「ジャワのイスラム化」


カルデラが一面砂に埋もれているブロモ火山は、東ジャワ州屈指の観光目的地だ。ジャワ島の多くの火山は、観光目的地でなければ登山目的地として国民に親しまれている。中でもブロモ山は、他所でめったに見ることのできない、まるで砂漠のようなカルデラが観光客の人気を誘っている。カルデラとは直径2キロを超える噴火口を指しており、普通はそこに水がたまって湖になっているケースが多い。有名なトバ湖もカルデラ湖だ。
このテンゲル(Tengger)山系の旧ブロモ山大噴火で作られたカルデラは9キロから10キロの直径で急峻な崖が周囲を包み、崖の高さは50メートルから500メートルにのぼる。

ブロモ(Bromo)山は古代火山のひとつであり、大爆発を起こして砂のカルデラが作られた。それが何万年前に起こったのかはまだ明らかになっていない。その後も火山活動は続いて、新たな峰々がその一帯に姿をあらわした。火口を取り巻いてすり鉢上をなしている、現在ブロモ山と呼ばれている海抜2,392メートルの山、その北側にお椀を伏せたかっこうの海抜2,470メートルのバトッ(Batok)山、ブロモ山の南西にある海抜2,650メートルのウィドダレン(Widodaren)山などがそれだ。そしてブロモ山のすり鉢の底で燃えているのが、旧ブロモ一帯で唯一残された火口である。この火口は東西方向が6百メートル、南北方向が8百メートルで、火口内部の段状起伏を見ると噴火口が北に向かって移動していることがわかる。1983年3月の噴火では、火口内に湖が形成された。
大爆発後のカルデラに新しく山ができるのは、アナクラカタウ島の例ばかりか、トバ湖のサモシル島やマニンジャウ湖のマニンジャウ山、バトゥル湖のアナバトゥル山などもそうだ。


記録に残されたブロモ山のもっとも古い噴火はヨグヤカルタ年代記(Babad Ngayogyakarta)に記された1822年12月28日のもので、噴火は1823年1月になってやっと止まった。ブロモ山が噴火する前に、中部ジャワのムラピ(Merapi)山とスラムッ(Slamet)山、東ジャワのクルッ(Kelud)山、西ジャワのグントゥル(Guntur)山で噴火が起こっており、1822年はジャワ島で五つの火山が噴火した年だとその年代記は記している。

一方、1979年に出版された「インドネシアの火山基礎データ」事典によると、1822年のブロモ山噴火は、ムラピ山・ガルングン(Galunggung)山・ラモガン(Lamongan)山と呼応したものだったそうだ。そのデータはオランダ時代の記録や古文書から集められたものらしい。その事典にはブロモ山の噴火が1804年のものから数えて43回あったと書かれており、2004年の噴火を加えれば44回、そしてここ数年では2010年以降、毎年噴煙もしくは噴火が観測されている。一方、バンドン工科大学のホームページでは1775年から2004年までに50回あったとされている。
オランダ人地質学者はテンゲル山系に7ヶ所の噴火口あとを発見した。それらは東西を結ぶ線と北東と南西を結ぶ線のふたつの軸に沿って分布しているそうだ。ブロモ山の火口はその北東〜南西ラインのひとつに入っている。

歴史を見るかぎり、ブロモ山は溶岩流を排出したことがない。しかし火山灰が周辺の農園に損害を引き起こした記録は1915年と1948年に見られる。噴火活動が最も長期に渡ったのは1842年で、1月24日から6月まで継続した。
このテンゲル山系の中のブロモ山はパスルアン・ルマジャン・プロボリンゴ・マランの四県に囲まれており、ブロモ山を中心にしてその一円に住むひとびとはテンゲル族と呼ばれている。人類学的にはジャワ人と同じなのだが、ヒンドゥ教を強く信仰するヒンドゥ文化の社会をかれらは営んでおり、イスラムが一般的なジャワ社会と文化が異なっているためにテンゲル族として区別されている。
ブロモ山はテンゲル族の聖地とされており、Bromoの語源であるBrahmaがその地位を雄弁に物語っているようだ。そしてその聖地を祭るプラ(ヒンドゥ寺院)がブロモ山下の砂の海の中に建てられている。一年に一度、テンゲル族はかれらの始祖にまつわる伝承にしたがって、ヤッニャカサダ(Yadnya Kasada)別称カソド(Kasodo)の儀式を営み、そのときにはブロモのプラPura Luhur Potenがその祭礼の拠点となる。


< アンテンとセゲル >
テンゲル族の歴史は15世紀のマジャパヒッ(Majapahit)王国滅亡にさかのぼる。ヒンドゥ王国であったマジャパヒッは勃興してきたイスラム都市国家のドゥマッ(Demak)に滅ぼされて1478年に消滅し、ジャワ島はヒンドゥ=ブッダ王朝からイスラム王朝に移行して行ったというのが歴史の解説だったが、最近の歴史学界はそのように単純な王朝の交代ではなかったと従来の説を否定している。
ともあれ、1478年にドゥマッの軍勢に征服されたマジャパヒッの王ブラウィジャヤ(Brawijaya)にはロロ・アンテン(Roro Anteng)と名付けられた王女がいた。成長した王女はバラモン階層の若者ジョコ・セゲル(Joko Seger)に恋した。
ドゥマッとのいくさに敗れたからには、マジャパヒッ宮廷のひとびとはドゥマッの支配下に組み込まれるだけでなくイスラムへの改宗を迫られる。それを嫌った王統貴族の多くは王都を捨てて落ち延びる決心をした。一部は姻戚関係にあるバリの王家を頼って海を渡り、また一部はテンゲル山系の奥地へと逃れて行ったのである。

ロロ・アンテンはジョコ・セゲルと手に手をとりあい、ブロモ山目指して苦難に満ちた逃避行を果たした。王女とバラモンを守ってブロモ山にたどりついた同行者や護衛の兵士たちはそこに土着し、ふたりは結婚してこの新天地を統率するべき王となった。Purba Wasesa Mangkurat Ing Tenggerすなわち叡智あふれるテンゲルの王というのがその称号で、テンゲルという言葉はロロ・アンテンのテンとジョコ・セゲルのゲルを組み合わせて作られた。

テンゲル族が土着して数年が経過したが、王夫妻にはおめでたが訪れない。ふたりは瞑想して、子供を授けたまえと神に祈った。そしてある日、ついにふたりの願いは聞き届けられたが、どこからともなく聞こえてくるその声は最後に困難な条件をふたりに与えた。「お前たちの間に産まれる一番末の子を、ブロモ山の支配者に差し出すのだ」
ふたりの間には25人の子供が生まれ、一番末の子供にはラデン・クスマという名前が与えられた。テンゲル王の一家は幸福な日々を送っていたが、王夫妻の心の奥底にはあのときの声が要求した末息子の将来がいつもわだかまっていた。そして、ラデン・クスマをブロモの山霊に差し出す期限が迫ってくると、王夫妻は半狂乱になってラデン・クスマを人目に触れない場所に隠したりしたが、そんな小細工が通じる相手ではなかったのだ。

その最後の日に、ラデン・クスマは雄々しくも自分から生贄になろうと言い出した。そして父母と兄姉たちに言った。自分がここから去って山霊のものとなることは、テンゲル族の安寧と発展につながることであり、自分はそれを望んでいるのだ、と。そして、「わが身のなきあと、ブロモの山霊を讃えるために収穫の一部をカサダ月にお供えしなければならない。それを決して忘れないように。」と告げ、自分はブロモ山の火口へひとりで降りて行った。


< ヤッニャカサダ >
何百年も前のその言い伝えは今も確固としてテンゲル族のアダッの中に継承されており、カサダ月になると種族の繁栄を祈願しその守護神たるブロモの山霊を讃えるための儀式が営まれ、そして民衆はこぞってブロモの火口に供物を投じるのである。
2012年8月の深夜。凍るような寒さの中をテンゲルのひとびとはガムランの音に導かれるようにしてプラルフルポテンにやってくる。アダッがテンゲル族に義務付けているヤッニャカサダの儀式を営むためだ。プラ内でドゥクンたちがあげる祈祷のかたわら、ひとびとが収穫や家畜の繁栄をことほいで守護神に捧げるために持ち込んできた供物が穢れを払って清められる。清められた供物は屈強な男たちに担がれて、ブロモ山の崖の上まで急斜面を越えて運ばれていく。崖の上から供物が火口で燃える溶岩池に投じられるのである。この儀式は夜中から明け方までかけて、この一帯に住むヒンドゥ教徒の家々によって繰り広げられる。
ところが、崖の内側の火口があるほうの斜面にも、数十人のひとびとがうごめいているではないか。足を踏み外して滑り落ちれば、溶岩池に転がり込むことは十分に起こりうるほど危険な場所だ。よくよく見ると、かれらは大きな袋や魚をすくうときに使うような網を手にしている。いったい何が起こるのだろうか?
サロンにくるまれて寒気に耐えていたかれらは、崖の上が賑わいはじめると一斉に立ち上がった。供物を担いだ一団が崖の上に現われたのだ。崖の上から投げ下ろされる供物を、かれらは網を使って受け止める。供物目がけて網が交錯し、見事に供物を収めた網は持ち主が引き寄せて中身を袋に入れる。何のことはない、山霊に奉納する供物をかれらは横取りしているのである。

「アヤム、アヤム!」供物の中の鶏を早く投げろ、と横取り集団は叫ぶ。苦笑しながら、崖の上のひとりが鶏をつかむと、また下のほうから「レンパル、レンパル!」と声がかかる。鶏を早く投げろと言っているのだ。かれは手にした鶏を空中高く放り投げる。羽をばたつかせながら火口に向かって急降下していく鶏が、網のひとつにすっぽりと収まった。網の持ち主は獲物を袋の中に押し込む。崖の上から供物がなくなると、やってきた集団は帰っていく。すると崖下のひとびともまたしゃがみこんで、次の集団が来るのを待つ。こうして夜が明け切り、奉納が完全に終了すると、崖下のひとびとも獲物を携えて帰路につくのである。かれらはブロモ山の周辺に住む非テンゲル族なのだ。
この習慣が生まれたとき、祭祀の形式を言い張って供物をすべて溶岩の中に溶かしてしまわなければならないと主張する声はテンゲル族の中で弱いものになっていたにちがいない。


< ダルマガンドゥルの書 >
ダルマガンドゥル(Darmagandhul)と題する古文書がある。この書は新ジャワ文学に属すもので、キ・カラムワディが1900年に著したものとされている。ロンゴワルシトがキ・カラムワディの変名で書いたという説もあるが、それを否定する意見のほうが現在は主流になっている。
この書は、マジャパヒッ王国が滅び、ヒンドゥ=ブッダ文化がイスラム文化に移り変わっていった当時のジャワのありさまをキ・カラムワディが弟子のダルマガンドゥルに語って聞かせる形で作られたもので、散文と韻文のふたつのバージョンが存在している。内容的にはヒンドゥ=ブッダ文化が奸佞なイスラム布教者のために破壊され、イスラム王朝がヒンドゥ=ブッダ王朝に取って代り、1千年以上にわたって築き上げられてきたジャワの王道楽土が混迷の淵に沈んでしまったことを嘆く内容になっており、イスラム非難という性格のゆえに、これは単なる誣告の書でしかなく歴史的価値をまったく持っていないとする意見はいまだに強い。
とはいえ、他の古文書や碑文に合致している内容も多々見られるため、ムスリムが大半を占めるインドネシアの歴史学界でもこの書に関する議論は分かれており、この書に記されている史的事実に価値を置くムスリム学者も存在している。


