「レープ殺人の若年化」
こども、セックス、文明崩壊


男が女をレイプしたあげく、犯罪隠蔽を企図して被害者を殺す、というレープ殺人事件がインドネシアで国民の関心を集めている。レイプ事件自体は昔からインドネシアでありふれたものだったが、最近増加の傾向を強めているのは、被害者女性が幼年者であること、レイプ者の年齢も未成年者が目に付くようになっていることで、それがひとつの特徴をなしている。
家父長制社会というのは男尊女卑社会の別名とも言える表裏一体のものであり、そんな社会で劣等者で卑賎な存在として弱い立場に置かれている女性がレイプ被害者になる傾向はたいへん高いわけだが、成人女性よりも更に弱い幼女にレイプの矛先を向けるようになったこの状況の裏側には、いったい何があるのだろうか?

レープ者の若年化については、インターネットのポルノサイトが政府の取締りにも関わらず現実は子供たちがほぼ無制限に閲覧できる状況にあり、中でも一部で言われている児童ポルノが子供たちに強い影響を与えているためだとされている。しかし、若年者のレープ殺人は、それだけで説明し尽くせるものではあるまい。


レイプと男尊女卑の関連性は、2013年9月にインドネシアジャカルタジェイピープル内の現代インドネシア1001景に掲載された、
「男尊女卑がレイプを生む(1)」 http://www.j-people.net/news1001/013/09/0130923rape.html
「男尊女卑がレイプを生む(2)」 http://www.j-people.net/news1001/013/09/0130923rape2.html
「男尊女卑がレイプを生む(3)」 http://www.j-people.net/news1001/013/09/0130923rape3.html
「男尊女卑がレイプを生む(4)」 http://www.j-people.net/news1001/013/09/0130923rape4.html
「男尊女卑がレイプを生む(5)」 http://www.j-people.net/news1001/013/09/0130923rape5.html
を参照ください。


レープ殺人は、言うまでもなく性衝動と暴力の残虐性が結び付いたものであり、メインは性欲の充足であって、殺人は付帯的なものだろうとわたしは理解している。殺害を目的にしていながら行き掛けの駄賃とばかりレープするケースとは、性衝動のウエイトが本人にとっては異なっているように思えてならない。
ともあれ、レイプも殺害も、被害者に対して自己を優位に置くために暴力が使われ、相手を支配してそこから自分にとっての利益を引き出そうとする欲求がその動機をなしていることは同じだろう。殺人は相手に対する究極的な支配形態であると語ったのは、誰だっただろうか?


レイプに焦点を当てて、それが発現する要素に着目するなら、ここ数年増加傾向にある強烈な性衝動の発散形態としてのレイプの増加は、おのずと性衝動が激高する思春期少年から青年男子層に担われたものであるはずで、その通りレイプ犯人として逮捕される者の年代が若年層に下降していることがその分析を証明しているように思われる。
レイプを発現させる動因は、股間にあるのでなく耳の間にあるのだ、という説は間違っていないものの、だからリビドーの抑圧はレイプ対策として意味がないという飛躍論に対しては、裏の意図をつい勘ぐってしまいそうだ。強さに個人差があり、且つまた自己抑制力に個人差のある若者の性欲をそのように単純化するのは、かえって誤りを冒すことになりはしないだろうか?

レイプはいわゆる性犯罪のひとつで、暴力要素を含んでいるものだ。犯罪というものは何であれ、社会秩序を冒すものであり、それは社会統制とその対象となる個々の社会構成員のあり方に関わっている。
統制の原理に置かれているものがどの社会でも同じということは決してない。文化が違うという言葉は、その原理が異なっているのだということを言っている。さらに統制の実施方法が厳しい社会もあれば緩やかな社会もある。罪が定められたなら、そのあとに罰が決められる。罰の重みが社会によって違い、おまけに罰の執行まで緩急が加えられてくれば、それぞれの社会が示す姿は千差万別になるはずだ。


犯罪の文化社会学的考察では、生活コミュニティ内での犯罪はコミュニティの秩序統制がその抑止力として作用するはずであり、要は構成員のコミュニティ意識がどういう位置にあるのかということが犯罪多発、つまりは治安の良し悪しを決定する鍵とされているようだ。この概念には、コミュニティとして認識される領域の広さが関わっている。

ムラビト精神がコミュニティとしている顔や心情が相互に熟知された人間集団という狭い領域から、イマジンドコミュニティと称されるヒューマニズム基盤の人間集団という広範なものに至るまでその発展段階はさまざまであり、対面している相手のコミュニティ領域観念がどれであるのかによって、その相手はわれわれを仲間にしてくれるかもしれないし、さもなければヨソモノとされて襲われることも起こる。
この個人差を見落としてしまうと、インドネシアを含めた多くの発展途上国に対して、国名のラベルひとつで危険な場所だと決めつける反応を示すひとびとの仲間入りをすることになる。ところが実際に危険に遭遇しなかったひとびとはその反応に反発し、不毛な論争が展開されているのが現実の姿だろう。


インドネシアにおける犯罪を観察するかぎり、コミュニティの秩序統制がその抑止力として働いているのはたいへん小さい部分でしかなく、インドネシア文化の中にあるコミュニティの秩序統制というものが総員参加による総員個々のための公正平等な利益追及という形からかなり離れた位置にあることがわかる。

インドネシア人の公感覚の成熟度合いは低い段階にあり、公が私利私欲の延長線上に置かれていると感じている外国人はわたしだけではあるまい。
社会生活における個人のエゴイズムや自己中心性の発現を社会自体が当たり前のものと認識し、それをベースに踏まえて社会生活のスタイルが構築されていることがその姿を支えているのであって、つまりは公という価値観からのエゴイズムや自己中心性の否定が、いわゆる先進国の諸民族が到達しているレベルに比べてまだまだ低く、それがインドネシアを「何でもあり」社会にしていると言えるにちがいない。


インドネシアで女児レイプの加害者はたいてい被害者の身近にいる人間であり、そのとき発生した肉体関係を継続させようとする傾向を持つようだ。被害者の口封じは金や威嚇・脅迫が用いられことが多い。そんな手段があまり効果を持たない間柄であると加害者が認識している場合は、犯行隠蔽をはかって加害者が被害者を殺害するに至ることがある。身近な人間によるレイププロセスが暴力で行われる場合は、レープ殺人に至りやすいように思われるが、しかし現実に発生している種々の事件を見るかぎり、被害者の身近な人間が暴力レイプを行うケースはインドネシアで少ないように感じられる。

多くのケースでは、被害者の身近な人間が言葉巧みに女児の動きを封じてその身体を弄んでいる。それを説得レープと呼んでおこう。もちろん、威嚇や脅迫をまじえるのが普通だが、女児が抵抗や反抗を示さずに言いなりになるようなビヘイビアを下支えしている文化内の価値観の存在を無視することはできないだろうとわたしは思う。

ともあれ、そのようなパターンが成立する直接的なメカニズムとして、両者が顔見知りであり、更には女児がその相手を遊んでくれるひとと認識して親愛感や信頼感を抱き、相手に依存し、その言いつけに従おうとする心的態勢になっているために、加害者が女児を説得したり、なだめすかしたりして、女児が想像もしていなかった行為の中に引きずり込むというプロセスが可能になるためだろう。

子供レープ殺人事件が起これば、インドネシアでの警察捜査の常道はまず被害者の身近な人間を洗えというものになっている。
視点を変えてその理論を見るなら、行きずりの人間によるレイプでは暴力プロセスが使われるのが普通であり、暴力プロセスの中で殺害に至ることが起こらなければ、加害者は被害者を置き去りにして逃亡すれば済むだけのことであって、事後にあえて殺害する必然性をあまり強く持たないのではないか、という見方が成り立つように思われる。
被害者を殺さなければ自分の身が危うくなるような人間が被害者とどういう関係にあるのかを考えれば、インドネシア警察の経験則が妥当性の高いものであることが見えてくる。


最近、国民的話題となった事件がいくつかある。

2016年4月2日、ブンクル州レジャンルボン県パダンウラッタンディン郡カシエカスブン村第4部落の女子中学生が第5部落にある学校から徒歩帰宅したが、家に戻ってこなかった。心配した家人が村役に届け出て、親族と村人たちが地域一帯を捜索したが、何の形跡も見つからなかった。捜索は翌日、翌々日と続けられ、第5部落と第4部落を結ぶ村道にあるゴム林の奥の谷から腐乱臭が漂ってきたのに気付き、そこで少女の全裸死体が発見された。被害者はサトゥアタップ第5国立中学校2年生のユユンさん、14歳。

4月2日10時ごろ、第4部落の若者数人が金を出し合ってヤシ酒トゥアッを買った。集まった金は4万ルピア。かれらは第4部落と第5部落を結ぶ村道脇のゴム林で酒盛りを始めた。そこへ、三々五々、同じ部落の若者たちが集まって来て最終的に13人の酒盛りとなった。その13人は13歳ひとり、16歳ふたり、17歳ひとり、18歳ふたり、19歳4人、20歳ひとり、23歳ひとりなどで、全員が酔いに包まれた。
そこに、ひとりで下校してきたユユンさんが通りかかったのだ。19歳のひとりが他の仲間に半ば命令するように犯行を誘った。13人の若者たちは、少女の行く手を阻んでゴム林の中に引きずり込んだ。逃れようとするユユンさんに若い男たちの暴力がふるわれ、少女を痛めつけようとする男たちの嗜虐性がかれらを興奮に駆り立てた。衣服がむしり取られ、地面に引き倒され、手足を縛られた少女の身体に男たちが次々とのしかかって行った。暴れる少女を押さえつけた男たちのだれの手がどこにどんな暴力をふるったのか、ユユンさんはそのうちに動かなくなった。にもかかわらず、男たちのレイプは続けられた。最年少の13歳と16歳ふたりは、ユユンさんと同じ中学に通っている少年なのに。そして犯行を煽った19歳の若者は、三回も少女の身体を辱めた。動かなくなってしまった後までも。
凶暴な酒宴が終わりを告げたとき、地面には全裸の少女の死体と引きむしられた衣服、学用品などが入っているバッグが転がっていた。若者たちは手足を縛られたままの少女の死体を奥の谷底に落とし、衣服やバッグは付近の草むらに隠して、何食わぬ顔で第4部落のそれぞれの家に帰宅した。

ユユンさんの捜索が始まると、13人のうちの多数がその捜索に参加し、遺体が発見されて葬儀が行われると、かれらは再び何食わぬ顔で弔問の列に加わった。しかしレジャンルボン県警パダンウラッタンディン署はそんな目くらましにごまかされなかった。捜査員が部落民の間で聞き込み捜査を行うと、4月2日にゴム林にだれがいたのかはすぐに判明した。そして名前のあがった若者たちを取り調べた結果、事件の全貌が明らかになったのである。警察は4月8日夕方に3人を逮捕し、9日未明にもう9人を逮捕した。13歳の少年は逃走したが、5月14日朝パダンウラッタンディン署に自首して出た。
少年は仲間が続々と逮捕されたことを知って自宅から逃亡し、森に入って草などを食べながらあちこちを転々としたが、そんな暮らしに耐えられなくなり、ひそかに自宅に戻った。家族は戻って来た少年を説得し、村役に付き添ってもらって警察に自首させたとのこと。

全国であい続く未成年女性に対する性犯罪に堪忍袋の緒を切らせていたネティズンは、「ユユンさんのためにキャンドルを」キャンペーンを張り、ユユンさんの四十日忌に各地で不幸な生涯を閉じた少女の?追悼と野蛮さを強めている民族への警告を示して見せた。四十日忌の夜、全国各地で多数のロウソクが灯され、夜闇を照らしたが、この民族が陥ってしまった闇がそれだけで晴れるはずもない。
その展開はジョコウィ大統領を動かし、従来から超悪犯罪と国家が定義しているコルプシ、ナルコバ、テロに性犯罪を加えることが表明された。政府は現在、子供に対する性犯罪実行者への刑罰をもっと重いものにするため、法律代用政令の制定を検討している。
理解をクリヤーにするために付け加えるなら、国家的問題として焦点が当たっている性犯罪とは子供に対するものであり、政府が超悪犯罪に区分したのは子供への性犯罪だ。性犯罪の若年化というのは、加害者が未成年世代にシフトしてきているのと同時に、被害者も未成年世代、つまり子供が襲われる傾向が強まっているということなのである。その結果、子供に対するレープが増加し、そして子供被害者が殺害されるに至るレープ殺人も増加しているのだ。

