インドネシア「人と文化」情報2010〜11年


「オエライ政府機関の運転手は自分もエライと思う?!」(2010年1月7日)
2009年4月25日付けコンパス紙への投書"Ulah Pengemudi Mobil Nomor Khusus"から
拝啓、編集部殿。2009年4月8日水曜日、RHSナンバープレートをつけた車の運転手がたいへん傲慢な態度を示すできごとがありました。黒字ナンバープレートにBSというコードをつけた車が政府機関の特殊任務用車両であるのは公然の秘密です。
南ジャカルタ市クバヨランラマのシンプルッガーデン?通りの住民は、テウクニャアリフ通りにあるビヌスシンプルッ校生徒の送迎自家用車の往来で迷惑をこうむっています。それらの自家用車はテウクニャアリフ通りから学校に入ればよいわけですが、実際にかれらの多くが学校裏門から校内に入っており、それらの車はシンプルッガーデン?通りを通ることになるのです。その通りには道幅の狭いところがあり、双方向道路であるためにその場所は各方向の車両が一台ずつ交代で通り抜けなければなりません。午前7時ごろからビヌスの警備員がそこに出て双方向の車を一台ずつ流すよう交通整理を行い、警備員の指示に従って自分の番が来るのをそこを通る車は待つのです。
わたしの車がそこを通り抜けようと動き出したとき、突然正面からB1076BSというプレート番号のトヨタセダン車がこちらに向かってきたではありませんか。生徒を送ってきた他の乗用車はコンセンサスに従って自分の順番が来るのを辛抱強く待っているというのに。その結果道路はにらみあう二台の車でブロックされてしまいました。
自分が悪いと露ほども感じていないその車の運転手は偉そうな態度で怒り出し、わたしに喧嘩をふっかけてきました。しかし大勢が見ていることを思い出したか、それともわたしの妻がこちらに同乗しているのに気付いてか、きっと恥ずかしくなったのでしょう、すぐに運転席にもどりました。しかしその運転手の腹の中は癒せなかったにちがいありません。すれ違うときにわたしの車の窓ガラスを手でバシバシと叩いたのです。妻はわたしに「相手にするな」と強く注意しました。出勤するために正装しているわたしが路上で喧嘩する姿はみっともないと思ったにちがいありません。
特殊ナンバープレートをつけたその車のオーナーである政府機関責任者は運転手に対し、一般市民に向かって倣岸な態度を取らず、自分が超法規であるなどど決して思わないよう指導するべく自覚してください。[ ジャカルタ在住、アフィン・ヤヒヤ ]


「インドネシアで軍人は超法規・・・?!」(2010年1月8日)
2009年4月27日付けコンパス紙への投書"Menunjukkan Identitas Diri TNI"から
拝啓、編集部殿。2009年3月21日土曜日朝、わたしはボゴール地区の大通りで発生したバスとトラックの衝突事故のニュースをテレビで見ました。その事故では死者がひとり出たそうです。事故整理に当たったブルーの制服を着た当局職員が現場を閉鎖して交通の流れを止めているとき、二人乗りのオートバイが一台その中に侵入してきました。その二人乗りオートバイはそこを通れなくされるのが嫌だったようで、ヘルメットを脱ぎながらオートバイから降りると制止を命じた当局職員に対しいきなり殴る蹴るの暴行を働きました。警官がひとりそこに割って入り、頭を短く刈上げた私服のその男をなだめようとしましたが、その男はまるで悪魔が乗り移ったかのように怒り狂ってわめき散らし、自分の財布を取り出して身分証を示し、現場に出動してきた警官たちのリーダーに向かった挑発したのです。その男の身分証はかれが国軍軍人であることを示すものでした。
リーダーがその挑発に乗らなかったので男は警官を腕で押し返し、「また戻って来るからな」と言い残して現場を去りました。わたしはその光景を三つのテレビ局で流されたニュースで三回見ました。現場でその光景を直接目にしたり、また全国でそのニュースを見た大勢の国民の目に国軍のイメージを大きく傷つけたそのオートバイに乗ったクサイ猛者の振る舞いにわたしの心はボロボロです。国軍軍人で超法規になれるからといって、社会生活の中でわがまま勝手が許されるわけではありません。
本人は自分が行なった振る舞いが大勢のインドネシア国民に見られているのだということを認識しているのでしょうか?公道で自慢げにタウランを行なって暴れまわる高校生の子供のように愚かなことをした自分を恥ずかしいと思うべきです。[ ジャカルタ在住、ジミー ]


「トレンドに追従しないインドネシア人」」(2010年1月11日)
日々の暮らしの中で流行を追い求める心理はたいていのひとが持っている。インダストリーからの仕掛けがマスメディアに載ったとたんにはやばやと飛びつくひともあれば、周囲の人間がだんだんとそれに染まっていくにつれて引きずられるように追従するひとまでさまざまにいるのだが、そんな世間の変化が塗り替えていく色に染まらずに自分自身のライフスタイルを独自の色で描き出しているひとも少なくない。そんなひとでさえ、流行が塗り替えた色の一部をバリエーションとして自分の色構成の中に取り込むこともある。社会生活を営む人間にとって社会のトレンドをまったく超越して暮らすのはどれほど難しいことか。
流行は新しい商品とイメージを世の中にもたらす。現代生活の中で「実用的」「インスタント」という概念は一般大衆に新たな価値を生みつけた。おかげで都市部におけるライフスタイルはモールのカフェやハイパーマーケットにやってきてクレジットカードを振り回すひとびとに象徴されるようになっている。コンパス紙R&Dが2009年12月24日に全国10都市で747人を対象に行った流行に関するサーベイでは、流行を追わないと答えたひとが過半数を占めるという、実に意外な結果が報告されている。
「あなたは今世の中で盛んになっているトレンドに追随していますか?」という問いに対する回答は次のようなものだった。下のライフスタイルという言葉の具体的なイメージはラウンジやコーヒーショップなどを訪れることであるようだ。
1)ヘアスタイル: 常に8.3%、 ときどき26.0%、 まったくしない65.7%
2)ファッション・モード: 常に12.3%、 ときどき36.7%、 まったくしない51.0%
3)ライフスタイル: 常に7.4%、 ときどき25.6%、 まったくしない67.1%


「問題は公徳心の有無」(2010年1月12日)
2009年4月22日付けコンパス紙への投書"Anak SD Gemetar, Ibunya Dibentak Polisi"から
拝啓、編集部殿。2009年4月6日月曜日17時ごろ、都内を激しい雨が襲って随所に出水と交通状態が引き起こされた後、わたしは小学校3年生の息子を南ジャカルタ市パンリマポリム地区へ迎えに行き、クマン地区へ戻ろうとしていました。南ジャカルタ市役所前を過ぎてからバン通り(Jl Bank)へ曲がろうとしましたが、出水で道路が閉鎖されています。それでわたしはプラパンチャ通りを更に進んでクマンラヤ通りに曲がろうとしました。ホテルプラパンチャの手前で左車線に入るためにウインカーを点けましたが、左側は渋滞する車列が数珠つなぎ状態で入る余地がありません。しかしそのまま直進して大渋滞しているアルテリ道路に入って行けば帰宅時間がますます遅くなるのは明白であり、子供がかわいそうです。だからわたしは左側車線に入るチャンスが出るまで様子を見ることにしました。
するとまだ若い警官が前方からわたしの車に近寄ってきて、わたしにまっすぐ進むよう命じます。わたしはその警官に、自分は左に曲がりたいのだけれど、さっきからそれができないでいるのだ、と説明しました。すると警官はわたしに大声で怒鳴りつけたのです。「おまえ、脳ミソを使え!左に行けるわけがないじゃないか!さあ、直進しろ!」
でもわたしは負けずに「左折したい」と頑張りました。警官はわたしの車の正面に立ちはだかって自分の頭を指差しながら、「脳ミソを使え!脳ミソを使え!」と怒鳴るばかりです。
わたしは窓を開けてその警官に言いました。「違反切符を切りたければどうぞ。でも礼儀をわきまえてください。ここには小さい子供がいるんだし・・・・」
その警官は怒鳴り声をやめようとせず、不快感を満面に湛えて権力者の威厳を維持し、「次回はちゃんと脳ミソを使えよなあ」と言いながら自分の頭を指差してわたしの車から離れて行きました。その警官はレインコートを着ていたので、制服に記された名前が読めなかったのは残念です。
自分の母親が警官に怒鳴りつけられているのを目の当たりにして震えている子供の目の前でそんな年若い警官に怒鳴りつけられたわたしは顔から火の出る思いでした。実を言えば、わたしの子供はこれまで警察官を英雄視していたのです。学校のカルティニの日祭りには四つ星を着けた警察か軍人のコスチュームを着る、と息子は決めていました。どの警官もそんなお粗末な人間だと思っているわけではありませんが、それが小学校3年生の息子の目に映ったできごとだったのです。[ ジャカルタ在住、スリ・レジュキ ]
2009年4月23日付けコンパス紙に掲載された首都警察からの回答
拝啓、編集部殿。2009年4月22日付けコンパス紙に掲載されたスリ・レジュキさんからの投書について次の通り説明申し上げます。南ジャカルタ市クマン交差点の手前でプラパンチャ通りを通行中だったスリ・レジュキさんは、クマン通りに入るため右側車線から左車線に移ろうとしていましたが左車線を通行する他の車に阻まれて左に移る機会に恵まれませんでした。そのとき現場で交通整理を行っていた交通警官はスリ・レジュキさんに対し、左車線に移らないでそのまま直進するように勧めました。というのは、そのとき豪雨が上がった直後でしかも退勤や下校の時間と重なったために左右の車線は激しい交通渋滞に陥っており、その車線変更が他の道路利用者の進行を阻むことのないようにするのが目的だったのです。
スリ・レジュキさんに対する交通警官の言葉が礼儀をわきまえないものであったことについては、警官の誤った行為に対して当方よりお詫び申し上げます。その交通警官は規律向上処分としてこれまでの任務を解かれ、教導措置を受けるためにスタッフ部門に配置転換されました。警官の任務がまだ完璧に果たせていないことを当方は認識しており、市民からのいかなる批判も当方の改善のための材料としています。警察は市民へのサービス向上を継続的に行うことをコミットしています。[ 首都警察交通局長、チョンドロ・キロノ ]


「停電のときは何をする?」(2010年2月5日)
インドネシアの電力危機は病膏肓に入ったと言える。「いや、昔から入っている」と言われればうなずくしかないだろう。モダン社会生活に電気は気っても切れない重要性を持っており、人間の暮らしにその活動効果を高める役割を果たしている電気が途切れたなら、人間の営みは数百年昔の効率レベルに一気に後退してしまうにちがいない。
数世紀昔の人間も現代人も、人間は同じように生を生きて死んでいくのに違いはないのだから、多少の停電があったとしてもそれで生命が縮むわけでもあるまい、という意見は人間の本質基盤をどこに置くのかという問題に関わっているわけだが相当に保守的な文明軽視論ではないかとわたしは思う。
さて停電に馴れっこになっているインドネシア人は、停電に際して何をしているだろうか、というサーベイをコンパス紙R&Dが2009年11月18〜19日に729人への電話インタビューを通して実施した。その結果は次のようになっていた。さすがに子供作りに励むと答えたひとはいなかったようだ。
電気が点くまでボケッ・ひたすら待つ 48.3%
寝る 18.2%
屋外に出る 7.1%
おしゃべり 6.3%
ローソクを灯す 5.5%
停電になっていないひとの家に行く 3.8%
平常通り活動する 3.0%
発電機をスタートさせる 2.5%
電力会社PLNに電話する 2.3%
その他(携帯電話する・うちわで扇ぐ・火の用心) 2.9%
不明・無回答 0.1%


「ひとをがっかりさせる天才」(2010年2月9日)
2009年4月11日付けコンパス紙への投書"Pesan Makanan di Pizza Hut"から
拝啓、編集部殿。2009年3月26日正午頃、子供の希望に従ってわたしども一家はバンテン州セランのピザハットを訪れました。最初店内に入ってから料理を注文するまで何も問題ありませんでした。そしてわたしたち一家三人はテーブル番号23の席で料理が来るのを待ちました。15分たっても料理はおろか飲物すら出てきません。
ところがわたしたちより後に店に入った客のところに注文した飲物が出され、中には早々と料理が届けられているテーブルさえあるのです。三歳の子供はむずかりはじめましたが、わたしたちは偏見を避けて善意にものごとを考えようとしました。30分が経過したので、わたしたちは最初注文を取りに来た店員に様子を尋ねました。その店員は注文の内容を繰り返し、そしてオーダーのインプットを行ってから、やっと伝票をキッチンに持って行ったのです。
どうしてさっきからそれをしなかったのでしょうか?わたしたちはまた待つように言われました。しばらく待っていましたがもう待ち飽きたので、飲物が届いてからさっきの店員を呼んで飲物分だけのお勘定を頼みました。わたしたちは料理をあきらめて帰ろうと思ったのです。ところがその店員は、料理を包むので持ち帰ってください、と言うのです。結局すべての注文を支払いましたが、子供が頼んだアイスクリームは出てきませんでした。
ところが失望はそこで終わりを迎えなかったのです。家について包まれた料理を開いたところ、わたしたちが注文した料理はその中になく、違う料理が入っていたのです。ただため息だけがわたしたちの口から洩れました。[ セラン在住、エカ・ヌグラハ ]


「旧友との邂逅」(2010年3月12日)
誰しも若い時代に机を並べ肩を並べた学友たちは懐かしいもの。地縁という枠の中にあるとはいえ、学校というのは同年代の仲間を結びつける特殊な力を持っている。喧嘩もしただろう。一緒に悪さもしただろう。女友達の鞘当だってしたかもしれない。それでも時間がそんなさまざまな事柄を結晶させ昇華させていく。利害関係の薄かった学校時代の人間関係は純真純粋であり、虚飾のない無垢の人間としての交際が、程度の差こそあれ、実現していたように思えるのである。
そんな旧友と久しぶりに会って思い出を分かち合うことは世界中の人間が行なっている。特に人と人の間のつながりを日常の暮らしのベースに据えているインドネシア文化では、ありとあらゆる縁で出会った他人を一生の財産としてキープするひとが多い。ビジネスの仲介、困ったときの援助、そして伝手・コネと言えば聞こえが悪いが人の輪のつながりを発展拡大させる核分裂の基盤。
インドネシア人も同窓会を頻繁に行なっている。小学校・中学校・高校・大学と学歴によって自分の出る同窓会は違っているが、今日は高校の同窓会で来週は小学校の同窓会だ、と旧友との邂逅に胸弾ませるインドネシア人も少なくない。
コンパス紙R&Dが2009年6月17〜18日に行なった全国主要都市の電話帳からランダム抽出した813人への電話インタビュー方式調査では、若いころに築かれた人間関係を維持しようと努めるインドネシア人の人生観が浮き彫りにされている。
質問(1)あなたは昔の学校時代の友人たちとの人間関係を維持しようと努めていますか? 「はい」と答えたのは80.6%で「いいえ」が19.4%。
質問(2)あなたは昔の学校時代の友人たちと定期的に会っていますか?
一年に一回 39.7%
毎月一回 25.7%
毎週一回 8.5%
「いいえ」は26.1%
質問(3)昔の学校時代の友人たちと会う場合、何をしますか?
会食 86.1%
一緒にスポーツ 2.8%
一緒に鑑賞 2.8%
カラオケ 2.0%
クルアン読誦 0.1%
その他 6.2% 


「エンデの美談」(2010年3月16・17日)
ディナ・ワヒユニは東ヌサトゥンガラ州フローレスのエンデ県で2000年4月27日に生まれた。家庭は決して裕福でない。父親のスウィト47歳は学歴が小学校三年までしかなく、ボガワニ市場でエスクラパムダやチェンドルの屋台売りをしている。母のスリスティアニ38歳もエンデの保健所前でガドガドやバソを売っている。この一家の住んでいる家はベニヤ板の屋根で床はセメントを流しただけのもの。セメントは破砕が進んで穴だらけだ。
ディナはいまエンデ第6カソリック小学校の6年生。どうして10歳の少女が小学校6年生になっているのか?それはディナが幼稚園へ行くのをいやがり、小学校に入りたいと強情をはったためだが、この少女はその後の小学校生活でその強情が根拠のあることであったのを証明して見せた。1年生からの6年間、ディナは常にクラスで成績一番の優等生で通してきた。利発でなにごとも上手にこなすディナは常に年上の同級生たちをしのいできたのだ。ところがそんな光輝に満ちたひとりの少女の人生に、どうしようもない壁がたちはだかった。
小学校修業国家試験が今年5月4〜6日に予定されている。その受験要項になんと、受験者は11歳以上でなければならないと書かれていたのだ。それに従うなら、ディナは今年その試験を受けることができず、来年もう一回6年生になってやっと卒業することが可能になる。それは可哀想だ、と校長以下関係者が全員ディナに同情した。県教育局に問い合わせると、国民教育省が管理している受験生データベースにディナの個人データをインプットしようとしたが、生年月日をシステムがどうしても受け付けないのだ、という返事が返ってきた。生年2000年というデータを入れるとシステムがリジェクトしてそこから前に進まない。こうしてひとりの少女に対する同情が周囲のおとなたちをおかしな方向へと誘導して行ったのである。
学校側はディナに受験の機会を与えてやろうとして両親と話をし、ディナの出生証書を変更しようという結論を出した。学校と県住民登録局の間で話がつけられ、スリスティアニが申請手続きを言われるがままに行なうだけでよいようなアレンジがなされた。そうやっておけばディナは5月の試験を受けることができる。そして申請手続きは行われたのである。
この事件はエンデ県教育関係者の間で知らぬ者のない話になっている。ディナのように頭脳優秀な子供は飛び級や飛び入学方式で進学させ、年齢が満たなくてもより高い教育を与えて世に送り出すほうが国家建設には有益だ。ただ残念なことに、インドネシアではディナのような子供を収容する飛び入学学校は地方部にほとんどないのが実態で、言うまでもなくエンデ県でもそれに類するものはひとつもない。フローレス大学教員教育学部教官のひとりはこの出来事に関して、優れた子供が普通の子供より早く教育課程を通り過ぎていくことは促進されるべきことがらだが、そのためにあのようなことが行なわれるのは子供の心理によい影響をおよぼさない、とコメントした。「優れた子供が小学校を修業するだけで公的な書類に操作の手が加えられる。出生証書がそのために変更されるというのは年齢のごまかしを合法化することを意味している。このような教育制度は子供に腐敗行為を教えることになる。子供の人格形成にとってこれはよいことなのだろうか?政府国民教育省は学校児童生徒に優れた学業成果を出すようにと大童だが、ディナのようなケースは国の誇りとされてよいものなのに、年齢が満たないといった本質的でないファクターを持ち出してその進歩の足を引っ張っている。」管理システムと教育本質論の谷間に落ち込んだディナの問題を教育者はそう解析している。


「自殺者の多いグヌンキドゥル県」(2010年3月16日)
ジョクジャ特別州グヌンキドゥル(Gunung Kidul)県は自殺者の多さで有名になっている。2009年の自殺者は29人で2008年の37人から低下したとはいえ、かつての老齢者がメインを占めていた時代から最近は生産的年代層の自殺者が増加傾向にあり、新たな問題を生んでいる。
ウォノサリ地方総合病院精神科専門医は、2008年は70%が生産的年代層で占められ、最年少は16歳だった、と語る。「生産的年代者が自殺すると残された扶養家族がたちまち経済的困難に直面する。自殺者の多くは首吊りをその手段に選んでおり、それがもっとも成功の確率が高い方法と見られているようだ。自殺未遂の多くは手首を切ったり服毒する方法を採っていることから、その見方は当たっていると言える。」
グヌンキドゥル県の自殺者の多さは世界的にも知られており、WHOは自殺減少のための活動資金として1億ルピアを県に援助している。


「権力に憧れる社会」(2010年3月20日)
2009年5月13日付けコンパス紙への投書"Arogansi Pengantar Jenazah, Polantas Menghindar"から
拝啓、編集部殿。2009年4月25日午前9時ごろ、わたしは家族を乗せて西ジャカルタ市Sパルマン通りをスマンギに向かって車を走らせていました。スリピ=パルメラ交差点で赤信号に引っかかり停車しました。そのときわたしの車は前から三番目の位置にいました。
突然後からサイレンとオートバイのエンジンを吹かす音が聞こえてきたのです。サイドミラーを見ると、黄色い小旗を持った一団の若者たちが道を譲るよう叫びながら墓地へ向かう車列を先導しているのがわかりました。ところがその中のひとりは手にした黄色の小旗の棒で荒っぽく車のボディを叩きながら、赤信号で停止している車に怒鳴りつけてきたのです。わたしの車も例外ではありませんでした。
かれらは赤信号で停まっている車に前進を強いるのです。そして若者のひとりは倣岸な態度でパルメラとプタンブラン方面から青信号のために交差点に入ってくる車を押しとどめようとしました。最初は道路の右側に立って交通整理を行っていた警官がいたのですが、若者たちの傍若無人な行為を避けてどこかへ姿をくらましました。その交差点に出張ってほんの数メートルしか離れていない詰所にたむろしていた同僚警官たちも、そのシーンを見物するだけでそこで繰り広げられている混乱を収拾しようとする姿勢がまったく見られません。
遺体を墓地へ送る車に優先通行権が与えられているのは事実ですが、他の道路通行者にも相応の配慮を払って道路を利用するのがあるべき姿であり、このようなできごとには遺憾の念を禁じ得ません。遺体を搬送するさいには、傲慢な態度でなく礼儀正しく教養ある姿勢で行なわれるべきであり、ましてや交通法規に違反するなどもってのほかではありませんか?[ ブカシ在住、ブディ・ムリヨノ ]


「国内の治安維持は大丈夫」(2010年3月22日)
残念ながらキャンセルされてしまったオバマ米大統領のインドネシア訪問だが、その訪問に対する一般国民の受けとめ方はたいへん好意的なもので、ムスリム層がゲジゲジのように嫌っているアムリックも、大統領が少年期に関わりを持ったということだけでその親近感がこうまで激変するのは、やはり文化がもたらしているものの見方に動かされているという印象を強く受ける。もちろん首尾一貫をめざすアンチアムリック派もいるわけだが、浮動層の反米口調はあまり強くない。
米大統領の身辺警護はアメリカ側の関係者と来訪国の保安機構が緊密な協力の下に大統領の身の安全を保証する。もちろん末端レベルでの保安はその国の保安体制に委ねざるを得ないため、インドネシアの国家警察と国家諜報庁は国威を賭けてその期間の治安維持に当たるわけだ。国内で最近活発化している国家警察88反テロ特殊分団のテロリスト追い込みが続々と大きい成果を上げているという報道を目の当たりにして国民の警察活動への信頼感も高まっており、オバマ大統領のインドネシア訪問で不祥事が起こることはない、との確信を多数国民は抱いている。 コンパス紙が2010年3月10〜12日の間、電話帳からランダム抽出した全国大都市住民687人への電話インタビューで集めた調査回答は次のような内容だった。コンパス紙はこの調査内容が一部国民のセンシティブな感情に触れることを危惧してこれは全インドネシア国民の意見を代表するものではないと断っているが、言うまでもなくこの種の調査はひとつの傾向を示すものでしかなく、全国民の意見を知るのはそう簡単にできるものではない。
質問1.オバマ米大統領のインドネシア訪問を前にして、あなたの居住地域の治安状況に不安はありますか?
回答  ジャカルタとバリの居住者: 不安なし66.9%、 不安あり30.7%、わからない・無回答2.4%
      その他地区居住者: 不安なし76.6%、 不安あり21.3%、 わからない・無回答2.1%
質問2.オバマ米大統領のインドネシア滞在中、国内保安機構が治安を維持できると思いますか?
回答  ジャカルタとバリの居住者: 確信している90.6%、 確信はない7.1%、 わからない・無回答2.3%
      その他地区居住者: 確信している89.5%、 確信はない7.5%、 わからない・無回答3.0%


「暴行される女性は一日に4百人」(2010年4月2日)
女性に対する暴力反対国家コミッションが公表したデータによれば、2009年に公的に取り扱われた事件は143,586件にのぼった。これは2008年の54,425件から大幅な増加になっている。公的に取り扱われた事件が3倍増したのは事件発生が増加したということでなくこれまで隠れていたものが闇を裂いて出てきたということであり、被害を公的に訴え出ようと決意した女性が増加したことがその現象となって現れているのだ、と同コミッション長官がコメントした。
女性に対する暴力あるいは暴行事件のマジョリティを占めているのは家族あるいは知人からの心理的性的なものというパターンで、もうひとつ見逃せないのはコミュニティや行政機構によるものも少なくないということ。また被害者の年齢も13歳から18歳という未成年ブラケットへの拡大が顕著だ。
コミッション長官は特に、モラルやジェンダーに関連して女性に差別的な地方条例が多くの地方で作られ、中央政府から取り消し命令が出されているものもあるというのに取消が行なわれるような兆候は少しも見えない、と指摘して現状を批判した。それどころかそんな傾向はこれまでそのような条例を持っていなかった地方に拡大しており、特定地方で制定された条例を丸写しにしたようなものが既に13地方自治体で制定され、また11地方自治体でも制定へのプロセス過程にある。「他の地方自治体が制定した条例をまねて女性に差別的な条例を定めようとする動きが全国的に拡大している。この問題を解決するには国の権威が示されなければならない。プルーラリズムとマイノリティ保護の精神を前面に押し出した中央政府の強いリーダーシップが求められている。」コミッション長官はそう語って地方行政のジェンダー差別意識改革が急務であることを指摘している。


「利殖」(2010年4月15日)
インドネシア人も御たぶんに漏れず利殖が大好き。金を持てば持つほど、その金を動かして利が利を生む投資を行なおうとする。金をためこんで密かにたくわえておこうとするひとは概してリッチの部類に入らず、つつましやかな暮らしを営み、そして金のたまり具合も牛歩のようになる。大金がしぶきをあげて日々の暮らしを濡らし、周囲にいる人間もそのしぶきにおすそわけを受けて一緒に濡れるというのがインドネシアンリッチの日常行動であり、世間にそのような姿をさらすことで世間から尊敬を受けるようになる。世間から尊敬されることがインドネシア人の人生目標のひとつだから、社会的な評判や地位肩書きはリッチになることのツールとして使われ、それ自体を人生目標にしようとするひとはいない。贅沢のかぎりを尽くす王侯貴族のような暮らしはリッチであればこそ可能であり、だから何をしようが金を手に入れることが最大の行動目標になる。そうして得た金を湯水のようにばらまくことで、かれらの人生目標が実現することになる。他人に対するパワー・贅沢な暮らしの快楽・世間からの尊敬、それらがそこに集中しているからこそ、それが生きることの目標になっているわけだ。このあたりのインドネシア文化の詳述は別の機会にゆずるとして、グローバル経済危機が回復の雰囲気をかなり感じさせるようになってきた昨今、インドネシア人は何を利殖の対象としているだろうか、ということをコンパス紙R&Dが調査した。2010年3月17〜19日に1,097人から集めた回答の集計は次のようになっている。
質問: いまあなたがいちばんやりやすいと考えている利殖は何ですか?
回答: 預貯金30.6%、 土地家屋28.4%、 黄金15.9%、 農業農園産品6.9%、 株式外貨5.7%、 その他3.4%


「自分まで外交官特権を得たように錯覚する運転手」(2010年4月16日)
2009年8月1日付けコンパス紙への投書"Mobil Berpelat Korps Diplomatik Tabrak Lari"から
拝啓、編集部殿。2009年7月18日、わたしはスカルノハッタ空港からジャカルタに向けて車を運転していました。プルィッ料金所で車列について少ししたら、後ろにいた外交官車プレート番号CD15−05のトヨタランドクルーザーが突然車列から出てわたしの前に割り込んできました。外交官車はわたしの車の左前方をこすったあげく強引に割り込んだのです。わたしはクラクションを鳴らしましたが相手は知らぬ顔で、わたしが料金を支払っているときに高速で逃げていきました。
わたしはこの事件を警察に届け出ました。警察はわたしにその外交官車の登録住所を教えてくれ、家族的に解決するようにと忠告を与えました。登録住所は中央ジャカルタ市HI前ロータリー周辺のイギリス大使館です。
7月20日にわたしがイギリス大使館を訪れると、翌朝9時に来るように言われました。翌朝わたしは時間通りに再訪しましたが、運転手には会えません。そのまた翌日わたしは大使館を再び訪れ、大使館の警備をしている警官にこの問題を伝えました。警官は大使館運転手がメガクニガン爆弾事件に関連した業務を行なっているので悪くないと言い張り、論争になりました。するとHI前ロータリーで任務に就いていた婦人警官がやってきてわたしの味方をしたのです。そしてランドクルーザーCD15−05の運転手が呼び出されました。運転手は警察に届け出たわたしを非難しましたが、わたしは反論しました。「当て逃げ被害の届出を警察以外に出すところはあるのか?」と言って。事件の決着はいまだについていません。この当て逃げ事件解決にイギリス首相が乗り出すまでわたしは待たなければならないのでしょうか?[ ジャカルタ在住、ジョン・ロニ・パスカ ]


「社会にあるのは健常者の論理」(2010年4月22日)
2009年7月10日付けコンパス紙への投書"Nenek Tertatih Mengejar Kereta Api"から
拝啓、編集部殿。2009年6月22日、わたしはチレボンからスマランへ長距離列車アルゴブロモアングレッで行く老齢の母を駅まで送って行きました。切符売場で母は老齢者KTPを見せましたが窓口職員は、高齢者割引は1949年以前の生まれに限られると言い、母は55歳以上のカテゴリーに入るのでこの前も高齢者割引で切符を買えたと主張したにもかかわらず割引を与えません。わたしはスラバヤ行きアルゴブロモアングレッのスマランまでの切符を19万ルピアで買いました。ところが列車はなかなか到着せず、チレボン着予定12時2分は13時45分にやっと到着したのです。
わたしは母のために急いで空席を探そうとしました。ところが3号車の扉はふたつとも開きません。他の乗客はみんな4号車の扉から列車に乗り込んでいます。列車は急いでチレボン駅を発車しようとしており、足の運びがたどたどしい高齢の母が列車を追いかけなければならない情景が出現しました。わたしは急いでいたので他の乗客を押しのけて母のトランクを車内に置き、母と同行してスマランへ行かないわたしはまた急いで列車から外に出なければなりませんでした。わたしが列車から降りて1分もしないうちに列車は発車したのです。
公共運送機関である鉄道のこのサービスはどういうことなのですか?乗客の安全に配慮しない行為が行なわれているのです。開く扉が一ヶ所しかなく、列車を追いかけて乗客が転んだら、責任はだれが負うのですか?[ チレボン在住、アニタ・プラスティヨ ]


「電圧が極度に低下」(2010年5月10日)
2009年8月8日付けコンパス紙への投書"Tegangan Listrik Turun, Peralatan Elektronik Rusak"から
拝啓、編集部殿。もうこの二年間、わが家の電気は頻繁に電圧がダウンします。最初は電力容量が1,300ワットで不足しているためだろうと思い、2,200ワットに増量しました。ところが状況は何も変わらず、依然として頻繁にダウンするため、電気製品も使える時間が限られます。わたしはスタビライザーを使ってみましたが、電圧が90Vまで下がるので正規の電圧を得ることはできません。
PLN123やPLNチラチャスにこの苦情を伝えるために何度か電話しましたが、現場チェックに来たことは一度もありません。苦情するたびに「変電所を増やさなければならない。」という同じ言葉をPLN職員から聞かされます。PLN側は変電所を設置するための土地を住民が分けてくれるのを待っているのだ、という言葉も耳にしましたし、中央変電所のトラブルだと言った係員もいます。それらの話は本当なのでしょうか?正常な電圧が得られるまで電力利用者はどれだけ待たなければならないのでしょう。電圧が160V以下だと電気製品が徐々に壊れていくことをPLNは知らないのですか?
変電所増設のために土地をPLNに分けてあげる親切な住民がいなければこの問題をPLNは解決できないのですか?他の住民もこの状態を嘆いており、PLNにクレームの手紙を送っていますが反応はないそうです。利用者が期限内に支払いしないとPLNは電力供給をカットします。ところが供給電圧がひんぱんに低下して利用者の電気製品が壊れたら、PLNはその損害賠償してくれるのでしょうか?[ デポッ在住、スリ・ハプサリ ]


