「月明のジャワ海に没す」


スラバヤ市内のクンバンクニン(Kembangkuning)墓地はネーデルランド王国陸海軍軍人、蘭領東インド軍兵士、そして東ジャワの抑留キャンプで生命を落としたひとびとが葬られている戦争墓地だ。この墓地はオランダ大使館内の戦争墓地財団が管理しており、中へ入るためにはジャカルタに許可を申請しなければならない。なぜなら、そこはオランダの外交特権下にある土地だからである。

そこには5千を超える墓碑がある。タラカン・クパン・アンボン・バリッパパン・マカッサル・ニューギニアなど各地で散った英霊が終戦後20年以上を経て段階的にここへ集められた。再埋葬された英霊の墓碑にある年号はそこへ移された年号が記されているため、それを知らない人間を驚かせるのに十分な仕掛けになっている。

普段は静かなこの戦争墓地が、2012年2月27日、60人を超える大勢の来訪者でにぎわった。墓地の中央には白亜の大きい廟があり、正面中央にはひとりの軍人の肖像を描いたブロンズ板が掲げられている。その人物こそ、1942年2月27日に行われた日本海軍との戦闘で連合軍艦隊の指揮をとったカレル・ドールマン少将であり、かれの座乗する旗艦デロイテルは深夜の艦隊夜戦で海のもくずと消えた。この廟は、かれの戦功を讃えるとともに蘭印の国土防衛のためにその海戦で海に沈んだ艦艇乗組員たちの霊を慰めるために建てられた鎮魂の記念碑なのである。ドールマン提督の肖像の左側には、かれが乗った旗艦デロイテルがジャワ、コルテノールらを従えて航行する勇姿を描くブロンズ板が掲げられ、右側にはその艦名の由来となったネーデルランド王国海軍の英雄的司令官のひとりデ・ロイテル提督が活躍した時代の帆走式海軍軍船の勇姿が浮き彫りにされたブロンズ板が掲げられている。

ジャワ海海戦70周年を記念して催されたこの日の集いでは、参列した60人あまりの遺族を前にして駐インドネシアオランダ大使が海軍兵士三名に付き添われて太鼓とラッパの伴奏の中を廟に向かって歩み、赤白青の三色リボンを結んだ花輪をドールマン提督のブロンズ板の前に置いた。続いてカレル・ドールマン提督の孫ヤン・マールテン・ドールマンが花輪を行進する艦隊のブロンズ板の前に置いた。


ジャワ海海戦で海に散った軍人951人の中には220人の植民地原住民が含まれている。廟の裏側にはその名前を刻んだブロンズ板が掲げられており、そこにはオランダ人・オランダと現地の混血者・そして純現地人の名前と認識番号や階級部署などが刻まれている。蘭印に置かれたネーデルランド王国海軍も現地人を募集したが、戦闘要員ではなく機関室や操艦助手、調理場あるいは補助的な雑用係として艦内勤務をさせた。陸軍が数百年前から戦闘部隊として現地人を使う伝統を作り上げていたのとは対照的だ。

現地人はマカッサルの航海学校で募集され、採用された者の中にはジャワ族スンダ族マルク族ミナハサ族バタック族などを出自とするひとびとが多かった。蘭領東インドへの侵攻戦が百パーセント日本民族とオランダ人を主にした西洋人との間の戦争だけにとどまっていなかったことをそれは意味している。さらに言うなら、太平洋戦争で東南アジア諸国へ侵攻した日本軍の矢面に、各国の植民地で防衛軍の中に編成された原住民部隊が銃を持って立ったケースは枚挙にいとまがない。当時の日本にしても、外国に領土を持ってその地の人間を兵士に徴用し、戦場に送り出していた事実もある。バタビアに向けて行軍する日本軍兵士を、ムルデカを叫びながら土下座し歓呼の声で迎えた現地人ばかりでなかったという事実にも、われわれは眼を向けなければならないだろう。

スピーチと黙祷のあと、参列者たちは70年前に散っていった英霊をしのんで、銘板に花びらを降らせた。儀式の最後に参列者たちは敷地内の一角に設けられた飲食の接待を受け、ブブルマドゥラの味覚を愉しんでいた。


