「騒音文化論」


「年末の風物詩、トロンペッ」(2004年12月20日)
どう見てもその形はサクソフォンだが、インドネシア人はみんなトロンぺッと呼ぶ。サックス形、ビューグル形、ホルン形などさまざまな楽器をかたどったトロンペッが所狭しと吊り下げられている住宅地の道路脇。インドネシアでトロンペッは金管楽器のトランペットを意味しており、そして大晦日の夜に年の変わり目を祝ってみんながブーブー吹き鳴らす紙ラッパをも意味しているのだ。
伝統的な紙ラッパトロンペッはまっすぐ長い筒の先が少し朝顔のように開いた形をしていて、中世ヨーロッパの古城でファンファーレが吹き鳴らされるときに使われたあの楽器に似ている。音楽界ではファンファーレトランペットと呼ばれるその楽器がどうやら紙ラッパの由来ではないかと想像される。
毎年年末が近付くと、首都の路傍にトロンペッ売りが姿をあらわす。かつてはファンファーレトランペット形一色だったものが、どこの知恵者が考え出したのか、今では紙ラッパもバリエーションが増えて、伝統型トロンペッの傍らにほかの楽器の形を模したものが並んでいる。このイノベーションが起こったのは今から数年前のような気がするが、詳しいことをご存知の方はいらっしゃるだろうか?イノベーションが起これば、新しいものはより高く売れる。伝統型が3千から5千ルピアの値付けなら、サックス形等々は1万ルピアを超える。あくなきイノベーションは紙ラッパの世界でも進展しており、今年の最新モデルはドラゴン形で、これは3万ルピアなどと売り手は言うが、タワルムナワルの効かないマーケットは路上にはない。
12月も半ばを過ぎたころから、トロンペッ売りはジャカルタ都内のハントゥア通り、ムラワイ通り、バリト?通り、サワブサールバラッ通りなどの道路脇で店開きをはじめた。かれらの多くはブカシ県タンブンの農民で、この時期だけ紙ラッパ製造販売者に衣替えする。
原材料の古カートン紙、角度によって色が変わるホログラム紙、コルクはそれぞれキロ当たり3万から4万ルピア、そして音源となる小さい竹片とあとは紙のり、テープなど。1千個のトロンペッ製造に必要な資金はおよそ75万ルピア。
南ジャカルタ市ムラワイ通りの教会の前に荷を広げている紙ラッパ売りマルサン(40代)は、このシーズンには1千5百個を作ることができるが、まず去年の売れ残りをはかなきゃ、と言う。もちろん商品にはそれなりに再手入れをほどこしてある。年一回の販売シーズンでしかもその期間はせいぜい二週間しかないというのに、大晦日の紙ラッパは社会の必需品と化しており、いつかは必ず捌けるものだ、と商人たちは気が長い。
大晦日の夜、首都圏ではあちらこちらで花火大会が行われ、モナスやホテルインドネシア前ロータリーは深夜の人出で賑わう。トロンペッ売りたちのその年最期の稼ぎ時だ。かれらの願いはただひとつ、大晦日の夜に雨が降らないこと。


「他人の災禍はわが愉悦」(2008年10月23日)
2008年5月6日付けコンパス紙への投書"Lampu, Klakson, dan Knalpot Kendaraan yang Meresahkan"から
拝啓、編集部殿。インドネシアの自動車が装備するべきライト・クラクション・排気管の規準に関する規則を作成するよう、国家警察長官にお願いします。自動車のヘッドライトはもはや何の制限規準もなしにほかの道路利用者を危険にさらすような使われ方をしており、交通事故発生の原因にもなっているのです。
いま、自動車の多くはとても眩しい白色光や黄色光のヘッドライトを使っており、加えてとてもシャープな光を投げかけるサーチライトまで使っています。わたし自身、これまで何回も、バスやトラックあるいは自家用車からオートバイに至るまでヘッドライトのとても眩しい光を向けてくる自動車のためにあわや事故寸前という事態を経験していますし、友人の中には夜間運転中に対向車のヘッドライトに目を射られて通行人をはねた者もあります。それだけにとどまらず、四輪車も二輪車もテールランプやブレーキランプを眩しい白色灯に替えているドライバーが少なくありません。早急に厳格な規定を設けて規制しないと、この問題は更に多くのひとをもっと眩しいライトを車に装備させる競争の渦中に投げ込むでしょう。もっと強い光のライトに替えて仕返ししてやろうと互いに競い合う事態に向かうのは必至ではないでしょうか。
