インドネシア「南国風[食]の愉しみ」情報2013〜16年


「ヌサンタラグルメ観光」(2013年1月19日)
日本へ行ったこともない外国人ですら日本料理と言えば「スシ」「サシミ」と答えるように、インドネシアにもそういうアイコンになる料理が必要だ、と考えた観光クリエーティブ経済省がヌサンタラ料理のアイコン選定を行なった。それに応じて集まったketoprak, gado-gado, sate ayam, nasi goreng, mi goreng, soto ayam, soto Betawi, rendang, gudeg, sate lilit Bali, bubur Manado, rawon Surabaya, serabi Bandung, lumpia Semarang などの候補の中からまず三十種が選ばれ、それが二十になり、十に厳選され、最終的にナシトゥンプン(nasi tumpeng)がアイコンに選ばれた。「ナシトゥンプンはインドネシア料理を代表できるものだ。ナシトゥンプンに添えられるおかずはいろいろなバリエーションがあって多様的であり、インドネシアを構成しているさまざまな料理の種類・自然・種族といった多様性を象徴している。」とマリ・エルカ・パゲストゥ大臣はコメントした。
ナシトゥンプンというのは飯を円錐形に盛って皿の中央に置き、その周囲を種々のおかずでぐるりと取り囲む料理で、飯は黄色の飯「ナシクニン(nasi kuning)」の場合が多いが、白飯でもココナツライスでもかまわない。伝統的にこの料理は祝宴に出されるものと理解されている。伝統的には皿に盛られるよりも平ざるの上にバナナの葉を敷いて盛り付けるスタイルが普通だ。
これまでレイスターフェル(rijsttafel)がインドネシアグルメ料理の典型の位置に置かれてきたが、これはその名の通り植民地時代にオランダ人高位高官たちの間で形成され定着したものであるため、インドネシア人にとっては片腹痛いものであったにちがいない。これからはナシトゥンプンがインドネシアレストランで出されるようになるのではあるまいか。ひょっとしたらレイスターフェルはナシトゥンプンに駆逐されるかもしれない。


「中国正月の祝いはクエクランジャン」(2013年2月9日)
2013年2月10日は中国正月。インドネシアで中国正月に欠かせない食べ物はクエクランジャン(kue keranjang)。クエという言葉は福建語の?(発音はkue)に由来しており、もともと果という文字から派生したものでコメに関わっていることを表している。クランジャンはインドネシア語で籠を指す言葉で、クエクランジャンを作るときに籠状の容器が鋳型として使われることからその名が付けられた。
クエクランジャンはもち米の粉と黒砂糖を混ぜて作られる。粘り気があってべたべたとくっつくあの餅を甘くしたものと思えばよい。中国人はイムレッに食べるこの食品を年?(発音はニエンカオ)と呼んでおり、一年に一度食べるものと理解されている。福建語では「甜?」(発音はティクエ)とも呼ばれ、つまり甘い餅なのである。インドネシア人がこの餅をドドルチナ(dodol cina)と呼ぶのは、かれらに親しいドドルとそっくりだからだ。
中国語の?(カオ)の音が高に通じることから、クエクランジャンはうずたかく積み上げられて一族の高い繁栄を祈願するシンボルと意味付けられた。日本の鏡餅の風習はそこから来ているのではあるまいか。だからこの時期、華人街の商店やレストランでうずたかく積み上げられたクエクランジャンを目にすることがあるが、あれはそういう意味を持っているのである。
クエクランジャンは日本の餅と一緒で、乾燥すると石のように硬くなり、長期保存が可能になる。固まったクエクランジャンを薄切りにし、衣をつけて油で揚げたり、炒めたりすると、甘党向けのけっこうおいしいおやつになるが、歯にくっつくのであとが面倒だ。
さてそのクエクランジャンだが、今年のイムレッは売行きがいまひとつ芳しくない、とジャカルタコタ地区グロドッ(Glodok)のペタッスンビラン(Petak Sembilan)でシーシンという看板を掲げてクエクランジャンを販売している店主は物語る。「去年のイムレッは一日7〜8百万売上があったけんど、今年は5百万ルピア程度だねえ。今月からなんでもかんでも値上がりし始めたから、生活基幹物資に金を回すために庶民の購買力が落ちてるよ。黒砂糖もキロ当たり7千ルピアくらいだったのが、1万3千ルピアくらいまで上がってきてる。まあ、イムレッが近付くとそのための季節商品はみんな値上がりするのが常なんだよ。」
かれの店では、注文はジャボタベッに住んでいる印華人からのものがほとんどで、一日2百キロ平均を受注している。注文量は10日くらい前から顕著に増えはじめてイムレッの二日前にピークを迎える。その店では、キロ当たり2.5万から3.5万ルピアでクエクランジャンが販売されている。


「アヤムタリワンはロンボッ名物」(2013年2月15・16日)
ロンボッへ行ってアヤムタリワン(ayam Taliwang)を食べてこなければ、そりゃ「食い足りわん」などという駄洒落はさておき、ロンボッ名物はタリワン風アヤムバカルつまりローストチキン、そしてプレチンカンクン(plecing kangkung)が筆頭だろう。タリワンというのは西スンバワにある町の名で、きっとそこからの出稼ぎ者や移住者がこの料理をロンボッではやらせたにちがいない。
アヤムバカルタリワンは田舎で放し飼いにされている4〜5ヶ月の若鶏が使われなければ本物ではない。若鶏の肉は甘味を含んでおり、放し飼いにされてそのあたりを走り回り飛び回っていることが肉の締まりをよくして独特の歯ごたえを味あわせてくれる。そこに舌を痺れさせるようなトウガラシの辛味が載せられて本物のアヤムバカルタリワンが誕生する。そこに使われる若鶏は一羽丸ごとであるのが常識で、鶏肉の切り身が使われているのは名前倒れであり、ましてや養殖鶏が使われていれば肉がつぶれて歯ごたえをなくし、同じように名前倒れになってしまう。辛いトウガラシの味付けはブンブプララ(bumbu pelalah)と呼ばれており、このブンブプララはクミリ(キャンドルナッツ)・干しトウガラシ・トラシ(海老醤)・ニンニク・ココナツミルクをすりあわせて作る。油滴る若鶏の丸焼きにブンブを満遍なく塗りつけるのもよし、肉をちぎってブンブをすくってもよし、辛味求真者には千変万化の楽しみが待っている。
プレチンカンクンはロンボッの地元料理だ。ロンボッにできるカンクンは比較的大型で、茎が長く葉も大型であり、やわらかい。ロンボッ産カンクンはバリやジャカルタにまで送られている。茹でたカンクンにやはり辛味のサンバルが添えられてくるのは、名前がプレチンである以上は仕方のないことだ。プレチンというのは「かなり辛い」という意味なのだから。
マタラム市内にロンボッ料理を供するレストランがある。この店は昼の食事時に訪れないほうがよい、と言うひとがいる。300から350人を収容できるこのレストランには40人のウエイターたちが働いているが、昼食時にはまるで戦場のようになるそうだ。マタラム市内アデイルマスリヤニ通りにあるレセハンタリワンイラマ(Lesehan Taliwang Irama)では、昼食時になると地元民から観光客までが店内にひしめきあう。そこを見ているかぎり、ロンボッのお昼は鶏を食べる時間なのか、と思わせるものがある。
この店は25年前、イラマ映画館の向かいにカキリマレセハンとしてオープンした。カキリマ商人というのは商店の表の通路で商売をする物売りたちを意味しており、飲食カキリマは夕方に商店が店を閉めるとその店の表を借りて店開きするのが普通だ。レセハンというのは床の上にござなどを敷いてじかに座る場所のことで、椅子を置かず低い座卓を置き、客は床に座って飲食する。今、イラマ映画館はもうなくなってしまったが、カキリマレセハンはまだ続いている。そしてそれとは別にこのアデイルマスリヤニ通りにも大きな店を構えるまでに発展した。こちらの大きなレストランはもちろん椅子とテーブルという通常レストランのスタイルだ。店側が特に依頼したわけでもないのに、ツアーガイドたちが旅行者たちの昼食をこの店で摂るようアレンジするようになったから、昼食時の混雑はたいへんなものになった。この店では平日だと若鶏を一日4百から6百羽、週末や休日だと8百羽消費するとのことだ。


「バンドンのアロマコーヒー」(2013年3月23日)
肉体労働者・高位高官・学生・実業家・失業者・・・だれもがコーヒーを口にする。コーヒーはみんなの友。
ウィディヤプラタマ・タナラの職業精神はそこに示されている。かれは西ジャワ州バンドンのバンチュイ通り51番地にあるアロマコーヒー製造(Koffie Fabriek Aroma)の二代目オーナー。1930年創業のアロマコーヒーの名を耳にしたことのないコーヒーマニアはインドネシアにいない。
コーヒー製造所と販売所がひとつになったそのバンチュイ通りの古びた建物の表に列をなしているコーヒー購入者の姿は日常のものであり、そこに展開されてきた80年にわたる日々の営みを、建物は黙って今日まで見下ろしてきたのだ。ひとりの客には最大5キロのコーヒーしか売らないという販売方針はウィディヤプラタマが決めた。
販売所の店内に入れば、1930年以来使われているキャッシャー機、オランダ製はかり、木製金庫など、骨董品屋の店の中で見るほうが自然なものが目に付く。そこを通って倉庫の建屋に入ると、大きな焙煎器があり、そしてコーヒー豆の入った大きな袋が数十並べられている。コーヒー豆は5〜8年間そこで寝かされているのだ。アチェからトラジャに至る国内各地から集められたロブスタ種とアラビカ種のコーヒー豆がそこにある。ウィディヤプラタマはそれらの地方を自ら訪れ、流通仲介者を通さないで直接買い付ける。流通仲介者は生産者を買い叩き、さらに購入者の足元を見て高い値段で売りつける。生産者とかれが直接売買を行なうのは、双方が納得できる利益をそこから得ることが目的なのだ。双方が信頼関係で結ばれれば、以後の買い付けははるかに容易になる。
生産者はバンドンに送る前にコーヒー豆を2週間天然乾燥させる。送られてきた豆をウィディヤプラタマは7時間乾燥させた上で倉庫に何年も寝かせるのである。寝かせるのは、豆が持っている酸味を和らげるためだそうだ。コーヒー愛好者たちは、酸味が強いと胃に負担がかかると言う。だからアロマコーヒーは酸味を減らすための努力を欠かさない。
そんなことをすれば資金回転が悪化して、得られるべき利益が目減りしてしまう。ましてや利益を毎年伸ばすのに汲々としている大企業ならなおさらのこと。しかしアロマコーヒーは生産高・売上高・利益高が毎年右肩上がりになることを最大の目標としているのではない。優れた品質のコーヒーを消費者に供することこそ、アロマコーヒーのモットーなのであり、そこにこそアロマコーヒーの存在意義が浮かび上がってくる。
豆の選り分けや焙煎の作業をウィディヤプラタマは従業員に手伝わせながら自ら行なう。職人としてのかれの腕はそこで生かされる。同じクオリティを維持させるためにはそれが絶対条件だ、とかれは信じている。
焙煎器は80年間働き続けて故障したことがない。部品の交換はもちろん行なわれているが、故障して焙煎作業が停止したことは一度もないそうだ。この焙煎器の燃料には廃木になったゴムの木が使われている。自然から得られた商品を扱う人間には、その繊細さは欠かせないものにちがいない。
かれはまた、経済と経営に関してバンドンのいくつかの大学で口座を持っている。事業で成功するためには、正直さとハードワークが鍵になる。かれはそんなモットーを交えて学生たちに貴重な体験談を語っているにちがいない。
アロマコーヒーにも世代交代の時期が近付いてきた。かれの三人の娘たちはみんな修士あるいは博士の学歴を既にものした。ウィディヤプラタマは末娘が自分のあとを継いでアロマコーヒーの歴史を続けてくれるよう望んでいる。自分の希望はさまざまにあるが、それを含めてすべてを末娘にゆずるつもりだ、とかれは淡々と物語った。


