「ロー・フェンクイ」


今や押しも押されもせぬ文化人アーチストに成長したオルガ・リディアが初出演したRCTI制作の「ロー・フェンクイ」は2001年1月23日に中国正月を記念して放映されたものだ。オルバ期の印華人抑圧政策から一転して、レフォルマシ期最初の大統領になったアブドゥラフマン・ワヒッが放った解放と復権の政策という時代の変化を敏感に受け止めたエポックメーキングな出来事がそれだったと言えよう。

タン・サンニオを演じたオルガは当時まだ25歳でキャットウオークや広告のモデルとして売り出し中だったが演技の世界は始めてで、どちらかと言えば画面に華を添えていた印象のほうが強い。主人公ロー・フェンクイを演じたフェリー・サリムもモデル出身だがテレビ映画の世界では当時既に5年の経歴を持ち、印華人を主人公にした珍しい映画はかれに白羽の矢を立てる背景が調っていたということにちがいない。
フェリーは続いてレミ・シラド原作の小説『チャボウカン』をニア・ディナタが映画化したときその主役を射止め、ロラ・アマリアを共演者にしたこの映画は2002年に公開されて大ヒットした。グス・ドゥル大統領の印華人解放政策はこうして着実に進展して行ったと言えるだろう。


小説ロー・フェンクイは1903年にゴウ・ペンリアンが新聞ビンタンブタウィに連載したもので、当時の印華人社会で起こった酷薄な金持ちが犯した犯罪事件を題材にしている。
ゴウ・ペンリアンは1869年当時バタヴィアのメステル、今はジャカルタのジャティヌガラ、で裕福な家庭に生まれ、1928年に同じその家で逝去した。かれは1893年から日刊紙ビンタンブタウィの記者となり、1906年にはシナルブタウィに移籍し、最後は1906年から1916年までプルニアガアン紙の編集長として采配を振るった。かれは1923年まで、社会矛盾と不正義をテーマにした小説をいくつか発表している。

「ブナワン」レシデン統治区の地主であり且つアヘン公認販売者が起こしたジャワ島の実話という触れ込みになっているこの小説が本当に実話だったのかどうかの確証はない。だが少なくとも、現実に発生していた種々の事件とその時代の風潮がこの作品を世に出す基盤となったことは疑いないだろう。中国人特有の悪は最後に滅びるという勧善懲悪譚がゴウ・ペンリアンの滑らかな筆致でわれわれをバタビア時代の印華人社会に導いてくれる。

ところでレシデン統治区というのはオランダ人行政官が最高統治者として地元民に君臨していた行政区分で、今で言えば州というランクに該当するものだ。
これからお読みいただく小説ロー・フェンクイのタイトルには、「ブナワンレシデン統治区のひとりの地主にしてアヘン公認販売者である『ロー・フェンクイ』という名の者に関わる、ジャワ島で起こった実話」と記されている。


太陽は西に没しようとしており、中国暦九日の月がいつものような夕景の中で天空に浮かんでいるが、西の空から残照を投げかけている太陽の光に消されて、まだ黄金色の輝きを発しない。

ラワスギッ部落の竹造りの陋屋の裏手にある畑では、ひとりの華人娘が小声で唄を口ずさみながら、野菜や花に水遣りをしている。この娘は17歳のタン・サンニオ。小柄だがけっして痩せているわけでなく、しなやかな腰の線、聡明そうな容貌、滑らかな肌、笑顔を見せれば白くすべすべした頬にはえくぼが現われ、眉は形よく、額は広がり、石榴のような唇のちょっと上には豆粒ほどのほくろがひとつあって、美しいこの娘に愛くるしさをたっぷりと付け加えている。
高く通った鼻筋をはさんで両の目が柔らかくて繊細な光を放っており、大きく結った髪には摘んだばかりの一輪のバラが挿しこまれ、すんなり伸びた首にそれが実によく似合っている。どんな聖人君子でさえ、この娘を目にすれば恋心が掻き立てられようというものだ。

身に着けている装身具は、銀を巻いた腕輪とやはり銀の一対の指輪がそのむっちりした腕から先を飾っているのが目を引くだけで、耳飾はなく、かんざしは鉄製、上着のボタンは鉄製のピンを使い、裕福な女性たちが普通に使っているサロンの帯と帯飾りにはウールの帯を代用させていた。
決して素晴らしいものを身にまとっているわけでないものの、その姿は端整で清潔感に満ちている。ともあれ、その姿がタン・サンニオの貧しい素性を雄弁に物語っていた。それもそのはず、タン・サンニオの父親タン・ヒンセンは毎日バンジャルヌガラの市に野菜を担いで売りに行き、その収入で一家三人が日々の暮らしをなんとかやりくりするという生活をしていたのだ。
バンジャルヌガラの町はブナワンレシデン統治区の中のバンジャルヌガラ県の中心地で、ラワスギッ部落もバンジャルヌガラ県の中にある。


タン・サンニオは自分の仕事に没頭していたようだ。そのとき垣根の外から、およそ27歳くらいの華人青年がひとり、じっとかの女の姿を注視していたのに気が付かなかった。その青年こそがブナワンレシデン統治区のアヘン公認販売者であるロー・フェンクイだった。
いつもはブナワンの町に住んでいるが、バンジャルヌガラ地区のアヘン販売代理人に用があったため、かれはそのときバンジャルヌガラの町にやってきていた。アヘンの商用を片付けるとかれは、およそ3ヶ月前に2万フローリンで土地を買い上げたラワスギッ部落の様子を見回りに出たのだ。ラワスギッ部落はバンジャルヌガラの市からおよそ1.5キロ離れている。

地主の事務所で会計係りの帳簿を検査してから、ロー・フェンクイはすぐに馬に乗って自分の土地を見回りに出かけた。付き従うのはラワスギッ部落の乙名サルダンで、サルダンも馬に乗って地主様の後ろを進んだ。
そしてタン・サンニオを目にしたとき、ロー・フェンクイは馬を止めてその美少女に眺め入った。ブナワンの町の裕福な娘たちに引けを取らないだけの魅力的な娘がこんな鄙びた田舎にいようとは、かれは夢にも思わなかったのだ。
ふと顔をあげたタン・サンニオは、ひとりの青年が自分をじっと見つめていることに気付いて驚き、家の中に駆け込んだ。

「あの娘はだれだ?」ロー・フェンクイはサルダンに尋ねる。
「名前はタン・サンニオ。野菜売りのタン・ヒンセンの娘でさあ。」サルダンは答える。
「おお、あのタン・ヒンセンか。地代を値上げしたとき文句を言ったやつだな。」
「その通りでさあ、旦那。」
「あの娘に許婚はいるのか?」
「わしの知ってる限りでは、許婚がいるってえ話は聞いたことがねえです。何人も申し込みにやってきてるが、あの酷薄な父親が全部蹴ってるってえ話でさあ。」
「きいた風なことを抜かすんじゃねえ。おめえ、今からあの娘の親に言ってこい。わしがタン・サンニオをマドゥにもらいたいと望んでいる、ってな。親には5百フローリンをやろう。今住んでる土地の地代も今後永久に払わなくていい。タン・サンニオには、バンジャルヌガラの町で豪勢な家に住まわせてやろう。わしの女房に知られても、怖がる必要はまったくねえ。わしの希望はもうわかったな?それがその通り実現するよう、おめえは骨を折れ。明日にはこの話の進展をわしに知らせて来るんだぞ。わしはバンジャルヌガラのアヘン販売代理人の家にいるからな。」
そう言い終えるとロー・フェンクイは馬に一鞭当て、その夜泊まる予定にしているバンジャルヌガラのアヘン販売代理人チア・ニムスイの屋敷目指して駆け去った。


サルダンは地主様の命令に従い、馬を降りてタン・ヒンセンの家の前にある木に自分の馬をつなぎ、竹造りの陋屋を訪れた。タン・サンニオの母親、ラウ・ハイニオはそのときランプに灯油を注いでいたが、珍客の来訪に急いで表に出てサルダンを迎えた。「おやまあ、今日はいったいどんな用事でこの家にお出でになったのかねえ。」
サルダンは答える。「吉報だぜ、奥さん。ご主人はもう戻ったかね?」
「いえ、まだ。でもね、何か伝えたいことがあったのなら、あたしに言ってくださいな。夫にあたしから言いますから。」
「こりゃあいい話だから、もちろん奥さんに言ってもかまわねえんだ。わしがここへ来たのは地主様の命令だ。」

「地主様の命令?」ラウ・ハイニオは驚きの声を上げた。「夫が地代値上げに反抗したから、あたしらはこの土地から追い払われるんでしょうか?」
「違う、違う。そんな心配はご無用だ。さっき言った通り、わしは吉報を持ってきたんだ。」部落の乙名、サルダンはそう言って微笑んだ。

「地主様はついさっき馬でわしと一緒にこの地の様子を検分なさった。そのとき、奥さんの娘が野菜に水をやってるのに目を留められた。地主様はタン・サンニオ嬢ちゃんが貧しい暮らしをしているのを気の毒に思い、自分の妻に申し受けたいと希望された。そうすりゃあ、奥さんもご主人も今のような苦しい生活を送らなくともよくなる。」
アヘン公認販売者のロー・フェンクイを憎んでいるラウ・ハイニオは目の前にいる部落の乙名を自分の家から叩き出したい欲望に駆られたが、そんな気持ちを抑えて言った。

「地主様には奥さんがおありじゃなかったかしら。ご主人様がマドゥを囲ったら、気を悪くなさるに決まってるでしょうに。」
「そんな心配にゃあ及ばねえよ。奥様だって地主様にそれを禁止することなんかできゃしねえ。それどころか、タン・サンニオ嬢ちゃんはバンジャルヌガラに家をもらって住むことになる。そこで立派な大奥様みたいに愉しい暮らしを送ることができる。そのほかに、奥さんとご主人のタン・ヒンセンには5百フローリンの金と、それから今いるこの土地で地代なんか納めずにいつまで住んでもかまわねえんだ。そして、もし手元不如意になったところで、地主様がそれを黙って見ているわけがねえ。これがいい話でなくって、なんだってえんだ。」

「その通り。」サルダンの話を聞いて心穏やかでないラウ・ハイニオは怒りを抑えてそう言った。「でも、この話をあたしはまず夫と相談しなきゃなりません。あたしひとりで決めるなんて、できゃしません。サルダンさんは明日またここへお越しくださいな。はっきりした返事を用意しときますから。」
ラウ・ハイニオの言葉を一理あると見たサルダンは、その家を出てさっきつないだ馬に乗り、わが家を指してそこから去った。


ラウ・ハイニオはすぐに屋内に戻ってやりかけの仕事を片付けてから、台所で料理をしている娘の仕事を手伝った。そして、それが一段落すると娘に尋ねた。
「サンニオ、さっきお前は地主様に会ったのかい?裏の畑で水遣りしているときに。」
「そう、さっき、あたしが野菜に水遣りしてるとき、垣根の外に馬に乗った若いひとがいたの。でも、そのひとが地主様かどうかは、あたしにはわからない。そのひとの目はあたしを見つめて放さないから、あたしはとても怖くなって、慌てて家の中に入ったの。」

母と娘が話をしているとき、タン・サンニオの父親タン・ヒンセンが商売物の野菜を担いで家の中に入ってきた。タン・ヒンセンはまだ60歳前の年齢だが、苦難の人生を歩んできたため、それよりずっと老けて見える。やせていて、顔色は悪く、頭髪はもうほとんど真っ白だ。

かれはかつて、バンジャルヌガラで米の小売商を営んでいたが、友人の借金保証人になったことで災厄に見舞われた。その友人は借金を返済せずに中国に逃げたのだ。おかげでかれの資産は差し押さえられて借金返済のために競売に付された。加えて、バンジャルヌガラのソウ・ギトンの店に雇われていたひとり息子も世を去り、結局タン・ヒンセンはラワスギッ部落に引っ越して野菜を作り、それをバンジャルヌガラの市で売って妻と娘のために生計を立てる暮らしに墜ちていたのである。


野菜籠の中から一袋の米と魚を取り出して、タン・ヒンセンは妻に語りかけた。「ババ(印華人男性の敬称)・ソウ・ギトンはいい人だな。2ガンタン(およそ6キロ超)も米をくれた。見ろよ、この野菜籠。今日は野菜がちょっとしか売れなかったから、ろくな収入がない。それを見かねたんだろうなあ。この米をもらわなかったら、明日はおまんまの食い上げだったところだ。」
「ババ・ソウ・ギトンにまた恩を受けたのねえ。あのお金持ちのババに、あたしたちはいったいいつになったら恩返しができるのかしら。よくあたしたちに優しくしてくれて。あのババのお母様、バンケン奥様も同じように。」
「そう、さっきバンケン奥様はわしにこう尋ねたよ。『うちの家の裏にある小さい家に、奥さんとサンニオと三人一緒に住んでもらうのは悪いかしらねえ。家賃なんか払わなくていいから。あんたももう歳だし、身体にきつい仕事はやめてもっと愉しく暮らすのがいい。米・油・魚は分けてあげるよ。サンニオはわたしの家に住んで、わたしの娘のソウ・テンニオの付き添いになってほしい』。テンニオさんは華人カピタンのチュン・ロンと許婚の約束をしてるんだ。そしてわしも毎日奥様の家に伺って家の用事を手伝い、一歳になるババ・ギトンの子供を見てやるんだとさ。産みの母親がもういないから。」

「ババ・ソウ・ギトンはジャンダ(結婚歴のある独身女性)を自分の家に囲ったんじゃなかったかねえ?」
「その通りだ。でもババ・ギトンのそのマドゥはバンケン奥様としっくり合わないから、三日後にババ・ギトンはそのマドゥを別の家に移したよ。そのためにバンケン奥様の家じゃあ人手が足りなくなってるってえこった。だからお前とサンニオを住まわせて、食わしてくれるんだよ。こりゃ悪い話かね?」
「いえさあ、とってもいい話だけど、この家はどうするの?」
「この家と敷地は、先月60フローリンで買うと言ったタン・バンチューに売ってしまおう。わしはもう、この土地にこれ以上住みたいと思わないよ。弱小の人間を踏みつけにするような地主に代わったんだから。明日、わしはタン・バンチューに会ってこの家を売る話をまとめてしまおう。ここから引っ越すのは、早けりゃ早いほどいい。」

「ほんとにそうだわ。早いに越したことはないわね。バンケン奥様の家に住むようになったら、他の人もわたしらのことをもっと見直してくれるでしょうよ。あんた知らないでしょう?ついさっきサンニオをマドゥに欲しいと言ってきたやつがいるんだから。考えてもみてよ!」
「なんだと?!サンニオを妾にしたい?だめだ!うちの娘を欲しいと言ってきたやつはいったいだれだ?」
ラウ・ハイニオがその男の名を夫に告げると、タン・ヒンセンはまるで毒を口にしたかのように言葉を吐き出した。

「ロー・フェンクイだと?あの性根の腐ったダニか。おお、絶対に許すもんか。わしらが飢え死にしたって、うちの娘をあんなやつの妾になんか絶対やらぬ。ロー・フェンクイは飛びぬけた金持ちで、地主で、アヘン公認販売者だが、しかし心は酷薄で欲深だ。だからわしはあんな男と口をきくのもお断りだ。だれがあの男に言われてお前のところにこんな話を持ってきたのか?」
「乙名のサルダンよ。もしサンニオを地主様に差し出せば、わたしらは5百フローリンの金をもらえて、地代は納めずにいつまでもこの土地に居られて、それから・・・・」

「もういい!」タン・ヒンセンの怒声が破裂した。
「あいつはわしらが腹を空かしてると思ってるんだ、あのダニが・・・。で、お前はサルダンに返事をしたのか?」
「この問題はあんたと相談しなきゃいけない、とあたしは言ったのよ。あのひとは返事を聞きに明日またここへやってくるわ。」
「今からでもわしはあの乙名の家へ行って、娘をあのアヘン公認販売者のマドゥにするくらいなら、娘が生涯行かず後家になったってまだましだ、と言ってやる。」
そう言ってタン・ヒンセンは家を出、サルダンの家に向かった。


日もとっぷりと暮れたその夜、タン・ヒンセンはサルダンの家に着いた。娘をロー・フェンクイに差し出すことを喜んで、タン・ヒンセンが明日をも待ちかねてやってきたと思ったサルダンは、娘をアヘン公認販売者のマドゥにするのはいやだというタン・ヒンセンの言葉に首をかしげた。
「しかし、あんたはもう歳だ。あんたの身体が言うことをきかなくなって商売できないようになれば、あんたの老後の生計をいったいだれが見るのかね?もし地主様があんたの娘を囲いたいと言いなさるのなら、その親の老後の生計は安泰だろうに。そのほうがよくはねえのかい?」
「生計が立とうが立つまいが、わしは娘をひとの妾にしようとは思わん!」タン・ヒンセンは短く言う。
「ババ、あんたはもっとよく考えたほうがいい。」サルダンは食い下がった。この年寄りをできるだけ説得して地主様の希望を実現させてやれば、どれほど自分の株が上がるだろう。

「思い出しても見な。ババよりもっといい暮らしをしてる華人だっていっぱい、喜んで自分の娘を大金持ちのマドゥに差し出してる。一方、わしらの地主様、ババ・ロー・フェンクイはたいへんな大金持ちでまだ若く、アヘン公認販売者だし、大勢の偉いひとから金持ちまで、みんな知り合いだ。華人役職者も敬意を表してる。おまけに今はまだ子供がいない。もしタン・サンニオ嬢ちゃんが子供を授かれば、地主様の愛情は嬢ちゃんに降り注がれる。そうなりゃあ、あんただって愉しい暮らしを送れるってもんじゃねえか?」
「サルダンさん、もういいよ。いつまでもわしを説得しようとするなら、わしの腹が立つばかりだ。要するに、わしは娘をロー・フェンクイにやるのが嫌なんだ。」

