インドネシア事件簿2007〜09年


「ナニーの恐怖体験」(2007年7月2・4日)
デポッ市サワガン街道沿いにあるバクティユダ病院の近辺は病院に出入りする車で混雑するため、朝の出勤時には渋滞するのが日課になっている。2007年2月19日午前8時半、デポッ市スクマジャヤに住むナニーは夫が運転する車の中にいた。車は渋滞につかまってのろのろとしか進まない。二人乗りのオートバイが近寄ってきてナニーを指差して何かを言っていたが、ナニーも夫もそれを無視した。車が病院の前でいざるようにしか進まなくなったとき、またさっきの二人乗りオートバイがやってきて中のふたりに何か言いながら車の前にオートバイを止めた。「ちょっと外を見てきて。」と夫に言われて、ナニーは車の外に出た。フロントグリルや足回りを調べたが異常は何も見つからない。夫も自分の目で確かめようとして車を降りた。すると病院の方から三人の男が近寄ってきて、ひとりは夫と一緒に車の後ろを見に回った。もうひとりはナニーに話し掛けてきた。「さっき火が出てるのが見えた。」
もうひとりの男は車の横に立ったままだ。そしてオートバイに乗ったふたり組はいつの間にか姿を消していた。みんなが車の周りを調べ、何も異常がなかったことに安心し、そして三人の男たちもやってきた方角に去って行った。ナニーと夫は車に入り、ふたたび車を発進させた。そしてナニーは車の中に置いていた自分のハンドバッグを探した。ハンドバッグは助手席の運転席寄りの位置に置いてあったはずなのに。そしてふたりはほとんど同時に叫んだ。「引っ掛かった!」
現金、カード、携帯電話、車のスペアキー、家の鍵、住民証明書、腕時計・・・・。それらを入れてあったナニーのハンドバッグは車内のどこにもなかった。オートバイのふたりと寄ってきた三人の男たちが組んで打った芝居があれだったのた。
ナニーと夫はよくよく狙われやすい体質だったのかもしれない。2007年3月19日昼12時半ごろ、ふたりは中部ジャワ州ゴンボンの町に入る1キロほど手前のあたりを走っていた。すると二人乗りオートバイがナニーの夫の運転する車に接近してきたではないか。いったい何をされるのかと不安を感じたとき、オートバイの後に乗った男が固い尖ったものを手にして車のボディをこすったのだ。多分釘かなにかだろう。ナニーの夫はそれを無視してスピードをあげ、その二人乗りオートバイを振り切った。街中に入り、ゴンボンのパサル前の渋滞につかまったとき、二人乗りオートバイがまた現れてサイドミラーをバシバシと叩いた。ふたりは恐怖と怒りをこらえてじっとそれを無視した。やっとの思いで渋滞を抜けたふたりは目的地へと急いだ。その間ドアも窓も開けずに一気に目的地まで駆け抜け、到着してから安全を確認して車から降りたふたりは思わず顔をしかめた。車のボディにはかなり深くえぐられた傷が残されていたのだ。それがその日のナニーと夫にとっての安全の代償だったのである。


「スティアブディの変電所が復旧」(2007年7月5日)
6月24日昼12時半ごろ南ジャカルタ市スティアブディのプドゥレナン通りにある変電所で爆発が起こり、変電所が炎上した。爆発は数回起こり、地中埋設ケーブルも燃えたために変電所の床や外の道路も割れて損壊した。変電所の外にあるワルンで食事をしていた出稼ぎ建築労働者ふたりがその爆発で死亡し、ほかにふたりがやけどを負い、ワルンは大破しオートバイが1台燃えた。その事故で、全焼した変電所から電力供給を受けていた地域一帯は完全な停電に陥り、住民は電気のない生活を余儀なくされた。
PLN首都タングラン地区配電支社は先週いっぱいかけて復旧作業に努め、6月29日から30日には一部地区に対する給電が再開された。住民は毎日2千5百ルピアを払ってひとりあたり22リッター入り容器一本の水を買わなければならなくなり、家庭によっては容器を毎日5本買っているところも見られた。停電地区に入ってしまったオフィスは、エアコン、コンピュータ、電話、ファックスなどを使うことができず、ほとんど開店休業というありさま。
7月2日になって変電所の復旧工事は完了し、5千軒から6千軒というPLN利用者への配電は完全に再開された。首都タングラン地区配電支社は管区内に40ヶ所の変電所を置いているが、従来からそれらの変電所に対する特別な監視は行われておらず定期点検だけが励行されていた、と状況を説明している。住民居住区域の中に変電所が設けられていることに関してPLNは、もともと変電所が先に作られていたところに道路や家が作られたという経緯があり、変電所の機器やケーブルが損なわれないかぎりPLNのサービスには問題ない、とコメントしている。


「スタバで犯人逮捕」(2007年7月5日)
エリックは北ジャカルタ市クラパガディンのモールにあるマッサージ屋で寝そべっていた。隣に中年の男がやってきて指圧を受けはじめた。エリックは携帯電話を出して故郷の親族に電話した。電話が終わると隣の男が話し掛けてきた。「あんさんは東の出身かい?」エリックがインドネシア東部地域の故郷の言葉で電話していたのをその男は聞き逃さなかったのだ。男は続けて言う。「ひと月にどのくらい電話代を使うの?2008年末までいくらでも使い放題というカードがあるよ。ほかでは売ってない。」隣に座った男の帽子にエリックは目を留めた。テルコムという刺繍文字が見える。「へー、そりゃすげえや。値段はいくらかね、おやっさん。」「50万から200万ルピアまでいろいろある。あんさん、興味あるかい?じゃあ、あした今ごろの時間にこのモールのスタバで会おうや。物を持ってくるから。」「じゃあ、あした。」エリックはマッサージ屋から出た。そして駐車場に降りて車に乗ると国家警察本部を目指した。エリックは犯罪捜査庁の刑事だったのだ。本部に戻ったエリックは詐欺事件の記録を調べた。3年前に似たような詐欺事件があり、そのときも警察官が被害者になっていた。そのときの犯人はいまだに捕まっていない。
翌日、エリックはふたたびモールクラパガディンを訪れた。前日と同じごろの時間にスターバクスに入る。しばらくすると昨日の中年の男が現れた。男はジェフリーと名乗り、持ってきた携帯電話用のSIMカードを1ダースほどエリックの前に置いた。商品の説明をひとくさりしたあと、ジェフリーはエリックに尋ねた。「あんさんはどこで働いてるの?」「トルノジョヨだ。ブロッケムの。」ジェフリーは国家警察本部がクバヨランバルのトルノジョヨ通りにあることを知ってはいたが、エリックのその返事が国家警察を意味していることなど夢想だにしなかった。エリックはしばらくテーブルに置かれたSIMカードを手にとって見ていたが、おもむろにポケットから手錠を取り出すとジェフリーの両手をつないだ。ジェフリーの当惑と怯えを混ぜ合わせた目がエリックを見据える。「そう、オレはトルノジョヨ通りの国警本部で働いてる。」
ジェフリーはインドサットのムンタリSIMカードに細工した。それを携帯電話にセットするとFree Dial という文字が出る。電話オペレータの名前は出ない。度数10万ルピア分のSIMカードだから10万ルピアが使い果たされるまでは問題ない。それを10倍以上の値段で買わされたほうは、来年末まで使い放題だと思っている。ところが10万ルピア分が使い果たされたら電話はもうウンともスンとも言わない。そうしてはじめてそれが詐欺だったことを覚るばかり。2000年からこのビジネスをはじめたジェフリーはジャカルタだけでなくジャワ島一円を巡って大儲けをしていたが、クラパガディンのスタバが自由の身の幕引きになろうとは夢にも思っていなかった。


「強盗がアルミ7トンを奪う」」(2007年7月6日)
7月1日夜、東ジャカルタ市西チャクンの鉄アルミ材料店が強盗に襲われ、アルミ棒など7トン以上が奪い去られた。6人組と見られる強盗団には元従業員が混じっていたと店員は証言している。盗まれたアルミ素材は同店で主に窓サッシや建材に使用されているもの。強盗団は素材のほかに切断機や穴あけ機も一緒に持ち去った。36歳の店主の談によれば、被害総額は1.5億ルピアにのぼるとのこと。 同日夜、店を閉めたあとで6人の従業員はひとりが外出した以外ほかのみんなは集まってテレビを見ていた。すると店の表にトラックが一台止まり、すぐに数人が中に押し入ってきてテレビを見ていた従業員に釜刀を突きつけた。5人の従業員はひとり残らず縛り上げられ、手を紐で縛られたあと口と目にガムテープを貼られた。しかしその際に、昔この店で働いていたSが強盗団の中に混じっていたことを従業員たちは目にしている。しばらくすると外出していたもうひとりの従業員が戻ってきて、あっけなく賊に縛り上げられた。
このSは2003年から2004年ごろまでその店で働いていたが、店主に日給を10万ルピアに上げてほしいと要求し店主が支払い能力がないと断るとしばらくしてから店をやめた。ところが2ヶ月ほど前にSがまた店を訪れ、アルミの切れ端を売ってほしいと店主に頼んだので店主は2百万ルピア分の切れ端を集めて重さを量ろうとしたがSは金を持っておらず、後払いを要求したものの店主が色よい返事をしなかったので腹を立てて帰っていったということが起こっている。
従業員たちは互いに助け合っていましめを解き店主に連絡したので、店主は23時ごろチャクン警察に通報した。強盗団はあわてて現場をあとにしたようで、トラックの後ろ扉やナイフなどが事件現場に置き去りにされていた。


「交通戦争戦死者は一日82人」(2007年7月16日)
道路上での交通事故による死亡や怪我の発生は多く、また年々増加傾向にある。年間の道路上交通事故死亡者数は3万人にのぼり、これは毎日82人が交通事故のために路上で死んでいることを意味している。皮肉なことにこのセクターの安全と保安は軽視されており、運転者の能力や自家用車の路上走行における適合性に関する基準がいまだに明確に実施されていない。公共陸上運送事業も似たようなもので、公共陸運サービスセクターはバス駐車プール・専用修理場・従業員寮などを持っていなくとも公共運送会社設立認可を容易に得ることができる。道路交通統制に関する行政コントロールの弱さが法規違反の可能性を上昇させ、最終的に交通事故発生につながっている、とインドネシア交通ソサエティ会長は批判している。
交通保険プログラム運営国有会社ジャサラハルジャのデータによれば一日当たり平均死亡者数は82人となっており、国家警察のデータも同じレベルを指している。2003年に発生したあらゆる種類の自動車による交通事故件数は19,091件だったが2004年には26,187件へとアップした。ところが2006年実績はなんと70,308件という大暴騰となっている。交通事故のメインを占めているのは二輪車で、2004年は14,223件が二輪車事故だった。2006年の二輪車事故件数は47,591件。
公共乗合いバスの事故は2004年の1,650件から2006年は2,945件に増加しており、死亡者数も2004年の11,204人から2006年は15,762人へと増えている。航空旅客運送では安全と保安に関する明確な規定が作られてその遵守を監督することも積極的に行われているが、陸上運送のレベルは段違いに低い。たとえばB1種運転免許証を持っていればすぐにでも公共乗合いバスが運転できるのだが、その者の能力が公共乗合いバスを運転するのに本当に十分なレベルに達しているかどうかはテストして見なければわからない。路上交通事故は運転者の能力と自動車の整備状況以外にも、道路インフラ状況や交通統御システムといった要因で発生することもある。
公共運送事業者の乗物に関するテストや整備の意識の低さも問題だ。都庁に登録されている14,710台の公共運送バスのうち5,610台は路上走行適合性検査を受けたことがない。加えて多くのバスが正式検査を受けずに偽造の適合認定書を使っている。大型バスの適合性検査費用は1台23万9千ルピアで6ヶ月ごとに更新しなければならない。適合検査にパスしなかった場合バスのオーナーは必要な修正を行った上で再検査を受けることができる。その場合の再検査は無料となっている。
陸上運送セクター業界団体である陸運機構は、業界者は乗物の整備のためにできるかぎりの努力を費やしているが、石油燃料大幅値上げでオペレーションコストが40%もアップしたために思うに任せない状況になっているのだ、と説明している。航空旅客運送料金が安くなったために乗客が飛行機に奪われ、その結果州間長距離バスのロードファクターは40%まで低下して売り上げは激減している。一方、バスの買い替えは1台が8〜10億ルピアもするために若返りをはかることも困難だ。


「ストリートチルドレンを狙う殺人鬼」(2007年7月23・24・25日)
2007年7月9日朝、東ジャカルタ市クレンデル市場に近いブカシ街道沿いの一軒の家の表に黒い大きなビニール包みが置かれているのをその家の女中が見つけた。家の表を掃除するために午前7時ごろ外へ出てきたその50歳の女中は、家の前にある大型の鉢植えの脇に置かれたその大きな黒色ビニール袋の包みをゴミだと思った。女中はその辺りにいた荷担ぎクーリーのひとりにそのゴミを始末してくれと頼んだ。
それを頼まれたトハリ30歳はその包みを市場近くのゴミ捨て場に持っていこうとしたが、結構な重さがある。中身を分割して運ぼうと思ったトハリはその包みを縛ってある紐をほどいた。そのとき人間のひじがその黒いビニール袋の包みから外へこぼれ出た。トハリは飛びすさり、そして悲鳴をあげた。
現場近くにいたひとびとが集まってきて、ビニール袋を取り巻いて群れをなした。気丈な男たちが数人進み出て、その包みを開いた。茶色のサロンに包まれた10歳くらいの少年の死体が現れた。死体は全裸で、身体を後ろにそらして折り曲げられた状態で縛られていた。そして胸から腹部にかけて切り開かれた痕があり、多くの臓器がなくなっていた。群集の中から数人が警察署に走った。
首都警察チャクン署から来た警官たちはその死体を回収して検死のためにチプトマグンクスモ病院に送った。死体発見現場が明らかに殺害現場と異なっているため、警察はきわめて少ない手がかりから捜査を開始しなければならない。検死結果は少年が死んでから内臓が切り取られたこと、そして肛門に性的暴行を受けたあとがあることなどを報告していた。今回の事件は今年4月30日に発生した小学校2年生の少年殺害事件と多くの類似点を持っている。
その4月30日、やはりブカシ街道のワルンジェンコルバス停でくず拾いが子供の死体の入ったダンボール箱を発見した。そのダンボール箱にはやはり黒いビニール袋に押し込まれた6歳くらいの少年の全裸死体が入っており、この少年も身体に虐待された痕があり、また肛門の状態から大人がその少年を自分の性欲を満たす相手にしていた可能性が検死報告で明らかにされている。深夜1時45分ごろプロガドン方面からやってきた青色セダン車が一台バス停前に停まり、車内にいた三人の男のうちふたりがダンボール箱をそこへ下ろした。その間に青い車はブカシ方面に向けて走り去り、ふたりの男はバス停の隅にダンボール箱を置くと走ってきたバスを停車させてそれに乗り込みチカラン方面へ去って行った。目撃者であるそのくず拾いは警察にそう証言している。くず拾いは興味を引かれ、そのアクアのダンボールに近寄って黒いビニール袋を裂いたところ、強い死臭がして子供の足の裏が見えたのですぐに夜間警備の民兵に届け、その知らせがプロガドン署に伝えられた。その子供の死体はチプトマグンクスモ病院死体置場に身元不明者として収容されていたが、4月28日正午過ぎに遊びに出てから帰宅しないままになっているブカシ県タンブンのアルヒッマ小学校2年生マウラナ・ユスフの両親が死体置場まで来て自分の子供であることを確認した。警察は犯人捜査を続けているが、犯人割り出しはまだ困難な模様。
7月9日朝発見された少年の身元捜しは警察が行っている遺体写真の配布が功を奏し、7月12日に少年の両親が身元を確認した。被害者アセップ・サエフラ11歳はバンドンのキアラチョンドンに両親と一緒に暮らしていたが、頻繁に友人たちに誘われて路上でプガメン活動をしていたとのこと。プガメン活動はキアラチョンドン駅やバンドン市内が多いが、汽車に乗ってジャカルタまで行くこともあったらしい。ブカシのストリートチルドレン保護施設に寝泊りしたこともあり、アセップをよく誘いにくるのは背の高い長いピアスをジャラジャラさせた青年だったと両親は述べている。アセップは6月30日に家を出たあと行方知れずになっており、両親は行方を探しているところだった。
警察の調べではユスフもアセップもストリートチルドレンの世界に関わっており、ふたりの死に類似点が多いことから警察では同一人の犯行ではないかとの疑惑を捨てきれないでいる。アセップの内臓器切除から移植目的の臓器売買が犯行の動機ではないかとの見方がささやかれているが、インドネシア大学法医学部長は「死体から取り出した臓器は移植できない」と述べており殺害犯は精神異常者である可能性が高いとして臓器売買の可能性を否定している。
しかし児童保護国家コミッションのアリッ・シライッ事務局長は、犯行動機が臓器売買である可能性を無視してはいけない、と力説する。人間の臓器を狙う犯罪シンジケートが子供に標的を絞って動き始めているのではないか?そしてもっとも大人の保護の手薄いストリートチルドレンをターゲットにしているのではないか?「病んでいる社会がこの状況を反映している。子供の安全は路上だけでなく家でも学校でも、あらゆる場所で脅かされている。子供たちが家から一歩外に出れば、チョイスはふたつしかない。犠牲者になるか、それとも犯罪者になるかだ。われわれの全員が子供に安全を取り戻してやらなければならない。それは自分の子供のためだけでなく、ストリートチルドレンにもそうしてやらなければならないのだ。社会が子供を守ってやらなければならない。」事務局長はそう説いている。
ところが事態は振り出しに戻ってしまった。家を出たまま帰宅しない小学校4年生アセップ・サエフラの両親がチプトマグンクスモ病院で遺体を前に「これはうちの子供だ」と断言したにもかかわらず、父親のカマルディンがキアラチョンドンからチャクン警察を訪問するために乗った列車の中で、くず拾いをしているわが子アセップと出くわしたのだ。カマルディンはまるで幽霊でも見たような気になった。
アセップの話では、ストリートチルドレンコーディネータを自称する男に命じられてくず拾いやプガメン活動を行っており、その男がアセップを殴ったのも二度三度ではない。カマルディンは息子を連れて一旦家に引き返し、ふたたび一家でチャクン警察を訪れた。たしかに被害者とアセップは顔がよく似ており、足首の近くに傷痕があり指の形もよく似ていたのでてっきり息子だと思ったと語る母親は意外な成り行きに驚きを隠さない。
被害者の身元が割れたとしてアセップの身辺を洗っていた警察は、ふたたび闇に包まれた被害者の身元を割り出す作業に逆戻りしてしまった。ともあれアセップも大人に搾取される悲惨なストリートチルドレンのひとりにされていた。そんな子供たちの近くにいて子供たちを利用しようとする大人の中に殺人鬼がいるのだ。
犯人グループはジャカルタやその周辺のストリートチルドレン社会に接触を持ち、犠牲者を求めて子供たちにアプローチしている可能性が高い。ユスフ殺害犯捜査にまだ光明が見えないまま次の被害者が出現した。被害者がさらに増える前に警察は犯人を見つけることができるのだろうか?


「首都のナルコバセンター」(2007年8月2日)
中央ジャカルタ市タナアバンのカンプンバリはこれまでナルコバ(麻薬・禁制薬物)取引のセンターとしてその名を国中に轟かせていたが、こんどは新たにプガンサアン町タンバッ通りがその取引センターになりつつある、とムハヤッ中央ジャカルタ市長が明らかにした。「ナルコバの取引は河川敷の密集居住区を筆頭にいくつかの字(RW)で行われている。われわれは第08字に詰所を設けて住民のタスクフォースを編成した。住民は一致団結して地域の監督を行わなければならないし、もしよそ者が地域内で麻薬などの取引を行えばすぐ当局に届け出なければならない。市庁はその地区住民に対して特にナルコバの害に関する啓蒙普及に注力している。」
ナルコバのセンターだったカンプンバリの名前はすでに色あせはじめた、と市長は言う。カンプンバリがそんな異名を獲得するようになったのは、タナアバン地区に作られたアフリカ人居住コミュニティに近かったことが最大の要因だろう。しかしカンプンバリ地区では多くの若者たちがその犠牲となり、無駄に生命を失うケースも少なからず発生した。その結果親たちが団結して自分たちの町からナルコバを追放しようと立ち上がったのだ。その運動に加わる者が増えるに連れてカンプンバリはナルコバセンターの異名から脱却して行った。ムハヤッ中央ジャカルタ市長はそう物語っている。
ファジャル・パンジャイタン西ジャカルタ市長は、チュンカレンのカンプンアンボンがいま西ジャカルタのナルコバセンターになりかかっている、と言う。パルメラ郡コタバンブスラタン地区のカンプンボンチョスは流通の盛んな場所でしかないが、カンプンアンボンには流通元締めが住んでおり格が違う。当局者がひと月ほどその地区に居住して監視を行ったことがあるが、かれらが引き上げたとたんに激しい流通が再開された。地区住民はそれまでの状況を引き継いで地元をきれいにしようとしなかった。どう見ても流通元締めがその地区を根城にしているのが明らかで、かれらに楯突こうものなら自分の生命が危うくなることを住民は恐れている。いま市庁はどのように住民を鼓舞して地元に巣食うナルコバ元締めと対抗させるか、その方策を検討中だ。西ジャカルタ市長はそう述べている。


「都内で強盗タクシー事件が再発」(2007年8月7日)
2007年8月2日夜、都内の大学に通うロサ21歳が南ジャカルタ市トゥベッ地区から東ジャカルタ市クレンデル地区へ行こうとして乗ったIndah Familiタクシーの中で強盗事件が発生した。東ジャカルタ市ブアラン地区まで来たところ、タクシー運転手は小用を理由にタクシーを道路脇に止めて車から降りた。その少し後、ロサが座っている後部座席の両扉が一斉に開いて男がひとりずつ中に入り、ロサの左右をはさんだ。そして逃げられなくなったロサにナイフを突きつけ、ロサが身に付けていた装身具、携帯電話、財布の中の現金350万ルピアや銀行のATMカードなどを奪った。それからATMマシンのある場所へ移動してロサのPIN番号を強要し、口座の中身を抜き取って逃走した。
この事件は7月11日夜に起こった大学生ファニ・エリカ21歳が遭遇した強盗タクシー事件と同じで、やはり同じタクシー会社の車が使われている。ファニの事件では、都内タムリン通りのサリナデパートからスナヤンのホテルムリアへ行こうとして乗ったタクシーがガトッスブロト通りのホテルスルタン横まで来て道路脇に停車した。運転手が小用を理由にタクシーから出たあと、後部座席の扉が左右同時に開いて男が両側から侵入し、ファニにナイフを突きつけた。外で様子を見ていた運転手はふたたび運転席に就いて車を発車させ、走っているタクシーの中で男たちはファニからノキア1225、モトロラV3、サムスンVodaneの携帯電話3個とカード、現金120万ルピア、BCA銀行とマンディリ銀行のATMカードなどを奪った。クラパガディンが自宅のファニは金目の物を奪われたあと、西ジャカルタ市パルメラ郡ラワベロンにあるビナヌサンタラ学園キャンパス前でタクシーから下ろされた。
ファニは警察へ被害を届けたあと、ブカシのIndah Familiタクシーに電話でクレームを申し入れた。しかしタクシーのナンバープレートあるいは車体番号、運転手の名前などが明確に証言できなかったことから、タクシー会社側も事件糾明に手が打てないでいる。ファニーの話では、ダッシュボードのタクシー番号は黄色いステッカーで覆われ、また運転手の氏名カードも裏返しにされていたとのこと。ファニの事件を捜査している首都警察一般犯罪捜査局暴力犯罪ユニット長は、強盗タクシー事件ではBナンバーの車が使われているがタクシー会社はジャカルタのものでないケースが多い、と語る。「タクシーに乗る場合はモールやホテルの公的なタクシー乗り場で拾うか、もしくは電話で呼び出すのが良い。タクシーのナンバープレートがBであっても、あまりなじみのないタクシー会社のものは避けたほうが良い。そして運転手が車から出たら、自分も車から一旦出るようにしたほうが良い。」ユニット長はタクシー利用者にそうアドバイスしている。


「中学生を狙う犯罪グループ」(2007年8月7日)
中学生をメインのターゲットにして金品を脅し取ったり誘拐を行っていたグループがタングラン警察に逮捕された。逮捕されたのはバンテン州セラン住民30歳、チルドゥッ住民32歳、29歳そしてもうひとりの合計4人で、かれらのひとりはボスの居場所に案内する途中で捜査員に逆襲したため足を撃たれている。このグループは7月23日にタングラン県チュルッ郡ガディンスルポンにあるタラカニタ中学生徒13歳を誘拐したことを自供している。
塾帰りの中学生が住宅街を歩いていたところ、5人の男がその生徒を無理やり車の中に押し込めて連れ去った。そして家族に対して2千万ルピアの身代金を要求したが、家族は指定口座に8百万ルピアしか振り込まなかった。一味は翌日その中学生をボゴール赤十字病院の前で解放し、被害者はガディンスルポン住宅街の自宅までタクシーで帰宅した。
この一味は警察の取調べに答えて、ジャカルタ・ボゴール・デポッ・タングランの金持ち生徒が集まる優良中学の生徒をターゲットにして数百回も金品を脅し取っていたことを自供した。かれらはタングラン・チュンカレン・スネン・チルドゥッなど住宅エリアにある学校やITCチュンパカマスのようなショッピングセンターで何度も犯行を重ねていた。一味がターゲットを選び出すと一味のひとりが、自分の子供あるいは甥をお前が殴って怪我をさせた、と言いがかりをつけ、被害者を追い詰めたあとで金や携帯電話を脅し取るというのがかれらの主な手口だった。また被害者を車で拉致して連れ去り、遠く離れた場所で置き去りにするといったことも行っており、デポッやジャカルタの生徒がチルドゥッで置き去りにされた事件も表沙汰になっている。かれらが主に狙いをつけていたのは携帯電話機で、そのため警察は小学校高学年から中学生ぐらいまでの子供を持つ親に対し、子供が自宅から外へ出る場合沢山のお金や高価な高級携帯電話機を持たせないように、と呼びかけている。タングランの他の学校も生徒に対し、携帯電話機を学校へ持ってこないように指導している。


「アチェの大麻」(2007年8月13日)
ジャカルタでのアチェ産大麻流通網はパサルミングがセンターになっていると首都警察一般犯罪捜査局麻薬ユニット長が語った。同ユニット長によれば、アチェ産大麻は穀物ディストリビューションの陰に隠されて首都まで移動してくるとのこと。穀物袋の中や袋を積み上げた隙間などに隠されてアチェを出た大麻はスマトラの陸路を一路バコフニに向かって南下してくる。そこからタンジュンプリウッ港まで海路をたどり、陸揚げされてから南ジャカルタ市パサルミングあるいはもっと南のデポッ市に向かう。
大麻流通網はアチェ人に押さえられており、大規模から小規模まで穀物商人を表向きにしながらその片手間にあるいは裏に回って大麻取引を行っている。かれらは南ジャカルタのあちこちの市場で荷を商うが、中でももっとも層が厚いのはパサルミング市場で、そのためかれらの多くはパサルミングに居住している。あるいはもっと南のデポッ市内やジャカルタとの境界地区にもかれらの一部は住んでいる。8月4日にはデポッに住んでいるふたりの売人が麻薬ユニット捜査員に逮捕された。
しかし別の情報によれば、アチェからジャカルタへの大麻ルートはトランススマトラバスを使っているとのこと。それらのバスは西ジャカルタ市のカリドラスやチュンのカレンバスターミナルに直接到着する。このルートで持ち込まれる大麻がもっとも多いとその情報筋は語っている。


「鉄道線路が盗まれて列車が脱線転覆」(2007年8月15日)
8月12日17時45分にスラバヤを出発したスマラン経由ジャカルタ行きビジネス長距離列車グマラン号がスマランの27キロ手前で脱線転覆した。このグマラン号が22時10分ごろ中部ジャワ州グロボガン県プルウォダディのグブッ駅とトゥガワヌ駅の間に差し掛かったところ、線路左側がおよそ5メートルに渡って何者かに切り取られていたため列車は脱線し、12両編成のうち最後尾の2両が転覆しもう2両は傾いて停まった。
十数人の負傷者が病院に運ばれているが、死者は出ていない模様。ソロとチレボンからクレーン車が現場に向かっており、また乗客を運ぶためにジーゼル車も現場に送られている。グマランの後のスラバヤ19時20分発ジャカルタ行きスンブラニ号と20時15分発ジャカルタ行きアルゴアングレッ号はこの事故のために運転が止められている。
その地区ではこれまでも鉄道設備を破壊して盗む盗難事件が頻発しており、線路監視員は列車が通る前に何度も異状を発見して事故を未然に防いできたが、今回の脱線転覆事故は犯行から監視員がそこを見回りに来るまでの間に列車が通過しようとしてこの事故に遭ったようだ。運通相は国鉄に対するサボタージュ行為の疑いがあるとして警察にそのポイントからの捜査を求めている。


「都内で誘拐事件が相次ぐ」(2007年8月20日)
ここのところ都内で誘拐事件が相次いでいる。8月15日朝、スティアブディにある国立第3高校生徒エリスカ・プラヴィタサリが四人の男に誘拐された。誘拐犯はタクシーに乗って被害者に近付き、エリスカをタクシーに引きずり込んで逃走した。ジョクジャのスレマンで公証人事務所を開業しているエリスカの父親51歳宛にその日午前10時半、娘から電話が入った。「パパ、わたし誘拐されちゃったの。身代金を5千万ルピア払えと言ってる。」
父親はすぐにジョクジャ警察に届出て、妻と一緒にジャカルタへ向かった。ジョクジャ警察職員が同行した。ジャカルタに着いて首都警察に出頭した三人は首都警察捜査班に迎えられ、その後の対策を検討した。そして夜になり、捜査班はエリスカの両親と共に誘拐犯との取引場所であるタマンミニに出発した。16日午前2時、警察はスズキAPVナンバーB2824GOを発見し、犯人グループ4人を視野に入れた。現場にやってきた両親に犯人から電話がかかる。「金は用意できたか?それならこっちに持って来い。」
父親は黒色スズキAPVに接近した。娘のエリスカが中にいる。父親が車のそばまで近付きバッグを相手に渡そうとしたとき、突然銃声が響いた。驚いた犯人グループはすぐに車の中に入る。そのときエリスカはスズキAPVから外に転げ出た。しかし犯人グループはそんなことにかまわず現場を離脱した。金を渡すことなく娘を取り戻した一家はそのあと午前8時半に再度首都警察に出頭し、エリスカは婦警に連れられて病院へ身体検査を受けに行った。
同じ8月15日16時ごろ、東ジャカルタ市チピナンムラユの住宅地区住民の娘ライサ5歳が誘拐された。その日は女中がライサをオートバイで迎えに行き、住宅地区の中まで戻ってきたとき黒色スズキAPBナンバーB8512??に乗った4人の男がそのオートバイをストップさせ、ひとりが女中にナイフをつきつけている間に他の3人がライサを無理やり抱えて車に押し込めて連れ去った。誘拐犯の車はチカンペッ自動車専用道路方面に逃走したとその女中は供述している。首都警察はこの事件を非営利誘拐の可能性が高いと見て捜査している。また8月16日にも少女の誘拐事件が一件発生している。


「ライシャ誘拐事件が落着」(2007年8月27日)
「都内で誘拐事件が相次ぐ」(2007年8月20日)で報道された幼稚園生徒ライサ5歳の誘拐事件はSBY大統領が犯人に子供を無事に返すよう呼びかける異例の様相を呈することになった。その後のマスメディア報道ではこの少女の名前がライシャと記されているので、それに従うことにする。
2007年8月15日12時少し前、ライシャを幼稚園にオートバイで迎えに行ったアリ・サイッ家の家庭プンバントゥであるリンダ20歳が閑静な住宅街にある自宅からおよそ百メートルほどのところまで戻ってきたとき、それぞれ別々の方角からやってきた三人の男に行く手を阻まれた。いずれも背が高くて痩身の三人の男はリンダを塀のそばまで追い詰めたあと、そのひとりが手でリンダの口を塞ぎその喉にナイフを当てて「声を出すな!」と命じた。リンダとライシャはオートバイと共にそこに倒れこむ。すると前方から黒塗りのスズキAPVが近付いてきた。三人の男はライシャを抱え上げるとそのスズキAPVに乗り込み、車はそのまま走り出す。リンダが記憶したナンバープレートはB8512。しかし末尾のアルファベットは見逃した。
リンダが叫び声を上げると、付近にいた住民がひとりで車を追って走った。その住民はオートバイに乗った知り合いに声をかけ、ふたりしてオートバイでその車を追跡したがスズキAPVがチカンペッ自動車道に入ったために取り逃してしまった。事件直後の13時ごろアリ・サイッ家の電話が鳴り、誘拐犯がコンタクトしてきた。警察に届けるんじゃないぞ、という犯人のメッセージにアリは黙っていなかった。インドネシア青年商工会議所役員で石炭関連の実業家であるアリ・サイッは8月20日、記者会見を行って誘拐犯に娘を返せと呼びかけ、また夫人が娘に「心を強くして祈りを忘れずこの苦難に耐えるのよ」と涙とともに呼びかけて記者団の感動を誘った。しかしその間、犯人との連絡は途絶えていた。警察の捜査で黒塗りスズキAPVのナンバープレートは偽造であることが判明したが、警察は粘り強い捜査を展開した。この事件が大統領をはじめ政府要人の関心を引き、SBY大統領は8月23日にこのような民間の犯罪事件に対しては異例の記者会見を行って犯人に幼児の解放と自首を求めている。
8月23日22時ごろ、首都警察は捜査線上に浮かび上がった国立第35高校3年生のブディをベンヒル地区にある同校の礼拝所で捕捉し、本部に連行した。だが取調べに対してブディは頑強に容疑を否定する。膠着状態となったときにブディの携帯電話が鳴った。それがブディの命取りとなった。警察はすぐに掛けてきた男を追った。そして8月24日午前9時ごろ、首都警察一般犯罪捜査局捜査員は南ジャカルタ市タンジュンバラッ・レンテンアグン・TBシマトゥパンの三叉路にあるガソリンスタンドで、ブディに電話をかけてきたヨギとその仲間のアンガナ、そして誘拐されていたライシャの三人を保護することに成功した。取調べで最初にヨギが口を割った。ほかのふたりの共犯者、ヤヌアルとフィルマンドを警察は追い、その日午前11時ごろヤヌアルは西ジャカルタ市プタンブランで、フィルマンドは同じころ国立第35高校にいるところを捜査員の出迎えを受けて首都警察本部に連行された。首都警察に連れてこられたライシャは警察職員に「パパはどこ?」とまず尋ねたそうだ。
この誘拐事件の犯人グループに現役の高校生が含まれていたことに教育界はショックを受けている。中央ジャカルタ市カレッテンシン(Karet Tengsin)にある国立第35高校は優秀な生徒が集まる都内フェイバリット高校のひとつ。その現役3年生ふたりと2年生ひとりが犯罪の共犯者になっていたことを、理念と理想を持たない商業主義的教育制度の結末、と批判する声があがっている。ブディ、ヤヌアル、フィルマンドの三人は同じ高校で宗教の課外活動に参加しており、その課外活動を指導していたのが同じ第35高校を卒業した先輩のヨギ・プルマナだった。フィルマンドの両親はタナアバンのプタンブラン通りに住み、タナアバン市場で衣料品販売を稼業にしている。フィルマンドはその先輩の指導を受けはじめてからそれまでの無口で小心な性質からまるで別人のようになり、家人の言うことを聞かなくなってほとんど家に寄り付かなくなった、と両親は語っている。
主犯のヨギ・プルマナ(1998年同校卒)とアンガナ(1999年同校卒)は書籍売買事業を営んでいたが倒産してしまった。1.5億ルピアの借金を抱え込んでしまい、その方途に頭を痛めていたときに営利誘拐犯罪のアイデアがかれらの脳裏に巣食った。ヨギ・プルマナの第二夫人がライシャの家でアルクルアン読誦会の先生をしていたことが犯人と被害者を結びつけた。
一味はライシャを誘拐してから都内を転々とし、さらに首都を離れて西ジャワに向かいタシッマラヤまで巡った。スメダンのジャティナゴルにあるホテルに一泊したことがあるが、それ以外は車の中で夜明かしする毎日だったようだ。使われていた車はレンタカーだった。ヨギは東ジャカルタ市チラチャスの両親に対して「父親が事故にあった子供を預かっている」と話していたが、23日には子供を誘拐して身代金を取ろうとしている、と打ち明けている。一味はアリ・サイッにSMSを送り、最初は7億ルピアを要求したがあとになって10億ルピアに金額が上がった。しかし身代金の受け渡しは一切なされていない、と警察は発表している。