「子供にはバティック業を継がせたくない」(2010年5月15日)
プルーラリズムインドネシア学院が報告したバティック生産者の数は全国で2万人。しかし全国の伝統織物生産者18万3千人に比べれば段違いの少なさ。今インドネシアのバティックはアメリカ・UAE・ドイツ・スエーデン・フランスで人気が高く、それらの国へのマーケティングを積極化すれば輸出量は顕著に増加するだろう、と同学院は奨めている。
ところがそれに反して古い伝統を持つ中部ジャワ州ラスム(Lasem)のバティック生産者の多くは自分の子供が家業を継ぐことを望んでいない。インドネシアプルーラリズム学院が2006年から2009年にかけてラスムのバティック生産者69人に対して行なった調査の中で、家業の世代交代に関するバティック生産者の考え方は、子供には何らかの事業を期待するもののバティック生産者にはなってほしくないという回答が過半数を占めた。子供が家業を継ぐことを望んでいる者は34%しかいない。
質問: あなたは子供にバティック生産者の仕事を継いでもらいたいですか?
回答: はい 34%、 いいえ 59%、 わからない 7%


「2億総白痴化」(2010年5月18日)
2010年2月13日付けコンパス紙への投書"Siaran Televisi Mengepung Relung Hati dan Pikiran"から
拝啓、編集部殿。テレビ放送が四方八方からわれわれを取り囲んでわれわれの思考を操っていることにわれわれ自身気がついていないのです。テレビはさまざまな出来事をかれら自身の論理で構成するようになっており、われわれがそれを純粋に見ようとする機会を与えません。
朝から翌朝までテレビはわれわれとわれわれの子供たちの思考を占領しています。朝子供たちを学校へ行く前にマンディさせようとしても、漫画映画に釘付けにされた子供は動こうとしません。午前の遅い時間になると、セラブリティたちの行為が青少年や若い奥さんたちを魔法の箱の前に釘付けします。日中は犯罪者や政治の悪人たちが行なう暴力や悪事が舞台に登場して観客に呪いをかけます。夜は嫌悪と言い合いが華やかに展開されて数百万人の観客の目を奪います。
ユーモアと付記された番組で愚昧さが実に楽しい見せものにされています。本当のユーモアは自分自身の弱さや愚かさを笑うことであるはずなのに、コメディアンやテレビプロデューサーは他人を賤しめ・侮蔑し・バカにし、果ては他人に暴力を振るうことにその定義を変えてしまったにちがいありません。礼儀知らずな扱いをされて哀しみに涙を流すと、観客はそれを笑うのです。わが国のテレビはそれをユーモアと言い表します。他人を蔑み、傷つけることがユーモアとは・・・。更に結末がどこへ向かうのかわからないシネトロン。出演者は感情を持たず平板でキャラクターが感じられず、おまけにどぎつい化粧で登場しますし、男優は毎日、TPOなどお構いなしにスーツを着用しています。[ ブカシ在住、バンバン・スディオノ ]


「他人の不幸はわがよろこび」(2010年5月19日)
2010年3月27日付けコンパス紙への投書"Tangan Jahil Pelajar di Kawasan Tawangmangu"から
拝啓、編集部殿。2010年1月15日、ソロのカランアニャル(Karanganyar)県タワンマグ(Tawangmangu)での休日を終えてジャカルタへ帰るために車を走らせていたわたしは、カランアニャルの町の目抜き通りで交差点にさしかかり徐行運転していました。そのとき不意にガリガリガリ・・・という音が聞こえたのです。
わたしはおどろいてサイドミラーを見ました。他の車がこすったのかと思ったのですが、ミラーに映ったのはオートバイに二人乗りした灰色の制服姿の男子生徒が笑っている姿です。そのオートバイはすぐに左折して姿を消しました。車を停めてボディを調べたところ、およそ1メートルにわたって何か硬いものでえぐられた深い傷痕がありました。
なんという卑しい精神の子供たちでしょう!カランアニャル一円の地元民は観光客がやってきて地元経済を豊かにしていることにもっと誇りを持つべきではないのでしょうか?路上の物売り、馬曳き、その他大勢の地元民が国内外の観光客から生活の資を得ているのは目に見えている事実です。地元政府は地元民にとっても訪れる観光客にとっても、安全な地元の環境を作り上げなければなりません。観光という面から見ても、地元政府はより大勢の観光客誘致をはからなければならないはずです。観光地タワンマグを管理する役所を含めて。[ ジャカルタ在住、スリ・ハルタント ]


「子供たちに継がせたくないのはあまりにも低賃金だから」(2010年5月22日)
古い伝統を持つ中部ジャワ州ラスム(Lasem)のバティック生産者の多くは自分の子供が家業を継ぐことを望んでいない。インドネシアプルーラリズム学院の調査したところによれば、69人のバティック生産者がその生産活動から得ている収入があまりにも小さいことにそれは起因しているようだ。
バティック卸商は生産者に作らせたバティックを集荷して販売ルートに乗せているが、生産者に対する賃金はとても低いことが明らかにされた。ラスムの69人のバティック生産者がその仕事から得ている一日当たり収入は次のようになっている。
1万ルピア 34%
1.1〜1.5万ルピア 27%
1.6〜2万ルピア 29%
2.1〜2.5万ルピア 7%
2.6〜3万ルピア 3%
元来バティック作りというのは王宮女性たちの余暇活動としての伝統を強く持つものであり、またラスムの伝統バティック生産はバティック業者が農民に農業の片手間仕事としてバティック作りをさせていた歴史もあり、ラスムでは特に生計の資を求めるためのものという考え方が弱い点をインドネシアプルーラリズム学院は指摘している。そのような風土に加えてジャワ人特有のヌリモ精神のために、ラスムのバティック生産者たちはバティック業者に対する賃金交渉をはばかる傾向があるようだ。更に男尊女卑の観念がそこに加わって特に女性生産者に対する賃金がきわめて搾取的になっている、とプルーラリズム学院は分析している。


「母は娘の敵じゃない」(2010年5月22日)
男と女の家庭生活や社会生活における諸問題の紙上コンサルタンティングを行なっている女性心理学者クリスティ・プルワンダリからの2010年4月11日付けコンパス紙でのアドバイスは母親と娘の関係に関するものだった。
大勢の母親が意識的あるいは無意識的に娘に手厳しい批判を行なっているようだ。その結果多くの娘たちが自己嫌悪や自己卑下の感情の中に追いやられて、どうやって埋めればいいのかわからない空白の大穴を自分の中に抱え込んでいる。
多くの娘たちが、自分が選んだ衣服やメーキャップあるいは体型などに関して母親が口さがないコメントを投げつけてくる、と物語っている。「肥りすぎよ、おデブちゃん。」「色黒になるわよ。」「そんな服を着て・・・。」「ちゃんと化粧しなさいよ。」
そしてまた男性との関係についても。「あんな男を連れ歩いて・・・。」「そんなかっこうで、どうやって売れ口を探すつもり?」「いつになったら恋人を作るの?」「あんたがいつまでも結婚しないから、母さんは恥ずかしいわ。」
娘が生きることに悩んでいるとき、少しもそんなことに関心を持とうとしないで両親が(この場合は父親も一緒になって)、娘がもうボーイフレンドと性的関係を持ったことが明らかになったため(それは暴力的に威嚇された可能性があるのだが)ヒーメン検査を行いに医者へ娘を連れて行き、娘の処女が破られたことがはっきりしたため両親が医者に再生手術を要請したという事態に直面して、その娘はバスから飛び降りたいと涙ながらに物語ったようなケース。「娘がもうキズモノになったなんて、だれにも知られたくない。」「未来の婿の両親に顔向けできなくなる。」ヒーメン再生手術なんて欺瞞もいいところだというのに!
娘の心に大嵐を巻き起こす母親もきっと娘をとても愛しているのです。ただステレオタイプの女性観に頭から呑み込まれているだけで。娘たちが反発する母親の上のような言動は、母親が持っている女性観に関わるテーマを赤裸々に示しています。女の役目は男に眺められる対象であり、そして男の性的欲求を満たす対象である、というステレオタイプの女性観がそれであり、母親は娘にその役目をつつがなく遂行できるように期待しているのです。美人・デブでない・男に好かれる・オッケーな伴侶を得る・性的魅力を持ちしかし純潔は維持しなければならない・純潔が穢されたらこの世の終わり・・・・。どうやって娘を保護し力添えを与えてやるかという観念はそこになく、問題が起これば娘は谷底へ落ちていくだけ。
このような母親たちは自分の振る舞いがどれほど娘の自信を押しつぶしているかということにまったく気がついていません。人間は男であれ女であれ、人間としての威厳を完璧な形で評価しなければなりません。肉体的にどうこうと言って貶めるどころか、売れ口があるのないのと商品扱いし、あるいは処女が「壊れた」とか新品だとか言って品物扱いするのはそれに反することです。そんなレッテルを外部の人間が貼っても痛みは深くないでしょうが、自分の親が、情緒面で庇護の源泉となるべき親が、そんなことをしたなら、心の痛みはきっと年老いるまで癒えることがないにちがいありません。
母親は自分を愛しているのだがどうやったらいいのかわかっていないのだという理解を娘が持てれば、娘の心の痛みはもっと上手に処理できるでしょう。きっと母親は娘時代にもっと厳しく男のための女という女性観を要求されたにちがいありません。母親の観念はそんな価値観に支配されており、美人で男に求められ、男に尽くす一生が女の幸福の源泉であると信じているため、娘がそんな女のあり方に失敗するのが心配でならないのです。
母親が娘のあら探しをしているということでなく、母親がこれまでにその母親や夫や周囲のさまざまなひとびとから蒙ってきた痛みを娘に繰り返させたくないという思いでそうしていると受取ることができるなら、母と娘の関係はもっと明朗なものになるでしょう。最後に、親はそして今後親になるひとは、子供に対してネガティブな表現を避け、ポジティブな言い方で批判や指導ができるように努力してください。それが子供の精神の成長に清涼で健全な形をもたらすにちがいありません。


「ラスムのバティックは中華風」(2010年5月29日)
2百年以上前から中国商人たちがジャワ島北岸部にやってきた。中でもラスム(Lasem)はやってきた中国人の数とその近辺に住んでいたジャワ人の数がたいへんアンバランスになり、まるで中国人のコロニーのようになったらしい。最初は男ばかりがやってくるからジャワ女性と交わってプラナカン(peranakan)と呼ばれる混血の子孫を作ったが、時代が下がってくると中国女性もやってくるようになり、混血でない子孫も作られるようになる。
19世紀半ば頃にはバティック生産が盛んになり、中国文化の影響を受けて鳳凰や麒麟あるいは蝶などの図柄がバティック布の上で踊ったためにユニークさでもてはやされるようになる。ラスムのバティックは黄金時代に突入して1970年代ごろまで栄華の時代が続いた。
ラスムの印華系住民の家を訪問すると、木製の大きな扉には龍の彫刻、先祖の遺骨遺灰をしまってある壇など中国文化の深い遺産を目にすることができる。更に豪壮な複数の建物が並ぶ中にほとんど必ずと言っていいほどバティック工房があることに気付く。ラスムの印華系大人はたいていバティックをも商い、近郷の農民を集めてバティックを作らせていた。農民たちは田植えや穫り入れの時期を外してその賃仕事を行なったが、農閑期の片手間仕事ということで報酬は小さかった。このシステムは低コストではあったがバティック販売者の売値に反映されず、人気があるため品物は高価だった。さらに農繁期になると生産が安定しないという性質を持っていたことがラスムバティックの弱点になった。
中国人がメインを占めるバティック業者は1970年代ラスムの町に140軒あったが、2005年にはわずか8軒にまで落ち込んでしまった。その原因は数々ある、と地元業界者は指摘している。意匠にクリエーティブさが見られないことがまず第一に上げられる。バティック生産者は昔からのデザインに従うだけで、新風を吹き込む力がない。生産者は大半が高齢者であり、既存のデザインをどのように発展させればいいのかがよくわからない。そしてもっとも大きい原因はバティック作りが次の世代から見放されてしまっていることだ。いまラスムのバティックを作っている生産者の子供たちは中学・高校を卒業してからそれなりの収入がある仕事に就こうとしてラスムを出て行く。加えて全国的に手描きバティックの命運をあやういものしたスタンプ式やバティック風布地の台頭によって、一枚数十万ルピアの手描きバティックに対して数万ルピアで対抗してくるそれらの攻勢にラスムのバティックが押されるようになり、1998年の通貨危機でほとんどが輸入品である原材料の価格が高騰してバティック生産がしばらく行なえなくなるという事態に至り、今やラスムバティックは青息吐息のありさまだ。


「死者の崇りか?」(2010年6月2日)
中部カリマンタン州カプアス県クアラカプアスのジャワ通りにある墓地が荒らされるようになったため、クアラカプアス警察は墓地の夜間監視を開始した。墓地が荒らされるといっても往年のように墓を掘り返して副葬品を盗むという荒らし方でなく、墓碑が壊されたり引っこ抜かれたりといった狼藉が行なわれるだけで、さすがに埋まっている遺体が掘り返されるようなことはない。
それまでもう三回もそんな狼藉が行われたため、警察は意地でも犯人を捕らえようと毎夜交代で複数の捜査員が墓守を行うことになった。そして5月19日の夜、捜査員はついに数人の人影が墓地に忍び込んでくるのを目撃したのである。5人ほどの人影が墓地の中で墓碑に手をかけてゆすりはじめたため、捜査員は物陰から躍り出て懐中電灯の光を人影に向けた。光の中に驚いて目をパチクリしている若者たちの顔が浮かび上がった。
アルコール臭い息を吐きながら肝っ玉を縮み上がらせた5人の若者を捜査員は署に連行して取り調べた。5人は22歳ひとり、20歳ひとり、18歳ふたり、15歳ひとりという青少年たちで、墓地を荒らした理由はなんと肝だめしだったそうだ。20歳の男は27ヶ所、18歳のひとりは15ヶ所でもうひとりはたったの2ヶ所、15歳の少年は8ヶ所の合計52の墓に乱暴狼藉を働いた。22歳のリーダー格はひとつも壊していないそうで、この男に対する処罰に何を適用しようかと警察は検討している。それにしても死者の崇りに挑戦したはずのこの肝だめしが生きている官憲の処罰を招いたのをかれらは予想外のこととして驚いたのだろうか、それとも死霊の復讐がそんな形を取ったのだと恐れ入ったのだろうか?


「インドネシアは法治国家でない」(2010年6月3日)
2010年4月14日付けコンパス紙への投書"Menabaikan Keadilan demi Uang"から
拝啓、編集部殿。インドネシアは法治国家であり、法のために法が確立されなければならない。インドネシアで法曹関係者や法律専門家は常にそのようなことを言っている。だから意識するかしないかは別にして、法治の確立のために法曹関係者は公正さを後回しにする根拠を持っているのである。
その目的は明らかだ。つまり自分たちの経済的利益である。中でも明白な証拠はプリタ事件・カカオ事件・スイカ事件であり、法曹マフィアのアレンジで何十人の汚職者が無罪にされてきたことか。確立されなければならないのは公正さであり、法はそれを実現させるためのツールなのだ。だから法曹機関には公正(訳注:裁判所はpengadilan)という名称が用いられており、処罰(penghukuman)機関(訳注:hukumは法)と呼ばれていない。
インドネシアは法に基づく国でなくパンチャシラに基づいている。だから「神の名において・・・」と宣誓するすべての法曹関係者は、あらゆる考えや計画、精神や決定が常に神の知るところであるのを悟らなければならない。ところが金に関する話になったとたん、かれらはすぐに無神論者のようになる。
パンチャシラの第一項「唯一神への信仰」と第二項「公正で文化的な人道主義」を思い出せ。パンチャシラはすべての法曹関係者にとっての規範であり、もちろん現行法規もそうなのだが、法律のどの条項であれ行き着くところは公正さであり、法はその目的のためのツールなのである。[ スマラン在住、イスマグン・ノトサプトロ ]


「ラスムのバティックは鶏血赤」(2010年6月5日)
バティックラスムを特徴付けている最大のものはまず赤い色。この赤の色調は他の地方で決して真似のできないものであるため、その色を見ればひとはラスムを思い浮かべる。バティック専門家は、ラスムの水が含んでいるミネラル質のせいで他地方では出せない赤色がラスムに生まれたのだろう、と語っている。この赤色はラスムでgetih pitikと呼ばれており、インドネシア語にすればdarah ayam(鶏血)となる。ラスムのバティックの最大の特徴がそのmerah darah ayamで、ラスムの業者はそれぞれが自分独自の鶏血赤を持っているそうだ。
ラスムのバティックは色使いを重視する。赤色のバティックはアバガン(abangan)、青はビロン(biron)、黒はイルガン(irengan)、赤と青はバンビロン(bang-biron)、赤青ベージュはティガネグリ(tiga negeri)、赤青ベージュ紫はンパッネグり(empat negeri)など独自の名前で呼ばれている。伝統的なバティックラスムは赤青緑をもっぱらにしていたが、最近は他の色も自在に取り入れられている。
色は天然素材が使われた。ムンクドゥからは赤色が作られ、青はインディゴから取られた。
バティックは使われる色と描かれるモチーフがその個性を決める。ではバティックラスムの特徴的なモチーフは何だろうか?ラスムはジャワと中国の文化を色濃く受け継いでおり、動植物が頻繁に登場する。動物は鳳凰・龍・麒麟・野鶏・鯉・鹿・こうもり・蝶・亀・蛇・エビ・カニ、植物は菊・蓮華・牡丹・マグノリア・桜・竹など中国文化を感じさせるものが多い。またジャワ文化からきたものとしては、自然界を描くスカルジャガッ(sekar jagat)、クンドロクンディリ(kendoro kendiri)、うろこ模様(gringsing)、小石模様(kricak/watuh pecah)、、つる模様(lunglungan)、ヤシの葉模様(kawung)、クリス模様(parang rusak)などがあげられる。


「隙があればすぐにつけこむひとびと」(2010年6月10日)
2010年4月8日付けコンパス紙への投書"Pemutusan Aliran Listrik Bisa Negosiasi"から
拝啓、編集部殿。2010年3月4日、タングランのPLNクレオチルドゥッ支所からその協力会社であるPT SRのRSとMというふたりの職員がわが家を訪れて妻に会いました。わたしは会社に行っているため不在でした。そのふたりは暫定給電停止命令書を示して、電気を止めると言いました。
さらに付け加えて、PLNクレオチルドゥッ支所に10万ルピアを納めるか、あるいは自分に2万5千ルピアを渡せば、給電停止は取り消されるとも言います。わたしが2010年2月の電力料金支払を怠っていたのは間違いありません。PLNクレオチルドゥッ支所にその問題を確認したら、一ヶ月の滞納は暫定給電停止命令処分だけであり、封印されるが電気は止めない、と言われたのです。そして滞納罰金は3千ルピアでそれは2月使用料金に追加されているとのことでした。なので2月使用料金を支払うだけで他の費用は一切なく、また電気を止めることもないという話だったのです。
ところが電気を止めにひとがやってきたので妻は怖くなり、おまけにやってきた人間が妻を怖がらせるようなことを言って圧迫したようです。その出来事は人を惑わせる詐欺行為に該当します。PLNはプロとしての行動を取り、下請会社に仕事を投げるだけで責任を放棄するようなことのないようにしてください。[ タングラン在住、エディ・ストリオノ ]


「鈍色の人生」(2010年6月11日)
南タングラン市ラワボゴルの住宅密集地区で、警官が住民に写真を見せてその人間を知らないかどうか尋ねて回っていた。居合わせたサカッ38歳もその写真を覗きこんだ。それは30歳くらいの婦人の死体で、そこから10キロほど離れたチトラガーデン住宅地の空き家で見つかったという警官の説明が耳に入ったか入らなかったか、写真を食い入るように見つめるサカッの顔色が変わっていた。唇を震わせながらサカッは警官に尋ねる。「その死体はいまどこに・・・?」
「チプトの遺体安置室だ。」
「ひょっとしたらうちの娘かもしれねえ。おまわりさん、その死体を見せてもらえねえか?」
警官はすぐにサカッの依頼に応じ、署に報告してチプトマグンクスモ病院での遺体検証のアレンジを頼んだ。
サカッの予想通り、その遺体は長女サディア15歳のもので、額の形や足首のタトーが判別の決め手になった。サディアは大柄で肥満体だったから、警察は死体の年齢想定を誤ったようだ。きっとサディアは少女という雰囲気を他人に感じさせない少女だったのだろう。
遺体の身元が判明したので、チプトマグンクスモ病院はさっそく検死解剖にとりかかった。変死体は検死解剖が行なわれることが法規で定められている。
サカッの話によれば、サディアが家を出たのは5月29日で、それまで何度も1〜2日家に戻らないことがあったために家族は29日以来帰宅しないサディアをあまり熱心に探さなかった。三日も四日も帰宅しないサディアに心配して家族が本気で探し始めた矢先に父親が警官から写真を見せられたという偶然が、サカッ一家にしてみれば不幸中の幸いだったかもしれない。
サディアは中学1年を終えてから学校へ行くのをやめて家でブラブラするようになった。両親はサディアに、あまり外を出歩かず家にいて家事でも手伝うように、と意見したものの効果はなく、「携帯電話を2個買って欲しい」とサディアがねだるので親の言いつけをまもるようにと約束してそれを買い与えたものの、数日後にサディアはその携帯電話2個を売り払ってしまった。そしてもっと最新型のものを買ってくれとねだったため、サカッは借金してまで娘の言うことを聞いてやった。それでもサディアの素行はなおらず、そして29日の最期の外出時にはその携帯電話を家に置いていったため、帰宅しないサディアとの連絡はまったく途絶えてしまったのである。
5月30日、チトラガーデン住宅地の空き家に女の死体があるという住民からの通報を受けて首都警察カリドレス署はアイデンティティのない中年女性と見られる遺体を収容した。そして警官が遺体の写真を手に発見場所周辺地区を聞き込みに回っていて偶然死者の父親に遭遇した、というのがこの事件解決の糸口になった。検死報告によれば、遺体に暴力をふるわれた形跡がまったくないとのことで、警察はアルコール過剰摂取による急性死ではないか、と死因を推測しているが、サディアの最期に居合わせた人間がいたことを示す徴候があることから、その人間を探し出して証言を求めた上で捜査を完了させることにしている。


「バティックラスムの影響」(2010年6月12日)
20世紀はじめ頃まで、ラスムのバティックは黄金期を謳歌していた。ジャワ島外へのバティック供給者としてラスムは常に上位の位置を占めていた。バティックラスムに人気があったのは、モチーフがユニークだったことに加えて色調が優美だったことが大きく貢献している。インドネシアを代表する服飾デザイナーのイワン・ティルタは、ラスムはジャワの東部に位置しているにもかかわらず、西ジャワのチレボンやインドラマユのバティック模様に近い、と評している。
ともあれ、バティック界の有力者だったラスムはその後を追うあちこちのバティック生産地に影響をもたらした。bang-biru tiron Lasem(ラスム風赤青)という言葉はラスムの意匠を真似たほかの地方で盛んに使われた言葉だ。20世紀はじめごろ、ヨーロッパ製人工染料がインドネシアに入ってくるようになって、チレボンのバティック業者はラスム風の生産量を増やした。
人工染料が渡来するまで、各地のバティック生産者は天然の素材から得られる色素を用いて布を染めた。ジャワ島北岸部で最初に使われたのはインディゴで、藍のさまざまな色調が使われ、赤が加えられてベージュまでのグラデーションが生まれた。それぞれのバティック生産地は色作りの工夫を凝らし、発見した作り方は固く秘匿した。同じ植物から取り出した色であっても、各地方の土壌や水の差が微妙に色調に反映され、それが各産地の色の特徴を生み出す。ジャワ島北岸部の塩分と鉄分の高い水が同じムンクゥドゥから採れる赤の明るさを異なるものにしたようだ。その地方別バリエーションの中でラスムの赤がもっとも優れていたということだろう。
ラスムのバティック業者は他の地方で作られるバティックのモチーフから影響を受け、ラスムで作られたバティックが今度は他の地方のバティック産業に影響を及ぼすという関係が長い年月の間に行なわれてきた。ラスムのモチーフはスマランのバティック生産者が蔓、大型蝶、コウモリ、ゴクラクチョウあるいは鳳凰などを布のメインモチーフに使うことを促した。ラスムの意匠は伝統工芸品として他のバティック産地に影を落としている。


「公共サービスはまあこんなもの」(2010年6月12日)
2010年4月10日付けコンパス紙への投書"Telepon Pusat Layanan Masyarakat Tidak Merespons"から
拝啓、編集部殿。2010年1月15日23時ごろ友人から電話があり、自宅にデットコレクターがやってきて強引に家の中に押し入り、資産売却委任状にサインせよと迫っている、と言ってきました。友人は外出先から電話してきたのですが、自宅にいるのは女中と一番下の子供だけだそうです。わたしは友人に、112番に電話して警察を呼ぶよう奨めました。ところがほんの三分後に友人は、112番は連絡がつかない、と言ってきたのです。わたしは信じられなくて自分で112番に電話してみました。すると録音された声が聞こえてきました。「おかけになった電話番号はしばらく通じません」。
わたしはテルコム108番の電話番号案内に警察サービスセンターの別の電話番号を尋ね、110番に電話するようアドバイスをもらいました。ところが110番も112番とまったく同じ、テープの声が同じ言葉を流し続けています。わたしは西ジャカルタ市警察本部に電話してみました。5回もかけましたが、電話は一向に受けてもらえませんでした。友人は結局、翌日に首都警察本部を訪れて援助を得ることができましたが、妊娠6ヶ月の身重な身体で心身の消耗を強いられたのでした。
およそ1ヵ月後の2月12日22時、姑が夫に電話して来ました。舅の容態が悪くなりベッドから起き上がれないと言うのです。わたしは113番の救急車サービスセンターに電話しましたが、電話を取る人がだれもいません。それでわたしは118番の消防車救急車合同サービスセンターに電話しました。やっと電話を受けてもらえてほっとしたにも関わらず、10分間ほどうだうだといろんな質問をしたその担当者は最後に言いました。「いま救急車は全部出払っています」。[ 南ジャカルタ市クバヨランバル在住、アルマイダ ]


「ワールドカップ」(2010年6月16・17日)
2010年6月11日に始まったサッカーワールドカップは7月12日まで続けられる。インドネシア人はサッカーをbola(ボール)と呼ぶ。元々サッカーの正式なインドネシア語であるsepakbolaが略されて習慣的にそう呼ばれるようになったはずなのだが、いまやマニアックなサッカーファンに満ちているインドネシア民族にとってサッカーが球技の代名詞になっているような印象をそこから受けるのはわたしだけだろうか?他の球技はたとえばバスケットボールはbola basket、バレーボールはbola voli、ハンドボールはbola tanganなどとbolaという言葉がついているものの、bolaとだけ言っても混乱が起こらないのはサッカーが桁違いの人気球技だからだろう。ちなみにベースボールはbisbol、ソフトボールはsofbolとインドネシア語化されており、インドネシアで普及した時代の差を感じさせてくれる。
さて、ワールドカップだが、サッカーゲームの本場である西の方の国々で開催される試合が実況中継されると、インドネシアではたいてい深夜から翌日の朝という時間帯になる。インドネシア人のマニアックさは、それを徹夜で見ているひとが大勢いるという点に見出される。たとえ翌日が出勤日であってさえそうだから、ワールドカップがある年はまるでプアサが二度やってきたかのように会社や工場の経営者たちは感じているにちがいない。nonton bareng(連れ立って見物)というインドネシア語はこの時期あちこちで流行語になる。商魂たくましいナイトスポットはテレビの実況中継を大型スクリーンに投影して客の来店を誘い、深夜営業で売上を稼ぐ。自宅で妻子が寝静まった夜更けにテレビの音量を気にしながらひとり見物するよりも、同好の士が大勢集まっているノントンバルンに加わって、シュートが決まればみんな一斉に歓声をあげるという興奮の渦に浸るほうが楽しいにはちがいあるまい。
そんなサッカーマニアでいっぱいのインドネシアでは、みんながたいていごひいきチームを持っている。今年のワールドカップでも、フランスは選手にだれがいてどうの監督がだれだからどうの、ブラジルはどうのこうの、とみんながいっぱしの解説者のような口をきき、どの国を応援し、どの国が優勝するだろう、という下馬評も盛んに飛び交う。で、そのごひいきがこうじて応援チームの国旗や名前入りTシャツを着るのはまだビアサだが、バリでは巨大な国旗を作って家の表に掲げているからマニアックのきわみとしか言いようがない。総選挙のときに島内を彩った巨大な政党旗が、今度は外国旗に姿を変えたようなものだ。
日本では国際儀礼に関連して国旗掲揚の常識を外務省が指導しており、外国旗だけを掲揚してはいけないそうで、インドネシアでも1958年政令第41号で国民はインドネシア国旗と一緒に掲揚されるのでなければ外国旗を掲揚してはならないと定められているが、バリ人マニアたちはそんなことにお構いなし。きっとナショナリズムNGOが騒ぎ立てなければ誰も重い腰をあげようとしないのだろうが、バリにナショナリズムNGOがいるのかどうか・・・?
さて例によって、コンパス紙R&Dがワールドカップに関する統計調査を行った。2010年6月9〜10日に集められたデータによると、ワールドカップに関心を払っている女性は男性の半分という結果になっている。
質問)2010年ワールドカップに関する情報にあなたは関心を払っていますか?
回答)男性: はい67.3%、いいえ30.7%、不明・無回答2.0%
    女性: はい36.5%、いいえ58.2%、不明・無回答5.3%
質問)情報を得る媒体は何ですか?
回答)テレビ87.3%、新聞8.3%、タブロイド2.2%、ラジオ1.7%、雑誌0.5%
質問)テレビで試合を見る予定ですか?
回答)ライブ放送30.6%、録画放送8.9%、ライブと録画の両方7.2%、状況次第17.5%、見ない22.1%、不明・無回答13.7%


「バティックの産業化は19世紀後半に」(2010年6月19日)
ヨーロッパ人のプラナカン(peranakan)バティック業者はバティック生産にこれまでインドネシアで行なわれていなかった生産管理の手法を持ち込んだ。ジャワ人バティック生産者の手描きバティック作りを自ら監督し、生産効率を測定し、仕上げを評価し、コストのロスを抑え、さらには自らがデザインをして生産者を単なる作業者に変質させるといったことがそれだ。作り上げるスピード、仕上がった布に失敗した線がないかどうか、ロウの消費具合はどうか、無駄に捨てられたロウはないか、作業者がいい加減な柄を描いていないかどうか、その出来不出来で生産者に罰が与えられた。さらに業者自身が販売業者や消費者と直接接することによって、たいてい金持である消費者の希望に応じたデザインをみずから描くようになり、バティック生産者の自分で構図を考えながら制作するという習慣を消し去ってしまった。
その生産管理手法を中国系やアラブ系プラナカンバティック業者が真似た。ラスムでも大半の中国系バティック業者がその手法を取り入れた。19世紀半ばごろからジャワ島北岸でバティックの産業化が進むようになり、バティック業者が生産者を取り込んで専用の制作を行なうよう方向付け、作られたバティック布には業者が名前のイニシャルを入れさせた。今で言うブランドが付けられるようになったわけだ。産業化によって生産量・販売量・消費量が一斉に増加するようになると、ラスムのバティック業者はそれまでの生産者が作品を持ち込んで売ってもらうという関係から業者が生産者にオーダーして作らせるという関係に変質した。生産者に前金を渡して作らせた布を回収する。この方式によって生産者は特定の業者に拘束されるようになり、究極的にその生産者は業者のバティック工房で生産にいそしむ工場労働者に変質していった。こうしてバティック業者の職人囲い込みが実現したのである。
そして時代の変遷とともに手描きバティックの市場が縮小し、ラスムのバティック産業が低迷期に入ると、特定バティック業者の専用職人になったバティック生産者は収入が激減し、それまで過ごしてきた仕組みの中から抜け出せないまま、この仕事は子供に継がせたくない、という心情がかれらの間に広がって行ったのである。


