インドネシア「女と男」情報2012〜16年


「電車の中の不倫」(2012年4月6・7日)
女と男の出会いは場所を選ばない。通勤電車の中がそんな機会を提供する格好の場であるのは、洋の東西を問わないものであるようだ。若い未婚の男女がカップルの相手を求めて出会うのはほほえましいことではあるが、家族持ちの男女もそんなアバンチュールを楽しんでおり、問題は通勤電車がますます増加する不倫をあおっていることだ、とタルヤディは警告している。通勤コミューターのひとりであるかれが実見聞した不倫の事例には次のようなものがある。
首都圏近郊電車内での「稲妻の恋」ストーリーは決して誇張ではない、とかれは言う。2002年から2003年にかけて、かれが見た事例のひとつはこれ。その日、電車が故障して線路上で動かなくなったため、駅には乗客があふれた。ボゴール県ボジョングデ駅も例外ではなかった。そのとき、35歳くらいの女性に中年男性がアプローチするのをタルヤディは見た。10分もしないうちにふたりは言葉を交わしはじめる。「どこまで行くの?」手を握り合って自己紹介。そしてふたりは一気に急速接近して・・・。露骨に注目するわけにもいかず、タルヤディは見て見ぬふりを。
やっと電車がやってきた。ホームのひとびとが車内になだれこむ。タルヤディが座席を確保して座ると、なんと向かいの席にそのふたりが仲よさそうに並んで座っていた。一日の疲れが出てタルヤディはついうとうとし、ふと目覚めると、向かいのふたりは女性のほうも身を男性にあずけてぐっすり眠り込み、男性の手はかの女の体をしっかりと抱きかかえていた。そしてタルヤディは次の駅で降りたため、かれの好奇心はそこまでになってしまった。
それから数年後、タルヤディはまた不倫カップル誕生の瞬間に立ち会うことになった。今回の主演女性は25歳くらいの若さ。タルヤディが車内に入ったとき、その女性はドアの近くに立っていた。男がかの女に声をかけ、ふたりは親しそうに会話をはじめる。すぐそばにいるタルヤディの耳に、ふたりの会話は包み隠さず入ってくる。夫と幼い子供ふたりを置いてジャカルタに来てもう二日たつとその女性は身の上を物語る。男はこのチャンスをものにしようと、その女性を食事に誘う。「ボゴールで食事しようよ。」女性はほほえんでうなづく。ふたりの会話ははずみ、電車の揺れがふたりをそのうち抱き合わせる結果に。タルヤディは先に電車から降りた。そのカップルはきっとボゴールの終点まで行ったにちがいない。
タルヤディの友人も類似の体験を持っている。友人は毎日同じ時間の電車に、しかも同じ車両に乗って通勤している。そのうちに同じ習慣のひとびとと顔なじみになり、言葉を交わすようになる。当然女性もいる。電車の到着時刻を尋ねたりしているうちに、その女性は友人にいろいろ打ち明け話をするようになった。そして船員である夫がめったに家に帰ってこないという愚痴話へと向かう。「家にひとりでいると、とても怖いのよ。」家族持ちのその友人はその女性を遠ざけた。不倫の誘惑に乗ると、どんなトラブルが待ち受けていることか・・・・。
不倫を誘うのが男ばかりとは限らない。そしてみんなはこう言う。「女はそれを待っている」と。


「少年少女の婚前セックスは自宅で」(2012年4月24日)
性知識に乏しい少年少女が好奇心から性行為を行い、望まれない妊娠が発生して、不法堕胎行為に走って母体を危険にさらすか、それとも早婚して子供をたくさん作るか、そのいずれかになるケースが増加している。娘が妊娠すると親はその相手に責任をとらせて夫婦にしようとする。しかし生活というものをまだ十分に理解していない幼い夫婦が公然と子供をたくさん作るようになる傾向は高く、そうなってしまうとその一家の生活クオリティは悲惨なものになる。
若年世代の早婚が増加しており、国民人口が予想以上に早いピッチで増加している原因のひとつはどうやらそこにあるらしい。つまり、国家家族計画庁あらため国家住民家族計画庁が既婚者を対象に行ってきた家族計画の啓蒙普及は若年世代への性教育不在という伏兵に効果を奪われたということのようだ。
児童保護国家コミッションが2008年に全国33州で中高生を対象に行ったサーベイによると、ポルノ映画を見たことがある者は97%、キス・マスターベーション・オーラルセックスの経験がある者93.7%、中学生でバージンでない者62.7%、堕胎経験者21.2%などとなっている。
インドネシアの少年少女のセックスライフは、好奇心からの若年婚前性交から始まる。その原因になっているのは性と生殖の保健知識がきわめて乏しい点だと国家住民家族計画庁関係者は見ている。少年少女が性行為を行うのはたいてい自宅だ。親は子供が自宅にいれば安全だと思い、あまり子供のことを監視しなくなる。ところが子供たちは自宅で親の目から隠れてセックスをしている。子供にしてみれば、自宅にいれば安全だし、親がうるさく言わないから、婚前セックスをするのに快適な環境になっているということだそうだ。
子供に性教育を与えなければならないが、それは親の務めだという声もまだ強い。子供たちは正しい性に関する教育を与えられないまま、インターネットや友人から情報を集める。正しいものもあるが、むしろ間違っているもののほうが多い。性欲の昇華を宗教に求めさせようとする声もあるが、少年少女には困難なやり方だろう。今インドネシアでは、国民人口抑制と少年少女への性教育が密接に結びついている。


「美しさは足の痛さを超越する」(2012年5月26日)
インドネシア人女性はあまり靴をはいて長時間歩かない。会社へ来て事務机に座ると、靴を脱いでゴムぞうりにはきかえる。都内一等地のオフィスに勤め、なかなか履き替える機会を与えてもらえないひとは、しかたなく靴姿で通すが、一日に歩く距離はどのくらいだろうか?
外出はたいてい車を使うから、歩道を歩くこともあまりない。だからかの女たちにとって靴というのはファッション性が大きい要素を占めており、耐久性は心もとないものが多い。消費者が求めてもいない耐久性を付加して価格を高くするようなビジネス戦略を立てるメーカーは稀有だから、インドネシア産の靴は長持ちしないというのが外国人の目から見たクオリティに関する分析だ。
さて、女性のハイヒール姿に憧れる男性は少なくないが、女性も同じように憧れているひとが多い。つまり男性の目を借りて自分を見るということをしているのだろうとわたしは解釈するのだが、ハイヒール女性を見ている男性の中にも痛々しいと思うひとが混じっているにちがいない。
コンパス紙R&Dが2012年4月17〜19日に全国主要都市からランダム抽出した女性回答者523人に行った電話インタビューで、ハイヒールを履くのはきらいだ、と答えたひとが過半数を占めた。
質問1.あなたはハイヒールをよく履きますか?履くのが好きですか?
回答1.いいえ55.6%、好き・よく履く41.5%、わからない2.9%
質問2.ハイヒールを履いたときにあなたはどう感じますか?
回答2.
優雅・背が高くなる42%
自信と威厳が備わる13%
セクシー・脚が長く感じる10.9%
自分が美しくなったと感じる10.5%
脚が疲れる・自分は何も変わらない7.6%
ファッショナブル・かっこいい0.8%
その他5.2%
わからない10%


「女性は善人?」(2012年7月18〜21日)
インドネシア語で女性を意味するwanita をジャワ人はwani ditata と分解する。つまりインドネシア語ではberani ditata ということで、この場合のberani は怖れない・臆さないというニュアンスを帯びており、要はtata されることをポジティブに自らすすんで受け入れるということだ。tata というのはatur と同じ意味で、未熟者が手前勝手な行為ややり方を行っているのを原理に即して整えることを意味している。整える者はその道により詳しい先達というのがあるべき本質だが、中身のクオリティがそれほどでない者でも先達ツラして他人を整える人間が出現するのは、洋の東西を問わないから、tata とかatur と言う言葉には往々にして他人に指図する、言いなりにさせる、仕切るなどという意味合いが付着する。隣組長からつべこべ言われて、「Ngapain, atur-atur orang!」と憤慨するときのatur がそれだ。
で、女はwani ditata だと言っているジャワ人の意図は、女というのは「だれから何を言われようが、進んでその通りに服従するものであり、女というのはそうでなければいけない」ということを言っている。いまさら言うまでもなく男のジェンダー思想がそこに流れている。
インドネシア銀行のコメントによれば、女性銀行利用者は通貨当局が出す政策にきわめて協力的で、さらに借入金の返済にトラブルを起こすことがたいへん稀だ、と記されており、女性不良債権者の比率がとても小さい事実がそれを裏書している。
国内経済政策の中に、中小零細事業者に対する金融支援があり、そのセクターへの貸付金残高を増やせという中銀のトランペットが高らかに鳴り渡っている。政府はその手の政策を昔から何度も行ってきたが、今ほど女性零細事業者が増えていなかった時代、零細事業者や協同組合への貸付金はかなりの焦付きが出るのが普通で、金融界が持つ心理傾向としては、数少ない大企業に確実な担保を取って貸し付けるビジネスに向かうのが当然だったと言えよう。しかしそれでは、国家経済の底力は上昇しない。
昨今、その政府方針の実行に迫られた銀行界は女性事業者層をターゲットに取り上げ、ターゲットに対する勉強会を頻繁に実施するようになった。勉強会と言っても形態はさまざまで、要は女性事業者たちがビジネスを向上拡大させるための情報知識面での支援というのが本質になっている。国民年金貯金銀行、北スマトラ地方開発銀行、サハバッサンプルナ銀行、大手ではインターナショナルインドネシア銀行、OCBC NISP銀行などがそのスタートを切った。
インドネシア銀行国民貸付銀行中小零細事業開発グループ局長は、これまで零細事業向け貸付が失敗したのは、借入者が資金を生産的な用途に使わず、消費的に使っていたことに原因の一端がある、と指摘している。そんなことをされたら、借入金返済にあてるための資金などどこからも出てこないことになる。「貸付先を女性にすることで、銀行運営の慎重性がより高まる。女性たちは生産用に借りた資金は本当に生産目的のために使おうとするからだ。男性は借りた金で二人目・三人目の妻を持とうとするのもいるし、少なくとも煙草銭になるのは確実だ。」
たいていが主婦である女性事業者たちは、普通は同業者間で横のつながりを持っており、そのグループに対して銀行界は無担保融資をし、返済はグループの共同責任にする。グループは20〜30人で、一人当たりの貸付金額上限は5百万ルピア。このセグメントに対する融資の先頭を走っているのは年金貯金銀行で、借入者からは担保なしで単なる合意書が受取れるだけだが、不良債権はこれまでまったくゼロパーセントだ、と内容の健全さを誇っている。
年金貯金銀行代表取締役は、このセグメントのビジネスは経費がかかり、おまけにハイコストだが、女性貸付者のみを対象にしたビジネスモデルを作り上げて、更に発展させていく所存である、と同行の方針を語っている。特に興味深いのは、そのビジネスモデルがシャリア(イスラム原理)金融方式を使っていることであり、そのため金利率が生み出す煩雑さから免れていることだ。
一方、サハバッサンプルナ銀行はこのセクターに対し、協同組合向けと同じひと月1〜1.5%、年間18%という金利率を用いている。さらに直接的な経費のリカバリーを加えると、借入者の負担は年間で25%前後になっているとのこと。地元の東ジャワ州で同行が行っているこのビジネスでは20ヶ所の地区で14,500人の女性に138億ルピアを貸付けている。不良債権率は1%を切っているそうだ。グループ単位での合意の中で、借入者が返済不能に陥った際には、そのグループ内の別人あるいはグループ全体が返済に責任を負うことになっており、このシステムは有効に機能しているようだ。


「強いオトコになる薬」(2012年8月13〜20日)
ジャカルタで、一般庶民が暮らしている路地や横丁に入ると必ずといってよいほどobat kuat と書かれた貼紙を目にする。そこからほんの数十メートル進んだだけで、また同種の貼紙を見出す。それらは宣伝ビラなのだが、そうこうしているうちに家の表に吊り下げられたobat kuat と書かれた看板に出くわしたりする。普通の住宅にしか見えないその家でobat kuat が売られているということなのだ。そのようにどこの路地や横丁にもobat kuat の販売者がいるということをそんな情景からわれわれは知ることになる。インドネシアにはそれだけ強い需要があることをそれは意味しているのである。
obat kuat は日本語訳が強精剤や精力剤となっているが、元気や体力を回復させるためというよりももっぱら回春・勃起、さらには忍耐力・持続力を強化するなどその方面の効果を求めるための薬として民衆が愛用しているものだ。暑い熱帯地方で男は、昼間は稼ぎを得るために身体を酷使し、夜は夜で妻や愛人など自分の女に男としての強さを示さなければならない。強い男であることが男性としての存在価値を生み出すもとになる。虚弱な男は人間のクズであり、強くなければ男の値打ちはないというマッチョ思想がこの国の男と女を支配していることを、われわれはそんな情景の裏側に感じ取るのである。ここで言っている強いオトコというのは、腕力や喧嘩が強くて、暴力沙汰など朝飯前というようなことを言っているのではない。女が性生活の中で欲する強いオトコということなのであり、具体的に何を意味しているかはおのずと明らかだろう。それをどう勘違いしたのか、女に暴力をふるって自分の強さを証明しようとする脳みその黒ずんでいない男が限りなく多いのは、世界のどこへ行こうと例外がないようだ。
女はか弱くて当然の生き物であり、強い男が自分を保護し、さらに自分の性欲を満たしてくれたらそれでいい、というジェンダー型自然主義思想がどうやら存在しているにちがいない。だから女はありのままの自分であって当然と考える。女のハルガディリ思想はそこに根差しているのかもしれない。一戦交えようとウズウズしている男を尻目に、今日は一日疲れたからと背を向ける女に対して、男はなすすべもないのが普通だろう。
一方、昼間に体力を消耗して疲れきっていても、女から強い男であれと望まれ、おのれを励まし薬の助けを得て女に強い男を演じて見せなければならないのが男たちだ。そうなってくると、本当に強いのは男なのか、本当に上位にいるのは男なのだろうか?そういう疑問が脳裏に湧いてくるほうが自然ではあるまいか。どうやらobat kuat にはそんなパラドックスがからみついているように思えてしかたない。特にインドネシアの男たちはそういうオブセッションに深く抱え込まれているような気がしてならないのである。
ムスリムの性生活は家庭内の夫婦の寝室に閉じ込められており、そしてその寝室は産院に直結している。つまり男女のセックスは夫婦間でしか行えず、おまけに子孫繁栄のためのものでなければならないということなのである。世界中どこでもそうなっているだろうと思われた方は、もう少しこの先をお読みいただきたい。
性行為は夫と妻というステータスを社会から与えられた男女の間でのみ、子供を作ることを目的として行われるもの、という観念が基本に置かれており、快楽を追求するためのセックスは不純なものにされている。婚前交渉ですら罰当たりだ。自分の妻でない(あるいはまだ自分の妻になっていない)女と子供を作るためにその行為を行うことなど、常識ではまず考えられない。言うまでもなく、そんなシチュエーションでの行為の目的は快楽にあるのだから。これは規範の話をしているのであって、現実には規範に外れたことを行う人間のほうが世の中には多いから、その点をお断りしておきたいと思う。
で、一般に伝統的なムスリムの夫婦関係は互いに相手を唯一の異性として関わりあうのが原則であり、その規制は特に妻に対して厳しい。男は原則から逸脱しても、妻が承認さえすればたいした問題にはならないが、妻が原則から逸脱したらそれを許す夫はまずいないようだ。男だけがポリガミーを許され、女はポリアンドリを禁止されていることがそれを証明しているように思える。
だから夫婦は互いにその相手から性生活の満足を得なければならず、この条件は、特に夫に対して重い負担を課す。ムスリムの妻は夫にお仕えし、炊事・洗濯や褥の上で夫のお世話をするわけだが、褥の上ではマグロになって転がっているだけでも夫が性的な満足を得るならばそれでよい。ムスリマはいくつかの性技に長じて、夫を心行くまで楽しませ、性的満足を与えてやらなければならない、という言葉などイスラム社会のどこを探しても見当たらないのである。
ところが夫の側には、妻を心身ともに満たしてやる義務が与えられている。それはムスリムの日常生活の中で公然と言われていることだ。妻が毎日十分な糧を与えられ、たとえ最低限であっても慰安娯楽の機会が与えられ、そして性生活における充足感も夫が与えなければならないのである。obat kuat の出現を必然的なものにする要因をそこに見出せるような気がわたしにはする。
イスラムのそんなセックスコンセプトにはクーリッジ効果に対する対策が欠落している。ポリガミーをその代償と見ることは可能だが、そうなると添えられているロジックはひねくれたものになってしまう。たとえそうだとしても、ポリガミーは夫にとっての代償であり、古い妻に対する救いにならないのは言うまでもない。だからそんな古い妻たちに向けられる薬も世に出てくることになる。夫を自分に向かって奮い立たせるべく自分に女の魅力を増加させるための薬だ。中にはいささか神秘ごのみのものまで混じるが、この種の薬あるいはジャムゥはobat kuat の機能とは別物だ。またそれが嵩じれば、ススッ(susuk)と呼ばれる分野に発展していくわけだが、それは別の機会にゆずろう。
インドネシアにはobat kuat の長い歴史がある。オランダ時代の新聞を開いてみると、1921年発刊のブンタラヒンディア紙にはその種の商品の広告が出ている。女性を十分に満足させることのできない男性のためにこの薬をどうぞお試しあれ、という商品は一箱5フルデンで、その一箱で15〜20回の用に供することができるらしい。五箱一括お買い上げの方には2割引してくれる。
あるいは性生活に役立つ書籍の広告まで出ている。一冊15フルデンで送料は別。支払いを添えてご注文いただければ、送料はサービスしてくれるとのこと。
1950年代になると、中央ジャカルタ市クラマッラヤ(Kramat Raya)通りに毎晩obat kuat を売るカキリマ屋台が出現した。当時の人気商品はtangkur buaya(ワニのペニス)で、リング型のそれにオイルを塗り、ひもで縛って腰に結わえ付けるのだそうだ。すると性欲モリモリ、持続力抜群になるらしい。ワニは今でもいるし、ペニスも相変わらずオスにはついているのだが、この商品は今や歴史の狭間に消え去ってしまった。
1960年代から70年代にかけては、さまざまな広告メディアにobat kuat の宣伝が盛んに現われた。その中にパキスタンから来たイスラム医という触れ込みで、独自に調合した薬が評判を得たものがあった。当時パキスタン人イスラム医は多数インドネシアにやってきており、かれらの多くはobat kuat の商いで稼いでいた。夫にはobat kuat、妻には夫に愛されるための秘薬を取り揃えて一石二鳥を狙ったようだ。
その後盛んになったのは中国漢方薬で、インドネシア産のobat kuat さえもがまるで中国産であるかのような体裁で販売された。
南ジャカルタ市クニガン地区の民間会社で警備員として働いているウトモ45歳は、obat kuat の愛用者だ。「あれを飲むと、身体はすぐにシャキッとして力がモリモリ湧いてくる。心臓はドキドキと脈打って、ナニをしたくてたまらなくなる。飲まなきゃ虚弱だね。会社から帰っても、一物はだらりとおねんねだよ。」
その日かれは中央ジャカルタ市ガジャマダ通りのobat kuat 屋台店センターのひとつで、「ピルビル(pil biru)」を一莢買った。10万ルピアだった。ウトモの性機能に問題はない。ただ昼間の疲れでやる気が減退しているのは明らかで、夫として果たさなければならない妻への義務にあまりやる気が起こらないのも事実なのだ。年齢を重ねるに従って、ウトモは夜のお勤めへの元気を失っていった。その解決策としてウトモが選んだのがobat kuat だった。妻への義務を果たす夜には、必ずピルビルを一錠飲んだ。しかしそのうちに、一物が勃起したまま30分以上収まらなかったり、心臓の鼓動がやたら激しくなるのを感じるようになったかれは、ピルビルをやめて塗り薬に替えた。
スラバヤのドリーとジャラッでベチャ引きをしているバンバン46歳も、女を征服する自分の雄々しい姿に憧れてobat kuat をたしなむようになった。かれは一粒1万ルピアを超えるピルビルを使わない。urat madu, spider, king cobra, semut hitam などと銘打たれたおどろおどろしいローカル品をかれはいろいろ試した。それらは一粒8千から1万ルピアだ。ピルビルは高すぎるとバンバンは言う。「自分に合ったものを選ばなきゃ。心臓がやたらドキドキするものはいけねえよ。オレが使ってるのは副作用なしで、まったく安全だ。」
インドネシアでobat kuat は、性力を高める、男性器を長くする、持続力を強める、などといった効能書が添えられて、薬屋から道端の物売屋台に至るまで、さまざまな場所で自由にしかも大っぴらに販売されている。ところがそれらのどれひとつとっても、国がその品質や効果そして安全性を承認していないものばかりなのだ。
食品薬品監督庁は2012年7月5日に、obat kuat と称して市中で販売されている商品はすべて政府の医薬品検査がなされていないものなので合法性がなく、それを服用すれば人体の健康にとって安全が保証されない、と公表した。「食品薬品監督庁が市場流通承認を与えている医薬品は勃起不全・勃起障害のための薬のみであり、その使用は医師の処方箋に従うことが義務付けられている。医学辞典にobat kuat という術語は存在せず、治療の方向性もはっきりしていない。市中にあるobat kuat という商品は、その成分をだれも保証しておらず、服用すればきわめて大きいリスクにさらされる。ましてや医師の診察も受けずにそんなものを服用すれば、望まざる結果を被ることになるだろう。食品薬品監督庁がそれらのobat kuat に関して行った成分分析の結果、シルデナフィルクエン酸塩、タダラフィル、バルデナフィルなどが含有されていた。それらの化学成分は低血圧や高血圧を招いて心臓麻痺や卒中の原因となるし、またペニスに永久障害がもたらされることにもなる。」食品薬品監督庁伝統医薬標準化局長はそうobat kuat の危険性について強調している。
そればかりか、この世界にまで贋薬が侵入してきているのも瞠目すべきことだ。セクソロジー専門家のひとりは、「ただの食用粉末や糖尿病薬、高血圧薬、エクスタシー、あるいは人体に有害な諸成分の混ぜ込まれたものまで、obat kuat として売られている。へたをしてそんなまがい物をつかまされ、飲んでも何の効果もないどころか、悪くすれば一命にかかわることになるやもしれないので、医師に相談もなしにそんな非合法なものを飲むのはやめるほうがよい。」と語っている。


