「野蛮人!」


2013年6月5日19時前に、スリウィジャヤ航空SJ078便はパンカルピナン空港に無事着陸した。飛行機がターミナル前の停止地点に止まると前と後ろの扉が開かれ、乗客は足早にタラップを踏んで機外に降りて行った。客室内の乗客がかなりまばらになったころ、緊急出口脇の座席番号12Fに座っていた中年男性が立ち上がり、わざわざ後部扉のほうへ進んできた。
その便の客室乗務員のひとりヌル・フェブリヤニ愛称フェビーは機体後部で乗客が外に出るのを見送っていた。そのとき、その中年男性が怒りをあらわにしてフェビーの前に立ちはだかった。男は新聞紙を丸めたものを手にしており、それで一度機内の壁を撲ってからフェビーに怒りをぶつけた。「おまえ、無礼だぞ。もっと丁重な態度を取れっ!」

フェビーはびしっという音と一緒に頬に燃えるような痛みを感じた。驚いたフェビーは2メートルと離れていないインターフォンに飛びつこうとしたが、男はそうはさせじとフェビーの体を押さえて二発目をフェビーの左耳に繰り出した。頬よりも強い打撃を耳に受けたフェビーは男を押しのけてインターフォンを取り、操縦席に救援を求めた。それを見た男は早々に扉から外へ出てターミナルに向かう。

操縦席から飛び出してきた機長と男性乗務員たちが男を追いかけて捕捉し、詰問した。するとその男はますます怒りの炎を燃やして荒れ狂う。「このわしは乗客なんだぞ。王様なんだ。金を払って切符を買ってるんだ。あの女を懲らしめてやっただけだ!」

機長と乗務員たちは男をスリウィジャヤ航空事務所に連れて行こうとしたが、事務所はもう閉まっている。かれらは相談してフェビーにパンカランバル警察署に訴えさせることにし、フェビーはそれに従った。男は乗務員たちに既に名乗りをあげていた。自分はバンカブリトン州地方投資調整局長ザカリア・ウマル・ハディ理学修士である、と。

フェビーや同僚客室乗務員、そして座席番号12F近くに座っていた他の乗客たちの話を総合すると、ジャカルタのスカルノハッタ空港を飛び立つ前からSJ078便の中ではこんなことが起こっていたようだ。


スカルノハッタ空港でボーディングが開始され、乗客たちが続々と機内に入ってきて自分の席に座る。搭乗が終わると、客室アテンダントスーパーバイザーがウエルカムアナウンスを行なう。乗客の中には、携帯電話で外部との会話を続ける者もあれば、手にした携帯電話をいじくってSMSを送る者もいる。SOPに従って、アナウンスの中では携帯電話の電源を切ってくださいという要請がなされたものの、その場で反応する乗客は少ない。
緊急扉横の座席に座っている乗客には、緊急事態に備えての協力要請とその協力作業の内容が説明されたが、12Fに座っている中年男性は携帯電話をもてあそび続けて、説明は一切無視している。そのとき説明のアシストをした別の乗務員が携帯電話を切るように一度注意した。

アナウンスが終わり、乗務員たちは乗客の見回りを行なう。しつこく携帯電話を使っている乗客に直接注意を与え、たいていの乗客はそれで電話機の電源を切る。ところが12Fの乗客はそれすら無視しようとした。
フェビーは12Fの乗客に直接注意する。「バパ、携帯電話の電源を切ってください。」
男は感情的な強い声で「もう切ったよ。」と返事した。ところが電話機には明かりがついている。フェビーはもう一度厳格な声で言う。「すみませんが、バパ、携帯電話を切ってください。」
男は怒りをあらわにした声で強く返事した。「もうアクティブになっていないぞ!」
礼節に欠ける対応を受けたと感じたフェビーはその男に尋ねた。「すみません。なんでバパはそんな態度をなさるんですか?わたしはただ携帯電話を切るようにお願いしただけなのに。」
男は顔をそむけて返事をしなかった。
ただそれだけの出来事がおよそ70分後まで尾を引いて、州政府の局長がスチュワーデスに暴行を加えるという事件に発展していったのである。


飛行機に乗るときには通信機器の電源を切るという規則はインドネシアでも同じように適用されている。ところが大のおとなが意識してかどうかわからないが、ありとあらゆる規則を堂々と破る。規則に従うのはその人間が卑小矮小であることを示すものであり、自分のほうが規則より上位にあるのだということを誇示しようとして行政高官からセラブリティなど社会的著名人に至るまでがあえて規則破りを行なっているような印象をわたしは感じる。あるときわたしは、テレビに頻?に登場している著名男性歌手と国内線の機内に乗り合わせたことがある。かれは周囲をバンドメンバーで囲ませ、機内で携帯電話を使い放しだった。そしてスチュワーデスたちは携帯電話に関する乗務員の職務など完全に忘れ去り、大スターに擦り寄っていくばかりだった。フェビーのつめの垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。