「クンストクリンパレイスでレイスタフルを」(2013年4月27日)
築後99年が経過した中央ジャカルタ市メンテン地区にある旧イミグレーションビルが定評あるトゥググループレストラン群のひとつとしてよみがえった。2013年4月17日夜に新規オープンしたクンストクリンパレイスアートギャラリー(Galeri Seni Kunstkring Paleis)でひとは豪華なレイスタフル(rijsttafel)を楽しむことができる。
P.A.J.モーイェンの設計になるこの建物は1914年に完成してその年4月17日に時の蘭領東インド総督フレデリック・イデンビュルフ列席の元に盛大なオープニング式典が開催された。建物のオーナーは蘭領東インドの芸術と文化を担うひとびとの集まりである蘭領東インドクンストクリンで、バタヴィアの芸術文化センターとして1942年まで展覧会・演奏会・芸術学校・図書館などの活動と機能を果たしていた。
インドネシア独立後は1950年から1993年まで移民局がこの建物を使い、その後放置されて汚損が進むままになり、建物の貴重な設備器具や装飾品が盗まれるようなことが起こっていたが、政府はこの伝統ある歴史遺産の保護にとりかかり、建物を昔の形に修復して民間ビジネスに貸し出すことにした。そうして2008年にブッダバーという名のレストラン・ラウンジが開店し、物議をかもし出したのである。
いまクンストクリンパレイスとなったこの建物の広間で、百年前のバタヴィア上流階級が楽しんだディナーを体験してはいかがだろうか?当時のオランダ人たちはインドネシア各地の「うまいもの料理」を集めて豪勢な夕食を楽しんだ。レイスタフルと呼ばれるものがそれだ。もちろん、これを食べなければオランダ人ではない、というものも含まれており、要はヌサンタラとヨーロッパのハイブリッドメニューなのである。ただし、クンストクリンパレイスが用意するメニューはむしろバタヴィアで昔から愛好されたものがメインを占めていることをお断りしておこう。だが、トゥググループレストラン群のどこへ行っても味に失望することがないように、かれらのメニューが何であれ、その点の保証はなされているとわたしは思っている。
10人が座れる大テーブルは往時の砂糖王ウイ・ティオンハム一族の所有していたもので、そんな由緒ある骨董品の価値はきっと目も眩むようなものにちがいない。そんな大テーブルに20を超える皿が並ぶ。ほの暗い静寂の中で体験する百年前のバタヴィア上流階層の食事は、きっと特別な夜をあなたに提供するにちがいない。


「財布にも辣いマナドのリチャリチャ」(2013年7月27日)
マナドではチャベラウィッ(cabai rawit)のことをリチャ(rica)と言う。マナド料理はトウガラシの辣さで有名だ。辣くなければおいしくないというのがマナド人の料理観らしく、マナド人の台所では大量のトウガラシが使われる。北スラウェシ州のトウガラシ月間消費量は1,500トンから2,000トンにのぼり、インドネシア最大のトウガラシ消費州になっている。ところが、州内だけでは生産量が消費量に追いつかないから、隣のゴロンタロ州や中部スラウェシあるいは南スラウェシ州など島内の他地方からの供給に依存せざるをえない。それでも足りない場合はジャワ島から取り寄せることになる。なにしろ州内のトウガラシ生産量は年間1万トンに満たないのだから。2010年に起こったトウガラシ危機のときには、スラバヤからマナドにトウガラシが空輸されたそうだ。それほどマナド人の辣味志向は激しいものがある。そして今年もここにきて、全国的にトウガラシが激しい値上がりを起こしている。
ラマダン〜ルバランのインフレシーズンという通奏低音が鳴り響く中、トウガラシは生産センター地区で大幅に値上がりしている。確かに供給量は減っているらしく、仲買人も生産者から高値で購入しているそうだが、おかげで市場末端価格は目玉の飛び出るような値付けがなされている。異常気象による多雨が作付け時期を大きく狂わせているため総体的に収穫量が低下しており、今のような収穫期の狭間ではトウガラシがダイヤモンドのような希少価値を持つ時期も出現するという理由がパサルでは大手を振って徘徊しているのだそうだ。
2013年7月初、マナドでのトウガラシ価格はキロ当たり2万5千ルピアだったが、それがほんのしばらくの間に3万5千ルピアを突破してずるずると上昇し、今では7万ルピアに達している。三倍近い値上がりになると買い控えが起こるのではあるまいか、と考えると大間違い。マナド人は辣味の薄い食事にガマンできないため、リチャに関しては価格がいくらになろうが金に糸目をつけずに買う。だから起こるのは買い控えでなく、購買力の限界に到達して購入量がダウンするという意味での販売低下なのであり、買い控えという購入意欲の抑制とは異なるものだ。
一方、台所費用の配分がどんどんトウガラシに傾いていくから、コメ・肉・魚・野菜といったものへの資金配分が薄くなっていく。そういう配分をうまくコントロールして家族に失望を与えないようにするのが有能なマナド主婦の腕の見せ所なのである。マナド人の社会交際上欠かせないパーティでも、用意された食事の辣味が薄いとパーティそのものが味気なく感じられ、主催者の面目が潰れてしまう。
だからマナドではトウガラシ価格がインフレ昂進の一大要因になっている。2012年8月にトウガラシ市場価格が8万ルピアに達したとき、北スラウェシ州のインフレは2.16%上昇した。その最大要因は食材であり、中でもリチャが39%の価格上昇のためにインフレ貢献度0.7457という割合でインフレを一手に担っていた。


「レストランの床を横切る蛇」(2013年9月17日)
2013年6月8日付けコンパス紙への投書"Ular Melintas di Bawah Meja Restoran"から
拝啓、編集部殿。わたしたちは、普段から常に警戒心を持って行動しなければなりません。そのできごとは2013年4月27日20時半ごろ、西ジャワ州バンドン県レンバンのグラハプスパ団地スルサンバジュリ通りにあるサプリディ・カフェで起こりました。
わたしたち一家はそのカフェで夕食をとることにしました。食事が終わってわたしたちがまだ団欒していたとき、突然わたしの姪が叫び声をあげたのです。食卓の下を一匹の蛇が横切っていました。黄色と黒のまだら模様で、大きさも大人の腕くらいある、かなり大きな蛇でした。足にその蛇が巻きつきそうになって姪はびっくりし、はじめてそこに蛇がいることに気付いたのです。
夫は店の従業員や警備員を大声で呼びましたが、だれひとりやってきません。夫は店のマネージャーをも大声で呼びましたが、やはりだれひとりわたしたちのテーブルに近付いてくるひとはいませんでした。
最終的に警備員がひとり、ニタニタ笑いながら近付いてきて、「蛇はどこにいるのかね?」と尋ねました。蛇を退治するための器具など何ひとつ手にしていません。そのときはもう、蛇は洗面器の向こうにある魚の生け簀に入り込んでいました。その警備員は蛇が本当にいることを自分の目で確かめたとたん、すぐに長柄のほうきと懐中電灯を取りに行ってから、蛇退治に向かったのでした。[ 南ジャカルタ市トゥブッ在住、イダ・ガネフォ ]


「黒米」(2014年3月5日)
黒米はインドネシアにとって重要な遺伝資源であり、アントシアニンを豊富に含んでいるのに加えて乾燥地でも成育する力を持っていることから、今後有用な食糧源として開発することができる、とソロの3月11日大学農学部教官が表明した。
インドネシアには百を超える黒米の品種があるが、栽培している農家は少ない。一般に黒米の収穫は6ヶ月後になるため、農民はもっと回転の早い白米を栽培するのが普通だが、4ヶ月で収穫できる黒米の種があることがわかっており、品種改良を行なうことで十分に商業ベースに乗ることが予測されている。
FAOの報告によれば、黒米は100g中8.5gのプロテインを含有しており、白・赤・紫・茶など他種の米よりも優れている由。繊維質も一番多い。鉄分は赤や紫米より少ないが、いずれにしても白米よりは多くの点で優れている。
教官は生徒に黒米を卒論のテーマにするよう勧めており、その生徒のひとりが行なった調査では、土中の水分が少ない土地で成育した黒米はアントシアニン含有量が高まることが発見された。もちろん米自体の生産性は低下するのだが、健康食品としての付加価値がつけやすいため、経済性は決して悪くない、と教官は考えている。