「ダンサー探しはソロへ行け」(2010年6月19日)
スラカルタインドネシア芸術学院舞踊科。元々はソロ王宮を中心としたジャワの伝統舞踊を後世に伝えるための教育機関として発足したこの学科が、いまや全国的な音楽産業の重要な担い手になっている。需要の小さいジャワ伝統舞踊パフォーマンスで、ということでは決してない。圧倒的に需要の高い音楽ステージショーやミュージカルドラマなどで必要とされるダンサーやコレオグラファーまでもがそこから供給されている。「ダンサーが必要ならソロへ行け」がいまやステージプロデューサーたちの合言葉になっている。
同科教員のひとりは、そこで目を見張るような転換が起こったことを述懐する。かの女は1994年、そこがインドネシア芸術高等学校という名前だったときに入学し、卒業してからそこでの教官生活を続けてきた。元々ジャワの伝統舞踊を学ぶことを目的に全国から集まってきた学生たちだが、フォーマル教育機関である以上成績は厳格に採点される。クパンやカリマンタンから来た学生がスラカルタスタイルのスリンピ舞踊を地元の娘たちと同じレベルで舞えなければ落第してしまう。それでは可哀想だという考えが徐々に広がり、カリキュラムの幅が広げられる方向性が生まれた 伝統芸能の教育は、現在存続しているものを完成されたものとしてそれを教育訓練することを主眼にしているため、芸そのものに発展性を持たせることが難しい。一方現代舞踊教育はそのような心的規制から自由であり、さまざまな新しい要素を旺盛に取り入れて行く。この学科がジャワ伝統舞踊一辺倒の枠を取り払おうとしたとき、学生たちは賛否の二派に分かれて論争した。それはそうだろう。ジャワ伝統舞踊を身につけたくて入学した学生が、それとは直接無関係の教科で単位を取らなければならなくなるのだから。しかしソロ伝統舞踊教育校としての性格は、より広範な総合的舞踊芸術教育機関というコンセプトに道を譲る宿命にあったようだ。
そんな学校側の変化によって、入学する学生の求めるものも拡大した。いまや学生たちの雰囲気は、十年前に比べてファッショナブルで垢抜けしており、女子学生たちの大半が背が高くてスタイルがよい。そこにショー産業が寄り添ってきた。昔は学外からのジョブ募集は母の日や教育の日のアトラクションとして伝統舞踊を舞うくらいだったというのに、2006年にロンドンでの興行のためにステージダンサーをソロで募集するということが起こり、そのオーディションを受けた学生たちが採用されてヨーロッパに向かった。かれらはその仕事で月給2千万ルピアを得たそうだ。
そんな状況はどんどん深化していった。学生たちは契約書に通暁するようになり、学外のあちらこちらでジョブをこなす機会が増加した。いまやスラカルタインドネシア芸術学院舞踊科は学院内でもっとも華やかな学科であり、全国的に見てもこの分野で肩を並べるところは他にない。15人もいるコレオグラファーと大勢のダンサーたちが、いまでは全国各地で催されるフェスティバルやステージイベントを支えている。バリで開催された国際パフォーマンスアートマートに出演したダンサーはスラカルタ芸術学院の学生で占められた。「スラカルタ芸術学院のバリフェスティバルね」とかの女たちは言い合ったそうだ。


「貧困者向けは値上げなし」(2010年6月28〜30日)
2010年下半期に予定されている電力基本料金改定を前にして6月15日、政府と国会は改定内容の協議を行って合意した。一般家庭小口需要にあたる契約容量450〜900VA顧客は値上げ対象からはずされ、契約容量6,600VA以上の需要家も30%以上節電を行なえば旧料金が適用されることになった。
それら以外の電力料金はさまざまな率で値上げが行なわれる。社会施設10%、一般家庭18%、ビジネス12〜16%、工場6〜15%、政府機関15〜18%、電車9%、アパートメント15%、マルチパーパス20%というのがその詳細。
たとえば一般家庭でこれまで134,000ルピアを毎月払っていた1,300VA契約顧客は2万4千ルピア、240,000ルピアを払っていた2,200VA契約顧客は4万3千ルピアほど月々の電気代支払がアップするだろうとのこと。
450〜900VA契約家庭が貧困層として値上げ対象から除外されたことは、貧困という言葉がいかに実体から離れてひとり歩きしているかを示す好例だと識者は批判する。PT PLN代表取締役によれば、貧困カテゴリーに属すとされる家庭でも一軒の家屋に最大5個の電燈をつけ、テレビとVCDプレーヤーを持ち、炊飯器とアイロンを交代で使い、おまけに小型扇風機まで持っている、とのこと。代表取締役は更に、これまでも電力料金値上げの話が出ると一部国会議員の中に必ず貧困庶民の生活を守ることを旗印に掲げて値上げ反対を唱える一派が登場し、PLN社内の汚職撲滅・コスト削減・値上げ絶対反対を叫んで計画をつぶしにかかることに苦情を呈した。「それほど貧困庶民を救いたいなら、450〜900VA契約者はすべて無料にすればよい。それによってPLNが失う収入は1.5〜2兆ルピアだ。その見返りに他の契約者は実質電力コストに見合う経済価格を適用させてもらえさえすれば、PLNには15兆ルピアの増収が入ってくる。」
経済オブザーバー、ファイサル・バスリは、電力料金補助金問題で政府と国会が貧困者と定義付けているのはいったいだれのことなのか、と疑問を投じる。
2010年改定政府予算で電力料金に対する補助金を55.1兆ルピアに抑えるために電力基本料金値上げが行なわれる。値上げしなければ補助金支出が59.9兆ルピアになると計算されているからだ。そのため諸カテゴリー契約者に対して6〜20%の範囲で値上げがなされ、平均10%アップすることで補助金を予算内に抑え込もうと考えているが、値上げ対象外にした450〜900VA契約者の電力消費量がアップすれば補助金予算をオーバーする可能性は高い。政府と国会はたいへんヒロイックなその方針を決めたが、それはほんとうの貧困者対策とは言えない。450〜900VA契約者はほとんどが一般家庭で、補助金の40%がその階層のために使われている。
しかしインドネシアの貧困層は三分の二が農村部におり、農村部の電化普及率は20%にすぎない。つまり本当の貧困層は電気の恩恵にする浴していないのだから、電力料金支払の場における補助金というのはかれらにまったく無縁のことがらだ。政府と国会がそんな補助金についてどうのこうのと言い募っているかぎり、ほんとうの貧困者はいつまでたっても闇の中に置かれたままだ。
国民への電化普及を推進するのが本当の貧困者対策であり、補助金をだれに向けるかというのはピントがずれている。ところがPLNが赤字を続けているため電化普及拡大の資金裏付けが持てず、政府の予算に頼らざるを得なくなっているにもかかわらず、その面での政府予算は年々絞られるばかりであり、今年は年間で2兆ルピアしかない。PLNが自力で借入を起こそうにも、財務体質がそこまで不健全になっていればそれもおぼつかない。だから政府はPLNにもっと自治権を与えるべきだ、とファイサルは言う。PLNの財務体質健全化が第一優先であり、そのためにある限度内で電力料金を自由に決めることを認めるべきだ、とかれは提案している。現在の電力生産コストがkWh当たり1千ルピアであるなら、料金ベースとなっているkWh当たり650〜700ルピアは倍増されて当然ということになる。
ところで、電力供給クライシスたけなわのころ、供給者側が割り当てた電力消費量をオーバーした工場はオーバー分にマルチパーパス料金が適用されたため、PLNは産業界から轟々たる非難を受けた。そのマルチパーパス料金は7月1日からさらに20%アップする。ただし悪評ふんぷんだった工場向けマルチパーパス料金適用は既に廃止されたので、工場側は心配しなくともよい。
PLNのマルチパーパス料金は今後、パーティ・コンサート・展示会など不定期の催し物に対してのみ適用されるようになる。現在の料金はkWh当たり1,380ルピアでコストを十分にクリヤーしており、7月1日からはそれが更に20%上昇する。このマルチパーパス料金は消費されればされるほどPLNに利益が増加するものであるため、PLNは供給可能な範囲で消費量は制限なしという扱いにする方針にしている。


「バンドンで西ジャワバティックフェア」(2010年7月3日)
2010年7月3日4日の二日間、バンドンで西ジャワ地方のバティックを集めたGelar Batik Jawa Baratが開催される。この展示会は西ジャワ州コペラシ中小零細事業局とアレナクルトゥラルウニヴェルサルが協力して開催するもので、西ジャワ州の5大バティックセンターから古典バティックと現代バティックの作品が集められる。
西ジャワ州の5大バティック産地とはチレボン(Cirebonan)、インドラマユ(Dermayon)、ガルッ(Garutan)、チアミス(Ciamis)、タシッマラヤ(Tasikmalaya)。西ジャワ州の全バティック生産者とクリエーティブバティックアーチストを糾合して開催されるこの展示会では、モダンでクリエーティブな作品も多数出品されるだろう、と主催者が語っている。


「憎しみ骨髄の同業者」(2010年7月3日)
2010年5月5日付けコンパス紙への投書"Warung dan Saudara Bekas Kapolda"から
拝啓、編集部殿。1986年にわたしは安全・快適・平穏なブカシのポンドッチクニルインダ住宅地に移り住みました。ワルンイブも単なるレストランだったので、宗教の勤めを厳粛な雰囲気の中で行なうことができました。そのレストランは2003年に開業したのです。ところが安全・快適・平穏な雰囲気は次第に乱されるようになりました。
元々はレストランだったそのワルンはカラオケとビリヤード場に変貌したのです。カラオケは夜中までとても騒々しく、その苦情をRT(隣組長)とRW(字長)に訴えましたが、そのワルンのオーナーは元首都警察長官の兄弟だということで、たいした措置は取られませんでした。RWはかつてワルンイブで徹夜の誕生パーティを開いています。
環境騒音問題に関して地元民、中でもガルーダ?通り住民は、夜中までうるさいワルンの営業活動をストップさせるか、もしくは営業時間を制限させることを支援してくれる行政機関があるのかどうか、それを尋ねたいと希望しています。[ ブカシ在住、オマル・バシャ ]
2010年5月8日付けコンパス紙に掲載されたワルンイブオーナーからの回答
拝啓、編集部殿。オマル・バシャさんの2010年5月5日付けコンパス紙に掲載された投書について、次の通りお知らせします。
ワルンイブは2005年8月13日にブカシのラヤ・チクニル通りにオープンしたレストランで、開店以来カラオケの営業を行なったことはありません。行なっているのは音楽生演奏(オルガントゥンガル)で、それも22時半には終了しています。別の事業者と提携してビリヤード場を併設したのは事実ですが、2009年中盤にビリヤード場事業は閉鎖しました。提携相手が合意した事業許可手続をいつまでたっても行なわなかったからです。
わたしが調べたところでは、オマル・バシャさんは確かにワルンイブの近くに居住されています。そしてその場所でアゴラレストロコーナーというワルンイブと同種の事業を行っています。つまりオマル・バシャさんは同業者に向けて不健全事業競争にあたる誹謗中傷デマを行なったのです。[ ワルンイブオーナー、リアナ・ハルタティ ]


「夜に飼い犬を放すのは何のため?」(2010年7月7日)
ジャカルタで住宅地内の戸建家屋に住んでいると、夜に家の表を往来する犬の多さに気がつく。どうやら地区内で犬を飼っている家が夜な夜な犬を家の外に放しているようだ。最初は一日つながれていた犬を放してやって自由に運動させているのかと思ったが、田舎の村へ行ったときも村人たちが同じようにしているのを見て、夜に犬を放すのは村の中の自衛警備の一貫として行なわれていることだなと思うようになってきた。稠密なジャカルタで田舎の村にいたときと同じ行動を取る必然性がよくわからないが、ジャカルタは巨大カンプンだという言葉が多分それを説明しているのだろう。
夜に犬を放す習慣はずっと古い昔から行なわれてきたことなのだろう。イスラム化した地域では悪魔の使いとされる犬が追放されたかというとそうでもない。たとえばイスラム原理主義運動を起こした西スマトラのパドリ衆は地方首長を中心とする迷妄ムスリムへの武力闘争を開始し、それがパドリ戦争に発展してオランダ植民地政庁と戦火を交えたわけだが、そんな歴史を持つ敬虔なムスリムの多い西スマトラでもいまだに多くの猟犬が民衆に飼われており、いのしし狩りのときには先頭を切って野を駆ける。
地方の村というのはよそ者への警戒心が強い。インドネシア語を学ぶ外国人は英語のforeignerに当たるインドネシア語をorang asingと教えられるが、よそ者をインドネシア人はorang asingと呼んでいる。その事実から、オランアシンはむしろ英語のstrangerに近い響きを持っていることがわかる。それはともあれ、夜中に村に入って来ようとするよそ者を恐がらせて村内に入れないために犬を放しているというようなナイーブな話ではない。多少ともそんな効用がないわけでもないだろうが、猛犬を巧みにてなづける悪漢がひとりやふたりでないのは世間周知のことだ。夜の村に犬を放すのは、ひょっとするとバビゲペッのような怪異に備えるためというのがメインの理由ではないかという気がするのだが、その辺りの事情に詳しい方から是非お話をうかがいたいものである。
さて、東ジャカルタ市チャクンバラッで、夜に犬を放していることが人ひとりの生命を失わせる結果をもたらした。オジェッ運転手ムリヨノ27歳は夜中にオートバイで帰宅する。ムリヨノの帰宅ルートの途中に必ずかれに吠え掛かる犬がおり、吠えながら追いかけてくるのでかれはこころよく思っていなかった。あるときムリヨノは怒り心頭に発してその犬に石を投げつけたことがある。
その数日後、同じルートを通りかかったムリヨノを待っていたのは犬でなくふたりの男だった。呼び止められてムリヨノはオートバイを止めた。すると男のひとりは、自分の犬に石を投げたことについてムリヨノを強く罵った。売り言葉に買い言葉。ムリヨノは反抗し、口げんかの域を超えたとき犬の持主の手にはナタが握られていた。ふたりがかりで攻められ、おまけに刃物の襲撃を受けたムリヨノは頭と背中、そして顔面に切り傷を負っただけでなく、腹部をナタで深くえぐられた。
ムリヨノは北ジャカルタ市チリンチンの病院に運ばれて処置を受けたが、深夜に死亡した。犬の持主は逮捕され、ムリヨノを襲撃するのに手を貸した仲間は警察が追っている。


「チレボンのメガムンドゥン」(2010年7月10日)
西ジャワ地方のバティックセンターの筆頭にあがるのはチレボン(Cirebon)だろう。チレボンにはバティックプシシル(pesisir=海岸)とバティッククラトン(keraton=宮廷)のふたつの流れがある。プシシル柄は動植物が多用され、陸や海の生き物、木や葉といった図柄が多い。一方クラトン柄は装飾的な図柄が特徴で、クレタシンガバロン(kereta singa barong)、ナガセバ(naga seba)、タマンアルム(taman arum)、アヤムアラス(ayam alas)、ワダス(wadas)などのモチーフが有名だ。そんな中でもっともチレボンを代表する図柄は雲を描いたメガムンドゥン(mega mendung)と獅子を描いたシンガワダス(singa wadas)だろう。メガムンドゥンは祭事のさいに雨を去らせることを目的にその図柄をみんなで着たという話で、だからチレボンは雨が少なくなったのだ、とチレボンっ子たちは冗談を言う。現代でもバティックチレボンと言えばメガムンドゥンとその代名詞になっていることを誇るあまり、学校や役所の制服にメガムンドゥンが選ばれている。一方、シンガワダスはチレボン王家の公式模様とされている。
チレボンは昔からの交易港で、世界各地の諸民族がチレボンへ交易に訪れ、さまざまな文化がチレボンのひとびとに紹介された。クラトン柄は特にそんな特徴を色濃く発散させており、中国・インド・アラブその他の文化が陰を落としている。
バティックチレボンに触れたいなら、チレボンの町からおよそ6キロ離れたトゥルスミ村(Desa Trusmi)へ行こう。古ぼけた市場を通ってトゥルスミ村への狭い村道をたどると、車2台がすれちがうのがやっとという道の両側に豪壮なお屋敷が立ち並び、塀の中は悠々と車が駐車できるスペースがあることに驚かされる。そんなお屋敷の表に看板が出ていなければ、そこがバティックショップだとだれが思うだろう?建物内に入るときは、どうやら履物を脱ぐのが礼儀のようだ。
店内で売られているバティックチレボンはクオリティに従ってさまざまな価格がつけられている。たとえばメガムンドゥンの場合、雲模様のグラデーションが多いか少ないかで価格が異なる。だが正札価格が確定価格でないのは典型的なインドネシア文化なのである。ダメ元でも構わないから、臆せずにタワルムナワルを試みよう。日本を一歩出たら、自己主張は美徳なのだ。


「家族への関心がきわめて高いインドネシア人」(2010年7月10日)
アジア・パシフィック諸国の消費者は経済情勢が最大の関心事だが、インドネシアの消費者はそれがトップ関心事でなく、そして家族のことを気にかけているひとが圧倒的に多い、という統計結果をニールセンインドネシアが公表した。
この先半年間というレンジでもっとも気にかけていることがらに関するインターネット経由の調査が2010年3月8〜26日に行われ、インドネシアの消費者5,050人から回答が集められた。それによると「仕事と生活のバランス」が最大の関心事であると答えたひとは18%にのぼってナンバーワン、「経済情勢」は17%で第二位になっている。次いで「子供の教育」が14%で第三位、「両親の幸福と福祉」は13%で第四位という結果だ。
一方アジア・パシフィック諸国は「経済情勢」が20%で断トツ、「生活と仕事のバランス」は14%、「健康」11%、「子供の教育」9%、「両親の幸福と福祉」は4%といった内容で、いかにインドネシア人の家族に対する関心が高いかということがそこから垣間見られる。


「首都で盗水が盛ん」(2010年7月13日)
最近増加傾向にある上水と地下水の不法利用を取り締まるため都庁は5市と行政警察ならびに首都警察から成る取締班を編成する計画。特に敷設されている上水道管を勝手に分岐させて不法に上水を採取する盗水の摘発を重点的に行なう予定で、首都公営水道会社の顧客に対する供給サービスを行なっているPT PAM Lyonnaise Jaya (Palyja)とPT Aetra Airの協力を得て活動を実施することになる。
盗水は毎月水道料金を支払っている契約利用者に対する水の供給を減少させていることから、利用者の権利を損なうものである、と都知事はコメントしている。都の上水道は都民の8割に生活用水を毎秒35,800リッター供給しなければならないのだが、現在できているのは毎秒17,700リッターでしかなく、しかも給水途中での水漏れや盗水で消費者に届く上水の量は大幅に減少しているのが実情だ。
PTパリジャはチリウン川をはさんでジャカルタの西側、PTアエトラは東側を担当地域にしているが、給水漏洩損失の比率は大幅に異なっている。盗水等による損失はアエトラは23%だがパリジャは46%もあり、経営に関わる問題でもある。盗水者を摘発した場合、取締班はその相手に取水パイプを塞ぐよう説諭することになるが、悪質な相手の場合は裁判所に告訴するという対応が取られる予定。


「芽吹き続けるトゥルスミのバティック」(2010年7月17日)
チレボン県プレレッ郡トゥルスミ(Trusmi)村はバティック村だ。他にもウォッガリ(Wotgali)、カリトゥガ(Kalitengah)、ガメル(Gamel)、カリウル(Kaliwulu)などのバティック村があるが、それらはみなトゥルスミ村に隣接しているので、今ではトゥルスミと言えばその一帯を指すようになった。バティックトゥルスミの歴史は14世紀までさかのぼる。
チレボンはもともと一系の王朝のもとに栄えていたが、それが分裂してカスプハンとカノマンのふたつの宮廷に分かれ、それぞれの王族貴族のためにバティック作り職人が雇われて宮廷のバティック制作は発展した。ところが政庁が宮廷にバティック税を課すと言い出したために王宮はバティック職人たちを解雇した。解雇された職人たちは故郷の村に戻ってバティック制作を続けた。それがバティックトゥルスミのたどってきた歴史であり、バティックトゥルスミが宮廷バティックのオーセンティックな伝統を継承していることを物語っている。
トゥルスミ村にはトゥルスミ爺の墓があり、墓の隣にモスクが建てられ、墓の入り口には左右に甕が置かれた。甕の中には稲が植わっている。その稲は決して生長せず、だから死ぬこともない。稲はいつまでも芽吹き続けている(terus bersemi)。それがTrusmiの名前の由来だ、と地元のひとびとは語り伝えている。


「ラスムの二の舞がトゥルスミを狙う」(2010年7月24日)
トゥルスミ村の名士はカトゥラ氏だ。かれはワヤンのストーリーからアラスワナマルタの章の絵物語を長さ9メートル幅2メートルの布に手描きバティックで描き、2005年4月20日インドネシア版ギネスブックであるMURIに登録されて殿堂入りした。しかしかれが名士であるのはそのせいではない。バティックトゥルスミを買い付けにやってくる日本人バイヤーたちに最高のバティックトゥルスミ生産者という折り紙をつけられたためだ。
カトゥラは小学校4年生のときにはじめてバティックを作った。バティック事業を興したのは1974年。いまではバティック職人を26人擁し、製品の80%は日本人が一枚20万ルピアから400万ルピアで買っている。日本でそのバティック布は着物・帯・洋服・壁飾りなどに加工される。中にはカトゥラの下でバティック制作を習う日本人もいる。単にバティックを売り買いするだけでなく、バティック作りの苦労がわかれば商品への愛着も高まる、とカトゥラ氏は語る。
トゥルスミ村にはバティックショールームが35店あり、バティック職人協同組合には7百人が所属している。ショールームが多すぎる、とカトゥラは現状を批判する。過当競争は当然ながら値引き競争を引き起こす。販売者は仕入コストを抑えようとしてバティック職人への支払を小さくする。それにノーと言えば職人は仕事がもらえない。この状況はかつてラスムが歩んだのと同じ道だ。そうなれば、トゥルスミの稲は芽吹くことをやめるかもしれない。


「堂々と電気を盗む遊園地」(2010年7月27日)
2010年5月19日付けコンパス紙への投書"Pencurian Listrik Dibeking Ormas, PLN Tak Berdaya"から
拝啓、編集部殿。わが家のあるエリアで2010年4月9日からおよそ1ヶ月間、メリーゴーラウンドやその他の遊戯具を並べての特設遊園地が開催されましたが、遊園地運営者は周辺の電柱から電気を盗んだので、域内家庭への電力供給がおかしくなりました。
電圧は毎日乱高下して一定せず、夜はもっとひどいありさまで、冷蔵庫・テレビ・揚水ポンプなどの電気製品は壊れてしまいました。エアコンの涼風を享受できるのは遊園地が閉まって電気が消された24時以降だけなのです。わたしはこの問題をPLNに訴えてフォローするという返事をもらいましたが、実際には何の措置も取られていません。
頂点は4月20日にやってきました。電柱から電気を引き込んでいた電線が燃えて隣組の全戸が停電してしまいました。住民のひとりがPLNを呼んで修理させたので、22時ごろ電気はやっと回復しました。その翌日、電気は平常に戻りましたが、二日後遊園地運営者はまた電気を盗み始めました。PLNからの許可があるから、と言うのです。ふたたび家庭内の電気製品に影響が出始めました。電圧が上がったり下がったりして一定しません。わたしはまたPLNのワルンブンチッ(Warung Buncit)事務所故障ユニットに訴えました。わかっているという返事を耳にしましたが、何の措置を取ろうともしません。なぜなら遊園地運営者はNGOがバックについているからです。ところがそのNGOは遊園地運営者から上納金を取っているのでした。[ 南ジャカルタ市パサルミング在住、レンナル ]
2010年6月12日付けコンパス紙に掲載されたPLNからの回答
拝啓、編集部殿。2010年5月19日付けコンパス紙に掲載されたレンナルさんからの投書に関してお伝えします。2010年4月20日に起こった低圧電線の出火は故障修理が行なわれました。その出火はメリーゴーラウンドの運転の結果でなく技術的な問題によるものです。
当方は南ジャカルタ市パサルミング地区の数ヶ所で電圧異状トラブルの原因が盗電にあるのかどうかをサーベイしております。しかし投書で指摘されているメリーゴーラウンドの運転を発見することができませんでした。
電力利用者の皆さんは、不法な電気の利用と思わしき事態を見つけたら、ただちに最寄のPLN事務所もしくはコールセンター123に通報してください。消費者からの通報に即応して対処するよう当方は努める所存です。[ PT PLN大ジャカルタタングラン配電支社広報法務管理課長、ハディ・サニョト ]


「バティックドゥルマヨン」(2010年7月31日)
西ジャワ州でチレボンに続くバティック産地はインドラマユだろう。インドラマユ県はチレボン県の西に隣接しており、ドゥルマユ種のマンゴ(mangga dermayu)で有名だ。ジャカルタからジャワ島北岸街道を東進して長いインドラマユ県を通り抜けようとするあたりにマンゴ売店が長い列をなしているところがあり、そこでは多少季節外れでも山盛りのマンゴにお目にかかることができる。インドラマユはそれほどマンゴの産地だということだろう。
やはりドゥルマユの語がつけられたバティックドゥルマヨン(batik Dermayon)は個性的なデザインと色使いで人気がある。バティックドゥルマヨンの中心地はパオマン(Paoman)村で、チレボンのトゥルスミ村と比較的近い距離にあるものの、パオマンは決してトゥルスミの二番煎じではない。色は茶色あるいは紺を主体にし、モチーフはきわめて多様に渡っている。
チマヌッ(Cimanuk)川の河口に形成されたパオマン村はPa-omah-anが語源だと言われている。omahはジャワ語でrumahを意味し、つまり古くからの居住地区だったらしい。スンダ地方がイスラム化される以前、インドラマユはバンテンやスンダクラパと並ぶスンダ王国の要港だったが、その国際交易港としての地位は、スナン・グヌンジャティがチレボンに王国を興してスンダのイスラム化を推進したことでチレボンに取って替わられることになった。国際交易港としての栄光が去った後、パオマンのひとびとは港湾荷役の仕事を失ったために海に出るようになった。今度は漁師として。


「クリスダヤンティの陳謝」(2010年8月2日)
アナン・ヘルマンシャと別れてその姿を目にする機会がめっきり減ってしまったKDことクリスダヤンティに芸能関係者から一般国民にいたるまで大勢の非難の声がぶつけられた。フェイスブックには「セイノートゥクリスダヤンティ」と題するキャンペーンが張られて瞬く間に50,957人がその傘下に集まったから、KDも驚いたことだろう。
KDに向けられた非難の原因は、かの女が新しい恋人ラウル・レモスと一緒に7月21日に南ジャカルタ市ラディオダラムのエクセルシオカフェで行なった記者会見で、ふたりがカメラの前で唇を重ねる接吻を行なったことにあり、それを目にした国民の多くがふしだらな行為として猛反発したようだ。西洋文化の影響から肌への接吻は儀礼的要素を感じさせるものとして受け入れられているようだが、粘膜同士を接着させる行為は性交の一部と受け止めるひとが多いにちがいない。女ざかり35歳のKDも慌ててラウルと一緒に謝罪を表明する記者会見を23日に行なった。
KDはおおむね次のようなことを述べて国民大衆に陳謝を表明したのだが、インドネシア文化における謝罪表現の形はこのようなものになるのか、というひとつの例としてご紹介したいと思う。
「わたしは深い心の奥底から謝罪をしたいと思います。7月21日にわたしとラウルが行ったことは決して故意にしたことではないのです。その場での反射的なふるまい以外のなにものでもありません。本当に計画的なものではありません。他の人の感情を害したり乱そうとするつもりはまったくありませんでした。恋する女の発作的な行動だったのです。
親がわたしにモラルを教えてくれたというのに、わたしは破廉恥を行いました。だからわたしは母に謝罪します。フェイスブックで表明されたわたしに対する拒否をわたしは受け入れます。ふたりの子供たちはわたしのふるまいに傷ついたに違いありません。だから子供たちにも謝罪します。子供たちだけでなくKDファンの中にも心が傷ついたひとがいることでしょう。わたしはそれらすべてのひとたちに対してより善くふるまうことを忘れてしまっていたのです。わたしは未完成なただの女であり、時に間違いをおかします。わたしは誤まりを犯しました。」


「停電を国際レベルに」(2010年8月6日)
国有電力会社PLNは停電を国際スタンダードなみに向上させようとの新努力方針を打ち出した。現政権が昨年から着手を開始した1万メガワットプログラムはこれまでの電力需給関係を好転させはじめており、巡回停電の頻度が減少しつつあるという印象を受ける地方が増加している。
とはいえ、全国的に見て計画的な停電と不慮の停電は依然として高いレベルにあり、PLN代表取締役によればインドネシアの停電は国際スタンダードの二倍あるとのこと。国際スタンダードは、電力契約者一軒当たりの年間停電回数が6〜9回で停電時間は一回2時間までとなっている。
ジャワ島での停電は、落雷・倒木などの原因で送電線の断線や変圧器の火災などさまざまな事故が発生しており、それを無くすことは不可能であるが迅速な復旧対応に努めることはできる。今は全国の巡回停電をなくしていく計画の遂行中であるため、2010年11月30日にその計画が完了した暁には、テクニカルな停電を克服する体制を整備して停電発生を国際スタンダードレベルに持っていくことになる。ジャワ島内ではその方針が有効だが、ジャワ島外は需給関係が各地方ごとに千差万別であるため、壊れたために使われていない発電機の再生を行なって200メガワットの供給増をはかること、また民間の余剰発電量を買い上げて利用することなどで需給関係の改善を推し進めることに注力する。PLN代表取締役は今後の方針についてそう語っている。
ジャワ島内では一部地方を除いて電力事情は好転しつつあり、ちなみに今年上半期のジョクジャでの停電回数は契約者一軒当たり3.97回というレベルである由。