ライトだけではありません。本来は警察・救急車・消防車だけに認められているクラクションを使う四輪二輪の自動車もいっぱいいます。そんな状況でありながら、路上の秩序を確立するべき警官がそれらの問題を放置しているという印象を拭うことができません。大勢の公職高官が自分の自家用車をそのようにしているから現場警官はそれに係わり合いを持とうとしないのでしょうか。レーシング用排気管についても同じことが言えます。レーシング用排気管がたてる轟音は市民の感情を荒れさせて喧嘩を誘うことでしょう。警察上層部はこの問題に関心を払い、早急に対策を講じるよう願ってやみません。ヘッドライト問題については照度の上限が定められなければなりません。警察はまた、夜間のヘッドライト取締りやクラクション・排気管などの定期的取締りを行って欲しいと希望します。最近はバンテン州のある警察署が排気管の取締りを行ったそうです。その結果は良好で、違反者には厳格な処罰が与えられました。工場の規準からはずれたライト・クラクション・排気管の使用は他の道路利用者にとってたいへんな迷惑になっているのです。[ バンドン在住、ディディッ・ドゥイヤント ]


「時間通りに閉店する方法」(2009年12月23日)
2009年3月7日付けコンパス紙への投書"Suara Musik Keras di Arena Bermain Anak"から
拝啓、編集部殿。2009年2月10日に子供たちがうちに遊びにきたので、あまりない機会だから三人の子供を南ジャカルタのカリバタモールにあるゲームセンター『ジュラシック・ワールド』に連れて行きました。そこへは何回か遊びに行ったことがあるのです。
19時半ごろ子供たちはゲームセンターに入り、それぞれのベビーシッターが付き添っているのでわたしはしばらくよそへ行きました。20時10分ごろわたしがゲームセンターに戻ると、なんとST12の曲を店の従業員が大音量で鳴らしているではありませんか。わたしの耳が痛くなるほどのボリュームですから、子供の鼓膜に悪影響が及ぶかもしれません。
ここは子供が来るところだし曲も子供向けのものではないので、わたしは女性の店番にボリュームを下げるよう注意しました。ところがその女性従業員は「夜遅くなると、こうすることになってるんです。」と言うだけで、こちらの頼みを聞こうともしません。それでわたしは男性従業員のほうに音楽の音量を小さくするよう頼みました。するとその従業員は不遜な態度で、「奥さん、あんたつんぼかね。」と言うではありませんか。感情的になったわたしは自分の手でボリュームつまみを回したところ、男性従業員はすぐに元のボリュームに戻しました。わたしは子供たちを集めてすぐにその店をあとにしました。
わたしはそのゲームセンターのサービスにたいへん大きな不満を抱いています。もう閉店したいというのなら、どうして客にそう言わないであのような音の暴力で客を追い出そうとするのでしょうか?わたしはその店の経営者に対し、子供に愛情を持ちエチケットを身につけた従業員を雇うよう忠告します。[ 東ジャカルタ在住、シティ・マルハマ ]


「カウボーイショーは暴力ショー?!」(2011年4月25日)
2011年2月26日付けコンパス紙への投書"Kekerasan di Cowboy Show"から
拝啓、編集部殿。2011年1月2日、日曜日、わたしの一家とわたしの親族数人がボゴール県プンチャッ(Puncak)のサファリパークを訪れました。園内で催されるカウボーイショーは愉快で面白いから是非見るようにと推薦されたので、わたしたちも興味を持ちました。
それで妻と4歳半の娘、そして親族たちもショーの会場に入ったのです。ショーが始まりました。ところがこのショーは耳を聾するばかりに大きな銃撃音や殴る音に満ち満ちており、そればかりか血が飛び散るシーンまでありました。おまけに建物の壁が倒れて水浴中の女性の姿が現れたりさえしたのです。
もちろんそんなシーンもコミカルな味付けになっていましたが、喧嘩や撃ちあい、そしてひとを虐待するような場面がショーの大半を占めていたのです。始まって5分もしないうちに一家族がショーの会場から出て行きました。それはその一家の子供が大きな銃撃音に驚いて泣き出したからです。しばらくしてから別の一家がその後を追いました。わが家の娘は運良く眠っていたので、駄々をこねられることは免れましたが。それでも大きな音に驚いてときどき目覚めそうになりました。
このようなショーがサファリパーク経営者の監督から洩れていたのは不思議な気がしてなりません。ショーの中のアトラクションの一部として、出演者のひとりが観客の中の子供を招いて他の出演者を殴らせ、観客に拍手を求める場面さえありました。
サファリパーク経営者は12歳未満の子供にこのショーの見物を禁止するべきです。なぜなら、これは子供にとってまったく適切でない内容だからです。[ タングラン在住、ミッチェル・ナイバホ ]


「音はドゥン」(2014年9月17日〜10月1日)
インドネシア語では、ドゥン(den)という言葉が音を意味するシンボルに使われているようだ。これはつまり、音に関係のある言葉の多くにden-が使われていることから、そのような仮説を立てたくなるということであって、実際にインドネシアの言語学界がどういう説を立てているのかわたしは知らない。
音楽のリズムを口で表現することはどこの国でも行なわれている。日本ではズンチャという言葉が使われていたが、最近はどうなっているのだろうか?
