インドネシア「バハサ」情報2013〜16年


「TIWOK〜HENG」(2013年1月4〜11日)
英語がインドネシア語化されたときの変身のすさまじさは度肝を抜くものがある。といっても、日本人の目から見て想像を絶するということに過ぎないのであって、どこかの国の人が日本語化された英語に肝をつぶしているのと、きっと五十歩百歩なのだろう。それは結局のところ、発想や言語システムの違いから来ているものだから、客観的に見れば日本語とインドネシア語の本質的な違いを目の当たりにして驚いているわたしたちの姿がそこにある、ということではあるまいか。
ジャカルタのある有名な大手旅行代理店はその社名をSmailing云々と書くが、これはご愛嬌以外のなにものでもないとわたしは常々思っている。その字面を見ると何となく背中がむづ痒くなってくるのだが、英語のスペルのままでインドネシア読みされてスミリンツールなどと言われるとせっかくのネーミングがご愛嬌も何もなくなってしまう。字面よりも発音のほうにウエイトを置いたその姿勢は、口承を伝統文化として文字よりも上に位置付けているインドネシア人の面目躍如たるものを感じさせてくれる。
ジャカルタから日帰りの距離にある高原リゾートのプンチャッへは、茶畑のど真ん中を縫ってつづら折の道を上って行く。二十数年昔にはジャカルタ住民にプンチャッ方面へのツアー参加者を募集する新聞広告があった。そこには「現地でTIWOKしましょう」いう文章が入っており、最初は首をひねったものだ。グループで茶畑の中をハイキングがてら歩く催しがあるのを知って、やっと腑に落ちることができた。TIWOKとは英語のtea walkの発音をインドネシア式に記載したものだったのである。
英語の発音をそのまま取り込んでインドネシア語化したもので、インドネシア式綴りに変えられているというものはいろいろある。たとえばteamがtimになり、rallyがreliに、beefsteakがbistikに、そしてgangがgengになるというように。
インドネシア人は英語(米語?)の[a]の発音を[エ]だと思っているようだ。アメリカ人の発音の中に頻繁に出てくる[エ]と[ア]を足して二で割ったようなあの[エア]の音は、たとえばangleやbadをアメリカ人がどのように発音しているかを思い出していただければ、皆さんの耳の奥にきっとその響きが聞こえているにちがいない。インドネシア人がそのようにしているのは、多分その[エア]の発音を気にかけすぎた結果、それに近い[エ]で事足れりとしたのではないかとわたしは憶測するのだが、それにしてもアメリカ人だって[a]の発音をすべて[エア]と言っているわけではないのだから、インドネシア人が[a]の発音を軒並み[エ]としていることにわたしは戸惑ってしまう。
たとえばhangという英語をインドネシア人は「へん」と発音し、その発音に従ってインドネシア語化してhengと書くひともいれば、英語のままhangと書くにもかかわらず「へん」と発音しているひともいる。やはり二十年前の体験談だ。あるとき、航空券を買うためにわたしは旅行代理店を訪れた。カウンターの女性はわたしのオーダーに従ってコンピュータ端末を前にカチャカチャとやっていたが、そのうちに端末画面を見つめ、そしてわたしに言った。「コンプテルニャ ヘン」。
わたしは絶句して自分の耳を疑い、日本人を前にしてどうしてこの女性が日本語の「変(へん)」という単語を使ったのだろうかといぶかしんだ。ところがかの女は同僚に向かってもやはり「ヘン」という単語を使っているではないか。空港のチェックインカウンターでも「ヘン」という単語を耳にした。こうしてオンラインコンピュータがハングアップしたことをインドネシアでは「ヘン」と言っていることが明らかになったのである。そう、コンピュータが動かなくなれば、たしかに変なのだ。
街中の道路沿いのあちこちに見られるKetok Magicと記された看板。あれはオカルト板金屋で、へこんだボディをなおしに車を持ち込むと奥の扉の閉まった場所に車を入れさせられ、現場を見てはいけないと言われて丁重に外へ追い出される。翌日引取りに行くと新品同様になっているが、どうもこの修理工房であまりトンテンカンテンやっている雰囲気はない。詳しい人の話では、あれは夜ドゥクンがやおら祈祷をはじめ、ジンを呼び集めて修理させているのだという、まことしやかな話。
ジンというのは例のあのアラジンの魔法のランプの中から出てくる魔人のことで、インドネシアの民間伝承であるタンクバンプラフの話だとかプランバナンの物語に登場するから、インドネシアではおなじみの存在になっている。しかしこのオカルト修理にも難点があって、時間が経つとまた車の同じ場所をぶつけてへこんでしまうらしい。ともあれあの看板をインドネシアのひとびとは明らかに「クトッメジッ」と読んでいる。スペルをmejikとインドネシア語化しないで英語のmagicをそのまま使い、今日まで生き残っているのはオカルト屋のプライドのなせるわざなのだろうか。
hepiというのは見事に変身した姿を示す英単語のひとつと言えるだろう。この単語についてはこのサイト内に「オランインドネシア、ヘピヘピ」などといういくつかの記事があるので、ご参照いただきたい。ともかくインドネシア人はヘピな生活が大好きで(キライなひとがいないのは当たり前だが)、重荷や苦役を感じさせるものごとを嫌悪し忌避してインスタントに明るく愉しく生きようとする傾向が強く、極論するとヘピな人生は基本的人権に関わるものという理解になっているように思われる。その結果として生きることの甘さと苦さに関するバランス感覚がわれわれと大きく異なっていることに留意する必要が、かれらの間に入って日々を送る駐在員の皆さんにはたっぷりあるにちがいない。この単語は既に現代インドネシア口語の語彙として定着しており、商品や屋号にも使われている。
最近テレビでよく見かけるCMの中に『メミポコペン』と節をつけて歌っているものがある。画面を見れば何のことはない、某メーカーが生産している赤ちゃん用紙おむつのCMなのだ。ここまで書けば読者にはもうきっとお分かりのことだろう。日系メーカーが命名したその商品名はMamypoko pantsなのだが、インドネシア人は慣用に従ってそれをMemipoko penと発音するためにわたしの耳には日本語のポコペンという商品名にふさわしくない音節が強く意識の中にもぐりこんできたということだ。
日本でおなじみの商品名がインドネシアで変身するということもよく起こる。殺虫剤のベープ(Vape)はそのままインドネシア式読み方で「ファーペー」と呼ばれているし、洗剤のAttackは昔、CMの中でも「エテッ」と発音されていたが、最近は正しい英語発音に変わっている。
汚職事件裁判で全国の関心を集めているマナド美人で2001年ミスインドネシアのアンジェリナ・ソンダッはAngelinaの愛称であるAngieという名でテレビの中でも呼ばれているのだが、不思議なことにAngelinaをフルで読むときはアンジェリナ、愛称のAngieを読むときにはエンジーと発音されて一貫性がない。
ところでインドネシアのテレビ番組を見ていると、一般視聴者が参加する番組で司会者や進行役が現金をハダカのままクイズの正解回答者やら単にくじ番号の当たった場所にいた人間にばら撒く姿をよく目にする。かれらはスポンサーの用意した現ナマの札束をポケットから取り出し、10万ルピア紙幣を一枚ずつ数えて正解者に渡す。そしてそのシーンをカメラがわざわざなめるようにとらえて全国に放映しているのだ。もともとインドネシア文化にある金銭感覚は、金はイージーカムイージーゴーというものであり日々の生活苦の中で運が回ってくれば棚ボタのように現ナマが自分の手中に転がり込んでくる、という観念が一般的だ。その運が回ってくることをインドネシア人はaji mumpungつまり『棚ボタ大王』のご到来と見なし、その実現をひたすら待ち望むという姿勢が強い。もっと言えば、その精神世界には、黙々と勤労にいそしんで報酬を得、得られた報酬を堅実に蓄財していく、という図柄があまり濃くないわけだ。上で述べたようなテレビ番組の内容は疑いもなく棚ボタ大王への信奉を助長させるものであり、その番組制作のあり方は世の中にいかに棚ボタ大王信奉者が大勢いてそれが強固な社会観念の基盤になっているかということをわれわれに垣間見せてくれるものだとわたしは思う。
1990年代後期の新聞を開くと、この経済危機下に収入の道の狭まったひとびとが一攫千金を夢見て賭博に狂奔していると報じられている。賭博と言ってもギャンブラーが対決してといった緊迫したものではなく宝くじに近いもので、ある番号を選び胴元の発表した当たり番号に応じて配当をもらう、いわゆるトトと呼ばれるものだ。その代表格がずっと昔に行なわれて人気の高かったホワホエで、庶民はなけなしの数千から数万ルピアという金をつつましやかに注ぎ込んでいた。
ホワホエとはたぶん「花会」と書くのだろうとわたしは思うのだが、その歴史はたいそう古く、1931年に発行されたRHマシューズの中国語英語辞典に既に姿を見せているそうだ。この花会を1970年代にジャカルタでタン・チャウクンなる人物が盛んにさせて一世を風靡した。当時まだ三十代だったチャウクンは、アリ・サディキン都知事の認可を受け、西ジャカルタ市ペタッスンビラン地区のガンウチアにあるシンセンという建物に拠を据えた。このシンセンは、それ以前にPIXという名のカジノが開かれていた場所だ。
チャウクンの娘婿のひとりジミーの思い出話によると、一枚の紙に描かれた36種の絵と数字の組み合わせは舅自身の考案になるとのこと。客はそのどれかひとつを選んで賭けるのだ。昔のやり方はたいへん明朗で公明正大だったらしい。毎日チャウクンは窓と扉を閉め切った部屋にひとりだけで入ると紙に当たり番号を書き、ステンレスで三重に作られた箱に納めて南京錠をかけ、鍵は自ら身につけた。この箱は毎朝10時ごろ建物前の鳥かごをつるす柱に鳥の代わりに置かれて高い柱のてっぺんまで引き上げられる。そして夜11時ごろおろされて中の数字が発表され、配当の支払いが行なわれるのだ。このようにして花会は5年間続けられたが、ある日胴元のチャウクンを予期せぬ災難が襲った。いつものように箱が開けられ、中の紙に記された28という当たり数字が発表された。するとどうしたことか、当たり札を持ったひとが次から次へと配当を受け取りに現れたではないか。こうしてチャウクンは破産してしまったという賭博胴元一代始末記。このチャウクンさんは当時の報道によると、まだ元気でかくしゃくと暮らしているということだったが、今もまだお元気なのだろうか?
チャイナタウン方面ではマンガブサールのロカサリあたりに闇カジノがあり、億単位のルピア現金をデポジットすると遊ばせてもらえるそうだ。ピューリタン的であるはずのムスリム社会では賭博も売春も宗教禁忌に触れるというのに、そのいずれもが満開の桜のように咲き誇っているのはいったいどうしたことだろう。それはともあれ、ご法度の賭博が行なわれている場所には警察がいつでも「ご用」と踏み込む態勢にある。自宅でマージャンをしていたら警察に踏み込まれたという武勇談を語る日本人の方もときどきいらっしゃるが、警察は闇カジノにどうして踏み込まないのだろうか?胴元には高級軍人や政府高官職者のbekingがついているために警察は手も足も出せないのだ、と訳知りはだれもが言う。そのbeking、皆さんにもすぐに想像がついたのではないだろうか。何?自信がないですって?そう、英語のbackingで間違いないんですよ。
そんなわけで、ハイパーマーケットやスーパーマーケットにMaggieブイヨンを買いに行って店員に置場所を尋ねても、「ティダアダヤ、トアン」と言われるので、思い切ってメギーと発音するとすぐにそれが置かれている棚に案内してくれるようなことが起こるのである。
子供のころ、仲間と遊んでいて母親にちょっと家に帰ってこいと言われ、今やっているゲームを中断してもらおうというとき、まだ小学生のくせに「タイム」などと言ってかっこうをつけたものだ。これは英語のtimeで、時間稼ぎ・時間待ちなどという意味で使っているが、実はインドネシア人も同じように使っていることを読者の皆さんはご存知だっただろうか?とは言ってもそれが使われているシチュエーションは日本語文化の中でまずお目にかからないものではあるのだが。
客待ちのバスやアンコッが道路車線をふさいで周辺一帯の路上に混雑や渋滞をもたらしているのに遭遇し、公衆道徳を気にもかけない図々しいバスの運転手に怒りを向けたかたもきっといらっしゃるにちがいない。そんなときあなたの運転手は「Bisnya ngetem ......」とつぶやかなかっただろうか?実はそのngetemの語源が英語のtimeだと言えば、それこそ変身のすさまじさに耳を疑って唖然となさることだろう。[nge-]はジャカルタ方言の特徴である鼻音化で、[-tem]はタイム、つまりインドネシア式綴りかたをしたときのtaimの二重母音[ai]が変化して[e]になったものだ。日本人読者には上のような表現方法ですんなりと理解していただけると思うが、文字不在を意にも介さない口承文化のひとびとは上のような綴り文字の変化プロセスなど意識の片隅にもなく、[アイ]という音が[エ]という音に転訛するというプロセスを直接的に行なっているというのが実際の姿なのだ。かれらにとって[アイ]と[エ]は異音の関係にあるにちがいない。
ともあれ、aiからeへの転訛はcapai=cape, pakai=pakeなどで読者の皆さんにもきっともうおなじみのはずだ。世界中のたいていの言語で二重母音の[アイ]が単母音の[エ]に崩される傾向が見られることから、これはある特定言語が持つ特徴というよりももっとユニバーサルな、つまり人間的な特徴ではないかという気がわたしにはする。たまたまムラユ=インドネシア文化ではその傾向がたいへん強いということなのではあるまいか。
だからうろ覚えの聞きかじり日本語でありがとうとインドネシア人が言うときについつい「ありがとごぜます。」と訛ってしまうのも、かれらがジャワ百姓の田吾作どんだからではなくインドネシア語の言語システム内にある音韻法則に従っているに過ぎないのだが・・・・・


