インドネシアのカレー


「カレーはカリー」(2016年4月25〜5月9日)
< 広辞苑 >
カレー:キョウオウ(ウコンの仲間)・コエンドロ・白胡椒・カンキョウ(ショウガの根を乾したもの)・からし・オールスパイス・チョウジなどを粉末にして混ぜた刺激性の浅黄色の香辛料。カリー。
< ウエブスター新辞典 >
カリー(curry):カリー粉(curry powder)で調理された料理や食べ物。タミール語のカリ(kari)に由来し、意味はソース。
カリーパウダー(curry powder):数種の刺激性粉末スパイスを混ぜたもの。トウガラシ・ターメリック・カルダモン・クミン・ショウガ・コリアンダーが通常含まれている。
< インドネシア語大辞典 >
カリ(kari):クニッ(kunyit:ウコン)を使うため黄色い色をしているグライ料理。普通は辛くない
グライ(gulai):ココナツミルクを使う汁料理で、クニッや特別のスパイスを使う。普通は魚・羊肉・牛肉等々が用いられる。
日本・イギリス・インドネシアの「カレー」という言葉と料理そのものに関する文化の差異を上の比較から読み取っていただければ幸いだ。ちなみにインドネシアでカレー粉(日本ではカレーと同義)を探す場合はbumbu kariという表現になり、bumbuという語は固体や粉末状や液状など状態がどうであるかを問わないので、どうしても粉末状のものが欲しければ少し言葉を補足して説明しなければならないだろう。
さて、今でこそカリはインド料理を代表するものとして世界的に認知されているが、その料理がカリという名前で定着したのは比較的新しい時期のことであり、一千年をはるかに超える期間にその料理は紛れもなくインド人の食生活を潤してきたものの、インド人自身はそれをカリとは呼んでいなかった、とコリーン・テイラー・センは2009年に発表した自著「カリー:グローバルヒストリー」の中で説いている。
インド人はその内容によってもっとスペシフィックに、カリーの汁で作られた料理を呼んでいた、korma, rogan josh, molee, vindaloo, doh piazaなどという名称が個別に使われており、共通ベースとなっているスパイスに満ちたソースには名称が与えられていなかったということのようだ。カリという語はインド南部のタミール語にあるkerilから来たもので、このカリルという語はたっぷりのスパイスを混ぜて野菜と肉を炒めたものを指しているそうだ。
しかし現代インド人は家庭で作る汁料理の多くをカリと呼ぶようになっており、外国人との会話では特にカリという語を使う傾向が高いとテイラーは書いている。
カリという語がグローバル化したのは、イギリスにおける1807年の奴隷売買禁止法、そして1833年の奴隷制度全廃が契機になっている。イギリスは世界中に設けた植民地での農園労働力に奴隷を使っていたが、奴隷を解放しなければならなくなったとき、百万人を超えるインド人を農園労働力として南アフリカからマレーシアに至る各地に送り込んだ。かれらが故郷で日常茶飯に愉しんでいた料理を住み着いた土地でも続けようとしたのは当たり前すぎることだ。移住先で手に入るスパイスでカリ料理の亜種が開発され、土着化していった。
インドネシアを含む東南アジア一円へはもっと遠い昔からインド人の流入がいくつもの波となって押し寄せ、プリミティブなレベルにあった原住民の上に君臨して王朝を設けたケースも少なくない。インド文化は大きなウエイトで東南アジアの各地に浸透してきた。そこでもインド料理が地元スパイスを取り込んで亜種となり、土着化していった流れはまったく違わない。「紀元前3世紀のはじめから、インド商人や仏教布教者たちは各地にインドの文物を伝えた。タマリンド、ニンニク、エシャロット、ショウガ、ウコン、コショウなどが各地に広められ、インドネシアでグライと呼ばれているココナツミルクを使った汁料理もインド人がもたらしたものだ。つまりグライという料理はインドネシア化したカリに区分されるものなのだとテイラーは主張している。
地理的な位置関係のゆえだろうか、スマトラ島北部はインド文化の色合いが濃く感じられる地域だ。カンプンクリン(kampung Keling)はあちこちにあり、住民はインド文化を継承しながら暮らしてきたが、共和国独立以降、カンプンクリンはプリブミインドネシア人がたくさん混じるようになり、インド人居住区という雰囲気はあまり顕著でなくなっている。
アチェ料理にはインド文化の影響が色濃く浸透している。20世紀はじめにアチェ文化を研究したスノウク・フルフロニェはアチェ料理に関する記録を残しているが、今日までもアチェ人に好まれているそれらの料理は土着化したカリ以外の何ものでもない。
例えばクアピウ(kuah pi u = kuah pilek u)という汁料理がある。ココナツ油を搾ったあとの果肉に若いナンカの果実と干し魚あるいは小魚を混ぜたものだ。あるいはグレルマ(gule leumak)と呼ばれる料理もある。これは脂肪(lemak)を用いたグライという意味で、この料理は実に豊かなバリエーションを持っている。野菜・魚・エビなど混ぜられる素材によってXXグレやら○○トゥプルマといった異なる名称が使われている。
スマトラ島北部のアチェ州や北スマトラ州はインドネシアの島々にインド文化が流入してくる玄関口となったようだ。純粋種のカリが最初にヌサンタラ文化圏に足を踏み入れたのがそこであるなら、ヌサンタラの各地に土着化したカリ料理の中でもっともインドっぽいカリの亜種がその地に誕生したのも、議論の余地はないにちがいない。
現実に、国内各地からメダンやアチェに観光に訪れるひとびとのほとんどが、自分の郷里でなじんだカリ料理よりもはるかにインドっぽいカリを愉しんでから故郷へ戻って行く。