「ジャンダをめぐって恋の鞘当?」(2012年8月16・17日)
北ジャカルタ市スンテル地区で倉庫の警備員をしているンダン・スリヤナ32歳は、しばらく前からひとりの女性と付き合うようになった。「わたし、子供が三人いるんだけど、夫はいないのよ。子供は上が中学生で、その下は小学生。あともうひとりはまだちっちゃいの。だから子供たちのためにこうやって働いてるのよ。」とその女性ヌール32歳はンダンに身の上を打ち明けている。
ヌールはヌサンタラ保税工業団地内のとある工場で働いている。数日前の深夜、ンダンはヌールを北ジャカルタ市コジャにある借家に送って行った。それまでも何度か、ヌールをその借家に送って行っている。ところがその夜にかぎってヌールの借家から男が顔を出した。男はンダンをうさんくさそうな目で見てから自分はヌールの夫だと名乗ったが、ンダンは信じなかった。ンダンの気持ちは強くヌールに傾いており、子供三人を抱えて健気に生きているヌールをしあわせにしてやれるのは自分だと考えていた。ふたりの間では結婚の話まで出るようになっていた。
そして7月30日の深夜、ンダンがまたヌールを借家に送って行くと、待ち構えていたかのようにこの前の男が借家から現われ、ンダンに啖呵をきった。ンダンはそれに応じて口喧嘩になり、ひとの恋路を邪魔する男に腹を立てて撲った。すると男は隣近所に向かって「泥棒だ、泥棒だ!」と叫んだから、十数人の男たちが集まってきた。なんとその十数人の中に、刃物を手にしている者がいる。
『こりゃ、やばい』と思ったンダンはオートバイで逃げ出し、そのあとを十数人が猛然と追いかけた。慌てていたンダンは転倒し、追いすがってきた男たちに包囲され、その包囲網の中から刃物を手にしたふたりの男がンダンに近付いてくると、ンダンの背中と腹に切りつけた。ンダンは防戦しようとするが、既に手負いになった体は言うことをきかない。集まっている男たちは本気でンダンを殺そうとしている。犯罪者や悪人に心行くまで暴力をふるえるこんなチャンスを逃す手はないと考えている暴力好きのかれらは、刃物で賊を切り刻み、手ごろな石で頭蓋骨をかち割るのをリンチの作法と心得ているのだ。
運よく、騒ぎを聞きつけて二輪オジェッ運転手が通りかかり、風前の灯になっているリンチのターゲットが顔見知りの人間だったから、その運転手が中に割って入ってンダンを救出して病院に担ぎ込んだ。騒ぎの通報を受けて北ジャカルタ市警コジャ署からパトカーが飛んできて、事態を収拾した。
警察の聞き込みで事の推移が明らかになったものの、警察がヌールの借家を訪ねたとき、家の中はもぬけの殻になっていた。警察はヌールとその夫を追跡中。
ヌールがでっちあげた嘘八百の作り話を信じてしまったンダンは、かの女との仲はもうこれまでだ、と重傷の身体を横たえてほぞをかんでいる。インドネシアで夫と別れた女はジャンダ(janda)と呼ばれて男たちの間で人気があり、ジャンダをめぐって男たちが恋の鞘当を演じるのは日常茶飯のことになっているのだが、ヌールの夫にしてみれば、妻をたらしこもうとした男に鉄槌を加えようとしただけなのかもしれない。


「人妻泥棒にも死の制裁を」(2012年9月11日)
2012年8月11日昼過ぎ、西ジャワ州ブカシ県南タンブンのプコペン部落にある空地で、ひとりの男がうつむけになって死んでいるのが発見された。男は頭から背中まで一面に暴力をふるわれた形跡が明白に見て取られ、殺人被害者であることを証明していた。おまけに死体の近くには五寸釘が二本打ち付けられている60センチほどの角材が転がっており、釘にはその死体のものと思われる血がこびりついていた。
通報を受けたブカシ県警タンブン署が死体を調べたところ、ポケットから住民証明書、A種運転免許証のフォトコピーをラミネートしたもの、電子部品購入伝票などが発見され、警察はすぐに被害者の身元を洗いはじめた。
被害者はスパルト32歳で、電気製品の修理で食っている人間だった。スパルトは8月10日夜、かれの借室にやってきた何者かと一緒に自分のオートバイで出かけたままになっており、警察はその出かけた先がプコペン部落の空地だろうと見当をつけた。また警察の聞き込み捜査の中で、スパルトは商売仲間のサフロニと喧嘩中だという情報が得られた。昔は仲良く一緒に修理ビジネスで協力していたのに、最近になってまるで手のひらを返したような関係になっているというのだ。警察はサフロニ35歳から話を聞くため署に連行した。
そして8月10日の夜にスパルトを誘い出したのはお前だろうとかまをかけたところ、サフロニは仲間のジャリに頼んでスパルトをふたりがかりで殺したことを自供した。殺害の動機が何だったのかを警察が問い質したところ、妻のナルティを誘惑したからだ、とサフロニは答えた。その答えは、サフロニを連行するためかれの自宅に赴いた捜査員の報告と一致していた。サフロニの自宅に警察捜査員がやってきたことを知ったナルティは「わたしが夫に殺人を犯させてしまったんです。」と泣いて捜査員にすがったそうだ。
警察の調べでは、スパルトが頻繁にナルティを誘惑したため、ナルティが思い余って夫にその事実を告げたところ、サフロニが強い怒りと憎しみをスパルトに向け、一週間ほど前から仲間のジャリとスパルト殺害計画を練り、8月10日の夜スパルトを誘い出してアルコール飲料を飲ませ、スパルトが酔っ払ってからプコペン部落の空地に行って20時半ごろ計画を実行したとのこと。こんな結果になるとは夢にも思わなかった、とナルティはしょげ返っている。
サフロニとジャリはスパルトのオートバイを知人に110万ルピアで売り、その知人は別の者に115万ルピアで売ったそうで、そのふたりも盗品故買容疑で警察に逮捕されている。ジャリは逃走中。


「不倫は男の甲斐性?」(2013年3月18〜22日)
複数の女を従えて複数の家庭を持つことが男の甲斐性であるという価値観を包摂している文化が営まれている土地がどうやらいまだに存在しているようだ。そのような文化の中に入れば、男は気に入った女を見つければすぐに手を出そうとするし、反対に女は男という生き物の本質がそういうものなのだという認識を持つようになる。そうでない文化からやってきた男も、そういう土地の女から同じように見なされて、夢にも思わなかったようなカルチャーショックを味わうことになるかもしれない。
そんな社会では、『純愛』だとか『至高の愛』といった純精神的な観念はなかなか男と女の間に生じることがなく、男と女の関係は精神的な結びつきよりも経済的なパトロン=クライアント関係に傾くように思えてならない。だから妻という社会的な肩書きを手に入れたとしても、妻という立場で得られる経済的保証を確保するための切り札としてそれに頼り切ることができず、結局はどのような力関係を夫との間に築くかということに行き着くにちがいない。そのような夫婦関係は妻がそこを安住の場ととらえることを困難にし、いつでも戻れる実家、自分が幼児期から育ってきた環境である自分の血縁家族に一生涯結びつくあり方を社会の常識にしてしまうのだろうという気がわたしにはする。これは家族主義社会の持っている一特徴でもあり、この世界ではそのようないくつかの柱が相互補完的に社会構造を支えているわけで、世の中の諸現象が単一原理に由来しているわけではないことをあえて書き添えておきたい。
さて、そんなことはともかくとして、冒頭の男の甲斐性に焦点を戻そう。複数の女を従える優れたオスとなるためには、既に持った妻をそのために設けた棲家に押し込んで、別の気に入った女との出会いに取りかかることになる。それが不倫と呼ばれている行為ではあるまいか。インドネシア人の『不倫がお好き』現象は、そういう背景の中に置いてやると絵柄が実にぴったりと当てはまるように思えるのだが、はたして読者の皆さんの同感が得られるだろうか?
そのようにして優れたオスが複数のメスを従えるという観念が実践されている社会でも、精力絶倫男が巷にごろごろしているわけではなく、また経済力の上昇は年齢の増加に支えられるのが普通であるため、金はできたが精力が低下するというイロニーがかれらにつきまとうようになる。メスを完全に服従させるためには、経済的保証だけではだめで、性的に征服することがオトコとしての存在意義を確立させるものになることから、その打開策としてインドネシアではobat kuatが大々的に利用されているという関連性がひょっとしたらあるのかも知れない。obat kuatの話は2012年8月の記事「強いオトコになる薬」をご参照ください。
そんなインドネシア文化の中にあっても、不倫が善行とされているわけでは決してない。ムスリムは妻を四人まで持てるという話に驚いているひとにとって、愛人を含めれば6〜7人の女を従えているムスリムがいるという話には開いた口がふさがらないだろう。宗教の問題でなく男の甲斐性という価値観に立脚したものだという目でそれを見なければ、事の本質は見えてこないとわたしは思う。ジャカルタにいるムスリムも、バリにいるヒンドゥ教徒も、みんな複数の女を従えるのに血道をあげているのだから、これは特定宗教の教義とは無関係なのである。
さて、善行とされておらず、社会がディスカレッジさせようと努めている不倫ではあるが、不倫は第二妻第三妻・・・という形式にたどりつくための入り口であるため、完全に否定されれば男の甲斐性観念は消え去ってしまう。多くの国では既にそうなっていて、『至高の愛』を分かち合うべきモノガミー夫婦の間でその完全遂行がなされないために、そんな夫婦の私的なはけ口とされているのが不倫の本質だという見方が一般的なのではあるまいか。そんな社会では、不倫は弁護しようもない反社会的な悪徳にされているようだ。
しかし社会が男の甲斐性観念を善として位置付けている文化にあっては、不倫を否定し去ることができないのは言うまでもない。父親が、公開非公開のいずれにせよ自分は複数の女を従えていながら、自分の娘の夫にはポリガミや不倫を否定して見せるのはエゴイズムのなせるわざだが、実際に社会自体もそういうダブルスタンダードの中にあるからこそ、不倫が徹底撲滅されるようなことが起こらないのである。 そんな不倫に鷹揚なインドネシア社会だが、ところがどっこい、不倫が明らかになったらその職場から追放されるという職業がある。裁判官がそれだ。北スマトラ州シマルグン(Simalungun)地方裁判所に勤務する判事のひとりに不倫容疑がかかり、現在ジャカルタの最高裁判所に設けられた倫理評議会で審判が行なわれている最中だ。倫理評議会の審議は非公開が原則とされているために報道関係者はその内容を記者発表からしか知ることはできないが、どうやら大勢のひとたちにとっては興味津々の話題であるらしく、倫理評議会審議場周辺はかなりの人出がある。特に、最高裁判所で働いている女性職員の姿がかなり混じっているのは、はたして単なるゴシップ好きを超えた関心が加わっているということなのだろうか?
シマルグン地裁判事の不倫疑惑は、その不倫の相手になった女性(警察官の妻)から法曹コミッションに宛てて出された訴状が発端になっている。法曹コミッションにとって不倫者同士の諍いに関与する気はさらさらないため、どっちの言い分が正しいかという判定をおこなうわけでは決してない。判事が不倫を行なったという重度の倫理違反容疑がその判事にかけられ、その訴状に記された不倫が事実なのかどうかということが審議の焦点になる。訴状が讒訴状であるかないかは調べなければわからないのだから。
インドネシアでは法執行者や行政権力者の手に讒訴状が頻繁に届く。だれそれはこのような法規違反や悪事を行なっています、とあることないことをそれらしく当局に訴える手紙で、単にそのだれそれに嫌がらせをするだけのために出された讒訴状であっても、法執行者がひとたびそのだれそれの取調べを開始すれば、讒訴状の内容がすべてでたらめであることが判明したとしても、それを送った人間の目的はかなりのレベルで達成されることになる。
訴状の内容を取り調べてすべてが不当な言いがかりであることが明らかになると、続いて法執行者の本領を発揮する姿がそのあとで示される。かれらが取調べを行なっている中で、そのだれそれが持っている何らかの法的弱点が見つかることは稀ではないのだ。なにしろインドネシアは国民総犯罪者化社会なのだから。その結果、讒訴状にはまったく触れられていないことがらに対して取調べ者たちが法的措置を取るぞと言い出すのである。インドネシアの法執行者がただ働きをすることはありえないと考えるほうが的を射ているだろう。そしてそのような事態になることこそ、讒訴状を送った人間の思う壺なのだ。蛇足を書き加えておくなら、法的措置を取るぞと居丈高に言い出した法執行者に対してそのだれそれは示談を働きかけるのが普通だ。こうして、ある角度から見れば贈収賄、別の角度から見れば恐喝という現象の発生に到るのである。閑話休題。
倫理評議会で不倫容疑が立証されれば、免職解雇決定という処罰に向かうことになる。行政分野も立法分野も、はたまた法執行界でも、各分野の職業従事者に不倫の話は山ほどあるインドネシアで、どうして判事だけがそのように厳しく扱われるのか?倫理評議会議長によれば、判事というのは社会的に高貴な職業であり、欠点のない完璧で高貴な姿を世の中に示さなければならない義務を負っているからだそうだ。「俗に神の代行者と呼ばれているように、判事という職業には世間から一頭抜きん出た高い人格が付随しなければならない。だから法廷の中であれ外であれ、判事の行動は厳しく監視されなければならない。倫理道徳を汚す行為が行なわれたら、厳しい処罰が与えられなければならないのだ。」
倫理評議会の審議では、被疑者の判事は容疑を否認し、訴状をコミッションに送った人妻もむしろ被疑者の否認をサポートするような証言を行なっている。評議会はその実態を明るみに出すため、この案件の調査を更に深めることにした。
それとは別に、西カリマンタン州のある地裁に勤める判事の不倫に関する訴状が法曹コミッションに届いている。その訴状によれば、訴えられた判事は妻でない4人の女性と情事を重ねており、その4人の中には当該判事が離婚訴訟を扱った人妻が含まれているとのこと。倫理評議会議長は、判事の不倫事件は決してそれら訴状が届いたものだけに限られてはいない、と語る。「ただ、訴えが出されなければ、倫理評議会は何をすることもできない。訴えが出ないからほかの判事はみんな清廉潔白だなどと、だれが信じるだろうか?」
不倫が男の甲斐性だとされているなら、社会的に高いポジションに就いた男にとっては、そのポジションが高まれば高まるほど不倫への傾向を強めて当然だ。自分が従える女の数が多ければ多いほど、かれは自分の価値を強く実感することができるのだから。


「恋人間暴力」
恋人関係にある男女の間で暴力が振るわれることがインドネシアではよくある。普通に耳にする話はたいてい、男が女に対して物理的な暴力を振るうというもので、結婚して家庭を築いてもいないのに女はよくそれを我慢できるものだとわたしなどは呆れるのだが、じっと彼氏の暴力に耐え、晴れの結婚にゴールインし、そして今度は家庭内暴力の嵐に身をさらすようになるインドネシアの女性たちにわれわれは大いなる憐れみを抱かずには済まないだろう。現代日本人女性たちは自分のそんな人生をはたして想像できるものだろうか?
ここでもわれわれは、インドネシアの社会原理に置かれている男尊女卑文化に遭遇することになる。伴侶の選択を女も行なう風潮は強まっているものの、男に自分を選んでもらうのが女のたしなみという美風はいまだに生き残っているし、ファミリー社会の秩序を乱すことへの懸念や世間の口の端に上ることの恥といった諸規制にがんじがらめにされているために、かの女たちは自分の人生とファミリーの安寧を天秤にかけてしまうのだろうとわたしは思う。
アンチ「女性に対する暴力」国家コミッションが2012年に記録した女性に対する暴力事件は216,156件あったが、恋人間のものはそのうち1,805件しかなかった。2011年は1,393件、2010年は1,299件。それが社会の表面に浮上してきた統計数値だ。恋人同士の間で発生する暴力行為は被害者が届出を出そうとしない。被害者は身内の恥をおもんばかって、自分が撲られ蹴られたのは愛情の発露、あるいは思い違いの嫉妬の故だといった説明をして男からの暴行を受入れ、公的機関に訴えないで済まそうとする。男尊女卑文化における社会的な常識も、女は男の所有物であってその原則は恋人であれ妻であれ違うところはなく、自分の所有物をどう扱おうがそれは所有者の権利だという共通理解が形成されており、そんな社会常識に反抗する女を世間がどう遇するかは想像に余りある。
現実には、恋人間暴力も物理的なものばかりでなく、心理的精神的なものから性的なものまで含まれている。その場限りの口約束で誠意のかけらも示さないものにはじまり、虐待、口先だけのおべっか、性行為の無理強い、さらにはレープに至るまで、女性の人格を粉砕し対等な人間として尊重しないありとあらゆる行為をコミッションは女性に対する暴力の中に含めている。
法律援護財団「公正のためのインドネシア女性協会」は恋人男性あるいは夫から暴力を受けている被害者を力づけるための付き添い活動を行なっている。被害者女性たちをその境遇から救い出すのが目的であり、可能な限り暴力被害を裁判所に持ち込むことを目指しているものの、首都支部が付き添いを行なっている被害者女性166人中で、裁判プロセスに持ち込めたのは12件しかない。同財団顧問会メンバーのひとりは、恋人間暴力の抑止を早急に進めなければならない、と語る。家庭内暴力事件で夫の暴力被害者になっている妻たちの8割がたは恋人時代から同じ相手の暴力を受け続けてきているのだそうだ。恋人間暴力を抑え込むことで家庭内暴力が大きく減少する可能性に協会関係者たちは期待をこめている。まだあまり社会問題化されていない恋人間暴力への関心を高めるよう、かれらは世の中にそう訴えている。


「女性を狙え」(2013年6月22日)
インドネシアは世界コーヒー生産国のビッグ3のひとつであり、350万トン超を輸出して世界需要の5.7%を供給している。輸出先のトップは米国で、日本が第二位におり、さらに中国・シンガポール・インド・マレーシア・オランダ・タイ・韓国と続く。
日本では世界各国で一般的な残留農薬規準値より厳しい条件がコーヒーに適用されており、これまで輸出者にとってさまざまな障害が生じていたが、2013年5月30日付けで世界並みの条件に改定されたためその障害はもはやなくなったと考える、とインドネシアコーヒー輸出者連盟会長が表明した。その関連でカルバリル含有量の検査義務が解除されるため、今後は検査が行なわれなくなり、インドネシアから日本へのコーヒー輸出が減少傾向にあった現状は改善できるだろう、と会長は述べている。インドネシアからのコーヒー輸出は上昇しているのに反して大口顧客の日本は減少していたため、コーヒー輸出業界は今回の日本政府の措置を歓迎している。
ところで、世銀の下部機関であるインターナショナルファイナンスコーポレーション(IFC)は、農業が国家経済の重要部分を占めている発展途上国で農業の生産向上をはかるための指導を多々行なってきたが、指導支援の焦点を男性から女性に移すことで従来よりもはるかに大きな効果が得られることを発見した。
インドネシアではそのトライアルをIFCがECOMアグロインダストリアルのインドネシア子会社PT Indo CafCoと協力して実施した。PT Indo CafCoは2011年12月からトレーニングセンターを設けて北スマトラ州とアチェ州のコーヒー生産農家に対するコーヒー生産向上の支援と指導を行なっていたが、北スマトラ州シマルグン(Simalungun)での男性農民に対する指導では満足できる成果が見られなかったため対象を女性に替えてみたところ、生産量がほとんど倍増し、収穫期には総収穫量が四倍に上ったそうだ。こうしてIFC理論である「女性を狙え」は間違いないことがインドネシアでも立証された。
IFCのインドネシアカントリーマネージャーは、今後はコーヒーだけでなくパーム油・ゴム・カカオなどインドネシアの優良輸出一次産品の生産に応用していきたいと語っている。インドネシアの農業人口5千万人の中で女性は39%を占めており、生産向上に活用できる要素は十分存在しているということのようだ。
ただ、あまりそういう性差別をやりすぎると、無能で怠け者で無責任な人口の半分をますますボーダーラインのかなたに追いやり、残る半分に過剰な負担を背負わせることになりはしないのだろうか?