「良くない間違ったインドネシア語?!」(2013年2月2日)
テレビのニュースキャスターたちが使っているインドネシア語のクオリティが高くないどころか、明らかに間違った言葉を臆面もなくカメラの前で使い、それが全国の家庭に届けられているし、中には番組制作の中味を手抜きし、前日読んだ原稿をそのまままた読んで時系列が無茶苦茶になっているケースもある、と南ジャカルタ市に住む視聴者ウルデリクス氏が指摘している。
テレビキャスターたちは概してきちんとニュースを伝える努力をしているのだが、時におかしなことが起こっている、とかれは語る。意識が集中しておらず気持ちがどこかをさまよっているようなひと、カメラの前でパニくっているひと、あるいはドラマ仕立てで独演するため報道番組の雰囲気をぶち壊すひとなどさまざま。
バリ爆弾テロのルポルタージュでキャスターが建物の前に立ち、「視聴者のみなさん、この場所でsatu ton kilogramの爆薬がテロ活動のために準備されたのです」と語ったが、いったい何を言いたかったのか?
2012年9月29日にバンドンエアショーの墜落事故で現場に飛んだ女性レポーターが「皆さん、この事故のためにフセイン・サストラヌガラ空港へのアクセス路はすべて閉鎖されています。事故現場もかなりひとが減り、para pengunjung sudah banyak berpulang」と語ったが、エアショー来訪者が大勢お亡くなりになったらディザスターだ。
別のテレビ局の女性レポーターも9月29日の同じ事件の報道をした。「皆さん、パイロットのノルマン・ルビス氏はその飛行機を操縦するのにmemang tidak biasa aerobik」と語ったが、小型機の中でパイロットがエアロビクスをやれば、たしかに曲芸飛行と言えるかもしれない。
9月30日日曜日、男性キャスターがこう述べた。「皆さん、インドネシアモーターショーの今日の来訪者はあまり多くありません。しかし明日の日曜日はショーの最終日であり、例年のようにたくさんの人出であふれかえることが期待されています」。
どうやら、その文章は前日のニュースで一度使われたか、あるいは良心的にとらえて前日書かれたものがその日使われず、翌日校正もされないでそのまま読まれたかのいずれかだろう。制作側の手抜きと迂闊で従順な演者が組めば、そんなことも起こる。
テレビで耳にするインドネシア語が必ずしも『良く正しいインドネシア語』になっていないことは事実のようだ。しかし国民がそれを受入れ、従い、自分も使うようになれば、それが正しいインドネシア語になる。言葉は生きているのである。


「バハサ・ガドガド」(2013年12月24〜26日)
インドネシア人の英語好きをインドネシア人の有識者らが批判している。それは、学校でのインドネシア語の学習すらろくな成績が取れないというのに、日常生活でそんな不完全なインドネシア語に英語の単語を好きなように織り交ぜて使っている者がここ数年激増しており、ひとつのトレンドを形成しつつあるからだ。最近そんな批判の爆発を招いたものにピキ現象と呼ばれるものがあった。ピキというのはVicky Prasetyoという男性の名前で、vickinisasiという流行語まで新たに生まれるほど時代の最先端トピックになった。
しかし、インドネシア国民とインドネシア語の関係というのは他の多くの国と違い、すべてのインドネシア人が生まれながらにして自分の生活環境の中でそれ一色に染められているというものとは多少趣を異にしている。そういう方向への傾斜が進んでいるところがないわけではないのだが、全国を眺め渡して見れば、大勢の国民は日常生活を地元の種族語で行い、公的な場面・他種族が混在する場面・全国的なことがらに関わる場面などでインドネシア語を使うというバイリンガルな暮らしをしている。つまり、生まれながらにして個人の周囲を取巻いている言語は自分の種族の言語であり、インドネシア語はそういう自然な学習プロセスで身に着けるのでなく、まずテレビやラジオを通して接触をはじめ、さらに学校などにおける初等教育で身に着けているひとのほうが多いように思われる。
日本の場合、まず自然な形で身に着けた日本語がかなり固まったところで外国語の学習に入るわけで、そういうパターンとインドネシアのようなパターンの違いがその学習効果に与える影響はかなり顕著なものではないだろうか。
きっとそのひとつが、別言語の単語を会話中のインドネシア語の中に自在に織り込むという現象であるにちがいない。実際に、東南アジアではほとんどの人間がマルチリンガルであり、東南アジア在住華人と英語で話をしていても、時折英語の文章の中に中国語の単語が混じるようなことは再三体験しているから、インドネシア人がインドネシア語でしゃべる中で英語の単語を散りばめて口走るのも、それと同じ根を持つ現象であるようにわたしには思えるのである。
ただしインドネシア人がそれをするのは、英語というグローバル言語を使えるのだという自分の知的優秀さを示すことが原因の一要素になっており、そしてそういう振舞いがカッコ良いという生活上の価値観がそこに裏打ちされている面を見落としてはならないだろう。
コンパス紙R&Dが2013年10月5〜6日に、国内12都市の高校に在学中の回答者283人から集めた統計がある。それによれば、若年世代は明らかにそんなガドガド言語に慣れ親しんでいるようだ。
質問1.: 外国語の表現の一部や外国語の単語を駆使するのをカッコよいと思うか?
回答: はい57.6%、いいえ42.0%、不明無回答0.4%
質問2.: 外国語を混ぜ込んで話す理由は何か?
回答: 
トレンドに従う/好きでそうしている44.0%
対応するインドネシア語が出てこない37.3%
習慣的に13.3%
語彙が豊かになる4.9%
不明無回答0.5%
質問3.: そういう使い方をする外国語の入手経路は?
回答:
友人や仲間から58.7%
学校で21.6%
インターネットから8.1%
親から8.1%
塾など2.8%
不明無回答0.7%
質問4.: 外国語を学ぶのは、インドネシア語を学ぶのより簡単か?
回答: はい34.3%、いいえ65.0%、不明無回答0.7%