北スマトラ州メダン市内にあるレストラン「チャハヤバル」はインドっぽいカリに定評がある。こってりしたココナツミルクの溶け込んだ茶色い汁に赤みがかった油脂が混じり、さまざまなスパイスの香りが強烈に食欲を刺激する野菜チョライも伝統的な土着カリ料理のひとつ。ヒヨコマメとサヤエンドウに濃厚なカリソースがからめられたこのチョライは、火曜日と金曜日になるとこの店のベストセラーになる。ヒンドゥ教徒の中に、火曜日と金曜日に菜食の戒律を行っている者がいるためだ。
このインド料理店は1994年に開業した。夫と一緒に店を切り回し、厨房で采配を振るっているシェフのマリニさんは、インド料理の手ほどきを姑から受けた。強烈なスパイスと辛さが売り物のインド料理だが、「弊店のカリはインドのものほど激しくありませんよ。むこうのカリは、スパイスがもっときついし、辛さはコショウの辛さですから。」とマリニさんは語る。スパイスの調合具合で口と舌が受ける刺激の強烈さが変わってくる。カリカンビン(羊肉カリー)は、羊肉で普通感じられる羊臭さがほとんど感じられない。カリの葉(オオバゲッキツ、curry leaf)の香りに抑えられているのだ。肉は柔らかく、濃厚なカリソースは豊かなスパイスに満ち溢れ、ニンニク味が強い。マリニさんは自店のカリ料理に共通して使っている秘蔵のタレを見せてくれた。エシャロット・玉ねぎ・コリアンダー・トウガラシおよび数種のスパイスを調合したものだ。
スマトラ島北端部はアチェダルッサラム特別州。ピディのカリがインドネシアでもっともインドっぽいとひとびとは言う。アチェ州ピディジャヤ県ウリム郡ププ村の料理人ムハンマド氏45歳が、ピディのカリはこれだと言って作ってくれたカリは二十種類のスパイスを使うものだった。コショウ・白けしの実・コリアンダー・シナモン・ナツメッグ・タマリンド・丁子・カルダモン・スターアニス・クミン・カリーリーフ・トウガラシ・パンダン・レモングラス・エシャロット・ニンニク・ピーナツ・ココナツミルク・ココナツの実・ココナツの実を炒ったものがそれだ。おかげでピディのカリはとても濃厚なスパイスのアロマが特徴で、コショウ・コリアンダー・カルダモンの風味がカリソースの一滴一滴に感じられる。ただしメダンのカリと比べるなら、ソースはさらりとしていて濃厚ではない。
州外のひとびとはこのピディのカリをインドネシアでもっともインドっぽいと評するのだが、ムハンマド氏は違うと言う。ピディのカリはインド本国やメダンのものに比べてたいへん軽いのだ、というのがかれの主張だ。
しかし大アチェ地区やバンダアチェに行けば、カリはもっと軽くなる。使われるスパイスも大幅に間引きされ、コショウは使わずトウガラシの辛さがもっぱらになる。ココナツミルクは使わず、ココナツの実を炒ったり、あるいは生のまますりつぶして使うだけだ。この地方では、牛肉や羊肉をカリソースで煮込んだ料理をカリとは呼ばない。カリ汁はブラゴン(belangong)と呼ばれる。鶏やあひるの肉を用いたときだけ、カリという名称が登場する。ブラゴンの風味は軽く、コクがあり、スターアニス・カルダモン・レモングラスその他の香りの強いスパイスがもたらす刺激性はあまり感じられない。
西アチェ県のムラボでは、水牛の肉がよくカリに用いられる。更に、未熟サババナナ(saba banana)の切り身を加えることもある。西アチェ県アダッ評議会メンバーのひとりによれば、カリに使われるスパイスはコショウ・赤トウガラシ・鳥の目トウガラシ・コリアンダー・スターアニス・丁子・クミン・シナモン・ショウガ・ナツメッグ・カリーリーフ・白けしの実・エシャロット・ニンニク・ウコン・レモングラス・シトロン・炒ったココナツの実だ。ムラボのカリ汁は赤みがかった茶色をしており、スパイスのアロマは濃厚だが、ピディのカリほどではない。「ピディのカリはインドのものに近いですが、ムラボのカリはミナンやムラユのグライにつながっていますね。」とそのアダッ評議会メンバーは述べている。
オリジナルよりもずっと軽いものになり、メダンのマドラス部落で作られているカリよりはるかに進化したアチェのカリは、長期間にわたる土着化プロセスの結果であることを示している。
インド文化のアチェへの流入は、ヨーロッパ人がアチェにはじめて出現した16世紀よりはるか昔にさかのぼる。そしてそのピークは、ヨーロッパ勢の強引な通商ルート支配戦略に対抗してアチェのスルタンがインド商人の来航を促した17世紀に起こった。メダンへのインド人の来航は、デリにタバコ農園が設けられた19世紀が山場となった。
アチェでは、移住したインド人はたいてい現地女性と家庭を持ち、イスラム化して原住民社会に溶け込んでいる。もちろん全員がそうということでなく、バンダアチェにはタミール寺院が建てられ、固有文化を維持しているひとびともいるが、メダンのようにインド人部落が作られるほどではなかった。そのインド人部落「カンプンマドラス」は、今ではたくさんのプリブミが住み着いており、外見的にはインド人部落という印象をあまり感じさせないものになっている。
カリという語はインド南部のタミール語にあるkerilから来たもので、たっぷりのスパイスを混ぜて野菜と肉を炒めたものを指しているそうだ、と先述した。
インド南部に基地を設けたポルトガル人は、17世紀はじめごろからバターソース・インド豆の粥・カルダモンとショウガをはじめありとあらゆる種類のハーブ・スパイス・果実で作られた料理をカリルあるいはカリと呼んでいた。
インドの料理「カリ」はインド人商人・インド人移住者・インド人軍勢による征服など、インド人の移動にしたがって世界中に広がって行った。そして行った先々で名や形や風味を変えて土着化した。こうして、カリというものの定義は困難さを増し、論争も不可避となる。だからコリーン・テイラー・センは最大公約数の定義付けをこころみた。カリとはいったい何なのか?