「バティックパオマン」(2010年8月7日)
パオマンのそんな歴史はバティックパオマンに幅広く多様なモチーフをもたらした。LokcanやBanjiは中国、Sawat RiwehやSinga Parsiは中東、そしてBuketanやJenderal Pestaはオランダの影響を感じさせる。古典モチーフにはKembang Kapas, Kembang Sunda, Puyong, Sidomukti, Sijuringなどがあり、モチーフの間の生地を埋めるイセニセン(isen-isen)にはBlarakan, Pantai Ukel, Mata Pitik, Dawudanなどのパターンがある。加えてジャワ海に面したこの地方の日常生活を形作っている魚・鳥・海・船などがモチーフに使われ、海に生きるひとたちの暮らしを垣間見せてくれる。難破船の図柄などはきわめてユニークなものだろう。海に生きる男たちの帰りを陸地で待つ女たち。愛する者を待ちながら女たちが描いたバティック。そこにはさまざまな思いが塗り込められたにちがいない。
パオマンの女たちはバティック作りをまず布洗いから始める。白布を柔軟で滑らかなものにしてから、次はモチーフとイセニセンの型紙を作る。布の上にその紙をあてて型取りをし、等間隔でそれを繰り返す。そしてモチーフとバリエーションを鮮明にしたあと、やっと色付けの段階に入る。昔この地方でバティック作りが始められたころは砂糖椰子の搾り滓が使われたそうだ。結局茶と紺が主流を占めるようになったが、最近は古典柄があまり好まれず、素朴なモチーフと華麗な色使いに向かう傾向が強まっている、とパオマンアートバティック店主シティ・ルミナ女史は語る。かの女はバティック布の保存方法についていくつかのヒントを与えてくれた。それによれば、
1)直射日光に当てず、日陰で風に当てる。
2)洗うときは洗剤を使わず、ソープナッツ(Sapindus rarak)を使う。
3)洗濯機を使うのはよくないが、仕方ない場合は水流を一番弱いものにする。水流が強いと色落ちが激しい。洗うとどうしても色が落ちるので、他の洗い物と一緒にしてはいけない。
4)臭いや虫がつくのを防ぐには、乾燥コショウを置く。
以上がバティックを長持ちさせる4ポイントとのこと。


「バティックプカロガン」(2010年8月14日)
プカロガン(Pekalongan)。ジャカルタからジャワ島北岸街道伝いにプマラン(Pemalang)を過ぎてプカロガンの町に入って行くと、こうもりをシンボライズした大きなガプラの下をくぐる。pe-kalong-anのカロンは果実を常食にする大型こうもりのことだ。この地名の由来をわたしは知らないが、12世紀の中国の書物にPu-Ka-Longという名前で登場しているそうだから由緒あるものにちがいない。
このプカロガンは昔から交易港として栄え、地元領主の支配下にあったが、イスラムマタラム王国隆盛期にその支配下に組み込まれ、王国の富の源泉のひとつをなしていた。その後オランダ東インド会社のジャワにおける支配が強まると、この地方は砂糖の産地として発展する。そして独立後早々に、中部ジャワのトゥガル(Tegal)とプルプス(Brebes)と共同でソロとジョクジャの王家の支配から脱却しようとする動きが起こったのは、ジャワ島北岸地方が昔から持っていた進取の精神のあらわれだったようだ。
プカロガンは今インドネシア最大のバティック生産地になっている。プカロガンバティック事業者協同組合に登録されているバティック生産者は1万2千にのぼる。縫製会社はおよそ30社あり、そしてプカロガン市の手前から町を通り抜けるまで、バティックショールームの看板が軒を並べている。街中にあるホテルの数はスマランを除いて他の街道沿いの町よりはるかに多い。
バティック生産はプカロガン市だけでなく、市の外側を取り巻くプカロガン県でも広く行なわれており、県側ではプカジャガン(Pekajangan)、クドゥンウニ(Kedungwuni)、ティルト(Tirto)、ブアラン(Buaran)、市内ではムドノ(Medono)、ストノ(Setono)、パベアン(Pabean)、パシルサリ(Pasirsari)などが中心地を形成している。
プカロガンのバティック産業の特徴は、大勢の市民県民が自宅でバティック作りを行なっていることで、バティック業者の親方に囲われてバティック作りにやってくる職人たちのあり方とは趣を異にしている点にある。それがプカロガンのバティック産業を全国一にのしあげた原因ではないだろうか。


「気楽な他人との接触が疲れを癒す」(2010年8月14日)
インドネシア人にも月曜日はブルーマンデイ。毎日時間に終われて生活している都市生活者にとって、のんびりと生命の洗濯、というのはふだんあまりできなくなってきている。激しい交通渋滞で一日の何分の一かの時間を浪費している首都圏住民にとっては特に一日の時間をもっと長くして欲しいにちがいない。いや、だからこそ「生命の洗濯」のありがたみが身にしみるということなのだろう。
一週間のうちで最も疲れる日は何曜日かという質問に60%が月曜日と答えたのは、世界共通のブルーマンデイ現象。次いで二位に日曜日が登場したのは、主婦・年金生活者・個人事業主の声が強かったからだ。インドネシア人の大半を占めるマイホームパパは家族へのお勤めを結構エンジョイしているようだ。
疲れを癒すためにインドネシアの都市住民は何をしているのだろうか?コンパス紙R&Dが全国主要都市住民705人から2010年7月30日に電話インタビューで集めた回答結果は次のようなものだった。
質問1: あなたは疲労回復・リラクセーションにスパのようなところへ行きますか?
回答: しょっちゅう行ってます 8.4%、行ったことがあります 24.5%、行ったことはありません 67.1%
質問2: 疲れた日にあなたは寝ることを除いてどんなリラクセーションを行なっていますか?
回答: 
気楽に駄弁る 34.9%
散歩に出かける 27.5%
マッサージ 10.4%
運動 9.7%
テレビ・インターネット 6.6%
コーラン読唱・勉強 6.4%
趣味 2.5%
無回答 1.0%


「派手なバティック」(2010年8月21日)
明るく派手な色使いとバリエーションに満ちたモチーフ。プカロガンのバティックを一言で表現するとそうなる。色にせよモチーフにせよ、市場の好みを自由闊達に取り込んでいくダイナミックさはソロやジョクジャに見られないものだ。そこが伝統の重みにしばられないプカロガン人の個性なのかもしれない。
バティック愛好者たちは、バティックプカロガンの色使いを、明るいが派手だ、と言う。宮廷という重みから抜け出た場所で職人たちが使った色は陽気で明るい、物怖じしない精神を感じさせるものになった。バティックプカロガンからその色使いを抜き去れば、バティックプカロガンの魂は消滅するとひとは言う。だからこそファッションデザイナーがバティックを使おうとするとき、その手はバティックプカロガンをいつの間にか握っているのだ。
素材の布にしてもそうだ。普通バティックの普及品には薄手の綿布モリが使われるが、厚手の綿布カウスをプカロガンのバティック生産者は使ってみた。するとオランダをはじめ、ヨーロッパのバティックバイヤーが早速そのユニークな製品を買い漁るようになった。バティックの高級品には絹布が使われる。jlamprangやsekarjagatなどの高級モチーフが描かれた絹バティックは伝統ある他のバティック産地の高級品に決してひけを取るものではない。今やプカロガンの高級バティックには数百万ルピアの値がつけられている。


「独立記念日を祝う」(2010年8月23日)
2010年8月17日インドネシア共和国第65回独立記念日は例年のごとく幕を閉じた。中央ジャカルタ市モナスの北ムルデカ広場通りにある国家宮殿では、これも例のごとく国旗掲揚をアトラクションのメインに据えた国家催事が行なわれ、各町内でも日本の運動会さながらの催し物にみんな汗を流した。
この8月17日のお祭りは華やかさと賑わいを増しているのだろうか、それとも民族的シラケの蔓延でどんどん下火になっているのだろうか?そんな疑問をコンパス紙R&Dが記念日を目前に控えた2010年8月11〜12日に全国主要都市住民779人に対する電話インタビューで調査した。
あなたの居住地区では、インドネシア共和国独立記念日の催しは盛大さを増していますか、変わらないですか、それとも下火になりつつありますか、という質問の回答は次の通り。
盛大さを増している 22.0%
変わらない 34.3%
あまり盛大でない 31.5%
衰退気味 11.0%
不明 1.2%
別の質問は「インドネシア共和国独立記念日を祝うためにあなたは次のことを行ないますか?」というもので、個別質問項目と回答は次のようになっていた。
国旗掲揚: はい 92.0%、 いいえ 7.8%
自宅や町内の飾りつけ: はい 65.6%、 いいえ 34.3%
町内清掃勤労奉仕: はい 78.2%、 いいえ 21.3%
会社・学校などで国旗掲揚式典: はい 42.6%、 いいえ 56.6%
祝賀の夜祭: はい 54.3%、 いいえ 43.3%


「理屈は無用。かっこがついてりゃ、いいじゃないの」(2010年8月24日)
2010年6月17日付けコンパス紙への投書"Tidak Bawa KTP Gagal Ujian"から
拝啓、編集部殿。生命保険会社協会の試験会場になったジャカルタのスディルマン通りにあるプルーデンシャルビルで2010年5月20日、試験場入り口にいた試験官が中に入ろうとしたわたしにKTP(住民証明書)オリジナルと受験確認書を提示するよう求めました。受験確認書にはたしかに、KTPオリジナルを持参するように書かれています。しかしわたしは紛失したオートバイのSTNK(自動車番号証明書)再発行手続にKTPのオリジナルを使っていたので、わたしはA種C種運転免許証、KTPフォトコピー、2010年5月18日付けで手続代行業者が出したKTP・BPKB(自動車所有謄本)・警察の紛失証明のオリジナルを受取ったことを証明する受取証などをその代わりとして持参したのです。
わたしがその試験官に受験とKTPを唯一の本人証明ツールにしてあることとどう関係しているのか尋ねたところ、「そういう決まりになっているからだ」という返事が返ってきました。わたしが持参したKTP以外の本人証明資料は一顧だにせず、試験官はわたしの受験を受け付けてくれませんでした。[ タングラン在住、ブディオノ・ウィナルト ]
2010年6月29日付けコンパス紙に掲載された生命保険会社協会からの回答
拝啓、編集部殿。2010年6月17日付けコンパス紙に掲載されたブディオノ・ウィナルトさんからの投書に対する回答は次の通りです。インドネシア生命保険協会ライセンス認定試験の実施規則の中で本人証明はKTPだけと明確に定められています。KTPが延長手続中であったりあるいは紛失していた場合、警察の紛失証明書や町役場の再発行手続受付書をオリジナルの代わりに使うことは可能です。この決まりは受験者に必ず通知しており、試験前に協会所属の試験官は必ず本人証明をチェックします。生命保険会社協会ライセンス認定受験者のブディオノ・ウィナルトさんは有効なKTPの提示ができませんでした。
ブディオノさんはその理由として、KTPオリジナルが紛失した二輪自動車書類の手続に使われているからと主張しました。ところがKTPと紛失証明書のフォトコピーはブディオノ・ウィナルトさん名義のものでなく、その書類を失くしたひとの名義になっていたのです。警察の証明書にも、ブディオノ・ウィナルトさんの名前は届出者としても、また紛失した書類のオーナーとしても記載されていませんでした。
それらの事実に基づき、試験官はブディオノ・ウィナルトさんが生命保険会社協会ライセンス認定試験を受けることを認めませんでした。ご本人はその扱いを甘受することができなかったようです。[ インドネシア生命保険会社協会専務理事、ステブン・ユウォノ ]


「電力消費節約の新アイデア」(2010年8月27日)
2010年6月22日付けコンパス紙への投書"Sulit Memperoleh Token PLN"から
拝啓、編集部殿。PLN電力利用者であるわたしはこれまで契約量900ワットを2,200ワットに増量するよう申請しました。ジャカルタのPLNメンテン支所に申請を出したところ、支払方法を後払いから前払いに変更するよう命じられました。それは選択の余地のない義務だそうです。 わたしはその新しい方式に疑問があったのですが、拒否のしようがないので従いました。申請してから一週間後、前払い方式に使うトークンを買っておこうと考え、パンフレットに記載されている販売場所を訪れました。パンフレットには銀行や郵便局で容易に手に入ると記されているのです。 ところがパンフレットに名前が記されているBRI・マンディリ・ブコピン・アルタグラハなど大半の銀行を訪れましたが、まだ販売されていない、という返事ばかりです。郵便局でも同じ返事をもらいました。わたしはPLNメンテン支所を再度訪れ、支所内の銀行でトークンを求めましたが、そこでも成果はありませんでした。そのサービスはまだ行なわれていない、と言うのです。わたしと一緒にそこで列をなしていた数十人の客もその言葉にたいへんな失望を示しました。中には自宅で事業を行っているひとがいて、そのひとはもう一週間も電気が使えなくなっていると激昂して言うのです。そこにいたトークン購入希望者はみんな途方に暮れました。電力利用を開始するためのトークンをいったいどこで手に入れたらよいのかわからないのですから。
PLNは利用者を困らせるような新システムを開始しました。そのホンネはいったい何なのですか?[ ジャカルタ在住、アブドゥル・バリ ]


「おのれ〜、たたっ切ってやる!」(2010年8月28日)
探し物をしていたインドラの兄がインドラに尋ねた。
「おい、オラの5万ルピアがどっかへ隠れただよ。おめえ、知らねえか?」
「やい、オラが取ったとでも言うのけえ?オラあ、ぬすっとじゃねえぞい!」
怒り出したインドラ・ブディマン22歳は兄と激しい口げんかを始める。
ものごとをあからさまに表現するのを避けてそこはかとなくほのめかし、相手の言うそんな言葉の裏の裏にある意図を探り出すのを美学と心得ているインドネシア人に対して言葉の逐語的な理解を求めてもスレ違うことが多い。かれらの思考は逐語的な意味から飛躍し、言外の言葉を自分の脳裏に聞く。だからかれらは、わたしたちが口に出していない言葉を「そう言った」と言い張るのである。客観的事実と主観が自我の周囲を等距離で取り巻いているかれらの世界観宇宙観がもたらす生活態度の一例がそれだろう。わたしたちは自分の財貨や会社の財貨のあり場所を探すとき、インドネシア人にストレートにそう尋ねる前に一考する必要があるのである。
さて、インドラと兄の激しい口げんかが始まったのに嫌気がさして、インドラの妻ラエラサリ20歳は三歳の一人娘ソフィ・ジュリアナ・ビンティ・インドラ・ブディマンを抱いて実家へ帰った。娘の名前ソフィ・ジュリアナは本人名で、ビンティの後に父親の本人名をつけて正式な名前とするのはアラブ文化に則った習慣だ。娘も父親も本人名はあるが、苗字はない。なお、ビンティは〜の娘を意味し、息子はビン〜と言う。
喧嘩のあとインドラは気分治しにアルコールをきこしめし、家の中で妻子を探したが姿が見えない。ラエラは娘を連れて実家へ帰ったと親が言うので、インドラは妻子を迎えにラエラの実家へ向かった。ラエラの実家もインドラの家と同じバンテン州セラン市セラン郡チムンチャン町にある。
インドラはふだんセランの町中で路上物売りやオドンオドンの運転をして稼いでいる。オドンオドンというのはベチャを改造して幼児用乗り物を取り付けたもので、運転手がペダルを漕ぐと乗り物が上下に動く。インドラは真面目によく働くのだが、かんしゃく持ちで喧嘩早いのが玉に瑕。ラエラはインドラの粗暴さに嫌気がさしていた。
ラエラの実家でインドラがラエラを呼ぶとラエラはソフィを抱いて出てきたが、不快さを満面にたたえてインドラに言った。「もう別れるわ。離婚よ。」
インドラの頭にかっと血が上り、腰に挿した山刀を鞘から抜くとラエラに切りかかった。インドラの手が山刀にかかったのを見たラエラはきびすを返して逃げようと背を向けたから、インドラの山刀を背で受けることになった。ラエラは背と後頭部に傷を負って病院へ。娘のソフィも額に傷を負った。インドラは取り押えられて警察に。警察の取調べに酔いもすっかりさめて悔やむことしきりのインドラだが、家庭内暴力法44条違反で起訴されることになりそうだ。


「チャロ」(2010年8月30・31日)
チャロ(calo)というインドネシアならではの商売がある。辞書によると言葉の定義は「報酬に基づいて何かの用事を行なうサービスを提供する仲介人」となっており、まずは言いつけられたことを行なう走り使いでないのが明らかだ。つまりチャロというのは「あなたが必要としている用事を金をもらってやってあげよう」という売込みをしてくる人間なのである。
だからインドネシアでは、一般国民が用事のあるありとあらゆる場所にチャロがいる。われわれになじみの深い場所としては運転免許証の取得や更新に用のある場所。外国人居住管理に用がある場所。そして会社などで法制度上の許認可に用がある場所。交通違反をすれば取り上げられた免許証を返してもらいに裁判所へ行かねばならないが、チャロはそこにもいる。非能率な役所の行政管理手続をまる一日費やして漫然と待つくらいなら、チャロを使うほうがマシと誰しも思うに違いない。だから役人は非能率を続けてチャロのレゾンデートルを演出し、チャロが得た金の上前をはねている。つまりは、役人とチャロの間はできあがっているのである。このようなチャロは日本語で何と言うのだろうか?周旋屋、それとも口利き屋、あるいは仲介屋?
インドネシアではダフ屋もチャロと呼ばれている。需要の高い交通機関や催し物の乗車券・入場券を買占めておき、売り切れの貼り紙が出た切符売場窓口の前で途方に暮れている消費者にたっぷりと利益を乗せて売りつける。ハイシーズンの空港・鉄道駅・バスターミナルはチャロの稼ぎ時だ。イドゥルフィトリ帰省とその逆流時期は年間最大のチャロビジネスシーズンだと言える。
政府はもちろん、昔からチャロ行為を違法として現行犯を捕まえているが、チャロが絶えたためしはない。今年もルバラン帰省シーズンにチャロの一番多い鉄道駅からかれらを徹底的に排除せよとの国民の声は政府に届いており、運通相は「今年はチャロのいない駅が実現するものと確信している」と大見得を切っているが、はたしてどうなることか。
インドネシア交通ソサエティ会長は、いくら駅の切符売場や構内に警備員を配置して見張っていても、そんなことでなくなるくらいならとっくの昔になくなっているはずではないか、と言う。「空港で航空券のチャロ行為がほとんど見られなくなっているのは、切符に搭乗者の名前が記載されており搭乗の際に本人の身分証明チェックが行なわれるからだ。鉄道でチャロ行為がいつまでもなくならないのは、空港のようなシステムが使われていないこと、切符販売場所の情報が消費者にあまり告知されておらず、そして切符販売窓口が少ないといった要因のためだ。切符販売場所を広く告知せずまた窓口を狭めていることがチャロとチャロに内通する内部者にチャンスを与えている。一般的にどの分野であれ、チャロ行為は必ず内部者がつるんでいる。空港ではチャロ行為が稀なものになった。鉄道も同じようにしてはどうか。更に国鉄が切符を自社で販売するのをやめて、旅行代理店などに販売委託をするほうがよい。そうすれば切符販売窓口が大幅に増加する。」
交通ソサエティ会長はまるで、チャロ行為が起こるのは国鉄切符販売職員の不正行為のせいだ、と言っているように聞こえる。


「社会福祉障害者の稼ぎ時はいま」(2010年8月31日)
金はひとと一緒に動く。だからひとの集まるところに金も集まり、その金を狙って商売も集まる。空港はたくさんのひとが集まってくる場所のひとつであり、おのずと商売も集まる。ただし空港構内は管理者が管理している場所であり、商売を行なうには許可がいるのだが、自分が損する決まりは守らないのがひとびとの生活信条だ。こうして非合法に空港構内やターミナルビル内で個人が雑踏に紛れて無許可商売を行なっている。
路上物売り・個人ポーター・靴磨き・おもらい乞食・くず拾い・航空券チャロ・非空港タクシーなど詐欺まがいの犯罪行為すれすれ商売人たちがホンモノの犯罪者たちと一緒になって、搭乗客でごった返す空港に侵入してくるのである。
2010年1月から7月までの間にスカルノハッタ空港運営会社PTアンカサプラ?は3,266人の上のような商売を無許可で行なっている者をとらえて保護更生施設に送り込んでいる。ところが空港の秩序を乱すかれら社会福祉障害者は増えこそすれ、減少する気配はさらさらないのが実情で、警備が厳しくなれば減り、減ったから手を緩めると増えるといういたちごっこが年中繰り返されている。


「蒙った迷惑を赦すのが優れた人間」(2010年9月3日)
2010年6月17日付けコンパス紙への投書"Petugas Loket Tiket Garuda Tak Peduli Calon Penumpang"から
拝啓、編集部殿。2010年5月28日ワイサッの休日の午前5時ごろ、急遽ソロへ行く必要の出たわたしはスカルノハッタ空港2Fターミナル航空券売場の前にいました。わたしの友人がジャカルタで急逝しソロで埋葬されることになったので、わたしはその日早々にガルーダ航空でソロへ行こうとしたのです。
多少とも便宜をはかってもらえるかと期待してガルーダフリクエントフライヤーのメンバーカードを出しましたが、切符売場窓口担当者はそれを見ようともしません。6時10分の最初のフライトは満席でした。8時半の次の便も切符は売り切れです。午前5時から9時ごろまで、わたしは切符売場窓口の近くにいて、切符が手に入る機会をずっと待っていました。
ところが航空券販売窓口にいる三人の担当者は空港職員の身分証を着けたひとの相手を一生懸命しているのです。そのひとが乗客でないのは言うまでもありません。その結果、本当に重要で緊急に切符を必要としている乗客がほったらかしにされました。
インドネシア航空とアンカサプラのマネージメントは、飛行機利用者と何の関係もなしに搭乗客へのサービスを妨げる者の行為を規制しなければなりません。切符の購入機会を待っているひとの名前を順番と重要度に応じてモニタースクリーンに掲示し、だれもが見えるよう公明正大なサービスを行なったらどうでしょうか?[ ジャカルタ在住、スリアントロ ]


「金銭は人間同士の親睦を高める」(2010年9月10日)
貨幣には交換機能・価値の貯蔵機能・計算単位機能という三つの機能があると経済専門家の方はおっしゃるのだが、実はインドネシア文化の中にもうひとつの機能があることはあまり語られていない。それは人間同士の親睦をはかるためのツールという機能で、これはインドネシア人知識層自身がそう書いており、外国人であるわたしの個人的見解ではない。
インドネシア人の日常生活を見ていると、他人と接触する場で実に頻繁に小銭が動いているのに気がつく。何かをさせた見返りのチップだという見方を取るひともいるが、それですべてが説明しきれない面があって、わたしはそこにその親睦説を当てはめるのである。すなわち、金をくれるひとは良い人だ、という観念がインドネシア文化の中に存在しているのだ。つまり売買とは無関係な金のやりとりは人間同士の親睦を育てる肥やしのようなものだというのがそれであり、それが人間の金銭に対する態度に大きな影響を与えているのは言うまでもない。
インドネシア文化の中で大きな社会的価値が置かれていることがらのひとつに、糧を分かち合う、というものがある。食糧も富も、独り占めするのは人間のクズが行なう行為であり、みんなと、いやむしろそれが不足しているみんなと分かち合うのが人間として踏み行なうべき道なのである。ケチやエゴイズムは罪悪なのだ。だからハリラヤボーナスを手に入れたひとたちは祝祭のために帰省したとき、故郷の親族縁者に金を分け与えて善き人間にならなければならない。折りしもイドゥルフィトリは罪障消滅をした後の清き人間としての門出であり、善き人間であろうとするのは当然のことなのだから。
こうしてルバラン当日にはお年玉ならぬルバラン玉が大勢のひとびとの懐を潤す。わたしの見たかぎりでは、ルバラン玉は老いも若きも含めて定収のないひとにバギバギ(bagi-bagi)されているようだ。定収があれば、バギバギする者の側に区分されるのだろう。このルバラン玉は与える側の原資とバギバギ対象人数によって金額が決まるのは言うまでもないわけで、もっぱら少額貨幣の出番となる。言うまでもなくルバラン玉に使われる貨幣は作られたばかりのまっさらなもの。手垢がついて薄汚れ、汗がしみこんで臭い紙幣の出る幕はない。インドネシア銀行は総額3.3兆ルピアの額面1万・5千・2千・1千ルピア新造紙幣と銭貨を用意してイドゥルフィトリの一週間前に全国に配送した。更に最後の一週間にもう2.2兆ルピア分が出荷される計画になっている。7月20日に発行された新デザインの1万ルピア紙幣と1千ルピアコインはこの需要に充ててのもので、新しいものを欲しがる国民を喜ばせるためのプレゼント。
巷では中銀の小銭交換自動車がたくさん出動して中銀支店や取引銀行に出向けないひとに便宜をはかる。やってくるひとは70万ルピア、100万ルピアと半端でない金額を小銭に替える。だが中にはこれでひと商売しようという者も混じっている。かれらは勤勉に中銀支店や交換自動車を回り、ひとり200万ルピアまでという制限を克服して大量の小銭を貯える。ルバラン帰省が始まると、かれらはバスターミナルや鉄道駅その他帰省者が通過する場所に出て交換サービスを行なう。大規模資本オーナーはひとを使ってそれを行なわせる。利益は10%で、帰省者が50万ルピアを出すとその手に戻ってくるのは1万ルピア紙幣が45枚という寸法だ。国によってはそのような行為がご法度になっているところもあるが、中銀副総裁のひとりは「国民の一部が小銭交換を利用して利益を得ているのを制限することはしない。それで糧を得ようとするのはかれらの権利なのだから。」と語っている。


「サボり国会議員」(2010年9月13〜17日)
立法・司法・行政を個々に独立させて相互監視機能を持たせ、民主的な国家統治を目指すという三権分立思想はもう何百年もの間、民主主義国家の理想とする基礎ファクターのひとつと位置付けられてきた。そんな国家統治形式を持ち、国政や地方行政に携わるひとびとを国民や住民が選挙するという民主主義的な国民政治が外見的には行なわれているというのに、民主国家が目的としている全国民の福祉向上がいっこうに実現しない国がある。わたしはそれを人間の問題、つまり人間が形成する社会が再生産的に人間を育んでいく際の機軸をなしている文化の問題だと見る。ましてやデモクラシーは手段か目的かといった議論が湧き起こり、目的を正解としている国民が大多数を占めている国では、形式の正しい運用が実現すればそれでよしというのが当然の帰結なのかもしれない。
最近マスメディアで話題になったことがらのひとつに、サボり国会議員問題がある。公務員や民間会社員のオブイェカン習慣と同様で、国会議員にも会期中なのに議事堂に出てこないで何をしているのかわからない者がいるのは、やはり社会経済構造を同じくする人間のビヘイビヤの共通性ではあるまいか。
国会議員報酬は手取りが月5千7百万ルピア前後で、年間7億ルピアに近い金が業績とは関係なく国会議員というポジションに対して支払われている。真面目に勤め上げた普通の国民が一生掛けて手に入るかどうかという金額を国会議員は5年間で手に入れるのである。だから国会議員にとっては国民の代表として形なりにも国事に携わっているという装いをこらすのが恥を知る奥床しい国民性を反映する心意気だったから、自分の将来を確保するために任期の最終年度だけ国事をおろそかにするのが議員の節度とされていたというのに、今の議員は恥知らずにも、初年度から国事をおろそかにしているという批判の声が高い。
国会議員は国民の代表として、行政・司法による国民統治の監視、立法、そして国家予算作成という三つの使命を負っているが、その立法分野での業績が今年度会期はあまりにもお粗末で、その原因を探ったところ議員の出席率の低さが定数不足を引き起こして法案審議から国会承認にいたる一連の議事がひんぱんにお流れになっていることが明らかになった。
国会は政府と協議して、法案を審議承認する計画を毎年度立てた上でそれをこなして行くという国家立法プログラムを実施している。ところがものごとの価値観が一様でない複合文化国家という台所事情が作り上げた感のあるインドネシアの法律作成志向は問題が起こるたびに法律に立ち返ろうという「バックトゥザベーシック」思想への強い固着を生み、屋上層をなす法律多産国家となって法規のジャングルを国民生活にもたらしており、行政自身が徹底遂行をやりおおせない事態に陥って国民の順法意欲を薄いものにしているのは皮肉以外のなにものでもないだろう。
国家立法プログラムで計画された内容に遅れが出るのは常のことで、計画の100パーセント達成が過去にあったのかどうかよくわからないが、過去5年間の立法成果は次のようになっている。(年: 計画/実現)
2005: 55/14、 2006: 76/39、 2007: 78/40、 2008: 81/61、 2009: 76/39、 2010(7月まで): 70/7
総選挙後の初年度にあたる2009年度会期の議員出席率は、第一会期(2009年10月1日〜12月4日)92.6%、第二会期(2010年1月4日〜3月5日)84.3%、第三会期(2010年4月5日〜6月18日)71.6%と下降を続けており、マスメディアは国会事務局にある理由なき欠勤議員の名前を調べ上げてすっぱ抜いた。
ところがそれに対して仲間議員から強い抗議の声があがった。「国会議事に欠席した議員でも、政党の指示によって国会の外で活動している場合が少なくない。国会に出ていないからサボり議員だという短絡的とらえかたは不当である。欠勤議員の欠勤理由を政党に問い合わせた上で、サボり議員のステッカーを貼るようにせよ。」
国会というものを成立させているのが国民でなく政党であるというかれらの意識をあけすけに反映したコメントであるのは間違いないようだ。それが事実であるなら、政党も国民不在なら国会も国民不在という実態が透けて見えてくる。
議員資格というものを社会的特権に置いている社会では、いくら国民あるいは選挙民への奉仕という言葉を使おうがホンネからかけ離れたしらじらしさが横溢するのは避けられない。だから議員は小王じみた特権階層となり、超法規のとばりの後へと転がり込んでいく傾向を強く持つようになる。たとえば議員公式任命後二ヶ月以内に個人資産報告を汚職撲滅コミッションに提出しなければならないという規則を守っていない国会議員が650人中で128人もいる。
国会議員は5年間の任期中に一般国民が一生掛けて稼げる以上の金を、議員としての仕事をしようがしまいが手に入れている。議事堂に行こうが行くまいが同じ報酬が手に入るのなら、頭のよい人間は無駄な労を省く方を選ぶ、とかれらは考える。それがスマートだとかれらは信じているのだが、信義則というポイントから見るとまったく外れているにちがいない。名指しでサボり議員をマスメディアが公表したにもかかわらず国会の出勤率に改善の徴候が見られないことから、次の処方が提案された。例によって金で釣ろうというアイデアで、欠勤議員には報酬カットそして出勤率の良い議員には褒賞金を、というのがそれだ。するとここにきて有識者から反論が出た。「昔オルバ時代に、議員が国会議事に出席すると会議報酬手当をもらえた。レフォルマシ時代に入って十数年たつというのに、メンタリティは昔のままだ。国会議員はますますマテリアリストになり、国民のために国事を行なうという意識は消え果てて、すべて金のために国事を行なうという人間になってしまう。」
しかし国会が議員の勤務統制ツールを持っていないということでは決してないのだ。
国会運営規定によれば、公認される理由なしに6回連続して会議に欠席した議員に対しては議員資格を剥奪することができる、と定められている。ところが政党が国会を成り立たせているという原理がここにも顔をのぞかせる。政党は欠勤議員が党の活動を行っていたのだという理由を掲げてその議員を擁護する。国会には議員の倫理・規律・名誉に関連して議員を審査する国会名誉審議会も設けられている。しかし審議会が議員に処罰を与えた実例はまだない。和をもって互いに慈しみあうのを最高善としている社会に、規律向上のために鉄の統制をかけようとする者は居場所を失ってしまうにちがいないのである。議員報酬は議員という地位に対して与えられるものであり、そこに業績スケールを持ち込むことも業績評価ツールが何ひとつ用意されていないだけに難しいものであるようだ。
今国会PPP会派議員は、議員の出勤率の低さについて次のように語っている。「議員が議会に出てこないのは、前の総選挙で政治コストがあまりにも高くなったことから来ている。投じた資金の回収に欠勤議員の多くはてんてこまいのありさまだ。前回の総選挙キャンペーンで100億ルピアを使った者がいる。その帳尻を合わせるためには、議員報酬では全然足りない。だからかれらはロビイングに走り回ることになる。議事堂の中でできることはそう多くない。だから議事堂の外でもっぱらロピイングに励むことになり、議事に出席するよりも外出することのほうが多くなる。議事に出席してもしなくても、議員報酬は変わらないのだから。」