なんと、三人にひとりがインドネシア語より外国語のほうが習得しやすいと感じているのには驚かされる。確かに、各所に営業している英語・ドイツ語・イタリー語・日本語・韓国語・北京語・アラブ語などの会話塾には生徒が押せ押せの大盛況で、あたかもマルチリンガル民族の面目躍如という態を見せ付けているようだ。
中には、将来どの国に留学するという希望を早い時期に抱き、その実現のためにその国の言語塾に通っているという計画的な少年少女もいるし、あるいは高級モールで流暢な英語で会話している男女グループがどう見ても全員インドネシア人にしか見えない、というようなケースに出会うこともある。そういう若者の中に、明らかにインドネシア語の表現力が弱く英語を使うほうが会話がはずむという者も混じっているにちがいない。
しかし、そんな本格的な外国語習得者とはちがい、外国語の単語を適当に並べて外国語を話しているような気になっているピキ派の若者たちの92%は使われる外国語として英語を選択しているのである。それはインドネシアの社会がそのような深度でグローバル言語となった英語を受け入れているということを意味してわけだが、そこで受け入れられている英語というのは、慣用句や術語あるいはスラングなどをインドネシア語の語法に載せて使っているということでしかなく、ひとつの言語システムとして英語を使っているわけではないため、インドネシア人はだれでも英語がわかるという理解に飛びつくと、大間違いということになる。
インドネシア語や種族語を知らない外国人が英語だけを頼りにインドネシアにやってきて一般庶民と接触する場合、英語での満足できるコミュニケーションを実現できるのは本格派のインドネシア人に出会った場合だけであり、そういうハイレベルの習得者と予備軍が三人にひとりだと言うのだから、実戦部隊ともなれば若者全体の15〜20%程度しかいないようにも思える。他の大多数を占めるピキ派の若者たちと、果たして本当に満足できるレベルで英語によるコミュニケーションが取れるのかどうか、それはインドネシアにやってきた外国人ひとりひとりの体験が答えを出すに違いあるまい。


「言語災禍」(2013年12月27日)
2013年9月初旬に行なわれたアーチストのサスキア・シンタとヴィッキー・プラスティヨ(普通のインドネシア式発音でヴィッキーという語はピキとなる)へのインタビューから、ソーシャルメディアやマスメディアで悲劇的なトピックが形成されている。ふたりの婚約を報道するインタビューは既にユーチューブにアップされ、5日間で28万8千人がその言語災禍を視聴し、大衆的揶揄を生み出した。
ここでそういった揶揄を上乗せする気はわたしにはないが、どうしてそんなことが起こり得たのかということを暫時思い返してみたいと思う。結論としては、その話者の複雑な心理要因だけでなく、この問題はテレビを主体にするメディア界の言語社会心理に浸透しつつあることがらだということも確かなのだ。
< 知名人スタイル >
テレビメディアは一般大衆の言語文化に影響を及ぼす。トークショー・ミュージックショー・シネトロン・レアリティショー・クイズなどの諸番組が、ジャカルタ風で社会名士風な趣を強く持つコミュニケーションの新たな規範を創り出した。
マスターシェフインドネシアという番組のコミュニケーションモデルを見てみよう。アルノール・プルノモ、デガン・セプトアジ、リリン・マリンカという審査員たちは単にその職業の専門家であるばかりか、外国で教育を受け、キャリアーを持った経験があり、だから外国語(特に英語)の使用は地に着いている。かれらが外国語を使うのは、多分それを見せびらかそうというのでなく、それが日常的な思考言語の一部と化しているために潜在意識がそんな表現を促しているということなのだろう。加えて、外国のライセンス番組はショーのエレガントな標準のひとつとしてグローバル言語の使用を条件付けている。
しかし言語史から見るなら、インドネシアとアメリカを結びつけるものはテレビ番組やハリウッド映画しかなかったのである。われわれの言語史が持つ関連性は、サンスクリット、ヒンディ=ウルドゥ、アラブ、ペルシャ、オランダ、スペイン、そしてやっとイギリス英語という順序になる。
khabar, ashram, presis, syakti, syirna, aktie, proclamatie, studen などの単語が、そのスペルは別にして、どうしてわれわれの言語の中に入っているのかということをそれは説明しているのだ。ところが、元々オランダ語から採り入れたmeminimilir やinformil がminimalisasi やinformal に変化したのは、アメリカ英語の影響なのである。
昨今、公共スペースやテレビで話をするとき、あたかもそこに罠が用意されているかのように感じられる。ジャカルタ風の語法とアメリカンスタイルを使わなければ、話者はスタンダードから外れており、知性が足りないという評価を受ける。おまけに、知名人(最近出現したソシアリタという単語は、社会名士やアーチストのコミュニティを意味している)階層と見られたければ、好むと好まざるとに関わらず英語まみれになる、というのが原則であり条件なのだ。まず、それがひとつ。
もうひとつは、術語の使用だ。言葉が単なるコミュニケーションツールから専門的で体系的な知的構造を持つ知識のシンボルに変化するとき、術語あるいは専門用語の使用というのは避けようのなないものになる。言語の機能は常に直截的表示的でないため、外国語の摂取、ニュアンス、比喩などは言語が発展する一部分となるのである。
< 民族言語的影響 >
日常生活で、われわれはmakan, menyinta, terjengkang, tunggang langgang などの単語を使うだけでなく、sinkronisasi, sofistikasi, resiliensi, polarisasi などインドネシア語の中に採り込まれた単語も使っている。その移入の歴史をひとつひとつ述べれば膨大なものになるが、ひとつだけここで指摘したいものがある。-sasi という連結語の音韻効果は、国民のコミュニケーションのための民族言語性向に原則のない用法を与えた。「最小から最大までに渡るharmonisasi 」とピキが語った文章がこうして生まれる。そんなコンテキストでは、penyesuaian, kompromi, penyelerasan などの単語が使われていいはずなのに。
フランス人哲学者ジャック・デリダは、「われわれは広範囲な聴衆すなわち群衆に対しているのだから、話し言葉でのコミュニケーション(現代では、ツイッターのような擬似筆記文にも該当する)には、直接的でシンプルで一般的な言葉を使え」とアドバイスしている。
書き言葉(エクリチュール)とは違って、話し言葉には差異という機能の深化と最大化が必要とされる。defer とdiffer の双方が。どうしてか?なぜなら、書き言葉は知的宇宙の総体に生命を与えること(ロゴセントリズム)を意図しており、音声ロジックの世界(フォノセントリズム)にとどまらないからだ。話し言葉では、発言は聴き取られる端から放擲され、そして消えていく。
もっと実際的なアドバイスは、話し言葉ではシンプルに、書き言葉では簡潔に。限度を守ってオーバーにならないように。ましてやテレビ視聴者のお気に召すのがお望みであるというのなら。「mengkudeta apa yang kita miliki」とか「konspirasi kemakmuran」などというような、文法的に狂っており、ただ社会的にインテリと見せかけたいだけの文章など、必要ないのである。
ライター: マリクッサレ大学言語人類学教官、テウク・クマル・ファシャ
ソース: 2013年9月28日付けコンパス紙 "Bencana Kebahasaan"


「スパはフサダティルタ」(2014年5月21日)
2014年5月8日、バリ州サヌルのホテルグランドバリビーチで開かれたインドネシアトラディショナルスパ全国会議で、今後スパという名称をインドネシア語のフサダティルタ(husada tirta)に変えることが決議された。
husadaはジャワ語のusadaに由来する語で薬や治療を意味し、
tirtaはサンスクリット語源で水を意味する。
スパ産業界はこの名称変更がヘルス観光を中心に観光産業全般に新風をもたらすことを期待している。
モリヤティ・スディビヨ、インドネシアスパ協会会長はフサダティルタのクオリティとイメージを高めるよう努力しなければならない、と会議に集まった全国の業界者にスピーチした。「われわれには必ずできる。インドネシアは他国に負けない豊かさを持っており、インドネシアのスパは世界に認知されている。」
観光クリエーティブ経済省もこの変更を歓迎し、スパがヘルス観光の立役者になることが期待されていると述べている。


「外国人のためのインドネシア語学習」(2014年5月23日)
CIE(ケンブリッジ国際検定)がインドネシア全土にある中等教育インターナショナルスクール167校のためにインドネシア語教育課程のシラバスを作成した。インドネシア語学習が国際社会で通用するカリキュラムを得たことで、これからのインドネシア語のグローバル化に足を踏み出す第一歩となることが諸方面から期待されている。CIEアジアパシフィック地区担当ダイレクターによれば、インドネシア語の学習を希望する声が国際的に高まっていることがその背景にあるとのこと。「地元のひとびととのコミュニケーションを容易にするために外国人のためのインドネシア語学習の素材が強く求められている。」
このシラバス制作は2012年5月に開始され、2014年3月に完成した。このシラバスはインドネシア語の会話と作文・読解の両面をカバーしている。