「LPガスの違法移し替えを行っていたガス店で大爆発」(2007年8月28日)
2007年8月23日0時20分ごろ、ボゴール県グヌンプトリ郡チブブル(Cibubur)にあるレゲンダウィサタ(Legenda Wisata)住宅地の店舗住居で大きい爆発が起こった。爆発場所は同住宅地内のリトルチャイナと名付けられた店舗住居集合棟にあるインドガスウタマというLPガス小売販売店で、数百メートル離れた場所まで衝撃が伝わるほど強い爆発だった。情報によれば爆発は数秒違いで二回起こったとのこと。店舗住宅集合棟には30軒の商店が入っていたが、そのすべてに爆発の影響が及んで窓ガラスなどはほとんど割れ、構造物にもかなりの被害が出た。もっともひどかったのは爆発現場のインドガスウタマ店とその両隣で、ガス店建物はほとんど壊滅状態で一階店内に置かれた三菱ピックアップも大破している。店内の左右の壁は崩れ落ちて隣のカーペット店と事務所があたかもひとつになってしまった観があり、扉や窓の枠は10メートルほど向かいに吹き飛ばされ、二階建て店舗住居の一階天井には大穴が開いている。その爆発でインドガスウタマ店の二階に寝ていたフランキー18歳とマルセル25歳の兄弟が重症を負い、チルンシ(Cileungsi)の病院で緊急処置を受けている。
23日午後行われた国家警察科学捜査ラボセンター科学捜査チームの調査で、インドガスウタマ店での爆発は爆弾等によるものでなく、同店内で正規のLPガスボンベから一部を抜き取って空のボンベに移し変えるという不正行為が行われており、長期にわたって少しずつ漏れ出たガスが換気されないままたまっていたところに火がついて爆発を起こしたものであることが判明した。同店にあった134本のLPガスボンベが調査され、6本は空、24本は中味入りだがプルタミナのシールがなく、他のボンベはプルタミナのシールがなされた中味入りボンベだった。
最終的に西ジャワ州警察ボゴール地区警察はインドガスウタマ店のオーナーとその妻および従業員ひとりを容疑者に指名し、オーナーの妻を除くふたりを拘留した。容疑者の自供によれば、かれらはプルタミナのディストリビュータから卸されたLPガスのボンベから中味を少し抜いて別の空ボンベに移し替え、それら全部を正規商品として販売していた。つまり12キロ入りの正規ボンベから1キロほどを抜き取り、11本のボンベから同じように抜き取って空ボンベを11キロ入りボンベにし、11本の元手で12本の売上をあげるという詐欺行為を行っていたということだ。この不正行為は4ヶ月ほど前から行われていた。


「子供が標的」(2007年8月28日)
5歳の幼稚園生誘拐事件にヒントを得たのか、タングランの幼稚園で誘拐未遂が起こった。タングラン市ピナンのアリルシャッ幼稚園に8月24日、刺青をした男が生徒のアウレリア5歳を迎えに来た。アウレリアの担任教師イイッがアウレリアにその男を知っているかどうかたずねると、アウレリアは知らないと首を振る。叔父と名乗るその男はアウレリアを渡せと強要し、先生はそれを拒んだので緊張が高まった。先生は、アウレリアの家族の誰かに来てもらってはっきりさせましょう、と言うとその男はきびすを返して立ち去った。あとでアウレリアの家族にその男の心当たりをたずねたが、まったく知らないとの返事だった。アウレリアの父親はテレビ局インドシアルのカメラマンをしている。
8月23日には、小学校生徒を騙して連れ去り身に着けていた黄金製装身具を奪って犯人は姿を消すという事件が発生している。タングラン市クレオ国立第10小学校の5年生ノビタとピピンが学校の外で行商人から買い食いをしていると、小さい子供を抱いた女性がやってきた。「これからこの学校の4年生の子供の誕生会をマクドナルドでするんだけど、あなたたちも来なさいな。先生もあとからくることになってるのよ。」
そう言われてふたりはその女性と一緒に歩き出した。三人はアンコッに乗る。そして行き着いたのはなんと南ジャカルタ市ブロッケム(Blok M)。ブロッケムモールに入るとその女性は小学生ふたりに、「無くすといけないからあなたたちの装身具を預かるわね。」と言ってピピンのピアスとブレスレット、ノビタのピアスを取ってしまいこんだ。そうしてから、その女性はふたりを残してすたすたとそこから立ち去ってしまった。まったく運の良いことに、ノビタの父親の知り合いの婦人がモールで途方にくれているふたりを見つけて家に連絡してくれた。小学校から姿を消したふたりの女子生徒のために学校と実家は3時間半大騒ぎになっていた。


「乞食をさせるために子供を誘拐」(2007年9月20日)
インドネシア青年商工会議所役員で石炭関連の実業家であるアリ・サイッの息女ライシャ5歳の誘拐事件は大統領までが強い関心を払う異例の事態となり、国家警察までが関与して10日足らずの間に迅速な解決を迎えることになったのは、先に報道された「ライシャ誘拐事件が落着」(2007年8月27日)にある通り。
その一方で、路上で塗り薬販売業を営むムハンマッ・ヌールの娘メリヤニンシ4歳は2007年1月8日に行方不明になってから9月11日に両親の元に戻るまで、9ヶ月間も別れ別れになっていた。メリヤニンシ愛称メリーは1月8日、その日もデポッバル鉄道駅の一隅で商売する父親について家を出た。父親はメリーがその辺で遊んでいるのを時折見守りながら商売にいそしむ。何時間か経って娘の姿が見えないのに気がついた父親はメリーの名を呼んだ。しかし反応は何もない。店じまいをして駅の周辺を探してみたが、見当たらない。不安に包まれながらムハンマッはひとりで帰宅した。今日は見つかるかもしれないとの期待を抱いて数日間同じ場所で店を張ったが成果はない。1月11日、ムハンマッと妻のディアンは思い余ってデポッ警察に届け出た。日々の暮らしに十分な金さえ持っていないこの夫婦の子供が営利誘拐のターゲットになるはずがない。だからただの迷子事件と見たデポッ警察がこの幼児行方不明事件を重点捜査対象に位置付けるはずもなかったのだ。しかし警察の調書も長い間にはすこしずつ内容が増えていく。そうして8月にライシャ事件が起こったとき、デポッ警察もメリー捜索に力を入れはじめた。警察は金持ちの子供の事件には力を入れるが貧困者の事件はほったらかしだ、と言われたくない。デポッ警察署長はそう部下に檄を飛ばした。
8月後半、捜査員はジャカルタの鉄道駅やバスターミナルあるいは交差点など子供の乞食やプガメンが多く集まる場所で聞き込み捜査を進めた。そうして9月9日深夜、捜査線上に上がっていた無宿の女乞食スプリハティ34歳をデポッ市のデパートの外庭で逮捕した。メリーの特徴に似た子供をスプリハティが連れているといういくつかの情報を警察は聞き込んでいたのだ。警察の取調べにスプリハティは、1月のはじめにデポッバル鉄道駅でメリーを見つけ、誘ったらついてきた、と自供した。その日からランプン出身の女乞食でいつもデポッ市内のデパート前の路上で寝ているスプリハティは毎日メリーを連れて西ジャカルタ市スリピ交差点や他の数ヶ所で乞食稼業を営み、かどわかしたメリーにおもらい乞食をさせていたのである。ところがスプリハティが逮捕されたとき、メリーはもうかの女の手元にいなかった。2ヶ月前にマンガライでその子はいなくなったとスプリハティは言う。スプリハティとメリーが都内バス「メトロミニ」に乗って移動中にメリーが人ごみに紛れていなくなったのだそうだ。メリーの足取りはそこで一旦途切れた。
スプリハティとはぐれてからメリーは行方定めずひとりで歩いた。南ジャカルタ市カリバタ地区までやってきたメリーを住民のひとりが不審に思った。何を尋ねても要領を得ないこの幼児をその住民は保護して近くの警官詰所に連れて行った。そしてカリバタ警察署は最終的にメリーを東ジャカルタ市バンブアプスにある社会省の児童社会保護の家に送り込んだ。児童社会保護の家職員がメリーに母親の名前を尋ねたところ、メリーはスプリハティという名前を口にしたそうだ。児童社会保護の家はメリーを迷子として扱った。保護の家に収容されている40人の子供たちのうちの15人は親とはぐれた子供たちだ。しかし警察が捜索のためにメリーの写真を諸方面に配布し、また行方不明になったメリーのことやスプリハティ逮捕に関するマスメディア報道を知った児童社会保護の家職員はもしやと考え、デポッ警察にメリーを連れて行った。しかしメリーが両親と別れてからの9ヶ月、メリーに接した大人たちがこの少女をメリーという名前で認知していたわけでは決してない。特に保護施設では管理上収容された者の名前を必要とするが施設側が本名を把握できるケースは少なく、どうしても本名がわからない場合は管理者が適当な名前をつける。施設内ではその名前が本人の名前になってしまうのだ。メリーは児童社会保護の家でデウィ・アルファベットという名前で管理されていた。最初デポッ警察は児童社会保護の家職員が連れてきた少女を間違いだろうと見ていたが、調べて行くにつれて間違いないとの確信が強まりメリーの両親を呼んでの対面となった。
肩まであった髪は短く刈られ、9ヶ月間の過酷な暮らしが表情を固いものにしていたが、両親はそれが自分たちの娘であることをその顔立ちの中に見て取っていた。しかしメリーはどうやら両親を忘れてしまったようだ。父親が娘を抱き上げようと近付くとメリーは激しく泣き出した。警察はスプリハティを刑法典第328条の誘拐罪で起訴する考えだが、その場合の最高刑は入獄9年になっている。児童保護国家コミッション事務局長はこの事件について、警察は児童保護に関する2002年法令第23号を適用すべきだと主張している。児童保護法では誘拐罪に対する最高刑が入獄15年となっているのだ。同コミッションは今年9月までに12歳未満児童の誘拐事件の届出を54件受けており、そのうちの11件は児童の労働搾取を目的にしたものだ。


「夫が赤ちゃんを売り払ったんです」(2007年9月26日)
2007年9月17日夜、タングラン市チココル郡クラパインダ町に住む無職のスブハンは妻の二ミスに「何か食べ物を買ってこい」と言って2万ルピアを渡した。二ミスは嫌がった。しかし夫はしつこく妻に頼む。仕方なく二ミスはその金を持って家を出た。生後2週間の娘ヌルハサナを寝かしたまま。
二ミスが出て行くとスブハンは衣服をしまっているバッグの中身をタンスに出し、ヌルハサナを抱き上げてそのバッグに入れ、バッグごと赤児を抱いてそそくさと家を出た。家を出て角を曲がるとオートバイオジェッがいる。スブハンはオジェッに乗ると運転手に同じタングラン市内のチモネ郡ブゲルインダ住宅地に行くよう命じた。住宅地内の一軒の家に入ったスブハンはしばらくしてから手ぶらで出てくると待たせておいたオジェッに乗って自宅に帰った。赤児はバッグに入ったままその家に置き去りにされたのだ。家に戻ったスブハンはオジェッ運転手に10万ルピアを払った。
妻の二ミスが食べ物を買って家に戻ってきた。その気配にスブハンはすぐにマンディ場に入った。29歳のニミスは初めての子供ヌルハサナの世話に一日中かかりっきりになるほど夢中になっていた。ニミスの目はヌルハサナの姿がさっき寝かしておいたベビー布団の上にないことをすぐに見て取り、夫に尋ねた。「ねえ、あんた。赤ちゃんはどこ?」
さっきからマンディしていたふりをしてスブハンは「えっ?おりゃあおめえが出て行ったあと、マンディしてたんだ。赤ちゃんがいないのか?」ととぼける。ニミスがタンスを開けるといつもバッグにしまってある衣服がそこに散らばっておりバッグはなくなっている。ニミスはそのまま家を出るとタングラン市警察へと向かった。
「夫が赤ちゃんをだれかに売り渡したんです。」ニミスの届出を受けたタングラン市警は翌日スブハンを重要参考人として連行した。警察の取調べに最初は白を切っていたスブハンも結局泥を吐いた。「自分の子供にお前はよくそんなことができるなあ。」という取調官の言葉に、「いやあ、おれがニミスと結婚したのはあいつが妊娠7ヶ月の腹ぼてのときで、あの女を孕ませたのはおれじゃねえ。」とスブハンは答えている。スブハンはひと月45万ルピアの家賃が払えないので赤児を売ったと供述しているが、それだけの理由でもなさそうだ。スブハンが赤児を渡したブゲルインダの家の住人はレニ・フレデリカ51歳で、警察はスブハンの自供に基づいて9月19日にレニを逮捕し、同時にレニの自宅にいたヌルハサナも警察に保護された。スブハンはレニから150万ルピアをもらう約束をしたと語っている。
「自分はスブハンから赤児を預かっていただけで、赤児売買などという大それたことなどとんでもない。」と言い張っていたレニも、警察がその身辺を洗って得た情報をぶつけられて最終的に赤児売買ルートの中に身を置いていたことを自白した。レニはこれまでも自分の手元に入った赤児を西ジャカルタ市ジュンバタンリマに住む友人の仲介で売りさばくということを行っており、その自供に基づいて警察はさらにその友人を逮捕して取り調べた。このふたりが行った赤児売買は過去に2回あり、そのいずれもが売春婦から赤児を手に入れたもので、売春婦は妊娠すると月満ちて出産し、生まれた赤児をレニに渡したとのこと。レニの友人は自分の知っている人売ルートに赤児をひとり250万ルピアで売り、その金を分配していた。そのふたりの赤児が最終的に国内あるいは外国のどこへ売られたのかについて、レニも友人もまったく知らないと答えている。
タングラン市警察はニミスの訴えに関連してレニの友人がヌルハサナ売買事件にどう関わったのかを調べた。レニが友人に赤児売り渡しをオファーし友人が買い手を探してセランに買い手を見つけたが、その間に赤児はニミスの手に戻ったためレニの友人はその赤児に一切接触していない。またスブハンからレニへの売り渡し段階においてはその友人はその出来事をまだ知らなかったわけで、警察はこの事件に関してその友人の共犯性を立証することができなかったことから無関係として釈放した。ヌルハサナ売買事件はスブハンとレニだけが犯人とされて一件落着した。


「現職警官が強盗に失敗して自殺」(2007年10月1日)
パレンバン市サリムバトゥバラ少佐通りの両替商PT Sadita Indah Cipta社に2007年9月26日午前10時ごろ、客がひとり入ってきた。オートバイに乗ってやってきたその男はフルフェースのヘルメットを被ったまま事務所内に入ると現金出納室の中まで入ってきた。出納室内では男性社員ひとり、女性社員ふたり、そして警備員ひとりがそれぞれ執務中だった。最初はみんながその男は両替に来たと思ったが、いきなりその男が拳銃を取り出して警備員に突きつけたのに愕然とした。男は他の三人を出納室の隅に立つよう命じ、机の上に置かれていた10万ルピア紙幣を手早く集めて自分のバッグに入れた。会社側の話では、強盗犯が奪った現金はおよそ8千万ルピアだったとのこと。強盗犯が扉を通って外へ出ようとしたところ、両替商取締役のドニー・ピシアントロ32歳が突然物陰から飛び出して犯人に組み付いた。強盗犯はドニーを振り払って拳銃を向けるが、出納室にいた男性社員ヨハネスと警備員ヘリヤントもそこに加わって強盗犯を包囲する。三人を相手に小競り合いが続く中で強盗犯のヘルメットがぬげ、事務所内にいた全員はその顔を目にして驚いた。しばらく前にこの両替商の警備を命じられてかなりの期間ここで勤務に就いていたパレンバン市警察のヘリアンシャ一級副巡査部長がそこにいたのである。追い詰められた強盗犯は突破口を開こうとしてヨハネスを撃った。ヨハネスの左腕が血に染まる。包囲が緩んだすきに強盗犯は事務所の外に出て乗ってきたオートバイにまたがった。
強盗犯と三人が小競り合いを続けているとき、出納室の女性社員スラスティが大声で「強盗!強盗!」と叫んだために両替商事務所の外にいた群衆が何人も集まってきて中の様子を伺っていた。外に出てきた強盗犯を取り押さえようとして群衆が近寄ると、強盗犯は拳銃を数発発射して威嚇した。人垣がひるんだすきに強盗犯はオートバイを発車させて逃走しようと大通りに出たが、その場所は既に大勢の群衆が遠巻きにして逃走路をふさいでいたのだ。強盗犯は右往左往して逃げ道を探したが、突破できそうな場所はなかった。万事休す。強盗犯は銃口を自分の後頭部に当てると引き金を引いた。パレンバン市内を騒がせた強盗事件はこうして終わった。
自分の右耳の後ろから撃ち込んだ拳銃弾一発はヘリアンシャ一級副巡査部長の左こめかみを突き抜け、かれは即死した。市内クムニン警察署パトロールユニットの現職警官であり、三人の子供を持つ父親のかれがどうして強盗を行い失敗してわが命を断つような事件を起こしたのかについて、南スマトラ州警察は捜査を続けている。またかれはもうひとり別の男と一緒にその両替商までやってきたとの目撃者の証言があることから、警察はその男の足取りを追っている。


「自動車専用道路上で自動車強奪」(2007年10月3・4日)
2007年9月18日、ヤコブ36歳はタングラン県バララジャのビジネス相手に会うためバンドンから自分で車を運転してやってきた。タングラン自動車専用道路に入ったころにはもう陽が落ち、最近作られたレストエリアに入って夕食をとった。その後ふたたび自動車道路に出てバララジャ方面に向かう。時間は19時半を過ぎた。道路はあまり混んでおらず、交通は時速70〜80キロで流れている。リッポカラワチ地区KM21〜22地点に差し掛かったとき、ヤコブの運転しているキジャンイノバの後部にドーンと衝撃が来た。後ろにいるのはオペルブレーザーだ。ヤコブは面倒臭さが先に立った。「まっ、停まらないでもいいや。」
しかしそのオペルブレーザーはヤコブを追い越すとウインカーを出して路肩に停まった。その辺りは陸軍県行政管理機構司令部の裏で明るい場所ではない。相手が責任を取ろうとしていると思ったヤコブは、相手の誠意に応えなくては、と考えてイノバをブレーザーの後ろに停めた。ヤコブは車の外に出て後部にまわり、追突の被害状況を調べようとした。もちろんエンジンキーは抜いて手に持っている。ブレーザーからもやせた体躯の男がひとり降りてきてヤコブの方に近付いてきた。ところがその男は一言の挨拶もなしにヤコブの手からイノバのエンジンキーをもぎとったのだ。ヤコブはあまりの意外さに、起こったことに実感が持てない。やはりブレーザーから降りてきたもうふたりの男がヤコブに近付き、太った方がヤコブのシャツをつかんで引っ張った。シャツが破れる。もうひとりのやせて背の高い男がヤコブの腹めがけてブローを食わせた上でヤコブを突き倒した。ヤコブは自分が体験している現実を信じられないまま路肩の端の側溝に転がる。頭が呆然となって何も考えられないヤコブの目の前でイノバがブレーザーに従って走り出すのを、ヤコブはぼんやりと見ていた。
自分が乗っていた車が強奪されたのだ。気を取り直したヤコブはすぐに助けを探した。道路管理会社職員に事件を届け出ると、その職員は管理会社パトロールと警察に連絡した。ほどなくしてその両方がやってくる。警察ハイウエイパトロールが、追跡するからすぐに乗れ、と言う。パトロールカーがサイレンを鳴らして突っ走ってくれたが、ヤコブは自分のイノバも犯人のブレーザーも見つけることができなかった。
警察への被害届けの中でヤコブは、レストエリアで食事したときだれかに見られている感触を抱いたことを話した。警察も道路管理会社も、故意に追突しておいて車を強奪する事件はタングラン自動車道路で前例がなかっただけに、意外な面持ちでいる。ヤコブはレストエリアにいる間に目を付けられ、追跡された上で暗い場所で犯行の犠牲になったのではないかというのが警察の推測だ。道路管理会社は今回の事件に鑑みて、もし夜間に走行中追突された場合、車は最寄の料金所に停車させてクラクションを繰り返し鳴らし、周囲の者やパトロールの関心を引いて異常事態を知らせるように、と忠告している。またジャカルタ〜タングラン自動車道路コミュニケーションセンター021−98199999番へ電話することもできる。追突されたら被害者が逃げなければならないという、厄介な時代になったものだ。
2007年9月18日にキジャンイノバが強奪されてから二日後の9月20日夜、こんどはジャカルタ〜ムラッ(Merak)自動車専用道路でコンテナトラックが強奪された。ワリディン41歳はバンテン州チガディン(Cigading)港で大豆25トンが入ったコンテナを積むと、届け先のジャカルタに向けてトラックを発車させた。チレゴンバラッ料金所で自動車専用道路に乗り入れる。コンテナが道路を走り出してしばらくすると、後ろから多軸大型トラックが追いついてきてワリディンのコンテナトラックを追い越し、その前に回りこんでブレーキを踏んだ。助手のイマム・アグン27歳が毒づく。ところが思いもよらず、その大型トラックから手に手に刃物を持った男たち8人が飛び降りてコンテナトラックに走り寄ってきたではないか。トラックヘッドの中にいたふたりはビビる。男たちは両側からドアを開くよう威嚇し、ふたりが恐れてドアを開くと数人が運転席の中に上がってきた。「逆らうとブチ殺すぞ!」という男たちの声にワリディンとイマムは反抗心を失ってぐったり。
ふたりは車内からひきずり下ろされ、手には手錠、目は布で目隠しされ、そのまま大型トラックの荷台に放り込まれた。大型トラックが動き出す。自分たちのコンテナトラックも同時に動き出す気配を感じたものの、車の激しい往来の中でその後どうなったのかは何もわからなくなってしまった。かなり時間がたってからトラックは突然スピードを落として停車し、ワリディンとイマムは手荒に荷台から引きずりおろされて道端に投げ捨てられた。そうしてトラックはそこから去り、ふたりは賑やかに車が往来する片隅で暗闇の中に沈んだ。
警察ハイウエイパトロールの巡回車がティガラクサエリアで道路脇にふたりの男が転がっているのを発見した。時間は21時過ぎ。ハイウエイパトロール隊セラン本部の発表によれば、ジャカルタ〜ムラッ自動車専用道路KM33地点でコンテナ強奪被害者二名が発見され、またかれらが運転していたコンテナ車B6996NRもチウジュン地区KM62地点で路肩に放置されているのが発見された。予想に反したことに、コンテナの中の大豆25トンはまったく手付かずのまま置き去りにされていた。犯人グループは狙ったコンテナを間違えたようだ、というのが警察の出したコメント。


「親切と善意は同根だろうか」(2007年10月5日)
2007年8月7日付けコンパス紙への投書"Barang Hilang di Kabin Merpati"から
拝啓、編集部殿。クパンに出張してからジャカルタへの帰途、2007年6月9日のムルパティ航空MZ645便がデンパサルでトランジット中に、わたしの座席17Cの頭上のラックに置いてあったラップトップが無くなりました。トランジットの際普段わたしはラップトップをバッグから取り出して飛行機から降りるのですが、そのときバリのグラライ空港で自分のバッグを下ろそうとして他の乗客が通り過ぎるのを待っていると、機内にいたスチュワーデスが優しく「そのままでいいですよ。荷物は安全です。わたしたちが見てますから。」と言ってくれました。
わたしは肩の筋に問題があり、医者から肩に負担を与えないようにと忠告されています。頭上のラックから荷物の出し入れを行うのは疲れるので、わたしはバッグに入ったラップトップをラックに置いたまま機内から出ました。機内に戻ったときわたしはバッグがあるかどうかを調べましたが、その中まではチェックしませんでした。スカルノハッタ空港でわたしはそのバッグを下ろし、自分で持って出ました。そのバッグを開けたのは翌日の6月10日正午ごろで、ラップトップを使うためでした。そしてラップトップとアクセサリー類がすべて姿を消しているのにびっくりしたのです。わたしは驚き、恨みそして後悔に心を焼かれました。
どうしてスチュワーデスの言葉をそのまま信用してしまったのかと無念の思いに駆られましたが、今となってはどうしようもありません。わたしはグラライ空港ムルパティ職員に電話して紛失事件を届け出ました。届出を受けたのはムルパティの出発管理担当KMさんと乗客担当のDさんです。さらに6月11日、わたしはムルパティ本社のカスタマーサービスにも届出を行い、Kさんがグラライ空港に対してフォローすると約束してくれました。6月12日には文書による公式届けをファックスでムルパティ本社に送り、写しをグラライ空港警察宛に送りました。
空港警察署長がじきじきにこの事件を取り扱ってくれましたが、ムルパティ側の対応は残念なことに責任放棄でした。6月13日にグラライ空港警察からもらった連絡では、ムルパティのグランドクルーはその件に関する届出を受け取ったことがないと言って非協力的な印象を与えていました。つまりは、6月10日にわたしが電話した届出はただ聞き捨てにされただけだったのです。[ バンドン在住、スティアワティ ]


「高所作業員が転落死」(2007年10月16日)
西ジャカルタ市タンジュンドゥレンにあるモール・チトラランドの外壁で作業していた清掃員が地上およそ30メートルの高さにあったゴンドラから転落して即死した。事故が発生したのは10月10日午前11時15分ごろで、モール・チトラランドの窓ガラスを掃除する作業を請け負っていたPT Shield On Service(SOS)の契約作業員34歳ひとりが転落死した。墜落現場付近にいた新聞売りは、悲鳴は何も聞こえず人間がいきなり落ちてきた、と語っている。
この事故について首都警察タンジュンドゥレン署捜査ユニット長は、転落死した作業員がゴンドラに乗ろうとした際にワイヤーロープのひとつが外れたためと思われる、と事故原因を語っている。ワイヤーロープが切れたのかそれとも正しくつながれていなかったのかについてはまだ調べているところであるとのこと。作業員は安全スリングを装着していたが命綱には結び付けられていなかった。ヘルメットは落下中に外れたもようで、地面に衝突した際の後頭部の激しい損傷が即死を招いている。
しかしSOS社の発表したストーリーは少し異なっており、その作業員はゴンドラの位置を変えるために屋根の上で作業中、ゴンドラが動いたのに引っ張られて転落したものと説明しており、会社側はその作業員のミスがいくつか重なったための事故だと結論付けている。まずゴンドラは地上から操作しなければならないのにその作業員は屋上で操作したこと。さらにその作業員は安全スリングを装着していなかったこと。それでも会社側は遺族に対して事故補償金を出す予定にしていると述べているが、金額は明らかにされていない。
事故死した作業員をチプトマグンクスモ病院に運んだ作業仲間のひとりは、あっという間に起こったため助けようがなかった、と事故の様子を物語った。ゴンドラが6階の高さにあってその作業員が清掃作業をしていたところ、突然ゴンドラの片方のロープが切れたとのこと。そのためかれは頭からまっさかさまに転落し、ヘルメットは吹っ飛び、駐車場の地面に落ちて即死した。保安具は一応用意されているが、自分たち建築作業経験者は高所での作業になれており、決まりに従って細かく保安具を使うことはあまりしない。ヘルメットは一応かぶるが頭に載せているだけで、あごでバンドを締めて固定するようなことはまずしない。安全スリングにしても、腰の帯を命綱に結びつけるようなことはゴンドラに乗るんだったらだれもしない。その作業員はそのように話している。
安全対策を逐一まじめに行うのを面倒がり、かっこうが一見そうなっていればそれでよしとし、何のためにそれを行うのかという目的意識が曖昧なまま日々の行動が営まれている文化がここにも影を落としているようだ。


「ムスリム大学生も革命もどき」(2007年10月17日)
インドネシアのキャンパスにも秘密結社がリクルートの網を張っている。最近大学生の子供を持つ家庭で子供が特定の曜日に帰宅しなくなり、数ヶ月たつと家の者に向かって現政府を批判し、新しい国を作る云々といった熱にうかされたようなことを口走る。あれやこれや理由をつけて親から現金をどんどんもらおうとねだる。昔は親の言うことを素直に聞くよい子だったのに、いまでは親を避けるようになり、まるで別人になってしまった。そのような現象が首都圏の中流家庭に広がっている。親族がそんなありさまを気遣って調べたところ、外目には一見イスラムの教義を一緒に深めて行こうという宗教グループ活動の態をなしているが実は今の政体を廃してもっとよい国を樹立しようというイデオロギー団体活動がその皮の下に貼り付いていることが判明した。
西ジャカルタ市グロゴルにある私立大学の建築学科最終学年にいた息子がそんな活動に巻き込まれて家族との音信を絶ってしまうという体験をした父親が2007年初にマスメディアに援助を求めたことがある。結局その息子は7ヶ月ぶりに実家に戻ったが、親子の情愛に満ちた触れ合いはかれらの間に二度と戻ってこなかった。別の大学生は、何度かそんな会合に誘われた、と自分の体験を物語る。会合はキャンパスの外で行われ、最初の二回はイスラム教義の解釈に関してそのグループが持っている考え方にもとづいた手ほどきが与えられる。三回目に行ったときに新国家樹立の討議が始まり、現政府打倒とイスラム国家建設やこの組織を通して新国家に寄付するべき物についての議論などもなされた。新国家を作るための活動を支援するために団員はこの結社への寄付を求められる。このグループの正規会員と認められた者は三人の仲間を育てなければならないことになっている。どうやらこのグループはその昔、別のイデオロギーを抱える主義者たちが行っていた手法を取り入れているようだ。
このようなイデオロギー団体は現政体をどのように覆すかという過激な計画をひそかに練っており、そんな傾向は過去20年ほど前から上り調子になっているとその筋の専門家は語る。団員のリクルートはそのような長期にわたって連綿と継続されており、活動家は家族から離れて地下活動に近い暮らしをするようになる。そのためリクルートに際しては、国軍・警察の家庭の子供を勧誘してはならず、また一般家庭の子供であっても親が騒いでニュース沙汰になるような事態を発生させてはならない。リクルート活動でそんなことを起こせば自滅だから極度に神経を使っている、とそんな秘密結社の元メンバーは語る。5年間秘密結社で地下活動を行ったその元メンバーは、インドネシア統一共和国が崩壊したら西ジャカルタ市のある郡が自分の取り分になると言われたそうだ。
このようなイデオロギー団体を抱えるイスラム宗派は複数あり、それぞれが社会の中にひそかに潜入して勢力を築き上げようと努め、同時に資金集めも行っている。特に住民間のコンフリクトが起こっている地方都市がかれらにとって運動の翼を広げるのに最適な場所になっているようだ。


「ハンドルシャフトが連結されていないバス」(2007年10月31日)
2007年ルバラン長期休暇の最終日に当たる10月21日日曜日の22時45分ごろ、ジャカルタ〜ムラッ(Merak)自動車専用道路KM47地区で交通事故が発生した。そのときスリクルタブミ観光バスはセランからの団体55人を乗せてデポッ市に行った帰途にあった。バンテン州セランに向けて走っているバスがタングラン県バララジャとセラン県クラギランの境界あたりまで来たとき、バスは突然右に振られて分離フェンスを乗り越え、反対車線に倒れ込んで行った。ちょうどそのとき、ムラッ方面からジャカルタに戻りつつあった南ジャカルタ市トゥベッ在住者4人の乗ったセダン車とブカシ在住者16人が乗ったキャリーが走ってきた。突然右側から大型バスがのしかかってきたのにかれらは肝をつぶしたにちがいない。そうしてそれがかれらの最期となった。死亡したのはセダン車の3人とキャリーの9人、重軽傷者はセダンの1人とキャリーの7人そしてバスの11人。
国家警察本部科学捜査ラボセンターは事故を起こしたスリクルタブミ社観光バス、プレート番号A9568Aの調査を行った。そして驚くべき事実が発見された。そのメルセデスベンツ製バスのステアリングシャフトと前輪車軸が連結されておらず、ビニール紐で括りつけられているだけだったのである。
バス運転手は事故の後一旦逃亡したが翌日夕方、警察に自首してきた。最初はまったく問題なく運転していたが突然ハンドルが利かなくなって空回りした、と運転手は自供している。州警察はこの運転手を容疑者に指定して拘留している。スリクルタブミ社は5年ほど前から資金繰りの問題で操業をストップしていたが、半年ほど前から事業を再開した。事故を起こしたバスは同社が所有している9台のうちのひとつ。このバスはバンテン州運通局が運行許可を与えており、本質を忘れて許認可売買を行っている腐敗行政に警察がメスを入れるかどうかが見守られている。