「サボり議員は自己中心者」(2010年9月15日)
2010年8月16日付けコンパス紙への投書"Anggota DPR Hanya Memikirkan Diri Sendiri"から
拝啓、編集部殿。全力をあげて国民の利益に尽くすことは国会議員ひとりひとりにとって掛け値なしの絶対的な使命です。国民がかれらを選んでその地位を与えたのですから。その意味で、かれらを栄誉あるエリートの地位に就けた国民のことを国会議員は片時も忘れてはならないのです。ましてや国民感情を傷つけ害するような行為はもってのほかです。ところが皮肉なことに、かれらは皮を忘れたピーナツのたとえのように自己がかつて何だったのかを覚えておらず、そしてかれらの行為はほとんどが国民を利するものになっていません。
いや、それどころか、かれらは自分の利益しか考えていないのです。国民の艱難辛苦に対する感受性すら持ち合わせておらず、国民福祉を考えるどころか、民族生活構築にポジティブな影響をもたらす議会に熱心に顔を出して国民に大きな繁栄をもたらそうとさえしない欠勤議員、つまりはサボり議員なのです。われらが国会議員先生方の姿は一目瞭然。国会議員は自分のことしか考えていない人間たちだという結論がそこから導き出されるのです。[ 東ジャワ州マラン在住、スヨト ]


「ウイ・スーチュン」(2010年9月18日)
バティックプカロガン事業者のひとりはたいへんユニークな製品を作っている。ウイ・スーチュン(Oey Soe Tjoen)という名前は知る人ぞ知るものだ。たとえば青緑の地に描かれたバラの花を取り巻く多数の蝶が飛び交っている構図。これはファインバティック(Batik Halus)・ウイスーチュンの代表的なモチーフだ。
プカロガン県クドゥンウニで営まれてきた家業のバティック事業を1930年に継承したウイ・スーチュンは当時の絵葉書にあるさまざまな図柄をバティックのモチーフに使おうと考えた。独特な花のモチーフは百以上集められている。ウイ・スーチュンはそのモチーフをバティックに使うよう職人たちに勧め、こうして独特のファインバティックが誕生した。
ファインバティックは魅力的だ。きわめて繊細な技法を駆使して作られているファインバティックは、言うまでもなく相応の手間と時間がかけられている。綿百パーセントのモリに芋の粉で作った糊をつける。糊が滲みて縮んだ布を引っ張って広げる作業は手加減が難しい。元のサイズに広げたら下書きをしてロウを塗る。しっかりと丁寧に行なわれるこの作業には時間がかかる。モチーフをすべてロウで閉じたら色付けにかかる。色が乗ったらロウを落とす。次の色を乗せるためにまたロウで閉じ、色付けをしたらロウを落として、という作業が12回繰り返される。グラデーションをつけるには、そのロウ付け〜色付け〜ロウ落としの細かい作業が繰り返し要求される。そしてもっとたいへんなのは、ファインバティック・ウイスーチュンは布の両面にバティックが描かれていることだ。だから職人はひとり年間に15枚程度しかバティックを作ることができない。
ファインバティック・ウイスーチュンはオーダーメード。制作でミスが起これば注文主にその処理を必ず問い合わせる。たいていの注文主は、新しく完璧なものを作り直してくれと言い、更にそのミスが起こったものも完成させるように要求する。ファインバティック・ウイスーチュンは一枚の価格が650万から750万ルピア。ウイ・スーチュンバティック事業は今スーチュンの息子の嫁が切り盛りしている。


「コメが腹いっぱい食える豊かな暮らしが人生の目標」(2010年10月19日)
国民の炭水化物摂取におけるコメへの依存度が上昇し続けていることを農業省食糧防衛庁食糧消費保全センター長が明らかにした。1950年のコメ依存度は53%だったが、2010年はほぼ95%になっているとのこと。「このままでは、人口増加に伴ってコメの需要は上昇し続ける。しかし年々5%を超えるコメの増産を実現させようとするなら、コメの生産力は疲弊してしまう。今年のコメ増産は1.2%しかなく、2008〜2009年の平均5%アップにはとても及ばない。コメの生産ペースに消費をあわせなければならないが、国民の食パターンに関連する問題であるだけに、容易に実現できるものではない。」
国民ひとり当たりのカロリーたんぱく質摂取状況を見ると、2007年の調査結果データではコメ穀類がたいへん高いシェアを占めていることがわかる。次に示されているのは低所得層と全国平均の数値で、ひとり当たり月間支出ブラケットの1(10万ルピア未満)、2(10万以上15万ルピア未満)、3(15万以上20万ルピア未満)、全(全国平均)の各グループ別実績。
[カロリー]数字はキロカロリー単位
コメ穀物: 1/866.83、 2/980.87、 3/997.83、 全/1,055.74
油脂: 1/129.56、 2/176.58、 3/213.74、 全/248.06
イモ類: 1/124.82、 2/94.83、 3/73.06、 全/73.1
既成食品: 1/59.77、 2/105.66、 3/156.37、 全/194.05
飲料: 1/56.1、 2/79.9、 3/95.75、 全/115.23
豆類: 1/33.17、 2/48.36、 3/59.92、 全/69.64
肉: 1/2.51、 2/8.4、 3/14.72、 全/29.37
魚: 1/22.71、 2/29.39、 3/38.51、 全/47.76
卵ミルク: 1/6、 2/12.96、 3/21.99、 全/38.12
その他は省略
合計: 1/1,388.69、 2/1,651.96、 3/1,816.68、 全/2,050.31
[たんぱく質]数字はグラム単位
コメ穀物: 1/20.79、 2/23.22、 3/23.5、 全/24.88
魚: 1/3.69、 2/4.76、 3/6.29、 全/7.86
豆類: 1/2.85、 2/4.25、 3/5.22、 全/5.98
卵ミルク: 1/0.4、 2/0.84、 3/1.37、 全/2.22
野菜: 1/2.93、 2/3.12、 3/3.23、 全/3.49
既成食品: 1/1.59、 2/2.91、 3/4.35、 全/5.4
飲料: 1/0.63、 2/0.82、 3/0.93、 全/1.12
肉: 1/0.14、 2/0.46、 3/0.84、 全/1.73
その他は省略
合計: 1/34.97、 2/42.79、 3/48.62、 全/56.25
コメ依存の緩和をはかるために農業省は何年も前から食糧多様化を国民に指導しているものの、小麦を使った食品の増加には基本的に賛成しない姿勢を示している。小麦は全面的に輸入に頼っているため、食糧自衛の見地から小麦の消費振興に政府はあまり積極的でない。
ボゴール農大経済学部教授は政府の食糧多様化政策に関して、シンコン(キャッサバ)のような国産食材を国民に対して普及振興する活動が期待されているというのに、ここ数年間政府はいつも生産の話をするばかりで消費面のプロモーションがおざなりになっており、多様化運動に進展が見られないのは自分が撒いた種だ、と政府の動きを批判した。「即席麺がいまや国民の主要食品のひとつになっているのが食糧多様化の一例だ。こうなるまでに20年もの歳月がかかっている。政府はその例からいくつかの教訓を汲み取らなければならない。国民に消費を促すためには産業界を巻き込む必要がある。非コメ穀物を素材にする食品の開発と販売促進に政府はインセンティブを与えなければならない。」
暖かいコメの飯が家の台所に常に潤沢に用意されていることが豊かさのシンボルのひとつとされ、生きることの目標が豊かな暮らしの実現にあるという文化の中に生きている国民にとって、食のパターンは単なる嗜好にとどまらず価値観に関わる問題にもなっている。保守的な国民の性向に変化をもたらす運動が数年というレンジで結果を生じるはずがないことを為政者は念頭に刻み込む必要があるにちがいない。


「心の貧困が経済の貧困を招く」(2010年10月19日)
2010年9月20日付けコンパス紙への投書"Kemiskinan Semakin Merisaukan"から
拝啓、編集部殿。天然資源の満ち溢れるインドネシアに国民人口の13.3%に相当する3,120万人もの貧困者がいるなんて、とてもありうる話ではありません。経済成長は進展している、投資環境は誘導的だ、などと言われているにもかかわらずです。
わたしたちの周りにも貧困者はいるのです。一日の糧を得るためにかれらは朝から夜まで身体を酷使しなければなりません。わが国の経済成長は見せかけのものなのでしょうか?貧困に関して言うなら、インドネシア民族は経済的に貧困であるばかりか、倫理道徳モラル的にも貧困です。
モラル低下がどれほど拡大して猛威をふるっているかをわれわれは日々の暮らしの中にはっきりと見ることができます。権力を得よう、高い地位を得よう、とだれもが競いあっているのです。あらゆる手段が使われ、それが正当化されています。そしてだれもがモラルを忘れ、礼節を忘れ、行儀を忘れており、誹謗しあうのは普通のことになりました。
バカにしあうのはありきたりのこと。ひとはますます無関心になり、最初はインテリだった者もいつしかインテリの衣を脱ぎ捨てるのです。モラルもついには崩壊します。インドネシア民族が自国民の行為で没落するであろうことは容易に想像がつきます。わが国は独立してもう65年が経過しているというのに。[ タングラン在住、ヘンドラ・グナワン ]


「インドネシア人の個人資産はほとんどが不動産」(2010年10月22日)
2010年半ばでのインドネシア人の個人資産総額は1.8兆ドルで、過去10年間で5倍に成長した、とクレジットスイスリサーチインスティチュートが公表した。2015年にはそれが3兆ドルになるだろうとも予測されている。同インスティチュートが報告したグローバルウエルスレポートは200ヶ国で行なわれた調査結果をまとめたもの。
インドネシア国民の資産成長は72%という世界平均成長率をはるかに超えるもので、アジアパシフィック地区ではナンバーワン、世界でも第4位に位置している。インドネシア国民が持っている資産の一人当たり平均金額は12,112ドルで、2000年のときの金額から384%上昇した。国民の20%は1万ドルから10万ドルの間の金額の資産を持ち、残りは1万ドルに満たない。そして各家庭の資産金額の90%は不動産を主体にした非流通資産で占められている。
これはインドネシア人が持つ資産の上昇が土地と建物の評価金額の上昇に強く関連付けられていることを意味している。インドネシアの土地価格は東南アジア諸国に比べて相対的に廉価であり、今後の資産額上昇がさらに大きなものになっていく可能性がそこに秘められている。ジャカルタのクニガン(Kuningan)地区CBDの地価は2008年の平米当たり1,800〜1,900万ルピアが2010年には2,400万ルピアに上がっていることをひとつの例と見ることができるし、またジャカルタ中心部における平米当たり4千万ルピアという地価はベトナムの平米当たり1.5億ルピアよりはるかに廉い。


「2030年には平均余命が74歳」(2010年10月23日)
インドネシアのデモグラフィは2030年までにふたつのボーナスを獲得するだろう、とハイルル・タンジュン国家経済委員会議長が発言した。そのひとつはまず、生産的年齢人口に依存する非生産的年齢人口の減少。そのピークは2018年で、生産的年齢層100人に養われる非生産的年齢層は40人となる。この状況は社会的資本の蓄積を促進して将来の経済成長を高める役割を果たす。
もうひとつは保健衛生クオリティの向上による平均余命の延長で、国民の平均余命は74歳となり、65歳を超える人口は9%となる。これはインドネシアの労働力がより長期にわたって生産に携わるようになる潜在力であり、インドネシアは世界の経済センターのひとつに台頭することができる。そのための戦略はインドネシアを農業国から工業とサービス業の国に転換することだ、と同議長は指摘した。
出生制限による第一のボーナスは近々終わりを告げ、第二のボーナスに取って変わられることになる。それを基盤に据えて政府は2030年のデモグラフィをよりメリットの高いものにするための政策を考えていかなければならない。この問題は最近国家家族計画統括庁が指摘した、国民人口の増加ペースが当初計画よりも速すぎる、という問題に関連している。現在の国民人口2億3千7百万人は現在政府が持っている人口プロジェクションの2億3千4百万人よりも多い。しかし中央統計庁が報告している人口増加率は1971−1980年の年平均2.31%から1980−1990年の1.98%に、そして1990−2000年の1.49%へと低下しており、2000−2010年はさらに1.33%に下がっている。この低下は大半の州で出生数が減少していることに同期しているとのこと。


「バティックミュージアム」(2010年11月20日)
バティックの町プカロガン(Pekalongan)にバティックミュージアム?そう、あって少しもおかしくないバティックミュージアムができたのは2006年7月12日のことで、北プカロガンのジュタユ通り(Jl Jetayu)に設けられたこのミュージアムでその日SBY大統領が公式オープニングを宣した。1千件を超えるバティックコレクションを集めたこのバティックミュージアムはかつてオランダ時代に砂糖工場の事務所だった古い建物を改装したもの。
ミュージアムの中は四つのスペースに分かれている。第一の部屋はラスム(Lasem)・チレボン(Cirebon)・プカロガンなどいわゆるバティックプシシラン(batik pesisiran)と呼ばれるものが集められ、またバティック制作に使われる道具器具や染料などもそこで見ることが出来る。バティックプカロガンのモチーフとして有名なプガタンやジュランプランなどのさまざまなサンプルもそこに展示されている。
次の部屋はバティックヌサンタラ展示室で、バリ・カリマンタン・スラウェシ・パプアなど外島部で作られたバティックが集められている。第三の部屋はソロやジョクジャなどジャワ島内陸部のバティックが展示されている。バティックプダラマン(batik pedalaman)と呼ばれるこの種のバティックは王宮の伝統に色濃く覆われており、プシシランの明るい色使いに対してこちらは地味で渋い大人の風合いをたっぷりと感じさせるものだ。
第四の部屋は開放的なワークショップになっており、バティック制作を学びたいひとが専門家の製作工程を見学したり、あるいは自分で制作にトライしてみることもできる楽しい場所になっている。白布にろうでメッセージを書き残すことも可能。
バティック製品の買物にプカロガン市を訪れるファンにとって、滞在中に訪れてみる価値のある場所が増えたのは幸いなことだ。


「傲慢な大統領警護隊」(2010年12月2〜4日)
2010年7月16日付けコンパス紙への投書"Trauma oleh Patwal Presiden"から
拝啓、編集部殿。パッ(Pak)SBYの隣人であるわたしは、チケアス〜チブブル〜ジャゴラウィを通る大統領に随行する警護パトロールの傲慢な姿をほぼ毎日実見しています。そのためわたしは、そしてそのルートを通る大半の通行者と同様に、警護パトロールのサイレンが聞こえるとそれを避けて早々に遠ざかるようにしています。しかし2010年7月9日13時ごろ、ジャゴラウィ自動車道から都内環状自動車道に入るチリリタン料金所付近で起こったできごとは、実にトラウマに満ちた記憶を、特にわたしの幼い娘に残しました。
チリリタン料金所で都内環状自動車道の料金を支払ってから内環状道路を走り始めたとき、サイレンと「すぐに道路脇に寄れ」と叱咤する警護隊員の声がスピーカーから聞こえてきました。パッSBYかあるいはその家族のだれかが通るのだろうとすぐ気付いたわたしは、他の通行中の車両と共に安全な停止場所を求めて一斉にスピードを落としました。ところが、突然十数台の警護隊パトカーが現れて他の車線をふさいでしまったのです。それはチリリタン料金所からおよそ100メートルほど離れた地点でした。わたしの車の直前に入ってきたパトカーが左に寄れと手でわたしに合図しましたので、わたしはゆっくり左側に車を寄せて行きました。ところがわたしの運転している車の色と車種をズバリ指名して、その車は右に寄れというスピーカーからの声が聞こえてきたのです。わたしが車を右に戻すと、前にいるパトカーは怒って左へ寄れと命じます。左に寄るとスピーカーからの怒鳴り声が右へ寄れと命じます。わたしはどうしたらよいのかわからず、パニックに陥り、そのまま徐行しました。
するとわたしの前にいたパトカーから警官がひとり路上に降り、わたしの車に近寄りざまにエンジンフードをバシバシ叩き、右のサイドミラーを殴りつけたため、サイドミラーは折りたたまれました。その口からは「あんたはわしに撃ち殺されたいのか?」というおどし文句。
わたしが道路の左端に車を停めると、その警官が近寄ってきて悪口雑言の速射砲を浴びせかけ、わたしは一言も口をはさむことができません。娘がおびえているのを見たわたしは、反論することにしました。
わたしはさっき実際に起こったできごとを詳しくその警官に説明しましたが、警官の怒りが収まる気配はありません。「そのスピーカーの声はどこから出たのか?」「あんたはわしの指示にだけ従っていればいいんだ。」「左に寄るように手を振り続けたから、もう手が折れそうだ。」などと一方的なことを言い募ります。
スピーカーでわたしに「右へ寄れ」と指示した不良警官に会わせてほしいというわたしの依頼を聞く耳すら持っていません。およそ10分間、ジャサマルガ事務所前で展開された市民への脅迫行為を見物していた警護隊の他の警官たちの中に、ひとりとして同情を示す者はいませんでした。民衆に保護とサービスを与えるという警官の使命はどこにも見出すことができませんでした。
情勢が不穏になってきたので、不良警官が暴力を振るうのを未然に防ぐつもりでわたしは自分が報道関係者であることを明らかにしました。するとその警官は記者の職業を貶した上に、わたしの車を壊したことを認めようとしませんでした。警官の名札はベストの下に隠れて見えませんでした。「わしらは廉い給料で暑熱の中で働いてるんだ。こんな仕事をわしが望んでいるとでも思ったのか?」という慨嘆でやっと幕がおろされました。SBY大統領が通り過ぎるとその警官は急いでパトカーに戻り、十数台の同僚車のあとを追って走り去りました。恐怖と緊張にわれを忘れている娘とわたしを残して。
尊敬するパッSBY,どうか大統領公邸である国家宮殿に引っ越してください。あなたやあなたの家族がチケアスの自宅から外出なさるたびに、わたしどもは毎日どれほど悲惨な目にあっていることか。チブブルの交通は大統領とその家族だけにとってスムースなのであり、一般民衆にとってはそうでないのです。[ チブブル在住、ヘンドラ NS ]
2010年7月19日付けコンパス紙に掲載された首都警察交通局長からの回答
拝啓、編集部殿。2010年7月16日付けコンパス紙に掲載されたヘンドラ NSさんからの投書について、VVIP通行ルートの保安警備を行なっていた当方担当者に対する調査結果は、そのときのVVIP警備任務では何も問題は発生しておらず、VVIP保安警備手順に従って滞りなく行なわれたことが判明していることをお伝えします。
VVIP警護はふたつの警備ユニットが行なっています。ひとつは常に大統領の身辺警護に当たっている大統領保安守護隊で、もうひとつはVVIPが通るルートの保安に責任を持つ首都警察の関連部門です。
自動車道でのルート警備を行なった警察官の心無い対応を蒙ったヘンドラさんが体験されたできごとに対して当方はお詫びを申し上げるとともに、全警官の職務風土改善のための批判と提案をいただいたことに謝意を表します。不良警官が心無い行為を行なった場合、すぐに警察本部・警察支署・警察分署に届け出て、フォローアップのために報告書を提出してください。あるいは現行規定に沿ったフォローアップがなされるよう、発信者の明確なフルアイデンティティを添えて当方に手紙を送ってください。[ 首都警察交通局長、チョンドロ・キロノ警察長 ]
2010年7月19日付けコンパス紙に掲載された大統領府からの回答
拝啓、編集部殿。ヘンドラ NSさんからの2010年7月16日付け投書はスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領の強い関心を曳きました。その件について大統領は関連高官を何人か呼んで、いくつかの任務を厳しく与えました。大統領はその投書内容の事実調査を求め、そのようなできごとがあったことに残念な思いを抱かれました。もしそのできごとが事実であるなら、その警官を厳罰に処すように、と。
大統領警護パトロールは常に一行と一緒に行動し、決して停まりません。一方交通整理を行うのは交通警察ユニットで、それらは別の組織です。投書されたような出来事はこれまで大統領が指示し強調してきた、国民を害する行為を避けなければならない警護任務に関する精神に沿ったものではありません。緊急事態であってさえ、国民を害し、トラウマを与えるような行為は慎まなければならないのです。
スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領は、大統領が通るというだけで左右の車線全部をふさいでしまう過剰な措置を見るのを好みません。交通警察が大統領通過前に道路閉鎖と路上からの車両排除を長時間行なった結果長い渋滞ができているのを見ると、それを批判する言葉が頻繁に口をつきます。
大統領の一日は、ほとんどの時間が大統領宮殿での執務に費やされています。交通渋滞を避けるためにスブの礼拝のあと午前5時にチケアスを出て大統領宮殿に向かうことも稀ではありませんし、反対にチケアスに戻るときは、往々にして大統領宮殿を21時に出ています。
ジャゴラウィ自動車道を降りてチブブル〜チケアスの住宅地区を通過する際には、世界中でVVIP警護の手順が一車線全部を完全に使うのを標準にしているにもかかわらず、国民の道路交通をブロックしてしまわないよう、コンボイは半分を使って通行するよう大統領は指示を出しています。 スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領は、見直しを行なうためのご意見を率直に受入れ、お詫びとともに感謝の意を表明していることをお伝えします。[ 報道記録担当大統領特別スタッフ、アフマディ・ヤニ・バスキ ]


「かどわかされるノナ・マナド」(2010年12月7日)
北スラウェシ州マナドの娘たちがトラフィッキングの被害者になる事件は増加傾向にあり、マナド市でエイズ罹患者の増加がそれに歩調を合わせている。マナド娘が特に人身売買のターゲットにされる背景は「これがインドネシア」の人と文化コーナー内にある「人と文化2007・8年」ファイルの記事「ノナ・マナド」(2008年3月24・25日)を参照ください。
北スラウェシ州女性活性化児童保護局データによれば、2009年に報告された人身売買事件は95件だったが、2010年は11月までで199件に達している由。一方エイズ罹患者については、2000年に7人と記録されている罹患者数は2010年に6百人にのぼり、かれらの大半は25歳から40歳という生産的年代の者たちだ。
女性保護やアンチトラフィッキングのNGO活動家たちは州政府に対策を求めており、特に州警察が人身売買を厳重に取り締まるよう望んでいるものの、予算が足りないとして本腰が入らないのが実態らしい。


「電力新規接続は来年からスピードアップ」(2010年12月7日)
国有電力会社PLNは2011年から新規電力利用者への給電接続のための手続を簡素化する、と発表した。これまで国民から不評をかこっていた5つの手続は廃止され、簡素化とスピードアップが実現することになる。
PLN代表取締役によれば、新規接続ウエイティングリストを隠して新規接続をやりにくくしている社外勢力があり、その謀略は社内の不良社員が手を貸して実現させていたし、地方によっては社員だけでそれを行なっていたところもあるとのこと。その対策をどうするかということがらに関連させての手続簡素化が来年から実施され、獅子身中の虫による会社事業への妨害は排除されるというのがその方針の骨子らしい。一日百万新設運動も来年再開されることになっている。地方によってはもうウエイティングリストが存在しなくなるところも出ることが期待されている。


「トップリッチマン10人」(2010年12月13・14日)
フォーブズインドネシアがインドネシアのリッチ40傑を発表した。それによれば2010年のインドネシアで一番リッチな国民はブディ・ハルトノとマイケル・ハルトノ兄弟であるとのこと。この兄弟は2009年も70億ドルで1位を占め、2010年は資産を110億ドルに増やして再び首位に立った。この兄弟はクドゥスのタバコ全国ブランド「ジャルム」のオーナーでまたBCA銀行の大株主であり、カリマンタンでオイルパーム農園事業を行っている。ではトップ10の概略を紹介すると・・・・・
2位のスシロ・ウォノウィジョヨはタバコメーカーGudang Garamのオーナーで、2009年の第3位26億ドルから2010年は第2位80億ドルに躍進した。
3位はシナルマスグループ総帥のエカ・チプタ・ウィジャヤで、昨年の24億ドル5位から60億ドルで2ランクアップ。かれの最大の収入源はGolden Agri Resourcesを通してのオイルパーム事業とのこと。
4位はアジア最大のパームオイルトレーダーWilmar Internationalのオーナーであるマルトゥア・シトルスで、昨年の30億ドル第2位から32億ドルに増えたとはいえ4位に転落。
5位はサリムグループの主アントニー・サリム。昨年の14億ドル9位から30億ドル5位に大躍進。
6位はインドネシア最大のポリエステル工場Indorama Synteticsのオーナーであるスリ・プラカシュ・ロヒアで、26.5億ドルで番外からいきなり彗星のごとく登場した。かれの妻はラクシュミ・ミッタルの実の妹だそうだ。
7位は石炭事業Bayan Resoucesのロー・トゥックワンで、2009年の11.8億ドル11位から26億ドルで4ランク上昇。
8位さまざまな事業を持つマルチビジネスマン、ぺテル・ソンダッは昨年21億ドル6位から24億ドル8位に移動。
9位のプトラ・サンプルナは国内有数のタバコ会社HM Sampoernaをフィリップモリスに売り渡した三代目。昨年20億ドル7位から今年は23億ドル9位に下がる。
10位は全国商工会議所会頭から政界入りしたアブリザル・バクリ。昨年の25億ドル4位から21億ドル10位に急降下。
タバコ長者は昔からインドネシアのリッチ上位に割拠していたが、昨今はパームオイルと石炭事業もリッチに至る道として確立されて来ている。フォーブズ誌編集者によれば、インドネシアのリッチたちの資産増はインドネシア証取における株価上昇が大きい影響を与えているとのこと。2010年初の総合株価指数2500ポイント前後というレベルから10月末には3600ポイントにまで上昇し、ほとんど5割増し近い勢いだ。道理でリッチ40傑の資産高合計は710億ドルとなり、2009年の420億ドルから目を瞠るような増加になった。それはGDPの10%であり、また政府収入予算に比較すれば三分の二に該当する。国家予算およそ1千1百兆ルピアは2.3億国民の一年間の暮らしを支える金額であり、その6割にあたる富がかれら40人の手に握られているという言い方もできる。
ただし、フォーブズのこの分限者番付のデータは証券取引所などの公的機関で公表されている資料から集められたものであり、株式公開をしていない事業家リッチは最初からこの番付に入る機会が閉ざされている。


「払った金は戻らないという建前論」(2010年12月14日)
2010年10月12日付けコンパス紙への投書"PLN Tak Bisa Dikoreksi"から
拝啓、編集部殿。去る8月15日にBCA銀行ATMで電気代を支払おうとした際、メーターの記録が07024300−07075200となっており、345,655ルピアが請求されているのを見て驚きました。つまりひと月に509kWh使ったことをそれは意味しています。なにしろ、その建物は2ヶ月前に取り壊されていまはだれも住んでいないのですから。
建物取り壊し以前でも、そんなに大きな電力消費がなされたことはありません。メーターをチェックしに行ったところ、数字は07033400と読めましたので、消費量は91kWhです。メーター検針員はいったいどういう仕事をしているのですか?2010年9月15日時点でメーターは07037700であり、07033400からの消費量は43kWhしかありません。
不服申請をすればお金は返してもらえると思い、わたしは請求通りにATMで支払いました。東ジャカルタのバライプスタカ通りにあるPLN事務所へ不服申し立てに訪れたのはその数日後でした。PLN職員が言うには、返金はありえないとのことです。過剰支払は将来消費される電力の支払に充当されるのだ、と言いました。支払いがなされたあとでは、コンピュータシステム内で変更ができないそうです。
電気が使われていない状況ですから、500kWhが使い果たされることはありえません。過剰支払のお金はいつ戻してもらえるのでしょうか?PLNは誤って払いすぎた場合の訂正が可能なコンピュータシステムを開発してください。[ 東ジャカルタ在住、ユニタ ]
2010年11月3日付けコンパス紙に掲載されたPLNからの回答
拝啓、編集部殿。2010年10月12日付け投書で訴えられている電力料金過剰支払いの問題に直面されているユニタさんのご不興に対してお詫び申し上げます。この問題は家族的に解決され、ユニタさんには2010年8月電力料金支払の過剰分277,055ルピアが返却され、ご本人が直接受取られました。[ PLN大ジャカルタ・タングラン配電事務所通信法務管理課長、リザ・インドリアワン ]


「PLNが意欲的なサービス向上を開始」(2010年12月22日)
国有電力会社PLNと電力利用契約を結ぶと、保証金が徴収される。この保証金はいったい何なのか、とPLN代表取締役が国会第7委員会公聴会で語った。「顧客に保証金を納めさせているが、何を保証させるというのか?何の懸念があっての保証なのか?電気代が払われなければ給電停止を行なっているじゃないか。やっていることが反対なのだ。保証金を預かっているのだから、給電停止をしてはならないのだ。電気を供給するときには保証金が納められていなければならないというこの制度は1940年代から開始され、今では総額5兆ルピア近くが預かり金になっている。消費者はその保証金によるメリットを一切感じていないのだから、その負担をなくすことで消費者にメリットを与えたい。」
PLN経理担当重役はその保証金の処理について、保証金を返却するのでなく、2011年に月次電力料金支払からその金額を差し引く方法で顧客に対する返却を行ないたい、と述べている。
現在の保証金タリフは次の通り。
家庭向け  (VA当たりのルピア金額)
450VA  101
900VA  101
1,300VA  122
2,200VA  128
3,500〜5,500VA  133
6,600VA超  156
事業所向け  (VA当たりのルピア金額)
450VA  125
900VA  125
1,300VA  125
2,200〜5,500VA  142
6,600〜200kVA  146
200kVA超  131
ところで政府とPLNが進めている1万メガワットプロジェクトの第一フェーズでPLNは今年2千メガワットの発電量増加を実現させた。ラブアン発電所600MW、レンバン?発電所315MW、インドラマユ?発電所330MW、スララヤ発電所625MW、タンジュンバライカリムン14MW、バンカ発電所30MW、アムラン発電所25MW、クンダリ発電所20MW、エンデ発電所14MWというのがその内訳。
この給電能力増加でPLNが優先的に取り組んでいるのが新規利用契約申込者のウエイティングリスト解消。全国のウエイティングリストに載っていた150万件は2010年10月末時点で1,001,042件がリストから消え、残すは50万件となっている。このウエイティングリスト完全解消は2011年3月が目標とされており、そのあとは申し込めば短期間のうちに接続が行なわれるようになる、とPLNは表明している。


「パイプからガス漏れ」(2010年12月24日)
2010年11月10日付けコンパス紙への投書"Pipa Gas Bocor, Tagihan Melonjak Berlipat Ganda"から
拝啓、編集部殿。わたしの父ムナシル・イスマンシャは1996年以来のチレボン市国有ガス会社家庭用ガス利用契約者で、顧客番号は07477です。2010年9月にガス使用量889m3料金184万ルピアという請求書を受取った父は驚愕しました。それまで毎月せいぜい10〜15m3の消費量しかなかったのですから。
父はチレボン国有ガス会社技術部門・請求部門・カスタマーサービスに連絡してその異状を届け出ました。調査の結果、壁の中にあるガスパイプでガス漏れが起こっているという結論が出されました。家庭用ガスはパイプを通して流れており、鋭い臭いもないので、父はガス漏れにまったく気付きませんでした。ところが15年ほど経過したそのパイプは腐食が起こっていたのです。父は2010年10月11日にチレボン国有ガス会社あてに不服を訴える手紙を出し、その写しを国有ガス会社本社送り、またカスタマーサービスにも電話をしました。カスタマーサービス担当者はその手紙を請求部門に回すと約束しましたが、それ以後何の音沙汰もありません。
政府が家庭用ガス配管供給プログラムに注力しているとき、45年の経歴を持つ国有ガス会社はわたしの父のような老齢の小市民に、使ってもいないガス料金の支払を命じて負担をかけているのです。国有ガス会社との連絡に費用を食われていることに加えて、父は国有ガス会社がこれまで一度もチェックもメンテナンスもしていないパイプから洩れているガスによる火災発生の不安におびえています。[ 南ジャカルタ市ジャガカルサ在住、アセップ・マウラナ・アクバル ]
2010年11月30日付けコンパス紙に掲載された国有ガス会社からの回答
拝啓、編集部殿。2010年11月10日付けコンパス紙に掲載されたアセップさんからの投書に対して次のようにお答えします。国有ガス会社チレボン地区のムナシル・イスマンシャさん名義の家屋内ガス配管設備(パイプ?B)のガス漏れを当方は現場調査を行って確認しました。ガス使用量が激増したのはそれが原因です。
改修工事は9月30日に行われました。そのパイプはもともと壁の外に取り付けられていたのに、タイル張り壁の中に埋め込まれて位置が変えられていたのです。そのためにガス漏れの発見が困難になっていました。顧客は請求書の支払を10月20日にマンディリ銀行経由で行なっています。 家庭用ガス利用者のみなさん、家屋内ガス配管の位置を変更したい場合は当方に届け出て、ガス漏れが起こってもすぐに発見できるような対応を取りましょう。ガス使用メーターを通ってから燃焼機器にいたるまでのパイプメンテナンスは利用者の責任なのです。[ 国有ガス会社SBU1チーフ、ジョビ・トリアナンダ ]