子供に対する性犯罪というのであれば、2002年法律第23号「児童保護法」とそれを改定した2014年法律第35号「改定児童保護法」の内容が関わって来る。児童保護法では18歳未満を子供と定義しており、この法律内容が適用される限界年齢は18歳未満となる。そして子供の性行為については、いかなる者もどんな状況にあろうとも、子供との性交やわいせつ行為を行うことは、たとえ合意であっても禁止されている。そればかりか、暴力を用い、あるいは威嚇し、騙し、説得して子供に自分や他人との?セックスの相手をさせたり、わいせつ行為の相手をさせることも禁止されており、その禁止条項に違反した場合、最高15年の入獄刑が与えられることになっている。

ところが奇妙なことに、レイプしたあげく殺しても、刑罰はこの児童保護法に引きずられてたいへん軽いものになっているのが普通だ。ちなみに、ユユンさんレイプ殺害事件の犯人のうち7人について検察が法廷に求めた刑罰は10年の入獄で、レジャンルボン県地裁は5月10日の判決公判で検察の求刑をそのまま認め、7人に10年の入獄刑を言い渡した。
その刑罰をもっと重いものにしようとして、最高刑を死刑、終身刑、更には去勢処置を含めるといった内容が検討されているものの、人道主義や基本的人権などを根拠にする反対論が議論を複雑なものにしており、何らかの結論に向って収束していく雰囲気が見られないのが実情になっている。


ところで、ユユンさん事件が国民的話題に盛り上がったあとも、マスメディアには子供を対象にしたレープ事件やレイプ殺人事件報道が絶えることなく継続している。
児童保護国家コミッションのデータによると、2015年の一年間に起こった児童に与えられている権利に対する侵害行為は、インドネシア全国で2,160万件発生した。そしてそのうちの58%が性犯罪で占められている。インドネシアでは、性犯罪被害者になる子供が少女ばかりということではない。大勢の少年たちも男たちに犯されているのだ。特に、子供のころ大人に犯された少年が、大人になってからその復讐を次世代の子供たちに向けて晴らすケースがいくつも報告されている。この種の大人はひとりで数十人から百人近い子供を犯しており、そういった驚くべき事件が一年に何回もメディアをにぎわしている。


ランプン州東ランプン県ラブハンラトゥ郡第7ラブハンラトゥ村の女子小学生Mさん10歳が4月14日、学校から帰宅しなかった。その日のうちに家族は警察に届けを出して捜索が開始され、17日にワイジュパラ郡のゴム畑の中にある小屋で死体が発見された。
検死報告によれば、身体に刃物傷や致命的な外傷は見られず、死亡原因は酸素欠乏によるとされている。すなわち絞殺だ。しかし性器部位がひどく壊れており、警察は10人くらいの男にレープされたのではないかと推測している。州警察は捜査に行き詰まっており、事件解決の糸口がつかめないまま、もうひと月が経ってしまった。

ユユンさん事件と同じころに起こった類似の事件であるにもかかわらず、一方の迅速な事件解決に反してなかなか進展しない捜査状況をもどかしく感じたネティズンの「わたしはM。わたしを見捨てないで。わたしにもキャンドルをください」という書き込みに、1万人を超えるフォロワーが付いた。


北スラウェシ州マナド市では19歳の女性が誘拐され、北ボラアンモゴンドウとゴロンタロのホテル2ヵ所に連続して幽閉されて15人の男たちに四日間、輪姦され続けたという事件が16年1月24日に発生した。被害者は高級カラオケのホステスを職業にしている美人。

その日、かの女は女性の友人ふたりに呼び出されてマナド市内の自宅から北ボラアンモゴンドウ県ボラギタンに向った。そしてふたりの友人に会うと、友人はかの女にナルコバを強く勧めたので断り切れず、かの女はラリった。すると友人はかの女を安ホテルに連れて行き、衣服を脱がせた。
そのあと15人くらいの男が部屋にやってきてかの女を輪姦した。かの女はチャンスを見つけてホテル従業員に助けを求めようとしたが、麻薬でラリっている状態のためうまく行かず、結局また部屋に戻り、男たちの輪姦の餌食にされた。何日かレイプが続けられたあと、かの女はゴロンタロ州の別の宿屋に移され、そこでまた4人の男たちの輪姦の餌食にされた。その4人の中に不良警察官が混じっていたように思われる、と後でかの女は家族に語っている。

帰宅せず、連絡も取れなくなったかの女の安否を家族は心配して捜索していたが、四日後になって痛々しい姿で帰宅した。送って来たのは、かの女を罠にかけた者たちの数人だったらしい。しかし帰宅したときも、かの女の精神は強いトラウマに支配されており、実の母親が認知できない状態だったそうだ。
帰宅したあと、家族はその事件を警察に訴えたが、警察はそれを取り上げて捜査を開始しようとせず、「手首に暴行の痕跡があるだけで、レイプされたことを証明するものは見つからない。性器に裂傷があるが、古い傷である。」という警察医の診断書を根拠にして、その訴えを無視し続けている。


マルク州中部マルク県西レイヒトゥ郡ワアイプティ国立小学校で、校長が10歳の女生徒を何回も犯していたことが明るみに出た。明るみに出たのは少女が性器の痛みを家族に訴えたためで、家族が問いただした結果、校長の性犯罪が5月8日に判明した。校長が被害者少女をおもちゃにし始めたのは16年1月以来であり、校長室の掃除を被害者に命じ、そのときに少女と性交していた。また自宅に連れ帰って犯したこともあるとのこと。


スラバヤ市グブン郡プチャンセウ町カリボコルクンチャナ通りに住む子供たちの間で不純交友が何年にもわたって続けられてきた。9年前、5歳の男児が近所に住む4歳の女児に性戯を強いた。ふたりは成長するにまかせて、ただの性戯から男女の交わりへと進んで行った。その男児は仲間を大事にしていたから、女児の身体で遊ぶとき、仲間を誘った。
8人の少年たちとひとりの少女は、そんな遊びをするとき、町内の人気のないさびれた場所を探して、大人たちの目につかないようにしていた。しかしいつまでも隠しおおせるものではなかったのだ。大勢の小中学生男児が白昼、13歳の女生徒を輪姦している場面を町内の大人に見られたことで、9年間続いた子供たちの危険な遊びは終わりを告げた。

2016年5月12日にスラバヤ市警本部に連行された子供たちは、13歳の中学2年生女子生徒ひとりと、9歳ひとり、12歳ふたり、14歳5人総勢8人の少年たちだった。
その少女をこの道に引きずり込んだ少年は、まだ幼いころから少女に食べ物や飲み物を買い与え、セックスパーティの前には飲み物に禁制薬物を混ぜて与えるのを習慣にしてきた。そのため、少女は薬物中毒になっており、そして同時にセックス依存症にもなっていた。トリ・リスマハリニ、スラバヤ市長はこの事件を耳にしてすぐさま市警本部を訪れ、子供たちに面会した。男と女の交わり方をいったいどこで知ったのかという市長の問いに答えて主犯の少年は、インターネットからです、と述べた。スラバヤ市内の全ワルネッに対して、今後、ひとつでもポルノサイトへのアクセスが行われたら厳罰に処す方針を、市長は即座に立てたそうだ。

スラバヤ市警は子供たちを取り調べたあと、拘留しないで全員を親の元に返した。いわゆるレイプ犯罪とは趣が異なっており、子供たちを犯罪者として処罰するよりも親の庇護下に置いてリカバリーさせる方が重要で適切な措置であるという意見に従ったものだが、こうして再び児童保護法の条文が踏みにじられたことになる。「法律条文の機械的な遂行はインドネシアの風土に合っていない」という見解の立脚点は、やはりインドネシア性という特異な要因なしには位置づけられないものであるにちがいない。


続いてやはりスラバヤで、ムドカンアユ小学校に通っている1年生の女児に性暴行を行った23歳の男が5月14日に逮捕された。事件が明るみに出たのは、被害者女児が小用の際に性器が痛いと親に訴えたことが発端で、親は子供に何があったのかを尋ね、子供は学校で起こったことを話した。親はすぐさま所轄警察に届出を行い、小学校に庭師として雇われている容疑者を警察は自宅で逮捕した。
この庭師は4月27日に被害者を学校のトイレに誘い込んで性器を弄ぼうと企て、「5万ルピアをあげるからおいで」と誘ったが女児が拒否したので、腕をつかんで無理やりトイレに引きずり込んだ。トイレ内には手を縛るための紐や口を閉ざすためのガムテープが前もって用意されており、男は計画通りのことを行ってから女児を解放した。さらに5月3日と5月9日にも同じことが繰り返され、最終的に親から警察への届出がなされた。


5月9日15時ごろ、ブカシ市ジャティアシ郡ジャティサリ町チャクン部落住民の小学校6年生の女生徒が、小学校課程修業全国試験のための補修授業を終えて自転車で学校から帰宅途上、年齢が40代と思われるまったく面識のない男に停められた。男は少女にある住所を告げて、その場所を尋ねた。少女は親切にも「そこまで連れて行ってあげる」と言ったため、男は少女を荷台に移らせ、自分が自転車を漕いで少女の道案内に従った。
ところがその男は尋ねた住所で止まろうとせず、そのまま近くのバナナ畑の奥まで自転車を乗り入れた。そして鉈とカッターナイフを取り出し、「言うことを聞かないと、おまえを殺す」と威嚇した。少女は恐怖に震えあがり、叫び声すら上げる気力を失い、男が衣服を脱がせるのにまかせた。降り始めた雨の下で、そんな場所を通りかかる人間も現れないまま、少女は男に犯された。
事が終わると、「自転車に乗って帰れ」と男は少女に言い、少女は雨の中を泣きながら自宅に帰って来た、と家人は語っている。少女の話によれば、加害者は中背でやせていて、ジャワ語訛りがあり、体臭が強かったそうだ。ブカシ市警の犯人捜査は難航している。


5月16日にはヨグヤカルタ特別州警察が16歳の少女を妊娠させた46歳の教員を逮捕した。その教員イスマイルは中部ジャワ州チラチャップ住民で、ヨグヤカルタにある財団法人が運営しているイスラム学校マドラサアリヤ(高校レベル)の校長であり、またそこで宗教も教えていた。少女は同じ財団が運営するマドラサツァナウィヤ(中学レベル)の3年生に在学中。少女は中部ジャワ州トゥガルの実家から離れて寄宿生としてマドラサで学んでおり、ふたりは同じ財団が持っている寮に住んでいたことで互いに親しくなった。
最初イスマイルはその片親の少女にいろいろ親切を示し、寮からかなり離れているマドラサツァナウィヤまで送っていき、また下校時間に迎えに行くことも再三であり、ワルンへ誘ってバソなどを馳走することも頻繁だった。少女が電話したいときには、自分の携帯電話を使わせていた。イスマイルは婚姻歴のある独身者だ。
あるとき、イスマイルは学習塾に少女を迎えに行った帰り道、バントゥル県バグンタパン郡にあるロスメンに少女を連れて行き、少女をなだめすかしながら犯した。少女は畏敬する大人の男性を怒らせることを恐れて、なされるがままになっていた。
2016年だけで、イスマイルは少女を4回、セックスの相手にしている。5月になって少女が妊娠していることが判明し、少女から事情を聞いた寮管理人が少女の親と相談の上で警察に届けを出した。


西スマトラ州パダンでは、小学校の体育教員54歳が授業中に教え子の少女5人の性器を弄んだため、5月18日に逮捕された。体操の時間にこの教員は生徒をひとりひとり別室に呼び、そのときに5人の女生徒(9歳4人と12歳ひとり)を膝に乗せて性器をおもちゃにした。女生徒らは帰宅してから、教員から受けた仕打ちを親に話したので、5人の親がそれぞれ警察に届けを出した。警察の取調べでこの教員は2015年から生徒を授業中におもちゃにしていたことが明らかになっており、警察は他の被害者も届けを出すように呼びかけている。