「男子大学生も営利誘拐被害者に」(2007年11月5日)
2007年10月29日18時ごろ、西ジャカルタ市グロゴルのトリサクティ大学生デニス・ジョナタン22歳はキャンパスから外に出た。するとキャンパスで顔見知りの男がタクシーの運転席からデニスに声をかけた。「おい、ともだちが入院してるんだ。見舞いに行こうぜ。」顔は何度か見ているが名前は知らない、とデニスは後になって警察にその男について語っている。
デニスがそのタクシーに乗ると車は動き出したが、またすぐに道端に寄って停止した。そのとき別の見知らぬ三人の男がそのタクシーに乗り込んできてデニスの動きを封じた。かれらはデニスの携帯電話を取り上げてからそれをまたデニスに渡し、身代金2千万ルピアを払うよう父親に電話させた。ところが夜半を過ぎても身代金受け渡しの連絡がデニスの父親から入ってこない。
一味は結局あきらめたようで、デポッ市パンチョランマスにある空き地にデニスを下ろし、縛り上げた上で殴る蹴るの暴行をふるってから現場を立ち去った。10月30日の夜明けごろ、空き地になっている畑に男が縛られて転がされているのを近隣住民が発見して警察に届け出た。その被害者がデニスで、顔や全身に打撲のあざがあり、警察はすぐにデニスをデポッ市内の病院に担ぎ込んだ。警察はこの営利誘拐未遂と見られる事件の犯人を追っている。


「フェリー内で自動車にはさまれて死亡」(2007年11月9日)
2007年11月5日午前2時前、ランプン州バコウニ(Bakauheni)からムラッ(Merak)に向かったフェリー船の船内で、乗客ひとりが自動車にはさまれて即死した。死亡したのは東ジャワ州マラン住民男性で、かれはメダンからマランへ帰るためにスマトラ縦断バスでジャカルタに向かっていた途中にこの不慮の事故に遭った。
当初かれは船内の客室にいたが、あと30分ほどで船がムラッ港に到着することを聞き、接岸したら自分の乗ってきたバスがすぐに出ると考えて早めにバスに乗ろうと自動車収納デッキに下りた。そしてそのバスの近くまで行ったとき、船は突然大きい波に揺られたため自動車デッキの車が一斉に横方向にずれ動き、かれは大型バスとその隣に駐車してあったコルトジーゼルにはさまれて即死した。遺体は船が接岸して車が動かせるようになるまで手のつけようがなかった。この事故に関して詳細調査が行われているが、渡水交通運航国有事業体PT Angkutan Sungai Danau dan Penyeberanganは船が接岸停止する前に自動車デッキに降りた乗客に遺憾の意を表明している。


「警察が十代の息子をリンチ」(2007年11月12・13日)
2007年8月21日付けコンパス紙への投書"Anak Remaja Dianiaya Aparat Polres Kuningan"から
拝啓、編集部殿。もしあなたのまだ十代の息子が携帯電話をかけてきて、突然背景に騒ぎが聞こえて「助けて、パパ、ママ。警察にリンチされてるんだ!警察にリンチされてるんだよ!」という息子の叫び声の直後に電話がぷっつりと途切れたら、そのときの親の気持ちはきっと想像がつくと思います。自分の息子がどこにいてそんな目にあっているのか、それに対して自分は何をしてやれるのか、親は臓腑をえぐられる思いです。2007年7月29日日曜日16時半ごろリンチの被害者となった子供の実の親であるわたしを襲ったできごとがそれでした。
そのときわたしは目の手術の直後で、安静保養をしていました。携帯電話からの息子の叫び声を耳にしてわたしは反射的に「どこにいる?どこだ?」と尋ねましたがそれへの答えはありませんでした。わたしの一家はパニックに襲われました。しばらく気持ちを静めてからわたしは親戚や友人たちに援助を求め、息子がリンチされている場所を探すのを手伝ってもらいました。しばらくしてから明らかになったのは、そのできごとは西ジャワ州クニガン県エワンガスポーツセンターでのことで、そこではバンドフェスティバルが催されていたのです。わたしはすぐにエワンガスポーツセンターに向かいました。わたしが収集したできごとの経緯は次のようなものだったのです。
エワンガスポーツセンター入場門の隅にあるタバコワルンの近くに泥酔している者がおり、タバコ売りは商売の邪魔になると思ったのでしょう、タバコ売りは警官に泥酔者がいて迷惑だと届け出ました。たまたまそのタバコワルンの前を通りかかった息子はその泥酔者が知り合いだったのでしばらく付き合っていました。そんなところに警官がふたりやってきて、息子にその泥酔者をそこから連れ出すように求めたのです。息子はオートバイでそこにやってきており、また自分ひとりなので泥酔者を連れ出すのは無理だったのです。こうして口論が始まりました。すると警官のひとりが突然息子を足蹴にし、立ち回りに発展したのです。息子は身を守ろうと努めましたがそのうち大勢の警官がやってきてその立ち回りに加わり、ダウンした息子に暴力をふるい続けました。エワンガスポーツセンターの入り口で衆人が見ている中、殴られて血まみれになっている息子をかれらはスポーツセンター脇の駐車場までおよそ50メートル引きずって行ったのです。
息子は屋内に連れ込まれてリンチが継続されました。そのとき息子はそこのトイレに入り携帯電話でわたしに連絡してきたのです。警官たちの行動はたいへん恥ずべきものであると同時にこれは心痛む悲劇です。国家警察上層部が国民との間に良好な関係やポジティブなイメージを築こうとして行っている努力を無に帰すものではありませんか。[ クニガン在住、トトン・ヘリアワン ]
2007年8月24日付けコンパス紙への投書"Pelaku Keluarga Anggota Provos"から
拝啓、編集部殿。8月21日付けコンパス紙のトトン・ヘリアワン氏からの投書に関して説明申し上げます。2007年7月29日16時、当時西ジャワ州クニガンのエワンガスポーツセンターで行われているバンドパレード大会の保安任務に就いていたデニー・マルディアナ二級副巡査部長はスポーツセンター前で営業しているワルンのオーナーから口頭の届出を受けました。届出の内容は、ワルンの前にふたりの男がおり、そのひとりはクニガン県アンチャラン村のプジ・ビン・トトン・ヘリアワンという者で泥酔してワルンの前で小便をした、というものでした。ワルンオーナーの女性はデニー二級副巡査部長に対し、そのふたりにワルンの前から立ち去るように言ってほしい、と依頼しました。
しかしそのふたりは警官の言う言葉に耳を貸さず、反対にデニー二級副巡査部長を怒鳴りつけて顔を殴ったために鼻の皮膚が切れて出血しました。そのため暴力を振るった者(プジさん)をクニガン警察群衆統制部隊員が保護しようとしましたが本人は抵抗して暴れ、群衆統制部隊員のヤシンニ級副巡査部長に唾を吐きかけました。そんな状況の中でプジさんは屋内に強制連行されて保護されました。デニー二級副巡査部長はその後、プジさんに殴られた傷の手当にエル・シファ病院に向かいました。
プジさんはクニガン警察監察隊員アデ・リドワン二級警視補の親戚だったためにデニー二級副巡査部長は正式な報告書を提出せず、家族的な問題解決を望みました。しかしトトン・ヘリアワン氏の投書が8月21日のコンパス紙に掲載されたあと、デニーニ級副巡査部長はその日のうちに自分自身が暴行を受けたとの被害届けをクニガン警察署に提出しました。[ 西ジャワ州警察広報部長、ダデ・アフマッ警部正 ]


「犯罪件数トップは自動車泥棒」(2007年11月15日)
首都警察がもっともたくさんの届出を受けている首都の犯罪は何だろうか?2001年から2006年までのデータを見る限り、その首位の座を占めているのは自動車盗難であり、これは年々目覚しい勢いで上昇している。自動車というのは四輪だけに限定されておらず、二輪・三輪もこれに含まれている。三輪は非常に限定されているだろうが二輪四輪の盗難は日常茶飯事で、四輪は自宅のガレージばかりか街中や行楽地の駐車場から盗まれ、あるいは走行中の車まで強奪されている。二輪車はもっと手軽に盗まれたり奪われたりしている。首都の登録車両がまだどんどん右肩上がりで進んでいる現在、自動車盗難は今後もまだまだ増加するだろうと見られている。2007年5月現在の首都登録自動車台数は、二輪車が3,353,147台で乗用車が1,511,820台、貨物車両408,697台、バス256,372台となっている。盗まれた車は偽造書類が添えられて地方部に送られ、廉価に販売される。そうでなければ解体されて中古純正部品が泥棒市や路端のパーツ屋の棚やひさしを埋めることになる。バンテン州の田舎へ行けば、ジャカルタから盗品オートバイを持ってきて超廉価即売を行う者がいる。書類のない車はさらに安く買えるので、ジャカルタナンバーの二輪車が寒村の山道をたくさん行き交っているという話だ。
年々増大の一途をたどる自動車盗難は警察の事件解決がわずか4.5%しかなく、盗まれたり奪われた自動車はまず戻ってこないことを覚悟しなければならないようだ。2006年の届出件数は11,380件あったが警察の検挙数は540しかない。たまに自動車窃盗シンジケートが捕まるという報道がマスメディアをにぎわすもののそれはほんの氷山の一角にすぎず、捕まる連中よりもはるかにたくさんの自動車泥棒グループが暗躍し、盗品処分のルートをしっかり構築している故買屋があちこちにいてそれらの盗品を買取り、そんな故買品が解体業者や盗品再販ルートに流されて行くという国民的産業構造が政府の指導もなしに強固に確立されていることを意味しているようにわたしには思える。ちなみに2001年から2006年までの犯罪件数推移を下記しておこう。
自動車盗難件数
2001年    6,466件
2002年    5,992件
2003年    6,393件
2004年    9,996件
2005年   10,898件
2006年   11,380件


「犯罪件数第二位は侵入盗」(2007年11月16日)
首都警察が届出を受けている首都の犯罪の中でのナンバー2は侵入盗と呼ばれるもの。これは他人の家に無理やり押し入って邸内の金品を盗んだり奪ったりするタイプの犯罪で、邸内住人がそのとき犯行を認知していたかどうかは無関係。この件数推移は下の通り。
侵入盗件数
2001年   5,093件
2002年   4,687件
2003年   6,123件
2004年   8,100件
2005年   8,177件
2006年   8,176件
この犯罪は持ち主の目を盗んでわからないように金品を盗むというコソ泥とは異なり、犯罪者はまず他人の住居に鍵や扉窓などを壊して侵入したうえ邸内の金品を手に入れるという目的達成のために手段を選ばないという暴力的な性質を有していることから、場合によっては惨事に発展することも大いにありうる。侵入してくる賊もたいていはグループを組んでおり、邸内に入る者だけで数人いる上に外で逃走のために見張っている者を加えればかなりの人数に達する。夜中に目を覚ましたら家の中に賊がいた、という場合は賊の言うがままに何でもお持ち帰りいただくというのが被害を最小限にとどめる解決策であるらしい。
首都警察のこの種の犯罪に対する業績は年平均10%弱の検挙率とのこと。この犯罪者集団は出身地の名前を取ってXXXグループと呼ばれることが多く、数年間にわたって累犯を行うのが普通であるため、一度そんなグループを検挙すれば突如として検挙率がアップするようなことが起こる。
2006年の首都犯罪データによれば、その次の第三位は麻薬・禁制薬物が7,547件、さらに重暴行2,273件、強盗2,098件、賭博1,256件、恐喝775件などとなっている。


「見知らぬ他人からの親切の相克」(2007年11月20日)
2007年8月27日付けコンパス紙への投書"BCA Nontunai Tidak Aman"から
拝啓、編集部殿。わたしの母は2007年8月2日15時半ごろ、西ジャカルタ市のモールスリピジャヤ(Mal Slipi Jaya)にあるBCAのノンキャッシュATMで残高照会をしました。そのときは9,646,599ルピアの残高が確かにあったというのに、8月3日に中央ジャカルタ市のBCA銀行プチェノガン(Pecenongan)店でふたたび残高照会を行ったところ136,599ルピアしか残っていないことにショックを受けました。つまり9,510,000ルピアという金額が口座から落とされていたわけです。わたしがすぐにハローBCAに電話して尋ねたところ案の定、母の口座から出金がなされていました。900万ルピアはチプティヤ名義のBCA銀行口座番号863091 4001宛に振り込まれ、またMentari携帯電話度数50万ルピア分が電話番号0815 8655 88XX宛に購入されていたのです。それらの決済は2007年8月2日15時36分になされており、母が残高照会を行ったほんの数分後の出来事でした。しかし母はその名義人も携帯電話番号もまったく知らないし、それらの決済に承認を与えたこともありません。
それらの決済をいったいだれが行ったにせよ、こんな宗教禁忌に触れる方法で金を稼ぐ人間には災いがもたらされるであろうことをわたしは強調しておきます。わたしの会社の同僚がインターネットでブラウジングしてくれた結果、BCA銀行ノンキャッシュATMを経由する口座破りは頻繁に起こっていることがわかりました。それどころかそのマシーンに取り付けられているマグネットはそのマシーンの使用が終了したあともしばらくの間働き続けているため、そのマシーンを使った者の口座を破ろうと待ち構えている犯罪者にその弱点が利用されているというではありませんか。BCA銀行もそのことを十分熟知しているにもかかわらず、BCA銀行は顧客に対する犯罪を未然に防ごうとする措置をいまだに何ひとつ取っていません。これは消費者がBCA銀行を信用して預けたお金が決して百パーセント安全でないことを証明するものであり、わたしはきわめて残念な思いを禁じえません。わたしの母が体験した事件はけっしてはじめて起こったことでないのを確信しており、またそれが最期の事件となるとも思えません。BCA銀行顧客としてわたしは、取られたお金が戻ってこないことだけでなく、預けたお金の安全が保証されないことをたいへん遺憾に思います。[ 西ジャカルタ市在住、ラニー・クルニアワン ]
2007年9月26日付けコンパス紙に掲載されたBCA銀行からの回答
拝啓、編集部殿。8月27日付けコンパス紙に掲載されたラニー・クルニアワンさんからの投書に関して説明申し上げます。ラニーさんのお母様がKiosKタイプのATMマシンをご使用になった際にお母様はその場で、知り合いでない人間がそのマシン操作手順を手伝おうとするのをお受けになりました。犯意を持った人間が親切ごかしに行うそのような行為はかれらに口座オーナーのPIN番号を盗み見る機会を提供するのです。
現在BCA銀行KiosKタイプATMマシンは保安機能が強化されたことを申し添えておきます。決済が行われる場合、PIN番号が再確認されるという機能が付加されているのです。[ BCA銀行企業秘書広報室マネージャー、ドゥイ・ナリニ ]


「自動車盗難未遂」(2006年11月26日)
自動車教習所の生徒になって自動車を強奪しようとした盗賊グループが犯行に失敗した。東ジャカルタ市チリリタンのスンプルにある自動車教習所PT Karya Teknik Mandiriにふたりの男がやってきて自動車の運転コーチを望んだので、PTカルヤはダイハツゼニアに指導員のラフマッ43歳をつけて送り出した。運転席にはそのふたりのうちユスフ30歳が座り、もうひとりのリリム30歳は後ろの座席に座った。指導員は助手席に座るものと決まっている。ユスフの運転する車はチリリタンからアンチョルを目指してクマヨランのベンヤミン・スエブ通りにさしかかった。すると突然ユスフが運転席から山刀でラフマッに切りつけ、リリムは後部座席からレンガでラフマッの頭を殴りつけた。深手を負ったラフマッは「助けてくれ!」と声を限りに叫び続けるがユスフは現場からの離脱をはかって車のスピードを上げた。
たまたまその地区をパトロール中だった首都警察クマヨラン署のパトカーがラフマッの叫び声を聞きつけて追跡にかかる。ゼニアを捕捉して犯人を逮捕しようとするが、犯人二人は必死に逃走をはかった。逃がしてなるものかと警官はそのうちのひとり、ユスフの右ふくらはぎを撃ってお縄にしたが、リリムには逃げられてしまった。この二人はチアンジュル出身で、これまでスカブミ・チアンジュル・バンドン・ジャカルタなどで少なくとも8回にわたって二輪車を中心に自動車を盗むという犯行を繰り返しており、故郷のチアンジュルでは服役した前科を持っている。警察は西ジャワ州チアンジュルのリリムが立ち回りそうな場所にまで捜査の網を広げている。どうやら自動車のあるところ、自動車泥棒は必ずやってくるようだ。


「水道メーター盗難が激増」(2007年11月28日)
「以前はひと月に10件程度しかなかったのに、9月10月とひと月3〜4百件に激増している。」そう語るのはPT.テームズPAMジャヤのメーター検針課長。PTテームズPAMジャヤは英国系水道会社と都営水道会社PAMジャヤが作った合弁会社でチリウン川東側37万4千の上水道利用者に対する供給サービスを行っている。都庁が上水道事業民営活力導入を行ったとき、チリウン川西側はフランス系資本との合弁によるPT.PAMリヨネーズジャヤが請け負うという分担が行われた。奇しくもジャカルタでイギリスとフランスが競い合うという構図が作られたわけだ。
最近激増しているとメーター検針課長が言うのは水道メーター盗難件数のこと。メーターは鉄製であり重さも1キロほどあるので、泥棒は故鉄として売るために盗んでいるようだ。メーター盗難は北ジャカルタ市が最大で、次いで東ジャカルタ市が多い。盗難は宅地の外に設置されているものだけでなく、住宅の庭の片隅に設けられているものも無事ではすまない。フェンスで囲まれた住宅の中まで泥棒は侵入して水道メーターを盗んで行く。盗まれて困るのはまず消費者だ。新しいメーターを設置する費用およそ20万ルピアは利用者の負担となる。水道会社にとっても面倒が発生する。メーターがなくなると使用量がわからなくなるので、料金請求は推定額が使われることになる。この推定額は過去3ヶ月間の利用量平均値が用いられる。
メーター検針課長は、メーターは盗まれていないのに検針員を困らせる利用者がいる、と語る。まず昼間住人がひとりもいなくなる家。メーターが道路から見えない場所に置かれていれば、門には鍵がかかっているから検針は不可能になる。中には貯水槽を設けてメーターを貯水槽の底に置いているところもある。深い貯水槽の底にあるメーターを読むのは不可能で、検針員に水の中に飛び込ませるのも無理なはなしだ。実態がそのようになっているため水道会社はジォグラフィック情報システムにサポートされた手持ち検針機器の利用を進めている。現場でチェックされたデータはすぐコンピュータ内で登録される。正確さが大幅に向上したため、利用者からの苦情は0.3%まで減少した、とテームズPAMジャヤの検針課長は述べている。
給水網が老朽化しているためテームズPAMジャヤは総生産量の51%が水漏れで無に帰しており、値上げ申請もなかなか承認されないために困難な経営状態にある。


「ついうっかり、口座破りはそれを待っている」(2007年11月30日)
2007年11月12日、北ジャカルタ市クラパガディンのBCA銀行メインブランチにこわばった顔で顧客がやってきた。2,040万ルピアあった口座残高が知らない間に7万5千ルピアに減ってしまったらしい。最期にその口座で出納を行ったのは10月30日で、ノンキャッシュATMで振込みを行っただけだ、と言う。銀行職員がその口座の決済履歴を調べたところ、その顧客が言う振込みから3分後にもう二件振込みが行われており、1,000万ルピアと1,040万ルピアがラジャ・ソトゥラホン名義の口座に振り込まれていた。「ATMカードはずっと自分が握っていたのにどうしてこんなことが起こるんだ?」その顧客は疑惑のまなざしで銀行職員を見つめた。同じような口座破りの被害報告がこれで七人目になった銀行側は、防犯カメラから犯人とおぼしき男の顔写真をプリントして警備関係を中心に諸方面に配布した。
2007年11月21日、BCA銀行ラワマグン(Rawamangun)店。その日もATMブースの前に人の列ができている。最初警備員はその男に何の疑いも抱いていなかった。ATMに用がある普通の利用客と違うところは何もない。その男がATMブースから出てきたとき、警備員は何ということもなくその男に声をかけた。すると男は応答もせずにいきなり走り出したではないか。警備員はとっさに不審を感じて追いかけた。同僚と一緒にその男を捕らえて事務所に連行する。そしてしばらく前に配布されてきた『要注意人物』の顔写真を見て驚いた。ひょうたんからコマとはこのことだ!
警備員は男を東ジャカルタ市警プロガドン(Pulo Gadung)署に引き渡した。男は警察の取調べにラジャ・ソトゥラホン25歳と名乗った。取調べの中でラジャは銀行口座破りの手口を自白した。警察は、銀行口座の持ち主が被害を招いているようなものであり口座オーナーはATMの前でよくよく注意深く行動するように、というコメントを出した。この手口は決してラジャの専売特許ではないはずだ、との弁。
ノンキャッシュATMで口座間決済をしようとする口座オーナーはまずATMカードを読み取らせてPIN番号を打ち込む。機械は決済可能サインを示し、その後ATMカードが排出される。決済メニューを選択してその操作を終えると、「続けますか」と機械が尋ねてくる。続ける場合は「Ya」を指定し再度PIN番号を打ち込む。自分の用事が終わったとき、「続けますか」としつこく尋ねてくる機械に対して「Tidak」を指定しなければならないのだが、実際にはその最後のティダを忘れるひとが少なくないのだ。ラジャはそんなひとの後ろについて、前のひとが打ち込むPIN番号を盗み見する。番号を忘れないように自分の携帯電話にそれを打ち込んでから電話器を自分の耳に当てる。周囲にいる他の人間はラジャが電話をかけているとしか思わない。前のひとが用事を終えて立ち去りラジャがATM機の前に立ったとき、スクリーンに「続けますか」が出ていればラジャの世界はばら色に染まる。
警備員に声をかけられたくらいで縮み上がって駆け出したラジャは自分で自分の首を絞めたようなものだが、こんな犯罪を行うのはそんな小心者だからなのだろうか?


「バンテン州インド洋岸は大麻の黄金道」(2007年12月17日)
アチェをメインにスマトラからジャワに流されてくる大麻はこれまでムラッ(Merak)をメインゲートにしていたが、昨今ではバンテン州南部インド洋岸の海岸線一帯が大麻流通のゴールデンルートに変わっている、と国家麻薬庁麻薬予防センター長が明らかにした。国家麻薬庁が調べた学生生徒の麻薬禁制薬物使用状況では、バンテン州は6.4%となっている。最大は東ヌサトゥンガラ州の11.5%、続いてゴロンタロが7.3%、マルクとジャカルタ7.1%、北マルク7.0%でバンテンはその次に位置している。
バンテン州警察麻薬禁制薬物局長は、州内の麻薬使用者がもっともたくさん使っているのは大麻で全体の80%に達し、ほかはエクスタシーが15%、シャブが5%を占めている、と語る。大麻の流通路はかつてのムラッから州南部海岸の漁港や民衆港に上陸地点が移っており、そこからマリンピン〜バヤ〜スカブミ〜ボゴールという陸路を経て国内各地に散らばっていく。
タングランの青年刑務所で最近、1キログラムの大麻を所持していた看守が捕まった。この看守は刑務所の外で売人からそれを購入したあと逮捕された。刑務所内の囚人に販売するために看守がそれを仕入れたものと見られており、2006年の一年間で全国で15人の看守が同じようなことをしたために逮捕されている。


「テロ予防を主体に全国で警備強化」(2007年12月21日)
「しばらく爆弾テロがなりをひそめているが、決してテロがもうなくなったわけではない」という警察上層部から市民への警告を旗印にして、年末の長いホリデーシーズンに入ったインドネシア各地で警察の取締りが強化されている。首都5市も今週から現場に出動する要員を増やして、都内に入ってくる自動車を中心にした検問を行っている。中央ジャカルタ市警察は2007年12月17日から、スネンのブグル(Bungur)通りとクマヨランのブンヤミンスエブ(Benyamin Suebu)通りでBナンバーでない自動車に焦点を当てて24時間検問を実施している。中でもボックス車がトップターゲットにされており、積荷から携帯書類、乗っている者のバッグの中味などが逐一調べられている。中央ジャカルタ市警察では全職員2,058人の三分の二が現場に出動し、首都警察本部からの人的応援を得て管区の取締りを強化しており、特に各地区警察署では勤務者を倍増しまた2〜4班のオートバイ警官隊を配備して機動力を高めている。首都の行政と文化の要衝が中央ジャカルタ市に集まっているため、この年末年始期間中の24時間警備実施は中央ジャカルタ市警にとって特に負担が大きい。
首都警察ブカシ署は保安要員1千6百名を動員して教会・商店・モール・人の集まる場所を重点的に警備している。ブカシ市内にある教会の数は96ヶ所。ブカシ署長は市民に対し、大晦日の夜の爆竹や大勢が戸外で騒ぐようなことは行わないようにと要請している。首都警察はこの年末年始警戒作戦を2008年1月3日まで継続する予定。
バリ州警察は2007年ろうそく作戦と名付けたこのホリデーシーズンの特別警戒で、州外から人が入ってくる入り口を押さえる水際作戦を行っている。そのため警戒最重点地区となっているグラライ(Ngurah Rai)空港やギリマヌッ(Gilimanuk)フェリー港を中心にして3千人が現場を固めており、州外から入ってくる人間とその持ち物あるいは輸送サービス等で送られてくる物に焦点を当てて警戒が実施されている。そのために州警察K−9ユニットの捜査犬も動員されている。


「日本向け人身売買組織の尾をつかんだ国家警察」(2007年12月26日)
2007年9月はじめ、5人のインドネシア人が成田空港イミグレーションで入国審査時に逮捕された。日本国警察の調べでこの5人は国際人身売買行為に関わったとされ、警察での留置後千葉県地方裁判所で公判を受けている。5人のうちの3人は人身売買の被害者、残る二人は加害者であることが立証され、ガルーダ航空男性客室乗務員のカラン・クリスト・タンカと在日インドネシア大使館女性職員ユリア・ロシタ・レンベッの容疑者ふたりに対する取調べが重点的に行なわれた。被害者とされた三人はワグネル・トゥラガン、スシ・リサンティ、メルシ・シガラキで、ワグネルには4年間日本入国禁止の判決が既に下されている。スシは去る12月12日にインドネシアに強制送還された。ユリアとメルシは最終公判を待っており、カランは懲役4年の実刑が求刑されている。
インドネシア国家警察は日本で摘発されたこの事件の関係者に対する取調べを実施するために犯罪捜査庁から国際犯罪の腕利きを集めた6人の取調べチームを日本に派遣し、このチームは2007年12月20日から日本側の協力を得て活動を開始している。ザイヌリ・ルビス警部正をリーダーとするこのチームは既に関係者から多くの情報を収集しており、インドネシアから日本に被害者を送り込む手口やこの組織に関わっているインドネシア側の人間の名前、中でも組織の中核にいると思われる人間の名前が入手できたことから、インドネシアに戻り次第それらの名前を指名手配リストに加えるとともにジャカルタやその他の都市にあるネットワークに対する捜査を開始する、と前国家警察情報部長だったチームリーダーは東京で語っている。この不法越境幇助組織は日本向けだけでなくアメリカ向けの類似国際犯罪にも関与している可能性が濃い、と警部正は付け加えている。
この組織は被害者に日本で高額の稼ぎになる仕事口があると働きかけ、この話に乗ってきた被害者に顔写真だけは本人のものだが名前等の個人データは一切虚偽のものになっているパスポートを作るために5千5百万ルピアを支払わせ、そのパスポートはインドネシア出発時にはじめて本人に渡し、高額の報酬を夢見て成田に到着した被害者を組織の者が空港に迎えてスポンサーと豪華な晩餐会で歓迎し、被害者にその夢の合法性と信頼性を確信させるというなかなか周到な筋書きを実行していた。


「全裸首なし死体事件」(2008年1月28〜31日)
北ジャカルタ市警本部からおよそ1百メートルほどの距離にあるホテルブーランマスの3階第17AB号客室で首なし女性の全裸死体が発見されたとの通報が1月17日23時30分ごろ警察に届いた。年齢25〜30歳と見られる女性の全裸死体はうつぶせでベッドの下に押し込まれており、足がベッドの下にのぞいているのが見えた。マットレスは血だらけで、犯人が手を洗ったと見られるバケツが室内にあり、タオルとシーツもそのバケツの中に突っ込まれていた。その惨状を最初に発見した清掃係からの報告でホテル側は即刻警察に通報した。
死体は胸に四つの刺し傷があり、叫び声やひとの暴れる音を聞いた従業員がいないことから犯人はまず女性の口を押さえた上で刃物をふるったのではないかと推測される。そうして生命を奪ってから首を切り落としたようだ。またこの女性は妊娠初期段階にあったことが判明している。
ホテル側の証言によれば、3階第17AB号客室の宿泊客は若い男女の二人連れで、その日19時半ごろヤマハオートバイに乗ってやってきたとのこと。チェックインしたあとフロント職員が二人を二階の客室に案内したところ、二階の部屋はかなり客が入っていたため男は静かな部屋を要求して三階端の部屋に入った。駐車場係員はそのふたりがオートバイでやってきたと言い、23時ごろ男だけがヘルメットをかぶって建物から出てきたあとオートバイを取り出して駐車場の外まで押して行き、かなり遠くでエンジンをかけてから走り去ったと述べている。しかしホテルのフロント職員も駐車場係員もその男の住民証明書や運転免許証など本人の身元を示す書類を預かった形跡がなく、駐車場でもオートバイのプレート番号が書き残されていないために容疑者はホテル従業員と顔なじみだったのではないかとの疑惑が浮かんでいる。被害者の死体はチプトマグンクスモ病院で検死が行なわれ、身元照会者の来訪を待って同病院2階の遺体安置室に置かれた。
それから三日たった1月20日午前10時半、東ジャカルタ市コジャのチリンチンラヤ通りに沿ったクレセッ川水門で川のゴミを作業機器で回収していた清掃員が女性の頭を発見したと警察に届け出た。発見した清掃員によれば、その頭は水面に浮かんでいて眼球がほとんど飛び出しそうになっていたとのこと。警察はさっそくホテルブーランマスでチェックイン時に被害者の顔を見ているフロント職員にその頭を検分させた。ホテル職員は、その丸顔の形は被害者にたいへん良く似ていると証言した。チプトマグンクスモ病院法医学部門で検査した結果、その頭は間違いなく首なし死体のものであることが確認された。首を切り落とす際に使われた刃物はその作業に十分な大きさのものでなかったため、犯人は苦労しながら切り落としたようだ、とのコメントが出されている。
女性の首なし死体事件報道が流されたためにタシッマラヤから36歳の女性が上京してチプトマグンクスモ病院を訪れた。1月15日以来17歳の娘が帰宅しないため、もしやと思って見に来たとのこと。そしてこの女性は胸をなでおろしながら帰って行った。丸顔の愛らしい表情をしていた色白のこの被害者はいったい誰なのだろうか?
2007年5月のある日、北ジャカルタ市チャクンにあるヌサンタラ保税工業団地内で操業しているPT KCIで働いているアティカ・スティヤニ22歳の携帯電話にSMSが飛び込んできた。切々と恋心を吐露しているそのSMSの送り主にアティカはまったく心当たりがない。それがあて先間違いであるのは明らかだった。「送り主はきっと番号を押し間違えたのね。でも返事を求めているこのSMSが本当の相手に届いていなくて、それを知らない送り主は返事がこないために相手の気持ちを誤解してこのふたりの関係にひびが入るのは可哀想だわ。」アティカはそのSMSに「番号を間違えてるよ」という返信をした。
こうしてアティカとその相手との間でSMSのやり取りが始まり、電話で話をするようになり、プロガドントレードセンターでランデブーしようという約束にまでこぎつけた。相手の男はザキ・アフリザル25歳で、トリサクティ大学の最終学年で都内のある銀行で実習訓練中だと自己紹介した。ふたりはデートを重ね、互いの存在に夢中になり、そうして身体の関係へと進んで行った。
アティカは北ジャカルタ市コジャのラゴアの実家に両親や兄妹と一緒に住んでいたが、チャクンの工場に勤めるようになってからは工業団地に近いところに下宿し、実家へは土日だけ帰ってくるという暮らしをしていた。アティカには夫がいて、そして4歳になる子供までいた。しかし夫との生活は数年で破綻し、夫はアティカを省みなくなってもう一年以上も夫婦の営みが行なわれていなかった。インドネシアでは夫婦が同じベッドで寝ないことをpisah ranjang(床別れ)と呼び、それが一年以上続けば夫は妻に対する責任を放棄したと見なされて妻に離婚を求める権利が生じるというのがイスラム法の決まりになっている。しかしアティカはまだ夫と離婚していなかった。ともあれそんなアティカの毎日の暮らしにザキの出現はバラ色の彩りを添えるものとなった。ザキは頻繁にチャクンまでやってきてふたりの甘い夜が積み重ねられていった。
アティカは土日に必ず実家に帰った。ザキもアティカの実家を何度も訪れた。アティカの両親に会うときザキはたいてい長袖のシャツを着て時にはネクタイを締めるという服装をしたので、アティカの両親はかれが大学生で銀行で働いているという話をまったく疑わなかった。アティカはザキに対して自分の境遇を何一つ隠そうとしなかった。だからザキは自分の恋人が人妻で子供もいることを知っていた。夫と床別れしているがまだ離婚はしていないということまでも。しかしアティカはザキの本当の姿を知らなかったのだ。
西ジャカルタ市パルメラのコタバンブウタラ通りに住んでいる中部ジャワ州トゥガル出身のザキ・アフリザルは屋台を押してナシゴレンを作り売りする巡回物売りだった。トリサクティ大学生でもなければ銀行で実習も行なっていない。かれがアティカとかの女の両親を騙していたのはそれだけではない。ザキは故郷のトゥガルに妻がおり、そして子供がひとりいたのだ。ザキに故郷で自分を待っているその家族を打ち捨てる気はまったくなかった。だからひと月ほど前にアティカが妊娠したことをザキに打ち明けたとき、ザキは目の前が真っ暗になった。それ以来アティカはザキに早く結婚してくれと迫るようになった。隣近所や家族に対して恥ずかしい思いをするのがアティカにはたまらなかったし、親も恥をかかせるようなことをするなと言ってアティカを責めるのは疑いもなかったからだ。ふたりの間でそんな状況になったころには、アティカにザキの本当の姿が明らかになっていた。しかしアティカは既に引き返すことのできるボーダーラインをはるかに超えてしまっていたのだ。そして1月17日の朝、その日どうしても会いたいという電話がアティカからザキに入ったとき、ザキの犯意が首をもたげた。ザキは手提げバッグと包丁を用意するとコタバンブウタラ通りの下宿を出た。妊娠4ヶ月でつわりの時期に入ったアティカは無性にドリアンが食べたくなる時がくる。これはドリアンを割るための包丁だ。
乗り合いバスで北ジャカルタ市警本部前バス停まで来たザキはそこで待っていたアティカを連れて徒歩でホテルブーランマスに向かった。3階第17AB号客室で犯行が繰り広げられ、ザキはまずアティカの着ているものと身につけている装身具をすべて取り去って全裸にした。そして胸を刺した包丁でアティカの首を切り落としはじめたのだ。『こうしておけば被害者がだれかわからないだろうから自分は安全だ。』苦労して行なった作業も終わり、ザキはアティカの頭部と包丁をバッグに入れて密かにホテルを出た。アティカの衣服やハンドバッグなどもすべて持ち出した。その足でホテルの裏にまわり、スンテル川に頭と包丁を投げ込んだ。ザキは再び大通りに戻るとバスに乗ってパルメラへと帰って行った。
1月17日にアティカは家族のひとりに、自分はバンドンへ行くつもりだと語っている。そのために17日の夜アティカが下宿に戻らなかったことを家族はあまり心配しなかった。しかし何日も下宿に戻らず音信不通であれば家族は心配して捜索をはじめるだろう。だから毎週土日にアティカが必ず実家に帰っていたことを知っているザキは、1月20日に偽装を行った。アティカの携帯電話を使って妹のオネンにSMSを送ったのだ。自分は元気でいるから、と。しかしアティカの携帯電話に電話をかけても応答がない。アティカが行方不明になっていることを家族が確信するのに時間はかからなかった。残念なのは、ザキの居所をだれも知らないことだった。
首都警察本部と北ジャカルタ市警本部は合同捜査を進めた。そしてアティカとザキの携帯電話の電波追跡を行なって電話機のある場所へと捜査の網を狭めていった。1月22日午前3時、捜査員はコタバンブウタラのザキの下宿に踏み込み、白河夜船のザキを殺人容疑で逮捕した。取調べでザキは犯行を認めたものの、計画的殺人ではないと主張している。しかし警察はこの殺人を計画殺人として起訴する意向であり、刑法典第340条によれば計画殺人の刑罰は死刑もしくは終身刑となっている。


