インドネシア「バハサ」情報2004〜12年


「バイリンガル 」(2004年1月10日)
歴史の過去から、ひとは地理的な、あるいは言語や文化の境界を越えて移動してきた。こうしてバイリンガルやマルチリンガルの人間が作られて来た。
ヨーロッパではEU結成にともなって、完全に単一言語の国はもはや存在しなくなっている。域内のほかの国での居住が容易になることで、生活の中で複数の言語に接する機会が生じており、ひとはいやおうなくバイリンガルへと向かっている。
インドネシアも類似の環境にある。学校やマスメディアで接するインドネシア語と地元の毎日の暮らしの中で使われる地方語という状況はほぼすべてのインドネシア人にあてはまり、さらにひとによって年齢があがれば、英語やアラブ語などの学習が追加される。ところがインドネシアで気になるのは言語習得に一貫性が欠けていることだ。毎日の暮らしの中で、地方語とインドネシア語がまぜこぜに使われているケースが多い。
種族間の結婚が進んでいるいまでは、事態はもっと複雑だ。ミナン人の父とスンダ人の母が幼い子を連れてジャカルタで暮らすとき、その子が自分の周囲で耳にする言語がどのようなものであるか、想像にあまりある。その子はミナン語、スンダ語、ブタウィ語、インドネシア語の明確な線引きをあまり意識することなく成長するにちがいない。最近耳にすることの多い問題は、インドネシア語はへたで地方語も中途半端という若い世代が増えているということであり、かれらは往々にしてそのふたつをごちゃ混ぜにして使う。これは正確な意味でのバイリンガルとは違っている。
子供をバイリンガルに育てるメソードとしてヨーロッパで提唱されているのは、『ひとり一言語』方式と呼ばれるもの。たとえばミナン人の父が子供と話すときは常にミナン語を使い、スンダ人の母が子供と話すさいには常にスンダ語を使うという方式だ。こうすることで子供は混乱しないで個々の言語を習得することができる。もうひとつの方式は、家の中ではマイナーな言語をみんなが使い、家の外では外の環境に近い方の言語を使うというものもある。いずれにしても、ふたつあるいはそれ以上の言語がそれぞれ別であるということを意識させるために、習得段階で環境的な一貫性を持たせるということが強く求められている。
別の言語体系を操っているという意識のないところに、バイリンガルもマルチリンガルも成立しないということを親が認識するのは、子供の将来にとってたいへん有益なことではないだろうか。


「インドネシア語研究センターがIT関連用語の標準化を推進」(2004年6月14日)
国民教育省インドネシア語研究センターが情報テクノロジーと通信関連用語の標準化を行っている。デンディ・スゴノ同センター理事長は、ウインドウズXPインドネシア語バージョンソフトでの用語検証が終われば、次のシステムに向けて標準化を進めていく、と語る。シソーラスや辞書、スペルチェッカーなどにその成果を適用していく予定とのこと。またインドネシア語辞典や専門語辞典などにも収容されるように普及させていく計画。
一方同センターはEメールに使われている言語パターンに関する学術的研究をも行っている。同理事長によれば、Eメールで使われている言葉はプライベートな性質を持ち、フォーマルインドネシア語からはほど遠い。「記述者は英語や標準になっていないインドネシア語を頻繁にその中に織り込んでいる。特に外国語のアクロニムで商標となったもののインドネシア語化にはたいへん苦労している。元の言葉で人々の記憶に刻み付けられているから。」との談。同理事長はSMS(short messaging service)を例に取り、SPS(sistem pesan singkat)という標準化を行おうとしたがうまくいかなかったので、やはりSMS(sistem maklumat singkat)というものにした、と述べている。


「首都の識字率向上ははかどらない」(2004年7月8日)
2002年の中央統計庁識字率調査で、ジャカルタには122,602人の非識字者がいるとされている。年齢構成は10歳から40歳にわたっているが、30歳以上に集中している。地域的には西ジャカルタ市が46,192人でもっとも多い。
西ジャカルタ市中高教育副局学外教育課のソフィアン課長は、都民の識字率向上のための行政努力として、社会学習活動センターで非識字者に対する読み書き教育を行っている、と語る。首都には89ヶ所の社会学習活動センターがあり、そのうち34は行政府が運営し残りは民間が運営している。しかし非識字者を識字者に変えるのはたいへん困難だ、と同課長は言う。「まず大半が、自分が非識字者であることを認めたがらないし、政府が提供する学習機会を利用したがらない。学習機会提供と歩調を合わせて町単位で図書館設置を図っているが、維持が困難で住民にあまり利用されない。学習カレンダープログラムが提案されたが、これを行ってもタームが終わると、学習参加者はまた習ったことを忘れてしまい、そのうちまた読めなくなる。今年は昨年の経験を踏まえて機能化文字学習という改善プログラムを実施している。これは非識字者が技能習得には真剣になることに着眼したものであり、読み書き学習と技能訓練を織り交ぜたものにしている。」とソフィアン課長は説明している。


「非識字者は1,550万人」(2004年12月3日)
10歳以上のインドネシア国民の中に非識字者は1,550万人おり、10歳から44歳では440万人だ、と国民教育相青年学外教育総局社会教育局長が語った。エコ・ジャッミコ局長は、小学校の学齢にあっても就学していない子供がいること、小学校1,2,3年でドロップアウトする子供が毎年20から30万人いることなどが非識字者を生み出す要因となっている、と述べている。経済要因、地理的要因などの困難があるものの、政府は全国民の識字者化努力を鋭意続けている。10歳から44歳という年齢ブラケットで非識字者の多い州は、西ジャワ州、バンテン州、中部ジャワ州、東ジャワ州、西ヌサトゥンガラ州、東ヌサトゥンガラ州、西カリマンタン州、南スラウェシ州、パプアとなっている。西ヌサトゥンガラ州は人口4百万人中25万人が非識字者、西カリマンタン州は人口390万人中7万2千人が非識字者といった状況。親が非識字者である場合、子供の就学率が低いという状況が見られており、9年間義務教育の完全実施にとっての障害となっている。


「国語教師のインドネシア語能力は低い」(2005年1月13日)
国民教育省国語センターが行ったテストで、中等専門学校国語教員のインドネシア語能力が劣っているという実態が明らかになった。インドラ・ジャティ・シディ初等中等教育総局長は、当該カテゴリーの国語教師は10段階評価の4という平均値が出た、と述べている。教員たる者は少なくとも6レベルより上でなければならないそうだ。この評価は中等専門学校教師に対して行われたインドネシア語能力テスト(UKBI)の結果を集計して得られたもので、今回実施されたテストでは、優秀者がふたり、普通レベルが三分の一、残りは劣等レベルという結果だった。「これがインドネシア国語教師の実態能力指標であり、言語能力ベースの標準カリキュラムの必要性がきわめて高いことを示している。その推進のために、国語センターは今年、教員と生徒に対するUKBI実施の全国展開を行うことにした。言語能力評価基準は明確に定められ、はっきりした手続きで行われなければならない。UKBIの結果は教育レベル評価機関にとって診断テストとして使用できる。」と総局長は述べている。このUKBIは、特別、限界、中等、普通、優秀、最優秀という評価に分けられ、教員には優秀レベル者が求められているが、現実はそれより下の者が大半という状況だ。
言語は思考のツールであり、伝達される思考の産物を形成するものなので、生徒に学問を伝える教師の言語能力が劣っていれば、生徒への学問伝達に障害が起こるのは明白だ。そのために国語センターはまず教員の言語能力を審査して実態を把握するため、全国4千8百人の中等専門学校教員に対するUKBIの実施を決めた。「このテストは言語の熟達と話す能力を検査するだけでなく、伝達、知識、話し方なども合わせて審査する。教員の中で劣等評価を得た者は6ヶ月で普通レベルに、次の6ヶ月で優秀レベルに達するよう努力してもらうことになる。」デニー・スゴンド国語センター長はそう語っている。


「情報技術用語辞典は10月発売」(2005年2月28日)
コンピュータ術語集が今年10月に発行される予定。国民教育省国語センターが行なっている情報技術関連用語のインドネシア化作業の成果として、同センターは情報技術用語辞典(KAMUS TI)の出版準備を進めている。10月に発行が予定されているこの辞典はおよそ9百のコンピュータ関連用語が収録されるが、今現在コンピュータに関連して一般に用いられている用語に慣れた人にとって国語センターが選定した対応インドネシア語は当初、面食らうものになるかもしれない、とデンディ・スゴノ同センター長官は述べている。
この辞典編纂は、「インドネシア語は学術用語たりうるか?」という命題に対するひとつの答えを提示するという意味も兼ねており、「中国語、英語、スペイン語に次いで世界第四位の使用者人口を持つムラユ語が学術面での役割を担うことができれば、喜ばしいことこの上ない。」とも同長官は語っている。ちなみに国語センターはさまざまな学問分野における術語として、3千5百を超える対応インドネシア語を選定している。
既に公表されたウインドウズとオフィスのインドネシア語版とともに、コンピュータ初心者の間で大きい需要が起こることが期待されている。


「識字問題は女性の教育問題」(2006年2月10日)
インドネシアが独立した時、国民の9割は読み書きのできない非識字者だった。しかし教育の進展で1971年の国勢調査では10歳以上の非識字者が39%となり、1980年は28%、1990年には21%、そして2000年には10%と半世紀の間に逆転してしまった。ところが、それが限界だったのだろうか、2005年の統計で非識字者は1,460万人おり、これは15歳以上国民の9.6%にあたる。人類だけが持つ文明の産物たる文字を使わないことは、愚昧さ、貧困、後進性そして不活性さといったネガティブ要因の中に人間を落とし込む以外の何ものでもない。その実例は、非識字者を親に持つ家庭が証明している。非識字者の親は子供を学校に入れたがらず、入れたとしてもその子供たちは落第やドロップアウトの比率が高く、こうして次の世代も非識字者に育っていく傾向が強い。愚昧スパイラルは確かに存在している。
2003年のデータを見ると、10歳以上の非識字者は1,553万人おり、そのうち1,064万人が女性で全体の68%を占め、男性の二倍いることがわかる。農村部での非識字者人口比率は女性が19.2%男性が9.6%で、こちらもちょうど二倍。20歳以上人口の中でまったく学校教育を受けたことがない者は女性が11.6%、男性が5.4%で二倍以上になっている。それらの数字から、非識字問題は女性に対する教育問題であることが浮かび上がってくる。
統計上で非識字問題を言う場合、対象とされている文字はラテン文字だ。ところが地方部へ行くと、ラテン文字は読み書きできないが、アラビア文字はできる、という人たちがいる。かれらを非識字者の中に集計するのはおかしいとの意見があることも確かだが、日常生活における有用性をとらえた場合、国民としての日常生活を営む際に効果を持っているのはラテン文字であり、宗教生活での役割しか持たないアラビア文字では半非識字者としてとらえておく方が政策遂行の場でより効果的であるに違いない。
女性の教育問題は母親の人材クオリティ問題につながる。母親の出産時死亡率は2002年から2003年の統計によると10万件中307で、東南アジアでもかなり高い位置にある。母親の知識学問の不足は子供の養育にも弱点をもたらし、栄養不良や貧血といった保健面での人間的クオリティの低さの悪循環を呼ぶとともに、貧困に甘んじ、現状肯定的で改善意欲に欠け、上昇志向が弱いなどといった精神面での悪循環をも育む。何よりもこの男性優位社会においては、母や妻や娘が権力を握る父親や夫からの自分の存在に対する関心を育むことで女性の人材クオリティ向上が方向付けられるものだが、それは鶏と卵の関係になってしまっていて、突破口が見つからない。そんな状況が、家庭内暴力という副産物を発生させる環境の存続を容易にしている。
娘に高い教育を求める家庭も存在するが、中流から低階層に向かうほど、女は結婚して夫に仕え、子供を産んで育てるという一生が女の本質であり幸福であると自分の母親から教えられ、なまじ頭が良いと夫に嫌われ、愛されないという理由で知性を圧殺されている女性が大半であり、そんな家庭の子女に対する学校教育は持続性が困難だ。2002年の全国統計では、国民ひとりあたりの就学年数は男が7.6年、女が6.5年で、女は小学校さえ終えればそれで十分という認識がそこに投影されているようだ。
KBと呼ばれている家族計画はインドネシアで大きい成功を収めたと国際的に評価されている。1970年代の世帯内平均子供数は5.6人だったが、今では2.6人にまで調整されてきた。各家庭で子供の教育にもっと原資を注ぐ環境は整ってきたと言えるだろう。問題は貧困と親の教育に対する意識、そして教育が商業化されて金持ちに対する商品と化し、また学歴を証明する一枚の紙にだけ価値があるといった、教育の本質的中味が軽視されている国内の風潮が、国民の教育というものに対する蔑視を招いている実態ではないだろうか。


「金持ちは新聞を読む」(2006年4月11日)
社会的経済的に上流階層にいるひとびとは、情報の需要を満たすために78%が毎日新聞を読んでいる、とニールセンメディアリサーチが報告した。そのアッパーマーケットスタディと題した報告を読むと、30代以上のプロフェッショナルたちは経済とビジネスのニュースを好んで読む、とも報告されている。上流層はメディアの最大消費者であるが、新聞読者の81%は男性で19%が女性となっている。15〜19歳の読者はスポーツ記事、20〜29歳はリクルート募集広告、30代超は経済・ビジネス記事と年代層によって関心の焦点が異なっている。
この調査はメディア関係者の抱いているハイ購買力保有者層に関する疑問に答えるために2005年8月と9月に行われたもので、ジャボタベッとスラバヤの二地域で1,105人の調査員を使い、面談インタビュー方式で実施された。回答者たちの家計支出は月4百万ルピア以上となっている。ジャボタベッ地区での回答者数は36万5千人、スラバヤ地区は8万3千人。雑誌に関しては、15〜19歳の男性は娯楽記事を好み、20〜29歳の男性は美人モデルがたくさん登場する雑誌を好んでいる。一方女性はすべての年齢層で一様に、ひとつの目的のために雑誌を読んでいる。それはつまりファッション。また映画鑑賞についての興味深いデータも収集されており、上流層の43%が依然として映画館での映画鑑賞ファンであるということだ。


「外国語村」(2007年2月2日)
中部ジャワ州マグラン県ボロブドゥル郡ガルゴゴンド村で1月28日、バンバン・スディビヨ文教相出席のもとにインドネシア最初の外国語村発足式典が行われた。村民は自主的にそして自然に外国語に接し、外国語を学び、そして外国語を操るようになる。インドネシア語とジャワ語のほかに村民が学ぶのは英語と日本語そして古ジャワ語(bahasa Kawi)。発足式典のあと文相は、政府はガルゴゴンド(Ngargogondo)村での外国語発展状況をしばらくモニターし、その効果が実証されたところでガルゴゴンドを全国模範村に指定して他地域への外国語村展開を支援していく、と述べている。その判断の鍵となるのは村民の外国語習熟度とのこと。ガルゴゴンド村はボロブドゥル遺跡から2キロの場所にあり、村民が外国語に長けることで民生経済によりよい影響がもたらされることが期待されている。
外国語の習得はグローバル社会における発展の基本であるが、国民は母語に対する誇りとその言語能力研鑚をおろそかにしてはならない、と文相は警告する。外国語村発起人で講師でもあるハニ・ストリスノは、いま村内で英語・日本語・古ジャワ語のコースが開かれている、と報告した。実際にガルゴゴンド村での外国語教育は1998年から続けられてきたものであるとのこと。この無料プログラムはオープンでだれでも参加でき、ガルゴゴンド村民以外にも門戸は開かれている。講師は12人、卒業・現役生徒数は4百人以上で、いまのコースには生徒が116人おり、卒業生は3百人を超えている。もともとこのプログラムは村民が外国語を元手に経済向上に努めることができるようにとの目的で始められたものであり、卒業生は村から近いケテッパス(Ketep Pass)やボロブドゥルなどの観光地に出かけて外国人観光客と会話し、外国語能力に磨きをかけるよう指導されている。


「バハサ」(2007年3月27・28・29日)
シンガポールへ行くと、「I speak bahasa very little.」などという表現を耳にする。マレーシアでも華人たちは同じような使い方をする。かれらがbahasa と呼んでいるのはbahasa Melayu に由来するbahasa Malaysia とbahasa Indonesia のことだ。そのような使われ方を不愉快に感じるインドネシア知識人も少なくはない。普通名詞があたかも固有名詞のように使われることで文化の衣を逆撫でされたように感じるのだろうが、その感覚はわたしにわからないものでもない。
インドネシア人が仕事でヨルダンへ行き、みやげ物を買うためにアンマンの郊外にある店舗を訪れた。店員が英語で「どちらから?」と尋ね、インドネシアと答えたとたんに店員の口から流暢なインドネシア語が滑り出してきたのにかれは驚いた。近くにいた店員も寄ってきてインドネシア語の会話に加わる。「みんな、どこでインドネシア語を習ったの?」「ここですよ。インドネシア人のお客さんから。」「インドネシアへ行ったことは?」「ティダ!」
かれはタイへも旅行した。空港へ着くと旅行代理店の案内人が出迎えに来ている。そして会話はなんとインドネシア語で始まった。ホテルへ着くまでの間、インドネシア語のやり取りは続けられた。単なる旅行用会話ブックにある文章レベルではない。かれはその案内人に尋ねた。「インドネシア語はどこで勉強したの?」「バンコックで。会社の同僚と練習してます。」「ジャカルタへ行ったことは?」「ブルム」「どうしてそんなに上手にしゃべれるの?どのくらい勉強してる?」「ああ、だってインドネシア語は簡単だもの。」
文法がきわめて柔軟でしかも語法に変化がほとんどないインドネシア語は、多くの外国人から見れば扱いやすい言葉かもしれない。本来言葉というものはその人間の母国語と性格が似ていればいるほど習得がやさしいことになっている。構文のパターンがヨーロッパ系言語のように固定的でない点はインドネシア語も日本語もよく似ているため、日本人にとってインドネシア語はもっとも習得しやすい言葉のひとつではないかと常々わたしは感じている。インドネシア語には時制がなく、人称その他に従って連動する語形変化もないに等しい。そのような要素がないことをプリミティブだと評するインドネシア人もいる。時制がないことで困っているのは外国人であり、ムラユの人々自身は困らないから時制を作らなかっただけの話だ。これは時間というものに関わる意識に関連する部分であり、ゴム時間(jam karet)に代表される時間感覚や未来永劫に向かって継続する現在相などといった宇宙観につながる文化特性であるため、文法上の現象をプリミティブだと評価すると言語を包含している文化全体に対して同じ評価を与えていることになりかねない。
ヌサンタラと呼ばれるインドネシア全島嶼には731の種族語があり、そんなひとびとの間を通商を行いながら経巡る商人たちが共通語として使ったのがムラユ語で、オランダ植民地政庁の圧政下に抑圧された地元民たちが自由を求めて立ち上がることを促す契機となった1928年の青年の誓いがそのムラユ語にインドネシア語という格を与えた。インドネシア語というもので結び合わされた数百の種族は圧制者と闘って独立を獲得し、独立時にはそのインドネシア語が国語としての地位を45年憲法の中で保証されることになった。国語となった以上、政府は国語の育成に乗り出す。国民は優れた正しいバハサを使わなければならないという指導がその後続けられることになるのだが、1980年代ごろまでは政府の指導に従順に従っていた国民も90年代にさしかかってグローバル文化に染まった創造力豊かな新世代が登場し、そんな流れに変化がもたらされた。
シンガポールへ行くと、「Can?」「Hmm.....」「Can lah!]」「OK, can, can!」という会話が昔は聞こえてきたものだが、Singlishと呼ばれたこのようなシンガポール英語を政府は一生懸命改善しようと努力した結果、今ではほとんど耳にすることがない。シングリッシュが有名になる前はフィリピンのTaglishやインド人が使うIndlishが英米人の槍玉にあがっていた。三四十年前、アジアを歩き回って奇妙奇天烈な英語を集めるのが一部英米人の間で流行したことがある。タイのTinglishも日本のJaplishもかれらが集めた珍表現集に収められていた。しかし時代が変わり世代が代わり、英語をより深く身につけた若者たちが増加して珍妙英文はかなり減少したようだが、そんなころになってインドネシアにIndoglishがはやるようになった。インドグリッシュとは奇妙な命名だが、インドネシア学の大家ベン・アンダーソンの命名だそうなのであまり悪口は言えない。
ところが1990年代にさしかかってインドネシア国民、中でもヤング層が多用するようになった言葉は、実はIndoglishでなくてEngdonesianだったのである。インドグリッシュはインドネシア人が自分の言語をベースにして組み立てた英語なのだが、エンドネシアンは英語を取り込んで使われているインドネシア語ということで主従関係が逆転している。エンドネシアンとはたとえばこんな文章。「Of course dong! At least, lo calling-calling gue aja by phone, OK? Gue on time terus di rumah, HP gue on line-in!」インドネシア語に堪能な読者はこれをきっとすぐに優れた正しいインドネシア語に書き換えることができるにちがいない。しかしこの種のフュージョンは、そのうちにどちらが花瓶でどちらが花なのかはっきりしなくなってくる。「Satu-satunya cowok yang dekat dengan mereka adalah Bono!! Oh tidak!!!」若いインドネシア人シナリオライターが書いたこの文章は言うまでもなくインドネシア語に見えるが、英語とインドネシア語の思考回路を同じレベルで持っているこの世代はどうやらメインとサブの切り替えをしないようで、そのふたつの回路の間で時に摩り込みが発生するのだろう。「Oh tidak!!!」は明らかに英語の「Oh no!!!」がインドネシア語に直訳されたものであり、インドネシア語環境でそのような使い方をすることはなく、普通はGawat!!!とかCelaka!!!などといった表現になるはずだ。
今現在、社会にエスタブリッシュされている諸価値を背負っていると自負する高壮年世代が若者たちのそんな言語習慣を喝采で迎えるはずもなく、最近の風潮は・・・と苦い顔をしている姿が背景にある。国民は優れた正しいバハサを使わなければならないのに、という思いに駆られたかれらの目に、街中のビルや企業の看板を見ればあっちにもこっちにも英単語の羅列。新聞広告に出てくる住宅地もショッピングセンターもまた同じ。バハサはインドネシアとマレーシアで3億人が使っている大規模言語であり、国連の公式言語のひとつに取り上げられてもおかしくないものだ。マレーシアでもインドネシアのシネトロンは大人気で、インドネシアのスラングも自然とマレーシア語の中に取り込まれている。KLで「Keren banget!」という言葉は最先端の流行語に位置付けられているそうだ。
だからインドネシア人はインドネシア語をもっと大切にしなければならない。インドネシア民族の結合と民族独立を支えたインドネシア語が昨今のような状態になっているために民族としての団結も弱まり、それが原因で国力は経済危機からなかなか回復してくれない。現状を今のまま放置すればそのうちにインドネシア語は消滅し、エンドネシアンに取って代わられてしまう。国民のそんな風潮を正すには法律が制定されなければならない。優れた正しいバハサを維持し国語を守ることはインドネシア民族のアイデンティティを明確に打ち立てることに他ならない。こうしてバハサ民族主義が頭の片隅に忍び入ってきた。
今から四年前、大臣のひとりが出した発言でインドネシアに駐在している外国人の間に波紋が広がった。シンガポールのテレビ局がジャカルタへやってきて外国人勤労者にインタビューしてまわった。「業務の中でインドネシア語を使わない者に労働許可が下りないのでは困るよ。」という判りきった答えでそのニュースは埋められた。2006年になって労働大臣がまたその話を持ち出した。インドネシアで業務に就く外国人はインドネシア語をあるレベルでマスターしていなければならない。早急にそのレベルを確定し、職業能力評価認定機関で外国人のインドネシア語能力審査を実施するようにしていく。バハサナショナリズムに支えられたこのコンセプトはいつどんな形で実現させられるのだろうか。
いま、国語法案が編成プロセスの中にある。国民教育省国語センターが編成しているこの法案では、国家的環境、公文書、公的フォーラム、学術的文書の作成や公表などは必ず国語で記述されなければならない。もし学術論文を英語で書いて外国で公表したい場合は当局の許可を得なければならない。地方部のマスメディアは国語もしくは地方語を用いることができる。外国からの映画やテレビ映画は必ず国語に移しかえられなければならない。移し替えは吹き替えでもテロップでも構わない。ビルの名前、道路名、住宅地区やオフィス地区名、商業施設や国民資本の企業名、商標、教育機関の名前なども国語が使われなければならない。ただし別の言語への翻訳は認められる。国内で販売される国内外の商品についての情報も国語が義務付けられる。外国系の学校にも国語による教育内容が何%か定められることになる。
しかしインドネシアの教育界に携わるひとりはこの国語法に関して、グローバル競争に備えての国民教育に逆行するようなものにしてはならないと力説している。小学校からの英語教育の重要性はLLの整備や実力のある教員の採用が不可欠で、それと並行して国民が強い国語力を持つために学生に対する国語教育の強化にも努めなければならない。教育レベルが上に行くほど国語力が低下しており、修士課程の卒論を見れば昨今のインドネシア人若年知識層の国語力がいかに貧弱であるか一目瞭然であるとのこと。また市場で流通している商品は国産輸入に関わらず国語での情報を義務付けなければならない。
言葉はコミュニケーションツールであり、国語法でそのツールの使用に足かせがはめられては本末転倒になるおそれが高い。ましてや言語法廷が作られて国民のコミュニケーションが犯罪化されることになっては何の意味も無い。国民をグローバル化させるための教育を規制してはならず、インドネシア語を国際社会から隔離するようなことにでもなれば国民の発展はスローダウンしまた貧弱化する。国語問題の解決は政府と国民が一緒になって進めなければならないことだ。
かれの言葉はインドネシアの良識を代表している。法律を山のように作るが法の執行がおざなりにされてきたインドネシアで、言葉まで法律で縛ろうとしている政府の姿勢に知識人たちは一斉に反発を示した。だが国民の国語としてのインドネシア語を正しい良好な形で国民に使用させる指導の権利と義務は政府にある。その実現のための努力はほかの多くのケースのような法令制定で終わってはならないのだ。いかに国民を指導していくかということが法令制定よりもはるかに重要なことであり、すべてはそれに尽きるのではないだろうか。


「ガドガド言語」(2007年3月30日・4月2日)
国語であるインドネシア語の中に地方語であるバハサブタウィが大きな比重で浸透したのは地の利によるものだ。インドネシアの首都となったジャカルタ地区はバタビア時代から育まれてきたブタウィ文化の土壌の上に構築された。そしてジャカルタが首都であるがために、他の地方との間でもひとの移動が起こった。だからありとあらゆるものが投げ込まれてかき混ぜられるガドガドの様相を呈するという特徴をジャカルタはおのずから持つようになったのである。だがそれは独立後はじめて起こったことでは決してなくバタビア時代から培われてきた伝統のひとつでもあり、言語面で言えばオランダ、ポルトガル、イギリス、インド、アラブ、中国などの諸言語が過去3百年にわたってバタビアの住民生活に溶け込んでひとつのガドガドを作り上げていたのだ。そしてジャカルタ地区で使われるそんな特徴を持った言語が、それまであまり雑種混交の履歴を持たなかったほかの地方へも浸透していった。文化は高いところから低いところへと流れる。政治権力や経済の中心地であるジャカルタの文化は、中央に憧れる地方エリートたちの中にとうとうと流れ込んでいった。1970年代のインドネシアで、バンドンやスラバヤの上流知識層がわざとジャカルタ語の表現を好んで使っている事実をわたしは目のあたりにしている。昨今でもテレビネットワークの充実とシネトロンのおかげでジャカルタのスラングやローカル表現が全国津々浦々に浸透するのをそんな心的傾向が手を貸している。結局インドネシア語はジャカルタ一円で使われているものが標準となり、ジャカルタ一円で使われているものが持っていた雑種混交的特徴をも一緒くたにして包み込んでしまっているのである。エンドネシアンやインドグリッシュが花開く土壌は十分すぎるほどあるのではないか。その点、バハサナショナリズムにとっては分が悪い。
ガドガド言語は自由度が高く柔軟で、貪欲にあらゆるものを呑み込んでは合成物を作り上げる。そんなことのできる人々はそれだけ他の言語に対する感受性も強く、また他言語を操る適応力も秀でている。なによりかれらは、他の言語を話せるようになりたがるそうだ。外国語習得の意欲は他の民族よりも高いのかもしれない。
三四十年前はインドネシア国内で混交が進め始めた時代だ。パダン人がバンドンに来て仕事し、スンダ娘を妻にする。マナド人がスラバヤで働き、そのあとジャカルタへ出てきて会社を興す。前者はミナンカバウ語とスンダ語とそしてインドネシア語という土壌で生活することになるだろうし、後者はマナド語とジャワ語そしてジャカルタ語とインドネシア語をたしなむようになるにちがいない。1970年代初にオランダ人研究者が都内タナアバン地区クブンムラティで行ったサーベイ報告を読むと、ジャカルタに住んでいるひとびとのマルチリンガル度合いがよくわかる。ある一家族はつぎのように描かれている。
父親はベモ運転手を職業にしており、1941年にパダンで生まれた。妻は地元ブタウィ人で1948年生まれ、学歴は小学校卒。夫は中学を卒業してから19歳のときにジャカルタに上京した。1960年だ。かれは7歳からインドネシア語を、19歳からジャカルタ語を学び、母語はパダン語だ。妻は8歳からインドネシア語を学び、母語はブタウィ。妻はその二言語以外の言葉を何も話さない。このふたりには11歳の男児と8歳の女児がいて、ふたりともジャカルタ生まれで男児は小学生。同居しているその母親の母親(つまり子供たちの祖母)は1925年生まれのブタウィ人で文盲。そしてインドネシア語を理解しない。母親には弟が4人いて、上は1945年生まれ、一番下は1958年生まれ。学歴は小学校卒から工業高校卒までさまざま。弟たちの上のふたりは結婚しており、ひとりは1950年チレボン生まれの女性、もうひとりは1949年バンテン生まれの女性を娶っている。一番上の弟夫婦には1971年生まれの赤ちゃんがいる。この家にいるチレボンとバンテン出身のふたりの若い妻たちは母語をそれぞれ地元で方言化したジャワ語としており、またそれぞれが19歳でジャカルタ語を学びはじめた。チレボン出身の妻は小学校を4年で退学し、バンテン出身の妻は文盲。かの女たちはふたりともインドネシア語を理解しない。このようにこの家の12人の住人たちは多彩な言語的背景を持っている。さて、戸主のパダン=ブタウィ夫婦の子供たちはジャカルタ語とインドネシア語をもっぱら使っている。
ところがこの12人の大家族は、さらに地元ブタウィ出身の二家族と同じ棟に住んでいる。他の二家族は門構えを別にしているので異なる番地がついているものの、棟の中では三家族が入り混じって生活している。その二家族はまだ小さい子供が9人おり、日常生活はジャカルタ語かインドネシア語が普通に使われている。要するにこの共同体三世帯には13人の大人と12人の子供が収容されているわけだ。このような生活環境の中で、ブタウィの外からやってきたパダン、チレボン、バンテンの三人は共通語としてジャカルタ語もしくはインドネシア語を自分の能力に応じて使わざるをえない。パダン人のベモ運転手は、だから仕事の場で同郷者とほんの少しパダン語を話すだけで、自宅に帰ればパダン語を使う機会はほとんどない。
その隣人にジャワ人一家がある。夫は1925年プマラン生まれで中学卒、1949年にジャカルタに出てきた。妻は1929年サラティガ生まれで中学卒、ジャカルタに来たのは1951年。ふたりの間には小学生の12歳の娘がひとりいる。夫は銀行に勤めており、インドネシア語、ジャワ語、オランダ語を流暢に話せる。また英語、日本語、ジャカルタ語は話せるが流暢ではない。妻もインドネシア語、ジャワ語、オランダ語が流暢に話せるが、ジャカルタ語は流暢でない。娘はジャカルタ語とインドネシア語が生活語になっている。家の中で夫婦は普通ジャワ語を使っているが、娘に対してはインドネシア語で会話する。娘は隣人や友達との間でジャカルタ語をもっぱら使う。その方が交際しやすいのだと娘は言う。夫婦に対して隣人のブタウィ人がジャカルタ語で話し掛けてくると、かれらはインドネシア語で返事をする。
また別の世帯もある。戸主は1925年生粋のブタウィ生まれで、ジャカルタ以外に住んだことがない。かれには1929年スラバヤ生まれの妻がある。この夫婦は戦前に国民学校をそれぞれ卒業している。ジャワ人の妻は両親に従ってプルウォレジョに住んだあと、6歳のときにジャカルタに移って来た。戦争中、一家はバンドンに住んだので、妻は13歳から数年間スンダ語を学んだ。かの女は6歳のときからジャカルタ語とインドネシア語を使っている。夫はブタウィ語を母語としているが、6歳のときからインドネシア語を学び、17歳にはジャカルタでジャワ語を学び始めたがジャワ語は流暢でない。この夫婦には男児5人女児2人があり、全員が1951年から1967年の間にジャカルタで生まれている。家の外で夫はジャカルタ語もしくはインドネシア語を使うが、妻はジャワ語やスンダ語を頻繁に使う。それらを母語とする人間と早く親密になれるからだとかの女は言う。ジャワ人やスンダ人の友人たちはかの女と自分の母語で会話するように誘うのだそうだ。しかしボリューム的に日常生活用語となっているのはジャカルタ語だ。夫婦の間ではジャワ語とインドネシア語が折に触れて使われるが、子供たちとの会話はジャカルタ語もしくはインドネシア語で、子供たちはその二言語以外の言葉を家の内外のいずれにせよどんな状況であれ使ったことがない。
どうやらかれらのマルチリンガル特性は、多数の異なる文化を持つ異なる種族との交際に果たしている言語の役割から来ているように見える。たとえ異文化異種族の人間であっても、自分と同じ言葉を話してくれればひとは容易に胸襟を開くようだ。たしかに意思疎通は言葉によらなければ難しいだろう。ブタウィ文化をベースとするジャカルタで当時の子供たちが仲間と遊ぶ環境はジャカルタ語だったにちがいなく、そのような環境に入りやすいのはインドネシア語よりジャカルタ語というのは必然的だと思われるが、しかしこのサーベイの時期から30年以上経過した今のジャカルタでは当時のジャカルタ語も既に世の片隅に押しやられており、バハサガウルがそれにとって代わっている。しかしそんなバハサガウルを生み出すかれらの能力はガドガド言語が連綿と培ってきたものの精華だとわたしは思うが、その見解に読者の賛同が得られるだろうか。