たとえば、日本人がこんなビートを口で歌う場合、
__ ___ ____ __
●− ● ● ● ●  ●−
ズン チャズ ズンズン チャ

インドネシア人の中にはドゥンタッを使うひとがいた。こうなる。
__ ___ ___ __
den tak den den den tak

だから現実に、denという言葉は音そのものが擬音化されたものと見て間違いなさそうであり、それがゆえに音の概念を示すシンボルに使われているのではあるまいか。
実に多数の擬音語にden(dengのケースもある)が使われているから、それをご紹介することにしよう。出典は国民教育省言語センター編纂のKBBIと呼ばれるインドネシア語大辞典第四版。
1)dencang : bunyi yang bergerencang (spt bunyi pedang yg bersentuhan)
これはいわゆる剣戟の響きのようで、日本語のチャンバラのチャンと同じ音になっている。チャンバラというのは、大勢の人間がバラバラと入り乱れて斬り合い、チャンチャンと剣戟の響きがあたりに満ちるありさまを表しているとわたしは考えており、ふたつの擬声語が組み合わされたものだ。この言葉の由来を活動写真時代のシャミセン伴奏に帰する意見もあるが、わたしはかえってシャミセンの音を擬音化したのとは反対に、その言葉を口三味線でシャミセンの節に載せたものではないかという気がする。
幼い頃に、こんな節を唄っていたような記憶がおぼろげながらあるのだが、これが正調なのか変種なのかはよくわからない。ともかく、講談や無声活動写真の弁士が使っていたものが子供たちの耳にしみこんだのではあるまいか。
下のような節付けで唄っていたのがそれだが、わたしと同じような記憶をお持ちの読者はいらっしゃらないだろうか?
      ____ ____
6  7  6666 7777 7
チャンチャンバラバラ すなぼこ り
____  ____ ____
7‐66  6666 7‐77 7
斬ったら  血が出る ターラタ ラ

「砂ぼこり」が「チャンバラリン」となったり、「斬ったら血が出る」は「斬られて血が出る」に変ったり、といった口承文化ではありきたりのバリエーションが出現するのは、当然の成り行きだったと言えるだろう。
2)dengar : tangkap (suara)
聞くとか耳にするという日本語に対応させられているこの語は「声をとらえる」というのが第一義的な意味合いのようだ。ちなみに、声とは生物が発声器官から出す音であり、音とは空気振動となって聴覚に伝わるすべてのものというのが日本語の定義だが、インドネシア語のsuara(声)には生物が発声器官から出す音に加えて、道具類が立てる音、そして人間の耳に意味を伴って聞こえるものまで含まれている。一方、bunyi(音)は耳に聞こえてくるあらゆるものの総称だ。だから「虫の声」はsuara seranggaであり、「のこぎりの音」もsuara gergajiとなる。であるなら、日本人とポリネシアンだけが虫の音を声として聞くそうだが、インドネシアンはそれに輪をかけて、のこぎりで木を挽く音まで声として聞いていると言うことができる。
しかしながら、bunyi seranggaやbunyi gergajiという言い方もググッてみればその用例が大量に出現するので、一方が正しく一方が間違いであるということも難しい。そのあたりは、どうやら聞く側の意識の問題のようにも思える。聞くことに関わる意識と言えば、英語ではlistenとhearという異なる言葉が日本語の聞くという概念に対応している。listenというのはhearをするように努めるという意味を持っており、つまりは意志を入れて主体的に聴こうとする姿勢を含んでいると言えるにちがいない。人間は言うまでもなく外界から聞こえてくる音を受動的に絶えず耳にしているわけだが、時には能動的積極的に耳でとらえようとすることも行なう。人間のそういうふたつの態勢が英語のようにまったく異なる単語になっている文化もあれば、同一の単語にバリエーションを加えて表現されている国もある。インドネシア語ではlistenに対応させてmendengarkan、hearに対応させてmendengarという同一語根のバリエーションが使われている。日本語では言うまでもなく、listenに対応しているのが聞く/聴くであり、hearは聞こえるという表現が当てはまっているように思われる。
その昔、よろずインドネシア掲示板で「インドネシア人は耳が遠いのか?」という話題があった。投稿者はジャカルタ在住3年の駐在の方で、投稿内容は次のようなものだった。
