「ジャカルタ国際空港史」


< カリジャティ >
インドネシアで最初に作られた飛行場は、ジャカルタから百キロ近く離れた西ジャワ州スバン県カリジャティ郡にあった。オランダ王国蘭印軍(KNIL)が1914年に現地空軍の編成に取り掛かったとき、空軍基地として最初に設けられたのがバンドンとバタヴィアの双方から手ごろな位置にあるスバン(Subang)のカリジャティ(Kalijati)飛行場で、この飛行場は1914年5月30日にオープンしている。
当初は平坦な草地で離着陸が行なわれ、格納庫も竹で作られたお粗末なものだった。その後、滑走路や格納庫はもっと恒久的で頑丈なものに変えられ、事務所や管制塔などが設けられて空軍の要としての施設にふさわしいものになっていく。

1917年には、それまで練習機程度の航空機しか持っていなかったところに、本国から本格的な軍用機が送り込まれて、蘭印空軍としての体裁が整えられていった。そうしていやがうえにも戦雲色濃さを増してきた1938年には、ヨグヤカルタ(Yogyakarta)のマグウォ(Maguwo)飛行場やマグタン(Magetan)のマオスパティ(Maospati)飛行場をはじめ、各地の戦略的要衝に飛行場を設けて空軍機を配する臨戦態勢が進められていった。
1942年3月1日に日本軍のジャワ島進攻戦が開始されると、カリジャティ飛行場は主要奪取目標のひとつとされ、インドラマユ(Indramayu)の西エレタン(Eretan)にあるパトロル(Patrol)海岸に上陸した第38師団歩兵第230連隊基幹の東海林支隊が寡勢よく衆敵を蹴散らして占領し、そこを確保した。蘭印総督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタショウェル出席の元に3月8日に行われた降伏交渉はカリジャティ空軍基地内の軍人宿舎のひとつで行なわれている。今、この由緒あるカリジャティ飛行場はスルヤダルマ(Suryadarma)飛行場と命名されてインドネシア空軍基地のひとつになっている。


< チリリタン >
では、ジャカルタ最初の飛行場はいつ、どこに作られたのだろうか?今の東ジャカルタ市クラマッジャティ(Kramat Jati)郡チリリタン(Cililitan=昔のスペルはTjililitan)町に作られた民間用の飛行場がどうやらジャカルタ初の飛行場だったようだ。
チリリタンという語はスンダ語で、チは水を意味するチャイのバリエーションであり、地名に付く場合は川や湖沼など水のある場所を指すことが多い。リリッは自ら巻きつく状態を意味しており、旋回する川がその地域にあったことを想像させてくれる。どうやらその川はチピナン(Cipinang)川の支流か脈流だったようだが、今は涸れてあとかたもない。

昔のチリリタン地区は、西はチリウン川、東はチピナン川に接する広大なエリアで、南はカンプンマカッサルとチョンデッ(Condet)に境を接し、北はチャワン地区につながっていた。今のデウィサルティカ(Dewi Sartika)通りからカリバタ(Kalibata)通り交差点までのエリアはチリリタンクチールと呼ばれ、ラヤボゴール通りの東側はチリリタンブサールと呼ばれた。
17世紀半ばこの地区はピーテル・ファン・デル・フェルドの所有になるタンジュンオースト(Tanjung Oost)私有地の一部になっていたが、何人もの持ち主の手を転々とした挙句、バタヴィア華人居住者の総帥であるカピテンチナのニー・フーコンがそのオーナーになっていた1740年、グロドッ地区で発生した10月18日の華人大殺戮事件のためにニー・フーコンは叛乱首謀者としてマルクに追放され、この土地は当時バタヴィアの大富豪のひとりだったヘンドリック・ラウレンス・ファン・デル・キュップの手に落ちた。1775年ごろ、キュップは当時メステルコルネリスと呼ばれていた今のジャティヌガラにほど近いこのエリアに別荘を建て、毎週末家族を連れて保養に来るという使い方をしていたようだ。そのころ、バタヴィアの中心はパサルイカンから今のコタ鉄道駅に至る城壁に囲まれたエリアであり、2〜4頭だての馬車ではるかに遠く草深いチリリタンまで、かれらはやってきていたのである。