「国際レベル高校ではバイリンガル授業」(2007年4月3日)
政府国民教育省は全国で112の高校を国際レベル校に指定する目標を立てている。国際レベル校というのは授業の一部を英語で行う学校であり、バリ州クルンクンのサマラプラ国立第1高校はその指定を受けようと既に名乗りをあげている。学校側が準備しなければならないのは教員とカリキュラムの準備で、国民教育省の審査を通らなければ指定を得ることができない。東ジャワ州パスルアンのバギル国立第一高校も指定を得るために準備を進めている。この学校では2006教育年度から既にパイロットクラスをふたつ開設し、それぞれ36人の生徒に対してバイリンガル教育を行っている。そのクラスの生徒たちは英語、数学自然科学、情報技術の三教科の授業を英語とインドネシア語で交互に受けている。一気にすべて英語での教育にしないのは、言葉のために内容が理解できない生徒を出さないようにするためであるとのこと。カリキュラムは国民教育省指定のものとケンブリッジの国際スタンダードカリキュラムが使われている。国際レベル校では、教科内容に加えて構内設備も国際レベルのものにグレードアップしていかなければならない。この学校では既にインターネットラボ教室があり、図書館書籍の充実も進んでいる。


「外国人のためのインドネシア語」(2007年7月18日)
いくつかの国ではこれまで外国人にインドネシア語を教えていた機関で生徒数の大幅減少が起こっており、そのために閉鎖を余儀なくされているところもある。インドネシア文化やインドネシア社会を外国人に知ってもらうための最善の手段である外国人向けインドネシア語教育に多くの外国人が興味を失いはじめているのだ。インドネシア語熱の低下は教育活動の量的減少と生徒数の減少の両面で起こっている。外国人が興味を失いだした原因はわが国の政治状況がもたらしているものであり、国内の外国人向けインドネシア語コースつまりBIPAでも類似の状況を見ることができる。国民教育省言語センター長官はそう語る。
たとえばインドネシアとオーストラリアの政治的関係に軋轢が生じるとオーストラリア国民のインドネシア語への興味が減退する。ドイツでも学習希望者が減少しており、ある大学ではインドネシア語学科を閉鎖する話が出ている。インドネシアと歴史的な関係を有しているオランダでさえインドネシア語への興味が低下しており、インドネシア語を学びたい外国人の興味の中心は芸術や文化に移っている。国民教育省はこの問題の対応策を検討中だ、と同長官は言う。
しかし世界中がそうであるわけではない。日本・中国あるいは中東の国々でインドネシア語の学習熱は高まりを見せている。インドネシアを外国人によりよく知ってもらうためにBIPAを活用する方針は国民教育省内で決定されていて、その一環として今年7月18日から20日までジャカルタでBIPAをテーマにした国際ワークショップが開催される。場所はPusat Bahasa, Departemen Pendidikan Nasional, Jalan Daksinapati Barat IV Rawamangun, Jakarta 13220


「日本は国外で最大のイ_ア語教育国」(2008年2月1日)
ここ一年ほど前に先進国の大学の中でインドネシア語講座を受講する学生が集まらないために閉鎖するところがちらほら出ているというニュースが流れていたというのに、つい最近の2008年1月23日に国民教育省外国協力企画ビューローのBIPA(Bahasa Indonesia utk Penutur Asing)コーディネータが発表した最新状況によれば、公式に海外で行なわれているインドネシア語教育は73ヶ国219機関に達しているとのこと。日本・オーストラリア・アメリカ・ドイツが教育機関数の多さでトップグループを形成している。その教育機関というのは言語・会話塾、大学、一般学校、そして海外のインドネシア人学校などから成っている。海外の大学からインドネシア人語学文化教育者を派遣してほしいと求める要請も増加している。その大学で言語・文化・アジア学あるいはインドネシア学を教えるインドネシア人教官が求められているのだ。この要請はインドネシアとその国との間で行なわれている相互協力の強さに比例している。外国人が自国にいながらインドネシア語を学びたい理由の多くは、インドネシアで仕事をする、インドネシアに留学する、インドネシアを訪問するといった目的のためで、それ以外にインドネシアの文化や社会を研究するためというひとびともいる。
インドネシア政府は1974年以来ダルマシスワ留学制度を実施して海外からインドネシアに留学したい学生を募ってきた。2007年は4百人の大学生に対してこの制度が適用されており、2008年の計画では750人までその枠が広げられている。外国人留学生の多くはインドネシアで言語・芸術・伝統文化・手工芸などに関心を抱いて学習に取り組んでいる。一方海外からの教官派遣要請もこのシステムの中に取り込まれ、インドネシア語教師の海外派遣活動も行なわれるようになっている。ダルマシスワは将来的に外国人留学生を受け入れるインドネシアの大学と留学生の本国における母校との間に公的な交換関係を作り上げる目標を立てている。


「菓子は食え」(2008年9月1日)
「ひとはオラン(orang)、めしはナシ(nasi)、さかなはイカン(ikan)、かしはクエ(kue)」という戯言をインドネシア語学習者は第一課のイントロで習っていたと思うのだが、はたして今でも変わっていないだろうか?
クエに対応する日本語は菓子とされており、インドネシアでクエはkue basahとkue keringに大別される。クエバサは蒸して作った菓子で水分を多く含んでおり、長持ちしない。クエクリンはオーブンなどで焼いた菓子で、こちらは日持ちがよい。クエというのは主食でなく間食に用いられる食べ物がその定義であり、つまり主食はご飯とおかずであってクエをご飯のおかずにはしないのが普通だ。ともあれ、インドネシア人は味にもとづく分類方法をクエに適用しなかったようで、だからクエの中には甘いものもあればしょっぱいものもあり、辣味のものもある。原義から言えば、チーズやソーセージ、野菜などを使ったものでも間食用の食べ物はクエと呼ぶことができる。しかしインドネシア人は一般的にそのような間食用食品をpengananと呼んでいるようにわたしには思える。辞書を見るとクエとプガナンは同義語になっているとはいうものの、インドネシア人はプガナンという言葉を間食用食品全般に用い、クエという言葉は甘い間食に使う傾向を強めているような印象をわたしは抱いているのだが、はたしてその見解は間違っているだろうか?
もしそうであるなら、Kamus Besar Bahasa Indonesiaには申し訳ないが、クエというのは甘い間食という意味になり、こうしてやっと日本語の菓子に対応するようになる。言葉と実態が対応していないもののひとつに、菓子パンがある。菓子パンのインドネシア語はroti manisであり、この言葉はroti tawarに対応している。つまりロティタワルとは食パンやフランスパンなど特に味付けを施していないパンであり、ロティマニスは日本の菓子パンと同義だが必ずしもすべて甘味にはなっていない。ご承知の通りマニスとは甘いという意味だ。ところがチーズパンもソーセージパンも野菜サラダパンも一切合財ロティマニスと呼ばれているので、わたしなどは面食らってしまった経験がある。はたして日本でそれらのパンは菓子パンと呼ばれていただろうか・・・・?


「餅をモアチとはこれいかに?」(2008年9月2日)
インドネシアのクエは、というより食文化は、地元固有の伝統的なものに加えて、この地域と接触を持った実にさまざまな文化から多種多様な食品が流入してきたため、その多様性には瞠目させられる。たとえば、インドネシアにも餅がある。もち米の粉を蒸して作るこの食べ物は日本語と同じようにmoci(mochi)と呼ばれている。モチはどうやら日本軍政期にインドネシアに持ち込まれたらしく、だからこそモチという名をインドネシア人も使っているわけだが、スマランでmoaciを製造販売している1932年生まれの店主は日本時代にモアチ(その店主は自家製品のモチをそう呼んでいる)が売られていたのを記憶している。1970年代に西ジャワ州スカブミでモチが地元名物になった。これは当時地元行政府が中国系市民に居住と就業地区を指定して他の場所で仕事するのを禁じたことが発端となったもので、そのためこれまでの仕事を続けられなくなった者がたくさん出て、かれらは当然職業変えをしたがその中にモチの製造販売に従事する者も出た。今現在スカブミにはモチの製造販売業者が10軒登録されている。
モチは割いた竹で編んだかごに入れて売られたためにkue keranjangという別名が付けられた。クエクランジャンは中国人社会で祭礼の贈答品になっている。しかしインドネシア人がモチと呼んでいるクエクランジャンはむしろ中国の「?」に当たるもので、日本人の知っているモチとは似ても似つかぬ姿をしているからモチという言葉に期待していると面食らうことになりそうだ。むしろパサルで売られている一見団子のようなモチのほうが、日本人にとってはまだ正統派と呼べるにちがいない。


「恥」(2008年10月9・10日)
日本語で「恥」という言葉は、自分の誇りや名誉が傷つき、面目を失い、体面を汚すことを指し、またその原因となったことがらをも指す。傷つけたり汚したりする者が常に他人とは限らず、自分自身の行為の結果それが自分自身に起こることも十分にありうるのはだれしも知っていることだろう。いずれにせよ、恥というものは自分が属す社会のきわめてネガティブな価値観を投影しており、社会の目や評価を前にして自分の姿を客観的に見るところに恥の意識が生じてくるものであるようだ。更には自分の中のもうひとりの自分がその社会の座にとって変わり、行為を行なった自分を評価するということも内省的理想主義的人間には起こりがちである。「恥」を認知するというのはそのようにかなり屈折した精神作用を通して行なわれることから、個人差は避けようもなく起こる。ましてや、どういうシチュエーションで何を対象にして「恥」を感じるかはその社会における共通項の部分とその社会における個々人の立場や背景によって異なる部分のふたつに分かれることから、共通な恥と個人差のある恥が並存しているようにも思われる。
さて、「恥」という語は名詞である。インドネシア語で名詞の「恥」に該当する言葉は何だろうか?だれしも最初に「malu」を思い浮かべるに違いないが、maluは「恥ずかしい」という形容詞であり、恥を感じる人間の感情のあり方を指している。名詞形のkemaluanはと言えば、KBBIでは1)恥を蒙る、2)恥、3)恥部(つまり男女性器のこと)の三つをその順位で上げているものの、日常生活においては3)の意味に使われているのが主流であって、用法を誤って『恥をかいた』わたしの仲間も読者の中にはきっといらっしゃるにちがいない。もうひとつ別の言葉に「aib」というものがあるがこれも形容詞であり、わたしの理解では「外聞のわるいことがら」に対する不面目な感情から来る恥ずかしさを指すニュアンスが強く、その名詞形keaibanは恥辱というよりむしろ汚点のほうに近いような気がしている。
オルバレジームが崩壊してレフォルマシ時代が始まり、国民のだれもが新生インドネシアを夢見たものの、政権は転変して国民生活は向上せず、反対に世界大腐敗国の名声をほしいままにするような事態に陥ってしまい、「malu jadi orang Indonesia」という言葉が一時期流行った。マルクの宗教間抗争を他種族の知識人はmalu-kuと揶揄した。ともあれ、そのような時期から早五六年が経過しているいま、インドネシア人は祖国の何について「恥ずかしい」と思い、また何を誇りに思っているのかというアンケート調査をコンパス紙R&Dが2008年8月6〜7日に行った。調査方法は例によって電話によるインタビュー調査で、ジャカルタ・ジョクジャ・スラバヤ・メダン・パダン・ポンティアナッ・バンジャルマシン・マカッサル・マナド・ジャヤプラの電話帳から無作為に抽出した17歳以上の国民863人から回答を集計した。設問は次のふたつ。
1)他の国々に比べてあなたか一番恥ずかしいと思うインドネシアの欠点は何か?
コルプシ(腐敗) 48%
貧困や社会問題 10%
経済不振 8.1%
規律欠如や怠惰などのモラルの低さ 6.5%
エリート層の誉められないふるまい 5.4%
社会生活での安全問題 4.6%
法確立の弱さ 3.6%
欠点なし 2.5%
わからない 1.7%
2)他の国々に比べてあなたが一番誇りに思うインドネシアの長所は何か?
多様な種族・文化・アート 29.3%
豊かな自然 17.3%
親切でフレンドリーな国民性 3.9%
観光 3.5%
長所なし 7.6%
わからない 6.0%


「コボイ」(2008年11月11・12日)
昔のハリウッド西部劇にはガンさばきと腕っ節でわが道を切り開いていくヒーローたちの姿が描かれていた。法治が確立されていない新天地を開いて行った男たちにとっての法は、強いか弱いかということが最後の切り札だったようだ。つまりバイオレンスが秩序を定める最終要素だったと言えるだろう。これはケダモノから進化してきた人類がかつて歩んだ道でもあるにちがいない。そして現代のこのグローバル世界にも、いまだにバイオレンスを秩序の礎にしている社会が存在している。どうやら人間にとって脱ケダモノというのはそれほど難しいものであるようだ。
ジョン・ウエインやカーク・ダグラスたちがさっそうと悪漢どもを叩き伏せ、撃ち倒す。往々にして主人公もカウボーイなのだが、そんな男の中の男にやっつけられる粗暴がさつの荒くれカウボーイたち。カウボーイというのは牧童のことで、言ってみれば牛飼いさんとでも呼べるが、アメリカの広大な大平原に牛飼いさんという言葉はなじまない。日本ではカウボーイという言葉にあまりがさつな荒くれ男というイメージが付与されていないような気がするのだが、これはわたしの個人的な印象に過ぎないのだろうか?しかし映画の中では、荒くれカウボーイたちが徒党を組んで馬を駆り、銃を振り回して撃ちまくる。酒場ではちょっとしたいざこざで暴れ、机や椅子をつぶし酒瓶を割り、窓ガラスを壊して大乱闘。
粗放的で乾燥したバイオレンスはハリウッド映画のたまものと言える。高温多湿のインドネシアでそんな軽快感は臨むべくもないが、乱暴者はここにもたくさんいる。カウボーイ(cow boy)はインドネシア語になってコボイ(koboi)と綴られている。コボイがインドネシア語として市民権を得ているのは、KBBIに採録されていることからもうかがえるだろう。日本で「カウボーイのようだ」と言われると、男性的でスポーティにカッコよくふるまう姿を誉めてくれていると思う人がいるかもしれないが、インドネシアで「コボイのようだ」と言われたらこれは最大限の侮蔑・批難だと思わなければならない。たとえばこの男のように。
ブカシに住むビンサルは2008年4月のある日、友人をタングランのブキッテインダ・サルアプルマイ住宅地のその自宅に送るため車を走らせていた。その途上で道路混雑の悪名高いチプタッ市場を越えなければならない。ビンサルは市場の裏道に車を乗り入れた。時間は深夜に近い23時半ごろ。
市場の裏は荷を積んでやってきたピックアップトラックが道路の片側をびっしりと埋めており、車が一台通るだけのスペースしか残されていない。大勢の人間が右往左往するその道をビンサルはゆっくりと前進する。ビンサルの後にも乗用車や二輪車が団子になって追随している。そのとき突然前方から灰色のカーレンスが一台こちらに向かってやってきたではないか。ビンサルは愕然として車を止めた。しかしカーレンスはそのまま進んでくるとビンサルの車と鼻先を接するようにして車を止めた。カーレンスのナンバープレート地は黒色だったが、その車の運転席から降りてきた男は迷彩ズボンをはき、KOMANDOとプリントされたシャツを着て、あたまにはPM(憲兵)と記された帽子をかぶっている。男はビンサルが座っている運転席のドアをノックし、車をバックさせるよう手で合図した。ビンサルは窓を開いて身を乗り出し、後にいる車にバックするよう合図する。しかし既に何台もの四輪車二輪車がついて長くなっている車列は前方で何が起こっているのかわからず、バックはなかなか進まない。KOMANDO印の男はただ腕を組み、仏頂面をして大勢があたふたしているのを眺めているだけ。
市場脇に駐車しているピックアップが途切れる辺りまで苦心惨憺して後退し、やっと二台がすれ違える状態になった。そしてカーレンスがビンサルの車の脇を通り抜けるかと思ったところ、カーレンスはその脇で止まり、KOMANDO印の男がふたたび運転席から降りてきたかと思うといきなり腰の拳銃を引き抜いて銃口をビンサルに向けた。ビンサルの胸が早鐘を打つ。助手席の友人は半べそで叫び声をあげた。KOMANDO印の男はそのままの姿勢でビンサルに怒鳴りつけ罵詈雑言を浴びせ続ける。そして男は気が済んだのか、また車に戻るとカーレンスを発進させて走り去った。冷や汗でびっしょりになったビンサルはしばらくハンドルにもたれかかったままだった。ビンサルの口からつぶやきが洩れた。「あのコボイめ!」


「インドネシア語は生徒たちに不人気」(2008年11月24日)
小学校から大学までインドネシア語の学習機会は完備されているというのにインドネシア人学生生徒のインドネシア語能力は低下の一途をたどっている、と2008年10月末にジャカルタで開催された第9回インドネシア語コングレスで国民文化省役職者が表明した。過去三年間の修業全国試験の結果がそれを如実に物語っている。中学校修業全国試験のインドネシア語平均点は2006年7.46、2007年7.39、2008年7.00であり、高校修業全国試験のインドネシア語平均点は2006年7.40、2007年7.08、2008年6.56という数値になっていた。もっと言うなら、過去15年間に渡ってインドネシア語平均点は全教科中で下位に落ちたままだ。インドネシア語教科は理数系、社会学系よりも人気がない。それは生徒自身や父兄そして教育関係者までもが学業評価の目的を実利的な面からしか見ておらず、特定教科の成績さえよければ学歴優秀とされる世間の風潮とも相互に関連しあっているからである。
生徒のインドネシア語の成績が低レベルにあるのは、多くの学校でインドネシア語専門教員がいないために他の教員が兼任で教えているという状況も手を貸している。法律・宗教・体育・歴史などを専門とする教員がインドネシア語を生徒に教えており、学校によっては数学教員が教えているところもある。これが意味しているものは、公的教育機関におけるインドネシア語教育が直面しているのは教員の量的問題だけでなく質的問題もあるということだ。インドネシア語が生徒に人気がないから、大学でインドネシア語を専門に学ぼうという学生も少ない。このようにインドネシア語教員を生み出す母体の層が薄いことによって、公的教育機関の現場に上のような教員問題が発生しているのである。全国の大学にあるインドネシア語学科は生徒数が少なく、中には閉鎖の危機に直面している大学さえある。


「外国人は好み自国民は嫌うインドネシア語」(2008年11月25日)
インドネシア語とインドネシア文化に対する外国人の関心はきわめて高い。インドネシアのイメージを国際舞台でもっと高めるとともに友好国との文化交流を促進させるために、より多くの国にインドネシア文化センター(Pusat Kebudayaan Indonesia)を設立する必要があるのではないか?2008年10月末にジャカルタで開催された第9回インドネシア語コングレスで外務省国民外交情報総局長がそう表明した。現在インドネシア語が教えられている国はオーストラリア・アメリカ・カナダ・ベトナムなど45カ国にのぼる。たとえばオーストラリアでは5百の学校でインドネシア語が教えられており、オーストラリア人の間では人気のある外国語の第4位に位置付けられている。
国民教育省役職者はインドネシア国民にとってのインドネシア語の重要性を強調した。将来の労働市場では地元ローカル、全国、そしてグローバルなレベルで賢く・創造的で競争力のある人材の需要が高まるのは必至であり、その条件を備えるために母語(地方語)・インドネシア語・外国語にバランスの取れた能力を涵養しなければならない。ところが、それを困難にしているいくつかの問題がある。最近の若い世代は正しいインドネシア語の能力涵養をはかるどころか、インドネシア語教科の学習に熱意を示さず、その一方でいくつかの奇妙なインドネシア語を盛んに使用する傾向が高まっている。bahasa gaul、bahasa prokem、bahasa SMSなどのような、標準的インドネシア語を崩しデフォルメした言葉を若い世代は好んで使い、大人の世代には理解しがたいかれらだけの言葉を使って世代間の断絶をあおっている。国民教育省役職者はそう昨今の風潮に警鐘を鳴らしている。


「インドネシア語は変化しつつある」(2008年11月26・27日)
マスメディアは国民に正しいインドネシア語を提供するという教育的機能を持っているはずなのに、現実にはインドネシア語を乱しまた損なうようなことをしているマスメディアが少なくない。2008年10月末にジャカルタで開催された第9回インドネシア語コングレスで国語を専門にする大学研究者がそう発言した。それに対してインドネシアプレスユニオン事務局長は国内プレス界の実情を次のように説明した。
すべてのマスメディア機関が自分の組織内に言葉のスクリーニングを行なう機能を持っているわけではない。ましてやレフォルマシのユーフォリアの中で、言語面からの調和をチェックする機能はもはや義務と見なされなくなっている。その結果、いまのマスメディアのインドネシア語はたいへんお粗末なものに成り下がってしまった。たいていのマスメディア機関はそのビジネス方針の中に4千万人いる15〜24歳の年齢層を読者であるとともに広告対象としての位置にすえており、かれらを惹きつけるために用いられる言葉もおのずと方向性が定まってしまう。その結果は最新流行の言葉や表現であり、標準的なインドネシア語は置き去りにされる傾向から逃れるすべがない。標準的なインドネシア語を守ろうとする方向性と衝突する、意図的な意思がそこに発生する。2006年のプレス評議会報告では、全国851のマスメディア機関の中で健全な言語使用を行なっているのは30%しかなく、7割は不健全もしくは病的と審査されている。マスメディアに正しい標準的なインドネシア語を国民に提供せよと要請されるなら、これはたいへんむつかしいチャレンジになる。
ガジャマダ大学言語研究者も、マスメディアは正しい標準的なインドネシア語を国民に教育する役割を実践できる一方で国民のインドネシア語を乱したり崩したりすることもできる、と語る。「ジャーナリストは正しいスタンダードなインドネシア語をベースにして文章を書かなければならない。ところがジャーナリズムの文章の中でその原則は事実表現にのみ用いられており、フィクションやオピニオン関連記事の中では綴り方までもが編集者の個別方針によって自由に扱われている。特定の単語の標準的綴り方に従わない変種が巷には氾濫しているのだ。たとえばsalatは27万件、shalatは138万件、sholatは113万9千件ある。ustazは247万件、ustad311万件、ustadz68万1千件。wudu9千件、wudlu5万9千件、wudhu15万1千件。eventは665万件あるがevenやivenという変種があるし、obyekとobjek、genderとjenderという異種もある。それら外国語の異種変種はマスメディア界と言語センターの外国語摂取方針の違いを反映するものであり、マスメディア界が持つ特定の語感を付与しようという意図にも影響されている。マスメディアは言語センターが外国語を外来語として標準インドネシア語に設定するプロセスが遅すぎると考えており、かれらは必要が生じたときに独自の動きを取るため言語センターによって標準インドネシア語にされたときには既にマスメディアの諸変種がひとり歩きしているというありさまだ。」
言語センター長はしかし、その現象は言語センターが標準化した外来語にマスメディアが従おうとしないために起こっていることだ、と反論している。「言語センターは昔から外来語の標準化を行なっており、さまざまな学問分野の40万5千件の単語や熟語をインドネシア語化している。現在は18万2千件についてプロセス中だ。」
しかしその問題よりももっと激しい変化が携帯電話の文字通信面で起こっているのを懸念する声も強い。何百万人ものインドネシア人が携帯電話やインターネットのブログに想像性豊かな新種の書言葉や綴りを用いており、それが既に日常化しているのが実情だ。正しいスタンダードなインドネシア語が破壊されつつある、と標準インドネシア語維持を叫ぶ識者たちの危機感は高まっている。


「クアドリリウン」(2009年5月29日)
2009年政府予算でついに1千兆より上の位が国民生活の中に出現したとき、インドネシア国民はkuadriliunという言葉を使った。これはもちろん当然の帰結であって不思議はなにもないのだが、実は兆の位をtriliunと呼称したとき、インドネシアには巨大数字名称システムの流れに断絶が起こっていたのである。
いまさら言うまでもないことだがここでおさらいをしておくと、欧米には巨大数の位の呼称として米仏系と英独系の二つの流れが存在している。まず日本語の対応表を下記すると;
                    1,000,000 百万
                1,000,000,000 十億
            1,000,000,000,000 一兆
        1,000,000,000,000,000 千兆
    1,000,000,000,000,000,000 百京
1,000,000,000,000,000,000,000 十垓
上の日本語に対応させて諸国の言葉を並べて見よう。
日本語  米仏     英独    蘭     印尼
百万 million million miljoen juta/miliun
十億 billion - miljard miliar
一兆 trillion billion biljoen triliun/biliun
千兆 quadrillion - biljard kuadriliun
百京 quintillion trillion triljoen kuintiliun
十垓 sextillion - triljard sekstiliun
米仏系が1千倍ごとに名称を替える一方で、英独系は百万の累乗がひとつアップするごとに名称が変わる。インドネシアの旧宗主国オランダは明らかに英独系だが、-joenと-jardという語尾の使い分けを行なって1千倍ごとの隙間を埋めている。さてインドネシア語はどうかというと、元々は旧宗主国の用法に従っていたのが明らかだ。国民の日常生活にとってせいぜい兆を超える位が天文学的と感じられたころはオランダ式の語法が定着していたのである。ところが時代が下りインフレが昂進して天文学的だった位が地上のひとびとの身近に迫ってくると、天文学的数字は桁数をもっともっと増やして行くことになった。
1978年、時のオルバ政府蔵相がIMF+世銀とのミーティングから帰国したあと国内で兆の単位を突然triliunと言い出したから、報道陣も経済界も仰天した。なにしろまだ兆の時代が幕を開けたばかりのはずなのに、政府要人が突然百京というどでかい数字を言い出したと思ったわけだ。その誤解はすぐに晴れて国中が兆の位をtriliunと言うようになったから、biliunはいまではほとんど死語になっている。こうしてオランダ由来のbiliunは影を潜め、アメリカ式triliunが桧舞台に上がってきた。だからその1千倍の位取りにアメリカ式のkuadriliunが使われるのは理の当然だと言うことができる。
ムラユの半島から島嶼部一帯にかけては、ヨーロッパの言語が伝来するより1千数百年も前にインドから数字の位を言う言葉がもたらされていた。ayutaはサンスクリット語で1万、laksaは10万、ketiは1,000万を意味したが、ムラユ地方ではラクサが1万に、クティは10万に変貌してしまった。そしてアユタはjutaと名を変えてインドネシアではオランダ語源のmiliunを蹴落とす勢いを見せている。


