インドネシア「南国風[食]の愉しみ」情報2004〜12年


「エステレル77がオーストラリアに第三号店をオープン」(2004年8月10日)
民族系のファーストフードフランチャイズとして国内で成功しているEs Teler 77 がオーストラリア第三号店をメルボルンにオープンする。1982年創業で、インドネシア全国に240店のフランチャイズ網を持っているエステレル77は二年前から海外にもネットワークを広げており、シンガポールに7店、マレーシアに1店、メルボルンに2店と合計10店を運営している。その海外店舗拡大の一環として、来る8月14日、メルボルンのクレイトンロード354番地に第三号店をオープンする、と同社のスキヤッノ・ヌグロホ社長が公表した。
「インドネシア人学生が休暇で帰国すると店内はがらがらの毎日、という状況は既に昔語りだ。今では地元客が増加しており、二年前の5%程度から今では来店客の70%がオーストラリア人になっている。本来は伝統的インドネシア料理のフランチャイズとして発展してきた弊社だが、海外では国際テイストの味付けを努力しており、それが受け入れられたことをその結果が示している。今回はメルボルンの第三号店をはじめ、海外に6店舗のオープンを予定している。」との同社長の談。国内でも意欲的な事業拡張は続けられており、今年はメダン、プカンバル、ジョクジャ、ソロ、ジャカルタなどに7店舗をオープンする、と鼻息は荒い。


「インドネシアの炭酸飲料市場は飽和状態」(2004年10月13日)
インドネシアの容器詰め飲料業界の中で、炭酸飲料は飽和状態に近く、今後発展が期待できるのは茶、アイソトニック・エネルギー飲料、豆乳、果汁などの商品で、なかでも果汁飲料がその最有力馬だ、と業界者が語った。
PTテトラパックインドネシアのハリ・プルノモ営業開発課長によれば、インドネシアの炭酸飲料市場は飽和状態になっており、供給者が多すぎるために価格競争が健全さを欠いている、とのこと。それに対して非炭酸飲料はまだまだ発展の余地があるらしい。容器詰め飲料市場は6億7千2百万リッターという日本、アメリカ、中国に次ぐ規模だが、飲用水が67%とその大部分を占め、次に茶12%、炭酸飲料9%というシェアになっている。生産面では、たとえば1973年に一社で6百万リッターしか生産できなかったのに、2003年には4百社で71億リッターと飛躍的な進歩を遂げている。1983年に爆発的な発展が起こり、当時生産量の増加は4〜5倍に達した。輸出量もたいへんなもので、2002年から11%減ったとはいえ、2003年には21,528トンが輸出されている。
国内のマーケットリーダーであるPTシナルソスロは世界でも十指に入る茶飲料メーカーで、ユニレバー、ネスレ、コカコーラなどの世界企業とその分野で太刀打ちしているほどのもの。この分野ではいまジャスミンフレーバーの紅茶がメインになっているが、今後は緑茶あるいは果汁を加えた茶などの開発で更に発展が期待できる。他にもスポーツ飲料や果汁などの需要がまだまだ根強く、特に容器詰め果汁飲料は将来性が大きく期待できるとのこと。


「パパロンズ・ピザが海外進出」(2004年11月30日)
インドネシアのオリジナルブランドであるPapa Ron’s Pizzaが海外にフランチャイズ網を広げる。2000年から事業を開始し、2002年からフランチャイズシステムを始めた同ブランドのオーナーであるPT Entertainment Internasional Tbkは、2005年にシンガポール、中国、アラブ首長国連邦に開店することが決まった、と同社のロン・ミュラーズ取締役が語った。これは昨年シンガポールで催されたフランチャイズエクスポに同社が出展したさいにまとまった商談で、インドネシア風味のピザに興味を示す人は多かったとのこと。当面は各国に一店だけオープンし、状況を見ながら販売網展開を進めて行く方針。パパロンズのブランド使用料は10年間2万5千ドルで、ロイヤルティは売上高の5%。
パパロンズ・ピザはインドネシア国内に既に43店をジャカルタ、メダン、バンドン、プカンバル、スラバヤ、ジョクジャ、バタムに設けており、来年はもう20店を国内外に追加する目標をたてている。ミュラーズ取締役は、インドネシア人は6有力ブランドのピザレストランで毎月百億ルピアを使っている、と見積もっている。


「ホットドッグ売りはグッドビジネス」(2005年5月27日)
別名ジャンクフードと呼ばれているファーストフードの筆頭はハンバーガー。とまれ、ACニールセンがアジアパシフィック域内で調査したファーストフード統計によると、どのファーストフード店に入るかを決める選択基準は、食品が何か、価格はどうか、場所はどこにあるか、衛生状態はどうか、の四ポイントにあり、それぞれ58%、54%、46%、42%というウエートになっている。しかしインドネシアのファーストフードファンはやはり同じ四ポイントを選択基準にしているものの、「食品が何か」の占めるウエートは75%とダントツになっており、ロケーションの要素は31%と平均よりかなり低い。また「いつファーストフードを食べるか」との質問にインドネシア人は、昼食33%、夕食25%、おやつ9%、朝食2%と答えている。
ところでジャンクフードの筆頭ハンバーガーは、首都圏の住宅地を自転車に乗って「ブルグル」と叫びながら売り歩くトゥカンブルグルも出没しているくらい定着しているが、都内にはもっと洒落たモダンなホットドッグブースが雨後のたけのこのように増加している。FRP製ノックダウン方式屋台は移転が簡単で、彩りあざやかに人目を引き、商品のホットドッグはレギュラーサイズが1個8千ルピア、ジャンボサイズは1万ルピアというお手ごろの価格とあいまって、HOTDOG BOOTHの売れ行きはいまや絶好調。
このフランチャイズを始めたベノ・プラナタ31歳は、アメリカのボストンにあるノースイースタン大学で修士号まで修めたインテリだ。9年間のアメリカ生活でなじんだホットドッグをインドネシア味にして祖国に普及させる決意が、かれにこの事業を駆らせる原動力となった。こうしてジャカルタのクマン、サリナタムリン、チトスで自分のブースを立ち上げたかれは、フランチャイズの展開で既に30に近い出店をジャカルタ、ボゴール、バンドン、スラバヤ、バリなどに実現している。フランチャイズビジネスの決め手はクオリティにある、との信念から、パン生地やソース作り、ソーセージやマヨネーズの吟味にかれは厳しい姿勢で臨んでいる。インドネシア人の舌に合うものを作り出し、その品質と風味が変わらないように気を配る。
ホットドッグブースのフランチャイズ料金は3千5百万ルピアという非常識価格。その資金でファイバーグラス製ブース、パンとソーセージ焼き器、ソーセージと野菜保存用クーラー、売り子の訓練とユニフォーム、そして商標使用権がフランチャイジーに与えられる。商品原材料は必要に応じての購入となる。三日おきに2百食分が届けられるが、売れ行き好調なら毎日でも構わない。フランチャイジーがどこにブースを構えるかは、自由。1.5メートル四方で高さ2メートルのブースをモール内に設置すれば、売れ行きは良いが地代も高い。屋外だと一月50万から150万ルピアだが、屋内の場合は月1〜6百万ルピアだ。フランチャイジーの売上マージンは47.5%で、地代と人件費はそこから捻出することになる。人件費は2シフト制を取るから、ジャカルタではおよそ150万ルピア。屋外は月8百万から1千5百万ルピアの売上、屋内は2〜5千万ルピアの売上が期待できるので、投資回収は3ヶ月から1年半という短期に達成できる、とベノは説明する。希望者はまずhotdogbooth.comのサイトをご覧ください、と語るベノはいま、アセアン域内へのHOTDOG BOOTH拡大戦略を検討中。


「スタバはもうすぐ35店」(2005年7月7日)
スターバクスコーヒーが今年9月から10月にかけて、国内4都市に5店を新規オープンする。スターバックコーヒーインターナショナルから独占代理権を得ているPTサリコフィインドネシアは同社のネットワーク拡大に関して、今年のルバラン前に5店を新設する計画であることを明らかにした。首都ではスディルマン地区に2店、バリのレギアン、バンドン、チカンペッ有料道路沿いに各1店がその内容。すでにジャワ・バリ・スマトラで30店を開設しているスターバクスの市場調査では、ジャカルタ、バンドン、スラバヤ、バリ、メダン以外のたとえばスマランやジョクジャあるいは他の島々の都市はまだ市場が理想的な状態になっていない、とのこと。各地からスターバクス進出を望む声は強いが、同社はその市場分析によるビジネス判断を優先している。
PTサリコフィインドネシアは、国内有数の小売セクタージャイアントであるPTミトラアディプルカサの子会社。ミトラ社は全国22都市に429の小売店から百貨店までをオープンしている。同社が所有している百貨店はそごう、デベンハムズ、ジャヴァ(ロータス)で、また消費者向け飲食産業はホールディングオペレーターが10社を統括しており、その中にはスターバクス、チャターボクス、コートヤード、スパイスガーデンなどが属している。専門店部門はスポーツ用品、ライフスタイル小物、衣料品、玩具と子供用品などのセクターに分かれており、同社が扱っているブランドにはNext,
Nautica, Nine West, Mizuno, Wilson, Reebok, Spalding, Ellesse, Speedo, OshKoshB'Gosh, Barbieなどがある。


「リドにオランダ時代のレストラン」
ジャゴラウィ有料自動車道路終点のチアウィ(Ciawi)からスカブミ(Sukabumi)を目指すスカブミ街道の途中にリド・レクレーションパーク(Taman Rekreasi Lido)がある。街道を20キロほど走るとボゴール県チジュルッ郡(Kecamatan Cijeruk)チゴンボン村(Desa Cigombong)とワテスジャヤ村(Desa Wates Jaya)にまたがる海抜460メートルの高原行楽地に行き着く。このレクレーションパークにはコテッジやキャンプ場などの宿泊施設、レストラン、プール、遊園地、ゴルフ場などもあって首都圏有数の行楽先のひとつになっているが、休日に行楽客でにぎわうこのパークの目玉はリド湖という大きな湖。セスナ機遊覧飛行サービスもあって、空中のスリルを楽しむこともできる。
このリドは、オランダ人が1935年から湖畔に建設をはじめた保養地に由来している。リドという名称は円形のファサードを持つひとつの建物の上部に書かれたLIDOの文字に由来しており、それがこの地の名称となって今に残ったものだ。リドの保養地を建設したのは1898年オランダ生まれのアントニウス・ヨハネス・スウェイセンで、かれは1921年にバタビアの警察で勤めたあと、市内のゴンダンディア地区にあるホテルネーデルランドのフロントオフィスマネージャーとなり、さらに1930年にはフェテラン通りにあるロイヤルホテルを買い取った。チゴンボン村に美しい湖があるのを発見したかれは、湖畔の土地を買ってそこに保養地を建設したが、それが現在のリド・レクレーションパークの前身にあたる。
その建物群の中にかつてオラニェ・プラゴラ(Oranje Pragola)と名付けられていた建物があり、このレクレーションパークを運営しているPTリドサラナプリマ社がそこを60年ほど前にタイムスリップさせた。1940年代にウィルヘルミナ女王がそこを訪問した際の姿に改装したのだ。このオレンジパーゴラレストランはオランダ風の外装とインテリアを持ち、ウエイターウエイトレスにも当時の服装をさせて往時の雰囲気を再現させようとしている。ただしメニューはウエスタン、オリエンタル、インドネシアンとバラエティを持たしてある。ソフトオープニングは今年9月が予定されており、今年12月にはすべての改装を終えて完全オープンとなる予定。[ 2005年7月 ]


「大麻を使わないミーアチェ」(2005年8月5日)
ミーアチェ(アチェ麺)には、汁麺と炒め麺がある。そこには実にさまざまな香辛料が使われる。こしょう、ナツメッグ、コリアンダー、カルダモン、クミン、クローブ、シナモン、唐辛子・・・。すべてあげれば24種類になるそうだ。その中にはホットスパイスとコールドスパイスが混じっている。「口はひりひり、腹はぽかぽか」というのがミーアチェの特徴で、辛いミーアチェを食べると、数時間後にお腹が温かくなってくる。上にあげたさまざまなホットスパイスのせいだ。ミーアチェの材料は香辛料の他に、黄色い太麺、肉とエビ、もやし、トマト、キャベツのみじん切り。出来上がったらバワンゴレン、ねぎ葉とセロリの細切れをふりかけ、食べる前に酸っぱいライムを絞り込む。きゅうりとバワンメラのアチャルは欠かせない。
ところでアチェは昔から、大麻の産地として知られた地域だ。大麻はアチェ人の食生活の中に溶け込んできた。アチェ人の台所にある香辛料コレクションの中には、大麻が欠かせないもののひとつとしてその座を占めている。そんなアチェ人が伝えてきた料理なのだから、ミーアチェに大麻が入っていないわけがない。
インドネシアが経済危機に襲われて数年したころ、アチェ料理店の看板がそれまでに増して目に付くようになってきた。そんな店のひとつが、デポッ市マルゴンダにあるミーアチェ・ピディ2000。「客はみんな聞くんですよ、『あれが入ってるか?』ってね。でもあれは非合法品だから、うちは使ってない。あれひとつ足りなくたってうまいミーアチェはできるんだから。でも使ってないって本当のことを言うと客は誰も信じない。『えっ?まさか・・・・』それから根掘り葉掘りあれの話を聞きたがるものだから、今じゃ『もちろん、使ってますよ。』と最初から返事することにしてますよ。」と語るのは、1998年はじめにこのテントワルンを始めたピディ出身のザイヌディン・ハッサン47歳。他の店の中には、その「あれ」を混ぜたミーアチェ用スパイスをアチェから取り寄せているところもある。スパイスを混ぜ合わせて、いつでも使えるようにしてある状態だと、当局が調べても禁制品が混じっているかどうかわからない。しかし、ミーアチェ・ピディ2000では、あれを使っていないのはホントにホントなのだそうだ。店の顧客の大半はジャワ人で、あれがあろうがなかろうが、豊かな香辛料に圧倒されるようだ。
このテントワルンでは、毎日15キロのミーを売り切って百万ルピアの売上。ミーは6千から7千5百ルピアだが、それ以外にナシゴレンやフルーツジュースそしてアチェ特産菓子類もそろっている。首都近辺に出稼ぎに来ているアチェ人の望郷を癒すアチェ料理店から、この店はもっとユニバーサルに受け入れられる料理店へと飛躍をはかっている。


「クルプッ個人流通業者」(2005年9月9日)
クルプッはおやつにもなり、また食卓の友でもある。地元系の料理店やワルンに入ると、たいていクルプッがテーブル上に山のように積まれている。客はそれを自由に取って食べ、お勘定の際に自己申告する仕組み。
もち米から作ったクルプッオパッの小規模流通業を個人で営んでいるひとがいる。クルプッに限らず、日用品を生産者やパサルで仕入れ、小さい小売店に配達する小規模流通ビジネスはインドネシアで結構盛んだ。商品流通のそれぞれのステップが細切れにされ、それぞれが異なる事業者によって営まれることによって、ひとつの商品の流れに大勢の人が関与できるチャンスを開いているインドネシアならではの商習慣かもしれない。
西ジャカルタ市ジョグロ地区の店やワルンに、ハサン36歳はクルプッオパッを毎日配達している。かれはみずから自転車をこいでやはり小規模な生産者を訪れ、1個160ルピアで買い取ってそれを200ルピアで卸す。店によってはそれを250ルピアで小売する。生産者の原価は1個140ルピアで、20ルピアの利益を取っているようだ。ハサンが担うクルプッは一日3百個。すると一日のハサンの収入は1万2千ルピア。ひと月50万ルピアに満たない。それで生活できるのだろうか?「オレがこうやってピンピンしているのがその証拠だ。女房も三人の子供たちも、元気だよ。」ハサンはそう語る。ジャカルタの重層的経済構造のどの層でかれは生活しているのだろうか。


「都内シーフード屋台のメッカはプチェノガン通り」(2006年1月9日)
夕方から道路両側にシーフードの屋台店が7百メートルに渡って軒を並べて開店する中央ジャカルタ市プチェノガン通り(Jl Pecenongan)。かつては安くてうまいシーフードを食べさせてくれるメッカだったこの通りも、最盛期を超えてスラム化が進んでおり、ごみごみして薄汚い印象を与えている。都庁は今年、この地区の再活性化をはかる方針を決めている。
プチェノガン通りで営業しているテント屋台は32軒以上。そして飲み物を売る商人や軽食を作って売る屋台も数多い。休日前夜などには、飲み物商人の一晩の利益は40万から50万ルピアに達するそうだ。シーフード屋台の方も一晩70万ルピアは下らず、時には1百万ルピアを超えることもある。ここへやってくるのは、家族連れが大半。5人から10人くらいの大ファミリーが一度に押しかけてくる。外国人の姿も少なくない。イタリー人、インド人、アメリカ人、日本人・・・・・。
テント屋台の大半は祖父母の時代から引き継がれたきたもの。中には持ち主が代わって二年ほど前からやっている店もある。都庁はこの地区の再活性化を図ることで、都の収益増を期待している。


「ロティ・ブティック」(2006年2月9日)
シンガポールベースのブレッドトークの向こうを張って、マレーシアからブレッドストーリーがジャカルタで販売チェーンを広げつつある。roti butik と呼ばれているファッショナブルなブランドパン専門店フランチャイズは、ブレッドトークの大ヒットで二匹目のどじょうに興味を抱く事業者を招き寄せている。ブレッドストーリーは2002年にマレーシアで操業を始め、今ではマレーシア国内に20店、クエートに2店、シドニーに1店、インドネシアでは2月2日にブロッケムのパサラヤグランデに4店目を開店させた。今年はサンフランシスコとドイツに出店を計画している。ブレッドストーリーは2006年中にジャワ島でフランチャイズ20店、またマカッサル、マナド、バリッパパン、ポンティアナッなどジャワ島外での開店をも積極的に計画している。ブレッドストーリーは百種類の製品を持っており、各店舗ではそのうち80種類が6千から9千ルピアまでの価格で販売されている。フランチャイズ権は1店舗15億ルピアだが、6年間の期限で、18ヶ月で資本回収がなされるのをスタンダードにしている。一店舗一ヶ月の売上高は5億ルピアがターゲット。
今インドネシアではロティ・ブティックの競合がしのぎをけずっており、ブレッドトークやブレッドストーリー以外にも、Roti Boy や2nd Bite などさまざまなパン専門店の屋号をあちこちで目にすることができる。事業家の中には更に新手のブランドを求めて、オーストラリアや日本のロティ・ブティックをインドネシア市場に呼び込もうという動きも出てきているようだ。


「スタバが第39号店をオープン」(2006年5月3日)
スターバクスコーヒーが都内スディルマンプレースに4月30日、第39号店をオープンした。米国シアトルを本拠とするスターバクスコーヒーのインドネシアにおける独占ライセンス保有者であるPT Sari Coffee Indonesia は大型国内小売事業者PT Mitra Adi Perkasa のグループ会社で、シャムスル・ヌルサリムを大御所とするこのグループにはそごうやリーボック、ミズノ、オシュコシュ・ビゴッシュなども名前を連ねている。
スターバクス第一号店は2002年5月17日にジャカルタのプラザインドネシアにオープンし、その後も首都を中心に各所に店舗を開設しており、人が集まる場所にはたいていスターバクスの看板が見られる状況になっている。ジャカルタに比べて地方都市への展開がまだ顕著でなく、既にオープンしたのはスラバヤ、バリ、メダン、バンドンなどで、ほかの都市からもフランチャイズの申し出が出されているが同社は比較的慎重な対応をしているようだ。
30日の第39号店オープニングと時を合わせて、スタバは今年の夏向きフラプチーノニューフレーバー発売を始めた。スタバのフラプチーノラインナップに今年加わったのはバナナクリームフラプチーノで、これは北米でこの夏に発売予定のものらしい。


「ドーナツはお好き?」(2006年6月29日)
ここ数年、ドーナツが庶民生活の中で大きい人気を集めている。大流行をきたす前は、ダンキンドーナツ(Dunkin' Donuts)をはじめ一部の外国ブランドフランチャイズが独自のセクターのファンを確保して市場を形成していたが、今では地元ブランドから道端ドーナツ売りまで登場して大盛況。そしてハイパーマーケットにはオランダ直輸入のドーナツまで並べられるありさま。
アメリカが世界に向けて売り出したダンキンドーナツは、今イ_ア国内に2百の店舗を持つまでに成長した。昨今のインドネシアにおけるドーナツ大流行のベースをこのダンキンドーナツが築いたと言っても過言ではあるまい。そんな中にあってシンガポールブランドのパンケーキブティックであるブレッドトーク(Bread Talk)をインドネシアに呼び込んだジョニー・アンドレアン(Johnny Andrean)が今度は独自のドーナツショップJ.Coを開店した。そしてあのブレッドトーク現象がJ.Coの店で再現されたから、誰もが驚き、そしてJ.Coの店に走った。このあたりのストーリーは< http://www.j-people.net/news1001/news0605.htm (2006年5月4日)「ジョニー・アンドレアン」> をご参照ください。
小麦粉に砂糖とバターを混ぜてイーストを加え、できたドウをリング形に作って油で揚げればできあがり、というドーナツはだれでも比較的容易に作ることができる。ましてや揚げ物だから道端にドーナツ屋が出現するのもインドネシアならではのこと。とはいえ独自のブランド名で看板を出したマーケットリーダーたちは、他店から差をつけようと切磋琢磨している。ドウには何か別のものを加えて特徴を出し、トッピングにもさまざまなアイデアを加える。かれらアッパーミドルを対象とするリーダーたちとは別にロワークラスを対象とするメーカーも独自のブランドをつけて売り出している。インドマレッ(Indomaret)の店でよく目にするHot Donatはそのひとつ。半ダース5,500ルピアのセット売りも、バラ売りにすれば1個1千から1千5百ルピアの値がつけられる。アッパーミドルクラス対象の店で売られているドーナツが1個4,500ルピアもするのと好対照。安いドーナツを見つけるのは簡単だ。パサルでも、ワルンでも、道端でも、そして陸橋やら都内バスの中でも。
アッパーミドル対象のドーナツ売店は、人の流れの繁華な場所にきれいに飾ったカウンターを置き、清潔なケースの中に商品を並べて制服姿の女店員が相手をしてくれる。ダンキンドーナツ、マスターリング(Master Ring)、マスタードーナツ(Master Donut)、ミスタードーナツ(Mister Donut)、そして最新のフェノメナであるJ.Coというこのクラスにまた新たに外国から市場参入がある。ジャカルタのハイクラスモールとしてソフトローンチしたスナヤンシティにオープンするアメリカブランドのクリスピクリーム(Crispy Cream)がそれだ。
アメリカ人のドーナツの好みとイ_ア人のそれとは異なっている、とPT Dunkindo Lestari のジェネラルマネージャーは洩らす。ダンキンドーナツがイ_アに進出してきたとき、アメリカ風のこくがあってしっかりお腹に溜まる感じのドーナツに大勢の消費者が抵抗を感じた。だからインドネシアではもっと柔らかく軽いものにして消費者の嗜好に合わせたが、最近の嗜好はまた変わり始めている、とかれは言う。つまりアメリカ風のものがより受け入れられるようになってきていると言うのだ。ドーナツの数あるバラエティの中でイ_ア人のお好みはチョコレート、チーズ、ピーナツ、ストロベリーだそうだ。昔からあまり変化はなく、ベーシックな味のものを好むとのこと。


「J.COドーナツの来店客は一日2千5百人」(2006年9月18日)
かつてパンのブティックショップという新コンセプトをイ_アに持ち込んで大ヒットさせたブレッドトークと、今度はドーナツで二匹目のどぜうをヒットさせているJ.CO のオーナー、ジョニー・アンドレアンが、イ_アのショッピングモールのテナント料は不公平感がある、と発言した。広大なスペースを占有している大規模小売業と、ブレッドトークやJ.COのような小規模小売業では平米あたりのテナント料金にたいへんな差がついている。大手のテナント、特にアンカーテナントはたいへん優遇されており、その不足分を小規模業者にチャージして補填しているとしか思えない、とジョニー・アンドレアンはアジアショッピングセンター評議会年次会議で発言した。
かれが調べたデータでは、売場面積1万平米・集客一日1万人のハイパーマーケットはテナント料が平米あたり月10米ドルを切っており、床面積1.5万平米・集客一日6千人のデパートも10米ドルに達しない。床面積2千平米・集客一日8千人の飲食店業は15米ドルだが、面積100平米・集客一日1.5千人のブレッドトーク店舗は40米ドルを切っているものの、床面積150平米・集客一日2.5千人のJ.COドーナツ店は40米ドルになっている。
その批判に対してインドネシアショッピングセンター運営者協会のアンドレアス・カルタウィナタ会長は、床面積の広さでテナント料に差をつけるような料金体系にはしていない、と反論する。「モール運営者は集客力を持たせるために著名な小売店が入居することを切望している。そのためにテナント料を値引いて魅力を持たせるのは常套手段であり、また大規模購入者に安い単価を与えるのも経済法則と言ってよい。かれらは広大な面積を借りるため、かれらが支払う金額も巨額になっている。」同会長はそう説明している。


「ハンバーガー!」(2007年1月23日)
「ブルゲル!」屋台の付いた自転車に乗った物売りが叫びながら住宅地を巡る。屋台に書かれている文字は「BURGER」。ハンバーガー売りだ。ローカル味のハンバーガー屋さんは安くておいしいと評判。ハンバーガーと言えば、いまや世界をまたにかけるマックをはじめさまざまな国際ブランドがインドネシアに入ってきたのがローカル版バーガーの起源をなしている。国際ブランドバーガーは一般庶民が折に触れて訪れることのできるほど庶民的な値段ではなかったのでローカルな味とローカルな価格で舶来物に対抗するチャンスがそこに生じた。そのチャンスをつかんだのがバリ人マデ・グラ・バギアナがはじめたEdam Burger。エダムはマデさんの名前を逆さ読みして命名したとの話だ。1990年代に外来バーガーは一個3千ルピアしていたが、カキリマバーガーは一個7百ルピアで販売された。最初は自力でカキリマバーガーを売り歩いていたマデさんは、今ではジャワ・バリ・ロンボッ・カリマンタン・スラウェシ・テルナーテに3千店のメンバーを擁する大規模フランチャイズのオーナーに変身。
パンにはさむバーガーは炒めたものだけでなくグリルで焼いたものもある。カフェで提供されるようなグリルバーガーにもカキリマ版があるのだ。なにしろステーキまでカキリマで賞味できるのがインドネシアなのだから。グリルバーガーをカフェで食べれば一個2万ルピア。カキリマだと一個1万ルピアで手に入る。このグリルバーガーを売り物にしているのがBlenger BurgerやKlenger Burgerで、ひとつの売店で一日2千個が売られている。来店客も時に行列を作って待つことになる。Blenger Burger は実に幅広い顧客層がバーガーを買いに来るのに驚いた。学生・生徒・若者ばかりか、勤め人からおとうさんおかあさん、おじいちゃんおばあちゃんまでやってきてハンバーガーを食べてくれる。これはカキリマバーガーがインドネシア庶民の口に合うものであることの証明だとかれらは胸を張る。最初は7百万ルピアを元手に屋台ひとつを引いて南ジャカルタを回っていたが、いまでは売店2ヶ所で一日数千個を売り上げる。Klenger Burger の方は販売価格から15〜20%の利益が上がるので、一日150個を売れば一年間で投資回収ができるそうだ。
バーガービジネスは手軽にスタートできる。なにしろ料理が簡単で、使われる調味料なども商店で容易に手に入れることができる。自分のブランドをつけて自分ひとりで始めるのなら、資金は250万から350万ルピアあればよい。しかしフランチャイズに加わろうとするなら3千万から5千万ルピアの資金がいる。おかげでカキリマバーガービジネス業界は百花繚乱の様相を呈している。最大規模はEdam Burger、 1千4百店を擁するMr Burger、4百店のEdola Burger、240店あるTesada Burger、Klenger Burger は20店、Blenger Burger は2店。ほかにもShubby Burger, Pizazzo Burger, Aussie Burger, Dino Burger, Dedi Burger, Ibiss Burger ・・・・・
さて、インドネシア風カキリマバーガーっていったいどんな味だろう?


「オアシス」(2007年2月2日)
中央ジャカルタ市ラデンサレ通りにあるコロニアル風の建物は1928年にオランダ人ミリオネアのブランデンビュルフ・ファン・オルツェンデが自分の住居として建てたものだ。そして東印度最期の総督がプライベート住居として使ったあと、1970年にレストランとしてよみがえった。当時ジャカルタの最高級レストランとして名を世界に馳せた「オアシス」がそれだ。それ以来数十年間、オアシスレストランはジャカルタの最高級レストランのひとつとしての地位を維持してきた。政界や実業界の著名人がジャカルタを訪れれば、たいてい一度はこのレストランの優雅な雰囲気の中でインドネシア料理を楽しんでいるはず。ビル・クリントン夫妻が、ホアン・カルロス国王夫妻が、イメルダ・マルコス夫人が、マハティル・モハマッド首相夫妻が、マーガレット・サッチャー総理が、・・・・・
レイスターフルはオランダコロニアルのフルコース料理。東印度のローカル料理と食材をフルに使ってヨーロッパ風に仕上げたこのレイスターフルは植民地支配者の食卓を長期にわたって豪華に彩ってきたにちがいない。料理の味付けとは別に、客はその贅沢を現代のオアシスで味わうことができる。そして食事の最後を飾るコーヒーはほかに例のないユニークさに満ち溢れている。オレンジの皮から酸と油を熱湯の中に溶かし出す。それにカールアを加えてからコーヒーを淹れる。酸味と苦味が絶妙にまじりあったこのオアシスコーヒーはこの店にしかない逸品で、これだけのためにオアシスを訪れてもよいくらいの優れものだ。


「空中レストラン」(2007年3月6日)
高所から下界を眺めるのは特別な感興を与えてくれるもの。「煙とサルは云々」と言うなかれ。地上を広く眺める鳥瞰的視野は人間の成熟を促し、精神をより高いものにする。だからだろうか、多くのひとが高所から見る下界の姿を「眺めがよい」と表現する。たとえ下界の姿が荒涼たる岩山や砂漠だったとしても。
大都市の高層ビルの中に、最上階にレストランを設けているところがある。よい眺めを楽しみながらおいしい料理に舌鼓を打つのも、楽しみを倍加させてくれるものであるにちがいない。ジャカルタにそんな場所はあっただろうか。老舗はタムリン通りのホテルインドネシア前ロータリーに面したウィスマヌサンタラ(Wisma Nusantara)ビルの28〜30階にあるカヒヤガン(Kahyangan)レストランだろう。1972年に開店したこのレストランはジャカルタ初の空中レストランとして高名を馳せ、実業界や政府そして軍警察の要人や上流層たちのロビーの場となった。1970〜80年代にかけてここは都内最高級レストランのひとつとして栄華を競い、夜な夜なバンドが入って歌手の歌声が流れ、ダンスフロアーで社交ダンスに興じる上流名士たちの姿が当時の優雅な時代を映し出していた。
1990年代になって、ウィスマヌサンタラのカヒヤガンよりもっと高所にあるレストランが誕生した。いまでも多分、ジャカルタ一高い場所にあるレストランという栄誉は変わっていないようだ。スディルマン通り北詰にあるBNI46ビルの46〜47階に位置するレストラン「チラントロ」がそれ。Cilantro Asian Bistro and Lounge と名付けられたこのレストランは都内随一の高さを誇っているが、首都の景色を見たいがためにやってきたひとたちにとっては眺望がいまひとつ開けておらず、物足りない思いを抱く客も中には混じるようだ。
クニガンのラスナサイッ通り北詰にあるムナラインペリウム(Menara Imperium)35階には眺望を売り物にしたレストランがある。エンパイアグリル(Empire Grill)はなんとジャカルタ唯一の回転レストランで、90分かけて360度を一回りする。都市の夜景は美しい。スラムも手入れの行き届かない空き地も、ゴミに覆われた臭い川もすべてが闇の中に沈み、光だけが数千匹の蛍のように地上にオブジェを形成する。そんな美しいジャカルタの夜景だけを見てもらいたい。レストラン「エンパイアグリル」の営業時間はディナーだけ。


「ウルトラミルクはアジアの著名ブランド」(2007年3月16日)
ウルトラミルク(susu Ultra)とブアビタ(Buavita)ジュースがインドネシアを代表してアジアのスーパーブランドトップ1000に選ばれた。この人気投票は中国・香港・台湾・インド・フィリピン・タイ・マレーシア・シンガポール・インドネシアの消費者5千人から国際リサーチ会社Synovate が2006年に集計したもので、各国で人気の高いブランドを15歳から64歳までの一般消費者から聞き取りさらにそれを9ヶ国全体の中で審査した結果、80件以上の優良ブランドが選出された。人気の高いブランドの中には、ソニー、HSBC、ネスレ、スターバクス、キャセイパシフィック、ジョリビー、タイガー、フレーザー&ニーブなどの有名ブランドが目白押し。
ウルトラミルクとブアビタを生産しているPT Ultra Jaya は20年前からUHT処理を施した日持ちのする液体ミルクを販売して国内市場で幅広く認知されている。リサーチ会社ACニールセンによれば、1975年以来ウルトラミルクはマーケットリーダーの位置をキープし、市場シェアは50%を超えているとのこと。毎年同社は15〜20%も売上を伸ばしており、インドネシアの飲食品産業界で重鎮をなしている。


「バーガーキングもインドネシアに復活」(2007年4月26日)
1997年ごろにインドネシアにやってきた世界第二位のハンバーガーフランチャイズであるバーガーキングは不運なタイミングのために事業発展のチャンスをつかむことができずに撤退していたが、PT Mitra Adiperkasa がそれをジャカルタに呼び戻すことに成功した。同社がシンガポールのバーガーキングに誘致オファーを出したところ、シンガポールから同社にインドネシアでの独占フランチャイズライセンスが与えられ、2007年4月から9月までの間に三店舗を開設する計画が立てられた。1号店はジャカルタのスナヤンシテイに2007年4月26日オープンすることになっている。もう二ヶ所も都内のゴールデントライアングル地区内にオープンすることになるだろう、とミトラアデイプルカサ社取締役は述べている。
第1号店は6百平米の広さを持ち、子供の遊戯施設やパーティ開催のためのスペースが店内に用意される。店内には家族向けの明るい雰囲気を持たせ、また看板料理のバーガーはグリルで焼いたものを使う予定になっており、油炒めのバーガーとは一味異なる味覚を顧客に楽しんでもらうことにしている。60種類ものメニューが用意され、価格も一般庶民の負担にならないレベルが設定される。バーガーキングは1954年創業で、世界62ヶ国にネットワークを持っている。