フィリピンとマラヤ・シンガポールが陥落したあと、蘭領東インドの牙城であるジャワは日本軍の前に直接その姿をさらすことになった。連合軍が依然として大きい戦力を残存させているジャワ島の攻略は周辺部を段階的に切り取ったあとで集中的に行う、という戦略を日本軍は立て、1942年1月からカリマンタン島とスラウェシ島の軍事要衝を順次陥落させつつ、アンボン島・スマトラ島・ティモール島・バリ島に日章旗を翻らせてジャワ島包囲網を狭めていった。

ジャワ島の連合軍はその動きから、日本軍は三つのルートからジャワへ押し寄せてくると見た。東側はマルク〜ティモールを経て南下してくるルート、中央はフィリピンからカリマンタンとスラウェシの間を通って南下するルート、そして西側はマラヤ・シンガポールからジャワ海へ入ってくるルートの三本。大量の艦船と航空機を持ち連戦連勝で戦意の高い日本軍を劣勢な数の艦艇と航空機で迎え撃つ連合軍側は、海上戦に備えて艦隊をひとつにまとめなければならなかった。防衛ラインはジャワ海であり、ジャワ海に入ってこようとする日本艦隊をその最前線で叩くための戦術が、艦隊指揮官の基本方針となった。


ジャワにはフィリピンから脱出してきたアメリカ海軍とシンガポールから逃れてきたイギリス海軍そしてイギリスに協力して参戦したオーストラリア海軍の艦艇が集まっていた。植民地の防衛に敗れて逃れてきたアメリカ人とイギリス人にとって、戦意が低下していることに加えてジャワ島が陥落しようがしまいが自分たちの基盤に関わる問題ではないということが、日本軍の侵攻を正面から受けて立つ姿勢を曖昧なものにしていた。一方、いまや本国がナチスドイツに蹂躙されてしまった蘭印のオランダ人にとってジャワ島はもはや単なる植民地を超えたものになっていた。ドールマン連合国艦隊司令官にとっての困難はそこにあった。

ドールマン提督の指揮下に置かれた艦隊は次のようなものだった。各国艦隊の陣容はこれだ。
<オランダ艦隊>
軽巡 デロイテル
軽巡 ジャワ
軽巡 トロンプ
駆逐艦 ピートハイン
駆逐艦 コルテノール
駆逐艦 ヴィテデヴィット
<アメリカ艦隊>
重巡 ヒューストン
軽巡 マーブルヘッド
駆逐艦 スチュワート
駆逐艦 パロット
駆逐艦 ビルスベリー
駆逐艦 ジョンDエドワーズ
駆逐艦 ポールジョーンズ
駆逐艦 ジョンDフォード
駆逐艦 アルデン
駆逐艦 ポープ
<イギリス艦隊>
重巡 エクゼター
駆逐艦 エレクトラ
駆逐艦 エンカウンター
駆逐艦 ジュピター
<オーストラリア艦隊>
軽巡 パース

その寄合所帯を統括して指揮をとることをオランダ艦隊司令官カレル・ドールマン少将が命じられたのは、その時の最高司令官の順当な配慮だったにちがいない。艦隊はスラバヤに本拠を置き、ジャワ海目指して南下してくる日本軍を捕捉し、痛打を与えて撃退するために臨戦態勢に入っていた。


1942年1月に、ジャワに集まってきていた各国艦隊をまとめて連合国艦隊が編成されたとき、連合国軍総司令官の座に就いたのはアメリカ海軍のハート提督だった。ハート提督の戦力温存方針がジャワ島を死守しようとする意気込みの高かったオランダ人から不評を買ったのは当然の結果だったと言えよう。守りきれないのがほぼ確実と思われるジャワ島のために多数の巡洋艦と駆逐艦を犠牲にするのは適切な戦略ではなく、温存しておいて捲土重来の機が至ればその戦力を活用することこそ大きい意味を持つのであるという考え方は、支えきれなくなれば逃げ出すというフィリピンで起こったことを思い出させるものであり、帰るべき本国を失った蘭印のオランダ人にはとうてい受け入れることのできないコンセプトだったようだ。われわれはそこに、勝つために戦争をするひとびとと、死ぬために戦争をするひとびとの本質的な違いを見出すのである。

