インドネシア事件簿2010〜12年


「手紙の配達人に警戒を」(2010年1月11日)
西ジャカルタ市Sパルマン通りにあるインドネシア銀行官舎地区内の一軒の家に、オートバイに乗った手紙配達人がやってきた。その家の主人夫婦は共稼ぎで日中は家におらず、女中が家の留守番をしている。配達人がブザーを鳴らしたので、女中は施錠してある表門まで出てきた。配達人が「渡す荷物があるので表門を開いてくれ」と言うのを疑いもせず、女中は表門を開く。するとどうしたことか、配達人は荷物を渡すどころか表門の中にオートバイを入れた。よく見るとオートバイのどこにも荷物らしい包装物は見当たらない。
「???・・・」と思いがけない配達人の行動に呆然とする女中に向かってその配達人は刃物を突きつけた。表門を閉じさせてからふたりは邸内に入る。そして賊は持ってきた靴紐で女中の手足をしばり、口をガムテープで塞いだ上、女中を浴室に閉じ込めた。クーリエ配達人になりすましたその賊は主人夫婦の寝室を引っ掻き回して金目のものを手に入れると、オートバイに乗ってその家から逃走した。


「懲りないひとびと」(2010年1月14日)
「サラマライクム」という訪問の声とともに2009年12月1日夕方、タングラン県ジンジン村のプソナウィバワプラジャ住宅地にあるティティン・マリヤニの家をひとりの少年が訪れた。
家事で取り込んでいたティティンはやってきたのが少年と見て、「ああ、ちょっと客間で待っててくれる?いま手が放せないから。」と家の中に招じ入れて自分の仕事を続けた。
客間に入った少年はしばらく座って待っていたが、客間のテレビの上にオートバイのキーが無造作に置かれているのを見逃さなかった。その家の奥さんは自分の仕事に手一杯で、客間に待たせている少年を警戒している雰囲気がない。少年はつと立ち上がるとテレビの上のキーを手に取り、そのまま家の表に出た。そして表に止めてあったティティンのオートバイ、ヤマハミオスポーティのエンジンをかけるとそれに乗って出て行こうとした。ところがティティンの子供がそれを見て叫んだ。「マリンだ。だれか助けて!」
住宅地の路上には大勢の近隣住民がいた。かれらはその叫び声に即座に反応したのだ。オートバイの進路は数人の人間の身体で遮断され、オートバイを止めた少年の身体を数人の手がつかんだ。そしてあわやリンチというときに警官が現場に駆けつけてきた。この少年K16歳は詐欺と盗みの前科があり、タングラン少年更生院に入っていた経歴を持つ。ふたたび盗みで捕まったこの少年の前途はまたまたタングラン少年更生院に舞い戻るだけ。


「病院も犯罪抑止に協力せよ」(2010年2月26日)
2009年5月27日付けコンパス紙への投書"Keamanan di RS Satya Negara"から
拝啓、編集部殿。2009年5月1日、わたしはデング熱にかかった甥をジャカルタのスンテルにあるサティヤヌガラ病院に連れて行きました。入院したのは一等室205号です。2日間治療を受けている間に甥はチャージしていた携帯電話を失くしました。205号室はたまたま甥だけが使っており、他の入院患者はいなかったのです。
甥はチャージしていた携帯電話をそのままにしてトイレに行き、戻ってきたら電話器がなくなっていたという、実に驚くべき早業の犯罪でした。その事件が起こったあと、わたしは甥を見舞いに行ってその事件を知り、病院の警備員に事件を届け出ましたが、警備員は病院側が出している掲示板をのんびりと指差してわたしの届出に応対しました。その掲示板には要するに「私物の紛失は病院の責任でない」ということが記されていたのです。患者の私物の警備が病院側の務めでないのは明らかですが、患者の健康とともに患者の身辺の保安も病院側が配慮するべきことがらではありませんか?
病院側を悪者にしてはいけませんが、身辺保安に不安を感じる患者はその病院を利用しようとしないでしょうから、病院側もそう簡単にギブアップしてはなりません。あのような掲示は病院内で発生する犯罪に病院は関知しないという印象を与えるもので、犯罪者は自由な気持ちで盗みにいそしむことができます。サティヤヌガラ病院はどうして各病棟通路に防犯カメラを設置しないのですか?[ ジャカルタ在住、サハッ ]


「病院にいるのはバイキンやウイルスだけでない」(2010年2月27日)
2009年5月4日付けコンパス紙への投書"Keamanan di RS Budi Lestari"から
拝啓、編集部殿。2009年4月13日23時半、わたしの母がブカシのカリマランにあるブディレスタリ病院に入院しました。部屋は特等3号室です。その夜わたしは付添いの役を引受け、午前2時半ごろドアを施錠して就寝しました。部屋のドアが開かれたのは午前6時で、看護婦が患者の身体を洗いにきたのです。わたしが目を覚ましたのは午前7時で、机の上に置いてあった携帯電話がなくなっているのにすぐ気付きました。
母の話によれば、身体を洗った看護婦以外に、一時間のうちにふたりの職員がそれぞれ食事と薬を運んできて病室内に入ったが、そのふたりは30秒くらいしか室内にいなかったそうです。特等室に入っていなければ私物の紛失はなにも珍しいことではありませんが、より高い快適さと保安を得るために高い料金を支払っている特等室でその事件が起こったのです。こんなことが、しかも入院最初の夜に起こるなんて、まるで特等室の意味をなしません。
ブディレスタリ病院からのこの事件への対応はいまだにありません。物質的損害はたいしたものでありませんが、データやビジネス相手の電話番号、重要ファイルなど非物質的損害は計り知れません。[ ブカシ在住、ラカイ・ピカタン ]


「またニャイロロキドゥルの人身御供か」(2010年3月4日)
2010年2月14日、西ジャワ州クニガン(Kuningan)のマドラサツァナウィヤ・アルロシャッの生徒120人が中部ジャワ〜ジョクジャへの学習旅行を行なった。マドラサツァナウィヤはイスラム学校の中学レベルにあたる。
バスを連ねてチャンディボロブドゥルやジョクジャの博物館などを訪れたあと、一行は15時過ぎにジョクジャ南方のバントゥル県パラントリティス(Parangtritis)海岸を訪れた。バスがパラントリティス海岸のパルン地区に着くと生徒たちは待ち兼ねていたかのようにバスから降りて海に入った。ところが悲劇がすぐにかれらを襲ったのである。
20人の生徒が強い波にさらわれ、助けを求めた。そのうち13人は救出されたが、7人は行方がわからなくなってしまった。地元では捜索隊60人を繰り出してその7人を探している。救助された13人のうちふたりは海水を多量に飲んでおり近くのクリニックで治療を受けている。パラントリティスSARコーディネータはこの事件に関して、パルン地区の海岸は危険であるため海水浴禁止の表示が出されてあるのにこの始末だ、と、無念さを吐露している。根強い口承文化のために文字を読んでその内容を自分の行動に反映させるという習慣がいまだに育っておらず、対人依存的価値観のゆえにひとに言われてはじめてそれに従うという日常生活のありかたがこの悲劇を生んだのではないだろうか。


「プンチャッで暴行事件」(2010年3月25日)
2009年6月13日付けコンパス紙への投書"Ulah Pengendara Moge, Istri dan Anak Menangis Histeris"
拝啓、編集部殿。2009年5月24日日曜日16時ごろ、ボゴールのチサルア地区プンチャッ(Puncak)街道で起こった暴行事件はわたしの一家に深いトラウマを与えたのです。妊娠5ヶ月の妻はヒステリックに泣き叫び、4歳・7歳・14歳の子供たちも恐怖におびえて泣きました。
この事件はわたしの車の後ろについた大型バイク集団のひとりが追い越しざまにいきなりわたしの車のボンネットを力任せに叩いたことに始まります。そのときわたしはプンチャッ街道をチサルアに向けて下っており、大型バイクの集団もわたしの車の後ろについて走っていました。道路は全面一方通行に切り換えられたので車で詰まっており、そのバイク集団に道を譲れるような状態ではありません。
たいへん苦労して左側に寄り、そのバイク集団が通れるだけの幅を開けてやったところ、追い越していく集団のひとりがわたしの車のボンネットをいきなり強く叩きました。わたしは反射的にクラクションを鳴らしました。それをかれらは挑戦と受取ったにちがいありません。即座にかれらは車の前と後ろにバイクを停めてわたしの車の動きを封じ、そうしてかれらの暴力行為が始まったのです。かれらは車を取り巻いて車体を叩き、罵り、唾を吐きかけ、わたしが車から出られないようにドアを外からおさえた上でわたしの顔にパンチを送り込んできました。運転席に閉じ込められて身動きできないわたしには抵抗のしようもありません。
路上がその暴力行為の舞台に変わって交通の流れが止まったからでしょうか、交通整理の警官が暴行現場に近付いてくるのを見たかれらは一斉にそこから逃走しました。わたしはチサルア警察署にこの事件を届け出て警察の親切な対応を受けることができました。医師の診断書まで作ってもらえた警察の行き届いた対応にわたしは謝意を表明します。わたしの一家の心に深い傷痕を残し、プンチャッ街道の交通に大きな障害をもたらしたあのような暴行事件が繰り返されないことをわたしは祈ります。[ ジャカルタ在住、エドウィン・スディビヨ ]


「ジャゴラウィ自動車道で強盗」(2010年3月29日)
2010年3月16日夕方、ジャゴラウィ自動車専用道をボゴール方面に向かって一台の赤色キジャンが急ぐふうもなく走っていた。すると後ろから走ってきた銀色アバンザが追い越しざまに赤色キジャンに接触し、アバンザはキジャンの前方で停車した。キジャンを運転していたインドラ36歳もアバンザの後で車を停める。アバンザから降りてきたふたりの男がキジャンに近付いてきた。インドラは運転席の窓を開ける。男のひとりがまっすぐインドラのそばまで近寄ってきたかと思うと、いきなり手にした布でインドラの鼻と口をふさいだ。インドラは顔を振って逃れようとしたが、男の手はそれを許さない。間もなくインドラはぐったりした。布には麻酔薬が染み込ませてあったのだ。
キジャンの助手席に座っていたソレ40歳は突然の事態に驚いた。もうひとりの男は助手席の扉を開き、隠し持っていたナタをふるってソレを襲う。ソレはスカブミ在住でタバコ会社のデポッ(Depok)・ボゴール地区販売代理店を経営しており、その日は朝から担当地区を回って売上の回収を行なっていた。夕方になったのでスカブミに帰ろうとジャゴラウィ自動車道スントゥルウタラ料金所から自動車道に入って少し走ったあとの出来事だった。襲撃が行なわれた場所はジャゴラウィ自動車道KM33地点でスントゥルレストエリアの少し手前。
男たちはソレの足元に置かれたバッグを狙っていた。そのバッグにはその日回収した1億5千万ルピアの現金が入っている。ひとりはソレに斬りかかり、もうひとりはバッグを奪うことに努めていた。ソレは頭に傷を負ったが男の手からナタを奪い取った。しかしそのときにはもうバッグがもうひとりの男の手に握られている。ソレは奪ったナタで男たちに逆襲しようとしたが、ふたりはアバンザに駆け込んで逃走した。ソレは一太刀も振るう機会のないまま、現場に取り残された。警察は一味を追跡中。


「拳銃強盗未遂事件」(2010年4月14日)
2010年4月8日13時ごろ、BCA銀行チュルッ店から会社の金5千万ルピアを引き出してきたアブドゥラ38歳はひとりオートバイで会社への帰途にあった。東ジャカルタ市カリマランのジャティワリギンジャンクションにある会社までもう少しというところまできたとき、アブドゥラのオートバイを2台のオートバイに乗った4人の男たちが取り囲んで進行を妨害した。
陸軍住宅地内のインファントリ通りで突然襲われたアブドゥラはオートバイを停めて車から降りた。2台のオートバイも停まり、後ろに乗っていた男たちが降りてアブドゥラに歩み寄ってくる。アブドゥラはオートバイを置き去りにして走った。男のひとりが拳銃を出してまず一発空に向けて撃ち、続いて情け容赦なくアブドゥルを撃った。弾丸はアブドゥラの右腿に命中するが、痛みをこらえてアブドゥラは走る。銀行からおろしてきた5千万ルピアはジャケットの内側だ。
大声で助けを求めながらアブドゥラは一軒の家の鉄製フェンスを押し開けてその家の中に走りこんだ。その家の近所でメトロミニの修理をしていたイリヤント45歳は、ひとりの男に追いかけられて助けを呼びながら別の男がひとり近所の家に押し入ったのを目撃していた。かれはすぐにその家に向かった。イリヤントはその家の表までやってきた男に声をかける。するとその男は「関係ねえことに顔を突っ込むんじゃねえ。あっちへ行ってろ!」と言いながらイリヤントの脚を拳銃で撃った。
しかしその騒ぎで現場周辺には近隣住民が多数集まってきたため、拳銃の男はきびすを返して現場を去った。銃弾の被害者がふたり出たものの、強盗事件は未遂に終わった。


「オートバイが飛行機にはねられて即死」(2010年4月27日)
タングラン県チュルッグ(Curug)にあるブディアルト飛行場でオートバイと飛行機が衝突した。インドネシア航空高等学校は学生の飛行訓練にブディアルト飛行場を使っており、2010年4月19日午前中に飛行訓練を終えて戻ってきた練習機トバゴ10が着陸しかかったとき滑走路を横切っていたオートバイと衝突した。オートバイに乗っていた18歳と24歳の青年ふたりは即死し、航空学生と教官は重態。
この滑走路は普段から近隣住民が無断で通行し、また時には草オートバイレースにも使われていた。飛行場管理者はそんな状況に十分な対応を取らないまま現在に至っているとのことだが、わがままな民族性がその根底に横たわっているようだ。


「金のない男は人間のクズ」(2010年4月28・29日)
2010年4月6日23時ごろ、タングラン市カラワチのムルデカラヤ通りにあるホテルムルデカウタマに若い男女のカップルがオートバイでやってきた。チェックインは女の方が行い、自分で料金を払った。求められるまでもなく、自分でKTP(住民証明書)を出して受付に渡す。受付は143号室の鍵をその客に渡した。男女のカップルは部屋に向かった。
午前2時半ごろ、そのカップルの男の方が受付にやってきて、近くのガソリンスタンドがどこにあるのか尋ね、そしてオートバイで出て行った。その男がホテルに戻ってきたのは7日昼ごろで、受付にも寄らずそのまま143号室に向かった。前夜から受付の夜勤に就いていたスルヤディはそこまで自分の目で見ているが、昼から休憩をとったのでそれ以降その男がどんな行動をとったのか知らない。
18時に受付に戻ったスルヤディは143号室のカップルがまだチェックアウトしていないことを知り、18時半のチェックアウト時間に宿泊延長を確認するため143号室に向かった。しかしドアを何度ノックしても反応がなく、中にひとがいる気配がない。スルヤディはロックされているドアを押し開いた。
部屋の中は乱れ切っていた。そして浴室に目が行ったとき、開いたままの浴室のドアの向こうに女が全裸で横たわっているのを見て愕然とした。女は体のあちこちを鈍器で殴打されており、既に息絶えている。スルヤディは143号室のドアを閉じるとフロントに走り、電話器に飛びついた。
ほどなくタングラン市警本部から捜査員が大勢やってきて現場検証がはじまった。女の遺体は検死のためタングラン地方総合病院へ送られた。被害者の身元はホテル側が預かっていたKTPからすぐに判明した。名前はリナ、年齢26歳、住所は北ジャカルタ市プンジャリガン郡プルイッ町。警察はその住所に連絡を取った。
リナはジャカルタのある大学で第6スメスターの学生だ。6ヶ月前からウィルヤと恋人関係になった。2010年4月6日夜、ふたりはデートしたあと深夜にタングラン市カラワチにあるホテルムルデカウタマにチェックインした。ウィルヤは金を持っていない。リナがホテル代を払った。チェックインを済ませたリナはウィルヤと143号室に入り、ベッドの上にもつれこんだ。 情事が終わってリナは浴室に入る。ウィルヤはリナに金をせびった。浴室の中からリナのふてくされた声が返ってきた。
「なによ、男のくせに女のわたしに金をせびってばっかしで。男が女に金をくれるのが当たり前じゃないの。あんたはセックスしか能がない男なの?」
女にバカにされたウィルヤの怒りが燃え上がる。リナを浴室から引きずり出すと、逃げようとするリナに向かって手当たりしだいの物を手にして殴りつけた。そして倒れたリナの首を両手で絞める。アムックの嵐が過ぎ去ったとき、床にはリナの全裸の死体が横たわっていた。
リナの財布をポケットに入れるとウィルヤは部屋を出てドアに鍵をかけた。オートバイにガソリンを入れておこうと考えて受付でガソリンスタンドの場所を尋ねる。時間は午前2時半だ。ウィルヤはガソリンを入れてから友人のコスに転がり込んだ。一眠りしたあと、リナの身元がわからないようにしておこうと考えて昼ごろホテルに戻った。部屋の中にあったリナの持ち物・衣服・携帯電話さらにベッドのシーツなど証拠になりそうなものをバッグに詰め込んで部屋から持ち出し、ドアに施錠してこっそりホテルから抜け出した。バッグの中味は近くのゴミ捨て場にぶちまけた。
4月9日、タングラン市警捜査員はウィルヤを南ジャカルタ市プサングラハンで逮捕した。ウィルヤがゴミ捨て場に捨てた証拠品は既に警察が回収しており、それよりもっと愚かなことは、チェックインのときにリナのKTPをホテル側が預かっていたためリナの身元を示すものを湮滅しようとしたウィルヤの行動もまったく意味をなさなかったことだ。


「無抵抗にしてから殺すリンチ殺人」(2010年5月3日)
2010年4月10日土曜日夜、バンテン州セラン県ジャウィラン郡パギントゥガン部落の男たち9人がセラン県パマラヤン郡ススパン部落に乗り込んできて住民のS(男性35歳)を探した。殺気立った男たちは19時半ごろ友人女性の家にいたSを探し出すとその家から連れ出し、近くの空地に向かった。
Sはその空地で手足をひもでしばられてから蹴倒されたため地面に転がった。そうしてから9人の男たちは手に手にその周辺に落ちていた棒切れを手にすると横たわっているSに殴りかかって行った。無防備のSは全身をその襲撃にさらしたわけだが、リンチ者がSを殺す意図を持っていたことは打撃が首から上に集中した事実が明白に物語っている。そして目論見どおり、Sはその場で死んだ。
ススパン部落からの通報でセラン警察署から犯罪捜査ユニットの捜査班が現場に急行し、一時間後には9人のうち8人を逮捕した。パギントゥガン部落住民のその8人は35歳ひとり、30歳ふたり、29歳ひとり、27歳ひとり、26歳ふたり、20歳ひとりという顔ぶれで、もうひとり35歳の男は警察がまだ追跡している。捕まった8人の男たちは警察の取り調べに対し、その9人の中のひとりの弟嫁がSにレープされたので仕返しをした、と口をそろえている。そのレープ事件というのは4月7日に起こったもので、被害者の話によればこうなっている。
Sはしばらく前にその弟嫁に働き口を世話してやると働きかけ、ある会社で求人があるので4月7日にその会社に連れて行って就職の面倒を見てやると約束していた。当日Sはオートバイで被害者を迎えに行って家から連れ出したが、そのような会社へは一向にむかおうとせず近隣集落をあちらこちらと走り回った。何を思ったか、別の部落で行なわれている祝い事のオルガントゥンガルを途中で見物したりした。そうしてまたあちこち走り回ったあげく、人気のない寂しい場所の物陰で被害者をレープしたという話だ。
被害者は翌日夕方になって警察に被害を届け出た。警察はレープ事件の定例になっている病院での診断書作成を被害者に求め、18時半から20時まで被害者は病院で診察を受けたが気分がすぐれないと言って途中で切り上げて帰宅した。被害者はそのとき病院側に続きは明日にしてほしいと依頼したそうだが、翌日病院側は一日中待ったものの被害者は病院にやってこなかった。被害者が訴え出たSを取り調べようと警察は計画したが、その矢先に一足早くリンチ事件が発生してSは永遠に口を閉じてしまった。これでレープ事件の真相はひとりの女の胸の中に深く沈められることになった。


「朝の出勤は火の用心をしてから」(2010年5月6日)
ジャカルタの火事発生は午前中が多いことを都庁消防防災避難局が明らかにした。2010年1月の火災発生件数47件を時間帯別に見ると次のようになる。
朝 18件 38.3%
夜 16件 34.0%
昼 8件 17.0%
未明 5件 10.6%
合計 47件 100%
火事の被害は死者1名、怪我人7名、そして35世帯437人が住むところを失い、金額は113.2億ルピアと見積もられている。都庁消防局は都民に対し、朝出勤時には電気製品が火災の原因にならない状態にあることを確認してから家を出るよう呼びかけている。


「投石して損害を与えてから襲う自動車道の強盗」(2010年5月14日)
2010年3月1日付けコンパス紙への投書"Pelemparan Batu di Jalan Tol Belmera"から
拝啓、編集部殿。2010年2月14日21時40分ごろ、2歳未満の幼児を連れたわたしの一家はメダンからルブッパカムの自宅に帰る途上でした。わたしは北スマトラ州のベラワン〜メダン〜タンジュンモラワ通称ベルメラ自動車専用道にバンダルスラマッ料金所から車を乗り入れました。そしておよそ15分ほど走ったKM20地点で投石の被害を受けたのです。その一帯は街灯のない真っ暗な地区です。
フロントガラスは粉々になりましたが乗っていた者に被害はなく、わたしは車を止めずに走り続けました。その投石は、最近しばしば発生している路上強盗の手口なのです。
タンジュンモラワ料金所に着いたわたしはすぐ自動車道管理会社職員に事件を届出ました。するとわたしたちの前にも投石の被害者がいたことがわかりました。しかしわたしの届出に対して管理会社職員は何の対応も取ろうとしません。道路管理会社はその被害の損害賠償をしないと主張しただけです。
わたしはその職員に対して届出の最初から、損害賠償を要求しているのでない、と断っていたのですが、その職員は頭からそんな態度で応対しました。わたしは道路管理会社に対して、ベルメラ自動車道でこのような事件が起こらないよう保安警備を向上させることを要求したかっただけなのです。街灯の設置やパトロール強化など、まだまだできることはたくさんあると思います。[ 北スマトラ州ルブッパカム在住、ヘンドラ・プラマナ ]


「お宅の卓上コンロも小分けボンベ?」(2010年5月20日)
ブカシ県パブラン郡の住宅地内にある二階建て作業場が2010年5月8日朝、爆発炎上した。爆発は数回にわたって継続し、周辺家屋の塀に激しい衝撃の爪あとを残している。現場からおよそ400メートル離れた民間会社のプロパンガスバルク輸送充填基地にいた警備員も、爆発炎上の続く中で50kg入り産業用プロパンガスボンベが空中に舞う光景を目撃している。
その作業場で行なわれていたのは50kg入り産業用ガスボンベに入ったプロパンガスを卓上コンロ用やガスライター用の小型ボンベに移し替える作業だったらしく、2時間続いた消火作業終了後の現場検証では作業場内に数十本の50kg入りボンベが焦げたり破裂した無残な姿をさらしていた。卓上コンロ用やガスライター用の小型ボンベも焼けただれたものが数百本発見されている。
警察は爆発原因を調べるかたわら、その作業場が正式認可を得ていたものかどうかも調査中で、後日警察が明らかにした爆発原因は、どうやらプロパンガス移し替え作業現場でタバコを吸った者がいたことのようだ。安全管理に弱い国民性が露呈されたかっこうだ。


「二輪車がセンターライン周辺を走る習慣の帰結?!」(2010年5月22日)
2010年2月10日付けコンパス紙への投書"Ambulans TNI dan Ustaz Bersepeda Motor"から
拝啓、編集部殿。2010年1月17日(日)15時半ごろ、ボゴール県チサルアのプンチャッ街道を弟のウスタズはボゴール方面からチパナスに向けてオートバイで走っていました。路上はたいへんな交通渋滞で、長い車列がノロノロ運転しています。
ところがそんな状況などおかまいなしにチアンジュル第300特別攻撃隊基地の救急車がサイレンを鳴らしながらボゴール方面に向けて突っ走ってきました。車列が詰まっているため弟はその救急車をよけることができず、真正面からぶつけられたのです。弟はオートバイから放り出され、タマンサファリ交差点に近い大きなケチャップ瓶の看板周辺の側溝に落ちそうになりました。その事故を目撃したひとは大勢います。
救急車運転手は卑怯にも、側溝の脇で痛みをこらえて横たわっている弟をそのままにして現場から逃走しようとしました。弟は力をふりしぼって起き上がり、その救急車を追いかけました。道路が混雑していたおかげで弟はその救急車に追いつき、行く手を阻みました。
追い込まれた救急車運転手は車から降り、もうひとりの不良軍人といっしょに弟に目をむいたのです。礼節をわきまえた宗教教育者である弟はおだやかな態度で相手に責任を取るよう求めました。ところが軍人たちは事故の被害者に罵詈雑言を浴びせかけ、邪魔するならお前を殴り倒すと言ったのです。弟は諦めて口を閉じ、痛みをこらえて目的地に向かいました。[ ボゴール在住、モハンマッ・ラウディ ]
2010年2月18日付けコンパス紙に掲載されたシリワギ師団広報責任者からの回答
拝啓、編集部殿。モハンマッ・ラウディさんからの2010年2月10日付けコンパス紙に掲載された投書に関して、シリワギ(Siliwangi)師団陸軍第3行政管理司令部歩兵第300大隊特別攻撃部隊救急車が急病人をボゴールのサラッ(Salak)病院に緊急搬送しているときにその事故に遭遇したのは事実です。ココ上等兵の妻が流産による出血状態にありました。
その救急車はサイレン回転灯を付けて走行するという正しい手続を踏んで走っていました。先行車や対向車線の車が救急車に道を譲り、急病人の緊急搬送が安全かつ迅速に行なわれるように協力を求めるのがその手続の趣旨です。その日は日曜日の夕方で、プンチャッ街道のチサルア一帯は交通がたいへん混雑していました。事故被害者がモハンマッ・ラウディさんを通して物語らせたような、救急車を突っ走らせるような荒っぽい運転ができる状態ではありません。接触事故はお互いに望まないところではありますが、それが発生したのは事実であり、また救急車は急病人を早急に病院に送り届ける必要があったためにあのような事態に至ったことはお詫び申し上げます。
当方は事故被害者およびそのご家族に対し、家族的な解決をはかる所存です。当方は救急車を運転していた軍人に対して規定に即した処置を取りました。今回の事故は、公道で自動車を運転しているすべてのひとに対して、安全のために常に注意を怠ってはならないという教訓を与えるものであります。[ シリワギ師団陸軍第3行政管理司令部広報部長、イサ・ハルヤント歩兵中佐 ]


「トランスジャカルタバスの炎上回避を」(2010年5月27日)
2010年3月13日付けコンパス紙への投書"Waspada Duduk di Kursi Belakang Transjakarta"から
拝啓、編集部殿。トランスジャカルタバスの最後尾の座席に座り、道路が渋滞していて座席の背もたれが熱くなってきたら、避難の準備を始めましょう。それはエンジンのオーバーヒートが始まったしるしであり、火災が起こるかもしれませんので。
トランスジャカルタバスはもう何回も炎上しています。もちろん人命の被害はまだありませんが、われわれは死人が出てはじめて動き出すものなのでしょうか?トランスジャカルタバスのエンジンオーバーヒート問題については、気温摂氏32〜35度のジャカルタで走るガス燃料自動車に対する対策がまだ何もなされていません。日本・中国・韓国あるいは北米の都市は気温がもっと低いのです。
熱帯の国では、ガス燃料を使うエンジンの冷却システムは冷却ファンを追加したりラジエータの層を増やすなどして改良されなければなりません。おまけに交通渋滞が頻繁であれば、改良の緊急度は増します。われわれみんなが知っているように、ジャカルタは一日平均18時間も交通渋滞の起こる都市なのです。
トランスジャカルタ運行監督者は、停留所を建て、道路を盛り上げ、車線開閉システムを実施するだけではダメなのです。バス内にいる乗客の安全も考えなさい。[ ブカシ在住、スギアント ]


「盗油」(2010年5月28日)
北スマトラ州ベラワン港でタンカーから積下ろされた石油が17.8キロのパイプラインを通って貯油タンクに納められるまでの間、頻繁に盗難が発生している。その17.8キロは海中〜湿地帯〜住民居住地区などを通過しており、盗難のリスクは十分高い。2008年には101回、2009年は77回盗難が発生し、2010年は5月までに24回起こっている。
盗難の手口はパイプに穴をあけてわざと油漏れを起こさせるもので、プルタミナ側は商品である石油を盗まれるばかりか、パイプの修理も行わなければならず、更に火災のリスクまで背負い込むことになるため、犯人を早急に捕らえたいところ。事件発生の頻度からこれはシンジケート組織の犯行ではないかと見られており、数え切れないほど前例のある社内の人間がからんだ犯行の可能性も推測されている。
対策としてプルタミナは防犯カメラを設置してパイプラインの監視を行なうこと、またパイプラックを用いる別のパイプラインを設けて現在のラインを移動させることなどを計画しているが、パイプラインの移動は大がかりなものになるため実現はかなり先になりそう。


「麻酔強盗犯逮捕!」(2010年6月10日)
東ジャワのラモガン(Lamongan)から上京してきた東ジャカルタ市プドンケランに住むムハマッ・ジュリ42歳はいつも西ジャカルタのカリドラス(Kalideres)バスターミナルで仲間のコプラルと一緒にたむろしている。ジュリのバッグにはいつも缶コーヒー二三本が入っており、その中に秘密が隠されている。
CTMと呼ばれている錠剤をジュリは仕入れてくる。そしてそれを粉末状に崩すと買ってきた缶コーヒーの上部に穴をあけてその中に落とし込む。CTMは20粒くらい一回に使う。あけた穴はハンダと強力接着剤でたくみにフタをし、缶をよく振ってCTMを溶かしておく。ただし一本はクスリを入れない。準備万端整えた上でジュリとコプラルは獲物が来るのをバスターミナルで待つのだ。
ねらい目は地方からジャカルタへ来た上京者で、荷物を抱えて州間長距離バスにひとりで乗る男。かれらはたいてい帰郷のために金目の土産を持っている。女はいけない。見知らぬ人間が近寄ると怖がって逃げていく。カリドラスターミナルに来た、いかにも帰郷しますという連れのない男にジュリは近寄って話しかける。どこへ帰郷するのか尋ね、スンダ地方だとわかると突然スンダ語に切り換える。相手は同郷者だと思って警戒心を緩めるという寸法だ。もちろん中部東部ジャワならジャワ語はお手のもの。そうしてどのバスに乗ったらいいかを教えてやり、自分もそのバスに乗って隣の座席に座る。バスが動き出してしばらくしたら、秘蔵の缶コーヒーを相手に奨める。「マス、コーヒーでもどうだい。スーパーマーケットで買ってきたばかりのフレッシュコーヒーだよ。」そしてクスリを入れていない一本をジュリが自身で飲む。獲物はたいていそのコーヒーを遠慮しないで飲む。それで仕掛けは完了だ。ほんの数分後に獲物はぐったりと眠り込む。近くに座っていたコプラルがふたりの座席を覆うようにし、ジュリは獲物の荷物から金目のものを手に入れると、適当な場所でバスを停めさせて下りる。一回の仕事で数百万ルピアの稼ぎになるらしい。
被害者は普通何もかも忘れて二三日眠り込んでしまう。眠ったのがバスの中だから、バス運行クルーは『またやられたか』という顔で被害者を病院に連れて行く。被害者は数日後に目覚めて強盗の被害者になったことを知り、諦めて家や故郷に帰って行く。しかし運が悪ければ永遠に眠りから覚めない被害者も出現する。CTM20粒というのはかなり生命に危険なレベルであるらしい。生命を失わずに済んだ者ですら、警察に被害届けを出すことは滅多にないそうだ。
そのため麻酔強盗犯の逮捕はいつもたいへん難航するのだが、首都警察一般犯罪捜査局暴力犯罪ユニットが犯行を重ねていたジュリと仲間のコプラルを逮捕した。犯人が麻酔薬としてCTMを使うのは、値段が安くて催眠効果が高いため。警察はジュリのような麻酔強盗が都内の州間長距離バスターミナルや長距離列車出発駅には必ずいることを知っている。しかしこの犯罪は捜査がきわめて難しく、成果はあまり上がっていないのが実情だ。かれらが狙うのは、都で成功したことを裏付ける身なりをし、土産物が入った荷物をたくさん持っている人間。ちょうどルバラン帰省がそんな状況にぴったりと重なる。そしてルバラン帰省シーズンになると、麻酔強盗犯罪者も増加する。季節性を持った犯罪者というのは、インドネシアならではかもしれない。


「留守番女中をだまして邸内に入る強盗」(2010年6月15日)
昼間豪邸に押し入る強盗一味を中央ジャカルタ市警本部が逮捕した。強盗実行グループは4人で、またかれらから盗品を買い取っていた故買屋ふたりも警察に捕まっている。中央ジャカルタ市警はこの強盗一味が5月23日に犯した中央ジャカルタ市メンテン郡ゴンダンディア町タンジュン通りの豪邸を襲った事件捜査でかれらを逮捕したが、一味の自供によれば最後の仕事は5月28日にタンジュンドゥレンで行なった犯行で、そのとき一味は外貨現金やローレックス腕時計4個、カメラ3台などを盗んでいる。
5月23日のタンジュン通り豪邸に押し入った事件では、一味4人はセダン車に乗って13時半ごろ屋敷の表門に到着し、家の主人から監視カメラを設置するよう注文されたという理由で留守番の女中に表門をあけさせ、車を邸内に乗り入れてから女中を縛り上げた。車の運転役はピストルを手に女中を見張る役割を務めたとのこと。残る三人は邸内で自由に金目のものを物色し、金庫を担ぎ出して車に積み込み、その他にも携帯電話4台・腕時計3個・財布5個・宝石付き黄金製ネックレス数個・ブレスレット1個・ピアス2個などを手に入れてその家から立ち去った。隣近所はその異変にまったく気がつかなかったようだ。その隣の豪邸には警備員が常駐しているが、その被害にあった家は夜間だけ警備員が勤務する方式を採り昼間は女中だけが留守番をしていた。
中央ジャカルタ市警はその事件の捜査を進めて西ジャカルタ市タンジュンドゥレンのタマンアングレッアパート第3タワー14階に住んでいた一味を逮捕した。押収した証拠品の中に実弾5発入りレボルバー1丁も含まれており、警察は一味に余罪があるものと見て追及している。警察は都民に未知の人間を邸内に入れないよう呼びかけており、女中も親切そうな悪意のないふりをして屋敷に近付いてくる人間を簡単に信用しないようにと警告しているものの、この種の犯罪は何十年も前から絶えたためしがない。


「強盗が銃を撃ちまくって逃走」(2010年6月18日)
銃火器が犯罪者の間に出回っており、犯罪事件がますます凶悪化する傾向にある。2010年6月7日、手製拳銃を持った男たちが通行中の二輪車を強奪した。奪ったオートバイは一味が使っているジョッキーに渡して隠し場所へ持って行かせた。その強奪事件はボゴール県警グヌンプトリ署に報告され、管区のパトロールをしている同署秩序保安育成庁隊員にも伝えられた。
オートバイ二台でパトロール中だったアリ・ヒダヤッニ級警部補とアンディ・ハルヤント警部補は20時50分ごろ、ワナヘランのガソリンスタンド近くで道路を通行中の不審な一団を発見した。セダン車に先導されて三人乗りのオートバイ一台が走っている。ふたりはその一団に近寄って停止を命じ、オートバイを止めたがセダン車はそのまま逃げ去った。車両の書類を出させて内容を調べているとその中のひとりがピストルを出して警官に向けた。仲間のひとりが撃てと言うより早くアリ二級警部補がピストルを持つ手をつかんでそれを奪おうともみ合った。男は引き金を三回引いたが、弾丸は宙に消えただけ。アンディも即座に自分のピストルを抜いて空に向けて威嚇射撃を行なう。オートバイに乗っていた三人のうちふたりは警官が銃を抜いたのに驚いて即座に逃げ出した。アリとアンディはピストルで警官を撃とうとした男を取り押えて手錠をかけ、その間に逃げたふたりを捕まえるよう応援を求めた。捕まった男はジャマルディン19歳で、逃げたふたりはブユンとニラムという名であることがジャマルディンの口から明らかになった。
一方、逃げたふたりはコタレゲンダウィサタ住宅地のマルコポーロクラスターの中に入って分散したが、住宅地警備員がパトロール警官の応援要請に応じた。住宅地内で挙動不審な男を見つけた。警備員ふたりが捕えようとしたところ、その男はいきなり拳銃を抜いて警備員を撃った。その男ブユンも拳銃を持っていたのだ。撃たれた警備員は弾丸を受けて倒れ、もうひとりの警備員も銃口を向けられて身動きが取れない。
そこへ何も知らずに通りかかったセダン車を逃走の足に使おうとしたブユンはセダン車めがけて発砲した。弾丸はフロントガラスに当たってガラスが粉々になる。運転していた女性はガラスで怪我をしたが、車を置いて命からがら逃げ出す。その車はまずいと思ったのか、ブユンはそれに乗らず、近くの道路脇でセダン車を洗っていたお抱え運転手を撃ち、運転手が脇に停めていた二輪車を奪って走り去った。ブユンは逃走途中で近くを通りかかったブルーバードタクシーにも発砲している。


