「血に飢えた激情」



オンプレガン(omprengan)というのは自家用車を使って営業する乗合いバスのことだ。言うまでもなく運送事業許可など取っておらず、客がいるから運送サービス業を行なっているにすぎない、いわゆるイリーガルビジネスである。オンプレガンが出現するのは、リーガル運送事業が民衆の欲している需要に適確に対処していないためで、どうしてそんなことになるのかはさまざまな要因が複合的構造的にからまっているのが原因であり、容易な解決が実現しない。もうひとつの要因として、国民総犯罪者化社会の民衆の中に培われた不順法不服従の精神がある。「決まりは破られるために存在している」というセリフがその精神の真骨頂であり、為政者が国民のための行政を行なっていないことがその根底にある。
さて、オンプレガンはそういうイリーガルビジネスだが客の需要にマッチするサービスを行う。サービスというものの理解や実践がフォーマル社会できわめて低レベルなのに反して、イリーガル世界では客の需要を適確にとらえ、かゆいところに手の届くサービスが実際に行われているという現実を目の当たりにするにつけ、どちらのインドネシア人が本当の姿なのかという思いにわたしはいつもとらわれるのである。
そんなオンプレガンが溜まる、まぼろしバスターミナルという場所がある。ひとの集散に都合の良いエリアにある道路脇のスポットが普通で、駐車禁止標識がある所も少なくないが、不順法不服従精神はそんな瑣末事を無視する。
ひとが集散する場所に金が落ちるのは世界普遍の真理であり、カキリマ屋台商人や道端商人が集まってきて市の態をなす。オンプレガンの数が増えればその交通整理をかねて地回りの人間も寄ってくる。さらにオンプレガン乗合いバスに客を連込んでやろうという、その類の人間も集まってくる。まったく行政の関与しない、自然発生的に増殖していく経済センターは、力の強い人間が舵取りをする自治社会の様相を呈していく。そして行政はその陰に回って上納金を取るというのが昔から続いてきた通常のパターンだ。

さて、オンプレガン乗合いバスに客を連込んでやろうという類の人間はチャロと呼ばれる。チャロとはいわゆる周旋屋であり、ダフ屋であり、客引きであり、つまりは売買の橋渡しをしてその取引のおこぼれにあずかろうというビジネスだから、やはりその種の力と度胸を持っていることが必要条件になる。要するにマーケットの中を金もうけのチャンスを探して徘徊している類の人間ということだ。このチャロは自分が受け持つオンプレガン車両を決めると、オンプレガンに乗りに来た市民を自分の担当するバスに押し込む。たとえ客が嫌がっても、強引に押し込めば金になる。オンプレガン運転手は魚心と水心の例えのように、押し込んでくれた人数分だけ謝礼を渡す。このような金額はだれが決めたということもなく相場が決まるようだ。西ジャカルタ市ダアンモゴッ(Daan Mogot)通りとジャカルタ外環状自動車道が立体交差する橋の下では、オンプレガン運転手がチャロに渡す謝礼はひとりあたり1千ルピアだった。

2011年4月9日土曜日14時ごろ、そのオンプレガン溜まりにカラワンに住むサマン32歳が叔父のサルピンと連れ立って現れた。そこからチュンカレン(Cengkaren)〜カマル(Kamal)に回るバスは今では2百台に増えている。10年前から倍増した、と古手の運転手は語っている。
ふたりは瓶詰め香水の商売をカポッムアラ(Kapuk Muara)のパサルで営んでおり、その日も香水の入ったダンボール箱を若いサマンが担いでいたのだ。オンプレガンの運転手ノヴィがサルピンの肩をつかんで自分の車に入れようとした。サルピンは怒り出し、二人の間で口喧嘩が始まった。するとノヴィの車のチャロをしているアデ30歳がノヴィに味方しようとして近寄ってきた。アデはズボンの裾を引き上げてそこに隠していた刃渡り20センチの軍用ナイフを手にするとサルピンに向かった。叔父があぶないと見たサマンは段ボール箱でアデの後頭部を撲り、アデの頭から血が流れた。
怒りの爆発したアデはナイフを二人に振るう。ふたりは軽い傷を負いながらもなんとかその刃先をかわしながら走って逃げた。アデは必死の形相で後を追う。ふたりは道路の向こうとこっちに別れて逃げた。サマンが逃げた方にはオートバイオジェッ溜まりがあって障害を作っており、アデは攻撃の相手をサマンにしぼった。
サマンは「助けてくれ、助けてくれ」と言いながら逃げ場所を探したが、オジェッ運転手たちは関わり合いを避けて知らん顔をした。オジェッ運転手のひとりモフタル50歳が見かねてアデの前に出た。「もういいじゃねえか。命まで獲ることもあるめえ。ああやって謝ってるんだから。」
しかしアデは収まるどころか、ますます猛々しさを増した。サマンは路上で転んでから、まるで土下座しているような体勢で「許してくれ、許してくれ」とアデに叫んでいた。アデはそのサマンに近寄ると、手にしたナイフを正面からサマンの身体に叩き込んだ。サマンの身体から大量の血が流れ、かれはそのまま動かなくなった。
アデは血だらけのナイフを手にしたまま、通りがかったアンコッに飛び乗って現場から逃走した。西ジャカルタ市警本部はただちにこの殺人事件の捜査を開始し、アデの顔を見知っている目撃者の証言から、翌日その自宅でアデを逮捕した。被害者が気の毒だ、という言葉がモフタルの口をついた。かれはたった1千ルピアのためにアデに殺されたんだから、と。