肉魚野菜を、粉末あるいはパスタ状になった種々のフレッシュスパイスで茹でたもので、白飯・パン・コーンミールその他の澱粉質と共に供される、というのがその定義だ。
グローバル料理となったカリは、イギリスでcurry、タイでgaeng、日本でkare raisu、モーリシャスでvindaille、ドイツでcurrywurst、米国でcurried chicken、南アフリカでkerries、ベトナムでca ri gaやca ri boなどというものに変身していった。
インドネシアではどうなったのか?kariというものがある一方で、gulaiという親戚もある。グライはカリが進化した土着化版だという説があるとはいえ、インドネシア人はそのふたつをまったく別の料理として認識している。もともとインドの家庭料理として興った定番の汁料理をインド人が行った先々に伝え、原住民が土着化させていく中で適応がなされたのだ。そのバリエーションのひとつがグライだということであるにちがいない。
イアン・バーネットは2011年の著書「スパイスアイランド」で、紀元前96〜50年の間、インド人、中でもタミール人が、エジプトのアレクサンドリア市場で売買するために、黄金・宝石・香木・シナモン・コショウ・丁子・犀角・象牙などの高価な商品を求めて東方へ航海した、と書いている。そこからスパイスはアラビア半島の各地やヨーロッパ、中でもローマに流れ込んだ。
かれらはその東方への航海で東南アジアの名もない海岸に上陸した。その足跡がスマトラ島北部にも印されたのは疑いがない。かれらはジャングルを抜けて高原に住む原住民を訪れ、かれらが求めている品物を売るよう原住民に求めた。かれらが欲していることがらが実現するまでに、何年もの期間を必要としたにちがいない。その間かれらは上陸した肥沃なデルタ地帯に居住し、地元民の娘を妻にして暮らした。(ベルナール・フィリップ・グロズリエ、2011年)
インド文化と地元文化の完璧な同化がこうして起こり、インド料理がマレー半島やスマトラ島北部に定着した。その中で、本国とは異なる新しい形と味覚のカリが誕生した。
ヌサンタラは東西交通の十字路に位置しており、東は中国、西はアラブ、そして後になってヨーロッパ文化がこの地域を通過し、食文化に影響を与えた。通商がもたらす文化の影響以上に強烈だったのは植民市支配による影響だ。帝国主義以上に強い食文化への影響源は存在しない、とフェリペ・フェルナンデス・アルメストは書いている。
帝国主義は西洋人が重視する商品を産する土地に向けての西洋人の進出を促した。その商品のひとつがヌサンタラのスパイスだ。帝国主義はまた、奴隷と労働力の形で人間の移住を促した。人間は育った食文化を持って移住先に住み、そこに新たな食文化を形成させた。
ただし、そこに起こった作用は決して一方向ではない。征服者は植民地に自らの食文化を持ち込んだだけでなく、植民地の食文化をも取り込んだ。東洋の植民地で得られるスパイスは、西洋の淡泊な食事に豊かなアロマと味覚のメリハリを与えた。オランダ人はヌサンタラの食文化をそのまま持ち帰り、ライスターフェルという名の食宴形態を作り出した。ライスターフェルとは、英語になおせばrice tableとなる。
食文化というのは元来、地元の風土によって育て上げられたものだ。環境・信教システム・文化・経済・政治などの諸要素が、その生育に影響を及ぼしてきた。ペニー・ファン・エステリックは著書「東南アジアの食文化」の中で、東南アジア諸民族の文化にさまざまなコントラストが見られることに触れている。海岸部〜内陸部、高原部〜低地部、米食〜芋食、水田〜畑、宮廷〜田舎・・・。それらのコントラストがバリエーションに満ちた食文化を育んだ。
食べ物とは文化の産物なのである。人間が調理を知らない時代から現代の調理技術が豊かに開花した時代に至るまで発展を続けてきた文化なるものとともに歩んできたのだから、食べ物と文化は切り離すことのできないものなのである。
アチェはカリだ。スパイスの香りは世代から世代へと伝えられてきた。アチェでは、カリは家庭の中で相伝されているだけでなく、コミュニティの中でも連綿と伝えられている。そういう仕組みが作られ、維持されてきたからこそ、そういうことが可能になっているのだ。
アチェの村々では、イドゥルフィトリのような村をあげて行われる祝祭で、村の料理人がいて大量の料理を作り、その味をチェックして合格あるいは不足を判定する味監査人がいる。味監査人が首を縦にふらない限り、礼拝所に集まっている村人たちの皿にカリが注がれることはなく、祝祭は始まらない。
家庭のカリも、母から娘へと伝えられる家庭内での閉鎖的なものでなく、村のパサルでスパイスを調合している専門家の手を借りる傾向が強まっている。
バンダアチェ市内のパサルストゥイ2階の隅は、毎日たくさんの買物客で混みあっている。アスベル・オス・メリさん48歳のスパイス売り場がそこにある。常連客からカッ・メリと愛称されているメリさんは、自分で調合したスパイスをそこで売っている。
「今日は何を作るの?」とメリさんに優しく尋ねられた客は、「鶏を2羽使うカリよ。」と答えて5千ルピア札を一枚渡す。メリさんは調合されたカリスパイスを必要な量だけ袋に入れて客に渡す。
市内に住む主婦であるその客は、カッ・メリのおかげで、台所仕事はたいへん助かっている、と語る。「アチェ料理はたくさんのスパイスを使うので、とても複雑なんですよ。全部自分でやったら、時間がなくなっちゃうわ。そしてスパイスの配合がうまくできないと、味がおかしくなってしまう。苦労の挙句、味がまずいって言われたら、まったく割りに合わないでしょう。」
鶏のカリやピディ風ヤギカリを作る場合、使われるスパイスは22種類が普通で、ひとによっては24種類も使うひとがいる。そんな大量のスパイスをすりつぶして調合するとき、各スパイスの量が適正なものになっていなければ、味とアロマのバランスがおかしくなる。どのスパイスが利きすぎているのかを判断し、その欠点をカバーするための他のスパイスをどうしていくのか、といったことが的確にできる人間はそうざらにいるものでない。普通の人間は、それを修正しようとしてますます深い落とし穴に落ちていくのが関の山だ。だからカッ・メリの存在が光るのである。カッ・メリの店には平均して一日に2百人超の客がやってくる。ラマダンの始まる二日前にあたるムガンの日には、一日に千人を超える客がやってくるそうだ。カッ・メリはこの店を1980年代に母親から譲られた。