「タイヤの破裂で即死」(2010年6月28日)
自動車タイヤショップでタイヤが破裂し、作業員が即死した。2010年6月21日11時ごろ、バンテン州チレゴンのセラン〜チレゴン街道沿いにあるタイヤショップで三人の作業員が大型タイヤにエアポンプから給気していた。そこへ客の車が一台入ってきたため、ふたりは立ち上がってその場から離れた。ところがほどなくして轟然たる爆発が起こり、その付近は衝撃でぐしゃぐしゃになってしまった。近くに止めてあった自動車はガラスが粉砕されボディにも大きいへこみができている。ひとり残って給気を続けていたトブリ22歳は破裂したタイヤの破片で頭を打たれて即死した。
その爆発は半径約2百メートルに渡って轟音と衝撃波をもたらし、近隣住民は続々と現場に集まってきた。街道の交通もその混雑のために一時渋滞が発生した。警察は給気が過剰になされてタイヤ内の気圧がタイヤを破裂させたものと見て、関係者などから証言を集めている。


「オジェッ運転手の危難」(2010年7月1・2日)
オートバイ泥棒は相手を選ばない。新車オートバイが年間に6百万台近く売れるこのご時世だから、巷にオートバイはあふれかえっている。泥棒にしてみれば、それだけターゲットが選り取りみどりだということだろう。泥棒は、まだ新しくて傷などのない車を狙う。特に市場での売れ筋モデルが狙われる。そんな車は右から左だ。あいにく売れ筋でないものを盗んでしまったら・・・?それでも泥棒は困らない。解体して部品をひとつひとつ売り払うだけ。
しかし泥棒というのは人を油断させ人の目を盗んで行なう盗みだから、時間がかかり忍耐心も必要になる。だから、そんな面倒なことをだれがするものか、と言うインドネシア人も少なくないわけで、そういう人たちは荒っぽく強奪を行なう。そのほうがかれらのメンタリティに即しているようだ。オートバイの強奪は時と所を選ばない。ほとんどが路上で発生し、路上を走っているときに強奪されるのだから、強奪者に目をつけられないようにするのが唯一の防犯の心得かもしれない。
そんな中で、オートバイオジェッは強奪者にとってかっこうのターゲットになっている。なにしろ客を後に乗せなければならないのだから、強奪者は後ろに乗って前にいる運転手をどこでどう料理してやろうか、と作戦を練るにちがいない。運転手にそんなことはわからない。実に『知らぬが仏』とはこんなときに使う言葉ではあるまいか。
ダルト29歳は2002年に結婚してからなかなか定職を得ることができないため、オートバイを買ってオジェッ運転手稼業をはじめた。毎日平均して5万ルピアの収入があり、生活費は十分に足りる上に毎月50万ルピアのオートバイ月賦も払うことができた。
4ヶ月経ったある日、かれがいつも待機するクブンカチャンのオジェッ溜まりでマンガライまで行きたい客を得た。早朝5時半から幸先がよいと躍り上がったダルトは、その帰り道にラトゥハルハリ通りで災難に遭遇した。走っているダルトに突然二台のオートバイに二人乗りした4人の男たちが接近してダルトを転倒させた。そして一味のひとりがダルトのオートバイを起こすとそれに乗って走り去ったのだ。あっと言う間のできごとで、ダルトのホンダカリスマは姿を消した。
ソレ50歳はヤマハミオを使ってオジェッをしている。ある日客が自分の家のペンキ塗りを手伝ってくれとソレに頼んだ。悪くない金額の報酬をオファーされてソレはその依頼を受けた。一軒の家に着くと二階に上がるように言われ、二階に置かれていたペンキで壁塗りをはじめたところ、ソレの知らぬ間に客はソレのミオに乗ってどこかへ行こうとしている。ソレが声をかけると客は昼飯を買ってくるから、と言って走り去った。ソレがペンキ塗りを終えてもその男は戻ってこない。ソレが隣近所のひとに尋ねたところ、その家は空き家だということがわかった。ソレはオートバイ泥棒詐欺師に引っ掛けられたのだ。「二度とこんな目にはあわない。今度オレのオートバイを盗むやつがいたら、徹底的に抵抗してやるぞ。」
仲間にそう語っていたソレは二台目のヤマハミオといっしょに自分の命まで失ってしまった。ある夜にひとりの客がオジェッ溜まりにやってきて、ボゴールのチタヤムまで送ってほしい、と言う。もう夜遅いからそんな遠方まで行くのは断れ、と言う仲間の忠告を聞かずにソレは客を乗せて走り出した。数日後、ボゴール県タジュルハランの藪の中でアイデンティティ不明状態にされたソレの遺体を近隣の小学生が発見した。
催眠術にかけられたオジェッ運転手もいる。アディ43歳はクラマッジャティのオジェッ溜まりで首都警察本部まで行きたいという男を客にした。自分は警官で、朝礼に出なければならない、と物語る。そうして首都警察本部内に乗り入れ、客が後の座席から降りたとたん、アディは意識をなくした。どのくらい時間が経ったか、首都警察本部広場端の塀にもたれて地面に座っていたアディの意識が戻ったとき、アディのヤマハベガと財布やSTNK(自動車番号証明書)がすべて姿を消していた。かれのズボンのポケットには7千ルピアだけが入れられていた。


「ジャカルタの早朝は引ったくりだらけ」(2010年7月9日)
中央ジャカルタ市ラパガンバンテン(Lapangan Banteng)にあるホテルの従業員チュリヤは2010年6月28日早朝、夜勤明けで帰宅の途についた。ジョハルバルの自宅からスクーターで通勤しているチュリヤは同僚のチオをマンガブサールのコスに送ってやることにした。路上はまだ薄暗く、交通もほとんど絶えている。マンガブサールに向かって走っているチュリヤのスクーターに突然二人乗りオートバイが近寄ってきたかと思うと、後に乗っているチオのハンドバッグを二人乗りオートバイの後部座席に乗っている男がひったくり、そしてそのままスピードをあげて走り去った。唇をかむチオ。チオのハンドバッグには財布が入っているのだ。
だが追いかけても勝ち目のないうら若い女ふたりはどうしようもなくマンガブサール目指して走り続けた。チオをコスまで送って行ったチュリヤは自宅を目指す。
そしてグヌンサハリ通りを下っているとき、海軍西部方面艦隊司令部前でふたたび二人乗りオートバイが近寄ってきてチュリヤのハンドバッグを力任せに引っ張った。チュリヤはバランスを崩して転倒する。そのおかげでチュリヤは腕を挫き、身体に打撲を負った。
スクーターが転倒したのを見た後部座席の男はすぐにオートバイから降りると、チュリヤのハンドバッグを運転している仲間に渡して自分はスクーターを起こし、それに乗って逃げた。つまりスクーターも盗まれたということになる。チュリヤはバンドバッグの中に財布やKTPは入れておらず、携帯電話2個が入っていた。
チオを襲った引ったくりとチュリヤを襲った引ったくりは、着ていた服が違うので別人だと思う、とチュリヤは語っている。普段は姉のトゥティがチュリヤをホテルまで迎えに行くのだが、28日はたまたま姉が迎えに来れず、チュリヤがひとりで帰宅したときにダブル引ったくりの被害に会った。
中央ジャカルタ市警は、グヌンサハリ通りでの引ったくり事件はあまり例がなく、犯人は交通が疎になる場所と時間帯を狙って被害者を待ち受けていた可能性が高い、と解説している。中央ジャカルタ市で引ったくり事件の多い通りはJL Senen Raya, JL Benyamin Sueb, Galur交差点、Pasar Sentral Tanah Abangなどだそうだ。


「バスウエーの死亡事故が10件に」(2010年8月10日)
2010年上半期にバスウエイ・トランスジャカルタバスが関係した交通事故は238件発生した。更に7月29日に発生した事故で死者が出たため、今年は既に死亡者が10人に達している。トランスジャカルタ公共サービス機関コントロールセンター主任は多発する事故の原因について、バス専用車線への侵入、歩行者が歩道橋を使わず道路をそのまま横断しようとする、またバス運転手がSOPを守らない、といったことがあげられる、と述べている。たとえばSOPではバスの最高速度は時速50キロと定められているものの、それが守られていない。もちろん走行車両の速度を測る計器は持っていないが、現場職員はマニュアルでその判定を行なっているとのこと。SOP違反があった場合、運転手には罰金あるいは走行距離数のカットといった処罰が下される。2010年上半期の運転手による違反件数は222件あったとのことで、もし都民がトランスジャカルタバス運転手の違反行為を目撃したらコントロールセンター電話021−7228727へ連絡してください、と主任は語っている。


「豪傑風銀行強盗」(2010年8月18日)
2010年7月21日11時15分ごろ、中央ジャカルタ市チデンのメガシャリア銀行チデン補助支店で勤務中のカスタマーサービス係りアグスティナ26歳のカウンターの前に太めの若い男が座った。男はムハンマッ・ザイダンと名乗り、銀行商品の中で何が得かということをアグスティナ愛称ティナに尋ねた。ティナがひとしきり説明すると、男はちょっとトイレに、と言って席を立ち、少ししてから店内は停電になった。トイレから出てきた男は薄暗い店内が閑散としていることを見て取った上でティナの前に戻ってくると、いきなり刃渡り30センチのナイフを突きつけた。声を呑んでおびえるティナ。男は持ってきたバッグをティナに渡すと、「その中に金を詰めろ。言う通りにしないとおめえだけじゃなく店内の者を皆殺しにするぞ!表には仲間が三人いるんだ。」と脅かす。
生命の危機を感じたティナは仕方なく現金のある二階に男を案内する。金庫が置かれて現金出納が行なわれている二階では現金出納窓口のサブリナが札束を数えていた。男は女ふたりに命じてバッグに現金を入れさせる。2万ルピア・5万ルピア・10万ルピアの札束がバッグの中に納められる。出納窓口の現金が期待に反して少ないのに不満をあらわにした男はふたりの女に向かってナイフを振り回し、「もっと金を詰め込まないと、殺すぞ!」と脅かした。サブリナはあわてて金庫を開き、中から札束を取り出してバッグに詰める。
二階で何が行なわれているのか知らずに一階から上がってきた男性職員をザイダンは羽交い絞めにしてナイフを突きつけた。そんな体勢でふたりの目はサブリナとティナが金庫の金をバッグに詰め込んでいる情景に釘付けだ。バッグがパンパンに膨らんできたのに気をよくした男はバッグを手にするとその場をあとにして階下におり、そのままドアの外へ出て行った。そして銀行から徒歩で立ち去ろうとしたのである。
男が150メートルほど歩いたとき、銀行の中から「強盗だ!」と叫ぶ声が上がった。その一帯にいた民衆がすぐにバッグを持った太目の男を追いかける。しかし男は手にしたナイフを振るうので、民衆はなかなか男を捕えることができない。たまたまその近辺にガンビル署の私服刑事がおり、拳銃を抜くと空に向けて警告射撃を行なった。しかし犯人は「撃てるものなら撃ってみろ」とばかり怖れる風情も見せない。刑事は男の右足を撃ち、弾丸は男の頭に当たらず足に当たった。男は路上に倒れ、追って来た民衆がよってたかってのリンチを始める。痛めつけられて逃げる力が半減した犯人を刑事はタラカン総合病院に連行して治療を受けさせ、そのあとクラマッジャティの警察病院に送り込んだ。
この犯人ザイダンは三日前にパレンバンからジャカルタに出てきたばかりで、計画していたジャカルタの初仕事はリンチを浴びる結末で終わった。ザイダンのバッグには3億7千6百万ルピアの現金が入っていた。


「病院でも油断は禁物」(2010年8月20日)
ある民間テレビ局に勤める25歳の女性プトリが友人の見舞いに中央ジャカルタ市のタムリン病院を訪れた。2010年7月22日午前9時のこと。プトリは友人の病室がある3階までリフトで上ろうとした。リフトに向かいながらプトリはひたすらSMSメッセージを自分の携帯電話に打ち込んでいたためリフト内の様子にまったく気がまわらかったが、リフトの中には男がひとり乗っていたのである。
リフトの扉が閉まり、リフト内は密室と化す。男はいきなりナイフを手にしてプトリに突きつけ、携帯電話をよこせ、と命令した。しかしプトリは携帯電話を男に渡そうとしない。すると男はプトリのハンドバッグを奪い取ろうとした。渡してなるものか、とプトリも防戦する。互いにハンドバッグをつかんでの引きずりあい。男はプトリを蹴とばし、更にプトリをリフトの壁に打ち付けた。プトリは頭を打ってクラクラ。
そうこうしているうちにリフトは2階に着いて扉が開く。すると男はプトリへの攻撃をやめて、そのままリフトの外へ飛び出して逃げた。プトリもリフトの外へ出て男を追いかけようとするがすぐに見失ってしまった。
奪われたものは何もなかったので、プトリはそのまま北ジャカルタ市クラパガディンの自宅に帰ることにした。そのあと友人に連絡したところ、友人が入院しているのはタムリン病院でないことが判明した。被害がなくて本当に良かった。もし被害があったなら、用もない病院にのこのこと被害を蒙るために訪問したことになっただろうから。


「韓国人誘拐」(2010年8月23〜28日)
中部ジャワ州プルバリンガで操業しているPTスンチャンインドネシアで働いている韓国人駐在員シン・ヒュンサン33歳は2010年7月20日、妻リニ・ヘルマワン25歳の里帰りに同行して西ジャワ州ボゴール市ボゴール郡タジュル街道にある妻の実家にやってきた。21日夜、あまりの手持ち無沙汰にシンは妊娠中の妻を誘ってそこからあまり遠くないプラザエカロカサリへ遊びに出かけた。プラザ内を歩き回り、買物し、そしてシンは映画館で映画を見ようと言い出した。身二つのリニは強い疲労を感じたので、自分は先に帰ると言い出した。どうあっても映画を見たいシンは妻を先に返し、自分だけ残って映画を見た。
妻の実家は街道から折れて路地を奥のほうまで入らなければならない。シンは妻の実家へ行くのにどの路地を入ればよいのかまだよく解っておらず、ましてや夜なので一帯の地形が一層解りにくくなっているため、自分がひとりで車を運転して帰るさいにだれかが路地の入り口まで迎えに出てくるよう、妻に頼んでいた。21時半ごろ、シンからリニの携帯電話にSMSが入った。「今から帰るから、路地の入り口まで出て待っててくれ。」
リニは自ら路地の入り口まで出て夫の帰りを待った。しかし待てども待てども、夫の車は姿を見せない。リニは夫の携帯電話に電話をかけてみたが、電話は切られていた。
時計は22日を指したが、シンの車はやってこない。リニは強い胸騒ぎを覚えて親族の者たちに頼んだ。みんなで手分けしてシンを探してちょうだい。いったい何があったの・・・?
シンは妻にSMSを送ってからプラザエカロカサリの駐車場へ行って自分の車に乗った。車を発進させてタジュル街道に入る。すると後から来た車が追い越しざま、シンの車の前に切り込むように入ってくるとブレーキを踏んだ。シンは口の中で罵る。
前に停まった車の中から5〜6人の男たちが一斉に降りてシンの車を取り囲む。中のひとりが運転席に近付き、窓ガラスをコツコツ叩いて国家警察職員の身分証を示した。シンは、いったい何事か、と思って運転席の窓をあける。するとその男はシンの車のセントラルロックを解除し、車を取り囲んでいた男たちはあっと言う間にシンの車の中に入ってきた。シンの進路をふさいだ車には運転者が残っていたようだ。その車は間もなく発進した。
隣に座った男が拳銃をシンに突きつけて「あの車の後について走れ」と命じる。さっき身分証を示した男が、「わたしは麻薬特捜班のアンガ・イラワン警部でほかの全員は班員だ。あんたは麻薬所持容疑で逮捕された。ご存知の通り、麻薬に関われば極刑だ。」とシンを威嚇する。
インドネシア語に不自由しないシンは、罠に落ちたことを覚って唇をかんだ。悪徳警官が深夜に麻薬取締まりを行い、自分が用意した麻薬を車内に置いて無実の者を逮捕し、その家族の者に金を払わせてから釈放するという無法行為が行なわれていることをシンは知っているが、その罠に自分がはまろうとは思ってもみなかったのである。シンの車に入った男たちはほどなく車を止めさせてシンからハンドルを奪った。
シンの車は寂れたエリアを通って一軒の民家に入って行く。だが黒い布で目隠しされたシンに周囲の情景はまったくわからない。男たちはシンを手荒く扱った。
7月22日朝。一晩中まんじりともせずに夫を待っていたリニの携帯電話が鳴った。「もしもし、こちらは国家警察麻薬特捜班だ。シン・ヒュンサンは麻薬を所持していたので拘束した。2億ルピアをこれから言う口座番号に振り込めば、あんたのご主人は無事に戻ってくる。」
リニは目の前が真っ暗になったが、しかし気を取り直すと銀行へ向かった。そして夫の身代金2億ルピアを振り込んだあと、ボゴール市警察に事件を届け出た。正午ごろその届出を受けたボゴール市警察はすぐにBRI銀行ボゴール支店に連絡してミケル名義の振込先口座を凍結させた。幸いにも2億ルピアはまだその口座の中にあった。
警察はすぐにこの鋭利誘拐事件の捜査を開始した。ミケルという名前のその口座保有者と関係者を洗い出すこと、そしてリニにかかってきた電話の登録者をマークし、またその電話で行なわれている通話を傍受すること。誘拐されたシンの身柄を捜索することも行なわれた。シンが持っている携帯電話の電波をたどっていくことになる。
こうして忙しかった22日の夕闇が迫りはじめた17時ごろ、ボゴール市警科学捜査班がシンの携帯電話の電波を探知した。現場へ向かった市警犯罪捜査課はシンが誘拐犯一味と一緒にいることを期待したが、あてが外れた。シンはひとりでタジュル街道の脇をトボトボと歩いていたのである。シンは保護され、顔面にかなりの傷を負っていたため、ボゴール市内の病院に収容された。誘拐犯一味は身代金が振り込まれたことを確認すると、シンをあっさりと解放したのである。誘拐されてから24時間経たない間の急展開だった。
警察はこの事件をいくつかの可能性に分けて分析した。何らかの目的を持った本人個人あるいは夫婦の狂言ではないか?あるいは、シンを誘拐したという一味が本当の国家警察職員であるかどうか、それとも警察の名を騙るニセモノなのか。情報が集まってくる中で、ボゴール市警犯罪捜査課の心証はほぼ固まってきた。そして一味のメンバーのアイデンティティが明らかにされるに及んで、かれらは営利誘拐を専門に行なう犯罪者集団であることがはっきりした。中のひとりがしばらく前にジャカルタで発生した少年営利誘拐事件に関わっていたことが明らかになったのだ。警察は一味の追い込みにかかった。
アンガ・イラワンを中心にした7人の営利誘拐犯罪集団は、プラザエカロカサリ内で目をつけたシンの拉致がいつもの手口で易々と成功し、その身代金がミケル名義の口座にさっそく満額振り込まれたことに気をよくしていた。その結果早々とシンを解放したのだが、あとになってそれを悔やんだ。BRI銀行がその口座を凍結したのがはっきりしたからだ。
一味はすぐ次の仕事にかかった。バンテン州チカンデで壮年の男性を例の手口で拉致し、被害者を乗せて町中をあちこち走り回ったあげく、被害者が運転していたイノバと持っていた6千万ルピアを奪ったのである。しかしそれが一味の最後の仕事になった。被害者からの届出でセラン市警チカンデ署が捜査を開始し、チカンデ署とボゴール市警が合同で捜査を進めたあげく、7月30日に中央ジャカルタ市グヌンサハリ通りにあるホテルファッションに一味のうち6人が集まって手に入れた金を分配しているところを合同捜査班が急襲して一網打尽にしたのだ。
警察は一味6人を取り調べ、中でもニセ麻薬捜査員になりすまして一味の中心的存在になっていたアンガ・イラワンから偽造された国家警察職員身分証、やはり偽造された逮捕命令書、首都警察と国家警察の徽章、黒色のジャケット、モデルガン、そしてホンモノのスタンガンなどを押収した。警察身分証も逮捕命令書もアンガ・イラワンの名前になっているが、身分証には階級が警部、逮捕命令書には副警部正と記載されて一致していない。
チカンデの被害者に対する強盗事件捜査の方が証拠物件がたくさんあったため、6人の取調べはチカンデ署で行われることになった。シン・ヒュンサン誘拐事件捜査を行っていたボゴール市警犯罪捜査課にとってはあっけない幕切れとなったが、ボゴール市警はその犯罪グループが7人から成っていることを知っていた。もうひとりがチカンデ署に逮捕されなかったのは、最後の事件にそのひとりが加わらなかったからだ。
ボゴール市警はそのもうひとりを重要参考人として取り調べた。その男、アンディ・アラムシャ・フタペア37歳は一味の運転手を務めていた。ボゴール市警でアンディが自供した内容はこうだ。 アンディは元々マンガブサール〜パドゥマガン(Pademangan)間アンコッの運転手をしていた。4ヶ月ほどまえに一味がアンディの車の中でスリを行なったことからかれらと知合いになった。かれらはもともとスリやひったくりを稼業にしており、かれらと付き合ううちに仲間になった。そして悪徳麻薬取締り官の真似をして一般市民を誘拐しでっかく金を稼ごう、というアイデアに乗ってアンコッ運転手をやめた。
アンディに言わせれば、ただでさえ少ないアンコッ運転手の収入が警官にたかられてますます減っていくような暮らしが嫌になったそうだ。一味に加わって分け前にあずかるようになったアンディの金回りは、アンコッ運転手とは比べものにならないものになった。アンディが一味の仲間になって以来、誘拐仕事はもう5回行なっている。一味はまた麻薬常習者であり、常日頃から麻薬が身辺にまとわりついているため、被害者の車に麻薬を落とすのはお手のものだった。
かれらが誘拐のターゲットにしたのは目の細い人間で、繁華街の中でひとりで行動している者。目の細い人間とは主に印華人を意図しているが、中国系・韓国系そして日本系もそのカテゴリーに入る。印華系は金を持っており、誘拐してゆすれば金が出てくる、というのがかれらのイメージだったようで、特に外国人をターゲットにする意図はなかったようだが、町中でひとりで行動している目の細い人間を狙えば、上であげたような外国人に当たる確率はゼロでない。チカンデの被害者も目が細いために狙われたのだが、かれは印華系でなくプリブミのハジだった。
一味の犯行手口は、目をつけたターゲットがひとりで車を運転して帰宅する途中を襲い、麻薬捜査のふりをして犯人にでっちあげ、ターゲットが萎縮すると車と所持金や金目のものを奪い、獲物が少ないと誘拐して身代金を要求するというものだった。


「店は無事、買物客が被害者に」(2010年9月1日)
2010年8月19日深夜1時15分ごろ、デポッ市スクマジャヤのボゴール街道沿いにあるミニマーケット「アルファミディ・ビラプルティウィ」に男がひとりダイハツゼニアに乗ってやってきた。男は店内に入るやいなや、拳銃を店員のロハエンディに突きつけて縛り上げる。店内に他の買物客もいる中での行動だ。もうひとりの店員エコは隙を見て店の外へ逃げ出そうとしたが、男はエコを捕まえて拳銃で威した。ところがどうしたことか、賊はエコをロハエンディのように縛り上げようとせず、そのままにした。
賊の注意が他に向けられているときにエコはなんとか店の外へ脱出し、店の売上金を強奪しようとしていた賊は犯行を諦めて店内にいた買物客ふたりから携帯電話を奪うと再びゼニアに乗って逃走した。深夜に寂しい店でのんびり買物しているとあぶないアブナイ。


「突然、玄関先で銃撃戦」(2010年9月6日)
2010年8月23日の昼下がり、ヤヒヤ夫人の家の表が騒がしくなった。茶色の革ジャンを着た体格のいい男がひとり家の表フェンスを破って駆け込んできたかと思うと、拳銃を抜いて追ってきた数人の男を撃ったのだ。よく見ると、なんと追ってきたのは警官であり、警官たちも応戦した。ヤヒヤ夫人はそのとき友人の裁縫師マスワティと家の奥にいたが、6発ほど銃声がしたのを耳にしている。弾丸はコンクリートフェンスにびしびしと食い込んだようだ。背が高く、頑丈な体つきで、頭を短く刈ったその男は突然地面に倒れた。男のいる地面に鮮血が滴っている。上体のどこかに銃弾を受けたにちがいない。
しかしその男は身体を起こすと家の中に駆け込み、台所に入ってきた。台所で息を呑んでことの成り行きを見守っていたふたりは驚いて飛び上がったが、男はそのまま台所を走り抜けて裏口からごみごみした路地へ出て行った。
その日午前11時過ぎ、東ジャカルタ市デウィサルティカ通りのBCA銀行前をオートバイに二人乗りした男が行ったり来たりしていた。パトロール中の警官が不審を抱いて密かにその二人組みを見張った。パトカー1台とオートバイ2台の警官に見張られていることも知らずに、二人組みは銀行から出てくる人間に鋭い視線を注いでいる。どうやらかれらはターゲットを物色しているようだ。
そんな状況が2時間続き、そうこうしているうちに男のひとりが警官に見張られていることに気付いた。気付かれたのを知った警官たちがオートバイの二人組みに駆け寄る。「逃げるな!」と叫ぶ警官の声に、オートバイの後に乗った体格のいい男が拳銃を発射して応えた。賊は銀行前からデウィサルティカ通りを横切って国立第14高校のある通りへと逃げる。三人の警官に追い詰められた賊はオートバイを捨て、分散して逃げた。そうしてひとりはヤヒヤ夫人の家に闖入し、銃撃戦が展開されたのである。
一方オートバイを運転していたほうの賊も別の方角に逃げ、スワダヤ通りの民家に闖入した。家の中で裏口を探すつもりがマンディ場に行き当たり、逃げ場を失って集まってきた住民たちのなぶりものにされたあげく警察に突き出された。警察は銃創を負った男を追跡している。


「強盗事件多発」(2010年9月8日)
2010年5月以降8月24日までに全国規模で報道された大型強盗事件はこれだ。
5月3日、チレボンのクサンビ郡教育局職員ふたりが運んでいた教員給与5.29億ルピアが銃を持った賊ふたりに襲われ、ふたりが死亡。
6月17日、東ジャカルタ市デウィサルティカ通りの自動車ディーラーを武装した8人が襲い、商品の自動車4台7.5億ルピア相当を奪い去る。
6月25日、質公社ブカシ市パトリオッ支店を銃を持った賊三人が襲い、黄金装身具2キロと現金3千2百万ルピアが奪われる。
7月7日、東カリマンタン州サマリンダ市UOBブアナ銀行を銃で武装した賊6人が襲い、6.75億ルピアを奪う。
7月21日、中央ジャカルタ市チデンのメガシャリア銀行を刃物を持った男ひとりが襲い、3.76億ルピアを奪う。
8月4日、北ジャカルタ市クラパガディンで8千2百万ルピアを持った銀行客ふたりが蛮刀を持った3人組に襲われる。
8月6日、西カリマンタン州ポンティアナッの貴金属店が銃を持った賊4人に襲われ、黄金1キロ以上と現金3億ルピアが奪われる。
8月6日、南ジャカルタ市ブキッドゥリのパサルにある貴金属店三ヶ所を銃で武装した12人組が襲い、各店から3〜3.5キロの黄金装身具を奪う。
8月9日、バリ州ブレレンで質公社ハルディス店を銃を持った賊ふたりが襲い、現金2千1百万ルピアを奪う。質公社従業員ひとりが射殺される。
8月15日、タシッマラヤ県の事務所2ヶ所が刃物で武装した30人に襲われ、7千1百万ルピアが奪われる。
8月16日、スマラン市貯蓄貸付協同組合従業員ふたりが刃物を持った4人の賊に襲われ、2億ルピアが奪われる。
8月18日、メダンのCIMBニアガ銀行をAK47突撃銃やピストルで武装した16人が襲い、4億ルピアを奪う。
8月19日、中部ジャワ州クラテンの貴金属店が銃を持った4人組に襲われ、黄金装身具2.1キロと現金1千1百万ルピアが奪われる。
8月20日、北ジャカルタ市タンジュンプリウッのテルコム協同組合でピストルと刃物を持った賊4人が7億4千万ルピアを奪う。
8月23日、西ジャワ州チレボンのガソリンスタンド事業主が拳銃を持った賊ふたりに襲われて3.66億ルピアを奪われる。
8月23日、バリ州デンパサル市でBRI銀行客が刃物を持つ賊ふたりに50万ルピアを奪われる。
8月23日、東ジャカルタ市デウィサルティカ通りでBCA銀行客を物色していた拳銃を持つ二人組みが警察に察知され、未遂に終わる。
上記以外にも事件は多々発生しており、6月から8月中旬までだけでも25件が数えられている。 強盗犯罪はこれまでの、夜中に刃物を持って住居に押し入った一味が金目のものを奪って逃げるという在来型パターンから打って変わって、銀行・貴金属店・貯蓄貸付協同組合、自動車ディーラー、質店など巨額の現金や財物を扱う事業所を真昼間からターゲットとするようになっており、また人数もひとにぎりのグループでなくまるで集団戦闘部隊の様相を呈するようになっている。上のリストでも明らかなように、ラマダン月に入ってからの強盗事件発生密度は異様なほど高まっている。もうひとつ最近特徴的なのは、金曜日の昼前を犯行時間に選ぶ傾向が犯罪者の間で高まっていることで、これは男性市民の多くが金曜日の礼拝のために街中からいなくなることに関係している。 銃火器を持つ犯罪者が激増しているため、警察は民間の銃器所持をなくす方向で対応をはかる方針を立てている。


「外人登山者がスムル山で行方不明」(2010年9月8日)
東ジャワ州のブロモ(Bromo)テンゲル(Tengger)スムル(Semeru)国立公園南端にそびえるスムル山の最高峰マハムル(Mahameru)峰は海抜3,676メートル。マハムルの登頂を企てたアメリカ人青年マシュー・アレキサンダー別名ネイマー24歳が2010年8月27日消息を絶った。
マシューは27日午前7時にスムル山北側のラヌパニ(Ranupani)部落から登頂を開始し、ポーターのタリと一緒にカリマティポスト(Pos Kalimati)まで24時間かけて進んだ。海抜およそ2千7百メートルのカリマティポストに着いたのは28日午前7時ごろ。マシューはひとりでマハムル峰をきわめたいと言い張り、ポーターにそこで待つよう命じるとひとりで最高峰目指して出発した。タリはマシューがいつまで待っても戻ってこないため15時にラヌパニ目指して戻り道を急いだ。ラヌパニ警察署にマシューの行方不明を報告したのはその日の18時ごろ。
ルマジャン(Lumajang)県捜索救援隊と国立公園職員そしてポーターたち20人ほどがマハムル峰とカリマティポストの間の一帯を捜索したが成果はなかった。29日夕方、捜索隊の四人がマハムル峰にたどり着いたもののマシューの姿はそこになかったし、また残る16人はアルチョポド(Arcopodo)地区の捜索を行なったが、こちらも行方不明のアメリカ人を発見することは出来なかった。下山してきたふたりのフランス人および同行ポーターからマシューと出会った情報が得られたものの、その後のマシューの消息は途絶えたままだ。数日間スムル山は好天にめぐまれているが、山頂付近は風が強かった。
捜索を開始して27時間後の29日夜21時半ごろ、行方不明だったマシューがカリマティポスト近くで発見された。マシューは藪を通り抜ける際に手に擦り傷を負った程度で、体調は良好だった。マシューはラヌパニまで送られてから30日15時ごろルマジャン病院に運ばれで診察を受けた。
マシューの話によれば、マハムル峰近くでフランス人ふたりとポーターひとりに出会ったが、マシューの歩みが遅いため三人は先に行ってしまったとのこと。
地元自治体が出している登山警戒情報によれば、スムル山はカリマティポストまでしか登山が許されておらず、火山活動の危険があるためそこから先への進入は禁止されている。


「できの悪い使用人の逆恨み」(2010年9月7日)
西ジャワ州都バンドンの衛星都市チマヒ市のガンダウィジャヤ通りで建築資材と鉄工材を商っているカルナディ・ウナンの店舗住宅の塀を深夜よじ登るふたつの人影があった。2010年8月26日午前2時ごろのこと。
二階のテラスに上がったふたつの人影はそこから屋内に入ると、女中部屋に向かった。眠りこけていたウミ・ソラエハとムギシアの女中ふたりはふたりの男に起こされて仰天した。男たちは女中ふたりの口を塞ぎ毛布で縛って動けなくすると、ドアに鍵もかけずにそのまま出て行った。そうしてふたりはまっすぐに主人カルナディとその妻ハマイ・ケンの寝室に侵入したのである。
密かに室内に入り込んだとき主人夫婦はまだ寝ていたが、賊がその部屋で金目のものを物色し始めたときに目を覚ました。夫婦は賊を取り押えようとしたが、いかんせん相手は刃物を持っていた。賊のひとりが刃物を振るい、もうひとりは両手でロープを張るとひとりずつ喉を締め上げて夫婦を殺したのである。息子のひとり27歳のルディ・ウナンが物音を聞きつけて駆け込んできたが、腹と胸に6ヶ所の刃物傷を受けてこれも生命を落とした。
賊がドアも閉めずに出て行ったあと、ソラエハは戒めを解くとそっと居間の電話器に向かった。カルナディの弟アキオンに電話して急を告げるためだ。知らせに驚いたアキオンはすぐチマヒ警察署に電話して救援を求めた。
ふたりの賊は三人の生命を奪ったため物盗りの余裕をなくしてその家から逃げようとしていた。そこへパトカーが駆けつけてひとりを捕まえ、もうひとりは家の外へ逃げたが30分後に発見されて逮捕された。
ふたりの賊はトニーとシャリフそれぞれ18歳で、トニーはカルナディの店で働いていたことがあるが一年前に辞めている。トニーは当時カルナディによく叱られたことを根に持ち、ルバラン前の金が必要な時期にシャリフを誘ってカルナディの店を襲ったようだ。


「世界一高いホワイトコーヒー」(2010年9月16日)
40グラム入りサシェットに入ったそのホワイトコーヒーはひと袋100万ルピアで売られている。スーパーマーケットへ行けばひと袋2万5千ルピアで手に入るそのホワイトコーヒーが100万ルピアとはいくらなんでも・・・・。すると売り手はこう言った。「これひと袋で8カップ分だ。これを飲むと極楽昇天間違いなし。ケタミン入りなんだから」。
西ジャカルタ市警麻薬ユニットはタレこみにもとづいてタングラン県ダダップにある倉庫を急襲し、そこが麻薬商品加工場であることを糾明した。そこで行なわれていたのは、サシェット入りホワイトコーヒーをマーケットで買ってきて口を開き、1グラム15万ルピアで闇ルートから入手したケタミンを混入させてからアイロンで口を閉めなおすという作業。この作業場は150サシェットを毎日生産していたというから、月間の収入は45億ルピア程度にのぼる。
警察はこの事件の犯人JN48歳をタングラン県ダダップ郡のビラバンダラ住宅地区にある本人の自宅で逮捕し、商品175袋とケタミン108グラムを押収した。これは誰かのオーダーで作られたものでなく、JNのイニシアティブで生産と販売が行なわれていたもので、インドネシアではまだ例のない偽装麻薬販売の手口だった。販売ルートは完全な口コミで全国に広がっており、毎日かなりの量がさばかれていたようだ。JNはそのビジネスを半年前から行なっていた。その作業場からは、他にもエクスタシー3千錠、ハッピーファイブ2万錠が発見されている。


「社会不安が起こす群衆殺人」(2010年9月22〜24日)
2010年8月に入ってからタングラン県一円でセンセーショナルなSMSが飛び交っていた。「子供が誘拐されないように警戒しましょう。もう4人の子供が誘拐され、心臓・目・腎臓などの臓器を取り出すために切り刻まれている。7百人の子供がその犠牲者になる計画だ。この知らせをあなたの友人知人に伝えよう。」
このチェーンSMSは近年まれな大ヒットになった。市街地と農村部を問わず、大勢がSMSを受け、それを誰かに回した。閉鎖的な農村部ではこの情報に対する沈潜度が特に強かったようだ。 2010年8月21日21時45分ごろ、タングラン県クレセッ部落に見知らぬ男がひとり入ってきた。30代半ばと思われるその男に部落民は不審を抱き、数人が近寄って声をかけた。すると男は返事もしないで走り出したのだ。不穏なSMSによって犯罪者の徘徊に対する不安が体内に漲っていた部落民は即座に反応した。「お〜い、誘拐犯だぞ!捕まえろ。」
部落のあちこちから続々と男たちが現れて逃げようとした男を捕らえ、凄絶なリンチが繰り広げられた。部落民のひとりがガソリン缶を持ってくる。部落民は虫の息の男にガソリンを振り掛けて火を放った。ほどなくタングラン県警クレセッ署から警官隊が現場に到着して事件を鎮めたが、身元不明のそのよそ者は既に息絶えていた。
同じ日の夜、タングラン県ナンボ部落でも類似の事件が起こった。やはりよそ者がひとり村に入ってきたので部落民数人が誰何したところ、カバンを持った三十代に見えるその男は逃げようとして走り出した。追跡・捕捉・そして暴力。息絶え絶えなよそ者を部落民は自動車の後部に縄でつなぎ、路上を高速で走った。車が止まったとき、路面を引きずられて息絶えた男の死体があった。
翌8月22日夜、今度はタングラン県マウッ郡ラワキダン村で、子供を切り刻んで臓器を奪う誘拐団の暗躍を信じ込んだ村民が車で村にやってきた5人のよそ者を襲った。
22日23時ごろ、5人の男が乗ったトヨタアバンザが一台、村の中に入ってきた。子供さらい一味に対する自衛態勢を強めているこの村でも、夜中にやってきた見知らぬ人間への警戒行動は盛んだ。車を停めて用件を問いただそうとしたところ、車の運転者はアクセルを踏んだ。村民の怒りと疑惑が燃え上がる。
大穴だらけの村の道を車はスピードを上げて通り抜けようとするが、なかなか思い通りに前進できない。その車めがけて前後左右から大勢の村人が集まって取り囲み、車体や窓を殴打しはじめた。車の正面が何人もの村人でふさがれては、かれらを車で撥ねなければ前進は無理だ。しかしそんなことをすれば殺し合いになる。
車の中の5人が躊躇している間に窓ガラスが割られ、ドアロックが外されると村人は5人を車外に引きずり出した。群衆がリンチを始める。ちょうどそのとき通りかかったパトロール警官が現場に駆けつけて騒ぎを鎮めた。怪我をしたのはふたりだけで、無事だった三人といっしょに警察はかれらを保護した。同じ日にマウッ郡の別の村で精神障害者と見られる身元不明の男がひとりやはり住民のリンチを受ける寸前に警官に保護されている。
タングラン県警は子供誘拐の届出がひとつもないことから、そのSMSは社会不安をあおることを目的にした扇動行為であるとしてSMS発信者の糾明捜査を進めているが、リンチ事件に関わった住民はまだひとりも逮捕されていない。
このような集団暴力事件は各警察間で扱いが一様でなく、昔ながらの発想で群衆による犯罪行為は捜査対象から外しているところもあれば、法の一律な適用を推進しているところもある。犯罪オブザーバーはタングラン警察に対し、暴力行為ましてや殺人を行なった群衆への裁きを求める声を上げている。
タングラン県庁はまた、虚偽のSMSに扇動されないよう住民に情報告知と警告を行政機構を通じて伝達している。
インドネシアの社会は強い依存性に覆われた社会であり、個々人は自分の核を内面に形成しようとせず、内面はむしろブランクにして他人の働きかけを柔軟に受け入れる余地をたっぷり用意する形を取り、共同体の中でそのように他人と依存し合う形で暮らしている。そのため自分で考えて自分の行動を決めるということに慣れておらず、たいていの場合個人の行動は社会的に定められた規範もしくは自分が上位者と見なす人間の指図に従ってなされるものとなり、明白な指図が出されない場合は周囲の人間の動きに合わせる形で個人の行動が発現する。昔から何度となく繰り返されてきた群衆暴動は群衆のひとりひとりが意思を持って起こしているのでなく、そのような状況あるいは空気に引きずられ流されて群衆が行なっているものに過ぎないのであって、そのポイントからこの問題を見るなら、群衆は単なるロボットでしかなく事件の犯人はロボットにその行動を取らせた扇動者であるという見方がフィットするのだが、現代法の概念はそのようなコンセプトを受け付けない。
インドネシアにいる大勢の外国人駐在員も会社の中で、自分の核・自分の意思を持とうとせずただ漫然と指図を待ち、あるいは周囲の空気に合わせて振舞っている従業員たちにどうやって本人の考えや意思あるいは責任感を持たせようかと切磋琢磨されているのではないだろうか?