「バーバーショップへ行こう」(2013年8月12日)
小奇麗に形をびしっと整えた身だしなみ。オーデコロンの香りを漂わせ、父親のような微笑で女の心を包容する。今や女たちに男の魅力をふりまくのは汗臭い「バンカラ」では駄目なのである。
そういう男性の意識革命と並行して、数年前から美容サロンを利用する男性が顕著に増加していたが、やはり男たちの間にはマスキュリニズムが脈打っていた。サロンで両隣を女性にはさまれ、女性客を相手にすることに慣れている美容師が男性客の心情を十分把握しないまま普段の接客態度を示す。男性客の中には、そのうっとうしさをひたすらこらえ、ただただ手早く終わらせてくれ、と心の中で念じる者たちが間違いなくいたのだ。
だったらどうしてサロンに行くのかだって?ベストの場所が世の中になかったからだ。南ジャカルタ市プジャテン地区のPatron Barbershop、SCBD地区フェアグラウンドに開店したUgo Barber & Shop、クマン地区のDi Hoek Barbershopなどが、最近そんな男性客の需要を集めて伸びてきている。
パトロンバーバーショップは20代の若者5人がビジネススクールの修業プロジェクトとして企画したビジネスだった。ところが現実に、そのビジネスが予想外の成功を示したのである。プロジェクトなのだから、プロジェクトが終われば店をたたもうというのでは、ビジネススクールを優秀な成績で卒業できるわけがない。かれらは卒業し、そのまま店の共同経営を続けている。
ウゴバーバーショップは、元々さる美容品メーカーで働いていた女性が商機を見出して始めたビジネスだ。女性向けマーケットは既に開発され尽くし、競争もがんじがらめの状況になっているため、発展性があまり見えてこない。しかし男性向け市場はこれから開けていくはずのものであり、この分野で市場をリードすることは極めて将来性の高いものだ、とかの女は語っている。
ディフッバーバーショップのオーナーも、昔スタイルのただ髪の毛をカットし、ひげをそります、というサービスから脱却して、男性の身だしなみを高め、健康な美肌を維持し、清潔さを向上させるといった最新のライフスタイルを男性の間に広めていくことは、この産業の将来性を支えるものになる、と確信している。
かれは、カップルでやってきた男女のうち男性がバーバーのサービスを受けている間、女性は行くところがなくなるのでカフェを併設してダブルに稼ごうと考えた。ところがバーバーの売上と利益がどんどん上昇し、カフェはなかなか採算が向上しない。結局カフェはカウンターだけ残してバーバーの椅子を増やすことになったそうだ。ディフッバーバーショップは南ジャカルタ市チカジャン通りに支店を開いている。
人気の高いどの店も、内装には趣向を凝らしている。薄暗く小汚い床屋にアーバンマスキュリンたちがやってくるはずがないからだ。行なわれているサービスは各店とも似たようなもの。散髪・髭剃りや髭のお手入れ・マニキュア・ペディキュア・クリームバス・フェィシャルマッサージ・髪染めなど。ジャカルタでの身だしなみ向上を望む男性諸子。ぜひ、モダン化したバーバーショップへ行くべし。


「騙して貞操を奪うのは虐待?」(2013年12月06日)
「結婚するって言うから貞操を与えたのに、もう妊娠七ヶ月になるというのにその約束を果たそうとしない。あんな男にはきつ〜い罰を与えて当然だわ。」そう語るのはインドネシア大学女子学生のR22歳。
Rは2012年12月にインドネシア大学で開かれたクリエーティブフェスティバルで、名の知られた詩人S45歳と知り合った。ふたりの間は蜜の関係に発展し、何度か肉体関係が持たれた。そして例によって女は妊娠し、既に妻帯しているSにその責任を取るように要求してRは態度を変えた。
Rの学生仲間や大学関係者がSの非道を非難し、最終的に法的援助を得て首都警察にSを告発した。告発者側が適用を求めたのは、刑法典第351条虐待行為の条項だ。インドネシア語では「不快を催させる行為」と表現される場合が多いこの条項は、他人に対して行なわれた精神的肉体的な安全あるいは健全な状態を損なう行為を取り上げている。
第(1)項:虐待行為は最高2年8ヶ月の入獄もしくは最高4千5百ルピアの罰金刑
第(2)項:その虐待行為が重傷を発生させた場合、最高5年の入獄刑
第(3)項:その虐待行為が死を発生させた場合、最高7年の入獄刑
第(4)項:虐待は故意に他人の健康を損なうことを含む
第(5)項:この犯罪行為の未遂は法的処罰を受けない
刑法典中に虐待行為の説明がないのだが、法例を見る限りでは、故意に他人を悲惨な目にあわせたり、苦痛や傷害を与えることが対象になっている。他人に不快な感情を与えるというのは、たとえば水中に突き落としてびしょ濡れにさせたり、炎天下に立たせてうだらせるようなもの、苦痛を与えるのはつねったり殴ったり、ビンタを張ったりで、傷害というのは刃物を使って斬ったり、傷だらけにしたりといったもの。
もちろん、それらの行為が被害者を苦しめることを意図して故意に行なわれた場合に適用対象になるのであり、歯医者で虫歯の処置をするのに痛い目にあった場合は医師の職務遂行という意味合いから適用されない。
人間の意志とは無関係に形式的な状況が深く関わっており、しかも不快な感情というのはきわめて主観的なものだから、この刑法典第351条というのは不可解な魔物のように人間生活を脅かすものになりかねない。
ところで、詩人SはRとの肉体関係について、お互いに強制もなければ拒否もなくなされたことであり、Rの妊娠は2013年9月にはじめて知らされたことであって、自分には責任を取る用意がある、とその告発に反論している。またSの妻も、夫への支援を行なうことを表明している。


「思春期フリーセックスと離婚の増加」(2014年1月13〜17日)
政府の予測に反して人口増加のスピードが速まっていることの原因分析結果から、早年出産の増加がその要因のひとつになっていることが明らかにされた。男女関係の社会的規制が弱まった結果、未成年男女の性行為が活発になり、若年子女の妊娠〜出産の増加という全国的な傾向が発生している。
インドネシアでは昔から早婚が慣習になっており、今でも貧困地域では早婚が貧困生活を軽減する手段として用いられている。ところが実態は子供たちが結婚生活家庭生活を行なえるだけの精神的成長をしているかどうかはお構いなしだから、低学歴で技能もほとんど身につけていないかれらが労働して稼ぎを得、経済的に自立し、おまけに家庭を支えることを強いられる結果、女中や洗濯女、あるいは建設労働者やオジェッ運転手のような低報酬の仕事にしか就くことができない。おまけに、貧困地域にはそんな求人さえあまりないため、自宅あるいは家族から遠く離れた土地に仕事を探しに行くようなことも稀でない。だからこの早婚という慣習は、結局のところ、家庭を築くというポジティブな面を涵養することよりも親に頼らず自分で生きていくことを子供に実体験させる踏み台として使われているようにも思えるのである。そのような環境の中にある結婚生活家庭生活は概して、夫婦喧嘩・家庭内暴力・夫や妻の不倫といった家庭不和に彩られ、最終的に離婚に向かうことが稀ではない。都会に出稼ぎに出た夫が町で別の女と所帯を持ち、法律上の妻子には仕送りをしなくなり、結局行方をくらまして妻子を田舎に置き去りにするというストーリーは数限りなく語られている。夫が妻を一年以上かえりみず、その心身の欲求を満たすことを怠ったなら、夫との合意の必要なく離婚が成立することをイスラム法は定めており、この規定に沿った離婚も昔から全国的に数多く行なわれてきた。
ともあれ、早婚という慣習が現代社会の中での生活様式にマッチしないことが実感されるようになったのはやっと都市部でのことで、地方部ではそんな意識が定着しないまま現在に至っており、未成年の娘が身ごもったことが明らかになると親たちは娘とその相手を結婚するよう強制するのが普通の対処のし方になっている。ところが、16歳未満の娘や19歳未満の息子の結婚は1974年法律第1号婚姻法で禁止されており、そういう子供に結婚を強制しようとする親たちは、まずKUA(イスラム法宗教役所)で法律適用除外の特別認可手続きを行った上でイスラム法にもとづいた婚姻をさせる。このような面にも、インドネシアにおける国法というものの位置付け、つまり法律が一見国民の個人生活社会生活を規制しているように見えてはいてもそれに完全に服従しないでもよいような制度を国自らが用意している実態、言い換えるなら国法に従うことが絶対視されておらず法律は法執行者のツールに使われているだけという文化をわれわれは目にすることになる。国民が法律に完全に服従しない文化であれば、その国を法治国家と呼ぶのは困難だろう。
ともあれ、本人の意に沿わない結婚を強制された子供たちは、結婚して出産を終えると、いくばくも経たないうちに離婚申請を出し、判決が下りるのを別々に待つという暮らしに入る。このような流れのために、出産の増加、婚姻の増加そして離婚の増加というわれわれの想像を絶する状況がインドネシアでは起こっているのである。
苦労して結婚させた未成年の子供たちがいとも易々と離婚に走るのを親がどうして放っておくかという疑問は、街道を走る長距離トラックの車体に書かれた「Aku menanti jandamu」という言葉が回答を示しているとわたしは思っている。イスラム法における婚姻原理は父親が娘をその夫になる男に譲り渡すのが本質であり、婚姻を境にして娘に関する全責任を負っていた父親は夫となる男の手に娘の身柄とそのあり方の全責任を移管するというものだ。その日から、妻となった娘の全責任は夫の手中に握られ、娘は夫の指図に絶対服従するだけであり、父親にはもう娘に指図する権利がないと見なされる。インドネシアの年齢条件を持つあらゆる法規内容に、xx歳以上およびそれ未満で既婚の者という条件が付されているのは、結婚すれば親の庇護から離れて成人扱いされるという社会習慣が影響を及ぼしているためだ。
たとえ年齢が15歳でも、結婚して親の庇護を離れた娘が離婚を夫と協議して(喧嘩しながらであっても)決めるのを、親がどうこう口出しできるものではない。まあ、意見を言うのは自由だろうが、娘にとってはもう父親の指図に絶対服従しなければならない時期は過ぎ去ってしまっているのである。父親の指図に従わなくとも、親不孝者という指弾を社会から受けることはない。だから実質的な成熟レベルがどんなに低かろうが、結婚という社会制度を一度でも潜り抜ければ成人扱いされ、それ以後は本人が自分自身の主権者となって世の中で振舞うことができる。
このように形式あるいは外面、もっと言うならシンボル、を重んじる社会というのは本質的なクオリティに鈍感な社会であり、あるシンボルで括られるもののクオリティが千差万別であっても同一とみなして同じ待遇を与え、同じように取扱おうとする傾向を持つ。そういう社会的精神の中で育ってきた人間は、クオリティの差には気付いても、クオリティの高低に従って別待遇や別評価を与えるということが習慣化されていないため、われわれにとっては当たり前になっているクオリティによる評価と選別ということがわれわれのようにはなかなかできないことが多い。インドネシアでクオリティというものを直接扱う業務に就いている外国人にはきっと先刻ご承知のことだろうとわたしは思う。
もちろん、どれほどクオリティに敏感であっても、あるシンボルで括られるものの中身が玉石混交であればなかなかクオリティに従った区別を実現させるのは難しく、特にその中身が人間であった場合など、クオリティの差を無視したところから進めていく対応がヒューマニズムだという姿勢が同じようにスタート台に置かれ得るのかと考えたとき、わたし個人としては懐疑的な見方をついついしてしまうことが多い。
で、「アク ムナンティ ジャンダム」の話を続けよう。ジャンダという言葉は既婚歴を持つ独身女性を指している。独身が離婚によるものなのか死別によるのかは不問で、ともかく合法的に再度婚姻することのできる状態にあるわけだ。かの女は結婚して父親の支配下から離れ、離婚して夫の支配下から離れた。すると自分の身の振り方は自分自身が主権者として決めてよいことになる。
初婚であれば、父親が、そして親族一同が、結婚相手本人の品定めをするだけでなく、相手のファミリーは自分の一家と親戚関係を結ぶにふさわしい格にあるのかどうかまで審査した上で決めるという大掛かりなプロセスを経て結婚の祝福行事に至るのだが、ジャンダにはそんなプロセスが原則的にない。するファミリーもあるだろうが、しないファミリーのほうが多いようにわたしには思える。上流層は一族の格を慮ってそうするかもしれないが、一般庶民がそこまでするとは考えにくい。だから、長距離トラック運転手にとって自分の恋する女が、かの女の意志次第でどのようにも決めることのできるジャンダに早くなってくれ、と祈る気持ちがそこに込められているようにわたしには思えるのである。
インドネシア家族計画の会ヨグヤカルタ支部と正義のためのインドネシア女性保護協会法律援護機関が行なった調査結果について家族計画の会ヨグヤ支部長は、「望まれない妊娠で生まれてくる子供が出生証書に両親の名前を記載され、また娘が未婚の母というふしだらな人間として社会的に卑下される立場に置かれないようにし、そうすることで親は面目をつなごうとして、子供たち本人の意思とは無関係に結婚させるという解決策が一般に講じられている。この種の早婚は都市部でも地方部でも同じように増加している。そうなった子供たちは学校教育を継続することができない。なぜなら、学校側は中高生で結婚したり妊娠した者を生徒として受け入れることを拒むのが普通だからだ。たとえ学校側がそんな子供たちの将来を慮って就学の継続を許しても、学校とその生徒本人を取巻く周辺環境からの異常な圧力にさらされて精神的に耐えられなくなってしまうのが普通だ。二十歳未満の若い女性たちは妊娠〜出産を行なう準備が心身ともにできておらず、それがインドネシアにおける母親の出産時死亡率を高いものにしている。」と説明した。
支部長はさらにまた、早婚に続く離婚という事態は新たな問題を生む根のひとつになっていると付け加えた。娘が離婚して実家に出戻りすると、娘が孫を連れて戻ってくるから、親の経済負担は増加する。そんな娘でも、裕福でない親の経済負担を軽くしようとして生活費を稼ぐために仕事の口を探す。人買組織にとって、これはおいしい市場だ。口先ひとつで若い娘の身体が手に入る。騙されて国内外の遠くの町に売られ、客を取らされている若い娘たちは数知れない。インドネシアで起こっている諸悪は、土壌の深いところで密接にからまりあっている。
このような早婚という社会的な悪弊を克服するためには、当の若年層だけでなく、親も含めた国民全体への教育浸透が必要だとボゴール農大「子供とジェンダー研究センター」所属女性コーディネータは主張する。もっとも必要とされているのは、現代インドネシアで家庭生活の基本原理に置かれている家父長制度をあらためて、女性が男性ともっと対等な立場に立てるような形にすることだ、とかの女は言う。
「合理的な思考を育み、就労機会を増加させ、より先の先まで見通してものごとを考える習慣を育てる教育が必要とされています。地方部では、中下流経済層の親は教育が子供の将来に対する先行投資であるという理解をいまだに持っていません。子供は依然として生産財に過ぎず、一家の経済を支える存在としか見られていないのです。だから、たとえ子供が高等教育へのアクセスチャンスを与えられても、親は子供の学歴を小学校からせいぜい中学校までで十分だとしてしまうのです。早婚の抑制という面に限って言えば、公教育だけでなく社会教育の中で取り上げられるべきことになります。宗教・文化・価値観などに関する家庭内での教育も子供を育てる中で必要なものであり、子供が規範を持ち、自分の行動に責任が持てるようにすることは、必ず早婚の抑止に効果をもたらします。ところが、忙しいとかやり方がわからない、あるいは意欲に欠けるといった事情で家庭は子供の教育を学校や他の機関に頼るばかりであり、それが青少年の性行為を含めた逸脱行動を煽っているのです。その結果起こっているのが妊娠〜早婚という問題なのです。」
2012年全国社会経済サーベイによれば、純就学率には下降傾向が見られる。小学校92.43、中学校70.73、高校51.35で、男女差はあまり見られない。家父長制度という家庭生活状況の改善のためには、女子の就学率と進学率をもっと高めることで女性の地位の高まりが期待できるため、女子の就学率向上と就学年数の長期化を促進させる政策を政府は取らなければならない。家庭内ではあらゆるものごとの決定権を父親・夫あるいは男性が握り、女性は男性の指図に黙々と従うのが美しい家庭あるいは夫婦のあり方だという社会通念は打破されなければならない。そのためにも、早婚〜退学〜離婚という連鎖は断ち切られなければならないのである。
インドネシア家族計画の会専務理事は、国内各地で早婚が盛んに行なわれている事態を早急に改善するよう措置を取れ、と政府に要請する。「早婚の慣習は文化であるなどという理由でそれを放置してはいけない。早婚の盛んな地域が持っている価値観を変えさせるのだ。民衆が婚姻に関して持っている考え方をもっと適切なものに変えさせなければならない。確実に効果をあげるために、未成年結婚の件数を抑制できない自治体には罰則を与えるべきだ。その実施は難しくない。意志の有無だけが問題なのだから。婚外妊娠した未成年にKUAが与えている法律適用除外の特別認可の多発は、国民への宗教教育が失敗していることを示すものだ。なぜなら、宗教師は子供たちに男女交際における規範をしっかりと教育して根付かせなければならないのだから。宗教界がそれをやりおおせていない事実を政府は先取りして対策を講じなければならない。学校での性教育を早急に開始することだ。生殖に関する知識を子供に与えるのは、性行為を助長するためでなく反対に望まれない妊娠を防止することを目的にしている。それを推進することで未成年者の妊娠を減らし、法律適用除外の特別認可などという奇妙なことを減少させ、また国民の間に性病の蔓延を防止することにもつながっていく。」
公教育の場における性教育の実施にもっとも大きな声で反対しているのが宗教界であることから、宗教界への批判は今後も厳しいものになっていくことが予想される。


「思春期フリーセックスの結末」(2014年1月20・21日)
ボゴール県メガムンドゥンの高校に通っているZ17歳とN17歳は別々の村に住んでいる。学校で仲良くなったふたりは2013年4月から交際を始め、たいして間を置かずに肉体関係を結び、若いふたりは逢瀬のたびに身体を求めあった。ところが7月にはメンスが訪れないことに気付いてNは途方に暮れた。
「ねえ、あたし妊娠しちゃったみたいよ。あんた、ちゃんと責任とってよ。逃げたりしたら許さないから・・・」Nにそうかき口説かれてZも途方に暮れた、と言うよりも恐怖にふるえあがったというほうが当たっていたようだ。ZはNを放り出してトンズラするようなワルじゃない。というか、これから自分が直面しなければならない周囲からの圧力を想像して目の前が真っ暗になったフツーの少年にすぎないということだ。まだ高校生の身で家庭を持つような心構えができているわけではないし、世間や隣近所あるいは学校でみんなから白い目で見下されるのに耐えられるほどツラの皮も厚くない。ZはNに言った。「なあ、オレ子供を堕ろすジャムゥを探してくるから、おまえはそれを飲むんだぞ。このことは絶対だれにも知られないようにしようぜ。」
親に知れたら何千万ボルトの雷を落とされるやら、という不安と恐怖でNは一言も親に事実を語らず、隠し通した。そしてZがワルンで買ってきたジャムゥを毎日飲んだが胎児は成長の一途。かえってNのほうがジャムゥの副作用で身体中に痒みが出てきて悲惨な目を余儀なくされる。Nは思い余って「堕胎医のところへ行こう」とZに言い出したものの、堕胎はインドネシアで非合法になっているから、非合法堕胎医がどこにいるのかZに知識はないし、そんな情報をだれに求めたらよいのかもわからない。よしんば、情報が得られたとしても、廉い報酬で犯罪をおかす非合法堕胎医がいるわけがない。ふたりにそんな金はないのだから、あれこれ考えた末にZは決心した。「もう、なるようになれだ。世間に知られたってしょうがねえや。」
もちろんそんなせりふはNに一言も語らず、ZはNの気持ちをやわらげることに努める。Nにしてみれば、Zは何の解決策をも出してこない頼りなしだが自分に優しくしてくれるものだからずるずると毎日を過ごしてしまい、終末のときがひそやかに近付いてくるのを不安の中で漫然と見守ることになってしまった。
2014年1月6日、ふたりは友人の家に遊びに行った。そしてその友人の家でNは吐き気と便意に襲われてトイレに駆け込み、男児を出産した。7ヶ月に満たない未熟児だった。Nは赤児をどうしてよいかわからず、Zを呼ぶ。Zは驚いたが、ともかく赤児を連れてその家から去ることが先決と考え、友人からサルンを借りると赤児をサルンでくるみ、ビニール袋に入れて友人宅を辞去した。
赤児の診察が第一だと考えたふたりは、その足で保健所に向かう。しかし既にかなり弱っていたその未熟児は、保健所で世を去ったのである。ふたりはその事実を前にしてパニックに陥り、保健所から逃げ去った。保健所職員がボゴール警察メガムンドゥン署にその事件を届け出たため、警察はその日のうちにZとNをそれぞれの自宅から警察署に連行した。その若い恋人たちを取り調べた警察は、非合法行為である堕胎を共謀して行なったという罪状でこの事件を送検することを決めた。
刑法典第342条にある、母親による計画的な胎児の殺害、および刑法典第346条の故意の堕胎行為、また刑法典第299条の堕胎を他人に命じる行為、そして保健に関する2009年法律第36号の危険な堕胎行為を行なう違反行為をZとNに適用しようというのである。こうしてZとNは、最高10年の入獄刑を科されるリスクにさらされることになった。
すでに社会問題化している未成年者同士の性行為と婚前妊娠〜出産という社会悪への見せしめというニュアンスを感じさせるメガムンドゥン署のその対応から、インドネシアにおける法というものがいかに法執行者が恣意的に取扱えるツールとなっているかということを示す実例がまたひとつ手に入ったような思いを抱くのはわたしだけだろうか?


「フリーセックス」(2014年1月22・23日)
インドネシアでフリーセックスという概念は、セックスの相手が同一人に固定されていない状態を指しており、固定観念にとらわれない自由な性行為という思想的な背景はあまりまとわりついていないように思える。インドネシアの性倫理は依然として旧体制のままであり、宗教と旧来型の社会秩序規範に支えられた考え方が基盤に置かれていて、性行為は夫婦の寝室の中に限定されることが美風とされている。この倫理観にもとづけば、婚姻という社会的に公認された男女関係の間でのみセックスは行なわれてよいことになり、結婚していない男女の間や結婚していても夫婦関係でない相手とのセックスは社会悪として指弾されることになる。
この考え方に上のフリーセックスの概念を重ね合わせるなら、まず未婚の若者同士のセックスはあってはならないことであり、そのようなことをする若者たちは男女ともに不良であるということになる。相手を替える替えないとは無関係に、このレベルでのセックスは最初から否定されているのだ。未婚の娘に関するイスラム文化の基本観念によれば、年頃になった娘は男性との接触が起こらないよう深窓に隠されて厳しい監視の下に置かれ、父親が認める男からの申込みによってその男に妻という資格で委ねられるというプロセスを経ていきなりどこかの家庭に妻として登場する。そういう良い家庭の娘は公共空間にあまり出てこないから恋愛ということが世の中に稀になる。いきおい、普通の若い男が婚前セックスしようと思っても世の中に相手がほとんどいないから、かれらは娼婦を相手にセックスするか、あるいは巷にうろついている数少ない女をレープするしかなくなるということだ。
恋愛というものに関して言うなら、そのような社会の中で起こりうる恋愛というのは、自分の意志とは無関係にいきなりだれかの妻にされた女性が成熟していく中で自分の意志に目覚め、夫でない男性に恋をするという形態が普通になるにちがいない。それは不倫と呼ばれるものに該当するのだが、結婚の前に恋愛がありえない社会における不倫は、結婚が恋愛の結末になっている社会における不倫とはまるで意味合いが異なるものだとわたしは思う。
既婚者のフリーセックスというのは、そういう不倫相手との性行為や買春セックス、あるいはグループセックスやセックス饗応などの機会を利用するひとびとということになる。今インドネシアでHIV/エイズが大きい問題になっており、その最優先対策に取り上げられているのがフリーセックス抑えこみだ。
エイズがインドネシアで社会問題化してからもう26年が経過する。いっときエイズ蔓延の原因が麻薬覚せい剤使用者たちの間で行なわれる薬物注射針にあると指摘されていたが、既に時代が変化したいま、そのころの勢いを大幅に上回るスピードで家庭の主婦の間にエイズが蔓延しており、媒体は注射針からフリーセックス男のペニスに移動したことが常識になっている。
現在政府が取り組んでいるエイズ対策としての国民啓蒙運動はA−B−C選択と銘打たれたものだ。Aはabstinensiaつまりセックス断食、Bはbaku setia pada pasanganつまり伴侶オンリー、Cはcegah dengan kondomつまりコンドームで予防ということで、そのABCのいずれかを選択してしっかりと励行せよという内容になっている。
インドネシア大学社会保健学部教官によれば、フリーセックスの発生要因は四つあるとのこと。その一は人間関係つまり交友関係で、フリーセックス愛好者たちとの交際を始めると、その影響を受けてフリーセックスの泥沼に突き進んでいく。二番目はポルノグラフィーで、印刷メディア・ビデオ・インターネットなどでポルノへのアクセスが頻?になると、見たものを自分も実際にやってみたくなる。三つ目はアルコールや麻薬覚せい剤の影響下に自制心を失い、フリーセックスにのめりこむ。第四は夫婦関係が愉しくなくあるいは崩れてしまっていると他の相手を探すようになり、おのずと複数の人間をセックス相手に持つようになる。
世論を強く支配している宗教と旧来型の社会秩序規範派はいまだに学校での性教育実施に反対している。子供たちにセックスのことを教えるとそれを実際に行ってみたくなるから婚前セックスをあおるだけだ、というのがその理由だ。かれらは同じように、コンドームにも反対している。エイズ蔓延の激しい地区にある娼館にエイズ対策として地元政府がコンドームの自動販売機を置いたが、世論の反対によって自動販売機を引き上げたということが実際に起こっている。コンドームがあれば女性は妊娠しないから、男性は婚外出産児が生まれる心配なしに妻でない女性と安心してセックスできるため、不倫をあおるだけだ、というのがその反対理由であり、それが娼館に置かれたら性病の心配もなく遊べるようになるから世の男性に買春を勧めているようなものだという苦言が上乗せされている。
宗教と旧来型の社会秩序規範派は世間で有力視されているがために世論を強く支配できているわけだが、このような人間観そして現実/事実に対する認識能力を見せ付けられると、ここにある世間というものに首を傾げてしまうのは、はたしてわたしひとりなのだろうか?


