「ジャワの暦」


「ジャワ暦の一年は6月にはじまる」(2013年1月14〜18日)
この地上で、季節は移り変わりながら循環している。人類は長い歴史の中でそのことを理解し、その循環の法則を会得した。季節は気象・天候がある傾向を伴って現れる現象であり、その傾向が生物の生存に厳しさをもたらすものであればなおさらのこと、生物は季節の変化に敏感にならざるを得なかったにちがいない。それは北の地域でも南方の地域でも変わらない。一年中裸で暮らせる南方には人間の生存を脅かす気象・天候などないということでは決してないのだ。
そして人類が世界の各所で食用植物の栽培を開始したとき、季節の変化に深く関わっている植物成育のしくみを季節の移り変わりに則して栽培に利用しようとする考えが生まれ、農事暦が作られるようになった。だが、農民がそれぞれ自分の家で暦を管理するようになるのは何千年も後の話であり、人類は気の遠くなりそうな長い歴史の中で、自分たちを取り巻く自然現象の中から食用食物の栽培に最適なタイミングを見つける術を見つけ出していたのである。
天体の運行に支配されている季節の移り変わりを知るために用いられた手がかりは、雨の降り方や日射の強さ、あるいは湿気の度合いがまず参考にされたが、もっと誤差の小さいものとして天体の運行そのものを示す太陽や星の位置が使われた。地面に立てられた長い棒が作る影の長さと位置などはその観測手段の最たるものだったと言えよう。
プラナタマンサ(pranatamangsa)とジャワ語で呼ばれているものが、ジャワで農作業の時期をはかる手引きとして作られた暦だ。世界中にある実例にもれず、人類が灌漑という手法を取り入れて食物栽培を開始した何千年も昔から、ジャワ人はプラナタマンサの内容をその農作業に関連付けた知識として持っていたわけで、それはインド人がヒンドゥ文化をもたらすよりはるか以前の時代だったのである。ともあれ、ひとつの暦がその地域に確立すると、それは支配者が行なう行政管理に使われるようになり、さらには庶民が農事とは無関係に善き日善き時期にあわせて特定のことを行なうための占いに使われるようにすらなった。ジャワでの実態に即して作られたプラナタマンサとは別に、インドネシアの他の地方他の種族も類似のものを持っており、バリ族のワリガ(wariga)、バタッ族はポルハラアン(porhalaan)、ブギス族のマッパリリ(mappalili)といったところが知られている。
ジャワでプラナタマンサがひとつの体系にまとめられた上で公認されたのは1855年6月22日のことで、それを命じたのはパクブウォノ7世だ。プラナタマンサでは、一年は12のマンサに分けられており、その日数を合算すると365あるいは366日となるのは現代の太陽暦が持つうるう年の原理とまるで同じだ。その12のマンサの時期と日数を下記しよう。ジャワ語のマンサは季節と訳されているが、使われ方はわれわれの月の概念に当たっており、季節という訳語を使うと混乱するのでジャワ語のままにしておく。
マンサ: 時期 (日数)
Kasa : 6月21日〜8月1日 (41日)
Karo : 8月2日〜8月24日 (23日)
Katelu : 8月25日〜9月17日 (24日)
Kapat : 9月18日〜10月12日 (25日)
Kalima : 10月13日〜11月8日) (27日)
Kanem : 11月9日〜12月21日) (43日)
Kapitu : 12月22日〜2月2日) (43日)
Kawolu : 2月3日〜2月28/29日 (26/27日)
Kasanga : 3月1日〜3月25日 (25日)
Kasapuluh : 3月26日〜4月18日 (24日)
Dhesta : 4月19日〜5月11日 (23日)
Sadda : 5月12日〜6月21日 (41日)
マンサの一番目から十番目まではジャワ語だが、デスタとサッダは古代インド暦から名称を取ったようだ。上のリストの日数をご覧になるとお分かりのように、カネムとカピトゥの間で上下に折り返されている。