飛行機の場合はさすがに無賃乗客が出る可能性はゼロに近いような気がするが、鉄道だとまた話はちがってくる。ここ一年ほどの間にジャボデタベッコミュータ電車は無賃乗車者排除方針を大掛かりに準備してきており、2013年下半期には大きい成果があがることが期待されているのだが、こうなる以前はだれでもがどこからでも易々と駅プラットフォームに進入できており、無賃乗車者も少なくなかった。電車内で無賃乗車者を取締るために検札員がいる。検札員は乗車者に切符を示させ、切符を持っていない乗客や正当でない切符を示す者はその次の駅で電車から降ろすという強硬な対応をする。

検札員には男性もいれば女性もいる。荒くれの庶民を、おまけに金を払わないで電車を利用しようというあくどい連中を扱わなければならないのだから、女性検札員にはそれだけの度胸がなくてはつとまらない。無賃乗車という不正行為をはたらく連中を口汚く罵って、電車の扉から外へつまみ出すことのできる腕を持っていなければこの仕事はつとまらない。

ところがどっこい、あくどい連中はみんな男なのだ。そのような男たちが女をどれほど見下しているか。男に注意され、罵られ、電車の扉から外へ放り出されてもそれほど傷つかない自尊心が、同じことを女からされたとたんにどれほど傷つくか、これはそういう男尊女卑社会に入って肌で感じて見なければなかなか納得しづらい面を持っているものではないだろうか。


2013年6月6日夜、ボゴール〜ジャカルタコタ線のドゥレンカリバタ駅とパサルミングバル駅の間で女性検札員ファトゥナ・イカ・ハルヤティが乗車券を持っていない乗客4人を発見した。この4人は5人のグループで車内にいた者たちで、なぜかひとりだけが乗車券を持っていた。ファトゥナはその4人に対し、次のパサルミングバル駅でこの電車を降り、乗車券を買って目的地まで行くように命じた。
電車がパサルミング駅に到着し、5人は電車から降りた。だが乗車券を持っていない4人のうちのひとりは扉が閉まる直前に、ファトゥナの顔面にパンチを加えてから扉の外へ出た。同僚の男性検札員がそのできごとに驚き、ファトゥナに暴行を加えた男を捕らえようとしたが、あいにく扉が閉まったためにどうにもできなかった。一方、駅のプラットフォームにいた駅員は車内で暴行事件があったことに気付かなかったため、犯人が立ち去るのにまかせた形になった。
その夜、パサルミングバル駅で乗車券を持たずに改札口を通過した人間はひとりもいなかったことから、かれらはパサルミングバル駅で正規の出口でない場所を通って外へ出た可能性が高いと推測されている。

ファトゥナは左目が腫れてあざができており、国鉄はかの女を病院に送って治療させた。かの女が退院したのは翌朝だ。暴行事件の届出がパサルミング署に出され、被害者のファトゥナと目撃者数人が警察の事情聴取を受けた。犯人を含む5人のグループはまだ若い年齢の者たちで、勤め人風ではなかった、との証言を警察は得ている。


鉄道車両内の秩序整理に当たる検札員や車掌たち国鉄職員は、乗客からの暴行や威嚇あるいは抑圧などの被害を頻?に受けている。無賃乗車だけでなく、混雑する時間帯に折畳み椅子を使って立ちスペースを狭める行為や、車内持込が認められている折畳み自転車でなくマウンテンバイクを持ち込むというような車両内での規則に従わない利己的行為を注意した国鉄職員に暴力をふるったり、暴力をちらつかせておどかすといった実例は枚挙にいとまがない。アタッパーズ(atapers)と呼ばれる屋根上乗車者取締りのときに、屋根上乗車者が集団で取締り職員を襲撃したこともある。


パンカルピナン空港でフェビーに暴行を加えたバンカブリトン州地方投資調整局長の咆哮の中にもあったように、金を払って切符を買っている自分は王様なのであり、公共運送機関の職員は王様に仕える奴隷よろしく自分に奉仕するのが当たり前だという、サービスというものを履き違えた感覚を持っているインドネシア人は紛れもなく存在している。
そのような感覚がいまだに生き残っているがゆえに、サービスを提供するべき立場の人間がつっけんどんで横柄な態度で客に接するということもいまだに受け継がれている。

人間の対等コンセプトが確立されていない文化では、自分の生活共同体という意識が適用されている枠の外で出会う他人とは常に食うか食われるかの火花を飛び散らせながら接触するのが習慣になっており、そこで卑屈な態度を取れば相手から骨の髄までしゃぶられることになるため、見知らぬ他人へのサービスは往々にしてそのような現象を示し、もっと開かれた社会で当たり前のように営まれているようなフレンドリーでエンパシーあふれる対人接触がなかなか実現しない原因になっている。

サービスを受ける側が「自分は王様でおまえは奴隷」という対人姿勢を取るために、同じコンセプトを持つ人間がサービス提供者になった場合、どのようなサービスが行われるかは想像に余りあるだろう。あらゆることがご無理ごもっともという姿勢で対応され、今だけ喜ばせて帰らせればそれでよいのだということが行なわれ、痒いだろうと察して手を届かせることは控えられて、ここを掻けという命令を待つようになる。
インドネシア人の日常生活にアクセスできたひとはインドネシア人の気の利かせようを褒めるのだが、そんな機会を持たずに商店やレストランで店員のサービスに触れただけのひとはインドネシア人の気の利かなさをこきおろすという、不思議な矛盾がこうしてわれわれは眼前に出現するのである。