そこがいつから航空機の発着に使われだしたのかは、明確な記録がない。チリリタンの広大な地所をならして航空機の用に供せられるようになったのが1920年代はじめごろと思われるのは、1924年11月24日にオランダのスキポール空港を飛び立ったフォッカーF7機が55日という日数をかけてチリリタン飛行場に降り立った歴史的事実からの推測なのだが、このKLM(オランダ王国航空会社)が行なった史上初のアムステルダム〜バタヴィア間フライトは三人の乗員が乗り組んで5キロの郵便物を運ぶ試験飛行だった。55日という膨大な時間がかかったのはセルビアで一度墜落事故を起こしたためで、アムステルダムから部品を取り寄せるのに要した期間がそこに含まれている。ビルマからバンコックへのフライトは鉄道線路が誘導してくれたとパイロットは後に物語っている。その初飛行に成功したフォッカーF7機は19の都市を経由した。

KLMはその後1927年10月1日にもう一度フォッカーF7機でスキポールからの試験飛行を行い、今度は10日間でバタヴィアに到着することができた。記録によれば、そのときの路程は次のようになっている。
10月1日 Amsterdam, Netherland
10月2日 Sofia, Bulgaria
10月3日 Aleppo, Syria
10月4日 Bushire, Iran
10月5日 Karachi, Pakistan
10月7日 Allahabad, India
10月8日 Calcutta, India
10月9日 Bangkok, Thailand
10月10日 Singapore-Munthok-Palembang-Batavia
ちなみに帰路も示すと;
10月17日 Batavia-Palembang-Muntok
10月18日 Singapore
10月21日 Bangkok
10月22日 Calcutta
10月23日 Allahabad
10月24日 Karachi
10月25日 Bandar Abbas, Iran
10月26日 Baghdad, Iraq
10月27日 Aleppo
10月28日 Beograd, Yugoslavia-Amsterdam

1929年9月12日にもう一回ダメ押しのトライアルを行ってから、KLMはアムステルダムのスキポール空港とバタヴィアのチリリタン空港を結ぶ定期運航を1930年9月25日に開始した。フォッカーF7機は8人乗りだ。1933年12月には15人乗りの最新鋭フォッカーF18型機でその航路の所要時間を4日4時間33分に縮めることができた。KLMはバタヴィアから更にオーストラリアのシドニーまで足を伸ばし、このサービスは当時世界最長の商業フライトとして、その名声をほしいままにした。
つまりチリリタン飛行場が当時バタヴィアだったジャカルタ最初の国際空港になったという事実が上のストーリーからわかるわけだが、実はそれよりもっと前からチリリタン飛行場は近隣諸国との間の国際空港にのし上がっていたのである。
オランダ領東インドの民間商業航空を取扱う蘭印航空会社(NILM)がアムステルダムに設立されたのは1928年7月16日で、蘭印領内の国内線とオーストラリアを含む東南アジア近隣諸国との間の国際線の運航準備が推進されつつあった時期、蘭印で事業を行なっていたヨーロッパ資本の大企業32社が商業航空事業を現地のメリットに合わせたものにしたいとの考えから5百万フルデンの寄金を集めて蘭印政庁を動かし、NILMの株主となって現地に本部を置かせることに成功した。ちなみに、KLMもNILMの株主だ。1928年10月15日、保険会社Nillmijと紛らわしいということで社名がKNILM(オランダ王国蘭印航空会社)に変更されている。
KNILMが商業航空事業を公式に開始する以前は、空軍の軍用機による商業フライトが行なわれていた。しかし性質上、需要に応じてという形態のため定期フライトになることはなかった。たとえば1927年9月にバタヴィア〜スラバヤを往復したオランダ王国蒸気船会社視察官の手記には、往復の旅費が230フルデンだったと記されている。

KNIL空軍が最初に調達したのはアメリカ製のグレンマーティン水上機2機で、1915年11月6日にタンジュンプリウッ港に陸揚げされた。その後航空機隊を充実させた空軍はバタヴィアとカリジャティ間、さらにはバンドンへと試験飛行を行い、1921年には有史始まって以来初の空路からのバリ島訪問、1924年にはデハビランドDH9型機でのバタヴィア〜スラバヤ往復飛行にも成功し、1926年11月にはタンジュンカランにDH9が着陸している。バンドンからティモールのアタンブアへの航路は1927年11月にDH9型機が踏破し、1929年10月はティモールのクパンにはじめて飛行機が降り立った。