そして2月12日、ハート提督は解任されて蘭領東インド軍総司令官ヘルフリッチ中将が連合国軍総司令官の座に着いた。ハート提督はオランダ艦隊司令官カレル・ドールマン少将を連合国艦隊司令官に任命していたが、その指揮振りには不満があったようで、ハート提督のその人選には異なる思惑があったように感じられる。連合国の総司令官がヘルフリッチ中将になったと同様、陸軍はウェーベル大将からテル・ポールテン中将に、空軍はブレレトン少将からファン・オイイェン少将へとそれぞれの司令官に交代が起こり、オランダ側の意向に即した体制への転換が行われた。

ヘルフリッチ中将のジャワ島死守方針の結果、ジャワ海海戦を中心にした一連の戦闘で連合国艦隊は壊滅し、中でもオランダ艦隊はバリ島での海戦で損傷したためオーストラリアへ回航されたトロンプを除いて全艦が沈没した。ジャワ島防衛に参加した各国艦隊にも多くの被害が出た。とはいえ、ヘルフリッチ中将の方針はオランダ人大多数の考えでもあり、その立場に置かれたならばだれでもそうせざるを得ない順当なものであったことは間違いない。

ヘルフリッチ中将は後に1945年9月2日に東京湾に入ったアメリカ戦艦ミズーリ号艦上で行われた降伏調印式で、ネーデルランド王国を代表して降伏文書に署名している。それはさておき、ネーデルランド王国海軍の英雄に祭り上げられたのはヘルフリッチでなく、カレル・ドールマンだったのである。これはきっと軍人にとっての死の美学に関わることがらであったにちがいない。


1942年2月18日、日本軍バリ島攻略部隊がマカッサルを出た。陸軍第48師団の一部で編成した支隊を乗せた輸送船2隻は、駆逐艦大潮、朝潮、満潮に護衛され、さらに駆逐艦荒潮がそこに合流してバリ島を目指し、ロンボッ海峡を抜けてから、バリ島の南部東岸でトゥバン(Tuban)飛行場(現在のグラライ空港)に近いサヌル(Sanur)海岸に到着した。夜半に上陸が開始され、陸地からの攻撃は一切なく、上陸作業は進展したが、夜が明けてからアメリカ陸軍航空隊の爆撃機が襲来し、輸送船相模丸が被弾した。双発スクリューのひとつが機能を停止したため相模丸は船隊航行が不能となり、荒潮と満潮が護衛して先にマカッサルへ帰還することになった。それが19日夕方のこと。トゥバン飛行場は19日のうちに日本軍の占領が完了している。

日本軍攻略部隊が南下中であることを哨戒中のイギリス潜水艦トルーアントとアメリカ潜水艦シーウルフが発見し、連合国側は空爆と艦隊による反撃を決めた。ドールマン司令官はデロイテル・ジャワ・ピートハイン・フォード・ポープの5隻とトロンプ・スチュワート・パロット・エドワーズ・ビルスベリーの5隻を二隊にわけてバリ島バドゥン海峡へ発進させた。

もう一隻の輸送船笹子丸の上陸作業が終わったのは19日の夜中で、護衛の二艦とマカッサルへ戻るために現場を離脱しようと動き始めたとき、朝潮の見張り員が南方に不審な艦影を見つけた。大潮は前方哨戒のために先にサヌル海岸を離れて北上しており、朝潮が輸送船に付き添って出発を開始したちょうどそのときの出来事だ。


3キロ先を航行中の大潮に「敵艦発見」を連絡すると、朝潮は敵艦隊に向けて全速走行に移った。大潮も急反転して同じ方向に突進する。
デロイテルとジャワは向かってきた二隻の駆逐艦に照明弾を撃ちあげて砲撃を開始するものの、高速で動き回る二隻の敵艦に対する有効打が出ないままその接近を許してしまい、オランダ巡洋艦二隻は戦線離脱をはかって駆逐艦ピートハインに煙幕を張らせた。ピートハインも煙幕の中に潜り込むと思いきや、煙幕の外に走り出てきたピートハインに朝潮と大潮が襲い掛かる。