「インド風インドネシア料理」(2014年3月26〜28日)
ココナツミルクが素材のひとつになっている料理を前にすると、インド料理の影響が混じっているな、という考えが脳裏をよぎる。しかし文化史専門家は、「ちょっと待て」とわれわれに言う。ヌサンタラの島々へのインド文化の渡来は時期を違えて二度、その波がやってきており、そう単純なものではないのだ、と教えてくれる。
その最初の波がヌサンタラの地を洗ったことを示す、現存している最古の証拠は西暦紀元4世紀のものだが、そのもっと古い時代からインド人がヌサンタラの島嶼部へやってきていたことは十分に考えうることだ。人間が人間の生活をより豊かにするために作りだしたものが文明の産物たる文化であり、文明はより高いレベルからより低いレベルに向かって流れ込んでくる。その文明の流入は文化を通して行なわれる。先に、より高い文明に達したインド人が遅れているヌサンタラの地にもたらした文物は文化としてヌサンタラのひとびとに受け入れられた。食にかかわるものも、もちろんその中に含まれている。
インドネシアの料理用語の中に、gula, adang, caru, kundiなどサンスクリット語に由来する言葉を見出すことができる。アダンは不適正な料理法が使われること、チャルはミルクとバターで煮たもの、クンディは椀だ。アダンという言葉は蒸す調理法に関連してもたらされたもののように思える。インド人が伝えた蒸す調理法の特徴は、銅製の器具が使われることだ。インドで民家の台所に入れば、銅製の調理器具を目にすることができる。そしてジャワでも、多くの家庭の台所に銅製の調理器具が置かれている。
ジャワ人の調理分野にインド文化はどんな影響を及ぼしたのだろうか?古ジャワ語はインド人がやってくる以前から既に話されていたのだが、インド文化との接触が起こってサンスクリット語が取り込まれた。古ジャワ語辞典編纂者も、サンスクリット語の影響を受けた単語の存在に言及している。その中の調理分野の用語について見てみると、pecel, pepes, urab, caranaなどが見つかる。ただし、それらの料理あるいは調理法がインド文化渡来前からジャワの地にあった可能性もあるため、更なる研究が待たれている。
メダン考古学館のチュルマティン・ナソイチャ氏が書いた論文のひとつによれば、食べ物に関して古ジャワ語の碑文の中によく見つかる表現に、「乾燥」と「塩漬け」のふたつがあるそうだ。かれが参照している碑文は901年から929年までのものだ。インド文化の影響を受けた昔の食べ物を探すために、各地方に現存している料理を分析してみることも有意義だろう。そのひとつにムガナ(megana)を採り上げることができる。ムガナとは野菜あるいはナンカの実を小さく刻んだもので、今でもプカロガン(Pekalongan)、ウォノソボ(Wonosobo)、トゥマングン(Temanggung)などで常食されている。それらの地区はジャワ古代史初期のヒンドゥ王国『カリンガ(Kalingga)』の領土だったところだ。
15〜16世紀に次の波がインドから押寄せてきた。インドのムガール帝国からアチェを経由してヌサンタラの各地に文化が伝えられたのである。その時代、アチェはムガール帝国に使節を派遣している。いや、それどころか、アチェの王宮はムガール帝国宮廷で行なわれていた祭祀をはじめとする諸作法をみならった節がある。民族学者B・シュリーケはムガール宮廷がアチェの生活習慣や諸作法に与えた影響の例をいくつか指摘している。建築様式・王宮の庭園・象を使った王宮祭事行列・衣装・飲酒の習慣・スルタンがバルコニーから民衆にスピーチする習慣などがそれであり、それらの他にも調理に関するものがあったのではないかと想像される。
まず、ココナツミルクを使った辛い料理が挙げられる。辛味については、ポルトガル人がムガール帝国にトウガラシを伝え、ムガールからヌサンタラの島々にそれが伝えられたのだという説が立てられている。ポルトガル人は南米を征服したスペイン人からトウガラシを教えられた。しかしそれを否定する説もある。インド人は西洋人が来航する前からトウガラシを知っていたというのがその説だ。チャバイ(cabai=トウガラシ)という言葉はサンスクリット語のチャウィ(cawi)あるいはチャウィヤ(cawya)に由来しており、古ジャワ語にもcabeあるいはcabyaという単語があってサンスクリット語からの強い影響が見られる、とその説では説明されている。ある辞典はそれに関して、チャベとチャビヤはチャベジャワとピプルチャバ(piper caba)のことだと説明している。いずれにせよ、それらの類似する言葉が本当に同じ物を指していたのかどうかについて、更なる研究がなされる必要があるだろう。
スマトラ島北部地域ではナスが料理によく使われるが、これもムガールの影響である可能性が高い。しかしその現象に関して言うなら、ナスの起源をトルコまで遡ることができる。なにしろ、ムガール帝国というのはトルコとペルシャをその祖先にしているのだから。つまり、ムガールの影響だということは、更にその起源をトルコとペルシャに求め得るケースがあるという認識をわれわれは持たなければならないのである。ムガール帝国から伝わったと見られる料理や調理法が、トルコとペルシャに由来するものが元々インドにあったものと融合してできあがっている可能性は小さくないと言えるだろう。
ムガール文化はムラユの諸王国やミナンカバウ王国にも浸透したようだ。スパイスを多用する味付けは多分ムガールに由来している。その浸透は、アチェがスルタン・イスカンダルムダに率いられていた時代に、かれの拡張政策によって実現したように思われる。スルタン・イスカンダルムダは米の確保をはかってムラユの地を支配下におさめ、またミナンカバウとの交易で国力の増強をはかった。しかしかれはバタッ(Batak)族の地(タパヌリTapanuli)に侵入しなかった。バタッ族がムガール風調理法の影響を受けていないことを、多分それが説明しているにちがいない。
インド料理の影響といま各国で言われているものの内容はムガール風料理がメインを占めていると主張する声が強い。それどころか、各国でインド料理だと言われているものの起源はムガールにあるという声も劣らずに強いのである。しかし、ペルシャがムガールに影響を与えているのであれば、ペルシャ文化からの直接の影響とそれらをどう区別すればよいのだろうか?アチェ王国が勃興する前から、ペルシャ人は既にヌサンタラにやってきていた。イブヌ・バトゥータは旅行記の中で、1325年にサムドラパサイ王国でペルシャの商人と出合ったことを書き残しているし、サムドラパサイ王国がペルシャと交易していたことも記載している。同じ内容を16世紀のポルトガル人旅行家トメ・ピレスも記しているので、ペルシャの料理や調理法がスマトラ島北部に伝わっていた可能性は小さくない。それはムガールからアチェ経由で広まった時代より前のことなのである。
それはともかくとして、インド料理はヌサンタラに二度の波を経て伝わった。第一波はヒンドゥ文化の中に包まれてジャワ島に押寄せた。第二波はムガールからアチェを通ってスマトラ島北部に伝わった。
反対にヌサンタラの食べ物がインドに伝えられた例もある。たとえばイドリ(idli)と呼ばれる粉を溶いて焼いた菓子がインドにある。それは南インドに由来するものと見られていたが、実はインドネシアのクエアプム(kue apem)が起源であることが明らかになった。どうやら、古い昔にジャワの王が花嫁探しにインドへ渡ったとき、その菓子を手土産にしたらしい。そのときに作り方が伝授され、インドでも作られるようになった。細かく調べていけば、きっと他にも何か見つかるだろう。


