「死刑は野蛮か?」


「死刑を行なう野蛮国」(2015年1月21・22日)
2015年1月18日(日)0時半ごろ、インドネシア政府が死刑囚に対する処刑を行った。ナルコバ(麻薬違法薬物)犯罪で死刑を宣告されていたひとびとがその対象で、前政権が地味に数少なくほとんど目立たない形でこの刑罰に対応してきた結果、かれらは長期に渡って執行待ち死刑囚という立場に置かれていた。インドネシアの法曹制度も状況をかき混ぜるような形で運営されており、再審請求が繰り返し可能なため検察側が死刑執行の準備にとりかかると再審請求を出して執行保留状態にさせるというような囚人側の対策が可能になっていたこともそのひとつだ。死刑というものが2008年のテロリスト処刑を最後にして国民の目からほとんど隠されてきたのと対照的に、ジョコ・ウィドド政権は発足してほどなく、死刑を行なう意志を明快に表明していた。ちなみにインドネシアでの死刑執行は2008年に10人、その後4年間処刑は行なわれず、2013年になって5人が処刑されている。
今回の処刑地は中部ジャワ州チラチャップのヌサカンバガン島内射撃練習場と中部ジャワ州ボヨラリ県の野外で、ヌサカンバガン島では0時半に、ボヨラリでは0時46分に警察処刑隊が銃殺刑を実施した。ヌサカンバガン射撃練習場では5人同時に、ボヨラリでは1人だけの処刑となった。
オランダ植民地時代から使われていた広さ121平方キロのヌサカンバガン島の中には9つの刑務所が設けられていたが、現在使われているのは4つだけだそうだ。この島には刑務所勤務者だけでなく、少数の一般市民も生活している。島内は自然保護地区に指定され、原生林が多く、軍隊の戦闘訓練も時おりそこで行なわれている。従来の政権が国民の知らない間に死刑を行い、事後発表だけをしていたスタイルはがらりと変化し、現政権はすべての情報を公開して言行一致の姿勢を顕示した。処刑の妨害等の対応として、処刑地周辺は警察と軍隊が厳しく一般外来者を排除し、現場には政府立会人、処刑隊を含む警察・検察関係者、検死医師、死刑囚の親族や関係者あるいは法律代理人だけが入ることを許された。
銃殺刑が終わると検死医師が死亡を確認し、遺体は現場から運び出されて合意されていたその後の処理が行なわれた。ヌサカンバガンで処刑された5人はインドネシア国籍女性1人、ブラジル国籍男性1人、ナイジェリア国籍男性1人、マラウィ国籍男性1人、オランダ国籍男性1人、ボヨラリはベトナム国籍男性1人。インドネシア国籍女性は故郷の西ジャワ州チアンジュルに埋葬、ナイジェリア国籍男性はジャカルタに運ばれてナイジェリアに搬送、マラウィ国籍男性はヌサカンバガンに埋葬、ブラジル国籍男性とオランダ国籍男性はバニュマスの火葬場で、ベトナム国籍男性はスマランの火葬場で荼毘に付された。それらの処理は本人・親族・各国大使館とインドネシア政府との間で合意されたもの。
今回の死刑執行は、先に始められた外国密漁船に対する爆沈処分に次ぐジョコウィ政権の鉄の腕方針を示すものであり、国内の社会秩序向上と社会の順法意欲を高めるためのショック療法という意図が強くそこに感じられる。しかし、船を沈めることと人間の生命を奪うことは別問題だという声が巻き起こった。それに反論する政府の主張はこうだ。
インドネシアは既にアセアン域内総ビジネスの43%を占める最大のナルコバマーケットになっており、消費国並びに流通国としても世界第三位の位置に置かれている。国民の間にナルコバ使用が蔓延し、その結果死亡する者や障害を得て社会生産に携わることができなくなった国民が増加している。ある調査によれば、インドネシア人は毎日42人がナルコバで生命を落としているという。更に、使用者が購入資金を得るために犯す犯罪が激増し、あるいは流通者となって購入資金を得ようとしナルコバ使用者を増加させている。こうして家庭の崩壊や社会秩序の破壊がナルコバによって深く進行しており、ナルコバ犯罪は他に比べるもののない、人類を破滅に導く犯罪なのである。昔ナルコバ経由地でしかなかったインドネシアは、今では4百万人という巨大な消費市場に変化し、それを狙って国内外の犯罪者が国外からの移入、国内での生産、そして市場流通網の設立、大人から子供まであらゆる年代層を対象に、都市部から村落部までの絨毯爆撃的な使用普及促進といった諸活動を激化させており、政府の目には民族存亡の危機状況であると映っている。現状の進展を少しでも防止するためには、厳しい処罰に生命を賭さなければならないという意識をナルコバ犯罪者に与える姿勢が必要とされているのであり、ヒューマニズムという視点を死刑にのみ向けるのでなく、インドネシア民族とその社会というポイントにも向けてほしい。