アチェの民衆にとって、用意された料理の中に肉カリがあると、それは特別の宴になる。アチェ人は美食家なのだ。1612〜1614年に東インドを航海したトーマス・ベストの手記には、オランダ王国の使節としてアチェ王国を訪問した際に、スルタン・イスカンダル・ムダはかれを4百種類の肉料理で饗応したと記されている。
その伝統は現代にまで脈打っており、アチェ人の食事を見るなら、飯を盛った皿におかずが必ず3〜4種類載っているのを目の当たりにする。毎日の食事でそうなのだ。アチェの家庭は毎回の食事におかずを3〜4種類用意しているのである。バリエーションに満ちた数種類のおかずが用意できるのは、どの家庭も多種類のスパイスを自宅の庭に植えていたからだ。しかし現代アチェ人はその伝統から離れつつある。スパイスを自分で植え、自分で処理し、自分で調合して調理に使うのは、手間がかかりすぎる。だからカッ・メリのようなスパイス調合人の存在が価値を持つようになる。カッ・メリはバンダアチェ市内の数百軒の家庭で調理人の機能を果たしているというわけだ。どんな素材をどのくらい使うのかをカッ・メリに言うだけで、必要な量と質のスパイスソースが手に入る。
村をあげての祝祭となると、様相は異なる。アチェの村々には祝祭の宴を支えるカリ料理人が村びとの中におり、料理人が作ったカリ料理が伝統の味に即したものであることを確認するための味監査人がいる。料理人も監査人も必ず男性がなる。男は一頭二頭のヤギや牛を料理するが、女は1キロ2キロの肉を料理するだけだ、とピディジャヤ県ウリム郡ププ村の味監査人は述べている。
マウリッの日、味監査人は料理人である自分の甥が作ったヤギカリの味見をしていた。ヤギカリの入った巨大な鍋からカリ汁をすくった監査人は、それを口に含むとしばし沈黙した。カリ汁の中で舌を泳がせているのだ。緊張に包まれた料理人の表情は礼拝所に集まった村人たちにも伝染している。
しばらくして、味監査人は深くうなずいた。その日のカリは祝宴にふさわしいものであるという太鼓判が捺されたのだ。緊張していた空気がほぐれ、料理人の顔は安堵に包まれる。村人たちの表情にも喜びの色が流れた。村人たちはすぐに飯の置かれた皿を持って整列する。その皿に巨大な鍋からカリが注がれる。
味監査人ラザリ氏はププ村になくてはならない存在だ。ププ村のカリのクオリティはかれの舌に負っている。実はその日のカリの出来に、ラザリ氏は完璧な満足をしたわけではなかった。「四種類の希少スパイスを料理人は使わなかったようだ。昨今、それを探すのはもちろんとてもむつかしいことなのだ。」
ラザリ氏は若いころからカリ料理を作る経験を重ねてきた。最初かれはアチェ麺の商売を手伝っていた。そこでかれの才能が研ぎ澄まされたのだ。1960年代にかれは村の料理人になり、祝宴のためのカリを作っていた。1990年代には、押しも押されもしない村随一の料理人になり、数日間続く祝宴のためにかれは毎日料理をした。
優れた料理人がみんなそうするように秘蔵の調合スパイスを持ち、だれにも愛される味をみんなに供した。かれはスパイスを24種類使い、調合は目分量で行った。量や重さを量ることなどしなかったということだ。使われる鍋のサイズに合わせてスパイスの量を適宜調整しただけだそうだ。
かれは十年程前、甥にカリ作りの秘伝を教えた。今やその甥、ムハンマド氏は村随一のカリ料理人という評判を得ている。村で公的私的な祝宴があれば、ムハンマド氏に料理のオーダーが舞い込んでくる。かれら料理人はたいてい、まだ若い時期から親族の指導下にカリ料理を作ることに親しみ、その若者が十分なレベルに成長したとき、親族は若者を世に放つ。若者は祝宴を求めて郡や県の他の村々を巡り、自分の才能を磨いていった。アチェのカリのクオリティを支えているのがかれらなのである。


「カリ伝来史」(2016年5月10〜19日)
風上の地から風下の地に向かう海上貿易ルートは古代から連綿と生き続けてきた。
中国と地中海世界を結んでアジア大陸内陸部を通る交易路にシルクロードという名称が与えられて世界中に流布し、それに触発されて中国南部の諸港から東南アジア島嶼部を経てインド洋北岸沿いにアラビア半島に至る海上交易路も、海のシルクロードという名称で拡大解釈されるのが世の通説になっているようだが、真の実態を把握しえないままに本質の周辺を空転している誤解がそれであることを東南アジア島嶼部の歴史家たちは主張している。
海のシルクロードと呼ばれている海上交易路を通過する船の積荷の大部分は東南アジア島嶼部に産するスパイスだったのである。たとえ中国の交易船が中国の物産を満載して東南アジアまで南下してきても、その積荷がそっくりそのままインド洋を渡るようなことはほとんど起こらなかった。なぜなら、東南アジアから西方のインド・ペルシャ・アラブに向かう船の主な積荷はスパイスだったのだから。
中国の交易船が東南アジアから帰国する際にも、地中海世界の物産でなくスパイスを中心にナマコや漢方薬の素材など東南アジアで産するものが?積荷のほとんどを占めていた。この海上交易路が中国と地中海世界の物産を取引するためのルートでなかったことは明らかだろう。その海上ルートを使って船を乗り継げば、確かに中国からローマまで行くことはできるだろうが、中国や地中海世界の交易品がその流れに乗っていたのではなかったということだ。インドネシアの歴史学者たちはその海上貿易ルートを、海のシルクロードという名称でなく、スパイスロードという呼称に変えるべきだと主張している。
アラブ人がモシム(mausim)と呼んできたアラビア海からインド洋沿岸部一帯にかけて吹く季節風は、一年の半分を南西から東に向かい、残る半年は北東から西に向かう。航海に長けたインド洋沿岸部の諸民族はその風に乗って東方に向い、風向きが変わるのを待って西にある故郷に帰った。
元々、モシムというのは季節を意味するアラビア語であり、ムシム(musim)という発音でインドネシア語の中に定着した。そしてモシムに由来する季節風をインドネシア人はアギンムソン(angin muson)と呼んでいる。英語のモンスーンはポルトガル語あるいはオランダ語に由来しており、いずれにせよ西洋人はその語をアラビア語もしくはヒンディ語から取り込んだようだ。
