「文明ユートピアを訪ねる」


「インドネシア型の愛」(2012年2月28日)
ライター: ジャン・クトー
ソース: 2012年2月19日付けコンパス紙 "Salah Paham Valentine"

つい先日、インドネシアを覆ったバレンタインデーはわたしを不愉快にした。カードやプレゼントまで添えて西洋型『愛』のコンセプトを頭の中に取り込もうとしているこの国の若者たちはいったいどうしちゃったの?わたし個人としては、バレンタイン型『愛』はまだOK、というか、正確にはオクレテル。唯一の愛というのはわたしのような、ウエルテルやロメオと同様の文学的でドラマチックな自殺の欲求につきまとわれる一連の問題を抱える白人のアイデンティティの一部になっている。わたしの目からは、インドネシア型『愛』のほうがはるかに安定している。それは民族の後継者を生み、姑には孫を与え、つまり自分の両親や配偶者の両親に喜びを与えることを結婚するふたりの喜びに劣らないものにしているのである。

よく考えてみると、東と西はまるで違うとつくづく思う。それはわれわれの遺伝子に貼りついているものだ。西洋遺伝子と東洋遺伝子に。西洋人は物質主義的で合理的だが、東洋人は精神的宗教的で直覚的だ。単純明白。わたしもそのひとりだが、混交結婚をした一部のひとが何を言おうと、東と西の違いは存在するし、今後も存在し続けるだろう。『愛』の問題を含めて。
たとえば貞操問題だ。西洋人にとって貞操の中にある誠実さはきわめて本質的なものであり、時に肉体的なことがらを超越するほど本質的になる。だから当事者にとっては精神的な貞操がより重要視され、物質的ライフスタイルや思考法に適合する。肉体的な貞操にあまり心配することはないのだ。フランス大統領候補者でIMF専務理事のドミニク・ストロスカーンがニューヨークのソフィテルホテルで警察にほとんど濡場の状態を踏みこまれたとき、かれの妻はそれを問題にしなかった。かの女は夫が許容しうるセックスアフェアーに関わっただけだと主張した。西洋文明の崇高な価値にもとづいた個人の権利を行使していただけだった、と。その証拠にその夫婦はパリやニューヨークのシックなカフェで仲睦まじい姿をその後も示している。ヨーロッパの誠実というコンセプトはたいへん幅広いため、意義が失われてしまっている。

実際にインドネシアは劣らない魅力を持っている。もちろん男の貞操は決して守られないということを言うひともいる。妻たちが言うには、「サテを食べてもかまわないが、羊を持ち帰るのはだめよ。」だそうだ。東洋人は精神的なのだから、わたしはそれを信じない。つまり貞操も精神的なのではないか?その証拠はきわめて繊細な言語表現に見出すことができる。妻とのセックスは「心の糧を与える」と表現されているのだ。つまり妻とのセックスは妻に精神的な栄養を与えているということなのである。なんと繊細な。

しかし違いはそれだけにとどまらない。東と西は肉体を異なる方法でとらえる。わたしはインドネシアのバレンタイン族にそれを認識してもらいたい。混交結婚をして文化的に相手に負けたくないと思っているひとにはなおさらだ。キスの概念はまるで異なっている。西洋人のキスは粗雑だし、鼻が高いから邪魔になる。インドネシア人は違う。鼻は小さく小作りで、むしろ低いから、動きはもっと繊細だ。
西洋型『愛』とインドネシア型『愛』が同じだと思っているわたしのような白人がいかに愚かであるかということを示す逸話を思い出した。そのときまだ新婚だったわたしは、オーストラリアに研修に行った妻が戻ってくるのを出迎えに行こうとしていた。ロマンチックな出迎えを演出しようとしたわたしはバラの花を一輪買おうとした。ところがわたしが入った花屋はダース売りしかしてくれない。しかたなくわたしは1ダースのバラを買い、一本だけを手にして残りは後部座席の床に投げ捨て、空港の出口で妻が出てくるのを待った。
出てきた妻は一本のバラを受け取り、そのまま車に向かった。わたしは少々傷ついた。車のドアを開いたとき、妻は後部座席に散らばっているバラに気付いてシニカルに言った。「あなたはなんでその花を全部わたしにくれないの?」

西洋型『愛』と東洋型『愛』はもちろん違う。しかし外国語を学習するときにわれわれは文法や語彙、さらには語感までも習得するではないか。そこにまで至れば、先入観は消滅する。だったら、先入観をなくすようにすればいいのだ。たとえ言葉を学習する前であっても。


「浅薄民族」(2012年10月16日)
ライター: ガリン・ヌグロホ
ソース: 2012年9月9日付けコンパス紙 "Bangsa Dangkal"

ヨーロッパが世界大戦で崩壊したとき、クオリティの高さと尊敬するべきパーソナリティを讃えるためにフランス人はカンヌ映画祭を誕生させた。文明に満ちた国では経済クライシスがそのまま大衆嗜好どっぷりという社会環境に突き進むのではないことをそれは証明している。シンプルな例をあげるなら、世界大戦の結果経済クライシスに襲われたヨーロッパで、歴史的建造物があっさりとモールに変えられたり、サッカースタジアムがホテルに変えられたりすることは起こらなかった。今や歴史的建造物は観光産業の主要資産となり、サッカーもヨーロッパの巨大ビジネス産業と化している。