「スピオン」(2008年1月18日)
渋滞路や赤信号で前進できないでいると、男たちが数人近寄ってきて車のサイドミラーをこじり取って行く。これは首都圏でよくあるストリートクライムのひとつだ。そのような連中に抵抗したり反撃しようとする者はめったにおらず、車の中にいる人間は連中のなすがままにまかせる。怪我をしたり生命に関わるようなことになっても馬鹿馬鹿しいというのがその理由のようで、つまりサイドミラー1〜2個と身体生命のリスクはつり合わないということだろう。個人の所有権に対する侵害がその人間の尊厳に関わっている文化で育ったひとにとっては、たとえサイドミラー1〜2個であろうとそれを強奪するというのは自我がレープされるのに似た衝撃を感じるだろうから、このカルチャーギャップには警戒と自重が必要であるに違いない。
ところでサイドミラーをインドネシアでは「kaca spion」と呼ぶ。スピオンとはスパイを意味するオランダ語で、スパイのようにこっそり覗き見をするための鏡だという語感がわたしにはついて回るが、凸面防犯鏡や凸面安全鏡を英語でもスパイミラーと呼んでいるようだからスパイ気分など抱くのは考えすぎにちがいない。インドネシアでは車両の室内に付いているバックミラーもカチャスピオンと呼ばれており、その両者の間にあまり厳密な区別がつけられていない。
さて強奪されたカチャスピオンは、都内のスネン(Senen)・クラマッ(Kramat)・クウィタン(Kwitang)・クナリ(Kenari)などスネン〜クラマッ〜サレンバと連なる大通り沿いの地区へ持って行けば盗品故買屋が1個3万から10万ルピアで買い取ってくれる。平均5万ルピアで売れたとして、毎日1個カチャスピオンをこじり取っていれば最低賃金よりはるかに大きい月収が手に入るわけだから、毎日汗水たらして最低賃金をもらうような暮らしは多くのひとにあまり魅力を感じさせていないにちがいない。
2008年1月11日、首都警察中央ジャカルタ市警察署は四人組のスピオン泥棒のうち三人を逮捕し、もうひとりを指名手配した。かれらが稼ぎを行なっていたのはハルモニ・ガンビル・ガジャマダ・コカコーラ・チュンパカプティ・スネンの交差点で、狙いをつけるのは高級車ばかりだった。こじり取るのはほんの数秒で、その後は獲物を手にして逃走するが、走って逃げる場合もあれば乗り合いバスに飛び乗るということもある。時にひとりだけで仕事をすることもあり、2007年12月末にバスに乗っていたところバトゥチェペルの交差点で目の前にトヨタアルファードが赤信号で止まっていたのでバスから降りてすぐ一仕事したら、車の中の人間は怖がってじっとしていた、と四人組のひとりは取調べの中で物語っている。警察の調べでは、この一味は年末だけで16回サイドミラー盗難事件を起こしており、もっと昔から数えれば何台が襲われたことかわからない、と評している。


「機体整備用物資を盗む航空会社社員」(2008年1月22日)
スカルノハッタ空港で航空会社の機体メンテナンス職員が物資や部品を盗んで売り払っていたことが明らかにされた。スカルノハッタ空港警察は容疑者ならびに盗品故買屋を総勢7人逮捕して取調べている。この事件の中心人物と目されているのはサウジアラビア航空スカルノハッタ空港事務所の技術課長とその部下で、かれらは航空会社所有の航空機メンテナンス用物資を盗んで売却し、それらの盗品は故買屋の手から仲介者の手を数回経て最終的に他の航空会社へと売り渡されていた。盗まれたものは航空機用潤滑油、ジャッキ、飛行機タイヤ、ローター、ブレーキシート、マスク、ライトなどでいずれも金額の張るものばかり。ところがサウジアラビア航空ジャカルタ事務所はこの事件に非協力的で、警察の照会に対して「会社側の損失は何もなく、事件の詳細情報はジャカルタで提供できるものはないのでサウジの本社に問い合わせてくれ。」と返事している由。
「航空機整備に使われなければならないものが横流しされていれば、その機体にはいったい何が使われているのか?人命にかかわる事故につながるたいへん危険な問題ではないか。それを会社側の損失は何もない、とはいったいどういうことか・・・?」空港警察署長は会社側の態度に不満をあらわにしており、同航空会社本社に対する情報開示を求めて警察は既にインターポールに連絡を取っている。
空港警察が今回の事件を摘発した発端は、故買屋の手に入った盗品を売りさばく一次販売者の自宅に航空機用部品があるのを目撃した隣人からのタレこみで、2007年12月から警察は辛抱強く容疑者をマークして一味の全貌を明らかにし、その上で逮捕に踏み切った。


「高速道路で鶏卵が当たる」(2008年2月4日)
2008年1月24日深夜1時半ごろ、マランまで塩魚を運ぶためにチカンペッ自動車専用道に入ったトラックがタイヤのパンクのために路肩に寄った。運転手と助手がふたりでタイヤ交換をはじめたところ、緑色のスズキフューチュラ一台が近くで止まり、男がひとり降りてきた。その男は警官だと名乗り、自動車の書類と運転免許証を提示するよう求めた。運転手がそれらの書類を用意したとき、フューチュラからもう三人が降りてくるやいなや、すぐに運転手と助手を威嚇した。その四人の男たちのだれの手にも、銃器も刃物も何も見当たらなかったのだが、運転手も助手も既に震え上がってしまった。「何も言わずに黙ってすぐに金を出せ。言うとおりにしないと撃ち殺すぞ!」
運転手は手にしていた書類と免許証を相手にわたし、続いてポケットから230万ルピアの現金を出してそれも相手に渡した。その230万ルピアは塩魚を届けるための経費と報酬の一切だ。四人の賊はトラック運転手から奪えるものを奪うとさっさと車に戻って走り去った。
被害者はその四人の賊が本当に警察か犯罪者なのか半信半疑でいたが、そこに首都警察ハイウエイパトロールの車が通りかかったのでふたりはすぐに被害を訴え出た。ふたりの警官が乗ったパトカーはすぐにB1405QMというプレート番号のスズキフューチュラを追跡するために走り去った。高速で追い上げたパトカーはほどなく賊の乗ったフューチュラを捕捉して停車を命じたため、賊はボロブドゥル大学キャンパス近くで車を停め、高速道路の外へ走り出たあと四人は蜘蛛の子を散らすように別々の方向に逃げた。まるで映画のようなこの捕り物劇に大勢の群衆が集まり、警官と一緒になって賊を追いかけた。賊の一人は逃げ場を失ってその近くを流れるスンテル川に飛び降りたものの、どうやら泳げないらしくアップアップの態。リオン・ナババン35歳という名のこの男ひとりだけが警察に逮捕された。
自動車専用道路を走る車を獲物にしている犯罪者たちにとって、故障などで寂しい場所に止まっている車はおあつらえ向きのターゲットになる。そんな車がいなければ、犯罪者たちは強引に走っている車を止めようとする。昔から走っている車を止めるための数々の手口が披露されてきたが、最近は新たな手口がそのリストに書き加えられていることを国家警察が公表した。それはターゲットにした車のフロントガラスに鶏卵を投げつけるという手法で、フロントガラスに卵の中味がぐしゃっと付くと運転者は本能的にワイパーを動かして水で洗い流そうとする。そこが賊の付け目だ。水量が不十分だから洗い流すどころか、ワイパーのゴムがかえって卵の中味を一面にならしてしまい、視野を狭くする。結局運転者は停車せざるを得ず、フロントガラスをきれいにしようと車外に出たところを後ろから走ってきた賊の片割れに襲われるということになる。罠を張った穴に被害者を落とし込んでいく犯罪者の手口に関してインドネシア人は実に天才的な才能を持っているようにわたしには思える。そのような才能がほとんど悪事のために使われているということがこの民族の悲劇かもしれない。
警察はそのような事態への対応として、卵がフロントガラスに当たったときはワイパーを動かさずに汚れていない面から前方をよく見て絶対に停車せず、賑やかな場所や警察署までともかく走り、安全を確認してから降りてフロントガラスをきれいにするように、とアドバイスしている。


「都内を徘徊する強盗タクシー」(2008年2月11日)
2008年2月2日16時ごろ、中央ジャカルタ市ガトッスブロト通りにあるプラザスマンギに行くつもりのルナ25歳はマンパンプラパタンのパン屋の前で空車タクシーがやってくるのを待っていた。ルナがいつも利用しているのはブルーバードかエクスプレス。いつもはその場所をブルーバードもエクスプレスも空車タクシーがたくさん通るというのに、その日に限って一台もやってこない。10分ほど待ちんぼうを続けてしびれを切らしたルナは、やってきたマルーンレッドのタクシーを止めた。車内に入ったとたん、ルナはおかしな予感を感じた。窓は必要以上に暗くしてあり、ダッシュボードに置かれていなければならない運転手と車両アイデンティティの表示が見当たらない。運転手も緊張した雰囲気を放っており、メーターも倒さないで走り出した。ルナは運転手に、トゥガルパラン通り経由でガトッスブロト通りに入るようオーダーする。タクシーはルナの言うとおりの進路を取ったものの、ガトッスブロト通りの少し手前で道端に寄って停車した。「後ろのタイヤがおかしい。」と言いながら運転手が降りる。ルナは不審を抱いて外に飛び出そうとしたが、扉の外には屈強な男が車内に踏み込む態勢に入っていた。両扉が開かれて左右から男がひとりずつ入ってくる。気丈なルナは男たちに抵抗し、叫び声をあげ続けた。タクシーは動き出し、ふたりの男はルナを取り押さえにかかる。三十代と見られる一味のボス風のがっしりした体躯の男がルナの頭と腕を押さえつけ、もうひとりの男がルナの両足を押さえつけたために、ルナは身動きが取れなくなって観念した。男たちはルナのハンドバッグから携帯電話とATMカードそして現金を抜き取り、紙切れを差し出してPIN番号を書くようにルナに命じた。賊はATMカードとPIN番号を書いた紙をタクシーの窓から投げ捨てる。後ろを走っていた車が止まり、ひとが降りてそれを拾う。しばらく時間がたってから、ボス風の男の携帯電話が鳴った。「金は180万ルピアしかなかった。」というさっきATMカードを拾った手下からの報告だ。男はルナに「あんたの口座に5百万ルピア入れさせろ。」と厳しい口調で命令する。ルナは仕事仲間に電話して口座に大至急5百万ルピアを振り込んでくれと頼んだ。しかしその仕事仲間は250万ルピアしか振り込まなかったようだ。その間タクシーは都内をうろうろと走り回り、そうして手下から結果の報告が入ってきた。ボス風の男はそんな結果に一応満足したようで、タクシー運転手にルナを下ろしてやれと命じた。暮れなずむ18時ごろ、ルナは人影のない場所で下ろされ、1万5千ルピアと二個の携帯電話に入っていたSIMカードそれぞれ、そしてハンドバッグを返してもらった。賊たちの乗ったタクシーは瞬く間に姿を消した。ルナは2月4日21時15分ごろ首都警察に事件を届け出た。
同じ日、南ジャカルタ市パンチョランに行くつもりでラニ24歳がスナヤンシティから乗ったタクシーも強盗タクシーだった。青年の像があるスナヤンロータリーでタクシーが停車すると、両扉からひとりずつ男が車内に侵入してラニに刃物を突きつけた。ラニから装身具・携帯電話二個・現金などを奪った賊は、それだけでは足りずにラニをレープしようとしたが、メンス中だったおかげでラニの貞操は守られた。ラニは東ジャカルタ市プルンプンで解放された。
2月5日17時ごろ、スディルマン通りにあるミッドプラザからタムリン通りのサリナに行こうとしてシンタが乗った青色のタクシーも強盗タクシーだった。タクシーは都内をうろうろ回ったあとスナヤン地区で道端に停車し、両扉から男が入ってきた。シンタの全力をあげての抵抗に賊は手を焼いたが、男のひとりがドライバーを突きつけたためにシンタの力が抜けた。シンタは賊ともみ合っている間に顔や首に引っかき傷や打撲傷を負っている。シンタは現金1,040万ルピア、1,100万ルピア相当のラップトップコンピュータ1台、320万ルピアの携帯電話を奪われたあと、東ジャカルタ市オティスタ通りに下ろされている。シンタはその夜21時ごろ首都警察に被害届けを出した。


「タワンマグの山賊」(2008年2月21・22日)
中部ジャワ州と東部ジャワ州の州境にそびえる標高3,265メートルのラウ(Lawu)山。山の西側は中部ジャワ州カランアニャル(Karanganyar)県タワンマグ(Tawangmangu)郡。東部ジャワ州側のサラガン(Sarangan)からラウ山の南を通ってソロ(Solo)に向かう街道を、ブディの運転するいすゞパンサーは息を切らせて走っていた。最初その車は快調に坂を登っていたが、下ってくる車が道路脇にいる数人の男たちを避けようとして中央を割って来たために端に寄って一旦停止せざるを得なかったのだ。それからというもの、まったくスピードがつかないままというありさま。そこはチュモロセウ(Cemoro Sewu)まであとおよそ5百メートルという所にあるきつい登攀路だ。ブディはパンサーのアクセルを一杯まで踏み込むが、車はまるで雲の上に乗っているようで手ごたえが感じられない。それでも車はゆるゆると進んで行く。同乗の仲間たちが「もうちょっと、なんとかならないの?」といった目でブディをちらりと見る。好天に恵まれた真昼間のこと。青い空に白い雲、吹く風はあくまでも爽快。
この道路に沿って雨風を避けるための警備員ポストのような小屋がいくつか立っており、小屋にはそれぞれ男たちが何人も詰めている。ブディのパンサーが急坂で前進を止めたとき、近くの小屋から男たちが一斉にブディの車に駆け寄ってきた。車が後退しないようにするための少し大きめの石を手にした者もいる。車内に安堵感が広がった。『よかった。かれらはエンコした車を押してくれるお助けマンだったんだ。』
男たちは車の周りに散らばり、車に取り付いた。男たちのひとりが叫ぶ。「おーい。クラッチをつないでアクセルを踏め!」ブディは言われた通りにした。エンジンがうなりをあげる。しかし車体はびくとも動かない。ブディは慌てた。「そんな馬鹿な!」
そのうちにクラッチの焼け焦げる臭いが車内に広がった。車内の全員がそのときはじめて気付いた。いったい何が起こったのかということを。後部座席の仲間が言う。「おい、あいつらこの車を押さえてるぜ。」車の後ろに集まっている男たちは車を後ろから押しているどころか、車にぶらさがって車を動かないようにしていたのだ。車が下がらないようにストップさせるための石だったはずのものは、きっとタイヤの前に置かれているにちがいない。クラッチがいかれてしまったブディのパンサーは屍骸も同然だった。
男たちのボス格の男が話しかけてきた。「おい、オレたちゃ助けてやろうとして手伝ったんだから、謝礼を出しな。謝礼を。」いやも応もなかった。地元の連中と争えば、一ヶ村が丸ごと敵になる。金を渡して男たちを追い払ったあと、ブディと仲間たちは自動車修理屋を探すはめになった。
チュモロセウ側から降りてきたトラックが一台、パンサーの前まで来て止まった。
「どうした、兄ちゃん。エンストかい?」
「エンストどころか、あいつらにクラッチをつぶされた。」
「そうかい、あの連中に近付くとろくなことがない。次回は気をつけるこった。じゃあクラッチを直さなきゃあ。引っ張ってってやるよ。サラガンがいいか、それともチュモロセウか?」
ということで、このお助けトラックに引かれてパンサーはチュモロセウの修理屋の門をくぐることになった。お助けトラックも謝礼なしで済むわけがない。修理屋の作業場にはやはりクラッチ交換の車が4〜5台先客。車はみんなまだ新しく、そしてナンバープレートは都会のもの。修理屋は慣れた手つきでクラッチ板とキャンバスを新品に取替えていく。そして出してきた請求はブディが「えっ?}と聞き返すような高目のお値段。旅先での緊急事態だから仕方ない、と仲間たちみんなで金を出し合って支払いを終え、ブディたちはチュモロセウを抜けてソロを目指した。
その事件からしばらくたったある日、仲間のひとりがブディに仕入れて来た情報を披露した。タワンマグの出来事はすべてが仕組まれたものだったという話がそれだ。坂道を獲物になる車が登ってくると、小屋にいる連中はまず道路に出て下ってくる車の通り道を狭くなるようにする。登ってくる車は仕方なくスピードを落とし、あるいは一旦停止する。そのあとスピードをつけて坂を登るのは難しい。パワーがつかないからどこかで止まる。止まった車に一杯食わせてクラッチが壊れるようにしむけてやる。そのあとはトラックにバトンタッチで、トラックはサラガンやチュモロセウで営業しているこの企画に加わっている修理屋のどこかにお客を連れて行く。修理屋からのリベートがトラック運転手と坂道の連中に流れて行く。どうやらそれがタワンマグで行なわれている悪行の全貌だそうで、サラガンとチュモロセウの住民の中でこの話を知らない者はひとりとしていないらしい。この山賊事業はもう何年も前から営々と続けられているが、いまだに官憲の手が入らないようだ。
このような地域をあげての悪事に正義の鉄槌が下らないのはおかしいと思う読者もきっといるに違いない。2007年12月26日午前1時過ぎに豪雨による地滑りでタワンマグ村が大きな被害を出し、住民37人が死亡した。はたしてそれが天罰だったのかどうか・・・・・・


「トランスジャカルタバス炎上」(2008年2月25日)
2008年2月22日午前8時15分ごろ、首都バスウエー第2ルート(プロガドン〜ハルモニー)を走行中のトランスジャカルタバスが農夫の像(Patung Tugu Tani)のあるリドワンライス(Ridwan Rais)通りで炎上し、消火する余裕もなく全焼した。40人ほどの乗客と乗務員に人的被害はなかった。
ハルモニーから乗った乗客の話によれば、火が出る前から車内にはガスの臭いがしていたとのこと。農夫の像に近付くにつれてバスの前部で煙の臭いをかいだ乗客もいる。ロータリーまで来たとき、運転席横のパネルから煙が出てきたために車内はパニックに包まれた。バス運転手は車を停止させるとバッテリーケーブルを外し、車掌にすべてのドアを開くよう命じた。乗客は先をあらそって車外に出ようとし、女性が何人か転倒したが大事にはいたらなかった。全員が車外に退避したあと、10分もしないうちに車体は火に包まれた。38歳の男性運転手は、近くの売店から水をもらって発煙しているあたりを冷やそうと試みたが、炎上は阻止しようがなかった。
今月から運転手として勤務を始めたというその運転手によれば、このプレート番号B7475ZXのトランスジャカルタバスは朝5時から運行を開始し、既にニ往復をしたあと三回目の戻りルートを半ばまで来たところでこの事故が発生したとのこと。三往復が終わればこの日の勤務が終了してバスは車庫に入ることになっていた。火災原因についてかれは、電流ショートによるものではないか、と語っている。
都営バスウエイ事業を都庁の機関として運営管理しているトランスジャカルタバス公共サービス機関によれば、炎上したバスはエンジン不調が頻繁に起こっていたため2ヶ月かけて整備を行なったあと、22日に久方ぶりに出動したものだったとのこと。ファウジ・ボウォ都知事はこの事故を重く見て、首都警察に原因究明を要請した。同時に、すべてのトランスジャカルタバスの安全点検を外部検査機関を用いて実施するよう、公共サービス機関に指示した。トランスジャカルタバスの火災は昨年、東ジャカルタ市プロガドンのプリンティスクムルデカアン通りにあるバスプールで発生しているが、運行中の事故はこれがはじめて。


「無法の栄え」(2008年2月25日)
2008年2月23日付けコンパス紙への投書"Motor Melawan Arah, Renggut Jiwa Penyeberang Jalan"から
拝啓、編集部殿。2008年1月29日午前7時半、わたしの姪の友人がオートバイにひき逃げされました。23歳のその女性は南ジャカルタ市クマンラヤ通りの二アガ銀行前から通りを横切ろうとしていたとき、道路を逆走してきたオートバイに衝突されたのです。その場所はプラパンチャ通りからクマンラヤ通りに左折して降りてくるほうの車線で、クマンラヤ通りからプラパンチャ通りに入っていく側の車線とは20センチほどの高いセパレータで仕切られており、一方通行とも言えるような場所です。かの女はそのとき、プラパンチャ通りから降りてくる交通に注意しながら道路を横断しようとしていました。ところが思いもよらず、その道路を逆走してきたオートバイがかの女にぶつかったのです。
そのときも、クマンラヤからプラパンチャに上がっていく側の車線は赤信号のために停止している車でいっぱいでした。そのオートバイ運転者は長い車列の後尾について順番を待つ忍耐心を持っていなかったにちがいありません。思い上がったその者は決まりを守ろうともせず、反対車線を逆走してプラパンチャ通りに出ようとし、そして女性にぶつかったあと野蛮にもそのままエンジンを吹かして現場から逃走したのです。かの女は路上に倒れて動かなくなりました。皮肉なことに、向こう側の車線に並んでいる大勢の信号待ち車両の目の前でそれが起こったというのに、かの女を助けようとして車から出るひとはひとりもいませんでした。
結局ひき逃げ被害者は南ジャカルタ市プジャテンのシアガ病院に運び込まれました。両足が骨折していましたが、それよりもセパレータに激しく頭を打ち付けたことで人事不省状態に陥っており、すぐにシアガ病院からクニガンのMMC病院ICUに移されました。そして4日間の治療の甲斐なく、人生はまだこれからだという何の罪もないかの女は2008年2月1日に永眠したのです。
南ジャカルタ市のプラパンチャ通りとクマンラヤ通りの交差点で交通整理の任に当たっている保安担当官は、頻繁に道路を逆走するオートバイ運転者を厳しく取り締まってください。[ 南ジャカルタ市在住、ジェフリー・ワティメナ ]


「女子大生が凶悪犯罪の被害者に」(2008年2月26日)
西ジャカルタ市クマンギサンにある著名私立大学に通っているリサ22歳は、2月16日夜22時ごろグロゴルのモールチプトラ前でタクシーを拾おうとしていた。リサはダアンモゴッ通りの警官詰所近くで通りかかる空車タクシーをひとりで待っていたのだが、人通りのないその一帯にいるのは自分だけだと思っていたリサは大きな間違いをしでかしたようだ。突然背中で男の声がし、振り向いたリサの目にナイフを突き付けている三十代の男の姿が映った。
いつの間にか少し離れた場所に暗い色のいすゞパンサーが停車しており、その車の窓ガラスは濃いフィルムが貼られて中はほとんど見えない。男はリサにその車に乗るよう命じた。車の中に入ったとたん、中にいたふたりの男がリサを組み敷き、目と口にガムテープを貼って両手を縛った。リサは抵抗したが、三人の男の力にかなうはずもなかった。
車は走り出し、男たちはリサのバッグを取り上げて金目の品物を奪った。携帯電話2個と現金50万ルピアが男たちの獲物になった。男たちはリサをどこで下ろすかという話をしていたが、中のひとりが言い出した。「こんな良いタマをこのまま帰すのはもったいない。」
車はかなり長い時間走り続け、そうして止まった。いましめを解かれたリサに賊のひとりが言う。「ねーちゃん、ここで部屋を借りな。逃げようなんて思ったら、命がねえぞ。」自分の住民証明書を帰されたリサは車から降りて建物に入る。そこは東ブカシのチュッムティア通りにあるホテルS。男のひとりがリサについてくる。リサはホテルのフロントで手続きし、借りた部屋にその男と入った。ほどなくして他のふたりの男もその部屋にやってくる。そして3人がリサに襲い掛かってきた。抵抗して暴れるリサをおとなしくさせようとして、男たちは激しく暴力を振るった。そしてリサは人事不省になる。気絶したリサに男たちは更に麻酔を打ってからその身体をおもちゃにした。溜まっていた性欲を吐き出した男たちは、その夜のうちにホテルの部屋から姿を消した。17日昼ごろになって意識を取り戻したリサは、ホテル従業員に助けを求めてジャカルタの自宅に連絡してもらった。身体中に受けた暴行の傷と深い心の傷のためにリサは数日間入院せざるを得なかった。警察への届出は17日夜、家族に付き添われてリサが出頭し、レープ事件の常で診断書が作成されている。
西ジャカルタ市警はこの事件のために特別捜査班を設けて捜査を開始し、2月19日早朝4時ごろ、リサを襲った賊のひとりアレックス・ライラン32歳をプロガドンの借家で逮捕した。もうふたりの仲間も指名手配中。


「また強盗タクシー」(2008年3月3日)
2008年2月26日夕方、東ジャカルタ市パサルボ(Pasar Rebo)の住民クスティア夫人49歳とロス夫人のふたりは北ジャカルタ市クラパガディン(Kelapa Gading)の医療クリニックにタクシーで行った。クリニックで治療を受けてから近所の薬局で薬を買い、帰宅するためにそこを通りかかったタクシーをひろった。車に入ったふたりの女性はパサルボに向かうよう運転手に言う。タクシーは動き出したが、クラパガディン地区を出てプリンティスクムルデカアン(Perintis Kemerdekaan)通りをしばらく走ったあと、運転手はタイヤがへこんでると言って道路脇に寄り、車を止めて外に出た。そのとき、後部座席のドアが両方同時に開き、男がひとりずつ車内に入ってきた。自分が乗ったのが強盗タクシーだったことを覚ったクスティア夫人は暴れ、大声で助けを求める。すると賊は遠慮会釈なしに夫人の顔にビンタを張った。ショックで夫人はおとなしくなる。賊はふたりの夫人が身につけている装身具を奪い、ハンドバッグの中の現金も奪った。クスティア夫人の持っていた60万ルピアが賊のポケットに移動した。ATMカードも取り上げられた。「この口座にすぐ5百万ルピア入金しろ。」賊にそう命じられてクスティア夫人は息子に携帯電話で連絡する。「お母さんは強盗タクシーに拉致されたの。身代金を5百万ルピアわたしの口座に入れてちょうだい。」ところが息子夫婦は銀行振込みをするどころか、すぐに警察に連絡したのだが、強盗タクシーに乗っている全員はそんなことを知る由もない。賊はそのあと、ふたりの夫人のATMカードを取り上げてPIN番号を要求した。
強盗一味はそのタクシー内にいる三人の男だけではなかったのだ。賊のひとりの携帯電話が鳴った。電話の声が言う。「タクシーが黒いパンサーにつけられてるぜ。」
後ろを見るとその通り、ほんとうに黒色パンサーが付いてきているではないか。ふたりの女性の口座を破ろうとしていた賊はその結果を確認する前に身の危険を感じたらしく、深夜1時半にクレンデル(Klender)地区でふたりを解放してから逃走した。ふたりはすぐにATMカードをブロックするよう連絡したが、その日午前4時ごろ、4百万ルピアが現金で引き出され、また6百万ルピアが数件の携帯電話番号の度数買い足しに使われたことが後になって判明した。2008年2月に首都で発生した強盗タクシーは6件にのぼり、その被害者7人はすべて女性。


「飛行機と牛が衝突」(2008年3月6日)
日本の農村地帯も昔そうであったように、インドネシアでも牛が農民の暮らしに密着している。小説マックス・ハフェラアルに収められた珠玉の恋物語「サイジャとアディンダ」の中にも見られるように、サイジャの父親は水牛なしに水田しごとを行うことができなかった。貧しい自作農にとっては、農耕作業に他人を使って金を支払うような余裕などなかったにちがいない。牛にせよ水牛にせよ、農村では牛が働き手となり、そして運輸機関としての役割をも果たしていた。いまでもそんな状況に大きな変化は訪れておらず、牛は依然としてひとびとの暮らしの中の一部分になっているように見える。
1914年にバタビアで、水牛が列車と衝突するという事故が発生した。オランダ植民地政庁がタンジュンプリウッに最新港湾施設を建設して首都バタビアの表玄関をスンダクラパから移したのが1887年で、バタビアのコタ駅とプリウッの間にはそれ以前の1875年に鉄道線路が敷設されて蒸気機関車がアンチョル川沿いを走るようになっていた。今マルタディナタ通り沿いを走っている線路がそれだ。水牛と衝突した列車は脱線してアンチョル川の南に広がるスンテル大湿地原の北端の川に突っ込むという世にも珍しい鉄道事故となったものの幸いにして人的被害はほとんどなく、客車に乗っていたヘーレンやダーメスたちは泥水をかきわけて陸上に上がることを余儀なくされた。当時、熱帯地方に住むヨーロッパ人は上から下まで純白の衣服を着るのがファッションになっており、全身純白の衣装が泥に染まったことから、川の中で汚れを石で叩き出している洗濯屋の手をさぞかしわずらわせたにちがいない。
そして2008年のいま、今度は定期航路旅客機と牛が衝突するという事故が発生した。牛とは言っても子牛だったのだが、それをはねた飛行機はムルパティ航空のボーイング737−300。ジャヤプラ発メラウケ行きMZA774便が2008年1月28日午前8時46分にメラウケのモパ空港に着陸した際、滑走路に降りて減速中の同機の前方を子牛が駆け抜けようとしたのである。モパ空港周辺には住民集落があり、子牛は滑走路の東側にあるサヤップ村の方角から走ってきた。この空港敷地外周は7千メートルあるが、空港敷地内に外部者が進入するのを防止するためのフェンスはやっと1千5百メートル設けられたにすぎない。
空港管制塔はMZA774便機長に、滑走路はクリヤーで着陸OKとの指示を出した。そして機体が滑走路の端あたりに着地したとき、全長1,850メートルの滑走路に向かって子牛が一頭一目散に駆けているのを目にして驚いた。そして残念ながら両者は滑走路の上で鉢合わせ。憐れな子牛を左翼タービンが跳ね飛ばし、飛んだ子牛の身体を尾翼が受けた。こうしてその二ヶ所にかなりひどい損傷を蒙った同機は、次のフライトに飛び立つことができなくなってしまった。しかしMZA774便乗客136人と機内乗務員6人に人的被害は何もなかった。


「撲滅困難な人身売買」(2008年3月26〜28日)
4年前、中部ジャワ州プルウォクルトに住む17歳のエルナと21歳のデアは、口入屋の紹介に従ってメダンへ出稼ぎに行くことを決めた。北スマトラ州メダンでレストランに雇ってもらえるという口入屋の話を純朴なふたりは頭から信用してしまった。親戚関係にあるこのふたりの娘は自分の親兄弟に、異郷に行ってもいつもふたりで助け合ってやって行けるから大丈夫だ、と安心させて故郷を後にした。口入屋が買ってくれた切符を持ってプルウォクルトのバスターミナルから州間長距離バスに乗ったふたりはメダンに着くと口入屋に言われた電話番号に電話した。しばらくして一台のキジャンがふたりを迎えに来た。キジャンはふたりを北スマトラ州デリスルダンのバンダルバルにある一軒の大きな建物まで運び、ふたりはそこで雇い主MS37歳に迎えられた。ところがボスのMSはふたりに驚くようなことを言う。
「遠路はるばるここまでよく来たね。借金は350万ルピアだから、早く返せるように精出して働いてくれよ。」
「ええっ?借金って、いったい何のこと?あたしたち、お金なんか誰からも借りてません!」
ボスはにんまり笑って言った。
「あんたたち、自分の金でメダンまで来たのかね?あんたたちの部屋には服と化粧セット一式がもう用意されてる。それもあんたたちの借金だよ。」
口入屋の話と現実との間のズレにふたりは戸惑ったが、ともかく仕事に慣れるのが先決だ、と考えた。
「仕事はいつからですか?」
「明日から早速やってもらうよ。」
「お店に行くのは何時ですか?」
「いや、あんたたちはここにいればいいんだよ。」
何が何やらわけがわからないまま、ふたりはその建物内でそれぞれ狭い部屋をあてがわれた。建物内の様子を見回ろうとしたふたりは、ロビーのような場所に大勢の女が集まっており、やってきた男たちがそこで相手を選んでは別室へ向かう姿を目にしてぎょうてんした。そう、そこはバラック・エカと呼ばれる娼館だったのだ。
口入屋に欺かれて娼館に送り込まれたことを知ったふたりは、その建物から逃げ出そうと考えた。ところが建物の要所要所には見張りの男たちがいて、外へ出るのは不可能であることを知った。あきらめて部屋に戻ると、ふたりは旅の疲れで眠り込んでしまった。翌日の午後、ボスがふたりを呼びにきた。ふたりは抵抗したが、暴力で威されて仕方なく従った。ふたりはそれぞれ違う部屋に連れて行かれた。エルナが部屋に入ると男が待っていた。男は言った。「高い金でおめえの処女を買ったんだからな。」
エルナとデアの娼婦としての人生がこうして始まった。客が娼館に来る場合もあれば、娼婦が客の指定する場所に送り込まれる場合もある。女を呼んだ客は7万5千ルピアを払う。しかしそれが全額女たちの収入になるわけではない。バラック・エカから女を客のもとに送迎する足代として1万5千ルピアがそこから引かれる。残った金からボスに2万5千ルピアを上納し、手許の3万5千ルピアが女の収入になる。しかし毎週一回、20万ルピアが請求される。「バラック・エカでの食事代と部屋の電気代なの。」エルナは物語る。毎日葛藤のない順調な暮らしならまだしも、ボスへの上納金が出せない日だってある。そんなときには水責めや百叩きのお仕置きが女たちを襲う。
こうして四年の歳月が流れ、その間エルナは妊娠して子供を生んだ。子供はもう2歳になっている。だが子供は生まれるとすぐに母親から引き離された。子供の養育はボス側の女性が行い、エルナは産後の回復につれて再び仕事を再開するよう強いられた。ところが2008年2月20日、エルナとデアそしてもう8人のバラック・エカ住人たちに思いも寄らない解放の日が訪れたのだ。
2008年2月10日、口入屋がバンドンで20代前半の女性4人をリクルートした。メダンで家庭プンバントゥ(女中)の仕事があり、給料は米ドルでもらえるのだと言う。この4人は既に夫持ちだったが、夫が出稼ぎを承諾したので四人そろってメダン行きのバスに乗った。2月12日、メダンに着いた4人は口入屋が教えた電話番号に電話し、キジャンが迎えに来て大きい建物に連れて行かれた。エルナとデアが体験したのと同じことが繰り返されたのだ。
4人のスンダ女性たちもエルナたちと同じ運命をたどることになった。数日間、いろいろな男に売られたかの女たちは2月17日、バラック・エカから逃げ出すのに成功した。逃走した4人は追手に追われて教会に逃げ込んだ。4人の女たちの話を聞いたその教会の牧師は即座に警察に通報した。人身売買が行われている、と。北スマトラ州警察が捜査を開始し、裏付けを整えてからバラック・エカに踏み込んでMSやキジャン運転手など売春ビジネスの中心にいる者たちを逮捕した。
4人のスンダ女性たちを保護するために警察は民間の人権擁護団体に協力を求めた。国際協定で人身売買被害者を警察に収容することが禁じられているためだ。ところがこの事件に関わった人権擁護団体に対するテロがすぐに始まった、と当該人権団体専務理事は語っている。バラック・エカのビジネスはMSらの個人事業だったのでなく、その裏にこの非合法ビジネスに関与するもっと大きな権力があったということのようだ。バラック・エカはかれらにとってのビジネス資産であり、人身売買被害者たちはやはりその資産であり商品だったのである。「この事件を刑法典条項で起訴させてはならない。人身売買法や児童保護法を適用して法廷に持ち込まなければならない。」専務理事はそうコメントしている。
インドネシアの人身売買犯罪被害者の実態はよくわからないが、ユニセフは7万人の被害者がいるだろうと推測している。ノナ・マナドやエルナのケースのように、口入屋に欺かれて身体を売り飛ばされる事件とは別に、親兄弟が娘・妹・孫娘・姪を売春させるようなことも行われている。女子供に向けられる家庭内暴力と根を同じくする問題と思われるこの種の犯罪行為は封建文化がその存在を強く支えているような気がするのだが、そうであるとすれば在来文化からの脱皮が問題の要となるにちがいない。