KNILMは商業航空事業のためにフォッカーF7型を4機調達し、その4機は1928年9月13日にアムステルダムのスキポール空港を飛び立ってバタヴィアのチリリタン飛行場に向かった。各機にはパイロットとコパイロットのふたりが乗務し、機体にはオランダの機体記号HN−AFA、HN−AFB、HN−AFCなどが記載されていたが、バタヴィア到着後、蘭領東インドの航空会社がはじめて持った航空機の機体記号は再登録が行なわれて変更された。蘭印政庁にとってもはじめての機体記号登録では、国記号にPK−が使われ、PKはインドネシア独立後も引き継がれて現在に至っている。
アムステルダム⇒ニューレンベルグ⇒ブダペスト⇒ソフィア⇒イスタンブール⇒アレッポ⇒バグダード⇒ブシール⇒バンダルアバス⇒カラチ⇒ナジラバード⇒アラハバード⇒カルカッタ⇒ラングーン⇒バンコック⇒センゴラ⇒メダン⇒パレンバン⇒バタヴィアという、実に気の遠くなりそうな路程を経て、4機のうちの2機は颯爽とチリリタン飛行場に到着したが、別の1機はカヴォンポールの滑走路で機体がおかしくなり、修理後なんとか飛び立ってカルカッタまで来たものの続行が困難になったらしく、カルカッタから船でバタヴィアに運ばれてタンジュンプリウッ海港に到着した。もう1機の消息については記録が残されていない。

ともあれ、チリリタン飛行場を基地にしたKNILMの商業フライトは1928年11月1日から公式運航を開始した。オープニング式典はアンドリス・コルネリス・ディルク・デ・フラーフ総督の宣辞で開始され、式典が終わるとそのまま2機のフォッカーF7はバタヴィア〜バンドンとバタヴィア〜スラバヤの初飛行に飛び立って行った。バタヴィア〜バンドンの往復フライトは週一便、バタヴィア〜スラバヤはスマランをトランジットするスケジュールで、この便の運航はデイリーだった。更にフォッカーF12やDC−3ダコタなどの大型機を入手したKNILMは航路を拡大してバタヴィア〜パレンバン〜プカンバル〜メダンの往復便を開始し、シンガポールへの週一便を飛ばすなど積極的な航路網の開拓を行なった。
それ以来KNILMは国内線ならびに東南アジア周辺諸国との間の路線開拓に励み、オーストラリアのシドニーへもダーウィン〜クロンカリー〜チャールヴィル経由で航路を開いている。


日本軍の進攻が始まるとKNILMは所属の航空機をすべてオーストラリアに避難させ、戦争終結後またバタヴィアに戻ってきて商業飛行を再開したものの、1947年8月1日に会社を清算して事業活動を停止した。
インドネシアの独立を認めないオランダは、戦争前の状態に戻そうとしてインドネシアの民衆と対立した。インドネシアの独立戦争は独立を勝ち取るための闘いではなく、既に宣言した独立を維持するための戦争だったのである。蘭領東インドに戻ってきたオランダはバタビアをはじめ主要都市を手中に収めたが、それらの都市を取り巻く地方部が独立インドネシアの領土だった。チリリタン飛行場はオランダ側の支配に落ちた。
1949年12月のハーグ円卓会議でオランダが国際世論に後押しされたインドネシアの独立を認めてからおよそ半年後の1950年6月20日、チリリタン飛行場が正式に蘭印政庁からインドネシア政府に移譲された。そしてこの飛行場が新生インドネシア空軍の中心基地の座に据えられ、1952年8月17日にハリム・プルダナクスマ空軍基地と名前を変え、そして1965年9月30日に始まったスカルノ大統領失脚劇の中でひとつの舞台を提供することになったのである。


< ハリム・プルダナクスマ >
ハリム・プルダナクスマは1922年11月にマドゥラ島サンパンで、スムヌップの上級官僚だった父親の三男として生まれた。マグランの現地人官吏養成学校に在学中の1940年にオランダ本国がドイツに占領されると、蘭印政庁は現地人に対する徴兵を開始する。ハリム青年も海軍に志願し、訓練に明け暮れしていた1942年はじめ、蘭印海軍士官学校が丸ごとアメリカに移転した。日本軍に対する蘭印軍の無条件降伏はその直後だ。
アメリカでハリム青年は王立カナダ空軍に移る機会を得て、空軍機のナビゲーターとなる。最初はヨーロッパ戦線に配属され、イギリス本土の基地からランカスター機やリベレーター機に搭乗してフランスやドイツへの航空攻撃に従事するという軍務の経験を積み、その後アジア戦線に移されてコロンボの基地から日本軍に対する航空作戦に参加した。第二次大戦を通してかれは44回の出撃を数えている。

第二次大戦が終結すると、かれは独立を宣言した祖国インドネシアに戻った。戦歴を積んで戻ってきたハリム青年をインドネシア独立軍が放っておくはずもない。かれ自身も、独立を守るためにKNILと闘うことに熱意を傾けたのは言うまでもないだろう。
オランダとの独立交渉は決着がつかないまま力の対決が進められ、国際世論による調停で鎮静するが、しばらくするとまた軍事行動が再開されるということが繰り返された。ハリム青年は少将としてインドネシア空軍の重鎮の座に就き、空軍要員の養成に当たるかたわら、対オランダ軍事行動の作戦計画を組みまた指揮をとった。