「ハイ チン・・・・」(2009年7月1日)
「Hai Cin .....」最近ジャカルタの一部階層でこのあいさつ言葉が大流行しているそうだ。
その言葉をかけられた南方系のまん丸目玉を持っていない細長目のひとはCinをCinaの略称と思うようだが、「ハトの豆鉄砲」系の大きく丸い目のひとも同じように呼びかけられているから、チンがチナの略称でないことは観察していればわかる。
ちなみにチナという呼称は、古代中国の秦朝の時代にインド・ギリシャ・ローマなどがその国や民族をそう呼んだことに由来しており、中国人自身がその呼称にいくつかの漢字をあてて自分たちの文化内でも普遍化させたあげく、最終的に「支那」という文字が生き残った。いまの中華人民共和国政府は自国が支那とよばれることを嫌っているようだが、長い歴史の中の政治的変遷で言葉の価値は転変するから、蔑称、つまり現代日本語では差別用語、というものをあまり固定的に見ないほうがよいとわたしは思う。人間はものごとを弁別するために言葉を作ったわけで、ひとがその対象物に侮蔑感を抱くのは言葉のせいでなく人間の側の問題なのだから、言葉を社会から排除する方向性が正しい対応とは思えない。
インドネシアではオルバ政権期にチナという言葉の蔑称化が完成し、固有名称と差別用語のふたつの機能を持つようになった。インドネシアにも蔑称排除派のひとたちがいて、チナという言葉を使わないようにして国を指す場合はnegara Tiongkok、人や民族を指す場合はorang/bangsa Tionghoa と言うようにしようという運動が提唱されたものの、それが根付いた雰囲気はさらさらない。KBBI(Kamus Besar Bahasa Indonesia)の第3版にも昨年出版された第4版にもTiongkokやTionghoaは採録されておらず、中華人民協和国のインドネシア語正式呼称はRRC(Republik Rakyat Cina)と記載されている事実がそのあたりの機微を雄弁に物語っているように思える。
ともあれ、「Hai Cin....」のCinがCinaでないとすると、チンはいったい何を意味しているのだろうか?実はこれ、CintaのCinだったのである。英語で言えば「Hi, darling....」といったところだろう。英語国でも普通は夫婦や恋人間でしか用いられなかったそのあいさつ言葉を映画界やファッション界など一部特殊な業界に集うひとびとはそんなプライベートな関係などなしに、出会うといきなり「ハイ ダーリン・・・」と呼びかけるらしい。
欧米人に生まれたかったインドネシア人はかれらの習慣を取り込んで自分たちのライフスタイルを豊かなものにしようと情熱をみなぎらせている。友達のともだちの友達はみなともだちという原理に従い、どこかで何度か顔を見た素性のよくわからないひととモールの中ですれ違えば、「ハイ チン・・・」という言葉が投げかけられるようだ。「チンタというのはもっとプライバシーのこもったものだったはず」というのは年寄りの繰言でしかなく、軽い浮ついたチンタによる博愛化が若者たちの間で進行しているのにちがいない。


「アスリ」(2009年9月24〜28日)
インドネシア共和国憲法には、『大統領はアスリ(asli)のインドネシア人である』と記されている。ちなみにこの文章は叙述文でなく大統領の条件について述べているものであるため、邦訳は『大統領はアスリのインドネシア人とする』というほうが適切な気がする。ところで、そのasliというのはいったいどういうことを意味しているのか、言い換えればインドネシア共和国大統領に就任できる者の条件はいったい何なのかを文筆家サムスディン・ブルリアンが問いかけた。2004年以来、国家元首の選抜に国民投票という方式を使いはじめたインドネシア共和国国民は立候補者の基本条件をどう理解しているのか、という問題提起がこれである。
インドネシアで生活していると、ビジネス分野にせよ住民管理分野にせよ政府の管理行政に否応なく関わることを余儀なくされる。それはどこの国へ行こうが違いはないのだが、一番違っているのはありとあらゆることがらにお上の許認可を受けなければならず、そしてありとあらゆる許認可に違反の罰則がつきまとっていることだ。これは国民総犯罪者化社会の特徴であり、国家の行政機構がその原理をふまえたメンタリティのひとびとで運営されているため、その簡素化には時間がかかりそうだという悲観的な目をわたしはその現状に向けている。国民総犯罪者化社会の中にいる国民はどうやってお上の目をくらますかという対抗策を日常茶飯事にしているため、国民活動管理システムの手綱を緩めれば国家行政の秩序が崩壊しかねないという危惧を行政側が抱くのはきわめて自然な成り行きであるにちがいない。
そんな環境の中で仕事をし生活しているひとびとはきっとアスパル(aspal)というインドネシア語を耳にしているはずだ。アスパルというのは、辞書をひもとけばアスファルトの意味が記されているのだが、ここで言われるアスパルとはasli tapi palsuを略したものである。ここでasliが意味しているのはホンモノのことであり、それはニセモノのpalsuに対応している。「『ホンモノだがニセモノ』とはいったい何のこと?」と読者が疑問を抱かれるのも無理はない。
インドネシアではありとあらゆるものに贋物の影がつきまとう。知的財産権を冒す不法コピーから国際的有名ブランドのついたGenuine Partsという記載のあるスペアパーツ、政府が発行するありとあらゆる証明書や証書、はては農民が購入する苗やら肥料、そして忘れてならない紙幣まで、ニセモノが作られないものはないと言って過言ではあるまい。苗のニセモノなどは、植えて育てたはいいが収穫期になっても結実しないものであるらしい。日本の有名ブランドメーカーもインドネシア市場で出回る見た目そっくりの贋造品に手を焼いているというはなしだ。そんなニセモノの中に、単なるpalsuとaspalが存在している。単なるpalsuは贋作者が腕によりをこらしてホンモノそっくりのニセモノを作るというもので、たいていの場合ホンモノとの関係はほとんどない。しかしアスパルの場合、これは会社登記書・事業許可書・土地証書・免許証やパスポートなど行政が発行する証明書で起こるケースが普通なのだが、ホンモノの用紙が使われている。だからアスリという言葉が添えられるわけだ。ホンモノ用紙が使われているにもかかわらず記載内容は虚偽のものであり、そして正規にそれを発行する役所に登録されていない。だから見た目はアスリだが実際はパルスであるというアスパルがこうして世に出現するのである。言うまでもなく、アスパル出現の陰には役所担当職員による用紙の横流し、もしくは非公式な悪用という腐敗行為がからんでいるにちがいない。 さて、アスリが『ホンモノ』と同義あるなら、憲法が言う『大統領はホンモノのインドネシア人』とはどういうことなのだろうか?拙作のシリーズ「インドネシア人の実像」で紹介したモフタル・ルビスの指摘する性向に関連付けてしまいそうだが、一国の大統領にそんな性格を持つことを要求すればきっとおさまりがつかなくなるのではあるまいか。
サムスディンの分析を読んでみよう。かれは政府国民教育省言語センターが編纂したKBBIと通称されるインドネシア語大辞典(Kamus Besar Bahasa Indonesia)に即してアスリの意味合いを問うている。
KBBIのasliの項目に記されている最初の語義は「混ざっていないこと・純粋・生っ粋」となっている。サムスディンは問う。
純粋なインドネシア人というものはどのように評価すればよいのだろうか?純粋なのは身体的にか、それとも精神的にか?もし精神だと言うのなら、弱小民衆を擁護した外国人ムルタトゥリと過酷な圧制で民衆を支配したプリブミである県令のどちらがそうなのだろうか?あるいは身体についてのものだと言うのなら、インドネシア国籍者たる父とそうでない母の間にインドネシアを出生地として生まれたインドネシア国籍者は純粋なのか、それとも混ざっているのか?米大統領に選ばれた、ケニヤ人を父に持つバラック・フセイン・オバマを実に大勢のインドネシア人が支持したが、欧亜混血で青い目をしたインドネシア国籍者が大統領に立候補したなら、果たしてかれらは支持するだろうか?
二つ目の語義は、「peranakanでなくpribumiであること」。プリブミは原住民であり、プラナカンは原住民と外国人との間に生まれた混血者の子孫と説明されているものの、これはまるで頭が尻尾を追いかけているみたいで何の解説にもなっていない。この定義に従えば、青い目のインドネシア国籍者は決して大統領になれないのである。ポピュラーなプリブミという語の定義の中に、インドネシアで生まれたインドネシア国籍者たる中華系国民が除外されているのだ。かれらの中には、インドネシア共和国が成立する何百年も前からスマランに定住している鄭和の子孫もいるというのに。
三つ目の語義である「コピーでない」は本題から外れているのでさておくとして、第四の語義「善良である・何者であるかがはっきりしている」についてはどうだろう?どうして素性が明らかならその者は善良であると言えるのだろうか?それは神のみぞ知ると言われる領域に属すことがらではないのだろうか?この語義が適用されるのであれば、善良でさえあればだれでも大統領になれるわけだ。だったら、だれそれは善良であるというお墨付きを発行するのはだれなのか?この国で倫理警察になるのにふさわしいのはいったいだれなのだろう。
五番目、「生まれつき持っているもの」。例文を見る限り、この語義は性質についてのものと理解できる。真の姿というのはいかように隠しても、そのおりおりにふと表れてくるものなのである。問題は上の第四番と同じで、規準がどこに置かれるかということだ。
第六番目は「出自地」で、この定義はわかりやすい。もし意図されているのが本人の出生地であるなら、インドネシアでインドネシア国籍者として生まれた者は自動的に「アスリのインドネシア人」になるからだ。ところが、もし先祖にさかのぼっての出自地が意図されているのであれば、レーシズムの影が躍り出てくる。先祖の出身地が問題にされるのであれば、インドネシア人はすべてよその土地から移ってきたのではなかったろうか。故YBマグンウィジャヤは、われわれはみんなボートピープルだ、と語っている。ヌサンタラの地に到着した時期だけが異なっているのだ。であるなら、アスリであるかどうかの境界線をどの時代に置くのかというのが問題になる。最近の学術界では、ホモサピエンスの先祖発祥の地はアフリカだという意見が強まっている。つまり、この国で暮らしているわれわれの中に、アスリのインドネシア人などひとりもいないということなのである。
サムスディンの主張はわれわれに実によく理解できるものなのだが、現実に憲法にもそしてその他の法令にもアスリのインドネシア人/インドネシア民族という表現はいくらも出てくる。つまり一般のマレー系インドネシア人にとってアスリのインドネシア人というのは自分のことだと理解されており、見た目が異なる者や異なる生活習慣を持っている者は自分たちに対立するよそ者つまりオランアシン(orang asing)というカテゴリーに入れてひとくくりにするようだ。オランアシンを外国人と訳して国籍原理にからめて理解している非インドネシア人が多いが、インドネシア人の大半は自分の見知らぬ人間を国籍とは無関係にオランアシンと呼んでいる。そして地縁の中で互いに素性を周知している者はアスリという形容詞で呼ぶのである。このケースでのアスリの反意語はアシンなのだが、このアスリの使われ方はKBBIでの第四の語義に該当していると思われる。
さて、画期的と激賞された2006年法令第12号『国籍法』第2条には、「インドネシア国籍者とはアスリのインドネシア民族の者および法令によって国籍者と認定された他民族の者である。」と記されており、法令解説にはアスリのインドネシア民族の者についての説明がある。それによれば、アスリのインドネシア民族の者とは出生以来インドネシア国籍を有するインドネシア人で、自己の希望で外国籍を取得したことのない者となっており、要するに生まれたときにインドネシア国籍を得ていれば青い目であろうとも、あるいはその後外国暮らしを続けたためにインドネシア語がろくに理解できなくとも、アスリのインドネシア人だと主張することができそうだ。だがその主張が2億を超えるインドネシア人に受け入れられるかどうかはまったく別問題なのである。


「自分の国名は正しく発音しよう」(2009年10月22日)
2009年8月27日付けコンパス紙への投書"Melafalkan Kata Indonesia"から
拝啓、編集部殿。8月は独立とその闘争について歌う歌をいつも耳にします。ラジオやテレビで村から町からそして大人から子供までだれもが独立記念日を迎える喜びに満ちてそんな歌を口ずさむのです。最近もそんな歌が収録されたCDやカセットが出されていますが、そんな歌の中にインドネシアの発音が間違っているものが見受けられるのです。たとえばHムタハル作の『独立記念日』はこんな歌詞です。Satu tujuh d'lapan tahun empat lima/Itulah hari kemerdekaan kita/Hari merdeka nusa dan bansa/Hari lahirnya bangsa Indonesia〜 あるいはAシマンジュンタッ作『立ち上がれ、青年たちよ』の歌詞はBangun pemuda pemudi Indonesia/Tangan bajumu singsingkan untuk negara〜
インドネシアの正しい発音はIn-do-ne-si-aであるにもかかわらず、それらの歌ではIn-do-ne-siaと発音されています。誤った発音はインドネシアの全国に広がり、学校児童から先生たちまでが間違いと知らずに使うでしょう。作曲者は多分そんな指摘をされて不快に思うでしょうが、わたしたちインドネシア国民自身が自国の名前を間違って発音するのを聞けば外国人は何と言うでしょうか?そんな習慣が永久的に定着してしまう前に間違いを正そうではありませんか。カセットやCDなど音楽出版関係者はもっと注意深く校正を行なってください。そして教員のみなさんもそんな歌を生徒に教えるさいに、注意を払ってください。[ ブカシ在住、ハルソノ・ステジョ ]


「コンパス紙で訳語間違い」(2010年2月6日)
2009年4月16日付けコンパス紙への投書"Terjemahan Kompas Salah"から
拝啓、編集部殿。2009年4月4日付けコンパス紙第11ページの国際ニュース面にタックスヘブンをテーマにした記事がありました。Tax Havenという言葉はSurga Pajak(税金天国)というインドネシア語に翻訳されていましたが、haven とheavenはまったく意味が違います。
ジョン・M・エコルズとハッサン・シャディリ編纂のグラメディアプサタカウタマ社が出版した英語インドネシア語辞典では、havenの訳語は避難所あるいは立ち寄り所となっており、heavenの訳語である天国とは異なっています。
ですから、Tax havenの訳語は「税金立ち寄り所」がより適確だと思います。コンパス紙殿、いかがでしょうか?[ バンドン在住、ベニー・チャンドラサ ]
編集部からのコメント: 訂正ありがとうございました。


「ランチャゲ文学賞発表」(2010年5月29日)
スンダ語・ジャワ語・ランプン語・バリ語の著作で前年に出版されたものの中から優秀な作品を選んで表彰するランチャゲ(Rancage)文学賞2010年度表彰作品が発表された。これは前年に書物が出版されたものという条件で選ばれるもので、新作か再版かは問われない。アイップ・ロシディ(Ajip Rosidi)ランチャゲ文化財団育成評議会議長が公表した2010年度ランチャゲ文学賞表彰作品は、スンダ語部門ではスンダ語出版作品30タイトルの中でウセップ・ロムリHM著Sanggeus Umur Tunggang Gunungが選ばれた。ジャワ語部門では12タイトルの中でスモノ・サンディ・アスモロ著Layang Panantangが、そしてバリ語部門では9タイトルの中からイ・ワヤン・スダ著Leak Pemoroanが、またランプン語部門では2タイトルの間でアサルピン・アスラミ著Cerita-cerita Jak Bandar Negeri Semuongが、それぞれ賞を受けた。
ランチャゲにはまた各地方語の教育普及に功績のあった人物に対する表彰や優れた児童文学作品の表彰も行なっている。
2010年度ランチャゲ賞は22回目のもので、衰退の一途をたどっている地方語の出版活動を支えようとするアイップ・ロシディ氏の熱意がその持続力になっているようだ。


「ダリマナ?」(2010年9月18日)
インドネシア人から「Dari mana?」という質問をされて、何がその回答に期待されているのかがすぐに判るひとは素晴らしい。前置詞ダリ(dari)は多種多様な意味を持っており、自分の置かれているシチュエーションのどの要素にダリが向けられているのかを即断するのがむつかしいケースは少なくない。
「ダリマナ?」という言葉が使われるケースには次のようなものがある。
1)家の前を通りかかる町内の知合いに声をかけるときの、挨拶代わりの「Dari mana?」。
2)いつも車で出かけている町内有力者が徒歩で帰宅したとき、隣人が声をかけて言う「Dari mana, Pak?」。
3)連絡もしないで夜遅く帰宅した娘に親が言う「Dari mana, kau?」。
4)会社に挨拶に来た下請会社の社長が突然パレンバンのソンケッ(songket)の話を始めたので「Bapak dari mana?」。
5)交通違反をした外国人が示した運転免許証を見た警官が「Bapak dari mana?」。
6)ぺらぺらとインドネシア語をしゃべる国籍不明の外国人に店員が「Bapak dari mana?」。
7)友人の会社に電話して管理職のその友人につないでもらおうとすると交換手が「Dari mana?」。
この7番目のダリマナ?に面食らう外国人は少なくないのではあるまいか。ダリマナ?と聞かれて「サヤ XXX」と答えるのを気色悪いと感じるインドネシア人も少なくない。マナというのは物体の指定あるいは場所を尋ねる言葉であり、人間のアイデンティティは場所でも物体でもないからそこで行なわれているのは完璧なミスマッチングだと言える。よしんば「サヤ XXX」と答えたとしよう。交換手はおっかぶせるように質問を続ける。「バパ XXX ダリ?」
そう、この場合のダリマナ?は電話してきた人間の所属機関を尋ねていたのである。つまり会話はこんな手順になっているのだ。
「Dari mana?」
「Dari PT ○○。」
「Dengan siapa?」
「Dengan XXX。」
ならば停年退職者や自由業者はどうなる?所属機関など持っていないのだからダリマナ?に続いて「サヤ XXX。」とならざるを得ない。交換手がしつこく「ダリ?」と続けてくれば、「Dari rumah。」などと答えないとしかたなくなるのだが、そんなことをすると「こいつ、ふざけているのか?」という交換手の気持ちがひしひしと伝わってくる。
どうして「Dari Siapa?」が応答の最初に出てこないのか不思議で仕方ないとインドネシア人文筆家も書いている。ともあれ、個人はその所属する集団に包摂され埋没しているというのがインドネシアの文化だということに思い至れば、その謎も氷解するような気がする。その人間の所属集団をまず尋ねるというこの習慣を見るかぎり、ひとりの人間が独立した個人として世の中で認知されるというあり方はまだまだ確立されないのではあるまいか。


「弱まる良く正しいインドネシア語への志向」(2010年11月17日)
国旗・国語と国章ならびに国歌に関する2009年法律第24号に関連して元国民教育省言語センター長デンディ・スゴノ博士は、国際レベル学校やパイロット国際レベル学校で英語を媒介語にして授業が行なわれているが、、それは45年憲法に違反するものだ、と発言した。インドネシアの国語はインドネシア語と憲法に謳われており、国民教育が国語でない言葉でなされるのは民族の将来に良くない結果をもたらすものだ、と博士は述べている。「それは国民教育システムに関する2003年法律第20号や2009年法律第24号への違反ではないのだろうか?学習カリキュラムの媒介言語に外国語を使うと、学問の世界におけるインドネシア語の役割と民族の将来に悪影響を及ぼすことになる。インドネシアの教育スタンダード国際化というのは教育内容のクオリティ向上と生徒の視野拡大を目指すものであり、外国語で授業するのは単に皮相の問題でしかない。」
アッマクスマ・アストラアトマジャ元報道評議会議長も昨今のインドネシア語の乱れを批判している。印刷メディアも映像メディアも同様で、文章の中に外国語を盛りだくさんに使い、アクロニムや短縮語を作り出し、中には世の中で一般化していない自作の短縮語を自前のメディアに載せて平然としているところもある。議長は「Frustrasi, Cakep Gandir」という記事見出しを見て首をひねった、と物語る。cakepはcalon kepala sekolahでgandirはgantung diriの意味だそうだ。外国語、特に英語が多いのだが、を無理やりインドネシア語化しているケースがよくあり、英語のgrandをgranとインドネシア語風に書いているが読むほうは個々別々に意味を推察するしかないとのこと。


「優れたインドネシア語マスメディアのトップはテンポ紙」(2010年11月18日)
10月は言語文学月間。2010年の言語文学月間催事のひとつとして国民教育省言語センターがインドネシア語使用優秀マスメディア10傑を選抜した。それによれば、印刷マスメディアでインドネシア語の使用に優れているものは今年次のような順位で登場した。
1. Koran Tempo, Jakarta
2. Kompas, Jakarta
3. Media Indonesia, Jakarta
4. Republika, Jakarta
5. Sinar Harapan, Jakarta
6. Suara Pembaruan, Jakarta
7. Pikiran Rakyat, Bandung
8. Seputar Indonesia, Jakarta
9. Kedaulatan Rakyat, Yogyakarta
10. Jawa Pos, Surabaya
また言語センターが選んだ文学作品優秀賞はアフリザル・マルナの詩Teman-temanku dari Atap Bahasa、リンダ・クリスタンティの短編小説Dari Jawa Menuju Atjeh、ヌキラ・アマルの短編小説Lalubaで、アフリザルはSEAライトアワード優秀賞をも獲得した。


「ジュルクンチ」(2010年12月25日)
juruという言葉はjuru bahasa, juru kamera, juru mudi, juru rawat, juru masak, juru riasなどの用例でわかるように、特定分野で経験と能力を持っている職業人を指す言葉だが、中にはjuru kakiやjuru kunciのように少々異なる概念のものもある。ジュルカキは言いつけられたことを行なう下男、ジュルクンチは墓守りあるいは神聖な場所の管理人を指している。
2006年のムラピ山噴火のおり、ムラピ山のジュルクンチであるンバ・マリジャン(mbah Maridjan)が一躍マスコミに担がれて英雄になったことでその言葉が人口に膾炙した。ジャワ語のmbahは年寄りへの尊称、レストランなどでお姉さんを呼ぶときのmbakは若い女性に対する呼称だから、お姉さんを呼ぶときには語尾のkを間違えてhにしてしまうとたいへん失礼ということになるので気をつけなければならない。
さて、墓地にせよムラピ山にせよ、どこに鍵をかけるのだろうか、という疑問が生じる。詩人ラハルディによれば、昔聖人偉人の墓は扉を備えた構造物で囲まれ、扉には鍵がかけられていたそうだ。構造物は屋根のついたものもあるが、ただフェンスで囲っただけのものもある。お参りや他の目的で誰かがやってきたときに鍵をあずかるジュルクンチが鍵をあけて参詣者らを中に入れてやり、かれらが帰るとまた鍵を閉めた。それがジュルクンチの名の由来であるらしい。それから転じて、後世墓地一般から神聖な場所などを管理する人間にジュルクンチの名が呈された。
ジュルクンチに関連する言葉としてパクンチェン(pakuncen)というジャワ語があり、元々はジュルクンチの住まいを指していたが、現代ではパ(pa-)が削げ落ちてクンチェンとなり、ジュルクンチという職業や地位を指すようになっている。聖人偉人の墓や神聖な場所を管理し司る人間だから、ジュルクンチは社会的に見上げられる人間ということができる。ムラピ山のジュルクンチはジョクジャ王家の守護神体のひとつであるムラピ火山の世話をジョクジャスルタンから任じられた人間であり、ンバ・マリジャンはRaden Ngabehiという貴族の称号を持っている。
ンバ・マリジャンは2006年ムラピ噴火の際に、危険だから下山せよという声に反論して自分の住む村は安全だからという理由でそれを拒んだ。その言葉はずばり的中し、マリジャンの住むキナレジョ(Kinahrejo)村の東隣にあるカリアドゥム(Kaliadem)村は大きな被害を受けたがキナレジョ村は無傷に終わった。生命に関わる事態にもかかわらず冷静な判断で自分の進退を決めた老人は一躍時代の寵児となり、マスコミにかつがれて国民英雄の座に祭り上げられた。
中部ジャワ州サラティガ出身のコラムニスト、ブレ・ルダナは、あれ以来世間の空騒ぎに巻き込まれて好奇心のスポットを浴び続けてきたマリジャンは世間嫌いになり、ダイアナ妃によく似た道を歩んだと評している。マリジャンは今回のムラピの大噴火に下山を命ずる声を聞き流し、集まってきた村人たちと共に自宅の中でまるで礼拝しているような姿勢で死んでいるのが発見されている。


「akanはアカン」(2011年7月11日)
2011年4月5日付けコンパス紙への投書" Pejabat dan Kata 'Akan'"から
拝啓、編集部殿。政府のjanji(約束)がいつまでたっても実現されないあげくのはてに、最近では「嘘つき国」という言葉が登場するようになりました。口先だけだということなのでしょう。ボブ・トゥトゥポリの唄にあるように、「舌に骨はない、言葉にとらわれることはない、数え切れないjanjiは山と高く、口と心は大違い」なのです。
中央政府や地方自治体の高官は大勢、民衆の心を慰撫するためにakanという言葉を好んで使っていますが、結局のところ「山と高いあまたのjanji」が結末です。janjiは毎日毎日積み重ねられ、民衆はそれを嘘としか見ていません。akanという言葉を使うのが嘘の土壌なのです。「政府は開拓農家に土地を分配しましょう」とか「政府は廉価住宅を建設しましょう」などと言うけれど、それらの言葉は守られません。akanという言葉がtelahに入れ替えられたらどんなに素敵でしょうか。「政府は小学校を二千校建設しました」とか「政府は廉価住宅を三千軒下層庶民に分配しました」などというように「〜ましょう」じゃなくて「〜した」と言い切ってほしいです。下層庶民はそんな言葉を望んでいるのです。
わが国の高位高官はakanという言葉を二度と使わないという意志を持ち、そして故ブルーリー・マランティカが歌ったように「わたしたちの間にもはや嘘があってはならない」という決意をしてください。[ 南ジャカルタ市在住、アウリア・チャンドラ ]


「ムディッ」
「われらの先祖は海の民・・・」という童謡がある。バリ島北岸のシガラジャ(Singaraja)に住む文学者スナルヨノは、本当にそうだったのだろうか、と問う。辞書を開いてtiangとlayarの項を探せば、術語の豊富さに目を瞠るだろう。だから本当にそうだったのだ、とかれは結論付ける。加えて結婚式の祝辞には、新たな船出をイメージさせる表現が出てくる。Selamat mengarungi samudra kehidupan.
しかし海の民が船と無縁でいられないとするなら、船乗りが川にも乗り入れるのは当然だ。そこで昨今ルバラン帰省でおなじみの、mudikという言葉と出会うことになる。ルバランの数日前から帰省者の波がジャカルタやスラバヤなどの大都市から地方部へと流れ始める。それはarus mudikと呼ばれている。
mudikの語源はm+udikらしい。ジャワ語のudhikは川の上流を意味している。それは奥地・内陸部をも指し、町や河口と対になる。udhikは田舎であり、町へ出稼ぎに来たひとびとの故郷だ。だから川を溯行して故郷へ帰ることをmudikというようになった。
名詞の頭に[m]を置いて動詞化するやり方はジャワ語にときどき見られる。pukulがmukulに変化し、bakarがmbakarとなったりする。それはそれとして、udikは田舎だから、orang udikは田舎物を指す。洋の東西を問わず、洗練されていない田舎物は町中で物笑いのタネにされた。川の上流が田舎で、町は河口に作られたというのは、ジャワ島いやインドネシアで歴史上の事実だ。ある時代まで、町は必ず河口や海岸部にでき、そこが政治経済の中心となった。
後マジャパヒッ時代あたりから、ジャワの政治権力はソロ〜ジョクジャという内陸部に腰をすえるようになる。それが沿岸部の侵略をこころみる西洋勢力からの自衛手段でなかったとだれが言えようか?