「強盗タクシー一味が捕まる」(2008年3月27日)
ここ数カ月、女性だけが乗ったタクシーが強盗タクシーに豹変する事件が頻発していたが、首都警察はついにこの強盗一味を逮捕した。首都警察一般犯罪捜査局は3月はじめから特別体制を組んで集中捜査を開始し、ほぼ3週間かけて一味の足取りを追い、この成果に結びつけた。警察が捕らえた容疑者は12人おり、ほかにまだ4人が警察に追われている。
この一味は元タクシー運転手の仲間が現職タクシー運転手に30〜60万ルピアで車を借り、それを使って犯行を行っていた。車を貸した現職タクシー運転手は、元運転手だった男が当座の金を稼ぎたいために自分の車を使っているだけと思い込んでいたようだ。この一味が犯行に使ったタクシーは四台で、それぞれ異なるタクシー会社のものだった。警察は一味に車を貸したタクシー運転手とタクシー会社責任者を重要参考人と位置付けており、かれらが起訴される可能性もある。
警察が逮捕したのは一味のボス格であるエコ・アフリザル別名ヘンドリッ・マヤスコとその手下11人で、29歳と37歳各一人を除いて全員が30代前半という年齢。一味は会社勤め帰りの女性を狙って犯行を行っており、タクシーを借りる時間帯はたいてい17時から翌朝2時ごろまでとしていた。犯行手口は、たまたま女性がひとりかふたりでそのタクシーに乗った場合仲間が乗った青色フォードレーザーがそれを尾行し、運転手が約束の場所で車を止めてからタイヤが云々を言って車から降りると、フォードレーザーに乗っていたふたりの仲間がタクシーの後部座席の左右から車内に入って強盗を働くというもの。被害者は現金や携帯電話、貴金属製装身具など金目のものを取り上げられた上でATMカードのPIN番号を言わされ、賊がカードをタクシーの窓から投げ捨てると後ろを走っていたフォードの仲間がそれを拾い、最寄のATMに走って被害者の口座を干上がらせる。すべてがうまく進めばタクシーは被害者を乗せて長い間都内や郊外部を徘徊し、どこかさびしい場所で被害者を解放するということを行っていた。


「旅客機から航空用設備が盗まれる」(2008年4月8日)
飛行機の機体に装着されていた設備が盗まれた。設備が盗まれたのはバタビアエアーが運航させているB737−300型機1機で、この飛行機は整備のためにバタビアエアーの整備場格納庫に一ヶ月間留め置かれている間に重要な設備が機体から消え失せていた。無くなった設備や部品はフライトマネージメントコンピュータや客室の温度や気圧を調節する機器など11種類。それらは単価が5万ドルから最高14万ドルという高価なもので、被害総額は30万ドルにのぼる。PTメトロバタビア側は3月25日に整備が完了したので機能テストを行うために機体を格納庫から引き出し、テストを開始しようとしたところそれらの設備があるべき場所にないことに気付いた。整備や修理の際に機体からセンシティブな設備部品を外して別の場所に保管することは普通に行われているため同機の整備記録を調べたところ、それらの設備部品が取り外された記録がまったく見当たらないことから、同社は盗難事件と断定して4月1日に空港警察に届け出た。
それらの設備や部品がどこにあってどのくらいの価値を持っているかということはその分野に関わっている者でなければよくわからないことがらであり、警察は犯人がこの世界に明るい者であるというポイントに着眼して捜査を開始している。またPTメトロバタビアは、それらの設備には固有のラベルが貼付されており、ラベルのない設備部品の旅客機への使用は禁止されているため、盗品と承知で使うような航空機管理者がいないかぎり犯人は荷物を背負い込むことになるだけだろう、ともコメントしている。


「いつごろつきにからまれるか知れない」(2008年4月8日)
2007年12月5日付けコンパス紙への投書"Menghadapi Preman Jalanan Jangan Berharap pada Petugas"から
拝啓、編集部殿。2008年11月8日朝、中央ジャカルタ市クラマッ警察署に近い学校に子供を送ったとき、わたしが車を道路脇に寄せた際にその道路を逆走してきたオートバイがわたしの車と接触しました。オートバイを運転していた男性はわたしがぶつけたと言って非難しはじめたのです。その男性は怖い顔をしてわたしに車から降りろと言いました。でもわたしにその気はありません。するとその男性は車に近寄ってきてわたしに運転免許証を見せろと言います。わたしはもちろん拒みました。わたしが「白黒をはっきりさせるために警察を呼びましょう。」と言うとその男性は、「警官はわしだ!」と言って警官の身分証明書のようなものをちらりと見せました。それは一見そのように見えましたが、その男性は警官の制服を着ていません。オートバイを逆方向に走らせて違反を行い、おまけに市民にそのような態度を示すこの男性が警官とはちょっと信じがたい思いです。
クラマッ警察署もすぐそこだし、そして子供の学校の警備員もここで起こっている出来事をさっきから注視しているので、わたしはそれほど恐怖を感じませんでした。その後で制服の警官も近くを通りましたが、かれらはこっちを見ないようにして通り過ぎて行きました。まるでわたしにからんでいる男性に関わるのを怖れてでもいるかのようです。その男性は何度も損害賠償を払えと要求しましたが、向こうが悪いことを確信しているわたしは最後まで応じませんでした。結局その男性はわたしの車に唾を吐きかけ、呪いの言葉を投げつけて去って行きました。修羅場が起こらなかったことをわたしは神に感謝しました。
ジャカルタでは交通法規を理解して礼儀正しく運転できるだけではまだ十分でありません。市民を守護するはずの警官でさえごろつきにからまれている女性を見て見ぬふりするのですから、わたしたちはごろつきの言いなりにならないよう勇気を持っていなければならないのです。関係当局は、ごろつき、法執行、交通秩序にもっと注意を向けてほしいと思います。[ 中央ジャカルタ市在住、ヒルダ・ビロウォ ]


「キッザニアに入った子供が携帯電話を盗まれる」(2008年4月17日)
2007年12月21日付けコンパス紙への投書"Copet KidZania Pacific Place"から
拝啓、編集部殿。『今日は何になろうか?』宣伝コピーのひとつがそれです。2007年11月23日16時5分ごろ、わたしの子供たちがジャカルタのパシフィックプレースにあるキッザニアに入った後で、かれらはとても不愉快なできごとに襲われることになりました。入場者のとても長い行列に並んで、最後にやっとチケット購入カウンターに達し、そのあとセンサー器が装着されました。チケットは午前10時半ごろ買ってあったのですが、それでも並ばなければいけないことになっているため、わたしたちはその決まりに従ったのです。
エリア内に入る前、わたしは子供たちに携帯電話を渡しました。中で何かあった場合の連絡用です。わたしは子供たちに電話機のスイッチが入っているかどうかをチェックさせました。わたしもその状態はそのとき確認しています。そして電話機を子供のバッグに入れてバッグを閉めてから、子供たちはキッザニアのエリア内に入って行きました。
ところがそれからほんの5分も過ぎたころでしょうか、子供たちはさっき入った通路から泣きながら出てきたではありませんか。子供たちはデポジットカードと地図をもらっていない、と訴えるのです。しかし子供たちの状態を見ると、バッグは口が開いており、さっき入れた携帯電話機はなくなっていました。『今日は何になろうか?』という宣伝コピーに倣うなら、今日は泥棒の被害者になったわけでしょうが、これはとんでもないジョークです。
わたしはすぐに何人かの係員にこの事件を訴え、マネージメントにまで話をしに行きました。しかし真剣に対応してくれるひとはだれもいません。キッザニアのセッションが終わったあと、21時10分にわたしはパシフィックプレース管理者にこの事件を届け出ました。パシフィックプレース管理者はそのとき、キッザニアの責任者を呼んでくれました。しかしキッザニアのマネージメント代理者はわたしに名刺をくれただけで、満足できる対応は何も取ってくれませんでした。あんなに豪奢ですばらしいキッザニアのエリア内にもスリが入り込んでいるのです。[ ブカシ在住、イワン・スティヤワン ]
2008年1月9日付けコンパス紙に掲載されたキッザニアからの回答
拝啓、編集部殿。イワン・スティヤワンさんからの2007年12月21日付けコンパス紙の投書について、次のようにお知らせします。わたしどもは2007年12月24日にイワンさんにお会いして今回の事件に遺憾の意を表し、イワンさんからはいくつかの有益な提案をうけたまわりました。不愉快な事件が発生したことにわたしどもは陳謝するとともに、キッザニアのエリア内では今後さらに治安を強化するよう決意を新たにしております。[ キッザニアコミュニケーション課長、アリアフィタ・プルナマサリ ]


「不遜な市民にカツを入れたい警官」(2008年4月21日)
2007年12月31日付けコンパス紙への投書"Dianiaya karena Melintas di Depan Polisi Tanpa Permisi"から
拝啓、編集部殿。2007年12月26日午前9時ごろ、わたしは職場に行くために中央ジャカルタ市ホテルインドネシアロータリー東側のイギリス大使館の脇にある警備員詰所の横を歩いていました。詰所を通り過ぎて数メートル行ったとき、詰所にいた警官が突然大きな声で「ヘイ!」と叫んだのです。わたしがそのまま歩を進めると、警官は再び大声で「ヘイ!」と叫びました。
警官はわたしに向かって叫んでいるのだということに気付いたので、わたしは歩みを止めて応えました。「はい?」するとその警官は、わたしの方に走り寄って来てから、一言の挨拶もなくいきなりわたしの顔にパンチを2発繰り出したのです。わたしの頬と片方の目はすぐに腫れ上がりました。わたしは地面に倒れたというのに、その警官はさらにわたしを殴ろうと旺盛な闘争精神を示しているではありませんか。
その詰所にいた警備員がすぐに出てきて、その警官がそれ以上市民を虐待するのを止めてくれました。わたしは恐怖にかられて即座にその場を後にし、自分の職場であるそこから近いホテルに入り、その市民虐待事件をすぐ上司に報告しました。そしてわたしの職場であるそのホテルの警備のために配置されていた警官が、その事件がどうして起こったのかを調べるためにわたしを連れて現場に行くことになりました。
わたしを虐待したその警官もかれの上官に付き添われて、わたしを殴った理由を説明しました。その警官が言うには、わたしがそこを通るとき「失礼します」と声をかけず、更に「ヘイ!」というかれの呼び声をわたしが無視したからだそうです。市民が警官の前を通る際に逐一「失礼します」と声をかけなければならないことにいつからなったのか、わたしは国家警察長官に尋ねたいと思います。そしてまた、市民がそれに違反したなら、その警官がわたしにしたように市民を虐待してよいということにいつからなったのかも。[ 中央ジャカルタ市在住、ウィランダナ ]


「お抱え運転手が強盗の首謀者」(2008年4月25日)
雇って一年経つが一度も問題を起こしたことがなく、忠勤に励んでくれる良い運転手だと家族みんなが思っていたお抱え運転手が実は、給料が安すぎると逆恨みして仲間に雇い主を襲わせた首謀者であったことが明らかになった。
2008年4月11日午前9時ごろ、西ジャカルタ市トゥバグスアンケ通りは普段のような混雑ぶりだった。トゥルッゴンスラタン2通りから左折してトゥバグスアンケ通りに入ってきたニッサンX−Trailが交通の流れに乗って進んでいたとき、それぞれ二人乗りした三台のオートバイが近寄ってきて、車を止めるよう強制した。運転手のスチプト45歳は仕方なく車を道路脇に止める。乗っていた鉄工所経営者ウォン・ジェンセン45歳と妻のワン・シュウジュアは恐怖におののいた。その日、鉄工所に持って行こうとしていた8億ルピアの現金がカバンの中に入っているのだ。オートバイの後部に乗っている賊がピストルのように見えるものを振り回しながら車の扉を素手で叩く。経営者夫婦はその金を諦めた。現金の入ったカバンを賊に渡すと賊はそのカバンの中味を確かめ、さらにワン・シュウジュアが身につけている装身具を奪ってから運転席の仲間に合図した。そのころには周辺にいた群衆がその強盗劇を遠巻きにしながら少しずつ現場に近付いてくる。別のオートバイの後部に乗っていた一味のひとりが拳銃を空に向けて撃った。群衆の輪があとずさる。その機をとらえて6人の賊は三台のオートバイに乗ったままコタ方面へと逃走した。
この強盗事件の捜査を開始した西ジャカルタ市警は被害者の証言を集めた。捜査班はその中で運転手スチプトの証言に矛盾がいくつかあることに気付いた。スチプトに疑惑の焦点が集まり、捜査班の追及する中でごまかし切れなくなったスチプトはついに自供した。その事件は自分が仕組んだものだったということを。
「わしの給料は週給25万ルピアだ。ボスはそれっぽっちしか払ってくれない。」大金持ちのボスなら自分の使用人にもっとたくさん分け与えて当然じゃないか。自分に与えられて当然の金をボスから手に入れるのだ。その機会さえあれば・・・・。そんな思いを押し隠してスチプトはこの一年、ボスの言うがままに働いてきた。そしてボスが時おり取引のために巨額の現金を持ち運ぶことを知る。両腕に刺青を持つスチプトはその道に通じていたようだ。チレボンの同郷の仲間に強盗の計画を持ちかけ、プマラン出身の命知らずを数名誘い込むことに決めた。その中には、かつて警察機動部隊にいて銃器の扱いに習熟しているが職務規律違反で懲戒免職になった男が混じっていた。
犯行準備を整えたスチプトはボスが現金を運ぶ機会を待ち、そうして4月11日、ついにその機会に邂逅したのである。スチプトの自供で西ジャカルタ市警は一味の追跡を開始し、プマランでひとり、チレボンでふたりの容疑者を既に逮捕している。


「スカルノハッタ空港はアブナイ」(2008年5月6日)
飛行機乗客手荷物の置き引きや駐車場に止めてある車のロックを破って中の貴重品を盗むのはほんの一例。空港を通過する人々はかれら犯罪者にとって良いカモであり、スカルノハッタ空港を稼ぎ場にしているかれら犯罪者の顔ぶれはほとんどが昔馴染みの連中で占められている。
スカルノハッタ空港警察が2008年4月30日に行った取締状況に関する記者発表によれば、警察は外貨両替と航空券販売のチャロ(周旋屋)行為を行った18人の逮捕に加えて、飛行機乗客手荷物置き引き、空港駐車場での車上狙い、タクシー乗客に対する恐喝行為などの犯人も逮捕している。両替チャロの手からは、米ドル・ディルハム・レアル・リンギットなど8千9百万ルピア相当の外貨が没収された。外貨両替チャロ被害者の多くは海外出稼ぎ者で、外貨交換レートの知識が暗いことにつけこまれて法外なレートでの交換を強いられている。犯罪者が乗客から盗んだ手荷物バッグの中からは、ラップトップ・DVDプレーヤー・ビデオカメラなど高価な物品が発見された。手荷物を盗まれた飛行機乗客の多くは、イスラム礼拝場(ムソラ)やダムリ空港バスの中で被害に会っている。都内各所のバスターミナルと空港の間を往復しているダムリ空港バスでは、犯罪者はまずコンピュータの入っているバッグを持つ乗客に目をつける。そして自分も乗客のふりをしてバスに乗り、自分のバッグをターゲット乗客のバッグのすぐそばに置く。バスから降りる際には、そ知らぬ顔でターゲット乗客のバッグを手にしてバスから降りる、というすり替え行為がかれらの一般的な手口。
空港警察犯罪捜査ユニット長の談によれば、かれら犯罪者の大半は空港警察に逮捕された前歴を持っており、服役後ふたたびスカルノハッタ空港に舞い戻ってきて昔ながらの稼業を繰り返している、とのこと。


「恐怖のスカルノハッタ空港」(2008年5月6日)
2008年1月5日付けコンパス紙への投書"Bandara Internasional Soekarno-Hatta Menakutkan"から
拝啓、編集部殿。しばらく前にわたしはバンコックを数日間訪れる機会を得ました。たいへん快適でジャカルタよりはるかに秩序整然としていました。ジャカルタへの帰途、わたしは多すぎるバゲージを持っているアイルランド人ふたりを助けてあげました。
2007年12月4日午前2時15分ごろ、入国審査ポイントを通過したわたしはスカルノハッタ空港内で少し休もうと考えました。朝一番のスラバヤ行きフライトに乗ろうと思ったからです。バリへ行くつもりのアイルランド人旅行者も同じ考えのようでした。わたしが外へ出ると、アイルランド人ふたりが周辺にいる数人のインドネシア人とそこで話しをしています。いったい何を話していたのかわたしにはわかりません。アイルランド人はわたしを認めるとわたしに微笑んで話しかけてきました。わたしはスカルノハッタ空港についてかれらに説明してあげたのですが、すると思いがけないことにさっきアイルランド人と話していたインドネシア人のひとりがわたしに向かって怒り出したのです。どうやらさっきの説明の中で、第一ターミナルと第二ターミナルを結ぶ無料シャトルバスがあるという情報を与えたのがかれらの怒りを買ったようでした。
その男は感情的な声を張り上げてわたしに怒鳴ったのです。「英雄ヅラしやがって!おれたちゃ金を払ってここにいるんだ!」そしてさまざまな罵詈讒謗がわたしに投げつけられました。その怒鳴り声が聞こえたのでしょう、すこし離れた場所にいたほかの数人の男たちもわたしのほうに鋭い目を向け、その中のひとりが憤怒の形相でびっこを引きながらわたしに近寄ってきたではありませんか。そして、さっきの男に負けない怒鳴り声で啖呵を切り、わたしを威嚇したのです。30メートルほど離れた場所に警備員がひとりいましたが、そんな状況を前にしながらその警備員はまったく知らぬ顔でいるのです。恐怖に襲われたわたしは早々にそこから離れることにしましたが、夜が明けるまでわたしは激しい恐怖感から逃れることができませんでした。
わたしが外国人観光客に正直に情報を与えても、わたしにとって一文の得になるわけではありません。しかしインドネシアの観光界にとって外国人観光客が快適な体験をするのは十二分に意義のあることだと思います。他人の無知につけこんでその者の財布から金を搾り取ろうとせず、正直にあるがままの情報を与えたわたしに向かって「英雄ヅラ」云々とののしったその男の考え方がわたしには理解できません。
わたしは空港運営会社PTアンカサプラに対して決してあれやこれやと多くを望んでいるわけではありませんが、かれらが観光客をだますために金を払ってターミナルにいるのが本当なのかどうか、それを世間一般のひとたちに知ってもらおうと思うのです。シンガポールのチャンギが、マレーシアのKLIAが、バンコックのスワルナブミが外国人観光客に競って最善のサービスを提供しようとしている中で、アンカサプラが井の中の蛙のように暗く腐った自分の世界の中にいつまでも安住しようとしているのなら、それはインドネシアにとって本当に恥ずかしいことではないでしょうか。それが真実でないことを望みます。[ 東ジャワ州パスルアン在住、アフマッ・ホイロン ]


「マンガドゥアスクエアで銃撃戦」(2008年5月15日)
2008年4月24日午後、北ジャカルタ市マンガドゥアスクエアで銃撃戦が展開された。誘拐犯が要求した身代金を渡す取引の場で、隠れていた警察官が事態の展開からやむを得ず犯人を急襲し、逃げた犯人を追う形で銃撃戦が展開されたあげく最後に犯人は射殺された。
北ジャカルタ市警察署長はこの事件に関して、娘を誘拐された父親が誘拐犯の要求する10万米ドルの身代金を用意したが、その金を犯人に渡す際に自分の身辺が不安であるため警察に警護を要請したのがこの日起こった銃撃戦の背景だ、と報道陣に説明した。その父親は犯人との約束通り24日13時にマンガドゥアスクエアの一隅で、ひとりでやってきた犯人に身代金を渡した。犯人が車に乗って動き出したとき、高速バイクに相乗りした私服警官がふたりその車に接近し、車を止めて犯人を捕らえようとした。犯人は車外に出て抵抗し、そこから逃走をはかった。警官は警告射撃を行い、現場の周辺に散っていた警官隊は犯人を包囲しようとして動いた。
犯人は自分の拳銃を出して応射しながらマンガドゥアスクエアの館内を走った。そして1階ブロックA南側まで来て袋小路に入ってしまった。そこはムソラに付属する水洗場で、犯人はそこから逆戻りして逃げようとしたが濡れている床に足を取られて転倒し、起き上がったところを満を持して照準を当てていた警官の銃弾に生命を落とした。
そこから10メートルほど離れた場所で営業している食べ物ワルンの18歳の女店員は「まるでアクション映画そのものだったわ。銃声がして、銃弾が当たって倒れた身体から血が流れ出てて・・・・」と興奮を隠そうともせずに語っていた。警察が身代金を手に入れた犯人に襲い掛かったのは犯人側が誘拐された娘を現場に連れてきていなかったためであり、おめおめと犯人を逃がしては被害者の解放がどうなるかわからないという焦慮に突き動かされたものだったようだが、その結果身代金は犯人側に渡らず仲間のひとりが射殺されたこの事態に犯人側は態度を硬化させて誘拐された娘に危害を加えるおそれが高まっている。
マンガドゥアスクエアで銃撃戦が始まったとき、駐車場から自動車が急発進する音を配備についていた警官数名が耳にしており、そこに誘拐被害者が乗っていたかどうかは別にして犯人一味が近くで様子をうかがっていた可能性が高いことから、北ジャカルタ市警は職員を総動員して大通りの検問を夜8時まで行ったが成果はなかった。


「誘拐犯も命は惜しい」(2008年5月19・21日)
中央ジャカルタ市ガンビルのバトゥトゥリス通りにあるスラジ家に2008年5月5日夜、思いも寄らなかった不安が立ち込めた。その日の夕方、クマヨランのカナアン中学に通う息子のウイリアム13歳は放課後に学校でバスケットボールの練習をしたあと、パサルバルにある母親の店に寄った。母親のジュミニ45歳はパサルバルにある履物小売店『ポプレル』のシフト店長をしている。ジュミニは17時から19時までその店を監督して19時に終業するのだが、その日は残業があって帰宅が遅くなるためウイリアムを先に帰宅するように言い、バジャイ代金として3万ルピアを与えた。時間は18時半の少し前で、ウイリアムは店を出るとアーケードの下を大通りに向かって歩き去った。
ジュミニが20時半に帰宅したとき、ウイリアムはまだ家に帰っていなかった。店から自宅まで徒歩でも15分、オートバイオジェッに乗れば10分以内には到着する。どうしたんだろう?ジュミニが自分の携帯電話を調べると、ウイリアムからのミスコールが数回記録されていた。心配になったジュミニと夫はウイリアムの携帯電話を呼んでみるが、呼び出し音が鳴ったとたんに切れるということが続いた。途方に暮れている一家の頭上を時間が重苦しく通り過ぎていく。21時過ぎ、ジュミニの携帯電話が鳴った。息子からだと思ったその電話は、しかし聞き覚えのない男の声だった。「あんたの息子を預かっている。俺の子供の入院費用が必要なんだ。3千万ルピアを用立ててくれ。」
ウイリアムの誘拐が明らかになったため、家族は警察に通報した。その後しばらくしてから、誘拐犯からふたたび電話が入った。南ジャカルタにあるATMブースまで来て、そこから身代金を入金しろ、と言う。言われたとおりジュミニはそのATMブースまで出向いた。2千5百万ルピアの現金を持って。息子の携帯電話に電話すると誘拐犯で出た。誘拐犯は入金先口座番号を指定する。しかしジュミニは、自分のATMカードはゴールドでないため取引上限が1千万ルピアしかない、と誘拐犯に言う。すると誘拐犯は突然、1億ルピアを支払え、と言い出した。「そんな・・・・。最初の約束は3千万ルピアじゃないの。1億ルピアもの大金をすぐ用意できるわけがないわ。うちはいろんな商売をして親子4人がなんとか暮らしを立ててるのよ。そんな大金なんかどこにもないわ・・・。」ジュミニが語り終わる前に電話は切れた。
その後、犯人とのコンタクトは途切れてしまった。ところが5月6日の夜半を回った7日の午前3時前、ジュミニの携帯電話にSMSが入ってきた。息子を解放してやる、という誘拐犯からのメッセージだった。半信半疑のスラジ家の前に午前4時ごろ、タクシーが一台止まった。一家総出でウイリアムを迎えるありさまを目にしてタクシー運転手が仰天した。「えっ?この子、誘拐されてたの?」ウイリアム自身も驚いた。「えっ?オレ誘拐されてたの?」
興奮が納まったあとで、一家は首都警察捜査班に連絡を入れた。捜査員が警察に報告しに来てくれと言うので、7日午前6時ごろウイリアムをまじえて一家が警察に出頭した。捜査員に供述したウイリアムの体験談は次のようなものだった。
5月5日夕方、ウイリアムは母親の店を出たあとパサルバルの一隅でソトを食べた。するとひとりの男が近寄ってきてウイリアムの背中を軽く叩いた。警戒したウイリアムは携帯電話をすぐにポケットの奥深くにしまい、右手の拳を固め、男の目をなるべく見ないようにして相手に応じた。催眠術にかからないようにしなければならない。力ずくで襲ってきたらすぐに反撃してやる。
しかし男はエリックと名乗り、自分は警察諜報員だと言い出した。学校生徒の集団喧嘩で敵グループのひとりに暴力をふるい、頭に重傷を負わせた事件の聞き込みをしているのだ、とエリックは言う。「その犯人はどうやらお前だったようだな。取調べのために連行する。一緒に来てくれ。」ウイリアムは戸惑った。『オレはそんなことをしていない。これは何かの間違いだ。調べてもらえば判るはずだ。』エリックが立ち上がると、まわりにいた三人の私服の男たちが寄って来た。ウイリアムは既に同行する気になっていたが、これでは逃げようとしても無理だっただろうとそのとき気付いた。ウイリアムと4人の男たちは車体が緑とオレンジ色に塗られたタクシーに乗り込む。タクシーは都内をぐるぐる回る。カンプンムラユまで来たことをウイリアムは認識していたが、その後は自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。最終的にタクシーは水田地帯まで走って全員を下ろした。4人のうちのふたりが見張りに残り、他のふたりは姿を消した。田んぼの間の空地でウイリアムは二泊した。寝るのは草の上に敷いたダンボールの上。夜は猛烈な蚊攻めに遭ったが、防ぐ術などなかった。拉致されている間、4人の男たちはウイリアムに暴力も威嚇も与えず、飯はナシパダンを食いたいと言えばその通り持ってきてくれた、とかれは物語っている。そんな状況だったためにウイリアムは奇妙な印象を抱きながらも自分が営利誘拐の被害者となっていたことが実感できておらず、自宅に戻ってから驚くという事態になったわけだ。
5月7日の深夜、眠っていたウイリアムは揺さぶり起こされた。ふたりの男が車に乗れと言う。車はしばらく走ってから大通りに出て道端に止まり、全員が車から降りた。そしてタクシーを止めると、この子をコタまで運んでくれ、と注文してタクシーが去るのを見送った。運転手の話では、その場所は南ジャカルタ市ジャガカルサのタンジュンバラッ通りだったようだ。こうして5月7日午前4時ごろ、この営利誘拐未遂事件は終わった。
首都警察一般犯罪捜査局長はこの事件について、犯罪捜査局機動捜査班がこの事件を担当していることを犯人一味はサイバーメディアで読み、怖ろしくなったので被害者を解放したのではないか、とコメントしている。どうやら機動捜査班のターゲットになると生命の保証に太鼓判が付かなくなるようだ。


「パンツの中にもシャブ」(2008年5月22日)
台湾籍の麻薬覚せい剤運び屋がスカルノハッタ空港で続々と逮捕されている。「台湾製袋入りお菓子にご用心」(2008年5月14日)で報道されたように、覚せい剤の粉末を台湾製スナック菓子に偽装する手口はいまだに使われており、今回はそれに加えて自分がはいているパンツの中にまで品物を仕込んでいたのが見つかっている。
2008年5月6日に税関捜査員に逮捕された台湾籍の男性39歳は、マカオとジャカルタの間を飛んでいる航空会社Viva MacaoのZG101便で0時35分ジャカルタに到着した。刺青のあるこの男はトランクの中にビニール包装されたスナック菓子やコーヒーを大量に詰め込んでいたがその中は透明ビニール袋に入ったシャブ2.2Kgであり、またそのほかにシャブの入った小さいビニール袋を自分のはいているパンツの中にしのばせていた。捜査員はその男がスカルノハッタ空港着陸直前にパンツの中にシャブをしのびこませたのではないかと推測している。男はぴっちりしたジーンズの長ズボンをはいており、パンツの中の品物がずり落ちないように気を配っていたようだ。男がそんな小細工を弄したのは、逮捕されて監獄に入った後それが服役囚になった自分の待遇をよりよいものにするための資本になると考えたからにちがいない。インドネシアの刑務所内の様子に関する情報はどうやらかれらに筒抜けのようだ。
5月14日にはまた別の男がスナック菓子の袋で偽装したシャブ2.5Kgとケタミン4百グラムを持ち込もうとしてスカルノハッタ空港税関に発見された。この運び屋もビバマカオを使って深夜に到着しており、真夜中には税関の取調べが緩むとでも思ったのだろう、と甘く見られた税関捜査員はシニカルな口調で語っている。そのふたりはそれぞれ、1千万ルピア相当の成功報酬が約束されており、持ち込んだ品物は空港でコンタクトしてくる人間に渡すよう指示されていた、と自供した。このように同じ手口をしつこく繰り返しているところを見ると、この手口による成功例が少なくないのではないかとも思えてくる。
ところでこれまであまりなじみのなかったケタミンと呼ばれる新種の覚せい剤が増加傾向にあることを麻薬警察は指摘している。4月終わりごろから5月初旬の二週間に警察が行った諸所の取締で5キログラムものケタミンが押収された。皮肉なことに、インドネシアではケタミンがいまだに向精神薬に指定されておらず、ケタミン所持者や売人を麻薬覚せい剤犯罪者として扱うことができない。3年前にバンテン州チカンデにあった世界最大の闇エクスタシー工場が摘発された際に警察は280Kgのケタミンを発見しており、この薬物が将来的に拡大する予感を強めたものの法律の整備は遅々として捗っていない。そのためケタミンはいまだにプレカーサーのひとつという位置に置かれている。
オーストラリア・シンガポール・マレーシアなどではケタミンが覚せい剤のひとつに位置付けられており、マレーシアで50グラムを超えるケタミンを所持していれば死刑の対象になる。覚せい剤法改定は数年という時間がかかるためにその間ケタミンが野放しにされるのを保証するようなものであり、国家警察はケタミンの覚せい剤指定を保健大臣決定の形で早急に制定して欲しいと政府に要請している。


「通行人から金を取るのは地元民の権利!?」(2008年6月20日)
2008年2月29日付けコンパス紙への投書"Keamanan Dikendalikan Preman"から
拝啓、編集部殿。わたしはタングランのビンタロジャヤにある住宅地メンテンレジデンス第7セクターの住民です。わたしがこの住宅地を選んだのは、ポンドッカレン料金所に近いという地の利に着目したからであり、またハイクラスで将来性も優れている、と考えたからです。ところが最近、そのような評価をぶち壊す状況がこの住宅地周辺で多発するようになり、わたしが抱いていた希望は一片の夢と化してしまいました。住宅地周辺の地元民の中にいるごろつきたちが、保安を名目に不法徴収金を搾取するということが行われるようになったのです。
かれらはメンテンレジデンス住宅地入り口に近い道路で待ち構えており、やってきたトラックから金を搾り取ります。家屋を改築するために建築資材を運んできたトラックや住人が購入した家具や植木類などを運んできたトラックなど、一台の例外もなくすべてかれらの搾取の餌食となっています。住宅地警備員もかれらの行為になんらなす術を持ちません。わたしはこの住宅地を管理しているビンタロジャヤ経営者がなんらかの手を打ってそのようなごろつき行為を廃止させ、安全妥当な住宅地に戻すよう要請します。[ ビンタロジャヤ在住、ビスマ・デワブラタ ]