「米自給に魔多し」(2014年4月14〜16日)
2014年1月にスマトラ島からジャワ島にかけての一帯を襲った洪水で、各地の農地が流されたり水に浸かったため農作物に広範な被害が出た。2月9日までにコンパス紙がまとめた被害の内容は次のようになっている。
西スマトラ州 水田83Haが不作 損害見積額33億ルピア
南スマトラ州 水田2,039Haが不作 損害見積額71億ルピア
西ジャワ州 水田88,353Haが不作
中部ジャワ州 水田24,592Haで不稔、水田21,268Haが浸水 損害見積額4,959億ルピア
東ジャワ州 水田295Haが浸水 損害見積額4.8億ルピア
中部ジャワ州では被害を免れた地域での稲の獲り入れが既に始まっているものの、配給事業庁は農家からの米の買上げをまだ開始していない。
ボゴール農大農学部教授によれば、政府が2014年2月6日時点でまとめた農地に対する洪水被害は359,920Haにおよび、81,928Haは無収穫になるとの判定が下されている。「しかしコンパス紙の2月9日時点のデータを根拠に最新状況を推測するなら、不稔農地は10万Haを超えているものと考えられ、前年の不稔農地面積データをベースにするとこれは全国米生産の0.7%が失われたことを意味している。一見して小さい数字のように見えるが、それは過去最大の数字なのであり、十分な警戒が必要だ。」と教授は続ける。
洪水の被害はインドネシアの専売特許ではない。1985年から2008年までに世界が蒙った農産物に対する洪水被害は、7千億米ドルに達するものと試算されている。洪水は低地に被害を撒き散らすのが普通で、世界の稲作は通常低地で営まれているため、米生産が大きな損害を蒙るのは当然の帰結になる。2011年にタイで起こった水害は年間米生産の14%にあたる6〜7百万トンを滅失させたし、バングラデシュでは毎年洪水のために米生産の4%が失われている。
「今回の洪水でインドネシアの米生産は35万トンのロスを出したと思われるが、事後対応の巧拙いかんでは、それが100万トンに膨れ上がることにもなりかねない。米の収穫が失われてしまった地域で農民は米の植え付けをやり直すことになるだろう。従来多くの地域で行なわれている米〜米〜とうもろこし・大豆などその他穀物という年間栽培サイクルが米〜米だけになり、その他穀物の収穫量に影響が及ぶ可能性も高まる。」ボゴール農大教授はそう付け加えている。一年に三回の収穫が洪水のために二回に減少したとき、農家はその二回のチャンスを何の収穫に当てるだろうかという問題がきっとそれなのであり、その作物が何になろうが全体の収穫量が減少するのは言うまでもないにちがいない。
そんな状況の中で、輸入米がジャカルタのチピナン米卸売市場で商われていることが発覚した。インドネシアで民間の米輸入は禁止されており、高級米が特定の用途のために農業省のリコメンデーションを得て輸入できるだけになっている。もちろん政府が緊急事態に輸入するのは自由であり、その実務は配給事業庁が行なっている。
民間が米を輸入する場合、いくつかのプロセスを経なければならない。まず農業省から米輸入者資格の認定を受けなければならない。そしていざ輸入を行なうに当たっては、農業省からリコメンデーションを受けた上、商業省から輸入承認書を取得しなければ輸入通関ができない。そして輸入通関の際に税関が貨物と通関書類そして米輸入に関わる政府からの承認をつき合わせてチェックする。ところがそんな流れの中で、杜撰な行政管理が行なわれていることが明らかになった。農業省に登録されている58民間米輸入者に交付されるリコメンデーションの中に、輸入者が従わなければならない条件を農業省が記載していないこと。必然的に商業省の輸入承認書にも輸入貨物の明確な内容が書かれておらず、そんな書類をどうひっくり返して眺めようが、貨物が本当に許可されたものなのかどうかを税関が判定できるわけがない。それが原因だったのかどうかわからないが、税関自身も米を低リスク輸入アイテムに指定しており、実際の貨物検査は行なわれないまま国内搬入許可が降りていた。そういう実態を支えているものに、船積地での貨物検査という別の要素がある。米の輸入には船積地での貨物検査が義務付けられており、独立サーベイヤの検査証明書がインドネシアでの輸入通関の必須条件にされている。そしてその義務付けを定めた2008年商業大臣規則第12号には、その船積前検査は輸入者が検査費用を負担すると明記されているのである。
国が行なっている輸入通関のための貨物検査を輸入者に負担させ、サーベイヤが発行した検査証明書を輸入通関に使っていることの矛盾は言うまでもあるまい。サーベイヤにとっても、金を払ってくれる者は王様なのである。このような輸入米の通関と監督態勢を悪徳輸入者が利用しないはずがない。
農業省が2013年に交付した民間の米輸入業者への高級米輸入リコメンデーションは40万トンあった。高級米と中級米はもちろん価格差があり、米卸売市場で商われている中級米の価格帯で市場に流せば儲けを殺すようなことになる。通常の市場価格競争では、せいぜいキロ当たり1百〜2百ルピア程度の差しか出ないのだが、ベトナム産中級米と国産中級米が生み出す価格差はキロ当たり1千ルピアを超える。つまり、国産米は市場価格がそれほど高額になっているということだ。もちろんベトナム産中級米は味がよくないため、普通は国産米と混ぜてオプロサン(混ぜもの)米にされる。
輸入米の国内違法流通が大きな社会問題になったことから税関が無検査通関対象にしている米の通関貨物検査をタンジュンプリウッ港で行なったところ、ベトナムからの輸入米8百トンの違反が見つかり、それの入っているコンテナ32本が押収された。三つの輸入業者がそれぞれ2百トン、4百トン、2百トンのベトナム産中級米を、農業省から得た高級米輸入リコメンデーションと商業省からの輸入承認書を使って輸入しようとしたのである。米に関して税関は既に低リスクアイテムから高リスクアイテムに指定変更を行なっており、これが早速のお手柄ということになった。この摘発のおかげで、上で述べられている悪徳輸入業者の手口が事実であることが証明されたことになる。
厖大な人口を抱えるインドネシアは、米の自給がなかなかままならないようだ。オルバ時代に一度完全自給を達成したことがあるが、その再現はいつまでたってもやってこない。そんなこともあって、主食の多様化を政府は推進しているものの、米の飯でなければ即席麺という国民が多数を占めており、即席麺にしろパンにしろ主素材は小麦粉であって小麦はインドネシアで採れないためにすべて輸入しなければならず、政府にとっては痛し痒しといったところ。国内で採れるキャッサバやソルガムなどと並立させていきたいところだが、大多数国民はまだまだ米から離れられないでいる。
2013年の全国米生産は3千4百万トンで、国民総需要の4千万トンを満たすのにまだ6百万トン足りない。中央統計庁が報告した2013年全国の籾生産量は70,866,571トンで、処理プロセスを経て米になると3千4百万トンになるという計算だ。2010年の籾生産は66,469,394トンだったから、三年間で6%の上昇率だが、人口増加にまったく追いついていない。2010年の国民人口は2億6百万人で、2014年には2億5千4百万人に達すると見込まれており、その23.3%という増加率と比較するなら、米供給はどんどん差が開いているありさまだと言える。単に人口比較だけでもそれであり、更に米消費が少なかった貧困層の福祉向上が進んでいるため、そこでの米需要も膨らんでいる。2010年の貧困者人口は3,102万人で、2013年には2,807人まで減少している。農業省は国内総需要を満たした上に余剰在庫を持ちたいという計画を組んで積極的な米増産方針を進めようとしているが、自然災害・害虫害獣・水利インフラ整備などの諸問題が山積しているのが実態だ。


「包括的にならない食糧政策」(2014年4月14日)
国民の米食指向を緩和させるために食材多様化をはかったインドネシアは、即席麺やパンの消費が増えたことでそれなりの成功はおさめているわけだが、増加した即席麺やパンの需要をまかなうために小麦の輸入が激増し、外貨支出を増加させるという別の問題が生まれている。
2010年の小麦輸入は430万トン、2011年は460万トンだったが、2012年は600万トンに膨れ上がった。小麦は国内製粉業界が小麦粉にしており、それを中小企業が60数パーセント、大企業が30数パーセント、そして一般家庭が5%消費している。二次製品別に見るなら、生めん30%、パン20%、即席麺20%、ビスケット15%、揚げ物類5%、そして一般家庭で5%という使われ方になっている。
しかし小麦はインドネシアで生産されていないため輸入に頼っており、国際相場の変動が直接家庭の生計に影響してくるのは言うまでもないことだ。米の食糧自給という国家自衛方針を追及する中で、それに大穴を開けているこの状況への批判は人口に膾炙しているものの、小麦輸入をどうしていくかという政府の方針はいまだに明確なものがない。そんな状況下に、インドネシアで豊富に栽培されているキャッサバを小麦の代替として麺製造に活用する方法を東ジャワ州ジュンブル大学農業技術学部教授が発表した。
使われる素材はmocafと略称される加工でんぷんキャッサバ粉(modified cassave flour)にトウモロコシ粉を加えたもので、mocafとjagungを混ぜているため教授はその素材をmojangと命名した。モジャンで作った生めんは茹でると柔軟なテクスチャーを生じ、歯ごたえがあって、容易につぶれない。トウモロコシ粉はカロチノイドを含んでいて栄養学的にも小麦粉に劣らず、さらに色合いが黄色いので、小麦粉で作る麺のような着色工程が不要になる。
「小麦粉を使っている中小規模事業者は是非ミーモジャンを試していただきたい。大学が持っている諸ノーハウを皆さんとシェアすることに少しも吝かではありません。」教授はそう語って、小麦への依存度軽減を推進するかまえ。


「昆虫食のお奨め」(2014年4月15日)
動物性たんぱく質の豊富な昆虫を食糧のひとつにすることで、飢餓救済、食糧確保、地球温暖化対策などのメリットが生じるという提言をFAO(国連食糧農業機関)が2013年に行なった。それに関連してボゴール農大教授は、インドネシアの諸地方でいくつかの種族が行なっている昆虫食は栄養価が高いものであるため、政府はこの面で国民の啓蒙と昆虫食の推進を図るべきだと主張している。
「ヨグヤカルタ州グヌンキドゥルではバッタ(belalang)が常食されているし、パプアではヤシオオオサゾウムシの幼虫(ulat sagu)が好んで生食されている。バッタの揚げ物100グラムで、男性のたんぱく質需要の25%。女性の30%が満たされる。乾燥バッタ100グラム中にたんぱく質が40%、シロアリなら30%、コオロギは15%含まれており、鶏肉であれば18%程度だから、昆虫の効果は高い。たんぱく質だけでなく、鉄分やカリウムも豊富だ。またバッタやシロアリのようにビタミンAやEを含んでいるものもある。政府が国民への適切な啓蒙を怠っているかぎり、国民は昆虫を食糧にするメリットをいつまでも理解しないままになる。動物性たんぱく源を牛肉や鶏肉に頼るばかりでなく、政府はもっと食糧の多様化をはかるべきだ。」
ヤシオオオサゾウムシの幼虫(ulat sagu)はパプアの民衆にとって、貴重なタンパク源であり、クリームのような食感のため、愛好されている。しかしインドネシア大学医学部栄養学専門家は昆虫食について衛生上の見地から、十分に洗浄されていること、また過熱などの調理が十分になされていることに注意しなければならない、と警告している。健康を害する微生物や残留農薬への警戒を怠ってはならないとのこと。


「ロンボッのカキリマ繁盛記」(2014年7月11日)
西ヌサトゥンガラ州でバリ島にいちばん近いロンボッ島は、新大型国際空港ができたおかげで観光客が島内各地にひたひたと押寄せている。観光産業の発展は地元経済の発展に多大な貢献をするのが当然なのだが、人口41.3万人が総面積61.3平方キロに居住しているロンボッ島第一の町マタラムでは、食べ物屋台が町中のいたるところに出現するようになった。しかも、ローカルメニューが当たり前のそんな屋台の間に混じって、国際メニューもちらほらと目につくのは、さすがに国際空港と国際観光地が外国人観光客の誘致に貢献しているからにちがいない。
roti maryam, kebab, nasi kebuli, sushi, mi ramen, dimsum, piza, ayam goreng ala kentucky, その他さまざまな中東・日本・韓国・中華・欧米のメニューがマタラムの路上に並んでいる。ロティマリヤムというのはロティチャネのこと。ナシクブリはさまざまな香料をたっぷり使い、ヤギの肉汁を混ぜて炊き上げたご飯で、ヤギ肉もたっぷり入り、インドネシア在住アラブ系に好まれている料理。
もちろんローカルメニューは山ほどあり、そして極めつけ、地元ロンボッの特選料理もいろいろ混じっている。ayam taliwang, pelecing kangkung, nasi puyung, ayam rarang, ikan bakar tanak maik, などなど。実は、アヤムタリワンは元々西スンバワのタリワン地方の料理だったのだが、ロンボッの方がスンバワより先に開けたので、今ではロンボッ料理として知られている。プレチンカンクンは茹でたカンクンに独特なサンバルがかかっているもの。ナシプユンは中部ロンボッのプユン村に由来している。ラランは東ロンボッの村、タナッマイッも東ロンボッの部落の名前。それぞれ、お国自慢の味付けに故郷の名前をつけてマタラムへ進出中。
飲み物とスナックを提供してくれるカフェも、マタラム市内に続々とオープンした。繁華街や観光スポットの要所など、人が集まる場所はまず例外がない。夕方から深夜まで営業しているそれらの飲食ビジネスが、マタラムの夜の姿をがらりと変えてしまった。
2013年のマタラム市内路上カキリマ商人新規登録者数は689で、月平均56の屋台が市中に増加したことがわかる。かれらカキリマ商人のマジョリティは青年層であり、自営業に乗り出す青年たちの姿がロンボッでは顕著だ。
カフェパラディソでは、ミーアヤムの屋台を店の一角に無償で置かせてビジネス提携をはかった。提携相手は、屋台でミーアヤムの巡回販売をしていた業者。17時半から20時半まで営業するミーアヤム販売者は、一杯7千ルピアの商品を毎日だいたい150〜200杯販売する。それはつまり、カフェーの飲み物もそれだけ売れているということだ。
ムハマディヤ大学の学生もカキリマビジネスに乗り出している。しかしパンジティラル通りでトルコクバーブの看板を掲げている屋台は、かれがオーナーではない。マレーシア人がこの事業を企画してマタラムの投資家と提携し、かれは雇われて品物を販売しているだけだそうだ。営業時間は17時から22時までで、一日の売上は60万ルピアにのぼる。かれの報酬は月額50万ルピア。
カキリマ屋台の中に、スシや点心を商う者も混じっている。点心を売っている屋台にいたのはオーナー事業者で、年齢はまだ23歳。かれの一日の販売は2百〜3百杯で売上高は30万から45万ルピア。マタラムのカキリマ屋台は日々これ繁盛。