「地名は一語で表記せよ」(2015年2月3日)
2014年9月19日付けコンパス紙への投書"Jasa Marga agar Taat EYD"から
拝啓、編集部殿。自動車専用道の行先表示板に書かれた地名が一貫的に正しい表記法になっておらず、正しいものと間違ったものが混在しています。たとえば、Jatibening とJati Asih です。自動車専用道は公共スペースであるというのに、どうしてEYD(改定綴字法)の決まりが守られないのでしょうか?
EYDに即した正しい表記法では、二語から成る地名は二語をひとつにまとめて表記するというものです。たとえば、Tanjungpriok と書くのが正しいにもかかわらず、いまだにTanjung Priok という書き方をしているものがあります。公共スペースでの表示、教科書、マスメディアなど公的性格のものにさえ、誤りは少なくありません。
1980年代にインドネシア語育成開発センターのルッマン・ハキム氏が国営テレビの教育番組で、名詞と形容詞から成っている地名はそれを一語で表記することに決められていると、とても明瞭で厳正にいくつかの例文をひいて示したのをわたしはいまだに記憶しています。
Sutan Mangkuto membawa padang panjang untuk menebas semak belukar di Padangpanjang.
Udin Kuriak naik bukit tinggi di perumahan Birugo Indah di Bukittinggi.
ジャサマルガはEYDについて政府が定めている決まりを順守するようにしてください。[ 西ジャワ州ブカシ在住、ムフワルディ・ムフタル ]


「perisaは非インドネシア語」(2015年2月5日)
2014年12月27日付けコンパス紙への投書"Perisa pada Label Makanan-Minuman"から
拝啓、編集部殿。最近、飲食品のラベルや食材添加物の表示に「perisa」という単語を頻繁に見かけるようになりました。たとえば、オレンジ味の飲み物のラベルには「perisa jeruk」、パイナップル味のパンには「perisa nanas」といった具合です。しかし、よくよく考えてみると、perisaという単語は適切でなく、間違っているように思われます。
インドネシア語大辞典(KBBI)によれば、「perisa」とは「sedap」や「enak」の意味だそうです。perisaは名詞でなく形容詞であり、pe-を接頭辞ととらえると間違いが一層ひどくなります。KBBIによれば「risa」はいぼを意味し、ますます分けがわからなくなります。
飲食品のラベルにはesensという語が使われるべきだと思います。「エセンス」は名詞であり、英語のessenceに由来する外来語で「sari」「ekstrak」「bibit」「biang」などを意味しています。文章の中に使う場合は、
sirop ini menggunakan esens nanas
obat ini mengandung esens permen
などのようになります。
飲食品のラベルからperisaの語をなくしてesensに変えれば、どんなにすっきりすることでしょう。ここで使われているperisaという語は意味づけが間違っており、わたしたちが正しいインドネシア語をマスターしていないことを映し出しているのです。わたしたちはインドネシア語の一語一語が適切で巧みで正しく使われるよう、努めようではありませんか。[ 中部ジャワ州カルタスラ在住、アユ・クスマ・ワルダニ ]


「インドネシア人の英語力」(2015年2月13日)
英語が母国語でない63カ国で英語教室事業を営んでいるEFが、各国国民の英語能力比較を公表した。公表されたEnglish Proficiency Index 2014でインドネシアの大人が持っている英語力は52.74ポイントと評価され、中級レンジに位置づけられている。それは63カ国中で第28位にあり、フランスや中国より上位にあるが、シンガポールやマレーシアよりも下だ。
2007年の評価では、インドネシアは44.78ポイントだったから、7年間で英語力はぐんぐん向上しということができるに違いない。毎年上位を占めているのはヨーロッパ諸国で、デンマーク、オランダ、スウェーデン、フィンランドなどが64ポイントから上の得点を得ている。


「外国文化好きインドネシア人」(2015年2月18日)
2014年11月8日付けコンパス紙への投書"Istilah Asing Marak dan Penggunaannya Bangga"から
拝啓、編集部殿。10月28日の青年の誓い記念日を「正しい適切なインドネシア語」を国民の間に定着しなおさせる日にするべきだとわたしは思います。オルバレジームが幕を閉じてからというもの、インドネシア語の使用を国民に推進させる姿勢が感じられません。英語をメインとする外国術語の使用が増加の一途です。
広告・模型見本・標識・商業催事や社会的催し物のタイトルなどは外国語のオンパレードで、「インドネシア人を対象にしていないのだろうか?」と思わせるような状況になっています。クリエータは外国語を使うのをカッコよく思い、それを自慢にしているのでしょう。民族の統一言語を高く捧持するという青年の誓い三項目のひとつは悲しむべき状況になっています。全国共通国家試験にも、その状況が反映されているではありませんか。国語(インドネシア語)の成績は及第点を下回っているのです。もっとひどいことに、正しい適切なインドネシア語の使用推進者となってしかるべき政府機関や国有事業体が、一緒になって外国語の使用に溺れているのですから。
インドネシア語の使用を国民に推進させる点に関しては、オルバレジームの方がまだ優れていました。当時、国営テレビ局TVRIを通して、アントン・ムリオノ氏やJSバドゥドゥ氏など言語センターの要人たちが国民に対するインドネシア語使用の育成を継続的に行なっていたのです。おまけに、社会的にもインドネシア語の使用を推進させるため、ビルや商店あるいは企業名に外国語を使うことを制限していたのです。[ 中部ジャワ州ジュパラ在住、ムフタル・ファトニ ]


「言語破壊の一側面」(2015年5月29日)
2015年1月12日付けコンパス紙への投書"Bahasa Indonesia dan Bahasa Inggris Dicampur"から
拝啓、編集部殿。自分が使っている言語への愛着が低下していることを意識していないという現象が、いまインドネシア語使用者に起こっています。それは、インドネシア語と英語を混ぜて使っていることに見ることができます。
われわれはよく、次のような表現を耳にします。「Aku off dulu ya.」「By the Way, kamu lagi buat apa?」「Aku juga tidak care sama kamu.」等々、ほかにもたくさんの例があります。このような傾向は、英語の単語に置き換えられたインドネシア語の単語が世の中から消滅していく結果をもたらすでしょう。たとえば、英語のoff はberhenti などの単語を消滅させ、care はpeduli というインドネシア語が使われないように駆逐してしまうのです。
日常会話の中だけとは言え、大人の会話を吸収しながら育つ子供たちへの悪影響は認識されなければなりません。英語の単語によって駆逐されたインドネシア語の単語を知らないで成長した子供たちが大人になったとき、インドネシア語はいったいどうなっているでしょうか?[ 東ヌサトゥンガラ州東マンガライ県在住、メルキオル・セデッ ]


「オーケーはインドネシア語になった?」(2015年8月17日)
2015年3月3日付けコンパス紙への投書"Obral Kata Okay"から
拝啓、編集部殿。テレビのアナウンサーやプレゼンターの多くが対談番組の中で「オーケー」という言葉を頻繁に使い、極端なケースではその単語を大安売りしている状況をわたしはよく見聞きします。わたしは、それが気になってなりません。
もちろん、インドネシア人というのはカッコよさを狙って外国語の単語を多用するのを好み、あるいは自国語よりも外国語を使う人間を優れていると見なす傾向を持っています。「オーケー」という単語は既に日常語と化しているため、それを避けるのは難しいのかもしれません。しかしそれらのテレビ番組はあくまでもインドネシア語を使って放送されており、英語番組ではないのです。
「オーケー」という単語を代替するインドネシア語はシンプルな単語が存在しています。「baik」や「iya」という単語は「オーケー」が今日のように一般化するまで、普通に使われてきたものなのです。1928年10月28日の青年の誓いの中で、「インドネシア語を統一言語として捧持する」とコミットされているインドネシア語の維持保存に心がけましょう。[ 西ジャカルタ市クンバガン在住、ダヌ・ジョハディ ]
2015年4月1日付けコンパス紙への投書"Padanan Bahasa Indonesia untuk Bahasa Asing"から
拝啓、編集部殿。2015年3月3日付けコンパス紙に掲載された投書の中で、TVアナウンサーが「オーケー」という言葉を大安売りしているのが気障りであるとコンパス紙読者のひとりが表明していました。わたしもそれに同感です。
わたしの場合はTV画面に表示されるストリームテロップや番組タイトルを見るたびに、そこに英語の単語がたくさん織り込まれ、インドネシア語で統一されていないことがもっと気障りなのです。
それらの英語に対応するインドネシア語がないわけでは決してありません。たとえば、「Breaking News」は「Berita Selingan」、「Coffee Break」は「Rehat Kopi」、「Talk Show」は「Bincang-bincang」、「Business News」は「Warta Niaga」というように。そのように、わざわざ外国語の単語が使われていることの真意がわたしにはわかりません。そうすることがカッコよさを感じているのか、それともインドネシア語を使うよりももっと知性的であると思っているのか?
この問題はインドネシア放送コミッションが規制権限を持つ範疇に入るのではありませんか?[ ヨグヤカルタ特別州スレマン県在住、FSハルトノ ]


「コンパス紙よ、自戒せよ」(2015年8月18日)
2015年4月16日付けコンパス紙への投書"Pelopor Bahasa Indonesia"から
拝啓、編集部殿。これまでコンパス紙は他のメディアと比較できない、KBBI(インドネシア語大辞典)に忠実なインドネシア語の模範メディアでした。ところが、これまで読者を正しいインドネシア語の単語や文章の使い方に導いてきたコンパス紙が、KBBIから離れはじめています。
ニュース情報ソースとしてのみならず、的確なインドネシア語の用法を学ぶお手本でもあったコンパス紙であるにもかかわらず、最近はKBBIからの逸脱例が散見されるようになりました。「autopsi」という単語は「otopsi」と綴られ、「politikus」という単語はいまや「politisi」に取って替わられています。他にもいくつかの例を見出すことができます。
正しいインドネシア語の模範メディアであり続け、いつまでも国民に的確な文章のお手本を示し続けるよう、わたしはコンパス紙に要望します。[ 東ジャカルタ市ジャティヌガラ在住、アミナ・ハエルニ ]


