秘伝!
「ジャワ式性愛技巧」


性愛技巧の書として世界に名の知られたものにインドの「カーマスートラ」がある。カーマとは男性器から放出される精液のことで、性愛エネルギーの根源だ。スートラとはサストラの変化形で、教えを意味している。この書は男女の性愛における機能・目的・倫理・手順や技法について解説したもので、人間の生・性愛・人間愛・人生哲学を教えるための教本であり、タントラがその核心をなしている。
古代、カーマスートラは若い男女にそのような人生における諸価値を教える教本として使われ、理論の学習が終わると導師が男女の生徒を引き連れてカジュラホ寺院を訪れ、もっと具体的な性愛に関する技巧の学習を行なったとアーナンド・クリシュナ氏は述べている。インドには古い昔から、若い男女に結婚制度家庭制度の中で豊かな人生を送るための知識と技術を教える習慣が、たとえすべてでなかったかもしれないが、存在していたことをそれは示しており、特に将来妻となる女性に夫をどのように遇するのがよいのかということを教育する手段として使われていた。インドの少女たちにとって性愛技巧は人生の重要な位置を占める一項目だったにちがいない。

実はジャワにも同じような発想で設けられたチャンディがあると言われている。別名チャンディワドンとも呼ばれているチャンディスク(candi Sukuh)と別名チャンディラナンと呼ばれているチャンディチェト(candi Cetho)がそれだ。ワドンは女を意味し、ラナンは男を意味するジャワ語だ。チャンディに置かれた遺物や壁面の彫刻を仔細に観察すれば、その意図しているところがわかるだろう。カジュラホに比べれば素朴で拙劣かもしれないが、古代のジャワに同じ思想が流れていたと推測できるこの例は、流入してきたインド文明への模倣と盲従だけでなく、伝統的にジャワ人が古来から伝えてきたものとの間に起こった化合現象であったかもしれない。


< アスマラガマ >
ジャワ文化の中にある、カーマスートラに比肩できる性愛技巧の手引きはアスマラガマと呼ばれるものだ。アスマラは異性に対する心的傾斜を指す言葉で、いわゆる異性に対して惹かれる心情つまり恋愛感情を意味している。ガマは性交を意味するスンガマに由来する。
男女間の性愛に関する観念を体系化したアスマラガマは、アスマラナラ、アスマラトゥラ、アスマラトゥリダ、アスマラダナ、アスマラタントラ、アスマラガマという五つの項目で構成されている。

アスマラナラは性交を行なう男女の精神的な関係について次のように教えている。
心の奥底から浮かび上がってくる、互いに相手をいとおしく思う気持ちによって結ばれた男女が行なう性交がもっとも望ましい。
一対の男女が互いに心を震わせるような感情を抱きながら行なう性交によって、ふたりは大きな幸福感に浸ることができる。セックスを単なる性欲の発散にとどめてはならず、互いに相手に憧れ相手をいとおしむふたつの心が合体することで、その快感と幸福感は大きく膨れ上がる。
男と女の目が出会い、互いの心の中に制御できない不思議な感動が震えたとき、恋が芽生えた。恋は美しい不安をかきたて、ふたつの震える心が相手を身近にとらえたときにはじめて落ち着きを取り戻すのである。

アスマラトゥラも異なる精神面の様相について触れている。恋し合ってセックスへと向かう男女は互いに相手の美しさやかっこよさに惹かれて憧れる気持ちを基盤に持たなければならない。恋に落ちれば、世界はバラ色に染まる。ごくありきたりの娘であっても、かの女を恋した男の目には光り輝く満月のオーラに包まれた女神の姿が映り、やせたちびの若者であっても、かれに恋した娘の目には強弓を引くアルジュナの姿となって映し出される。そのような、自分の目にだけ見えている外見の素敵な姿に憧れる気持ちがふたりの間に共有されることが、恋に愛を付加する働きなのである。

アスマラトゥリダは、恋愛感情を共有しながらふたりが行なうセックスの際の振舞いについて触れている。ふたりの間で交わされる親密なささやき合いやふざけ合いがふたりを忘我の境地に溶け込ませていく。艶めかしいささやきや情緒をかきたてる息遣いに、ふたりの心は極楽の森をさまよう。女が慎みを持たせながらもその息遣いを男の荒がせる息遣いに合わせて振舞えば、性交から得られる快楽は倍加する。

アスマラダナは恋愛感情が生み出す芸術作品を語る。恋する相手に捧げる詩や唄は相手を魅了し、恋心はますます高い丘となってそそり立つ。相手の心を魅了して誘惑するその特技はたいてい男のもので、その男を憎からず思っている女はその芸術に痺れて憧れに満ちたわが身と心を差し出すのである。

アスマラタントラはくちづけを採り上げる。恋に包まれた男女の間で、一方が他方のひたい・ほほ・目・唇・あるいはどの身体部位であれくちづけを行なえば、忘れられない刺激が相手に残る。だから愛するふたりは、くちづけの知識と技術を深く修得するべきなのだ。
くちづけする部位とそのやり方によって、それぞれ異なる快楽と感動が相手に生じる。そしてまた、相手の体臭が香水よりもはるかに大きな意味をもたらしてくれる。そのとき、相手に不快感を与える体臭は絶対に避けなければならない。
そのために、恋するふたりは自分の体臭に関心をはらい、相手に不快感を与えないことに努めなければならない。自分の身体のどの部位に相手に好まれない臭いが漂うのか、そしてそれをどのように解決するのか。なぜなら、不快な体臭は燃え上がる性欲と炎のようなくちづけに水をかけてしまうからだ。

そしてクライマックスである最終ステップのアスマラガマにたどり着く。この段階はペニスがヴァギナに挿入される段階だ。ヴァギナへの挿入が行なわれるとき、ペニスは四つの条件を満たしていなければならない、とアスマラガマは教える。大きくなっていること、長くなっていること、硬くなっていること、ぬくもっていること。一方のヴァギナも、挿入されてくるペニスに相応の快楽を提供するために、ぬくもっていること、やわらかいこと、相手の動きに随従してなされるがままに応じていくこと、という条件が求められる。
セックスにおける男性側の要素はウパヤであり、偉大なる真理へ到達するための手段とされ、女性側の要素はプラジュナであって赦しと解放の業と理解される。そして両者の共同行為は女性にとってのダルマであり、そのためにこそ性交は男性にとっての女性に対する義務という位置付けにされている。アスマラガマは固定的なパートナーとの間のセックスを前提としており、結婚制度との間に調和的な関係を保っている。同じ相手とのセックスが繰り返されることによって、真剣さ・規則性・精神の安定・神聖さといったことがらが実現されてくる。性交は聖なる儀式なのであり、生涯あなただけをと誓った相手とだけなされるべき行為なのだとアスマラガマは説いている。


< リンガとヨニ >
地球上のあちこちで文明が興りはじめたころ、人類の祖先たちは自分たちがどこから来てどこへ行くのかということに疑問を抱くようになった。つまり、後世自分たちが人間と呼んで自然のままの存在から脱皮するようになった自己の由来がかれらの知識欲を大いに刺激したということだろう。そして、これまでは本能に従って頭を悩ますことなしに行なっていた生殖行動についての観察や分析が開始されたと思われる。
ヴァギナとペニスという人体器官を使って行なわれてきたその生殖行動から人間が生じるのだという認識は単なる認識にとどまらず、きわめて神秘な印象と、崇拝心を伴う感動をかれらにもたらしたにちがいない。古代巨石文化が残されている場所で頻繁に目にするリンガとヨニの遺物は、古代人類が抱いたそんな性器崇拝とでも呼べそうなかれらの感動のあかしであると解釈することができる。

ジャワの宇宙観によれば、人間はリンガとヨニが合したときに放たれるティルタシンドゥレッノから生まれ、時をかけて胎児となり、グアガルバの中に満たされる、とされている。ジャワ語のシンドゥレッノは宝石のような宝物の液体という意味で、精液を意味しているのは言うまでもあるまい。グアガルバはグアもガルバも洞窟を意味しており、子宮を指しているのが明らかだ。人間存在の根源がそこにあることを指摘しているその教えから、ジャワ人にとっての生殖行動がどういう価値観をかれらにもたらしていたかは想像にあまりあるにちがいない。
ジャワにおけるリンガとヨニの観念はルスン(lusun=臼)とアル(alu=杵)やチョベッ(cobek=すり鉢)とムントゥ(muntu=すりこぎ)などにシンボライズされ、最終的にイスバッチュリガマンジンワランカ(クリスが鞘におさまる)という思想にまで昇華された。ジャワ人にとってのクリスの持つ価値は、ジャワ文化に触れたことのあるひとには明白だろう。
リンガとヨニは人格を持たされてラデン・カマジャヤとデウィ・スリに擬人化され、ラデン・カマジャヤの別名ラデン・サダナとデウィ・スリの別名バタリ・ラティとの組み合わせであるカマジャヤラティあるいはスリサダナという言葉がルスンアルやチョベッムントゥなどと一緒に特定の意味を文化の中に植えつけた。大自然を律している天然の調和は、天が雨を降らせ、大地に緑が繁茂する様を言い表している。


< 文明とセックス観 >
そんなジャワに持ち込まれてきたイスラムをはじめとする一神教の価値観がジャワの伝統的な価値観を抑圧し埋没させたのは間違いないとしても、根源的な人間存在に関する認識がはたしてそれだけで消滅しただろうか?もしも完璧に消滅させることができなかったのであれば、一神教文化でタブーとされる価値観は深層意識下に閉じ込められて下部構造をなし、二律背反する上層意識の隙間から折りあらば噴出しようというエネルギーを貯え続けているのかもしれない。
現代インドネシアはイスラム社会であり、イスラム文化が優勢ではあるものの、同じイスラムだからという理由でインドネシアと中東を一枚岩のように見なす見解は、そのような歴史的理解の織り込まれていない、いささか的外れなものではないかとわたしは思う。つまり、イスラム宗教界がいかにインドネシア女性のミニスカート姿を世の中から追放したいと願っても、世間をそれに従わせることはそう簡単に実現しないだろうということだ。

男女の性交は種としての人類の存続維持を実現させる手段だが、人類がケダモノと異なっている面はそこにも出現する。文明がより優れたものを人類に求めさせたとき、それは必然的に高い合理性を持つ共同体社会の構築へと向かった。自分たちの集落の暮らしを安全で繁栄するものにするための社会規範は欠くべからざるものになる。秩序が合理的に営まれ、集団がよく統率された行動を展開することがその目的に向かう王道となるのは、古今に変らぬ真理だと言えるだろう。
種の存続維持というのは、性交〜妊娠〜出産〜養育というサイクルを繰り返す。子供を産みそれを育てる女と、かれらに糧を与える役目を負う男の関係がそこに生じる。無差別の性交、いわゆるフリーセックスでは、生まれた子供に責任を負うべき男が曖昧なケースは頻繁に出現するだろうし、そうなると生まれた子供の養育責任はその男親でなく共同体社会が担わざるをえなくなる。社会にそのような体制を組ませることは、必ず両親が子供を養育している社会に比べ、社会に余計なエネルギーを消費させる負担を与えて社会効率を劣ったものにしてしまう。効率の劣る集団と効率の優れた集団が争った場合、効率の優れた集団が勝利をおさめるのは歴史が示す鉄則だったではなかったろうか。

一対の男女が次世代の人間を作り、社会構成員として社会の運営に参加できるようになるまで責任を持ってその子供を家庭の中で養育するというありかたが宗教の名のもとに定められたのは、そういう結婚制度・家庭制度のありかたがムラや部族ごとに争っていた時代の中で人間集団のサバイバル手法として発見され確立されていったことの反映だろう。よく統率された社会効率の高い人間集団にならなければ、他の強い集団に征服されてその奴隷にならざるをえなかったのだから。


もうひとつ、男女のセックスに文明がもたらしたものは、セックスの快楽追求とオーガスムがもたらす全人格的な解放の体験だろう。種としての人類の存続維持のための性交にとって、微に入り細をうがったようなセックス技巧手引書は不要だろうが、こちらの目的についてはそれに関する技術の開発が行なわれて当然なものだとだれもが同意するにちがいない。そこに、性交が哲学や思想を身にまとう場が出現するのである。
一対の男女が互いの快楽を最大限に上昇させることに努め、自分がパートナーに最大限の快楽を与えることができたという自覚によってパートナーに対する慈しみと自分の中に生じる大いなる存在価値を認めるという相乗効果は、パートナーの人格や存在を自分と対等な価値あるものとして受け入れるところで頂点を迎える。男が女を単に自分が快楽を得るための生身の人形あるいは種の存続維持のためのツールとしか位置付けない男尊女卑の価値観からは、そのように大きな全人格的解放感はなかなか成り立たず、女を征服し支配して優越感にひたる男尊女卑精神を再生産し高めるだけとなるにちがいない。そういう意味で、男女の性愛技法の思想を持っている文化というのは、ある意味で男女平等・女権尊重という現代思想の種を太古から孕んでいた社会だと言い得るのではあるまいか。

セックスの快楽追求をタブーとし、人類の種の存続維持機能だけを善であると位置付けた一神教文明は、男と女の双方が互いの快楽を求めて与え合う中での対等観を自然のものだと認める考え方を否定するような差別的思想を根底に据えていた。だから西洋人がかれらの宗教を携えてアジアに進出してきたとき、アジアに太古から伝えられてきた性愛の社会観は即座に否定されたわけだ。

プラムディヤ・アナンタ・トゥルがブル島流刑中の体験を記した書物の中にこんな一節がある。
島の原住民は夫婦であっても家の中で性行為を行なわない。たいていは、外から見えないやぶの中を探し、やぶの一部を開いて奥に入り、開いたやぶの入り口には槍や木の枝で十文字を組んでブロックする。相手にする女は妻である場合もあれば、そうでない場合もある。要するにフリーセックスだ。他人の妻と遊び、その妻の夫がそれを知ったら、妻は夫の持ち物だから寝取られた夫は妻を折檻し、盗んだ男に罰金を要求する。盗んだ男が罰金を支払えば、その問題はそれで一件落着し、全関係者の間に怨恨も憎しみも残らない。どうしても罰金を支払わないなら、一戦交えることになる。
ブル島に流刑された政治犯たちも、女への欲望を消したわけではない。原住民の性習慣を知ったかれらは、原住民と同じようにやぶの中に入る。原住民の性交体位は女を四つんばいにして男が後ろから挿入するワンワンスタイルで、女たちはそれが普通だと思っていたが、政治犯は女を仰向けに寝かせ、抱き合って挿入した。女たちの間でそれが大評判になった。「全部が当たって、とても気持ちいい」というのが女たちのコメントだった。そうなると、ジャワ人がマジョリティを占める政治犯たちと原住民女性たちの間で、相互に好感を抱いて交歓するということも起こるようになる。しかしかの女たちは夫にそれを秘密にしようとはしない。そして夫は政治犯に罰金を要求できず、妻を折檻するだけに終わる。

どうやら、高文明の人間が低文明の世界に入り込んでくると起こることが、ブル島でも起こったようだ。ともあれ、そんな話からも男女の人格の落差の違いが見えてくるような気がするのだが、読者のご賛同を得られるだろうか?