「若返りの待たれるトラジャコーヒー」(2014年10月9・10日)
南スラウェシ州庁がコーヒー生産農民の生産性向上をはかって、エンレカン、タナトラジャ、ゴワ、バンタエン、ボネの5県で総面積2万Haに渡るコーヒーの木の若返りを年内に実施すると発表した。南スラウェシ州はコーヒー生産用地として43,960Haのポテンシャリティを持っているが、現在使われているのは2万9千Haで、その生産性もあまり高くない。州内のコーヒー生産高は2012年が21,798トン、2013年は天候不順も影響して1万5千トンに激減しているため、2014年は2万5千トンを目標に据えている。コーヒー農民の生産者販売価格は現在リッター当たり1万7千ルピアしかないため農民の生産意欲はあまり高くないが、民間会社スワルコジャヤがトラジャコーヒーという地名商標を登録するのに成功し、そのためリッター当たり10万ルピアという販売価格を享受しており、州庁はそれにならって州内主要生産県の地名商標を実現させ、付加価値をつけさせることを狙って指導を進めている。
政府は若返り方針の一環で、タナトラジャ、トラジャウタラ、エンレカン、ルウの4県にアラビカ種のコーヒーの木の苗を30万本用意した。地名商標については各県庁にその取得を奨めているが、予算のからみがあって即応は難しいようだ。
トラジャウタラ県ケス郡ビンタオ村は高原の上にある。地元民の家では、早朝の冷気の中でご主人が熱いコーヒーをすすっている。一日のはじまりはこれだ、とかれは言う。それが何代にも渡って続いているかれらの慣習だそうだ。この村ではどの家も、台所でコーヒーを切らしたことがない。そのコーヒーは自分の土地で栽培し、自分で収穫し、乾燥させ、そして仕上げたものなのだ。村の住民はほとんどがそうしている。
コーヒー栽培用地は決して広いものではない。かれの場合、わずかに四分の一Haでしかない。それは、かれの生活を支えている生業がコーヒー生産でないからだ。それでも、コーヒーはかれの収入に大きい貢献をしている。かれはいつでも自分のコーヒーを販売できるよう、常に収穫したコーヒーの一部をストックしており、コーヒーの相場が上がったときや、何かのために緊急で資金が必要になったとき、そのストックを市に持って行って売る。「絶対に売れる。売れずに持ち帰ったなんて話はありえない。1キロでも2キロでも、量がどのくらいであっても、必ず買い手はいる。だから、コーヒーというのは救いの神なんだ。」
いま、焙煎プロセス前のコーヒーはキロ当たり3万から3万2千ルピアという相場だ。輸出クオリティだともっと高い。マーケットでは、アラビカ種の粉末コーヒーがキロ当たり6万ルピアになっている。
トラジャウタラでコーヒー農園の老舗のひとつになっているPTトアルコジャヤのコーヒー採り入れ作業者として働いている地元民の話はまたちがう。一日7時間労働で、7万2千ルピアの報酬をかれらは得ており、それが一家の生計の柱になっているひとや、子供を大学まであげたひとの話はざらにある。「手間賃の一部を貯めておいて、家畜を買うんですよ。その家畜を育てておいて、相場が上がったときに売る。うちはその資金で三人の子供を大学にやりました。」女性作業者のひとりはそう述べている。
家畜でなく、雑貨商店を開くひともいる。かれらの多くは稲作農民で、狭い耕作地での収穫は一家の食糧消費にあてられており、コーヒー園での作業の報酬がかれらの現金収入のほとんどを占めている。
PTトアルコジャヤ社広報担当者は、5百人を超える地元民をコーヒー採り入れ作業者として使っている、と語る。それは採り入れ部門だけの話であり、加工工場で働く従業員はまた別にいる。地元民との関わりがそれだけかというと、そんなことはない。日本・米国・オーストラリアに製品を輸出しているこの会社の原料は自社農園から得られたものばかりではない。地元民が収穫したコーヒーを買い上げることもしているのだ。
製品としてコーヒーを市場に出荷している小規模業者もある。ランテパオで操業している家内工業のPTレズキは農民が生産したコーヒーを毎月5百キロ買い上げている。時にはそれ以上の原料を必要とすることがあるのだが、市場の品物が底をついてしまい、それ以上の入手はたいへん困難だと事業主は語っている。
トラジャウタラ県商工コペラシ中小事業局データによれば、県内のコーヒー加工生産者は24社あり、毎月の生産高は数トンに達する。トラジャコーヒーは国内他州や国外に輸出されている。注文に応じきれないため、加工生産業者の中には、隣接するエンレカンやママサあるいは遠く離れたシンジャイやゴワなど他県の農家からコーヒー豆を買い取ることまでしている。
南スラウェシ州が誇る世界的に著名なトラジャコーヒーを1万8千の農家が支えている。しかし現在のトラジャコーヒーは、いくつかの問題を抱えている。コーヒーの木の樹齢が古くなっており、生産性が低下していること。栽培用地面積がまだ小さいこと。そして生産農民の多くが中小資本であるため、規模の拡大が難しいこと。コーヒーの木の生産性が活発な時期は3〜9年であるというのに、今ではトラジャコーヒーの木はほとんどが15年を超えている。アラビカ種のコーヒーが栽培されている8千8百Haの農地の7割が老朽で傷んでいる。ロブスタ種のコーヒー栽培はアラビカ種より規模が大きく、そして状況はアラビカ種と変わらない。コーヒーの生産性はHa当たり2トンが標準であるにもかかわらず、トラジャコーヒーの生産性は0.49トンしかない。抜本対策として若返りを行わなければならないのだが、農民の多くは自分が持っている木を伐りたがらない。ましてや今の製品市場価格は高めになっているのである。それでも州庁の指導で若返りはゆっくりとながら進んでいる感触を行政側は得ている。栽培面積の拡大ほど容易ではないにしても。


「寿司がトップ人気」(2014年10月23・24日)
インドネシアの学生が一回の食事に使う金額は5〜10万ルピアだそうだ。ひと月の小遣いが50〜100万ルピアという学生が多く、月の後半に入ると資金のゆとりがなくなるためその線は暴落するから、言われた言葉を鵜呑みにして常に均一だというような見方をすると、大間違いを犯すことになる。
かれらは友人らと連れ立って、さまざまな場所へ食事に行く。もちろん人によって料理の好き嫌いがあるわけで、お好みメニューは懐具合と相談しながら、その飲食店に足を運ぶということになる。インドネシアの社会習慣では、割り勘という平等主義は概して劣悪の評価を受けている。持てる者が持たざる者に恵みを与えるという社会善はここにも投影されており、封建的社会ステータスと西洋渡来の平等主義がごちゃ混ぜに並立している社会の姿をそこに見ることができる。親が会社重役だというような家庭の子供は仲間の食費を負担してやるのが普通のあり方であり、その仲間がいつもおごってもらっているために肩身の狭い思いをし自分を卑下する、という精神はあまり見られない。そういう文化を自然に受け入れることができる外国人はあまり多くないにちがいない。
昨今、インドネシアの諸都市に、外国料理店が顕著に増加している。インドネシア人は外国渡来のものごとに魅了される性質が強く、おまけに外国のものは国産よりも高クオリティで価格も高いという認識が社会的に定着しているため、外国のものを消費するというのは社会ステータスを高める効果をもたらす。そういう底流の上に乗って、学生たちも外国渡来のメニューをチョバするのが大好きだ。そうして、自分のお好み料理を見つけ出すことになるのである。
コンパス紙R&Dが2014年8月21〜22日に、インドネシア大学、シャリフヒダヤトゥラ国立イスラム教大学、ビナヌサンタラ大学、ムストポ博士大学の学生411人から集めたアンケートで、首都圏大学生の食傾向の一端が明らかになった。
大学生たちの間で外国料理メニューが抵抗もなく受け入れられていることについて、「どうしてそうなのか?」という質問への回答は次のようになっていた。
1.おいしい、美味だ 61.7%
2.好みの味をしている 25.9%
3.実用的 5.7%
4.買いやすい 3.2%
5.手が届く値段 1.9%
6.その他 1.6%
今まで知らなかった外国料理メニューに「物怖じしないでチョバできるのは、どうしてか?」という質問への回答はこうだ。
1.新しいものをチョバしたい 74.5%
2.おいしいから 15.3%
3.食べることがホビーだ 3.6%
4.その国の文化が好きだから 2.4%
5.友人から紹介された 1.5%
さて、肝心のメニューについて、どういう料理が好きなのか、という質問をしたところ、なんと日本料理の寿司が第一位を獲得した。確かに、日本料理はインドネシアの諸都市に滔々と流れ込んできている。寿司やラーメンあるいはたこ焼き、焼肉、照り焼きなどという日本語は、インドネシアの食文化の中にそのままの形ですでに定着している。学生たちはそういうものを、ハイパーマーケット内の片隅の売場やコンビニあるいは小規模食堂、テントカフェから道端に出現する食べ物屋台などで主に味わっている。かれらの財力で焼肉レストランにそう何回も入れるわけがないし、寿司にしても生もののネタを握った寿司を自費で食べることもかれらにとっては稀有のものだ。そもそもそういう握り寿司がかれらの味覚にフィットするものかどうかはすぐに想像がつくだろう。かれらが好きだと言って食べている寿司は、日本人の概念とは別の、世界に広まっているほうの寿司であるということを忘れてはならない。
1.寿司(日本) 27.3%
2.ピザ(イタリー) 23.2%
3.クバブ(トルコ) 9.7%
4.ラーメン(日本) 9.4%
5.パスタ(イタリー) 8.5%
6.ステーキ(アメリカ) 5.0%
7.バーガー(アメリカ) 2.8%
8.フライドチキン(アメリカ) 1.3%
9.トムヤム(タイ) 1.3%
そういう料理を学生たちはどこで食べているのだろうか?
1.レストラン、レストカフェ 67.6%
2.モールのフードコート 15.3%
3.テントカフェ 11.4%
4.ミニマーケット 1.9%
ひと月に何回くらい、そういう料理を食べているのだろうか?
1.2〜3回 37.9%
2.1回 26.5%
3.1回あるかないか 20.7%
4.4回 13.9%
5.全然食べない 1.0%