インドネシアに四つの季節があると言うと、不審の目を向ける方がいらっしゃるにちがいない。もちろん大別すると乾季と雨季というふたつの季節が両極端をなしているわけだが、それぞれの季節への移行期という意味でジャワ人は四つの季節に名前をつけている。乾季はクティガ(Ketiga)、乾季から雨季への移行期はラブ(Labuh)、雨季がレンデン(Rendeng)で雨季から乾季への移行期はマルン(Mareng)だ。これは北方のひとびとが寒い季節と暑い季節の両極端およびその移行期に別々の名前をつけているのと原理的にはちがわない。その季節とマンサを対比させてみよう。
Ketiga : Kasa-Karo-Katelu (88日)
Labuh : Kapat-Kalima-Kanem (95日)
Rendeng : Kapitu-Kawolu-Kasanga (94/95日)
Mareng : Kasapuluh-Dhesta-Saddha (88日)
ジャワ人はもうひとつ別の季節の分け方を行なっている。これは食糧の豊富な季節と飢餓の季節という、人間の生活にとってきわめて深刻な現象に沿ってなされているものであり、上の自然現象による分類に対して少し時期的なずれがある。快晴の季節であるトゥラン(Terang)、絶望の季節スンプラ(Semplah)、雨の季節ウダン(Udan)、希望の季節パガルパルップ(Pangareparep)の四つがそれで、こちらの分類をマンサと対比すると次のようになる。
Terang : Sadda-Kasa (82日)
Semplah : Karo-Katelu-Kapat-Kalima (99日)
Udan : Kanem-Kapitu (86日)
Pangareparep : Kawolu-Kasanga-Kasapuluh-Dhesta (98/99日)
スンプラの最初の月は別名mangsa paceklikと呼ばれて食糧欠乏期を表し、その6ヵ月後のパガルパルップの最初の月は洪水の時期、またスンプラの最後の月は別名mangsa lelaraと呼ばれる病気が流行する時期で、その6ヵ月後は収穫の時期と認識されている。
プラナタマンサつまりジャワ暦の一年が6月21日に始まっているのは、太陽が北回帰線に達する日だからだそうだ。その日北半球では夏が始まり、南半球は冬に入る。南半球に位置するジャワ島の住民にとってその日は太陽の出ている時間が一年で一番短い。つまり昼が最も短くて夜が一番長い日なのだ。そのような特徴があるために、プラナタマンサではその日が一年のスタートに選ばれたのだろう、とインドネシアの天文学者のひとりは指摘している。
スラカルタではその日、太陽が頭の真上に来たとき日時計が作る影は南に向かって4pecakという最大の長さになる。プチャッというのは足の裏で測る長さだ。南緯7.5度にあるスラカルタでは、3月1日と10月13日に太陽が頭上にきたとき日時計が作る影は0プチャッになる。
季節の移り変わりを知るためにジャワ人は夜空の星も利用した。星は地上の気象天候に直接影響を及ぼすものではないにせよ、一年間の季節の循環は星の動きからも知ることができるのである。ジャワ人は12のマンサのそれぞれを、特徴的な星(星座)に関連付けた。各マンサの初日の日の出前に現れる星がそのマンサの開始を示すものとされたのだ。スラカルタでは、6月21日の夜が白み始めてから日の出に至る時間におひつじ座が東の空に上がってくるし、更に8月2日にはおうし座が東の空に出現する。各マンサの初日を示す星(星座)はもちろんジャワ語の名称がつけられており、それに対応する現代天文学上での星座名称をそれに対比させておこう。
マンサと初日 : ジャワ語星座名 (対応する学術名)
  Kasa 6月21日 : Mesa =kambing (Aries)
Karo 8月2日 : Presaba =banteng (Taurus)
Katelu 8月25日 : Mintuna =kupu-kupu (Gemini)
Kapat 9月18日 : Rekata =kepiting (Cancer)
Kalima 10月13日 : Singha =singa (Leo)
Kanem 11月9日 : Kenya =gadis (Virgo)
Kapitu 12月22日 : Tula =neraca (Libra)