「外国語の使用を規制」(2011年10月1日)
通信に使用してよい言語を政府が決めるということを独立後のインドネシア政府が行った。1946年7月18日付けで国家防衛評議会が定めた郵便・電信・電話の看視に関する規則第7号はスカルノ大統領がサインし、翌日アリ・サストロワミジョヨ官房長官が公表したが、その中の第3条に「通信文に使用してよい言語はインドネシア語・インドネシアの地方語・英語・フランス語であり、表記する文字はラテン文字である」と記されている。通信文に使用される言語と文字を規制したのは、国内での外国語の使用の看視の便をはかるためだとその規則の説明文は述べている。その結果、国際郵便の封筒に書かれる表示はAir MailとPar Avionだけになり、オランダ語のLuchtpostは排斥されることになった。
インドネシアの独立宣言を否認して再植民地化をはかろうと乗り込んできたニカに敵対するインドネシア共和国の態度としては当然のものだが、英語とフランス語が選ばれたことに勘ぐりを抱く向きも少なくないにちがいない。
ところが政府の中にも、その決定を承服できない閣僚がいた。中でも宗教省はアラビア語とアラビア文字の使用を認めるよう強く訴えた。政府は最初、アラビア文字、ウルドゥ文字、中国文字など一般のインドネシア人には読めない文字の使用を規制し、そうするためにその言語の使用を禁止したわけだが、強い反対の声に押されて1947年6月20日、国家防衛評議会は1947年規則第31号を出し、中国語・ウルドゥ語・アラビア語とそれらの文字およびジャワ文字の使用を認めることにした。しかしわざわざ追加説明を載せ、オランダ語はあくまでも禁止することを謳っている。
その後、オルバ期になって中国語と中国文字の使用が通信のみならずあらゆる国民生活から排斥されることになり、グス・ドゥル大統領が華僑系インドネシア人の国民生活復権を行うレフォルマシ期の到来を待たなければならない宿命をたどるようになる。


「プレマン」(2011年10月22〜12月24日)
現代インドネシア人がプレマン(preman)と言えば、まっとうな世間に支障をもたらすごろつき・ならずものの類を意味している。首都警察が街中を徘徊しているいかがわしい男たちを取り締まるプレマン作戦を実施すると、たちどころに何十人ものプレマンがお縄にかかる。
しかしプレマンがそういう意味に特化してきたのはここ数十年のことで、もうちょっと昔にさかのぼるとポリシプレマン(polisi preman)あるいはトゥンタラプレマン(tentara preman)などという言葉がよく用いられて現代インドネシア語の用法とは異なる意味を表していた。このプレマン警官やプレマン軍人とは悪徳ならず者警官や軍人でなく、制服を着ていない私服の警官・軍人を意味している。いま70〜80歳台のひとたちはそういう表現のほうになじんでいるようだ。
国民教育省言語センター編纂のインドネシア語大辞典、通称KBBI第四版には、1.partikelir, swasta 2.bukan tentara; sipil 3.kepunyaan sendiri そして別項でsebutan kpd orang jahat (penodong, perampok, pemeras dsb.)と説明されている。
プレマンの語源はオランダ語のフレイマン(vrijman)だ。この言葉はヤン・ピーテルスゾーン・クーン・ファン・ホールンが1619年5月30日にジャヤカルタをバタビアに変えてからほどなく使われだしたもので、ジャカルタの地に定着してからもう4百年が経とうとしている。
オランダ語のフレイ(vrij)は英語のフリー(free)に対応する言葉で、自由な・独立した・束縛のない・空いている・免れた・無料の・・・などの意味で用いられ、インドネシア語にも採り入れられていて、「フレイ」と発音するインドネシア人もいるが「プレイ」の発音のほうがより一般的であるようにわたしには思える。インドネシア語では土着言語にない[f]と[v]の音が[p]の音に転訛されるために、外国語になじみの薄い一般庶民はたいてい[p]を使う傾向が強い。
知り合いの会社に電話してそのひとを呼び出してもらおうとすると、「かれは今日はプレイです」という返事が交換手から返ってきたりする。あるいは駐車場でバックして空いたスペースに入れようとすると昔は駐車番が「プレイ」という言葉を使うことが多かったが、最近は減っているような気がする。むしろ満車状態の駐車場の通路に車を停めさせた駐車番が「ハンドブレーキをかけるな」という意味でブレーキを「プレイ」にしておけという使い方のほうがしっかり生き残っているようだ。
1598年以来バンテンに商館を開いて交易活動を行っていたオランダ東インド会社(VOC)のひとびとは、同じように進出してきた他のヨーロッパ人たちとの競争を巧みにコントロールしてだれにも大きな利を取らせないようにするバンテンのスルタンの統制を嫌い、バンテンから離れてもっと大きな交易活動が行える土地へ移りたいと考えはじめた。
チャンスはバンテンに程近いジャヤカルタにあった。ジャヤカルタはバンテン王国の属領で、バンテンのスルタンの一族が治めていた。スルタンの娘を妻にしたパゲラン・ジャヤカルタ(Pangeran Jayakarta)は貧しい小国の領主である自分の地位をバンテン王国の中でより輝かしいものにしたいとの自負を強めていた。オランダ人はそんなパゲラン・ジャヤカルタに接近した。それがまったく秘密裏に行われたのは、外国人の交易活動が自分の目の直接届かない場所で行われるのをバンテンのスルタンが許すはずもなかったからである。
そしてオランダ人は1611年にパゲラン・ジャヤカルタから商館建設の許可を取り付けてチリウン(Ciliun)川東岸の湿地帯に貧相な建物を造り、ジャヤカルタでの交易活動を開始した。ナッソーホイスと名付けられたその建物は、せいぜい砦程度の防衛力しか持たなかった。
ジャヤカルタでオランダ人が交易活動を開始したことはすぐにバンテンのスルタンの知るところとなり、まだ若いパゲラン・ジャヤカルタに対しては腕前拝見という態度に出たものの、オランダ人への風当たりは強くなった。
1618年、バンテンに赴任してきたヤン・ピーテルスゾーン・クーン新総督は鉄の決断力を持つ男だった。西ジャワ一帯でもっとも巨大な経済が渦巻いているのがバンテンであるとはいえ、その大きな経済を大勢がシェアしている状況に加えて、オランダ人はそこでの交易にむしろ逆風を受けていると判断した新総督は、いっそジャヤカルタに本拠を移してバンテンを引き払おうと決意した。クーンが打ち出した方針はバンテンのスルタンとの対決姿勢となるものだ。
かれはバンテン商館を引き払うとジャヤカルタの商館ナッソーホイスを強固な石造りに改修し、更にモーリティウスホイスを追加してその周囲を頑丈な石の城壁で囲み、湿地帯の中に浮かぶ強力な要塞に変えた。それが第一期カスティルで、クーンがジャヤカルタを征服してバタビアの街を建設する際の要になった。
そこへ後追いのイギリス人がオランダ人を追い落とそうとジャヤカルタへやってきて、パゲラン・ジャヤカルタと手を組んでオランダ要塞への攻撃姿勢を強め、チリウン川をはさんでカスティルと対峙する場所に、頑丈な木造の商館を建て始めた。建物の完成が近づくと大砲をすえつけ、砲口をカスティルに向けたのである。
そんな至近距離から砲弾を撃ち込まれてはたまらない。その年の12月、オランダ人は川をおしわたって完成間近いイギリス商館を急襲し、建物を灰に変えた。しかしイギリス人とパゲラン・ジャヤカルタの連合軍はカスティルにいるオランダ人よりはるかに優勢だ。そのまま交戦すれば、オランダが負けるに決まっている。
1618年12月末、クーンは闇夜に紛れて小型高速船でカスティルを脱出した。ジャカルタ湾をパトロール中だったイギリス軍船はオランダの小型船が沖へ出ようとしているのを発見して追跡したが、闇夜に紛れてついに逃走を許してしまった。それがジャワ島におけるイギリスとオランダの運命の分かれ目となった。
当時、オランダが東南アジアに進出してきた動機は香辛料の入手にあり、香料諸島を独占的に領有しようとするオランダ人の意図がアンボン諸島に最大の軍事力を送り込んでいたのである。クーンはジャヤカルタを手に入れるためにアンボンからオランダ軍大部隊を連れてこようとしてカスティルを脱出したのだった。
クーンが逃れたあと、カスティルの留守番は降伏交渉に入った。すると、これまで手を組んでオランダ人を攻撃していたパゲラン・ジャヤカルタとイギリス人の間でオランダ人の降伏条件をめぐって論争がはじまり、オランダ人は時間稼ぎのために両者の論争を挑発するありさま。最終的にオランダの降伏文書の調印なったのは1619年2月1日。
するとまったくだれも予期しなかったことが起こった。その翌日、バンテン軍がジャヤカルタに進駐したのである。ジャヤカルタの統治はバンテンのスルタンが直接掌握し、パゲラン・ジャヤカルタは捕らえられて領地から追放された。そしてジャヤカルタの兵士はバンテン軍の指揮下に置かれた。その成り行きにパゲラン・ジャヤカルタと組んでいたイギリス人はスルタンから敵視され、ジャヤカルタから出て行かざるを得なくなった。こうしてバンテンとオランダだけがジャヤカルタの地に残る結果となり、前日結ばれた降伏文書は白紙撤回されてバンテンとオランダ間の降伏交渉に切り替えられた。クーンの戻りを待つカスティルのオランダ人にとって、この状況の変化はもうひとつの幸運だった。
再び、カスティルの留守番をしているオランダ人の時間稼ぎが始まる。バンテンのスルタンはカスティルに残っている劣勢のオランダ人たちを甘く見たにちがいない。おまけにクーンがジャヤカルタを脱出したのはかれが軍勢を率いて捲土重来するためであるということを知らなかった。どうしたことか、スルタンはカスティルを奪い取れという命令を発しなかったのである。そして5月28日、オランダ国旗をはためかせた17隻のオランダ軍船がカスティル沖の海上に姿を現してジャヤカルタの海上を封鎖したのを目にしたバンテンとジャヤカルタの兵士たちは右往左往することになる。
カスティルはそれに呼応してオランダ国旗を掲揚し、城門も固く閉ざしてバンテン軍の侵入を防ぎ、オランダ軍船隊との接触を開始した。5月30日、オランダ軍部隊に出撃命令が下った。およそ一千名の兵士が海岸に上陸してジャヤカルタの街に向かうと、ジャヤカルタの守備に就いていた三〜四千名の兵は戦意を失って街の外のジャングルへと逃げ去り、そうなると非戦闘員もなだれをうってジャングルへと逃げ出し、ジャヤカルタは無人の街と化した。こうしてジャヤカルタを占領したオランダ人は、その地にあったすべての建物を、カスティルだけ残して取り壊し、土地を平らにならしてオランダ人の街をそこへ作り上げていったのである。
だから、最初にバタビアの街に住んだオランダ人はすべてVOCの契約社員であり、特に軍人が多かった。ところがこうして作り上げたニュータウンの住民に対する食糧配給に数ヵ月後から困難が始まった。クーン総督は配給のための住民ランク付けの必要に迫られて、バタビア住民を5つの階級集団に区分した。第一階級は白人とヨーロッパ人、第二階級はオランダ東インド会社(VOC)に勤務する非原住民の東洋人、第三階級は妻と奴隷、第四階級はVOC社員の子供、第五階級はビュルフルス(burgers)と呼ばれる一般市民で、フレイマン(自由市民)がその別称である。
自由市民たちは元々VOC社員でもあったが、契約が切れて職を離れたひとびとであり、軍人も文民も混じっていた。自由市民という名称が示すように、かれらはバタビア市内に居住することは許されたものの、VOCの街であるバタビアで職業に就く自由は与えられなかった。つまり自由市民たちは、商売をすることも、サービス業を営むことも、あらゆるビジネスを行うことを禁止されたのである。しかし生きていくために金がいる。だからかれらは市中をうろついて、それが違法であろうとなかろうと、金をもらえることなら何でもした。現代インドネシア語のプレマンになったフレイマンはそんな昔からこのジャカルタにいたのである。
現代のジャカルタでは、住民はだれもが平等で同じ権利と義務を与えられており、お前はどの階級に属す者だからと言われて差別されることは表向きない。しかし実質的に人間を差別しようとする心的姿勢が完全に消滅しているわけでもない。能力と運不運があいまって、世間は人間を上か下かという見方で差別している。
プレマンという語はますます流行語化して、与太者・ごろつき・ならず者の意味を強めている。図々しい仲間・態度の悪い連中、そんな人間をあざけって言う言葉にも選ばれ始めた。ますます公認され、世の中に確立され、いまでは犯罪者に対しても使われており、犯罪とは関係なく、扱いにくい集団や個人の登録商標にもなっている。世間でプレマンと呼ばれる人間はいまや、bandit, garong, copet, begal jambret たちのような単なる犯罪者のレベルを超えて別の階級を与えられている。プレマンは単なる一犯罪者などでなく、暴力をふるって悪事を行う粗暴な者たちというよりむしろ、組織立っており、頭脳を使うリーダーや人物に率いられている、と見られるようになっている。「プレマンは統制者がおり、コンセプトやストラテジーを使う。政治的ネットワークを持つ組織もある。リーダーはたいてい学校出だ。」都庁中堅職員のひとりはそう語る。
都庁役職者がプレマンを使ってデモをやらせている。そんな役職者もプレマンと呼ばれている。だったらまっとうな市民はどうなる?今すべての都民は、世間に支障をもたらす者であってもなくても自由市民だ。つまりバタビア時代の言い方をすればフレイマン。フレイマンを一般市民がプレマンと訛れば、だれもがプレマン。時代と共に変遷してきた意味を問題にしないなら、ジャカルタに住んでいるのはみんなプレマンなのである。


「フ」(2011年12月2〜6日)
日本語の「フ」は本来[hu]の音であり、決して上の歯で下唇を噛んで[fu]と発音しているわけではないのに、ローマ字綴りでは[fu]と書かせられる。富士山を外国人がFujiyamaと呼ぶのに目くじらを立てる気はないが、われわれがそれをHujisang(ここでは[ng]をインドネシア語の音韻体系で使っている)と発音しているのは事実だ。
このような不一致はどう考えてもおかしい気がする。古橋さんや福島さんが自分の名を日本語式に発音すると、名刺をもらった外国人の相手は目にしたスペルと耳に響いた音の差に首をかしげるのではあるまいか。もしも「日本人の中に自分の名前の発音がきちんとできない者がいる」というネガティブな印象を持たれ、教養のレベルに疑念を抱かれたりしたら、後々の商談やつきあいに悪影響を及ぼさないともかぎらない。「日本の慣習では、[hu]は[fu]と表記することになっているのだ」などと説明しても、眉に唾を塗りたくるガイジンなどに行き当ったら、それこそ混乱一直線に突進するのではあるまいか。そのポイントを押さえて自分の名刺に[fu]と書かずに[hu]と表記されている方の見識にわたしは脱帽する。もちろん、そのようなポイントなど無関係にただ訓令式に則してそうしただけかもしれない、などという失礼なことをわたしは言わない。
日本語のローマ字表記が実際の発音と大きくかけ離れている例はほかにもあって、「を」を[wo]と発音する現代日本人はいないし、「ん」には常に[n]が振り当てられているものの実際には異なるたくさんの音が発音されている。
音というのはもちろんある幅を持っており、だれの口もだれの耳も機械のようにまったく同一波形の音を受け渡ししているわけではなく、音声的に大雑把な言語ほどそこが細かい言語から見ればたくさんの異音を含んでいるということになる。日本語の母音はみなさんご承知の通り五つしかないが、英語でそれに対応させて長母音や二重母音を抜き去り、残った母音を数えるとなんと八つもあって、どうりで英語はむつかしい、とへんなところで実感したりする。インドネシア語でさえ母音は日本語よりひとつ多く、弱母音[?]の扱いには、みなさんお困りのようだ。ただ現代日本語の音韻体系の中では本来[u]であった音がこの[?]にシフトしてきており、普通に「う」と発音すればインドネシア人の耳には[?]と響いているはずで、決して難しい音ではないと思うのだが・・・。かえって正確な[u]の発音のほうがうまく通じておらず、ご本人はそのつもりなのにインドネシア人に怪訝な顔をされて困っていらっしゃる方はいないだろうか?
「ん」の文字はその次に来る音によって明らかに異なる発音がなされている。たとえば関西新聞という言葉を発音してみるとよくわかるが、かな書きにすれば「かんさいしんぶん」と三度現れる「ん」の文字に対してわれわれの口は[kansai shimbung]とそれぞれ異なる音を発音しているのである。その実態を無視して単純に[n]の文字をその表記に充てているのは、これも外国人に誤った音を紹介していることにならないだろうか。口ではshimbungと発音しながらshinbunと紙の上に書いて外国人に日本語を教えている気の良い日本人の姿を見るにつけ、教えられている外国人は師の教養に疑念を抱いていないだろうか、とわたしはついついその顔色を覗き込んでしまう。
日本の文字をアルファベットで表記するという観点からはじまったこのローマ字表記は、現代日本語の実際の発音にもっとも近い表記法が取られてしかるべきだとわたしは思うのだが、どうだろうか。このローマ字体系の弊害がジャカルタで珍事を生み出したと言えば、「針小棒大なことを・・・」とひんしゅくを買うかもしれない。
インドネシア語にも[f][p][v]の混用がある。元々ムラユ土着の音韻体系の中にあったのは[p]だ。ところがイスラムを旗印にしてアラブ文化がやってきたとき、アラブ語には[p]の音がなかったことから[p]=[f]という等価交換が起こった。つまり[f]の音をそのまま取り込むことができたひとも、[p]に変化させることで取り込めたひとも、その取り込んだ言葉は同じものだということにされたのである。たとえば、アラブ語のfikirという語をそのまま取り込めたひとも、pikirと変えて取り込んだひとも、それらの異なる発音の言葉は同じものなのだということにされたのだ。時代が下ってオランダ語が入ってくると、オランダ語の[v]は[f]に近い音であったために土着の人々は[v]=[f]と見なし、すでに確立されていた[p]=[f]の等式と合わさって[f]=[p]=[v]という複雑怪奇な現象に立ち至った。こうしてfahamがpahamとなり、vrijmanが最近はやりのpremanとなり、filmがpilemと姿を変え、世界の高級車Volvoはこの地でfolfoと呼ばれている。
ジャカルタのとある日本食品スーパーに行くと、野菜コーナーにふきが置かれていた。ここまでは、別に何もおかしなことはない。ところが値札に記された商品名を見て、わたしは目をみはってしまった。ふきはこのインドネシアでもhukiと書かれていれば十分ではあるまいか。ところが値札に書かれた文字はなんとpukyだったのである。これはいったいどこの国の野菜なんだろうか?
そのスーパーの日本人はインドネシア人店員にその品物の名前を教えるとき、きっとfukiと書いたにちがいない。たいていの日本人にとって、ふきという単語のローマ字はそう表記されるべきなのである。店員はたぶん[f]=[p]原則に則って、外国語っぽい[f]の使用を避け、無意識に[p]に置き換えたのだろう。ところが店員は、[f]と[p]の置き換えだけではどうしても済ませることができなかったようだ。つつしみ深い店員はそのままではたいへんなことになると思い、考え抜いたあげく、語尾の[i]を[y]に変えたのだった。単語pukiについては、どうぞご自分で辞書をお調べください。


「コボイ」(2011年12月17日)
インドネシアに来てまだ間もない日本人がインドネシア人に言われた。「あんたもコボイだねえ」
「えっ?コボイっていったい何なの?」
インドネシア語のkoboiはアメリカ語のcow boyのことだと教えられ、かれは喜んだ。『そうか。オレってそんなに男らしくてカッコ良く見られてるんだ』
五〜六十年代のハリウッド映画。ジョン・ウエインやカーク・ダグラスたちが、さっそうと悪漢どもを叩き伏せ、撃ち倒す。往々にして主人公もカウボーイなのだが、そんな男の中の男にやっつけられる粗暴でがさつな荒くれカウボーイたち。たいてい徒党を組んでは馬を駆って拳銃を振り回す。酒場ではちょっとしたいざこざで暴れ、机や椅子をつぶし酒瓶を割り、窓ガラスを壊して大乱闘。
粗放的で乾燥したバイオレンスはハリウッド映画のたまものであり、高温多湿のインドネシアでそんな爽快感は望むべくもないが、乱暴者はここにもたくさんいる。
日本語が語源だと言われる、シルベスター・スタローンで一世を風靡したRAMBO。これもいっとき乱暴者の代名詞となった。往年のハリウッドウエスタンを脱した時代の流れを背景にして、ハードバイオレンスのリアルな重厚感がスクリーンに満ちる。ランボーが世に出るまで、インドネシアではがさつ荒くれ連中を称してコボイと呼んでいた。そしていまやスタローンは年老いて、ランボーという単語も現代性を失ったが、コボイはいまだに人口に膾炙している。
だからkasarな振る舞いをして「あんたもコボイだねえ」などと言われたら、決してうぬぼれてはいけないのである。


「BARANGKALI」(2012年1月4〜7日)
永くジャカルタに滞在しているある日系企業の責任者のかたが、インドネシア人の無責任さ、けじめのなさ、物事に対するあいまいさを腹にすえかねて、いくつかの典型的インドネシア文化の産物を社内禁句にしたことがある。
いわくtidak apa-apaはダメ。kira-kiraもだめ。nanti sajaも、mudah-mudahanやmungkinも使っては駄目。それらの言葉を口にすることは、つまりそのような性向を姿勢の中に持つことだ。そんな姿勢はあらためなければならない。物事を詳しく的確に表現して事実を正しく把握する努力をし、物事に関わる際の意志の入った主体的姿勢を確立させれば、あなたまかせの無責任さは減少するにちがいない。そのようなもくろみからはじまったと思われるこの文化大革命ははたしてどうなっていくだろうか、とわたしは興味を持って見守ったが、社内の仕事に責任感があふれるようになり、けじめがきちんとつけられ、黒白を的確に表現し、個々人が主体的意志を明らかにするようなビジネスライクな環境を禁句制度だけで作りだすのは、無理だったようだ。裏表のない、客観的で主体的な人間像は、面従腹背が当たり前のインドネシア文化にはあまりなじまないものだったにちがいない。
社会基盤をなしている価値観がグローバルビジネスにおけるそれとあまりにもかけ離れている実態は、言葉の操作などで国際レベルにまで押し上げることができるほどなまやさしいしろものではなかったということだろう。だとしても、そのことがインドネシアのひとびとに職業における国際レベルの価値観を紹介する一助になっていることは疑いもない。
あるひとが、「インドネシア人は黒白をはっきり表現しない。特にNo! という自分の意志をはっきり言わないで、上司からの指示に対して異なる言葉でNo! のウエイトを表現する。Insyah Allahは90%がNo! 、mudah-mudahanは50〜60%がNo! 、mungkinは40%くらいがNo! ではないだろうか。」とおっしゃっていたが、インシャアラーは九分九厘そうなるだろうし自分は百パーセントそうなってほしいと希望しているといった状況に際して、突然下腹に力を込めて「インシャアラー」と口走るムスリムを何人も目にしているので、顔色や語調にも注意してケースバイケースで判断しなければならないようにわたしは思う。ところでこのひとのmungkinのウエイトのとらえかたには、わたしも賛同する。ムンキンとは「可能な」とか「ありうる」など否定しえないことを意味するアラブ語源のインドネシア語だ。否定詞tidakのついたtidak mungkinは完全な否定を表し、英語のimpossibleに該当している。逆に言うとムンキンは英語のpossibleに該当していて、むしろ肯定的なニュアンスを持っている。
多くの皆さんが「多分、おそらく、〜かもしれない」などといった曖昧さをその言葉から強く感じ取られていることは想像に難くないが、わたし自身はその言葉を使ったインドネシア人が「可能性があるのだ」と物事を肯定的に見ているように感じてしまう。60%のyes、40%のNo! と先述のひとが感じていらっしゃるように、これはきっとポジティブな言葉だろうとわたしは思う。
とはいえこれもケースバイケースであり、ムンキンと言ったインドネシア人が否定しきれない否定にウエイトを置いているのか、肯定しきれない肯定にウエイトを置いているのかは、表情や語調そしてその人物の性格から推測せざるを得ないにちがいない。
インドネシアで暮らすことで得られるメリットのひとつに、「黒と言ったから黒」「白と言ったから白」と簡単に割り切られる文化ではともすれば上滑りになってしまいそうな、人間を見極めようとする目が、好むと好まざるとにかかわらず養われていくことがあげられる、などと言えば我田引水だと謗られるだろうか?
とはいえ、ムンキンは黒とも白とも言わない言葉だから「多分、おそらく、〜かもしれない」の意図でも使われる。そこをどう見極めるかはどれだけ自分の目が養われたかにもかかっているにちがいない。一方、曖昧さそのものを表現する言葉にbarangkaliがある。わたし個人としては、mungkinよりはこちらのほうが禁句とされるのにふさわしいのではないかと思っているが、なにしろこの語からは少しのポジティブさも感じられない。
barangkaliはbarangが省略されて、kaliという姿で会話の中によく顔を出す。親戚の家に寄って言づてをするよう子供に頼むとき「Bisa nggak, besok mampir di rumah Tante Efa?」と親が言うと、子供が「Bisa kali.」。壊れた蛍光灯のランプを取り替えてもつかない。スターターを替えてみよう。「Coba ganti starternya. Gara-garanya yang ini kali.」「Kali.」などと会話が進んでいく。
barangという言葉は品物という意味のほかに、「Minta barang lima ribu rupiah.」のようにkira-kiraやkurang lebihの意味があり、また「Barang siapa memalsukan uang ・・・」のようにsiapa saja、siapa punの意味も持っている。「Barang apa yang ditinggalkan di sini akan dimusnahkan.」のバランは品物でなく「何であろうと」という意味だ。
「いい加減なことをするな。」と言いたいときは「Jangan sembarangan!」と表現する。Jangan kerja sembarangan! Jangan omong sembarangan! 道端のカキリマで変なものを食べて腹をこわした者には「Jangan makan sembarangan!」の叱責が飛ぶ。このsebarangあるいはsembarangという語もbarangの特殊な用法に関係がありそうだ。
「来週は忙しいから家へひとを寄越してくれ。」「だれを?」「Ah, sembarang orang saja!」だれでもいいのだ。
ぜひ今日中にこの件について話がしたいので、時間を開けてくれ。」「いつがいいですか?」「Boleh sembarang waktu.」何時でもいいのだ。
どうやらsebarang, sembarangという語は条件が何もつかない、つまりは何らの選択も行われない中でゆきあたりばったり、手当たり次第にピックアップするというような意味合いであるようだ。だからいい加減なことはsembaranganとなるのだろう。
orang sembaranganはだらしのないひと、いい加減な人間。sembarang orangはそのへんの有象無象のひとり。さて、あなたはインドネシアのひとびとから「Ia bukan orang sembarangan.」と言われているのだろうか、それとも「Ia bukan sembarang orang.」と言われているのだろうか?


「インドン」(2012年1月23日)
わたしがはじめてIndon という単語に接したのは1990年代にジャカルタで英字新聞を読みはじめてからで、シンガポールの英語情報界でIndonesiaという長い綴りをそう略していることをしばらくして理解した。
そのとき、Indon が蔑称であるという気は少しもしなかった。わたしはJap という語に対しても、それが文字であるかぎり蔑称のにおいを感じることはない。侮蔑の感情はその言葉と一緒に音調や態度やその他いろいろな要素が混じり合ってこちらに届けられるものであり、人間のそのような感情が付随しない文字だけの世界では、字面にそこまで反応するだけの感受性をわたしが持っていないということかもしれない。
かなり前から日本で差別語という話題が大きく取り上げられるようになった。差別あるいは侮蔑のために作られた言葉ならまだしも、古くからあった日本語が差別語とされて使われなくなるというのは、行き過ぎもいいところだろうとわたしは思う。それを投げつける側と受け取る側のいずれにせよ、侮蔑というものはあくまでも人間の感情の中にあるものであって、言葉自体が持っているものではない。(上で述べているように、わたしは侮蔑のために作られた言葉をこの論旨から除外している。)古くからあった日本語は侮蔑の感情を込めて使われることもあっただろうが、そうでないケースも多いはずだ。このような形で昔からある言葉を廃語にしていく民族はほかにあるのだろうか。これは歴史に残る民族的愚行だろうとわたしは思う。
ともあれ、1990年代のジャカルタでインドンを蔑称だと非難するインドネシア人をわたしは見たことも聞いたこともなかった。
一方、たくさんの日本人がインドネシアという長い名称を縮めて「ネシア」と呼んでいる事実がある。とある掲示板では、それは蔑称だからやめるようにという意見が述べられ、「インドネシア人はだれひとり非難していないじゃないか」という反論が出されるのだが、これもインドンと同様で、インドネシア人のほとんどがその言葉の存在すら知らない時代だったと思われるから、その議論は完全なすれ違いでしかない。
あれだけ言葉を省略しまくり、頭字語や略した連結語を作って使うのが大好きなインドネシア人自身がインドネシアという国名民族名をだれひとり省略しないで使っている事実を知るなら、外国人が他国の国名民族名を省略することの意味合いが理解できるにちがいない。
そこから「インドン」も「ネシア」も「ジャップ」も他国民による蔑称であるということが明白になる。英国で騒がれた「Paki」も、マレーシア人が「インドン」と並び称している「Bangla」もすべてが同工異曲なのである。
シンガポールが古くから「インドン」を英語環境の中で使っていたことに対する表だったインドネシア側からの抗議行動は見られないが、マレーシアがそれに倣ってマレーシア語の中で使ったときにインドネシア人の逆鱗に触れたようだ。マレーシアの報道界でIndonesiaと書く際にIndonという省略形が使われ、それを見聞きするたびに在クアラルンプルインドネシア大使館情報担当アタッシェが報道機関にねじ込んだ。おかげで報道面でのインドンは使用が減ったが、マレーシアの一般民衆にとっては知ったことじゃない。
マレーシアに出稼ぎに来ていた外国人労働者の中で、折に触れて騒ぎを引き起こす民族がいる。その代表格がインドネシアとバングラデシュで、そのふたつは国名を「Indon」「Bangla」と略される扱いが報道の中に多かった。その因果関係が当たっているのかどうかよくわからないが、マレーシア人がそんな反応をする気持ちも分からないでもない。だがインドネシア人は「それはそれ、これはこれ」といきりたったわけだ。
日本人が「ネシア」と呼ぶがごとく、マレーシア人も「インドン」をいまだに使い続けており、本人にそれが蔑称だからやめろと言っても、鳩が豆鉄砲を食らったかのように「どこが悪いの?侮蔑の感情なんか込めてないよ。」というナイーブな反論が返ってくるばかりだそうだ。