「生命より重いハルガディリと・・・」(2008年6月25〜27日)
南ジャカルタ市警に投書が届いた。例によっての讒訴状だが、そのような讒訴状による犯罪摘発の確率は決して小さくない。警察の犯罪摘発件数の中で密告に負うものはかなりの件数にのぼっている。この国には社会の中に密告の習慣が根強く残っており、そして為政者も国民に密告を奨励している面がある。差出人の書かれていないその讒訴状には殺人事件が告発されていた。捜査ユニット長はそれを捜査官のひとりに渡して言った。「ちょっとこれを洗ってみてくれ。」
庭師のパイマンに殺されたとその讒訴状に書かれているスーザンという名の女性は確かに2007年3月はじめから姿を消しており、かの女が行っていた衣料品ビジネスは中途で投げ出されたままの状態になっていた。そして夫のヘルマントも妻の行方を捜し求めようとしないどころか、毎日優雅で贅沢な暮らしを続けている。捜査官にはピンと来るものがあった。「あの讒訴状は当たりだ。」
庭師のパイマンに近付いて観察した結果その男が精神的にかなり追い込まれていることを確信した捜査官はパイマンを署に連行して締め上げた。パイマンはあっさりと泥を吐いた。「ここんとこ夢見が悪く、殺した女の顔が目の前にちらついて、いつも何かに後から追いかけられているような気がしてならなかった。」取調室の中で虚勢を脱ぎ去ったパイマン45歳はおびえた表情でそう自供した。パイマンは先にも良心の呵責に耐えかねて友人にその話をしていた。讒訴状はどうやらその友人が出したものだったようだ。
2008年6月8日午前10時、パイマンの供述に従って南ジャカルタ市ジャガカルサにあるタンジュンバラッマス住宅地ブロックB3の豪邸の庭を掘り返した警察は、土中に埋まっていた女性の死体を発見した。それがスーザンだった。その家はスーザンが買って自分の事業を行うための事務所に使っていたものであり、スーザンが夫や子供らと暮らしていた家はそこから3百メートルほど離れたところにあった。ビニールで幾重にも包まれていたスーザンの死体はまるで昨日死んだかのようにまったく腐敗が起こっておらず、首に巻きついて食い込んでいる白い靴紐がスーザンの断末魔のありさまを物語っていた。腕にはめられた腕時計は持ち主の死を知らぬかのように時を刻み続けている。警察はすぐに同じ住宅地内のブロックAにあるスーザンの自宅に向かった。重要参考人として夫ヘルマント40歳を拘留するために。
シティ・アイシャ・スーザン・シエ・ビンティ・シン・ルン・ハン、台湾国籍、1952年11月15日台湾生まれ。スーザンとヘルマントは1992年に結婚した。ふたりの間にはいま10歳のウイリアムが生まれ、そしてスーザンの連れ子であるジュリア17歳もその家で一緒に暮らしている。
衣料品ビジネスで利益をあげていたスーザンがこの家庭の大黒柱だった。かの女は自分の名義でその住宅地に豪邸2軒、別の場所でアパート、そして衣料品工場を所有し、高級車2台、外貨預金50万米ドル、20億ルピアなど膨大な財産を築いていた。しかし夫のヘルマントに対しては尊大な態度を示し、夫に何かを渡すときにはその物を放り投げて渡していたとその家の女中ふたりも証言している。また夫に頭ごなしに命令したり罵詈讒謗を浴びせかけるのも日常茶飯事だったらしく、成功した実業家の妻にこき使われる、妻にまったく頭の上がらない三枚目の夫をヘルマントはその長い結婚生活の中で演じていたようだ。自分はまるで奴隷扱いされていた、とヘルマントは取り調べの中で供述している。そんな暮らしに耐えられなくなったヘルマントは妻スーザンの殺害を計画した。殺しにはパイマンの手を使う。その家の雑用と庭仕事に雇われているパイマンはヘルマントから累計で7百万ルピアを借りていた。ヘルマントからの借金棒引きの話にパイマンは一も二もなく首をたてに振った。
2007年3月1日朝、ウイリアムを小学校に送ってから家に帰ってきたスーザンをパイマンは居間で待ち受けていた。家の中ではステレオが大音響で鳴り響いている。パイマンはやってきたスーザンの髪をつかむとその頭を何度も壁に打ちつけた。程なくして現場にやってきたヘルマントはパイマンの手からスーザンの頭をつかみ取ると力一杯それを壁に打ちつけた。床に崩れ落ちて虫の息となったスーザンの首にパイマンが白い靴紐を巻きつけて締め上げた。こときれたスーザンの頭にパイマンは黒色のビニール袋をかぶせる。手足を縛って透明のビニールシートで身体を包み、その身体を折り曲げて米袋に入れたあとふたたび青いビニールシートでくるんでからベンツのトランクに入れた。チプトマグンクスモ病院法医学専門家は、スーザンの死体が15ヶ月後もまだ腐敗を起こしていなかったのは、何層にもビニールで包装されていたために土中の水分や換気の影響とあいまって加水分解と添水分解が起こったためではないか、と説明している。
スーザンの死体を乗せたベンツはヘルマントがパイマンを横に乗せて運転した。行先はそこからほど近いもうひとつの家だ。その家に入って表門を閉めると、ふたりはスーザンの死体を玄関脇の部屋にかつぎこんだ。パイマンは徒歩で表門から出て行くと、三人の人夫を連れてきた。天水受けを作るので穴を掘ってくれ、というのが人夫への注文で報酬には30万ルピアが提示された。人夫たちはパイマンの注文通り、長さ2メートル幅50センチ深さ2メートルの穴を掘って帰って行った。スーザンがそこへ埋められたのは深夜23時のことだ。
母親の姿が見えなくなったことを子供らがいつまでも黙っているはずはなかったが、子供たちの質問にヘルマントは「ママは急用ができて台湾に帰った。おばあちゃんのところへ行ったんだよ。」と説明していた。それから半年後の2007年10月にチブブルのマクドナルドで開いたウイリアムの誕生パーティでヘルマントはアリシアと出会い、ふたりは深い仲となる。ヘルマントはボゴール県グヌンプトリの住宅地に家を買ってアリシアに与え、毎月4百万ルピアの生活費をかの女に渡していた。いま妊娠8ヶ月のアリシアは、「妻との間で離婚手続きを進めているので、それが終わり次第自分と結婚するというヘルマントの言葉を信じていた」と語っている。
ヘルマントはスーザンを殺害してから数日後に自宅の電話番号を変更して妻の交友関係を遮断し、自分の住民証明書(KTP)を変更し、さらに妻の銀行口座から自分の口座に残高を移し替え、二軒の家、アパート、二台の自動車の名義変更手続きを始めるなど、スーザンの財産一切をわがものにするためのプロセスを積極的に進めていた。
警察は最初この殺人事件の動機を、夫が妻の財産欲しさに行ったものと考え、さらにヘルマントの愛人が教唆した可能性を疑い、その後本人や女中の証言などから経済的動機よりも怨恨ではないかとの考えに傾いているが、そう単純に線引きができるものとは思えない。


「警察本部で盗むのはやりやすくて安全」(2008年6月30日)
こともあろうに、首都警察本部から警察職員の二輪車10台と四輪車1台を盗んでいた自動車窃盗団が首都警察一般犯罪捜査局自動車ユニット捜査官に逮捕された。この一味は四人組で、2008年5月から首都警察本部に駐車してある警察職員所有の自動車を10回盗んでいた。かれらが泥棒仕事をするときには黒白の服を着用し首都警察のロゴを用いて捜査官になりすまし、盗んだ車に乗って駐車場から出て行く際には手を振ってクラクションを鳴らすといった堂々たる態度で大通りに乗り出して行った。
四人組は別々の場所でホンモノ捜査官に逮捕された。26歳の男は6月19日に首都警察本部メイン出口近くのキャンティンで交通警官のオートバイを盗もうとして捕まった。27歳の男は雇い主のアバンザを盗んでから数時間後に南ジャカルタ市チランダッで逮捕された。28歳の男はバンテン州セランの自宅にいるところを捕まった。その3人は逃げようとしたために捜査官から足を撃たれている。もうひとりの31歳の男はおとなしく捕まったので、鉛玉の洗礼から免れた。
かれらが盗みを行う場合、まずターゲットの観察から始める。ひとりはターゲットの後をつけ、他の者は周辺状況に注意を払う。仕事をするのは観察を始めてから三日後で、朝から昼にかけての時間帯に盗みを行い、堂々とメイン出口からそれに乗って出て行った。一味のひとりは、首都警察で盗むほうが他の場所より仕事がやりやすくて安全だった、と語っている。


「不良少女たち」(2008年7月2日)
インドネシアの少女たちはみんな明るく朗らかで屈託がなく、いつも笑い声と嬌声に取り巻かれ、男が愛を捧げる相手に自分を選ぶのを待ち受けている存在だと思っているひとはその観念を改めなければならないかもしれない。中部ジャワ州パティ県ジュワナ郡の女子高校生7人が結成していたスケ番グループの話題が2008年6月中旬に全国のマスメディアを覆った。さすがにAV時代とあってその報道には、不良少女グループが同年代のひとりの少女にビンタをくらわせ、唾をはきかけ、威嚇して弄んでいる画像が添えられた。宗教に基づく人道主義と友好平和をモットーにしているこの国の一般庶民たちはその報道に一様にショックを受けた。
数年前、ジュワナ郡の同じ小学校に通う7人の少女たちが仲間になった。それがこの不良グループの前身だったらしい。そしてみんなは中学三年生まで毎日行動を共にしたが、卒業すれば別れ別れになるのは目に見えていた。そこでかの女たちは特別の連帯感を抱こうとしてギャング団を結成したようだ。名付けてGeng Nero。英語の[a]をインドネシア人は「エ」と発音し、発音記号であるインドネシア語綴りはそれに従って[e]に変更されるという原則はすでに読者におなじみのことだろうと思う。happyがhepiに転訛するのと同様に、gangもgengに変化した。いまやインドネシアで若者あるいはチンピラ(失礼!)集団はどこへ行ってもたいてい「ゲン」と呼ばれている。オートバイに乗って大勢が集まりコンボイを組んで街中を移動するといったはた迷惑なことを行っている高校生連中はgeng motorと呼ばれている。
そして少女たちが選んだギャング団の固有名称はネロ。ローマの皇帝「暴君ネロ」に引っ掛けたのだろうが、かの女たちは"neko-neko dikeroyok"を略したものだと胸を張る。nekoとはジャワ語であり、ムラユ式に書けばneka、つまりanekaと同義語なのである。インドネシア語に言い換えればmacam-macamが本義に近い表現となり、意義の方を取ればbertingkahと置き換えることもできる。
keroyokは「大勢で攻めかかる」ことを意味しており、攻めかかる相手はひとりでも少数でも多数でもかまわない。しかし現実にインドネシアで発生しているクロヨッは多数がひとりあるいは少数者に襲い掛かるパターンがもっぱらで、そのあたりにインドネシア人の精神構造を窺い知ることができるようにわたしには思える。一対一の決闘つまり一騎打ちに当たる言葉はオランダ語に由来するduelが一般的に用いられており、それに対応するインドネシア語を耳にしたことがほとんどない。多分それと軌を一にするのだろうが、それを行うインドネシア人はもうほとんどおらず、数をたのんで勝てるとなったときにはじめて戦闘行動を開始するというのがかれらの文化になってしまっているようだ。昔は一騎打ちの美学が存在していたというのにそれは雲散霧消してしまった、とインドネシア人識者も嘆いている。どうやら騎士道精神やフェアプレイといった観念は現代インドネシア文化から取り残されてしまったように見えてしかたがない。
neko-neko dikeroyokとはつまり「ふざけたことをするやつはリンチだ」という意味であり、不良少女グループのリンチ映像は、態度の悪い中三のルシにゲンネロのティカとユニカがヤキを入れているシーンの実況だったわけだ。ティカはジュワナ国立第1高校1年で、かの女がゲンネロの番長だというのがもっぱらの噂だ。ユニカはディポヌゴロ高校1年、そして現場に出張っていたラッナとマヤはバタガン国立第1高校1年。ほかのメンバーはジョクジャ・バタム・バリに引っ越しており、ゲンネロのリンチ行動には参加できなくなっていた。
ゲンネロのリンチ行動を撮影したビデオ画像が携帯電話を通して出回り、それを見たひとりが警察に届け出たためゲンネロの4人娘は2008年6月13日、警察に逮捕された。警察は虐待行為容疑で4人を取り調べた上、警察拘置所からパティ刑務所に移されている。


「2009年選挙年、不穏な日々が増加するか?!」(2008年7月4日)
全国で1分34秒ごとに1件の犯罪が発生しており、10万人中72人が犯罪の被害者になっている。国家警察本部広報部長が明らかにした2008年上半期全国犯罪データによれば、2007年上半期の犯罪発生件数は153,283件だったが今年は155,413件となり1.4%の増加を示している。犯罪種別で見ると侵入盗が31,673件、二輪車盗難15,397件、麻薬覚せい剤7,994件、重暴行7,783件、強盗4,719件、四輪車盗難1,618件、強姦1,312件、殺人649件、贋札製造150件といった内容。それら犯罪発生の大半は経済的要素が強く働いているもので、国民の経済生活上の問題がそこに投影されていると広報部長はコメントしている。国家警察犯罪捜査庁第1局長は最近の貴金属店強盗事件に触れ、貴金属店強盗は常に銃器を使い統制の取れた行動で犯行を重ねており、犯人グループはよく訓練された能力を身につけているものと見られることから、今後一層警戒を強める方針である、と説明した。5月末時点で7,798丁の銃器が一般市民の間で流通しており、そのうち3,446丁は所持許可が切れたままになっているものではないかと警察は見ている。
また選挙がらみで増加するデモ行動とそれが誘発するアナーキーな破壊行動や対立する陣営間の衝突について、2008年上半期全国デモ件数は2,486件で前年同期実績1,850件から顕著な増加を見せており、それらのデモは社会・政治・経済・宗教などさまざまな背景と動機を抱えたものでこの状況は選挙関連で今後さらに増加していくことが予想される、と広報部長は説明した。特に選挙キャンペーンの過熱によって対立陣営間の衝突や襲撃といった行動にエスカレートする可能性や、さらにSARA(種族・宗教・人種・階層)がらみで従来からくすぶっていた敵対感情が今後騒然としていく環境の中で爆発する機会を随所に見出すであろうことなどが懸念されるために、国家警察は特にSARAをファクターとする騒乱や暴動の発生を未然に防ぐよう重点警戒項目としていく方針であるとも広報部長は語っている。社会情勢が不穏になれば犯罪事件が起こりやすくなるのは洋の東西を問わない。選挙がらみで社会情勢の撹乱を企てる一派を封じ込んで、治安・法執行セクターが社会情勢の安定維持に成功するよう期待するばかりである。


「ひよこ強盗」(2008年7月9日)
3千7百羽のひよこを養鶏場に納品するために運搬していたトラックを強盗団が襲った。卵からかえったばかりの生後一日のひよこはDOCつまりDay One Chickと呼ばれている。2008年7月1日早朝、そのDOCをボゴール県チチュルッからバンドン県ランチャエカの養鶏場に納品するためにジャゴラウィ自動車道に乗り入れたトラックを追跡する一台の車があった。追跡してくるトヨタキジャンカプセルに不審を抱いたものの、トラック運転手と同乗しているひよこ事業者はまさか自分たちが強盗の標的になっているとは夢にも思っていなかったようだ。
チアウィ料金所からジャゴラウィ自動車道に入ったトラックを寂れた場所で停止させようとしてそのキジャンが進路をふさぐように接近してきた。午前7時ごろのことであり、路上の往来は普段のように賑やかだ。トラック運転手はしかたなく車を止める。キジャンから数人の男が降りてトラックに近寄ると、中のひとりが手にしたピストルの銃口を運転手に向けて運転席から引きずりおろした。ひよこ事業者も別の賊に動きを封じられてトラックから下ろされた。被害者ふたりは手錠をかけられた上にタオルで目隠しをされてキジャンの中に連れ込まれた。一箱100羽のDOCが入ったダンボール箱37個を積んだトラックは賊のひとりにハンドルを奪われて現場から姿を消した。続いて被害者ふたりを乗せたキジャンは犯行現場を後にしてジャゴラウィ自動車道を北上して行った。
強盗団は被害者のポケットから現金やカードを取り上げてからチカンペッ自動車道東ブカシ料金所近くの道路脇にふたりを下ろして行方をくらました。地元民がふたりを発見して救出し、東ブカシ警察署に送り届けた。捜査は強盗事件現場を管轄するメガムンドゥン署が担当する。


「借金取立てはもっと優しくしてよ」(2008年7月10日)
2008年2月15日付けコンパス紙への投書"Rumah Digembok Penagih SCB"から
拝啓、編集部殿。2008年1月18日から25日の間、わたしとわたしの親、そしてわたしの兄宛てにスタンダードチャータード銀行(SCB)デットコレクターのアレックスと名乗るひとから頻繁に電話がかかり、いろいろ失礼な態度や下卑た言葉でわたしどもを怖がらせました。1月22日から24日までそのデットコレクターは親の家と兄の家を訪れ、失礼な態度を示し、脅迫的な言葉を吐いて家の中に押し入ろうとしたのです。24日の12時半ごろ、親の家にやってきたそのデットコレクターは盛んに罵ったあと、家の表門に大きな錠前を掛けたので、親は夕方まで家の外に出られませんでした。25日午前6時半ごろ、そのデットコレクターはわたしの家に電話してきて、サディスティックな言辞を撒き散らしました。そのデットコレクターの仕打ちはわたしの家庭生活をたいへん乱しており、誉められないその行為は法に違反しており、それどころか刑事犯罪である暴力行為に該当するものと思います。SCB経営者は職務を与えたそのデットコレクターの行いに注意を払い、行過ぎた行為に警告を与えるべきです。[ ジャカルタ在住、ハンドコ・グナワン ]


「果てしない泥棒の知恵」(2008年7月25日)
南ジャカルタ市パサルミング郡ラグナン町ハジノイン通りにあるお屋敷に2008年7月15日13時ごろ、家具が届けられた。この家の主はフェリノ32歳で、かれはウムロと呼ばれるハジシーズン外のメッカ巡礼ツアーを専門に扱う旅行代理店のオーナーだ。
家具を運んできた4人の男たちは「ご主人の部屋に入れておくように言われた」と言って2階のフェリノの仕事部屋にその家具を運び込んだ。フェリノは当然仕事に出勤しており、家にいた使用人たちは何も疑念を抱かなかったので男たちがフェリノの部屋に入るのを許し、またかれらの作業の監視もしなかった。男たちはフェリノの部屋で梱包を解く作業をしていたようだが、しばらくしてから梱包資材などを抱えて降りてきた。そして使用人のひとりにあいさつしてから家具を運んできたピックアップトラックに乗ってその家を後にした。
夕方になってフェリノの実弟アルファンが帰宅し、使用人からフェリノの部屋に家具が届けられたという報告を聞いてかれは様子を見にその部屋に入り、そして怒鳴り声をあげて部屋から飛び出してきた。フェリノの部屋の壁に埋め込まれた金庫の扉が開いており、その中にあった宝石類や有価証券はなにひとつ見当たらず、中は空っぽになっていたのだ。


「乗客に決闘を迫るタクシー運転手」(2008年7月29日)
2008年3月5日付けコンパス紙への投書"Arogansi Sopir Taksi, Penumpang Diteriaki Rampok"から
拝啓、編集部殿。2008年2月22日金曜日20時ごろ、わたしは南ジャカルタ市クニガン地区のオフィスから同僚女性をカリマランの家に送るため、ビルの表でエクスプレスタクシーを止めました。ふたりが乗るとタクシーは発車しましたが、ふと気が付くと窓が開いているのです。わたしは年齢35歳くらいに見える運転手に窓を閉めてほしい、と丁寧な口調で頼みました。ところが運転手は「換気のために窓を開けているのだ。」と言って閉めようとしません。路上は雨の後でこびりついた泥が乾燥している上に工事で掘り返されたところもあって、とても埃っぽい状態になっています。わたしはもう一度運転手に窓を閉めるよう求めました。すると運転手は「あんたの連れが咳をしてるから、移されるとこまるのでね。」と言って、窓を閉めるのをあくまでも拒みます。埃はどんどん車内入ってきて咳を誘発しますからこれは悪循環です。わたしは仕方なく「咳が伝染するのが心配ならここで降りるよ。」と運転手に言いました。しかし運転手は車を止めようとせず、乗客が降りるのを許さない姿勢を示したのです。結局その運転手との間に口論がはじまるのは避けられませんでした。
車がクニガン地区を出て、寂れて暗く人通りも交通機関の往来もない場所に差し掛かったとき、運転手はやっと車を止めました。ここで降りろと運転手が客に言いました。「金を払うんだから、自分が降りたい場所は自分が決める。」とわたしは主張しました。すると運転手はわたしたちふたりを車から追い出し、自分も車から降りるとこうわたしに言ったのです。「さあ、ここで一騎打ちの決闘だ!」
運転手はわたしの同僚女性に辱めの言葉を投げつけてわたしを挑発しました。わたしは口で運転手を激しく批難しましたが、殴り合いの一歩手前で自分を抑えました。騒ぎを聞きつけた地元民が集まってくると、住民たちに向かって運転手はわたしの悪口雑言を撒き散らし、その怒鳴り声の中に「あいつはタクシー強盗しようとした。」という言葉まで混じっていたのです。もし住民たちが運転手の言葉を信じたら、わたしの身の安全がどうなっていたかわかりません。[ ボゴール在住、イ・ニョマン・アデ ]
2008年3月13日付けコンパス紙に掲載されたエクスプレスタクシーからの回答
拝啓、編集部殿。3月5日付けコンパス紙へのイ・ニョマン・アデさんからの投書について、その出来事にまず陳謝したいと存じます。当方はいまタクシープールとこの件について調整中であり、問題の運転手には社内規定に基づいて規律違反処分を厳格に行うことにしています。当方へのコンタクトは(021)57990707あるいは5761714へどうぞ。[ エクスプレスグループカスタマーケア課長、ラッナ・タヌブラタ ]


「当方も空港ネズミの被害者だ、と宅配業界」(2008年8月6日)
宅配便不配の大半は宅配サービス会社の手の届かないところで起こっている盗難のせいであり、空港運営会社はこの問題を解決するために協力してほしい、とインドネシア宅配サービス会社協会(Asosiasi Perusahaan Jasa Pengiriman Ekspres Indonesia=略称アスペリンド)会長が要請した。宅配便の遠距離配送は航空機による貨物運送サービスが使用されるのが普通で、エアカーゴ輸送メカニズムは空港の倉庫会社が受けた貨物が航空会社の運行する航空機に積込まれ、目的地に到着すると航空機から下ろされた貨物が到着空港の倉庫会社に入ってから受取人が引取るという流れになっている。この形は内国貨物も国際貨物もほとんど変わらない。
アスペリンドは、空港倉庫で行われているX線を使った貨物内容チェックが泥棒職員の犯行に便宜を提供している、と発地倉庫から着地倉庫までの間のどこかで貨物取扱い業務に関与している者が行っている悪事を批難している。内国貨物の紛失はここ三年間に増加傾向を見せており、平均してすべての宅配サービス会社が月に一件の紛失を経験している由。特に倉庫の非営業日である日曜日に着地倉庫に入って一晩を過ごした貨物の中に紛失が発生するケースが顕著であるとのこと。ともあれ、宅配サービス会社が運送を引受けた貨物がその流れのどこで紛失・盗難の被害に会っているのかを知るのはまったく不可能で、宅配業界は航空会社とも対策を協議しているものの紛失・盗難をなくす決め手は見つかっていない。航空会社の紛失貨物に対する損害賠償は運送料金の10倍が限度となっており、紛失物品の市価を消費者に請求されればその差額は宅配会社の自腹とならざるをえない。おまけに自分の手の届かないところで起こった悪事の被害者という立場は消費者と同じであるにもかかわらず、消費者の意識は宅配会社に対する責任追及がもっぱらとなるため宅配会社側は評判を落とすという二重の被害を蒙ることになる。被害の発生が特に多いのはスカルノハッタ空港とスラバヤのジュアンダ空港で、中でもジュアンダ空港は国軍の所有になっているため警察が空港内での捜査を避けることから、泥棒天国と化している趣すらうかがわれる。また被害が内国貨物に偏っているのは、国際貨物だと輸入通関が行われて貨物が細かく管理されているという事情があり、それがこの現象の分かれ目になっているように思われる。
航空機と地上との間で貨物を受け渡しするエリアが第一ラインと呼ばれ、第一ラインから貨物所有者である荷主との間で受け渡しがなされる第二ラインと呼ばれるエリアに移動してはじめて荷主は貨物を受け取ることができる。宅配会社も第二ラインでしか委託された貨物を受け取ることができない。その結果、委託貨物の中に紛失があった場合、発地第二ライン→第一ライン→航空機→着地第一ライン→第二ラインというルートのどこで紛失が発生したのかを知るのは宅配会社には不可能になっている。その流れを一貫して監視できるのは空港運営会社しかないとの見解のもとにアスペリンド会長はスカルノハッタ空港を運営管理しているアンカサプラ?に対して協力要請を口に出したものの、アンカサプラ?からは暖かい反応が還ってこなかった。アンカサプラ?広報課長は、当方は乗客バゲージにせよエアカーゴにせよ、貨物を取り扱う権限をまったく持っていない、と次のように述べている。「業務手続き上でそのようなことを行う権限を持つアンカサプラ?職員はいない。X線透視担当職員は貨物内容が申告と同じかどうかを調べる責任だけを負っている。貨物紛失があったのなら航空会社がその責任を負うべきだ。乗客バゲージもエアカーゴもクレームプロセスは同じ内容になっている。」と管理責任のあまり感じられない反応を示している。


「凶悪強盗タクシーが出現」(2008年8月19日)
2008年8月7日16時ごろ、グナダルマ大学経済学部4年生へスティ24歳はインドネシア銀行での教育実習のあと、東ジャカルタ市クレンデル(Klender)の自宅へ帰るためにクブンシリ(Kebun Sirih)通りとサバン(Sabang)通りの交差点でタクシーをひろった。へスティはこれまでもその白色ボディのタクシー会社を使うのを常としていた。タクシーに乗るとへスティはいつも運転手にどのプールから来たのか尋ねることにしていたが、そのときは乗車してすぐに夫のモフタル35歳に電話したため普段の習慣が果たされずじまいになった。
タクシーは走り出すとすぐにサバン通りのアヤムゴレンレストラン前で止まり、運転手がタイヤの様子を見ると言って外に出た。ふたたびタクシーは走り出し、都内を抜けてカサブランカ(Casablanca)通りのメンテンプロ(Menteng Pulo)墓地に差し掛かったところ、運転手はまた道路脇に車を止めると「タイヤの様子を見る」と言って外に出た。そして運転手は立小便をしたあとトランクを開いて何かを取り出し、へスティが座っている後部座席の右扉を開いたのでかの女は座席の左側に寄った。ところが思いもよらずへスティは突然何か固いもので後頭部を強打され、気を失って闇の中に沈んだのだ。
モナス広場のあるメダンムルデカバラッ(Medan Merdaka Barat)通りの国民福祉統括省表の歩道脇にその日18時ごろ、白色ボディのタクシーが止まった。車から降りた運転手が後部左扉を開いて何かしていたが、しばらくしてから走り去った。タクシーが走り去ったあとの歩道にはひとりの女性の身体が横たわっていた。薄暮の官庁街に人影は稀だ。しばらくしてペンキ職人がひとりそこを通りかかり、行き倒れている人影を見つけて国民統括省の警備員に知らせた。警備員たちが駆け寄ると、その女性は朦朧とした意識の下でへスティと名乗り、自宅の住所と夫の電話番号を告げた。
夫モフタルは19時ごろメダンムルデカバラッ通りに着いた。警備員の通報で現場に来ていた首都警察ガンビル(Gambir)署の警官はモフタルと多少とも元気を回復してきたへスティに、犯行現場を所轄するスティアブディ(Setia Budi)署もしくはトゥベッ(Tebet)署に届け出るようアドバイスしたが、ふたりは首都警察本部にこの事件を届出て、またチプトマグンクスモ(Cipto Mangunkusumo)病院で診断書を作成した。へスティは現金と身につけていた装身具および携帯電話器総額1千2百万ルピア相当を奪われていた。
へスティの警察への届出によれば、犯人は背が低く太り気味の体躯で色黒、髪は短かったとのこと。タクシーにはCというコードが記されていたので、チポンド(Cipondoh)にあるタクシー会社Cプール所属の車だと思われ、ダッシュボードの運転手アイデンティティカードは黄色だったので自分が常に使っているタクシー会社に間違いない、とへスティは主張している。しかしエクスプレスタクシーCプール責任者は被害者の言葉を否定しており、被害者自身が自分の乗ったタクシーのアイデンティティに確信を持っていないと反論している。


「間抜けな強盗ストーリー?!」(2008年8月21日)
2008年8月12日午前8時ごろ早朝ゴルフを終えて帰宅したラクソノを強盗一味が自宅の表で待っていた。南ジャカルタ市ジャガカルサ郡タンジュンバラッにあるタンジュンマスラヤ住宅地内ガルーダマス2通りブロックD1の2番地を住所とする自宅に帰ったラクソノが表門をあけて車を敷地内に入れようとしているとき、近くに止まっていた青色カムリから男がひとり車外に出てきたかと思うとラクソノに銃口を向けた。更にふたりの男がカムリから出てきて全員が屋敷内に入り、表門は閉ざされた。家の中にいたラクソノの妻と女中ふたりが集められ、ラクソノ夫婦は手錠をかけられたが16歳と19歳の女中はただ床に座らせられただけだった。強盗たちは主寝室内を荒らして500米ドルと150万ルピアおよびさまざまな装身具を奪った。被害総額は3千万ルピアとラクソノ夫妻は警察に届出ている。
寝室内で金目のものを探しているとき、賊のひとりが「昨夜手に入れた金はどこだ?」と尋ねたことからラクソノはこの強盗一味がターゲットを間違えたことを覚った。しかし如何せん、始まった強盗劇を相手間違いだと説得して帰ってもらうわけにもいかないし、ましてや一味が「そりゃ申し訳ない」と言って手に入れたものを元に戻して立ち去るはずもない。人的被害なしにこの強盗劇は幕を閉じ、ラクソノ家から奪われたATMカードの口座残高150万ルピアもその後姿を消したが、それだけの被害で終わったようだ。
この事件があったために、ラクソノ家の隣人がその前にも強盗未遂事件が起こっていたことを明らかにした。8月9日11時ごろ、ブロックD2の22番地に住むリンダ宅をアバンザに乗った男たち5人が訪れ、リンダのビジネス仲間だと言ってリンダが不在の邸内に入ろうとしたが、女中が警戒してかれらを邸内に入れさせなかった。次いで10日、かれらは銀色ホンダシビックに乗ってリンダの兄の家にやってきた。住所はブロックD1の6番地だ。しかしリンダが前日の事件を告げていたため、リンダの兄宅の女中も警戒してかれらを中に入れなかった。
果たしてこれが「間抜けな強盗ストーリー」なのかどうかは犯人を捕らえて見なければわからないのだが・・・・・


「パンク泥棒の新手口」(2008年8月25日)
自動車のタイヤをパンクさせて乗車者が外に出たすきに車内のバッグなどを盗むパンク泥棒の新手口が紹介された。タイヤをパンクさせる武器は通常、傘骨を適当な長さに切って先を尖らせその切っ先が上を向くように仕掛けした一種の撒きビシだが、それを路上に撒いても百発百中という確定性は得られない。しかし犯罪者たちはついにその確定性を大幅に向上させるのに成功したようだ。ズック靴の先端にタイヤをパンクさせる武器を仕込み、踏切や信号で一旦停止した車のタイヤの前に靴先を差し出すという手口がそれであり、武器は一個だけ用意すればよく、確実にタイヤに突き刺さり、そして運転者にはもちろん周囲にいる人間に犯行を感知される可能性もきわめて低い。なにしろ停まっている車のタイヤの前に靴先をさし伸ばすだけだから、自分の足が車にひかれるようなこともないだろう。このように悪事にかけては天才的な思考を駆使するかれらを頭が悪いという先入観でこきおろしたがる外国人は、どうも物事の奥底まで目が届いていないような気がしてしかたない。
2008年8月13日、この新手口を携えた四人組がオートバイ2台に分乗してジャカルタからボゴールへひと稼ぎしにやってきた。かれらはもう数回この手口でパンク泥棒を行い、成功させている。かれらはボゴール市内をうろついてターゲットを探し、市北部のタナサレアル地区でやっと一台の車に狙いを定めた。クドゥンバダッ踏切で停車したその車に近寄り、一味のひとりがタイヤの前に足を伸ばす。獲物はボゴール街道に向かい、四人組はそのあとをつけた。しばらく走ったあと、その車は道路脇に寄って止まった。オートバイ1台がその車に近寄り、運転者に話しかけて注意をそらしている間にもう1台が車の中からバッグを盗んで逃走した。盗みに成功したのを見た陽動作戦班もすぐに現場を離脱する。
現場から遠く離れた4人は街道沿いのワルンに立ち寄ってバッグの中身をあらためた。中には書類があり、そして金もあった。ところが何という奇禍、4人がワルンを出たとき被害者の車が自分たちのオートバイの後ろに止まっていたのだ。被害者は急いでタイヤ交換を済ませると、自分の注意をそらすために近寄ってきたオートバイを探し、そして見つけたのである。
四人組はあわてて逃亡をはかったが、被害者の車はオートバイに体当たりしてきた。体当たりされたオートバイが転倒する。運転者は叫ぶ。「そいつらは泥棒だ!」周囲にいた群衆がすぐに集まってくると倒れたふたりを捕らえようとした。ひとりは逃がしたがもうひとりはしっかり取り押さえられ、お定まりのリンチシーンが展開されたあと、そのひとりはボゴール警察署に突き出された。


「責任は自分になく、悪いのはいつも他人」(2008年8月25日)
2008年4月3日付けコンパス紙への投書"Korban Mobil Indomart"から
拝啓、編集部殿。2007年11月17日14時15分ごろ、オートバイを運転していたわたしの兄ワルシトはブカシ県チビトゥンのMM2100工業団地入り口で事故に遭いました。PT Indomartの配達用ボックス車と衝突したのです。その事故でわたしの兄は東ブカシのミトラクルアルガ病院に43日間入院し、1億ルピアを超える治療費を支出しなければなりませんでした。わたしはチカランのジャバベカ工業団地にあるインドマレッにこの事故の責任を求めましたが、あれほど巨大な全国規模のマーケットチェーンであるインドマレッはなんとお粗末なことか、この問題をボックス車運転手に預けてしまったのです。多数の商品配送車両を抱えているインドマレッは自社の運転手が起こした問題に頬被りをしようとしているのです。事故の被害者はいまだに正常な社会活動が営めず、車椅子に依存する生活を送っています。[ ブカシ在住、ジョコ・プルワヒヨ ]
2008年5月6日付けコンパス紙に掲載されたインドマルコ社からの回答
拝啓、編集部殿。2008年4月3日のコンパス紙に掲載されたジョコさんからの投書について、弊社の配送ボックス車と衝突した二輪車のワルシトさんに対するお見舞いを申し上げます。事故発生時、弊社配送ボックス車はMM2100工業団地内のインドマレッ事務所に向かって南下していました。ちょうどそのときオートバイが一台その道を高速で逆走し、右に折れようとしました。それがワルシトさんの運転する二輪車だったのです。ボックス車運転手はブレーキを踏みクラクションを鳴らしましたが、衝突を避けることができませんでした。この事故でワルシトさんは重傷を負い、この交通事故は警察が取り扱うことになりました。警察の調書と現場検証報告は、事故責任がインドマレッ運転手の側にないことを示しています。
たとえそうであっても、弊社は頬被りする意図をまったく持っておりません。弊社はワルシトさんとその奥さんにご自宅でお会いし、この事故に関する合意を結びました。こうしてこの問題は解決に至っております。[ PT Indomarco Prismatama社PRマネージャー、ネニー・クリスティヤワティ ]