南カリマンタン州バリトクアラ県アララッ郡でも、5月18日に小学5年生の女生徒をレープしていた49歳の建築労働者を警察が逮捕した。
男の自宅は小学校のすぐそばで、小学生たちが頻繁に家の前庭で遊んでいるのを見ているうちに、被害者の少女に興味を抱いたとのこと。男はターゲットの少女だけを家の中に呼び込み、現金で少女に言うことを聞かせてその身体を弄び、最終的に性交に至っていた。少女には2万や5万ルピア紙幣を一枚与えるのが普通で、しかし時には10万ルピアを与えることもあったらしい。
事件が判明したのは、その少女が頻繁に大きな金額の金を所持して友人たちに分け与えていたためで、少女の義理の母親が不審を抱いて金の出所を聞きただし、何が起こっていたのかを知ってすぐに警察に届けを出した。
この事件も、加害者と被害者は長期の関係を続けていたことになる。


東ジャカルタ市のある高校で宗教の教鞭をとっている53歳の教員が5月22日に逮捕された。この教員がセックスの相手にしたのは少年で、自宅のあるブカシ市ムティアラガディン住宅地周辺で少年を誘っては欲情を発散させていた。被害者になった少年は10人に達する。
少年たちの親が5月19日に警察に届けを出し、その結果この逮捕劇となった。取調べに対してその教員は、少年たちを2万から10万ルピアの金で誘っていたことを明らかにしている。男には妻があり、妻が仕事で外出しているときに自宅でこの性犯罪を行っていた。この教員の歪んだ性行動は、12〜16歳児童のビヘイビアを修士課程論文のテーマに選んだことに起因しており、研究対象の裸体を見て強い性衝動を抱いたことが発端になったとのこと。


中部ジャワ州プマラン県のクブメン川で5月20日、若い女性の死体が発見された。この女性はプマラン県アンペルガディン郡トゥガルサリ村マグンサリ部落住民アメリアさん17歳で、5月18日18時半ごろ携帯電話のプルサを近所の店へ買いに出たまま行方不明になっていた。消息を断った末娘を家族は捜索していたが、20日夜にアメリアはプマランのマス・アスハリ病院にいるとの情報を得たため、急遽病院に向った。そして娘の変わり果てた姿に家族は対面したのである。遺体の顔面に青あざがあり、後頭部には傷があって出血のあとが見られたことから、家族は末娘が殺害されたと確信している。

一方、プマラン県タマン郡プヌル村住民ホリヴィアさん18歳が12人の若者たちにレイプされる事件が起こり、そのレイプ事件の調査からアメリアさんの死が同じレイプ事件に関連していたことが判明した。

ホリヴィアさんがパチャルに誘われてプドゥルガン村の水田地区の中にある小屋へ入ったとき、中には酒の匂いが充満しており、そして12人の若者たちがアメリアさんをレイプしていた。入って来たホリヴィアさんに男たちは即座に襲い掛かった。ホリヴィアさんの身体を数人の男たちの手がつかみ、かの女の衣服を脱がせにかかる。ホリヴィアさんのパチャルもその男たちに加わった。ホリヴィアさんに男たちの関心が移ったため、アメリアさんをその小屋に連れてきたアメリアさんのパチャルはかの女を連れてオートバイでその小屋から去った。そしてアメリアさんの身の上にその後何が起こったのかを知っている者は、アメリアさんのパチャルしかいなくなった。警察の取調べに対して「アメリアさんは逃げてから川に落ちて溺れたのだろう」という推測を逮捕された若者たちの一部は語っているが、アメリアさんのパチャルがまだ捕まっていないため、真実はまだ闇の中だ。

ホリヴィアさん集団レープ事件の捜査を開始したプマラン県警は、全員がプヌル村住民である12人の若者のうちの4人を逮捕しており、逃亡した残る8人を追っている。逮捕された4人の供述からわかったことは、かれらは17日昼にレープの酒宴を計画し、女を誘い込む算段をした。そして18日夕刻にアメリアさんのパチャルとホリヴィアさんのパチャルが輪姦の獲物を連れて来たということのようだ。アメリアさんは近所の店でプルサを買ったあと、パチャルのオートバイでプドゥルガン村の小屋まで運ばれたにちがいない。その小屋からアメリアさんの遺体発見場所までは5キロの距離がある。


12歳の少女を何度もレイプしていた60歳の元教員を逮捕したことを、北ジャカルタ市警が5月24日に公表した。被害者少女Rは小学校5年生で、マルンダ地区に住んでおり、両親が離婚したため四人の子供と母親だけがその家に住んでいた。Rは三番目の子供だ。一方の元教員Sは北ジャカルタ市チリンチンの小学校で算数の教員をしていたが、16年1月に定年退職した。Sが妻子と一緒に住んでいた官舎もRの家から近いところにある。

Rの母親が働いて稼いでくる金は十分でなく、子供たちは貧困生活にあえいでいた。Rも貧しさを苦にしており、学校で何かの費用が徴収されるとき、それが払えないために涙を流すことも再三で、そんなRの姿を目にしてSが同情心を抱いたことがどうやらこの性犯罪の発端になったようだ。
Sは自分の教え子であるRに自宅に遊びに来させて、ときどき金を与えていたそうだ。そしてそのころまだ小学校4年生だったRに、ある日Sは突然欲情した自分を感じた。SがRの身体にはじめて手を付けたのは15年7月のことで、妻子が留守であるのを幸いに、自宅でそれが行われた。それ以来、ふたりの肉体関係は継続し、ことが終わったあと、SがRに10万ルピアを渡すことも再三だったらしい。
妻子がいないときは自宅でRを犯していたが、自宅でできないときは養魚池の小屋で行ったようだ。小屋でのセックスは少なくとも3回行われたとのこと。小学校を退職したSはRの家庭教師を買って出て、ふたりの関係を継続させるための形を整えた。こうしておけば、Rがひとりで自宅にやってきても、Sに不審の目を向ける者はいないだろう。

16年4月のある日、養魚池の近くに立っている小屋でSがRを犯しているのを町内の人間が目撃し、事件をRの親に話した。親はRを問いただし、これまで何回もSに犯されていたことをRは明らかにした。そして警察に届けが出されたというのがこの事件の経緯。
逮捕されたSは取調べの中で、「自分は間違ったことをしでかしたのを後悔している。妻との間ではもう長い間セックスがなく、自分はインポテンツになっていた。」と供述していたそうだ。


東ヌサトゥンガラ州ナゲケオ県警アエセサ署が、アエセサ郡アエレモ村住民の75歳の老爺を逮捕したことを、5月25日に公表した。老人が小学校2年生の女児4人の性器を弄んだとの訴えによる。
老人は子供たちを屋内に入れ、下着を脱がせて性器を弄び、「今ここで叫び声をあげたり、後でだれかにこのことをしゃべったら、その者を殺すぞ!」と威嚇して犯行を行ったようだ。四人のうちのひとりが親にその仕打ちを話したために事件が明るみに出て、被害者の親たちが警察に届け出たため、その老人が逮捕されている。


5月25日と26日に中部スラウェシ州パル市西バル郡で、路上で少女に性的いたずらをした事件がふたつ発生した。最初の事件は、オートバイで食べ物を買いに出た14歳の少女が家を目指して走っていると、不審なオートバイがずっと自分の後をつけているのに気付いた。気味悪くなった少女が道路脇に寄って尾行者が行き過ぎるのを待とうとしたところ、尾行者は少女のそばで止まり、少女を脅して下着を下げさせ、性器を弄んだ。この犯人は翌朝、警察に自首している。
翌日も類似の事件が起こり、12歳の少女が被害者になった。逮捕された犯人は28歳の男。


ランプン州メスジ県パンチャジャヤ郡ハディムロ村で、5月26日20時ごろにオートバイで自宅から外出した小学校3年生の少年Yが夜中になっても帰宅しないため、家族が心配して捜索した。しかし夜中のことで、発見することができない。
27日朝、パンチャジャヤ郡アディルフル村のパームヤシ農園にやってきた村人が、パームヤシの木のひとつに吊り下がっている少年の死体を発見して届け出た。少年は服を首に巻き付けて木に吊り下がっていたが、レイプされていたために警察は殺人事件として捜査を開始した。

そして24時間経たないうちに犯人を割り出し、そのうちのひとり、メスジ県シンパンプマタン住民で17歳の若者を逮捕した。その若者の自供によれば、26日夜に仲間ふたりと獲物を待ち受けていたところ、9歳の少年Yがひとりでオートバイを走らせているのを見つけて後を追った。そしてパームヤシ農園の闇の中でYが乘っているオートバイを奪い、少年をレイプしてから殺害した。警察は逃亡した仲間ふたりを追跡中で、29日にもうひとり20歳の青年を逮捕した。この青年は子供のころに、男にレイプされた体験を持っている。


東ジャワ州スラバヤ市内では、6歳の少女Nをレイプした27歳の男性採鉱作業者Dが警察に逮捕された。Dは隣家の子供Nに頻繁にタバコや即席麺を買ってくるよう用事を言いつけ、釣銭はNの駄賃にするという方法でNを手なずけた。こうしてNはDの借家によく遊びに来るようになった。
Dは三か月前に結婚したばかりだが、妻が外出したある日、自宅でNをレイプした。Nには口外しないように脅迫を込めて言い含めていた。妻がいないときに自宅でNを犯すことが数回繰り返されてから、DとNの関係が明らかになり、Nの親が警察にDを訴えたというのがその事件。


東ヌサトゥンガラ州では、中学生の少女が25歳の男に暴力的にレイプされた。その13歳の少女はそのとき、ヤシ園の中でヤシの木に登った兄が降りてくるのを下で待っていた。その様子を見た同じ村の25歳の男はそっと少女の後ろから忍び寄り、手で少女の口をふさぐと少女の身体を引きずってその場から離れた。
男はおよそ50メートル離れた川岸に少女を引きずって行くと、そこで暴力的にレイプし、事を終えるとそのまま立ち去った。木から降りて来た少女の兄は、下で待っているはずの妹がいないので付近を探して回り、川岸で泣いている妹を発見した。少女の親の訴えで、身元が割れているレイプ犯人は警察に即座に逮捕されている。


若い男たちが集まって深夜に酒盛りをしている外界から隔離された場所に、少女が単身で入って行くというのがどれほど非常識なことであるか、というインドネシアの常識を裏書きする事件が5月29日に起こった。
チトラランドに近い西ジャカルタ市北タンジュンドレン郡のセクレタリス川の堤防は道路から見えない低い場所にあり、深夜になると若い青年たちが集まってきて酒盛りをし、不本意な人生の、あるいは失業の憂さを晴らす、文字通りのアングラスポットになっている。
5月29日深夜1時ごろ、中学校を中退してオフィス勤めをしている14歳の少女Mが、男友達のスゲンを探しにその堤防に行った。スゲンもそこの定連のひとりなのだ。

しかしその夜、スゲンはそこにいなかった。Mはスゲンの友人で自分も顔を見知っている青年たちに、スゲンがどこにいるのかを尋ねた。ところが、酔っぱらっている青年たちのひとりが、「その女をやっちまおうぜ」と言い出した。素面のときでさえ正邪観念の薄い脳が既にアルコールの支配下にあり、強いこと・度胸があることが男(つまりは人間、なぜなら女は男と同等の人間とされていないから)の価値だと信じている一同の中に、獲物を前にして後ずさったり、ましてや獲物を保護しようというような、自分の男を下げる行動を採る者はいない。
青年たちはMの身体をつかみ、抵抗するMの頬にビンタを食らわせ、口を手でふさぎ、その身体を弄びはじめた。そして衣服を脱がせると、順繰りに行き着くところへ・・・・
翌朝になって、Mは集団レイプの被害届を出し、警察はその日のうちに24歳ひとりと20歳3人の合計4人を逮捕した。しかし被害者によれば、かの女を輪姦したのは8人だそうで、警察は更に捜査を進めている。


東ヌサトゥンガラ州マンガライ県ランバレダ郡の住民37歳男性を逮捕したことを、5月30日にマンガライ県警が明らかにした。28日にこの男性の実の娘14歳が腹痛を訴えたため、母親が自分の母親(娘の祖母)の家に娘を連れて相談に行ったところ、娘の祖母が孫娘の腹が大きいのに不審を抱き、保健所に連れて行って検診を受けた。検査結果が妊娠8か月と出たため、三人は祖母の家に戻った。母と祖母は娘を問い詰めたが、娘は「言うと殺される」と泣きながら言うだけで、怖がってなかなか事実を打ち明けない。
祖母が娘の叔父を呼び、その叔父が「おまえの生命はわしが必ず護ってやる」と保証したので、娘はやっと話し始めた。その一家が驚くような話を。