話がそれてしまったが、パンカルピナン空港に降りたスリウィジャヤ航空SJ078便の機内で起こった行政高官によるスチュワーデス暴行事件は全国的な大事件としてマスメディアの報道ネットワークに載せられた。それに触発されてジャカルタ在住のメリア・スジト氏がコンパス紙ネットサイトに6月8日付けで掲載した論説をご紹介しよう。


成人向けと指定された映画を見ようとした大人の男性が小さい子供を連れて館内に入ってきたのを映画館職員が止めようとしたところ、その男が職員を殴ったという事件についての論説をしばらくまえに書いたばかりだ。こういうことが起こると、乱暴な消費者を怖れて職員や店員は客に決まりを厳格に守らせる姿勢を取らないようになる。
ところ変わっても品変わらずだったようだ。今度は機内キャビンで携帯電話のスイッチを切るよう求められたことに腹を立てたバンカブリトゥンの行政高官がスリウィジャヤ航空のスチュワーデスに暴力を振るう事件が起こった。スリウィジャヤ航空側がその高官の名前をブラックリストに加えて永久にスリウィジャヤ航空に乗れないようにしたその対応は、声援を贈るにふさわしいものだ。

続いてその翌日、電車内で無賃乗車者が女性検札員を殴打する事件が起こった。無賃乗車者だけでなく、折畳み椅子を使ったり、自転車を電車内に持ち込んだり、電車の屋根に乗っている電車利用者が国鉄職員に暴力をふるっている実態も明らかにされた。

それらはわれわれの耳目に届いたほんの一握りの話だ。インドネシア社会で起こっている同じようなことがらは山ほどあるにちがいない。それらのことがらから、われわれはどんな結論を引き出すことができるだろうか?ある印刷メディアは、スチュワーデスに対する殴打事件が起こったのは航空安全手続きの確立がお粗末である実態を反映している、と評した。問題はそんな単純なものではない、とわたしは見る。職員や従業員に客が暴力をふるうというそれらの事件にわたしはもっと別の疑問を抱く。わが民族は十分に文明化した民族なのだろうか、という疑問を。

諸外国があれほど清潔で秩序立っているのを見るにつけ、哀しみと羨望が心の中に湧いてくる。出自が同株のマレーシアですら、かれらのほうがはるかに清潔で秩序立っている。そのようなことが他国では実践できているというのに、どうしてインドネシアではできないのか?その答えはきわめてシンプルなものだ。かれらはわれわれよりずっと文明化した民族だからだ。

インドネシア語シソーラスに文明(adab)の類語として登場しているのは、akhlak, budaya, (budi)pekerti, etika, kebajikan, kesusilaan, kultur, moral, tata susila, adat, bahasa, etiket, kepatuhan, sila, sopan santun, tata krama, etis, etos, ideal, nilai, pandangan hidup。文明的であること(beradab)とは、adib, berakhlak, berbudi, bermoral, bersusila, elegan, santun, sopan, tahu adat, tahu etiket, berbudaya, berbudi, berkemajuan, bertamadunなのである。

原因は何であり、解決策は何なのか、という問いの答えはシンプルなものではない。なぜなら、インドネシア社会階層の底辺から最上部に至るすべてにわたって、わが民族の文明度の低さを証明する例は満ち満ちているのだから。その例を少し挙げるなら、雑魚から大物に至るまで腐敗行為や贈収賄がはびこっていること、謹厳な宗教人を自認する高位高官たちの非倫理的行為、民族アイデンティティの欠如、あらゆるセクターで行なわれている法規違反=そのひとつは交通法規を順守しないことでありその多さは想像を絶している、国有地の不法占拠、暴力、強姦、バンドンのフリーセックスコミュニティ、等々等々。あまり関心をもたれていない他の現象については、場所などお構いなしにごみを撒き散らす行為が挙げられるが、そのビヘイビアは階層を問わない。あるいはまた、公道における自己中心的で傲慢な姿勢と硬直的な思考を持つ運転者のふるまいを挙げることもできる。それについては、金持ちもそうでない人間もまったく同じだ。あれこれすべてについて言及していけば、一頁はすぐに埋まってしまう。

自分自身を文明人に変革するためには、完璧な自覚が必要とされるのであり、非文明的な他人の姿を目にして嘆息しているだけでは駄目なのだ。だれか他人が間違いを犯したことを指摘し、他の者もみんなが同じようにその者の非を言い立てたところで、その間違った行為を犯した者が自分自身に批判を向けることができなければ何にもならない。
自分の姿を鏡に映して見ようではないか。はたして、われわれは文明人になっているだろうか?
ライター: 社会オブザーバー メリア・スジト
ソース: 2013年6月8日付けコンパシアナ "Ini Kisah Nyata"