「盗難は常識中の常識」(2010年9月30日)
2010年8月21日付けコンパス紙への投書"Tas Raib di Wild Wild Resto"から
拝啓、編集部殿。わたしは夫と子供そして孫といっしょに北ジャカルタ市プルイッジャンクションのワイルドワイルドレストで2010年6月17日12時半から13時半まで昼食を摂りました。わたしたちはソファ席を選び、背もたれが直立していて背中がぴったりくっつく場所に座りました。後に置いたハンドバッグが常に背中に感じられるようにしたのです。
ところが店内の音楽がたいへん強いボリュームなので、子供が話すたびにわたしの体は前傾します。食事が終わって支払いをしようとしたとき、後に置いたハンドバッグがなくなっていました。店の従業員が言うには、わたしたちと背中合わせになっているソファーに二人連れの客が座ったが、料理を注文しないまま出て行ったそうです。わたしたちはすぐにセキュリティに報告し、カード類をブロックし、そして警察に向かいました。
三日後わたしはまたワイルドワイルドレストを訪れて事件の進展状況を尋ねました。ところが従業員のひとりはなんとこう言ったのです。「なくなったらもうそれまでですよ、奥さん。絶対見つかりっこありません。」
わたしがワイルドワイルドレストのマネージャーに会いたいと言うとその従業員は、ここはマネージャーなしです、と言いました。それでわたしはプルイッジャンクションのセキュリティ事務所を訪れてみました。担当者は記録簿を調べてからこう言いました。三日前のわたしの事件は記録されていない、と。ここはいったいどういうショッピングセンターなのでしょうか?[ 西ジャカルタ市在住、ポピー・パンドヨ ]


「ゴルフ場にグライダーが墜落」(2010年10月5日)
2010年9月19日午前11時半ごろ、南タングラン市パムランのポンドッチャベ(Pondok Cabe)にあるカントリークラブゴルフにグライダーがまっさかさまに墜落した。このグライダーはジャカルタアエロスポーツ連盟所属の機体番号G−217で、オルタラフライトクラブが飛行練習に使っていた。
ちょうどゴルフ場では大勢がプレーの真っ最中で、ゴルフ場に近いポンドッチャベ飛行場に着陸する予定のグライダーは強風に運ばれてゴルフ場に漂着し、15番ホールにある背の高いアカシアの木を避けようとして12番ホールに墜落した。折りしもプレー中だったゴルファーたちは、墜落したグライダーに駆け寄って乗っていた操縦訓練者とインストラクターを救出し、ふたりを南ジャカルタ市のファッマワティ病院に送り込んだ。インストラクターは背中を痛め、操縦訓練者は左足を骨折した。


「売春婦を襲う麻酔強盗」(2010年10月12〜19日)
2010年9月15日中央ジャカルタ市クマヨランにあるホテルチュンパカサリにかなり年齢の離れた男女カップルが投宿した。一日だけの宿泊ということで、ふたりは108号室に入った。
翌9月16日、チェックアウト時間が過ぎているのに108号室の客は部屋から出てこない。部屋に電話しても応答がない。フロント係員は別の従業員に部屋を見てくるよう命じた。従業員は14時20分ごろ108号室の前に立った。ドアをノックして声をかけたが、返事もなければひとのいる気配がしない。従業員がドアを開いたところ、ロックされていなかった。半開きにして中をのぞきこみ、そして従業員は「あっ!」と小さく叫んだ。ベッドの上にあられもない姿の女性がひとり人事不省で横たわっており、口の周りには白い泡が付着している。
急を伝えられたフロントは首都警察クマヨラン署に連絡するとともに、警備員にその女性をチュンパカプティイスラム病院救急治療室に送り届けさせた。連れの男がいつホテルを去ったのか、目撃者はいなかった。フロントに残された男のKTP(住民証明書)によれば、男の名はピア・ラマダニで年齢59歳、住所は東ジャカルタ市チラチャスの所番地が記されているが、実在しないものであるため警察はそのKTPを偽造品と判定した。
女性が持っていたKTPによれば、女性の名はサリファ・フィトリ・アルハブシで年齢30歳、住所は西ジャカルタ市クブンジュルッのカンプンバルとなっている。サリファはチュンパカプティイスラム病院で三日後に意識を取り戻したが、ホテルチュンパカサリで人事不省になるまでの自分の行動について記憶がはっきりせず、警察はサリファの記憶が戻るまで被害者の供述なしに犯人を追わなければならなくなった。普通女性が必ず身に付けている黄金製装身具が見当たらないことから、犯人はサリファに麻酔をかけて金目の物を奪ったのではないかと推測されるものの、サリファは自分の被害総額すら警察に言えないでいる。警察の身元照会で、サリファは子供をふたり抱えた寡婦であることが判明している。
サリファ事件の二日後、中央ジャカルタ市クマヨランにあるホテルイルハムドゥアでまた類似の事件が発生した。9月17日夜ホテルイルハムドゥアに投宿した男女のカップルが18日午前11時のチェックアウト時間を過ぎても出てこないので、従業員が部屋を見に行き、ロックされていないドアを開けたところ、パンティひとつで眠りこけている豊かな胸の女性をベッドの上に見出した。 麻酔強盗の犠牲になったこの女性もチュンパカプティイスラム病院に送り届けられて治療を受け、いつホテルを去ったかわからない男が残したKTP(住民証明書)から犯人はサリファ事件と同じピア・ラマダニ59歳であることを首都警察クマヨラン署は知った。しかしそのKTPはサリファ事件のときのものと住所が異なっており、それもやはり偽造品だと警察では見ている。
被害者女性は本人のKTPからクマヨランのチュンパカプティウタラ通りに住むスギア33歳と判明し、警察が家族と連絡を取ったところ、スギアも子供をふたり持つ寡婦であることが明らかになった。病院へ出向いたスギアの母親の供述によればスギアは黄金製イヤリング・指輪・ネックレスとノキアブランド携帯電話器を奪われており、被害総額は4百万ルピアとのこと。
クマヨラン署捜査班は集めた情報をたよりにピア・ラマダニの捜査の網を狭めて行った。どうやら中央ジャカルタ市スネンのクラマップロダラム通りが焦点になったようだ。
中央ジャカルタ市スネンのクラマップロダラム?通りにあるコス(借室)でヘッピ・キナンはジミーが来るのを待っていた。ほどなくしてジミーが現れる。ヘッピはジミーから清涼飲料水を受取った。
「いつも通りだな?」
「ああ、あんたの指図通りの調合だ。」
「オレの編み出したこの調合で、女は絶対二三日目を覚まさねえ。」
「もう女と渡りをつけたか?」
「アトリウムスネンで待ち合わせだ。」
「じゃあ、行こうぜ。」
「そうそう、今日はこのKTPを使うんだったな。オレは今日はピア・ラマダニだ。」
ふたりはアトリウムスネンの表で別れた。ジミーはヘッピを尾行し、ヘッピが女を連れ込んだホテルの外で待つ。
約束の場所に人待ち顔の女がいた。身に着けている装身具にヘッピの視線が注がれる。ヘッピは女に声をかけた。「あなたがサリファさん?」
色白で背の高い男に声をかけられて女はにっこりした。トレンディで整った身なり、着ている服は安物じゃない。節度があって男らしく自信に満ちた話し振りにサリファは有頂天になった。ふたりは食事してからアトリウムを出て夜の街をさまよう。そしてヘッピはサリファをホテルに誘った。「じゃあ、そろそろマッサージをお願いしよう。」
「今日はあたし、マッサージプラスプラスの大サービスをしちゃおう。」
「そりゃあ、楽しみだ。」
ホテルチュンパカサリに入ってヘッピがチェックインの手続をした。規定に従ってホテル側がヘッピのKTPを預かる。ヘッピはピア・ラマダニのKTPを渡して108号室のルームキーを受取ると、すぐ部屋に入った。
男と女のプレーで汗をかいたあと、ヘッピは部屋に置かれているコップに持参した清涼飲料水を注ぐ。「さあ、これを飲んで。そしたらもう一戦お相手をしてもらうよ。」
サリファは言われるがままにそれを飲み、ほんの数分で目がトロンとしてそのままベッドにたおれこんだ。ヘッピはゆっくりとサリファが持っている金目のものを物色し、現金75万9千ルピアと携帯電話器を取った上サリファの指から指輪を抜いた。
身づくろいをしたヘッピは静かにドアを開き、ロックしないで部屋から出た。そしてだれにも見られずにホテルの外に出ると、待っていたジミーと合流した。サリファから得た獲物は山分けした。 その二日後、ヘッピは再びマッサージをオファーする新聞広告の一つに電話してアトリウムスネンでの待ち合わせを約束した。そしてスギアという名の女と会い、今度はホテルイルハムドゥアに女を連れ込んだ。同じ手順が踏まれ、ヘッピとジミーはまた収穫を手に入れた。だがヘッピの好運はそれが最期になった。9月20日23時過ぎ、クラマップロダラムのコスに数人の捜査官が侵入してきたのだ。ヘッピはおとなしくお縄についた。
首都警察クマヨラン署の取調べにヘッピが素直に自供したところによると、2010年1月以来ジャカルタだけでなくカラワン、バンドン、ソロなどで30人を同じ手口で毒牙にかけていた。得た収入は5千万ルピアを下らないとのこと。
ヘッピは薬剤師だったことがあり、ジミーに作らせていた麻酔はその知識を使った強力なもので、トランキライザーのエシルガンと睡眠薬のクロザリルを調合したヘッピの麻酔を飲まされた者は最低でも12時間は目を覚まさないという折り紙つきのものだった。
ヘッピの犯罪歴は永く、1983年に横領で有罪判決を受け、1993年には麻酔強盗の結果被害者が死亡したために捕まって5年間の入獄判決を受けた。2000年にはレンタカーの運転手に麻酔をかけて車を盗んだことで逮捕され、ふたたび入獄判決を受けた。そして2007年にレンタカー43台を詐取した罪でまた服役している。
ヘッピはピア・ラマダニの他にもヘリー・サビル、ルクマン、ヘンドラ、ヨピーなどの偽名を持ち、それぞれの名前で偽造KTPをジミーに作らせていた。偽造KTPには一枚15万ルピアを支払っていたとのこと、ヘッピの相方ジミーは故郷のチレボンで逮捕されている。


「畑の垣根が野菜を食う」(2010年10月13日)
中央ジャカルタ市タナアバン市場で行なわれているリフト建設工事用の鉄材がひんぱんに盗まれているため、その工事に雇われている警備員チェチェップ・イラワン28歳は隠れて不寝番を行なった。午前4時ごろ、ふたりの男が工事現場に入ってきたのを見たチェチェップの神経は俄然張り詰める。ひとりは小さくない缶を抱えている。チェチェップは男たちの顔を知っていた。パサルタナアバンブロックBを担当している警備員のE24歳とR26歳だったのである。ふたりは材料置場にある工事用材料を一生懸命引っ張って引き抜くとその缶に詰め込んだ。缶が手ごろな重さになったところで、ふたりは現場の外へ出てオートバイに二人乗りする。缶は後の男に抱きかかえられている。
チェチェップは急いで自分のオートバイに走り、同僚と共に二台でそのふたりを追跡した。そして賑やかな通りに出たところで二人乗りオートバイを追い越すと停止を命じ、ふたりを捕えた。四人はその足で首都警察タナアバン署に向かう。警察で缶の中味が調べられ、リフト建設に使う鉄材16片が発見された。警察の取調べに対し、EとRは故鉄屋にそれを持っていくと15万ルピアになると語り、盗みは5回行ったことを自供した。
それを守護するはずの人間がそれを自分の餌食にすることをインドネシア語で「Pagar makan tanaman.」と言う。


「墓堀夫婦殺害事件」(2010年10月22・〜26日)
欲と羨望のからんだ人間の憶測には節度がない。何の証拠もないのに誰かがさもありなんという人の羨む話を思いつき、その話を聞く者がみなそれを真実だと思い込む。こうして噂がひとり歩きし、そこから利益を得ようとするアブナイ人間がやってくる。大勢の人間の口から同じ話を聞けばそれが真実になる、というのが口承文化における真偽判断の規準であるようだ。
「墓堀り人足はいい稼ぎになるってよ。一日百万ルピア以上の収入があるって言うじゃねえか。」 「でもトゥガラルル(Tegal Alur)の公共墓地に住んでる墓守りはそんな金持に見えねえよ。家はオンボロだし、着てるものは質素きわまりなしだ。そんな金持だったらどうしてもっといい暮らしをしねえんだろう?」
「そりゃ決まってるさ。金持だと思われたら乞食とやくざが集まってくらあ。貧乏な風をしてりゃ、世間のいざござに巻き込まれねえと思ってるんだ。あのオンボロ家の屋根裏にゃあ、おめえ、金銀宝石がうなるほど眠ってらあ。」
西ジャカルタ市カリドルス(Kalideres)郡トゥガラルル公共墓地は民家のあるエリアからおよそ5百メートルほど離れている。その周辺に住居はなく、人里離れた寂しい場所という形容がふさわしい場所だ。その墓地エリアの中に質素なつくりの家が一軒だけある。墓守がそこに住んでおり、墓地内の清掃と墓地の管理が墓守の仕事だ。そして必要に応じて墓堀も働く。亡くなった親族の埋葬をする遺族たちが払う不祝儀は概して気前がよい。それがこの社会が持っている金銭観であるのは言うまでもない。
トゥガラルル公共墓地の一軒家にはイミン・オチ57歳とその妻ウミ42歳が住んでいる。ふたりが墓守の仕事を得てそこに住むようになってもう10年。イミンが墓守になる前は野菜を作って売っていた。学校教育をまったく受けていないイミンにとって、墓守の仕事を得たのはまったく好運だったと言える。ウミはイミンの第二妻で、第一妻は別居して寝たきりの毎日を送っている。イミンはトゥガラルル墓地のキリスト教墓地エリアで墓堀人足をもしており、ウミは墓地内で物売りをしている。ふたりの息子ムスリミン24歳もこの墓地に職を得ている。両親は一日およそ100万ルピアの収入を墓地での仕事から得ている、とムスリミンは言う。
2010年9月15日朝6時過ぎ、ムスリミンは仕事仲間とふたりで両親の家を訪れた。ところが家の表ドアは開け放たれ、家の中は足の踏み場もない状態になっており、複数の人間によって荒らされたことがひと目で見て取れた。家の中に駆け込んだムスリミンの嗚咽がはじけて屋外に流れてきた。仕事仲間が表から覗き込むと、手足を縛られたイミンとウミの死体が中の間で血だまりの中に横たわっていたのである。
イミンはサロンだけを身に着けてうつぶせに倒れており、後頭部がひどく割られていた。ウミの喉には扼されたあとがあり、やはり後頭部が破損していた。
家の中は乱雑の極みで、ありとあらゆる引き出しが開けられて中味が周辺に散乱し、家具も少しずつ動かされたあとがあった。ムスリミンが両親の衣服を調べたところ、父親のズボンのポケットから425万ルピアの現金が出てきた。賊が夫婦を殺害して家の中を荒らしまわった理由が腑に落ちなかった。物盗りであるなら、どうしてその現金が残されていたのだろうか?首都警察カリドルス署はこの事件を怨恨もしくはトゥガラルル墓地でのイミンの立場に取って替わりたい人間が犯したものではないかと見て、その線から捜査を開始した。被害者ふたりの死体が物語っている虐待の痕から、犯人は複数であるとの見解を捜査官は持った。現場検証のあと、警察は現場にあった草刈りフォーク、なた、ビニールひもなどを証拠品として保管した。
9月21日から25日にかけてカリドルス署は犯行グループ8人のうち5人を別々の場所で逮捕し、さらに3人に指名手配をかけた。逮捕された5人の取調べから、この事件の主犯はそのうちのひとりヌルディアンシャであったことが判明した。
トゥガラルル(Tegal Alur)公共墓地の墓守が大金を家の中に貯えていることを昔から聞き知っており、最近の生活費の高騰やオートバイローンを支払う金が足りないために、墓守が持っている金を手に入れようとして行なったのがこの殺害事件の動機だったことがヌルディアンシャの自供から判明した。ヌルディアンシャは9月13日に犯行を計画し、仲間を誘ったところ7人が乗ってきたとのこと。
9月15日深夜、8人が墓守の陋屋に押し入り、イミンが格闘に強いという話なのでまずイミンを始末した。数人がかりでイミンを押さえつけると重い灰皿で後頭部を殴って動けなくしたが、イミンはすぐに動かなくなったそうだ。そしてウミに家の中でうなっている金銀宝石の隠し場所を言わせようといたぶったものの、「そんなものはない」の一点張りに手を焼いてウミの命も消し去った。
そのあと、8人がかりで狭い家の中を隅から隅まで探し回ったにもかかわらず、結局手に入ったのは現金40万ルピア、携帯電話器2個、そしてイミテーションの装身具だけ。どうやら8人はだれひとりとしてイミンのズボンのポケットを探らず、あると思い込んだ金銀宝石を探し回ったようだ。ふたりを殺してまで得た収穫はわずかそれだけで、犯行に加わった仲間にはひとりあたり3万ルピアが分配された。世間の噂を丸ごと信じたヌルディアンシャの愚行と言えばそれまでかもしれないが、世間とほとんど関係を持たずに墓地の中で暮らしていたイミン夫婦も自分たちに関して世間が噂している根も葉もない話に何らかの対処をしていれば、こんなことにはなっていなかったかもしれない。


「道路脇にひき逃げ死体」(2010年11月25日)
2010年9月26日付けコンパス紙への投書"Jenazah Tabrak Lari di Selokan"から
拝啓、編集部殿。東ジャカルタ市ラワマグン(Rawamangun)ゴルフ場表のラワマグンムカ通りアタクワモスク入り口方向とラワマグンキャンパス教官官舎方向への三叉路で自動車同士あるいは自動車とひとの交通事故が頻繁に起こっています。
2010年9月4日土曜日に起こったひき逃げ事件では、被害者は死体となって道路脇の側溝に転がっていました。そのエリアにはゼブラクロス、警告ライン、点滅灯、注意標識などの設備が街頭の下に備えられなければなりません。
アフマディヤニ通り(Jl Ahmad Yani)のウタンカユ(Utan Kayu)方面から自動車はたいてい高速で走りこんで来るし、おまけにその三叉路付近は夜街灯が消えていることが多く、それが事故の危険を高めているのです。関係当局は早急に事故予防の対応を取ってください。またその付近を通行するひとや車両は他の通行人や通行車両と相互に尊重しあい、また不測の事故を防ぐよう注意しましょう。[ 東ジャカルタ市プロガドン在住、モハマッ・ロシッ ]


「路上犯罪が多発」(2010年12月10日)
首都圏では相変わらず路上犯罪が活発で、首都警察中央ジャカルタ市警が2010年10月27日から11月10日まで行った特別取締りでは43人が現行犯逮捕されている。路上犯罪者の年齢層は19歳から25歳というレンジのよう。
犯行の多くは二輪車盗難・侵入盗・すり・ひったくり・自動車サイドミラー強奪などで、侵入盗は12ヶ所で15人を逮捕した。盗まれたのは携帯電話器や装身具。二輪車盗難はメンテンとサワブサール地区で4人が逮捕され、盗品二輪車9台とSTNK11枚が押収されている。犯行手口は道端に停めてある二輪車をTレンチで始動させて盗む方法。二輪車盗難現行犯のひとりは捜査員に鎌を振るって抵抗したため射殺された。サイドミラー強奪については、自動車オーナーや運転者は保険で処理しようとする傾向が高く、事件を警察に届け出ることがほとんどないとのこと。
路上犯罪の多発場所はメンテン・チュンパカプティ・サワブサール・タナアバンとのことで、中央ジャカルタ市警長官は新たな犯罪発生センターが生まれているようだ、とコメントした。


「屍臭のする家」(2010年12月24日)
中部ジャワ州ウォノソボ県カプンチャル村ソントナヤン部落の一軒の家で強い腐乱臭がするのを隣人たちが気にした。その家は地元民ニコラス・ブディカス・イクサンの家だが空き家になっている。臭い臭いという声が増えてきたので、部落長のスワンディも捨てておけなくなった。
その家の隣人たちと語らって様子をのぞきに行ったところ、なるほど台所から強い臭気が漂ってくる。台所の様子を見ると、少し土が盛り上がっているところがある。ともあれ、勝手に他人の家に入って調べるわけにいかないから、部落長は警察に届け出た。
警察が取調べ令状を持ってくれば、部落民はみんなその手伝いにために大手を振ってその台所を調べることができる。警察の指図で部落民がその家の台所の不審な場所を掘ろうとしたが、臭気のいちばん強い場所はセメントで固められていた。おかげでセメントを割るのに苦労した。セメントの下は50センチほど掘られており、そこに横たわっていたのはグリーンの長袖シャツにブルージーン姿の若い女の腐乱死体だったのである。死体の身元を知っている者がいた。「この娘はジョクジャ国立大学に通っている東クムクス部落のエカ・セプティヤナだで。」
隣人のチャドゥッ40歳は合点した。2週間ほど前、その家から「助けて!助けて!」という声が聞こえた。しばらくしてから、その家にいるニコラスの息子フェリ21歳に会ったときその声のことを尋ねると、「ありゃあ何でもねえよ。ふざけてただけだ。」とフェリは答えた。それからしばらくしてフェリがチャドゥッの家に鍬を借りに来た。台所を直すためだとフェリは言った。たしかにその家で台所に手を入れていたので、チャドゥッはまったく疑いを抱かなかった。
警察は遺体を収容して検死報告を作るために地方総合病院に送った。一方、家族に行方不明者が出ているとの届出を出していたエカの家族にシャツと腕時計を見せたところ、遺体はエカに間違いないことが明らかになった。殺人容疑者のフェリはもう何日もその家に姿を見せておらず、ニコラスもいなくてその家は空き家になったままであり、警察は参考情報を求めて実家に帰っているニコラスの妻とフェリの弟アディから話を聞いたところ、ニコラスは詐欺事件でバンジャルヌガラ警察に拘留されていることが判明した。しかしフェリの行方は杳として知れない。


「流れ流れてアフリカへ」(2011年1月17〜20日)
首都警察管区で2010年に起こった犯罪事件の中では二輪車盗難が8,649件でトップの座に位置し、総犯罪件数25,239件の34%を占めている。一年を通じて毎日23〜24台が被害に遭っている計算だ。次に多いのは侵入盗の5,735件、そして麻薬禁制薬物犯罪4,759件、四輪車盗難1,835件、重暴行1,538件という順番になっている。
2010年にはタングランのスルポン地区で平均ひと月当たり25件の二輪車盗難が発生したし、西ジャワ州カラワン県では年間に622件の二輪車盗難が起こった。デポッ市では年間682件の自動車盗難があり、検挙できたのはわずか40件で6%しか事件が解決されていない。首都警察管区全体でも自動車盗難事件の検挙率は10%を切っている。
二輪車盗難の一般的な手口は、駐車しているオートバイのエンジンキー穴にT型レンチを差し込んで押しながら右に回すという方法。インドネシアでkunci Tと呼ばれているこのツールは、もちろんT字の下端がマイナスドライバーに改造されており、ソケットではない。今やこのクンチTはオートバイ泥棒の必需品になっている。泥棒はこの伝家の宝刀を使ってわずか数秒で他人の二輪車を盗んで行く。
デポッ市パンチョランマスの保健所に勤めるヘリは2010年12月30日午前7時半に勤め先に到着し、自分の職場から10メートルほどしか離れていない救急車の脇に愛車のヤマハミオを駐車した。同僚のアフナウィが午前8時15分に出勤してきたとき、ヘリのヤマハミオは既に姿を消していた。駐車番のディスムは保健所にやってくる市民のオートバイの駐車整理を行うのに忙しく、駐車場は一ヶ所の出入り口を通って出入りするようになっているというのに、ヘリのヤマハミオがいつだれに持ち去られたのかまったく気が付かなかった。ほかの保健所職員たちもそれぞれの仕事に没頭しており、泥棒はどうやらそんなタイミングを計って犯行を行なったにちがいない。保健所職員のひとりは、二輪車盗難事件はこれで4度目だ、と語っている。
デポッ市パンチョランマス保健所はカルティニ通りとプムダ通りの角にあり、保健所構内も保健所外の道路一帯も常に人通りがある繁華な場所であるため、不審な振舞いに対しては目撃者があっていいはずだが、犯人は大勢の通行人や一般市民からわずかな疑惑すら受けないで犯行をおこなっている。「常識では考えにくい、まるで手品のような腕前だ。」と職員のひとりはコメントしている。
ヘリは保健所で来診者受付の仕事をしており、毎朝保健所が開く前に出勤してくる。そんな保健所内の様子を観察した上での犯行にちがいない、とヘリは確信したが、ローンの終わっていないヤマハミオが消えてしまったいま、どうすることもできないでいる。
デポッ市第一プルムナス住宅地区に住むタタンも、マグリブの礼拝にモスクへ行ってオートバイを盗まれた。タタンは自分のオートバイにダブルロックを設置していたというのに、それでも礼拝をしていた10分ほどの間に盗まれてしまった。
ほとんどガス欠に近い状態でオートバイを駐車していたために幸運に見舞われたラッキーなひともある。ベジ郡ククサン町のコスに住んでいるヨキもオートバイを盗まれた。ところがデポッと南ジャカルタを結ぶ道路に乗り捨てられているのを警察が発見してくれた。燃料切れのおかげで盗まれた二輪が手元に戻ってきたヨキは大喜び。デポック市で二輪車盗難事件の多いのはベジ郡とチマンギス郡で、ベジ郡は南ジャカルタ市を北に抱き、市東部にあるチマンギス郡はブカシ県と東ジャカルタ市に接している。
二輪車盗難のほかの手口は強奪で、赤信号で停まっているとき、それどころか路上を走っている最中にも犯行が行なわれる。ひとりでオートバイを走らせていて、交通のまばらな場所へきたときいきなり二人乗りのオートバイが接触せんばかりに近寄って来るので、停止して怒鳴りつけようとしたとたんに後に乗っていた男が拳銃を突きつけ、運転席を横取りしてそのままオートバイと共に姿を消すという事件は決して稀なものではない。
全国で警察がオートバイを対象にした路上検問を頻繁に行なっているのは、ヘルメット不着用・無免許・STNK不携帯・車両整備不良というような順法精神に欠けるイージーな二輪車ライダーに仕置きをしようという目的もあるようだが、もうひとつきわめて盛んに発生している二輪車盗難の取締りも目的にしているようだ。
バンテン州タングラン市警は2011年1月4日、車両証明書類なしに路上を走っていたオビとアフマッのふたりを逮捕した。取調べでそのふたりは盗品二輪車を故買屋に届ける運び屋であることが判明し、ふたりの自供で故買屋イスマイルの自宅を急襲する作戦が立てられた。ふたりに盗品バイクをイスマイルの自宅まで走らせ、警察はふたりを見張りながら尾行する。タングラン市カラントゥガにあるイスマイルの家にはウマルの衣料品工場の倉庫に送り込むばかりになっているオートバイが9台用意されていた。逮捕されたイスマイルは盗品バイク故買屋として前科があり、警察ともなじみになっている男で、子飼いの二輪車泥棒が5人いて、一日4〜5台のバイクを盗んでくる。イスマイルは警察に協力し、倉庫で盗品バイク受領のアレンジをしているアフリカ人、ドゥコール・マハマドゥに電話して、今から5台を納品すると連絡した。警察は別の三人の運び屋を加えて5人に盗品バイクをウマルの倉庫に届けるよう命じ、再びその後を尾行する。西ジャカルタ市プタンブラン郡KSトゥブン通りの倉庫に着くと、ウマルの従業員アルディが納品を受取った。倉庫には従業員が6人いて、盗品バイクを分解し、傷んでいる部分はペンキを塗りなおしてからベニヤ板の木箱に二台ワンセットで梱包する仕事を行なっている。倉庫には既に木箱梱包されたものや、分解されたもの、そして新たに届けられたものなどが大量に置かれており、その数は92台に上った。木箱の外側にはミスター・マディ・タッセンバドと記され、中味の台数が書かれている。タングラン市警は倉庫にいた6人と工場オーナーのウマルを捕えて取調べを行なった。
取調べによって、木箱梱包された盗品オートバイは西アフリカのブルキナファソに輸出される予定であり、この一味は既に4ヶ月間盗品輸出事業を行っていたことが明らかになった。更にこの輸出ビジネスでは、ブルキナファソ国民マディ・タッセンバドが買付人であり且つ輸入者であって、この二輪車盗難シンジケートのボスでもあることが判明した。マディはインドネシアとブルキナファソを往復しており、ドゥコール・マハマドゥはブルキナファソの人間で、インドネシアに在留して盗品バイクを買い上げる役割を果たしていた。警察はそのふたりをも逮捕したが、ドゥコールはインドネシア国籍を取っていると主張している。
この盗品バイクアフリカ向け輸出シンジケートは、きわめて統制の取れた組織行動と巧みに練られた輸出活動を行っており、既に何回も輸出がなされたものと見られている。このシンジケートには二輪車の窃盗行為をする者がいない。盗むのは外部の人間であり、かれらが盗んだ二輪車は運び屋が受取って故買屋に届けることにしており、警察が窃盗犯を捕まえても故買屋の情報は何も入ってこないようになっている。シンジケートは故買屋をタングランだけでなくジャワ島北岸街道沿いの要所にも置いて輸出品の仕込みを手広く行なっていたようだ。そのように各地に置いた故買屋を通して西ジャカルタの倉庫に集められた盗品バイクは巧みに梱包され、衣料品製造工場を営むウマルによって衣料品と同梱されて輸出される。
警察はこの一味について、STNKなど車両証明書類やナンバープレートの偽造、さらに輸出手続の中で公職者との癒着があるのではないかとの疑惑、そしてマディとドゥコールについては麻薬とのふたまたを掛けているのではないかとの見方から余罪を追及するかまえ。
路傍で駐車中や家庭に置いてあったオートバイが盗まれるケースが多いが、中にはそんな泥棒行為でなくリース会社を通して新車を購入し、それをイスマイルに売って大儲けをしていた者があることをタングラン市警本部長が明らかにした。「頭金50万ルピアをリース会社に払って二輪車を手に入れ、それをイスマイルに売り渡す。イスマイルから5〜6百万ルピアの金が手に入る。そのあと、リース会社に盗難被害を届け出るというやりかただ。支出した元手に対する利益は結構大きい。」
市警本部長はこの手口を詐欺と呼ばず、盗難と呼んでいる。