「バソは肉団子」(2007年4月27日)
首都圏で肉団子入りスープや肉団子入りラーメンを販売している自営業者たちが組合を作った。称してIkatan Pedagang Mie Bakso Nusantara (ヌサンタラミーバソ商人会)。肉団子はインドネシア語でバソ(bakso)と呼ばれており、これは福建語に由来する言葉らしい。インドネシアでは肉団子入りスープをバソ(bakso)、肉団子入り麺をバミ(bakmieまたはbakmi)あるいはミーバソ(mie baksoまたはmi bakso)と呼んでいる。スペルに釣られてバクミやバクソなどと発音しないようにお願いしたい。
食用肉は豚が一般的な中国文化では肉と言えば豚肉を指すのが通り相場で、日本人がお肉と言うときに牛肉を指しているのと好一対をなしている。福建語では肉という文字を「バッ(bah)」と発音する。ジャカルタのコタ地区にある華人系の麺屋に入ってミーバソを注文すると、「Bah atau ayam?]と尋ねらることがある。要するに豚肉団子か鶏肉団子かを聞いているのだ。ムスリムに豚肉団子を饗するわけにいかないのはインドネシアで生きるかれらにとってきわめて常識的なことにちがいない。福建語のバソはどうやら肉酥(bahsoo)らしいが、台湾の肉酥は肉団子ではないのでインドネシア事情を知っている者は混乱しそうだ。しいてあげれば、魚のすり身で作った魚酥をスープに浮かべて食べるスタイルがインドネシアのバソとよく似ているので、共通項はあるようにも思える。
首都圏からジャワ島大都市一帯に8千アウトレットを持っている3,115人のバソ屋さんたちが編成したこの組織は会員間の互助を第一目的とするものであり、この組合に入れば事業経営のアドバイスや事業拡張の際の融資が与えられる。加えてこの組合はバソやバミの調理法や味覚の標準化を目指しており、標準規格をパスした店にはRestoran Bakso Nusantara の肩書きが与えられるようなシステムを将来的に実施する計画を立てている。この組合は2007年2月に結成され、今では3,115会員が登録されており、その大半は首都圏だがジョクジャ、ウォノギリ、ソロ、その他ジャワの各地からも会員登録がなされている。この組合は指導評議会にビビッ・ワルヨ退役中将、スナルト退役准将、ウォノギリ県令、ジョクジャ州副知事、ソロ王宮のスリパクアラム9世やセレブリティたちが加わっており、そのそうそうたる顔ぶれはインドネシアの食文化にいかにバソが深く浸透しているかを窺い知るよすがともなる。


「スナヤンシティに一味違うフードコート」(2007年4月30日)
プラザスナヤンとアシアアフリカ通りをはさんで向かいにあるスナヤンシティにはアーバンキッチン(Urban Kitchen)という名の食事どころがある。これもフードコートなのだが、ここに入っているのは知名度の高い店ばかり。Hot Pepper, Sushi Grove, La Scala, Sup Sip, Little Penang など12店。それらが世界の味を一堂に会してくれる。インドネシアの味覚はNasi Liwet, Savoy Satay, Woku-Woku の三店。数人の共同出資でオープンしたこのアーバンキッチンはブティックフードコートをモットーにしている。広さ1千5百平米の店内は喫煙席が100禁煙席300に分けられ、幼児の遊び場も用意されている。10ヶ所にLCDテレビスクリーンが設置されて世界の番組が放映されている。近々ホットスポットファシリティがここにも入る予定になっており、集客力の更なるアップが期待されている。今は週日で7百人、週末は2千人がここを利用している。
このフードコートに入ったジャカルタでも名のあるレストランはそれぞれが腕扱きの料理人を送り込んできている。ここに入ったレストランは選抜もあれば指名もある。そんな中で中華料理を饗するMy Kitchen は経営陣が指名した店のひとつ。この店はマンガブサールの多少奥まった場所にあって目立たないのだが、料理の味は一級品でローストダックは第一のお奨め品だ、とアーバンキッチン経営陣は太鼓判を押す。
ここはフードコートなのだがお値段は並のフードコートとは大違い。それどころか、並のレストランよりも高い。「でもホテルよりは下のお値段です。そしてここで饗されているのは5星級ホテルに匹敵するクオリティのお食事なのです。」経営者のひとりはそうコンセプトを主張する。このフードコートに入る客はクレジットカードのようなプラスチックカードを渡される。各カウンターで料理や飲み物を注文するとそのカードに内容が記録され、カードは店の出口にあるキャッシャーのところで回収される。つまりキャッシュオンデリバリーが常識のフードコートで食事後の支払という革命が起こったわけだ。料理を作る各カウンターで現金にタッチしないという衛生感覚はたしかに他のフードコートにはない、心憎い配慮だと言える。


「マンガガンガダン」(2007年5月21日)
バナナの幹をいったいだれが食べようと思っただろうか。南カリマンタン州バンジャル地方で地元民の結婚式に招かれると、ほかの地方では例のない料理が饗されているのに出くわすことがある。地元でマンガガンガダン(manggangan gadang)と呼ばれているこの料理は、新郎新婦が挙げる結婚式の一日前に作られることになっている。前日の朝から、新郎新婦の家では近隣の奥様方が集まって10本ほどのバナナの幹の皮むきを行う。幹の核である白い部分が取れると、細かくみじん切りにする。ココナツミルクにそれを入れ、かぼちゃとささげ、干しエビに若いヤシの果肉を擦ったものを混ぜ、大鍋でぐつぐつと煮る。作る量は半端じゃない。なにしろおよそ百人分なのだから。煮え上がったものは翌日の会場準備をしているすべての人にふるまわれる。テントを張ったり椅子やテーブルを並べている男衆に声がかかる。みんなが仕事の手を止めて集まってくる。平安の祈りを捧げたあと、マンガガンガダンがみんなの口に入る。一体感がその場を包む。
隣人の結婚式に無料奉仕の手伝いをするのは共同体の中で当たり前のこと。マンガガンガダンの習慣がいったいいつから何を目的にしてバンジャル地方で始まったのかを知っている住民はほとんどいない。だが、無料奉仕の手伝いに集まってくれたひとへの心ばかりのお返しなのだ、とご婦人がたは考えている。ある郷土史家が1997年に出版した書物によれば、マンガガンガダンの風習はバンジャル地方に古来からあった生命観と物質観に由来するものであるとのこと。特定の物質はある特殊な効果を持っているという考え方がカリマンタンにはある。
ココナツミルクで煮込まれたグライ(gulai)と呼ばれる料理の種類にこのマンガガンガダンは属する。バナナの幹のグライが結婚式の前に供されると、ひとを冷静にさせ食欲を増進し、みんなの気持ちを平穏で落ち着いたものにすると信じられている。新郎新婦もそれを食し、生涯相和す関係が維持されるようみんなが期待する。冷静な性質に加えて、バナナの持ついくつかの特徴が新郎新婦に乗り移るようにも期待される。新婦にはバナナのように早く実がなり(つまり子供ができること)、結実する前に枯れることがなく、平穏な環境の中で一生を終えるように、と。
しかし南カリマンタン州のもっと北のほうに行けば、マンガガンガダンに異なる意味合いが付されていることを知る。このこってりとこくのあるグライを食すのは、暮らしの安寧と繁栄のシンボルである、と言うのだ。いずれにせよ、これはおめでたい料理にちがいない。


「揚げ物屋台の利益は一日3万ルピア」(2007年5月28日)
5月はじめ、パーム油から作られる食用油が激しい値上がりを起こした。リッター当たり9千ルピアまで上がった価格に困ったのは揚げ物食品を道端で調理販売しているカキリマ零細商人たちだ。薄利の商売を行っていたかれらは、素材のコストが上がってもそれを売値に転嫁することがむつかしい。「リッター5千5百ルピアだった食用油がたった二週間のうちに8千5百から9千ルピアになった。道理が成り立たない。だからと言って揚げ物の売値をホイホイと引き上げるわけにもいかない。消費者が寄り付かなくなるかもしれないから。」中央ジャカルタ市パルメラの路上に屋台を置いている商人はそう語る。スナヤン陸上競技場周辺で営業している商人も、スネンバスターミナルでみすぼらしい飯屋をいとなんでいる商人も同じような苦衷を物語る。飯屋の女主人は、仕方なく値上げをした、と言う。「バンデン魚の油炒めは一切れ3千ルピアから3千5百ルピアに、フライドチキンは一切れ2千5百から3千ルピアに、揚げ豆腐やテンペ衣揚げなども1百から5百ルピア値上げしました。」とまだ29歳のかの女は言う。その値上げは食用油だけでなくほかの原材料の影響も受けているそうだ。小麦粉も野菜も価格は安定せず、市場で揺れ動いている。小麦粉は過去2ヶ月でキログラム当たり2千ルピア上がった。灯油もリッター当たり1〜2百ルピア、野菜もキロ当たり5百ルピアほど値上がりしている。
食材の値上がりは入れ替わり立ち代り起こっている。暫く前は米の値段が突然跳ね上がった。飯屋の商品価格にそれらのコストアップを簡単に転嫁させるわけにはいかない。おかずの価格が2千5百ルピアを超えると手が届かなくなる顧客がいる。値上げはかれらの店離れを意味しているから店側は肉や魚料理を減らしてまだ安い卵を使ったおかずを増やす。今では卵のおかずが飛ぶように売れている。そんな状況のせいで日々の売上の純利益が大幅に減少した。かの女の店では食用油値上がり前に比べて利益が3〜4割ダウンしたそうだ。道端の揚げ物屋台は一日の利益が6万ルピアから3万ルピアに減った。20〜30個ほどまとめ買いをしてくれる客はこの2週間ほどでふたりしかいなかった。いま1個5百ルピアの揚げ物はひとりせいぜい10個しか買ってもらえない。


「バーガーフランチャイズチェーンに活気」(2007年9月25日)
カキリマハンバーガーフランチャイズのKlenger Burger が15店の新設を企画した。PT Klenger Burger は2007年中に15店をオープンし、今現在ジャカルタ・ボゴール・デポッ・タングラン・ブカシ・スラバヤ・バリに展開している36店のネットワークを強化する意向。新規開設の15店はフランチャイズ方式とし、フランチャイジーは地代家賃を除いて一店あたり1〜1.5億ルピアの投資が求められる。PT クレンゲルブルグル創設者でCEOでもあるフェリ・クリスティアンティは、「クレンゲルブルグルのフランチャイジーとなって複数の店を運営したい希望者は個人からコペラシ(協同組合)までたくさんいる。」と語っている。好評の焼肉バーガーや種々のバリエーションの一般消費者への知名度は高く、商品ターゲットであるヤング層ファミリー層から熱烈に受け入れられている、とフェリは言う。
クレンゲルブルグル店はオープン後の三ヶ月間、売上は毎月1.5億ルピアに達する。そのあとは投資回収期に入って15〜20%売上が減少し、それが以後の平均売上高となる。店が営業を開始したあと経営者は、事業の進展状況を監督し、サービス品質を向上させ、顧客が飽きないようにさまざまなイノベーションを積み重ねなければならない。2007年9月から開始したFood 4 School プログラムは学生生徒向けパッケージプロモーションで、バーガーとテボトルがセットで1万もしくは1万1千ルピアの価格となっている。


「豆腐とテンペが激しく値上がり」(2008年1月15日)
いまや一般庶民にとっておかずの代表格となってしまった豆腐とテンペは往々にして「タフ・テンペ」とひとまとめにされて呼ばれている。このタフ・テンペに極端な値上がりが起こったことから一般家庭の食卓の様相に変化が生じている。
タフ・テンペ生産業者は家内工業であるため、思いもよらない密集住宅地の中の一軒でそれが生産されていたりするのだが、小規模・零細事業者が集まって生産センターを構えることで効率向上をはかることができるため西ジャカルタ市では1992年にタンボラ?と?、クブンジュルッ、チュンカレン、グロゴルの5ヶ所で事業を行っていた業者をカリドラスのスマナン町RW11に結集させた。このタフ・テンペ生産センターが首都圏は言うに及ばず全国最大のタフ・テンペ生産地区となっている。ここには7百軒の製造業者が2千1百人の労働力を使って毎日35トンの大豆を仕入れ、50〜60トンのテンペと10〜20トンのタフを生産している。首都圏向け出荷分だけでも一日百億ルピアの売上がある。原材料の仕入れから製品の販売までタフ・テンペ生産者協同組合西ジャカルタ支部がその面倒を見ている。
ところが2007年後半から大豆の仕入れ価格がうなぎのぼりに上昇し、かつての2倍という価格になってしまったことから生産者が抗議を表明した。業界は政府に大豆価格安定を図るよう求めて陳情行動や生産と製品供給の停止といった実力行使を考えている。また輸入業者へのライセンスの与え方にも苦情を表明し、同協同組合にも輸入許可を与えるよう求めている。輸入品がメインを占めている大豆は2007年10月にクインタル(1百キロ)あたり35万ルピアだったものが11月には45万ルピア、12月68万ルピア、そしてこの1月には75万ルピアまで上昇してしまった。このため生産者は生産縮小で対応せざるを得なくなり、製品サイズの縮小と値上げを併用して事業継続努力を続けているがそのダブルパンチを消費者が受け入れる余地はあまりなく、結果的に消費者の買い控え、生産者の更なる生産縮小という悪循環に陥っている。
都内各所のパサルでタフ・テンペ商人は販売量が半減していると訴えており、市場で商品があまり目につかない状況になってきている。クバヨランラマのパサルで商いをしている商人のひとりは11x35センチのテンペ一切れが前は3千ルピアだったがいまや5千ルピアとなり、値段に文句をつけるだけで買ってくれない客が増えたと嘆いている。タフゴレン屋を顧客にしているタフ商人も一切れ150ルピアが300ルピアに値上がりしたので、前は一日3百個ほど売れていたのに今では100〜150個ほどしか売れないとぼやいている。


「麺が激しいコストアップ」(2008年2月11日)
大豆の大幅な値上がりによる豆腐・テンペの価格上昇に次いで小麦粉でも激しい値上がりが起こっており、小麦粉を主原料にしている麺生産者も豆腐・テンペ生産者の轍を踏みつつある。味一本麺肉?商人生産者会会長によれば、小麦粉の価格上昇は2007年11月ごろから顕著になりはじめたとのこと。25キロ入り小麦粉1サックは2002年に2万ルピアだったが、2006年には8万ルピアとなり、2007年12月には13万ルピアに達した。「小麦粉価格はどんどんうなぎ登りだが製品価格の値上げはむつかしい。わたしの工場でさえ利益はかつかつだから、小さいところは気の毒だ。20生産者のうち3軒はもう商売をやめているようだ。」
味一本麺肉?商人生産者会は全国で466麺生産者と2万9千の鶏麺(mi ayam)と肉?麺(mi bakso)商人を糾合する団体で、ジャボデタベッ地区にはそのうち1百生産者5千商人がいる。地方部から会長宛てにデモをしようという提案の電話が増えてきたが、同会は既に内務大臣にこの状況に対する善処を申し出ているため当面は政府の対応を見守る意向だと会長は述べている。地方部の生産者や商人は輸入関税や付加価値税(PPN)のことを理解しておらず、売値を上げるのが困難だから原材料の仕入れ値が安くなることだけを希望している。しかし小麦粉は月を追って値上がりを続けており、数ヵ月後にはサック当たり20万ルピアになるのが確実視されている。加えて赤バワン・唐辛子・食用油・鶏肉も競って値上がりしている状況だ。
会長はTopan Putra印の麺製造工場を経営しているが、値上がりで多くの商人が仕入れを手控えるようになってきたため、かつては1トンの小麦粉を使っていたのに現在ではそれが150キロまで減少していると語る。やはり麺を生産して鶏麺や肉?麺を仕立て、巡回屋台や固定売店に卸している鶏麺肉?麺生産者のひとりは、鶏麺や肉?麺調理販売者1百人のうちの1割はビジネスをやめてしまった、と語っている。かれも生産量が17サックから14サックに減少している。かれは自らMi Kondangの看板を掲げて鶏麺肉?麺の調理販売も行なっているが、一椀6千ルピアから7千ルピアに値上げしたところ売上が激減した。「わたしの店はまだなんとかもってるが、一日2キロくらいの麺つまり24椀程度の鶏麺肉?麺しか売っていなかったところはつぶれるだろう。鶏麺肉?麺調理販売者がつぶれていくのはプルタミナの灯油からLPGへの転換政策がうまく進展していないことも影響している。ガスコンロ援助がいつまでたっても実施されないしガスボンベの無料配給も徹底していない。わたしのところから卸しを受けている調理販売者の中には、一日平均5リッターほど必要な灯油が入手難になっていて手に入ったとしてもとても高額なため、調理用燃料がなくてビジネスができなくなっている者もいる。」かれは状況をそのように解説している。


「パンも激しいコストアップ」(2008年2月12日)
首都圏の住宅地区には早朝からパンを自転車の荷台に積んで売り歩く巡回販売者の売り声が賑やかに交錯する。売り声だけのものから売り声と音楽のフレーズがセットになったものまでさまざま。それらのパンの大半は中小規模のパン生産者の窯で早朝まだ暗いうちに焼き上げられたものだ。小麦粉の激しい値上がりは麺だけでなくパン製造業界にも襲い掛かってきた。インドネシアベーカリー協会事務局長は、小麦粉価格は昨年末の1サック13万5千ルピアから1月半ばには16万2千ルピアまで上がったと言う。2007年1月はまだ9万3千ルピアだったから、2倍になるのもそう遠い時期ではなさそう。
家内工業的製パン業者は全国に1万5千軒あってジャボデタベッ・中部ジャワ・東部ジャワ・ジョクジャ・スマトラに散在しており、ジャボデタベッ地区だけだとおよそ3千軒ある。大資本でモダンな工場を擁しているのは全国で2千軒でそのうち4百軒がジャボデタベッ地区にある。小麦粉の全国消費量は450万トンあり、製パン業界はそのうちの80万トンで小規模工場はその中の70%を消費している。昨今の原材料値上がりでほとんどのパン生産者が製品サイズを小さくし価格を据え置いて販売を継続しているが、毎月右肩上がりで原料仕入れコストが上昇していくのに四苦八苦しているありさまだ。
2008年1月に小規模製パン業者120軒が原材料値上がりのために生産をストップした。かれらの製品は1個だいたい1千ルピア。小規模業者は小麦粉生産者からまとまった量を仕入れることができないため、流通段階で追加経費がサックあたり数万ルピア余分にかかったものを仕入れざるを得ない。インドネシアベーカリー協会は小規模事業者の事業存続のために小麦輸入PPNと国内販売PPNの免除を政府に要請している。小麦粉生産業界者によれば、小麦のストックが世界市場で品薄になっているため2008年4月ごろまで月10%前後の伸びで値上がりが続くだろうとのこと。


「飲食店業界も激しいコストアップ」(2008年2月13日)
あらゆる食品がここにきて競って値上がりを続けている状況にレストラン業界が平気な顔でいられるわけがない。ほとんどのレストランはメニューの品質と価格を維持しながら経営効率向上でコスト上昇を乗り切ろうと努力している。しかし来店客数が顕著な減少を示しており、諸生活基幹物資の値上がりが国民購買力をさらに貧困にしている実態がそこに反映されているようだ。都内で飲食店を開業している事業者はそれぞれ合理化の知恵を絞りながら事業継続に努めている。都内チランダッとプルマタヒジャウでコニサーレスト&ラウンジを開店している事業者はそのために従業員を4人解雇したと語る。残った25人で営業を続けるのは問題ないが、メニュー料金に割引をつけても来店客の増加にはつながらない。肝心の客が減っていけばどこかで事業継続に破綻が生じる。50キロボンベLPGや食材の値上がりで既に店舗運営コストは50%も上昇してしまった。同店オーナーは厳しい状況をそう物語る。
南ジャカルタと中央ジャカルタの3ヶ所に店を出しているワルンダウンのオーナーは、各店に出す食材の加工や下調理とケータリング事業を行うために設けていたセントラルキッチンを廃止することにした、と語る。その機能は店のひとつに移される。150人の従業員を合理化する考えはまだないが、かといってコストアップを吸収するために商品の値上げをすることもまだ控えている。特に中流層消費者向けの商品はめったなことで価格をいじるとたいへんなことになる、とオーナーは言う。その階層は価格にたいへんセンシティブなのだ。ところが今年1月に入って生活基幹物資の値上がりが広がるとその階層の来店客が激減した。たとえば南ジャカルタ市モギンシディ通り店は従来から大勢の勤め人が来店していたが、いまやその階層の顧客がいなくなってしまい売上は20%低下している。このためサプライヤーへの注文も減少し、一日で40匹のグラメ魚を消費していたワルンダウンの発注量は20〜30匹にダウンしてしまった。22年間の老舗を誇るレストランサリラトゥは都内に15店舗を擁しており、マレーシアでも3店を営業している。このチェーン店の売上が基幹物資の値上がりと時期を同じくして25%も低下した。一方食品を用意するコストは45%上がっている。ここも商品の値上げ回避を必死に努力しているのはほかの店と同じ。
都庁観光局によれば、都内の飲食店数は1,671あってここ数年増加傾向を示している由。その中でインドネシアレストランとして登録されているところは321でトップを占める。続いて中華レストランの244、アメリカレストラン223、日本レストラン212、イタリア111、ヨーロッパ58、韓国54と続く。いずこの業界も同様で、コストが安定することで販売価格が定まり、事業戦略を構築する基盤が固まる。食材コストが毎月毎月上昇していく昨今のありさまにインドネシアで行なう事業の不安定さが浮き彫りにされている。


「飲食品製造業界で合理化」(2008年2月19日)
打ち続く食品原材料値上がりの波紋は飲食品製造業界にも波及している。コストアップを小売価格値上げで吸収するのが困難であることから業界は生産合理化で対応する方針を進めており、生産効率を高めるために商品バリエーションが減少することになる、と飲食品事業者連盟のトーマス・ダルマワン会長が発言した。生産者は商品の味覚バリエーションを減らして生産効率を高める方針であり、いま連盟加入会社が市場に出しているおよそ5万アイテムのうち約一割が合理化対象とされる予定になっている。生産中止になれば在庫が消化され次第、市場から姿を消す。原材料値上がりがまだ続けば業界はこの対応を更に広げて行くだろうから市場での商品バリエーションがシンプルになっていく。
既に報道されているように、食品包装資材や燃料に加えて小麦粉・食用油が値上がりし、後を追って調味料も値上がりを起こしている。国民購買力が回復どころか没落の度を深めていると見ている生産者やサプライヤーは商品値上げを最後の手段と考えており、商品値上げを避けるためにあの手この手で生産コストを抑え込もうと知恵をしぼっている。即席麺業界はチキンラーメンやアヤムゴレン味を商品レンジの主力に据えようとしている。これはチキンブイヨンの国内供給量が豊富であるためで、チキンカレー味は輸入品への依存性が高いことから生産が中止される可能性が強い。このような商品レンジ合理化は即席麺業界・スナック業界・ソフトドリンク業界が中心になりそう。これまで飲食品生産者は味覚バリエーションを含めて新しい商品を年間2千3百点ほど市場に新発売してきたが、このさき商品新発売はきわめて慎重になされるようになるにちがいない。飲食品製造業界は、コストが低く市場で大量に消費される商品を主力に据える一方、味覚バリエーションは最低限にとどめるというビジネス姿勢を強めることになりそうだ。


「拉麺」(2008年2月27〜29日)
最近盛んにジャカルタに進出してきている中華飲食店でメニューを見ると、ラーメンは拉麺と表記されている。麺はもともと小麦粉を意味する言葉で、そこから派生して小麦粉で作られた食品をも指すようになった。ラーメンなどとは味も形も異なるバンが麺包と表記されて麺の文字が使われているのはそのせいだろう。
しかしもともと印華人(Indonesian Chinese)文化の主力をなしていた福建文化ではラーメンのことを単に麺(発音はmiで北京語系のミエンや広東系のミーンとは異なる)としか呼ばなかったようだ。昔、インドネシアでまだ日が浅かったころ、ジャカルタのどこへ行こうがラーメンはmiあるいはmieと表記され、そのいずれも発音はミーと呼ばれていた。北京語をほんの上っ面だけなめたにすぎないとはいえ、この落差はかなりのショックをもたらしてくれたものだ。ところがラーメンを主力メニューに据える最近増加傾向の香港系中華レストランでは、ラーメンが拉麺と書かれてラーミエンと発音されている。拉の文字は「引っ張る」という意味を持っており、確かに調理場を眺めるとカウンターの向こうで白衣の調理人が小麦粉のドウを両手で引っ張りながら調理台にびしびしとそれを打ち付けているデモンストレーションを目にすることができる。もし拉麺が日本語のラーメンの由来だとすれば、日本のラーメンは引っ張りながらびしびし打ち付ける工程が製造過程の中でどのように行なわれているのだろうか?
ミーという福建型食文化がインドネシアに持ち込まれると、それはきわめてポピュラーなものになった。住宅エリアには毎日朝から夜まで屋台を引いてミーを売り歩く行商人の姿が絶えない。かれらトゥカンミーたちは、最初は屋台を引いて地域を巡回してまわるが、そのうちに固定客がつくようになると一定の場所に屋台を据えて定居するようになり、トゥカンミーはその職場へ自宅から通うようになる。その後資本金が貯まればパサルの一角に場所を借りて店舗を営むようになって行く。これがミー屋台の一般的な成功譚である。そんなかれらの成功をインドネシア土着のムスリムたちが支えてきたことは言うまでもない。ミーはそれほど土着インドネシア人に受け入れられてきた食文化であるということを、そのエピソードが明らかに物語っているのである。
昔は日本でも行商人が住宅地を往来する姿が普通だった。夏の金魚売りや冬の石焼き芋売りは季節の風物詩で、夜中にもの哀しいチャルメラの固有フレーズを鳴らしながら巡回する「支那そば屋」の姿もその中にあったから、日本にもインドネシアにも屋台を引いてラーメンを巡回販売するというビジネススタイルがあったわけだ。これはいったいどこが発祥の地だったのだろうか?インドネシアではこのトゥカンミーという職業に従事する人口がきわめて大きい。味一本ミーバソ(麺肉?)商人生産者会という業界団体には全国で466の麺生産者と2万9千の鶏麺(mi ayam)およびと肉?麺(mi bakso)販売者が所属しており、ジャボデタベッ地区だけでも5千人の販売者がいる。そんな団体に所属したところで会費は取られるがそれで客が増えるわけではない、と考えるトゥカンミーたちを加えれば、首都圏だけでも数万人にのぼるのではないかと思われる。
このビジネスはそれだけ市場が広大であるため、だれでも比較的容易にこの商売に参入していけるようだ。この商売に入っていくために、どんなことが必要なのだろうか?ビジネスコンサルタントは次のように説明している。ただしこの分野のビジネスに外国人が手を染めることはできない。カキリマビジネスは中小零細事業者のみを対象としており、外資参入は排除されている。
インドネシア人の多くは、小腹がすいたのでちょっと何かを食べたいというときにミー(麺)が格好のチョイスになる。正餐は飯を食べるのが当たり前で、麺を正餐にする人間には憐憫と侮蔑が降りかかってくる。人体のメタボリズムが高いレベルで営まれる熱帯では、じっとしていても腹がへる。だから間食にミーやバソが人気の高い食品になっているのだ。そんな大きい需要を抱える市場は膨大な数の供給者を受け入れる能力を持っている。もちろん麺一椀の売上は知れているから、トゥカンミーが金持ちになる道は遠く険しい。
トゥカンミービジネスは原材料を調理して消費者に供する際の付加価値を追求する事業だ、とコンサルタントはまず定義付ける。その主原材料である麺の選択の中に、生麺と即席麺というオプションが発生する。在庫の日持ちという面から見れば、即席麺が明らかに経営上有利であり、加えて生麺には消費者からの保存料疑惑がついてまわることから、トゥカンミーの多くは即席麺を使うことで消費者の不安をクリアーしようとする傾向がもう1年以上も前から高まっているため、麺愛好者の多くはモールのフードコートで注文した麺に即席麺が使われていることを口の中に入れてから知り、味気ない思いを味わうケースも少なくない。調理されたおかずを上からかけるような麺であっても、麺そのものが生麺や乾燥麺と即席麺では味が違ってくるのは避けようがない。
この事業形態は、行商/巡回販売と固定場所に定居して行なう販売のふたつに区分される。巡回販売では、調理するための屋台と調理を行い屋台を押してまわる人間が必要になる。定居するほうは、やはり屋台を用いテントを張った下にテーブルとベンチやイスを並べて行なうものから家屋・商店・モールなどに店舗を張るスタイルまであり、その間の比率はテントタイプのものが圧倒的に多い。テント型ビジネスのロケーションとしては人通りのある場所の一角や、他の食品販売屋台が集まっている場所など戦略的な場所を選択する必要がある。もし大手即席麺生産者と提携すれば、麺会社から広告宣伝費が出るのでテントや看板などの援助を受けることができる。
事業を始めるにあたっての元手として、屋台とスプーン・フォーク・どんぶり・調理用具・コンロやプロパンガスなど一切をそろえるのに5百万ルピアほどかかる。一度に何人もの客を受け付けようとするなら、什器類は多めに持たなければならない。テント型定居屋台の場合はテントにテーブルやベンチ、そして什器も多めに必要となる。
巡回屋台方式で十分だというなら、5百万ルピアで十分余裕がある。続いて原材料仕入れにかかる。麺・野菜・卵は日々の仕入れ、調味料や燃料は折々の仕入れとなる。麺はパサルで仕入れ、調味料も前もって混ぜておく。麺一人前として生麺なら100グラム、乾燥麺は80グラム。一日の売上目標を40人分とするなら、屋台には麺を6キロほど積んでおかなければならない。パサルで麺のキロ当たり価格は4千から7千ルピア。値段が高いほど品質も良い。ダシ調味料も味覚と調理の必要に応じて混ぜ合わされたものを屋台に積んでおかなければならない。鶏や魚のダシと味付けのための香辛料を混ぜたものは一人分で100〜200ルピア程度。これで商品原価の中に占める原材料費は一人分600〜1,100ルピアとなる。そのほかに燃料費とその他事業経費がかかる。
もし即席麺を原材料に使う場合、調理は湯を沸かすことだけになる。そこに入れる野菜と卵が他の原材料になる。即席麺は一袋1千ルピア前後で、その他費用を取り混ぜて一人分の原価は1,100〜1,300ルピア。もし即席麺メーカーから一括大量仕入れが行なえるなら、相応の割引を求めることが可能になるために原価は低下するだろう。
事業主として従業員を使ってミーを販売させる場合、従業員への報酬支払には二つの方法がある。もし固定給方式なら、一日5万ルピアかもしくは一日2万5千ルピアにして売上高に応じたインセンティブを与えるというスタイルも可能だ。インセンティブは相互に合意した一日の販売数を超えたものに対して適用される。そのために事業主は一日30人分の売上が確保されることを目標に置き、それを超えた分は利益分配にするという方向に持って行くようにする。これは従業員に販売モチベーションを与えるのにきわめて効果的だ。特に屋台を押して巡回する行商方式ビジネスの成否はこのポイントにかかっていると言うことができる。定居式の場合は、ウエイターには固定給方式、調理人には利益分配方式というのが一般的だ。一ヶ所に定居してビジネスを行なう場合、地代と警備費の負担が発生する。それは建物の外でテントを張っても同じことだ。毎日集金される場合と月ごとに集金される場合がある。この費用は、張った店舗サイズが大きければ大きいほど一人分の商品価格も大きいものになるという傾向に一役買っている。
さて販売のほうは、ミー一椀の販売価格は3千〜5千ルピアというのが一般的。3千ルピアだとミーと野菜だけで、卵はつかない。卵が一個入れば4千ルピア、二個入れば5千ルピアになる。一日40食の販売が実現すれば、事業主は10万ルピアの純利益を享受することができる。事業リスクはいくつかある。雨が降れば買い手の出足が悪くなり、何日も雨が降り続けば売上は大きく減少する。巡回屋台の通る経路が不都合な場合も、あまり売上が上がらない。子供が大勢集まる場所や人通りの大きい場所が食べ物商売にとってのロケーションだが、良い場所が空いているということはまずほとんど期待できない。事業者は従業員の営業場所について十分な指導を行なう必要があるだろう。また衛生面での注意も十二分に与えなければ成らない。


「ジャカルタでアルフレスコダイニング」(2008年4月11日)
爽快な陽射しと風を受けながら屋外で食事を取り談笑する気分はアルフレスコダイニングならではのもの。とはいえ、世界大気汚染都市トップスリーのひとつであるジャカルタで、屋外にテーブルを並べてアルフレスコダイニングを楽しもうと果たしてあなたは思うだろうか?
ところがどうして、得がたいとなるとそれを得ることに情熱を傾けるのがジャカルタ都民の性格でもあるようで、こうしてジャカルタでは南ジャカルタのモールにそれらしい雰囲気を醸し出している一角が出現した。たとえばチトスと愛称されているCilandak Town Square。モール内の比較的広く取られた通路にカフェやレストランが椅子とテーブルを持ち出し、頭の上は三四階まで吹き抜けという構造で巧みに消費者をそんな気分にさせている。やはり南ジャカルタのDharmawangsa Squareも類似のオリエンテーションだが、こちらの方が建物の規模が小さいだけに物足りない。中央ジャカルタ市メンテン地区のカフェピサという店はアルフレスコダイニングを目指した店で、それ以外にも店内を通り抜けて裏庭に出ると池に噴水・オープンエアーで食事できるところも都内には少なくないものの、建て込んだ町並みの一角だから高い塀で仕切られていて風通しも今ひとつ。これがジャカルタの宿命と言えそうだ。クラパガディン(Kelapa Gading)のラピアザ(La Piazza)中庭もオープンエアーではあるものの、それをアルフレスコダイニングと呼んでしかるべきかどうかわたしは迷う。
オランダ植民地時代にジャワのパリと異名を取ったバンドンはその手の趣向に事欠かないようだ。スカジャディ(Sukajadi)通りに一度行ってみろ、とバンドン人は言う。しかしそんな遠出をしなくとも、首都近郊にさまざまなスポットが誕生している。タングランのリッポカラワチに作られたベントンジャンクション(Benton Junction)やスルポンのスンマレコンモール(Summarecon Mall)のダウンタウンウオークなどは最近新たなスポットとして客を集めている。そこでは深夜を過ぎてもまだ食事が取れ、週末にはライブミュージックを楽しむことができる。しかしインドネシアの伝統的なカキリマ屋台もオープンエアーで食事を取るという点では同じもの。カキリマ屋台をアルフレスコダイニングと呼んであなたが顔をしかめないなら、ジャカルタはアルフレスコダイニングの街と呼べそうだが・・・・・。