「インドネシアのヨーグルト」(2015年6月17・18日)
動物の乳を発酵させたヨーグルトのようなものがインドネシアの伝統食品の中にある。西ヌサトゥンガラ州ロンボッ島の東隣にあるスンバワ島では、昔から水牛のミルクを発酵させたヨーグルトが作られていた。
スンバワ島住民の大半は農家であり、そしてどの農家も水牛あるいは牛をつがいで持っているのが普通だ。農作業に使い、そして子供を大きくして売却できる資産とするのが一般的で、豊富な数の家畜から得られる乳は自家消費に使われるが、それでも飲みきれない場合にどうするか、ということをかれらは昔から試行錯誤で試みていたようだ。それがスンバワ島にヨーグルトが生まれた原因だとスンバワ県官房局所属の獣医は述べている。
住民たちが考え出した乳の利用法のひとつは、乳を煮詰めたものに塩を振ってご飯のおかずにするというようなことだが、プロポッ(pelopok)と住民が呼んでいるものを作ることもその答えのひとつになった。
プロポッの作り方は、かれらの土地で採れるナス科の植物と乳を混ぜて半時間放置し、それから5〜10分間過熱する。固形化したら皿に盛り、椰子砂糖やもち米を発酵させたタペを加えておやつにする。ただし、隣の家でプロポッを作っているから、自宅の水牛の乳を使って隣の作り方をそっくり真似ても、固形化しない場合があるそうだ。
ロンボッやバリで有名な料理、アヤムタリワン(ayam Taliwang)の故郷、西スンバワ県タリワン村でプロポッを商業生産しているひとがおり、町中のワルンやレストランにも卸しているので、西スンバワへ行ったらタリワン村を訪れてみるのも一興だろう。県内各地の役所からタリワン村役場に出張してきた公務員たちの間で、「タリワンへ行ったらプロポッ」という言葉が人口に膾炙しているそうだ。
プロポッはラマダン月になると需要が激増する。住民たちの間でプロポッはブカプアサ時の食べ物として最適であると考えられているのだ。だから生産量も倍増する。ラマダン月にプロポッの卸は予約しておかなければ手に入らないくらい、引く手あまたになるそうだ。
そのスンバワ島からおよそ3千キロメートル近く離れた西スマトラ州にも、水牛の乳から作られるヨーグルトがある。水牛の乳を竹筒に入れて発酵させたダディ(dadih)と呼ばれるものがそれで、地元の伝統食品のひとつになっている。竹筒は火にあぶっておき、最後に枯れたバナナの葉やワルの葉でふたをしたまま室温で2〜3日放置すると固まってくる。
ダディは日本にも既に紹介されているようで、日本ではダディヒとカタカナ表示されたものになっているが、そのカタカナをアルファベット化すれば[dadihi]となる。インドネシア人の発音を実際に聞いてみればわかるように、最後の「ヒ[-hi]」という音は発音されていない。インドネシア語の音韻学を学んだ方にはお解かりのように、インドネシア語単語の語尾にある[-h]のスペルはその前の母音が有気音であることを示すサインなのであり、インドネシア語特有の有気母音と無気母音の違いを示す記号であると見なすのが妥当な解釈だから、有気音と無気音をまったく区別しないで扱う日本語の音韻体系でこの単語の音を表記する場合、常識的な処置としてはダディと書くのが妥当なように思える。ダディヒという表記は音に従おうとせず、文字に引きずられた表記であることが明白で、わたし個人は一般的に行われているこの種の混乱が日本人の国際感覚をいびつなものにしているように思えてしかたない。
西スマトラの地元民は、ダディだけを食べることはあまりしないようだ。スンバワのプロポッもそうだったように、甘いものと一緒にして食べることが多い。パダンパンジャン〜ブキッティンギ〜タナダタル一帯は農業地帯であり、昔からたいていの農家で水牛や牛を飼っていた。ここでも家畜から採れる乳の自家消費と、余剰乳の保存のための手段がいろいろ模索されていたようだ。そういう家庭食品が市場に進出してくるのは、タリワン村の例が示す通りだろう。
パダンパンジャンの町の繁華街にグマラン(Gumarang)という名のレストランがある。ところで、西スマトラ州にはパダン料理店あるいはミナン料理店がない、という笑い話がある。ジャカルタでもスラバヤでもデンパサルでも、あるいは全国たいていの田舎のどこの町中へ行っても、「Masakan Padang」という看板を掲げた食堂を見出すのは難しくないのだが、西スマトラの州都から地方部の田舎町まで、州内のどこへ行こうが「Masakan Padang」の看板がどこにも見当たらないのである。つまりそれは当たり前のことで、西スマトラ州の中では、一般の食堂がそのスタイルになっていて、地元食文化のパターンと化しているのである。西スマトラ州では普通にレストランと言えばマサカンパダン食堂を指しているわけだから、わざわざそういう看板を出すほうがおかしいということらしい。同じことは、中部ジャワ州トゥガル(Tegal)でも体験した。ジャカルタで有名なワルントゥガル略称ワルテッ(Warteg)の看板をトゥガルの町中で探したが、見つからなかった。
グマランというのは、ミナンカバウの民話チンドゥエ・マトに出てくる白馬の名前だ。その名を冠したレストラングマランは1970年にオープンした由緒あるレストランで、中はいわゆるミナン料理店になっている。西スマトラを周遊したとき、地元の友人に案内されてそこを訪れたが、店内は客でいっぱいで、かなりの時間待たされるため、店を変えた記憶がある。どうやらこのレストランは「ミナンへ行ったらグマランで」という評価を得ている地元の有力レストランのようだ。この店が1975年に家庭食のダディを外食品に発展させたという話になっている。
西スマトラ州にはミナンカバウ族が住んでいる。ミナンカバウ語でダディはダディア(dadiah)と呼ばれる。その家庭食品のダディアを、アンピアン(ampiang)に組み合わせておやつにするというアイデアがこの店から生まれたそうだ。アンピアンはもち米を水分がなくなるまで炊いてから、まだ熱いうちに米粒をつぶして半搗きの餅のようにしたもので、アンピアンにダディアを載せ、椰子砂糖とココナツミルクをかけて甘くしてある。
今では、アンピアンダディアというメニューが西スマトラのあちこちのレストランで用意されているから、グマランへ行かなければ食べられないというものでもない。ただし、ダディアがどの店でも豊富に在庫されているわけではないようだから、運が悪ければいくつかのレストランで「今日は売り切れました」という言葉を腹いっぱいご馳走になるかもしれない。ともあれ、パダンやブキッティンギを訪れる機会があれば、このアンピアンダディアを是非お試しあれ。


「アチェのサテグリタ」(2015年6月23日)
インドネシア共和国領土の最北端はナングロアチェダルッサラム特別州にあるウェー島(Pulau Weh)で北緯6度の位置にある。インドネシアの最果ての地ウェー島は、地図を見ると右端の棒が伸びきらないWの文字のように見えることからその名を得たという説明になっているが、「西洋人がアルファベットを伝える前にその島には名前がなかったのか?」という反論が湧いて当然だろう。
NKRI(インドネシア共和国統一国家)の修辞とされている「サバンからメラウケまで」という文句に出てくるサバンの町はそのウェー島にある。サバン市スカカルヤ郡イボイウジュンバッウ村に建っている展望台のような建物がインドネシアの国土の果てを示すシンボルのゼロ地点タワー(Tugu Kilometer Nol Indonesia)だ。実際のこの地点の位置は、北緯5度54分21.42秒、東経95度13分0.5秒とのこと。
かつてアチェ州は中央政府に反抗して分離独立派が跋扈し、国軍が軍事作戦地区に指定して長期に渡る戦闘活動が続けられてきた土地であり、州内の出入りが規制されていたこともあって、いつ撃たれるかわからない場所に観光旅行するどころの話ではなかったのだが、1998年8月22日に軍事作戦地区指定が解除されて国軍が撤退し、大きい自治権を持つ特別州として中央政府がアチェに政治的配慮を与えたために州内の平和と安全は保持され、今ではサバンを訪れる観光客が年間50万人近くにのぼっている。
サバンでゼロ地点タワーを見物し、あるいは島周辺の海域で海遊びをしたあとの行先は、地元料理に舌鼓を打つのが定例コースだ。サバンの美食観光園(Taman Wisata Kuliner)を訪れると、「あれも食べたい、これも食べたい」という欲求がふつふつと胃の腑を刺激する。rujak Pulau Klah, martabak, mi jalak, sate gurita......
アチェ料理の特徴はさまざまな香辛料が豊富に使われていることで、インド・ペルシャ・アラブ・トルコといった西方諸文化とのつながりを、われわれは大いに感じ取ることになる。たとえばマルタバッ。有名なバンカ風マルタバッとはまた異なり、雰囲気はどちらかと言えばネギと肉のたっぷり混ぜ込まれた卵焼きという印象だ。そこに生のトウガラシとエシャロットを刻んだものを乗せて食べる。これを温かいteh tarik を飲みながら食べるとサイコーだそうだ。
サテグリタはいかがだろうか?グリタ(gurita)はインドネシア語でタコを指す。つまりタコサテだ。これは滅多によそでお目にかかれないしろものである。サテ屋はピーナツソースにするか、あるいはパダンソースにするかを選択するよう求めてくる。もし迷ったら、串5本で一皿だから、二皿注文すれば済む話なのだが・・・・
サテグリタを味わってきたインドネシア人の話では、グリタのサテはパダンソースのほうがおしかったそうだ。ロントンと一緒に口に入れると、パダンソースと混じりあってタコのうまみがより感じられるというのがかれのコメントだった。
サバンの「うまいもの」は他にもある。サバン市のど真ん中にあるパサルサバンではmi sedap を愉しめる。これは麺に魚肉とセロリを載せたもので、麺は汁麺と炒麺を選択できる。ミーゴレンは甘味が勝っているから、インドネシア人には食べやすいものだが、汁麺は例によってさまざまな香辛料が溶け合っているため、ジャワ島の麺に慣れているひとにはもてあますものになるようだ。夜にはミースダップを食べに地元民が大勢集まってくるので、夜の冷気とパサルの熱気を体験しに行こうとするなら、地元民に混じってミースダップを食べ、ホットのコーヒーか茶、あるいは温かい豆乳で体内を温めるのがよい。
アチェのコーヒーも忘れてならないもののひとつだ。サバンの町中にはウレカレン(ulekareng)コーヒーを飲ませてくれるワルンやクダイがあちこちにある。アチェのブラックコーヒーを飲まずして、アチェを語ることはできないにちがいない。