1947年7月21日の第一次オランダ軍事攻勢は、オランダ空軍機がジャワ島に散らばる飛行場に爆弾と機銃の攻撃を加えてその火蓋が切られた。すべての飛行場で航空機や飛行施設が使い物にならなくなった中、厚い霧に覆われたヨグヤカルタのマグウォ飛行場だけが戦禍を免れることができた。インドネシア独立軍が壊滅していないことを世界にアピールしなければならない。ハリム少将に報復攻撃作戦立案が命じられる。
1947年7月29日、未明の午前5時にまず40キロ爆弾数個に機銃弾を積んだ三菱99軍偵が一機マグウォ飛行場を飛び立った。目指すはスマラン飛行場。続いて50キロ爆弾二個を抱えた中連が二機、それぞれアンバラワとサラティガに向かって飛び立って行った。この攻撃は計画通りの成果を収めた。他にもかれが関わった航空作戦はいろいろある。そして最終的にスマトラの空軍力育成を命じられたハリム青年は、スマトラにおける独立インドネシアの中心地ブキッティンギ(Bukittinggi)に赴任する。
スマトラのインドネシア空軍はオーストラリア人からイギリス製アヴロアンソン機を一機購入した。寄金として集めた黄金12キロがその代金だった。アヴロアンソン機を駆って、かれはイスワヒユディ中将とともにバンコックに赴く。武器弾薬その他軍需物資をスマトラに持ち帰るためだ。1947年12月14日、バンコックからシンガポールに向けて飛行中だったアヴロアンソン機は激しい悪天候に遭遇して連絡が途絶えた。
マレー半島ぺラッのタンジュンハントゥ海岸に悪天候の中で飛行機が墜落したとの知らせがイギリス人警察署長のもとに届いた。事故処理が行なわれ、海中に落ちた飛行機を陸地に引き上げて警察の調書が作られた。機内には死体がひとつだけあり、それはハリム・プルダナクスマ少将であることが判明したが、イスワヒユディ中将の死体はどこにも見つからなかった。
ハリム・プルダナクスマの名はチリリタン空軍基地に、イスワヒユディの名はマディウンに近いマグタンのマオスパティ空軍基地に付けられて今もその功績が後世に伝えられている。


< クマヨラン >
1940年7月8日、バタヴィア市中心部のウエルトフレーデンに近いクマヨラン地区で国際空港がオープンした。6年間という歳月をかけての建設工事で完成したクマヨラン国際空港の管理運営はKNILMに委ねられ、オープニング式典の二日前にチリリタン飛行場に置かれていたKNILM所有のDC−3が空港施設トライアルに飛来して滑走路やエプロンの具合をためした。このDC−3は式典の翌日、オーストラリアに向けて飛び立って行った。
式典当日には先着のDC−3を含めてKNILM所有の飛行機がチリリタンから移動して空港内を埋め、あたかもエアショーの趣を呈した。並べられた機体は、DC−2、DC−3、フォッカーF7三発機、グラマン水陸両用G−21グース、デハビランドDH−89ドラゴンラピッド、ロッキードL−14といった顔ぶれで、それらの航空機が以後クマヨラン空港を本拠地とするようになった。

1940年8月31日はオランダ国王の誕生日で、それを記念する蘭印初のエアショーがクマヨラン空港で催された。この催しにはバタヴィアアエロクラブが参加して軽飛行機の飛行デモが行なわれ、大いに花を添えた。種々の外国産軽飛行機に加えてバンドンで作られている地元産航空機も登場し、来場した観衆の興味を引いていた。
蘭印で作られた航空機の中には、長駆アムステルダムまで飛行したものもある。ローレンス・ワルラーフェンがバンドンで設計・製作した四人乗りのW−2は1935年9月27日にスキポール空港に到着して熱烈な歓迎を受けた。ワルラーフェンは著名な華人実業家コウ・ケーヒンの経済的支援を得てW−2を完成させたと言われている。
クマヨラン空港がオープンしてから2ヵ月後にKNILMは更にDC−5やシコルスキーS−43ベビークリッパーなどの最新鋭機を追加している。