「夜明け前クエ市」(2008年9月3・4日)
中央ジャカルタ市パサルスネンにクエの卸売市場が誕生したのは1983年のこと。インドネシアで卸売りというのは基本的に個人消費者にも小売業者にも分け隔てなく販売する。卸売り販売者には買い手が流通機構内の者か最終消費者かの判断はつかないから、だれが買おうと同じ売り値を言う。その際に大量買いをして値引き交渉を行い、割引をなるべく大きくつけさせるということを買い手が行うわけで、これがインドネシアの流通ビジネスの基本形態であり、だからこそ一般庶民のだれでもすぐに物売りになることができるわけだ。だからパサルタナアバンやマンガドゥアをはじめとする都内諸地区のトレードセンターに大勢の個人利用者が押しかけて活況を呈しているのはそんな仕組みになっているからで、インドネシアのトラディショナルなクエの全貌を知り、また味わってみることに興味をお持ちの方はパサルスネンやムラワイのクエ卸売りパサルを訪れてみればよい。たとえ1個しか買わなくとも拒まれるようなことは考えられない。
さてこのパサルスネンのクエ卸売りパサル創設は、特にだれかの発案によったのでなく自然発生的に出来上がった。もともと10人足らずのクエ販売者が早朝に道路脇でカキリマビジネスを行っていたが、需給が規模を徐々に膨らませていった結果卸売り市場の体をなすようになった。市場といっても常設のものでなく、20時ごろから翌朝7時ごろまで6百人ほどの家内工業クエ生産者が商品を持ち寄って道路や駐車場あるいは通路などのスペースを埋めている。言ってみれば日本の田舎で行われている朝市のようなものだ。この市がもっとも活況を呈するのは夜明け前の4時〜5時ごろで、そのためにこの市はpasar kue subuh(夜明け前クエ市)と呼ばれている。
この市には都内ばかりか遠くはチアンジュルやスカブミからもクエの仲買人が仕入れにやってくる。仲買人はひとりで5百〜1千個のクエを平均単価4百ルピアで仕入れ、地元の店舗にその1.5〜2倍の価格で再販する。単価の小さいクエであっても大量に売れるから、卸売市場に店を出す製造販売者は月に8百万から1千6百万ルピアの売上をあげていた。ところが、2008年3月ごろから夜明け前クエ市商人たちの売上が30%も低下するようになったのである。
夜明け前クエ市がパサルスネンでしっかりと根をおろしたあと南ジャカルタ市ブロッケムのムラワイ通りにも類似の市がたつようになり、いまでは都内2ヶ所で夜明け前クエ卸売り市場が開かれている。最近では、スネンで午前2時から7時まで、ムラワイで午前4時から8時半までというのが市の開設時間帯であり、スネンには4百人ムラワイには250人の製造販売者が商品を持ち込んでいる。かれらの一日の売上は往時3.5〜4百万ルピアに上っていたものの、いまでは3百万ルピアに低下してきているという話だ。
ところがそんな首都の名物にまた強制撤去という魔の手が忍び寄りはじめた。都庁は先に南ジャカルタ市バリト通りのTaman Ayodia(アヨディア公園)を不法占拠して熱帯魚や切花の販売を行っていた店舗を強制撤去させ、つぎにバイパス、アフマディヤニ(Ahmad Yani)通り沿いで緑地を不法占拠していたラワサリ(Rawasari)陶器市を撤去した。次のターゲットとしてジャランスラバヤに照準が当てられたが、都庁は苦慮したあげくスラバヤ通り骨董品市の今年の撤去措置を取り止めた。そして次にお鉢が回ってきたのがパサルスネンとブロッケム周辺の不法カキリマ排除計画だ。その二ヶ所はパサルスネン総合再開発とブロッケムスクエア建設にからめて不法カキリマ商人を排除し、都民生活に緑と秩序を回復させることを目的に実施されるという点で共通項を持っている。おまけにその二ヶ所の夜明け前クエ市は都庁が言う不法カキリマ商人に該当している。各場所の商人組合は、クエ卸売り市の開催が早朝であるため世間の目障りになるものでなく、また都庁の中小零細事業育成対象とされてきたものでもあるため強制撤去対象からはずしてほしいと陳情しているが、都庁中小企業コペラシ局中小事業次局長は、公共スペースにおけるビジネス活動には決まりがあり、都庁は都内16ヶ所を夜明け前クエ市の新規活動場所として新たに育成する準備を整えている、と語っている。


「これがインドネシア人の食嗜好」(2008年9月8〜10日)
人間の嗜好には民族差がある。中でも舌に関しては、風土が育んだ食文化はその文化の子たちにとって血肉と化しているわけで、だからこそ「東は東、西は西・・・」という現象が起こるわけだ。しかしグローバル化はアメリカがマクドナルドとコカコーラで推し進めたと言われるように、世界文化の融合がもたらしたグローバル文化の落とし子たちは世界のさまざまな食文化に対する違和感を容易に超越できる能力を身につけているように見える。これはすばらしいことにちがいない。
そこで、インドネシア社会はどこまでグローバル化しているのか、という問いが投げかけられることになる。あらゆるものをゴッタ煮にして取り込む能力に長けたかれらのことをモフタル・ルビスは「異なる価値観をまるごと取り込んで相互干渉させることなく併存させる」ことのできる民族だと評している。言い換えれば、数千年前から通商の十字路に位置していたインドネシアでは時間の流れの中でグローバル化がはるか昔から進展していたとも言えるわけであって、かれらのグローバル化はここ数十年来キーワードになっているグローバル化とは本質的に異なっているような気がしてならない。
ともあれ、欧米の飲食品有力ブランドはグローバル化の中で世界のトップブランドの地位に横滑りした。たいていの国ではそれなりの調整努力を払った結果それがうまく行っているのだが、なぜかインドネシアだけは違う。世界的な飲食品ブランド大手がインドネシア市場に乗り込み、たいていの国では有力なシェアを確立できたというのに、インドネシアだけはなかなかうまく行かない。
たとえばドーナツ。アメリカ最大手のクリスピークリームが、だれがどう見てもローカルブランドのJ.Coに負けている。クリスピークリームドーナツの大きく、甘く、そして食べ応えのある量感はアメリカの良き時代を感じさせてくれるものであるのは疑いもないとはいえ、それがあの小さく、軽く、ふわふわで、いくつ食べても食べたような気がしないジェイコに太刀打ちできないありさまだ。ビジネスコンサルタントはそれについて、しゃべることと食べることで常に口を動かしているインドネシア女性のメンタリティがその鍵を握っていると解説する。「体重の増加を強く警戒するかの女たちは、50キロを超えれば即座にダイエットに走る。そんなかの女たちがクリスピークリームとジェイコのどちらに食指を動かすか、おのずと明らかではないだろうか。」と。
クリスピークリームに続いて、たとえばキャンベルの缶詰スープ。温めてすぐに食することのできるバラエティに富んだスープ類を朝食に食べてもらいたいと売場の棚に並べるのだが、インドネシア人の買物かごの中に入っていくのはとてもむつかしい。それもそのはず、インドネシア人の朝の食卓に並ぶものは、ナシゴレン、パン、お粥、即席麺というベストフォーが過去15年間変化していない。同じことはケロッグのシリアル製品にも言える。「朝食にシリアルを」はキャンベルと同じ穴のむじなであり、それを「おやつにシリアルを」と変えたところでインドネシア人にとってはコーンフレークよりも焼き・蒸しとうもろこしであり、あるいはせいぜいポップコーンといったところのようだ。穀類や木の実がたっぷり入ったミューズリーを奨められたインドネシア人は、「鳥の餌を食べる気にはならなかった」と述懐している。
さてアメリカ文化の尖兵として世界を席巻したコカコーラはというと、さまざまな新製品を登場させてインドネシア市場の大手清涼飲料水メーカーとしての名を馳せてはいるものの、コークにせよファンタにせよ、市場を牛耳っているという印象はない。むしろ街中のどこへ行っても地元ブランドSosroのテボトル(Teh Botol)のほうがはるかにメジャーな印象を受ける。
それら外国有力ブランドのマーケティング責任者は一様に思っているはずだ。どうしてインドネシアでは他の国で成功した手法を試みても思わしい成果が現れないのだろうか、と。その秘密はここにあるのだ、とマーケットリサーチ機関フロンティアコンサルティンググループが市場分析内容を公表した。題して「インドネシア飲食品市場の10大特性」。市場というものは言うまでもなく人間が構成しており、マーケットビヘイビヤというのは市場を構成している大勢の人間が示す行動傾向だ。その大勢の人間がひとつの文化で括られている場合、その文化の価値観が市場ビヘイビヤの中に現れてくる。この10大特性とは実に、「インドネシア人の実像」のダイジェスト版かと見まごうばかりのものなのである。
インドネシア市場に反映されているインドネシア人の特徴的な性格のその一は、記憶のレンジが短いことだ。インドネシア人が何かを求める場合、今現在入手可能なものの中で自分がもっとも得をするものという規準をその選択に用いるのが普通だ。たとえば身体の健康に良い食べ物よりは美味いものを選ぶ。健康上安全な薬よりはすぐに効果が現れる薬を選ぶ。ビタミンを飲むよりはエネルギードリンクを選択する。
その二、計画性を持たない。消費者の74%は無計画にスナック菓子を買う。売場で販売者が提示するお買い得サービスに消費者は一も二もなく乗ってくる。そんな浮動性の高い消費者はたいてい時間効率の観念に乏しく、リラックスした生き方をしている。
その三、群れたがる。何かあるものを買う場合インドネシア人消費者は、家族・友人・同僚などから聞いた話にもとづいて選択を決めている。
その四、テクノロジー音痴。
その五、内容でなく情況を優先する。
その六、外国製に憧れる。ナショナリズムの低さに加えて国産品が低クオリティであることがその傾向を一層煽っている。
その七、宗教的であり、超自然現象を信じている。
その八、見せびらかしたがり、威厳を重視するために見栄をはる。封建文化の影響が生活内に色濃く残っており、またあるがままの自分に自信を持つことができない。
その九、サブカルチャーが強い。
その十、環境意識が低い。
それら10大特性のうちでこの先10年間に強まりを見せると思われるものは、外国製品に憧れ、見せびらかしたり見栄をはり、群れたがり、宗教的で超自然現象を信じるといったポイントだろうとフロンティアコンサルティンググループは見ている。飲食品文化に関連して言うなら、仲間の集う場所としてレストランやカフェが増加し、アッパーミドル層を対象にした外国ブランド品が見せびらかしとカッコつけの特性にフィットして増加するだろう。しかしインドネシア人消費者が過去から保ち続けてきたビヘイビヤにうまくあわせることができなければ、いかなる有力グローバルブランドでも国内市場制覇は至難の業であるにちがいない。


「ジャカルタから外国料理レストランが姿を消す?!」(2008年11月24日)
都内にあるおよそ6百軒の独立店舗やホテルあるいはビル内にある外国料理レストランで食材の入手難が起こっており、グローバル金融危機が引き起こした不況と共にやってきたこの困難な状況が継続するなら店をたたむしかない、と業界関係者は口をそろえて訴えている。もう二ヶ月にもなるエスニック食材入手難はエスニック食品スーパーに対して行なわれた食品薬品監督庁のML番号監視強化の連鎖反応だ。
おまけに先に「インドネシア駐在外国人は減少する?!」(2008年11月18日)で報道されているように、政府はグローバル不況が国内経済に及ぼす影響を軽減させようとして輸入規制を開始したことから、エスニック食材輸入に対する障壁は層をなして立ちはだかっていると言えよう。アンワル・スプリヤディ税関総局長はそれについて、行政改革実施に伴って物品輸入の監視は厳しくなっており、税関は法規を忠実に守って輸入物品監視業務を行なっている、とコメントしている。「輸入手続が法規を正しく守ってなされている限り、輸入は保証される。税関は政府の方針に即して通関監視強化を一貫性をもって行なっているということだ。政府は国民に国内産品の使用を奨励している。」
総局長はそう言うものの、輸入手続はこれまで以上に時間がかかり、またそのステップに困難がつきまとっているのが実態らしい。法規を忠実に実施すると国民生活が困難さに襲われるという実例のひとつがこれであり、インドネシアにおけるリーガルコンプライアンスが抱えている問題をわれわれはここにも見出すことになる。
外国料理レストラン業界の連鎖倒産は6千人以上の失業者を生むと懸念されており、ファウジ・ボウォ都知事はその状況に対する救済に尽力すると表明して都庁に対応策の検討を命じている。料理評論家ボンダン・ウィナルノは昨今の在留外国人の食生活面に起こっている変化について、「ジャカルタの外国人たちは入手が困難になったモザレラチーズやわさび、あるいはワインなど必要な食品をシンガポールへ買出しに出るようになっている。エスニック食材不足のために外国産食材を扱っているスーパーマーケットやレストランがジャカルタから姿を消すようなことがあっては絶対にならない。」とコメントしている。


「韓国レストランに強制閉鎖」(2008年11月25日)
最近、韓国料理レストランチェーンのガンガンスライが店を閉めた。これはエスニック食材入手難問題とは無関係で、税金滞納問題のためだ。ガンガンスライはTis Square, Pondok Indah Plaza, Auto Mall SCBD, Jl Cideng Timur, Mangga Dua Square, La Piazzaで6店を経営しており、そのすべてを都庁は強制閉鎖させた。都庁地方収入局はガンガンスライが2004年以来34億ルピアの都庁へ納付する地方税を滞納していると主張しているが、さらに事業許可の期限が切れたままになっていることおよび生活妨害事業法の手続きも更新しておらず、それらの規則違反に対して再三警告書を送ったにもかかわらず経営者は無視する態度を続けたために都側は6店を閉鎖する強制執行を行なった、と都庁観光局レストラン課長は補足している。都庁はガンガンスライ経営者に対して早急にそれらの義務を果たすよう要求し、納税と許認可手続きがなされるまで店の閉鎖は解かないとしており、もしあくまでも経営者側が対応措置を取らないなら都庁は店の資産を差し押さえて売却し、滞納地方税に充当させる、と表明している。しかしガンガンスライは国税である付加価値税(PPN)も滞納しているとの話が洩れ聞こえており、差し押さえ資産の競売でそれら総額が補填できるかどうかはわからない。
都庁地方収入局調査次局長は、ジャカルタには中規模資本以上の会社ステータスで営業しているレストランが5,561軒あり、税務面のコンプライアンスについてはそのうち15%が納税無視、35%が部分的にしか税務を行わず、完璧に税務を行なっているのは50%だと述べている。ファウジ・ボウォ都知事就任以来、都庁が税金滞納レストランに強制執行を行なったのはこれがはじめて。


「ジャカルタの飲食店は売上三割減」(2008年11月26日)
独立店舗やホテルあるいはビル内にあるジャカルタのレストランやカフェでは、売上が30%ほど低下している。これは輸入食材の価格が上昇を続けていることに加えて政府が特定の政策を進めているためであると推測され、その結果レストランのサービスに困難がもたらされることになった、とインドネシアホテルレストラン会首都支部長が発言した。「中国産メラミン含有ミルク流通の結果市場の輸入品チェックが厳しく行なわれたことから、他の国から輸入されていた食材や飲料にとばっちりが来た。アルコール飲料品は輸入関税調整で高いものになったために潤沢な入手がむつかしくなり、結果的にレストランが供するアルコール飲料は廉価な国産ビールに塗りつぶされた感がある。だがそれも潤沢な入手はできていない。政府の諸政策でカフェ・レストランは以前のサービスが続けられなくなっている。」
南ジャカルタ市ムラワイ通り周辺のカラオケ=日本レストランは40軒ほどあり、雇用従業員数は2千人にのぼる。ところが売上は30%ほど落ち込んでおり、雇用削減や営業中止の危惧が近付きつつある、と首都カラオケレストラン協会会長は述べている。


「アチェのカニ麺」(2009年1月16日)
ナングロアチェダルッサラム州西アチェ県に行くとインドネシアには珍しいカニ麺を出す店がある。カニ麺はインドネシア語でmi kepiting。この店はシーフード麺が得意メニューで、カニ麺のほかには貝麺やエビ麺がある。インドネシアでミー(麺)と言えばまずミーアヤム(鶏麺)、変わったところではミーウダン(エビ麺)あるいはミーバビ(豚麺)などがあり、異種としてソト(soto)にミーを加えたソトミーなどもあるが、ミークピティンは稀代のメニューだろう。
西アチェ県庁のあるムラボ(Meulaboh)のルンディン町(Kelurahan Runding)マカムパフラワン通り(Jalan Makam Pahlawan)にあるHarkat Syedaraという名の小さい食堂がその店だ。余所の地からその噂を聞いてやってきた人は、夜その店に行くのは避けたほうがよい、と地元民が言う。というのは、夜は地元民が集まってくるのでなかなか席に着くことができず、すきっ腹を抱えて苦しむことになるためだそうだ。
ミークピティンを注文する場合、客は生簀からカニを選ぶ。小さいので2百グラム、大きいのは一匹で2キロにもなる。1.6キロのカニを店主は4万5千ルピアで仕入れてきたと言うから、ミークピティンの値段も想像がつこうというもの。台所を覗くと、客が選んだカニを店主は無造作に切りさばいて洗い、鍋に放り込む。鍋にはまず油を入れてから刻んだにんにくとコショウを入れて火に載せる。香りが立ったら殻付きのままのカニの切り身を放り込み、そしてカニが浸るまで水を加える。鍋にふたをし、ときどきかき混ぜ、必要に応じて水を加える。カニが十分に茹で上がったら乾燥麺と野菜、そして粉コショウと塩、お好み次第で調味料を入れ、乾燥麺が食べごろになったらできあがり。鍋の中味を全部皿に移してから客のテーブルに載せる。もうひとつ空の皿と殻を割るピンチが出てくるのは、割った殻を置くためだ。フィンガーボールも出てくるから、手づかみでカニを愉しむのも一興だろう。通はまず、皿の底にたまった汁をスプーンですくってすする。カニの甘味がたっぷり溶け込んだこのスープは絶品だ。多くの店では麺の味付けにごま油や酒(arak)を少量加えるのが普通だが、この店ではカニ本来の味覚を愉しんでもらうためにできるだけ味付けを簡素にしている。
アチェに行く機会のなかなか持てないひとは、ひとつ見よう見まねでトライしてはいかがかな?


「やきめし炒飯ナシゴレン」(2009年1月23日)
チャーハンに対応する日本語を多くの日本人は「やきめし」と理解しているようだが、どうも何かが間違っている気がする。元来は握り飯を焼いた「焼握り飯」が「やきめし」と略されたのだそうで、チャーハンがどうして「やきめし」の別名を持つようになったのか判然としない。正確に言うなら、チャーハンは焼き飯と呼ばれるより炒り飯(いりめし)と呼ばれるべきではあるまいか。聞くところでは実際に炒飯(いためし)と呼ぶ地方があるそうだ。
中国語の炒は油でいためることを意味しており、鍋に油をたっぷり入れて熱する調理のしかたではない。天ぷらやフライのようにたっぷり油の入った鍋に調理される食品をどっぷり浸すのは日本語で「揚げる」と言い、中国語では炸という字が使われる。この文字の発音は北京読みで[ zha ](チャー)、福建読みも[ ca ](チャ)、広東読みは[ ja ](ジャー)だそうだ。つまり炒飯は中国でその調理法通りに名付けられたものだということである。
ところがこの料理が南洋島嶼部に伝えられたとき、nasi goreng(ナシゴレン)という名が与えられた。ゴレンというのは鍋に入れた油を熱して食品をカリカリにする調理法を意味しており、鍋に少量の油を入れて食材をしんなりさせたあとスパイスなどを加えていためることはインドネシア語でtumis(トゥミス)と言う。巷でgorenganと呼ばれている食品を見るとわかるが、tahu goreng, ubi goreng, pisang gorengなどいずれもたっぷりの油の中に食材が放り込まれている。だから文字通りゴレンという調理法でナシゴレンを作ろうとすると飯粒を油の海に放り込まなければならなくなり、こんな話を耳にするだけで胸焼けになるひともきっと出てくることだろう。ともかく、やきめしにしろナシゴレンにしろ、それらの名称の不思議を解明するのは骨が折れそうだ。
チャーハンはアジア文明の最高峰のひとつである中国から周辺諸国に伝播して行ったようだが、インド起源説を唱えるひともある。ともあれ、伝播して行った先では各地に地元の特徴豊かなローカル版が誕生した。中国ではニンニクと中国醤油というシンプルな味付けが主流で、日本に渡ったらニンニクと日本醤油の組み合わせに卵が加わった。タイに行ったチャーハンはパイナップルとレモングラスが混ぜられ、ベトナムでは味付けにニンニク、バワンメラ、ターメリック、おまけに他の地方でノニと呼ばれているムンクドゥの若葉が混ぜ込まれた。インドネシアは各地各種族がそれぞれに工夫をこらしたため、実に多種多様なナシゴレンが全国を覆うことになった。更にアラブ料理との融合まで起こり、ナシゴレンカンビンなるものまで編み出された。ヤギの脂肪から作った油で炒め、ヤギのコマ切れ肉を散らしたこのナシゴレンカンビンは絶品である。


「ナシゴレン理論」(2009年1月30日)
ナシゴレンほど平等主義的民主的な料理はない。この料理ほど「ああでなければならない」「こういうふうにつくらなきゃいけない」と大勢のグルメが薀蓄を傾けて押し付けてくるドグマチックなスタンダードから無縁なものは他にないのではあるまいか。ともかく何をどう混ぜ合わせようが「味がよければすべてよし」であり、さらに料理音痴を自称するひとが作ってもたいてい「そこそこいける」のである。要するに米飯が何かと一緒に炒められていれば、それはナシゴレンなのだ。
レストランに入って何を選ぼうかと迷い始めたら、時間の無駄は避けて「ナシゴレン!」と叫べばよい。いや、インドネシア人はそう言うのだが、はたして国際スタンダードになるかどうか?インドネシアに来て間もない日本人がローカルレストランに入り、メニューを見ても全部辛そうだからナシゴレンなら大丈夫だろうとたかを括って注文したところ、出されたナシゴレンを一口ほうばって目をシロクロさせた。なんとその店はナシゴレンの具に唐辛子のコマ切れを加えていたのだ。ともあれ、ナシゴレンは朝食・昼食・夕食・夜食のどの時間帯にも違和感がないし、バナナの葉にくるんでやればお弁当にもなる。子供はナシゴレンが大好きで、幼き日のノスタルジーを抱える大人だってナシゴレンが好きなのだ。オバマ新米大統領さえSBY大統領に語ったではないか。ジャカルタのナシゴレンが懐かしい、と。
「炒め料理に使われる味付けなら何だってナシゴレンに応用できる。ルンダン(rendang)スパイスでさえOKだ。」料理専門家ウイリアム・ウォンソはそう断言する。ナシゴレンは中国に由来するとウイリアムは語る。前日食べ残した飯、乾燥して固くパラつくようになった飯をおいしく食べようと工夫した成果がこれだそうだ。この話は焼ギョーザの由来のときにも聞いたような気がするのだが・・・・
さてバラエティに富むナシゴレンをわれわれはジャカルタでいながらにして楽しむことができる。中国本場の炒飯なら、スティアブディ1のMingレストランで揚州炒飯と福建炒飯を賞味できる。揚州炒飯は柔らか飯にインゲン・ネギ・卵・エビ・紅鶏の具が入り、味付けはニンニクと魚醤。福建炒飯は柔らか飯でも固飯でもお望みしだいで、具はシイタケ・牛肉・エビ・ブロッコリーといったもの。味付けはオイスターソースが使われる。ノスタルジックバタビアの雰囲気濃厚なKedai Tiga Nyonyaのナシゴレンは濃緑色。それもそのはず、味付けのベースは緑唐辛子とニンニク・コショウが練り合わされており、飯には卵とレーズンが混ざっている。変り種をお好みの向きには、南ジャカルタ市ガンダリア通りのストロベリーカフェがお奨め。このカフェは「なんでもストロベリー」を基本方針にしているから、出てくるナシゴレンにもイチゴが入る。味付けは唐辛子・ニンニク・トマトにイチゴを混ぜて練り合わせ、飯の具は鶏肉・バソそしてイチゴを刻んだものが入っている。タイのナシゴレンにパイナップルが入っているから、それをイチゴに変えてみたらこうなった、という店主の談。
しかしそのようなレストラン・カフェで何万ルピアも払わなくとも、路端の屋台で一皿7千〜1万5千ルピアのナシゴレンを味わうことだって可能だ。屋台ナシゴレンは概して油気が少なく米はパサパサだが、それなりの風情がある。これがナシゴレン平等主義のゆえんなのかもしれない。
ところが作家ウマル・カヤムはナシゴレン理論なるものを提唱した。自宅の台所で作るナシゴレンこそが最高のものなのだそうだ。「油はおかずを料理した残りを使え。バターなんか使うな。味付けは必ず味の良いトラシ(固形エビ醤)をすり鉢に放り込んで練り合わせろ。サンバルにはうまいトラシが絶妙だ。そして台所にあるあらゆるものを適当に見繕ってかき混ぜる。最高のナシゴレンはそこに誕生する。」
しかしバターで炒めたナシゴレンに強く食欲をそそられる向きはウマル・カヤムを恐れる必要もない。ナシゴレンにドグマは禁物なのだから。


「インドネシア料理でファインダイニング」(2009年2月6日)
かつてジャカルタで高級なインドネシアレストランはラデンサレ通り(Jl Raden Saleh)のオアシス(Oasis)と相場が決まっていたものだ。他にもスディルマン通りのホテル内にあるレストランなどいくつかお奨めの場所はあったが、10年前のクライシス以後ずいぶんと様相が変わってきた。都内に増加したファインダイニングインドネシアレストランはたいていノスタルジックに凝った内装で趣向をこらし、普通の家庭料理とは似て非なるソフィスティケートな味と盛り付けで優雅な美食の姿を演出する。
メニューは基本的に一般家庭料理なのだが、グルメの嗜好を満足させるものにしなければレゾンデートルを疑われるのは間違いないところだろう。中流層以下のインドネシア人が居心地良く食を楽しむ場所でないのは、かれらの大半が身銭を切るなら他の場所でと考えていることからも察することができる。「家庭でさえ同じようなものが食べられるのに、こんな高い金を払ってまで・・・」というのがかれらの本音であるようだ。クオリティを問わなければ、同じ名前の料理を2割前後の値段で食べることができるのも事実なのだから。
モナス北側の高架線路沿いヴェテラン1通り(Jl Veteran1)にダプルババエリート(Dapur Babah Elite)がオープンしたときには奇抜なインテリアが評判を呼んだ。骨董品愛好者には見逃せない場所だったにちがいない。その後このオーナーは2005年にメンテンのチディティロ通り(Jl Cik Di Tiro)にロロジョングラン(Lara Djonggrang)をオープンしてファインダイニングの粋を目指した。外国人客はたいていワインを飲みながらインドネシア料理に舌鼓を打つ。「それが抜群に合うんだそうです。」とロロジョングランの従業員は言う。
一方スディルマン通りのプラザセントラルビルに2005年5月5日開店したクンバングラ(Kembang Goela)も明るく洗練された店内で凝ったインドネシア料理を堪能させてくれる。ここはむしろハイソのインドネシア人に人気が高いらしく、来店客の6割はインドネシア人だと広報マネージャーは語っている。同じ系列でチディティロ通りにあるブガランパイ(Bunga Rampai)も古い民家を改造した明るい店内にインドネシア人客が多い。
そんな中で、今度は2008年2月、中部ジャワの宮廷を再現させたと謳うレストランハルマニス(Harum Manis)がマスマンシュル通り(Jl KH Mas Mansyur)にあるパビリオンアパートメントアーケード(Pavilion Apartement Retail Arcade)に登場した。この店の顧客は30%が日本人、40%欧米系、残りはインドネシア人だそうだ。インドネシア料理はほとんど辛味が真髄をなしていると言えるのだが、グルメの味覚を尊重するファインダイニングは辛味の調整もお手のものだから、辛味に弱いひとは遠慮しないで「辛味をマイルドにしてくれ。」と頼んでみてはどうだろうか。


「ロントンチャップゴメー」(2009年2月13日)
2009年2月9日は中国正月の15日で、正月の祝祭を締め括る日だ。華人はこの日盛大にお祭りをするから、ジャカルタコタに繰り出せばエキゾチックな唐人街の祝祭の中に身を浸すことができる。中国暦正月十五日はチャップゴメーと呼ばれる。
十五瞑、福建読みでチャップゴメー(cap ngoo me)、日本語に直せば十五夜となる。この日に欠かせない料理がロントンチャップゴメーだ。チャップゴメーは長いから十五瞑という漢字を使うことにする。ロントン(lontong)というのはバナナの葉で筒を作り、端を閉じて椰子の葉脈で止め、その中に半炊き米を詰めて蒸したものであり、サテを食べるときによくついてくる円筒形の飯を思い出せばよい。一方インドネシアでルバランのシンボルになっているクトゥパッ(ketupat)は椰子の葉先で編んだ四角い切り餅型の入れ物に生米を入れて煮る。多くの地方ではクトゥパッを神事祭事に関連付けているため普段の日常生活でそれを作ることはしないが、ブタウィ(ジャカルタ)では異なっている。おかげでジャカルタにはロントン十五瞑もあればクトゥパッ十五瞑にもお目にかかることができる。
中国学者ミラ・シダルタによると、華人たちは十五瞑の祝祭に古式に従って自宅を調え寺院に詣でて忙しい一日を過ごすため、食事を簡単に済ませようと考えたらしい。その用途にかれらが取り上げたのがジャワ料理のロントンサユール(lontong sayur)で、家庭でそれを作る際にかれらが普段使っている味付けや素材をそこに混ぜ込んだものがロントン十五瞑になったようだ。であるなら、まずロントンサユールという料理を一瞥しておくのも悪くないだろう。
この料理はジャワ島の各地でさまざまなバリエーションを生んだ。ジャカルタで一般的なのは、ココナツミルクとカレーの浮いたスープにハヤトウリやインゲン、ココナツミルクとスパイスで煮込んだ鶏肉やカレースパイスで煮込んだ鶏肉、味をつけた豆腐やテンペが添えられ、飯にロントンが使われたらロントンサユールでクトゥパッが使われたらクトゥパッサユールとなる。さらにその上に赤唐辛子とニンニクをあわせてすりつぶしたものにトマトを混ぜて炒めたサンバルが乗る。中部ジャワのロントンサユールには地元名物の黒エビ醤が加わるし、ソロ〜ジョクジャ方面では炒った大豆の粉末が散らされる。
ロントン十五瞑は都内随所に店を張っているサテハススナヤン(Sate Khas Senayan)で味わうことができる。ここは一年中メニューにロントン十五瞑が載せられているそうだから、今年2月9日を逃しても大丈夫。一方のクトゥパッ十五瞑は本場コタのグロドッ(Glodok)地区パンチョラン通り(Jl Pancoran)のグロリア(Gloria)ショッピングセンター周辺にあるGloria65やHosanaで食すことができる。ここもやはりクトゥパッサユールを年中主力メニューにしているから、十五瞑の日をはずしても問題ない。十五瞑の日は地元の華人たちが押しかけてくるそうだから、今頃のほうがかえってゆったりしているかもしれない。


「ジャワの猫飯」(2009年2月20日)
さおの両端に売り物を載せたかごをかけ、肩でその重いさおを担いで売り歩く担ぎ売りはインドネシアでも一昔前の風物詩となりつつある。売り物を担いで売り歩くことをジャワではアンクリン(angkring)と言い、そうやって売られる品物や担ぎ売りそのものはアンクリガン(angkringan)と呼ばれている。ソロやジョクジャへ行けばアンクリガンは庶民の日常生活に溶け込んでいる。だが最近のアンクリガンは売場を定めてそこへオートバイで売り物を持って行き、消費者のほうが欲しい品物を探して売場へやってくるようだ。刻苦勉励の担ぎ売りはどうやらもうあまり流行らないご時世なのだろう。
アンクリガンの売り物はたいてい飲食品や日常生活用品で、特に飲食品はお客が買ってその場で食べられるように、売場の横にござや布を敷いて座を作って待っている。売場といっても道路脇の歩道がメインだから、ござや布が敷かれるのも歩道の上だ。店がシャッターを下ろすとその店の前の歩道に堂々と食客用の座がしつらえられる。ジョクジャのマリオボロ通りもその例にもれない。
そんなソロやジョクジャのノスタルジーに浸ることのできる場所が南ジャカルタ市のファッマワティ(Fatmawati)通りやポンドッキンダ(Pondok Indah)の商店街近辺に誕生している。そこでの人気商品はナシクチン(nasi kucing)。ナシクチンは文字通り『猫飯』で、つまり猫が食べるような少量のナシブンクス(nasi bungkus)のことを意味している。
2006年、南ジャカルタ市ITCファッマワティから5百メートルほど離れた場所で、中部ジャワ州スラゲン出身の男がナシクチンファッマワティを開業した。開店でなく開業と言っているのをご理解いただきたい。商店が閉めた後の歩道の上がかれの店なのだから。かれの仕込んできたナシクチンは少量の飯にやはり小さいバンデン魚のフライの身とサンバルトラシが添えられたもの、あるいは少量の飯に揚げテンペとサンバルトラシが添えられたものの二種類で、それが円錐形に包まれている。それ1個が2千ルピアで、たいていの客は3〜4個平らげる。金はあるからもっとおかずがほしいという客のためにサテや揚げ物がいろいろ用意されており、こちらは猫サイズでなく人間サイズなので、1個2千ルピアで売られている。
飯を食うのに飲物なしということはない。アンクリガンナシクチン売りは必ず暖かい飲物を用意している。なにしろ営業は常に夜なのだから。平日は17時半にオープンして午前1時に閉めるが、週末は閉業時間が午前2時半になる。この暖かい飲物はジャワ語でウェダン(wedang)と呼ばれる。メニューはさまざまで、甘い紅茶・しょうが茶・ミルク・しょうがミルク・コーヒー・しょうがコーヒー・ミルクコーヒーなどがあるが、ナシクチンファッマワティのきわめつけはウェダンスチャン(wedang secang)。スチャンというのは蘇芳の樹で、飲物に使われるのはその根。根を水に入れて熱し、シナモンとシトロネラにしょうがを少々加えて煮立てた後、およそ1時間くらい冷やす。根を入れて長く置いておけば置くほどその水は赤みを増していく。このウェダンは練乳を加えて飲む。ジャワではあらゆる病に効くと言われており、またそれを飲むと身体が暖かくなってくる。この店は一晩の売上が150万から200万ルピアだそうだ。