会社で現地社員を絶対相手に聞こえるほどの音量で呼んでも聞こえていないようで相手が反応しない事が多く、たまに聞こえないフリをされているのかと邪推して頭に来ることがあり、またレストランやフィットネスジムでのBGMもボリュームが大きく、その方の通うジムでも客(欧米系)がよくボリュームを下げさせているそうで、その方はインドネシアの人は耳が遠いのか、それとも単に「ボーッ」としているだけなのか?というご質問。
似たようなことを体験された方はほかにもいらっしゃるにちがいない。
その話題につけられたレスポンスの中に、さまざまな回答があった。
*〜耳が遠いというより、視野が狭い、注意力散漫という感じがするのですが・・・
*呼ばれても応えないのは注意力散漫という気はしていました。〜工場従業員の注意力散漫からくるものと思われる(日本では考えられない)初歩的ミスが定期的に起こり対応に苦慮しています。
*〜名前を呼んだら他の人が返事することがあることから考えると発音の問題。レストランなどの例から考えると、注意力散漫というよりも、呼ばれることに慣れていない〜
*〜聞こえていないようです。特に運転手さんの場合車に乗ってすぐ[pulang ke rumah」(と言ったのに)エンジンもかかってないので、聞こえていると思ったところ、30分ほどしたら、"kita ke mana?"〜。まあ音にたいして少し鈍感なのかもしれません。
等々等々。
確かに現象としては、インドネシア人の音に対する感覚は粗野であり、繊細な感覚に乏しいという傾向があることも否めない。普通の社会生活の中で異文化人のわれわれには「うるさい」と感じられる音をかれらは放置して音量調節しようとしない実例には多々遭遇している。はるか昔には日本でも自動車の警笛をやたらブーブー鳴らしていた時代があり、騒音防止という動きが起こってそんな状況から脱皮した歴史があるわけで、インドネシアについては騒音防止という知識や認識がまだその端緒に着いたばかりの段階であるように思われる。
回答に記されている「視野が狭い」「注意力散漫」については確かにインドネシア人の姿のひとつを言い表していると思うが、もちろんそうでないひとびともたくさん存在しており、それがインドネシア人に一般的な特徴だと言うこともむつかしい気がする。自分の上司の呼び声が耳に入らないくらい気持ちがどこかに飛んでいる人間であれば、注意力散漫という言葉は逆なのではないかという気もする。そこには、「私」である本人の内面と「公」である自分の現在置かれている非「私」的な環境との間の距離の隔たりというものが関わっているようだ。非「私」的環境においてインドネシア人が長時間何事かに集中するための根気や辛抱強さという能力は概して弱いようだから、「注意力散漫」というのは、多分そういう根気を使い果たして精神的に疲れ切った状態のことを意味しているのだろう。
「呼ばれることに慣れていない」というものに関しては、インドネシア人の人見知り性向が関係していると思われる。人間大好きのインドネシア人が人見知りするなど信じられない、という反論が聞こえてくる気がするのだが、この人見知りというのは、その相手に自分がまだ慣れ親しんでおらず、その相手に対してどのように接してよいのかわからない戸惑いがあるという局面での相手に対する遠慮を意味しており、中でも自分の上司で外国人ですらあるひとに対する気持ちには雲の上の存在に対して抱く畏れがからみついていて、そういう異界に住んでいる人間に対して肌に感じるような対応ができないということだろうとわたしは考える。そのような相手にかれらは往々にして畏怖心を抱き、精神が萎縮してしまって反応が鈍重になる現象を示すのをわれわれが目にすることは実際にある。外国人の上司で、私的な会話など交わしたことがなく、つまりは談笑した経験がなく、相手の人柄がつかめず、異文化人だから自分の行為行動にどう反応してくるかわからない。言葉すら、自分とのコミュニケーションが正しく成立するかどうかもわからない。そんな上司が自分を呼んだ。「さあ、どうしよう・・・」知らんぷりを決め込もうか・・・・
もしもそんな心情的状況が的を射た分析だったとしても、公的な場での振舞いがほとんど訓練されていない、いい年をしたかれらの行動に接して、日本人上司はやはり不愉快な気持ちになるのを避けられないのではあるまいか。