インドネシア、中でもジャワの歴史の変遷をたどるための資料があまりにも少ないことを残念に思う学者や研究者は数多い。それを、インドネシア人は文字を知らず、歴史というものに関する思想を持っておらず、精神が原始的であったためだ、と断定してはばからない、実情も知らない外国人がいるのは遺憾なことだ。
キ・カラムワディはダルマガンドゥルに向かってこう語った。
「預言者の宗教(イスラムを指している)が発展するのに邪魔になると考えたため、かれらはヒンドゥ=ブッダの書物を焼いた。後日のためを思って隠し持っていた少数のひとびとからも、書物を取り上げて焼いた。それが行われたのは、マジャパヒッが陥落したあとのこと。イスラムに入信しない者は財産を奪い取ってもかまわないとの方針を新しい支配者が出したために、多くのジャワ人はそれが自分の身にふりかかるのを怖れた。一方、自らすすんで入信する者にかれらは土地や位階を与え、租税を免除することさえした。こうしてマジャパヒッの民は、怖れと褒美を天秤にかけて続々とイスラムに改宗した。そのときスナン・カリジャガ(Sunan Kalijaga)は先祖の作り上げた知恵が後世にも伝えられるようにと考え、たくさんの古文書が焼かれてしまっていることを考慮して、知恵を継承するためのツールとしてワヤンクリッを生み出した。

新マタラム(Mataram)王朝になって、歴代の王たちはジャワの歴史物語を作らせた。かろうじて残った古文書を、あちこちが破損して一部判読のできなくなっているものもかまわずに集めさせた。マタラム王宮から民に対し、家や村の中に残っている古文書をすべて提出するよう命ぜられたが、出てきたものの内容をつなぎあわせても、ジャワの歴史を一貫的に知ることはできなかった。ギリンウシ(Gilingwesi)王国からマタラムに至る歴史について、多くの事柄は闇の中に置かれたままになった。ドゥマッとパジャン(Pajang)の王国時代に作られた書物も調べられたが、アラビア文字で綴られた宗教関連のものしか見つからなかった。大ジャワ史を編纂しようと考えていたマタラム王は参考資料があまりにも少ないことに失望し、その果てに宮廷文学者たちにジャワ年代記(Babad Tanah Jawa)の編纂を命じた。おぼろげながらであれ、歴史はマジャパヒッの陥落までしか知ることができず、ドゥマッに支配権が移ってからのことはそれに輪をかけて薄ぼんやりとしかわからないのだから。
ジャワの歴史を集まったかぎりの資料を使って調べた王宮文学者たちも、マジャパヒッ陥落までの歴史はロカパラ(Lokapala)の書から引き写しても、それ以後の史実は各人各様の見解に沿って作られたため、マジャパヒッ陥落から新マタラム王朝に至る歴史にはさまざまなバージョンが世間に流布するようになってしまった。」

マジャパヒッが陥落に向かっている時期に、王国内部で起こっていた状況について、キ・カラムワディの話はこんな内容だった。


< マジャパヒッ王国の滅亡 >
マジャパヒッの王都に座す大王ブラウィジャヤ(Brawijaya)はチャンパの姫を妻に迎えて有頂天になっていた。このチャンパの姫はイスラムを信仰しており、ブラウィジャヤ王に顔を合わせるたびにイスラムがどれほどすぐれているかをとくとくと王に語り聞かせた。ヒンドゥ=ブッダを信仰している王も、そのうちにイスラムに興味を抱くようになる。そんなころ、チャンパの姫の甥サイッ・ラフマッ(Sayid Rakhmat)がマジャパヒッを訪れた。サイッ・ラフマッはアンペル(Ampel)の地に住み、そこでイスラムを布教したいと王に願い出た。アンペルの地は今のスラバヤのスマンピル(Semampir)郡にある。王自身が夢中になっている新妻の親族を失望させるようなことが起こるはずもない。アンペルに住んだサイッ・ラフマッは後にスナン・アンペルと呼ばれるようになる。
そのスナン・アンペルを頼って外国からウラマが続々とやってきて、かれらウラマや大ウラマたちがブラウィジャヤ王に新天地をほしいと願い出た。アンペルの外のジャワ島北岸に住んで布教活動を行なうことを許して欲しいという願いだ。王はそれにも許可を与えた。

こうしてジャワの民衆の中に徐々にイスラムが浸透して行った。このような草の根レベルの布教活動では生ぬるいと考える者が布教者たちの中に混じることは、いつの世でも変わらないものだ。かれらは支配権力者を改宗させ、支配権をもって民衆に改宗を命じるのが手っ取り早いと考える。アラブからやってきて東ジャワ州トゥバン(Tuban)に住んだ大ウラマのサイッ・クラマッ(Sayid Kramat)がそのひとりだった。かれはトゥバンのブナン(Benang)という土地に住んだので、後にスナン・ボナン(Sunan Bonang)と呼ばれるイスラム布教の先駆者のひとりにあげられている。自ら預言者ムハンマッの子孫だと名乗るスナン・ボナンは、ジャワ島北岸を西はバンテンから東はブランバガン(Blambangan)(今のバニュワギBanyuwangi)まで行脚してまわり、多くの入信者を得ている。


ところで、ブラウィジャヤ王には華人の妻があり、この妻との間に息子が生まれた。この妻は懐妊中にパレンバンの王に譲られたため、ブラウィジャヤ王の息子はパレンバンで生まれた。その名をラデン・パタ(Raden Patah)という。成人したラデン・パタは父王に目通りを願い出た。マジャパヒッへの旅で、ラデン・パタに同行したのは異父弟のラデン・クセン(Raden Kusen)。このラデン・パタ兄弟もムスリムだった。
ブラウィジャヤ王は、成人した子供に与える名前に迷ってしまった。父親の系統から言えばジャワのヒンドゥ=ブッダ風の名前になる。山岳部で生まれた子供にはバンバン(Bambang)という名前がふさわしい。一方、母親の系統に従えば、中国系の子供だからカオ・ティアンという名前が妥当だろう。だが宗教を表立てるなら、アラブ風の名前であるサイッ(Sayid)あるいはシャリフ(Syarif)というのが適切だ。

迷った王は重臣たちを集めて意見を求めた。重臣たちが出した返答は、ババ・パタ(Babah Patah)だった。ババという言葉からは中国系の匂いが芬芬としてくる。ラデン・パタはその名前を気に入らなかったが、拒絶して父王を怒らせては身の破滅と考え、謹んでそれを受けた。父王への恨みが残った。

ババ・パタはドゥマッの太守に封じられ、ドゥマッから西にいるすべての国守の統領としての地位を与えらた上、スナン・アンペルの孫娘を妻にした。異父弟のクセンはトゥルン(Terung)の太守の座を与えられた。
一方、スナン・ボナンは布教の行脚の行先をマジャパヒッに定めて居所を発った。ところが道中で起こった誤解による住民との諍いで、人を人とも思わぬ扱いを異教徒であることを理由に加えてしまったことから、行脚を続けることができなくなって居所に引き返した。それが、今までイスラム布教者の旺盛な活動と入信者の増加を快く思っていなかったヒンドゥ=ブッダ諸階層の反撃に火をつけることになった。


東ジャワ州グルシッ(Gresik)にあるギリ(Giri)の国守もスナン・ギリと呼ばれてイスラム布教の先頭に立っており、マジャパヒッの王都へ貢物を持って訪れてブラウィジャヤ大王への恭順を示すことを怠っている。謀叛心をありありと示すその姿勢をほうっておいて示しのつくことではない。これを機会に、イスラムはアンペルとドゥマッの二ヶ所に封じ込め、それ以外の地に住んで布教を行なっているイスラムのウラマたちはすべてジャワにやってくる前にいた土地に追放なされませ。重臣たちにそう言われた王はギリ王国討伐を命じ、宰相に討伐軍を率いさせた。


マジャパヒッの軍勢がギリへの攻撃を開始したとき、それに正面からぶつかって来たのは中国人部隊だった。ギリ軍自体、その主力を構成していたのはイスラムに入信した中国人移民だったのである。ギリ軍の陣地から走り出てきたのは、坊主頭にターバンを巻き薄い口ひげをたくわえたムスリム華人およそ三百人で、手に手に刀や槍を打ちふるって奮戦した。かれらはまるでイナゴのように迅速な動きを示し、マジャパヒッの兵士を右に左になぎ倒したが、倒しても倒しても押し寄せてくるマジャパヒッの軍勢には抗しようもなく、総大将をはじめ多くの戦士が討ち死にしてマジャパヒッ軍の蹂躙するがままになってしまった。
ギリ軍の総大将はスチャセナの称号を与えられたムスリム華人で、かれは三百人のムスリム華人精鋭を引き連れて最前線に踊りこみ、中国刀をうちふるって暴れまわったが、力尽きて戦死したのである。そうなると、総大将を失ったギリ軍は本拠地を捨ててジャングルや山に逃げ込むのが精一杯になってしまった。

そんな中で、スナン・ギリはブナンに逃れて反撃戦のためにスナン・ボナンの助力を得ようとした。側近と警護の兵士を引き連れて海上をブナンに向かったスナン・ギリも、残党兵狩りを進めるマジャパヒッ軍部隊に追われることになる。ギリから四方に散ったギリ軍残党を追うマジャパヒッの部隊はブナンへもなだれ込んだ。スナン・ギリはスナン・ボナンに会うことはできたものの、マジャパヒッ兵に追われて一刻の猶予もならず、自分の身が危ういと感じたスナン・ボナンもスナン・ギリの船に同乗して海上へと逃れた。


ブナンに向かったマジャパヒッ軍部隊長は、そこまでの事実をギリ討伐軍総司令官である宰相に報告したが、その先のことは知るよしもなかった。
きっとかれらはどこか外国へ逃れて、二度とジャワへ戻ってくることはあるまい、そう考えた宰相はマジャパヒッへ引き上げて大王に戦果を報告した。大王はその出来事を各地の太守に通知し、特にドゥマッに対してはスナン・ギリとスナン・ボナンが領内に入ればすぐに捕らえて王都に身柄を送るように指示した。ところが、王都からその使者が到着する前に、スナン・ギリとスナン・ボナンはドゥマッに上陸して太守の保護を得るための動きを始めていたのである。

ドゥマッの太守に面会したスナン・ボナンは、マジャパヒッとの対決をババ・パタに勧めた。「いまマジャパヒッに崩壊のときが来たことを知りなさい。ヌサンタラの地を支配して百三十年が過ぎた。わたしの心の鏡に映っているジャワの地の王にふさわしいのは、他ならぬあなただけだ。マジャパヒッを打ち砕くことをお勧めする。但し、優美につつましやかに行なうことです。露骨にやっては駄目だ。アンペルでの預言者ムハンマッ生誕祭に大勢の兵士を完全武装させてお連れなさい。そして祭が終わった後にマジャパヒッと対決するのです。優美につつましやかに事を進めるのをよくよくお忘れなきように。その前に、ドゥマッに大モスクを建設することを理由に、イスラムに入信したすべての国守をドゥマッに招くのです。全員を集めた上であなたが何を命令しようが、あなたにさからう者はいないでしょう。」