双方が砲弾と魚雷を撃ち交わす中で、朝潮が放った魚雷の一本がピートハインに命中し、ピートハインは火柱に包まれて沈没した。朝潮と大潮はさらに敵部隊を探して航行を続け、数分後にフォードとポープを発見して交戦が始まったが、互いに戦果のないままアメリカ駆逐艦二隻は戦線を離脱した。そこへトロンプに先導された連合国第二戦隊が到着して朝潮と大潮との間に雷砲撃戦が始まり、大潮は小破し、トロンプは中破した。

朝潮が発した戦闘戦果報告の無電を、相模丸を警護して先に航行中だった荒潮と満潮がキャッチし、その二隻も急遽戦場に向けて反転してきた。そして朝潮と大潮の二隻と交戦してきたばかりの連合国艦隊第二戦隊に遭遇したのである。海上夜戦が始まるが、戦闘隊形は単縦陣のまま変更されなかったため、すれちがいざまの反航戦が展開され、戦闘が終わると両者ともに夜の闇の中に消えていく形となった。この戦闘では満潮が被弾して機関が故障したため集中砲火を浴び、大きな損害を出したが沈没は免れた。大破した満潮は僚艦荒潮に曳航されてマカッサルに帰投した。連合国艦隊はスチュワートが小破した。こうして2月20日未明にバリ島沖海戦は幕を閉じた。


それまでにも繰り返し行われてきた日本軍の空爆で連合国艦隊の多くの船に被害が出ていた。ジャワ海の制空権は日本軍の手中におち、弱体の航空戦力を嘆く声は多かった。アメリカ軽巡マーブルヘッドは修理のためにコロンボに曳航され、そのあとジャワに戻らず本国へ帰還した。アメリカ重巡ヒューストンはジャワ島インド洋側の要港チラチャップ(Cilacap)で修理されることになった。

手ごまがどんどん戦列から削ぎ落とされ、補充はほとんど期待できないという状況下にドールマン提督と連合国艦隊は置かれていたのである。


ジャワ島進攻作戦を前にして日本艦隊が三つの南下ルートを進撃中との情報は連合国軍司令部に入っていた。大船団が南シナ海からカリマタ海峡に進出してきていること、スル海からマカッサル海峡に進出してきた艦隊はバウェアン(Bawean)島に迫っていること、ジャワ海東部ではバリ島北方のカゲアン(Kangean)島に敵影が濃いこと。

2月25日夕方、スラバヤの海軍総司令部にドールマン提督は各国艦隊司令官と上級参謀を集めて作戦会議を行った。状況説明がなされ、そして艦隊戦闘のさいの統一行動を高めるための方策が協議された。アメリカ重巡ヒューストンは後部砲塔が被弾して使えなくなっており、艦尾の砲撃力がなくなっているために陣形の後部に置くことができない。オランダ駆逐艦コルテノールは機関のひとつが故障したため速度が出ない。アメリカ駆逐艦ポープは機関室の損傷のために出撃ができない。「そんな状況ではあるが、明るい報告をひとつご紹介できることは本官のよろこびである。」と前置きして、われわれの軍事行動が空からの護衛付きで行えるようになる可能性が高い、とドールマン提督が発言した。会議出席者の間でざわめきが起こる。混じった笑い声の響きはシニカルだった。ぬかよろこびをいやというほど味わってきたひとびとがそこにいるのだ。明るい表情のままドールマン提督は続けた。「アメリカ空母ラングレーが攻撃機40機とパイロット30人を積んでオーストラリアからチラチャップに向かっている。それが絶好のタイミングでジャワに到着することをわれわれは期待している。」