日本軍の蘭印侵攻が開始されると、クマヨラン空港は民間商業航空の使用を続けながら蘭印空軍もそこに同居する形を採った。コールホーフェンFK−51、ブルースター・バッファロー、カーチス・ホーク、DC−3、フォッカーCX、ロッキードロードスター、グレンマーティンB−10、ボーイングB−17フライングフォートレスなどの軍用機がクマヨランを基地として戦闘態勢に入ったが、1942年2月9日から日本軍はジャワ島攻略作戦を支援するためにジャワ島内の主要施設に対する航空攻撃を開始し、クマヨラン空港もチリリタン飛行場も空襲を受けて損害を出した。敗色濃くなったオランダ側は軍用機も旅客機もオーストラリアに避難させた。
3月8日の無条件降伏で蘭印側はクマヨラン空港とチリリタン飛行場を日本側に引渡し、日本軍はクマヨラン空港を基地にして零戦、零式輸送機、隼、立川キ9中連、立川キ36中級などを配備した。

日本が降伏してクマヨラン空港を連合軍に引き渡すと、スーパーマリンスピットファイアー、B−25ミッチェル、P−51ムスタング、P−40ワホーク、DC−4/C−54スカイマスター、DC−6、C−46コマンド、リベレーター、DH−98モスキート、ハンドレページ ヘイスティングス、ボーイング377ストラトクルーザー、ロッキードコンステレーションその他もろもろの新鋭軍用機がクマヨラン空港の使用を開始した。日本軍が来る前にいた軍用機と戦後クマヨラン空港を使いはじめた軍用機の性能は大きく様変わりしたようだ。
そんな時期にガルーダ国営航空会社の前身となるIndonesian Airwaysが産声をあげた。独立を宣言したばかりのインドネシア民族指導部には航空機を持つ経済的な余裕などまだなかった。しかし広大なインドネシアの領土をあちこち訪問して異なる種族をひとつにまとめあげるためには航空機なしでは済まない。新生インドネシア共和国の民族指導者スカルノとハッタの正副大統領コンビはふさわしい航空機を持つための運動を開始した。

1948年6月16日、アチェを訪れていたスカルノ大統領はホテルクタラジャに集まったアチェの民衆を前にして愛国心を奮い立たせる演説を行い、黄金20キロを拠出してもらうことができた。その黄金で購入されたのが、インドネシア民族がはじめて持った航空機ダコタDC−3で、RI−001スラワ(Seulawah)と命名され、主翼にはRI−001という文字がくっきりと表示された。スラワというのはアチェにある山の名で、黄金の山という意味だそうだ。この飛行機は機体の長さが19.66メートル、主翼全長28.96メートルの大型双発機で、時速346キロで飛行できた。
この飛行機で政府要人はジャワ〜スマトラ間を往復し、更には近隣諸国への外交も行なっている。1948年11月にはハッタ副大統領がスマトラを周遊した。ヨグヤカルタのマグウォ飛行場を飛び立ったスラワ機はジャンビに飛び、ジャンビからパヤクンブ、そしてクタラジャを訪れ、そこからパヤクンブ〜マグウォというルートでヨグヤに戻っている。クタラジャではアチェの著名人たちを招いてジョイフライトを行った。12月にはパヤクンブからクタラジャに海軍士官候補生たちを運び、またヨグヤに近いムラピ火山の航空写真を撮るのにも使われている。

1948年12月にスラワ機はヨグヤからクタラジャ経由でカルカッタに向かった。機体の定期整備のためだ。ところがオランダ植民地政庁は12月19日に第二次軍事攻勢を開始してヨグヤカルタのマグウォ飛行場を占領した上、当時インドネシア共和国の首都だったヨグヤカルタを占領したため、スラワ機は整備が終わっても帰国することができなくなってしまった。スラワ機の飛行に携わっていたひとびとも異国で生きていかなければならない。幸いにして航空機が手元にあるということで、1949年1月26日にかれらはビルマでIndonesian Airwaysという会社を設立し、チャーターフライトビジネスを行なった。
1949年12月のハーグ円卓会議でオランダがインドネシアの独立を正式に認めたとき、オランダ側はKLMのInterinsular Divisionをインドネシアに譲渡することを承諾した。

このKLM Interinsular Divisionというのは1947年8月1日にKNILMが会社を清算して事業活動を停止したあとを引き継いで蘭印における空運ビジネスを行なっていたKLMの一部門で、その事業体と商権をそっくり引き継いだスカルノ大統領はその事業体にGaruda Indonesia Airwaysという名前をつけた。