< ジャワ的宇宙 >
アスマラガマに戻ろう。固定的な関係にある男女が合体し、肉体面と精神面で単一の存在に化すことが、アスマラガマが目標としていることがらなのである。そのために、ふたりがひとつとなって同じようにオーガスムの法悦境に没入することが重要な条件となる。なぜなら、それが単一の存在というあり方にふたりを強く結びつけるからであり、他では得られようもない究極の快楽を共有することでふたりの人間がひとつの存在へと昇華されるからである。
性交の最中に、ふたりの間に自分と相手がひとつになっているという意識が閃光のようにひらめく。それをジャワ人は「チュリガマンジンワランカ、ワランカマンジンチュリガ」と表現する。つまりクリスが鞘に入っており、同時に鞘がクリスに入っている、というパラドックスだ。男性器が女性器に挿入されているとき、時間の感覚は消え去り、色は生き生きと鮮やかさを増し、嗅覚はケモノのように鋭敏になり、舌はこれまで味わったことのない感触を得、全身の皮膚はあらゆる快楽を感じ取ろうとして敏感に震える。それが比肩しうるべき何物をも持たない性愛プロセスのはじまりなのである。


直立するリンガをシンボルとするアスマラガマは、上で述べた目的を達成するためのプロセスと、そしてその力を身に着けるための訓練を信奉者に教える。アスマラガマをマスターした男性はたいてい一時間以上の持続力を持ち、中には5時間を超える長丁場を苦もなくやりおおせる者がいるそうで、アスマラガマの術を身に着けることで性交時間の長さを自在に操ることができるのである。
アスマラガマに従って到達できる性愛の法悦境の極致にあるものが完全なる幸福だ。人間として生きる中での最高の幸福を得るために、ジャワ哲学にも幸福に関する教えがある。ジャワ人は幸福を七つの種類に分析した。
カグナン(kagunan)とは世間から認められ賞賛される技能のこと。そんな高度な技能を身に着けるためには勤勉な一徹さとでも言うべき強靭な意志が求められる。怠け心や愚痴、慢心がそれを阻む大敵だ。
カスラン(kasuran)とは世間から感心される超能力だ。飲食を統御し、斎戒に努めることで、心身の強靭さと平安が獲得される。だが他者への慈しみを見失えば、傲岸さと加虐指向に陥りやすい。
カブグジャン(kabegjan)とは世間からなつかれて蓄積される好運の富のこと。たくさんの親族や知り合いを大切に扱い、我意を張らずに辛抱強くふるまい、来るものを一切拒まず、注意深く質朴に生きることで、おのずと世間が暮らしを成り立たせてくれる。しかし容易に流れ込んでくる富を浪費という大敵から守ることを忘れてはならない。
カブラヤン(kabrayan)はたくさんの子孫を持ち、かれらから敬慕されることだ。それは家庭内での愛と労わりに端を発する。節度をわきまえた言葉とその実行、そして伝統の知恵に満ちた俚諺警句の教えがその交流を飾る。それを阻むものは腹立ちや怒り、そして嫉妬心だ。
カシンギハン(kasinggihan)は偉大さを意味する。艱難辛苦を乗り越え、献身と奉仕の姿勢を保ち、礼節とともにそれを世間に示すことで世の中の尊敬を勝ち取ることができる。それを妨げるものは強欲酷薄の心だ。
カユスワン(kayuswan)は長寿だ。叡智と感情移入、そして他人を裏切らない忠節心が長い年月の間に世間での信用を育む。その障害になるのは虚言や欺瞞だ。
カウィダグダン(kawidagdan)は安寧平穏を指している。わが身を神聖に努め、世の悪習を避け、常に謙虚で姿勢を低くし、そうして平安な日々を送る。その障りになるのはさまざまな悪行であり、厳しく身を律することでそれを避けることができる。

ジャワ思想で人間が幸福を得る道はそれらの七つだとされており、それぞれの道を究めるのに通過する五つの段階が次のように説明されている。
ナンディンサリラ(nanding sarira):自分が他人より優れていることを確認するために、周囲の人間と自分を比べる
グクルサリラ(ngukur sarira):自分を規準にして他人を測定評価する
トゥパサリラ(tepa sarira):他人の気持ちが推し測れるようになる
マワスディリ(mawas diri):自分というものの真実の姿を、偏見や思い入れなしにありのままに見定める
ムラッサリラ(mulat sarira):汚点や欠点を持つ自分自身の本当の姿と自己の本質が見えてくる

上述のジャワ思想における幸福の観念は、幸福というものが世界のどこかに転がっていて自分に発見されるのを待っているというようなものでなく、自己の内面を奥深く探っていくことで見つけられるものだということを示している。その内面の探求、精神の旅路というのがジャワ人のスピリチュアリズムを形成しているのは言うまでもあるまい。


一方、ジャワの家父長制文化では、ウィスマ・ワニタ・トゥランガ・プサカ・クキラが人生の幸福を象徴している。つまり家・女性・馬・遺産・鳥がそれに当たる。これはつまり、家・女性・馬・遺産・鳥を持っている男が一人前として世間から認められ、一目置かれる存在となることを意味しているのだ。この場合の遺産とは、一族の所有になる田畑を意味しており、つまり先祖代々から伝えられてきた土地がある、という意味に理解される。
世間から認められ尊敬される人間になることが幸福の条件であるという思想は、西祥郎ライブラリーの「ニャイ・ダシマ」にも登場する。ダシマがエドワードと別れてサミウンの元にはしったのは、世間から尊敬されて他人にちやほやされ、尊敬される人間になれば他人が自分の存在を認めてくれ、世話を焼いて自分に仕えてくれるという甘い精神体験をダシマがサミウンの一家から与えられたためだ。インドネシアにある『甘やかし=愛情』という媚薬はインドネシア人の精神形成に実に大きな役割を果たしている気がわたしにはする。ともあれ、家・女性・馬・遺産・鳥を持つこと自体は一人前としての格付け条件に過ぎず、『甘やかし=愛情』観念はそのあとにやってくるものだろう。

さて、その五つの条件のそれぞれについて、優れた対象物を持つために何に気をつければよいのか、選択する余地がある場合には何をポイントにして選択するのがベストなのかといった考察が加えられ、微細にわたるセオリーが手引きとして世の中に流通するのは、古今東西に一様なことではあるまいか。
その中で本論のテーマに関わっている女性に関するものをここで採り上げようと思う。あくまでもアスマラガマはジャワに関するものであり、ジャワの男たちが練り上げたジャワ女性についてのものだから、インドネシア全土に敷衍するにはきっと無理があるだろう。あくまでもジャワ女性に関するものとしてご覧いただきたい。


< ジャワ女性 >
女性は華であり、目に美しく、常にかぐわしい香りをたたえている。そして家庭の中にあっては運営の大黒柱であり、ムラッカティ(merak ati)、グマティ(Gemati)、ルル(luluh)の三要素を備えることで家内の女王様となるのである。

ムラッカティとは身も心も美しく保ち、慎みをわきまえた言動を行い、適切な衣服に身を包み、笑みを絶やさず、しなやかな挙措動作でリズムを作りながら振舞うこと。グマティは夫に仕える妻としての義務を完璧に果たすこと。自分の家庭の経済力を十二分に吟味しながら家庭の維持保全を行なうこと、鋭敏な母性本能に即して子供を養育すること、などがそれに該当する。ルルは従順で忍耐強く、我意を張らずにあらゆる問題を広い心で受け入れることだ。それを言い表すのに、モモン(momong)、モモル(momor)、モモッ(momot)という市井のもっとわかりやすい言葉による表現も流布している。

モモンとは子供を介護し養育することで、現代インドネシア語の中でも赤ちゃんあるいは子供を意味する単語としてmomonganという言葉をよく耳にする。赤ちゃんが周囲の人間の期待するように、安全で健康に成育することを実現させるのがモモンであり、また成人したあとでかれらによりよい生活を実現させるための基盤を設けることまでもがそこに織り込まれている。それは更に、妻が家庭をモモンするという観念へと発展し、子供や孫たちをモモンする中で、家庭内の調和の鍵を握る存在と妻を位置付けるようになっていった。大家族制度という大勢の人間を擁するインドネシアの家庭の中で、全構成員に尊敬され、家庭のすみずみにまでその威厳と威令が行き渡っているという奥様の姿をわれわれが見聞する実例はいまだに数多い。そのような大奥様つまり女王様となるために、女性には経験・知識・教育をベースに、そこから見識と知恵を導き出すための能力が必要とされる。

モモルとは、自分自身を取り巻いている環境に自分を融合させること。たいていの人間にとって、自分を取り巻く環境というのは単一なものでなく、利益・嗜好・態度や振舞いを異にする複数の社会階層と接している。家庭の中ですら、それは起こりうるのであり、ましてや大きな家庭の経営においては、居住環境内で、あるいは夫や自分の職業環境内で、接触を持つさまざまな様相のひとびととの間に、そつのない人間関係を築くことがその目的とされる。

モモッは、降りかかってくるさまざまな負担を受け支え、巧みにそれを自分のキャパシティの中に取り込んで外へ垂れ流さないことを意味している。モモッの優れた妻は、家庭内のどのように深刻な問題であってもそれを他人の耳目に触れさせず、常にニコニコと笑って周囲のひとびととの間に調和的な人間関係を保っていくことができるとされている。だから、家庭内で抱える苦悩を隣近所に愚痴ったり、それほど親密でない友人や知り合いに打明け話をするようなことは、家内の恥を世間にさらすという面から倫理に外れたふるまいとされているわけだ。夫や子供の愚痴を聞いてやり、自分の欲するものごとよりも家族の望みを優先し、家庭内で起こる不和や争いの緩衝役となり、常に夫や子供を優先して前面に立て、自分のことは後回しにする、ということが女王様の必須条件でもあるのである。
とは言いながらも、自分の家庭の誉れを汚してはならないわけで、世間に対しては自分自身を美しく飾って夫や子供の後ろに控えていなければならず、そんな場での他人との交際も、節度があり寛大で、優雅な女性であることを示すことが期待されている。

さらにジャワ文化が女性の性質・姿勢・振舞いなどに関して求めていることがらにはミトゥフ(mituhu)、ミタヤニ(mitayani)、ナスティティ(nastiti)、ガティアティ(ngati-ati)、ティティ(titi)、ティティス(titis)などがあり、夫のコンチョウィンキン(konco winking)となることが世の中で理想の女性像とされている。それらはたいてい、かつて日本社会でも同じように女性に求められていたことがらであり、それらを事細かく説明していけば現代日本女性たちはきっと、ジャワ(あるいはバリでも)に生まれなくてよかった、という思いを強めるにちがいない。

それらは家庭と社会における女性のありかたについての規範だが、もうひとつ夫婦生活における女性の規範も忘れてはならない。ダルマガンドゥルの書には、女性は夫に対してパウォン(pawon)、パトゥロン(paturon)、パンレクサ(pangreksa)を良くし、パドゥドン(padudon)をしてはならないという四つの注意項目が挙げられている。
パウォンというのは台所のことで、夫においしい食事を供して満腹にさせることができなければ、夫は家の外へ食べに出かけて、他のものまで家の外で食べてしまうぞという妻への警告。
パトゥロンはベッドのことで、ベッドで夫を満足させ有頂天にさせなければ、夫はその快楽を家の外で探すぞという警告。
パンレクサは家庭内の統制、つまり生活の諸事万端におけるものごとが整然と運営されており、夫への奉仕が満足できるレベルで行なわれていること。それに欠陥があれば、夫は家を出て行き、どこかに別の家庭を構えてしまうぞ、という警告だ。
そしてパドゥドンは夫婦喧嘩。夫の気持ちが不機嫌であれば、それをなだめて機嫌よくさせるすべを妻は知っていなければならず、ましてや夫に叱責や指図するなどはとんでもないことで、夫を家の中で愉しく機嫌よく過ごさせることを怠ると、夫は家に寄り付かなくなるぞ、という警告。


キ・カラムワディは女性を舟にたとえた。その舟に載せる中身はkar-ri-cisの三つだけ。カルとはザカルつまり男性器のことで、男としての役割を的確に果たしてくれる男性がいれば、女性の心は満たされ、家庭円満が実現する。リはパリのことで、つまり食べ物。男が生活の糧を確保してくれれば、女性の心配は減少する。チスとはピチスのことで、銭貨を意味する。生活の場である家庭を運営するのに糧だけではまだ足りず、銭貨が与えられていることで女性の不安はまたひとつ姿を消す。だから男が女にその三つを与えることができなければ、女は日々が不安と不満に満たされて苦痛となり、円満な家庭は実現しないというのがキ・カラムワディの教えだ。
女性はどうあるべきかということをキ・カラムワディもダルマガンドゥルの書の中で解説しているが、表現が違えど本質は既に述べられているような女性の主体的な意志を押し殺してがんじがらめの義務の網の中に置くようなものである点で違いがないので、繰り返しはひかえておこう。

さて、華であり、目に美しく、常にかぐわしい香りをたたえている女性の美しさとはどのようなものなのだろうか?ジャワ性愛思想の中にその具体的な表現が述べられている。ジャワの男たちにとって、このような女性が美しいということをそれは示しているにちがいない。
‐新月形の眉
‐象牙の弓のような腕
‐トゥリ(turi)の花のようなまつげ
‐ミツバチのような腰のくびれ
‐チュンダニ(cendhani)石のようなひたい
‐バナナの木のような尻
‐輝きのある相貌
‐魚骨のような指
‐ガドゥン(gadung)の若木の枝のような首
‐蛇のように伸びのある首
‐天に向かってそそるまつげ
‐ジャスミンのつぼみのような鼻
‐プダッ(pudak)の花のようなふくらはぎ
‐斧の柄のようなふくらはぎ
‐燃えるマンゴスチンのような唇
‐弦を外した弓のような腕
‐挑むような鋭い目
‐柔和に伏せた目
‐ランサッ(langsat)のような黄白色の肌
‐細身の体形
‐若い象牙やしの実のような乳房
‐ドゥリアンを割ったような頬
‐風に揺れる灯火のような繊細さ
‐黄金の秤のような肩
‐波打つ椰子房のような髪
‐バクン(bakung)花のような髪
‐こぼれるコインのような前髪
‐空翔るビビス(bibis)鳥のような髪
‐肉付きの良い、ひきしまったからだ
‐たゆたう潮騒のような声
‐キュウリの種のような歯
‐ハチの羽のような歯
‐折れた斧の柄のようなあご