大衆志向政治のさなかにある大衆産業時代において、インドネシアでは不幸なことに、大衆の嗜好を満たすことがすべてである、という言葉が語られている。もっと災難なことには、大衆嗜好は常に安易で粗野でインスタントなパースペクティブの中に置かれているのだ。クリエーティブ産業で日常使われている言葉を見てみるがよい。「もういいよ、簡単にしようぜ。難しくしちゃだめだ。売れなくなる」。そして有名なせりふ「大衆はまだ腹を空かしているんだから、考えさせようなんてしちゃだめだ」。
ある映画の一シーン、空腹を抱える小さい子供が親に勉強するよう強いられる。その子は尋ねる。「ボク腹が減ってるんだ。なんで勉強しなくちゃいけないの?」母親は答える。「お前が腹いっぱいになったとき、自分が何をしたいのかがわかるようになるため。自分の周囲にあるものを手当たりしだいに食べないようにするため、そして自分の未来を食い尽くしてしまわないようにするためよ」。

上の素朴な文章は、動物的な貪欲さとサバイバル志向の中に聖的性質が複雑に混入し合体している一民族の文明形態を反映するものだ。言い換えるなら、腹を満たそうとする動物的生産性は聖的価値をもたらす、言うなれば消費者保護倫理からその他の諸倫理規定に至るさまざまな倫理に導かれていなければならないのである。高い生産性のバネが常に国民の聖的な手引きとしての諸倫理規定の高いバネに付随されるべきであることは想像がつく。
映画スターのトム・クルーズがファミリーインタビュー番組の中で椅子の上で飛びはねたとき、即刻視聴者からの批判にさらされた。この人気スターはテレビ局にもう一度その番組を作らせて視聴者に謝罪した。この些細な一例は、倫理に覆われている競争に満ちた生産性がさまざまな生き方に長期の生命力・強力で一貫的な経済力・ますます批判的生産的で倫理あふれる国民の生命力を持たせるものだったことを表している。

警戒しなければならないのは、民族生命力の前提条件としての大衆嗜好オンリーというポピュラー文化によって生かされるだけの生命に「大衆嗜好」という言葉の罠がインドネシア民族を落とし込んでしまうことであり、一方広範なマスの中では往々にして生き延びることの難しい代替文化や文化遺産が生命力を失うことだ。
ところが、文明に満ちた民族生命力は、ポピュラー文化・代替文化・文化遺産のいずれに対しても重要な価値を与えて互いに生命力を分かち合う三角関係を発生させる構図の中にあることを歴史が示している。日常生活を見るがよい。文化遺産の生命力はポピュラー文化や代替文化にインスピレーションを与える絶えざる創造性の泉なのだ。逆も同様であり、ポピュラー文化経済は文化遺産を生かし続けることができる。そして代替文化はインスタントなポピュラー産業が直面する飽和状態に有用な発見を与えるのである。

ある民族は倫理の欠如した大衆嗜好産業によって生活が支えられるときにのみ確信を抱くようだ。だから、あらゆるものごとが安易化され、品が落とされ、考えることを無用とされたとき、そこに生じるのは粗野でカオスに満ち、思考力も選択力も持たず、インスピレーションのない消費的な社会であることを理解していただきたい。動物的性向だけを残す民族、貪欲で怒りっぽく、インスタントな民族。浅薄民族だ。


「混融迷走する人命尊重思想と人間非同等観」(2012年10月29日〜11月2日)
汚職や麻薬不法薬物犯罪は国家と民族を衰退させる元凶であり、それらの撲滅のために自分は最前線指揮官として采配をふるう所存である、という大統領選挙時の公約をSBY大統領は踏みにじった、という批判がマスメディアを飾った。諸方面が大統領を非難したのは死刑囚に対する大統領恩赦に関してのものだ。

国民の心をもっとも踏みにじったと批判者が感じたのは、麻薬不法薬物事件で死刑判決を受けた囚人に対する減刑恩赦だ。国民の間に麻薬不法薬物中毒が蔓延して社会問題と化しており、公職者から治安要員、勤労者から学校生徒に至るまで国民の日常生活の中に麻薬常習者が紛れ込んでいる。旅客機パイロットや鉄道機関士に対する薬物テストは勤務前の定常プロセスにされ、ラリった自家用車ドライバーが高速で歩道に突進して多数の死傷者を出した事件も起こっている。
公共秩序あるいは勉学や勤労意欲を崩壊させる一面だけでなく、常用者を中毒に陥れてその人間の将来を粉砕し、中毒者に犯罪でも何でもさせて薬を買う金を作らせ、その金を搾り取るという非人道的行為への憎しみも世の中には濃く漂っている。だからそんな状態を野放しにせず、厳罰を与えて不心得物に少しでも躊躇させる契機を設けることを理由にしての死刑という厳罰が用意されており、せっかく確定させたその厳罰を麻薬不法薬物犯罪に立ちはだかって国民の福祉を向上させると公言していたSBY大統領自身が軽減させる決定を行うとはなにごとか、という思いを批判者たちが開陳したということだ。

2011年9月26日、SBY大統領は2000年11月8日に西ジャワ州高裁で死刑判決が下ったメイリカ・プラノラに対する終身刑への減刑決定書にサインしたし、2012年1月25日には2001年4月18日に最高裁が原判決を覆して死刑を与えたデニ・スティア・マハルワの終身刑への減刑決定書にサインしている。大統領が行っているそれらの減刑処分について大統領府は一切黙して何事も公表しなかったが、不法薬物製造で死刑判決を受けていたヘンキ・グナワンの刑執行要請を却下した最高裁長官がそれらの減刑措置を公表したのである。俄然、世論は大きく盛り上がった。