この種の心理は相手が同じインドネシア人であっても、高位高官や大金持ちなど雲の上の住人に相対するときに往々にして発生するものだ。国税職員が税金を滞納している大金持ちの家へ督促に赴いても、その邸宅に一歩入れば完全に気押されしてしまい、納税を本人に迫ろうという気概など消え失せ、門番であるガードマンに早々に追い返されてくるという問題は国税総局上層部の中でしばしば話題になっている。
近所の寄り合いで、その大臣の施政を雄弁に批判していた町内の役員が、いざその大臣と同席したさいにはこちこちに固まり、よだれでも垂らしそうな笑顔を絶やさず、普段の批判などひとことも洩らさないで、大臣から何か聞かれる都度「イヤ、パッ」「イヤ、パッ」を繰り返すというようなことも頻繁に起こっている。
世間でエライ人間とされている存在に対して畏まってしまい、失礼をして怒らせることを恥ずべき失策と考え、いざ本人に相対すれば思わず土下座してしまうような精神は封建制度が人間に植え付けたものであり、封建社会などとっくの昔に絶縁してしまったこの現代においてさえ、いまだに一部の人間の心の奥底に生き続けていることを思えば、大王でなく大統領がおり、民主的な選挙で大統領が選ばれるような構造になっているためもはや封建国家ではないのだ、と国家行政指導層が口を酸っぱくしてみても、なかなかその通りと納得しづらい実態をわれわれはありとあらゆる事象から嗅ぎ取ってしまうのである。
だから、封建遺制に強く縛られた精神を持つ現地社員が日本人上司にいきなり名指しで呼ばれたとき、突然動きが取れなくなるということも起こり得る可能性があるとわたしは感じている。
更には、社員がオフィスで就業中にもかかわらず自分の世界に閉じこもってしまい、自分が呼ばれていることに気付かないということもありえなくはない。それが「ボーッ」としていると表現されている中身ではあるまいか。
回答の中に、その日本人上司のインドネシア語発音の問題を採り上げたひとがいたが、発音の正確さといったプリミティブなレベルを離れて、普段自分が身近だと感じている人間とばかりコミュニケーションしている人間にとって、異邦人だと感じる人間の言葉に精神移入ができない者がいるのも事実である。つまり、無機質な言葉は耳に入っているのだが、そこに感情の共鳴が起こらないために脳がその言葉を受け入れて理解しようとしないということもあるわけだ。このあたりはそれこそ「人見知り」問題に属す項目だろうとわたしは思う。要するに、その人間関係のカテゴリーがどうであるかということ次第で、listenの可能な相手と不可能な相手ができてしまうということなのだろう。たとえhearという面は同じように耳に届いているとしても、である。
音に対して鈍感な人間が多々存在することも疑いのない事実であるとわたしは思う。かつて乗った飛行機の中で、わたしの席の周辺が中国人の団体観光客に満たされてしまったことがある。その騒々しさには閉口し、苦虫をかみつぶしながら数時間座り続けるという体験をした。
田舎者が概して騒々しいのは、文明文化の発展段階における初期的な位置にあるためだろう。人類はもともとすべてが田舎者だったわけで、広い大自然の空間を我が物顔に利用する習慣がかれらの品性や素行を特徴付けたにちがいない。野放図という言葉を絵に描いたようなそんな初期的な姿が田舎者の本質だろうとわたしは考える。だから田舎者という言葉の意味合いを美的センスの低レベルな人間に限定するのでなく、精神の働きが総体的に繊細さを欠いている人間、粗野で自己中心的で、あまり他人の存在や他人の精神活動あるいは心理状態が視野に入っていない人間、というような特徴を田舎者という言葉に思い浮かべればよい。もちろんそんな人間も都市住民の中にいっぱいおり、その点では都市と田舎というディコトミーよりも文明と野蛮を形容詞に使うほうが合理的であるのは確かだ。
懐の深い大自然の真っ只中で人間同士が会話する際には、小声で優美に繊細に声を投げかけあうようなことは起こりにくく、感情のほとばしるままにわめき、叫び、ほえるというような行為がなされていたはずだ。現実に、何が起こったわけでもなく、だれかがその相手になっているわけでもない状態で、いきなりほえるような叫び声をあげる人間を、わたしはバリで見ている。その男はいわゆる狂人では決してなく、他人を負かしてその上に君臨することを信条にしている粗野な普通のバリ人である。その家の幼児も、遊んでいる最中にしょっちゅう猪狩声をほとばしらせる。女たちも普段の会話はまるで喧嘩をしているとしか思えないような激しい物言いで、しかも大声でそれをやるから、周りの人間にとってはうるさくてたまらない。村の中で、そんなこの一家を批判する人間は数少なく、ましてや面と向かって「静かに暮らせ」と教え諭す隣人はまったく見当たらない。