古代に行われた航海のありさまは、ボロブドゥル壁画に刻まれた船やペルシャの千一夜物語の中にたどることができる。かれらの航海は、東方(つまりインド洋東端)の地で産出する希少物産を手に入れるための通商を最大の目的にしていた。中でも、コショウ・丁子・ナツメッグは黄金や絹に匹敵する商品価値の高い物産であり、それらを含めた種々雑多なスパイスや香料がインド洋を東から西に運ばれてエジプトのアレキサンドリアに集まり、アラビア半島の各地からさらにその外郭地帯へ、また大ローマ帝国の首都ローマへと流れて行った。繁栄を謳歌するローマでスパイスは、ひとびとの味覚を豊かにするばかりか、医薬品として、あるいはセックスに効果をもたらすものとして珍重された。
そんな富に満ち溢れた繁栄するマーケットを背に持つアレキサンドリアに、アラブ人が、そしてインド人が商品を供給した。インド南部に居住するタミール人は、南西風の季節にベンガル湾沿いを東航してインド洋東端の島々に至り、黄金・宝石・香木・シナモン・コショウ・丁子・犀角・象牙などの売れる商品を探した。商品が満載できれば、船は西に向かって吹く風を帆に受けて帰郷していったが、すべての船がそんな幸運に恵まれたわけでもない。季節が変わってしまえば、また半年間船はヌサンタラの島のどこかで足止めを食うのだ。
そんな長期間にわたって人間の集団が異郷の地で暮らすには、さまざまなものが必要になる。故郷から持って来なかったものは現地調達するしかない。集団居住して安全を確保し、食糧を生産し、そして性欲の処理をする。名も知れないスマトラ島西岸部のどこかに上陸したかれらは、高原に住む原住民との交易を行いつつ、沿岸部のデルタ地域に集落を設け、稲をはじめとする食糧を栽培し、原住民の娘を妻にしてその期間を過ごした。
そんな古代インド人集落の例を、われわれは北スマトラ州インド洋岸にあるバルスに見出すことができる。今は落ちぶれて繁華さを失ってしまった田舎町でしかないバルスは、やはり似たような運命をたどったアチェ州インド洋岸最南端のシンキルと隣り合わせの位置にある。 紀元2世紀にアレキサンドリアに住んで「地理学」を著したプトレマイオスは、はるか東方の島々の中に樟脳を産するバルサイの5島がある、と書き残している。そのバルサイが現在のバルスを意味していると考えられているのは、ヌサンタラのひとびとが昔から樟脳をカプルバルス(kapur Barus)と呼んできたからだ。ヌサンタラの各地から、そして遠い海のかなたから樟脳を求めてやってくる商人たちはバルスの港市でそれを得た。
カプルという語は石灰を意味しており、昔のひとびとは石灰と樟脳の粉末に類似性を感じたのかもしれない。だからこそ、樟脳はバルスの石灰と呼ばれる必然性があったようにも思われる。カプルバルスはバルスに住み着いたタミール人が一手に扱ったと言われており、タミール語ではカーピラム、またアラブ語でカフール、後からやってきたポルトガル人はカンフォラ、オランダ人はカンファと呼び、続く英語はおなじみの通りカンファ―となっている。どうやらそのように一回りしてから西洋人が使っている単語にならったのだろうか、現代インドネシア人は樟脳のことをカンプル(kamper)と呼んでおり、カプルバルスなどと言おうものなら、ジャドゥル(jadul)だと笑いものにされるかもしれない。
紀元1〜2世紀ごろ栄えたクシャナ朝のカニシカ大王の侍医を務めたチャラカの記録にもカルプラつまりカプルは登場するし、ラマヤナやジャタカの物語にも垣間見られる。いかに古い時代から、タミール人がスマトラ島西岸部とインド亜大陸の間を往復していたか、ということがそこからわかるにちがいない。
1873年にバルスのロブトゥアという場所で発見された石碑は、既述のストーリーが事実であったことを裏書きする遺物であり、タミール語で書かれたその碑文は1932年にインド人歴史学者ニラカンタ・サストリが分析して紹介した。サカ歴1010年(西暦1088年)に作られたその碑文の存在そのものが、当時バルスにタミール人社会が存在していたこと、そしてその社会に石碑を作る能力を持った工人が存在していたことを示している。
1995年から2000年まで、フランス極東学院とインドネシア国立考古学研究センターが共同で行った発掘調査で、古代のタミール人がバルスと外界の結びつきにどれほど貢献していたかが明らかにされた。なんとロブトゥアの地中から、6百キログラムにのぼる陶器の破片が出土したのだ。そのほとんどは往時にペルシャ湾に近いインドの地で焼かれたものだった。
加えて、中国産の高級品遺物も発見されたし、9〜10世紀にメソポタミアで作られた焼き物の破片が1千個、ビーズ、金属、レンガ、金貨なども見つかった。ロブトゥア一帯が当時どれほど繁栄を謳歌していたかということが想像できるだろう。ところが、ロブトゥアは12世紀以後の時代を示す遺物を何一つわれわれの前に提示してくれない。ロブトゥアは突然大崩壊をきたしたのか、あるいは見る見る衰退していったことが、それから推測できるのである。いったい、何が起こったのだろうか?
歴史学者クロード・ギュイヨーは、グルガシ(gergasi)の襲来によってバルスは崩壊した、と語った。グルガシというのは、地元民話に登場する海からやってくる巨大な怪物のことだ。
これまで歴史学界はグルガシを海賊のことではないかと推測して来た。ところが2004年12月26日のインド洋津波大災害が発想の転換を促したのである。最近になって、技術応用研究庁の津波専門家がケント州立大学研究者その他5人の研究者と共同で、1290年から1400年までの間にスマトラ島西岸部を巨大な津波が襲った形跡を発見したと公表した。事実、1995〜1998年のロブトゥア発掘調査で発見された古代遺物はすべて、厚さおよそ1メートルの海砂の層の下に埋もれていたのである。
栄華を誇ったバルスの港市が、ある日突然海からやってきたグルガシのためにあっけなく全滅したのかどうか?もしもグルガシが人間性のものであるなら、バルスは徐々に衰退していったにちがいない。しかしグルガシが津波のような大自然の神業であったなら、バルスは瞬く間に地上から姿を消しただろう。しかし人間というのは、そう簡単に全滅しないものだ。たとえ大惨事が起ころうとも、その中でかろうじて生き残ったタミール人たちは、生き延びるための場所を求めて他所へ去って行ったにちがいない。