グスドゥル大統領内閣で法務大臣を務めたユスリル・イーザ・マヘンドラ氏は、「SBY大統領は麻薬犯罪者に対して絶対に刑を緩めることはしない、と言っていたのに、いつのまにか大勢の麻薬犯罪者の刑が変更されている。これはいったい何なのか?」と糾弾した。
国内最大のムスリム支持者を擁する宗教団体ナフダトゥルウラマの会長は大統領が麻薬不法薬物シンジケートのボスふたりに恩赦を与えたことを抗議した。「中国やシンガポールを見習うべきだ。かれらの国では、麻薬不法薬物の流通に手を染めたなら厳罰が待ち受けており、自国民であろうと外国人であろうと一切容赦しない。それらの国の国政担当者はムスリムでないのが明らかだが、かれらはそれができる。ところがわれわれはムスリムだというのに、なんとそれができない!」
ナフダトゥルウラマの法律援護指導院長は、政府の恩赦方針にきわめて失望したと語る。「麻薬不法薬物流通はテロ・汚職・大量虐殺など民族の存立に脅威を与える20種の悪事のひとつであるからして、大統領があのような犯罪者に大統領権限をふるったことはたいへんな間違いだと言える。特に国民の正義感をそれは大きく傷つけた。麻薬を世の中から追放しようとしてジハードに携わっている一部国民の気持ちは、今とても動揺している。」

法曹界の長老アドナン・ブユン・ナスティオン氏は、SBY大統領が行っている措置が法の確立という原則から外れているため、この問題を特に糾さなければならない、と語った。「汚職や麻薬犯罪の撲滅を陣頭指揮すると約束していたSBY大統領が麻薬犯罪の大物を減刑している。麻薬犯罪は汚職やテロなど人道的悪事のひとつであり、そういう重い犯罪を犯す者には死刑のような重い罰が与えられて当然である。裁判の結果重い罰が与えられているのなら、それを軽減させてはならない。そのような姿勢は政府が明快な意志を持っておらず、風見鶏のようにぐらぐらと方針を変える性格を示すものだ。わたしは政府が現行政策批判の矛先をくらまそうとしてこのようなことをしているとは考えたくない。大統領は最高裁とは別の方面から何らかのアドバイスを受けてその方針を採っているのではないだろうか?わたしが得た情報では、最高裁は最初その方針に反対していたが、最後になって大統領が恩赦決定を出すことに同意したそうだ。」
しかしアドナン・ブユン氏の話とは裏腹な発言も伝わっている。デニ・スティア・マハルワへの減刑を最高裁は死刑から入獄12年に変えようとしたが、大統領は終身刑を言い張ったというのがそのアナザーストーリーだ。インドネシアの争いごとには常に根も葉もない虚言がつきまとっており、世間が何を信用するかというのが勝敗の分かれ目になるというまるで客観性のない綱渡り的な要素が充満しているから、われわれがインドネシアで暮らす場合、自分の身の置き所を常に確認しつつ物事に当たらなければならず、何かを信じて凝り固まる姿勢は墓穴を掘ることになるということを座右の銘にしておかなければならないのである。

ともあれ、そのような喧々諤々の大統領非難に対し、法務人権副大臣が次のような表明を出した。いわく、大統領が何人かの麻薬犯罪大物死刑囚に恩赦を与えたのは麻薬事件を敵視することをやめたからではなく、他のいくつかの要素が慎重に考慮されたからであり、その要素は5つある。
まず、1945年憲法第14条で、大統領は最高裁の検討に配慮して恩赦を与える権限をもっていること。次に、恩赦の決定メカニズムの中では、最高裁の意見だけが参照されるのでは不足があり、閣議の中で、特に政治法曹治安調整相・法務人権相・最高検察庁長官や国家警察長官などの意見も参考にして責任のおける決定が定められることになる。三つ目の参考要素は、世界で死刑が減少傾向にあるということだ。世界198カ国中で死刑を行っている国は44カ国しかない。四つ目の要素は、外国で死刑の判決を受け、刑を執行されようとしているインドネシア国民がたくさんいるということがあげられる。2011年7月から2012年10月までの間で、外国で死刑の判決を受けたインドネシア国民が298人いると法務人権省が報告している。その中で、インドネシア政府からの当事国への働きかけで100人が減刑され、あるいは死刑を免れることができた。最後の要素として、大統領恩赦の対象は選択的に行われなければならないということがあげられる。これまでの任期中にSBY大統領が受けた恩赦要請は126件あり、恩赦が与えられたのはそのうちの15%に当たる19件だけで、85%は却下されている。さらに恩赦が決定された19件のうちの10件は受刑者が未成年であり、1件は盲目者で、残る8件中の3件は外国人で、おとなのインドネシア人受刑者は5人でしかない。

デニー・インドラヤナ法務人権副大臣はさらに加えて、外国で死刑判決を受けたインドネシア国民の保護と生命尊重をはかるために政府と当事国のインドネシア在外公館が大きな努力を払っていることについて解説した。「一度死刑の判決が与えられたがインドネシア政府の嘆願で減刑された100人のうち44人は麻薬不法薬物犯罪にからんでおり、また残る198人のうちの61%も麻薬関連で死刑囚になっている。大統領がかれらの処刑の軽減を相手国に嘆願する場合、インドネシア政府も人道的立場から死刑囚の減刑を行っているという事実を示してはじめて相手国はそれを聞く耳を持つわけで、インドネシア政府が死刑囚をどんどん処刑していながら他国にインドネシア国民の死刑は赦してほしいということをいくら言っても効果はない。」