そのような形容で表現されている美人美女ではあるが、美しいという条件だけで女性を選ぶと間違いを犯すという忠告もある。つまり、人間的なクオリティ、精神性、性質、などという内面的なものの評価も忘れてはならないということであり、美しさを鼻にかけて男に傲慢にふるまうような美女を選ぶよりは、なよなよして女らしい、男にすがってくるような女性を選ぶほうが後々円満な家庭が得られるというのがその意見だ。まあそれは、個々の男性の技量と嗜好に委ねざるを得ないのだが、それとは別に、性生活面で自分の手に負える女性を選ぶことが他の諸事に関わるものよりもはるかに高い重要性を帯びていることをアスマラガマは教えている。つまり性的な面でのレベルが一致する女性を選ばなければ、アスマラガマの理想境で男女の幸福に到達することに齟齬が生じ、かえってその不一致が円満な家庭を崩壊させることにつながるというリスクをそれは指摘しているのである。


< カトゥランガン >
そこに登場するのがカトゥランガン(katuranggan)の学だ。カトゥランガンのトゥランガというのは馬を意味している。男が一人前のものとして社会から認められるために持つべきものの中に馬があったことはご記憶にあると思う。カトゥランガンというのは元々、良き馬を選択するに当たって、何にポイントを置いて馬を審査するべきなのかということの手引きとして集大成されたものだ。ところが鳥を選ぶために作られたものもカトゥランガンと呼ばれるようになり、そして女に関する選択の手引きまでもがカトゥランガンと呼ばれることになった。だから、女に関する品評の手引きが女を馬扱いして作られたというようなものでは決してないことをお断りしておこう。
カトゥランガンでは、どのような外見をしている女性の性的傾向がどうであるかということが解説されている。この手のものは世界中の民族がまず例外なく持っているから、比較対照してみるときっと面白いものができあがるにちがいない。

ジャワでは、女性の性欲の強さを強・中・弱の三段階に区分し、それぞれのカテゴリーに入る女性のタイプに呼称を付けて分類した。その呼称はシンボリックなもので、たとえに用いられている対象がジャワ人に熟知されているものであるため、その細かいニュアンスを即座に思い浮かべることにかれらは苦労しない。身体つきのどのような女性はどういう傾向の性格を持ち、そしてセックスへの傾倒の度合いがどのようなものなのか、カトゥランガンの内容について詳述してみよう。


女性の身体的特徴の中で、まず最初に目に付くのは、背の高さ、細身か太身か、身体部位のバランスはどうか、といったことがらだ。上背のある女性の中に、このようなひとたちがいる。

背が高く、両脚はすんなりと伸び、背中は少しかがんでいて、額は狭めで、薄い唇は紅い。この種の女性は冗談やふざけることに巧みで、他人との交際が上手であり、周囲に魅力を撒き散らす。声音も挙措振舞いも官能的で、かの女が発散させるものはすべてが魅力的であるために集まりの中での発言や表現は一座を支配することができる。出席者の性別がどうであろうと、会合の中でスターになるのがこの種の女性だ。この種の女性はタシッマドゥ(Tasik Madu)すなわち蜜の海と呼ばれており、それは快楽の海を意味している。セックスには何度も応じることができて、男を飽きさせない。大勢の男たちがセックス能力を高めるという触れ込みの薬を愛用しているのは、この種の女性に満足を与えるのに薬の力を借りるためだ。

やはり背高で、脚が長く、かかとが大きい女性がいる。この種の女性は日常生活で常に他人に勝って自分を上位優位に位置付けようとする姿勢に覆われており、他人と争う姿勢が普段着の姿になっている。大きい問題に直面すると、常に他人を悪者にして泣き怒り嘆き悲しみ、駄々をこねる。他人の行為が気に入らないと、相手を面と向かって誹謗し、罵り、侮蔑の言葉を投げつける。この種の女性はたいへんな浪費家で、家庭経済を巧みに運営することがなく、夫が家庭で幸福を感じることがない。
この種の女性はドゥルガマンサ(Durga Mangsah)と呼ばれており、戦闘態勢にあるドゥルガ女神のことを意味している。額は小さく扁平だが、口は大きく下唇のほうが大きいために上下の唇のバランスが悪い。上下の唇がアンバランスであるのは、他人の悪口を言うのを好み自分を反省することがないという性質を表すものと理解されている。かの女を自分に合う女性と見る人間は周囲にまずいない。歯は隙間が目立ち、それは夫に従おうとせず夫を支配し指図する妻であることを表していると考えられている。そしてかかとが大きいのは、セックスの味わいが薄いことを意味している。それどころか、かの女はセックスの相手に快適さを感じさせることすら軽視する場合がある。

上背があり、脚の長さとよいバランスになっているが、顔立ちは丸くて額が狭く、幅広の口にあまり血色の良くない厚めの唇を持つ女性がいる。髪は濃く柔らかで、肌は黄色く、皮膚は厚めだ。
この種の女性を呼ぶスリトゥムルン(Sri Tumurun)という名称は、この世に降りてきたデウィ・スリを意味している。この種の女性はパートナーの男性に好運をもたらすとされている。家庭経営がきわめて巧みであり、やりくり上手で、自分の欲求をあまり主張せず、自分の信仰する宗教にとても深く帰依する。
ところが何らかの気に入らないことがあって怒りが堪忍袋からあふれると、突然ぷいと実家へ帰ってしまう。夫も実家の両親も、かの女のそんな性癖にうんざりし、当惑するのだが、かの女は自分が保護されている思いを確認したいがためにそうしているだけだ。つまり、かの女はたいへんセンシティブで傷つきやすい心を持っているのである。とはいえ、総体的に見ればスリトゥムルン女性は交際術に長けており、友達付き合いの場ではとても善良な性格を示す。
性欲はたいへん弱く、往々にして不感症であり、そのために家庭内の雰囲気が空虚になりがち。もしもこの種の女性を妻にした場合、夫は家の部屋数を増やして甥や姪を一緒に住まわせるような工夫をし、家庭内を賑やかに保つよう努めることが必要だとジャワでは言われている。

次に、上半身が長めで、腹部がせり出し気味になっており、小さい額に粗い眉毛、そして小さい耳の女性は、微笑むドゥルガ女神を意味するドゥルガメスム(Durga Mesem)と呼ばれる。うつむき加減で歩くから、かの女の姿を見る人には対人萎縮や対人恐怖を想像させる。かかとは大きく、歩く姿は外また。集まってゴシップ論議をするのを好み、自分のことであれ他人のことであれ、借金問題に関わることが多い。
ドゥルガメスム女性の前歯は大きめで、鼻はぺちゃんこ。微笑んだら、苦笑いに見える。微笑みが苦笑いに見えれば、相手の感情は穏やかでなくなるだろう。相手に対する気配りがセンシティブでないのだから、口から出る言葉さえ相手の心をえぐるにちがいない。時に性交の際に不満を示すことがあったとしても、性欲は普通レベルだ。ベッドでは受動的であり、また恋人と一緒にべたべたしているよりも、自分だけでいるほうを好む。

背が高いとは言えないがちょっと前かがみで、中くらいの大きさの乳房、そしてランサッのような黄白色の肌を持ち、目・まつげ・鼻・耳・口が美しいバランスを作って機能していて、唇はたいていぴたりと閉じている。顔立ちは凛々しい印象だが険はなく、見る者の気持ちをなごませてくれるこのような女性はグダセタ(Gedhah Seta)と呼ばれる。
この種の女性は時間をかけて行なうセックスが好みで、ベッドの上でのプロセスを一瞬一瞬の愉悦を追いながら楽しんでいる。気持ちよい清潔さを意図するグダセタという言葉が示すように、あらゆることがらにおけるかの女の注意深さや綿密さはパートナーを幸福の境地に誘ってくれる。カトゥランガンでは、グダセタ女性はセックスが強いカテゴリーに区分されている。

中背だが太めで、頑丈な身体つきをしており、広い額と鋭いが美しい視線を持ち、丸顔に大きめの口、そして赤みの少ない厚い唇が特徴的な女性は満月を意味するウランダダリ(Wulan Dadari)と呼ばれる。黄色い肌は緑がかっており、皮膚は厚めで乾燥している。
ウランダダリ女性は微笑を絶やさず、相手がだれであろうが、満月のように魅惑的な美しい光を相手に浴びせかける。かの女が作り出すロマンチックな笑い声やなごやかさに満ちた雰囲気を愉しもうとして、大勢がかの女の登場を待ち望む。かの女は相手の財産や地位その他の身上によって自分の態度を変えるようなことをしない。だれに対しても善良にふるまうし、たとえ相手が自分を傷つけても容易に赦してしまう。
この種の女性の第一印象は鋭い視線にあるが、その視線に射られた相手を不安にさせるようなものでは決してない。唇の下のほくろは男性にとって特別な魅力を感じさせる。セックス能力は予断を許さないものがあり、予想以上の頻繁さで相手にセックスのおねだりをしてくることがある。おねだり要求はなかなか強烈で、欲求が高まれば時間など省みず、即座に働きかけてくる。男にとっては夢中になれる妻であり、男女共に得がたい友人にもなる。接客の仕事や高位高官に対するホステス役を与えればきわめて有能な働きを見せ、多くの信頼を勝ち取ることができる女性だ。カトゥランガンはウランダダリ女性のセックス度を中レベルとしている。

上半身は短めだが身体つきが頑丈で大柄な女性がいる。顔も額も小さく、口は幅広だが唇の厚さは中庸で、肌は白っぽいため清潔な印象を与える。ただし、多毛タイプの女性で、普通の女性には見られない腕や脚の体毛が目立つ。ジャワ人はこの種の女性を思いがけない好運をもたらしてくれる存在として珍重し、安心の花という意味を持つクスマストゥティ(Kusmastuti)と名付けている。
セックスに関しては特にこれといった特徴がなく、きわめて常識的で普通という性質だが、それはかの女をセックス教育する相手次第だという意見もある。セックスの際にはあまりしゃべらず、必要以上の口をきかない。カトゥランガンはクスマストゥティを、セックスに淡白で性欲の弱い女性に区分している。
最初はあまり相手のことに関心を抱かない冷たい印象をうけるのだが、クスマストゥティ女性のひとがらがはっきり解ってくると、とても美しい心を持った女性であることを知って魅了されてしまう。性欲が並レベルの男性で、スピリチュアルな人生に関心を抱いているひとにとっては、実に理想的なパートナーだと言える。

やはり性欲の弱いタイプに区分されているクンチクンチャナ(Kunci Kencana)と呼ばれる女性がある。身体も太めで大きく、胴が短かめで、そうしてクスマストゥティと同様の多毛タイプであり、全身に体毛が目立つ。頭髪も体毛も豊かで濃い。この種の女性は夫にきわめて従順で、夫の言うがままに応じ、理屈をいちいち言わない。ベッドの上でも、かの女たちは相手の望みやリズムに自分を合わせていく。この種の女性は妻としてすばらしく、また家庭を宰領することにおいても優れており、夫に自分の要求をあれこれ言うようなことをしない。他の人間との間に生じた感情を別の相手には露ほどももらさないわきまえを持っている。

それとは別に、あまり上背がなく、上半身と下半身がアンバランスな印象を与える女性で、丸顔で額は小さく、普段からまるで目を狭めているような表情をし、口は少し幅広で下唇が上唇より顕著に大きいひとはリンタンクライナン(Lintang Kerahinan)という呼称を与えられている。その寝過ごした星を意味している呼称はいつも眠そうな表情をしていることに由来する。
リンタンクライナン女性の耳は外に開き気味な小さい耳で、他人の意見や批判を心開いて受け入れることのできない性質であることを示すものだ。セックスはきわめて受動的であり、簡単に満足してしまう傾向が強い。前戯に時間をかけることを好まず、またパートナーに快楽を与えようという気持ちもあまりない。だから男性はリンタンクライナン女性とのベッドインにあまり意欲が湧かなくなる。この種の女性は子供への愛情をたっぷりと持っており、子供への教育にはとても向いている。

スリヤスムルップ(Surya Sumurup)は別名スルヤムグップ(Surya Mungup)とも呼ばれ、この種の女性でいちばん特徴的なのは、顔の表情がきりりと引き締まっていることだ。しかしその凛々しさは心なごませるものがある。顔色は赤みがあり、瞳は青みがかっている。乳房は大きく、腰下から尻にかけての部位も大きい。自分の周囲に強い影響を及ぼすのがこの種の女性だ。
かの女たちは愛想よくふるまって他人に認めてもらおうというような気遣いをしない。しかし持ち前の立ち居振る舞いには愛らしさが匂い立っている。話し相手との対話では、相手の発言を真摯に受け止めて何時間も会話し続けることを苦にしないが、それはたいてい相手から話しかけられてきて始まるのが普通で、かの女自身がだれかを対話に誘うことはあまりない。ベッドの上で、この種の女性はたいへん強靭だ。弓なりの乳房もセックスの強さを支えている。性的な刺激でかの女を興奮させるのは時間がかかるが、興奮してしまえば男を両腿で締め付けて放そうとしない。

一方、インドネシア語でhitam manisと呼ばれる色黒だがきれいで輝きのある肌を持ち、いつも湿り気があって、腰下は肉付きがよく、脚は下まですんなりしており、小ぶりだが魅力的な体躯をしている女性がいる。丸顔でいつも快活な表情をしているため、その姿には明るさがある。必ずしも常に大きな丸い目というわけではないが眼光は輝きに満ち、唇は中庸の厚みで、血色がよい。首の美しさが特徴的であり、周囲の人間をその美しさに見惚れさせる。