「パチャル」(2014年5月15・16日)
パチャル(pacar)とは恋人を意味するインドネシア語だ。教育文化省言語センター編纂のインドネシア語大辞典(KBBI)第四版には、「愛情ベースの固定的な異性の友人」と定義されており、またパチャラン(pacaran)とはブルパチャラン(berpacaran)と同義で、互いに愛情を授受しあうことという説明になっている。ピーター・サリム氏の現代インドネシア語英語辞典では、ブルパチャランは「love affairを持つこと」「ステディになること」という英語があがっている。
実際にローティーンから始まるインドネシアの若者たちのパチャラン現象を見ていると、その言葉の意味はどうやら男女がステディの関係になることという理解が一番当たっているように思われる。というのは、少年少女が異性を知るという交際段階にあるものまで恋人関係にあると言い切ってしまうのは無理があると思われるし、パチャランをしているかれらがみんな相手に恋しいという感情を抱いているわけではないように見えるからだ。インドネシアの若者たちの世界を遠目に見ていると、固定的な異性の友人を持つことはどうやら世間一般で推奨されているものらしい。つまりステディ相手がいるということが、若者世界では一人前の資格を持つことになり、相手がいないジョンブロ(jomblo)と呼ばれる状態は異性から相手にしてもらえない魅力のない若者というニュアンスを帯びるようになる。
男性優位のインドネシア文化では、少年にパチャランを誘いかける少女はあばずれと見なされるために、正当な奥ゆかしさを保とうとする少女たちは常に少年から誘われるのを待つ状態になり、そんな中でジョンブロになったときの仲間たちからのひやかしや侮蔑的な待遇に肩身の狭い思いをするのは相当に骨身にこたえるものであるように見える。だから自分をパチャルにしてくれた少年が自分の肉体を求めてきたとき、拒絶するとジョンブロに転落するかもしれないことをおそれて少女たちは、「結婚するまでは駄目」と親から戒められているセックスの扉を開いてしまうという話はインドネシアでありふれたストーリーになっている。
つまりインドネシアの若者たちの異性交際を取巻いている環境は、まず将来の結婚生活のために異性を良く知ることが推奨されるためにパチャルを持つのが当然という風土が存在し、一方で性行為は社会的に公認された夫婦という男女関係の中でのみ認められるというイスラム文化に根ざす規範がそういう風土の中で男の意思次第でどうにでも曲げられるという矛盾を抱えていると言うことができる。もちろん男に対しても性行為は夫婦になってからという戒律が教え込まれているのだが、「実態さえわからなければ後は口をぬぐって・・」という考えを持つ人間は世界中に満ち溢れており、加えて未婚のふたりが先にセックスを行っても、「将来同じ相手と結婚すればいいじゃない」という理屈を盾にして婚前セックスに溺れこんで行くカップルがあとを絶たず、行き着いた先は破局で泣きを見るのは女だけという結末も数限りない。
パチャラン関係にある異性の相手に対してどのように愛情を持つのかということが、男女非対等文化ではまた異なる様相を呈するようだ。少年も少女も、自分の家の中で父と母がどのような生活態度を採っているかということがかれらのスタンダードになっているはずで、それと同じようなことを互いに相手に対して要求するだろうし、自分の希望するように相手が振舞うことで相手が自分に愛情を持っていると感じるにちがいない。だから、パチャランがいくら愛情ベースの異性関係だからと言って、その言葉から日本人が得るイメージと現実にパチャランをしているインドネシアの少年少女たちの姿はかけ離れたものになる可能性が高いと言える。
加えて、西洋映画や画像などで愛し合うふたりが街角で抱き合ったりキスしたりしている風俗が滔々とインドネシアにも流れ込んできているため、ステディ関係の少年少女がそれを真似ることで互いに相手の自分に対する愛情を確認するという風潮が高まっている。つまり、中高生年代の少年少女たちは、それより上の世代がまだそこまで公衆の面前であけすけに見せるのは億劫だと感じているようなことを、平気な顔をしていちゃついて見せることが増加傾向にあるということのようだ。コンパス紙が集めた統計によれば、街中でパチャラン関係の男女がいちゃついて見せることは必要なことなのかという質問に84%がイエスと答えている。
次の統計はジャカルタの高校生35人から集めたもので、回答者の中で男子生徒は15人、女子生徒は20人だった。なお、数字は人数。
質問1.未成年期でのパチャランは必要か?
回答1.イエス25、ノー8、不明無回答2
質問2.パチャラン経験の有無
回答2.有り28、無し7
質問3.パチャランの際にフィジカルコンタクトは好き?嫌い?
回答3.好き8、嫌い4、普通15、不明無回答1
質問4.両親の承認下にパチャランをしているか?
回答4.イエス18、ノー10
質問5.パチャランの相手を信じているか?
回答5.イエス9、ノー3、普通14
質問6.パチャラン相手との将来を考えたか?
回答6.イエス22、ノー4、不明無回答2
質問7.公衆の面前でいちゃついているカップルを見て嫌な気持ちになるか?
回答7.イエス13、ノー6、普通14


「中高生にエイズが拡大」(2014年11月25日)
東ジャワ州バニュワギ県で2000年から2014年9月までの間にHIV/AIDSに罹患した中高生が5人発見されており、若年層への拡大を懸念する県庁はその対策に力を入れる意向。5人の中には、中学生のときに罹患した者もいる。罹患経路はフリーセックスや麻薬の注射針だ。
県庁保健局はエイズ抑止コミッションと協力して県下の学校に対し、生徒への罹患防止を今後どのように行なっていくかについての会議開催と連絡網の強化を呼びかけた。エイズは必ず氷山の一角現象を呈するため、発見された人数の数倍が水面下に潜んでいるのが確実と見られている。発見された5人の中に宗教系学校生徒が複数見られたことが、県の宗教界にも危機感を煽っているようだ。
学校側は生徒の監督について、生徒の素行は交友関係で決まるため、その面から生徒の指導に力を入れていくことを表明している。学校長のひとりは、「友人の素行を真似するというのがたいていの生徒が道を踏み外す発端になっており、最初はチョバチョバという程度で始まり、そのうちに抜き差しならない状態に陥ってエイズに罹患することになる。」と語っている。
これからは学校間でHIV/AIDS予防ネットワークを設け、情報交換を密にしていくことが決まっている。罹患した生徒の取扱いと、罹患者を増やさないためにどうするのかということが交換される情報の鍵になる。伝染経路とされるフリーセックスや麻薬についても、生徒ひとりひとりの生活環境や日常行動が麻薬あるいは売春にどれだけ近い位置にあるのか、更には生徒本人がゲイの傾向を持っているかどうかといったデータも学校が持たなければならない生徒管理情報になりそう。
あまり目立たない生徒の中で携帯電話を頻繁に買い換える者や、頻繁に学校保健室で休みたがる者は、売春に関わりを持っている懸念がある。また、嘘をつくのが上手だったり、よく物を盗んだりする生徒は、麻薬に関わっている懸念が高い。それらの生徒は保護者が与える関心が薄いために間違った交友関係に陥っていることを示すものであり、学校側はかれらに特別の配慮を払っていかなければならない、とエイズ抑止コミッションプログラムリーダーは述べている。生徒たちにHIV/AIDSに関する正しい知識を与えることも重要な対策であり、学校側はその種の活動を活発化させることにしている。


「女性になりたい!」(2015年3月13日)
リアウ島嶼州バタムのイミグレーション事務所が、37歳のマレーシア国籍者ラフィジ・ビン・イスマイルを逮捕した。イスラム文化では、姓を持つのは王族貴族だけで、一般庶民は本人名しか持たず、その本人名の後に父親の名前を付けるのが普通だ。
男児にはビン、女児にはビンティという言葉が添えられる。ラフィジ・ビン・イスマイルという名前は「イスマイルの息子のラフィジ」という意味であり、シティ・ビンティ・イスマイルなら「イスマイルの娘のシティ」という意味になる。マレーシアではいまだにビンやビンティを使う社会慣習が強く残っている面があるが、インドネシアでは何十年も前にその慣習は廃ってしまった。その後普及したのは、本人名を三つも四つもつけて西洋風の名前にする形態で、父親名は含まれないのが普通だ。もう少しイスラム色を保持しようとするひとは本人名+父親名を使う場合があるものの、ビンやビンティは排除されて、たとえばシティ・イスマイルと自称している。このタイプのひとは、結婚すると父親名を夫の本人名に置き換えて、たとえばシティ・ユスフという名前にするひとが多い。イスマイルもユスフも本人名であり、姓ではないのだが、本人が帰属するファミリー集団を示すというその機能を見る限り、国民すべてが姓を持っている民族の習慣とそれほどの隔たりはないように思える。系図を一貫して突き通すタイトルがあるかないかという違いでしかないのではあるまいか。
そのような変化はイスラム文化の本質的な部分に従いながら外見を変化させているに過ぎないのであり、脱イスラム文化でもなんでもない、という見方をしてよいだろう。ムスリムであるインドネシア初代大統領スカルノでさえ、ビンやビンティというアラビア語源の呼称を好まず、自分の息子や娘にスカルノプトラやスカルノプトリというムラユ語系の言葉を与えて名前を付けた。本人名+父親の息子/娘というイスラム文化の本質には沿いながら、スカルノの思想である「民族主義が宗教より上位に位置するものである」という精神を具現化させた実践例であるのは疑いないだろう。
さて、話を戻そう。実は、ラフィジ氏は性同一性障害者だった。バタムのイミグレーション事務所でパスポート作成を申請したリッゲーナ・フィジアナという女性が、そのラフィジ氏だったのである。ラフィジ氏は既にタイで性転換手術を受けて性別の同一化は軌道に乗っていたが、公的には依然として男性であり、マレーシア国内法では公的アイデンティティの性別を変更することがきわめて困難だったために、かれは新手を考え付いたのである。
かれはかつてジャカルタで数年間働いた経験を持っており、インドネシアの事情や言葉を詳しく身に着けていたから、マレーシア人丸出しでインドネシアに来れば即座にお里が判明してしまうというレベルではなくなっており、インドネシア人として偽装するのにたいした困難はなかった。となれば、かれはインドネシア人女性という公的アイデンティティを持つことによって、公私共に女性としての人生を歩むことができる。
そのアイデアを実現させるために、かれはジャカルタを訪れて自分が成り代わることの容易な女性のアイデンティティ書類を入手し、その女性としてパスポートを取得すればよいだけの話となる。そういう闇書類偽造者はインドネシアに履いて捨てるほどいるし、また一生涯パスポートなどとは無縁の女性も山のようにいるのだから、かれのアイデアをサポートする環境は確実に存在しているのだ。
しかしインドネシアのイミグレーションも、昔のままのザル仕事を継続していたわけではない。昔から偽装アイデンティティによるパスポート作成は多数の実例があったものの、今ではセントラル化されたデータベースによる本人特定検査が効果的に行なわれており、係官の目をくらますのは難しくなっている。こうしてリッゲーナ・フィジアナを名乗る女性が逮捕され、ラフィジ氏の苦労のあらましが明らかになったというストーリーだ。事情はどうあれ、ラフィジ氏は犯罪者になったわけで、通常の強制送還措置がかれを待ち構えているにちがいない。苦難の人生はまだまだ続きそうだ。


「結婚は人間にとっての義務か?」(2015年4月13〜17日)
インドネシア社会には、成人に達した一対の男女が結婚という制度の枠内であらゆるものを分かち合いながら一緒に暮らすのが幸福への道であるという観念がある。そこだけを取り上げるなら、どの民族の社会にも類似の観念はもちろん存在しているだろうが、家庭というのは社会の基本単位であり、その家庭を維持するためには経済というものが第一義的な問題になる。「妻子を養うための十分な稼ぎがないのに、結婚などはとんでもない話だ」という見解を持つ社会は、実は不幸な社会なのかもしれない。
インドネシアには、複数の経済階層がそれぞれ独自の共同体社会を築いている。貧困層が中上級階層のような生活ができないために結婚しなくなれば、ここにあるインドネシア社会がどれほど殺伐として行くかは想像に余りあるにちがいない。きっと、戦慄をもたらす想像がそれだろう。
一対の男女が家庭を築き、暖かい家族の精神的な紐帯に包まれて生涯を終えるのがファミリーイズムに由来するあり方であるのは言うまでもあるまい。とはいえ、そういう形の人間の幸福がファミリーイズムの中にしかないというものでは決してないだろう。それがイデオロギーを離れたユニバーサルなものであるとするなら、稼ぎの有無という経済レベルをそこにからめて結婚を抑制しようとする社会は不幸な社会にちがいないのではないかとわたしは思う。
ファミリーイズムから脱け出したから、そういう面に幸福を求めるあり方は改められなければならない、という視野狭窄型社会論理がそんな現実をもたらしているのであれば、それは不幸のダブルパンチと言って過言ではあるまい。
インドネシアにも、稼ぎが足りないから結婚はまだ無理だ、という考え方がないわけではない。しかしある民族はそれが社会的な価値観となっているのに比べて、インドネシアはそれが個人的な価値観にとどまっており、社会自体は社会構成員が家庭を持つことに第一義的価値を置いているという違いになっているように思われる。インドネシア社会を構築している価値観はファミリーイズムに由来するものであり、社会が自己保存を目的にしてファミリーイズム維持のために必要なことを社会構成員に強制している姿がそこにあるということだろう。つまり、社会は稼ぎのない(あるいは足りない)人間の結婚を否定しないのである。むしろ、いい年齢に達していながら結婚しない人間に冷笑と棘のある視線を向けている。
ファミリーイズムが社会構成員に課している義務は、家系の継承であり、血統の保存だ。だからこそ、結婚という制度が社会秩序の性的な部分を統制しているかぎり、結婚は奨励されるべきことがらとなり、経済力云々はファミリーの中で解決されうるべきことがらと位置付けられる。ファミリーにとっては、赤児の誕生、そして子供の養育というものが、きわめてポジティブな、人間が果たすべき義務の充足という感情に彩られることになるわけだ。インドネシア人の赤児好きはそういう社会的な価値を踏まえたものであるように思えてならない。
もちろん、家系の継承や血統の保存などというのは、社会支配層に当てはまるものであり、市井の一庶民がそんなことに価値を置いているわけではない。市井の一庶民は、自分が生まれ、年老いて死んでいく、という一生を実践するばかりなのである。ただし、そこに関わっているファミリーイズム観念の中では、そういう人間の一生のサイクルが世代交代をしていく、ということがらが善とされている。個人はいつか死んでいくのだが、ただ一個人として死んで行くのでは不足があり、次世代を生み養育した上でこの世を去るのが人間としての務めだという人間観がそこに置かれている。だからこそファミリーネーム(家名)を持たないかれらにも、自分の血統を残すということの意義が存在しているのにちがいない。
ところが、その子供を作るという部分に経済力の問題が絡みはじめているようだ。かつての大家族の中では、夫婦の稼ぎがまったく不足していても、できた子供はその大家族を構成する複数の核家族の子供、つまり大家族の子供として分け隔てなく処遇され、生みの親が食事を用意できなくとも、あるいは学費が納められなくとも、だれかの財布からそれらがまかなわれるのが普通だった。そういう大家族の年長の子供は低い学歴で社会に出て、大勢の弟妹をもっと上の学校に入れてやろうと遮二無二働いている者が多かった。
昨今、都市生活者夫婦の中に、子供を作りたがらない夫婦が増えている。インドネシアのファミリーイズムが持っている原理は、子供が大人たちに混じって生活している形を規範にしている。大勢の子供たちがおり、その子供たちが日々成長していく家庭が美しい家庭なのである。それは世代交代を確実なものにさせる基盤が存在していることへの安心感を与えるだけでなく、子供の振舞いに接して大人たちの心中に呼び覚まされる喜怒哀楽の感情体験や、子供を育てる中で大人たちも一緒に成長するという精神的な成熟など、生きるということがもたらす大きな意味合いが子供の存在に負っている面をきわめてポジティブに投影するものであり、つまり子供の存在は家庭内の幸福の源泉であるというものの見方につながっていく。
コンパス紙R&Dが2015年3月30日〜4月1日に電話帳からランダム抽出した全国12都市住民543人の既婚者から集めた「子供を今持ちたくない理由」のトップは経済問題だった。
1)経済的にまだ安定していない 41.4%
2)職業キャリヤーに専念したい 31.9%
3)良い親になれないのが心配 13.8%
4)運命 3.9%
5)人口を増やしたくない 3.7%
6)その他 1.8%
7)不明・無回答 3.5%
都市型ライフスタイルがインドネシアのファミリーイズムを変質させつつある状況をそこから感じとることができるにちがいないが、それはともあれ、他国の文化では、上のような理由は「まだ結婚したくない理由」の回答として出てくるのが自然なように思えるのではあるまいか。それほどにインドネシア人にとっての「結婚しない」ということの理由はほとんど何の意味も持っておらず、結婚するのは当たり前という観念が一般常識になっていると言うことができるだろう。大人になれば、生活環境がどうであろうと結婚するのが当たり前であり、人間の性生活の欲求は結婚という制度の中で処理されなければならない、という大前提がそこに生き続けているように見える。
現実問題として、インドネシア人はたいへんイージーに結婚しているような印象を受ける。イージーに結婚するから、離婚も少なくない。まあその最大要因は男優女劣とセックスに対する男のエゴにあると思われるが、それはさておいて、インドネシアのファミリーイズムの中にある結婚の観念はあたかも日本の戦国時代の領主間で行なわれたいたような趣を感じさせてくれる。
大家族の一員が大家族の求める結婚を大家族の奨める相手と行なう、という原理がよりモダンな方向にモディファイされているという理解はあながち的外れでもないだろう。もちろん、家格を問題にする一族はたいていハイソサエティであり、一般庶民は結婚する本人の意思を優先して相手を選び、大家族がお墨付きを与えて夫婦にさせるというパターンになる。
夫も妻も、一ファミリー構成員の立場から脱して新しい家庭を築くという考え方は社会的に未成熟であり、夫も妻も自分のファミリーとのつながりを伴侶およびそのファミリーとのつながりよりも重要視し、結婚生活がどんな結末に至ろうが、いつでも自分が戻って行けるファミリーが存在しているという形での夫婦関係が築かれる。そのあり方は個人主義社会における夫婦関係とはまた色合いの異なるものだ。自分の伴侶よりも、生まれながらの自分の血族と一緒のほうが安心でき、またより心楽しい、という夫婦関係が理解できる個人主義社会の人間はきっと稀であるにちがいない。
インドネシアの若者たちの間で、男女交際はたいへん活発に行なわれている。一般にパチャランと呼ばれている男女交際については、2014年05月15日と16日の「パチャル」がご参照いただけるにちがいない。しかし、その記事にも見られるように、パチャラン経験がまだない高校生が2割もいるような事実もある。かれらが結婚適齢期になるまでに、その比率はもっと減少するのだろうが、ゼロになることはない。
いい年をしていながらまだ結婚しない人間、特に女性、への世間の風当たりは厳しいようだ。「売れ残る」という日本語表現とそっくり同じ「Tidak laku.」というインドネシア語が頻繁に使われているのは、かつての日本にあったメンタリティがインドネシアでまだ生き続けていることを証明するものにちがいない。
ナニッさん34歳もそのひとり。親しい友人たちから頻繁に嫌味を言われるのが気に入らない、とかの女は語る。「『あんたは男の友達だっていっぱいいるじゃない。いつまでそうやってるつもり?』って言われるけど、ただの友人以上の相手を探すとなると難しいのよ。ファミリーの間で、わたしの結婚相手はだれがいいとか言い出したら、いたたまれないわ。みんなの期待が大きすぎるのよ。」
かの女はパチャランの経験がない、と告白している。つまり男の友達はいろいろいても、かの女のパチャルになった男はひとりもいないということだ。インドネシア社会は、結婚しない人間をまるで不具者のように見る。ナニッさんは五体健全で精神的にもまともな人間なのだから、結婚させなきゃいけない。なのにそれをほったらかしにしているのは、親が悪い。人間としての幸福は結婚しなければ手に入れることはできないのだから、娘を無理にも結婚させて幸福な人生を歩ませるのが親の務めではないか。ああまでして娘を手元に置いておきたいのだろうか?それとも、いったいどんな婿を親は望んでいるのか・・・?
隣人から村役までがナニッさんの身柄をとやかく言い始めて、一家は世間体が悪くなっている。
ノヴァリナさん47歳も結婚歴がない。かの女は結婚の間際まで進んだが、婚約者が急死してしまった。その傷を癒しながら、別の男性との交際を始めたものの、その関係を自ら打ち切ってしまった。独身の人生が自分に適しているという結論に達したためだ。会社勤めでキャリアウーマンの道を邁進しているほかに、自分のビジネスを発展させており、教会の活動、ファミリーや友人の子供たちとの接触など、毎日のスケジュールはいっぱい詰まっている。だれかの妻になり、子供を産み、家庭を世話するような人生と現在の生き方を比較し、考えつくした上での結論がそれだった。「自分には暖かい大家族があり、みんなは自分の生き方を理解してくれている。わたしの収入はたっぷり余裕があり、甥や姪たちの教育費用を援助しているし、ファミリーの資金需要への貢献度も高い。だから、夫がいない、子供がない、家庭がない、といったことを寂しいと感じる気持ちも湧いてこないのです。」
三十代終わり近いサリさんは、町中で子供連れの一家を見かけると、寂しさが立ち上ってくる、と言う。適齢期を過ぎてしまった独身女性のひとりであるかの女は、結婚相手を求めてさまざまな努力を重ねた。男性への魅力を高めるために、オーラを強化してくれるドゥクンに通ったこともある。2006年には、フランスはパリの結婚相談所の会員になった。選択した相手と一対一で7分間会話するチャンスが与えられる。しかしかの女が選んだ何人かのパリジャンは、英語が話せなかった。そしてサリさんはフランス語ができない。結局7分間の大部分が沈黙で過ぎ去って行った。
フランスは諦めて、今度はオーストラリアにした。かの女の兄がメルボルンに住んでいるからだ。オーストラリアの結婚相談所を2008年と2012年に利用した。こちらは盛り上がって、かの女に接近したいオージー男性がたくさんアプローチしてきた。ビデオコールで会話し、中にはデートの約束までなされた。ところが、かの女の兄嫁が相手を自宅に来させなさい、と言い張る。人物鑑定をしてくれることになった。
そしてファミリーのお眼鏡に叶ったオージー男性と一年半交際したが、結局宗教の違いがお互いをつまずかせることになった。かの女はジャカルタとメルボルンを往き来しながら結婚相手を捜し求め続け、別のオージー男性とも交際したが、それも宗教が躓き石になった。
それらの伴侶を探す人生の旅で得た体験談をかの女は小説にまとめて発表した。「パリのシンデレラ」と題するその作品は9千部を超える売行きを示している。人生の伴侶を得ることは、努力だけで得られるものでなく、努力と運命のコンビネーションなのだという悟りにかの女は今や到達している。
インドネシアにも結婚紹介所はたくさんある。昔はコンパス紙ですら、結婚相手を探すひとびとの自己紹介欄が設けられていた。伴侶候補者の条件に、年齢・職業・学歴・所得・宗教から身長などに至る諸項目が列挙されている中に種族が含まれているケースがあり、本人と異なる種族を指定しているひとがいて、強く興味をそそられた記憶がわたしにはある。
コンパス紙R&Dが2015年3月11〜13日に全国12都市住民594人から集めた回答によれば、結婚紹介所やインターネット経由などの伴侶候補者紹介で、最も重視する相手の属性のトップは宗教だった。
宗教64.8%、容姿6.8%、年齢5.6%、性格4.7%、成熟度2.9%というのがトップファイブだ。
現代世界では、デートの相手(ひいては伴侶候補者)を探すのにソーシャルメディアが大活躍している。グローバルデーティングサーベイによれば、全世界の1万1千人を対象にした調査で、6割がそうだという報告がなされた。インドネシアの場合はまだそこまで行っておらず、直接の出会いがはるかに多いとのこと。
そのコンパス紙のフォーラムで結婚相手を求めたウランさんは、当時30歳になったばかりだった。かの女もパチャラン経験のない女性のひとりだ。父親の口から「いつ結婚するのか?」という言葉が出るたびに精神的に追い詰められていったかの女は、決心してコンパス紙のフォーラムに自己紹介を載せた。交際申込みの手紙はたくさん来た。その中で心惹かれる手紙に返事を書き、最終的にバンドンに住む青年とデートの約束をした。その最初のデートでは、犯罪の被害者になる不安があるため、かの女は叔父に頼んで遠くから見張ってもらうようにした。そのときのデートは真面目なもので、ふたりの交際は一年半続き、そして中途で挫折した。
別の雑誌の伴侶を求めるフォーラムに出ていた若者に、今度はかの女の方からアプローチしてみた。そしてデートし、交際が始まり、結局ふたりは結婚した。ジャカルタのような都市に住んでいると、結婚相手との出会いはますます困難になっていく、とウランさんは語る。
「通勤の激しい交通渋滞のために、時間は浪費され、神経も打ちのめされて疲労感に包まれる。新しい異性との出会い、そして交際、結婚するかどうかの決断、そういったことがらを実行する時間も気力も不足してしまう。自分はとてもラッキーでした。」二歳年下の夫との間に二児を得たウランさんは、家庭を持つことを実現できたいま、大いなる幸福感に包まれている。自分の結婚ストーリーを尋ねられたら、正直に、誇りを持って、話しています、とかの女は述べている。
1970年代に東南アジア最大の結婚相談所だったスコルピオ財団は、現在も活躍している業界大手のひとつだ。ジャカルタのクラマッロンタル通りにあるスコルピオ財団事務所には、40年を超える会員のファイルがいまだに残されている。もちろん、かつて会員だったということだ。この財団が娶わせたカップルの子供がまた会員登録をしたというケースも現実に存在している。会員になるためには、本人データ登録フォームに内容を記載し、住民証明書KTPのフォトコピーを添付し、結婚歴を持つひとは離婚判決書あるいは伴侶との死別を証明する書類も必要とされる。登録費用は今、ひとり30万ルピア。
毎月一回、会員会合パーティが開催される。会員にとって最大の催しものだ。そこでの出会いが会員の人生の扉を開く鍵になる。このパーティはたいてい、70人から100人という規模になる、と財団世話人は語っている。「名前はパーティだが、人間関係を愉しむための集まりではない。会員にとってそれはとても切実な機会なのだ。本気で自分の伴侶を探しているという表情をだれもがしている。お楽しみ気分でやってきているわけではないのだから。」
結婚紹介ビジネスを「Love Industry」と呼ぶのは、Heart Inc. 設立者のゾラ・ヨアナさん。三年半前からスタートしたかの女のラブ産業は上り調子だ。インドネシアの諸都市はこのビジネスの大きな潜在性を持っている、とかの女は語る。
日本の大学でS−1資格を得たかの女は広告会社に勤めていたが、ラブ産業マーケットの有望さに惹かれて、ゼロからのスタートを始めた。ニューヨークのマッチメイキング学院で一年間学んでから、自分独自のスタイルのビジネスを構築し始めた。「とてもユニークなビジネスよ。わたしは他のコンペティターとは違うスタイルを作り上げたいの。チャンスは大きい。」
顧客ターゲットはプロフェッショナルと呼ばれる職業のひとびと。もちろん独身者であることが条件だ。スマートで頭脳明晰、そのセクターにおける業績で多少とも名前の知られた人物、容姿端麗、月収3千万ルピアを最低限とする高収入。会員になるには、まずかの女自身との一時間のインタビューに合格しなければならない。半年間の会員は会費1千8百米ドルで、希望する相手との面談のチャンスを5回もらえる。あるいは一年間3千米ドルで、面談回数は無制限という選択も可能だ。アピアランスはどのようにすれば相手に気に入られるか、デートの際に気をつけるべきことは何か・・・・相手の心をつかむために必要なノーハウを会員に伝授するのは、ゾラ自身だ。
ハートインクの国際ネットワークは香港・シンガポール・ウクライナからアメリカ合衆国にまで広がっている。世界のマッチメイカーが集まる年次総会にかの女は必ず出席してネットワークの維持拡大に努めている。伴侶探しを国際的な規模に拡大しているポイントはきわめてユニークだと言えるにちがいない。
インターネット上で行なわれているビジネスの中に、このラブ産業が含まれている。ラジ・タリブさんとケヴィン・アルウィさんという男性二人が興したSetipe.com は事業歴がまだ二年になっていないというのに、22万5千人の会員を集め、結婚5件、婚約3件が既に実現している。
ラジさんはオーストラリアの新聞にオンラインデートシステムを作った経歴を持つ。オーストラリア社会でそれはもう当たり前のものになっているが、インドネシアはまだまだだ。つまりインドネシアでそのビジネスはきわめて有望であるということなのだ。
スティプコムの心理学専門家は、大都市の若者たちは学業や職業に多くの時間を割かれており、一方、小さい町の若者たちは生涯の伴侶を得るための出会いのチャンスがどんどん狭まっている、と分析している。「テクノロジーの発展はますます目覚しくなっている。一方で、町中での人間の出会いは困難になるばかりだ。特に新しい人との出会いのチャンスが狭まっていく。」
ラジさんの行なったリサーチによれば、インドネシア人の20〜45歳という年齢ブラケット内の2千7百万人は独身でインターネットでの人間関係が強いという傾向を持っている。その2千7百万人が抱える結婚需要を刈り取るという大きなビジネスチャンスに、大勢が参加しようとしている。
「独身者たちはラブのためにどんな代償を払うことも厭わない。ラブはすなわち幸福なの。幸福を求めない人間などいないのです。マッチメイカーというのは太古からの職業であり、時代を超えていつまでも必要とされるものです。これは幸福ビジネスなの。」ゾラさんの哲学は、かの女の事業戦略の基盤をなしている。