「鉄道車両内でひったくり」(2008年9月3日)
2008年4月16日付けコンパス紙への投書"Tas Penumpang Dijambret di Dalam Kereta Eksekutif"から
拝啓、編集部殿。2008年3月19日水曜日、親を見舞うためにわたしは東ジャワ州モジョクルトに帰省しました。ジャカルタのガンビル駅からエグゼキュティブ列車ビマ号に乗ったのですが、わたしの座席はニ輌目の番号13Dで乗降扉とトイレの近くでした。車内に入ると座席の下はびしょ濡れで洪水のあとなのか清掃のあとなのか訳がわかりませんし、自動のはずの乗降扉も壊れていて閉まりません。切符を持っていない大勢の乗客が床の上に座り込んでおり、きっと乗務員に直接金を渡して認めてもらおうという作戦なのでしょう。17時発車予定は30分遅れて17時半に発車しました。検札乗務員には鉄道専門警察官でなく警備員が付き添っていました。
14時ごろジョクジャに到着し、そのあとは一路スラバヤを目指します。わたしが眠ろうとしたとき、知らないひとがわたしのバッグをひったくりました。わたしは「泥棒!泥棒!」と叫んで追いかけましたが、警備担当者はひとりもやってきません。ひったくられたバッグの中には、母がとても必要としている薬と携帯電話・装身具・ジャカルタへ戻るための汽車賃・ATMカード・クレジットカードなど高価なものがたくさん入っていたのです。
列車から飛び降りたのかそれとも別の車両内に隠れたのか、その泥棒が姿をくらましてからしばらくして車掌のアグスさんと警備員がまだ動転しているわたしのところへ来て取り調べを行いました。鉄道専門警察官はまったく姿を見せません。悲しく、恨めしく、怖く、そしてトラウマのせいで、モジョクルトまでの4時間わたしは黙りこくっていました。今現在でも恐怖とトラウマはまだわたしの心に巣食っているのです。
もう長い間事業を行っている交通機関である鉄道は乗客に快適さを与えなければならないのではありませんか?鉄道を交通機関として利用しようとしているひとはよくよく考えた上で利用するようにしてください。移動に安全と快適さを提供してくれる交通機関は他にもたくさんあります。わたしは当局者に説明を求めます。どうしてエグゼキュティブ列車にひったくりがいるのですか?[ ボゴール県在住、スリスティヨワティ・ラハユ ]
2008年4月26日付けコンパス紙に掲載された国鉄からの回答
拝啓、編集部殿。スリスティヨワティ・ラハユさんからの4月16日付けコンパス紙に掲載された投書について、不快なできごとに謝罪申し上げます。この事件は長期連休という状況に関連しており、列車乗客数は用意された座席数を上回ったばかりか、座席がないにもかかわらず無理やり列車に乗ったひともいて、乗客にご不快を与える結果になってしまいました。
その日のビマ号は鉄道専門警察官一名と車内保安職員二名が乗務しており、事件発生時にかれらは別の車両にいたのです。叫び声を聞いてかれらは現場を目指しましたが、たいしたことはできませんでした。当方は犯罪から乗客を守るよう、車内警備を強化する所存です。[ 国鉄広報課長、アディ・スルヤッミニ ]


「事故責任は常に四輪車にある」(2008年9月5日)
首都圏ジャボデタベッ地区の交通事故は悪化の一途をたどっている。2004年以降の事故発生状況は年々コンスタントに4千件を超えており、2007年にはついに5千件の大台に乗った。それらの事故で毎年1千人を超える死亡が発生している。死亡事故の最大手は二輪車運転者で、交通法規を無視して公道を往来するかれら二輪車族の違反行為がその死につながっているのだが、インドネシアではなぜか立場の弱い者に対する保護と義侠心が優位に置かれているため、弱い二輪車との間で事故を起こした四輪車は問答無用で悪者にされている。この観念が二輪車族の公道における無法行為を煽っている一要因であるのは疑いもなく、道路交通における観念の切り替えが行われなければ自業自得で死んだカミカゼ二輪の犠牲になる四輪運転者は絶えることがないだろう。
2003年以降の交通事故発生件数は次のようになっている。
2003年 2,949件
2004年 4,695件
2005年 4,156件
2006年 4,407件
2007年 5,154件
その5年間に交通事故で死亡もしくは怪我をした人数は26,853人であり、平均すれば年間5千3百人になる。2008年の状況は最初の7ヶ月間で死亡692人、重傷1,499人、軽傷2,641人で合計4,832人にのぼり、5千3百人を超えるのは時間の問題と見られている。
首都警察交通局事故調査課長は、交通事故発生の第一歩は交通法規違反だ、と語る。「交通違反がまず最初にあり、それが交通事故に発展する。だから交通事故発生要因の最大ファクターは運転者なのだ。」
二輪車と四輪車の事故の場合、状況調査以前にまず四輪車が悪いという姿勢が無条件で形成される傾向にあることを首都警察交通局長は指摘する。「二輪車より大きい四輪車をまず悪者にする先入観に走らないよう、現場警官に警告している。客観的で緻密な状況調査を現場警官は行わなければならない。」しかし交通局長が指導する方向に意識が変わるのはまだまだ長い時間が必要とされているにちがいなく、そのため四輪車運転者が違反二輪車と事故を起こしても警察に届け出れば四輪車側に責任を負わされる傾向が高いことからマイカー四輪運転者はあえて自動車保険クレームを起こさないことがよくあるようだ。首都警察交通局データによれば、2003年から2007年までの期間に発生した15,145件の二輪車事故に関わった相手は、自家用車8,356台、都バス(KOPAJA)379台、都バス(Metro Mini)730台、タクシー1,254台、ミクロレッ624台となっている。しかし上に述べたような事情から警察の記録に加えられなかった件数は決して小さいものではないだろう。


「女タクシー強盗」(2008年9月16日)
友人から1百万ルピアの借金をしていた女性が、ルバラン前で返済督促が激しくなったことからタクシー強盗を行った。ブカシの衣料品工場で働くリアナ・ヌル32歳は友人から1百万ルピアを借りていたが、ルバランが近付くに連れてその友人から毎日返済の催促を受けるようになり、そのプレッシャーで毎日頭を痛める日が続いた。借金は日々の生活費の一部に充当して使い果たしており、毎月かつかつの生活をしているリアナに借金を返済できるような臨時収入を得る道など思いもつかなかった。
9月10日、退社時に友人は駐車場でリアナにまた返済の催促をしたためリアナの心的抑圧はまた重みを増した。その夜テレビを見ていたリアナはタクシー強盗シーンを目にして思いついた。そうだ、臨時収入を得る道はこれなのだ!9月11日夜、リアナはテレビのシーンにあった金づちで運転手を襲うタクシー強盗手口をそのまままねようとして、金づちをハンドバッグにしのばせるとブカシのプカヨンにある家を出た。交通往来の盛んなカリマラン通りに出て、ちょうどやってきたプリマジャサタクシーに乗る。「運転手さん、チャクンに行ってよ。」
チャクン〜チリンチン通りのジャカルタ外環状自動車道脇まで来ると、リアナはタクシーを止めさせた。「友達に電話するから、ちょっと待って。」しばらくしてからリアナは運転手に発車するよう言い、車は動き出した。そしてふたたびタクシーにストップを命じた。そのときリアナはハンドバッグから金づちを取り出して運転手の後頭部に打ちかかったのである。さらにリアナの手は運転手イクバルのポケットをまさぐって現金を奪おうとする。イクバルはリアナの手を払いのけると運転席から外へ転げ出て「強盗だ、助けてくれ!」と叫んだ。犯行が失敗したことを覚ったリアナも急いで後部座席から外へ出る。現場から逃走しながらリアナは手にした金づちを投げ捨てた。しかし近辺にいた住民の動きのほうが早かった。逃げ道をふさがれたこの女強盗は、自分を包囲した男たちにあっさりと捕まってしまった。リンチが行われなかったのは、相手が女だったからにちがいない。警察はリアナが捨てた金づちを見つけたが、リアナのハンドバッグに入っていたレンチも発見している。単にテレビで見た強盗シーンの猿真似でなく、リアナは犯行を成功させるために予備の凶器も用意するという知恵を使っていたのだ。悪事には知恵が働く文化であることは、この一事からもよくわかる。運転手イクバルの傷は浅く、かれは入院する必要がなかった。


「ホテルスイートルームで私設カジノ」(2008年10月31日)
かつてジャカルタヒルトンホテルとして英名を馳せた都内スマンギ立体交差点南西角にある5星級ホテルは今やザスルタン(The Sultan)と名前を変えている。このホテルのスイートルームのひとつ、第296号室に2008年10月24日夜7時半ごろ、大勢の国家警察捜査官がなだれこんだ。そのとき部屋の中には27人がおり、取調べの結果そのうち15人が被疑者として留置された。かれらは男性8人と女性7人で、年齢は下が42歳から上は60歳。かれらはホテルのスイートルームでいったい何をしてサツのお迎えを受けたのか。そう、その部屋は私設カジノに衣替えされていたのである。
27人の中には料理人やウエイターがおり、かれらはこのカジノの客にサービスするために雇われていた者でホテル従業員ではない。留置された15人はひとりが胴元、ひとりが記録係、そして13人は客であり、客の中には会社の代表監査役も混じっていた。このカジノで行なわれていたのはカード賭博で、捜査班が踏み込んだときはひとつの円卓で6人がジョーカーマナド、別のテーブルでは5人がジョーカーカロ、三つ目のテーブルでは3人がレンあるいはソンとも呼ばれるゲームに興じていた。取調べによれば、このカジノは2008年1月にオープンしたらしく、毎日15時から夜明け前の午前4時まで賭場が開かれていた。警察はその夜の捜査で現金9,175万ルピアと装身具などを押収した。
その日夕方、国家警察捜査班がホテルマネージメントを訪れて捜査令状を示すと、マネージメントは寝耳に水の驚きを示した。296号室の実態をかれらはまったく知らなかったようだ。しかし部屋の中はカジノとしての体裁が整えられた状態になっており、スイートルーム備品ではない大型テーブルが三つも持ち込まれ、また部屋の隅には雰囲気を盛り上げる照明が取り付けられているなど、ホテル従業員が知らないはずのない状態になっており、どうやら『知らぬはマネージメントばかりなり』ということになっていたようだ。ホテルマネージメント側は「客が部屋の中に入れば、何をしているのか見張るのは困難だ」とコメントしているものの、ポイントがそんなところにあるのでないことはだれにでもわかる。従業員や部下が見聞きしていることを吸い上げるのがきわめて困難なインドネシアの状況をそれは如実に物語っていると言える。警察はホテル従業員の中に共犯者がいるものと見て捜査を進めている。


「犯罪都市ジャカルタのいけにえは誰?」(2008年11月3・4・5日)
光きらめく街、ジャカルタ。きらめく光が強まるほど、その影の部分も暗さを増す。犯罪は日に日に質を高め、また量も拡大している。強盗はますます大胆になり、獲物に危害を加えることを辞さない。殺人は日常茶飯事になりつつある。そして優雅にひとを落としいれて財物を奪う犯罪も巧妙さを磨き上げている。ジャカルタはフレンドリーな街では決してない。
一日のうちの何時であろうと、はたまた自宅にいようが路上にいようが、犯罪は首都に住むひとを常に狙っている。油断は餌食になることにつながる。親しげにふるまいながらも決して気を許さない交際術はいまやジャカルタ住民にとって必需品になりつつある。
もともと貧富の差の激しい社会であり、そして集団の所有権は成り立っているものの集団内の個人は所有権を持たないという社会通念、上位者の横暴と下位者の甘えを赦しあうパトロン=クライエント関係、他人を徹底的に糾弾しないパーミッシブ文化などといった諸要因が生み出している善悪の峻別されない社会原理が日常生活の中に数多くの悪事を散りばめつつ、ひとびとはそんな形で社会生活を営んでいる。そしてスハルト政権崩壊のBGMとなった10年前の通貨危機、あれから10年たったいま起こっている世界金融恐慌などによる失業者の増加が社会の貧困度合いを深くするたびにサバイバルのために悪事を選ぶ人間が増える。普通かれらが行なうのは在来型犯罪、つまり暴力で欲望を果たし利益を得ようとする類のもので、警察用語を借りれば侵入盗・暴行・自動車盗難・強姦などといったものとなる。
今ジャカルタ5市のうちでもっとも犯罪多発地区となっているのは西ジャカルタ市で、2008年1〜5月の間に警察が届出を受けた犯罪件数は2千件を超えている。もちろん、犯罪発生の頻度が所轄管区に投入されている警官数と関連性を持っているわけでは決してなく、西ジャカルタ市は住民983人に警官ひとりの割合であり、これは東ジャカルタ市の住民1,067人に警官ひとりよりまだマシであると言えるが、西ジャカルタ市の届出件数は群を抜いている。どこの国へ行こうが、スラムが犯罪の温床と見られているのは変わらない。密集した狭い住環境に大勢の貧困者が暮らしており、そんな環境が住民を比較的容易に悪の道に走らせているようだ。西ジャカルタ市で犯罪リスクの高い地区はダアンモゴッ(Daan Mogot)、キヤイタパ(Kyai Tapa)、トマン(Tomang)などで、都下5市はいずれもそのような場所を抱えている。
犯罪の充満しているジャカルタで、狙われやすいのは誰か?最大のポテンシャルヴィクティムは女性だ、とインドネシア大学犯罪学者は言う。世の中を覆っている封建的観念は男にも女にもそれぞれの性別役割や姿の理想像を植え付け、人は自分の振舞いをその価値観に合わせようとする。いまだに父家長制に濃く彩られているインドネシア社会で女は常に服従し、搾取され、犠牲になるよう強いられている。自立せず常に依存する存在となることを美とし、それが女の正しいあり方だと教えられてきた。その結果、女というものは、怖がりで柔弱であり、容易に降伏し、あまり怒ったりせずいつもにこにこと周囲に笑顔を向け、強制するのが簡単で、あれこれ指図して命令を行なわせてよく、何を命じようがほとんど抵抗しないものだというのが社会通念となっている。このような社会ではいわゆる男尊女卑が社会構造を形成するひとつの柱となっており、女性がどれほど正しいことを述べようが男たちは頭から馬鹿にして相手にしないというようなことがふんだんに行なわれている。だからまだ子供のような若い男でも、大人の女性に対して恐れる顔もなく強奪や強姦に向かうことになるのだ。
もともとインドネシア文化の源流をなしているムラユ文化では、女性は保護され、尊重され、尊敬される存在だった。女性を意味するインドネシア語のプルンプアン(perempuan)というのはper-empu-anであり、語根となっているムラユ語源のempuは元来「かみ(上)」「かしら(頭)」を意味し、転じて尊敬される者、更に育成したり養成するといった意味をも持つようになった。そのような女性観がさまざまな外来文化の流入に連れて蝕まれて行き、最終的にミソギニー文化であるイスラムの定着によって昔からあった社会的価値観が覆されてしまったようだ。しかしインドネシア人の社会生活を見ていると、イスラム的男尊女卑の形式の奥底に女性への尊重尊敬が生き残っている部分を見出すことができる。
2008年6月から10月までの間に首都圏で女性が重大犯罪の被害者になった事件は下のように数多く発生している。
2008年6月から10月第3週までの間に首都圏で女性が被害者になった事件は次のようなものだ。
6月7日:ボゴール県チレンシ村カンプンタポス農園の小屋の前で妻子ある男と恋愛関係にあった女性を、男が妻に知られるのを恐れて殺害した
6月8日:南ジャカルタ市タンジュンマスラヤ住宅地の邸宅の庭に埋められていた台湾女性の死体が発見された。殺害者はインドネシア人の夫
7月7日:ブカシ県東チカランのトロピカナガーデン住宅地の一軒の家に押し入った強盗がその家の女中を強姦
8月12日:デポッ市リモ在住の商売を行なっている女性が四人組の男に自宅の前で襲われ、現金3千万ルピアと有価証券等を奪われた
9月4日:北ジャカルタ市クラパガディンのクニンムダ通りでひとりの男が主婦の身につけていたネックレスを奪い、被害者を銃撃した。被害者は一命を取りとめた
9月8日:ブカシバラッの公共運送事業者の家を数人の強盗が襲い、その家の主婦を縛り上げて現金7千万ルピアと黄金装身具20グラムを奪う
9月21日:チュンパカプティの住宅に5人組強盗が押し入り、携帯電話5台とラップトップ1台を盗む。その家の主婦とその妹および親戚ふたりが縛り上げられた上で部屋に閉じ込められた
9月23日:ダルマワンサ通りにある元高官宅を強盗が襲い、元高官夫人と女中が暴行されて重傷
10月10日:西ジャカルタ市チトラガーデンにある中学校の女性英語教師25歳がカリドラスの借家で他殺死体で発見された。警察はまだ手がかりをつかんでいない
10月13日:デポッ市インドネシア大学キャンパス表門付近でグナダルマ大学女子学生の他殺死体が遺棄されていた
10月21日:ボゴール県チビノンの竹林で18歳の既婚女性の死体が発見された。死体は両手首を切断されていた
10月25日:サワブサールのアパルトメンクリサンラジャワリ3階11号室で印華系セールスガールが全身15ヶ所の刺し傷を受けて死んでいるのが見つかる
10月25日:タングラン県パムランで一人暮らしの82歳の女性が自宅で死体で発見される。死体は頭部に傷を負い、うつぶせで倒れていた
しかしそれらは新聞種になった事件だけであり、インドネシアで犯罪と見なされるものの範疇に限ってみても氷山の一角ではないだろうか。ましてや他の文化では犯罪・悪事とされていながらインドネシアでそうなっていないものにおいておや。


「海底ケーブル数トンを盗んだ一味が捕まる」(2008年11月20日)
ランプン州パベロカンで天然ガスを採取し配給しているPT CNOOCから海底ケーブル盗難届が警察に出されたのはしばらく前のこと。海底ケーブルはガスパイプ内のガス送気状態をモニターするためのもので、そのケーブルが消失したためにガス配給先のひとつであるバンテン州チレゴンのPLN発電所におけるガス燃料受給が不安定になった。
この事件の捜査に当たったバンテン州警察水上警察局はスンダ海峡のケーブル敷設地区周辺からバンテン州北岸にかけての一帯でパトロールを強化していたところ、11月14日に不審な漁船を発見して拿捕し、乗っていた6人の男を連行して取り調べた。タングラン県マウクの船着場に入ろうとしていたその漁船には、網もなければ釣竿も見当たらず、船内にあったのは潜水用具・金鋸・マスク・コンプレッサー・斧などで、この6人が海底ケーブル泥棒であることを十二分に物語っていた。
警察の取調べにこの6人は、海底ケーブル略取のしごとを既に三回行ったことを自供した。獲物を大量に略取したのはスンダ海峡側だったそうだが、その三回でどれほどの獲物を入手したかについては覚えていないと語っている。かれらは漁船に混じって出漁するふりをし、略取現場につくとホースをつないだ潜水マスクをかぶって海底に潜り、船上からコンプレッサーで送られてくる空気を吸いながら海底で仕事をするという手口で銅線やステンレスチールのケーブルを切断して盗んでいた。盗んだケーブルは被覆をはがしてからランプン側にいる故買屋に売り渡していたとのこと。盗まれたケーブルは数トンにのぼっており、警察側はこの盗難の被害額を45億ルピアと見積もっている。


「デットコレクターに拉致される」(2008年12月11日)
タングランのビンタロジャヤに住むリザルがメタリックシルバーのスズキグランドヴィタラを運転してビンタロの自動車専用道路を走行中、トヨタフォーチュナーとダイハツタルナの2台は尾行を続けていたようだ。リザルの車がポンドッカレン(Pondok Aren)ゲートから一般道へ出た後、フォーチュナーが接近してきてリザルの進路をふさいだ。タルナはリザルの後に止まって挟み撃ちだ。フォーチュナーから男が数人降りてきてリザルの車に近付き、「殺すぞ」と威してドアを開けさせ、リザルを運転席から引きずり下ろしてフォーチュナーの中に連れ込んだ。男たちのひとりがグランドヴィタラの運転席に入ってハンドルを握る。3台の車はジャカルタに向けて走り出した。
男たちはリザルにスラバヤの女性から借りた6億ルピアをすぐに返済しろと迫った。リザルは自分を拉致した男たちがデットコレクターであることを覚った。2008年12月2日の夜だ。
3台の車は南ジャカルタ市のスナヤンシティに向かった。モール内のカフェに勢ぞろいした男たちはなんと11人もいた。多勢に無勢では身動きもむつかしい。リザルはしかたなくデットコレクター一味の言うがままに従う。男たちはリザルに「有り金残らず出せ」と迫り、リザルがATMから6千万ルピアを言われた口座に振り込むと、男たちはかれのATMカードを取り上げた。デットコレクターはリザルから車と金を取り上げたことで気を抜いたようだ。リザルはその油断を捉えて警察に電話した。首都警察一般犯罪捜査局捜査官の一隊がリザルの言った場所に現れるまでにそれほど時間はかからなかった。捜査官たちは瞬く間に11人を一網打尽にし、リザルの車を含む3台を伴って首都警察に連行した。深夜1時半の捕物だった。デットコレクターたちはどうして警察が自分たちを犯罪者のように扱うのか理解できなかったようだ。かれらの論理に従えば、これはかれらの雇い主であるスラバヤの女性とリザルとの問題であり、自分たちは報酬を得て借金の取立てを行なっているに過ぎない。
借金取立て代行業が法に触れるということでは決してない、と警察はかれらに説明した。取立ての仕方が問題なのであって、街中のごろつきもどきの行為が法に触れるのだ、と取調官はかれらにきついお灸をすえて取り調べを行なっている。借金を踏み倒すのは悪事だから、悪人は制裁を受けて当然であり、貸した金を取り戻すために相手から強奪をしても悪くない、という私刑のロジックは泥棒に対する集団リンチに通じるもののようだ。一般庶民の法観念がモダン化されるにはまだ時間がかかりそうだ。


「夜行列車の泥棒」(2008年12月17日)
2008年6月14日付けコンパス紙への投書"Perjalanan dengan Kereta Api Malam"から
拝啓、編集部殿。わたしの妻とふたりの娘が郷里のクディリに夜行列車で帰省しました。三人が乗ったのは2008年6月1日17時35分ジャカルタのガンビル駅発マラン行きガジャヤナ号のビジネス/エグゼキュティブクラス二両目座席番号12A,B,Cで、料金はガンビル駅乗車券販売窓口でひとり24万ルピアを払いました。
ところがプルウォクルトのグレゴッ地区を夜中の22時45分ごろ走行中、座席でうとうとしていた14歳の娘が突然驚かされたのです。身体にかけていたバッグを見知らぬ男が力ずくで奪おうとしたためでした。娘は奪われまいとしてバッグにしがみついたので、その男の力に引きずられそうになりました。バッグのひもが切れたおかげで娘の身に災いは起こらなかったものの、携帯電話器・?−ポッド・現金の入った財布などがバッグとともに失われてしまいました。その男は娘からバッグを奪うと、列車から飛び降りて夜の闇の中に消えたのです。
その賊はたぶんクルクップ駅から車内に入ったにちがいありません。列車がその駅に着くと大勢の物売りが車内に入ってきましたから。道中の安全と快適さを乗客に提供するということがらについて、残念ながら国鉄はお粗末であるとしか言いようがありません。ましてや石油燃料値上げでクディリまでの乗車料金が以前の18万ルピアから24万ルピアに大幅に値上がりしたというのにこんな有様です。
物売りの仮面をかぶって自由に車内に入り込む泥棒を取り締まろうともしないで、車内や駅の保安を預かる警備担当者はいったいどこでなにをしていたのでしょうか?この事件の責任を国鉄はどう取ってくれるのでしょう?国鉄経営陣は乗客の安全と快適さを、特に夜行列車に関して真剣に向上させてほしいと希望します。[ バンドン在住、ユフィス・フェリー ]


「電車内の集団暴力スリ」(2009年1月19日)
2008年7月10日付けコンパス紙への投書"Kereta Ekonomi Sarang Pencopet"から
拝啓、編集部殿。2008年6月29日、日曜日、わたしども一家はブカシのクランジから14時45分発ジャティヌガラ行き普通電車に乗りました。ジャティヌガラまでの料金はひとり1千5百ルピアで、四人分の切符を買いました。15時ごろブカシ発の電車がクランジ駅に着きましたが、扉は降りる人や扉の前で動こうとしない人でいっぱいです。わたしと9歳の娘はなんとか人垣をかきわけて中に入りました。妻と2歳の息子も電車が動き出したので必死で中に入りました。ところがそんな状態の車内に入ったとき、乗客たちを待ち受けていたのは実に怖ろしいことがらだったのです。
扉の前で群れていた男たちは集団暴力スリだったのです。かれらはわざとそこに混雑が起こるようにし、そこを通る乗客の持ち物をスリ取っていたのでした。わたしと妻は携帯電話器をポケットに入れないでバッグの中にしまっていたため、事なきを得ました。しかし娘は、盗まれたものはありませんでしたがバッグのファスナーを壊されました。わたしの前にいた男性はポケットから携帯電話を盗まれていました。
関係当局は電車乗客の安全を確保するようお願いします。そのとき制服を着た国鉄職員の姿がふたり車内にありましたが、かれらにはその状況をどうにかする力がありませんでした。[ ブカシ在住、トゥルス ]


「少女拉致事件」(2009年1月28日)
2008年6月4日朝、ランプン州ワイカナン県バンジッ村の街道で登校するため乗合い自動車をひとりで待っていたサンティ15歳の前に乗用車が一台止まった。車の後部ドアが開いて男が下りてきたかと思うと、いきなりサンティの身体をつかんで車の中に押し込んだ。車内のもうひとりの男がサンティを引きずり込む。大の男ふたりの力にまだ女子中学生のサンティがどう暴れたところでかなうものでもなかった。サンティを押し込んだ男が車内に入ってドアを閉めると、乗用車は走り出した。後部座席で泣き喚くサンティを男のひとりが押さえつけ、もうひとりがサンティの腕に注射器を突き立てた。サンティの意識は闇に沈んでいった。
サンティはジャカルタまで運ばれて一味の監視下に数日をジャカルタで過ごした後、ポンティアナッへ送られた。そして西カリマンタン州でマレーシアと国境を接するエンティコンでまた数日過ごしてから、エンティコンの陸路国境通過検問所をトラブルもなく通過してマレーシアのクチンに連れて行かれ、チョンリンパーク地区の売春宿で客を取る日々が始まった。サンティへの仕事の報酬は1リンギットもなかった。
一方、ランプン州地方部でしばらく前から行方不明になる少女の数が増加しているのを捜査していた国家警察は、インドネシア人未成年者をマレーシアへ送り込む人身売買組織の網をたぐって2009年1月9日、マレーシア警察と共同でクチンにある売春婦収容所を急襲し、マレーシア人チュンクムセン50歳とインドネシア人ヌルディンを逮捕するとともにサンティを含む8人のインドネシア人女性を救出した。クチンの売春婦流通機構に集めた女を売り渡すビジネスを行なってきたチュンクムセンはインドネシア国内に組織を設け、この組織がインドネシア女性をマレーシアに送り込む働きをしていた。チュンクムセンが売春婦流通機構に売り渡した女性は104人にのぼる。
チュンクムセンのインドネシア国内シンジケートで有力な供給者であったデポッ在住のエカという女性からはそのうち65人を手に入れている。インドネシア国家警察はこのエカを指名手配中。国家警察広報部長は、行政腐敗が人買組織の犯罪を容易にしていると語った。虚偽のアイデンティティを使ってKTP(住民証明書)が作成できること、贋造パスポート作成者がいくらでもいること、国境通過検問所でイミグレーション職員が正しく職務を果たしていないこと、などのおかげで人買シンジケートの仕事は実に助かっているそうだ。
これまで人買シンジケートはたいてい働き口を探している女性を言葉巧みに勧誘し、海外出稼ぎの口があると偽ってマレーシアに送り込むが、いざ現地に着いてみると売春宿だったという詐欺の手口が大半だったが、このサンティのケースのように少女を拉致して売春を強制する手口に移行しつつあるので、娘を持つ家庭は十分警戒するように、と国家警察は国民に警告している。


「キッザニアで詐取される」(2009年2月3日)
2008年6月26日付けコンパス紙への投書"Kehilangan di Arena Kidzania"から
拝啓、編集部殿。ジャカルタのキッザニアに子供を連れて行く親御さんは、よくよく考え直したほうが良いと思います。これはわたしの12歳の子供が2008年6月3日14時ごろにメトロTVパビリオンで体験した実話です。メーキャップ室にメトロTVの制服を着た男性スタッフがいて、わたしの子供にバッグを預けるよう言いました。そうしてたった15分もたたない間に、子供の財布と携帯電話がバッグからなくなっていたのです。
子供はたいへんな悲しみとトラウマを味わうことになりました。新しい携帯電話を買ってもらうために、子供は2年間学校のランキング1位を維持しなければならないのですから。[ ジャカルタ在住、スサンナ ]
2008年7月11日付けコンパス紙に掲載されたキッザニアからの回答
拝啓、編集部殿。2008年6月26日付けコンパス紙に掲載されたスサンナさんからの投書について、当方はスサンナさん本人とお嬢さんのフィフィさんのおふたりとその問題について協議しました。フィフィさんからの報告を受けた当方は即座にTVスタジオパビリオン内を捜索し、パビリオントレーナーである監督者からも事情を聴取しました。そして全関係者を集めて事件の再現を試みましたが、残念なことにフィフィさんはお金と携帯電話を発見するために当方が必要としている情報を確認してくださいませんでした。
監督者によれば、キッザニアのお客様にサービスを提供する職員は名前と顔写真が映っている名札を付け、キッザニアとメトロTVのロゴの書かれた制服を着用しています。メトロTVはキッザニアのスポンサーのひとつです。スサンナさんのお嬢さんやその他のキッザニア入場者が必要とするお手伝いを提供するのがかれらの仕事です。
当方は全訪問客に対してエアポートに、『ご自分の貴重品はご自分で注意してください』との警告を掲げていますし、各パビリオンのスーパーバイザーが最初に行なう仕事も訪問客に「ご自分の貴重品に注意するように」と呼びかけることなのです。
このような事件が起きたことに対する遺憾の意とともに、被害者が受けた不快な体験に同情の意を表します。[ キッザニア市長代理、デッキー・アンドリアン ]


「街中で電話架線が堂々と盗まれる」(2009年3月4日)
2008年7月15日付けコンパス紙への投書"Pelayanan Telkom Mengecewakan"から
拝啓、編集部殿。わたしはテルコムの固定電話回線利用者ですが、ここ数ヶ月間というもの、わたしの家の電話が毎月のように使えなくなるのです。ひどいときには使えるのがひと月の内のほんの数日しかなく、残りの日々は電話器が死んだままの状態です。わたしは何度もテルコムサービス147番に電話して理由を尋ね改善を求めますが、その返事の多くは、「三日以内に電話はまた使えるようになります。もし三日以内に修復されない場合はお客様の電話料金固定費部分が無料になります。」というものでした。あるときはテルコム職員がわざわざ説明の電話をかけてきて、わたしの電話がしょっちゅう不通になるのは、わたしの地区で空中電話ケーブルの盗難が頻繁に発生するためであり、ジャカルタ南部とタングラン地区は特に被害発生が多いという話をしてくれました。そしてその職員は事細かにテルコムが蒙っている損害についてくどくどと説明し、改修を早急に行ないますと約束するのでした。でも今日ただいまに至るまでこれまでの状況にたいした変化は見られません。そしてわたしの電話代の料金固定部分も毎月請求されています。テルコムは口約束ばかりだったようですね。そのような架線盗難を防ぐようテルコムは防衛措置を取らないのですか?[ タングラン在住、スリヤナ ]
2008年7月24日付けコンパス紙に掲載されたテルコムからの回答
拝啓、編集部殿。2008年7月15日のコンパス紙に掲載されたスリヤナさんからの投書にお答えします。スリヤナさん宅の電話によく障害が起こるのは、その地区の電話架線が何者かに頻繁に盗まれるのが原因です。切り取られた電話線の弊社による再接続工事は既に完了してスリヤナさん宅の電話は現在良好に機能しています。盗難を防ぐためにテルコム所有ユーティリティの警備パトロールは地元警察の協力を得てテルコムセキュリティ&セーフティ部門が定期的に行なっています。
もし通信設備機材等の盗難を見かけたら、ただちに最寄のテルコム事務所あるいは警察に通報くださるよう、テルコムは国民のみなさんにお願いいたします。[ テルコムインドネシアジャカルタ第?地区ディビジョンマネージャー、レッノ・ディヤ ]


「病室は泥棒にとって格好の稼ぎ場」(2009年5月6日)
2008年9月11日付けコンパス紙への投書"Kehilangan di VIP RS Sari Asih"から
拝啓、編集部殿。2008年8月21日、妻のイタ・ヌルハヤティは出産のためにタングランのチルドゥッ(Cileduk)にあるサリアシ病院に入院しました。家族の安全と快適さを優先して、わたしは8月24日までVIP A室の治療パッケージを選択しました。医師や看護婦たちの助力のおかげで、わたしの子供は安全でノーマルに誕生しました。
しかしこの幸福の陰に、わたしども一家をがっかりさせるできごとが待ち受けていたのです。8月24日午前3時20分、妻と付添いの妹たちが泊まっている病室に泥棒が侵入し、携帯電話が3個盗まれました。病室の快適さとサービスの良さは、妥当な保安システムに支えられていなかったのです。
午前4時15分、妻はぐっすり寝込んでいる警備員に盗難を報告しました。なんと病室通路には監視カメラが設置されておらず、病室に誰が入ったのかを知る術はありません。犯人はこの病室の中の状況がどうなっているのかを知っており、携帯電話をそれぞれが枕の下に置いて寝ていることまでお見通しでした。病院の従業員でない外部者が病室に入るには、警備員の許可を得なければ入れないことになっているというのに。[ ジャカルタ在住、アンタ・ウィグナ ]