「後になって後悔しないように。この問題はあんたの暮らしに関わってるってことを忘れないように。地主様が希望を蹴られたら、怒るに決まってる。あれこれ必要なものがたくさんあるのはあんたのほうだぜ。偉い人までが敬意を表してる大金持ちのわしらの地主様がどうするか、あんたにもわかるだろう?あんたにこの恨みを晴らそうとするだろうなあ。」
「はあ、なんでわしが地主を恐れなきゃいけないのかね?地主がわしの娘を欲しがったが、わしは娘を差し出すのが嫌だったからそれに従わなかった。それだけのことで、なんで怒りや恨みを買うことになる?サンニオはわしの実の子供で、小さいころからわしが育ててきた。父親には娘をどの相手に嫁がせるか、父親の好きな相手を選ぶ権利がある。だれの指図も受けない。確かに地主様は大金持ちで、役人にも知り合いが多い。しかしわしはかれに借金もなければ、恩を受けたこともない。だからもしかれがこの問題で腹を立てたとしても、わしは何も怖くない。」
サルダンが次の言葉を言う前に、タン・ヒンセンはその家を立ち去った。怒りを抑えていたために、顔は紅潮して汗をかいていた。かれはその足で、そこから近いタン・バンチューの家に向かった。


タン・ヒンセンが自分の言い値をつり上げもせずに家と敷地を売るのに同意したことでタン・バンチューは大喜びだった。その家の庭と畑がたいへん広いことをタン・バンチューは気に入っていた。頑固者で厳しい性格のタン・ヒンセンが地代を値上げされたために新しい地主を憎んでおり、そのためにこの土地を去ろうとして仕方なくそれを売ることにしたのだとタン・バンチューは考えたのだ。なぜなら、地主と娘の問題について、タン・ヒンセンはだれにも一言も話そうとしなかったから。
明日、いっしょに地主の事務所へ行って土地の名義変更を行い、そのあとで土地の代金をもらうことをふたりは約束した。タン・ヒンセン一家がバンジャルヌガラに引っ越すまで一週間、その家に住んでいていいとタン・バンチューは許可した。こうして家を売り渡す用事を終えたタン・ヒンセンは帰途に着いた。


翌朝、地主の事務所にタン・ヒンセンがやってきて、家と敷地をタン・バンチューに売ったから名義変更をしてほしい、と言った。そこにいたサルダンは予期していなかったために一瞬とまどったが、すぐに思い当たった。娘の問題で地主から仕返しを受けるのを怖れたタン・ヒンセンは、ラワスギッ部落にこれ以上住みたくないためにあんなに廉い金額で家と土地を売ったのだ。そう合点したサルダンはタン・ヒンセンに近寄って尋ねた。「ババはどこへ引っ越すのかね?」

「バンジャルヌガラの市場に。」タン・ヒンセンはぶっきらぼうに答える。引越し先がソウ・ギトンの家であることは言わなかった。
「今日中にも引っ越すのかね?」
「いいや、たぶん四五日先だ。」
「ババは本当に馬鹿なことをしてる。楽になる道がついたのにそれを蹴って、難儀な道を選ぼうってんだから。」
「こりゃあ、わし個人の問題だ。ほかのひとには関係ねえ。」
木で鼻をくくったように不愉快なタン・ヒンセンの口調にむっとしたサルダンは口を閉じた。そして馬に乗るとバンジャルヌガラの市場を指してその場を去った。


アヘン販売代理人チア・ニムスイの家で、チアを相手に座って話をしていた地主にサルダンは面会した。
「首尾はどうだ?」自分の希望が実現しないわけがないと思っているロー・フェンクイがサルダンに尋ねた。ところがラワスギッ部落の乙名は明るい顔を見せない。
「タン・ヒンセンの野郎は高慢ちきで、わしの話に応じようとしねえんでさあ。」
「だが、おめえがあいつを説得して従わせなきゃならねえんだぜ。」不愉快になったロー・フェンクイが言う。

「もちろん、一晩中あいつを説得したでさあ。でも無駄だった。」部落の乙名はちょっとした誇張を付け加えたが、それは地主様から説得のやり方の指図をもらうのでなく、次の行動の指図をもらいたかったからだ。
「おめえはあいつにわしがあとで5百フローリンやるという話だけして、わしの土地に未来永劫ただで住める話はしなかったんじゃねえのか?」
「そりゃあ全部もうあいつに伝えてまさあ。それどころか、地主様の希望に従うなら、毎月地主事務所から米やその他もろもろのものを分けてもらえるってえ話まで。でも無駄だった。」

「きっと5百フローリンじゃ物足りねえんだ。もう2百5十、いやもう5百フローリン足してやろう。」
サルダンは渋い顔で首を横に振りながら、地主様の言葉に返事した。「ババの命令をわしが聞かねえってことじゃねえんだが、あの年寄りはともかく高慢ちきで、どう説得しても従おうとしねえ。」
「ありえねえ。わしは知ってる。決心が固くて、どう説得してもなびかねえやつはいっぱいいる。だがな、いちど『王の頭』を見せてやれば、最初の決心なんか忘れちまって、なんでも言うことを聞くようになる。自分から、ハラムじゃねえと言い出すんだ。」
「ババはよくご存知だ。でもババはこの高慢ちきなタン・ヒンセンをまだよくご存知じゃねえ。あいつはわしの話を全部蹴っただけじゃなくて・・・・・」

これを聞いたら地主様は怒り出すかもしれないという配慮が突然浮かんだために、サルダンは話を宙に浮かせた。
「続けろ!」ロー・フェンクイはイラついてサルダンに言う。サルダンは顔を伏せながら言った。
「あいつは失礼な言葉を口にしやがったんでさあ。それを耳にしたときにゃあ、わしも気分が悪くなりやした。」
「なんて言った?」
「ババが怒り出すんじゃねえですかい?」
「いいや。おめえ、その言葉を言ってみな。」
「娘をあんなやつの妾にするくらいなら、飢え死にしたほうがマシだ、と。」
「あんなやつとはわしのことだな?あいつはそう言ったんだな?」ロー・フェンクイは怒りを抑えて唇をかむ。
「そんな言葉を口にするもんじゃねえ、とわしがそのとき言うと、あいつはこう言ったんでさあ。『わしが怖れるものはなにもない。たとえ地主が閣下と友達であっても。』」

「なんという身の程知らずだ、あの年寄りは!」ロー・フェンクイが叫び声をあげた。
「わしらは娘をくれと丁重に申し入れた。なのにあいつは、頼みに応じようともせず、高慢さをあらわにしおった。よし、これからわしはあいつに厳しくしてやろう。そして、わしが本当にあの娘を手に入れることができないかどうか、見ているがいい。たとえ娘をどこに隠そうが、必ずわがものにして見せるぞ。」
さっきから黙ってふたりの話の進展を見守っていたチア・ニムスイが口をはさんだ。「あの年寄りは実に思慮が足りない。ラワスギッ部落に住んでいる限り、地主にどんな目に遭わされるか、わからないのか?」

「その通りだ。今からあいつは自分が吐いた高慢な言葉にふさわしい扱いを受ける。あとで吠え面をかくのはあいつだ。」
「そうできるかどうか・・・?」サルダンが思わせぶりに言う。「あのタン・ヒンセンに思い知らせられるのも、ちょっとの間しかねえような・・・。」
「なんでだ?」ロー・フェンクイが尋ねる。
「つい今しがた、タン・ヒンセンが地主事務所にやってきて、家と土地をタン・バンチューに売ったからと台帳の名義変更をしていきやした。多分、四五日後には妻と娘を連れてバンジャルヌガラの市場に引っ越すにちげえありやせん。」
「あいつは誰の家に転がり込むつもりなのか?自分の暮らしを立てるだけの稼ぎができるのか?」
「そりゃわしにもわからねえでさあ。けど市場の中に自分で家を借りるだけの力はねえに決まってまさあ。きっと、だれかの家に転がり込むつもりじゃねえですかい。」
「そうさせちゃ、ならねえ。タン・ヒンセンがラワスギッから引っ越す前に、あいつの手足を縛り付けておかねえと・・・。おい、外にいるのはだれだ?」


チア・ニムスイが椅子から立って家の表の段に立っている男を見た。「ああ、あれはハジ・サアリだ。一番腕がよくて信頼できるわしらの諜者のひとりだ。ちょうどよいところに来おった。この問題の中にあいつの出る幕がありそうだからな。」
「あいつをここに呼んでくれ。」そうチア・ニムスイに頼むと、ロー・フェンクイはサルダンに向かって言った。「おめえはもう帰ってよい。近々わしの命令が届くから、それまで待ってろ。」

サルダンは身をかがめて地主様に敬意を表すると、そこを辞去した。チア・ニムスイがハジ・サアリを連れてきた。ハジ・サアリは50代で痩せているが上背があり、酷薄な顔つきをしている。オニカッコウのような鋭い目つきをしており、目端が利いて度胸のある人間であることを示している。
メッカ巡礼者がまだ稀なこの時代に、かれはアラブ衣装を着てメッカを巡礼してきたが、結局バンジャルヌガラのアヘン販売代理人の諜者という仕事に行き着いた。これまでにいったい何人のアヘン密売者がハジ・サアリの手引きで捕らえられたことだろう。頭家であるチア・ニムスイがかれに格別の信頼を寄せているのは明らかだ。


「ハジ」とチア・ニムスイは呼びかけた。「ここにいらっしゃるのはアヘン公認販売者様で、おめえに頼みごとをお持ちになった。」
ハジ・サアリはアヘン公認販売者のロー・フェンクイに敬意を表してから言った。「アヘン公認販売者のババのお役にたてりゃあ、こんなにうれしいこたあねえ。どうかわしを信頼して、わしに何でも命令してくだせえ。」
ロー・フェンクイはそれに答えてサアリに言う。「おめえは信頼できる男だとチア・ニムスイが言うから、おめえにこのことをやってもらいてえ。」
ロー・フェンクイは続ける。「わしはわしの土地に住んでいるタン・ヒンセンに、娘をわしのマドゥにしたいと求めた。おめえ、タン・ヒンセンを知ってるか?」
「へえ、あの年寄りの野菜売りをわしは知ってます。」
「よし。わしは5百フローリンやその他のいい条件を出して、この申し入れを丁重に行なった。娘をもらいに行くときにはだれでも当たり前にやることだ。ところがあの年寄りは高慢な態度と身の程知らずのせりふでわしの求めを拒絶した。こうなりゃあ、たとえ親がやらねえと言っても、わしが必ずあの娘を手に入れて見せる。」
「そりゃあ難しい話じゃねえとわしは思います。タン・ヒンセンはババの土地に住んでるんだから、ババが自分の好きなように無理強いすりゃいいんじゃねえですかい?」
「そりゃ、わしも知ってる。ところが、もうあと何日かで、あいつは市場に引越しするんだ。もう家と土地を売ったんだ。」
「そうなると、ちょっと難しい。」
「そうだ。もちろん難しい。」
ハジ・サアリはしばらくうつむいて考え事をしていたが、顔を上げると言った。「規則がうまく遂行できなければ、厳しい規則を行なってかまわねえですかい?」
「そりゃ、しょうがねえだろう。もし、それでわしの思いが実現するのなら。

「ババにでけえ態度をしたあの年寄りは、家で闇アヘンを見つけて刑罰を与えなきゃなりませんぜ。もし捕まったために娘をババに差し出すようなら、助けてやりゃあいい。闇アヘンは倉庫のものと摩り替えておきゃあいい。まだ時間のあるうちに、ババはその手配を整えてくだせえ。捕まりゃあ、あの野菜売りは娘を仕方なくババに差し出すでしょうよ。でも、ババはまずドゥマンにこの筋書きを自分の口からじっくり話しておくこってす。ドゥマンはババの望みどおりに動くはずだから。」
「よし。だがあの年寄りがそれでもまだわしの望みに従わないなら、わしはどうやってあの娘を手に入れるんだ?」
「そう、さっきわしが規則を厳しく行なうと言ったのはそのことでさあ。タン・ヒンセンが刑罰を受けりゃあ、妻と娘を護る者はもういねえ。ババが恋焦がれるあの娘を手に入れるために知恵を使うのは、もうそんなに難しいことじゃねえ。それはわしが最後まできちんと片を付けて見せましょう。」

ロー・フェンクイはサアリの計画をじっくり考えたあと、口を開いた。「実際わしらには、ほかの方法がない。だからその計画でいいだろう。おめえはよいようにその計画を進めろ。この10フローリンはそのための費用だ。そしておめえの仕事でわしの望みが実現すりゃあ、おめえへの褒美は50フローリンだ。」
「ありがとうごぜえます。アッラーのお恵みでババの命令がその通り達成できますように。」そう言って、サアリはロー・フェンクイから10ルピアを受け取った。

「この計画を進める中で費用が足りなくなりゃあ、この代理人のババに頼みな。おめえがさっき言ったように、わしはこれからドゥマンに会いに行ってくる。そのあとでわしはブナワンに帰るが、おめえもブナワンにこの計画の報告のために来なきゃならねえよ。言っとくが、タン・ヒンセンはあと数日で引っ越すから、絶対に手遅れにならねえように。引っ越されたらこの計画はずっと難しくなる。ドゥマンには、チア・ニムスイにしたがってタン・ヒンセンの家の家宅捜索をするように言っておく。おめえはうまくお膳立てをととのえて、上手に事を運ぶんだぜ。そして代理人のババにすぐに報告するんだ。わかったな?」
「わかりました。」サアリはうなずくとそこから立ち去った。


ハジ・サアリが家から出て行ってから、ロー・フェンクイはチア・ニムスイに言った。「話を聞いているかぎりでは、あの男の頭脳は確かに優秀だ。しかしその実行となると、うまくやれるのかどうかがまだわからねえ。」
「必ずやれますぜ。似たようなことをあいつはこれまでに何度もやってきたし、まだ失敗したことがねえくらいだから。なにしろあいつは度胸もあって、怖いものなしなんだ。」
「だったらいいけどな。」ロー・フェンクイは続けて言う。

「闇アヘンをタン・ヒンセンの家の中に置いたという知らせがハジ・サアリからあったら、おめえはドゥマンに会いに行かなきゃならん。それからおめえはドゥマンと一緒にあの家の家宅捜索をしろ。闇アヘンが見つかったら、おめえは帰っていい。あとはドゥマンがこの事件の処理を続ける。そしておめえのところに、進展状況の連絡が入る。」
チア・ニムスイは「わかった。」と答えた。
ロー・フェンクイは立ち上がると着替えをし、チア・ニムスイは下男のひとりにアヘン公認販売者の馬車を馬につなぐよう命じた。タン・ヒンセンの容疑を訴えるためにロー・フェンクイはドゥマンを訪れるのだ。


地区の行政長官であるドゥマンのタブリーはアヘン公認販売者の来訪をうやうやしく迎え、広間に案内した。ドゥマンはロー・フェンクイに尋ねる。「ババは乗馬用の馬を売りたいように聞きましたが、もう売れたんですか?」
「いや、まだです。付けられた一番高い値が175フローリンで、わしは200フローリンより廉く売る気がありません。買ったときの値段がそれなので。トアンはあの馬が気に入りましたか?もしトアンがよろしければ、明日あの馬をここへ連れてこさせましょう。廉く売るよりはトアンに使っていただいたほうがよい。」
「感謝します。わしの馬はなかなか言うことを聞かないので、昨日売り払ったばかりです。ババの馬を使わせてもらえるのなら、たいへんありがたい。もし後日、いい馬が買えたら、ババの馬をお返しする。それともババの希望値で買いたいという者がいたら・・・・」
「いやいや、その馬はトアンがずっと使っていてかまいません。もし売りたかったら、トアンのお好きなように。トアンはわしと知り合ったばかりでしたかね?」
ふたりは顔を見合わせて笑った。

タブリーはブナワンのレシデン館に事務官として勤めていたころからこのアヘン公認販売者と交わりがあった。ロー・フェンクイの父親の代からその親子を知っていたのだ。タブリーが副ドゥマンに任命されたころから、かれはアヘン公認販売者から頻?に金を借りたが、一度も返済を求められたことがなく、それがためにタブリーがロー・フェンクイを下にも置かぬ姿勢で遇するのは当然至極のことだった。ましてやロー・フェンクイはたくさんの上級行政官と親しく交際しているのだから。
「わしがここへ来たのは、トアンの助力を願いたいためです。」そう言ってロー・フェンクイは言葉を切った。
「わしはいつでもババへの恩返しを喜んで行ないたい。だからどんな頼みごとでも、わしを自分の兄弟だと思って、気兼ねなくわしに言ってください。」
ロー・フェンクイはサルダンがタン・ヒンセンの娘をマドゥにほしいと申し入れたときに、タン・ヒンセンがどんな態度を取ったかについて、事細かに物語った。
「そして、たまたま今日、野菜売りのタン・ヒンセンが闇アヘンを扱っているという情報を諜者のひとりが持ってきました。」
「その諜者の情報は誤報ではありませんか?あの野菜売りは、自分ではアヘンをまったくやらないことをわしは知ってます。」タブリーのその答えにロー・フェンクイは苦い顔をした。

「わしにその情報を持ってきた諜者はもっとも信頼できる人間で、いまだかつてどんな事件でもミスを犯したことがない。たとえ自身がアヘンを吸わないとしても、タン・ヒンセンが闇アヘンを扱わない証拠にはならないでしょう。」
ドゥマンはうなずいた。多分、かれはロー・フェンクイの意図に同意したのだろう。あるいはむりやりロー・フェンクイの意図を受けるよう、自分に課したのかもしれない。ともかく、それがどうであろうとも、この地区行政長官がロー・フェンクイにさからえるはずがなかった。

「わしの諜者はいまタン・ヒンセンを見張っています。数日中にトアンはタン・ヒンセンの家を家宅捜索してください。」
「わしは喜んでその名の男の家を家宅捜索しましょう。そして闇の品物が見つかったなら、その男を牢獄に入れましょう。」
「それがよい。ただし、すぐには刑罰を与えないようにしてください。」
「ババが何をお望みなのかがわしにはよくわかりません。もしババがその男を刑罰に処したくないのなら、どうして逮捕する必要があるのですか?」
「そこにわしがトアンの助力をお願いするわけがあるのです。」
「どんな助力を?」
「闇アヘンを隠していたためにタン・ヒンセンが逮捕されたら、わしに頼れば刑罰を免れることができるということがかれにはわかるはずです。これもトアンの助力で。」
「そのことは、わしからその男に表明してあげましょう。そのあとわしは何をすれば?」
「先にサルダンがかれに伝えてある約束に応じてかれが娘をわしにくれるのなら、かれの家で見つかった闇アヘンは公認販売者のものであったことにして、タン・ヒンセンには刑罰が与えられなくなる。」
「しかしその男がどうしてもババの望みに従おうとしなければ?」
「そのときは刑罰が与えられる。」
「いいでしょう。」タブリーはロー・フェンクイの依頼を受諾した。