「婚姻法を改定せよ」(2015年6月24・25日)
インドネシア共和国1974年法律第1号「婚姻法」は一夫一婦制を定めている。インドネシアはイスラム教の国であり、ポリガミーが認められている、という理解は国法を知らないひとの想像の産物だ。ところが現実にポリガミーが行なわれており、複数の妻を持っているひとが存在する。「ほら、やはり認められているではないか」という理解をその実態から得ようとするひとは、インドネシアの本質に暗いひとだと言えるだろう。
禁止されているのだが、それを破っても罰せられずに放置されている、というのが正確な状況説明なのであり、「認められている」「許されている」という言葉をそこに用いるのは、やはり的確な言葉の使い方ではないようにわたしには思える。国民生活におけるほとんどすべてのことがらが「イエス」と「ノー」のディコトミーで割り切られている社会で育ったひとには、インドネシアの実情は混沌以外のなにものでもないように思えるにちがいない。
インドネシアの日常生活では、決まりを守る人と破る人が渾然一体となって秩序の定まらない姿を示しており、それを目にした多くの外国人は法規が存在することを知らないまま「インドネシアには法規がない」「インドネシアの法規はあいまいだ」といったコメントを述べられているが、それは法規の側の問題なのでなく、人間の側の問題なのであり、インドネシア人というのは自分が抱いている人間観に合致しない人種なのだという悟りに到達するまでに、まだまだ長い年月がかかりそうだ。
インドネシアの婚姻法の規定で外国人にわかりにくいことがらがもうひとつある。いや、インドネシア人ですら、それを明晰に理解しているかどうかはいまひとつ不明だが。
つまり、婚姻する者は自分の宗教によって婚姻承認がなされることで婚姻が成立するというのが、婚姻成立の基本条件になっているのである。国は国民の婚姻そのものを司ってはいないのだ。その上で、その成立した婚姻を政府に届け出て登録されなければならず、婚姻法は国民にその登録の義務を負わせている。ならば、届出をしないというのは国民としての義務不履行だが、上のロジックに従えば、その義務不履行が宗教によって成立した婚姻を否定するものにならないはずなのに、現実には届出しないために婚姻そのものが否定されるという扱いになっている。そのような、法規の内容と現実の国民生活におけるロジックのくい違いというのは他の場面でも出現しており、法規が国民生活を統御するというグローバルスタンダードと異なる現象がインドネシアでは普通に見られるという事実も、インドネシアのカオスを外国人に印象付けるものになっている。
ところで、婚姻法第7条には婚姻資格取得年齢の規定がある。男性は19歳、女性は16歳にならなければ、婚姻してはならない。にもかかわらず、中学生くらいの少女がフリーセックスの結末で妊娠し、親が世間体を慮って相手と結婚させるという「できちゃった結婚」が全国で頻発しており、おかげで国民人口計画が狂うだけでなく、赤児の死産と母親の出産時死亡の高レベル維持の元凶になっている。加えて、幼い年齢で結婚した男女の結婚生活は、夫婦関係の破滅と離婚がマジョリティを占めており、早婚は国民生活のさまざまな面にネガティブな様相を強めさせているだけなのだという見解が国家行政の中では一般的になっている。
インドネシアの婚姻法では、冒頭のポリガミー問題にせよ、この婚姻年齢の問題にせよ、いずれも裁判所の許可を得れば違反でなくなるという抜け道が用意されており、今や抜け道が大通りになっているのが実態だ。ところが、ポリガミー実行者や早婚実行者の父兄や保護者の中に、裁判所という大通りすら通らないで世間を押し渡る者が後を絶たない。そして、違反であり犯罪であると国法で定義されているそれらの行為を侵す者たちが法的処罰を受けないまま平常の社会生活を営んでいるのだから、それこそ法規の有無の問題でなくて人間の側の問題なのだということをそれらが克明に物語っているようにわたしには見えるのである。
ともあれ、国家デモグラフィ計画を狂わせる早婚を減らすことが国家と国民の福祉にとっての懸案事項とされており、インドネシア家族計画の会・女性保健財団・反女性暴力国家コミッション・独立青年連盟などが合議して、婚姻法の婚姻資格年齢を見直す司法審査を憲法裁判所に申請した。男性は19歳のままでかまわないが、女性は16歳から18歳に引き上げて欲しい、というのが申請の内容だ。ところが憲法裁判所は、その申請を却下したのである。
8人の判事団が2015年6月18日に下した判決文には次のような内容が述べられた。
1)どの宗教にも結婚資格年齢の決まりはなく、青年になり(つまり子供でなくなり)善悪の判断ができるようになれば結婚してよいとなっている。
2)早婚の多発は経済問題と教育問題から起こっていることであり、婚姻法第7条の条文と直接的な関係は見られない。
3)婚姻法第7条の婚姻資格年齢を引き上げたところで、離婚件数が減少する保証はない。
それらのポイントから、婚姻法第7条の条文改正は必要性が見られない、というのが判事団長が表明した結論だった。しかし判事団員のひとりである女性判事は判決内容と異なる意見陳述を行なった。
1)41年前に婚姻法が定められたときからインドネシアの基本的人権の内容は大幅に変化しており、女性差別や児童保護に関する法規が幅広く施行されている。
2)2014年法律第35号「児童保護法」の内容は婚姻法第7条と異なるものになっている。児童は発育発展を最優先させなければならず、親は子供が18歳になるまで結婚させてはならないというのが児童保護法の内容である。
3)婚姻法は現状に即したものに改正されるべきだ。
しかし判事団の大勢はかの女の意見を取り上げなかった。
インドネシア大学サパリナ・サドリ心理学教授は今回の判決について、国は子供が子供を持つことを合法化している、と批判した。女性保護国家コミッションは、早婚した子女の未発達な生殖器官に結婚生活がどのような医学的悪影響をもたらすかということがらを判事団はまったく無視している、と評した。判事団が指摘した理由に間違ったものはない。しかし国が国民福祉と生活クオリティの向上をはかろうとしているとき、その意図に応じた判決を下すのが法曹界の協力姿勢というものではあるまいか。
それらの批判に憲法裁判所長官が表明を出した。「憲法裁判所は18歳という年齢が妥当なのかどうかを判断することができない。婚姻法そのものが改正されるべき時期が来ているのであり、立法府が新たな婚姻法を設けることを当方は希望するがために、現行法の部分改定を避けたのがあの判決である。」というのがその表明の主旨だった。


「崩壊する早婚家庭」(2015年6月26日)
インドネシアの早婚の増加と出生増による国民人口の伸びの激化は、憲法裁判所が言うように、法律上での婚姻資格年齢との直接的関連性を持っていない。国民の性生活というミクロの部分で起こっているのは、子供の時期を脱した少年少女たちがいとも簡単にフリーセックスを行なっている状況であり、性教育をタブー視している社会に正しい避妊知識を得るのは不可能に近く、不運な少女たちが妊娠し、中には自分の生命に関わる非合法妊娠中絶を行ったり、あるいは生まれた嬰児を殺し、あるいは捨てるということも行なわれ、そうならなかったケースではじめて妊娠した娘の相手の少年に親たちが無理やり責任を取らせるために結婚させるという結末に至る。つまり、子供が子供を持つという現象がそこに起こるのだ。
そのような子供の夫婦が老齢になるまでその家庭を維持できると思うのは、極度の楽天主義者だけだろう。子供たちは相手を一生涯の伴侶と見定めてセックスしたわけではないのだから。おまけに中学生くらいの男の子に家庭を営むための収入を得る能力があるなどということを本気で考える大人が果たして存在するだろうか?子供の夫婦が作る家庭は早晩経済的に成り立たなくなり、ましてや、ただの遊びがぬかみそ臭い現実に押し包まれてしまうのだから、子供はそこからただただ逃げ出したいと考えるのが普通の姿にちがいない。こうして早婚家庭は崩壊する。まじめに離婚手続きするケースもあれば、既に学校をやめている少年が家庭を捨てて大都会の中に行方をくらましてしまうケースも少なくない。
保健省が行なっている基礎保健調査の2010年度版によれば、インドネシア人女性の初婚年齢の実態が次のように示されている。
10〜14歳 4.8%
15〜19歳 41.9%
20〜24歳 33.6%
25〜29歳 11.5%
30〜34歳 1.9%
35歳超 0.6%
無回答 5.7%
10歳以上のインドネシア男女国民の中に未婚者は32%おり、68%は現在夫/妻がいるか、もしくはいないが結婚歴がある。この婚姻ステータスはかなり大きな性差があり、男性未婚者は37.2%いるが、女性未婚者は27.6%しかいない。女性は結婚して子供を産まなければまともでない、という女性観に支配された社会がインドネシアなのである。その社会観は貧富や生活苦の問題を乗り越えた強力なものなのであり、国中いたるところで妊婦の姿を目にするのは普通のことで、極貧者の中に妻子を持っている者を大勢見出すことすらできる。
18歳未満で結婚している女性は2千3百万人いて、そのうち70%がジャワ島、15%がスマトラ島に在住している。かの女たちの平均初婚年齢は16歳で、結婚している女性全体の平均初婚年齢よりも5歳若い。
2013年に行なわれた全国30万世帯のサンプリング調査では、15歳未満女性の妊娠件数は0.02%で、15〜19歳は1.97%だった。それとは別に、女性の出産時死亡率は20歳以下で6.9%、35歳超は25.6%という大きな数字だ。出産時死亡の原因は、出血37%、病菌汚染22%、高血圧14%などとなっている。


「早婚の村」(2015年7月1・2日)
そのときまだ13歳だったヌルレラは、親が勧める結婚話に従うほかなかった。西ジャワ州インドラマユ県アミス村では、「娘がはじめてもらう結婚話は断っちゃならねえ」が常識にされている。
自分よりはるかに年上で、これまで一度も顔を合わせたことのない男性の妻になることを、ヌルレラは承諾せざるを得なかった。いやいや送った新婚生活が二年経過し、懇願し続けた離婚を親はついに聞き届けてくれた。実家に戻ったヌルレラは、学校に戻りたいという欲求と、まだ十代の若後家という経歴がもたらす恥ずかしさの板ばさみになっており、実家で行方の定まらない毎日を過ごしている。
ヌルレラの同郷の友人で、今23歳になるエリナは5年前にアミス村を去ってヨグヤカルタの大学に入った。女の人生を弄ぶような村の常識からかの女は訣別したのだ。「最初の結婚話を断ると、もう結婚話がやってこなくなり、結婚相手を得るのがとても困難になるって言うんです。だから、いやであっても受けなければなりません。アミス村の女は、早婚するか、さもなければ親の経済負担を軽くするために働きに出るという以外の選択肢がないのです。わたしの村の女友達はみんな、少なくとも中学校を完璧に終えるか、あるいは高校を卒業してからその選択をしたいと望んでいるというのに。」
それは決してアミス村だけに限定された常識ではない。インドラマユ県は女性海外出稼ぎ者の水源地だ。貧困農家が多数を占めるインドラマユ県では、大学教育を娘に与えるだけの経済的余裕のある家庭はほんのひとにぎりに過ぎず、高校さえ余裕がない家庭もたくさんあり、ともかく花嫁になって家を出るか、あるいは働いて仕送り人になるために家を出るか、そのいずれかを選択するしか道はないと認識している娘がマジョリティを占めている。だから、娘が13歳であっても嫁に欲しいと請われたなら、親はひとまずホッとするのが普通なのだ。
そんなあり方に反発するエリナと隣村出身の女性マラ23歳や他の仲間たちが村で行なわれている早婚の実態をテーマにビデオ映画を作成した。カンプンハラマン財団の支援を得て素人の四人が作成した「17 Tahun ke Atas」と題するそのドキュメンタリー映画は韓国のユースフィルムフェスティバルでファイナル審査まで勝ち残り、エリナとマラはその賞品として2008年にソウルでの映画作成キャンプに招かれた。
映画の中には、村のイスラム界有力者や村民とのインタビューが盛り込まれている。村の奥さんのひとりはインタビューに答えて、「結婚したら楽だよ。お金をくれるひとができるんだからね。」と発言しているが、エリナの友人でもあるかの女の娘は、ヌルレラのように早婚して数年で離婚し、若後家さんになっている友人たちをあまりにも多く目にしているため、中学一年生のとき以来やって来た結婚話をすべて断っている。
14歳で結婚したヤユのインタビューでは、1974年法律第1号「婚姻法」の婚姻資格年齢をクリヤーするために関係者がみんなでヤユの年齢を17歳と偽った事実が物語られた。「14歳では婚姻証書がもらえないんだから。」とヤユは述べている。
結婚を通して少女をおとなにするということがこの地方の村々の慣習と化しており、その世界の中ではそれが普通に行なわれていることであるがために、ひとびとは早婚を異常なこととは思っていない。かえって、そういう幼い年齢で結婚しなかったエリナやマラのことを近所のひとたちが親や家族にいぶかしげに質問する、とふたりは無念そうに口をそろえる。「18歳にもなっているのに、まだ嫁に行かないの・・?」エリナがヨグヤカルタで女子大生生活を開始したころ、実家を取巻くコミュニティではそんな会話が交わされていたそうだ。「18歳の独身女性は『買い手のつかない売れ残り』の『行かず後家』だそうですよ。」エリナは苦笑する。
アミス村のサンガルトラタイ財団理事長は、村民のほとんどは娘を嫁に出す機会が到来すれば、娘の年齢などお構いなしにそのチャンスに乗ろうとする傾向を強く持っている、と語る。そのようにして養育負担や責任を少しでも軽くしたいのだ。「子供には教育を与えた上で十分な年齢に達したなら結婚させるという優先度になっていない。教育と結婚という選択肢の間で教育を選択しようとしないのは、貧困生活から抜け出すための解決をもたらすものが教育なのだという理解になっていないからだ。人間はみんな稼ぎを得るために働く。教育はその働くという分野におけるツールや元手として見られているだけであり、加えて稼ぎを得るために働くことに対して学校の卒業証書や大学を出たという資格などが役に立っていないという現実がそんな理解をかれらに確信させている。全国にたくさんの大学生がいて、その大半は学士様になっているが、結果的に大卒失業者を増やしているばかりだ。何年もの長期に渡って学校に通わせても、費やした費用に対する見返りなどほとんどない。何のためにそんなことをするのか?さっさと結婚させたり、あるいは海外出稼ぎに送り出し、両親に仕送りして邸宅を建てさせたり親を地主にしてやることのほうがよほど素晴らしい親孝行になる、とかれらは考えている。」
エリナやマラの見ている現実は、もっと凄まじいものだ。少女の年齢で幼な妻になった友人たちのほとんどは、家庭が崩壊したあげく離婚している。若後家になったかの女たちには、学歴がないだけでなく、働くための技能さえ不足している。実家に戻っての生活がいつまでも続けられるわけがない。自分が実家にいることで親にかけている負担を思えば、再婚するか、あるいは稼ぎを得るために家を出るしかない。そんな状況下で人買チャロに出会えば、若後家たちは容易にその罠に落ち込んでいく。でなくとも、労働技能に不足しているかの女たちが働きに出る先は女の肉体を元手にするものに限られていく。女の人生を弄び踏みにじる過酷な慣習が営まれている場所が、いまだに存在している。