ドゥマッの太守ババ・パタはこう答えた。「わたしはマジャパヒッの国を崩壊させることに気乗りしない。それは王であり且つわが父に向けて弓を引くことだからだ。わたしはこの地の太守という現世での栄達まで父から授かっているのだ。なのに、その父にどうしてそんな形で報いなければならないのか?忠誠と真心をもって父王に報いるのがあるべき姿ではないか。アンペルの爺(スナン・アンペル)の遺言も、自分の父親に敵対してはならないと教えている。わが父は異教徒ではあるが、わたしが人間としてこの世に生まれ出ることの根源を作ったひとだ。たとえ異教徒であろうと、自分の父親であれば尊敬しなければならない。ましてや、父には何の落ち度もないのだから。」

スナン・ボナンは引き下がらない。「父親であろうと王であろうと、それに立ち向かうのは決して悪いことではない。なぜなら、かれは異教徒なのだ。あなたがヒンドゥ=ブッダの異教徒を滅ぼせば、その褒章は天国だ。スナン・アンペル爺はただの小粒の修道士にすぎない。髪を切ってはいても、宗教知識はまだまだ狭く、一介のウラマにすぎないのだ。このわたしに比べて、チャンパ人のスナン・アンペルが獲得した知識などいったいどれほどのものだったか・・・・。スナン・ボナンとして全土に名を知られたこのサイッ・クラマッは預言者ムハンマッの直系子孫であり、ジャワムスリムの師なのだ。もしあなたが自分の父親を倒すことで罪を得るとしても、その罪はたったひとりの人間に対してのものでしかなく、おまけにそのひとりの者は異教徒なのだ!あなたが自分の父を倒したならば、すべてのジャワ人はイスラムに入信する。もしそれが実現すれば、あなたが受ける神の恩寵は数え切れないものとなる。あなたは測りようもない大きな神の愛を受けることになるのだから。
よく聞くのです。本当は、あなたの父親はあなたを粗略に扱った。その証拠に、ババなどという名をあなたに与えたではないか。それは正しいことでなく、侮辱なのです。ババの意味は、本当はbah mati, bah urip(死ぬも生きるも、ご勝手に)ということなのをご存知ですか?あなたの母は捨てられてパレンバンの王アリヤ・ダマル(Arya Damar)に下げ渡された。そのアリヤ・ダマルは食人鬼の子孫ではないか。あなたの父はあなたの母の愛を踏みにじった。あなたの父は心のよこしまな人間なのだ。だからその報復を優美につつましやかに行なうのです。つまり目立たないようにして、ひそかにその血を吸い、その骨に歯を立てるのです。」

スナン・ギリも口をはさんだ。「わたしは何の落ち度もなかったというのに、分離独立を策謀していると疑われてあなたの父親に攻められた。マジャパヒッを訪れて恭順の姿勢を示さなかったためだ。マジャパヒッの王の側近からの情報では、わたしが捕縛されたら、わたしの頭髪を子供みたいに編んで犬の水浴係りを命じられることになっていたそうだ。中国人が大勢ジャワにやってきているが、わたしの領地にやってきた者はすべてイスラムに入信させた。アルクルアンには、異教徒をイスラムに入信させた者は天国が褒美に与えられる、と書かれている。だからわたしは大勢の中国人をムスリムにし、かれらをまるで自分の家族のように思っている。わたしがここへ来たのは、保護してほしいからだ。マジャパヒッの王の宰相は怖ろしい。ところが、あなたの父は神を讃えて祈るわたしのようなイスラム教徒をたいへん憎んでいる。神を讃えて祈る者は、首を右に振ったり左に振ったりして、まるで癲癇病者みたいだと言われているそうだ。あなたが兵を挙げなければ、せっかくジャワに広まったイスラムは滅ぼされるにちがいない。」

ババ・パタはスナン・ギリに言う。「父王がギリを攻めたのは間違っていない。最高権力者に従わない地方領主があれば、最高権力者はそれを攻め滅ぼさなければならない。なぜなら、そのような地方領主は自分がジャワの地で生きていることを自覚していないからだ。」
スナン・ボナンが話を続ける。「いまあなたが挙兵せず、父親が玉座から降りるのを待っているだけであるのなら、マジャパヒッの王権は決してあなたのものとならないだろう。年齢の順から言って、王はポノロゴ(Ponorogo)の太守プラナラガ(Pranaraga)に玉座を譲るだろう。でなければプンギン(Pengging)を治めている婿のキ・アンダヤニンラ(Ki Andayaningrat)だ。あなたはかれらよりずっと若く、王が位を譲る相手になれない。幸いにして、いまその機会が到来した。ギリの問題を理由にして、あなたはマジャパヒッに攻め込むことができる。たとえ異教徒とのいくさで生命を落としても、それは神の道における死なのだ。あなたの死は無駄にならない。あなたには高貴な天国が与えられる。イスラムを奉じて異教徒に生命を奪われたムスリムにとって、その死は正義なのである。
同様に、現世に生きている人間は現世の高貴さを、最高のレベルの高貴さを求めることも間違っていない。人間が生の目的を明確に理解していないとき、その生はまだ正しいものになっていない。人間が権力や強さ、つまり王になることを望むのは当然のことなのだ。なぜなら王とはカリフなのであり、神の代理者であるのだから。あなたがカリフになれば、あなたの欲するものはすべて満たされる。あなたが父親に代ってジャワの王となることはあなたのさだめなのである。それは生命をかけて行なわれなければならない。つまり、いくさを通して行なうということだ。あなたがそれを為そうとしないのなら、あなたに与えようとして用意されていた褒美を神は引っ込めてしまうだろう。神の褒美を拒むという言葉はそのことを指している。わたしは単なるあなたの支援者のひとりにすぎない。これから何が起こるか、わたしはそのすべてをもう見ている。まるで、灯明の風除けにあいた穴を通して見るように、将来何が起こるのかをわたしは見ることができるのだ。ジャワの地の王となるよう神が啓示を下されたのはあなたなのだ。神聖なる宗教をジャワの地の隅々にまで栄えさせる礎を築くように神がお命じになっている。そして、あなたがジャワの王となった暁に、あなたの治世に障害をもたらすものを前もって取り除いていくのがこのわたしの役目なのだ。あなたがジャワの王となり、子々孫々に至る永遠の支配者となることにわたしは祝福を与えましょう。」

スナン・ボナンはさらに万言を尽くしてドゥマッの太守の心を動かし、マジャパヒッに向けて攻撃軍の進発を命じるよう決意させることに努めた。そしてひとりの預言者が異教徒の父親に反抗して神から祝福された話をババ・パタに聞かせてかれの決心を促した。
「それがあなたの望みならば、わたしがそれを踏み行ないましょう。あなたが舵取りをするのだ。」

「わたしがあなたに望んでいたのは、実にそのとおりのことです。いまや、あなたの心は決まった。ならば、いますぐにトゥルンの太守に手紙を送りなさい。ただし、露骨な言葉はつつしんで、優美でぼやけた文章にするのです。あなたの異父弟の心がマジャパヒッ王に傾いているのか、それとも同じ母から生まれた兄弟で、同じ神を信仰するあなたに味方するのか、それを見極めるのです。もしトゥルンの太守があなたと手を結ぶなら、もうマジャパヒッを陥落させるのはいともたやすいこと。マジャパヒッ王宮の中で、将軍として頼ることのできる者がトゥルンの太守以外にだれがおりましょうや。ブラウィジャヤ王がチャンパ姫に産ませたラデン・ググル(Raden Gugur)はまだ幼く、戦場へ出てくる勇気もない。宰相は年老いており、殴っただけで死んでしまいましょう。トゥルンの太守があなたに味方すれば、王都であなたに敵対する者など、ものの数ではありません。」


ドゥマッからトゥルンへ密使が走った。そして使いの者はトゥルンの太守からの返事を持ち帰った。ドゥマッとトゥルンの軍事同盟が成ったことを知ったスナン・ボナンは目を輝かせて喜んだ。そして次の策略である、ドゥマッの大モスク建設をスナン・ボナンの統率下に行なうことを理由にドゥマッの監督下にあるすべての国守を集める動きに取り掛かった。
長く間を置かずに、ドゥマッの太守に召集された国守たちは全員が集まった。ドゥマッの大モスク建設工事が開始されたのはそれからすぐのこと。


その落成式を祝うため、工事を終えた国守たちはモスクに入ってスピーチを待った。するとモスクの扉がすべて閉ざされた。国守たちは、いったい何の趣向かとざわめいたが、スナン・ボナンが説教台に立つとざわめきは静まった。スナン・ボナンがドゥマッの太守の名において挙兵の宣言を下したのはそのときだ。挙兵に賛同するや否やの問いかけで否応なしの命令を下したとき、理路整然と抗弁した者がひとりだけあった。集まった大勢の国守の中で、その本心はどうあれ、表立ってその抗議に同調する者は他にひとりも現われなかった。その状況を見定めたスナン・ボナンは、ただひとり義と理に沿わない悪逆だと主張するその者の殺害をスナン・ギリに命じ、ギリのウラマたちがその唯一の反対者シェッ・シティ・ジュナル(Syekh Siti Jenar)を絞殺した。

凄まじい叛乱の序章が終わると、かれらの間で新しいジャワの王が担ぎ出された。ババ・パタはもはやドゥマッの太守でなく、ジャワの王としてスナパティ・ジンブニンラ(Senapati Jimbuningrat)という大将軍の称号が与えられ、王を補佐する宰相にパティ・マンクラッ(Patih Mangkurat)が任ぜられた。翌日、スナパティ・ジンブニンラは戦備の整ったドゥマッ軍を統率してマジャパヒッへと進発した。国守やスナンたちも手勢を率いて同行する。この軍団はアンペルでの預言者ムハンマッ生誕祭を祝うためのものだという噂を撒き散らしたため、兵卒の大半も行軍の本当の目的を知らないまま旅を続けた。これから何が起こるかを知っていたのは、スナパティ・ジンブニンラの側近たちとウラマたち、そして国守たちだけだった。スナン・ボナンとスナン・ギリはこの軍団に加わらず、ドゥマッに残って戦勝を神に祈願した。


< ドゥマッの叛乱 >
そのころ、マジャパヒッ王の宰相が、パティ(Pati)の国守からの手紙を受け取った。そこには、ドゥマッの太守ババ・パタが管下の国守らに担がれてジャワの王の座に就き、スナン・ギリとスナン・ボナンがそれに祝福を与えたこと、ジャワ島北岸のイスラム化した国守が全員ババ・パタを総司令官としてその指揮下に入り、マジャパヒッの王都トロウラン(Trowulan)の攻略に立ち上がったこと、ババ・パタは宗教師の言葉を重んじ父王を軽んじて、父王を倒そうと考えていること、スナンやイスラム化した国守たちがババ・パタを支援してマジャパヒッ討伐軍を強化しており、集まった完全武装兵士は3万人に及ぶこと、この報告を即刻大王に取り次いでほしいこと、が記されてあった。宰相はまるで雷にでも打たれたかのように愕然とし、頭の中が空白になってしばらくはただ呆然と空を仰いでいた。それはまるで信じられないような話であり、自分は悪夢を見ているのかとさえ思ったほどだ。

気をとりなおすと、宰相はその手紙を手にしてブラウィジャヤ王のもとへ注進にかけこんだ。その報告を耳にしたブラウィジャヤ大王もわが耳を疑った。驚愕のあまり身体は硬直し、一言も発することができなかった。大王はわが子が何を考えているのかまったく理解できず、おまけに迫害すら加えていないスナンたちがなぜそのような行動に走るのか、それも理解できなかった。王は考え込んだ。しかしかれはその答えを見出すことができなかった。かれがこれまで認識していた人間というものの性向と、いま自分に敵対して牙をむいている者たちの行動を結びつける要素が底なしのブラックホールに落ち込んでいるのだ。理性はかれに何の光明も投げかけず、心は落胆と悲しみの沼に沈んでいった。