日本語の「文明」に対応するインドネシア語は辞書で「peradaban」となっているが、メリア・スジト氏の論説の中でわたしは「adab」を「文明」と訳した。アラブ語としてのadabはムスリムが行なうべきあらゆる善行を指している。それはイスラムの教義に照らしてより正しく優れた人間たらんとすることであり、ムスリムとして自分がどうあるべきか、何をどう踏み行なうべきかに関する指針なのである。ここで用いられている人間観は獣的要素から脱却して神的要素を深めていくのが人間の正しいあり方であるという原理に伴われており、この人間観はキリスト教との共通性を感じさせるものだ。

人間関係における礼儀、社会生活での倫理道徳、繊細な精神活動、他者との融和や協働協力、日常生活における賞賛されるべき態度や生活習慣などを「adab」という語は指しているのだが、人間を獣的要素から引き離してより高位の存在に押し上げていくのが文明の目標であるという見地に立つなら、上の論説の文脈においては、包括的原理である「文明」という語を使っておくほうが解りやすいだろうと考えた。
「adab」を「文明」と捉えるのであれば、反対語の「biadab」は「野蛮」ということになる。bi-という否定接辞は「まだそこまで至っていない」「不足している」といった意味を与えるものであり、「文明」の対義語である「野蛮」を「biadab」の訳語とするのはおかしくないだろう。「adab」「biadab」はインドネシアでそういう意味で用いられている。他の文化で「野蛮人!」とひとを罵るとき、インドネシアでは「biadab!」という言葉が使われる。


日本では「文明」と「文化」という言葉が混用されており、概念の明確な弁別が失われてしまっているようにわたしには感じられる。文明が野蛮という対義語を持っており、文化は対義語を持たないのだという点から本来の概念を推察するなら、「文化」という語が、より善いもの、より優れたもの、の意味で用いられている現象はその混乱の最たるものだろうという気がするのである。貴賎・優劣・正邪・善悪・賢愚といった人間が拠りどころとする価値は文明が創り出したものであり、各価値項目が持っている尺度のどのポジションに位置するかでより優れているかより劣っているかの判断を下すことができる。そのような目盛りスケールを持たない「文化」が絶対観念として優れたものを示すならまだしも、比較という相対的な観念に沿って使われるのは、どう見ても論理的な整合性に欠けている気がする。

「汚職は文化である」「不倫は文化である」といった言葉に腹を立てるひとをときどきお見かけするのだが、文化というのは文明によってもたらされた複数の価値を基本原理に置き、その柱を枠組みとして構築された人間の行動パターンの集大成でしかなく、よって文化は自己完結的であり、そして秩序を伴って統合された社会システムだという理解をわたしはしている。
社会システムの中のあらゆる要素が善だけで片付くわけがなく、邪もあれば、悪もなしには済まない。汚職や不倫が世の中に満ち満ちている社会もあれば、完璧に消滅したわけではないものの影をひそめている社会もある。それらが満ち満ちている社会は、たとえ悪徳の栄えを意図していなかったにせよ、文化を構築しているさまざまな価値の中にその存在を許容し、あるいは帰結としてそれを完璧に抑え込むことをその社会構成員に躊躇させている価値が存在しているということだ。だからそのような社会における汚職や不倫はその社会を構成している文化の落とし子なのであり、文化の一部を形成しているものなのである。


ところで、文明の対義語を野蛮および未開としている表明をインターネット上のあちこちで目にするのだが、形式という要素をそこにかみこませたとき、未開の対義語を文明とするのはおかしいという思いをだれしも抱くにちがいない。未開の反対を既開とするのは学校生徒であるとしても、どうも開化という言葉が世の中で忘却されてしまっているようにわたしには思われる。文明の対義語は野蛮であり、未開の対義語は開化だとしたいものだ。

開化⇔未開というのは、ひらけている⇔ひらけていないという対立概念を指している。密林や荒地を開拓して、人間の生活をより豊かなものにするべくその土地を利用する。たとえば荒野をひらいて田畑を作り、耕作をはじめる。それまでの狩猟という不安定な生計に頼っていた未開時代からの訣別だ。おまけに採取という低い生産性がもっと効率の高い生産性へと移行する。それが文明というものの目標であり機能なのである。ひらけた地方というのは、未開な状態を捨て去って進歩して行った地域を指して言う言葉であり、また人間に関しても、閉鎖的なムラ社会で培養された精神から見知らぬ他者との協調や融和といったより広い精神構造への成長をひらけるという言葉で言い表すことができる。単に、ものわかりがよく人づきあいのよい人間だけがひらけた人間なのではない。広い視野と整合性一貫性のある論理を持って知識を吸収しているからこそ、その人物はひらけているのである。それが啓蒙ということだ。