ロー・フェンクイは助力を約束してくれたタブリーに謝意を表すると、立ち上がって握手し、そこを辞去してブナワンに帰って行った。ロー・フェンクイが去った後、ひとりになったタブリーはつぶやいた。「わしが遂行しなきゃならん仕事の報酬だと考えれば、明日もらえる馬は高いものにつきそうだ。仕方がない。わしが拒んでも、あのアヘン公認販売者は別の人間に同じことを頼んでおのれの望みを実現させるにちがいない。そしてわしはたっぷり賂を持っているあの華人から除け者にされる。ああ、王の頭の威力のなんと絶大なことか。」タブリーは嘆息した。


ブナワンの自宅へ戻るためには、ロー・フェンクイの馬車は華人街の一部を通らなければならない。馬車が橋をひとつ通り越えたとき、かれの目は一軒の仕立て屋の表に釘付けになった。美しい顔立ちの若い女がひとり、シリを買うために表の床几に腰掛けている。結い上げた髪は艶っぽい。橋を渡る馬車の音に女は顔を上げ、微笑みながらかれに一瞬の流し目を送った。馬車の男が和らいだ表情で自分を見つめていることを知ったからだ。
ロー・フェンクイは御者に停止を命じようとしたが、馬車からあまり遠くない路上を中年の女がひとり、唐傘と包みを持って歩いているのに気が付いた。馬車がその中年の女に近付いたとき、かれは馬車を停止させて座席から降りた。中年の女に近付いて会話したあと、かれはまた馬車に戻って自宅に帰った。


ブナワンにあるロー・フェンクイの自宅は巨大で豪奢な館で、中華風とオランダ風の折衷建築になっており、ヨーロッパ製の家具が館の隅々まで飾られ、床は一面の大理石で、照明はガス燈が用いられ、館は左右から別棟ではさまれていた。家の裏手は広壮な庭園になっており、色さまざまな花木が咲き乱れている。

バンジャルヌガラから自宅へ戻ったロー・フェンクイは弟のロー・ナムクイを呼んだ。弟はアヘン販売代理人の筆頭者で、別の家に住んでいる。弟からここひと月間のブナワンでのアヘン販売状況を聞いたロー・フェンクイの顔に不快さが表れた。ロー・ナムクイが口にした数字は、しばらく前の数字から顕著に減っていたのだ。それはロー・フェンクイに闇アヘンが出回っていることを推測させた。兄の叱責を受けて諜者らに発破をかけることを約束したロー・ナムクイが辞去すると、ロー・フェンクイは隣の棟に移って安楽椅子に身体を伸ばし、新聞を読み始めた。

するとほどなく、さっき道で出会った中年の女がロー・フェンクイに面会に来た。「さっきババがお命じになったように、あたしゃ今ここに来ました。ババがあたしに何をするようお命じになりたいのか、伺いましょう。」
「わしはあんたにあることの手助けをしてもらいたい。ビビ(壮年女性への尊称)・アンホア、あんた自身への謝礼はたっぷり用意してある。」
「あたしゃ、できるかぎりババのお手伝いをよろこんでいたします。昼間と言わず、夜中でさえも。」
「さっきわしと会った場所に近い橋から左側三軒目の家に住んでる仕立て屋とあんたは知り合いか?まずそれが知りたい。」
「ああ、そりゃ服屋のリアウ・アサムの家だわ。」
「さっきわしはその服屋の表に座ってシリを買ってた若い女を目にしたが、その女とも知り合いか?」
「艶っぽい髪を大きく結った、眉の近くに大きなほくろがある娘のことをババはおっしゃってるんだね?あの娘はプイ・ライニオ。二ヶ月前にあのリアウ・アサムの嫁になったばかりです。残念ねえ、年齢の離れた夫なんか持っちゃって。はっはっは・・・。」

実は、このビビ・アンホアはイスラム教徒の子供に生まれ、小さいころはサティジャという名前だった。12歳くらいになってワヤンチョケッの踊り子になり、その後ブナワンの華人の囲い者になった。その華人が亡くなると、アンホアはまたワヤンの踊り子に戻った。そしてまた別の華人に囲われ、数年してまた踊り子に戻り、また別の華人が囲い、ということを三回繰り返した。今はもう四十代に入ったはずだが、見掛けはまだまだ若く見える。それはふだんから自分の容姿を整える習慣がついており、だらしなさが見当たらないためでもある。今はブナワンでタバコを手がけている華人のものになって三年目に入るが、子供はまだできない。
自分を養ってくれている男の稼ぎの足しにと、ビビ・アンホアは雑貨を手にして売り歩く商売を始めた。更紗綿布や香などの商品を委託してもらい、売れただけ礼金をもらうという仕組みだ。女性向け装身具もあり、その中には黄金やダイヤのついた高価なものも混じっている。ビビ・アンホアはいまだ一度も委託商品をごまかして横領したり売上金を掠めたことがなく、また買い手を言葉巧みに褒めて自分の商品を買ってもらうことができる商売上手でもあり、ブナワンの上流華人層の奥様方にも人気があった。口が上手で新しい知り合いがすぐに親しみを感じるようにするのもお手のもので、おかげでビビ・アンホアの商売は順風満帆のありさま。ビビ・アンホアのその働きがなければ、かの女と自分の養い男がふたりして毎日2ルピア分のアヘンを吸うことはできなかったにちがいない。

アンホアはそんな商売の裏で、生身の商品をも扱っていた。かの女の助力で欲しいマドゥを手に入れたブナワンの金持ち華人がこれまでにどのくらいいたことか。かの女はその仕事にも同じ手腕を発揮したのだ。ロー・フェンクイが服屋リアウ・アサムの家の表に座っていた娘のことを尋ねたとき、このアヘン公認販売者が服屋の妻であるプイ・ライニオに恋したことをアンホアは即座に覚った。


ビビ・アンホアの笑い声に、ロー・フェンクイは自分の心の奥底を覗かれた気がして顔を赤らめた。かれは微笑むとアンホアに言った。
「本当にあんたは角の生えた仲買人だぜ。わしの話の先行きがあんたにはもうわかったようだな。あんたが間違いなくわしの心の奥底にある望みを理解したのなら、あんたにそれを実現させることができるかどうか、言ってくれ。」
「でも、ババ自身がもう解ってるでしょうに。ライニオには夫があるってことが。」アンホアはロー・フェンクイの顔を見つめながら言った。
「そりゃわかってる。だが監獄食糧納入者のマドゥもその夫から奪われたんじゃなかったかね。そしてあんた自身がそれを取り持ったんじゃあ・・・・?」
「ああ、ありゃあ違う話ですよ。あのふたりはずっと前から知り合ってて、互いに恋し合ってたから。だからあたしもその取り持ちは難しくなかった。でも・・・。」
「わしもライニオとはもう知り合いだ。」アンホアの口説をそれ以上聞きたくないロー・フェンクイは話の腰を折った。

「さっき馬車があの家の前を通ったとき、あの娘はわしに流し目をくれて微笑んだ。プイ・ライニオがわしのところへ来るよう口説いてくれたら、あんたへの報酬は50ルピアだ。」
「この秘密がばれたら、リアウ・アサムはあたしに激怒しましょうねえ。」
「あんたがそれを心配するには及ばん。あんたはあの娘を口説くことに専心しろ。この件の一切のいざこざはわしが引き受けるから。あの娘の衣装や装身具のことは心配しなくていい。わかってるな。要するに、あんたはあの娘がわしのところへ来るように口説くだけでいいんだ。費用はわしが出してやる。いい話だけをわしのところに持って来いよ。今はこのアヘン半タイル(1タイルは37.8グラム)を持って行け。口はつつしめよ。」
ビビ・アンホアはアヘンを受け取るとそこから立ち去った。


翌朝、いつもとまったく同じように、ビビ・アンホアは傘と商品の包みを持つと、商売のために家を出た。ところがこの日にかぎって、かの女は右や左の家々に立ち寄ろうとせず、一路リアウ・アサムの家を目指したのである。目的の家では、服屋がミシンでセビロを縫っている最中であり、妻のプイ・ライニオは家の表にしゃがんでいた。プイ・ライニオはもちろんビビ・アンホアと知り合いであり、包みを持ってやってきたアンホアに、寄って行くよう声をかけた。

「おや、ちょうど嬢ちゃんが表にいてよかった。シリを噛むのをご一緒させてもらっていいですか?家から急いで出てきたもんだから、シリを持ってくるのを忘れちゃって。」アンホアは笑いながら言った。
「だめなわけがないでしょう?さあ、中に入ってくださいな。あたしらは昔からの知り合いなのに、結婚してからずっと会ってなかったんだから。」ライニオが答える。
妻が旧知の女を家の中に上げたところで、何もおかしなことはない。そう考えたリアウ・アサムもアンホアに上がるよう勧めた。女ふたりはすぐに家の奥に入り、ライニオは客人にシリを勧める。アンホアが話し出す。

「お嬢ちゃんの運命の人がこんな近くにいたなんて、なんと意外だったことでしょう。リアウ・アサムは善い人みたいだから、お嬢ちゃんはこのご主人を得て好運だったわねえ。」
「なにが好運なの・・・・」ライニオは大きく息を吸いながら答える。アンホアは少し咳払いしてから言葉をつなぐ。
「お嬢ちゃんのご主人はとても勤勉に稼ぎに努めてる。歳はとってるけど、お嬢ちゃんを愛してるに決まってる。家の外で慰みを得ようとしないんだから。それってよい事じゃない?」
ライニオは客の顔を見つめてから答えた。「若い女が年寄りの夫を得たことを好運だと言えるのかしら?」
この美しい娘が夫を愛していないことを知ったアンホアは喜びながら続ける。

「そりゃ、そうね。でも話を変えましょ。お嬢ちゃんは香かプカロガン布か絹更紗布なんか買いませんか?」アンホアはそう言いながら包みを開いて商品をライニオに見せた。
「もういいわ。あたしはそんなもの買えないんだから、ビビがあたしに品物を全部見せたところで何にもならないのよ。」
「お嬢ちゃんが買わなくても、見るだけでいいのよ。値段も高くないんだし。」そう言ってアンホアは木箱を取り出し、その中のダイヤや黄金の装身具をライニオに見せた。
「ちょっとこのきれいな作りの黄金の帯飾りを見てごらん。留め針の目はまるで星みたいでしょう。このピアスはまたきらきら輝いて。この黄金の鎖は年季ものよ。色白ですんなり伸びてるお嬢ちゃんの首にぴったりじゃない?ほら、これはかんざしで、こっちは指輪・・・・・」
「もういい、もういい。そんなにひとつずつ取り出して見せてくれても無駄なのよ。無くなったらどうするの!」
「まあ、そんな戯れ言を。ちょっとこの鯨の腕輪をはめてごらん。その滑らかでむっちりした腕にぴったりよ。」
「何のため?あたしにそれを買うお金なんかないのよ。あたしが主人にした男にそれを買う力がないのをビビは知ってるでしょう。」ライニオは大きく息を吸い込んで言う。
「でもお嬢ちゃんはまだ若いし、きれいだし。」アンホアは微笑みながら答える。

「じゃあ、この品物をただでもらっていいの?」
「もちろんよ、お嬢ちゃんがほしいのなら。」
ライニオはアンホアの顔を一瞬見守り、そして笑いながら言った。「ビビ・アンホアはほんとに作り話が上手ね。まるで子供みたいに。」
「お嬢ちゃん、あたしゃ嘘は言わないよ。もしあたし自身があんたみたいに若くて魅力的だったら、こんな装身具だけじゃなくて、もっと若い夫も含めてもっともっといっぱい手に入れて見せる。お嬢ちゃん、誤解しないでよ。こりゃ、あたし自身がもしそうだったらって話で、お嬢ちゃんの考えはきっと違うんだろうから。」
プイ・ライニオは途方に暮れた表情を浮かべた。「ビビが何を言いたいのか、あたしにはわからない。」
「あたしもそう思う。お嬢ちゃんをちっちゃい頃から知ってるあたしだから、そのことは順々に教えてあげる。でもあたしの話を聞くのが嫌になっても、怒っちゃいけないよ。」
「心配しないで、ビビ。そのことを教えてよ。なんであたしがビビに怒ったりするもんですか。」
「よく聞いてね。自分の主人にする男と結婚したお嬢ちゃん自身がそのことを残念に思ってる。・・・あたしらの話があんたの夫に聞こえることは絶対ないわね?」
「小さい声でしゃべってれば、ほかのひとの耳には届かないわ。話を続けて。もちろん、あたしの気持ちは塞いでるの。あんな年寄りで、おまけにあたしにふさわしい衣装だって与えてくれない夫を持って。」

アンホアは屋内の様子に気を配ってから、小声で話し出した。「じゃあ、ひとつずつお話してあげましょう。昨日の朝、大金持ちでアヘン公認販売者のババ・ロー・フェンクイが馬車でここを通りかかり、家の表でシリを買っていたお嬢ちゃんを見初めたんだよ。あんたも覚えてるんじゃないの?ババがあんたを見たとき、あんたも明るい顔で見返したんだから。」
ライニオはちょっと考えてから言った。「ええ、あたし覚えてる。昨日、あたしが表でシリを買ってるとき、二頭の大きい黒馬に引かれた馬車が通ったわ。馬車の中にはハンサムな若いババが座っていて、あたしを微笑みながら見てた。」
「あれがババ・ロー・フェンクイなのよ。このブナワンの街で一番のお金持ち華人。お嬢ちゃんの相手にふさわしい人じゃない?さあ、そのババがあんたに恋したのよ。それであたしが、ここへ来てあんたに知らせるように言いつけられた。もしあんたがあのババのところへ来るなら、大きなお屋敷に住まわせてくれて、大勢の召使に世話してもらい、食事も着物も十分に与えてもらえるってね。お嬢ちゃんには、そのほかにもっと欲しいものがあるのかしら?」
「ビビはなんて簡単に言うんでしょう。あたしがあのババのものになりたいと百回思ったって、そんなことになりっこないわ。だって、あたしには夫がいるのよ。」
「夫のことなんか、たいした問題じゃないのよ。あたしが知りたいのは、お嬢ちゃんがあのババのものになりたいかどうかなんだよ。ほかのことはあのババが全部うまく始末をつけるから。」
「もしリアウ・アサムがここからいなくなったら、あたしはあのババのものになりたい。でもあたしがいきなり離婚を夫に求めたり、夫から離婚されるようにあたしがおかしなことをしたら、あたしの両親は恥をかくでしょう。そのことはビビもわかってくれるでしょう?」
「そうだわね。じゃあババにどういう返事をすればいいの?あんたはババと一緒になりたい?」
「うまくリアウ・アサムの手から逃れたら、もちろんあたしはババの方へ行く。そうできなきゃ、なしよ。」
アンホアはそれ以上その話を続けるのをやめて、四方山話をしたあと、明日また来ることを約束して服屋の家を離れた。浮き浮きした気分で。


大通りに出ると陽射しはもう暑く、そこからアヘン公認販売者のババ・ロー・フェンクイの家は少し遠かったため、ババに早く報告しようと気のせくビビ・アンホアは賃貸し鉱山馬車を雇った。借り料の10セントを払って、ロー・フェンクイの家の表で馬車を降りたアンホアは、ババがレシデンに会いに出かけていることをその家の使用人から知らされた。しかしババの言いつけは、アンホアを待たせておくようにということだったので、アンホアは中で待つことにした。

ビビ・アンホアが座って待っていると、半時間くらいしてロー・フェンクイの馬車が戻ってきた。ロー・フェンクイが家の中に入ってアンホアが待っていたことを知ると、すぐ隣の棟に入ってアンホアを呼んだ。
「首尾はどうだ?」ロー・フェンクイがアンホアに尋ねると、アンホアはプイ・ライニオとの会話を細大漏らさず語って聞かせた。
「ほう、おめえの仕事の半分はもう終わったも同然だ。この5ルピアを受け取って、欲しいものでも買え。明朝、おめえがリアウ・アサムの家へ行く前に、先にこっちに寄ってくれ。ちょっとした注文をするからな。」
アンホアはうれしそうにその金を受け取ると、商売のお得意さん回りをするためにその家を出た。

翌朝、言われたとおりビビ・アンホアがロー・フェンクイを訪れると、かれは別棟でアンホアが来るのを待ちあぐんでいた。ロー・フェンクイはアンホアに紙包みをひとつ渡してこう言った。
「ビビ・アンホア、おめえがわしの手助けを始めたからにゃあ、最後までわしを手伝ってくれなきゃならねえ。この包みをおめえの商売物の中に混ぜてしまっておき、あの服屋の家の見つけにくい場所にそっと隠すんだ。気をつけろ。絶対にだれにも見られちゃならねえぞ。そうして、おめえはこの秘密の品をどこに隠したか、すぐわしに知らせるんだ。ライニオにはこう言ってくれ。あの娘が夫から離縁されるよう、わしが一切を進めてるってな。」

アンホアは紙包みを受け取って中味をあらため、驚いて言った。
「ババ、もしあたしがこの品物を持っているとき警官に捕まったら、あたしゃとんだ災難に見舞われるわ。」
「そんなこたあねえ。」ロー・フェンクイは語気を強めた。「おめえはそれをわしの手から受け取ったってえことを忘れちゃならねえぞ。アヘン公認販売者のわしの手からな。」
「でも、あたしがこの品物をリアウ・アサムの家に置いたことが暴かれたら、あたしゃやっぱりとんだ災難に見舞われるに決まってる。」
ロー・フェンクイは大声で笑い出した。「おめえは子供じゃねえんだろうが?だから、だれにもわからねえように用心して事を運ぶんだよ。この品をリアウ・アサムの家に置くことと、ライニオをあの服屋の家から連れてくるのと、どっちが易しいんだ?」
ビビ・アンホアが口を開かないので、ロー・フェンクイが話を続ける。「わしの命令を実行しろ。あとで難儀なことになったらわしが助けてやるから、おめえは心配するな。それから、おめえの報酬も増やしてやろう。つべこべ言わずに、早く行け。」