Kawolu 2月3日 : Mraceka =kalajengking (Scorpio)
Kasanga 3月1日 : Danuh =busur (Sagitarius)
Kasapuluh 3月26日 : Makara =undur-undur (Capricorn)
Dhesta 4月19日 : Kumba =kendi (Aquarius)
Sadda 5月12日 : Mina =ikan (Pisces)
文化人で作家でもあるシンドゥナタ氏によれば、それらジャワ語星座名は古代インドつまりヒンドゥ文化の影響を強く受けているものだそうだ。サー・トーマス・スタンフォード・ラッフルズの著作ヒストリーオブジャヴァには、メサあるいはメサルシというのはヒンドゥの言葉でヤギを指すメシャに由来するものであり、プルサバあるいはムリサまたはムルサバというのも水牛を意味するヒンドゥの言葉ヴリシャから採られたものだと書かれている。
ところがジャワの庶民の間に定着している、特定マンサを象徴する星(星座)名はまた異なるものが使われているのである。リンタンサピグマラン(lintang sapi gumarang)が夜空に出てくれば、マンサカサ(mangsa Kasa)になったんだ、とかれらは言う。lintangはbintangのジャワ語であり、サピグマランは伝説の牛の名前だ。そしてこの星座はおうし座と同一視されている。マンサカロのシンボルはリンタンタギ(lintang tagih)と呼ばれており、その言葉は銀河全体を指していると解釈されている。こちらのジャワ人の庶民生活に深く根ざした星(星座)の名称のほうが、ジャワ人と接触のあるひとびとにとってはもっと身近に感じられるものであるにちがいない。ところでマンサを知るために庶民が目星として使った星(星座)は先に掲げたリストとは違って日没後の観測が標準にされているため、両者の間の矛盾を心配されるには及ばない。ではこちらの名称もリストアップしておこう。
Kasa 6月21日 : Sapi gumarang (おうし座)
Karo 8月2日 : Tagih (銀河全体)
Katelu 8月25日 : Lumbung/Gubug penceng (南十字星)
Kapat 9月18日 : Jaran dhawuk (銀河の暗黒部分)
Kalima 10月13日 : Banyak angrem (南十字星左下の暗黒星雲)
Kanem 11月9日 : Gotong mayit (さそり座頭部)
Kapitu 12月22日 : Bimasakti (じょうぎ座といて座の間にあるいて座の星雲)
Kawolu 2月3日 : Wulanjar ngirim (アルファケンタウリとベータケンタウリ)
Kasanga 3月1日 : Wuluh (プレアデス星団)
Kasapuluh 3月26日 : Waluku (下記*)
Dhesta 4月19日 : Lumbung/Gubug penceng (南十字星)
Sadda 5月12日 : Tagih (銀河全体)
*WalukuあるいはLukuというのはジャワ人が農耕で使う鋤のことで、この鋤という星座はオリオンの帯を中心にしてその周囲の別の星座の星を織り込んで構成されている。オリオンの帯を成しているアルニタクはサイフと結ばれ、アルニラムはリゲルを通ってエリダヌス座のラムダと結ばれ、ミンタカはオリオン座のベテルギウスとつながれてジャワで使われている鋤の像がそこに出現するのである。


「ジャワ暦は風前の灯」(2014年12月8〜15日)
それまで高いレベルで社会秩序が組み立てられ、社会構成員がその秩序を尊重しそれに従って生活していたところに、外来の新しい文化がやってくる。文明はその産物として人間生活に直接関わる文化を作り出し、その文化の枠内で暮らしているひとびとが地理的な移動を行なうことで、別の土地にある文化に接触することになる。より優れた文明が作り上げた文化がより低いレベルに流入するのは大自然の摂理と同じだ。そのときに、よいとこ取りをして旧来の文化の枠組みは残しながら部分的な改正を行なうのか、あるいは総入れ替えをして旧来の枠組みを打ち壊し、メインストリームを外来のものに替えていくのか、そのふたつの姿勢が選択肢として出てくるはずだ。たとえ異民族が武力で侵略し、地元民族を征服支配して支配者の文化を強制したとしても、結局それを受け入れて社会の仕組みを変えていくのは、地元民たちの意志なのである。そういう武力侵略がなくとも、社会内のマイノリティ集団が異民族のバックアップを求め、その社会で革命を起こすことで異民族の文化が取り込まれていくことも歴史の中に起こっているのだから、社会と文化の変遷と異民族侵略の間に因果関係を常に求める必要はないだろうとわたしは思う。