アムルワタルン(Amurwa Tarung)と名付けられているこの種の女性は、いつ何が起こっても即応できる能力を持っており、他に例のない魅力になっている。
アムルワタルンとは常に油断なく環境の変化に対応できる態勢にあるという意味だ。夫がいつ何を言いつけようが、この妻は即座にその実行にとりかかるのである。兵士や警官が妻に持つのに理想的な女性だと言える。いつ非常召集がかかっても、すぐに準備万端整えて夫を送り出すことができるのだから。
顔貌は決して美人ではないものの、フレンドリーで他人に尽くすことを嫌がらない性向を持っているため、見苦しさは少しもない。この種の女性の特徴は礼儀正しいことで、夫に対しても見下すような態度を決してとらない。華やいだ声音をしているが、勤勉だ。家庭生活においてかの女は貞淑で従順な妻となる。カトゥランガンはアムルワタルン女性のセックス度を中レベルとしている。

細い腰とヒップの肉づきのよさがミツバチを連想させ、このタイプの女性が強いセックス志向を持っているという誤解を男たちに与えている女性がある。この種の女性は半眼の目に眉毛が曲線を描いているのが特徴的で、その中で鼻の穴が大きい場合は性質が頑固で柔軟性がなく、説得がむつかしいケースが多い。この種の女性の呼称であるリンタンカウリヤン(Lintang Kawuryan)とは姿を表した星を意味している。
理知的で不屈の心を持つリンタンカウリヤン女性は、直面したものごとに対してすばやく決定を下すことをメインにした対応の迅速さというスマートさをたっぷり持っている。知識欲が旺盛で、読書を好むために、幅広いものの見方ができる女性であり、あらゆるテーマで会話が楽しめる相手だ。問題の把握力が優れているため、能力の劣る男性にしばしば劣等感を抱かせることがある。記憶力も人並外れたものを持っている。
パートナーとしてとても貞淑であり、どんな問題に対しても心がくじけることがなく、夫の性格が弱い場合は家庭運営のハンドルを握ることができる。愚痴などめったにこぼさず、常にきっぱりとした態度を示す。夫に頼らず、自分ひとりで問題に対処することも頻繁だ。
問題になるのは、かえって自分ひとりでものごとを片付けようとする傾向を持つことで、夫の中にはそれを快く思わない者も出てくる。暮らしの中での重要度を正しく判別することができるため、金銭の無駄使いをすることがない。
リンタンカウリヤン女性には概して運のよさがつきまとっており、予想外の好運にめぐまれることがある。家庭内で諸問題を解決する能力が多分にあるため、自立することも容易だ。ジャワでは、仕事で頻繁に家から離れる男性はリンタンカウリヤン女性を妻に娶るよう勧める声が強い。そういう性格の妻を留守宅に置いておけば、後顧の憂いがなくなるからだ。リンタンカウリヤン女性はセックス志向の弱いカテゴリーに区分されている。

やはりあらゆることがらをさっさとやりおおしてしまう、行動的で動きが軽やかな女性がある。自分の身体の維持手入れが行き届いているため、この種の女性で太った体躯をしているひとはほとんどいない。小雨が濡らした花弁、朝露に濡れた開いたばかりの花弁。そんな風に唇をいつも濡らしている女、それがプスパムガル(Puspa Megar)だ。
プスパムガル女性に対して周囲の人間は、かの女が無関心でものごとにくよくよせず、大いに自信家であるという印象を受ける。ところが真実のかの女の素顔は弱くセンシティブで、その弱みを隠そうとして快活で軽やかにふるまっているのである。欠点と言えば、自分の感情を制御する力が弱く、何か言いたくなると相手の発言を終わりまで言わせずに自分が発言をはじめる。そのたぐいの言動が目立つために、かの女はしばしば周囲の人間をむかつかせたり、うんざりさせたりする。
かの女はロマンチストであり、ベッド上では長時間の前戯を好む。性交のリズムは独特のものがあり、慣れない男は時に窮してしまうことがある。長時間の性交にも耐え抜き、ベッドの上でクオリティの高いセックスの魅力をふりまくのがかの女たちなのだ。

一方、体型は細身だが乳房は大きく、肌はわずかに黄味がかった褐色で乾燥している、タラバス(Tarabas)と呼ばれる女性がある。タラバス女性は口が大きく、唇は厚く、青みがかった下唇が前に突き出ている。唇は上下とも血の気が薄い。頭髪は密でなく、赤みがかっている。鼻は大きく、頬は垂れ下がり、額は中庸。
タラバスというのは浪費を意味しており、この種の女性の家庭経営は信頼することができない。金がたっぷりと詰まった財布を前にすると、すぐに心穏やかでなくなる。ショッピングで金を使うのが大好きで、必要もない品物に大枚をはたいてしまう。この種の女性は金銭を管理する立場に就かず、キャリアウーマンになるほうが適している。
いつも不満を、特に物質的な不満を貯えているためにタラバス女性の面影は老化が早い。かの女たちはすぐにカッとする。セックス面は普通レベルだ。猜疑心が強く、なかなかひとを信用しないからひとからも信用されない。夫の財布の中身を気軽に開いて見たりするし、いつも夫にやきもちを焼いている。ライフスタイルに関しては見栄っ張りだ。長所としては、隣近所との交際をとても気にかける点があげられる。自分が好きなものを与えて、それをもらった者が喜ぶのを見るのがたいへんなお気に入りなのである。

選び抜かれた黄金を意味するロンチャンクンチャナ(Loncang Kencana)と呼ばれる女性は、強靭で大きめな脚のおかげで、外見的には男っぽい押し出しを見る人に印象付ける。乳房は小さめだ。肌は褐色で湿り気がある。小さい額に黒っぽい厚めの唇を持ち、柔らかい髪はあまり濃くない。頭頂部の髪はむしろ薄い。
貞淑な女性の代表選手とも言えるロンチャンクンチャナは、ベッドの上ではきわめて常識的な反応しか示さない。パートナーの言葉や欲求をあまりよく理解できないのがその原因のようだ。ロンチャンクンチャナ女性たちは外出するのをあまり好まず、きわめて夫に従順で、裁縫や刺繍あるいは草花の手入れをしたり掃除や片付けを熱心にする。清潔さが守られないと、怒りを表すこともある。心をこめてかの女たちを大切に扱った人に対して、自分が受けたものの何倍ものお返しをしてくれるという誠実さをかの女たちは持っている。

黄金の花にたとえられているレッナクンチャナ(Retna Kencana)は、普段から姿勢がよくて直立しており、脚は小さいがしっかりした立ち姿を示す。乳房は前に突き出ている。額は中サイズで口は小さく、むしろおちょぼ口と言える。髪は濃いが艶やかではなく、肌は黄色い。頭の発汗が盛んなので、髪は湿っていることが多い。昨今の若者たちには人気抜群のタイプだ。
レッナクンチャナ女性は夫にとても貞節で、家の中でも外でもきわめて常識的な指向が強く、おかしなものごとを好まない。さらにベッドの上でも男の希望に密着してふるまう。同じように貞節な夫との組み合わせが生まれれば、互いに与え合い受け合う理想的な夫婦となり、調和に満ちた家庭が営まれる。カトゥランガンでは、レッナクンチャナは強いタイプ、ロンチャンクンチャナは薄弱タイプに区分されている。

外見的に短い首、短い脚部、丸まった腰下が特徴で、歩く姿は進む身体を尻が追いかけて行くというスタイルの女性はダンダンゲラッ(Dhandhang Ngelak)と呼ばれる。目はすぼみがちで、耳は小さく、この種の女性はたいへん強力なセックス志向を抱いている。
ダンダンゲラッ女性たちは自己中心性が強く、他人が困るのを見てよろこび、すぐに心がカッカと熱くなって機嫌が転変し、他人を非難中傷してよろこぶ。家庭を円満に維持しようという気持ちはあまりない。
かの女の性欲は満足することを知らず、満ち足りなさが嵩じれば嵩じるほどセックスを求めて制御がきかなくなる。かの女たちは渇したカラスにたとえられる。ダンダンゲラッというのは渇したカラスという意味だ。

次に、上背はなく、むしろ背が低めであり、肌は油気があって色黒で赤みがかっていて、顔かたちは卵型の楕円形をしており、濃い眉と厚い唇、そして長く伸びた首を持っているのが特徴的なドゥルガラトゥ(Durga Ratu)と呼ばれる女性がある。ドゥルガラトゥというのは、女王になったドゥルガ女神のことだ。この種の女性はきわめて強い性格をしている。
唇の厚い女性ははじけるような話し方をし、怒ったときはそれが激しくなる。怒ると自分の周囲への配慮を忘れて、自分の感情に支配されるがままとなり、あたかも女王となったドゥルガ女神が大きな権力をふるって自分の支配下にある者を自在に扱おうとするかのように、隣人や友人をはじめその他自分の好まない人間に正面からぶつかっていく。夫をすら怖れず、自分や家族の秘密も守ることができない。夫を含めて家族を自分の支配下に置こうとする傾向が高く、自分が決定者となって指図するのを好む。その傾向はベッドでも変ることがない。はじけて爆発するようなセックスがかの女の身上だ。かの女の性欲も、その性格のままの強さを持っている。

やはり背が低めで丸みを帯びた体型をしており、肌は黄色で目は細く、乳房は大きく幅広で前に突き出していて、濃い髪を自然に垂らしているのを好む女性の呼称はドゥルガランサン(Durga Rangsang)だ。ドゥルガランサンとは攻撃態勢に入ったドゥルガ女神のことで、この種の女性は失礼な言葉を臆面もなく吐き散らして話し相手を攻めるのを好む。歯をガチガチ鳴らし、不逞ににんまりと笑う。かの女は頻繁に夫の望みに反抗して夫を踏みつけにする。性質は激しいエゴイスト。たとえ他の人間との共通利益のために何らかの言動を行なったとしても、かの女のエゴイストとしての本質には変わりがない。
男の恋情を得て喜ぶものの、それを煎じ詰めようとすることがないために恋愛関係は空疎なものになりがちだ。浮気をするのは朝飯前で、罪悪感を抱くことはない。ベッドでは、自分の性欲が満たされることが重要なだけで、ふたりのセックスをロマンチックで美しいものにしようという意欲がなく、性交は受動的だ。ドゥルガランサンの性欲度は中レベルに区分されている。

やはりドゥルガ女神にたとえられる女性として、額が狭く、体躯は短小で、赤っぽい肌を持ち、眉毛は一文字で湾曲しておらず、鼻はぺしゃんこ。指は短く強靭で、腕はがっしりしているドゥルガグリリル(Durga Nglilir)と呼ばれる女性がある。ドゥルガグリリルとは寝起きのドゥルガ女神を指している。目覚めたけものが伸びをしたり身体のあちこちをなめたりさすったりして弄ぶように、目覚めたドゥルガ女神もラッササの身体を動かしまわる。ガチガチと歯噛みしたり、ベッドを揺さぶって寝覚めのひとときを楽しむのだ。
ラッササ(raksasa)というのは巨人と翻訳されるのが普通だが、むしろ日本語の『鬼』のイメージに近い。巨大な身体を持ち、乱暴酷薄で、人間を取って食うという、あの鬼のイメージがラッササという言葉に近いものだ。
ドゥルガグリリル女性の頭の回転はむしろ鈍であり、また頑固なために男を困らせる。この種の女性は浮気性で不倫好き。ベッドの上では、セックス衝動は普通レベルで、セックス相手にあまり関心をはらわない。しかし愛情は豊かに持っており、子供には強い関心をはらう。

ドゥルガ女神の名を冠せられるタイプの女性はまだ他にもある。ドゥルガサリ(Durga Sari)女性は、恋心を花で伝えるようなセンスを持っている。やはりドゥルガ女神であるだけに女丈夫だが、花で伝えられるその恋心は真実のものだ。積極的に男に恋心を伝え、愛情を降り注ぎ、絶えずかぐわしくフレッシュな恋情を感じさせてくるドゥルガサリ女性に、相手となった男も大いなる憧れと感動を抱く。
ドゥルガサリ女性は赤みがかった顔に薄い唇が特徴で、口の大きさも中庸だ。額は広く、往々にして前に突き出している。突き出している額と女性器とは正比例関係にある。かの女が幸福を感じるとき、顔色はますます赤みを増す。容貌はいつもフレッシュで、男の欲望をかきたててくれる。薫り高い花のように、かぐわしい香りと印象的な挙措振舞いを男に示す女性だ。

ドゥルガムンドウッ(Durga Mendut)はドゥルガ女神のラッササ姿をたとえたもので、上述のようにラッササというのは日本語の『鬼』のイメージに近い。ただしここでは、鬼の容姿をしているということでなく、持っている精神が鬼のようだという理解をしていただきたい。昔は、この鬼女タイプの女性は常にラストチョイスに置かれていて、男たちはこの種の女性を避けるのが普通だった。その理由は、なよなよとして男に奉仕するタイプからかけ離れており、むしろ男を支配して自分の言いなりにさせようとすることを欲するような性向をあからさまに示すことが多かったためだ。身体的特徴としては、幅広な顔、広い額、柔らかい髪、大きい乳房、身体は小ぶりで肌の黄色いタイプ。
ラッササの特徴は血に飢えていることで、ドゥルガムンドウッ女性も自分の希望に相手が正しく従わないと怒りの感情を噴出させる。仲直りしようとしても、なかなか受け付けてくれない。ところがドゥルガムンドウッ女性はセックス好きで、外見はあまり男の性欲を刺激しないものの、ベッドでの甘いささやきや愛撫と性交はかの女たちにわれを忘れさせ、その強烈な姿態が男を興奮のるつぼに誘い込む。かの女たちはまた淫らな言葉を吐くのを好み、それがまた男の性欲を燃え上がらせるのである。

ドゥルガグリッ(Durga Ngerik)女性も性欲が強く、いびきをかいて眠る。額は小さく丸まっており、顔は幅広く、唇は薄い。体躯は小ぶりで、上体は短い。長く伸ばした髪の場合、先端は赤みを帯びている。この女性は金銭感覚に弱点がある。簡単に借金を申し込み、しかし返済はほとんどしない。狡猾な知恵が豊かで、自分の形勢が不利になってくるとそれを言い逃れるために不正直な言動を取る度胸はたっぷり持っている。
アスマラガマによれば、この種の女性は大勢の男たちにアイドル視される。自分の身体の手入れに熱心で、男女関係では巧みに主導性を発揮するから、男たちには楽しい遊び相手となる。ところが、この種の女性を妻にすると家庭内の調和が育まれないから、妻に選ぼうとする男はめったにいない。