「BOLEH」(2012年2月1〜8日)
インドネシアへ来て太ってしまった。はけなくなったズボンがあるので運転手にあげよう。運転手を呼んで「これをあげるよ。」と言うと、運転手の返事は「Boleh」。
会社でオフィスボーイに「この会議の資料を十人分コピーしてくれ。」と言うと、オフィスボーイも「Boleh,Tuan.」。
奥様が女中に「電球が切れたのを替えるからちょっとこの机を押さえといてちょうだい。」と言うと、やはり「Boleh, Nyonya.」という返事が返ってくる。
bolehとは「〜してよろしい」という、許可を表す助動詞のはず。こっちがBolehkah〜という文型で尋ねかけたわけでもなく、Tolong〜を使った依頼型やら単に意志表示の文型を使っただけなのだが・・・・・?
オフィスボーイは雑用係だからコピーを取るのも仕事のうちじゃないか。女中もニョニャの言いつけに従うのが義務じゃないか。おまけに運転手などは物をもらうんだから「Terima kasih」と言うべきはずなのに、「そうしてよい」というあの言い草はいったい何なんだ?!ふだんから悪びれたところのまったくない、尊大な態度を示すインドネシア人にしてこの言い草。何という無作法で礼儀知らずの連中だろう。ムッカー!!
このような経験をされた日本人の方はけっこう多いはず。その不快体験はインドネシア語の学習時に学んだ「bolehは許可の助動詞」という知識と「許可とは下の者の願いを上位者が聞き届けて許すこと」という日本語の語義の短絡的結びつけに根ざしているのではないかという気がするが、どうだろうか?確かに許可という言葉の意味は主人が使用人に、先生が生徒に、政府が国民になどというように上位者が下位者に与えるものであり、その間には統制者と被統制者という関係が存在しているので一方的な方向性しか成り立たず、逆方向はあり得ないというのがわたしたちの常識なのだ。
ならばbolehという言葉の意味はどうなっているのだろう。サリム夫妻の現代インドネシア語辞典によると(1)tidak dilarang, diizinkan、(2)dapat と説明されている。インドネシア語を学ばれた読者のみなさんは、動詞に接頭辞di-のついた、アメリカ人が言うところの客観態について既に知識をお持ちにちがいない。「許可する」という言い方に該当するのはmengizinkan であり、bolehの意味するdiizinkan とは「許可された状態にある」ということを言っているのだ。だからボレという言葉を吐いた運転手や女中がそのことを許可していると解釈するのは文法上誤っているということができる。
「ではいったい誰が許可したとかれらは言っているのかね。そこにはわたしと運転手、あるいはニョニャと女中しかいないじゃないか?」と新たな疑問を呈するかたがいらっしゃるかもしれない。インドネシア人、中でもジャワ人はこの客観態の使用が大好きで、特定個人をことさら隠した言い方でものごとの善し悪しや好き嫌いを表現するテクニックの達人ではないかと常日頃からわたしは驚嘆している。やんごとなき人の名をみだりに口にするような畏れ多いことを慎むという美風は日本の王朝文化にも見られたことで、その感覚に通じる面も間違いなく存在しているようだが、主体者の名を頻々と文中に登場させることを避けて人間関係の中にコンフリクトの生じる機会を減らそうというある種の奥ゆかしさがそこに働いているのではないかとわたしには思えるのである。要は「許可する・しない」ではなく「許可された状態にある」つまり「それはしてよいことなのだ。」という本人の考えを返事として述べているのであって、それをわざわざボレの語の中に上下関係を見出してみずから不愉快になっているのは、滑稽であると同時に不幸な誤解と言わざるをえないだろう。
ではこの難解なbolehについて、いろいろな用法を見ていくことにしよう。会社の昼休み時、スタッフたちがわいわいと「ねえ、今日はどこで食べる?」「裏のワルンでソトカキかしら?」「Boleh juga.給料日が近いからねえ。」などとやっている。日本語になおせば「それもいいわね。」といったところだろうか。「Bisa juga.」と言うひともいるが、意味は同じだ。
会社の経理課長の使い込みが発覚し、本人は行方をくらましてしまった。社員の間ではしばらくその噂で持ちきり。「あいつ、一年以上もつまみ食いを続けていたらしいぜ。よく今まで見つからなかったものだよ。」「Boleh jadi.なにしろ経理担当重役のファミリーだったし、それにこの会社のチェックシステムだっていい加減だからなあ。」日本語訳としては「あり得るよ。」が適当だろうか。起こることが可能ということでmungkinと同じ意味を表しており、やはりこれもbisa jadiに置き換えられることが多い。
昔インドネシア語を習い始めたころ、インドネシア人の先生が「インドネシア人はちょっとした困難に遭うとApa boleh buat.と言ってものごとを諦めてしまう。」と自嘲的に語っていたのを思い出す。言葉自体の発散するニュアンスがいまひとつ呑み込めないまま熟語として覚えこんだだけだったが、今それを記憶の片隅から引っ張り出してみると、ボレの醸し出す雰囲気が多少なりともピンとくる。
この句は中国人の「没法子」タイ人の「マイペンライ」などの仲間だが、インドネシア語では「何をなすことができるか、いやできることなど何もありはしない。」という反語になっている。これにならって「何を聞くべきことがあろうか。」をApa boleh dengar.と作ることができそうだが、実際にはApa boleh didengar.とされるのが普通であり、さらにもっと多いのはApa yang boleh didengar.と強調された形だ。「何をか言わんや。」はApa boleh kata.ではなくApa boleh dikataであり、またmauをbolehの代わりに置いてApa mau dikata.と表現されることが多い。現代インドネシア語ではむしろこのような形のほうが自然であるため、Apa boleh buat.はやはり慣用句としてとらえるしかないように思われる。
芋の子を洗うようなパサルの中で、いろんな野菜や羽をむしられて丸裸の鶏やテンペなどを積み上げた籠を前にして路端にしゃがみこんでいるいる物売りたちの間から「泥棒!」という叫び声があがる。数人の男たちが寄ってきて、物売りのおばさんの指さす後ろ姿の男を追いかける。急ぎ足で歩くその男はまさに人ごみの中に溶け込もうとしている。走るに走れない混雑の中を身体をぶつけるようにひとを押しのけながら強引に進む男たちがカオスをかき混ぜると、周辺に向かって混乱が波紋のように広がっていく。指差された男は後ろを振り返りもせず、人ごみの中に見え隠れしているが、逃げるそぶりはまったくない。追いかけて行った男たちのひとりが追いつくと、手に持った黒色の薄いビニール袋の中身を調べようと取り上げる。捕まった男はむっとした顔を紅潮させて声高に抗弁する。「Kenape nih! Gue bukan maling. Ini boleh beli, bukan nyuri.」日本語にすれば「なんでだ!おれは泥棒じゃない。これは買ったもので盗んだんじゃない。」というところだろうか。
このbolehもかなりの難物だが、普通のインドネシア語に言い換えれば「Ini dapat saya beli, bukan saya mencuri.」という「自分が買うことができたもの」というニュアンスの注ぎ込まれた文章ではないかという気がする。
上であげた例は現代インドネシア語辞典の?dapatに該当するもののようで、dapatの同義語であるbisaに置き換えられたケースをよく耳にする。気をつけて見ていると、どうも古い世代がbolehをよく使っており、反対に若い世代がbisaを多用する傾向があるように思えるのだが、全国的にそうと言えるのかどうかわたしには分からない。
それはそれとして、「許されている状態」と「できる」は別のことなのだろうかと考えたとき、あるメンタリティの中でそのふたつはどうやら統合されるのが可能であることにふと思い当った。「できる」が「〜してよい」の結果としての可能性について言っているのなら、それはひとつに統合された概念なのではあるまいか。インドネシアのひとびとのものごとのとらえ方を振り返ってみると、さまざまな行為について「してよいこと」「してはいけないこと」の二色に単純に色分けしようとする傾向を見出すことができる。それがアルクルアンに由来するものであれ、アダッに発するものであれ、上位者から与えられた『教え』を忠実に遂行する者をよしとする価値観の中で、その色分けは決してないがしろにできないものであるようだ。だがものごとの価値が複雑多岐に枝分かれしてしまった現代社会の中で、「これこれはしてはいけないことだが、このような場合におけるこんな状態あるいはこんなケースのとき、このようなひとが関与しているならしてもよいことになる。」などという無限に近い付帯条件がついてきて結局は声が大きく確信のある態度を示すひとの言うがままになりがちなのだが、そのような文化的背景は疑いもなくボレという言葉に投影されているはずだ。
「できる」という言葉に関連して、次のような経験をなさった方はきっといらっしゃるにちがいない。日々の仕事の中で、たとえば取引先との交渉事がある。取引先の中には数ヶ月に一度小額の取引があるだけというところがあり、そんな関係だから先方もあえて現金即払いの決済を要求する。ところが納品に合わせて現金を用意するタイミングが難しいために、自然と前払い振り込みという形になっていた。あるとき振り込み金額ミスで不足が起こり、入荷予定日に納品されないという事態に至ったために意を決してデポジットを取引先に置こうと社内で決を取り、内容を担当者に説明して「先方と実務の打ち合わせをせよ。」と指示し、担当者はさっそくその取引先に電話を入れた。先方に不利なところは何もないのですぐに片付くものと思っていたが、しばらくして担当者が報告に来た。「先方はtidak bisa と言っています。支払い条件は現金なのでそれでやってもらいたいそうです。できません。」「管理事務が多少面倒になるかもしれないが先方には何の損もないはず。やろうとすればできることをtidak bisa とは・・・・。先方は言葉の使い方を間違っているのではないか?tidak bisa かtidak mau かもう一度聞いてみろ!」担当者はもう一度電話したが、わたしの言葉の受け売りをした雰囲気はない。tidak bisa の意味が非常に婉曲なtidak mau であることを担当者もよくわかっているのだ。担当者レベルではらちがあかないことがはっきりしたので先方の責任者と直接話をしたところ、ことは簡単に進んだ。担当者が与えられた規定を自分で調整してまで会社の利益を考えながら仕事を展開していくような風土でないことはわかっていたが、先方と当方の両担当者を頭に浮かべながら、『ないものねだりをしてしまったのかもしれない。』とつい自責の念にかられてしまった。閑話休題。本題に戻ろう。
会社の女性スタッフと「連休はどこそこへ行った・・・」などと話をしていて、「わたしxxさんや△△くんとジョクジャへ行ってきました。」と男性スタッフの名前を出したので、「だったら今度はわたしとふたりで行こう。ジョクジャを案内してくれないかな。」と茶々を入れると、かの女のせりふは「Mana boleh. わたしの親が許さないわ。それにあなたの奥さんが怒るわ。」
Mana はBagaimana を省略したもので、この意味は「どうやったらそんなことが許されるのか。決して許されない。」という反語。類似の文型でよく耳にするものとしては、Mana bisa! Mana mungkin! Mana sempat! などがあげられる。
そう言われてはわたしも黙って引き下がるわけにはいかない。「Ah, boleh saja dong!」と言ってたがいに笑いながら自席に戻っていくのだが、そのboleh saja をもっと軽くした表現がboleh-boleh saha。何か気に触るようなことや本来するべきでないことをしたときに、その当人が悪びれる風もなく「いいじゃないか。かまわないんだよ。」というニュアンスで使うものだが、これをやられると心底からムッとする。
会社の会議で出席者からさまざまなアイデアをもらっているとき、なかなか結構なアイデアに対して「Nah, itu boleh!」などという言葉が飛び交ったりする。カラオケ屋に入って、ずらりと並んでいる尾根遺産たちのどれを選ぼうかと迷っていると、連れが「あの娘がボレだよ。」と指差したりする。それらのボレはいずれも「良い」という意味で使われている。
こうして見ると、上のあちこちで例に出したboleh は日本語の「良い」にオーバーラップしているようだ。もう一度冒頭に戻って運転手やオフィスボーイくん、あるいは女中さんの口から出たボレをそれに置き換えてみよう。
「このズボンをあげるよ。」「はい、いいですよ。」
「コピーをとってよ。」「いいですよ。」
「この机を押さえといてちょうだい。」「いいですよ、奥さん。」
ムッカーをお感じの方はまだいらっしゃるだろうか?


「日本軍政とインドネシア語」(2012年2月20日)
1942年1月12日、東カリマンタン州タラカン島に大日本帝国軍が襲来してインドネシアが太平洋戦争に巻き込まれてから、70年の歳月が流れた。その翌月に日本軍はジャワ島を攻略して、軍事政府である軍政監が置かれた。インドネシア占領の目的は経済、特にタラカンの石油のような工業に必要とされる天然資源の入手にあった。興味深いのは、そのような目的を達成するために軍政当局が文化的なプロパガンダを使ったことだ。
日本軍政期のトピックとしてよくとりあげられることがらのひとつに、インドネシア語の地位というものがある。インドネシア語の運動を制限し、青年層が民族統一語の位置付けを与えてからはトラウマチックになってしまったオランダ植民地政庁とは違い、日本軍政体制は公用語としてインドネシア語の使用をプロモートした。反対に敵性語であるオランダ語は禁忌の対象にされた。プロパガンダプログラムの中でインドネシア語はさまざまなメディアにその姿を現した。ラヂオ、映画、演劇、紙芝居や歌など村落部住民に適切と考えられるものや、都市部住民に適切と考えられる印刷メディアなどに。
毎日のラヂオ放送では、ニュース・政府広報・娯楽などの番組に分けられておよそ2時間インドネシア語の放送がなされ、ほかの時間はスンダ語やジャワ語の番組が放送された。新聞「アジアラヤ」には毎週、日本人イソベユージがインドネシア語で書くコラム「ニウルムランバイ」が掲載された。そこからは、それが単なるコラムに留まらず、日本人ですらインドネシア語に関心を持っているのだというメッセージが読み取れた。後になって、イソベは英語で「ニウルムランバイ」の文章を書き、インドネシア人記者で作家でもあるダルマウィジャヤが翻訳したものだったということが明らかになってからも。
日本軍政監がインドネシア語の使用を促進させたことに反論の余地はないようだ。しかしこれまで耳にしている度外れた称賛も無用なことだ。なぜなら、日本軍政期にインドネシア語の本質的な発展は起こらなかったからだ。たとえば綴りという初歩的な問題についても、オランダ植民地時代から続けられていたファン・オパイゼン式綴字法を日本人は変えることができなかった。軍政監部宣伝部がスラバヤの新聞Soeara Oemoem の名称を変更させたとき、出てきた綴りはSoeara Asia であり、/u/ を/oe/と表記する方法は依然として継続されたのである。オランダ語源の単語もいくつか軍政当局の公式文書の中に姿を見せた。Batavia, persdient, maskapai, opisil などがそうだ。
日本が言葉を通して影響を及ぼそうとしたことは明らかだ。そのためにインドネシア語振興は日本語とバーターされた。ラヂオからは、あたかも子供たちに基礎日本語を教えるかのように日本の歌が教えられ、文化センター建物の看板はPoesat Keboedajaan と書かれたものの、その上にはKeimin Bunka Shidosho と日本語で発音される漢字が大書されていた。軍政当局は公式な行政区画名称にかれらの言葉を使った。keresidenan は州、kota は市、distrik 郡、kecamatan 村、desa 区、daerah istimewa 侯地、さらに組織団体名称や役職名に至るまで。
だからインドネシア語と日本軍政との関係においては、われわれに無料で与えられたものなど何もない。同時にインドネシアを占領した日本軍がインドネシア語をプロモートする意図を持っていたと言って驚く必要もない。バーバラ・ブッシュの著作「帝国主義とポストコロニアリズム」に従うなら、植民地主義者が地元の言語を‘占領する’ということは頻繁に行われていたそうだ。ポジティブな方向の場合はそれを利用するという形で、そして逆方向の場合はそれを消滅させたのである。
ライター: インドネシア大学文化科学部、カシヤント・サストロディノモ
ソース: 2012年2月3日付けコンパス紙 "Menduduki Bahasa"


「英語に弱いインドネシア人(その1)」(2012年3月24日)
英語の単語をインドネシア式に発音するのは、インドネシアではもう当たり前の現象になっている。debt collectorはdeb kolektor(デブコレクトル)と発音するのが世の中では一般的であり、det kelekteという正しい英語発音を耳にすることはない。debtはdetでなくdeb(デブ)と発音され、collectorはインドネシア語式にkolektor(コレクトル)と言われる。
コンピュータショップの店員はinstallのことをin'sto:lと言わずにinstal(インスタル)と言うし、フランチャイズドーナツショップの店員はまるで自分の発音がもっとも正確だとでも言わんばかりに、わたしの言葉を言い直して注文を確認した。オレンジジュースのジャンボ(jumbo)サイズを店員は「ジュンボ」ですね、と問い返したのである。
センチュリー銀行疑惑の審議を行った国会第3委員会の議事で、Centuryをsenceriと発音したのは、わたしの覚えているかぎりではブディオノ副大統領だけだった。ほかのひとたちはこぞってsenturi(スントゥリ)と発音していた。オランダから購入しようとしているtank Leopardをあるテレビ局のニュースキャスターはleopard(レオパルドゥ)と呼び、本来のlepedという発音から遠く離れていた。
あちこちのテレビ局がインタビューした専門家たちはみんなextraordinaryをekstraordinari(エクストゥラオルディナリ)と称し、イギリス人が言うiks'tro:dnriとかアメリカ人が言うiks'tro:deneriという発音を耳にすることがなかった。同じ英語でも、イギリス人とアメリカ人が使うスペルや発音に違いのある単語はもちろんある。
インドネシアでインドネシア式変化が起こるのは、その違いによるものではなく、インドネシア人が持っている発音能力の不足により多くを負っている。facebookという言葉を発するときはfeisbuk(フェイスブッ)とならずにfesbuk(フェスブッ)となり、emailはimel(イメル)と読まれてimeil(イメイル)にならない。take offはteik off(テイクオフ)でなくtek off(テッオフ)だ。インドネシア人にとって正しく英語を発音するのは困難なことなのだろう、とわたしは思う。
その習慣はもちろんインドネシア人にとって新しいものではない。半世紀前にジャカルタのクバヨランバル地区にPasar Mayestikという名前の市場が設けられたとき、その発音はパサルマイェスティッだった。元の語は英語のmajestikであり、me'jestikと発音されるのがあるべき姿だが、最初にその呼び方を決めたひとびとが、綴り方システム変更にしたがってmayestikと変えてしまった。もちろん、英語にせよほかの外国語にせよ、スペルをインドネシア式に変えていくのは悪いことではない。マレーシア人は自動車のbanをtayarと表記しているが、それは英語のtireの発音をマレーシア語化させた結果なのである。
インドネシア人が使いたがる英語の発音をインドネシア語式に表記して原語のスペルを変化させることは、英語を学習する際の発音記号が必要なくなるということでもある。英語の文章がインドネシア語式発音表記で書かれたなら、識字能力のあるインドネシア人であれば誰でも、たとえ英語を学習していなくとも、その英語の文章を容易に発音できるというメリットが生じる。
英語の読み書き能力が劣っているためにわれわれには英語を英語国のひとびとのように正しく発音できないのであれば、もっと安全なやり方を選択しない手はあるまい。インドネシア語にpenagih utangという語があるというのに、どうしてdebt collectorという言葉を使わなければならないのか?debt collectorがpenagih utangより現代的というわけでもないし、debt collectorと言ったから世間がインテリと見なしてくれるというものでもない。言葉を使うということは、それに付随するすべての関連規則や法則に従うということを意味しているのだから。
ライター: 短編作家、ソリ・シレガル
ソース: 2012年3月2日付けコンパス紙 "Lafal Inggris Indonesia"


「英語に弱いインドネシア人(その2)」(2012年3月24日)
2011年12月31日付けコンパス紙への投書"Penggunaan Bahasa Inggris dan Indonesia di Transjakarta"から
拝啓、編集部殿。去る12月17日土曜日、わたしはチャワン停留所からスリピ停留所までトランスジャカルタバス第9ルートを利用しました。ふと気がつくと、社内の窓ガラスに大きな表示が貼られています。そこにはインドネシア語でArea Khusus Wanitaと書かれており、その英語訳としてLadie's Areaという文字が併記されていました。わたしはすぐに携帯電話を取り出すと、その奇妙な被写体をカメラに収めたのです。
その英語の表現は正しくありません。正しくはLadies' Areaと記されるべきです。もっとひどいことに、そのフレーズは原語のArea Khusus Wanitaの正確な翻訳とは大違いで、「女性的な部分」を意味していることです。二ヶ国語で表記するのであれば、Area Khusus WanitaはAre for Ladiesと翻訳されるべきであり、正確な翻訳を厳選するようにしなければなりません。
バスから降りたわたしは停留所内に掲示されているAntrian Khusus Wanitaとその英語訳であるLine for Ladie'sという表示に気がつきました。原語と訳語の両方に救いようのない誤りがあります。まずインドネシア語のAntrianの正しいスペルはAntreanであり、そして英語のLadie'sはLadiesと書かれなければなりません。
一国の首都の目抜き通りを運行しているトランスジャカルタバス内に数多くのおかしな英語表記が見られるのは、実に恥ずかしいことです。おまけにトランスジャカルタバスが運行しているルートをインドネシア語ではコリドール(koridor)と呼んでいますが、言語センター発行のインドネシア語大辞典第四版にコリドールは(1)家屋内の通路、ひとつの建物と別の建物を結ぶ通路、(2)囲い地に通じる狭い土地(路地)、(3)国土の二領域をつなぐ土地、(4)他国に通じるその国が持っている交通路、と定義されており、トランスジャカルタバス構想を打ち立てたひとびとの趣旨目的に添うなら、ルートという言葉に変更されるべきだとわたしは考えます。[ LIA外国語高等学校翻訳科教官・スカルノハッタ空港イミグレーション通訳、リドワン・アリフィン ]


「TIDUR」(2012年4月2〜5日)
辞書を開くと「寝る」も「眠る」も対応するインドネシア語はtidurと出てくる。日本語でも「眠る」という意味で「寝る」と言うことはよくあるので、「あ、これは同じだな」と納得してしまうのだが、よく考えてみると日本語の「寝る」という言葉もはなはだ曖昧な言葉であるようだ。
医者に診療台の上で「寝なさい。」と言われ、横になりながら「近くに居られると眠れません。」と言った患者の話は笑い話にしても、電車のシートに腰掛けて「寝る」ひとは眠っているわけだが、帰宅してたたみの上でごろんと「寝て」夕刊を読むひとが眠っているわけはない。
睡眠を欲するとき、ひとは「ねむたい」という「眠る」系統の語を使うのが普通だが、「ねたい」と「寝る」系の語が使われることもある。インドネシアではkantuk(ngantuk)というtidur系とは別の言葉が存在しており、日本語との違いがそこに見られる。
ところが「だれそれと寝たい。」という表現になると話しはまた違ってくる。言葉が正確に使われていることを前提にするなら、「オレ、ミヨちゃんと寝たいんだ。」とケンジに言われたミヨちゃんは、「さあ、これからひと運動だっ!」と柔軟体操のひとつでもするだろうが、「オレ、ミヨちゃんと眠りたいんだ。」とカズキに言われたミヨちゃんはお疲れのあととて、「総当り戦でなくて助かったわ。」とあくびをかみ殺しながらカズキのふとんにもぐりこむのである。
このように日本語の「寝る」という語は「眠る」「横になる」「セックスする」という三つの意味を包含している。「いや、まだあるぞ。」とおっしゃるかたが出てくるかもしれない。在庫過多で資金が「寝」たり、水没したダムの底に金塊が「寝て」いたりするわけだが、それは「寝る」という語が本来持っている「ものごとが不活発な状態にある」ことの比喩的な用法ではないだろうか。
では辞書が日本語の「寝る」と同義語であるとしているインドネシア語tidurはどうなのだろうか。サリム夫妻のインドネシア現代語辞典を見ると、tidurとは「身体と意識を休める」ことであり、「目を閉じて心身ともに休養状態に入る」ことと説明されている。さらに別用法として「横になる」berbaring、比喩的用法として「セックスする」berbaring dengan 〜、というものが出てきては、まるで日本語にぴったり一致しているように思えて、うれしくなってしまう。
だがすでにお気付きの読者も多いこととおもうが、日本語の「寝る」を構成している「眠る」「横になる」「セックスする」に対応するインドネシア語を並べてみると、「寝る」と「眠る」の両方に同じtidurが置かれることになり、日本語の「寝る」は曖昧な語だと思っていたがインドネシア語のtidurはそれに輪をかけて曖昧な言葉だという結論に至ってしまう。だが日本にせよインドネシアにせよ、そのことが社会生活において障害をもたらしているようには見えないから、世の中はよくしたものだという結論がそれに続く。
こうしてみると、「寝る」にせよtidurにせよ、心身を休めることがその原義だったにちがいないが、その休め方のバリエーションとして他の言葉を包含しながら現在の姿に立ち至ったのではないかと思われるのである。だとするなら、インドネシアではそれらのバリエーションの中でもっとも本源的でそのためもっとも優勢である「眠る」が代表概念として同一語で表され続けたために別の語が形成されなかったのだ、という仮説は飛躍がすぎるだろうか?もしもこの仮説が的を射ているなら、インドネシアのひとびとにとって「休む」ことは「眠る」のとたいへん近い関係にあることになるはずだ。別の見方を採るなら、「横になる」ことがどれだけ心身を休めることにつながるのかという点に関して日本人とインドネシア人との間における差異を比較してみれば、その問題に対する鍵が見つかるにちがいない。
ここで少し英語の世界を覗いてみよう。わたしたちは中学校以来sleepの訳語として何気なく「寝る」を使ってきた。本来の意味でとらえるかぎり、「心身を休める」「非活動的な状態に入る」ことであるsleepは、「寝る」に対応させて良い気はするが、しかしあの三つの概念を包含する「寝る」とは語体系レベルで一致しない。折り紙つきのThe Webstersをひもとくと、sleepの項目にはlay downやhave sexなど影も形も見当たらない。これはすなわち下部三概念を包摂する「寝る」に対応しているのでなく、三概念のひとつである「眠る」に対応しているのだと考えざるをえないのである。かくしてsleep=「眠る」が判明したわけで、これはつまり、あの下部三概念を包摂する上部構造としての「寝る」に対応する英単語が存在しないという結論に傾いてしまうということだ。ことの真偽はさておき、こうやって見てくると日本語の「寝る」という単語は結局あってもなくても別段困らない言葉ではないかと思えてくる。
ところで、その心身を休めることの一番本源的な方法である眠りを妨げられたとき、たいていのひとはたいへんなことになるものだ。ナポレオンは一日三時間の睡眠しかとらなかったという話だが、不足分は馬上で補ったとしても、時間の長短は別にして心身を休めることはしたようだ。
それをまったく休めないようにしたものが不眠の刑という拷問刑の一種で、ジャカルタの西にスンダ地方最初のイスラム王国として栄えたバンテン王国で17世紀にそのような仕置きが行われていたとそれを見たオランダ人が書き残している。この仕置きを受ける罪人たちは、ひとつの部屋に入れられて十分な食事を与えられる。しかしその部屋には鞭を手にした番人が目を光らせており、眠りそうになった罪人を鞭打って眠らないようにさせるのである。そのような状態が二週間は続く。耐えられなくなった罪人は、どんな残酷な方法でもよいからすぐに死なせてくれと哀願するようになるのだが、そこで「ひとおもいに・・・」などと情けをかけるようななまやさしい牢番などひとりもいない。哀訴などどこ吹く風と牢番が忠実に職務を続けていると、そのうちに罪人は鞭で打とうが蹴飛ばそうが目を覚まさなくなり、いびきをかいて眠りこける。なんとか罪人の目を覚まさなければ自分の職務が果たせなくなるため、こんどは真っ赤に焼いた大きな金ばしで・・・・・。
こうして5週間生き延びた罪人もついには悲惨な最期を遂げたという実に猟奇的なお話。猟奇趣味はこのくらいで、閑話休題。
「眠る」は「心身を休める」ことであるから、当然ながら「休む」という言葉がそれに関連して登場する。貴人が就寝することを「おやすみになる」と表現するのはその例のひとつだが、反対に「ちょっと休みましょう。」と言っても、眠るひとはめったに現れないし、体を横たえることもあまりしない。「休む」という語は「寝る」のさらなる上部概念としてもっとほかの要素を含んでいるものかもしれない。
会社の昼休みに同僚の駐在員が昨夜来のお疲れのせいだろう、机に突っ伏して眠っていると、かれの近くの女性スタッフの電話が鳴る。その電話はかれ宛てにかかってきたものらしく、スタッフはかれの様子を伺いながら応対しているのだが、かれが目を覚ます気配は一向にない。
かれが目をさまさないので、女性スタッフは電話をかけてきた日本人らしい相手に「Ya,○○san ada.・・・Ya,tapi sedang beristirahat.」と説明した。そしてわたしは、その言葉の行き違いが電話の向こうにいる日本人を烈火のごとく怒らせる結果にならないだろうかと余計な心配をしてしまうのである。
『なに、休憩中だって?知ってるよ、今昼休みの時間であることくらい。急用があって電話してるんだからちょっと呼んでくれたっていいじゃないか。なんだ、この会社、昼休み時間には電話にも出ないのか。外地で突然部下を使えるような身分になってノボセ上がってるんじゃないのか?もういい。こんな会社に二度と電話なんかするもんか。』ガチャン!!
この行き違いは、言葉の問題は別にして、執務中という公的状態にある個人はすべからく私的なことがらを後回しにすべきだという日本的価値観と、眠っているひと(しかも上司)を起こすような失礼なことはよほどのことがないかぎりとてもできるものではないというローカルスタッフの価値観の間に生じたギャップに根ざすものであるのは言うまでもない。だがその行き違いは、そのスタッフが「Sedang tidur.」と言っていればもう少し軽度なものになっていたように思えるのだが、スタッフはどうして「Sedang beristirahat.」などと言ったのだろうか?その疑問を当の本人にぶつけてみたところ、「『休んでいる。』のほうがていねいなんです。偉い人のことについて話すときにていねいな言い方をするのは当たり前でしょう?」という答えが返ってきた。
おや、これはまた日本語とそっくりおなじではないか。貴人のことに関連して何か述べるとき、あからさまにそのものズバリを指すのでなく、その周辺にまつわることでそれを表現するのが王朝の伝統美風であったことが思い出される。「くつ」や「やまいにかかる」といった下々の露骨な表現ははしたなくまた畏れ多いことであり、「おはきもの」や「おふせりになる」と申し上げることで奥ゆかしさがにおいたったのである。だからインドネシア人のお宅を訪問して夜遅くなればtidurという言葉は使わないでberistirahatを使うほうがはるかに奥ゆかしく思われるのではあるまいか。
かといって、使用人だからtidurを使えばよいかというと、それもよしあしだ。ウイークデーの昼日中、うら若い色白の駐在員ニョニャが家庭車で買い物に行き、家へ帰る道すがら運転手君がねむそうにしているのに気付いたので、運転手君に向かって「Mau tidurkah?」と声をかけた。そのとたんに運転手君は目を輝かせ、今にもよだれをたらしそうな顔になったためにニョニャは動転してしまったという話もある。ご用心、ご用心。