「ジャワで溶け合う世界の食べ物」(2009年2月27・28日)
文化の十字路に位置するインドネシアを長い歴史の年月の中で往来した諸民族がもたらしたさまざまな文化は、ジャワの食卓における多様性となって結実した。ジャワ住民たちはどうやら偏狭な伝統主義よりも異文化の新奇なものに広く門戸を開放したようだ。その性向はまちがいなくインドネシア人の特徴のひとつに数えられており、現代にまで受け継がれている。海の外からやってくる新奇なものに対する旺盛な好奇心は、ひょっとすると島国に住むひとびとに共通するものなのかもしれない。だからといって、海の外からやってくる人間を諸手をあげて受け入れるかどうかは別問題なのだが・・・。
中部ジャワの田舎で行なわれる地元民の家族の祝祭スラマタンに招かれるとユニークな飲食品の組み合わせを目の当たりにする。べセッ(beset)と呼ばれる竹編みカゴに家庭で作られた地元料理が盛られて並べられている。スラマタン主催者は招いた客に祝祭の場で十分に飲み食いしてもらい、帰りには手土産を持ってお帰りいただこうとして、べセッに飯、おかず、果物、菓子などを山盛りにする。おかずにはチャプチャイやミー、ルンダンダギンにカリダギンあるいはサテ、そして揚げパンや蒸しパン、肉ソボロ入りのクエから甘いもの、とバリエーションには事欠かない。そのさまざまな料理を前にして、われわれはそれら食品の由来を思い浮かべる。チャプチャイ(capcai)は雑菜、ミー(mi)は麺であり、中国料理に由来しているのは疑いない。チャプチャイもミーも福建語だが、チャプチャイは十菜でなく雑菜が正しい。ルンダンダギン(rendang daging)やカリダギン(kari daging)そしてサテ(sate)はインドあるいは中東起源であり、パンやクエはヨーロッパから来たものだ。
中部ジャワの結婚式で来駕の客にふるまうべき飲食品の順番を表わす言葉がある。老人たちが若い世代に教える「客へのふるまいはusdekで行なえ」というのがそれだ。
ジャワの民衆が行なっている格式を持たせた食事のスタイルは地元でウスデッ(usdek)と呼ばれている。それは下の頭文字を並べたものだ。
unjukan は飲物
snak はスナックを語源としているが、これはオードブルやスープと理解されている
daharan は飯とおかず
es は冷たく甘いデザート
kondur は客のお帰りを意味しており、手土産に持たせるお菓子など
このウスデッはヨーロッパ文化に由来する現代人の正餐と変わらない。ジャワ人の慣習にそのような食べ物の順番に関するものは一切なく、植民地時代に西洋人支配階層が示した様式をかれらがウスデッとして取り入れたことがうかがわれる。snakやesは元々snack、ijsというオランダ語から来ており、スネック、エイスと発音される。スネックは軽食・間食・おやつを、エスは氷を意味しているのだが、それらの言葉がそこに登場するのはヨーロッパ文化の影響でなくて何だろう。
ジャワ文化に見られる異文化流入の痕跡は19世紀以来たくさんの文化学者が追究するテーマのひとつになった。ジャワのひとびとの日常生活の中に見られる地元伝統文化と思われない事象の発見が学者たちに異文化融合プロセスという解明すべきテーマを与えたのである。1811年にトーマス・スタンフォード・ラフルズがインドからやってきてジャワの文化に深い観察の目を注いだとき、ジャワにインド文化と同じ根を持つ事象を見出した。インド文化がジャワの地に到来して地元民に影響を及ぼしはじめたのは西暦4世紀ごろと見られており、当時かなり大規模な人間の移動が行なわれたことが推測されている。
中国とインドを結ぶ交通の流れの中間に位置していたジャワには中国文化も流入してきたが、スパイスがヨーロッパ市場に流れ込むための根拠地となっていたアラブ半島との接触も起こった。そしてみずからスパイスを求めて大海に乗り出してきたヨーロッパ人のもたらした文化は16世紀以降のジャワ人の暮らしに大きな影響を与えずにはおかなかった。インドネシアにあるさまざまな島のうちでジャワはそれら外来文化がもっとも集中的に流入した場所だ。学者たちがジャワ文化を解剖して取り出した切片の多さ多様さには郡を抜くものがあり、この島に積層された文化の厚みに匹敵する地はインドネシアで他にない。ヒンズー・仏教・イスラム・カソリックなど宗教面での多様さひとつを取っても、それを実証するものだと言えるだろう。


「ルンピアスマラン」(2009年3月6・7日)
中部ジャワの州都スマランに、全国を制覇した食品がある。どこの町へ行こうが、春巻きを作ってlumpia Semarangという看板を掲げれば、必ずだれかが買いに来るという代物がそれなのだ。春巻は本来中国由来の食品で、マンダリンではchunjuanと発音するがインドネシアではルンピアと呼ばれている。ルンピアという語は福建語に由来しており、潤餅と書いてlunpiannと発音されるがインドネシア人の言語体系に入ってルンピアと変化したようだ。インドネシアでも植民地時代にはloenpiaと書かれていた。1920年ごろにはオランダ領東インドでスマラン名物のひとつにルンピアが入っていたというから、たいへんな由緒を持つものにはちがいない。ジャワにはバピア(Bapia)、ポピア(Popia)、スピア(Supia)などピアの語がつくおやつがたくさんあり、それらは中国由来の食べ物ではないかと推察される。バは肉、スは酥(ソ?)の文字があてられるのではないかとわたしは想像するのだが、ポが何なのかはよくわからない。
言うまでもなく春巻はどこの家庭でも簡単に作ることができるので、どこの店のものが天下一品などと言われるような食品にはあまり属さないような気がわたしにはするのだが、スマランではLoenpia Gang Lombok, Loenpia Jalan Pemuda, Loenpia Mbak Lien, Loenpia Jalan Mataramなどとそれぞれの店が老舗や味の良さで研を競っている。
ルンピアがスマラン名物になった由来は19世紀末にさかのぼる。大陸からスマランに移り住んだチョア・タイユーが手がけた商売がルンピア売りだった。チョアという姓は蔡の福建読みだ。タイユーがスマランのパサルへ来てみると、ジャワ人女性ワシ(Wasih)も同じものを売っていたのでかれは驚いた。つまりルンピアはずっと昔からインドネシア現地人が食する食べ物になっていたのである。
中国由来の潤餅はいつの間にかインドネシア人が食べる料理になっていたのだ。ただしムスリムが大半のインドネシア人に豚肉の入ったルンピアは売れない。ワシが売っていたルンピアの中味はジャガイモとエビで、タイユーが売ろうとしていたルンピアの中味は本場のレシピー通り豚肉とタケノコだったのだ。そんな縁でタイユーとワシは夫婦となり、商品もムスリム向けのものに変わっていった。ふたりの間に生まれたのがチョア・ポニオで、この娘はシム・クアンシンと結婚して家業を継ぎ、ルンピアのバリエーションを増やしてルンピアスマランの名声を高めた。その子供たちが開いた店がLoenpia Gang Lombok, Loenpia Jalan Pemuda, Loenpia Jalan Mataramの三つ、Loenpia Mbak Lienはジャランプムダの店員が暖簾分けして出した店だそうだ。
結局ルンピアスマランは大陸の潤餅から豚肉が抜かれて鶏肉とエビに入れ替わるという現地化が行なわれた。必然性に応じた異文化融合が起こったのである。似たようなことはプカロガン(Pekalongan)のユニークなbubur kacang hijauにも見ることができる。kacang hijauは文字通り緑豆で別名はムング豆。buburは粥でこれはつまり豆粥の一種なのだが、bubur kacang hijauはたっぷりの水に緑豆を入れて甘く煮込んだ一種のゼンザイ様の食べ物であり、甘い味付けのものを食事と見なさない文化でそれはおやつにしかならない。ところがインドネシアにある華人商店街では巡回豆粥売りからそれを買って朝食にする店員も数多い。プカロガンで食べることのできるbubur kacang hijauはグライ(gulai)のスープで煮込まれたもの。甘いのが普通の緑豆粥が甘くないココナツミルクとカレーの中に入っているのに面食らうインドネシア人も多いそうだ。これはアラブ料理との融合が生んだバリエーションらしい。


「ブロッケムを庶民のフードセンターに」(2009年3月10日)
南ジャカルタ市はクバヨランバルのブロッケム(Blok M)をブタウィ・インドネシア・外国料理のフードセンターに育成する意向。ムラワイ9通りの「夜明け前クエ市」がきわめて雑然としていて汚く見映えが悪いことから、市庁はまず最初にこの市の整備に着手する考え。公共施設である道路の一部を占拠して商売をしているカキリマ商人たちは不法行為を行なっているので強制撤去するという従来のロジックは一転してしまったようだ。ブロッケムの「夜明け前クエ市」は午前5時から8時まで3時間ほどしか営業しないものの、180人前後の商人があげる3時間の売上は5億ルピアに達するとのこと。
フードセンターとしてのブロッケム整備は、ムラワイ1通りをメインエントランスとし、ムラワイ3通りをブタウィとインドネシア料理エリアとする。そしてムラワイ5とムラワイ7通りはアジア料理や西洋料理のセンターと位置付けるという計画。このフードセンター企画の中心となるのは屋台料理販売者たちであり、ジャカルタ商工会議所会頭はこの企画を支援するためにかれらカキリマ商人たちの資金調達をバックアップし、またその他の援助を提供すると表明している。


「ジャワの農家は食堂がない」(2009年3月13・14日)
トーマス・スタンフォード・ラフルズが1817年に著した『ジャワの歴史』には、ジャワ農民は自分の家で朝食を摂らない、と記されている。農民たちは陽射しが暑くなる前に農作業をはじめるため、朝食は田や畑で摂るのが普通だからだ。1890年代のジャワの様子を紹介したオーギュスタ・デ・ウィットはジャワ人の朝食について、かれらは朝川で水浴したあと、その場で朝食を摂る、と書いている。
スマラン国立大学ジャワ文化専門家は、ジャワ人は住居の中に食事をするための固定的な場を設ける考えを持たなかった、と言う。農業文化の中にいたジャワ人は生活環境の中に食堂という場が必要だという考えを持たなかった。なにしろ朝食だけでなく昼食さえも田んぼで摂ったのだから。食に関して住居の中に必要とされたのは台所だけで、調理したものは農作業現場に持っていって食べるという実用本位がかれらの生活習慣を形成した。田畑で食事を摂るという習慣のせいで、食事の際の姿勢は無作法なものになった。田の畦や草の上で石や木にもたれて座り、地形次第では足を伸ばして高く置くような姿勢も取られ、でなければ地べたにあぐらをかいて座り、スプーンなど使わず手づかみで食べ・・・・、家で食べるときでさえそれが普通になった。
ジャワ人という人種をジャワ島内に土着しているすべてのひとびとと思ってはいけない。西ジャワ州はスンダ人の国であり、スンダ人は人種的文化的にジャワ人と異なっている。ジャワ人はスンダを山地ジャワと呼んで区別している。2000年に西ジャワ州から分離したバンテン州も歴史の中でスンダとは異なった道を歩んでおり、文化面人種面でユニークな集団を形成している。西ジャワから分離したこと自体がその非一体性を雄弁に物語っていると言えるだろう。ジャカルタは西ジャワの中にあるからスンダの一部だと思ってはいけない。オランダVOCの根拠地作りの歴史の中でこの港湾都市もブタウィ族という独特な種族を生み出した。ジャワ人と一般に呼ばれているのは中部ジャワから東ジャワにかけての土着民を指しており、地域差はあるものの基本的に同一種族とされている。ジャカルタやバンドンの住民が「ジャワへ行く」と表現するのに出くわしても、上のような事情が呑み込めていれば奇異の感に打たれることはあるまい。
ジョクジャの農村部へ行けばいまでも食堂のない農家にいくらでもお目にかかることができる。食堂がないばかりか、食べ物を置くテーブルさえ家の中に見当たらない。食事をしたい者は台所で飯とおかずを皿に取り、自分の好きな場所へ行って好きな姿勢で食べる。家の表、客間、台所、どこで食事をしようとふさわしいかどうかなどという斟酌はだれもしない。一家が一堂に会して食事をするというコンセプトをかれらは持っていないのだ。
昔、ジャワの農村で家を建てるとき、家屋設計の中に食堂という概念は存在しなかったが、このグローバル時代にいつまでもそのままということはない。というよりも、植民地支配者が持ち込んだヨーロッパ文明の光がジャワ農村に差し込んだとき、かれらは食事ということがらの別の観念にはじめて接したようだ。ヨーロッパ人行政管理者、地主、農園主などがジャワの田舎で生活するようになり、そのお館で営まれている生活習慣をそこの使用人になって目の当たりにしたとき、見よう見まねでそれを取り込もうとする者が出現するのも自然の成り行きだったにちがいない。だが形と原理は裏表の関係にあり、原理が模倣されなければ形は歪む。
農作業から離れて田舎町に住むようになった農民は家の中に食事のための場を用意するようになるが、生活行動としてのその使い方は農家にいたときの習慣から抜けきらなかったようだ。台所の延長として空間が設けられ、テーブルも置かれて食卓として使える形は整ってきた。しかし依然として家族全員が一堂に会してというスタイルは根付かず、普段は物干、オートバイ、収穫期には籾米などが所狭しとその一角を占領した。普段の家族の生活は相変わらずそれぞれが食べたいときに台所へ行って皿に飯やおかずをよそい、家の中の好きな場所で椅子・縁台・床などに好きなかっこうですわり、好きなように食べる。来客に食事を供するとき、はじめてそのテーブルが確実に食卓として機能した。客を迎えた側が客の相伴をする場合もあれば客をひとりにして食べさせることもある。現代インドネシア文化からすれば、ひとりで食事をさせられるというのはたいへんなぎこちなさを覚えてたいてい食事がまずくなるのだが、これはジャワ農民側から言わせると大いなる尊敬を表しているのだそうだ。その感覚的な差を縮めようと配慮して、一緒に食事はしないが客の話し相手になるために同席するひともいる。ジャワ農民のこの価値観はムラユ文化と相容れないものであるようだ。
ジャワ農民の食事に関するコンセプトは、空きっ腹に食べ物を入れるという個人の生理的欲求を満たすことを最重点原理としていたように見える。その素朴で純粋な目的を満たすのに、礼儀作法やマナーやその他のありとあらゆる儀礼よりも当人の自由を優先するという考え方がその文化を構築したにちがいない。堅苦しい食事姿勢、テーブル上の食器の扱い方に関するマナー、食堂のあり方やその機能、家族の関わり合いかたやそのシンボルとしての一家が集う食卓・・・・。ジャワ人一般庶民の生活様式とその底に流れている生活観がかれらの持っている食事文化の向こうにほの見えてくるようだ。


「ブブルバリ」(2009年3月20・21日)
bubur Baliつまりバリ風お粥というのが今回のタイトルである。お粥というのは世界中のほとんどの民族が身近な穀物を使って作っていたようだ。英語のporridgeをひとつ覚えにして香港へ行ったところ、ホテルのレストランでcongeeという表示を目にして面食らったことがある。正しい発音は「カンジー」だそうで、ウエブスター辞典は語源をインド語としている。ヒンディはganji、タミールはkanjiだそうだから、イギリス人がインドで仕入れた言葉を香港の米粥に当てはめたのかもしれない。どうやらそのカンジーはインドネシアでもkanjiという言葉として受け入れられたようなのだが、現代インドネシア語でkanjiは衣服につけてパリッとさせる糊のことを指すケースがもっぱらなようで、サゴ澱粉で作るものが標準らしいが米であれ他の澱粉であれ、どろっとして粘つくもので糊に使えるならkanjiと呼んで間違いないそうだ。類似のものを指す言葉にtajinというものがあり、少なくとも日本語の重湯はtajinに該当するようで、それをkanjiと呼ぶとインドネシア人に妙な顔をされる可能性が高い。少なくともインドネシア人はkanjiを口に入れないものと理解しているにちがいないとわたしは思う。
さてそれではムラユ文化でbuburと呼ばれているものが日本語の粥という言葉とぴったり一致するかというと、どうやらそうでもない。buburというのは固体を多量の水でどろっと溶かしたものを指しており、食用でないものにもその語が用いられている。bubur kertas, bubur Bordeaux, bubur Burgandiなどというものがその例で、そんなものを食べると生命の保証はない。食用としてはbubur ayam(鶏スープの米粥)やbubur sura(イスラム新年を祝ういろいろな具の入った米粥)などが日本の粥の概念に近いものだ。他にはbubur kacang hijau(緑豆のぜんざい)、bubur ketan hitam(黒米の甘粥)、bubur sumsum(米粉の粥で甘くして食べる)などはおやつであり、あずきで作るぜんざいはインドネシアでbubur kacang merahと呼ばれる。
インドネシアでは地方の特色を持たせたブブルがいろいろある。ブブルマナドは知名度でトップクラスだが、それ以外にもオラが地元のブブルの特色を競っているのが実情だ。バリにもブブルバリがある。ブブルをあまり食事とは考えないバリ人も、デンパサルのこの食堂だけは例外扱いしているようだ。
デンパサル市ドゥルパディ通り(Jl Drupadi)にあるワルントレスニ(Warung Tresni)は午前8時から夕方まで開店しているが、ブブルバリを食べたかったら午前中に行け、とブブル愛好者は言う。
ワルントレスニのブブルは、米を多量の水で煮てサラムリーフで香りをつけるだけのきわめてシンプルな粥だ。ところが付け合せのおかずがすばらしいのである。ウラップ(urap)という湯がいた野菜や芋に削ったココナツの実と薬味を混ぜた料理がある。ワルントレスニでは野菜にシンコンの葉と長豆が使われ、そこに揚げピーナツと揚げ臓物そしてポップコーンが載る。ポップコーンはニンニクをからめてから油で炒めたもので、おやつのポップコーンとは大違い。さらにグチョッ(gecok)という名のおかずも付いてくる。これは鶏肉を長く割いたもの、鶏脚のブイヨン、ココナツミルク、薬味を混ぜたもの。薬味はバンウコン(kencur)、コリアンダー(ketumbar)、シャロット(bawang merah)、ニンニク(bawang putih)そして焙ったココナツの果肉を混ぜたもの。
それらの食べ物はバナナの葉に乗って出てくるのが由緒正しい食べ方であり、ワルントレスニももちろんバリの古式豊かな作法を守っているが、バナナの葉は皿の上に載っているという心憎いまでの気遣いだ。同じバリの中でも地方によってブブルの内容や味に多少の変化がある。ワルントレスニはデンパサルの味付けを守っている、と店主は言う。この店にブブルを食べに集まってくるバリ人たちが言うには、ワルントレスニのブブルバリは天下一品であり、ポップコーンの入った味付けがすばらしいのだそうだ。


「ウィンコババッ」(2009年3月27・28日)
わたしがその素朴な餅風の焼き菓子をはじめて口にしたのは1970年代初めのことだった。ローカルスタッフがお土産に持ってきたのだろう、事務所でわたしにもひとつおすそ分けがあり、袋状の包装紙の表に汽車の絵がついているのは興ざめだったが、味わってみて「フム、これは悪くない」と思った。それがスマラン名物ウィンコババッ(Wingko Babat)に接したわたしの初体験だ。当時babatという言葉を臓物の意味でしか知らなかったわたしはその名称にも興ざめしたのだが、それは誤解であることがあとでわかった。
Wingkoというのはその焼き菓子そのものを言うジャワ語名称らしく、インドネシア語大辞典(KBBI)にwingkoという言葉は採録されていない。この菓子のレシピーを書いておくので、まだこの菓子を知らない読者にもそれがどんなものなのか想像していただけるものと思う。この菓子は発酵プロセスがなくまた溶き卵からも無縁でその固さに影響を受けることもないので、だれが作ろうと出来不出来がほとんどないという料理音痴にとってありがたい菓子だと言えよう。ところがもち米の歯ごたえとココナツミルクのウマミがあいまってそのおいしさには比類がなく、加えてバニラの香りが食欲を掻き立ててくれる、とレシピー作成者は書いている。
材料: もち米粉500グラム、サゴ粉50グラム、砂糖350グラム、やしの実1個から採ったココナツミルク一番搾り250cc、若くないやしの果肉を削ったもの350グラム、マーガリン小さじ1杯、パンダンの葉1枚を縛ったもの、塩小さじ半分、バニラのペーストまたは粉を小さじ4分の1杯
ドウの上に塗るもの: 卵の黄身2個とマーガリン小さじ半分を均等に混ぜ合わせておく。
作りかた: 1)ココナツミルク、砂糖、塩、パンダンの葉を少しどろっとする程度まで沸騰させる。 2)別の容器でもち米粉、サゴ粉、やしの果肉、マーガリン、バニラを均等に混ぜあわせておき、そこに1)で作った液体を少しずつ注ぎ込む。注ぎ込みながら全体をかき混ぜてならし、なめらかにする。 3)バナナの葉かケーキ用紙を敷いた焼型に2)で作ったドウを入れて平らにする。 4)160℃のオーブンで20分間焼き、焼型を一度オーブンから出して卵とマーガリンを混ぜたものをドウの上に塗り、もう一度オーブンに入れて25分間焼く。ケーキが茶色がかった黄色に焼き上がったら、型から出して冷ます。手ごろなサイズに切り分ければウィンコのできあがり。
スマラン名物ウィンコババッは長い歴史を持っている。ババッはbabatともbabadとも書かれるが、正しいのはbabadだった。このbabadという名は東ジャワ州トゥバン(Tuban)に近い小さな町Babadに由来している。
日本軍政下の1944年にババッの町で暴動が起こり、その難を避けてある華人一家がスマランへと逃れた。一家の主テー・エッチョンと妻のルー・ランホワ及びふたりの子供たちで、四人はスマランにあるエッチョンの実家に身を寄せた。当時その家があったのはオーステルワル ストラアトで、その後ジャラン プルウォディナタンティムルとなり現在はジャランチュンドラワシと名を変えている。エッチョンはスマランのタワン駅とスラバヤのパサルトゥリ駅を往復する鉄道列車の修理工場に職を得たが、一家を養うのに十分な収入ではなかった。頭も身体もこまめによく働くエッチョンの妻ランホワは家計を助けるために何かしなければならないと思った。実は、ランホワの両親はババッで名前の知られたウィンコ製造販売者で、ランホワは結婚前からその手伝いをしていたからウィンコ作りは身体が覚えている。その当時スマランでウィンコを売っている店はまだなかった。
そんな状況に後押しされて、エッチョンとランホワは1946年にウィンコの製造販売を開始した。エッチョンはウィンコを担いでスマランの街中を行商したが、タワン駅の売店にも商品を委託した。列車が止まるたびに販売員が商品を持って車内を巡るのである。この習慣はジャワで鉄道に乗ってみればわかるが、いまだに続けられている。
スマランでのウィンコ販売はヒットした。リピート客はたいてい商品名を尋ねる。故郷のババッではウィンコという名しか持っていないこの焼き菓子にエッチョン=ランホワ夫婦はノスタルジーをこめてウィンコババッという名を付けた。駅で鉄道客に販売したのが奏功してウィンコババッは国中に散らばって行き、おかげでスマランから遠く離れた地方のひとびとがそれをスマラン名物に祭り上げてくれた。「えっ、スマランへ行くんだって・・・・。じゃあお土産はウィンコババッを頼むよ。」宣伝費用をかけることもなくここまで全国的に知名度を高めたローカル商品はそう多くないだろう。いや、一ローカル商品にとって全国規模の広告宣伝など思いもよらない時代だっただけに、それが起こり得たのかもしれないが。
最初エッチョン=ランホワ夫婦が製造販売していたウィンコババッは焼き菓子を白紙に包んだだけのものだったが、評判が高まるに連れて商品名やロゴを刷り込んだほうがよいという声が高まってきた。ある日エッチョンが、鉄道当局が乗客の声を集めるために配るアンケート用紙をタワン駅から家に持ち帰ってきた。そのアンケート用紙は一綴りに糊付けされ、カバーに汽車の絵が描かれている。ランホワはその絵に惹かれた。「あら、上手に描けてるわねえ。鉄道にものすごく縁の深いウィンコババッにはもってこいだわ。」
汽車をロゴマークにしSpoor(鉄道)印と書かれたウィンコババッは後になって当然ながらオランダ語からインドネシア語のKereta Api印に変更された。何かひとつがヒットするとその類似品が続々と世間に出てくるのがインドネシア社会だ。同じようなウィンコが同じような汽車の絵のついた紙で包装されてどんどんスマランの町に登場してきたから、ウィンコババッ関係者は当惑し、消費者は混乱した。そのためランホワは包装紙に夫のインドネシア名Dムリヨノと父の名ルー・スーシアンを書き足した。D Mulyono d/h Loe Soe Siangというのは、ババッで名の知られた父スーシアンのウィンコを夫のムリヨノが継承した商品であるという意味だ。いまや、タワン駅にほど近いチュンドラワシ通りにあるウィンコババッの店は買い物客が絶えない。


「食糧危機にも生き残れるジャワ農民」(2009年4月3・4日)
食卓に並ぶさまざまな料理。あなたが口にするそれらの食べ物がいったいどこから食卓までやってきたのかをあなたは説明することができるだろうか?たとえば即席麺。主原料に使われている小麦はいったいどこで成育し、どこで粉にされ、どこの工場で麺に加工されたのだろうか?そしてどこの町のスーパーやハイパーマーケットまで運ばれてあなたの家族がそれを買ったのか?それが通ってきた加工や運搬の道程には必ずエネルギー消費が関わっており、必然的に資源の枯渇や環境汚染そして地球温暖化などのグローバル問題を招きよせている。いやそれどころか、安いと思って買っている即席麺にどれほど巨大なコストがかけられているか、という面も忘れてはならない。食事にフードマイルズというコンセプトを持ち込むことは、グローバルな食糧問題と地球環境問題の将来を考える上で欠かせない要素だ、とスマランのスギヤプラナタ・キリスト教大学食品科学教授は語る。
都市部でのモダンライフスタイルは食事に画一性を持ち込み、それは農村部へもひたひたと浸透しつつある。しかしかつて農村部にあった食事こそ、この問題に解決をもたらす糸口なのだ。食材はすべて近在近郷で採れたものであり、それを料理した主婦に尋ねれば食材がどこから来たものかがすぐにわかる。たとえばご飯。米を買ったのはどの店で、それはどの米貯蔵倉庫から店に来たのか、精米所はどこだったのか、籾米はどこの貯蔵倉庫から持ち込まれたか、籾米乾燥場はどこだったのか、そして果てはどこの田んぼで収穫されたのか、そのようなことを追跡調査するのは難しくない。もっと調べたければ、苗はどこから、肥料はどこから、水は・・・・、と関連要素までが明らかになり、食卓にある飯の加工経路図が完璧な形で描き出される。都市生活だとそうはいかない。食卓で背景のまったくわからない飯と対面するだけなのだ。
ジョクジャ特別州グヌンキドゥル県ポンジョン郡へ行くと、あらゆる食材の身元が明らかな暮らしを目の当たりにすることができる。一夜の宿を請うたタムジス家で食卓に並べられた多種多様な料理はすべて近隣で採れた材料を使っていた。この地方でテンペはパチェ(pace別名ノニあるいはムンクドゥ)の葉かチークの葉に包まれ、バナナの葉の葉脈で縛られる。もちろんこの地方でもっともありふれている木はパチェとチークであり、それはバナナの葉より廉価であるにちがいない。乾季に容易に手に入るのはきっとそれらの葉なのだろう。それらの葉がテンペの発酵作用にどんな風味を加えているのかということも調査テーマとしては面白いにちがいない。国産大豆を使ったテンペのほうが輸入大豆を使ったものよりうまみがあるということを大勢のひとが指摘している。
食卓に並んだ料理の中になんと揚げたバッタが混じっている。はじめてそれを目にしたひとは驚くに違いない。バッタももちろん地元で採れる食材なのだ。
バッタは内臓を取り除いてからそのまま油で揚げるか、あるいは味付け汁に浸けてから揚げる。この地方で揚げバッタは容易に入手できる食品であり、素材のバッタも街道を走れば道路脇でたくさん売られているのを目にすることができる。たくさんのバッタをひもでつないですだれのようにしたものを棒の先につけて売っているから、面白い見ものにもなるし、なにしろよく目立つ。この地方で揚げバッタは比較的高価な食べ物であり、小袋入りひとつで6千ルピアもする。皮が固く身があまりないから、ボリボリと食べる感じだが、うまみがあって結構いける。昆虫を食うということに怖気を振るうひとも少なくないが、この地方では他の蛋白源が限られていたのだろう。もしそうでなければ長い歴史の中で姿を消していてもおかしくないというのに、それがいまだに健在であり続けるのは何らかの必然性の結果であると考えざるを得ないではないか。
ルンペイエも他の地方では小麦粉が使われるのが普通だが、ポンジョン郡では地元で採れる米の粉が使われるのがもっぱらだ。小麦粉よりも歯ざわりが固いが、ここのひとびとはそれが当たり前だと思っている。他の料理もおやつも、ほとんどすべて地元で採れる食材が使われている。
元々人間は自分が生活しているエリアで手に入るものを食べてきた。グヌンキドゥル県ポンジョン郡にあるような食生活が人間のふつうのあり方だったのだ。交通が盛んになり交易が活発化しても、それは身近に手に入る食材を豊かにすることに貢献したとはいえ、遠くの世界からもたらされる食材で持続的に生活を営むことはできなかったはずだ。だから人間の食生活の原理が大きく変化していったのはほんの百数十年前のことではなかったのだろうか。産業革命の延長線上でもたらされた工業化や大量輸送、そしてライフスタイルを画一化の方向に押し流していったグローバリゼーションなどといったステップを経て、いまや人間の食生活のあり方は一変してしまった。世界が人類の必要とする食糧を提供できなくなったとき、食糧の自給自足が人類サバイバルの原理にふたたび鎮座することになるだろう。ジャワ農民は昆虫をも食べながら生き残るにちがいない。


「サンバル」(2009年4月10・11日)
インドネシア人の食事に欠かせないものがいくつかある。まず米の飯で、サンドイッチを食べようがスパゲッティを食べようが、米の飯にありつくまでは食事をした気がしないというのがインドネシア人の食に関する生理だ。だからインドネシア人の「まだ食事をしていない」という言葉に容易に同情してはならないのである。かれらは腹の虫を抑えるためにバミやバソを食べていながら、それを食事と認めないためにそんなセリフが口をつくのも稀ではないからだ。とはいえ、新たなライフスタイルになじんだ子供たちが成長してきているから、この原理はかなり侵食されつつあるように思われる。
もうひとつが必ずかれらの食卓に登場するサンバル(sambal)で、サンバルのない食生活はかれらにとってきっと異常な人生であるにちがいない。サンバルあってこそ食卓のおかずがはじめておいしく感じられるのだとかれらは言う。だからインドネシア人の食卓には必ずサンバルがある。立派なインドネシア料理レストランから飯屋ワルンまで、サンバルを用意していない店はない。ただしここで言っているサンバルは広義の意味であり、サンバルを持ってくるよう店員に頼むとチリ(唐辛子)ソース(saus cabai)やら素材たる唐辛子そのものが出てくる店もある。まあそこまで行けば、気持ちの問題というやつだろう。本来のサンバルというのは、唐辛子をすりつぶして塩その他の調味料や食材をお好みで加えて作られた薬味である。日本語の薬味というのは食物に添えて風味を増し食欲をそそる香辛料を意味している。ついでながら香辛料とは辛味や香気を付加する調味料であり、その調味料という日本語の定義は食物の味を調えるための材料を意味している。すると薬味というのは材料のことを言っているのだろうかという疑問が生じてくるのだが、このように日本語大辞典をめくりながら言葉の意味を追いかけていくとどこかでピントがずれてくるのはどうしても避けられないようだ。
本来のサンバルというのはさまざまなバリエーションがあるが、基本材料はすり鉢でつぶした唐辛子で、塩・砂糖などの調味料にシャロット(bawang merah)・キャンドルナッツ(kemiri)・あるいはトマトやトラシ(エビ醤)その他好みのスパイスを加え、そのまま供したり油で熱したフライパンで炒めたり、種類によってはココナツミルクに浸して煮詰めたりする。中にはサンバルケチャップ(sambal kecap)という、唐辛子・シャロット・トマトをみじん切りにしてケチャップマニスに浸けるお手軽版もあるが、基本的にはかなり調理の手が加えられたものであると言える。
日本人の食卓にサンバルの役割を果たすものがあるようには思えないから、これはやはり東南アジアの食文化に独特のものであり、したがってインドネシア語辞典作成者はケチャップや唐辛子みそといったそれを類推させるものを探し出してサンバルに対応する日本語にあてているものの、一言で説明しきれるものでないのは当然だろうとわたしは思う。
サンバルは米食を行なう食卓に載せる薬味という働きをしており、それを各家庭で調理している姿は東南アジアの食文化を豊かにしている要素のひとつと言えるだろう。アジアに中南米原産の唐辛子をもたらしたのは中世のポルトガル人で、サンバルという料理が生まれたのはきっとその後のことではないだろうか。この唐辛子に関する「辣味求真」と題する拙文が西祥郎ライブラリーに掲載されています。
サンバルはもちろんインドネシア特有のものではなく、東南アジア一円にそれぞれ独自の変種を持っている。唐辛子は原則的に小柄のものが辛味が強く、なりの大きいものはあまり辛くないという傾向を持っている。ところが、日本ではほとんど辛いものにお目にかからない獅子唐辛子いわゆるシシトウはインドネシアで買うと相当に辛いものが中に混じっているので、辛味初心者は用心したほうがよい。インドネシア産唐辛子優良種の中にタンジュン(Tanjung)やレンバン(Lembang)という種があり、これはすりつぶすとたいへん滑らかできめ細かいテキスチャーが得られるので、極上のサンバルに向いているそうだ。
唐辛子が東南アジアの食文化の中で有力な地位を得た以上に、インドネシアでサンバルは食生活に欠かせない重要なものとなった。コールドミールが一般的なインドネシアの食文化にサンバルは唐辛子の辛味だけでなく料理に熱さを加える代用品の役割を果たしている、とインドネシアの食文化専門家は指摘している。おいしいサンバルを作る技能は料理人の格を高めてきた。オランダ植民地時代にインドネシアに赴任してきた白人のトアンたちが現地の女性を、あるいは現地女性を母に持つ混血の娘を妻にしたとき、サンバル作りの技能に優れた奴隷はその値打ちが大いに上昇したのである。おいしいサンバルを作ることの出来る奴隷は奴隷市で高い値がついた。派手で豪奢な生活が当たり前の植民地支配者たちが開くパーティでおいしいサンバルはゲストから大人気を獲得し、その家の白人トアンの誇りと人気はいや増しに高まったそうだ。パーティを開く際にはまずその準備として打ち合わせが持たれる。数十人いる奴隷たちの中からサンバル技能者ただひとりがそこに呼ばれてサンバルに関する方針をトアンとニョニャに言上した。言うまでもなくそれは料理全般に関わっていることがらであるため、そのパーティの料理内容はそこで決められることになる。そのようにしてサンバル技能者はご主人様と近い関係になり、他の奴隷たちとは異なる格が与えられたわけだ。この話ひとつ取ってみても、サンバルが何百年も前からいかにインドネシア人の垂涎を誘ってきたかがよくわかる。