2011年4月18日夜18時20分ごろ、会社からの帰途西ジャカルタ市クンバガン(Kembangan)のプリインダモール(Mal Puri Indah)に立ち寄ってハイパーマートで買い物したカルト41歳はクブンジュルッ(Kebun Jeruk)のクドヤプルマイ(Kedoya Permai)住宅地にある自宅に向かうためプサングラハン(Pesanggrahan)通りの高架道路下で自分が運転するトヨタアヴァンザをUターンさせた。そのUターン場所に白い帽子をかぶった痩せ型の男がひとり、道路の真ん中に出てカルトの車を停めた。
男は車に近寄ると運転席の窓ガラスを叩いて「降りろ、降りろ!」と怒鳴り、呪詛をこめた罵声を浴びせてきた。車内にいるのはカルトひとりきり。ぞっとしたカルトはすぐに車を発進させた。突然轟音が聞こえ客席右扉の窓ガラスが割れた。カルトは死に物狂いで車を走らせる。サイドミラーを覗くと、痩せ型の男は路肩に停めてあったオートバイにゆっくりと近付いていくところだった。シャツの襟首に何か冷たく硬いものが触れているのに気付いたが、カルトは必死で家路を急いだ。
真っ青な顔で帰宅した夫の襟首を調べたカルトの妻は少し血が出ているのに驚き、そして銃弾が引っ掛かっていたのを見つけて愕然とした。
カルトは警察に事件を届け出た。現場での警察の聞き込み捜査によれば、現場付近で事件を目撃したカキリマジャムゥ売りは、オートバイを道端に停めて路上に降りた男がやってきたアヴァンザを停車させ、罵詈雑言を浴びせたあとポケットから取り出したコルトレボルバーを動き出した車に向かって撃ったとのこと。そのあと男は悠然とオートバイに戻り、別の方角に走り去った。
オートバイの男がなぜカルトを撃ったのかについてカルトは、どうやらその日帰宅途上でオートバイと軽く接触したのが原因らしい、と供述した。カルトのアヴァンザの左後部に擦り傷が残っていたことからかれはそう判断したのだが、かれ自身ほとんど事故意識のない程度の軽い接触だった。しかしそんな他愛のないことでも命取りになりかねない。銃弾がカルトのぼんのくぼを突き抜けていれば、かれの命はそれまでだったのだから。ジャカルタで車を運転する際のリスクにはこんなものもあるという一例だ。


2011年4月29日夜、ボゴール県チアンペアに住むサエフディン50歳の家で夫婦喧嘩があった。29年間の結婚生活で、この夫婦の間には喧嘩が絶えなかったようだ。
サエフディンはその夜妻のスリデウィ40歳をベッドに誘った。スリデウィは数年前から自分のビジネスを始め、帰宅する時間は決まっておらず、時には帰宅しないこともあった。それを苦々しく思っていたサエフディンは、思春期にかかった子供たちがほったらかしになっていることを何度か妻に注意しているが、スリデウィは頑として自分の生活パターンを変えなかった。だから夜かの女が家にいるときは、昼間の疲れが溜まっているのが普通だった。
ダプル・スムル・カスルという務めを妻が果たすのは当然だという常識の中にいたサエフディンは、妻の拒絶に怒った。翌朝になっても、サエフディンの怒りはまだ収まらなかった。また口喧嘩が始まり、激したサエフディンは「お前にはほかの男ができたので、もう夫に仕える気持ちがなくなったんだ。この売女め。殺してやる。」と怒鳴ってそこにあった包丁を手にした。やはり激していたスリデウィも夫に罵詈雑言を浴びせながら即座に夫に飛び掛り、夫の手から包丁をもぎ取ると夫に切りつけた。
4月30日午前7時半ごろ、サエフディンの家から数軒離れているサエフディンの甥イビン43歳の家にサエフディンがやってきた。サエフディンは右手で首筋を押さえており、そこから血が滴っている。病院へ連れて行ってくれ、とサエフディンはイビンに頼んだ。イビンがどうしたのか尋ねると、サエフディンは妻に切られた、と言った。イビンが手早く出かけるしたくを整え、サエフディンを連れて家を出ようとしているとき、サエフディンは床に崩れ落ちた。首の切り口から血が噴出していた。