西暦1633年、イスラムマタラム王国のスリ・スルタン・アグン・プラブ・ハニョクロクスモが既にイスラム化したジャワにイスラム暦を根付かせようとした。つまり、ジャワのイスラム化が完了したあとでも、一般庶民がそのままイスラム暦の使用に移行したわけでなかったことをそれは意味している。イスラム化したのだから、生活上のあらゆる要素がイスラム教の教義戒律に沿ったものに変化したというものの見方は観念主義者のものである。
ヒンドウサカ暦はインドで西暦78年に使用が開始された。サカ暦1年は西暦78年だということだ。インド文化が東南アジアにもたらされたときにサカ暦も伝えられ、ヒンドゥ文化の一部としてジャワ島〜バリ島にも流れ込んで行った。
一方イスラムヒジュラ暦は西暦622年が元年となっている。これも、イスラム化を通してインドネシアの各地へと広まり、ジャワ島のイスラム化が完結したときには、イスラム教を学ぶプサントレンでヒジュラ暦の使用は根付いていた。だが一般庶民については、上述のような状況だったようだ。住民生活の中にヒンドゥ暦がいつまでも残っていることはイスラム化の瑕疵となるものだという思いにスルタン・アグン・ハニョクロクスモはとらわれ、その溝を埋めようとしてかれはイスラム暦とヒンドゥ暦の融合を試みたにちがいない。スルタン・アグンがヒジュラ暦の使用を領民に強制せず、ジャワ暦というものを作って領民に使わせるようにしたことは、やはり外来文化を生のまま取り込ませることが困難であったことを証明しているように思える。ジャワのイスラム化というのは、どうやらそういう性格を持っていたのではあるまいか。
専門家によれば、サカ暦は太陽暦であり、ヒジュラ暦は太陰暦だそうだ。そしてサカ暦は計算をベースにして定められているため、理論のままに流れていくが、ヒジュラ暦は計算をベースにしながらも実際に月(moon)が目視されたかどうかが月(month)から月(month)への移行を確定させる要素になっているため、天文観測が決定要因に置かれている。ジャワ暦は計算のみをベースにしており、その点がヒジュラ暦とは異なっている、と専門家は説明している。ジャワ暦はイスラムマタラム王国の領内で使われたが、バンテンやマドゥラなど異なる王家の領土には浸透しなかった。
イスラムヒジュラ暦1043年ムハラム月一日、スルタン・アグンはその日をジャワ暦元日と宣言した。西暦では1633年7月8日にあたる。その年はヒンドゥサカ暦1555年であり、年号はその1555年を継続させることになった。つまりジャワ暦元日は1555年スラ月一日であり、その日はヒジュラ暦で1043年ムハラム月一日、西暦では1633年7月8日だということだ。
こうして生まれたジャワ暦は、ヒジュラ暦とはまた異なるものになった。それらがどのようにかかわりあっているのか、見てみようではないか。ヒンドゥサカ暦もイスラムヒジュラ暦も一年を十二ヶ月に分けている。
月順: ヒンドウサカ暦(日数):イスラムヒジュラ暦(日数)
一月: Srawana (31) : Muharram (30)
二月: Bhadrapada (31) : Shafar (29)
三月: Aswina (30) : Rabi'ul awwal (30)
四月: Kartika (30) : Rabi'ul tsani (29)
五月: Margasira (30) : Jumadil ula (30)
六月: Pusya (30) : Jumadil tsani (29)
七月: Mukha (30) : Rajab (30)
八月: Phalguna (30) : Sya'ban (29)