一転して、ドゥルガ女神とは対極にあるような女性がチャンドラウェラ(Candra Wela)だ。小さく突き出た唇を持ち、黄色い肌で乳房は丸ぽちゃ。
チャンドラウェラ女性は、男性に対しては善良で貞淑。ただし極めて感じやすい性質を持っており、相手の心の色合いや内面の声を容易に感じ取ってしまう。そして普段から感傷的で、悲哀のこもった気持ちのとりこになっており、まるで何かを怖れているような沈うつさがつきまとっている。
ベッドでは非活動的で、あたかも無関心であるかのようにふるまう。自然な形で性愛を堪能することが難しい。結果的にかの女の姿は年齢不相応に老化していく。かの女たちはセックスを堪能できない理由を持っており、少女期に悲劇的な恋愛を経験したり、あるいはなんらかのトラウマを抱えているのが普通だ。生まれついての感受性の強さに悲しい体験が加わって、セックスの快楽にのめりこむことのできないこの種の女性をカトゥランガンは性欲の弱い女性の区分に位置付けている。

一方、性欲は中レベルだが、素晴らしいセックスパートナーになれる女性がある。楕円形の顔に小柄な身体、そして肌は赤っぽい。髪は密でないがカラスの濡れ羽色。目つきは鋭く、口は幅広で歯並びは悪い。体毛は濃いほうで、特に二の腕や口の周りが目立つため、劣等感にさいなまれて、恥ずかしさに心穏やかでない。歩行姿勢は安定していないが、かかとはきれいですっきりしている。
パッマヌガラ(Padma Negara)と呼ばれているこの種の女性は、とても魅力的な雰囲気を作り出すことに巧みで、さらにベッドでの振舞いはたいへん繊細でスマートな動きを示し、注文のつけようもない完璧さを感じさせてくれる。こうして、かの女は薫り高いジャスミンの花やハスの花にたとえられることになる。かの女は生きることの情熱をあふれんばかりに持ち、かの女に接するすべてのひとにそれを感じさせてくれる。話し相手としてだけでも、飽きることがない。

やはりハスの花にたとえられる女性に、パッマサリ(Padma Sari)がある。パッマはハスだ。眼光は快活さに満ち、哀しみの陰など一抹もない。つややかで太い黒髪は大きく波打ち、かの女はその髪を王冠のように慈しんでいる。
情緒は安定しており、自分の意見も揺れ動かないし、人生のさまざまな試練に自分ひとりでぶつかっていく強い心も持っている。対人姿勢は広くオープンであり、優雅さと威厳を感じさせる女性だ。パッマサリはセックス傾向の強い女性であり、特にメンスの時期が近付くと、かの女の性欲は天を衝く。

風になびくパンダンの花を意味しているのががパンダンカギナン(Pandhan Kanginan)だ。卵型の丸顔に薄い唇が口の中にすぼめられているような顔貌を特徴としている。黄色い肌は乾いている。眼光は、普通の女性一般にくらべて、強い意志の力と高い知的能力をうかがわせている。他人とのコミュニケーションが容易で、話しぶりも温かみを感じさせる。他人へのアドバイスも得意だ。すぐに他人に自分の意思を委ねるような心の壊れやすい泣き虫女性とは大違い。問題に直面したとき、かの女は感情よりも理性を前面に押し出してくる。ベッド上では、かの女のボディランゲージがしばしば男を当惑させ、男に対応がたいへんだという気持ちを抱かせる。しかしかの女は自分の分をわきまえており、ロマンチックな雰囲気を作り出すことも巧みだ。パンダンカギナンも性欲の強い女性に属している。

自分の生涯のパートナーを選ぶにあたって、どのような女性を選択するのが一家の主にとっての幸福への道であるのか、という命題への手引きとして女性についての解説を施したカトゥランガンが上のようなものである。性格的にも、性的な面でも、自分にもっともフィットする女性の選択がなされたなら、次に待っているのは性愛技巧の訓練だ。世の中には、女性パートナーと一回のベッドインで何度も性交を行い、抜かずに何回などと回数を誇ってそういう強さを持っているのが優れた男の証であると見なす傾向があるが、アスマラガマは回数でなく質的なもののほうを重視する。そのためにこそ、快楽が、そして法悦境が長く長く持続することを目標に据えているのである。深い深い快楽がたっぷりと与えられ、幸福の微笑が体の奥底から自然に湧き出してくる妻が家庭内を世話していれば、夫にとってどんなに高価な財物を家庭内に持つよりも素晴らしいことであるにちがいない。反対に妻は、自分の存在のすべてを受け入れ、自分が整えた家庭内で幸福の笑顔を示す夫に、女としての言い知れぬ喜びを感じるにちがいない。アスマラガマが目指すものは実にそんな幸福な家庭の姿なのだ。


< まず訓練から >
アスマラガマは一対の男女に対する性愛技巧の教えであり、男であれ女であれ、ひとりの人間に教えるものではない。つまり、それを学んで練習するのは、かならずカップルによるものでなければならないのである。その練習に取り掛かる際の心構えが四つある。

まずカップルのひとりひとりの気持ちが十分にリラックスしていること。緊張や怯えあるいは萎縮などしていれば、性感は低く抑えられてしまって最大限の効果を得ることができず、働きかけとその反応が本来のものでなくなってしまう。またそのプロセスが落ち着いたリズムのある形で実行され、慌しく素っ気無いものに堕すようなことにならないためにも全身全霊がリラックスしていることがもっとも重要な前提条件となるのである。必要に応じて、自分がオーガスムに達するためにパートナーにどうして欲しいのかを開始前に告げて協力を依頼するのも有意義だろう。
次に、ふたりの間でサインを決め、そのサインを出したらどのようにしてほしいという合意をしておく。
三つ目はウオームアップについてであり、十分に温まった上での挿入がもっとも完璧なクオリティをもたらすため、よくよくそのことを肝に銘じなければならない。この段階では、クリトリスや外性器内部、あるいは内腿の付け根や後陰唇などの愛撫で、女性はクリトリスオーガスムに達するだろう。その間に男性は、大きく、長く、硬く、ぬくもるように努めなければならない。
四つ目はさまざまな性交体位についてだ。スタンダードは女性が仰向けに寝て男性が上から体をかぶせながら挿入する体位で、ペニスがヴァギナに完璧にしかも深く入る。そして男性が全権を握ってリードすることになる。女性はペニスが快感をもたらす場所に触れるように体を動かす。その体勢だと女性は自分の手や口を動かしやすいので、男性への刺激を高めることが容易にできる。また男性の性感も高まりすぎないので、射精の制御がしやすい。アスマラガマは十二の性交体位を教えている。
それら四つの教えの前段階として、ベッドにのぼる前にどういう準備をしておくべきか、という心構えが必要になる。ものごとを成功させるための最大要件は、完璧な準備なのだから。

ベッドに上れば完璧なふたりだけの世界となる。いや、そうなるように場所をそして時間を選択しなければならないし、外界からの影響を極力排除しなければならない。次に、アスマラガマの最大目標である最大限の性的恍惚と快楽を得るために、それをサポートする準備を整えることだ。何を着用し、それをどのように脱いでいくのか、官能を高める小物は何があるのか、快楽を損なう悪臭は排除し、官能を高めるための香りはどうするか、手や口あるいは舌の触感を損なうような部位の有無と対処はどうか。それらのすべては性愛の快楽を最大限に高めることを目標にして対処するべきなのであり、世の中で自分が常識として実践している価値規準などすべて捨て去ってしまえ、とアスマラガマは教えている。

次にカップルのそれぞれにとって、自分の持っている六感まである感覚を研ぎ澄ませて行く訓練がある。目・耳・鼻・口・皮膚が具体的に、そして精神が形而上に感じる感覚のすべてをより鋭敏にしていく訓練だ。特に精神的な感覚を研ぎ澄ませる訓練は瞑想によって行なうのがよいとジャワ思想は主張している。それらの感覚の訓練は最終的に性愛の快楽を最大限に受容することを目標としており、さらにパートナーとの一体化による一層大きな恍惚感を精神が感じ取るためのツールとなるのである。
それらの訓練は、もちろんひとりひとりで別の場所で行なうときもあれば、カップルが生まれたままの姿になって相手との照応の中で行なうときもある。相手の身体や存在に触れながら行なうものと、ひとりで行なうものは内容が異なって当然だ。ただし瞑想だけは別で、これはあくまでも前者のやり方をするしかない。

たとえば、口あるいは舌の訓練の例について、ジャワ式古典性愛技巧研究家のハリウィジャヤ氏は次のように説明している。
それはまず、口・舌・喉を冷水で洗うことから始める。飲み水をコップに入れ、少量の塩を溶かし込んでその味を賞味する。何も味が感じられなければ、もっと塩を入れる。味を感じたとき、どれだけ塩を入れたかを記録する。舌が感じるのは甘苦鹹酸という四種類の味覚であるため、残る甘苦酸の味覚を持つものも同じようにして記録する。それを何度も繰り返していくうちに、水に混ぜる味覚の元の物質の量が半分になっても味を感じることができるようになる。
次に、パートナーに頼んで二種類の味覚の元の物質を混ぜてもらい、それを判別する訓練に移る。更に、二種類に限定せず、何種類でもいいから混ぜてもらい、それを判別する訓練を行なう。もっとグレードアップさせて、食事のときに食べる料理にどんな素材が使われたのかを当てる訓練まで発展させるのも面白い。そうして口の感覚が鋭敏になっていったなら、今度はパートナーの体を味わう。まず刺激性のない石鹸で水浴してもらい、身体各部の肌の感触を口で味わってみる。次に、石鹸を使わないで再度水浴してもらい、同じことをする。どちらの場合にどのような味わいが感じられたのか、その違いを自分の口と舌に覚えこませるのである。これはもちろん自分がパートナーの身体から受容する快感を高めるための訓練なのであり、口や舌を使ってパートナーに快感を与えるためのものとは目的が異なっている。

感覚を鋭敏にさせる訓練とは別に、パートナーに対するいとおしみといつくしみの気持ちを膨らませていく訓練も必要だ。この要素が希薄な性交は自己中心的なものになり、女性は男性がもたらす快楽をむさぼることに没頭し、男性は女性を性的に征服し支配するという優越感を得ることに終わって、心身の一体化による真の合一を経て突入する大宇宙との一体感がもたらす法悦境という、他では体験できない境地を徹頭徹尾愉しむということに困難が生じるのである。アスマラガマの究極目標はそこを目指しているというのに。
いとおしみといつくしみの心は、ものごとに感動する気持ちが基盤となる。単に恋愛感情の強さや深さがそれを決めるということでは決してない。ある対象物に対して感動すれば、その対象物をかけがえのないものと感じてそれを傷つけたり汚したりしないように努めるようになる。その心的プロセスに出現してくるのがいとおしみといつくしみの心なのである。
この訓練は、まず感動する心を広げていくことから始まる。芸術作品に接したり、あるいは劇的な大自然の営みに接する機会を増やし、自分の気持ちの琴線に何かが響いてくる機会をよりたくさん持つことが必要だ。その上で、パートナーに対するいとおしみといつくしみの心を更に強く深いものにするために、自分が好きだと感じているパートナーの肉体的精神的な要素を肯定的に見つめなおし、こわばりをほぐした自分の心の中にそれを置いて、そこから響いてくる潤いのある情緒をしっかりと抱きしめるのである。
そのようなプロセスを経ることによってパートナーの存在は自分自身の一部と化し、パートナーとの合一、そしてふたりが溶け合う恍惚の中での大宇宙との一体感を自分のものとすることができる。
お互いを自分自身の一部と感じるような関係は、お互いが素裸の自分自身をさらけだし、長所も欠点も折りませて相手のすべてを受け入れる関係であり、そこには秘密も虚偽や欺瞞も入り込む余地がない。あるのは自分自身の一部になっているパートナーに対して正直な自分であり、相手をもっと深く自分自身の一部にしてしまいたいという欲望である。髪の毛ほどの疑惑や嫉妬がそこに混じれば、その親密さは即座に離れて行ってしまう。


アスマラガマは性愛がもたらす極限の快楽を実現させる道である。肉体的には、可能な限り深く、そしていつまでも持続する快楽を実現させること、精神的には、最大限の恍惚感の中で大宇宙との一体感を感じさせること、がその目標となる。そのためには、快楽を長時間持続させる能力を涵養しなければならない。そのための最大の障害は男性の射精であるということになる。つまり、アスマラガマの訓練の最重要な要素は、勃起を長時間維持させ、射精を可能な限り遅らせることに尽きるのである。そのためにどうすればいいのか?再びハリウィジャヤ氏のコーチを受けることにしよう。

同氏によれば、オナニーは何ら罪悪視されるようなものではなく、むしろアスマラガマの訓練に利用するほうがよいそうだ。男性にとってオナニーは射精の快感を得るためのものという使われ方が多いが、オナニーを行なうたびに射精を遅らせる練習をすることでアスマラガマの訓練ができる。射精欲求が頂点まで高まる都度、下腹部の筋肉を調節して高まりを緩めるのである。同氏はもちろん若い人たちにオナニーを奨めているわけでなく、どうせするのなら、という前提条件が付けられている。
さて、アスマラガマのこの最重点的訓練は、男女カップルが肉体関係を結べる状況に入ったときに始まる。古来ジャワでは、それは結婚初夜が常識だったが、今やインドネシアでは全国的にそういう社会的承認儀礼がおろそかにされて、少年少女が人目をはばかりながら肉体関係を結ぶのが普通になってきているため、アスマラガマも世の中から取り残されつつある状況だ。

ともあれ、ハリウィジャヤ氏によれば、第一日は一切の性行為をがまんしろ、ということになっている。あらゆる性的ニュアンスを持つ言動を避け、互いに性衝動を感じないように工夫してその日を終える。性的欲望を抑える忍耐心の端緒がそれだ。第二日は互いの裸体を見つめあい、それに触れるだけの日であり、この日も一切の性行為をがまんしなければならない。互いに別々に水浴し、一糸もまとわずに対面してすわり、性感帯を避けて相手の肌を愛撫しあう。初日よりも欲望を抑える負担は増大する。およそ半時間もすれば心理負担は頂点に達し、発汗し、女性は叫びだすかもしれないし、男性は冷や汗が出るかもしれない。