15年8月のある夜、娘の母がその祖母の家に行って泊まっているとき、父親が娘の寝ている部屋に忍び入ってわが娘を犯した。そのとき娘はまだ13歳だった。父親は持ってきた長剣を示して、「自分の言うことを聞かないと殺す」と脅し、事が終わったあと再度「このことをだれかに話したら、おまえの命はない」と威嚇した。その後も父親はインセスト関係を続け、妻がいないときは自宅で、妻が家にいるときは娘を連れて家畜のえさを探しに行くのを口実に、森の中で娘を犯していた。

一家は相談してその父親を警察に訴えることを決めた。届けを受けたマンガライ県警は即座に父親をその自宅で逮捕した。似たような事件は16年2月にレンバタ県ラウォレバ市でも起こっている。その事件は祖父が孫娘とインセスト関係を続けていたもので、娘が妊娠7ヵ月の身重になったことで事件が発覚し、祖父は逮捕されて終身刑の判決を受けた。孫娘は出産して未婚の幼い母になっている。


2016年5月にコンパス紙が報道した、未成年者が被害者もしくは加害者として関わっているレイプ事件(レープ殺人に限定していない)を、特に5月後半の二週間にわたって細かく拾ってみたのが上の内容だ。インドネシアにおける性犯罪の激しさの実態に何らかの感触を持っていただけただろうか?「一日XX件」という観念的抽象的な情報よりも強い実感を。

たまたま、6月1日のコンパス紙が報道した事件が凄まじい内容のものだったので、その事件をもうひとつだけ付け加えておきたい。12歳の少女が三回に渡って合計21人の男に輪姦されたという事件だ。これまでお伝えしてきたさまざまな事件の詳細ストーリーはインターネットから集めた情報で組み立てたものであり、コンパス紙の報道だけではそのような細部までわからないことをお断りしておきたいと思う。

被害者の少女は中部ジャワ州スマラン市プドゥルガン郡プンガロン地区に住むイスラム学校マドラサイブティダイヤ(小学校レベル)6年生。この少女が16年5月7日深夜に7人、5月12日深夜に12人、5月14日深夜に2人、空き家や個人宅などそれぞれ別の場所で男たちに夜明けまで輪姦された。
少女の悲運は16年4月、友人のアニスからウピという名の男を紹介されたことに端を発する。ウピはオオトカゲを商っている男で、自分の販売所を持っている。紹介されてからおよそ二週間、男は少女とSMSのやりとりをして親しくなった。ウピはそのあと二人だけでデートをしてくれたら小遣いをあげると少女を誘って、デートの約束をした。少女は5月7日、ひとりだけでウピの販売所を訪れた。

夕方になったので少女は帰宅しようとしたがウピはそれを止め、ふたりでドライブに行こうと誘ってオートバイに乗せた。そして、あちこちと走り回って時間をつぶしてから、プンガロン地区でこれから建設工事が始まろうとしている水田の中のだだっ広いエリアに建っている小屋に少女を連れて行った。
そこは不動産デベロッパーが住宅地を開発するために水田を買い上げた場所で、工事の準備が進められており、小屋の周辺の水田は既に埋め立てられている。しかしまったく灯りのない闇の中に建っている小屋は、夜中になると近在の若者たちが集まってきて夜明け前まで何をしているのかよくわからない場所になっている。工事準備場所を警備するために置かれている守衛の話では、小屋から数十メートル離れた道路脇に毎夜無人のオートバイが何台も停められており、だいたい何人がその小屋に来ているのか想像できる、とのこと。いくら守衛でも、そんな状況になっている小屋には踏み込まないのがインドネシアの常識だ。

ウピと少女が小屋に近付くと、中からウピの友人がひとり出てきて、少女に飲み物を飲ませた。そして少女はほどなく、忘我の境をさまよいはじめる。小屋の中に連れ込まれた少女は、中にいた数人の男たちの餌食にされた。その夜は夜明けまでに7人の男に輪姦されたのだが、後になって警察に逮捕されたその中のひとりR17歳の供述は次のようなものだった。
友人のNから、「女とやれるから夜中に小屋に来い」という誘いがあったので、Rは金を持って小屋に行った。NはRと同郷の仲間だ。小屋に入ると、素裸の女が横たわっていた。薬を飲んでいるようで、意識はもうろうとなっている。Rはやる気満々でやってきたから、Nに2万ルピアを渡してすぐ女にのしかかって行った。知り合いのI16歳とM15歳もそこにいた。「Iは全部で4回やったみたいだ。Mはオレと同じ2万ルピアを払ったが、Iは4万ルピア払っていた。あの女が子供だなんて、オレはまったく知らなかったし、やっていても分からなかった。オレはてっきりおとなだとばかり思ってた。」

少女が二回目に12人に輪姦された場所は野天だった。建築資材としての砂が大量に置かれているプドゥルガン郡プラモガンサリラヤ地区の砂デポ脇の藪のそばで、ここも夜中は闇に包まれる場所だ。12日の夜には、そこに長い木製ベンチが置かれていたそうで、男たちは意識もうろうとしている少女をそのベンチの上で順番に犯した。
三回目はその砂デポから近いNの自宅の狭い部屋だった。警察の調べによれば、その部屋はマットレスとテレビがあるだけで、それだけでもういっぱいになるような狭さだったそうだ。

その三回のできごとでは、毎回夜明けごろにウピが少女を自宅まで送り届けている。ウピは少女に、そのできごとをだれかに口外したらおまえを殺す、とおどかしていたため、少女は親にも誰にも口を閉ざしていたが、性器の痛みに耐えかねてついに隣人(近所の親しいおとな)に相談した。親に相談しなかったのは、親が怒るのが怖かったためだそうだ。少女は5月16日の小学校修業全国試験初日をなんとかこなしたものの、二日目はとうとう学校へ行くことができなくなり、試験を休んで隣人に相談した。
こうなれば、性器が激しい痛みに襲われるようになった原因を隠し通せるはずもない。親に言わないでくれと少女に懇願された隣人は、思い余って少女の学校にその事件を訴えた。学校からスマラン市警に届けが出されるのは時間の問題で、警察の捜査が始まり、警察は8人を事件容疑者と断定してそのうちの6人を5月31日までに逮捕した。逮捕された6人は15歳・16歳・17歳各ひとり、19歳ふたり、36歳ひとりで、警察が追っているもうふたりとはウピとNのようだ。

この事件はどうやらレイプ事件というよりも、少女をだまして薬を盛り、ラリッているときに女を犯したい男にひとり2万ルピア程度でセックスさせていた、むしろ人売事件というほうが正確なように見える。人売の胴元になったのがNという男であり、Nに商品として少女を提供したのがウピという名の男だったようだ。そのふたりの人物像については、はっきりした姿が結べるほどの情報をインターネットの中に見出せないが、記事の内容や文調から見て、年齢はハイティ―ンもしくは二十代前半ではないかと思われる。
スマラン市警本部長はこの事件について、「これはレイプ事件という届出になっているが、本当にレイプ事件であれば三回も同じことが繰り返されるのはおかしい。物理的暴力や威嚇・脅迫で被害者が無力にされた形跡あるいは証拠がないため、合意の上で行われた可能性が否定しきれない。」とコメントしている。
市警本部長のレイプの定義が旧態然たる傾向を示しているように見えるとしても、それはともかくとして、男に殺すと脅されただけであそこまで男の言いなりになってしまった少女の精神性の中に、われわれはインドネシア的な何かを嗅ぎつけることができそうだ。


コンパス紙記者サイッ・ワヒユディ氏は社会問題化した子供レープ事件について、次のように論説した。
太古から、もっとも野蛮なヒューマニズム犯罪だったものがそれだ。レイプはジェンダーと階層の優位を示すためのみならず、特定人種に対する憎悪と殲滅のための政治ツールにもされた。ジェンダーバイアスに満ちた旧思想では、レイプは親(敵コミュニティと読み換えることもできる)の所有とされている人間の処女性を奪うという、所有権を犯す犯罪と考えられていた。レイプは、多くの文化で上位に置かれている男性がその権力を誇示するための手段のひとつだったのである。

統合的主権者としての人間に対する犯罪としてのレイプは、きわめて複雑な問題である。インドネシア大学心理学部臨床心理学教官は「レイプを単なるセックスの問題、特に性交という面に絞ってしまうと、問題は単純になる。」と述べている。
アイルランガ大学医学部で教鞭を執っているスラバヤのドクトルストモ病院精神科医は、「レイプ者は性欲を満たしたくてそれを行っているのではない。」と言う。レイプ者というのは無力な他人に対してセックスを通して自己の優位を示す欲求を持つ者であり、セックスはそのためのツールでしかないのだそうだ。
レイプ者は普通、強い劣等感と自己のイメージに対する嫌悪感というシンドロームにとらわれている。かれらはレイプを行うことで優れた自分という意識を確保したいのだ。つまりレイプは単に性欲の抑制能力の問題なのでなく、本人の精神に関わる問題でもあるということなのである。

ニューズウィーク誌1990年7月22日号に掲載された「レイピストの心理」と題する記事の中でリチャード・シーリーは、「レイプ問題は股間にあるのでなく、耳の間にあるのだ。」と書いている。
ハワード・バーバリーのリサーチがその説を裏書きしていることを、1991年12月10日付けニューヨークタイムズ.コムの「レイピストの心理〜新スタディマップ」の中でダニエル・ゴールマンが紹介した。レイプが起こる前にレイプ者は通常、怒り・抑うつ・無価値感覚の中にしばらく沈んでいる。そしてかれの怒りに火をつける女が出現したとき、その女に対してレイプが行われる。
レイプの根源がレイプ者にとって優れた自分の実現ということであるなら、フリーセックス・公認売春・結婚しており妻がいるといったことには何の関係もなく、ましてや被害者女性の衣服や振る舞いにも関係がない。
その証拠に、フリーセックスの国・売春を公認している国・女性の衣服や振る舞いを厳格に規制している国でも、レイプ事件は多数発生しているのだ。レイプ者の多くは実際に妻を持ち、また女を買うこともできるにも拘わらず・・・なのである。それは、かれの妻や売春婦よりも自分のほうが劣っているとかれが感じていることが根底にあるためだ。

ちなみに、人口10万人中のレイプ事件を起こした人口比2011年版で主要国の数値を見てみると、ボツワナの88.6というのがまず目に付く。続いて、スエーデン69.2、ニュージーランド30.0、米国26.6、ブラジル21.0、フランス16.5、イスラエル13.8、メキシコ13.0、カザフスタン10.9等々だ。それに比べてインドネシアは0.8という値になっており、日本の0.9と大差ない。

自分が卑小で無力で生きているのが苦しいと感じるような育て方から、文化、子供のころのトラウマに至るまで、レイプ者の劣等感は実にさまざまなものごとで煽られる。生物・心理・社会的諸要素がレイプ者の心理プロファイルをきわめて雑多なものにしている。
母親の姿がかれの心の中に存在しているというのに、レイプ者は被害者女性にひどいことをして顧みない。それは母親に対して間違った観念を抱いでいるからだ。母への、あるいは女性一般への暴力や卑しめをその子は女を扱う正しいやり方だととらえている。
幼いころのトラウマに言及するなら、子供性犯罪被害者は将来の性犯罪実行予備軍になる。ただし、それは自動的メカニズムなのでなく、性犯罪被害後の対応処置と社会的サポート次第になる。

ボストン大学医学部のロバート・プレンツキーは次のように観察している。レイピストの23%は衝動的直情的にレープするオポチュニストであり、あまり逮捕されない。25%は奇妙でロマンチックなファンタジーに動かされてレイプする者たちで、逮捕されるのが普通だ。32%という最多シェアを占めているのは復讐レイプ者であり、被害者の自尊心を貶めてずたずたに傷つけることをするのが普通だ。11%はこの世に怒りを向けているレイプ者で、男も女も憎悪の対象にしている。残りはサドレイプ者で、かれは被害者の悲嘆と苦痛に歓喜する。被害者が嘆き苦しむほど、より強い刺激をかれは感じるのだ。
それら5種のレイプ者心理プロファイルには、ジェンダーバイアス観念を抱いているという共通性がある。男性が女性に君臨し、男性は女性に対して特別の権利を持ち、女性は男性よりも劣っている、ということを信じ、またそれに沿った体験を持っている。
複数の人間による集団レープでは、集団が持つ規範への服従や圧力が影響を及ぼす結果、個々の成員はあたかも自分が担う責任は一部分でしかないように感じて、ひとりひとりが行うレイプは激しさを増す。共同行為ではひとりが全責任を引き受けなくてよいという印象をもたらすために、ひとりひとりの行いは残虐性を高めるということだ。