一方、国内の人権擁護団体は、ナルコバ犯罪の進展抑止に死刑の実施が効果を持っているということはいまだ証明されておらず、反対に死刑の実施とは無関係にナルコバ犯罪が拡大しているのが世界の実情であり、死刑制度は人類のヒューマニズムに反する野蛮な行為であるため、ジョコウィ大統領は国家法曹機構が計画している次の死刑執行を中止させ、死刑に対するモラトリアムを実施してほしい、との声明を相次いで出した。また、オランダ政府とブラジル政府は駐インドネシア大使を本国に召還し、またそれぞれの国に駐在しているインドネシア大使を呼んで事情説明を求めている。ブラジル政府は駐ブラジルインドネシア大使に抗議文を渡して今回のインドネシア政府の所業への態度を示した。世界でも多くの国がジョコウィ政権に抗議の声をあげている。
前政権が死刑をいかに目立たぬよう取扱っていたかということの理由をこの状況は明白に物語っている。しかし、死刑反対の大合唱は本当に妥当なものなのだろうか?法治と行政という面から見るなら、国民が合意した法律の中に死刑が存在し、法曹機関が判断した上で死刑の判決を与えたのだから、法執行はなされなければならない。それが国家主権というものであり、その国の全国民の総意である。この原則はどこの国であれ、違わない。もちろん国民の中に賛成者もいれば反対者もいるはずだが、反対者のほうが多ければどうして法律が作られ施行されているのか?ある時点で反対者のほうが多くなったのなら、どうして法律が改定されないのか?法律が改定されないのはマジョリティ国民の意志を反映していると見るしかなく、声の大きい高尚な思想を振り回す人々はこのケースにおいてマイノリティでしかないということになる。デモクラシー原理を踏みにじろうというわけではあるまい。
行政あるいは国政担当者は、定められた決まりに則して法執行を行なわなければならない。それがかれらの義務だというのに、義務を果たせば悪者にされるのはどうしたわけだろう?ましてや、国家機構が法執行を何十年にも渡って恣意的ご都合主義的に扱ってきた結果、国民は法への服従を侮蔑し、エゴ丸出しの社会生活を送り、ホモホミニルプス社会・秩序統制の欠けた社会をいやが上にも強固にしつつある。今回の死刑執行が法への絶対服従を言行一致で率先垂範している大統領の姿を映し出す鏡に仕立てあげられていると思われるが、犯罪者の生命がからんだとたん、その行動が人非人ものと位置付けられたのはどうしてなのか?そして、自国民が他国で犯罪を犯して処刑されたら他国に抗議するという姿勢はイスラム国やアルカイダの態度とどれほどの違いがあると言うのだろうか?
死刑制度の賛否という問題は、国家主権のバリヤーすら突破するヒューマニズムという文明中枢観念のひとつからだけ見ていては、適切な結論に至らない。その民族あるいはその社会で生命尊重観念がどこまで成育しているのかということをキーにしないかぎり、かえってその社会をいびつなものにしていくだけだろう。その社会の生命尊重観念が低く、毎年数千人が人間の引き起こす殺人や事故という名前の出来事で生命を落としている社会で死刑を廃止するなら、簡単に殺された人間へのヒューマニズムはどうなるのか?他人を何人殺そうが自分の生命は安泰だと思えば、暴力闘争が起こったとき「相手に殺されるよりは相手を殺さなきゃ損だ」という考えが脳裏に浮かばない人間はいないにちがいない。社会自体が野蛮なのだから、野蛮さの中で重心を保つために死刑をなくすわけにいかないというロジックは野蛮なものだろうか。
社会の人命尊重観念が向上し、暴力の闘争が論争に置き換えられる社会になり、他人の生命と自分の生命に同等の尊重を抱ける人間が社会のマジョリティを占めるようになってはじめて、死刑はおのずとあってならないものになっていくはずだ。高度に文明化した国は、それなりの長い年月をかけて現在の姿に至っており、人命尊重観念も高いレベルにある。いまだそのレベルに至っていない、人命尊重観念の低い国にヒューマニズムの美名のもとに死刑だけを廃止させようとするのが本当に適切なことなのだろうか?そんなことで野蛮なレベルの人間性を持つひとびとが本当に文明化していくのだろうか?