この一家は自動車を持っており、その自動車に大型スピーカーを据えつけてラジオやCDを大音響で鳴らし、低周波音(重低音)が大地を震動させ家の軒先をビビらせるようなことを一日に何回か行なっている。日本にもこの種の人間はいて、たいていはイカレポンチと呼ばれているが、日本の場合の標準的社会価値観から逸脱したり反逆して、あえて意図的に反社会的行動を取っているイカレポンチ人間とそのバリ人の現象は異なるものであるようにわたしは感じるのである。
それは何かというと、まず社会のスタンダードが異なっているから、日本でイカレポンチ人間が行なう騒音行為と粗暴社会であるインドネシアで行なわれるその行為は意味合いが違っていることがあげられる。インドネシア人は優しい精神を持っていて、繊細で優雅であるという見解はインドネシア人が自分のコンフォートゾーンで行なっていることについてのものであり、コンフォートゾーンの境界を出てリヤンが満ち溢れている世間という場に立ったときのインドネシア人像が脱け落ちている。インドネシアにおける世間と呼ばれる境地はジャングルなのであり、そこはホモホミニルプス境なのであって、これすなわち粗暴がジャングルにおける性格を特徴付けるものの筆頭にあげられるにちがいない。そういうジャングル世界での生活では常に一触即発の危機に対応できるよう物理的力の能力を持つ必要があり、さらに持った能力を一瞬一瞬のできごとに即応させて使うことのできる精神性が求められる。人間をそういう状態に保つための要素のひとつにアドレナリンがある。アドレナリンが身体に充実していることで、人間は自分がジャングルに完璧に対応できる状態にあるという確信を持つことができ、それがある種の自己満足という精神的快感をもたらすのである。だから、そういう社会にいる人間にとってアドレナリンはたいへん有益な価値あるものとして見られることになる。
日本でも「元気がよい」ということは特別の価値観を備えていた。子供にせよ大人にせよ、元気のない人間は世の中を暗いものにし、元気のよい人間は世の中を明るくするという人間観はきっと今でも保たれているにちがいない。プリミティブな社会では、その元気がよいという状態がサバイバルに欠くことのできない要素のひとつであり、必然的に、優れた人間の能力である活動的行動的な態勢とそれに付随する大声でわめいたりほえたりすることは野生人間の当たり前の姿だったにちがいないと思われる。
そういうある種のヴァイタリズムを裏付けるネタとして、トウガラシが出てくる。インドネシアのあるTV局で、「トウガラシを噛んで走るとスピードがアップする」というテーマで科学ドキュメンタリーを放送していた。普段から陸上競技に慣れている青年男女数人を使い、まず普段通りに百メートルくらいの距離を走らせる。その結果が記録され、次にひとりひとりがトウガラシを噛みながら走ってそのタイムを記録し、両者を比較する。するとなんと、全員がトウガラシを口に含んで走るほうが成績が良かったのである。これはつまりドーピングの一種ということになるのだが、ドーピング禁止のスポーツ競技でトウガラシは排除対象になっていただろうか?
それはともあれ、トウガラシを食べると、身体の動きが活発化するということをそれは意味しているにちがいない。これぞ、野生人が求める「元気の出る」状態を実現させてくれるものなのだ。これまで「熱帯地方のひとはどうしてトウガラシを入れた辛い料理が好きなのか?」という質問が繰り返されていたのだが、発汗作用を促して身体を冷やすというようなものでなく、かれらが今よりもっとプリミティブだった時代に、生きるためのヴァイタリズムをトウガラシが与えてくれるという発見があったことの結果ではないかという気が、わたしにはしている。
余談だが、発汗云々の話は韓国人がトウガラシを入れた鍋を愛好する事実を前にすると消し飛んでしまうのではあるまいか。おまけに鍋の中身が熱せられているのだから、真冬でも体がホカホカして汗が流れ出る。トウガラシを食べることと熱いものを摂取することのダブル効果によって体中の血行がよくなり、体温が大幅に上昇するのである。熱帯地方ではそこまでしないものの、トウガラシをたっぷり食べて血行を良くし、身体の運動性を押し上げる。身体を汗で冷やすことを目的に体温を高めるというのは、今ひとつピンとこない奇妙な思考だとわたしは思う。わたし個人はそういう奇妙な思考についていけないのだが、熱帯の人たちはみんなそういう奇妙な発想を本当にしているのだろうか?