そうなると、文明⇔野蛮と開化⇔未開というのは同じものを多面的に見ているだけだという解釈も成り立ちうる。しかしわたしはここにも、文明と文化の概念の混用を感じるのである。まず、それらは同根だという考え方に関して言うなら、たとえ共通の本質を持っていたとしても、ものごとには本質と共に形式があるということを忘れるべきではあるまい。
もうひとつ、本質自体について触れておくなら、人類にとって農耕の発端が文明であるのは間違いないにしても、英語の概念に従えばカルチャーは日本語の文化に対応させられている。それについてはやはり、文明がもたらしたのは価値という原理であり、その原理に応じて人間が日常生活の場で実際に行なっている行動様式やパターンなど、目に見える現実性を伴っているものが文化なのだという理解へと舞い戻っていく。農耕ということがらについて、何をどのように行なうのかということは、やはり文化に属すものではないだろうか。ということは、文明⇔野蛮と開化⇔未開というのは、同じひとつの山を東からと西から見ているだけの違いというのではなく、片方は山頂を鳥瞰的に見ている一方、他方は山の稜線に焦点を当てているというような違いになってくる。


英語の概念について言及しついでに、シビリゼーションについても触れておこう。この文明というものは、人類が社会や共同体を作る中で出現してきたものだ。人類がケダモノのような存在からもっと生産的・効率的・知的で高尚な存在へと進化する原動力となったのが文明であり、つまりは人間社会というものが営まれている場所には程度の差こそあれ、文明が誕生していたということができる。
原野の中に三々五々散在していたあり方から、ある場所に大勢の人間が集まって都市が生まれるという過程の中で、文明は大きな飛躍を遂げた。都市の規模が大きくなればなるほど、血縁や地縁という狭い領域の中で用いられていた人間の社会行動パターンは行き詰まっていく。そんなパターンの基盤をなしていた価値が変革される必然性がそこに生じることになる。だから都会には最先端の文明とそれに支えられた文化が出現し、田舎はそれを後追いで追いかけるだけという図式が人類史の中に見られる否定しようのない事実になっている。

そこから派生してくるものに、田舎は未開であり、田舎者は野蛮人だという見方がある。未開も野蛮人も相対的な意味で用いられているだけだから、上には上があり下には下があるということを忘れて田舎の居住者が腹を立てるには及ばない。現代日本で田舎者という言葉はもっぱら感受性やセンスのよしあしに関して用いられているような気がわたしにはするのだが、田舎者というのは元々文明度の低い人間ということを意味していたはずだ。ただし文明度というのは諸価値項目における高低を測って用いられるものなのであり、都市に設けられた文化に日々接しているから都市居住者の文明度が高いことにはならない。それを忘れて、住んでいる場所への関連付けだけで人間を評価するようなことをする者こそ「野蛮人!」だと言えるだろう。「都会と文明、田舎と野蛮」ということについては、別の機会にもっと論じたいと思う。


さて、文明⇔野蛮という対義語はディコトミーで捉えると形骸化して本質が見えてこない。つまりその対義語はふたつのターミナルとして両端に置かれ、その両者の間を目盛りを持つ物差しが一本通っているというイメージがフィットするにちがいない。個人であれ、国であれ、民族であれ、その文明⇔野蛮の度合いがその物差しで測定され比較されうるのである。つまり文明度の高低という見方が可能だということだ。

文明というものは人間が社会生活を営んでいる場所には必ず存在していたわけで、ケダモノに育てられその群れの中で生きている孤独な人間以外に、完璧な野蛮というのは存在しない。反対に、人間が動物的な要素を多少とも残しているかぎり、百パーセント完璧な文明人も存在しないだろうとわたしは思う。所詮、人間というものは完璧な神性を目指しながらケダモノ要素を抹消しきれないまま現世でのたうちまわる存在だという人間観はあまりにも悲観的すぎるかもしれないのだが・・・。

ラフに言うなら、結局のところ文明度99パーセント野蛮度1パーセントから文明度1パーセント野蛮度99パーセントという組み合わせの間のどこかに地球上のすべての人間が位置するということになる。だから文明的である、野蛮である、といった他人の評価に一喜一憂するのは愚かしいことであるようにわたしには思える。


文明というものを一部特定地域に誕生した特別なものと理解し、歴史の教科書に登場しなかった場所では文明が誕生しなかったという理解を持つのは正しくない。歴史の教科書にも世界の四大文明という表現がなされている。それらは誰かがその四つを優れた古代の大文明だと評しただけのものであって、その評者も非大文明つまり弱小文明が、たとえ程度がどんなに低いものであろうが、その時代に存在しなかったと断言しているわけでは決してない。歴史の学習の中でならまだしも、現代世界を見渡す中でそのような古代四大文明を持ち出すのは当を得ないことおびただしいだろう。
文明というものは進歩発展するものであり、長い歴史の中で大文明を創り出した民族も栄えのあとに滅ぶという栄枯盛衰を繰り返している。たとえ古代四大文明の時代にまだ野蛮度が高く文明度が低かった民族であっても、数千年後の現代に他民族を圧倒するほど高い文明を築き上げていても少しも不思議はない。