2011年3月26日未明、中央ジャカルタ市タナアバンボンカラン(Tanah Abang Bongkaran)でタクシー運転手が乗客にナイフで刺されて死亡した。その現場に居合わせた目撃者三人の証言を総合すると、それはタクシー強盗事件でなく反対に雲助タクシーが乗客にからんだ挙句の出来事だったそうだ。
タクシーがやってきて、そこで下りた乗客はメーター通り2万1千ルピアを払った。ところが運転手は話が違うと乗客に食って掛かった。10万ルピア払うと言ったじゃねえか、と運転手が乗客に言う。「いや、ありゃあそのときの話の成り行きで、約束したわけじゃねえ。」と乗客が切り返したものの、運転手は頑として折り合おうとしない。乗客は舌打ちしながら、その付近にいたひとびとに金を貸してくれと言って回った。
どこのだれかも知れない人間に金を貸そうという人情はその一帯にも流れていたようだ。3万5千ルピアが集まって、乗客はその金を運転手に渡した。しかし運転手は依怙地だった。乗客の堪忍袋の緒が切れて、喧嘩が始まる。乗客は刃渡り15センチ余りのナイフを取り出すと、運転手の胸に突き立てた。運転席の横に立っていた運転手はその場に崩れ落ち、程なく息を引取った。乗客はそのまま現場から姿を消した。


2011年2月1日夜、タングラン県ソレアル(Solear)郡チサスンカ(Cisasungka)村の自宅に家路を急ぐ二人連れが、路上に横たわっている妊婦の姿を目にして足を止めた。かなり大きな腹をしているその妊婦はぴくりとも動かない。不審の目で近寄ったふたりは、妊婦の身体が血まみれなのを知った。ふたりは近隣にある民家に事態を知らせた。
住民のひとりがタングラン県警チソカ(Cisoka)署に通報し、警察が現場を調べにやってきた。そして犯行に使われたと見られる料理包丁と犯人が乗り捨てて行ったと思われるオートバイを発見した。それらの証拠品から捜査を進めたチソカ署は2月3日、チサスンカ村のタマンアディヤサ住宅地に住むアフマッ・ゴザリ30歳を重要参考人として連行した。ゴザリは抵抗する姿勢を示さず、警察の取調べに対して容疑内容を肯定した。
警察の取調べによれば、ゴザリの実家はタングラン県バララジャ(Balaraja)のグンボン(Gembong)村で、被害者のジョムラトゥン39歳と隣人同士だった。妻子のあるゴザリと独身のジョムラトゥンの間に肉体関係ができてもう長い。ところが妊娠したジョムラトゥンがゴザリに責任を取れと言い出したのだ。こんな年で夫がいないのに大きな腹をしていては、隣近所に顔向けができない、というのがかの女の言い分だったが、自分には妻子があるんだからと言ってゴザリはジョムラトゥンをなだめていた。
「もう妊娠7ヶ月で、このままだと生まれてくる子供は父なし子になるじゃない。なんとかしてよ。あんたの子供なんだから」。
そう言うジョムラトゥンの電話を受けたゴザリは2月1日夜にふたりで話し会おうと約束した。グンボン村にオートバイを走らせ、夜陰に紛れてジョムラトゥンを乗せるとタマンアディヤサ住宅地の家に連れてきて、ゴザリは再度ジョムラトゥンの説得にかかった。ところが精神的に追い詰められているジョムラトゥンはなかなか引き下がらない。そして聞き分けのない女に嫌気が差したゴザリは強硬手段に出たのだった。
台所の包丁を手にすると、いきなりジョムラトゥンの首筋に切りつけた。ゴザリの殺意を夢にも予想しなかったジョムラトゥンは頚動脈を切られてその場に倒れ伏し、動かなくなった。近隣の村々が寝静まるまで待ったゴザリは既に息絶えたジョムラトゥンの身体をオートバイに積むと、暗闇の中を街道へ向かった。しかしゴザリにとって不運だったのは、街道のはるか向こうからこちらに向かって歩いてくる人間が手にしている懐中電灯の明かりが見えたことだった。住宅地からずっと離れた辺りで街道から脇道に入り、なるべく発見されにくい場所に死体を捨てようと考えていたゴザリは、早々にその辺りに死体を捨てて身を隠さなければならない破目に陥ってしまった。かれはその辺りの道路脇に死体を捨て、血だらけのオートバイと凶器の包丁を少し離れた場所に別々に捨てると、ひそやかな足取りで自宅へ戻った。そして翌々日になってゴザリの破滅の時がやってきたのだ。