1949年12月25日、KLM Interinsular Division責任者がヨグヤカルタのスカルノ大統領を訪れ、インドネシアに譲渡される航空機の機体に新しい会社名を記載したいので、新会社名を教えて欲しい、と要請した。そのとき大統領はオランダ時代の著名なプリブミ詩人ラデン・マス・ノトスロトの書いたオランダ語の詩を口ずさんだそうだ。
Ik ben Garuda (われはガルーダ)
Vishnoe's Vogel (ヴィシュヌの鳥)
die zijn vleugels uitslaat hoog boven uw eilanden (おまえの島々を高く超えて翼を広げる)
1949年12月28日、ヨグヤカルタからジャカルタへ戻るスカルノ大統領をクマヨラン空港に運んだのは、Garuda Indonesian Airwaysと書き換えられたKLM Interinsulair Bedrijf所有のDC−3型機で、PK−DPDと機体記号登録がなされたものだった。
ところがそのような名称の会社はまだ存在しておらず、NV Garuda Indonesia Airways社が設立されたのは1950年3月31日のことだった。
ガルーダ航空はクマヨラン空港をホームベースにし、航空機編隊の充実に取り掛かった。コンベアメトロポリタン、デ・ハビランドDH−114ヘロン、DC−6B、ロッキードスーパーコンステレーション、ボーイング377ストラトクルーザー、コンベア240・340・440などが初期の空運事業に使われた。1950年代になると、サーブ91サファイア、グラマンアルバトロス、DHC−3オッター、エアロコマンダー、イリューシンIl−14、セスナ、そしてヌサンタラ航空機工業(IPTN)の前身であるヌルタニオ製のNU−200Sikumbang、Belalang、Kunangなどがガルーダ空運編隊に加わった。

1960年代になるとガルーダ航空の陣容はますます広がりを見せ、ロッキードL188エレクトラ、コンベア990Aコロナド、DC−9、フォッカーF28フェローシップなどが加わる。そして1970年代にはB−747、L−1011、DC−10、エアバスなどジャンボ機の時代になり、ガルーダは1982年1月22日からジャカルタ〜メダンのフライトにエアバスA−300をはじめて運航させた。DC−10はKLMからレンタルした機体が1973年10月29日のハジフライトではじめて使われている。クマヨラン空港を使ったジャンボ機はその二機種だけだった。
1950年代から60年代にかけて、インドネシア空軍もクマヨラン空港を使った。当時空軍が持った軍用機種はMiG−17、−19、−21、−30、ーIS UTI、Il−28、TU−16などで、インドネシア外交の影響が顕著に見て取れる。インドネシア空軍はクマヨラン空港が持っていた2,475メートルの南北方向滑走路を使った。クマヨラン空港のもうひとつの滑走路、1,850メートルの東西方向滑走路は民間商業機が使った。
その後空軍はハリムプルダナクスマ空軍基地に集中し、クマヨラン空港は増加した民間商業フライトをさばくことに専心する。ところが1970年代に入るともうその能力の限界が見え始め、1974年1月10日にはハリム空軍基地が民間商業機に開放されて第二国際空港の役をおおせつかることになった。それ以来、国際線の多くはハリムを、国内線の多くはクマヨランを使うようになる。そのころにはもう、航空行政当局は新たな大規模国際空港建設の計画に取り掛かっていた。
首都の中心部に空港を設け、454Haの面積をそのために使うというような都市計画はもはや時代の流れから取り残されてしまった。ハリム国際空港が廃止されるのは時間の問題だったと言えるだろう。おまけに航空機トラフィックはますます密度を増して、1980年代に入ると年間離着陸は10万フライトを超え、4百万人の乗客が利用するまでになったのだから。


< スカルノハッタ >
こうしてタングラン北部のチュンカレンに新しい大型国際空港が建設され、そのスカルノハッタ国際空港は1985年4月1日に営業が開始された。クマヨラン空港は1985年3月31日まで営業し、その日をもって閉鎖された。
1985年6月22〜23日、既に閉鎖されたクマヨラン空港でインドネシアエアショーが開催され、そこでIPTNが製作した航空機が初公開されている。クマヨラン空港の公式廃止は1985年10月1日である。クマヨラン空港跡地はクマヨランニュータウンとしてよみがえることになっていたが、国内の政変や国際経済クライシスのおかげで内容がかなり様変わりしていったようだ。空港エプロンだったダコタ通りに作られたアパートメントが完成したのは1992年で、これがクマヨランニュータウンの初プロジェクトとなった。今では、この地区の目玉になっているジャカルタフェア会場、商業センターのメガグロドックマヨラン、ミトラクマヨラン病院、クマヨランモスク、The View・Mediterania Kemayoran・Puri Kemayoranなどの高層アパートメント群、ガンディスクールやユニバーサルスクールといった国際スクールが作られてニュータウンの面影を深めている。

1940年にオランダ植民地政庁がオープンし、戦争の時代を経て1985年にクローズされたクマヨラン国際空港には、激動の時代の歴史が残された。その45年の生涯には、空襲の被害から航空機事故に至る悲惨な面も貼り付いている。着陸ミスを起こしたビーチクラフト機、胴体着陸を行なったコンベア340、滑走路で機体が折れたDC−9、炎上したDC−3、そしてF−27機の全滅事故など、悲しむべき記録も空港解体とともに記憶の中で風化しつつある。