西洋文明が構築してきた人命尊重思想は、すべての人間が平等であり対等であるという人間観を基盤に据えている。人間を格付けし、選択的に法執行を行うようなあり方はその人間観に反するものだ。人間は同等でないという観念が人命尊重思想を冠に戴くとき、その融合は原理を出現させず単なる道具となってもてあそばれるにとどまるしかないのだろう。それらは混じりあい融けあい、行方を定めず迷走するのである。


「狭い仲間意識の強まりと幅広い友愛感情の後退」(2013年4月25日)
地域性に根ざすプライモーディアルなアイデンティティの高まりが国民の間にホリゾンタルな衝突を増加させており、建国の雄大な理想であった民族種族の複合体である統一インドネシア共和国の土台を揺さぶっている。インドネシア民族が持つ多様性は、道を誤れば国家分裂に向かう危険性をはらんでいる。地域性あるいは宗教面の感情に根ざすプライモーディアリズムへの狂信性は、いまやますます容易に背景の異なる同胞への不信と敵対感情をかきたてるようになっている。高い依存性社会であるがゆえに国民は簡単に煽動され、たわいのないできごとが集団衝突にエスカレートし、地域を越えて飛び火し、拡大していく。

インドネシアでSARAと呼ばれているプライモーディアルアイデンティティに関連した集団抗争事件は、インドネシア社会が文明化した都市生活における社会統合を十分に実現できていないためだ。それは公衆が抱く嫌悪感の爆発による襲撃・タウラン(集団喧嘩)・破壊行動・大衆暴動や略奪といった暴力行為の多発が証明しており、それらは往々にしてSARAのニュアンスを持つ狭い仲間意識に伴われて発現することが多く、それに対する法的処理は完璧な結末に至らないもののほうが多い。

コンパス紙R&Dが2013年4月3〜5日に全国の電話帳からランダム抽出して電話インタビューした17歳以上の回答者658人から集めた地域内住民間コンフリクトに関する意見は次のような内容を示した。

質問1:
これまであなたの地域で住民間衝突を発生させうる最大要因と思われるものは何か?
回答1:
経済格差28.1%、暴力的な民間団体の存在14.9%、自治体首長選挙候補者間の抗争10.3%、異宗教6.1%、政党間抗争5.6%、種族間抗争4.6%、その他5.1%、無回答/衝突はない15.0%、わからない10.3%

質問2:
あなたの地元で次のようなことは強まっているか、それとも弱まっているか?
回答2:
○地元政界の分裂:強29.8%、弱50.3%、安定1.4%
○地元感情・種族感情:強24.5%、弱66.1%、安定1.5%
○宗教対立:強21.6%、弱74.2%、安定1.4%
○貧富階層間対立:強34.7%、弱59.9%、安定1.7%

質問3:
次のことがらにおける政府の業績に満足しているか?
回答3:
○社会生活における親愛感情の育成:満足35.9%、不満61.1%
○社会生活における多様性の維持:満足42.4%、不満54.7%
○住民の安全感安心感高揚:満足35.9%、不満62.8%
○住民間抗争の芽を事前に摘む;満足36.8%、不満59.1%
○発生した衝突の処理:満足30.9%、不満65.8%
○社会抗争・社会暴力実行者に対する処罰:満足28.9%、不満67.5%


「もっとたくさん」(2014年10月20〜23日)
ライター: 文化人、ラドハル・パンチャ・ダハナ
ソース: 2014年8月14日付けコンパス紙 "Hidup Lebih"

一家の主が妻子と共に家族連れで住宅地から大通りに足を踏み入れたとき、かれを不安に陥れるものには何があるだろうか?もっとも顕著でインドネシアのほぼすべての大通りのアイデンティティとなっている現実、つまり数珠繋ぎの商店と広告の波をおいて他にはない。
モダン化の成果がもたらしているその現実のどこが悪いのだろう?何も悪くない。そのすべてをわれわれは当然のもの、きわめて自然なことがらと受け止めている。悪いのは多分、その現実の中を泳いでいるかれの妻子を含む人間のほうだ。その商店と広告のすべては、先頭から最後尾まで、所有欲と購買欲を引き出すお勧め・誘惑・そして現世的快楽のおしゃぶりの一大行進のようだ。

われわれの生活内に満ち溢れている商店と広告の勧誘は大通りだけにとどまらず、テレビの全チャンネルから新聞・雑誌・チラシの紙面、そしてわれわれの日常生活に欠かせなくなったさまざまなガジェットのバーチャルレアリティの中にまで存在している。われわれがそれらの勧誘を熟考したり棚上げしておこうと考えるためのブランクの時間など一秒も残されておらず、それは突然いますぐに満たされなければならない需要に結晶するのである。
靴を二足、あるいはせいぜい三〜四足としておこう、持っていればもう十分なはずなのに、陳列ケースやパンフレットに示されているモデルがとても素敵だから、われわれはまた新しい靴を買う意欲を引き出されるのである。それは即座に需要に変化する。同じことは衣料品にも当てはまる。昔はルバランが来ると新しい服を買っていたのが、今や衣装ダンスが一杯であるにもかかわらず、毎月あるいは毎週、最新ファッションの衣服を買うようになっている。家庭生活用品・自動車・ガジェット・新開店レストラン・あちこちの観光地までもが同様だ。既に持っているものにフィーチャーがひとつふたつ追加され、あるいは形がこれまであったベースの上に曲線が増やされただけのデザインがその実体である高級品も、なんら違いはない。

通信・情報・メディア分野のテクノロジーが達成した成果を使って追求しつくした結果、現代産業は後から後から需要を創造することに成功した。ただしその需要の本質は、いまだ真の需要に至っていないものなのだ。しかしこのビヘイビア、突進し続ける「必要だ」という思考方法や習慣によって、今やそれは常識と化し、自然なものと感じられているのである。豊かで有り余る生活を基盤に置く一文明がもたらしたメンタリティと習慣への変化なのである。