アンホアはうなずき、自分の商品の中にその紙包みを混ぜ、その家から出て行った。アンホアは道中、心の中でひとりごちた。『あらまあ、あの華人はなんて邪悪なんだろう。夫を無実の罪に落として他人の妻を横取りしようなんて。警察に家宅捜索されてこの闇アヘンが見つかったら、もちろんリアウ・アサムは刑罰を免れられない。でも報酬が大きいんだから、そんなこたあ、あたしの知ったことじゃないわね。罪は罪のままだって言うけれど、あたしゃあ生きていかなきゃならないし、あへんを買う金だっている。罪の話は脇にのけとこう。そうでなくても、もしあたしがあいつの命令にはむかったら、あいつがあたしに災難をもたらすことになるんだから。』
そんなことを考えながら、アンホアはリアウ・アサムの家にゆっくりと歩を運んだ。


夜明け早々、ラワスギッ部落のタン・ヒンセンの家に一団の役人がやってきたのを見てこのサンニオの父親は驚いたが、その一団が何をしにやってきたのかを知ったとき、落ち着きを取り戻した。ドゥマンのタブリーとアヘン販売代理人およびその手下たち、そして乙名のサルダンと数人の警官たちから成る一団は闇アヘン売買の嫌疑をかけてその家を家宅捜索しに来たのだ。ドゥマンはそのことをタン・ヒンセンに告げてから、家の中に入ってきた。一団は敷地内に入ると、屋内外を表から裏まで捜索するために散らばった。
まったく見に覚えのない嫌疑だから、タン・ヒンセンは何も心配しなかったが、警官が屋内に入ってきたとき妻と娘は怯えをあらわにした。

役人たちは家のあちらこちらを捜索したが、何も見つからない。そうこうしているうちに、警官のひとりが野菜畑の垣根の傍で小さな包みを発見した。その包みを開くと小さな缶が表れた。缶の中には、1タイルほどのアヘンが入っていたのだ。
「ほう、こりゃ何かね?」タブリーは笑いながらタン・ヒンセンに言う。「こりゃ、闇アヘンだろうが・・・」
「そりゃ、わしのものじゃない。そんなものをだれがわしの畑に置いたのか、わしは知りません。」青ざめた顔色でタン・ヒンセンが弁明する。
「それは副レシデン閣下の前で言え。あんたは今からわしの館まで一緒に来るんだ。」タブリーが畳み掛けた。

タン・ヒンセンの妻ラウ・ハイニオが地面にくずおれた。足から力が抜けて、立っていられなくなったのだ。恐怖に捕らわれたサンニオは泣き出した。父親が娘を慰める。
「泣いちゃいかん、サンニオ。お前と母さんは今日中にバンジャルヌガラに引っ越すんだ。わしがお前たちを守ってやれなくても、あそこなら安全に暮らせる。しばらくしたら、わしはきっとソウ・ギトンの家に行けるだろう。」
そして妻に向かってこう言った。「わしが他の場所にいる間、お前はわしらの娘を守ってやってくれ。お前はこれからすぐにババ・ギトンに使いをやって、わしが罠にはめられてドゥマンの館に連れて行かれたことを知らせるんだ。」
役人の一団はもう道に出てその家から離れていたので、タン・ヒンセンも急いでそのあとを追った。アヘン販売代理人とその諜者たちは市場に向かって去ったので、ドゥマンの後に従うのは警官とタン・ヒンセンだけになった。


ドゥマンの館に着くと、タブリーは広間にタン・ヒンセンひとりを入れて取調べにかかった。
タン・ヒンセンは、自分が何ひとつ包み隠しする必要がないことに自信を持っており、まったく怖れを抱いていない。この年寄りは立ったままドゥマンに相対した。ドゥマンが口を切った。「あんたはあの闇アヘンをだれから入手したのか?」
「さっきからトアンに申し上げてる通り、あの品がどうやってわしの畑に置かれてあったのか、わしにはまったくわかりません。わしはアヘンを吸わないんで、闇アヘンを買う必要なんかないんだから。」
「あんたが闇アヘンを吸わなくとも、あんたが闇アヘンを買って他の者に売ることはありうる。自分ではアヘンを吸わないのに、闇アヘンを取り扱って金持ちになった者が何人もいることをわしは耳にしている。」タブリーは笑いながら言う。タン・ヒンセンは反論した。
「ドゥマン閣下、もしもあの闇アヘンがわしのものだったら、だれの目にもすぐにわかるあんな畑の端っこなんかに置くはずがない。もっと他の場所に隠すはずだ。」
「どうであろうと、あの品物が自分であんたの敷地の中にやってくるわけがなかろう。」
「わしをひどい目にあわせようとしてる悪人がやったに決まってる。」
「何とでも言うのは勝手だが、だれが闇アヘンをあんたの家の中に置いたのかをあんたが示せないかぎり、警察はあんたの言うことを信じないだろう。だから、今回の事件であんたが刑罰を受けることはまず間違いない。」

タン・ヒンセンはため息をついた。「それが神の思し召しであるなら、わしはそれに従うしかない。」
タブリーはタバコに火をつけて一口吸ってから、こう言った。「年齢の行ったあんたが刑罰を受け、他に子供がいないからあんたの妻と娘の生計を支える者がなくなることを思えば、あんたは実にかわいそうだ。だから、あんたを救う方法をわしは考えた。」
「そりゃ、ありがたい。ドゥマン閣下がこの年寄りに同情してくれるなんて。閣下がわしに手を差し伸べてくれて、このできごとでわしが刑罰を受けずに済むのなら、ご恩は一生忘れません。」

煙を口から吐き出したあと、タブリーは言った。
「あんたを助けるのにやぶさかではないが、あんたはわしの言うことに従わなきゃならん。」
「閣下の言うことがよこしまでないなら、わしは喜んでお言いつけに従いましょう。」
「ババ・ヒンセン、よく聞け。本当はわし自身にこの事件からあんたを救い出す力はない。しかし、この事件でもっと上の権力を持つ人間に、あんたへの助力を頼むことはできる。その人物の助力を得るためには、あんたがその恩に感謝するかどうかをはっきりさせておかなきゃならん。」
「わしがそのお方への恩を後生大事に奉じるのはもちろんだけれど、わしを助けてくれるお方とはいったいどなた様なんで?」
「アヘン公認販売者のロー・フェンクイ。」
「ロー・フェンクイ?」思わずタン・ヒンセンは叫び声をあげた。

「そう、アヘン公認販売者自身だ。あんたが驚くには及ばない。闇アヘンの問題は公認販売者が深い関わりと力を持っており、どんな事件も公認販売者の望むように処理されるのだ。わし自身もあの公認販売者をよく知っており、わしがかれにあんたへの助力を頼めば、きっと聞き入れてくれる。しかしさっきわしが言ったように、あんたはその恩に本当に感謝しなきゃならんのだぞ。」
タン・ヒンセンは押し黙っていたが、ドゥマンの話がどこへ向かって進んでいるのかについて、かれにはもう先が読めはじめていたのだ。かれはダメ押しの質問をドゥマンにした。「アヘン公認販売者への恩をわしはどのようにして返しゃいいんですか?」
「言うまでもなく、あのお人の心を喜ばせてやることだ。」
「でも、あのお人の心をどんな風に喜ばせてあげりゃあよいのか、わしにはわかりません。わしは貧しくて、お礼の品に差し上げられるものなんか何も持ってないので。」
「あんたが金品を差し出す必要なんかない。あのお人は大金持ちなんだから、あんたから金品をもらったって喜びはしない。しかしあのお人は美しいマドゥを求めていて、あんたの娘をほしいと申し込んだそうだな。本当か?」
「はい。でもわしはひとり娘をマドゥなんぞにする気はありません。」
「ババ・ヒンセン、そこをあんたは心得違いしている。ババ・ロー・フェンクイは奥さんから子供を授からないため、もしあんたの娘がかれの子供を産んだら、あんたにとってもこれほど喜ばしいことはなかろうが。」
「いいや、ドゥマン閣下、そりゃ違う。自分の娘を金持ちの妾にするくらいなら、わしは貧乏なままでいるほうがマシだ。」
「しかしあんたはいま事件を起こしていて、アヘン公認販売者にあんたが娘を差し出せばかれがその事件を消滅させ、あんたは助かることになる。あとで後悔しないよう、ようく考えろ。」

ドゥマンの言葉に、タン・ヒンセンの目は大きく見開かれた。いまやかれには、この事件の全貌が明らかになったのだ。自分の家の畑に闇アヘンが置かれていたのは、ロー・フェンクイの策謀だった。そんな腐ったはかりごとを使ってかれに娘のサンニオを差し出すよう強いるのが目的だったのだ。タン・ヒンセンはドゥマンに怒りの目を向けて口を開いた。
「ドゥマン閣下がわしをどう説得しようとしても無駄だ。この事件でわしが死刑にされても、わしは娘を絶対妾にはしない。」
「あんたの考えは変わらないのか?」
「絶対に変わらない。この世にただひとりしかいないわしの宝のような娘をわしから奪い取ろうとする一群の邪悪な連中に迫害された結果であることがはっきりわかっていても、わしはこの事件で自分に下される刑罰を喜んで受けましょう。」タン・ヒンセンは声を震わせながら言い切った。
ドゥマンはその言葉に顔を紅潮させて椅子から立ち上がった。自分の面前で耳に痛い言葉を吐いてのけた年寄りの野菜売りにビンタを食らわせてやろうという衝動をかろうじて抑えながら、かれは部下のひとりを呼び、タン・ヒンセンを書記官のところへ連れて行って告訴状を作らせるよう命じた。そしてかれ自身はアヘン販売代理人のチア・ニムスイ宛てに、このアヘン密売者はあまりにも頑固で説得は不可能だ、ということを手紙に書いた。
チア・ニムスイはそんな短い文章からすべてを理解した。タン・ヒンセンはあくまでも娘をマドゥに差し出すのを拒否しているのだということを。


ドゥマンが大広間から家屋内に入ろうとしたとき、前庭に入ってきた一台の馬車からひとりの華人青年が降りるのを目にした。整った顔立ちでヨーロッパ風の服装をしたその華人青年は20歳くらいの年齢で、丸顔に涼しい眼をしており、善良な性根と意志の強さを示していた。かれの名はソウ・ギトン、バンジャルヌガラに住むバンケン夫人の息子だ。幼い頃に父親と死に別れたが、母親と叔母の夫カピテン(地域の華人自治体の長、一般にカピテンチナと呼ばれている)・チョン・カンロンから正しい価値観と教育を与えられて育ったかれは、中国文字にもオランダ語にも堪能だった。

かれは18歳でブナワンの富裕者の娘と結婚したが、その妻はかれの長男を産んでからこの世を去った。その後かれはジャンダの女性シム・キーニオをマドゥに迎えたが、このマドゥとかれの母親は折り合いが悪く、ひとつ屋根の下に暮らせないことが明らかになったことから、ギトンはバンジャルヌガラの別の場所に家を借りてシム・キーニオを住まわせている。
バンジャルヌガラの街で、ソウ・ギトンはヨーロッパからの輸入飲食品を取扱う店を開いており、そしてまた、かれはバンジャルヌガラ監獄の食糧供給契約者でもある。
父親の故ソウ・ベンケンがそうであったように、この青年も気さくで心優しく、貧者に施しを与えるのを好んだ。人種の区別など少しもせず、困窮に陥った者はだれであれ、救いの手を差し伸べることを当たり前のように行なっていたのだ。だからバンジャルヌガラの大勢の華人・プリブミ・その他諸人種の間でこの青年が愛され、賞賛を勝ち得ていたのも不思議ではなかったのである。かれは常に誰に対しても、たとえ相手が貧困者でさえ、優美な言動で礼儀正しく振舞っていた。

ドゥマンのタブリーも敬意を表してソウ・ギトンを迎え、椅子を勧めた。青年が尋ねる。
「わたしの来訪がトアンのお仕事に差しさわりをもたらしてはいませんか?」
ドゥマンは微笑みながら応える。「おお、全然ありません。ババはご自由にお話なさってかまいません。わたしの時間はたっぷりありますから。」
「わたしがここへ伺ったのは、野菜売りのタン・ヒンセンが闇アヘンを隠し持っていた疑いで警察に逮捕されたと聞いたからです。」
「確かに。かれは闇アヘンを1タイル隠していたため、逮捕されました。」
「野菜売りの庭の野菜畑で闇アヘン1タイルが見つかったとトアンはおっしゃるわけですね?」
「場所が庭であろうと畑であろうと、その者は刑罰から免れられません。」
「でもトアンは本当にあのヒンセンが密売人だと信じていらっしゃるのでしょうか?」ソウ・ギトンはドゥマンの顔をひたと見据えて言った。

「ババのご質問に答えるのはとても難しいと言わざるをえません。ともあれ、家の中で闇アヘンが見つかったならば、その者はジャワにおけるアヘン公認販売に関する法律に違反しているわけです。」
「トアンのおっしゃる通りです。ただ、このタン・ヒンセンは善人で、密売などをするような人間でないことをわたしはよく知っています。だから今回の事件は、邪悪な人間がかれを罠に陥れたという気がするのです。」
ドゥマンは肩をすぼめながら言った。「多分ババのお考えは正しいでしょう。しかしこれまで行なわれているように、闇アヘンを持っていることがわかれば、それがだれであろうと処罰されるのです。だから、わしが副レシデン閣下にどのように口添えしようと、このタン・ヒンセンを救うことは難しいでしょう。」

どうやらドゥマンはタン・ヒンセンを助けられないか、もしくはその意志を持っていないようだ、と感じたソウ・ギトンは、タン・ヒンセンを救うための話をこれ以上続けても無駄だと考え、話を切り替えた。「トアンの立会いのもとに、タン・ヒンセンと面会することは可能でしょうか?」
「ああ、そりゃあもちろん。」
ドゥマンは、書記官のところに連れて行かせた野菜売りをここへまた連れてくるよう、部下に命じた。

やってきたタン・ヒンセンはソウ・ギトンを目にして涙を流した。憐憫の情をかきたてられたソウ・ギトンは野菜売りに言う。「闇アヘンの捜査でンチェッ(中国生まれの成人男性に対する親称)が逮捕されたことをラワスギッの村人のひとりが知らせてくれた。それでわたしはここに来た。ンチェッからわたしに、何か頼み事はあるかな?」
タン・ヒンセンは涙を拭いながら言う。「ババはなんて善い人なんだろう。あの闇の品物がどうしてわしの家の敷地に置かれてあったのか、わしにはまるで心当たりがない。それは本当に誓ってもいいことです。たとえそうであっても、わしが刑罰を受けることについては少しも心配しちゃおりません。わしが心配してるのは、わしの妻と娘があの邪悪な者にひどい目に会わされることだ。昨日わしがババにその名を言ったあの悪人に。そいつはこうして、今わしへの迫害を果たしてのけた。今日にでも、妻と娘がババのお宅に引越しできるよう、ババにお願いしてかまわないでしょうか?」
ソウ・ギトンはその頼みを快諾した。それが終わるとドゥマンは、タン・ヒンセンがこれから警察の取調べを受けるとふたりに告げ、タン・ヒンセンを警察に送り出した。


ソウ・ギトンはドゥマンの館を出ると帰宅する前に叔父のカピテン・チョン・カンロンを訪れて、タン・ヒンセンの事件に関する概要を説明し、アヘン公認販売者の策謀をひとつひとつ物語った。そして無実の罪を着せられた野菜売りを救うための助力を求めたがカピテンはそれに応えて、この事件はアヘン公認販売者が周到に仕組んだものであるため簡単には手が出せない、というコメントをギトンに与えた。それでも、副レシデン閣下のお耳にその話を入れておくし、他にも何か自分ができることが見つかれば助力しよう、と約束してくれた。
そのあとソウ・ギトンはまっすぐ帰宅して、タン・ヒンセンの身に起こったことを母親に話し、またかれがその妻と娘を今日中にその家に引越しさせるよう頼んだことも伝えた。
母親のバンケン夫人は野菜売りが陥った運命を憐れみ、すぐにサンニオと母親をその家に引越しさせるよう息子に命じた。ぐずぐずしていたら、その母娘も邪悪なアヘン公認販売者の毒牙にかかってしまう。母親の承諾を得たソウ・ギトンは即座に動いて母娘の引越しの手はずを整え、その足で警察署に赴いた。タン・ヒンセンに対する副レシデンの決定がどのようなものになるのかを知るためだ。


ソウ・ギトンが警察署に着いてほどなく、ふたりの警官に護衛されてタン・ヒンセンが担当刑事事件判事の前に引き出された。タン・ヒンセンは相変わらず、あの闇アヘンがどのようにして自宅の垣根脇の畑に置かれてあったのかまったくわからないと主張した。
カピテン・チョン・カンロンが既に副レシデンの耳に、これは野菜売りを冤罪に落とすために仕組まれた事件だという情報を入れていたらしく、副レシデンはタン・ヒンセンの物語った内容に理解を示した。恨みを抱いた人間が垣根の外から家の敷地内に闇アヘンを投げ入れた可能性は大いにありうる。しっかりした口の聞きようと整然とした話しの内容から、この野菜売りのひとがらが善良で正直であることが列席のひとびとにも十分印象づけられた。

ところが、闇アヘン販売が目に余る増加を示しているためアヘン販売からの国庫収入に障害が起こりそうだという訴状をブナワンのアヘン公認販売者がブナワンのレシデンに提出していたため、レシデンから管下の全副レシデンにそれに関する通達が回されていた。そんな状況下で、副レシデンが闇アヘン容疑者を簡単に釈放できるわけがない。高位高官の地位を賭けて自分の正義を執行する人間はまずいない。世の中でかれの正義が広く受け入れられる状況にならないかぎり、そんなことは起こらないのが世の常だ。副レシデンはしかたなく、無念の気持ちを抑えてタン・ヒンセンに入獄90日間の刑罰を与えた。
判決の言葉をタン・ヒンセンは黙して受けた。そしてふたりの警官に連れられて外へ出たかれは、待っていたソウ・ギトンを前にして、無実の人間に刑罰が下されたのだと言って涙を流して悔しさを訴えた。ソウ・ギトンは、90日間の入獄は決して重いものではないとタン・ヒンセンを慰め、そして心配している妻と娘の身柄は既に自分の家に引き取られているので、心置きなく服役してくるように、とタン・ヒンセンを諭した。涙を拭ったタン・ヒンセンはふたりの警官に連れられて獄舎に向かった。

タン・サンニオとライ・ハイニオはタン・ヒンセンに入獄の刑罰が下ったことを聞いて嘆き悲しんだが、バンケン夫人とギトンの姉ソウ・テンニオに慰められ、優しく労わられたので、そのうちに悲しみも薄らいでいった。しばらくして、タン・ヒンセンが監獄で重い労役から免れており、また良い食事が十分に与えられていることを聞き、心にのしかかっていた重荷も軽減されていった。ソウ家でのふたりの暮らしには、ほどなく笑みと明るい声が戻ってきた。