「ジェイコが今年上海に進出」(2009年4月14日)
シンガポールとマレーシアに海外進出した国内でトップ人気を誇る国産ブランドドーナツ『ジェイコ』が、次の計画として年内に上海上陸を果たすと公表した。JCO Donut & Coffeeはいまやジャワ・バリ・スマトラ・スラウェシに53店、そして海外はシンガポール2店マレーシア4店を擁して破竹の進撃を続けている。PT JCO Donut & Coffee社販売広報マネージャーによれば、海外進出の次の白羽の矢が中国に立てられたのは、シンガポールやマレーシアに観光に訪れた中国人にジェイコドーナツが大好評で、中国への出店を求める声がたいへん強いという要因がその決定に作用しているからである由。お膝元のインドネシアでそのような話の展開にならなかったのが残念というところだろう。グローバル経済危機にもかかわらずジェイコの売上は好調を続けており、おかげで同社経営陣は国内に毎月1店の新規オープンという強気の方針を打ち出している。
ジェイコは今やドーナツ売店の枠を超えて飲物やヨーグルトまで商品レンジを拡大し、たいへん集客力の高いカフェースポットに変身した。そのジェイコが次に出してきた商品がJ.Popsと命名された小型サイズドーナツで、これは購買力の低下した不況下へのサバイバル商品かというと、さにあらず。「インドネシア人はビジネスのミーティングにせよ、私的な会合にせよ、あるいは家で待っている家族へのおみやげにせよ、ひとが集まるとちょっとしたものを一緒に食べるという根強い習慣を持っている。ドーナツはそんな用途にたいへん適したものと世の中で見られている。そんな国民性のおかげで、買った1ダース箱に6〜12種類のドーナツしか入っていないよりは、J.Popsが24種も入っていればそのほうがみんなを喜ばせることになる。インドネシアでドーナツビジネスはまだまだ将来性の高い事業だ。」ジェイコの販売広報マネージャーはビジネス好調の秘訣をそう洩らしている。


「最近話題の店ふたつ」(2009年4月17・18日)
首都ジャカルタに個性的なレストラン・クラブ・カフェの出現は絶えたことがない。水商売の栄枯盛衰というよりも、むしろ巨大にしつらえられたキャンバスの一隅を埋めるべくエピキュリアンたるインドネシア人の愉楽を高めようとして研を競っているのがその現象だという観が強い。スディルマンCBDの集客力を大いに高めたパシフィックプレースモールのインドネシア証券取引所側グランドフロアに2009年1月オープンしたレストラン「Potato Head」は深く静かに大人の人気を集めている。オープンテラスも店内も毎晩テーブルがひとで埋め尽くされる盛況ぶりだ。来店客層は法曹界著名人から大統領府スタッフ、高価なブランドものハンドバッグを引っさげた女性に見映えの良いいでたちのエクスパトリエート・・・・・。金を持っていても人生経験をまだ十分に持っていない若者の姿は見られない。
だからといって、ポテトヘッドが英国人好みの静謐なクラブハウスの雰囲気を演出しているのかというと、決してそんなことはない。ロンドンからやってきたDJがビート音楽をズンズン響かせていることでまずその誤解は消滅する。店内デコレーションは古色蒼然とくすんだ調度品類で満たされているとはいえ、重厚さにはほど遠い軽い感覚が店内を包んでいる。ジョクジャの手作りタイル、1930年代パリの街路に立っていた街灯、ルーバーのついたオールドファッションの窓枠、バーの椅子はトラクターの運転席を模したもの。飾り金具は酸化し錆が浮いている。ところが客席の椅子はブルゴーニュの人気高い家具会社の製品であり、壁にはエコ・ヌグロホの近未来的モチーフの漫画チックな壁画が描かれている。この店に来る客たちはこの高尚な「お遊び」のセンスに惹かれてやってくるのだ。
「ポテトヘッド」の売り物は他にもある。それは豊富でオリジナリティあふれるカクテルメニューで、この店はそのためにわざわざシドニーと香港からバーコンサルタントを招へいしている。マティーニをベースにキュウリ・パイナップル・メロン・ドラゴンフルーツ果てはコーヒーまで使ってさまざまなバリエーションを作り出しているばかりか、なんとそれらに使われる植物の一部を自ら栽培しているというからオドロキだ。店のテラスに並べられた鉢植えはそれら素材の供給源だったのである。ローズマリー・ミント・バジル・レモングラス・ドラゴンフルーツなどは必要に応じてそこから調達される。
「ポテトヘッド」のユニークなカクテルメニューもさることながら、ここはもちろんレストランだから料理も作って当然だ。肉料理が主体で、ソーセージなどは出来合いの輸入品を買ってきて調理するという店が一般的な中にあって、「ポテトヘッド」はそれも自家製造している。ぎっしり詰まった歯ごたえあるソーセージはお買得かもしれない。この一途な飲食品に対する思い入れは、店内の「お遊び」フィーリングとは打って変わって大いに真面目な店側の姿勢を存分に訴えている。
そこからほど近いスディルマン通りのスナヤンスポーツコンプレックス沿いにあるFXライフスタイルセンター(fX Lifestyle X'nter)7階にも、評判を呼んでいるクラビングスポットがある。Club 3 Degrees Indonesiaはアメリカのミネソタにあるプリンシパルからライセンスを得てオープンしたものだが、このインドネシア店は実に特異な方針を打ち出した。ノーアルコール・ノースモーキングがそれだ。このような娯楽スポットの必須要素とされているそれらをシャットアウトして、はたして店の経営が成り立つのかとだれしも思うところだが、その方針への賛同者は少なくない。「健康な生活・健全な人生に酒タバコは何らの恩恵ももたらさず、かえってそれを損なうだけだ。そのことを世間に訴えるために当店はこの方針を掲げた。」同店専務取締役はそう語っている。
ならばそこは堅苦しい場所なのかというと決してそんなことはない。よく調和の図られた店内のカジュアルな雰囲気は、酒タバコの助けを借りずとも客をリラックスさせてくれる。「飲み・食べ・歓談をどうぞ」というのが、この店が客にオファーしているセールスポイントだろう。金曜土曜の夜には生バンド演奏が入り、バンドの休憩時間はDJが埋める。フロアーで揺れる客の姿も珍しくない。この店はファンクションホールを持っており、そこで催し物や貸切パーティも開かれる。もちろん社内会議に借りても構わない。そんなときでも店は一般来店客に開放されている。この店に通って、酒タバコから絶縁された人生への復帰に努めてみようかな・・・・?


「インドネシア人の外食指向はこれ」(2009年4月24・25日)
ニールセンインドネシアが最近行なったサーベイで2,029人の回答者からオンライン集計したデータによると、レストランで食事をしたことのないひとがなんと45%もいることが判明した。どのくらいの頻度でレストランへ行くのかという問いに対する回答は次のようになっている。
1日1回超 0%
毎日 0%
週に3〜6回 2%
週に1〜2回 6%
週に2〜3回 6%
月に1回 14%
月に1回未満 26%
行ったことがない 45%
インドネシアで外食をする場所は大きく分けてレストランと食べ物屋台の二種類があり、言うまでもなくその両者の間にはメニュー・調理内容・盛り付け・食器・家具調度・衛生・価格などさまざまな面で差異があり、その両者は異なる階層を形成している。レストランに入ったことがなくとも、食べ物屋台で外食をしたことがないというインドネシア人はいないだろう。このデータはそういう目で見る必要がある、とわたしは思う。
さてそれでは、外食をするのは朝食・昼食・夕食のどれだろうか?回答を見ると総計が100%になっているので、設問はきっと「外食をするのは朝・昼・夜のどれか?」という三者択一だったのではないかと推測するのだが、それだと実態が判然としないきらいがあるようにわたしには思える。ともあれ、スラバヤ住民は82%が夕食を外で食べると回答した。全国平均では、58%が夕食を外へ食べに行くとなっている。外食は夕食派が58%、昼食派は41%、朝食派が2%というのがその調査結果だった。しかしバンドンでは朝食派が8%にのぼっている。
昼食派が41%というのは、夜は家で奥さんの手料理を賞味するというひとたち、あるいは奥さんがご主人や子供に必ず手料理を食べさせる家庭が41%あるということを意味しているように思えるのだが、これはインドネシア文化の中にある家庭重視主義を反映しているものなのだろうか?ニールセン調査は更に続く。
されば、外食時に何を食べているのか、という疑問も生じる。ニールセンインドネシア調査では、外国料理レストランの中でトップを占めたのは中華料理であり、次いで第二位に日本料理が入った。ただし純和風割烹はそこまでインドネシア人の来訪が一般的になっているようには見えないので、これはホカホカベントーをはじめとする日本風のローカルレストランがメインを占めているように思える。料理の国際化現象というのはきっとそのようなものなのだろう。インドカレーやジャワカレーなど日本で人気の高い外国料理をそれらの国へ行って探してみても、同じものを見つけ出すことはできないのだから。外国料理番付を見ると結果は次のようになっていた。
中華17%、 日本12%、 イタリー4%、 アメリカ2%、 タイ2%、 フランス1%
インド料理レストランに人気がないのは意外だが、実際に巷のインドやパキスタン料理レストランを訪れてもインドネシア人客でいっぱいという状況を目にすることがあまりないので、きっとそういうものなのではあるまいか。しかし業界側は少し違っており、いま業界者が注目しているレストランは中華・インド・ベトナムだそうだ。
ではインドネシア人がレストランで外食するのは、週の内の何曜日が多いのだろうか。香港・日本・マレーシアで行なわれたニールセン調査によれば、それらの国では月〜木の労働日に外食するひとたちがナンバーワンのシェアを占めている。それらの国に形成されている労働文化の賜物として、アフターファイブも仕事の延長で生活する勤労者が少なくないのだとその現象を分析することもできるわけだ。もちろん通勤状況や残業に対する考え方、あるいは社会の中での人間集団の形成方法などとさまざまな要素に触手を伸ばすことだってできるわけだが、行き着くところはだれと一緒に夕食をレストランで取っているのかというポイントに至るのではあるまいか。ならばインドネシアはどうなのだろうか?「インドネシア人の労働文化はまるで違うよな。」「いや、かれらも日本人と似たようなものだよ。」
置かれた環境で読者の予測は二方向に分かれると思うが、ニールセンが出した報告を見ると、その前者に軍配が上がるようだ。曜日別の比率は次のようになっていた。
月〜木25%、 金8%、 土43%、 日24%で、土曜日の外食が圧倒的に多い。土曜日に会社の仕事仲間が集まって一緒にレストランで食事をしようなどというケースはたいへん考えにくいことであり、インドネシアでは会社からレストランへというルートはきわめて細いものであるように思える。土曜日のレストラン利用は起点が家庭であると思われるので、これが意味しているのは上であげたようにインドネシア文化の中にある家庭重視主義の反映であるようにわたしには思えるのだが、読者の分析はいかがなものだろうか?


「中東料理はラデンサレ通りで」(2009年5月1・2日)
昔は数少なかった中東レストランも、今や流行のシーシャ(水タバコ)喫煙サービスを伴ったレストランが都内のあちらこちらに多数出現するようになった。しかし都内でその由緒を探ってみると、定評のあるのは中央ジャカルタ市メンテン(Menteng)やチキニ(Cikini)あるいはクラマッ(Kramat)などの地区らしい。中東からやってきた旅行者たちは、いったいどうしたわけかそれらの地区にある中級ホテルがごひいきのようで、必然的にそれらホテルの周辺に中東レストランが店開きするようになる。
旅行者たちはジャカルタの夜を楽しんでからプンチャッ方面に場所を移して涼しい高原の旅情を楽しむのが定例コースらしく、プンチャッ街道にはアラブ文字の看板を出すホテルやビラ、そしてレストランからミニマーケットまで、まるでアラブ村の雰囲気をかもし出している面を見せてくれる。その観光行動に契約結婚の話がからんでくるのだが、それは今回のテーマとは無関係。
さて、中央ジャカルタ市で中東レストランを探検してみようというなら、チキニ地区のラデンサレ(Raden Saleh)通りが代表格だろう。Amira、Al-Jazeera、Al-Safeeraなどのレストランが並ぶこの通りで、気の向いたレストランにぶらりと入ってみるのも一興だ。中東からの旅行者やエクスパットの来訪に照準を合わせているそれらの店では、本物の中東料理を満喫できること疑いなし。道理で食事時にはこの通りを徘徊するアラブ衣装にカギ鼻のひとびとの姿が目立つ。
レストランに入ればアラブ文字と英語で表記されたメニューが示され、インドネシア人店員たちも流暢にアラブ語を話す。それらのレストランはたいてい、インドネシア人と家庭を持った中東系の事業者が経営しており、中東からのPMA投資で事業を行っているところもある。メニューの中の肉料理はヤギや鶏を使ったもので、牛を使ったものはない。
ラデンサレ通りにあるそれらのレストランは、シェフを中東から招き、水さえザムザムの泉の水を毎週一回メッカから何ガロンも空輸している。日本人も心の奥底に持っている文化宗主国への憧れをインドネシア人はアラブに対して抱いており、中東レストランをひいきにしているインドネシア人は少なくない。都議会議員のひとりは、週に一回は中東料理を食べなければおさまらない、と言うほどのマニアだ。「うまくてコクがあるがココナツミルクは使っていない。果物やヨーグルト、サラダが常にあり、油はオリーブを使う。これは健康食だよ。」そう語りながらかれは好物のヤギ肉に舌鼓を打つ。
アルジャジーラレストラン責任者は、レバノン・サウジアラビア・エジプト・アンダルシア・トルコの料理がメニューの大半を占めている、と語る。中東料理の特徴は、ヤギ乳のヨーグルト、ヤギ油、オリーブの実や油、ナツメヤシの実、さまざまなスパイスが使われていること。スパイスの中ではその重要度においてカルダモンが筆頭の地位を占めている。それらの素材は中東から輸入されているそうだ。
オードブルとしてはヨーグルトを基本にしたホモウスやムタバルをピタパンと一緒に食べる。ピタはまた豆料理のフォウルムダマスと一緒に食べる。フォウルムダマスはカルダモンをたっぷり使っており、食べると身体が温まる。そしてカルダモンの香りは食事の最後の最後まで付き合ってくれる。お食事締め括りのアラブコーヒーをお忘れなく。


「タピオカ麺」(2009年5月8・9日)
ジョクジャ名物のひとつにミー・ルトウッ(mi lethek)というものがある。ミーとはご高承の通り『麺』であり、ルトウッはといえば『汚い』を意味するジャワ語だ。衛生的に汚いならだれも食べてはくれないが、ジャワ人はあまりそういう意味のことを口にしないひとびとだからミー・ルトウッは決して不潔な麺ということではないのである。では何が汚いのかというと、見た目の色合いが汚いということなのだ。普通の麺は白や黄色のかなりはっきりした色をしているのだが、ミー・ルトウッは茶色にくすんだ色をしている。それは小麦粉、ましてや漂白小麦粉を一切使っていないためであるのは言うに及ばず、ミー・ルトウッの主原料であるタピオカ粉をそのまま用いて漂白剤・着色剤・防腐剤のたぐいをまったく使っていないためでもある。しかし乾燥した場所で保管されるなら、ミー・ルトウッは3ヶ月間程度は日持ちする。
タピオカ粉はキャッサバの塊根を粉にしたものだ。キャッサバはインドネシアでシンコン(singkong)と呼ばれている。シンコンは19世紀にオランダ植民地政庁が蘭領東インドで栽培させるために中南米からインドネシアに持ち込んできたもので、それ以来インドネシア産タピオカはヨーロッパ向け輸出商品となった。当時ヨーロッパの安物ウイスキーはタピオカで作られていたらしい。インドネシア国内のシンコン製品で有名なのはスンダ地方のpeuyeum別名tape singkongだろう。これはシンコンの塊根をアルコール発酵させたもので、甘味があってうまい。昔ジャカルタ住民は、バンドンへ行くひとにプユムのお土産を頼むのが普通だったが、しばらく前からブラウニーにその地位を奪われてしまったようだ。しかしわざわざバンドンへ買いに行かなくとも、都内のハイパーやスーパーでタペシンコンはいくらでも売られているし、住宅地区では物売りがかついで売りに来る。
シンコンは塊根をふかすだけでも味の良い食糧になるのだが、インドネシア人は食糧のトップに米飯、二番目にとうもろこし、そしてシンコンはやっとその次に来る。シンコンを喜んで主食にするひとはめったにおらず、米よりもシンコンで食事を済ませたりするような家庭は貧乏人という烙印が押される。シンコンはそんな待遇を受けているから、社会的に見下げられることを蛇蝎のごとくきらうインドネシア人は、金さえあればみんな憧れの米を食べる。「貧乏人はシンコンを食え」と言った大統領はいないが実態はそうなっており、ジョクジャ特別州南部の貧困地帯グヌンキドゥル県は国内有数のシンコン消費地区で、そして皮肉なことに国内長命地区のトップクラスに位置している。貧血病罹患率のもっとも低いのもグヌンキドゥルで、反対にインドネシアの米作穀倉地区であるインドラマユは貧血傾向が全国一だ。シンコンのそのようないわれなき差別は、シンコンが低級な食べ物だという国民の誤解の上に成り立っている。その原因はオランダ植民地政庁がスマトラやジャワの農園や鉱山に出稼ぎにやってきた外来者たちの食糧としてシンコンを使ったからで、シンコンは肉体労働者、別名クーリーの食べ物だという観念がプリブミの間に定着してしまった。
さて、グヌンキドゥルの隣にあるのがバントゥル県だ。ここもシンコンの消費は高い。そのバントゥル県スランダカン郡でシンコン粉を主原料に使った麺を生産しているのがヤシル・フェリ・イスマトラダである。かれが毎月10トンも生産する麺がミー・ルトウッなのだ。地元でミー・ルトウッを生産しているのはヤシルとかれの叔父しかいない。麺生産者はたくさんいるものの、ミー・ルトウッは製法に手がかかるという理由でだれも作ろうとしない。おかげでヤシルの製品は地元でも引く手あまたで、なかなか需要を満たすことができないでいる。かれは毎月製品の中から50キロを農業省に送る。農業省はそれをチケアスのSBY大統領宅に届けるほか、政府閣僚などにも送る。大統領の家庭はミー・ルトウッを愛好しているそうだ。
ミー・ルトウッをヤシルと叔父だけが作っているわけは、それがかれの祖父母以来の家業だったからである。アラブからジャワにやってきた祖父はスランダカンで中国から来た祖母と出会い、家庭を持った。当時のスランダカンは華人地区だった。1940年代に中華人を強制移住と国外追放の波が襲ったが、祖父母はその危難を乗り越えてスランダカンに定住した。そして生計を立てるために祖母は中国文化に従って麺作りを考えた。米ととうもろこしの粉を使った麺生産者がほとんどの中で、祖母は特徴を出そうとしてシンコンを使ってみた。その麺をひとくち食べて、この一家の家業の方針が決まったのである。シンコンの麺は文句なしにおいしかったのだ。ところが1940年代に始まった家業は1982年にストップしてしまった。事業経営がおかしくなったのである。そしてヤシルにとっては長い歳月が流れた。
あるときヤシルは、シンコンの栄養面の効能を説いて国民にシンコン消費を勧める医師の講演を聞いた。シンコンは人間の健康にたいへん良いというその話に、ヤシルは長い間停止したままになっているわが家の家業を思い浮かべた。シンコンの麺を作って世の中のひとにたべてもらおう。それが自分が置かれたポジションを最大限に役立たせることになる。しかし祖父母から伝わったその製法はかなり手間暇を食うものだった。タピオカ粉と干しキャッサバをシリンダー状容器で混ぜ合わせてから炉に入れて蒸す。その後再度混ぜながら含水量を調節し、生地を圧縮してからもう一度蒸し、最後は生地を麺状に成形して天日で干す。こうして作ったミー・ルトウッをヤシルは1キロ6千6百ルピアで販売する。かれの工場で毎月上がる純益は6百万ルピア。地元の市場からも注文がたくさん入るものの、生産量はあまり増えない。いま行っているマニュアル生産から機械生産に代えてみては、とひとにも言われ自分でも検討したが、かれは結局その考えを捨てた。機械を導入すればひとの整理に向かう。昔から一家のために代々働いてくれた使用人から仕事を取り上げるのはしのびない。いやそれだけでなく、手作りの麺の味わいが機械のために失われることが一番の心配だ。だからヤシルは将来も、手作りのミー・ルトウッを作り続けるつもりでいる。


「ジャワの王宮料理」(2009年5月15・16日)
ジョクジャ王宮の西側、ロトウィジャヤン通り(Jl Rotowijayan)5番にプンドポ・ンダラム・ジョヨクスマン(pendopo nDalem Joyokusuman)がある。西洋人がPrince Joyokusuma's Houseと呼ぶその建物は1916年に建てられてジョクジャカルタスルタンの副官の居所に使われていた。今この建物の主はブンドロ・パゲラン・ハルヨ(BPH)・ハジ・ジョヨクスモで、かれは現職国会議員であり現スルタン、ハムンク・ブウォノX世の実弟に当たる。
今から20年ほど前にレストランがその建物にオープンしてこの場所が一般のひとびとに開放された。先代スルタン、ハムンク・ブウォノIX世の時代だ。「もちろんこのレスト・ガドリ(Resto Gadri)がスルタンのお好みメニューを賞味できる唯一の場所なんですよ。レシピーは王宮から出ています。」レストランのオーナーで運営者でもあるブンドロ・ラデン・アユ・ヌライダ・ジョヨクスマはそう説明した。国内のセラブリティたちは言うに及ばず、ロード・キャリントンやスティーヴン・セガール、デヴィッド・ボウイらもジョクジャ王宮の味を賞味している。
たとえばナシブラウォン(Nasi Blawong)。これはスルタンの誕生日や即位記念日に供される料理で、それ専用の青い皿に盛られる。青を意味するオランダ語blauに由来したblawongという名の料理をスルタンはその日の夕方に食する。まずスムル(semur)煮した肉とキュウリの薄切りをマヨネーズで和えたジャワサラダで舌鼓を打つ。甘味とウマミと酸味が一体となったセンセーションを堪能したあと、いよいよナシブラウォンに取り掛かる。この料理はひとつの皿の上に、飯、味付け煮込み鶏を揚げたもの、ゆで卵を揚げたもの、牛肉のさいの目切りに唐辛子の細切りを混ぜ薬味を加えて炒めたもの、サンバル、ルンペイエを盛り合わせてある。薬味に使われるスパイスは、シトロネラ・ベイリーフ・シャロットなどで砂糖は砂糖やしやココやしから作るグラジャワ(gula Jawa)だ。化学調味料はまったく使われていない。
あるいはビスティッケダン(Bistik Edan)。ビスティッはビーフステーキがインドネシア語化したものであり、エダンはジャワ語で「狂気」の意味。ところがビスティッと言いながら出てくる料理は牛肉でなく鶏肉で、唐辛子とスパイスがたっぷりまぶしてある。これを食べるとたいていの客はこうつぶやく。「わっ、辛い。クレージーだ。」1921年から1939年まで王位に就いたスルタン・ハムンクブウォノ8世のお好み料理がそれだった。
飲物のお奨めは、ハムンクブウォノ1世以来スルタンが賓客を迎えたときに必ず供されるロイヤルスチャン(Royal Secang)。しょうが・カルダモン・クローブ・メソイ・シトロネラ・スチャン(蘇芳)から作られた赤い飲み物にシナモン片を置いたものがこのロイヤルスチャンだ。ジャワ人はウェダン(wedang)と呼ぶ暖かい飲物がお好みだが、冷たいロイヤルスチャンを頼んでもかまわない。他にはジャワビールというものもある。賓客がアルコール飲料を楽しんでいるときは、スルタンもこれを飲む。と言ってもこのジャワビールなるものはアルコールゼロ。ロイヤルスチャンとほぼ同じ成分で作られているが、更にライムが加えられていて黄色い色をしている。ハムンクブウォノ8世がこのビールの愛好者だったそうだ。他のウェダンはウェダンチュンケ(Wedang Cengkeh)で、これはクローブにシトロネラとシナモンそして氷砂糖を合わせて煮たせるもの。
食後のデザートには、在位1940〜1988年のハムンクブウォノ9世が愛したポデインカビネッ(Poding Kabinet)。ポディンはプディンがインドネシア語化したもので、このプディンはパン・パイナップル・レーズン・ミルク・砂糖を加えて蒸したものにラム酒の入った赤いソースがかかっている。どうしてキャビネット(内閣)かというと、ハムンクブウォノ9世は当時副大統領の座に就いていたからということらしい。
ハムンクブウォノ7世(在位1877〜1921年)やハムンクブウォノ8世の好物はマヌッノム(Manuk Nom)。これもプディンで、もち米と卵を使っている。他にはプラワンクネス(Prawan Kenes)という心そそられる名前のデザートもある。プラワンは乙女、クネスはコケティッシュという意味で、この料理はスルタン・ハムンクブウォノ8世の創作だそうだ。このスルタンは料理が趣味だったらしい。さて、コケティッシュな乙女とはいったい何かというと、何のこともない焼バナナ(pisang bakar)なのだが、焼くときにバナナにココナツミルクをかける。するとバナナが滑るので、火の上から皿に移そうとしても、スルリ、スルリ・・・・なのだそうだ。
特定の日にはこのレスト・ガドリで歴代スルタン創作の舞踊が演じられることもある。また来店客はこのプリンスジョヨクスマ邸宅内の見学が許され、現スルタン・ハムンクブウォノ10世が生まれた部屋も覗き見ることができる。この建物内にはパンやケーキを売っている店もある。BPHジョヨクスモ氏の長女、RAヌルハンダニがその経営者だ。Rumah Roti & Kopi "JOY"という名のこの店では、建物の裏で自家製のパンを焼いている。Pande Koekというグラジャワをはさんで巻いたパンや8種類の味のタルトも食欲をそそる。このパン屋さんは2007年の開業だ。市民とのつながりを保ちつつ自力で事業を行って行こうとするジョクジャスルタン家王族のたくましさには目を見張るものがある。


「棚からドリアン」(2009年5月22・23日)
エキゾチックなトロピカルフルーツの代表格はドリアンだろう。その凄まじい異臭に圧倒されて食わず嫌いになる外国人は数多く、おかげで飛行機内に持ち込めず、ホテルにも持ち込めず、日陰者の立場に追いやられた感があるのだがどっこい、かれは果物の王様なのである。
では熱帯に住むひとはみんなドリアンが好きかというと決してそうでもなく、「好きじゃない」というひとも少なからずいるのだが、とはいえ食わず嫌いの外国人ほど強く忌避しているわけでもなく、無理やり食べさせればひとつふたつくらいは口に入れる。さる日本人がウンコの臭いだと表現したようにその臭いは強烈だが、味はコクと甘さが一体となった美味しさがあり、一度好きになれば病み付きになる。
ドリアンの収穫シーズンになると都内のあちらこちらで道路脇にドリアンを山積みにして売るドリアン売りが夕方ごろから現れ、季節の風物詩のひとつになっていた。よさそうなものを選びながらその場で殻を割ってもらい、手づかみで黄色がかった白いクリーム状の実を味わう風情は、先進国では決して体験できないものだ。道路脇のドリアン売りは今でもシーズンになると登場するものの、自動車で混雑する道路の脇で排気ガスに包まれながらドリアンを食べる気にはもうならない。道路脇で売られているドリアンはジャカルタ周辺部から西ジャワやバンテン一帯、さらにはランプンから送られてきたものがほとんどのようだ。
ドリアンで一番美味しいのは樹上で熟れたものだそうで、天然のドリアンは熟れると地面に落ちてから発芽する。そんな最高においしいドリアンが目の前に落ちてくる、しかも20から40メートルに達するドリアンの巨木にのぼる手間暇もかけることもなしに素晴らしいものが手に入る、という幸運を言い表す慣用句がある。durian runtuhというのがそれで、インドネシア人のほとんどはこの言葉が大好きだ。一種の棚ボタなのだが、ドリアンとぼた餅ではどうやらかなりウエイトが違うような気がする。少なくともインドネシア人にとってのドリアンと日本人にとってのぼた餅という重みの違いはあるだろう。一応の努力をはらった後で幸運がよい結果をもたらすことを期待しようという姿勢とはかなり隔たりがあるような気がする。このような点がインドネシアに棚ぼた大王(aji mumpung)信奉者が多いことの背景を形成しているようにわたしには感じられるのだが、これは牽強付会だろうか?
最高に熟れつくしたドリアンがそのドリアンルントゥ、つまり地面に落ちたドリアンであり、ドリアンを買いに行くと枯葉や土が少しついたものが陳列台に乗っていることがあるが、あれはそのドリアンが地面に落ちたドリアンであると主張しているのである。ともあれ、産地から遠く離れた場所にいて流通機構の末端でドリアンを買うしかできないわれわれには、樹上で熟れたドリアンを賞味する機会があまりない。ドリアン流通業界も他の果物と同じで、パサルやスーパーに並べられるときに食べごろとなるのを目安にして木から摘み取るために熟すのは摘み取られてからのことになる。ましてやインドネシアでいま人気最高のモントン種ドリアンがタイから輸入される場合、タイのドリアン農園からインドネシアのスーパー店頭までの輸送期間が海上輸送の場合で2週間を要すことから、タイで収穫されているのは完熟から程遠いものということになる。
ドリアンが木から落ちる日から逆算して一週間は完熟ドリアンの味になっているそうだ。問題はそのドリアンがいつ木から落ちるのかを知る方法がないということで、だから人々は殻を叩いて響きを聞き分けたり、においをかいだり、殻のトゲのとがり具合や開き加減を調べたり、殻についている疵や皮のしなび具合を見たり、ゆすったり、あれこれ手を尽くして中身の見当をつけるのが関の山。しかし同じ木になっているドリアンの果実でさえ2ヶ月の差があるのだから、その熟れ具合は一個一個着実に調べなければならない。
スーパーでも道路脇でも、殻つきドリアンを丸ごと買おうというひとはまず見当つけたものの殻の一部を割ってもらい、ナイフの先にすくい取ったクリーム状の実を味見してから買うかどうかを決めている。そんなドリアンの売買手順を悪用する販売者がいるため、買う側はよくよく警戒しなければならない。それはどんな手口かと言うと、ドリアンの殻の尻の先から砂糖水を注射するという方法で、まだ熟れていないものでも尻を割ってナイフですくい取られた実を味見すれば「おお、こりゃ甘い!」となるわけだ。
完熟ドリアンを食べることのできる場所が都内にいくつかある。
Restoran Durian Harum
住所Jl Raya Panjang No.29, Jakarta Barat
Cafe Raja Durian
住所Jl Danau Sunter Utara Blok B1 No.12, Jakarta Utara
Cafe Durian
住所Jl Tebet Timur Dalam Raya, Jakarta Selatan
Restoran Red Corner内のCafe Durian
住所Satria Budi Barat No.1A, Jakarta Selatan
それらの店は自前でドリアン農園を持っており、完熟ドリアンを手近に調達できる態勢を整えている。店内ではドリアンの生の実を賞味できるだけでなく、ドリアンを使って作られたアイスクリーム、チップス、ドドル(dodol)、コンポート、エスチェンドル(es cendol)などのおやつ類も楽しめる。
ドリアン農園と言えば、都内からボゴールに向かって車で1時間半ほど走った距離に一般公開されているところがある。32Haの広さを持つこのインドネシア最初のドリアンアグロ観光農園は国内外の7つの優良種を集めた総勢9百本のドリアンの木が植えられており、通常は高さが20〜40メートルに達する木が低く刈り込まれていて、果実は手の届く位置にある。この農園では熟してきたドリアンをひもでゆわえて地上に落ちないようにしてあり、木から落ちても地面に転がることはない。このWarso Farmは住所がJl Alternatif Bogor-Bandungで開園午前7時、閉園は17時となっている。園内にはレストランもあって完熟ドリアンをエンジョイすることができる。
ワルソファームも上述のドリアンカフェも、ドリアンの価格は殻つきでキロ当たり2万5千から3万5千ルピア、実だけをパックしたものは1パックで3万から5万ルピアだ。うまい、うまい、と食べ過ぎてmabuk durian(ドリアン酔い)にならないよう、お気をつけください。