「GATAL」(2012年5月2〜7日)
インドネシアにも病人は多い。総合病院へ行っても、開業医へ行っても、たいていひとであふれている。とは言っても、わたしたちが開業医へ行く場合は口コミで腕のよしあしを聞いてから行くので、はやってない医者へ行くはずもないから、混んでいるのが当たり前と言えば当たり前なのだが。
開業医へ行くと「注射をしてほしいか?」と尋ねる医者がときどきいる。これはどうやら『患者の気休め』注射サービスが多いからだろう。開業医の中にはカスタマーサティスファクションを実践するひとが昔からいたのである。日本でも同じようなことが話題になったことがあるから、医者は似た者同士ということらしい。そんな医者はオランダ風(?)にお尻に注射するが、総合病院へ行くと日本風(?)に看護婦が腕に注射したりして、これはどうやら教育を受けた時代が異なるせいかもしれない、と思ったりする。
医者の書いてくれた処方箋を持って薬屋や薬局へ行くと、そこでもたいてい大勢のひとであふれている。だが心配には及ばない。インドネシアのひとたちはめったに単独で行動せず複数で動くから、ひとがたくさんいる割りに自分の順番が来るのは意外と早い。ひとりのオカアさんが用が終わって出口に向かおうとすると、そのオカアさんがさっきいた場所の周辺に座っていた5〜6人のひとたちが一斉に立ち上がって出口に殺到するようなこともザラにある。
インドネシアは医薬分業と聞いていたから、医者は薬を出してくれず、また薬局では市販の許可を得ている薬以外は医者の処方箋がなければ買えないと思っていたが、意外にも処方箋なしでたいがいの薬を売ってくれるところもある。そのような薬屋は、こちらに薬学の知識があれば、医者のはしごをするよりは重宝するかもしれない。
インドネシア人も日本人並に薬の好きな国民であるようだ。会社などでも総務に置いてあるありとあらゆる市販薬を、やれ頭が痛い、腹が、目が、喉が、などと言っては従業員が入れ替わり立ち替わり求めに来る。pusing, tidak enak badan, などと言ってはナントカ油をこめかみや身体の局部に塗りたくり、刺激臭を発散させながら職場にやってくるひともいる。そしてテレビ、新聞、雑誌をはじめさまざまな広告媒体に薬の宣伝は先進国並みに氾濫しており、宣伝対売上げ効果はきっと先進国をはるかにしのぐパーセンテージであるにちがいない。
そんな広告の中に皮膚病治療薬もけっこう多い。熱帯という風土要因が大前提にあるわけだが、個々人の衛生観念の遅れや社会インフラの整備を遅らせている貧困から来る衛生レベルの低さもそこに影響を及ぼしていることはまず否定できないにちがいない。この豊かな水に恵まれた土地にあって、身をきれいに保つために何よりも頼りにされている水自体の中に細菌ウイルスたちも豊穣に生きていることが結局そんな現象を生み出すベースとなっているのは明らかだ。インドネシアのひとびとのマンディ好きは確かに脱帽に値するものであり、清潔ということに対する価値観は疑いもなくかれらにある。
「では、あの茶色に濁った川で排泄さえしながら、水浴から料理の煮炊きまでその水を使っているのは、いったいどこが清潔なのかね?」との反論が聞こえてくる気がするが、それが「清潔好きだが衛生観念がない」と外国人が評するかれらの行動なのである。1950年代にインドネシアを訪れたある西洋人がジャカルタで出会ったやはり西洋人医師の言葉をその著作の中で引用し、「かれらは肉体的清潔さに対して強いセンスを有しているが、それに比べて衛生観念はほとんどない」と述べている。排泄のあとでその器官を水洗いするチェボッ(cebok)という行為もその清潔さへのセンスの現われのようだが、その水が衛生的かどうか疑わしい場合には細菌やウイルスによる感染をおそれてチェボッを別の方法に切り替えるような斟酌はどうもしないようで、先祖代々行われてきた伝統的習慣を問答無用で守り続けている。たしかに排便後のチェボッというのは慣れてしまうと気持ちのよいもので、紙だけで終わらせざるをえないときなど、その後いつまでも不快感が持続するから、衛生教育をあまり受けていないひとびとにとってはどんな水であろうと強い誘惑のとりこになるのも無理はない気がする。ともあれ、清潔さcleanlinessと衛生hygienとは、インドネシアではまったく切り離された別の観念だということをわれわれは理解しておく必要があるにちがいない。
まだ二十代の男がひとり、居間のソファで札束を数えていると、妖艶な若妻が「マ〜ス」と甘え声で顔をのぞかせる。男は金を数えながら若妻に向かってやさしく声をかける。「Apa? Gatal ya.」男の傍らに滑り込んできた若妻が男に背を向け、髪を前にまわしてなまめかしい襟足を露出させると、男はその襟足に顔を寄せる。ところが突然、男は驚いて叫ぶ。「ファヌ!」
そのときの男の愛らしいマンガチックな顔は何度見ても見飽きないわたしの楽しみだったが、それはともあれ、妖艶な若妻の褐色を帯びた柔肌には白いまだら模様が・・・・
この男はきっとアラブ系にちがいない。アラブ語に[p]の発音がないため[f]に変化してしまったこのpanuとは「たむし」のこと。そしてこのストーリーはテレビで頻繁に流されていた「たむし治療薬」のCMのひとコマ。
たむしが痒いのは当たり前?いやいや、男が若妻に言ったgatalはたむしについてのものではない。なぜなら、かれは「Gatal ya.」と言ったあとではじめてたむしに気付いたのだから。ならば男はいったい若妻のどこが痒いと思ったのだろうか?
gatalが日本語の「痒い」であることはきっともうご存知のはずだが、もっと別の使い方があることにお気付きだろうか?会社で現場の人間を事務職に回したが、本人はデスクワークなど大嫌いで、何かと理由をつけては外出ばかりしたがる。落ち着いて座って事務を執るなど気が滅入るばかりのこのひとは、たいていあっちへうろうろ、こっちへうろうろ。用があって呼ぼうとしても席にはいない。ほかのスタッフに「XXはどこへ行ったの?ちょっと用があるんだが。」と言うと、「Oh, mungkin dia ke lapangan. Nanti saya suruh cari dia. Orangnya memang kakinya gatal sih.」というコメントが返ってくる。
座っていればいいのに、時間を待ちながらいらいらと落ち着かず、尻を浮かしてみてはまた座るといったことを繰り返しているひとに対して「Pantatnya gatal ya.」
言いたい放題に他人の非難や悪口を連発するひとがいると、「Jangan dekat-dekat dia. Orangnya gatal mulut.」などと言われる。
会社の施設に落書きをしたり、わざと壊してみたり、事務所の同僚の文房具を勝手に家へ持って帰ったり、トイレ内のハンガーを盗んだり、他の人間が迷惑を感じるようなあれやこれやが行われるとtangannya gatalという表現が登場する。かつて、ジャカルタでまだ日が浅いころ、一週間ほど出張して帰ってきたら、わたしの机の抽斗に入れてあった文房具の大半が姿を消していて閉口させられた経験がある。これはgatal tanganと呼ぶべきなのか、それともmalingと言うべきなのか、わたし自身迷ってしまうのだが。
上で見たように、gatalは「何かをしたくてたまらない」という精神状態をも表すものであり、決して皮膚感覚だけに限定されてはいない。若妻のgatalも読者のみなさんにはもう十分想像がついていらっしゃると思うが、性的興奮を感じてもよおしてくるあの感覚のことを言っている。そのテレビCM、実は若妻の夜のおねだりとたむしをgatalという言葉にかけた洒脱なシナリオだったのである。
このgatalは男も女も使うが、もちろんそんなシチュエーションで使われる別の言葉もある。男がbangun、女がbasahと使うのは日本語でも同じだが、いざ一戦交えましょうというときにはmainという動詞が使われる。男と女が何をして遊ぶのかと言えば、やはり本質的なところに思い至って「うん。」と納得される方も多いのではあるまいか。なんとなくおおらかで、幼かりし頃を思い出してほのぼのとした気持ちになる方もいらっしゃるにちがいない。
気持ちの上で何かあることをしたくてたまらないときのあの感覚を「かゆい」と表現するこのセンスに「う〜ん・・・」と言って納得される方、首をかしげる方といろいろではないかと思われるが、何度も言うようにgatalという言葉は皮膚感覚だけに限って使われるものではありません。
人中で、他人との会話の中で、gatalという単語をお使いになるときは、奥さんお嬢さん、どうかくれぐれもお気をつけくださいませ。


「TAHI」(2012年6月4〜7日)
インドネシアのひとから、「あれ、あなたのうなじにハエのくそが・・・・」などと言われてむやみに恥ずかしい思いを経験された方はいらっしゃらないだろうか?「ハエのくそ」tahi lalat はほくろを意味しているので、人前で不潔さをとがめられたと思って気になさるには及ばない。
tahi は[h]がほとんど発音されないから、ふだんわたしたちの耳にはtai と聞こえる。ほくろも当然tailalat と聞こえてくる。このtai というインドネシア語は日本語の「くそ」あるいは「カス」に該当する言葉だ。人間のからだはありとあらゆるtai をつくっている。尻の穴から出るものをはじめ、目・耳・鼻・歯・爪などからもtai が採れる。タンクや水槽、ビンや壺などに入れてあった液体から出てきた不純物もtai だ。長期に貯めた水からは必ずと言っていいほどtai air が出てくる。日本語だと「垢」と呼ぶのに、インドネシアでは「カス」と呼ばれる感覚の違いがおもしろい。
このように人間以外のものでもtai を出すが、変わったところではtahi bintang があり、夜空を駆け抜ける流星を排泄行為になぞられたひとびとの感覚からは、tahi がかれらの日常生活の中で親近感を持って受け入れられていた可能性を強く感じさせてくれる。
金属もtai を出すようで、tahi besi やtahi tembaga などと言う場合は、鉄の表面が酸化してできる錆や銅の表面に出てくる緑青を指している。
のこぎりやかんなもtai を出す。建築中の家屋のまわりはtahi gergaji やtahi ketam 、あるいは鉄棒にやすりをかけて出てくるtahi kikir などくそだらけだ。
tahi を意味するアラブ語のtinja も使われている。バキュームカーに書かれて都内を走り回っているから、きっとどこかで読者の皆さんの目にとまっているのではないだろうか。
汚いものを総称して汚物と呼ぶが、汚物の中にくそが占めるウエートはどのくらいなのだろうか?これはわたしの個人的な語体験からなのかもしれないが、「くそ」を指して「汚物」という言葉を言ったり聞いたりした経験がほとんどなく、「くそ」を指すときにはそのものズバリで表現したり、排泄物や汚わいなどという言葉を使うのが普通で、汚物という場合には「くそ」を含めた全般的な汚いものという意味に理解していた。つまり「汚物」≒「くそ」という理解を持っていなかったということだ。
インドネシア語にも「汚い」kotor の名詞形であるkotoran が「汚物」あるいは「汚れ」という意味で使われる。あるときだれかがtahi を踏んだサンダルをそれと知らずになにかのはずみで手にしたとき、「Sandal itu kena kotoran.」と注意されたにもかかわらず実態を把握しきれないまま「(少しくらい汚くったって大丈夫だ。)Tidak apa-apa.」とやったが、しばらくたった後で臭いからさっきの注意の意味がはじめて理解でき、『いまさらどうしようもない。』と自分の馬鹿さ加減を呪いながら最初から判っていたような顔をしてそのままかっこうをつけたことがある。
もし読者のみなさんに「汚物」≒「排泄物」という感覚が備わっているなら問題ないが、わたしと似たような言語感覚の方はインドネシア人がkotoran と言ったときには「くそ」の可能性が高いと思うよう、ご注意申し上げておこう。
アラブ語のnajis という言葉も「汚物」という意味で使われるのだが、他人を侮蔑するさいにはtahi と同じ意味になる。najisの替わりにkotoran という言葉を使ってもたいして重みが感じられないが、najis という言葉が使われるとずしりとかれらのプライドに響くようだ。
英語では、ひとを罵るときにshit という言葉が頻繁に登場する。日本語では罵る相手を「くそ」と言わずに「くそったれ」とか「くそ野郎」と呼ぶところが違っている。人間そのものを「くそ」と同一視せず、「くそを出す人間」という扱いにしている点から、日本人ははるかに穏やかな罵り方をしていると言うことができそうだ。何かがうまくいかなかったときに日本語でははじめて「くそ」が登場するが、「くそ」や「ちくしょう」という日本語に対応して英語では依然shit が使われる。
インドネシア語でひとを罵るときに、昔は「くそ」という表現があまりなされなかったような印象をわたしは持っている。昨今では「Tai lu!」などという言葉が当たり前のように耳に入ってくるが、昔の罵り言葉はもっと違うものだったように記憶している。ひょっとすると英語のshit にならってインドネシア人が採り入れたものかもしれない。
もともとインドネシア人の排泄は川で流すのが一般的だが、地上のどこでも水が流れていたり溜まっていたりというわけではない。居所から数キロ先でやっと水流や池があるという場所に住むひとびとは日常そんなことをしていられないから家の近辺の藪に隠れて野ぐそをする。今でも田舎へ行けば、そんな日常生活がある。バリ島のクタから十数キロしか離れていない農村部でも、一部のひとびとはそういう暮らしを現実にしているのだ。
クタの繁華街にある銀行でも、電話料金支払いに立ち寄った電話会社サービスショップでも、順番待ちで並んでいる自分のすぐ近くに後始末をしていないとしか思えない強烈な臭いを発散させる人間がいたりする。そのような人間に対する社会非難を周囲の人間はだれひとりしようとしないから、社会的に「くそ」が容認されている文化なのだろうとわたしは感じ取るわけだ。つまり、和気藹々たる社会秩序を維持し、個人にいやな思いをさせないで自分は大事にされているのだと思わせるような人間関係を壊してまで排斥されるべき反社会的な対象に「くそ」は位置付けられていないということをわたしは主張しているのである。もし社会の現実がそうなっているのであれば、「くそ」という罵倒を投げつけても相手の心に深い傷を負わせることなどできないではないか。それだけ「くそ」はかれらの日常生活に密着したフツーのものということだろう。
実は、「くそ」などという即物的な罵倒よりもっと洗練されたものがある。えびの頭の部分は頭胸部と呼ばれ、内臓までそこに収められている。つまりえびの身体全体を見ると、ふつうの生き物なら頭と考えられる部分に消化器官が存在しているわけで、当然そこには「くそ」がある。頭と考えられる場所には脳みそがあるはずなのに、なんとえびはそこに「くそ」が溜まっているわけだ。
「Otak udang, lu!」と罵ればたいていのひとは怒るにちがいない。「お前の脳みそはえびみたいにちっぽけ!」という意味でないことは、賢明な読者には言うまでもあるまい。


「ジョグジャそれともヨグヤ?」(2012年7月7日)
1755年3月3日に結ばれたギヤンティ(Giyanti)協定にしたがって、マタラム王国が分裂した。パゲラン・マンクブミ(Pangeran Mangkubumi)はカルタスラを去って、南西の方角に新たな王都を求めた。チョデ(Code)川とウィノゴ(Winongo)川にはさまれた広大なブリギン(beringin)の森と小さな寒村のある場所をかれは選んだ。
その森を切り開いて1756年に建設された王宮でパゲラン・マンクブミは王位に就き、スルタン・ハムンクブウォノ(Sultan Hamengkubuwono)?世を名乗った。1756年10月7日のことだった。そしてその王都はガヨグヤカルタ(Ngayogyakarta)と名付けられた。最初の発声時に鼻音を鳴らすのはジャワ人の癖なのだろうか、[ng]つまり[?」の音が最初の音節に出てくる地名はジャワにいくつかある。
ともあれ、日本人がジョグジャカルタと呼んでいる地名の正式名称はヨグヤカルタ(Yogyakarta)であり、インドネシアの公式文書にジョグジャカルタ(Jogjakarta)という名称は一切出てこない。そもそもジャワ語のyogya というのは「適正な、妥当な」という意味を表し、karta は繁栄という意味のジャワ語で、karta という語はしばしばkerta あるいはkerto という異音で発音されることもあるため、そのような綴りが正式名称として使われることもある。ヨグヤが正式名称であるのは、ジャワ語にジョグジャと発音される単語が存在しないことからも明らかだ。
ではなぜ、日本をも含めた世界中でジョグジャカルタという名称のほうがよく通っているのだろうか?これは推論でしかないが、もともとヨグヤカルタ王家はジャワ文字でその名称を表記していた。そこにオランダ人がやってきたとき、かれらが西洋文字で綴ったのがJogjakarta なのである。オランダ人やドイツ人はそれをヨグヤカルタと発音するが、イギリス人やフランス人はそれをジョグジャカルタと自国の読み方に従って発音したにちがいない。わたしはそれがジョグジャカルタという名称の発端だろうと思う。
ではなぜインドネシア人自身までもがジョグジャという呼び方をしているのだろうか?実はその土地の地名はジョグジャとヨグヤの二種類だけではないのである。地元の年寄りはNgayogyakarta、東ジャワや中部ジャワのジャワ人はYogja, Jogja, Jogya, Yogya あるいはYojo、そしてさらにはDjokdja という綴りまで飛び出してきたから、事態は紛糾の一途をたどった。もちろん後ろにkartaをつけるかつけないかは本人しだいというところ。
勘違いで始まったものを含めて、みんなが好きなように呼びまた書くような町がジャワに存在するという事実から、ジャワ人の自由愛好精神あるいは寛容性というものが感じ取れる気がするではないか。


「BUANG」(2012年8月3〜10日)
はじめてインドネシアの医者にかかって聴診器を当てられ、「Tarik napas 」と言われたときにそれほどの戸惑いはなかったが、いよいよ「Tarik !」と言われて息を吸ったあとワンテンポおいて「Buang !」という言葉を耳にし、そのあまりの思いがけなさに自分の耳を疑い、息を吐くのも忘れてまじまじとドクトルの顔を見つめた経験を読者の皆さんはお持ちではないだろうか?
医者の多くはbuang の少々下品なニュアンスを嫌ってその代わりにlepas を使う人が多いようだが、息を吐くことをbuang napas と言うのは正しいインドネシア語だ。
buang はたいていのひとが「捨てる」と理解しているようだが、日本語の「捨てる」がさまざまな意味を含んでいるのと同様に、buang にも多くの意味が含まれている。いや、日本語の「捨てる」よりもbuang の間口のほうが広いと言ってよいだろう。buang の他動詞形membuang に置換しうる別のインドネシア語を列挙すると、下のようになる。
1. menghilangkan
2. menghapuskan
3. melenyapkan
4. melemparkan
5. menyingkirikan
6. mengalihkan
7. menarik
8. menyia-nyiakan
9. mengeluarkan
10. melahirikan
上であげたbuang napas は9. mengeluarkan の意味だが、人間の肉体から出すものにbuang が使われるのは何となく判る気がする。
つばを吐くのはbuang ludah 、おならをするのはbuang angin だ。ただおならは日常語であるkentut(クントゥッ) を耳にすることのほうがはるかに多い。排便をすることはbuang air で、大便をするのはbuang air besar 、小便をするのはbuang air kecil と称する。ウンチとオシッコに大と小の意味を与えるのは日本語に似ている。アラブ語源のhajat をair の代わりに使ってbuang hajat besar 、buang hajat kecil 、総称してbuang hajat という言い方もある。hajat には用事という意味もあり、トイレに行くことを「ちょっと用足しに・・・」と奥ゆかしく表現するあの感覚にそっくりなのはおもしろい。
しかし日常語では別の言葉が使われる。大便をするのはberak(べラッ)、小便はkencing(クンチン)だ。おまけに幼児語も存在しており、大便のことはe-e(エッエッ)と鼻に響かせて発音する語が使われる。赤児や幼児を抱き上げて排便させるときに親がその言葉を口にするので、幼児が言葉を覚え始めると自分が大便をもよおしてきたとき今度は自分でe-e と言って親に意思を伝えるようになる。日本では「う〜ん、う〜ん」がそれに該当するのかも知れないが、息張り方がちがってくるのは南国のほうがより自然な人間の生理が得られるからかもしれない。
小便の幼児語はpipis が使われるが、これはどうやらオランダ語piesen の口語形pis に由来しているようだ。ちなみに尿瓶pispot はオランダ語のpiespot がそのまま使われている。小便のお漏らしはompolというジャワ語が使われ、ジャカルタでは鼻音化した地元方言のngompol という言い方でわたしたちの耳になじんでいる。ompol は本来寝小便を指す語だが、子供が遊びに夢中になって我慢しきれずに垂れ流ししても同じように使われる。
洟(はなみず)の場合のbuang ingus は辞書によれば「鼻をかむ」となっており、わたしは何となく出すことだけにとどまらず出したあとの処理まで含むニュアンスをその日本語に感じてしまうのだが、インドネシア人の「鼻をかむ」は手鼻をかむことであり、この場合のbuang はやはり9. mengeluarkan に近いところにいる。
涙や汗にbuang が使われず、その代わりにkeluar が使われるのは、やはりそこに「捨てる」のニュアンスが乏しいからではないだろうか。涙はいたって文学的な素材だからその出方にもいろいろあり、menetes, meleleh, mengalir, berlinang, bercucuran, berhamburan などとさまざまに表現されるが、汗はシンプルにber-が付けられる程度だ。
「搾り取る」という意味のperas を使えば汗や涙を無理に出させることになる。ただ、かいた汗やあふれる涙を振り捨てるときにbuang の出番がやってくるのだが、その場合のbuang は文字通り「捨てる」の意味で使われている。その点でbuang air mata とbuang air kecil とではbuang の意味に違いがある。
buang muka というのは6. mengalihkan の用例で、顔を別のほうに向ける、つまり顔をそむけることだ。同じ使い方にbuang mata やbuang pandangan があり、視線を別のほうに移すことを意味している。buang utang は借金を踏み倒すことでも借金を棒引きにすることでもなく、金を貸した相手からの返済が見込めないときにそのファミリーに代替返済を要求することであり、buang sial は災難をほかに乗り移らせて自分のところから追い払うことだ。銀行口座に入金しようとして差し出した紙幣の中に受け取りを拒否されたものがあり、偽札をつかまされたと判った店の主人が店員に「今度こんなことが起こったら、受取った者に責任をとってもらうぞ。」と警告し、今回はしかたがないとしてbuang sial と言いながらその紙幣を破り捨てるような場面で使う。
buang mulut は4. melemparkan の用例ではないかとわたしは思うが、違う場所で一貫性のないことを言う行為を指している。buang tangan も手を揺らしたり、軽く他人の身体を手ではたく行為を意味している。
5. menyinkirkan の例は子供や妻と縁を切るbuang anak, buang bini あるいは係争や疾病を遠ざけるbuang bala があげられるだろう。罪人を流刑するときのbuang もこの用例のように思われる。Pramoedya pernah dibuang ke Pulau Bulu. といった使い方が普通だが、buang hidup という言い方もする。buang diri は故郷を離れて遠方へ出稼ぎに行くことに使われるが、いまでは自殺を表すところまで意味が広がっているようだ。
「捨てる」のもっとも普遍的な意味である1.〜3.の用例としては、buang sampah, buang ampas そしてインドネシアンポップスでおなじみの方も多いと思うが、男に捨てられる女の嘆きをうたった歌詞の中によく登場することわざHabis manis sepah dibuang.にあるようにbuang sepah など不用なものがbuang の対象となる。いや、わたしは決して女がbuang の対象になって当然と言っているのではないので、誤解なきようにお願いしたい。捨てられる対象となるものにはさまざまあるが、中にはpenat, lelah, letih などを捨てたり、malu やhamil を捨てたりと、日本語の感覚からかけ離れたものもあるのでご用心。
「投げる」と「捨てる」は日本語でも混用されているが、日本語では「捨てる」が「投げる」に含まれているのに対してインドネシア語ではmembuang がmelemparkan を含んでいるのも面白い。bola でもpensil でも自分の手から投げるかっこうで手放すのがこのbuang に当たるのだが、buang sauh と言えば船が投錨すること、buang dadu と言えばサイコロをふることを表している。
asmara というのは相手に恋焦がれる恋情の意味で、cinta やkasih あるいはsayang などよりはるかに能動的に相手を手に入れようとまっしぐらに突き進んでいく情動を指している。buang asmara というのはその恋を諦めるのでなく、身体を合わせて想いをとげることを意味しているので、横恋慕してきた男がbuang asmara と言ったのに対して「そうよ、それがいいわよ。」などと返事したらたいへんなことになるから、お間違えのないように。
7. menarik はどうやら特殊なケースらしく、buang undi という句しか見当たらない。また10. melahirkan もbuang perkataan という例にしかお目にかからないが、探せばほかにあるかもしれない。8. menyia-nyiakan の用例は普段わたしたちが口うるさく使っている言葉であるため、既に自家薬籠中のものにされている皆さんも多いにちがいない。buang waktu をはじめとして、biaya, uang, tenaga, kesempatan などはしっかりとボキャビュラリーに収められているのではあるまいか。waktu の類似語のtempo やbiaya の類似語のbelanja をそこに加えてもいいだろう。ところで、生命を賭けて何かをするときにはbuang nyawa と表現するが、しかしその結果本当に生命を落とせば、中にはmati konyol と嘲笑するひとが出るかもしれないのは、どこの国であろうと同じであるようだ。
約束を破るときにもbuang が使われる。「約束をほごにする」という日本語表現に何となく通じているような気がするのは、わたしの思い過ごしだろうか。約束を守ればpegang janji、破ればbuang janji という言葉が使われる。このpegang というのはご存知の通り「持つ」「保持する」という意味の言葉だが、自分の言ったことに対して言行一致を守ったり、上長の言ったことを一生懸命実行することは「言葉を持つ」という言い方をする。
歩み去るときにはbuang langkah という言葉が使われるが、その場を後にして立ち去るときのmeninggalkan に比べてこれは置き去りにするニュアンスをもっと強く感じさせる。背を向ける姿勢がもっと強調される場合はbuang belakang という表現が用意されている。これは係わり合いになる状況から逃れたり、そのような状況を無視して自分をその問題の外に置こうとするような態度を指して使われる言葉だ。
この間口の広いbuang を前にしてbuang muka などをしている方はもう少し気を入れなければなりませんねえ。しかし、ほらそこの、こっちにまるっきり背を向けているあなた。buang belakang などしていては、この先が思いやられますぞ。


「KEPALA」(2012年9月5〜10日)
人体の部位の呼称が、異なる言語の間で完全に対応していないことがある。人種が違っても人体の構造は同じだから一対一の対応をしても良いような気がするが、カバーする範囲が違っていたり、より細かく分けられていたりしている。それなりの文化的歴史的背景があるのだろうが、勉強不足のわたしにはよくわからない。
あしはインドネシア語でkaki だが、この言葉は下肢全体と足首から先の両方を意味しているので、「あしがだるい。=Kakinya pegal.」と言われても、下肢のどの部分がだるいのかさっぱりわからない。上肢のことはlengan と言い、肩から手首までを指している。ところが手首から先を意味するtangan がカバーする範囲は二説あり、lengan でカバーされていない部分だけを指すというものと、ひじから下を指すというものがあって、後者の説にしたがうとtangan の一部はlengan に含まれるということになる。ひじはsiku と呼ばれ、lengan はsiku で二分されている。その上下をlengan atas、lengan bawah と呼ぶのは日本語の上膊部・下膊部と同じだ。
あしのうらはてのひらと同じtelapak だが、これはtapak に挿入辞[-el-]が入ったものであり、意味は変わらない。telapak tangan ではたくことをtepuk と言うが、言葉の創造過程を垣間見せてくれる気がしておもしろい。あしの甲や手の甲を指す言葉はpunggung tangan やpunggung kaki だが、日常生活でその言葉に接した印象があまりない。
手首・足首はpergelangan だ。gelang というのはリング状をした身体に着ける装飾品で、英語のブレスレットやアンクレットに該当するものであり、そのgelang を装着する場所というのがこのpergelangan の意味だ。これだと、どうも言葉のできる順序が反対のような気がしてならないのだが、読者はどうお感じになるだろうか?
かかとはtumit、すねはtulang kering、その裏側のふくらはぎをbetis と呼ぶ。日本では久米の仙人が下界の娘のはぎに目がくらんで雲から墜ちたそうだが、インドネシアでも年頃の娘のサロンの裾からのぞく脛の形の美しさに胸ときめかして読まれた詩も数多い。
ひざはlutut だが、ジャワ語のdengkul もよく使われる。裸一貫、身体をもとでに一旗上げるといった話によくmodal dengkul という熟語が顔を出す。ひざは上肢のひじに対応して下肢のなかほどで折り曲げることのできる部分を指している。面白いことに、これを折り曲げることはどこの国へ行っても降伏や服従を象徴しているようだ。
ももは言うまでもなくpaha で、食欲につながるpaha ayam やpaha kodok は別にして、paha belalang という言葉から皆さんの脳裏にはどんなイメージが浮かんだろうか?
belalang とは昆虫のバッタのことだ。バッタの脚のももなどという言葉を耳にしただけで虫酸の走る読者もいらっしゃるにちがいない。実は、これはスタイルのよい女性に対する賛辞なのだが、そんな言葉で褒められる自分を想像して背中を冷たいものが走った女性読者もきっといらっしゃることだろう。はたして、ほっそりした華奢な身体つきのジャワ娘の姿にうまくオーバーラップさせることのできた読者はいらっしゃっただろうか?
女性がミニスカートを穿けば腿が露出する。自分の腿を世間に示して異性の目を引きつけようとする女性心理を巧みにとらえてpamer paha と称しているインドネシア人の感性は実におもしろいとわたしは思う。それについては「パメルパハ」(2012年4月28日)をご参照ください。
腹はperut で胸はdada だ。では「胸の実は?」と問うと、「ハハン・・・」と読者の脳裏に想像が走ったのではないだろうか?乳房をbuah dada と呼ぶのは、さすがに熱帯の豊かな植物資源に囲まれた文化の産物と感心する。他にもtetek, payudara, susu などの言葉が乳房を指して使われる。
せなかはpunggung、肩はbahu あるいはジャワ語のpundak が使われる。数十年前に自動車専用道を走っていて、道路標識に記載されたbahu jalan という言葉に初めて接して驚いたことがある。日本語の路肩あるいは英語の土木術語shoulder の直訳のように思われる。
こしはpinggang でtali pinggang が乗るところだ。日本語では腰の下は尻となるのだが、インドネシア語ではpinggang の下にpinggul があり、その下にpantat がある。日本語ではpinggul とpantat が共に尻と訳されている。お肉たっぷりの肉厚部分がpantat で、腰からそこに至る肉の薄い部分がpinggul ではないだろうかとわたしは思うのだが、専門家のご解説を伺いたいところだ。尻のインドネシア語としては、映画の字幕によく登場するbokong という語もある。ボコンには元々bengkak の意味があったようで、侮蔑的で下品な感じがするのだろうか、わたしの周辺のインドネシア人の口からボコンという言葉を聞いたことがない。
首はleher だが、首の後ろ側の首筋あるいはうなじと呼ばれる部分に対応するインドネシア語はtengkuk で、leher とtengkuk が支えているのがkepala つまり頭である。日本語でも集団の長は「かしら」と呼ばれ、頭の文字を与えられてひとつの言葉になっている。インドネシアでもkepala は「あたま」であると同時に「かしら」を意味しており、上はkepala negara から下はkepala RT に至るまで、kepala の数は限りない。
このkepala はサンスクリット語のkapala を語源としているのだが、実は日本語にもサンスクリット語kapala を語源とする単語があるそうだ。屋根に載っているあの「かわら」の語源が梵語のkapala なのである、とものの本には記されている。中国では瓦と表記されて北京ではwa、広東ではnga、福建ではhia としか発音されない「かわら」。日本人が「かわら」という言葉でその品物を呼ぶようになった由来はどのようなものだったのだろうか?