生物・心理・社会的リスクファクターを持っている人間が誘因に出会うと、レイプが起こる。たとえば、ポルノグラフィ、アルコール飲料、被害者の出現、弱い社会規制などがその誘因だ。ポルノグラフィもアルコール飲料も、レイプの原因なのでなくて誘因にすぎない。酔えば、人間の思考力は低下する。そこに被害者が出現すれば、優れた自己を示したい欲求の衝動に突き動かされやすくなる。被害者女性が美人でなく、あるいはセクシーなボディでなくとも、ヴァギナさえあれば十分なのだ。少年であるなら、アヌスが。
ポルノグラフィも同じだ。それは脳を破壊し、精神を歪める。ポルノグラフィの洪水は女性を卑しめる心理傾向をもたらす。かといって、ポルノグラフィがそのままレイプの原因になるわけでもない。性欲を馴らし、感情をコントロールする能力を高めることで、非暴力思考やポジティブなビヘイビアを強めることができると心理学者は述べている。

レイプの複雑性を見るかぎり、レイプ者への刑罰、特に若年者へのそれ、は懲罰効果を指向するだけでなく、レイプ者へのリハビリをも含んだものにしなければならない。刑罰を与えるのは不可欠だが、再発予防措置も採られる必要がある。
インドネシアでそのリハビリ態勢は、心理学者やクリニシャンあるいは精神医学を理解しているソーシャルワーカーの絶対数不足が足かせになっている。性犯罪被害者へのセラピーですら、十分に手が届いていないありさまなのだから。
去勢処置は、ホルモン障害のために性欲がコントロールできないレイプ者に対する代替措置とすることができる。ただし、倫理上の手続きに十分な配慮がなされてしかるべきであり、またレイプ者本人の同意に基づかなければならない。
レイプ者に対する去勢処置問題は、どこの国でも喧々諤々たる議論の対象になっている。レイプ者がみんなセックス問題を抱えているわけでなく、精神上の問題が犯行の動機になっているものも少なくない。にもかかわらず、刑罰の中にそれが含まれているのは賢明なあり方でない、という議論だ。去勢したところで、性的でない犯罪や暴力事件が繰り返されることへの潜在性は残るのである。


文学者で文化評論家であるインドラ・トランゴノ氏の「引き裂かれたヒューマニズム」と題する論評が16年5月17日付けコンパス紙に掲載された。ユユンさんの四十日忌で子供に対するレープ殺人の話題が全国的に盛り上がった時期に書かれたものだ。
類人猿が獣だった自分と決別し、より高尚な人間という存在に上昇することで興った文明というものの観点から見たレープ殺人あるいはレイプ全般というものへのアプローチは、文明的人間論を再考させずにはおかないだろう。インドラ・トランゴノ氏の論評を見てみようではないか。

ブンクル州レジャンルボン県で14歳の少女ユユンさんをレープ殺人した14人の若者たちの行為を非難するのに、最大の嫌味を伴う罵詈雑言でさえ十分だとは思えない、ヒューマニズムは引き裂かれた。文明は唾を吐きかけられた。法は口ごもり、混乱極まる姿をさらけ出している。
地元の法廷は18歳未満の7人の被告に、入獄10年の判決を言い渡した。被害者遺族や世間がそれに強く抗議したのは当たり前だ。ヒューマニズム擁護者やユユン同情者らはそのゴクツブシたちを終身刑にしろと求めた。ジョコ・ウィドド大統領も共感した。ズルキフリ・ハサン国会議長は、性犯罪が放置できないレベルに達している、と表明した。女性国家コミッションのデータによれば、2010年に起こった女性に対する暴力事件は105,103件だったが、2015年には321,752件に三倍増している。(5月7日付けテンポ紙)

< 共同体価値の衰亡 >
性犯罪を含めてあらゆる犯罪行為は、真空の中から湧いて出るものではない。企図が方向付けを行い、状況が行為の実現を可能にする。企図は、在来メディアやソーシャルメディアを含む種々のメディアが提供しているバーチャルリアリティーに由来することもありうる。
犯罪は常に実現方法を持っているのだ。政府がポルノグラフィ閉鎖を行ったといくら言っても、インターネットでいつでもアクセスできるのが現実だ。飢えた若者の目と心がたくさんのポルノイメージに食らいつき、それが深層意識に沈殿して行為を誘発する。

性犯罪の発生を可能にする状況と条件は、家庭レベルであれ社会レベルであれ、共同体の価値観が衰亡したことに関係している。地縁や近所交際といった社会的連帯は個人主義とリベラリズムの強まりによって分裂し崩壊した。成員も疎外コロニーの中に埋没して、統合された自己の一部たるべき他の社会エンティティがよそ者化するのを放置する。疎外コロニーの中にあっても、ガジェットの中に用意されているソーシャルメディアを通して、ひとは友を、更には師を得ることができるのだから。
オーディオビジュアルエピソードというのは、本当は文化的飛躍なのだ。読み書き文化(価値観・アイデア・コンセプトの領域)の未成熟だった社会が突然オーディオビジュアル文化への飛躍を余儀なくされる。一方、その社会で優勢な文化はいまだに口承文化のままなのである。ガジェットもソーシャルメディアも口承文化の延長線上に置かれるだけなのだ。

ガジェット/ソーシャルメディア文化の中でひとは、ナルシズムあるいはスノビズム的意味合いにおける自己開示を行う。メディア活用の楽しみは個人の疎外をますます強固なものにしていく。共同生活・相互親愛・連帯・他者の容認と受入れといった要素に満ちた共同体世界は最終的に霧消してしまう。そこにある原理とは、「われは自由なり。ゆえにわれ在り」なのである。
であるがゆえに、よそ者というのは、それが自分に物質的非物質的利益をもたらさないかぎり、無意味な存在であると理解される。利益の関わりが伴われない場合、よそ者を象徴的あるいは物理的暴力を使った搾取対象にしても悪いことではないのだ。失業が大口を開き、貧困が歯をむき出して笑っている今、生計を立てることの困難が増加するほど、その状況は激しさを増す。

< 国政役者たち >
ヒューマニズムの価値観は、資本と国家の名のもとに政治経済パワーが打ちのめし、破壊したが、そればかりではない。リアリティ領域においてもヒューマニズムの価値観は、個人や所属集団の利益を優先する仮面の略奪者が腐った企図を実行するための誘因を与えている。かれら略奪者は犯罪享楽者に分類することができる。つまり犯罪手法を用いて快楽を追求する者たちなのだ。セックスの快楽はかれらが追求するターゲットのひとつでしかない。
ヒューマニズムの価値観は、ただ国家イデオロギーや文化規範といったシンボルの中に固定されているかぎり、何の意味も持たない。ヒューマニズムの価値観は遂行力を持つ思考システムと行動システムの中に細分化されて溶融されなければならない。そうすることによって生活リアリティとして実体化されうるのである。善(倫理)、真(論理)、美(審美)は、強力で機能的な国家権力と社会機構(教育機関・政党・報道・NGO・宗教機関)の基盤を必要とする共同生活の柱をなすものである。

経済・政治・社会・文化に対して資本パワーが駆り立てているリベラリズムが、この国に存在していた倫理・モラル・規範・法に失速を起こさせている現状に大きな役割を果たしていることを、好むと好まざるとに関わらず認めないわけにはいかない。モラルの頽廃がその結末だ。災難は、国民の集合的オリエンテーションとなるべき価値観のリーダー機能を果たす義務を遂行する力を国が持っていないということなのだ。国政の舞台で役者たちは権力争奪のための独り芝居を打っているにすぎない。
?支配者でないリーダーはほとんど出現せず、国民の希望を育てる政治権力からの企画も出てこない。理想の価値観はシンボリズムの中に凍結されて見せかけの儀式の中にのみ発現する。その外側では、ヒューマニズムと文明がシステマチックに破壊されていくのを、手をこまねいて見ているだけ。集合的オリエンテーションは姿を消し、国民は闇の中で生きている。国政役者たちの「偽善の祭り」の中では、ありとあらゆる暴力が渦巻いている。


以上のようなインドラ・トランゴノ氏の論評は、性犯罪増加がモラル崩壊、より広くとらえるなら文明崩壊、に起因していることを指摘している。イスラム文明を色濃くにじませた伝統型アジア文明の一パターンであるムラユ=ヌサンタラ文明が育んできた諸価値観に支えられたコミュニティ生活の規範が、ひとびとの暮らしから見失われつつあるのは事実だろう。その事態を招いているのが、世界のメインストリームをなしている西欧文明とその産物である資本主義・リベラリズム・情報技術・グローバリズムといった新しい文化であり、在来文明が新来の文明に激しい勢いで浸食されていることで、ひとびとは握るべき手綱に迷いを起こし、身体の支えを失って時代の奔馬から振り落とされようとしている。
その在来文明と新来の文明間の衝突は、在来文明で育ったひとびとの価値観や精神構造に影響を及ぼさないはずがなく、その影響を受けて在来文明型人間から新来の文明を取り込んだ融合型人間への変革が成就するときまで、社会秩序は紛糾の態を示し続けるにちがいない。

つまり、インドネシアの子供性犯罪の激化は、法律代用政令で罰則を強化したところで鎮静しないのではないか、ということなのだ。文明崩壊によってありとあらゆる暴力が渦巻いている今、ひとびとは文明に背を向けて野蛮への回帰を行っているのであって、そこに信頼できる文明が打ち立てられなければこの民族は野蛮さを深めていくばかりとなるにちがいない。

共産主義というイデオロギーが衰退して共産主義基盤の文明を持つ諸国諸民族がそこから脱皮し、優位に立った西欧文明を随所に取り込んだ新たな文明を興して旧来の秩序を塗り替えた。その文明の衝突が終わったあと、今度はイスラム文明との衝突に西欧文明は直面している。イスラム過激派テロやダエシュ(ISIS)問題にしろ、インドネシアで起こっている野蛮への回帰にしろ、それらが文明の衝突と無関係に起こっているのでないことは明白だろうと思われる。この文明の衝突も、結末は共産主義文明が歩んだ道に向かうことになる可能性が高い。
最終的にイスラムは西欧文明を取り込んだものに変容し、一方で西欧文明もその衝突から学んだ経験を生かすべく、部分的ではあれ、変質が起こるのではないだろうか?


サイッ・ワヒユディ氏の論説について言うなら、そこで述べられているいくつかの理論は、アメリカというジェンダー対等コンセプトがかなり深く日常生活の中で実践されている社会で得られたものであり、男尊女卑社会にそのまま当てはめるには無理があるのではないかという気がわたしにはする。
ジェンダー対等が進んだ社会であればこそ、それを否定する男たちが男性上位の実現ツールとしてレイプを使うというロジックが成り立つように思われる。男尊女卑社会は、一般論として、日常生活の中で男性上位が実現されているのだから、それを否定する男たちというのはフェミニストになるだけだ。そこで考えられる男尊女卑社会のレイプロジックは、やはり股間に原因を求めざるをえないような気がするのである。

男に性的欲求が生じ、欲求を満たすための道具として女の肉体(多分ヴァギナへの一点集中になるのだろう)への希求が高まる。男尊女卑社会で女は男に奉仕するために存在する劣等者であり、男の求めを拒否することは社会規範に反するというのが常識とされている。肉体(あるいはヴァギナ)の所有者は男と同じ人間のカテゴリーに入っていない。女性であるその所有者の人格は尊重されるべき対象にならないのだ。だからこそ、ヒューマニズム理念が命じている女性の人格への尊重は考慮の外に置かれて、その肉体だけがモノ化されることになる。それが男尊女卑社会で起こるレープのメカニズムなのではあるまいか?