もともと、スマトラの原住民たちは高原部に住んでいたため、海岸部はやってきたタミール人が住み着くための場所となった。そのひとつがきっとバルスなのだろう。北スマトラ州カロ県の郷土史家ブラフマ・プトロ氏はその著書の中で、ロブトゥアのタミール人はシンパンキリ川とシンパンカナン川伝いに内陸部に向った、と書いている。
シンキル川を進んだひとびとはアラスからガヨにまで達した。ルヌン川に向ったひとびとはカロに至った。チヌンダン川を伝ったひとびとはパッパッ地方に入った。カロに移ったタミール人は結局カロの氏族(marga)のひとつスンビリン氏に所属して血縁を結び、スンビリンシゴンバンという分氏を興した。今ではスンビリンシゴンバンというマルガには十五の枝氏が含まれている。
エイクマン分子生物学研究所が行った遺伝子研究によれば、ガヨ人とカロ人の遺伝子には南インドのひとびとの遺伝子が混じった痕跡が見つかっている。そればかりか、カンボジャとベトナムのひとびとと同じものも混じっているそうだ。
1万2千年前、氷河期の最中に人類の祖先はアフリカから後インドを経て、当時アジア大陸とつながっていたスマトラまでやってきた。そしてその地を居所とし、山や高地に上って定住した。ガヨやカロはかれらが選んだ場所のひとつだ。かれらは狩猟と採集で糧を得ていた。氷が溶け始めると、北のアジア大陸から南へ向かう新石器ルート沿いに人類の移動が起こった。フィリピンからスラウェシに移った後に他の島々に散らばったほかに、マレー半島からスマトラへのルートも生れた。この時期に移動したひとびとは耕作栽培の技能を持っていた。アチェ内陸部のガヨ種族はそのふたつの流れが合一したものだ。
言語面を見るなら、ガヨ語にはオーストロネシア系の特徴が顕著に見られる。「食べる」を意味するガヨ語のmanganはジャワ語とまったく同じであり、フィリピンのカパンパガン族も同じ単語を同じ意味で使っている。
インド文化の影響は、料理や調理器具の名称にサンスクリット語が使われている点に表れている。たとえば、陶器の水入れ容器はサンスクリット語でkundikaと呼ばれるが、ガヨではkeni、ジャワではkendi、バリ語はkundiとなっており、アチェ語だけはgeutuyoengという異種のバリエーションになっている。
スマトラ島原住民は最初山岳部に居住して発展し、後になって海岸部へ進出したという見解が専門家の間での定評になっている。世界中の多くの地方で一般的な海岸部の低地やデルタ流域で農耕が発展したのとちがい、スマトラはブキッバリサン山岳部の高原にある渓谷が農耕の発端だった。トバ湖周辺では水稲耕作が5千年も前から行われていたが、海岸部で水田が作られるようになったのは16世紀以降であり、それもアチェ北部西岸の狭い平地で始められている。
歴史的には、ガヨやカロの高地に住む原住民とタミール人の接触が先に始まっているにもかかわらず、インド料理の影響はアチェやメダンにはるかに濃厚な影を落としている。豊富なスパイスに彩られたアチェ料理やココナツミルクのこってりしたメダン料理とは似ても似つかない、スパイスに乏しい料理がガヨやカロのものだ。高原部の料理は、コショウに似た原生植物アンダリマンの辛さと酸味を主体にするもので、アンダリマンはガヨ、カロ、バタッ族の土地でしか採れない。かれらの料理にはカリソースもココナツミルクも使われない。
ガヨの郷土文化人ユスリン・サレ氏はその理由を、畑作種族のライフスタイルがその結果をもたらしたのではないかと推測する。かれらは自宅を出て、何日も、時には何か月も、耕作地の小屋で暮らす。畑地の世話をするので忙しいため、食べ物を探したり、食材の加工に手をかける暇はあまりない。結局、畑の一帯で手に入るスパイスを使って手軽に調理することをかれらは選択した。トウガラシ・アンダリマン・柑橘類のアサムジャリン・淡水魚などが食材に取り上げられて、こうしてガヨ料理は、調理が簡単、素朴なスパイス、日持ちがする、といった特徴を持つようになった。
そのような現象が起こり得たのは、タミール人のガヨやカロへの移住が少人数で徐々に行われたためだろう、とメダン国立大学教授は分析している。もし大人数が一度に移住してくれば、同一文化の集団が自分たちのコロニーを作るのが順当だからだ。コロニーができれば、移住者集団の文化がその中で生き続けることになる。そうならない場合は、来住者が先住民の文化に溶け込まざるをえない。来住者が持ってきた文化は先住民に受け入れてもらえる範囲でしか示すことができず、そして世代交代によって消失していくのである。ならば、アチェやメダンでは、いったいどのようなプロセスでカリ料理が確立されていったのだろうか?
ナングロアチェダルッサラム特別州の州都バンダアチェから東におよそ30キロ離れた寒村ラムレ(Lam Reh)には、15世紀初期に勢力を強めたラムリ(Lamuri)王国があった。墓碑に刻まれた碑文によれば、1419年に没したマリク・シャムスディン王以来、ラムリ王国の威勢を高めた十人の王たちの存在が明らかになっているものの、15世紀後半のデータが得られておらず、この王国についての全貌はまだおぼろげにしかわかっていない。
1496年、ラムリ王スルタン・アリ・ムガヤッ・シャーは王国を西のバンダアチェに移してアチェダルッサラム王国を興し、ダヤ、プシル、ロディ、ファクールなどの近隣諸国を斬り従えて拡張し、続く諸王の時代には更にスマトラ島北部東岸の強国だったパサイやアルをも征服してスマトラ北部の覇者となった。
ちょうどそのころ、マラッカ海峡でおよそ百年間栄華を誇ったマラッカ王国も繁栄の頂点にあったが、インドのゴアにアジア経略の拠点を置いたポルトガル人がマラッカ征服を目指して軍船団を送り、ポルトガル船隊は1511年8月10日に砲門を開く。戦闘はちょうど二週間続けられ、マラッカ王国はついにポルトガルの軍門に下った。マラッカのスルタンは南方に逃げ、兵力を調えては失地回復を試みたものの、一度も成功しなかった。
東西南北から物産が集まってくる東南アジア最大の港市がこうしてポルトガル人の手中に握られ、スパイス交易の利益追求とイスラム勢力の力をそぐことをアジア進出目的の両輪にしていたポルトガル人の採ったマラッカ市場経営方針に反発するイスラム商人たちは、マラッカをボイコットする姿勢を強めた。