「BEBAS」(2012年10月1〜17日)
1966年、当時のスカルノ大統領がアリ・サディキン海軍(海兵隊)少将をジャカルタ首都特別区知事に任命したとき、ジャカルタにいるベチャ引きたちのいったい何人が自分たちの未来の運命を予見しえたことだろう?ジャカルタの首都建設に辣腕をふるったアリ・サディキン知事はバン・アリと呼ばれて広範な都民の支持を得、二期十年にわたって首都行政につくしたが、同知事は就任当時を振り返って「独立インドネシアの象徴であり首都ジャカルタの中心であるモナス広場は荒れ果て、雑草は丈高く生い茂り、放置されたパイプはあちらこちらに散在し、道路は穴だらけで通行する車両は秩序なく思い思いの方向に入り乱れて進み、ぼろをまとった浮浪者が四方八方から現われ、同じような姿の子供たちもいったいどこへ行こうとするのか、朝早くから広場をうろついていた。」と語っている。クリスモンで多少荒んだとはいえ、今でこそ壮麗なあの独立広場に変身することができたのは、やはりバン・アリの功績大なるものがあると言えるようだ。
ところでBangというのはAbangの省略形で、オランブタウィが「あんちゃん」「にいちゃん」と青年男子に親しみをこめて呼ぶときに使われる呼称だが、もともとは大家族の中で年上の男の子を小さい子供たちや大人が呼ぶときに使っていたものである。ベチャ引きもジャカルタでは親しみをこめてアバン・ベチャと呼ばれる。三十二年間も続いたオルデバル期の後半になってジャワ文化浸透に拍車がかかり、青年男子に対する呼称はMasで塗り潰されてしまった感がある。明らかにジャワ人でないあんちゃんに「Mas !」と呼びかけながらも生理的な抵抗感を抱いているわたしはどうやらかなりの「余計なお世話人間」であるようだ。
さて、「秩序なく思い思いの方向に入り乱れて進む車両」の中にかなりのベチャが混じっていたのではないかとわたしは想像するのだが、モータリゼーション時代の到来を当たり前のこととしていたバン・アリにとって、ベチャなしの都民生活を構築するのが自分の使命と決意を新たにしたであろうことは十分に想像できる。
客待ちの大勢のベチャが狭い道路を埋めているため車がやっと一台通れるようなパサルのそばの道を、それらの障害物を縫って歩くこれまた多数の人々を避けながら這うように車を進めたり、客を乗せた一群のベチャが走っている横をやはり歩行者や自転車、そして対向車に気を配りながら追い越すときの疲労感は経験した者でなければなかなか実感の持てないものにちがいない。いや、そればかりではない。何か問題が起こると即座に団結し、数を頼んで荒れ狂うあのベチャ引き神話が頭の片隅に宿っていて、いやがおうでも緊張感は高まるのである。慎重の上に慎重を重ねる必要があるのは言うまでもない。バン・アリでさえ、「車にこすられると相手を襲ってリンチし、反対に自分が相手にぶつけると『おまえが悪い』と相手の落ち度にして悪びれもしないアバン・ベチャたちの人もなげなふるまいを放置してはいけない。」と都庁職員に訓令をたれている。
ベチャ引き神話に出てくるかれらの姿はいくつかある。人非人の支那人頭家をもっともっと富ませるために、食うものも食わず夜は露に濡れながらベチャの上で寝て心臓が飛び出すまでペダルを漕ぐ、やせ衰えて肺病病みという永遠なる搾取犠牲者のイメージ。
そしてまた、騒ぎが起こると数を頼んで暴れ狂い、商店などを襲って破壊・略奪・放火をほしいままに行う、果てしない不満をかこつ暴動集団であり、また危険きわまりない革命の素材というイメージ。あるいはまた、無防備な人間やひとりでいる人間を襲って金品を強奪する野蛮な潜在的犯罪者のイメージ。
人間性可燃物と呼ばれる下層労働者階級の一番表層に現われている顔として位置付けられていたインドネシアのベチャ引きたちに捧げられたそれらの神話も、ジャカルタからベチャが閉めだされてから既に長い年月がたち、ベチャ引きたちのいなくなってしまったジャカルタでそれでもここ数年あれほど暴動が頻発した事実からベチャ引き神話はもう昔語りになったにちがいないと思っていたところ、国民協議会の大統領選挙をひかえた1999年10月13日、ヌグロホ・ジャユスマン首都警察長官が近隣ボタベッからベチャ引き4千人をスナヤンに集めて暴動の誘いに乗らないよう訓話した事実を知り、神話はいまだに生き続けていることを思い知らされた。
ともあれ、ベチャ引き神話とはそういう内容だったのだが、ではジャカルタからベチャがなくなって以来、ジャカルタから犯罪や暴動あるいは集団略奪のようなものが姿を消したかと言えば、そんなことはまったくなく、むしろ正体不明の連中による犯罪行為はとめどもなく広がっているから、ベチャ引き神話があくまでも神話でしかなかったことをその事実が証明しているようにわたしには思える。犯罪者のシンボルにされて、ベチャもいい迷惑だったことだろう。
ベチャは東南アジア各地に兄弟を持っていたが、それぞれ異なる構造をしていたようだ。シンガポールのトライショーはサイドカー方式だが、タイでサムロと呼ばれたものは客席が運転者の後ろに取り付けられていた。マレーシアやスマトラでも構造はタイのものと同じ方式だったが、ジャワ島のベチャだけは乗客が運転者の前に座る構造になっていた。スマトラの連中がジャカルタへ来るとベチャに乗るのを嫌がったが、その理由が「衝突したら客のほうが死ぬから。」という半分冗談のようなもので、わたしはどこまで本気に取ればよいか判らず返す言葉もなかった。すると『口の楊枝がひゅーと鳴る』の木枯らし紋次郎で一世を風靡した中村敦夫が著した現代小説『ジャカルタの目』の中で、三矢貿易の中野所長の妾宅近くでの暗殺シーンにそのベチャの構造が巧みに使われているのを読み、深く納得してしまった記憶がある。そのように安全性に不安があり、しかも雨が降ると乗客が濡れやすいといった欠点のある構造を持つベチャがどうしてジャワに定着してしまったのだろうか?
天気の良い日にジャワのベチャに乗ってみればよく分かるが、視界を遮るなにものもない、眼前に百パーセント開かれた眺望と、そして全身に風を受けて走る爽快感は、やはりあの構造でなければ得られないものだ。その恩恵をもたらしてくれたのが大日本帝国軍人だったと言えば、ふと指先が眉毛に走った読者もいらっしゃるにちがいない。
一説によれば、ジャワ島に日本軍政が敷かれたとき、ベチャに乗った軍政監部のお偉方の繊細な鼻を、客席の前でベチャを漕ぐ地元ベチャ引きの汗にまみれた体臭が情け容赦もなく襲ったために、へきえきした閣下が「客席を前に付けさせろ。」と一喝して現在の構造になったという話がある。ことの真偽は問い質されても不分明なのだが・・・・
1952年から4年間、ジョグジャのガジャマダ大学に英語科初代客員教授として赴任したハロルド・フォスター氏はバリとジョグジャを比較して、ジャワの村落は雑然としているがバリの村はコンパクトで小奇麗だとほめ、ジャワではひとのいるところでベチャのいない場所はないというのにどうしてバリにはベチャがいないのか、とバリのひとびとに尋ねたところ、「あんな非人間的なものはバリでは受け入れられないのだ。」という回答を得たと記している。わたしもそれとまったく同じことを西スマトラ州ブキッティンギで体験している。アチェやメダンにもベチャはあるから、地域でくくることも宗教でくくることもむつかしい。ベチャの存在を容認した地方と受け入れなかった地方の違いはいったい何に由来しているのだろうか?
ジャカルタの年寄りに聞くと、ベチャが出現したのは1941年ごろだそうで、それは日本軍の侵攻がはじまる直前のオランダ植民地政庁時代だ。
ベチャのベースである自転車ははるか昔から存在していた。ペダルとチェーンを使って駆動させる現在の自転車の構造は1885年のスターリーによる改良に端を発する。バタビアにそのような自転車がはじめて上陸したのは1890年で、ガンビル地区に販売店を開いたオランダ人フリュイテルは空地を用意して自転車レースのために開放したので、金と暇をもてあましていたヨーロッパ人や中国人に爆発的に売れたそうだ。こうして自転車普及は拡大の一途をたどり、1937年のバタビア市統計では自転車登録台数は7万台を数え、市民8人に1台という普及率を記録した。それまで牛や馬に荷車や客車を引かせていたひとたちの中に、飼育の世話のまったく不要な自転車をその動力源に変えてみてはどうだろうかと考えるひとが現われたとしても不思議はない。世の中のあちこちで自然発生的に出現した自転車のそのような使い方に着目した才能あるひとが新しい商業運送機関として世に送り出したのがこのベチャなのではあるまいか。民間でベチャの商業生産がはじまり、一般道路での商業運送が行われるようになると、車両はバタビア市庁に登録されベチャ引きは営業するための免許証の交付を受けなければならなかった。タクシーに対する現代の行政管理システムと同じようなものだ。
バタビア市民にとって当時の公共交通機関はトレム(路面電車)とオプレッ(小型乗り合いバス)が決まった路線を定期運行するものとして存在してはいたが、その路線からはずれた地区を移動するのはたいへんなことであり、高価なタクシーなどはまず庶民が気楽に使えるようなものではなく、あるものと言えばサドやドカルと呼ばれる馬車くらいだった。しかし馬の数にもかぎりがあり、ひとびとはただひたすら歩いていたようだ。そんな環境のせいで、一般庶民の行動範囲は思った以上に狭かったらしい。
とはいえ、ベチャにしてもしょせんは近距離交通機関だ。そのベチャの需要がうなぎ登りに高まったことは、ひとびとの生活パターンに大きな変化をもたらす革命だったにちがいない。野菜や魚や鶏肉など重い買物荷物をさげてパサルから出てきたひとびとが、道端で客待ちしている多くのベチャを横目に暑い陽射しの中を数十分かけて家まで歩いて帰ろうなどとはまず思わない。ましてや、か弱い奥さんお嬢さんがたにおいては言うまでもないことだろう。たとえそれが女中であっても、ベチャがあるのに炎天下を歩かせるのは残酷だ。虐待は人間としてあるまじき行為ではないか。ベチャ代だって決して払ってやれないような金額ではない。女中も家族の一員なのだから・・・・・。ベチャの増加とともにひとびとはますます歩かなくなり、体力や精神力を鍛える機会をみずから閉ざして行ったように思えてならない。
もうひとつ考えられるライフスタイル上の変化は、暑いさなかの時間帯にも外出がしやすくなったことだろう。深窓の奥様やご令嬢の活動性が高まったのではないかと想像されるが、それが何をもたらしたのかということについては更に深い考察を待ちたいと思う。
ともかく、ベチャの急激な増加でバタビア市内の交通事情はかなり悪化したらしい。そのために行政当局はベチャ乗り入れ禁止区域を設けて規制をかけたようだが、夜遅くなって定期ルートを走る公共交通機関の最終便が運行を終えると、これからはわれらが天下とばかり始発時間まで市内全域をベチャがわがもの顔で走り回っていたという。
さてバン・アリは1967年にベチャを首都交通行政における公共交通機関の地位から外して、首都からの追放を宣言した。しかし数十万人の口を養っているベチャがそんな一言でなくなるはずもない。こうしてバン・アリの遠大な戦略の幕は切って落とされたのだった。まず都内をいくつかの地域に分割するベチャ営業許可地区制度をスタートさせた。その許可地区ごとに現在営業しているベチャの再登録をさせ、特定の色を塗らせて越境営業ができないようにした。そして都内におけるベチャの新規製造の禁止と都外からの移入禁止を布告して封じ込めにかかったのである。更に都内に設定した個別のベチャ営業許可地区の間にベチャ乗り入れ禁止区域を設け、定期的にその禁止区域を広げて許可地区を狭くしていくという政策が導入された。そのベチャ乗り入れ禁止区域はdaerah bebas becakと呼ばれた。
1970年代に入ってベチャ禁止区域は拡大の一途をたどり、ベチャ引きは官憲の目のかたきにされた。乗り入れ禁止区域に入って客待ちしていた5〜6人のベチャ引きが警官につかまり、「ぴょんぴょん跳びはね百回!」などといった、今なら人権侵害で新聞の槍玉にあげられそうなお仕置きを受けている姿を多くのひとが目にしているはずだ。1988年には都内のベチャを違法とする条例が定められ、1992年を期して完全施行されることになった。都庁側はその間もさまざまな政策を実施し、いろいろな職種替えの便宜も提供してアメとムチの両面作戦を繰り広げたものの、生来保守的な民衆にはたいした効果があがらなかったようだ。
こうして違法とされてしまったにもかかわらず、そんな一片の法令などどこ吹く風と、行くところに行けばベチャ引きたちの日々のなりわいを求める姿が相変わらずそこにあった。がどっこい、そうは問屋がおろさなかったのである。当局は全都ベチャ狩り大作戦を開始して違法のベチャを没収し、荷台にベチャを山と積んだ大型トラックが都内を往来する光景を目にする日が続くようになる。そんなトラックが毎日何台も走るのだから、運び去られたベチャの数もかなりのものだったにちがいない。「あのトラックはどこへ行くのだろう?」というわたしの質問に「あれは海に捨てるんだよ。」と友人が答えてくれたが、その後調べたところでは、なんと三十万台のベチャがジャカルタ湾の藻屑と消えていたそうだ。
実に二十五年以上の歳月をかけてジャカルタはやっとベチャのない街に変身し、行政当局は「ベチャに替わる庶民の足を・・・」とインドからバジャイなどを持ち込んで努力を示しているものの、庶民の選択はむしろオートバイタクシーのオジェッに白羽の矢を立てたようだ。
べチャがなくなって以来オジェッで稼ぐおじさんや若い衆の数はうなぎのぼり。オジェッに使われるオートバイも、西部・中部ジャワあたりでこの商売に投資しようというひとが増え、地元で購入したオートバイをジャカルタに送り込んで賃貸しし、商売に使うケースが多発したため、Bナンバーでないオジェッバイクもよく目に付く。
ところがこのオジェッ、需要が高い割には利用者の評判がいまひとつだ。ただでさえ荒っぽいジャカルタの路上を二人乗りバイクが走るだけでも危険は高い。事故もそれなりに多く、場合によっては転倒して頭を打ち、一命にかかわることもある。そして多くのお嬢さんがたが表明する不満は「おじさんや若い衆の汗臭い体臭に鼻をひん曲げながらその身体に抱きつく、とまではいかなくとも安全のためにしっかりつかまっていなければならない。」というもので、素敵な彼氏なら抱きつくのにやぶさかではないのだろうが、シネトロンスターなみの美男子ならtukang ojekなどしないで他の稼ぎをしているだろうから期待するほうが無理というものかも知れない。それでも中にはロマンスが芽生えたという噂も耳にするから、若い衆にとっては夢と実益を兼ねた楽しい商売なのではないだろうか。
ベチャが姿を消して5年も過ぎたジャカルタにまたベチャが戻ってきたのはクリスモンのせいだ。1997年後半急激に悪化した通貨危機で多くの企業が操業を縮小したために従業員解雇の嵐が吹き荒れて失業者が激増した。職を失ったり食い詰めた連中の中にジャカルタでベチャ引きをというアイデアの閃いた者たちがおり、かれらがベチャを持ち込んできた。中には中部ジャワから数日をかけ、ベチャを漕いでジャカルタまで来た者がいるというから、その根性には脱帽する。
都内の違法ベチャ引きたちも今では5千人に膨れ上がり、ひとつの勢力と呼べるほどの集団になったと思ったのだろう、1999年11月9日に都庁目指してデモをかけ、「ベチャを違法とした都条例は非人道的であるので撤廃せよ」と迫ったのである。バリ人やミナンカバウのひとびとはその要求をいったいどのように感じたことだろう?スティヨソ都知事は「それを決めるのは都議会である。」としながらも、「都内にベチャを復活させるのが妥当な措置だとは思えない。」とコメントして議会に下駄を預け、都議会もベチャを非合法とした都条例の廃止はしないとの議決に至ったためベチャ引き勢力の敗北となった。都庁は、都民のベチャ引きに対しては1台あたり2〜3十万ルピアで買い上げるが都民でない者は都外に追い払うだけだと表明しており、へたをすると全都ベチャ狩り大作戦が繰り返されることになるかもしれない。都庁が決めたベチャ買い上げ価格はベチャ販売価格の半額だそうだ。
と延々とベチャの話が続き、「筆者は表題のテーマを忘れてしまったのではないか?」と首をかしげている読者がいらっしゃるようなので、表題に近付くことにしよう。
70年代前半、ベチャ禁止区域が増やされてベチャ引きに対する取締りが厳しく行われていたころ、ジャカルタへ来て日の浅いわたしは「あれも珍しい」「これも珍しい」と好奇心の塊と化して毎日を送っていたが、ある日「50ルピアだ」「25ルピアだ」と交渉して乗ったベチャがとある通りを横切るかと思ったら、「ここまでしか行けない。」とベチャ引きに言われて下ろされてしまった。若気のいたりでムカッとしたわたしが「なんでだ?」と詰問すると「ここから先はbebas becakになっているから行けない。」という返事。事情の呑み込めていないわたしは「bebasなら自由に動けるはずじゃないか。騙してずるいことをしようとしても駄目だぞ。」と駄々をこねたものの、ベチャ引きはわたしをアホな日本人の若僧と見たのだろう、わたしの威嚇は黙殺されてしまった。その体験談をインドネシア人の友人にしたところ、「そのアバン・ベチャの言ったことは本当だ。」と裏書されてしまい、「daerah bebas becakなんだからベチャは入れないんだよ。」とさも当たり前のような言い方をしたのでわたしの語学力に対する自信は大きく揺らいでしまった。
やはりbebasのからむ誤解にbebas rokokとbebas merokokがある。ホテルなどで煙草を吸っていると「Maaf Tuan. Anda tidak boleh merokok di sini karena ruangan ini bebas rokok. Kalau mau merokok, silakan di sana. Di sana bebas merokok.」と言われ、わけが分からなくなって目を白黒させることになりかねない。bebas rokokが煙草を吸ってはならず、bebas merokokがその反対に煙草を吸ってよいという意味になるその違いはいったい何に由来しているのだろうか?
bebasを辞書で調べると、当然「自由な」という定義がまず最初に出てくる。次いで「のがれる、しばられない」という定義が現われる。自由なのだからしばられたり束縛されていないわけで、そのことを別の視点からみれば「ある状態からのがれている/免れている」という意味にたどりつく。だからそれらは同じひとつの概念の異なる断面だととらえて間違いにはならないだろう。つまりbebasにさまざまな意味があるのでなく、その言葉が示す概念は単一なものと見るべきではあるまいか。
ところが日本語の「自由」はあまりにも肯定的・能動的ニュアンスを強く持たされたがために、その裏概念である「免れている」という意味を表すときに「自由」という語がたいへん使われにくくなっているようだ。そのためにインドネシアでは同じ単語が使われるのに、日本語では異なる言葉を使わねばならず、おまけにその用法は正反対の意味を含んでいることから、日本語の語法に慣れているわたしたちを混乱させているのではないかというように思えるのである。英語を母国語とするひとびとはわたしたちが直面しているほどの混乱や戸惑いを感じていないのではないだろうか。
ならば、インドネシア人が言うbebasが、日本人が通常の意識の中で別概念と見なしている「自由に〜」と「〜から免れている」のどちらに該当しているのかを見分けるにはどうすればよいのだろう?さまざまな実例にあたって調べていく中でその謎を解く鍵が見つかった。まず「〜をするのに自由だ、自由に〜することができる」という意味を持つbebas untuk +動詞という形式があり、untukが省略された形でよくわたしたちの前に姿を見せる。bebas merokokがその好例だが、bebas pulangやacara bebas nyanyiなどと使うのも自由だ。
一方、「〜から免れている」という場合はbebas dari +名詞という形式が使われる。これもやはりdariが省略されて世の中に散見されている。その結果bebas rokokやbebas becakなどの姿でわたしたちを悩ませていたのだ。この仲間には免税のbebas pajak、公務官制手数料を納めなくてもよいbebas bea、自動車専用でゴーストップのない道路jalan bebas hambatan、汚染のないbebas polusi、メンテナンスの不要なbebas pemeliharaanなどがある。
bebas parkirも駐車料金を払わなくてよいという意味だ。これは一見parkirが動詞のように見えるので、bebas untuk memarkirの意味に誤解される方がいるが、実態を見るとtukang parkirは決して「どこにでも好き勝手に駐車してよい」というふうにはさせてくれず、たいてい駐車位置を指定して誘導している。
そのありさまをさらに言行不一致のインドネシアだから余計なサービスをしているのだという風に考えてしまうひとにとっては、もうbebasという言葉の意味は理解不能にならざるをえないだろう。しかしbebas parkirというのはあくまでもbebas dari uang parkirの意味であり、駐車代を払わなくとも愛想よく世話してくれるので、わたしは重宝している。
ところで、それらの用法とは異なってbebasが修飾関係の後ろに置かれて前の語を説明しているものがある。たとえばperdaganan bebas, seks bebas, gaya bebas, terjung bebasなどだが、それらはfree trade, free sex, free style, free fallなどのようにたいてい英語から翻訳されたものと考えて間違いないようだ。
bebas berdagang, bebas pedagang, perdagangan bebasと並べて今や読者のみなさんはすぐにその違いを説明できるようになったのではありませんか?えっ?ちょっとまだ自信がないですって?
日本人にとってbebasはことほどさように扱いにくいもの。カラオケ屋の尾根遺産に夜な夜な「フリーセックスを愉しもうよ。」と肉迫に努めているおじさんがた、間違ってもbebas seksなどと言っては誤解のもと。「なんだこのおじさん、プラトニックラブを求めているのか。あたし、もうcinta monyetは卒業しているのよ!!」と相手にされなくなるかもしれませんぞ。


「MALU」(2012年11月1〜6日)
形容詞に接頭辞「ke-」と接尾辞「-an」をつけると抽象名詞ができることは皆さんご承知の通りだ。tinggi「高い」がketinggian「高さ」となり、あるいはcepat「速い」がkecepatan「速さ」となる。pandai「上手な」をkepandaianとしてやると、「技術」や「腕前」という意味なる。
この[ke-形容詞-an]は語根の形容詞が過度な状態にあるという「過度の形容詞」の働きもするが、それは口語的な用法だ。たとえば:
Kapal kita berlayar dengan kecepatan yang tinggi.
「われわれの船は速いスピードで航行した。」
Kamu jalannya kecepatan. Aku capai ikuti kamu.
「あんたの歩くの速すぎる。あたし、あんたについて行くの、疲れちゃう。」
というような違いだが、これ以上はここで触れない。
「恥ずかしい」という形容詞はご存知のようにmaluだが、では「恥」という抽象名詞を作りなさいと言うとたいていの生徒はkemaluanと答える。だがインドネシアのひとびとを前にして「こんなミスを犯したことはわが社のkemaluanだ。」などと決して言わないほうがよい。そんなシチュエーションでは、「こんなミスを犯したことでわれわれはmaluだ。」と言っておくべきなのだ。これはわたしが実際に体験したできごとであり、ローカルスタッフを前に恥という言葉を強調しようとしてkemaluanという表現を使ったわたしのスピーチをローカルマネージャーはmaluという言葉に置き換え、表現を変えて締め括りをしてくれた。
なぜかと言えば、kemaluanは性器を意味する言葉だからなのである。日本語もまったく良く似た「恥部」という言葉があり、もともと性器そのものを指して作られた言葉ではなかったはずなのだが、世間一般がそちらの方向に意味合いをシフトさせてしまったために、むしろ性器が第一義的な意味を持つようになった。これは往時の日本人とインドネシア人のメンタリティがたいへん似通っていたことを想像させるサンプルのひとつではないかとわたしは思う。
KBBIをひもとけばkemaluanは、(1)恥ずかしい思いを蒙る、(2)恥ずかしさを感じされるものごと、恥ずかしいこと、(3)性器、という語義が記されており、「ke-形容詞-an」の用法のひとつである「蒙って〜の状態になる」の意の動詞がトップにあがっていて性器は添え物のような位置に置かれているが、インドネシア人の日常生活では(3)がもっとも一般的な使われかたではないかとわたしには思われるのである。たいていのインドネシア人は、kemaluanという語を耳にすると「恥」という概念を意識する間もあらばこそ、たちまちのうちにみだらで背教的なイメージが意識を覆いつくしてしまい、ご婦人方などは赤面のあまり顔をそむけてしまうようになるにちがいない。
「どうりでインドネシア人は『恥ずかしい』という感情をたっぷりと持ってはいても、『恥』の観念が豊かにあるようには見えない。」とお思いのかたがいらっしゃるかもしれない。たしかに一神教の罪の観念を優先させてしまったひとびとにとって、高度に体系付けられた恥倫理の世界を同時に持つのは容易なことではあるまい。
日本語の『恥』は抽象名詞であり、『恥ずかしい』という個人の感情を公的なものに高揚させて、その文化の中で機能している倫理により深い陰影を与えるものとなった。つまり『恥ずかしい』という私的な感情を社会的なレベルにまで客体化したものがそれだろうとわたしは考えるのである。その意味で『恥』という観念は個人的な『恥ずかしい』という感情を超えた社会的な善悪・尊卑に関わる秩序維持の決まりごとを支える働きを持ち、公という高みに対面して私が持つべき倫理上の価値観や姿勢というものとなって世の中に具現されるのである。
上で触れたKBBIの語義にはそういう意味合いでの『恥』という言葉が持つ奥行きや広がりがあまり感じらない。kemaluanの(1)の定義は「自分が他人に恥をかかせられる」というニュアンスを強く感じるし、(2)もその延長線上での名詞形にすぎないのではないか、という見方をついついわたしは採りそうになるのだが、これは果たして偏見だろうか?
もちろんインドネシア文化の中にも、わたしが上で述べた『恥』と同じような観念は存在している。西洋文明が構築した公私の明確な弁別と秩序立てからほど遠いレベルにあるインドネシア文化の中に、上で述べたような公私の対立の中における『恥』という位置づけを期待するには無理があることもたしかだが、太古から続けられてきた共同体秩序ということがらの中にある『恥』観念は奥行きと広がりは別にしても、どのような文明度レベルの社会にも存在していることはまちがいないのだから。
ただ、『恥』という日本語がkemaluanというインドネシア語と不整合を起こすとき、『恥』を表すインドネシア語がいったい何になるのか、わたしはまだそれを発見できないでいる。
恥に近い意味でアラブ語源のaibという言葉が使われている。これはひとに恥ずかしい思いをさせる何らかの欠点や汚点を意味する言葉で、文法的にも『恥』と同じ名詞だから、この語はひとつの候補になる。逆に言うと、恥に対応するインドネシア語がaibという外来語しかないというのであれば、ムラユのメンタリティの中に上でわたしが述べた『恥』に該当する社会的精神は存在していなかった、という結論が可能になるわけだ。客観的状況を見る限りその仮定は完璧な的外れでもない、と賛同してくださるひとが多少はいらっしゃるようにも思えるのだが。
他にも辞書をひくとhinaなどという言葉が現われるが、これは「卑しい・卑賤な」という意味を表す言葉であり、そんな状態を世間並みでないと恥ずかしがる感情に焦点を当てたもののように思えるから、社会秩序における倫理的観点に関わるものとは少々異質なものだと言えるだろう。
自問自答を赦していただけるなら、わたしは形容詞「malu」が日本語の名詞形『恥』に該当しているのではないかと思っている。品詞上の不一致を問題にするひとは即座に否定するに違いないが、インドネシア語では形容詞が抽象名詞のように扱われる例は少なくない。KBBIが「ke+malu+an」をあのように定義付けているかぎり、われわれは『恥』と「kemaluan」を結びつけるのに及び腰にならざるをえないわけで、結局は形容詞の抽象名詞用法に逃げ込むしか道がなかったと言えるのかもしれない。だから「これは恥だ。」をインドネシア語にするのであれば、「Ini malu (besar) ya!」と言っておけばよいことになる。
この考察は、世界中の言語はそれぞれが(語義と品詞で)互いに対応する単語を持っていると思い込みがちなわれわれに、それが誤った先入観でしかないことを教えてくれるはずだ。しょせん言語はそれを生み育てた文化がその文化の落とし子たちに思考と意思疎通のための最適なツールを与えるために構築されてきたものであり、異文化間ではそれぞれの最適ツールが品変わって当然であることをわれわれは冷徹に見通していなければならないだろう。
ところで当の性器について、インドネシアで男性器がburungと呼ばれていることはご存知の通りだ。つくづく眺めてみると、なるほど、うずくまった鳥の姿に似ていると言えないでもない。スラング英語でbirdと言えば若い女を意味するらしいが、どうもこれは正反対なとらえかたではあるまいか。「いやインドネシア語にも鳩を意味するburung daraという言葉があり、daraは若い娘を意味しているぞ。」とおっしゃる声が聞こえてきそうだが、サンスクリット語源のこのdaraは確かに女を意味しており、同時に鳩をも指している。ところがこの言葉は若い女、さらに処女へと意味がシフトしたらしく、処女膜のことはselaput daraと呼ばれている。
男性器の幼児語はtititで、好事家がときおり使っているkontolは本来ペニスを指すジャカルタ語だ。では男のburungに対抗して女はなんと呼ばれているのだろうか?インドネシアの友人に尋ねたところ、「女はkueなんだよ。」と教えてくれた。なるほど、やはり食べてしまいたいほど可愛い存在なのだろう。kue apamと言えばインドネシア人ならだれでも解るのだそうだ。日本人の言うなんやら饅頭にしろ、インドネシア人の言うクエにしろ、発想に共通性は感じられるものの、どうも「ビーナスの丘」が感じさせてくれるロマンチシズムからはほど遠いように思えるが、わたしは西洋かぶれなのだろうか・・・・?