「言語は民族性を示す」(2015年8月19日)
2015年6月18日付けコンパス紙への投書"Bahasa Menunjukkan Bangsa"から
拝啓、編集部殿。この投書のタイトルの言葉は文化や論理能力など、さまざまな意味を含んでいます。特に論理能力に関して、テレビ放送されたジャカルタフェア実行委員会委員長の開会スピーチの最後に語られた「Mohon maaf atas segala kesalahan yang tidak disengaja.」という表現にわたしはおかしさを禁じ得ませんでした。もし故意に行なわれたのでなけれが、それは「kesalahan」でなく、「kekeliruan」です。
またTVアナウンサーがしばしば使う「Terbesar kedua di dunia」と表現にも、わたしはよく接します。接頭辞「ter-」は「paling」を意味しており、その対象はひとつしかありません。だから、ナンバーワンに「ter-」を使ったあとは「peringkat kedua」「peringkat ketiga」と続けていくのが妥当なのです。
文化面における言語とは、外国人をも含めた他者との間で言葉をどう述べるのがよいのか、ということを意味しており、文化的衝突が発生することは少なくありません。たとえばわれわれは、路上で友人に出会ったときに「Mau ke mana?」「Dari mana?」などの言葉を交わします。それらの表現を西洋人、たとえばオランダ人に対して使ってはなりません。そんなことをすれば、かれらはあなたを非常識な人間と見なしますから。かれらの論理思考では、そんなことを尋ねる人間は他人のことに要らぬ首を突っ込んでくる者という判断になるのです。[ ヨグヤカルタ特別州スレマン県在住、FSハルトノ ]


「kamiとkitaの混用」(2015年8月20日)
2015年6月24日付けコンパス紙への投書"Kita dan Kami"から
拝啓、編集部殿。2015年6月18日付けコンパス紙に「言語は民族性を示す」と題するFSハルトノさんからの投書が掲載されました。本当にその通りです。われわれは一民族として自分たちの言語を育成し、良好で正しい使い方を実践するべきなのです。
テレビやラジオなど電子メディアから公職高官に至るまで、「kita」と「kami」という単語の使い分けが正しい法則から外れたものになっている現象にわたしは心を痛めています。
TVの番組やインタビューの中で頻繁に、「kami」が使われるべきところで「kita」が使われています。「kami」という語を「kita」で代表させるかのような語法がなされ、「kita」の意味が拡張拡散させられているのです。それはもう、長い年月に渡って継続しています。
この誤った現象がこれ以上進行しないようにするために、何をどうすればよいのでしょうか?問題は、TVとラジオの影響がとてつもない広さと深さを持っている点にあります。言語育成開発庁や関連省庁が何らかの対応を取る必要があるのではありませんか?[ 東ジャカルタ在住、サヌシ・シディ ]


「インドネシア語をアセアン共通語に」(2015年9月29・30日)
ライター: 元在バンコック大使館教育アタッシェ、現ジュンブル大学教官、ディディッ・スリスティヤント
ソース: 2015年9月19日付けコンパス紙 "Bahasa Indonesia Bahasa ASEAN"
外国人就労者のインドネシア語能力条件を削除するよう、ジョコ・ウィドド大統領が要請した。ジョコウィ大統領のその要請はインドネシアの投資環境を改善するためである、とプラモノ・アヌン内閣官房が語った。
「インドネシアで就労する外国人のインドネシア語会話能力条件を取消すよう、大統領はスペシフィックに要請した。」とプラモノは15年8月21日金曜日に述べている。
インドネシア共和国第7代大統領が外国人就労条件のひとつであるインドネシア語能力を抹消するのは、インドネシアにとって明らかに後退である。なぜそうなのか?今インドネシア語はアセアン諸国をはじめとしてヨーロッパ・オーストラリア・米国に至るまで、大勢が学習している言語であることをわれわれは知っているからだ。
アセアン諸国だけをとってみても、タイ南部・フィリピン・ブルネイ・マレーシア・シンガポール・ティモールレステなどの国民に見られるように、インドネシア語が理解できるひとは数多い。アセアンメンバー国の半分はインドネシア語がわかる。
2015年アセアンコミュニティの準備を、タイ・マレーシア・フィリピン・中国・日本・パプアニューギニアなどアジア諸国のインドネシア共和国教育アタッシェは進めている。かれらは長期間に渡って、外国人のためのインドネシア語(BIPA)の教育をそれらの国の大学や大使館で展開しており、インドネシア語への関心がきわめて高いことが実証されている。たとえばタイでは、2010年以降、バンセンのブラパ大学、チェンマイのチェンマイ大学、チェンライのメーファールアン大学、ソンクラのソンクラ王子大学などいくつかの大学でインドネシアセンターがオープンした。
このインドネシアセンターの機能はインドネシアの言語・文化・芸術・料理を学ぶ場所として開かれており、アセアンとアジアの諸国でこの機関を通して外交ソフトパワーとしてのインドネシアの教育と文化の交流が推進されている。アセアンメンバー国の半分で理解されているインドネシア語のポジションと準備の熟したアセアンコミュニティという情勢下に、インドネシア語はアセアン共通語となりうる潜在性を十二分に持っていると言える。
アセアン経済コミュニティがスタートする2015年12月はじめ、大勢のアセアン市民が就労・留学・協力などのために続々とインドネシアへやってくる。かれらはインドネシア語を身に着けてやってくるのだ。なのに、ジョコウィ大統領はどうしてインドネシアで働こうとする外国人就労者のインドネシア語能力条件を抹消するのだろうか?外国人、中でもアセアンやアジア諸国民のインドネシア語学習意欲がたいへん高いことを見るにつけ、このジョコウィ大統領の方針は不適切であるように思われる。
< 国語庁を開設せよ >
言語に関する2009年法律第24号は、インドネシア国内で国有・民間・その他の企業が雇用契約内でインドネシア語を使用することを義務付けている。だから政府は、2013年労働トランスミグラシ大臣規則第12号とその改訂版である2015年労働トランスミグラシ大臣規則第16号の実施には細心の注意を払わなければならないのだ。
それはコミュニケーションのための規則に関わるものだが、そのほかにも生じる問題がある。インドネシア語使用の義務付けを取消すことは就労予定の外国人に対する関わりだけが生じるのでなく、既存就労者からも苦情を招くことになる。かれらは就労にあたって外国人のためのインドネシア語能力テストを受けているのだ。
BIPAは外国人就労者や外国人留学生向けに用意されたインドネシア語教育メソッドだ。インドネシアで働こうとしている外国人にインドネシア語の使用を義務付ける規則を取消すべきではない。そうでなく、教育文化省内に国語庁を設けて2015年アセアンコミュニティと将来のアセアン自由市場の準備としてのBIPAの推進に携わらせるべきだ。
将来インドネシア語がアセアン共通語になるなら、われわれの大きな誇りとなるだろう。ところが、インドネシア共和国大統領自身がインドネシアで働こうとする外国人はインドネシア語ができなくてよいという姿勢を持つなら、インドネシア語がアセアン共通語になる道を塞ぐようなものだ。その一方で、インドネシア人海外就労者はドイツや韓国や日本で、現地の言語の習得を余儀なくされている。職場の上司や同僚あるいは雇用主、そして生活環境内で接触するひとびととの会話は、現地語でなされなければならないのだから。
インドネシアにやってきて一定期間居住する外国人就労者がインドネシア語の会話能力を持たないなら、インドネシア人の同僚や上司あるいは部下との意思疎通をどのようにして行なうのか?かれらがインドネシア語を話せないなら、社会ギャップが生まれるもとになる。外国人就労者のインドネシア語能力義務付けが外されたら、インドネシア語がアセアン共通語になる道は閉ざされることになる。その一方で、外務省と教育文化省はインドネシア語を使った諸プログラムを外交ソフトパワーとして展開しようとしているというのに。