東カリマンタン州東端のヌヌカン(Nunukan)は東マレーシアとの国境の町だ。そんな場所へも外国人観光客がやってくる。太平洋戦争のとき、油井確保を目的にして日本軍が最初に上陸したタラカン島は戦址を売り物にする観光スポットになっており、そこまで来た観光客の中にはヌヌカンまで足を伸ばす者もいる。
ヌヌカンのアルナルン(alun-alun =町の中心部にある広場)の市場(パサルマラム)に姿を現したオランダ人の若者があった。2009年7月10日22時過ぎのことだ。
パサルマラムとは夜市のことで、近隣住民は夜市にやってきて飲み食いし、買い物をし、そして異性の品定めをする。賑わう夜市にヨーロッパ人の姿は目を引いた。プレゼール26歳は一人旅をしていた。前日ヌヌカンのホテルに投宿したかれはその日観光であちこちを回り、夜に再びホテルを出ると、腹を満たすためにパサルマラムにやってきたのだ。活気あふれる南国のパサルマラムはかれにエキゾチシズムをかきたてた。
地元のゴロツキのひとりバスリ・ビン・イスマイル28歳は、若い白人の男を見かけて近寄っていった。かれはプレゼールがひとりであるのに目を付けた。御しやすいにちがいない。
バスリはプレゼールに声をかけ、自分が案内してやろう、と売り込んだ。プレゼールは態度の横柄なバスリに煩わしさを感じ、バスリの申し出をかわそうとした。するとバスリは金をねだったのである。「腹が減ってるんだ。金をくれよ。煙草代もだ。」
インドネシア人であれば、パサルの中にいる輩が行なうそんなゆすりたかりの御し方はこころえている。だがインドネシアの文化とビヘイビアになじみのない外国人ならば、ぴしゃりと拒絶するのが普通だろう。プレゼールもその通りの行動を取った。バスリは引き下がらなかった。そして喧嘩になった。
喧嘩は拳だけのフェアプレー、というきれいごとはパサルの中に入る輩の不文律になっていない。喧嘩は血を見るものであり、命のやり取りにつながるものだから、かれらはたいてい刃物を常に携帯しているのである。プレゼールの常識は、バスリが手にした大型ナイフで覆された。
刃物と素手では喧嘩にならないとわれわれは考えるのだが、一方的な殺戮も喧嘩だというのがどうやらそんな輩の常識のようだ。プレゼールは12ヶ所を刺され、カリマンタンの田舎町で一命を落としたのである。


暴力というものは、人類史の中ではぐくまれてきたもののようだ。ほんの数百年前まで、人間は暴力をふるって勝つか負けるかの闘争を繰り返してきた。いや、今現在でさえ完全に暴力の封じ込められた社会など地球の上には存在しない。それが人間あるいは動物が根源的に抱えている能力なのかどうかはさておき、物理的な闘争で勝つということは自分や自分の生活領域内にいるひとびとおよび支配下にある財産といったものの保全や増加を意味し、負けることはそれらが無事には済まないことを意味していた。剣豪やガンマンが暴力の技能を研ぎ澄まし、自分の能力を誇っていた時代はたしかにあった。そしてそんなストーリーに若き血を燃え立たせる子供たちは今でもたくさんいる。
子供は概して攻撃性や破壊性をおとなより強く持っているようで、そこに人類の原初的性質としての暴力傾向をわたしは嗅ぎ取るのだが、はたして間違っているだろうか?男の子が暴力好きであるのは、たとえば性質が穏やかだと言われているインドネシアですら、かつてスマックダウン遊びが全国的に大流行した事実がそれを証明しているにちがいない。いや、そんな例をあげるよりも、読者ひとりひとりのもっと身近なところに掃いて捨てるほどのサンプルが詰まっているにちがいないとわたしは思うのだが、どうだろう。