ともあれ、住宅地区の真っ只中で、カーコンポの重低音を轟かせながら大音量でCDやラジオを流すのも、町中を同じようにして車を遊弋させるのも、そうやって自分と仲間のヴァイタリズムを高めることを目的にして、かれらは行っているにちがいない。そういうヴァイタリズムを価値あるものと定義付けている社会は、やはりそういう文明発展度の社会なのだということが言えるにちがいない。その事実を裏付ける事象はきっといろいろ、読者も見聞されているのではあるまいか。
音に限って言うなら、重低音と大音量で身体の機能をびりびりと高めることがかれらにヴァイタリティを与え、その種の快感に酔うという反応を引き起こす。町内で結婚式や祝賀の催しが行われると、レンタルサウンドシステムが重低音と大音量を轟かせ、行楽地へ行っても同じように耳がつんざかれ、人間同士のコミュニケーションでも大声でわめき、且つほえ、そうやって高いデシベルの刺激を頻繁に耳で受けながら快感に酔っている人間であるなら、耳が遠くなって当たり前ではあるまいか。「インドネシア人は耳が遠いの?」というテーマは、そういう広がりを持つ話題なのかもしれない。
穏やかで平和な世の中に暮らしている文化のひとびとにとっては、その社会秩序維持に適切な量を超えるアドレナリンはかえって害悪となる。社会のスタンダードとわたしが上で述べたのはそのことだ。いつでも、だれとでも物理的力を使って闘争し、リヤンである相手の生命を破壊することにも勇敢なことが世の中で価値を持たされている文化において、アドレナリンに必要以上という上限などなく、常にアドレナリンを沸かしている人間が優れた人間として位置付けられる。だからそんな文化にアドレナリン中毒などという観念は生まれようがない。
そういう文化だからこそ、アドレナリンを大放出させる重低音での空間震動はかれらに心地よさをもたらすものなのであり、バリのわが家の隣人一家の騒音公害が村の中で害悪扱いされていないのがそれを証明しているにちがいない。その車は家に駐車しているときだけ騒音を撒き散らすのに使われているだけでなく、そんな重低音を街中に撒き散らすために車の持ち主は道路を震動させながら町へ出て公道の賑わいの中を遊弋してくるのである。
バリでそんなことをしている人間は決してひとりやふたりではない。バリの賑わう公道を、少々暑いが窓を開けたまま一二時間遊弋してくれば、ブンブンズンズンと重低音を鳴らして走っている車に何台かすれ違うはずだ。わたしの住んでいる村でも、わが家の前の道をそんな風にして通り過ぎる別の車があるし、再三上で登場している隣人のほかに、別の方角からもブンブンズンズンが聞こえてくるから、この村だけでもそういう人間が何人もいることは間違いない。そして、重低音には無縁でもクラクションをブーブー鳴らす車は数限りない。だから、インドネシアで車を運転する場合には、日本で行なっているクラクションなし運転はかえって危険であり、他車運転者や歩行者の注意喚起をクラクションで行なう習慣を身に着けるほうが事故に遭遇する確率は減少するにちがいない。インドネシアで、日本の感覚で自動車を運転するのはアブナイのである。
四輪車だけでなく、二輪車も騒音を撒き散らす。群れている中学生たちがオートバイのエンジンをふかしながら連れ立って走る暴走族姿はバリの田舎道によくある光景だが、それとは別に群れない単騎の若者が大きめの排気量を持つオートバイのエンジンをふかして村々を高速で走りまわっている姿もある。大音響で数キロ四方に爆音を撒き散らすそのオートバイがわが家の周囲の道路を走るときには耳を覆いたくなるほどの騒音に見舞われる。その若者はそうやって遊んでいるだけであり、そんな雄々しい姿を地元のひとびとに誇示し、わが身の勇猛なイメージに陶酔しているだけなのである。
粗暴社会が騒音社会でないはずはない。日々の暮らしの中に静かな音を交差させ、そんな音の優美で繊細なクオリティを鑑賞しようとする姿勢は、たとえコンフォートゾーンの中であっても容易に実現するとは思えない。コンフォートゾーンの中にいても、普通の住宅に住んでいるひとにとって外界からの音は簡単に入り込んでくる。人間の耳は四六時中音の刺激にさらされており、外界に満ち満ちている粗暴な音がコンフォートゾーンというプロテクトエリアの中までも無遠慮に入り込む。世の中が騒音社会なのだから、すべての人間の耳がその聞こえてくる音に常時さらされており、そんな中で生まれ育つ人間の耳の能力がどうなるか、容易に想像がつくにちがいない。騒音文化人間の耳の能力は高めの興奮状態が持続しており、そのレベルより小さい音の刺激をとらえることに苦労しないひとのほうが少ないだろうとわたしは思う。だからわたしは、インドネシア人の音に対する鋭敏さ、また逆の意味での騒音に対する生理的な不快感といったものは、非騒音文化で育ったひとびととは異なるものであるように思えてしかたない。
3)dencing : berbunyi "cing cing" (spt bunyi kepingan logam tipis dan kecil jatuh)
薄くて小さい金属片が床に落ちたときに出す音だそうで、たぶんチャリンというのがその日本語バージョンではあるまいか。
4)dengap : 1 berdenyut keras (tt jantung), berdebar; 2 sesak dan cepat (tt napas)