そうなれば、愛撫は一時停止し、互いに横たわってリラックスに努める。リラックスできたら、仮眠するのがよい。そのあと、ひとりでぬるま湯を使って水浴する。そして、再び愛撫を再開して15〜20分間続ける。二度目は初回ほど緊張が高まらなくなる。そしてまたひとりで水浴し、それから気分を替えるために外へ散歩に出る。戻ってくると、ふたたび裸になって相手の身体に触れ、愛撫する。男性は女性の乳房や下腹部に絶対触れてはならず、女性は男性の性器や他の性感帯に絶対触れてはならない。そして、相手の身体に触れたり愛撫しているとき、それは自分の身体なのだという意識を持つようにする。この訓練はパートナーとの一体感を感得するための訓練になる。二日目はこうして終わる。

三日目は、軽く食事してから再び裸体ですわり、互いの身体を愛撫しあう。今回は互いの性感帯をも対象に含める。乳首やヴァギナやペニスを、まるで自分の身体であるかのように柔らかく触れる。パートナーの身体を愛撫するとき、自分の身体が愛撫されているように感じることが重要だ。およそ一時間それを続けたあと、5分間全身をリラックスさせ、深呼吸してて休憩する。そのあと、男性は仰向けに横たわり、女性は男性の腰の上にすわる。そうしてきわめてゆっくり、またソフトに、ペニスをヴァギナに挿入する。その後は互いに性器を少しも動かさないようにする。女性はうつむいて男性に覆いかぶさり、互いに動かないまま気持ちをゆったりさせ、互いが合体してひとつになっているのだという意識に浸るようにする。女性は動かずに男性に覆いかぶさっているままにし、ペニスの怒張が緩むまでそれを続ける。この日も絶対にオーガスムを避け、平静な精神と相手との一体感、そして満足を感じることに徹しなければならない。挿入は、男性と女性の双方にそれをやりとおせる確信が生じたときにしか行なってはならない。この日、求められているのはオーガスムでなくパートナーとの一体感であり、相手を自分自身の一部と感じる精神作用なのである。
オーガスムに向かうことなくその体位を長時間持続でき、そしてそのまま眠ることができるなら、目覚めはこれまで体験したことのない深い充実感で満たされるだろう。怒張したペニスがオーガスムを経ないまま緩んでしまうまでの変化を体験したふたりのアスマラガマは大きい成功に至ったのであって、これこそがアスマラガマの理想境に向かう源泉となりうるのである。

そして、この三日間の訓練の仕上げとしての性交がついに実現する。自分の性欲を発散させるための性交とはまったく深みの異なる、パートナーとの一体感を強く感じさせてくれる長時間の性交に、ふたりの幸福感ははるかに大きくなるはずだ。そして回数も、二回以上の性交が行なわれるのが望ましい。もちろん、回数が多いことが目的なのではなく、いかにふたりが長時間われを忘れて大きな幸福感の中に浸り続けるかというのがその狙いなのである。
その三日間の訓練で大きい進歩を感じたなら、この三日目の訓練を続けることで、ふたりの性交のクオリティはもっと優れたものになるだろう。もちろん、お互いの裸体を性感帯を含めて愛撫しあうプロセスは一時間も行なえば十分だ。

ここまでくれば、オーガスムを目指す性交の際に、ペニスがヴァギナに挿入されると、大きな性的刺激を伴うまるで夢の中にでもいるような恍惚感に見舞われるようになる。こうしてふたりは溶けあい、互いに相手の中に融合していくような暖かなセックスの快楽をわがものとすることができる。その半覚醒状態の中にあって、ふたりはオーガスムのリズムに合わせた仮死状態を体験する。ただしこれは真実の絶頂レベルに至る前の段階であり、もしカップルがこの段階にまで達したなら、次に行なわれる技巧はこれになる。
ペニスがヴァギナに挿入されたままの状態で、男性は目を閉じて横たわり、筋肉を弛緩させる。完全にリラックスできたなら目を開き、パートナーとの性的結合がもたらす快楽の中に精神を没入させるのである。そのとき、あたかも宇宙空間における無重力状態での浮遊感のような、自分の身体が空中に浮いているような感覚を得ることができる。この感覚は、たとえば「なぜこのようなことが起こるのか?」というような精神が何かに拘泥するようなことを避けるかぎり、いつまでも持続させることができる。
性交状態の持続は、言葉に言い尽くせないほどの満足感をふたりにもたらし、パートナーを自分の一部と感じているふたりは相手を暖かい抱擁の中に抱きとめるのである。アスマラガマは現世に生きていることの幸福を、そのようにして信奉者に伝授するのだ。

アスマラガマは、ペニスがヴァギナに挿入されてから少なくとも一時間は性交が持続することを求めている。その時間は、訓練によって二倍三倍に増やしていくこともできる。男性が挿入してから三十分以上性欲の爆発をこらえることが困難で、オーガスムを先延ばしできなくなるのであれば、早漏の症状を治癒させるためにアスマラガマの訓練をもう一度最初から綿密に行なうことが必要になる。
セックスの開始は、一方から他方に対するソフトで情感に満ちた誘いによって行なわれる。アスマラガマは、そのセックスのオープニング行為の前に、飲んだり、おつまみを食べたり、会話を楽しむといった、性的行為ではないことをしたあとにスタートするのがよいと説いている。男性の勃起持続力が弱く、射精が早い傾向にある場合、アルコールを飲んでつまみを食べておくことで性的刺激が頂点に登りつめるテンポを遅らせることができる。飲みすぎて酔っ払うのは論外であり、酔っ払ってしまえば勃起自体が難しくなる。


< 前戯 >
ジャワでは、セックスの前戯として接吻を行なうのが古来から一般的だった。接吻は口や唇同士を重ねて戯れることだけでなく、相手の身体をも口や舌で刺激し、ペニスの代わりに舌や唇でヴァギナに戯れることまで含めている。接吻の技巧はパートナーの性感帯を刺激して快楽を高めるために一時間でも二時間でも行い、性交のオーガスムに到達するのをいくぶんか遅らせることにも使われる。カーマスートラは接吻のテクニックを19項目にわたって解説しており、セックスを行なうに際してたいへん有効な補助的手段であることをそれは意味している。
アスマラガマが接吻に求めている目的は低い持続的な快楽なのであり、性感帯を刺激しすぎてパートナーがひとりだけでオーガスムに登りつめようとすることのないように注意しなければならない。もしもそのような雲行きになってきたら、早々にその刺激を弱め、深呼吸し、興奮の度合いを鎮めるようにしなければならない。オーガスムへの到達を引き延ばすための行為がオーガスムを早めさせては何にもならないのだから。

口唇同士の接吻に飽きてきたら、男性はゆっくりと唇を女性のあごから首筋に移し、乳房の谷間へとおろしていく。乳房を周遊してから乳首に向かい、ソフトに情感をこめて乳首を吸う。そしてふたたび乳房を周遊する。繊細に、優しさをこめて乳首を吸うことで、女性の乳首は勃起し、硬くなる。すると女性は反射的に男性の唇を自分の唇で迎えに行く。刺激に耐えられなくなった女性のその行いを男性は絶対に軽視してはならない。
その刺激によって女性の性欲が高まると、男性は女性を鎮めてやるための愛撫に移る。静かに柔らかく指先の愛撫を加えることで、女性はふたたび落ち着きを取り戻すのだ。それは女性の性感に休息を与え、またその種の刺激による高まりがより低いレベルで安定するように導くのである。男性の指は、女性の額・耳・目・頬・唇・喉を繊細に柔らかく撫でる。更に唇で女性の唇や先に指で撫でた場所に接吻して、女性の高まりを鎮めてやる。効果が感じられたら、次は乳房への愛撫に移る。両手を使ってふたつの膨らみを優しく撫で、さすり、揉み、押さえる。一点の場所も残さずに、乳房の全面を愛撫し、乳房を圧してあたかも中にあるミルクを取り出そうとするかのようにふるまう。愛撫を少しずつ強くしながら、指はゆっくりと乳首に向かう。親指と人差し指でソフトに乳首を撫で、押さえる。女性の中には、乳首を男性がタバコを指にはさむような手つきでつかんでくれるのを喜ぶひともいる。乳首へのこの戯れに、乳房への愛撫や乳首への接吻を組み合わせると、女性の快感はさらに膨れ上がる。大多数の女性は、赤児が母親のおっぱいを吸うかのごとく男性が自分の乳首を吸うことを喜ぶ。
この行為をおこなっているとき、男性の身体は女性の身体と同じように直立の状態にあり、頭部は女性の胸に覆いかぶさって乳首を吸い、乳房を優しく愛撫している。そのとき女性の手は男性の性感を官能的に刺激することができる。女性は男性の顔や頭あるいは上体を愛撫するが、どの部位の愛撫が男性の性感を高めるかということを見つけ出しておく必要がある。下半身やペニスへの刺激はなるべく避けて、男性が早々と登りつめないように工夫しなければならない。


男性の手は女性の体への愛撫を続ける。背中・腰・腹・腿・脚と、情感に満ちた愛撫を下へおろしていく。愛撫もまた、低く持続する快楽を女性に与え続けるのが目的であるため、性欲を高める刺激は避けなければならない。
それから男性の愛撫の手は女性の腿の付け根に戻る。両手を左右の腿の付け根に置き、指はヴァギナの上部に優しく接し、そして下腹部を繊細に撫で上げていく。それを数回繰り返してから、今度は両手を女性の足首あたりに置き、脚を上に向かって愛撫していく。そして腿の付け根に到達したら、女性器の周囲に指を這わせる。ヴァギナの中に決して指を入れないようにし、クリトリスを探る。クリトリスが見つかれば、できるかぎり繊細な心使いでクリトリスに触れる。そのとき、爪で傷つけたりしないように細心の配慮をしなければならない。クリトリスへの愛撫は親指と人差し指できわめてソフトに行なう。男性はパートナーのクリトリスを、まるで自分のペニスに触れるように、きわめてセンシティブに上方下方に愛撫するのである。ただし、クリトリスの愛撫を始める前に、それが十分に潤っていることを確かめなければならない。もしも潤いが十分でなければ、クリトリスに向かう前に大陰唇への刺激を加えてやる必要が出てくる。クリトリスの愛撫は必ず十分に潤った状態で行なわなければならないことを肝に銘じておこう。
ここまでの性交前のウオームアッププロセスで、淫らな言葉や聞き苦しい言葉を吐くのは慎まなければならない。ジャワ人はそれらの言葉がふたりのオーガスムでの一体感の障害になると昔から言い伝えてきた。だから、このプロセスでふたりの間に交わさせる言葉は、優しく親密で、ソフトで美しく、耳に心地よい言葉だけに限られるのである。
女性のウオームアップが進んできたら、今度は女性が男性のペニスを愛撫する番だ。女性はペニスの亀頭部表皮をやわらかく撫で、手を下部に滑らせて触れ、また上に戻るといったプロセスを繰り返す。ここまで来れば、痺れるような性的快楽に心身ともに包まれたふたりは、一気に頂点に登りつめたいと念願するだろうが、もう少し待てとアスマラガマは命じる。

次にふたりは向かい合って横向きに寝そべり、脚をからませて抱き合うのである。性器の挿入はまだしない。抱き合った身体を離して遠ざけ、互いのペニスとクリトリスを愛撫しあう。興奮が高まればまた抱き合う。抱き合うのはそれぞれが高まった興奮を鎮めるためだ。まるで一触即発というレベルの興奮がおさまってくれば、また抱き合いを解いてペニスとクリトリスを手探りし、刺激しあう。これは性的快楽を高めながら、オーガスムを先延ばししているのである。そのときヴァギナはペニスの挿入を今か今かと待ち望んでいる状態にあり、そのあとペニスが挿入されればヴァギナは収縮してペニスを締め付ける。こうなれば、男性がオーガスムをコントロールできる余地はきわめて狭まるが、アスマラガマは男性に対し、それに耐えろと求めるのである。挿入してから5分から10分間オーガスムを耐えることができれば、この訓練は及第だ。
そのオーガスムを迎える前のタイミングで、女性は男性のペニスをヴァギナから出してしばらく休息し、元気が戻ったらまたペニスをヴァギナにゆっくりと入れる。ただし、ペニスは3cm程度しか入れてはならない。ふたりともオーガスムに向かって矢のようになっている気持ちをこらえてそれを行なうのは、実に精神的に厳しい試練にちがいない。だがこの試練を乗り越えてこそ、オーガスムのタイミングを自在にコントロールする力が身に着くのである。このとき、性欲を高めるような行為はお互いに避けなければならない。強く抱き合ったり、愛撫や接吻したりせず、じっとこらえるのだ。深呼吸し、欲望を抑え、穏やかな一体感の中に自分を置くのである。およそ2分間その状態を続けてから、男性はペニスをヴァギナから抜いて膣口にあてがい、また2分間休息する。それからまたペニスを3cmほどヴァギナに挿入する。15分間ほどそれを繰り返していると、もう矢も盾もたまらなくなって、すぐにオーガスムに達したいという欲望が突き上げてくる。そうなれば、男性は女性を愛撫しつつヴァギナを浅く速く突く運動を開始する。オーガスムに近付いた女性は男性の背中に置いた指に力が入って動きはじめ、腿から脚にかけての緊張が強まる。それを察した男性はペニスを更にヴァギナの一番奥深くまで挿入して動かし、発射のときを迎える。そして大きな満足を得た女性をしっかりと抱きしめるのである。

その訓練で最後のピークを15分間先延ばしできたなら、大きな成果があったと言ってよい。その次に行なわれる訓練は、やはり同じように向かい合って横向きに寝そべるのだが、ペニスは3cmどまりでなく、およそ半分までヴァギナの中に挿入する。ヴァギナを出入りするペニスの動きは、できるかぎりスローにする。ヴァギナの中にとどまる時間は3分間だが、性欲の高まりすぎを抑制できるなら、もっと長時間でもよい。
この場合、女性のヴァギナは十分に潤っていなければならず、適切な状態に達するために女性への前戯を時間をかけて行なうことになる。男性がオーガスムの欲求に襲われたなら、ペニスをゆっくりとヴァギナから抜き出し、深呼吸し、ペニスをクリトリスのエリアにあてがう。それすら難しい状態であれば、ペニスを女性に近づけず、自分も女性の身体から完全に離れるのだ。そうすることで沸騰していた自分の性欲が鎮静化され、3分でも5分でもオーガスムを先延ばしすることができる。男性がそうやって一息つけたら、今度はペニスを三分の二までヴァギナの中に入れ、およそ5分間出し入れを繰り返すのである。その出し入れの動きは腰の筋肉を使って行なうのがよい。腰の筋肉は射精の際にそのコントロールに使う筋肉なのであり、自分の射精を封じようとするときにその筋肉が自分の意思で自在に活動できるよう訓練しておくべきなのである。だからヴァギナに対するペニスの運動を腰の筋肉だけで行うことは、射精を抑制するための訓練にもなる。この訓練プロセスを終えて最後にふたりがオーガスムに向かって登りつめる際の手順は上で説明してあるとおりだ。