アチェがマラッカの代替地として名乗りを上げたのは、当時のそんな状況を背景にしている。アチェは拡大した領地でコショウの栽培を励行させ、それをバンダアチェに集めてコショウの大交易市を作り出した。アラブ、インド、ヌサンタラのムスリム商人たちはインドとマラッカを拠点としたポルトガル船の航路を避け、スマトラ島西岸から紅海に至る新航路を開設してスパイスロードに商品を流すことに専心した。ムスリムの支配下にあるスパイスロードを叩き潰そうとしてポルトガル軍船がムスリム商人の船に襲い掛かる事件は頻発している。それにもめげず、バンダアチェから西方に向けて積み出されるコショウは膨大な量に達し、1550年代のヨーロッパにおけるコショウ需要の半分をアチェ産のものがまかなったと言われている。
マラッカの繁栄はアチェに引き継がれるが、アチェの独壇場は長続きせず、バンテンが競争相手に浮上したあと、バンテンでのオランダ人とイギリス人の勢力争いの果てにバタヴィアの誕生という歴史の流れが作られていった。
アチェがスパイス交易の大市場となったとき、バンダアチェに住む外国商人は増加した。地理的関係から、インド人が最大ポーションを占めたのは言うまでもない。同じ文化を共有するインド人はコロニーを作り、そうしなかったインド人はアチェ娘を妻にしてアチェ人社会に溶け込んだ。
1602年6月5日にアチェを訪れたイギリス人船長、ジェームス・ランカスターの手記は、インド人が外国人商人のマジョリティを占めていたことを裏書きしている。バンダアチェの港に投錨したランカスターは、グジャラート、ベンガル、マラバールなどのインド船が16〜18隻寄港しているのを目にしているのだ。その他にも、ミャンマーのペグーから来た船もあった。別の情報によれば、スリランカやコロマンデルとの通商も行われていたらしい。
1688年にアチェを訪れたウイリアム・ダンピアー(フランス読みはダンピエール)は、タミール人が奴隷としてアチェに連れて来られた話しを書き残している。「しばらく前にアチェで飢饉が起こったとき、イギリス人やデンマーク人がタミール人奴隷を農作業のために連れてきた。・・・・アチェ海岸部の住民に農業を最初に教えたのはかれらだった。」
王国初期の英傑たちから代替わりがくりかえされて、国威が停滞から後退へと下降しはじめても、インド商人らはアチェを見捨てなかった。オランダVOCがヌサンタラの要所を蚕食して通商交易の基盤を奪い取ってしまったあとも、アチェはオランダに屈服することなく独立を維持したが、アチェがコショウの大交易市だったことに加えて、香料諸島産のスパイスやその他の熱帯物産が豊富に集まる倉庫だった時代は昔語りとなり、主役の座はオランダVOCに取って代わられた。
それでもインド商人は引き続いてバンダアチェの港市に綿布を持ち込み、戻り船にはコショウ・砂金・蘇芳・パチョリ・硫黄・樟脳・香木などを積み込んだ。
ポルトガル人がマラッカを奪い、太平洋を渡ってやってきたスペイン人、そしてオランダ人・イギリス人がスパイス争奪戦を繰り広げ、ヌサンタラの諸種族はいやおうなしに、その戦争に巻き込まれていった。
アチェ王国初期に繰り返されたマラッカのポルトガル人との戦争以来、アチェは臨戦態勢を続け、1873年から1904年まで行われたオランダとのアチェ戦争の結果、アチェ王宮はオランダに降伏してその支配下に落ちたが、アチェ民衆はオランダに対するゲリラ戦争を継続し、インドネシア独立まで異民族の膝下に屈することを拒否した。
アチェ王国はマラッカのポルトガル人や、やはり非ムスリムである北スマトラのバタッ(Batak)人征服のための戦争に同じイスラム勢力の支援を求め、インド人のみならず、トルコのオスマン帝国からも軍勢を派遣してもらっている。遠路はるばるやってきたトルコ兵の中に、アチェに定住したひとびとがいたのは定説になっている。
更には、インドネシアの独立に際してアチェの民衆は資金協力を行い、スカルノ政府はその資金を使ってインドネシア最初の政府所有機を購入した。その第一号機はアチェ民衆の貢献を賞して「スラワ号」と命名された。スラワとはアチェ州の代表的な火山のひとつだ。しかしスカルノ政府の方針とアチェ民衆の希望が一致せず、アチェは反政府武力闘争に突入する。そんな戦争の時代が終わったのは2005年8月15日のことだった。
今では、純血アチェ人を探すのは難しいと言われている。アチェへ来れば、アラブ人、インド人、ベンガル人などさまざまな異民族の血が混じり合ったアチェ人の容姿容貌を目にするのが普通だとかれら自身が言う。中でもインド人は、今は消滅しているがアチェにもコロニーを作っていくつかのカンプンクリンを設けた。その痕跡はいまだにたどることができる。その痕跡のひとつが、アチェ料理の中に確立されたカリなのだ。アチェ人社会に混じりこんだ異国人の血はどうやらインド人のものがもっとも濃かったようであり、必然的にアチェ料理とカリは切っても切り離せない関係になっているにちがいない。
余談になるが、アチェ王国の誕生から2005年のGAM(自由アチェ運動)解散までの何世紀にもわたる長い戦時態勢下の暮らしは、アチェ人の食文化に影響をもたらした。アラニリ国立イスラム教大学人類学者は「戦争によってアチェ人の食文化、つまり食品・食の観念・食べ方などに他地方とは異なる特徴が生じた」と述べている。アチェ人の間でよく使われる決まり文句のひとつに、「さあ、食べよう。(食べておけば)戦争が始まっても、腹の備えはできている。」というものがある。
元GAM地方支部事務局長で、今アチェジャヤ県令の職に就いているアズハル氏は、その文句は真実だ、と言う。GAMが武力闘争をインドネシア国軍と続けていたころ、戦闘員のひとりだったかれはある夕刻、森から自宅の中に忍び込んだ。台所にいたかれの妻が「まず食べて。戦争が始まっても、腹の備えができているように。」と言う。かれはその言葉に従って、ありあわせのものを急いで食べた。食べ終わったとき、敵兵が数人、家の表ドアの陰に忍び寄って来るのに気付いた。台所の窓は開いている。かれは鹿の敏捷さで窓から飛び出し、森に向って死に物狂いで走った。敵兵が家に押し入ったとき、家の中には女子供しかいなかった。そのあと、アズハル氏は翌日の夜まで食べ物を得ることができなかった。腹が減ってはいくさができないのだ。
森の中でゲリラ戦を展開しているGAM戦闘員たちは、食べるチャンスがあれば必ず食べる。しかも急いで食べる。次にいつ食べることができるのかまったくわからないし、食べているときにいつ敵が近寄って来るかわからないからだ。