文明も水のように高いところから低いところへ流れていく。普通はある場所で発展した文明が構築した文化が流入していく形をとるが、文化というのは文明がもたらす価値の尺度に最適な形態で構築されているため、それを受け入れる側は意識するとしないとにかかわらず、文化を模倣する中でものごとの価値をも自分の文化の中に摂り込んでしまう。そのときに価値の対立が起こると、その辻褄あわせがいろいろな形で起こる。在来の価値が強力でそこの文化のすみずみにまで深く根を張り巡らせてあれば、価値の入れ替えは困難になり、社会構成員の間で持つ価値には錯綜と混乱が起こって、普通は相矛盾する価値が世の中に並立するという事態に至る。現代グローバル社会では、近代以降の歴史の中で西欧文明が世界制覇を果たしたことから、西欧文明が持つ価値が世界の諸文明にひたひたと浸透しており、鎖国でもして世界の孤児にでもなっていないかぎり、東欧も南米もアジアもアフリカも、西欧的価値観から完全に無縁ではありえない状況になっている。

そのような実態を見るにつけ、いま世界の覇権を握っているのが西欧文明であるという説は否定できないにちがいない。現代世界で人類が踏み行なうべきビヘイビアとされているものの根源に西欧文明の基盤をなしているリベルテ・エガリテ・フラテルニテの三原理が置かれているのは、ヒューマニズムやリベラリズムあるいは国家運営などに関連して西洋諸国や国際機関が打ち出してくる政策や呼びかけを読めば明らかだろうとわたしは思う。

これはつまり、現在生きている世界中のひとびとにとっては文明⇔野蛮の両極が持つ概念も文明スケールの目盛りも西欧文明が持つものが規準の位置に置かれており、それに合致しないものを持ち出してもグローバル社会ではものごとがすんなり進んでいかない可能性が高いことを意味している。人類社会が既にそのような道を歩きはじめている以上、それがこれからどうなっていくのかについてはその軸の延長線上におけるバリエーションの選択となるにちがいない。少なくとも、グローバル文明から無縁でいられる国も民族もないだろうし、そのグローバル文明がたとえばイスラム文明にとって代られるというようなことも起こりにくいにちがいない。異文明がどれほどの力でメインストリームを修正し得るか、サイドストリームがどれほどの許容度で受け入れられ得るかといったことがらが、今後の世界の方向性に関わるポイントであるようにわたしには思える。


文明は人間を獣的な存在から脱却して生産的・効率的・知的で高尚な存在へと進化させる役割を果たしてきた。人間が、汚いもの、不潔なもの、臭いもの、味わいの劣るもの、など不愉快なものをより快適なものへと改善してきたのも文明のなせるわざだろう。それは社会生活においても、礼儀や社会秩序の構築と維持、そして倫理道徳という概念に含まれる公的空間における人間の振舞いの優劣善悪といったことがらを規定することになった。だから、先進国と呼ばれている経済力の高い国家や民族はたいてい文明度が高く、後進国に属す国や民族は文明度が低いのが通例であり、先進国というものはむしろ経済力の高さよりも文明度の高さが経済能力を推し進めるパターンで形成されてきたのであって、経済力一辺倒で先進国・後進国の尺度を見るべきではないとわたしは考える。文明度の高さが経済力を底上げしていく場合は合理性が重要な役割を果たす。いくら礼儀や倫理道徳がしっかりしている社会でも、合理性が伴われていなければ経済力は伸び上がっていかない。経済の後ろには人間がおり、人間が経済システムをどれだけ合理的に動かしているのかということが先進国と後進国の間に横たわっているファクターだ。


バリでわたしが見聞していることがらの中に、一般に流布しているバリ人のイメージとは異なる体験があることをご披露しておこう。
1998年5月暴動のときにジャカルタを逃げ出してバリに移り住んだ印華人の若い夫婦がいる。印華人というのはIndonesian Chineseが自分たちのことをそう表現しているので、わたしはそれに倣って使っているのだが、インド系華人という意味と紛らわしい気はしている。
その夫婦の夫が言うには、バリ人は横柄だそうだ。つまり、初対面の他人あるいはまだ親しくない他人に対して見下すような態度で接してくる、と言うのである。バリマニアの皆さんは「ええっ?」と思うかも知れないが、わたしはかれの言葉に大きくうなずいた。実にその通りなのである。

その夫婦は建築資材店を営んでおり、その種のビジネスを行なっていればどういう社会階層の人間との接触がメインになるかはご想像いただけると思う。村に住んでいるわたしの周囲にいるバリ人も、社会階層という点では似通っている。要するに外国人が観光旅行にやってきて数日を過ごし、また帰国していく、という行動の周辺にはまず登場しないひとたちなのだ。観光客が接触するひとたちは、当然のことながら、文明化している。でなければ毎年3百万人近い外国人がバリにやってくるわけがない。贅沢な数日間をエンジョイし、喜んで帰国してもらうために切磋琢磨しなければならないバリの観光業界で働く人間がみんな横柄な態度で客に接していれば、そのうちに観光客が来なくなるのは確実だろう。