ラワスギッ部落でドゥマンのタブリーがタン・ヒンセンの家を家宅捜索しているとき、ブナワンの町でも警官がリアウ・アサムの家を家宅捜索していた。アンホアがロー・フェンクイに仕事の首尾を報告してからおよそ2時間後のことだ。その服屋の家の中のたきぎの山の中から、警官が闇アヘンの入った包みを見つけ出した。リアウ・アサムはその場で逮捕され、警察署に連行された。そして通例の法的手続きの果てにリアウ・アサムも三ヶ月の入獄刑を与えられた。

その日の夕方、アンホアはロー・フェンクイの家を訪れた。ロー・フェンクイは尋ねる。「もうライニオに会ったか?何と言ってた?」
「ええ、ついさっき、会ってきたばかりです。あのお嬢ちゃんはこう言いました。リアウ・アサムが刑罰を受けてもまだ正式に離婚したわけじゃないって。」
「そうか、じゃあおめえはもう帰っていい。だが遠出はするなよ。おめえが必要になったとき、わしからの連絡が通じないといけねえからな。」
アンホアが辞去すると、ロー・フェンクイは使用人に馬車の用意を命じ、自分は着替えするために奥に入った。15分後、かれは監獄に向かう馬車の中にいた。


監獄に馬車が着くと、かれは馬車から降りてヘルマン監獄長に面会した。ロー・フェンクイはこれまでもたびたび監獄を訪れており、監獄長はいつものように親しげにこのアヘン公認販売者を迎えた。
ロー・フェンクイが差し出した握手の手を迎えた監獄長は、その手の中にあった封筒が自分の手のひらに移されたことを感じて笑みを浮かべた。もちろんそれが、昔から監獄長が習慣にしているスタイルだ。監獄長はその封筒をポケットに入れてロー・フェンクイに言った。「アイー、ババにお目にかかるのは久しぶりですね。アヘン販売は順調ですか?」
「実に、逆風ですよ。密売人どもは警察やわたしらの諜者よりもっと利口なようです。今日はとても悪賢い密売人を捕まえました。やつには三ヶ月の入獄刑が与えられましたが、こいつの悪賢さはたいへんなもので、捕まえるまでの苦労は語りつくせません。こいつが刑期を終えて釈放されたら、闇アヘンはこれまで以上にはびこることでしょう。」そう言ったあとロー・フェンクイは監獄長の耳に口を近付けてささやいた。「この邪悪な密売人がきつい労役を与えられますように。」

監獄長は応じた。
「よろしい。ところでそやつの名前は何と言いますか?」
「リアウ・アサム」
監獄長は客人が言った名前をすぐ紙片に書きつけてから、看守長を呼んだ。
「アフマッ、今日は三ヶ月の入獄刑を受けた密売人リアウ・アサムが入った。こいつには重い労役が与えられなければならない。聞こえたな?」
「わかりました、トアン。」看守長はうなずいて部屋から出て行った。そのあと、いろいろな話が交換されてから、ロー・フェンクイはトアン・ヘルマンに握手の手を差し出し、監獄長の部屋を去った。それからかれは看守長を呼ぶと、問いかけた。「監獄長のトアンがあんたに何を言ったか、覚えているか?」
「はい、よく覚えております。」アフマッは答える。
「ここの囚人たちはあんたの命令に絶対服従しなきゃならん。わしは細かいことを言わんぞ。わかるな?」
看守長はうなずいた。するとロー・フェンクイは財布を開いて中から紙幣を一枚取り出し、アフマッに与えた。この看守長は神への祝辞を述べてそれを受取り、アヘン公認販売者に言った。「ババがわしに何をお命じなさりたいかは十分にわかってまさあ。明日あの密売人は病院に入らなきゃならねえ。」
ロー・フェンクイは馬車に乗ると、弟のロー・ナムクイの家に向かった。処理されなければならない問題がいろいろあるのだ。

ヘルマン監獄長は看守長がロー・フェンクイに近寄って行き、何か言葉を交わしてからロー・フェンクイがかれに紙幣を与えるのを見ていた。ロー・フェンクイが監獄を訪れた理由を知っている監獄長には、そのシーンの意味が明白だった。かれはそのシーンについて、何も詮索しなかった。ロー・フェンクイの馬車が大通りから見えなくなると、監獄長はポケットにしまった封筒を取り出して開いた。その中から50フローリン紙幣が一枚出てきたのを見て、かれは相好をくずした。「いつも他人に恵みを施すことを忘れないあのアヘン公認販売者は実に素晴らしいひとだ。」


翌朝、全囚人が獄舎内から外に出されて労役に向かおうとしているとき、昨日入獄したばかりのリアウ・アサムの身体がほとんど言うことをきかない状態になっていることを監獄長は自分の目で見た。夜に他の囚人たちがリアウ・アサムを半殺しになるまで痛めつけたのだ。リアウ・アサムは自分を痛めつけたのが誰なのかを明白に示すことができなかったため、治療のために病院へ送られただけで、その暴行事件については深く調べられないまま闇に葬られてしまった。リアウ・アサムは病院に送られて二日後に死んだ。
リアウ・アサムは監獄内で暴行されて死んだという噂をささやく者が何人かいたが、この事件を表立って言い立てようとする声にはならなかった。明白な証拠もなく、関係者全員が『王の頭』で口を封じられている秘密を、いったいだれが暴けると言うのか?ましてその服屋には親兄弟がなかったため、他人の事件を掘り起こそうという酔狂なできごとは起こらないのが普通だ。

リアウ・アサムの妻、プイ・ライニオは夫の遺体を引き取ってその日のうちに埋葬した。葬式の賑わいからかけ離れた終末だった。ビビ・アンホアとその養い男が葬儀を取り仕切ってくれた。アンホアは葬式の世話、養い男は埋葬の世話。おかげでリアウ・アサムの葬儀はつつがなく迅速に完了した。夫の墓で妻は悲嘆の涙にくれたが、アンホアが言葉を尽くして悲劇の妻を慰めた。

その二日後、リアウ・アサムの家から荷物が運び出されて荷車に積まれた。そしてアンホアに付き添われたライニオの姿が牛車の上に見られた。ブナワンの街から少し離れた郊外に小さなお屋敷があり、そのお屋敷は高価な家財道具で満たされ、数人の使用人が召し使われているというのがその近隣のもっぱらの噂で、ライニオとアンホアの一行はその中に姿を消したという話がその噂を上塗りするかのようにひとびとの口の端に上った。
そのお屋敷の中に置かれた揺り椅子に座って一行が来るのを待っていた男がロー・フェンクイだったとしても、何も不思議なことはない。ビビ・アンホアに伴われてやってきた美しい顔立ちの娘が牛車から降りる姿を目にして、かれの心は張り裂けんばかりの愉悦に満たされた。これからこの女はわしの喜びのひとつになるのだ。

ロー・フェンクイは手に入れたプイ・ライニオに溺れた。ライニオがかれにもたらす喜びの大きさに、かれはもうひとりの欲望の標的タン・サンニオをほとんど忘れるしまつだった。しかしかれが仕組んだメカニズムは動き続けている。
バンジャルヌガラのアヘン販売代理人チア・ニムスイから、野菜売りタン・ヒンセンが三ヶ月の入獄刑に処せられたことを知らせる手紙が届き、その先の計略をハジ・サアリに続けさせるようチア・ニムスイに命じる返事をロー・フェンクイは送った。しかしタン・サンニオと母親がラワスギッ部落からバンジャルヌガラのバンケン夫人宅に迎え入れられ、ハジ・サアリが打てる手を見失って膠着状態に陥ったのと並行して、ライニオに溺れてしまったロー・フェンクイもタン・サンニオへの食指が動かなくなったまま日を重ねていたのだ。


ある晩、ロー・フェンクイが妾宅から自宅に戻ってきたとき、使用人がかれに言った。ひとりのハジがお目にかかりたいと外で待っていると。それがサンニオに関する話を持ってきたハジ・サアリにちがいないとかれは即座に察し、そのハジを隣の棟に通すよう使用人に命じた。
「おめえはわしの命令を実行したか?」
「ちっともできてねえです、ババ。」
ハジ・サアリの言葉を聞いてロー・フェンクイの眉が一本につながった。諜者は話を続ける。
「わしが自分で置いた闇アヘンが庭の中で見つかったんで、タン・ヒンセンは三ヶ月の入獄に処せられた。」
「そんなこたあ、もう知ってる。それより、娘のサンニオのことはどうなんだ?」
「あの娘を手に入れるのは難しい。」
ロー・フェンクイはにんまり笑って言った。

「おめえはやっぱり、口がでけえだけの人間だってことがはっきりしたな。保護者のいねえ娘っこひとりのことで、おめえの知恵はもう種切れか?」
「ババはわかっちゃいねえ。タン・ヒンセンが刑を受けたとき、サンニオはもうバンジャルヌガラに引っ越してバンジャルヌガラ中にその名を知られた若者の家で暮らし始めたってことを。」
「だれの家に引っ越したんだ?」意外な進展があったことに気付いたロー・フェンクイが尋ねる。
「ソウ・ギトンの家でさあ。」まるで不意打ちを食わされたかのように、諜者の言葉を耳にしたかれはしばらく唖然とし、そして言った。

「ひょっとして、ソウ・ギトンはサンニオを妻にしようと考えているんじゃねえだろうか?」
「わしもそう思いまさあ。何日か前にババ・ギトンのマドゥのシム・キーニオが別の家に引っ越してるんでね。」
「しかし、わしが先にあの娘に申し込んだことをあいつは知ってるんだろうか?」
「もちろんでさあ。わしが思うに、ババ・ギトンはタン・ヒンセンがわしらに陥れられたことまで知ってるんじゃねえですかい。あの野菜売りが逮捕されたとき、ババ・ギトンはすぐにドゥマンの館に赴いて、あの闇アヘンは悪人がタン・ヒンセンの家に置いたものだと言ったんですぜ。そのあと更にこの事件をカピテン・チョン・カンロンに訴えたおかげで、野菜売りはもうちょっとのところで刑罰を免れるところだったんだから。」
「まあ、見てろ。あいつが強力な庇護者を持っていたところで、わしが痛い目に会わせようと思った人間を助けられるわけがねえ。」アヘン公認販売者は笑いながらそう言った。
「その通りだ。今回の事件では、ババ・ギトンの負けだ。ただ、バンジャルヌガラの町中に尊敬されてるソウ・ギトンにわしらはなかなか手出しができねえ。」
「たわごとを言うんじゃねえ。」ロー・フェンクイは足を踏み鳴らして叫んだ。「わしがあの畜生野郎を支配できねえとおめえは思ってるんだな?あいつはカピテンチナの庇護者を持って、自分は有力者になったとのぼせあがってやがる。華人オフィサーどももみんなひと括りにして、あいつらが大道を歩けねえようにしてやるぞ。聞け、ハジ・サアリ。これからわしはあの畜生ギトンを手ずからもてなしてやる。どんな手を使ってでもな!」
「ババがあいつに負けるわけがねえとわしも思いまさあ。」
「あたりめえだ。どうしてもやりようがなくなりゃあ、あいつの命をもらうまでだ。」
このアヘン公認販売者の性格はきわめて残忍であり、怖れを知らない勇猛さもひと一倍だった。かれの怒りに火がつくと、かれはそれを隠そうともせずに外に表した。それが自分自身に災いをもたらすかもしれないという惧れなど少しも考えないで。

ロー・フェンクイの言葉を耳にして、ハジ・サアリの心に不安が湧き起こったが、それにかまわずかれはアヘン公認販売者に言った。
「ソウ・ギトンに使われてる者をたまたまわしは知ってます。サルミリってえ若者で、このサルミリはわしの娘ラミラに首っ丈になってるから、ラミラを妻にできるなら、わしの言うことにはなんでも従いまさあ。だからババ・ギトンの秘密を嗅ぎ出すために、ババはサルミリをお使いになりゃあいい。」
それを聞いてロー・フェンクイはしばらく考え込み、そして尋ねた。「そのサルミリは信用していいのか?」
「サルミリがババの何らかの役に立つことはわしが保証しますぜ。」
「サルミリはソウ・ギトンに使われてもう何年になる?」
「一年くらいでさあ。前はババ・ギトンの監獄食糧供給倉庫で働いてて、最近シム・キーニオの家で働くようになった。」
「泊り込みか?」
「毎晩てえわけじゃねえが、夜7時にゃあカリマンガ部落にある小さな借家に帰ってまさあ。わしの家の近所だ。ババのお気に叶うなら、明晩わしはサルミリをここへ連れて来て、ババに引き合わせましょう。」
「よかろう。明晩おめえはその男をここへ連れて来い。そいつが信用できて、わしの役に立てるかどうかをまず調べよう。そいつがわしの役に立つことをして、わしの望みが実現すれば、将来ラワスギッ部落のわしの土地の監督人に取り立ててやろう。ただし、おめえがその男をここへ連れてくることでほかの人間が嫉妬やあれこれのいざこざを起こさねえように、おめえは最大限の注意を払わなくちゃならねえぞ。わしがあの畜生ギトンの大敵であることを大勢が知ってるんだから。」
「わかってまさあ。」そう答えたハジ・サアリはロー・フェンクイからいささかの金をもらってそこを去り、バンジャルヌガラへ帰るために牛車に乗った。


翌晩、ハジ・サアリはサルミリを伴ってアヘン公認販売者の家を訪れた。28歳のサルミリはロー・フェンクイの信用を得た。サルミリの外見と話しぶりから、サルミリは信用できて、おまけに自分の望みの実現に手を貸すことができそうだという印象を得たロー・フェンクイは大いによろこんだ。

それ以来、ハジ・サアリはしばしばサルミリを連れて夜にロー・フェンクイの家を訪れるようになり、シム・キーニオの家の内部状況が筒抜けになっていった。バンケン夫人が息子のソウ・ギトンにタン・サンニオを娶わせることを強く望んでおり、そのことで気を病んだシム・キーニオが身体をこわして容態がきわめて悪くなっているという内情も。もちろん、ソウ・ギトン自身はサンニオとの間に強い感情の絆ができたわけでもないため、母親の意向にすぐに従おうとはしていなかったのだが。

ロー・フェンクイは集めた情報を元に、ソウ・ギトンを陥れるための策謀を練った。その実施のためにかれはサルミリという手駒を得ている。サルミリが自分の思い通りに動くことをかれは確信していた。ハジ・サアリの助力でサルミリはロー・フェンクイの忠実な手下のひとりになったのだ。ハジ・サアリはサルミリをロー・フェンクイの策謀実行者にするために説得し、更に娘のラミラを嫁にやることも約束した。
サルミリにとっては、ロー・フェンクイの手下になることで、言いつけられた仕事を果たせばその都度金が手に入り、おまけにロー・フェンクイの望みが実現されれば、かれ自身がこの地主の私有地で監督人の職に就けることが約束されている。おまけに恋焦がれているラミラを自分の妻にできるのだ。これだけ大きなメリットは、この先何年ソウ・ギトンの使用人として働いても、得られるものではない。
今の雇い主に後足で砂をかけることなど、サルミリの心に何の躊躇をもたらすものでもなかった。自分が生き続けるのは自分の共同体の中なのであり、今の雇い主は血縁と地縁で枠組みされたかれの共同体内の人間ではなかったのだから。共同体の外の人間は異邦人なのであり、そこでは恩や情や義理あるいは恥といった社会的精神活動が正常な形では機能しないのだ。


ソウ・ギトンは最初の妻が男児をひとり産んでから世を去ったため、ジャンダのシム・キーニオをマドゥに迎えた。最初、ギトンはキーニオを自分の家で一緒に住まわせたが、ギトンの母であるバンケン夫人と性格が合わないことが明らかになったことから、ギトンは別の場所に家を借りてキーニオをそこへ移した。
シム・キーニオは裕福な家庭に育ち、バンジャルヌガラのシェーティオと娶わせられた。ところが一年半ほどして夫も世を去り、子供がまだできなかったために、ソウ・ギトンのマドゥになった。キーニオは両親が亡くなり、他に兄弟姉妹がいなかったので、貸し家やその他の資産などおよそ4万フローリンに達するシム家の全財産を引き継いでそれを経営していた。ソウ・ギトンがキーニオをマドゥに望んだのはその財産が目当てでなく、キーニオへの恋慕の情から出たものであり、キーニオもその心を受け止めてギトンのマドゥになった。ところが母親がキーニオをソウ家の嫁にすることを承諾しなかったというのがその間の事情だ。

タン・サンニオがバンケン夫人の家に同居するようになり、バンケン夫人がサンニオをソウ家の嫁にしようと望んでいるという噂を耳にしてからというもの、キーニオは針のむしろに座らせられたような心の痛みに日々苦しめられるようになった。愛し合っているギトンがサンニオを正妻に迎えたとき、自分の将来はどうなるのか?大きなストレスにとらえられたキーニオは鬱々とした毎日を過ごすようになり、気丈で明るかった心が蝕まれ、それはかの女の肉体的な健康をも奪い去っていった。

ギトンの顔を見ると心中に湧き起こっている黒雲を愛し合っているはずの男にぶつけるようになり、争いごとを好まず平穏な人間関係を好むギトンはキーニオの心を慰めようとするものの、これまでふたりの間に流れていた甘い感情がすこしずつ過去のものに移行して行くのは避けられないことだった。とはいえ、既に愛するマドゥを持つギトンは、まだよく知り合っていないサンニオを正式の妻にという母親の意向をかわしつつ、サンニオには深入りしない関係を続けていたのだが。
そして、シム・キーニオはついに肺病をわずらい、寝床に就く毎日を送るようになった。ギトンはかかりつけの医者をキーニオのために手配し、オランダ人の医師に治療を依頼した。決まった時間に医師が調合した水薬を飲むよう命じられたため、ギトンはできるかぎりそれを自分の手で行なうようにした。ギトンはその時間にマドゥの家に来て手ずから薬をキーニオに飲ませるのだ。その朝、薬を飲ませようとしてやってきたギトンは、キーニオが寝室のベッドで寝ていたために目を覚ますまで待った。しかしキーニオは深く寝入っている。ギトンは女中に湯を沸かして茶を淹れるよう命じ、ちょっとした用事をすませるために自分は店へ戻った。いつもかれがよくそうしているように、寝室の扉は開いたままで。