1970年代に入ると、航空行政当局は次代を担う大型国際空港を建設する場所の検討を開始する。南タングラン・北タングラン・チュルッ・ジョンゴル・ババカン・マラカそして既存のクマヨランとハリムという8ヶ所の候補地が挙げられ、最終的に北タングランに白羽の矢が立った。予備ロケーションに選ばれたのはジョンゴルだ。
一方ハリム空軍基地では、ジャカルタ国際空港をクマヨランから新大型空港に移す間のリリーフとするための改装工事が開始され、クマヨランを使っていた国際線定期フライトが1974年1月10日以降、ハリムを使うようになる。
新国際空港建設ロケーションが決まると、次は空港設計が行なわれる。政府はパリのシャルルドゴール空港を設計したフランス人建築家ポール・アンドリューに白羽の矢を立てた。かれは熱帯の地インドネシアの文化と風土に合わせた地元色豊かな建築物とその間を埋めるトロピカルな庭園という大きな特徴をスカルノハッタ空港に付与することに成功している。建設工事の青写真には、滑走路3本・アスファルト道路・国際線ターミナルに三つのビル・国内線ターミナルに三つのビル・ハジターミナルひとつなどが描かれ、総面積1,740Haという広大な敷地の中に、1975年から1981年までかかって利用者年間収容能力9百万人規模の三階建てターミナルビルがひとつ完成した。こうしてジャカルタから20キロ離れたバンテン州タングランでの新ジャカルタ国際空港建設プロジェクトが開始された。空港建設予定地は湿地帯の中にあり、開拓と整地に大きいエネルギーが注がれたようだ。

新空港建設工事が完了したのは1984年12月1日で、第1ターミナル・エプロン・タクシーウエイ・滑走路などが1985年4月1日の開業を待つばかりとなった。滑走路は2千4百メートルの長さで、2本が並行して走っている。スカルノハッタ空港の開業でクマヨラン空港は閉鎖され、国内線フライトはすべてスカルノハッタに移り、同時にハリム空港からも国際線がスカルノハッタに移ってきた。ハリムでは定期フライトサービスがなくなったが民間チャーターフライトサービスは残された。

第1ターミナルひとつで営業を開始したスカルノハッタ空港は、続いて1985年5月1日に第2ターミナル建設工事を開始し、利用者年間収容能力1千8百万人という規模のターミナルビルが作られ、1992年5月11日に工事が終了した。第1と第2ターミナルはそれぞれが3本のコンコースを持ち、個々のコンコースが第1ターミナルは1A、1B、1C、第2ターミナルは2D、2E、2Fと命名されている。第1ターミナルは国内線専用として使われ、第2ターミナルの2Dと2Eはすべての国際線、そして2Fはガルーダとムルパティの国内線ターミナルとなった。
ローコストキャリヤー向けとして企画された第3ターミナルは第1フェーズ建設工事が2008年に終了した。ここには5つの旅客ターミナルとハジターミナルひとつが設けられる計画で、すべて完成すれば利用者年間収容能力は2千2百万人という大規模なものになる。2009年から稼動を開始した第3ターミナルビル内第1ピアーは現在エアエイシアとマンダラ航空だけが利用している。このターミナルのための滑走路1本は2017年完成予定で、それが完成した暁には、スカルノハッタ空港の3本の滑走路で年間623,420回の航空機離着陸が可能になる。2010年のデータでは、一年間に2本の滑走路で国際線61,197フライト、国内線244,344フライトが取扱われ、更に年々過密度が上昇しているため、管制塔からの離陸許可を待つ飛行機がタクシーウエーに並び、ひどい場合には飛行機が動き出してから離陸するまで30分ほど時間がかかるようなことも起こっている。

スカルノハッタ空港の過密は乗降客の多さに顕著に現れている。2003年の年間利用者は1,970万人だったが、2009年には3千7百万人となり、2010年には4,427万人に達し、2011年は更に5,150万人にアップした。ジャカルタ発の早朝便に乗るために第1ターミナルは未明からたくさんの荷物を持ったひとびとで埋まる。そんなところへやってきた乗客は車から降りてカートに荷物を載せ、航空券を持たない者は入れてもらえないチェックインカウンターホールになんとか入るまではできても、そこからお目当てのカウンターまでほとんど動けない状態に陥ることも稀でない。