しばらくしてから、大王は宰相に尋ねた。「どうしてわが息子がウラマや国守たちに操られてマジャパヒッを滅ぼそうという気になったのか?王の好意を忘れ去ってしまったのか?」
宰相は、その背景に何があるのかは、まだわたしの知らぬところです、と答えた。「しかし今起こりつつあることは、何たる悪逆非道のあらわれでしょうか。人間というものは、善には善をもって報いるというのが普通の姿なのです。これはまともな心と精神を持つわれらには、想像もつかないことでした。受けた恩をあだで返すかれらの心底を計り得なかったのはわれらの不覚。」
「いや、宰相。これはわたしの身から出た錆だった。起こってしまったものを悔やむのは愚かだが、先祖代々ジャワの地に強固な礎を築いてきた宗教を軽んじ、チャンパの姫の言葉に惹かれて新しい宗教に興味をそそられてしまったわが身のあやまちだ。そのためにウラマたちにジャワの地を自由にさせ、わが王国が蝕まれるのを放置してしまったのだ。わたしは最高神に嘆願する。わが心を覆い尽くしているこの悲しみが償われんことを。今後ジャワのイスラム教徒は容易に二心を持ち、欲得と精進の間を揺れ動け。何が善で何が悪かを知らぬ者たちは、善悪のはざまを揺れ動き続ける宿命をたどるのだ。」
天上の神は大王の嘆きを聞き入れた。その証拠に、トロウラン王宮の真上で、雷鳴がとどろいたのである。そのとき以来、ジャワの地のあちらこちらに頭の上に二股に分かれた毛を持つ鷺が現れるようになったと言い伝えられている。


ブラウィジャヤ王は続いて宰相に、イスラム軍にどう対処するべきかの意見を求めた。イスラム教徒がマジャパヒッの王権を武力で奪おうとしているのは明らかだ。しかし大王はいまだに、わが息子がそのような話をこれまでおくびにも出さず、いきなり武力を持って奪い取ろうと攻めかかってきたことに納得しえないでいる。王位継承を求めていたのだったら、どうしてまず父親に相談しようという気にならなかったのか?王位継承はもちろん候補者の序列があるとはいえ、人物の器量という要素も考慮の中に入る。国守たちが嫌い、心服しない人物を玉座に据えれば、王国に混乱が生じるのは疑いもない。それをあの息子はいきなり流血のいくさを行なって奪い取ろうとかかってきた。王は、できることなら流血を避けたかったにちがいない。しかし宰相は王の弱気を見透かしたかのような返事をした。迎え撃つのです、と。
しかし大王の心の中には、わが子と玉座を争った王という恥名が残されることへの厭いが生まれていた。王は決意し、重臣たちに命じた。攻撃軍の進路を遮断せよ。しかし大規模な戦闘は避けるように。「わが末子のラデン・ググルはまだ幼いため、戦場に立たせるわけにはいかない。早急にポノロゴとプンギンの太守に王都の守備を命じるように。わたしはすぐにバリに向けて旅立つ。」


王宮の中では、蜂の巣をつついたような騒ぎが始まっていた。イスラム軍は既にマジャパヒッの街に接近しており、街を包囲して布陣した。王都を守護していたマジャパヒッ軍は三千人。イスラム軍の攻撃が開始された。それを指揮したのはスナンたちだ。少数ながら百戦錬磨の宰相に指揮されたマジャパヒッ軍も奮戦した。8人の大臣たちもそれにならう。数をたのんで攻めかかるイスラム軍を受け止めて一歩も引かないマジャパヒッの指揮官たちは獅子奮迅の働きを見せた。ブラウィジャヤ王の妾腹の庶子ルンブ・パガルサ(Lembu Pangarsa)も血刀をふるって暴れまわり、スナン・クドゥス(Sunan Kudus)との対決に至った。そのとき、ドゥマッの宰相マンクラッがスナン・クドゥスを助けようとして手槍をルンブ・パガルサに投げた。スナン・クドゥスは命拾いをし、ルンブ・パガルサは戦場の露と消えたのである。

それを見たマジャパヒッの宰相は「おのれ卑怯な!」と気負い立ち、手負いの野牛さながらに暴れ狂う。多勢に無勢の味方戦士が闘っている場に踊りこんでは敵兵の屍を重ねていった。少数の味方戦士を取り囲んで血祭りにあげようとしていた敵兵は、その勢いを怖れて散り散りに逃げ、「なにをっ!」と刃向かった者は必ず屍になって地面に転がった。
怖れたイスラム軍は遠くから鉄砲玉を撃ちかけてみたが、まるで鋼鉄の肉体になったかのような宰相には効き目がない。スナン・クドゥスの父親スナン・グドゥン(Sunan Ngudung)が進み出て一騎打ちが始まる。スナン・グドゥンの剣が宰相を刺したかのように見えたが、宰相の傷は浅く、反対に宰相の剣がスナン・グドゥンの命を奪った。そのとき、数十人のイスラム軍兵士が一斉に宰相に飛びかかっていったのだ。身動きできない宰相の体を何本もの武器が貫いた。
やっとの思いで宰相を倒したイスラム兵たちが立ち上がり、宰相の体を貫いた剣で一緒に殺されたイスラム兵たちの屍骸をどけたとき、宰相が倒れているはずの場所には血だまりができているだけで、その屍骸はどこにもなかった。


宰相の戦死でマジャパヒッ王宮守護兵の抵抗はほぼ終わりを告げ、イスラム軍の戦闘指揮官たちが王宮内に乱入した。王宮にブラウィジャヤ王は見当たらず、かれらは王の妻であるチャンパの姫を見出しただけだった。スナンたちはチャンパの姫にブナンへ移るように勧め、姫はそれに従った。
指揮官たちの後から兵士たちが王宮内になだれこんだ。王宮を飾っていたおびただしい品々や家具調度などありとあらゆるめぼしい品物が兵士たちに略奪され、逃げ遅れて王宮内に隠れ潜んでいた女子供たちも兵士たちが奪い去っていった。栄華を誇ったマジャパヒッ王宮は、あっという間にがらんどうの焼け跡に変化したのである。スナンたちは勝ち戦のあとで従うべき規律を兵士に与えることを完全に忘却していたのだ。それに気付いたのは兵士たちによる一大略奪が開始されてからのことで、そのときにはもうそれを止めるすべを失っていた。
軍を率いてやってきたトゥルンの太守は、王都の治安と王宮の警護に当たった。大王派の軍勢が王宮を奪い返しにやってくる可能性がゼロとは言えなかったからだ。王宮にはトゥルンの太守とドゥマッの宰相マンクラッ、そしてジャワの王となったババ・パタ改めスナパティ・ジンブニンラの代理者たるスナン・クドゥスが入り、スナパティ・ジンブニンラはドゥマッに凱旋することになる。トゥルン領の守護はスナンたちが代行し、かれらはイスラム兵を率いて日夜トゥルン領を警戒した。トゥルン領のイスラム化が急速に進んだ。
王都に残っていた民衆の中に、イスラム軍に反抗する者はいなかった。反対に、イスラムへの入信を強要されることを嫌ったひとびとは、こぞって王都の外へと逃げ出した。王都の城門はトゥルン兵が固めたが、何日もの間、大量の難民が王都の外へ出て行くのを留めるすべはなかった。ラデン・ググルも、あるいはテンゲル山系に逃れたロロ・アンテン(Roro Anteng)姫やジョコ・セゲル(Joko Seger)などの王家の一族も、その難民にまぎれて落ち延びて行ったのは疑いもない。

王宮を預かった指導階層のひとびとは、略奪の対象にならなかった書物を集め、また王都に残ったひとびとにも命じてヒンドゥ=ブッダに関わる書物をすべて提出させて焼いた。ヒンドゥ=ブッダの宇宙観世界観に従って書かれているのだから、宗教書だけでなくあらゆる書物が焚書の対象になる。王都に残ったひとびとにはイスラムへの改宗を命じ、大々的なイスラム入信の儀式が執り行われた。王宮の攻防戦で死んだひとびとは、イスラム兵もヒンドゥ=ブッダ教徒であるマジャパヒッの戦士たちも一緒にして、イスラム式に埋葬した。マジャパヒッの貴人たちの遺体も、ヒンドゥ=ブッダの教義である火葬は許されなかった。埋葬された場所は王宮の東南の空地で、後にブラタラヤ(Bratalaya)と呼ばれるようになった。


マジャパヒッ王宮を陥落させた三日後、戦勝に酔う部下たちを連れてスナパティ・ジンブニンラは自領への帰途をたどった。このころ、かれは既にプラブ・ジンブニンラ(Prabu Jimbuningrat)あるいはスノパティ・ジンブン(Senopati Jimbun)、スルタン・ドゥマッ(Sultan Demak)、パヌンバハン・パレンバン(Panembahan Palembang)などさまざまな名前で呼ばれている。
さて、ジャワの王となったプラブ・ジンブンは、帰路わざわざアンペルに立ち寄ってスナン・アンペルの妻に祝福を与えてもらおうとした。スナン・アンペルは既に世を去っていたからだ。
スナン・アンペルの妻はトゥバンの太守アリヤ・テジャ(Arya Teja)の娘で、スナン・アンペルに嫁した。その孫娘がプラブ・ジンブンの妻になっている。スナン・アンペルが存命中は夫唱婦随、そして夫が先に旅立ってからは、かの女が畏敬されるべきニャイ・アグン・アンペル(Nyai Ageng Ampel)として地元のひとびとの精神的な柱になっていた。プラブ・ジンブンが戦勝の報告を妻の祖母に行なうと、祖母は孫の夫がジャワの王になったことを賀すどころか、この悪逆非道は子々孫々に祟りをもたらすだろうと言ってその行いが理と義に背いていることを懇々と諭した。
戸惑ったプラブ・ジンブンは、すぐにブラウィジャヤ王を探し出して自分の行動を詫び、もう一度マジャパヒッ王に復位させるようにと勧めるニャイ・アグン・アンペルの言葉に動かされてその気になり、バリに向けてマジャパヒッを落ち延びて行った父ブラウィジャヤ王を草の根を分けても探し出そうと決意した。

ドゥマッに戻ったプラブ・ジンブンはスナン・ギリとスナン・ボナンにマジャパヒッ陥落の状況を語って聞かせた。スナン・ボナンは、自分が予見したとおりのことが現実になった、とその勝利を賀した。プラブ・ジンブンは帰路に立ち寄ったアンペルで、ニャイ・アグン・アンペルに懇々と諭されて自分の目からウロコが落ちたとふたりに語り、これから父王を探し出して親不孝を詫びるつもりだ、と自分の気持ちを語った。予想外の言葉に一瞬おどろいたスナン・ボナンは落胆の表情など少しもみせずに、プラブ・ジンブンの考えをほめた。だがこのふたりのスナンにとって、ブラウィジャヤ王がマジャパヒッの王に復位すれば、これまでの努力は水泡に帰するのである。