「催眠術犯罪の新らしい手口」(2011年1月25日)
普段住宅地区を回って巡回マッサージサービスを売り歩いているハムダナ(36歳、女性)はその日、隣人のヌルが息子を中央ジャカルタ市スネンのスポーツセンターにあるプールで水泳をさせると言うので、一緒についてきた。ハムダナは北ジャカルタ市プンジャリガンのムアラバル地区に住んでいる。
ヌルが息子を連れてプールに入って行ったので、ハムダナはプールの外でふたりが出てくるのを座って待っていた。そこに体のがっしりした、髪を短く刈上げた男がひとりやってきて、ハムダナの背中をポンとはたき、ハムダナに話しかけた。「ぼくはアントンと言う者で、タンジュンプリウッ港の船で働いています。・・・・」
ハムダナは意識がうすぼんやりしてなんだか夢の中にいるようで、しかしアントンと名乗る男は礼儀正しく魅力的に思えて、アントンのリードにもたれかかる心地よさがハムダナの心を満たした。アントンはハムダナを誘って屋台のソトを食べる。そしてスネンショッピングセンターにハムダナを伴って向かった。一階ブロック4にある貴金属店に入り、恋人か夫婦のように振舞う。「ハムダナの好きなものを買ってあげるから、お気に入りのものを選んでごらん。」
ハムダナはカウンターのショーケースに並べられたさまざまな貴金属製装身具を見比べながら、どれがいいかな・・・と品定め。ハムダナがじっくりと商品を観察している一方でアントンは店員に黄金製ネックレスとブレスレットを出させて身に着け、鏡に向かってポーズする。すると突然アントンの携帯電話が鳴った。「ハロー、うんうん。ああそう、駐車場だな。じゃあそっちへ行くからちょっと待ってて。」
アントンはハムダナの肩に手をあて、優しそうな声としぐさでハムダナに言う。「友人が駐車場で待ってるんだ。ちょっと行ってくるから、ハムダナはここで待っててね。よく似合うお気に入りのものを選ぶんだよ。」黄金製のネックレスとブレスレットを身に着けたままアントンは店を出て、そして二度と戻ってこなかった。
何時間たっても戻ってこないアントンとぼんやりと貴金属製装身具を見ているハムダナの様子に店主は不審を抱き、ハムダナを問い詰めはじめた。ご主人はいつ戻ってくるのか、と。「ええー?あたしはまだ未婚よ。」
店主はハムダナを警察に突き出し、アントンが持ち逃げした商品の損害額は5千万ルピアだと訴えた。店側は防犯カメラの画像を警察に提供して捜査への協力を惜しまない姿勢を示している。警察はこの事件を狂言泥棒かハムダナを催眠術にかけて利用した事件なのかまだ断定できないでおり、ハムダナに対する取調べは継続している。一方ハムダナは、アントンと一緒の間夢うつつの状態で、身体から力が抜けてアントンの言うがままにしたがっていた、と取調べに答えている。


「強盗アンコッ」(2011年1月26〜28日)
朝の慌ただしい通勤ラッシュ時間。道端で客待ちをしている小型乗合いバスアンコッ(angkot)の中に、乗客に強盗をはたらくことを目的にしているものが混じっているのをいったいだれが想像しえただろうか?おまけに客室内には4人の乗客が見知らぬ者同士といった風情で乗っているのだが、それは被害者をおびき寄せる罠だったのである。フィラ(40歳、女性)にとってこの事件はまったく予測の枠を超えていた。
奇しくも、その事件は2010年最後の出勤日である12月31日に起こった。華やかなるべきその夜の年越しと翌日元旦のプログラムを、フィラは恐怖と苦渋の中で過ごさなければならなくなった。とはいえ、大多数のインドネシア人にとって年末〜新年というカレンダーの移り変わりは単に西洋的風習に倣って祭りを楽しむ機会のひとつでしかなく、仕事納めやそれに続く年越しそして年賀の諸活動といった個人の内面的な感興に関わるものは何もないのだが。わたしが今から40年近く前にはじめて体験した熱帯の元旦も、実にあっけらかんとして何もない、ただただ静かで底抜けに陽射しの明るい朝だったことを記憶している。なにしろ1月1日は数ある国民の休日のひとつでしかなく、その翌日は平常の日々が待ち受けているのだから。閑話休題・・・
デポッ(Depok)市ベジの自宅から南ジャカルタ市ブロッケム(Blok M)にある国有郵便会社の郵便局に出勤するため、フィラはいつものように午前6時45分に家を出て、ヌサンタラ通りの道路脇に停まっているアンコッのひとつに乗った。
フィラはククサン〜デポッターミナル間をルートにしているD04アンコッでターミナルに行き、そこからブロッケム行き中型バスに乗るのだ。フィラがそのアンコッに乗り込むと、車はすぐに発車した。そのアンコッがマルゴンダ通りとアリフラフマン通りの三叉路に差し掛かったとき、フィラの左右に座っていた男ふたりがフィラを取り押え、他のひとりが銀色のピストルを取り出して銃口をフィラに向けた。フィラの左右の男たちは「奥さん、動くんじゃねえ。落ち着け。オレたちゃあ金が必要なだけだ。」と言いながら、フィラの目と口をガムテープでふさぎ、そして手足をガムテープで縛って車内の床に横たわらせたのである。
フィラが手にしていたハンドバッグは奪われ、強盗たちはその中にあった財布とBTN銀行ATMカードを手に入れるとフィラを威してPIN番号を言わせた。目と口を塞がれたフィラは、車が二回停車して賊たちが金を引き出したことを記憶している。正午前に車はどことも知れない場所に停まり、フィラはアンコッから別の車に移された。賊の男たちはフィラに、「オレたちゃあシンジケートだ。あんたは余計なことをしちゃいけねえよ。あんたの家の住所と勤め先はもう記録されてる。警察に届け出ようなどと考えねえほうがいい。そんなことをすりゃあ、あんたは死ぬぜ。」と威嚇している。別の車に移されたフィラはその車で年越しの夜を送り、2011年1月1日午前2時ごろ、車から下ろされた。フィラを捨てた強盗団はいずこへとも知れず走り去った。
ブカシ市南タンブン郡ラワカロン部落にあるハファナスポーツクラブ警備員と近隣住民の若者たちは年越しの夜を、爆竹を鳴らし花火を上げ、紙ラッパを吹いて愉しんでいた。午前2時ごろ、そのスポーツクラブ裏の空地に入ってきた一台の車にかれらは注意をひかれた。若者たちは、車の中から何かが下ろされて地面に置かれたのを遠目の闇の中に見た。それから車はそそくさとその場から去って行った。車から降ろされたものはいったい何なのだったのだろうか?
若者たちは車から下ろされたものに興味を引かれた。それは強盗アンコッの被害者フィラでだったのである。フィラの涙ながらの訴えを聞き、かれらはブカシ警察タンブン署に通報した。タンブン署はフィラから事情聴取したあと、事件の発生場所であるデポック警察に事件捜査を引き継いだ。フィラのBTN銀行口座から盗まれた金は1千5百万ルピアにのぼり、フィラ個人の金と郵便局の金が混じっていた。
実は、小型乗合いバスアンコッを使った強盗事件はもう何度も起こっている。デポッ市では2010年8月から数えてフィラの事件が三度目に当たる。被害者や目撃者の証言から犯行に使われたアンコッの車体に記されているさまざまなアイデンティティが割れているのだが、警察が調べたかぎりではそれらの証言に一致するアンコッが見つからない。さすがに強盗団は、アンコッを盗んで犯行後乗り捨てるような、すぐに足のつきそうな手は使っていないようだ。犯行に使われたアンコッは確かにホンモノとして平常は稼動している車で、それを犯行前に塗り替え、ルート表示からナンバープレートなどのアイデンティティをすべて別のものに替えた上で使っている印象が強い。仕事が終われば偽装アイデンティティはすべて消し、またもとの姿にもどして何食わぬ顔でデポッ市の路上を走っているにちがいない。
アンコッを使った強盗事件の増加にインドネシア大学犯罪学専門家は、手口・ターゲット・そして被害者への影響などから見てこの種の犯罪がますます巧妙なものになってきていることは疑いもない、とコメントした。市民も自衛的予防行動を取らざるを得ない。特に若い女性の間で警戒心が強まっており、「空いているアンコッには乗らない」「混んでいても他の乗客が降り、自分以外に女性の乗客がいなくなれば自分もすぐに降りる」といった対応を行なっている乗客が増えている。


「アンコッ強盗」(2011年1月31日)
東ジャカルタ市チリリタンとデポッ市チマンギスのムカルサリを結ぶルートを走るアンコッT11でひと稼ぎしようとした6人組の強盗団があった。この6人はズルへルマンの運転するプレート番号B2295VWの車にチリリタンから乗った。5人が客室に入り、ひとりは運転席の隣に座ったが、ズルへルマンにその6人がグループであるかどうかはわからない。
強盗団はチブブルの三叉路まで来たとき、行動を開始した。ときは2011年1月9日21時ごろで、大通りの交通量がさびれ始める日曜日夜の時間帯だ。 賊たちを除けばそのアンコッの中にいるのはクラマッジャティから乗った男ふたりと運転席にいるズルへルマンの三人だけ。結局その三人が強盗団のターゲットになった。
ズルへルマンの隣に座っていた男が刃物を出して、突きつけてくる。驚いたズルへルマンは車を走らせながら口先でその男をいなしつつ、隙を見て運転席のドアを開いて飛び降りた。
そのとき客室でも5人の強盗がふたりの乗客に襲いかかっていた。トヨ27歳とスキマン22歳は賊に抵抗したため、トヨはこめかみを切られ、スキマンは頬に傷を負った。トヨが3万ルピアの入った財布を奪われ、次にスキマンも・・・というとき、ズルへルマンが車から飛び降りたのだ。車内にいた加害者も被害者も蒼白になった。
車はしばらく滑らかに走ってから、ボゴール街道の交通標識にぶつかって停まった。衝突のショックをすぐに乗り切った強盗団は咄嗟に車から飛び出すと、ボゴール方面に向かって「ミンタトロン!ミンタトロン!」と叫びながら走り去った。
近くで事故を目撃した路傍の腕時計売りは、記者にこう語っている。「アンコッの運転手がまだ走ってる車から飛び降りてジャカルタのほうに走って行った。そのあと車は標識にぶち当たって停まった。すると中から6人の男たちが『助けてくれ!助けてくれ!』と叫びながら運転手と反対の方向に走って行った。
最初は交通事故だと思った。車内で強盗が行なわれていたなんて想像もしなかったよ。そのあと車内から血だらけの若いのがふたり出てきて、強盗事件だとはじめてわかった。付近の住民が被害者を病院に連れて行ったり、警察に連絡したり、たいへんだったよ。」
ミンタトロン(Minta tolong.)とは助けを求める際の常套表現で、強盗団はストリートジャスティスを怖れて被害者のふりをしたようだ。犯罪者に対する民衆の集団リンチは警察よりも怖ろしいものであり、路上犯罪者たちは犯行後に自分が群衆に犯人と見られないようにするため、さまざまな手を用いている。Maling teriak maling. というのもそのたぐいである。


「犯罪都市ジャカルタ」(2011年2月1〜14日)
2010年首都警察管区では9分56秒に一件の犯罪が発生した。総犯罪件数は55,006件で、一日平均150件という計算になる。2009年は発生件数がもっと多く、9分21秒に一件発生していた。件数が減少したから安全度が増したのかといえばそうではなく、その減り方よりはるかに強い勢いで凶悪化が進んでいる。賊は火器・刃物を使っていともイージーに被害者を攻撃するのである。まるで虫けらのように。
わたしがインドネシアで暮らし始めたころ、盗難事件の多くは賊が被害者に姿を見られないようきわめて用心深くことを行い、強盗事件の多くも被害者が素直に金目のものを渡せば賊はおとなしく去って行くという実態を見聞して、犯罪は多発しているものの暴力性の希薄な実情にとても信じられない思いを抱いたものだ。ごく最近までそのようなビヘイビヤは続いていたように思われるのだが、どうやら実質は凶暴悪質な犯罪手法への移行が進んでいたにちがいない。
2010年に対前年比で増加の大きかった犯罪カテゴリーのトップは殺人だ。2010年の発生件数は79件で、5.1%の増加となった。次いで二輪車盗難の8,649件は対前年比4.9%アップ。そして賭博行為が974件で4.1%増えている。犯罪多発はより多くの一般市民が犯罪の犠牲者になることを強いる。2010年は10万人中248人が犯罪の被害者になった。地区別に見ると、中央ジャカルタ市で発生した犯罪件数は全体の29.3%を占めて最大であり、二位は東ジャカルタ市の22,3%だった。
犯罪発生件数は家屋建物内よりも路上でのものが圧倒的に多い。そして犯罪多発場所というものが存在している。首都警察管下の各市警県警が報告しているアブナイエリアは次のようなものだ。
北ジャカルタ市: プンジャリガン(Penjaringan)郡、コジャ(Koja)郡、パドゥマガン(Pademangan)郡
中央ジャカルタ市: スネン(Senen)五叉路、コカコーラ交差点、パサルバル(Pasar Baru)前、ジャカルタフェア(PRJ)会場周辺のブニャミン・スエブ(Benyamin Sueb)通り
東ジャカルタ市: ドゥレンサウィッ(Duren Sawit)郡、マカッサル(Makasar)郡、チャクン(Cakun)、プラムカ(Pramuka)通りパサルブルン(Pasar Burung)、ジャティヌガラ(Jatinegara)のタマンフィアドゥッ(Taman Viaduct)
西ジャカルタ市: コタ地区(クタパンKetapang通り・ガジャマダGajah Mada通り・ハヤムルッ(Hyam Wuruk)通り)、チュンカレン(Cengkareng)〜カリドルス(Kalideres)地区、タンジュンドゥレン(Tanjung Duren)〜グロゴル(Grogol)地区、べオス(Beos)駅前
南ジャカルタ市: ルンプッ市場(Pasar Rumput)前、シマトゥパン(TB Simatupang)通りの高架道路下、ルバッブルス(Lebakbulus)〜チャワン(Chawang)、チランダッ(Cilandak)郡
タングラン市・県: ジャティウウン(Jatiuwung)工業団地、カラワチ(Karawaci)郡、スルポン(Serpong)郡、クラパドゥア(Kelapa Dua)郡、パサルクミス(Pasar Kemis)工業団地、ポンドッカレン(Pondok Aren)郡、トゥルッナガ(Teluk Naga)郡、ネグラサリ(Neglasari)のスカルノハッタ空港裏門M1後背
ブカシ市・県: 東ブカシ警察署管区特にラワルンブ(Rawalumbu)、チカラン(Cikarang)、ジャティアシ(Jatiasih)
デポッ市: ベジ(Beji)郡、チマンギス(Cimanggis)郡
アブナイ場所の共通点は地区一帯が暗く寂しいこと、そして異なる行政区域に隣接していること、加えて新規住宅地区が開発されているエリアも犯罪者の格好のターゲットになっている。異なる行政区域に隣接しているということは、警察の縄張り意識を犯罪者が巧みに利用できる条件を備えていることを意味している。犯罪者が逃亡をはかるときにその条件がかれらを助けるのである。郊外でモダンな住宅地区と村落部が同居しているエリア、あるいは工業団地が設けられて発展しているエリアをも犯罪者は容赦なくターゲットにする。
タングラン市警本部長は、二輪車盗難や強奪はチルドゥッ(Ciledug)、チポンド(Cipondoh)、ジャティウウン、カラワチが管区の四大多発地区だ、と語る。チルドゥッは南タングラン市とジャカルタに隣接しており、チポンドもジャカルタと境界を接している。タングラン県警本部長は、二輪車盗難や強奪のハイリスク地区はスルポン、クラパドゥア、パサルクミス、ポンドッカレン、トゥルッナガの5大エリアだ、と言う。デポッ市もベジとチマンギスがアブナイ地区だ。チマンギスはブカシ県・東ジャカルタ市・ボゴール県に境を接していて、犯罪者の逃走経路はバリエーションに満ちている。ベジも南ジャカルタ市に接しており、それらの地区で犯罪者を追いかける警察官に困難が生じる。ベジでは毎日例外なく犯罪被害の届出が入ってくる。その二郡は二輪車盗難・侵入盗・強盗が管区内の他地域よりはるかに多い。ベジ郡はインドネシア大学やグナダルマ大学に近い地の利から、学生用コスや貸室がたいへん多い。そこが犯罪者のオイシイ標的になっているのは、地元生活共同体が他の場所のようにしっかり形成されておらず、下宿学生を含む住民たちは他人のことや地域のことにあまり強い関心を抱かないためだ。
都内では、南ジャカルタ市TBシマトゥパン通り沿いが犯罪多発場所になっている。この道路は東ジャカルタ市にまで続いており、また外環状道路をはさむ道であって数多くのアクセス路に接続している。この条件が犯罪者の逃亡を助けている。南ジャカルタ市はチランダッ郡とパサルミング(Pasar Minggu)郡で犯罪発生のリスクが高い。スリ・ひったくり・二輪車盗難はそれらの地区で日常茶飯事だ。中央ジャカルタ市はコカコーラ交差点が相変わらず犯罪多発地点になっている。そこは暗く寂しい場所の典型例にちがいない。ITCチュンパカマス表は犯罪発生が低下している。西ジャカルタ市はチュンカレンとタンジュンドゥレンで二輪車盗難が多い。チュンカレン郡には暗く寂しい場所がたっぷりある。カプッ(Kapuk)町の倉庫街で深夜帰宅途上にあったサラリーマンが二人乗りオートバイに前進を阻まれ、オートバイと所持していた現金10万ルピアを奪われた。
このようなジャカルタの犯罪多発の原因は何なのだろうか?インドネシア文化の中に他人の所有権を尊重する傾向が薄いことをまず文化論として掲げてよいだろうと思う。
所有権・決定権が自分にないものごとをいとも容易に他人に対して処置していくインドネシア人の行動習慣は、所有権よりも執行権が上位に置かれている文化であることをわれわれに感じさせてくれる。要するに、そのときそれを取り扱っていた自分が必要に応じてそれを処置してかまわない、という理解であり、本来の所有権者あるいは決定権者に尋ねるようなことはまず起こらない。もちろんそのものごとはケースバイケースであって、自分の雇い主の自動車を雇われ運転手が好き勝手に売り払って構わないということではなく、その所有権者と自分との関係、そしてものごとと両者との関係といった中で発現することがらなのだ。駐車禁止標識が立っている場所に駐車番がいて、駐車番が運転者に車を止めて構わないと言えば堂々と駐車標識に対する違反がなされるのもその例のひとつ。決定権もない現地人スタッフが自分の担当業務内のことがらを自分の好き勝手に決めていくことに首をひねっている外国人駐在員も多いことと想像するが、それはいくつかの要素が関わっているとはいえ、その執行権優位という価値観が影を落としている現象だとわたしは見ている。
ジャワの田舎へ行けば、どんな陋屋であれ空き家に無断で棲み付く人間が必ずいる。バリでもそうだ。仕事を求めてやってきたエリアに住む場所がなく、あるいは借家しようにも金がなく、そしてたまたま空き家があり、そこに入り込んだ人間に苦情してくる者がいなければそこに棲み付く。周囲にそれを見ている隣人たちがいくらたくさんいても、だれも文句を言わなければその無断占拠は公然と行なわれるのである。インドネシアの犯罪多発に関わっている文化的価値観のひとつがこれだろうとわたしは思っている。
古来一般的に原始的共同体社会では、ムラの構成員はたいてい血縁関係にあり、その構成員である兄弟やファミリーたちの間でのものごとの対処のしかたには、ほとんどが共同のものという理解がなされるのが普通だった。つまり「他人のものはオレのものであり、オレのものは仲間みんなのものだ」という理解である。インドネシア文化の中にある生活原理にいまだにそれに根ざした価値観が多く、その原理が実践されしかも称揚されている実態を、この地で暮らしたことのある外国人たちにあらためて指摘するのは無用のように思われる。
インドネシア全体が拡大ファミリー主義で覆われ、かれらの言うヒューマニズムにはそんな色合いがべったりと塗り込まれている。インドネシア人の言うヒューマニズムや基本的人権はそのような原理の上に乗ったものであり、そのような原理を通り越して激しく揺さぶられた上に再構築された西欧型ヒューマニズムや基本的人権とそれがぴったりフィットすることはない。たとえ大きく異なることはないにせよ細部構造においてぴったり一致しない点が多数散見されることを多くの外国人が体験しているとわたしは思う。同じ単語で表現されているから同じ内容なのだと考えると足元を覆されるのは、異文化交流でわれわれが気を付けなければならない重要なポイントだろう。
個人の所有権を尊重しあって自分のものでないものごとには手を出さないように自制する文化が持つ基本的人権と、個人の所有権というものを軽視して全体主義的に所有権を扱う文化が持つ基本的人権の間には、おおきなへだたりがあって当然だろうとわたしは考える。
さて更にジャカルタにポイントを絞っていくなら、ジャカルタにやってくるおのぼりさんたちの動機は、ジャカルタに集中している全国の金の半分以上が自分の懐をも潤してくれることへの期待である。経済力のある地方の主要都市を除けば、田舎にいるのは農夫漁師木こりたち一次産業従事者がほとんどであり、食ってはいけるものの、余剰な金はかぎりなくゼロに近い。そのような家庭環境の中で長男以外が豊かになろうとするなら、経済力のある町に出て行く以外にすることはない。こうしてジャカルタには貧しかった地方の民が集まってくる。かれらは所有権者が追い立てに来ない場所を占拠して棲み付く。先行者の後を追って上京者は持続的に流入してくる。そして先行者が棲みついた場所に転がり込む。貧しい人口過密地区がこうして生まれる。金稼ぎに成功すればかれらはそんなスラムから抜け出すが、経済格差のある非スラム地区に住む経済力を持てない者はいつまでもスラムに居残ることになる。
そんな状況を不公平だと感じない者が出ないはずがなく、そこに恨みつらみを塗りこんだ若く元気な者たちは金稼ぎの近道を走り出す。かれらが犯罪者になることをそれほど怖れていないのは、反社会的存在という価値観がやはりインドネシア文化の中に希薄なためのようだ。加えて国民総犯罪者化文化の中にあってみれば、犯罪者になるということの倫理的意味合いはそうでない文化に住むひとびととかなりかけ離れたものになって当然だろう。
2010年国民センサスでジャカルタの人口は960万人との公式データが発表されたが、それとは別に貧困ライン下住民は31.2万人、失業者58万人というデータも公表されている。貧困ライン下住民は2009年の32.3万人から3.4%ダウンした。2010年貧困ラインはひとり当たり月間支出331,169ルピアで、これは2009年の316,936ルピアから上昇している。しかし都庁賃金評議会が2011年最低賃金決定時に公表した適正生活需要は月間140万ルピアであり、独身のおとなひとりが多少の貯蓄をしながらひと月間の生活を赤字なしに乗り切るために必要な金額が物価調査をもとにしてそう算出されているのだ。
それを見る限り、貧困都民は全人口の3.3%しかいない、などとは決して言えないにちがいない。それが犯罪者の予備軍になっているのは明白だろう。
首都の人口密度は平方キロ当たり13,005人で全国最大、そして都内で最大の人口密度を持つ地区はジョハルバル郡の46,500人となっている。必然的にこの地区が国内で人口密度最高地区となる。ジョハルバルに関する情報は「インドネシア市場情報2007年」内の「全国一の人口稠密地区」(2007年3月1日)を参照ください。このジョハルバルの存在が中央ジャカルタ市の犯罪発生件数ナンバーワンという番付と無縁であるとは思えない。
コンパス紙R&Dが2011年1月15日に、17歳以上(もしくは未満でも結婚歴がある者)の都民583人にインタビューして集めた統計がある。首都警察を含む都庁の「世の中の安全感を保証する」努力に満足しているかどうかという質問に対して回答者はこう答えている。
満足している23.8%、満足していない75.0%、不明・無回答1.2%
次に、一般論として首都の犯罪多発に不安を抱いているかどうかという質問に対する回答結果は次のようなものになった。
中央ジャカルタ市: いる84.0%、いない13.6%、不明・無回答2.3%
東ジャカルタ市: いる93.0%、いない7.0%、不明・無回答0.0%
北ジャカルタ市: いる86.2%、いない10.3%、不明・無回答3.5%
西ジャカルタ市: いる82.8%、いない17.2%、不明・無回答0.0%
南ジャカルタ市: いる85.3%、いない13.3%、不明・無回答1.4%
2010年首都警察は31,153人の保安要員を擁して首都ジャカルタの安全を確保する務めを行なったが、犯罪事件の解決は55.3%でしかなかった。つまり犯罪の二件に一件は犯人がまだ野放しになっているということだ。だからこそ、自分が犯罪の被害者にいつなるかもしれない、という不安を10人中ほぼ9人が抱えており、しかしその中にも公権力の努力を評価するというひとが混じっていることを上の調査は意味している。
首都警察保安要員はひとりあたり都民711人を担当している計算になる。この比率では、警察保安要員が都民の安全を確保することは不可能であり、いきおい発生した犯罪に対して措置を取るという方向に向かう。発生の抑止努力はまだしも、被害の予防を警察に求められてもこまる、というのが首都警察のホンネであり、「警察と住民は手を携えて住民の居住地域を警備しよう。安全を求める都民は自助努力なしにそれを手に入れることはできない。」と昔から首都警察長官が都民に呼びかけているのは、きわめて現実的な対応ではないだろうか。そんなありさまがインドネシアの現実なのであり、しかも首都警察が全国でもっとも完備された態勢にあって他の州警察はいずれも警察力がそれより劣っているのだという事実を、ジャカルタの状況を批判する前にわれわれは視野の片隅に置いておかなければならないだろう。
都民にとって家の外にある公共スペースは犯罪の恐怖に満ちた場所であり、中でも道路・交差点・公共交通機関・市場などは特にアブナイ場所だと見られている。回答者の78%は都バス・ミニバス・アンコッなど公共交通機関が一番アブナイと答えている。この意識が自家用車利用に傾倒する反応を煽っているのも確かなところだ。だから行政は、マス交通機関を用意してそれを利用せよと都民に迫るのと同じ強さで犯罪抑止を行なわなければならないのである。
犯罪が発生する環境としては、夜がもっともアブナイと回答者は答えている。暗く寂しい場所が増加するのがその理由だ。そして自宅周辺という、もっとも不安に怯えたくない場所すら安全でないと答えた回答者は44.4%にのぼった。かれらは自宅周辺で過去一年間に強盗・盗難・詐欺などの犯罪が一回以上行われたことを身近に見聞している。開発住宅地区住民の20%は住んでいるエリアが安全でないと答えたが、市街地に住んでいる住民で住んでいるエリアが安全でないと答えたのは15%しかいなかった。これは生活共同体における地縁的つながりが高い場所ほど安全感も高いことを意味しているようだ。新興住宅地区は高級エリアになればなるほど住民同士の横のつながりが薄れていく。ロワーミドル層向け住宅地も地縁的つながりが熟成するのに時間がかかる。昔から住み着いている市街地は住民のつながりがほぼ完成されており、それだけ自衛機能も高いと言える。かつては各町内が全員参加の自衛団を組織して夜中の見回りを行なっていたが、時の流れと共に警備員を雇って肩代わりさせる町内が増えてきた。回答者の60%は自分の町内でもそうしている、と述べている。
ところが都民の首都生活における最大の関心事はこの犯罪多発問題ではなかったのである。回答者たちの69.5%は交通渋滞が解決されるべき第一の問題であると表明した。もちろん質問文は「ジャカルタにおけるあなたの日常生活にストレスを与えている最大の問題は何ですか?」というものであり、その回答はつぎのような順位になった。
1. 交通渋滞 69.5%
2. 経済 13.7%
3. 保安(犯罪多発) 7.4%
4. 出水・洪水 2.4%
5. 公共運送機関 1.4%
6. その他 3.1%
7. 不明。無回答 2.6%
2005年のジャカルタ観光プロモーションのために、「エンジョイ ジャカルタ」というキャッチフレーズが作られた。金稼ぎにしのぎを削りあうジャカルタ、金稼ぎに成功した者たちが豪奢なライフスタイルを見せびらかすジャカルタ、生命をすり減らして金稼ぎに成功しようと努める貧困者の集うジャカルタ、そして金稼ぎの代償として穏やかで安全な生活を蝕まれているジャカルタで、ひとびとは夢の中の自分をエンジョイし、地に足のつかない浮遊状態のままヘピヘピ主義を実践し、精神の無重力状態の中に日常生活を押し込めて毎日を生きているにちがいない。


「少年も人身売買商品になる」(2011年2月10・11日)
若い娘が女衒の魔手に落ち、強要されて身をひさぐ毎日を送らされたというような話はどこの国にもある。そのような人身売買の被害者は女だけだろうと思ったら大間違いなのだ。インドネシアはたいへん男女間性差の少ない国のひとつであるにちがいない。なぜなら、たくさんの少年たちも強要されて身をひさぐ毎日を送らされているのだから。
2011年1月7日、ジャカルタのコタ駅をうろついていたひとりの男が警察に逮捕された。捕えられたサルトノ34歳は警察の取調べに対し、あちこちの町で自分が毒牙にかけた子供たちは39人だと自供した。サルトノ逮捕のきっかけはジャカルタ湾に浮かぶスリブ群島のハラパン島に住む14歳の少年が警察に駆け込んできたことだった。
サルトノはひと月半ほど前、ハラパン島から中学2年生の少年HRを連れ去った。その少年はサルトノと知合い、親しくなり、そして携帯電話を買ってやる、というサルトノの口約束につられてサルトノと一緒にジャカルタに出た。そしてサルトノは約束を果たすどころか、少年の身体をわがものにしたのである。
それからサルトノは少年を連れてセラン〜カラワン〜チカンペッ〜プルワカルタ〜バンドンなどバンテン州と西ジャワ州の各地をまわり、それぞれの町で稚児遊びを好む男たちに少年の身体を売った。一回の報酬は2万5千ルピアから5万ルピアの間だったが、少年が受取る性の報酬はすべてサルトノが取り上げた。サルトノは鉄道駅を活動のセンターに使い、駅で客を見つけることは再三だったようだ。しかしそんな一見客との取引とは別にこの道特有の人脈もあり、プルワカルタではホモセックスクラブとのビジネス、チカンペッでは商品を融通しあう同業者とのビジネスといったものもサルトノの行状から明らかになった。
蛇の道にはへびがいる。かどわかした少年の身体を売るサルトノから商品を買った男が少年に渡した5万ルピア紙幣は贋札だった。サルトノはHRをどやしつけた。「この阿呆が!すぐ戻ってさっきの男にホンモノの5万ルピア札をもらってこい!」
それは少年にとって天佑だったにちがいない。HRはその降って湧いたチャンスを利用した。少年は自分の身体をもてあそんだ男のところへ戻る代わりに、北ジャカルタ市警ムアラアンケ署に駆け込んだのだ。少年の訴えを聞いた警察はサルトノの捜索を開始したが、HRが戻ってこないのに気付いたサルトノはすぐに行方をくらました。
ひと月半行動を共にした少年の口からサルトノの行状を聞いた警察は広い地域に網を張り、そして1月7日にジャカルタコタ駅での逮捕となった。サルトノは少年HRとのひと月半に渡る生活の合間に、18回も少年の身体をわがものにした。警察はサルトノの行状から、かれ自身が少年期に強制的に稚児にされた体験を持っているのではないかと疑い、本人は否定していたにもかかわらず警察病院にその事実鑑定を依頼した。そして捜査本部の予想は的中した。かれは最終的に13歳のとき男色家に身体をもてあそばれたことを自供した。サルトノはチレボンの実家に妻と四人の子供を置いており、両刀使いであることが明らかになっている。
サルトノは警察の取調べに最初毒牙にかけたのは39人だと述べていたが、警察の捜査でその数が42人に増え、それとは別にさらに54人の被害者があったことが明るみに出たため、サルトノがレープした少年は96人となっている。サルトノが性の慰みものにした少年たちはほとんどがストリートチルドレンで、鉄道駅周辺で暮らしている子供たちだった。サルトノが獲物を狙った場所はジャティヌガラ・セラン・カラワン・チカンペッ・プルワカルタ・バンドンで、駅構内に停まっている故障車両がサルトノの獲物を味見する場所に使われた。少年たちの年齢は14歳から17歳までだった。


「強盗アンコッ犯逮捕」(2011年2月15・17日)
2011年1月26・27・28日に報道された強盗アンコッ犯人グループが首都警察デポッ(Depok)市警本部に逮捕された。デポッ市警犯罪捜査ユニットは1月19日から容疑者の逮捕を開始し、強盗実行犯5人を12時間のうちに次々逮捕した。そしてかれらの自供から犯行グループに指示を出す現場コーディネータのイェディ25歳を1月22日20時ごろデポッ市パンチョランマスの自宅で逮捕した。イェディは逮捕されるときまったく抵抗しなかった。続々と仲間が逮捕されている事実に、自分もその後を追うのは時間の問題と覚っていたようだ。イェディは犯行グループに仕事の指示を出し、手に入れた収穫を一旦自分の手に集めてから仲間に分配していたが、仲間のひとりは最近イェディの分配に不透明なところが増えており、不信をつのらせていたことを警察の取調べの中で自供している。
そして警察は1月25日16時半ごろ、強盗アンコッグループの主犯であるグレン20歳をボゴール街道KM29.5エリアで逮捕した。グレンはそのとき、知合い仲間たちといっしょにただぶらぶらと時間を過ごしていた。何もすることのないまま似たような仲間といっしょになって飲み食いし、タバコを吸い、談笑して楽しく時間を過ごすこのような習慣は全国いたるところで行なわれている。tongkrongあるいはnongkrongと呼ばれるこの習慣は、数人が道端にしゃがんで行なうスタイルが一般的なためその本来の語義である「しゃがむ」という意味に由来しているものの、若い男たちが何もしないでただぶらぶらしている様を指すニュアンスを強烈に発散させている。そして「小人閑居して不善をなす」の古訓通り、この強盗アンコッグループはノンクロン仲間が徒党を組んでできあがったものらしい。
グレンは南ジャカルタ市マンガライに住んでおり、普段は建築現場の親方として働いていた。強盗アンコッグループは総勢10人から成っていたことが既に逮捕された7人の供述から判明しており、警察は残る3人を追跡している。
フィラが被害者になった事件では、フィラを乗せたアンコッはマンガライのある場所まで行き、そこで別の乗用車に乗換え、最終的にブカシ市タンブンのスポーツクラブ裏の空地にフィラを捨てて一味は姿を消している。そしてグレンが使っていたレンタカーはたしかにマンガライのその場所に置かれていた。
一味が使っていたアンコッは3台あり、もちろんアンコッオーナーは別にいて、かれらは運転手が持ってくる日々の上がりをストラン(setoran)として受取るだけで、車の使われ方や状態などにはまったく関心を持たなかった。警察の取調べの手が及んで三人のアンコッオーナーたちは、犯罪に使われていたことなどまったく知らなかった、と一様に驚いている。
3台のアンコッのうち2台はルート番号D07が車体に記されているが、犯行前にターゲットルートに書き換えられ、ナンバープレートも異なるものに付け替えられていた。
自供によれば、この一味は既に15〜20回犯行を繰り返していたとのことだが、警察側の記録では10件しかなく、被害者が届け出ていない事件を警察側が調査したところ、国軍軍人や国家警察捜査官らの家族が被害者になっているケースが散見された。2010年8月以降で警察の記録に残っている強盗アンコッ事件は、D02ルートのアンコッに乗ったリデイヤ・アユ・ズライカ、D06ルートでソニヤ・トビン、D06ルートでルシア・スナルテイ、D06ルートでフェブリナ・マグダレナ、D10ルートでパスカフニ・クリステン、D03ルートでヒルミ・アマルラl、D11ルートでレッノ・サロコ、D02ルートでスパルティニ、そしてD04ルートでエルフィラ・タウファニとなっている。


「懲りない連中には鉛玉を」(2011年2月28日)
路上犯罪の激増に業を煮やした首都警察長官が全警察官に対し、犯罪者に焼けた鉛玉をお見舞いすることを躊躇するな、と檄を飛ばした。首都圏で発生している犯罪は質量共に悪化を続けており、中でも強盗事件を犯して逮捕され、塀の中でのお勤めを終えてシャバに出てきた前科者が性懲りもなく同じ犯罪行為に手を染めている実態が明白に見受けられる、と首都警察は状況分析を行っている。
何度も塀の中に出入りして経験を積んできた前科者は一般市民の日常生活に強い不安をもたらしており、そして強盗強奪を行なってその不安を現実のものにしている。逮捕し刑務所に入れて、ということを何度繰り返しても、安全安心な市民生活への寄与は感じられず、かえって市民の暮らしをますます毀損しているのが実情だ。だからそのような犯罪者がシャバに出てきて犯行を繰り返すなら、そのときこそ警察官は犯罪者に対して発砲するのをためらう必要はなく、ましてやそれによって犯罪者の生命が失われることになったとしても躊躇する必要はない、というのが首都警察長官の主旨。犯行現場に赴いて、自分が対面している犯人が明らかに前科者であることが判明しているなら、決して遠慮はいらない、と長官は言う。しかし、と首都警察長官は続ける。
警察官が発砲する場合の手続規定が存在することを忘れてはならない。その発砲行為は警察のテクニカルな諸条件ならびに法的な諸条件を十分に満たしたものでなければならない。長官はそう注意を促した。あくまでも合法的な発砲行為と見なされるための諸条件を適確に踏まえた上で、凶悪犯罪者は遠慮なく射殺せよ、というニュアンスの強いこの表明は、インドネシアが持っている暴力の根をあますことなく伝えているようだ。
2011年2月21日白昼、東ジャカルタ市クラマッジャティ(Kramat Jati)中央市場で自動車を強奪しようとした35歳の常習犯を警察官が射殺している。犯人は10年間シャバと刑務所を往復しているふだ付きの前科者だった。翌2月22日、南ジャカルタ市北プトゥカガン(Petukangan)の住宅から自動車を盗んだ5人組をパトカーが発見し、逃走するのを追いかけて停止させた。すると一味のひとりがいきなり何かを取り出して警官に向けたため、警官のひとりが抜打ちにそのひとりを射殺した。ほかのふたりは逮捕したが、もうふたりは逃走した。この一味もたっぷりと犯行歴を持つ者たちだった。