空路が庶民の足になるそんな状況に至ったのは、ローコストキャリヤー時代の到来とミドルクラスの成育がその背景にある。第1ターミナルと第2ターミナルそして第3ターミナルのピア一ヶ所が持っている利用者年間収容能力は3千2百万人前後しかない。そこへ5千万人を超える利用者がやってくるのだから、フライト数も乗客数も過密状態になる。更に空港が過密状態になるということは、空港と都内を結ぶメイン道路も過密状態になることを意味している。他にアクセス手段のない空港自動車道が激しい渋滞に陥るのは当然過ぎるほど当然だろう。

ともあれ、政府はスカルノハッタ空港の利用者年間収容能力引上げを計画し、第1ターミナルを1千8百万人、第2ターミナルを1千9百万人、そして2千5百万人にかさあげした第3ターミナルを早急に完成させて、2014年には総能力を6千2百万人とするための対応に取り掛かっている。だが、その先はどうなるのか、という疑問がだれの胸にも湧いてくるにちがいない。
政府はすでにタングラン市に対し、スカルノハッタ空港を更に拡張させるためにタングラン市トゥルッナガとコサンビの10ヶ村およそ1千ヘクタールを空港用地に転用することを打診したが、住民の生計の資が失われるとしてタングラン市は国の要望を拒否した。こうして新大型空港建設計画はジャカルタの東部へと向かうことになった。
こうして登場したのがカラワン新国際空港案だ。能力拡張されたスカルノハッタ空港が急激に増加している利用者数を支えられるのは2015年ごろまでだろうと見られており、それを超えて現在のような過密状態に陥った場合でも、2018年には確実にパンクすると予想されている。つまりスカルノハッタ空港を補完する国際空港は2018年までに建設されなければならないということなのである。


< カラワン? >
政府は西ジャワ州カラワン県に新大型国際空港を設ける企画を整え、そのフィーシビリティスタディは2013年1月はじめに完了した。あとは場所の指定を待つばかりとなっている。候補地としてカラワン県内の5ヶ所が挙がっているが、検討の中では県北部の海岸に近い地区が最有力と見られている。たまたま首都の海運貨物の門戸であるタンジュンプリウッ港も貨物という違いはあるもののスカルノハッタ空港と似たような状況に陥っており、タンジュンプリウッの貨物物流を分担するための大型海港建設プログラムが既に確定している。この海港はジャカルタからおよそ百キロ離れた西ジャワ州カラワン県チラマヤの海岸部が指定されており、新空港をそこへ隣接させれば鉄道や道路などの交通インフラ建設は高い効果が期待できるものになる。おまけにジャカルタからチレボン〜スマラン方面に向かう既存のジャワ島北岸鉄道路とジャワ島北岸街道への接続が容易で、またトランスジャワ自動車道チカンペッ〜チレボン区間の新規建設工事も既に始められており、スカルノハッタ空港よりも空港アクセス路の便宜は高いものになるだろう。ましてやスカルノハッタ空港へのアクセスは首都圏各地域から都内に車が集まってくる形になっており、その軽減をはかってジャカルタ外環状自動車道の建設が行なわれているものの、残るW2区間の土地収用が捗らず本格工事はまだ取り掛かれないありさまだ。結果的に都内環状自動車道から空港自動車道に至る交通の流れが大混雑を起こしており、それをジャカルタの東部に分散することができれば、都内の交通渋滞軽減は効果が上がるのではあるまいか。

カラワン空港は決してスカルノハッタ空港の代替を意図して作られるものではない。首都圏が既に持っているスカルノハッタ空港とハリムプルダナクスマ空港にもうひとつ空港を加え、マルチ空港体制にすることを航空行政当局は志向している。その新空港では国際線と国内線の双方が運航され、最終的に利用者年間収容能力は1億人という構想のもとに設計がなされることになっている。
政府はスカルノハッタ空港の能力を年間6千2百万人とするための拡張工事を2014年に終わらせてから、2015年にカラワン新空港を着工する意向で、2018年までに第1フェーズを完了させて利用者年間収容能力3千万人の空港として稼動を開始させる計画だ。
ただし、基本的な条件としてまだ確定していない要素のひとつに、西ジャワ州政府との合意と契約がある。西ジャワ州はバンドン郊外のフセインサストラヌガラ国際空港をバンドン市から60キロほど離れたマジャレンカ県クルタジャティに移転させることを決め、2016年の開業日程を組んでいる。そこへもってきてもうひとつの巨大新空港建設とその後の管理問題を国が持ち込んでくることに対し、どのような姿勢を採るのかがまだはっきり示されていない。
ともあれ、このカラワン新国際空港が実現したとき、そこは依然としてジャカルタ国際空港と呼ばれるようになるのだろうか?