小一時間してギトンがキーニオの寝室に戻ると、キーニオは目覚めていた。かれは昨晩もそうしたように、卓上の薬ビンから大さじ二杯分をコップに入れてキーニオに飲ませた。キーニオが薬を飲み下すとほどなく、大声で腹の痛みを訴えて寝床の上でのたうちまわった。思いがけないできごとに困惑したギトンはキーニオの身体を抱きしめてその痛みをやわらげようとしたが、キーニオは暴れまわってそれを許さず、ギトンにこう言った。
「ああ、なんてこんなにひどいことを。はらわたがちぎれそうだわ。助けて!早く助けて!毒を飲まされたのよ。」
「いったいだれがおまえに毒を飲ませたのか?」何をすればよいのかわからないギトンが尋ねる。
「あんた自身がそのコップであたしに毒を飲ませたのよ。ああ、助けて!ほんとに死んでしまう。」
「わたしがおまえに飲ませたのは医者からもらった薬だ。昨日の夕方もそれを飲んだじゃないか。どうしてわたしがおまえに毒を飲ませたなんて言えるのか?」
「もちろん、あんたがあたしに毒を飲ませたのよ。あんたはあたしに死んで欲しいんだ。そうすりゃ、あんたはタン・サンニオを自分の正妻にできるし、あたしが作っておいた遺言状であたしの財産を全部自分のものにできる。ああ、早く助けて!あたしはこんな痛みに耐えられない。」
シム・キーニオはしばらく寝床の上でのたうっていたが、しばらくしてもう声が出なくなった。

混乱しきった頭でソウ・ギトンは二人の使用人ミナとサルミリを呼び、寝室の状態を保っておくよう言いつけた。ふたりの使用人は寝室の異常な状況を聞きつけて部屋の扉の外に控えていたため、ギトンはすぐに使用人にそれを命じることができた。そして医師を呼びに行くため家を出ようとしたとき、かかりつけの医師もシム・キーニオの診察のために馬車を家の表につけたばかりだった。薬を飲ませたところ突然激しい苦痛でのたうち大声で叫びだし、毒を飲まされたと言明したキーニオの様子をギトンが医師に手短に語って聞かせると、医師はすぐに寝室に入ってキーニオの容態を調べはじめた。そのときキーニオはゆっくりと目を開き、自分の容態を探っているのが医者であることを知ると最後の力をふりしぼり、小さな声で切れ切れに話し出した。「トアン、あたしは自分の男に毒を盛られたんです。そのコップであたしに毒を飲ませて・・・」そしてその直後、キーニオの呼吸が絶えた。


シム・キーニオが毒で死んだことを確信した医師はソウ・ギトンに尋ねた。「あんたは奥さんに何を飲ませたのかね?」
「先生がくれた薬を飲ませたんです。昨日の夕方もその薬を飲ませ、キーニオの具合が良くなったように見えました。先生の言いつけ通り、その水薬だけを飲ませ、何ひとつそれに混ぜるようなことはしていません。なのに、今度はなんでこんなことになったのか・・・・」
ギトンの言葉を聞いた医師はすぐに薬ビンを取り上げて中身を調べ、そして言った。「こりゃあ、猛毒の砒素が混ぜられている。ちょっと電話を貸してもらいますよ。」
ギトンはその借家に電話を引かせていたのだ。医師は副レシデンに電話してババ・ソウ・ギトンの妾宅に来るよう依頼した。
愛するマドゥの突然の死はソウ・ギトンに困惑をもたらした上、このできごとで自分が厳しい立場に立たされるであろうことにかれは大きい不安をおぼえていた。

およそ10分後に副レシデンが姿を見せた。医師は警察機構の長である副レシデンに状況を話してから毒の入った水薬を封印し、シム・キーニオの毒死事件に関する報告書を書いて帰途に就いた。副レシデンはソウ・ギトンとふたりの使用人に警察署へ同行するよう命じ、封印された薬のビンを持ってそこを去った。シム・キーニオの遺体の処理を警察が行なうことにソウ・ギトンは承諾せざるをえなかった。
連行されたソウ・ギトンと使用人のミナおよびサルミリに対する取調べが始まった。ギトンは、その日シム・キーニオの家に自分が何をしにどのようにしてやってきたかということから話し始めた。医師の調合した薬を決まった時間に飲ませるためにキーニオのところへ来るようにしたこと、今日はキーニオが熟睡していたのでちょっとの間仕事のために自分の店に戻り、すぐに戻って目覚めていたキーニオに薬を飲ませたところ、寝床の上で転げまわって「毒を飲まされた」と大声で叫び出したこと、医師を迎えに行こうとしていたら医師がやってきてキーニオの容態を調べ、ほどなくキーニオは息を引き取ったこと。

「その薬を飲ませ始めたのはいつからのことか?」
「昨日からです。それを飲んだら具合が良くなったようで、一晩、機嫌よく眠れたそうです。」
「その家に同居しているのはだれか?」
「女中のミナがその家に同居しており、下男のサルミリは夜になるとカンプンに帰ります。」
「そのふたりの使用人はもうどのくらいあんたに使われているのか?かれらふたり、あるいはそのうちのひとりが、あんたのマドゥに悪意を持っているということはないのか?」
「あのふたりの使用人が悪意を持っているとは思えません。ミナはシム・キーニオが子供のころから世話してきた者で、これまでも仕事はきちんと行なっていました。サルミリも一年間店の使用人として働いてきた者で、信頼できると思ったのでキーニオがあの家に移るときにその家の世話をする仕事に変えたのです。」
「昨日以来、あの家に他の人間が出入りしなかったか?」
「医師が朝キーニオの診察に来ましたが、それ以外の人間はだれひとりあの家に入っていません。」
「キーニオが息を引き取るとき、あんたが毒を飲ませたという言葉を耳にしたと医師は言っていたが。」
ギトンは思わず身震いしながら答えた。「トアン、誓って言います。ずっとキーニオの寝室に置かれていたあの薬を飲ませるとき、わたしはあれに毒が混ぜられていることなど爪の先ほども想像しませんでした。前日既に一度その薬を飲んでおり、そのおかげで身体の具合がよくなったような様子があらわれたからです。」
「最初、あんたがキーニオの寝室に入ったとき、部屋の扉には鍵がかかっていたか?そしてあんたが店にもどろうとしたとき、あんたは扉を閉めなかったか?」
「わたしが最初キーニオの部屋へ行ったとき、扉は鍵がかかっておらず、ぴったり閉まっていて掛け金がかかった状態でした。わたしが店へ戻るとき、その部屋に入ったときと同じ状態にして出て行ったと思います。」
「キーニオが眠っているとき、使用人たちがその寝室に入ることはありえないと思うか?」
「使用人たちが寝室に許しもなく入り込んだことはまだ一度もありません。ミナにいたっては、命令でもされないかぎり、キーニオのいる寝室に入っていくような度胸はないでしょう。」
副レシデンはソウ・ギトンに外で待つよう命じると、ミナを中に入れて取調べをはじめた。

もう50歳を超えているミナは、キーニオがまだ子供のころからその両親に使われるようになり、その一家がキーニオひとりになってもまだ自分を使っていてくれたのに、今度はキーニオが毒で亡くなったため悲しくてたまらない、と涙を拭いながら話はじめた。そしてキーニオが肺病を患ったのはソウ・ギトンがタン・サンニオを妻に迎えようとしていると思ってそれを苦にし、またソウ・ギトンとよく口喧嘩するようになったからだ、と話した。「昨日はキーニオ嬢ちゃんの具合がよくなったように見えたもんで、今日になってこんなことになるとは思ってもみないことでした。今朝、嬢ちゃんは6時に起きて、それからまた寝たんです。8時ごろババが来てあたしに湯をわかすよう命じ、ババはまた出かけました。あたしが台所で湯をわかしてると、半時間くらいして嬢ちゃんが目を覚ましました。医者の薬を飲んだら具合がとても良くなったんで、朝6時ごろまた飲んだって言いました。そのうちにババがまた戻ってきて、それから程なく嬢ちゃんが苦しそうな声で寝室の中で叫ぶのが聞こえたんです。それであたしとサルミリは寝室の前まで行きました。サルミリは寝室の扉を開く度胸がなく、扉の前に突っ立って嬢ちゃんが叫んでる『ババ・ギトンに毒を飲まされた』って声を聞いてるだけでした。そのあと、ババ・ギトンは部屋から出てきて表へ行って、それから医者といっしょに戻ってきました。そのあと、嬢ちゃんはとうとう死んじゃったんですよ。」
副レシデンはミナに尋ねる。「最初ソウ・ギトンが来てからキーニオが目を覚ますまでの間に、その寝室にだれか入ったか?」
ミナはそれに答えて、自分はそのとき台所で湯を沸かしており、サルミリは裏の浴室に水をためるために井戸で水を汲んでいたので、キーニオの寝室に誰かが入ったかどうかはわからない、と副レシデンに述べた。

続いてサルミリを取り調べた副レシデンは、ミナから得られた情報を裏付けるようなものしかサルミリから得ることができなかった。
自分自身もしくはシム・キーニオに害意を持っている人間はだれであり、そして薬ビンにだれが毒を入れたのかをソウ・ギトンが説明できない以上、かれに嫌疑が向けられるのは明らかだ。医師が推測したのと同じように、副レシデンもまたソウ・ギトンをシム・キーニオ毒殺事件の第一容疑者とした。
その日の内にこの事件は担当刑事事件判事の取調べに回され、副レシデンはソウ・ギトンを留置させてこの事件を巡回法廷に委ねた。サルミリとミナは帰宅を許され、法廷での審判に証人として出廷するよう命じられた。


ソウ・ギトンの事件でバンジャルヌガラ中が沸き立った。普段から礼儀正しく善良な性格のソウ・ギトンをよく知っているバンジャルヌガラの住民は、かれがそんな卑劣な行為を行なうはずがない、として信じようとしなかった。ソウ・ギトン自身が十分巨額の資産を持っている。一部は父親の遺産だが、本人も監獄への食糧納入や飲食品販売店その他の事業を行ない、自ら汗して財を手に入れているので、シム・キーニオを殺してまでかの女の財産を手に入れるような必然性が感じられない。
住民感情がたとえそうであっても、殺人容疑者として法的措置が加えられているかれの身柄をいったいだれが監獄から救い出しえるのだろうか?有罪か無罪かの判決を下すのは判事であり、巡回法廷での審判が行われるまでソウ・ギトンは監獄に入らなければならない。なぜなら、状況証拠が法曹執行者にかれが有罪であるという心証を強く与えているからだ。

カピテン・チョン・カンロンですら、この事件からソウ・ギトンを救い出す手立てをなにひとつ得られなかった。息子の災難を嘆いて毎日涙を流しているバンケン夫人を慰めるために、できるかぎりの努力をしてこの事件の裏を探り、だれがソウ・ギトンに迫害を加えているのかを暴き出してギトンを今の境涯から救い出してやると約束はするものの、手がかりはまだ何もつかめないのだ。カピテン・チナのチョン・カンロンは、ソウ・ギトンは敵を作らない若者であり、そんなかれに恨みを抱いている者はアヘン公認販売者のロー・フェンクイしかいないことを知っている。だからこの事件はロー・フェンクイがソウ・ギトンを陥れるために仕組んだものである可能性が高い。そのロー・フェンクイは警察や行政界に大勢の知己や友人を持っており、事件の裏側を暴こうとするなら、よほどの用心深さでことを運ばなければならない。

一方、バンジャルヌガラの副レシデンには数通の密告書が送りつけられてきた。その中には次のような内容が書かれてあった。シム・キーニオは遺言を作っており、自分の死後は全財産をソウ・ギトンに譲ることを表明しているが、その条件としてギトンは自分以外の女を娶ってはならない。ところが、バンケン夫人がタン・サンニオを息子の嫁にしたがっており、ソウ・ギトンはシム・キーニオの財産を手に入れて母親の望むタン・サンニオと結婚するために、その殺人事件を起こしたのだ、と。殺人を犯す強い動機があったことを指摘するその密告書の内容はソウ・ギトンの容疑を強める効果を持っていた。しかし警察はシム・キーニオ殺害に使われた砒素の入手経路を解明することがいまだにできないでいる。バンジャルヌガラのすべての薬品店で、華人にせよプリブミにせよ砒素を購入した者の記録がまったくないのである。


シム・キーニオが毒死した日の二日後、サルミリはロー・フェンクイに会うためブナワンへ行った。ハジ・サアリが病気で三日間も寝込んでいるため、サルミリはハジの付き添いなしにひとりでアヘン公認販売者の家を訪れたのだ。シム・キーニオが毒死してソウ・ギトンが監獄に入った情報を別の者から得ていたロー・フェンクイは開口一番、サルミリに尋ねた。
「どうしてハジ・サアリと一緒に来ねえんだ?」
「ハジはもう三日間も熱が高くて、家から出られねえんです。」
「キーニオの薬ビンに毒を入れたのはおめえだな?」
サルミリはそのときの状況をロー・フェンクイに説明した。

そのとき、キーニオの使用人のひとりであるサルミリは女主人の寝室の様子に神経を集中させていた。やってきたソウ・ギトンはキーニオの寝室に入ったが、しばらくするともうひとりの使用人ミナを呼んで、湯を沸かして茶を淹れるよう言いつけた、そのときミナに、自分はちょっと店へ行ってくるから、戻ってから薬を飲ませる、と言うのをサルミリは聞きつけた。
裏の井戸で水を汲んでいたサルミリは、絶好のチャンスが来たと思った。ババは出かけ、女主人は熟睡しており、もうひとりの使用人は台所だ。自分がその部屋に入って何をしてもだれに見咎められることもない。サルミリは裏口からそおっと出て表に回り、玄関から入ってキーニオの寝室へ行った。寝室の扉に鍵がかかっていなければ、そのとき毒を入れようと考えたのだ。そして運がいいことに、寝室の扉は開いていた。
サルミリはすぐに寝室の中に入り、卓に置かれた薬ビンを手に取ってふたを開き、頭に縛っている手巾から取り出した小さな紙包みを広げて中の白い粉を薬ビンの中に入れた。またふたを閉めてそれを卓上に戻してから、かれは音も立てずにそっとその部屋から外へ出ると、扉板がきしまないようゆっくりと扉を閉め、また玄関から外へ出て裏にまわり、井戸に戻って水汲みを続けた。
台所で湯を沸かしていたミナはサルミリのそんな行動にまったく気が付いておらず、サルミリは裏の井戸で水汲みをしていると思い込んでいた。

「わしがおめえに渡した毒薬は全部薬ビンに入れたのか?」
「半分だけ。」
「残りはどこにしまった?」
「残りはビンに入ったままで、ハジ・サアリの家に。」
「今日か明日中におめえはその品をバンジャルヌガラのアヘン販売代理人ババ・チア・ニムスイに渡さなきゃならねえぞ。」
「わかりやした。でもババが約束した褒美をわしはいつもらえるんで?」
「おめえの仕事はやっと半分終わったところだってえのに、何をくれってえんだ?ソウ・ギトンが刑罰に処せられたら、おめえは百フローリンがもらえ、わしの土地の監督人になれる。今はまだだめだ。わしがおめえをすぐに使いはじめたら、警察が嫉妬する。それだけじゃねえ、おめえはひんぱんにここへ来ねえようにしろ。官憲がおめえに目をつけるといけねえ。」
「ババは忘れちゃいけねえや。わしにはもう雇い主がいねえんだってことを。毎日の暮らしのための金をどうやって手に入れろって言うんですかい?」サルミリの言葉にロー・フェンクイが答えた。
「わしが毎日おめえに金をやる。」
「わしには衣服を買う金もいる。そしてハジ・サアリの娘ラミラにも衣装を買ってやらなきゃいけねえ。」
「よし。」ロー・フェクイはそう言って財布を開く。
「まずこの30フローリンを受け取れ。それからババ・ニムスイ宛の手紙を書くから、おめえはそれを届けに行くんだ。」
ロー・フェンクイは紙とペンを取り出して手紙を書き始めた。

わが友、チア・ニムスイ殿、
このサルミリが貴殿に砒素の入ったビンをひとつ渡したら、貴殿は早急にそれを小生宛に送るように。この用件はだれにさせてよいというものではない。できれば貴殿自身が小生に手渡すようにするのが最善である。急を要する。遅れのないように。
それから、貴殿は毎日このサルミリに50センを与え、またハジ・サアリには薬代として10フローリンを与えるように。

ロー・フェンクイと印刷されている封筒にその手紙を入れて封をすると、かれはサルミリにそれを手渡しながら言った。
「おめえはハジ・サアリの家に置いてある毒薬とこの手紙を一緒にババ・ニムスイに渡すんだ。そうすれば、おめえは毎日50センをもらえるし、ハジ・サアリも薬代として10フローリンをもらうことができる。シム・キーニオの事件で官憲がおめえを疑っていねえことがはっきりしたら、おめえをラワスギッ部落の監督人に取り立ててやろう。これからは、わしがおめえを呼ばねえかぎり、絶対にここへ来ちゃならねえ。もしわしに何か言いてえことがあったら、おめえはババ・ニムスイにそれを言うようにしろ。」
サルミリはロー・フェンクイの言いつけを承服し、封筒を受け取ってポケットに入れた。ロー・フェンクイがまたサルミリに言う。「検察官の取調べや巡回法廷での質問にどう答えるか、おめえはよく考えなきゃならねえぞ。」
「副レシデン閣下に説明した通りをまた繰り返すだけでさあ。判事の前で言い間違えたりしねえよう、これからも毎日あのとき説明した言葉を忘れねえようにします。どうやって脅かされようが、別のことは言いませんぜ。」
「よし。それから、わしがサンニオを手に入れるためにおめえがその道を開いてくれりゃあ、おめえはもっとたくさん褒美がもらえるんだぞ。そしてわしのために働くことで、おめえは毎日楽しい暮らしを送ることができる。おめえはもう帰っていい。わしが言ったことは忘れるな。」

サルミリは馬車を雇ってバンジャルヌガラへ直行した。ハジ・サアリの家へ行って恋するラミラに会い、そしてババ・チア・ニムスイに早急に渡さなければならない毒薬を持ち出すのだ。

サルミリが辞去したあと、ロー・フェンクイはまた紙とペンを取って手紙を書き始めた。バンジャルヌガラの副レシデンに宛てたその手紙には、シム・キーニオがソウ・ギトンに毒殺されたのは、自分の死後全財産はソウ・ギトンに譲るとシム・キーニオが遺言状に書いたためだという内容がそこに記された。その内容はかれの手下のだれかに書き写させ、偽の署名をつけて副レシデンに送らせるのだ。それを書き終えたロー・フェンクイの口からひとりごとが漏れた。
「ふん、あの畜生ギトンめは報いを受けやがったな。あいつは監獄の中で涙を流すだろうが、助けられるやつはいねえ。わしを甘く見たらどういうことになるか、今かみしめてることだろう。わしの凄さを思い知るがいい。」ロー・フェンクイはソウ・ギトンをさらに苦しめるための方策を考え始めた。


バンジャルヌガラ県を流れるカリマンガの水流に沿って立ち並ぶ木々の葉は風に揺れ、頭上には明るい月が輝いている。カリマンガ部落は夜になると人通りが絶える。川沿いに聞こえるのは、小動物が立てる物音ばかり。バンジャルヌガラの市場から伸びてきた道が川を越えるところに小さな橋があり、それを渡るとカリマンガ部落に入る。その橋のたもとに見栄えの良い二十歳くらいの華人の若者が落ち着かない様子で周辺を行ったり来たりしていた。そして時おり立ち止まっては時計を覗き、また動き始める。かれが待っているのは何なのか?