インドネシア人青年男子はマスターベーションの必要性をほとんど持たないという話がある。売春が盛んであるということと並んで、男尊女卑社会における女性のあり方が重要な要素をなしていると言えるだろう。
更には、セックス相手が売春婦であろうが堅気の娘であろうが、性交で男はコンドームを装着することを嫌がり、しかも中出しをするのが普通だそうだ。その結果、未婚の妊婦が多数発生し、闇堕胎医の門を叩く女性が非合法ビジネスを繁茂させている。かてて加えて、?妊娠は女の側の問題であり、男とは無関係なものだという社会通念のおかげで、闇堕胎医の門を叩くのはたいていが若い妊婦とそれに付き添う女友達や姉妹といった風景になっていて、女を孕ませた男は「のほほん」を決め込んでいる。

セックスが男女ふたりの共同行為でなく、男が性欲を充足させるためのエゴセントリックな行為にされており、女は単に自分の肉体を提供して男に奉仕するだけの存在にされている。だから女が被害者になる家庭内暴力事件は世の中でありふれた姿になっており、家庭の寝室内で夫が妻をレイプする事件もその一部をなしている。夫からのセックス要求を拒んだ妻が夫に殺された事件さえ起こっているのだ。女に人格はないのだという男たちの観念とそれらの現象がどのような関連性の中にあるのかは一目瞭然ではあるまいか?

ところがインドネシアに培われた文化の中に、西欧文明がひたひたと浸透してきているのは、インドラ・トランゴノ氏の説明をうかがうまでもないことだ。インドネシアに女性大統領が誕生し、女性大臣が多数起用され、女性市長や県令が年々層を厚くし、国会議員から会社社長まで、女性の社会進出は華々しい様子を見せている。それを取り上げてインドネシアのジェンダー対等はこんなに進んでいるのだと自賛している事実が西欧文明の浸透の力強さを物語る例証だと言えるにちがいない。

西欧文明に対して開かれて行こうとするこの民族の指導層がジェンダー対等のオリエンテーションを国民の間に持ち込み、これまで劣等者の檻に入れられていた女性たちの解放に向かう動きが進展する中で、昔から浸っていたコンフォートゾーンを維持したい男たちが、アンビヴァレンツに陥って行く。そうして男たちの反抗がレイプという形をとったとき、ジェンダー対等が進んだ社会で発生するレイプと類似の構造がインドネシアにも顔を出すようになるのではないだろうか?昨今、増加しているレイプ事件の裏側には、股間の問題と耳の間の問題というふたつの?要因が混在し、それがレイプ事件発生数値を押し上げているということなのかもしれない。


先述した2016年5月のレイプ事件の種々の例を見るなら、そこに出現しているのは明らかに男尊女卑社会型レープであるようにわたしには感じられる。もちろん未成年被害者にしぼって取り上げたから、そんな印象が生じるのは当然なのかもしれない。
本来的弱者に対する性暴力が、レイプ者が抱く劣等感の救済になるのかどうかということだ。父親が娘を犯し、知り合って間もない青年に「殺すぞ」と言われただけでおびえあがる少女を青年が易々と犯す。それが他人を支配する優れた自分のイメージに重なり合うような精神構造をしている人間は、果たして多いのか少ないのか?

インドネシアの国民知識層は、未成年者に対する性暴力が依然として在来型パターンが主流になっていると見ている。だからその対策として、ジェンダー対等コンセプトを世の中に強めようとする動きが今叫ばれはじめている。
世の中の一般的な観念は、性暴力被害者がセクハラ発生の誘因をなしたのだという論調で被害者に責を求める傾向が強い。言い換えれば、レイプされたのは女の側が悪いとする、あの論調だ。その状況を正すのは、すべての家庭がセックスに関わる正しい教育を子供に与えるようにして行くことだ。従来から、インドネシアでの子供の教育は男の子に優先権を与え、女の子には服従を躾けるのが一般的だった。だからコミュニティにおける社会通念が男は女より重要な存在なのだという理解を作り上げてきた。その結果、社会的に女は勘定に入らないのだという観念が定着し、女の言うことや考えることをまともに取り合わなくても構わないのだと考える人間が生れる。女性の人格を尊重するのは男らしさに背を向けることであるようにかれは感じる。

インドネシアでは、住居の修繕や改装などのために職人に仕事をさせるとき、その家の男性主人が言うことはつまらない内容でも職人たちは耳を傾けて従うのに、その家の女性が同じことを言っても聞く耳を持たず、ましてや叱るような言い方をすると職人は反抗的な態度を示し、場合によっては逆恨みが生じる。ジェンダー対等文化で普通に行っている振る舞いを女性が男尊女卑社会の男性に対して同じように示すと、時に生命にかかわる事態に発展する可能性があるため、この文化の違いには留意しておく必要があるだろう。


インドネシア大学ジェンダーセックス研究センター長は語る。「性暴力事件では、被害者と近い関係にあることが相手に対する所有権(つまりは支配権)を持っているという意識を加害者に引き出させる。たとえば、夫は妻を虐待する権利があると思い、父親は娘の身体に対する権利を持っていると考える。教師は生徒の扱いに権利がある等々・・・」
センター長の説は、反女性に対する暴力国家コミッションの2013年報告に沿うものだ。その報告では、性暴力実行者の7割が、親・兄弟・教師・恋人・友人など被害者の身近な人間であると記されている。

女性はナンバーツーだという観念は、学校や生活環境内で女性が虐待されている場に居合わせたひとびとの間で、その被害者を擁護したり味方になろうとする人間が現れないことが裏書きしている。学校で男子生徒が泣いていると、先生が「泣くな。女みたいだぞ。」と励ます。セックスアピールを示す女性の姿を掲載しているメディアを子供が見ることに、社会は何の規制も与えない。


性犯罪事件の被害者や時には加害者にカウンセリングを施している臨床心理学者は、「子供や学校生徒にジェンダーやセックスに関する教育を与えても、あまり効果はない。セックス問題に関する教育を最初に与えなければならない対象者は親と教員たちだ。」と述べている。
かれはこれまでの経験から、思春期に関わることを親に相談するのは気が重いと言う子供たちがたいへん多いことを指摘した。中には、その問題について母親との会話はまったくスムースだが、父親とは一言も相談できないという子もいる。その状況が示しているのは、家庭内でディスカッションが行われるのはきわめて稀で、家庭内でのコミュニケーションは子供が親の指示をうけたまわるという上意下達の一方通行が原則になっていることだろう。家父長制文化は父親を独裁者に作り上げる。

子供たちは家でも学校でも、性教育をほとんど与えられない。義務教育の中で子供に性教育をほどこすことで、現在インドネシアが陥っている性犯罪からフリーセックスや妊娠・不法堕胎といったさまざまな問題は大幅に軽減されるはずだという信念を抱いているひとびとから性教育の義務教育化を主張する声が上がっているにもかかわらず、子供に性教育を与えればフリーセックスがますます蔓延するという思念に取りつかれた父兄からの強い反対で、この問題は暗礁に乗り上げたままになっている。
しかし日一日と成長していく子供たちは性教育真空状態の中で、旺盛な知識欲を満たすすべを探し回る。昔は友人や先輩からの情報やポルノがかった書物が情報ソースのメインを占めたが、今ではインターネットがはるかに強力な師になっている。そして、まともで節度ある正しい知識を与えてくれる教育的な情報が、ネット上ではむしろマイノリティであるという現実は、たいていのひとが知っている通りだ。

頭の中に大量の間違った知識を詰めこんだ子供たちがどのようなセックス行動を行うようになるのかは、インドネシアの草の根国民の姿を追ってみればよくわかる。そしてそんな現実から、教師や父兄など子供の周囲にいる人間は間違った結論を引き出していく。
インドネシアで激化している子供あるいは未成年のセックス行為を社会は互いに好きあっていることで起こっているのだと見なし、実際は性暴力であったとしても、被害者が訴え出ないかぎりレイプであるという見方をとらない。
児童保護法による未成年者のセックスやわいせつ行為禁止に社会が鷹揚に構えているのは、その一方で思春期男女の早婚が依然として続けられているためだろう。そうなれば、未成年者の性行為は未成年だからという要素が抜け落ちてしまい、問題は婚姻という社会的な形式問題へと収束していくだけになる。
それが証拠に、未成年男女のフリーセックス⇒妊娠⇒妊婦と孕ませた男を強制的に結婚させて責任を取らせる、という対応を多くの家庭が選択し、元々は貧困農村部で口減らしを主目的にしていた早婚が今やもっと太い流れに変化してきている状況が、インドネシアの人口急増の背景をなしているのだ。


2016年5月25日、ジョコ・ウィドド大統領は2002年法律第23号児童保護法を改定する2016年法律代用政令第1号にサインした。2002年法律第23号は2014年法律第35号で一度改定されているので、この法律代用政令は二度目の改定になる。「児童保護に関する2002年法律第23号への二度目の改定に関する」と題された2016年法律代用政令第1号は、超悪犯罪のカテゴリーに区分されることになった未成年者に対する性犯罪の罰則規定を、激化した世論に従ってより重いものにするためのものだ。

2002年の児童保護法は、虚偽や欺瞞や言いくるめ・慰撫・説得あるいは暴力や威嚇などを用いて子供に性交や性戯あるいはわいせつ行為を強制した者に対する罰則を、最長15年最低3年の入獄と最高3億ルピア最低6千万ルピアの罰金と定めていたが、2014年法律第35号では入獄最長15年最低5年と罰金50億ルピアと改められた。今回出された法律代用政令第1号では、基本刑罰はそのまま維持され、さらに加重刑罰が定められた。加重罰の内容は次のようなものだ。
1.加害者が親・親族関係にある者・保護者・養育者・教育者や教職者・児童保護職務者・複数の人間による犯行や共同行為の場合は、基本刑罰に三分の一が加算される。
2.類似の犯行を繰り返した者も、基本刑罰の三分の一が加算される。
3.被害者がひとりだけでない場合や被害者が重態、精神障害、伝染病、生殖機能の障害あるいは喪失、および/あるいは死亡した場合、刑罰は死刑・終身刑・最長20年最低10年の入獄
4.加重罰対象者はアイデンティティが公表される。
5.上記2.の再犯者と3.対象者には去勢処置とマイクロチップの体内埋め込みを含めることができる。
6.未成年の加害者には加重刑罰が適用されない。

性犯罪者に去勢処置を罰則として与えるというアイデアが公表されて以来、世論は基本的人権問題をそこにからめる反対論と、レープ犯罪者は死刑が適切なのであり、去勢などは最低限のものでしかない、という賛成論がマスメディアを賑わした。
法務人権大臣はその問題に関して、去勢処置は法廷で決められるものであり、また再犯者・集団レープ者・ペドフィリアに対して検討されるものだ、と説明している。
しかしこの政令に対して諸方面からは反動的、感情的、的外れ、といった批判が投げかけられており、この政令には「去勢法」というニックネームまでつけられている。法規条文の中では、去勢処置はリハビリが伴われると記載されているものの、人材を含めたリハビリ態勢が本当に構築できるのかという疑問の声も強い。なにしろ、レイプ被害者のカウンセリング態勢すら行き届いておらず、心理学者やクリニシャンあるいはソーシャルワーカーの絶対数がいまだに確保されていない状況で犯罪者のリハビリにまで手が回るのかというのが、現場に近いひとびとの疑問であるようだ。


コンパス紙R&Dが2016年6月15〜17日にジャカルタ・バンドン・スマラン・ヨグヤカルタ・スラバヤ・メダン・パレンバン・パダン・バタム・デンパサル・バンジャルマシン・ポンティアナッ・マカッサル・マナドの国内14都市で、17歳以上の住民596人に電話帳からランダム抽出して電話インタビューを行った調査結果が公表されている。今回のテーマは2016年法律代用政令第1号で政府が未成年者に対する性犯罪の刑罰を重くしたことに関する世論を問うものだ。
特に、これまで賛否両論が激しかった薬物による去勢処置に関しては、インドネシア医師同盟が性犯罪者に対する去勢処置のための薬物注射実施を拒否する声明を出したことから、世評の中にはその刑罰が実行不可能になったという見解が出現している。医師の使命に関する職業宣誓と倫理規定の内容にその行為は反しているというのが同盟の拒否理由。最高検察庁長官はそれに対して、政令内容の協議に参加したのは医師の団体でなく保健省であり、その実施のためのテクニカルな問題に責任を持つのは保健省なのであって、医師の信条とは別問題である、というコメントを出している。