「見え見えの引っ掛けかしら?」(2011年1月5日)
2010年11月12日付けコンパス紙への投書"Pembayaran Listrik dengan ATM Tidak Sewaktu"から
拝啓、編集部殿。2010年7月、PT Debora M職員が暫定給電停止通知書を持ってわが家を訪れました。その書類は2010年7月21日午前9時19分30秒にプリントされ、営業係長ブスラン・ラビンタンという名のサインが見えます。
給電停止理由として、顧客番号545100687xxであるわたしは電力料金をまだ支払っていないから、となっていました。しかし2010年7月21日午前9時19分06秒にわたしはATMからその支払いを行なっているのです。その書類がプリントされる24秒前でした。わたしが支払った証憑を示すと、その職員は帰りました。
2010年10月、こんどはPT Pratomoの職員がまた暫定給電停止通知書を持ってやってきました。その書類もブスラン・ラビンタン氏がサインしています。異なる二つの会社で請求の管理という同じ職種に同一の名前のひとがいるなんて、奇跡的ではありませんか?その書類がプリントされたのは2010年10月21日午前8時2分3秒でしたが、わたしがATMでその請求を支払ったのは2010年10月19日午前8時0分39秒だったのです。プリントされる二日も前なのです。
やってきたかれらが本当にPLNの外注会社であるのなら、かれらの会社のコンピュータはPLNのデータとオンラインでつながっていないのでしょうか?書類をプリントするときにその顧客が本当にまだ支払っていないのかどうかをチェックしないでどうします?それともこれは現場の不良職員が小遣い稼ぎのチャンスを求めてやっていることなのでしょうか?
PLNも、顧客の支払いがわずか1〜2日遅れたからといって給電を停止すると威嚇するのはやめてください。給電の不安定なPLNさん、自分を鏡に映してごらんなさい。[ 北ジャカルタ市クラパガディン在住、リアナ・グナディ ]


「手描きバティックの危機」(2011年1月8日)
インドネシアの輸出一次産品の中に松脂がある。ゴンドルケム(gondorukem)と呼ばれるもので、メルクシ松(gandarukam)から採取される。この素材は薬品・食品・香料その他さまざまな産業に使われるもので、世界的に小さくない需要がある。
ゴンドルケムの生産と輸出は森林省管轄下の森林経営国有事業体PTプルフタニが担当しており、年間1万トン弱を輸出している。インドネシア産ゴンドルケムは国際市場でもっとも値が高く、それは現在手に入る最高の品質という折り紙がつけられているためだ。国内生産の8割は輸出されて将来は森林省の外貨稼ぎエースたらんと期待されている。
残る2割は国内市場に出されており、その重要な用途のひとつにバティック産業がある。バティック作りに使われるろうはゴンドルケムが混ぜられている。マラム(malam)と呼ばれている手描きバティック生産用のろうは、ろう、ゴンドルケム、みつろう、パラフィン、油など7種類の材料から作られる。
そのマラムが急激な値上がりを起こしており、マラム生産者の話ではゴンドルケムが入手難になっているためだそうだ。これまでのキロ当たり1万ルピアから12月初には3万5千ルピアにアップし、一日5キロほど消費していたバティック職人は1キロしか手に入らなくなっている。
プカロガン市商工コペラシ中小事業局長はプルフタニにゴンドルケムの国内供給確保を要請しているが、プルフタニからは輸出契約にしばられているため思うに任せない、という回答がきているとのこと。


「物見高いインドネシア人」(2011年1月15日)
四輪車で路上を走っていると突然大渋滞に巻き込まれることがある。ノロノロ運転を続けてある場所まで到達すると、突然目の前にあれほどたくさん並んでいた車がぐんぐんスピードをあげて走り去っていく。いったいあの渋滞の原因は何だったのかと対向車線の道路脇を見ると、交通事故!つまり起こっていた渋滞は事故見物渋滞だったのである。
街中で事故が起こると大勢の見物人が集まってきて何時間ものんびりと事故の後始末の見物が行なわれ、食物売りやらそれ以外の物売りまで集まってくる。バリのウルワトゥ街道急坂で起こった玉突き事故では、狭い道路に見物人がウンカのごとく集まり、人間の壁に阻まれて自動車がじわじわ運転を強いられるという事故見物渋滞も起こった。
事故ばかりか、世の中で何か変わった事物や事件があると、見物人がわんさか集まってくるのはインドネシア人の習性のひとつにちがいない。だから大型の災害が発生すると、その事件が落ち着いてから被災地に観光客が集まってくるということが起こる。2006年のジョクジャ中部ジャワ大震災でも、ジョクジャ特別州南部地区を巡る観光ツアーを大勢のインドネシア人が行なっている。そして今回、ムラピ山の噴火もそんな観光ツアーのチャンスを提供するものとなった。
観光客たちは被害の一番大きかったムラピ山頂にもっとも近いスレマン県チャンクリガン(Cangkringan)の諸部落を目指す。ンバ・マリジャンが住んでいたキナレジョ(Kinahrejo)部落・カリアダム(Kaliadem)・カリトゥガロル(Kalitengah Lor)・・・・。住民たちは自宅に戻って復興の槌音を響かせていても、噴火の被害で経済的に没落してしまったかれらにとって、やってくる観光客は金づる以外のなにものでもない。道路に竹の遮断機を置き、募金箱に金が入るまで遮断機を上げようとしない地元民たち。ウンブルハルジョ(Umbulharjo)村では入村料金をひとりあたり5千ルピア取るようになった。しかしそれは村役のやること。「わしらはわしらだでよ」とあちらこちらの集落には関所ができる。マグラン(Magelang)住民のひとりは、ムラピ入山は大人ひとり2千ルピア、子供1千ルピア、四輪車2千ルピア、二輪車5百ルピアで、休日でもせいぜい5百ルピア高いだけだったのに、今回来たら山の麓から上までいたるところで金を取られ、6万ルピアも支出してしまった、と不機嫌な声で物語っていた。


「北ジャカルタ市の非合法井戸」(2011年2月3日)
北ジャカルタ市民の間で無許可に取水井戸を掘ることが活発化しており、しかも土地の余裕がないために汚わい槽に近い場所で井戸を掘っていることから汲み上げられる水は大腸菌汚染が甚だしく、飲用に適さない。そんな状況を踏まえて都庁生活環境運営庁長官が、北ジャカルタ市の地下水は既に赤信号になっている、と表明した。中央ジャカルタ市もやはり赤信号であり、南ジャカルタ市は比較的マシな状態であるとのこと。「地下水は水道を補完する位置付けのものであり、水道パイプがまだひかれていない地域などにしか必然性はない。ところが最近は無許可で井戸を掘り地下水を汲み上げている工場やホテルが増えている。そのために水質劣化が引き起こされるだけでなく、無統制にそれがなされれば地表面の低下や陥没が発生するし、また海水の浸透も増加する。そのような生活環境悪化を防止するために、2009年都知事規則第37号で地下水採取は規制されている。」
地下水利用は有料であることが定められており、本来ならばどの家庭も取水井戸にメーターを取り付け、利用量に応じて都庁に課金を納めなければならないが、都庁はまだ産業界にしかその法規を適用していない。法規では一般家庭もそうしなければならないことになっているというのに、取締りがおこなわれないために都内の全家庭が規則に違反している。これこそ国民総犯罪者化社会のあり方を如実に示すものであると言えよう。
ともあれ、都庁生活環境運営庁は2011年1月12日、北ジャカルタ市のマルンダ・プガンサアン・チリンチン・スンテルの四地区で抜打ち検査を実施した。検査ターゲットは、許可の有無、メーターが動いているかどうか、取水されているのにメーターは止まっていないかどうか、といったことがら。違反者には例によって、警告処分から即時閉鎖まで段階的な罰則が与えられた。即時閉鎖とは井戸穴を閉じてセメントで固めるというもの。
2010年8月のデータでは、都内には4,011ヶ所の合法的井戸があり、年間2千万立米の地下水が汲み上げられている。北ジャカルタ市を担当地域に含んでいる上水道サービス会社PTアエトラアイルは北ジャカルタ市の工場顧客が1,370社に達しているが、残る6百社あまりは上水道供給サービスを受けようとせず地下水採取を継続している、と報告している。


「おとなしく決まりを守るのはXXのわがまま文化」(2011年2月7日)
2010年12月12日付けコンパス紙への投書"Sikap Pramugari Pesawat Garuda"から
拝啓、編集部殿。2010年11月7日、わたしはマカッサル発17時20分のガルーダ航空GA603便でジャカルタに飛びました。飛行中、わたしの隣に座ったご婦人がブラックベリーに文章を一心不乱に打ち込んでいるのです。航空安全に不安を感じている乗客としてわたしはスチュワーデスにそのことを注意しました。
スチュワーデスはブラックベリーに熱中しているその婦人を一瞥してから気楽な調子でこう言いました。「こんな上空に昇れば携帯電話をオンにしてもまったく大丈夫なんですよ。だって電波はないんだから。点けていけないのは離陸時と着陸時だけです。」
スチュワーデスのこの言葉にわたしはおどろいてしまいました。わたしが知っているかぎりでは、『飛行中に携帯電話を点けてはいけない』というのが決まりであり、それは搭乗前にも、そして機内での安全デモの際にも注意が呼びかけられているのですから。
結局わたしは自分でそのブラックベリーに夢中なご婦人に注意する決心をしました。そしてその答えはまるでさっきのスチュワーデスの言葉を丸写ししたようなものでした。「これね、今は電波がないから安全なのよ。」
着陸前にその婦人はブラックベリーをハンドバッグの中に放り込みましたが、それはどう見てもスイッチが切られていないままにしか見えません。車輪が滑走路に着地する直前、婦人のハンドバッグの中でチラリンという音がjしました。SMSが受信された音です。つまりその婦人のブラックベリーは確実に電波を受信していたのです。[ タングラン在住、デウィ・インダ・サリ ]


「夫の健康長寿は妻の手中にある」(2011年3月4日)
インドネシア人の平均余命が伸びていることを次のデータが物語っている。
年 : 女性/男性 (数字は歳)
1969 : 48.1/45
1980 : 54.0/50.9
1985 : 61.5/57.9
1990 : 64.7/61.0
1995 : 66.7/62.9
2000 :  70/65
上の表からわかるように、男女差は年々拡大しており、2000年にはそれまでの3〜4年から一気に5年もの差がついた。ジャカルタにおける最新調査によれば、女性72歳男性65歳という数字が報告されており、ますます差が拡大している。その状況は病気という要素を媒介にして注目する必要があり、男性にとっての保健プログラムが用意されなければならない、とインドネシア大学医学部内科医学科研究員が発言した。しかし現在世界のどの国を見ても男性保健というコンセプトは等閑に付されており、オーストラリアとイギリスだけが特例として存在しているだけである由。
心臓・癌・卒中・高血圧・慢性呼吸器系障害・肺炎・腎不全・アルツハイマーなど、どちらかといえば女性よりも男性に疾患が多い。男性の一般的性格を構築した社会的文化的要因が男性にストレスをもたらし、喫煙・飲酒・禁制薬物の摂取に向かわせている。男性は心理内に度胸を尊ぶ・恥を知る・敗退を忌避するといった基本的傾向を持ち、その価値観にしたがって病気をこらえあるいは無視する。自分は病気だと認めるのが恥ずかしく、男としての自分の存在が他人の目に揺らいで映るのをおそれ、常にあらゆる問題に直面する態勢にあるという姿を示そうとする。だから男性は生命に関わる病気の危険を意識しなければならず、そのような病気に襲われるのを予防するためにポジティブな行動を取る必要があり、そこに女性の協力する場が生まれる、とかれは強調する。
女性は家族の健康問題についての決定権を握っており、またさまざまな情報を吸収できる立場にある。男性の健康は一家の健康に影響を与え家族の社会生活や生き方の基盤を支えるものとなる。中でもインドネシア文化の中で男性は家長にして一家の生活基盤を支える責任を担う立場にあり、家の外で糧を得てくるのが男性に与えられた使命なのである。男性は一般的にゴール指向の考え方が強いが、自分自身の健康問題は決して無視できないものだ。男性は自分の感情を表現するのが難しく、女性はそれを巧みに誘導して自分の感情をオープンに露出できるように導き、その雰囲気を演出するのが協力というものだ。
かれはそう語って、夫唱婦随の家庭像の中で夫の健康長寿を妻が支えるという役割分担をもっと定着させなければならない、と説いている。


「ミスキン」(2011年3月9〜24日)
「財産のない」「すべてに不足している」というのが言語センターインドネシア語大辞典(KBBI)第4版に記されているインドネシア語miskinの語義だ。ミスキンは日本語の「貧しい」という形容詞に該当している。
バンドン市内にあるスカミスキン監獄はスカルノ大統領が独立運動中に入れられたことから後世その名が一躍有名になっているのだが、スカミスキン(Sukamiskin)という地名は『貧乏が好き』ということでなく、「貧乏でも心愉快」「貧乏を愉しむ」といった意味に理解するべきだろう。日本語の『好き』と言葉に似ているためにsuka=好きという組み合わせで覚えこむ傾向が日本人には強いが、スカの語義の筆頭は「うれしい・たのしい・よろこばしい」になっており、「好き」という語義は二の次三の次に置かれている。
貧しさあるいは貧困ということに関してインドネシア政府は独立の最初から、国民を貧困から救済することを旗印に掲げてきた。それはきわめて高邁な国是ではあるものの、その方法論は各政権でさまざまに異なっており、政府の交替によって政策がいろいろ変転してきたために着実な積み上げという面に一抹の寂しさがある。現在のSBY政権はマクロ経済の発展による国の繁栄を最優先目標に掲げており、オルバ期のスタンスに近い。
2010年にインドネシアは目標の5.8%を大きく上回る6.1%の経済成長を達成した。GDPは2009年実績の5,603.9兆から6,422.9兆ルピアに上昇した。6,422.9兆ルピアを総人口2.376億人で割った商は2千7百万ルピアで、これがひとり当たり国民所得だ。米ドル建てに換算すれば3,004.9ドルとなる。2009年は2,390万ルピアドル換算2,349.6ドルだったから、ドル建てで言うなら28%という所得の伸びになる。そんなバラ色の庶民生活が果たしてインドネシアに到来しただろうか?
中央統計庁長官は、経済成長の立役者は家庭消費の伸びで、シェアを見るなら56.7%をそれが占め、次いで投資が32.2%になっており、諸外国の例に従えばこれはあまり健全な形とは言えない、と説明している。
2010年の経済成長は334万人の新規雇用を実現させた。つまり1%の経済成長率は54万8千の雇用を創出したことになる。セクター別新規雇用はサービスセクターが最大の32万5千人、続いて加工産業が22万人となっている。その状況に関して労働経済評論家ヤヌアル・リスキは、家庭消費が製造産業を刺激して雇用拡大を促すという一般的なサイクルに比べてわが国は経済成長と製造産業の関係に明らかに断絶がある、とコメントした。
中でも家庭消費の大きさはその大部分が高額所得層に支えられたものであり、消費の大きさが製造産業を動かしていないのは、国内家庭需要の大半が輸入に依存しているためであるとのこと。
インドネシアの富裕層は資産の33%を預貯金、22%を不動産、19%を証券、16%を投資信託、10%を外為などその他投資の形で所有している。つまり高資産所有者は資金をマネーマーケットで泳がしているばかりであり、生産活動に向けられる資本金はこの階層にとってマイノリティであることをそのデータは示している。
さて、国是である貧困者救済について、現政権はその使命をどこまで果たしているのだろうか?
政府が公表している貧困者人口は年々低下を示している。
2006年3,930万人
2007年3,717万人
2008年3,496万人
2009年3,253万人
2010年3,102万人
だが『貧困者』という言葉でひとはどのような暮らしを想像するのだろうか?中央統計庁が定義付けている貧困とは、食品と非食品の基礎需要を経済的に満たせないこととされ、食品は一日あたり2,100キロカロリーの摂取、非食品は住居。衣服・教育・保健の最低需要を満たせない限界レベルを貧困ラインとしている。しかし、政府の規定している貧困ラインは低すぎるのではないか、とインドネシア科学院研究センター研究員が疑問を呈した。
東南アジア域内諸国でも世銀が提唱する一日2米ドルを貧困ラインに設定する国が増えている。インドネシアもそれに倣うなら、一日1万8千ルピアが貧困ラインとなるはずだが、中央統計庁の2010年貧困ラインは月間211,726ルピア、一日になおせば7千ルピアであり、ドル換算すれば80セントにしかならない。もしインドネシアで2ドルを貧困ラインに設定すれば、インドネシアの貧困層は一挙に国民の42%に上昇する。中央統計庁は都市部と農村部に分けて貧困者調査を実施しており、2010年の都市部は232,989ルピア農村部は192,354ルピアが貧困ラインとされている。
インドネシア科学院研究センター研究員は、貧困ラインが低すぎる問題を補正するために、貧困ラインのすぐ上にいる近似貧困者をニヤプアーとして公表してはどうかと推奨している。かれによれば2010年ニヤプアー層人口は2,938万人いる。この貧困ライン上下6,040万人は支出のほとんどが食費に費やされているひとびとであり、食品食材の値上がりによって容易に貧困ライン下に落ち込む可能性を多分に持っている、とかれは言う。
物価の値上がりが起こらなくとも、低所得層国民を貧困に引きずり込む要因はいろいろある。一家の生計を支えている人間の活動能力を奪うできごとはその扶養家族を突然貧困ライン下に投げ込むだろうし、家族のひとりが入院しなければならないような病気に見舞われたら、低所得層の収入とまるでアンバランスな高額医療費をまかなうために一家をあげて借金に走り回らなければならなくなる。アッパーミドル層以上のひとびとは保険によってそのリスク対策を行なっているわけだが、低所得層はなかなか自力でそれをなす余裕がない。
政府保健省は国費による保険システムを貧困者救済対策に置いており、国民健康保障プログラムとして予算を取っている。だがそれも潤沢というには程遠い金額であり、おまけに貧困者認定を行なって医療保障カードを配布するものの、いざそのカードを病院で使おうとしても拒否反応を示す病院が少なくない。それは国民健康保障プログラムで貧困者本人に無償医療を施しても、いざ政府にその請求を出すといつまでたっても金がおりてこずに病院側に未回収債権を積み立てさせる一途、という結果に終わる実例がゴマンとあるためで、これはコルプシあるいはバッドガバナンスが貧困者を直接苦しめているサンプルだと言えよう。
この国民健康保障プログラムでは、貧困者人口として1億1,500万人が想定されている。この数字は中央統計庁が出しているもので、貧困ライン下人口とニヤプアー層を足したものだ。ところが保健省が取っている2011年度予算は6.3兆ルピアで、これは7,640万人しかカバーしていない。つまり保健省が認める貧困者人口の6割しか予算の対象にされていないのである。7,640万人の根拠はやはり中央統計庁が出した数字で、貧困者人口にニヤプアー層の中でインフレによって容易に貧困ライン下に滑り落ちる人口を加えたものとされている。
ともあれ、2010年インドネシアの輝かしい経済成長がかれら6,040万人あるいは7,640万人にどれだけ恩恵を施したのかという点に関して、国内オブザーバーそして現政権批判派は総じてマクロ経済とミクロ経済の断絶を槍玉にあげている。金持はどんどんリッチ度を高めているがそうでないひとびとの大半は豊かさをほとんど享受できておらず、その間の格差は広がる一方だ、と言うのである。国が富む。その富の恩恵は従来から国民社会の上層にいたひとびとにばかり降り注ぎ、かれらをますます富ましている。そんな発展から置いてけぼりを食っている一般庶民を無視した政治がいつまでも成り立つわけがない。これはたいへん危険な状況を引き寄せているのだ、と実業界の有力者が警告している。
「実業界は国家経済発展の機関車として奮闘を続けている。しかしながら、そのハードワークが生み出す成果も、インフラ拡充・法治の確立・エネルギー供給・ハイコスト経済といった現有諸問題の解決を政府が実現させないかぎり、何の意味ももたらさない。製造産業は自動車と家電セクターの成長でまだ救われている。人口はまだ増えるからトヨタもホンダもまだ伸びるだろうし、家電も輸出のおかげでまだ発展するだろう。しかし政府が輸入者を甘やかす政策を方向転換させないなら、この状況は長くは続かない。輸入促進方針や電力基本料金値上げは製造産業を脅かしている。産業界の物品製造意欲は低下の一途だ。かれらの一部は既に製品輸入者に変身しつつある。雇用創出は先細りから免れない。それらの結果、国民の間の貧富の差は一層拡大し、成長の成果を享受している者はほんのひとにぎりで、余裕のない暮らしをしている者は依然として大多数を占めている。政府が製造産業を盛りたてるための手を何も打たないなら、まともな成長をどうやって行なえるのか?貧富の格差増大が何らかの影響を引き起こしたとき、事業者がそのあおりをくらってはたまらない。」ソフィヤン・ワナンディ、アピンド会長はそうコメントしている。中央統計庁データによれば、加工産業は過去三年間業績が下降を続けている。GDPへの貢献度は2008年に27.8%、2009年26.4%、2010年24.8%。没工業化への傾斜は変化の兆しが見られない。
国がいくら富んでも、国民の所得分配格差が拡大するなら現在ある貧困層を救済することはできない。国の経済成長の恩恵が全体の底上げに発展していかないかぎり、国民を貧困から救済するという国是は解決されない。現在行なわれている貧困対策の分析と実施は収入支出という所得に関連する面からのアプローチが主体になっているが、それをいつまで続けても一部上流層にばかり経済成長の恩恵が集中していることの是正は実現されない。貧困対策に社会的文化的アプローチを盛り込まなければ適確な政策は生まれない。すなわち、コルプシ(腐敗行為)を含めた社会悪とそれを成り立たせている社会構造の改革を進めなければ、貧困層救済という国是はいつまでたっても実現しないだろう、と一部有識者は主張している。
貧困とは生活の根幹となるべき諸要素へのアクセスが欠如している状態なのだ、とかれらは指摘する。土地、妥当な暮らしが営める住居、清潔な水、生計を立てるための器材や原材料、栄養のある食品、教育、保健医療、健全な生活環境、職業・・・・・。だから中央統計庁が使っている貧困の定義はあまりにも狭い、と専門家層は見ている。
世銀によれば、インドネシアの貧困層は総人口のほぼ50%おり、都市部居住者の29%、村落部居住者の59%が貧困者で占められているとのこと。一方中央統計庁の公式データは総人口の13.3%に当たる3,102万人が貧困層であり、都市部居住者と村落部居住者の比率は4対6となっている。ところが実際に政府が行っている貧困者救済対策のひとつ、廉価米放出は1,750万世帯を対象にしており、一世帯4人家族とするなら貧困者人口は7千万人に近付く。あるいは子供の28%が国民標準体重を下回っており、44%が発育不全の事態に直面しているといった事実と政府の公表データとの間に整合性はあまり感じられない。
「政府は貧困を単なる経済問題と位置付け、公式データに表れている貧困者減少を政治成果として誇っているものの、政府が行っているのは貧困者対策であって今や常用句と化した『貧困撲滅』の真の意味での対策は経済という枠の中に限定されるかぎり、効果的な行動は生まれないにちがいない。」貧困問題オブザーバーはそう語る。
政府は貧困者人口の減少を強く主張しているものの、国民の貧富の格差増大については黙して語らない。貧困をシンプルな経済問題として取り扱うのは不可能であり、国民の基本的人権に対する違反ということがらの中に貧困問題が位置付けられなければならないのだ。国民生活の中で広い意味での安全感が確保されることによって貧困が軽減されていくのだから。貧困問題と貧富格差問題は、インドネシア特有の多様な宗教と多様な種族という特性にからめて、権力構造の中でもてあそばれている。それが生み出す暴力はヒューマニズムを粉砕し、人間の尊厳を埋没させている。
2009年に香港でトランスペアレンシーインターナショナル副理事長は「腐敗行為が根絶されないかぎり、貧困対策プログラムは決して十分な効果をあげないだろう。ましてや対策資金が外国借款でまかなわれているのであれば・・・」と表明した。発展途上国の国家開発プログラムには必ずと言ってよいほど腐敗行為がからみつき、天然資源の乱獲搾取に見られるように貧困を煽りコンフリクトを駆る政策がついてまわる。
インドネシアでコルプシは常に過去の封建遺制に関連付けられ、そこに最新テクニックが持ち込まれて華麗に変身を遂げている。コルプシ撲滅体制は講じられていても、国家体制としての一枚岩になっておらず、行なわれていることはあまりにも部分的でしかなく、最高政治権力がどこまで本気でそれをサポートしようとしているのかが明確に見えてこない。インドネシアコラプションウオッチは2004年から2010年の間、州知事18人、州副知事1人、市長17人、副市長8人、県令84人、副県令19人がコルプシに手を染めたことを記録しているし、南カリマンタン・南スラウェシ・西ヌサトゥンガラの民間団体が、コルプシ隠しと政治抗争のために宗教の公式化が公共政策に取り入れられたことを指摘している。
2010年上半期で1千8百件のコルプシ事件が摘発され、地方議会議員1,243人が2004年から2009年までのコルプシ犯罪容疑で取調べられている。レフォルマシ期に入って地域行政区分分割が盛んになり、10年間で7州164県34市が分離した。その205新設行政区域で1,891件のコルプシ事件が明るみに出ているのは、新たに行政区域を分離させることの目的が何を目指していたのかということを十分に推測させてくれるものだ。こうしてインドネシアはアジア太平洋地域で最悪の腐敗国であるとの烙印を政治経済リスクコンサルタンシーが最新報告の中で捺してくれている。
ここでふたたび、自戒しておこう。われわれは腐敗問題を腐敗行為という量的な測定で見ることにとどまってはならないのだ。そんなことをすれば、上であげた、貧困問題を経済問題と限定して見るのと同じ穴に落ちてしまうからだ。腐敗行為は窃盗強盗よりもっと広範囲で深い傷を社会に負わせている。社会構造として、活動機関として、あるいは個人として行なわれるコルプシは人間の社会的共同生活とコルプシに無関係なひとびとが得るべき諸要素を奪い取っているのである。システマチックなコルプシのパイプの先に貧困がある。人間の基本的な生存権に対するあらゆる侵害の根底に腐敗行為が横たわっている。
経済学者ファイサル・バスリは言う。「コルプシと貧困との間に直接的な関係はない。そうでなくて、コルプシは経済成長のパワーやクオリティの足を引っ張って成長を鈍化させる。その裏側に貧困者救済に対する影響が出現するのだ。行政サービスを得るために贈賄が行われ、あるいは行政高官からの利益の分け前要求を受ける。それらに応じなければ、高く払わされたり長時間待たされたりして生産活動に障害が出るのだ。その結果、製品はコルプシのない国のものに対して競争力が持てなくなる。
2008年のグローバルクライシス下で近隣諸国が没落しても、インドネシアは広大な市場と天然資源のおかげで2009年に4.9%という目覚しい成長を達成したというのに、経済回復が諸国を覆うと2010年の成長は6.7%に向上したものの、東南アジアでは最低の成長になった。」
「コルプシはコインの両面だ。贈賄は投資を促進させ経済成長をうながす潤滑油だと考えるひとびとがいる。それがなければ非能率な行政プロセスのために事業は遅々としてはかどらないものになるだろう、と言うのだ。その反対にコルプシは投資の出足を弱める砂利だと言うひともいる。コルプシは実業界に追加コスト負担を強いるものであると同時に政府に対しても国庫収入と行政能力を悪化させるものになる。モラル規準を転倒させたところにコルプシが起こる。
世間はコルプシを経済バイアスの目から見ている。コルプシというのは国の金をくすねることであり、公務員が行なうものだという見方だ。そんな見方のために、コルプシは全土にあまねく拡大している。」そう語るのはドリヤルカラ哲学学校教官ヘリー・プリヨノ。
国庫は国民を富ませるためのものであり、自分は国民だ、という奇妙なこじつけで公費を掠め取り、治められ安堵される民はその支配者に貢納するのが当たり前だという論理で公権力によるゆすりたかりを横溢させ、他人に何かをしてもらうなら謝礼が出て当然だというロジックで公務員が行政サービスの中に不法徴収金を制度化している。そこに見られるのは封建遺制として生き残ってきたコルプシにひとびとが行なっている理由付けであり、それが一般社会に流布して大多数の国民がそれを信じ、それに服従している。人間の行動規範は世の中で実行されていることがらの中に存在するものであり、ひとは成長過程でそれを学習し実践するようになる。社会の自己維持自己保存のパワーはそこにある。たとえ諸外国から悪行だと非難されようとも、自らの社会が維持してきたものごとがその社会構成員にとってあくまでも『是』以外のなにものでもないのは、日本人にとっての捕鯨の例を出すまでもないだろう。
社会が構造的にコルプシを包含し、世間に並び立つものとして存立を許している。つまり社会を構築している一要素としてジグソーパズルのひとコマになっているわけであり、そのジグソーの全部のコマとその係わり合いかたをひとは文化と呼ぶ。もちろんコマの係わり合いかたの中に特別重要な価値を持つものがあり、さらにプラスの価値を持つものやマイナスの価値を持つものすらある。とはいえマイナスの価値を持つコマはマイナスを承知の上でそこに置かれているのであり、それを捨て去ってしまえば社会が成り立たない。昔からそれは必要悪と呼ばれてきた。
インドネシアにおけるコルプシはそこまで深くひとびとの社会生活に関わっており、国際慣行上「犯罪」と規定されているから撲滅されなければならないのだというシンプルなアプローチでひとびとの社会生活の根底まで肉迫できるのかどうか、いささか疑問を禁じえない。インドネシアにおけるコルプシ問題はつまり文化問題である。言い換えるなら、コルプシは文化なのである。そんな発言に目くじらを立てる読者はまだいらっしゃるだろうか?
非能率な住民管理行政サービスが改善されないのはそれがコルプシの土壌になっているからであり、行政改革という政府中枢の立てる旗印と現場官吏の腹の底は別の絵が描かれていて当然だろう。官高民低という旧来型権力構造のありかたは官の姿を模倣する民の行為に反映されてバッドビジネスガバナンスを支える基盤にすらなっていた。インドネシアにおけるサービスということがらの基本観念がわれわれのものとかなり食い違っているのは、インドネシアに暮らしている外国人には十分ご理解いただけるものと確信する。
有料自動車道路(Jalan Tol)は金を払うから早く目的地に到達できるのだから、ビジネス行政にもJalan Tolがあっておかしくないのだという論理が古くから使われてきた。だから早く結果を得るためには、金を払うのが当然だ、ということに国民は慣らされてきたのである。民間事業者が金を渡して自分の案件を早く処理してくれと行政に働きかけるから贈収賄が起こるのだと行政側は言い、行政手続をわざとぐずぐず遅らせて、さあ金を出せば即決だという姿勢を露骨に役人が示すから贈賄せざるを得ないのだ、という応酬が官民に起こるのも、それが社会的に確立された習慣になっているからだ。
国民ひとりひとりが同じ土俵に立って、社会を良くするために着実な改善を積み重ねる以外にそんな状況から脱け出すことはむつかしい。他人よりたくさん金を払い、他人よりスムースに結果を享受して、それがスマートな人間のやり方だとひとり悦に入る人間が続出するなら、現状の改善は進まないだろう。おまけに手段が正であれ邪であれ、金銭実利があらゆる人間行動の最大モチベーションであるという人間観(いや金銭観だろうか?)が変わらないかぎり、国民自身のこの問題解決へのアプローチはきわめて遠い道になるような気がしてならない。