「ユーの店」(2009年5月29・30日)
1947年、当時バンドンで著名なシェフだったスン・ユーシオンが自宅に自分の店を出した。交友界からムネール・ユーと呼ばれていたかれは、自分の店をトコユーと命名した。スン・ユーシオンはSoen Joe Siongと綴るが、店名は英語の綴りを使った。つまりToko You(あなたの店)である。オランダ人がたくさん住んでいるダゴ地区のベルンハルドラアン(Bernhard Laan)10番地にオープンしたトコユーは、そのメイン顧客であるヨーロッパ人や華人たちにとってスナックコーナーとして認知されていたらしい。
いまバンドン市内ダゴ(Dago)地区のハサヌディン通り(Jl Hasanudin)12番地を住所とするトコユーはサントボロメウス病院(RS Santo Borromeus)の南側に隣接しており、往時のたたずまいを色濃く残している。街路樹が豊かに繁る通りから店に入っていくと、浮き彫りでいっぱいの木の壁でできた入り口を通る。右手にはイジュッで葺いた高床式の米倉があり、そのロンボッ(Lombok)由来の米倉はここでムサラ(イスラム礼拝所)として使われている。店内のジョグロ様式の広間には椅子とテーブルが整然と並べられ、更に中庭に張り出されたテントの下へとつながって行く。最初は家のテラスだけが店として使われていたが、数十年を経て中庭までフルに使われるようになっていった。夜には各テーブルに置かれた灯油ランプだけが食卓を照らす明かりとなる。
この店のオーナーはもちろん初代のムネール・ユーから代替わりしている。二代目は文字通りスン・ユーシオンの二代目であるソニー・スンが務めている。ユーシオンは6人の子供を持ったが、ソニーが台所にいる父親に一番つきまとったらしい。そして1979年、父親はかれにその店を譲った。この二代目店主は単に事業経営とビジネス運営を手がけるだけの二代目ではなかった。かれ自身が調理場に入って腕をふるう。父親から西洋料理と中華料理を、東ジャワ州ガンジュッ(Nganjuk)出身の母親からインドネシア料理をたっぷりと吸収したソニーは、巧みにさまざまな料理にバリエーションを加えて独自のメニューを創造してきた。他であまり見たことも聞いたこともない料理が列をなしているトコユーのメニューがそれを正直に物語っている。
60年を超える歴史の中で、トコユーの名前を輝かせてきた原動力は自店特製のミー(麺)だ。防腐剤など一切含まないトコユーのミーがこの店のファンの心をつかんで離さない。毎朝暗いうちからレストラン奥の製麺所で作られるミーは、トコユー以外にはバンドンのほんのいくつかのスーパーマーケットでしか販売されていない。
トコユーのメニューを見ると、たとえば東ジャワの郷土料理ナシラウォン(Nasi Rawon)も載っているのだが、よくよく見るとNasi Rawon Panggangと書かれている。ラウォンは牛肉と独特のスパイスを煮込んだ黒い色のスープで、それを白飯にかけて食べる。ところがナシラウォンパンガンを頼むと、牛肉はスープの中になく皿に載って出てくる。ソニーに言わせると、ラウォンは牛肉のウマミが全部スープの中に溶け出すから肉を食べてもカスカスの味になっている。だからかれは120グラムのテンダーロイン牛肉をラウォンの汁に浸けてからステーキにする。これはラウォン風味のビーフステーキであり、ラウォンの汁もついて出てくるから二重の味をエンジョイできる楽しみがある。もちろんステーキの焼加減も客のお好み次第に作ってくれる。その白飯の代わりにトコユー特製麺を使えばMi Rawon Panggangとなる。ソニーが作り出したオリジナルメニューにかれはSoTYという名称を冠している。メニューの中にあるSoTY's Seafood Noodle, SoTY's Chicken Noodle, SoTY's Vegetarin Noodleなどというのがその一連のものだ。かれが日本の盛そばからヒントを得て考案した料理がある。mi tahu gejrotというのがそれで、タフグジュロッというのはチレボン独特の軽食で、揚げ豆腐を小さく切ったものにバワンメラとチャベラウィッの細切れを加えて溶いたグラメラをかけただけのシンプルなおやつだ。ソニーはそれにミーを加えてもう少し食べ応えのあるものにした。タフグジュロッに使われる揚げ豆腐はチレボン県チルドゥッで作られている豆腐であり、ソニーはこのメニューのために産地から豆腐を取り寄せている。豆腐はその土地の水が味を決めるものであり、別の土地の異なる水で作った豆腐は決して同じ風味を持たないというのがかれの持論なのだ。さてどこが日本の盛そばっぽいのかというと、チルドゥッの豆腐は温めると気になる臭いが出てきて食欲をぶち壊してしまう、とソニーは言う。だからそこに加える麺も湯がいてから冷やしたものにしなければならない。日本の盛そばからそんなアイデアを得た、とかれは創作の楽しみを物語っている。


「インドネシアの水牛ヨーグルト」(2009年6月5・6日)
熱帯は一年中暑い。暑いと冷たいものが恋しくなるのは人情で、おかげでアイスクリーム販売は一年中大繁盛の毎日だ。インドネシアにも昔からローカル系のエス(es=オランダ語で氷を意味するijsに由来)ものがいろいろあった。アイスキャンデーはes lilinと呼ばれ、日本人に深い郷愁を感じさせるメロディを持つエスリリンというタイトルのスンダ歌謡はそのアイスキャンデーを歌ったものだ。このエスリリンはココナツミルク・水・砂糖・塩・着色料を混ぜて一旦煮立たせたものを容器に入れておき、客がくるとそれをアイスキャンデー型に入れて凍らせた。円筒形のアイスキャンデーがろうそくの形に似ているところからエスリリンと呼ばれたようだ。なにしろ昔からのものだからフリーザーや電気冷蔵庫などまだなかった時代であり、あったのはせいぜい角氷を最上段に入れておく金属製の金庫形をした冷蔵庫くらいだったに違いない。エスリリンの製法は、角氷の大きめ破砕片をいくつかと大量の塩を混ぜたものを別の容器に入れておき、エスリリンの液体をキャンデー型に入れてその氷容器に差し込んで揺すりながら液体を凍らせた。もちろん自宅でおやつに作ることもあっただろう。スンダ歌謡エスリリンの歌詞はどうもそんな雰囲気を色濃く漂わせている。似たようなアイスキャンデー製作は遠い昔に理科の実験として日本の小学校でも行なわれていたように記憶しているが、今でも続けられているのだろうか?
角氷が作られているのだから、かき氷も当然存在している。氷を削ってみぞれ状にしたものにシロップをかけて食べるこのかき氷はインドネシアでes serutと呼ばれている。他にもローカルレストランに入ればesという語を冠した飲物がメニューにいろいろ登場する。es teh, es jeruk, es kelapa, es cincau, es campur, es shanghai等々山のようにあるのだが、それらはかき氷にシロップや練乳をかけた上に噛み心地のある何らかの食べ物を混ぜたものか、それとも単なる飲料品に氷を加えて冷たくしたもののいずれかだ。
アイスクリームが一般的になってくるのはもっと時代が下ってからで、これはどうやらアイスクリームの保存や流通が氷ほど容易でなかったということに由来しているのではないだろうか。今ではCampina, Walls, Diamondなど様々なブランドのアイスクリームが住宅地内のワルンに必ず置かれているし、三輪屋台に積んで巡回販売すら行なわれている。因みにアイスクリームはes krimというインドネシア語になっており、ムラユ語文法システムの基本形であるDM構造を取っていないところが面白い。オランダ人はアイスクリームのことをエイスあるいはエイシュと称しているそうだから、インドネシア語のエスクリムがオランダ語源でないのは確かなようだ。
インドネシアのアイスクリーム店として一世を風靡したのは今ジャカルタのベテラン通りで営業しているRagusaで、この店のオープンは1947年だがイタリアンアイスクリーム『ラグサ』の名は第二次大戦前にさかのぼる。バタビアで印華人女性と結婚したイタリア人兄弟がパサルガンビル(Pasar Gambir)で1932年に売店を開き、バタビアではトップクラスのアイスクリーム販売店という名声を博した。しかしラグサの自家製商品はアイスクリームというよりもジェラートだったようだが、ともあれインドネシアではいずれにせよエスクリムと呼ばれた。
世界に名を馳せているアイスクリーム著名ブランドのHaagen-Dazsもジャカルタのプラザスナヤンに開店して以来一世を風靡している。なにしろ上京者がハーゲンダッツアイスクリームをお土産に持って帰るほど地方の憧れ商品になっているということだそうで、ハーゲンダッツは既にタングラン・バリ・スラバヤ・メダンに店を設けて地方部への進出をはかっている。2007年にはスイスのThe Cream & Fudge FactoryがジャカルタのプラザインドネシアeXに開店した。ほかにもバスキンロビンス、コールドストーンなどの諸ブランドが研を競っているものの、昨今政府が行っている輸入飲食品規制方針のために入荷が遅れ気味になっており、店頭の販売商品レンジが狭まっていることを店側は嘆いている。
一方イタリア名物ジェラートは、老舗のKafe Pisaはさておいて、2003年南ジャカルタ市ダルマワンサスクエアにオープンしたGelato Barがある。このジェラートバーは商品を自家生産しているから輸入規制の影響は受けないのだが、しかし商品レンジの中に洋酒を使うものがあり、こちらは洋酒の流通量減少の被害を蒙って商品レンジが狭まっている。と、そんな状況の中で最近はフローズンヨーグルトの人気が高まってきた。輸入ブランドものフローズンヨーグルトのスタンドもあるのだが、2008年5月にスナヤンシティにオープンしたSour Sallyの商品は純国産品だ。
ところでヨーグルトというか、動物のミルクを発酵させた食物は世界各地にあるのだが、実はインドネシアにも古来からミルクを発酵させた食品があったのである。西スマトラ州には水牛のミルクを竹筒に入れて発酵させたダディ(Dadih)というヨーグルトがあり、これは地元のレストランで注文すれば運が好ければ味わうことができる。またスンバワ島にも水牛のミルクを発酵させたプロポッ(Pelopok)というヨーグルト加工食品がある。プロポッはミルクの中にナスを入れて半時間置いておき、その後5〜10分間煮て濃縮し、固まってきたら好みでグラメラ(gula merah)あるいはもち米のタペ(tape)を加えて食する。ただし必ず固まる保証はないので、同じ作り方をしてもプロポッができないこともある。プアサ月にはプロポッがブカプアサの優先チョイスとなるため、前もって注文しておかないと手に入らなくなるらしい。


「インドネシア人の食志向」(2009年6月19・20日)
インドネシア人がレストランを訪れるのは一週間のうちで週末が圧倒的に多いというニールセンインドネシアの統計調査から、レストランにだれと行くのかという問いに対する答えの察しがつけられる。紛れもなく、この問いへの回答は次のようになっていた。
家族・友人 49%、 恋人 34%、 仕事の同僚 12%、 ひとりで 5%
「インドネシア人の外食指向はこれ」(2009年4月25日)で示されたように、アジア太平洋地区の国々はたいていウイークデーに仕事関係者とレストランへ行くのが一般的であるのに対してインドネシアでは週末に家族や恋人と出かけるほうがはるかに多い。これはインドネシア人が仕事よりも家族や恋人という愛情ベースの人間関係をはるかに重視していることの表れであるようにわたしには思える。ちなみに他の国々では、レストランで食事をする相手が恋人というひとは21%でインドネシアよりはるかに少なく、愛情ベースの人間関係とその人間関係を実感し共有するための食べるという行為が微妙に一体化されたインドネシア文化の特色をそこに垣間見ることができるようだ。
続いて食事の中で何料理を食べるのを好むのかという、上述の記事に登場したのと類似の設問が出てきたが、「何料理のレストランへ行くのを好むか?」という設問とは趣が多少異なっていることに注目する必要があるだろう。インドネシア人は59%がインドネシア料理を好むという実に特異な結果をわれわれはその回答の中に見出すのである。インドネシア料理と言っても長い歴史の中で世界の様々な文化の十字路となったインドネシアであるため、インド・中国・中東・ヨーロッパなどの料理が地元のものと豊かに混じりあっているわけで、加えてインドネシアでは各地方各種族の文化がいまだに強く温存されているため汎インドネシア化というレベルになかなか到達できない実態もあり、インドネシア料理と言っても実際は各地の郷土料理を指しているものとわたしは理解する。アジア太平洋諸国の地元料理愛好度を比較したなら、インドネシア人の郷土料理に対する固着が以上に強いことがはっきりするだろう。
インドネシア人 59%
フィリピン人 41%
台湾人 40%
マレーシア人 37%
中国人 34%
韓国人 34%
自分の生まれ育った文化に対する固着傾向の強いひとは概して外の世界に対する好奇心が弱く、保守的で、オラが文化を世の中で最高のものと見なす姿勢が強い。他国の文化に接して、そこから目新しいものや役に立つものを拾い出そうとするよりも、醜悪に見える点劣悪に感じられる点への不快感が先に立つ。この種のひとたちは自分が持っている価値観から外れたものを毛嫌いし、ダイナミックな精神からは縁遠く、変化ということがらに対する適応が鈍感であり、そのような性向を持つひとは概して食事メニューの選択にも固着傾向が表れるという相関関係を持っている。
インドネシア人の食というものに焦点を移そう。インドネシア人の食に対する志向には驚嘆すべきものがある。インドネシア人はひもじさを極度に忌避し、少し空腹感を覚えるとすぐ食べ物に手を伸ばす。快楽をこよなく愛し、辛苦を強く忌避するかれらの日常生活を見る限り、食べるということに関するかれらの態度はきわめて自然であるように見える。だからこそ世の中の同胞と一丸となってプアサを成し遂げたときの充実感克服感にかれらは数層倍の感動を抱えて没入するのである。
会社の会議室に飲物が出てもそれほど違和感を感じることはないが、インドネシアでは会議の時間が何時であれ何らかのスナックやおやつが添えられるのは昔からの常識だった。さらに事務所従業員はコンピュータの前で自分が持ち込んだスナック菓子の袋を開いてボリボリやりながら仕事をしているため、そのおかげでスナック菓子の油のついた手が業務資料に油のシミをつけてくれる。工場の生産ライン従業員は休憩時間になると一斉にミーやバソあるいはスナック菓子に向かって突進する。工場敷地フェンスの外にいる屋台と鉄柵をはさんでの取引だ。インドネシア人の家庭を訪問すれば必ず茶菓が供され、食事を済ませたかどうかが尋ねられる。だから各家庭では決して茶菓子の類を切らしてはならず、まして大家族家庭なら家族構成員から外来者まで大勢の人間が出入りするから、温かい飯を一日中絶やすことがない。親戚のだれかが遊びに来れば、時間が何時であろうと食事させるのがもてなしなのである。このようなインドネシア人の食に関する生活原理は農村社会特有のもので、昔の日本でも似たような原理でひとびとは暮らしていたようだ。ところが日本では「武士は食わねど・・・・」という克己の美学が持ち込まれた結果、ひもじさを癒すときの姿勢に異なる価値観がまとわりついてしまったが、そんなものを持たない文化の子たちは誰はばかることもなく食というものに執念を燃やし続けている。
食べさせることが他人へのもてなしだという社会原理のゆえに食というものの社会的ステータスは高い位置に置かれ、愛情をベースに結びついている人間関係の相手に食を与えるのはヒューマニスティックな善であるとされているインドネシア社会であるがゆえに、どれほど不景気に陥ろうが、どれほど経済的に逼迫しようが、餓える者はほとんど出ない。ひとりが飢える場合はその者が属すファミリー集団の全員が飢えるときであり、ファミリーを持たないかそれともファミリーから捨てられた人間にしか飢えは起こらないのである。
そんな社会だから家庭支出の中で食費が占める割合は概して大きくなる。先進工業国におけるエンゲル係数に比べてインドネシアのエンゲル係数は膨らむ傾向があることは理解しておくべきだろう。インドネシア人家庭の食費支出は社会交際費の一部を含んでいるということなのだ。そんな事情はともあれ、食費支出が大きければ他の支出カテゴリーが割りを食うのも間違いのないところであり、慰安・行楽・教育といった精神面の生活を豊かにするための支出が食に食われるという現象を否定することはできない。結局のところ、インドネシア文化が目指している「暮らしの豊かさ」「繁栄のある生活」というものは他の国々とオリエンテーションが異なっているように思えて仕方ないのである。
2009年1月にニールセンインドネシアが行なった家庭支出調査によれば、この経済クライシスで各家庭は支出の抑制に努めているが、物価上昇に伴って支出が従来より増加しているものも少なくない。食費・住居メンテナンス・ボディケアなどの出費は増加しており、中でも低所得層の食費支出は大きい増加率を見せている。
食費支出増加率 AB所得層71% CDE所得層81% 平均77%
住居メンテ支出増加率 AB所得層55% CDE所得層42% 平均48%
ボディケア支出増加率 AB所得層12% CDE所得層6% 平均9%
(所得層は高から低にABCDEと5段階に分類されている)
もちろん収入の許す範囲での食費の大幅増ということなのだが、物価上昇という要素はさしおいても、インドネシア人が食というものに与えている高い優先度をこのデータは明白に示しているとわたしは思う。


「ワルントゥガル)(2009年6月26〜29日)
WARung TEGal(ワルントゥガル)略称WARTEG(ワルテッ)。地名のトゥガルが略称でテッと変化するのは、そのほうが言い切り感が明快なためだろう。
中部ジャワ州トゥガルの町は歴史を誇る比較的大きい街だ。行政管理上でトゥガルは中部ジャワ州の一県であるため、トゥガルの町は市ではない。おまけに県庁所在地はもっと南のスラウィ(Slawi)の町だから、このあたりの関係はどうも誤解を誘いそうだ。しかしダンデルスが建設した大郵便道路はトゥガルの町を貫通しているから、トゥガルが昔から要衝に位置付けられてきたのは明らかだ。大郵便道路はパントゥラ(ジャワ島北岸街道)と名を変えて現代に生き残っており、ジャカルタからパントゥラを東行すると三百数十キロの距離を踏破してトゥガルの町に至る。西ジャワ州と中部ジャワ州の州境を超えてしばらく行くとトゥガルだ。
街中には1931年に建てられた高さ44メートルの貯水塔があり、今でも地元民に上水を供給している。オランダ行政機構の地元本庁だったホフトビューローの建物はいまパンチャサクティ大学校舎に使われているし、他にも国鉄トゥガル駅舎やトゥガル郵便局建物も長い歴史を誇っている。オランダ時代も日本軍政時代もトゥガルの町は重要拠点と位置付けられていたらしい。このトゥガルの町の食堂はどこでも土瓶にお茶を入れて出してくれる。使われる茶葉は香り高くてはなはだ苦い。氷砂糖がついてくるので、客はみな茶碗に氷砂糖を置いてから土瓶の茶をその上に注ぐ。土瓶はインドネシアでポチ(poci)と呼ばれており、トゥガル文化の中にあるこの風習のためにトゥガルはポチの国(negeri poci)と別称されているそうだ。このポチの国をわたしは何度か車で通過しているのだが、首都圏一円の隅々にまで普及しているワルテッを街中で見かけたことがない。普通の食堂はあるものの、中に入ったことがないためにそれがワルテッ方式の食事処なのかどうかわからないが、あの狭くて質素なばかりのワルテッの外見はそこにない。
西スマトラ州を旅すると、どんな田舎町へ行こうがレストランはすべて有名なあのレストランパダンのスタイルになっていた。看板は単に食事処と書かれているだけで首都圏で必ず記載されているRestoran Padangの文字がなく、「パダン地方にはレストランパダンがないのか・・・」とつまらないジョークが口をついたが、よく考えればそんな記載の必然性がまったくないことに気がつくはずだ。全国津々浦々にまで広まっているパダン食堂というのは、パダンが原産地として持っている文化の他州他種族への輸出なのだろう。
ならばワルテッはどうなのだろうか?首都圏の隅々にまで網の目を広げているワルテッはトゥガルが持っている伝統文化の中央への進出だったのだろうか?
ワルテッというのは、いわゆるカフェテリア方式の簡易食堂だ。店は暖かい飯とさまざまなおかずを器に用意して来店客を待ち、客は皿に盛られた白飯に自分が食べたいおかずを添えさせて金を払い、狭い店内の狭いカウンター型テーブルに皿を置いてベンチに座って食べる。見知らぬ他人と肩触れ合わせる環境だから、下賎の民に混じってまで・・・とお高くとまっているひとには縁遠い場所だ。
カフェテリア方式というのはユニバーサルなものだから、トゥガル文化の専売特許と見なすのはむつかしい。そうなるとワルテッのもうひとつの特徴であるあの見るからに安上がりの食事ができそうな質素な店構えとの組み合わせがトゥガル文化の中にあるのか、という目でこの問題を見てしまうのだが、トゥガルの街中の印象からはその命題にうなずけるようなものが感じられない。トゥガルの街中ははるかに悠然として豊かな印象をわれわれに与えるのである。
首都ジャカルタにワルテッが出現するようになったのは1970年代はじめごろだ。オルバ政権の基盤が確立されて国家開発の槌音が首都の空に響き渡りはじめたころ、ビルや道路の建設工事で汗を流す建設労働者の食の需要をトゥガル出身の「上京して一旗」組みがたくみにとらえたのである。
東ジャカルタ市プロマス地区で開発プロジェクトが始まった1970年代初期、ジャカルタで一旗あげるべく上京してきたトゥガル出身のタルジョとジャエニ夫婦はそれまでのベチャ引きや女中の仕事をやめて飯屋ワルンを開くことにした。毎日プロマスに集まってくる大勢の労働者は働くために食わなければならず、おまけにその稼ぎの一部を故郷に仕送りしなければならないのだが、労働者の収入はしれている。そんなかれらに安く食べさせるにはどうすればよいのか?経済性が最優先事項となった。店内は清潔感さえ感じられればよく、インテリア装飾や店内維持に金をかける必要はない。こうして社会の下層に生きる民衆が廉価に食事のできる場所が誕生した。『ワルテッ21』という看板を掲げて長い歳月を生き延びてきたこの店はタナマスラヤ通りで今も朝から夜まで営業している。
やはりトゥガルの農村部出身のハルジョとソピア夫婦も1970年代初期に東ジャカルタ市ハリム地区でワルテッを開業し、今ではクブンジュルッ・ポンドッグデ・パサルミング・カユマニス・カリマラン・ボゴールに支店を出すまでに成長している。
南ジャカルタ市トゥベッ(Tebet)で営業している『ワルテッワルモ』はトゥガル出身のダシルとトゥムが興した。1955年に上京して以来日銭稼ぎの何でも屋から女中や巡回物売りなどの仕事も経験したが、かれらも1970年代はじめの開発ブームに飯屋ビジネスのチャンスを見出した。最初は東ジャカルタ市ジャティヌガラで店を開いたが道路建設のために立退きを強いられてトゥベッに移ってきた。24時間営業のワルテッワルモを休日の早朝に訪れると、セクシーな衣装に香水の香り高い、しかし疲れて眠そうな女性たちが店内を占領しているのに驚かされるだろう。週末の夜を華麗に彩った光り輝く世界の幕引き後の光景がそれなのだ。
ワルテッでの食事はともかく安く、そして早い。カフェテリア方式というのは客の回転効率を最大限に高めるようだ。昼食の時間帯になればオフィス勤めのサラリーマンやOLまでがワルテッに押し寄せる。ワルテッというものの社会的意味合いを十分に実感しているかれらは、そそくさと食べて終わるとさっさと席を立つ。席が空くのを待っているほかの食事客を横目に、仲間とおしゃべりしタバコをふかしながらいつまでもだらだらと席を離れないモールのカフェのような現象はワルテッにはない。ハリム地区で営業している『ワルテッジェネレーション・ダゴ』は朝7時の開店だが、午前6時に扉を叩く客もある。ワルテッはそんな客にも優しい。「朝食を食べたいひとが来たんだから、食べさせてあげないわけにはいかないからねえ。」創業者ソピアの息子アフマッはそう語る。この店は毎朝4時から食品の調理をはじめ、店に並べる40種類ものおかずの調理が正午頃までノンストップで続く。12時まで調理が続けられるのは暖かいものを常に客に供しようという姿勢のあらわれで、昼食のピーク時間帯を過ぎてからその日の売行きに応じてあとは何を調理するかという方針が決まる。この店で人気のトップは衣をつけて揚げたテンペ、そしてエビのフライだ。テンペは毎日100〜120本が調理され、エビは毎日最低15キロは仕入れてくる。食材の仕入れはクラマッジャティ(Kramat Jati)中央青果市場で、毎日の出費は4百万ルピアをくだらない。
このご時世にワルテッでは一回1万ルピア以下で食事ができる。店によって値段は違うが、白飯と野菜スープにエビとテンペがついて5千〜6千ルピア。テンペが卵に代われば7千ルピア、白飯と野菜スープに鶏肉で7千5百から1万ルピア。砂糖なしのお茶がそれについてくる。『ワルテッ21』は毎日米を150キロ炊く。ワルンの仕入れは毎日450万ルピア前後で、これはラマダン月でもほとんど変化しないそうだ。おかずの種類は20〜30種くらい。それらの人気高いワルテッは必ず10人くらい人手を使っている。一日の来店客は何人くらいなのかと尋ねても、経営者の口から数字は出てこない。もしも推測が許されるのなら、店内に10人が入って20分で食べ終えるとすると一日の来店客は450人くらいになりそうだ。『ワルテッジェネレーション・ダゴ』の店の前にいる駐車番は、11時から14時半までの間に5万から6万5千ルピアの駐車料金が手に入る、と述べている。もちろんワルテッに自動車でやってくる客の割合は小さいものだろうからこのデータが来店客数のモノサシに使えるわけでもないが、ワルテッは決して貧困層の独占場所でないことをそれは物語っている。


「半キチガイグラメは猫にあげない」(2009年7月3・4日)
世の中にはBaso SetanやNasi Goreng Gilaなどと大げさな表現をして他と差別化をはかろうとする店が少なくない。ならばこっちはサブレン(sableng)で行こう、と三人の共同経営者は衆議一決した。「Gurameh Sableng Resto & Pancake」の看板があがったのはそのしばらく後。
サブレンというのは半キチガイの意味で、ギラと常人の中間に位置する。グラメはスンダ料理でイカンマス(ikan mas = 鯉)と双璧をなす淡水魚であり、その料理の方法はさまざまだ。このレストランはプンチャッ街道にあり、昔はLampoe Restoranという看板を出していた。その名の通り、店内にはランプがたくさん吊り下がっていたらしい。それが半キチガイグラメに変わったのは一年と少し前。店名に祭り上げられたグラメサブレンというこの店の推奨メニューは一舌の価値がある。
グラメ魚はカリカリのから揚げにしたものを頭から尻尾まで一口サイズに切る。頭も尻尾もカリカリだから、カルシウムをたっぷり体内に取り入れたいひとにとっては願ってもないもの。店長は「パリポリ食べて、猫の分け前はなし」とこのメニューの特徴を宣伝する。そのどこがサブレンなのかと尋ねると、実はグラメでなくて魚にかかっているソースがサブレンなのだという返事。ソースは米酢・魚醤・グラメラ・ニンニク・キダチトウガラシ(cabai rawit)のみじん切り・若マンゴの細切りを混ぜ合わせたもので、酸味・辛味・鹹味・甘味が微妙に交錯して食べる者を半キチガイにさせてくれる。唐辛子に弱い人は注文時に唐辛子を少なめにしてくれと頼めばよい、と店長は言っている。グラメサブレンは普通の皿でなく民芸色豊かな陶製鍋に盛られて来るから、そこはかとない奥床しさがある。
この店の人気メニューには他にもUdang Tiga Rasaがあり、これもエビを素材にして酸味・辛味・甘味の三色が楽しめる。この店はいわゆる典型的でオーソドックスなスンダ料理でなく、むしろモダンにアレンジされたフュージョンスンダ料理という趣が強い。米酢をふんだんにきかせたスンダ料理というのはほとんど見当たらないのだから中華料理や西洋料理の要素を取り入れているのは疑いない。インドネシアでは一般的に、酢をたくさん使った料理を食べると下腹がしくしくするという現象が昔から起こった。だが米酢であればそのような問題は起こらない。
さて食事時でない時間帯にチボゴを通りかかったとしても、この店に立ち寄る価値はある。三人の共同経営者のうちでコーヒー好きのひとりが自信をもって奨めるおいしいコーヒーが客を待っているのだ。この経営者は都内から首都圏一円にかけて、いたるところでコーヒーを飲んできた。かれが自認するコーヒー好きのなせるわざだろう。そしてボゴール郊外のワルンで「これはうまい」と唸るほどのコーヒーに出会ったのである。
ワルンの主人に豆はどこから仕入れているのかを尋ねると、自家製だという返事。こうして首都圏で一番うまいとかれが折り紙をつけたコーヒーがこの店にやってくることになった。コーヒーに添えるおやつには、この店の看板にあるパンケーキがお奨めだが、他にも焼きバナナやチャックエ(cakwe)といったものが選べる。チャックエは炸?で、いわゆる中華風揚げパンのこと。
週末のプンチャッ街道で一大交通渋滞に呑みこまれたら、この店に立ち寄って一休みするのも一興だろう。大渋滞でキチガイになったあなたを、半キチガイ程度にはきっと癒してくれるだろうから。


「コーヒーカフェ」(2009年8月28・29日)
インドネシアのコーヒーカフェはさまざまなブランドが入り乱れて活況を呈している。グルメコーヒーを飲ませてくれるこのコーヒーカフェ業界のなかで、人気と知名度で群を抜いているのはコーヒーカフェブームに火をつけた先発組みのひとつ『スターバックス』であるという調査結果をリサーチ機関フロンティアコンサルティンググループが発表した。
コーヒーカフェの中でどのブランドをすぐに思い出すか?どのコーヒーカフェを頻繁に訪れているか?これからすぐに行きたい店はどれか?そんな質問になんとアッパーミドル消費者層の6割近くが『スタバ』だと回答した。フロンティアコンサルティンググループの最新調査による人気番付は次の通り。
Starbucks 59.8%
Coffee Bean 9.2%
Expresso 7.7%
O La La 7.3%
Bengawan Solo 2.3%
Dome 1.7%
Ngopi Dulu 1.5%
Excelso 1.3%
Kedai Kopi Phoenam 1.1%
ところで『コーヒーカフェ』という珍妙な表現に違和感を抱かれた読者のために解説を付け加えておきましょう。
カフェとはフランス語でコーヒーを指し、コーヒーを供する店もカフェと呼ばれる。だからカフェというのはコーヒーを飲ませる店と決まっており、コーヒーカフェという言葉は「電球のたま」もどきであるため、そこに違和感が生じることになる。しかしインドネシアでは上にあげたようなコーヒー専門店をkafe kopiと称している。ちなみにインドネシア語大辞典でkafeは:
1 tempat minum kopi yg pengunjungnya dihibur dgn musik
2 tempat minum yg pengunjungnya dapat memesan minuman, spt kopi, teh, bir, dan kue-kue
と説明されており、kafe kopiは1.のほうなのだがわざわざkopiという限定詞をつけたのはグルメコーヒーブームが始まる前にkafeという言葉が2.の意味で世の中に定着してしまったためのようだ。 1990年代に入ってからナイトライフの楽しみ方のバリエーションが増え、その中には生演奏やダンスを楽しみながら友人たちと会話をはずませ、食事や飲み物もそこで取れるという店が首都ジャカルタのクマン地区やウィジャヤ地区などにオープンするようになり、それがカフェと呼ばれた。News Cafe, Fashion Cafeなどという店はそのカテゴリーに入る。そして経済危機。失業者が続出し、芸能人が職場創出を叫んで道端屋台を開業し、kafe tendaというしゃれた名前で一世を風靡するようになる。最初はクバヨランバルのど真ん中あたりにテントカフェがひさしを連ね、屋台が道路の車線を占領し、客の車が駐車して更に道路を狭くしたため住民との軋轢まで起こってテントカフェ排斥の動きに発展した。そこで行政が仲介に入ってテントカフェはスディルマン通りとガトットスブロト通りで切り取られるゴールデントライアングルSudirman Central Business Districtの放置されたビル建設予定地に集められ、2001年頃までそこのテントカフェ部落は盛況を続けた。そこは一種の芸能人村と化し、生バンド演奏あり、シネトロンスターとお話しもできて、首都の人気ナイトスポットになっていた。このテントカフェもコーヒーを飲ませる屋台店という意味でなく、むしろ廉価に食事が摂れる場所というのが実態だ。これがジャカルタにおけるカフェの略歴である。
そうこうしているうちに、21世紀に入ってついにインドネシアにもグルメコーヒーが上陸し、一杯が工場労働者の一日の賃金並みというコーヒーをすすりながら友人仲間と駄弁りを楽しむヤングエグゼキュティブやリッチ家庭の子女でいつも満員という店内の姿があちこちのモールやオフィスビルで垣間見られるようになった。このタイプのカフェは旧来型のカフェとはちょと違うということで、どうやらコーヒーという限定詞を伴うカフェという呼称が定着したようだ。


「即席麺を主食にするインドネシア人?!」(2009年9月11日)
インドネシア人にとって即席麺は米の飯に次ぐ重要な食品になっているようだ。いや、米の飯は既に二位に転落しているのかもしれない。即席麺の全国普及率はなんと94.2%に達しており、「老いも若きも男も女も、みんな大好きインスタントラーメン」というキャッチフレーズを地で行っている感がある。マースインドネシアが国内主要都市で行なった即席麺普及率サーベイでは、いずこも軒並み即席麺利用者が9割を超えてインスタントラーメンが日常生活の主食の座に就いている事実が明らかにされた。中でもバンドンは首位の98.5%に達しており、即席麺を食べないひとは2%を割っている。サーベイ報告は次の通り。
バンドン 98.5%
パレンバン 97.4%
バリッパパン 96.1%
スラバヤ 95.7%
マカッサル 95.7%
メダン 94.2%
スマラン 92.8%
ジャカルタ 92.0%