オーガスムに向かって性的興奮が登りつめていくときにそれを遅らせるための訓練が上で述べたものである。今度はオーガスム自体、つまり男性側の射精を遅らせる訓練に移ろう。射精の一歩手前であらゆる動きを止め、何度も深呼吸し、意識的に腰の筋肉を弛緩させるのがそのプロセスだ。もし適切なタイミングでそれがなされたなら、興奮のクライマックスはレベルダウンし、ふたたび動きを再開することができる。そしてまたクライマックスに登りつめる瞬間がやってくるということが繰り返される。それが頻繁に繰り返されることによって男性はそのコツを体得し、それを行なうことが巧みになっていくのである。

横向きに寝そべって性交する場合、ペニスは四回浅くヴァギナを突いたあと一回根元まで挿入する。制御を完璧にするために、男性は深呼吸しながらペニスをゆっくりと動かす。ヴァギナの一番奥深くまで挿入しても自分を十分にコントロールできる確信が持てれば、ペニスを浅く動かす必然性はなくなり、あとは性交時のペニスの動きのバリエーションとして使われるだけになる。

筋肉の動きの訓練ということでは、男性はやはり腰下にある大臀筋も訓練しておくのがよい。これはベリーダンサーのように腰を回転させる動きを性交のときに行なうためだ。男性が仰向けに寝そべった状態で、上になっている女性のヴァギナに入っているペニスを動かすときに必要なテクニックがこれなのであり、腰の回転と上下動が組み合わせられる。ペニスが上に向かって動かされるとき、ペニスはヴァギナの壁の全部に接触して女性の快感を著しく高めることになる。女性が腰を回転させるよりも、このほうがはるかに軽快な律動が実現されるので、女性はそのときに男性の動きに深い注意をはらい、男性の動きにタイミングを合わせながらヴァギナの筋肉を動かしてペニスをしめつけるのである。

女性の後方からペニスをヴァギナに挿入する際は、女性と男性が同じ方向を向いて横向きに寝そべり、女性は尻の下に枕を置き、足は身体の前にちょっと引き加減にする。そして上体を男性から少し離し気味にして、男性の上体との間にV字ができるようにする。右側を上にした横寝であれば、男性は左腿を女性の左腿に密着させる。左手は女性の下から前に回して乳房を愛撫し、右手は女性の上から前に回してクリトリスを愛撫する。ペニスをヴァギナにゆっくりと挿入し、根元まで入れ終わるまで他の動きは一切しない。この体位だとペニスが容易に硬くなる。30分以上ヴァギナの中でペニスを運動させるようにする。男性は自分がオーガスムをコントロールできることに自信を持たなければならない。そうしている間に先にオーガスムに達する女性を優しく受け止めてあげるのだ。

そしていよいよ、アスマラガマの訓練は最終段階に入る。ふたりは向かい合って横向きに寝そべり、ペニスをヴァギナに挿入する。そして、そのまま接合された状態で男性は身体を起こして女性の上に乗り、女性の両脚の間に自分の下半身を置く。女性は仰向けに寝て男性を支えるのである。

女性の尻の下に枕をあてがうことで、ペニスはヴァギナに入りやすくなる。女性は男性の体重を支えることになるが、男性は手や肘あるいは膝などを使ってその負担を軽くすることができる。この体位は男性が性交の主導権を掌握する形になり、同時に男性にとってオーガスムを先延ばしさせることも難しくなるが、既に行なってきた訓練で習得した技術を使ってそれは成し遂げられなければならないのである。ペニスの四分の一だけヴァギナに入れて運動し、それを二分の一まで増やし、更に四分の三そしてフル挿入までもっていく。動きもいくつかのバリエーションを加えるのがよい。浅く三回動いたら深く一回動いて少し休み、今度は深く二回動いて少し休むというように。女性のほうもゆっくりと運動する。回転させた後に上下動を行なうというように。それを男性の動きとうまくタイミングを合わせ、またどのようにしたときにより大きな快感が得られたかということも注意深く観察しながら自分を合わせていくのである。この体位での性交は必ず三十分以上継続しなければならず、そして男性はその間オーガスムを必ず克服できなければならない。

ゆっくりと時間をかけて、ふたりの興奮はいや増しに高まっていく。そしてついに、オーガスムの爆発を迎えるのだ。愛しい者との恍惚の一体感をしばらくひしと抱き合ったままかみしめるがよい。五感は鋭敏になり、汗が噴き出し、疲労感の中でふたりは自分の体の心地よい震えを感じるだろう。そのときに自分の心身に満たされる幸福のエネルギーが明日の日常をポジティブに乗り切る原動力となるのである。
ここまで解説してきたものは、一対の男女がセックスの中で大きく深い幸福にうち震える体験を得るためのアスマラガマの訓練についてだ。アスマラガマの訓練をマスターすれば、あとは愛し合う男女の性の饗宴でいかに大きな幸福感に到達できるかというアスマラガマの根本思想が待ち受けているばかりとなる。


< 性感帯 >
いわゆる性技と呼ばれているものの中には、男女の性感帯の発掘と開発ということがらが含まれている。自分のパートナーの性感帯がどこにあるのかということを知り、その性感帯をいつどのように刺激すればパートナーの快感がどう膨れ上がるかということは、アスマラガマの中でおろそかにするべからざることがらだ。

カトゥランガンにはそのための手引きがある。カトゥランガンは女性についての分析であるため女性の性感帯に関する内容だけになるが、それは女性の性感帯が日によって身体各部を移動することを論じているのである。
女性には排卵期というものがある。その排卵期を終えてから何日目には、女性が特に強く性的快感を得る場所がどこにあるのかということを、カトゥランガンは解説しているのだ。
第一日目:右足の裏。右足のほうがより強く快感をもたらす。性的刺激を与えるためには、右足の裏を掻いたり、接吻するように。
第二日目:右足のふくらはぎ。撫でさすってやるように。
第三日目:右足の膝。さすったり撫でてやれば、女性の性欲が高まってくる。
第四日目:右脚の腿。左手を使って愛撫する。
第五日目:陰唇。手で触ってやるだけで、即座に激しく興奮する。
第六日目:左の腋の下。接吻がもっとも女性を興奮させるのだが、難しければ撫でさすってやるだけでもよい。
第七日目:胸。正面から強く抱きしめてやればよい。
第八日目:右の乳房。愛撫したり揉んでやると、少し後に性欲が燃え上がる。
第九日目:唇。普段でも性感の強い場所だが、この日は格段に違う。
第十日目:首。左耳の後ろから始めて、首まで口唇で愛撫する。何度か繰り返すこと。
第十一日目:両目。口唇で愛撫する。
第十二日目:左右の眉。穏やかに情感をこめて接吻し、愛の言葉をささやく。
第十三日目:額。額を全面的に接吻する。女性の性欲はすぐに高まってくる。
第十四日目:頭頂部。赤ちゃんにするかのように頭頂部に接吻すれば、きっと期待した反応を女性から得ることができる。
第十五日目:乳房の下部。愛の言葉をささやきながらゆっくりとやさしく愛撫すれば、女性はすぐに燃えてくる。
第十六日目:全身。女性の体は全身が官能のかたまりだという論もあるが、この日の女性は全身がエロティシズムを発散しており、容易に性的興奮に導かれる。

カトゥランガンの教えは上のようなものだが、ジャワの古文書カマウェダの書は女性の肌の色に従って固有の性感帯があることを論じている。その書によれば、どの女性であろうと頬・唇・耳などに接吻すれば女性が性的に興奮するというものではないそうだ。その肌の色に応じて「ここぞ」という身体部位に接吻することで女性の性欲は高く高く昂進するのである。そして、一日のリズムの中で、特定の時間帯にその部位は鋭敏さの頂点を迎えるため、最大の効果を期待する場合は時間にも配慮するようにと教えている。

黄色い肌:左右の眉。目を閉じさせて眉に接吻すれば、眉にある神経節から性的欲求をかきたてる信号が全身に送られ、女性は全身を震わせて愛を求める境地に落ち込んでいく。真夜中がもっとも鋭敏になっている時間帯なので、そのことを意識しておくのがよい。

ランサッのような黄白色の肌:左右の腿。性欲を高めさせるには、まず右の腿を撫でてから左に移る。柔らかい内腿が一番深い性感帯である。夜明け前の午前3時ごろが一番鋭敏になる時間帯だ。

緑がかった肌:左右の肩。この種の女性は抱きかかえるだけでよい。抱きかかえられることで女性の性欲は高まる。睦み合いは子供たちが寝静まったあとで行なうのがよい。

黒い肌:左の腿。腿の愛撫は下から上に向かって行なう。三回以上行なうこと。夜の帳が下りたら行なう。

きれいで輝きのあるhitam manisの肌:左右の耳、特に耳の後ろ側を口唇で愛撫し、情愛のこもった言葉をささやきかける。時間帯は21時前後がベストだが、夕方の時間帯もお勧めだ。

赤みがかった肌:両目と左右の乳房。目には接吻だけを行なう。乳房はそっと愛撫する。力を入れたり、抑えたりしてはいけない。もっとも効果的な時間帯は夜明け時だ。

白い肌:左右の頬。接吻は左の頬の耳に近い部分を先にすること。男性にそうされてくすぐったさを感じたとき、かの女の性欲が燃え上がる。色白女性のこの性感帯は特に高まる時間帯がなく、朝昼夕夜のいつでも鋭敏ではあるものの、中でも夕陽が落ちる頃が高いレベルになる。


< セックス体操 >
最後にアスマラダナが推奨する12種の基本性交体位について解説する前に、性交運動の際に役に立つ体操についてご紹介しておきたい。ふたりが組み合って行なうものばかりではないが、この体操もアスマラガマの原則に沿って、カップルがふたりで行なうのがよい。

腰と背骨の運動:互いに向かい合って床に座り、脚を前に伸ばす。互いの足の裏を合わせ、手を伸ばして相手の手首を握りあう。一方は自分の背が床に着くまで体をそらせ、相手は手を引っ張られて前かがみになる。それを相互が交代で繰り返す。体をそらせたときに息を吸い、前かがみになったときに息を吐く。これはありきたりの柔軟体操だが、性交運動にも柔軟な体が必要なのは言うまでもあるまい。
その体操を続けながら、今度は柔軟さを増すことだけでなくセックス体操を加味していく。そのままの運動を続けながら男性はペニスを怒張させ、ペニスをできるだけ前方に向けて長くしながら自分の腰を持ち上げるのである。女性はヴァギナの筋肉を絞めたり緩めたりする。膀胱をはさむような感じで筋肉を圧迫すればよい。

背骨をかがめて座る:両脚を前に開いて床に座る。左脚を持ち上げて膝を曲げ、右ひざと交差させて左足首の外側が右ひざと接触するように置く。上体を左に回して右手を左脚の外側から右足首に達するまで下に降ろして行く。次に、右脚の足首から左脚の足首がある場所まで同じ手を右脚に這わせる。
左手を腰に回し、手のひらは外向きにする。指の背は右の腰に置かれ、背中がちょっと痛い。その姿勢で八つカウントする。呼吸は普通のまま。それが終わったら、右と左を入れ替えて、また同じことをする。

そけい部の運動:壁を背にして立ち、かかと・尻・背を壁に着ける。最初、尻の筋肉は緩めておく。続いて尻の筋肉を緊張させて腹を引くと、腰の骨が上に動いて壁から離れるので、尻だけが壁から離れる。その動きを三回行なってから休む。呼吸は普通に行い、休むときに深呼吸する。そのとき尻はまた壁に当たっている。
三日間同じ体勢で行なったら、次に背中だけが壁に当たっている状態でまたこの運動をする。定期的に姿勢をいろいろ変えてやってみるのがよい。

体の屈伸運動:両脚を開いて立ち、肩の高さで両手を左右に伸ばす。鳥の飛翔する形だ。自然な感じで上体をできるだけ前にかがめる。腰が最大限にまでかがめられたら、上体をゆっくりと起こす。体がまっすぐになっても止めないで、更に後ろにそらす。極限まで反ったなら、また上体をゆっくりと起こす。その間、脚は曲げないようにする。そこまで一連の運動を続けたら、直立したまま休憩する。三つカウントしたら、また前かがみから直立、後ろ反り、直立の動作を繰り返して休息する。それを6回繰り返す。

伏せの運動:顔を下向けにして伏せ、体を反らせて両手で左右の足首をつかみ、足首を引っ張って足先が腰に触れるようにする。一旦それを緩め、また引っ張る。それを6回繰り返したら、休憩する。これは身体の前と後ろを強くする運動だ。

うつぶせの運動:床の上にうつぶせになり、脚をまっすぐ伸ばす。膝を折って曲げた左右の脚を手でつかみ、体を曲げる。そのとき、上体だけが床に着き、腰から下は浮き上がる。次に仰向けになり、曲げた左右の膝を手でつかみ、引っ張って腰が上がるようにする。

セミ腕立て伏せ:低めの壁の上部を両手でつかみ、身体を伸ばして壁との間に45度の角度を作る。その状態でプッシュアップを行なう。それから身体を回転させ、壁を背にして45度の角度を作り、後ろ向きでプッシュアップを行なう。

尻の筋肉の運動:セックスを行う際の快楽を最大限に高めるには、尻の筋肉が大きな役割を果たす。最大限のセックスの快楽を作り出して完璧な幸福感を満喫するための動きは尻の筋肉が強ければ強いほど効果的になるわけで、尻の筋肉が弱ければパートナーとの協調的な動きにバランスを欠き、効果は減少してしまう。大臀筋の訓練はそのためにとても重要な位置づけが与えられる。
両脚を閉じて直立し、足の裏は心持ち曲げておく。そして尻の筋肉に力を入れ、また緩めることを繰り返す。筋肉に力を入れたとき、男性はペニスを張り切らせ、女性はヴァギナの筋肉に力を入れるようにする。