「Cluster からKlaster まで」(2015年10月1日)
ライター: 教育家、バンドン国立第26高校教員、アグス・ヘルマワン
ソース: 2015年9月18日付けコンパス紙 "Dari Cluster hingga Klaster"
Aeon (ion と読む)というオープンしたばかりの大型トップモールが所在地を南タングランのBSDシティと称しているのを取り上げて、タングラン県庁の役職者が抗議した。「かぐわしいことがらだと南タングランと言う。ゴミ問題が話題になれば、タングラン県の名前が出る。」
よくよく調べたら、2万平米の広さを持つ「ニッポンのアニキ」スタイルのモールのロケーションの記載に間違いがあった。週末になると駐車スペースを探すだけで一苦労するそのモールの正しい行政区画名称は南タングラン市でなくてタングラン県だった。正確には、タングラン県パグダガン村だ。しかし、誤解は既に起こっている。BSDシティの名前を言うと、そのベッドタウンをひとは南タングラン市に属していると思う。
今や、その名もBSDシティとして広まっているが、1989年ごろにチプトラグループが開発を始めたころの名称はKota Baru Bumi Serpong Damai (ブミスルポンダマイニュータウン)だった。
不正確なロケーションや地域名称が使われるのは、今や当たり前の様相を呈している。手紙や小包みに書く住所は、住宅地名称に番地を書くのが好まれ、行政区画としての郡や村の名称は使われなくなっている。La Vintage 通りブロック何々、Virgin Island クラスター何番、南タングランBSDシティDe Latinos 等々。ラワブントゥ村などほとんど使われない。モダンな感じがしないし、田舎っぽい感じが強いのかもしれない。
ジャカルタとその近郊一円の他の住宅地区でも、似たような例は数多い。外国風な香りを発散させる名称。ヨーロッパ大陸からアメリカに至る有名な地名。それらはジャボデタベッ地域のみならず、国内全域で容易に目にすることができる。外国名を使った住宅地名称は、徹頭徹尾外国語のものもあれば、インドネシア語と混ぜ合わせたものもある。
グヌンシンドゥル郡ラワカロン村パキス部落には、グランドパキスという名の住宅地があるが、タングラン県レンコンにはまるっきり外国語のグリーニッチパークがある。
< Klaster >
ITBソシオテクノロジージャーナルの中でバンドン工大のジェジェン・ジャエラニとその仲間たちは、外国語を用いた開発住宅地の名称はそこに住む住民の排他性・プレステッジ・幸福をうかがわせるものだ、と書いている。その住宅地内に居住するようになったひとびとは、そこを取巻いている世間とは異なる、新たな生き方をスタートさせたのだ。
ジャボデタベッ地域一円のカンプンには、高い塀に守られた開発住宅地が今や目白押しだ。コンクリートの高い塀は住宅地内と外界をはっきりと隔てている。住宅地名称を示すボードにも、その名が大書されている。それもPerumahan xxx とかTaman xxx でなく、Village, Residence, Estate, Park 等々の語が使われている。そして住宅地住民も外界の社会と自らを隔てている。かれらは周辺のカンプンとは無縁のエリート社会をそこに作り出しているのだ。
高い塀の中に建てられた家屋は、その地区単位名称であるクラスター(cluster)という語を用いて住所を表現する。クラスターという地区単位の中に立てられる家屋はアッパーミドルクラスのものだ。もちろん、その下の階層でもクラスターという単位名称を使って悪いわけでもない。ただ、そのクラスターはklaster、つまりkelas teri であることをお忘れなく。
まあどうであれ、ブカシにはHarapan Indah もあることだし・・・・・


「大統領はインドネシア語を重視せよ」(2015年10月2日)
2015年6月22日付けコンパス紙への投書"Joko Widodo, Soeharto, dan Wibawa Bahasa Indonesia"から
拝啓、編集部殿。1995年5月20日、スハルト大統領は良好で正しいインドネシア語の使用が必要であることについて、警鐘を鳴らしました。それはインドネシア共和国独立50周年の祝祭を前にして行なわれたのです。
外国語を使った名称を掲げている看板はインドネシア語のものに取り替えさせられました。ところがレフォルマシレジームに入ってまた外国語を使った名称が盛んになり、いたるところではびこっています。外国語は英語だけでなく、マンダリン、アラブ、日本、韓国などの言葉もあちこちで目につきます。
スハルト大統領が退いてからも、言語ナショナリズム精神は「国旗・国語・国章・国歌」に関する2009年法律第24号に受け継がれました。特に国語に関しては、インドネシア語がインドネシア共和国統一国家の全領域内で使われる公用語であることが言明されています。その第25条には、インドネシア語は国家民族のアイデンティティであると明記されているのです。
今や欠陥住宅地は全国に満ち満ちており、あのようなマーケティング手法をわれらの愛するこの国で、インドネシア語使用義務に従うことよりも本当に優先させなければならないのでしょうか?第36条には、インドネシア国民あるいはインドネシア法人が所有する建築物/建物・道路・アパートメント/住宅地、事務所、事業所、教育機関、組織に対するインドネシア語名称の使用が義務付けられているのです。
インドネシア共和国設立70周年祝典をひかえた今、全インドネシア国民、とりわけ国家民族の指導者たちにとって、2009年法律第24号の施行が完璧になされているかどうかを思い返すのに最適な機会ではないでしょうか?われわれの全員が本当に憲法、特に2009年法律第24号に関わることがら、を守っているのでしょうか?インドネシアの国語警察はもうなくなっているのでしょうか?それとも、国語に関する諸法令はビジネスのために全部改定される必要があるのでしょうか?
ジョコ・ウィドド大統領は全国民に良好で正しいインドネシア語使用の必要性をリマインドさせなければなりません。それはナワチタ(基本方針9項目)に則したものなのです。[ 西ジャカルタ市クブンジュルッ在住、ウィム K リヨノ ]


「言語は民族を表す」(2015年10月5日)
2015年6月18日付けコンパス紙への投書"Bahasa Menunjukkan Bangsa"から
拝啓、編集部殿。この投書のタイトルは文化や論理思考方法など広範囲な含蓄を持っています。特にロジックに関しては、テレビに映っていたジャカルタフェアー実行委員会委員長の開会スピーチ内の表現がわたしにくすぐったい思いをもたらしました。「Mohon maaf atas segala kesalahan yang tidak disengaja.(偶発するであろうすべてのミスに前もってお詫び申し上げます)」という文章の中で「tidak disengaja」であるのなら、それはkesalahan でなくてkekeliruan なのではありませんか?
TV放送の中でアナウンサーが次のような表現をしているのに、よく遭遇します。「Terbesar kedua di dunia .....」接頭辞「ter-」は最大級のpaling と同じなので、terbesar は普通ひとつだけでしょう。だから二番目・三番目ということを言いたいのであれば、peringkat kedua, peringkat ketiga と言うべきではないでしょうか?
文化という領域での言語が他人との間にどのような文章を語るべきかという問題を意図しているのであれば、外国人をはじめとする異文化間コミュニケーションには絶えず文化的衝突が発生します。
たとえばわれわれが往来で友人と出会ったとき、「Mau ke mana?」あるいは「Dari mana?」という挨拶を交わしますが、われわれはそんな文章を西洋人に対して発することはしません。たとえばオランダ人に向かってそんなことを言えば、かれらは「失礼な奴だ」という反応を返してきます。かれらの文化ロジックの帰結として、そんなことを言う人間は他人のプライバシーに首を突っ込みたがる奴だという観念に至るからです。[ ヨグヤカルタ在住、FS ハルトノ ]


「インドネシア語教師海外派遣」(2016年3月2日)
外国人のためのインドネシア語、通称BIPA、を指導する教師の資格規準が、実はまだ整備されていない。外国の教育機関でインドネシア語を教えることはインドネシア文化の国際化にきわめて重要なことであり、その尖兵たる教師の能力認定は統一された規準でなされる必要がある。これまで行われていたのは、個別の派遣要請に対してその都度、大学や教育文化省が人材を選定して派遣する形でなされていた。
BIPA教師は単にインドネシア語を外国人に教えることだけが使命なのでなく、その業務を通してインドネシアの文化使節とならなければならないのであり、その見地からの資格を明確にさせなければならないし、中でもBIPA教育はオフィシャルでオーセンティックなインドネシア語話者を作ることよりも、日常会話を通して民衆が交流するのを促す方向性がもっと重要なことなのである、とアニエス・バスウェダン教文相はそのプログラム作りのポイントを述べている。
教育文化省国語開発育成庁長官は大臣の構想に関連して、大学修士課程や教員養成コースにBIPA教育講座を設け、希望する修業生にBIPA教師資格を取得させて海外派遣要員を確保する体制を構築する意向であると語っている。
教育文化省は2016年に80人のBIPA教師をベトナム・タイ・シンガポール・マレーシア・ブルネイ・カンボジア・中国・フィリピン・ドイツ・フランス・オーストラリア・アメリカ合衆国・モロッコ・チュニジアなどの諸国に派遣する計画で、募集に応募した238人中で66人が選考をパスしている。2015年には20人を派遣する目標だったが、14人しか実現しなかった。
インドネシアは言語を通しての国際的地位の向上に完全に出遅れており、BIPA教師の海外派遣が始まったのは1980年代からで、その後もあまり盛り上がらないまま現在に至っている。教育文化省は今年の目標80人を、できれば百人まで引き上げたいと考えている。