「ブレッドトークも一目置く地元パンメーカー」(2009年10月10日)
各地方ごとに地元民のパンの好みには違いがあるため、首都でどれほど有力なパンブティックブランドでも全国制覇は難しい、とリサーチ機関のフロンティアコンサルティンググループが報告した。ジャカルタ・バンドン・スマラン・スラバヤ・メダン・マカッサルで同グループが行なったサーベイの結果を見ると、たとえばメダンのマジェスティックのように地方都市ごとに人気の高い地元パンメーカーがあり、別の都市から進出してきたブランドは苦戦しているのが実情で、まさに群雄割拠しているのがこのパン市場であるとフロンティアコンサルティンググループは報告している。しかしひと昔前のホランドベーカリーから最近のブレッドトークにいたるまで首都から地方へと進出していったパンメーカーは善戦しており、全国集計すれば必ず上位につけている。全国レベルで見た人気パンメーカー十傑の順位は次の通り。
1.Bread Talk 32.8%
2.Holland Bakery 21.3%
3.Majestic 7.4%
4.Roti Boy 5%
5.Buana Bakery 5%
6.Harvest 3.2%
7.Swiss Bakery 2.7%
8.Virgin Bakery 1.6%
9.Purimas 1.7%
10.Wonder Bakery 1.6%


「コーヒーショップのフランチャイズが大繁盛」(2009年10月15・16日)
インドネシアのコーヒーショップ業界は過去三年間にわたって日々興隆の毎日で、それらグルメコーヒーを飲ませてくれる店は全国各地に続々と誕生している。それらの店がコーヒーカフェと呼ばれているのは「コーヒー・カフェ」(2009年8月28日・29日)で説明した通り。そのブームに乗って国民のコーヒービジネス投資もうなぎ登りのありさまだ。多少ともヒットしたブランドはフランチャイズやプロフィットシェアリング方式でのビジネス勧誘を活発化させて、ここを先途と繁栄を謳歌している観が強い。
往時は大人の男の飲む嗜好品という位置付けに置かれていたコーヒー生産国インドネシアにおけるコーヒーコンセプトは婦女子をコーヒーから遠ざけていた。若い娘がコーヒーを飲もうとすると「肌の色が黒くなるよ」と母や祖母がいましめていたらしい。色白肌が美人の条件だったインドネシアの女性たちにとってその諫言は相当に有効だったようだ。数十年前のジャカルタにコーヒーショップは数えるほどしかなく、そのほとんどがホテルの中にあって「街中でちょっとひと休み」のできる場所を探すのに苦労したものだが、そんな喫茶店皆無時代のジャカルタにもコーヒーを飲ませる屋台(warung kopi)はあった。ワルンコピーではたっぷり砂糖の入った真っ黒でこってり甘く少し苦いコピートゥブルッ(kopi tubruk)を飲むことができたが、わたしの体験では日本人駐在員を取り巻くインドネシア人の中でそんな場所をわたしに教えてくれたり、ましてや日本人を誘ってそんな場所へコーヒーを飲みに行こうとするひとはだれもいなかった。外資系企業の事務職者たちにとって、ワルンコピーは異なる階級の者が行く溜まり場という理解がなされていたようにわたしは思う。加えてワルンコピーのコーヒーは元気を取り戻すための飲物という意味合いのほうが強かったようにも思える。コーヒー飲用の発祥の地である中東のコーヒーは元来そういうものではなかったろうか?
コピートゥブルッという名前の由来は、話によれば、コーヒー豆を砕いただけのものだから、という説や砕いて粉にしたコーヒーにお湯をぶっかけたものだから、という説がある。トゥブルッというインドネシア語(いやジャワ語だろうか?)は『衝突』という意味であり、そんな荒っぽいコーヒーの淹れ方が存分に表現されているように思える。カップの中でトゥブルッするのだから、コーヒーの滓がカップの中に充満し、いかに滓を避けてコーヒーを飲むかということに頭を働かせなければならない。
ワルンコピーは今でもジャカルタのあちこちで見出すことができる。そこで飲む一杯2千ルピアのコーヒーは優雅にコーヒーの味を楽しむというものとは異なり、眠気を払い疲れた心身にエネルギーを取り戻させるという役目の価格相応なクオリティのもので、そんな店で使われる粉末コーヒーは最初から焦がしたとうもろこしの粉を混ぜて増量させてあった。そういう安物粉末コーヒーはパサルでいくらでも売られている。
ところがグルメコーヒーを飲ませるコーヒーカフェのブームが起こり、コーヒー一杯分の金と低所得者層向けの食事一回分がほとんど拮抗しているコーヒーカフェに老若男女が続々とやってくるようになった。これはライフスタイルにおけるファッションであるとインドネシアのひとびとはとらえたから、上で述べたような経済論理で自分の行動をしばろうとする人間はほんの一握りだったにちがいない。インドネシア人の金銭観や金銭感覚では、これはそうなるのが当然ということがらなのだから。ワルンコピーでは一杯2千ルピアなのにコーヒーカフェだと2〜3万ルピアで、フレーバーコーヒーやフラッペ・フロートの類になればもっと高い。この価格差がインドネシアの貧富の格差を象徴しているようにも思える。
ともあれ、味と香りのクオリティを楽しむコーヒーにインドネシアの消費者は俄然目覚めたわけで、膨大な需要が生まれたから供給者がそのマーケットを刈り取ろうと後から後から誕生するようになった。全国あちこちのモールやショッピングセンター、住宅街、オフィスビル、キャンパスなどどこへ行ってもその一角にほとんどかならずコーヒーを飲ませてくれるブースが存在しているのは、往時のジャカルタで喫茶店を探した人間にとってオドロキものである。
コーヒーメーカーでさえ自社生産品を淹れて消費者に飲んでもらおうとコーヒーショップを開始した。Kapal ApiコーヒーはExcelso Cafe、kopi TorabikaはKedai Kopi Torabikaという名の店をオープンしているし、ジョクジャの青年が始めたKedai KopiやIt's Coffeeというブランドは1.75億から2.5億ルピアの資金でフランチャイズ店を開設させており、青年層のビジネス成功例のひとつに取り上げられている。タイから進出してきたBlack Canyon Coffeeは短期間で販売網をインドネシアに広げたことでタイ政府から表彰を受けた。進出当初ブラックキャニオンコーフィーのフランチャイズ契約投資額は15〜20億ルピアだったが、今では5億ルピアまで下がっている。Bengawan Solo Coffeeのフランチャイズ契約条件は店舗スタイルによって料金が異なり、イスなしカウンターブースは1億ルピア、少数のイスを置いたアイランド型ブースなら2億で店舗型にすると3億ルピアというスキームが用意されており、プロフィットシェアリング方式の合弁を組めば投資回収は2年間で終わるそうだ。
しかし最近目覚しい伸びを見せているのはCoffee Stop。自動車専用道のレストエリア整備の波に乗って全国各地のレストエリアに開店し、また遊園地などにも進出していまや25店を擁しているコーヒーストップのフランチャイジー投資額は7千5百万ルピアで、商品価格一杯9千ルピアから1万9千9百ルピアという価格帯のコーヒーを毎日50杯売り上げれば9ヶ月で投資回収が終わる。コーヒーショップビジネスにおけるフランチャイジー投資はますます間口が広がっている。


「バミガジャマダの人気は抜群」(2009年10月16日)
麺はインドネシアでミーと呼ばれる。綴りはmieもしくはmiで、インドネシア語標準表記法に従えばmiとなる。ミーは福建語に由来しており、よく使われるバッミーというのは肉麺(bak mie)で中国人にとっての肉とは豚肉を意味している。
そこに矛盾が生じる。ムスリムの禁忌であるbakを謳いながらハラル(halal)だと言うのだから。それに気付いたひとびとはバッミーという表現を極力避けるようになった。とはいえバッミーが依然として使われている店もあり、そのあたりは感受性の問題であるにちがいない。
大都市でミーはムスリム非ムスリムの区別なしに人気のある食品だ。だから当然フランチャイズが活発に行なわれている。ジャワの地方部へ行くと、街道沿いにサテやラウォンなどの看板はいくらも目に留まるのだが、ミーの看板をついぞ見かけない。そしてたまたま入った華人系レストランのメニューにミーを見出し、勇んでそれを注文するのだがまったくおいしくない。そんなとき、ジャカルタのミーが郷愁を誘うのである。
さて、ミーフランチャイズで有力なブランドをフロンティアコンサルティンググループが調査した。判明したのは、バミガジャマダが圧倒的な強さを誇っているということだった。人気番付は次のようになっていた。
Gajah Mada 48.8%
Golek 6.8%
Naga 4.8%
Gang Kelinci 2.7%
Gilli 2.5%
SS 2.1%
Yogya 1.8%
Margonda 1.9%
確かにバミガジャマダは麺がうまく、そして店員が折り目正しく且つてきぱきしたサービスを見せてくれる。こんな店はインドネシアに数少なく、その人気の高さを十二分にうなずけるものにしている。


「ジェイコとダンキンの寡占市場」(2009年10月22日)
フロンティアコンサルティンググループが国内6大都市で行なった消費者調査で、ドーナツ市場のトップメーカーはJCOであるとの結論が出た。ドーナツと聞いて消費者がすぐに思い浮かべるブランドは次のようなもの。
1)JCO 51.8%
2)Dunkin Donuts 41.8%
3)Krispy Kreme 1.1%
4)その他 5.3%
都市別にはジャカルタとバンドンでJCOが強く、スマラン・スラバヤ・メダン・マカッサルではダンキンドーナツが強い。全国的に見ると、ドーナツメーカーとして消費者に知られているブランドはJCO、ダンキン、クリスピクリームの三つだけだ、とフロンティアコンサルティンググループはコメントしている。


「サワーサリーは国産ブランド」(2009年11月6・10・12日)
ライフスタイルとしての飲食品のブームというのは、どうやら特定のパターンに従って動いているようだ。ハンバーガーはインドネシア国民の大多数にとってまったくの異文化体験だったにちがいないものの、フライドチキンはかれらにとってアヤムゴレンの変種だったのではあるまいか。ところがアメリカブランドのフライドチキンはやはりライフスタイルとしての意味合いがそのヒットに混じりこんだように思える。わたしがインドネシアで暮らしはじめた当時、サンダースおじさんの看板が出ている店の中で大勢のインドネシア人がご飯とサンバルをフライドチキンと一緒に食しているのを目の当たりにして感動したものだ。
超高価なグルメコーヒーは「コーヒーショップのフランチャイズが大繁盛」(2009年10月15日・16日)で紹介済みだが、ブティックパンにせよドーナツにせよ、あるいはバンドンのブラウニーケーキにせよ、それまで世の中にあってその存在が社会一般に認知されている飲食品がある時期突然世間に大きなブームを引き起こすという現象はインドネシアで日常茶飯事になりかかっているように見える。その商品を買うことで時代の波に乗っていると消費者が感じるのがその根底にある原理であるのは流行というものの心理学が既に看破している通りなのだろうが、それまで世間で普通に扱われていたものがある時期突然ライフスタイルという異次元の後光を背負って新参ブランドとともに躍り出てくるというそのパターンがどういう要因で形成されているのか、わたしにはいまだによくわからない。
ブームの契機はたいてい、特定の新参ブランドが突然人気を集めて消費者の間に口コミで伝わり、一度はその飲食品をトライしてみなければ時代の波に乗り遅れるというライフスタイル上での自分の体面を形成し維持しようとする心理に駆られて一大ブームとなり、そのブランドの店で消費者が長蛇の列をなすという現象となって出現する。ただその場合、どうしてその新参ブランドなのか、どうしてその飲食品なのか、という消費者の選択基準に関わる原理がよく見えないということをわたしは申し上げている。
ともあれ、あれこれと移り変わってきた飲食品ブームの白羽の矢が今回立った最新流行飲食品はフローズンヨーグルトなのである。いまジャカルタではフローズンヨーグルトが熱い!
フローズンヨーグルトブームの契機となったのは、Sour Sallyという新参ブランドだ。フローズンヨーグルト自体は以前からもモールの中にさまざまなブランドの売店があったが、そこで長蛇の列ができるのを目にした経験はわたしにはない。
ところがサワーサリーが第一号店をスナヤンシティに開設して以来、ジャカルタにフローズンヨーグルトブームが到来した。
他の飲食品ブームもそうだったように、ある商品がブームの波に乗れば同業他社が続々と名乗りをあげる。Cimory, Yogh Berry, Red Manggoなどが各地に出店し、ドーナツブームの立役者JCOまでがヨーグルトドリンクをメニューに加え、バンドンでは住宅地内に開店したCisangkuiも静かに商売繁盛を楽しんでいるという。甘味・辣味が大好きで苦味酸味が大嫌いなインドネシア人の間で酸味を基本とするヨーグルトのブームが起こったのはミステリーのひとつだが、ことライフスタイルに関わるとなればそんなことを言ってはいられないということなのだろう。面白いことに、JCOが火をつけたドーナツ、そしてこのサワーサリーのヨーグルトはいずれもがインドネシア国産ブランドであり、それまですべて外国ブランドがブームの口火を切っていた時代からの変化を感じさせている。
ところで膨大な人口と広大な国土を持つインドネシアを消費市場と見る事業投資家は、国内でヒットする商品のフランチャイジーとなって商売繁盛のしぶきを身に浴びたいとてぐすね引いて待ち構えている。サワーサリーは国内に15店をオープンしてこれからフランチャイズビジネスに取り掛かろうとしている矢先に、早くも580件のフランチャイジー申込みが長蛇の列を作った。シンガポール、オーストラリア、日本からもフランチャイズ誘致の申込みが入っている。2008年5月にビジネスを開始したサワーサリーはジャカルタでの販売網を一段落させ、バンドン・スラバヤ・バリに5店を開設する計画を立てている。サワーサリーはオープン後一年間ほどでなんと数十万人の顧客にフローズンヨーグルトを販売した。顧客のメインは女性だが、男性がいないというわけでもない、と同社取締役は述べている。
カップ一杯1万8千から6万5千ルピアという価格帯の商品が飛ぶように売れるのだから初期投資は一年未満で回収できる、と同社取締役は語っている。サワーサリーのフランチャイズ戦略は、サワーサリーフローズンヨーグルトをAB所得層消費者対象に自社販売を続け、このセグメントは国外に限定してフランチャイズを展開する。一方国内のフランチャイズ政策はYogubuzzという単価1〜2万ルピアのブランドを新設して中低所得層向けにフランチャイズ展開するというもの。
「プンチャッ越えの道(6)」(2009年03月21日)で紹介されているチモリも、ヨーグルトを自店メニューラインナップのひとつに据えてきた。チモリにとってもヨーグルトブームの到来は受けて立つのに好都合というところだろう。チモリはヨーグルトドリンク売店Yogurt Cimory Plusをオープンして庶民消費者をターゲットに据え、1カップ1.5〜2万ルピアの商品を一日平均100カップ売り上げている。
インドネシアの飲食品ブームは面白い特徴を持っている。たとえばブレッドトークが火をつけたパンブティックブームが盛りを過ぎ、次にジェイコによるドーナツブームへと移行したあとも、ブレッドトークをはじめとするさまざまなパンブティックの来店客が減少して閑古鳥が鳴くということは起こらず、いささかトーンダウンするとはいえ大勢の顧客が相変わらず店を訪れ続けているのだ。つまりブーム時の状況が消費者のビヘイビヤとして定着してしまうということなのである。言い換えれば、ブームはそれまで縁のなかった一般消費者に対する啓蒙・導入契機としての機能を持っており、ブームによって社会化されたそれらの商品への需要はそれぞれが消費者の中に定着してしまうのである。最先端ライフスタイルという衣装を脱ぎ去ったあとでも消費者はその商品を見捨てないというこの現象は、一般通念としてのブームのあり方にそぐわないような気がしてならないが、それはともあれそのようにして実生活を豊かにしているインドネシア人の堅実性のあらわれということなのかもしれない。


「お好みのアイスクリームショップは?」(2009年11月6日)
甘く冷たいアイスクリームはインドネシア人の大好物。消費者の間で人気の高いアイスクリームショップはバスキンロビンスが断トツだった。ナンバー2はスラバヤ出身のサンランディ。
フロンティアコンサルティンググループが行なった調査で消費者があげた店名は次のような結果だった。
1)Baskin Robbins 35.9%
2)Zangrandy 8.9%
3)Hagendaz 8.4%
4)Fountain 7.5%
5)Swensens 7.3%
6)New Zealang 6.7%
7)Gelato 4.4%


「一家団欒の食事を失ったインドネシア人」(2009年11月13・14日)
一緒に食事をするというのはどの国へ行っても、互いの親密度を高めるための方法として使われている。日本では『ひとつ釜の飯を食う』という表現があり、アジアの一部地方では同じ食べ物を一緒に食べるかどうかが敵か味方かの分かれ目となっていた。原住民が供する食べ物を一緒に「うまい、うまい」と言って食べなければ、あとで襲撃されて生命に関わる事態に陥りかねなかったらしい。一緒の食事が他人との親密度を高める力を持っているのなら、自分の家族と一緒に摂る食事は家族の絆をたいへん深いものにするにちがいない。
ところが現代生活においては、労働時間はますます長くなり、家の外での活動がますます増加し、モダンなライフスタイルが国民の関心をひきつけている。そのような要素がインドネシア人から自宅で一家団欒の食事をする習慣を奪っており、それが現代社会に噴き出しているさまざまな社会問題の根をなしている、とインドネシア大学政治社会学部教授が指摘している。
インドネシアの何人もの若者がテロリスト組織にリクルートされたり、家庭崩壊が昔より3倍増になっているといった昨今の社会問題は、家族がそろって家で食事をしなくなってきていることが原因であると教授は言う。「家族が一緒に食事をするという昔からの慣習がモダンライフスタイルにとって変わられつつあり、それが多くの犠牲者を生んでいる。家族が一緒に食事するのは昔からのインドネシアの文化であり、それが世の中に動いている価値観を子供や家族構成員に伝える場を形成していた。一方、そこでは親子の自由な話し合いや家族構成員の身の周りで起こっていることの情報が飛び交い、家族構成員がどのような生活態度を自分は取るべきかというヒントや指導を得る場ともなったし、家長にとっては一家をどう統御していくかという役割の基本情報がそこから得られていた。一家団欒の食事の場というのはそれほど重大な機能を持っていたため、そこで供される食事もいい加減なもので済ますことが許されなかった。
現代社会の病弊の多くはそんな一家団欒の食事が失われつつあることに端を発している。だから国民はその文化を取り戻し、自宅で一家団欒の食事を摂るようにしなければならない。一家こぞってレストランへ食事しに行くというものとはちがう。」
別のインドネシア大学社会学者は、家族一緒に食事する習慣が失われつつあるために過去5年間で国民の離婚件数は3倍増になっている、と語る。「驚くべきことに、家庭崩壊が3倍増になっている。これは家族の共同生活やコミュニケーションのクオリティが劣化しているためであり、家庭で家族が一緒に食事することでその劣化を食い止めることができる。家族が一緒に食事するのはただ単に腹を満たすということでなく、家族構成員の精神をポジティブな感情で満たすことを意味しているのだ。家族構成員間での相互の関わり合いが協調的な家族の絆を作り上げて強いものにするのである。この文化を回復させるにあたって注意しなければならないのは、ほかの家族構成員の話を単なるお付き合いやお愛想で片手間に聞くのでなく、真面目にその話し合いに加わり、さらに発言者対して思いやりの姿勢を持つことが重要なのだ。この家族一緒の食事は特に青少年期の子供にとって、栄養価のある健康な食事を摂る習慣を養うのにきわめて大切なものだ。それに劣らず大切なのは、夫婦間の相互の思いやりが家族団欒の食事の場で実践され、相互理解のためのクオリティのあるコミュニケーションが展開されるために、離婚の発生や家族構成員間の疎外による家庭崩壊がミニマイズされることだ。」
家族主義社会であり対人依存性文化を強く持っているインドネシア社会ではファミリーの絆が個人にとってきわめて重要な要素であったものの、現代化による西欧型個人主義的ライフスタイルの浸透によって昔から保たれてきた価値観に変化が起こりつつある。自宅における家庭生活が自分の本源的姿であり、家の外での活動は生計のための必要悪であるという考え方は都市部中流階層の間で弱まりつつあるように見えるのだが、かれらの間で一家団欒の食事文化が果たして回復されるのだろうか。


「チョコウエファーのトップスターはゲリー」(2009年11月14日)
マースインドネシアが2009年に行なったチョコウエファーに関する市場調査で、ゲリーが45.1%の人気を集めて今年も断トツのナンバーワンとなった。ちなみに上位6ブランドは次の通りで、この順位は昨年からまったく動いていない。
1) Gery 45.1%
2) Beng Beng 16.6%
3) Top 13.5%
4) Tim Tam 7.0%
5) Gery Coklut 2.5%
6) Selamat 1.7%
マースインドネシアが毎年行なっている商品別市場調査はジャカルタ・バンドン・スマラン・スラバヤ・メダン・マカッサル・デンパサルで行なわれている。ゲリーはジャカルタ・スラバヤ・メダン・マカッサルで首位になったが、バンドンとスマランではトップが一位、デンパサルではベンベンがナンバーワンだった。どの商品によらず全国一律で強いというものはあまりなく、地方別の強さ弱さは避けがたい要素であるようだ。


「量り売りスナック菓子は人気が低下」(2009年12月3日)
昔は需要の半分を埋めていた量り売りスナック菓子が今や日陰者の道をどんどん転落している。反対に消費者の間で人気の高いのは見映えの良い包装に包まれた名前の売れているブランドのスナック菓子で、大人も子供もブランドものを好んで買う傾向が強い。スナック菓子のトップブランドはChitatoで、次いでTaro, Leo, Cheetosといったブランドに人気が集まっている。


「これからケバブが人気?!」(2009年12月24日)
インドネシアフランチャイズ協会は外国系フランチャイズの国内進出が来年からますます活発化するだろうと予測している。これは、インドネシアの国民所得の増加、巨大な人口、そしてフランチャイズパートナー間のトラブルが深刻な状況に発展しにくいことなどが外国系フランチャイザーの進出を促す要因になりうるためである、と協会会長が分析している。
「国民ひとりあたりの年間所得は2,030ドルに達しており、インドの982ドルを大きく引き離している。2億を超える人口も魅力的な市場を形成している。販売商品は更に多様化してカフェやコーヒーショップといったライフスタイルに関わるものが増加する傾向にある。加えてインドネシアのフランチャイジーは他の諸国に比べてあまりディマンディングでないことも外国系フランチャイザーのインドネシアへの進出誘因のひとつになっている。パートナー間でトラブルが起こった場合、特にフランチャイジーがフランチャイザーに対して契約上のミスを犯した場合など、先進国ではその決着に時間がかかるものだし、時としてマスメディアの好餌にされればブランドの市場価値は大きく損なわれる。インドネシアの場合、フランチャイジーとの関係は許容度が高いと外国系フランチャイザーは見ている。
出身国別シェアではシンガポールが30%でトップを占め、アメリカもそれに近いシェアを持っている。次いで日本・マレーシア・タイ・フィリピンといったところが活発だ。諸外国もインドネシア国内のライフスタイルを敏感に観察しており、ケバブの人気が高まりつつあるのと並行してギリシャ・トルコ・レバノンなどからケバブのフランチャーザーが進出を計画している。」最近のマーケット状況について協会会長はそう述べている。


「ウサギのサテ」(2010年6月12日)
西ジャワ州バンドンを北へ抜けてタンクバンプラフ山の方角を目指すと、道路にサテクリンチ(sate kelinci)と書かれた看板が頻繁に出現するようになる。クリンチとはウサギ、つまりウサギ肉のサテだ。その風爽やかなレンバン(Lembang)高原地区は、いまやインドネシアで有数なウサギ養殖地区となっている。2007年のウサギ養殖業者は8百軒だったが、2009年はその数が1千軒に近付いているとのこと。
ウサギの中で食用になる種は限られている。すべてのウサギは愛玩用にできるが、食用になるのはその一部。インドネシアで食用にしないウサギは15種類ほどある。食用ウサギ養殖事業では、肉だけを採るもの、肉・皮・毛を採るものという区別もある。インドネシアで人気の高い種はニュージーランドホワイト、そして地元種はギバス(gibas)・ブリゴン(bligon)・クニル(kunir)・バトゥ(batu)などけっこう多種に分かれている。
養殖業者はそれぞれ優れた食肉を作り出そうとして、いくつかの種をかけあわせる。ニュージーランドホワイトは身体が大きいが病気に弱い。地元種は病気への抵抗力がそれよりも強い。だからそれを交配させることで身体が大きく抵抗力の強い食用ウサギを生産することができる。成長を促すためにエサにも神経を使わなければならない。たんぱく質を多く与えてやると身体はぐんぐん大きくなっていくから、生産のサイクルが早まるという結果をもたらしてくれる。愛玩用ウサギは見てくれに気を遣うので、食用のように身体を大きくしてやればいいというものとは一味ちがう。ウサギ養殖業者のひとりは、ウサギと言えばニンジンと思ってニンジンばかり与えるようなことはしない、と語る。「ニンジンは人間も食用にする。だからウサギの常用飼料はあまり人間の食べない素材で作るほうがいい。」
レンバンのウサギ養殖業界はひと月8千から1万匹の愛玩用ウサギを出荷している。その80%はジャカルタ向け。一方ウサギ肉の出荷はジャカルタやスラバヤに向けてそれぞれひと月8トンが出荷されている。マレーシア・中東・イタリアなどへも輸出されており、需要は大きい。出荷価格は愛玩用だと一匹が2万5千から100万ルピアというレンジの広さだが、食用は一匹で1万から2万5千ルピアとのこと。2007年の国内ウサギ販売は10万匹18億ルピアという大きい市場だ。
国内でレンバンと共にウサギの生産地として知られているのは中部ジャワ州クラテン・カリマンタン・パプアなど。ウサギ肉は低コレステロールで、そのため健康食肉として特にヨーロッパで人気が高いそうだ。西ジャワの高原で食べるサテも、きっと健康的だろう。


「パンケーキ」(2010年8月14日)
今ジャカルタでパンケーキ(pancake)に人気が出ている。昔日本でホットケーキと呼ばれていたこのパンケーキは、簡単な素材を使ってだれでも手軽に料理できるのだが、それだけにだれもがおいしいと一目置くようなものにはなかなか出会えない。一部のアメリカ人はパンケーキをホットケーキと呼んでいたらしく、日本のホットケーキの歴史は終戦後の歴史に関わっていたのかもしれない。
オランダ語ではパネクッ(pannenkoek)と称し、インドネシアでもその言葉を目や耳にする機会は昔からあった。アムステルダムのカフェでもパネクッを注文することはできる。それが現代のジャカルタでパンケーキという英語で復活している事実には何やら考えさせられるものがある。
北ジャカルタ市クラパガディンのMKG3(Mall Kelapa Gading 3)にPancious Pancake Houseというパンケーキマニアの店がある。パンケーキのオーソドックスな食べ方は、二三枚重ねた円盤状のパンケーキに角切りバターとメープルシロップをべたべた塗りたくるのが作法で、どう見ても大人が食べるものとは思えない。さもありなん。パンシャスパンケーキハウスのマネージャーによれば、来店客の皆さんはいろいろなトッピングを載せたものがお好みで、トラディショナルなパンケーキを注文する人は少ない、とのこと。店のメニューを見ると、スイートパンケーキとセイヴァリーパンケーキに大別されており、それぞれさまざまなバリエーションが用意されている。客の7割はスイートパンケーキを注文し、中でも人気の高いのはブルーベリーチーズパンケーキで、これはバニラアイスクリーム・クリームチーズ・ブルーベリージャムがトッピングされ、ご丁寧にブルーベリーの実もついてくる。この店ではパンケーキの代わりにワッフルも供される。材料は同じで形が違うベースをふたつ用意してあるのはなかなかのすぐれもの。
南ジャカルタ市プジャテンビレッジのMr Pancakeもビジネス好調。ミスターパンケーキはプリモール、プルィッジャンクション、スティアブディIなど都内各所に姉妹店を出しており、近々モールアルタガディンにもオープンする予定。
この店の一番人気はパンケーキプラッターで、6種のトッピングが載った6個のミニパンケーキがエンジョイできてお買得感満点。しかしこの店で作られているサイズの異なるパンケーキはすべて一人前150グラム均一だそうで、だからサイズで選ぶのは利口なことではない。
他にも南ジャカルタ市スルヨ通りのMayang Suki dan Pancake、あるいはダルマワンサスクエアやスナヤンシティのGelato Barでもパンケーキがメニューの中に用意されている。


「8万ルピアの和牛ステーキ」(2010年8月21日)
南ジャカルタ市ラディオダラムからガンダリアそしてアフマッダフラン(Ahmad Dahlan)通りにかけての一帯は、さまざまに個性的なレストランやカフェがいっぱいあって仲間と遊びに出るのにかっこうのエリアだ。夜中まで開いているカキリマ屋台もある。
飲茶ファンにはうれしい、夜中まで開いているレストランがラディオダラム通りにある。レストランというよりはテントワルンだが、出てくる料理は本格派でおまけに廉い。この店、昼間はKIA自動車修理工場で、閉店後の18時に建物表の工房スペースが食堂に衣替えする。だから夜中まで飲茶を供してくれるのは当然だ。
店の名前はDim Sum Festival。この店で好評なのはエビ餃子。しかしメニューは点心ばかりではない。中華・和食・西洋のさまざまな料理を注文することができる。春巻からスープ、クエティアオ・ナシゴレン・スシ・刺身・鉄板焼き、ステーキからピザまでよりどりみどり。メニューはなんと百種類もあるそうだ。お値段は、下は一皿9千ルピアから20万ルピアまで幅広く、最高はローストダックの一羽丸焼き。この店は早朝まで開いており、それが人気の秘訣でもある。
そこからほど近い場所に、やはり夜だけ開いているワルンがある。ここは昼間ガラスフィルムの販売店で、夜になるとワルンに早変わりするステーキ屋。この店も最近大好評で、ここ数ヶ月押すな押すなの盛況になっている。輸入牛肉で一人前が4万5千ルピア、和牛は9万5千ルピア。たいていいつもテーブルは満席で順番待ちの客が並んでいる。その日の仕込み分が売切れたら閉店で、最近は9時ごろもう売り物がなくなってしまう、と27歳のオーナーは語っている。店名はwarung steak hotel by Holycow。
ガンダリアに回ると、ストロベリーカフェ。ここも飲食品が廉いので若者たちが集まる場所になっている。お値段は最低で6千ルピア、最高は和牛ステーキの8万ルピア。材料にイチゴを使ってアイデアを駆使した飲物や料理。いろいろ試してみるのも面白そうだ。イチゴの乗ったナシゴレンも一興だろう。
この店にはさまざまなゲームが置かれており、客は思い思いのゲームに興じている。隣のテーブルに着いた若者たちがどっと歓声をあげる。さあみんなでゲームを遊ぼうじゃないか。


「クトゥパッ」(2010年9月6〜8日)
ルバランの日に一族の長老の家には一族の者が集まって祝宴を張る。たいていは大勢が集まって昼食のご馳走を食べ、四方山話に時を忘れ、夕方になって解散するというシナリオで、ルバラン初日は夫の一族、二日目は妻の一族という訪問先の分け方をしている家庭もあれば、初日にその両方を回り、ついでに友人宅や会社の上司の家まで回る家庭もある。これは日本の年始回りとよく似た習慣だ。
祝宴のためのご馳走も、その前日あるいは前々日に食材を買出しに行き、前日は女たちが台所にこもりっきりで大量の料理を作る。これも日本の大晦日の風景とよく似ている。だから昔は大勢の日本人がルバランを回教正月と呼んだものだが、それはその行事が日本の正月と似ている面が多かったからだろう。もし正月を年のはじまりという意味で使っているのなら、イドゥルフィトリはシャワル月(第十月)の初日であるため正しくない。イスラム歴一月一日はそれから90日ほど後に来るムハラム月の初日が新年に該当する。
ひと月続く長い断食の行を終えたよろこびに浸って、ひとびとは豪勢な食事に舌鼓を打つ。肉・魚・野菜・汁物・・・主にこってりしたおかずと一緒に必ず用意されるのがひし形に作られた飯で、クトゥパッ(ketupat)と呼ばれる。クトゥパッは若い椰子の葉ジャヌルを、中を空洞にしてひし形に編み、洗った米を中に入れて炊く。炊かれた米は膨らんで飯になり、椰子の若葉の容器の外への膨張がせきとめられるために内側に向かって膨らみ、飯粒がつぶれて溶け合う。冷めたクトゥパッの容器を包丁で切り開くと、ひし形に固まった飯が出現するという寸法だ。
このクトゥパッはインドネシア・マレーシア・シンガポール・ブルネイそしてフィリピンでお目にかかることができる。各地で異なる名称で呼ばれており、タガログ語ではプソ(puso)、スンダ語ジャワ語はクパッ(kupat)、バリ語はキパッ(kipat)などと言う。バリではヒンドゥのお供え物にも使われる。そのような形で飯を作るのは、弁当として持ち運ぶためだったようだ。船乗りたちは航海に出る際にクトゥパッを船に持ち込んだらしく、東南アジア一円に広まったのはそのせいもあるようだ。
インドネシアムスリムの多くは九聖人(Wali Sanga)のひとりスナン・カリジャガがクトゥパッを広めたと信じている。スナン・カリジャガはボドルバランとボドクパッの励行をムスリムたちに奨めた。ボドとはアラブ語のba'daがジャワ語化されたもので、意味はジャワ語のルバル(lebar)と同じだ。ルバランとは断食終了後の祝祭を意味しており、語根ルバルの語義は英語のafterである。だからレバランと発音するとインドネシア語のレバル(lebar=広い、wide)を意味することになり、本来の意味からそれてしまう。
ボドクパッはルバランの一週間後の日にクトゥパッを作って年上の親族にプレゼントするというもの。だから昔ジャワでは、ルバランが終わってからせっせとジャヌルを編んでクトゥパッを作った。クトゥパッがそのような使われ方をするようになったためだろうか、クトゥパッを目出度いものととらえる見方が生じ、護符として家の表に吊り下げるようなことすら行なわれている。ジャワでは地方によってクトゥパッを祭日にしか作らないところがあり、あるいはルバランの7日後にしか作らないところもある。ルバランの7日後の祝祭日はHari Raya Ketupatと呼ばれている。
今ではイドゥルフィトリの日の祝宴とクトゥパッの相性がたいへん強いものになっているが、日常の普通の料理でクトゥパッを使うものもたくさんある。サテやガドガドにはロントン(lontong)が添えられることが多いが、クトゥパッが使われることもある。ロントンとクトゥパッはどうやら互換性を持っているようで、ロントンサユルもあればクトゥパッサユルもある。豆腐とグライにクトゥパッを添えるとクパッタフ(kupat tahu)のできあがり。チョトマカッサルもクトゥパッとの相性はいい。
ハリラヤとクトゥパッの組み合わせから、クトゥパッを目出度いものととらえる見方の基盤として哲学的な意味付けも行なわれている。その中には、ジャヌルで編む容器の複雑さを人間の性格にたとえ、その複雑な性格ゆえに冒す過ちの赦しを神に願ったあとの清廉潔白な心のありさまを分断されたクトゥパッ飯の真っ白な切り口にたとえ、そしてひし形が象徴する完璧さの実現を、断食を通して犯した過ちを赦し断食を克服して自己に打ち克った勝利を祝うイドゥルフィトリの祝祭にたとえるコンセプトがそれだ。
そんなクトゥパッを作るために国民の米需要は暴騰する。首都圏の米需要をまかなっているチピナン米中央市場では、ハリラヤが近付いてくると、米の出荷は平常日の2倍に増加する。市場で米の卸をしている商人のひとりは、平常月には食堂・ワルテッ(Warteg)・他のパサルで小売をしている販売業者向けに10〜20トンを毎日出荷しているが、それが30トンまで増加する、と述べている。