暴力については明らかに性差があり、暴力を振るう人間の大多数は古今東西、間違いなく男性である。それは男性ホルモンに関わっているそうだが、その生理現象を人類はマスキュリニズムという心理現象に転化させたことから、メスを求めるオスの欲求の中に暴力志向が滲みこんでしまった。概してメスは強いオスが好きだ。
おかげで颯爽と肩で風を切ってパサルの中をのし歩く男が輩出し、サッカーの試合があれば暴力胴元としてのオスの威厳を誇示して回る。インドネシアで学校間あるいは町や村の間でタウラン(tawuran)と呼ばれる集団喧嘩が盛んなのは、やはりマスキュリニズム誇示の機会にそれが利用されているからのようだ。タウランでは頻繁に死人が出ている。

暴力は対人支配のツールであり、世界中でそれは昔から変わっていない。昔はそれが白日の下に大手を振って実践されていたが、今ではたいていの国で暴力は悪事として忌避されている。だからといって暴力が本当に人間存在の内奥から消滅したかと言えば、それは単に暗闇の中に押し込められているという違いでしかないようにわたしには思える。だから大多数国民の意識がひと昔前のメンタリティにある国では、比較的おおらかに暴力事件が多発する。弱肉強食文化というのは力によって人間の支配被支配の関係が決まるメカニズムを指しており、その力の内容は言うまでもなく暴力が大きい比重を占めている。暴力行使の行き着くところは殺人であり、そこから殺人こそが究極の対人支配であることをわれわれは思い出すことになるのである。社会が人間関係を上下方向で位置付けているところでは、対人支配への欲求が持続的な衝動をひとびとにもたらすことになる。

結局、弱肉強食社会には殺人事件も多発するということなのだ。
生命尊重という価値観が、そのような弱肉強食社会とそんな時代をずっと以前に通り過ぎた社会でかなり異なった様相を呈するのは、当然の成り行きと言えるだろう。

しかし弱肉強食社会だとはいえ、そんな社会のひとびとが四六時中他人に暴力をふるい、あるいは殺し合いをしているのかと言えば、決してそんなことはない。他人への暴力あるいは殺害といったことは人間の共同生活にとって害悪であり、暴力が大手を振って実践されていた時代でさえ人間の知恵は、秩序ある社会生活を優位に置こうとして、そのような害悪を押さえ込もうとしてきた。斬捨て御免のサムライ社会にも非暴力を高尚だとする思想が存在したように、生殺与奪の権利を持つ支配者がその権利の執行を極力減らすことで明君の名声を獲得するようなことは世界中どこにもあった。
そんな基盤の上に暴力行為や殺人を発生させるのは、人間が持つ激情であろう。もちろん怒りや憎しみといったネガティブな感情がその激情の中心に座を占めるわけだ。激情がその人間に我を忘れさせ、忘我のうちに他人を痛めつけ果ては殺してしまうというレベルにまでかれを押しやるのは、どこの国にもあるにはあるだろうが、やはり民族差があるような気がしてならない。言い換えれば、その民族が持っている固有文化に関わる部分であり、それこそが文化依存症候群あるいは文化結合症候群と呼ばれるものに該当するのは疑いもない。
ただし文化というものは、文明という時間スケールを基盤においた枠組みの中で組み立てられた価値体系であり、もちろん地域的民族的な境界を持っている。その価値体系は歴史の中で組み上げられてきたものであるため、歴史の未来の中で変化する可能性を十分に持っている。だから民族文化は変化しないというようなスタティックな見方はしないほうがよいとわたしは思う。

さて、個々人にセルフコントロールを求める社会でネガティブな感情のために忘我に至る人間は社会的に人格崩壊者と位置付けられる。まったくいないはずはないが、いても多くはないだろう。しかし対人依存の強い社会は個々人にあまり内省を求めない。極論すれば自分の行動は他人がさせているのであり、ネガティブな感情を自分に持たせたのは他人がそれを触発したためなのだ。理性が感情の指揮官になっていない社会では、その場そのときの感情が人間の行為を紡ぎ出す。そこでネガティブな行為がなされたにせよ、本人はそのときの感情が変化すればその行為をケロリと忘れてしまう。いや、忘れるというよりも、問題にしなくなるというニュアンスの方が正確かもしれない。このような社会では、個人の行動責任を追及する姿勢がセルフコントロール社会よりもはるかに弱い。個人は常に他人との関係の中で存在しているため、個人の行動はその人間ひとりのものにならず、その個人に相対した他人との関わりの中で判定されるのである。インドネシアは個人の責任をほとんど追及しない社会であるというハイポセシスにはそんな背景が付着している。

上で見た激情と暴力行為のメカニズムは、アモック現象とたいへん近いところにあるような気がしてならない。そのいずれもが、理性が指揮官になっていない人間が発現させている行為だと言えるだろう。この種の激情は人間の生命を破壊しようとする強い衝動をかき立てるものであるにちがいない。