「変貌するインドネシア語」(2016年4月20・21日)
言葉というのは生き物であり、長い年月の間に世代が変わっていくことによって変化がもたらされるのは当然だとわたしは考える。それは自然発生的に特定の人間集団に根付いた言語の本性であるが、インドネシア語の場合はそこのポイントが違っている。インドネシアで自然発生的に根付いた言語というのは、いま地方語と呼ばれているジャワ語・スンダ語・バリ語・ササッ語などの言語であり、インドネシア語は政策的にスマトラのムラユ語をベースにして、そこに国家の国語管理機構が各地方語を持っている全種族にそれを使うようブラッシュアップし、教育と普及を行ってきた。だから、インドネシア語はきわめて人工的な言語として完成の道を歩んできたと言うことができる。
インドネシア語とマレーシア語が同一だという神話を信じているひとがいまだに多いのだが、ベースに置かれたムラユ語は同一であっても、自然発生的言語として国家による国語管理のまな板に載せられたマレーシア語とインドネシア語を比較するなら、類似点の多々ある別言語だという表現が正しい姿を言い表しているように、わたしには思える。同じ株の上に咲いた、色も形も異なる別の花ということだろう。マレーシア語を知らないインドネシア人がマレーシアを訪れたときに、コミュニケーションの場で起こったさまざまなエピソードを耳にするなら、インドネシア語とマレーシア語が同一だという神話を信じることはできないにちがいない。
そうではあっても、生まれた時から人工的なインドネシア語を日常生活の中で使い始めたひとびとは、世代が変わることによっておのずと変化を取り入れるようになる。その人間の習性は自然発生的言語の場合とちがわない。地方語とインドネシア語のバイリンガルで育ったひとびとには、第三言語の単語を文章の中に置き換えて使うテクニックは日常的なものになっているように見える。
インドネシアという国家体制の中にあるインドネシア語は、種々雑多な種族と文化を統一し、一国家一民族としてのインドネシアを維持するためにきわめて重要な政治的ファクターになっている。インドネシア語が崩壊するなら、人工的政治的に構築されたインドネシア統一国家のアイデンティティは危機にさらされる。だからこそ、インドネシア語の純血性が薄まっていくことに国家指導者は強い危機感を抱いているということができそうだ。
そのために政府は、国民がインドネシア語を愛用するよう、法律を定めた。「国旗・国語・国章」に関する2009年法律第24号には、次のように記された規定がある。
第29条(1)項:国民教育における授業言語として、インドネシア語が使われなければならない。
第36条(3)項:インドネシアの国民や法人が設立しあるいは所有する建築物や建物・通り・アパートメント・住居・オフィス・商業コンプレックス・商標・事業所・商業施設・教育施設・組織体の名称はインドネシア語が使われなければならない。
第39条(1)項:マスメディアが供する情報はインドネシア語が使われなければならない。
政府はさらに、インドネシア語の使用に優れた地方政府を表彰する制度を設けている。教育界が住民に対するインドネシア語の教育と使用の励行を推進していること。オフィス内でインドネシア語が使われていること、住民社会への広報宣伝にインドネシア語が使われていること、などが評価のポイントとなり、教育文化省国語センターが審査と表彰を行うこととされている。
ところが現実には、インドネシア語の会話の中に英語の単語を山盛りにし、あるいは若者たちが意味不明なバハサガウルを使うといった現象が日常的に起こっており、国家アイデンティティを懸念する国家指導者ばかりか、親の世代までもがインドネシア語の将来に不安を感じている。
2016年3月9〜11日にコンパス紙R&Dが国内12都市住民553人に電話インタビューして得た回答では、不安を抱くひととそうでないひとの人数がほぼ拮抗した。
質問1.学校で毎日外国語を使わなければならないようになれば、生徒たちのインドネシア語能力が喪失してしまうという心配をしていますか?
回答1.する50.1%、しない48.5%
質問2.日常的にあなたが家庭や家族の間で使っている言語は何ですか?
回答2.インドネシア語39.4%、インドネシア語と地方語38.0%、地方語10.8%、ごちゃ混ぜ8.3%、インドネシア語と外国語3.1%


「疎外されるインドネシア語」(2016年5月2日)
2016年2月17日付けコンパス紙への投書"Mengasingkan Bahasa"から
拝啓、編集部殿。言語は基本的に、審美的なコミュニケーションメディアとしての機能を持っています。言語は民族を表すと言われているのです。1928年10月28日、ムラユ語を起源とするインドネシア語を使うというコミットメントが青年の誓いの中で宣誓されました。その第三項目に「我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用する」と述べられています。
しかし今日、われわれは民族として、インドネシア語の疎外という、心をえぐる現象に直面しています。インドネシア語は英語・中国語・ドイツ語・日本語・韓国語・フランス語・オランダ語などさまざまな外国語の浸透によって、その統一性をばらばらにされているのです。インドネシア語はその存在がますます疎外されつつあるばかりか、いくつかの報道では、都市部の青少年たちの多くは外国語を使い続けているためにインドネシア語がまったく話せなくなっているというではありませんか。
本紙を含めてさまざまなメディアに、インドネシア語の将来を憂うたくさんの記事・ニュース・オピニオンが登場しています。インドネシア語がいつまでも維持されるようわれわれは毎日インドネシア語を使い、また国際語になるよう支援していくべきなのです。[ 北スマトラ州在住、ムハンマッ・フセイン・ヘイカル ]


「インドネシア語はミラクル言語」(2016年5月23・24日)
ライター: サナタダルマ大学レアリノ研究院調査員、A ウィンダルト
ソース: 2016年4月23日付けコンパス紙 "Ajaibnya Bahasa Indonesia"
インドネシアでの翻訳の容易さは、まるでインドネシア語の中にあらゆる言語が顔をのぞかせることができるようだ、という米国コーネル大学人類学者のジム・シーゲルの言葉は興味深い。逆もまたしかりで、あらゆる言語の中に混じりこんだインドネシア語はきわめて的確にその意味をとらえることができるようだ。その意見は、ジャカルタ最大の書店で見出される事実で裏書きされる。書店で販売されている出版物の半分、いやそれ以上が翻訳物なのだ。それら翻訳物のオリジナル言語は英語・日本語(マンガ)・アラビア語そして最近はフランス語も加わっている。
インドネシア語が、外国語にせよ地方語にせよ、さまざまな母語を読み理解することを可能にする、一種のリングアフランカになっていることを、そこに見出すことができる。たとえオリジナルに完璧に置き換えることができなくとも、インドネシア語への翻訳作品を通してこれまで知らなかった知識や体験を得ることができる。その言語政策というのは、他の土地、たとえばアルジェリアでは、生き死にの問題になる。言語によって形成されたアイデンティティが弄ばれたと感じたとき、かれらは互いに殺し合いをするのだ。
パサルムラユ語がいかにして、複合的な東インド民衆の間の意思疎通をはかる共通言語になっていたかということを歴史が示している。そのムラユ語は植民地社会に、他の仲間たちとの親しさと主権を認め合い、且つそれを鑑賞するための芝居の舞台を用意することができた。「棘のある鞭」という筆名の著名な記者は、1910年代から1920年代にかけて、マス・マルコやハジ・ミスバッ様式のムラユ語を使って読者への味方にもなり、敵にもなった。それは、自由で心地よい印象を与える口語に近い言語様式だとベネディクト・アンダーソンは述べている。その言語の中には、フィクションとレポルタージュの壁がない。それがゆえに、報道界の闘志たちの文章に脅威を感じた者は少なくない。なぜなら、かれらが書いたことがらは実際にありふれたできごとであり、「自宅の玄関で汚れものを洗う」(ベネディクト・アンダーソン、2004年)ような影響しか持たなかったからだ。
インドネシア語はそのような精神を受け継いだようだ。インドネシア語を使う中で、誤った常識やミスコミュニケーションが世にありふれていると表明することに、基本的な問題はない。それこそがコミュニケーションをはるかに容易にしているのだ。母語を上回る能力を持つ言語の重要性が有する意味は、ぎこちなさを生じることなしにお互いを映し出すことにある。たとえばソロの路上でシーゲルが体験したような、外国人が「ヘロー、ミスター」という言葉で声をかけられることだ。たとえその言葉が無視されたとしても、リスクは何もない。その言葉を投げかけた現地人がせいぜい「ジャワ語ができないのだろう」という中立的なコメントをするくらいだ。ところがもしジャワ語の上流語で丁寧な返事が返ってきたなら、あの外国人はとても上手にインドネシア語をしゃべる、と語るだろう。
それがインドネシア語のミラクル性だ。困難や誤りなく使うことができるほか、母語の存在が強く規定しているアイデンティティにも取って代わることができる。フランスで隣人に「ボンジュール」」と声をかけない人間が許されざる侮辱を行ったと非難されても不思議でない。ところがフランスでは、多くの外国人、特にアメリカ人、がフランスでフランス語を話すことがいかに困難なことであるか、と語るのも、不思議でない。ところが、マドゥラ、フローレス、ニアス、パプアなどに行った人間にとって、インドネシア語で同じことが起こるだろうか?まずそんなことは起こらないだろう。なぜなら、インドネシア語のように密着性の薄い言語を使うことでは、心配する必要のあることがらは存在しないのである。歴史学者ルドルフ・ムラゼクが記したように、その言語は「無感情」あるいは「無恥」なのだ。
残念ながら、その言語が1928年の青年の誓いの中に統合されたとき、日常表現が標準のものとされ、オランダ植民地政庁は政策の中でそれを「正しいムラユ語」「高級ムラユ語」「オパイゼンムラユ語」といった地位に固定した。暴力が生育した場所の政治状況が発生させたある事件のパワーを描き出すに際して、若い文学者たちがそれとは異なるインドネシア語を使ったのは幸いだった。


「Gue Banget!」(2016年8月2日)
ブタウィ口語で一人称をguaあるいはgueと言い、二人称はloあるいはluと言う。語源は福建語のようで、福建語は「我」をgua、「イ尓(北京語のni3)」をloあるいはluと発音する。ムラユ語系であるブタウィ語は単語の語尾の/a/音が/e/に変化することが多く、そのためにguaからgueが派生したようだ。今やグア/グエ、ロー/ルーは完全にインドネシア語の語彙になっており、サバンからメラウケまで誰が使おうとも違和感がない。
bangetもブタウィ口語のひとつで、意味はamat, sangatなどと同じ。この単語も既にインドネシア語になっていて、特に若者たちの間で人気が高い。この語も不思議なことに末尾音節の母音が/e/と/a/の両方で使われ、bangetとbangatが併立している。
インドネシア語で形容詞を修飾する「程度の副詞」はM−D法則に従うのが普通だが、banget/bangatは普通D−M法則に従う。たとえば、amat cepat, sangat dinginなどに対してcept banget, dingin bangatという用法が通常のものだ。
このbanget/bangatという程度の副詞は形容詞を修飾するのが常識だったのだが、若者たちはそんな常識を打破してしまった。名詞にbanget/bangatを直接つけて、「きわめてxxxらしい」という用法を作り出したのである。そのひとつがgua bangat.やlu banget.あるいは個人名+bangat.などという表現だ。
コンパス紙R&Dがジャボデタベッの高校10校の生徒たちにアンケート用紙を配り、16年5月末に回収した。集まった回答は504枚だった。質問の中の「あなたがグエバ~ガットと感じるのはどんなとき?」に関して集計した回答は次のようなものになった。
1.困っている友人を助ける ヤー92.9% ティダ7.1%
2.友人たちと集まって楽しむ ヤー77.8% ティダ22.2%
3.学校で宿題をやる ヤー63.7% ティダ36.3%
4.泣き言を言ったり諦めたりせずに頑張る ヤー61.9% ティダ38.1%
5.ガジェットやインターネットに没頭しているように見られる ヤー51.8% ティダ48.2%
6.宿題を時間通りにやり遂げる ヤー44.0% ティダ56.0%
7.ソーシャルメディアに写真をアップロードする ヤー27.8% ティダ72.2%
8.韓国や他の国の映画やスターに熱をあげる ヤー26.6% ティダ73.4%
9.最新ファッションや流行している服装・装身具を身に着ける ヤー23.2% ティダ76.6%
10.パチャルを次々変えていく ヤー4.0% ティダ96.0%