< ストック志向と戦争 >
この有り余る生活文化は、われわれが既に持っているもの以上に獲得する、あるいは獲得に努める権利があると考える基本的価値観で人生を観たり営んだりするあり方だ。そのためにわれわれは、(あたかも)他者を押しのけ、必要なら競争相手を滅ぼすといったあらゆる手段を講じて、激しい闘争や競争を行なわなければならず、そしてその価値観は基本的な個人の権利の基礎だという規範を形成するようになる。西洋大陸型思考法である合理的・物質的・実証的思考法が産んだ帰結がそれだ。
この思考法はあらゆる人間に対し、未来・進歩・成長・開発といった価値観のポジティブオリエンテーションに従って常に進歩的であることを命ずるものだ。国家は毎年経済成長を記録するよう求められ、事業やビジネスは毎年利益の増加を求められ、人間の生活も所有する生活ファシリティの増加で価値が計られる。

最初は価値だったものが規範に変化し、最期には真と善のスタンダードを示すモラルとなり、過分な所有についての義務ならびに権利を有する全人の基本的権利となる。もっと繁栄する、もっと有名になる、もっと美しくなる、もっと尊敬される、もっと権力を握る、もっと頭が良くなる、もっと背が高くなる、もっと早くなる、等々等々・・・

グローバルな拡大に至ったこの慣習は、大陸型文化に由来する蓄積(ストック)観念を基盤に据えている。長期間に及ぶ極端な暑さ寒さの厳しい気象を持つ独特の地理的環境の中に成育した慣習は人間とその社会に蓄えを持つことを教えた。食糧やエネルギーなどの蓄えは、厳しい気象がもたらす困難を乗り越えることを可能にする。その蓄えが次第に大きなものになって、最期にはあるひとつの季節を乗り越えるのに必要な量を超え、その先の季節をすら乗り越えるための量を確保するという量的指向を生み出した。時代が進んで、それが投資という名前で呼ばれるようになり、形態も、食糧庫から黄金や株券あるいはバーチャルな資産へと時代に沿ったものに変化し、子々孫々十二代に渡っても使い切れないものとなった。
その慣習が常に(手段を問わずに)競争しようとする人間のビヘイビアの基盤に置かれ、もっともっと獲得し、富と栄光をたくさんたくわえることを目標に据えて、勝つこと・征服すること・占領すること(植民地主義や帝国主義)に向かう強い希求をもたらした。こうして「より多い」ということは、一個人や一民族の成功・権力・特権・位階などの測定基準になった。そのエトスによって、イギリスの産業革命は発展促進のモメンタムを獲得し、世界に拡大して行った。生活のあらゆる階層と次元における果てしない競争、そしてさらには既に獲得したより多いもの、つまり資産ストック、の保全確保だけのために、長年にわたるコンフリクトや戦争に至る様相をこの世界に出現させたのである。いやそれどころか、自分の蓄えを増やすために他国の資源を併合することまで行なわせしめたのだ。

< 海洋型文明 >
世界の別の場所では、人類の別の子供として水をメインの要素とする海洋の地理的現実を踏まえた別の文明が成育した。日本・ギリシャ・イギリス・スカンジナビア諸国など島々や水に囲まれた地域に起こった海洋世界の文明がそれだ。その最大のものがヌサンタラ、つまりインドネシアである。

海洋文明というのは、ギリシャの哲人ヘラクリトスの言葉「パンタレイ」が示すように、溶融的流動的であらゆるものごとを天然界の原理に応じて動いていくがままにするという特徴を踏まえて興ってきたものだ。この文明には蓄えへの志向や圧力が見られない。一年のどの季節であろうが、酷寒や酷暑という厳しい気象にさらされていない上に、自然が人間の必要なものを満たしてくれることがそこに大きく影響している。中でもインドネシアはその筆頭であり、自然は人間のサバイバルだけでなく自己表現や自己実現そして精神的な宗教儀礼に至るまで豊富な活動に必要とされるあらゆるものを与えてくれ、日常の実生活の中に統合されていた。天国というものの概念(神話)は大陸型民族の船乗りがインドネシアに関して抱いたイメージに他ならないと一部の研究者が解釈するのも、決しておかしなことではないと思う。

この地球上の天国で人間は自然環境の有機的な一部分だった。共同のサバイバルと発展のために自分を取巻く自然環境内のあらゆるものを尊重する意識を人間が抱いたとき、相互依存が形成された。隣人や次世代のことなどほとんど意識の外に置いて周辺環境が持っている天然資源を搾取しつくしながら財産を蓄積するストック型文明とはそこが異なっている。海洋型民族はあらゆる物質や生物とそれが生み出す現象に精神的宗教的なレベルに達するまでの親近感を抱いている。
それゆえに、測定スケールとして使われるものは、全体の健全な実在に貢献するためのバランス感覚・調和・文化意識なのである。ある人物の自尊心・威厳・権力などは、かれの作り出した文化的産物が世の中でどれほど役に立ったかということで測られる。社会的人間であるホモソシウスはこの文明における根源であり、不可欠の存在なのだ。