医師同盟のその態度に対して、賛成するか、反対するか、という質問の回答は、反対者のほうが僅差で多かった。賛成44.6%、反対46.1%だ。
そもそも、去勢処置という刑罰を設けること自体についての国民の姿勢はどうなのかと言えば、賛成が圧倒的に多いのである。賛成61.1%、反対30.7%であり、女性だけに限定すれば、賛成は67.3%に上昇する。

質問1.性暴力犯罪の増加は何が原因だと思いますか?
回答1.
親や社会からのケアが不足している 34.7%
犯人への刑罰が軽すぎて、懲罰効果がない 19.8%
性教育がたいへん不足している 18.8%
その他23.7%

質問2.性暴力犯罪者やセックス搾取者に対して、国がもっと明瞭厳格に存在を示すべきだと思いますか?(この質問は、これまで国はいるかいないか判らないような存在だったと思うか、という言葉を言い換えた質問のよう。)
回答2.思う 91.9%、思わない 11.2%

質問3.2016年法律代用政令第1号で定められた加重刑罰に賛成しますか?
回答3.
*最長20年の入獄刑・終身刑・死刑 賛成85.6%、反対11.2%
*アイデンティティ公開 賛成84.2%、反対13.6%
*薬物による去勢処置とリハビリ 賛成61.1%、反対30.7%
*マイクロチップの体内埋め込み 賛成60.7%、反対31.0%
質問4.今回定められた加重刑罰は被害者に?公平感を与えると思いますか?
回答4.思う53.9%、思わない40.4%


2015年4月から16年5月までの13カ月で、児童保護国家コミッションが記録した集団レイプ事件は40件あった。そのうちの15%は被害者が12歳以下であり、被害者が12〜17歳の事件は29%あった。一方、未成年者が加害者に加わっているものは9割にのぼり、14歳以下の子供が混じったケースは16%、63%はそれ以上の年齢の少年と青年が犯したものだった。
しかしインドネシアの社会状況を見るかぎり、公的機関の記録に載らない事件は氷山の水面下にたとえられると考えられている。児童保護国家コミッションのコミッショナーのひとりは、集団レイプ事件の増加は個人と社会の双方で制御のたがが見失われているのが最大の原因だろうと思われる、とコメントした。
その結果、レイプ者たちは罪悪感にとらわれることなく、犯行に突き進んでいる。南アフリカの例では、少年たちはそれぞれが個人主義を信奉し、その上でグループを組むことに誇りを抱いている。インドネシアも類似の状況になっていることが、集団レイプ事件の6割以上が少年たちによって起こっていることからもうかがい知れる、とのこと。

親から子供への倫理道徳社会規範に関するしつけが希薄になっていることが、少年たちのレイプ事件増加を招いている。親は時代の動きに合わせて行動しなければならないが、子供への監督を忘れてしまってはだめだ。たとえば、子供にガジェットを買い与えるのであれば、子供がガジェットをどのように使っているのかを知っていなければならない。児童保護国家コミッション役員はそう語る。


性犯罪事件に関するかぎり、インドネシアの法律も社会規範も被害者に対する公平感に欠けている。レイプ者が未成年であれば、最高刑は10年間の入獄でしかない。被害者や被害者の親族にそんなものが公平感を与えるには無理がある。その状況はインドネシアがさまざまな国際条約に縛られていることがもたらしている。子供にはもちろん、より良くなるための機会が与えられなければならない。だから刑罰で公平感を求めようとするのでなく、国がそれ以外の面で被害者が公平感を感じるような仕組みを作って行かなければならない。
児童保護国家コミッションは増加しているレイプ事件から子供を護るために、地域社会での監視と保護のシステム作りを提唱している。地域住民が役割を担うこと、地域内での意識を高めること、事件が起こりそうな状況にどう対処するのか。そのために地域社会で核になっているひとびとにその運動の一翼を担ってもらわなければならない。子供は親の私物だとする傾向の強い家族主義に、子供は社会の公物だと見なす非家族主義の思想を注入していくこの努力が、インドネシアにより開かれた社会の実現を促す契機になる可能性は残されている。


最後に、レープ殺人ではないが、三人の男が19歳の女性を協議一致して殺害し、冥土のみやげとばかり輪姦した上、近年稀に見る残虐な方法でその生命を奪った事件が、2016年5月13日にバンテン州タングラン県コサンビ郡ダダップ町ジャティムリヤにあるプラスチック成型工場従業員寮で発生した。
この事件は、きわめて残虐且つ猟奇的な殺害方法であったこと、そして殺害者のひとりが中学三年生(15歳)の少年だったこと、さらには警察の鑑識資料が外部に漏えいしてインターネット上で自由に公開されたことなどのために、世間に大きな話題をまいたものとなった。
残虐且つ猟奇的な事件を示す鑑識資料が一人歩きし、日本語ネットサイトの中にもその写真を取り上げたものが出現したため、この事件についての予備知識を持っている読者もいらっしゃるにちがいない。

被害者のエノ・ファリハさん19歳は、バンテン州セラン県プガンディカン村の農家で七人の子供の末っ子として生まれた。写真を見る限り、幼く愛くるしい雰囲気を漂わせた色白の娘だ。報道記事の中にはエノでなくエンノ、そしてファリハでなくパリハと表記しているものもあり、その組み合わせでいくつかの名前が出現しているが、すべて同一人物。これはインドネシア文化が、依然として口承文化が優勢でなかなか文字文化に移行しえないでいることに関係しているためと思われる。個人の名前が公式登録されたものを唯一絶対とする意識は低く、それを確認しないまま耳に聞こえた音をとりあえず文字化するという慣習が、メディア界をすら支配しているからだ。

家族の話では、エノさんはおとなしい性格で、あまり自分のことを親兄弟にも話さず、毎月一度、実家に帰ってくれば自宅の周囲で幼いころからの友達と遊ぶくらいであり、パチャルがいるというような浮いた話もなく、たいへん純朴な毎日を送っているとみんな思っていたそうだ。
エノさんは高校を終えると実家を出て、タングランに職を求めた。タングランでの独身暮らしは一年を超え、最期の職場となったプラスチック成型工場では正規採用工員として会社の女子寮に住み、4か月間働いていた。


5月13日朝8時40分ごろ、女子寮のルームメイト三人が、夜間シフト勤務を終えて帰って来た。そしてロックされていない部屋の扉を開けたとき、三人の口から悲鳴が長い尾をひいた。そこには、血にまみれた惨劇のあとが残されていたからだ。ふたりはすぐに会社の総務に電話で報告し、会社からタングラン警察トゥルッナガ署に連絡が飛んだ。
現場に駆けつけてきた刑事たちも一様に顔をしかめた。殺し方があまりにも残虐で、酸鼻をきわめていたからだ。インドネシア広しといえども、そして警察という職業柄からしても、このような殺し方を見聞した記憶はかれらになかった。これはまるで、中世の拷問殺戮ではないか。


インターネット上を飛び交っている写真がある。まだ若い全裸の女性がすんなりと伸びた両脚をVの字に開き、股間には鍬の幅広い刃が屹立していて性器を覆い隠している。ところが鍬の柄は写真のどこにも見当たらない。それは鍬の柄がヴァギナからかの女の体内に差し込まれているからだ。全長65センチほどの鍬の柄が、鍬の刃を取り付ける部分を残してほぼ全部、体内に差し込まれているのである。文字通りの串刺しだ。
女性に対するこのような仕置きは中世の拷問の中に頻繁に登場していたが、過去百年くらいの間では、野蛮な種族の戦争や闘争で敵種族を根絶やしにするために敵の女を皆殺しにする行動の中に、戦闘者たちがレープした女のヴァギナに槍や銃弾を突っ込んだ例は散見されるものの、文明化したとされている社会で起こった例は寡聞のように思われる。いやそれは、わたしが知らないだけなのかもしれないが。

少なくとも、文明化したとされている社会の通念が人間の野蛮性を維持させ、社会構成員の開化レベルを高めないまま運営されているのであれば、その社会が本当に文明化しているとは言い難いにちがいない。真の文明化が現代最先端の都市づくりや電子機器類の普及と取扱いで計られるものでないのは言うまでもあるまい。そういう物差しでしか文明というものを測定できない者こそ、文明というものの本質が理解できない人間ということだろう。

あのような折檻が死体に加えられたのなら、また印象は異なって来るにちがいないが、生きている女性を押さえつけ、ヴァギナから鍬の柄を体内に差し込んで行った人間の嗜虐性はわれわれの理解を絶するものがある。そのようにして殺害されたエノさんの写真に現れた苦悶の表情とあがきから、痛ましさがわれわれの心を突き刺してくる。

漏えいした鑑識資料の中に、かの女の体内に鍬の柄が差し込まれた状態のX線写真がある。胸郭の肺のある場所に、鍬の柄の握りの部分がはっきりと写し出された写真だ。鍬の柄は膣から子宮を突き破り、肝臓を破壊し、胸郭右寄りを突き抜けて右肺を下から上まで破壊した。体内の骨折も数か所で見られたようだ。胸郭部の出血2百cc、腹腔部の出血3百ccと検死報告書は記している。
それ以外にも、かの女の肉体に加えられた虐行の全貌は次のように検死報告書に盛られている。右頬に穴と擦過傷、右顎骨折、上下唇に打撲、首に骨折と擦過傷、性器に穴、両腿に擦過傷、両乳房の全縁に激しい咬み傷。
エノさんを輪姦し、残虐な暴行を加えて殺害した三人の男を、警察は三日を経ずに逮捕した。事件の全貌はこうだ。


タングラン警察は5月12日夜にエノ・ファリハさんを会社の女子寮に訪れた男を割り出して、取調べを行った。その男アリムはまだ中学三年生(15歳)の少年だ。アリムは警察の取調べに対し、最初は自分の単独犯行だと言い張った。しかし現場に残された殺害の手口が少年ひとりでできるものでないのは明白だ。取調官は立て続けにさまざまな質問を浴びせて少年の供述の矛盾を露呈させ、より事実に近いと思われる自供を引き出した。あの殺人にはふたりの大人が関与していたのだ。警察はもうふたりの大人、エノさんと同じ会社の男子寮に住むアリフ24歳と会社とは無関係のイルハム24歳を探し出して15日未明に逮捕した。
アリフはエノさんの携帯電話器を持っていたことが犯行の証拠とされ、またイルハムはエノさんの血痕のついた衣服が犯行を証明しているとされた。
アリムが単独犯行を言い張ったのは、エノさん殺害をリードしたアリフを恐れたためのようだ。ところが最終的にアリフとイルハムの関与を証言してからは、レイプには加わったが、殺害には加わっていない、と一転して主張するように変わった。

事件の推移は、5月12日から始まる。その日、中学修業全国試験を終えたアリムは解放感に満たされて性欲が大いに高まっていた。少年は中学二年生のときから、既に女性とのセックスを知っていたのだ。およそひと月ほど前にエノさんと知り合った少年はかの女の携帯電話番号を聞き出し、頻繁にSMSを交わすようになった。エノさんの反応から少年は心情的に、ふたりはパチャル関係になったと考えていたようだが、エノさんが恋愛感情を抱いたかどうかはわからない。それまで二人の間にまだ肉体関係はなく、今夜こそはエノの肉体をわがものにしたいと少年は気をはやらせた。
少年はエノにSMSを送り、今夜ふたりで会おう、と誘った。
「どこで会うの?」
「寮のキミの部屋で。」
「そんなことしたら、寮の他のひとに知れ渡るじゃないの。」
「そんなことは後で考えるさ。今はキミに会いたくて仕方ないんだ。」
「じゃあ、23時半に来て。表門の鍵をあけておくわ。わたしの部屋の鍵も。」
「オッケー、じゃあ23時半に。」
ふたりはそんなSMSを交わした。そのやりとりはふたりの携帯電話に残っている。

両親と弟の四人で住んでいる少年の家も、タングラン県コサンビ郡ダダップ町ジャティムリヤにある。エノさんの住んでいる寮からほど近い。少年の家は狭い路地を入った奥にあり、両親はその家の表に売り場を設けて野菜を商うと共に、持っている別の家屋を借家人に貸して生計を立てていた。決して裕福と言えるような家庭ではないが、近隣からはしっかりした堅気の一家で、家族の関係もよく調和のとれた、礼儀正しい一家だという評判だった。少年も弟も、学校から帰るとあまり街中へうろつきに行くようなことはせず、父親は20時に表門に錠をおろすのを習慣にしていたそうだ。女友達を家に連れて来たこともなく、両親をはじめ隣人たちも、警察が殺人とレイプの容疑でかれを迎えに来たとき、大きな驚愕に打ちのめされた。

