで西ジャワ内陸部へ勢力を伸ばしてくるバタヴィアに対して、ゴパラナの息子ウィラタヌ(Wiratanu)はきっぱりした対決姿勢を示した。だが程なくプリアガンはバタヴィアに移譲されたのである。
代替わりしたウィラタヌ二世のとき、バタヴィアのVOCはチアンジュルをレヘント行政区にし、ウィラタヌ二世をレヘントに任じた。1691年のことだ。
1707年にウィラタヌ三世が跡を継ぎ、レヘント行政区の首府をチアンジュル村に移した。この三世はバタヴィアの命ずるコーヒー増産に邁進し、チアンジュルレヘント区をプリアガンレシデン区最大のコーヒー産地に押し上げた。その努力を賞して時の第19代VOC総督ファン・スウォル(Van Swoll)はジャンパン地区をチアンジュルレヘント区に合併させることを承認している。
次のレヘントはウィラタヌ・ダタル(Datar)四世を称し、1727年に代替わりした。この四世の時代が終わる1761年までの間に、チアンジュルレヘント区は更にチバラグンとチカロンを区域に加えて目覚ましい拡張を遂げている。[ 完 ]


2018年3月7日から9月5日まで連載したものを加筆修正。