しかしそれは昔のことだ。2千年をはるかに超えた、ヨーロッパ民族が生まれる何千年も前のことであり、流浪のインドアーリア人がこの島嶼地域にやってきて、スマトラ・ジャワ・カリマンタン・ヌサトゥンガラの各地に集権的内陸的諸王国が形成される基盤となる大陸型文化を植え付けた西暦紀元初期よりずっと以前のことなのだ。それ以来、もっと後になって興った大陸型植民地主義の結果、ポルトガルからアメリカ、日本そして最近では韓国によってプライモーディアルな現実が大陸型の新しい文化衣装で包み込まれてしまった。文化の悲劇は続けざまに起こり、われわれは現代の諸価値・規範・倫理性の中に混沌とした現実を感じ取るのである。

その後起こったきわめて興味深いことは、大陸型宗教であるというのにかなり強く激しい海洋型文化のアプローチを持つイスラム教の渡来だ。(イスラム教が強い海洋型文化を持つ大陸型宗教であるということは、別の論説の中で詳しく解説しなければならないだろう。)わずか2百年の間に、この島嶼地域の大多数住民が大量にイスラムを受け入れたことは、観察者や外国人研究者のだれをも驚かさずにはおかない。その成功は宣教プロセスの中で、連なる島々の沿岸部にある諸社会を手はじめに、地元在来文化の実態にあわせてこの宗教が海洋型文化への適応をはかったためであることに他ならない。それは自然な妥当性の中で受け入れられ、さらにはかれらの新たなアイデンティティ形成を含む地元社会の文明化プロセスを助けるものと位置付けられたのである。その教義の中でストック文明はいきなり、「より多く」の欲望を統御するだけでなく欠乏の中で生きるための自己練成の習慣を伴ったアンチテーゼを与えられた。たとえば、全イスラム教徒に日常の飲食・睡眠・雑談・性行為などを減らすことを求める断食〜ラマダンの習慣といったものだ。

< 彼岸的な指導者 >
その教義が教える価値や規範が地元の慣習と浸透しあってわれわれ海洋民族に対し、大陸型現代文明生活から貪欲さや欲張りになることを削り取るように教えている。われわれは自然が与えてくれるものを必要な量だけ取り、それどころか海洋型イスラムの慣習の中には、何か天然資源を採取したなら、その代替として他の天然資源を増やしてやるよう教えているものが少なくない。それによって、自然と人間のポテンシャリティが維持されるのである。人間と自然は互いに恵みあい、補いあうのだ。その両者の間に、相関的な暮らし・役割・機能の永続性を相互に維持しようとするポジティブなエネルギーの交流がある。

過剰な量を手に入れてしまった者には、その富者に過剰な富を社会に還元するよう強いるモラルが存在している。そうであるから、社会的連帯やゴトンロヨンがこの文化の中の不可欠要素になっているのである。これが海洋民族のプライモーディアルな結びつきの基盤をなしており、その共同生活を崩すのはたいへん難しい。それは草の根階層庶民の中に強く行き続けており、政治経済面でのエリート支配層よりはるかに強固だ。ポストモダン政治経済の中でかれらエリートは草の根階層(有権者という呼び方をしている)を自分たちのような脆弱で崩壊しやすい体質に変化させるよう努めており、かれらが持っている過剰であることへの欲望を一緒になって盛り立てるよう、民衆を仕向けている。

指導者の中に、特に昨今のポストモダン型政治競争の中で、この国民民族の本性を理解していない者がいるならば、かれはリーダーシップを振るうことに適していないばかりか、かれ自身に生を与えて自己の文化的アイデンティティを熟成させ育て上げてきた文化文明を裏切り、自己の民族とその歴史を裏切る人間になることに他ならない。海洋文化の中の真の指導者は、政治・経済・知性・文化の諸面で能力の欠如している、あるいはまった不能な最下層民衆に対する強い情動を持つ人間なのだ。だからこのような指導者は、他人に「よこせ」と要求し、他人のものを取り上げ、自分に与えられたファシリティ(権利)を逸脱して過剰に利用するようなことを絶対にしない。自己抑制的であり、自己を突き放し、彼岸的に生きるのがかれの生き方だ。

上で述べた海洋型指導者や生活実践とその原理のすべては、現在全国に流れているメインストリームへのアンチテーゼであり、反論であるように見えることをわたしは十二分に理解している。しかしこれこそが、近年一層混沌の度を強めている民族への改善と建て直しのために測定可能な代替物なのである。確信とその確信を揺るがせないための勇気だけが、わが民族の精神革命を成功させうる。そしてわたしは、あるひとつの要素がそれを支持しているためにそれが成功することを確信している。民衆という要素がそれだ。


「差別のないインドネシアを目指す」(2014年12月1〜4日)


差別はどうして起こるのか?ここで言う「差別」とは、差異を認識するという知能活動に関わることでなく、自分たちと異なっていると認識した他人に向ける排斥や敵対といった攻撃的な精神性を指している。


人類発展史の初期にあった自己保存のための閉鎖的ムラ社会の構築は、野獣であった人類が本来的に持っていた攻撃性に対応するためのものである。他人を見たら泥棒どころか、わがムラに破滅をもたらす鬼畜だという人間観が、不幸にして人類史の第一ページに詳述されているのだ。文明が人間から野獣性を希釈してきたとはいえ、なかなかそこから脱することができないのが人間の宿命というものなのだろう。人間は人間をやめることでしか、神や天使の世界に入っていくことができないのだから。