スナン・ボナンは再びプラブ・ジンブンの説得にとりかかった。ジャワにイスラムを根付かせるのはプラブ・ジンブンの神から定められた務めなのであり、そのためにはプラブ・ジンブン自身がジャワの王位に就かなければならないこと、ジャワにイスラムの楽土を建設する過程にあるプラブ・ジンブンの仕事を妨害しようとする勢力とのいくさは当面避けられないだろうし、それらの勢力がブラウィジャヤ王を担ぐであろうことは想像に難くないため、ブラウィジャヤ王をジャワの中に置くことは絶対に避けなければならず、よって父王はジャワ島外のどこでも望む場所の王としてこれからの余生を送ってもらうようにしなければならない、というのがスナン・ボナンの論点だった。
スナン・ギリはそれに関連して、ブラウィジャヤ大王と国内各地に依然として勢力を保っている大王の息子たちはいつまたイスラム勢力に牙をむいて襲い掛かってくるかもしれず、そうなれば大勢の人間がまた尊い血を流さなければならなくなるので、そのようなできごとを防ぐためには、大王やその一族を呪いで根絶やしにするのがもっとも優れた方法だと主張し、いくさを避けるためにそういう手段を執り行うことが三人の間で合意された。


< ブラウィジャヤ大王逝去 >
一方、スナン・カリジャガはプラブ・ジンブンの命を奉じてブラウィジャヤ王捜索の旅を続けていた。スナン・カリジャガはふたりの弟子だけを伴ってジャワ島を東へ東へと旅し続けた。通りかかる村々で必ず王の消息を尋ねて回ったが、王を見つけ出すことはできなかった。王はそのとき、既にジャワ島東岸でバリ島を指呼の間に望むブランバガンに到達していたのだ。

ブラウィジャヤ大王の一行は疲れきっていたため、湖の傍らで数日間休養をとっていた。そして、スナン・カリジャガはついに王をそこで探し当てたのである。
スナン・カリジャガは王の前に進み出て額づいた。王はおどろいた。「サイッ、お前はここで何をしているのだ?なんのためにわたしの後をつけてきたのか?」
「大王様のご子息が父王を探し出すようにとわたしに命じたのです。出会ったらすぐに、たとえその場所がどこであろうと、息子からの拝跪をまず言上するように、と。そして父王を玉座から逐った行いの過誤を赦してほしいと願っていることを。宇宙の真理、世の実相をまだ理解できていないまま、大勢の臣下や国守たちに囲まれた若者がわが欲望に突き動かされて行なった愚行だったのです。いまや王のご子息は自分の過ちをはっきりと理解しました。そして過ちを後悔し、神罰が与えられることをおそれているのです。そのため、大王を探し出して、その言葉を伝えるようわたしが命じられました。ご子息はこう語っておられます。『父王には、マジャパヒッにお戻りいただいて王の座に就いていただく。これまでと同じように家臣に接し、軍を統率し、子や孫と全領民から尊敬される老王としていつまでもひとびとの頭上に君臨なさるように。マジャパヒッにお戻りいただけるなら、わたしが手にした王の位はすぐにお返しし、わたしの生も死も、王のみ心に委ねます。もしも、わたしがこれまで通りドゥマッの太守を務めるようにお許しいただけるなら、どのような場所であれ大王のお望みの場所に新たな宮殿をお作りし、大王の衣食一切は必ず保証いたします。そのときには、ジャワの地の王権をこのわたしにお譲りくださるよう、平にお願い申し上げます』と。」

しかし大王は、面前では甘い言葉を述べながら後ろに回って相手を打ちのめそうとする人間をもはや信じることはできないと言って、息子の伝言だとスナン・カリジャガが言う言葉を取り上げようとしなかった。大王がこれからどうしようとしているのかをスナン・カリジャガが尋ねると、バリに渡ってバリ王の援助を求め、ジャワ島外のすべての王を糾合して連合軍を編成し、ジャワで起こった邪悪に正義の鉄槌を下すのだ、と王は述べた。
更には、バリの王から明の皇帝に使いを送り、息子がこのような非道な行為を行なったことを訴えて、成敗の軍をバリに派遣してもらうことも考えている、とも大王は言う。

バリに渡って捲土重来の軍をジャワに送り込もうとしているブラウィジャヤ大王の考えを知って、スナン・カリジャガは身震いした。そんなことになれば大規模ないくさは避けられず、また大勢の人間の血が流される。おまけに、明らかにドゥマッ側に道義上の非があるこのお家騒動でドゥマッの味方をしようという国が現われることも期待できない。スナン・カリジャガは、大王をバリに渡らせたら大変なことになる、と考えた。ドゥマッが滅びれば、ジャワにおけるイスラム布教も壊滅する。スナン・カリジャガは大王に向かって説いた。
「もしもジャワ外の軍勢がジャワに進攻すれば、ジャワの全土が戦火に焼かれ、美しき王道楽土が消滅してしまいます。そんなことになっては、大王様もきっとお悔やみになるにちがいありません。そんなことになるよりも、既に過ちを悔いているご子息との仲を修復されるほうがよいのではありませんか?たとえ大王様がそうやって復位なさっても、そのお年では長く政務を執ることは難しいでしょう。そうなると、大王様の子孫でない者がジャワの王位に就くことになります。二匹の犬が肉を取り合って喧嘩している間に別の犬がその肉を食べてしまうというたとえが現実のものになっては、意味がありません。」
しかし大王の気持ちはそれでもほぐされなかった。子が父に反逆し、狡猾な手段で王位を奪うという悪逆が行なわれたのを赦しては、それこそ正義がこの世になされるよう命じている神の怒りを受けることになる。王の兄弟や他の息子や婿たちも、ラデン・パタの行為を受け入れるわけがない。ジャワの王はジャワの地に正義が執行されるべくものごとを行うだけであって、それを行なわなければ神意にそむくことになり、ジャワの王としての資格を失ってしまうのだ。たとえそのための大戦争でジャワの地が衰え、あるいは肉を別の犬が食ったところで、それは神意なのであり、後事の一切は神に委ねるしかないのである。
大王の明確な意志が示され、スナン・カリジャガはそれを止める手立てが残されていないことを悟った。かれは背中のクリスを抜いた。

手にしたクリスを大王の前に置くと、スナン・カリジャガは王の足元に伏して言上した。「わたしの言葉をお聞き入れいただけず、父と子の争いのゆえにジャワの地がいくさの猛火に焼かれることになるのであれば、わたしの生きている甲斐はありません。わたしの生はもはやこれまで。どうかひと思いに、このクリスでわたしの生命を絶っていただきたい。」
スナン・カリジャガの振る舞いは大王の心を奥深いところで揺り動かしたようだ。大王は息を殺してしばらく動かず、そのあと涙が数滴、その頬を滑り落ちた。
「サイッ、身を起こして座れ。わたしはお前の言葉を最初からすべて嘘だと思っていたのだ。わたしはお前が言った言葉をもう一度よく吟味し、わたしの考えていたことも検討しなおしてみることにする。しかし、これだけは確かなことだ。よく聞け。たとえわたしがラデン・パタを赦すとお前に言ったところで、父親が異教徒であることを気に病んでいる息子はまたすぐに父親を憎みだすにちがいない。父親への尊敬心は長く続かない。そのうちにわたしに割礼を迫り、朝夕礼拝を強制するだろう。わたしがそれらを無視すれば、またぞろ同じことが繰り返される。」
そんなことはありません、とスナン・カリジャガは断言した。「信仰のことについて申し上げるなら、それは本人の心の中でのみ決まるものなのです。わたしどもはもちろん、大王様がイスラムに入信なさることを望んでいます。しかしそうならなかったとしても、何も問題はありません。宗教は真理に到達することを保証するものではないのです。ムスリムの信仰はシャハダッだけ。たとえ朝夕に礼拝をどれだけ励行しようが、シャハダッを理解しない者はいつまで経っても真のムスリムにはなりません。」
しかし本人の信仰心とアラーとの照応の中にのみ真のイスラムが存在するのであり、本人の信仰心を外から強制しても真のイスラムには至らないため、そのような行為自体が何の利益ももたらさないのだという真理を口にはするものの、異教徒排撃とイスラム布教を天国の扉を開く鍵と理解している者がどれだけその真理に従おうとするだろうか。スナン・カリジャガが大王に与えた説明の中に、そのポイントは完全に欠落していたようだ。
だが、スナン・カリジャガの話に引き込まれてしまったブラウィジャヤ大王は、結局シャハダッを唱えてイスラムに入信してしまった。そしてバリに渡るためにジャワの東端まで来た道を引き返し、7日間かけてアンペルに入り、ニャイ・アグン・アンペルの館に入った。


アンペルにたどり着いたブラウィジャヤ大王はほどなく病に落ち、ポノロゴの太守とプンギンの太守に王位をめぐって兄弟の争いをしないように遺言する手紙を送らせ、プラブ・ジンブンにはアンペルまで会いに来るよう命じた。しかしプラブ・ジンブンがアンペルを訪れる三日前に悲運の大王はその生涯を閉じたのである。スナン・カリジャガが新しいジャワの王プラブ・ジンブンに大王の祝福を願い出たとき、大王は祝福を与えるがその家系の繁栄は子孫三代までしか続かないと予言した。事実、ドゥマッ王国四代目のスルタン・プラウォトはプラブ・ジンブンの孫にあたり、かれの時代に王権がパジャン王国に移っている。
大王が逝去して三日後にプラブ・ジンブンがアンペルに到着した。ニャイ・アグン・アンペルがジンブンに対し、父親の死に目に会えなかった不幸は自らまいた種だと孫の婿をいましめている。

ポノロゴの太守もプンギンの太守も、プラブ・ジンブンが赦せなかった。かれらは父王を探しつつ、ドゥマッを懲らしめるための一戦を開始する機会を待っていた。そしてついに、機熟したと見た両軍が戦備を整えてドゥマッへの進攻を開始しようとしていたとき、それを禁止するブラウィジャヤ王からの遺書が届いたのである。ふたりは歯軋りして悔しがったが、戦端を開けばかれら自身がプラブ・ジンブンと同じ親不孝者になる。再びいくさは回避され、ふたりの太守は悲嘆と憤怒で病に倒れ、そのまま世を去った。一説によれば、スナン・ギリが放った呪いのために生命を失ったとも言われている。
こうしてヒンドゥ=ブッダを信仰するマジャパヒッ王国は1478年に滅亡し、プラブ・ジンブンがその年にドゥマッのスルタンとしてジャワの支配権を握った。ジャワの支配権がジャワ島初のスルタンの手に握られたことで、ジャワのイスラム化がなだれのように進展して行った。それからというもの、ドゥマッ王国のリーダーシップのもとに、ジャワ島北岸に誕生した多数のイスラム国守やスナンたちがヒンドゥ=ブッダを信仰する諸王国の征服に乗り出し、以後のパジャン王国時代から新マタラム王国時代までかけて、全ジャワ島のイスラム化が完成する。


< ジャワイスラム勢力の勃興 >
ジャワ島中部のイスラム化がほぼ完了すると、イスラム勢力はさらにその外側にいる西ジャワのパジャジャラン(Pajajaran)王国やジャワ島東端の強国ブランバガン王国などヒンドゥ=ブッダ勢力に対する征服にとりかかる。
だがそれらのジャワ島統一戦争は、イスラム布教もさることながら、政治的支配権と物産獲得のための経済利益取得が一緒くたにされて進められたことをあらためて指摘する必要もあるまい。世界中で行なわれたどのような宗教戦争であれ、それらの物質的非物質的利害の伴われなかった戦争は存在しなかったと考えるほうが当たっているだろう。