この若者はソウ・ギトンの店で帳簿係りをしていたウイ・コーベンで、かれは未婚だがハジ・サアリの娘ラミラと幼い頃から知り合っており、そして今は相思相愛のあいだがらになっている。このふたりの愛をラミラの父親ハジ・サアリは認めようとしない。ムスリムでないウイ・コーベンを婿にする気はハジ・サアリにまったくなかったし、たとえコーベンがムスリムになったとしても人種と文化の異なる婿を持つ気持ちをかれは少しも持っていなかった。だからハジ・サアリはサルミリをラミラの婿に選んだのだ。父親はだれを娘の夫にしてよいか決める権利を持っている。だがラミラは自分の愛する男に従う意志を固めており、父親が勧めるサルミリをげじげじのように嫌っていた。
ハジ・サアリが自分の意中をラミラに明らかにしてからというもの、コーベンはラミラの家に遊びに行くのを避けるようになった。ハジ・サアリが家にいるときはなおさらであり、そしてサルミリがしきりにその家に行くようになったことも、コーベンが足を遠のけた原因のひとつだ。それ以来、ふたりの逢瀬はその橋のたもとというのが習慣になった。父親もサルミリも家にいないときだけラミラはコーベンを家に誘い、そんなときだけコーベンはラミラの家を訪れることができた。ラミラの母親は世を去り、ハジ・サアリは再婚しようとしなかったため、ラミラは父親とふたりだけで暮らしていたのだ。

自分の雇い主ソウ・ギトンの入獄という事態に、コーベンは自分が失業者になることの怖れや心配よりも、もっと大きな義憤を抱いていた。頭家のソウ・ギトンがシム・キーニオを財産欲しさに毒殺したという容疑をコーベンはまったく信じていない。ソウ・ギトンの善良さを毎日肌に感じて過ごしてきたコーベンにとって、その事件は明らかに何者かが頭家を罠に陥れるために仕組んだものであることを確信していた。しかし自分は一介の小市民でしかなく、頭家を今の事態から救い出す力などないことは十分に自覚していた。なにしろカピテンチナのチョン・カンロンですらいまだに有効な手が打てないままに過ごしているのだから。とはいえ、カピテンチナはソウ・ギトンを陥れた張本人がかれを敵視しているアヘン公認販売者のロー・フェンクイであるとの推察の下に局面打開の方策を練っているところだという話も聞いており、かれはその努力が成功するよう望みを託していた。


ウイ・コーベンが橋のたもとで行ったり来たりしているとき、かれの目は部落のほうからやってくる女性の姿を目にとらえた。それがラミラだとわかると、コーベンはさっそくその女性に近寄って言った。
「こんなにひとを待たせて、どうしたんだい、ラミラ?もう一時間も待ってたんだよ。ああ、おまえに会いたくてしようがなかった。なにしろ三晩も逢ってなかったんだから。」
「あたしもババに逢いたかったわ。」ラミラはコーベンの胸に頭をもたれさせながら言う。
「でも、さっきあたしがここへ来ようとしたら、あのダニのサルミリが家へ来たのよ。だからあいつが帰るまで、あたし家から出られなかったの。」
「サルミリは自分と結婚しろと言っておまえを脅かしたのか?」
「いいえ、あいつは寝てる父さんを起こすように言ったんだけど、あたしは父さんを起こさなかった。あのダニのことはあとでもっと話してあげる。それより、三晩もババがあたしに逢おうとしなかったのはどうしてなの?別の女に恋したの?」
「ちがうよ、ラミラ。おまえのほかに恋人なんかないよ。頭家のババ・ソウ・ギトンが災難に襲われた。そのことで心が乱れていて、これまでみたいに毎晩おまえに逢いに来ることができなくなった。ところで、おまえの父さんの具合はどうだい?病気はもうよくなったかい?」
「ババがくれた錠剤を飲んでから、病気がかなり軽くなったように見えたわ。昨晩はよく眠れたみたいだし熱もだいぶ下がってる。今日は起きてちょっと散歩してたわ。ババがくれたあの解熱の錠剤をあたしは父さんに、アヘン販売代理人がくれたと嘘言ったの。だって、ババからもらったって言ったら、父さんは怒るに決まってるから。さあ、家へ行きましょう。父さんはぐっすり眠ってるから。」


ウイ・コーベンはラミラに従ってカンプンの中を通り、アタップで屋根を葺いた家の敷地に入った。十分な広さのある敷地の中央に建っているその家は左右の隣家から離れている。まずラミラが屋内に入って父親がまだ眠っているかどうかを確かめ、再び玄関に戻るとコーベンを誘って屋内に入った。屋内は暗く、ハジ・サアリの寝室と裏の台所に小さい灯りがついているだけ。ラミラは玄関扉に施錠すると、裏のほうへ向かってゆっくり進んだ。音をたてないようにして。

台所に入ったふたりは、バレに隣り合って座った。暗がりの中で台所の小さい火がほのかに光と影を作り出している。17歳のラミラは色浅黒いが小さい顔に愛くるしい目鼻立ちをしており、頭には豊かな黒いまげが結い上げられ、身体つきは中背で、聡明さを示す大きな瞳がひときわ輝いている。普段からの振舞いも優しく思慮に富んでいたため部落の住民からも愛されており、ウイ・コーベンがラミラに一途になったのも無理のないことだったのだ。

しばらくふたりはそのまま黙していたが、コーベンがラミラにささやきかけた。「この三日間、サルミリはおまえのところにやってきたのかい?」
「ええ。あの恥知らずはますますのぼせ上がって振舞うのよ。近いうちに大金が手に入るし、自分は監督人になるから、そのうちには親方になって世に一家をなす。だから、あたしがあいつのものになれば一生愉しく暮らせるんだ、って言ったわ。」
「だれに使われる監督人になるんだって?」
「ラワスギッ部落の地主に使われるんだそうよ。」
「ラワスギッ部落の地主?アヘン公認販売者に使われようって言うのか?サルミリはいったいいつからロー・フェンクイと交わるようになったのかね?」
「その地主がだれかあたしは知らないけど、そうね、きっとアヘン公認販売者なんだ。だって、サルミリが父さんとしゃべってる中で、アヘン公認販売者って言葉を何度も口にしてるのを聞いてるし、あいつは夜に父さんといっしょによくブナワンへ行くようになった。きっとアヘン公認販売者のババの家に行ってるんだ。」
ウイ・コーベンの心は波立った。かれはラミラに慎重に質問した。「ラミラ、サルミリがあのアヘン公認販売者の家に何の用事があって行ってるのか、おまえは知らないかい?」
「それはわからないわ。でもサルミリがアヘン公認販売者と知り合いになってからは、とても金回りがよくなったし、ついさっきもアヘン公認販売者のババからもらったって言って、紙幣を三枚もあたしに見せたのよ。さっきあいつは父さんを起こすようにあたしに言ったけど、あたしはしなかった。そしたら、ネズミ捕りの毒を入れたビンを父さんはどこにしまったかって尋ねたの。父さんがそれを寝床の下のリュックの中にしまったことは知ってたけど、あたしは知らないって答えたわ。どうしても父さんを起こしたくなかったから。・・・どうしたの、ババの手が震えてる。」

ラミラの話を聞いていたコーベンは、手どころか全身を震わせていたのだ。かれはラミラに頼んだ。
「ラミラ、その毒の入ったビンを取っておいで。きっと、わたしらふたりにとても役立つにちがいないから。でも、おまえの父さんを絶対起こさないように。もしもお前の父さんが目を覚ましたら、何も言っちゃだめだ。そして、わたしがここにいることは絶対気付かれないように注意するんだよ。」
コーベンがネズミ捕りの入ったビンを何に使おうと考えているのかわからないまま、ラミラは言いつけられた通り父親の寝室に入って行った。


ひとりバレに残ったコーベンは考えていた。ハジ・サアリとサルミリがシム・キーニオ毒殺事件にかかわりを持っているように思える。サルミリはシム・キーニオの家で働いていたため、女主人の薬ビンにかれが毒を入れる機会は十分にあっただろう。ハジ・サアリはアヘン販売に使われている諜者だから、ロー・フェンクイの指図でサルミリをそそのかし、その悪事を行なわせてソウ・ギトンを罠に陥れ、刑罰を受けさせるように仕向けたのかもしれない。この悪だくみは実にありうることのように思われる。なぜなら、サルミリがしきりにアヘン公認販売者を訪問するようになっているのだから。
ロー・フェンクイの指示で行なった隠密行為の報酬として手に入れたのでなければ、雇い人がいなくなってしまったサルミリがそんな大金をどうやって手に入れることができるだろうか?そして最近知ったばかりのプリブミの若者が自分に大きな功績を示したのでないかぎり、ロー・フェンクイがサルミリを自分の土地の監督人に取り立てようなどとどうして考えるだろうか?
コーベンは思いがけなく手に入れた情報が今かれの直面している状況に快刀乱麻を断つ解決をもたらすであろうことを予期した。ハジ・サアリの寝床の下に隠された毒薬がシム・キーニオの殺害に使われたものなのかどうか、それを明らかにするためにかれはラミラにそれを取りに行かせたのだ。頭家のソウ・ギトンを迫害した非道な悪人どもに鉄槌を下して頭家を救出できるものなら、かれは手に入れた秘密を警察に渡してすべてを解明してもらいたい。たとえソウ・ギトンの敵の一味に自分が襲われても。コーベンはそう決意した。

うつむいて暗闇の地面に目を落としたまま、そんな心の動きにわれを忘れていたコーベンは、その闇の下になにか品物が落ちているのに気付いた。腰掛けていた体を起こしてそれを拾い、ほのかな火の灯りの中でかれはそれを調べた。コーベンが手にしたものは竹製の煙草ケースだった。中にはマニラ煙草が三本、10フローリン紙幣が三枚、そして封のなされた手紙が一通入っており、手紙の宛先はバンジャルヌガラのアヘン販売代理人チア・ニムスイとなっている。コーベンの頬に笑みが浮かんだ。
「ははあ、こりゃロー・フェンクイからの手紙にちがいない。秘密が全部暴けそうだぞ。よし、これに毒薬を添えて全部をカピテン・チョン・カンロンに渡そう。ソウ・ギトンの救出をどのように行なうのが一番効果的か、カピテン・チナが一番よく知っているにちがいないのだから。」

ほどなくラミラが小さなビンをひとつ持って戻ってきた。「父さんはまだぐっすり眠ってるわ。このビンを取り出すために頭を持ち上げたけど、それでも起きなかった。」
コーベンはそのビンを確かめてから自分のポケットに入れ、そして竹製の煙草ケースをラミラに見せた。
「これに見覚えはないかい?」
「これはサルミリのものよ。ババはこれをどこで手に入れたの?」
「ここでついさっき拾った。」とコーベンはその場所を指差した。
「さっきサルミリのポケットから落ちたのね。あいつがあたしに見せた紙幣が入っているから、間違いなくサルミリのものよ。」
「だれがその金をあいつに与えたのかはもう見当がついている。そしてあいつがどんな悪事を犯したのか、その秘密もこれから明らかにされるだろう。あのダニ野郎には重い刑罰が下されるにちがいない。犯した罪は償わせなければならないのだ。あのダニが犯した罪をわたしがうまく説明できれば、もうおまえを誘惑しようとして周りをうろつく人間はいなくなり、おまえはわたしと一緒に暮らせるようになる。わたしが何を言っているのか、ピンとこないんだね、ラミラ。あのダニがどんな悪事を犯したのかをおまえはまだ知らないんだから。明日と言わず、そのうちにすべてが明らかになるだろう。でも今はそれを説明している時間がない。わたしは今すぐ行かなきゃならないんだ。」
「ババはこれからどこへ行くの?」胸騒ぎを覚えたラミラがコーベンに尋ねた。
「それも程なくおまえは知ることになるだろう。これから起こることがわたしらふたりにとってたいへん役立つものになるのであれば、おまえはわたしの言うとおりに従ってくれるだろうね?」
「もちろん、あたしはいつまでもババの言いつけに従うわ。あたしは自分の意志で身も心もババに捧げたのよ。あたしの心はすべてババひとりだけのもの。あたしの貞節は一生、ババだけのものよ。もしババがあたしを愛してくれるなら、あたしの命を今すぐ捨ててもかまわない。それがババの助けになるのなら。」
「素敵だよ。」コーベンはラミラを抱きしめて口付けした。「わたしは誓って言う。もしわたしがお前以外の女に心移りしたら、神よ、このわたしを呪いあれ!」

ラミラは頭をコーベンの胸にもたせかけて尋ねた。「あたしは何をしたらいいのか、言ってくださいな。」
「わたしの心、わたしの命のラミラ。将来、わたしらふたりに永遠のしあわせをもたらすだろうこの秘密を守って欲しい。きっとサルミリはここへ煙草ケースを探しにやってくるだろう。わたしがそれを拾ったことは絶対に秘密だ。おまえは知らないふりをするんだよ。この毒の入ったビンも同じだ。わたしがここへ来たことも、ビンとサルミリの煙草ケースを持って行ったことも、だれにも言っちゃだめだ。おまえの父さんにも秘密にしてくれ。おまえへの言いつけはそれだけだ。しばらくしたら、それらの全貌がおまえにはわかるようになる。」
ラミラがコーベンに承服を告げると、コーベンはハジ・サアリの家を去った。かれは毒入りのビンとサルミリの煙草ケースを持ってカピテン・チョン・カンロンの家に急いだ。そしてその夜の内にウイ・コーベンはカピテン・チナにそれらの証拠品とともに自分が知りえたすべてのストーリーを語って聞かせたのである。

ロー・フェンクイ、サルミリそしてハジ・サアリがソウ・ギトンの事件にどのように関与したのかというウイ・コーベンの話を聞いて、チョン・カンロンは小躍りした。カピテンはすぐに検察官ラデン・ジョヨ・ヌゴロを呼んでくるよう、使用人に言いつけた。ラデン・ジョヨ・ヌゴロはプリブミ貴族であり、聡明で正義感強い人物として知られており、そしてチョン・カンロンとは親しい友人だった。さらに、このカピテン・チナはふたりの警官に命じた。取調べの儀があるので、サルミリを今すぐここへ連れてくるように、と。


ブナワンのロー・フェンクイの家を辞してバンジャルヌガラに戻ってきたサルミリは、命じられたように残った砒素をチア・ニムスイに渡すため、カリマンガ部落のハジ・サアリの家を訪れた。するとラミラが出てきて、父親は眠っていると言う。重要な話をすぐハジに伝えなきゃいけない、とサルミリが強く言っても、ラミラは父親を起こすのを拒否した。ならば、ハジがしまったネズミ捕りの毒を持ってきてくれとラミラに頼んだが、父親を起こすのはいやだと言って協力しようとしない。
サルミリは以前からラミラに恋慕の情を燃やしていたが、ラミラはサルミリの気持ちを少しも斟酌しようとせず、片想いのままに終わっていた。というのも、ラミラはウイ・コーベンに恋しており、コーベンとの人生を歩めるなら奴隷扱いされてもかまわないほど熱を上げていたのだから。父親のハジ・サアリがどんなに娘を異教徒異文化の人間に渡さないよう努めても、サルミリが毎晩通ってきて恋情をかきくどき、ラワスギッ部落の地主の監督人の妻になれる、高価な衣装や宝石を好きなだけ買い与える、給料は全部差し出すなどと気持ちをそそる話で誘っても、ラミラにはまったく効果がなかったのだ。サルミリはこれまでもラミラに衣服や食べ物をプレゼントしようとしたが、ラミラは何ひとつ受け取ろうとしなかった。

その夜、サルミリはラミラに大金を与えようとして、ロー・フェンクイからもらった10フローリン紙幣三枚を見せた。ラミラはそんな大金すら、もらうのを拒んだ。ラミラがあまりサルミリに口をきこうとしないため、明朝ハジ・サアリに会うことにしてサルミリはその家を去った。毒薬の入ったビンをもらうのも明日にした。父親が許したというのに、ラミラがいつまでも自分になじもうとしないことには失望していたが、それでも父親が自分の妻になることを命令しているのだから、ラミラの気持ちは徐々に自分のほうに傾いてくるだろうとサルミリは楽観していたのだ。

ハジ・サアリの家を出たサルミリは、賭博の胴元をしている友人の家に向かった。そこでは毎晩賭場が開かれ、プリブミや華人が大勢集まってくる。その家に着いたとき、かれは30フローリンの金とロー・フェンクイがチア・ニムスイに宛てた手紙の入っている煙草ケースをどこかに落としたことに気付いた。
「くそっ、どこに落としたんだろう?」ハジ・サアリの家に落とした気がしたのでそこへ直行しようとしたが、かれはすぐに思いなおした。「ここへ来る途中で落としたのかもしれない。道中を探しながらハジ・サアリの家に戻ろう。」