尻で歩く運動:脚を開いて座り、左右の手を左右の膝にそれぞれ置く。その状態で左の尻の筋肉に力を入れ、同時に左の膝をわずかに折り曲げる。すると尻が前に向かって持ち上がる。左の尻が少し前に進んだら、膝をまた元に戻し、今度は右の尻の筋肉に力をいれて左のときと同じようにする。
この運動は、最初から膝を軽く曲げておき、尻の筋肉に力を入れるときに膝を深く曲げて腿が胸につくようにして行なう方法でもよい。
この運動は疲れすぎないなら何度繰り返してもかまわないが、練習としては週一回行なえばよい。代わりに、実際の性交が行われるとき、いろいろな性交運動の中に織り交ぜて使ってみるのである。この運動には、尻から腰にかけてのサイズを小さくする効果もある。


体操は、身体の柔軟さを高め、血行を良くし、スタミナを持続させる効果がある。セックス時に行なわれるさまざまな運動を円滑にさせ、血行がよくなることで刺激に対する感受性がより鋭敏になり、長時間の性交に耐えるためのスタミナを涵養することができる。セックスの最大の快楽を感じ取り、受容し、堪能するのを目的に据えているアスマラガマの実践に体操はなくてならない補助項目のひとつだと言えよう。特に女性は体操を励行してヴァギナの壁をセンシティブにし、最大限の快感を感じ取ることができるようにするべきだ。

性交運動が全身運動であるということからもわかるように、アスマラガマの実践者はより効果的な呼吸方法を体得しておく必要がある。一般的に、人間が行なっている普通の呼吸は、胸の上部を使って浅く空気を吸い、喘ぐように息を吐いている。そんなやり方では酸素が全身の器官に十分に行き渡らず、各器官が十分な機能を果たせない。性的快感にしても同じことが言え、激しい運動の結果得られる最大の快楽を十二分に堪能することに能力不足を起こすのである。だから、セックス体操に限定することなく、より効果的な酸素の吸入を訓練するための体操もアスマラガマにとって有意義なのである。オーガスムを遅らせる際の呼吸や腰の筋肉の活動性にも正しい呼吸法は影響を与える。
体操を励行することはまた、精神集中の訓練にもなる。精神集中力は、セックスの中でオーガスムに向かう性的快感の上昇をある一点で留めることを可能にする。自分の精神を快感の中に浸し、忘我の境地で快楽に溺れている内に、オーガスムに向かって登りつめる欲求が醸成されていく。アスマラガマが戒めているのがそれであり、その欲求をコントロールするのに精神集中力が弱ければアスマラガマの教えが実現されないのである。


< 基本性交体位 >
では最後に、アスマラガマが教えている十二の基本的性交体位について解説することにしよう。いつも同じ体位で同じプロセスの一本やりというのでは遅かれ早かれカップルの間に飽きが来るため、臨機応変に体位を変えて性交をフレッシュで魅力的なものにすることはたいへん重要であるとアスマラガマは説く。

十二体位の筆頭にあげられているのは、ジャワ語で「花粉を吸うハチ」と呼ばれているものだ。女性は仰向けで横になり、両脚を引いて膝が自分の耳の近くまで来るようにする。膝は楽に曲げておけばよい。この形は女性器を大きく開いて見せ、ペニスの挿入が深く容易に行なえるので、性交の快楽は最大限になる。男性は女性に覆いかぶさり、手や肘あるいは膝で自分の体重を支えながら女性と合体するのである。
ふたりは優しく抱擁し合い、ペニスはヴァギナにゆっくりと収納され、ペニスの緩慢な動きは快楽の高まりに連れて速さを増し、オーガスムの爆発に向かう。この体位では、男性がほぼ完璧に主導権を握って女性を導きながらふたりの恍惚の世界に沈潜していくわけだが、男性にとっては快感の高まりが一直線になりがちで、長時間セックスを維持するためにより大きい努力を払わなければならなくなる。痩せ型で活動的な男性と体力と性欲の強い女性の組み合わせにこの体位は理想的だ。

「こうらいうぐいすが花を吸う」と呼ばれている体位では、女性が枕を腰にあてがって逆V字形の形をとる。この形は女性に最大限の快感を与え、また短めのペニスにとってもその弱点を補うことができる。快感をさらに高めたければ、枕を腰から尻に移動させて逆V字形を内よりの曲線に変化させるとよい。そうすることで女性器は男性器に真正面から対面する。身体の太目の女性には最適な体位だと言える。

やはり女性が仰向けに寝そべり、男性が女性に覆いかぶさっていく形だが、女性の脚を肩に担ぐ体位もある。「ブラシがバッタを打つ」と名付けられているこの体位では、女性が引き上げた脚を肩に載せて性器を結合させ、男性は両手を床について自分の身体を支える。
この体位では、圧迫するタイミングをうまく体得する必要がある。動きが繰り返されることで快感が高まっていく。男性の腹部や腰の筋肉は圧迫を感じやすくなる。この体位で女性がもっと快感を高めるためには、女性の脚の位置を下げて男性の腰にからめつかせ、両脚で男性の腰をぎゅっと締める形をとればよい。女性の快感はさらに大きなものになる。この体位による性交は、互いにオーガスムに達することを先延ばししやすいために、長時間持続するセックスの快楽を愉しみたい場合に向いている体位だと言えよう。

男性が仰向けに横たわり、女性がその上に乗る体位もある。横たわる蛇を意味するタッサカマグリガンと名付けられている体位では、男性がまず仰向けで床に横たわり、膝を少し曲げて足の裏が床に着くようにする。女性は男性の腿の上に載り、手や膝で自分の身体を支える。そうしてから男性の上体に上から覆いかぶさっていくのである。女性は男性を愛撫したり接吻してあふれるばかりの愛おしさを表現し、ロマンチックな雰囲気に浸ることができる。男性が上になっているときと、ちょうど逆の状況だ。
男性の股間に載った女性は両脚で自分の身体を支え、自分のヴァギナにペニスを導くために両手を後ろに伸ばしてペニスを持ち、クリスを鞘に収めるようにペニスをヴァギナ入れながら、身体を下げていくのである。
それから、男性はペニスを上下させ、女性もヴァギナを上下させて快感を高めあう。この体位では性交の主導権は女性にあり、そしてまた、たいていの女性にとってもっとも円滑にオーガスムに達することのできる形とされている。反対に男性にとっては、オーガスムに登りつめることをコントロールするのに容易な体位であると言える。身体が太り気味で且つ射精が早めの男性と、細身で活発な、そしてオーガスムに達するための刺激を多めに必要とする女性にとっての理想的な体位がこれになる。

続いて、ジャワ語で「傾いた石碑」を意味するキジンミリンという体位が登場する。男性と女性は同じ方向を向いて横向きに横たわり、女性の背中が男性の前にくるようにする。
女性は脚部を上体と直角になるよう前に伸ばす。女性は上になっている腿を少し持ち上げながらペニスの挿入に便をはかり、男性は女性と唇を合わせながらペニスをヴァギナに挿入するのである。そのときに挿入がスムースに行なわれるよう、パートナーの反応を確認しながら対応する労わりと協調性がふたりに求められる。この体位での性交運動は、男女が互いに同等の軽やかさで行なうことができ、そのためにふたりは同じようにリラックスして快感を求めることができる。
あるいは女性の腿を男性が持ち上げるのもバリエーションとして使える。そして、腿から手を放して運動を開始するのもよいし、運動が速まってくれば女性の腿をより高く直立させて奥深くまで挿入するようにもできる。
キジンミリンの体位では、女性はペニスの挿入が最適な位置になされるように、自分の手と身体のポジションを調節しながら男性を導くことができる。だからこの体位は、性交における男女の関わり合い方が同等であることを感じさせてくれるものとなるのである。この体位はまた、オーガスムに達した後の後戯として用いられることも多い。

道化師が大門を開くというレゴルムガミンケップと名付けられた体位は、まるで幼児が遊んでいるようなスタイルだ。ふたりは床に脚を前に投げ出して座るか、もしくは一方がしゃがんだ状態で抱き合い、性器を結合させる。そしてふたりは、ゆっくりしたリズムで前後に身体を揺らすのである。まるで揺りかごのように。
最初の五分間はどんなにこそばゆい気持ちになっても、笑い出してはならない。真剣に気持ちを集中させることが肝要だ。快感が上昇し始めれば、もう笑うどころではなくなるだろう。オーガスムに達したとき、男性は女性を更に引き寄せて互いの性器を密着させるようにするのがよい。

スートラギヌブッと呼ばれる体位は、四つんばいになっている女性の後ろからペニスを挿入するスタイルだ。女性はベッドの上で両手あるいは両肘と両方の膝で四つんばいになり、男性は女性の尻を前にして膝立ちする。
ペニスのちょうど前に置かれているヴァギナに、男性はゆっくりと挿入するのである。男性は自分の体勢を好きなように調整できるので、バリエーションとしていろいろな形を取ってみればよい。
スートラギヌブッの体位では、女性が四つんばいの上体に角度をつけることによってより深い快楽を得ることができる。その場合、尻はそのままの高さを保ち、顔を枕に近付けるのである。こうすることでペニスはヴァギナのもっと奥まで差し込まれるようになる。男性にとってこの体位は乳房や下腹部への愛撫も容易であり、男性の悦びも倍化される。男性の多くがこの体勢での射精を好んでいる。

コドッグムリルグと呼ばれている体位では、発生する快感は他の体位にくらべてはるかに大きい。女性はしゃがんで上体を前に倒す。男性は女性の後ろで女性の両ふくらはぎの間から膝を差し込む。うつぶせに横たわっている女性の上から男性がうつぶせに多いかぶさり、ふたり一緒に起き上がる形でもよい。いずれの場合でも、ペニスは女性器の膣口にあてがわれることになる。
それから男性は女性の腰をつかんで引き寄せ、そのとき男性は女性の脚を広げてやり、そうしてペニスをヴァギナに挿入する。この形はペニスがヴァギナの一番奥深くまで達し、ペニスが実際よりも大きく長いように女性には感じられる。
その一方で、女性側のヴァギナの締め付けも他の体位より強いものになる。この体位は女性にとって、ヴァギナに得られる快感は最大になるものの、乳房に得られる快感は小さい。この体位はオーガスムのコントロールが容易に行なえる男性に勧められるべきものだ。そうでなければ、男性に強烈な快感を与えるこの体位では、たとえ早漏でない普通の男性であっても、あっさりと一直線にオーガスムに向かって突き進んでいく可能性が高いからである。ではありながら、巨根羨望を持つ男性にとってこの体位は、自分のペニスが実際よりも大きくなったように感じられるため、大いに魅力的であるのも確かなのだが・・・

飛行する小鳥を意味するプレンジャッミベルと名付けられた体位は、椅子に座った男性が女性を膝の上に載せて行なう性交の形である。
男性は肘掛のない椅子に座り、女性は男性の膝の上に乗って抱擁し合う。この形では、動きの主導権は女性が握り、女性は男性に強く抱きつきながら自分の動きを調節する。男性が行なうのは、女性へのしっとりした愛撫と接吻だけ。
この体位を行なう場合、椅子は大きな鏡の前に置くのがよい。ふたりは鏡の中に自分たちの姿をまた異なる視点から見ることができ、興奮が高められるのである。

タンチュップカヨンと名付けられている体位は、女性がベッドに腰掛け、男性は立って交わる形態だ。タンチュップカヨンというのは、ワヤンクリッの上演でエンディングを示すためにグヌガン(gunungan)をスクリーンの中央に持ってくる作法につけられた名称である。これはどうやら女性の腰掛け姿がグヌガンにたとえられたためのようで、決してセックスプレイのエンディングというわけではない。
ベッドに腰掛けることによって女性の脚はぶらぶらと自由に動く。それが引き起こすセンセーションがこの体位の狙いであるにちがいない。ペニスがヴァギナに挿入されたあと、女性が後ろに手を着いて反り身になり、男性の下腹部に向かって女性器を押し付けてくる形は強烈な性的興奮と快感をふたりにもたらすものだし、ほかにも快楽を高めるためのバリエーションを探すことができるだろう。ただし、立ち姿でのオーガスムを好む男性は少なく、この体位の弱点はそこにある。

「目のないトンボ」あるいは「行列しないで飛ぶトンボ」と名付けられている体位では、男性が椅子の下の床に座って椅子に座っている女性と向かい合い、椅子の脚をはさむようにして両脚を前に伸ばすのである。それから両手で女性の腰を持ち、ゆっくりと自分のほうに引き降ろす。女性の身体は落ちてきて男性の腿に乗る。両脚は男性をはさむ形になり、上体は椅子の上で両手あるいは両肘に支えられる。そうしてから、ふたりは性器を結合させるのである。快感を高めるために、女性は自分の下腹部の高さを変化させながら動くのがよい。

アスマラガマが奨めている最後の基本体位は、ジャワ語で「魚のけんか」と名付けられている体位だ。この体位では、男女が頭と足を逆にして寝そべる形を取る。互いに相手の脚が自分の頭の位置に来るので、相手の性器の眺めは普段と異なるセンセーションをもたらしてくれる。この体位では、ふたりはたいへんリラックスした性交を行なうことができる。その形でペニスをヴァギナに挿入し、男性は背中を緊張させては弛緩させるという運動を繰り返すことでペニスに律動を与え、女性にえも言われぬ快感を与えることができる。女性がさらに快感を深めたいときには、女性はゆっくりと背中を後方に下げていき、男性の両脚の間に上体を沈めていくのである。


アスマラガマが教えてきたものは、社会を構成する最小単位である家庭がしっかりと構築され、そこで生活する男女のカップルが幸福な暮らしを営みながら次世代を養育して世代の交代を次々に伝えていくための基本となるものだ。安定し発展する社会を築くことを目標に据えたアスマラガマの本質はそこにある。一対の男女をその家庭の中にしっかりと結び合わせ、不倫や離婚といったことがらが起こって家庭を崩壊させることのないようにするための手引きがそれなのである。性愛による大きな満足感がふたりのお互いに対するいとおしみといつくしみの心を深いものにし、それを通してふたりが精神的に強い一体感を共有することで、他の異性に移ろうとする心は弱められる。アスマラガマは性愛における自己の快楽追求を教えるものでは決してなく、結婚という社会儀礼を通じて結びついた男女が肉体と精神を本当に結びつけてお互いに対するベターハーフになるための教えなのである。
家庭中心主義や家族主義といった保守的な慣習を内側から支えてきたものではあっても、結婚という慣習がいまだに社会に強く根を張っている現状を見る限り、いかに個人主義を声高らかに主張しようが、結婚という制度をより合理的に営む上でアスマラガマを活用することはきっと有益であるにちがいない。