その地の利のゆえに東西南北からの商船が集まってくる東南アジア第一の商港となっていたマラッカもイスラム王国だった。インドネシア各地の商港がマラッカでの中継貿易に参加していたのは言うまでもない。だからインドネシア各地の商人たちが商業の利を求めてイスラムに傾倒していったことが、ヌサンタラの各地にイスラムの拠点を生む元にもなったのである。ところが1511年にイスラムを敵視するポルトガルがマラッカを陥落させてそこの主人に納まると、イスラム系の商船はマラッカ離れをはじめた。ポルトガルがマラッカ海峡の制海権を手にした以上、イスラム商船はマラッカ海峡を通り抜けることができなくなったのである。そんな状況の転換をはかって、ジャワのイスラム盟主ドゥマッはイスラムの諸国守を糾合してマラッカ攻略の一大船隊を進発させた。プラブ・ジンブンは1518年に王位を自分の長子パティ・ウヌス(Pati Unus)に譲っていたから、ジャワからの一大攻撃船隊はドゥマッの第二代スルタンが自ら率いた。ところが1521年のマラッカ沖海戦でジャワの海軍はポルトガル軍船に粉々に粉砕されてしまう。

しかし、すべての道はローマに通じているものだ。マラッカ海峡を通れなくなったイスラム商船の間で浮上してきたのがスンダ海峡を抜ける航路であり、そこを通ってスマトラ島西岸の港に寄りながら北上してインドを目指す航路が賑わうようになる。ジャワ島北岸西端のバンテン(Banten)もその航路の要衝としての焦点が当たるようになった。するとマラッカのポルトガル人とスンダのパジャジャラン王国が手を握るために歩み寄ったのである。イスラム勢力は共通の敵であり、マラッカのポルトガル人にとってはバンテンを押さえることでイスラム商船を封じ込める手が打てる。しかし、ジャワのイスラム勢力がそれを黙って見過ごすはずもない。


ドゥマッ二代目スルタンのパティ・ウヌスが戦死したために王位を継いだ弟のスルタン・トレンゴノ(Sultan Trenggono)はチレボン(Cirebon)の支配者スナン・グヌン・ジャティ(Sunan Gunung Jati)の協力を得てバンテン征服軍を発進させた。征服軍を指揮したのはスナン・グヌン・ジャティの息子マウラナ・ハサヌディン(Maulana Hasanuddin)で、ドゥマッからはインドのグジャラート出身者ファタヒラ(Fatahillah)が指揮する軍が合同した。1525年にバンテンは陥落し、イスラム勢力はここにまたひとつイスラム王国を樹立する。マウラナ・ハサヌディンがバンテン王国の初代スルタンとなり、その腹心の部下となったファタヒラはバンテンに近いパジャジャラン王国のもうひとつの港カラパ(Kalapa)を1527年に征服した。このカラパが現在のジャカルタだ。

王国最良の港をイスラム勢力に奪われたパジャジャラン王国は通商による国富策が実行不可能になってしまい、加えてバンテン王国はあたかも腹中に生じたガン細胞のように巨大なパジャジャラン王国を蝕んでいったため、国力は衰微の一途をたどった。
バンテン王国はパジャジャラン王国の滅亡と西ジャワのイスラム化を図って頻?に攻撃軍を進発させ、その一方でスンダ海峡を越えてランプン(Lampung)から現在の南スマトラ州南部地域までを支配化に納め、その地で収穫されるコショウの取引をバンテンで行なって華々しい繁栄をその港町にもたらした。オランダ船やイギリス船がバンテンをバンタム(Bantam)と称して有力なコショウ貿易港のひとつとしたのにはそんな背景がある。

初代スルタンのハサヌディンはドゥマッのスルタン・トレンゴノの娘を妻にし、その間に生まれたマウラナ・ユスフ(Maulana Yusuf)が父の没後にバンテンの第二代スルタンとなる。この第二代スルタンの時代にボゴール近郊のパクアン(Pakuan)を王都にしていたパジャジャラン王国が滅亡した。1579年のことだ。こうして西ジャワ地方のイスラム化が進んだが、西ジャワ地方山奥の僻地に住むバドゥイ族も東ジャワのブロモ山に拠るテンゲル族と同じようにイスラム化の波に呑まれないまま、現代まで生き延びている。


ジャワのイスラム化は東部に残されたヒンドゥ=ブッダ王国を滅ぼさなければ完成しない。1521年から1546年まで王位にあったドゥマッ第三代スルタンのトレンゴノの時代は、西に東にと征服戦の成果が大いにあがった時代だ。ドゥマッ軍は1531年にスラバヤを陥落させ、1535年にはパスルアン(Pasuruan)を征服した。しかし東端のブランバガン王国、今のバニュワギ、はその後もヒンドゥ=ブッダ王朝がイスラム勢力の攻勢をしりぞけて領地支配を維持し続け、1771年になってマタラム(Mataram)王国とオランダ東インド会社の連合軍がブランバガン王国を滅ぼすのにやっと成功した。その最後の戦争はププタンバユ(Puputan Bayu)戦争と呼ばれている。
ブランバガンもパジャジャランと類似の外交路線を採ったようだ。1528年にマラッカのポルトガル人と反イスラム攻守同盟を結ぶために使節を送ったことがポルトガルの記録に残されている。1559年にジャワ島東端にマラッカからやってきたポルトガル船の乗組員たちは、ブランバガンの地にモスクはひとつも見えず、パゴダや石造りの構築物を前にしてひとびとは宗教祭礼を行なっていたと書き残している。そのときやってきたカソリック宣教師たちは熱心に布教活動を進め、王宮の中にも信者が生まれるまでになった。

一方、東部ジャワ戦線におけるドゥマッ軍の攻撃は熾烈を極め、スラバヤそしてパスルアンを陥落させたあと矛先をブランバガンに向けて攻撃を開始した。ところがブランバガン軍も強く戦闘は一進一退を繰り返す。ドゥマッ側の攻撃の焦点になっていた商港パナルカン(Panarukan)はなかなか攻略できず、1546年には反対に攻撃軍側の司令官スルタン・トレンゴノがそのときの戦闘で落命している。
今でもバニュワギ県にはイスラムになりきらずに昔から伝統的に持っていた慣習に従って暮らしているウシン(Using)あるいはオシン(Osing)と呼ばれるひとびとがいる。かれらの生活習慣はイスラムとヒンドゥ=ブッダ風のものが混じりあっており、ウシン族の村ではバリで普通に見られるバロンが祭りの日に登場したりして、歴史をよく知らないひとを驚かせることもある。


ブラウィジャヤ大王の死と、そして大王の息子と婿であるポノロゴの太守とプンギンの太守の不慮の死でダルマガンドゥルの歴史ストーリーは終わる。キ・カラムワディが弟子のダルマガンドゥルに与えた宗教的哲学的な教えはもっとあるが、ここでは取り上げない。

ダルマガンドゥルの書に見られる著述のいくつかについて、歴史学界の最新判断によれば明らかに誤っているとされるものがある。たとえばスナン・ボナンの人物像だ。スナン・ボナンはスナン・アンペルの長子であり、性質ももっと穏やかで、この書に書かれているような急進的で策謀を弄ぶような人物でなかったとされている。スナン・ボナンはスナン・カリジャガの師であり、アラブからやってきた預言者ムハンマッの直系子孫だというような記載は他のどの記録にもない。
極度に急進的で、流血をも省みずに激しくイスラム布教を推進したのはスナン・ギリのほうだ。スナン・ギリの子や孫もスナン・ギリを称したので、明確な区別をするなら、スナン・ギリ・クダトン(Kedhaton)こそがグルシッ(Gresik)の地にカリフの王国を作ろうと企てた張本人であり、そこでイスラム民兵組織を養成して異教徒に「コーランか剣か」を迫る過激行動を実行した。だからマジャパヒッ王がこの造反分子に痛撃を与えようとしたのは当然のことなのである。

スナン・ギリ・クダトンはイスラム布教推進部隊をジハードのためにバリ・ロンボッ・スンバワに派遣するよう息子のスナン・ギリ・ダルム(Dalem)に命じ、ダルムの息子のスナン・ギリ・プラペン(Prapen)が実行部隊を率いた。流血の末にロンボッとスンバワはイスラム化が成功したが、バリはそのころゲルゲル(Gelgel)王国の黄金時代にあたり、賢王ダルム・ワトゥレンゴン(Dalem Waturenggong)がイスラム布教部隊を撃ち払ったため、バリはイスラム化を免れて今日に至っている。ワトゥレンゴン王はマジャパヒッから逃れてきた王統貴族やバラモンたちを受け入れ、イスラムの支配下に落ちたマジャパヒッ王国と縁を切り、東はロンボッ、西はブランバガンへと支配を伸張させた。

スナン・ギリ・クダトンは1478年にドゥマッの支配からギリを独立させ、念願のカリフ王国をギリの地に樹立した。1506年に王位を長子のスナン・ギリ・ダルムに譲り、1546年にはさらにその長子のスナン・ギリ・セダ・マルギ(Seda Margi)へと王位が移った。ところがセダ・マルギはわずか二年後にマジャパヒッの残党に暗殺され、弟のスナン・ギリ・プラペンが王位を継ぐ。その後を継いだ5代目の王のとき、トルノジョヨの叛乱にからめてオランダ東インド会社とマタラム王はこのイスラム過激活動の中心地を攻め滅ぼした。


ダルマガンドゥルに記された歴史の筋立てを見るかぎり、ヒンドゥ=ブッダを信奉するマジャパヒッ王国は1478年に滅亡し、血統はつながっているにせよ、イスラムを信奉するドゥマッ王国がジャワの王権を引き継いだという印象を読者が受けるのも無理はないだろう。だが、マジャパヒッの滅亡はそのような単純なものでなかったというのが、今の歴史学界の常識になっている。
かといって、もう少し複雑な形になってはいるものの、大筋は似通っていても細部が多数のバリエーションに分かれていて、定説として確立されたものはいまだにない。少なくともマジャパヒッ王国は1478年に滅亡したわけでなく、ドゥマッ王国がイスラムを振りかざして王国内を統一したわけでもない。もっと言うなら、学術的価値を持つ古文書や碑文などの中に、ブラウィジャヤという名前の王が見つからないということもある。ではダルマガンドゥルの書はまったくの創作だったのだろうか?その判断は読者にお譲りしたいと思う。


< マジャパヒッ王国史 >
まず、かなり詳しいと思われるバージョンのマジャパヒッ王国史を見てみよう。マジャパヒッ王国の開祖は、シガサリ(Singhasari)王朝最期の王クルタナガラ(Kertanagara)の仇討ちと元軍の撃退という大業を成し遂げたラデン・ウィジャヤ(Raden Wijaya)で、クルタナガラとは婿と舅の関係になる。かれはクルタナガラの四人の娘を妻にしたと述べている資料もあれば、二人だけだと書いている資料もあり、何が正しいのかはまだ不明のまま。舅の仇討ちと言っても、謀反して大王を殺害したグラングランの国守ジャヤカッワン(Jayakatwan)を攻め滅ぼすことでラデン・ウィジャヤは自分の王位継承権を取り戻したわけだから、ただの仇討ちとは意味合いが違う。かれはクルタラジャサ・ジャヤワルダナ(Kertarajasa Jayawardhana)あるいはナラリヤ・サングラマウィジャヤ(Nararya Sanggramawijaya)という称号で1294年から1309年までマジャパヒッ初代の王をつとめた。

二代目はジャヤナガラ(Jayanagara)だ。ウィラランダゴパラ・スリ・スンダラパンディヤ・デワ・アディスワラ(Wiralandagopala Sri Sundarapandya Dewa Adhiswara)の称号で王位に就く前はダハの王に封じられていたため初代ブレ・ダハ(Bhre Daha)とも呼ばれた。