しかし会議出席者の表情は変わらなかった。数が少なすぎるし、タイミングも遅すぎる。日本軍との決戦は明日明後日という差し迫った状況にあるというのに。
この作戦会議でドールマン提督は、各艦の取るべき動きを強く強調した。戦闘隊形の中で占めるべき位置、戦闘時の指揮に応じてどのような動きをするのか、寄せ集め艦隊の一番の弱点がそこにあり、それが戦闘の結果に直結していることを提督は十分知り抜いていたのである。

使える偵察機がほとんどない状況のために、艦隊の行動範囲はマドゥラ島からレンバンまでを索敵海域とし、敵艦隊の接近を待つ。そして敵艦隊を撃退したあとは西に向かい、ジャワ島西部で日本軍上陸部隊を撃滅し、首都バタビアの陥落を防ぐ。作戦要項文書が配布されて、作戦会議は解散した。


その時点で故障中だったポープを除いて、軍事行動が可能な全艦艇を集めた連合国艦隊がマドゥラ島南部の泊地からスラバヤ海峡を通ってバウェアン島方面に向かったのは、それから間もない夜10時ごろ。明るい月が煌々と照らす南国の海を艦隊は進む。デロイテル・ジャワ・エクゼター・ヒューストン・パースの巡洋艦5隻とコルテノール・ヴィテデヴィット・エレクトラ・エンカウンター・ジュピター・エドワーズ・ジョーンズ・フォード・アルデンの駆逐艦9隻から成る堂々の隊列だ。

ところが、バウェアン島海域に到着したものの、敵艦隊の姿はどこにもない。ドールマン提督はしかたなく索敵海域のパトロールに移った。翌一昼夜を費やしたあとの27日昼前、艦隊は日本軍機の空襲を受けたが被害はなかった。


ところで、アメリカ空母ラングレーは会議出席者のほとんどが予想したように、ジャワ島戦線にやってくることがなかった。1920年にアメリカ海軍最初の航空母艦に改装されてラングレーと命名されたこの艦は、ヘルフリッチ総司令官が要請した航空戦力増強のためにP−40を32機積んで2月22日、オーストラリアのフリマントルを出港した。目的地はチラチャップである。

27日早朝、ラングレーは護衛のためのアメリカ駆逐艦ホイップルおよびエドサルの出迎えを受けたが、バリ島西方368海里の海上でバリ島トゥバン飛行場に進出してきていた高雄航空隊の一式陸攻9機編隊に発見されて攻撃を受け、一波二波は切り抜けたものの第三波の攻撃で被弾し、炎上大破した。

航行困難に陥ったラングレーは最終的に放棄が決断され、あと120キロ北上すればチラチャップに到達する場所で、ホイップルが砲弾と魚雷を撃ち込んでその巨体を海中に沈めた。
その27日は、両軍艦隊の雌雄を決する戦闘がジャワ海で展開された日である。


27日昼、ドールマン艦隊は一旦スラバヤ港に帰投することにした。駆逐艦の給油が必要であり、そして乗組員も一昼夜を超える勤務で疲れきっている。しかしヘルフリッチ総司令官は異を唱えた。「たとえ空襲があろうとも、貴官は東方へ進撃して索敵と攻撃に専心されたし」

ドールマン提督はそれに応酬した。「当方はサプディからレンバンにかけての一帯を哨戒し、今は東方へ向かいつつある。索敵機の情報が十分にあれば、この作戦は成功するが、昨夜は何一つ情報がなかった。駆逐艦は給油を必要としている。」

午後3時ごろ、艦隊はスラバヤ港に接近した。駆逐艦が燃料補給の準備を始める。ちょうどそのとき、総司令部から通信が入った。日本艦隊がバウェアン島東海域に進出してきているという連絡だ。ドールマン提督は即刻方向転換を命じた。

スラバヤ入港をとりやめて反転し、全艦が戦闘隊形を整えたとき、激しいスコールが艦隊を覆った。雨が上がったとき、海上は明るく澄んで遠望がきいた。おかげで東方の北側水平線上にある黒い線が見張り員の目に飛び込んできた。ほどなくそれが巡洋艦2隻と駆逐艦12隻の日本艦隊であることが明らかになり、連合国艦隊は戦闘配置を下令すると戦闘速度に増速して突進した。時は午後4時過ぎ、場所はスラバヤの北西30マイル。