「キリキリキリ・・・・」(2011年3月1・2日)
都内の交通事情の実感は、自分でハンドルを握るか、あるいは徒歩で公共運送機関を利用するかなどしてみなければ、なかなかわかるものではない。いずれにおいても、ただただ荒っぽさが実感されるばかりであり、ほかの何かあるいは誰かにぶち当たってでも自分が先に進むという意志を持たなければその渦巻く混沌の中を妥当な速度で通り抜けることは難しいだろう。日本で常識と化しているレベルの安全をここで実践すると、ブレーキを踏みっぱなし、他車に進路を譲りっぱなし、になりかねない。ほかの文明国で他車に進路を譲るのはうるわしい美徳であり、たいていのひとはそのときに自分が善人であることを実感するわけだが、インドネシアの路上でわたしがそれを行なえば、周囲の車は9割方、わたしを運転の下手なのろまとしか見なさない。弱肉強食ジャングル文化では弱いという印象を相手に与えたら徹底的に叩き潰されるのが常識であり、弱い者をいたわったり、相手とできるかぎり対等に勝負を、などというスポーツマンシップを身に着けている人間は極度なマイノリティだという事実を思い知らされる。この辺りの講釈は『ジャカルタドライバー考』< http://indojoho.ciao.jp/archives/library06.html >がご参照いただけると思う。
都内バスに乗って降りるとき、車掌が「キリキリキリ・・・・」と怒鳴る。このインドネシア語kiriは左という意味で、降りる者がいるから左に寄れと運転手に指示しているという説と左足から地面に降りろと降りる者に注意を促しているのだという説のふたつを耳にしているが、どちらも正しいのではないかとわたしは思う。
ともあれ、キリと言われた運転手はバスを徐行させて道路の左側に寄せるものの、前が開いているなら絶対に完全停止はせず、降りる者の態勢がどうなっているのかなど無関心に急発進させたりする。この荒っぽさは頻繁に乗客の生命を奪っている。
2011年2月21日朝、北ジャカルタ市クラパガディンのプリンティスクムルデカアン通りでルート番号507タナアバン〜プロガドン間マヤサリバクティバスが38歳の主婦を死なせた。かの女は夫が失職して以来自分でナシウドゥッ(nasi uduk)とアヤムゴレンを調理して販売することで生計を立てており、早朝パサルに食材を買出しに行くのが日課になっていた。いつもは失職中の夫が走らせるオートバイに乗っていくのだが、その日に限ってバスでパサルへ行き、大量の食材を抱えて自宅へ戻るため最寄の場所で降りようとしたときにその事故に遭遇したのだった。
かの女は自分の降りたい場所を車掌に言う。車掌はその場所に近付いたとき、手にしたコインで窓ガラスをガチガチ叩き、キリキリキリ・・と怒鳴った。バスが左に寄ってスピードを落とす。かの女はここぞという場所で大きい買い出し荷物を両腕に抱えて左足を歩道に伸ばした。徐行にしては早めのスピードだ。体の安定が悪い。両手は荷物を抱えてふさがっている。『あっ、通り過ぎちゃう。降りなきゃ。』かの女は無理やり自分に命じたにちがいない。歩道に向かって飛び降りようとした刹那、バスの運転手はアクセルを踏んだ。身体のバランスが完全に崩れた。ドアの金具につかまろうとしたが、両手はふさがっている。身体が回転しながら歩道に落ちた。深い嫌な音がした。かの女は歩道で頭を打ち、耳と鼻から鮮血が流れ出ている。車掌はふたたびコインで窓ガラスをガチガチ叩き運転手に急を告げた。バスが停まる。車掌はかの女に近寄って様子を見てからバスの運転席に外から回り、運転手に何かを言った。運転手は急いで運転席から外に降り、かれらはそれぞれ別の方向に走り去った。バスと車内で騒ぐほかの乗客と、そして車の外の即死体を残して。


「ああっ、車が子供の身体をひいて行く・・・」(2011年3月1日)
2011年1月3日付けコンパス紙への投書"Anak Kecil Tertabrak Mobil di Bogor, Itu Kejadian Biasa!"から
拝啓、編集部殿。いまやボゴールはますます猥雑の度を増しています。この雨の町でもっとも危険な二地区はスカサリ(Sukasari)通りとシリワギ(Siliwangi)通りの合流地点ならびに下り坂のあるスカサリ?通り三叉路です。この地区には小さい食堂とワルンがいっぱいで、おまけに果物売りカキリマ商人までが列をなしています。
狭い歩道は既に人間が通る余地を残していません。買物客は道路端に慄きながら立つことを強いられます。通過する自動車に引っ掛けられないよう常に警戒し続けなければなりません。横断するときも、四輪二輪の自動車に追い立てられて歩行者は大慌てで道路を渡るありさまです。
去る11月24日夕方4時過ぎごろ、わたしは悲惨なできごとを目撃することになりました。6歳ぐらいの男の子がスカサリ?通りの端を恐る恐る渡り始めたのです。スカサリ通りを曲がってやってきたパンサーがその子をはねました。その子は路上に倒れましたが前輪にひかれるのを免れ、車の下に入る形になりました。ところが下り坂のためにパンサーは徐々に動いていき、ついに後輪がゆっくりとその子の身体をひいたのです。周辺にいた数十人の群衆はその惨事を直接わが目で目撃しました。わたしの近くにいたひとは、あんな事件はここではしょっちゅう起こっていると言いました。現場の秩序維持にあたる警官の姿はあったためしがない、というのです。このボゴールを治めているのはいったいどういう行政府なのですか?
歩道を本来の機能にもどしてください。そしてゼブラクロスを設けて横断場所を市民にはっきりと示してください。交通整理を行ってください。カキリマ商人が正しく稼業を行なう場所を用意してください。[ ジャカルタ在住、アグス・デルマワン ]


「ひとりで行動してはならない」(2011年3月29〜31日)
ブカシのアルムアジリン職業高校軽自動車技術学科11年生のアルディ17歳は鉄道オタクで知られている。インドネシア鉄道狂レールファンズブカシ支部の会員になっており、鉄道関係のキーホルダー・Tシャツ・ミニチュアや玩具を多数所有し、そして国鉄職員が着けているエンブレムも完璧にそろえている。かれは頻繁に鉄道駅に出かけ、同好の仲間と会い、なじみになった鉄道職員に運転席に乗せてもらって遠出することもある。学校の成績も優秀で、クラスメートの話では10年生のときナンバーワンだったそうだ。今度のテストではふたたびナンバーワンの座に就くだろう、とだれもが思っていた。
2011年1月中旬から始まった11年生職業実習にアルディは国鉄の車両デポでの実習を希望し、中央ジャカルタ市タナアバンにあるデポに通い始めた。楽しい毎日が一週間近く過ぎようとしていた1月25日、その日の実習を終えて東ブカシの自宅へ帰るためアルディはデポを出る貨物列車に乗った。時間は16時ごろだった。
貨車のひとつにもぐりこんで、携帯電話で音楽を聞いていたアルディは、突然男ふたりの姿が自分の前に立ったのに驚いた。他の人間が乗っているとは思いもよらなかったのだ。男たちはアルディに、その携帯電話をよこせ、と命じた。アルディは拒否した。すると男たちはアルディに対して暴力をふるいだした。助けを求めようにも、貨車の中にはかれら三人しかいない。そして無惨にも、男たちは走行中の貨車からアルディを突き落としたのだった。携帯電話が男たちの手に渡ったのか、それとも線路脇のどこかに落ちて粉々になったのか、アルディにはわからない。むしろアルディは自分の身体が粉々になって死の世界に転落したように感じた。意識も五感も真っ暗になった。
北ジャカルタ市パサルイカンの線路脇に住んでいるひとびとは、線路から離れて貨物列車が通り過ぎるのを待っていたが、その目の前に貨車の一つから少年が落ちてきたのに驚いた。列車が通り過ぎると、民衆は少年の身体に駆け寄って様子を調べた。身体の半分は血まみれで、少年はぴくりとも動かない。だが、まだ死んではいないようだ。ひとびとは通りかかった空のピックアップトラックを止めて少年の身体を載せ、最寄りのプルイッにあるアッマジャヤ病院へ連れていくよう運転手に頼んだ。後日取材に来た記者にその現場で手を貸した中年女性のひとりは、「あんな事故はここじゃあ年中ときどき起こってるよ。線路敷地内に住んでるひとでもはねられることがある。でも強盗に突き落とされたってえ話はあたしゃはじめて聞いたね。薄情な世の中になっちまったもんだ。」と語った。
そのときアッマジャヤ病院のICUは満員になっており、職員があちこちに電話をかけてから西ジャカルタ市スンブルワラス病院へ行くようにトラック運転手に言った。「これも人助けだわな。」トラック運転手は助手につぶやくように言って、混雑する道路に車を乗り入れた。
スンブルワラス病院でアルディの処置が進められる一方、事故の届けが警察に出され、アルディの自宅に連絡が入った。重態のアルディは二日間昏睡状態で、その間に脳内出血と右膝から下の切断という二度の手術を受けた。一命をとりとめたものの、脳の損傷のためにアルディの記憶はまだ完全に戻っていない。
病院の費用は二度の手術が3千万ルピア、そして毎日の薬と入院の費用が百万ルピア前後。親は年金生活者であり、アルディの治療費は重い負担になっている。 学校側は優等生のアルディが回復してまた学校へ戻ってくれば、身体障害のある生徒に適した学科に移るよう勧める考えでいる。そして全校生徒に今回の事件を知らせ、学外では常に二人以上で行動し、絶対にひとりで遠出することのないように、と呼びかけた。


「インドネシア人海賊が捕まる」(2011年3月29日)
タンカーのマジュロ号はマレーシアのジョホール海岸に投錨していた。2011年3月10日未明のジョホール水道は穏やかだった。マレーシア海上保安庁のパトロール艇は水域の監視を続けている。そして突然、マジュロ号の警報機が賑やかな音を立て始めた。
夜陰に乗じてマジュロ号に近付いてきた小船があった。一人、二人、三人と黒い影がマジュロ号の甲板に上がってくる。だが船内は寝静まっていたわけではなかった。「キャプテン、賊が上がってきたぜ。」クルーから報告を受けたロシア人船長はすぐにアラームを鳴らすよう命じた。
甲板に上がった賊たちは、突然鳴り出したアラームに驚き、進退にとまどう。そのとき数隻のパトロール艇がマジュロ号の周囲に殺到し、それを取り巻いて強力な投光器の光を投射した。甲板の上に賊の姿がくっきりと浮かび上がる。
武装した海上保安官が賊たちに銃口を向け、賊に武器を捨てるよう命じた。賊の一味は斧や剣を捨てて両手をあげる。7人の男とかれらが乗ってきた木造船は一網打尽にされ、海上保安庁事務所に連行されて取調べを受けた。
一味7人は28歳から33歳までのインドネシア人で、船を襲って金目のものを奪うのが目的だった。


「女児誘拐と捜査費」(2011年4月2日)
2011年1月24日付けコンパス紙への投書"Anak Hilang dan Keterbatasan Personel Polisi"から
拝啓、編集部殿。わたしは誘拐された子供の親です。事件は2010年10月23日に始まり、西ジャワ州警察・ボゴール市警・サンパン警察署で捜査が行われています。
それから長い日数が経過して、2010年11月22日にやっと東ジャワ州マドゥラから子供を連れ戻すことができました。子供の健康状態はそれほど悪くありませんでした。
ところが2010年12月2日、子供は再び行方不明になり、前のときと同じ人間に誘拐/連れ去られた疑いが濃厚です。そのときボゴールのチレンシで学校から連れ去られたわたしの娘マルシャ・リアンダ・プトリ13歳が今現在どこにいるのか、皆目見当もつきません。
わたしはいつも警察捜査官に最新の捜査状況を尋ねるのですが、わたしが警察に事件を届け出た最初から警察は、予算(捜査費)の不足と要員の不足をわたしに通告していました。それどころか、捜査結果通知書をもらうだけでも2週間もかかったのです。
わたしは娘の誘拐事件解決のために費用を負担できるほど金持ではありません。将来よりよい暮らしを営むという娘の夢を実現させようと闘っているただの一民間会社員なのです。[ ボゴール在住、アヒヤッ・リヤディ ]


「不法伐採者が射殺される」(2011年4月7日)
ブンクル(Bengkulu)州ルジャンルボン(Rejang Lebong)県のクリンチセブラッ(Kerinci Seblat)国立公園で、国立公園管理総館職員と警察の合同パトロールに反抗した不法伐採容疑者が射殺された。射殺された容疑者は住所パダンウラッタンディン郡ブキッバトゥ村のデディ・イラワン20歳であったことが明らかにされている。2011年3月22日、クリンチセブラッ国立公園管理総館職員3人とルジャンルボン県警本部の警官3人が森林の夜間パトロールを行なった。
このエリアは国立公園と住民生活領域が直接境界線をはさんで接しており、住民の不法伐採は頻繁に発生している。ルボン県とルジャンルボン県には32ヶ村が国立公園と直接境を接しており、住民の不法行為は絶え間がない。
6人の森林パトロール隊はブキッバトゥ村に午前3時半ごろ到着し、国立公園内の森林に入った。一行は森林の中でチェーンソーとオートバイを押して歩いている三人の住民を見つけたが、三人の方もパトロール隊を見つけて即座に逃走したため、容疑者を捕えることができなかった。オートバイは切り倒した木を運ぶために森林内に持ち込んだものと見られている。
パトロール隊はしかたなくパトロールを続け、森から村へ出る道を経て国立公園の外へ出たところ、オートバイに木を載せて走っている住民ひとりを発見し、警告射撃でその住民を停止させた。オートバイの男はパトロール隊が近付くまでおとなしくしていたが、パトロール隊が逮捕しようとしたところ暴れ出し、警官の拳銃を奪おうとしてもみあった。警官は拳銃をほとんど奪われかかったが取り戻そうとして更にもみあううち、引き金が引かれてオートバイの男は即死した。
県警本部長はこの事件について、デディ・イラワンが不法伐採者であったかどうかをまず解明するため、結論が出されるまで捜査を続ける、と述べている。


「2歳の幼児が276人を追い出す」(2011年4月20日)
中央ジャカルタ市スネン郡クラマッ町クラマップロダラムの人家密集地区で2011年4月7日午前9時ごろ火災が発生し、26軒の家屋が焼失し、そのほか4軒が被害を受けた。火災は狭い路地が続くスラム地区の奥で発生したため消防車のアクセスが困難で、到着した消防隊は仕方なく放水ホースをつなぎながら現場に近付ける位置まで近付いて消火活動にあたったとのこと。現場一帯の家屋の中には木造仮設住宅なども混じっており、延焼を速める結果をもたらした。
現場に集まった消防車21台が鎮火に成功したのはおよそ1時間半後。この火災で276人が焼け出され、それぞれの家族は身寄りを頼って各地へと散って行った。中には近くのモスクに身を寄せた一家もある。
消防隊の調べで、その中の一軒の借家で2歳の幼児が寝床で親のライターをもてあそんだのが失火の原因だったことが判明している。子供がライターで遊んでいるとき、その家には子供の母親ひとりしかおらず、母親は料理の真っ最中だった。家に火が着いたため母親は子どもを抱えて避難した。この火災で死亡者は出なかったが、消火作業に集まってきた近隣住民の中に軽傷者が数人出ている。


「肝っ玉母さんの強盗退治」(2011年4月28〜30日)
2011年4月6日深夜2時ごろ、ヌルシティ45歳はトイレに行くためベッドから起きた。完全に醒めきらない意識で浴室に入り、用を足そうとしたところ、浴室の中にひとりの男が潜んでいたのに気付いてヌルシティは愕然とした。覆面の男は抜き身のナタをヌルシティの顔の前に突きつけたのだ。ヌルシティは反射的にそのナタを奪おうとした、争いが始まる。そしてどうしたことか、格闘技など習ったこともなく、身体を使って他人と争ったこともないヌルシティの手にはナタが握られており、覆面の男は浴室の床の上に転がっていた。「おとうさん、リッキー、泥棒がいるよ!」
ヌルシティの夫タマン47歳と次男のリッキー17歳が目を覚まし、急ぎ足で浴室にやってきた。黒いTシャツを頭からかぶって覆面にしていた泥棒をふたりはどやしつけてから、その覆面をはいだ。なんと出てきたのは数軒先の家に住んでいる隣人のナナン25歳の顔だった。図々しくも隣人の家に泥棒に入ってきたそのナナンを、ふたりは殴って懲らしめた。
もちろん、刃物を奪い合ってもみあう格闘で血を見ないはずもないのだが、ヌルシティもナナンも手の数ヶ所に切り傷を負っただけで済んだのは奇跡的だったと言えるだろう。ナナンはその上にタマンとリッキーからお仕置きを受けて数ヶ所に青あざをこしらえた。「オレの女房の安全を脅かしたやつはだれさまだろうと知ったこっちゃねえ。オレは数発やつを撲ったね。」とタマンは述懐している。
デポッ市タポス郡タポス町で雑貨ワルンを営んでいるヌルシティの家からナナンは25メートルはど離れた場所に住んでいる。ナナンもタマン=ヌルシティ一家もその地区土着の住民で、ナナンは子供の頃からその家の子供らと遊び、親しく往来していた。かれは近くにある飲料製造工場で働いているとは言うものの、実態はエキストラの仕事があったときだけ仕事を言いつけられ、かれがやった仕事に対して賃金が支払われる。だから固定収入はないに等しい。そんなかれには妊娠7ヶ月の妻があり、もうじき出産の時期がくるのだが、普段の収入でさえ生活費に不十分なところにきて出産費用まで用意しなければならなくなってきた。思い余って近在の金持ち宅に夜分侵入したというのがこの事件の前書き。
雑貨ワルンで販売されている商品の利益率はたいへん高い。つまり繁華エリアにあるミニマーケットやスーパーなどで売られている同じものより数十パーセント高い。住民たちはそれを承知で購入する。移動の便が悪く、おまけにその費用が高額になるため、少々割高でも家の近くで買うのをひとびとが好むためだ。だから住宅地には八百屋・肉屋などを含むさまざまな物売りが巡回してやってくる。
商品利益率の高い雑貨ワルンは商品回転がよければ大儲けする。つまり見てくれはあまり金持臭をふんぷんとさせていなくとも、かれらはなかなかの小金持ちだということは世間の常識となっているわけだ。
ナナンはタマン=ヌルシティ夫婦の家に盗みに入ろうと計画した。なにしろ家の中の様子は熟知している。しかし第一の障害はその一家の長男フィルマンが警察官だということ。フィルマンはデポッ市警パンチョランマス署勤務の警官だ。決行の前日、ヌヌンはワルンでヌルシティに尋ねた。「フィルマンの次の夜勤はいつかね?」「明日だよ。」
警官が家の中にいると侵入盗はやりにくいというのも確かではあるが、その警官が子供の頃からの遊び仲間だというのだから、どうしてそのような発想になるのかわかりづらいところだが、それを言うなら、子供の頃から遊びなれた家に泥棒に入ろうという了見も理解しづらいような気がする。
ともあれ、ナナンは決行の夜、ついにその家に忍び込んでワルンの店に入り込み、売上金現金27万ルピアと煙草2カートン、ビスケット数袋などを盗んだ。ところが寝室の中でひとが動く気配がしたので、ナナンは慌てて浴室に隠れた。すると皮肉なことに、寝室から出てきたヌルシティは用を足すために浴室にやってきたのである。絶体絶命の窮地に立たされたヌヌンはこうして持参のナタをヌルシティの眼前に突きつけた、というのがこの事件の全貌。
痛い目にあわされたヌヌンはデポッ市警チマンギス署に連行されて取調べを受け、警察はこれを強盗事件として送検することにした。刑法典第365条によれば最高刑は入獄5年となっている。チマンギス署長は刃物を持った男にも臆せずに立ち向かったヌルシティの勇気を賞賛し、「ほかの市民もかの女の勇気にみならい、犯罪者に対面しても恐れおののいて萎縮することのないよう期待する。」と市民を鼓舞している。


「ジャンブレッ」(2011年5月2〜7日)
通勤時間帯になると都内の主要道路は色とりどりデザインとりどりのオートバイで埋め尽くされる。立錐の余地などない集団を形成した二輪車ライダーたちが丸いヘルメットの頭を並べて道路を埋め、そんな流れが延々と果てしなく続く。赤信号の交差点で流れが遮断されれば、四輪車同士の隙間に二輪車が入り込み、前へ前へとにじり寄っていく。右折する者が多い交差点などは、中央分離コンクリートブロックの向こう側、つまり対向車線の一番右より中央車線をびっしりと二輪車が逆向きに占拠し、向こうからやってきた交通の流れを通せんぼしてしまう。そんなビヘイビヤが首都の交通渋滞をさらに激しいものにしていることなど、知らん顔だ。
首都ジャカルタのベッドタウンと化したボデタベッ地区から毎日2百万人近いコミューターがジャカルタへ通勤する。かつては鉄道やバスなど公共輸送機関を使っていたコミューターたちは、自由が利き、経済的にメリットがあり、通勤時間も短縮できるオートバイに続々と転向した。その結果、各ベッドタウンとジャカルタを結ぶ幹線道路は、毎朝上に描写されたようなシーンが止むことなく繰り返されている。
ひとびとが昔よりはるかに買いやすくなったオートバイを購入してそれを移動に使うのは、単に四輪車より小回りが利き、四輪車で渋滞する道路を容易に潜り抜けることができる機動性があるという理由だけではない。ひとびとはもちろん、経費の比較計算も怠らない。たとえばタングランのビンタロ地区に住み、都内スディルマン通りの会社に通勤しているガマルの場合はこうだ。自分のオートバイにプレミウムガソリンを1万ルピア分入れておけば、一週間の通勤がほぼまかなえる。バスを使う場合だと、バスが通る往来までまず徒歩で行く。そしてパサルジュマッ(Pasar Jumat)やルバッブルス(Lebak Bulus)まで3〜4千ルピアで乗合いに乗る。一回2千ルピアのメトロミニ(Metromini)を一度乗り継いで、やっとスディルマン(Sudirman)通りに。あるいはエアコン付きパタスバス(bis patas)だと乗り換えの必要はないが、一回6千ルピアを払う。一日の通勤費用だけで2万ルピア前後というのであれば、自家用二輪車との経済性の違いは明らかだろう。おまけにかれの場合、自宅と会社間の距離およそ25kmをオートバイで走れば1時間足らずだが、公共運送機関を使えば2時間はゆうにかかるのだ。
もしかれが首都圏近郊電車を使うとすると、自宅から駅までアンコッで3千ルピア、そして駅でエアコン付きエコノミー列車もしくはエアコン付きエクスプレス列車に乗る。前者は片道4千5百ルピア、後者は片道8千ルピアだ。降りた駅から会社までは一回2千ルピアでコパジャバス(bis Kopaja)に乗る。これもやはり往復で一日2万ルピア前後が飛んで行く。こうして首都圏をオートバイで走る人間がいや増しに増え、丸いヘルメット頭の人間の流れが朝の主要道路を占拠することになるのである。
四輪車の窓から見ているだけではよくわからないが、団子になって川の流れを形成しているかれら二輪車ライダーたち自身も、団子走行を楽しんでいるわけでは決してない。やれ接触したの、足を轢いたの、ひどいときにはオートバイ同士の衝突事故さえ起こり、かれら自身も不快な状況に耐えることを余儀なくされている。だから道路が空いているとかれらはホッとするようだが、場所によってはその『ホッ』が命取りになることもある。
ある休日の夜20時ごろ、グロゴル(Grogol)方面から北ジャカルタ市プルイッ(Pluit)に向かって走る二人乗りオートバイがあった。運転していたのはミトラ37歳、後に乗っていたのはネリ35歳の夫婦で、ネリは妊娠8ヶ月の身重だった。そのせいで、道路の交通は空いていたが、ミトラはオートバイを中速で走らせていた。ちょうどジュンバタンドゥア(Jembatan Dua)とジュンバタンティガ(Jembatan Tiga)の間の高架道路に差し掛かったとき、一台の二人乗りオートバイが左側からミトラのオートバイに近寄って来た。そしてスピードをミトラに合わせたのである。ネリがあっと思ったとき、夫の背中と自分の前の間にはさんで置いたネリのハンドバッグをそのオートバイの後に座っていた男の手がつかんでいた。ネリはハンドバッグの手提げを握っていたが、隣のオートバイが離れていくのとタイミングを合わせてハンドバッグが強く引っ張られたため、手提げがちぎれてネリの手に残った。現金や証明書・カードそしてネリが胎児のために呑んでいた薬など大切なものがすべて失われてしまった。
ジャンブレッ(jambret)と呼ばれる二人乗りオートバイによる引ったくり犯罪は何十年も昔から行なわれている。昔は歩行者がジャンブレッのターゲットだったが、オートバイの激増に合わせて今では他のオートバイがかれらの主要ターゲットになっている。その手口はさまざまで、オーソドックスなのはネリを襲ったような手口だが、故意にオートバイをぶつけてきてターゲットを転倒させ、被害者が動けないすきにその持ち物を洗いざらい盗み、また状況が許せば被害者のオートバイまで奪って逃走するというものもある。ネリが襲われたエリアで2009年に賊の体当たり攻撃を受けた被害者はそのとき死亡している。2011年1月に中央ジャカルタ市の農夫の像エリアでジャンブレッに襲われた33歳の女性は、バッグを放さなかったためにオートバイが転倒し、生命を落とした。
オートバイジャンブレッはたいてい夜や夜明けごろの道路交通の寂れた時間帯を狙って行動し、周辺一帯の状況に十分に注意を払い、警察のパトロールが過ぎ去るのを待ってターゲットに襲い掛かるという用心深い犯行を行なっている。
2011年3月29日には、道路を歩いていた高校女生徒がジャンブレッの被害者となって死亡した。西ジャカルタ市ムルヤ(Meruya)にあるイペカ国際級高校11年生のアマンダは、メルボルンの技術系大学に留学することを夢見て勉学に励み、その資金を貯蓄していた。
その日アマンダは朝学校に遅刻したので、放課後担任教師に呼ばれた。15時10分に学校は終業し、生徒はすぐに帰宅する。アマンダが担任教師から解放されたのは15時30分だった。そのため、アマンダを学校に迎えにきた母親と行き違いになってしまった。母親はアマンダが先に学校を出たと思ったのだ。アマンダは母親を探して学校の周辺を歩いた。
イペカ国際級高校の周辺は決して人影寂しい地域ではない。住宅地区やショッピングセンターがあり、交通も四輪車二輪車がひっきりなしに通っている。とはいえ、それが犯罪発生の抑止になるかと言えば、そんな生易しいものでもないにちがいない。
異状を最初に発見したのは、学校公用車の運転手だった。学校からおよそ5百メートルほど向こうにふらつきながら歩いている人影をかれは認めた。学校に向かって歩いてくるその人影は、どうやらわが校の制服を着ているようだ。しばらく学校に向かって歩いていたその生徒は崩れ落ちるように路上に倒れた。運転手はその生徒を助けようとして駆け出した。近付いたとき、かれは女生徒の制服の腹部が血に染まっているのに気付いた。その女性徒は意識を失っていた。
学校側はすぐにアマンダをシロアム病院に搬送し、救急治療が講じられた。およそ一時間、アマンダをこの世にひき止めようとしてさまざまな手を打った医師は、最終的にアマンダの死を宣告した。
警察が集めたこの事件に関する情報では、アマンダはジャンブレッに襲われて携帯電話を奪われた。しかし普段から合気道を習っていたアマンダは賊に立ち向かったのではないかと警察は推測している。手向かってくるアマンダに賊はナイフを抜き、アマンダの腹部を刺したのではないか、と。
奇しくも2011年3月30日はアマンダの17歳の誕生日だった。ダルマイス病院葬儀館で催されたアマンダのミサに、友人たちはアマンダのために用意した誕生日プレゼントを持ち寄った。プレゼントはアマンダの棺に納められ、アマンダがプレゼントとして友人たちにねだったナシトゥンプン(nasi tumpeng)が運び込まれて、不帰の客となったアマンダにハッピーバースデイの言葉が涙とともに贈られた。


「夜のモナスはアブナイ」(2011年5月10日)
大統領官邸のまん前にあるモナス広場。首都ジャカルタのオフィシャルなセンターポイントだが、ナイトスポットでないだけに夜中には寂れる。寂しい場所は常に犯罪の陰が付きまとう。オフィシャルセンターポイントでさえそうだという事実が、インドネシアの本質を描き出しているようだ。
2011年4月27日22時ごろ、国立博物館や官庁の並ぶメダンムルデカバラッ(Medan Merdaka Barat)通りで強奪事件があった。夜中にこの通りまで来てふたりだけの甘い時間を過ごす若いカップルは少なくない。
国営ラヂオ局RRI表の歩道に座り込んで、ファリアン17歳とユリアント20歳は時間を過ごしていた。その近くに一台のスクーターが来て停まり、乗っていた二人連れが降りてファリアンとユリアントの方にやってきた。ふたりは男女のカップルでなく、男同士だ。言葉を交わし、世間話をし、そして二人の男はおもむろに、「携帯電話と財布を渡せ」と言った。ファリアンとユリアントは気色張って拒絶する。するとふたりの男は遠くに向かって身振りで合図を送った。その合図に従って別のオートバイがやってきた。乗っていた男ふたりが降りてファリアンとユリアントに向かう。
「オレたちゃ軍人だ。言う通りにしねえと痛い目に遭うぜ。」
脅しに屈してファリアンとユリアントは携帯電話と財布を男たちに渡した。
強請の犯行が始まったとき、カップルから少し離れた場所にいた友人ふたりがそこから走って逃げた。ダブルデートの片割れだったそのふたりは警察のパトロールを探した。急を聞いたパトロール警官ふたりが犯行現場に駆けつける。ところが多勢に無勢で警官ふたりは犯人を逮捕するどころか、怪我をした上全員に逃げられる結末となった。
その犯行パターンによる被害者の届出は過去二ヶ月間に四回、中央ジャカルタ市警ガンビル署が受けている。四回の届出によれば、事件はすべて21時以降にメダンムルデカバラッ通りで起こっており、手口はまったく同じで被害も携帯電話と財布となっている。


「オートバイの無謀運転で少女が死亡」(2011年6月5日)
2011年4月27日午前6時15分ごろ、北ジャカルタ市プルンパンの大通りで15歳の少女が死んだ。シンティヤ・インドリ・クルニア15歳は北ジャカルタ国立第30中学3年生で、その日中学課程修業国家試験を受けることになっていた。この日ばかりは遅刻できない。シンティヤの通学はいつも父親のバンバンがオートバイで送っていた。バンバンは娘を学校へ送ったあと、次は妻をその勤め先に送って行くというのが日課だった。
ジャカルタの朝の通勤通学時間帯には、ほとんどあらゆる道路がオートバイで埋まる。道路を四輪車が埋めてもそれなりの隙間があくが、オートバイだと隙間はないに等しい、そして四輪車の隙間にまでオートバイが入り込んでいく。そんな交通の流れが赤信号や他の何らかの路上の障害で停滞すると、あっと言う間に数十メートルの車列ができる。信号のない場所でそんな停滞が生じると、後ろにいる二輪ラーダーたちはすぐにいらつきはじめる。自分の前にできた壁をどうにかして潜り抜けたい。この壁の前に出たい。そんな衝動がかれらを突き上げ、路肩であろうが歩道であろうが、あるいは反対車線の逆走になろうが、そんなことはおかまいなしにかれらは突き進むのである。
その日、バンバンがシンティヤを乗せて家を出た時間は、普段より遅かった。遅刻すると国家試験が受けられなくなるから、シンティヤもそわそわしていた。父親のバンバンは、その後の妻の通勤まで遅刻するのを思うと気が重かった。
大通りを交通の流れに乗って走っているとき、突然流れが止まった。少し前方のオートバイの列が道路を押し渡ろうとしている歩行者の進行を優先させたのだ。バンバンは舌打ちすると、左側の対向車線に入り、アクセルをふかした。歩行者の塊が対向車線に入る前に走り抜ければいい。ところが歩行者の先頭はバンバンの予想外の速さでかれが通り抜けようとしている対向車線に入ってきた。バンバンは急ブレーキをかけざるを得なかった。車体が大きくふらつき、コントロールが失われて横転する。シンティヤは対向車線の真ん中に投げ出された。そしてやってきたオートバイがかの女に激突したのだった。
バンバンは腕と足に傷を負っただけで済んだが、シンティヤの命は助からなかった。


「未成年男児に冤罪」(2011年6月8〜10日)
中央ジャカルタ市ジョハルバル(Johar Baru)郡タナティンギ(Tanah Tinggi)は首都のタウランセンターと化している。タウラン(tawuran)とは集団で行なう喧嘩のことで、夏目漱石の名作「坊ちゃん」に登場する松山中学と松山師範の生徒同士の集団喧嘩を思い出せばよい。あのような学校間の生徒集団同士の喧嘩は日本でも戦後まで続けられていたようだが、今では自分の学校への帰属意識を奮い立たせ、個人的にはまったく悪感情を持っていない他校の生徒に対し、かれらが敵校生だからということで何が何でも喧嘩を命じられるような風潮はもう日本から消滅したように思われる。しかしインドネシアでは反対に、学校生徒同士の集団喧嘩はここ小半世紀の間、どんどん激しさを増している。学校生徒だけでなく、青年・大人が行なう住民タウランも増加し、町内がそれぞれ結束して集団喧嘩を行なっている。インドネシアのタウランは国の基本状況を反映して、投石だけでなく刃物を振るい飛び道具を使い、血の雨が降って生命のやりとりが行なわれている。血に飢えた激情はどんどん昂進しているのが実態のようだ。タウランで生命を落としたインドネシア人の数は決して少なくない。
タナティンギでは2011年3月10日に午前中生徒間のタウランがあり、その日の夜に入って次は住民のタウランが起こった。タウランのダブルヘッダーというのはそれほど不自然でないものの、異なる対戦が同じ場所でその日のうちに二度起こるというのは前代未聞であり、首都のタウランセンターの面目躍如というところかもしれない。ジョハルバル郡は麻薬覚醒剤流通網が網の目を絞り上げたエリアであり、かれらが酒類や麻薬覚醒剤の販売促進のためにタウランを煽っているという話を物知りは物語っている。無法地帯になればなるほど、非合法物品の販売が容易になり、そのビジネスに携わっている人間の身辺が安全になっていくというメカニズムがそこに生じているにちがいない。
2011年3月10日午後、アルジハードイスラム中学生デリ14歳ボウォ15歳ルキ14歳の三人が学校から帰宅の途上にあった。三人がタナティンギの住宅エリアに差し掛かったとき、かれらのいる場所から近い小路の奥で破裂音が聞こえた。三人は興味をひかれて音のした方向に進んで行った。かれらはそれを最初、爆竹の音だと思ったが、それは住民のタウランを制止しようとした警官の威嚇射撃であったことがわかった。三人は現場に接近しすぎたことを後悔し、急いで身を隠す場所を探した。近くに携帯電話や電話カードを売っている売店があり、店番をしているべき店員の姿はそこにない。タウランの接近に驚いて、店を閉めるひまもなく避難したにちがいない。三人はそこに隠れて様子をうかがい、タウランが去ったのでかれらも家に帰ろうとした。そのとき店の表に落ちていた価格1万ルピアの携帯電話イニシャルカードにデリが気付き、それを拾った。デリはそれをボウォに渡し、ボウォはそれをルキに渡した。そのときだ。「泥棒!」という声が響いたのは。その声に触発されたらしく、警官や住民が三人の方に目をやり、すぐさま三人めがけて駆け出してきた。三人は慌てて逃げた。ルキは渡されたイニシャルカードを投げ捨てて逃げた。しかし結局ルキは逃げおおせずに捕まり、中央ジャカルタ市警ジョハルバル署に連行されて取調べを受け、仲間ふたりの名前を白状した。
翌11日昼頃、デリとボウォの家に警官がやってきて、三人の仲間は学校で出会わず、警察署で顔を合わせた。そしてボウォとルキはその日のうちに釈放されたが、デリの取調べは続き、15日になってそれまで拘留されていたジョハルバル署からデリは東ジャカルタ市ポンドッバンブにある国立拘置所に身柄を移されたのだ。
ジョハルバル署はデリを窃盗犯として書類送検した。窃盗犯に対する刑罰は最高で入獄7年となっている。その間デリの起訴準備を進めていた中央ジャカルタ地方検察庁は2011年4月5日にデリの帰宅を赦した。デリは親の監督下に置かれており、逃走するおそれがない、というのがその理由だったが、人権保護法律援護会を主体に、政府の児童保護機関や人権擁護団体が警察と検察に対し、デリの就学権侵害を強く批判している状況に応えるための対応だったようだ。
デリの両親は法律援護会のサジェスチョンに従い、デリが盗んだとされている携帯電話イニシャルカードの金額1万ルピアを預けるので、警察・検察・被害者との間で今回の事件を示談で処理するようにし、裁判所に持ち込むのはやめてほしいと嘆願したが、検察庁は書類送検が終わり起訴の手続が進められているため、途中でやめることはできない、との理由でその嘆願を却下している。
法律援護会弁護士はデリとふたりの仲間への警察取調べが弁護士の立会いなしに行なわれたことを児童裁判所に関する1997年法律第3号第51条違反であると主張しており、またデリが拾ったカードが本当にその売店の所有物だったのかどうか、あるいはタウランに関わった者やタウランを怖れて逃げた者が落とした可能性は調べられたのかどうか、といった疑義を提出し、少なくとも出だしから法曹側に逸脱行為のあったデリの裁判は行なわれるべきものでなく、被害者を交えた協議を通して決着させるよう裁判所に対して異議申し立てを行なっている。デリの裁判はまだ開始されていない。


「子供の頭に空気銃弾が・・・」(2011年6月10日)
自転車で遊んでいた5歳の少年の頭部に空気銃の弾丸が命中した。ボゴール県チゴンボン郡チゴンボン村に住むカルサ41歳の息子リスキ5歳が町内を自転車に乗って行ったり来たりして遊んでいた。そのとき隣人のファルハン35歳は自分の空気銃を家の表に持ち出して手入れをしていた。 リスキがファルハンの前を通り過ぎようとしたとき、ふとしたはずみで銃弾が発射され、リスキは自転車から転がり落ちて人事不省になった。ファルハンはすぐリスキに駆け寄ると両手で抱え上げ、リスキの親のもとへ走った。「たいへんだ、リスキが自転車から落ちて石で頭を打ち、気を失った。」
リスキの親とファルハンはすぐにチゴンボン村の保健所にリスキを連れて行く。
保健所の医師はリスキを診察したあと、重態であるのでボゴール赤十字病院へ行くよう紹介状を書いた。一行は赤十字病院へ。ところが赤十字病院の救急治療室は満員で急患を受け入れる余裕がないため、アズラ病院を一行に紹介した。一行はふたたび重態のリスキを連れてアズラ病院へ。
アズラ病院でリスキの頭に空気銃弾が埋まっていることが明らかにされ、なんでこうなったのかと医師がファルハンを問い詰めた。そのためファルハンがそのときはじめて事故の一部始終をリスキの親に明らかにし、リスキの治療費を自分が全部負担すると言い切った。カルサ夫婦は貧困家庭でリスキの銃弾摘出手術の費用を支払う余裕など全然ない。
リスキの親はファルハンの言葉に驚いたが、自分がとても支払えない治療費を全部負担してくれる人間を警察に訴えるわけにもいかない。こうして事件は示談の方向へと収束していった。
この事件を取材した報道関係者がボゴール県警チジュルッ署に問い合わせたところ、犯罪捜査ユニット長はこう返事した。「その事件は耳にしている。しかし被害者側が訴えの届出を出さないので、警察はアクションを起こせない。関係者も被害者もまだみんなボゴール市内の病院にいるので、事情聴取すらまだできない。」
これは民事事件として終わるのだろうか?