「家に電気を引くのはたいへん」(2011年3月11日)
2011年1月7日付けコンパス紙への投書"Biaya Pasang PLN"から
拝啓、編集部殿。2010年10月20日、わたしは900ワットの電力供給申請を西ジャカルタ市ラトゥメテン通りにあるPLNカプッ支店に提出しました。ところがいまだに給電接続工事がなされず、あれこれと言い訳ばかりです。窓口で新規給電費用明細を記した掲示板を見ようとしたところ、掲示板には白紙が貼られていて読むことができません。窓口職員に尋ねても、返事はありません。
PLNは百万戸給電プログラムを行なっているではありませんか。10月26日にわたしはメトロTVの実況放送でPLN広報責任者がそのプログラムの詳細をインタビューに答える形で説明したのを見ているのです。
PLN広報責任者は450ワット新規接続費用は30万ルピア程度、900ワットなら60万ルピア前後だと言っていました。ところが現実は、わたしが申請した900ワットの新規給電接続に120万ルピアも払わせられ、今この投書を書いている時点でもいまだに電気は引かれていません。わたしの住居は3メートルX6メートルなのです。[ 西ジャカルタ市チュンカレン在住、ロスマディ ]


「この世は地獄か」(2011年3月18・19日)
いま35歳の長男アアンが麻薬常習犯としてボゴール県チビノン社会復帰院(インドネシアでは監獄のことをそう命名している)に送り込まれたのは2年3ヶ月前のこと。刑期満了があと半年まで詰まってきた2011年2月、アアンの母ロスピナ50歳に連絡が入った。アアンが脊椎骨折で重態だという。東ジャカルタ市チブブルの薬物依存症病院に移されたアアンの世話をするため、ロスピナと夫のスタラ55歳、そしてアアンの弟妹たちが交替で病院に詰めるようになった。
2月25日、スタラとロスピナが病院に詰めているとき、思いもしなかった知らせが届いた。家が火事だという。北ジャカルタ市チリンチンにある自宅は表を飯屋ワルンにしてあるが、そのときは表を閉めて鍵をかけ、留守にしていた。スタラとロスピナが自宅に駆け戻ったとき、家は焼け落ちていた。火の始末はちゃんとして鍵をかけてきたのに・・・・
財産はすべて灰になった。前日のワルンの売上50万ルピアが残ったすべて。「これじゃ、生活費と医療費をまかなうことなんかできゃしない。」
ただひとりの孫、9歳のスクルはアアンの長男だが、アアンが入獄してからアアンの妻はスクルを連れて実家へ帰った。離婚してくれと言い残して。
次男のサリフ33歳はパプアで人夫仕事で働いている。ところがサリフの妻マルセル33歳は精神に異常をきたしており、家が焼けたため一緒に住むところがなくなってチジャントゥンの養護施設に入れざるをえなくなった。他の家族も住むところがなくなったわけだが、みんなはアアンが入院している薬物依存症病院に移り住んだ。アアンが入院していなければ、途方に暮れるところだったにちがいない。
スーパーマーケットに勤める長女ムラティ29歳と普通科高校三年生のデフィタ20歳も一緒に移り住む。娘たちふたりは家が焼けてから、職場と学校に行かなくなった。
アアンの負傷は社会復帰院の看守に虐待されたためだという話を耳にしているものの、社会復帰院長はその噂を否定する。入獄したときからアアンの身体は損なわれていたと院長は言う。骨と皮ばかりで入獄し、後を振り返るのすら体を回転させなければならない状態で、いったいだれがアアンを痛めつけたのかまったくわからないそうだ。入院したアアンは以前の体重42キロからいまは30キロにまでダウンし、話す言葉もスムースに流れない。こんなときこそ国は貧困国民の生活保障がその務めになるはずだが、国はいったいどこへ行ってしまったのか?
アアンの入院原因の責任は・・・・、そして起こるはずのない火事がわが家を灰にした、その原因は・・・?それを糾明して罪ある者に責任を問うことをだれが行なってくれるのか?
低層庶民がそんな問題の調査捜査を公的機関に依頼しても、金なしにははじまらない。だから国民の多くは不条理を前にして目と口をふさぐ。国の保護が得られない以上、社会の低層階級はただすべてを諦めて起こった災厄を黙って受入れ、貧困の穴に滑り落ちていくばかりなのだ。


「年上の婿」(2011年3月25〜28日)
ジャカルタのプラムカ通りにクリニックを開いているファミリーコンサルタントのユリスティンは最近、まだ若い女性が自分とかなり年齢のかけ離れた男性を同伴して結婚の相談にやってくるケースが増加していることに気付いている。都市部でその傾向は広がりつつある、とかの女は分析している。
若い世代、特に娘たちの間で、自分より年上の男性を生涯の伴侶に求める傾向が強まっている。相手の年齢が高ければ高いほど、自分の結婚生活は成熟した大人のものになると考えているようだ。そして経済的安定度はもちろん高く、さらに自分が得られる保護もより大きいものになるのだ、と。中には、結婚相手が自分の親と同世代、それどころか親より年上というカップルも散見される。
事実、娘が結婚相手にと自宅に連れてきた男性が父親の自分より年上で困ってしまった、という話を耳にすることも稀なケースではなくなりつつある。リキ45歳は、19歳の娘を妻にもらいたい、と申し込んできた男の年齢が自分より10歳も年上であることにショックを受けた。「娘をあまり若いうちに結婚させる気がなかったから、突然の申込みにおどろいたのは言うまでもないが、自分より年上の婿ができるというこの状況をどう受け止めて良いのかわからず、戸惑ってしまった。こんなことが起こりうるなんて。隣近所の外聞だって、何を言われることやら・・・。
」 とりあえずは早々に、まだ娘を結婚させる気はないとリキは断った。リキの大ファミリーの意見も同じだった。賛成する声などどこにもない。しかし娘の気持ちは固く、そして相手の男も熱心だった。繰り返しの説得と請願にリキの気持ちも緩み、大ファミリーも最終的に折れて、ふたりの結婚を祝福することにした。
インドネシア文化では、相手を呼ぶときにファミリー内の立場に応じた呼称を使う。もちろん呼称には反比例する畏敬と親密さという色彩がついてまわるのだが。親の多くは婿や嫁を「子供=anak」に由来するNakという呼称で呼ぶことが多い。だが自分より年上の人間に「子供」とは・・・。「この婿殿は世間でバパ(Bapak)と呼ばれている年恰好だから、バパと呼ぼうか?でもそうすると、それを聞いたひとはどっちが舅でどっちが婿か勘違いするかもしれない。年上だから、兄貴(Abang)と呼ぼうか?やはり、それも変だ。」
娘夫婦から既に孫をもらったリキだが、婿殿との間のぎくしゃくした気持ちはいまだにさっぱりしたものにならない。
似たようなことは、オーストラリア人ゲーリー・フェネル61歳がディヤ34歳に求婚したとき、ディヤの母ウミ58歳が体験した。ウミ自身もそうだったが、ウミの大ファミリーもその結婚に反対した。相手が異文化人だからということ以上に、年齢が問題にされたのだ。しかしこのカップルも自分たちの意志をつらぬいた。
最初ゲーリーは自分より年下の姑に世辞愛想を振りまこうとはしなかった。結婚は本人同士の問題という自分の文化を主張したのかもしれない。ジョクジャでピザショップをはじめたゲーリーがディヤのファミリーの集いに加わるのはイドゥルフィトリ祝祭のときだけ。
しかし歳月を重ねるうちに、ウミの菜園や料理の趣味がゲーリーと一致することを知り、ふたりの間の親近感は徐々に育っていった。いまやウミは年に何度か、娘の家に泊まりこみで訪れるようになっている。
ゲーリーとの結婚生活に波風が立たないというわけでもない。それは文化の異なるふたりが共同生活する中で、必然的に発生する価値観の衝突だ。それぞれがお互いに相手への適応を努力することに意を払うのが、愛情のあかしというものだろう。ディヤは、人生の中で数多くの選択を行なうが、その責任はすべて自分が背負うものなのだ、という人生観を結婚生活から会得した。依存性社会に一般的な、自分の人生がほかのひとたちの手の中にあるというコンセプトをディヤは乗り越えつつあるのだ。
6年前に若い妻を得たジミー58歳の舅姑との関係はうまくいっている。姑は自分より12歳若い。離婚した最初の妻と同じ年だ。舅は8歳年下だが、ジミーより老けている。舅も姑も、肉体的精神的に若く見えるジミーと娘の結婚にあまり難色を示さなかった。
結婚してからはじめてジミーの年齢を知ったかれらは、最初ジミーをバパと呼ぼうとした。ジミーはすぐジミーと呼ぶように求めた。大ファミリーの中でのヒエラルキーは、舅姑のほうが婿より上だ。ジミーはそこに年齢要素を持ち込むことを極力避け、インドネシア文化の常識に従って行動するように努めた。とは言っても、舅姑への挨拶は自分のほうからしていくというレベルにとどめ、ジャワで婿が舅姑に行なう最敬礼のようなことまではしない。「自分をどういうポジションに置き、ファミリーの中でどういう姿勢を示していくかという点に気をつければ、年上の婿と年下の舅姑という関係をぎこちないものにしないですむ。」
ジミーはそうこの問題の対処方法について、奥義を物語っている。


「文句言うやつには暴力をお見舞いするぜ」」(2011年3月29日)
2010年12月5日付けコンパス紙への投書"Senayan, Rokok, dan Kenyamanan Publik"から
拝啓、編集部殿。中央ジャカルタ市スナヤンメインスタジアムの管理は最近一年間で見違えるように改善されました。昔は、日曜日の朝や平日の夕方など、スタジアムの周辺はまるでパサルのようで、また自動車がたくさん駐車していました。いまそこは特定時間帯に自動車や物売りの進入が禁止され、また非汚染エリア方針が適用されています。
都民はかなりきれいな空気の下で運動ができます。おまけにメインスタジアム管理者が推進している無料エアロビックは賞賛に値するもので、都民の健康をサポートする公共施設たらんと努力しているのはとても素晴らしいことです。ところが残念なことに、その公共メリットを都民がだめにしているのです。
都民がPSSI、警察あるいは他の役所の名前を騙って無理に自動車を進入させているのをわたしはよく目にします。ほかにも大勢のひとたちがタバコを吸っています。かれら喫煙者はたいてい運動のために来ているのでなく、スタジアムを商品プロモーションや他の活動のために使っているひとたちです。
2010年11月20日土曜日、わたしは喫煙者のひとりに注意しました。するとそのひとはドライバーを手にしてわたしを突き刺そうと威嚇したのです。その事件は都民の安全を脅かし、ジャカルタ都民の誇りとなるべきスタジアムの公共健康施設としての機能を危うくするものです。[ ジャカルタ在住、アユ・ウタミ ]


「PLNは悪くない」(2011年4月1日)
2011年1月11日付けコンパス紙への投書"Tegangan PLN Merusak Peralatan Elektronik"から
拝啓、編集部殿。わたしの家のPLNからの電圧が150〜170ボルトしかない状態がもう半年ほど続いています。その結果、洗濯機・ディスペンサー・水道フィルターなどの電気製品が十分機能しませんし、それどころか一部の製品は壊れるありさまです。低電圧は夜だけでなく一日中続きます。わたしの家にはスタビライザーが設置されていますが、この状況の助けになりません。
わたしの家の近辺で同時に大容量の電力を使っている者がいて、そのため変電所が標準の220ボルト電力を流せないでいるのかどうか、はっきりしたことはわかりません。PLNのサービスは劣悪です。ところが消費者としてわたしは毎月の電気代を滞納したことなど一度もないのですから。もし一日でも支払いを遅れたら、朝からPLN職員がやってきてわが家の電気を暫定停止してしまうのです。
PLNジャカルタタングラン配電支社西ジャカルタ市クブンジュルッサービス営業所のアテンションをお願いします。わたしの顧客IDは543103232118で、契約番号はCC3232112です。[ 西ジャカルタ市クンバガン在住、ハリム ]
2011年1月15日付けコンパス紙に掲載されたPLNからの回答
拝啓、編集部殿。2011年1月11日付けコンパス紙に掲載されたハリム夫人からの投書について説明いたします。PLN職員は顧客の家屋で状況調査を行いました。2011年1月11日20時ごろの電力負荷最大時間帯におけるサービスポイントの電圧は213ボルトでした。さらに家屋内のチェックを行なったところ、顧客のスタビライザーからの出力が118ボルトであることが判明しました。これで低電圧の原因がPLNからの供給によるものでないことが明白になったのです。PLNからの供給電圧は十分なもので、顧客の家屋で使われているスタビライザーが問題のタネでした。
当方は顧客の苦情の真の問題について顧客と会話し、顧客は当方の説明を受入、理解してくださいました。[ PLNジャカルタタングラン配電支社広報環境育成マネージャー代理、レフリザル・シャム ]


「食糧多様化方針はコメから即席麺への移行だけ」(2011年4月4日)
2010年国民ひとりあたりのコメ消費量は年間100.76kgで、2009年実績の102.22kgから1.4%ダウンした。トウモロコシは1.84kgで前年の2.21kgから低下し、シンコンも4.1kgで前年の9.57kgから大きくダウンした。政府は国民のコメに対する集中的依存を減らして食糧多様化を進める政策を採っているが、トウモロコシやシンコンなど土着的食用植物の消費が減っていることは政府の方針が国民に受け入れられていないことを示している。
反対に小麦粉は2009年の10.32kgが2010年は10.34kgに微増したし、ジャガイモも1.73kgから1.84kgに増えている。なかでも国内消費のほとんどを輸入に頼っている小麦粉は、即席麺・パン・その他菓子類などの形で国民の根強い欲求に支えられており、輸入を増やしたくない政府の意向とは裏腹の現象を見せている。
ガジャマダ大学農業技術学教授は、国民の日常生活に誤った食品消費コンセプトが根を張っており、それが政府の意向と相容れないものになっている、と次のように語った。「国民が持っている食事に関する文化コンセプトが政府の意向と衝突している。国民の間には、輸入された食品を食べれるようになったということで、自分の社会的ステータスが向上したと感じる価値観が存在している。小麦粉やジャガイモはより高いステータスを持つ食材だ。たとえばパンを食べるようになると、自分は都会の住民になった、もう田舎者じゃない、という感覚を抱く。政府の食糧多様化方針はほとんどが生産面に関するものであり、消費面にまだあまり意識が注がれていない。ローカル食材を使った食品の開発と国民への普及にもっと力を入れる必要がある。国民がどんな食品に興味を示すのか、その研究にほとんど手が着けられていない。」ムルディヤティ・マルジト教授はそう政府に提言している。


「イネの独り芝居」(2011年4月18日)
2011年3月4日朝、南ジャカルタ市パンチョラン地区にある一軒の借家の表に出てきた娘がビニール袋にくるまれて道端に置かれた赤児を拾い上げて、聞こえよがしにひとりごちた。「まあー、かわいい赤ちゃん。わたし、この子を拾って育てるわ。」
声につられて、周辺にいた住民たちが集まってきた。「えっ、捨て子だって?」
初老の住民がその娘に言う。「あんた、そんなことは勝手にできないんだよ。」
娘はキッとした面持ちでその住民をにらみ、赤児を抱いた手に力をこめる。
中年の婦人が娘に尋ねる。「お嬢さん、この家に間借りしてるの?」
「いえ、わたしはここの友だちのところへ遊びに来てるだけ。」
「あなたの服についてるのって、それ血でしょう?おまけにずいぶん衰弱してるみたいだし。」
住民の中に警察に通報した者があったようだ。警官がやってきて、その娘イネ20歳と赤児を署に連行した。イネは取調べの警官に問い詰められて、最終的に一部始終を打ち明けた。スマラン出身のイネは都内の別のエリアに住んでおり、自分の借室からパンチョランの友人の借家に子供を産むためにやってきた。そして自分ひとりで夜明け前に子供を産み落とすと、休息した後子供をビニール袋にくるんで借家の表に置いた。そして界隈にひとの活気が高まってきたころ、家の表に出て独り芝居を打ったのだった。
世間では依然として、男女の性行為は正式に婚姻した夫婦が子孫を残すために行なう行為であるという倫理道徳が信奉されており、フリーセックスそして未婚の母という形は不倫不道徳以外のなにものでもないと断罪されている。娘を持つ親はそんな世間に対して、娘の身の不始末に大きな恥を抱き、責任を感じなければならない。
実家を離れて上京したイネは、自分の暮らしを事細かく監督する人間がいないまま、恋人の求める自分の性を男に与えた。、その結果自分の胎内に宿った別の生命を自分のものとして引受けたイネは、だからこそ親の世間体(そしてそれはもちろん自分自身の世間体でもあるのだが)を穢さないようにとあの独り芝居を打ったのだった。
そんな捨て子騒動の事情が判明すると、警察はすぐにイネと赤児を保健所に送って診察させ、そのまま放免した。保健所での診断は母子ともに健康で、イネはさっそくわが子に乳房をふくませていた。


「気を回して大損!」(2011年4月21・22日)
「普段こうしているから、今回もこうするだろう」という思い込みは誰しも持つだろうが、先例主義という変化のダイナミズムを過少に見る価値観が人間観に影響を及ぼしている文化の申し子たちにとっては多少異なる色彩がその行動に現れるようだ。
南タングラン市ビンタロジャヤ住宅地区に麺の屋台を定置させているカキリマ商人がいる。かれの作る一杯7千ルピアのバミはよく売れる。よほどうまいのか、それともほかに適当な食べ物屋がないのか、住宅地区住民は毎夜その屋台にひっきりなしにやってくる。
およそ百メートルほど離れた家の夫人がやってきてバミを注文した。その夫人はいつも家で食べるので、バミ売りはその家まで出前をする。ところがその夜はひっきりなしに客が来て、その場で食べるために注文するから、バミ売りはさっきの夫人のために作っていたバミをついやってきた客に出した。また作っているとまた客が来るといった具合で、なかなか出前ができない。ちょっと客が途切れた隙にやっと作ったものの、また客が来て屋台を空けることができない。そこへたまたま、顔見知りの住宅地警備員が通りかかったから、かれは警備員を呼び止めた。
「悪いけど、これをxx夫人に届けてもらえないか。あのひとはいつも5万ルピアを払うから、この4万3千ルピアをあのひとへのおつりとして持って行ってくれ。」
バミ売りは警備員がおつりのために二度も往復するのを気の毒と思ったのだろう、往復は一度で済むようにと考えて最初からつり銭を一緒に警備員に渡したのだ、そしてそれがトラブルのもととなる。
xx夫人はなんと、今度に限って一万ルピア札一枚を警備員に渡したのだ。そして警備員に対してトゥリマカシの言葉に添えて「おつりはあんたが取っておけばいい」と言った。頼まれごとを終えた警備員はそのまま地域の見回りを続けた。
次の夜、バミ売りはその警備員に尋ねた。「xx夫人の金はどうした?」と。
警備員は7千ルピアをバミ売りに渡し、「xx夫人は1万ルピア札を出してきて、つりは取っとけとオレに言った」と昨日のできごとをバミ売りに物語った。
「じゃあ、わしが預けた4万3千ルピアは?」
「そりゃあオレのものだよ。xx夫人がオレに取っとけと言ったんだから。」
「あんたの取り分は1万ルピアのつりの3千だけだ。4万3千ルピアは出番がなかったんだからわしに返してくれ。」
「あんたは昨日、つり銭だと言ってその金をオレに渡した。そしてxx夫人はつり銭をオレが取るようにと言った。だからオレのものだ。」
この言い争いにその夜警備の勤務に就いていた隊長以下同僚警備員がやってきて、問題を整理した。他のみんなは概ね、4万3千ルピアはバミ売りのものだと理解したものの、その警備員はその論争の本質を理解しているのかいないのか、ともかく4万3千ルピアはオレの権利だと言い張る。
最終的にその警備員の強情さが勝ちをおさめた。警備員仲間にとっては、結局は他人事なので仲間同士で喧嘩までする必然性がない。一方、バミ売りにとっては、警備員と喧嘩してはそこでの商売に後々差し障りが出ることになる。一日の利益はせいぜい15万ルピアだが、とんだことで三分の一が消えてしまった、と嘆くこと嘆くこと。


「のれんに腕押し」(2011年6月15日)
2011年2月8日付けコンパス紙への投書"Melapor Meteran PLN Pecah Melelahkan"から
拝啓、編集部殿。事の起こりは2010年11月18日にわたしが家の改装工事をしていたときで、PLNの電力メーターに偶然かけらが当たり、メーターが割れました。わたしの責任ですので、その日のうちにわたしはPLNコールセンター123に届け出ました。フォローするという返事でした。
その同じ日にPLN西ジャカルタ市カリドゥルス地区職員がコンタクトしてきて報告書を作るよう求めたので、わたしはそれを作ってチンタさんに出しました。報告書番号はh−10−11−18−0504番でした。
電力メーターが割れているのは危険だし、またPLNもわたしも互いに不利益になることなので、修理作業がすぐに行なわれるものと思っていましたが、ひと月以上経過しても何の対応もなされません。その間わたしは何度もコールセンター123に事故の報告を出しましたが、まるで過ぎ行く風。わたしはPLNウエッブサイトを含めて、いろいろなルートで事故の報告を出しているのです。
PLN西ジャカルタ市カリドゥルス地区に届出に行ったときPLN不良職員が、自分の紹介する業者を使えばすぐに修理される、とオファーしてきました。ただし料金はプラスプラスが上乗せされるのです。しかしそのときわたしは、グローバル級国有事業体に変身するというPLNのコミットメントを信じていたので、そのオファーを無視しました。
プロフェッショナルでない巨大国有事業体PLNを相手にするのははなはだ疲れました。[ 西ジャカルタ市カリドゥルス在住、ドディ・ヨシダ ]
2011年2月28日付けコンパス紙に掲載されたPLNからの回答
拝啓、編集部殿。2011年2月8日付けコンパス紙に掲載されたドディ・ヨシダさんからの投書について、ご不快さに対してまずお詫び申し上げます。電力メーター破損の届出については、2011年1月17日にメーター交換を行って対処しています。当方職員が顧客にコンタクトして発生トラブルを確認しました。顧客は当方の説明を了承してくださいました。[ PTPLNジャカルタタングラン配電支所広報環境育成マネージャー代理、レフリザル・シャム ]


「老後の対策」(2011年6月30日)
寿命が延びてきた東南アジア諸国民は、老後の生計維持という新たな問題に直面し始めている。老人はファミリーベースで若い者が面倒を見、それを順送りにするという家族主義の美風が伝統だった昔に比べて、人口爆発抑制のための家族計画が少子化を生み出し、その結果大都市に核家族主義が広がり始めているため、昔からの美風は今や存続の危機に立たされているのである。ちなみに2009年インドネシア保健プロフィールから採られたアセアン諸国の平均余命は次のとおり。
シンガポール 81歳
ブルネイ 76歳
マレーシア 73歳
ベトナム 73歳
フィリピン 70歳
タイ 70歳
インドネシア 67歳
カンボジャ 62歳
ラオス 62歳
ミャンマー 54歳
アセアンの経済先進国はもはやひと昔以上前にその曲がり角を越えたようだが、保守的性格の強いインドネシア国民もいまその後を追わなければならない峠に差し掛かっていると言える。生産的年代を終えて余生を快適に過ごすために、インドネシア人はどうしようと考えているのだろうか?
2011年5月11〜12日にコンパス紙R&Dが全国都市部住民650人から集めた調査結果によれば、回答者の4人に3人は老後の準備を進めていると表明している。経済的な準備、保健面での準備、人間関係面での準備など、幸福な老後の生活に欠かすことのできない要素は多い。その中でひとびとの関心はもっぱら経済面に集中しているようだ。貯蓄・老齢年金プログラム・保険などが老後の対策として今行われていることがらのメインを占めており、さらに老後も収入を得るために借家借室ビジネスや何らかのビジネスをして生計を維持しようとするひとも少なくない。「幸福な老後の生活を送るために、何をし(てい)ますか?」という質問の回答は次のような比率になった。
貯蓄・老齢年金プログラム・保険 55.1%
借家・借室ビジネスの開業や投資 17.3%
健康管理(ダイエット・健康維持) 13.3%
働き続ける/新しい仕事で収入を得る 7.3%
何も準備していない 1.9%
知識を増やす 1.7%
子供に頼る 0.9%
その他 2.5%


「世界の富はアジアに集まる」(2011年7月14日)
メリルリンチとキャップジェミニが報告した最新グローバルウエルスマネージメントで、アジアのミリオネアが急増していることが明らかにされた。アジアのミリオネアは330万人で、ヨーロッパの310万人を追い越し、340万人のアメリカに肉迫している。このミリオネアの定義は文字通り純資産として100万米ドル以上を所有している個人を指し、住居や資産価値のある蒐集品は除外されている。
アジアのミリオネア人口は9.7%増加し、アメリカの8.6%、ヨーロッパの6.3%を凌駕した。経済成長の著しい都市10傑の中にアジアは6都市を送り込んでいる。アジアはこの勢いに乗って数年のうちにはアメリカを追い越すだろうとメリルリンチ北アジア責任者はコメントした。アジア経済が猛烈に伸張しているのは2008年のクライシスを既に過去のものにしてしまっているからで、いまだにクライシスから抜け切れていない欧米よりもはるかに活発な活動を展開できる環境にあるためとのこと。中でも不動産と証券市場の活況は目を見張るものがあり、たとえば香港では恒生株価指数が2009〜2010年の二年間で6割アップしたし、不動産価格も同じタイミングで61%上昇した。
不動産について言えば、アジアでは不動産を資産投資の対象にするのが一般的な現象で、日本だけが例外になっている由。世界のミリオネアが持っている資産の中に不動産は19%を占めているが、日本を除くアジアのミリオネアはその比率が31%になっている。一方、日本のミリオネアはきわめて現金主義で、資産の29%が現金預金で占められている。世界の平均値が14%なのに比べてそれは二倍を超えている。
そうやって蓄えた富をどうやっているのかという質問に対するメリルリンチのアジアに関する報告では、一般的な傾向として浪費的で贅沢三昧を好み、宝石や高級腕時計などに惜しげもなく金を注ぎ込むかわりに、絵画彫刻といった芸術作品に金を使うことはあまりしないとのこと。
インドネシアでは、大金持ちが自分の財産を見せびらかし、世間から一目置かれて尊敬を受けるのがかれらの理想の人生になっているようだが、どうやらそれはアジアで一般的な観念であるにちがいない。


「貧困人口が微減」(2011年7月19日)
中央統計庁の2011年3月調査で、全国の貧困人口は国民総数の12.5%を占める3,002万人と発表された。中央統計庁データでは、過去5年間の実績は次のようになっている。
2007年 3,717万人 16.6%
2008年 3,496万人 15.4%
2009年 3,253万人 14.2%
2010年 3,102万人 13.3%
2011年 3,002万人 12.5%
一年間でおよそ100万人が減少したことになるが、その大半は村落部で93.5万人、都市部は5.1万人が減ったに過ぎない。この数字を見る限り、村落部で大幅な減少が起こったように見えるものの、貧困人口3,002万人のなかの村落部の割合は圧倒的に大きく、1,993万人が村落部で都市部は1,105万人という内訳になっている。
貧困人口の地域別分布を見ると、ジャワ島1,672万人(12.1%)、スマトラ島645万人(12.6%)、スラウェシ島214万人(12.2%)、バリ・ヌサトゥンガラ207万人(15.6%)、カリマンタン97万人(6.9%)だ。
貧困人口減少の原因について中央統計庁は、貧困ラインが10.3%上昇したこと、労働者の平均賃金が7.1%上昇したこと、米生産予測が脱穀乾燥もみ6,806万トンで2.4%アップしたこと、農民の収益改善、2011年第1四半期の経済成長は6.5%で前年同期実績よりも高かったことなどを取り上げている。貧困ラインは一日あたり個人所得7千ルピアが8千ルピアに上昇している。


「インドネシア人の貯蓄運動は成功するだろうか?」(2011年7月23日)
消費志向の強い国民性をなんとか中和させて貯蓄に向かわせようと、インドネシア銀行が国民貯蓄運動の音頭を取った。「Ayo Menabung(さあ、貯金しよう)」と銘打ったこのキャンペーンは2011年5月末にマラン・メダン・バンドン・スマラン・バンジャルマシン・マカッサルの6都市でキックオフが行われ、全国70の一般銀行と910の国民貸付銀行が協力して消費者にTabungankuと命名された貯金口座を開設するよう働きかける。Tabunganku口座は管理費がかからない。インドネシア銀行は2015年までの5年間で4千万から5千万口座のオープンを勧誘しTabunganku貯金残高50兆ルピアを目指すという目標を立てている。
Tabunganku口座の普及振興は2010年2月に始められ、2011年4月時点で163万口座、貯金残高1.62兆ルピアが実現している。東ジャワ州が現時点でのトップ州になっており、26.8万口座で残高は1,969億ルピアと報告されている。インドネシア銀行のこの政策は、4千万国民が銀行へのアクセスを持っていないという統計への対応として進められているもので、全国民に銀行を利用することを教えようというのが目標になっている。
Ayo Menabungキャンペーンのテーマ音楽として二曲が用意されたが、ダルミン・ナスティオン中銀総裁は首をたてに振らなかった。そして出てきたのが、なんと四十年前に作られた曲「Mari Nabung(貯蓄しよう)」。
これは1970年代にインドネシア歌謡界の大御所ティティ・プスパがバイオリンの魔術師とうたわれたイドリス・サルディの娘サンティに歌わせるために作った曲で、少女歌手サンティの人気とあいまって子供たちの間で流行した。
Bing beng bang, yuk kita ke bank
Bang bing bung, yuk kita nabung
Tang ting tung, hei jangan dihitung
Tahu-tahu kita nanti dapat untung
という歌詞のこの歌は、ドからラまでの音しか使われておらず、とても覚えやすくて歌いやすい曲ですよ、とティティ・プスパもご推薦。
中部ジャワ州国営ラジオ局主催のうたごえコンクール「ラヂオスター」で高い評価を得たティティは、1960年代ジャカルタシンフォニーオーケストラの歌手のひとりとしてのポジションを得る。ジャカルタではじめて得たギャラをかの女はBNI銀行に預けた。そのとき23歳だったティティは生まれてはじめて銀行と接触を持った。その行動はかの女がまだ幼いころから母親に教えられた、「買いたいものがあっても後回しにして、まずお金は貯めておこう」という考え方の帰結だったとかの女は物語る。こうして頻繁に預金にやってくる若い女性歌手は銀行と親しむようになり、後年興したケータリング事業で資金が必要になったとき容易に融資を得ることができた。
「貯金をすれば、いいことがたくさん着いてくるんですよ。」といまや14人の孫を持つ73歳のティティお婆ちゃんは語っている。