重巡那智と羽黒が連合国艦隊の前に忽然と姿を現すと、2万8千ヤードの距離からすぐに8インチ砲20門の砲撃を繰り出した。標的はエクゼターとヒューストンに絞られている。ヒューストンは空襲の被害で8インチ砲が6門しか使えなくなっており、しかも敵に対して不利な体勢になっていた。デロイテルも6インチ砲でその砲戦に加わる。この砲戦は弾着観測機を使っている日本側に圧倒的に有利に展開した。アメリカ・イギリス・オランダ三艦の連携攻撃にもどかしさを感じていたのは旗艦デロイテル上のドールマン提督ひとりではなかったにちがいない。エクゼターの指揮官もヒューストンの指揮官も同じ思いを抱いたのではあるまいか。

その海上での雷砲撃戦のさなかに、P−40戦闘機10機に支援されたA−24爆撃機3機が上空に出現して日本艦艇に爆弾を投下した。それは連合国艦隊乗員を喜ばせる効果はあったが、戦果は何もなく、おまけにP−40が日本軍の弾着観測機を攻撃しようとすらしなかったことから、戦況にもたらされた影響は皆無だった。日本軍の弾着観測機が撃墜もしくは戦場から追い払われていれば、海上での雷砲撃戦の行方はまた違うものになっていたかもしれない。

ドールマン提督は艦隊の砲撃力を最大限に高めるべく、戦闘位置の変更をはかった。しかし連合国巡洋艦部隊への日本軍の砲撃は的確だった。デロイテルにも8インチ徹甲弾が甲板を破って艦内に飛び込んできたが爆発は起こらなかった。それがドールマン提督の決意を促したようだ。かれは敵艦隊に向けての接近を命じた。

そのとき日本軍駆逐艦7隻が一斉に魚雷を発射してから煙幕を展張し避退したが、連合国艦隊に被害は出なかった。ヒューストンにもジャワにも砲弾は当たっていたが、戦闘能力が弱まることもなく、巡洋艦5隻は砲撃戦を継続した。

17時ごろ、それまで決定打が出ないまま雷砲戦を続けていた両軍にとって戦局の分かれ目がついにやってきた。羽黒の8インチ砲弾がエクゼターの機関部を大破させたために、エクゼターの速度が大幅に低下したのである。エクゼターは戦線から離脱しようとして左に回頭し、南に艦首を向けた。南にはジャワ島の海岸線がある。

エクゼターの左回頭に後続のヒューストンも倣った。前方にいる二隻が同じように動いたのだから、ヒューストンの後ろにいたパースもそれに倣う。先頭のデロイテルは後続艦が戦線離脱をはかっているのに驚き、自分も南に変針して艦隊の陣形は大きく混乱した。その混乱のさなかに日本艦隊が放った魚雷の一本がコルテノールに命中し、竜骨が折れてまるで折りたたみかけのペンナイフのような形で沈没した。


連合国艦隊が港に向けて逃走をはかったと見た日本艦隊はその追撃に移る。連合国側は煙幕を張って位置をくらまそうとし、しばらく雷砲撃戦がやんだ。ところが日本駆逐艦朝雲と峯雲の二隻が連合国艦隊に向かって突撃してきた。それを見たエレクトラ・エンカウンター・ジュピター・ヴィテデヴィットの4隻が迎撃に移り、戦闘が再開される。その間にドールマン提督はエクゼターをはずして巡洋艦部隊の体勢を立て直し、デロイテル・パース・ヒューストン・ジャワの4隻をもって日本軍輸送船団に一撃を与えようと考え、一旦南に下がってから日本軍輸送船団を探す動きを開始した。

駆逐艦隊決戦ではエレクトラが軽巡神通の砲撃で航行不能に陥り、その反撃を受けた朝雲も航行不能に陥った。しかしエレクトラはその後戦闘力を完全に失い、日没と共に沈没した。夜の帳が戦闘を一旦休止状態にした。
ドールマン提督は戦闘能力の落ちたエクゼターにスラバヤへの帰投を命じ、その護衛としてヴィテデヴィットを付けた。