心臓が激しく鼓動する、あるいは息が切れて切迫した呼吸をする。心臓の場合はドキドキだろうか?呼吸の場合はこの種の音ではないような気がするから、2は1の付随現象として定着したのではないかと思われる。
5)dengih : tiruan bunyi napas orang yg sesak
日本語ではゼーゼー/ゼイゼイに該当するのだろうか。
6)denging : tiruan bunyi lebah, bunyi nyamuk (bunyi "nging" di telinga dsb)
飛んでいるハチや蚊の立てる音。ブーンと耳の中に響いてくる音のように思えるが、ギーンという擬音にフィットする気がしない。周波数の高いウーンあるいはキーンという音かもしれない。
7)dengkang : tiruan bunyi katak "kang kang"
カンカンと鳴くカエルの声
8)dengking : tiruan bunyi salak anjing yg keras, teriak orang, dsb
これはキャンキャンかな?人間のわめき立てる声が犬のほえ声にたとえられるのはいずこも同じ
9)dengkung : tiruan bunyi "kung" (salak anjing, besi dipalu, dsb)
これはきっとコンコンだろう。だが日本でコンコンと鳴けば狐になってしまいそうだ。
10)dengkur : tiruan bunyi napas yg kuat dr orang tidur, keruh
dengkurという言葉自体がいびきを意味しており、mendungkurとすればいびきをかく動詞になる。ここのkeruhはdengkurの同義語
11)dengkus : tiruan bunyi orang menarik dan menghembuskan napas kuat-kuat dr hidung
鼻息が荒いとどんな音がするのだろうか?
12)dengkut : sama dengan dengkur
13)dengu : sama dengan dengkus
14)denguk : tiruan bunyi "nguk"
15)dengung : tiruan bunyi yg bergema dr baling-baling pesawat terbang, sirene, kumbang, dsb
プロペラの音はやはりブーンだから、こちらの方がブーンと耳の中に響いてくる音にちがいない。
16)dengus : tiruan bunyi binatang spt lembu, kerbau, kuda mengembuskan napas kuat-kuat
牛馬が強く息を吐くときの音だそうだ。インドネシア人の耳には「グス、グス(グは鼻音)」と聞こえているらしい。
17)dengut : tiruan bunyi gema memanjang spt bunyi burung puyuh, dan gung
gungというのはあのガムランなどで使われるgongのことで、ボ〜〜ンと長く響く音を指しているようだが、-utと切られているところはいまひとつピンとこない。
18)dentam : tiruan bunyi yg berat dan keras dr meriam
大砲を撃つときのドンという音。日本では明治四年から正午を知らせるために空砲を撃ち、それが「どん」と呼ばれた。dentamのdenが大砲の音の擬音という気がするが、そうなるとtamは何なのだろうか?
19)dentang : tiruan bunyi besi dipukul keras-keras
鉄を強く打ち合わせるときの音はガチャンだろうか?tangという響きはそれに近いように思える。
20)dentum : tiruan bunyi yg berat dan keras dr bunyi meriam
これはdentamと同じ意味だ
21)dentung : tiruan bunyi guruh
遠雷のゴロゴロではなく、ドーンと落ちたときの雷鳴のようだ。間近に落雷が起こると、ドーンという大音響とともに、シャーンという空気の振動音が聞こえてくる。
22)dentur : tiruan bunyi letusan kecil
小爆発音もやはりdenがその擬音という気がする。turのほうがtamより距離や穏やかさを感じるから、衝撃力の強弱をそれで表しているのかもしれない。
23)denyit : tiruan bunyi tikus atau bunyi besi bergesekan
ネズミのチッチッチッという音の擬音のようだが、果たして、金属がこすれあうときの音はそれに似ていただろうか?
さて、冒頭に掲げたわたしの仮説は受け入れられるでありましょうか?それにしても、上述のさまざまな言葉の中に耳の機能をまるで絵画のようにあからさまに示しているものがあるのには驚かされる。その意味では、インドネシア語というのは人間の生理にきわめて近い位置に設けられた言葉であると言えるのかもしれない。
dengarという言葉の発音をdengingそしてdengungと比較してみていただきたい。キーンとする耳鳴り、ブーンと響く耳鳴り、そしてドゥガール(ガは鼻音)という、まるで5月の青空のようなイメージをもたらすその響きの違い。外界の音という音が明瞭に耳に入ってくるにちがいない状態をわたしはそこに想像するのでありますが・・・・。