「死刑取材に訪れた外国人記者を国外追放」(2015年1月26日)
2015年1月18日0時半ごろ中部ジャワ州チラチャップ県ヌサカンバガン島でナルコバ犯罪死刑囚の処刑が行なわれた。処刑された5人のうち4人は外国人で、ブラジル国籍男性1人、ナイジェリア国籍男性1人、マラウィ国籍男性1人、オランダ国籍男性1人となっている。
執行日の数日前からヌサカンバガン島は厳戒態勢に入り、人の出入りは厳しく規制された。処刑当日は死刑囚の家族や関係者そして大使館員や法定弁護士が立会いのために入るのを許されただけだが、この出来事を取材するためにやってきた外国人ジャーナリストたちは島の対岸にある渡船埠頭で取材活動を行なった。
チラチャップからヌサカンバガン島に渡る船着場ウィジャヤプラ埠頭でかれらジャーナリストは立会いのために島に入る死刑囚関係者を待ちうけ、その場でインタビューを試みた。オランダ人記者2人、イタリア人記者2人、ブラジル人記者とペルー人記者各1人が取材に来た外国人で、ブラジル人とペルー人はブラジルのテレビ局が派遣してきたもの。
島に入るために埠頭にやってきたブラジル人死刑囚の家族に対する取材を1月17日14時半ごろブラジルのテレビ局記者がなっていたとき、イミグレーションチラチャップ事務所がそのふたりに職務質問し、ふたりの入国資格が観光目的でしかないことが明らかになった。取材活動をするのであれば、そのためのビザが必要になり、取材活動許可を外務省から得なければならない。そのためイミグレーション事務所はふたりを逮捕して拘留した。容疑は入国資格外活動。
最終的にイミグレーション総局はそのふたりを国外追放することに決め、1月19日23時ごろ、ふたりはチラチャップイミグレーション事務所からスカルノハッタ空港へ、イミグレーション職員に連行されて出発した。
オランダとイタリアのジャーナリストはニュース取材活動のためのビザを有し、また外務省の取材活動承認書も持っており、合法的な活動であるためイミグレーション事務所はかれらに自由な取材活動の機会を与えている。


「バリでも死刑執行か?」(2015年2月2日)
2015年1月18日(日)0時半ごろ行なわれたナルコバ(麻薬違法薬物)犯罪死刑囚に対する刑執行に続いて、その第二波を検察当局が計画している。政府は現在のインドネシアがナルコバによる国民社会崩壊の緊急事態であると宣言しており、裁判で死刑判決を受けた囚人に対する刑執行が法治国家における必然であることから、積極的に法執行を行なう意志を固めている。1月18日の第一波実施のあと、世界中からインドネシア批判と非難の声が出されたものの、現政権の強い意思表明と外交説得によって、強硬なインドネシア非難の声は途切れている。
バリ州警察は中央からの指示を受けて、バリ島内の刑務所に入獄しているナルコバ犯罪死刑囚に対する死刑執行準備を進めている。死刑執行はバリ州高等検察庁との協力下に進められており、中でも銃殺処刑隊の準備はその中枢を占めるものだ。州警察機動旅団から銃殺隊員が指名され、隊員は既に夜間の射撃訓練を開始しているとのこと。
この第二波の死刑執行対象者は、有名なバリナインの一員であるアンドリュー・チャンとミュラン・スクマランのふたりである由。


「自国民保護と内政干渉」(2015年3月2・3日)
ライター: インドネシア大学国際法教授、ヒクマハント・ユワナ
ソース: 2015年2月28日付けコンパス紙 "Kewajiban Jadi Bumerang"
国には国外にいる自国民を保護する義務がある。自国民に対して国が負っているその義務を、国際法では外交的保護権と呼ぶ。自国民へのその保護は、言うまでもなく、自国民が犯した犯罪を擁護したり正当化するためのものではない。この義務の遂行はまた、他国の主権を侵害するレベルに至ることも許されない。
< 死刑廃止主義ではない >