九月: Caitra (30/31) : Ramadhan (30)
十月: Waishaka (31) : Syawwal (29)
一月: Jyestha (31) : Dzulqaidah (30)
十二月: Asadha (31) : Dzulhijah (29/30)
日数合計: 365/366日: 354/355日
スルタン・アグン・ハニョクロクスモはジャワ暦一年を次のように定めた。( )内は日数。
一月: Sura (30) ムハラム月10日はアシュラ祝祭日
二月: Sapar (29) サファル月のジャワ風発音
三月: Mulud (30) ラビウルアワル月12日は預言者ムハンマッ生誕日(マウルッ)
四月: Bakdamulud (29) ムルッの後の月
五月: Jumadilawal (30) ジュマディルラ月のジャワ風発音
六月: Jumadilakir (29) ジュマディルツァニ月のジャワ風発音
七月: Rejab (30) ラジャブ月のジャワ風発音
八月: Ruwah (29) 断食の前に先祖の墓を詣でてスラマタンを行なうジャワの風習を月の名称にした
九月: Pasa (30) プアサの月
十月: Sawal (29) シャワル月のジャワ風発音
十一月: Sela (30) シャワル月1日のイドゥルフィトリ祝祭日とズルヒジャ月10日のイドゥルアドハの間の月
十二月: Besar (29/30) イスラム最大の祝祭イドゥルアドハが行なわれる月
日数合計: 354/355日
ジャワ暦ブサール月は29日と30日の両方がある。ブサール月が29日の年はバシッ(Basit)年(短い年)、30日の場合はカビサッ(Kabisat)年(長い年)と呼ばれる。
更に、ひと月はいくつかの週に分けられる。現代カレンダーは一週間が七日で構成されているが、その最古のものはバビロニアに求めることができ、ゾロアスターやヘブライなど中東各地の古代カレンダーの多くにその伝統を残したようで、それがヨーロッパ文明の源泉たるギリシャ=ローマ文明につながっていったように思われる。
ちなみに古代ギリシャ語の曜日名称とラテン語の曜日名称、そして英語のそれを並べて見ると、関連性が見出せるようだ。日本語の曜日名称はそのヨーロッパ文明に負うところが大きいのは間違いないだろう。
日本語 : ギリシャ語 : ラテン語 : 英語
日曜日(日=太陽): イウ : ソリス : サンデー
月曜日(月) : セイニス : ルナエ : マンデー
火曜日(火星): アレオス : マルティス : チューズデー
水曜日(水星): ヘルモウ : メルクリー : ウエンズデー
木曜日(木星): ディオス : イオヴィス : サーズデー
金曜日(金星): アフロディテス : ヴェネリス : フライデー
土曜日(土星): クロノウ : サトゥルニ : サタデー
英語のTuesday-Wednesday-Thursday-Friday はゲルマン〜アングロサクソンの語源に由来するもので、tuesはtiwに由来し、マースに擬せられた地元伝統説話の神の名前、wednesはwodanに由来し、マーキュリーに擬せられた神の名、thursはスーンレズに由来し、ジュピターに擬せられた神の名、friはfrige女神でヴィーナスに擬せられたものという説明になっている。
ヒンドゥサカ暦もイスラムヒジュラ暦も七曜を使い、その対比は次のようになる。
   : サカ暦 : ヒジュラ暦
日曜日: Dite/Radite : Ahad
月曜日: Soma : Itsnain
火曜日: Anggara : Tsalatsa
水曜日: Buddha : Arba'a'
木曜日: Respati : Khamis
金曜日: Sukra : Jumu'ah
土曜日: Tumpek/Saniscara : Sabt
ヒジュラ暦の曜日は週の何番目の日ということを示すものであり、ヨーロッパ型の天体への関連性を持っていない。金曜日だけは「集いの日」という意味の言葉が使われている。ジャワ暦は、曜日を次のようにした。
日曜日: Akad
月曜日: Senen
火曜日: Selasa
水曜日: Rebo
木曜日: Kemis
金曜日: Jemuwah