艦隊は日本軍輸送船団を求めて北に進路を取った。北東に向かい、その後北西に向かい、あてもなく探してみたものの、偶然の女神は微笑んでくれない。そんなとき、ドールマン艦隊は輸送船団でなく日本艦隊に遭遇したのだ。最初日本艦隊はそれを友軍と思った。連合国艦隊はそこにいる日本艦隊の規模がよくつかめないため、攻撃を躊躇した。それが友軍でないことに気付いた日本側が照明弾を発した。連合国側も照明弾を打ち上げ、巡洋艦部隊の斉射が続いたが、当たらない。
戦闘態勢に入るのが遅れた日本艦隊は利あらずとして離脱をはかり、駆逐艦隊が煙幕を張りつつ攻撃行動に移ったが、双方まったく戦果なしに最初の夜戦は終わった。

ドールマン提督は考えをあらため、沿岸を西に向かって進むことにした。日本軍が上陸作戦を敢行するなら、ジャワ島西部のどこかの海岸で出会うはずだ。しかしアメリカ駆逐艦エドワーズの艦長はその動きに反抗した。ドールマン艦隊司令官からアメリカ駆逐艦隊に対し、魚雷が撃ちつくされたらバタビアのタンジュンプリウッ港で補給せよと命令されているが、砲弾のあるかぎりこれまで艦隊行動を共にしてきた。われわれは一旦スラバヤに戻って燃料と弾薬を補給する。ドールマン提督は静かに駆逐艦4隻を去らせた。「オランダ人の度胸は頭の中にたくさん詰まっているようだ。」というエドワーズ艦長の独白は言うまでもなく提督の耳に届いていない。
ところが提督の考えは裏目に出た。


駆逐艦2隻を従えた巡洋艦部隊はジャワ島の陸影を左に見ながら月明のジャワ海を西進していた。その先にオランダ軍がその日の午後に敷設したばかりの機雷原があることをドールマン提督は知らなかった。それを連絡するべき総司令部にさえ、その報告が届いていなかったのだ。隊列の最後尾にいたジュピターが突然爆発を起こして炎上し、数時間後に沈没した。潜水艦の魚雷攻撃を受けたと思ったドールマン提督は西進をやめて北に向かった。しばらく進んだところは昼間の海戦が行われた場所で、コルテノール乗員が重油の海を漂っているのが発見されたため、唯一残っていた駆逐艦エンカウンターが生存者を救出してスラバヤへ運んだ。こうして連合国艦隊は駆逐艦の付かない巡洋艦部隊だけになってしまった。

一時間ほど北上した連合国艦隊は、ついに日本艦隊と会敵した。かれらが出会ったのは、ふたたび羽黒と那智を主力とする第5戦隊だった。日本艦隊も陣形を北に向けて敵と平行に並び、砲戦を開始した。距離は1万1千ヤード。双方ともに砲弾が残り少なく、兵員も疲労の極にあったため、砲戦は緩慢な応酬になった。

散漫な砲撃戦が20分ほど続き、その間に両艦隊は距離を狭めてきた。そして羽黒が4本、那智が6本の魚雷を発射したとき、連合国艦隊はそれを完全に見落としてしまった。

デロイテルの艦尾で大爆発が起こり、艦体は大きく身震いした。艦尾の火災は小爆発を誘発させながら艦首へと広がっていく。後続のパースとヒューストンは突然速度の落ちたデロイテルとの衝突を回避したが艦隊行動は大きく混乱した。数分後に最後尾のジャワも大爆発を起こし、棒立ちになりながら急速に沈んで行った。

艦内の爆発が二度目三度目と続き、いまや命運尽きたデロイテルからパースとヒューストンに宛ててドールマン艦隊司令官からの指令が飛んだ。ヒューストンとパースは生存者にかまわずバタビアに避退せよ。それが最期の通信となった。ほどなくデロイテルも、カレル・ドールマン少将と344人の兵員を乗せたまま、月明のジャワ海に没した。