「進行性婚姻資格年齢」(2015年7月6〜8日)
ライター: ディポヌゴロ大学法学部法学社会学教授、ステキ
ソース: 2015年6月24日付けコンパス紙 "Usia Perkawinan Progresif"
女性の婚姻資格年齢を16歳から18歳に引き上げることを憲法裁判所が承認しなかったとき、多くのNGOが不満を表明した。1974年法律第1号「婚姻法」第7条第1・第2項の規定に対する司法審査請求についてのその判決は、1945年憲法にからめて議論を呼ぶものである。
女性の婚姻最低年齢を16歳から18歳に引き上げたところで、離婚件数が減少し、保健問題が予防でき、他の社会問題をミニマイズできる、というような保証はどこにもないから、とどのつまりその条項は妥当性を失っていないというのが憲法裁判所の判決理由だった。また、18歳が理想的な最低年齢であるかどうかは、将来的に何とも言えないことがらである、ということも理由に挙げられている。
世界各国のこの年齢規定は17歳・19歳・20歳などさまざまになっており、国際的な標準など存在しないというのが憲法裁判所判事団メンバー大半の見解だ。しかし判事団の一員だったマリア・ファリダ・インドラティ判事は判事団の最終判決とは別に異見陳述を行い、婚姻資格年齢を16歳と定めた婚姻法第7条1項は法の不確定を引き起こし、更に1945年憲法第1条3項、第24b条2項、第8c条1項に定められている子供の権利を侵害するものである、と表明した。
憲法裁判所が出した判決に対して、NGO活動家から批判の矢が集中した。女子が子供の時期に結婚・出産を行って死亡や障害のリスクに直面するのを国が放置することになる、と言うのである。女子は学校を中途でやめ、生殖関連の保健状態も劣悪で、母体と新生児の死亡率はたいへん高い。早婚の被害者になることを承認する法規の落とし穴に女子が落とされている限り、男女間の対等性が実現することはありえない。
インドネシアの子供たちにより高い学歴を与えようという夢も、その判決によって暗礁に乗り上げた。サルサント・サルウォノ家族計画の会会長はその判決について、「国までもがペドフィリア実践の合法化に加わったことを意味している」とコメントした。
<子供と大人の境界>
最終的で拘束性を持つ憲法裁判所のその判決に関する議論に対してわたしは、その判決は演繹的量的には正しいが、帰納的質的に誤っていると考える。演繹的量的に憲法裁判所は問題の大筋を規範とニューメリックな側面に囚われて解析したと言えるだろう。憲法裁判所の解析では、たとえばイスラム法には男女共に結婚に関する年齢制限が存在しない点を取り上げている。あるのはただ子供と大人の境界線のみであり、女子は初潮が訪れたとき、男子は夢精(スペルマの排出)が始まったときから子供でなくなるとされている。
ところが、帰納的質的なコンセプトに従うなら、身体的な成熟だけで子供と大人の境界線が決まるのでなく精神的な成熟が伴われるのが不可欠で、善悪を判断する能力が身につかなければならない。身体の成熟が起これば精神の成熟もおのずとできあがっていく、という保証があるのだろうか?社会学的に両親が子供の結婚をどのように扱っているのかを示す文化をインドネシア国内で見出すことができる。ジャワ、特に中部ジャワでは何百年も前から、子供を結婚させるのに妥当な時期を決める原則が用いられてきた。子供が「kuat gawe」と評価される状態になったとき、両親は子供を結婚させた。
「クアッガウェ」とは帰納的質的に、肉体的な力・精神的な力・財産面の力の三要素が調った男子女子を評価する際に使われる尺度だ。肉体的な力は労働能力を指し、更には夫婦間での性行為をなすための力が育ったことを意味する。精神的な力とは夫/妻との人間関係、夫/妻の一族との人間関係、隣近所との交際をなしおおせるといった精神面での成熟を指している。財産面の力というのは、経済的に家庭生活の存続を支える基盤を有していることであり、生計を支えるためのプガウェヤンつまり収入が得られる仕事を持っていることだ。
昔の親はその三要素を子供に持たせるべく子育てを行なってきた。それは学校教育や識字の問題を超越することがらであり、つまりこのコンセプトの中では、子供の結婚と年齢とはまったく関連性を持たないものだったのである。1974年に大統領と国会が法確定の必要性から1974年法律第1号「婚姻法」の中で国民の婚姻資格年齢を女子16歳男子19歳と定めて制定するまで、その状況は続いた。法律の中でそのように年齢が定められたのは、当時の通念としてその年齢になればクアッガウェになっているのが普通だったからだ。
<変化の要求>
婚姻法が定められてから41年が経過した。「世界はパンタレイである」というヘラクレイトスの言葉にわれわれは賛同するとともに実感をも抱いている。世界は休むことなく動き続けているのだ。ダイナミックな社会の発展と要求は事実として進行を続け、変化をもたらしている。社会の発展と要求というそこでの現実は法の世界にも進行を迫る。それに応じなければ社会は法を見捨て、法を侮るようになる。婚姻法第7条第1・第2項にある婚姻資格年齢女子16歳男子19歳を保持し、それを18歳と20歳に変更することを認めなかった憲法裁判所は、社会の発展と要求および現実に背を向けたのと変わるところがない。
女性の婚姻最低年齢を16歳から18歳に引き上げたところで、離婚件数が減少し、保健問題が予防でき、他の社会問題をミニマイズできる、というような保証はどこにもないと憲法裁判所が言うのであれば反対に、その引上げを行なったらどのような逆効果が発生するのかと反論することもできる。その引上げは、モラル・倫理・宗教あるいは既存法体系のどこに矛盾を発生させると言うのか?教育界・保健界・児童保護や社会福祉における顕著な発展が示している実態だけではまだ証明が不十分だとでも言うのだろうか?子供の結婚時期を決める原理だったクアッガウェ条件を満たしていないという事実の故に、この国は質的に弱体な世代を生んできたし、しかもそれが将来に渡って継続することを予見させている。この点で憲法裁判所は特に、判決内容がセンシティブであり、また進行性に欠けているとわたしは見ている。
飯が粥になってしまったら、もはや何をかいわんやだ。憲法裁判所の判決は最終であり、拘束力を持っている。判決に対する上訴はありえず、その内容は規範として国民を拘束する。だからと言って、われわれは絶望してはならない。より良い婚姻資格年齢条件を通して女性を成熟させ福祉を与える夢を実現させる望みが絶え果てたわけではない。最初のステップは、立法機関に働きかけて1974年法律第1号の改定を誘導すること。社会的にも、国民社会への早婚反対キャンペーンを継続すること。緊急事態は例外とされるが、それでも裁判所の承認は絶対に不可欠だ。
わが国の法規に見られる成人年齢の混乱は、民法システムに傾斜する国家の特徴であるアンブレラアクトをわが国が持っていないためだ。われわれの法令システムに整然さが欠け、屋上屋を重ねる法規過剰の姿を呈し、論争だらけになっているのを見るがよい。民法典・刑法典・婚姻法・児童保護法・2014年公証人職務法では、成人年齢と法的能力の内容が個々に異なっている。法令間の調和をそこに見出すことは不可能だ。われわれはインドネシア人の手に成る民法典を早急に編成しなければならず、そうすることでインドネシア式コンテキストに即した民事上のアンブレラアクトを持つことができる。
その段階でわれわれはクアッガウェである大人の年齢が何でどのようなものかを調和的に描き出すグランドデザインを持つことになる。女性の尊厳を維持するために、女性の婚姻資格年齢は社会の発展と要求の事実に即して進行性を持たせなければならない。女性は国家の大黒柱であり、女性が劣悪であれば国家は崩壊する。女性が優れていれば、国家の名声は保証される。早婚の欠点から女性を保護し、十分な教育を保証し、福祉を得ることの諸権利を満たすことをわれわれはいったいいつになったら始めるのだろうか?われわれは憲法裁判所の判決を尊重するものの、16歳と19歳という結婚最低年齢には反対する。他の判事たちとは異なる見解をひとりだけ持ったマリア判事が間違っているわけではないし、婚姻資格年齢引上げを拒んだ判事団マジョリティが自動的に正しいと判定されるわけでもない。将来マリア判事の意見が正しかったことが証明されることも、ありえない話ではないのだ。


「離婚は新たな不幸への扉」(2015年7月9・10日)
宗教省宗教生活R&Dセンターのデータによれば、インドネシア全土で2010年から2014年までの5年間におよそ2百万カップルが結婚したが、その期間内にそのうちの15%が離婚した。2014年に全国の宗教高等裁判所が下した離婚判決は382,231件あり、2010年の251,208件から大幅な上昇を示している。離婚申請の7割は妻が出しており、家庭生活の不調和、無責任、経済問題、第三者が夫婦間に割り込むといった理由がメインを占めた。これはインドネシアの社会思想の中に、妻は家庭の中で家政を司り、夫は世間に出て生計の資を得てくるのが使命であるというコンセプトが依然として存在しているためで、夫は家庭に嫌気がさせばいつでもそれを放り出して逐電し、別の町に行方をくらましてそこで新たな家庭を持つようなことが下流階層では普通に行なわれている一方、女性は家に縛り付けられているために、公的手続きを踏んで名実共に夫と別れる形式を整えないと厳しい社会制裁を受ける傾向があるためだとわたしは考えている。
調和に欠ける家庭生活が離婚理由の最大ポーションを占めているのは、結婚生活・家族生活の本質を理解しないまま結婚に憧れ、安易に結婚してみたものの、夢見ていたものと現実の間に存在する大きなギャップに押しつぶされた結果がそれであると思われ、これから結婚しようとする人間に真の結婚生活を成し遂げようとする精神面での準備が整っていないことを示すものと宗教生活R&Dセンター長はそれを見ている。それは家庭生活が持つ15のアスペクトに複雑にからみあった問題であり、肉体面および精神面の暮らしの糧が欠乏していることに起因する。共同生活のパートナーである相手を家庭の中で十二分に生かすよう相互に寄与し合うことがらの中には、たとえば生計の資を欠かさないといった経済面の問題も含まれているし、相互の接触の中で相手をどのように扱うのかという問題もある。
住民管理家族計画庁家族繁栄活性化担当デピュティは離婚の背景に、経済ファクター・心理ファクター・家庭問題相談の場の希薄さという三つの要因が存在していることを指摘した。稼ぎがなく、またその目途も立たないのに、ファミリーが子供を結婚させる。経済面での準備が整っていないのは明らかだ。更に、設けた家庭を万難を排して維持して行こうとする決意を持たず、嫌になったから別れるという夫婦は、家庭というものが社会にとってどのような重要性を持っているのかを理解せず、自分の世界の中でしかものごとを見ることのできない精神的な未成熟者であると言うこともできる。家庭生活の中で種々起こってくる障害に耐えるための心理的な強さが未熟であるのがかれらなのだ。
家庭生活では8種の機能を実現させることが求められている。宗教・文化社会・愛情・保護・経済・教育・出産・環境維持を家庭は社会コミュニティの維持と発展のために実現させなければならない。インドネシアでは宗教という言葉で表現されているが、それを倫理道徳という言葉に置き換えれば世界中の国で通用するものになる。
宗教生活R&Dセンター長は、TVドラマや国産映画の中で十代の娘が結婚するストーリーが頻繁に描かれ、そういうポップス文化が国民の若い年代層に強い影響を投げかけていることがイージーな結婚を増やしており、離婚の増加はその帰結だ、と語る。「そういうストーリーを視聴する若年層は、美しく素敵な映画スターが婚礼シーンの中で光り輝く姿で登場し、周囲のひとびとから祝福を受けるのをイメージに刻みこみ、それが結婚なのだという理解を持ち、自分もああなりたいと憧れる。」
「インドネシアムスリマ層の離婚請求トレンド」というリサーチ報告が作られている。調査対象になったのは結婚生活5年以上の25歳以下の夫婦で、その報告の中にはかれらが結婚の本質を理解していないことがまざまざと示されている。結婚生活というのは結婚相手に対する責任であり、また結婚相手のファミリーに対する責任でもあることがそれに続く。相手に対する責任よりも自分の我が優先されるとき、夫婦間、親子間、舅・姑そして結婚相手の兄弟姉妹との間のコミュニケーションが劣悪なものになる。それどころか、結婚と恋人時代の区別すらしない者がある。相手が自分に合わなくなったら、お別れだ。
劣悪なコミュニケーションだけでなく、互いの欠点を認め合い赦し合う姿勢や相互尊重といったものが不足していれば、諍いや不調和は容易に発生する。設けた家庭を維持することに高い優先度を与えない夫婦はイージーに離婚の道を選ぶ。ふしだらな婚前交際期を送ったカップルや早婚カップルはそのような傾向が高い。「かれらは離婚がその不幸を終わらせる扉だと思っているが、本当はそれは別の不幸への扉なのだ。」と児童家庭心理学者のひとりは述べている。
結婚年齢が15歳未満のケースは5%あり、15〜19歳ブラケットの結婚は42%を占めている。早婚で未熟な夫婦が誕生し、それを強制された妻は家庭生活を破壊してそこから逃避しようとする。妻と家庭を放擲して逃げ出す夫はまだ簡単だが、妻は離婚請求を通してして社会的に新たな人生を始められない。早婚をなくすことが離婚の増加に歯止めをかけることになる、と家族繁栄活性化担当デピュティは信念を物語っている。
特定の地方文化の中に、娘を宗教界あるいは社会的な有力者と結婚させたがる社会があり、年齢の熟したかれら有力者たちは自分の子供のような若い娘を妻に望む。あるいは貧困農民が経済負担を軽減させるのを目的に、まだ少女の年齢の娘に結婚を強いる社会もある。結婚の本質を理解できない未成熟な人間が設けた家庭は不健全なものになり、人間関係は崩れやすく、不完全で、社会経済性が低劣であり、コミュニケーションをとる能力が欠如し、視野も狭い。離婚の有無とは関係なく、そんな家庭に育った子供は「無関心」型精神パターンを示し、育った環境を引きずって成長するため、かれらが築く家庭は自分が育ってきた家庭を丸写しするようなものになり勝ちだ。
離婚が新たなる不幸への扉であることを理解し、しかもそれを完璧な計算づくで行なっている離婚者はほとんどいない。インドネシアの家庭が離婚で崩壊したあと、財産分割が行なわれるのは一般的だが、子供の養育権や非養育者になった親への子供の訪問、ましてや父親から子供への生計費支給といったことがらは曖昧になるのが常で、インドネシア文化におけるジェンダーコンセプトでは母親と子供と家庭がひと括りにされているために父親は家庭外で個人生活を持っている者が多く、父親が子供の養育権を望むケースは父親側のファミリーがそれを望んでいるのだと理解するのが順当であるようだ。夫にとっての家庭というのは、男として妻からsumur・dapur・kasurの三つの奉仕を受ける場でしかないという見方はいまだに大勢の男たちの思考と振舞いを現出させる基盤に置かれている。
早婚を減らすことが離婚を少なくする、つまり家庭崩壊を低下させる対策のひとつであるのとは別に、崩壊しかかった家庭にカウンセリングの場を用意することも社会の責任のひとつである。もちろん民間団体もあれば、保健医療機関が医療サービスの一部として行なっているところもあるが、政府自身もその窓口を設けている。児童保護女性活性化省が運営している女性児童活性化統合サービスセンター、宗教省の婚姻関係永続指導育成庁、社会省の家庭福祉相談機関の三つが、崩れ始めた夫婦のための相談窓口を用意している。しかし昔からあった「家庭内親族内のトラブルを世間に公にするのは恥である」という思想がまだ無くなったわけでなく、家庭内の問題が他人に知られて噂話のタネにされるのを嫌がるひとは数多い。結局、利用者が少ないためにそれらの相談機関はあまり自己宣伝をしていないのだが、少なくとも結婚するカップルにそのような相談機関があることを告知しておくのは意義のあることである、と女性への暴力国家コミッション長官はコメントしている。


「悪循環する家庭崩壊」(2015年7月13・14日)
2014年住民管理家族計画国家庁データによれば、インドネシアにある6,760万世帯の家庭の中で、主婦が戸主になっているところが790万世帯ある。その790万世帯のマジョリティは離婚によって生じたものだが、離婚してから独身を続けている理由の詳細はいまだ調査が行なわれていないためにはっきりしない。アダッ(慣習)の拘束が厳しいことが、特に40歳を超える女性たちに再婚を諦めさせているように推測される、と住民管理家族計画国家庁家族繁栄活性化担当デピュティは語っている。
女性戸主の大半は経済的に不足だらけの生活を送っている。子供の養育と生活需要を満たしてやらなければならないにもかかわらず、学歴が低いために仕事に就くのが困難で、家庭の経済需要を満たすために十分な収入が得られている家庭はたいへんに少ない。その結果、老後の暮らしを配慮することにまで手が回らず、結果的に極貧の老齢生活に至るケースがたいへん多い。
子供の養育については、両親が協力し合って子供を育てるという観念の希薄なインドネシア社会で、別れた妻と子供のために時間と金を配分しようとする離婚した夫を見つけ出すのはたいへん難しいことだ。家庭と妻と子供をひと括りにして把握している夫たちが離婚すれば、それらを置いて自分ひとりが去って行くのがたいていの夫が抱いているイメージであり、子供のためにその家庭に足繁く戻ってくることはかれらの持つ離婚の概念にフィットしないように思われる。
普通の結婚生活ですら、子供の養育は妻の責任という通念が一般的なのだから、離婚した夫は妻に子供の養育を百パーセント委ねるのが普通であり、妻と子供の生計費用を支給し、子供の養育にも関わってくる離婚した夫が存在するのは、せいぜいアッパーミドル層の一部のひとでしかない。
社会通念がそうなっているため、離婚した夫から生活を保障してもらうのは困難で、しかも子供の養育とその生計までもが妻の双肩にのしかかってくるのだから、家庭の崩壊など歯牙にもかけない素行不良の夫であっても、多くの妻たちはそんな状況に耐え、子供だけを希望の星にして家庭を守っているのが一般的だ。
中央ジャカルタ市宗教裁判所に離婚請求を出したインドレスさん26歳は2歳の子供の母親だ。22歳のときに、結婚する上は家庭建設に集中しようと決意して大学生生活を諦めた。ところが幸福な新婚生活は一年しか続かなかった。パチャラン時代の美しい日々は夢の中に置き去りにされ、結婚二年目にして夫婦喧嘩はどんどんエスカレートし、夫の家庭内暴力が始まった。その年からかの女は別居生活に入ってコスで子育てをするようになった。そしてついに離婚を決意し、今は宗教裁判所での審査プロセスが続いている。
東ジャカルタ市宗教裁判所では、リエタさん24歳が離婚手続きの最中だ。かの女もパチャラン時代の陶酔の日々と結婚生活の現実との落差に大きな失望を抱いた。18歳で結婚したかの女は、夫がまるで別人のように変わっていくのを驚きの目で眺めていた。
夫は妊娠した妻をほとんど相手にしなくなり、妻に知られることなど気にもとめないで別の女と不倫した。「子供がいなければ、三年前にもう離婚していたわ。子供の生計費をどうするかが、離婚を決意するときの最大の検討項目でした。」とかの女は語る。夫は毎月の収入の中から1百万ルピアを妻に家賃と子供の生計費としてリエタさんに支給してきた。離婚すれば、その金はもう手に入らない。それを乗り切るために、かの女は職探しをした。「今は定収のある仕事が得られてるの。だから、離婚の準備はOKよ。」
家庭がうまく運営できずに、せっかく設けた家庭を崩壊させてしまう夫婦が少なくない。いくつかの要素がそこにからんでおり、そこに焦点を当てるなら、典型的なパターンが浮かび上がってくる。6,760万世帯にはひとりずつ戸主がいる。戸主6,760万人が属す経済階層を見ると42%が貧困層に区分され、かれらが設けた家庭は低福祉家庭であると言うことができる。ボゴール農大教授が行なった調査結果は、戸主の20%は自分の住居を持っておらず、おまけに職業すら持っていない戸主が11%いたことが明らかにされている。その調査ではまた、インドネシアでは一日に738件の離婚が行われており、その7割は妻の側からの離婚請求で、理由のマジョリティは家庭内暴力であると報告されている。
自分の住居を持っていない一家はコスのような借室に住むケースが多い。つまりひとつの部屋で一家全員が生活しているということだ。複数の部屋がある借家を借りる経済能力がないために夫婦と子供たちがひと部屋で暮らさざるを得ない。収入の多寡と学歴は、振幅が激しいものの大まかな傾向としては正比例する。
一家全員がひとつの部屋でいつも顔を合わせていても、家族構成員の間にクオリティある会話がどれだけ交わされているだろうか?特に親子の会話で、子供が幼児期を脱し始めると、子供との間にどのようなトピックを話せばよいのかわからなくなってしまう親が少なくない。親の学歴がそこに重大な影を落としている。
親の学歴が高いほど親子の会話はクオリティの高いものになり、親が低学歴であれば会話のクオリティに期待するには無理がある。低福祉家庭の両親の学歴はせいぜい中学校までというのがマジョリティを占め、妻の学歴は夫より低いのが普通であり、おまけに18歳未満で結婚した妻はたいてい学校を中退するから、学歴としてはその下のレベル止まりとなる。そんな妻が夫から家庭運営と子供の養育を一任され、社会通念としてそれが妻の責任とされているため、夫の多くは自らその責任の一端を担おうということをあまりしない。
「母親は子供の最初にして最大の教育者だ。母親が低学歴であれば、その家庭でクオリティを持つ子供が育つことはあまり期待できない。低学歴の母親は家庭での子供の教育カリキュラムをアレンジするようなことができないため、子供が宿題するのを見てやれなかったり、その日一日の子供の生活体験で何があったのかを夕食のときに子供に話させたり、あるいは子供と愉しむために外出する、などといった密接な家族関係を構築する活動がやりおおせない。」ボゴール農大教授はそうコメントする。家族の絆が薄弱な家庭は崩壊しやすく、またそんな家庭で育った子供が成人してから持つ家庭にも類似のレベルが循環することになりがちなようだ。


「敵か味方か?」(2015年8月25日)
西ジャカルタ市クンバガンのブンドゥガンポロル町ハジサリムン通りRT008RW001で15年8月1日に強盗傷害事件が起こった。MA41歳とIS31歳の夫婦が、親しい関係にあるジュナエディ42歳を刃物で刺した上、オートバイを奪ったのだ。
その日、ISはジュナエディとその場所で待ち合わせた。オートバイでやってきたジュナエディにISはナシブンクスを勧めたが、ジュナエディは一口口に入れてから、「こりゃ腐ってる」と言って口に入れたものを吐き、ナシブンクスを捨てた。すると物陰に隠れていたISの夫MAが台所包丁を手にしてジュナエディに突進し、刺した。ジュナエディが倒れて血を流しているのを尻目に、夫婦はジュナエディのオートバイで現場から逃走した。
というストーリーに釈然としない印象を抱いた方の直観力に脱帽したい。実は、もっと深い人間関係の綾がその事件の裏にあったのである。ISはジュナエディと不倫していた。悔悛したのか、ISは夫にそれを打明けた。MAは怒り狂った。
「あの野郎、殺してやる!お前も手伝うんだぞ。」
悔悛のあかしを示すためにISは夫の殺人に手を貸さざるを得ない。MAがシナリオを作った。ISがジュナエディを呼び出して毒入りのナシブンクスを食べさせる。この方法がもっとも安全確実だ。
そして8月1日に実行の運びとなったのだが、ジュナエディは毒入りナシブンクスを食べなかった。MAはもう後に引けない。あとは体当たりだ。
しかし、それでもジュナエディは死ななかった。傷口を10針縫う怪我をしただけで、警察に事件を届け出た。つまりこの事件は殺人未遂事件だったのである。
ジュナエディを刺した犯人が明らかなのだから、逮捕は時間の問題であり、ISはジャカルタ、MAはタングランと別々の場所に隠れていたのを警察に逮捕された。警察が事件を公表したのは8月18日。
人妻と不倫して、不倫相手は自分の味方という浅い考えでいると、とんでもないことになるという教訓がきっとこれだろう。