「搾取される子供たち」(2011年8月5〜8日)
ひとりひとりの子供は、その関心と能力に応じた個性と知能を伸ばすことにおいて、教育や教導を受ける権利を持っている。児童保護に関する2002年法律第23号第9条(1)項はそううたっている。そして政府に対しその法律は、最低9年間の基礎教育をすべての子供に与えることを義務付けている。ところが国民の貧困問題がいまだに解決されない一方で、教育コストが多数国民の負担能力を超えるような値上がりをしているのを政府は放置しており、さらに教育クオリティ向上をはかって国際レベルパイオニア校制度を推進しているものの、それも低所得層国民から教育を引き離すことに一役買っているていたらくなのである。パイオニア校は学費を自主的に決めることになっており、また貧困層生徒を全体の2割入学させなければならない。ところが金をかけなければクオリティは上がらないため、たとえばチレボン国立第1中学校に子供を入学させるためには新入生ひとりあたり6百万ルピアの費用を親は負担しなければならない。なにごとによらずビジネスは利益があがってよしとする観念の中にいるインドネシア人は国営事業も教育ビジネスも利益追求型であり、加えて目的が手段を正当化するのが社会一般の常識であるため往々にしてコンプライアンスもグッドガバナンスも雲の間に間に見え隠れするばかりという状況が連綿と続いている。2割の貧困家庭生徒を入学させるという条件がそんな狭間でどう扱われるかは、想像にあまりあるにちがいない。
西ジャワ州チレボン県にある市場を数ヶ所まわってリスキ14歳は雑貨品を売り歩いている。ネズミとりもち2千5百ルピア、くし1千ルピア、ブラシ4千ルピア。運がいい日で売り上げはせいぜい5万ルピア。そのうち3万ルピアを仕入れにまわし、交通費5千ルピアと食費5千ルピアは必要経費。残るは1万ルピアだけ。幸運が毎日続いてもひと月に得られるリスキの可処分所得は30万ルピアでしかない。リスキの父親はもう何年も前から定職がない。家計は母親の稼ぎに頼るばかり。クラグナン国立第2中学2年生のリスキは、だから学費を自分で稼ぎ出している。
リスキのクラスメートであるマフムッもリスキの同業者だ。ふたりは小学校6年生のときから雑貨品の物売り業をはじめた。ふたりはチレボン県クラグナン郡の家を午前4時に出て、チレボン市内をはじめ周辺地区のパサルを軒並みはしごして回る。
マフムッの父親は最近警備員の仕事を解雇された。母親は一年前からサウジアラビアへ出稼ぎに出ている。家にはまだ小さい弟妹が5人もおり、マフムッは小学校6年生になってから自分のことのために親に金をねだるのを慎むようになった。学費でさえそうだ。リスキは将来軍人になることを夢見ているし、マフムッは父親のやっていた警備員の職に就きたいと思っている。ふたりとも高校を出なければその夢は叶わない。
チレボン市国立第18中学校生徒のプリヤ13歳は、学校のある日には13時に下校するとすぐに父親の船に乗って漁に出る。学校が休みなら、それが朝からになる。漁の成果は港に戻って即売するが、運がいい日で10万ルピア、平均すれば一日2万ルピア程度だとプリヤは語る。5万ルピアの収入になった日には、父親はプリヤに1万5千ルピアをくれる。1万ルピアは貯金して、5千ルピアを小遣いにするとプリヤは言う。
さまざまな国際条約とあらゆる国内法規が子供の労働を禁止している。人身売買の結果商業セックスや児童ポルノを強いられる子供は論外にしても、自分の子供を使って収入を得あるいは増やそうとする親の行為を減らそうとするなら、国内から貧困家庭を追放しなければならなくなるが、それがどの国でも同じようにできる、あるいはできなければならないと考えるのは実態にそぐわないものだ。ましてや、封建制度の中で培われてきた親孝行観念を依然として美風の位置に据えている社会は数多い。親は子供を慈しみ、子供は親に孝行するという相互依存関係はなくしようのないものだが、親孝行を子供に要求する親の中に搾取的意図をもつものが含まれているのも現実なのである。
児童保護専門家は搾取的児童労働の定義を次のように説明している。
1)威嚇や阿諛追従で子供を働らかせる
2)おとなと同じくらい長時間の労働
3)妥当に成長する権利を奪われている場合(学校・同年代仲間と遊ぶ・保健アクセスなど)
4)非人道的な低賃金
5)危険な要素を持っている業種での労働
6)低すぎる年齢の子供を働かせる
子供が親の私物と見られている社会では、子供に対する搾取も親の権利に含まれる。その際の行き過ぎを社会があるいは国がどう統御していくかという対策がそこに登場するわけだが、ファミリー社会であるがゆえに外からの干渉はなかなか手の届きにくいものになる。その結果、親が娘を売春宿で働かせてその収入を自分のものにし、あるいは自分の赤児をおもらい乞食に日銭で賃貸しするようなことが起こっているのではあるまいか。搾取的児童労働は百パーセント親の善意しだいであり、貧困であるがゆえにそのようなことが起こるのだと考えるのは、ひょっとしたら一面的な見方でしかないのかもしれない。
インドネシアの18歳未満人口は7,989万人で、そのうちの40%は困窮生活をしており、22%が搾取的労働環境にさらされている。児童労働者は520万人だ。搾取されている子供たちの中ではストリートチルドレンが23.2万人、身体障害児18.9万人、商業セックス従事者18.2万人、犯罪を犯した児童29.5万人、そして親に見捨てられ、大人の保護が得られないまま生きている子供たちも大勢いる。


「韓国文化センターがオープン」(2011年8月6日)
南ジャカルタ市SCBDのエクイティタワー17階に2011年7月18日、韓国文化センターが公式オープンした。文化センターをその場所に置いたことについて韓国大使館は、交通の便を第一優先に考えたと理由を説明している。ビルの17階に設けられた韓国文化センターは総床面積864平米で、事務所のほかに多目的ホールと図書館、そしてマルチメディアルームと四つの教室や待合室から成っている。多目的ホールは客席180人収容の小規模催し会場や展示会に使用でき、図書館には1千5百冊の韓国関連英語韓国語書籍が備えられ、DVDで韓流映画やビデオを鑑賞することもできる。四つの教室では四つの韓国語学習コースが行われており、130人が韓国語の学習にいそしんでいる。
Hallyu(韓流)の世界普及に邁進している韓国のインドネシアにおける前進基地であるこの文化センターを多くのインドネシア人が訪れ、韓国との文化交流に加わって欲しいと同センター責任者は希望している。


「無実の違反に8千万ルピア」(2011年8月25日)
2011年5月7日付けコンパス紙への投書"Rumah Bekas Pakai dan Korban Denda P2TL PLN"から
拝啓、編集部殿。わたしは18ヶ月ほど前、北ジャカルタ市パンタイインダカプッのマヤンプルマイ2通り17番地にある中古住宅を買いました。その家は住居で事業所ではありませんが、三相1万6百ワットの電力が供給されています。
2011年3月28日、PLN電力利用取締り職員が電力メーター取調べのためにわたしの家を訪れました。その職員は、メーターの回転が異常に遅いと主張し、翌日グロドップルマイ団地ラトゥメンテン通りにある電力利用取締り事務所のファリッさんに会いに行くようにとわたしにオーダーしました。
翌日わたしがその事務所を訪れると、北ジャカルタ市スンテルにあるPLNのラボに案内され、そこでわたしの家のメーターがこじ開けられました。函の外側を見る限りきちんと封印がなされており、その函が開かれた形跡など全然ありませんが、中の様子は電線が切れており、また歯車が反対に取り付けられているため回転が遅くなっていました。そこでの結論は、封印が開かれて中が改造されているということになり、わたしは8千万ルピアの罰金を科されたのです。これまで毎月わたしは50万〜80万ルピアもの電気代を支払ってきたというのに。
外からは気配すらわからない、あんなに整然として完璧な作業を、PLNの不良職員を除いていったいだれができると言うのでしょうか?現在のオーナーであるわたしは一度も電力メーターにあれこれおかしなことをしていません。[ 北ジャカルタ市PIK在住、タン・ハンジアン ]


「若い連中は礼儀知らず?」(2011年9月3日)
「最近の若い連中は・・」という年寄りの愚痴言葉は世界のどの国にも共通してあるようだが、その最近の若い連中が自分たち自身、更には自分より若い連中を見てどう思っているかという、ひとひねりしたサーベイをコンパス紙R&Dが2011年8月10〜12日に行った。回答者はジャカルタ・ジョクジャ・バンドン・スマラン・スラバヤ・メダン・パレンバン・マナド・マカッサル・ポンティアナッ・バンジャルマシン・バリに居住する大学生と高校生88人。
諸外国よりは保守的とされているインドネシア人だが、若い世代もやはり保守的なのだろうか。
質問1:自分は年上のひとの意見にあまり反論や批判をしない、イエスかノーか?
回答1:イエス53.4%、ノー40.9%、不明3.4%、無回答2.3%
質問2:自分より年下の者の意見に重きを置かない、イエスかノーか?
回答2:イエス17.0%、ノー77.3%、不明3.4%、無回答2.3%
質問3:親は若者が異性カップルの相手を求める欲求を理解するべきだ、イエスかノーか?
回答3:イエス67.0%、ノー27.3%、不明3.4%、無回答2.3%
質問4:男女交際を自由にさせてくれるのと、周囲から監視されている状況とでは、どちらが気分的に楽ですか?
回答4:自由がいい36.4%、自由はよくない54.5%、不明4.5%、無回答4.6%
質問5:若者の日常交際の場で、礼儀は向上/あいかわらず/衰退していると思いますか?
回答5:向上4.5%、あいかわらず高い3.4%、あいかわらず低い4.5%、衰退80.7%、不明4.5%、無回答2.4%


「またまた藪の中」(2011年9月5日)
2011年5月28日付けコンパス紙への投書"Arogansi Keamanan Hotel Borobudur"から
拝啓、編集部殿。2011年5月4日、わたしはジャカルタのホテルボロブドゥルで開かれた会合に出席しました。それが終わってホテル裏手のオートバイ駐輪場へ行き、そこから出ようとしましたが、駐輪料金支払い所でクレームがつきました。わたしがSTNK(自動車番号証明書)オリジナルを提示しなかったので警備員がストップをかけたのです。オリジナルSTNKは延長手続き中だったため、わたしはフォトコピーしか提示できませんでした。
わたしは駐輪場入場券や身分を証明できる書類を示しながら、STNKオリジナルを持っていない事情を説明しました。しかしその警備員はわたしの説明を受け付けようとせず、衆人環視の中で下品な言葉を吐きました。わたしは穏やかな態度で事情を重々説明し、どう決着させればいいのか尋ねました。わたしは会議があったので、早急にそこを出なければならなかったのです。
ところがその警備員はふたたびわたしに怒鳴りつけ、傲岸にも自分がそこの支配権を握っていると言いました。わたしが上司に会わせるよう求めるとそれを拒み、これは自分の処理するべき問題だと言ったのです。そして粗暴にSTNKのフォトコピーを引ったくり、オートバイのキーを取り上げたので、わたしは仕方なくオートバイを駐輪場所に戻しました。
わたしはホテルのマネージメントにこの状況を訴え、二時間以上たってやっと駐輪場から出ることができました。わたしは仕方なく、ある政府機関の職員であることを表明せざるをえませんでした。ホテルボロブドゥル警備員の粗暴な態度と罵詈雑言に不快な思いをしました。そしてまた、ホテルマネージメントの迅速さと真剣さを欠いた苦情への対応についても不満です。[ ボゴール県在住、ムハンマッ・ユスフ ]
2011年6月6日付けコンパス紙に掲載されたホテルボロブドゥルからの回答
拝啓、編集部殿。2011年5月28日付けコンパス紙に掲載されたムハンマッ・ユスフさんからの投書について、下記申し上げます。弊ホテル構内から外に出るオートバイに対する検査手続きは全顧客に対する保安と快適さを保証するためのものであることをお知らせしたいと存じます。STNKオリジナルを提示できないひとは誰であれ、そのひとが持ち出そうとしているオートバイがそのひとの正当な権利下にあるものであることを当方はまず検証しなければなりません。
ホテル警備員がSTNKオリジナルについて尋ねたとき、ユスフさんは2007年12月20日に期限が切れているSTNKのフォトコピーを提示されました。警備員がSTNKオリジナルを要求するとユスフさんは、ホテル警備員にオリジナルを要求する権利はないと言って拒否され、上司への面会を要求しました。そのとき勤務に就いていたホテルのアシスタントマネージャーがユスフさんにお目にかかり、まず謝罪してから規定の検査プロセスを説明しました。
しかしその説明にも納得していただけず、ユスフさんは警備部門責任者との面会を要求されました。そのときいたのは警備部門のスーパーバイザーで、そのときオートバイ所有者に関する検証が行なわれました。最終的に、ユスフさんはオートバイをピックアップするとそのままホテルを立ち去りました。[ ジャカルタホテルボロブドゥル広報担当取締役、フランシスカ・カンシル ]


「自分だけ特別扱いされるのが大好き」(2011年9月12日)
2011年6月16日付けコンパス紙への投書"Penegak Hukum Pun naik Sepeda Motor di Jalur Utama"から
拝啓、編集部殿。ジャカルタの交通事情はわが民族が野蛮人であることをますます鮮明に映し出しています。大通りを通行する者は互いに相手を尊重しようとしません。四輪車はスペースを奪い合い、二輪ライダーは自分が路上の王者だと考えています。自分の好き勝手に行動し、ぶつけられたら暴れ狂い、自分がぶつけたら知らん顔して逃げていきます。
公共乗合車両は交差点内であろうがどこであろうがお構いなしに乗客を乗り降りさせ、四輪車も二輪車も警察の目を盗んでバスウエー専用車線に侵入します。ところが、そんな行為は一般市民だけのものではなかったのです。無秩序でわがまま勝手な交通事情の真っ只中に警官も顔をそろえていました。最近、スディルマン通りの走行車線を警官ふたりがオートバイで走っているのを見ました。オートバイは低速車線しか走れないのではなかったでしょうか。警官はオートバイでスディルマン通りの走行車線を走ってよいという特別許可があるのですか?[ 中央ジャカルタ市在住、デボラ・スゼット ]


「全国に2千万人近い精神障害者」(2011年9月24日)
大都市へ行けば、精神障害者が道端を徘徊している姿をわれわれは容易に眼にすることができる。民衆は、一糸まとわぬ良い年をした男や女の振る舞いを見、そして何をしようともせずに忘れ去ってしまう。わが国の精神障害者への対応がまだまだお粗末であることを、われわれは正直に認めなければならないだろう。精神病医の数からして、われわれはその事実をうかがい知ることになる。8千人の需要に対して現実は6百人しかいない。住民3万人に精神病医ひとりの割合が理想的であるというのに、現状はひとりの精神病医が住民40万人をその双肩に担っている。どうしてそうなるのか?ひとつは、世の中で精神障害者が蔑まれていることにある。蔑まれている卑しい患者を取り扱う医師になろうと考える人は少数派であるにちがいない。世間一般は産科医などのほうをはるかに有益だと見なしているようだ。世人は精神障害者をアブナイやつ、まともでないやつ、キチガイなどと称しているが、すべてのケースにそんな見方が当てはまるものでもない。保健省保健向上育成総局官房はバンドンで開かれた精神衛生に対するマスメディアの役割と題する討論会でそう語った。
住民が精神に障害をきたす可能性はきわめて高く、4人にひとりはそれを体験している。抑うつ・不安・心身症などいわゆる神経症の初期症状に対する住民の意識や自覚が弱いために社会的な認識があまり高くないが、実態は世の中で考えられているよりはるかに高い。マスメディアは精神障害に関する啓蒙を国民に与えるべきであるのに、反対に国民の持っている観念に迎合する傾向があり、そのため精神障害に関する国民の認識が不当なまま維持継続されている。たとえば精神分裂症患者のことをキチガイと呼び、周囲の人間に危害を加える異常な人間というとらえかたをするケースが一般的だが、そのような観念は変えてほしい、と官房は討論会の中で要請した。
2007年の基礎保健調査では、15歳以上国民の精神情緒障害の有病率が11.6%であったため、全国で1千9百万人の障害者がいるという結論になっている。保健省はその結果に鑑みて、全国の地方総合病院に対し、精神障害者への対応を決して拒むことのないように、という通達を出した。しかし医療界の態勢はさびしいかぎりで、精神病院は全国に34ヶ所しかなくベッド数は7千8百、全国およそ9千ヶ所の保健所で精神障害者の対応ができるところはやっと9百ヶ所前後しかない。


「女には居丈高になる図々しいやつら」(2011年10月12日)
2011年7月3日付けコンパス紙への投書"Takut di Lampu Lalu Lintas"から
拝啓、編集部殿。わたしは大学で学ぶためにジャカルタへやってきて間もない上京者です。毎日わたしは自動車を運転してキャンパスに向かいます。わたしはジャカルタの道路上の実態を目にして呆然としてしまいました。それ以上に、赤信号で停止するたびにわたしは信号が早く変わるよう願って胸をドキドキさせているのです。プガメン(pengamen)がわたしの車にやってくるのが怖いから。
赤信号で停まっているわたしの車にプガメンがやってくると、お金を出すようわたしに無理強いします。そしてお金を出さないとわたしの車を傷つけると脅かすのです。
『自動車運転者は乞食・プガメンにお金をやってはならない』という規則は都庁が決めたものではなかったでしょうか?わたしはかれらにお金を与えるかどうかについて、とても困惑しています。だって、お金を与えなければかれらはわたしの車を傷つけるのですから。ところがわたしがかれらにお金を与えると、わたしは規則に違反することになるのです。この二律背反の状況にわたしはとても困っており、関係当局が明確にこの問題を解決してくれるよう、願っています。[ 西ジャカルタ市在住、レニー・アンガリア ]


「女性専用車に乗る図々しい男性」(2011年10月13日)
2011年7月31日付けコンパス紙への投書"Laki-laki di Gerbong Khusus Wanita"から
拝啓、編集部殿。わたしはいつも国鉄首都近郊電車が用意した女性専用車両に乗ります。名前の通り、この車両は女性と子供だけが乗れるのです。2011年7月4日11時ごろ、わたしが女性専用車両に乗ると、男性が5人中にいました。どうやらうっかり乗ってしまったらしく、係員がすぐ注意したのでかれらはすぐ他の車両に移りました。ところがその中の中年の男性がひとり、頑として女性専用車両から出て行こうとしません。
はじめは係員がその男性に他へ移るよう丁寧に勧めていましたが、いつまでたっても効き目がないので車内のご婦人たちがとうとう感情的になり、その男性を追い払いました。わたしはその様子を傍観していただけでしたが、その中年男性は意外にも怒っているご婦人方に向かって、汚い言葉で毒づいていました。大勢子供たちも乗っている中で、その中年男性がそんなことをするなんて、思いもよりませんでした。国鉄係員はその男性のようなひとをもっと厳格に取り締まるべきだと思います。規律に欠け、他の電車乗客に迷惑をおよぼしていますので。[ ボゴール市在住、セプティカ・デウィ ]


「自分は常に絶対正しい」(2011年11月30日)
2011年8月2日付けコンパス紙への投書"Sikap Pengendara Sepeda"から
拝啓、編集部殿。サイクリングスポーツの人気がますます高まっています。ジャカルタでは、スディルマン通り〜タムリン通り〜モナス広場に至るエリアで特定の日にノーカーデイが実施されています。それらの意識はたいへんよいことなのですが、残念なことに自転車愛好者の一部が交通規則に違反しているのです。かれらはバスウエー専用レーンに侵入し、また信号無視をしています。去る7月17日にわたしが目撃したのはそれでした。トランスジャカルタバスの運転手がクラクションを鳴らして自転車に脇に寄るよう警告を与えたとき、かれらは脇に寄って道をあけましたが、まるでトランスジャカルタバスの運転手が悪いかのように、大声で非難の叫びをあげたのです。[ 南ジャカルタ市在住、シティ・ラエラ ]


「ジャワ文化における11」(2011年12月7日)
2011年11月11日は中国で大騒ぎの一日だったそうだが、似たようなことは程度の差こそあれ、世界中で起こったらしい。日本でも数字の縁起をかつぐひとが少ないが、中国人同様にジャワ人も数字に意味を付加するのは大好きだ。なにしろインドネシアでは自動車のプレートナンバーや携帯電話の番号が、見栄えのよいビューティフルナンバーだとプレミアムがついて高く売れる。
ジャワ人は11という数字をsewelasと発音し、welas asihつまりbelas kasihがひとつに合わさるという意味をそこに見出す。だから結婚の日付はもとより、誕生日にせよ、家の住所番地にせよ、自分の属性に11がついていれば他人から愛情をたっぷり与えられるという気持ちになる。その11が‘11年11月11日で三倍増するのだから、子供をその日に産んであげればこれほど子供に幸福を約束できるものはないわけで、子供を幸福にするのが親の務めという甘やかし社会であればこその行動にかれらは走った。これは余談だが、甘やかし社会の実態は、子供に良い教育を与えた上で良い就職先を世話してやり、結婚相手を世話してやった上に家を用意してやるという親が実にたくさんいて、どこそこの親は子供に何をどうしてやっているという話がいかにも親の優秀さにかかわっているような評価を伴う噂話として巷のひとびとの話題のひとつになっていることからも見えてくる。そこまで甘やかされた子供たちが社会人としてどうふるまっているのかについては、インドネシアで仕事をなさっている日本人には先刻ご高承の通りにちがいない。だから、それが良いことか悪いことかはさておき、反抗期を持つインドネシア人にはめったにお目にかからない。
こうして、臨月近い妊婦たちは続々と病院に押しかけて帝王切開を行った。ボゴールのヘルミナ病院では、普段の出産は3〜4件なのにその日だけは13件にのぼり、そのうちの12件は帝王切開で産科職員をくたくたにさせたそうだ。ジャカルタのハラパンキタ病院でも普段の10〜12件の出産がその日は19件に達した。おかげで今年の人口増はピッチが高まるかもしれない。
出産ばかりか、婚姻もその日は全国的に大幅に増加した。ジャカルタでの婚姻届出は一万件を超えたらしい。ボゴールでも366件あったとのこと。
理性的に考えれば、数字がそのような力を持つとは考えにくいわけだが、人間は心理学でアポフェニアと呼ばれるその種の傾向をたっぷり持っているようだ。西洋人でも13という数字を嫌う心理を持つひとがある。インドネシア社会にもcelaka dua belas と称して12は悪い数字という縁起をかつぐひとが多い。ひとつ違いで似ているようだが、そのふたつはまるで非なるものだった。
インドネシアの下層階級もバクチが好きで、昔ジャカルタにベチャが大量に走っていたころ、ベチャ溜まりでベチャ引きたちが車座を組んでドミノ賭博をよく行っていた。サイコロの1から6までの図を左右に組み合わせたドミノの札には左右6と6という札が必ず一枚あり、負けたときにこの札が手に残っていれば大損という結末になったことから、6+6=12つまり「12の災厄」という言葉は元々博徒の口癖だった、というのが語源であるらしい。


「女性自身が脱皮しなければ・・・」(2011年12月13日)
総選挙では女性の票が大きい力を持っているというのに、草の根女性の政治意識は漆黒の闇に溶け込んでいる、とインドネシアサーベイ院理事が西ジャワ・東ジャワ・南スラウェシでの調査結果報告の場でコメントした。草の根女性とは一般庶民女性を指し、その大部分は家庭の主婦である。
17歳以上の女性4百人を対象にインタビュー調査が行われ、かの女たちの日常生活における政治に関わる行動の実態が集計された。ちなみに回答者の58.5%は学歴が小学校卒。それによれば、住民自治組織であるRT(隣組)RW(字)の集まりに頻繁に出席するひとは5.9%、一度も出席したことのないひとは46.7%もいた。さらに村役場や町役場が催す活動に頻繁に参加しているひとは1.9%で参加したことのないひとは65%にのぼった。もっと直接的な政治に関する活動では、政党が催す集まりに頻繁に参加しているひとは0.4%、出たことがないというひとは91.6%に達した。
地域別の比較では、東ジャワ州の女性はRT・RWレベルの活動への参加率が35.7%で他の州より高く、南スラウェシ州は村役場町役場の催しへの参加傾向が20.3%が他州より高く、西ジャワ州の女性はそのような活動への参加傾向が一番低かった。
いずれの州も、草の根女性たちの日常は政党や政治家から遠い位置にあり、地元から女性代議士が議会に登っていることすら知らないひとが大部分を占めた。女性の社会的地位向上と女性の政治的経済的パワーの上昇は密接に関わることがらであり、女性たちがそれらから離れた位置に自分を置いたままにしている現状は改善されていく必要がある、とのコメントが出されている。


「凄まじい貧富の差」(2011年12月15日)
雑誌フォーブズが発表した2011年度インドネシアのリッチマントップ10には、順位の交代こそあれ、昨年とあまり大差ない顔ぶれが集まっていた。ナンバーワンはブディとマイケルのハルトノ兄弟で、かれらはジャルムグループの総帥だ。そしてグダンガラムのボスであるスシロ・ウォノウィジョヨとタバコ長者が並ぶ。続くはシナルマスグループのエカ・チプタ・ウィジャヤ。四位は石炭事業の大班、バヤングループのロー・タックウォンで、昨年の7位から赤丸急上昇。五位はアントニー・サリム。
マルトゥア・シトルス、ぺテル・ソンダッ、プトラ・サンプルナなどおなじみの顔が依然としてトップ10に残ったものの、スリ・プラカシュ・ロヒアとアブリザル・バクリはトップ10から滑り落ちて、ラジャガルーダマス総帥のスカント・タノトとティアラマルガトラキンドのボスであるアフマッ・ハマミに取って代わられた。
ところで、フォーブズの個人資産データ数値をそのまま取り上げるなら、インドネシアのリッチマントップ40の資産額合計は848億ドルで761.7兆ルピア相当という計算になる。2011年のGDPを、第3四半期までの実績を単純平均して年間に直してやれば7千4百兆ルピアとなり、40人の男たちが保有する資産の規模が国民総生産の10%を超えているという規模をそこから感得することができる。
仮の数値ではあるが7千4百兆ルピアを2億4千万国民ひとりあたりに直せば3,083万ルピアが国民一人当たりの年間GDPになるわけだが、その10%超をリッチマントップ40の取り分と仮定してやると、国民一人当たりGDPは2,766万ルピアに低下する。一方40人の一人当たり平均資産は19兆ルピアであり、それをかれらの取り分だとして比較してやれば、その差は69万倍あるという結果が出現する。財産など何一つ持たず、ほとんど着の身着のままで生きている貧困者が1日9千ルピアで生活しているというのなら、リッチマントップ40とかれら極貧生活者との差は578万倍あるということになる。われわれの想像を絶するような貧富の差がそこから見えてくる。


「インドネシア人の貯蓄傾向」(2011年12月22日)
2010年の世銀サーベイでは、インドネシア国民のふたりにひとりはフォーマルマネタリーシステムへのアクセスを持っていないとされている。同じ年のインドネシア銀行サーベイでは、62%の家庭が銀行に預貯金を持っていないとされている。昔から言われているのは、インドネシア人は通貨と金融システムに対する信頼感がきわめて乏しく、貯蓄は不動産や貴金属などの非通貨で行うのが一般常識だというものだった。しかし中には寝室のベッド枠の竹をくりぬいて現金を大量に詰め込んでいるひともおり、「枕の下」貯金実行者もいないわけではない。ところがマンディリ銀行が行った調査によれば、回答者の79%は貯蓄するだけの金がないと答えているそうだ。細かい数字の整合性は別にして、それらさまざまな要素が混然と溶け合っているのがインドネシアだと言えるにちがいない。
2011年9月の銀行界第三者資金は2,545兆ルピアにのぼり、一年間で19%増加した。世銀は国民貯金総額をGDPと対比させて各国の貯蓄傾向を測定しており、それによればアセアン諸国のトップはシンガポールの46.0%、次いでベトナム34.3%、インドネシア33.4%、マレーシア33.1%、タイ30.7%、フィリピン20.1%というありさまで、インドネシア人の貯蓄傾向はけっこう高いという結果が出されている。
もちろん、ミドルクラスの余剰資金運用先のメインが銀行であるという要素を差し引いたとき、依然として「貯蓄」傾向が高いと言えるのかどうかはわからないのだが。


「サービスとは自分が受けるもの」(2011年12月23日)
2011年9月15日付けコンパス紙への投書"Pelayanan di Jajarta"から
拝啓、編集部殿。米国で数年間暮らし、インドネシアに戻ってやっと2年が経過した消費者として、わたしは米国とわが祖国のサービスクオリティの落差を強く感じています。
ジャカルタのグランドインドネシア内にあるカフェナインティで同僚たちと夕食をとったとき、わたしたちが注文した飲み物のひとつが届けられるのを、わたしたちはとても長い時間待ちました。その注文がどうなっているのかを尋ねた時、給仕係の返事を耳にしてわたしはびっくりしてしまいました。「だから注文するときに、おしゃべりしながらオーダーしちゃあダメなんですよ。みなさんが何を注文したのかよく聞こえなかったんですから。」
ジャカルタの米国大使館でわたしがビザ延長のための手続きをしているとき、電話を通してにせよ面と向かっているときにせよ、そこで働いているインドネシア人事務員の態度の傲岸さを強く感じました。わたしがどんな誤りを犯したのか、自分ではまったくそんな認識がありませんが、いったいかれらがどうしてあんなに傲岸な態度をとるのか、わたしにはまったくわけがわかりません。反対にそこで働いている米国人のほうがはるかに丁重な姿勢を示しています。インドネシアにおけるサービスに関してわたしが体験したさまざまな悪例の中のふたつがそれです。インドネシアの政府や大企業の人材開発部門責任者や職員は、消費者が国際スタンダードのサービスを享受できるよう、もっと緻密なトレーニングを行うべきではないかとわたしは思います。[ 西ジャカルタ市在住、ダルフィン・スワント ]


「一族に両性具有者が三人も」(2011年12月26日)
中部ジャワ州トゥガル県ブミジャワ郡ソカサリ村に住むサンティ23歳と、サンティの甥になるザカリア8歳とトパン1歳の兄弟の合計三人が両性具有者であることが判明した。
この一族の家系については、サンティはダソリとポニアが産んだ7人の子供の5番目で、ザカリアとトパンはサンティのいとこに当たるトリキン40歳とスニ35歳が産んだ5人の子供の中の第二子と末子にあたる。
サンティの母親ポニア46歳の話によれば、サンティは生まれたとき女児だったが、9ヶ月ごろからペニスができてきたそうだ。今は男性器と女性器が両方見られるが、ペニスには穴がない。サンティを診察したブミジャワ保健所の医師は性分化障害だとコメントした。サンティはメンスがあるので自分は女であることを選んでいるが、体つきや声はむしろ男性のものに近く、胸も平板だ。サンティは16歳のとき、村の婦人たちが催しているコーランを学ぶ集まりに加わったが、女のふりをして女の集まりに潜り込もうとしたと非難され、殴られたことがある。サンティは自分の身体の不明瞭なことにフラストレーションを抱き、自殺を何度も考えたそうだ。いまは手術をしてどちらかひとつの性を自分のものにしたいと考えているが、貧農の家庭にそんな余裕はない。小学校4年生のとき学校をやめたサンティはそれ以来、父親の仕事を手伝い、家で飼っているヤギのための草集めを日課にしている。
8歳のザカリアは、女性器が縮小しつつあるものの、睾丸ができていないために男性器も不完全だ。医師はかれら三人の状態について、遺伝的なものだと語っている。ソカサリ村の村長は、国民保健保障制度を利用して三人をスマランの病院に送り、精密検査を受けさせようと考えているが、サンティはそれを受けてスマランへ行く予定にしているものの、ザカリアとトパンの両親はスマランへの交通費すら持っていないため、ふたりは後回しになりそうだ、と述べている。