おかげでサルミリがハジ・サアリの家に戻るまでにかなりの時間が経過し、ウイ・コーベンは証拠品を手に入れてその家を去り、ラミラにはコーベンに言われたとおりの芝居を打たれたのである。サルミリが尋ねてもラミラは全然知らないと答え、サルミリが家の周囲を探すのをラミラも手伝って見せた。およそ15分間サルミリは煙草ケースを探し回ったが見つからず、もう一度賭場へ行く道中を探してみることにしてハジ・サアリの家をあとにした。

サルミリがふたたび路上を探しながら賭場への道を歩いていると、突然かれの腕をつかんだ者がある。警官がひとり「カピテン・チナの家に同行するよう、お前に命じる」と言ってサルミリを連行した。
「なんでわしが連行されるんだ?わしが何をしたと言うのか?」
しかし警官は口が重かった。「それはババ・カピテンに聞け。カピテンが自分で説明するだろう。」
カピテン・チョン・カンロンの家に入ったサルミリは、そこにラミラの姿があるのを見て驚いた。ウイ・コーベンはもとより、数人の公職者が居並んでいるのを見て、サルミリの心に悪い予感がしのびこんできた。

事務所で検察官と話していたカピテン・チナは、サルミリが警官に連れて来られたのを見てすぐに取調べを始めた。
「おまえはソウ・ギトンの使用人だったサルミリか?」
「へい、さようで。」
「おまえの居所はどこで、今は何のしごとをしているのか?」
「わしの居所はカリマンガ部落で、いまは無職でさあ。」
「おまえがしきりにハジ・サアリの家に行くのは、何の用事のためか?」
「あのハジはわしの親戚で、ハジの娘のラミラはわしの許婚だ。それでわしは、今病気してるあのハジをよく訪問するんでさあ。」
「ラミラは今夜おまえがハジの家を二度も訪問したと言った。何をしに行ったのか?」
「一回目はハジの具合がもうよくなったかどうかを見るためで、二度目はわしの落とした財布を捜しに。」
「その財布の中身は何か?」
「マニラ煙草と10フローリン札が三枚。」
「そのほかには何が入っていたか?」
「何も入っておりません。」
「お前はさっき無職だと言ったが、30フローリンもの金をどこから手に入れたのか?」
「あれはババ・ギトンに使われていたときの給料を貯めて残した金だ。」
「実は、お前を呼んだのは道に落ちていた煙草ケースをお前に見せるためだ。お前が無くした財布というのはこれのことかも知れないから。」チョン・カンロンは厳しい目でサルミリを見据えながら言った。サルミリの心に不安が重くのしかかってきた。

「華人の子供がハジ・サアリの家の表で竹製の煙草ケースを見つけた。それがだれのものかわからないので、ここへ届け出た。ケースの中にはマニラ煙草三本、10フローリン紙幣三枚、そして当地のアヘン販売代理人チア・ニムスイ宛の手紙が入っていた。その手紙をチア・ニムスイに渡し、かれはそれを開いて読んだ。かれが言うには、その手紙はブナワンのアヘン公認販売者ロー・フェンクイからのもので、おまえがその手紙を届けるよう命じられていたことを表明した。
お前がなくしたという煙草と紙幣三枚の入った財布は、ハジ・サアリの家の表で見つかったこの煙草ケースと同一のものと思われるので、これをお前に返すことにする。しかし、どうしてお前は手紙が入っていなかったと言うのか?」
サルミリが黙ったままでいるので、カピテン・チナは続けた。
「さあ、この財布と中身の金そしてチア・ニムスイが差し出した手紙の封筒に見覚えがないかどうか、よく見るがよい。」
チョン・カンロンは煙草ケース、紙幣、そしてチア・ニムスイ宛の封筒を手に持ってサルミリに示した。チア・ニムスイ宛の手紙は、本当はまだ開かれておらず、チア・ニムスイの手に渡されたこともなかったのだ。サルミリはそれらの品に一瞥をくれただけで、依然として沈黙を守っている。

しかしサルミリはチョン・カンロンの口説に乗せられて、チア・ニムスイが本当にそれを既に読んだと思った。とはいえ、それがロー・フェンクイからのものである以上、警察は自分の恥をさらけ出してまでその手紙のことを追及することはないだろうと楽観していた。だから、手紙に関する訊問はこれで終わりだろうと・・・・・。
サルミリが口を切った。その財布と中身はかれのものであり、そのチア・ニムスイ宛の手紙はロー・フェンクイから受け取ったのでなくハジ・サアリから渡されたものだったのだ、と。
ラデン・ジョヨ・ヌゴロは即座に証拠品を示すスタンプをその煙草ケースと中身に捺して脇に置き、サルミリに尋ねた。
「財布をなくす前にお前はハジ・サアリの家を訪れたのだな?」
「へい。」
「そのとき、お前はラミラにネズミ捕りの毒が入ったビンをハジ・サアリの部屋から持ってくるよう命じたか?」
「いいえ。」驚きながらもサルミリは否定する。
「ふむ。ごまかしても駄目だ。お前の秘密はもう暴かれている。このビンを見てみろ。見覚えはないか?」
顔色が青ざめたものの、サルミリは意志を固めて「はじめて見ました。」と否定した。

「ごまかしても無駄だ。お前の秘密はすべて明らかになっている。お前が邪悪であるためにラミラはお前についていく気持ちがなく、ウイ・コーベンに自分の将来を託した、とみずからわたしに語っている。アヘン公認販売者が敵視するババ・ソウ・ギトンがそうしたと警察に思わせるようにして、お前がアヘン公認販売者から金をもらってシム・キーニオを毒殺したことをラミラは父親から聞いた。お前に金や土地の監督人に取り立てるという約束を与えたアヘン公認販売者のブナワンの家にお前は何度も行っている。シム・キーニオを殺すのに使われた毒の残りはそのビンに入ってハジ・サアリの家に隠されてあった。さっきお前はそれをラミラに持ってくるよう頼んだが、ラミラはそれに従わずに愛するウイ・コーベンに渡した。それが警察の手に渡ってお前が裁かれるように、と。
よく考えてみるがよい。どうしてこの毒が警察の手に渡り、お前の秘密が暴かれてしまったのかということを。ハジ・サアリも、わしが今しがたその家を訪れたとき、わしに自供した。お前がアヘン公認販売者ロー・フェンクイから金をもらってシム・キーニオを毒殺し、ソウ・ギトンにその罪をかぶせようとしたのが本当であることをな。ハジは法廷でお前の罪状を示す証人になることも約束した。お前にはもう言い逃れする術はないのだぞ。ましてや、警察はお前の煙草ケースと金、そしてお前が受け取ったアヘン公認販売者からの手紙を証拠品として握ったのだから。」

サルミリの顔色はすます青ざめた。検察官の誘導に引っかかったサルミリはラミラとハジ・サアリが本当に自分の秘密を暴く証言を警察に対して行なったと思い込んだのだ。かれの怒りはラミラとハジ・サアリに向けられた。震える声でサルミリは語り始めた。
「娘を華人に売らんがために、あのダニ野郎のハジがわしを陥れようとしてることがはっきりした以上、わしがこの事件の全貌を申し上げましょう。わしは元々、ババ・ロー・フェンクイとは縁もゆかりもなかった。ハジ・サアリがわしをあのババに引き合わせ、ババ・ギトンを陥れるようわしを説得したんだ。」
そしてサルミリは話を続けた。ハジ・サアリがブナワンのロー・フェンクイの家に誘って以来、どのようにしてソウ・ギトンを罠にはめて苦難を与えるかの方策を練り、シム・キーニオの薬に混ぜるよう毒を渡され、その毒殺をソウ・ギトンの仕業に見せかけるためにどうするのかということまで指示された事実を包み隠さずに。

「わしは愚か者だった。わしに一度もひどいことをしたことのないひとを迫害するために、わしは誘惑に負けてしまった。人殺しの罪はわしにある。わしはそのことを後悔しているが、ハジ・サアリはこんなわしよりもよっぽど邪悪な人間だ。」
「そうだ。あのハジも相応の罰を受けなければならぬ。今は病気で伏せっているから、病気を治したら監獄に入らねばならない。お前はさっきここで認めたすべてのことがらをまた言い逃れしようなどと考えてはならない。そんなことをすれば、お前よりもっと罪の重いハジ・サアリやロー・フェンクイが罪を免れてのうのうと世にのさばり、すべての罪をお前ひとりが引き受けねばならなくなる。そのことを絶対に忘れるな。」
「トアン、心配はご無用だ。もう決して言い逃れなどしねえから。」

検察官は警官にサルミリをドゥマンの館へ連行して留置し、明朝副レシデンの取調べを受けさせるよう命じた。そうしてから、検察官とチョン・カンロンそしてラミラとウイ・コーベンはハジ・サアリの家に向かった。病に伏せっているため、召喚して訊問するのが無理だからだ。
深夜に警官がやってきて要所を固めたのを見て、ハジ・サアリは驚いた。検察官が病床にあるハジ・サアリに訊問を開始する。サルミリの証言の裏付けを取る形で進められた訊問に、自分は余命いくばくもないと感じていたハジ・サアリはすべての事実を開陳した。既に証拠品が握られ、事件の動機とおおよその推移が明らかになったいま、ハジ・サアリの自供はその細部まで肉付けを行なうのに大いに役立つものだった。
父親の自供を聞いていたラミラは、父親がシム・キーニオ毒殺事件実行の道を開くのに大きい役割を果たしていたことを知って驚き、嘆きの涙に暮れた。ラミラを慰めていたウイ・コーベンが検察官に、情状酌量の余地はないのかと尋ねるとラデン・ジョヨ・ヌゴロ検察官は、事件解明に協力的だったハジ・サアリは今後も法廷での審判で協力的に振舞うかぎり、厳罰を下されることはないだろうと語り、ラミラの嘆きに一縷の光明を与えた。

ハジ・サアリの自供を調書に取った検察官とカピテン・チナはその家をあとにし、警官がひとりだけハジ・サアリの監視に残された。打ちのめされたハジ・サアリの容態は悪化し、また熱が高くなったのでラミラは父親の看病に努め、ウイ・コーベンはカリマンガ部落の隣人にラミラ父娘の手助けを頼んで金を渡し、自分も帰宅した。


翌日は多忙な一日になった。カピテン・チョン・カンロンと検察官ラデン・ジョヨ・ヌゴロは早々に副レシデンを訪れてシム・キーニオ毒殺事件の証拠品と調書を渡し、事件の全貌を報告した。サルミリの煙草ケースに入っていたロー・フェンクイからチア・ニムスイに宛てられた手紙を読んで事件の実態を確信した副レシデンは、サルミリとハジ・サアリを個別に取調べた。ふたりは事実をありのままに自供した。
ロー・フェンクイがサルミリに金を与えてシム・キーニオを毒殺させた事実を証明する証拠品と証言が得られたことから、バンジャルヌガラの副レシデンはブナワンのアヘン公認販売者ロー・フェンクイを捕らえてバンジャルヌガラに送るようブナワンの副レシデンに要請した。サルミリは監獄に入れられ、ハジ・サアリは病院に収容された。副レシデンはまた、バンジャルヌガラのアヘン販売代理人チア・ニムスイを取調べのために連行するよう命じた。チア・ニムスイも共犯者のひとりとして容疑がかけられたのだ。


サルミリとハジ・サアリそしてその黒幕たるロー・フェンクイに関するニュースは瞬く間にバンジャルヌガラに広まった。
その日午前七時半、ロー・フェンクイはブナワンの自宅の書斎でペンを取っていた。昨夜は様々な悪夢に悩まされてほとんど熟睡できなかった。心には不安の影が立ち上っている。アヘン商売で大きな損が出るのか、それともマドゥのプイ・ライニオとの関係に悪いことが起こるのか、さもなければ自分自身の身に災厄がふりかかってくるのかもしれない。
考えがまとまらないまま書斎に座っていたロー・フェンクイは、三十分ほどしてからチア・ニムスイの使用人が駆け込んできたのを迎えた。使用人はバンジャルヌガラで昨夜から起こっている異変を知らせにやってきたのだ。
その使用人の話を聞いたロー・フェンクイは動転した。「わしからチア・ニムスイ宛に送った手紙を警察は開いたのか?」
「検察官とカピテン・チナは封を開かなかったですが、多分副レシデンはそれを開いて読んだんじゃねえですかい?」
「しまった!もしそうなら、わしはたいへんなことになる。」
チア・ニムスイの使用人が帰ると、ロー・フェンクイは対応策を考え始めた。

サルミリとハジ・サアリがすべてを自白し、チア・ニムスイ宛に送った手紙が官憲の手に落ちれば、シム・キーニオを毒殺してソウ・ギトンを冤罪に陥れようとした企ての申し開きは不可能になる。これからあちこちに金を配って歩こうともカピテン・チョン・カンロンには効かないだろうし、行政高官たちも自分を完全に免罪にするのは難しいにちがいない。まして、これは殺人事件であり、証拠品と証言が揃っている以上、取調べが完了するまで一二ヶ月は監獄に入れらるに違いない。ロー・フェンクイは監獄に入れられるのが絶対にいやだった。だったら逃亡するしかないが、いったいどこへ?
逃げるとすればシンガポールだ。しかしこう急ではどうしようもない。パスも持っていなければ、シンガポール行きの船の予定も知らないのだから。そうだ、まずこの身を隠すのが先決だ。そして偽造パスを作らせ、今日中に港へ行ってシンガポール行きの船を待つのだ。アヘン商売と自分の資産の世話は弟のロー・ナムクイにやらせよう。そしてシンガポールかあるいは自分が決して捕まらないどこか他の土地に金を送らせればいい。
この事件の審判でサルミリとハジ・サアリが裁かれて罰を受け、それでこの事件が終わりになって官憲が捜索を打ち切れば、そのあとでブナワンに戻ってくればよい。

ロー・フェンクイが書斎でそのような方策を考えているとき、刑事がひとり、何の断りもなしに書斎に入ってきた。そして刑事はかれに、ブナワン副レシデンからの逮捕状を示したのである。
ロー・フェンクイは着替えてくるから、と言って刑事を書斎に待たせ、館の奥に向かった。しばらくして、刑事の耳に屋内のどこからか銃声が聞こえた。刑事が書斎を出ると、ロー・フェンクイの妻や使用人たちが館の奥の一部屋をあたふたと出入りしている姿が見えた。かれらは口々に「たいへんだ!」「助けて!」といった言葉を口走っている。刑事がその部屋に入ったとき、ブナワンのアヘン公認販売者の身体は床に横たわっており、その周囲は飛び散った血にまみれていた。手は銃を握っており、銃口が口の中に入っていた。
警官に連れられてやってきた医師がロー・フェンクイの容態を調べて宣告した。絶命している、と。刑事は副レシデンの命令が遂行できないまま警察署に戻った。そして一部始終を報告した。


無実の罪で入獄していたソウ・ギトンがバンジャルヌガラ監獄から釈放される日がきた。カピテン・チョン・カンロンとウイ・コーベンがソウ・ギトンを迎えるために監獄を訪れたとき、監獄の外には大勢のバンジャルヌガラ住民が押し寄せた。
ソウ・ギトンがカピテン・チナの馬車に同乗して窓から顔を見せると住民たちは歓呼の声をあげ、監獄暮らしでやつれたソウ・ギトンも明るい表情でそれに応えた。自宅に戻ったかれはすぐに母親の前にひざまづき、母親の言いつけにすぐに従わず、いつまでもシム・キーニオとの関係を続けていたことがこの災いをもたらしたのだと言って自分の過ちを詫びた。涙を拭ったバンケン夫人は息子を立ち上がらせると、脇に立っているチョン・カンロンに心からの感謝とねぎらいの言葉を述べた。ところがチョン・カンロンは、第一の功労者は悪だくみを解明して証拠品まで手に入れたウイ・コーベンであり、そして無実の人間を苦しめて悪が栄えるようなことを決して許さない天の加護がこの結果をもたらしたものだと語って、自分への賞賛を辞退した。

その数日後、タン・ヒンセンも監獄から釈放された。かれはソウ・ギトンまでもがロー・フェンクイの毒牙にかかって入獄させられていたことを聞いてたいそう怒り、アヘン公認販売者が自殺して事件が結末を迎えたことを知って地団駄踏んで悔しがった。国法がそのすべての悪事にふさわしい厳罰を狡猾で残虐な悪人に与えることができなかったことに、かれはがっかりしたのだ。バンケン夫人はタン・ヒンセン夫妻と相談し、娘のテンニオがカピテン・チョン・カンロンの息子と婚礼を催すときに、同時にソウ・ギトンもタン・サンニオを正妻に迎えることを決めた。

巡回法廷はサルミリに重労働刑15年の判決を与えた。シム・キーニオ毒殺の罪は重いが、ハジ・サアリとロー・フェンクイに唆されて犯したものであり、その点を酌量されて死刑の判決は与えられなかった。

チア・ニムスイは被告の椅子に座ることから免れたものの、シム・キーニオ毒殺事件の審判において証人喚問され、かれがその事件にどのような関わり方を持ったかについて世間に明らかにされた。

ハジ・サアリは病から回復することなく、病院で世を去った。おかげで法廷で裁かれることは免れた。その世話をするためにラミラとウイ・コーベンが毎日病院に通ってきたことがハジ・サアリの心をなごませた。最初は娘を異文化異教徒の嫁にすることを嫌っていたが、ついには娘の幸せのためにウイ・コーベンとの結婚を許したのだ。

ソウ・ギトンはウイ・コーベンの功績に大きな恩を感じ、かれをバンジャルヌガラの店の支配人にしてそれにふさわしい給与を与えた。加えてソウ・ギトンはかれに石造りの邸宅を与えたので、かれはラミラを妻にして母親と一緒にその家に住まわせ、豊かな暮らしを愉しんだ。ラミラは二児の母親になった。


ソウ・ギトンは年老いるまでサンニオと幸福に暮らした。ふたりの間には男児三人女児二人の子供たちができ、繁栄する一家になった。カピテン・チョン・カンロンがカピテン・チナの役職から引退するとき、後任としてソウ・ギトンが推薦され、賛同を得てバンジャルヌガラのカピテン・チナとなった。以前からそうしていたように、ソウ・ギトンは民衆を差別せず、貧者や困った人間に喜んで救いの手を差し伸べることを続けたため、華人社会だけでなくバンジャルヌガラの町中から尊敬されて生涯を送った。善良なる人間はこのようにして報われるものなのである。

読者のみなさん、落とし穴を掘って無実の人間をそこへ陥れようとする者は、この話のように結局は自分がその穴に落ちてしまうものであることを、肝に銘じて置くべきです。


2013年7月