土曜日: Setu
スペルが異なるから全く別の単語だという二次元的な見方でなく、耳にどのように聞こえたのかというポイントに思いを馳せながらその関連性を見るのは、口承文化を理解する上で不可欠な姿勢だとわたしは思う。
ジャワ文化では、ずっと昔からもうひとつの週の単位、パンチャワラと呼ばれる5日の市日で構成されるものが使われていた。5日の週日システムはパンチャワラ、7日の週日システムはサプタワラと呼ばれている。5日の市日の名称とその言葉が意味している内容は次の通りだ。このシステムはルシ・ラッディとンプ・スンカラが作ったという説話が人口に膾炙している。その五つの名称は姿勢をシンボライズしているもので、個別に次のようになっている。
Legi 背を向ける姿勢
Pahing (バリではumanis) 対面する姿勢
Pon  横たわる姿勢
Wage 座る姿勢
Kliwon 立つ姿勢
市日というのはその場所に市が立つ日ということを意味しており、実際にジャワの各地にpasar + 5種の市日を用いたパサルがあちこちにあることから、その事実が証明できる。
あちこちで曜日ごとに市が立つ習慣はジャカルタ近辺にも存在している。ジャカルタ近辺ではジャワのパンチャワラは使われずサプタワラが使われた。サプタワラと言っても、ヒンドゥ暦とは無関係のヨーロッパ式とイスラム式を混ぜた七曜であり、日曜日だけがポルトガル語のDomingo に由来するMinggu と呼ばれ、他の曜日はすべてイスラム風になっている。
Pasar Minggu : 南ジャカルタ市の郡名称になっており、そこに同名のパサルがある。
Pasar Senen : 中央ジャカルタ市スネン郡の中に同名のパサルがある。
Pasar Selasa : 北ジャカルタ市コジャ郡のパサルがパサルスラサだったが、地名として残されてはいない。
Paras Rabu = Pasar Rebo : 東ジャカルタ市の郡名称として残っている。
Pasar Kamis = Pasar Kemis : ジャティヌガラのPasar Mester が木曜市だったが、その名称としては残っていない。バンテン州タングラン県にパサルクミス郡がある。
Pasar Jumat : 南ジャカルタ市クバヨランラマ郡に同名のパサルがある。
Pasar Sabtu : 繊維衣料品大市場でないほうのタナアバン市場は昔、その名称で呼ばれていた。
暦とは本来、農林漁業などの生活基幹物資生産に使われるものだ。それが非生産階級の手に渡ったとき、住民管理行政や、更には人間の個人行動への指針を与える卜占へと重点が推移していくのは、どうやら世界共通のものだったようだ。曜日名称は市という制度の管理行政面での利用の一例だが、卜占についても複雑な計算が持ち込まれて専門的な世界へと進化していった。
ジャワ文化では各曜日に数字が与えられ、その数字にもとづいて卜占を行なう方式が作り上げられた。その数字は数秘学の体系におけるウエイトを示すもので、Neptu と呼ばれている。各曜日のネプトゥは次の通り。
1. Ahad = 5
2. Senen = 4
3. Selasa = 3
4. Rabu = 7
5. Kamis = 8
6. Jum’at = 6
7. Sabtu = 9
1. Legi = 5
2. Paing = 9
3. Pon = 7
4. Wage = 4
5. Kliwon = 8
カレンダー上の日には必ずパンチャワラとサプタワラの曜日がついており、ジャワ人はその日の曜日をSenen-Pahingとか、Jum'at-Kliwon というような組み合わせで呼ぶ。その組み合わせがネプトゥの合計数字をもたらし、その合計数字にあるプロセスを加えて出た数値が1から9のどの数字なのかということが、その日行なわれる活動にとってのよき日かどうかを決める。そういう卜占によって人間が日々の活動内容を決めていた時代から離れてしまったいま、ジャワ暦はジャワ人にとっての重要性を失い始めているようだ。