「シルデナフィル含有精力剤」(2015年9月3日)
男性のためのスタミナ増進と銘打って販売されている伝統薬品やサプリメントの中で、化学成分やその派生物が加えられているものが大量に発見されている。2014年11月から2015年8月までの間に発見されたそれらの危険な商品は68種のブランドにのぼり、インドネシア国内で50種、シンガポール・ブルネイ・オーストラリア・米国で見つかってインドネシアに通知されたものが18種という内訳になっている。食品薬品監督庁はインドネシア国内で市場流通しているそれらの商品を回収して廃棄しており、2015年の8ヶ月間に廃棄された製品は598億ルピア相当、また原材料は635億ルピア相当にのぼっている。
食品薬品監督庁長官によれば、それらの商品に混入されている化学成分とはシルデナフィルとその派生物質である由。シルデナフィルは勃起不全と肺動脈性高血圧症の治療薬として使われるもので、医師の指導のもとに服用されなければならず、副作用として失明・脳梗塞・心臓発作などを引き起こすことがある。
国内で発見された50種のうちの25種は食品薬品監督庁に届出がなされているものだ。その中の代表的なものとして、クエン酸シルデナフィルを含有しているKuntala、ヒドロキシチオホモシルデナフィルとチオシルデナフィルを含んだEveron、チオジメティルシルデナフィル含有のMencap などがある。シルデナフィルには70もの派生種があり、製薬事業主がそのすべてを知っているわけでもなく、医薬品原材料を国外に発注したとき、送られてきたものがシルデナフィルを含有しているということも起こりえると長官は付け加えている。
国内のすべての医薬品検査ラボでシルデナフィルの派生物が検査できるわけでもない。そのためには最新テクノロジーを使った機器が必要になるため、多くのラボはまだそのレベルに達しておらず、食品薬品監督庁はオーストラリア・中国・米国などに検査の協力を仰いでいる。
食品薬品監督庁長官は従来から、医学的に強精剤や精力剤など性的能力を高める薬などは存在せず、勃起不全治療薬をそのような表現で宣伝して消費者の思い込みを誘っているケースがもっぱらだ、と語っている。そのために使われているのがシルデナフィルということのようだ。


「言行不一致の実例」(2015年9月11日)
2015年3月27日付けコンパス紙への投書"Mantan Istri dan Sepertiga Gaji Suami PNS"から
拝啓、編集部殿。文民公務員の結婚と離婚は1983年政令第10号に関連する1990年政令第45号で統制されています。しかしこの規則執行の現実は、いまだにすっきりしていません。
宗教裁判所で正式な離婚をしたことを、わたしはたいへんよかったと思っています。結婚の絆に縛り付けられたまま何年も糧を与えられず、中途半端なステータスでいるよりも、そのほうがはるかによかったのです。しかしいまだにすっきりしない問題があります。別れた妻が別れた夫の給与の三分の一を与えられるという決まりはだれが作ったのでしょうか?宗教裁判所ですか、それとも地方公務員庁ですか?
女性の権利が守られるために、そのことに関する詳細を関係機関は明らかにしなければなりません。離婚した夫と妻がその詳細を知ることと並んで、その実行者たる給与支給者が夫への給与の三分の一を妻のために取り分けておくことができるように。
わたしのような運命に落ちた女性はきっと少なくないでしょう。宗教裁判所の判決書には、離婚した妻に対する給与分割のことが記されていません。一方、地方公務員庁によれば、離婚した妻と子供に給与の三分の一を分け与える用意があることを述べている印紙を貼った宣誓書があるので、妻は三分の一を受け取る権利があるという説明をしながらも、実際には、宗教裁判所の判決に記されていないことを理由にして、離婚した妻は離婚した夫の給与の三分の一を支給してもらえないのです。何がいったい本当なのですか?[ 中部ジャワ州バンジャルヌガラ在住、ドゥイ・クルニアシ ]


「女性への暴力2015年版」(2016年4月6日)
女性に対する暴力は、婚姻関係にある男女が家庭の中で行うものが圧倒的なシェアを占めていたが、その典型パターンは徐々に低下し、もっとさまざまな関係の男女がもっと広範なエリアで行う方向に変化している。公共スペースで行われるものまでが増加傾向にあるのは、人間の反文明化を象徴しているのだろうか?
反女性に対する暴力国家コミッションが公表した2016年年次記録の中でコミッションは、その変化を煽っているものはジェンダー差別的地方条例の出現・不寛容姿勢・死刑政策・不法居住民への強制排除措置・政治コンフリクトなどが女性の権利を侵す方向の影響を及ぼしているからだ、とコメントした。
「女性への暴力は、パターン・形態・件数・エリアの諸面で拡大している。個人のエリアだけでなく、コミュニティーから国家に至る広範なエリアで起こっている。」とコミッション長官は2015年の実態に関連してコメントを述べた。
コミッションが集計した2015年の女性に対する暴力事件は321,752件あり、宗教裁判所が記録した305,535件と協力民間団体が集めた16,217件を含んでいる。コミッション自身が取り扱った件数は1,099件あった。
その中で、いわゆる家庭内暴力に該当するものは依然としてマジョリティの11,207件で、物理的暴力がふるわれたのは4,305件、性暴力3,325件、心理暴力2,607件、経済暴力971件といった明細だった。家庭内性暴力の増加が顕著であり、2015年は第二位に躍進している。また、11,207件中で、夫が妻に対して行ったもの6.725件、未婚カップル2,734件、女児に対して行われたものは930件。
親族・血族・婚姻関係外の男女間で発生した暴力事件(コミュニティ内暴力)は5.002件で、性暴力が61%を占めた。レイプが1,657件、わいせつ行為1,064件、セクハラ268件、その他の性暴力130件というのがその明細。
過去三〜四年間、夫から妻への家庭内暴力が依然として第一位にあり、被害者の年齢は24〜40歳で、多くのケースで妻は専業主婦であり、経済的自立能力が欠如している。さらに、すべての被害者女性が届を出すわけでもなく、届けを出した女性も、法的措置へ進むのを拒むケースが多い。「かの女たちは世間から悪者にされることを恐れている。」とコミッション長官はその背景を指摘している。


「妊娠は女の問題」(2016年7月4日)
ゴミ収集荷車が町内のあまり邪魔にならない片隅に置かれている。住民はそこにゴミを捨ててよいことになっている。台所ゴミやその他の家庭ごみが集まって山になった荷車を、ゴミ清掃員が地域のゴミトラック巡回場所まで運んでいく。
西ジャワ州デポッ市スッマジャヤのゴミ清掃員が、荷車の中にある黒いプラ袋に不審を抱いた。しっかりと縛られた口をほどくと、中には青い布に包まれた何かが入っている。その布を開いた清掃員は愕然とした。生まれたての赤児の死体があったからだ。清掃員は慌ててRW(字長)宅の表門を叩いた。
デポッ市警が捜査を開始し、6月28日未明に町内の借家に住んでいる主婦D29歳が容疑者として連行された。Dは夫と子供三人(5歳・3歳・1歳半)の一家5人でその借家に住んでいる。
警察の取調べにDは涙ながらに自供した。あれはわたしの子供で、産み落としてからすぐに自分が殺したのだ、と。去る6月20日深夜1時ごろ、妊娠7ヵ月(妊娠月数はインドネシアと日本で数え方が異なっている)のDは自宅の浴室で、独力で女の赤児を産んだ。そしてすぐに、その児を殺した。死体は洗濯機の中に隠し、昼になってから青い布で包んで黒いプラ袋に入れ、ゴミ収集荷車まで自分で持って行って捨てた。
「どうしてそのようなことをしたのか?」という取調官の質問にDは、そうする以外に方法がなかったからだ、と答えた。あの赤児は自分と夫の間にできた子供だが、既に子供が三人もいて、夫は子供がこれ以上増えることを望んでいない。「これ以上子供を増やしたら、俺はお前を離婚してここから出て行く」と身重になって行く妻のDに夫は何度も宣告していた。
子供が増えれば、夫はもっと稼いでこなければならなくなる。その目途が立たないなら、そんな態度に出るのも自然なことだろう。そして三人の子供を抱えるDは、夫に去られたなら生活費を得る目途が立たなくなる。
ならばどうして、夫は妻の腹が大きくなるようなことを平気で行ったのか?それは、Dの夫が男尊女卑社会の男だったからだ。
男はセックスを自分の望むように行って当然だ。男に仕えるべき女は、その結果を自分一人が引き受けなければならない。妊娠を避けたいなら、避妊措置を女が受ける。堕胎するなら、女が自分のこととしてそれを行う。妊娠が女の問題であるというのは、そういうことを意味しているのである。そしてDは、そのいずれをも行わず、最終的に嬰児殺しの母親になってしまった。
夫は妻がどのような状態であろうと、すきなときに、すきなように、妻の肉体を求める。妻が嫌がれば、寝室レイプさえ起こる。そして世評は女を悪者にする。
その結果子供ができても、それは女の問題なのだ。夫が妻に「産んでよい」と言えば、夫がその子供に責任を持とうと決断したことを意味している。しかし、夫の責任とは家の外で一家の生活費を稼いでくることなのであり、子供の養育は基本的に妻の責任なのである。家の中は妻の領分であり、子供は普通、家の中で育っていくものなのだから。
ところが、できてしまった子供を「産むな」と言われたら、避妊を怠った妻は非合法の道をたどらざるを得なくなる。Dの悲劇はこうして作られた。


「なぜ女性への暴力行為が増えるのか?」(2016年7月13〜15日)
反女性への暴力国家コミッションのデータは、女性への暴力件数の増加を示している。2011年から2015年までの件数は次の通りだ。
2011年 119,107件
2012年 216,156件
2013年 279,688件
2014年 293,220件
2015年 371,752件
男女対等コンセプトは人間対等観念が生み出したものだ。人間対等観念が依然として人間上下関係コンセプトに負けている社会では、どれほど口を酸っぱくして男女対等を叫んでみても、そしてそれがメディアで喧伝され、社会的にそれが実現されているような現象を部分的に見出せたとしても、本質は水に油を混ぜてシェイクしたようなものにしかならないにちがいない、と考えるのはわたしだけだろうか?
ヨーロッパ文明の中で産み落とされ、発展育成され、理想あるいは善事としての価値が確立された人間対等観念は、民族や国民といった広さでの人間集団の効率向上を大きく推進させて、戦争や支配をはじめとする人間集団間の競争における強さを醸成することに成功した。近代以降での西洋文明の世界支配は、単に発明された武器兵器だけに依拠しているのでなく、かれらが社会の中に育んだその強さが大きい貢献を果たしているとわたしは考えている。
一方、西洋文明に支配されることになった非西洋地域は、旧態然たる封建思想にどっぷりと浸った人間観が維持継続され、人間集団は大きい不効率を抱えながら人間集団としての強さを向上させた集団との戦争や闘争を余儀なくされた。その結果が、今日われわれが見ているこの世界のありさまではないだろうか?
アジアでは、西洋文明が持つその強さを痛感した結果、その諸原理を学び、それを実践する社会を形成しようとして諸国諸民族が動きはじめたものの、各民族のお家の事情によって進度はまちまちであり、おまけに所詮は異文化の持つ価値観の移植となることから、この人間対等観念はお家元のレベルになかなか肉迫できないでいるように見える。それもそのはずで、西洋諸国の中においてさえ、たくさんの異分子がユニバーサルな人間対等観念の実践を裏切っており、コンセプトが完璧に地に着いたものになっていないのが実態だからだ。現実に目に映る姿を模倣するだけなら、多くの国はわが社会が既にお家元に近いレベルにいると自画自賛するにちがいない。しかし人類にとってある種の雲の上のユートピア論に近いこの人間対等コンセプトは、お家元である西洋諸国ですらいまだに完全遂行ができていないものなのであり、その西洋文明の生徒にとっては、どれほど優秀な生徒でもなかなか完全実施ができるものではないはずだ。
基本原理レベルでそうであるなら、その枝葉である男女対等はそれに輪をかけた状況であって少しもおかしくないだろう。
コンパス紙R&Dが2016年4月20〜22日にジャカルタ・バンドン・スマラン・ヨグヤカルタ・スラバヤ・メダン・パレンバン・デンパサル・バンジャルマシン・ポンティアナッ・マカッサル・マナドの国内12大都市に住む17歳以上の回答者666人を電話帳からランダム抽出し、電話インタビューして集めた回答は次のような内容を示した。各都市で集めた回答は住民人口に比例させてある
質問1.次の諸項目について、男女間の対等性は実現していますか?
*家庭内で自分の意見を述べる: はい77.5%、まだ20.6%、わからない1.9%
*高等教育を受ける機会: はい91.7%、まだ7.2%、わからない1.1%
*職場で与えられる賃金・給与: はい69.5%、まだ22.8%、わからない7.7%
*会社・職場で高いポジション/キャリアに就く: はい76.0%、まだ20.7%、わからない3.3%
質問2.一般的に、社会生活における女性の自己実現は男性と同等になっていますか?
回答2.はい76.0%、まだ20.7%、わからない3.3%
質問3.昨今の女性に対する暴力/セクハラ事件への不安はますます強まっていますか?
回答3.はい88.6%、いいえ8.7%、わからない2.7%
質問4.次の言葉に賛成しますか?
*女性は政治リーダーとして男性と同じ権利を持っている: 賛成83.0%、反対14.6%、わからない2.4%
*ものごとの変化に対して女性は男性より強い影響力を持っている: 賛成60.7%、反対33.3%、わからない6.0%
質問5.男性と女性の政治指導者のいずれかを選択することになった場合、あなたはどちらを選びますか?
回答5.
男性回答者: 男性62.1%、女性14.0%、どっちでも同じ14.9%、わからない9.0%
女性回答者: 男性60.0%、女性21.8%、どっちでも同じ9.5%、わからない8.1%
ちなみに、首長と副首長の性別組み合わせについて、2015年に行われた地方首長選挙での結果は次のようになっていた。
1.男性+男性: 当選30.5%、落選69.5%
2.男性+女性: 当選32.3%、落選67.7%
3.女性+男性: 当選42.6%、落選57.4%
4.女性+女性: 当選50.0%、落選50.0%
政治リーダーに関するジェンダー対等現象問題はさておき、そのような現象を花開かせる土壌としての国民生活におけるジェンダー対等コンセプトに焦点をあてるほうが本筋にストレートに肉迫できるにちがいない。
男女対等はインドネシアで常識や現実のものとして受け入れらている、とコンパス紙は説く。公共の場においても、女性の役割はもはや珍しいものでなくなっている。しかし、女性への暴力行為が年々激しさを増している実態は、既に獲得された男女対等の中にある歪が深さを増していることを示すものだ、と同紙は論じている。
それは、男女対等を実現させようとしている社会自身がいまだに人間対等観念の希薄なひとびとによって営まれているからだろうとわたしは見る。ジェンダーの枠を取り外してみても、パトロン=クライアント社会である同一コミュニティ内でのヒエラルキーが重要視され、コミュニティの内外の線引きで生じる他人/よそ者と仲間/身内の親愛度合いが大きく異なっており、そこに加えて男優女劣のジェンダー意識が社会の美風を彩っている文化の中では、ジェンダー部分だけをどういじくってみたところで、歪が深度を増していくのを避けることはできまい。
女性を女性だからという理由で劣位に置いていた男たちを男女対等の舞台に載せたとき、実力競争で敗者となり、劣位に落ち込んでいく男の数は、自分が男であるという価値観にのみ頼ってこれまで自己の実力を磨いてこなかった者たちを含めて、大量であるにちがいない。かれらは自分の内面で血肉と化している「(男であるがゆえに)自分は強者・優者・勝者・支配者である」という意識と現実とのギャップを前にして、本来的と自分が思っている地位を回復させようとするだろう。そのためにかれらが採る手法が暴力に向かう傾向はきわめて強くなる。それはやはり、暴力が男のものであり、社会でそれが容認されている文化の落とし子たちが迷わずに選択する伝家の宝刀になっているためだ。
その文化(価値観)は、低学歴・経済弱者階層で依然として強く維持されている。一家の主人である男(夫)の能力がそうだから、その一家はそういう階層の中にいるのであり、能力を持つ女(妻)がその状況を変革させようとするとき、男女(夫婦)間の能力競争が白日の下にさらけ出されることになる。社会が女性に向ける一種の扇動が男女対等思想の中に横たわっていないだろうか?その挙句、女性の下風に置かれることを嫌う男が暴力を使って自分のポジションの維持をはかる結末が、すべてではないにせよ、起こる。
わたしが見る限り、在来型封建思想に基盤を置く社会をアジアの伝統的美風であると称賛し、それを維持することが善なのだ、と唱える声はインドネシアでいまだに強い。必然的に人間対等観念を盛り立てようとする意識は弱いものになっている。
その一方で、グローバル化した男女対等コンセプトは知識層御用達のモダンヒューマニズム観念として民族あげて見習うべき姿とされ、そのために女性国家リーダーや行政官、ビジネスウーマンからはては国会議員に女性クオータを与えるというような、水面上での活発な動きが展開されている。
わたしには、その矛盾が女性に対する暴力行為の増大を発生させている原因であるように思えてしかたない。一方で煽られ、その一方で肉体と精神を痛めつけられる女性の姿は、哀れな民族的災厄と言えないだろうか?