「インドネシアがアルカイダの第二フロントに」(2011年6月27日)
アルカイダの指導者オサマ・ビンラディンがアメリカ海兵隊特殊部隊による襲撃で2011年5月3日に射殺された後、残された組織はアフガニスタンとパキスタンで攻勢をかけているNATO軍との間の第一戦線の圧力をかわすため、第二戦線をインドネシアに設けたとの推測がささやかれている。もしその第二戦線構想が本物となった場合、政府はもはやテロを犯罪行為と定義付けるのは不可能になるだろう。インドネシア政府もアメリカやマレーシア・シンガポールにならって、国家保安法令の制定でその状況に対応しなければならなくなる。それ以前でも、陸軍特殊部隊コマンド対テロ第81支隊や海軍カプリコーンネット支隊に動員をかけることをSBY大統領は大統領としての職務権限で行うことができる、とインドネシア大学テロオブザーバーは語る。
「テロリストグループの射撃訓練の標的に大統領のポスターが使われた話をしたとき、大統領が保安行動を始めることを期待した。ところが国軍との協議の場でテロリスト対応の話題が出るたびに大統領は村落育成下士官の警戒を強めるようにという要請が語られるだけだった。かれらの階級は軍曹レベルだ。国軍の関与を促すと、軍がふたたび政治の舞台に乗り出してくるという恐れのなせるわざだ。昨今のテロ活動のエスカレーションはバリやマリオットの爆弾テロ事件のときほど強まってはいないから、国家保安を大上段に構えるまでではないものの、アルカイダの第二フロントが形成された場合は話が変わる。」
現政治体制を崩してインドネシアをイスラム国家に変えようとする反体制運動インドネシアイスラム国家(NII)の元活動家は次のように語っている。「オサマは東南アジアがきわめて大きいポテンシャリティを持っていると見ていた。その中でもインドネシアは、軟弱な政府、腐っている国境監視、個人アイデンティティの盗用とマネーロンダリングのしやすさ、などの要因によってテロ活動の実行とテロリストの訓練に適した場所だと考えていた。」
その分析はもちろんオサマだけの専売特許ではなく、NIIを含めて国内外のテロリストグループが一様に理解している事実であるにちがいない。はたして、アルカイダの第二戦線は形成されつつあるのだろうか?


「バスにたかり屋」(2011年6月27日)
2011年3月25日付けコンパス紙への投書"Meminta dengan Mengancam"から
拝啓、編集部殿。2011年2月1日、中央ジャカルタ市スネン地区にある我が家の門前で自動車検問が行われました。その日、わたしは家を出て、スネン〜スティアブディルートのメトロミニ15に乗ってキャンパスに向かいました。バスがスネン駅の交通信号を通っているとき、黒ずくめの異様な若者の一団がバスに入ってきました。かれらは威嚇的な口調で乗客に堂々と金を要求したのです。「われわれの声を尊重せよ。わずか1千ルピアであなたがたが貧困に落込むことはないし、われわれがそれで金持ちになるわけでもない。われわれが強盗するよりも、あなたがたにお願いするほうがはるかによい。」
すると乗客の何人かはかれらに金を渡しました。わたしがこの手の物乞いに出会ったのは、決して初めてではありません。前日にスネン〜プルイッルートのコパミ02に乗ったときも、グヌンサハリ4の信号機で同じような連中がバスに入ってきました。かれらの行動はまったく同じで、黒ずくめの異様なかっこうで2〜4人が組んで動きます。
職務中の警官はバスを外から見ただけで何もしません。わたしは警察が自動車検問だけ行うのでなく、公共運送機関を頻繁に取調べ、かれらを取り締まって世間に不安を与えているかれらを排除して乗客に安全感をもたらしてくれるよう、希望します。[ 中央ジャカルタ市在住、イレネ ]


「少年おそるべし」(2011年7月12日)
中央ジャカルタ市クマヨラン郡ウタンパンジャン町ハジウン通りで隣組長をしているスリヨノの娘、高校生のラッナは父親のオートバイを自分の用事で使ったあと、帰宅して自宅の前に置いた。2011年6月13日14時半ごろのこと。自宅前の道はかなり往来があり、ラッナは誰かの通行の邪魔になったときに動かしやすいようにと気を遣って鍵をかけなかった。ちょっと時間が経ってから家の表を見たら、そのオートバイが姿を消している。ラッナはびっくりして表に飛び出し、行方を探したが路上のどこにも見当たらない。ラッナはすぐ父親に電話した。
電話を受けたスリヨノは急いで帰宅の途上にあった。そして自宅のほうからやってきたオートバイを押している少年とすれちがった。色も形も見覚えのあるそのオートバイを見て足を止めたスリヨノはナンバープレートを確かめた。B 3787TAU。「おい、そりゃあ俺んじゃねえか!」
オートバイを押していた少年はそれをすぐに放り出して逃げた。「マリン!」と叫びながら後を追うスリヨノ。少年はワルンの間に逃げ込んで隠れようとしたが、ついに近辺にいたおとなたちに捕まってしまった。捕まえたのは隠密パトロール中の私服刑事だった。中央ジャカルタ市警クマヨラン署犯罪捜査ユニット長は、その少年が前科持ちであることを覚えていた。やはり路上に置いてあるオートバイを盗んで捕まり、5月7日に判決を受けたばかりだった。15歳という年齢に鑑みて、判事は少年に親の監視下に戻すという温情ある判決を与えた。この少年の家は母子家庭で、祖母と母親との三人暮らし。クマンのカフェで働く母親はほとんど少年の世話をする時間がない。子供を引き取ったのはいいが、子供の素行を監視できる余裕などありはしない。母親にできるのは、少年をプサントレンに入れることだけだった。
色白で上背のあるこの少年は5月9日にブカシのプサントレンに入った。しかしプサントレンの規律ある暮らしに少年はまるでついていくことができなかった。5月12日、少年はプサントレンを脱走した。それ以来、少年は自由気ままな日々の生活を謳歌するようになった。自分を監視する大人などどこにもいない。
そしてスリヨノのオートバイを盗むしばらく前から頻繁にハジウン通りに来て遊ぶようになった。ラッナは最近その少年を近所でよく見かけるようになったものの、どこのだれかはまったく知らなかった。
少年はスリヨノのオートバイを盗んだことについて、またプサントレンに入れられるのが嫌さに犯行を犯したと語っている。


「バス乗客の破壊衝動」(2011年7月15日)
2011年4月9日付けコンパス紙への投書"Kemacetan dan kaca Jendela Transjakarta Dipecahkan"から
拝啓、編集部殿。2011年2月28日(月)17時20分ごろ、わたしはトランスジャカルタバス第9ルート(ピナンランティ〜プルイッ)でガトッスブロトLIPI停留所からグロゴル方面に向かう連結バスに乗りました。わたしは連結バスの後部車両に入りました。国会議事堂前を通過し、会計監査庁ビルからプジョンポガン(Pejompongan)陸橋に差し掛かったあたりで激しい渋滞に巻き込まれました。車内は乗客でぎゅうぎゅう詰めになっています。スリピ・プタンブラン停留所までほんの数百メートルなのに、ほぼ1時間かかりました。大勢の乗客が不快さをむりやり抑えつけています。停留所に着いたのは18時35分でした。そのスリピ・プタンブラン停留所で乗客の不快が頂点に達しました。後部車両の扉が開かれないのです。
その停留所で降りようとしていた乗客の叫び声と一緒に窓ガラスや仕切りガラスをバシバシと叩く音が車内に響きました。しかしバスは発車し、そのまま信号を渡っていきます。そしてついに、ガシャンという窓ガラスの割れる音が聞こえました。後部扉の窓ガラスに穴が開き、残ったガラスには細かいひび割れが一面に走り、ガラス片がばらばらと落ちて行きます。ひとりの乗客が緊急事態の際に窓ガラスを割るためのハンマーを手にしていました。ガラスの破片は近くにいた乗客にも飛び散りました。
トランスジャカルタバスが激しい渋滞に巻き込まれることはよくあります。政府は慢性化する一方の交通渋滞にもっと真剣に対処しなければなりません。その筆頭はバス専用レーンに一般車両を侵入させないことです。もし専用レーンをスムースに運行できるなら、トランスジャカルタバスはもっと頻繁に往復できて、より多数の乗客を運ぶことができるのですから。[ 西ジャカルタ在住、ゴルガ・パルラウガン ]


「ムアラアンケに4発の銃声」(2011年8月8日)
北ジャカルタ市ムアラアンケ(Muara Angke)港に銃声が4発鳴り響いた。それを耳にした外国人旅行者の多くは、即座にきびすを返してそこから遠ざかろうとする姿勢を示した。2011年7月23日(土)朝のできごとだ。
プラウスリブ(Pulau Seribu)に向かう船がこの港から出る。プラウスリブのティドゥン島に渡ろうとした乗客グループが救命胴衣を着けていなかったのが事件の発端だった。救命胴衣のない乗船客が船内にいるのが目に付いた。その状況がムアラアンケ港に出張っているタンジュンプリウッ沿岸警備隊の注意を引き寄せたのである。
規則違反に該当する船の出航を沿岸警備隊が止めた。話が違う、と怒り出したのは船の運航クルーと船主だ。いつものように不法徴収金30万ルピアを取っておきながら、出航させないとはどういうことだ?
しかしそのトラブルにはもっと別の要素がからんでいた。ティドゥン島に渡ろうとしていた乗客たちは墓参が目的であり、かれらは乗船切符を買おうとしなかった。乗船切符もなしに船に乗り込んできた者たちに救命胴衣を使わせるほどお人よしでなかった運航クルーは、おかげで出航を阻まれることになった。船主と運航クルーが無賃乗船者を船から追い出そうとしたところ、無賃乗船者たちは腕ずくで抵抗したため立ち回りが起こり、港一帯にいる荒くれ男たちが集まってきたため、沿岸警備隊が暴動に発展するのをおそれて銃口を空に向けての威嚇射撃を4発行ったというのが今回の事件の全貌だ。
一時閑古鳥が鳴いていたプラウスリブ観光は観光客がまた戻ってきており、週末には4〜5千人が島々に渡るようになっている。


「首都閃光作戦」(2011年8月9日)
南ジャカルタ市警は2011年8月2日から14日まで、首都閃光作戦を実施している。市警所轄地区内で起こった未解決の盗難・引ったくり・強盗などの犯罪事件55件を総力をあげて捜査し、検挙率を高めて安全平穏なラマダン〜イドゥルフィトリシーズンに市民が聖なる宗教の務めを果たせるようにしようというのがその狙い。それと同時に所轄地区内での犯罪防止も目標になっており、この季節に上京してくる季節犯罪者の動きを抑え込むことももうひとつのテーマになっている。55件の犯罪ターゲットはほとんどの犯人の身元が割れており、足跡をたどって追い詰めることが焦点になる。また南ジャカルタ市内54ヶ所の犯罪多発地区での警戒態勢も高められる。この作戦には920人の要員が投入されることになっている。
ところで南ジャカルタ市長はお隣のデポッ市で発生した市民団体の衝突事件を重視し、その余波が南ジャカルタ市内に及ぶのを懸念してそれら市民団体を召集し、暴力抗争を起こさないことを約束させるとともに、市内での犯罪発生を防止するための協力活動をかれらに求めた。市長に招かれた血気盛んな青年層が主体になっているそれら市民団体はブタウィ協議フォーラム(FBR)・ブタウィ青年連絡フォーラム(Forkabi)その他の団体である由。しかし南ジャカルタ市警本部は、警察に協力してくれる市民団体は規律のしっかりしたところでなければだめだ、と安易に十手は渡さない意向を明らかにしている。


「野獣の血が騒ぐ少年たち」(2011年8月16日)
2011年5月18日付けコンパス紙への投書"Senjata Tajam dalam Tawuran Brutal Pelajar di Kota Depok"から
拝啓、編集部殿。2011年4月4日午後、下校途上だったわたしの弟はデポッ市内の生徒グループにパサルアグン前で集団暴行され、刃物で刺されました。手術を受けたあと、弟はいま入院しています。デポッでは生徒間の一方的な襲撃が頻繁に発生しています。
かれらはまるで死刑執行人のように刃物を持ち歩き、同じ生徒仲間を痛めつけるのです。デポッは私立の中高がとても多いところで、市民はその中の数校をタウラン(tawuran =集団喧嘩)の元凶と見なしています。社会保安のためにデポッ市警は積極的に生徒の検問を行うよう希望します。
学校へ勉学に行こうとしている生徒たちに安全感を与えるだけでなく、暴力生徒に対する懲罰効果もあるはずです。学校も生徒に対する検問を継続的に行うべきです。教科書に親しむべき子供たちが刃物を手にして市内を自由にうろつきまわっているなんて、わが民族の将来はどうなってしまうのでしょうか。
学校と警察は肩を組んで、暴力生徒に厳しい措置を与えてください。必要なら、デポッ市教育局は校内に暴力が繁茂するのを放置している学校を処分してください。わたしの弟の事件は、警察に被害届を出しています。[ デポッ市在住、ラッナ・サリ・デウィ ]


「ふたたび、少年おそるべし」(2011年8月17〜19日)
2011年4月16日(土)夕刻、ブカシ市北ブカシ郡ハラパンバル町のプンギリガンバル水路の川原で、血まみれになって死んでいる少年の遺体が発見された。その日18時半ごろ、ハラパンバル町住民ふたりがプンギリガンバル水路でマンディしたあと、川原の竹やぶの前に横たわっている死体を発見して警察に通報したのである。警察の調べでその少年は、ダフィッ・リヤディ14歳、北ブカシ郡アルマナル総合イスラム中学8年生であることが判明し、その日の夜には家族に悲報が届けられた。
ダフィッの両親から警察が得た情報によれば、ダフィッは16日16時ごろ友人が迎えに来たので、母親からオートバイを借りて出かけたとのこと。ダフィッは決して遠出しないで近くの田舎道を走るだけだから、ヘルメットもかぶらず、運転免許証も自動車番号証明書も持たずに出かけたがそんなことには頓着しなかった、と35歳の母親は語っている。残念なのは、迎えに来た友人がだれだったのか尋ねなかったことだ。ダフィッは携帯電話だけを持って出かけたが、息子は1歳年上の女生徒からよくSMSをもらい、その返信をしている姿を見ているので、その電話機からダフィッの交友関係がわかるだろう、と母親は後悔を交えながら話している。
ダフィッは首筋から背中にかけて多数の刃物傷があり、さらに頭・腕・腹にも同じ刃物と思われる傷があった。抵抗した形跡は見当たらない。そして現場には女物のサンダル一対と男物サンダルの片方が残されており、犯人は地面に落ちた血をそれで踏み散らしたように思われる。それらのサンダルについて両親は、まったく見覚えがないと証言した。また現場にダフィッの母親のオートバイ、赤色ヤマハミオの姿はなかった。
ブカシ市警北ブカシ署は殺害犯がひとりなのか複数なのか、その疑問を抱えながら捜査を開始した。
被害者が乗っていたオートバイは無くなっているが、身に着けていた携帯電話機は残されている。そして被害者に抵抗した形跡がないことから、犯人は被害者と顔見知りの者ではないかという疑いが色濃く漂っている。捜査の結果、警察はダフィッの遊び仲間に焦点を絞った。そして一番容疑の濃いダフィッのフットサル仲間でクラスメートのデデン16歳を4月18日、タマンウィスマアスリ通りで捕らえ、取調べのために連行した。デデンは犯行を自供した。
デデンはアルマナル総合イスラム中学8年生の間の支配者だった。その年代の少年たちの中で二歳も年上であれば、腕力の差は大きい。だからほとんどすべての同級生がデデンの前では腫れ物に触るような態度を示し、デデンの命令に従わない者はいなかった。ダフィッだけが例外だったのだ。仲間同士でよくフットサルをプレーしたが、自分の思い通りにならないダフィッをデデンは殺したいほど憎んでいた。ダフィッの横っ面を張り飛ばしたら、ダフィッもデデンの横っ面を張り返してきた。支配者としての沽券に泥を塗るようなやつは赦しておけねえ。
16日16時ごろ、デデンはフィトゥロフマンとプリヨノを連れてダフィッの自宅へ迎えに行った。フィトゥもプリもクラスメートでダフィッと同じ14歳。「クランジへ行ってシーシャを吸おうぜ。おめえ、水タバコはまだやったことねえだろう。」
ダフィッを誘い出す口実がそれだった。四人はオートバイを連ねて走った。そしてプンギリガンバル水路を通りかかったとき、デデンはほかの三人に言った。「ちょっと川原へ寄って行こうぜ。」
四人は川原に降りた。するとデデンは「ちょっと取ってくるものがあるから、おめえらそこで待ってろ。」と言ってオートバイに引き返した。三人はしゃがんで水面に眼をやる。オートバイから何かを手にしてデデンはまた三人の方に歩み寄った。デデンの手にしたものがきらりと陽光を反射した。
ダフィッは水面を見ながら仲間と話している。デデンが後ろに近寄ってきたのにまったく気付かなかった。デデンは息を吸い、その息を詰めると手にしたものをダフィッの背中に振り下ろした。苦痛に身をよじるダフィッめがけて、デデンはところかまわず手にした鎌を振り下ろす。血まみれになったダフィッが動かなくなったとき、デデンは愉快そうに笑い声をはずませた。その有様を少しはなれて怯えながら見ていたフィトゥとプリに口止めしてからデデンはダフィッが乗ってきたヤマハミオに乗って現場を去った。
デデンはダフィッ殺害を計画的に行ったと警察に自供した。警察はその傍証を求めてフィトゥロフマンとプリヨノを取り調べ、ふたりはデデンが鎌を振るうまでその殺害計画をまったく知らなかったと言い張ったため、警察は事情聴取にとどめてふたりを釈放したが、その後新たな事実が判明したことから4月20日にフィトゥとプリをダフィッ殺害共犯容疑で逮捕した。
警察の調べによれば、デデンは事前にフィトゥとプリにダフィッ殺しの話をもちかけ、当日はフィトゥに鎌を持ってくるよう命じていた。ふたりはただただデデン恐ろしさに、呆けたようにデデンの命じるまま動いていただけだったようだ。
デデンは犯行現場から2キロほど離れたドゥタハラパン住宅地の自宅に叔母とふたりで住んでおり、両親はブンクルで仕事をしていて長期にわたってほとんどデデンとの接触がなかった。北ブカシ署捜査官はデデンが人並み以上に殻に閉じこもった性格をしており、なかなかオープンになろうとしないためその取調べに精神医の助力を求めている。


「他人から金を搾り取るのは簡単?」(2011年8月29日)
2011年5月25日付けコンパス紙への投書"Komplotan Penjahat di Angkot"から
拝啓、編集部殿。わたしは学校生徒で、毎日チルンシ〜カンプンランブタン間アンコッ121で通学しています。最近わたしは嫌な気持ちを抑えてそのアンコッに乗るようになりました。しゃべれる鳥を売る風を装ってアンコッに乗り込んでくる三四人の男たちの悪行を見るのが嫌なのです。
かれらは最初ばらばらに行動します。カンプンランブタン方面から最初二人が新道で乗り込んできて、もうひとりは有料自動車道に入る直前に入ってきます。ひとりは鳥を売る役、もうひとりは鳥を買う役を演じ、鳥の値段を3百万ルピアと言って交渉します。そして最後に乗客の全員に鳥を買うよう勧めます。その手口は毎回一緒です。
そしてかれらは乗客ひとりひとりに、携帯電話を持っているか、そのブランドは何か、お金をいくら持っているか、ATMカードを持っているか、そんなことを尋ね、そして毎回乗客のひとりが被害者になるのです。最近二ヶ月間でわたしはもう三回もこの一味に同じアンコッの中で出くわしました。最初の被害者はまだ若い人で、30万ルピアと携帯電話をかれらに差し出しました。二回目の被害者は夫婦で、ATMカードとPIN番号を渡すことを強いられました。三回目の被害者は別々にアンコッに乗ったふたりのひとで、それぞれが携帯電話と現金を合計50万ルピアも差し出していました。
わたしはただの生徒だから被害者になることはないのでしょうけど、毎日通学のためアンコッに乗るのが不快で、トラウマチックになっています。[ デポッ市在住、ハスナ ]


「カミカゼ長距離バスは消えず」(2011年9月3日)
2011年6月30日付けコンパス紙への投書"Kecelakaan Darat yang Terabaikan"から
拝啓、編集部殿。2011年5月22日(日)20時ごろ、スラバヤ発ジョクジャ行き長距離乗合バス、スンブルクンチョノが事故を起こしました。そのとき、10人の生命が失われたのです。5月24日付けコンパス紙の報道によれば、東ジャワ州警察が記録している2009〜2010年スンブルクンチョノ社バス関連交通事故の死者は32人にのぼるそうです。空や海の事故にくらべて、道路交通事故はわれわれみんなの関心の度合いがとても低いように感じます。
しかし陸上で起こる交通事故もたくさんの人命を奪っているのは同じなのです。わたしは提案します。運通省と国家警察は発生した事故の調査を行うため、関連行政機関や行政部門を通して早急に特別調査チームを編成してください。これまで、路上交通事故だけがそのような努力から無縁であるように思えてなりません。
調査はあらゆるものを対象として行われます。バス会社とその経営者や人材、道路インフラや法規そして現場でその事故を取り扱った役人にいたるまで。そして調査結果は公表されなければなりません。間違いを犯した者に対する厳格な措置が取られないために事故が繰り返し発生しているのは間違いありません。そしてわれわれにもっと大きな不安をもたらしているのは、大資本家が世の中を手玉に取っているために事故調査がいいかげんになっているということなのです。[ ジョクジャ在住、グントゥル・ラフマディ ]


「ジョクジャで銀行強盗の新手口」(2011年9月5日)
自爆スタイル銀行強盗という新しい手口が開発された。2011年8月24日午前8時半ごろ、ジョクジャ市内トモホ通りにあるBRI銀行出納支所は開店早々で、顧客はまだひとりも来店しておらず、支所内はふたりの女性窓口職員がその日の業務の準備を行っていた。
突然ひとりの男が入ってくると、叫んだ。「オレがこのボタンを押したら、これは爆発する!」
フルフェースのヘルメットで顔を覆った男は左手に何かが入った黒色のビニール袋を提げ、右手には目覚まし時計のようなものが握られ、その指はボタンの上に置かれている。
ふたりの女性職員は蒼白になって沈黙した。狭い支所にはまだかの女たちしか出勤していなかったのだ。賊はカウンターの内側に入るとふたりの女性を奥の部屋に引きずり込んだ。両手を縛り、口をガムテープでふさぐ。そしてその奥の部屋の引き出しを全部開けて現金をかき集めると、賊は風のようにそこから立ち去った。
銀行側の届けによれば、被害総額は1億6,780万ルピア。警察の調べでは、どうやら完全な単独犯行だったようだ。


「インドラマユは人売被害者供給県」(2011年9月7・8日)
日本でも昔は、貧しい地方が人身売買の舞台となっていた。現代インドネシアでもそれは変わらない。西ジャワ州インドラマユ県は近隣諸県の中で貧しい。海外出稼ぎ者だけでなく、国内諸都市への出稼ぎ者も多い。その出稼ぎプロセスの中に人身売買シンジケートが網を張るのである。
県警女性児童保護ユニットは2011年7月14日、県内パトロル村の街道で、三人の少女をジャカルタに向けて送り出していた人売シンジケートのメンバーふたりを逮捕した。全員が17歳だった三人の少女も保護されて警察の事情聴取を受けている。男ふたりはそれぞれ60歳と35歳で、ジャカルタへ出稼ぎに出たい少女を探し出しては働き口を斡旋し、送り出しを行うという仕事をインドラマユで行っていた。三人の少女はカフェで客に酌をする仕事があるという説明でリクルートされ、北ジャカルタ市チリンチンにあるカフェビンタンを尋ねていくよう言われて、ひとり20万ルピアの交通費を受け取っていた。さらに、カフェビンタンからいくらでも給料の前借ができるので、ジャカルタでの暮らしがはじまれば愉しい豪奢な暮らしは思いのままというような話を少女たちはかれらから吹き込まれている。
貧しい生活環境での暮らしを送っているかの女たちの意識下に、マスメディアが滔々と流し込んでくる豪奢な消費的ライフスタイルの情報は強力な憧れを培養する。人売シンジケートにとって、少女たちは誘惑条件が整いすぎているおいしいターゲットなのだ。
県警ユニット長は、縄張りの異なるシンジケートがいくつもあり、かれらは県内を闊歩して違法行為を行っている、と語る。「2010年に人売で逮捕されたのは12人。シンジケート所属員のほんの片割れです。現場では何十人ものメンバーが捕まりもせずに人売行為を行っているんですよ。」女性ユニット長はそう語る。
親は子供に仕事を斡旋してくれる人間をあまり警察に訴えようとしない。親は娘がチャロの差し金で遠方へ出稼ぎに行くことを十分承知の上で娘を出発させているケースがほとんどだ。表面上はすべて納得の上という形を取っており、無理やりかどわかしたり、強要したりという事件ぽいものはめったに起こらない。親が警察に訴え出るのは、子供が出稼ぎ先で法外な借金にがんじがらめにされて身動きならなくなったとき、というのが大半で、娘が身を売る稼業に落ち込んだこと自体はあまりその動機にならないようだ。
シンジケートが少女たちを釣る手口はふつう、レストランやカフェで客に酌をするだけで高給がもらえる、という話から入る。すぐに乗ってくる少女とは具体的に話を詰め、そして働き先に送り込む。少女たちが流されて行くのは、パプア・ジャンビ・リアウ・バタム・ジャカルタ・バンドン・スラバヤなど。
最初はマミーも優しくしてくれる。化粧道具やら衣装やら、少女がこれまで憧れの世界でしか接したことのなかった品物が目の前にそろえられる。そして初夜の水揚げが終われば一日に何人もの男を相手にしなければならない境遇に身を落とすというのが通例のストーリーだ。憧れの世界の品物が自分を苦界にしばりつける借金だったことを知り、何をもらわなくとも膨れ上がっていく借金を返すために身を粉にする暮らしに入ってしまえば、若さがかげりはじめるまでの長い月日を親元に仕送りしながらの親孝行で使い果たすまで、自分の一生はこれなのだという納得感にかの女らは包まれてしまうにちがいない。


「損したのはだれ?」(2011年9月9日)
バンドンのベッドタウンとなったチマヒ市に一家で住んでいるR15歳はまだ中学2年生だった。2011年2月、姉のひとりと喧嘩して家を飛び出した。モデルになることに憧れていたRはジャカルタに出てきて友人と下宿生活を始め、食っていくために仕事を探した。深夜労働を厭わなければ、若い娘にとってジャカルタで夜の仕事はいくらでもある。すぐに、とあるバーに雇われた。ところが三ヶ月もしないうちにRはそこをやめた。客として店に来たグナワンという男と知り合い、もっと金になる仕事に変わるよう勧められたためだ。夜の世界には、イケル娘をスカウトしてよそに売りつけるのを商売にしている男たちも棲んでいる。グナワンはRをヨセフに委ねた。グナワンとヨセフの間でいくらの取引がなされたのか、Rは知る由もない。ましてや自分がふたりの男の間の商品になっていることすら、Rは気が付かなかっただろう。ヨセフはRをナイトクラブに入れた。Rがナイトクラブの仕事に慣れてきたころ、ヨセフがやってきた。今日からこいつの指図に従えと言ってヨノをRに紹介した。ヨノはRをクラブからクラパガディンのマッサージパーラーに移した。
マッサージパーラーに移ってから、Rは厳重な監視下に置かれるようになった。寝起きはその建物の中。常に店側のだれかが監視しており、外出も許されない。思い余ってRは親元にSMSを入れた。
Rが家出してから、父親が亡くなった。Rは葬儀に現れたものの、暮らしぶりや仕事のことなどは何一つ家族に明かさないまま、またジャカルタに戻った。父の初七日に再び親族一同が集まったとき、Rの姿はそこになかった。家族がRを探したものの、連絡つかずじまいに終わっている。
長い間音信不通になっていた娘からのSMSに母親は狂喜した。ところがSMSのやりとりでRが苦境に陥っていることが明らかになると、母親は親族長老を誘ってRの救出に北ジャカルタ市クラパガディンへと向かったのである。しかし店側がすんなりとRを解放するはずもなかった。「あの娘には1千3百万ルピアの金がかかってんだよ。連れてくんだったら、金を返してからにしてくれ。」
母親は北ジャカルタ市警に訴え出た。刑事を伴って戻ってきた母親に店側は驚いた。未成年者を夜の慰安業に就かせるのは違法行為だいう刑事の言葉に店側は反論した。「この娘は19歳じゃないか。口入屋が連れてきたとき、19歳だと言ったし、そのときこの娘もうんと言って否定しなかったじゃねえか。チキショーめ!」
三人は慌しくマッサージパーラーを後にし、バンドンへの帰途に着いた。


「空き巣理学修士」(2011年9月12〜14日)
エディ・グナワン37歳。2001年にオーストラリアはメルボルンにあるモナシュ大学で修士の学位を得た。マスターオブサイエンスと本人は言うが、学科は何かと尋ねると、ヒューマンリソーシズだという返事が返ってきた。そのときエディは拘置者と書かれたオレンジ色のユニフォームを着ていた。ときは2011年5月30日、ところは西ジャカルタ市警本部。
「ああ、かれは英語・日本語・北京語・韓国語をインドネシア語のほかに操れる秀才だよ。」取調べ官はそう言った。エディ別名アブン別名ジョハン。さまざまな名前を駆使して他人になりすますのはインドネシアの犯罪者にとってお手の物のようだ。自己のアイデンティティがよく錯綜しないものとわれわれは感心するのだが、単一なる自己というアイデンティティの確立を求めないひとびとにとっては、それほど難しいことではないのかもしれない。
エディには前科がある。二ヶ月前にチピナン社会更生院(刑務所をインドネシアではこう呼ぶ)を出たばかりだった。警察は既に顔なじみになったエディを5月26日、西ジャカルタ市パルメラの借室で逮捕した。同時に室内にあったラップトップ1台、モデム1台、小型金てこ、コンクリートのみ、先を変形させたドライバーなどを証拠品として押収した。それらの品物は仕事のためのツールであり、あるいは盗品だった。
過去二ヶ月間に西ジャカルタ市クンバガン、パルメラ、タマンサリなどで発生した5件の空き巣や侵入盗事件の犯人がエディであることを解明した西ジャカルタ市警は、エディの居所を探し出して急襲したのだ。エディは抵抗というほどの抵抗もせずにお縄を受けた。
エディは二三回しかやってないと言うが、その二三回で5軒の家が被害を受けている。つまりエディの言う一回とは、一度に数軒の家をはしごしたということなのである。その5軒の家からエディは現金・ラップトップ・携帯電話機・ブランドもの高額腕時計・宝飾装身具などを盗み出している。32口径ワルサー拳銃一個も獲物のひとつだった。かれはそれを所持許可書と一緒にさる退役将軍の家から盗み出した。エディがターゲットにした家は医師や将軍など金持ちの家ばかりで、まずターゲットの家を選定してからその持ち主を調べ出すという手順を踏んでおり、将軍の家から拳銃を盗み出したのはあくまでも偶然の所産だった。
エディは盗んだ品物を故買屋に売り払って金にし、オーストラリアのキャンベラに住んでいる妻子の生活費のために送金していた。言うなれば、エディは留学中に結婚し、卒業後は故国に出稼ぎに戻っていたということになる。ただ、やっていた仕事がその学歴に不似合いなものだったというだけのことで、ジャカルタではつつましやかな一人暮らしを通し、この種の仕事を行う人間にありがちな金の浪費や女出入は慎んでいたようだから、エディはインテリによくある律儀なタイプの人間だったにちがいない。
西ジャカルタ市警本部長の談によると、エディの犯行は合計10件にのぼる。エディは目をつけた家に住む一家が全員出かけたのを確認してからその家に侵入し、金目の物を盗んで逃走している。中には住み込みの女中がいる家もあったが、そんなものはかれが犯行を犯す障害にはならなかった。エディは決行日の前にその家の電話番号を調べ上げる。決行日に家の住人が出かけると、その家に電話して女中にこう言う。「ああ、わたしだが、今日わたしの弟が来るかもしれないから、来たら中に入れてやってくれ。」そしてエディはタクシーでその家に乗りつける。ぴちっとした背広やサファリジャケットに身を包んで知的な雰囲気をほとばしらせているエディを見て疑惑を抱く女中などいない。家の中に入ったエディは女中に即席麺を作るよう頼み、女中が台所で仕事している間にその家の主人の寝室のドアの鍵を破って侵入し、金目のものをかき集めるとさっさと玄関を出て、待たせてあったタクシーに乗ってその家から立ち去るのである。留守番の女中さえいない家はもっと容易にエディの軍門に下るのだった。エディはそれらの犯行をすべて自分ひとりで行っていた。
エディの二度目にチピナン行きは確実だ。その運命に理学修士の肩書きは何の助けにもならなかった。