「インドネシア語の九割は外来語」(2012年11月23日)
アリフ・ダニヤ・ムンシという人の書いたそんなタイトルの書物がある。かれは国民の中にある偏狭なナショナリズム、言い換えれば地元主義思想に冷水を浴びせようと意図したようだ。「あんたがたはまるで太古の大昔からひとつの民族としてこの地に営々と住み続けてきたように感じており、父祖伝来の土地を異民族の侵略から守るために世界で優れたインドネシア民族の団結と抵抗を盛り立てなければならないと考えているようだが、あんたがたの先祖自身がどこから移り住んできたのかわかりゃしないじゃないか。その証拠はこれこの通り、インドネシア人が話しているインドネシア語はガドガド言語であり、世界中の言葉が混じりあったものを使っているんだよ。」
確かにインドネシアは太古から交易の十字路であり、時代が遡ればさかのぼるほど、交易は人間が品物を持って旅をした。人間は生まれ育った社会の文化に染め上げられる。あちらこちらでさまざまな色に染まった大勢の人間がこの交易の十字路にやってきて、滞在し、また通過して行った。そのためにさまざまな文化がその十字路に溶け込んだのも当然だ。
インドネシア語というのは元々スマトラ島東南部のムラユ人社会で使われていたムラユ語がインドネシア共和国という複合種族国家統治の必要上インドネシア語という国語の位置に据えられ、政治的な意図がたっぷり盛り込まれて育ってきたものだ。だからアリフ氏はインドネシア語の9割を占める外来語の中にジャワ語やスンダ語、ミナハサ語やミナンカバウ語などの地方語も含めている。そうなってくると、9割は大げさだとしても、四分の三くらいはあるだろうなという気になってくるのも自然の勢いだろう。
ただし順序としては、ムラユ語をベースにしたこの国語が各地方の言葉の中から多少とも共通性を持つ単語をいろいろ吸い上げて行ったということのようで、地方によってはポルトガル語がたくさん入っていたところ、中国語がたくさん入っていたところ、オランダ語が・・・、などという要素が横一線に並べられて吸い上げられたのではないかとわたしは思う。アリフ氏は例によっての博識を披露し、インドネシア語のこの単語はこういう風にして出来上がったのだという面白い話をその書の中で披露してくれている。この書にあがっている外来語の由来している国は、ポルトガル、サンスクリット、オランダ、ペルシャ、アラブ、中国、ラテン、トルコ、ギリシャ、ルーマニア、スペイン、イタリア、フランス、ドイツ、タミール、エジプト、日本、チャンパ、スンダ、ジャワ、ミナンカバウ、バリ、ブタウィ、アンボン、等々、40近い章立てで続々と登場する。これを読めば、インドネシア語に関するあなたの雑学力も数ランクアップすること疑いなし。


「民族固有の基本概念はサンスクリット語」(2012年11月26日)
アリフ・ダニヤ・ムンシ著「インドネシア語の九割は外来語」という書物の中のサンスクリット語の章には、いかに大量のサンスクリット語がインドネシア語の中に取り込まれているかが述べられている。堀の魚をざるですくったら、23匹いたとか33匹いたとか、その全部がサンスクリット語魚だったということも起こる、とアリフ氏は言う。次の文章の23語、あるいは33語がそれだと言うのである。その文章を写させてもらうと、こうだ。
Isteri Menteri Perniagaan merasa sukacita menyaksikan anggota biduan desa, secara bersahaja tetapi bersuara merdu bagai bidadari sorgaloka, mengiramakan gita puji-pujian bagi kemuliaan Pertiwi. これが23匹のサンスクリット語魚。次にすくったのはこの33匹だった。
Ciri utama wanita berpekerti bisa beraneka ragam, di antaranya berbicara sederhana, suka membaca sastera, setia menderma, sementara citra nyata pria dewasa sebagai kepala keluarga, pertama bijaksana, kedua perkasa, berjiwa satria, serta bersedia membela negara.
サンスクリット語はインドからヒンドゥ教と仏教の伝来に伴ってインドネシアに渡来した。それがもっとも深く根をおろしたのはジャワとバリで、カウィ語(bahasa Kawi)という形で定着した。そして何百年という時の流れを経て、カウィ語は発展し変化した。
たとえばastraという語。ジャワ語では弓矢の矢を意味しているが、バリでは私生児という意味に使われる。bajraはジャワで稲妻のことだが、バリでは鈴。
kataというインドネシア語はkathaに由来しており、ceritaやriwayatに該当しているが、またujar-ujaranの意味にも使われる。さらにdongengにも当てはまる。ところがKBBIを見てみろ、とかれは続ける。KBBIのkataの項は名詞しか記されていないが、動詞としても使われているというのに、どうしたことだ・・・?(いや、それは筆者の駄洒落だが・・)
アルベール・カミュの小説「客」のインドネシア語訳の一文"Biar aku pergi bersamamu," kata Daru.は原文が"Je vais t'accompagner," dit Daru.で、そのkataは動詞なのだどアリフ氏は主張している。
アーリヤ化という往時盛んになったレイシズムの是非はさておき、aryaという語は優れたという意味のサンスクリット語であり、ジャワ封建社会に採り入れられてAryo, Ariyo, Haryoなどという形で王族が好んで使うものになっている。しかしインドネシア人の日常生活にもっと密着した本質的な概念がすべてサンスクリット語に由来しているのを、インドネシア人はみんな自民族固有のものだと思っているようだ、とかれは皮肉っぽく指摘するのである。
1928年10月28日の一大スローガンにあげられたnusa, bangsa, bahasa、そして1945年8月17日のmerdekaが元々どんな発音だったのかをこの綴りから想像してごらん、とかれは言う。nuswa, vamca, bhasaそしてmaharddhikaが本来の音を示しているそうだ。


「フローレスは花園それともジャングル?」(2012年11月29日)
アリフ・ダニヤ・ムンシ著「インドネシア語の九割は外来語」という書物の中のポルトガル語の章にも、ポルトガル語に由来するインドネシア語が多数紹介されている。第一の立役者はフランシスコ・ザビエルで、スペイン人のかれはポルトガル王の依頼でアジアへの布教の先鞭をつけたのだが、インドネシア地域ではムラユ語をリングワフランカに採り上げて地元民に対する布教と文化移植をはかった。かれはイエス・キリストと聖母マリアを崇める祈りの文句や聖歌をマラッカでムラユ語に翻訳させると、それを持って香料諸島マルクに向かい、アンボン人の中で祈りの文句を暗唱し聖歌のいくつかを歌うことのできた者にすぐに洗礼を与えてキリスト教徒にしたとアリフ氏は言う。インドネシアでフランシスコ・ザビエルはオランダ人が呼ぶ名称のFranciscus Xaveriusと綴られるので、日本人が「フランシスコ・ザビエル」といくら連呼しても意思疎通ができないからご注意を。
文化移植というような直接的な方式によらなくとも、異国から来た支配者たちの日常行動は知らず知らずのうちに地元民に吸収されていく。インドネシアのひとびとがこれまで見たこともない大砲を持ち込んできたポルトガルの軍隊は、発砲するときに十字を切って聖母マリアの名を唱えた。地元民はそれがその火を吹く大筒の名前だと思った。mariamあるいはmeriamは大砲のインドネシア語だ。
一週間の最初の日はアラブ語源のahadが使われていたが、ポルトガル人の支配下に入った地方ではdomingoに倣ってmingguという言葉に代わった。domingoにigrejaに集まって礼拝と説教を行うポルトガル人にならった地元民はhari mingguにgerejaへ行くのだと言った。
ポルトガル人は自分たちの居住区の外をcampoと呼んだが、その外に掘立小屋を作って住んでいた地元民は自分たちの居住区がそう呼ばれたと思い、自分たちの居住区のことをkampungと呼びはじめた。カンプンの住民たちに通達を与えるに際して支配者は立て札を設け、内容を書いて貼り出した。ポルトガル人がそれをcartazと呼んだことから、kertasというインドネシア語が出来上がったそうだ。他にもberanda, meja, cerutu, Natal, peluru, garpu, lemari, boneka, gardu, gelojoh, teledor, kemeja, kereta, lancang, longgar, lelang, lentera, martil, mentega, nyonya, pantalon, pita, rondaなどなど枚挙にいとまがない。
地名に入ってインドネシア語化したポルトガル語も数多い。ジャカルタのコタ地区にあるRoa MalakaのRoaはポルトガル語のruaで、つまりマラカ通りだったわけだ。Malaca, Molucca, Macassarなどもポルトガルの遺産だそうだ。
ポルトガル語のrioは川の意味で、リオデジャネイロなどという地名に使われている。マレー半島に近いスマトラ島のリアウ(Riau)もそのリオに由来しているのだとアリフ氏は語る。しかしもっと広大なフローレス島の名称もポルトガル語から来たものだ。ただし、Floresの語源がfloresce, florescer, florestaのどれだったのかはっきりしないのだ、とかれは言うのである。フローレスという言葉の印象から、花咲き乱れる野生の楽園をポルトガル人がそこに見たと考えるのは自由だが、ひょっとしたらポルトガル人はうっそうたるジャングルをそこに見たのではなかったろうか、とかれは皮肉な言葉でこの章を閉じた。


「JAGORAWI」(2012年12月3〜11日)
あれは1980年代のはじめごろだったと思うが、ハリム(Halim)空港に近いチャワン(Cawang)からボゴールに至る42キロの自動車専用道路が開通し、ボゴールは完全にジャカルタの通勤圏内に入ってしまった。このインドネシア最初の自動車専用有料道路はボゴール終点出口の数キロ手前で枝分かれしてチアウィ(Ciawi)方面に伸び、ジャカルタ都民の高原リゾートであるプンチャッ(Puncak)に向かう山道へと接続している。プンチャッとは頂点・頂上を意味する言葉ではあるが、そこは標高3,019メートルのパンラゴ山の頂上ではなく、バンドンを都とするプリアガン(Priangan)の地に至る街道が越えなければならない海抜およそ1千2百メートルの峠なのである。
猖獗の地ジャカルタを離れ、眼下に茶畑を望みながら涼風に身をなぶらせ、日ごろの憂さを忘れて時を過ごすこの爽快感は貧富貴賎を問わない。おかげで日曜ともなればおとうさんがどこかで調達してきた往々にして赤ナンバープレートのキジャンやキャリーに大家族が詰め込まれ、あるいは可愛いかの女をデートに誘うのに成功したおにいちゃんがかの女を助手席に座らせて、みんなが続々とプンチャッを目指すことになる。せっかくの自動車専用道路なのだがチャワン料金所からチアウィ料金所までほとんど切れ目なく延々と車の列が続き、パンラゴ(Pangrango)山の登り街道では渋滞が続発する。1990年代から既にそうだったのであり、今ではもう何年も前から都内通勤時間の渋滞も顔負けという状況が起こっている。
データによれば、通過車両台数能力は上り下りおのおの毎時2千7〜8百台ということだそうだが、1999年でジャカルタに登録されているすべての車両の一割が朝4時から正午まで平均的にプンチャッを目指したとすると、毎時1万台を超す車両がその山道に殺到することになる。能力の4倍も負荷がかかればパンクするのは目に見えている。かくして、この熱帯の地にも行楽地に向かう大渋滞の車列というあの光景が展開されるのである。
そんなに自動車が通るのなら、ジャカルタ〜ボゴール〜チアウィ自動車専用道の利用車台数はインドネシア最大かと思ったが、1991年のデータではチャワンから東へ向かうチカンペッ自動車道とどっこいどっこいだった。どちらも一日当たり十万台強というのが利用車台数で、収入も一日一億ルピアを超えていた。1991年の一億ルピアだ。2012年の最新情報では、チカンペッ自動車道が一日平均48.3万台、ジャゴラウィは46.6万台で、依然として実力伯仲といったところ。ただし収入はチカンペッが一日11.7億、ジャゴラウィは6.7億でかなり差が開いている。
利用車の多い料金所では瞬く間に現金が溜まっていく。夜8時過ぎごろに料金所から紐でしばった厚さ数十センチはあろうという札束を何個もわしづかみにした制服のお兄さん方が出てくるのに鉢合わせすることがある。なんとなく無防備なその雰囲気に、ふと『強盗がいま出現すると嫌だな。早くこの料金所を通り抜けたいな。』などと心配をして自己嫌悪に陥ってしまうこともある。
インドネシアでは自動車専用有料道路の「自動車専用」という概念を表に出さないで、jalan tol(有料道路)だとかjalan bebas hambatan(ノンストップ道路)などと呼んでいる。まさかそのせいでとは言わないが、この自動車道路を突進してくる自動車の間隙を縫って人間が横断し、季節になれば路肩にドリアン売りやランブタン売りが品物を山積みし、やってきた車が路肩に駐車して買物をしていた。昔のジャゴラウィ自動車道にはそんなのんびりしたシーンがたっぷりあった。
のどかな田園風景の中を突っ切って伸びる一本のハイウエイという絵柄ではあるのだが、いかんせん旧態然たる農村生活の真っ只中をも突っ切ってしまったがために、不適合は避けようもなかったにちがいない。開発前にはあひるや水牛を連れた農夫たちが徘徊していたその一帯を突然分断したハイウエイにどう対処すればよいのかということをかれらが体得するまでには時間を必要としたことだろう。今でこそハイウエイを横断するものとの事故はほとんど姿を消しているものの、こうなるまでには人間をはじめ鶏・あひる・ヤギ・犬などかなりの犠牲が出たのではあるまいか。
ジャカルタに住んで気付いたことのひとつに、隣町に向かう街道にはその行き先の地名が付けられているということがある。最初ジャティヌガラにJl Raya Bekasiがあり、チリリタンにJl Raya Bogorがあって、どうして都内の道路にそんな名がついているのか、といぶかしんだものだ。ジャランラヤブカシはプロガドンを経てジャカルタ東郊の町ブカシに至る街道であり、またジャランラヤボゴールはチリリタンから一路ボゴールの町を目指す街道であることを実感したとき、これはリヨン駅がパリにあるというあのヨーロッパの伝統にならったものにちがいないとひとりで腑に落ちてしまった。この道路名の付け方はジャカルタに限ったものでなく、チアウィの町からスカブミを目指すとJl Raya Sukabumiがはじまるのである。
それはともあれ、このインドネシア最初の自動車専用道の名前が日本人の間でジャゴラビと呼ばれているようだが、そんな発音をしている外国人はほかにいるのだろうか?その道路の名称はJagorawiと綴られる。これは道路の各ターミナルである三つの地名をあわせたものだ。JAkarta〜boGOR〜ciAWIの大文字部分をつなげればJAGORAWIとなる。
日本語の環境下、つまりローマ字を含めた文字とその発音の規則の中に、wiをビと発音する用例があったのだろうか?もしないとすれば、いったいだれがそんな発音をはやらせたのだろう。
インドネシア人は、言うまでもなくそれをインドネシア語でジャゴラウィと発音しているのだから、日本人がどうして原語通りの発音に従わずわざわざ別の音に変えて発音しているのか、実に不可解きわまりないところだ。オランダ語も英語もwiの音はウィであり、しいてあげるならドイツ語でwiはヴィと発音される。明治以降の日本人があらたに採り入れたヨーロッパの単語にあるヴィという音をビに変えた例は枚挙にいとまがないから、そういう流れが起こった可能性がなきにしもあらずだが、ジャカルタでインドネシア語をまったく解さずドイツ人とだけつきあっていた日本人がジャゴラビという言葉を在留日本人の間ではやらせたなどという推論はだれしも眉唾だと思うだろう。Ciawiという地名をちゃんとチアウィと発音しながらその道路名をジャゴラビと言っているひとを見ると、失礼ながら、このひとは分裂気味ではないかとついつい不審のまなざしをなげかけてしまう。
ところが、インドネシアに関連して日本人がwiをビと発音している例が他にもあったのである。われらがデビ夫人がその先例にされたのかもしれない。だから、dewiと書かれるインドネシア語はデビと発音されるのだという生半可な知識を持っている日本人がJagorawiという単語に遭遇し、その言葉に関する日本人向けのパイオニアになってジャゴラビという発音を広めたのだという推論も成立つわけだ。上のドイツ人を巻き込んだ推論よりは、こちらのほうが蓋然性は高いかもしれない。
だがインドネシア語のwiの発音と日本語のビには、直接的な関連はない。サンスクリット語ではwとvが異音の関係にあり、つまりそのふたつの音は同じものとされている。日本語でヴィとビが同じものとされているようなものだ。そしてイギリス人はサンスクリット語のその音にvの文字をあてた。そのためにdeviをはじめとしてveda, siva, vishnu, veisha、はてはスマトラの古代王国までSrivijayaと記されることになった。一方、インドネシアに入ってきたサンスクリット語では、インドネシア人はそれらの音をwとして捉えた。なにしろvの発音を持っていないのだから。そしてポルトガル人を皮切りにヨーロッパ人たちがアルファベット表記をこの地域に持ち込んだとき、インドネシア人は迷わずwの文字で表記するようになった。だからインドネシア語ではdewi, weda, siwa, wisnu, weisya, Sriwijayaと書かれ、発音もウィが使われている。
日本人の間ではJagorawiの発音表記がジャゴラビという原語と異なるもので確立されてしまったように思われるが、そのようなナンセンスはやめてジャゴラウィを使うべきだとわたしは思う。
これは中国人の人名と同じ根を持つ問題だ。外国人に向かってはマオツェトンと言いながら、日本人同士だとモータクトーという使い分けを行うのはエネルギーの無駄だとわたしは考えている。一番困るのは、日本のマスコミがモータクトーと言っているため、われわれはモータクトーという名前でその人物を認識するわけで、外国人と会話するとき原語がマオツェトンであるということを知らなければ、われわれはそのテーマに関する外国人との会話に加わることができない。だから国際的な人間であろうとするひとは原語の発音と日本語での発音の両方を知らなければならないということになり、かけなくてもよいエネルギーの消費を強いられている。現実に国際的な人間であろうとする日本人は圧倒的少数派だから、いまだに日本人の間でだけ通用する名称という構図が営々と続けられてきており、大勢の日本人はいつまでたってもこのグローバル時代における閉鎖社会の枠の中で自己満足に浸っているばかりのようだ。原語でJagorawiがどう発音されているかということを知っている日本人が、インドネシア人にはジャゴラウィと言いながら日本人同士はジャゴラビと使い分けていることが、中国人の人名に関する日本の常識に染め上げられてしまっているということなのである。そもそも、内向きの姿勢で自分の属す社会とその外の社会を区別しようとするあり方はムラビト精神の屋台骨のひとつであり、田舎者と呼んで他人を蔑すむのにいそがしい人間がいざふたをあけてみれば自分も田舎物だったというありさまがそこに現れているとしかわたしには見えない。
ところで、ジャゴラウィにかぎらず、数個の単語の一部を取ってひとつの造語を作るときのインドネシア人の言語感覚には瞠目すべきものがある。日本人が作ればせいぜいJaboci程度であって、ジャゴラウィという言葉はまず作れないだろう。BenhilをBendungan Hilirと解くのはそれほど難しくはないだろうが、Oto Iskandar DinataとOtistaとの関連は、説明を聞かなければなかなか想像のつきにくいものであるにちがいない。Gatot SubrotoはGatsuという呼称が定着したようだが、インドネシア語に存在しないtsuのスペルと音が使われているのは気取ったモダンさを大いに感じさせてくれている。
このような発想の違いは原語システムに基づくものであるため優劣云々を持ち込むのはあたらないにせよ、日本語に子音で終わる音節がないために日本人にとって子音は苦労のタネだ。実際にはいくつかの単語で母音が極端に軽くされ、明確に母音に支えられていない音節が日本人同士の会話の中でも使われているが、たいていの日本人はそれを厳密に意識しておらず、せいぜいある種の話し言葉バリエーションのように感じている程度みたいだ。それについては、無視しておこう。インドネシア語の母体であるムラユ語も日本語に近く、音節のほとんどは母音で終わる安定型だが、多少の例外に加えてこの地域をかつて横切っていったさまざまなひとびとが持ち込んだそれぞれの言語がインドネシア語に取り込まれたことによって、インドネシア語は豊富な陰影を持つようになった。
さらにインドネシア語がアルファベットで表記されるようになったことでインドネシア人の子音に対する感覚は日本人よりはるかに研ぎ澄まされるようになったにちがいない。たとえて言えば、日本語の文字の中で子音で終わるものは「ん」以外に存在しないため、「ん」を除くひらがなとカタカナをどう組み合わせて言葉を作ろうとも、独り立ちした子音など出現のしようもない。
インドネシアのカリカチュアに丁稚小僧のようなキモノを着て出てくる日本人はお辞儀をしながら「Haik!」と叫んでいるが、それを日本語の「はいッ」に即座に結び付けられた方のインドネシア語能力は脱帽ものだ。インドネシア語の言語体系の中にある母音+子音構造の音節の中で、そのあとに母音のつかないt, k, h は子音ととらえるべきでなく、それらは母音の発音停止および有気発音のシンボルと見なすべきものだが、そこに子音の文字が使われていることでさまざまな誤解が生まれているようだ。それらのt, k, h は音としてあらわれてくるものではないため、bakmiを日本式にbakumiと発音したり、あるいは英語式に[k]を子音にして発音するべきではない。この言葉は「バ」「喉を一度閉じる」「ミ」と発音するのが正解なのだが、不器用なわたしたちはへたをして喉を詰まらせ生命にかかわることになってもいけないので、むしろkを無視してバミと発音するほうがインドネシア人には受け入れられやすいだろう。
そのような字面と音の実感、そして子音に対する感覚の違いが、数語を集めて新造語を作るときに日本人があっと驚くような感受性の違いとなって表出してくるように思える。皆さんご存知のJabodetabekはJAkarta〜BOgor〜DEpok〜TAngerang〜BEKasiの各地名の頭を単純に集めただけのものだが、最後のBekasiがBEで終わらずにBEKまで取られているのは、発音停止による切れのよい終結感が好まれたのかもしれない。
さて、そのジャボデタベッのあちらこちらの道路をわがもの顔でさまざまな路線バスが走っているが、その中にKOPAJAとボディに大書したバスがいる。これもKOPerasi Angkutan JAkartaから作られた合成語だ。ところでコペラシと言えば、零細なインドネシアの民衆経済を支えるエースとしてオルバ期までは活発に採り上げられていたが、レフォルマシ期に入って以来、少々日の当たり具合がかげってきているようだ。このコペラシシステムはオランダ植民地政庁期にその種が蒔かれたと聞けば驚く方がいるかもしれない。
蘭印政庁は1915年にコペラシ育成法を制定し、1931年にはコペラシ助成項目が政府予算内に新設され、1933年には全国で1,504組合を数えるようになったそうだ。独立後のインドネシアにもコペラシ制度は連綿と引き継がれ、そのスローガンであるgotong-royongから採られたGoroという語を組み込んだ事業体もたくさん存在する。日本人の耳にどうしてもおかしく響くのはインドネシアコペラシ評議会Dewan Koperasi Indonesiaの略称で、大のおとなが真面目な顔をしてデコピン(Dekopin)、デコピンと口走るのを前にすると、ふきだすわけにも行かず困ってしまう。
新聞を開くとそんな合成語の氾濫だ。インドネシアの新聞を読むのが難しいとおっしゃる皆さんがその困難さの責のひとつをそれら合成語に帰せるのも無理からぬところだろう。何の説明もなく出てくるMennakerという語はインドネシア語辞典をどうひっくり返しても見つからない。それは労働大臣Menteri Tenaga Kerjaの略語なのだが、いまは公式名称がMenteri Tenaga Kerja dan transmigrasiだからMennakertransとされている。
大使館Kedutaan BesarはKedubesと言い、大使Duta BesarはDubesと呼ぶ。その伝でいくなら、最高検察庁Kejaksaan AgungはKejagungだから最高検察庁長官Jaksa AgungはさぞかしJagungと呼ばれるにちがいないと思いきや、さすがに長官殿を「とうもろこし」と呼ばないのは報道界の良識のなせるわざなのか、それとも強権職への畏れのためなのだろうか?
と書いたあたりで夜食にでもしようかとパサルへ向かう。焼きとうもろこしをはじめ、マルタバッやタフゴレンの屋台がペトロマッランプの明るい光でわたしを誘う。その屋台の並びの中に、Batagorと書かれた看板が目にとまる。「ん?これは何?」とガラスの中を覗くとそこにあるのはBakso Tahu Goreng! よし今夜の夜食はバタゴールだ。


「奇想天外、インドネシア人の耳と舌」(2012年12月3日)
アリフ・ダニヤ・ムンシ著「インドネシア語の九割は外来語」という書物の中のオランダ語の章にも、オランダ人の言葉を取り違えたまま今日まで地名や固有名詞として残っているものが紹介されている。
ソロの一角にTambak Segaranという地名がある。ジャワ語でtambakは養魚池、segaranのsegaraは海を意味する。ところがソロの街中に海も養魚池もあったものではない。話によると、昔そこにオランダ人がタバコの店を開いていたということで、tabakとsigarenがソロ人の耳にそう聞こえたということのようだ。
スマランにはPindrikanという地名がある。これもオランダ時代の道路名Prins Hendriklaanが大きく訛って残されたようだ。そこからほど近いところにKreteg Mberokと呼ばれている橋がある。kretegはジャワ語で橋の意味だからそれでいいのだが、Mberokはどうやらオランダ語のbrugが訛ったらしい。brugも橋の意味だから、そこにあるのは間違いなく橋なのである。
バンドンには別の話がある。これもオランダ時代、小麦粉に砂糖をまぜて練ったものを油で揚げたお菓子があった。名前などはない。あるとき、その揚げ菓子を籠に入れて売り歩いている若者から地元の子供が買い食いしているのを見て、オランダ人の子供があれを自分もほしいと言って駄々をこねた。まだ若いお母さんはそのお菓子を売り歩いている若者を呼び、売り物の籠を開いて中を見せるように言った。若者は言われた通りにした。若奥さんはただのメリケン粉をこねて揚げただけの菓子を目にして、「あら、こんなものなの?」と言った。若者はそれがその菓子の名前だと思った。その日の商いを終えて家に帰った若者は母親をはじめ家族のみんなに自慢げに話した。「これの名前はオダディンって言うんだぞ。オランダ人がそう言っただよ。」若奥さんはオランダ語で「O, dat ding?」と言ったのである。バンドンには、今でもオダディンという名の菓子がある。
1825年から5年間、中部ジャワ一帯を戦場にした叛乱が起こり、戦場に出動したオランダ軍の一部隊は本隊と行きはぐれて道に迷ってしまった。食糧の補給が受けられないため、はぐれ部隊は何日も空腹を抱えて奥地をさまよい、そしてついに渓谷を越えたところでバナナ畑に行き当たったのである。感激のあまり部隊長は十字を切って「God dank!」と口走った。それ以来、ジャワ人はバナナのことをgedhangと呼ぶようになったという話。しかしバリ語もスンダ語もgedangはパパイヤを指しているから、それらの地方には別バージョンのストーリーが流布しているかもしれない、とアリフ氏は述べている。


「チンタは紐」(2012年12月6日)
アリフ・ダニヤ・ムンシ著「インドネシア語の九割は外来語」という書物の中のスペイン語の章にも、スペイン語に由来しながらムラユの耳と舌で姿かたちが変えられ、しかも意味までが原語から変わってしまったインドネシア語の珍談奇談が紹介されている。
ローマ法王が地球の東半分と西半分をポルトガルとスペインに分け与えたからと言って、インドネシアにスペインの影響が及ばなかったなどと考えてはいけない、とアリフ氏は言う。スペインはフィリピンを取り、ポルトガルはブラジルを取ったではないかとかれは相互乗入があったことを指摘する。そのせいで、スペイン文化の影響はインドネシア東部地方で強い。特にフィリピンのミンダナオ島と国境線をはさんでつながっているスラウェシ島北部にスペイン文化が流入した。フィリピンのスペイン人はミナハサ地方をフィリピンの一部と認識していたフシがある。
インドネシア語の元をたどればインドネシア西部地方のムラユに行き着くのだが、インドネシアで最初に近代的な教育を与える学校が作られ、アルファベットでムラユ語を読み書きすることが教えられたのは1536年のアンボンで、その数年後にはマナドで同じことが始められた。オランダ人がミナハサの地で学校を開いたとき、地元民が多数のスペイン語の単語を日常使っているのに驚いたという話だ。
Manadoという地名自体はスペイン語のmandadoに由来しているとアリフ氏は言う。わたしは1970年代にジャカルタでマナド人から、「メナド人は日本人の血が混じっていて、メナドの由来は日本語の『みなと』であり、その隣の土地ゴロンタロは『ゴロタロー(五郎太郎?)』に由来しているのだ」という話を聞かされたのだが、あれは日本人向けのバサバシだったのだろうか?
ともあれ、ドン・フェルナンドが1644年に当時ウエナン(Wenang)と呼ばれていたマナドの王の座に着いたことが記録に残されており、スペイン人がその地域を支配していた時期があったわけだ。ミナハサというのはその一帯の地域名称で、マナドはミナハサの中心都市であり、マナドにはさまざまな土地からひとびとが集まってきたことから折衷文化が花開き、マナド語というミナハサ語とは一風違った言語が出来上がったということらしい。
そのマナド語の中に混入したスペイン語由来の言葉は、たとえば馬がkabayo(caballo)、荒い金遣いfoya(folla)−元来の意味はファック、ガキkanino(canino)−元来の意味は犬、おでこtesta(testa)、喉gargantang(garganta)、尊大なkapista(capitalista)−元来の意味は資本家、などがある。
マナド語よりもインドネシア語に入ったスペイン語のほうが読者の皆さんにはおなじみだろう。sepatu(zapato), kaldu(caldo), antero(antero), bendera(bandera), terigu(trigo), armada(armada), firma(firma), rayu(rayo), malu(malo)・・・といった具合だ。しかし、あっと驚くものにcintaがある。一日にいったい何千万人のインドネシア人がこの言葉を発していることだろうか?
スペイン語のcintaはリボンやテープなど紐を意味する言葉だ。インドネシア語ではそれをpitaと言うが、pitaもポルトガル語のfitaに由来している。ではどうして紐がムラユ語古来のkasihの意味に使われるようになったのだろうか?
インドネシア東部地方で昔から行われてきた婚約の儀式で、リボンでふたりをつなぎ合わせるというものがあり、「mengikat tali cinta」とそれを称した。つまり「リボンの紐で結び合わせる」ということだ。そこで使われるリボンは血を表す赤色のもので、儀式では赤いリボンでふたりを結び、祈祷の文句が唱えられた。もしも婚約が破られたとき、リボンの紐が切れたという意味で「orang putus tali cinta」と称した。いずれの場合もtali cintaという表現がtali kasihと置き換えられる余地を十二分に持っていることから、cintaとkasihが同じ概念を意味するように変わってしまったのだ、とダニヤ氏は分析している。
そんなことから、ノナマニスの歌詞に出てくるパントゥンは正しいムラユ語ではなく、本来のムラユ語パントゥンはこうでなければならない、とオランダ人言語学者ファン・オパイゼン教授が批判した。
Dari mana datangnya lintah
dari sawah turun ke kali
Dari mana datangnya cinta
dari mata turun ke hati
というのは本来のムラユ語ではないため、こうあるべきだと教授はお手本を示したのである。
Dari mana punai melayang
dari kayu turun ke padi
Dari mana kasih sayang
dari mata turun ke hati
cintaをkasih sayangに替えたために前半二節の内容がまったく変わってしまったが、これで歌えないものでもない。しかしわたしは愛と鳩のロマンチシズムよりは、愛と蛭の組み合わせのほうが人生の深遠を感じさせておもしろいと思うのだが・・・・