1328年から1350年までトリブワナ・トゥンガデウィ・ジャヤウィスヌワルダニ(Tribuwana Tunggadewi Jayawisnuwardhani)の称号で王位に就いたラニ・ウィジャヤトゥンガデウィ(Rani Wijayatunggadewi)はラデン・ウィジャヤとガヤトリ(Gayatri)の間に生まれた娘で、異母兄のジャヤナガラに子供がなかったため、母ガヤトリの命でその王位を継いだ。王位に就く前はカフリパンの王に封じられていたので初代ブレ・カフリパン(Bhre Kahuripan)とも呼ばれる。かの女の時代にガジャ・マダ(Gajah Mada)が軍司令官に就任し、ガジャ・マダは王国の支配を広大なものに広げてかの女の息子ハヤムルッ(Hayam Wuruk)の時代まで二代に渡って王家を補佐した。息子に位を譲った女王は再びカフリパンの王となって一生を終えた。

母王の息子ハヤムルッはカフリパンの王位を継いで第二代ブレ・カフリパンになっていたが、スリ・ラジャサナガラ・サン・ヒヤン・ウカシン・スカ(Sri Rajasanagara Sang Hyang Wekasing Sukha)の称号で1350年に母王を後継するマジャパヒッ王になった。かれは衰微したスリウィジャヤ(Sriwijaya)王国に残っていた勢力をはじめスマトラの諸王国を平定し、またスンダのガル(Galuh)王国をも服属させた。
1351年、青年王ハヤムルッはガル王国の王女ディヤ・ピタロカ・チトラレスミ(Dyah Pitaloka Citraresmi)を妻にしたいと求め、ガルの王もそれを了承した。ディヤ・ピタロカのお輿入れの一行がマジャパヒッ王宮の前まで来たが、「待て」と言われただけでいつまでたっても王宮の中に入れてもらえない。同行してきた父王も面目丸つぶれにされて憤る。翌朝、マジャパヒッ軍司令官ガジャ・マダがガルの王に向かい、ディヤ・ピタロカはハヤムルッ王への献上品であり、ガル王国はマジャパヒッに臣従せよと言い渡したため、父王も警護兵士隊長も怒り出し、一触即発の危機が訪れ、その危機が現実のものとなった。一行を取り囲んでいたマジャパヒッ軍と警護兵との間で衝突が起こり、遠路ガルからやってきた一行は皆殺しにされたのである。その後、ガル王国がマジャパヒッに服属したのは言うまでもない。この事件はブバッ(Bubat)戦争と呼ばれ、今でもスンダ人がジャワ人に憎しみを向ける際の理由の一つになっている。
ハヤムルッ王は1389年に没し、かれの娘クスマワルダニ(Kusumawardhani)の夫であるウィクラマワルダナ(Wikramawardhana)に王位が引き継がれた。

ウィクラマワルダナはハヤムルッの妹でブレ・パジャンだったディヤ・ヌルタジャ(Dyah Nertaja)とシガワルダナ(Singhawardhana)の称号でブレ・パグハン(Bhre Paguhan)の位にあったラデン・スマナ(Raden Sumana)の間に生まれた子だ。ウィクラマワルダナはマタラムに封じられて初代ブレ・マタラム(Bhre Mataram)に任じられていた。王女クスマワルダニは男児をひとり生んだが、早世した。1400年にウィクラマワルダナは王位を降りて宗教生活に入り、王妃クスマワルダニが王国を統治したが、クスマワルダニが死去するとかれは再び王位に返り咲いた。


1401年にマジャパヒッ王とクスマワルダニの腹違いの兄弟ブレ・ウィラブミ(Bhre Wirabhumi)の間で衝突が起こり、東と西に王家を二分する戦争に発展した。このいくさはパレグレッ(Paregreg)戦争という名で知られている。結局1406年にウィクラマワルダナの庶子ブレ・トゥマプル(Bhre Tumapel)が東軍を敗り、ウィラブミの宮殿に攻め込んだブラ・ナラパティ(Bhra Narapati)の軍勢がブレ・ウィラブミを殺してその娘ブレ・ダハ(Bhre Daha)を連れ去った。以後、ブレ・ダハはウィクラマワルダナの側室として生涯を終える。このパレグレッ戦争はマジャパヒッ王国を存亡の危機に投げ込んだ。
打ち続く戦乱で国土が疲弊してしまったばかりでなく、マジャパヒッに臣従していた外領のほとんどがマジャパヒッのくびきから脱して独立したのである。おまけに外交上でも、とんでもない事件が起こっていた。そのころ明の皇帝が派遣した鄭和の大船隊がジャワ島東部にやってきていた。鄭和の部下170人が上陸してブレ・ウィラブミ側に親善訪問を行ない、領地内の民情視察などを行なっていたとき、状況を知らなかった西軍部隊が攻撃をかけたのだ。その170人が全滅したのを、中国側が黙っているわけがない。中国皇帝はジャワの支配者に6万タイルの賠償を命じたと馬歓は書き残している。
1428年にウィクラマワルダナは波乱の生涯を終える。ウィクラマワルダナは嫡子がなく、側室の子供ばかりであり、かれの没後には側室ブレ・ダハが産んだ娘プラブ・ストリ(Prabu Stri)がラニ・スヒタ(Rani Suhita)の称号で王位に就いた。かの女は王位に就く前に第二代ブレ・パジャン、そして第四代ブレ・ダハを歴任した。

) 1429年から1447年までマジャパヒッの王位にあったスヒタは夫の第五代ブレ・カフリパンであったブラ・ヒヤン・パラメスワラ・ラッナパンカジャ(Bhra Hyang Parameswara Ratnapangkaja)とふたりで王国の統治にあたった。ラッナパンカジャはハヤムルッ王の末娘で初代ブレ・パワナワン(Bhre Pawanawan)となったスラワルダニ(Surawardhani)と初代ブレ・パンダンサラス(Bhre Pandansalas)だったラデン・スミラッ(Raden Sumirat)の間に生まれた子供で、ラデン・スミラッはハヤムルッの腹違いの兄弟の息子だ。

1433年にスヒタ王が父王の西軍に勝利をもたらしたブラ・ナラパティを死刑に処してブレ・ウィラブミの復讐を果たしたという一文を古文書パララトン(Pararaton)の中に見出して首を傾げたひともいるにちがいない。これは小説の題材に使えそうな人間の心の機微を示すものではあるまいか。
スマランにある三宝公寺院に残されている、その折々に起こった事件の記録を読むと、スヒタ王はトゥバンの華人社会を統率する乙名の職にガン・エンチューを指名したという記載が見つかる。このガン・エンチューなる人物はスナン・カリジャガの祖父であるアリヤ・テジャ(Arya Teja)だったのではないかと推察されている。

スヒタ王は1447年に没し、子供ができなかったためにウィクラマワルダナのもうひとりの庶子で第二代ブレ・トゥマプルだったディヤ・クルタウィジャヤ(Dyah Kertawijaya)がウィジャヤ・パラクラマワルダナ(Wijaya Parakramawardhana)の称号で後継者になった。1451年にクルタウィジャヤ王は逝去し、その後をウィクラマワルダナの末子であるクルタラジャサ(Kertarajasa)が継いだとパララトンの書は物語る。ラジャサワルダナ・サン・シナガラ(Rajasawardhana Sang Sinagara)がかれの称号だ。

ラジャサワルダナという名前はさまざまな古文書に登場するものの、それぞれ異なる経歴が記されており、1451年から1453年までマジャパヒッを統治した人物がそのどれに該当しているのか、研究者を少々混乱させてくれるのだが、パララトンの書によればかれは王位に就く前、ブレ・パモタン(Bhre Pamotan)、ブレ・クリン(Bhre Keling)、ブレ・カフリパンを歴任した人物らしい。ブレ・マタラム、ブレ・カフリパン、初代ブレ・パモタンのラジャサワルダナ・ディヤ・ウィジャヤクスマ(Rajasawardhana Dyah Wijayakusuma)、ブレ・クルタブミ(Bhre Kertabumi)の四人の子供の父親がかれだったにちがいない。そして第二代ブレ・マタフン(Bhre Matahun)と結婚した第三代ブレ・パンダンサラスは第二代ブレ・ウンクルの子で、クルタウィジャヤの孫にあたる。
しかし、ワリギンピトゥ(Waringin Pitu)碑文によれば、王位は1451年に第二代ブレ・トゥマプルだったクルタラジャサの長子で初代ブレ・パモタンのラジャサワルダナ・ディヤ・ウィジャヤクスマ別称ラジャサワルダナ・サン・シナガラに渡されたとある。その場合、新王はクルタウィジャヤの甥でクルタラジャサの息子だったということになる。

スラワルダニとラデン・スミラッの間には、一男三女が生まれた。長男はラッナパンカジャ、上の娘ラトゥディマタラム(Ratu di Mataram)はウィクラマワルダナに娶られ、中の娘第四代ブレ・ラスム(Bhre Lasem)はクルタウィジャヤに娶られ、下の娘第二代ブレ・マタフンは第二代ブレ・ウンクルに娶られた。つまりその三姉妹は、父、子、孫の三世代に分配されたことになる。
クルタウィジャヤと第四代ブレ・ラスムの間にできた子供は、第二代ブレ・ウンクルと第三代ブレ・パグハン。一方、クルタラジャサは初代ブレ・パモタンのラジャサワルダナ・ディヤ・ウィジャヤクスマ(Rajasawardhana Dyah Wijayakusuma)、第三代ブレ・ウンクルのギリシャワルダナ・ディヤ・スリヤウィクラマ(Girisyawardhana Dyah Suryawikrama)、第三代ブレ・パンダンサラスのシガウィクラマワルダナ・ディヤ・スラプラバワ(Singhawikramawardhana Dyah Suraprabhawa)の三人の子供。そしてラジャサワルダナ・ディヤ・ウィジャヤクスマの子供は第七代ブレ・カフリパンのウィジャヤパラクラマ・ディヤ・サマラウィジャヤ(Wijayaparakrama Dyah Samarawijaya)、第五代ブレ・マタラムのギリンドラワルダナ・ディヤ・ウィジャヤカラナ(Girindrawardhana Dyah Wijayakarana)、第二代ブレ・パモタン、第四代ブレ・クリンすなわちブレ・クルタブミ(Bhre Keretabumi)。
1453年にラジャサワルダナが世を去ると、クルタウィジャヤの子供たちとクルタラジャサの子供たちが王位をめぐって争いを始め、1456年まで空白期が続いた。そして1456年にクルタウィジャヤの長子第二代ブレ・ウンクルがヒヤン・プルワウィセサ(Hyang Purwawisesa)の称号で王位に就いた。

1466年に王が没すると、第三代ブレ・パンダンサラスがシガウィクラマワルダナ・ディヤ・スラプラバワの称号で王位に就いた。しかし王宮の中はいとこ同士の反目と緊張が続いており、シガウィクラマワルダナはそんな状況に嫌気がさして、1468年に王の座を放棄した。


それ以後の状況は1486年にギリンドラワルダナ・ディヤ・ラナウィジャヤ(Girindrawardhana Dyah Ranawijaya)が建てたジユ(Jiyu)碑文からうかがわれる。かれはウィルワティクタ(Wilwatikta)つまりマジャパヒッ、そしてジャンガラ(Janggala)とクディリの王を自称し、シガワルダナ(Singawardhana)の十二回忌を祭るサッダの儀式を行なったことが碑文に謳われている。その内容から、第三代プレ・パンダンサラスが捨てた王位をシガワルダナが1474年まで引き継いだようだ。このシガワルダナとはいったい誰だったのか?
最も妥当な推測は、ギリンドラワルダナ・ディヤ・ラナウィジャヤの兄で第三代ブレ・パンダンサラスの息子という考えに行き当たる。ならば、シガワルダナの死後王位を継いだのはだれなのか?それを示す資料はまったく見つからないが、三宝公寺院の記録から1478年までクン・タ・ブ・ミと中国語で書かれている人物が王位にあったことがヒントを与えている。それはジャワ語のクルタブミを表していると考えられ、当時の大王がブレ・クルタブミであったのであれば、われわれの記憶はラジャサワルダナの末子へと引き寄せられる。