エノさん殺害事件のニュースが少年の家のテレビで流れたときも、母親はその犯人を呪う言葉を発したが、少年は平然としてテレビを見ていた。そして警察が少年を迎えに来たとき、母親は卒倒して病院に運び込まれた、それ以来飲食を断って、今度はわが身を呪う立場に変わってしまったそうだ。

警察の調べによれば、少年は学校の成績が常にトップスリーからトップテンの間にいる頭脳の優秀な生徒だが、頻繁に学校をさぼる不良で、狡猾さでも群を抜いていたようだ、とその実像を明らかにしている。小学校を終えるとかれはイスラム塾のプサントレンに入れられたが、サントリ生活を一年あまり続けてからその暮らしに嫌気がさしたらしく、家に戻って中学校へ通うようになった。


5月12日の夜、少年はプレイステーションレンタル屋で遊んで時間をつぶし、23時半が近づくのを待った。約束の時間になったとき、少年は13室に22人従業員が住んでいる女子寮の前に立っていた。エノの姿はないが、表門は錠前が外れている。少年は密かに寮建物の中に忍び込んだ。
エノは部屋の中で少年が来るのを待っていた。半ズボンに肉体のラインが浮き出るシャツを着ているエノに、少年は興奮した。若い女が自室内ではそのような姿をしているのを、きっとまだ見たことがなかったにちがいない。ふたりはよもやま話をしつつ、身体を寄せ合い、口づけをし、少年の手はエノの身体をまさぐった。そしてセックスしようと少年がエノに挑んだとき、エノは全く期待外れの態度を少年に示したのだ。
「駄目よ。絶対に駄目よ。妊娠しちゃうじゃないの。わたし、母さんが選んだひとと近いうちに結婚することになったのよ。」
燃え上がっていた欲情に冷水をかけられた少年は、エノを罵りながら部屋を出た。そして密かに女子寮から外の道路に出ると、表門の脇でタバコを吸った。すると男子寮から出て来た男が近寄ってきて、少年に何をしているのかと尋ねた。時間は13日の0時半ごろだ。

この女子寮と男子寮は一続きの建物だが、中が完全に仕切られており、入り口もそれぞれが離されていて、風紀が乱れないように配慮されている。とはいえ、それも人間次第だろう。
その男がアリフ24歳だった。少年は自分のパチャルが女子寮に住んでいて、自分は逢瀬に来たのだと正直にアリフに話した。そして喧嘩別れしてきたばかりだということも。当然アリフは、そのパチャルが誰なのかを少年に尋ねる。少年はインダという名前をアリフに告げた。しかし少年が語るインダという娘の特徴と、アリフの知っている女子寮住人のインダの人間像が一致しない。
初対面のふたりが15分くらい話し合っていると、オートバイに乗ったイルハムがそこにやってきた。ふたりとイルハムも初対面だ。イルハムも加わって、三人でその女子寮に住んでいるかれらの憧れの娘の話に花が咲いた。

アリフもエノに気があった。同じ工場で働いており、住んでいる寮も隣り合っている。工場での部署は違っていたが、互いに顔を合わせる機会はたくさんあった。しかしエノはオペレータになっているが、アリフはヘルパーでしかなく、工場内での地位はおのずと差がついている。それが原因なのかどうかはわからないが、アリフがエノにモーションをかけても、エノはそれを拒否して反対にアリフを侮蔑し、折に触れてアリフに耳の痛い言葉を吐いた。アリフの心中には惚れた女のすげない態度に対する憎しみが堆積していた。

アリフと少年の心の中にエノへの憎しみが宿っていることなど知らないイルハムは、自分がエノに心を寄せている話をふたりにした。だが、イルハムもエノにふられていたのだ。これまで一生懸命にエノをちやほやしてきたのに、あの女は自分にハナも引っ掛けない。

少年がインダと呼んでいるパチャルがエノのことだろうと勘付いたアリフは、他のふたりを焚きつけた。「なあ、あんな生意気な女は殺してしまおうぜ。俺たちはみんなあの女の手玉に取られてるんだぞ。お前たちは男だろうが。女に弄ばれて、男の顔が立つものか。」
少年とイルハムの心が揺れた。アリフはイルハムに、「殺すための武器を何か持ってこい」と命じた。イルハムは一旦帰宅し、テーブル上でサラダなどを混ぜ合わせるのに使うサービングフォークを家から持って来た。
こうして三人は女子寮の中に忍び込んだ。少年はインダの部屋にふたりを導く。仰向けで深い眠りに落ちているエノを見て、アリフとイルハムはうなずいた。「そいつが俺たちを手玉に取った女だよ。」

三人が部屋に入って扉を閉め、イルハムが枕をエノの顔に押し付けた。苦しくなって目覚めたエノのあがきをイルハムとアリフが押さえつけ、イルハムは持ってきたサービングフォークでエノの顔を傷つけた。エノがぐったりしたところを衣服を脱がせて三人が輪姦した。その間、エノが叫ばないようにするために、かれらはエノの顔を衣服で押さえ続けた。

レイプが終わると、アリフが少年にナイフを探して来い、と命じた。少年は台所へ行ったが、包丁は見つからない。仕方なくエノの部屋へ戻るとき、廊下にあった鍬を持ってきた。少年が部屋に入ると、エノの身体をイルハムとアリフが押さえており、イルハムが少年に鍬を振り下ろせと命じる。少年が鍬を振り下ろすと、エノの顔面が強打された。血を見た少年は気分が悪くなって、一度部屋の外へ出た。しかしエノが死んだのかどうかを見たくなって部屋に戻ると、エノは顔を衣服で包まれていたが呼吸をしていた。

イルハムがエノの両腕を引っ張って上に伸ばさせると、膨らんだ乳房が少年を刺激した。少年は乳房に力任せに咬みついた。そのあと、エノが呼吸しているだけでぐったりと動かなくなったとき、アリフが鍬の柄をヴァギナに突っ込みはじめたのだ。
エノに断末魔が訪れる。すべてが終わると、アリフはエノの携帯電話器を奪い、浴室へ行って血だらけの手を洗った。そして三人は未明の闇の下を散って行った。


逮捕された三人はそれぞれ、警察の取調べを受けた。世間の関心の焦点は、15歳の少年のレイプと殺人行為、そしてアリフが採った残虐な殺害方法に集まっていた。なぜあのような殺し方をしたのかという質問にアリフは、「最初はナイフで殺そうと考え、ナイフを探したが見つからなかった。鍬が手に入ったから、それで殺すしかなく、あのような方法になった。あのときはもう頭の中が空っぽで、他のことは何も頭に浮かんで来ず、ただもう柄を突っ込むことしか考えられなかった。」と答えている。

また少年がその残虐な殺人に加わって暴力を振るったことについてアリムの少年犯罪付添人は、未成年者が犯罪を冒すとき、そこに大人が付き添っていればかれらの勇気は百倍して、一層アグレッシブになるのが普通だ、と述べている。
どうやら、大人は社会倫理上の善悪のシンボルになっているのでなく、男児たちにとっては善悪の秤からはずれて、勇気・強さ・力・男らしさといった要素に関わるシンボルになっているようだ。大人(男尊女卑社会の男の大人)が構築している社会的な価値観が「優れた男とはこういうものだ」というイメージをその社会の男児たちに抱かせ、自己をその理想に向けて強く駆らせているメカニズムがそこに見えているとわたしは思う。そこでは、殺人・レープ・暴行・強奪などという行為が正邪善悪の問題でなく、力や強さ・勇気や度胸の問題にされているように思われるのだ。

ダエシュ(IS=イスラム国)に参加しようとする若者がいまだに多くの国に増加していることの裏側に、その価値観によるメカニズムが同じように働いているような気がしてならない。貧困だから、差別されているから、抑圧されているから、といったネガティブな要素だけでは、あれほど大勢の人間を動かす動因にならないだろうとわたしは考える。自分のアイデンティティたるイスラムのグローバル社会における興隆という要因、そして真の優れた男というイメージに男たる自分が変身する転機という要素、そういったポジティブな面を抜きにしては、あの現象を正しく解明することができないのではあるまいか?


エノ・ファリハ強姦殺害事件の公判がタングラン地方裁判所で16年6月7日から開始された。アリムが未成年であるがために、裁判はまずアリムだけを被告として非公開で行われた。地裁少年法廷は非公開が原則だ。証人として法廷で証言したアリフは、これまで警察に自供して来た内容を覆し、殺害現場にあのときいたのはアリムでなくディマス・トンペルという男だと語った。その日の閉廷後、アリフは手書きで表明書を作り、法的体裁を整えた上で、その証言は偽証だったと記している。偽証したのはアリムに脅迫されたからで、アリムが無罪になるよう証言すれば、次はアリムが外からアリフに刑の軽減などさまざまな便宜を図ってやるから、という交換条件がついていたそうだ。

24歳の大人が15歳の子供に威嚇されて怯え、公共の場で嘘を吐くという、まるで信じられないような話が演じられたわけだが、インドネシアの刑務所内がどういう場所であるのかについての話を耳にしていれば、それが荒唐無稽な話だと一概に決めつけることも難しくなる。
よく聞く話は刑務所内殺人であり、殺人事件で有罪とされ入獄した服役者がある朝冷たくなった死体で発見され、その犯人は不明のまま時間だけが経過していくというもの。

これは殺人事件の被害者側が一族の人間を殺した者への復讐として行うものが多く、同じ刑務所に服役している人間を使って私怨を晴らすのがその内容だ。公的な裁判で国あるいは社会が犯罪者を罰したにも関わらず、私怨が二重構造をなして犯罪者に襲い掛かって来る。いかに公というものが軽い存在にされているかが、そこからもうかがえるにちがいない。
その私怨を晴らすために密かに同じ服役囚を殺しに動く者は、私怨を抱いた者の地縁血縁につながる者であるケースが多く、また往々にして刑務所看守も買収されるため、この種の刑務所内殺人は犯人がめったにあがらない。刑務所内暴動とはその背景がまったく別物なので、シャバでも法の一律執行がなされていないのに、刑務所内でそれがなされていると思うほうが世間知らずだろう。おまけに犯罪者・服役者は人間のクズなのだから、そんな生命がひとつやふたつ消えたところで「天の下には事もなし」という考えのほうが世の常識になっている。

アリフもそのことは十二分に知っていたはずで、15歳の子供が自分に襲い掛かって来るという意味でなく、アリムを取り巻く地縁血縁の勢力がいつ自分に何を仕掛けてくるかわからないことへの不安が、かれの怯えを誘ったと見るほうが当を得ているにちがいない。
タングラン地裁少年法廷では6月10日に検察側の求刑が行われて、アリムに対する刑罰として入獄10年を検察公訴人が判事団に求めた。判決公判は6月16日に開かれ、判事団は検察公訴人の求刑をそのまま認めて、アリムに入獄10年の判決を下した。この日の少年法廷は珍しく公開され、たくさんの報道陣や被害者・被告の親族や友人関係者らが詰めかけた。

判決文の中で判事団は、「刃物を探して来い」と命じられたとき、被告には自分が行っていることを考え直すチャンスがあったにも関わらず、考え直さないどころか刃物の代わりに鍬を持って部屋に戻った、とその後の残虐な殺害方法への誘因をもたらしたことを指摘し、検察側が求刑した最高刑の入獄10年に判事団も同意した、と判決理由を述べている。アリムはその判決に不満を表明し、即座に上訴の意志を表明した。


この男尊女卑社会の一部の男たちが持っている「女はヴァギナの着いた消耗品」という観念は、われわれを戦慄させずにはおかないだろう。集団レイプのために自分のパチャルを提供した男や、少女をパチャルにしてから美人局に提供して人売セックスの道具にした男、そしてアリム。かれらの姿が「愛した男に殺される女たち」のエピソードに登場する男たちの姿とダブって来るのは、わたしだけではあるまい。

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[ 2016年5月23日〜7月12日掲載 一部加筆訂正 ]