山の中から出てきたGAM戦闘員は、食事の態度を見ればすぐにわかるそうだ。皿をしっかりと握り、ほぼ2分間で皿の中身を残さずにたいらげる。急いで全部食べること、爆発の振動が突然起こっても、皿を取り落とさないように。そういう食べ方がアチェ人の一般的なスタイルになってしまった。
そこには、社会の中で定着した、戦争下に行う食事のスタイルに対する価値観が存在している。コミュニティ構成員は全員が戦闘要員であり、戦争を全身で背負わなければならない。それがコミュニティ構成員のあるべき姿なのだ。そういう食べ方のできない人間は、戦闘員として失格ではないか?同じコミュニティの一員として失格ではないか?社会がそういう価値観を持つなら、優れた人間と評価されるために個人はどうふるまうのが良いのか、おのずと明らかだろう。
同じことは、何を食べるか、どのように調理して食べるか、というポイントでも起こる。自分の地方では、GAM戦闘員はみんなマルハバンを持って行動している、とアズハル氏は語る。マルハバンというのは、瓜・コメ・砂糖と水を合わせて煮詰め、それに石灰を振って天日乾燥させたもので、干しデーツのような味がし、日持ちする。
ゲリラ戦の中では、山野に自生しているものを簡易な調理方法で食べざるをえない。そして、余分に作ることができた食べ物は日持ちするような作り方をして携帯食とするのである。しかし、すべてがそうだったということでもない。山や森に入ったGAM戦闘員たちの中には、敵の目を盗んで森に近い村に住む親類縁者の家を訪れては食糧の支援を受けている者も少なくなかった。
ゲリラ戦はアチェ戦争の時代以降であり、それまでのアチェ王国の時代は状況が違っていたのではないかと考えるのも、もっともなことだ。マラッカの繁栄を引き継いだアチェ王国に、まだ足場の固まっていないオランダVOCが派遣した使節を、スルタンは豊かな食事で饗応した。4百種の料理が出され、使節の警護に随行した数百人の兵士全員に行き渡る量が供された。その効果はてきめんで、使節一行はアチェの国力に驚嘆したと言われている。
しかし、そうやって示された国力というのは、民衆の豊かさとはまったく別の場所にある。民衆の生活を子細に観察した西洋人は、アチェでは米が豊富でなく、値段が高い、と書き残している。1602年にアチェを訪れたジェームズ・ランカスターの記録がそうだし、そのおよそ20年後にもボーリューは、「ペディ―ル(ピディ)やダヤ産の米は質が悪いため、アチェは半島(マラヤ)から米を輸入している」と書いている。
スマトラ島北部の広大な地域を支配する覇者となったアチェがどうして自国内で食糧を確保できなかったのか?それはバンダアチェを巨大なコショウ倉庫にしようとした王宮の方針の結果だ。領民は兵士に徴用され、残った者たちはコショウ栽培を強制された。全支配地域から厖大なコショウがバンダアチェに集まって来たのも当然だ。民衆の食糧栽培は最低限の量しか許されなかった。民衆は食糧不足という綱の上を歩きながらコショウを作っていたのだ。食ということがらが過酷な状況にあったのは、GAM戦闘員のそれと通じるものがあると言うことができるかもしれない。


「ムラユ風インドカレーはメダンで」(2014年3月21日)
何千年も前から、南インドに住んでいるひとびとがスマトラ島へ渡ってきた。スマトラ島に現存するヒンドゥ文化遺産がそれを証明している。香料や樟脳を求める小さな波は何度も何度もやってきたが、一番大きな波はきわめて最近の1880年代に起こった。キュイペルスとニンホイスが興したデリー株式会社がデリー王国領地のほとんどをスルタンから租借したとき、タバコ農園で働こうとする原住民がほとんどいなかったためにインドから数千人の労働力を呼び寄せたことで起こった。かれらが住み着いた地区を原住民はカンプンクリン(Kampung Keling インド部落)と呼んだ。最初は森の中に何軒かの家ができ、時とともに家屋の数が増加していき、そして名前もカンプンマドラス(Kampung Madras)と変る。
メダン市内テウクチディティロ通りで香辛料店を営むウィラ・クマレンさん66歳は、カンプンマドラスの昔を知っている生き証人だ。その名の通り、その地区はインド人部落であり、インドがそのまま切り取られてそこへやってきた観があった。カンプンマドラスの境界線になるムアラタクス通り沿いにはほんの数軒のインド人家屋しかなく、各家庭は牛を飼い、牛乳を使ってを作り、あるいは牛脂を使うなどして自給的な生活を営んでいた。だから各家庭がカレー料理を作るのに牛乳を使うのは当たり前だった。ところが、1960年代に入って急速な変化が起こった。牛がいたスペースはどんどんと狭まり、家屋が立ち並ぶようになり、牛たちが姿を消していったのである。牛乳を使ったカレーも同じ足取りで姿を消していった。
かつてカンプンマドラスからザイナルアリフィン通り、テウクウマル通り、テウクチディティロ通りの一帯は南インド出身者部落という色合いのきわめて濃い地区だったというのに、今ではそんな色合いがほとんど感じられなくなり、メダンというインドネシアの街が持つ彩の中に溶け込んでいる。インド人移住者の子孫たちもココナツミルクを使うムラユ料理の腕がますます上がり、カレーにココナツミルクを使うようになったそうだ。そして牛乳からココナツミルクへの転換はきわめて自然に行なわれたという。
メダンでインド料理の味が恋しくなったら、旧カンプンマドラス地区へ来ればよい。香辛料をたっぷりと使ったインド料理らしいインド料理を楽しむことができる。インド料理の辛さは、トウガラシやコショウなどの香辛料に頼っているのでなく、さまざまなスパイスの調合の中から生まれてくるものだ、とかれらは語る。ただし、インドからスマトラへ移住して既に四代目になったかれらが作るインド料理はインドのものと一味違う。スマトラあるいはムラユという独自の文化から生まれた地元料理を吸収したかれらが作るインド料理は、オリジナルのインド料理と違って当然だ。それは、どちらが美味いという問題でなく、文化的な融合が生み出したバリエーションなのである。少なくともムラユ型インド料理の方が自分たちの嗜好に会っているとかれら四代目たちが感じていることは間違いあるまい。
テウクチディティロ通りにあるレストランの料理人は言う。「使っている香辛料は同じなんですよ。インド原産のものもマレーシア経由で取り寄せています。ただ、インドやマレーシアのカレーと比べると、こっちのほうがマイルドです。汁も牛乳でなくココナツミルクを使っていますから。これがメダンで生まれたインドとムラユの融合作品です。」