「海岸リゾートコテージに泥棒侵入」(2009年5月7日)
2008年10月12日付けコンパス紙への投書"Keamanan Kawasan Wisata Pantai"から
拝啓、編集部殿。西ジャワ州スカブミ県南部海岸のその観光地をわたしはインターネットで見つけました。2008年9月30日、わたしの一家はその観光地を目指したのです。ところが10月1日早朝に思いがけない災難がわたしたちを襲いました。
その日の夜、わたしたち一家6人はスカブミ県ウジュングンテンのARアグロ観光コテージで、疲れのためにぐっすり寝込んでいました。ドアも窓も調べて安全を確認してあったのです。ところが午前4時にふと目をさまし、免許証・クレジットカード・ATMカード・現金・携帯電話4個・デジタルカメラ・ズボンやサンダルまで入っている旅行バッグふたつが盗まれたことに気付きました。すぐにARと地元警備員に連絡して現場を調べてもらいました。そしてこの事件のフォローをARに求めたのですが、午前10時になってもAR側は何のアクションも起こしません。わたしが強く要求するとはじめて動き出し、チラチャップ警察にわたしと一緒に被害届けを出しに行きました。
12時ごろ、わたしと警官ふたりが現場に戻って犯行現場を調べました。そのエリアには赤アリが多いので、わたしは赤アリがコテージの中に入ってこないよう扉の周りに洗剤や塩や粉を撒いておいたのですが、そこに大きい足跡が残されているのを見つけました。
コテージ運営者AR側がこの事件に早急に反応せず、警備員のひとりはこの事件をお遊びだと言い出すに及んで、わたしは口で言い尽くせないほどの失望を味わいました。わたしたちの体験はこのリゾートへ遊びに行くひとにとっての教訓を示しています。その場所は一晩中砂糖やしの収穫をしている地元民集落の中にあって、ARは宿泊客の保安確保を怠っているのです。コテージの窓には防犯用の格子も取り付けられていないのですから。[ ブカシ在住、フレディ・アブラハムス ]


「捨て子、それとも子殺し」(2009年5月14・15日)
2009年3月6日早朝、東ジャワ州ポノロゴ県プルン郡マグンスマン町のポノロゴ街道沿いにあるグンテン公共墓地に置かれているテレビの段ボール箱が周辺住民の注意を引いた。住民がその段ボール箱を調べたところ、箱の中には力なくしゃがみこんでいる男児がひとりいて、またその子のものと思われる衣服数着がビニール袋に入って置かれていた。
届けを受けた県警プルン署は、子供の容態が悪いためポノロゴ地方総合病院に診察と治療を依頼したが、3月7日21時55分、名前もわからないその捨て子は病院で息を引取った。病院側の所見では、その子供の肺にビスケットのかけらがいくつか見られ、それが炎症をもたらしたのが死因ではないかとの診断だ。「どうやらその子の親は子供を捨てる前に、子供がお腹を空かさないようにと大量のビスケットを食べさせたようで、その一部が肺に入ったと思われる。その子供は6歳前後と見られるがきわめて悲惨な状態であり、同年代幼児の体重は20〜25キロが普通なのにその子は10キロ未満でやせ細っており、手足の発育が不全で、言葉を話すことができず、ただ泣いてばかりいた。その子供は障害を持って生まれてきたものと推測され、加えて脳性小児麻痺にかかったために言葉が話せなかったようだ。」その捨て子の診療を担当したポノロゴ地方総合病院のロニー・ユディアント医師は報道陣にそう説明した。
子供の親あるいはその一族にとって、このような障害児は負担だったにちがいない。だからその子は捨てられたのであり、捨てるにあたってはだれかが拾って育ててくれるだろうとの一縷の望みをかけたにちがいない。しかし口でなんと言おうが、そんなだれかが現れなかったらその子はどうなるのか、という思いが脳裏をかすめなかったはずはあるまい。それはまた親子関係の中における親の責任という問題と正面から対立することがらであることに、針の先ほどにせよ思いが至らなかったとも思えない。ましてや大量のビスケットを次から次と口の中に入れられてむせ返る子供の健康に対する配慮については・・・・?
似たようなことは国内のあちこちでずっと昔から起こっている、と社会学者は言う。
2007年11月にマディウンで見つかった生後3ヶ月ほどの捨て子は脳水腫だった。この男児はマディウン地方総合病院に収容されて元気に育っている。ただし普通の赤児の2倍サイズの頭を持ったこの子は、いまや一歳半を過ぎたというのに身体を左右に傾けたり、這ったり、座ったり、つたい歩きするといった運動ができず、仰向けに寝て手足を動かすだけだ。この子は産みの親に捨てられたが、運良くマディウン地方総合病院の経営者・医師・看護婦たちの善意によって生き永らえている。しかしこの子の将来がどうなるのかはだれにも分からない。つまり実の親に養育されている子供はその親がその子を養育しようという意志を持っているわけだが、病院に収容されている脳水腫のその子にはかれを養育しようという意志を持つ個人がいないのだ。だからいくら病院で養われていても、その問題は解決しないのである。おまけに病院が子供を養育するのにふさわしい場でないのは明らかなのだから。
スラバヤのアイルランガ大学社会学者は、不完全な身体で生まれたために親に捨てられる子供は、出生が望まれなかった子供や親の期待から外れた子供と同じグループに属す、と語る。親の中にはそのような子供を捨て、もっと極端なケースでは自ら手にかけて殺してしまう。そのような子供は、親や一族が世の中で芳名を受けまた芳名を保つための障害となる恥をもたらすものと見なされる。そんな一家一族の汚点を闇から闇に葬るために、教育レベルの低いひとびとは子供を捨てたり、あるいはもっとインスタントな解決方法として子殺しを行なうのだ、とかれは説く。
社会から見上げられることを共同体生活における理想と位置付けている文化では世評が人生の重要な目標の座に置かれており、ひとびとは財産・地位・肩書き・権力といったその文化の中でポジティブな世評をもたらすものを全力をあげて追い求める。反対にネガティブな世評をもたらすものが身内の中に出現すれば、そのようなひとびとが汚点の隠蔽や消滅にどれだけエネルギーを注ぐかは想像するに余りあるだろう。
インドネシアの社会学者たちは、産みの親が障害児に与えている過酷な仕打ちの原因を教育の低さと貧困に帰している。それはモラルの問題であって、貧困が民衆に『生きる』ということの完璧な理解を持たせることを阻んでいるのだ、と解析するのだが、貧困だから自分の子供を含めて他者の生命や他社の人生を尊重しないのは仕方ないのだという考え方を容認している文化に責任の一端はないのだろうか?


「被害者が辞退すれば刑事事件捜査も止まる?」(2009年6月30日)
2008年10月8日付けコンパス紙への投書"Kamar Hotel Dibobol Paksa"から
拝啓、編集部殿。2008年9月13日15時、わたしと妻と子供はボゴールのホテルミラにチェックインしました。たまたまその廊下の部屋はすべてわたしのファミリーが入ったので、そこはわたしとわたしの一族が占領したかっこうになりました。翌朝7時半にわたしと妻と子供は朝食のために部屋を出ました。わたしの携帯電話と妻の携帯電話はたまたま充電中でしたが、安全だと思ってそのままにしておいたのです。わたしが部屋を出たとき、ドアはロックされました。そのときわたしは念のためにロックされたことを確認しています。部屋を出たとき、わたしの部屋の前の椅子に男がひとり座っていましたが、ホテル客だろうと思って深く気に留めませんでした。ホテル従業員の姿もそのあたりに見えたので、わたしはあまり不安を感じませんでした。
8時半ごろ部屋に戻った妻が、部屋のドアが開いているのにたいへんショックを受けました。赤ちゃん用品を入れたバッグの中味が散乱し、わたしと妻の持ち物がいくつかなくなっていました。もっと驚いたのは、泥棒がドアのノブを破壊して暴力的に室内に侵入していたことです。その泥棒はかなりひと目のあるそのエリアでわずか30分ほどの間に盗みの仕事を終えたわけです。
この事件をわたしは中央ボゴール警察に届け出ました。捜査官の話では、そのホテルで類似の事件がかつてあったそうです。もし宿泊客が室内にいて泥棒が犯行におよんだなら、宿泊客の身の安全はいったいどうなっていたことでしょうか?この事件に対するホテル側の責任の取り方にはたいへんがっかりしました。ホテルのジェネラルマネージャーがわたしにコンタクトしてきて、被害の補償としてホテルバウチャーを進呈すると申し出てきましたが、わたしの物質的損害とホテルバウチャーではまったく釣り合いが取れません。ボゴールのホテルミラに泊まるときは警戒が必要です。[ シドアルジョ在住、イ・ニョマン・グラ ]
2008年10月18日付けコンパス紙に掲載されたホテルミラからの回答
拝啓、編集部殿。2008年10月8日付けコンパス紙に掲載されたイ・ニョマン・グラさんからの投書についてお知らせします。当方は被害に会われたご本人に対して遺憾と同情の意をお伝えしました。ご本人は被害者として警察の更なる捜査を謝絶されましたが、ホテル側はその犯罪行為に対する責任をまっとうするためにこの事件を地元警察に届け出て事件の完全糾明と犯人逮捕を要請しています。ホテル内でもすぐに保安システムの整備改善を行ない、警察に対してもホテル内の捜査を行なうよう求めました。
当方はご本人に謝罪と補償を申し出ましたが、まだ了承をいただけておりません。当ホテルの保安態勢の顕著な改善によってこのような事件は今後影をひそめ、宿泊客によりすぐれたサービスを享受していただけるよう願ってやみません。[ ホテルミラ広報マネージャー、ヘリヤ・レスヴィエナ ]


「命がけのATM破り」(2009年7月31日)
2009年7月25日土曜日深夜1時ごろ、タングラン市コアンジャヤにあるBCA銀行ATMブースが破られた。トヨタキジャン1台と数台のオートバイに乗ってやってきた7人の賊はATMブースの扉をふさいでいるチェーンにかけられた南京錠を切断してブース内に浸入し、中に並んでいるATMマシーンのひとつをこじ開けて現金収納ボックスを引き出した。そして悠々とその現金収納ボックスをキジャンの中に持ち込んで現場を後にしたのである。
一味が現場からおよそ5百メートル離れたチサダネ川第10番水門あたりまできたとき、タングラン市警犯罪捜査課と首都警察爆発物処理班グガナチームの混成部隊が道路をふさいでかれらを待ち受けているのに驚かされた。一味はあわてて今来た道を逆戻りしようと方向転換を行なう。「おとなしくお縄につけ!」と叫んで警官隊は威嚇射撃を行なうが一味は逃走しようと努めた。トヨタキジャンの運転者は完全に冷静さを失っていたにちがいない。歩道と立ち木に車をぶつけたあげく、車は大きく揺れてチサダネ川に飛び込んだのだ。
逃がしてなるものかと警官隊は逃走をはかる一味に実弾を浴びせかけた。南スマトラ出身のJLO31歳は左胸に銃弾を受けて即死、ほかにも逮捕された三人のうち二人は脚や腿に銃創を受けた。川に飛び込んだキジャンの中にいたもうひとりの賊、南スマトラ出身のAN32歳も水没した車内で水死した。一味のうち二人はオートバイで現場を離脱し、チサダネ川に飛び込んで行方をくらました。
BCA銀行からの報告によれば、盗まれた現金収納ボックスには7月24日15時ごろ4億6千万ルピアの現金が納められたが、犯行時には3億6千万ルピア程度に減っていただろう、とのこと。


「集団強盗が被害者を銃撃」(2009年8月8日)
2009年7月20日21時過ぎ、西ジャカルタ市クブンジュルッのスライマン通りにある自分の店のシャッターを下ろしたアグス・マウラナ27歳は、その日の売上金2千万ルピアを持って帰宅しようとしていた。そのときオートバイでやってきた6人の男たちがアグスの行く手をふさぎ、中のひとりがアグスに蹴りを入れた。怒ったアグスが抵抗したところ、別のひとりがピストルを取り出してアグスの腿を撃った。アグスは路上に転がる。そしてアグスが持っていた2千万ルピアの現金は男たちに奪い取られた。
周囲にいたひとびとはこの思いがけない強盗事件の発生に気付いたものの、賊のピストルを恐れて遠巻きに見守るばかりで、アグスを助けに近寄る者はいない。賊がピストルを空に向けて3発撃つと、遠巻きにしていた群衆は物陰を探して逃げまどった。そのすきに6人の賊は悠々と現場を去り、賊が去ったのを確かめた群衆はやっとアグスを助けに近寄った。アグスはプルマタヒジャウメディカ病院に運び込まれた。


「泥棒をリンチで殺した結末は・・・」(2009年8月11日)
2009年7月12日午前2時ごろ、バンテン州セラン県トゥンジュンテジャ郡トゥンジュンテジャ村にあるイスラム学校マドラサツァナウィヤ「ヌルルファラ」に泥棒が侵入した。窓をこじあけて建物内に浸入したふたり組みの泥棒はその部屋からコンピュータを持ち出してきた。ふたりはもう1セットを盗もうとしてまた建物内に入って行ったが、賊の行動を観察していた学校近くに住むアバジャニがそのときとばかり大声をあげたのである。「マリン(泥棒)だ!学校にマリンが入ったぞ!」
その声を聞きつけたトゥンジュンクトゥッ村とチマニッ村の住民数十人が瞬く間に駆けつけてきてその学校を包囲したためにふたりの泥棒は逃げ出せなくなってしまった。双方はしばらく互いに相手の様子をうかがっていたが、腕に覚えのある住民数人が建物内に入って賊のひとりを引きずり出してきた。校庭で待ち構えていた数十人が即座にそのひとりに襲い掛かる。ほどなくして賊は地面に倒れて動かなくなった。すると住民たちは賊の手をしばってから校庭の真ん中まで引きずって行った。
続いてもうひとりの泥棒の番だ。部屋に隠れて生きた心地もしなかったもうひとりの泥棒をまた住民数人が引きずり出してきた。そして修羅場が繰り返される。「殺さないでくれ。命ばかりは・・・」と泣き叫ぶふたり目の賊にも住民たちは容赦なく暴力をふるいまくった。ひとり目を徹底的にぶちのめしてふだんから鬱屈している住民たちの精神に多少とも余裕が生じたのか、ふたり目の賊はかなりダメージを受けたが生命は助かった。
警察の調べで、死んだひとり目の賊はトゥンジュンテジャ郡ボジョンメンテン村住民ウスップ37歳、もうひとりの賊はルバッ県ランカスビトゥン郡パシルジャティ村住民ヤディ35歳だったことが明らかになった。この事件を取り調べたセラン警察署はリンチで賊のひとりを殺害した住民15人を逮捕して事情聴取を行なっていたが、あとになって警察が拘留した住民の数は30人に増えた、とセラン署犯罪捜査ユニット長は述べている。それぞれがその事件の中で何をしたのか、という点をセラン署は明らかにしようとしているが、刑法典第170条に従えば、集団暴行による殺害の刑罰は最高12年の入獄となっている。


「死に至った煩悩」(2009年8月14日)
アリス・マヌンク54歳の人生の結末は不幸だった。ボゴール市メンテン町ボゴールアスリ住宅地に住むアリスは2009年8月2日火事で燃えた自宅内で焼死したのだが、焼死したこと自体を不幸だと言っているわけでは決してない。
数日来気分がむしゃくしゃしていたアリスは、8月2日夜、客間で紙を燃やした。よく燃えるようにとわざわざガソリンまで用意した。夫の異常な行動に気付いた妻のルシア・スリ・マルヤティ53歳は大声で叫んだ。「あなた、何をしてるの?やめて!すぐに消すのよ!」
ところが妻の剣幕におどろいたのか、アリスはガソリン缶を蹴飛ばしてしまったのだ。部屋中に火が移る。アリスは火を消そうと格闘したもののガソリンで燃やした屋内の火になかなか歯が立つものではない。火は家中に広がって行く。アリスは家族の身を案じて妻とふたりの子供(22歳と9歳)に、すぐに家の外の安全な場所に避難しろと命じ、自分は家の中に残って火との格闘を続けた。そのうち消防車が到着し、近隣ボランティア住民が手伝って数時間後には鎮火したものの、アリスの姿はどこにも見当たらない。そして焼け跡の調べを行なっていたひとびとが二階物干し場でアリスの焼死体を発見したのだった。
アリスはどうしてあのように常軌を逸した行動を取ったのだろうか?どうやら性的欲求不満がその原因だったようだ。アリスはその事件の6日前に目の手術を受けた。医者はアリスとルシアに向かって、手術後の回復に障害をもたらさないために少なくとも4週間セックスを行ってはならない、という禁令を与えた。内科医助手というキャリアウーマンであるルシアは医者の指示を忠実に守り、インドネシア語でpisah ranjangという寝床別れを行なった。しかしアリスのほうがそうはいかなかった。二三日はがまんできても、それ以上は続かない。夜な夜なルシアに対してアリスのおねだりがせきを切るものの、ルシアに拒まれ諭されてアリスの鬱屈はルシアへの怒りとなって膨らんで行った。そんなあげくのアリスの異常な行動が自分の死につながったらしいのだが、この先22日をルシアに拒まれ続けながら過ごすことと、何日も美味を味わわないまま焼死してしまったアリスのこの死に様と、幸不幸ほんとうのところはどうだったのだろうか?


「モール内駐車場で盗難事件」(2009年8月28日)
2009年1月10日付けコンパス紙への投書"Parkir di Mal Mangga Dua Rawan"から
拝啓、編集部殿。ジャカルタのモールマンガドゥアの駐車場はあぶないです。黄色い制服を着た駐車番が交通整理をしていますが、かれらはドライバーからのチップを期待しているだけで、何の責任も負っていません。
2008年12月12日16時ごろ、わたしはそのモールの地下駐車場に車を停めました。その後モールから出るため、車に戻って運転席のドアを開いたとき、右側窓ガラスが割られていて車上荒らしの被害を受けたことがわかりました。盗まれたものの損害金額は5千万ルピアほどです。そのとき駐車番がそのあたりにひとりもいなかったため、わたしはパニックになりました。警備員も見当たらないのです。他の来店客の助けを得てやっと警備員を見つけました。ところがその警備員が言うには、こんな事件ははじめてだそうで、また車内の物品の補償はできないとのことでした。
わたしはこのモールの保安について、強い疑問を感じます。窓を閉め忘れたり、ドアをロックしていなかったのなら責任はわたしの側にありますが、この事件ではわたしの車の窓ガラスが割られ、そしてわたしは品物を後部座席の下に置いていたのです。[ 北ジャカルタ市クラパガディン在住、ホニー・ウィジャヤ ]


「パンク強盗の被害を免れる」(2009年9月25日)
2009年1月25日付けコンパス紙への投書"Rinjau Paku Ditebar di Jalan"から
拝啓、編集部殿。2008年12月20日20時ごろ、わたしは姉を送るために家族と一緒にタングランからブカシのタンブンに車で向かいました。西ジャカルタ市ダアンモゴッ通りを通過中、吊り橋のあたりで突然左後輪タイヤの空気が抜けたために車を停めてタイヤを調べていると、ヤマハRXキングとカワサキニンジャに乗った4人の男が現れていきなりナイフをわたしの喉につきつけたのです。わたしが危険に陥ったのを見た妻と姉は車の中でヒステリックに叫び続けましたが、賊はそんなことにひるむ様子も見せず、叫ぶのをやめないとわたしの生命はないと威嚇したのです。 そのとき巡回中の交通警官のオートバイが目に入ったので、わたしは恐怖に震えながらも「助けてくれ!」と叫び声をあげました。するとその交通警官のオートバイはまっしぐらにわたしのほうに向かってきました。それを見た賊は即座にその場から逃げ出して激しい大通りの交通の流れの中に消えました。警官は賊を追跡するのが困難だったようですが、わたしのほうも何ひとつ奪われたものがなく、傷も負わされないで無事でした。西ジャカルタ市ダアンモゴッ通りを通行する市民のみなさんは常に警戒を怠らないように。わたしの車のタイヤの空気が抜けたのはきっと賊の一味が路上に釘をばらまいたためにちがいありません。[ ジャカルタ在住、アフマッ ]


「マレーシアからの麻薬流入が今年は4倍増」(2009年10月10日)
麻薬覚せい剤とアルコール飲料をメインとする非合法品の密輸入が増加している、と税関総局長が表明した。マレーシアから船積されたそれら非合法品は、ベラワン・バタム・トゥルッニブン・タンジュンティラムなどスマトラ東岸の諸港ならびにメダンのポロニア空港からインドネシア国内に入ってくる。「非公式情報だが、麻薬覚せい剤の国内流入は2008年のときよりも4倍増になっている」、と税関総局長は述べている。


「病室ほど稼ぎやすい場所はない」(2009年10月16日)
2009年2月23日付けコンパス紙への投書"Keamanan Pasien RS BMC Bogor"から
拝啓、編集部殿。2009年1月15日13時にわたしはボゴールメディカルセンター212号室に入院しました。その部屋はI−B級病室で個室になっています。わたしがこの病院に治療を依頼したのはこれまでそこが十分に優れた医療サービスを提供していたからで、わたしの子供もこの病院に三回入院しています。ところがわたしの信頼感は、1月15日から19日まで入院した間にわたしの私物が盗まれたことで崩壊してしまいました。
1月16日金曜日22時ごろに看護婦が点滴びんを取り換えたあと、15分ほどしてわたしは眠りに落ちました。翌朝4時半ごろにスブの礼拝のために目を覚ましたところ、眠る前に枕元に引き寄せておいた携帯電話2個がなくなっていたのです。警備員がいないのでわたしは交換手に電話し、それから看護婦に事件を届け出ました。警備員が来たので防犯カメラの画像を見せて欲しいと頼んだところ、病院に防犯カメラは設置されていないと警備員は言ったのです。[ ボゴール在住、サフリザル ]


「車上荒らしを取り逃がす」(2009年10月20日)
2009年2月23日付けコンパス紙への投書"Parkir di Mega Bekasi Hypermall"から
拝啓、編集部殿。2007年1月7日水曜日夕方、わたしはチカンペッ(Cikampek)自動車専用道ブカシバラッ(Bekasi Barat)料金所の向かいにあるメガブカシハイパーモールを訪れました。車は駐車場ビルのP1に停めました。30分ほど買物をして車に戻ってきたとき、15メートルほど手前でガラスが床に落ちて割れる音が聞こえたのです。車に走り寄ったわたしは、後部座席の窓ガラスに穴があいているのを見ました。妻は一瞬、バッグを持った男がわたしの車から20メートルほど離れたところに停めてある銀色のアバンザに乗り込み駐車の列から出て行くのを目にしました。その車は駐車場内の通路を通って出口へと向かい、わたしが立っているそばを通り過ぎようとしたので、わたしはその車を止めました。運転者は車から出てきて、泥棒の容疑を受けたことに怒り狂いました。しかしわたしは勇気を奮い起こしてアバンザの車内に入り、中を調べたところ、わたしのバッグがアバンザの後部座席に転がっていたのです。
証拠品と共に現行犯で捕まったことを知ったその男は電光石火の早業で運転席に入り、わたしを乗せたまま車を発進させました。車は出口に向かって猛然と突進します。運転席の後からわたしはその男に向かって、「車を止めて降参しろ。」と怒鳴りつけました。するとその男も売り言葉に買い言葉です。そしてあろうことか、ジグザグ運転を始めました。モールの玄関付近には大勢のひとがいます。車が罪のないひとをはねてはいけないと考えて、わたしは緊張を少し緩めるよう配慮しました。車は遮断機のないモール駐車場出口をつき抜けました。わたしが叫ぶと運転者はますますパニックに陥り、ついにはチカンペッ自動車道脇の砂の山に突入しました。ドアが開いたのでわたしは車外に出ました。するとアバンザはまた走り出し、自動車道脇の田舎道を突っ走ります。最後に袋小路に入ってから、運転者は車を置きざりにして逃亡しました。
メガブカシハイパーモールでは妻が助けを求めて叫び続けていましたが、駐車場のP1フロアには警備員がいませんでした。どうやら犯人は犯行前にどこで車上荒らしを働こうかと駐車場を調べたようです。そして警備のもっとも手薄な場所で犯行に及んだのでした。[ タングラン在住、ブディ・スティアワン ]
2009年2月28日付けコンパス紙に掲載された駐車場運営会社からの回答
拝啓、編集部殿。2009年2月23日付けコンパス紙に掲載されたブディ・スティアワンさんからの投書に関して、次の通りお知らせします。
事件発生当時、警備員は駐車場の別の側で警備に当たっていたため、事件発生を知りませんでした。しかし駐車場出口ゲートの職員は急いでやってきた車が遮断機のないゲートを突っ切って出て行ったのに出くわし、ふたりの職員が即座にその車を追跡しました。一方、当方職員は被害者に連絡を取ろうとしましたが、事件の届出がまだなされていなかったために被害者が判明しませんでした。
その後この事件の内容と経過について当方は調査を行い、警察の捜査に委ねました。今後当方は改善を行なって業務内容と現場の監視を向上させ、同じような事件の再発を防ぐ所存です。ご提案や苦情は当方ホットライン(021)7828172番へどうぞ。[ PTサンパーキングサービシズインターナショナルGA企業チーフ、アグス・ウィドド ]
2009年3月5日付けコンパス紙に掲載されたメガブカシハイパーモールからの回答
拝啓、編集部殿。ブディ・スティアワンさんからの2009年2月23日付けコンパス紙に掲載された投書に関連して、買い物中に不愉快なできごとが起こったことにお詫び申し上げます。被害者のブディ・スティアワンさんからの事件届出が警備担当に出されていなかったため、1月7日の事件発生以来、当方はブディさんのコンタクト先を探していたのです。当方は南ブカシ警察署とブカシ警察本部にブディさんのアイデンティティを求め、また2月14日にタングランの住所にクーリエで手紙を送りましたが、宛先人不明で戻ってきました。
当方はその事件で壊されたブディさんの車の窓ガラスの修繕を援助しようと考えております。もしその対応がブディさんのお気に召すなら、メガブカシハイパーモールマネージメント宛てにコンタクトください。電話番号(021)88962777内線131あるいは携帯電話08164806358(ディディ・スサント)宛てにどうぞ。[ PTメガブカシハイパーモール取締役、グナルソ・イスマイル ]


「病室で財布がなくなる」(2009年10月26日)
2009年8月18日付けコンパス紙への投書"Dompet Hilang di Rumah Sakit Omni Serpong"から
拝啓、編集部殿。2009年6月10日から12日まで、わたしはタングラン県スルポンのオムニインターナショナル病院に入院しました。病室はVIP室を選びましたので、部屋は個室です。しかし6月12日に退院が許されたとき、わたしが午前3時に病室のテーブルに置いた財布がなくなっているのに気付きました。そのときわたしは盗まれたと考えず、バッグに入っているにちがいないとポジティブに考えたのです。しかしバッグの中にわたしの財布は見つかりませんでした。そのあとわたしはオムニ病院の警備部門に紛失届を出しました。
退院したわたしは自宅でオムニインターナショナル病院の反応を待ちましたが、皆無でした。VIP病室が泥棒に破られるなんて想像もできません。それがその程度のものなら、他のクラスの病室は推して知るべしではありませんか。わたしはオムニインターナショナル病院の警備システムが改善されるよう希望します。バンテン州タングランのオムニインターナショナル病院に入院を考えているひとは、私物がなくならないよう厳重に警戒しなければなりません。病院経営者は患者の被害を弁償しようとしませんから。[ タングラン在住、バンバン E ]
2009年8月21日付けコンパス紙に掲載されたオムニ病院からの回答
拝啓、編集部殿。バンバンさんからの2009年8月18日付けコンパス紙に掲載された投書について、次の通りお伝えします。バンバン・エルフィアントノさんは2009年6月10日に入院され、後になって財布がなくなったことを届け出られたのは事実です。退院時にバンバンさんは財布がなくなったと届け出られましたが、「自分の荷物の中に紛れているのだろうからよく探してみる」とおっしゃってあまり問題になさいませんでした。
今回の出来事について病院経営者はご本人と直接コンタクトを取りました。バンバンさんの当方に対する信頼は回復された模様で、ご家族の医療サービスのために7月31日から8月2日にかけて当病院を利用されています。[ オムニインターナショナル病院マネージャー、スリ・ラハユ ]


「カルフルでカッター掏り」(2009年11月24日)
2009年3月30日付けコンパス紙への投書"Tas Pengunjung Carrefour Disilet"から
拝啓、編集部殿。わたしは家族連れで2009年2月21日(土)にジャカルタのメガモールプルイッ(プルイッビレッジ)のカルフルで買物しました。レジの行列に並んでいるとき、ひとりの婦人がわたしのバッグをかみそりで切り裂いて貴重品を掏ったのです。まだ店内にいると思われる犯人を捕まえてくれるのを期待して、わたしは急いでカルフルの警備員にこの事件を届出ましたが、たいへん残念なことに担当職員は事務的な質問をくどくどと尋ねるばかりで、時間が空費されるのにまかせている印象でした。すぐに逮捕に動こうという気配がまったくないのです。犯人の特徴をわたしが説明すると、警備員たちはいつもの人間だと言いました。スリ犯罪者がどの人間なのかが既に特定されているというのに、その者が店内で自由に犯行を行なうのを放置しているなんて、わたしは唖然とするばかりでした。買物客を保護し店内の安全を確保するという意図をかれらは持っていないのです。おまけに来店客であるわたしに対し、セキュリティチーフを自称する職員は「わたしの名前はM・・・・で、これがIDです。控えておいてください。届け出るならどこへでもどうぞ。わたしは恐れませんよ。」と挑戦的な言辞を弄する始末でした。その職員はおまけに、お客が警戒を怠るから掏られるのだ、とも言ったのです。
結局、防犯カメラが機能していないので24時間以内にあらためて連絡しますと言ったきり、口約束は守られませんでした。カルフル常連客としてわたしはとても大きい失望を味わいました。その店で買物する場合は、みなさん気をつけましょう。買物客に対する保安は保証されていないのですから。[ ジャカルタ在住、ジュリアナ ]
2009年4月15日付けコンパス紙に掲載されたカルフルからの回答
拝啓、編集部殿。ジュリアナさんからの2009年3月30日付けコンパス紙に掲載された投書について、次の通りお知らせします。カルフルメガモールプルイッ店はジュリアナさんにコンタクトして事情を説明申し上げるとともに、ジュリアナさんが体験された不快なできごとに謝罪いたしました。
その前にカルフルメガモールプルイッ店マネージメントは電話で説明を申し上げようとしましたが、電話がつながりませんでした。[ PTカルフルインドネシア広報マネージャー、レタ・ドトゥロン ]


「絶対安全な場所はどこにある?」(2009年11月26日)
2009年3月18日付けコンパス紙への投書"Sunter Garden Tidak Aman"から
拝啓、編集部殿。わたしは北ジャカルタ市スンテルアグンのスンテルガーデン住宅地に住んでいますが、この家にはもう二度も侵入盗未遂が起こっているのです。最初の事件はわが家が全員で出かけて16時ごろ帰宅したとき、表門の扉に取り付けてあった錠前が鉄鋸で壊されていたために扉を開くことができませんでした。この事件をわたしは字第108の保安担当に報告しました。二回目は2009年2月20日午前6時ごろのできごとで、また表門の鍵を破壊しようとする行為がなされました。このときはスライド錠が壊されました。この事件もわたしは字第108の警備担当に報告しました。
すると警備担当は、わたしの家の前の路上にスズキエスクードがいつも駐車しているために見通しが悪くなっていると説明し、パトロールを強化するとともにそのスズキエスクードの所有者に車をほかへ移動させるよう求めてくれると約束しました。ところが翌日その車の所有者がわたしの家に怒鳴り込んできたのです。ゴロツキのような粗野な言葉でわたしに喧嘩を吹っかけてきました。「字長はわしに絶対服従してる。わしがここに車を置いておくのに、テメーは何が言いてえんだ?」 いまでもその車はわたしの家の前に一日中置かれています。安全で快適な暮らしを求めてスンテルガーデンに居をかまえましたが、実態は正反対でした。安全が欠如しているだけでなく、ゴロツキまがいの他の住民が保護されているのですから。[ ジャカルタ在住、スハルジャ ]


「モール駐車場で車上荒らし」(2009年11月27日)
2009年3月18日付けコンパス紙への投書"Parkir di Mall Emporium Pluit"から
拝啓、編集部殿。2009年2月16日12時ごろ、わたしは昼食とカルフルでの買物をするために北ジャカルタ市のモールエンポリウムプルイッへホンダシビックを運転して行きました。車は地階の駐車場に止めました。場所はカルフルに向かう地階入り口から5メートルほどのところで、そのあたりには警備員もいました。13時10分ごろ車に戻ったわたしは、後部ガラスが割られて東芝ラップトップがなくなっていたのに驚きました。わたしはすぐにこの被害をモールエンポリウムプルイッの警備員とジャカルタパーキングの責任者に届け出ました。
ところがかれらはこの事件に対してまったく責任ある姿勢を見せず、わたしに警察へ届け出るように言うばかりです。おまけにジャカルタパーキング責任者はこう言いました。「やってくる客の車を見張るのは当方の権限ではない」と。消費者保護のかけらもない態度には愕然とさせられました。消費者は駐車料金を払わせられるにもかかわらず、何の保護も与えられないのですから。[ ジャカルタ在住、エディ・スサント ]
2009年4月20日付けコンパス紙に掲載されたエンポリウムプルイッモールからの回答
拝啓、編集部殿。エディ・スサントさんの2009年3月18日付けコンパス紙に掲載された投書に関して、2009年3月21日に当方はエディさんにお目にかかり、弊社マネージメントはエディさんが蒙った損害にふさわしい金額で補償金をさしあげ、エディさんはそれを受取りました。こうして両者の間の問題は解決しました。[ エンポリウムプルイッモールGM、ブルナルト・ウィトノ ]


「バタムのヘルメット泥棒」(2009年12月31日)
2009年4月28日付けコンパス紙への投書"Pencurian Helm di Pelabuhan Batam"から
拝啓、編集部殿。バタムでオートバイを運転しているわたしはもう三回もヘルメットを盗まれました。わたしの友人たちもみんな同じです。ヘルメット盗難は特にヘルメット預かり所のない駐車場で多発しています。
2009年4月11日にバタム島バトゥアンパル港ハーバーベイ国際港駐車場でのヘルメット盗難がわたしの最新の被害でした。そこは駐車料金が時間制になっているところですがヘルメット預かり所はありません。ヘルメットのひもをサドルでロックする以外にヘルメットが無くなるのを防ぐ手段はありません。高い駐車料金を徴収しておきながら、ヘルメットの盗難防止はなにひとつ行なわれていないというありさまはきわめて遺憾です。ヘルメット泥棒はヘルメットのひもを切って楽々と盗みを行なったにちがいありません。駐車場運営者も港湾管理者も、利用者のヘルメット盗難被害に対する補償は皆無です。
駐車場運営者も港湾管理者も、ヘルメットの盗難防止対策を何も講じてくれないのなら、外国に渡るときでさえヘルメットを持参しなければならないではありませんか。それともインドネシア入国門戸のまん前で盗みが毎日繰り広げられているのを放置しておこうとでも言うのですか?2010年ビジットバタムイヤーはもう目前に迫っているというのに。
バタムのイメージを悪化させないために、駐車場運営者・港湾管理者あるいは警察はこの問題に対する解決措置を取ってください。[ バタム在住、スカルトノ ]