「インドネシア語はむつかしいですか?」(2016年9月14日)
2016年3月11日付けコンパス紙への投書"Salah Kaprah Berbahasa"から
拝啓、編集部殿。去る16年2月21日、ジャカルタで提唱されたプログラムを聞いて、わたしはうれしくなりました。そのプログラムとは"Hari Pembersihan Sampah Nasional"です。
その語句の構成からわたしは、一掃されるのは"Sampah Nasional"だと理解したのです。国家国民のゴミというのは、われわれ草の根民衆辞典によるなら、コルプトルや売春婦や、そういった世間のゴミ的人間を指しています。
ところが、一掃されるのは公共スペースにできたゴミの山であることが判明しました。おかげでわたしは、インドネシア語の構造というものを再度見つめなおすことになりました。
インドネシア語のDM法則にしたがうなら、提唱者の意図にふさわしい語句の構成は"Hari Nasional Pembersihan Sampah"ではないのでしょうか?違いをじっくりとかみしめて見てください。[ 西バンドン県レンバン在住、バンバン・ヒダヤッ ]


「CAS」(2016年11月21〜23日)
わたしがその表示をはじめて目にしたのは何年も昔のことで、確かジャカルタのどこかのカルフルだったような気がする。売場に入る前の柱の一面に棚がしつらえられ、そこにさまざまなタイプの充電器が置かれており、その柱にCASという文字が記されていた。
わたしはついつい英語cashの二重子音を省略したインドネシア式表記だろうと想像したのだが、それは大間違いであったことを後になって知った。この発想はわたしがやはり文字文化の民であったことを証明する実例であったにちがいない。
読者の皆さんはきっともうお分かりではあるまいか。インドネシアのスペリング原則に従って、casは「チャス」と発音される。この単語、実は英語のchargeがインドネシア語化されたものだったのである。英語の発音は「チャージ」であり、子音だけで独立する「ジ」という音がないインドネシア語のためにインドネシア人はそれを「ス」という音で代用し、「チャース/チャス」の音を文字化した結果casというスペルがインドネシア人の間で一般化することになった。この流れは非文字文化つまり口承文化のものであることがお分かりいただけると思う。前述のわたしの発想には文字が介在しているが、後者の流れは最終的な文字化の段階に至るまで、文字はまったく介在していない。
ともあれ、柱のその棚は携帯電話機に自由にチャージしてくださいという来店客への無料サービスだったのである。
もしも、教育文化省国語センター編纂のインドネシア語大辞典(KBBI)に収録されている単語がインドネシア語と認定されたものであるとするなら、英語チャージに由来するインドネシア語チャスはまだ認定されたものではない。しかしインドネシア人の日常生活に接し、あるいはインターネットへのインドネシア人の書き込みを見るなら、充電という意味の「チャス」という単語は既にインドネシア語になっていると言って過言でないように思える。
ところで、英語のcashという単語に言及するなら、インドネシア語にはtunaiあるいはオランダ語源のkontanという単語が存在している。ところがKBBIは英語cashに対応するインドネシア語の外来語としてKESという言葉を収録したのである。
米語の/a/、アメリカ人がエアを一度に発音するあの音がインドネシア人の耳に/e/と聞こえているのは、geng (gang), beking (backing), dendi (dandy), reli (rally), hepi (happy), mejik (magic) などの例を見ればお分かりだろう。その結果、英語の単語に使われている/a/の綴りはエと発音するのがインドネシアの常識と化している。だからインドネシア人がチャスしたいときに口に載せるせりふ、「ローベッ」を思い出すほうがきっと簡単なのかもしれない。「ローベッ」をインドネシア人はlowbetと書くが、lowbatと書くひともいる。しかし発音はいずれも「ローベッ」なのである。つまりそれは英語に由来する言葉なのであり、英語ではlow batがオリジナルに近い。本来の意味はlow batteryということだ。
スエーデン人インドネシア語学者アンドレ・モレル氏は最近インドネシアで奇怪な体験をした話しを書いている。ホテルのリセプションカウンターで、従業員がかれにインドネシア語で質問した。「Pakai kes apa kad?」
かれは当惑した。
そして、インドネシア出身の奥さんの説明を聞いてやっと理解できたそうだ。kesはもう読者もお分かりの通りだが、ならばkad とはいったい何?
kad は英語のcard だった。KBBIでkad はマレーシアから入った外来語だとされている。辞書にあるkad の意味はチケットとなっていて、ホテル従業員が使ったケースとは意味が違うが、語源の英語に立ち戻ればホテル従業員の意図は通じる。
ホテルでチェックインすれば、どこでもウエルカムドリンクをサービスしてくれる。英語のwelcome drink をインドネシア人はインドネシア式綴り法のwelkam dring と発音していたと同氏は付け加えている。各言語の音韻構造が異なるために、外国語の音をまねる能力の低いひとは、自分の母語の音韻構造にどうしても引きずられてしまうようだ。
この外国語修得ということについては、外国語の音と文型を上手にまねることが人間の優秀さを証明するものだというものの見方を避けることがきわめてむつかしい。つまり、ネイティブのように会話ができるひとは素晴らしい能力を持っているというものの見方であり、そういう風になりたいとみんなが憧れる。
だがそれはしょせん、物まねと記憶の能力に限定された部分でしかなく、人間の優秀さを証明するのはその人間が話している内容なのだという理解がなされるのがあるべき姿だとわたしは思うのだが、残念ながら外皮の評価で終わってしまう人間がいかに多いかということなのだろう。他の分野では記憶力と物まね能力がどんなに優秀であっても優れた能力を持っているとはなかなか言ってもらえないというのに、外国語を使うという領域になると、その記憶と物まねだけで人間を判定しようとするのは、いったいどうしたことなのだろうか?
アッマジャヤ大学応用言語学教官はインドネシア人の英語学習について、「子供が将来国際社会で活躍できる能力を涵養するために、英語の習得は不可欠だとたいていの親は考えている。ところがその一方で、英語を使うことに深入りすると子供はインドネシア文化が持っている価値観を十分身に着けることができなくなる、という不安をも抱いている。」と指摘する。しかしそのような観念的な見方をするのでなく、子供それぞれは自分の能力と必要性に応じて英語を学ぶのだから、親は子供の個性に応じて指導していかなければならない、というのが教官のアドバイスだった。
米国ヒューストン大学言語学教官は、インドネシアのように英語を母国語としていない国の住民は英語の使用が自分の優秀さを示すものと見なし、それを誇示しようとする、と語る。だから日常会話に英語の単語をおり混ぜると周囲から知的な人間だと見てもらえるような世の中が形成されていく。
その傾向は自分の文化、ひいてはナショナリズムを蝕む結果をもたらすようになりうるため、学校教育のカリキュラム内での英語教育のウエイトはそんな視点からの斟酌が必要になる。インドネシアでは、1954年の第2回インドネシア語会議で、英語はインドネシア語あるいは外来語に相応する単語がない学術用語に使用できる外国語のひとつであるという決議がなされていると教官は指摘した。しかし現実はそうなっていない。
「ある国に英語の言葉が取り込まれるとき、その語義と機能は英米におけるそれを超越する。その意味で、英語の単語がその国の文化ファクターに沿ったものに変質することは可能であり、自国文化を蝕むものにしない対策を講じることができる。
インドネシアの英語教育では、生徒・学生に英語とインドネシア語の文学書を読ませることが大いに求められている。というのは、文学に触れることは、単なる文法と単語の記憶にとどまらず、感受性とシステマチックな思考法を涵養させることにつながるからだ。そのポイントを軽視すれば、英語やインドネシア語の会話は流暢にできても、分析作業もできなければ論理的に文章を書くこともできない世代が作られていくことになる。」
コンパス紙R&Dが2016年11月9〜11日に17歳以上の全国14都市住民630人に対して行ったサーベイで、外国語学習は圧倒的に英語志向であることが証明された。
質問1.いま修得するべきもっとも重要な外国語とあなたが考えるものは何ですか?
回答1.
英語 89.0%
アラビア語 4.4%
中国語(マンダリン) 3.7%
日本語 1.4%
フランス語 0.3%
スペイン語 0.2%
韓国語 0.2%
質問2.インターネットでのオンライン外国語学習サイトを利用することに関心はありますか?
回答2.
イエス 39.8%
ノー 57.6%
政府教育文化省から認可を得ている専門技能習得のための塾は全国に18,999ヵ所あり、そこで70種類の専門技能が教えられている。その中の4,583ヵ所で英語が教えられている。