三宝公寺院の記録は、1474年から1478年までクルタブミの治世が行なわれ、そしてドゥマッに攻められてクルタブミが王位を失ったことを告げている。しかしインドネシア社会の一部のひとびとは、王の直系の息子がイスラム勢力と手を結んで実の父親を滅ぼしたというストーリーが倫理的に受け入れられないものであることからその説を頭から否定しており、クルタブミ大王を攻めたのはジユ碑文を残したギリンドラワルダナであると主張して譲らない。国内で見つかっているさまざまな史的資料は明白にマジャパヒッの命脈を絶ったのがイスラム化したドゥマッであることを疑う余地のないものにしているのだが、イスラムが悪逆非道の行為に結び付けられるのを受け入れることのできないひとびとが存在しているのも事実なのである。


やはり1486年ごろに建てられたぺタッ(Petak)碑文には、ムングウィン・ジンガン(Munggwing Jinggan)なる人物がいくさでマジャパヒッを討ち破った戦勝の記録が残されている。ムングウィン・ジンガンとはブレ・クルタブミの兄で第七代ブレ・カフリパンだったウィジャヤパラクラマ・ディヤ・サマラウィジャヤ(Wijayaparakrama Dyah Samarawijaya)であり、かれに討ち破られたマジャパヒッ王とはだれだったのかについては、三宝公寺院の記録に照合してみると、1478年にドゥマッがマジャパヒッの王宮に置いた中国系と思われるニョ・ライワを首班とする傀儡政権だったように思われる。
ドゥマッの支配下に落ちたマジャパヒッの王都は1486年ごろにムングウィン・ジンガンの軍勢によって陥落し、たとえ相争っているとはいえ、クルタウィジャヤとクルタラジャサという本来の王家の系統の手に戻ったということになる。ジユの碑文がウィルワティクタ・ジャンガラ・クディリの王と称してマジャパヒッの領地回復を誇ったと同様、ぺタッ碑文もムングウィン・ジンガンの功績を讃えるべく作られたと見てよいのではあるまいか。ましてや、ムングウィン・ジンガンはそのときの戦闘で落命しているのだから。

三宝公寺院の記録には、1517年にドゥマッがふたたびマジャパヒッを攻めたという記述がある。攻撃軍を指揮したのはジンブンの息子パティ・ウヌスで、その攻撃を受けたのはギリンドラワルダナ・ディヤ・ラナウィジャヤだったようだ。このときのいくさもドゥマッ軍が勝利を収めたが、ギリンドラワルダナはクルタブミの婿であり、またかれの妻はジンブンの一族でもあったため、敗軍の将ギリンドラワルダナはドゥマッから厳しい扱いを受けることを免れている。しかし王宮は灰燼に帰した。

1527年、ドゥマッのスルタン・トレンゴノは再度マジャパヒッを攻めた。その攻撃軍を統率したのはトレンゴノの息子だ。このときのマジャパヒッ攻撃は、ギリンドラワルダナがトゥバンの太守アディパティ・ウィラ(Adipati Wira)を仲介者に立ててポルトガルと手を結ぼうとしたのが原因だった。
東方諸国記を書いたトメ・ピレスは1512年から1515年までマラッカに滞在してジャワ島を旅した。その記述によれば、アディパティ・ウィラから聞いた話だとして、ジャワの王はバタラ・ウィジャヤで、その前の王は父王バタラ・シナガラの後を継いだバタラ・マタラムであると書き残している。アディパティ・ウィラはイスラム教徒だったがたいへん忠実なバタラ・ウィジャヤ王の臣下だったそうだ。


王と神が同一視されているジャワ文化に従い、神を意味するバタラと神の子孫を表すブラ(bhra)を置き換えてみると、バタラ・ウィジャヤという名前はブラ・ウィジャヤとすることが可能だ。つまり、トメ・ピレスの言うバタラ・ウィジャヤが後世ジャワのひとびとにブラ・ウィジャヤと呼ばれた可能性はきわめて高いと言えるだろう。マジャパヒッ王国滅亡の悲劇を一身に背負ったブラウィジャヤ王がそこにいたのである。
1527年のドゥマッによる攻撃でマジャパヒッ王国は滅亡した。それは1478年に起こった第一回目のマジャパヒッ陥落から半世紀も経過したあとのことだ。第一回目の戦争以後、ドゥマッが全ジャワのイスラム化を強力に進めて行ったのは間違いないのだが、人口に膾炙している1478年のブラウィジャヤ王の悲運とマジャパヒッ王国の滅亡はその半世紀後だったというのがどうやら史実のようだ。ダルマガンドゥルの書であれ、一般に言い伝えられているマジャパヒッ滅亡の物語であれ、49年という時間差を飛び越えてジャワのイスラム化とマジャパヒッ滅亡がひとつのストーリーの中に織り込まれたのが、どうやら事の真相だったように思われる。


< 反イスラム勢力平定 >
マジャパヒッが滅亡したという表現を使っているものの、たとえ王都が壊滅したところで巨大な王国が一朝一夕に滅ぶものでもない。文字通り王国を壊滅させるためには、各地に封じられている王家の一族を、反抗する者は攻め滅ぼし、反抗しない者は懐柔して新たな支配者に臣従させなければならない。
古文書の中には、ドゥマッ軍の猛攻で王都が灰燼に帰したとき、ブラウィジャヤ王はスングル(Sengguruh)の地に逃れたと記しているものがある。スングルは現在のマラン県クパンジェン(Kepanjen)郡にある村だ。ドゥマッ軍はそこまで王を追いかけ、王は捕らえられてドゥマッに連行されたという説と、討手を逃れてバリに移ったという説がある。王都の陥落後マジャパヒット最期のヒンドゥ=ブッダ勢力はスングルを拠点にしたと述べている古文書もある。スングルの反イスラム勢力を指揮したのはアリヤ・トゥルン(Arya Terung)で、スングルの太守に封じられていた。かれはトゥルン太守ラデン・クセンの息子で、父はムスリムだったが、その息子はヒンドゥ=ブッダを深く信仰していた。ラデン・クセンはドゥマッ初代スルタンのプラブ・ジンブンの異父弟であり、だからアリヤ・トゥルンはプラブ・ジンブンの甥にあたる。

しかしまた別の古文書では、王都陥落後ヒンドゥ=ブッダ勢力はマジャパヒッ王国宰相の息子ラデン・プラマナ(Raden Pramana)の統率下に山岳地帯に拠ってイスラム軍に抵抗したと記す資料もある。ともあれイスラム軍はマジャパヒッの残党狩り、つまりヒンドゥ=ブッダ勢力の壊滅と、イスラム化の推進をセットにして軍事行動を続けて行ったのは疑いないことだろう。


グルシッ年代記にアリヤ・トゥルンが登場する。スナン・ギリ・ダルムの時代にアリヤ・トゥルン率いるスングル軍がギリを攻撃した。最初、攻撃はラモガン(Lamongan)に向けられ、パンジ・ララスとパンジ・リリスが率いる40人の中国人戦士をまじえたギリ軍が激しい防戦を展開したもののスングル軍に敗退した。するとスナン・ギリ・クダトンがダルムの夢の中に出てきて、スングル軍と戦うのをやめてギリを開城するよう息子に諭したので、ダルムはギリ軍司令官に停戦を命じ、自身はギリから立ち去った。
ギリはスングル軍に占領されたが、1531年にドゥマッ軍がスラバヤを陥れたために、そこからほど近いギリを守っていたスングル軍守備隊はあっさりとドゥマッ軍に占領地から追い出されてしまった。そしてスングル太守は1545年に甥のスルタン・トランゴノに半ば強制的にイスラムに入信させられてしまい、その領地だったジャハ(Jaha)、ディナヤ(Dinaya)、ウンディッ(Wendhit)、パラウィジェン(Palawijen)、クパンジェンで領民のイスラム化を領主が進めたことから、トロウランから峻険な山岳地帯を越えた南部地域でのイスラム化が急速に進み、そこを拠点にしてイスラム勢力がジャワ島南岸部へも布教の成果をあげていったとグルシッ年代記は記している。

マジャパヒッ最期の宰相の息子ラデン・プラマナも1545年にヒンドゥ=ブッダ文化を守ろうとするマジャパヒッの残党たち反イスラム勢力を糾合して挙兵した。実の兄弟で1535年にドゥマッ軍に征服されたパスルアン太守ムナッ・スプタッ(Menak Supethak)とその息子ドゥンコル(Dengkol)国守の軍、他にもスルガ(Srengat)とパンジュル(Panjer)の国守軍らがスングルの山岳部に拠って反抗の旗を掲げた。挙兵の動機はどうやらスングル太守のイスラム化だったのではあるまいか。スングル太守の王宮を反乱軍が包んだ。スングル太守は王宮を防御しきれず、ブランタス川上流に逃れて陣地を築き、ドゥマッに援軍を要請した。

待ちに待ったドゥマッからの援軍が到着すると、ドゥマッ軍を加えたスングル太守軍は反撃に移り、王宮を奪い返して反乱軍を追い散らした。ラデン・プラマナは東方に向かって逃走した。それ以後、スングルは完全にドゥマッの支配下に落ちた。
このスングル太守アリヤ・トゥルンは、結局悲劇的な最期を遂げた。ラデン・プラマナが率いた反乱軍と同様に、かれがそれまで奉じていたヒンドゥ=ブッダ文化からイスラムへの変節を憎む者たちが自分の領内にも潜んでいたのである。そのとき、かれは妻と弟のアリヤ・バリタル(Arya Balitar)を同行してギリを訪れたあと、自分の王宮へ帰還する途上にあった。
何の前触れもなく、武器を持った一団の男たちがその一行を襲撃したのだ。太守も弟も衛兵と一緒に襲撃者と戦ったが、襲撃者たちはついに太守とその弟、そして太守の妻までも殺害して去って行った。散乱した多数の衛兵の屍骸がそのときの戦闘の激しさを物語っていた。


インドネシアへのイスラム流入は、インドのグジャラートやアラブとの交易およびマラッカを中心に出来上がった大きな通商ネットワークを通して商人や船乗りその他の布教者が個人レベルで進めて行ったという説は間違っていない。だがそうして作られた点が面への広がりを見せはじめたときに、剣が大いに力をふるったのは疑いないようだ。

宗教というものは文化の根底に置かれるものであり、それは個々人に超越者絶対者との照応の中で人間としてのあり方を教える一方、社会生活における人間の行為行動の規範を与えて共同体に秩序が形成されることを促してきた。秩序ある社会は共通の価値観によって支えられなければならず、共通の価値観を社会構成員に持たせるには社会生活における倫理道徳を超越者絶対者が教訓する形が優れた方法論として採られてきたことを歴史が示している。
宗教を取り替えるというのは文化を入れ替えることであり、それまで人間の個人生活社会生活を律していた価値観が変動することでもある。それをどう乗り越えて新たな価値体系を創造していくかはその文化を営む社会構成員次第だろう。その例のひとつをわれわれはインドネシアに見ることができると思う。

(2013年10月)