ふたりのオーストラリア国民、アンドリュー・チャンとミューラン・スクマラン、の死刑が行なわれないようにオーストラリアがさまざまな手を尽くしているのは、オーストラリアが死刑廃止主義者だからなのでなく、自国民保護義務の故だ。その証拠はテロリズム犯罪死刑囚の処刑の際に示されている。アムロジ、ムフラス、イマム・サムドラの処刑に際して、当時のオーストラリア首相ケヴィン・ラッドは死刑執行を支持した。
非オーストラリア国民が処刑されるときにオーストラリア政府からの抗議が起こらないのは当然だ。それどころか、オーストラリア国民が重大な犯罪の被害者になったとき、犯人の死刑執行に対してかれらは正義がなされたと感じたのである。ブラジル政府も同じだ。インドネシアが死刑を行なわないように行動したのは、ブラジルがずっと昔に死刑を廃止したことに鑑みて処刑に反対したのではないのだ。かれらの行動も、自国民保護という側面のほうが強い。
問題は、オーストラリアやブラジルの自国民保護義務遂行に行き過ぎがあったということなのだ。そこがインドネシアのやり方と違っている。インドネシア人女性海外出稼ぎ者ルヤティがサウジアラビアで死刑に処せられようとしたとき、SBY大統領はサウジアラビア国王に手紙を送って処刑をしないよう要請した。その要請が拒否されたとき、インドネシアはサウジアラビア王国の主権を尊重してそれ以上の干渉をひかえた。
オーストラリアは違う。オーストラリア政府外相ジュリー・ビショップは「インドネシアが死刑を行なえば、インドネシアを訪れるオーストラリア国民は減少するだろう」との懸念を述べて、衣着せた威嚇を示した。その表明は、バリ島観光産業がオーストラリア人に依存している実態を踏まえてのものだ。
国連事務総長バン・ギムンまでもが発言した。「インドネシアは死刑実施を取りやめるべきだ」と言う。おまけに「国連は死刑廃止派である」とまで言った。バン・ギムンの発言はオーストラリアの要請に従ったものだろうと推測される。ルヤティがサウジアラビアで処刑されたとき、バン・ギムンが沈黙していたのを思い出せばよい。同じように、アムロジ一味の死刑執行のときも国連は沈黙していた。
「国連は死刑廃止派である」というバン・ギムンの表明も引っかかる。国連というのは、世界政府ではないのだ。マレーシアやシンガポールあるいはアメリカ合衆国の多くの州をはじめとして、いまだにたくさんの国連加盟国が死刑制度を存置させている。オーストラリアはインドネシアが国連を世界代表者と見なすことを期待してバン・ギムンを担ぎ出したにちがいない。世界中からの圧力を怖れてインドネシアが考えを変えるよう期待したのではあるまいか。
残念ながら、その目論見は失敗した。インドネシア共和国には頭脳の冴えた人間がまだたくさんいたのである。そして最後にオーストラリアは、アチェの津波災害のときにオーストラリアが援助を与えたことを思い出すよう求めるトニー・アボット首相の声明へと進んだ。インドネシアが津波災害で困ったときにオーストラリアは援助した。今、ふたりの国民が死刑に直面してオーストラリアは困っているのだから、あのときのお返しがあってもよいではないか、というのが声明の趣旨だ。
アボットの声明はインドネシアの政府高官・政治家・全国民、中でも指差されたアチェの民衆の感情を逆撫でした。「アボットにコインを!」運動の発生は大衆の憤りを示すものだ。ユスフ・カラ副大統領も表明した。「政府はオーストラリアから受けた援助を全額返金する用意がある。」
< 行き過ぎ >
ブラジルの振舞いも行き過ぎたものだった。ブラジル大統領ディルマ・ラウセフはインドネシア共和国大使トト・リヤントの信任状奉呈をまったく突然に延期したのである。そのときトトは既に大統領官邸に入っており、規定通りの儀典プロセスに沿って案内者が付き添っていた。その延期はラウセフの個人的な感情が大統領としての行為を奪い取ってしまった結果であるように見える。自国民への赦しを要請したにもかかわらず、ジョコ・ウィドド大統領はそれを拒んだ。わたし個人としては、かの女の悔しさがわからないでもない。