かれの店にやってくる職人には、バリ人もいればジャワ人もいるし、ヌサトゥンガラのひとびともいて、それぞれに性質性格が違っているのは言うまでもない。ジャワ人は概して愛想がよく、口がうまい。しかし信用するととんでもない目にあう。かれは何度も煮え湯を飲まされたそうだ。バリ人のほうはもう少し律儀なようだが、煮え湯を浴びせかけてくるやつもいる。ジャワ人は狡猾奸佞、バリ人は強引で力づくという感じらしい。バリにいる職人はたいてい腕のほうはからっきしで、ただ金の亡者に過ぎないそうだ。だから、バリで家を建てたり修理する場合、よっぽど職人を吟味しなければならず、忙しそうにして羽振りのよい連中ほど、施主の目をごまかして手抜きや資材のグレードダウンを行い、差額を掠め取るという話だ。横柄な態度に関する話に戻ろう。


そのンコ(engkoh)が言うバリ人の態度が横柄でありフレンドリーでないというのは、やはり文明度に関わっていることだとわたしは考えている。また話がそれるが、ンコ(あるいは省略されてコ)というのは印華人の間で使われる「おにーちゃん」に該当する言葉で、さしづめジャワ語ではマス(mas)、スンダ語ではカン(kang)、ブタウィではバン(bang)などに対応しているのだろう。このンコは福建語の成哥(singko)をインドネシア人がムラユ語の人名や擬人化を表す接頭詞si+ngkoと誤解し、siが省略されて使われるようになったものではないかとわたしは分析している。「おねーちゃん」の場合も成姉(singci)が同じように変化してンチ(enci)になったように思える。こちらも省略されてチとなり、わたしは印華人成人女性を見境なしにチと呼んでいる。

文明が都市で成育したことは上で述べた。見知らぬ他人が集まって共同体を築く都市という場における対人接触は、宥和と協調が基本姿勢とならざるをえない。横柄な態度をとり、オレはお前より上位にいるという姿勢でヨソモノである他人を見下すムラビト精神を都市での共同生活の中で発揮するかぎり、見知らぬ他人との協調的な社会生活は困難になり、共同体としてのメリットを生み出そうとして行なうことの成果も低いものになってしまう。

もともとが農村社会という田舎であったバリに観光ブームが作られて、文明化している観光客が多数やってくるようになった。バリの文明化はそれに合わせようとして成育したものであって、バリに都市化が起こって文明化が進んだのではないとわたしは見る。だからバリで文明化しているのはクタやサヌールあるいはヌサドゥアやウブッといった観光中心地だけであり、そういう観光地で文明化している外国人観光客に接するひとびとが文明化のもたらす精神面での要素を吸収しているだけであって、それに関わらない暮らしをしている大多数のひとびとの内面は伝統的なムラビト精神がかれらの姿かたちの基盤に置かれているにちがいない。
文明化がもたらす現象のひとつは、見知らぬ他人と雑居する都市空間での生活をいかに快適にするかという点に現われ、他人を尊重することを示す礼儀や対人接触での態度、他人と自分が上下でなく対等関係にあることを示す姿勢、公私をわきまえて公共にとっての善を私的なものより優先しようとする考え方など、ムラビト精神には希薄だった要素を個々人が強めていくことが求められる。

ムラビトというのは大自然に育まれた野放図な精神で感情の起伏のままにそれを行動に反映していく自然人というのが普通の姿であり、血縁地縁が自分のコンフォートゾーンを形成していて、そこに入り込んでくるヨソモノには排他姿勢をあからさまに示す。かれらは生活内でのできごとが自分のコンフォートゾーンを構成している仲間にとって善であればそれでよく、ヨソモノは自分が利益を得るための餌食として存在しているという見方がその排他姿勢の原理に置かれ、ヨソモノがどうなろうが自分たちさえ得をすればよいという自己中心性つまり強烈なわがままを抱えているのが普通だ。
ところが都市生活の中では、そういう自己中心性は徹底的に自制されなければならず、感情を抑えて理性を優先し、公私を正しく弁別して、自分の立ち居振る舞いをセルフコントロールできる人間でなければ文明人として認められないのである。だから外見は都市の態をなしているのにそこで起こっている大半の事件が非文明人の特徴を強く反映しているというケースでは、都市が文明を育むものとして存在しておらず、都市は田舎の延長であって単に田舎者が群れている場所でしかないということになる。ジャカルタをインドネシア人自身が巨大なカンプンだと呼んでいるのはそういう意味合いだろうとわたしは理解している。


ともあれ、フレンドリーでない横柄な態度というものをもうすこし分析してみたいと思う。そのような態度は基本的に自分を相手より上位に位置付けようとすることが目的になっているという気がわたしにはする。もしも対人関係はすべて上下関係であり、対等関係は例外的なものとしてしか存在できない社会であれば、家族内や師弟といった固定的な人間関係の外で出会う他人との間に生じるのは、そういう位置づけのための小競り合いになるだろう。そういう精神のあり方に対してわたしは、ジャングルの中で他者に出会うと必ず牙をむいて威嚇するケダモノの本性の存在を感じるのである。他人を威嚇し、他人が尻尾を巻いて逃げていくことを他人との対人接触に必要としている文化がそれなのではあるまいか。
それは優越感に関わる心理よりも更に根源的な、自分の存在が生活空間の中でどういうポジションに置かれるかという、自分というもののアイデンティティを決定する行為であるにちがいない。上下関係というのはすなわち支配と服従の関係なのであり、つまりは他人を力で抑え込み、他人を屈服させてその上に君臨する人間が強い人間であり、世間一般の目もかれを優れた偉い人間という評価を与えることになるだろう。きっとそれがジャングルの文化であるにちがいない。