「ドジな空き巣」(2011年9月15〜17日)
インドネシアにもストリートシンガーがいる。交差点の赤信号で車が停まるたびに、かれらは車に近寄って一フレーズの歌を唄い、小銭をもらって後ろの車に移って行く。かれらはインドネシア語でプガメン(pengamen)と呼ばれる。語根のamenはキリスト教徒に共通のアーメンだろうという気がする。ヨーロッパに根を持つストリートシンガーたちは、街中の広場で歌を唄い、ひとびとに施しを求めた。中にはタンバリンひとつを手にしてリズムを取り、賛美歌を唄い、バイブルの章句を唱え、最後にアーメンと結んだ者もあったにちがいない。そしてオランダ人の街バタビアにもそのような活動で日々の糧を得ていた西洋人がいたのではないだろうか。プガメンの語源を思うたびに、そのような情景がわたしの脳裏をよぎるのである。
イスラムではamenでなくaminという語で祈りの章句を結ぶ。その用法はよく似ており、また言葉自体も近い関係にあることを思わせるが、ストリートシンガーは必ずプガメンであり、プガミンになることはない。
ルディは東ジャカルタ市プロガドン地区で毎日プガメンをしている。いま33歳のルディは7歳のときに故郷のクラテンからジャカルタに上京してきた。ルディをジャカルタに連れてきたのは19歳年上のブディだが、血縁関係にはない。それ以来、ルディはブディにあごで使われる関係になった。ルディは毎日プガメンで稼ぎ、上がりから1万5千ルピアをブディに納めるという暮らしを続けてきた。ふたりの関係は支配被支配関係であり、ルディはブディの暴力や威嚇をおそれていた。
2011年のルバランがあと一週間後に迫った日、ブディがルディをボゴールに誘った。ボゴール市内バラナンシアンバスターミナルの裏に広がる住宅街の一角に、帰省して空き家になっている家がある、とブディは言う。「オレはもう何回も外から様子をうかがった。あの家は空き家に間違いねえ。だからひと仕事やるんだよ。おめえが中に入って金目の品をかき集めてくるんだ。オレは外で様子を見てるからよ。」
空き巣の仕事を命じられたのははじめてだったが、ルディにはブディの命令にさからう気がさらさらない。夕陽が沈んでとっぷりと夜が更けたころ、ターゲットの空き家があるバンカ通りにふたりの姿が現れた。たまたまその家の隣は長期間人の住んでいないホントの空き家で、ルディはその家に忍び込んだ。それからルディは午前3〜4時の人の気配がもっとも薄くなるころをみはからって、ターゲットの家のマンディ場に侵入した。その家のマンディ場は建物の壁の外に増設されたもので、忍び込むのも容易だった。ところがブディの見込みは大きく外れることになる。ターゲットの家は空き家でなかったのだ。
農産物を商うウィラハディ・コサシ63歳の一家がその家に住んでいた。そして一家はまだ帰省などしていなかったのである。午前5時半ごろ、その家の女中ヌニ22歳がマンディ場に向かった。中に潜んでいたルディは突然扉が開かれたのに驚いた。しかしヌニのほうがもっと驚いた。見知らぬ男がマンディ場の中にいたのだから。
ルディは持っていた金づちでヌニの頭を殴ったがかすり傷を負わせただけだった。ヌニは悲鳴を叫び続けながらルディの手にかみつく。異変に気付いたウィラが駆けつけてきて、物干し棒を手にルディに襲い掛かる。しかし足を滑らせたウィラはその場に転び、ルディの金づちをこめかみに受ける結果になった。ルディは一刻も早くその場から逃走しようと企てるが、逃げ道はふさがれており、そこへウィラの息子34歳のアンディが駆けつけた。ウィラの妻も隣近所に響き渡る叫び声をあげ、近隣住民がその家に集まってくるに及んで、ルディは万事休すとなった。 捕まったルディは警察に引き渡され、警察の取調べで事件の一部始終が明らかになったが、ブディはいち早く行方をくらまし、警察がその行方を追っている。ルディはブディの言うことをそのまま信用し、空き巣なので刃物は持たず、金づち・のみ・ろうそく・ロープなどを身に着けてウィラの家に侵入した。その家のタンスの引出の中には高額装身具がいっぱい眠っているとブディはまるで見てきたような話をルディにしたが、ルディもその話を鵜呑みにしただけだったようだ。


「キャンペーンが終われば元の木阿弥」(2011年10月21日)
2011年8月16日付けコンパス紙への投書"Ancaman di Bus Kota dan Metromini"から
拝啓、編集部殿。2011年8月5日(金)わたしは都内パサルバルからスネン行き都バスに乗りました。満員のバスの車内で刺青だらけの若者がよろめきながら聞くに堪えない雑言を他の乗客たちに向けているのです。その若者の理屈では、乗客たちは働いており給料を得ているのに自分はそうじゃないのだから、金を自分に与えてくれて当然なのだそうです。死んであの世に財産を持っていけるわけじゃないんだ、とお説教までします。そして締めくくりの言葉にわたしはぞっとしました。「おじさんたち、おばさんたち、オレがあんたたちのポケットに手を突っ込まなきゃいけないなんて、そんなようにはしないよな。みっともないじゃねえか。」
同じその日、わたしはブグルからグロゴル行きメトロミニに乗りました。夜の帳が下りようとしているとき、電球が切れました。車内はくらがりです。バスがチデンを走っているとき、三人の若者が車内に入ってきました。わたしはかれらをプガメンと思ったのですが、間違っていました。かれらは車内で乗客に来世についての説教をし、それから乗客がすこしばかり糧を自分たちに分かち合うよう求めました。かれらのひとりは、「助け合う(tolong-menolong)」ほうが「強奪し合う(todong-menodong)」より良いのだ、と言いました。かれらは眠っている乗客を起こすことまでしたのです。乗客、特に女性たち、にとっては、何と空恐ろしいシーンだったことでしょう。
しばらく前に警察は路上のごろつきに対する取締りを実施しました。でもそれはただのユーフォリア。まるで風次第みたいに、瞬く間に過ぎ去ってしまいました。都バスやメトロミニの保安のために働く義務を負っている役人はいったいだれなのでしょうか?[ 西ジャカルタ市在住、フィリップ・アユス ]


「インドネシア最大規模の組織暴力団?!」(2011年10月31日)
2011年8月8日付けコンパス紙への投書"Kepongahan Konvoi Tentara"から
拝啓、編集部殿。去る7月7日15時40分ごろ、わたしは北ジャカルタ市アンチョル方面から東ジャカルタ市チャワン方面に向かって都内環状自動車道で車を走らせていました。そのときわたしは中央車線を走っていました。
スンテル地区を通っていたとき、迷彩服を着た兵士を満載した軍用トラックが何台もスンテル料金所から入ってきたのです。先頭の2台は左側からわたしを追い越してわたしの前に入りました。そのトラックの荷台に乗っている兵士が数人、わたしに手を振って合図しています。つまり右の車線に寄れということのようでした。それに従ってわたしはすぐに右のウインカーを点灯しました。しかしそのときわたしの右側車線にはほかの車が何台も走っており、すぐに移ることができません。ブレーキを踏んで急停車するのは良い考えではありません。後ろから追突されたくありませんから。
数秒後、トラックの運転席からプラスチックグラス入り飲料水がわたしの車に向かって投げつけられ、車のガラスに当たりました。そしてそのトラックは無理やりわたしの前に割り込んできたのです。トラックの後部がわたしの車をこすり、左サイドミラーは折れ、左のフロントサイドが壊れました。
同じようにして後続のトラックがみんな、まるで何事もなかったかのようにわたしの前に割り込んできました。わたしはすぐに右側車線に逃れました。右側車線が空いていたのは幸いでした。わたしも普通の女性一般と同じで、軍隊の所属を表す表示になじみがないため、その驕慢さのかぎりをつくしたコンボイがどこの所属なのかわかりません。[ 東ジャカルタ市在住、イスマルリンダ ]


「狂人それとも野蛮人?」(2011年12月5日)
2011年8月28日付けコンパス紙への投書"Lemparan Batu di Jalan Tol"から
拝啓、編集部殿。わたしは1996年から毎日、自動車専用道を使ってブカシ〜ジャカルタ間を通っています。朝・日中・夕方そして夜中でさえ、わたしは毎日自動車専用道を利用しているのです。ところが2011年7月12日午前8時ごろ、自動車道km10.5地点周辺でわたしはとても恐ろしい事件に遭遇しました。
そのときわたしはブカシから南ジャカルタ市ポンドッキンダ(Pondok Indah)方面に向かっていたので、一番左寄りの車線を走っていました。自動車専用道の脇に大人の男性が一人立っているのがわたしの注意を惹きました。その男は道路側に面して、自分の前を横切る自動車に向かって立っているのです。
わたしの車がその男の前にさしかかったとき、男は突然右手に持っていた何かをわたしの車に向かって投げつけました。わたしの車に向かって飛んでくるそのものをわたしの目ははっきりととらえました。直径10センチは超えていると思われる不定形の物体は石で、1キログラムをはるかに超える重さだったと思われます。それはわたしの車の左サイドボディを直撃してその男の方に跳ね返りました。男は敏捷にその石をひろうと、わたしの後ろの車に向かって同じことをしたのです。
石は時速40〜50キロのスピードで走っていたいすゞパンサーに当たり、自動車道フェンスに向かってかなり遠くまで跳ね返りました。わたしは車を止めないでスピードを落とし、サイドミラーを通して現場の状況を注視しました。その男はどう見ても、精神異常者としか思えませんでした。
チクニル(Cikunir)料金所に着いて料金を支払ってから、わたしは料金所職員に事件を届け出、車から降りて被害状況を調べました。さらにわたしは自動車道管理事務所職員にも、チクニル第2料金所の手前2〜3百メートルのところに異常者がいて、通る車に石を投げつけていることを届け出ました。
歩行者が、ましてや精神の正常でない人間が、自動車道管理者のまったく関知しないまま自動車専用道に入り込み、無関係の車両に暴力をふるうことがどうしてできるのか、わたしはほんとうに理解できません。その男はいったいどの料金所から自動車専用道に入ってきたのでしょうか?なぜなら、ブカシバラッ(Bekasi Barat)料金所からチクニル第2料金所まで自動車道はかなり背の高いフェンスで外界と遮断されており、それを乗り越えるのは困難だと思われるからです。[ 中央ジャカルタ市在住、エコ・プラスティヨ・ウトモ ]


「火災の大半は電線から」(2011年12月26日)
2011年9月23日付けコンパス紙への投書"Terbakar karena Kelalaian PLN"から
拝啓、編集部殿。PLNクラマッジャティ事務所職員Fのミスによって、ラヤボゴール通りにあるわが家は去る7月31日15時10分火災のため家財道具一切が灰塵に帰しました。
2009年5月中旬、はっきり見えなければならないという理由でFはSRケーブルをカットし、三ヶ所をエボナイトコネクターでつなぎました。臨時の措置だとかれは言いました。
20メーター当たり15万ルピアを払うために、わたしには事情説明書を作るよう命じました。その年の5月末にわたしはPLNポンドッグデ事務所でその支払いをしましたが、2011年7月31日に火災が発生するまで、その臨時の措置には対応が取られず、結局発火が起こってテラスのガレージ天井のベニヤ板が燃え、わたしが1973年から1998年までかけてスラバヤで蓄えた金で建てた唯一の資産である家財が灰になってしまったのです。
8月5日にわたしは抗議書をPLNに送りましたが、いまだに反応は何もありません。わたしはダフラン・イスカンPLN社代表取締役の良心に訴えます。人道的な措置を取ってください。[ ブカシ在住、スマルディ・サントソ ]
2011年10月5日付けコンパス紙に掲載されたPLNからの回答
拝啓、編集部殿。2011年9月23日付けコンパス紙に掲載されたスマルディ・サントソさんの投書について、説明いたします。2009年5月14日、PLN職員はスマルディさんのお住まいで電力利用取締を行い、外部送電線から屋内にPLNの保護設備を通さないで引き込まれているケーブルを発見しました。つまりスマルディさんのお住まいは、契約電力量を超える電気が使われていたわけです。そのケーブルは発見時に即対応措置が取られ、天井裏に置かれて外から見えなかったケーブルは外に出されて一目瞭然の状態になり、正しいあり方で機能する状態に正常化されました。
ですので、スマルディさんのお住まいの火災は、PLN側の電気設備によるものではありません。[ PLNジャカルタタングラン配電事務所広報環境育成マネージャー代理、イルワン・ダルウィン ]


「警察は本当に市民の味方?」(2011年12月27〜30日)
ユーチューブに泥棒の犯行現場録画が登場した。"Thieves in Rawamangun, East Jakarta, Caught in CCTV Camera"
アップロードしたのは空き巣の被害者Hさん40歳。
一味4人はオートバイ2台に分乗してHさんの家を訪れ、品物を持ち込むので部屋の大きさを測定するという口実でHさんが不在の家を開けさせ、家の中から金目の品物を盗んで逃走した。防犯カメラは犯人一味の行動をしっかりと記録していた。録画の日付は2011年11月19日。
Hさんはその事件を警察に届け出なかった。その代わりにユーチューブに載せたということのようだ。なぜ警察に届け出ないのか?それにはわけがあった。
実はその事件の5日前、ふたりの男がHさんの家に忍び込んでTV受像機を盗み出そうとした。ところが近隣住民に見つかり、泥棒ふたりは住民のリンチを浴びたのである。群衆に手と足を使ってドツキ倒され、青腫れと流血をこしらえたところで、逃亡力はなかなか失われるものではない。ふたりの賊は半ばボロボロにされながらも、包囲を潜り抜けて逃走するのに成功した。
Hさんは被害を警察に届け出て、防犯カメラの画像を証拠品として警察に提出した。ところが警察は、盗難未遂被害の証拠品はビデオテープでなくて盗まれそうになったTV受像機だと主張して、その証拠品の提出を命じた。しかし警察に渡した証拠品は、犯人が捕まって裁判にかけられ、犯行確認にそれが使われるまで、持ち主の手元には返されない。持ち主の手元に戻ってくるまで、スケジュールの確定しない長い歳月が待ち受けているわけだ。犯人が捕まらなかったら、事件が時効になるまでそれを戻してもらうことができなくなってしまう。
被害者は自分の資産が、泥棒の手であれ警察の手であれ、だれかに持っていかれて、自分の手元からなくなってしまうのだから、せっかく泥棒に盗まれなかったものをわざわざ警察に差し出すことはしたくない、とだれしも思うにちがいない。
2011年11月12日19時ごろ、Cさんは西ジャカルタ市ロキシー地区の駐車場に車を止めて、用事を済ませるために15分ほど車から離れた。車に戻った時、BMWの窓ガラスが割られ、仕入れたばかりの携帯電話機数十個が姿を消しているのが明らかになった。損害は数千万ルピアにのぼるが、Cさんは警察に被害を届け出ようとはしなかった。「被害届?とんでもない。このBMWが証拠品として警察に押さえられてしまう。ビジネスチャンスがいっぱい失われてしまうよ。盗まれた携帯電話機をあきらめるほうがマシだね。」
しばらく前に、チカンペッ自動車道で交通事故が発生した。コンテナトレーラーが前を走っていたセダン車に追突し、セダン車5台の玉突き事故となった。警察は事故原因となったトレーラー車だけでなく、被害者であるセダン車を5台とも差し押さえた。
ジャカルタの台所をあずかる東ジャカルタ市チピナン米中央市場。市場の中に倉庫を構える米問屋のひとつが事務所を破られ、大型金庫の中に保管してあった現金数億ルピアが盗まれた。しかし問屋の主は警察への届け出を行おうとしない。どうしてか?
「うちの倉庫に警察の黄色いテープを張られたら、何も仕事ができなくなる。テープを取り去ってもらうだけでも金がかかるんだから。」
西ジャカルタ市クドヤ地区でレストランを開業していたMさんは、警察の黄色い現場保存テープを取り去ってもらうために数千万ルピアを使った。レストランが火事で半焼したため、警察はレストランの周囲を黄色いテープで囲んだ。テープ内は立入禁止だ。そうなるとレストランの建て直しすらできない。だからテープは外してもらわなければならないのだが、無料ではやってくれないのである。
犯罪事件の証拠品としては盗品・犯罪に使われたツール・被害者の所有物という三種類がある。警察がそのすべてを証拠品として押収しようとするのは合法的な行為なのだが、盗難未遂品のテレビや交通事故被害者の車を差し押さえるのは、警察が保護しているはずの一般市民の資産を取り上げていることに変わりない。犯罪事件被害者市民が警察によって別の被害を受けたと思うなら、警察の保安職務隊に届け出ればよい、と首都警察広報部長は述べているが、それでいいのだろうか?市民の守護者を自任する警察の真価がいま問われている。


「ブブルアヤムスタイル」(2012年1月5〜7日)
毎日毎日ジャボデタベッ地区では飽きることなく犯罪が繰り広げられている。路上での強盗・ひったくり・ゆすりたかり・暴行やレープ、住居での空き巣・強盗・窃盗や詐欺など、犯罪行為のバリエーションは広範囲にわたっており、そして大勢の人間がそれに従事している。
ここ数年の傾向は都内よりもジャカルタ外縁部で犯罪件数が大幅に上昇していることで、その状況に関する分析を首都警察と犯罪学学術関係者が討論会の中で行った。ジャカルタ外縁部での犯罪が増加しているのはアーバナイゼーションがもたらしたドーナツ化がその基盤を支えている。もうひとつ警察側にも構造的な弱点があり、事件現場から別の警察所轄エリアへの逃走が容易であることに加えて、犯人を追跡するべき警察の縄張り意識が徹底的な追跡姿勢を弱めていることがあげられている。
地方から上京してきた人間の中に、犯罪を身過ぎ世過ぎの道にするものがいる。首都圏やスラバヤあるいはバリなどで発生する犯罪の大部分は、そのような上京者が行っているものが大半と見て間違いないだろう。かれらが最初からそれを目的にして上京してきたのかどうかは統計がないのでわからない。だとしても、インドネシア文化の中にある棚ボタ大王精神と善悪が相対的であるという観念の中で育ってきたひとびとにとっては、自分が得をするならチャンス次第で悪事に走るというポイントにおける潜在性は紙一重で現実化すると言うことができるに違いない。
犯罪者の多くは、大都会に上京してきたものの、日々従事するべき仕事が得られずになかば遊んでいる20歳から40歳の男たちだ。首都圏でかれらは、ジャカルタ外縁部に作られた出身地や種族を同じくする先輩たちの共同体に入る。かれらは首都圏近郊部つまりベッドタウンの住民が日々繰り広げている生活パターンを目の当たりにして学ぶ。早朝に家を出て、夕方から夜にかけて帰宅するのがそのパターンであり、およそ12時間、その家は女中・老人・子供たちだけが暮らす場所になる。
首都圏近郊部の住宅地区では、住民の環境秩序や保安がおざなりで、住民相互の結びつきも弱い。地域の保安を担う警察や住民自治組織は手薄であり、犯罪者たちは犯行の障害があまりないことを容易に見て取る。住民の大半が一日の半分を他の場所で送っているため、かれらコミューターと土着の地元民とのつながりもなかなか強くならず、共同体意識は盛り上がらない。
そして犯罪行動のターゲットを定めたかれらは、その家の偵察を開始する。かれらはその家の女中に言い寄って関係を作り、時おり家屋内に入っては内情を偵察する。だから強盗事件の中に、その家の女中の作った男が犯人というケースが混じることになるが、女中の恋人ができごころで・・・というものよりも計画的なもののほうが多いようだ。
かれら犯罪者がその初期に手掛ける仕事は、いまや大半が首都圏外縁部に集まっている。それは上で見たような、自分の生活環境に近い場所、内情のよく把握できている場所、仕事が成功しやすい場所、をかれらが選んでいるからだ。
ブブルアヤム(bubur ayam)とは、鶏のエキスを出汁に使ったおかゆのことだが、屋台のブブルアヤムを食べるとき、熱いブブルをお椀の真ん中からすくう者は少ない。たいていは、お椀の端からスプーンを入れてすくい、ふうふう息を吹いて冷ましながらたべる。犯罪者が犯罪キャリヤーを積むのに、首都圏の外縁部から手をかけて行くのに似ていることから、犯罪学研究者はその現象をブブルアヤムスタイルと名付けている。
かれら新米犯罪者が首都圏外縁部で履歴を積んでいるとき、かれらは安易に被害者を傷つけ、生命を奪う傾向が高い。それはかれらの経験が浅く、やみくもに他人に暴力をふるって自分の安全を確保しようとするからで、そのために首都圏外縁部で起こる犯罪は凶悪な色彩が濃い。もともと持っている暴力傾向と不安、そして短慮さがかれらの凶悪な行動の裏側にまとわりついているためだ。かれらは経験を積むうちに、犯罪行動の要領が身についてきて、不安は低下し、もっと落ち着いて状況を読むことができるようになる。そうなれば、無益な殺生を好む傾向を先天的に持っている者は別にして、被害者に凶暴な振る舞いをすることも減少していく。
犯罪経験の増加とともに、他の犯罪者グループとの接触も増加し、大物が指揮する有力な集団に誘われることもあれば、競争相手とのいざこざに巻き込まれるようなことも起こる。そのようにして、その闇の世界で能力のある者と認められれば、より大きなグループの有力者にのし上がっていくこともありうることだ。


「バンドンの夜もジャングル」(2012年1月27日)
2011年10月11日付けコンパス紙への投書"Geng Sepeda Motor Masih Merajalela di Bandung"から
拝啓、編集部殿。西ジャワ州バンドン地区でオートバイギャングはいまだに猛威をふるっています。去る9月17日夜23時ごろにチマヒのジャンブドゥイパ地区で、わたしの友人がオートバイギャングの蛮行の被害者になりました。そのとき、パジャジャラン大学2009年入学の友人とバンドン工科大学2009年入学の友人ふたりが一台のオートバイでガソリンを買いに外出し、一団のオートバイギャングに遭遇したのです。
目撃者の話によれば、オートバイギャングは三台に分乗していたそうです。かれらは旗とどのオートバイにもついているギヤチェーンを持っており、そのうちの一台がすれ違いざまにギヤチェーンを友人たちに投げつけてきました。チェーンは運転者には当たらず、同乗者の右目を深く傷つけました。
同乗者はそのため重傷を負い、チチェンドの眼科医は、右目はもう使い物にならず、またその右目は摘出しなくてはならないと診断したのです。
警察はこの事件をあまり真剣に取り扱わず、強奪されたものの有無を尋ねただけでした。奪われた品物などもちろんありません。しかし片目を壊された友人の未来はどうなるのですか?
このオートバイギャングはバンドンと周辺地域の住民に大きな不安を与えています。学生の街バンドンで、オートバイギャングの被害者の多くが学生であるのは不思議ではありません。[ 西ジャワ州スムダン在住、ヨハニ・リンガサリ ]


「リッポチカランにも泥棒がいっぱい」(2012年1月31日)
2011年10月19日付けコンパス紙への投書"Banyak Maling di Lippo Cikarang"から
拝啓、編集部殿。わたしはブカシのリッポチカランにあるピヌス通り?のメドウグリーンにある改装中古住宅を購入し、2011年3月に入居しました。「自然と緑がいっぱい」というリッポチカランのコンセプトに魅力を感じたのが理由でした。ところが今わたしはとても後悔しています。
2011年9月24日(土)わが家に泥棒が入りました。屋根瓦を外し、天井板を破って子供部屋に侵入したのです。外出から戻ったわたしたち一家は、家の中が荒らされているのを見てびっくりしてしまいました。ラップトップ・カメラ・腕時計・バッグなどが奪われました。わたしはすぐにメドウグリーンのゲートにある警備員詰所とリッポチカランのゲートにある南チカラン警察の交番に事件を届け出ました。警察はすぐに3時ごろまで現場の調査を行い、6時には動物警察K−9が警察犬を連れてきて、その泥棒がどこから来てどっちへ逃げたのかを調べました。しかし、その泥棒が逮捕されるような兆候は全然ありません。
リッポチカランは住居販売を熱心に行っていますが、住民の保安には関心を払っていません。同じような手口の侵入盗は毎月起こっているという警備員の言葉にびっくりしてしまいました。事件調書を作った警官も、その前の仕事で作った調書の犯行手口は類似のものだったと言いました。
わたしたちは今回の事件でトラウマになりました。寝ているときに泥棒が侵入して暴力をふるわれたら・・・という不安で夜も熟睡できません。[ ブカシ県リッポチカラン在住、ノナ・サスミタ ]


「モール駐車場で車上荒らし」(2012年3月14日)
2011年11月10日付けコンパス紙への投書"Mall of Indonesia Kelapa Gading Tidak Aman"から
拝啓、編集部殿。去る10月28日(金)17時20分ごろ、わたしはセダン車を運転して北ジャカルタ市クラパガディンのモールオブインドネシアを訪れました。一階駐車場に車を止めて、わたしは入口にほど近い裏口からモール内に入りました。わたしが駐車した場所から警備員詰所は20メートルと離れていません。
21時ごろ、わたしは車に戻りました。後部座席右側の窓ガラスが割られており、割れたガラスを使って再び整然とふさがれていました。ラップトップコンピュータと銀行口座通帳が無くなっていました。わたしはこの被害の捜査が行われるよう、クラパガディン警察署に届け出ました。[ 東ジャカルタ市在住、リリス・L ]
2011年11月17日付けコンパス紙に掲載された駐車場管理者からの回答
拝啓、編集部殿。リリスさんの2011年11月10日付けコンパス紙への投書について、リリスさんがクラパガディン警察署へ被害を届け出た際に当方警備職員はリリスさんに付き添い、その事件に関してもできるかぎりの職務実施と規定に沿った対応を行っています。その犯罪事件はクラパガディン警察署が捜査をおこなっているさ中です。当方からは窓ガラス入れ替えのオファーをリリスさんに提出しています。


「勝てば英雄、負ければ犬死」(2012年3月20〜23日)
ユスフ・マルタ21歳は1年ほど前から北ジャカルタ市クラパガディン地区にある公証人事務所で働いている。といっても、まだ公証人事務所の書類や現金を運ぶクーリエの仕事しかやらせてもらえないのだが。
三人兄弟の末っ子であるかれは、都内私立大学に通いながら学資のために働き、移動の時間を惜しむあまり自宅に帰らず事務所に泊まりこむようになった。事務所側にしても、夜中に男性が中にいるというのは、侵入盗の被害が軽減できるというメリットのゆえに大歓迎にはちがいない。
2011年11月16日朝、ユスフはクラパガディンのマンディリ銀行から事務所の金2億4,160万ルピアを引き出してタンジュンプリウッ港界隈のエンガノ通りにあるDKI銀行にそれを持ち込む仕事を命じられた。公証人の顧客会社が納めるべき税金を公証人が一時代行しておくためだ。その指示に沿ってユスフはマンディリ銀行に赴き、大量の札束をリュックサックに詰め込んで銀行を出た。これからその金をDKI銀行に運ぼうというのだ。
リュックサックを背にしてユスフはオートバイにまたがった。ところがスンテル地区のミトラスンテル通りに達するまで、銀行を出てからずっとかれの後ろをつけてきた二人乗りのオートバイがあることにかれは気付いていなかった。上下黒ずくめの男がハンドルを握り、後ろには黒いズボンに白のワイシャツという勤め人風のスタイルの男が、いずれもフルフェースヘルメットの中にその素顔を隠している。
後ろから自分を追い越そうとする二人乗りオートバイがあまりにも間近に寄ってきたので、ユスフは不機嫌そうに顔をしかめた。ところがそのオートバイはただの無作法なエゴイストライダーではなかったのだ。ユスフを追い越そうとする態勢のとき、後ろの男がユスフの背にあるリュックサックをむしり取ろうとした。その男の手にはS&W型の拳銃が握られている。
ユスフはリュックサックを渡すまいとして抵抗した。相手が自分の思い通りにならないことを知った強盗はユスフの脚を撃った。ユスフの身体を激痛が走る。それはかえってユスフの抵抗を強めることになったようだ。強盗の手中にあるピストルがユスフの腹に向けられたとき、ユスフは片手でそれを強くはらった。賊の手からピストルが路上に飛ぶ。続いてユスフはリュックサックを脱ぐと道路の真ん中に放り投げ、防御から一転して反撃態勢に移った。ユスフの手は賊の背をつかむ。二人乗りオートバイは現場を離脱しようとしてスピードを上げる。ユスフに背をつかまれた後ろの男はバランスを崩した。賊の白いワイシャツが破れ、その男はオートバイから路上に転げ落ちたのだ。
オートバイはスピードをあげて現場から逃走し、転落した男もすぐに立ち上がると路地の中へ走って消えた。
その格闘現場を見ていた近くのビルの警備員は、ピストルの音に気付いて現場を注視し、路上で何が起こっているのかがやっとわかった、と目撃談を語る。「音は二回聞こえた。最初はタイヤがパンクしたのだろうと思ったよ。ところがオートバイが二台、路上で格闘してるじゃないか。どっちが強盗でどっちが被害者かはすぐわかったよ。ところが、被害者は強かったねえ。結局、強盗は何も獲れずに逃げた。強盗のひとりがオートバイから引き落とされ、走って逃げたのなんざあ、被害者の強さを証明するものだ。」
ユスフの両親やかれの幼児期を知るひとびとは、事件の全貌を聞いて一様に信じられないという表情を浮かべた。「えっ、あのユスフが強盗と立ち回りを演じて追い払った?ありゃあ末っ子でねえ、泣き虫で弱虫だったよ。大きくなってからも、あまり出しゃばるところのない、おとなしい子だったんだがねえ。護身術のひとつも習ったことがないし。いったいどうしてそんな度胸がついたんだろう?」母親や周囲の知人たちはそう語る。
脚に銃創を受けたユスフはクマヨランのミトラクマヨラン病院に運ばれて治療を受けた。「いやあ、自分でもどうしてあんな勇気が湧いてきたのかわかりません。襲われたから反射的に動いた結果がああなったんじゃないですかね。」
警察も、そして報道界も、この事件でユスフが示した犯罪者に対する抵抗姿勢を激賞した。インドネシアに多発している強盗・窃盗・侵入盗などの犯罪事件と、被害者が一般的に示す無抵抗姿勢との関連を薄々感じている庶民もいないわけではない。インドネシアで常識になっているのは、強盗に襲われたらおとなしく獲物を持ち去らせるようにするべきで、へたに抵抗すればかけがえのない身体を傷つけられ、あるいは生命すら奪われる、というものだ。実際にインドネシアの強盗事件は、協力的とでも言えそうな被害者側の物分かりのよい対応パターンにあふれている。
強盗に対する抵抗あるいは反撃というドラマでわれわれが思い出すのは、2009年3月20日白昼にパレンバンで起こった路上強盗事件のことだ。
その日天然ゴムの仲買人マルトノ67歳は運転手のスライマン38歳に仕事を指示した。PTムアラクリギから1億3千万ルピアを集金し、その金をKM12地区に届けること。その金はゴムの取引に使われる。
スライマンはPTムアラクリギでビニール袋に入れた現金1億3千万ルピアを受け取ると、そのままパレンバンのKM12地区にトヨタラッシュを駆って向かった。ところが正午過ぎにポリゴン住宅地区前を通り過ぎようとしていたとき、タイヤの空気圧が減っていることにかれは気付いた。スライマンは路肩に車を寄せて停まり、タイヤの様子を見ようとした。そこにオートバイに二人乗りした男たちが現れ、スライマンにピストルを向けたのである。
賊は現金の入ったビニール袋を渡すようスライマンに命じ、威嚇のために一発撃った。スライマンの動きが止まる。賊はビニール袋を手にすると、オートバイに乗って逃走した。スライマンもすぐに車を発進させてその後を追う。窓を開いて「強盗!強盗!」と叫びながら。
しかしスライマンの車と賊のオートバイの距離は開いていくばかりだ。そんなとき、ビニール袋が賊の手から路上に落ちた。路上に落ちたビニール袋の口から現金が散らばる。オートバイはすぐにUターンしてビニール袋の場所に戻り、ひとりが降りて散らばった現金を拾い集めた。そこにスライマンの車が近づいてきた。
スライマンはアクセルを床面まで踏み込むと、ハンドルを握りしめた。車は現金を拾っていた賊のひとりを跳ね飛ばし、そのままオートバイに乗って仲間がくるのを待っていたもうひとりに激突した。激しい衝撃が起こり、トヨタラッシュは勢い余って路上に横転した。スライマンは頭部を強く打って重態となり、病院に運ばれた。
南スマトラ州警察の発表によれば、ふたりの強盗は現場で即死、奪われた1億3千万ルピアの現金は7,418万ルピアしか回収されなかった。この二人組の強盗は31歳と20歳の男で、余罪があるものと見て警察は捜査を進めているが、その二人の関係者からの復讐を懸念した州警察はスライマンとその家族の警護を行うと発表している。
さらに州警察は、スライマンの勇気ある行為を称賛し、表彰状をスライマンに与えている。


「でっちあげ逮捕があなたを狙う」(2012年3月22〜24日)
中部ジャワ州ウォノソボで夫と子供たち一家四人で暮らしているダイヤ・リヤンティ35歳に、昔マレーシアへ出稼ぎに行ったときに知り合った仲間のひとりレイリ・プルナマサリ26歳が何の前触れもなく電話してきた。
「あたし、いま重い病気にかかっちゃってね。昔のことをあれこれ思い出したのよ。あんたにまた会って、懐かしい昔話がしたいわ。ほかの仲間にも電話してみたの。そしたら会いにきてくれるって。みんなもあんたに会いたがってるわ。ねえ、ダイヤ、会いに来てよ。どうしてもあんたに会いたいのよ。」
レイリの自宅の住所を確認したダイヤは、夫を説得した。理解のある夫は一家でレイリの自宅があるジョクジャまで車で行くことに同意した。さっそくジョクジャにむけて出発し、ジョクジャに到着したときはもう夜。とりあえずホテルに投宿し、ダイヤはレイリに連絡した。すると重病だと言っていたレイリがなんと、ダイヤ一家が泊まっているホテルにやってきたではないか。
ダイヤ一家はロビーでレイリに会い、そのあと夫は気を遣って子供たちを連れて部屋に戻った。ダイヤとレイリは二人で昔話をしていたが、ほどなくレイリはほかの仲間を呼ぼうと言いだし、手に持っていたバッグをダイヤに渡した。「これはリカのバッグなのよ。もうすぐ来ることになってるんだけど、遅いわね。ねえ、あんたちょっとこれを預かっててくれない?」
レイリがホテルの玄関を出て行くのを見送ってから、ダイヤはロビーで仲間の来るのを待っていた。ところがやってきたのは、昔の仲間たちではなかったのだ。
あまり愛想のよくない三人の男がつかつかと近寄ってきて、ダイヤを取り囲んだ。「奥さん、われわれは州警察麻薬捜査課の者だ。あんたの持っているバッグを取り調べる。」
レイリがリカのものだ言ったバッグをダイヤの手から取り上げた捜査官がバッグを開くと、中には小袋に入ったシャブが・・・・・
「麻薬流通組織に関わった容疑であんたを連行する。」
そのバッグはついさっき預かっただけのもので自分のものじゃない、とダイヤが口を酸っぱくして説明しても効果なく、そのまま警察の拘置所に連行された。
ダイヤがマレーシアで知り合った仲間たちというのは、レイリ以外にリカ・アグス26歳、トリ・ウリヤニ25歳、ヌル・ワヒユニ28歳。リカの夫はガーナ人のフランクで、フランクは麻薬流通組織の中核をなす人間だった。リカがフランクの正体をいつ知ったのか不明だが、家族は問答無用で助け合うという家族主義原理にのっとってリカはフランクの手足となって働いた。
あるとき、リカは仲間のヌル・ワヒユニに衣類が入っているバッグをスラバヤに運んでくれと依頼し、ヌルは二つ返事で承諾したものの、それが自分を奈落の底に落とすものになるとは夢想だにしなかった。ヌルがスラバヤのジュアンダ空港を抜けようとしたとき、税関職員がヌルを別室に送り込んだ。開いたバッグの中から2キロのシャブが出てきたとき、ヌルはリカに陥れられたことを悟った。「あいつ、あたしを利用しようとしたんだ!」
州警察はフランク=リカの麻薬ルートを一網打尽にしようとして、ヌルに協力を要請した。ヌルの復讐心はその要請を喜んでかの女に受けさせた。ヌルはリカに連絡を取る。「あたし警察に捕まったのよ。でもあんたのバッグはまだ警察の手に渡ってないわ。あんたが取りに来れば、すべてオッケー。」
網を張って待ち構えていた警察の前にトランクを取りに現れたのは残念ながらリカではなかった。リカはレイリとトリをマレーシアからスラバヤへ行かせたのだ。ただ衣類しか入っていないバッグを受取人の手に渡すために。
レイリとトリも警察への協力を約束した。マレーシアにいるリカをおびき寄せるためには、リカが使える手ごまをすべて押さえてしまえばよい。こうしてダイヤまでもが警察の手中に落ちることになったが、ダイヤにしてみれば冤罪もよいところだ。
こうして最終的にリカも警察の手に落ち、「マレーシア出稼ぎ女性麻薬シンジケート一味逮捕」というセンセーショナルな見出しがマスメディアを覆った。しかしリカの走り使いになって麻薬に関わった三人とダイヤはまるで立場が違う。とはいえ、首謀者を捕らえるために無実の者を陥れましたと警察が事件調書に書くはずがない。検察は警察の言い分にもとづいて逮捕された全員を起訴したが、スラバヤ地裁でこの裁判を扱った判事団はあきめくらではなかった。
下された判決は、リカに入獄20年、ヌルに入獄16年、トリとレイリは入獄10年、そしてダイヤは無罪放免され、判事団は国に対し、冤罪に落とされたダイヤの名誉回復を命令したのだった。