だから必然的に、人類は自分の所属する共同体と他人の共同体の区別を強く意識して人間を仲間とヨソモノ(敵)に分類するというディコトミーを本能の中に刷り込んできた。親○国・反○国というものの見方は、そういう原初的な精神性が文明化を拒否して執拗に発現している事実を示している。その観念にとりつかれた人間には他人の共同体が自分の共同体と同じように種々雑多の個性や感受性あるいは意見や見解を持つ人間で構成されているという事実が見えなくなり、他人の共同体にラベルやレッテルを貼ってその構成員のすべてが金太郎飴のようにしか見えてこなくなるという視野狭窄に陥ってしまう。二十世紀の前半に行なわれた前回の大戦は、そういう視野狭窄の狂気が世界中を推し包んだ時代のものであると言って過言であるまい。その教訓が人間をもっとマシな存在、もっと文明化された存在、にしてもよいと思うのだが、人間というものが持つ限界がその進歩を拒否しているように思えてしかたない。特に非西欧世界にその傾向が強いのは、しょせん現代文明が西欧文明であることから来る価値観のすれ違いであるにちがいない。世界を支配した者たちが携えてきた文明に被支配者たちは従いつつも、そこにダブルスタンダードを忍び込ませていることの非効率を悪と認識できないことも、人間というものが持っている本源的なものに由来しているような気がしてならないのである。

ならば、エトランジェを排斥し敵視する要因はそれだけなのだろうか?実は、そんなコミュニティレベルのディコトミーに加えて、もっと個人レベルのベーシックファクターがある。文明というものが人間に価値観をもたらした。つまり地球上にいる数多い動物の中で人間だけが、正邪・善悪・優劣などといった、抽象的形而上学的な価値をその精神性の中に抱え込んでしまったのである。そのために、欲望を充足させて生きていればよかった野獣としての本能にあわせて真善美という生存には余計なものでしかないお荷物を人間は担うようになった。人間存在としての自己の価値あるいは意義を自分が確認するときの陶酔や快楽という、たいへんもってまわった精神的快楽をその余計なものが与えてくれることに気付いた人間が、精神の麻薬としてそれを温め続けたことは想像にあまりある。

自分が優れた人間であるという認識は、人間にとって自己保存の本能に関わっている。自分が全き人間であるという自己認識が自己確立の意識を勃興させて自己存在に最大効率的機能を付与し、かれの行為行動を最大限に有効なものにする。
自分が優れた人間だという意識を持っている者が最大限の働きをするのであり、自分は劣っていると精神的にダウンしている人間が全力でものごとに立ち向かう姿を示すはずがない。
その面に限って見るなら、それはきわめてポジティブな意義を持つことがらだと言うことができる。しかし自分が自分を優れていると認識するのは主観の塊なのであって、それが自分の精神世界の中にとどまっているかぎり、世間に波風を立たせることはないのだが、世間の中で優れた自分を認識し、あるいは演じようとする人間が出現するのを避けることはできない。そんな精神性の中に他人への支配欲や優越感などが混じりこんでくる。他人を見下そうとする心理傾向を強く持った人間が世間の中で対人接触をぎくしゃくさせている例は枚挙にいとまがないだろう。

そういうコミュニティレベルとパーソナルレベルにおける人間の精神性が敵を作り、敵を圧迫して自分を優位に置こうとし、たゆまぬ敵対行動が地上に満ちる。そこに差別があるのであり、人類開化史の中に差別に由来する対立視点や敵対意識は途絶えることなく継続して物理的な行動を誘発しているのである。異民族・異宗教・異文化といったディコトミーを境界線として敵を作り、敵を皆殺しにしようとして暴力行為にはしるのは、いま世界中から敵視されながら戦争を続けているテロリスト組織の専売特許では決してない。


人間が本来的に持っている原初的なもの、つまり野蛮性、を文明がいまだに飼い馴らせず、反対に現代世界に棲息する一部の野蛮な人類が文明化を拒否して蛮行や暴虐の前にぬかずいているありさまを目にして、人間の強さ、視点を替えて言うなら頑なな愚かさ、に思いを致すなら、人類というこの壮大なプロジェクトの結末が目に見えてくるような気になるのは、決してわたしだけではないにちがいあるまい。

現代世界にあるたいていの国は、現状を依然として過渡期だと見なし、人類の開化を投げ捨てようとはしない。インドネシアもそのひとつだ。
一国の国民の間で、ディコトミーが生んだ境界線をはさんで紛争が起こり、敵を滅ぼそうとして戦闘行動が行なわれているところは少なくない。インドネシアも例外でなく、アチェやマルクの分離独立問題や、ポソにおける紛争を最大のものとして、過去十数年の間に各地で起こった種族間宗教間の対立抗争などもその実例だ。具体的に言うなら、ダルルイスラムから現代テロリズムに至る系譜、アチェ・マルク・パプアの分離独立闘争、1965年の政変と共産党壊滅、1998年5月暴動、サンバスとサンピッの種族間抗争、ポソやマルクの住民間抗争。マイノリティ宗派に対するマジョリティ宗派からの弾圧と差別の例としては、イスラム教ではシーア派やアフマディア派に対するもの、キリスト教ではプロテスタントバタックリスチャン連合教会に対するものや個人的な神がかりへの信仰に対するものなど、数え上げていけば厖大なリストができあがる。

インドネシアは元々、そういうディコトミー要素の存在を最初から呑み込んで建国された共和国であり、この一文の中で定義付けられている差別というものの存在を前提条件としている。だからこそ、国家指導者民族指導者の差別否定がたいへん明白な国になっているのだ。それは人道問題の域を越えた国家存立の問題だからなのである。

敵対や対立抗争のない平和な社会が人類の理想郷だと言ってまちがいあるまい。競争は学問技術や経済活動の中でだけ行なわれていればよいのであって、敵を作って物理的に敵を滅ぼそうとする野蛮な活動は過去のものとしなければならない。文明化というオリエンテーションに伴われた精神の成熟がそれを可能にする。いつ敵に襲われて自分が殺戮されるか知れない、というストレス下にある人生を生きるなら、人間が健康に長生きできるわけがないではないか。