ディルマ大統領の行き過ぎ行為の本質は、それがインドネシアの国家・政府・国民への侮辱となったことである。大使の信任状奉呈というのは、国家・政府・国民を代表して行われるものなのだから。
善後策を協議するため政府は即座にトト大使を呼び戻した。その迅速・的確・厳格な姿勢は評価に値する。外務省はブラジル駐インドネシア大使を呼んで、トト大使への扱いに対する厳重な抗議を表明した。ブラジル大統領からの謝罪がなされるまで、インドネシア政府が大使をブラジルに置くことはありえない。
自国民保護のためにオーストラリアとブラジルが行なった行き過ぎ行為は、長期間に渡って築かれてきた二国間の互恵的関係を破壊した。二国間の互恵的関係を賭してまで自国民死刑囚を保護しようとするオーストラリアとブラジルの国にとって、かれら死刑囚はいったいどれほど特別な存在なのかという疑問が生じるのは、インドネシア側の目から見て当然のことだろう。インドネシア国民に対して重大犯罪を犯した結果かれらに死刑判決が下されているのだということが理解できていないのだろうか?
オーストラリアとブラジルが死刑廃止主義であるのなら、自国民でない人間が処刑されるのをどうして放っておくのか?オーストラリアとブラジルの政府がどのようなことをしてこようが、インドネシア政府がそれに影響されることはない、とジョコウィ大統領は表明している。反対にかれらがあれこれと画策することで、死刑執行方針がますます強いものになっていく。トト・リヤントとの協議の後、ジョコウィ大統領は記者会見の中で、インドネシアの主権を侵害し内政干渉してくる国が絶対これ以上増えないように、と二度も念を押した。
死刑実施の主務者として最高検察庁は、ふたつのポイントのために国民から絶対的な支持を得ている。そのひとつは、処刑される者がナルコバ犯罪者という国民共通の敵であるということ。もうひとつは、オーストラリアの首相と外相が行なった行き過ぎた策略とブラジル大統領が行なった侮辱に大多数国民が憤っており、そのため死刑執行に国民の支持が集まっていることだ。
インドネシア国民の大部分は、オーストラリアとブラジルの行為が国家主権を侵害する内政干渉の範疇に入っていると見なしている。オーストラリアとブラジルが自国民を保護するために行なっている行き過ぎた行為は既にブーメランとなっているばかりか、二国間関係を崩壊させつつあるのだ。


「悪人は殺せ!」(2015年10月15日)
2015年5月5日付けコンパス紙への投書"Hukum Mati Koruptor Kakap"から
拝啓、編集部殿。コルプシ事件に関わった地方首長や地方議会議長はいまや4百人に達しようとしています。ジョコ・ウィドド政権がナルコバ受刑者を死刑に処したように、国会は大物コルプトルを死刑に処す法律を作るべきです。汚職犯罪を減らすために。
わたしがこの投書を書いているのは、最近のコルプシに対する措置が心もとなく感じられるためです。ましてや、「ジョコウィ政府は悪例を作った」と指摘するアドナン・トパン・フソド氏の2月25日付けコンパス紙の文章を読むにつけても。
露骨にKPK(汚職撲滅コミッション)を犯罪化してそれを国内の諸階層どころか国際舞台にまで示した事件は、ジョコウィの汚職撲滅ビジョンとミッションにネガティブな色を塗りつけました。
2010年のコタワリギン首長選挙事件で証人をサポートするために偽証を行なったことに対する裁判でバンバン・ウィジョヤントKPK副長官が有罪になり、またマカッサルで住民管理書類を偽造した容疑で南スラウェシと西スラウェシの州警察の取調べを受けているアブラハム・サマッKPK長官にも有罪判決が下されたら、われわれ国民にできることはたいしてありません。しかし国民は、かれらおよび他のKPKコミッショナー三人を汚職撲滅ヒーローとして、いつまでもその業績をしのび続けることでしょう。[ 北ジャカルタ市クラパガディン在住、アリフィン・パサリブ ]