「愛と憎しみのはざまに」(2012年3月26〜30日)
北ジャカルタ市パンタイインダカプッのメディテラニア住宅地入口にあるタツノオトシゴ像の噴水から少し離れた場所に、ひとりの青年がのたうって苦しんでいる姿があった。2012年3月6日午前11時半ごろ、無残なありさまの青年を見つけたひとびとはパンタイインダカプッ病院にかれを送り込んだ。
顔面に劇物を浴びせかけられたその青年は救急治療室で診察を受け、当直医師の重態で一刻の猶予もならないとの判断のもとに手術室に移された。しかしその青年の症状は劇物を呑み込んだらしいのが明らかで、咽喉部から胸部にかけて体内の器官が破壊されており、破壊された部位を切開してみたものの手の下しようがなく、その青年は病院内で生涯を閉じた。
首都警察プンジャリガン署の身元調べで青年は西ジャワ州インドラマユ出身のサジディン29歳であることがわかり、サジディンが寄居していたプルイッのコスとインドラマユの実家へ連絡が飛び、実家からは親族がサジディンの遺体を引き取りに来た。故郷に戻ったサジディンの遺体は、あまり間をおかずに墓地に埋葬された。
サジディンは故郷を離れてチレボンのプサントレンに入り、修行を積んでからジャカルタへ上京してプルイッにあるマタハリデパートに売り場レジ係りの職を得て働いていた。よくある独身青年上京者のひとりがかれだった。
サジディンは事件の背景について何一つ物語らないまま世を去ったが、警察はサジディンの関係者から情報を集めて3月6日にかれの身の回りで起こったできごとをつかんでいた。
コスでかれを知っている者から情報を集めたところ、その日このようなできごとが起こっていたことが明らかになったのだ。
その日は仕事が休みだったが、サジディンは出勤するしたくをしていた。午前11時ごろ、2台のオートバイに乗った男ふたり女ひとりがコスにやってくると、男二人はオートバイにまたがったまま外で待ち、若い女ひとりはつかつかとコスの中に入ってきてサジディンの部屋のドアを叩いた。
女はサジディンのことをカカ(Kakak)と呼び、サジディンはその女に「まだ何か問題があるのか?」と語ったのをコスの他の住人が聞いており、そのふたりが初対面でないのは明らかだったし、むしろ親しい関係にあったことを想像させている。
サジディンはコスの応接間に女を誘って少し話をしてから、女の後についてコスを出て行った。ふたりは外で待っている二台のオートバイに近づくとそれぞれが別のオートバイの後部座席に座り、二台のオートバイは往来の雑踏の中に走り去った。コスのひとびとがサジディンの生きている姿を見たのはそれが最後になった。
二台のオートバイが去ったのは11時15分ごろで、それからほんの半時間後に警察からコスに連絡が来た。サジディンは劇物をかけられて重態に陥っており、パンタイインダカプッ病院に入院した、というのが連絡の内容だった。サジディンを迎えに来た男女三人が計画的に、しかもきわめてスピーディにサジディンを襲った可能性が高く、警察は怨恨の線からこの事件の捜査を開始した。
2012年3月6日朝7時、リアウ州トゥンビラハン県からジャカルタに出稼ぎに来ている姉妹が北ジャカルタ市プンジャリガン町タンジュンワギ通りのコスの部屋の中で話をしていた。
「あたし、腹が立ってたまらないわ。あたしをこんな体にしておいて、『別の恋人ができたから、お前とはわかれる』って好き勝手なことを言うのよ。この子供はどうするのって聞いたら、『お前の好きなように』なんて。よくあんな無責任なことが言えるわね。絶対に思い知らせてやるから・・・」
悔しさに震える声でそう語るワルニ・タニア・エルフィタ・ヨランダ19歳は、プルイッのある商店で店員として働いていたが、身重の体が誰の目にも明らかに映るようになってから、未婚で妊娠した自分を恥じて3ヶ月前に仕事をやめてしまった。ワルニの体内に宿っている子供はもう7ヶ月になる。
仕事をやめて毎日コスでぶらぶらしているワルニにとって、自分の暮らしにかけがえのない存在はその子の父親サジディンだったが、その唯一の頼みの綱がワルニを捨てて去っていこうとしている。ワルニの心が女夜叉に変わるのに、抵抗はまったくなかったようだ。10ヶ月ほど前に知り合って恋人関係に落ちたサジディンとの仲はこれまであんなに睦まじかったのに、そしてサジディンが病気になれば献身的に看病し、サジディンが手元不如意になればいつでもお金の援助をしてきたというのに、あたしを捨てようなんて。不実な男は絶対に許せない。必ず思い知らせてやる・・・・
「姉さんの気持ちはよくわかるわ。あたし、姉さんのためだったら何でもする。サジディンにどんな仕返しをしたいの?ねえ、言ってちょうだい。」
妹のビンタン・リニ・ワティ・エレンディタ17歳は肉親愛に満ちて姉を促す。ワルニは考えた。自分のサジディンへの愛情が消えうせたわけではない。サジディンが自分の夫になり、子供の父親として一家を支えてくれるなら、自分はサジディンを労わって生涯を送ればよい。自分が夢見ていた人生がそれなのだ。そうだ!サジディンの顔を焼いてやれば、二目と見られない顔にしてやれば、ほかの女たちはサジディンを相手にしなくなる。サジディンは仕方なく自分のところへ戻ってくるはずだ。
「劇物をあいつの顔にふりかけてちょうだい。ほかの女が嫌がるような顔にしてやって。」
「わかったわ、姉さん。じゃあ今からそれをしてあげる。」
近くの繁華街にあるビリヤード場で働いているビンタンに男友達は大勢いる。ビンタンはアルフィン23歳を呼んで劇薬を買ってくるよう頼んだ。アルフィンがマンガドゥアのパサルパギで買ってきた劇薬を飲料水のビンに移してバッグにしのばせ、ビンタンは自分が考えたサジディン襲撃のシナリオを実行に移しはじめる。
ビンタンはプジ25歳をその襲撃計画の中に加えた。サジディンを外へ連れ出すには、オートバイがもう一台必要なのだ。二台のオートバイに乗った三人はサジディンのコスに向かった。ビンタンの心の中にためらいはなかった。
午前11時ごろサジディンのコスに着くと、ビンタンはひとりでサジディンの部屋に向かった。ビンタンがドアをノックすると、寝ていたサジディンが思いがけない客の来訪に不機嫌な声を出した。
扉口で言葉を交わしてから、サジディンはビンタンをコスの応接間に誘った。ところが応接間にはほかの人間がいて、ワルニについての話をビンタンとするには都合が悪い。その状況を利してビンタンはサジディンにパンタイインダカプッへ行こうと提案し、サジディンはそれに従った。
二台のオートバイはパンタイインダバラッ通りまできて止まり、ふたりはオートバイを降りた。アルフィンは食べる物を買ってくると言ってその場を後にし、ビンタンとサジディンは道路から低くなっている側溝に下りていった。プジはひとり、道路脇で待っている。
側溝に下りて周囲からあまり見られない場所を探したビンタンは、手探りでバッグからビンを取り出すと、ふたを回した。そして自分のそばにいるサジディンの顔面めがけてビンの中身を浴びせかけたのである。
サジディンが顔面を両手で押さえて苦しむ姿を確認してからビンタンはひとりで路上に戻り、プジのオートバイでその場を去った。
劇物による暴行殺人事件の捜査をしていたプンジャリガン署は、3月11日夕方、まずプジを重要参考人としてその自宅で捕らえ、取り調べた。その自供から次にアルフィンが自分のワルンで逮捕され、さらにサジディン殺害の実行者であるビンタンと妹に暴行を命じた姉のワルニが捕まった。
姉妹はジャカルタを去って故郷へ帰るためにスマトラ行きの長距離バスの中にいたところを逮捕されたのである。
警察の取調べに対してワルニは、最初不実な男への復讐を自分の手で行おうと考えたが、妊娠中にそんなことをして胎児に悪影響が出ることを恐れて妹にさせた、と語っている。サジディンの心を取り戻したい一念で、顔を醜くさせることしか考えておらず、殺す意図はまったくなかった、とワルニは女心の微妙な襞を取調べ官に明かしたのだった。


「警官のリンチで血だらけに」(2012年3月30日)
2011年12月16日付けコンパス紙への投書"Setelah Mengeroyok, Polisi Melepasakan Korbannya"から
拝啓、編集部殿。去る10月29日18時半ごろ、ボゴールのスカサリ国軍住宅地の実家に戻ろうとしてわたしが時速40キロ前後で車を走らせていると、チアウィ警察署の前で数人の警官に停止を命じられました。そこには警官を満載したトラックが三台道路脇に止まっています。
数人の警官たちはわたしがかれらのひとりを車で引っ掛けたと非難しましたが、引っ掛けられたのがいったいだれなのか、わたしには皆目わかりません。そしてかれらはわたしの車を追いかけて車体を手で叩きまくりましたので、わたしは停車して窓を開きました。するとパンチがわたしの顔面を襲ったのです。いったい何本の手がそれをしたのか、わたしにはわかりませんでした。
わたしが車を路肩に寄せて運転席から降りると、もっと激しいパンチに襲われ、顔を血だらけにしてわたしは路上に転がりました。かれらはわたしをチアウィ警察署内に引きずり込み、まるで捕まったばかりのスリのように住民たちの目にさらしたのです。
わたしが運転免許証を示すと、かれらのひとりがそこに書かれた住所スカサリ国軍住宅地を読み上げ、かれらは即座にわたしへの蛮行を停止し、この事件はこれにて終了だ、と言いました。
それが暴行を停止させるプロセスなのだろうか、とわたしは思いました。警察が事件を取り扱う態度はそのように一方的な他者への断罪なのでしょうか?だったら『民衆につくし、守護する』という警察のモットーはいったい何なのでしょうか?わたしの住所が国軍住宅地でなかったら、いったい何が起こったでしょうか?わが国の警察体制は何かが間違っているのではありませんか?[ ボゴール市在住、エリック・ヘルランバン ]


「アンコッ車内スリの手口」(2012年4月5日)
2011年12月20日付けコンパス紙への投書"Pencopet di Mikrolet-08 Tanah Abang-Kota Jakaruta"から
拝啓、編集部殿。ジャカルタのアンコッ利用者、特にタナアバン〜コタ、ミクロレッ路線番号第8番の利用者にこの情報が役立つことを願っています。
数日間わたしが観察したところによると、通勤時のラッシュアワーのとき、ミニバス車内がほぼいっぱいになると、スリの一味が車内に入ってきます。かれらは連れ立って同時に入ってくるのでなく、ひとりひとりがわりと近い間隔で車内に入ってきます。
たとえば、去る10月31日のできごとでは、一味四人は車内がほぼいっぱいになったときに車内に押し入ってきました。最初は男がひとり入ってきます。20メートルほど行くと次のひとりが。さらにそこから近い場所で男と女のカップルが乗ってきます。最初のひとりはむりやり中に入って座席の中央あたりにすわり、二人目も同じようにして車内に座ります。三人目と四人目は車内で適当な位置に場を占めます。
全員が車内に入ると、二人目の男が癲癇の発作に襲われたふりをし、体に引きつけが起こったような姿を演じて見せます。一味の別の男が他の乗客に癲癇の男を助けるように叫びます。残るふたりは、どのような救急措置をとればいいのかを議論しはじめます。こうして車内の他の乗客たちの意識はあらぬ方向に奪われて行き、自分の所有物のセキュリティがおろそかになるのです。
かれらが演出した車内の騒動に隠れて乗客の持っている携帯電話や財布などの獲物をすり盗ると車内の騒ぎは収まり、癲癇発作も消えうせます。そしてまた一味はひとりずつ、車から降りて去っていくのです。
一味が車内から消えたあと、スリの被害者ははじめて自分の被害に気付くのです。もし読者がタナアバン〜コタ、ミクロレッ路線番号第8番に乗っていて、上のようなパターンの行動が見られたなら、ミクロレッからすぐ降りることを勧めます。スリ一味はターゲットを失って途方にくれることでしょう。[ タングラン在住、ラハユ・ヒマワリ ]


「番人不在踏切が事故を煽る」(2012年4月20日)
日本にも昔は、鉄道線路の踏切には番人がいて、遮断機が下りれば遮断機周りの状況を見張りながらやってくる列車に手にした旗を振るということを行っていたが、そんな光景はいつの間にやら日本の風土から消え去ってしまった。しかしインドネシアには今でも踏切番がいる。
運通省鉄道総局は全国の踏切に番人が1万5千6百人必要であるとしているものの、登録されている番人の数は3千5百人しかいない。インドネシア国内で鉄道が走っているのはジャワ島とスマトラ島だけで、一般道路と平面交差する踏切は5,211ヶ所ある。一ヶ所の踏切に三人が交代で詰めるのが原則とされていることから、1万5千6百人という人数の需要が計算されているわけだが、番人が詰めている踏切は1,174ヶ所であり、番人が見張る必要があるのに無人になっているところが8割もあるということだ。
国鉄のデータによれば、5,211ヶ所中で無人踏切は3,419ヶ所、そして非公式踏切は618ヶ所となっている。とはいえ、住宅地区が周りに広がっているエリアでは、住民が近道をしようとして都合のよさそうな場所に線路を横断する踏み分け道を作ってしまう。誰かが踏み分け道を切り拓くと、まるで申し合わせたかのように他の者も追随するという特徴は、この一件に限らずさまざまなシチュエーションでわれわれが目にするものだ。全国にこのような私設横断路は踏切の数より多いのではないかと思われるが、歩行者とせいぜいオートバイくらいしかそこを通らないから、事故発生はそれほど多くない。踏切事故のほとんどは踏切で立ち往生している四輪車に列車が激突するケースであり、四輪車の多くはバスやトラックなど大型車両がメインを占めている。
たいていは信号機が鳴りはじめ、まだ遮断機が下りていないときに、無理やり踏み切りを通り抜けようとして進入し、前方が詰まっていたり、あるいはなんらかの理由で進退きわまるために衝突に至ってしまう。車両運転者の無謀運転によるものが原因のマジョリティを占めている印象だ。そんな無謀運転をする連中は踏切番が何か言っても聞かないだろうと思うのはインドネシア文化にまだなじんでいないひとの考えであり、無人の交差点では大勢が信号無視をするのに、交通警官がひとりそこにいるだけで信号無視はほとんどなくなるという現象とおなじことが踏切でも起こる。
文字やサインあるいは信号・標識など人間でないものが命じる社会行動に従う者は数少なく、人間がそれを命じてはじめてそれに従うという人間が圧倒的に多いインドネシアの特質を、われわれはそこに見出すのである。


「男が支配者」(2012年5月1〜3日)
エミル・ブディ・サントサ37歳はそのころ、ジョクジャに住んで貨物発送事業を行っていた。そして仕事上で関係する友人が持っている薬局に働いているエカ・インダ・ジャヤンティ(当時22歳)と出会い、恋に落ちた。今から5年前のことだ。
問題は、エミルがスラバヤのカパスクランプン通りに三階建ての家を持ち、そこに妻と子供4人を住まわせていたことである。しかしエミル本人にとってそれは問題でなかった。ほどなくエカは仕事をやめてジョクジャからスラバヤに移り住んだ。エカは依然としてエミルの囲われ者だったが、2011年11月、エミルがエカを自宅へ移した。妻妾同居が始まったのである。
エミルの妻、パトレシア・ヨランシア・ダフリア29歳はエミルのその行為を許した。自分に危害を加えようとして狙っている者がいるため、なるべく自宅に居たい、とエミルがその理由を説明したからだ。エミルがその要請を妻のパトレシアにしたとき、妻はエカが夫の何者であるかをすぐに悟った。夫の愛人を同居させることに同意はしたものの、パトレシアとエカの間にはほとんど交流が生まれなかった。
パトレシアはエミルの後妻だ。エミルは最初、パトレシア・マリア・メリーと1992年に結婚した。そして一女をもうけたあと、四年後に死別した。そのときの子供ステファニーはいま18歳で、後妻のパトレシアに育てられて今でもその家に住んでいる。後妻のパトレシアはエミルとの間に10歳・6歳・1歳の三人をもうけており、そして今現在も7ヶ月の身重になっている。パトレシアと子供たちは普段3階に住み、エミルとエカは2階に暮らしていた。そして事件は2012年2月11日の夕方に起こった。
エカの携帯電話に別の男からのSMSが入っているのを読んだエミルは嫉妬に狂った。怒りをエカにぶつけると、エカも怒りで応じた。エミルはエカのパトロンでは決してなく、エカに金を無心することのほうが多かったのだから。エカは親に金を借りてまでエミルに貢いだが、エミルにその金を返そうとする姿勢は少しもなかった。ふたりの間に口げんかが始まり、激昂したエミルが壊れたスチールデスクのボディの一部を手にしてエカの頭を9回も殴りつけたのだ。エカは崩折れて死んだ。
パトレシアの供述によると、そのとき三階にいたかの女は夫が呼んだので二階に下りていき、エカの遺体を見て驚いたそうだ。しかし下の階で何かが起こっていることにまったく気付かなかったはずもあるまい。下りてきたパトレシアが目にしたのは、既に体を拭き清められ、白衣を着てベッドに横たわっているエカの遺体だったそうだ。その事件を前にしてパトレシアの胸中に一体何がよぎったのだろうか。夫が殺人犯として獄につながれたら家計を支える者がいなくなり、自分と子供たちの暮らしは崩壊する。パトレシアはその目の前で起こった殺人事件を表沙汰にする気がなかったようだ。かの女はその事件を秘匿した。
エミルの家庭は閉鎖的で、隣近所とのつき合いはほとんどない。だから隣人が遊びに訪れて家庭内の変事を知るような心配はない。とはいえ、人間の死体をいつまでも放置しておけるものでもない。二三日するとエカの遺体が腐乱しはじめた。死臭は強まっていくばかりだ。エミルはエカの遺体の処理を急いでしなければならない状況に追い込まれた。エミルは外出すると、長さ173センチ直径43センチの金属柱を80万ルピアで買ってきた。同時に建材店で電気溶接器具も購入した。そして帰宅すると、妻に手伝わせてエカの遺体の処理にかかった。エカの体をビニールシートで9回ぐるぐる巻きにして臭いがもれないようにしてから自動車のシートクッションでくるんで金属柱の中に入れ、柱の両端を金属のふたで閉じ、溶接して密封した。ふたは二重にして全周を溶接し、空気が出入りしないように丁寧な仕事をほどこした。
その死体の入った金属柱を最初は三階の庭園に埋めようと考えたが、一家総出で力を合わせても、三階まで運ぶのは不可能だった。ならば次の策は、その金属柱をどこか遠隔地に捨てるか、それとも海中に沈めるかだ。フローレス島のどこか人気のないエリアに捨てれば、見つかることはないだろう。こうしてエミルはそのときのために金属柱を自宅のガレージの片隅に置き、その上にダンボールの空き箱を積み上げておいた。だが、そのための行動をエミルが起こす前に、隣人たちが腐臭に気付いたのだ。
スラバヤ市警本部に、ある家から不審な悪臭が出ている、という届出が入り、市警犯罪捜査ユニット機動捜査班がエミルの自宅を訪れたが、エミルは強い態度で警察が邸内にはいることを拒否した。警察は出直すことにした。この種の届出は密告に近い心理を持っている。想像したような悪事でなかったことが判明するかもしれないから、届出者は自分の正体を明かさないかあるいは偽名で連絡するのが普通だ。それでも一般民衆が「悪事ではないか」と想像するものは外れることが少なく、警察はこの種の密告を大いに重宝しており、それを世間民衆の警察への協力と称している。
エミルの自宅周辺でベチャ引きをしているソレ65歳は、その家の中から喧嘩声が聞こえてくるのはしょっちゅうだ、と語る。「でもあの家は閉鎖的でつきあいもしないから、だれも仲裁に行こうとしないやね。その家の主がオレに運転手の口をかけてきたけど、オレは断ったよ。」
2012年3月13日朝、捜査班はエミルの邸内に入ることに成功し、ガレージから出ている腐臭をたどってその根源を突き止めた。ガレージの片隅に山積みされているダンボール箱の下にある金属柱がその根源だった。警察はすぐにエミルを重要参考人として連行するとともに、パトレシアとステファニーにも出頭を求めて取り調べた。
警察が苦労して開いた金属柱の中から腐乱しきった人間の死体が出てきたとき、エミルの命運が尽きた。さらにパトレシアの供述から、かの女が夫の殺人を秘匿し、夫の死体処理に手を貸したことが明らかになるにおよんで、かの女も共犯者として逮捕されることになった。さらにステファニーにも同じ罪状が適用されるかどうかの点に関して警察は取調べを進めている。
女子供が男に従属するのを美風としている社会の中で、これは起こるべくして起こった事件のひとつであるにちがいない。


「パルメラのコボイ」(2012年5月8日)
Koboi Palmerah というタイトルの動画が話題を呼んでいる。コボイというのは英語のカウボーイをインドネシア語読みした言葉で乱暴者を意味しており、パルメラは西ジャカルタ市の地名でその事件が起こった地区の名称だ。
ユーチューブにアップロードされた2分程度の動画は、軍のナンバープレートをつけた自家用車が路上に停められており、その後方でそれを運転していたらしい人物が二輪車のそばに立っているヘルメット姿の者をイタブッているシーンが全編を占めている。イタブッている側は左手にピストルを持ち、右手に持った棒のようなものを時折ふるってヘルメットの者を攻めている。
動画の中にTNIナンバープレート1394−00がクローズアップされているため、四輪車を運転していた軍人が弱い立場の二輪車に乗った一般市民を虐待しているようなそのシーンを軍も当然気にして取調べを行った。そしてコボイにされた軍人は陸軍分遣隊司令部勤務の大尉であることが判明し、陸軍憲兵隊が事件の取調べを進めている。
その動画を見た世間の論調はやはり、権力をかさに着て弱い一般市民をいじめる軍人に対する辛らつな批判に満ちているのだが、大尉が語る事件の顛末を読むかぎりでは、どうもそういうステレオタイプの見方が本質を射ていない印象を受ける。大尉の話はこうだ。
最初はその二輪車ライダーとの間に進路の奪い合いが起こった。路上では過保護にされている二輪車ライダーが社会性向のひとつである持ち前の甘えの構図に突き動かされて四輪車の左右からすれすれに前面に割り込んでくるハプニングは、街中で四輪を運転していれば枚挙にいとまがない。そういう二輪車にサイドミラーをこすられることも珍しくはない。
大尉はその競合に勝ったのだろう。すると二輪車ライダーが運転席に近寄ってきて、「軍人だからといって、好き勝手なことをするんじゃねえよ。」と罵った。大尉はその二輪車と接触したのかと思い、停車してボディサイドを調べたが、接触の傷痕はなかった。大尉は再び運転席に戻ってドアを閉めたが、その二輪車ライダーはしつこくからみ、罵りながら車のドアを蹴った。大尉もカッときて、護身用(相手を威嚇するため)のエアソフトガンを左手に持ち、棍棒を右手に持って車から降りるとその二輪車ライダーに向かった。そして相手を脅かして萎縮させるためにエアソフトガンを一発地面に向けて撃ち、喧嘩の意欲の失せた二輪車ライダーを少々イタブッた、というのが本人の供述だ。
動画は大尉が車から降りてエアソフトガンを一発撃った前くらいから撮影が始まっており、その状況に至るまでの成り行きが動画からではまったくわからない。大尉の供述に客観的な傍証が与えられうるかどうかわたしには不明だが、ジャカルタドライバー考の筆者であるわたしには、大尉の供述が大いにありうることだろうと思われるのである。二輪ライダーの中にコボイは大勢混じっており、かれらは他人を引っ掛けようが、四輪に追突したりハンドルでボディに疵をつけようが、知らん顔をして走り去っていくし、自分の進路を邪魔する四輪運転者に喧嘩を吹っかけてくることも稀ではない。
インドネシアの公共スペースは暴力に満ちた場であり、道路上は進路争奪にからむ喧嘩と暴力、道路外は金品を奪うための暴力であふれている。だからジャカルタの駐在員には車の運転禁止令が会社から与えられるのであり、その本当の理由になっているのは、事故のリスクが高いということよりも、事故の後の展開がたいへんリスキーだからということなのだ。
だからわたしには、喧嘩好きの暴れ者ということでは大尉もその二輪ライダーも違いがないものの、その出来事における真のコボイは二輪ライダーのほうであるような気がしてならない。


「飛行機から燃料が盗まれる空港」(2012年5月11日)
スカルノハッタ空港エプロンに駐機して一晩過ぎると、機体の燃料タンクにあった航空機燃料が減っている。どうもおかしい、ということでスリウィジャヤ航空など3航空会社がスカルノハッタ空港警察に届け出た。
そして空港警察の捜査で夜間に機体から燃料を吸い取っていた10人組の窃盗団が突き止められ、全員が逮捕された。そのうち7人はスリウィジャヤ航空の技術者で、あと3人は別の会社の職員。盗みがきわめて巧緻に行われ、後始末も手際がよいことから、その10人はかなり組織だった行動をしていたにちがいないと警察では見ている。警察の取調べに容疑者のひとりは、犯行は航空機がエプロンに置かれて空港の活動が静まった夜中に行われていたことを明らかにしている。飛行機が着陸したあと、燃料タンクの油のチェックが行われ、検査のために2リッターが採取される。一味はそのチャンスを利用して石油缶を持ち込み、燃料タンク容量が4千2百リッターの飛行機からは1機あたり100リッター、タンクが小さければ50リッターほどを余分に抜き取っていた。だいたい一晩にかれらは10機から燃料を抜いていたようだ。一味が犯行を開始したのは4ヶ月ほど前で、これまでに30回ほど犯行を繰り返していた。
一味が吸い取った燃料は空港の外に持ち出され、外で待っている仲買人が受け取るとそれを故買屋に運んでいた。空港警察に逮捕されたとき、警察は一味が保管していた燃料2千リッターを押収している。
この事件が明らかになったとき、一国の表玄関であるスカルノハッタ空港の警備の弱さに対する批判が出た。今回は窃盗程度の事件だったからよかったものの、もっと重大事件になりうる犯行が行われたらどうするのか、という批判だ。それに対して空港管理会社PTアンカサプラ?企業秘書は、スカルノハッタ空港の警備は万全に行われている、とその批判に反論した。「エプロンは各航空会社が管理運営している場所である。」と語ってその場所で行われることがらの警備責任はアンカサプラにないことを主張している。


「務めを果たさない女に死の制裁」(2012年5月16日)
インドネシアで女性は三つの-urに関わる奉仕を男性にしなければならない。sumur, dapur, kasurがその三つの-urだ。sumur は井戸のことで、つまり洗濯。dapur は台所のことで、つまり料理。kasur はマットレスのことで、つまり閨房でセックスの相手を勤めることを意味している。そのkasur の努めを拒んだために妻が夫に殺されるという事件が2012年4月14日(土)夜半に起こった。
南ジャカルタ市プサングラハン地区の借家に4年前から妻と二人で住んでいるソレ70歳は、2時ごろまで家の表で隣人たちと駄弁ってから家に入った。それからおよそ30分後、屋内で何かが壁に激しくぶつかる音が聞こえたが、叫び声も泣き声も人間が出す物音はなにも聞こえずまた静寂に戻った。隣人のティッノはその物音で目をさました。何があったんだろうかと不審を抱いたティッノはソレの家に神経を集中して様子をうかがった。ほどなくソレの家の表戸が開き、そしてまた閉められた。だれかが家の表から立ち去る足音がしたので闇を透かしてのぞくと、足音の主はソレだった。包みを手にしたソレは家を出ると川の方角に向かった。
夜中に川に向かうソレを見たのはティッノだけでなかった。夜間町内警備に当たっている民兵もそれを目にしている。「こんな夜中にいったい何を?」と思ったものの、何かをしようという考えは起こらなかった。しばらくしてからソレは自宅に戻ったが、屋内に入らず表戸に南京錠をかけてふたたび家から出て行った。
ソレの行動に不審を抱いた隣人たちは、表戸を押し破って屋内に侵入した。そして台所でうつぶせになって死んでいるソレの妻カルティナ60歳を発見した。隣人たちはすぐに警察に電話した。
警察が現場に到着したのは午前4時ごろで、すぐに非常線が張られ、ソレはクバヨランラマの長距離バスが集まる闇ターミナルで午前4時半ごろ、故郷のスマランへ戻ろうとしているところを逮捕された。
警察の取調べに対してソレは、自分が妻を殺したことを認め、夫への閨房での奉仕を妻に要求したが妻が拒んだので金づちで頭を数回撲って殺したことを自供した。証拠品の金づちは家から2百メートルほど離れた側溝で発見されている。
隣人ティッノの話では、ソレとカルティナの子供ふたりはそれぞれ家庭を持って独自に暮らしており、ソレが巡回マッサージ師をやって家賃45万ルピアと生活費を稼いでいたが、客がどんどん減って収入が低下していたとのこと。また普段から夫婦喧嘩は頻発しており、こんな結末になってもおかしくない状況だった、とかれは話している。


「自傷型恐喝者」(2012年5月18日)
2012年2月6日付けコンパス紙への投書"Meminta Uang dengan Menyayat Kulit di Metromini"から
拝啓、編集部殿。ジャカルタに住むインドネシア国民のひとりとしてわたしは、このメガロポリスでの活動に安全感と快適さがますます必要とされていることをひしひしと感じています。特に公共運送機関を利用する女性に対する暴力問題は緊急事項なのです。
わたしがクニガン地区からマンガライ方面行きメトロミニに乗ったとき、わたしの神経はズタズタにされました。そのバス内にいるひとりの男がスピーチしながら手にした安全かみそりで自分の皮膚を傷つけていることにわたしはバスに乗ってから気付いたのです。その男は生命を脅威にさらすような言葉を撒き散らしながら金を要求し、自分の皮膚を安全かみそりで切り続けていたのです。
運転手も車掌も、その男を車外に追い出そうとするようなそぶりはまったく示しませんでした。警官を呼ぼうとさえしません。
わたしはこの投書欄を通して国家警察長官と首都警察長官に対し、市民からの訴えに対してもっと耳目を開き、市民保護の職務をしっかり遂行するよう要請します。[ ボゴール県チオマス在住、レナ・ヘルリナ ]


「交通事故者を置いて走り去る二輪車警官」(2012年5月24日)
2012年2月9日付けコンパス紙への投書"Polantas Pengawal Moge Tak Pedulikan Korban Kecelakaan"から
拝啓、編集部殿。1月29日(日)14時半ごろ、南ジャカルタ市ラヤレンテンアグン通りの社会政治学院キャンパスから近い場所で、女性ふたりが乗ったオートバイとボックス車が接触する事故をわたしはこの眼で目撃しました。事故発生とほとんど同時に、デポッ市方面からパサルミングに向かって同じ道を大型二輪車コンボイが四台ほどのオートバイ警官にガードされてやってきたのです。
そのコンボイが大型二輪コミュニティに参加している元将軍閣下ご一行なのか、それとも高位高官のご一行なのか、わたしにはわかりません。わたしは事故の被害者となった女性ふたりを周囲にいた住民たちと一緒に救助していましたが、道路の真ん中に転がって苦痛に喘いでいる被害者をオートバイ警官はそのまま車上からただ見下ろしただけで、何の措置を取ろうともせずに通過して行ったのです。わたしはその事態を目にしてたいへんがっかりしました。そしてさらにわたしを失望させたのは、コンボイご一行から10秒ほど遅れてやってきたコンボイガード隊のひとりのオートバイ警官にわたしが手を振って停止を求めたにもかかわらず、そのオートバイ警官もわたしの方を見ただけで、何の反応も示さずに通過して行きました。
かれらの無関心は小市民の心を傷つけたばかりか、社会の保護者にして庇護者であり市民のサーバントであって法執行者でもあるかれらの本源から逸脱しています。国民が国家警察機構に対して信頼も愛情も持たないのは、国民への保護と奉仕の実態があのように差別的なために当然だと思われます。[ 南ジャカルタ市在住、ブディ・タンジュン ]


「戻れ、妻よ、いま一度わが胸に」(2012年6月12〜14日)
2012年5月24日、アンチナルコバ活動家のレニー・ジャユスマンが首都警察麻薬捜査局に大麻1グラムが入っている封筒ふたつを届け出た。それらはかの女のふたりの子供宛に送られてきたもので、封筒にはジャカルタ国立第2専門高校ロスミアティという差出人の名前が入っていた。警察はこの事件の捜査に着手した。
ほどなくして、レニーの家にまた不審な送付物が届いた。中身は手紙で、ジャカルタ国立第2専門高校の生徒が書いた文章が記され、教師の命令で大麻を郵送したことを謝罪する内容になっていた。
警察はすぐにジャカルタ国立第2専門高校のロスミアティを取調べのために連行した。ロスミアティが犯行を否定したのは当然だが、警察もその事件の奇妙さを十分に感じとっていた。犯罪者が自分で自分の名前や所属先を公明正大に封筒に書くはずがない。何者かがロスミアティにかけた陥穽に違いない。しかしかの女はその可能性さえ否定した。他人の恨みを買うような覚えはまったくない、と言う。
ロスミアティの日常生活に関する話を聞いていた取調べ官は、同じ高校の教員フィーネがしばらく前から同居しているという供述に興味を持った。「ひょっとしたら、陥穽に入れるターゲットはフィーネのほうか?」
ロスミアティは帰され、警察は次にフィーネを迎えに行った。案の定、フィーネは問題を抱えていた。夫との離婚手続きが進行中で、夫との別居生活に入っていたのだ。警察がフィーネに見せた証拠品の送付物の手紙のほうに、フィーネは興味を示した。
「あら、aku をaq って書いているところなんか、あのひとと一緒だわ。」あのひとがフィーネの夫テサルであることは尋ねるまでもなかった。首都警察麻薬捜査局はテサルのマークを開始する。
警察はフィーネからテサルの写真をもらい、レニーの家に送付物を届けた宅配便業者の受付担当者に見せた。「そう、あれを持ってきたのはこのひとですよ。間違いない。」
テサルはジョクジャでトップクラスの国立大学法学部をハイスコアで卒業し、海洋漁業省で前途を有望視されている官僚だ。テサルもフィーネも同じ28歳。ふたりの間には子供もいる。ふたりは異宗教結婚だった。宗教は信徒の日常生活における倫理道徳や価値観を規定し、その宗教独特の習慣を祭りの形で信徒に実行させる。宗教が精神活動の領域に集束してしまった日本人には、宗教を異にする男女の結婚生活における相克というのはなかなか理解できないものであるにちがいない。
フィーネはテサルに離婚を求めて離婚手続きに入ったが、テサルはそれを本心から承諾していたわけではなかったのだ。テサルのフィーネに対する愛情はまだ変わっていなかった。愛する妻と子供のいる幸福な生活を失いたくない。フィーネの気持ちをもう一度自分のほうに向けさせたい。どうすればいいのだろうか?テサルは知恵をしぼり、そしてアイデアを得た。
社会的な麻薬事件を起こして警察がフィーネに嫌疑をかけることになれば、窮地に陥ったフィーネは自分に助けを求めるにちがいない。これまで麻薬には縁もゆかりもなかったテサルが、伝手を頼って大麻を入手したのはそれからだ。そして社会的に著名なレニーにそれを送った。
警察はテサルを重要参考人として連行するためテサルの実家を訪れたが、本人は実家を出て中央ジャカルタ市の借室で一人暮らししていることがわかった。
5月31日深夜、その借室に踏み込んだ麻薬特捜班は、麻薬とは縁もゆかりもない、妻への恋慕に汲々としているひとりの男をそこに見出しただけだった。テサルは一度だけ手に入れた大麻をもう7人のセレブリティに送るために7つの封筒に小分けしていたが、それ以外に麻薬禁制薬物は何一つ室内になく、テサル自身の体からも麻薬反応はまったく現われなかった。妻から去られようとしていた男はいま、ますます遠くなっていく妻を夢見ながら首都警察拘置所で悶々と毎日を過ごしている。