七曜日と五曜日の組み合わせは35日で一ラウンドする。サプタワラであるヒンドウサカ暦の場合、ウクと呼ばれる一週間(7日間)にそれぞれ異なる運勢が添えられる結果、ウクを三十回繰り返すことで暦の一サイクルがまた元に戻るというシステムが用いられた。それがウク暦と呼ばれるもので、210日がひとつのサイクルになっている。それは、上の35日ラウンドが6回繰り返されることでもある。
ウクには第一週から第三十週まで個々に名称がつけられており、たとえば第十六週目のPahang の一週間の中でSenen-Pahing はSenen-Pahing-Pahangという形に限定されるため、5週間後にやってきたSenen-Pahing はSenen-Pahing-Maktal と呼ばれて区別されるということだ。その三つの組み合わせが完璧に同一になるのは210日後にしか起こらない。
ところで細かい話をするなら、ジャワ暦の一年は354と3/8日であって、イスラムヒジュラ暦の354と11/30日とはわずかにずれがある。その結果120年が経つと、ジャワ暦はヒジュラ暦より一日先行してしまうことになる。
ジャワ暦では、8年周期の各年に名称をつけ、その年がバシッ(Basit)年(短い年)なのかカビサッ(Kabisat)年(長い年)なのかを決めている。それぞれの年にアラブ文字のシンボルをつけ、その年がバシッかカビサッかを定めている。この8年周期はジャワでwindu という名前がつけられ、長期間に渡る一区切りという慣用的用法として用いられるようになった。それはおのずと、日本の「十年ひとむかし」や英語での「decade」といった十年単位の用法とは異なる趣をもたらしており、ジャワ人の時間感覚を特徴づけるものになっているように思われる。
年度: アラブ文字 ジャワ暦名称 長い年/短い年
1: Alif Alip Basit
2: Ha Ehe Kabisat
3: Jim Jimawal Basit
4: Za Je Basit
5: Dal Dal Kabisat
6: Ba Be Basit
7: Wawu Wawu Basit
8: Jim Jimakir Kabisat/Basit
バシッの年はブサール月が29日、カビサッの年はブサール月が30日になることは先に述べた。ジマキル年は通常のウィンドウではカビサッ年だが、15ウィンドウ、つまり120年、に一度バシッ年とされる。このようにして、ジャワ暦はアラブヒジュラ暦との一体性を維持しようとしているのである。この120単位の周期はkurup と名付けられた。
ジャワ暦とヒジュラ暦の間に120年単位で一日差が生じることは、ジャワ暦が使われはじめて72年後にはじめて判明した。スルタン・アグン・ハニョクロクスモはそれを知らないまま、ずっと昔に没していたのである。1627年アリップのスラ月一日は、カレンダー計算上はカミス=クリウォンの日になるが、それを一日早めてラブ=ワゲの日であるとスラカルタ王宮は定めた。こうして、1627年から1747年までのクルップはAlip-Rabu-Wage 略してAboge、更に1747年から1867年までの次のクルップはAlip-Selasa-Pon 略してAsapon というような120年単位の呼び方がなされるようになった。
現在、ジャワ暦ではアサポンのクルップ内にある。クルップアサポンの開始はジャワ暦1747年スラ月一日で、それは西暦1936年3月24日に該当し、ジャワ暦1867年ブサール月二十八日は西暦の2052年8月25日に当たっている。
暦を定め、祝祭をつかさどるのは、文化面での支配者だ。しかしジャワ人の大半は、公共社会生活を西洋暦で送ること、そしてイスラムの祝祭はインドネシアのイスラム界が管理し定めているイスラムヒジュラ暦を用いること、という習慣が確立されてしまい、その上にジャワ人だからという理由でスラカルタ王宮の管理するジャワ暦にも従うひとは減少傾向にある。おまけに卜占を指標として日々の生活内容を決める若い人々も減っているのは疑いもない。
ジャワ暦の命運は今や風前の灯となっている、2052年にスラカルタ王宮は次のクルップの確定宣言を行なうだろうが、はたしてどれほどのジャワ人がそれを自分の日常生活に関わるものと見なすだろうか。スラカルタ王宮が繰り広げる「古式豊かな」伝統祭事を報道するアナウンサーの声が、いま耳の奥で鳴り響いているような気がしてならない。