「ターゲットは女」(2016年7月18〜21日)
世界に冠たる仏教遺跡、チャンディボロブドゥルから北におよそ15キロほど離れた中部ジャワ州マグランの町。地元民に中華街と呼ばれているプムダ通りに並ぶ商店はもう店じまいにかかった。表の通りを流れる雑踏と車の群れもまばらになり始めている。
2016年4月16日夜、プムダ通りの薬局に務めるアグストリさん28歳は店を閉めた。コスに帰るためにプムダ通りを横断しようとして10歩ほど歩いたとき、突然の破裂音に驚かされた。
しばらくしてから腰の左側に痛みを感じて様子を見た。痛い部位は腫れあがっている。アグストリさんはそのままコスまで歩いて帰宅し、コスのオーナーに相談した。傷を見せたところ、それは射撃された怪我ではないかとオーナーは言う。オーナーはアグストリさんを病院に連れて行って腰のX線写真を撮り、怪我を調べてもらったが、弾丸や破片は体内から検出されなかった。
その少し前にも、類似の事件が起こっていた。マグランの町中心部にあるアルナルン(alun-alun =中央広場)の道端屋台で夕食を摂ったドゥイメガさん16歳が、徒歩でアルナルンを抜けて中華街に至ったとき、やはり破裂音を耳にし、ほとんど間を置かずに右腿に激しい痛みを感じて歩けなくなった。ドウィメガさんは近くにいたオジェッ運転手に助けを求め、病院に運んでもらった。病院での検査でも、銃弾や破片はかの女の体内から発見されていない。
その事件が報道されると、他の被害者も続々と名乗りをあげた。
4月6日21時 商店従業員マヤさん20歳 
4月7日夜 買い物客ズルファさん17歳
数日後 商店従業員レッノさん19歳
4月16日21時 商店従業員ホティマさん21歳
その後も銃撃は続けられ、被害者が続出する。
4月17日21時 買物客イマヌエルさん17歳
4月18日夜 商店従業員サンティさん20歳
4月18日20時半 商店従業員リニさん34歳
それらの事件が警察に届けられ、マグラン市警本部は捜査員を中華街に配備して巡回パトロールを実施させるとともに、この無差別狙撃犯人捜査に乘り出した。目撃者の証言から、犯人は商店街に向って道路の向こう側に駐車させたスズキキャリーの乗客席から銃口を帰宅する商店従業員に向けていたことが判明し、警察は防犯カメラ画像や更に多数の証言を集めて犯人の割り出しにかかった。被害者の中に空気銃弾で負傷した者や、商店建物あるいは商品棚から空気銃弾の破片が見つかっており、無差別狙撃に使われたのは改造空気銃であることがほぼ突き止められている。
無差別狙撃は4月5日から20日まで行われたようで、4月27日までに警察がまとめた被害者リストは13人にのぼった。そのうちの12人が女性で占められており、男性はひとりしかいなかった。しかし警察は、まだ名乗り出ていない被害者が他にもいるのではないかと見ている。
マグラン市警は4月28日に容疑者の絞り込みを終え、集まった情報を整理して容疑を確定させる作業に入り、4月29日に四人の容疑者の逮捕に向ったが、麻薬でラリっていたひとりだけが逮捕され、他の三人は逃亡してしまった。四人のうちの三人は親族関係でもうひとりは友人であり、警察はその事件の主犯が捕らえた男の弟である確証を得て追跡の焦点を絞り込み、5月5日にその弟を逮捕した。その兄弟は長銃や短銃、長剣や短剣などのさまざまな武器を多数所有し、マグラン市郊外部の自宅近辺では常に銃を持って徘徊する闘争好きな人間だった。
野獣のような(男らしい)その兄弟は、どうして女性ばかり狙ったのだろうか?
中部ジャワ州マグラン市で発生した無差別狙撃事件の最中に、そこからおよそ50キロ離れたヨグヤカルタ市でも無差別傷害事件が起こった。
2016年4月25日12時過ぎ、ヨグヤカルタ市内コタグデ地区で道路を歩いていた16歳の少女が、突然近寄って来たオートバイ運転者に刃物で右腕を斬られたのだ。そのあと12時45分ごろ、コタグデ地区の別の場所で路上にいた12歳の小学生女児が同じオートバイ運転者と見られる男に刃物で右腕を斬られている。
更にその後、やはり同じオートバイ運転者と思われる男がヨグヤ市内ウンブルハルジョ地区の路上で女子大生18歳を襲い、右腕に10cmもの長い刃物傷を負わせた。ところが、翌日になってもうひとり被害者が警察に届けを出した。コタグデ地区のまた別の場所で、29歳の女性が襲われていたのだ。
ヨグヤカルタ州警察はその無差別傷害犯人の画像を防犯カメラから見つけ出し、犯人のおおよその容貌を4月28日に公表した。そして寄せられた市民からの情報を元にして捜査を進め、容疑者を特定して5月2日にヨグヤカルタ特別州バントゥル県で逮捕した。
この犯人は定職のない40歳男性で、東ジャワ州モジョクルトに妻子を持ち、ときどき仕送りをしながらバントゥル県で暮らしていた。親族の話によれば、その男はストレスの重圧にあえぐ暮らしをしており、ストレスが嵩じて異様なふるまいをすることもあったようだ。
警察の取調べに対して男は、四人の被害者たちが自分のオートバイ走行を邪魔していたので、ポケットからカッターナイフを出して斬りつけた、と供述している。州警察は犯人の精神鑑定をまず行う予定であることを表明している。
路上走行しているとき、前方にいる歩行者にしろ、他の走行車にしろ、自分の進行の邪魔になると感じることは確かにある。その邪魔者に対して攻撃的になるかどうかというポイントは、その人間の本性に関わる部分だろう。だが、この男は女性にだけ攻撃性を向けたのだ。男性を邪魔者と感じなかったのだというような意見をわたしは信じることができない。
同じ5月2日、北スマトラ州メダンにあるムハマディヤ大学教員学教育学部で、63歳の女性教官が指導下の学生19歳に斬殺された。学生は教官がトイレに行こうとしたときその後をつけ、トイレ内で罵り合いをした直後、鉈で教官を斬りつけ、さらに喉を斬り裂いた。そうしてから、その殺人学生は経済学部建屋のトイレ内に逃げ込み、多数の大学生と警察がそのトイレを取り囲んだ。大学生たちは教官を殺害した学生に制裁を加えることを目的としており、警察はそのリンチから殺人犯を保護しつつ逮捕しなければならない立場に立たされたわけだ。
最終的に犯人が立てこもったトイレから出たので、警察が犯人を大学構内から警察本部に連行しようとしたとき、大勢の学生たちは犯人を奪い返そうとして警察車両の進路を阻み、抵抗した。あくまでもリンチが正義であると信じているようなふるまいだ。
警察の取調べによれば、その殺人学生は学習態度がきわめて悪く、劣等な成績のために教官は以前から厳しい姿勢で注意や警告を与えていた。教室内でも再三叱責されており、積み重なった怨恨に「及第点はやれない」という教官の宣告がとどめを刺し、その挙句の犯行だったと警察は公表している。もしも自分の教官が男であった場合、その学生はやはり同じようなことをしただろうか?
やはり同じ5月2日、メダンから遠く離れたヨグヤカルタのガジャマダ大学建物内のトイレで、数日前から行方不明になっていた19歳の女子学生が死体で発見された。大学の中が決して安全な場所でないことが、メダンといい、ヨグヤといい、それらの事件によって思い知らされたことになる。
その日17時ごろ、数学自然科学部修士・博士過程ビルの5階トイレマンディ場の一角から異臭が漂ってくるのを大学警備員が不審に思い、調べに入った。そして、異臭の源がそこのブースのひとつであることを発見し、施錠されているブース扉を蹴破ったところ、腐乱の進んでいる女子学生の死体がひとつそこに置かれていた。
面貌は既にはっきりわからなくなっていたが、近くの床に転がっているバッグの中に学生証が入っており、死体の女性が数学自然科学部地学専攻のフェビー・クルニアさん19歳であることが判明した。かの女の首にはひもで絞められた痕跡があった。警察は死体の腐乱状態から、死後3〜4日経過しているのではないかと推測した。
フェビーさんはリアウ島嶼州バタム出身で、毎日早朝に登校して学習準備を欠かさない勤勉な学生として定評があったが、突然姿が見えなくなったために、失踪届が4月28日に出されている。
ガジャマダ大学構内には随所に防犯カメラが設置されているものの、ビル5階のカメラは故障しており、手がかりになる画像は得られなかった。しかし州警察は即座に捜査を開始した。そして5月3日にガジャマダ大学契約清掃員エコ26歳を本人の自宅近辺で逮捕した。エコの自宅はヨグヤカルタ特別州バントゥル県プレレッにある。
エコの自供によれば、犯行は4月28日6時過ぎに行われた。その朝、フェビーさんは他の学生がまだひとりも来ていない時間に506号教室にやってきた。そのときエコは隣の教室を清掃していた。フェビーさんがトイレに向ったので、エコはその後をつけた。そしてトイレ内でいきなり襲い掛かり、首を絞めて殺した。そのときエコは手元不如意になっており、金を得るために簡単な稼ぎを行ったということになる。わずかな金額を得るために、他人の生命が紙屑のように失われたのだ。大学管理当局によれば、エコの雇用契約は4月30日で満了することになっており、失業者に戻る前に稼げるだけ稼ごうとしたのではないかとその犯行動機を推測することもできそうだ。
エコはフェビーさんの携帯電話機2個とパワーバンク1個、そして通学に使っているオートバイを手に入れ、電話機とパワーバンクを全部質入れして65万ルピアを得、またオートバイをギワガンバスターミナルに持って行って売り払った。エコはそうやって得た金で、タバコ・ガソリン・粉ミルク・女性靴・子供サンダルを購入していた。
トイレブース内に置かれた死体の発見が遅れたのは、エコがトイレ清掃係員にそのブースの鍵を開かないように命じたためだ。かれはそのブースの水道が壊れているので、誰も使わないようにするためにドアを施錠していると説明した。しかし大学管理当局によれば、エコの職務は教室の清掃であって、トイレ清掃は含まれていない。インドネシア人がいかに決まり事から遠い場で自分の行動を統御しているかがその一事からもわかるに違いない。トイレ清掃係員にとっては、自分への指示が誰から来ようが、おかしいという疑念が生じない思考パターンの中にいるのだろう。加えて、警備員がそのブースの扉を蹴破る前に、トイレ係員はそこで異臭を嗅いでいたはずであり、不快な腐乱臭に気が付いていたはずなのに、何の行動も起こさなかったことへの疑念も湧いてくる。そういうインドネシア人が少なからず存在することを、インドネシアで長期間勤務した外国人ならわかるにちがいない。
ガジャマダ大学社会学教官はこの事件について、「大学は知識層が集まっている場所であるため安全なところだという一般的な理解が社会に流布しており、犯罪防止対策が十分に実施されないきらいがある。しかし現実に、大学が犯罪行為の場を提供している事例は繰り返し発生しており、大学管理当局はその峻厳な事実を受け止めて十分な対策を講じなければならない。防犯カメラはキャンパス内の全域をカバーするとともに、全機器が常にアクティブであることをも確定させなければならない。また、どのような仕事であろうと、期間雇用する人間の選考ももっと注意深く行うようにするべきで、これまでのリクルートメカニズムは改善がなされるべきだ。その仕事に対する専門性だけで雇用契約を交わすようなことでなく、その人間の心理面をも把握しておく必要がある。」とコメントしている。
この大学ビル内で行われた強盗殺人事件でも、女性だったがゆえにフェビーさんがその被害者になったのではないかという疑念が消えない。もしも早朝にやってくる勤勉な学生が男子学生であった場合、エコは果たして、同じことをしただろうか?


「ジェンダー対等への壁」(2016年7月22日)
各種族文化が継承している慣習法の中に、女性を差別し、あるいは抑圧し、女性が暴力の被害者になることを放置している要素がある。いくつかの女性保護民間団体と国家機関が合同で開催したセミナーで、慣習法がコミュニティ構成員に授けている価値観がジェンダー対等実現の障害になっている面があることを女権活動家が指摘した。
バリ州グラライ大学社会政治学部教官によれば、バリ文化を支えている慣習法が女性への不平等をいまだにもたらしているとのこと。カプラサと呼ばれる男子相続制度によって、家系の相続者は男しか認められない。遺産を引き継ぐのはすべて男であり、女は遺産相続の権利が与えられていないのだ。
おまけに、バリの女性は幼い頃から差別の下で生きることを強いられる。教育機会は男子に優先され、女は頻繁に行われる宗教儀式の手伝いをはじめとして、家庭内労働の負担がその肩に載せられる。必要であれば、女はあっさり学校をやめさせられ、男子の学費を稼ぐために働くよう命じられるのも珍しいことではない。
バリ島に住んで地元民と交われば、一般的なバリ人が抱いている女性観、つまりは男尊女卑の観念にしばしば接触して当惑することになる。わたしがバリに住みはじめたころ、驚くべき警告を村の世話役から受けた。それは何かというと、洗濯物を高い場所に干してはならない、という禁止条項だ。どうしてなのか?
「洗濯物の中には女の下着がある。」と言われると、たいていの日本人なら下着泥棒の話をつい想像してしまうのだが、それはまるっきり的外れだった。続けてこんなセリフが来た。「女の下着を男の頭より高い位置に置くなんて、とんでもない話だ。」
つまり、わが家の二階のベランダに洗濯物を干したとき、下を通る村の男たちがその中に女の下着を見つけた場合はたいへんな侮辱を感じるということになるにちがいない。理屈っぽい話をするなら、女の衣服以外なら問題ないのかということになるわけだが、どうやら慣習として洗濯物は人の目につかない、低い場所に干すのが常識になっているようであり、だから禁止条項は「洗濯物」という大ざっぱなくくり方になっているのだろう。
それ以外にも、経済力のある村の男たちがたいてい妾を持つことに血の道をあげているという話がある。妾を持つのは男の甲斐性だという認識が社会の中にまだ強く根を張っている。つまりそれはバリ文化なのである。
現実にわたしは村の有力者の正妻から、夫がデンパサルの市内に女を囲った、という話を聞かされたことがある。正夫人はあっけらかんとした雰囲気で、あまり感情的にならずにその話をしていたから、その価値観がバリ文化の中に確立されているのだなという感触をわたしは抱いた。その有力者ご夫婦はお子さんがもう大学生の年代だ。
バリ人男性は女性を大切に扱う、などという日本人女性の書き込みをネット内で目にするにつけ、いかなる状況下にもそうしてくれるバリ人男性とめぐりあったなら、どれほど素晴らしいことだろうか、という僭越な同情心が脳裏をよぎることになる。
バリ人以外にも、女性を差別し虐げている慣習法を守り続けている種族は各地にあり、伝承される価値観の中からジェンダー差別的なものだけを取り出して改善しようとする動きがその種族の内部から湧き上がることはほとんど期待できない。いくつかの柱となる価値観を踏まえて網の目のように構築されている種族構成員のドゥ―ズ&ドンツを新しい価値観に替えて構成しなおすのは、旧弊な価値観をひとまとめにして捨て去るよりはるかに難しいことだからだ。
だからこそ、女権活動家は慣習法の中にあるジェンダー差別要素の改善を国が主導するよう求めている。しかし、インドネシア民族成立の歴史的原点に鑑みて、民族指導層は各種族が伝統的価値観を大切にするよう誘導しており、女権活動家たちの希望と国家方針が同期する可能性については、あまり楽観的になれないのが現実だ。


「水面下に追いやられる女性」(2016年7月25・26日)
ライター: 女性カパル研究院専務理事、ミシヤ
ソース: 2016年6月4日付けコンパス紙 "Penghilangan Perempuan dalam SDCs"

SDG(持続可能な開発目標)における「すべての人を対象に」という原理をインドネシア政府は無視しようとしているように思われる。インドネシアで決定的なイシューである女性割礼と未成年結婚の二つの問題を水面下に隠そうとしているからだ。2013年に33州497都市30万世帯を対象に行われた調査を踏まえた2015年ユニセフデータは無残なありさまを示している。インドネシアの少女の半数以上が12歳未満で割礼を受けており、割礼を受けた少女の?四人中三人は生後6カ月以内にクリトリス切除あるいはそれに類する処置を施されているのだ。
性関連および女性?生殖器官に対する暴力行為に関してその事実は、インドネシアをエジプトとエチオピアに次ぐ世界第三位の国に位置付けている。もっと細部に目をやるなら、発言する権利と自分の身体に何がなされるのかについての情報と理解を持つための子供の権利が踏みにじられていることがわかる。2016年報告では、世界の30カ国で2億人を超える婦女子が性器損傷行為を蒙っているのである。
インドネシアが世界で未成年結婚の盛んな国のトップ10に入っており、アセアン域内ではカンボジャに次ぐナンバーツーであるという事実を前にすれば、G−20の一員になれるほどの世界の有力国であるというポジションなど腰砕けになってしまうだろう。
皮肉なことに、16歳の少女の結婚を合法化する1974年法律第1号「婚姻法」と女子割礼に関するインドネシアウラマ評議会のファトワ第9A/2008号はいまだに堅持されている。
< 束縛される思考 >
2030年までにSDGの全目標を達成するための世界開発ロードマップはジェンダー平等を条件にしている。15歳未満の女子のほぼ半数が身体的性的暴力を蒙っているという国際報告に示されているほどの女性に対する暴力の激しさを見るにつけ、それはたいへん重要な条件であると言える。国連が2016年の国際女性デーに打ち上げた「プラネット50:50、ジェンダー平等へのステップ」は単なるお題目ではない。支配者と服従を強いられた者、つまり男と女、の間の対等性と公正さは真のデモクラシーに支えられた未来を建設するための基盤なのだ。
ならば、女性の肉体は精神を持たない一塊の肉にすぎないと見なす、狭いモラルと神話に縛られた世代が担うインドネシアの未来について、どのような像を描くことができるだろうか?女子に対して差別と愚昧化が飽くことなく続けられるとき、未来を担う世代はどのような姿を示すだろうか?
女子割礼文化の中で、クリトリス切除まで行われたなら、それは女の人生の半分を切り捨てるのと同じことになる。たとえそこまでしなくても、ただシンボリックな割礼作法を行うだけであっても、性欲の暴走という神話を受入れて服従する女という従属的地位に甘んじる自分の立場を幼い子供に教えていることに変わりはない。
未成年少女の結婚という慣習は宗教の領域にも関わっており、教義解釈にもとづいて肯定されているのだという理解がなされているがゆえに、賛否の議論の絶えることがない。文化面のパースペクティブを見るなら、所有コンセプトにおいて女子は反倫理的反モラル的な行為から保護されなければならず、結婚がそのための手段と考えられてきた。偏見に覆われたその根拠が子供たちに対する大人の視点に満ち満ちている。
子供を抑圧的階層構造の底辺に置く所有コンセプトは、家庭内で血縁関係にある身近な人間が行うレイプをはじめとして、子供に対する性暴行を煽る。村落部では、経済的動機が強いことのほかに、「オールドヴァージン」の烙印が生き続けていて、結婚しないと社会的に見下げられることを少女たちは恐れるようになる。未成年結婚の影響は既に細かく解析されており、出産時の母体や新生児の死亡から貧困化に至る種々の悪影響が叫ばれている。
誤った行為が継続している最大の要因は、社会のあらゆる相で家父長制に即した決定方式を是とする物の見方を政府が与えている点にある。その観念は男と女の思考形態に方向付けを行い、それが世代から世代へと伝えられることで社会の中での真理と化している。
その状況は種々の深刻な影響を招いている。そのひとつは、あらゆる国家建設プロセスから女性と辺縁集団が排除されていることであり、そのイシューは国連のUNDPとUNESCAPがかつて出した2010年人間開発報告の中に、disappearing women 現象として触れられている。
< 緊急警報 >
緊急警報の鳴らされるときが来ている。文明の進歩を阻む神話は排除されなければならない。インドネシア政府は経済開発における成長と同じ、あるいはもっと強い意欲で、人間開発に取り組まなければならない。女子割礼と未成年結婚の廃止は文明・ヒューマニズム・基本的人権の発展のためのたいへん重要なファクターなのだ。婦女子に対するあらゆる形態の物理的・精神的・性的な暴力と差別を廃絶させることで、インドネシアは国際社会ではじめて胸を張ることができるのである。
SDG第5目標に明記された対等で公正な関係における物の見方は、2030年の世界の変革を目指す、きわめて広い意味合いにおける貧困や飢餓の撲滅、教育、保健・福祉・公正・保安など169のターゲットに到達するための鍵をなしている。
2030年インドネシアの変革を目指すSDG遂行を基盤にすえた国家方針の策定に当たって、女子割礼と未成年結婚の廃絶および賢明で合理的な国民社会を作り出すためのロードマップが作成されるべきだ。


「少女よ、夢を掲げよ!」(2016年7月27日)
人間はだれしも、自分の人生について夢を持つものだ。たとえ「将来何になりたいか?」といった職業や仕事について特に希望を抱いていないにせよ、大人になったときにどのような一生を歩みたいのかというような夢なら、たいていの少年少女は持つはずだ。
ところが、いざ成長してみると、自分が持っている要件がその夢を満たせそうにない、といったことに気付き、夢が次第にデフォルメされていくことは、ざらにある。しかしそうでない外的要因のために夢の実現に向かう道が閉ざされ、仕方なくそれを諦めなければならなくなるという悲劇は、インドネシアに満ち満ちている。インドネシア女性の5人中3人は、夢の実現を諦めさせられて空しい人生を送っているひとびとなのだ。
6大陸14カ国の18歳以上の女性5千4百人を対象に行われたグローバルドリームインデックスサーベイで、女性が自分の運命を自分の手中に握り、自己の人生での生きざまを自ら選択できる機会がどれほど与えられているか、ということが調査された。
なんと女性の二人に一人が、自分の夢と希望の追求をあきらめて不満の中で人生を送っていることが、その調査結果に現われた。インドネシアはもっと高率で、5人中の3人が空しい人生を送っていることが明らかになった。経済面のバックアップ、不本意な状態にせよその殻を打ち破って新しい世界に出て行くのが怖い、一般的社会通念で成功者と賞賛されるだけのポジションに立てる自信がない、というような、種々雑多な要因がその状況を現出させている。
一方、いま自分の夢に向って邁進しているという世界中の女性のうち82%は自分の人生に強い満足感を抱いており、自分の好きなことを行っているという充足感に従って、自分の個人的な視点では自分が成功者であることを確信している。
その両者の間に横たわっている幸福感の深さには隔絶の思いが感じられる。
自己の人生に夢を持つこと、夢の実現に向って努力すること、は本人の意志が大きく関与する部分だ。反対に、女に生れたことがその後の人生を左右する宿命を与えられたことになる社会では、少女の生活環境は他人が支配するものとなり、少女の人生はかの女を支配するひとびとによって大きく影響される。
だが社会が変わるのを待っていては、少女たちの未来は空しいものになってしまうだろう。そして、男尊女卑というコンフォートゾーンを失いたくない男たちと、そんな男たちが築いた価値観に服従することで社会からの賞賛を得ている女たちが、社会の変化を抑え込もうと努めている。自分の人生に夢を描く少女たちは今、激動の踏台に立たされているかのようだ。


「ジェンダー差別と性暴力」(2016年7月28・29日)
インドネシア女性は社会生活の中で、相矛盾する要素を自分一人でこなさなければならない。女性は善良で慈愛に富み、賢明にして家政を巧みに治め、子供の育成に手腕を発揮する存在であるというイメージを演じることが強く期待されている。家庭内を治めることに関するありとあらゆる責任が往々にしてかの女の双肩に乗せられる。ところが、かの女はそのような教育や訓練を子供のころから受けてきただろうか?ほとんどのインドネシア女性は物心ついて以来、自己の能力開発ということがらに関しては何のアクセスも持たないまま妻になり、母になっているのである。
教育・基礎保健サービス・生殖保健サービス・自営ビジネスを行うための資金などへのアクセスの困難さという厄介な問題に女性はどっぷり浸っているのだ。もっとも基本的な自己の肉体に対する主権すら持たされていない。
インドネシアにあるほとんどの種族文化では、女性の肉体は親の支配下にある。少女が成長して婚姻年齢に達すると親の監督下に結婚が行われて、かの女の肉体の支配権がその夫に移管される、と反女性への暴力国家コミッション女性コミッショナーは述べる。
「それは些細なことのように思えるかも知れないが、女性の一生にきわめて大きい影響をもたらすものだ。実に多くのケースで、女性は自分の男兄弟と同じ教育や学歴を得ることを諦めさせられる。インドネシアで早婚がいまだに多いことは、その証明のひとつだ。KUA(宗教役所)と市民登録住民管理局のデータを総合すると、2014〜2015年の18歳未満男女の婚姻件数は34万件に達している。」
未成年結婚は、妊娠時の母体死亡から出産時死亡、新生児の死亡、栄養不良、義務教育からのドロップアウトなど、さまざまな悪影響を将来招き寄せる源泉になっている。それどころか、未成年結婚の結末は往々にして離婚に至り、女性の側は収入の道が消滅して貧困に陥ることになる。貧困女性が社会生活で蒙るものも、決して温かいものではない。社会が見ず知らずの貧困女性に与えるのは、一片のその場限りの温情であるよりも、ありとあらゆる暴力であることのほうが多い。物理的なもの、言葉の暴力、精神的、性的、社会的、経済的な、あらゆる形態の暴力が総動員される。その様相はあたかも、女性が社会に存在し、社会に参加することが拒否されているように見える。
社会が女性をひとりの人間として受け入れてくれないのなら、女性は家庭の中に居場所を見出すしかなくなるのだが、家庭内暴力も少なくない。寝室レイプや父親の娘に対するインセスト、夫が妻に金を与えない経済虐待や言葉での虐待などの度が過ぎても、それを国家行政の中に設けられた女性保護機関に届け出る知識と勇気を持つ女性はまだ少なく、ましてや法律違反に該当する行為を身に受けても、それを法的処理にゆだねようとする女性はもっと稀にしかいない。
その家庭を取り巻く社会と、そしてニュートラルに法執行を実施するべき法曹要員の中にまで、家庭内で行われる暴力は一家の主が自分の領地を治めるための仕置きだという観念が浸透しているかぎり、この世に女性が安住できる場所は存在しなくなる。
民間のジェンダー問題研究機関に所属する女性研究員は、自立や自信を持たせるための指導や教育は、幼児期以来、女性にはまったく与えられない、とコメントしている。「加えて、家族の中や隣人社会からさまざまな暴力を蒙るため、自立した一個の人間として社会的に認められるような人格を形成することがきわめて困難になり、女性は生涯を通じてだれかに依存する人生を強いられる。社会が進歩発展するためには、自立した人格を持つ女性の存在が不可欠だというのに、今のインドネシア社会はその認識が極めて薄く、女性に安全と福祉を保証しようとしない。」
行政面でさえ、女性差別を前面に押し出した地方条例が制定されることを可能にしている。反女性への暴力国家コミッションは、妥当な教育・就労・社会的安全・保健に対する女性のアクセスを妨げる内容を持つ地方条例が全国に389件あることを記録している。最近政府は、地方のビジネス興隆を妨げている地方条例3千件の廃止を命じ、その推進に躍起になっているが、ジェンダー差別的なその389件については、ひとつもそれを廃止させようとしていない。中央政府のジェンダー意識もその程度のものでしかないのだ、とコミッショナーは批判している。
そんな状況に少しでも風穴を開けるためにコミッションは、今計画が進められている「性暴力撲滅」法案の後押しに注力する意向だ。性暴力から女性を保護するという面から、それに関連する女性の権利の確立をこの法律の中に謳いあげたいと希望している。
性暴力の定義は次のように考えられている。暴力や暴力の威嚇あるいはその他の行為をもって相手を強制するために自由意志での同意承認が与えられない状況下における、対象者の肉体とセックスを用いた侮蔑や攻撃などのあらゆる行為で、その結果被害者に物理的・精神的・性的な苦痛と経済的・社会的・政治的な損害を与えるもの。
その定義にあるすべての局面から女性が保護され、差別を受けることのない社会になることが、民族の成功と発展の鍵を握っているのだ、とコミッショナーは力説している。