「歴史を生きるカフェ」(2010年10月9日)
ウエスタンスタイルのコーヒーショップが続々とインドネシアに進出してくる中で、オランダ時代から数百年にわたってコーヒーの世界的生産国だった地元インドネシアのコーヒーショップも負けてはいられない。やたら香りが強くて甘ったるいコーヒーが主流を占めている中で、通好みの大人の味を楽しませてくれるコーヒーショップもその存在を主張している。そのひとつがバクルコフィー(Bakoel Koffie)。
1970年代のジャカルタで、本格的なコーヒーを楽しみたいひとはコタのハヤムルッ(Hayam Wuruk)通りにあるワルンティンギ(Warung Tinggi)を訪れた。なにしろ近隣のパサルで買ってこさせたコーヒー粉だと、炒ったとうもろこしの粒がコピートゥブルッ(kopi tubruk)に浮くのが普通だったのだから。
1870年代にバタビアに移ってきた客家出身のリョー・テッスンはプリブミ女性を妻にしてたいていの華僑移民が歩む食べ物商売をはじめた。ワルンを開いたのはバタビアコタのモーレンフリート運河東側。テッスンのワルンビジネスは着実に進展した。コタのワルンにはプリブミが食材を売りに来る。当時プリブミの主婦たちは食材をさまざまなサイズの竹網ざるに載せて、徒歩で街中を売り歩いた。ある日プリブミ女性が食材でなくコーヒー豆を売りに来た。テッスンはそれを買って自分で焙煎してみた。
そのころから、うまいコーヒーを飲ませるワルンの存在がコタ一円の評判を取るようになった。テッスンのワルンは周囲より一段高まった土地にあったから、客たちはそのワルンをワルンティンギと通称した。そのうち飯屋ワルンはコーヒーワルンの様相を呈するようになり、主人の代替わりとともに蘭印最初のコーヒー焙煎豆専門店に変身して行った。コーヒー専門店ワルンティンギの創設は1878年とされている。この店は自前の焙煎工場を持ち、Tek Soen Hoo Eerste Weltevredensch Koffiebranderij(ウエルトフレデン初のコーヒー焙煎ショップ)という名で大いに売った。最初販売されていたのは一種類のコーヒー豆だけで、何のブレンドもされていないシンプルなものだった。
2000年になってテッスン4代目の直系シェニー・カトリン・ウィジャヤがカフェビジネスへの進出を企画した。首都圏のライフスタイルが変化し、ひとびとは家にいる時間が短くなったため豆を買って自宅でコーヒーを飲むことが少なくなったのだ。反対に会社をはじめ家の外でのコーヒー消費が激増した。そのトレンドを敏感に察知したシェニーは2000年にバクルコフィーを南ジャカルタにオープンした。バクルというのは竹網ざるのことで、テッスンのワルンにコーヒー豆を持ってきたプリブミ婦人の姿をしのんで命名されたもの。
バクルコフィーのお奨めブレンドはheritage, black mist, brown cowの三つ。ヘリテッジは北スマトラと南スマトラのコーヒーを合わせたもの、ブラックミスとはスマトラとジャワのブレンド、ブラウンカウはスラウェシとスマトラのブレンドでミルクを混ぜるのに最適。いまバクルコフィーは都内チキニ・スノパティ・ビンタロ・クラパガディン・クニガンの5ヶ所に開店している。


「リワのコピールワッ」(2010年10月16日)
野生のルワッ(luwak)がコーヒー農園で飲み込んだコーヒーの実が消化されないまま排出物に混じって出てくる。そのコーヒー豆をきれいに洗って焙煎したものがコピールワッで、今や世界一高いコーヒーになっているとのこと。ホンモノのコピールワッはたいへんまろやかな味と香りで、普通のコーヒーが持っている刺激性が抑えられ、たいへんおいしい。それがおいしいのは当たり前で、ルワッは手当たり次第にコーヒーの実を飲み込んでいるんじゃないのだから、言ってみればルワッにおいしいコーヒー豆を選ばせているようなものであり、おいしいのは当然だ、という話にわたしは深くうなずいた記憶がある。
ルワッというのはAsian Palm Civet (Paradoxurus hermaphroditus) で和名はマレージャコウネコ。昔はコーヒー農園に夜な夜なたくさんのルワッがやってきて、コーヒーの実を飽食して排泄物をあちこちに撒き散らし、朝になると退散して今度は人間がその排泄物を集めて回るというのがコーヒー園の毎日だったそうだ。ところが環境の変化でルワッの数が激減したため、排泄物探しに苦労する時代になってしまった。全国のコーヒー農園でそんな状況が進行したため、ホンモノのコピールワッも希少商品となり、売られているのはニセモノかモドキのたぐいが大半という時代が続いた。そうして価格が高騰し、それならルワッを飼育してコーヒーの実を食べさせればいいじゃないか、という発想の転換が行なわれて全国的にコピールワッの生産量が今は持ち直しの時期にさしかかっている。
ところが、ランプン州西ランプン県ワイムガク(Way Mengaku)のコピールワッ生産者は資本金と販売力の不足から大量の在庫を抱えて経営がジリ貧状態に落ち込んでいる。ワイムガクのコピールワッ生産者は10軒あったが、いまや事業を続けているのは4軒に過ぎない。生き残っている生産者のひとりは、倉庫に買い手のつかない未加工コーヒー豆が7クインタルもあり、そのため飼っているルワッの飼料購入資金に事欠く結果となり、100匹飼っていたルワッは売れるものは売り、売れないものは山に放して、今では30匹に減少していると語っている。Musong Liwaのブランドを持つ別の生産者は、かつて一日当たり生産量は15キログラムだったがいまでは5キログラムにダウンしている、と話している。生産者たちは、リワのコピールワッが売れにくいのは生産者による純正オリジナル品であることを証明する証明書がないためだ、と現状を分析している。


「インドネシア料理の缶詰」(2010年12月25日)
2010年はじめ、インドネシア科学院(LIPI)のヨグヤカルタ特別州グヌンキドゥル県化学プロセステクノロジー開発館技術応用ユニットはインドネシア伝統食品の缶詰製品流通販売許可を取得した。それに従って委託生産者を選抜し、LIPIの監督下に生産された缶詰製品は既に市場に流れている。
缶詰製品はgudeg, tempe kari, sayur lombok ijo, mangut leleの4種類があり、LIPIガディン協同組合が流通元になってジョクジャのミロタカンプスやパメラスワラヤンなどで販売されている。LIPI研究員によれば、それらの缶詰食品製品は121℃を超える2気圧の環境下に真空処理技術を使って無菌化を行なっており、防腐剤はまったく使わなくとも2〜3年は変質が起こらないとのこと。現在の缶詰生産量は月間1千から2千個あり、技術応用ユニットはさらにgulaiとtunaの調理食品缶詰化を進めている。
ジョクジャ名物グデッ(gudeg)の缶詰はGudeg Bu Citroが生産しており、サウジアラビアやオランダにまで輸出されている。


「モチアイスクリームに人気」(2011年1月8日)
ジャカルタに菓子としてのモチを販売する専門店が増加している。2009年2月、フードホール内にスタンドをオープンしたMochi Mochiは白ゴマ・黒ゴマ・緑豆・塩豆・パンダン・小豆・鶏肉ソボロなどさまざまなあんこを包んだ、ピンポン玉よりちょっと小さめのモチを販売している。モチの外皮に振られているのがマセナ粉とは限らない。ピーナツ・ゴマ・鶏肉ソボロなどに覆われているものもある。お値段は一個3千ルピアから。店主ルディヤントは、Mochi Mochiは台湾のモチがベースになっている、と語る。1999年から2006年までかれは台湾に留学したが、その片手間にモチビジネスをじっくり学んできたのだ。鶏肉ソボロはかれのオリジナル、と言うか、パンブティックでインドネシア人に人気があるのを見て、それをモチに応用した。モチはだいたい三日もつが、緑豆は一日しかもたない。しかし冷蔵庫で保存すれば三日を一週間まで延ばすことができる、とかれは言う。
グランドインドネシアとガンダリアシティに出店しているMochillaでは、アイスクリームあんのモチを楽しむことができる。Mochillaの看板にはMochi Ice Cream & Wine Ice Creamと添え書きがあり、モチでないもうひとつの商品にも興味をそそられそうだ。アイスクリームあんのモチは日本と韓国を股にかけるお菓子メーカーが1981年に考案したもので、アメリカでは1993年から人気が沸騰した由。Mochillaは27種のアイスクリームをモチ皮で包んで販売している。全部輸入品なのでお値段は一個1万2千ルピアと少々値が張るが、味は確か。店員の話では、女性客はだいたい一度に6個程度食べるが、男性客はその二倍は食べているとのこと。タロ・ざくろ・ナンカなどまであってアイスクリームのバリエーションが豊富なので、一度に12個食べてももう二回来なければすべてをチョバすることができない。こうしてリピーターが作られて行くにちがいない。
もうひとつモチアイスクリームを供してくれるのが南ジャカルタ市Jeruk PurutのJalan Benda 60にあるCafe Iga Bardidos内にあるMochewy。こちらはスカブミのモチをベースにした純国産品だ。どうやらモチは日本軍のインドネシア占領期間中に持ち込まれたらしい。今ローカルモチのセンターはスカブミとスマランになっているが、モチ業界者の話によればその由来は日本軍政期に帰せられている。
Mochewyのオーナーはエンディカ20歳、プトリ19歳、アンディティヨ20歳というフレッシュな若者三人で、Mochillaのオーナー、シャネ・アリワルダナも24歳だから、このモチブームは若いアントレプルヌールたちの背に乗ったものであるようだ。Mochewyはビジネススクールの実習課題から誕生したそうだ。オーナー三人はプラスティヤムリヤビジネススクールの課題を果たしたあと、「このビジネスはいけるぞ」と判断して継続することにした。
Mochewyのアイスクリームはバニラ・チョコ・ストロベリー・グリンティー・クッキー&クリームなどのバラエティがあり、さらにアイスクリームを包む外皮にもアーモンドやキャラメルあるいはリーガルレモンなどの味がついていて、異なる風味のコンビネーションを楽しむことができる。この店ではお値段が一個8千ルピアとなっている。


「どうしてインドネシア料理店の層が薄いのか?」(2011年7月2日)
間食というのは、決まった時間に食べる食事の合間に食べることあるいは食べるものを意味しており、食べるものはインドネシア語ではmakanan selinganという。kudapanという言葉も使われるが、決まった食事の合間に食べるという意味はselinganがぴったりする。
現代日本では、間食と称して食べられるものはチップスやチョコなどのお菓子類の傾向が高いとわたしは思っているが、そんなお菓子類をインドネシア人はふつうスネッ(snack)と呼び、makanan selingan とは区別しているように見える。
インドネシア人にとっての食事(決まった時間に食べるもの)とは、米の飯が不可欠というのがこれまでの常識だった。だからサンドイッチにせよスパゲッティにせよ、米の飯と一緒に食べないものは間食の区分に入れられていたようだ。もっと凄まじいことに、米の飯とはふっくら炊かれたご飯のことであり、ブブルアヤム(bubur ayam)もロントン(lontong)も米でできているのだが、それらもselinganに区分されている。昔の日本も食事とは米の飯のことで、主食の飯をさまざまなおかずを伴って食べるということだった。おかずは海苔と塩だけでもよかったし、塩魚一切れでもかまわない。そこから変化した現代日本をインドネシアの若い世代も追いかけ始めているようだ。
コンパス紙R&Dが2011年5月25〜27日に全国主要都市住民745人に質問した調査では、間食を食べる場所はカキリマ屋台と自宅とが拮抗した。食事は家で家族と食べるのが伝統的な習慣だったインドネシアでは、だからインドネシア料理(食事)を食べさせる、日本で言うなら料理店というものの存在が希薄だった。結果的に間食を食べさせる施設だけが栄えるようになったと言えるだろう。
質問1)あなたの好きな間食は何ですか?
回答1):
soto/sop/mi 23.9%
gado-gado/ketoprak 13.6%
bubur ayam 13.3%
longtong sayur 8.5%
その他 40.7%
質問2)間食をどこで食べますか?
回答2):
自宅 40.3%
カキリマ屋台 40.3%
レストラン 10.2%
モール 8.7%
その他 0.5%


「韓国でコピールワッがブームになりそう」(2011年7月14日)
コピールワッ製造マシーンであるルワッを檻に入れて飼育し、コーヒー豆を食わして排出物を集め、海外に輸出するためきわめて高価なコピールワッに仕立てている東ジャワ州東端バニュワギ(Banyuwangi)県の第十二ヌサンタラ農園会社を韓国のコーヒー輸入業者が大挙して訪れた。これまで日本と中国がお得意さんだったバニュワギのコピールワッがいよいよ韓国にも進出する第一歩だ。
既に世界的な名声を獲得しているインドネシアのコピールワッがコーヒーを嗜好品として楽しむ段階に入った国に浸透していくのは時間の問題だろう。韓国はいまコーヒーショップがトレンドになっており、韓国のコーヒー買い付け業者たちはコピールワッがそんなコーヒーショップマーケットに爆発的に浸透するだろうと見込んでインドネシアへコピールワッの調査と買い付けに訪れた。
第十二ヌサンタラ農園会社経営のボンドウォソ県カリジャンピッ(Kalijampit)コーヒー農園を訪れた韓国人買い付け業者たちは、そこでコピールワッがどのように処理されているのかを確かめようとした。なにしろ排泄物から集められるコーヒー豆だから、衛生状態が気になるのは当たり前だ。農園会社担当課長は、既に日本と中国への輸出実績があり衛生面での対応がどういうレベルでなされなければならないのかを熟知しているため、針の先ほどの不安も抱かずに韓国人たちの見学を許した。ルワッの檻は定期的に清掃されているし、排泄物からひろいあつめたコーヒー豆も加工処理に入る前にきれいにされる。これまで大腸菌が見つかったことは一度もない、と課長は胸を張って語る。
第十二ヌサンタラ農園会社はコピールワッを年間8トン生産しておりそのうちの25%が日本・中国・ヨーロッパに輸出されている。韓国向けの商談がまとまれば、その量は8トンに上乗せして生産することになる、との課長の弁。ここでルワッに食べさせているコーヒーの実は、アラビカ種で少々酸味の勝ったものだそうだ。消費者はそんな風味を好んでいるとのこと。コピールワッは完成品でキロ当たり200万ルピア。完成品にするまでにプロセス途中で大幅に目減りする。3キロの材料から入手できるコピールワッは180グラムしかない。普通のコーヒーよりはるかに高価なのは、そんな要因も影響しているにちがいない。


「色白女性はコーヒーを飲まない」(2011年8月25〜27日)
コーヒー大生産国インドネシアの地元民は昔、あまりコーヒーを飲まなかった。というのも、オランダ東インド会社は生産されたコーヒーをすべて輸出に回したかったからで、原住民にそれをたくさん消費させることは避けたいと考えたためにちがいない。インドネシアは今でも世界5大生産国のひとつとして定評があるのだが、その割には一人当たり年間消費量は1キログラムすらなく大きくそれを下回っている。
コーヒーは元々エチオピアで栽培されていたものをアラブ商人が各地に伝えたのが世界的商品になった発端だと言われている。アラブ語でカフワ(qahwah)と呼ばれたのがヨーロッパに伝わり、オランダ語ではコフィー(koffie)となった。インドネシア語のコピー(kopi)はオランダ語に由来しているようだから、もっと以前にやってきたアラブ人たちはインドネシアへのコーヒー伝来にあまり重要な役割を果たさなかったようだ。
「コーヒーを飲むと元気が出る」という風聞が広まったので肉体労働者の間で一般化し、かれらにコーヒーを供する屋台商売が盛んになって、ワルンコピー(waroeng kopi)通称ワルコップがあちこちに店開きした。そこに集うのは下層の肉体労働者たちだったから、コーヒーはかれらの飲み物というレッテルが社会常識の一部になっていったようだ。インドネシア社会で青年層から老人にいたる老若男女の飲み物にならなかった原因のひとつはそこにあるようにも思える。特に昔は、女性がコーヒーを飲むのはタブー視され、若い娘が無邪気にコーヒーを飲もうとすると周りの小母さんたちが「色が黒くなるよ」と言って避けるよう誘導したらしい。
インドネシアで女性の肌の色合いが問題にされるのは、と言うか、色白の肌の女性が偶像視されるのは、審美的あるいは性的な魅力もさることながら、色白が出自の高貴さを示すシンボルと意味付けられたからだろう。遠い昔は世界中でそんな価値観が共通に持たれていたのではあるまいか。高貴なひとは労働をせず、だから日なたで汗水流すことはない。ましてや深窓に隠された高貴な女性たちは日焼けとは無縁だ。そんな高貴な女性と関わりを持てば高貴な一族の端に連なることが可能になる。それはこれまでさんざんに虐げられてきた貧しい男にそれまでの人生から脱け出す機会を提供するものとなる。それが色白女性に対する憧れとして社会の中に結実しているのが現代インドネシアだろうという気がわたしにはする。社会が色白女性を高く位置付けている以上、出自がどうあれ女性たちも色白に憧れる。だから色黒になるよと言われるのは無上の威嚇と感じられるにちがいない。
さて話をコーヒーに戻そう。1970年代前半のジャカルタには、喫茶店がなかった。日本ではどんな街角に行こうがかならず見つかる喫茶店は、ホテル内のコーヒーショップ以外に見当たらず、街中で見つけようとするとワルコップに行き当たるばかり。これすなわち、ワルコップに集う階層のひとびと以外に街中でコーヒーを飲もうとする需要がなかったことを示している。マイノリティであるコーヒー愛好者にとって、コーヒーを飲む場所はオフィスや家庭の中だけだったようだ。
オルバ期後半になってジャカルタにビルやモールが増えだしたころ、やっと国際スタンダードのコーヒーショップがちらほらと出現するようになった。もちろんこれまでの行き掛かりがあるから、街角の店舗の並びの中にできることはなく、モールやオフィスビルの中にテナントとして登場したのだ。すると屋台の昼食で腹を満たせるような金額のコーヒー一杯に老若男女が飛びつきはじめたのである。コーヒーショップでコーヒーを飲むことがファッション化の流れを生み出し、首都ジャカルタのモダンライフスタイルのシンボルとなった。そんな流れの中でやっと老若男女がコーヒーを飲む環境が出来上がってきたわけだが、しかしインドネシアのコーヒー愛好者たちの間にも都市伝説が広がっている。
コーヒーを飲んでいると中毒になる。
コーヒーを飲んでいると骨粗鬆症に冒される
コーヒーを飲むと高血圧になる
コーヒーには何の栄養素も含まれていない
それが都市伝説なのか真実なのか、あなたはインドネシア人に説明できるだろうか?


「社交しないひともソシアルハウスへ」(2011年10月1日)
首都ジャカルタの都心部にあるこのレストランには、朝から朝食の予約が入ってくる。朝食の人気メニューはtruffle creamy scrambled eggs, rustic bread toast, bacon and rocket あるいはeggs benedict over butter roasted rustic bread, natural cooked ham and melted mozzarella。もちろん、ウイークデイの朝からやってくるレストラン客はたいてい、そのレストラン近辺にあるオフィスに勤めているひとたちだ。そして午後の遅い時間帯になると、ジェットセットのご婦人方で店内が埋まる。見栄えの良い姿に身をやつし、コーヒーとスナックをテーブルに並べて仲間とのおしゃべりに余念がない。時にはついさっきテレビに出ていたセレブリティが店内に座っていたりする。そんな午後に軽く何かをつまみたいひとに人気の高いのが、four cheeze pizza と grandma iced lemon の組み合わせ。厳選された四種類のチーズにキノコとトマトを載せてオーブンでカリカリに焼き上げたこのピザはチーズの味覚を楽しみたいひとにはうってつけのもの。そしておばあちゃんのレシピーのレモンティーがそのピザにぴったり合う。どこのおばあちゃんかと言えば、このレストランSocial Houseのシェフのおばあちゃんなのだ。
レストランソシアルハウスは都心の一等地グランドインドネシアにある。レストラン・バー・ワインポストでWi-Fi完備のこのソシアルハウスの来店客は週日で5百人、週末は1千人にのぼる。スディルマン通りに面した店内のテラス側からは、夕食と一緒に夜景をも愉しめる趣向になっている。
2008年11月にオープンしたグランドインドネシアが集客の要として頼りにしているレストランは鉄板焼きレストラン「紅花」そして中華シーフードレストランの「ユンニャン」。1956年にタンジュンプリウッに開店したユンニャン(Jun Nyan)は時代とともに場所を移動したようだが、長期にわたってジャカルタ市民に愛されたシーフードの味覚を今は都心部で堪能することができる。


「コーヒー愛飲者はまだまだ少数派」(2011年10月3日)
インドネシアで採れるコーヒーはスマトラのマンダイリン、ジャワロブスタあるいはトラジャくらいだと思っている消費者もいるようだが、スマトラやジャワの各地にもそれぞれ個性的なコーヒーが産出する。最近ではバリ産も人気が高まっているし、フローレスのコーヒーもなかなかいける。
オランダ植民地時代から輸出産品として生産され、国内での消費者は肉体労働者や品行方正でない連中だというイメージがつきまとってきたが、昨今では世界の趨勢に追随して、若い女性も色が黒くなるなどという戯言など無視してコーヒーを愉しんでいる。
2011年9月14〜16日にコンパス紙R&Dがジャカルタ・ジョクジャ・スラバヤ・メダン・パダン・ポンティアナッ・バンジャルマシン・マカッサル・マナド・ジャヤプラの住民834人に対して行った調査では、5人にひとりが毎日コーヒーを飲んでいることが明らかになった。
質問1)一週間にあなたはどれくらいの頻度でコーヒーを飲みますか?
回答1)
毎日: 22.5%
ときどき: 20.5%
たまに: 26.5%
全然飲まない: 30.2%
不明・無回答: 0.3%
質問2)コーヒーという言葉を聞いて、国内のどの土地が頭に浮かびますか?
回答2)
ランプン: 31.9%
メダン: 12.9%
アチェ: 10.6%
トラジャ: 7.3%
バリ: 3.7%
ジャカルタ: 3.4%
パレンバン: 3.0%
バンドン: 2.4%
スマラン: 2.2%
その他: 17.5%
不明・無回答: 5.2%
回答2)では、「うまいコーヒー豆の産地」「うまいコーヒーを買える場所」「うまいコーヒーが飲める場所」といったバリエーションが回答者それぞれの脳裏に浮かんだようだから、一コーヒーファンとしては回答の幅をもっと狭める質問にしてもらいたかったところだ。


「汚いアヒルを食べますか?」(2011年12月31日)
アヒルを食べるなら中華レストランの北京ダック、というのが通説になっているが、バリにもアヒルのレストランはある。インドネシアではここ数年、アヒル料理が脚光を浴びており、ジャカルタでもスラバヤでも、高級ホテルのレストランから庶民向けフードコート、そして下々が利用するカキリマまで、いたるところでアヒル料理がオファーされている。
バリのウブッでアヒルを食べようというのであれば、アヒル料理専門レストランベベブギル(Bebek Bengir)はどうだろうか?インドネシア語でべべはアヒル、ブギルは汚いを意味する。ウブッでこのレストランが建てられ、出来上がった1990年のある日、裏の水田から大勢のべべが店内に入り込んできた。当然かれらの足の裏から下腹にかけては泥まみれ。それが大勢店内に入り込んできたのだから、床は泥だらけだ。「まあ、汚い。」と店の関係者は顔をしかめたが、そのとき経営者の頭にひらめくものがあった。「この店に最初にやってきたのは汚いアヒルたちだった。それを屋号にしよう。」
べべブギルのメインメニューはアヒル料理。「手づかみで食べるほうがおいしいよ。」と語る客のひとりは、ナイフフォークを押しやって皿の上の料理につかみかかる。べべプララ(bebek pelalah)はサンバルまみれのスパイシー料理。プララはバリ語でスパイシーを意味するとかで、バラド(balado)に似ている。
人気メニューのひとつはoriginal crispy duckで、カリカリに揚がったアヒル肉にはサンバルマタ(sambal matah)に長豆ともやしのウラップ(urap)、そして果物が添えられている。
調理場で使われているベベはベベカンプンで、養殖アヒルは使わない、とマネージャーは語る。ベベはきれいにされてから、スパイスの入った鍋で3時間ほど煮られる。そうしてから二分されたアヒルはカリカリに揚げられる。
べべブギルはジャカルタに支店がある。中央ジャカルタ市メンテン地区にある店では、シェフやウエイトレスの何人かがバリの本店から期限付きで派遣されており、期限が来ると交代するそうだ。


「食えてこそ、わが世の春」(2012年6月22〜25日)
有名なジャワのことわざに、mangan ora mangan kumpulというものがある。インドネシア語訳をつければ、makan atau tidak makan pokoknya kumpul となるのだろう。そこからジャワ人の家族主義肯定精神が引き出されてくるそうだ。食うために、もっと極言すれば贅沢な暮らしをするために、家族がばらばらになって暮らすよりは・・・・という理解になるそうだが、浅学なわたしはジャワ人の「ひと好き」言い換えれば対人依存という心理傾向をより強く感じる。ひとが寄り集まるのは食い物があるからではないという心意気はなんとなく「武士は食わねど・・・・」を連想させるところがあるものの、ジャワ人の実態を熟視するならkumpul ora kumpul mangan の間違いではないか、と思えるフシがあるのも否定できない。
ジャワ人に限らずインドネシア人全般に言えるのは、食うということに異常な熱意を持っていることだ。何時であろうと来客に必ず食事を勧めるのはアジアの農村文化に共通のものらしいが、会社で会議を開けば必ず軽食のおやつが出てくるし、町内の寄合や親類の集まりにも食事やスナック類は欠かせない。結婚や割礼の祝いは必ず昼食や夕食の時間帯が使われ、会場が貸しホールであろうが自宅であろうがいつもビュッフェが待ち受けている。たいていの工場では午前十時と午後三時に休憩時間を設けており、作業者の疲労回復と思って与えているその時間を工員たちはおやつの時間ととらえていて、ほぼ例外なくなんらかの軽食を食べている。外部に借りている倉庫で終日作業するように命じれば、最初に出てくる質問は「昼食はどうなるのか?」というせりふ。
また事務所では、事務員たちは状況が許す限り事務作業をしながら何かを食べている。工場の作業工程現場と同じように休憩時間が与えられている場合、そのときだけおやつを食べるディシプリンの高い社員もいれば、のべつまくなしに何かをポリポリやっている者もいる。事務作業をしながらポテトチップスのような揚げ物を食べたら、ペーパーワークの紙に油のしみがつくのは決まりきっているものの、そんなことを気にかけるそぶりなど爪の先ほどもない。そして部下のそんな業務態度をとがめるローカルマネージャーだってひとりもいない。
食べ物に関するジャワのことわざにはcinta bisa datang dari perut というものもある。恋愛などはふしだらな女がするものと決め付けられていた時代、娘たちは父親が決めた男を夫にするのが当たり前と思っていた。言うまでもなく娘たちには、夫が自分を愛してくれるのか、大事に慈しんでくれるのか、という不安が湧く。そんな疑問を抱く娘に両親は言ってきかせる。「これまで互いにまったく知らない仲だった夫がお前に愛情を持つようにさせる方法はいくつかある。」そして上のジャワ語のことわざが語られるのである。それは下腹部の話でなく、口とつながっている胃腸の話なのだ。
妻になったおまえがおいしい料理を夫に作ってやることで、夫の愛をおまえは引き寄せることができるという意味のそのことわざは、ジャワの男たちにとって食うことがどういう意味合いを持っているのかをわれわれに想像させてくれる。
会社でも家でも、のべつまくなしにつまみ食いをしているインドネシア人はいったい何を食べているのだろうか?一番人気はポテトやシンコンなどのチップスで、インドネシア語ではkripik と呼ばれる。よく似た言葉にkrupuk というのがあるが、それらは異なるものだ。たいていのインドネシア人はクルプッを食事の友にしており、つまみ食いおやつの対象にはあまりしていない。
2012年5月23〜25日にコンパス紙R&Dが725人の都市住民に電話インタビューしたサーベイの結果が次のように発表されている。
質問1)家や職場におやつが用意されていますか?
回答1)いつも46.6%、ときどき40.7%、一度もない12.7%
質問2)好きなおやつは何ですか?
回答2)
クリピッ 37.1%
パン・蒸しパン・ケーキ 19.0%
揚げ物 17.0%
果物 15.9%
豆類 2.8%
その他 2.9%
不明・無回答 5.3%


「朝食を軽視するインドネシア人」(2012年6月25日)
2010年基礎保健調査では、5大都市で大人住民の17%は朝食を摂らず、また13%はときどきしか摂っていないことが明らかにされている。子供はどうかと言えば、都市ごとに大きい格差があり、ジャカルタでは17%だがジョクジャは59%が朝食を摂っていないという結果が報告されている。
全国統計では、朝食が水だけという子供は26.1%にのぼり、朝食を摂っている国民全体の中にさえ、栄養素がまったく欠乏している朝食を44.6%ものひとが摂取している。一日の活動に必要な栄養素の15〜25%が朝食でカバーされるのが理想的であるというのに、ミーゴレンやナシゴレンに卵を添えたもの、あるいはナシウドゥッとビーフンのように炭水化物を主体に少量のたんぱく質だけといった内容がそんな朝食の代表選手だ。ナシウドゥッ(nasi uduk)というのはココナツミルクとスパイスを加えて炊いた味付けご飯のことで、こってりしており、愛好者も多い。
インドネシア人のそのような朝食習慣は、昼食の過剰摂取や食事時を待つ間に手当たりしだいのおやつをつまみ食いするという悪習慣を招き寄せ、肥満や栄養不良を作り出す原因のひとつになっている。


「スペシャルティコーヒー競売」(2012年10月31日)
最近スラバヤで行われたインドネシアスペシャルティコーヒー協会主催のスペシャルティコーヒー競売で、ロブスタコーヒーの部ではフローレス島マンガライのPT Indokom Citra Persada社製ロブスタコーヒーが84.05ポイントを獲得して首位の座に着き、アラビカコーヒーの部ではサパン産トラジャコーヒーが86.29ポイントを得てカップオブエクサレンスを勝ち取り、ルワッコーヒー部門ではブンクル州レジャンルボンのカバマウンテンコーヒーが86.04ポイントでトップ人気を得た。
スペシャルティコーヒー競売というのは、産出したコーヒー豆の中で味と香りのもっとも優れたものを選り出し、そのサンプルを競売参加者に味見してもらった上で評点を集め、評価を決めたあとで入札を行うというもので、このスラバヤでの催しでは、全国各地から送られてきた参加希望コーヒー65種から協会側が選抜した23種が用意され、最初はまず全国のコーヒー鑑定士Qグレーダーがロブスタ種とロブスタルワッ、Rグレーダーがアラビカ種とアラビカルワッのサンプルを評価し、SCAA/CQI規準を用いて評価ポイントが85を超えたものを競売に付した。競売ロットはルワッコーヒーが10〜15キロ、ルワッ以外は6百キロとなっている。
競売の結果は、アラビカ種ではサパン産トラジャコーヒーがキロあたり45米ドル、中部アチェのジャゴンジュゲッ郡産ガヨコーヒーがキロあたり20米ドル、ロブスタ種ルワッコーヒーの部はカバマウンテンコーヒーがキロあたり100米ドル、アチェのブヌルムリア産ガヨアラビカルワッは70米ドルという競売結果だった。何と言ってもスペシャルティコーヒーであるがゆえに、競売落札価格も一般のコーヒーよりは40〜50%高いものになっていた。


「インドネシア人の10%はドリアン嫌い?!」(2012年12月26日)
悪魔の果実との異名をとるドリアン。全国の有力ハイパーマーケットへ行けば、売られているドリアンはタイのモントン種がほとんど。タイのモントンとは言っても、もちろん輸入品もあれば国産品もある。ただしモントン種はインドネシアの地元原生種ではない。
コンパス紙R&Dが2012年12月12〜14日にジャカルタ・バンドン・スマラン・ジョクジャ・スラバヤ・メダン・パレンバン・デンパサル・バンジャルマシン・ポンティアナッ・マカッサル・マナドの12都市に住む770人から集めたアンケートによれば、過半数のひとたちはドリアン果実を買うときに地元原生種を選んでいることが明らかになった。おまけに地元原生種のほうがおいしい、とかれらは述べている。
質問1.)買うときにどのドリアンを選びますか?
回答1.)
ローカル産のもの 62.5%
輸入品 14.8%
区別しない 11.4%
買ったことがない 11.3%
質問2.)いちばんおいしいドリアンは?
回答2.)
ローカル産のもの 56.0%
輸入品 18.8%
どちらも同じ 13.0%
食べたことがない 12.2%