初対面でまだ何かが起こったわけでもないというのに、相手にへらへら笑いかけ、相手に遠慮して相手を立て、相手がわがままに振舞うのをサポートするかのように相手に合わせていく人間は、そのような文化の中でどのように他人から見られるかということを考えれば、フレンドリーでなく横柄な態度を取る人間が存在していることの理由が見えてくるにちがいない。
もしもそういう文化の中でそういう価値観を持たされて育った人間であれば、自分の仲間でもない他人が何を望んでいるのかといったエンパシーのある感情移入など学習することもないだろうし、さらにそんなことを自分がすることの愚かさをもかれらは痛切に感じるにちがいない。そういうことは上下関係の競り合いに負けた弱い劣った人間がするべきことであり、それは自分を支配する者へのおもねりと奴隷的な奉仕への入り口にほかならないとかれらは考えるはずだ。

現代社会で確立されているサービスということがらがうまく実践されていない社会が存在しているわけだが、わたしはその原因をそういう人間の精神面とその精神を形作っている文化に帰する立場を採っている。ジャカルタでの生活で、ここ十年間ほどさまざまな面で向上が見られるサービスのレベルに関して、その十年をもっと遡った時代にジャカルタに在住していた外国人の多くがインドネシアのサービスレベルを激しく嘆いていた事実を最近の皆さんはご存知だろうか?それとも、いまだに低レベルなサービスに遭遇して、激しく嘆いていらっしゃるのだろうか?十年以上前のレベルは、そんなものよりもっとひどかったということを申し上げておきたいと思う。自分の行動は、他人に満足を与える自分に満足を感じるというもってまわったものでなくて自分が直接的な満足を得るのがもっぱらの目的であり、おまけに自分が何かを行なうのは物質的金銭的な対価を得るためなのであるという感覚がそこに加われば、サービスというものがどのような性質を帯びてくるかは想像にあまりあるだろうと思われる。


人間関係がすべからく上下関係であるというのは封建社会の特徴だ。そういう社会の住人は対人接触の中で自分が相手よりも上位に立とうとし、相手と上下関係を結んではじめて安定した秩序意識がその人間関係に生じるようだ。かれらは自分がどのようにふるまえば対等な人間関係に自分が参加できるかということを知らないし、またそのようなことをしようという考えすら持っていないひとが多いようにわたしには感じられる。

というのも、かれらが営んでいる日常生活の価値観を支配している文化の中にそんな実例は滅多にないのだし、現実生活を否定してそういう理想を求めようという教育も訓練もなされていないのだから、それは当然過ぎるほど当然なことだと言えるだろう。インドネシア人自身の間にも、もっと文明化した社会にならなければならないという声がないわけではなく、それに同調する大衆がいないわけではないのだが、そのような動きは散発的でしかなく、世の中での力強さを感じさせてくれるものになっていないように見える。ひっきょう、西欧文明の価値観をバイアスのかかった眼鏡で見るような環境に置かれている精神的構図の存在に、その原因の一端があるのかもしれない。


いかにもスマイルやソフトな人当たりで対人関係をこなしているひとびとの行いが世の中でたくさん目に映ったとしても、それは文明人としての外見を整えるために単なる礼儀の一部として行なわれているだけであって、その相手になっている人間との間の全人格的な対等性という概念の肉付けはきわめて希薄だということであるなら、取り巻いている状況の変化に応じてかれらはいつでも狼に変身するという潜在性がその背中に隠されているという気がしてならないのである。対等性は基本的に友愛感情あるいは同じ人間なのだという感情的な一体感、言い換えれば人間愛と呼ばれるものに裏打ちされてはじめて名実を備えたものになるのではないだろうか。現代文明が目指しているのがそれだろうとわたしは解釈している。

フレンドリーということがスマイルという一点に凝縮され、助け合うことをギブアンドテイクとしてしか理解していないひとびとが、対等な人間関係に参加するためのキーファクターはいったい何なのだろうか?かれらの生活環境中のポジティブな側面である地縁血縁共同体は人間の上下関係が強く支配している部分であり、その外側にある世間と呼ばれる社会がいつまでも弱肉強食のジャングルであるなら、個々人が他の人間との対等性を培っていける場は存在しないということになる。そのジャングルという野蛮な場がもっと文明の薫り高いものに変化していくことではじめて人間の文明化が進展するように思えるのだが、自己中精神は天を衝き、その実現のツールに使われる暴力はますます激化し、日々蛮行がはばかりもなく行なわれているこの社会に、反転のモメンタムはいつどのように訪れるのだろうか?
(2013年10月)