「マンガライ産コーヒーが優勝」(2015年10月26日)
2015年10月19日にバニュワギで催された第7回インドネシアスペシャルティコーヒーコンテストで、東ヌサトゥンガラ州フローレス島マンガライティムール県の農園で生産されたコーヒーが優勝した。
この催しには何人もの外国人コーヒー専門家が審査員として招かれ、インドネシア各地から集まった最上のコーヒーを愉しむ絶好の機会に喜んで浸っていた。オランダのビーンズコーヒーオーナーであるポール・デ・ハーン氏はその場でマンガライティムールの農園主に出品されたものと同じコーヒー豆を注文し、今年のクリスマスプレゼントにするアイデアを表明した。ビーンズコーヒーのコーヒーショップチェーンではこれまでもインドネシア産コーヒーが使われており、スマトラ・ジャワ・マンガライのコーヒーが毎年輸入されている。
やはり審査員に招かれたドイツ、ハンブルグのインターアメリカンコーヒー社重役であるミレラ・シエレック氏も、毎年インドネシア産コーヒーを大量に輸入している、と述べている。ドイツ人のコーヒーの好みはさまざまだが、スマトラ・ジャワ・フローレスなどの中のどれかが必ず好みに合う、とのこと。
インドネシア産コーヒーは品質面で優れたレベルにあるが、生産性が低いため量産がむつかしい。インドネシアのコーヒー生産はヘクタール当たり8百キログラムしかなく、ブラジルの7トン、ベトナムの2.3トンに大きく水をあけられている。
インドネシアのコーヒー生産のメインは、農民が空地などに植えたりあるいは自然に育っているコーヒーを片手間に世話しているだけで、かれらのメイン労働は稲作だ。そのため生産量を増やすことがきわめて困難で、政府はその実情にあわせて品種改良を行い、収穫量の大きいものを農民に植え替えさせるよう勧めている。
フローレスでのコーヒー栽培の歴史は比較的新しく、1920年代にオランダ植民地政庁がマンガライのチョロル村一帯で栽培させた。そして植民地政庁は1937年、成績の良かった農民に三色旗を与えて表彰している。今年のコンテストで優勝したのも、チョロル村の農園から採れたものだ。


「アヤムカンプン離れが始まったか?」(2016年1月15日)
クリスマス〜新年といった祝祭シーズンには、多少値が張っても「うまいもの」への嗜好が高まるのが普通の姿。ところが世界中で起こったのと同じ現象がインドネシアにも出現した。消費者はアヤムカンプンよりもブロイラー鶏肉のほうに食指を動かすようになったらしい。はたしてこの現象は、地域特性に区分されるものなのか、それともこれから徐々に全国に向けて拡大していくものなのだろうか?

アヤムカンプンに関する説明は次のページでどうぞ。
ジェイピープル > 現代インドネシア1001景
「アヤムカンプンとは何ぞや?(1/2)」
http://www.j-people.net/news1001/013/07/0130701-1.html
「アヤムカンプンとは何ぞや?(2/2)」
http://www.j-people.net/news1001/013/07/0130701-2.html

東カリマンタン州のアヤムカンプン養鶏業界は、毎年起こっていた祝祭シーズンの需要高騰が今年に限って眠ったままだ、と語っている。この業界にとってのかきいれどきはラマダン〜ルバランシーズンとクリスマス〜新年シーズンの年二回で、例年20%程度の需要増が起こる。
ブロイラーとの価格差は大きく、この時期アヤムカンプンの市場価格はキロ当たり5万ルピアで、ブロイラーの価格より3〜5割高い。
クタイカルタヌガラ県マランカユ郡マカルティ村の農業グループ役員は、アヤムカンプンを買うのは鶏肉料理を主メニューにしている食堂やワルンがほとんどで、一般消費者はめったに買わず、ジャワ島とは食の嗜好が異なっていると今年の現象を分析した。
マランカユ郡にあるレストラン「クナリ」のオーナーは、アヤムカンプンの肉はブロイラーとは比べ物にならないほど美味しいので、弊店の鶏肉料理の素材はすべてアヤムカンプンを使っており、ブロイラーは一羽たりとも仕入れないと述べているが、一方、一般消費者の声は次のようなものだった。
バリッパパン市の主婦のひとりは、もう5年くらいアヤムカンプンを買わない、と言う。「そりゃ、値段がだいぶ違うんですもの。」
テンガロンの住民も、アヤムカンプンが在来パサルで売られていないときのほうが多い、と語る。「品物がパサルで売られていなければ、ブロイラー肉を買うしか、しかたないですよ。」
東カリマンタン州のアヤムカンプン生産高は月間7万羽。サマリンダ〜ボンタン街道沿いのマランカユ郡マカルティ村は州内のアヤムカンプン生産センターのひとつで、月産2万羽を超えており、州内総生産のほぼ三分の一を占める大産地だ。


「バリ島でサテスス」(2016年6月30日)
sate susu と聞いて、読者はどのようなものを想像されるだろうか?ススというインドネシア語はミルクを指すケースが多いが、ミルクを出す器官もススと呼ばれることがある。サテススとは、牝牛の乳房のサテなのだ。ギョギョギョッ!?
ジャワ人はラマダン月のブカプアサ時の食べ物として、このサテススを食すのが大好き。
バンドンのホテルサンティカでサテススがメニューに入っているそうだから、そちらでも味見ができるようだが、バリ島でも、このラマダン月中にはサテススが季節の風物詩になっている。
デンパサル市北部のアフマディヤニ通り(Jl. Ahmad Yani)に面してバイトゥラフマンモスクがある。このモスク周辺一帯はデンパサルのカンプンジャワと呼ばれているように、ジャワ人部落だ。ところが、1千5百世帯人口およそ1万人のカンプンジャワに住んでいるのは、8割がたがマドゥラ人とその子孫だそうで、インドネシア人が厳密な意味で使っているジャワ人とは少々趣が異なっている。
ではあっても、バリ人にとっては、ジャワ文化イスラム文化を背負ったひとびとのカンプンはジャワという単語で代表させておかしいものではないにちがいない。
今年のラマダンも、カンプンジャワにはサテスス売りが登場している。およそ2センチ角に切られた赤白い肉片が三四個串に刺さっている。十分に焼けあがると、辛くこってりした味のブンブ(bumbu)をつけて食べる。味はサテパダンのようだが、サテパダンほどスパイスっぽくない。スス肉は普通の肉とモツの中間のような感触。価格は一串2千ルピア。ブンブはもちろんサービスで付いてくる。
肉が柔らかいのは、スパイスを入れて4時間煮込むからだそうだ。圧力鍋でも柔らかくなるが、煮込むほうが旨さは段違いだとサテ売りは語る。1キロの材料で串百本分に相当する。牝牛の乳房はいくらのコストなのだろうか?
ラマダン月でないときにサテススを探しても、めったにお目にかかることはできないそうだ。ところがラマダン月になると、夕方にはどんどん売れて行く。
サテ売りは、もちろんサテスス一本やりではない。サテサピ・サテアヤム・サテウスス・サテリリッイカン・サテリリッサピなど他の商品もそろえている。だから客も、サテスス一本やりというのは少なく、ほかのサテも一緒に買う人が多い。サテススを買うのがジャワ人だけかというと、決してそんなこともない。バリ人もサテススを買いに来る。
ラマダン月が終わるまで、あと一週間。サテススをチョバしてみたい方はどうぞ、デンパサルのカンプンジャワへお急ぎを。