複合民族国家は最初からそういう火種を持っている国なのだから、単一民族国家のほうがはるかに平和で安全健康な生活が営める社会だ、というものの見方が存在しているが、その見解には人間が学習し、成長し、成熟していくものであるという考えが欠如している。火種があるからこそ、日常生活の中でそれが燃え上がる事態に接し、その災厄を身をもって体験した人間たちがそれを乗り越えようとして文明化に自己を駆る機会は、単一民族国家には起こりえないのである。人間は変化するという動的視点に欠けている者には、そういうメカニズムがよく見えないにちがいない。単一民族単一文化のひとびとは国境の向こう側に敵を作りたがる実態が現実の姿なのであり、原初的な精神性を持ち続けているかれらに文明化の契機が訪れにくいことはかえって不幸だろうとわたしは思う。


インドネシアの国是「ビンネカトゥンガルイカ」は、ディコトミーの境界線を持つ種々雑多な人間が敵を設けることなく、相互尊重と共存をもって国家を盛り立てていくのだという意志を表明している。単にそれを「種々雑多な人間で構成されている国家だ」という表明だと見るのは、あまりにもナイーブではあるまいか。種々雑多な人間は自他の差異を認識し、エトランジェを敵視するのでなく、共存するために差異を許容し、そのエトランジェを受け入れなければならない。共存することで社会に平和が生まれ、親愛に満ちた社会生活がもたらされる。その寛容の精神が日常の国民生活に美しい秩序を実現させるのである。国民人口のほとんどを占めているイスラム教をインドネシアが国是としない理由がそこから見えてこないだろうか?
ディコトミーによる敵対意識が国民を二分して紛争に発展したルワンダ、ユーゴスラビア、パキスタン、インドなどの国々は、国民行政が失敗している実例だと言えるだろう。ディコトミーの境界線をなくすことは数百年単位のプロジェクトにしなければ無理だろうし、そこにエネルギーを注ぐことよりも、住民が境界線をはさんで引き起こす敵対感情をなくしていくことのほうがはるかに現実的であり効果的だ。インドネシア信仰間ネットワークは、異宗教間での共存という建国の意志を推進することを使命に掲げた民間団体であり、その実践に効果をあげた地方自治体首長を褒賞することを行なっている。宗教ディコトミーが生む敵対感情をポジティブなものに向けさせる努力が評価されて2014年に褒賞を受けたのは、ヨグヤカルタ特別州知事、南カリマンタン州知事、ウォノソボ県令の三人だった。


差別はリベルテ・エガリテ・フラテルニテを柱にする基本的人権に対する違反行為だ。国家が国民を保護するということがらの中に、そのイデオロギーや人種や宗教あるいは社会階層を問わず国民ひとりひとりが差別を誰からも受けないことを保障することも含まれている。複合民族マルチ文化の国は差別が引き起こされやすい。特に人間の文明化レベルあるいは精神の成熟レベルが未発達であるところは警戒を要する。敵対意識を弱めるためには、ディコトミーの境界線をはさんで対立している両陣営の間で対話を活発化させるのがもっとも効果的だ。見解の相違、主義主張の対立。それらを一方的な放言に捨て置くことが起こらないよう、共存のための歩み寄りという方向付けがなされなければならない。対話とは勝敗を決めるための論争ではないのだ。意見や見解の相違が存在し、その存在を許容して自分の中に受け入れ、異なる者を尊重して対等な位置関係に置き、共存の足場を設けた上に必要に応じて協力協働するという形が社会の中に作られたなら、寛容と和解をベースに敷く平和な社会がインドネシアにできあがる。差別のない社会はこうして形成されるのであり、それは言うまでもなく社会が成熟する課程の中にあることを示すものだ。

自分の文化コミュニティの仲間でないヨソモノを受け入れて協働できる人間のありかたは、その者の精神が成熟していることを示しているのであって、厳格さの足りない軟弱な精神だという見方は敵を作って闘争することを生き甲斐にしている人間にありがちな独断と偏見ではあるまいか。


コンパス紙R&Dが2014年10月15〜17日に全国12都市で17歳以上の住民710人から集めた統計がある。国民統治のための操作手段のひとつとして差別を利用していたレジームがあり、それを脱した国民が紆余曲折を経ながらも建国者の遺志を継いだ国家社会に民族を導いてきている姿を浮き彫りにする回答がきっと次のものであるにちがいない。

質問。あなたの生活環境内に差別はありますか?
回答: ない 85.2%、ある 12.3%、不明無回答 2.5%
政府と国民が一丸となって暴力とそれを生み出す差別を拒否している姿をわれわれはそこに見ることができると思う。人間がありのままの人間であろうとするなら、差別の起こる可能性は高い。だからこそ教化(つまり文明化)の鋳型に人間の精神を放り込んで固めなければならないのであり、宗教はそれ自身が持っている限界によってそれを成し遂げることができない。宗教を超越した世俗の良心と良識のみがそれを可能にすることに気付いている民族であればこそ、それが可能となるのであるとわたしは考える。

質問。生活環境内にある差別の源泉は何ですか?
回答: 宗教 29.7%、経済階層 16.8%、人種種族 13.0%、政治 7.0%、教育 4.9%、出身地(出身文化) 1.1%、不明無回答27.5%

質問。差別のないインドネシアという理想に到達できると確信しますか?
回答: はい 62.3%、いいえ 28.7%、不明無回答 9.0%
ペシミストのわたしは、さしずめその3.5人のひとりなのかもしれない。