「ビトゥンの刺身」(2016年8月25・26日)
昔、たいていのインドネシア人が刺身やすしを食べようとしなかったのは、かれらの生活環境にある生の海洋魚は生臭いという認識があったためらしい。インドネシアの魚料理には、生臭さを消すためにさまざまなスパイスが潤沢に使われている。さもなくば、たっぷりの油でフライにした。こうすれば生臭さは消し飛んでしまう。
次にあるのは寄生虫の恐怖だ。魚に火を通すことで、一応は寄生虫対策も行うことができる。インドネシア人ムスリムに限って言うなら、調理されていない生の海洋魚の肉がハラルなのかハラムなのかよくわからず、無鉄砲をして禁を冒すのを恐れたことがそこに加わっているのかもしれない。
しかし日本クオリティの刺身やすしをひとたび体験すると、生魚嫌悪症は影を潜めるひとが大半であり、日本人の長寿健康の秘密はこれだと考えて、この世界にのめりこんでいく。
北スラウェシ州ビトゥンは港町であり、貿易港もあれば漁港もある。海産物加工品製造工場は7軒、海産物加工場は28軒あり、それらは一日あたり1,414トンの魚を必要としていて、ビトゥンが魚の町であることをそのことが物語っている。日本の遠洋漁船もこの港に立ち寄るし、日系資本の海産物加工品製造工場もあるようだ。
この町に、ツナの刺身を供するワルンや食堂あるいはカフェがある。インドネシアでカフェという名称は最初、カフェテリアに由来した。だから元来は簡易レストランなのであり、純然たるコーヒーショップとは内容が違っている。カフェという名の食事処が世間に普及してから数十年後、米国資本のスタバを代表とするコーヒーショップの波がインドネシアに上陸した。このニューファッションをもたらしたものもインドネシア人はカフェと呼んだ。だから、インドネシア人がカフェと言ったとき、かれ・かの女がどちらを意図しているのかは、確かめなければわからない。
ともあれ、ビトゥンの刺身は地元民向けに供されているものであり、日本人客を狙ったものではない。だから味覚はインドネシア風になっており、日本風の刺身を期待してそれを注文すると驚くことになる。
食事ワルン「Aertembaga Indah」で刺身を頼むと、まずツナの切り身が載った皿が出てくる。小さく切られた魚肉は大きさも厚さもばらばらで、皿の上に雑然と置かれている。漬けタレは醤油とワサビでなく、ケチャップマニスとトウガラシの千切りがベースだ。このスタイルはジャワ島の漬けタレの本命なのだ。ただし、ビトゥンの刺身用漬けタレは、もうちょっと手が込んでいる。
ベースにはケチャップマニスとケチャップアシンが使われ、バジル、ニンニク、エシャロット、赤トウガラシをすり合わせて少量の塩を加えたものとピーナツを炒めて砕いたものが混ぜ合わされている。
これを味わったインドネシア人記者の印象は、日本とインドネシアの味覚が程よく融合していると評した。生臭みのないフレッシュツナの歯ごたえと複雑な味の漬けタレが口の中で心地よく混じり合う。バランスのとれたケチャップの甘さしょっぱさと魚の旨味が溶けあい、トウガラシの辛さが口中を満たし、ピーナツの歯ごたえと味がバリエーションを添え、そしてバジルの刺激が後味をさわやかなものにしている。
一皿2万5千ルピアのツナ刺身は、瞬く間に消えた。「もう一皿注文しようか?」という自分の声が頭の中で点滅したそうだ。
ワルン「アエルトゥンバガインダ」の主人ママ・レナ60歳は、日本漁船に乗り組んだ夫が日本人の仲間たちを自宅に招いて食事をふるまったときにはじめて刺身を作ったと回顧する。ビトゥンの町でだれが最初にインドネシア風の刺身を始めたのかはわからない。ビトゥン港に寄港した日本の遠洋漁船乗組員が、同じ船で働くインドネシア人に刺身を教えた。
ツナという素材そのものはビトゥンの町にあふれかえっている。日本人はみんな自前の醤油を持ってきて、刺身を食べていた。しかし北スラウェシのひとびとは、豊かなスパイスの味覚に慣れている。しょっぱさだけでは物足りかなったにちがいない。しょっぱさ、甘さ、辛さ、爽やかさ・・・もっとたくさんの味わいを求めて、かれらは漬けタレを工夫した。刺身にされる魚も、マグロ、カツオ、モロアジなどが使われた。
このビトゥン風刺身に米の飯はつかない。「米飯はこの味覚にあまり会いません。シンコン(キャッサバ)を茹でたものと一緒に食べるほうがおいしいですよ。今ではその組み合わせが常識になっていて、でも店によっては茹でバナナを出すところもありますけど。」
茹でシンコンのほんわかとした甘みによってトウガラシの刺激が緩和され、次の刺身の一切れを待ち受ける態勢を口の中に作り上げていくようだ。この絶妙のコンビネーションで、ビトゥンの刺身はお代わりが続けられるにちがいない。
話変わって、刺身という料理が普及する以前に、ビトゥンにも海洋魚を生で食べる料理があった。イカンゴフ(ikan Gohu)と呼ばれる。同じものは北マルク地方にもあり、さらにはフィリピンのミンダナオ島やハワイにもあるという話で、だから、生の海洋魚もタコも世界中で日本人しか食べない、というようには思わないほうがよいだろう。インドネシアでタコは海岸部に住むひとびとが昔から食べていた。
イカンゴフは北マルクでゴフイカンと語順を変えて呼ばれている。インドネシア人は必ずその料理にトウガラシを加えるが、フィリピンやハワイはトウガラシを使わないようだ。
レナさんによれば、イカンゴフは生の海洋魚の肉で作ったマリネであり、北スラウェシでこの料理は大勢の人が好んでいるそうだ。マグロやカツオの肉を一口大のサイズに切り、ショウガ・赤トウガラシ・バジルの葉をすり鉢ですり合わせて魚肉と一緒にもみ、ライムを搾って上から振りかける。食べる前にしばらく置いておき、スパイスソースをじっくりと魚肉に浸み込ませるほうが、美味しい。
ビトゥン風刺身よりも酸味が勝っていて、爽やかさが強く、ケチャップマニスやケチャップアシンが使われていないために魚肉の旨味がもろに口内に広がる。
北マルクではゴフイカンを地元のサシミと称しているが、サシミという言葉が今や魚肉の生食という意味で世界語になったことをそれが示しているようだ。


「トゥマングンの豊かなコーヒーバリエーション」(2016年11月8日)
中部ジャワ州トゥマングン県の20郡に住むコーヒー栽培者は50種類もの銘柄を製造販売している。ところがその50種はそれぞれが個性的であり、同じものはないそうだ。コーヒーそのものの種類はアラビカ、ロブスタ、エクセルサの三種類しかないのだが、収穫された場所の地質的環境的な差異と、粉末にされるまでの処理方法の違いが、50種もの個性を製品に与えている。
コーヒーの木が生育している周辺にどのような別の植物が生えているのかということがコーヒーのアロマに微妙に影を落とす。こうしてバナナの香り、アヴォガドのアロマ、タバコの感触など、さまざまなバリエーションが生れる。コーヒーの木が生えている場所が高ければ高いほど、採れたコーヒー豆はマイルドさが増す。
採集されたコーヒー豆の処理もいくつかの方法がある。天日乾燥させたあとで皮をむくナチュラルプロセスや、皮をむいてから乾燥させるハニープロセスなどの方法が使われ、その違いが粉末コーヒー製品に個性を与える。
3年ほど前のトゥマングン県に地元産コーヒーの銘柄は30種足らずしかなかった。それがコーヒー栽培者兼生産者の技術向上のおかげで今では50種に増えている。
質的向上は市場を拡大させる。トゥマングンのローカルコーヒーは地元周辺でだけ消費されるものではもうないのだ。今では日本・韓国・米国へも輸出されている。
ウォノボヨ郡住民で一年程前からコーヒー生産事業を始めたスプリヨノさん52歳は、ストルルップ(STLEREP)という銘柄で7種のバリエーションを生産している。使っているコーヒー豆はアラビカとロブスタだ。来年はバリエーションを20種まで増やす意向で、今はその下準備に忙しい。
その中にはラナン(lanang)プラスと名付けることにしているものが含まれている。ラナンというのはロブスタ種のコーヒー豆で、ふたつに割れない、丸い一粒のもの。プラスというのは、ラナンの粉末にアランアランのような他の植物を混ぜて風味を加える意図でそう名付けた。他の生産者の中にはオーガニックを売り物にしているものもあるそうだ。


「ジャカルタでミーアチェを」(2016年12月14日)
アチェ料理の特徴はさまざまな香辛料が豊富に使われていることであり、?料理であっても例外ではない。その香辛料の豊かさからわれわれは、インド・ペルシャ・アラブ・トルコといった西方諸文化とのつながりを、アチェの食文化に大いに感じることになる。
ミーアチェとは、日本語訳すればアチェ麺。アチェとはスマトラ島最北端のナングロアチェ特別州のこと。
アチェで一般に食されているミーアチェは言うまでもなくアチェの郷土料理になる。「口はひりひり、腹はぽかぽか」というのがミーアチェの特徴であり、辛いミーアチェを食べると口がひりひりし、そして数時間後にお腹が温かくなってくる。
コンパス紙が2016年12月に紹介した、都内でミーアチェを愉しめる店には次のようなところがある。
Warung Mi Aceh Sabeena - Jalan Susilo 3/3 Grogol Jakarta Barat
店はトマンのグロゴルバスターミナル跡地の裏側にある。
麺の汁が舌に触れると辛みでひりひりするのだが、同時に舌の別の味蕾もさまざまな味を感じている。実に豊富なスパイスがもたらす効果だ。
店のオーナーの弟がブンブ作りを自分で行っている。かれはパサルミングの市場まで出向いて必要な香辛料を買いそろえ、それを持ってグログル市場を訪れる。パサルミング市場で買った香辛料を吟味してから、炒ったヤシの果肉と一緒にして練り混ぜる。それがこの店の味の秘訣だそうだ。
どうしてパサルミング市場へ?アチェから首都ジャカルタへの最初の上京の波が1970年代に起こったとき、アチェ人の多くが集まって住んだのがパサルミングだったのだ。それ以来、アチェ料理に必要な香辛料はパサルミング市場でそろうようになった。
この店は「口はひりひり、腹はぽかぽか」というミーアチェの醍醐味を優先するオーソドックスな料理方針を維持している。
Rumah Bang Jaly - Jalan Prof Dr Supomo No.48 Tebet Jakarta Selatan
平均的なブンブで物足りないひとは、この店で激越なブンブを賞味することができる。ジャカルタに来たアチェ料理人の多くは、故郷の味が濃すぎて口に合わないことを怖れて、ブンブの使い方が縮こまっている、と店のオーナーの弟氏は語っている。かれの料理は思い切ってブンブをたっぷりと使うことが多く、それを好むファンも少なくない。
Warung Mi Aceh Bang Iwan - Jalan Setiabudi Barat Jakarta Selatan
オーソドックスなミーアチェに辟易したひとは、この店で薄味のものを注文することもできる。ブンブや塩味が控え目になったミーゴレン、マルタバッ、ナシゴレンなどは健康への懸念が脳裏を離れないひとにもってこいだろう。
Warung Mi Aceh Kurnia - Jalan Kebayoran Lama, Jakarta Barat
西ジャカルタ市ラワベロン交差点にあるこの店も、ブンブの使い方が控え目だ。香辛料の使い過ぎを自戒しているようだ。
Mi Aceh Pondok Bangladesh - Jalan Rawa Bambu No.8 Pasar Minggu Jakarta Selatan
この店のブンブはまた一味ちがっている。他の店と違って、ここのミーやナシゴレンは舌に優しく、薄味になっている。かといって、味わいが劣っているわけでは決してない。客の味覚に合わせて、いくつかの香辛料を使わなくなり、また一部の香辛料も量を減らした。2004年以来、その味に変えた、と店のオーナーは物語っている。その結果アロマはソフトになり、腹の中での消化活動もマイルドに変った。
さあ、ミーアチェを堪能したい方は、このリストのどこを選ぶか。少なくとも数か所をはしごして見なければ済まないのではないだろうか?